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[25510] クリミナル・スノー
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/05/15 17:26
どうもお久しぶりですこんにちは。初めましての方はハジメマシテ。
相変わらず感想クレクレ厨の新藤です。

前作では多くの方にお世話になりまして、性懲りも無くまたコチラにお世話になりに来ました。
一言感想から厳しいお言葉までまたご指導ください。

注意点
・本作は自サイトで公開中の作品に一部改訂などを行ったものです。
 また、話の大筋に変更はありません。最初の方だけ大幅に書き直し、後半に行くほど単に加筆修正しただけになります。
 従いまして、すでに自サイトでお読み下さった方にはあまり旨みはございません。

・タイトルは、元々は「Criminal Snow」と自サイト名と同じですが、そのままだと掲示板に堂々と自サイトを宣伝してるみたいな気がしたのでカタカナに変えました。あまり意味はないかもしれませんが。

・相変わらず展開が遅いです。サクサク読みたい方はご注意ください。

・連載再開とは言ってもリアル生活が忙しくて遅々更新確定。毎日定時で帰りたいと願う今日この頃。更新遅くってもゆっくりしていってね!


あ、一応「小説家になろう」にも載せてて空気になってます。




[25510] 第0章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/01/19 00:23
-0-


雪が、降り始めました。
暗く、濃く曇った空から舞い降りるそれは何処か濁って見えて、なのに何処か美しくて。
触れた瞬間に感じる温もり。
周りを見れば誰しもが同じ様に不思議な雪を感じていました。
引き金に掛かった指を伸ばし、剣を、銃を地面に置き、両腕を広げて全身で受け止めていました。
絶え間なく降り注ぐ、優しい雪。どれだけ降っても地面には残らず、だけれど全てのヒトの中に残る、温かくて悲しい、哀しい雪でした。



不意に雪が止み、雲が途切れて光が溢れてきます。
雲の端から徐々に広がっていく輝き。
誰しもに等しく太陽は温もりを与えてくれました。
その時、新しい時代が始まりました。



[25510] 第1-1~1-2章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/01/19 00:23


-0-


――毒は薬を蝕むが薬は毒を癒せない



-1-









ジリジリと太陽が照りつける。どこまでも青く青く晴れ渡った空が続き、遮る物が無いのをこれ幸いに、と光がさんさんと降り注ぐ。
それを受けて地面の草木も伸び伸びと成長しそうではあるが、残念ながら雨季は短く背の低い雑草がまばらに散らばっているだけ。遠くを見れば熱にあてられて陽炎が揺らめいている。
三百六十度見渡すと数えられるだけの低木があるが、それらの多くは半ばから折れたり焼け落ちて真っ黒な肌を空に向かって晒している。更には地面の草でさえも所々で黒く焦げていた。

その中を一人の少女が駆け抜けていた。
肩の後ろ辺りまで伸びた金髪をポニーテールにまとめているがそれが風になびき、蒼い双眸はひたすらに正面だけを見据えていた。
大きくクリクリとした愛らしい目に整った鼻筋。そこに小さめの口が乗っていて可愛らしい。汗ばんだ額に前髪が張り付いていて、行き交う人が見れば活発な女の子、と微笑ましく感じるかもしれない。

「おおおおおおおぉぉぉっ!?」

雄叫びを上げながら全力疾走していなければ。
小柄な体を精一杯動かし、背筋と指先を限界までピンっと伸ばして眼からは涙。鼻からは鼻水。はっきり言って可愛さなど何処にも無い。
当の本人もそれは自覚しているが、そんな外面を気に掛けている余裕は皆無。
この地を過ごすにしては丈夫そうな生地で作られたズボンと、同じく頑丈なブーツに守られた脚を本来の役割通りに、乾いた土煙を盛大に上げながら走り抜けていく。

彼女は逃げていた。逃げて逃げて逃げて、しかし背後からは確かに何かが追いかけて来ている。そしてそれが何であるか、彼女には心当たりがあった。

この辺りは危険だとは事前に聞いていた。大型のモンスターが周期的に徘徊し、不用意に足を踏み入れれば命を落とすことも珍しくない、と前の町の人が言っていた。
それでも今は、その周期からは外れており、この時期にはそういったモンスターを見たことは無く、だからこそ町の人も少女がここを通るのを無理に引き止めはしなかった。

だというのに。

「どぉうして~っ!?」

少女が叫ぶが、広い平原にこだますることもなく声は消えていく。
代わりにすぐ後ろからはハッハッハッ、と荒い呼吸音が聞こえてくる。
当然少女の耳にもその声は届き、そっと後ろの様子を探ってみようかと思っていたがすぐ断念。その間、0.5秒。一切の迷いも無し。涙と鼻汁でグシャグシャになった顔をひきつらせながらも走る。

走りながら彼女はその顔を左右へと振る。
右。何も無い。荒れた土地が広がっているだけ。
左。同じく何も無し。遠くの倒木の山が今にも崩れそうに頭を揺らしてるだけ。
結論。絶望的。助けになる物無し。ついでに言えば助けてくれる人も無し。
状況確認から瞬時に弾き出されたお先真っ暗な結論に崩れ落ちそうになるが、すんでの所で踏み止まった。

どうしてどうしてどうして。
一度緩んだ足を再び全力疾走へと変えながら彼女は思う。何故、こんな事になったのか。
自分はただ、手を差し伸べただけだというのに―――!どうして!
彼女の心中が叫びとなって荒野に響いた。

「ぬぁんでこんな事になるのよ~!?」

情けなく涙を流して曇った眼が災いしたか、彼女は足元に転がる小さな木に気付かなかった。気が付いた時には彼女の体は宙に浮いていて、そのまま顔から飛び込んで盛大に転がっていく。

「ふべらっ!!」

ゴロゴロゴロ、と前転を繰り返し、最後に海老反りしてようやく止まる。打って赤くなった鼻を押さえてうずくまり、今度は横にゴロゴロ転げ回った。

「つぁ~!」

奇声を上げながら痛みを堪えていたが、不意に背中に掛けられた、グルルル、という声に動きをピタリと止める。
影がゆっくりと迫り、熱い吐息を背中越しに感じる。
背筋が伸びる。冷や汗が流れ落ちて焼けた地面で音を立てた。
震えながら彼女は恐る恐る振り向く。そして、その瞬間に影は彼女へと飛び掛かっていった。

「きゃあああああああああああっ!!」







「クゥ~ン……」

ペロペロと一匹の犬が顔を舐めていた。顔より少し大きいくらいの。

「……へっ?」

間の抜けた声を上げた彼女の顔に犬は自分の顔をこすりつけ、再びペロペロと音を立てた。
しばらく呆然として腹の上でじゃれついてくる犬――正確にはサンドウルフの子供だが――を眺めていたが、状況を正確に把握すると、少女は脱力して大きなため息をついた。

「驚かせないでよ……」
「何やってるんだ?」

突然掛けられた声に少女はうひゃあ!と叫びながら飛び上がった。その時に犬を思いっきり抱きしめてしまって変な声が漏れていたが。

「び、びっくりしました……」

バクバクと激しく鳴る胸を抑えて声を掛けてきた女性を見た。
髪は茶色で、耳が隠れる程度に短く切られている。やや浅黒い肌は快活な雰囲気を醸し出しており、前髪の隙間から覗くやや大きめの眼は少しだけ吊り上っていて、顔に浮かべている笑みと相まって何処か猫の様な印象を少女は受けた。
ジーンズ生地のパンツを履き、シンプルな装いのシャツを着込んでいて、肩からはベージュ色のマントがはためいている。
女性は不思議そうな表情を浮かべてもう一度少女に問いかけた。

「こんな所で一人で何やってたんだ?
ずいぶんと汚れてるみたいだけど、転んだのか?」
「え、ええ、まあ……」

言えない。子供のサンドウルフに追いかけられてたなんて。
アハハ、と笑って誤魔化すが、女性はニヤリ、と口端を釣り上げた。

「そのサンドウルフを大人と勘違いして逃げまわってた、とか?」
「分かってるんなら聞かないで下さい!!」

直後、大爆笑。ツボに入ったのか、腹を抱えて、それこそちょっと前の少女がやっていたように転げ回りそうな勢いで、町の方まで届くんじゃないか、とばかりに笑い声を上げる。

「だ、だいたい、見てたんなら教えてくれたっていいじゃないですか?」
「あ、あれをと、止めろだって?バカ言う、なよ。あんな面白いモンを、止める、なんてもったいない真似、できる、わけない、だろ」

どんだけ恥ずかしい醜態を自分は晒してたんだ。
未だに腹を抑えて笑い続ける女性の姿にそんな疑問が浮かんだが、少女は自分の精神衛生のために疑問を遥か彼方に放り捨てた。そして代わりに別の質問を女性にぶつける。顔は真っ赤だったが。

「それで!そのアナタはここで何をしてたんですか!?」
「あ~、笑った……
で、アタシ?アタシは仕事だよ」
「仕事、ですか?」
「そ、仕事」

そう言って女性は遠くの何も無い草原を見つめる。いや、何も無くは無い。陽炎が立ち昇る景色の遥か向こう。うっすらと小さな影が少女の眼にも入ってきた。
その影はかなりの速度でその大きさを増していく。そして未だそれなりの距離があるはずなのに、耳をつんざくような甲高い声が聞こえた。
ビリビリと空気が震える。
子供のサンドウルフが少女にしがみつく。
同種であってもサンドウルフには関係が無い。純粋に強者が弱者を食し、それは同じサンドウルフでも、そして人間であっても差は無かった。
獲物を見つけたサンドウルフは、低い唸り声と攻撃の意思を示す高周波音を交互に発しながら近づく速度を更に上げる。

「ちょっと下がってろ」

少女に向かってそう言い放つと、女性もまたサンドウルフに向かって走りだした。
マントの中から一振りのナイフを取り出して左手に、右手にはエネルギーパックの付いた大ぶりの拳銃。走る速度を速めながら銃をサンドウルフに向かって発砲した。
ビームの弾が砲身から放たれ、サンドウルフは斜めに飛び跳ねてそれを避ける。だがビームが後ろ足をかすめ、痛みから一際大きな咆哮を上げた。
それでも動きは止まらない。果たして、女性とサンドウルフが正面で対峙し、サンドウルフが跳ねる。
女性はやや大柄だが、対してサンドウルフの全高は二メートル。空を跳ぶ、倍近くもある高さから巨大な体が女性目掛けて落ちてくる。
丸太の様に太い脚が地面を抉る。土砂の類が辺りに舞い散り、女性は体を捻って容易くその攻撃をかわした。
すれ違いざまに左手のナイフが分厚い毛に覆われた体皮を切り裂く。真っ赤な血が噴き出し、悲鳴の叫びが草原に響く。
尚も攻撃を続けようとサンドウルフは踏み止まり、通り過ぎた女性の方を振り向く。
が、その瞬間、再度ビームがサンドウルフの脚を貫いた。
サンドウルフの体が崩れ落ちる。大きなあごが地面に向かって落ちていく。そしてその先には通り過ぎたはずの女性の体があった。喉にナイフが突き刺さる。ナイフを伝って血が垂れ落ちていき、ついにはその巨大な体が地面に伏せ落ちた。

「ふう……」

大きく息を肺から吐き出し、女性は額の汗を拭う仕草をした。だが実際には汗一つ掻いておらず、慣れた手つきでナイフに付いた血を拭き取り始めた。
一瞬で終わった激しい攻防。呆気に取られ、少女はただそれら一連の流れをボーっと眺めるだけだったが、女性のため息と同時に我に返ってサンドウルフに近づいていった。

「あ、あのぉ……」
「ん?ああ、ケガは無かったか?」
「え?ええ、おかげさまで……
じゃなくて、お仕事ってこれの事ですか?」

流れだした血が乾いた地面に急速に取り込まれていく。
動かなくなったサンドウルフの顔に手をやり、少女は開いたままだった眼を閉ざしてやりながら女性に尋ねた。

「まあな。
あんまりコイツらは町の方までは近づかないんだけどな、最近になってどうも町を襲い始めたらしい。それでギルトの方に依頼が出されてアタシが引き受けたってワケ」
「ギルツェントの方だったんですか」
「ああ、違う違う。アタシはただ金稼ぎのために依頼を受けただけ。
町のギルトは小さくてな、戦闘要員が常駐してるわけじゃないから何かあったら他の町に依頼するか、アタシみたいな奴が依頼を受けるかのどっちかなんだ」

女性の説明にフーン、と相槌を打ちながら少女はサンドウルフの頭を撫でる。足元では子供のそれが恐る恐る前足で突っついている。

「さて、アタシは用は済んだし、もう行くとするよ。
お前はどうするんだ?もし、町に行くなら乗せていくけど」

体を翻し、離れた所にあるバイクを親指で指しながら女性が尋ねた。
バイクにはサイドカーが取り付けられていて、今はそこには女性の荷物が雑に詰め込まれていた。
少女は右手の人差指を軽くあごに当てて考える仕草をするが、大丈夫です、と提案を断る。

「だいぶ町まで距離があるけど、大丈夫なのか?歩きだけだと半日以上は余裕で掛かるぞ?」
「大丈夫です、体力には自信がありますから!」

そりゃそーだろ、と内心で突っ込む。じゃなきゃこんな所を徒歩で通過する奴はいないだろうし、子供とはいえサンドウルフと同じ速さで走れるわけがない。
まあいいか、と女性は少女に向かって軽く手を上げてバイクへと向かう。
少女はニコニコと笑って、小さくなる女性にブンブンと音が聞こえてきそうなくらい大きく手を振り返した。
元気な奴、と口元を緩めながら歩くが、ふと気になって女性は少女の方を振り返る。
少女はサンドウルフのそばにしゃがみ込んで、地面に手を当てていた。
それを見て少女が何をしようとしているのか悟り、嘆息するとバイクを走らせていった。


少女は自身の手を地面に突き立てる。服が汚れるのも構わず地面を掘り返し、穴を空けていく。
幸いにしてここいらの土は比較的柔らかく、素手で掘り返すのは難しくなかった。だが少女が望むほどの大きさの穴を掘るのには、まだ相当な時間が掛かる。
サンドウルフの死体を囲むようにして少しずつ地面を削り取っていく。太陽が頭上でギラギラと輝き、汗は絶え間なく少女の額から滴り落ちていって、わずかな水分をあっという間に地面が吸い込む。

「はぁ……」

一向に進まない作業に少女の口からため息が漏れた。それでも手は休めず穴を掘り続ける。
女性と別れて、つまりは穴を掘り始めて三十分近くが経過していたが、全体の進度はどれくらいだろうか。今まで掘り返した分を振り返ってみて、そして絶望的なまでの進捗状況にまたため息が出る。

「う~ん……今日中に終わるかなぁ……」
「終わんねーだろ、どう考えても」
「うっひょい!?」

奇声を上げて飛び退く少女を他所に、女性はドシンと音を立てて足元に何かを捨て置いた。

「これは?」
「何ってか?木に決まってんだろ。
てか、お前バカだろ?素手で掘ってコイツが入るほどデカイ穴なんて掘れると思ってんのか?どんだけ時間掛けるつもりなんだよ」
「一日中掛けるつもりです」
「干からびて死んでしまえ」

罵倒に少女は頬を膨らませて抗議の意を示すが、女性は気にする風も無く太めの丸太を地面に突き立て始めた。

「これ使えばちっとは早いだろ。
ほら、お前も使え」
「あ、ありがとうございます」

少女も丸太を手に取り、ガリガリと地面を少しずつ削っていく。人数が増えたこともあって掘る速度は格段に違う。
そうしてしばらく黙々と二人は掘っていたが、不意に女性が口を開いた。

「なあ、なんでこれを埋めようと思ったんだ?」
「え、だって、このままじゃ可哀想じゃないですか」
「そりゃそうだろうけど、こういうモンスターにとっちゃ野晒しのままが普通だぞ?人でさえ野垂れ死にも珍しくは無いしな」
「でもモンスターでも人でも、命である事は変わりませんし……
こういう事できる人が近くにいるなら弔ってあげたいですし、私はそうありたいと思ってますから」

そうか、とだけ女性は返事をして、少女に気づかれないようそっとため息をついた。
今時珍しい、と女性は思う。動物だけでなく人の命でさえ軽くなっているこの世の中で、こんな考えを持てるのはそうそういない。
感覚としては飼っているペットを埋めてあげるのに近いのだろうが、討伐対象になっているモンスターまでその感覚を適用できるのは凄いというか、バカというか。

(まあ、それでも……)

必死に作業を続ける少女の顔を見て思う。愛らしい顔立ちで、汗を流しながら真剣に手を動かしている。偽善だろうが、底値無しのお人好しだろうが、別に良い。

――可愛いから問題無し!

