投石機の活躍により、袁紹軍の兵数と士気は激減した。それでもまだ華琳達を上回るだけの数はある。しかし、最後の突撃とばかりに攻めてくる袁紹軍を見て、華琳達は勝利を確信し始めていた。
「頃合かしらね、桂花」
「はっ。これならば兵数差は問題ではないかと」
「そう……全軍、突撃! 袁紹軍を蹴散らせっ!!」
華琳の声で秋蘭達が動き出す。それを見送り、華琳は視線を霞へ向けた。彼女は体にしんのすけを縛り付けるように固定し、振り落とされないようにしていた。そんな彼は、今は霞に決して動くなと厳命されている。
それに頷き、視線を前方へ向けるしんのすけ。そこに見えるは袁の旗。袁紹の旗印だ。今から自分はそこへ乗り込む。そう考え、しんのすけは表情を少しだけ真剣なものへ変えた。
「さ、行くでしんのすけ。舌噛むかもしれへんから、ええ言うまで口閉じとき」
「ほいっ!」
「霞、頼んだわよ」
「任せときっ!」
華琳の言葉に力強く返し、霞は馬を走らせた。その姿は見る見る内に遠くなっていく。顔良や文醜と戦う秋蘭達を横目に、神速の名に恥じぬ速度で戦場を駆け抜ける霞の姿。それを見つめ、華琳はどこか不安そうな表情を一瞬浮かべるも、すぐにいつもの顔へ戻して戦場全体を見つめた。
顔良は流琉と一騎打ちをしていたし、文醜は秋蘭相手に戦っている。凪達三人はそれぞれに袁紹軍を迎撃し、戦線を少しではあるが押し上げつつある。この分でいけば勝利は確実だろうと思いながらも、華琳はその気持ちを引き締める。
戦は終わるまで分からない。そう強く言い聞かせたのだ。何が起きるか分からないのだと、自分にしっかり理解させるように。その視線は鋭く、些細な事も見逃さないようにとばかりに戦場を見渡していた。
「桂花、念のために接近される事も考えておきなさい」
「華琳様……はっ!」
投石機の残った機能を使う事を提示され、桂花は華琳がこの優勢の中でも最悪の状況を考えていると理解した。故に出掛かった言葉を飲み込んだのだ。もう勝ったも同然ですとの言葉を。そんな二人の視線の先では、激突する両軍の姿がある。
「くっ! まだまだ!」
「そうはいきません!」
顔良の攻撃を受け流し、流琉はお返しとばかりにヨーヨーを動かす。それを何とか弾き、顔良は小さく息を吐く。華琳を討ち取るためにここを突破したい顔良だったが、当然そんな事を許す流琉ではない。
親衛隊として、彼女は顔良を完全に足止めしていた。焦る顔良と違い、その心が落ち着いている事もあるが、流琉は有利に戦いを進めていた。既に覚悟を決めたのも大きいだろう。鈴々の言葉は、意外なところで流琉を助けていたのだから。
顔良の手にした鎚の一撃を弾き、即座にヨーヨーを放つ流琉。それを何とかかわし体勢を整える顔良だったが、そんな彼女に流琉は思わず告げた。
「顔良さん、もう止めてください! この戦の勝敗はもう決まったようなものです! 投降してくださいっ!」
「違うよ! まだ……まだ決まってない! 例え決まったとしても、私は諦めないっ!」
「どうしても……どうしても止まってくれないんですか?」
その流琉の言葉がしんのすけからの言葉にも聞こえ、顔良は一瞬息を呑む。だが、微かに儚げな笑みを浮かべると流琉へ向かって心から顔良は言葉を返した。
「……優しいね、貴方も。でも、ごめんなさい」
その瞬間、流琉は完全に理解した。顔良も鈴々と同じでもうあの時とは違うと告げてきたと。そう思って流琉が悲しそうに目を伏せるのを見て、顔良も同じく悲しげな表情を見せるも、すぐにそれを振り払って叫んだ。
―――私は顔良! 袁本初が家臣の一人! 最後まで優雅に戦う事を選ぶがその証っ! さあ、遠慮なくかかってきなさい!
―――っ……はいっ!
