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[28081] おれたちは石ころ
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/09 21:14
オリ主ものなのでご注意ください。






5/31 勝手ながらチラシの裏からmuv-luv板へと移動。
同日 勝手ながらメインタイトル、サブタイトルも変更。
6/5  改訂。火浦が若干熱血漢に。
6/27 改訂を始めます。
7/6 改訂終了。勝手ながらメインタイトル、サブタイトル再変更。路線変更。



[28081] プロローグ 九月六日
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/17 04:02
無数の曳光焼夷弾の輝きが荒野を飾っている。
気化した重金属で作られた雲を切り裂いて戦場へ現れる七つの影は、レーダーが使用可能になると同時に無数のロケット砲へと点火した。
影の名はAH64、愛称はアパッチの名で親しまれる戦闘ヘリである。
陸を駆ける無数の鉄人や戦車が自身を確認し、戦域を少し下げるのを確認してから、敵陣の真上から無数の爆弾を投下して爆撃を開始する。
一トンを超える爆弾を大量に投下した後はそのまま戦域をフライパスしながら大きく弧を描いて旋廻。

「もう一度行くぞ。今度は後ろからだ」

「了解」

後部席にて操縦を担当する火浦は、前部席のガナーコックピットに座るアーチャーへと合図をかける。
後ろを取ると同時に地面を這いずる異形の怪物たちに七十ミリのロケット砲と三十ミリチェーンガンを浴びせかける。
砲火の轟音で聞こえないが、陸地ではきっと肉が弾ける気持ちのいい音が聞こえているだろう。
対空戦力を奪われた連中を一方的に叩けるのはヘリの特権だ。もっとも、ある意味では一番危険なところにいるのだが。
丁度そんな時、彼らの耳に取り付けられた無線から聞きなれた同僚の声が聞こえてきた。

『レーザー級の存在を確認、重レーザー級は確認できず。大凡20!』

ぶわっと火浦の額に脂を含んだ汗の珠が浮かぶ。
勘弁してくれ、と呟きながらヘリを前傾姿勢に傾け、高度を下げつつ速度を上げる。なるべく、他の六機のヘリとは別方向に。
無線から聞こえたレーザー級、という存在から、訓練校と実践で叩き込まれた技術をすべて用いて離れようとする。
それだけの存在なのだ。無線から聞こえる指揮車からの連絡を耳にしながら火浦の乗ったアパッチは重金属雲の中に潜り込む。

『撃・・・・・・きるか!?』

『生憎・・・切れだ。出現・・・・・・・・・マー・・・・・・・・・したので確認』

「データリンク・・・・・・駄目だ。雲が厚すぎる」

通信が途切れてきたが、最後の爆音だけは耳にくっきりと聞こえた。
くそ、と火浦は唇をかみ締めながら後方へと急ぐ。しかし、不幸というものは来てほしくないときこそ押し寄せるものだ。
もっとも、他人のではなく、自分の不幸を望む人間など本当にいるのなら見てみたいが。
レーダー回復の為に少しだけ高度を上げようとした瞬間、それは起こった。

「うおッ!?」

突然ヘリが制御を失った。
コンディションを確認する為に視界をコクピットに下げると、メインローターに取り付けられた羽が二枚破損している。
それから一瞬遅れて、じゃっ、と空気中の塵と重金属の雲を蒸発させる音が聞こえた。

「いかん、かすった!」

「立て直せるか?」

「無理だ、不時着させる。舌を噛むなよ!」

不時着時にヘリが横転したりプロペランドを潰したりしないようにと制動をかけようとする。
しかし、羽を半分毟られた鳥が飛んでいられないように、これ以上の飛行は不可能だった。

「来るッ!」

凄まじい衝撃。不時着、というよりも半ば墜落、といった感じだった。
むしろ、メインローターの羽を半分食い千切られてここまで衝撃を緩和できたのは操縦士である火浦の技量の高さ故だろう。
あるいは、自分は何をやっても死なない、というジンクスを信じた故の奇跡だったのかもしれない。
しかし、シートベルトを着けていて尚、墜落時に歪んだフレームに顔をぶつけてしまい、マスクごと左頬の皮膚を大きく削がれてしまった。
あまりの痛みに火浦の食いしばった口から苦悶の声と吐息が漏れる。

「はあッ・・・・・・はあッ・・・・・・アーチャー、無事か?」

紐の切れたマスクを力任せに外して頬を抑えると、ぬるりと手袋越しにぬめりを覚えた。
かなり派手に出血しているらしいが、応急手当をするにも今居る場所は前線だ。急ぎ脱出して撤退せねばなるまい。
頬の出血を意図的に無視しつつ、軽く体を動かしたところ、節々は痛むものの脱臼や骨折は無いようで、火浦は安堵を覚える。
しかし、みしりと音を立てて軋む首を前に向けた瞬間に軽く抱いていた安堵は霧散した。

「腕をやられたか・・・・・・生きてるな?薬は?」

「・・・・・・ああ・・・・・・駄目だ。抜けそうにない・・・・・・薬は、既に飲んだ。VKと、K2だ」

アーチャーの左腕は歪んだフレームと前部操縦席の隙間に挟まれて、ひしゃげているように見えた。
いつも冷静で涼しげな表情を崩さない男が額に汗して唇を噛み締めているのだから、相当に苦痛なのだろう。
直接声をかけて治療してやりたいところだが、墜落時に歪んだブラストシールドのせいで前部操縦席に手が届かない。
火浦は右手側の歪みの少ないドアを思い切り蹴破ると、ヘルメットに取り付けられたインカムの通信域を短距離用に切り替える。
既に後衛の近くまで来ている筈だ。重装備の機械化歩兵や救護班のひとつやふたついるだろう。

『機械化歩兵、救護班、いるか。今墜落したヘリに要救助者が取り残されてる。フレームに左腕を潰されて、重症だ。ポイントわかるやつ、すぐに来てくれ』

『了解。アイランド小隊をポイントB-05へ向かわせる』

後部座席の扉を引っ張っていると、近場に待機していた指揮車からすぐに返事が来た。
救急キットでもあれば治療してやりたいのだが、生憎扉が開かない以上どうしようもない。
自力で扉を開けるのを諦めて、応援に来てくれるらしい機械化歩兵に任せることにする。

『了解。感謝する』

言いながら火浦はヘリのプロペラントの様子を眺める。一番不時着時に気を使ったのは何よりもこいつだった。
ケロシン系統の、ストーブ用の灯油みたいな燃料を積んでいるわけだから、漏れ出したところに火花でも散ったら大変だ。
引火した瞬間に逃げる間もなく爆死してしまうだろう。もっとも、自分が死ぬ場面を想像したところで現実味が無い。
そんな益体もないことを考えながら視線を辺りに巡らせると、前線の方向から二匹の怪物が駆け足で近づいてくるのが見えた。
人よりでかくて二足歩行する翼と羽根のない鶏に、赤い目玉のいっぱいついた象の頭をすげかえたような、異形。闘士級とここでは呼称される化け物だ。
戦車が射ち漏らしたヤツだろうな、と思いながら、火浦はホルスターから拳銃を引き抜き、両手で構える。
距離は約八十メートルあるかどうか、といったところ。安全装置を外して狙いをつけ、引き金を引いた。

「・・・・・・鼓膜・・・・・・?」

墜落した時から耳が少しおかしいせいか、銃声がよく聞こえなかった。遠雷のように響く砲火の音は聞こえるのだが。
どうやら特定の音域が聞き取りにくくなっているだけらしい。
しかし、十回引き金を引いて、七回当たったように見えた。一匹は既に動いていない。仕留めたように見える。
まだ一匹いるが、負傷したのか、先ほどよりスピードを落として近づいてくる。
しかし、じきに、三、四秒でこちらを射程圏に捉えるだろう。
火浦は予備の弾倉をジャケットから引っ張り出し、弾倉をつめ直そうと構えを解く。

「・・・・・・フウっ・・・・・・フウっ・・・・・・」

しかし、さっき切れた頬を触った時に指先が血で濡れたせいか、上手く銃から弾倉を引っ張り出せない。
少しだけ焦りながら手袋を脱ぎ、ようやく引き金に指をかける頃には闘士級はもう目の前に居た。
硫黄臭交じりの、独特の金属臭が鼻を刺す。
この臭いのもとの、彼らの体液は一体どういう味がするのだろう、と益体もない事を考えた。食ったら美味いのか、と。
そんなどうでもいいことを考えながら引き金を引いた瞬間、破れた鼓膜でも捉えられるほどの爆音が鳴り響き、闘士級の頭が吹き飛んだ。

『援護する・・・・・・って、遅いか。まあいい』

「助かった、感謝する。救援を頼んだ火浦曹長だ」

振り返ると、先ほど応援を要請した機械化歩兵がすぐ後ろに立っていた。
重機関銃を二門構え、腰に跳躍ユニットさえ着いたごつい姿はさながら小型の鉄人のようだ。
顔は見えないが、かなりいかつい低い声がインカムから聞こえる。

「アーチャー曹長はそこのヘリの後部座席だ。頼む」

『もう処置を始めている・・・・・・っと、曹長さんか。アイランド小隊隊長、戸川十郎軍曹であります』

「いや、緊急時だ。敬語とか、自己紹介はいい。とりあえず認識票だけ確認しておいてくれ」

『了解した』

ヘリの方へと目を向けると、既に扉を破ったヘリから運び出されたアーチャーが機械化歩兵に抱えられていた。
左腕を切断するようなことにはなっていないようだが、どうやら薬物で意識を失っているようだった。
もっとも、早いところ基地できちんとした手当てをせねば、後遺症が残るかもしれない。

『顔、結構派手にやったみたいだな・・・・・・あんたも乗れよ。傷の手当てをしてもらうんだな』

「ありがたい」

言いながら、アイランド小隊の後からついてきた救命車両に乗り込む。
ヘルメットを外すと、はがれ掛けた顔の皮と共に耳がぼろりと零れ落ちて、皮膚の切れ目でぶら下がった。
出血が尋常ではないと思ったが、こういうことだったか、と妙に冷静な思考を保っていた火浦だったが、無意識のうちに一言こぼした。

「耳が」

別に何か意味や意思がこめられた言葉ではなかったが、どうにも視界の隅でぶらぶらしている顔の皮と耳を見ていると、妙な気分になってくる。
触ってみるが、もうすでに神経が通っていないのか、痛みとか感触とかそういうのはなかった。
そんな火浦の様子をみた衛生兵は傷口に軽くゲル状の薬液を塗ると、とガーゼ、テープを手に、千切れた耳を傷口に当てるようにして押さえ付けた。

「うっ・・・・・・」

「我慢してください。まだくっつきますので」

酷い痛みだが、一応痛み止めの薬も飲まされたので、我慢できないほどではなかったが、どうにも気持ちが悪い。
痛み止めに含まれた睡眠薬の影響で眠くなってきた火浦はそのまま壁にもたれかかって寝息を立て始めた。
今にでも彼らの、人類の〝天敵〟が現れて彼らは殺されても不思議ではない。〝敵〟はそんな連中だ。
しかし、たった数十分のものに過ぎずとも、五時間以上の間戦闘と補給を繰り返していた彼には、沈み込むような、泥のような眠りだった。



五十分ほどの仮眠を取った火浦は最寄の司令部に帰還してすぐに、搬送されるアーチャーとともに仮設テントにいる軍医を尋ねた。
アーチャーは右半身に単純骨折を六ヶ所もやっているらしく、復帰には一ヶ月以上かかるそうだ。
それに比して火浦は、顔の傷とはいえ、命に直接かかわるではないらしい。感染症予防のものと耳と皮膚をくっつける薬だけ渡して火浦を追い出した。
べったりとしたゲル情の、というよりももっと粘度の高いピンク色のものを傷口に沿って塗布する。
祖母が使っていた入れ歯安定剤のようだ、と火浦は思いながら耳と皮膚をしっかり固定する。
大陸支援に来てからここ一年、大きな負傷もなかったからあまり野戦病院には縁が無かったが、自分以上の重傷者が大勢いることをようやく思い出した。
アーチャーどころではない、五体不満足にされてしまったものたちもグロス単位でいる。
少々気が緩んでいたようだ。唇をかみ締めて眠気を吹き飛ばすと装備を整え、直接の上官に指示を受けようと司令部へ向かった。

「駄目だ!後退せざるを得ない!」

「輸送ヘリは・・・・・・」

「物資は置いていく。それしかないだろう」

どうやら取り込み中のようだった。先ほどから通信が帰ってこないことを不審に思っていたが、余程やばい状況のようだ。
話の内容を聞く限り、物量に圧されて長く持ちそうにないらしい。いますぐ尻尾を巻いて逃げるべきだ、とのことだ。
ここの日本帝国支援部隊第二大隊司令部に死に体で帰ってきた衛士が正確な戦域データを持ってきた結果、地中から旅団規模の増援が現れたらしい。
あと三十分もしないうちに突撃級、人類の〝天敵〟の中でも最も足が速いヤツが到達するらしい。
火浦は再び出撃できないかと、少しでも敵の進撃を遅らせる為に予備機期待してハンガーへと駆け足で向かう。
すると、途中で忙しそうな様子の整備兵を見つける。

「アパッチ、予備機はあるか?」

「ねえよ!あんたがぶっこわしたので最後だ!他のは一機も戻ってきてねえ!・・・・・・撃震だけあっても、衛士が全滅だ・・・・・・」

七機居た航空支援部隊は全滅したらしい。しかも、生存者は火浦とアーチャーだけらしい。
同じ釜の飯を食った連中がもういないことを思い、一秒だけ火浦は目をつぶって黙祷をささげた。
しかし、今危機的の状況下に陥っているのは自分たちだけではない。中韓連合軍とともに陸地で戦っているはずの鉄人や戦車も同様だ。
彼らの多くはつい先日補充された新兵、ひよっこどもだった。

「ひよっこどもは」

「・・・・・・通信が取れない。CPがやられてるかもしれん」

整備兵は俯きながら首を横に振った。
要するに、救援どころか支援も満足に期待できないということだ。
敵はほぼ素通り。先ほど聞いたように甘く見積もって三十分で到達する。そうなれば虐殺の開始だ。

「・・・・・・」

火浦は口をへの字に結ぶと、毅然とした歩調である場所へと向かっていった。



「こいつは予備機か?」

ハンガーにて、整備兵たちが忙しく撤退準備を行っている中、火浦は顔見知りの整備兵に声をかける。
彼が見上げるは灰色の鉄人。昨日搬入された予備機であり、部隊章すら付けられていない代物。
前方投影面積は同サイズのものに比べて最大。装甲は戦車と同程度から劣る程度。最高速度や加速性能は戦闘機に及びもつかない。
人類の戦術に対しては最弱。しかし、人類の〝天敵〟に対する性能は最高を誇る、極めて異色の存在。
その人間が生身で行う戦術を、機械のより優れた挙動で、より高い馬力で行おうという狂気の産物。
F-4、日本帝国において〝撃震〟と呼称される戦術歩行戦闘機、略称、戦術機である。
人類の持てる技術の粋を尽くして製造された、最強の兵器である。

「あ?ああ。そうだよ・・・・・・って、強化装備なんて着てなにしてんだ」

強化装備、火浦が今身に着けている、身体にピッタリとフィットした対Gスーツのことだ。衛士強化装備。それが正式名称である。
火浦が見上げる戦術機に騎乗して〝天敵〟と戦う、人類の兵器の〝担い手〟を呼ぶ者は、彼らを衛士と呼ぶ。
人類の守り手。最高の兵器を扱う、最強の殺し屋。他の兵科の数倍以上の教育費を用いて育成される。
訓練兵ひとりひとりの適正を調べ、ふるいをかけられた中から選ばれた、英才教育の申し子。
火浦もかつてはその一人だった。
しかし、搬入される実機の数の問題から、戦術機以上の適正を持っていたヘリのパイロットとして転科したのだ。
かつては選ばれた者の中からさらにふるいにかけられたエリートしか乗れなかった兵器が、今では余剰している。
このような皮肉な状況は実戦経験を持つ前線指揮官の少なさ故の、日本帝国のひよっこ衛士の死亡率の高さ故だった。
もともと搬入される予定の機体数よりも多い数の衛士が居たというのに、余っている。これがどういうことか、その理由を火浦は一年間前線で見続けてきた。
ゆえに、火浦は告げる。


「おれが乗る。出させろ」

これは、不良たちの物語である。







[28081] 序章第一話 不良
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/17 03:59

街灯が点り始めた夕方の町並みを二人の少年が歩いていた。
吐息がけむるような寒い冬の夕方の道には人があまりおらず、ぽつりぽつりと道行く人も足早に家路をたどっている。
のんびりと歩くものは、少年二人だけだった。
彼らの着ている服は黒い学生服、かたやきっちり整えられたもの、かたや短ランを乱雑に羽織っているだけのもの。
それを身にまとう二人は、どちとも百八十センチ以上の大柄な体格を持っていた。
整った服装の、長めの髪をオールバックにまとめた少年は電気屋のウインドウに飾られたブラウン管テレビに目をやると、眉をひそめて口を尖らせた。

「お、またやってるよ。大陸派兵がどうこう。やだねー」

彼の視線の先のブラウン管の中では国会中継が行われていた。
彼らの祖国、日本帝国の重鎮たち、帝国議会の議員たちが怒鳴り声を散らしている。
今年決定された日本帝国軍の、アジア大陸への派兵について、大激論を交わしている。
その中に、会議場の片隅で腕を組んで居眠りをしている議員を目ざとく見つけたもう一人の少年が言った。

「まずは政府や武家が行けよ。あいつらその為にいるんだろが」

「武家はともかく政府が行ったらまずいだろ・・・・・・」

西暦1991年、人類を含む多くの生命の故郷、地球は未曾有の危機に瀕している。
宇宙からの侵略者、BETAと地球人が呼称する生命によって。
1967年に月面にて人類と邂逅した彼らは18年前に地球、中国はカシュガルに落着し、今も侵略を続けている。
比喩ではなく、彼らが通った後にはペンペン草一本生えんのだ。
樹林の喪失などが原因の気候変動により、もう花見月だと言うのにまだ梅の花は咲かない。

「また税金上がったし、あいつら役にたたねーよ」

「仕方ないだろーに、いろいろ苦労があんだよきっと。その怒りはBETAに向けてくれ」

中東からヨーロッパを蹂躙しつくしたBETAは今後東進を開始するだろう。
アジア諸国は必死に、文字通り必死に食い止めてはいるが、近いうちに戦線が後退するのは避けられまい。
その為、日本帝国も大規模な大陸への支援を行おうと言うのだ。

「遠くのBETAより今日の晩飯のほうが大事なんだよおれは。米も肉も野菜もたけーよ、最近」

「あ、それホントだよな。また消費税上がるらしいし」

しかし、少年たちが言うように、直接BETAとの戦争に関わっていない後方の地である日本も、景気は低下の一途を辿っている。
大陸派兵などに向けて軍需は増える一方、民需の縮小は止まらない。
結果、当然の話所得税、消費税をはじめとする税金は増えることになるし、国債も増える。
経済で発展した日本だからこそ、経済が傾くと他もすべて傾く。生命線なのだ。

「クソッ、じじいにまた小遣い減らされたんだぜ、おれ」

「それは普段の行いのせいじゃ・・・・・・」

「いーや、政治屋のせいだね、絶対。くそったれ、あいつらきっと今日も高級料亭で美味いモンたらふく食ってんだぜ」

明後日高等学校を卒業する彼らはじきに徴兵される。支援とはいえ、戦地に向かうことには違いない。
自分たちが痛い思いをする裏で、逆に美味しい思いをしている連中もいるわけで、それが彼には気に食わない。
戦争に恐怖しているのか、と問われれば、違うと答えるだろう。

「映画の見すぎだろ・・・・・・」

そうこう話しているうちに彼らは目的地である駄菓子屋についていた。
黄粉棒やタコせんべい、棒つき飴、ガムなどを小銭で購入し、食べ歩きしながら家路を辿る。

「げほッ、げほッ・・・・・・!」

黄粉棒を頬張った際に黄粉を吸い込んでしまい、短ランを羽織った少年は咳き込んでしまう。
チューブ型のコーラ味ジュースの切り口を噛み切ると、慌てて飲み干した。

「落ち着いて食えよ・・・・・・大丈夫か?」

「ふー。助かった。ありがとよ」

短ランを羽織った少年はオールバックの少年に背中をさすってもらって息を整える。
ほっと一息つくと、もう家の前までついていた。短ランの少年は自宅の方向を親指を立てて示し、別れを告げる。

「あ、ウチこっちだから」

「おう」

そして、手を振って友人と別れた短ランの少年は、自宅の鉄の門を開けて自宅を見上げる。
小さな、2DKほどの平屋の家だ。敷居をまたぐと、ただいま、じじい、とあまりにあまりな帰宅の挨拶をした。
しかし、帰ってくる声もまた、あまりにあまりなお出迎えで、おかえり、クソガキ、という乱暴なものだった。

「土産は?」

台所への扉から現れて土産をせびるのは少年とよく似た顔立ちの老人だった。
百九十近い背丈に、衰えてなお百近い体重を維持しているであろう屈強な体躯を持つ偉丈夫。
他でもない、彼は少年の祖父、火浦源次郎だった。
同じ火浦の苗字を持つ少年、火浦京次郎は器用に足だけで靴を脱ぎ、玄関から上がる。
ペッタンコに履きつぶされた革靴は、彼の羽織る短ランや、手に持つ鞄と同様に不良スタイルである。

「ほらじじい、お土産」

「ありがとよ」

口こそ悪いものの、敬老の精神豊かな京次郎は自分だけ買い食いをして帰宅することはない。
毎度祖父の好物のタコせんべいを購入してから帰るのだ。ソース味のあれは美味い。
ぎぃぎぃと軋む床の音には慣れたもの。源次郎の友人の大工が建てたという築五十年の平屋は今でも頑丈にできている。
源次郎が出てきた玄関からすぐのふすまをあければ、仏壇に電気式の掘りごたつ。あと乱雑に本が詰まれた本棚があった。
京次郎は鞄を部屋の隅に投げ捨てると、立ったまま仏壇の前で手を合わせて二秒ほど目をつぶった。

「・・・・・・明後日、卒業式だから」

それだけ素っ気無く言うと、京次郎はすぐに本棚へと手を伸ばし、漫画を二冊つかむと、掘りごたつに足を潜らせた。
そんな彼を源次郎は表情を顰めながら数秒見つめると、自分も孫と同様に掘りごたつへと足を突っ込むことにした。

「今日遅かったな。何してた」

「卒業式の準備だよ。遊んでたわけじゃねえ」

部活動にも入っていない彼が六時を過ぎるまで家に帰らないことはあまりない。
まして、今日は土曜日だ。授業は昼過ぎで終わるはずであった。源次郎の疑問はごく自然なことだ。
しかし、今日は放課後に卒業生含め、在校生が卒業式の練習と椅子や壇上の準備などを行ったのだ。

「ったく、面倒くせえ」

わざわざ卒業生に椅子出しなどをやらせて眺めているだけの教師に腹が立ったが、卒業式を真面目にやる程度の良識は持ち合わせている。
これからは軍人として兵役に就かねばならんのだ。いつまでも一年二年の時のような調子で喧嘩をやらかしていていいわけではない。
既に召集令状は届いているし、卒業後には教育訓練を一年から二年程度受けることになるだろう。
もちろん、その後は戦地、アジア大陸に渡ることになるだろう。

「てめえ、軍隊では大人しくしてろよ。いじめ殺されるぞ」

「冗談じゃねえ。やられる前に殺し返してやるよ」

祖父のせっかくの忠告にも、孫は息巻いて聞きはしない。
不良の京次郎なんて不名誉な名前で呼ばれて粋がっている阿呆なのは事実だが、さすがにここまでくると修正不可能だ。
四十年以上前の第二次世界大戦の折、兵役に就いていた源次郎は当時の苦労を語ろうかと思ったが、既に十回以上聞かせようとして途中で逃げられたことを思い出し、やめることにした。

「お前は、世間の厳しさを知らんから」

「うるせえなあ・・・・・・」

阿呆の京次郎も小うるさい爺さんのたわごとだと思って言っているわけではない。
自分を思って言っているというのは、なんとなくわかる。タコせんべいを齧りながらの言葉でも、一応真面目な話なのだろう。
しかし、人間以外と素直になれないものだ。こだわりや執着というものを捨てきれない。
それが祖父へと心配をかける原因になるとわかっていても、不良という生き方はやめたくない。

「ヤンチャが過ぎるとうちの馬鹿息子みてえに・・・・・・」

「うるせえよ。親父は悪くねえ」

有無を言わせないような口調で言い切ると、京次郎は立ち上がり、そのまま部屋を出ていってしまった。
京次郎は、自身の父親の、源次郎の一人息子の話をするといつもこうなる。
源次郎自身、理由がわかっている。彼も京次郎とほぼ同じ感情を、怒りを抱いているのだから。
しかし、だからこそ同じようなことにはなってほしくない。そんなあてつけ染みた生き方は寿命を縮めるだけだ。

「ったく・・・・・・だからガキだっつんだよ・・・・・・」

孫相手に上手く諭すことひとつ出来ない自分自身に辟易し、源次郎は指先で眉間を揉んだ。



自分の部屋につくなり、思い切り壁に短ランを投げつけて布団に転がった。
万年床というわけではないのだが、今日は朝面倒でたたみ忘れてしまったのだ。
少しばかりこもった湿気が冷たい布団が、熱くなった頭に心地よかった。

「くそ・・・・・・」

またいつものように喧嘩してしまったことを悔やみつつ、京次郎はぼんやりと天井を眺める。
あの染みはパンダに似ているな、などと思っているうちに、彼の意識は闇の中へ沈んでいった。



――――ほら、土産だよ。京次郎。

自分を呼ぶ懐かしい声が聞こえた。ああ、これは夢だ、とすぐにわかった。
十五のときに警察に連れて行かれて留置所で自殺した父が居た。
真面目で優しい、いい男だった。はやり病の肺病で妻に先立たれて酒を多く飲むようになったが、京次郎にはずっと優しかった。
いつも不平を漏らして鬱憤を晴らしていた彼は、いつものように武家か政治家か、あるいは将軍か、下らない愚痴でもこぼしたのだろう。
反体制派かと疑いをかけられて警察に連れて行かれて数日後、留置所で自殺したと聞かされた。
帰ってきた死体は痣だらけだった。

「親父は右翼のクソに殺された」

彼は三年経った今でもそう思っている。
その為か、お国のためとか、将軍万歳とか、そういうことを言っている連中が大嫌いだ。
不良と呼ばれているのも、周りのやつらと違うことを言っているからで、窃盗やら暴走行為を行っているからではない。
殺すな、盗むな、欺くな。その程度の分別はついている。
もっとも、その、〝己の心を欺かない〟せいで起きたいざこざで喧嘩や乱闘を起こし、数人病院送りにしている為、不良というレッテルは間違ってはいない。

「国のためならなんでも許されるのか。親父を自殺させるのが、お国のためなのか」

素行のことで生徒指導室に呼び出され、学年主任から説教を食らったらそう言い返した。
学年主任の男は顔を青くしてそんな恐ろしいことを言ってはいけない、と京次郎を諭した。

町で一対一で売られた喧嘩を買った結果補導され、警察官から理不尽な暴力を振るう下種、と罵られた。
なるほど、と頷いてから挑発的に理不尽な権力を振るう外道、と言い返してやったら理不尽な暴力を振るわれた。
高校三年の二学期に召集令状が届いてからこそ大人しくしていたが、以前の彼はまさに不良だった。
損で痛い生き方だというのは身をもって知っているが、そうしないわけにはいかない。
尊敬する父親と同じことをやって同じように死ぬのなら、それでいい。そう思っている。そう、あてつけている。世の中に。

「自分の良心のままに生きろよ。いいことはいい、悪いことは悪いとはっきり言ってやれ。誰にも恥じることはない」

そう、父は言っていた。父自身、実行できていたかと問われると首を傾げるところだが、その教訓を今でも京次郎は覚えている。

――――おれの心は、これでいいって言ている。おれは人の道を踏み外しちゃあいない。

言い訳染みて聞こえる言葉だが、それでも京次郎は本気でそう信じている。己の心を欺くことはしない。
軍に入っても、まっすぐ生きてやる。恥を知り、理不尽には真っ向から立ち向かう。

――――正しいことは正しいと言ってやる。間違ったことにはおかしいと言ってやる。それがおれの生きる道だ。

そう父の影に言い返すと同時に京次郎は目を覚ました。日曜日の朝だった。








[28081] 序章第二話 卒業
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/06 23:13


「ふァ・・・・・・ぐ・・・・・・」

あくびを噛み殺しながら真面目に卒業式に出席する。
札付きの不良の周りに座っている生徒はいつ暴れだすかと戦々恐々としている。
もっとも、こういった場所で暴れたことは一度も無いのだが。レッテルというものはそういうものだ。
京次郎は自分の一挙一動にびくびくと怯える同級生の連中にちらりと目をやる。反射的にさっと目を逸らされた。

「言いたいことあんなら言えよ」

とでも以前の彼ならば言っていただろうが、流石に卒業式中に揉めるのはよすべきだろう。
彼の祖父、源次郎は今日の式に出席していないが、心配をかけるのは京次郎としても本意ではない。
父の良次郎が留置所内で自殺してから、京次郎の私生活は荒れに荒れた。
腹の中で煮え滾る怒りを発散させる為に、片っ端から不良のような外見の連中に喧嘩を売った。ガンをつけて、中指を立てた。
あてつけのように警察官の目の前で喧嘩をやったこともある。うざったく言い寄ってくる女を張り倒したことさえある。
迷惑をかけまくって、恨みをダース単位どころかグロス単位で買い占めている、北区屈指の札付きの不良。それが火浦京次郎だった。

「ひ、火浦京次郎!」

校長の声が壇上から聞こえる。威張り散らすだけで能無しの、役立たずだ。
というか、この学校自体が底辺らしく、新しくやってきた新任にどいつもこいつもが仕事を押し付けている。
特にあの脂ぎったでかい面の校長は毎日五時に帰宅していた。新任教師が十時まで残って仕事をしていても、だ。
チッ、と舌打ちをして立ち上がると、隣に座っていた小柄な男子生徒が椅子から転げ落ちた。

「おおげさなんだよ。大丈夫か?」

「ごめんなさい!」

そう言って手を貸してやろうとしたが、すぐに男子生徒は手を借りずに立ち上がって座りなおした。
ちょっとした親切心を蹴飛ばされたような、少しだけ不愉快な気持ちになりながら京次郎は頭をかいて壇上へと向かった。

「・・・・・・以下同文」

両手で卒業証書を受け取って、練習でやったとおりの足運びで一歩下がり、そのまま壇上を降りていく。頭は下げなかった。
不良なんて小汚い生き方でも、いやなやつに頭を下げるのだけは嫌だった。
その後は、椅子にじっと座り、寝息を立てることもなく、静かに式に参加していた。
そんな彼の心がけをぶち壊しにきた連中がきたのは、そんな時だった。

「おらァ!火浦いンだろ!」

「卒業式たァ、いい身分だなァ!?いい子ちゃんに鞍替えしたのかよ!」

思い思いの得物を持った不良少年たちが、警備していた教師を蹴散らし式場に乱入した。
一年生や二年生は阿鼻叫喚の様子で逃げ惑っている。やれやれ、と火浦は頭をかいた。また迷惑かけちまったな、とぼやく。
椅子から立ち上がると、右ポケットから拳を出して釘バットを持って暴れる少年に近づく。

「まだ殴られたりねーのか?酔っ払い」

「て、てめえ!いつまでも俺を見下してんじゃねえ!」

近づいてみれば、どこか見覚えのある顔だった。
顔の下半分をギャングよろしくバンダナで隠しているが、たれ目の二重にツンツン頭。
一年ほどまえだろうか、裏路地で中学生の女をマワしていた男たちの一人だ。気に入らなかったので半年ほど入院してもらった。
少年は釘バット、木製バットに釘を打ち付けてしまったIQの低い武器だ、を振り上げて火浦目掛けて振り下ろす。

「うぜえよ」

「がはッ!?」

しかし、それを片手で受け止めた火浦はカウンター、ではないが、空いたもう一方の手で思い切り少年をブン殴る。
前歯の差し歯と鮮血が散る。なぜ差し歯なのかというと、以前火浦が全部前歯をへし折ったからだ。
手に刺さった釘の尻が皮膚を深く裂いていたが、この程度ならばツバでもつけておけば治る。
その後、気絶した少年をほかの仲間の下に片手でぶん投げて、ひるんだ残りの三人を、一人ずつ丁寧に相手をする。
また来られても面倒なので、しばらく物を持つのに苦労してもらうことにした。わかりやすく言うと、親指を折った。
救急車のサイレンが鳴り響く卒業式は、阿鼻叫喚の地獄のような有様の中、終了する。
卒業証書の入った筒とペッタンコの鞄を持つと、他の連中を無視して京次郎は帰ってしまう。
彼に声をかけようとするほどの気合の入った教師などこの学校には一人もおらず、彼はそのまま帰宅した。



「ただーいま」

京次郎は言うなり、ペッタンコの鞄と卒業証書の入った筒を投げ出しながら玄関から上がった。
午前中で卒業式は終わり、この後昼食をとったらすぐに横須賀基地に出向しなければならない。
知らない道で少々気にかかるところもあるが、召集令状という鉄道のタダ券があるのだから間違えたりすることは無いだろう。

「おかえり」

台所の方から祖父の声が聞こえた。京次郎は昼食の用意でもしてくれたのかと思い、そちらに向かう。
木製の引き戸を開けると、いつも使っている洋風のテーブルの上に白米で作られたらしいおにぎりが見えた。皿の上に、三つ。海苔付だ。
京次郎は台所のシンクで手を洗い、いつものようにズボンで手を拭くと、椅子に座るよりも早くおにぎりに手をつける。
むしゃむしゃと何も入っていないおにぎりを頬張ると、塩が少し多くてしょっぱかった。

「・・・・・・どうだ」

「うめえよ」

本心だ。源次郎は料理が下手だ。というか、彼の妻が去年他界するまで包丁など一度も握ったことが無かっただろう。
しかし、おにぎりだけはやけに美味かった。祖母が作ってくれたおにぎりも、美味かった。
母が作ってくれたものは昔のことでよく覚えていないが、きっと美味かったのだろう。
具も何も入っていない、ただしょっぱいだけのおにぎりが、京次郎にとっての家族の味だった。
ここ一年朝晩は京次郎が包丁を持って料理を作っていたのだが、どうにも京次郎自身は味気なく感じていた。何故か、なんとなくはわかる。
家族が作ってくれたものだから、美味いのだ。
じっくり咀嚼した米をごくり、と飲み込むと、腹の底から力が湧いてくるような気がする。

「ほら、飲めよ」

そう言って源次郎がコップに注いで渡したものは、白くにごった、いわゆるどぶろくというものだった。
隠れて酒を飲んだことはあるが、味わい方を知らない京次郎には、どうにもエタノールをそのまま呷っているかのような感触が好きではなかった。
持ったコップは少し暖かく、燗してあるのがわかった。わざわざ京次郎と飲むために燗して待っていたのだろう。
京次郎は一瞬だけ白くにごるそれに目をやると、祖父に視線を返して乾杯するように求めた。

「ありがとよ」

かちん、と源次郎の持ったコップと京次郎の持ったコップが軽くぶつかる。
そしてちびりとどぶろくを口の中に含むと、思ったよりもずっと酸味が柔らかく、美味いものだった。
驚いたような顔をしてコップを見つめる京次郎に、源次郎はけらけらと笑って言う。

「ぬるめに燗にするとよ、甘味が強くなるのよ。まあ、いろいろ試してみろ」

「・・・・・・ああ」

久しぶりに祖父の笑顔を見たような気がする、と京次郎は少しだけ感慨深い思いに耽った。
息子と酒を酌み交わすのは父親の特権だ、と誰かが言ったような気がするが、祖父もそういう楽しみが欲しかったのかもしれない。
だが、今日で自分はこの家を出て行かねばならない。横須賀基地で訓練を受け、アジア大陸で戦うのだ。
生きて帰ってこれないかもしれない。そんな風に、少しだけ弱気になる自分に気付き、京次郎は唇を噛んだ。

「ほらよ」

そんな時、祖父から胸先に押し付けられたものは、御守りだった。
見覚えがある。似たデザインのものを小学校に上がる時に父と母から贈られた。
近所の、社務所にいつも人がいるのか怪しいようなボロくさい神社だが、一応由緒正しいところらしい。

「千人針たあいかねえが・・・・・・」

少しだけ照れくさそうに目を逸らしながら、源次郎は頭を掻いた。
源次郎が第二次世界大戦の折に戦地に向かう際、近所に住んでいた奥方や、昨年亡くなった妻が作ってくれた、赤い腹巻。
穴の開いていない五銭を縫い込んだそれを見るたびに、生きて帰らねばと思ったものだ。

「・・・・・・」

いらねーよこんなもの、などと意地を張って言う気にはならなかった。
少しだけ手の中の御守りを眺めると、京次郎ポケットにそれを突っ込む。
心強い。自分には帰ってくる場所がある。いつか戻りたい場所があれば、きっと戦える。自分は死なない。絶対に。
そんな気分になってきた。また戻ってきて一緒におにぎりを食って、どぶろくを飲もう、そんな風に、京次郎は思った。

「それじゃ、行ってくる」

おにぎりを食べ終えた京次郎は、席を立ってそのまま玄関まで向かう。このまま部屋に戻ったりはしない。
このまま出て行って、いつか帰ってくるまでそのままだ。
そんな彼に、源次郎は少しだけ困ったような口調で告げる。

「あのよ、横須賀まで、ついてくか」

「いいよ。ガキじゃあるまいし」

玄関まで見送りに来た源次郎はやはり心配性だった。いつも心配させていたのは他でもない京次郎なのだが。
祖父と同じような顔で孫はけらけらと笑うと、ポケットの中の御守りをきつく握りながら祖父に背を向ける。

「御守り、ありがとよ。そんじゃ・・・・・・行ってくる」

ポケットに入る以上の荷物は男にはいらない。
京次郎にはその身と学ラン、召集令状と財布、それに今さっき貰った御守りぐらいしかなかった。
駅では召集令状を見せると、駅員は敬礼して送り出してくれた。鉄道で相席になった中年の男はがんばれ、とエールを送ってくれた。
自分に寄せられる期待は、そういうことなのだ。おれたちを頼むぞ、と言ってくれている。責任重大だ。

「・・・・・・重てえなあ」

やがて、横須賀基地までたどり着くと、門扉の開かれた基地の中へと京次郎は歩いてゆく。
そして、受付らしい係官がいたので、彼に召集令状を渡し、どこに向かえばいいのか聞いてみた。

「短ランで入営とは、気合入ってるじゃねえか。ほら、向こうに並んでるだろ、行け」

召集令状を渡した係官からの言葉がそれだった。嘲るような小汚いにやけ面が気に入らない。
殴ってやろうか、とも思ったが、この程度でいちいち殴っていたら世界中の半分は殴らなければいけなくなってしまう。
京次郎はこの列に並ぶ、という行為があまり好きではない。自分が何か得体の知れないものの一部になっているような気がしてならないのだ。

「ん、お前も今日卒業か?」

前に並んでいた金髪の男が振り返るなり口を開いた。
日本人というよりもアングロサクソン系の顔立ちのように見えた。

「そうだよ。クズの底辺高校だけどな」

「はッ、おれもさ。真人・アーチャーだ。どちらかといえば、日本人・・・・・・かな」

アーチャーと名乗った男はそう言ってニヒルな笑みを浮かべた。
どこか、日本人、という言葉に軽蔑の念がこもっていたような気がする。
しかし、そんな男の発言の意味を掴みかねて、京次郎は聞き返した。

