日本人は愚民ではない。日本人はすべてをわかった上でだまされたフリをする“ずる賢さ”に長けている。
菅首相がマニフェスト違反について
陳謝 した。「マニフェスト詐欺」を謝罪したように見せかけて、実は特例公債法を通すために今度は「マニフェスト見直します詐欺」をしているだけだから、こんな陳謝はどうでもいいのだが、私が気になるのは、菅首相の陳謝に対して憤っている人々と、憤る人々をあざ笑う人々の存在である。
菅首相の陳謝に憤る人々はこう言う。「マニフェストはウソだったのか」「だまされた」「許せない」「今すぐ解散総選挙をして民意を問い直せ」と。それに対して、「最初から詐欺だと丸わかりだったのにだまされたバカ」「ここまで来るとだまされた方が悪いレベル」などと、日本人愚民論を展開する人々がいる。
私はこの日本人愚民論に以前から反発してきた。まず直感的には、私みたいな者よりも(学歴、能力、世間智などで)賢い人は、世の中にたくさんいる。日本人の大多数は、私なんかよりもずっと賢明である。だから、そんな日本人が愚民であるはずがないという思いがある。(「お前みたいなバカを基準にするな」と、ものすごく頭の良い人に言われればそれまでだが)
また、日本人愚民論を唱える人々は、結局のところ、自分たちの支持政党が負けたことを認めたくないだけなのではないかという気がしている。2005年総選挙では、民主党支持者を中心に「日本人は小泉劇場にだまされた愚民だ」という論調が見られた。ところが2009年総選挙では、自民党支持者を中心に「日本人はマニフェスト詐欺にだまされた愚民だ」と主張されるようになった。さらに、4年前の選挙で日本人を「愚民」と罵っていた民主党支持者が、「日本人は利口になった。日本人の賢明な判断が政権交代を実現したのだ」と、あきれるようなことを口走っていた。おそらく、次の総選挙で自民党が勝利すれば、今度は自民党支持者が「日本人は利口になった」と口にするのだろう。
日本人愚民論を採用すれば、政策ではなく雰囲気で日本人が政治に関わっていることになってしまう。しかし、自分たちの「生活」に影響する政治に対して、雰囲気で何となく投票を行う“バカ”など存在するだろうか。また、民主党のマニフェストのような、見え見えの「ウソ」を本気で信じて、うっかりと票を投じてしまう“バカ”がこの世に本当にいるのだろうか。私にはそうは思えない。
私は政権交代前後にこのことをずっと考えて、当ブログでも何度か日本人の投票行動の背景にある政治信条と政策選好について書いてきた。「古い自民党」から「新しい自民党」へのシフトと、「古い民主党」から「新しい民主党」へのシフトとが交差した結果、政権交代が起きたというのが、私なりの結論だった。(詳しくは
「続々とあぶり出される民主党に勝手に期待して勝手に失望する人たち」 などをご覧いただきたい)
日本人は決して、「反自民」などという“バカ”丸出しの政治オタク的感覚で選挙に行ったわけではない。政策を理解できないから「反自民」とか「反権力」とか陰謀論にハマる政治オタクと違って、大多数の日本人は、自分自身の政治信条と政策選好に従い、明確に民主党の(表面的なマニフェストの根底にある)バラマキ・既得権護持路線を選択したのである。だから、表面的なマニフェストが破綻したところで、政策潮流としてのバラマキ・既得権護持路線は、それこそ引退世代の社会保障費“聖域”化などの福祉国家的政策として生きているのだから、何の問題もない。
では、どうしてマニフェストが破綻したという菅首相の陳謝に対し、人々は憤るのだろうか。そこには、賢明な日本人の“ずる賢さ”がよくあらわれているように思う。