再びぶつかり合う二人。その表情にはもう悲しみはない。武人として、家臣として、人として守りたいものがある。それを強く感じ合ったからこそ止まらない。互いに譲れぬものがあるとばかりに激突する流琉と顔良。
そんな顔良と違い、互角ではない状況で戦うのは文醜だ。彼女は現在、軽く追い詰められていた。相手は最初こそ秋蘭だったのだが、今は凪がその相手に代わっていた。弓矢で大剣を相手にするのはやや厳しく、秋蘭が予想以上に手間取っていたのを見た凪が、ならばと部隊指揮を交代すると同時に文醜の相手を務める事になったのだ。
つまり、文醜は連戦をしているようなものなのだ。秋蘭の弓に苦しめられた後は、凪の気弾と格闘術が襲いかかってきたのだから。
「ちっ、やるじゃね~か!」
やや距離を取り、大剣を構え直す文醜。その視線は拳を握り締める凪を見つめている。その凪は、決して構えを解かずに文醜の隙を窺っていた。
「星様に勝った貴方がどれ程の方かと思っていましたが……」
「へっ! 言っただろ! あたいは」
たまたま勝てただけだ。そう言おうとした文醜。彼女は、凪が自分が見込み違いだったと言うのだろうと読み、やや自棄気味にそう言おうとしたのだ。だが、それを遮るように凪が口を開いた。
「やはり凄い方だと思います」
「……へ?」
告げられた言葉に思わず文醜は肩の力が抜けた。凪は真剣な表情のまま、文醜へこう言った。大勢がほぼ決したような中、それでも諦めずにこうして戦い続けている事。最後まで勝利を掴もうと足掻き続けられる事。それらの事を尊敬するように述べたのだ。
「……私が文醜殿と同じ立場なら、そう出来るか分かりません。ですが……」
「出来るさ。お前もきっと同じ気持ちになるだろうよ。仕えてる人が……守りたいって思える人がいるんだ。この命を賭けてもいいって、そう思える人がな!」
「……文醜殿」
「だから分かるよな? あたいがどうするかは」
「……はい。なので、止めてみせます!」
一騎打ちにも関らず、まるでどこか試合のような言い方をする凪。それに好ましいものを感じる文醜だったが、その気持ちを押し込めると深呼吸をして、大剣を握る手に力を込める。それと共に目つきも鋭くなり、眼前の凪が思わず唾を飲む程だった。
そんな凪に真剣な表情を見せ、文醜は大剣を振り上げて地面に激しく叩きつける。それが砂煙を上げさせ、互いの姿を周囲から見難くした。それを煙幕にするつもりかと凪が警戒する中、文醜は大声で叫んだ。
―――あたいは文醜! 袁本初が家臣の一人! 勝利を掴むために雄々しく戦う事がその証! いざっ! 勝負っ!!
―――望むところです! 文醜殿、お覚悟っ!
走り出す凪。それを迎え撃つ文醜。正直格闘戦をする凪が懐に入れば、文醜は打つ手がない。だが、それを簡単に許す程文醜は凡将ではなかった。大剣を振るい、凪の走りを阻むと同時に地面を削る。それがまた砂煙を生じさせ、凪の視界を悪くする。
それに若干凪が表情を歪めたのを見て、文醜は反撃へ移る。重いはずの大剣を普通の剣のように扱う文醜に、凪は中々懐に入り込む事が出来ないまま、それを蹴りや拳で弾き或いは受け流す。
そんな風に、袁紹の懐刀である二人と流琉と凪がぶつかる一方、秋蘭達は周囲の袁紹軍を相手にしていた。士気が下がっている袁紹軍だったが、その数は多い。それに既に投石機も使えない状態に等しいため、時間をかければ士気が回復する事もある。
そのため、秋蘭は相手にそれを悟られないようにしつつ、投石機の事を引き合いに出しながら袁紹軍の威圧と自軍の戒めをしていた。それは、下手に距離を取られる事と血気に盛って無理をしないようにとの言葉。
「逃げる者や本陣へ向かう者は追うな! 後退する者は投石機で攻撃出来るし、本陣には我が軍選りすぐりの親衛隊がいる! 我らはこの場にいる者だけ倒せばいい!」
それに曹操軍は逸る気持ちを押さえ、袁紹軍はこれまでの光景を思い出して思い切った動きが出来ない。体制を整えようにも投石機を恐れて距離を取れないし、華琳を狙って強引に突破しようにも親衛隊の存在をちらつかされ、不安しかないのだ。
そんな風に袁紹軍が迷いを抱いていると感じ、秋蘭は小さく頷く。これならば本陣へ強行突破を考える者はいないだろうと。確かに親衛隊はいる。だが、それでもこれだけが一気に押し寄せれば当然厳しい。だからこそ、秋蘭としてはここを通すつもりはなかった。
「敵は気落ちしているぞ! 一気に押し込めっ!」
最後の一押しとばかりに秋蘭はそう叫んだ。それに呼応し、兵士達が雄叫びを上げて突き進んでいく。同じように真桜と沙和も自分達が率いる隊を鼓舞しながら、勇敢に戦っていた。
「ええか! 相手は数が多いだけの雑魚や! ウチらの勢いならもう負けはない!」