「なんだそりゃ。混血ってことか?」

「日本人とアメリカ人の、な」

なるほど、と思った。やけに厭世的な雰囲気だと思ったら、そういう出自なら納得できる。
第二次世界大戦でアメリカに敗北してから日本人の反米思想はどうにも強くなっている。
対BETA戦線からもっとも遠い国、などという理由から、他の国々からも嫌われているらしい。
そのせいで、アメリカ人の血を引く者を避けたり、苛めたりするものも多くいた。
酷いものになると、というか、京次郎の通っていた底辺高校では教師までそういった苛めやリンチに関わっていたほどだ。

「気にくわねえよ」

そう宣言した京次郎は、いつものように手荒い手段でリンチを止めさせたが、今度はよりじめじめとした陰湿ないじめの方法に変わっただけだった。
教師を病院送りにした件の停学が明けて学校に戻ると、いじめられていた彼が転校したと聞いてひどく苛立ったものだった。

「そうか。ま、クズ同士よろしくな」

「自分で言うなよ・・・・・・」

京次郎自身はアメリカという国は好きでも嫌いでもない。
生まれた時には戦争は終わっていて、両親や祖父母も悪口を言って聞かせたりしなかった。
第一、アメリカ人とか日本人とかそういう大雑把でいい加減なくくりで人を見てるヤツは反吐が出るのだ。
日本人なら、日本男児なら、不良のクズどもは。うるせえ、おれは火浦京次郎だ。
そんな益体もないことを考えていると、京次郎たちの身体検査の番が回ってきた。
体が弱いなどの理由で徴兵されない者もいるが、京次郎は健康体だ。酒も若干しか入っていない。一切問題はなかった。
性病や痔病の検査までされたのは予想外だったが、止むを得ない。
担当医官が丁寧な人だったこともあり、つつがなくことを終えた京次郎は、散髪の順番を待っていた。

「次。坊主かスポーツ刈りか」

「スポーツ刈り」

どっかりと大股開きでパイプ椅子座った京次郎は、一瞬だけ考えて簡素に受け答えた。
もともとスポーツ刈りよりも若干長めの、いわゆるベリーショートに頭を刈っている京次郎に散髪が必要とは思えないが、必要ならば仕方ない。
散髪の担当官が首にケープがしっかり巻けたことを確認すると、何故かバリカンを手にして、いやみたらしいにやけ顔をつくった。

「坊主だな」

言うなり、バリカンで後頭部から額まで一本道が出来上がった。
ばっさり、と京次郎の短めに刈られた髪が落ちた。例えるならば、落ち武者だ。
鏡などないが、自分の頭がどういうことになっているのかぐらいは京次郎にもわかる。
頭に血が上りそうになるのを堪えながら、頬をひくつかせて京次郎は後ろで髪を刈り続ける担当官に罵声を浴びせる。

「てめえッ、なにしやがる!耳聞こえてんのか?」

「知るかバカ。おれはてめえみたいな不良が大嫌いなんだよ。分際を弁えて喋れ」

京次郎の額に青筋が浮かぶ。ここ数年の荒れた生活で沸点が低くなったこととは関係ない。
ここまで虚仮にされてやられっぱなし、というのは京次郎の青いプライドが許さない。
理不尽に対して怒ってこそ、人間の尊厳というものは保たれる。例えそれが、損失を生むとしても。

「んだと・・・・・・やるつもりかよ、ここで」

射殺すような目つきで担当官を睨み付けるが、流石軍人と言うべきか、怯むこともなくひょうひょうとそれを受け流す。

「上等・・・・・・と言いたいところだが、入営式が終わるまではてめえらはお客様だからな。その後はたっぷりしごいてやるから、覚悟しとけ」

そう言って担当官がケープを外すと、京次郎は禿山となった頭を触る。まだまだ冷たい三月の風には心もとなかった。









[28081] 序章第三話 入営
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/06 23:12


どっさりと両腕の上に積み上げられたすさまじい量の装備品を、京次郎を含む新入隊員たちは見上げる。
あまりの重さと量に取り落としそうになるものさえいる量だ。
戦闘服、作業服、常装制服、夏用、冬用、コート、その他もろもろ。ヘルメット含む。
おそらく、十キロは軽く超えている。ちなみに、これらは貸与されているだけだ。
お国のもの、ということらしい。なので給料からこの装備品の値段が差し引かれたりはしないらしい。
もっとも、下着やら短パンやら、靴下などは自費で購入することになるらしいが。

「今すぐ階級章と部隊章を縫いつけろ。見本どおりに。名札と、名前の刺繍もだ。キチンと自分のだとわかるようにやれよ」

京次郎は荷物を降ろすと、先ほど渡された携帯用裁縫セットと部隊章を手に取る。
不良、などと言われているが、火浦京次郎という男は手先が器用だ。彼が今来ている短ランも彼が自分で学生服を改造したものである。
当然、名前の刺繍や階級章の取り付け程度なら朝飯前であった。
十分もするとすべての支給品に刺繍を終え、手持ち無沙汰になった彼は周囲に視線をめぐらせる。
すると、禿山となった自分の頭をぺたぺたと触っている眉毛のない男を見つけた。京次郎は親切心から彼に声をかける

「おい、早くやらねえといちゃもんつけられるぞ」

「うっせえな。もう終わったんだよ」

彼はそう言って制服を見せる。
ぱっと見でわかる。間単に外れてしまいそうなぐらい部隊章の縫い方はいい加減だった。
京次郎は見ちゃいられん、とばかりにかぶりを振ると、彼の制服を引っ手繰って裁縫セットから針と糸を取り出した。

「貸せよ。おれがやってやる」

「あん?いいっつの。余計なお世話だろ」

そうは言うものの、彼は裁縫を始めた京次郎から制服を取りかえそうとはしなかった。
このままでは先任の連中に馬鹿にされるという自覚があったのかもしれなかった。

「そう言うなよ。これから仲間やるんだから、自己紹介ぐらいしようや」

器用に針と糸を駆使して綺麗に、ミリ単位でキッチリと部隊章と階級章を縫いつけながらけらけらと京次郎は笑う。
昔から、この手の作業は結構好きなのだ。高校や中学で男は家庭科の実習をすることはなかったが、祖母から裁縫のやり方は教わった。
男所帯なので炊事も掃除も一応だが、できなくもない。

「・・・・・・あー、おめ、おれのこと知らねえのか?おれ御神楽慶介」

「はじめましてだな。だから自己紹介しようってんだろ?おれは火浦京次郎。不良をやってる」

「ンハッ!不良をやってるってなんじゃそら!」

京次郎の一風変わった自己紹介に、御神楽は相好を崩して笑った。周囲で裁縫をしている連中が彼らを目を見開いて見る。
見もせずに器用に部隊章を取り付けている手際を見ているのではなく、御神楽の名乗った名前に驚いているらしい。
確かに御神楽という苗字は珍しいが、驚くようなものだろうか。そんな視線に気づいた京次郎は御神楽に耳打ちする。

「なんだよ、お前有名人なのか?」

「ホントに知らんのか。おれの親父が有名人。御神楽義昭、大蔵大臣」

御神楽義昭という名前は帝国議会でも指折りの有名人だ。
大蔵省は省の中の省とまで言われるだけあり、予算配分だけでなく、金融行政にまで影響力を残している。
BETA大戦で輸出入の経済活動が滞っている日本が、いまだ大きく傾いていないのは彼ら政治家の活躍あってのことである。
しかし、御神楽義昭とか、大蔵大臣とか言われても、高校で殆ど授業を聞いていなかった京次郎にとってはピンとこないものである。
というか、知らない。

「あー、うん。大蔵大臣ね大蔵大臣」

京次郎は適当に同じ言葉を繰り替えすと、誤魔化すように頬を掻いて目をそらした。
目が合った同期の男があざけるような目で彼を見る。そこまで馬鹿にされるほど知らなきゃ恥ずかしいことらしい。

――――知ってんだよ、ホントだよ。大蔵だろ。大蔵大臣っつーからには、アレだろ?

内心でうそ臭い自己弁護を繰り返す彼に御神楽はあきれた風に聞き返してきた。

「大蔵大臣って知ってるか?」

「あれだろ・・・・・・?蔵を、管理するんだろ」

戦争教育の悲しさか、否、生まれつき京次郎は馬鹿だった。

「まあ、広義ではそれでも・・・・・・まあいいか」

はは、と御神楽は乾いた笑いを浮かべながら京次郎から制服を受け取った。
部隊章と階級章は見本そのもののようにしっかり貼り付けてある。流石の手並みに感嘆の声を漏らした。
そんな時、ちょうど担当官たちが戻ってきて空を突くような怒声を上げた。

「流石にもう終わっただろうな!受け取った番号を確認して並べ!案内してやる」

先ほど貸与された衣嚢に制服などを突っ込むとすばやく立ち上がり、貸与品と一緒に渡された番号札のとおりに列に並ぶ。
どいつもこいつも禿げ頭かスポーツ刈りなので顔の見分けがなかなかつかないが、同じ列になったアングロサクソン系の禿は見覚えがある。
真人・アーチャーだ。

「よう、同じ班だな」

「ああ。よろしく」

言うと、アーチャーは右手を差し出した。一瞬だけ京次郎は何かと考えると、握手を求めていることに気づいた。
日本人の習慣では握手というものはあまりしない。焦った京次郎はズボンで手を拭いてからアーチャーの右手を握った。
思った以上に鍛えこまれた手だった。見れば、自分の手と同じところが擦りむけたりして変色している。喧嘩慣れしているらしい。
京次郎がぐっと右手に力をこめると、同様に力を込めて手を握ってきた。

「これから、頼むぜ」

「ああ」



兵舎にまず案内された初年兵たちは一番に二人一組に分けられて部屋へと割り振られた。京次郎はアーチャーと同室である。
荷物を置いて戻って来い、と言われた彼らは急ぎ足で自分に与えられた部屋へと向かう。
しかし、初年兵同士で二人部屋なら気楽なものだと勘違いするものも多かったが、どうやら同室の者全員が初年兵、というか同期のものではないらしい。
扉を開けるなり見えたものは、二段ベッドの下の段に横たわる、汚いささくれ立った坊主頭の男といかついひげ面の男だった。死んだようにへばっている。

「・・・・・・失礼します」

緊張から、ごくり、とつばを飲み込んで、京次郎は一歩踏み出した。
この部屋にあるものは、ちょっとした彼らの私物と、部屋の真ん中に置かれた長机と、四つの丸椅子だけである。殺風景な部屋だ。
しかし、部屋の中から漂う饐えた臭気、生活臭は、そんな印象を消し去って余りある。
ここで生活することになるのかよ、と京次郎は一瞬だけ眉をひそめたものの、すぐに居住まいを直して部屋の住人に挨拶をした。

「本日からお世話になる火浦京次郎です!よろしくおねがいしやす!」

「本日からお世話になります、真人・アーチャーです。よろしくお願いします!」

「・・・・・・おう」

しかし、帰ってきたのはそっけない返事ひとつ。少し会釈をして初年兵二人は部屋へと入る。
リノリウムの床の片隅には古年兵の持ち物であろう衣嚢やら、雑誌などの荷物が置いてあった。
京次郎はそれに倣い、部屋の片隅に衣嚢と一まとめにした荷物を置く。
同様に荷物を置いたアーチャーが部屋を眺めると、壁にかかった常装制服の名札には、藤野、そして男鹿とあった。
階級章を見るに藤野は一等兵、そして男鹿は上等兵らしい。
名前ぐらいは覚えておかなくてはな、と心の中で呟き、京次郎は足早に部屋から退散する。

「では、失礼します!」

「おう」

会釈をした京次郎は、彼らの様子を尻目に音を立てないように扉を閉めた。
どうにも彼らには元気がない。おそらく二年目か三年目なのだろうが、訓練に慣れない訓練兵のように疲れ果てているように見える。
それほどまでに訓練がキツいのだろうか。初年兵ならばなおさらだろう。あるいは、今日だけ特別な事情でもあったのだろうか。
なるべく後者であってほしい、と思いながら京次郎たちは足早に兵舎の玄関へと向かった。



「全員そろったか?確認を取る。さっきと同じ列に並べ」

自室となる部屋から戻ってしばらくすると、初年兵の案内担当官たちが戻り、先ほどと同様の列を作らせる。
京次郎たちの列を確認する真面目そうな男が一から二十まで番号で呼ぶと、数字通りに返事が返ってきた。どうやら全員いるようだ。
担当官はついてこい、と一言だけ言って引率を始める。基地内を案内するらしい。今日明日はオリエンテーリングのようなものらしい。

――――なるほど、お客様、か。

得心が行ったように京次郎は受付の担当官が言っていた言葉を思い返した。本格的なしごきは三日目以降、ということなのだろう。
丸坊主にしてくれたあの担当官のように、嗜虐心を疼かせている者もいるのだろう。
あんなムカつく野郎と顔を合わせ続けることになるなど、考えるだけで胸糞悪くなる。

「ここがPX、一番向かう機会が多くなるだろう場所だ。他にも何箇所かあるが、基地内で金を使えるのはほぼPXだけ、ということになっている」

PXと呼ばれた場所は基地に何箇所か点在する。食事を取るのも日用品を購入するのもここ、PXで行う。
それにしても、なっている、というのがまた、と初年兵たちは思っただろう。
同室の先輩などにゴマをすったりするのにいろいろと入用になるかもしれない。
もっとも、貧乏な京次郎は財布には大した金額は入れておらず、入営した後の給料をアテにしているわけだが。
祖父から貰ったお守りの中に数枚の紙幣と昔の五銭硬貨が入っていることには気づいたが、よほどのことがなければ使うつもりもない。

「地図を」

担当官が基地内の地図を全員に配る。安っぽい白黒のものだが、予備はないらしい。ない、ということになっている。
なくさないように、あるいはなくしてもいいようにコピーを取っておくべきだろうか。
そんなことを考えていると、担当官からは想像だにしない言葉が飛びだした。

「本日はこれで解散。同室の先任から必要な話を聞け。これも仕事のうちだ」

先任から必要な情報を引き出す要領のよさでも学べ、ということなのだろうか。

――――んなわけないだろ。

そんな風に思わざるをえない京次郎は挙手して質問する。

「質問があります」

「・・・・・・許可する」

身構えていた京次郎は少々肩透かしを食らった気分になった。
いきなり怒鳴りつけられるかと思っていたが、短ランを見て少々不愉快そうな顔をしながらも担当官は許可を出した。

「明日以降の予定はどうなるんですか?」

「喝ッ!」

勘違いだった。フェイントを入れて雷を落としてくるとは恐れ入る。
まったくもって下らない、そんな益体もないことを考えながら、軍隊という所が予想通りの場所だということを思い知った。
もっとも、その予想や覚悟を現実が上回るということを本当に思い知ることになるのは明後日以降なのだが。
一瞬だけ身構えそうになった京次郎に、鬼のように形相を歪めた担当官が唾を飛ばす勢いで怒鳴り散らす。

「どうなるのでありますか!だ!言い直せ!」

――――本当に、下らねえ。雷とは、余剰したエネルギーを放出する現象である。なるほど、無駄だ。

しかし、下らないことに意地を張って余計つまらないことになるのは御免こうむりたい。素直に言い直す。

「明日の予定は、どうなるのでありますか?」

「それを聞くのが仕事、だ。去年と同じことを聞けばわかる」

「はい、ありがとうございます!」

言いながらも、しらけた顔をせずにはいられない。毎年手抜きをしているらしい。
では解散、との号令に返事をしながら京次郎はあの部屋でくたばっていた古年兵たちからどうやって話を聞きだすか考えを巡らせた。
アーチャーも困ったように端正な顔立ちをうんざりしたように歪めている。あの部屋に帰ることさえ嫌そうだ。

「面白い話でもしよう。笑わせてご機嫌とって、話を聞きだそう」

「そうだな。肩でも揉んで話を聞かせて頂こう」

とぼとぼと自室へ向かいながら京次郎とアーチャーはこれからの作戦を立てる。もっとも、作戦と言えない様なお粗末な算段だったが。
やはり謙ってご機嫌を伺うのがよろしいだろう。京次郎としても先輩に対して敬語ぐらいは使えるし、パシリぐらいならやれる。
尊敬できそうにない相手にそれをやるのは勘弁したいところだが。
とはいえ、今は歯を食いしばってでも何とかしなければ、訓練を受けることさえできないかもしれない。
目をつけられれば、しごき殺されることさえあり得るだろう。ただでやられるつもりもないが。
そんな風に殺伐とした思考をしていると、京次郎の目が据わってきた。

「失礼します」

最低限の大きさの声でそっと扉を開けて饐えた臭いの充満した自室に入る。
部屋を見渡すと、先ほどよりはマシな様子の男鹿がベッドで寝転がりながら分厚い本を読んでいた。戦術機用の教本らしい。
藤野はおらず、京次郎とアーチャーは足音を抑えながら男鹿へと挨拶する。

「ただいま戻りました。男鹿先輩」

「おう、お前らか・・・・・・男鹿先輩、じゃない。男鹿上等兵、と呼べ。お前らも、自分の苗字の後に訓練兵、とつけるんだ。まあ、おれはそのうち少尉になるがな」

言いながら身体を起こすと、彼は嬉しそうに相好を崩した。
ジャガイモのようにでこぼこした、いかついヒゲ面がほころぶ様は少々威圧的だ。
京次郎は、占めた、機嫌が良さそうだ、と内心で思うと、興味が湧いたことを聞いてみる。
そして、自分の名前を言うときは火浦訓練兵、と名乗る、と記憶した。これから京次郎のことは火浦と表記しよう。

「少尉になる、でありますか?」

「ああ。今日は衛士の転科試験があったんだよ。藤野は落ちたからあんまりその話題には触るなよ」

「はっ!」

だからぐったりしていたのか、と得心がいった。しかし、おめでとうございますとでも言うべきか。
同室の藤野が落ちている以上、何も言うべきではないかもしれない。そんな風に考えていると、後ろでドアが開く音がした。
振り返れば、そこにいたのは青い顔をしてやつれた藤野だった。

「お前らか・・・・・・おい、初年兵だろ。お前ら」

「はっ!」

びしっと背筋を伸ばして返答する。落ちて自棄になっているのかもしれない。あるいは、転科試験とやらがよほどキツかったのか。
藤野はふらふらと覚束ない足取りで歩き、自分のベッドに倒れこむように、否、倒れこんだ。
そして、首を振り返らせることもせずに初年兵たちに声をかける。

「按摩やれ」

「・・・・・・うす」

ふざけんな、と口に出しかけたところで考え直した火浦は肩や首、背中を揉み解そうとベッドに乗る。
そして、腰から足はアーチャーがマッサージすることになった。
汗臭い、というか、微かに嘔吐物の臭いがすることに気づいた京次郎は顔を顰めた。
どうやらさっきまでトイレかどこかで吐いていたようだ。吐くほどキツいらしい。衛士への転科試験とやらは。
そんなことを考えながらマッサージをしていると、アーチャーが声を上げた。足をマッサージしている最中だった。

「げ、水虫じゃないっすか。勘弁してくださいよ!」

「うるせえ!とっととしろ!」

ため息を隠しながら、多くの初年兵たちはこれからうまくやっていけますように、と祈った。
きっと明日の今頃は、明日はもうちょっとマシでありますように、と祈るのだろう。
火浦もご多分にもれず、明日はいい日でありますように、そんな風に思いながら窓の外の夕日を眺めるのだった。







[28081] 序章第四話 教官
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/06 23:13



「ハッ・・・・・・ハッ・・・・・・」

春の日差しの中、延々と走り続ける作業服姿の男たちの一個小隊があった。
今のところ、十五キロ走らされただけだが、つい先日まで高校生をやっていた彼らにはきつい運動である。
これのおかげで重度の喘息が発覚して入営を取り消される者も他の隊ではいたらしい。
火浦自身、既に呼吸を一定に整えられなくなっていたが、それでもここでペースを落とすのも落伍するのも気に入らない。

――――速えぞ、おい。

まったくペースを落とさない目の前の眉毛の無い男の坊主頭を睨み付けながら、火浦は足に力を込めて地面を蹴る。
大蔵省、なるものをアーチャーに説明してもらった火浦が御神楽に抱いた印象は、お坊ちゃんじゃねえか、というものだった。
しかも、政治家の息子、それも大臣の御曹司だというのならば、招集を拒否できたかもしれない。
だのに、わざわざ来るあたり、性根がいいのかもしれない、とも。

「ハッ・・・・・・ハッ・・・・・・はッ・・・・・・!」

興味本位で事情を聞いてみようかと思ったが、生憎自由になる時間がここ六日間さっぱり無い。
朝には重い体を引きずりながら着替え、夜にはベッドの二段目に、残った最後の力を使って登り、そして泥のように眠る。
朝に一秒でも長くベッドの中にいるために、靴まで履いて眠っているのだ。この一週間足らずの訓練で火浦の甘い考えは完全に打ち砕かれていた。

――――覚悟していた、と言ったが、ありゃ嘘だった。現実はいつでも覚悟を上回るものらしい。

やれやれだぜ、そんな益体も無いことを考えながらグラウンドを走る。
一周四百メートルのそれは、運動が得意な火浦からすれば一分足らずで回りきれるものだったが、今の疲れた身体ではその五割増しの時間がかかる。

「昨日より遅いぞクソったれ!やる気あるのか!ないならブチ殺してやるからこっちに来い!」

「はっ!教官殿!」

やる気なんてねーよ当たり前だろ、と思いながらも火浦は足を止めない。目の前の眉毛の無い男は自分よりも優秀な成績を残している。
教本の内容をノートに写して片っ端から頭に詰め込んでいる座学では、現時点で差はついていないが、おそらく彼は優秀だ。
何一つ勝てない、というのは火浦としても望むところではない。意地だけでも負けてない、と最後までのたまうのが不良のプライドだ。

「・・・・・・はあッ!・・・・・・はあッ!」

だから、足を出すペースをより早くする。地面を蹴る足の裏はひどく痛む。ふくらはぎも同様だ。体重を支えることさえ辛い。
それでも止まらない。意地がある。教官が言う十把一絡げのクソったれにも価値はあるのだと、自分の価値は自分で決めるのだと。
価値を見せ付けるには勝つしかないのだと、理解しているから前のめりに走る。

「後五周だ糞ガキども!」

教官は小汚いニヤケ面で後五周、とは言っているが、その通りに終わったことは今まで無い。
落伍者が出たとか、周回遅れの者がいたとか、なんだかんだと理由をつけて追加分を申し渡すの様は目に浮かぶようだ。
今回も途中で周回遅れの者たちが出た。若干の休憩の後、また走らされることになるだろう。
初回の訓練のとき、わざわざ訓練兵たちを痛めつける教官のやりかたにえらく噛み付いたものだが、冷静な口調の教官に言いくるめられてしまった。

――――綺麗な面して刃物のようにキレ味のいい正論を吐きやがる。

吾川という名前の教官、先ほどから怒鳴り散らしている男ではなく、冷静沈着な若い男をにらみつける。
誰もが認めたいような正論と、誰もが認めざるをえない正論を織り交ぜて口にするあの男は、火浦の苦手とするタイプだった。
馬鹿の火浦はあまり口が上手くない。頭もよくないが、話術、というものに長けていないのだ。
不良は真っ向から言いたい事を言って、気に入らないことに真正面からぶつかる。
教官たちのなかでは飛び切り若いくせに、磨り減ったようなあの目が気に食わないのだ。

――――貴様らはまだ訓練兵。軍の中ではカス以下の価値しかない。カスの言う事など誰も取り合わない。

詰め寄って投げられた自分のザマと併せて、認めざるをえないと、悔しい思いをした。
焼け付くような、射殺すような火浦のまなざしを、氷のような、意にも介さないようなまなざしで、吾川は軽々受け止めた。
そして、背中の痛みに歯を食いしばる火浦に吾川は続けた。

――――しかし、カスならカスなりに価値を掴んでみろ。勝利して、自分の価値を証明して見せろ。

その言葉は気に入らない。だが、認めざるを得ない正論だった。
勝利することで、何かを守り続けることでこそ己の価値を証明できる。
ねだっても、待ってても、何も手には入らない。粋がるだけでは己を通す事さえ出来ない。
仲間どころか自分の身さえ守れない。無様に横たわり、見下され続ける人生など御免だ。
口の端から血をこぼしながら立ち上がり、再び走り出す火浦を、吾川はいつものように感情の伺えない瞳で見つめていた。



そして、現在に戻る。
火浦と御神楽のトップ争いを制したのは、やはり、いつもどおり御神楽だった。
彼は政治家の御曹司とは思えないほどの体力の持ち主だった。座学の時のハキハキとした受け答えから、おそらく知識も大したものだろう。
そして、落伍しなかった者の中で最後尾の者がようやくゴールすると、教官が落伍した者も含めて整列させた。
既に落伍したことでの体罰は受け終わったようで、頬に青あざが出来ている。
権力をかさに着て好き放題やりやがると、火浦は不愉快な気持ちになったが、今ここで粋がっても誰も幸せになれない。
他人を窮地においやってまで自己満足に浸ろうとは思わないし、火浦自身も肉体的にも精神的にも相当参っていた。
要するに、粋がるだけの元気がなかった。

「よしチンカスども!褒めてやる!今日は昨日より〝一分五十二秒も遅かった!〟おねだりの仕方がわかってきたじゃないか!喜べ!望みどおりたっぷり補習をくれてやる!」

「はッ!ありがとうございます教官殿!」

肩を上下させてぜいぜい言いながらも、初年兵たちは必死に返事をする。これが出来ないと思い切り頬を張られるのだ。
火浦は初めから出来ていたが、連帯責任、ということで口の中を切るほど思い切り頬を張られた。
その上、手が痛くなった、などとのたまって腕立て五十回を追加してきたものだ。もう誰も二度と同じ過ちは繰り返すまい。
十周程度ならいいな、と思いながら初年兵たちは教官の言葉を待つ。

「貴様・・・・・・小野訓練兵?」

「はッ!教官殿!」

「ベルトのバックルが曲がっているぞ?駄目じゃないか」

「はッ!申し訳ありません教官殿!」

小汚いにやけ面を小野と呼ばれた訓練兵の顔に近づけて、手ずから教官は彼のベルトのバックルを直した。
何を考えているかなどここ数日間の所業で嫌というほどわかっている。
火浦が昔見た映画では厳しい訓練の末に教官と訓練兵の間に友情が芽生える、というものがあったが、期待すべくも無い。
というより、頭がイカレてしまった訓練兵に教官が撃ち殺された映画の方が、状況に即していると言える。
そんな益体も無いことを考えていると、教官はいつものように怒鳴り声を上げた。

「全員連帯責任で二十周今すぐ走れ!」

連帯責任、ときた。他にもシャツが出ているやつや靴が汚れているやつもいる。小野と同様にバックルが曲がっているやつもいた。
訓練兵の怒りの矛先を小野に向かわせるためにやっているのだろう。火浦はそう思った。
もっとも、ここまであからさまで下手糞な扇動では、誰も思惑通りにはならないのだが。
しかし、なぜこんな嫌味なことをわざわざするのか、と火浦は考える。やはりこの手の連中の思考回路は理解を絶している。
あるいは、自分自身を憎ませることで発奮を期待しているのか、と思ったが、そんな成果は出ていない。
がくがくと震える足から意識を逸らすために遠くの景色を眺めながら、再び火浦は走り出した。



「ほら、さっさと進め」

楽しみな筈の食事の時間が一番ストレスがたまる、というのは皮肉なものだろう。
階級が上の方から食事を取れるようになるのだが、初年兵となると、丼の底に少量の麦飯と漬物が乗せられるだけだ。
先に並んだ同室の男鹿上等兵などは丼に大盛り。漬物も当然。干物までついている。
時間帯が違うのか、士官の連中はいなかったが、きっとメニュー自体が違うのかもしれない。
火浦はいつものようにあてつけ染みた独り言を零す。

「明らかに少ない」

「はあ?聞こえんな。さっさと行けのろま」

「チッ、ポチが」

ぼそりと、しかし、明らかに聞こえるぐらいの声で言った。残飯を漁る犬が、という意味である。
食事当番の連中は食後に古年兵から残飯が貰っていた。だからあらかじめ大盛りに注ぐ。
ちなみに、藤野一等兵のようにまだ二年目の連中はごく普通に注がれる。そのせいで下っ端の初年兵たちはひもじい思いをする。
金食い虫の軍といえど、食い詰めるほど逼迫してはいない筈だ。わざわざ嫌がらせのためにやっているとしか思えない。
火浦のあてつけが聞こえたのか、後ろに並んでいた同じ班の尾崎が巻き込まれないようにそっと逃げたのが尻目に見えた。

「てめえ、今なんつった?」

予想通り、あてつけに乗ってきた。目の前の二等兵はマスクの上の目と眉を歪めて火浦を睨み付ける。
そんな食事当番の態度に、火浦は待ってましたとばかりに敬礼して大声でのたもうた。

「はッ!私は独り言で、ポチが!と申しました!」

げらげら、とPXにいた周りの連中が笑った。
中には一等兵や上等兵たちが混じっているため、怒るに怒れないのだろう。
ひくひくと眼輪筋をひくつかせて怒りを堪える食事当番の顔は真っ赤になっている。
当分さらにひもじい思いをするかもしれないが、かまわない。こんなにスカッとした気分なんだから、気にしたって仕方ない。

「・・・・・・てめえ・・・・・・覚えてろよ」

そう負け惜しみ染みたことを言いながら食事の配膳に戻る食事当番を背に、彼は爽やかな笑みを浮かべた。
しかし、次の瞬間そんな彼の爽やかな気分は完全にブチ壊されることになる。

「・・・・・・おい、お前のせいだぞ」

火浦はわき腹を肘でつかれて振り向くと、尾崎がいた。
なんのことだ、とばかりに首をかしげると、火浦のそれより中身の少ない丼が見えた。

――――な、なんて陰険な野郎だ!

同じ隊の連中に当たったらしい。頭に血が上った火浦はぎろりと食事当番を睨み付ける。
すると、先ほどの仕返しとばかりに食事当番は爽やかな笑みを浮かべて見せた。ほかのやつらは関係ないだろ、という言葉は通用しない。
軍隊に入って一週間足らずとはいえ、連帯責任という言葉の意味ぐらいは知った。もっとも、これは責任というよりもとばっちりだが。
自分の勝手のせいで迷惑をかけてしまったことを素直に反省し、火浦は尾崎含め、火浦の後に並んだ数名に頭を下げることになるのだった。



午後の座学は先日のように教本の内容を一冊のノートに書き写す、というものだった。
どこぞの国の宗教では聖書を丸写しする過程で内容を覚える、と聞いたが、それと同じことらしい。
これは単純な作業だが、単純ゆえに神経に辛い。丸々三時間休み無く同じ単純作業を続ける、というのはなかなか厳しいものだ。
わかりやすく説明でもすればいいのに、講義室の教壇では教官が高いびきをかいている。

「なあ、この漢字なんて読むんだ?つーかどういう意味?」

「夙に、つとに。ずっと以前から、昔からって意味だな・・・・・・っつーか、なんで日本人のお前よりハーフのおれのほうが漢字に詳しいんだよ」

アーチャーは呆れながら、自分がすでに写し終えたページの文章を必死に写す火浦に目をやる。
身体能力は見た目相応に高いようだが、勉強は少々不得手らしい。
もっとも、思っていたよりもずっと真面目に講義を受けているので、うかうかしていると追いつかれるかもしれない。
そんな風に考えているアーチャーから漢字の意味を聞いて、なるほど、と軽く笑みを見せながらも、火浦はいじけたように皮肉っぽく言う。

「勤勉さは人種とは関係ないからな」

「本当だな」

今までを鑑みるに、火浦が勤勉ではないのは確かにそのとおりだろうが、不真面目というわけではないようだ。
やる気がないわけでもなく、むしろほかの連中よりも気張って訓練を受けているようにさえ見える。
火浦としては、不良だから落ちこぼれなのだ、などと思われたくないだけなのだが。
胸を張るのが不良の生き方だ。中途半端にやって逃げ道作るような生き方はシャバいだけの坊やだ。
中途半端に生きて腐るより、スカッと燃え尽きたい。
そんな粋がった火浦の内心を知ってか知らずか、アーチャーはやれやれ、というようにアメリカ風のリアクションを返す。

「貴様ら黙れ!口からクソ垂れていいといつおれが言った!」

そんな時、講義室の教壇から怒声とともに白墨が飛んできた。
あたりはしなかったが、講義室の後ろの壁に当たって白墨が粉々に砕け散る。間違いなく、床と壁の掃除をさせられるのは火浦たちだ。
火浦とアーチャーは自分が私語をしていたことを怒鳴られていると悟ると同時に、直立していつものように謝罪を述べた。

「はっ!申し訳ありません教官殿!」

――――なんで起きてんだよ。一生寝てろ、墓掘って寝ろ。

心の中で教官のことを思い切り罵りながら、彼らは教官が自分たちのもとに歩いてくるのを直立したまま待つ。
教官の手にはなぜか、合成皮革のスリッパが握られていた。教壇の掃除をしているときに、教壇の中に入っているのを見たことがある。
一体何に使うつもりなのか、と火浦とアーチャーを含む、初年兵たちは戦慄した。

「貴様!アーチャー!何ページまで書き写した!」

「二百十二ページであります!」

「遅いんだよゴミが!」

「はっ!申し訳ありません教官殿!」

頬を素手で張られたアーチャーは体勢を崩すこともなく、いつもの定型文を述べた。
実際、アーチャーは相当早いペースで書き写している。アーチャーが遅いというのならば、火浦は目も当てられない。
聞かれないなんてのは甘い見通しだろうな、と思いながら、火浦は直立姿勢を維持する。

「火浦!貴様は!?」

「百八十二ページであります!」

「のろすぎるぞウジ虫が!見せろ!」

言うなり、教官は長机の上に置いてあった火浦のノートを奪い取る。
そして、しばらくノートをぺらぺらとめくると、信じられないことに彼はノートを破り捨ててしまった。
目の前の光景が信じられない。火浦の脳みそは一瞬フリーズを起こす。

「火浦・・・・・・貴様!なんだこのミミズののたくったような字は!書き直せ!」

ゴミとなったノートを火浦に投げつけながら教官は怒鳴り散らす。目の前で聞くには耳がおかしくなりそうな怒声だ。
確かに火浦の字は汚かったが、本人以外が見てもわからない、というほどではない。むしろ火浦としては神経を使って書いたほどだ。
だのに、今までの成果が一瞬にしてゴミと化した火浦は、信じられないとばかりに目を見開いて抗議した。

「な!?百八十二ページだぞ!?この五日間を無駄にしろってのか!?」

「クソッタレ!」

「ぐッ!」

罵声とともに合成皮革で出来たスリッパが思い切り頬目掛けて飛んできた。
皮で出来た鞭でしばかれたら、きっとこんな痛烈な痛みがくるに違いない。皮膚がめくれているかと錯覚するほどだ。
教壇の下になんでスリッパがおいてあるのかと思ったら、新兵いじめのためのものだったようだ。
この嗜虐趣味の変態たちを頭の中で多種多様な手段を用いて殺害しながら、火浦はひりひりと痛む頬を手で押さえる。

「はいだろうがクソ野郎!何度言わせんだ!脳みそまでクソになったか!」

「・・・・・・はい。教官殿」

あまりの悔しさにぎりぎりと歯軋りをして火浦は答える。その眼差しは教官を射殺さんばかりにぎらついている。
そんな彼の表情を見た教官は愉快そうにひとしきり笑うと、後ろを振り返って講義室にいる全員に宣言した。

「貴様らカスがいっちょうまえの口をきいてんじゃあないぞッ!悔しかったらな、さっさとおれより上に行ってみろ!」

ふう、と一息つくと、教官はそのまま教壇へと戻っていって再び寝入ってしまった。
今の自分たちの価値は彼らにとってはゼロだということを再度思い知らされた初年兵たちは、悔しさに身を震わせる。
特に火浦は、自分のプライドが破り捨てられたノートのように思えて、唇を血が出るほど噛み締めていた。



ところ代わり、ここは火浦とアーチャー、そして藤野と男鹿に与えられた部屋である。
同室の先輩たちの分までの掃除と洗濯を終えたアーチャーは窓を閉める。夕日も沈み、そろそろ寒くなってくるころだ。
一通り今日の日課が終了して、ほっと一息つこうとした彼に、藤野一等兵から声がかけられた。

「おい、お前格闘訓練まだやってねえんだろ?」

「・・・・・・はい」

来た、とアーチャーは思い、身構える。今日は朝から藤野が随分と苛立っていて、事あるごとにつっかかってきた。
話の内容から察するに、格闘訓練をほかの連中より先に体験させてやる、とか口実をつけてしごきをやろうというのだろう。
こういった単細胞の言うことなど大体予想がつくというものだ。人は自分よりレベルの低いものの考えは手にとるようにわかる。同系統の思考回路ならば、だが。

「・・・・・・」

男鹿の靴を磨いていた火浦が、ちらりとアイコンタクトをとる。やれやれだな、とばかりの呆れ顔だ。
男鹿は掃除やら洗濯やら、パシリやらはさせてもいわゆるいじめはやらないタイプだったのだが、藤野はそうではない。
日頃の訓練や、外に遊びに行くことの出来ない鬱憤を初年兵にぶつける、いわゆる小物だった。

「ありがたく思え。格闘訓練をほかの連中より先に体験させてやる」

想像と一字一句違わぬ言葉が投げかけられて、アーチャーは呆れた顔をしそうになった。
そんな様子に藤野は気づくことなく、先ほどまで火浦が磨いていた靴を履いてファイティングポーズをとった。
じめじめと湿気った軍靴は触るのも嫌だが、靴磨きも仕事だ。やむをえない。水虫が伝染らないことを祈るばかりだ。

「おら来い!」

「うっす!」

藤野がそう言うと、アーチャーも同じくファイティングポーズをとった。意外と、とでも言うべきか、藤野の動きは非常に機敏だった。
すばやく放たれたジャブを、アーチャーは受ける手が痛まないように払いのけながら距離を詰めさせないように足を運ぶ。
ジャブをくらいながらもむりやりマウントポジションをとって殴り続ければ、体格に勝るアーチャーにも勝機はあるだろう。
だが、そうなると後々因縁をつけられることは間違いない。
今回専念すべきことは、なるべく手を抜いていると思われることなく相手をして、怪我することなく負けることであった。

「・・・・・・」

そんなアーチャーの戦い方を見て、火浦は少しだけ眉根を顰めた。
一週間足らずの生活でもある程度の分別というか、処世術は身についてしまった。まったくもって嫌なことだ。
いつのまにか自分が飼いならされているなど、考えるだけで反吐が出る。

「よっしゃあ!」

藤野の勝利の雄叫びに、はあ、とひとつだけこっそりとため息をついた。
日に日に溜まる鬱屈した感情、ストレスが、いつか爆発してしまいそうだ。
軍というものは巨大な生き物のようだ。その中では自分というものの存在が削られる。こういったせこい憂さ晴らしも、その発露である。
しかし、この程度で済んでいるのは実際のところ、彼らはかなり運が良かったりする。
ふと、初日に男鹿との会話が火浦の頭の中に蘇る。

――――軍隊って思ったより怖い人ばっかりじゃないんすね。先輩も優しいですし。自殺に追い込まれるようなしごきとか覚悟してましたよ。

――――ハハハ!いつの時代だと思ってんだよ。

初日の、非常に機嫌がよろしかった男鹿は快活に笑ってそう言った。そんな男鹿の返答に、火浦は少しだけ安堵に表情を緩める。
しかし、その次に男鹿の口から出てきた言葉に火浦の背中に冷や汗が流れた。