自身の趣味に照らし合わせて女性はそう結論付けた。

「ところで、お前の名前は?
アタシはハル。ハル・ナカトニッヒだ」
「ナカトニッヒさんですか」
「ハルでいいよ。ついでに『さん』もいらない」
「ハル、ですね。
私はアンジェ・ユース・エストラーナっていいます。アンジェって呼んでください」

そう言って少女――アンジェは手を差し出した。
彼女の手は土でだいぶ汚れていたが、構わずハルはその手を握りしめた。

「よろしくな」
「こちらこそよろしくお願いします」

ハルの大きな手を握りながら、アンジェはハルに向かってニッコリと笑いかけた。
瞬間、ハルの顔が赤く染まった。

(こ、これは……)

ハルの顔が赤いのに気づき、アンジェは不思議そうに首をかしげて、頭一つ大きいハルを見上げる。その仕草が、表情がハルにダメージを加える!
唐突に握手が解かれ、ハルの両手がアンジェの肩にがしぃっ、と置かれた。

「ちょっとお姉ちゃんと一緒に行こうか」
「へ?」









-2-









「ちょっと待っててくれな。手続きを済ませてくるから」

そう言いながらハルはギルトのカウンターの方へ向かっていった。アンジェもその後ろを付いて行く。
石造りの建物の中は、広さはあるもののあまり人はいない。カウンターの奥では何人か職員が働いていたがどこか暇そうに仕事をこなしていた。
眼を反対側へと向ければ、掲示板らしきところには張り紙がいくつもしてあり、数人がそれを眺めている。ギルトに持ち込まれた依頼や、その他の情報が紙媒体で周知されているらしいが、中には黄ばんだ紙もあって役割を果たしているのかも疑わしい。

「依頼を完了したんで手続きを頼む。依頼NO.は017693だ」

用件を伝え、身分証明を兼ねている会員証をカウンターの上にハルは置く。別段何の変哲も無い通常の手続だったが、その奥では受け付けた女性が慌てた様子で後ろで働く職員に声を掛けていた。
その言葉はアンジェには理解できなく、首をひねりながら見上げると、ハルが「またか……」とため息混じりに呟いていた。
女性は会員証を手に取って何かを確認すると、手をハルに向けて突き出す。
どうやら待て、の意味のようでハルは気だるそうにうなずいてみせた。

「どうしたんですか?」
「あー……田舎役所の本領発揮ってトコだな」

要領を得ないハルの返事にアンジェはますます首を傾げた。
受付の女性はカウンター備え付けの端末に向き合うとそれを操作し、そして引き出しからケーブルを取り出してコンピュータと自身の襟元にそれを差し込んだ。

「データ転送?」
「田舎なモンだからコイツら共通語をインストールしてねえんだよ。
アウトロバーの国だしな、こんな田舎に行くとメンシェロウトも滅多に来ないし、この国の言葉しか使わないからだいたいは事は足りるんだろうけど……」
「共通語なのに、ですか?」
「言語データは容量が結構でかいからな。ロバーの性能次第だけど、ほとんど使わないデータは無駄になるし、お前だって必要ない事は覚えようとは思わないだろ?」
「それもそうですね」
「ここに来るのも四度目で、なのにいつもこうして待たされてんだよ。いい加減どうにかして欲しかったんだがなぁ……」
「お待たせしました」

時間潰しに話をしていたが、インストール作業の終わった女性が共通語で声を掛けた。
ハルは組んでいた腕を解いてもう一度カウンターに向き直り、改めて用件を伝える。

「NO.017693……サンドウルフの討伐で間違いありませんか?」
「ああ、それで合ってる」
「依頼完了の証明になるものはお持ちでしょうか?」
「これで大丈夫だよな?」

ハルはポケットから指の長さほどの小型のコンピューターを取り出して女性に渡す。受け取った女性は先ほどと同じ様にそれを首に差し込んで中身を確認する。

「何が入ってるんですか?」
「さっきの戦闘の映像データだよ。カメラも内蔵されてるし浮遊機能も付いてるからな。上から撮ってたんだ」
「確かに、依頼の完了を確認しました。
それでは報奨金の支払いを致しますので受け取りのサインをお願いします。受け取りは現金でよろしかったですか?」
「ああ、ついでに通貨はジルとセントの半々で頼む」

かしこまりました、と告げて女性は席を立つ。
ハルはカウンターに肘を突いて何処ともなしに視線をぶらつかせていたが、腕時計を見るとアンジェの名前を呼び外を指差した。

「ちょっと遅くなったけど昼飯にしよう。隣に食堂があるから先に行って席を取っててくれ。何なら先に注文しててもいいぞ?」

隣で暇そうにしているアンジェを見てハルは言った。数時間前には二人して穴掘りをしていたためにハルは空腹を感じていたし、アンジェも同じだろうと思ってそう伝えたのだが、アンジェは眼を逸らし、人差し指を突き合わせてクルクル回しながら恥ずかしそうにしていた。

「どうした?」
「いえ、その……恥ずかしながらお金が……」

そういう事か、とハルは合点し、嘆息しながら視線をさ迷わせるアンジェの頭をグリグリと強く撫でる。

「アタシのおごりだから気にすんな。好きなモンを好きなだけ注文しても大丈夫だ」

何気なく言ったセリフだったが、それを聞いた途端にアンジェはガバッと振り向いてハルに迫る。

「本当ですか!?」
「ああ、金も手に入ったし、ここの食堂は安い割に旨いからな。ガンガン注文してていいぞ」
「本当ですね!? 後で『嘘でした~』とか無しですよ!?」
「誰もそんな事言わねーよ」
「注文させるだけさせといて『お前にはやらん』とかも無しですよ!?」
「ああ、それはそれで面白そうだな」
「~~っ!」

ニヤリと口元を歪めてアンジェをからかう。が、アンジェは今度は泣きそうな顔をしてハルの顔を見つめた。

「冗談だよ。本気の本気で好きなモン頼んでいいし食っても文句は言わねーから」

苦笑いしながら告げるとアンジェの顔がパアッと明るくなった。ハルの手を握り、何度も上下に振って感謝の言葉を述べる。ハルが呆気に取られるそばで一しきりそうする事で満足したのか、外に向かって走りだし、あっという間にアンジェの姿が小さくなる。

「そんな慌てるとコケるぞ! ……てもう聞こえねーか」

嵐の様に去っていったアンジェを見送りながらハルは軽く息を吐き出した。
ギルトを出たところでアンジェが盛大に転ぶのを見届け、そしてちょうどカウンターに置かれた報酬の額を数え始めた。






「うん、うまいな」

フォークに突き刺した料理を口へ運び、ハルは感想を述べる。そしてすぐにまた皿の上の料理に向かってナイフとフォークを伸ばす。料理は胃へと運ばれ、また一つの皿が空になる。空いた手は今度は別の皿へと手が伸ばされ、皿の中身がまた消化されていった。
ギルトの入り口を出てすぐ右に折れた所にあるそれはちょうど角にあって、町一番の通りに面していた。昼もだいぶ過ぎていたが、まだ店内には多くの客が食事を摂っていた。オープンテラスになっていて、陽光がテントに遮られているおかげで程良く暖かい。

「ほむほ、とっへもおいひぃへふぅ」

相槌を打つアンジェもまた絶え間なく料理へと手を伸ばしていた。僅かな空白すら惜しいとばかりに次から次へと口の中へ詰め込んでいく。左の皿が空けば右の皿へ。手元には常にスープを準備していて、いざという時の為の準備も怠りない。
直径一.五メートル程の、本来ならば四人がけのテーブル席には少し前まで次から次へと料理が運ばれてきていた。肉に魚に野菜に、とありとあらゆる種類の料理が注文されている。あっという間にテーブルを埋め尽くし、持って来ていたウェイトレスも呆れ顔でそれらを眺めていたが、これだけでは終わらなかった。
二人がナイフとフォークを持った瞬間、皿の上の料理が消える。何処か優雅さを残した仕草で食べるハルに、まさに暴食と評するのが適切な勢いで平らげるアンジェ。呆然としていたウェイトレスが気がついた時には、すでにテーブルの半分が空の皿になっていた。

「スイマセン、これのお代わりお願いします。あ、あと他に……」
「あ、ついでにこれももう一つ、いや二つ頼む」

それでもなお注文する二人。ウェイトレスは慌てて厨房へ走り、戦いの始まりを叫ぶ。
店内の客たちは、そんな二人をはやし立てて面白そうに眺めていたが、やがて自分の口元と胃を押さえて何処かへと消えていっていた。

「いや、食った食った」

うず高く積み重ねられた食器の影でハルが食後のコーヒーを飲みながら、満足そうに笑みを浮かべた。
正面のアンジェはまだ口をモグモグと動かしていて、最後のスープを皿ごと持って口の中の物を流しこんでいく。

「コラ、行儀が悪いぞ。
ああ、ほら、口の横からスープが垂れてる」

指摘されてアンジェは皿を置いてナプキンで口元を拭う。そして今度はきちんとスプーンを使ってスープを飲み始めた。
そんなアンジェを見ながらハルは思う。まるで自分が保護者みたいだ、と。
スープから顔を上げたアンジェとハルの眼が合う。ニッとハルが笑いかけるとアンジェも笑い返す。
途端にハルは自分の頬が熱を持つのを感じた。
アンジェが自分に笑うと、どこか幸せに感じる自分がいる。
どうしてだか、分からない。自分が――意外とは自分でも思うが――小さくて可愛い女の子が好きなのは自覚している。男に全く、とは言わないが興味は薄い。可愛い子が好きとは言っても男と比べて好き、というレベルで、アンジェに抱く程の愛しさは感じたことは無かった。
そこまで考えてハルは気づいた。自分が幸せ、という言葉を用いたことを。
言葉は知っている。どんな感情であるかも多少は。だがこれまでの人生で何度、その感情を抱いただろうか。
アンジェが視線をハルから逸らす。それと同時に幸せも消える。そしてまたいつもと同じ感覚に戻る。
まだ出会って数時間。まだ何もアンジェの事を知らない。というのに、どうしてここまでの感情を抱かせるのだろうか。
不思議なヤツだ。気づかずまたハルは微笑んでいた。

「またずいぶんと食べたわねぇ」

背後から掛けられた声にアンジェは後ろを振り返る。ハルはイスの背もたれに体を預けたまま大義そうに手を上げて応えた。

「ニーナ……どうしてアタシがギルトに行く時に限って非番なんだよ? 共通語をインストールしてるのはお前くらいなんだから、いない時はせめて誰かにインストールさせとけよ」
「そりゃもっともなご意見だけど、残念ながら私にそんな権限ないのよ。
だいたいこの町で共通語使うのってアンタくらいじゃない。アンタのために常にデータを残しておくのなんてメモリの無駄よ」
「その無駄なことしてんのはどこのどいつだよ」
「私は趣味で入れてんだからいいのよ」
「あのぉー……」

慣れた感じで言葉を交し合う二人に、気後れしつつもアンジェが割り込む。
その声に会話を中断し、ハルがニーナと呼んだ女性を紹介する。

「コイツはニーナっつってな、そこのギルトの職員をしてるんだ。
唯一共通語をインストールしてるからいっつもいればいいのに、アタシが行く時に限っていない使えないヤツだ」
「自分の間の悪さを棚に上げてのその紹介はあんまりじゃない?」
「ならもうちょっとロバー以外に優しい環境を作るんだな」
「ロバー以外でウチに来るのなんてアンタくらいじゃない。一人のために環境を変えるなんてそれこそ無駄の極みね」

やれやれ、とニーナは肩をすくめてわざとらしくため息をついてみせる。そしてテーブルの上にある食い散らかされた皿の山を見て、感嘆混じりのため息をもう一度ついた。

「そしてこの食事量……アタシからしてみればトコトンアンタの体は無駄だらけだとつくづく思うわ」
「残念ながらアタシが食ったのは半分だけだ。残りはコイツの胃の中」
「はあっ!?
……まったく、ノイマンっていうのはよくそんなに食べられるわね」
「え? ハルってノイマンだったんですか?」
「そうだよ……て、言ってなかったか?」

コクコクと無言で首を縦に振るアンジェ。そうだったか、と頭をポリポリと掻きながらハルは答える。

「てか、この飯の量見りゃ分かるだろ」
「こんなに食べるのはノイマンの中でもアンタだけじゃなかったのね……」
「ご飯の量とノイマンにどういう関係があるんですか?」
「関係って……ノイマンはメンシェロウトと比べてエネルギーの消費が大きいからな。光を浴びるだけで補給ができるロバーとは違って大量に飯が要るんだよ。お前、自分がノイマンのくせに知らないのか?」
「知らなかったです。というか、私ノイマンじゃないですし」
「はあっ?」

今度はハルが素っ頓狂な声を上げて驚く。その隣ではニーナが口をポカン、と開けてアンジェのお腹を見ていた。
そしてススス、とアンジェに近づくと、ポッコリと膨らんだお腹を撫でる。柔らかいお肉が気持ちイイ。

「……ねえ、ハル。この子何者?」
「アンジェ、つって、さっき仕事の途中で拾ったんだけど……
なあ、お前ホントに違うのか?」
「違う……と思います。たぶん」
「自信なさ気だな、おい」
「たった今まで自信満々だったんですけどね。ちょっと事情があるんで、自信が無くなりました」
「事情?」
「記憶喪失なんですよ、私」

ハルとニーナの表情が一瞬強ばる。気まずげに会話が途切れ、ニーナはバツが悪そうに視線を逸らす。
それを察してアンジェは大丈夫ですよ、と殊更に明るく話を続けた。

「あんまり気にしてないんで、気を遣わないでください。
失ったのも、もう何年も前の話ですし、旅をしてていろんな楽しい思い出もできましたから。ハルにも出会えましたしね」

自分は平気だと、その証拠だと言わんばかりにアンジェは笑ってみせる。その笑顔は確かに陰りは何処にも無くて、ハルからしてみても本気でアンジェがそう思ってるのが分かる。
アンジェとハルの目が合う。ほんのりとハルの胸の内が暖かくなり、妙に照れくさくなってくる。それと同時にハルの中にある衝動が湧き上がってくる。無意識に、ハルの手がアンジェに向かって伸びていく。椅子から立ち上がり、吸い寄せられる様にアンジェに近づき、そして思う。
もっと、もっと――
不思議そうな眼でアンジェが見上げてくる。ああ、その顔がまたたまらない。もう一度笑ってくれ、笑いかけてくれないか。
何度も何度もハルは頭の中でその言葉を繰り返す。撫でようと、ハルの手がアンジェの頭に触れかけたその時。
潰れたカエルの声がした。

「あぁ~ん、もうカワイイわぁ、この子!! 健気で抱きしめたくなっちゃう!!」
「ぐ、ぐるじいでず……」

ギュウゥゥゥ、と音が聞こえてきそうなくらいに全力でニーナがアンジェを抱きしめていた。スリスリと頬を擦りつけ、対するアンジェの方は腹を思いっきり抑えつけられて顔が真っ赤になっていた。
ハルは不意に我に返った。サッと手を引っ込めて自分の胸を抑える。

(なんだ、今のは……)

振り返ってもう一度アンジェを見てみる。ジタバタともがいてアンジェはニーナの拘束から逃れようとしているが、それを見てもさっきみたいな感情は湧き上がらない。微笑ましいとは思うが。
ハルは思考を巡らせるが、理由は思いつかない。まるで何かに取りつかれたみたいで、自分が自分でないような、そんな感覚だった。三度アンジェを見てみるが、やはり特別に何も思いはしない。

(まさか、な……)

アンジェが何かをした、とも考えたが、どう見てもアンジェにそんな事をできそうな様子は無い。人をどうこうできるなら今まさに死にそうなこの状況をどうにかしてるだろう。頭を捻りつつも、ハルはとりあえずアンジェに差し迫った危機に手を差しのべることにした。

「そろそろ解放してやれよ。顔が紫になってきてるぞ?」
「あらっ、ゴメンね」

ニーナの抱擁からようやくアンジェは解放されて、涙目になりながら一頻り咳き込み、恨みがましくハルを見上げた。コッチを責められても困るんだが、とハルはつぶやきながら頭を掻く。

「ところで、だ。アンジェ、お前はこれからどうするんだ? 何かこの町に用が有って来たんだろ?」
「うーん、そういう訳でも無いんですけど……ここに来たのもただ何となくですし」
「何となくでここまで歩くつもりだったのかよ」
「あら、アンジェちゃんも目的無しで旅なんかしてるの?」
「アタシ『も』ですか?」
「ハルも同じなのよ。まあコッチはもう一ヶ月もここに留まってるけどね」
「なんだ、とっとと出て行って欲しそうな言い方だな、オイ」
「あら、そう聞こえたのならそうなんじゃない?」

ホホホ、とわざとらしく笑い声をニーナは上げるが、ハルはヤレヤレ、と肩をすくめて立ち上がる。

「ま、いいさ。アタシも丁度ニーナにお別れを言おうと思ってたところだしな」

ハルがそう言った瞬間、ニーナの笑い声が止んで表情がくもる。釣り上がり気味の眉が八の字に垂れて心底残念そうに口を開く。

「そっか……確かに旅人に一ヶ月は長過ぎよね。元々お金が貯まるまでって話だったしね。あんまりにも馴染んでたからお別れっていうのをすっかり忘れてたわ」
「こっちもさ。ニーナがいてくれたおかげでアタシも助かったし、楽しかったから正直、この町を離れるのが名残惜しいよ」
「嬉しいこと言ってくれるわね。また気が向いたら遊びに来なさいな」
「そのつもりだよ」

椅子の横に置いていた荷物を肩に担ぎ、ハルはニーナと握手した。一度だけギュッと力強く握り、だがすぐに手を離す。二人にとって別れは珍しいものでも無く、だからこそ二人とも別れ方を心得ているかの様だった。
うらやましい。アンジェは二人を見てそう思った。アンジェも別れこそ多く経験しているものの、あまり一つの町に長居することが無かったため、二人の様な関係を築いた事は無い。いつも眺める立場だった。
記憶を失う前は、自分にもそういう相手がいたのだろうか。そう考えると口では気にしていない、と言ってもやはり記憶の事が気になってしまう。いなかったとしたらそれはそれで残念で、いたとしても思い出せない記憶に想いを馳せる程に陰鬱な気持ちになってくる。アンジェは親指を噛んでその気持ちをごまかした。

「っと、そうだ。それでアンジェはどうする?」
「えっ? あ、えーっと……」

思考に埋没してたせいで先の質問の答えを何も考えていなかった。二人の顔を見ながらアンジェは頭を悩ませる。と、そこへ頭上からニーナの楽しそうな声が降りてきた。

「そうだ! どうせなら二人で旅しちゃえばいいじゃない!」
「は?」
「え?」

手をパチン、と叩き、さも名案と言わんばかりに一人でうんうん、と頷く。

「二人とも目的のない旅人なんだから丁度いいじゃない。ハルもいつまでも女ひとり旅なんて寂しいこと辞めちゃって、アンジェちゃんも一人っきりだと危ないし」
「アタシはコイツの保護者かよ」
「いいじゃないのよ。アンタはアンタ好みの可愛い話し相手ができる。アンジェちゃんは身の安全を確保できる。コイツの腕は相当良いしね。そこはアタシが保証してあげる。
どう? 二人にとっても悪い話じゃないと思うんだけど?」
「アタシは……まあ、うん、そりゃ嬉しい限りだけどさ」

自分の好みを口にされるとどうにも弱い。ハルは横目でアンジェを見ながら口ごもる。
実はハルもまたアンジェを自分の旅に誘うつもりだった。町に来る前の出来事といい、どうにもアンジェは見ていて危なっかしい。幸いにして襲われてたのがサンドウルフの子供だったから良かったものの、あれが自分が倒したような大人だったら間違いなくやられてた。一足遅ければ無残な遺体でアンジェと対面することになっただろう。
戦争が終わったと言ってもまだ世界は荒れ果てているし、このお人好しがそんな中で生きていけるのか、ハルの中には不安が強く残る。保護者になるつもりは無いが、ここで見捨てて後で死にました、なんて話を聞くのもゴメンだ。