「でも安心し切るのは駄目なの! ここでもう一度気持ちを引き締め直して戦うのー!」
一人でも多く自軍の兵士を生き残らせるために。そう思いながら二人は手にした得物を振るいながら声を張り上げる。その声に多くの雄叫びが返された。二人の気持ちを感じ取ったのだろうか。
それに二人はきっとそうだと思って小さく笑みを浮かべると、互いの顔を見合わせて頷いた。そして、時は今だとばかりに周囲へ真剣な表情で叫ぶ。
「「総員、突撃(なの)っ!!」」
叫ぶと同時に走り出す真桜と沙和。それに続けと兵士達が後を追う。その人の波が袁紹軍を飲み込んでいく。この戦を終わらせるように……
鳴り響く金属音。春蘭の剣と孫策の剣が出す音だ。袁術の本陣目指して駆け出した春蘭達だったが、当然その前には孫策が立ちはだかった。春蘭は星を先に行かせ、ここで孫策を足止めしていた。
季衣は現在稟と風の護衛兼本陣防御として袁術軍を防いでいる。星は一人袁術目指して本陣へ向かっているのだ。大勢はやや自分達が有利。しかも、今までの事で士気が下がっていた袁術軍が高い士気を維持していた曹操軍を相手に勝てる要素はなく、徐々に勝敗が決しようとしていた。
「孫策っ! 貴様、何を考えている!」
「何をって……突然何よ?」
七合目を終え、一旦距離を取る二人。すると、春蘭は孫策へ疑問に思った事をぶつけた。それは……
「とぼけるなっ! 貴様の部隊は既に撤退を始めているのだろう! でなければ、何故姿が見えん!」
「伏兵って事もあるわよ」
「馬鹿にするな! この状況で伏兵などありえん。袁術を見限るつもりか!」
怒りを込めた春蘭の言葉に孫策は一瞬だけ意外そうな表情を見せるも、すぐに苦笑してこう告げた。
「違うわよ。見限る訳じゃないわ。ただ……返してもらうのよ」
「返してもらうだと?」
「そう。我ら孫呉の名を、ね」
その孫策の言葉に春蘭は理解が及ばなかった。だが、感覚的に孫策が袁術から離反しようとしている事だけは掴んだ。そのため、やや不満そうに表情を歪めると吐き捨てるように叫んだ。
―――貴様っ! 袁術の忠臣でありながら主君を見捨てるか!
―――っ!? 何も知らぬ者が口を出すなっ!
春蘭の言葉に孫策はすかさずそう返した。その表情は怒りや迷いなどを含んでいるようにも見え、春蘭は思わず沈黙した。孫策は袁術を見捨てるつもりなどない。だが、彼女の目的のためには邪魔なのも事実。
孫呉再興。それを為すには袁術は障害でしかない。孫策は忠臣と呼ばれるようになったからこそ、余計に今のままでは袁術の下から独立は許されないと理解した。彼女は同志としての自分を欲している訳ではない。臣下としての自分を欲しているのだと分かったのだ。
故に孫策は決意した。袁術の下から去ろうと。そして孫呉として独立しようと。だが、その時袁術は自分を止めるだろうと思っていた。だから止める事が難しいようにお膳立てをしたのだ。嘘を吐き、寿春にある居城には最低限の兵数しか残させず、主だった将は今回の戦へ連れ出させた。
今は紀霊を始めとする者達も、死んだかその兵力を大きく失っただろう。それが寿春へ戻ったとしても、あれから消耗を避けた自分達ならば負ける事はないのだ。それを思い、孫策は小さく息を吐いて告げる。
「……夏侯惇。私がどんな気持ちで袁術ちゃんとここに来たか知らないでしょ? 私はね、初めてあの子に嘘を吐く事に嫌悪感を抱いたのよ! 立派な君主になろうと頑張る姿を、私の真似をしたり、民のためにと意見を求めてくる姿を、それを間近で見て来たにも関らず! 私はっ! あの子を騙してここへ来た!」
「そ、孫策……?」
「ああ、もうっ! しんのすけが余計な事をしてくれたせいよ! 昔のままのあの子なら……無能でワガママの暗愚なら……私は……っ!」
癇癪を起こしたように叫ぶ孫策を見て、呆気に取られる春蘭。それにも構わず、孫策は最後には項垂れた。今が戦の最中だと忘れるぐらいの静けさがそこで訪れる。周囲から聞こえる戦闘の激しさがやけに遠くに聞こえるそんな中、孫策は手にした南海覇王を強く握り締め、何かを振り払うように動かして顔を上げた。そこには、覚悟を決めた一人の武人がいた。それを感じ取り、春蘭は小さく息を呑んで構える。
「だから決めたの。私はもう過去を振り返らないって。やらなきゃいけない事もある。故に、ここで袁術ちゃんを死なせる訳にはいかないのよ」
「……そうか。ならば行け」
「は……?」
予想だにしない春蘭の言葉。それに孫策はそれまでの険しさを無くして問いかける。そんな彼女に春蘭は構えを解きながら告げた。いつかの借りをここで返すと。盗賊を追っていた時に見逃してもらったように、今度は自分が孫策を見逃してやる番だ。