――――ノイローゼや自殺者が増えすぎたらしくて、わざわざお達しが来てるからな。いじめ過ぎるな、って。

ここは恐ろしい場所だ。きっと運が悪かったものも多くいたのだろう。
既知外染みた教官や先輩に当たってしまった者もいた筈だ。彼らの怨念が渦巻いている気がして仕方ない。
成仏してくれよ、と火浦は壁にこびりついてた手形の染みを見つめてため息をついたのだった。








[28081] 序章第五話 理由
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/06 23:13


ざっ、ざっ、という砂を蹴る音と、衣擦れの音が、何もない砂地に響く。
その足音らしきものはひときわ大きい、倒れこむような音を一度だけ立て、その一瞬後に、耳を劈くような凄まじい破裂音が響き渡った。
その中心にいるのはやはり、火浦京次郎その人だった。彼は匍匐体制で小銃を構えている。
その銃口の先にあるのは、割れた西瓜のように砕けた、かつて教官だったもの、ではない。
ただの丸い板状の射撃訓練の的だ。

「よくやったぞど真ん中だ!とっとと戻れウスノロ!」

実弾を用いた射撃訓練が始まって数日が経過していた。
既に小銃授与式を終え、一ヶ月もの訓練を耐え切った彼らの中に、ひょろひょろとしていたシャバ僧の面影はもう無い。
土嚢の影からすばやく立ち上がると、火浦は体勢を低く構えたまま地面を蹴って駆け出した。
息も絶え絶え、という様子で、いつものように返事を返す。しかし、疲労のせいで思ったように声が出ない。

「返事が聞こえんぞクソガキ!殺されたいか!」

教官が唾を飛ばすような怒声で喋る理由のひとつがこれだった。
実弾の込められた小銃を発砲する音は凄まじいものであり、撃っている本人の鼓膜がどうにかなってしまいそうだ。
手製の耳栓を詰めているが、それでも脳にまで、きいん、と響く破裂音が響く。
戦場では砲撃音や発砲音が絶え間なく響く。今時チャンバラで戦争やるやつはいないのだから、当然のことだ。
それゆえに、大きな声で、はっきりと喋るのだ。意思疎通がとれない兵は真っ先に死んでしまう。

「はっ!教官殿!」

大声で言い直し、酸素を求めて口を大きく開くと、今度は顎が上がっている、と怒鳴られた。それも素早く直す。
まるで人との殺し合いでもさせるようじゃないか、と火浦は思った。
テレビでアナウンサーが言っていたBETAというものは、人類のように洗練された戦術も持たないらしい。
数頼みの奇襲戦法しかできない下等生物だと聞いた。
そんな連中相手に音もなるべく立てずに、見つからないようにすばやく動きながら、精密な射撃をする必要があるのか。

――――あるのだろうよ。

戦闘機がなくなり戦術機などというものがありがたがられる。制空権が奪われる。その意味がわからないほど火浦は愚かではない。
宇宙進出さえ果たした人類が、すでに十年以上地球で生存戦争を繰り広げているのだ。異常事態である。
今回の大陸派兵にしたって、前線の国家が支援を必要としているからこそ行うのだ。
調子がいいときに恩着せがましく手を差し伸べられたところで喜ぶものなどおりはしない。

「とっとと戻れカス野郎!後がつかえてるんだよ!」

背中越しに、というより相当後ろの方で怒声が聞こえた。土嚢のあたりにいた教官だろうか。
今射撃をしている者、火浦の後ろか、あるいはさらに後ろあたりの初年兵に対してでも怒鳴っているのだろう。
よく喉が枯れないものだ、と、むしろ感心する。よほどいいのど飴を持っているらしい。
皮肉げな思考が頭の中に浮かんだことに気づき、かぶりをふる。こんなに愚痴っぽい性格だったか、と火浦は唇を噛み締めた。

「・・・・・・ぜえッ・・・・・・ぜえッ・・・・・・」

まだ一ヶ月。されど一ヶ月。伸びてきた髪が元通りになった頃。また禿にされた頃。
二ヶ月後の総合戦闘技術評価演習に合格し、前期訓練を修了すれば髪型を自由に選べる。
最近では禿に慣れ、手入れが簡単だ、などと思えるようになってきてしまい、それがまた悲しい。

「おら!キチンと構えろ!ケツの穴に銃口突っ込まれたいか!」

五キロの道のりを走破して五回目の列に並ぶ。小銃を持つ腕は体力消耗のあまりぷるぷると小刻みに震えていた。
完全装備状態で走っているが故に、足も同様である。生まれたての小鹿のように頼りない足取りだ。
こんな有様では今尻を蹴飛ばした教官を誤射してしまうかもしれない。
ああ、それもいいかもな、などと思ってしまうあたり、相当参っているらしい。

「雨だ」

そんな時、曇り空が泣き出した。天気予報は何故だか知らないが、最近あまりアテにならない。
濡れてしまうと分解整備がより面倒なことになるので、火浦は小銃が濡れないように大きな体躯で庇った。

「喜べ金髪豚野郎!雨が降ってきたぞ!」

雨が降ってきたことに気付いた教官は、最前列の一番左側に並んでいたアーチャーを特に意味もなく張り倒す。
そして、ついて来い、とだけ言って駆け出した。行き先はおそらく、というか、間違いなく兵舎だろう。
雨が降ると完全装備で延々と階段を上り下りさせられたりするのだ。
体力の消耗は今のダッシュアンドショットどころではない。完全装備という重石を背負った状態でのそれはほぼ拷問だ。
あまりキツい訓練を受けさせすぎると乳酸がどうこう、とかそういう科学的な思考は嗜虐趣味の変態どもにはないらしい。
日本刀を作るが如く、叩いて叩いて密度を上げる。何の密度が上がるのかはよくわからない。

「いつか殺す」

すれ違う中、特に〝可愛がり〟を受けているアーチャーは据わった目でそう呟いた。
火浦を含む、初年兵の大半もそう思っている。しかし、同意するほどの気力さえない。
軍では階級が全てだ。規律も罰則も、権利も義務も、全て上意下達の指揮系統を守るために存在する。
要するに、最下層の訓練兵であるアーチャーや火浦には、下士官である教官に対等の口を利く権利も、喧嘩を売る権利もない。

――――勝手に軍隊にブチ込んでおいて、勝手なルールを押し付けやがる。

気にいらねえよ、と口の中で呟いて火浦は兵舎へと駆けてゆく。どうにも、最近その声さえ小さくなってきた気がする。
慣れる、ということは飼いならされるということなのだろう。気に入らない。だが、どうにもならない。
半ば諦めかけている思考を否定する気力も無い。
ただ、血が出るほどに拳を握り、自傷に走るしか、苛立ちを抑える術を持たなかった。



午後の座学を終えた火浦たちは部屋に戻って同室の藤野一等兵と男鹿上等兵の銃の整備を行っていた。
古年兵の銃の整備は初年兵にやらせる、というとてもありがたくて涙が出てしまうような慣わしがここにはあるらしい。
三度目の小銃の分解組み立て訓練において、これまでの訓練兵の最速タイムをたたき出した火浦は男鹿上等兵の小銃の手入れをさせられている。
小銃の組み立てはさながらプラモデルのようで、裁縫と同じで楽しいぐらいだ。経験を積めば誰でもできる。
こういったものづくりが自分には向いていたのかもしれない、などと火浦はあり得ない仮定の話を考えた。

「・・・・・・腹ァ減ったな」

「そうだな」

向かいの椅子に座って作業を行うアーチャーに言って、火浦はひとつため息をついた。
がちゃり、と、カートリッジに空撃ち用のダミーカートを突っ込んで引き金を引く。どうやらきちんと整備は完了しているらしい。
精密さに関しては少々自信が持てないが、男鹿上等兵から何も苦情が来ないのだから問題ないのだろう。
というより、きちんとした手順で整備してなお不調ならば、部品に不良品が混じっている可能性が高い。
その程度は分解する際に気を使っているので問題はないだろう。

「おいおまえら!終わったか!」

「はッ!終わりました!」

衛士訓練にも慣れてきたらしい男鹿上等兵が、勢いよく扉を開けて部屋へと入ってきた。当初のように青い顔はしていない。
火浦は小銃を持って行う形式の敬礼を行い、小銃を男鹿上等兵へと返す。既にダミーカートは抜いてある。
それを受け取った男鹿上等兵は相好を崩して、火浦の背中を思い切り叩いた。
彼なりの感謝のカタチらしいが、部屋ではシャツ一枚で作業を行うので非常に痛い。

「衛士になっても小銃ぐらい使えないとならんからな。おまえらも慣れておけよ」

「はッ!」

見事な〝もみじ〟になっているであろう、ひりひりする背中の痛みに耐えながら、火浦は応える。
敬語のようなものも少しずつ使えるようになっている。一応、年長者への敬いの気持ちぐらいならば、馬鹿の火浦にもある。
もっとも、尊敬に値しないような下衆野郎を敬おうとは思わない。
男鹿上等兵はその点、それなりに尊敬できる部類に入る人間だった。乱暴者の藤野を窘めたり、初年兵にアドバイスしたりと面倒見もいい。
時々、というか、機嫌がいいときは自慢話が長いのが難点だが、そんなものは問題のうちに入らない。

「お前ら、調子はどうだ?」

「良好です。〝恙無く〟訓練を修了できそうです」

「そうか・・・・・・」

火浦が答えると、丸椅子に座った男鹿は、PXあたりで買ったらしいソーダの蓋を開ける。しゅわ、と爽やかな音が聞こえた。
しかし、ソーダには口をつけずにちらりと火浦とアーチャーの方を見やる。
言外に、お前も聞き返せ、と言われているような気がした。別に急ぎの用事も無いため、火浦は素直に聞き返す。

「・・・・・・男鹿上等兵は、調子はいかがです」

「ん?興味あるのか?聞きたいのか?そうか。聞きたいのか。よし、座れ」

そんな火浦の言葉に男鹿は口の右端を吊り上げて、にやりと笑みを浮かべる。心底嬉しそうだ。
どうやら、自分が今やっている訓練の内容を話したいらしい。適性試験に落ちた藤野相手には話せないから、他の話し相手を求めていたようだ。
火浦とアーチャーは丸椅子に座って先を促す。

「まだ実機は届いていないがな、衛士強化装備を身につけてシミュレーター訓練をやってる」

「衛士強化装備ってアレですね。ピッタリした・・・・・・レスキューパッチの使い方は教わりましたよ」

火浦は教本を書き写した際に衛士強化装備の説明文と絵を模写した記憶を引っ張り出して口にする。
訓練兵の衛士強化装備の胸から胴体にかけて張られている皮膜部分は半透明らしく、羞恥心を麻痺させる云々、ということも聞いている。
いらねえ努力してんじゃねえよ、と男の裸を想像して思ったものだが、女性用の衛士強化装備は悪くない。
スタイルがもろに出るため、太らないように努力しているものもいるそうだ。

「おう、それよ。それでよ、すげえんだぜ。最初は吐くかと思うくらい揺れを感じたんだがよ、強化装備とシミュレーターの方が合わせるのよ」

「データ蓄積、ですか」

体にぴったりとくっつくようなその衛士強化装備は、データスキン、とも呼ばれている。
顎部に取り付けるヘッドセットとワンセットとなっており、装備しているパイロット、衛士の脳波やら、癖やらを記録するらしい。
その為、何度も同じ衛士強化装備を使っていれば、機体の方が操縦者に負担をかけないように挙動を調整するそうだ。
意外と覚えているものだ、と思いながら火浦は教本の内容が頭の中に思い描ける自分に気がついた。
自分をクズ野郎呼ばわりするクソ野郎の講義もあながち無駄ではないものだ。

「おう。もう一ヶ月だろ。殆ど酔いなんかは感じなくなってきたぜ」

その言葉を聞いて、もう一ヶ月なんだな、と口の中で初年兵の火浦とアーチャーは呟く。
すっかりこの生活にも慣れてきて、自分が軍隊という巨大な生き物の一部になってきたように感じる。
組織というものに身を置くのは酷く窮屈だ。しかし、反面安心感を覚えてしまう自分が気に入らない。

「でよ、実機もそろそろ来るらしいんだよ。練習機だから中古だけどな?まあ、おれの機体だ」

「・・・・・・」

男鹿上等兵はどこか嬉しそうに、それどころか誇りすら感じるように、自分の兵科の話を聞かせる。
戦術機を、戦争の道具をプレゼントされて、ここまで嬉しく思うものなのだろうか。
後五ヶ月もすれば彼は訓練を終え、いつ大陸の戦場へ送られるかわからない身だ。だからこそ、なのかもしれない。

「相棒、ってヤツよ」

噂に過ぎない話だが、死の八分、という言葉がある。
人類の対BETA兵器の最先端である戦術機を駆る、衛士の初陣における平均生存時間のことだ。
対BETA最強の兵器などと言われているものに乗っているにも関わらず、六ヶ月もの専門訓練を積んでいるにも関わらず、八分で死ぬのだ。
他の兵科、機甲部隊や砲兵部隊、あるいはそれに随伴する歩兵などはもっと早く死ぬかも知れない。
ふと、火浦は男鹿上等兵がどんな気持ちで訓練に臨んでいるのか、気になった。

「訓練終わったら、大陸に向かうんでしょうか」

「だろうな。立派に戦って戦死してくるよ」

穏やかに笑って男鹿上等兵は言い切った。自分は戦って死ぬと、彼は言ってのけた。
何故、そんな風に言ってしまえるのか、命は惜しくないのか、やりたいことはないのか。火浦には彼の気持ちが理解できない。
人間、死ねばそこで終わりだ。ゲームブックみたいに最初からやり直すことなどできない。
何のために死ぬのか。それが彼の意地の張り方なのか。
頭がうまく働かず、何を問えばいいのかわからない火浦は、とりあえず一番聞きたいことを聞いてみる。

「・・・・・・怖くないんですか」

「怖くないわけないだろ。常識的に考えて」

「なら、なんで」

「それしかできねえよ。この時代に、この場所に生まれちまったおれたちに、それ以外の命の使い方は許されてない」

「・・・・・・」

火浦はそんな男鹿上等兵の言葉に、何か言葉を返すことができなかった。
結局のところ、男鹿も、既に戦地に向かった者たちも、いつだったか火浦に忠告した教師も、それ以外を許されなかったから、そうしていたのだ。
戦う相手も、戦う理由も、すべてを強制される雁字搦めの、戦うだけの人生。
冗談じゃない、と火浦は口にすることができなかった。
その言葉が無責任だと思ったからではない。言論の自由ぐらいこの国にもある。ある程度、だが。
だから、火浦は少しだけ、自分の思いを口にする。

「・・・・・・おれは、嫌ですよ。命の使い方ぐらい、自分で決める」

無意識のうちに火浦は自分の胸元をまさぐった。しかし、そこにはいつもあったお守りはない。
周囲に視線を巡らせると、壁に掛けられている作業服が目に入る。お守りは作業服の胸ポケットにしまっておいたことを火浦は思い出した。

「まあ、お前もしぶとく生き残れよ。知り合いが死ぬのは気分が悪いからな」

鷹揚に言うと、男鹿上等兵は飲み干したソーダの瓶を持って、部屋の外へと出て行く。
時計を見れば既に六時を回り、食事の時間になっている。
後に残された火浦は暗澹とした思いを抱え、隣にいたアーチャーを見る。居眠りをしていた。
お気楽なヤツだ、と一言呟くと、火浦は彼を起こしてPXへと向かうのだった。





[28081] 序章第六話 適性
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/06 23:13





暑い陽射しが窓から差し込む。無数の水の粒が叩きつけられる音が反響するここはシャワールームである。残念ながら、男性用のものだ。
本格的に夏が始まって湿気も退散し、壁に張りついていたナメクジやカタツムリの姿もすっかり見えなくなった。
そんなシャワールームの中で逞しい肉体を惜しげもなく晒す火浦は、冷たい水を顔に思い切り浴びながらも目を見開いたままに直立している。
目や鼻、果ては口にも水が入るが、そのままに耐える。ひたすら、耐える。
何故こんなことをしているか、簡単だ。こうでもしなければ洗い流せないのだ。

「あ~~ッ!ぐあ~~!」

「うるせえッ・・・・・・ゴホッ、ゴホッ!」

そう、彼らは催涙弾を用いた訓練を終えたばかりなのだ。既に三度目だが、未だに慣れない。
玉ねぎを刻んだ時のような痛みが常に目を襲い、わさびを大量に口に含んだときのような咽る感覚が常に鼻を突く。
それどころか、喉も肌もひりひりと焼け付くように痛い。
下手に殴られたりするより余程効く。これを食らって戦闘を続行できる者は最早生物とは呼べないだろう。

「ふーーーッ。ようやくさっぱりしたぜ」

真っ赤になった目を優しく押さえながら、火浦は蛇口を捻ってシャワーを止める。
日本帝国には水が豊富にある為、シャワーはいつでも使えるようになっている。素直にありがたい。
しかし、もう催涙弾を使ったやつはごめんだな、と思いながら、火浦は掛けてあったタオルで三センチほど伸びてきた髪を拭く。

「なあ、お前ら希望どこにした?」

そんな中、先ほどの訓練で催涙弾を食らわなかった班にいた男が言った。
無駄話している余裕なんてねえよ、と思いつつ、火浦の隣で髪を拭いていた尾崎が返事をする。

「あー・・・・・・ごほごほ・・・・・・うん。輜重隊」

あー、と声を出して喉の具合を確かめる。尾崎は先ほどの訓練で、思い切り煙を吸い込んでしまったらしく、喉を痛めていた。
念入りに目や鼻の中を洗い流し、うがいを繰り返し、その上でシャワーを浴びて、それでもなお違和感がある。
比較的早くに効果範囲から退散できた火浦は、まだ違和感の残る鼻をすんすんと鳴らして答える。

「おれは・・・・・・武器科、かな。砲兵科とどっちにしようか迷ってる。給料がいいのは士官コースの方けどな、多分適性はねえだろ」

三ヶ月間の前期基礎訓練に耐え、総合戦闘技術評価演習を突破した彼らは、おのおの兵科の希望を提出していた。
総合戦闘技術評価演習を数日前に終えてからは、それぞれ適性試験を受けている。
その為、基本教練を終えた後に、時間の空隙がところどころ存在し、休憩時間として使えるのだ。

「太くて長くて逞しい・・・・・・」

「砲兵科」

彼らは場所をわきまえず、全裸で下ネタを飛ばしながら会話する。尾崎は喉の痛みを抑えるために笑いを堪えていた。
二日前の午後から三十人前後の班を十二ほどつくり、初年兵全員の戦術機適性を調べている。
大陸での戦闘データや本土での戦術機の運用データから、戦術機甲部隊の重要性が年を追う毎に増しているのだ。
ましてやここは在日米軍海軍基地と隣接する、関東最大と言っても過言ではない横須賀基地の訓練校である。
より多くの衛士を輩出しようと躍起になっているのかもしれない。

「お前手先器用だからな。武器科が向いてるんじゃねえか?」

「まあ、悪くないよな」

なお、ここから十一行ほどはいらない薀蓄を語るので、読み飛ばしてもかまわない。

彼らの言うところの武器科とは、武器の整備や管理を行っている部隊である。
地雷の敷設やら不発弾の処理やら、そういった危険物処理も兼ねているので後方任務、といった感じでもない。
言うなれば、近代兵器の取り扱いのエキスパートである。
また、火浦の迷っている、もうひとつの部隊、特科とは、機甲部隊と対をなす陸上戦力の要。
対地戦闘において、機甲科と特科の火力は無くてはならないものだ。防衛戦にせよ、攻略戦にせよ、内陸での最高戦力である。
対BETA戦においては重金属による雲を発生させるアンチ・レーザー弾頭というものを使うらしく、それらを陸上で運用するのは彼らである。
沿岸部ならば海上から陸戦兵器とは桁違いの大火力で殲滅をかけることもできるのだろうが、内陸部ではそうもいかないのだ。
戦術機甲科、機甲科と並び、戦場の花形、といってもいい存在であった。
ちなみに、一昔前ならば航空科も花形、と呼ぶに相応しいほどに巨大な部隊があったのだが、今ではそれも縮小傾向にある。
制空権を完全に奪われている空で飛ぶのは自殺行為、という話だ。
基礎訓練の講義で習った、強力な対空レーザーを用いる、特定種のBETAの存在故である。

「だけどよ、航空科からお呼びがかかるんじゃね?」

「そうか?」

そう言うのは眉毛の無い男。御神楽だった。彼もシャワーを浴び終えたようで、タオルを片手に水飲み場で目を洗う。
先ほどの訓練では然程堪えている様子は無かったが、彼も我慢していただけで、どうやら相当大変だったようだ。
気づけば、十数人の団体になっている。全裸の野郎どもに囲まれた火浦は少し気分が悪くなった。

「空ね、だったら高給取りの宇宙軍に行けばよかったな」

軽口を叩いたアーチャーは、航空機適性で高い得点をはじき出している。火浦も同様だ。
最高のAから失格のFまであって、彼らの適性はBだった。
ヘリや航空機は数こそ少ないものの、航空輸送は海上輸送に並び、無くてはならない人類の生命線だ。
輸送機のパイロットは輜重隊ではなく航空隊が行うことがほとんどである。

「シャトルには乗ってみたいな。宇宙って無重力なんだろ?」

「せいぜい陸軍じゃヘリか輸送機だろ」

戦闘ヘリに乗る、ということはBETAのレーザー攻撃によって制空権が奪われている以上、ほぼありえない選択肢だ。
レーザー攻撃がされる心配がないような場所を匍匐飛行しながら戦え、というのは無茶が過ぎる。
BETA唯一の対空攻撃手段を持つ、レーザー属種を陸上の兵たちが取り除いてくれたならば、戦えるだろうが。
しかし、派手さが無くて火浦にはいまいちピンとこない。

「そう言う御神楽、お前は?」

「おれは・・・・・・警務科、だとよ」

少しだけ口ごもってから、彼は忌々しそうに口を開いた。
警務科とは軍内での警察のような役目を果たし、重要人物の護衛などでも活躍する。
高貴、と言われるような人たちと関わることもあるので、エリート中のエリートとも言える。

「へえ」

感心したようにため息をつきながら、火浦は彼に、若干の訝しげな眼差しを向ける。
既に希望を出した者も彼の班を含めて大勢いたが、まだ後期訓練の編入先は決まっていない。
複雑な事情があるのだろう、と思った火浦は、エリートコースじゃないか、などと茶化すのはやめることにした。

「もう決まってるのか?」

「親父が根回ししやがった」

「ああ、お前の親父って今の・・・・・・」

大蔵省の大臣である。日本帝国の財布の紐を握っている、官僚の中の官僚。日本の屋台骨。
眉毛のない、若干地方の訛りの残った言葉を使う男の父親である。
しかし、実際のところ彼の能力は火浦の小隊一優秀だ。警務科に編入しても十分にやっていけるだろう。
もっとも、御神楽自身の表情は浮かない。

「おれは三男さ。跡継ぎには兄貴がいるってのに・・・・・・息子のことは何でも自分で決めなきゃすまねえらしい」

怒りだけでなく、奇妙な喜びのような、家族に対する複雑な感情が御神楽の表情からは見て取れた。
家庭の事情に首を突っ込むのはどうにも気が引けて、彼ら二九期○六班の面子は居心地の悪さに押し黙る。
そんな彼らの様子を見て取ったのか、御神楽は申し訳なさそうに髪が伸び始めてささくれ立った頭を掻いた。

「・・・・・・おっと、すまんな。愚痴っちまって」

「いや、いいって」

少しだけ表情を和らげて○六班の者たちはかぶりをふると、ぽつぽつとシャワールームを出て行く。
火浦やアーチャーもその中の一人で、手早く着替えると、二人冷房の効いたPXへと足を向けた。
そろそろ○六班にも適性試験のお呼びがかかるかもしれない。少し頭を冷やしておきたいところだ。

「何か飲むか?」

「ソーダかな。焼きトウモロコシでも買うか」

悪くないな、と呟くと、火浦は少しだけ歩く速度を上げて最寄のPXへと向かう。
しかし、そんな時こそ邪魔が入るものだ。

『二九○六班、第二シミュレータールームに集合。繰り返す。二九○六班、第二シミュレータールームに集合』

近くのスピーカーからのその連絡は長い廊下に大きく反響する。
いつか見た、朝鮮のニュースキャスターのような、勇ましいというかどこか怒っているような張り上げた声だ。
確か、嫌味な青髭の濃い、ジルドレというあだ名のつけられた教官の声だった。
青髭の濃い嗜虐趣味の男という特徴から、ジル・ド・レエを連想したのだろう。ありきたりだな、と火浦は思った。

「トウモロコシとソーダはお預けだな。ま、腹に物入れとくとキツいって言ってたし、幸いかな」

言いながら、火浦は足早にシミュレータールームに向かう。
戦術機のシミュレーターがどのようなものなのかは男鹿上等兵から嫌と言うほど聞かされているが、実際目にするのは初めてだ。
戦術機や衛士のデータが大量に保管されているシミュレータールーム、そして、そこからつながるオペレータールームは訓練兵が自由に立ち入りできるような場所ではない。
その為、建物を外から見たことしかない彼らは、少しばかり興味があった。

「適性があれば少尉様だな」

「どうだか」

前期訓練を修了し、少しずつだが半年後に戦地に向かうという現実が実感を帯びてきた今日この頃。
兵科が決まれば、これからの人生が固定されるもほぼ同然だ。それがどうにも重苦しく感じられてしょうがない。
先が思いやられるな、とばかりにかぶりをふる。気づけば、シミュレータールームにつながる渡り廊下までついていた。

「扉開いてるな。中で集合か」

「お、お前ら遅かったな。あそこのドレッシングルームで着替えて来いってさ」

シミュレータールームに入ろうとすると、衛士強化装備を身につけた男、同期生の小野に鉢合わせした。
彼も火浦と同じく二九○六班の者であり、先にシミュレータールームまで来ていたらしい。
彼の指差す方向には男女別の更衣室、ドレッシングルームがある。
ああ、とだけ返して火浦たちが通り過ぎようとすると、小野が待ったを掛けて声をかけてきた。

「こんなことをいうのもなんだが、ぼくってちょっとかっこいいとおもいませんか」

「・・・・・・ハハ」

腰に手を当ててナルシスチックにポーズをとる小野に、○六班の者たちはシミュレータールームに乾いた笑い声を響かせた。
衛士強化装備を身につけた彼は、さながらバレエダンサーのように引き締まった身体のラインを惜しげもなく晒す。
惜しむらくは、ギリシャ彫刻のように筋骨隆々の男性のものだ、ということだろうか。
胸から胴体にかけての半透明の皮膜の向こう側には胸毛の黒さが見えた。

『貴様らッ!総戦技通ったからって気ィ抜いてんじゃあないぞッ!』

そんな時、シミュレータールーム全体に怒声が響き渡った。
怒声の主はシミュレータールームを一望する、オペレータールームにいるジルドレだろう。
マイクの調子が悪いのか、怒声のせいか、きぃん、というスピーカーのハウリング音が耳に痛い。
前期基礎訓練を修了した彼らは確かに弛んでいたかもしれない。半日足らずとはいえ、休暇というものは張り詰めた糸を緩める。
常在戦場、とまではいかずとも、訓練十分前ぐらいには気を引き締めておくべきだろう。

「やべ、急がないとな」

素早く火浦たち、まだ着替えていなかった者もドレッシングルームで着替えて戻ってくる。
慣れない衛士強化装備の感覚を確かめながら、硬かったり柔らかかったりする皮膜をつまんだりしているものもいる。
そして、全員が集まったことを確認すると、ジルドレが適性試験の開始を告げた。

『火浦訓練兵!』

『御神楽訓練兵!』

火浦はジルドレに、御神楽は別の教官に呼ばれる。シミュレーターを使う際、それぞれに一人ずつ教官がつくことになっている。
オペレーターなどもおり、シミュレーターひとつ使うにしても他人の助けが必要になる。
彼らにお疲れ、と労いの言葉を心の中でかけつつ、火浦たちはオペレータールームまで響くほどの大声で返事をした。

「はッ!」

しかし、御神楽は既に編入先が決まっているのに、何故受けさせるのだろうか、と火浦は不思議に思った。
カタチだけでも全種類の適性試験を行うのだろうか。そのカタチが重要なのかもしれない。ある意味お役所仕事と言ってもいい。
火浦は恐る恐る、といった様子で、扉の開いた一番機のシミュレーターに入ってゆく。

「お?」

着座すると、ぷしゅう、と音を立ててシミュレーターが閉まった。
真っ暗に、闇で満たされたコックピット内には空気の流れがまったくなく、どこか饐えた臭いがした。

――――吐いたのかよ、前のやつ。

軍隊に入ってから何度も嗅いだ悪臭を嗅ぎ取り、火浦は顔を顰めた。慣れてしまったことにこそ悲しみを覚える。
やがてシミュレーター内部のコンソールなどが発光し、最低限の光量で空間内が満たされた。
ヘッドセットから直接網膜に外部カメラの映像を投影する技術があるからこそ、内部にモニターなどはない。これを網膜投影と呼ぶ。

『では、十五分間耐えろ。無理そうなら非常停止ボタンを押せ。吐くなら左下のゲロ袋にやれよ。ブチ撒けたら貴様を殺すからな』

青髭の教官の姿が網膜に直接映し出される。まるで紙のように薄いモニターが空中に浮いているかのようだった。
驚いた火浦は腕をコックピットの中にぶつけるが、まったく痛くない。強化装備の変幻自在の硬度や強靭さのおかげらしい。
教本に書いてあったことに火浦は半信半疑、といった感じだったが、人類の科学力というものは本当に日進月歩のようだ。
学校でや町の路地裏で喧嘩していた頃には想像だにしなかった技術である。
そして、網膜に本格的に外部カメラからの映像を模したものが映し出されると、火浦は目を見開いた。

「すごいな・・・・・・」

森林や谷の多い地形の中、巨人の視点で自分が立っているかのような錯覚に陥る。
首を回して左右を確認すると、着座シートからのデータ共有によって視界が動く。
狭苦しくて臭いシミュレーターの中だというのに、外の風さえ感じられるような現実感だった。

『では、歩行開始』

景色のリアリティに感心して、ジルドレの声を聞き逃した火浦の視界は突如として揺さぶられた。
否、シミュレーターが揺れたのだ。シミュレーターを支えるいくつもの油圧パイプは、戦術機の挙動による衝撃を模倣している。
巨人の視界はまるで自分が走っているかのようにかき乱され、火浦は思わず歓声を上げた。

「おおッ・・・・・・」

目が回るとはいかずとも、どうにも慣れない視界の変化と軽く揺さぶられる感覚に、火浦は気分が悪くなる。
五分を回ると、若干吐き気さえ催してきたほどだ。
感動からくる極度の興奮状態にあるからこそ今は耐えられるが、素面では少々厳しいかもしれない。
藤野一等兵や男鹿上等兵がグロッキーになっていたのもわかろうというものだ。

『噴射滑走』

ヘッドセットの骨伝導スピーカーから教官の声が聞こえると同時に、身体が座席に押し付けられるような衝撃が生まれ、火浦は歯を食いしばる。
しかし、それはわずか一瞬のことに過ぎず、滑走が安定し始めると、微弱な揺れが続くだけになる。
ほっと安堵のため息をつく火浦だったが、こんなときこそ教官の大好きな嫌がらせの腕の見せ所だ。

『噴射跳躍』

突如、ぐん、と視界が思い切り高くなった。怖い、と感じる間もなく着地する。
衝撃を膝で緩和するように姿勢制御を行う挙動を模しているのだろう。クッション越しに落ちたような感覚だった。
しかし、それでも慣れない火浦は目を瞑ってしまう。

「ぐあッ・・・・・・!」

それを幾度か繰り返し、そして最後に主脚走行に行った。
巨人が機敏に走る際の微妙な衝撃と、挙動を修正する微弱な揺れが、火浦の三半規管にダメージを与える。
このまま後数分続いたら吐いてしまうな、と思った火浦は内壁の緊急停止ボタンに手を伸ばす。
そんな時、丁度終了のブザーが鳴った。

「・・・・・・はあッ・・・・・・はあッ・・・・・・」

『終了だ。さっさと降りろ』

どうやら、十五分間を吐き気を堪えながら耐え切ったようだ。
火浦は、教官の合図とともに覚束ない足取りで火浦はシミュレーターから這い出てくる。
しかし、足元がどうにもふわふわして踏ん張れない火浦は欄干にもたれ掛かりながらへたり込んでしまう。
これじゃあ落ちるな、と火浦は内心で思った。

『次!アーチャー、一番機!尾崎、二番機!さっさと乗れ!』

「大丈夫だったか?」

「悪い、トイレ行ってくる・・・・・・!」

すれ違いざまのアーチャーとの話もそこそこに、火浦はシミュレータールームから最寄のトイレへと駆け込んだ。
昼飯の量が少なかったためか、胃の内容物はほとんどが胃液であり、口の中に酸っぱさが充満した。
げほげほ、とせきごんでから蛇口からこぼれる水で直接口の中を洗い流す。
水道水が身体に染込んでいく感覚が、やけに鋭く感じられた。









[28081] 序章第七話 正義
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/06 23:13







結果で言うのならば、火浦の戦術機適性はDだった。
約三百六十名のうち、火浦を含め二十五名の衛士適性試験に合格した者がいたが、その内訳は適性Aが二名、適性Bが十名、適性Cが十名。
そして火浦と同様に適性Dのものが火浦含め、三名だった。
実際のところ、これはかなり多い数字である。彼らの多くは大喜びで実家に電話をかけただろう。
戦争の花形である戦術機甲隊に編入されるということは、任官してすぐに少尉待遇を受けられるということだ。
すなわち、エリート。実家のものにも楽をさせてやれるのだから、嬉しいという気持ちが湧くのも無理からぬだった。

「・・・・・・しかし、ゲロ吐いたおれが合格ってんだから、衛士さまっつーのも意外と間口が広いのかね」

だが、自室の二段ベッドの上段に寝そべりながら詩集を読む火浦には、素直に喜べない理由があった。
言うまでも無く、自分と、自分と同じく適性がDのものたち三名のことである。
ここ三週間、少尉待遇となることに素直に喜んだ日もあった。なるほど、男鹿はこんな気持ちだったのか、と思ったことも。
祖父に初任給で何を買ってやろうか、などと考えたこともあった。
そのおかげできついシミュレーター訓練にも耐えたし、戦術機のマニュアルを写すことだってやれたのだ。
今では目を閉じれば浮かんでくるほどである。

「チッ・・・・・・!」

しかし、つい先日の一件の内容でそれらすべてがうそ臭いもの、というか虚構そのものになってしまったように感じられた。
そのせいで思わず皮肉げに自室でつぶやいてしまった独り言に、藤野一等兵が激昂する。
おれに対するあてつけか、と怒鳴り声を散らしながら彼は火浦を二段ベッドから引き摺り下ろし、胸倉をつかんで壁に叩きつけた。

「てめえ、調子こいてんじゃねえぞッ!?」

激昂のままに、力任せに頬を殴られた。口の中が切れて痛い。
陸戦部隊の歩兵である藤野の拳は硬く、重いものだった。だが、怒りの余り大振りのそれは威力を完全に伝えきれるようなものではない。
いつもの火浦ならば、顔を殴られる方向に動かすことで威力の減衰を図ることさえできただろう。

「うるせえな・・・・・・調子こいてるわけじゃねえッ!」

だが、今日の火浦にはそのような冷静な思考は存在しなかった。あるのは、かつての不良時代の尖った感覚だけ。
藤野の拳を真っ向から頬で受けると、火浦はお返しとばかりに頭突きをくれてやった。
相手は陸戦部隊員とはいえ、火浦もまた三ヶ月の前期基礎訓練を修了した、一端の兵だ。
勢いよく放たれた頭突きによって、石頭同士がかち合い、部屋に鮮血が散った。

「ぐあッ・・・・・・!」

「痛ってェ・・・・・・!」

ふらふらする頭を押さえると、見事に額が割れていた。真っ赤な血がべっとりと手を汚す。
血が抜けていくらか冷静さを取り戻しかけたが、自分の血を見て再び興奮した火浦は怒鳴り声を上げた。

「そもそも、おれは受かったわけじゃねえッ!」

「・・・・・・なに、言ってんだ・・・・・・!?」

どうにも苛立って仕方が無い。火浦はなにに怒りをぶつければいいのかさっぱりわからなかった。
だが、藤野と喧嘩をしたところで、きっとこの気持ちは晴れないだろう、と感覚的にわかっていた火浦は藤野に背を向ける。

「くそッ!」

ぺっ、と血の混じった唾を手に取り、自分の割れた額に塗ると、火浦は怒りのままにどすどすと音を立てて部屋を出て行った。
そんな火浦の後姿を見つめる藤野一等兵は、彼の言葉の意味を捉えかねて首を傾げていた。



数日前、配属希望を提出に向かう際、教官の部屋の近くを通った時のことだった。
薄い扉を貫いて、部屋の中から怒声が響いてきたことに驚き、思わず火浦は足を止めてしまう。
よく聞けば、自分たちの班の戦術機教習を担当している、青髭の教官、通称ジルドレの声だった。
盗み聞きするつもりは一切なかったのだが、部屋の中から聞こえてきた言葉に彼の足は釘付けになった。

――――今期は実機が二個中隊分しか搬入されないだと?

――――ああ。

彼と会話している相手の声には聞き覚えはなかったが、ジルドレとタメ口なことからおそらくは同じ軍曹。もしかしたら教官なのかもしれない。
実機とは戦術機のことだろうか。近々新しく今期生の練習機が搬入されると聞いたが、その件だろう。
しかし、二個中隊分となると二十四機である。今期の衛士候補生は二十五人だ。一人、余ることになる。
いやに、いらいらする。さっさと立ち去るのが利口なのかもしれないが、どうにも、気になった。

――――小森中佐はなんと?

――――下から削れ、と。

――――それは、水増し分を差し引いて、か?

水増し分、とは何なのか。話の流れからして適性試験に関連するものなのは理解できるのだが。
もしや、と思い、火浦は自分の成績と、同じ班の者から聞いた適性試験の結果を思い返す。
御神楽も火浦と同じように耐え切ったが、結局判定結果はEで落選した。
脳波などのバイタルデータこそ確認する術は無いが、火浦と御神楽で何が違ったというのか。

――――いや、今更戻せん。釘原の方にもDのものがいただろう?

――――・・・・・・了解したと伝えておけ。

釘原という名前と、D、という言葉を聞いて、火浦はようやく得心がいった。
今期の衛士候補生には適性AからDまでの二十五人が登録されている。そのうち半数以上はジルドレが担当したものだ。
火浦もその一人で、落選ぎりぎりのDだったはずである。

――――貴様・・・・・・火浦訓練兵。今の話を聞いていたのか?

――――はっ!いいえ、何のことでしょうか!