(だけど……)

自分が誰かと一緒にいてもいいのだろうか。そんな考えがハルの頭を過ぎり、そしてすぐにその考えを振り払った。どこまでいっても自分では煮え切らない答えしか出せないのだ。ならアンジェに答えを出させればいい。

「どうする? アタシは構わないよ」
「えっとぉ……」

自分の髪をいじくりながら、アンジェは悩む。ハルの顔を見て、ニーナを見て、地面を見る。モジモジと答えを出せないでいたが、しばらくしてようやくアンジェは口を開いた。
「えっと、その、一緒に行っても良いんですか?」
「ああ、そろそろ一人にも飽きてた頃だしな」
「お金なんて持ってないですよ? オマケに大飯食らいですし、結構バカですよ?」

自覚はあったのか、という言葉は自分の中に飲み込む。ハルは気にすんな、と手をヒラヒラと振った。

「どうせアテの無い、寂しい一人旅なんだ。多少バカがいたほうが楽しめる。
第一、これ以上お前を一人で動き回らせるのはアタシの精神衛生上良くない」
「どういう意味ですか?」
「まんまだろ。バカじゃなきゃ荒野を一人で突っ走るなんてマネするかよ」

ぐ、とアンジェは言葉に詰まった。確かに普通はサンドウルフのうろつく荒野を徒歩で通過しようとは思わない。自分では謙遜でバカと言ったつもりだったが、なるほど確かにバカだ。アンジェは自覚して、そして落ち込んだ。

「ま、とにかく、これからしばらく宜しくな」
「こちらこそヨロシクです。存分に迷惑掛けますから覚悟しててくださいね」

笑みを浮かべてハルは手を差し出す。そしてアンジェも笑ってその手を握り締めた。

「やっと決まったのね。アンタら時間掛け過ぎよ」
「そう言うなよ。大事なパートナーになるんだから」

ため息混じりに話に入ってきたニーナに、ハルはアンジェの頭を撫でながら言葉を返す。

「キチンと面倒見るのよ? 粗雑に扱ったら許さないんだから」
「安心しろ。アタシは可愛くてダメな子の面倒はキチンと見るタイプだ」
「あの、私ってそんなにダメな子に見えますか?」
「違うのか?」
「可愛かったら多少ダメな子の方がいいのよ?」

ワシャワシャと頭の上で動くハルの手をどけながらアンジェが抗議の声を上げるが、返ってきたあんまりな返事に再度落ち込む。

「それで、今度はどこに行くの?」
「そうだな……西へ行こうかな。ここから西にしばらく行ったらでかい街があったはずだ」

それで良いか、とアンジェに問いかけると、アンジェも項垂れたまま頷いて応える。だがニーナは僅かに眉をひそめた。それに気づかずハルは肩に掛けた荷物から地図を取り出して地名を確認する。

「えっと……あったあった。そうだ、サリーヴだ」

それを聞いてニーナはますます顔をしかめた。







[25510] 第1-3~1-4章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/01/20 00:23



-3-



「すごい……こういう建物ってまだ実際に残ってるんですね」
「ああ、中々のモンだろ? 今時こういう景色って見れないからな」

道路脇に連なる家々を見上げながらアンジェは感嘆の声を上げた。その隣を歩くハルも満足気に顔をほころばせながら頷く。
せっかくだから、ということで二人は町を出る前に歩いて町の中心部を見て回る事にした。ハルをガイド役にアンジェは町並みを楽しんでいた。とは言っても町の景色は至って平凡で、どの町に行っても見られそうな風景だったが、ある境を越えたところで町の景色は変わっていった。
それまでのコンクリートと安価な合成有機材で出来た建物から古ぼけた、だが未だにしっかりとした石造りの家々が綺麗に区画整理された状態で立ち並んでいた。緩やかにカーブを描く道に沿って同じ様な、しかし仔細が異なる三~四階建て程度の家が、見える範囲に渡って連なる。長い歴史を強く感じさせる家々だったが、その中で人々は生活を営んでいて、違和感なく溶け込んでいた。
地面にはボコボコにはがれたアスファルトでは無くて不揃いな高さの石畳。しかしその隙間は等間隔に埋め込まれている。少しだけ歩きにくいが、アンジェはそれもまた面白いと思った。
「何も無い町だなんて、全然そんな事無いじゃないですか」
「だろ? アタシもニーナにそう言ったんだけどな、まあ住んでると良さはあまり分からないものさ」

そんなものですか、とアンジェは相づちを打ちながらも休む間もなく眼をアチコチに動かす。洗濯物を窓から干している人、昔ながらの佇まいで店を構えている者、屋台を止めてお菓子を売りさばいている人。そしてそれが極自然になっている風景。ここに来るたびにハルはまるでタイムスリップをしたかのような感覚に襲われる。

「この町に来る前に資料や映像で見たことはあったんだけどな、やっぱり実物は違うよな」
「どのくらい古いものなんですか?」
「さあ、そこまではアタシも知らないけどさ、ニーナによれば少なくとも三、四百年は経ってるんじゃないかって言ってたな」
「ほぇー……」

どっしりとした佇まいは見ているアンジェにも安心感に似た何かを感じさせた。地に足が着いたとも言うべきだろうか。長く歴史を刻んできたそれは、何人であっても受け入れるだけの度量の深ささえある気がする。

足を進め続けると、その中の一つの建物を修繕している様子が目に入ってきた。足場を組み、十数人の、恐らくはこの町の人間だろう人々が声を掛け合い、互いに注意しながら協力して作業を行っていた。

「ああやって町の人達が協力して守ってるんですね」
「だろうな。じゃなきゃ、いくら戦火を逃れたからってこうやって長い事残ってるはずがないよ」

助け合いながら、機械を使わずにできるだけ手作業で修復していく人々を見ながら二人は通り過ぎる。
美しい光景だ。建物ではなく、働く人々を見てハルは本気でそう思う。それと同時に、極当たり前のはずの様子に思わず感動してしまう自分に、ついため息をついてしまう。

(こうして分かり合えるはずなのになぁ……)

どうして分かり合えない事が多いのだろうか。ニーナから聞いた話を思い出しながら、ハルは自分の胸を抑えた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




「あの街に行くなら気をつけた方がいいわよ」

次の目的地をサリーヴに定め、二人で確認し合ったところでニーナが注意を促す。

「何か、問題でもあるんですか?」
「ある、とは言い切れないんだけどね。まあ、用心に越した事は無いっところかな」
「おいおい、気になる事があるなら詳しく話してくれよ。あの街に何かあるのか?」
「うーん、そうねぇ……問題はアンタたちがノイマンとメンシェロウトだって事かしらね。」
「ああ、なるほど、そういう事か」

ニーナの話にハルの方は合点がいった様で、手を顎に当てて小さく頷く。一方でアンジェの方は内容をうまく飲み込めないようで、二人だけで話が進んでいく事に抗議の声を上げた。

「ちょっとぉ! 二人だけで話を終わらせないで下さいよぉ!」
「ああ、悪い悪い」

軽い口調でハルは謝る。その態度にアンジェは頬を膨らませて尚も抗議するも、その頬をハルは突いて遊び、アンジェはその指にウガーッと噛みつこうとする。が、それをあっさりかわすとハルはあやす様にアンジェの頭を撫でる。

「うーっ、止めてください!私、子供じゃないんですからっ!」
「いや、どう見てもガキだろ?」
「違います!」
「アンタたち見てると飽きないわねぇ」

ブンブンと頭を振ってハルの手を払うとアンジェはもういいです、と自分の扱いを諦め、話の続きを促した。ハルは少しだけ残念そうな表情を浮かべるが、すぐに真面目な表情に切り替えて話の意味を伝える。

「つまり、サリーヴはロバーの支配する街で未だに人種の――ロボットをそう呼ぶと怒るヤツもいるかもしれないが――垣根は根強いって事さ。
メンシェロウトもアウトロバーもどっちもだけど、互いを受け入れきれていない。何がきっかけで始まったんだか知らないけど、根拠の無い嫌悪も、戦争の憎しみも、四百年も続いたんだ。そう簡単に洗い流せるモンじゃない」
「でもこの町は全然そんな雰囲気ないですよ?」
「それはね、アンジェちゃん、この町が例外的なのよ」

ニーナは二人を見て、そして通りの方に視線を向ける。
通りを通る誰もがアンジェとハルに注意を払う事は無く、二人もまた特別な警戒をする事も無い。

「田舎の所為なのかもしれないけど、この町には戦争が始まって以来色んな人間が流れ着いて来てたらしいの。滅んだ国や町からの難民、戦争が嫌になって逃げ出してきたアウトロバーにメンシェロウト。もちろん全員が全員受け入れられるほど余裕はないし、国自体はアウトロバーの国だからどうしてもアウトロバーが多くはなってるけど、互いに苦労を知ってるせいなのか、特別人間達を蔑視する事は無いのよ」

だけど、とニーナは続ける。

「この町でもやっぱりどうしてもロバーの方を優先してしまうし、ギルトでも同じ依頼を受けようとする人がいればロバーの方を優先しちゃうことも多いし、人間を嫌ってる奴も少なからず居るわ。露骨な態度をする奴は居ないだろうけどね。
でも他の街じゃ人間は排他的な扱いを受けるし、さすがに表立って何かをされる事は無いだろうけど、極端な街じゃそれも保証できない。それが現実なのよ」
「逆もまた然り、だね。むしろ人間側の方が露骨さ。あからさまに差別するし、ひどい街だとそのまま叩き出される事さえある。
長く戦争が続き過ぎて、何が原因かさえ誰も分かっちゃいないっていうのにな」
「そうなんですね……」

話を聞いて、アンジェはひどく落ち込む。今、自分の目に映る町の風景はどこまで行っても平和そのもので、争う声さえ聞こえては来ない。小さいながらも活気に溢れ、戦後の復興とも無縁。なのにこの町を出ればそれさえも幻想だと言う。
これまでの旅で、そんな目に会った事は無かった。みんな優しくて、意地悪な人や暴力的な人も居たけれど、自分が何者かに関して問われる事は無かった。概ね平和で、人々は暖かくて、廃墟が広がる中でも復興に一生懸命だった。もしかしたらそれは単なる偶然で、悪意に自分が気づかなかっただけかもしれない。もしかしたらひどい目にあっていたのかもしれない。そんな事を思うと、目の前の景色も何だか少し違った風に見えてきて、そんな簡単に印象を変えてしまう自分が嫌になる。
ポン、とハルの手がアンジェの頭に乗せられる。顔を上げると笑顔を浮かべたハルが居た。

「あんまり気にすんな。見た目じゃメンシェロウトだろうがアウトロバーだろうがノイマンだろうが分かんないからさ」

違う。そうじゃない。
アンジェは否定しようと思った。自分はそんな事に落ち込んだんじゃない、と。
でもアンジェはそうしなかった。頭の上の掌は暖かくて、先程みたいにからかいの色は全くなく、純粋にアンジェの事を心配しているのが分かったから。

「もし嫌だったら言ってくれ。別にアタシもサリーヴ自体に目的があるわけじゃないし、無理にサリーヴに行く必要は無いんだからな」

ハルはそう言ったが、アンジェは今度は首を横に振った。

「いや、行ってみたいと思います。
こういう旅を続けてればいつかはそういう町に着いちゃう事もあるだろうし、私は、ほら、記憶も何も残ってなくて世界のことをほとんど知らないから勉強中なんですよ。だからそういう世界もある事を知る事はきっとプラスになると思います」
「嫌な思いをするかもしれないぞ?」
「それはハルも同じじゃないですか」
「アタシは別にいいんだよ。今までそういう町に行った事もあるし、対処方法も知ってるから」
「なら問題ないですよ。
さっきハルが言った通り、黙ってれば分かんないんですし、きっと大丈夫です。何とかなりますよ」

思いっきりの笑顔を浮かべてアンジェはハルを見上げた。その眼をハルは見つめて真意を問う。そのまま二人の間で時が流れた。
アンジェは笑顔で、ハルは厳しい表情で。
穏やかな町の一角で場違いな緊迫が支配する。
やがて、ハルは小さくため息をついた。

「分かったよ。
まったく、お前ってバカなだけじゃなくて頑固だったんだな」
「そうですよ。だからさっき言ったじゃないですか。これから迷惑を掛けるって。今さら撤回なんてさせませんよ?」
「ああ、そうだったよな」

よし、とハルは自分の太ももを叩き、ニーナに改めて礼を言った。

「重要な情報、ありがとな。まあ、こういう訳なんで一緒に行ってくるよ」
「お礼言われる程の事でもないわよ。私に言えるのは気をつけて、て事だけね」
「肝に銘じておくよ」
「一つ、聞いてもいいですか?」

アンジェの問い掛けにハルが頷くと、頭一つ低いアンジェの口から疑問がこぼれた。

「どうしてそこまで私の心配をしてくれるんですか?」
「バカ」

ハルは正面に立つアンジェの頭に手をやると、乱暴にガシガシと撫でた。

「くだらない事を聞くなよ。
気に入った奴の心配するのは当然だろ?」

頭上に感じる心地良い痛みと柔らかいハルの掌を感じながら、アンジェはその言葉を聞いていた。




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




「サリーヴ、か……」

ニーナの話からはどうにもいい印象は抱けない。というよりも、時勢を考えればああいった街の方が普通なのだからしょうがない。

(ま、いろいろ考えても仕方ないか)

人伝で聞く話なんてどこかねじ曲がっているものだ。自分の眼で見ないことには判断はできないし、判断するつもりも無い。ハルは頭をボリボリとかきむしると、アンジェの方に話しかける。

「さて、次はどうする……って、あれ?アンジェ?」

ハルお気に入りの場所も見終わり、次に何処に行こうかとハルはアンジェに声を掛けながら振り返った。だが、後ろに居たはずのアンジェの姿が無い。

「アンジェ?おーい、アンジェ~?」

辺りを見回して名前を呼んでみるが反応は無い。先ほど通り過ぎた、修復途中の建物の所に居るのか、と戻ってみるがそこにもアンジェは居なかった。
通りには色の黒い者、白い者、若者に年寄り、小さな子供達と様々な人が居る。だがその中にアンジェの姿は見えない。

(しまった……気を抜き過ぎたか)

次第にハルの表情に焦りが見え始める。
誘拐か?それとも何か事故に巻き込まれた?いや、さっきまで自分がすぐそばに居た。戦争が終わって四年経つが、まだ自分のすぐそばで何かが起こった時に気づけない程に鈍ってるとは思えない。
そう、まだ四年だ。四年しか経ってない。一見、世界は平静を取り戻したように見えてもその実、見せかけだけだ。どの町に行っても治安は安定してなくて、表面上は平和に見えても少し表から外れた場所に行けば強盗やレイプなどの事件はさほど珍しくない。実際、ハルが過ごした一ヶ月の間でもそういう話は何度か耳にした。傷は、まだ癒えていない。
なのに自分はついさっきまで注意を払ってなかった。その隙を狙われたとしたら。音もなく人を連れ去るなんて事、造作もなく行うなんて大して難しいことじゃない。
握る拳に力が入る。噛みしめた奥歯が軋んで嫌な音を立てた。

(落ち着け。まだそうと決まったわけじゃない)

ハルは駆けた。眼は休む間もなく左右へ動き、居なくなったアンジェを必死で探す。
ポヤポヤしてるからだ。内心でアンジェと、アンジェに出会って浮かれていた自分に悪態をつく。
どうする、力を使うべきか。ハルは迷った。
もし、この町全体を探さなければならないなら、ラスティングを使えば時間は大幅に節約できる。だがもし使えば――
葛藤がハルの中で続く。しかしそれも一瞬。そしてハルは決断した。
ほんのわずかに荒い呼吸を走りながら落ち着け、深呼吸。全身の力を、体勢を維持できるだけ残して抜く。
頭の中で、カチリ、と音が響いた。脳が熱を持ち、クラリと意識が遠退きかける。
世界が急速に狭まる。狭まった世界は反逆するように拡大する。熱は全身に広がり、意識は手足の末端へと広がっていく。

――さあ、行こうか

体は熱く、心は平静に。
ハルは全身に力を込め、そしてそれを解放する――

「えーっ! 良いんですかぁ、ただで貰って!?」
「おうよ! どうせ売れ残りだ。捨てられるんなら嬢ちゃんに食われる方が良いに決まってらぁ!」
「はぅぅ! ありがとうございます、おじさん!」

ずざああああああっ!!
解放するタイミングを失って投げ出された体は地面を盛大に滑って行く。砂ぼこりが舞い上がり、その中にハルの体は消えていった。ヘッドスライディングの格好で。

「どうしたんですか、ハル? そんなに慌てて。もしかしてハルってドジっ娘ですか? 足元は気をつけないと……って、あぁっ! ハルのせいでドーナツがほこりだらけじゃないですか! もう、食べ物は粗末にしちゃダメなんですよ!?」
「良い事言うじゃねえか、嬢ちゃん。そこに寝てんのは嬢ちゃんの連れかい?」
「恥ずかしながらそうです」
「なら姉ちゃんの分も持ってきな! 大変だね、ドジな姉妹を持つと」
「分かりますか、おじさん!」
「ああ、俺の連れもドジだったからな!
まったく、苦労したもんだぜ! なにせ小麦の袋を持たせりゃあ転ぶ、店番させりゃあ眠る、椅子に座りゃあ倒れるんだから!」
「おじさんも大変だったんですね……」
「分かってくれるか……!」
「分かりますとも……!」

がっしりと手を取り合って互いの苦労をパン屋のおじさんとアンジェは確認し合う。何故か涙を流しながら労わり合うその背後でユラリ、とハルは立ち上がった。伏せ気味の顔で前髪が垂れ下がって目元を覆い隠す。ベージュ色のマントとグレーのシャツが砂で同じ色に染まっていて、頬についた砂がチャーミングなワンポイント。
にゅぅ、と差し出される細くて白い腕。先には三分の一が欠けたドーナツが乗っていた。

「はい、ハルの分。
ゴメン、少しだけ食べちゃいました」

エヘヘ、と満面の笑みでアンジェは笑った。口元にはべっとりと溶けた砂糖が貼り付いていた。

「アンジェ……」
「あっ! やっぱり食べかけは嫌ですか?
分かりました。しょうがないです。今しがたもらったこの新しい方をあげましょう!」
「こ…の……」
「ふぇ?なんですか?」

