- (発行=11.07.22)
小川只道、日顕の自己申告を否定
日達法主の三十三回忌満山供養に想う
「河辺メモ」に相承詐称を裏付ける記述
日蓮正宗の第六十六世・細井日達法主の三十三回忌満山供養が十九日、大型で
強い台風六号の影響によって断続的に激しい雨が降るなか、午前十時から客殿で、
早瀬日如の導師で行われた。
客殿での法要の後、正午前には大石寺墓苑に移動。日顕が典礼院前で車から降りる
のを待っていたかのように、突然、雨脚が強くなった。
「まるで達師の怒りと悲しみの涙のような雨だった」と言う人もいた。
本来ならば、ここで日顕は車椅子に乗るのだろうが、雨が激しいうえ、周囲の目を
気にして、達師の墓石の方へノロノロと歩き始めた。
その足取りは弱々しく、体も小さく縮んだような感じだったという。
日顕と日如らはテントの中に入ったが、他の参列者は、土砂降りの雨の中、傘を
さしても、ズブ濡れになっていた。
日達法主が相承をしないまま急逝したのは昭和五十四年七月二十二日の早朝。
この時、日顕自身が遺族に「あと(相承)のことは、どうなっているのか?」と
問うたのは有名な話だ。
また、盗座後も吉川幸道師らに「早瀬日慈さんあたりが受けているのではないか
とも思ったが、待っていても何も言い出さないので、自分から言い出した」と
語ったこともある。
また、若手僧らに「他にも、もしかしたら、どなたかがお受けしているかも分から
ない。それで、みんなに相承のことを伺ったら、どなたも自分では言い出されなかった。
そのため私は、実は昭和五十三年四月十五日に、日達上人から内々に相承を受けた
ということを申し上げた」と述べていた。
この四月十五日は日達法主の誕生日だ。この日のスケジュールは過密で午前零時
から午前一時半までは丑寅勤行。その後は大奥に戻って就寝。
起床は六時半。七時からの約一時間は御影堂での日目上人の御講日の法要。
終了後には大坊で塔中住職らの祝賀を受け、大奥に戻って朝食。
その後も三人の僧侶が目通り。続く十時には、結納を終えた原田篤道一行が目通り。
十一時には東京へ出発。東京に到着後は西片の大石寺出張所で休憩。
六時から都内のホテルでの誕生祝賀パーティーに出席して、九時には西片に戻って
就寝した。
どうみても相承の儀式が行われる時間的余裕はない。しかも、日顕は誕生パーティー
に呼ばれてもいなかったのである。
河辺慈篤の直筆メモには、菅野慈雲が「(日顕の)総監決定の時に、日達上人が躊躇
されていたので、未だ相承をされていないのか、と思った」と証言したと明記
(昭和五十九年十二月七日)。
同メモの昭和六十一年十月四日付には「光久諦顕が、猊下に『四月十五日にしていいの
ですか、あの日は達師が忙しい日だが』と云った」との記述もある。
今年二月、大石寺執事の小川只道が学会青年と話し合った際、青年の「日正から日柱の
相承は信者が取り次いだ。相承とは、その程度のものと認識していいですか?」と詰問。
小川は「日達上人から日顕上人の時も、相承は無かった訳です」と言明。
小川は日顕の「昭和五十三年四月十五日に相承を受けた」との作り話を否定したとのことだ。
日顕の自己申告を信じている者などいないのである。
総本山第六十六世日達上人の三十三回忌満山供養が七月十九日、台風六号の
もたらす雨が降りしきる中、奉修された。達師時代に二十年かけて築いた六壷、
大化城、大客殿、正本堂等大石寺の事蹟を悉く破壊した詐称法主の日顕夫婦は、
満山の供養欲しさに何の罪の意識もなく、平然と満山に参加していた。
相承をしてくれなかった恨みから、先師を裏切り、達師の臭いのするものは
大石寺内から全て排除した。達師の法類は、そんな先師を否定した日顕の行為に
抵抗もせず、どの面下げて満山に参加したのか。誰れが、命を懸けて日顕と
戦ったのか?四百人ほどの坊さんが集ったが、形式的な満山が行われても達師は
決して喜ばれてはいないだろう。
日顕が「宗制・宗規」をどんなに改悪しようとも、先師の遺徳を破壊されても、
黙って手をこまねいていろとは、御書に遺されていない。「かたきをしらねば・
かたきにたぼらかされ候ぞ」と大聖人の仰せ通り、日顕にたぼらかされたのだ。
日達上人は、甘い物がお好きで、お汁粉に砂糖を入れるほどだった。大らかな
人柄で、大声で呵々大笑されることが多かった。
幼児性の異常性格のうえ、すぐカットなって、言うことを聞かなければ人の首を
切る日顕とは対照的だ。今や珪道師、琢道師、菅野日龍師も亡くなり、達師の身内
は玉道師を残すだけになってしまった。
(達師の在りし日の遺徳を偲びつつ、絶対にケンは許せない遺弟鼠)