その場ではなんとか誤魔化すことができた。
ひょっとしたら出来なかったかもしれないが、音沙汰無いところを見ると、問題にしていないように思える。
たかだか訓練兵に聞かれたから何なのだ、とでも言うのだろうか。



「くそ、気にいらねえよ・・・・・・!」

兵舎の、火浦の部屋から最寄のトイレで顔を洗った彼は、力任せにコンクリートの壁を殴りつけた。
ぼろい兵舎はそれだけでみしりとゆれて、コンクリートに皹が入る。
物に当たってまずいことをしたな、と思う心もあるが、それ以上に苛立ちが収まらない。

「薄汚え・・・・・・」

皮膚が破けて血が垂れた自分の拳を見て、火浦は壁にもたれかかる。
昨日、彼は自分の訓練時の搭乗データと、前期以前の訓練兵の搭乗データ平均と照らし合わせてみた。
どうしても、水増し分というのが気になったのだ。自分もその一人なのか、と。
その結果、やはりというべきか。火浦の適性は正確にはDではなく、限りなくDに近い〝E〟だった。ぎりぎり落選側のラインである。

「・・・・・・」

どうしようもない苛立ちに、彼は頭をがりがりと掻き毟って自傷を行う。
エリートとして認められたということに、喜びを覚えたこともある。訓練に気合を入れていた自分が誇らしく思えたこともある。
だが、それが全て嘘で塗り固められた、薄汚いものだとわかってしまった。眦から一滴、しずくが零れる。

「このッ、クズ野郎・・・・・・!」

血まみれの手で顔を押さえて、自分自身を罵倒する。
これがバレたら戦術機から降ろされるのでは、と恐怖した自分が気に入らない。
そして、自分よりも適性値が低いものが、不正をしていない釘原という教官のもとにいたことを知り、安堵した自分の薄汚さに気づいてしまった。
すっかり軍隊に飼いならされて、心が折れてしまっていた。

「誰だ・・・・・・?火浦?」

そんな時、あまりの怒号に覗きにきたらしい御神楽がひょっこりと顔を出した。
眉なしにオールバックの男の顔は整っているもののどこかやくざものを思わせる。
火浦は腹の中にはとどめておけぬ苛立ちを御神楽にぶつけてはならないと思い、ひとつため息を吐き出して向き直る。

「どうした?」

「いや・・・・・・」

不思議そうな顔で見る御神楽に火浦は居心地悪そうに頭を掻いた。ショートヘアーを寝癖のように逆立たせてかぶりを振る。
実際のところ、たかだか訓練兵風情にどうすることができるというのか、と火浦は思っていた。
どうしたらこの収まりの悪さは消えてくれるのだろう。親指で鼻の頭をかくと、火浦はもうひとつだけため息をついた。
そんな彼に、御神楽は気を遣って話を聞いてみる。

「なんか悩んでんのか?」

「・・・・・・そうだな」

火浦としては、御神楽に言っても仕方ないかもしれない、と思うところは無かったわけではない。
三男とはいえどちらかといえば彼は、力を持っている側だ。暴力にしろ、権力にしろ、財力にしろ。
決定的にその点で火浦と異なっている。だが、だからこそ別の視点からの考えを聞いてみようかと思ったのだ。

「なあ、軍人にとって、唯一無二の正しいことってなんだと思う?」

「・・・・・・ん?」

「命令に従うのが正義なのか?不正に媚びるのが正義なのか?それとも、悪い命令には逆らうのが正義なのか?」

火浦京次郎は軍人であり、一人の人間だ。
軍人としての自覚や覚悟を、上から叩き込まれてきた己と、不良として、己の心のままに生きてきた己が相反している。
組織人としての心算と、不義を嫌う良心の両方を持つからこそ、正義とは何なのかがわからなくなった。
そんな彼に、御神楽は親から教えられた、たった一つの間違いなく正義だと言える、ひとつの真実を口にした。

「おれたちの、あるいは立法機関や治安維持組織に属する者の正義、それはただ一つのものに尽きる」

「・・・・・・」

「人命と人権を守ること。理不尽な暴力、理不尽な権力、その他の理不尽さから、人命と人権を死守すること」

それだけが我々の正義だ。これ以外には有り得ない。そう締めくくって御神楽は火浦を真っ直ぐに見返した。
国というものは、個人が集まってできたものだ。その個人の一人一人を守ることこそが、国に仕える者の使命だ、と。
好きで軍隊に入った身ではないにせよ、食い扶持は貰っているし、なにより、火浦自身にも郷土愛ぐらいはある。
その郷土というものは、祖父であり、父や母が育った町であり、その町に住む多くの人であり、そして、火浦京次郎本人でもある。

「おれの親父はさ、軍からは嫌われてるし、政治屋だって言われてる。だけどな、それは人命と人権を守る為にやってるんだ」

外見は悪いし、たぶん死ぬまでわかって貰えないだろうけど、とも御神楽は言った。そして、お前はどう思うか、とも。
そんな彼の言葉は、火浦の良心とも、職分とも、どちらともぴたりと合致する、唯一無二の答えだと思った。
人命と人権を守る。それに尽きる。命令には従う、しかし不正には媚びない。真正面から立ち向かう。人権とは、そういうことだ。

「・・・・・・なるほど」

すとんと、火浦の腹に落ちた。自己保身など、もういい。そんなものへの執着など、いらない。
理不尽には、気に入らないものには真正面からぶつかるのが、不良のやり方だ。それが痛くても、胸を張れればそれでいい。
相手がお天道様だろうと、上官様だろうと、将軍様だろうと、関係ない。相手を見て出したり引っ込めたりするようなのは勇気とは呼ばない。
すっかり忘れていた感覚だった。腹の底から血が湧いてくる。
頭に血が上り、額から垂れた血が目に落ちて、血涙のように零れた。



翌日、実機が搬入されたと聞いた二十五名の訓練兵たちはハンガーへと集まるように召集がかけられた。
まだ部隊章も、番号さえふられていない、まっさらな新品の戦術機。
世界でもっとも親しまれている、人類の主力機、アメリカ製の第一世代戦術機、F-4。
日本帝国において撃震と呼称されている戦術機である。練習機であると同時に、戦闘装備さえ整えれば実戦さえ可能なしろものだった。
しかし、ここに搬入されている撃震の数は一機だけ少ない。二十五名の訓練兵に対して、二十四機の撃震だ。

「貴様らにとても悲しいお知らせがある」

「はっ!」

表情を引き締めて教官に向き直る訓練兵たち。その中の一人がいやに表情が浮かない。
隣の、釘原教官の班の者であった。確か、適性はDだと言っていたような気がする。
そこまで考えて、火浦は大体何があったのか、何を言おうとしているのか、その予測がついた。
あらかじめ、何かしらジルドレが伝えておいたのだろう。おまえは、クビだ、とでも。

「杉浦訓練兵」

「は、はっ!」

「教官。ひとつよろしいでしょうか」

顔色の悪い訓練兵が一歩前に出ると、同時に火浦も一言言って前へ出た。
ジルドレは先ほどまでの嘘くさい悲しげな表情を一転させて怒りに紅潮させ、額に青筋を浮かべて犬歯をむき出しにする。
たかが訓練兵に舐められたと思ったのだろう。しかし、火浦はそんな教官の様子をまったく意にも介さず、口を開く。

「自分の衛士強化装備のデータです。適性試験時のデータに改竄された形跡が残っていました」

「なッ!?」

そう言ってターミナルから出力した、書類を見せる。一目瞭然、データに改竄の形跡が見て取れた。
ジルドレは髭だけではなく顔さえ真っ青にしてその書類を引ったくり、びりびりに破り捨てた。
しかし、火浦はそれを見ても表情をまったく変えず、予め言おうと決めていた言葉を告げる。

「釘原教官と吾川教官にも既に提出してあります。おそらく、小渕准将も拝見しているかと」

「な、なん、なんだと、貴様あああッ!」

興奮のせいか、呂律が回っていないジルドレは火浦の顔目掛けて拳を振り上げる。
しかし、そんな怒りに任せた拳が前期の訓練を修了して総合戦闘技術演習を通過した火浦に当たるわけが無い。
軽く首を動かすだけで拳は空を切り、ジルドレは足をもつれさせて欄干まで転がった。
そんな彼を見下ろす火浦の目はどこまでも冷たく、それでいてぎらぎらと輝いている。

「衛士になれば士官になれるんだぞ!?ウイングマークが惜しくないのか!?」

「プライドより大事なものですか?」

欲望のままに生きて、それだけで満足なのか。それで本当に人間と呼べるのか。
ここの、軍隊の押さえつけられる生き方に慣れて久しく忘れていた。
気に入らないものに気に入らないと言い放つ喜びを。お天道様に胸を張る、スカッとする気分を。
カラスを白と言って生きる人生に何の価値があろうか。真実にぶつかっていくのが人間の生き方ではないのか。
そんな火浦の言葉に、ジルドレは顔をさっと赤くした。赤くなったり青くなったり血行のいいやつだな、と益体も無いことを火浦は考える。

「貴様ッ・・・・・・!火浦・・・・・・!不良のクズ野郎の分際で・・・・・・!」

「教官殿がクズ野郎よりマシならば、そんなに焦って転がったりする必要はないでしょう」

少しだけ口の端を吊り上げて火浦は笑って見せた。ジルドレは地面に這い蹲り、意味のわからない言葉を呟き続けている。
汚職の罪がどれだけ重いかは知らないが、彼が再び教官に戻ることはないだろう。
ひょっとしたら、きみはシベリア送りだ、とか言われるかもしれない。無論、冗談だが。

「それで、無職になったクズ野郎はどこの兵科に送られるんだ?」

火浦はけらけらと笑いながらそう言うと、シミュレータールームから去って行く。
その背中を、訓練兵たちは理解できないとでも言うような目で見つめていた。



火浦京次郎訓練兵・・・・・・戦術機甲科への配属取り消し。












[28081] 序章最終話 決別
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/06 23:13



横須賀基地のヘリ格納庫にて、シミュレーター訓練が行われていた。
一ヶ月遅れで航空科に配属された火浦は、三週間で他の航空兵候補生に追いつき、今ではそこそこの成績を維持している。
もともと適性値が高かったこともあるが、最初の一週間でヘリ用の教本を全て頭に叩き込んだのが効いている。
後期が始まって二ヶ月目には輸送機のパイロットとしてではなく、ヘリの、それも戦闘用のAH64のパイロット候補生として選抜された。

「・・・・・・レーダーに反応なし。高度を取りたい」

アーチャーをガナーコックピット、火浦をメインコックピットに乗せてアパッチが山際を匍匐飛行する。
シミュレーター訓練だが、本気でやらねば身につかない。練習でできないことが本番でできるものか。
事実、山岳地帯において、敵はBETAだけではない。仲間の機動や、地形すらヘリの安全を脅かす。
迂闊な行動を取れば即、死につながることになるだろう。

『許可する。百二十まで高度を上げろ』

「了解」

オペレーションを行う教官の声が、骨伝導スピーカーを通して火浦たちの耳に届く。
レーザー級種、先日、ノートに詳細に書き写した怪物の姿を思い出して火浦は眉を顰める。
悪夢のような姿をした化け物たち。BETA。どこか人を思わせるパーツを持つ彼らは、どうしようもなく認めがたいほどに不気味だ。
火浦自身、スケッチする際に気分が悪くなってきたほどだった。
そんな時、コックピットの動体センサーに反応が見てとれた。
目視できないかと山際から少し回りこんでみれば、五百メートルほど先に紫色の蠍のような姿の化け物が十数匹見えた。

「十一時方向、要撃級発見」

『撃墜しろ』

指示が出るなりガナーコックピットに座ったアーチャーが狙いを定め、トリガーを引き絞る。
機体下部に取り付けられた三十ミリ口径の機関砲が唸りを上げて劣化ウラン弾を吐き出す。衝撃もシミュレーターは再現してくれる。
このシミュレーターは自動車教習所にある運転シミュレーターのような安っぽいものではない。これは実機をまさに〝再現〟している。
これを使って教習プログラムを修了すれば、それでパイロット資格が得られるのだから、当然だ。

「全敵撃破。撃墜数十三」

弾丸の嵐に襲われ、ドブ色の体液を吐き出して地面に崩れる化け物の上空をフライパスしながら、火浦は報告を行う。
アーチャーは優秀だ。弓手という苗字に恥じぬだけの射撃技能を持っている。
一ヶ月遅れの火浦をよくサポートしてくれる彼には、いくら感謝しても足りないだろう。
しかし、いつまでも足を引っ張ってばかりではいられないと、発奮して訓練に望む火浦も、めきめきと力をつけている。

「戦車級、および要塞級発見」

目視で絨毯のように広がった、無数の赤い化け物、戦車級の群れと、山のように巨大な体躯を持つ、要塞級の姿を発見する。
数十匹を超え、数百匹。数え切れないほどに多い戦車級に、アーチャーは劣化ウラン弾をばら撒く。
六本足の首の無い牛に、胸に口をつけ、肩に人間の腕をつけたような、悪夢の如き姿は爆裂して、体液を緑色の大地にぶちまけた。
その間、火浦はヘリの体勢維持と同時にレーダーを確認し、もっとも自分たちにとって警戒するべき相手を探す。

『要塞級に関する注意事項』

「内部にレーザー級が存在するか否か」

教官の問いに、火浦は教本に書いてあった通りの返答を行う。先達が命を代価に得た、BETAの生態、そして対BETA戦術。
朝起きた後の時間の空隙、昼休み、そして寝る前、と教本を手放さずに頭に叩き込んだ成果だ。
この場合、要塞級は十本のとげのような足で支えている、胴体部にレーザー級を飼っている場合がある為、それに警戒せよ、ということだ。
対空兵器を持つBETAはレーザー級種のみであるが故に。

『七十ミリロケットの使用を許可する』

「了解」

言うと同時にヘリの正面に要塞級を捉え、火浦は機体を滞空させる。
そしてその一秒後、アーチャーは狙いを定めてロケットランチャーに火を入れた。
彼らの駆るAH64、通称アパッチの最大の武器、2.75インチ・ロケットランチャー・ポッド。
十九発の装弾数のロケットランチャーが、アパッチには四基積まれている。
七十ミリの徹甲弾は要塞級のブ厚い表皮を突き破り、その全高四十九メートルの巨体にダメージを与える。
力の抜けた足が踏ん張りきれずに崩れ落ちた要塞級を見下ろしながら通信を行う。

「要塞級撃破・・・・・・目視範囲、レーダー探知半径に新たな敵影は確認できず」

『掃討に移れ』

「了解」

命令のままに、アパッチは滞空した状態で機銃掃射を行う。
大地に蔓延る無数の赤い影と薄紫色の怪物の巨体は、次々と蜂の巣になり、動体反応を消してゆく。
三十ミリの砲弾を放ち続ける機銃の反動は大きいが、それをいなして射線を維持し続けるだけの術はすでに教わっている。
実機でも訓練通りの機動を行えるかどうかはやってみなければわからないが、シミュレーターではほぼ完璧だ。
再度レーダーと残弾数、プロペランドの残量を確認し、火浦は報告を行った。

「燃料が三分の一を切った。本隊に帰投する」

『上出来だ。最後まで気を抜くなよ』

「了解」

山岳の稜線から抜けない程度の高さを飛びながら、アパッチは眼下の戦術機の一個中隊を見下ろす。
データリンクを行ってシミュレーターを連動するような機材はここにはない。あれは決められたパターンの通りに動くただのプログラムだ。
自分もひょっとしたらあれに乗っていたのかもしれない、と少しだけ思ってしまった。
未練だな、と口の中で小さくつぶやき、火浦はバイザーの隙間から手を入れて目元に垂れてきた汗を拭う。
ちょうどそんな時、機体のコンディション変調を告げる、警告音がシミュレーター内に鳴り響く。

「・・・・・・こちらドラゴンフライ01。エンジントラブル発生。最寄の国道への着陸許可を求む」

どうやらエンジンが停止したようである。しかし、ヘリはエンジンが停止してもすぐには落ちない。
オートローテーションと呼ばれる、空力を利用した飛行方法で安全に着陸できるのだ。
高度がちと不安だが、今すぐに許可が下りれば十分に着陸できる。

『こちら管制塔。着陸を許可する。マーカーで示したポイントに不時着しろ』

よしきた、とばかりに火浦は操縦桿を力強く握り直した。
ばたばたばた、と音を立てて失速していく機体をブレードを稼動させることで安定させ、メインローターの回転数を調整する。
迎え角よし、と呟きながら後方にバランスを動かした機体は、見事に国道の真上に滞空する。
コンソールや操縦桿の細かい操作が求められるが、この程度できないようではヘリパイロットの資格は与えられない。
目視範囲にBETAはまだいない。火浦はレーダーに注意を払いつつ、テールローターを回転させた。
そして、車道に沿うようにヘリの向きを調整を行い、ゆっくりと着地する。

「着陸よし」

ソフトランディング。百点満点、と内心で自画自賛しつつ着陸を終えると、シミュレーターが終了する。
消えていく画面にコックピット内は真っ暗になるが、火浦もアーチャーも落ち着いた手際でシートベルトを外す。

「上出来だ。褒めてやる。才能あるよ、お前ら」

「はッ!ありがとうございます!」

シミュレーターから降りると、オペレーターを務めていた教官からお褒めの言葉がかけられた。
火浦とアーチャーは素直にヘルメットを取り、直立して敬礼を返した。
教官は小日向白朗という、どこぞの馬賊のような名前の、削げた頬と浮き出た頬骨が特徴的な、長身の男だ。
航空科は近年予算が減少傾向にある。その為、シミュレーター訓練において教官が監督と同時にオペレーターを務めているのだ。

「しかし、衛士落ちがここのトップ、か。舐められているようで気に入らんな」

ターミナルから出力された今回のデータを眺めて、短い顎鬚を撫でながら小日向は聞こえよがしに独り言を呟いた。
相手が目の前にいるなど関係なしに独り言を呟く。デリカシーの無い行為だが、この男の癖だ。悪意は無い。
もっとも、軍隊に入ってからデリカシーがあるやつに会ったこと自体が少ないのだが。
そんなこと言われても困る、とばかりに火浦は視線を逸らした。

「まァ、いいか」

「・・・・・・」

適正値はBの航空科よりも適正値D、正確にはEの、戦術機甲科への配属が優先されることに、複雑な感情もあるのだろう。
舐められている、と感じても仕方の無いことだ。もっとも、衛士適性のある者は数が少ないため適性値がDでも優先されるのも仕方が無いのだが。
ちなみに、衛士落ちとは火浦に付けられたあだ名だったりする。
エリートである衛士の専門課程に進めたというのに、教官に逆らって追い出されたという稀代の馬鹿につけられたあだ名だ。
もっとも、後から諸事情で落選された者は前期以前にもいた為、彼ら全般に付けられたあだ名なのだが。
不名誉なあだ名の筈なのだが、火浦としては気にならない。恥ずべきことなど何も無いのだから当然だ。

「昼飯だな。さて、今日は・・・・・・カレーだったか・・・・・・」

独り言を呟きながら小日向は背中を向けて格納庫から去って行く。時計を見れば、既に十二時を二分過ぎていた。
訓練終了の挨拶のひとつもしないいい加減な態度に呆れないこともないが、火浦たち訓練兵は皆一様に諦めている。
あれでも訓練の最中は真面目にやっているのだ。火浦の頭の中にパートタイム兵士、という言葉が思い浮かんだが、心のうちにしまうことにした。

「・・・・・・昼飯、行くか」

「そうだな」

ヘルメットやらの装備品を所定の位置に戻し、火浦はいつも手にしているノートを手にした。
航空科の基礎教本を写したノートだが、燃料がどうの、高度がどうの、サインがどうのと面倒なことが書かれている。
だが、これを頭に叩き込まなければヘリパイロットとして戦うことなど到底できやしない。
常に肌身離さず持っている。不良だから落ちこぼれなどと見下されるのは、火浦としても望むところではないのだ。
ターミナルから出力された個人データをファイリングして、ページを閉じると火浦はPXへと足を向ける。

「おう、お前ら。聞いたか?」

「何を?」

すると、後ろから声がかかり、火浦はそちらへと振り返る。着替えを終えた同期のものが数名駆け寄ってきた。
にやにやといやに嬉しそうな顔をしている。今日は何か面白い話を聞いたか、と本日あったことを思い返すが、火浦には心当たりがない。
わからん、とばかりに首をかしげると、同期の一人の髪を鶏冠のように尖らせた男が肩に腕を置いてきた。

「ジルドレのことさ」

「・・・・・・あれがどうした?」

少しばかり不機嫌な気持ちになって、刺々しい口調になってしまったかもしれない。
あの青髭の濃い男のにやけ面は、思い出すだけで胸糞悪くなる。正当な手段で弾劾してやったが、虚仮にしてくれたことにかわりは無いのだ。
しかし、あれが今何をしているか、少しばかり興味があった。教官の職を干されただけで済んだのだろうか。
先を話せ、とあごをしゃくって話を促すと、よくぞ聞いてくれたと鶏冠の男は口の端を吊り上げる。

「小森中佐に命令されてやったとかぶちまけて、盛大に自爆したらしいぜ?ホントかどうかは知らねえがよ」

「ほー、佐官がねー」

棒読み丸出しの嘘くさい口調で火浦は返事をする。娯楽の少ない訓練校ではこういったゴシップが好まれる。
自分が渦中になるのは嫌だが、他人の噂話というのは何故こんなにも盛り上がるのだろうか。
他人の噂話を好むのは心が下品な証拠だ、と祖母から教わった火浦は、あまり気乗りしないのだが。
しかし、ジルドレはもう保身とか関係無しに道連れが欲しいのかもしれない。小森も自業自得だ。
もうあれらとは関わりたくない。頭を使うのは嫌だし、あの手の人間に関わるとこっちまで臭くなる。
やれやれとため息をつきつつ格納庫から出ると、ずいぶんと威勢がいい十月の太陽がお出迎えしてくれた。

「日光浴も、たまにはいいな」

そう呟いた彼は、PXまで少し遠回りをすることにした。



そして、午後の訓練、そして夕食を終えた彼らが戻るのは自室、ようやくやってきた自由時間である。
火浦はいつものように掃除、洗濯、銃の整備などを手早く終わらせると、窓を閉めて提灯電灯のスイッチを入れる。
薄暗い部屋で勉強をすると何故かいつもよりも捗るのは何故だろうか。
輸送ヘリに関する基本知識の問題集を、テスト形式で行う。
かりかり、という音が静かな自室に響く。今はアーチャーはいない。PXあたりで緑茶でも飲んでいるのではなかろうか。
フォネティックコードやら、管制塔からの指示に関する問題は簡単だ。最初に習った。
しかし、ひとつ度忘れしてしまった問題があり、鉛筆を指先でいじりながら思い出そうとすると、床に落として鉛筆の芯が折れてしまった。

「おっと」

拾い上げる際に、自分の鞄の中を引っ掻き回し、ナイフを探す。無論、鉛筆を削るためだ。
そんな時、ふと、戦術機教本を書き写したノートを見つけてしまった。
無意識に火浦はそれを拾い上げると、ぱらぱらとノートをめくる。
適性試験に受かったときはなんでもないようなふりをしていたが、内心では結構喜んでいた
給料が上がったというのも、階級が上がったこともそうだが、自分の価値が認められたというのは素直に嬉しかったのだ。
だから気合を入れて訓練に望んだ。そのせいで、今もあのときの記憶が脳裏に焼きついている。

「・・・・・・女々しいだけだな」

やれやれ、とかぶりをふると、ゴミ箱を持ってきて、その上で鉛筆を削る。
どうせだから、とペンケースに入っている残り六本の鉛筆もついでに削ると、その上からノートを叩き込む。
未練がましい男というのはどうにも格好悪い。
今日のところはさっさと勉強を終わらせてしまおうと、ノートを鞄の中にしまって火浦は部屋を出ることにした。

「よう、火浦じゃねえの」

扉を開けると、すぐ目の前には御神楽の姿があった。彼の格好は滅多に訓練兵が切ることのない常装制服である。
礼儀や作法などを叩き込まれていたのであろう、首をぱきぱきと鳴らしながら彼は声をかけてきた。
思えば最近、自分は付き合いが悪かったな、と思った火浦はせっかくなので彼をPXに誘ってみる。

「ポテトでも食いにいかないか?奢るよ」

「お、いいのか?」

「ああ」

久しぶりに御神楽と話すと、いろいろな話が聞けた。
遅れを取り戻す為に訓練漬けの毎日を送っていた火浦は少々情報に疎くなっていたらしい。
今年の始めに帝国議会で派兵が決定したことは知っている。それからはアジア大陸へと多くの日本帝国の軍人が向かっている。次々と、である。
同室だった藤野や男鹿も二週間ほど前に出立し、今頃は前線に到着していることだろう。
かつて、それ以外の生き方が許されていないと笑って話した彼は、今も元気でいるだろうか。
御神楽に聞いた話によると大陸では負け続きで、戦術核兵器を用いて遅滞を繰り返しているらしい。
前線での真実と後方の報道では天と地ほどの差があるのだろう。厭戦ムードを避ける為とはいえ、少々やりすぎな気もする。

「あと二ヶ月半か。思えば早い六ヶ月だったな」

「そうだなァ・・・・・・おれは内地の勤務になるみたいだけどな」

彼らもこのまま順調に進めば、後期の専門訓練を十一週間後に修了することになる。
そうなれば、御神楽のような特殊な兵科の者など、一部の者を除き、訓練兵の大半がアジア大陸、その大半はウイグル自治区はカシュガルへと派兵されることになるだろう。
カシュガルにあるのは、BETAたちの住処の中でも一際大きいものであり、一際日本に近い、オリジナルハイヴと呼ばれるものだ。十八年前にBETAが地球に降り立った場所である。

ここでまたもやいらない薀蓄を語るとしよう。九行ほど語るので、面倒ならば飛ばしてくれてかまわない。

BETAと呼ばれる人類の天敵のことは実際のところあまりよくわかっていない。
七種類の悪夢のごとき姿をした炭素生命体にして、物量を頼みに津波のごとく押し寄せてくる大軍勢。
口を持っているにもかかわらず言葉を話すことも無く、殺して壊して全てを奪いつくして何も残さない、さながら巨大なイナゴの大群。
しかし、長年戦争を繰り返してきて人類にもわかっていることはいくつかある。
そのひとつに、彼らは住処を広げる際には数が増えすぎた時だけ、ということがある。
現在地球にはハイヴ、すなわちBETAの住処が十三箇所作られている。最古のものはウイグル自治区カシュガル、そして最新のものはインドはボパールにある。
古いものほどどんどん深く、大きくなっていき、やがて溢れたBETAたちが新天地を求める、というわけだ。
つまり、新しいものほど浅く、小さく、BETAの数が少ない。そして、古いものほど深く、大きく、おぞましい数のBETAが存在するということだ。
そして、現在BETAたちは西進を終え、ヨーロッパの全てを蹂躙しつくして、次は東、アジア方面へと向かってきているのだ。

そんな事情があり、火浦としても少しばかり不安に思わないこともないのだ。
死ぬことに恐怖を感じないわけではないし、自分が絶対に死なないと言い切ることだってできない。
世の中すべてが思い通りになるのなら誰も苦労などしていないし、未来のすべてがわかるなら、誰も努力などしないだろう。
真剣に訓練に取り組むことで、少しでも自信を身につけ、恐怖を打ち払うことができたのだろうか。
口数が少なくなった彼に、御神楽は背中を思い切り引っぱたいて軽い口調でエールを送る。

「まあ、せいぜいがんばれよ!」

「気軽に言ってくれるぜ」

内地勤務はいくらかマシだろうよ、と軽口を返すうち、火浦も沈んできた気持ちがいくらかマシになった気がした。
この気のいいやつらと今度あった時は、酒を飲み交わすのもいいかもしれない。そんな風に火浦は思った。
PXに向かう途中で同期の連中を誘い、結局十人以上で集まってささやかな軽食をとる事になる。
久しぶりに同期の連中と飲むソーダは、やけにのど越しがさわやかだった。







[28081] コバルトの章第一話 仲間
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/06 23:13


「・・・・・・?あんた、ヘリパイロットだろ?乗れるのかよ」

頬を真っ黒なオイルで汚した馴染みの整備兵は、きょとんと目を丸くして強化装備姿の男を見つめる。
整備兵の、彼女の背丈は百六十少々だったので、百九十三センチある大男を見上げるかたちだった。
男の顔には大きく真新しい傷跡のラインが走っていて、グリセリンのようなべとつく粘液で無理矢理頬の皮を貼り付けているかのように見えた。
男は一文字に結ばれていた口をにやりと不敵に歪めると、ハンガーに搬入され、調整の終わったばかりのF-4、撃震を見上げて声を張り上げた。

「適正は確かにD、いや、Eだったがよ、一応シミュレーターで操縦法は学んでんだ・・・・・・出させろ!」

「無茶を言うな!乗れたとしても出せるわけないだろ!第一許可も下りない!」

歳の頃二十歳かそこらの娘は、怒声を上げて男の要求を突っぱねる。
彼女は目の前の男、火浦京次郎が一年前にカシュガルから撤退してきて、その後も防衛戦に参加し続けていたことを知っている。
時には爆撃で戦果を挙げ、時にはレーザー級が制空権を奪った土地での戦闘さえこなした、優秀なヘリパイロットだということも。
しかし、戦術機はシミュレーターで動かしただけのような、他兵科の人間に動かせるようなシロモノではない。
安定性がもっとも高いとされる、最初期型の第一世代機、F-4でさえそうなのだ。
ヘリパイロットが衛士の真似事など、彼女が言うように馬鹿げたことだ。司令部から許可が降りるはずもない。

「許可なんぞ待ってられるか!敵はもう目と鼻の先だ。一分一秒が惜しいと思わんのか!」

「一人じゃ戦えもしない!」

「いいや、一人じゃねえ!誰か!戦えるヤツいねえのか!操縦法知ってて、だけど適正落ちたヤツ!自分の機体ブッ壊されてうなだれてるヤツ!」

そう言って彼はハンガー中に響き渡るほどの声を張り上げる。
彼らは命令の為に戦争をやらされているわけではない。勝つために命令があるのだ。火浦に負けるとわかっている作戦に従うつもりはない。
たとえ、後から軍規違反で何かしらの処罰を受けることになっても、上に見捨てられた挙句、仲間と心中するような真似だけは御免こうむりたい。
命令のせいにして命を粗末にするなど、阿呆の極みだ。

「命令違反だ!軍法会議ものだぞ!」

「司令部の命令出す連中が逃げ出そうとしてんじゃねえか!」

「だが・・・・・・」

そう言って怒鳴る火浦の言葉に、少女は口を開こうと一瞬だけ逡巡して、止めた。
戻ってきたばかりの火浦が知っているぐらいなのだから、ほかのものも知っているのだろう。
うわさを止めることはできない。意外と情報というものはどこからでも漏れるものなのだ。
だからいまだ指令が出されていないにもかかわらず、彼ら整備兵たちも荷物を纏めて逃げる準備をしているのだ。
散り散りに逃げださないだけ統率が取れていると褒めるべきか、それともたいしたお利口さんだと馬鹿にすべきなのか、火浦には判断がつきかねた。
しかし、今迷っている暇はない。火浦はさっさとしろとばかりにほかの兵士たち全員に問いかけるように、怒声を上げる。

「置きゃあがれ!何もせずにここで皆死ぬか!それとも時間稼いで皆纏めて生き延びるか!選べっつってんだ!」

しぃん、と数秒間だけ、今までうるさかったはずのハンガーが静まり返った。
そして、喧騒が戻ろうとした瞬間、統一中華の衛士強化装備を身にまとった男が手を上げた。
たった今真っ先に手を上げた長めの黒髪の男の名は李候俊。彼の生まれた土地の発音では、リ・ホウシュン、と読む。
彼はヘッドセットの翻訳機能をオンにして火浦に話しかけた。

「・・・・・・おれ、乗るよ」

どこか耐えるような顔つきの彼は、まだ火浦よりも幼いように見えた。
国土を蹂躙されている彼の祖国では、日本帝国よりも早く男児は徴兵されることになる。
ゆえに、まだ十七歳、火浦が学ランを着て学生をやっていたような年頃である彼も、今回の九・六作戦に中韓連合軍として参加していたのだ。

「お前・・・・・・大丈夫か?」

そんな彼に火浦は一度だけ確認を取る。ホウシュンの足取りはやや覇気にかける。
これから殺しに出かけよう、というような表情でもない。どこか恐怖を感じているのかもしれない。
火浦もここ、大陸に来て初陣を飾ったときにレーザー級に狙われた時は恐怖を感じたものだ。一瞬にして背筋が汗まみれになったことをよく覚えている。
死亡率が高いヘリパイロットをやって一年も生き延びていると、どんどん慣れてきて肝が太くなったような気がする。
足手まといにはなってくれるなよ、と眼差しでアイコンタクトを交わすと、ホウシュンは一瞬だけ目をつぶって深くうなづいた。

「大丈夫だ・・・・・・うん、大丈夫だ。きっと・・・・・・大丈夫だ!」

「よし!これで分隊(エレメント)だ!まだ機体は四機残ってるぞ!」

ホウシュンの肩を一度だけ力強くたたくと、再び声を張り上げた。
最低でも四人、一個小隊で動きたい。戦術機は確かに火力に優れた突撃砲を備えているものの、たかが一機二機ではロクな戦術さえ取れない。
衛士崩れ、などという不名誉な名前で呼ばれた火浦も戦術教本は穴が開くほど読んだのだ。
ヘリならではの俯瞰視点で着目し、考え付き、立案した戦法をいくつも成功させてきた。
そういう自負はあるのだが、やはり人間の最大の武器である戦術というものを扱うにはある程度の数がいる。
そう考えてもう一度周囲を見渡すと、ホウシュンが手を上げたことが契機となったのか、数人のものが同様に手を上げていた。

「おれも乗れる!」

「アタシも!」

「おいもさ!」

「よっしゃあ採用!お前ら強化装備さっさと着て来い!」

「了解ッ!」

泥棒ひげを生やした戦車兵の男とオネエ言葉の陸戦兵の男、そして訛りの強い日本語を話す男にドレッシングルームを指差して火浦は笑みを浮かべた。
これで一個小隊+α。陣形を組んでフォローしあうこともできるし、火力を集中運用することで一点突破を図ることもできる。
もっとも、今回は防衛戦なので、この数なら敵陣で散開しての撹乱戦法をとる事が最上の手かもしれない。

「・・・・・・そろそろ、時間だな」

時計を一瞬だけちらりと見やり、火浦は小さく呟いた。
ハンガーで撤退の準備をしている彼らの多くは非戦闘員だ。はやいところ出て行って撤退してもらわなければ、時間を稼ぐ意味もなくなる。
火浦には心の余裕も時間の余裕もあまりない。五人なら三、二で分けられるか、と考えつつ背筋を伸ばして撃震へと向かう。
そんな時、彼の手を引っ張る者がいた。

「・・・・・・あのさ」

「おう」

「・・・・・・おれも、適正落ちたけど、諦めらんなくてな。操縦方法だけなら、知ってる」

整備兵の少女、中川由真だった。ゆうま、という男のような名前のせいで男のように育ってしまい、そんなしゃべり方をしているらしい。
初操縦でどこまで役に立つか、という冷静な思考は火浦の中にあったが、実際のところ自分も似たようなものである。
少しでも時間稼ぎをして適当に撤退すればいい、という考えがはじめからあったので、操縦方法を知っているならば断る理由もない。
数の暴力を受け止めるだけの火力が、少しでも欲しいのだ。

「いけるか」

「ああ!」

力強く頷く中川に火浦は親指を立ててドレッシングルームを指すと、彼女は一目散に指差されたほうへと向かっていった。
やがて、数十秒の後に全員が衛士強化装備で集まり、ハンガーでそれぞれの撃震に乗り込むと、火浦は外部スピーカーから大音量で指示を出そうとする。
そんな時にちょうど司令部からの連絡が流れてくる。後退の、知らせだった。

『コード981発令。地下からの奇襲により、二十分後にBETAの最前線が基地へと到達する目算。コード981!』

「よぅし、満員御礼だ!協力と応援に感謝するぜ!てめえら!傷病者連れてとっとと逃げる準備しろ!おれらは時間稼ぎに出る!」

戦術機の外部スピーカーから大音量の火浦の声が流れる。その声にハンガーにいたものたちは歓声で応えると同時に己の任に移り始めた。
そんな風景を見下ろしながら火浦はコールサインがないな、などと益体もないことを考える。
そして、眼下に置いてあったペンキの缶を見つけた彼は戦術機の指先でそれを潰し、己の撃震の左肩に大きく1とコバルトブルーを塗りたくった。

「コバルト1!行くぜ!」

ハンガーを主脚歩行で出た火浦はそう叫び、撃震の腰に取り付けられた跳躍ユニットを吹かせて戦場へと躍り出た。
それに続くはホウシュンの少々戸惑ったような声。彼も火浦と同じように、撃震の灰色の左肩にコバルトブルーを塗っていた。
次々とコバルト色を左肩に塗った機体が司令部の前へと躍り出て、通信回線の周波数を合わせていると、ほぼ同時に司令部からの緊急通信が入った。

『そこの撃震!』

「火浦京次郎曹長であります」

網膜投影の右側に眉間にしわを浮かべた中年の男が現れた。
階級章を見るかぎり大佐らしい。ここの大隊司令部の最上級責任者だろうか。
火浦は唇の端を若干吊り上げて、軽い態度で敬礼をする。そんな彼の様子に大佐は目を見開いて驚きの声を上げた。
衛士はみな少尉以上のエリートの士官であり、曹長のような下士官が乗れるシロモノではない。だからこその驚きだったのかもしれない。

『曹長・・・・・・!?貴様、何をしている!?』

「命令を!時間稼ぎをしろ、と!それでおれたちは戦える!」

『な・・・・・・』

戦術機のセンサーにより強化された火浦の視力は、既に地平線からあがる粉塵を捉えていた。
その先頭を行くのはまだら模様の甲殻を身にまとった六本足の怪物。人類からは突撃級、と呼称されるBETAである。
時速百七十キロで地面を走行し、数百トンの質量とダイヤモンドより硬い甲殻で体当たりをぶちかます。
直撃すれば戦術機など一撃でお陀仏である。無論、この司令部も同様だ。このまま前進すれば数十秒で接敵するだろう。

『・・・・・・わかった。命令する。貴様は戦術機小隊を率いて0510まで時間を稼げ』

そんな突撃級の姿をデータリンクから受け取った大佐は速やかに火浦へと指示を出す。
現在四時四十五分。まだ夜は明けない。二十五分の時間があればある程度まで後退することができるだろう。
自走砲や戦車を大量に保有する部隊が一個連隊、五十キロ程度はなれた場所にいたはずだ。助けを求めてもいい。
というか、既に向こうでも撤退を始めているだろう。
火浦がそんな風に思っていると、司令部の方でも連絡が取れたのか、合流地点をマーカーで示される。東北東に二百五十キロ進んだ場所だ。

「よっと」

小隊の部下たちに横に列を作るように指示を出しながら、火浦は跳躍ユニットを操作して突っ込んできた突撃級を回避する。

「それだけでいいのかい・・・・・・03、04は右!02、05、06は左を向け!」

シミュレーターでの練習どおりに上手くできたことに火浦はにやりと笑みを浮かべながら指示を出しつつ、撃震の左手に構えた突撃砲を乱射する。
突撃級の甲殻は前方にしかついていないため、柔らかい後ろからならば戦術機に搭載された二千発の装弾数を誇る兵器、三十六ミリでも充分に突破できる。
劣化ウラン弾と曳光焼夷弾が織り交ぜられた三十六ミリを、真後ろをとった突撃級たちに浴びせかける。
見る見るうちに、次々と前のめりに崩れ落ちた突撃級の生垣が出来上がった。
それを確認すると同時に火浦はレーダーを確認して再度指示を出す。

『充分過ぎるな・・・・・・頼むぞ』

「了解ッ!・・・・・・全機列の間隔を開けろ!通り過ぎる中型種がいないように気をつけろよ!」

左手側の突撃砲から適当に三十六ミリをばら撒きつつ、右手側の突撃砲は後ろを通り過ぎようとする突撃級に向けて砲声を上げた。
最低限の数で最大限の時間を稼ぐには、この作戦以外には考え付かない。
手を上げた連中全員が指示にきちんと従うことを信じたが故にやれた戦法だ。
生垣を作って敵の遅滞を繰り返し、時間を稼ぐことを目的とする。