蚊の鳴く程の小さな声に、アンジェはうつむき加減のハルの顔を覗き込む。その時、ガシッと音を立ててアンジェの顔がつかまれた。ギリギリと軋むような音をさせ、アンジェの視界に次第にハルの憤怒の顔がフェードインしていった。

「あ、あれ?もしか……しなくても怒ってます?」
「バカたれがあああぁぁぁぁぁぁっ!!」
「ぎにゃあああああああぁぁぁぁっ!!」





-4-





「うぅ……痛いです……」
「自業自得だ、バカ」

頭に出来たタンコブをさすり、こめかみに指の痕を残したアンジェは涙目で歩く。手に持っていたドーナツは無い。ハルはうらめしそうにドーナツを見つめるアンジェを冷たく突き放し、一瞥すらせず足を進めた。右手に食べかけのドーナツを、左手に口をつけてないドーナツを持って。

「だいたい、一人で勝手に居なくなるのが悪い。
何であんな所に居たんだよ?」
「おじさんが声を掛けてきましたから」
「ガキか、お前は!」

いや、コイツはガキだった。
その事を思い出し、今日何度目か分からないため息をハルはついて頭痛のする頭を押さえた。

「いいじゃないですか。二つもドーナツ食べれたんですから」
「お前を探すのに体力使ったんだよ。食わなきゃやってられっか」

そう言ってハルは二つ目のドーナツにかぶりついた。程良く甘い味が口の中に広がり、次第にハルの心を落ち着けていく。どうやら砂糖というより合成甘味料の類らしかったがそれは些細な事。力を使いかけて減った腹が満たされればとりあえずは十分だった。

そうこうしている内に、二人はまた石造りの町並みを通り過ぎ、新しい家々が並ぶ地区に到着した。さて、とハルは手についたドーナツの粉を払い、未だに頭をさするアンジェにどうする、と尋ねる。んー、とアンジェは人差し指をあごに当て、少しだけ考えた後にそばにあった路地を指差した。

「あっち側に行ってみませんか?どうせギルトに戻るにしても、別の道を通ってみたいですし」
「オッケー。ならそうするか」

アンジェの提案に同意して、二人はすぐそばの角を曲がって路地の方へと入っていく。奥の方に別の大通りらしき通りが見えるが、その前の路地の中は暗い。家のゴミ置き場になっているのか、やや生臭く、日が年中当らないせいかじっとりとした感じがした。その中で座り込む男。疲れきった表情でボロボロの服をまとったその男は、通り過ぎようとする二人をギラギラに光らせた眼で捉えると腰を浮かせかける。だがそれに気づいたハルの足がジャリ、と音を立てる。
ハルの細められた双眸が男を射抜く。男はビクリ、と体を震わせた後、二人から眼を離してまた元の位置に座り直した。
アンジェは男を心配そうな眼で見つめる。だがハルはアンジェの背中を軽く押して先を促す。それを受けて、アンジェはチラチラと後ろを振り返りながらも足を進めた。

「気にしなくてもいい。どうせ浮浪者のフリをしてるだけだ」
「そうなんですか?」
「ああ、だから気にする必要はない」

アンジェの後ろを遮るようにしながらハルは歩き、やがて路地を抜けて裏通りへと出る。

「こっちはあんまり来たことは無かったんだが……やっぱり特に何も無さそうだな」

左右を見渡してみるが、特にめぼしい物はありそうにない。見るべき場所は先程まで見ていた古い建物だけらしく、しょうがない、とギルトの方に向かって歩き始めた。

「あ、でもほら、あそこに教会がありますよ」

アンジェの指す方に眼を遣ると、確かにそこには教会があった。遠くから見ると少し色あせて見えたが、二人が近づいてみるとそれが間違いだった事に気づく。大昔のゴシック調の建築形式で暗い色合いの塗料で塗られている。建材も安価な有機材では無くて、手間のかかる石材をベースに木材が多く使われていた。

「リストキレル教か」
「あ、私も聞いた事がありますよ。最近になって広まってきてるってこの前行った町で聞きました。似たような教会もありましたし」
「そうらしいな。あんまり良い噂は聞かないけど」

そう話をする二人に女性が近づいてくる。三十度近い気温にもかかわらず肌を見せない様に長袖の服を着込み、頭からは頭巾を被っていた。うつむき気味で歩く体は猫背。まるで何かから逃げているかの様な印象をアンジェは受けた。
教会の入り口付近に立って二人は話をしていて、女性に道を譲るがすれ違い様に女性は二人を睨みつける。二人を見るその眼は冷たく、生気を感じさせないのに睨みつけた瞬間だけはひどく生を感じさせた。あまりにもアンバランスな感情。それに中てられてアンジェは僅かにすくみ上がり、ハルは逆に強く睨み返した。
ハルに睨まれた女性はまた感情を失い、無言のまま暗い教会の中に入っていく。

「ふん、辛気臭いヤツだな」
「そんな事言っちゃダメですよ。失礼です」
「失礼、ね……向こうのコッチを見る目も相当不躾だったと思うぞ」
「きっと虫の居所が良くなかったんですよ。それか……きっとあの人をそうさせる何かがあったんですよ」

ハルは黙って建物を見上げる。古そうに見えるがよく見ると建物自体はまだ比較的新しい。
一度軽く息を吐きだすとハルはその場を離れた。その後ろをアンジェは小走りで追いかける。
「あんまり好きじゃないんだ。何かに頼るのって」

適当に視線をぶらつかせて、ハルは口を開いた。先程の教会がある以外は町の景色は変わらない。どっしりと腰をそこに落ち着け、無個性な町並が少し物足りなく見える。
通りの端を通る二人に、路地から少し涼しすぎる風が吹きつけた。日差しが強く、旅をする者にとっては必需品とも言えるマントが揺れる。アンジェのマントがはためき、ハルのマントは体にまとわりついた。

「でも気持ちは分かりますよ。私だって辛い時はありますし、そういう時は神様に祈りたくもなります」
「分からなくはないさ。何かに頼りたくなる気持ちだって理解はできる。
でもさ、居もしない神様に祈るだけってのが納得できないんだ。
どこまで行ったって自分を変える事ができるのは自分でしかなくて、他人なんてそれを助けるくらいしかできないんだからさ」
「祈って気持ちが軽くなるなら悪くないと思いますよ?」
「そうかもな。それで終わるなら悪くもない。アタシだってすがるものはあるし、それを頼りにしてる部分もあるからな。でも一度それで状況が、どうしようもない状況が良い方向に転がってしまうとダメだ。自分では動かなくて、何かに頼って生きる人生になってしまう。
さっきの奴の眼を見たか? あれはもう、何も見えてない。他人を信用してなくて、ただ自分の信じたい物だけを信じてる。ああなるともう、な」

けどな、とハルは顔をうつむけた。

「何度も言うようだけどさ、アタシはその気持ちが本当に理解できるんだ。
多分さっきの奴も前は別の町に居たんだと思う。明らかに町の雰囲気にそぐわないしな。この町のことを聞いて逃げてきたんだろうさ。きっと戦いが激しい場所に居たんだと思う。
お前は知らないかもしれないけどさ、戦争って奴は本当にダメなんだ。街を焼いて人を殺す。でもそれだけじゃない。焼かれた方も焼いた方も壊してしまう。どっちも壊してしまうんだ。そしてアタシはそれをこの目で嫌というほど見てきた。そしてだからこそ宗教ってモンを、神様を信じられない」
「ハル……」

人は弱いな。
ハルはそう呟いた。細められた眼は遠くを見つめ、寂しそう。
太陽が雲に隠れ、町全体に影が落ちる。暖かかった日差しは鳴りを潜め、通りの両端に植えられた木が一度小さく揺れ、そしてやや強い風が吹いて木々が擦れた音を奏でた。アンジェが空を見上げると雲が一面を覆っていた。雲自体は厚くは無く、見た限りではすぐに雨が降りそうな様子では無い。

「嫌な雲だな……」

だがハルにはそうは見えなかったようで、浮かべていた寂しげな笑みを消すとアンジェを促してギルトへと戻る事にした。足早に通りを歩き進める。裏通りには相変わらず人気は無く、薄暗い町に木々が不気味な嗤い声を上げている。
その小さなざわめきの中に、くぐもった声が混じった。風の鳴き声に消されてしまいそうな程に小さな声だったが、二人は気づいた。くぐもった声に次いで聞こえる囁き。だがそれは男女が愛を語る甘いものではなく、男の低く、ドスの聞いた声だった。

「強盗か……」

冷たく暗い路地の脇をハルは横目に見ながら通り過ぎる。見たところ犯人も被害者も男性。犯人の方はいかにもなガタイで、強面のフェイスを装着していた。右腕が手首のところから折れ、そこから黒光りする銃が顔を覗かせていた。
もう一人は若者で、その銃を頭に押し付けられ、恐怖に体を震わせていた。犯人に殴られたのか、左頬が赤くなっている。その時の切れた様で、深紅の液体が傷口から流れ落ちていてそこには皮膚の下にある金属が少し露わになっていた。
せっかく良い顔のフェイスマスクを付けてるのに台無しだな。
ハルはその程度の感想だけを呟いてその場から離れようと足を進めた。
例え平和な町でも強盗や殺しは珍しくない。戦争が終わって四年経つとは言っても、一度荒れた治安はそうは簡単に回復する事は無かった。長い戦争で滅んだ国もあれば、国が名ばかりになった所もある。国は残っても、支配階級がメンシェロウトからアウトロバーに、アウトロバーからメンシェロウトに変わった事も珍しくは無く、ノイマンの国もいくつか造られた。その結果として政情は不安定で、色んな国に亡国の民が流れ、安心で安全な生活を送れる国など世界中を探しても数えられる程度。

(……まあ、いいか)

犯人の顔は覚えたし、被害者の方も抵抗しなければあれ以上痛めつけられる事は無いだろう。顔の交換はそう簡単には出来ないし、銃を腕に仕込んでいる事から軍人崩れか。ならばギルトのデータベースを探せばすぐ捕まるだろう。いずれにしても後はギルツェントの仕事で、ニーナにでも連絡してやろう。
ハルは面倒くさそうにため息をつき、ギルツェントへと急ぐ。表通りから行った方が早いだろうか、と体の向きを別の路地に向けたところでハルは気づく。
アンジェが居ない。
まさか、とハルが振り返った時、今日ずっと聞いていた声が路地から聞こえた。

「何をしてるんですか?」






[25510] 第1-5~1-6章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/01/22 00:58




-5-





「何をしてるんですか?」

路地に足を踏み入れ、アンジェは静かに男に問うた。
突然の侵入者に、男達は二人とも驚きの表情を浮かべるが犯人の方がいち早く立ち直り、被害者の後ろに回る様にして立ち会う。

「何だテメェは!?」
「その人を放してあげてください」
「それはできねえ相談だな。嬢ちゃんが来なきゃもう少しでコイツも放してやったんだが。
……女子供を殺すのは好きじゃねえが、クソッ、見られちまったなら仕方ねえ」

左腕でがっちりと被害者の男の喉を固定し、男は銃を若者の頭からアンジェへと向けた。
だがアンジェは怯んだ様子もなく、再び男に向かって冷静に口を開く。

「もう一度言います。その人を放してあげてください」
「お、俺の事は、いいから、は、早く逃げるんだ……」
「お前は黙ってろ。
悪いな、嬢ちゃん。運が無かったと思って諦めてくれ」

一度、ゴリッと若者の頭に銃を押し付けて黙らせると至近距離のアンジェに照準を当てた。男の視界に映る十時のカーソルがアンジェの頭を捉え、ロックを完了して緑から赤へと変わる。

「じゃあな」

パァン。
軽い銃声が響く。男の銃が跳ね上がると同時にもう一度銃声。放たれた弾丸がアパートの壁に当たって小さく埃が舞う。
男の表情が驚愕に染まる。

「アンジェ!」

拳銃を構えたハルが叫ぶ。その声を待っていたかのようにアンジェは男に向かって走り出した。
慌てて男はアンジェに向かって構えるが、再び銃声が響き、今度は男の腕全体が後ろに弾き飛ばされた。
バランスを崩し、男はたたらを踏んだ。それに合わせてアンジェは体当たりをする。
犯人と被害者の男の間に隙が生まれ、アンジェは若者の腕を力一杯引き寄せた。

「こっちへ!」
「くそったれっ!逃がすかよ!!」

三度男は発砲しようとする。が、再度それもハルによって防がれる。
立ち塞がるハル。その隙にアンジェは若者の手を引いてその場を離れる。
男はアンジェを諦め、左手にコンバットナイフを持ってハルに斬りかかった。
とっさにバックステップをしてハルはそれを避ける。突き出された腕にハルの肘が上から叩き込まれ、男の腕が文字通り折れる。そして今度はハルの顔が驚きに染まった。
折れた腕から小型の銃がハルの顔をうかがっていた。驚いて動きの一瞬止まったハルの様子を見て男の表情が喜悦に歪む。
狙い通りのハルの動きに、小さく笑みを浮かべたまま男は発砲した。
素早く正確に狙い澄まされた弾丸が吐き出され、ハルの眼前に迫る。

――瞬間、ハルの瞳孔が収束した。
そして世界が停止する。
コマ送りの世界。鉛玉に刻まれた旋状溝の一つ一つがハルの眼に捉えられる。
全てが緩慢な世界で、ハルだけが唯一その拘束を受けない。
左脚を軸に体を反転。銃弾が耳に風切音だけを残して通り過ぎる。
踏みしめられた、地面に埋め込まれたレンガが砕け、風が建物の窓ガラスを揺らし、激しく土煙を上げた。
ブーツの底の焼け焦げた匂いが立ち籠める。全てが治まった時、ハルの右手は男のこめかみへと突き付けられていた。
誰もが呆気にとられていた。ハルの姿がかき消えたかと思った時にはすでにハルは男の後ろに回り、腕をひねり上げ、そして全てが終わっていた。
男は全てを悟り、自らの状態を自覚した瞬間に止め処ない冷や汗がシャツを濡らした。

「……今のはブーストか?」
「ああ」
「まったく……戦場でアンタみたいのと出会わなくて良かったぜ。命がいくらあっても足りやしねえ」
「なら相当運が良かったんだね。アタシなんてただ使えるってレベルだよ。もっと凄い奴は幾らでも居る」
「そりゃおっかねえ。
いや本当に支援部隊で良かったぜ」

短い会話が終わり、銃声を聞きつけたギルツェントの職員が駆けつける音が聞こえる。
どうやら男は強盗の常習犯らしく、特に事情を説明する必要もなく職員達は男の首元に何かをかざした。
その瞬間、小さくバチッと火花が散り、男の体から力が抜けて崩れ落ちる。

「ご協力に感謝します。報奨金の方を……」
「いいよ、別に。そのおっさんの財布貰っとくから」

左手で財布を小さく上に放りながら、ハルは右手で職員達をシッシッと追い払う。
職員達もそれに特に気を悪くした風もなく、もしくは面倒を避けようと思ったか、軽く礼をすると男を抱えて去って行った。
彼らが離れていくのを見送るとハルは別の財布を取り出し、壁にもたれかかっている男に向かって放り投げた。

「それ、アンタのだろ?」
「あ、ああ。
ありがとう。助かったよ。
……アンタ、ノイマンだったんだな」
「……それが何か?」

声は、冷たい。
男を見るハルの眼は細く、その視線は先程の犯人を射抜くよりも更に鋭い。ともすれば、今にも男をひねり潰してしまいそうなほどに。
警戒の色では無く、ただ不機嫌でどうしようも無い苛立ちが見て取れる。

「あ、いや……何でもないよ。
うん、何でもない。ホント、助かった」

その様が男を気押し、それ以上の言葉を封じる。
無言のまま投げ渡された自身の財布を拾って立ち上がり、何処か逃げるように彼は去って行った。
アンジェは満面の笑みを浮かべて手を振り、その後ろ姿を見送る。その後ろでハルは小さく息を吐き出し、表情を緩めた。
だがまたすぐに表情を引き締め、アンジェに向かって早足で近づく。

「あ、ハル。ありが……」

パシッ
アンジェはハルに声を掛けようとするがハルの右手が左頬を叩いた。熱を持ってうずく頬。アンジェは左手をそっと自身のそれに当てると、呆然としてハルを見上げた。
見上げたハルの顔は怒っていた。そしてどこか泣きそうだった。アンジェはうろたえながらも言葉を探し、だが口からは何も出てこない。
迷い子の様に宙をさまようアンジェの腕を掴み、ハルは強引に引きずる様にしてその場を後にした。





-6-





降りしきる雨が窓ガラスを叩く。
つい数分前から降り出した雨はすぐにその雨足を加速させ、町を濡らしていった。空は黒く、日が暮れるのと相まってあっという間に暗闇へと染まっていく。それに伴って通りに備え付けられた街灯が灯りを灯していき、次第に家々の窓からも光がこぼれ始めた。

現場から離れた後、二人はそのまま近くの宿に入っていった。その間ハルは無言で一言も話さない。明らかに何かに怒っていて、アンジェが呼びかけても返事をしない。宿に着いてもハルは口を開く事は無く、事務的にフロントで二人分を前金で払うとまたアンジェを引きずる様にして部屋へと向かった。
部屋のドアを開けるとそこは何の変哲のない部屋で、狭い部屋に二人分のベッドと小さなチェストがある。チェストの上にはフロントに連絡する為の電話があるだけで、安宿らしい簡素な部屋だった。
部屋に入ってようやくハルはアンジェの腕を放した。そして乱暴に体をベッドの上に投げ出し、右手の甲を額に当てて灯りの点いていない天井を見上げる。
静まり返った室内。窓ガラスで弾ける雨と、二人の小さな呼吸音が聞こえる。

「……どうしてあんな事をしたんだ?」

沈黙を破ったのはハルだった。ベッドに身を投げ出したままアンジェに問いかける。アンジェは初めて見るハルの様子に戸惑いを隠せない。
一緒に旅をすると言って握手をした時、ハルは笑ってた。ドーナツをもらいに勝手にいなくなった時も、怒りながらもどこか笑ってた気がする。
なのに何故怒っているのか。どうして自分が怒られているのか。
それが分からず、バツの悪さを感じながら視線を部屋から窓の外へ、そしてまた部屋の中へとさまよわせる。それでもアンジェは寝転ぶハルの姿を見て質問に答えた。

「あんな事って……さっきの事を言ってるんですか?」
「そうだ。
どうして犯人の前に出て行った?」
「そんなの当たり前です。じゃないとあの人が困るじゃないですか」
「そんな事は分かってる。アタシはどうしてノコノコと出て行ったんだって聞いてるんだ」