為さねばならぬ事があるのなら、行けばいいと。春蘭はそう告げて孫策へ背を向けた。呆然とする孫策を置いて、春蘭はそのまま戦場へと駆け出していく。その場に残された孫策はやがて小さく笑い出し、最後には大きな笑い声を上げた。
(この局面で見逃す? 信じられないけど、本当に大きく貸しを返してくれたものね)
一しきり笑った孫策は、そう思いながら視線を本陣へ動かす。見れば既にそこから逃げ出している者達が見える。きっと星が到着して暴れているのだろうと思い、孫策は袁術の無事を確信した。
しんのすけと深く関った星。ならば、きっと彼の親しい者達を殺す事はおそらくしないだろうと踏んだのだ。そう考えるや否や孫策は走り出した。念のための確認とある事のために本陣へと向かって……
「しんのすけが……妾を頼むと?」
「ええ。袁術殿、ここは投降を。でなければ……」
袁術の本陣で星は袁術と張勲の二人と対峙していた。実は、張勲は何度も袁術へ退却を勧めていた。投石機によって自軍に大きな被害が出て、孫策達が後退するしかなくなった時から。だが、それを袁術は良しとしなかった。総大将である自分が真っ先に逃げるなどは出来ないと。
それに、自分のせいで死んでしまった兵士達を思えば、余計に逃げ出す事が許せなかった。せめて敗北が確かになるまでは信じて見守ろう。でなければ人の上に立つ君主たる資格無し。その思い故に、こうして本陣に残っていたのだから。
既に周囲の護衛達は星によって片付けられたか或いは逃げたため、彼女を守護する者は張勲以外いない。その張勲は星から袁術を守るようにしていたが、どこか震えていた。理解しているのだ。自分では星を止められないと。
それに構わず、星は袁術へしんのすけからの頼み通りに降参するよう告げていた。もし従わないのならば、ここで討ち取らねばならない。そう無言で槍を見せる事で理解させながら。
袁術はそれに微かな恐怖を見せるも、少し考えて頷いた。もう自分が生き延びても再起を図れるだけの力はないと理解したのだ。ならば、これ以上抗って兵士達を殺す事は許されない。そう判断し、全軍に投降を呼びかけようとした。
「七乃、全軍へ伝えよ。妾達の負けじゃ。もう戦を止め投降せよと」
「美羽様ぁ~……」
「仕方ないのじゃ。妾達が兵数の差に囚われ、思慮が足りなかった。曹操達の方はそれに対し知恵を絞った。そんなとこかの?」
袁術はそう星へ尋ねるように問いかけた。それに星は頷き、これでこの戦いは終わったと思った矢先だった。
―――駄目よ袁術ちゃん! 逃げなさい!
星がその声に振り向きながらも槍を動かすのと、声の相手が剣を振り下ろすのは同時だった。
「孫策殿か! くっ……何故ここに?」
「夏侯惇に言っておいて。貴方には本当に感謝するって」
孫策の剣撃を受け止める星だったが、その間に張勲によって袁術は本陣を脱出させられていた。それを視界の隅に入れ、星は意外に感じていた。孫策ならば袁術を逃がす事などしないとどこかで思っていたからだ。
それを孫策も感じ取ったのだろう。軽く自嘲気味に笑うと、星から離れた。そして疑問符を浮かべている星に対して、はっきりこう言い放った。
「袁術ちゃんには、孫呉の再興を許してもらわないといけないのよ。だから、降ってもらっちゃ困るわ」
「そうですか……成程、実に貴方らしい言葉ですな」
孫策の言葉の裏にある袁術を思う気持ちに気付き、星はからかうように笑った。それに孫策はやや不機嫌そうな表情を見せるも、時間がないと理解したのだろう。星へ小さく微笑みかけ、あっさりと手を振って走り出す。
星はそれを追う事はしなかった。何故なら、孫策が去り際に告げた言葉がその気をなくさせたのだから。
―――死なないわよ。私達も袁術ちゃんも。しんのすけへそう言っておいて。
その言葉を真剣な声で言い放ち、孫策は撤退していった。その言葉の意味に星は一人苦笑する。どこまでしんのすけはこの乱世を複雑にするのだろうと思ったのだ。諸侯達と繋がりを持ったために、彼らと親しくなったために、この乱世はほとんどの者達にとって悲しく辛いものとなった。
しんのすけを気に入った者達同士が戦い合う。彼がそれを望まないとどこかで理解しながら。それでも、そうするしか彼を天に帰す事は出来ないと知る者達は止まれない。
(やれやれ……皮肉とはこういう事を言うのだな)
大陸を救いたいと言ったしんのすけ。それがある意味で戦を起こす原因になっている。だが、それが乱世を終息させるキッカケにもなる。本人が聞けば納得はしないかもしれないが、現実はそうなっているのだから。
「さて、今はこの戦を終わらせる方が先だ。精々大きな声で叫ぶとしよう」
生きている者は誰もいなくなった袁術の本陣で、星は一人そう呟くと息を大きく吸い込んだ。
―――袁術はここから逃げ出したぞ! もうお前達に勝ち目はない! 命欲しくば大人しく投降せよっ!