「おれたちで作ったラインを越えたヤツは殺せ!越えてなくても目に付いたヤツから殺せ!」

「了解ッ!」

やはりというべきか、衛士強化装備を最初から身に着けていたホウシュンはなかなかに技量が高かった。
他の、中川たちのミスをフォローしつつ、自分の仕事を完璧にこなしている。
当然、本職の彼は火浦よりも技量が高く、仲間に背後をフォローしてもらえない内側を火浦とともに守っていた。
統一中華で配備されている戦術機と日本帝国で配備されている戦術機は、OSどころか機種さえ異なる。
その為、最初は多少制動に戸惑っていたようだが、彼はすぐに調整を終え、今では獅子奮迅の活躍だ。
この調子ならば大丈夫そうだな、と、突撃砲のズレた射線を直しつつ、迫るサソリのような姿をした怪物、要撃級を三十六ミリで射殺する。
そんな時、BETAの死体でできた山の向こう側に黒い輝きがいくつか見えた。

「重レーザー級確認!体勢を低くしろ!絶対に跳躍はするな!」

確認する間もなく、火浦は戦術機の体勢を低く保つように指示を出した。
彼が見たものはおそらく重レーザー級と人類が呼称する、鶏の首をもいで、黒くて大きな水晶を埋めたような姿をした化け物である。
やつらのせいで人類は空を奪われた。

「・・・・・・ああッ!やめろッ・・・・・・!くそォッ!」

そんな時、ホウシュンが列を乱して勝手に動き始めてしまった。
彼は統一中華の衛士である。ハンガーにあった中破した殲撃八型は彼が乗っていたものだ。
中韓連合軍に参加していた彼は中破した機体を引きずってここまで撤退してきたのだろう。
そんな彼は何故一人だけで日本帝国の、大隊司令部のハンガーに衛士強化装備でいたのか。
簡単な話だ。彼のいた部隊は全滅したのだ。彼を残して。

「おい!大丈夫か?」

彼の症状はこの糞溜めのような世界では有り触れてしまったPTSD。トラウマ、というやつだ。
先ほど精神安定剤を飲まされたらしいが、仲間を皆殺しに、あるいは散り散りにされた者の恐怖と怒りは相当なものだろう。
体勢を低くしたことで機動力が減り、ホウシュンが勝手な行動をとったことで敵を近づけてしまう。
故に、突撃砲の残段数を示す数値がすさまじい勢いで減っていく。その事実に焦りを覚えながら、火浦は彼に声をかけた。

「重光線級の一撃で、五機やられた!」

返答した彼の表情がモニターに映し出される。鬼気迫る表情の少年の目からは涙がこぼれていた。

「気づいたら、皆死んでて!おれ一人じゃ怖くて!逃げてきたんだ!おれは卑怯な臆病者だ!」

「・・・・・・」

そんなホウシュンに、火浦は少しだけ考えて、勇気付けるような言葉を考える。
右手に構えていた突撃砲の残弾数が0を数え、突撃砲の砲声がひとつ止む。
三十六ミリ弾の弾倉を、可動兵装担架に搭載されたサブアームが弾き出して再装填する隙を、BETAたちは許さない。
無防備な状態になった火浦が駆る撃震に、赤い津波が押し寄せてくる。

「・・・・・・信じろ」

そんな時、ぽつり、と小さくも、はっきりとした声が、骨伝導スピーカーを通してホウシュンに届いた。
その声に呼応して、滅茶苦茶にBETA目掛けて三十六ミリ劣化ウラン弾をばら撒いていたホウシュンの機体が、隊列を振り返る。
泣きそうな、否。泣き声そのもので彼は火浦に怒鳴り、火浦に殺到しようとしていた戦車級たちを射殺した。

「何を信じるって言うんだ!あんたを信じろっていうのか!?自分を信じろとでもいうのか!?」

「ああ、信じろ!おれはお前を信じる!だからッ、お前はおれを、そして自分を信じろ!それがおれの〝願い〟だ!」

弾倉の再装填を終えた火浦はそう言い切ると、突撃砲を西の空へと向ける。少しずつ白み始めた、暁の空だ。
数十キロ先で弓なりの軌道で落ちるように計算し、突撃砲の砲身下部に設けられた百二十ミリを先ほど重レーザー級がいたと思しき場所に撃ってみる。
砲声から一瞬遅れ、ばしゅう、と空気中の塵が焼失する音が鳴り響いた。
百二十ミリの滑空砲弾は、突如空を照らした光の中で蒸発する。やはり、見間違いではなかったらしい。

「何故言える!?」

彼と同じように位置を計算してホウシュンは百二十ミリキャニスター、散弾を数発撃ち込む。
重レーザー級のレーザーの威力は強力無比だが、ひとつの弱点がある。それは三十六秒の溜め時間だ。
一度レーザーを照射すると、次回照射するまでに三十六秒もかかるのだ。
ひょっとしたらめくら撃ちした散弾は何にあたったかもしれない。重レーザー級が一匹だけだったならば。
やはり、先ほどと同じように途中でばらけた散弾は太い光芒に照らされ、道半ばで燃え尽きた。
そんな有様を見て表情を歪めるホウシュンに、火浦は自信たっぷりの大声で告げる。

「お前は一番に手を上げた!」

言い合う中でもBETAは待ってくれない。彼らの元に赤い津波が押し寄せる。
戦車級。最大のサイズを持つ小型種だ。自動車程度の大きさを持つやつらは、人間さながらの二本の腕を持つ赤い牛のようだ。
もっとも、その体に見合わぬ巨大な口が、本来胸がある位置についていなければ、だが。
どこか人に似た、あまりに醜い姿に嫌悪を催す心は既にない。恐怖は体を竦ませる。侮蔑は心を鈍らせる。

「お前は勇敢だ!身をもって、それをお前は証明したんだ!だから!おれはお前を信じる!」

そう、誰よりも早くホウシュンは手を上げた。まだ戦える、と。仲間の仇をとってやる、と。
後催眠で正常な判断能力を奪う暗示も使わず、PTSDを薬だけで押さえ込んで、こうして立派に戦っている。
仲間を守るために。命令だからではなく、己の意思でここに立った。彼は勇敢だ。
そんな彼を火浦は信じている。彼ら、コバルト色の五人を信じている。仲間を守るために自分を信じた、彼らを信じている。

「・・・・・・あ、ああ!ああ!」

「てめえら聞け!」

恩には恩で返すのが火浦の流儀だ。逆に仇には仇で返すのも火浦の流儀だ。
自分を信じるもののことは信じてやる。自分についてくるものは守ってやる。
そうするのが不良の生き様だ。お山の大将でも、それが悪ガキのたった一つの誇りだ。

「応!」

獲物を食い散らかす虎のような凶暴な笑みを浮かべた火浦は、高らかに宣言する。

「顔上げろ!胸を張れ!てめえらこそ天下無双の勇者どもだ!ただの人だが、最高のヒーローどもだ!さあ、スカッと生きるぞ!全機上空に三発ずつ百二十ミリ!その後突撃ィ!」

だあん、だあん、だあん、と一糸乱れぬ砲声が暁の空へと駆け上がる。
それと同時に鈍色の鉄塊は赤い津波を蹴散らしながら要撃級の群れへと踊りかかった。
あるものは三十六ミリで、あるものは日本帝国独特の反りをもった戦術機用の長刀で、要撃級へと死を運ぶ。
そんな中、火浦は真っ先にある場所へと向かう。レーザー級種たちがいるであろう場所である。
先ほど放たれた十八発の砲弾だったが、照射されたレーザーは大小あわせて十六本。
今すぐに急行すればインターバルの間に射殺することができる。そう踏んだが故の行動だ。

「おらァ!」

戦術機の背部に搭載された機動兵装担架を稼動させ、脇の下から二門の突撃砲を正面に回す。
そして、要撃級の隙間からレーザー級種がいるであろう場所へと飛び込むと同時、総計四門の三十六ミリ砲が唸りを上げて砲弾を吐き出した。







[28081] コバルトの章第二話 狂犬
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/11 21:29

ブ厚い鉄の装甲に阻まれて尚、遠雷のように砲声は響く。
右肩の装甲がレーザー級の照射するレーザーの高熱に融解してしまった。
撃震の重量バランスをとるために左側の肩部装甲をパージする。
数十トンの鉄の塊を落とすと、ぶちゅぶちゅと音を立てて足元にいたらしい闘士級が圧死した。
それに目をやることもせずに、火浦は右腕に搭載されたナイフシースから左手でナイフを引き出し、速やかに射程圏内に残る最後の重レーザー級の照射器官目掛けて、それを突き刺した。

「・・・・・・いけるか」

照射機関を硬いまぶたのようなものに阻まれそうになりながらも、撃震は右手で左手ごとナイフを押し込んだ。
すると、まぶたの奥から中から紫色の体液がこぼれ出す。やった、と火浦はほっとため息をついた。
もうこれで重レーザー級は役目を成さぬ。これで五匹いた重レーザー級と十二匹のレーザー級は殺しつくした。
予想したよりも多くいたため、既に再照射準備を終えた一匹に撃たれて右肩の装甲と右側の兵装担架システムが突撃砲ごと燃え落ちてしまった。

「・・・・・・今頃冷や汗が出てきやがった」

ほう、とため息をついて、粟だった二の腕を手のひらで摩る。
近接距離まで近づいていたことが幸いし、コンピューターが自動で行った乱数回避により、被害を最小に抑えられた。
あと二十メートル離れていたら射角を振り切れずに死んでいたかもしれない。

「コンディション、イエロー・・・・・・潮時だな」

照射を受けた際のプラズマ爆発の衝撃で右腕自体にもダメージが蓄積されており、長くは持ちそうにない。
火浦はレーダーで仲間の機体が三、二に分かれてフォローし合っていることを確認し、報告を行う。

「レーザー級種を排除した!戦線を二キロ後方まで下げつつハンマーヘッド1で応戦!」

「了解!」

「ああ・・・・・・あと、ポイントをマーカーで示したが、場所の具合が悪けりゃエレメントで一度別れてから再結集する。覚えとけ」

思った以上に戦えている。古参兵とはいえド素人をかき集めた部隊でここまでやれるとは正直なところ思っていなかった。
戦術機の揺れも興奮のあまりさほど気にならない。小隊の全員のバイタルデータを確認しても、軽度の興奮程度しか見られない。
新品の戦術機のコックピットは、独特の匂いがこもっていて若干鼻につくが、外の血腥い臭いよりは百倍マシだ。

「コバルト01。被害報告をするべ」

「ん、ああ・・・・・・スマンな。忘れてた」

網膜投影のウインドウに突然現れた泥棒ひげの男、コバルト03に愛想笑いを返しながら火浦はコンディションを再度確認する。

「各機、被害報告。コバルト01、両肩の装甲をパージ。右腕のアクチュエーターが半分切れてる。燃料は半分、ってとこだ」

戦闘続行は可能だな、と付け加えて、ホウシュンに報告を促す。

「コバルト02、被害無しです。推進剤の残量も七割残ってます」

「流石」

先ほどよりもずっとマシな顔色をしたホウシュンの報告に、コバルト小隊の者たちは感心のため息をついた。
流石に本物の衛士は違うらしい。まったく損害がないどころか、燃料まで節約して戦っている。
というより、彼が別段優秀なのかもしれない。部隊が全滅しても生き残れたのはそういう理由だろうか。

「コバルト03、右手がやばいみたいだ。銃を保持できそうにない。燃料も半分ちょっと、だな」

「コバルト04、主脚がかじられたワ。燃料は漏れてないみたいだけど・・・・・・ちょうど燃料が半分切ったワ」

戦術機がコックピットの次に守らねばならない場所は足と腰だ。
腰部に取り付けられた巨大な跳躍ユニットは戦術機の命といっても過言ではない。
これが無ければ主脚での歩行や走行でしか機動ができなくなり、二次元的な機動しかできなくなる。推進力も機動力も大幅に落ちる。
まして、その跳躍ユニットを稼動させることによって動力のバッテリーを充電し続ける戦術機にとっては致命傷だ。
また、戦術機の脚部は跳躍ユニットの燃料槽を兼ねている為、ここがやられても戦闘続行は不可能。弱点は胸から大腿にかけてある、というわけだ。

「大丈夫ならいい。後は引き撃ちを続けるだけだ。コバルト05、06は?」

「怒らん?」

訛りの強い男の声で子供のようなことを言わないでほしい。

「怒らないから」

「コバルト05、胴体のフレームが歪んでるっぽいさ。燃料も漏れちょって、後五分持つか?」

「わかった。コバルト・・・・・・04。一キロ多く余裕をとらせるから乗せてやれ。先行しろ」

「アラ?いいわよ」

コバルト05にもっとも近い位置にいたコバルト04に、彼を乗せてやるように指示する。
マーカーで示した集合ポイントを一キロさらに後方に再調整すると、04、05の二機は跳躍ユニットを吹かして先行する。
フレームの歪んだ機体から脱出するには少々手間がかかるのだ。
通常、戦術機には衛士の生還率を高めるために強化外骨格が搭載されている。
設計上の余裕の問題から機械化歩兵が使うものほど重武装ではないし、性能も低いが、歪んだフレームを破って脱出するには十分なしろものだ。

「コバルト06、報告しろ」

「ク、フハハ・・・・・・被害なしだぜ!燃料は五割、ってとこかな!」

中川は心底うれしそう、というか浮かれた調子で笑っている。
あの津波のようなBETAと戦闘を行って損害なしとは大したものだ。

「へぇー、やるじゃん」

「あはッ、まあな!」

火浦の素直に感心したような言葉に、中川は年相応の少女のような顔をした。
癖毛のショートヘアーを揺らしながらけらけらと笑う彼女を見た火浦は、あまり調子に乗りすぎるなよ、と釘を刺そうかと思ったが、やめておく。
勝ってるときは何か言われてもあまり気に留めないものだ。なにより、もう時計の長針は頂点を回った。
当初時速百五十キロを超える速度で迫っていたBETA群は勢いを失い、戦闘は小康状態に入ろうとしている。

「よし、コバルト04。調子はどうだ?」

目視範囲に捉えたコバルト04に通信を入れる。コバルト05の撃震は膝を突いて降着状態になっていた為、もう乗り換えは終了したのだろう。

「ハーネスは取り付けたワ」

「良好良好」

「そうかい。そりゃ良かった」

ウインドウに映し出された美男子と、赤ら顔の男は少しだけ口の端を吊り上げて笑顔を返した。
燃料を節約するために主脚走行で向かってきた火浦たちは彼らと合流すると、先ほど言ったとおりにハンマーヘッドに陣形を組み替えた。
五人での陣形なので、多少変則的だが、臨機応変に調整していけば問題はない。

「残弾確認!」

最前列の火浦の声に、小隊の者たちは保持した全ての突撃砲を前面に向け、三十六ミリ劣化ウラン弾の有効射程距離に敵が入るのを待った。
押し寄せる軍勢は、先ほどよりも勢いがない。一番槍を受け持つ突撃級の姿が見えないからだろう。
だからといって手加減する理由にはならない。悲しいが、これは戦争なのである。

「・・・・・・射撃開始!」

無数の砲声が響き渡ると同時に、空に曙光が上り始めた。
火浦はそれを見てから、良かった、と胸をなでおろす。敵が東側にいたら不意の陽光でセンサーがお釈迦になっていたところだ。
荒れ果てた大地に光が差し込む中、彼らはただただ無心に狙いをつけては引き鉄を絞った。






「残弾数、三割を切ったな。そろそろ撤退するか」

最後の百二十ミリ徹甲榴弾を要塞級の顔面に叩き込むと、火浦は時計が五時十分を既に回っていることに気づいた。現時国は五時十六分である。
崩れ落ちた要塞級の死骸に、冥土の土産に三ダースほど三十六ミリ劣化ウラン弾をくれてやった。
内部にレーザー級がいる場合が稀にある故に、念のため、だ。
警戒を怠ったせいで気づいたら全滅、などということになりかねない。

「各機、被害報告・・・・・・は、いいや。全員食らってないよな」

「ああ」

「なら、燃料の補給か。司令部にあるやつを探そう」

弾薬はともかく、燃料は既に三割を切っている。これじゃあ合流地点に定めていた。東北東へ三百キロの地点にたどり着くのは無理だろう。
途中で機体を降りて強化外骨格、あるいは、徒歩で追いつかなければならなくなる。
後詰がいつ来るかわからないBETA相手においかけっこをやるのはごめんこうむりたい。

「無事かな?」

「駄目なら走るしかないな」

軽口で返しながら、火浦の駆る撃震は主脚で地面を蹴り、噴射跳躍に移行する。
プロペランドの残量は巡航速度でおよそ百二十キロ持つかどうか怪しいところだ。
戦術機はその巨体ゆえの重量と空気抵抗の大きさから、行動半径や戦闘継続時間にやや難がある。放棄された司令部にまだ無事な燃料があることを祈るしかあるまい。

「・・・・・・」

火浦はこっそりとデータリンクを行い、小隊員の機体コンディションをチェックする。
レーザー級種も突撃級もいない中で引き撃ちを行って敵の数を減らすだけの遅滞作戦だったので、被害は一切無い。
やるな、とだけつぶやくと、ウインドウを閉じる。

「おっと・・・・・・」

コンソールに手を触れた際に操縦桿が動いてしまった。体勢を崩しそうになるところを額に汗を浮かべながら制動する。

「なにやってんだよ」

「機体の調子が悪いんだよ・・・・・・肩がアレだから、バランスが取れなかったんだ」

「言い訳お疲れさん」

「うるせえ」

軽口を叩きあいながら、行きと同じように跳躍ユニットを吹かせ、彼らは地面擦れ擦れを滑走する。
海沿いの都市、大連から東北東、豊かな自然がそこにはまだ残っている。
避難を終えたらしく、人気のまったくない小さな農村は曙光に照らされて懐かしくも清清しい景色を見せてくれた。
カシュガルからドゥンファンへ、次々と戦線を下げるうちにこうして見捨てられた村や町がいくつもあった。

「いい景色だな」

「・・・・・・そうか?」

「そうなんだよ」

網膜投影越しじゃあもったいない、とばかりに着地と同時に搭乗口を空け、大きく外の空気を吸い込んだ。
九月の、たわわに実った果物が甘く香る。

「げほッ、げほッ・・・・・・うげェ、うぷ・・・・・・」

そんな香りを楽しんで深呼吸を続けると、急に気持ち悪くなって吐き気を催した。
胃の奥がぐらぐらと揺れる感覚に、外に思い切り吐き出してしまう。
今までは興奮で麻痺していたが、初めての実機での戦闘機動は適性値Eの惰弱な三半規管に着実にダメージを与えていたようだ。

「大丈夫か?」

「大丈夫じゃない。お前ら平気なの?」

「・・・・・・おいも気持ち悪い」

「ちょっ、小次郎さん!?吐くなら外に行って頂戴!」

阿鼻叫喚。酸鼻の極み、というやつだ。
火浦はコックピットを閉めると、酸っぱくなった口の中をチューブ飲料で洗い流して胃に落とす。
ほんのり甘い、スポーツドリンクが疲れた体に心地よい。

「・・・・・・ん?」

ほっと一息ついたところで火浦機のレーダーにたった戦術機とBETAの反応が現れた。
二十キロほど先で戦闘を行っているらしい。レーダーを見た感じ、BETAの規模は大隊規模か、それ以下。ちょうど、司令部への通り道だ。
こりゃあまずいな、と、火浦は無意識のうちに呟いていた。

「火浦!じゃなかった・・・・・・コバルト01!レーダー見ろ!救援信号出てないけど・・・・・・!」

「・・・・・・」

向かうまで持つか、時間は大丈夫か、弾薬は、燃料は、と火浦は一秒ほど計算しようとして、やめた。時間が惜しい。

「コバルト02だけ着いて来い!救援に向かう!他は弾薬と燃料を確保してから来い!」

「了解ッ・・・・・・大丈夫なのか?二機だけで」

「そう思うなら手早く助けに来いよ!」

コバルト03にそれだけ言うと、火浦は主脚走行で現場へと急ぐ。跳躍ユニットを用いないのはレーザー級種への警戒と、燃料の節約の為だ。
レーダーで確認しつつ、目視範囲まで近づくと、撃震が一機だけで戦闘を行っていた。
左腕は欠損し、頭部センサーは溶けている。フレームもぼろぼろだ。
もはや中破と呼んでもいいレベルに撃震は破損しており、残った右手で長刀を振り回して要撃級の首を刈り落とす姿はさながら狂戦士のよう。
しかし、火浦たちが近づくうちに動力が切れたのか、あるいは別の理由か、撃震は体勢を崩して仰向けに倒れてしまう。

「おいッ、ブレード01!動けんのか!」

「・・・・・・」

帰ってくるのはノイズ音だけだ。
先ほどから通信を試みていたが、頭部の通信装置が壊れているせいか繋がらないのだ。
識別信号は、第一戦術機甲師団のブレード中隊、ブレード01と出ているが、それ以外はわからない。
焦りを覚えながら火浦機とホウシュン機は突撃砲を乱射して押し寄せるBETAの群れを殺戮するが、距離が遠く、必要な威力が出ない。

「ったくもうッ!ホウシュン援護頼む!」

「了解!気をつけてくださいよ!」

「わかってる」

言いながら火浦はロケットエンジンに火を入れた。爆発的な加速度を生み出した燃料は見る見るうちに減ってゆく。
ぎりぎりか、と歯軋りしながらブレード01に殺到しようとしていた戦車級たちを蹴散らす。
数百トンの鉄塊に蹴り飛ばされ、踏み散らされた赤い化け物は踏み潰されたシュークリームのように爆ぜて死ぬ。

「ああッ、きったねえ!」

装甲越しに感じるいやな感触に怖気を覚えながら火浦は体勢を立て直し、ブレード01へ接触回線を利用して通信を行う。
しかし、帰ってくるのは静寂だけだ。恐怖のあまり失神でもしたのか、あるいは、すでに死んでしまっているのか。
バイタルサインを調べようかとも思ったが、コバルト02が抑えているもののBETAは健在である。時間が惜しい。
オペレーションシステムからコックピットを強制開放しようかと思ったが、フレームが歪んでいるせいでうまくいかない。
やむを得ず、ナイフシースから短刀を引き抜いて、コックピットハッチをこじ開ける。

「・・・・・・無事か?」

「・・・・・・」

やはり、返事がない。死んでしまっているのか、と思った火浦はコックピットを開放し、ブレード01の機体の搭乗口まで降りる。
せめて認識票でも回収してやろう、と思ったのだ。
暗闇の中から、鈍い鉄のきらめきが見えたのは、そんな時であった。

「うわァああああああッ!」

「なんとォッ!」

コックピットの中に入ると同時に衛士強化装備姿の女が襲い掛かってきたのだ。
火浦は反射的に飛びのくと、ナイフが肩を掠めた。危ない、死ぬ。そんな言葉が火浦の頭をよぎった。
獣のようにぎらぎらと濁った輝きを放つ女の目は、明らかに正気を失っている。

「やめろぉッ、近づくなァっ・・・・・・!」

殺意のこもった鉄のきらめきが襲い掛かる。
恨みを買った覚えは、いくらでもあるが、殺されるほどではないと思う。多分。
そんな益体もないことを考えていたせいか、彼は背後に迫るBETAのことをすっかり失念してしまっていた。

「コバルト01!隊長!闘士級が一匹取り付いた!気をつけてくれ!」

だからこそ、コバルト02からのその通信に火浦の背筋が凍りついた。
天地を劈くような中で、僅かに鉄に爪を立てるような、生理的に嫌悪感を覚える音が聞こえてきた。
前門の女、後門の闘士級。せっかく撤退戦を生き延びたのに、こんなピンチに陥るとは思いもよらなかった。

「うわあああッ!死ねぇッ!」

「うおおッ!」

ナイフを突き出してくる女を、訓練校で習ったクローズドコンバットの要領で投げ落とす。
強化装備のおかげで痛みは殆ど無いだろうが、衝撃は身体に通った筈だ。
火浦はナイフを取り上げようと腕を掴む。

「わたしに触るなァッ!」

「くそ・・・・・・!」

左腕の前腕にナイフが突き刺さった。正気を失った者の常識外の膂力を忘れていた。
痛みで火浦の脳髄に怒りが湧き上がってきた。なんで助けに来た相手にこんな目にあわされなきゃならんのか、と。
強化装備が守っておらず、ヘルメットもつけていない無防備な頭に狙いを定める。
足の裏で思い切り踏みつけて失神させよう、という心算だ。
しかし、そんな心積もりはコックピット内に急に影が差したところで打ち消される。

「がはッ!?」

闘士級に思い切り蹴りをかまされた。そう気づいたのは視界が百八十度回転した時だった。
狭いコックピット内で内壁に叩きつけられた火浦は、闘士級の戦闘能力を改めて思い知った。
百キロある火浦を軽々蹴り飛ばすほどの脚力。なるほど、月面で人類が殺されまくるわけだ。

「・・・・・・カ、はッ・・・・・・」

肺の中から空気が搾り出されたせいで、目の前がモノクロに染まる。
持ち込んでいた拳銃は先ほど落としてしまった。今では足元に転がっている。
助けてくれ、とか、死にたくない、とか、そんな考えは一切湧かなかった。考えるだけの余裕が無かった。
頭の中が真っ白になった火浦は、闘士級が象の鼻によく似た腕を伸ばしてくるのを、ぼんやりと見つめる。

「・・・・・・ッあああ!」

絶体絶命、そんな時に彼を助けたのは、他でもない、火浦をこのピンチに陥れた女であった。
手に握ったナイフで闘士級の足を思い切り切りつける。
人間のそれと大して変わらぬ太さの、細い足だ。軍用のでかいナイフで切りつけられては堪らない。
闘士級は体勢を崩して、無様にコックピット内に転がる。

「・・・・・・はァっ・・・・・・はァ・・・・・・げ、げほッ、げほッ」

血腥い空気を大きく吸い込んだ火浦は、そののど越しにむせながら足元の拳銃を拾う。
そして、無造作に照準をつけると、闘士級に向かって引き鉄を絞った。
ぱあん、ぱあん、と、あっけない音が耳に響くと、ドブ色の血を垂れ流して闘士級は動かなくなる。

「・・・・・・おい、お前。無事か?」

「・・・・・・」

見れば、女は闘士級の下敷きになって気を失っていた。踏みつけられたのか、左腕が折れている。
好都合だ、と胡乱な思考で考えた火浦は、ドブ色の体液に塗れた彼女を背負って自機へと戻る。

「人助けはもう懲り懲りだ」

愚痴をこぼしながら女にハーネスを身につけさせると、女は右足も折れているのがわかった。
これで襲い掛かってきたのか、と感心しつつ、おっかねえ女、と呟いて自機を立ち上げる。

「隊長!無事ですか!?」

「無事かな。多分。うん。無事だ」

気が抜けたように頭をふると、網膜に補給を終えたらしいコバルト小隊の者たちが映っていた。予想よりずっと時間をかけてしまったらしい。
参ったね、どうも、とひとりごちて火浦は他の小隊員とともに司令部跡地へと向かう。

「寝てりゃ、美人だな。こいつ」

「・・・・・・」

狂犬のように犬歯をむき出しにして襲い掛かってきた女を眺め、ため息をついた。彼女は眠りながら涙を流している。
うなされるように、あらい、と誰かの名前を呼んでいる。空を見上げると、今の火浦の心境と同じようにどんよりと曇り始めていた。









[28081] コバルトの章第三話 帰途
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/06 23:27





ところ変わって丹東市。BETA大戦によって国境線が曖昧になっている昨今だが、紛れも無くここは中国と朝鮮の境目である。
港町であるここには今、日本帝国大陸派遣軍の輸送艦が数隻停泊している。
目的は言うまでも無く、物資を輸送してきて、帰りに傷病者や避難民を搬送する為だ。

「よっと・・・・・・」

港の貸し倉庫前の広場に自機を跪かせると、火浦は降着姿勢の撃震から、膝を足場に地面まで飛び降りる。
なぜこんなことをしているかと言うと、ガントリーを備え、ハンガーを兼ねる戦術機輸送用車両には空きが無かった為だ。
改めて街並みを見回すと、民間人が疎開しているせいで街の中は軍人だらけである。その上、曇天時特有のじっとりとした空気が漂っている。
楽しいことはあまりなさそうだな、と思いつつ、火浦は左肩からずり落ちてきた女を担ぎなおした。
百九十三センチの背丈にスカーフェイスという特徴的な外見の男が、衛士強化装備姿の女を肩に背負っている姿はどこかシュールだ。

「・・・・・・ここ、は」

「起きたか。暴れるなよ・・・・・・痛いからな」

コックピットから飛び降りた際の衝撃で起きたらしい。膝で衝撃を緩和したが、軽く四メートルはあるため、起きても無理はないだろう。
栗毛色の髪をうなじのあたりでまとめた童顔の女、ブレード01は胡乱なまなざしであたりを見回して、真横にあった火浦の顔を見た。
傷顔が逞しい印象を与える、ハンサムに見えないこともない顔立ちの男だ。顔色は悪い。

「・・・・・・誰、だ?」

「誰だとは・・・・・・つれないな。あんなことまでしたくせに」

「・・・・・・思い出せない」

「そうかい。だったらゆっくり休んでな」

軽口を返す火浦が向かおうとしている先は港だ。
無論、傷病者であるブレード01を輸送艦へと連れて行く為である。
左腕上腕骨、そして脛骨を完全骨折している彼女は復帰に時間がかかるだろう。
火浦が負傷した右腕の血止めをしたついでにファストエイドキットで治療したが、きちんとした医者に見せた後、後方で療養するべきだ。
本当ならば彼女の部隊の上官にでも伺いを立てるべきなのだろうが、彼女の所属していた大隊司令部そのものが壊滅している以上、どうしようもない。

「ですから!一時的な避難なんですって!」

「そんなこと言っても、あんたたち軍が勝ったことなんて一度もないじゃない!」

「おい、またやってんのかよ」

港の入り口で人の良さそうな男の軍人が、避難を拒否して残ろうとしている民間人の説得を行っている。
傷病者などを優先して運び込まなければならないのに、非常に邪魔である。よそでやれ、と言いたい。
火浦は乱れてしまった列の脇を通ると、民間人の中年女に声をかけた。

「奥さん。後が押してんだ。さっさと進んでくれないか」

軍団規模のBETAを大連で食い止めている今、二百キロしか離れていないここがいつ戦場になるかはわからないのだ。
故に、わざわざ下士官が説得しているのだが、うまくいっていないらしい。
火浦個人としては好き勝手に死ねばいいと思っているのだが、禄を食んでいる軍人が理由なく彼らを見捨てることはできない。
たとえ彼らが、他の者たちを道連れに地獄に落ちようとしているとしても、だ。

「あッ、あんたねえッ!」

若干の苛立ちが混じった口調で文句を言われた中年女は顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げる。
だが、火浦は彼女を無言で押しのけると、傷病者を運ぶために避難民の列を無視して先へと進む。
輸送艦の乗り込むためのタラップに足をかけた時に、ふと思い出したように後ろを振り返って火浦は言った。

「傷病者でいっぱいなんだよ。悪いけど今のおれたちには、可哀想なだけのおばさんに構ってる暇は無いんだ」

「少尉!」

「おれは曹長だよ、伍長。重症患者はどこに運べばいい?」

歯に衣着せぬ物言いに伍長は憤慨するが、火浦は気にも留めずにタラップを上がろうとする。
しかし、湿気で濡れていたタラップのせいか、あるいは疲労か、両方か、火浦は足を滑らせてしまった。

「いて・・・・・・」

「・・・・・・大丈夫か?」

「問題ない」

負傷した女を抱えている状態で両手をつくことはできず、負傷した左腕をついてしまう。
ナイフで刺された箇所から血がにじんでいるのを見て、女は少し申し訳なさそうに聞いてきた。
大丈夫だ、と口調を取り繕うこともせずに返したが、やけに身体が重たい。失血のせいか、視界も狭い。
闘士級に蹴られてからわき腹も痛いし、ひょっとしたら肋骨が折れているかもしれない。

「・・・・・・船室に下りて通路の突き当たりです」

「ありがとう」

たった今まで前線の地獄で戦い、そこから帰ってきて息も絶え絶えというといった様子の彼らだ。
あまり目くじらを立てることもないか、と思った伍長は素直に答えた。
口の端を少しだけ吊り上げて礼を返した火浦に、船上から声がかかる。

「おい、火浦」

「ん・・・・・・お前か」

見上げれば、そこにいたのは真人・アーチャーだった。左腕を三角巾で吊るしているところを見るに、骨折で済んだらしい。
アーチャーは顎をしゃくって船室への階段を指し示すと、そちらへと向かう。
医務室かなにかに案内してくれるらしい。

「お前、腕は大丈夫か?」

「おれは大丈夫だがな、お前顔色悪いぞ。大丈夫か?」

「闘士級に蹴っ飛ばされたんだよ・・・・・・」

「で、その女は?」

「拾った」

「・・・・・・拾われた、らしい」

「そうかい」

胡乱な思考で女は応えた。副作用の強い痛み止めの薬を飲ませたせいか、眼差しはどこを向いているのか覚束ない。
薬が切れて痛みが疼きだす頃には、戦場で何があったのかを嫌でも思い出すだろう。
今は、ゆっくりしていればいい。寝ていてもいい、と言って、火浦は彼女を担ぎなおす。

「・・・・・・全員乗れそうか?」

「・・・・・・さあな」

火浦の問いに、アーチャーは少しだけ眉を顰めてかぶりをふった。
濃厚な磯の香りにむせ返りそうになりながら船室へと降りると、通路のあちらこちらに人影が見える。
老若男女、すすり泣く声が耳に痛い。手足に包帯を巻いた負傷者もそこらに放り出されている。

「なあ」

「なんだ?」

「・・・・・・ブレード中隊は、どうなった?」

「寝ていろ」

「・・・・・・ああ」

ぼんやりと、思い出したように彼女が投げかけた問いに、火浦は少しだけ考えて誤魔化すことにした。
彼女は少尉のようだが、ブレード01、要するに中隊長である。部下たちが心配な気持ちはわかるが、今は知らせないほうがいい。
大隊司令部そのものが壊滅している以上、生き残りがいる可能性は極めて低いだろう。
薬のおかげか、素直に引いてくれたことはありがたい。わざわざ不幸な事実を突きつけて楽しむような趣味はない。

「そこ曲がって一番にあるところだから」

「わかってる」

「お前もちゃんと見てもらえよ」

お前はおれの保護者か、と力無い笑顔で返して通路の角を曲がると、開け放たれた扉から白衣姿の男が出てくるのが見えた。
かつては真っ白であっただろう白衣には多量の血が付着していて、この船にいる傷病者の多さを物語っている。

「すまない、先生。こいつを診てやってくれないか」

「まったく、次々と・・・・・・わかった。二つ先の右側の部屋で待ってろ」

すぐには診てもらえないのか、と落胆しつつ、指定された扉を開くと、そこにはダンボールでいっぱいの部屋があった。
備品倉庫かなにかなのだろう。生理食塩水やら、シリンダーやらと医療に関係する器具の名前が書かれている。もっとも、ほとんど空のようだが。
とりあえず床にダンボールを敷いて女を寝かせると、火浦は部屋の隅に座り込む。
前かがみになるとわき腹がひどく痛んだので、壁に凭れ掛かって電灯を見上げた。

「・・・・・・」

もう女は寝入ってしまったのか、規則的な呼吸音が小さく密室に響く。
火浦はぼんやりと天井を眺めながら、今日という日を思い返す。
今日はいろいろなことがあった。初めて撃墜されて、初めて戦術機に乗って、初めて部隊を率いた。
臨時で部隊長となった火浦は司令部へ顔を見せねばならないのだが、それはコバルト03、伊庭が代行してくれている。
治療を終えてから、ということだ。面倒くさくて気が重くなる。
コバルト02、李候俊、外国人である彼を指揮下に入れたこともあり、いろいろ厄介が多そうだ。

「・・・・・・考えても、仕方ないか」

「・・・・・・どうした?」

「・・・・・・いや」

「・・・・・・そうか」

どうやら起きていたらしい。素っ気無く返すと、火浦は天井から降りてきた蜘蛛へと視線を移す。
都会育ちである火浦は虫はあまり好きではないが、蜘蛛は好きだ。
毒をもったやつとか、噛み付いたりするやつとかはともかく、彼らの多くは慎ましくて気の良いやつらだ。
姿はちと不気味だが、慣れれば気にならない。

「・・・・・・あ」

そんな益体も無いことを考えていると、視界がモノクロになって、ぐるぐると回りだした。
背筋から額から、冷や汗がだらだらと流れる。足元がわからず、自分がどうしているのか理解できない。
昔、学生時代に腹をナイフで刺されたことがあった。血が止め処なく流れ、一時的に目が見えなくなったのだ。
脳貧血というやつだと医者は言っていた。これはそのときの感覚に似ている。
本当の意味で、これは死ぬかもしれないな、と思ったのはあれきりだ。

「はあッ・・・・・・はあッ・・・・・・」

「・・・・・・おい、大丈夫なのか?」

自然と早くなる呼吸に、女が呼びかけるが、耳鳴りが酷くてほとんど聞き取れない。
頭の中の歯車が石でも噛んだかのように思考が定まらない。真夜中のテレビのように砂嵐が目の前で巻き起こり、視界が閉ざされる。
心の中身が不安でかき乱されて、手すりを強く掴んだ。

「おいッ・・・・・・!」

「・・・・・・すまない。意識が混濁してきた。何を言うかわからんから黙るぞ」

女の少し焦ったような声に返答すると同時に、本格的に耳鳴りが悪化し、耳が聞こえなくなった。身体が端から冷えてきた気がする。
これはもう駄目かもわからんな、とつぶやくと、火浦の意識は暗闇の中に沈んでいった。






ぐらり、と身体だけではなく足元から揺れたような感覚に目を開ける。どうやら、まだ生きているらしい。
手元に明かりはなく、小窓から漏れる薄暗い光に目の前を確認して上体を起こす。
ずきずき痛むわき腹の痛みはいまだ健在だ。痛みに顔を顰めつつ、火浦は部屋の中を眺めてみた。

「・・・・・・」

衛生状態がいいとはとても思えないような薄暗い部屋に、男女合わせて五人が転がされている。
その中にはブレード01の姿もある。衛士強化装備ではなく、胴衣を着ているところから、すでに処置は終わったのだろう。
そこまで考えてから自分の身体を見てみると、胴衣の下の素肌、腹と胸、そして左腕に包帯が巻いてあるのが見えた。
やさしく触ってみると、手術を行ったのか、いずれも傷口の感覚がある。
麻酔のせいか、ぼんやりする頭を抑えながら立ち上がると、火浦は部屋を出て行く。特に目的地があるわけではない。
強いて言えば、一緒に戦った仲間か、アーチャーに会いたかった。

「おい、大人しくしていろ。出港したばかりなんだ。揺れるぞ」

部屋から出て、当てもなく通路を歩いていると、胴衣姿の火浦を見咎めた軍医が忠告する。
二枚目の顔つきに眼鏡がよく似合っている。よく見ると、見覚えがある顔だった。先刻治療を頼んだ軍医である。

「・・・・・・ああ、先生か。おれは、手術したのか?」

「腹の中が血塗れだったぞ。あれでよくここまで歩いて来れたものだな」

「・・・・・・」

彼は、尿や便に血が混じるだのなんだのと長々説明を始めようとして、やめた。
丁度出港したばかりで風も強いため、船の内部が揺れるのだ。あまり通路で無駄話をしている余裕などない。
というか、絶対安静にしなければならない患者が勝手に歩き回っているのだから大問題だ。
彼は火浦を手招きすると、診察室の片隅に置かれたパイプ椅子を指で指し示す。暗に使えと言っているらしい。