ベッドから体を起こし、肘を膝の上に置いて前かがみになる。顔は伏せられたままでその眼はアンジェを捉えてはいない。

「相手は武器を持ってた。それに対してお前は丸腰。隠れて隙をうかがう事さえしなくて堂々と……
あまりに危険だと思わなかったのか?」
「それはそうですけど……」
「そもそも事件が起こったのならギルツェントに通報すれば良かったんだ。それが一番安全で一番問題の無い方法だ。面倒もないしな」
「でもそれだとあの人がもっと傷ついたかもしれませんし、お金も取られて犯人にも逃げられてましたよ」
「ならアタシに言えば良かった。少なくともあの状況よりはベターだった。
なのにお前は何も考えずに一人で勝手に出ていって……
分かってるのか? 一歩間違えばお前は死んでたんだぞ? お前だけじゃない。もしかしたら殴られた男も、アタシだって死んでたかもしれない」
「でも、でも誰も傷つかなかったじゃないですか」
「結果論で話すな。今回は運が良かっただけだ。
いや……違うな。はっきり言ってやる。
アンジェ、お前が考えなしに行動したおかげで状況は悪化したんだよ」
「そんな……」

アンジェにとってその言葉は衝撃だった。
アンジェにしてみれば最善の行動をとったつもりだった。一刻も早く男の人を助ける為に動き、そして目的は達せられた。それで満足だった。過程に疑問は一切無く、全てが順調だった。
だがそれは否定された。更に尚もハルはアンジェを責め立てる。

「お前がのこのこ出ていった事で犯人とアタシは無意味に(・・・・)銃撃戦をしないといけなかった。
無事だったのは単にアタシがノイマンだったからに過ぎないんだよ」
「……」

そこまで言ってハルは一度頭を振った。ポタリと汗がベッドに染みを作る。
自身の胸元を抑え、ギュッと服にしわが寄るほど強く握った。

「悪い、言い過ぎだな……」

深く息を吐き出してハルは謝る。アンジェは深く落ち込んでいてハルの方を見る事が出来ずにいた。
ハルは重い体を引きずるようにしてアンジェの後ろに回る。アンジェは少しだけ後ろを見るが、すぐに眼を逸らして冷たい床を見つめた。
不意にハルの腕がアンジェの首元に回される。次いで背中越しに伝わる体温。抱き締められて、頭越しにハルの優しい声が聞こえた。

「お前にしてみれば良い事をしたんだもんな。それについては褒めてやらないと、な」

そう言ってハルはアンジェの頭を撫でる。昼間みたいな乱暴なものでは無くて、ゆっくりと、優しく繰り返し撫でてやる。

「でも良く考えてみてくれ。自分の行動がどういう結果を引き起こすのか。今はお前はひとりじゃないんだから。な?」
「はい……」

小さな返事を聞きながらハルは汚れたマントを脱ぎ棄ててシャツ姿になる。そして部屋の奥にあるシャワー室へと向かって行った。

「さて、アンジェを抱き締めて元気も出てきたところだし、アタシはちょっとシャワー浴びてくるよ」

自分に背中を向けるハルに、アンジェは少しだけ笑顔を浮かべて笑った。

「あはは。そんなに私の抱き心地良かったですか?」
「そんなの当たり前じゃないか。それを取ったらお前から何も残らねーよ」
「ひどっ! 私はぬいぐるみですか!」
「ぬいぐるみっていうよりマスコットだな」

言ってハルはドアを開けて、その隙間に体を滑り込ませる。

「一つ、聞いてもいいですか……?」
「何だ?」

ドアが閉まる直前、アンジェの口から疑問が零れ、ハルは閉める手を止める。

「あの時……ハルはあの人を助けてくれましたか?」

扉の閉まる音が問い掛けに答えるだけだった。








問い掛けに答えないままハルは扉を閉めた。
扉に背中を預けたまま、ズルズルと体が滑り落ちていく。

「っ…くっ……」

苦悶の表情を浮かべ、荒く息を吐き出す。

「うっ…が…はあっ……!」

額にはびっしりと汗の玉が浮かび、彼女の短い髪が濡れて張り付いていた。
更に呼吸が荒くなる。霞んだ視界に天井の電灯がやけに眩しい。
震える手をポケットに突っ込み、そこから小瓶を取り出した。全身を襲う震えを必死に抑えて口をひねる。中に入っていた錠剤が適当に掌に転がり出る。震える掌からいくつかが床に落ちるが、それに構わず錠剤を無理やり放り込んだ。

「はあっ、はあっ、はあっ……はあ…はぁ……」

錠剤を飲んでから程なくしてハルの呼吸は落ち着きを取り戻す。強張っていた全身から力が抜けて、手から瓶が転がり落ちた。
顔を上げ、虚ろな目で浴室の天井を見上げた。先程より眩しく、そして暗い。
しばらくそうして座っていたが、やがてハルは立ち上がると服を脱ぎ始めた。

熱めのお湯がハルの肌を滑り落ちる。
全身にびっしりと掻いた汗を洗い流し、数日ぶりのシャワーで身を清める。震えはもう無い。
だがハルは汚れを落とすでもなく、ひたすらにお湯を浴び続けた。髪の毛の先から止め処なく雫が落ち、複雑にうねりながら排水溝へと吸い込まれていく。
何故自分はこうも苛立つのだろう。自身へと問いかける。
アンジェが無謀な行動をしたからか。彼女が怪我をするかもしれない、死んでしまうかもしれないという不安が怒りをかき立てるのか。

(どうしてそこまで私の心配をしてくれるんですか?)
(気に入った奴の心配するのは当然だろ?)

そう、心配だ。不安だ。恐怖だ。誰かが自分の目の前から消えていく。その未来図が怖かった。彼女は自分の手を見つめる。
この手は多くの命を奪ってきた。それと同時に多くの命がここから零れ落ちてきた。いくつもの命が手の中に入っては消えていった。だけどもそれは単なる事象であり、これまで何とも思わなかった。
戦友が散っていく姿を何人も見てきた。若さゆえの無謀な行動で怪我をし、命を散らす様を幾度となく目にしてきた。
それでもアタシの心は動かなかった。
哀しかった。悔しかった。だが感傷はそこまで止まり。下半身が吹き飛ばされていようが、頭を半分失った姿であろうが、アタシ自身がぶれる事は無かった。恐怖も、逡巡も無く、アタシは自分がするべき事を遂行する。自分は「兵器」だから。だからこそ過大な感情を抱く事は無いのだと考え、そしてそうあるべきと律し、そうあってきた。そこに揺るぎは無かった。
だからきっとアンジェが撃たれていたとしてもアタシは同じだっただろう。撃った犯人を殺し、アンジェが生きていれば介抱して、もし死んでいれば埋葬してまたすぐに一人で旅立ったと思う。今までの自分ならばそうだった。
彼女には不思議な力がある。アンジェに出会ってからの自分を顧みて、ハルはそう思った。
アンジェが笑えば、何故か自分も嬉しくなるし、悲しそうにしていればコッチまで泣きそうな気になってくる。まるでアンジェの感情が自分に流れこんでくるみたいに。これまでには有り得ないほど激しく自分を揺さぶってくる。
だからこそアタシはアンジェを失うことに恐怖するのだろう。無意識のうちに。

だが、それだけか?本当にそれだけか?
違う。
彼女が心配なのは確かで、失いたくなかったのは明白。でもそれでこんなにも心は乱れない。
なら、この気持ちは何だ?

お湯の蛇口を閉め、今度は水の蛇口をひねる。
冷たい水が火照った体を静めていく。頭が冷え、思考がわずかにクリアになっていく。

助けた男の声が頭の中で蘇る。

(……アンタ、ノイマンだったんだな)

途端、ハルの拳に力がこもる。思い切り振り上げ、だがそれもすぐに力無く下ろされる。
これが原因か。
シャワーの音に混じって舌打ちが響く。
助けた男の言葉。そこに嘲りと苛立ちが混じっていたのをハルは敏感に感じ取っていた。
嘲りはアウトロバーの優等性からくる蔑みの感情。苛立ちは下等とみなしているノイマンに助けられたという事実に対して。
その感情自体にはハルも慣れている。食堂のおばさんと話した通り、互いの人種に対する差別意識は根強い。それはハルも理解している。
しかし、感情は別だ。例え理解していたとしても、自身に向けられれば決して良い気持ちはしない。生まれ、自分の育った町を出てから常にさらされてきた感情。その中で受け止めて、そういうものだと自分を納得させてきた。
それでも決して認めてはいない。少なくとも人種が理由で蔑まれる謂れは無い。まして、あの男はノイマンに対する感情を感謝の言葉の中に隠していた。自分は差別なんかしませんよ、とでも言わんばかりに。それが殊更ハルにとって不愉快だった。それこそが長く続いた戦争の根本的な原因だろうに。自分に、人殺しをさせてきた原因だろうに。
うごめく暗い感情。それを自身の内に留めてしまわないよう、大きく息を吐き出す。
所詮、八つ当たりか。自嘲の笑みが床の水溜りの中に浮かぶ。

(なら…大丈夫だ)

後でアンジェに謝ろう。八つ当たりをして悪かったって。
シャワーを止め、タオルを手にとって頭から水気を拭きとっていく。全身を拭き上げ、下着を身にまとっていく。だが心は晴れない。重い感情の澱がずっしりとハルの奥底に転がり続ける。
シャツをまとって髪をドライヤーで乾かしていくと、前髪が揺れ、その奥から自身の顔が姿を現す。
ひどい表情だった。どんよりとした眼でそいつはハルを見つめていた。

(あの時……ハルはあの人を助けてくれましたか?)

洗面台の蛇口を全開にして、そこから水が勢いよく溢れだしてくる。そして頭の中でこだまするアンジェの声を振り払うかのように、その中にハルは頭を突っ込んだ。




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




翌朝。重い気持ちのままアンジェはホテルの廊下を歩いていた。
昨晩に降っていた雨は上がり、窓からは気持ちの良い朝日が差し込んでいる。窓についた水滴を光が通り、きれいな輝きを作り出していた。
その一方でアンジェの表情は晴れない。昨夜もハルとは一度も話しておらず、今朝もアンジェが起きた時はすでにベッドの上にハルの姿は無かった。それがアンジェの心に更に重しを置く。

(どうしよう……)

階段を降りながらアンジェは悩む。
一晩ずっとベッドの中で考えていた。自分の取った行動。それが引き起こした事実。
間違った事をしたとは思ってない。人は争ってはいけないし、争いは止めなければならない。傷つくのを見るのは嫌だし、誰だって痛いのは嫌だから。だから止める。自分の奥底から湧き上がるその感情はきっと正しくて、そして倫理的にも正しい。
だけどハルの言う通り、取った行動は間違っていたのかもしれない。もし、自分が原因で争いが起きたら。そんな事はあってはならないし、今後も起こしてはダメだ。だから反省しないといけない。だから学習しないといけない。悪い事をしたなら謝る。それは分かっている。
しかし問題はどうやって謝るか。それがアンジェは分からなかった。
もちろん今まで謝った事は何度もある。だが、謝った相手とその後も行動を共にする事はほとんど無かった。彼女は記憶にある限り常に一人で行動し、謝る相手は全て行きずりの縁でしかなかった。そこに許されたかどうかは関係ない。アンジェとしては許してくれた、と信じたいがその確信は乏しい。
だからアンジェは不安だった。まだ一日しかハルとは付き合いが無いが、出会った当初のイメージとはかけ離れている程に彼女は相当に怒っていた。最後には自分の行動を認めてくれて、抱き締めてくれたが、本当に怒りはそれで治まっていたのか。その怒りが一晩で解けてるのか。謝って許してくれるのか。まだ自分と一緒に居てくれるのか。アンジェはそれが怖かった。

グー。
階段を降り切ったところで、アンジェの気持ちを読まずにアンジェの腹が警告の声を上げた。
決めた。とりあえず朝ごはんを食べてからまた考えよう。
問題を先送りしている事はこの際考えないでおく。
足取り軽く鼻唄を唄い、アンジェは食堂のドアを勢いよく開けた。

時計は朝の八時を指している。ビュッフェスタイルの食堂では壁に沿って様々な食事が並べられている。安いホテルなのでやや汚れた雰囲気だが、今のアンジェには気にならない。

「……むふ」

よだれで口の中を満たしながら目の前の食事を品定め。左手はすでに皿に伸びていて、器用に腕まで使い三枚の皿を載せている。
右手だけでこれまた器用にパン、チーズ、ハムにベーコン、スクランブルエッグと定番の料理を載せていく。当然それぞれの皿に山盛りで。後ろに並んでいる人が目を丸くしているのも気にしない。
四枚目の皿を台に置いて同じ様に山盛りにサラダを盛ったところで、アンジェは空いたテーブルを探して歩き回る。早く食べたくて仕方がないとばかりに、頻繁に皿とテーブルの間を視線が行き来する。朝だからか少しのパンとミルクしか食べていない人も居れば、アンジェに及ばないまでもそれなりの量を平らげている人も居る。
と、その中で一際周囲の注目を集めているテーブルを見つけた。
四人掛けの丸テーブル。そこ一杯に広げられた皿の数々。いくつかはすでに重ねられている。なのに座って食べているのは一人。

「お?おーい、アンジェ。こっちだ」

そのテーブルの主からお呼びが掛かる。それと共に一斉に周りの視線がアンジェに向けられた。
その視線にアンジェはたじろいで、危うく皿を落としそうになって慌ててバランスを取る。
正直、アンジェとしては心の準備が出来ていなかった。そもそも食事の後にまたハルへの対応を考えようとしていたのに、こんな所で出くわすとは思っていなかった。
ハルの顔を見てみる。ゆっくりとした動作で、絶えず食事を口に運ぶその表情には昨日の怒りの様子は見て取れない。

「どうした?早くこっち来いよ」

ハルに促され、また周囲の視線も落ち着かないので仕方なくアンジェはハルと同じテーブルに着く。ハルは右手のフォークを口元に運びながら、左で空いた皿を片していく。
山盛りの皿を置き終わってアンジェも席に着くが、どうにも落ち着かない。あれほど楽しみだった朝食も手をつける気になれない。
正面のハルは、アンジェが席に着いても気にすることなく変わらず皿の上の料理を平らげていく。どれだけ食べても表情は何一つ変わらない。
アンジェはしばらく考えていたが、やがて意を決して声を張り上げた。

「あ、あの!」
「ん?」
「ゴメンナサイ!」

勢い良く頭を下げる。ハルはアンジェの突然の行動に面食らうが、合点がいってああ、と頷くと頭を上げさせた。

「いや、こっちこそ昨日は言い過ぎた。
ちょっと嫌な事があって、虫の居所が悪かったみたいだ。アタシの方こそ悪かったよ。
うん、本当に悪かった。この通りだ。スマン!」

今度はハルが勢い良く頭を下げた。
そうなると逆にアンジェが困る。自分が謝るはずだったのにハルに謝られて軽く頭の中がパニックになる。
昨夜から考えていたアレやコレやがすっ飛び、オロオロとするだけで言葉が出てこない。
それでも何とか絞り出したのは一言。

「まだ……私と一緒に居てくれますか?」

その声にハルは顔を上げた。対面のアンジェはうつむき気味で、上目遣いにハルを見つめていた。
可愛い。不安そうな表情がまたそそる。頭に浮かんだ場違いなフレーズを慌てて振り払う。それでもハルは自身の頬が熱くなるのを感じて、ついわざとらしい咳払いをしてしまう。今はシリアスな場面だ。自重しろ、自分。
ごまかすようにハルは自分の黒髪を乱暴に掻き、息を大きく吐き出した。その様は呆れた風にも見え、より一層アンジェを不安にさせる。
だがおもむろにハルはフォークでアンジェの皿からハムの山を突き刺すと、アンジェの声を無視して大量に口の中へと放り込んだ。

「ほは、はやふ食わないほおいへいくほ?」

口一杯に頬張ったままそう言うとニヤリと笑う。
その意味が分からずアンジェは、は?と疑問符を浮かべるが、ハルの言葉を反芻して理解できた途端、アンジェの顔がほころんだ。
ハルの仕草は、昨日アンジェがやって行儀が悪いと怒られたのと同じ。それに思い至ると、小さくはにかんで期待されている答えを返した。

「行儀が悪いぞぉ。ちゃんと飲み込んでからしゃべりなさい」

テーブルを挟んで互いの顔を見つめ合う。そしてどちらともなく噴き出すと今度は二人揃って朝食を再開した。

「飯を食ったらすぐに出発するからな。しっかり食っとけよ」
「分かりました。ならお言葉に甘えて……」

言うや否や、アンジェはフォークをハルの皿に突き刺した。そのままあっという間に皿の上を空っぽにしてしまった。リスみたいに両頬をパンパンに膨らませ、もきゅもきゅとしてやったり顔で口を動かす。

「あっ! てめっ!! 何勝手に人のモン取ってやがる!」
「さっきハルも私の取ったじゃないですか!」
「バカ言うな。アタシが取ったのはハム四枚だ! 今お前ベーコン六枚食っただろ!?」
「良いじゃないですか! また持ってくれば!」
「アタシが持ってきてたのは最高の焼き加減だったヤツなんだよ!」
「それを言ったら私が持ってきたのも最高品質のです!ケチケチしないでください!」
「言ったな! なら……」

今度は皿ごと引き寄せスプーンを手にスクランブルエッグを一気にハルはかき込んだ。

「あー! ならこっちだって!」
「コラっ! チーズだけはダメだ!」
「遅いですよ~! もう貰いました~!」
「あああっ! ならそっちをよこせっ!」
「誰がやるもんですか!」

ガチャガチャと皿とナイフとフォークがぶつかり合う音が朝の食堂に響く。
あまりの騒がしさに二人のテーブルは、ついさっきまでとは違う意味で注目されているが二人とも全く気にしない。

(これで……良いんだ)

心の中でだけ呟くと、フォーク捌きにハルは集中する。
半径五十センチの攻防戦は宿の人に怒られるまで続いた。







[25510] 第1-7~1-8章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/01/28 23:08




-7-




山間の道路を一台のバイクが走り抜ける。両脇には青々とした深緑の木々が生い茂り、光と影が交互にバイクを照らす。
ドライバーは短めの黒髪で、ゴーグルを着けていて、そのレンズに周囲の景色が反射していた。バイクの横にはサイドカーが取り付けられ、その中から長めの金髪が風になびき、その髪の持ち主は小柄でちょこんという形容が良く似合っている。

