東京電力の女性社員殺害事件で無期懲役が確定したネパール国籍のゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(44)の再審請求審は、被害女性の体内に残された精液のDNA型が別人のものと判明したことで、大きく動き出した。事件から14年が経過してから得られた鑑定結果。なぜ捜査段階ではDNA型鑑定は実施されなかったのか。鑑定結果は再審の「扉」を開く鍵となるのか。
「残っていた精液が非常に微量で、当時の科学技術では鑑定ができなかったと聞いている。できたのなら当然やっている」。マイナリ受刑者とは別人のものとされた精液のDNA型鑑定を捜査段階でしていなかったことについて、ある検察幹部は21日、こう説明した。
一方の弁護側も1、2審を通じ、DNA型鑑定を強く求めることはなかった。関係者は「マイナリさんは鑑定をするまでもなく、冤罪(えんざい)の確信があったし、実際に1審は無罪だった。2審でまさかの有罪になり、最高裁も証拠調べを受け付けなかった」と唇をかむ。
05年3月の再審請求以降、弁護団、検察、東京高裁は繰り返し協議を行い、審理の在り方を探った。攻防の焦点は被害女性の体内にあった精液などを使った新たなDNA型鑑定の実施。弁護側はそれだけでなく、女性のショルダーバッグや現場から離れた場所で見つかった定期券入れなど「思いつく、ありとあらゆる対象」(弁護団関係者)を鑑定するよう強く求めた。
今年に入り、裁判長は検察側に切り出したという。「試料(精液)が残っているのでしたら、鑑定をやってはいかがでしょうか」。これを受け入れた検察側は関西の大学関係者に最新の鑑定を依頼、7月下旬になって「別人のもの」という結果が届いたという。
捜査段階でDNA型鑑定が行われなかったことについて、弁護側の依頼を受けてマイナリ受刑者の精液に関する鑑定を上告審に提出した押田茂実・日大医学部教授は「血液型鑑定は行われたのに不自然だ。隠していると思われても仕方ない」と批判する。
これに対し、ある警察幹部は「事件当時、DNA型鑑定の条件は現在に比べて悪かった」と強調する。
警察庁が犯罪捜査に関するDNA型鑑定を始めたのは89年。だが、鑑定の精度が飛躍的に向上したのは、染色体の九つの部位を同時に検査する判定法が導入された03年からだ。先端の自動分析装置や検査試薬も取り入れ、鑑定の確度が高くなっただけでなく、微量の試料の鑑定も可能になった。今回、東京高裁がDNA型鑑定を促した背景には、鑑定技術の向上がある。
赤根敦・関西医科大教授(法医学)は「当時、試料の少なさから正確な鑑定結果を出すのは難しいと判断した可能性はある」との見方を示しつつ、「技術的に無理だったとは言い切れない。体内から採取される精液のDNA型鑑定も珍しくはなかった。結果が出なかったというならともかく、検査自体をしなかったことには疑問を感じる」と指摘している。【鈴木一生、鮎川耕史】
再審開始の可能性はどの程度あるのか。今回のDNA型鑑定の結果に、弁護側は「本来なら、これまでの証拠だけでも十分無罪になるべき事件。再審開始の道が大きく開けた」と喜びの声を上げる。弁護側の鑑定に協力した押田教授も「現場に残された受刑者の精液の状態のみでも、有罪判決には大いに疑いがあった。今回の鑑定結果が無罪への決定打になる」と評価した。
検察内部にも有罪が揺らぐとみる人はいる。ある中堅検事は「被害女性と現場で性交渉していた可能性が高い『第三者』は、受刑者と同じ立場。第三者のアリバイが立証できないと、確定判決を維持するのは難しいのでは」と漏らす。
逆の見方もある。検察幹部の一人は「鑑定結果が再審開始に直接結びつくとは到底考えられない」と強気の姿勢を崩さない。警察が管理するデータベースには該当するDNA型はなく、第三者の特定はかなり厳しい状況にある。被害女性は多くの男性と接点があり、第三者の素性や事件当日の具体的な行動が分からない以上、今回の鑑定結果だけをもって受刑者の無罪が明らかになったとまでは言えないという理屈だ。
また、あるベテラン刑事裁判官は「足利事件のように、今回の鑑定結果だけで即座に再審開始の可能性が高まったとは言えない。白鳥決定に基づけば、新証拠と旧証拠を総合してどう判断できるかだ」と慎重だ。
確定した高裁判決は、間接証拠を積み上げて有罪認定している。精液や毛髪だけでなく、受刑者の供述の不自然さや目撃証言、受刑者が現場の部屋の鍵を持っていたとの状況などだ。今回の鑑定結果も直接証拠とはなりえず、新たな間接証拠の一つに過ぎない。
ベテラン裁判官は「再審開始とするなら、高裁が有罪判決の根拠とした証拠の評価を一つ一つ変えないといけない。結論が出るまでに、まだまだ時間がかかるのではないか」と観測した。【和田武士、山本将克】
毎日新聞 2011年7月22日 東京朝刊