「ありがとうございます。手術も」

「いや、いい。仕事だ」

そう言って、備品のポット、麦茶か何かが入っているのだろう、に目をやり、そしてやめた。
怪我人でしばらく腹に物を入れられない火浦に遠慮しているのだろう。雰囲気からなんとなく察した火浦は遠慮せずに、と告げる。
プラスチックのコップに注がれた麦茶を喉を鳴らして飲む軍医の姿に、火浦も若干の喉の渇きを覚えた。

「予想以上にやられたんでな。点滴台を今組み立てて貰っている。少し待ってくれ」

「はい・・・・・・負けたんですか?」

「その質問は正確じゃないな」

軍医は腕組みをして厭世的な笑みを浮かべた。

「壊滅だよ。輸送船団が満員だ」

いつも通り怪我人が多いだろうとは思っていたが、ここまでとは思わなかった、と。
怪我人がグロス単位で運ばれてくるため、医者の手が足りなくて、十分休憩したらまた治療に出向かなきゃならない、とも。

「ええと・・・・・・お疲れ様です」

コバルト小隊の仲間や、自分が所属していた戦術機甲師団はどこか、など聞こうかと思ったが、おそらく軍医は知らないだろう。
どうせ後で知ることになるのだし、今無理を押して聞く必要もない。
せっかくの休憩中なのに怪我の具合を聞くと言うのもなんというか、アレだ。
少し考えた末、火浦は口を開く。

「これはどこ行きで?」

「九州だな。佐世保」

「ああ・・・・・・メシは、美味そうですね」

「一週間もすれば食事を取れるようになるだろうが、しばらくは点滴だぞ」

ははは、と愛想笑いを返す。内臓にダメージはあるものの、話の具合からして重体というほどでもないようだ。
意識もはっきりとしてきた。輸血してもらえたのだろう。
負傷者が多すぎて輸血パックや増血剤が品切れ状態だ、という話を前線でよく聞いていたので、運がよかったのかもしれない。
そんなことを考えていると、部屋に備え付けられている受話器がコール音を発した。

「・・・・・・ああ。はい・・・・・・はい」

「・・・・・・」

表情を険しくして返事をする軍医。何かまずいことでもあったのだろう。
聞き耳を立てるが、当然受話器からの出力音は聞こえない。軍医のあいまいな返答では話がわからない。

「しかし、核遅滞ですか。そこまで押し込まれるとは・・・・・・」

その言葉に火浦は少しだけ眉を顰めた。
中韓連合軍は戦線が瓦解したことを認め、戦術核による敵軍の遅滞を行うことを宣言したのだ。
大連はまだ人間の領土だった。撤退時に火浦が見た村のように、まだ豊かな自然が残っていた。あそこに、死の灰が降る。
やはりな、という諦観と、言いようのない無念さが心を締め付けた。

「・・・・・・ええ、はい。連絡、どうも」

通話を切ると、軍医は用事ができた、とだけ告げて医務室を出て行く。
火浦もそれに従い部屋を出たが、どこの部屋から来たか忘れてしまっていた。
参ったな、と呟いてうろつくが、誰もいない。やむなく、途中で見つけた休憩室で疲れた身体を横たえる。
そんな時、休憩室の扉が開かれ、一人の整備兵が入ってきた。

「おいッ、火浦か!?」

「・・・・・・ああ、お前、乗ってたのか」

見れば、中川である。今さっきまでシャワーでも浴びていたのか、石鹸のにおいがした。

「第二師団は全部撤退だとさ。みんないるよ」

「ホウシュンは?」

「ハルビンに向かうんだと」

ハルビンは火浦たちの乗る輸送艦が出港した丹東市から、五百キロほど北上した位置にある。
核遅滞を余儀なくされるほど押し込まれていたなら、途中で戦闘になる可能性もゼロではない。
日本帝国大陸派遣軍の本隊とともにハルビンへと向かった真面目な青年の無事を祈る。

「お上から褒められちったよ奇跡の損耗率だって。芒大佐がケツ持ちしてくれたからお咎めもないし、昇格かも、だとさ」

「へえ、もう下士官卒業か?一年半ちょいしか戦ってないぜ?」

「一年半前線にいりゃ十分だろ。むしろ戦闘ヘリに曹長を乗っけてること自体が・・・・・・」

言われてみればおかしいが、次々とヘリパイロットはばたばた死んでいくので気にしていなかった。
大陸に来た当初は輸送機を操縦していたから違和感はなかったが、曹長分の給料で准尉分の仕事をやらされていたのだ。
怒りが湧くよりも呆れてしまった。はあ、と一つため息をつくと、身体を起こして対面のソファに中川を座らせる。

「まあ、いいよ。それは・・・・・・で?核落としたって聞いたぞ」

「そうそう、すげーキノコ雲・・・・・・大連でさ、結局押し込まれて核遅滞やったんだって」

おおよそ予想通りの報告に、火浦は目をつぶって大連のことを思った。
一年近く前に数日滞在したことがあったが、海沿いの都市なだけあって海産物が美味かった。
特に水餃子がジューシーでもちもちしてて最高だったな、と当時の記憶を掘り返して、火浦は切なくなる。
もうあの味は生きているうちには楽しめないだろう。

「ほかの連中は?ええと・・・・・・」

「コバルト03が伊庭寵児。泥棒ひげのやつ。コバルト04がオカマ・・・・・・じゃなくて、岬倫太郎。コバルト05が酔っ払いの小次郎さん」

中川の紹介に、火浦は脳内で彼らの顔を思い浮かべて名前と一致させる。
この船に乗っているらしいから、また後で自己紹介でもするべきだろう。
説明ありがとう、とだけ言って、火浦は立ち上がる。わき腹が痛んだので、壁に手をつきながら。

「肩貸そうか?」

「結構だ」

百九十三センチの大男が百六十程度の背丈の女に寄りかかる姿を想像し、火浦は即座に断った。
百キロ以上ある火浦の体重を支えきるのはまず不可能だろう。血が抜けているせいで足も覚束ない男は非常に重い。
何かあれば貨物室にいるから、と言って、彼女は目の前のコーヒーメーカーに注意を移す。
人と話しているうちに胡乱だった頭も晴れてきた。自分がいた部屋への道も思い出せそうだ。

「・・・・・・ええと、ここか」

休憩室を出ると、元の部屋への道をたどる。同じような景色が続く船内だが、なんとか戻ってこれた。
重い扉を開くと、五人いたはずの部屋には一人しかおらず、最後の一人が見覚えのある女、ブレード01だった。
火浦は無言で扉を閉めると、自分が転がされていたマットレスの上に寝そべる。

「・・・・・・どこへ行っていた?」

「散歩だ。調子はいいみたいだな」

「・・・・・・ああ」

ギプスを右足と左腕にはめて、不自由そうに身じろぎをする女は、沈鬱な表情で返事をする。
薬が切れて戦場でのことを思い出したのだろう、と火浦は考えた。その想像は、やはり当たっていた。
女は、恐る恐る、という様子で火浦に問いかける。

「・・・・・・なあ、私と同じコールサインのものは、見なかったか?」

「いや・・・・・・見なかったな」

「・・・・・・そうか」

「ほかの連中は?」

泣きそうな顔をした、十九かそこらの女を前にして、どうしたものかと悩んだ末、どう言っていいものか迷った火浦は話を逸らした。
さっきまでこの部屋で寝ていた残りの三人はどこに連れて行ったのか、と。明らかに一人じゃ動けないようなやつもいた筈だ。
彼女は思い出すように先ほど担架で運ばれていった三人のことを告げる。

「ベッドの準備ができたらしい」

「ほー、ようやく怪我人らしく丁重に扱ってくれるのかね」

そう言って火浦は両手をわきわきと動かした。なんとなくいやらしい。
そこまでやってから、火浦はある事実を思い出す。入院患者が着るような胴衣姿だったから忘れていたが、彼女は衛士で、少尉だった。

「・・・・・・そういや、少尉でしたな。失礼」

「いや、いい・・・・・・私は・・・・・・」

言いながら、涙ぐみはじめた。つらいことでも思い出したのだろう。
そんな彼女を見つめる火浦は、居心地悪いなあ、などとぼんやり考えながら、慰めるような言葉を捜す。

「・・・・・・泣くなよ」

「泣いてないっ・・・・・・!」

あまりにも素っ気無い言葉しか思いつかなかった。一応女は泣くのをやめたので、結果オーライ、か。
火浦は昔からどうにも女の扱いが苦手だった。
道理とか筋とか蹴っ飛ばして、感情と自分の損得だけで動くような女しか学生時代に周囲にいなかったせいか、その手の女性に対しては軽蔑しているフシさえある。
その点では目の前の若い女は初対面こそ最悪だったが、今は冷静さを取り戻してくれているようでありがたい。

「お目覚めですか、神宮司少尉」

「・・・・・・ん?」

そんな時、扉を開けて入ってきたのは年嵩の衛生兵の女だった。弛んだ顎と下がった目じりが、カーチャン、という言葉を髣髴とさせる。
後ろには同じく衛生兵の若い女がいて、ストレッチャーを運んできている。ようやくお出迎えが来たようだ。

「火浦曹長ですね?少々お待ちいただけますか?」

「ああ、いえ・・・・・・立てますので、担架はそっちの少尉殿に」

若い方の衛生兵の女に告げて、火浦は部屋から出てゆく。
狭い船室だ。図体のでかい火浦がいてはやりにくいこともあるだろう。
やがて、ストレッチャーに乗せられて部屋から出てきた神宮司、と呼ばれた女の後をついていくことにする。

「・・・・・・広いですな」

「ええ。ですけど、もともと二百人程度しか居住スペースは用意されていないんです・・・・・・しばらく不自由を強いることになると思います」

「佐世保まででしたら、すぐですよ」

もともと輸送艦なだけあって、ある程度状況が落ち着けば多数の人員を収容するスペースがあった。
貨物室などを空けたおかげで、先ほどまでいた、廊下で座り込んでいた者たちの姿は今では殆ど見えない。

「今何時?」

「ええと・・・・・・午後六時ですね。ああ、時差があるから・・・・・・」

「丹東から佐世保までの航路なら時差は殆どないですよ」

「ああ、そうでした・・・・・・」

少し照れくさそうに若い方の衛生兵ははにかんだ。眼鏡が童顔によく似合っている。かわいい。
火浦は軽く笑い返すと、丹東から佐世保までの航路と、かかる時間をおおよそで計算する。

「一日あれば着きますかね」

「そうですね・・・・・・明後日の朝ぐらい、ですね」

「なるほど」

それまで暇つぶしに何しようかな、と暢気なことを考える。
戦地で戦う仲間の無事ぐらいは祈っているが、どうせ手の届かないところのことを考えたって無駄だ。
せっかくの休暇なんだし、自分の怪我の治療や、英気を養うことに集中したっていいだろう。

「流動食か、点滴か、どっちにしろ気が滅入る」

「あはは・・・・・・我慢してくださいね」

「さっさと治して美味いもの食って、また戦いに行かなきゃなあ」

「頼りにしてますよ」

「頼まれた」

調子のいい掛け合いに、神宮司は少しばかり気を悪くしたが、文句を言っても八つ当たりでしかないことを理解していたため、唇を噛んだ。
その代わりに、彼らを黙らせるに足る事実を告げる。

「・・・・・・すまない。声が、骨に響くんだ。静かにしてくれないか」

「おっと、申し訳ない」

「申し訳ありません!」

「いや・・・・・・いい」

飄々とした態度で謝罪する火浦とは裏腹に、若い衛生兵は顔を青くして必死に頭を下げた。
ストレッチャーを運んでいるのに危ない。神宮司はあまりに申し訳なさそうにする彼女に罪悪感を覚え、怪我の無い右手で制す。

「・・・・・・なにを、やっているんだ。私は」

いらいらは消えたものの、逆に胃の中に鉛でも詰められたような感覚に、神宮司は一人ごちる。
親しくしていた仲間が死んだ。そして、おそらくは全滅した。しかし、実感がわかない。
自分の中で膨れ上がるいやな気分を持て余して、彼女は担架にかけられた柔らかいタオルに顔をうずめた。








[28081] コバルトの章第四話 病室
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/09 21:15






九月十八日。いまだ烈日といっていい猛暑だ。
まして、ここは太平洋に面する神奈川。梅雨ほどではないにせよ、湿気が多い。
そんな中、エアコンもない蒸し暑い講堂に、暑苦しい、もとい、むさ苦しい男たちが大集合している。

「・・・・・・ついてないな。星だけに」

金のモールのついた准尉の階級章を眺めて、火浦はぼそりと呟いた。
以前、彼の軍服に付けられていた階級章は曹長の、赤地に黄色のライン、その上から三つの星がついたものだった。
それに引き換え、金のモールがついただけで、星が全部なくなって、こざっぱりしてしまった准尉の階級章は少しばかり物寂しい。

「フッ」

もっとも、勲章のメダルやらデコレーションやらがいろいろ増えて、胸元がごちゃごちゃしてきた分バランスが取れているのかもしれない。
そんな益体もないことを考えていたせいか、自分の名前が読み上げられた際に一瞬だけびくりと背筋を仰け反らせてしまう。
従軍記章の授与だ。今回の九・六作戦に参加した将兵に与えられる名誉勲章である。
火浦は胸元とわき腹の傷に気を遣いながら、他の兵士がしていたのと同じように、完璧な動作で勲章を受け取った。

「はあ・・・・・・」

負傷を押してというか、座って参列しているだけなら問題なかった為、暇だった火浦はここにきたが、少しばかり後悔していた。
額に浮かんだ汗を拭いながら、病院で眠っているであろうアーチャーや神宮司たち同室の者たちの姿を思い起こす。
自分で好き好んで参加したのだから文句を言うつもりはないが、いかんせん暑い。
涼しげな風でも吹き込んでくれないかな、と念じて開け放たれた扉を睨むが、生憎今日は無風だ。
ため息のひとつぐらいついても、怪我のせいだと思って見逃してくれるだろう。

「この勲章を生きて貴様の胸に付けられることを嬉しく思う・・・・・・」

もう老境も半ばであろう、白髪の男、小宮山閣下は背筋こそ伸びているものの、とても頼もしそうには見えなかった。
一個旅団を、列する一万の兵を指揮する少将にしては、声に張りがない。
まだ再編先は決まっていないが、戦場で老衰死するのだけは勘弁してほしい。
・・・・・・何でこんな馬鹿なこと考え付くんだろうか。

「・・・・・・」

渡されたメダルを指先でいじると、爪を立てたところの塗装が少しだけ剥げてしまった。
意外と安っぽくできてるんだなあ、と、おそらく鋼材で出来ているであろう勲章をぼんやりと眺める。
これがあると年金が少し多くもらえるらしい。何十年も後の・・・・・・気の長い話だ。
やがて、とっても長くてとってもありがたいお話が終わると、順番に退席させられる。
軍楽隊の演奏を背に、火浦は今日の昼食の献立へ思いを馳せていた。






「ただいま」

「おかえり」

返事もそこそこに、アーチャーはベッドの上に横たわってグラビア雑誌のピンナップを眺めている。
彼が凝視している水着姿の彼女は、なんとかちよ、という名前のグラビアアイドルだった気がする。
特に興味もなく部屋に入ると、神宮寺が松葉杖を片手にベッドに横になろうとしている。
左腕と右足を骨折してしまった彼女はずいぶんと難儀しているようだ。

「昼飯の時間だな。今日は夏野菜のカレーだったか」

「お前は粥だけどな」

「なあまりもちゃん。昼飯交換しない?」

「断る。なんだその気持ち悪いしゃべり方は」

つれないねえ、と火浦は自分のベッドに腰掛ける。彼女の対面のベッドだ。
この病室には六人の患者が収容されているが、そのいずれもが重傷の怪我人である。感染症などの恐れはない。
火浦に関しては内臓にダメージがいまだ残っているので、流動食や粥のような柔らかいものを食べさせられているのだが、本人はもう飽きているようだ。
しかし、十二日前に生死の境を彷徨ったものとはとても思えない元気さだ。
時計を見やると、十一時半になろうか、という時間である。病人の食事の時間は早い。そろそろだ。

「昼食の配膳に参りました」

カウントダウンしていると、割烹着を着た中年女性が扉を開けて配膳台を押して入室した。
年のころは三十五か、六、女真っ盛り。後れ毛が色っぽい、少し草臥れた印象の眦の未亡人だ。火浦としてはどストライク。
ここはいちおう軍病院だが、民間で食事の世話や介護を請け負っている。彼女は民間人だ。

「百合子さーん。また粥ですか?そろそろ飽きたんだけどなあ・・・・・・」

「そう言うと思って、今日は特別に鮭のお茶漬けにしておきました」

にっこりと微笑を浮かべて百合子、と呼ばれた彼女は火浦のベッドに備え付けられているテーブルの上に彼の分の食事を置く。
火浦は、やったね、とばかりに相好を崩すと、すんすんと鼻を鳴らして久々のなまぐさもののにおいを楽しむ。
ここ数日、卵粥か白粥かの二択で、その上おかずは鰹節か梅干だけだった。海苔すらない。
前線で食べていた、油とたんぱく質の塊のようなレーションよりは遥かにマシなのだが、せっかく生還したんだから美味いものぐらい食いたい。

「おお・・・・・・素晴らしい。気が利くよなあ・・・・・・大和撫子の鑑だよ」

「ふふ、ありがとうございます。三日もすれば通常メニューに戻すそうなので、楽しみにしててくださいね」

「そりゃあ楽しみだ」

嬉しそうに返事をすると、火浦はゆっくり鮭茶漬けを味わうようにかみ締める。
ほぐし身の鮭の脂と、淹れたての緑茶の香りがなぜか絶妙にマッチしていて、かみ締めるほどに味が染み出してきた。
目で見た目を楽しんで、鼻で匂いを楽しんで、歯で食感を楽しんで、舌で味を楽しむ。これこそ食事ということだ。

「食い物を食うってのは、これだよな・・・・・・」

ああ、これだよ、これが食いたかったんだよ、とばかりにかきこもうとするが、少し考えて、やめた。
せっかくこんなにおいしいものなんだから、かきこむように食べてしまったら勿体無い。
茶碗の中の五分の一ほどを食べたら、付け合せの温野菜に、紫蘇味のドレッシングを和える。
これまた美味い。最初は粥とも呼べないような流動食だったし、今ならなんでも至高の味に思えるほどだ。
紫蘇の風味とドレッシングの酸味と、湯がいたキャベツの適度な歯ごたえが組み合わさって、とても食べやすい。

「しみじみうまい」

「・・・・・・美味そうだな」

「美味いからな」

隣のベッドで夏野菜カレーを食べていたアーチャーが、彼の食べっぷりを見てぼそりと呟いた。
美味いものは美味い。少なくとも自分で作った飯や、前線司令部で食べていた糧食などよりは遥かに美味い。
三十回以上噛んで、ゆっくり飲み込むと、五臓六腑に染み渡っていくようではないか。

「火浦さんはいつもおいしそうに食べてくれますね」

「事実美味いですし、病院じゃあ食べるのだけが楽しみですから」

「そう言って頂けると、私たちも料理のし甲斐があります」

穏やかな笑みを浮かべる彼女に、火浦は少しだけはにかんだ笑みを見せた。
事実、一日中薬臭い空気の中で横になっていると気が滅入るのだ。まだまだ暑いこの季節では尚更。
せっかく故郷の近くまで戻ってきたというのに、外に遊びに行くこともできやしない。当然、一日三度の食事だけが楽しみになる。
開け放たれた窓から見える、横浜の町並みは活気で溢れていて、外に出たい気持ちは膨れ上がるばかりだ。

「それじゃあ、一時間後にまた来ますので」

「はい」

百合子の後姿をぼんやりと眺めながら、火浦は再び目の前のご馳走へと意識を向ける。
茶漬けをすすると、少し冷めたおかげで飲みやすくなっていた。
あまり急ぐと内臓に負担がかかる。ほかの連中が食べ終わるよりも遅く食べ終わるぐらいに調整して食べる。

「・・・・・・ふー、美味かった」

久しぶりに固形物を食べたせいか、少しばかり腹が重たい。すぐに横になるのは拙かろう。
火浦はデザート代わりにドロップの缶を転がして赤い色の宝石のような飴玉を手のひらに出すと、口の中に放り込んだ。
噛まずに舐めながら、外を眺める。火浦の視力は1.0ジャストだから、街並みはぼんやりとしか見えない。
それでも、人が大勢いるという活気は伝わってくるものだ。ちらりと視線を横にやると、口元を拭いていた神宮司と目が合った。

「少尉はここの出身だって聞きましたが」

「・・・・・・ああ」

話しかけられた神宮司は少しだけ怪訝な表情をつくると、窓の向こう側を見て、少しだけ懐かしそうに目を細めた。
ここからすぐの訓練校でしごかれた、厳しくも、懐かしい日々。まだ一ヶ月も経っていないのに、遠い昔のことのようだ。
あるいは、その思い出を共有するものがいないから、そう感じるのかもしれない。
少しだけ、眦に涙がにじんだ。

「この辺の名産って何があります?祖父に土産を贈ろうかと・・・・・・」

「・・・・・・レーズンサンドなんかは、どうだ?」

「ああ、いいですね」

バタークリームとレーズンを混ぜたものをクッキーで挟んだ、あれだ。とてもおいしい。
東京でも買えますけど、とは言わなかった。まあ、好き嫌いがない人なので、六個ぐらい入ったやつを贈れば十分だろう。
本当なら顔を見せに行きたいところだが、時間が空くかわからないので、保留だ。

「おれの分も買ってきてくれ」

「甘栗の分の金払ってからな」

忘れてなかったのか、というアーチャーの呟きは聞き逃さない。
地獄からでも取り立てに来るぞ、とでも言うような眼差しで返してやった。
借りた金は忘れても貸した金は忘れないのが人間というものだ。よくできている。
くしゃくしゃになった軍票を引っ手繰るように受け取ると、火浦は外出用のジャケットのポケットにそれを突っ込んだ。
そんな時、勢いよく病室の扉が開かれた。百合子だろうかと思って時計を見たが、まだ一時間は経っていない。

「おひさー。火浦ちゃん大丈夫?」

「おお、ええと・・・・・・岬。元気だよ」

「あら。名前覚えててくれたのね・・・・・・嬉しいワ」

制式軍装を着こなしたスマートな美青年がオネエ口調でしゃべるのは、どうにも違和感がある。
彼、いや、魂の性別として彼女と呼称しよう。彼女は岬倫太郎。コバルト小隊の三番機の搭乗者を務めた陸戦歩兵だ。
火浦と同じ准尉の階級章や、従軍記章などの胸章を見る限り、先ほどの式に参加していたらしい。

「見舞いに来てくれたのか?」

「ええ。花瓶借りるわネ」

「嬉しいね。殺風景な部屋だからさ」

オレンジ色が鮮やかな花束を見て、火浦は素直に感謝した。部屋の中に花があるとずいぶん違う。
彩り鮮やかで、目を楽しませてくれるし、いい香りがするやつなら、匂いを楽しむこともできる。
乱暴者の火浦ではあるが、そういったものに感動する心ぐらいは持っているつもりだ。

「あら、綺麗な娘(コ)たちがいるじゃない」

「ははっ、笑わせないでくれ。わき腹が痛いんだ」

「おい、どういう意味だ」

「・・・・・・呪うわ」

「失敬」

六人部屋の中に二人いる女性陣に睨まれた。失言だった、と素直に謝る。
あまり即答するのはよくない。よく考えてから言葉は使うべきだった。二方向から暗い眼差しを叩きつけられた火浦は縮こまる。
脂の乗り始めた三十路前後の女性が好みなだけで、他意は無い。
別に君らが綺麗じゃないと言っているわけじゃないぞ、と言い訳を行うが、彼女たちの視線は厳しいままだ。
これから一ヶ月以上同じ病室で過ごすというのに、嫌われるのはどうも居心地が悪い。

「わかったわかった。飴玉やるから許してくれ」

「子供じゃないんだから・・・・・・」

「グレープ味・・・・・・二個で許すわ・・・・・・」

「子供だったな、うん。まだ、未成年だもんな」

つややかな黒髪が特徴的な衛士の少女の、あまりのチョロさに神宮司は戦慄した
火浦がドロップ缶から取り出した飴玉を二つ受け取ると、ひとつを口の中で転がしてほくほく顔だ。十九歳だというのに、随分と幼い。
彼女の外見は、長い黒髪に病人のように細い手足の痩せた少女だが、内面も欠食児童のようである。
実家暮らしのときに近所の人が飼っている犬に、たまに餌をやっていたが、少しだけそのころが懐かしくなった。

「・・・・・・美味いか」

「・・・・・・おいしいわ」

そうか、とだけ呟いて、火浦は神宮司にもドロップを二つばかり投げ渡した。片方にあげてもう一方にあげないというのもアレだ。
彼女は無事な右手だけで器用にドロップを二つとも受け取ると、赤色と緑色のうち、赤色を口の中に含む。
イチゴ味が口の中に広がる感覚に、しばらく甘いものを食べていなかったことを思い出した。

「おれには?」

「ほら」

厚かましい。アーチャーや、他の二人の野郎どもにも飴玉を二つずつ投げ渡す。
もうドロップの缶には十個も入っていまい。からんからん、と中で飴玉が転がる音が物寂しい。
気づけば、いつの間にか岬がいなくなっている。花瓶に水でも注ぎにいったのだろうか。

「あら、おやつの時間?」

そう思って部屋を見回すと、扉が開いて岬が部屋へと戻ってきた。
帰ってきた彼は、二十前後の若者たちが皆一様にドロップを口の中で転がしているのを目にして少しだけ引きつったような笑みを浮かべる。

「まあ、そんな感じかな・・・・・・あ、そこ置いてくれるか?」

「ええ」

岬は火浦の指差した場所、直射日光の当たらない場所に花瓶を置いた。花束ひとつだが、随分部屋が明るくなった気がする。
開きっぱなしだった扉から、廊下からの風が吹き込んで、ほんのりと爽やかな甘い香りが部屋に漂う。
これはありがたいな、と素直に感謝した火浦は、ドロップを缶ごと岬に手渡した。

「プレゼントフォーユー」

「ま、ありがとう!」

プレゼント貰うなんて久しぶりだわあ、と呟いて、彼女は心底嬉しそうに微笑んで受け取った。さすが美男子、もとい美女。絵になる。
こんなに喜んでくれるならもっといいものをあげた方がよかったかもしれない。
なんとなく申し訳ない気持ちになってしまった火浦は、もう一度だけありがとうと告げた。
そして、手持ち無沙汰になった彼は、何となく、岬に近況を聞いてみる。

「最近お前らどうしてるんだ?」

「どうもこうも、今までどおりよ。小次郎さんは相変わらず小隊長で、寵児は相変わらず戦車に乗って、由真は相変わらず整備士・・・・・・あ、主任になれたらしいワ」

「配置換えは無いのか?特に変わったことも?」

「戦術機の適性試験受けさせられたわね。相変わらずEだったから無駄だったけど」

「なるほど・・・・・・」

ならば、近々火浦も適正試験のやり直しをやらされるかもしれない。
下士官じゃちょっとやそっとじゃ貰えない筈の、功五級の勲章を叙されたのも、戦術機を駆って一個小隊で敵の足止めを成功させたが故だ。
再度試験を受けて、適性ありと判断されたならば、再訓練の後に戦術機甲部隊に配属されるというのもありえない話ではない。
過去、自ら願い下げたウイングマークだが、未練が全く無いわけではない。少しばかり複雑な気持ちが心中渦巻く。

「まあ、いい。で、その荷物は?」

そんな気持ちを振り払うように、岬が持ってきていた大きな紙袋の中身を問う。テレビが入りそうなほどでかい袋だ。

「ああ、そうそう。暇してるって聞いたから本の差し入れ」

「ありがたいありがたい・・・・・・変なのじゃないよな」

「変なのって何よ」

「ないなら、いい」

一冊渡された本を見てみる。車輪の下、と題名が書かれていた。
懐かしいな、と思うよりも、胸糞悪い、という思いが湧き上がってくる。
学生時代に読んだが、読み終えた後には腹の中に鉛でも詰め込まれたかのように重い気分になったものだ。
二度と読みたくない、と気分の悪さを振り払うようにため息をついて、本を岬につき返した。

「これが児童図書コーナーに置いてあるとかイカレてるよな。夢も希望も無くなるだろ。もっと明るい本は無いのか?」

「じゃあこれなんかどう?」

忠犬キュウべえ、という題名の本を渡された。
犬なのか猫なのか、ウサギなのかよくわからない生き物のイラストが表紙に描かれている。忠犬というのだから犬なのだろう。
白い毛並みにまん丸な赤い目がキュートだ。動物の話は大抵後味がすっきりしているし、火浦としても動物は好きなので有難い。
そして、何冊か面白そうな本を見繕っていると、岬は思い出したように腕時計に視線を落として告げる。

「あ、そろそろお昼休み終わっちゃう。置いていくから好きに読んでネ」

「ほかの連中にも貸してやっていいかい?」

「いいわよー」

「ありがとな」

言うと、彼女は手を振って部屋から出て行った。入れ違いに百合子が食器の回収にやってくる。
実に心穏やかな生活だ。大陸ではこんなに安らいだ気持ちにはなれなかった。
一年以上戦地にいて肝が太くなったと思ったが、やはりこっちの方がいい。
枕に頭をうずめてぼんやりと窓の外を眺めると、電線にスズメが止まっていた。チュンチュン、と鳴き声を上げている。
そういえば、鳥は空を飛ぶんだよな、と益体も無いことを考える。

今日日、まだ日本帝国は平和であった。









[28081] コバルトの章第五話 一日
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/14 20:42



午前九時。窓から差し込む陽射しが心地よい。
ぴこ、ぴこ、とバイタルデータを示す音を聞きながら、火浦は左手を握ったり開いたりする。
黄色いお湯のような、無味無臭の薬液の中に浸けた腕から、ぴりぴりとした弱い痺れが駆け上がってくる。
マッサージのようでとても心地がいい。つい眠ってしまいそうになる頭をはっきりさせようと、火浦は眉間をぐりぐりと揉んだ。

「・・・・・・はー」

ここはリハビリテーションルーム、いわゆる理学療法室である。
内臓系統へのダメージ、肋骨骨折、左腕に大きく裂傷、左頬皮膚剥離と、満身創痍の火浦だったが、同室の者たちのなかでは一番復帰が早かった。三週間で骨はくっつき、痛んだ内臓も完治。左頬は大きく白く傷跡が残ってしまったが、色素が沈着しなければ数年で消えるだろう。
日本帝国の医療技術は世界でも最先端を行っているとはいえ、それでも彼は特別回復力が強かった。
やがてアラームが鳴ると、広いリハビリルームの向こう側で処置を行っていた理学療法士の先生がこちらに視線を向ける。
大丈夫ですよ、と身振り手振りで合図を送ると、彼は少しだけ申し訳なさそうに頭を軽く下げた。

「・・・・・・」

ここ、横浜は欅町にある軍病院は、もともと大学病院だったこともあり非常に多くの医者や理学療法士が勤めている。
しかし、九・六作戦の失敗の折に出た、膨大な数の負傷者を捌ききるにはいかにも足りない。
佐世保や横須賀の方の病院にも多くの傷病者が収容されており、パンク状態である。
航路の問題上、横浜に運び込まれた者は比較的軽傷のものたちだが、それでも病室にはもう空きが無い。

「すいません!お待たせしました!」

「いえ、大丈夫ですよ」

額に汗を浮かべた若い理学療法士の青年は火浦のもとに駆け寄ると、すぐに機械に取り付けられたコンソールを操作する。
そして、左腕を浸けていたタブから黄色い薬液が排出されるのを待つまでも無く、火浦の左腕を引き上げてタオルで拭いた。

「調子はどうです?まだ痺れますか?」

「少し、ですね」

彼らの手助けもあり、左手の握力は既に八十キロまで戻っていた。
まだヘリパイロットに戻るには心もとないが、着実にリハビリの成果が出ていることに火浦は安心する。
大事な神経が途切れたりしていなかったおかげで、治療は実にスムーズに行われた。

「次は何時も通りウォーキングを三十分お願いします」

「はい・・・・・・今、ですか?」

ウォーキングマシンの方を見やると、空いていないどころか順番待ち。備え付けられたベンチもいっぱいで、立って待っている連中さえいる。
理学療法士の青年は、またもや申し訳なさそうに眉を八の字にすると、火浦に懇願するように両手を合わせる。

「・・・・・・ええと、すみません。機械が空いてないので、待っていてもらえますか」

「・・・・・・いや、外で歩いてきますよ。陽射しも強くないので、大丈夫です」

「すみません・・・・・・」

別にあなたが悪いわけではないだろう、と言おうかと思ったが、彼は軍人ではない。
居丈高、というか、威勢のいい人間の多い軍隊に慣れていたせいか、もともと日本には彼のような腰の低い人が多いことを忘れていた。
こういったところで毒されているな、と思った火浦は、なるべく鷹揚な笑みを浮かべて、彼に告げた。

「たまには外の空気が吸いたいんですよ。煙草持ってってもいいですか?」

「だ、駄目ですよ!」

「はは、冗談ですよ」

煙草は吸いませんよ、と冗談めかして言うと、もてあましたような足取りで火浦はリハビリルームを出て行く。
百九十三センチある火浦の長身は、ここの病院では特別目立つ。
廊下で会った看護婦や医者にいちいち挨拶をしているうちに、たった三週間で有名人になってしまった。
階段を降り、待合室を通り、正面玄関でスポーツシューズに履き替える。
そんな時、同じリハビリルームで治療を行っていた、知った顔を見つけて火浦は声をかけた。

「お・・・・・・ええと、沙霧君、だったよな。もう退院か?」

「はッ、火浦准尉」

銀縁眼鏡をかけて、髪を短くスポーツ刈りにした少年である。顔立ちも端整で、篤実そうな外見に違わず、真面目な訓練兵の男だ。
暇なリハビリ中に会話を交わすことがあったが、特別親しいというわけではない。
火浦はシューズの紐をきつく結びなおして立ち上がると、彼に挨拶をして別れを告げる。

「そうか・・・・・・身体には気をつけなよ」

「はい。・・・・・・あ、前を」

沙霧の言葉に反射的に前を向くと、ドレスシャツ姿の紳士にぶつかりそうになってしまった。
申し訳ない、と頭を下げ、道を開けようとすると、避けようとした方向にも人がいた。紳士と手をつないだ、十歳前後の少女だ。
どちらに避けようかと考え、火浦はサッカーのゴールキーパーのような奇怪な動きをとってしまう。まるで通せんぼをしているようだ。

「いや、参ったな。はは・・・・・・」

少女がくすりと笑ったことに恥ずかしくなってしまった火浦は、親指で鼻の頭をかいた。
もう一度だけ頭を軽く下げて避けていこうとすると、沙霧が突如として声を上げた。

「少将!」

「え?」

火浦は彼の声に振り返り、沙霧と、その視線の先にいる紳士とを見つめる。
思えば、紳士の顔はどこかで見覚えがあった。たしか、彩峰といったか。
個人的な理由で病院を訪ねたから、軍服姿ではないのだろうが、少々礼を失した態度を取ってしまった。
素早く居住まいを直すと、火浦は敬礼を行った。額には冷や汗が浮かんでいる。

「構わんよ。今日は私用だ」

「はッ!」

びしっと右手を下げると、火浦は背筋を伸ばしたまま玄関から出て行く。
なんであんな偉い人が来てるんだよ、とため息をつきながら軒先から出ると、それとほぼ同時に曇天の空から通り雨が振り出した。
流石に九月六日から一ヶ月近く経っている今、死の灰は混じっていないだろうが、実についてない。
やれやれ、と思いつつ玄関に戻ると、再度彩峰少将たちと鉢合わせしてしまう。

「・・・・・・通り雨、ですな」

「・・・・・・うむ」

「ええと・・・・・・すぐ止むでしょうし、雨宿りしませんか」

助け舟を出してくれよ、と沙霧に視線を送ると、彼はたどたどしく彩峰少将に提案をした。
彼は、そうだな、とだけ告げると、娘と思しき少女と一緒に待合室へと向かう。
そんな彼らの後姿を見つめた火浦は、ほっと一息ついて沙霧へと感謝の言葉を述べた。

「助かったよ。ありがとう」

「気さくな方ですから、あまり畏まる必要は無いと思いますよ?」

「いやー、二年半も軍人やってるとさ、癖というか、なんというか・・・・・・おれってデリカシーないし、ボロが出る前に退散するよ」

そう言われても、今回の戦功によって特別精勤章を貰っている身としては、なるべく模範的な行動をとらねばなるまい。
制式軍服の、准尉の階級賞の上に貼り付けられた赤い山形の臂章は、少しばかり重たい。
本来ならば三年間の軍務の間、大きな問題を起こさなければ授与されるものなのだ。これがあると、一応、給料も上方修正される。
望んで貰ったわけではないが、禄には奉で返さねばなるまい。

「ははは・・・・・・そうなんですか?」

「やだね、まったく・・・・・・ん?ほら、行ってやんなよ。コレを待たせちゃいかんぜ」

下品に小指を立ててウインクする。
目配せされた方向を見れば、彩峰少将の娘らしき少女が可愛らしくむくれて此方を睨んでいた。
親に似たのか、なかなか美形だ。将来美人になるだろう。

「なおやおにーちゃーん!?」

「ち、ちがいますよ!?・・・・・・慧、病院で大声出しちゃいけないよ」

「それじゃ、お元気で」

慧、と呼ばれた少女のもとへ沙霧が早足で歩いてゆくのを背に、軽く手を振って別れを告げる。
沙霧がそれに気付いて同じように手を振って返すのを尻目に、火浦は院内に敷設された売店へと向かうのだった。






廊下の床は冷たいリノリウム張りで、ゴム製のサンダルだというのに足音がよく響く。
この病院は大きいだけあって中を歩くだけで軽く散歩になるぐらいだ。
とはいえ、正面玄関から売店まではせいぜい百メートルかそこら。じきにつくだろう。

「・・・・・・」

雨天なのに、空は依然としてコバルトブルーだ。晴天の、何とやら、という言葉を言おうとして、やめた。
渡り廊下の窓から見える花壇には名前を知らない色とりどりの花が咲いていていて、ここを通る者の目を楽しませるのだが、今日は窓が曇っていてよく見えない。
岬が持ってきてくれた花束に混じっていたオレンジ色の花と同じ色が見て取れるが、判別はつかなかった。
ふう、とため息をつくと、火浦は壁に手をついて足をぶらぶらと弛緩させる。
普段横になっているせいか、少し歩いただけで足の裏が痛くなってくるのだ。最近は少し太ってきたような気もするし、ダイエットせねばなるまい。
そんなことを考えていると、売店が見えてきた。あまり広くないそれだが、娯楽の少ない病院内では非常にありがたい存在だ。
菓子棚の隙間の狭い通路をその巨体を縮めてすり抜け、週刊雑誌の置いてあるコーナーへと手を伸ばす。

「あっ」

そのとき、二つの声が重なった。火浦と、同じく文芸雑誌に手を伸ばした神宮司少尉であった。
初秋の湿気と汗を吸って黴の生え始めていた右足と左腕のギプスは既に外れているが、松葉杖をついて歩く姿は痛々しい。
二人とも反射的に手を引っ込めたが、相手の姿を確認してからは両者居心地悪そうだ。
どうぞ、と言って神宮司に勧めると、彼女もいや、いい、と返す。
なんというか、今とろうとした文芸誌に掲載されているような作品の一章一節に出てきそうなシチュエーションではないか。
題名はよく覚えていないが、君がなんとかのなんとか、という作品では、主人公がヒロインの手の届かない場所にある本をとってあげることでファーストコンタクトを果たしていた。