「退屈ですね……」
「そうだな」

だらりとシート上で脱力し、アンジェは空を見上げる。まばらな雲が複雑な模様を描き出すが興味は無い。そんなモンで退屈を紛らわす事は昨日に終わらせた。

「何も無いですね……」
「そうだな」

ガタガタのアスファルトから不規則な振動が二人に伝わる。町に近い所は比較的きちんと舗装はされていて振動は少ないが、少し人里から離れると途端に道路状況は悪くなる。人が居る場所から復興が進められるから当然なのだろうが、少しくらいは直してくれてもいいんじゃないかとアンジェは思う。もっとも、昨日一日中乗っていたおかげですっかり慣れてしまったが。
それでもまだ尻が痛い。隣で運転してるハルはどうなのだろうと思って昨日聞いてみたが「慣れてる」との事。慣れても痛いものは痛い。やっぱりハルの体はどっかおかしいんじゃなかろうかと心のゴミ箱に向かって吐き捨てる。

「景色も変わりませんね……」
「そうだな」
「何も変わり映えしませんね」
「そうだな」
「サリーヴって遠いんですね」
「そうだな」
「私って可愛いですよね」
「そうだな」
「そういうハルも可愛いですよ」
「そうだな」
「自分で言って恥ずかしくないですか?」
「……そうだな」

こんな会話が繰り返されるのも今日一日で何回目か。
二人がクラリエでニーナに別れを告げて早二日。骨董品とも言えるハルのバイクなのでスピードはあまり出ない。田舎道は舗装が不十分で、加えて途中立ち寄った町か村か分からない小さな集落で二人して大量の食事を取る為に一日掛けてようやく目的の半分といった感じであり、かなりのんびりとしたペースでサリーヴへと進んでいた。
出発した日はまだ良かった。バイクに乗るなんて事はアンジェの人生の中で一度もなく、だから全てが新鮮だった。上機嫌にバイクを楽しみ、矢継ぎ早に通り過ぎていく景色に感嘆の声を上げ、見える世界に一々眼を輝かせていた。
だが元々が田舎。小さな家々が立ち並ぶ家が消えて、代わりに青々とした畑が現れる。しかしそれも一時間もすれば緑豊かな森へと変化し、その森は深さを増して日の光さえ遮り始めてその後は全く変わらなくなる。自然、はしゃいでいたアンジェのテンションも次第に落ちていき、ただボーっと景色を眺めるだけになっていった。
が、そこはアンジェ。一人でも騒々しく旅する少女が黙っていられるはずが無い。
したがって先の様なくだらない会話が繰り返され、律儀にもハルが答えるという構図が自然と出来あがっていた。
だが、そうして退屈を紛らわすのにも限界は必ず訪れる。

「うぎーっ!!」

そしてその限界はやはりアンジェの方が早かった。奇声を突如上げて立ち上がるが、ちょうどその時大きく欠けた舗装に差し掛かってバイクが跳ね上がる。道路からの不意打ちにバランスを崩して、当然アンジェは座席に後頭部を強かに打ちつけた。

「……何をしとるんだ、お前は」
「うぅ……」

どう見ても危険極まりない状態だったがハルは冷淡だった。というのもこの愚行でさえすでに四度目であり、二度目まではバイクを止めて慰めていたものの、いい加減にそれにも飽きる。
四度目ともなれば涙目のアンジェを一瞥しただけでスルーし、意識の一パーセントだけをアンジェに割いて残りの九九パーセントで運転に集中する。

「見るだけってひどくないですか?」
「自業自得って言葉、知ってるか?」

ぐう、とうめいてアンジェは前に突っ伏した。

「あーうー暇いですぅー」

座りながら上半身だけ前に乗り出して顎をボンネットに乗せるという、何とも器用な真似をしつつアンジェはぼやく。ハルは軽くため息をつきながらもそれを無視してバイクを走らせていた。が、不意に口を開いた。

「なあアンジェ?」
「なんですかぁ~?」
「暇を潰せそうなんだがどうする?」

ふぇ?と間の抜けた声を上げたアンジェ。その耳に遠くから低く鈍い音が届き、次第に大きくなってくる。

「バイクの音だな。それも一つじゃない」

バイクを止め、ハルは脇の森の中に足を踏み入れてじっと耳を澄ます。アンジェもハルのまねをして耳を澄ましてみるが、ただエンジン音らしきものが聞こえてくるだけで何の情報も得られない。
だがハルは違った。

「……足音が二つ、いや、一人か。それとバイクが二つ…三台か」
「どういう耳してるんですか……」

ハルは耳の中を掻くと、被っていたヘルメットを外して髪を掻き上げた。そして胸元からシガーケースを取り出してタバコに火を点ける。
しばらくタバコを吹かしながら森を眺め、アンジェもその横でバイクに腰かけて木々の隙間を見ていた。
バイクのエンジン音が大きくなる。低い唸りを上げ、それに混じって男らしき低い声が聞こえてくる。何かを囃し立てるかの様に数人の声が入れ替わり上がり、冷やかす様な声色も混じっていた。

「おいおい、またかよ……」
「えっ?」

ハルがため息混じりに呟いた瞬間、一人の女性が二人の目の前を駆け抜けていった。駆け抜ける、と言うよりも飛び回る、と言った方が近いかもしれない。女性は土と木の根の敷き詰められた地面と木の枝を巧みに使い、平らな地面を駆けるのと違わない速度で木の間を走り抜けた。
その直後、三台のオフロードバイクが女性を追いかける様に通り過ぎる。バイクには不向きな場所のはずだが、乗っている男達は苦にしたようも無く、楽しそうにはしゃぎながら乗っていた。それぞれが剣を手にして。
その姿はアンジェの眼にも入った。彼らはあっという間に、眺めていた二人に気づく様子もなくまた森の奥へと消えていった。
アンジェの足がすぐに彼らが消えていった方に動き出す。膝が曲がり、加速を前に力がこもる。
だが数日前にハルに言われた事が頭によぎった。それがアンジェの足を止める。
すぐさま追いかけたい衝動を堪え、ハルの方を振り向いた。が、ハルはタバコを吸うばかりで動く様子は無い。アンジェは森の方とハルとを幾度も交互に見る。

焦燥がアンジェを襲う。落ち着かない。そわそわと体を揺らしてハルにアピールするが、相変わらず煙を楽しんでいるのか、それとも何かを考えてるのか分からないがアンジェの方を見向きもしなかった。
行くしかない。
アンジェは決意した。ハルにはまた怒られるだろうけど、争いを見過ごすよりはずっと良い。
内心でごめんなさい、とハルに謝りつつアンジェは駆け出そうとした。しかしその肩をハルがつかむ。
放して下さい。
睨むようにしてアンジェはその手を振り払おうとするが、それよりも早くハルが口を開いた。

「行くんだろ、どうせ」
「えっ?」

タバコをもみ消し、ぐるりと肩を回す。軽く屈伸運動をし、首の骨をポキポキと鳴らした。

「勝手に行って暴走されても面倒だからな。アタシも行くよ。やれやれ、保護者役はツライな、まったく」
「……」
「どうした? 早く行くぞ」

口元に小さく笑みを浮かべてアンジェを促す。
アンジェは呆けていたが、すぐに笑って大きく頷いた。
二人は同時に駆け出した。






-8-







オルレアは必死で逃げていた。
アウトロバーにしては軽量な体を生かし、生い茂る木々の間を右へ左へと小刻みに動き、追っ手をまこうと体を動かし続ける。
枝の上に乗り、幹を蹴り、張り出した根を千切り駆ける。その度に灰色のズボンがすり切れ、泥が服を汚していく。
だが背後から聞こえてくるバイクの音も止まらない。下品な笑い声を上げ、しかし巧みにバイクを操りながらオルレアの後ろを走り続けた。枝の多い場所を選んでオルレアも逃げるが、男たちは手にした剣で枝を切り落とし、時には巨木を切り倒しながら進む。さすがに森の中でスピードは出せないのか、オルレアと彼らの距離が縮まる事は無いが逆に広がることも無い。むしろなかなか追いつけない事を楽しんでいる節さえある。

(……違う!)

彼らは追いつけないのではない。わざと追いつかない。距離を保って追いかける事でこちらの逃げる様を嘲笑っている。必死で逃げる獲物の無様さを下卑た笑みと共に楽しんでいた。

(メンシェロウト如きに……!!)

オルレアは激怒した。悔しさに歯を食いしばり、走りながら腕を自らの足に叩きつける事で怒りを紛らわせる。
腕に伝わるのは固い自らの足を構成する金属。この足で奴らを蹴散らせたらどれだけスッキリとするだろうか。
足を止めて奴らと向き合う。そんな考えがオルレアの頭に過る。だが沸騰した頭でもすぐにそれを却下した。そもそもそれが出来る相手ならばこの様な状況に陥ってなど居ない。
泣きそうになる。だがそれは出来ない。泣くのは全てが終わってからでいい。
唇を噛みしめて彼女は逃げ続けた。


ビシェの街にあるギルツェントに要請が来たのはちょうど一週間前だった。
曰く、ソコラの近くに山賊が出ると。
またか、というのがオルレアの話を聞いた第一印象だった。つい一ヶ月前にも別の町に出向いて殲滅作戦に参加したばかりで、武装のオーバーホールも十分に出来ていない。そんなモノはソコラのギルツェントに任せておけ、と言いたかったが、どうもソコラの町のギルツェントでは歯がたたず、田舎町過ぎて報奨金目当てに討伐に繰り出すハンターも居ないとの事だった。
それならばサリーヴに行け、と思ったがそれは無理か、とすぐに思い直す。
サリーヴのギルツェントは腰が重い事で有名だった。
大都市故に犯罪も多く、その取締で大変なことも理由として挙げられるが、何よりも他のギルツェントと協力する事に否定的だった。自分の町は自分の手で守れ、という事なのかもしれないが、これまで一切他の町に出ていく事はなかった。

(だとしたら、もうここしか近くにギルトは無いしな……)

正直、面倒だというのがオルレアの感想だった。ハンターでは無く職員としてギルトに所属している以上、こういった警察活動も仕事の一つだ。そして自分は荒事に従事する戦闘用ロバーとして所属している。とは言っても、彼ら山賊を捕まえたからといって何かボーナスが出るわけではない。オマケに彼らはそれなりの武装をしている場合がほとんどだ。関わりたくないと思うのは自然だろう。
だが、ここに話が来た時点で自分たちが出ていくのはほぼ確定である事をオルレアは知っていた。困っている話が来たらまず断らない、掛け値なしのお人好しの上司がここには居るから。

「ふむ……なら仕方が無いね」

椅子に座って話を聞いていたオルレア。その後ろからの声を聞き、そっとため息をついた。

「どうしたんだ、バーチェス? ため息なんかついてたら幸せが逃げていくよ」
「いえ、何でもありません。ちょっとひどい疲れを感じただけです」

主に精神的に、とは口にしない。
そうか、と特に気にした風もなく現れたお人好し――アグニスは話を促す。

「報告された山賊たちは4名程度で、いずれも剣で武装しています。バイクで村を襲撃しては強奪したり、また山道を通った旅人を襲ったりしているみたいです」
「またメンシェロウトの傭兵崩れでしょうか?」

オルレアは何の気なしにそうアグニスに尋ねた。だがアグニスは軽く息を吐き出すと、諭す様にオルレアに答える。

「何でもメンシェロウトの仕業と決め付けるのは君の悪い癖だ、バーチェス」
「しかし前回も前々回も奴らの仕業でした」
「それでも、だよ」
「特に最近はこちらの方に流れてくる人間が増えてきてます。秩序を維持する為にも国に入国を規制するよう要請すべきだと思いますが?」
「バーチェス」

今度こそアグニスは深いため息をついて、そしてオルレアの正面に立った。
オルレアに比べ、アグニスは頭ひとつ近く大きい。女性ゆえに細身の体と比べ、縦も横もずっしりとした男性戦闘タイプのアグニスが立つと自然と見下ろす様な形になり、重厚感を与える。
しかしアグニスは軽く微笑み、オルレアの肩に手を掛ける。

「何事も一面だけを見てはいけないよ。偏った考えは時として君を間違った方向に導かねない」
「分かっています」
「そうかな?今の君を見てるとそうは思えないよ」

そんな事はない、とオルレアは否定しようとするが、アグニスは背を向け、全員に向き直って一度咳払いをした。

「さて、相手の実力については何か情報は?」
「そこについては何も伝えてきては居ません。何せ目撃情報が少ないらしくて……」

正確な人数もまだ把握できていません。
事務を担当するジェニフの返答にアグニスは一度頷き、顎に手を当てて考える。そして考えが固まったのか、改めてジェニフに訪ねる。

「そうだな……何人くらい今余裕がある?」
「ヴィッツェ、クラーフ、トリエラの三人が派遣出来ます。後、二、三人なら町の警ら人数を圧縮すれば何とか」
「ならバーチェスも合わせて六人で行ってくれ。出発は二日後で宜しく頼む」
「私もですか?」
「嫌かい?」
「嫌ではありませんが……」

言いよどむオルレアにアグニスはゆっくりと近づく。オルレアは顔を上げるがアグニスはその横を通り過ぎる。だがその通り過ぎざまに手をオルレアの肩に乗せる。

「しっかり頼むよ。相手は山に慣れている。くれぐれも慎重にね」

それだけを告げてアグニスはギルツェントの建物を出て行った。


それから一週間後、オルレアたちはソコラの町近くの森の中に居た。
町に着いてからの五日間、六人は徹底的に情報を収集に掛かった。ソコラのギルツェントの人員も数人借りて、付近の町まで範囲を広げて聞き込みを行う。
最年長のヴィッツェの指示だったが、山賊たちに情報が漏れるのも覚悟の上だった。無論出来るだけ慎重に行っていたが、田舎の小さな町ゆえに外部のロバーであるオルレアたちが来たことはすぐに伝わる。
だがそれを考慮しても情報が少な過ぎた。大まかな人数さえ分からず、何処からやってくるのか、武装はどの程度なのか。ギルト側が知っている事は極わずかに過ぎない。山賊たちが襲撃した時に退けるのは、簡単では無いだろうが不可能では無い。ギルトの戦闘要員として皆その程度の自負は持っている。しかし自分たちの目的は対処療法ではなく、問題の根本からの解決。その為の情報との天秤に掛けての判断だった。

「本当にこの先に小屋があるんだろうな?」
「小屋があるのは間違いない。ただそこに目的の奴らが居るかは知らないがな」

数日間の捜査の結果、有力な情報を一行は手に入れていた。
町の南東の森の奥に数軒、山小屋があってそこに不審な連中がまれに出入している、と。
念の為に複数方面から確認を取ってみたところ、小屋がある事はほぼ確定したがそこに出入している人物については結局はっきりとした事は分からなかった。
そうクラーフが告げるが、カールは眉を寄せて怪訝な表情を浮かべた。

「何だそりゃ?」
「仕方ないでしょ? 曖昧な情報しか無かったんだから」
「それで、分かんねえから実際に行って確かめてみようって話になった訳か」
「そうだって今朝言ったばっかじゃん。まったく、相変わらずカールは話聞いてないよね」
「うっせえよ、トリエラ。今朝は寝不足だったんだよ」
「今朝も、だろ」

トリエラがフォーローし、カールが納得したところでジャンが冷たく突っ込む。付き合いの長い三人が集まるといつも騒がしくなる。任務中だ、とオルレアは生来の真面目な性格ゆえに叱責したい衝動に駆られるが、グッと我慢する。三人の方がオルレアよりも年上であり、戦闘能力も高い。
オルレアは未だ騒がしい集団を離れてスッとヴィッツェの横に並ぶ。

「いいんでしょうか?」
「構わんさ。大方向こうにはもうバレてる。森に入る前に妙な奴が入っていくのを見たからな。もしかしたら今俺達がこうしてここにいるのも敵さんの罠かもしれん」
「っ! ならば……」
「危険ではあるが、あまり解決に時間を掛けるわけにもいくまい。それに、罠だとしたら向こうから招待してくれたんだ。なら期待に応えてやるべきだろう。ロバーとして、な」
「罠ならば力尽くで食い破る、ですか」
「そういう事だ。それい、ああ見えてあいつらも警戒は怠ってない。少々騒ぎ過ぎではあるがな」

そう言いながらオルレアの少し前をヴィッツェは歩く。だが、その足が不意に止まった。それと同時にオルレアを除く全員が立ち止まる。
オルレアだけは数歩歩き、ヴィッツェを追い抜いた所で止まった。

「どうしたんですか?」
「……避けろっ!!」

ヴィッツェの元へオルレアは歩み寄る。が、その瞬間ヴィッツェが叫び、オルレアを突き飛ばした。
咄嗟の事にオルレアは対応出来ず、数メートルに渡って転がる。地面を滑るその最中、立っていたはずの地面が弾け、土が舞い上がり全員の視界を塞いだ。
直後、一斉に咆哮にも似た雄叫びが四方から上がる。次々と影から現れる人影。怒号のようなバイクのエンジン音。怒りと憎しみを多分に威嚇と同時に牙を六人に向けた。
崖の上から断続的に襲い来る砲弾。貫通力よりも打撃力に重点を置いたそれは山肌を砕き、粉塵を巻き上げていく。それと同時に一行を分断し、強襲する。

「ちっ!なめんなぁっ!!」

カールも負けじと叫ぶ。斬りかかってきた一人を力任せに弾き飛ばすと、そのままの勢いで蹴り飛ばした。
追い打ちを掛けようと走り寄るが、バックアップに入ってきた男が斬りかかり、かろうじてカールは地面を転がって避ける。
形勢逆転。だがそれも一瞬だけで、トリエラが右腕に装着したガトリングで牽制する。
身を翻してその場を離れる山賊たち。一人は避け切れずそのまま血飛沫を上げてその場に倒れ伏すが、ほとんどは胸当てや篭手などの防具をつけているにもかかわらず、敏捷な動きで森へと一度退散する。ガトリングの弾が木々を穿ち、枝を喰いちぎっていく。
が、次の瞬間には背後からの集団がバイクのまま突っ込んでくる。

「そこだっ!」
「甘いわっ!!」

クラーフが前に出て手に装備していた両刃剣を一閃。鋭利な剣先はバイクを、ハムをスライスする様に容易く切り裂く。
だがそこにライダーは居ない。刃はハンドルだけを二つに別け、空中から低い叫びが降りてくる。
空から振り下ろされる刃。クラーフの頭上に迷いなく迫っていた。

「そっちがな」

しかしそれも妨げられる。
冷徹な声でジャンの蹴りが男を空中で捉える。奇妙なうめき声を上げ、弾き飛ばされた男は森の木々をへし折りながら消えていった。

「体勢を立て直すぞ!
バーチェスは遊撃、クラーフとトリエラはジャンとカールのバックアップに回れ!」

ヴィッツェは大声で指示を出した。皆、大声でそれに答えて体勢を整える。
だがそれも男たちは許さない。
オルレアが動き出そうと、両足のふくらはぎからジェット装置がせり出すが、それを狙いすましたかの如く、空中にロケット弾が打ち上げられる。降下してきた弾頭は空中で弾け、弾幕が降ってくる。
小口径のそれが与えるダメージは生身のメンシェロウトならともかく、皮膚の下に金属をまとうアウトロバーには少ない。それでも足止めには十二分。舞い上げられた砂ぼこりは両目のメインカメラからも相手の姿をかき消す。
バーニアを吹かして砂ぼこりを吹き飛ばした。オルレアたちを覆っていた幕が消え去り、それと同時にオルレア自身も飛び出していく。だが弾幕で抉られた地面の小石の類がオルレアのジェットの中に無数に紛れ込んでいた。野戦用に、ゴミが入っても問題ない作りにはなっていたが、オルレアにとっては不幸な事に、ここ最近で酷使されていたその装置は、一部が動作不良を起こして出力が一気に低下してしまった。
バランスが崩れ、体勢を崩したまま中途半端に飛び出してしまったオルレアに凶刃が一斉に襲いかかった。

「くっ!」

まずい。オルレアは咄嗟に判断してバーニアを全力で噴射する。

(メンシェロウトならば……!)

