第2次世界大戦中の「最後の早慶戦」に出場し、プロ野球近鉄パールズの創設メンバーだった伊藤利夫(いとう・としお)氏が20日午後2時、心不全のため岐阜市の病院で死去した。89歳。岐阜市出身。
自宅は岐阜市御手洗390の7。通夜は22日午後7時から、葬儀・告別式は23日午前11時から、いずれも岐阜市上加納山4717の4の岐阜市斎苑で。喪主は長男彰(あきら)氏。
1940(昭和15)年、岐阜中学(現岐阜高校)を卒業後、早稲田大学第2高等学院に入学。43年の出陣学徒壮行早慶戦では「8番・右翼手」で出場した。戦後、46、47年の全国都市対抗野球大会で大日本土木の連覇に貢献。50年の近鉄の球団創設に参加して2年間在籍し、さらに阪急で1年間プレーした。53年から岐阜高校で監督を務め、のちに巨人で名捕手として活躍した森昌彦(祇晶)氏らを率いて、54年夏と55年春の甲子園出場を果たした。
◆「最後の早慶戦」出場、県内最後のメンバー
学徒出陣を目前にした早大と慶大の「最後の早慶戦」は1943(昭和18)年10月16日、早大・戸塚球場で行われた。当時、野球王国として名をはせた岐阜県の出身者は4人が名を連ねた。早大は伊藤利夫さんのほか森武雄さん(岐阜商出身・故人)と近藤清さん(同)が、慶大は大島信雄さん(同)が出場。伊藤さんは歴史に名を刻んだ県内の最後のメンバーだった。
試合後に出征、戦死した近藤清さんのおい、近藤幸義さん(75)=岐阜市城田寺=は、伊藤さんの死を「ことし1月に森さんが亡くなったばかり。さみしい限り」と語った。
伊藤さんについて「戦争が終わって家へ来てくださり、私は幼かったが大変まじめな方という印象があった」という。15年ほど前には清さんの法要にも参列してもらい「(幸義さんの)還暦祝いをしなければ」などと話してくれたという。
最近は入院した病室が同室だったという偶然もあったという。「岐商、岐中も、戦争が終われば関係なかった。ただただ残念です」と述べた。
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