「どうぞ。少尉殿」

「い、いや・・・・・・いい。気にするな。お前が買えばいい」

先日、火浦の左腕の怪我の原因をふとしたことで知ってから、なんとなく彼女の態度が余所余所しくなっていた。
戦場での錯乱振りでも思い出して恥ずかしいのか、怪我をさせてしまって申し訳ないのかは知らないが。
後者ならば治療もほぼ終わったし、もう一ヶ月近く前のことなのだから、気にする必要もないと思うのだが、どうにも責任感が強いらしい。
病室でもギクシャクとしてしまって居心地が悪いのだ。

「・・・・・・ええと、じゃあ貸しますよ。読み終わったら」

「そうか・・・・・・うん。すまない」

「いえ、構いませんが」

「・・・・・・」

何を言おうかと目を閉じて考え込んでしまっている。
火浦はしばらく一人にしてあげたほうがいいか、と判断し、レジへと向かう。
文芸誌とチェリオ、そしてチューイングガムの代金五百円を小銭で支払い、火浦は自室へと戻ろうと売店を出る。
買ってから、リハビリがまだしばらくあることを思い出した彼は、ソーダは終わった後のほうが良かったな、と少しだけ後悔した。






神宮司まりもは松葉杖をついて売店の中をうろうろと歩き回る。
目的だった雑誌は火浦に譲ってしまい、どうしたものかと考えているのだ。
せっかくエレベーターで一階に下りて売店まできたのだから、何も買わずに帰るというのももったいない。何がもったいないのかはわからないが。
今日は湿気が多くて暑苦しい。久しぶりにスカッと爽やかなソーダでも飲もうかと、店番の中年女性に話しかける。

「すみません。ソーダをひとつ」

「ふたは開ける?」

「あ、お願いします」

「アイヨー」

冷蔵庫からソーダを出し、手馴れた手つきで瓶のふたを開けると、中年女性は神宮司にソーダを手渡しした。
彼女の左手の骨はつながったばかりで握力も弱いが、この程度ならば問題なく持てる。
上着のポケットから取り出した小銭で購入すると、神宮司は売店から出てすぐのところにあったベンチに腰かけてソーダを傾ける。

「ふぅっ・・・・・・」

炭酸飲料の爽やかなのど越しに神宮司はほっとため息をついた。
つい先日までギプスをつけていた左腕は少しかぶれてしまっているが、薬のおかげでさほど気にならない。
夏場の港町の湿気は馬鹿にならない。一ヶ月近い期間取り付けていたギプスの内側には緑色の斑点ができていたものだ。

――――困った。

そして、のどが冷えて頭が冷静になってくると、今現在直面している問題に神宮司は頭を抱える。
ほかでもない、九月六日の件である。

「あれが、恩人だったのか・・・・・・」

あれ、とはひどい言い草だが、火浦のことだ。
錯乱してBETA群の只中で取り残された彼女を命がけで救出したのは、同室の気安い男だった。
言われてみて思い返せば、丹東市の港で肩に担がれていたような記憶がある。傷顔だったのは覚えていたのだが、火浦とは何故か結びつかなかった。
彼女が覚えているのは処置を終えて船室に運ばれた後のことだ。それ以前のことは今更ながら思い出している。

「・・・・・・はあ・・・・・・」

ため息をつくと、余計気分が重くなってくるようだ。
例え相手が下士官とはいえ、恩人に上から目線で接していたのだ。怪我まで負わせた負い目もあって、自分が嫌になる。
なんと言って謝罪すればいいのかわからず、足をぶらぶらと貧乏ゆすりさせると、足元が少し滑った。
通り雨のせいで湿気を増して、リノリウムの床はわずかに湿ってきていていた。

「ん・・・・・・?」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

「おい」

目の前を通り過ぎようとしたアーチャーと目が合ったが、見てみぬフリをされた。
何故かカチンときた神宮司は反射的に彼を呼び止めるが、アーチャーは、めんどくせーな、とばかりの眼差しを向けてくる。
この男はどうにも厚かましいというか、神経が太いというか、苦手なタイプだ。柳に風、というのはこういったタイプのことを言うのだろう。

「少尉殿。何か御用でしょうか」

敬意を持ったような口調で喋ってこそいるものの、その態度は明らかにこちらに興味を向けていないことがわかる。
実際、神宮司も目的があって呼び止めたわけではない。だが、せっかくなので少しばかり相談を持ちかける。

「アーチャー曹長は、火浦准尉と同期だと聞いたのだが・・・・・・」

「そうですね」

「彼の好きなものを知っているか?」

言ってから、この聞き方は拙かったかもしれない、と神宮司は首筋に冷や汗を浮かべる。
邪推してくださいと言わんばかりの聞き方だった。
ただ、心底興味がなさそうなアーチャーは、ベンチに座る神宮司を見下した姿勢のまま首をかしげる。

「なんでまた」

「他意はない。知らないなら、いい」

「・・・・・・デートに誘いたいなら、食事をチラつかせれば一発だと思いますが」

「他意はないと言ったッ!」

「失敬」

がー、と犬歯をむき出しにして怒鳴るが、アーチャーはさらりとかわす。
下士官の連中というのはどうしてこう、と神宮司は少しばかり不機嫌になるが、ぐっと堪えて聞きなおす。
ここで引けば誤解されたままだし、得るものは何もない。

「近場で買って、渡せるようなものはないか?感謝の気持ちを伝えたい」

「・・・・・・チェリオとかチョコバーとか・・・・・・あるいは、炭酎くらい、ですかね。まあ、あれは気にしなくてもいいと思いますが」

どうせあれはナルシストだから、見捨てて逃げる自分に耐えられなかっただけでしょう、と続けた。
入営してから二年半。アーチャーは腐れ縁と化してきた火浦のことをよく理解していた。

「そうか・・・・・・だが、何もなし、というわけにもいかないだろう・・・・・・ところで、タンチュウとはなんだ?」

「酒ですよ。炭酸水とジュースと、焼酎を混ぜたものですが・・・・・・退院するまではやめたほうがいいですね」

「なるほど・・・・・・参考になった。感謝する」

今の情報を頭の中にインプットして、神宮司はどこで何を買おうかと考える。
外出許可くらいは下りるだろうが、松葉杖で商店街まで降りるのは苦労するだろう。
ならば、ここの売店でチェリオとチョコバーだけ購入して渡すべきだろうか。
ううん、と唇に指を当てて神宮司は考え込む。そのしぐさが少しだけ色っぽい。

「わざわざ准士官に贈り物をするんですか?士官の連中はふんぞり返ってなんぼでしょう」

そんな彼女を見て、何故そんなに真剣に考え込む必要があるのか、と少しばかり興味を引かれたアーチャーは問うてみる。
ここ一年半前線にいたが、大陸派遣軍の衛士の連中はどうにも自信過剰で鼻持ちならなかった。そのくせすぐに錯乱して死ぬ。
統一中華の、外国人のほうが味方の連中よりも好感を持てるという環境にはもはや慣れたものだ。国連は若干頼りないが。

「・・・・・・私の部隊が、全滅したことは知っているか?」

「ええ」

「中隊長を任せられたが・・・・・・私は初陣だった。その結果が、このザマだ」

部下は全員KIAと認定され、自分自身も錯乱していたところを下士官の男に救助された。
神宮司は自嘲しそうになって、やめる。これでは自分を信じて戦い、死んでいった仲間が浮かばれない。

「私は学ばなければならない。これ以上部下を殺すのは、ごめんだ」

「・・・・・・」

「だから、兵卒だろうと、下士官だろうと、先達を軽んずるつもりはない」

血を吐くように重々しく、彼女は告げた。
そして、手にしていたソーダをのどを鳴らして飲み干すと、松葉杖を手に立ち上がる。
売店で瓶を返却する彼女の背を尻目に、アーチャーは感心したようなため息をついて去っていった。






昼時、古めかしい電子音の呼び鈴が火浦宅に鳴り響いた。
一年半ぶりに日本に帰ってきた火浦が実家へ顔を出しにきたのだ。
彼の両手は中華街の肉まんやら、神宮司に勧められたレーズンサンドやら、地酒やらの土産でいっぱいだ。
どたどた、という思い足音の後に、戸が開けられると、火浦はいつかやっていたように、ただいま、と告げて土産を手渡した。

「お、おお・・・・・・お前!来るんなら連絡ぐらい寄越しやがれ!」

一年半ぶりに見る祖父は少し痩せ衰えているいるように見えた。
寄る年波には勝てないのか、あるいは、ひとりぼっちで家にいるせいで、精神的に弱っているのかはわからない。

「ようやく外出許可が下りたんだよ。一日の許可を取るのに六日待ったんだぜ?」

祖父に土産を押し付けると、靴を足だけで器用に脱いで玄関を上がる。

「肉まんあるから蒸かして食おう」

「おう」

言いながらふすまを開け、畳張りの部屋の隅にある仏壇の前に立った。
一年半ぶりに見る、父、母、祖母の写真。最近見てないから顔を忘れてしまうところだった。
祖母と父と、自分の泣き黒子は、同じ位置だったな、と確認する。女々しく見えて嫌いだったが、今ではさほど気にしていない。

「ただいま」

お帰り、とは聞こえなかったが、心が落ち着く。実家とはいいものだ。
ジャケットを乱雑に脱ぎ捨てると、洗面所で手を洗って鏡を見る。
最近髪が伸びてきていて鬱陶しいので、赤い紐を使って頭の後ろで結ってみると、傷が目立ってやくざもののような相貌になってしまった。

「ままならんな」

「どうした?」

そんな彼の呟きが聞こえたのか、台所で肉まんを蒸かすための鍋を用意していた源次郎が、彼に声をかけてきた。
なんでもない、と言って振り返ると、左ほほを大きく走る傷を見た源次郎は、驚きに目を見開く。

「その顔、どうした?」

「ヘリが墜落したんだよ。ああ・・・・・・言い忘れてたけど、こないだ准尉に階級上がったんだ」

「・・・・・・」

鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして源次郎は孫の顔をまじまじと見た。
学生時代、不良の京次郎と近所から白い目で見られていたガキが、ずいぶんと立派になったものだ。
思えば、今年の九月でで二十一になった。年をとるたびにますます自分の若いころに似てくる。源次郎は、少しだけ目頭が熱くなった。

「なあ、京次郎よ」

「なんだよ」

誤魔化すようにかぶりをふって、源次郎は鍋に火をかけると、孫が持ってきた土産を手にとる。横浜の地酒の吟醸だ。
飲もうぜ、とだけ言って、コップに二人分の酒を注ぐ。二年半前にもこれと同じことをした。
懐かしいな、と、二人とも同じように思っている。
源次郎は孫が生きて帰ってきてくれたことに喜び、京次郎は祖父が変わらず元気でいてくれたことを喜んだ。

「・・・・・・」

大陸じゃ押されっぱなしだとか、つもる話はたくさんあった。
だが、酒を飲んで、肉まんを食べて、デザートのレーズンサンドを食べ終えるまでは、やめた。
火浦はただ、自分の命があったことと、家族の命があったことに感謝して、日が暮れるまでを自宅で過ごした。






酒瓶を二本開けてしまった火浦は、火照った頬を夜風で覚ましながら病院への道を歩く。
足取りはしっかりしているし、酔っ払っているという自覚はないのだが、電車では酒臭かったのか、隣に座った女性にいやな顔をされてしまった。
日本の十月の夜空は見事なもので、重金属汚染や毒性を持ったスモッグで星も見えない大陸より、よほど綺麗だ。

「だけど、あそこから来てるんだよなあ・・・・・・」

悲しげにひとりごちる。久しぶりに酒を飲んだせいか、少しばかりセンチメンタルになっているのかもしれない。
あれほど美しい月も、その中には大病を抱えている。あそこはもはやBETAの巣となっているのだ。
はあ、と一度だけため息をつくと、病院の正面玄関が既に閉まっているのが見えた。
腕時計を確認すると、既に外出許可時間の終了まで十分に迫っている。火浦は裏門へと急ぐ。

「ぎりぎりですよー?」

「次からは気を付けますんで・・・・・・」

「火浦さんもう少しで退院なんだから、あんまり心配かけないでくださいねー?」

「はい」

認識票を渡すと、間延びした声の看護婦が扉を開けてくれる。
まだ院内は明るいが、売店は閉まっているし、食堂も同様だ。だからなんだということもない。
とりあえず、火浦はリハビリも兼ねて、エレベーターではなく階段で病室まで上がることにする。

「はー・・・・・・」

意外ときつい。少しばかり額に汗をかいてしまった。どうやら本気で身体が鈍っているようだ。
病室の前までたどり着くと、百合子が配膳台から食器を出しているところに出くわした。

「こんばんは」

「あ、火浦さん。お昼は外出なさっていたそうですね」

「ええ。事前に言ってありましたよね」

何か拙いことでもあったかな、と思い返す。ひょっとしたら、彼女には連絡が行っていなくて昼食を用意してしまったのかもしれない。
しかし、それは杞憂だったようで、彼女の質問はただのプライベートなものだった。

「どちらまで?・・・・・・あ、すみません。気になったもので」

「実家ですよ。大陸に行ってから一年半ぶりだったもので」

別に隠すこともない。というか、聞かれて困るようなことはここしばらくしていない、と思う。
真面目に日の差すところで生きるのが人間の幸せなのだ。後ろ暗いことばかりしているとどんどん深みにハマってしまう。
そんな火浦の返答を聞いて、百合子はなぜかほっとしたようにため息をついた。ひょっとして火浦に気でもあるのだろうか。

「そうでしたか・・・・・・」

「・・・・・・百合子さん・・・・・・おなか、減ったわ・・・・・・」

「すみません、今運びます!」

衛士の少女、桂木の声に、思い出したように百合子は配膳を再開する。
火浦はその横をすり抜けて、自分のベッドまで戻ると、昨日読み終えた本をベッド脇のクローゼットから取り出して神宮司に渡す。
タイトルは忠犬キュウべえ、だ。未来から来た宇宙人、キュウべえは住所不定無職(32)のたかしと友達になり、たかしが社会復帰するまでを描いた感動巨編である。
悔しいが感動する。火浦もボロ泣きしてしまった。

「少尉殿。キュウべえ面白かったですよ。雑誌の方は明日には貸せると思います」

「そうか・・・・・・その、だな。火浦、いや・・・・・・火浦准尉ッ!」

「はい」

険しい眼差しで睨みつけられ、火浦はなにかまずいことをしたか、と思い。かぶりをふる。
そして、彼女が松葉杖を慣れない手つきで使ってベッドから這い出て、直立するのを見て、ようやく彼女の意図に気付く。
普段は火浦、と呼ぶ彼女が、准尉、とつけて呼んだからには、軍人としての自分を求めているのだろう。
居住まいを直し、火浦も真っ向から彼女を見つめると、返事をやり直す。

「はッ!」

「救助、感謝する!」

そういって、神宮司は大き目の紙袋を火浦に渡した。中を見れば、チョコバーやらチェリオやらがいっぱい入っている。
まるでパチンコ屋の景品のような節操のないチョイスだが、火浦の好みの品ばかりだ。
ありがたいプレゼントをされて嬉しくなった火浦は、敬礼をして返答する。

「光栄でありますッ!」

今後ともよろしく、という彼女の言葉にうなづくと、火浦は同じように、よろしく、と返した。
これから長い付き合いになりそうな、そんな予感がした。









[28081] コバルトの章第六話 再起
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/17 04:01





朝の空気は冷たく澄み渡っていて、肺から出した水分混じりの吐息が真っ白に煙る。
まだ日が低い中、横須賀基地のグラウンドに霜柱を踏む音がさくさくと響いた。

「・・・・・・最近、また寒くなったな」

「今日の最低気温、七度だとよ」

「寒いわけだ」

冷蔵庫いらずだな、と傷顔の男が冗談めかして笑うと、金髪の男もつられて口の端を少しだけ吊り上げた。
彼らの白いVネックシャツに戦闘服のズボン一丁の姿では、十月も半ばの気温にはいささか寒い。
四日前に揃って退院した彼らは落ちた体力を取り戻すために、再訓練を行っている最中だ。

「・・・・・・」

スピードを落としたせいで訓練兵に追い抜かれてしまった。走るのが商売の軍人としては恥ずべきことだ。
火浦は必死に足の回転数を上げて挽回を図るが、すぐに足が痛くなってきてしまって落伍する。
もともと火浦やアーチャーのような巨人は、人並みより大きな体格を人より大きな筋量で補っているような生き物だ。
その分、一度筋肉が萎えてしまうと自重を支えることさえ困難になってしまう。

「くそ・・・・・・」

体力の低下を痛感しつつサーキットから出ると、ランニングを行う訓練兵と、彼らに怒鳴り声を上げる教官の姿が見える。
一年半前までは自分たちもあんなふうにやっていたなと、少しだけ懐かしい気分になった。
思えばもう十月も半ばだ。自分たちと同じ時期に入営した者ならば、二ヶ月後には彼らも戦地に向かうのかもしれない。
復帰次第戦地に戻されるであろう自分もそうだが、彼らの無事も祈ってやろう。
そんなことを考えていると、後ろから声がかけられた。

「・・・・・・火浦か?」

「吾川教官!お久しぶりです・・・・・・あれ、昇進なさったんですね。おめでとうございます」

後ろを振り返ると、BDUを着用した怜悧な美貌の男が立っていた。吾川禄郎、火浦たちが訓練兵の際に世話になった教官だ。
当時は少尉だったはずだが、肩の階級章を見るに、中尉に昇格したらしい。
そんな彼の視線に気づいたのか、吾川はかぶりをふって少し悲しげに顔を歪めた。
何か後ろめたいような、そんな表情だった。

「ああ・・・・・・富士の、教導隊に出向することになった」

だから昇進させられたのだと言って、吾川は目を逸らした。
富士教導隊といえば日本で最精鋭の教導部隊ではないか、と火浦は驚く。
しかし、あまり突っ込んで聞いてほしくなさそうな態度なので、曖昧な返事にとどめておいた。

「そうでしたか・・・・・・吾川中尉。自分もお陰様で生き残ることができまして、准尉に昇格させていただきました」

「ふっ・・・・・・お前は相変わらず、敬語が下手だな」

「・・・・・・すみません」

たどたどしい敬語を笑われて、火浦は少しだけ顔を赤くして俯いた。
昔だったら顔を赤くしたついでに睨んでいたかもしれないが、こんな和やかな空気では神経を尖らせるだけ無意味だ。
そんな彼に、生きて帰ってきてくれただけでいい、とだけ告げて、吾川はサーキットを走る訓練兵たちを眺める。
教官から罵声を浴びせられ、泡を吹くまで走らされ、そして地獄のような戦地へ送られる。
そんな運命を押し付けられた彼らを、哀れんでいるのかもしれない。

「しかし。お前ヘリパイロットだったよな・・・・・・一年半で准尉か?」

「もともとは輸送ヘリでしたけど、一ヶ月で戦闘ヘリに移りました。先任がばたばたといなくなるもので」

いやー、と頭をかきながら愛想笑いを浮かべて見せた。
実際、座学で教えられた以上に戦場は過酷だった。運が無ければ死んでいたようなことも一度や二度ではない。
たった1ソーティで損耗率が二割を数え、ごっそりといなくなった先任の補充に充てられる。
一年半もいれば、前線ではかなりの古参になっていたものだ。

「吾川教官!ご無沙汰してます」

「アーチャー」

思い返せば結構冷や飯を食わせられているような気がする。
上申すべきか、と火浦は頭を抱えていると、サーキットからアーチャーが駆けてくるのが見えた。
左腕を負傷していただけのアーチャーは毎日のように外で散歩をしていたおかげか、足腰は萎えていなかったようだ。
少なくとも火浦より一周分多く走れるだけの体力はあるらしい。

「昇進おめでとうございます」

「いや・・・・・・お前は、相変わらず曹長か?」

「現場じゃ先任がついただけですね」

ハッ、とアメリカンな大仰な仕草をとってアーチャーはニヒルな笑みを浮かべる。
給料は相変わらず安いし、士官からは無茶な命令出されるし、と不満を漏らすが、皮肉っぽいだけで陰湿なものはない。
一年半も真面目に仕事しているのに、ギブに対してテイクが少ないのではなかろうか。

「戦時だからな・・・・・・」

「おれは戦争をしているつもりなんてないぞ?」

諦観が混じった表情で火浦が言うと、アーチャーがすぐに応えた。
捕虜も取れないし、奪うものもないし、停戦も休戦もできないような相手とどうやって戦争をするんだ、と。
言われてみれば、ただ殺すか殺されるかをやっているだけで、人類の滅亡を先延ばしにしているだけのような気もする。
日ごとにBETAは増えるし、味方は減るし、そう思うのも無理からぬことだった。

「・・・・・・すまない」

そんな彼らに対し、血を吐くように、重々しい響きを持って、吾川は一言だけ謝罪した。

「何か、謝られるような覚えはありませんが」

「・・・・・・三百二十八人中、百七十七人だ」

何の話だ、と一瞬だけ考えて、すぐに火浦はそれに思い至った。
彼が担当した訓練兵と、その中で既にKIA判定された者たちの数である。
手足を失ったり、臓器を損傷したりと、重傷でまだベッドから起き上がれないような者をいれればもっと数は増える。
生き残れと、ただそれだけの為に訓練を課し、罵倒し、辛い思いをさせても、それでも半分以上が死んだ。
そんな純然たる事実に、吾川は胸を掻き毟るような無念を抑えきれない。

「尚更、謝られるようなことじゃありませんよ」

しかし、火浦もアーチャーも、彼の謝罪を受け取ることはしなかった。
今の現状、人がゴミのように、無意味に、無残に殺されていくことが、誰の責任だというのか。

「文句を言いたい相手は教官じゃなくて、BETAとか、政府や軍の馬鹿とかですよ」

火浦が言ったように、本当に罵るべき相手は他にいる。
馬鹿の尻拭いの為に現場で戦い、血を流している人間の責任では断じてない。
あるいは、滅亡の危機に瀕しているというのに一致団結の姿勢を取れない、愚かな人間そのものに憤っているのかもしれない。

「・・・・・・拙いところを見せたな。士官が弱音を吐くとは・・・・・・」

火浦たちの言葉に、吾川は少しだけ表情を楽なものに変え、かぶりをふった。
確かに吾川禄郎は大規模な大陸派遣軍編成前に実戦を経験した、大陸帰りの衛士である。
だが、まだ二十六歳の若者である。火浦と五つしか変わらない。そんな彼が自分の後輩を死地に赴かせることに重圧を感じないわけがなかった。
そんな彼を励ますように、アーチャーはいつものニヒルな笑みを浮かべて告げる。

「いつもの何を考えているかわからない教官でいてくださいよ」

「そうそう」

「・・・・・・お前らが生きて帰ってきてくれて、よかったよ」

目をきつく閉じて、吾川は確かな口調で告げた。
それこそが、優しい言葉など欠片もかけてくれた覚えのなかった冷たい男の、本音のような気がした。
本当はまともな教官たちはみな、こんな風に思ってくれているのかもしれない。
目の前のグラウンドで、訓練兵に汚い言葉を浴びせかけている鬼軍曹も、きっとそうなのだろう。

「そろそろ教え子が来る。八時からトレーニングルームが空くから使うといい」

「了解しました!」

腕時計を確認すると、吾川はいつもの何を考えているかわからない能面のような表情を作る。
そんな彼に敬礼を行い、火浦とアーチャーは兵舎へと走っていった。
その後姿を眺めながら、吾川は少しだけ相好を崩すのだった。






トレーニングルームの豪華な設備を前にした火浦たちは驚きに目を丸くしていた。
訓練兵の時には一度として使わせてもらえなかったランニングマシンや、ベンチブレスなどが十台以上並んでいる様は壮観の一言だ。
戦術機が一個大隊陣形を組んでいるところほどではないが、感動に値する。

「・・・・・・あれ?」

しかし、早速試してみようと思った火浦だったが、使い方がわからなかった。
病院のとはタイプが違うようだし、病院では理学療法士の先生がセッティングをしてくれていたため、操作方法がわからない。
どうしていいものかと部屋を眺めると、本棚に並べられている説明書を発見する。

「ボロボロだな、おい」

「なあ、こないだ百合子さんとデートしたみたいだけど、どうだった?」

言うとおりぼろぼろの説明書を二人分持ってきてベンチに腰掛けると、アーチャーは関係ない話をし始めた。
一昨日の休日に横浜市街で百合子と待ち合わせをして買い物をしたことを、彼は知っていたようだ。
火浦は何で知ってんだよ、と思いつつも、約束をした場所に神宮司や桂木がいたな、と思い出す。
人の口に戸は立てられない。というか、女という生き物は何故か噂話が好きだ。

「・・・・・・デートっていうか、食事をご馳走になっただけだけど・・・・・・娘さんに嫌われちまってな・・・・・・」

やれやれ、とかぶりをふりながら火浦はランニングマシンの速度設定を時速二十キロに設定してみる。
説明書どおりだな、とつぶやいて乗ると、スイッチを間違って押してしまったのか突然動き出してしまった。

「おっと・・・・・・・・・・・・」

他にトレーニング機器を使っている連中でもいれば聞けたのにな、と思いつつ、走り出す。
生憎、トレーニングルームの鍵を開けたのは火浦たちで、今現在この部屋は貸しきり状態だった。

「娘って・・・・・・あの人って人妻?」

「未亡人だよ馬鹿野郎。間男になるほど落ちぶれちゃいない」

「いくつよ」

「十四」

個人情報だな、話しても大丈夫だっただろうか、と思いつつ、火浦は足の回転数を上げる。
しかし、アーチャーもこういったゴシップが好きなようで、結構鬱陶しい。

「お前・・・・・・弟って言うより、子供かって年の差じゃないか」

呆れたように言われて、火浦は少しだけむっとした。
確かに火浦は先月で二十一歳になった。そして、まだ交際しているかどうかは不明瞭なところだが、百合子は三十四歳である。
常識的に見るならばストライクゾーンギリギリいっぱいのラインで、判定は審判に任せる、といった感じだ。
ともかく、若い男を連れてきた母親に、その娘さんは複雑な気持ちだったろうな、とアーチャーは同情を禁じえない。

「ツバメに見えるぞ」

「悲しみに暮れる未亡人に愛を与えるのは、男の役目じゃないか?」

わざわざムキになって否定するのも格好悪いと思った火浦は茶化すように言うが、実際のところ本心も混じっていた。
若くして事故で夫を亡くした彼女は、実家を頼ることもできず、女手ひとつで娘を育て上げてきたのだ。
今まで苦労した分、これからの人生幸せになる権利があるだろう。でなければ、何の為に生きているのかわからない。
火浦としても彼女のことを気に入っているし、本当に好意を持たれているのならばまんざらでもない。
しかし、アーチャーはどうにもそれが気に入らないようだ。

「軽々しく愛とか言うな。下心を美化しているようにしか聞こえんぞ」

「結構真面目なんだがな・・・・・・」

結婚を前提とするほどの真面目な付き合い、というほどではないが、誠実さは失っていないつもりである。
もし、関係が発展して、色っぽい関係になったりした場合、責任をとらせていただくのもやぶさかではない、かもしれない。

「ともかく・・・・・・また未亡人にしたくないなら、やめとけ」

アーチャーの言葉にどきりとする。しかし、それを言われるとうまく切り返せなくて困るのも事実だった。
火浦自身、戦場で死ぬつもりはない。覚悟だって当然無い。今後するつもりもない。
だが、戦地に向かうということは自分と関わりのある全ての人に心配をかけるということでもある。
彼らを守るため、と言っても、待つ身も待たせる身も辛いのだ。

「・・・・・・」

家に一人残された祖父が痩せたように、きっと、絆を結ぶということは、そういうことなのだ。存在する限り幸せだが、失えば辛い。
まだ男女の関係にはなっていないし、一緒に買い物をする程度の仲だが、自分が帰ってこなかったら彼女はきっと悲しむだろう。
それは、いやだ。そんな風に思ってしまった火浦は、少しだけ胃の辺りが重くなるのを感じた。

「死ぬのが前提みたいに言うのはやめろ」

「・・・・・・まあ、おれだって死ぬつもりはないし、死なせるつもりもない」

夢を見るのも、恋をするのも、明日の予定を立てることさえままならない、こんな時代に生まれてしまったことに、悲しみを覚えないでもない。
だが、どうせ生まれてきてしまったのならば、楽しく生きねばつまらない。
やれやれ、と天井を眺めると、大きな蜘蛛が部屋の片隅に巣を作っていた。

「・・・・・・眩しくなってきたな」

上り始めた太陽が窓から差し込み、網膜を焼く。
陽射しをさえぎるようにブラインドを下ろすと、彼らは無言で再び走り出すのだった。






一週間後、戦術機用のシミュレータールームにおいて、衛士強化装備を着用した火浦は敬礼を行っていた。
それに返す吾川は、お前がここでの最後の教え子になるとはな、とだけ言って、オペレータールームへと向かう。

「・・・・・・久しぶりだな、ここも」

かつて、ここで衛士候補生として訓練を受けた記憶が鮮明に蘇る。
自分で思っていたよりも未練があったのかもしれない。現代のBETA戦の花形にして、人類の槍先、戦術機に。
真新しい強化装備は訓練生時代に付けていたものではなく、本職の身に付ける黒い皮膜のそれだ。
これではデータ蓄積による補正がかからず、前と同じ結果になるかもしれない、と思いつつ、吾川のオペレーションに従ってシミュレーターに搭乗する。

「・・・・・・やり方は覚えているか?」

「覚えていますよ・・・・・・おかげで、帰ってこれたぐらいです」

「フッ・・・・・・言うな。では・・・・・・適性試験を始める」

以前と同じ条件だ。十五分間戦術機の機動に耐えること。
吐きそうになったらコックピットの左下にあるエチケット袋を使うこと。その他もろもろ。
吾川のはじめの合図とともに、網膜にリアリティ溢れる市街地廃墟の映像が投影される。そして、見慣れてしまったBETAの姿も同様だ。
条件は同じでも、プログラムは試験のときのものとは異なるらしい。

「・・・・・・む」

搭乗している、ということになっている撃震が長刀を引き抜いて目の前の要撃級へと疾走する。
そして、それに合わせ、シミュレーターに取り付けられた油圧チューブが唸りを上げて機動時の衝撃などを再現してくれる。
すさまじい速度で目線が変わる感覚に若干の違和感を覚えつつも、二年前ほど酔うことは無い。

「よっ・・・・・・と」

なぜだろうか、そんな風に考えて、火浦は自分がヘリを操縦するときの癖を思い出した。
話は逸れるが、カートレースの漫画を火浦は何冊か持っている。カートは運転するときに曲がる方向に対して重心を操作するのだ。
火浦も臨場感たっぷりのその漫画を読んでいるときは体を右に曲げたり左に曲げたりして、祖父に生暖かい目で見られていた。
もっとも、祖父もその漫画を読んでいるときは、知らず知らずのうちに身体を右に曲げたり左に曲げたりしていたのだが。
それと同じ感覚で、戦術機と同じように身体を動かす感覚で機動を耐える。

「・・・・・・バイタル、安定しているな。もう少し、揺さぶってみるぞ」

「了解」

吾川が言い終えるのとほぼ同時に主脚で地面を蹴り上げる動作を行い、戦術機が地面を滑るように移動し始めた。
噴射滑走、これは全く酔わない。ヘリコプターの操作と同じ感覚だ。
噴射跳躍、こればかりは流石に頭がくらくらする。空中での急制動や鋭角を描く動きには慣れていないが故に。
しかし、空力特性を掴んでの滑空、そしてヨー、ロールなどはピッタリとイメージどおりに嵌って動かしやすい。
なるほど、と思った。これはヘリコプターと同じだ。風を捉えて飛ぶのが火浦の仕事。
走るときは戦術機になり、飛ぶときはヘリコプターになり、急制動時だけ我慢する。

「なるほど・・・・・・」

簡単に言えば、これから行う行動に対して、衝撃や揺れを覚悟するのだ。
目視範囲外から不意打ちを受けた場合と、これからその攻撃がくるのを理解して筋肉を硬直させた場合と。
どちらがより受けるダメージを少なくできるかは、自明の理だろう。
もっとも、これを実行するには機体のスペックを詳細に理解し、明確なイメージを持つだけの経験が必要となるだろう。

「・・・・・・」

この感覚を会得できれば、きっと本物の衛士たちと同じところまで肩を並べることはできそうだ。
何故戦術機が人と同じ姿をしているかが理解できたような、そんな気がした。

「・・・・・・適性試験終了。適性C。たいしたものだな」

「教官。面白いことがわかりました。それで、お時間いただけないでしょうか」

終了後すぐにトイレに駆け込んだ当時の火浦とは全く違う、自信に満ちた眼差しでウインドウに映る吾川を見据えた。
この感覚を誰かに伝えたい。人馬一体、という言葉をどこかで聞いたが、そんな感覚だ。
穴が開くほど戦術機の教本を読み、スペックを把握していたからこそ、未来を予測しながら身体を動かす。
この感覚で操縦すれば身体にかかる負担は大幅に減るのではなかろうか。

「わかった。それでは出て来い」

「了解」

出ると、シミュレータールーム内の、空調の利いた冷えた空気が火照った頬を冷やしてくれた。
以前の適性試験のときとも、九月六日のときとも全く違う爽やかな気分である。
ただ単にシミュレーター内に嘔吐物の悪臭がしなかったから、というだけではない。
若干の疲労感こそあるものの、胃の中をかき混ぜられたような不快感が殆ど無い。

「ご苦労」

オペレータールームから出てきた吾川は、バイタルデータが記されたシートを見ながら火浦の肩を叩く。

「ヘリパイロットの連中を衛士に引っ張ってくる、というのもありかも知れんな・・・・・・」

「それをやったら航空科から苦情がくると思いますが・・・・・・」

ただでさえ戦術機甲科に予算を分捕られて憤慨している航空科から、大量に引き抜きなどしたら大事になる。
一番恐ろしいのは、その提案をした場合、少しでも衛士や、戦術機運用のデータが欲しい日本帝国軍はGOサインを出してしまうかもしれない、ということだ。

「それで、話というのは」

「ええと・・・・・・口じゃあ説明しにくいんですが、イメージトレーニングを、衛士の教育課程に盛り込むというのはどうでしょうか」

「イメージトレーニング・・・・・・ああ、お前が身体を動かしながら操作の真似事をしてたのは、そのせいか」

見られていたのか、と火浦は少しだけ恥ずかしくなったが、この際関係ない。
実際、やってみたらこの上なくうまくいったのだから、是非とも取り入れてほしい。あるいは、実験してみてほしい。
シミュレーターを動かすには金がかかるし順番待ちだってある。実機を動かすにはシミュレーターを動かす以上の金がかかる。
だが、イメージトレーニングだったら時間の許す限り無制限にできるし、金もかからない。ひょっとしたら、と思ったのだ。

「・・・・・・詳細に報告しろ。適性がEからCに上がったこと。そして、そのイメージトレーニングのことも」

「ありがとうございます!了解しました」

「適性ありだと報告しておく。しばらくは二足の草鞋になるだろうが、辛抱してくれ」

「はッ」

おそらく、再編までは戦術機の訓練を行い、再編後には戦闘ヘリのパイロットとして大陸に戻ることになるだろう。
衛士徽章を持ったヘリパイロットになるのか、パイロット資格を持った衛士になるのかは不明だが、コキ使われそうだ。
しかし、自分の価値が認められたというのは素直に嬉しい。
また少しだけ胸を張れるような気がして、ドレッシングルームに向かう火浦の足取りは軽かった。









[28081] コバルトの章第七話 船出
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/17 04:40








火浦京次郎が船に乗るのは人生で三度目だった。
夏場の磯臭さは筆舌に尽くしがたいものだったが、冬はそれほど苦でもない。
ただ、湿気が強いのは相変わらずだ。ベッドマットやシーツが湿気てしまっていて、湿っぽい布団じゃ眠れもしない。
火浦が自身の巨体を収めきるには足りないベッドから起き上がると、二段ベッドの上で漫画を読んでいたアーチャーがそれに気づいた。

「どこ行くんだ?」

「適当にぶらぶらと」

「帰りにチェリオ買ってきてくれるか?メロン味」

「先払いだ」

「わかってるよ」

投げ渡された硬貨をポケットに突っ込むと、ジャケットを引っ掛けて火浦は部屋を出て行った。
船室を出ると、通路は風通しが良くて湿気こそいくらかマシだったものの、とても寒い。
BETAにユーラシアが侵略されてからは気候変動が激しく、洋上でも前年に増して冷えるようになった。

「はー・・・・・・」

口をすぼめて白くぷかぷかと煙る吐息を丸く整える。煙草でこうやってやっていた奴がいたので、真似をしてみようかと思ったのだ。
しかし火浦の思惑通りには上手くいかず、吐息は一瞬だけ塊のように煙ったが、すぐに空気中に霧散してしまった。
そんな風に間抜け面を晒したまま甲板まで上がると、欄干にもたれかかってぼんやりと水平線を眺める女がいることに気づく。

「お、神宮司少尉。今回の再編には間に合ったみたいですね」

「九・六の痛手がまだ癒えていないからな・・・・・・リハビリから直行だ」

さすがにそれは誇張表現だが、と彼女は皮肉げに笑ってみせた。
左腕の前腕部の骨を一本、そして右脚の脛骨を二本とも完全骨折してしまっていた彼女は火浦よりも退院が遅れた。
しかし、十二月の、今回の再編には滑り込みで間に合ったらしい。どちらかといえば、衛士の不足を補うための上の措置だ。
火浦個人としては、あれだけの重傷だったんだからもう少し寝ていればよかったのにと思ったが、口に出すことはしなかった。

「衛士訓練を受けていると聞いたが?」

「まだ未了ですよ。当面はヘリパイロットです」

「なるほど・・・・・・」

もともと一ヶ月のシミュレーター訓練を行った経験があり、九・六作戦の折には実機を駆って急場での遅滞を成功させた火浦だ。
だが、それでも衛士の訓練はその程度で完了するものではない。一日にしてならず、というやつだ。
本当ならば二月まで日本本土において転化訓練を積んだ後に戦術機甲部隊に配属される予定だったが、再編の折に熟練のヘリパイロットが足りずに駆り出されたのだ。
一応衛士候補生という肩書きもついているので、有事の際には上官の指示で戦術機運用を行うことも可能だ。

「第二世代機、乗ったことあります?シミュレーターじゃ陽炎のデータ使ってやらされてたんですけど」

「陽炎はいい機体らしいが、実機に乗った経験はないな・・・・・・」

「ああ、そうなんですか・・・・・・撃震よりずっと機敏で、なかなか慣れないんですよ」

陽炎、F-15を日本帝国でライセンス生産し、日本特有の戦術に合わせた調整がなされた機体だ。
撃震よりも一回り大きい体格といい、風の流れを利用するよりも大出力エンジンで無理矢理かっとぶことを前提にした充分すぎるパワーといい、元ヘリ乗りには苦手な機体だ。
あらゆる面において撃震を大きく超えるスペックを持っているのは理解しているが、火浦としては鋭角を描いて飛ぶよりも、ふらふら弧を描いて飛ぶほうが性に合っている。

「一ヶ月やそこらの訓練じゃあまだわからないだろう。私も半年間みっちり訓練を受けて撃震を人並みに動かせるようになったんだ」

「それもそうですな」

「・・・・・・そういえば、こんな噂を知っているか?」

思い出したように口を開いた彼女は、にやにやと小悪魔的な笑みを浮かべて火浦を見やる。
何の話か、と火浦は考えたが、最近噂話などはさっぱりだ。むしろ、噂はされるほうだった。主に百合子とのこととか。
なんともないと言っているのに、からかってくるやつばかりで堪らない。何でああも女という生き物は他人の色恋に口を挟みたがるのか。
話が逸れた。ともかく、今までの話から推察するに戦術機関連の話なのだろう。
そこまで考えて、来年に実戦配備されそうだとかいう噂の、純国産の新型戦術機のことを思い出した。