このまま全力で押し込む。
出力のあるアウトロバー相手なら無理でも、格闘用ではない自分でも、所詮メンシェロウトならば――

「バッカやろうっ!!」

ヴィッツェが叫ぶ。だがオルレアは止まらない。発揮出来る限りの出力を出して加速し、数人の山賊を蹴散らしながら包囲網を打開しようと滑空する。襲いかかる数本の刃をくぐり抜け、正面に立ちふさがる男に向かって備え付けの小さなナイフを突き出した。

「なにっ!?」

正確ではないにしろ、照準はつけていた。狙うは男の腹部左側方。胸当ての下の、防具のない箇所。
だが刃が突き刺さることは無かった。甲高い音を立てて小さな刃が宙を舞う。

「残念でした」

バーニアが切れてもオルレアは男の腕の中に居た。男の脚部からは火花が飛び、焦げ臭い匂いがわずかに立ち込める。ナイフで切り裂かれた服の下からは無数の細いパイプが顔をのぞかせていた。

「アンタら、相当メンシェロウトに恨まれてるらしいな。まったく、人種間の対立ってぇのは根深いモンだね。
ま、ロバーのアンタらを殺すのに、俺みたいなはぐれモンのロバーを雇うコイツらも相当なタマだがね」

男はオルレアの首を鷲掴みにする。そして軽々と持ち上げ、ニヤリと口元を歪めた。そして銃口に変化した右腕をオルレアの口の中に突っ込む。

「あばよ」
「トリエラ!!」
「させないよっ!」

ヴィッツェの叫びに間髪入れずトリエラが応える。背中に抱えていた一際巨大な大砲を力任せに地面に叩きつけると、そのまま手のひら大もある引き金を引いた。
瞬間、轟音が響いて地面が砕け始める。亀裂は広がり、やがて山肌一面を覆っていく。

「もう一丁!!」
「ま、まさか……くそ!やめろォ!!」

自身の足元にも亀裂は広がっているにもかかわらず、トリエラは躊躇いなくもう一度引き金を引いた。
爆音。それとほぼ同時に辺り一面が砕けた。
巨大な地鳴り音と共にポッカリと開いた暗闇。
オルレアたちも山賊たちも、肥大化した亀裂に飲み込まれて行った。




「…うぅ……」

自身を覆っていた瓦礫を押しのけてオルレアは立ち上がる。土埃が彼女の頭から落ち、小さな溜りを形作る。
辺りを注意深く見渡しながら、オルレアは自身の各部にチェックプログラムを走らせる。むき出しだった箇所の表皮が削れ、金属が姿を表しているが稼働に問題は無い。関節部も異常なしとはいかないが、動く分には支障はなさそうだった。
次いで現在地と仲間の位置を確認するべく、衛星に信号を送ってみるがこちらは反応が無かった。森の中にいるので信号が上手く届かないのかもしれない、と少し移動して開けた場所に行ってみるがやはり何の情報も入ってこない。

「壊れたか……」

何度か繰り返してみて、オルレアはそう結論づけた。

「参ったな」

そう呟いてオルレアは手頃な岩の上に腰掛けると、深くため息をついた。
GPSの故障もだが、先の戦闘がひどくオルレアの心に影を落としていた。

「あれだけアグニス部長に言われていたのにな……」

相手を決めつけて見下してしまった結果がアレだ。まさかメンシェロウトの山賊がロバーを雇い入れるとは思ってもみなかった。再度深いため息をつく。
泣きそうな気分だった。ヴィッツェやトリエラたちは無事だろうか。彼らの安否と自身への不甲斐なさが交互にオルレアを揺さぶる。
空を見上げれば遠くから雲の切れ端が見える。冷たい風が吹いて木々が泣いた。
頭を垂れ、うなだれていたオルレアだったが、その耳にエンジン音が聞こえてきた。

「お?一人見っけ~」

崩れた山肌に響く、場違いに陽気な声。オルレアが振り向くと、三人の男たちがバイクで急な坂を駆け下りてきていた。地滑りを起こした地面を苦も無く走り降りる。それだけでも相当の技術を持っている事がわかる。

「しっかし、アンタらも無茶するね。まさか山肌ごと吹っ飛ばすとは思わなかったよ」
「安心しろ。こっちとしても予想外だった」
「だよね~。おかげで俺らも巻き込まれるトコだったよ。いや~アブナイアブナイ」

ま、ボスとかは巻き込まれちゃったけどね。
言いながらケタケタと三人は笑う。

「しかしどうだ? アンタらが見下してる人間に一杯食わされた気分は? 立場が逆転しちまった気分は?」

冷たい汗がオルレアの背中を伝う。相手は皆笑ってはいるが、その眼はタイミングを伺っていて、どうやってオルレアを狩ろうかと思案しているのがオルレア自身にも感じ取れた。
オルレアの方も思考を巡らせる。前へ出るか、それとも退くか。
感情は戦えと叫ぶ。悪は滅せられるべきで、自分はそれが許される立場に居るのだと。何より、ノイマンならいざ知らず、メンシェロウト如きに背中を見せるなどプライドが許さない。
一方で理性は逃げるべきだと諭す。体の各部に不具合があり、加えて自分は直接的な戦闘タイプでは無い。相手がメンシェロウトだが、武装はビーム式マシンガン一つ。こちらを待ち構えていたのだ。ロバーに有効な武器も持っていることだろう。それなりに手練であるだろう三人を相手にして勝ち目は残念ながらほぼ無いと言っていい。
オルレアは三人に背を向けて走り出した。その際にちらりと大量の土砂の山を見る。あの中にヴィッツェたちが居るのかもしれない。気を失って助けを待っているかもしれない。
そう思うと心苦しかった。噛み締めた奥歯が鳴る。それでもオルレアは気持ちをグッと抑えて不安定なバーニアに再度火を入れた。





[25510] 第1-9~1-11章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/02/05 00:51





-9-






方向も分からず闇雲に逃げ続けるオルレア。その視界が開ける。木々が途切れ、道路が姿を現した。
しかしオルレアは道路に出ることはなく方向を転換する。
バーニアの不具合でスピードが出せない以上、開けた場所に出ればすぐ追いつかれてしまう。未だ捕まらずにいられるのは森の中にいるからで、それを捨ててしまうのは愚策。
背後から迫るエンジン音が大きさを増す。それを聞いて、再び森の深い方へとオルレアは足を踏み出す。
瞬間、葉がざわめいた。
オルレアの体に衝撃が走る。だが決してその衝撃は強くない。柔らかく受け止められた感覚がオルレアに残った。
倒れこみ、ゆっくりと横に流れる視界。その視界を下へと向けると、金色のしっぽが揺れていた。

「ハル!」

少女の声が早いか、オルレアたちの頭上を何かが通過していった。
通過したそれは、オルレアに迫っていたバイクの手前に着弾する。
通常よりも巨大な弾は地面を穿ち、石礫を新たな弾丸として山賊たちを襲った。
男たちはハンドルを切り、それを素早く避ける。突然の事に面食らいはしたが、避けることはそう難しいことでは無かった。それどころか、乱入者の登場に胸を踊らせてさえいた。
ニヤけた、下卑た笑みを浮かべていたが、それも次の瞬間には驚愕へと変わる。
ハルはバイクの前に立っていた。つい数瞬前には少なくとも数十メートルは先に立っていたにもかかわらず、男の眼の前に立っていた。記憶に違いは無いし自分の目測に狂いは無かった。
なのに。
男の顔が歪む。それが殴られたからだと気づいた時、すでに男の体は地面に叩きつけられていた。

「このっ!」

倒された男は腕に装備していた銃剣を振るおうとした。だがそれも叶わない。振り切る前にハルはその腕をつかみ、そのまま男を力任せに木へと叩きつけた。

「てめぇっ!」

首を打ち付けられて気を失い、ズルズルと沈み込む。その様子を見て、残された二人はその標的をオルレアからハルへと変更した。
ハルは無表情で引き金を引く。狙った箇所へ、寸分の違いもなく小口径の弾を吐き出していく。右へ左へと小刻みに方向を変えながらも狙いがずれる事は無い。
対峙する男たちも退かない。腕に装備してある盾をかざしながら、銃による致命傷を避ける。ハルの銃が別の男に向かうと、また別の男が銃を構えてハルの注意を引き、ハルに的を絞らせない。
下品な笑いは鳴りを潜め、ハルへ向かって警戒を強める。小回りの効かないバイクを乗り捨て、両腕に武装を武器に、少しずつハルとの距離を詰めていった。
数は二対一。二人の内一人はロバーらしく、いくつもの武装が両腕に備わっていた。だが戦況はハルの方が有利。しかし緊迫した状況は僅かな隙で戦況をひっくり返しかねない。
小さくハルは舌打ちをした。ただの山賊かと思っていたが想像以上に手強い。

(流石にラスティングだけじゃ厳しいか)

相手を殺しても構わないならばそう時間は掛からない。だがハルはその選択をしなかった。
ポケットに手を伸ばし、膨らみを確認する。ビンの冷たい感触が手に伝わる。大丈夫、まだ余裕はある。
一度後ろへ下がり、相手との距離を置く。そしてハルは意識を集中させた。
その時だった。一つの影がハルの横を通り抜けていった。

「はあああああああああっ!!」

叫び声を挙げ、オルレアが男たちに向かって飛び込んでいく。使えるバーニアを最大出力にし、必死にバランスを取りながら低空を滑空する。
男たちは完全に虚を突かれた。オルレアの突進に備え、一人が咄嗟に固く身構える。
が、オルレアは男たちとハルの間を通過していった。その際に剣を地面に突き立て、細かく石を巻き上げていく。
礫がマシンガンとなって山賊を襲う。山賊の悲鳴が聞こえ、だが当然その程度で致命傷になるわけでも大したダメージにもならない。
何を、とハルは眼を見張った。だがもう一つの影が横を通り過ぎた事で意図も明確になる。
バーニアの噴射で巻き上げられた粉塵の中に飛び込んでいく。シルエットだけが形作られ、小さな影の形が急速に変化した。

「やあっ!」

甲高い声に続いて鈍い音が響く。それと同時にハルから見える影が一つ崩れ落ちる。
やられた。それを悟った最後の一人、ロバーの男が音の方に向かって闇雲に剣を振るう。
風が吹き、視界が晴れる。そして剣は確かにアンジェに向かって振り下ろされていた。

「アンジェ!!」

ハルが叫び、駆ける。だが間に合わない。
決して男も狙ったわけではない。見えない恐怖に押されて振り回しただけだ。しかし刃は偶然にもアンジェの頭を捉えようとしていた。
再度、音が響く。
鈍く、潰れた音。多少の誤差はあれ、少なくともハルはそれを予期していたし、オルレアも、そして剣を振った男もそれを想像したに違いない。
だがそうはならなかった。代わりに甲高い金属音が響き、次いで破裂音とゴッ、と今度こそ鈍い音がした。

「ふぅ……」

額の汗をシャツの袖で拭き、アンジェは上げていた両腕から力を抜いた。そして風が土煙を完全に流し、ハルからも二人の位置が明らかになる。
男は眼を見開いた状態で倒れていた。意識を完全に飛ばされているのか、ピクリとも動かない。見様によってはすでに事切れている様にも見える。
恐る恐るハルは男に近づいて首筋に手を当てて、そこにわずかながら循環液の流れを感じ、ホッと一息ついた。

「……何をしたんだ?」
「あ、大丈夫ですよ。首に衝撃を与えてちょっと眠ってもらっただけです」

もちろんゴム弾ですよ。そう言ってアンジェはハルの前に右手をかざす。
そこには銃身があった。腕先が折れて、二の腕の所から精密な銃が現れていた。
それを見てハルは絶句する。その横でアンジェは何事も無かったかの様に、蝶番で折れていた義手を元に戻す。
カチッと音がして、そこにはここ数日見慣れたアンジェと同じ姿があった。
もう一方の腕にハルは眼を遣った。剣を受け止めた時に切り裂かれた袖。その下からは銀色の金属が覗いている。
それに気づいたアンジェは袖をまくり上げて、シワでその場所を覆い隠した。

「私だってやれば出来るんですから。一人で旅してて、私がこういう事に首を突っ込まないと思います? だからあんまり気を遣わなくても大丈夫ですよ」

そう言ってアンジェは笑顔をハルに向けた。その下に不安が見え隠れしていた。
アンジェは男を抱え、木の下で伸びている男の元に運んでいく。んしょんしょ、と声を上げ、半ば引きずる様にしていくその足は、小さく震えていた。
ハルはゆっくりと歩き出した。そっとアンジェの後ろに近づいていく。
アンジェはそれに気づいて無いのか、男を並べると小さくため息をつく。
そこへグイッと後ろに引っ張る力が加えられた。
後頭部に感じる柔らかな感触。そして頭頂部に置かれる握り拳の感触。
……握り拳?
疑問がアンジェの頭に浮かんだ瞬間、その頭に強烈なヘッドロックが決まった。

「あいたたたたたたっ!?」
「まったく! お前は! ムチャばっかり! しやがって!!」

ゴリゴリゴリゴリ。頭の上で何とも不自然な音が響く。

「痛いです痛いですすっごい痛いです!?」
「やかましい!黙って受け止めろ!」
「あ、穴が!穴が頭に開いちゃいます開くーっ!!」

ひとしきりアンジェの悲鳴を聞いたところで、ハルはようやくアンジェを解放した。

「あうぅ……穴は開いてませんか?」
「開くかバカ」

ゴシゴシとうずくまって自分の頭を撫でるアンジェを立たせると、今度こそハルはアンジェの頭を撫でてやった。

「ったく……ちったぁ学習したかと思えば、今度はアレ以上の無茶をしてくるよな、お前は」
「でも、分かってくれましたよね? ハルと戦っても負けませんよ?」
「意気がるな。戦いに慣れてないクセに」

ふう、と小さく息を吐いてアンジェを見下ろす。自分の鼻の辺りまでしか無い小柄な女の子。体つきもハルと比べると華奢で、どう見ても争いごとには向かない。なのに自分から進んで争いごとに首を突っ込んでいく厄介な性格をしている。
何がアンジェをそうさせるのか。何か、アンジェを駆り立てるものが深く根付いている気もするが、ハルには検討もつかない。
だが、それでも良い。ハルはそう思う。出来る限り自分の出来る事をするだけだ。幼い外見に似つかわしくない無骨なフォルムを見せていたアンジェの右腕を見て、それをまた見たいとも思わなかった。

「しかし、お前の腕と言いアウトロバーの急所を知ってる事と言い、お前ってやっぱりアウトロバーだったんだな」
「いや、違いますよ? ホントにメンシェロウトですって。少なくとも生まれた時は。これはたぶん後付け設定です」
「後付け設定ってなんだよ?」
「気にしないで大丈夫です。とりあえず私はメンシェロウトのつもりですよ?」
「その言葉に違いは無いか?」

アンジェに疑問を呈してきたのはハルでは無かった。木々の間から不自然な歩き方で近づいてくる女性。軋む足を引きずりながらオルレアは二人に近づいていった。

「もう一度聞くが、お前たちはメンシェロウトか?」
「あ、はい。私はそうですけど、ハルは――」
「アタシはノイマンだ」

アンジェの言葉を遮る形で、ハルはオルレアの前に立ち塞がる。
オルレアはそれを聞くと露骨に表情を歪めた。

「……メンシェロウトにノイマンか」

わずかに視線をずらし、苛立ったように舌打ちを繰り返す。
ハルはそれの意図するところに気づいたが、何も言わなかった。一方のアンジェは聞こえなかったか、心配そうな表情を浮かべてオルレアの足を気遣う。

「あの、足は大丈夫ですか? 痛みますか?」

そう言ってアンジェは手をオルレアの足に伸ばそうとするが、オルレアは素早く左足を引いてその手を避ける。

「大丈夫だ。神経回路はすでに遮断してある。後で交換すれば問題ない」

そうしてまた一歩下がり、オルレアと二人の間にやや距離が出来る。手を伸ばすには遠すぎて、だがその気になれば一足で届く位置関係。助け合った者同士とは思えない緊張感がその距離を満たす。

「ハル、と言ったか。お前が最初に使った60口径弾だが……」
「分かってるよ。禁止されてるって言うんだろ?ギルツェントじゃないんだから、堅いこと言うなって」
「残念ながら私はギルツェントのアウトロバーだ」
「うげぇ……」

今度はハルの方が一歩下がる。こんな所でギルトに捕まるのはゴメンだ。意識を周囲に飛ばして逃走ルートをシミュレートする。
そんなハルの空気を察したのか、オルレアは一度軽く鼻で笑った。