その星の叫びを聞いた袁術軍の兵士達が武器を捨てていく。星は馬へ跨ると戦場を駆けながら同じ事を叫んでいく。それを聞いた春蘭も同じような言葉を肯定するように言い出すと、次々と投降する者達が増えていく。
それは本陣を守備していた季衣や稟に風の耳にも入り、逃げた袁術への追撃は行わない事を決めた。季衣はそれを聞いて理由を尋ねると、稟と風は揃ってこう告げた。
「「孫策軍が傍にいるでしょうから」」
「あ、そっか。結構残ってたもんね、あの部隊は」
二人の告げた言葉に季衣は納得した。そして春蘭達が戻ってくるのを待って陣の外へ出て行く。その背中を見送り、稟と風は思う。きっと袁術はもう表舞台に出てこないだろうと。その予想を確かめるための追撃中止なのだ。
こうして袁術軍は敗退した。投降した兵士達を連れ、星達は華琳達と合流するために動き出す。この時は誰も知らない。袁術が周囲の予想をある意味で裏切る結末を迎えるとは……
袁紹はどこかでそれを待っていたのかもしれない。或いは、それを知っていたのかもしれない。突如として来襲した一騎の騎兵。それが神速の張遼としんのすけだった。
そう、今、彼女の目の前には忘れる事のなかった少年がいたのだ。周囲の護衛達はどこか動揺が見られるも、袁紹が一喝して静かにさせた。その傍に霞が伴ってはいたが、それを意にも介さず袁紹はしんのすけへ優しく微笑んだ。
「お久しぶりですわね、しんのすけさん。元気そうで何よりですわ」
「ほい。よいしょーさんもお元気そうでよかったですな」
袁紹の周囲を守っている護衛達は動かずにいた。袁紹が一喝と同時にそう命じたからだ。霞はそれに軽く驚いたものの、袁紹がしんのすけを敵と考えていないと理解して納得した。その彼女も今は平然としんのすけを守るように立っているだけ。
何か動きを見せない限り、戦う気はないとばかりにしているだけだった。周囲の兵士達はそれでもどこか警戒しているようだったが、霞には自分から手を出すつもりはなかったのだから。
「それで? わざわざここへ単騎で来るとは……何用ですの?」
「よいしょーさん。もう止めよ? 白蓮ちゃんも桃香ちゃんもいくさは嫌いだぞ。オラも華琳ちゃんも嫌い。だから仲良くしよ?」
「……つまり降伏しろと?」
「ううん、違うぞ。こーふくじゃなくて仲良くしよって事。よいしょーさんはエライよね? だからみんなに言って欲しいんだぞ。もういくさは終わり。仲良くしよって」
微かに悲しそうな目をする袁紹にしんのすけは首を左右に振ってそう答えた。霞はそんな彼の言葉に内心でやはりと思っていた。降伏の使者ではなく、和平の使者としてしんのすけはここにいるのだと。
おそらく華琳はそれを見抜いているはず。それでもしんのすけの意志を尊重し、送り出したのだろう。そう考え、霞は密かに笑う。素直じゃないと。きっと華琳も戦などしたくないと考えている。だが、覇道を行くと決めた以上そんな事を言えるはずもない。だからこそ、しんのすけを送り出したのだ。
(ったく、覇王になるっちゅうのも考えもんやな。和平やなくて降伏しか勧告出来へんのやろうか? ……ああ、日和っとると思われたくないんか)
華琳の気持ちを考え、霞は一人そう納得する。その間もしんのすけは袁紹へ戦を止めてくれるように頼んでいた。周囲から見ればそれは滑稽だったろう。五歳の少年が袁紹相手に戦を止めてくれるように説得しているのだから。
だが、霞や袁紹にとってはそうではない。彼は天の御遣い。平和の遣いなのだ。もしこれが戦が終わった後ならば分かり易い。敗者への通達になったのだから。しかし、今はまだ戦の真っ最中。いくら袁紹達が劣勢とはいえ、本陣内へしんのすけを連れて単騎で乗り込むのは、霞といえども自殺行為だ。
それでも霞は迷わなかった。しんのすけが袁紹に会いたいと言った。華琳がそれを許した。なら、自分はそれを叶えてやるだけだったからだ。今もしんのすけを守るようにしているのはそのため。彼だけは死なせない。その気持ちがあるからだ。
そんな霞の視線を受けながら、しんのすけは袁紹へ心から頼んでいた。今もこうしている間に両軍の兵士が戦い死んでいる。それを早く止めたいとばかりに。
「お願いだぞ。もういくさは止めて仲直りしよ。華琳ちゃんとよいしょーさんはお友達じゃないの?」
「……確かに古い友人ですけども、それとこれは話が別です」
「どーして?」
「この乱世を終わらせ、大陸を平和にするためには華琳さんも倒すべき相手ですから」
「どーしてそれがいくさする事になるの? 平和って仲良くする事だぞ。倒すなんて考えるのはせんそーしたい人の言い方だぞ。よいしょーさんはせんそーしたいの?」
袁紹の言い分にしんのすけはそう反論した。戦を仕掛けようと結論付ける事。それは戦争をしたいと言っているのと同じだ。それがある意味で袁紹だけではなく、この乱世を戦でしか止められない自分達を責めているように聞こえ、霞はやや苦い顔をした。
それは勿論袁紹も同じ。戦以外の方法があったのではないか。本当に平和にしたいのなら、戦う以外の解決策もあるはずだ。そうしんのすけは言ってきたのだから。それに若干表情を曇らせる袁紹へ、しんのすけはとどめとばかりにこう言った。
―――何でケンカして一番になりたがるの? オラはチョコビの早食いなら一番だよ。よいしょーさんは高笑いが一番スゴイぞ。みんなが自分で一番って思える人になればいいぞ。それじゃダメ?