「ああ、次世代機の話ですか?」

「なんだ、知っていたのか」

どうせ知らないだろうという予想が外れたからか、少しつまらなそうに唇を尖らせる神宮司は、珍しく年齢相応に見えた。
彼女は火浦より二つ年下で、未だ未成年だ。まだまだ顔立ちや腰つきには少女らしさが見て取れる。
しかし、士官教育を受けている彼女はいつも口をへの字に結び、にらみ付けるように眼差しをきつくしているせいで、少女、というか弱い存在には見えない。
こういったところを見せてくれるあたり、顔なじみとして少しは気を許してくれているのだろうか。

「なら、名前は知っているか?」

「いえ・・・・・・名前までは」

「不知火、というらしいぞ」

何故か得意げに自分が得た情報を語る神宮司に、火浦は素直に感心したようにため息をついた。
不知火とは、確か蜃気楼の名前だったような気がする。あるいは、どこかの妖怪の名前か。
後は、祖父が相撲取りだったから知っていることだが、横綱の土俵入りの種類の名前だ。不知火型と雲竜型がある。
雲竜のほうが強そうだな、と益体もないことを考えた。

「へえ・・・・・・陽炎といい、不知火といい、命名した人は蜃気楼好きなんですかね」

「かもしれんな」

なんというか、儚いような印象を受けるネーミングで、兵器には似つかわしくないように感じた。
もっと、相撲取りの四股名みたいに力強くて仰々しい、それこそ、金隆山とかそんな感じでつけるのはどうだろうか。
そこまで考えたが、撃震のように太めのデザインの第一世代機はともかく、第二世代機のスマートなシルエットには似合わないなと思い返して口にはしなかった。

「新型が来れば、少しは生還率も上がるだろうか・・・・・・まあ、半年は本土から出ることはないだろうが、な」

国外不出の斯衛軍御用達というわけではないので、後々大陸派遣軍でも運用されるだろうが、新型を本土から出すのは少しばかり時間が要る。
今まで運用されていたものとの互換性の有無や、技術の盗用に対する警戒など、面倒くさいことに新型というものには問題が多いのだ。
それに、量産されたところで一番最初に回される場所は戦闘技術研究部隊で、二番手にはおそらく帝国本土防衛軍の帝都防衛部隊が来るだろう。
京都を守る日本帝国軍の最精鋭の部隊だ。
いずれにせよ、最前線の自分たちには縁のないもののように感じる。

「どうでしょうな・・・・・・要はソフトですよ。ガワがいくら高性能になっても中身の人間がへぼじゃどうしようもありません」

「それは当然だな」

「そこで必要になるのが、神宮司少尉殿の教育でしょう」

格好良く言い切ると、にこりと笑って火浦は神宮司を見つめる。
すると、一瞬遅れて、ぽかんとした彼女の顔が少し赤くなってきた。欄干を握る手がぷるぷると震えていた。

「・・・・・・お前、誰から聞いた?」

「桂木からですけど。ええと、すべての不幸は無知から始まる、でしたっけ」

彼女が恩師から聞いた大事な言葉らしい。
なるほど、すべての不幸は無知から始まる。人間とは相互理解をして発展してきた生き物だ。知ることで人は成長する。
学生時代には気づかなかった相手の気持ちや、言葉の真意など、年をとってからはじめて気づくことなどいくらでもある。
あの時それを知っていたならば、もっと素直に言葉を使いつくしていれば、と思うことはたびたびあるのだ。

「・・・・・・」

そんな風に火浦が言うと、神宮司は顔を隠すように欄干にもたれ掛ってしまった。どうやら恥ずかしいらしい。
別に恥ずかしがるようなことではないだろうに、若者が夢を語るなんて、いい事じゃあないか。
彼女ぐらいの時には、夢どころか日々の暮らしに精一杯だった火浦としては、彼女がとても眩しく見える。

「いや、夢があるっていいですな・・・・・・なんというか、未来に向かって生きる、って感じで」

「・・・・・・」

「あ、いや、釈迦に説法でしたな、ハハハ・・・・・・あれ、最近おれおやじくさくなってきたか?」

「よせ・・・・・・わかったから・・・・・・よせ・・・・・・」

ぷるぷると震えながら呟く彼女が不憫になってきて、口をつぐむ。
すーはー、と大きく深呼吸をする彼女の後姿を眺めながら、火浦は自分の夢だったものを思い出す。
子供のころは相撲取りになりたかったし、野球選手にもなりたかったし、医者にもなりたかったし、ラーメン屋にもなりたかった。
BETAがいなくなったならば、世界中を旅して回るというのも楽しそうだと思った。自由気ままな旅ガラス、じつにいい。
明日はわが身、という現状では夢を見ることも命がけだが、もう一度考えてみるぐらいならばいいかもしれない。

「火浦准尉ッ!」

そんなことを考えていると、目の前から聞こえてきた女の声に火浦は意識を引き戻された。
神宮司はまだ赤みの残る顔のまま、軍人のように、というのもあれか、軍人然とした態度で命ずる。

「その話題は禁止だ!」

「はッ!何故でしょうか!それは他言無用、ということでしょうか!」

「他言は、絶対に、禁止だ!反論は許さん!」

アーチャーなどに知れたら、絶対に遠まわしにからかわれる。
あまり口数の少ない桂木に話しただけで火浦まで話が行ったのだから、ひょっとしたら既にアーチャーにも伝わっているかもしれない。
彼女は、夢は秘めるものだ、と今勝手に決めた。要するに、人に言われると恥ずかしい。
有無を言わさぬ口調で宣言すると、火浦は直立して、彼もまた軍人然とした態度で返答した。

「了解しましたッ!」

「ならよしッ!」

「あっれ、火浦じゃん。おひさ」

そんな時、甲板に上がってきた何者かが火浦の長身を見つけて声をかけてきた。
あるいは、大声で何を話しているのか気になったのかもしれない。
振り返ると、いたのはラフな作業服姿の女。中川だった。どうやら彼女もこの船に乗っていたらしい。
彼女は火浦の姿を見つけるなり駆けてきて、気安く火浦の背中をばしりと叩いた。特に意味はない。

「お前、おれの階級章を見て、なにか思わないのか?」

そんな彼女を窘めるように、火浦は自分の階級章を指先でとんとんと叩いて中川に自戒を促す。
火浦本人としては、親しい人間相手に堅苦しい礼儀を求めるつもりはないのだが、軍隊というのはそういう場所だ。
閣下と呼ばれるような、将官相手に無礼な口を利いたら、即刻懲罰を課せられるようなこともある。
下士官相手にはあまりないが、上官から兵卒への私刑なんてのは日常茶飯事だ。陰湿この上ない。気分が悪くなる。
しかし、火浦に、よりにもよって馬鹿の火浦に窘められた中川は不機嫌そうに顔を顰めて愚痴をこぼした。

「おれらがいなきゃ出撃すらできない甘ったれのくせに・・・・・・」

「おれにならいいけど、ホント相手は選べよ・・・・・・」

「言われねーでも・・・・・・」

わかってる、と挑発的に笑おうとして、彼女の顔が青ざめた。ようやく神宮司の姿に気づいたらしい。
整備兵がいなきゃ出撃すらできない甘ったれ、などという皮肉を、しっかりと聞かれてしまっているだろう。
衛士の連中は士官教育を受けているだけあって自尊心が高い連中が多い。因縁をつけられるかもしれない、と中川は戦慄した。

「・・・・・・」

しかし、神宮司は気づいていないかのように欄干に寄りかかると、水平線の向こう側へと視線を向けた。
どうやら、聞かなかったことにしてくれたらしい。中川は内心でほっとため息をつく。

「火浦、なんだよ。少尉殿に取り入ったのか。裏切り者」

「人聞きが悪いぞ。病室が一緒だっただけだ」

「正直に言えよ・・・・・・寝たんだろ?」

「黙れ馬鹿女」

下種の勘繰りとはこの事か。耳元でぼそぼそとくだらないことを呟く中川に火浦は閉口する。
中川とはドゥンファンでの補充からだから、もう一年近い付き合いだ。
整備や調整、それらの打ち合わせなどの際に顔を合わせていれば、気づけば顔なじみであった。
今のご時勢、前線の兵士たちは非常に短命だ。
だからこそ、整備兵の者たちは生き残ったやつとは自然と仲良くなるらしい。例外もいるが。

「潮風に当たりすぎると身体に悪いから食堂行くわ」

「逃げるのかよ。残念だったな。ついていくぞ」

「勝手にしろ。それでは少尉、失礼します」

「・・・・・・ああ」

やんややんやと罵り合いながら、火浦は中川ともに船内へと降りていく。
それから間も無く、曇天の空からぽつぽつと雨粒が頬に当たったことに神宮司が気づく。
そして、彼女や他の船員たちも甲板を去り、そのうち誰もいなくなった。
本格的に泣き出してしまった空の下、数隻の輸送艦は身を寄せ合うように海を泳ぎ続けていた。






ぷしゅ、と音を立てて開けられた瓶を二つ受け取り、火浦は中川の座っている席の対面に腰掛ける。
昼前の食堂にしては随分と混んでいるな、と思ったが、娯楽の少ない船内ではここで駄弁るのがスタンダードなのかもしれない。

「・・・・・・甘い」

べらぼうに甘いオレンジエードもどきを口の中で転がしながら、火浦はぼんやりと虚空を眺める。
これから向かう、上海の町並み、そして、そこから向かう戦場の風景を想像しているのだろう。

「インドというか、インド亜大陸は全域はもう無理っぽいな。これで行き場がアフリカと東だけになった。多分来年からは東進が本格化するぞ」

東側、大連こそ死守したものの、南側では完全に人類軍は敗北していた。
スワラージ作戦の敗北の痛手のおかげで戦力が減り、結果、日々の戦闘で押し込まれ、完全に占領下に置かれた。

「っぽいな」

中川は、わざとらしいメロン味のチェリオをごきゅごきゅと喉を鳴らして飲み干す。
げふー、と下品に息をつく彼女の仕草は花も恥らう二十歳の乙女にはとても見えない。軍という場所に毒されすぎている。
呆れた目をして見やると、なんだよ、といわんばかりの眼差しで逆に見つめられ、火浦は目をそらした。

「・・・・・・ここらで勝たないと取り返しがつかないな。今回こそ勝つぞ」

「そんなの毎回毎回言ってんじゃん・・・・・・カシュガルの次はドゥンファン、お次は大連、次はどこさ。台湾?それとも本土?」

「・・・・・・」

デリカシーのかけらもなしに敗北の記録を次々と暴かれ、火浦は閉口せざるをえない。
寒いせいで気が立っているのか、と思ったが、わざわざ冷たい飲み物を飲んでいるのだからそんなことはないだろう。
ひょっとして月一のあれだろうか、と、火浦もデリカシーのかけらもないことを考えた。

「次こそは勝つんだよ。初めから負ける気でいてどうする」

言いつつも、前回も同じことを言ったな、と思い出して火浦は少し悲しくなった。
顔を合わせて戦況の話をするたびにこんなことを言っていたかもしれない。

「アメリカさんとロシアさんが初めから本気出してりゃここまでやられなかったのに・・・・・・」

「・・・・・・場所を弁えろ」

「はいはい」

口が過ぎるではなく、場所を弁えろ、と言うところを見るに、同じ思いなのかもしれない。
実際のところ、それは言えてる、と口に出そうとして、やめたぐらいだ。
大体あれはどちらかといえば当時の中国政府が欲をかいたのが問題の根本だが。
1973年、カシュガルにBETAの降着ユニットが降ってきてから二週間、レーザー級種が出現するまでに勝利していれば人類はここまで追い詰められなかった。
まともな現代史を学んだもので、さっさと国連やソ連と協力して殲滅していれば、と思わない人間はまずいないだろう。
もっとも、その当時の中国政府に関わった人間など、今のこの世には残っていないだろうが。

「大体、大連は辛勝だぞ!?民間人の避難と戦線維持が目的だったんだからな」

「肋骨へし折られたやつがよく言う・・・・・・」

「あんな雑魚相手に一生の不覚だ」

生身の人間が拳銃一丁で闘士級に挑むこと自体が無謀だというのに、そこまで言うのか。
闘士級にわき腹を蹴っ飛ばされた場合、普通なら内臓破裂、あるいは腹を引き裂かれて死亡するのが人間という生き物だ。
百九十三センチの背丈に、百キロオーバーの体格を持つ巨漢といえど人外のパワーには敵わない。
命が助かったことがかなりの幸運だったことを理解していないわけでもなかろうに。
見栄っ張りな男だ、とばかりの呆れた視線を中川に向けられると、火浦はぷいと目をそらした。

「そう言えば、お前の腕刺したやつってどうなったの?」

「あー・・・・・・いいよ、その話は。別にたいした怪我じゃなかったし・・・・・・さて、手紙でも書くか」

わざわざ隠すようなことでもないだろうが、言いふらすようなことでもない。
あからさまに誤魔化すように咳払いをして、ジャケットのポケットからメモ帳を取り出す。
思ったことや感じたことはメモしておかねば風化してしまう。火浦は忘れっぽいのでなおさらだ。

「何隠してんだよー、っつーか誰に送るんだよー」

「家族だよ。家族を大事にできなやつはどんなに仕事ができても三流以下だぜ?」

「そりゃそーだ・・・・・・じゃない。誤魔化されないぞ」

火浦の言葉に共感するものがあったのか、感心したように目を丸くした中川だったが、すぐに正気に戻る。
さすがにこれだけでは誤魔化されてくれないか、と思い直した火浦は最先端の三十二ビットの頭脳を駆使して、興味を引くような話題を探した。
そう言えば、彼女は妹の話題になると表情が明るいものになって口数が増えた気がする。これだ、と確信した。

「妹いるんだろ?カッコいい美男子がいるって書いて送れよ」

「誰のこと?・・・・・・ああ、そうそう。おれの妹中学生なんだけどさあ、最近軍事教練増えたらしいんだよ。写真見る?」

「見る」

素で誰のことかわからなかったことに関してはどうでもいい。ちょろすぎる。
内心で舌を出しながら、火浦は彼女が懐から取り出した写真を覗き込む。
折れないように丁重に扱ってある、一枚の写真。そこには、自宅だろうか、を背にした、中川と、彼女の妹らしき少女の姿が写っていた。

「・・・・・・可愛い」

長めの黒髪を二つ括り、女が言うところのツーテールにした、ぽややんとした童顔の少女だ。
背丈も低く、そんな子供らしい可愛らしさと、これから女に成長しようという、咲きかけの花のごとき可憐さが同居している。
控えめに見ても、美少女というに相応しい。こんな可愛い妹にいたら、誰だって可愛がるだろう。

「だろ!?」

「お前とは大違いだな」

比べて、目の前の女は油っ臭いし、髪の毛はぼさぼさだし、手も荒れている。ついでに言えば目つきも悪い。
それがいわゆる前線の軍人らしさなのだろうが、それを魅力に思えるほど火浦は物好きではない。
元の顔立ちは悪くないのに、もったいない。
せめて髪ぐらい梳かせよ、と思いつつ、火浦は自分のすっかり長くなってしまった髪を撫でる。
縛らないと前髪が邪魔で、さながらメタルのミュージシャンのようではないか。さっさと切るべきだろう。

「・・・・・・どういう意味だ、こら」

「そういう意味だ」

拳に石を握りこむな、と片手で制しながら、火浦は空になった二本の瓶を持って席を立つ。
それと小銭を売店に勤める青年に渡し、代わりにアーチャーからリクエストされた通りの飲み物を受け取った。
緑色の液体が詰まった瓶はキンキンに冷えていて、まるで手に刺さるようだ。
袖を余らせて服越しに瓶を掴み直すと、通路の方から誰かが大声が響いた。

「おーい!誰か手伝ってくれ!」

何事かと聞き耳を立てると、どうやらネズミが出たらしい。
糧食を食い荒らしたりするだけじゃなく、配線をかじったりエンジンに潜んで自爆したりと、機材に悪影響を与える疫病神である。
たまには善行をして徳を積むのもいいかもしれないと思ったが、相棒には冷えたジュースを届けてやりたい。
一瞬の逡巡の後、後者を選んだ火浦は軽く手を上げて中川に挨拶をすると、もてましたような足取りで食堂から離れていった。






自室に戻った火浦が見たのは、相変わらずベッドの上でごろごろしながら本を読んでいるアーチャーの姿だった。
彼に購入してきたメロン味のチェリオと瓶も開けられる缶切りを手渡すと、彼の持っている本に視線を移す。

「何読んでるんだ?」

「シェークスピア。コリオレイナス」

「・・・・・・聞き覚えがあるな。どんな話だったっけ」

シェークスピアは火浦も学校の授業で読んだため、少しは内容を覚えている。
たしかハムレットは幽霊を見たとか言い出したいかれた男の話で、ベニスの商人はシャイロックがはめられてかわいそう、という内容だった。
とても偏った印象だが、だいたいこんなものだろう。
しかし、コリオレイナスとは何だっただろうか、と火浦は考え込む。

「古典だぞ?ケイオス・マーシアスという男が・・・・・・」

「ああ、わかった。民衆に追い出された英雄が祖国に復讐するやつだ」

「あたり」

「舞台で見たな・・・・・・」

そう、本を読んだのではなくて、舞台を見に行ったのだ。
幼いころ、何かの懸賞で当たったチケットで、火浦京次郎は父と母に連れられて劇場へ向かったのだ。
コンサートホールのような、映画館とも比べ物にならない大きさの劇場にただただ圧倒されたのを覚えている。
母がオペラグラスを持つ仕草はいかにも映画にでてくるお嬢様のようで、よく似合っていたことも。
その母と父が仲睦まじげに互いの手を重ねていたことも、なんとなく覚えている。
懐かしいな、と思った。

「舞台?お前そんな金持ち、っつーかブルジョアな趣味持ってたのか?」

「別にそういうわけじゃない。たまたまチケットが手に入ったから見に行ったんだよ。面白かったけど、悲しい最後で嫌いな話だね」

結末は、正々堂々と戦ったマーシアスには似つかわしくないものだった。
汚い裏切りで国を追われたマーシアスが、汚い裏切りに倒れる姿には、悔し涙が止まらなかったものだ。

「ハッピーエンドが好きなのか?」

「いいだろ。ハッピーエンド。ご都合主義でも超展開でもいいから、この世のバッドエンドをすべてぶち壊してハッピーエンドにして欲しいね」

「ビターエンドは?」

「あれもあれで味わい深いけど・・・・・・うーん。無しだな。原色の明るいのが好きなんだよ」

火浦の好みはヒーローものだ。アメリカンコミックのスーパーマンみたいなのが好きなのだ。
ご都合主義と超展開を両親に持った、完全無欠の正義の味方がみんなの幸せを守る。そんな甘い夢のような話が大好物である。
逆に、うす暗いどろどろした話が大嫌いで、オセローもマクベスもハムレットもリア王もタイタス・アンドロニカスも大嫌いだったりする。
似たような理由でポルノ雑誌なども好きじゃない。じめじめした、情念のようなものも苦手なのだ。

「あとは、さわやかな話がいい。ひたむきな熱血ものもいい。太宰治は嫌いだ」

さわやかな話がいい。髪飾りと時計の鎖の話のような、そんな心が暖かくなるような話もいい。
熱い、熱血スポコンものの漫画などもいい。燃え尽きた末の敗北ならば、涙もまた糧になる。
最後まで戦い抜いて、スカッと燃え尽きられるほど熱い人間の人生ならば、諦めない限り続くのだから。

「お前の性格って結構わかりやすいよな」

「そうか?」

少し呆れたようなアーチャーの言葉を背に受けて、火浦は手荷物から目覚まし時計を取り出す。
昼食の時間まであと少しあるので、一眠りしようかと思ったのだ。
散歩してからの二度寝など、軍人にとっては最高の贅沢である。
しばらくはこんなことはできんな、と思いつつ、火浦はベッドの上で丸くなって目を閉じたのだった。










[28081] コバルトの章第八話 不和
Name: あおいぶた◆0a2be469 ID:196a220b
Date: 2011/07/21 03:15






指先の感覚がなくなる程に冷たい、午前一時の空気の中、火浦は再びユーラシアの大地を踏んだ。
自宅のカーペットでも踏むかのような気安さだったが、その足取りはいつになく真っ直ぐだ。
背筋を伸ばして襟を正す姿は軍人以外の何者にも見えない。

「・・・・・・寒いな」

「氷点下二度だそうだ」

「道理で」

雪が解け残っているわけだ、と辺りの景色を見回した。
塩のおかげか、港にこそ積もっていないものの、市街地のビルディングの屋根は凄まじい積雪があったことを物語っている。
民家らしき建物の雨どいには危険だろうに、氷柱さえ生えていた。
まるで灯が消えたようだ、と思いつつ、さらに視線を巡らせると、工場区からは大きな煙が上がっている。
いや、よく見れば、あれは湯気だろうか。
多量の電力を用いる工場の周りには余剰放熱で雪が解ける有様だ。中は冷えるやら蒸れるやらで地獄だろう。軟弱な身体なら即刻風邪を引きそうだ。

「・・・・・・はー」

点呼の時間まで双眼鏡で周囲を見回していようと思い、曇り止めのされたレンズを覗く。
解け残った茶色く薄汚れた雪が目に入り、その脇では薄着の工夫が何かしらの看板を運んでいる。市街地と比べて、はるかに生活臭がしそうな場所だ。
もう夜も遅いというのに、工場近くの定食屋らしき店はまだ暖簾をしまっていない。
もっとも、ここでの暖簾は日本の暖簾とは違い、単なる寒さ避けらしいので、もう閉店しているかもしれないが。
吐息で結露したレンズを手袋越しに磨きながら火浦は上海の街並みを目に焼き付ける。

「おい、そろそろ行くぞ」

「ん、おう」

ぞろぞろと自分の所属する大隊の集合地点へと歩いてゆく。その中には見知った顔もいる。
陸戦兵にしろ、整備兵にしろ、九・六以前に言葉を交わしたことがあり、その上で生き残った者たちだろう。
僅か一年程度の間だが、名前などは殆ど忘れてしまった。
今回、火浦の所属する日本帝国大陸派遣軍、第二機甲師団、第二大隊の長を任ぜられた山口中佐が訓示をたれる。
改まって訓示など聞くのはしばらくぶりだが、以前の大隊長は夏真っ盛りで一時間近く意味不明な言葉を垂れ流した挙句、十名以上の熱中症患者を出していた。

「奮闘を期待するっ・・・・・・!」

しかし、今回は意外と早く終わったようだ。寒いんだからさっさと建物に入りたいと思うのはお偉方も同じなのだろう。
むしろ若者よりも中年の中佐の方が冷え性なりなんなりで寒がりなのかもしれない。
失礼なことを考えつつ、火浦は自分の割り当ての運搬車両を見つけると、十数名の同部隊の者と乗り込んだ。
いずれも准士官前後の階級で、まだ乗れる人数には幾らか余裕がある。兵卒が乗る車両のように鶏小屋のような有様にはなっていない。
中では空調が動いていたが、せいぜい十度かそこらだ。でも、これなら寝ていても死にはすまい。火浦は身体を丸めて壁に背中を預ける。

「・・・・・・」

「おい、寝るつもりか?」

「自己紹介でもしてほしいのか?」

しかし、すぐ脇に腰を下ろした男の声によって、睡眠は妨害された。
出鼻をくじかれて、不機嫌そうな口調を隠すこともなく、ぶっきらぼうに言い放った火浦だったが、男はにやりと笑い返して自分の階級章を見せる。

「・・・・・・悪くないな。おれは張東健准尉・・・・・・まあ、お前ら風に言うなら、ちょうとうけん、か?」

「在留日本人、いや、元か?」

明らかに中華系の名前だが、日本帝国の大陸派遣軍にまぎれているのだから、大方在留日本人なのだろう。
あるいは、在留日本人の子孫で、BETA大戦と同時に帰国したのかもしれない。流暢な日本語を話すのはそのためか。
身体を起こして彼の対面に座りなおすと、チャンと名乗った男はかぶりっぱなしだったフードを下ろして顔を見せた。
彫りの薄い目鼻立ちに、短く刈られた黒髪、日焼けした小麦色の肌。絵に描いたようなアジア系の顔立ちである。

「そういうこった。ここ十年以上も日本暮らしで、すっかりこっちの言葉忘れちまったよ」

「おれは火浦京次郎准尉。航空兵だな。戦闘ヘリ乗りだ」

「おれは戦車兵。車長やってる」

必ずしも兵士たちが自己紹介をする必要などない。
同じ小隊や分隊程度ならば名前と顔、それから兵科ぐらいは覚えておくべきだろうが、同じ大隊で顔合わせなどしていたら何日かかることやら。
特に航空兵のような孤独な兵科は相棒の顔と上官の名前さえ覚えていればそれでいい。さすがにそれはいい過ぎか。
しかし、同じ航空隊に属していても、殆ど会話は仕事のときだけ。コールサインだけで呼び合う間柄だなんてことはザラだった。

「いくつよ?おれは二十一」

言いながら、火浦は懐から取り出した燃料補給式のカイロをいじる。
燃料が尽きてきたようだからベンジンを足そうかと思ったのだが、少しだけ考えてから、やめた。
車の空調が少しずつ効き始めている。今はまだ寒いが、そのうち暖かくなってくるだろう。多分。

「タメだな。おれも二十一。早生まれだからお前より徴兵された年度は早いかもしれないけどな」

「先輩って呼んでほしいのか?」

「よせよせ。生まれた時期で幅を利かせられるような身分でもないし、そんな時代でもないだろうに」

それもそうだ、と皮肉げに笑うと、火浦はジャケットのポケットからなにやら黒いものを取り出した。
食べかけのチョコレートである。片手で半分に割ろうと力を入れたが折れない。凍っているせいか、釘でも打てそうだ。
横着するのはやめる事にして、両手を使って再度折る。あっさりへし折れた。
割れたチョコの半分をチャンに手渡す。

「悪いな。代わりといっちゃ何だが、ほれ」

「サンキュー」

代わりに受け取ったのは。チューブ飲料だった。駄菓子屋で二十円ぐらいで売っているやつだ。
この凍えるような寒さのおかげで半シャーベット状になっている。
火浦はチューブの飲み口を噛み切り、あふれてくるシャーベットを吸い込む。美味い。リンゴ味らしい。果汁はゼロパーセントだ。
ただ、ひとつ贅沢を言うならば、夏に飲みたかった。

「おっと」

そんな風に思い思いの時を過ごしていると、ようやく出発できるようになったらしい。
突然エンジンが動き出したことに少し驚きつつも、おおかたどこかの新兵がもたついていたんだろうな、と当たりをつけていた。
そして、動き出した兵員輸送用装甲車両を運転する、軍曹に火浦は後ろから声をかける。

「なあ、准尉。行き先はどこかわかるかい?」

「ええと、百・・・・・・いや、百六十キロ東に進んだところにある湖州市は太湖湖畔だな。郊外の観光地をわざわざキャンプにさせてくれるなんて太っ腹だ・・・・・・」

太湖といえば琵琶湖と比べても尚巨大な湖で、風景名勝区として名高い場所だ。
物質的にも非常に豊かな土地であると言える。

「へえ、釣りとかできるのかね?」

「さあなあ・・・・・・?スモッグやら工業排水やらで最近ヤバいらしいから、釣れても食わないほうがいいかもな」

「そりゃあ残念だ」

まるで観光気分だが、実際やることがない時間を何して過ごすかというのは切実な問題だ。
元リゾート地のでかいホテルを借り立てて司令部と兵舎にするのだろうが、実際、他国の領土でできることはかなり限られている。
ここから先には出てはいけませんよ、ということもそうだが、実弾を使った訓練などは逐一報告して許可を求めなければならないのだ。
他国の軍隊が自国の領土内に入っているのだから、当然の処置と言えるが。

「灯りが、見えないな」

「ん?まあ、深夜だからじゃあないのか?」

どっかりと座り込み、のぞき窓から周囲の景色を眺めてみる。
まだ港からそう離れていない市街地だというのに、灯りが殆ど見えない。深夜といえど不気味だ。
普通なら飲み屋の十軒や二十軒開いているものなのだが、と思い、火浦はおおよその理由に思い至った。
インド亜大陸がチェックメイトされている件である。常識的に考えて、次のBETAの獲物はアジア方面、そしてロシアのどちらかだ。

「ま、それもあるだろうな」

「人っ子一人歩いてないな」

戦争によって経済が傾き、それに引きずられて政治が暴走し、煽りを受けて治安は悪化の一途を辿っている。
夜道に誰一人としていないのは、歩かないのではなく、歩けないのだろう。
ここは大通りだというのに、路地裏を覗けば違う世界が見えてくる。
路地裏の入り口、丁度真ん前に止まっているセダンは、いったい何の目的で止められているのか。エンジンがかかりっぱなしだ。
実に興味を引かれるが、外国で勝手な行動をとったら国際問題になりかねないので流石の火浦も自重する。

「魔都と聞いていたのに残念だ。美味い飯は期待できそうにないな」

不夜城みたいな大都市を期待していたが、ビルディングはこじんまりとしているし、活気のかの字も見当たらない。
ますます軍需に経済が傾いているせい、というよりも統一中華の経済は既に崩壊している。
カシュガルに近い、あるいはハイヴを近くに築かれてしまった前線国家では、砂糖やら米やら小麦やらの生活必需品が配給制に代わって久しい。
日ごとに膨れ上がっていく難民の扱いもどんどん悪くなっている。はした金で死ぬまで働かされるような子供さえいるらしい。
比較的後方のここも似たような状況なのかもしれない。

「・・・・・・」

しばらく無言で過ごしていると、いつの間に市街地から抜けたのか、揺れが激しくなった。
見れば、国道だというのに随分と荒れている。工事の途中で放り出されたような場所さえあった。
前線だけではない。ハイヴを抱えるこの国は、あらゆる意味で日本とは違う。後方の大都市と呼ばれるような場所でさえ、これなのだ。
次負けたら、と思うと、背筋が寒くなる。自分の故郷がこうなると想像してしまったからかもしれない。
頭の中に浮かんだ楽しからざる想像を振り払うように、彼は壁に背を預け、瞼を下ろすことにした。






寝起きがいい兵士がいい兵士だ。悪い兵士はたいてい訓練兵時代に叩きなおされる。
一足先に起きた連中や、運転手に揺すぶられる前に、到着の気配を感じた火浦は自然と目が覚める。
こういったのも体内時計というやつの働きなのだろうか。

「くあー・・・・・・」

みしみしと軋む首周りを揉みながら覗き窓から外の景色を眺めると、そこには闇夜に包まれた大自然と、草一本生えていない訓練場の両方が並んでいた。
絶妙に喧嘩しているそれらにギャップを感じつつ、更に視線を巡らすし、保養地のような湖畔のホテルを発見する。
非常に大きい。遠目にも大きさが分かる。戦術機よりも背が高いぐらいだろうか。五階ぐらいはあるかもしれない。
まだ四時前だというのに明かりがついているのを見て、何故か少しだけ安心する。

「そろそろ到着だぞ」

「ああ」

運転手の准尉の声に、寝ていた者たちが目を覚ます。図々しく寝ているものは一人もいない。
習慣のように手のひらで顔を拭うと、すぐに彼らは服装を正して背筋を伸ばした。
やがて、ホテルの門をくぐると、広大な敷地が見えてくる。境界線が曖昧だが、少なくとも一キロ四方はあるようだ。
テントや仮設住宅がホテルの周囲に無数に建っているのは下士官や兵卒用だろう。
以前、火浦はあのようなテントにいた。准士官となった今はどこに寝泊りすることになるのやら。

「すげえホテル」

「太湖の北側にはもっとでかいのがあるんだぜ」

「へえ・・・・・・」

名前も知らないが、階級章を見る限り同じ准尉らしい男が言うと、火浦は目を細めて湖を眺めた。
闇夜のせいでさっぱり見えないが、直径五十キロ以上の湖の向こう側にはさらに巨大な元高級ホテルがあるそうな。
そしてそれは統一中華が徴発しているもので、日本帝国の軍に目を光らせているらしい。

「悪いことしたらこれよ」

男は、ぎぃー、と金切り声を上げて首を掻っ切るようなジェスチャーをとる。
そんなことはわかっている。アジアでも屈指の権力を持っている日本帝国の国力を以ってしても、治外法権は通用しない。
将官や佐官クラスならばともかく、下っ端が悪事を働いたら即刻日本に強制送還させられてしまう。
それをやって日本に送られた後、自殺した知り合いがいる。この上なく不名誉なことだ。
当時のことを思い出して不愉快な気分になった火浦は口が上手く回らず、代わりに腕の精勤章を指先でとんとん、と叩いた。

「いらん世話か。市街地に近いからヤバいことをするやつが多いらしくてな・・・・・・薬とか」

「モルヒネ?」

「大麻とか、覚醒剤とかも」

現地の医者とかから仕入れて兵舎で売ったりした大馬鹿が複数いたと聞き、火浦は眉根を顰めた。
これから戦場に向かうというストレスに押しつぶされてしまう気持ちはわからないでもないが、麻薬に走るのはどうにも気に入らない。
あれは人を根本から駄目にする。火浦の故郷でも怪しげな外人や、乞食同然の風体の連中が似たようなものを扱っていた。
身体も心もボロボロになって、ゴミクズのように死んでいた人間の姿も見たことがある。
がりがりに痩せて、目が眼窩からこぼれんばかりに飛び出していて、一見、人の死体には見えなかったぐらいだ。

「部下には注意しとかないとな」

チャンがそう言うと、火浦も頷いた。彼自身に部下はいないが、知り合いには注意するつもりのようだ。
少なくとも、同じ司令部に中川と神宮司がいることはわかっている。
彼女らの部下から阿呆が出れば、彼女らも責任を問われることになるだろう。
一応、火浦もそういった心遣いぐらいできる。

「おい、着いたぞ」

そんなことを話していると、運転手の声と同時に車が停止した。ついに目的地まで到着したのだ。
車両後部から出ると、彼らはこれからの大陸派遣軍の本拠地となるホテルを見上げた。
ホテル・ビッグレイクサイド。明らかに太湖を大湖と読み間違えた上でのネーミングだ。ついでに言えばやる気もない。
しかし、近くで見れば予想以上に巨大な建物だ。

「・・・・・・七階建てか」

「でかいな」

軽く四十メートルはある背の高さだ。最前線から千キロ近くあるからこその高層建築である。
戦術機の二倍以上の高さの建物に住むというのは、少々新鮮で、少し心が躍る。
上海の市街地でもこのぐらいの高さのビルディングを見かけたが、存在感が圧倒的に違う。
火浦はしばらくそれを見上げると、思い出したようにアーチャーたちとともに着任の挨拶へと出向くのだった。






司令官の代理らしい、やつれた顔の准将閣下に着任の挨拶をした後、火浦は仮設住宅の二人部屋に押し込まれた。
ホテルの部屋に泊まることこそできなかったことは残念だったが、こちらも割りと快適だ。最低限のプライベートぐらいは保たれる。
困ることはせいぜい隙間風が寒いことぐらいだろうか。雪が積もっていても崩れないのだから、雨漏りの心配はない。
安っぽいマットレスに転がると、埃っぽいにおいがした。

「・・・・・・一眠りするか?」

「いや、起きてる。時差ボケじゃないが、あまり生活リズムは崩したくない」

今のご時勢軍人には朝も夜もない。だが、生活リズムを崩すともれなく体調も悪くなってくる。
なるべく夜に寝て、朝に起きるのが健康の秘訣だ。何事も身体が資本である。
日が昇るまでの間、置いてあった雑巾で軽く部屋を掃除する。水道やトイレは見つからなかったため、止むを得ず乾拭きで。

「げほっ、げほっ・・・・・・士官様はいいよな。お前もさっさともう一個昇進してあれに泊まれるようになれよ」

「そういうのをな、他力本願、って言うんだぞ。日本じゃあな」

「知ってるっつーの」

ホテルに泊まれる士官以上の連中を羨み、未だ曹長のアーチャーは不満げに漏らした。
一年半以上も最前線で戦っているのに、まだ昇進はない。火浦のように目立った戦功を上げねばならないのだろうか。
少しばかり、不愉快だった。

「チッ・・・・・・」

カシュガルではさほど戦わなかった。実際、前線司令部に滞在したのは二ヶ月程度だ。
しかし、ドゥンファンでは一年以上最前線で作戦の成功を補佐してきたのに、なぜこうも報われないのか。

「・・・・・・なあ」

「なんだ?」

現代BETA戦において、輸送ヘリではなく、戦闘ヘリだけを駆る航空兵は孤独な兵だ。
大量の爆弾と劣化ウラン弾だけを積んだヘリコプターに乗り込み、最前線で爆撃や射撃を行う。
運用する兵器の特性上、編隊を組むことは困難で、誰かとつるんで行動するということ事態が少ない。
陸戦兵や戦車兵からは、仲間の後ろから、敵の攻撃が届かない位置から一方的に攻撃を仕掛けているだけのチキンだ、と言われたことがある。
そのせいで上官から軽く見られ、ロクに整備部品などの補給が届かなかったこともある。
衛士の連中からは思い切り見下され、侮蔑の言葉をぶつけられたことさえあった。
無論、そのような者たちとは別に、仕事を認めてくれるものたちは多くいたのだが。

「お前、衛士になるんだろ」

「・・・・・・そのうち、なるかもな」

衛士。戦車兵とも航空兵とは根本的に違う、士官候補生だ。最も目をかけられ、期待される、現代の戦場の花形。
適性試験で選抜されたからか、無駄に自尊心が高い連中が多い。
連絡ミスや報告に誤りがあったりしても、航空兵ほど問題にされず、大事にされる。
カシュガルでは、誤報のせいでヘリが二機墜落されたというのに、侘びのひとつも寄越さなかったクズがいた。あれも今では中尉殿らしい。
そんなことを思い出すと、目の前の男が妙に腹立たしく感じられる。彼に過失など、一切ないのはわかっているのに。

「准尉様に上がって、次は少尉様か。え?いいなあ。出世コースまっしぐらじゃないか。不良だってのに」

「・・・・・・」

まずい、と内心でブレーキをかける気持ちも、アーチャーの中には存在した。
しかし、普段寡黙な分、一度舌が回りだすと止まらない。
溜まった鬱憤を何も悪くない相手に、それも普段から自分を気にかけてくれる相棒に対して、吐き出そうとしていることを、理解していても。
だのに、苛々は収まらない。

「それとも、不良は廃業か?いい子ちゃんになって、神宮司あたりに媚売って、拾ってもらうのか?」

「嫌味な言い方するんじゃねえよ。ムカつくぞ」

普段冷静な相棒も不満を持つこともあるだろうと、甘んじて嫌味を受けようと思っていた火浦だったが、その一言は流石に腹に据えかねた。
不良は廃業、これはいい。別に怒るようなことじゃない。いい子ちゃんになって、これもかまわない。
だが、神宮寺あたりに媚を売って、拾ってもらうのか、この一言にはどうしようもなくムカついた。

「おれはなァ、プライド捨ててりゃあ今頃っ、お前の嫌いな衛士様やってたんだよ!」

「っ・・・・・・!」

「お上に媚びておこぼれ預かるような雑魚になるぐらいならなあ、ウイングマークなんざ願い下げだ!」

はあ、はあ、と顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた火浦は、掌で顔を覆うと、一度だけすまないと告げて、部屋から出て行った。
取り残されたアーチャーもまた、火浦と同じように顔を抑え、部屋の隅で座り込んでいた。

陽が昇り始めた午前五時。
朝焼けに照らされた太湖は完璧なまでの美しさを誇っていたが、それを見つめるものは誰一人としていなかった。










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次回更新以降、ひゅろす、と名乗らせていただきますので、よろしくお願いします。


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