民主党に投票した人々は、自分たちの既得権を守ることが第一の目的なわけだが、「私たちの既得権を守れ」と堂々と要求する人はまずいない。既得権を護持することは、他人のお金(税金、国債あるいは将来世代の税金)や他人のチャンスを一方的に奪うことになるのだから、あまり大きな声では言いたくない。もしくは、そういう醜い事実を認めたくない。そこで、たとえば「格差社会」というプロパガンダに便乗し、「自称弱者」となって「私は悪くない。悪いのは社会だ」と居直り、既得権を死守しようとする。(「小泉改革で格差が拡大した」というのは真っ赤なウソで、事実はむしろ逆である。詳しくは
「資産格差を無視、所得格差に過剰反応して、世代間格差を置き去りにする日本」 をご覧いただきたい)。
財源論なきマニフェストがあれだけ幅を利かせたのも、既得権者による“欲”が背景にあったからである。「あっちの既得権をぶんどって、こっちに回せ。こっちは“弱者”様なんだからな」という既得権者の勝手な思惑が、事業仕分けの“熱狂”も生み出した。だから、本来であれば、マニフェスト破綻の責任は、民主党に投票した既得権者にもあるはずだ。
しかし、ここからが日本人の“ずる賢さ”である。マニフェスト推進と破綻の責任を回避するために、「だまされた」と被害者ぶることにした。最初からマニフェストは実現不可能で、自分たちの既得権さえ守れればいいという発想だったくせに、破綻が政治問題化すると、途端に
カマトトぶる 。財政再建路線をぶっ壊し、財政赤字を拡大させた責任を、「マニフェスト詐欺にだまされた」と叫ぶことで、民主党政権に押しつけたというわけだ。
その上、「財源を確保するためには増税もやむなしだよな」などと、調子のいいことを言って、自分たちの既得権だけは死んでも放さない。「聖域なき歳出削減」に反対し、増税だけを容認するのは、そうすれば、増税した分を差し引いても、自分たちが手にするお金の方が多いことをよくわかっているからである。彼らの頭にあるのは財政再建ではなく、あくまでも自分たちの「取り分」である。
同じようなことは、いわゆる「脱原発」についても言える。定期的な避難訓練や地元補償金の存在から原発にリスクがあることを知り、少なからぬ日本人が民主党政権の原発増設を含む地球温暖化対策(地球温暖化利権)を支持しておきながら、ひとたび原発事故が起きると、「原発にリスクがあるなんて知らなかった。原発なんて最初からつくるべきではなかったんだ。原子力村にだまされた」と、被害者ぶって猫も杓子も「脱原発」を名乗るようになった(電力確保のために火力を増設するのは当然であって、わざわざ「脱原発」というカラッポの言葉を冠する必要はない)。さらに、原発再稼働などの現実問題から目を背け、「自然エネルギー」という「将来の夢」に逃げ込んだのは、「反原発」という「空気」が落ち着くまでの時間稼ぎになるからだ。(詳しくは
「学生は世渡り上手のスキルを学べ」 をご覧いただきたい)
日本人は「自然エネルギー詐欺」にだまされるほど“バカ”ではない。賢明な地方自治体などは、早速、「自然エネルギー」に群がっているが、それは何より、巨大な利権になるからである(「自然エネルギー」が虚構でも、公共事業自体は利権になる)。「自然エネルギー」を唱える個人も、「自然エネルギー」を叫ぶメリットがなくなれば、いずれ時期を見てその看板を下ろすだろう。
自分自身は“弱者”や被害者となって、とにかく責任を回避しながら、ちゃっかりと既得権だけは護持・強化していく。「政治不信」「クリーン」「フレッシュ」「オープン」などといった言葉は、そのためのツールであって、本気でその言葉を信じている人は存在しない。日本人の問題は、愚民だからではなく、むしろ、賢すぎるくらいの“ずる賢さ”にあるのではないか(正直、この賢すぎる“ずる賢さ”には、バカな私などはついて行けない)。政治信条と政策選好を巧みに隠し、いつも「悪い誰か」に向かって陰から石を投げるのは、世間智などという立派なものではなく、単なる卑怯者の思想である。