その言葉に袁紹と霞が呆気に取られた。誰が誰より優れて一番ではなく、自分が自分を一番と思える事。それが大事なのではないか。しんのすけの言葉はそう告げていた。誰かだけが頂点にいるのではなく、みんなで違う頂点にいよう。そこで手を取り合って仲良くすればいい。そうしんのすけは思ったのだ。
それは、星が告げた”誰かが一番にならなければいけない”との言葉に対する彼なりの答え。誰かがではなく、誰もが一番になればいい。そう、誰もがその人だけの何かを持っている。それを大切に生きればいい。しんのすけは感覚的にそんな考えを持ち始めていたのだ。
「……自分が自分だけの何かを一番にする。きっと他者に誇れる程のものが誰にもあるはず。そう、それが天の考え方ですの」
しんのすけの言葉を受け、袁紹はどこか吹っ切れたような表情でそう呟いた。そして顔を上に向け、そこに広がる青空を眺めた。戦で相手を打ち破る事でしか周囲を納得させる事が出来ない。そう考えていた時点で負けていたと感じたのだ。
そして、それは自分だけではなく、この大陸を戦で統一しようとする者達全員に言える事。そう考え、袁紹は高笑いを始めた。それに戸惑う周囲。しんのすけはそんな袁紹に頷き、自分もとばかりにあの高笑いを始めた。
「お~っほっほっほ!」
「わ~っはっはっは!」
本陣内に響く二つの笑い声。それに戸惑い続ける袁紹軍の兵士達と楽しげに笑う霞。やがて袁紹は高笑いを止めると、全軍へ伝令を出せと告げた。その内容はしんのすけの望んだもの。そう、戦闘停止の命令だった。その命を受け、即座に走る伝令達。
そして、霞もしんのすけを連れて戦場へ戻る。周囲へ袁紹が降ると大声で告げながら。その報告に華琳が呼応し、全軍へ戦闘停止を告げた。武器をしまう両軍兵士を眺め、しんのすけは嬉しそうに霞へ声を掛けた。
―――霞お姉さん、よいしょーさんと華琳ちゃんは優しいエライ人だね。
―――せやな。ま、この結果はそれだけが原因やないやろうけどなぁ。
そのしんのすけの言葉に楽しげに笑いながら、霞は視線を周囲からしんのすけへと動かす。それに気付いて不思議そうに小首を傾げるしんのすけに、霞は軽く微笑むと何でもないと返すのだった。
こうして袁紹軍も曹操軍に敗北する。だが、それは華琳達の描いた筋書きではない形。何故ならば、袁紹は華琳達に投降した形になり、顔良と文醜は袁紹投降の報を聞くや戦場を離脱。益州の方へと向かって行ったのだ。
袁紹は戦が終わった後、それについて華琳に聞かれるとあっさりと答えた。
―――劉備さんへお詫びをするためですわ。出陣前に私が指示したんですの。この戦に負けたのなら、不意打ちをしてしまった劉備さんへのお詫びとして、彼女を私と思って助けてあげなさいと。
それに華琳達が言葉を失う中、しんのすけだけは嬉しそうに袁紹へこう言った。
―――さっすがよいしょーさん。ふとももだぞ!
―――それを言うなら太っ腹。
―――おおっ! そーともゆー。
そう全員から呆れ気味に指摘され、しんのすけは楽しそうに笑い出した。そんな彼の笑いに華琳達も笑った。袁紹さえも小さく笑う。それに華琳は気付くも、何か言う事はない。まるで彼女もそれを望んでいたかのように優しく微笑むだけだった……
その頃、張勲の操る馬で袁術は居城がある寿春目指して逃げていた。その表情は不安で染め上げられている。何度も後ろを振り返っているのが、その理由を教えていた。自分を逃がすために本陣で戦っているだろう孫策が心配なのだ。
だが、その表情が何度目かの振り向きで明るくなる。そこには、後方から追い駆けてくる孫策の姿があったからだ。袁術は思わず笑顔になり、手を振る代わりに大声で後ろへ呼びかけた。
「孫策っ! 無事じゃったか!」
「当然っ! もう少し行けば冥琳達が待っているはずよ! そこまで急いで!」
「聞いたかや七乃! もう少しの辛抱じゃ!」
「はぁ……」
孫策の言葉に希望を見出したような袁術とは対照的に、張勲は浮かない顔をしていた。どうにも嫌な予感が消えないのだ。今回の戦で、袁術はその戦力の大部分を失った。このまま居城へ戻れたとしても、再起を図る間も無く華琳が攻めてくる事は明白。どう足掻いても待っているのは絶望だったのだから。
それでも孫策が何故自分達についてくるのか。そこを考えた時、張勲の表情が少し明るいものへ変わる。
(もしかして、本当にお嬢さまの言う通り忠臣だったんですかねぇ? 最後までお嬢さまを死なせないって考えて、こうして傍にいてくれてるなら有難いんですけどー)
袁術軍の中でも一二を争う強さを誇る孫策達。それがまだ残っている。そう考え、張勲は希望はあると思い直して小さく笑みを浮かべる。しかし、張勲はそこでふと考える。何故もう孫策軍はここまで逃げる事が出来たのだろうと。その答えを出す前に、視線の先へ周や黄といった旗が見えてくる。それに安堵の息を吐く袁術達。
だが、孫策はどこか複雑な表情でそれを見つめていた。馬の速度を落とさせ、停止する張勲と孫策。追撃が来ない事を確認し、心から安堵する張勲だったが、袁術はそれよりも孫策へと駆け寄った。
「孫策っ! よくぞ……よくぞ無事で……っ!」
「ちょ、ちょっと、どうしたのよ袁術ちゃん。どこか痛むの?」
「ヒック……い、いかんの。安心したら涙が出て来たのじゃ」
涙を流しながら笑う袁術に孫策は言葉に詰まる。それが言ったままの意味ではないと悟ったからだ。今まであったものが消える。そうどこかで袁術は理解している。この敗戦で失ったものの大きさ。それが自分にもたらすだろう結果。それら全てを考え、涙しているのだと。
(安堵と恐怖に不安が混ざっているのね。無理もないか……この子にとっては初めての敗戦が最後の敗戦なんだもんね)
小さな体で君主という重荷を背負っていた事を思い出し、孫策は悲しみを湛えた眼差しで袁術を見つめた。そして、彼女はそのまま無意識の内に泣きじゃくる袁術を抱きしめていた。
突然の事に周囲が言葉を失う中、孫策は袁術へ向かって静かに告げた。今は泣いていいと。それに袁術が息を呑んだのを聞いて、孫策は優しげな笑みを浮かべてその頭をゆっくりと撫でた。
―――全ての涙を出し切るつもりで泣きなさい。今だけは、貴方はただの少女でいいの。
―――そ、孫策……
―――我慢はもうしなくていいのよ。それに、袁術ちゃんには私が……みんながいるわ。
―――っ!?
それが最後だった。その直後辺りに響いたのは大きな大きな泣き声。言葉にならない声。不甲斐無い自分への怒りをぶつけるような、多くの者達を死なせてしまった悲しみを吐き出すような、生き残れた喜びを噛み締めるような、そんな複雑で長い泣き声だ。
それを聞きながら、袁術の頭に優しく手を置く孫策。もう一つの手は背中を静かに叩いている。それはさながら姉妹のよう。張勲だけではなく、周瑜や黄蓋でさえそう思ったのだ。その光景を眺め、誰も言葉を発しない。
袁術に対しあまりいい感情を抱かない孫呉の者達であっても、眼前の光景には心打つものがあったのだ。小さな体で精一杯良き君主となろうと背伸びをしていた少女。それがその重荷から解き放たれた瞬間だったのだ……
どれ程そうしていたのだろうか。やがて泣き声は小さくなっていき、今はすすり泣く程度にまでなっていた。それが収まるのを待って、孫策は袁術の体を優しく抱きしめてから告げた。
「袁術ちゃん、よく聞いて」
「……何じゃ?」
孫策の声が自分の知る声とは違うと感じ、袁術は不思議そうに顔を上げて問い返す。その愛らしい表情に微かに痛む心を抑え、孫策は真剣な眼差しで告げた。
―――私を独立させて欲しいの。
その瞬間、音が止まった。袁術は、何を言われたのか理解出来ないとばかりの表情を浮かべていたし、張勲はあまりの内容に呆然としていた。それを見ても孫策は表情を変えない。真剣なままで次の言葉を紡ぐ。
「袁術ちゃんはもう無理しなくていいわ。ここからは私がそれを背負う。袁術ちゃんの分まで」
「そ、孫策……それはつまり……わ、妾から離れる事かや……?」
捨てられるという怯えを滲ませる声と表情。それを見た孫策は何も言わず、袁術を見つめた。それに袁術も見つめ返す。やがて、孫策は語り出した。自分が元々何を考えていたのかを。
孫呉再興を夢見て、いつか袁術から離反しようと考えていた事。だが、しんのすけと出会った後からそれが少しずつ変化していった事。最初はこき使われた仕返しに殺すつもりだった事まで話した。
「……でも、もう無理。私には今の袁術ちゃんは殺せないわ」
「何故じゃ……?」
「貴方は昔はただの子供だった。袁家の主であるにも関らず、何も考えずに楽しく暮らしていただけ。だけど、変わり出したら凄かった。もし張勲が変な事を吹き込まないなら、もし誰かしっかりした者が傍にいたのなら、きっともっと早く名君への道を歩いていたはずよ」
その孫策の言葉に袁術が反応を示した。それまでは、信じていた事に裏切られたと思っていた袁術。故にその顔は蒼白だったのだ。だが今はその顔に感情の色が戻り出した。孫策の告げた名君との単語がその理由。
「妾は……名君の道を歩いておったのか?」
「ええ。民だけではなく、兵の事まで思いやれる王。それに貴方はなれる素質がある。でも、今のままじゃ無理」
袁術の顔を見て小さく頷く孫策。その告げられた内容に袁術が首を傾げた。すると孫策は、ゆっくりと袁術の前にしゃがみ込むとその肩に手を乗せて告げる。
―――袁術ちゃんは私の傍で色々な事を勉強して。私には冥琳や穏という孫呉が誇る稀代の名軍師がいる。二人から沢山学んで、もっと立派な人になりなさい。いつか私達が領主の座を渡したいと考えるぐらいね。
―――妾を……許してくれるのかや?
―――許すも何もないわ。私だって今まで袁術ちゃんを騙してた。だから、これでおあいこって事で手を打たない?
―――孫策…………うむっ! 手を打つのじゃ!
共に笑顔を見せ合う二人。その会話に周囲は呆然としていたが、やがて黄蓋が笑い出した。袁術と孫呉の確執。それをこうも穏やかな形で決着した事がおかしくて仕方ないとばかりに。
それにつられて他の者達も笑い出す。その輪は広がり、張勲以外全員が笑い合う。それを一人聞きながら、張勲は呆れた表情をしていた。だが、そんな彼女もやがて小さく笑顔を見せる。
(お嬢さまの言う通りでしたねー。孫策さんは忠臣でした。いえ、忠臣になっていたんですねぇ。孫策さん達が独立するとなれば、曹操さんもこれですぐにこちらへ攻める気を無くすだろうし……最善の手かもしれません)
こうして、孫策は袁術の下から独立した。これを以って孫呉の名が再び大陸へ躍り出る。袁術の領地は全て彼女達孫呉が治める事となり、張勲の読み通り、華琳は南への進出をこれで取り止める事にした。
独立の興奮に沸く孫呉を刺激しては色々と痛手を負う可能性があると判断したのだ。それに未だ江東や江南も完全に平定されてはいない。それもあって、桃香達が向かった益州同様、情勢が落ち着くまで待つ事にしたのだから。
この戦の後、袁紹も領地を無くした。華琳は袁術と戦っていた春蘭達と合流すると城の守りを任せ、そのままの勢いで河北四州を手に入れたのだ。これにより、河北をほとんど手中に収めた華琳は、次なる時期を待つように力を蓄える事にした。
袁紹はしんのすけから仲良くしようと言われたため、ならばと全員へ真名を預けた。そしてしんのすけと共に華琳の傍付きになり、揃って彼女のため息の種になる。だが、どこかその光景は楽しそうではあった。それを見た周囲は揃ってこう告げた。三姉弟のようだと。
「華琳さん、これはどこに持って行きますの?」
「さっき言ったでしょ? 二度も同じ……」
華琳の執務室に響く二つの声。美しい金髪を持つ華琳と麗羽は、まるで主従とは程遠い雰囲気で会話していた。さすがは旧友と言ったところだろうか。そこへ、両手で茶器の乗ったお盆を持ったしんのすけが戻ってきた。彼なりの仕事をしている二人への配慮だ。
「華琳ちゃん、よいしょーさん、おちゃちゃ持って来たぞ~」
「あら気が利きますわね、しんのすけさんは。でも、何度も言いますが呼び易いからとその名で呼ぶのは止めてくださらない?」
「ほい、これ華琳ちゃんの分ね」
「ありがとう」
お盆から茶を受け取り、笑みを浮かべる麗羽。だが、呼び方に文句を言いながら茶を一口飲む。その間にしんのすけが華琳の机へも茶を置く。それに華琳は竹簡を見ながら礼を返した。
彼はその言葉に対して、どういたましてといつものように返事をしてから、ついでとばかりに麗羽の言葉に応じた。
「だって、麗羽さんじゃ何か変だぞ」
「ま、まぁ、それもそうですけども……そうですわ! なら麗羽お姉様ではいかがかしら? お姉さんでは他の方と同じですし……ああ、華琳さんも一旦休憩なさった方がいいですわよ」
その中で告げられた呼び方に若干考え、違和感を感じて表情を曇らせる麗羽だったが、名案とばかりにそう告げる。だが、途中で華琳の事を思い出したのか平然と休憩するように告げた。
その言い方はとても傍付きとは思えないもの。これではどちらが主人か分からない。華琳はそう感じて湧き上がる気持ちを抑えて、怒ったら負けと思いつつため息を吐いた。
「はぁ~……そうね、そうするわ」
麗羽の言葉にそう返し、華琳はこめかみを少し押さえながら視線を手元の竹簡から動かす。そして呼び方について意見を交わしながら、楽しそうに話す二人を眺め、彼女は呆れつつも嬉しそうに呟いた。
―――もう静かな執務室は望めそうにないわね。
華琳対袁紹・袁術の戦は終わった。
顔良と文醜は桃香達の下へ辿り着き、袁紹からの言葉を告げた。
それを聞いた桃香は全員から意見を聞いて、納得の上で二人を迎え入れた。
いつか一緒に麗羽を迎えに行こうと言いながら。
そして大陸に大きな動きが起きる。
袁家という名が消え、代わりに甦る名があった。
その名は孫呉。
江東の虎の血族が再び乱世に名乗り出る。それがもたらすのは平穏か混乱か……
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官渡の戦い終了。袁紹は懐刀二人を桃香へ託す形となりました。次回はこの戦後の三国を描写して終了です。