「心配しなくてもいい。助けてもらったお礼に見なかった事にしておく」
「そりゃどうも……」
「それくらいの義理は果たすさ」

ありがとう、と礼を述べ、オルレアは緩めた表情を引き締める。肩まで伸びた金髪を一度掻き上げて気持ちを切り替えた。

「面倒だが、お前たちには一度ギルトに来てもらわなければならん」
「どうしてですか?」
「コイツらはこの辺りでのさばってた山賊でな、一応報奨金も掛けられている。その受け取り手続きをしてもらわないとならないんだ。ついでに聴取も行う。
あと、しばらくギルトへ行くのは待ってもらう事になる。悪いが仲間を探さなければならない。無事ならいいんだが……」

口では冷静さを装っているが、心持ち意識が他に向いている様にハルは感じた。だがそれも関係ない、とばかりに無視して少し顔をしかめた。

「……面倒だな」
「私だってメンシェロウトとノイマンと一緒に動くのは嫌だ」
「露骨だな、オイ」

呆れた様にハルは呟いた。その小さな呟きは、一応ハルとしては聞こえない様にしたつもりだったが、しっかりと高性能なマイクに拾われていた。

「当たり前だろう?どうして野蛮で何の役にも立たない者と一緒に居たいと思うんだ?」
「その役に立たない奴に助けられたのは誰だよ?」
「だから一応敬意を払って一緒に行動しようとしてるんじゃないか。甚だ不本意ではあるがな」

やれやれ、とハルは肩を竦めた。本当なら不愉快な態度のはずだが、ここまでくると逆に清々しい。
さて、逃げるか、それとも言葉に従うか。逃げようと思えばできなくもない。相手は手負いのロバー一人。自分一人ならあっさりできるだろう。まあ、アンジェが一緒に逃げるかは不安だが。
それに、ここまでギルトの仕事に関わって要請を断ると逆にそれも面倒か。
背を向けて歩き出したオルレアを見て、素直に着いていく事にハルは決めて歩き出す。そしてその後ろを同じようにアンジェも着いていった。








-10-



山賊三人を抱え、アンジェとハルと共にヴィッツェたちを探しに再び森の奥へと戻ったオルレアだったが、意外にもあっさりと合流することが出来た。
三十分ほど歩き続けたところでオルレアを除く全員が集まって戦闘を繰り広げており、見つけた瞬間はオルレアたちも助けに入ろうとしたが、すでに勝敗は決していた。山賊たちは半数以上がのびていて、残る二人もあっさりとジャンとカールの攻撃に意識を刈り取られて倒れこむ。
さすがだな、とオルレアは感嘆した。
自分なんかとは違う。先程は奇襲を受けて十分な力を発揮出来なかったが、フォーメーションを立て直せばたかが山賊に負けはしない。それが例え、相手が同じ戦闘用のロバーであっても。それだけの訓練と装備を、ギルトのメンバーはしている。

「へえ、さすがだな」

すぐ後ろでオルレアと同じ感想を抱いたハルが声を上げ、オルレアが振り返るとハルの隣でアンジェも眼を丸くしていた。

「はー、ギルトの人ってやっぱり強いんですねぇ」
「当然だ。戦闘用ロバーの中でも特に選りすぐりが入るんだ。弱くては話にならん」

得意げにオルレアは胸を張る。
だが自分はどうだろうか、とオルレアはアンジェに応えながら自問する。
カールもジャンも白兵戦ではかなり強い。田舎のギルト所属のロバーとは言っても、そこらに居るロバーでは刃が立たない。それだけの出力と装備を持ち、なおかつそれを使いこなせていて、戦闘術もインストールされている。
一方で純粋なパワーでは敵わないが、ヴィッツェは指揮能力に特化していて、オルレアから見てもクセの強いカールとジャンに上手く指示を出している。トリエラとクラーフは後方支援タイプで、クラーフは前線でも戦えるし、トリエラの射撃能力はとても真似出来ない。
顧みて自分はスピードしかない。元よりかく乱仕様のボディだが、スピードの分軽量化していてロバー相手では倒すこともままならない。自分より出力のある相手を倒すだけの戦闘経験の積み重ねも無い。
ただでさえアウトロバーの成長は遅い。なのに加えて不甲斐ない自分は、こうしてメンシェロウトとノイマンの力を借りなければ山賊一人満足に倒すことは出来なかった。それがオルレアは歯がゆい。
アンジェとハルから眼を逸らしてヴィッツェたちに近づく。向こうもオルレアに気づいて歩み寄ってきたが、ヴィッツェの体の各所を見てオルレアは眼を伏せた。両腕のあちこちに切り傷があり、表面の金属の下からパイプが露出して火花を発している。カールも鎖骨に当たる場所に穴が空き、オイルを垂れ流していた。クラーフもジャンも、トリエラも皆同じように何処か傷を負っていた。

「無事だったか」
「各所に多少の不具合はありますが、問題はありません」

自身の傷など気づいていないようにしてヴィッツェはオルレアに尋ねる。近づいたところでヴィッツェの負傷がよりはっきりと見え、ハルは表情を強ばらせ、アンジェも息を飲む。だからか、オルレアは浮かべそうになる表情を堪え、平静を装った。

「そうか。
後ろの二人は?」
「民間人です。恐らくは通りすがりだと思われますが、対象の捕縛に協力していただきました。聴取と報奨金の支払いの為に同行させました」
「ふーん」

報告をするオルレアの横をトリエラが通り過ぎる。そしてハルとアンジェの二人の前に立つと、マジマジと見始めた。

「一人はメンシェロウト、いや、ノイマンかな?筋肉の量が違うし。
で、もう一人はっと……ん?なんだコレ?体は人間っぽいけど……」
「えっ? えっ?」
「なんだ、オルレア。メンシェロウトになんか助けてもらったのかよ」

格好のネタが出来た、と言わんばかりにカールがニヤニヤ笑う。
ハルは顔を歪めながら頭を掻いて、カールとトリエラの二人を睨みつける。

「勝手に人の体をスキャンしないで欲しいんだが」
「トリエラ!」
「ハーイ」

ヴィッツェに叱責され、小さく舌を出してトリエラは二人から離れる。だが返事の声に反省の色は無く、ヴィッツェは頭を抱えてため息をついた。

「申し訳ない。ウチの部下が失礼した」
「あ、いえ、そんな……」

ヴィッツェに頭を下げられて恐縮するアンジェ。ワタワタと手を振ったその向こうで、トリエラとカールの二人と話すオルレアの姿が見えた。
失礼、とアンジェたちに声を掛けてヴィッツェはメンバーの元に向かっていく。集まって話をしているけれど何を話しているのかは聞こえなくて、アンジェの位置からはカールとトリエラの顔が見えたが、その表情からはひどく嫌な感じがしてアンジェは顔を逸らした。
横を見上げてハルを見る。

(きっと……)

嫌そうな顔をしてるんだろうなぁ、と想像する。
アンジェはここ数日を思い返してみた。ハルはメンシェロウトだとかアウトロバーだとか、そういった人種の関わる話になるとどうも苛立ちを強める傾向があった。そしてそれが表情に出やすい。本人が自覚しているかどうか、アンジェには判断がつかないが機嫌が悪くなりやすいのは確かで、見上げたてみるとやはり顔をしかめていた。

(やっぱり色々あったのかな)

過去に何があったのか、どんな生活をしていたのか、ハルとアンジェはお互いに尋ねてみた事は無く、そしてそれがいつの間にか不文律みたいな感じになっていた。
元々ハルは過去に触れる事を嫌う。いや、ハルに限らないのかもしれない。誰しも昔の事を思い出したくは無いし、だからこそ思い出させたくもない。戦争の時代を過ごしてきたせいか、これまでアンジェが出会ってきた人々の多くは過去のことを話そうとしなかった。
アンジェとしては別に構わなかった。どうせ覚えていないのだし、過去は所詮過去に過ぎない。だけども相手が嫌なのならば、自分の事とは言っても触れないでいるのがいいんだろうとアンジェは漠然と感じていた。
出会ってまだ数日。けれどもハルの喜怒哀楽には触れてきて、そしてアンジェは喜んでたり楽しかったり、とにかく笑っているハルの顔が好きだった。しかめっ面は出来れば見たくない。
だからアンジェは小さくハルの袖を引っ張る。そしてハルがアンジェの方を向いた瞬間を見計らって、態とらしいほど満面の笑みを浮かべてみた。
は?とハルは疑問符を浮かべた。意図を汲み取れず、尋ねようと顔をアンジェの方に近づけるが、その顔が大きく歪んだ。物理的に。

「ほへ!?」

グニグニとアンジェはハルの顔に手を当てて力を込める。その度にハルの頬がシッチャカメッチャカに形を変えていく。

「ん~、ハルの頬って柔らかくて気持ちイイですねぇ」
「ほい! ほら! はめほ!!」
「何て言ってるのかよく分かりません」

そう言いながらも手を止めない。上下左右にアンジェの気の赴くままにハルの顔で遊びまくる。

「はにふんは!?」

口を大きく歪ませて吠えるが、如何せん変顔では迫力は無い。いつもと立場が逆になったみたいで、だんだん楽しくなってきた。だけどやり過ぎると、きっと後が怖い。一通り遊び倒したところでようやくアンジェは手を離した。手をハルのマントでゴシゴシ拭きつつ。

「っつ~……いったい何なんだ、急に」
「しかめっ面はハルに似合いませんよ。ほら、笑って笑って」
「笑って、て言われてもなぁ……」
「嫌な気持ちの時ほど笑うんですよ」

怪訝な顔をハルは浮かべるが、アンジェは気にせず言葉を続ける。

「空元気でも良いんです。そうすれば気持ちも自然と上向きです」

言いながら歯を出してニッコリとアンジェは笑う。ハルは軽く息を吐き出し、観念した様に頭を掻いた。そしてアンジェと同じようにして出来る限りの笑みを浮かべた。

「ほら、これでいいか?」
「ん~、イマイチですね。少し顔が引きつっちゃってます。もうちょっと両頬を意識して……」
「こんな感じか?」
「そんなんじゃ子供が泣いて逃げちゃいます。もっと力を抜いて、そう自然に自然に」
「どうだ?」
「ああ~、良いですねぇ。これでバッチリです! コンテストで優勝出来ますよ!!」
「……何をやってるんだ、お前たちは」

笑顔を浮かべたまま、二人は振り向く。ギシシシと軋む音を立てて。
気づけば、全員が一歩下がって二人を見ていた。

「……もしかして見ないふりをした方が良かったか?」
「ほっといてくれ……」




-11-





森の中を一台のバイクが走る。低いエンジン音を響かせ、土煙を上げながら快調に飛ばす。ドライバーは女性で、ゴーグルで抑えられた短めの黒髪が小さくはためく。ベージュのマントを一枚挟んで、すぐ後ろには小柄な女性が座る。女性と言うよりはまだ少女と言うのが適切で、ドライバーの女性が着けている物と同様のゴーグルを被り、長い金髪をなびかせながらドライバーにしっかりと抱きついていた。

「もうすぐ着く感じですか~?」

背負った荷物の位置を元に戻しながら、アンジェはサイドカーに向かって話しかけた。普段アンジェが乗っているサイドカーには、今はアンジェと同じような金髪で、だが肩ほどの長さの女性が乗っていた。

「ああ。衛星とリンク出来ないからはっきりとした事は言えないが、恐らく後三十分もすれば着くだろう」

顔だけをアンジェに向けて、オルレアは答えを返す。そして雲一つ無い青空を見上げると眩しそうに眼を細めた。

「久々の休日でこんなにもいい天気だと言うのに」

白いノースリーブのシャツから伸びる細い腕が頭の後ろで組まれ、そのまま背中をシートに預ける。ため息をついて、オルレアはジロリと横のバイクをにらんだ。

「どうしてお前たちと行動しなければならない」
「文句ならお前の上司に言え」
「あはは……」

相変わらず険悪な雰囲気を醸し出すハルとオルレア。アンジェの乾いた笑いが風に流されていく。



◇◆◇◆◇◆



「話は聞いてるよ。オルレアを助けてくれたそうで、ここビシェの支部長として感謝します」

オルレアたちと一緒にビシェにやってきたアンジェとハルに向かい、アグニスは感謝の言葉と共に頭を下げた。アグニスにとっては当然とも言える行為だったが、これにはその場に居た全員が慌てた。アンジェが恐縮してアタフタとするのは予想通りだったが、ギルツェントを構成するアウトロバーにとっては思ってもみない行為だった。
サリーブに近いビシェでもその差別思想は根強い。助けてもらったとは言っても相手は人間。礼を言うのは仕方ないとしても頭を下げるのは行き過ぎではないか。
そうオルレアは思ったが、それはメンバー全員の思いと一致していた。
ギルトの面々とはやや違った意味で、ハルもまた唖然としてしまっていた。
これまでハルは色々な都市や村を訪れた。そしてその中にはアウトロバーの国も多く、程度の差はあれ、その何処でもハルはこのように頭を下げられることは無かった。
みんな礼は尽くす。礼すら出来ないのはその下等な生物よりも劣る行いであり、それは優越種たるロバーにとっては許容し難いものであるからだ。しかしその根底には蔑みが深く根を張っていて、ハルもまたそれは容易に拭いきれ無いものだと理解していたので諦めていた。

「あ、いや……とりあえず頭を上げてください」

だがここにその考えを覆すヤツが居た。それはハルにとって非常な驚きであり、今まで経験したことが無いものだった。自然、ハルの取れる行動はアンジェと変わり無い、差し障りの無いものになってしまう。

「た、たまたま通りがかっただけですし、そこまで感謝される程の事でもありません」
「そ、そうです!人として当然の事ですから!」

そう言って何とか二人はアグニスの頭を上げさせる。
アグニスは、ややホッとした様子で緊張を緩めると、皆を仕事に戻らせた。そしてアンジェたちを自分の執務室へと通す。

「お二人が良い方で良かった。バーチェスも幸運です」
「そう言って頂けるとこちらとしても嬉しいですが、どうしてここに私たちを?」
「それは恐らくお二人の方が、ナカトニッヒさんでしたね、特にあなたの方が強く感じていたと思いますが?」

アグニスの言葉にハルは小さく頷く。

「確かに。あまり居心地の良いものでもありませんしね、あの空気は」
「ああ、もう少し楽に話して頂いて構いませんよ」
「……では失礼して。
確かにあの部屋の空気は好きではないが、それだけでは無いと思うんだが? 少なくともアンタがアタシたちの証言を聴取するとも、報奨金の手配をしてくれるとも思えない」
「気を遣った、と思ってくれませんか?」
「アンタの人柄は信頼できると思うが、あまりにも厚遇過ぎるんでね。旅をしてると、何でも疑ってかからないと痛い目を見るもんだ」

こいつは気にしないだろうが、とハルは隣に座るアンジェの頭をポンポンと叩く。馬鹿にしてるんだろうとアンジェは思ったが、もういつもの事と悟ったか、頬を膨らませるだけで反論しなかった。
アグニスは苦笑を浮かべる。それがハルの言い草に対してか、それとも二人の関係に対してかは二人には判別はつかなかった。

「そんなに警戒しないで下さい。ちょっとお願いがあるだけです」
「お願い、ですか?」
「ええ、そうです。依頼、と言った方が良いかもしれませんけどね」

オウム返しに尋ね返すアンジェにアグニスは朗らかに笑い、そして座り直して体勢を整える。
テーブルの上に置かれた受話器を手に取り、内線で何やら伝えるが言葉は共通語ではない。その為アンジェたちには理解できなかった。何を頼まれるのやら、と思案するが分かるわけもなく、ハルは軽く息を吐き出してソファに背を預けた。
程なくして部屋のドアが開かれ、オルレアが入ってきた。オルレアは一度だけアンジェとハルを見るがただそれだけで、そのままアグニスの方へ視線を動かした。

「なんでしょうか?」

無感情にオルレアはアグニスに問う。対照的にアグニスは笑顔を浮かべたまま掌を胸の前で組んで、リラックスした風に椅子に体を預ける。

「君、確か有給が貯まってたよね?」

先程と同じように朗らかに笑ってアグニスは切り出した。
その顔を見て、ハルは何故か嫌な予感がした。



◇◆◇◆◇◆



「正式な依頼とは言え、どうして断らなかった? 私だけでも別に問題は無かったんだぞ?」
「うるさいな。断れたんならコッチだって最初から断ってるよ」

オルレアの疑問に前だけを見据えながら、だが声はブスッとした様子でハルは答えた。
ハルとしても受ける気など更々無かった。受ける理由などなく、金にも困っているわけではない。大喰らいが二人にはなったが、今すぐに金が不足するほど少なくも無い。
なのに。
あの部屋の事を思い出してゴーグルの奥の眉間にしわが寄った。

(満面の笑みで脅してきやがって……)

何でアタシが違法の銃を持ってるって知ってるんだ。オルレアが話すような時間は無かったし、銃自体も見えない位置に隠していたはずなのに。
何故か朗らかに笑うあの男が頭に浮かんで、その笑顔がシャクに触るのでハルは思考を切り替える。
もう絶対に六十口径は使わない。そして笑顔満点の男は信じない。ついでに言えば、この仕事が終わったらさっさと次の街に行く。固くハルは心に誓った。
しかし使わないのはいいが銃を捨てるのも勿体無い。いっその事、改造してアンジェみたいに非殺傷弾を使うようにするか。

「あの、バーチェスさん」
「オルレアでいい。さん付けもいらん。私が人間嫌いとは言え、一応お前たちは恩人だし、そこまで私に気を遣う必要はない」
「むしろお前が気を遣え」
「お前には遣ってやらん」
「ハルは黙ってて下さい」

昨日出会ったばかりだと言うのに妙に息の合った口撃にハルは唇を尖らせる。何か悪いことしたかなぁ、と色々と思い返してみるが特に思い当たるものは無く、結果として微妙に気落ちしてハンドルを握り続けた。
散々おもちゃにされている意趣返しがようやく出来た、と若干胸のすく思いを感じながらアンジェはサイドカーの頬杖をついているオルレアに振り返った。

「その、聞きにくいんですけど、オルレアはどうして人間が嫌い、なんですか?
すいません、こんな事聞いちゃって……でもずっと気になって……」

聞きながらアンジェは恐縮し、次第に声が小さくなっていく。オルレアは、だが気にした様子も無く顎に手を当てて、空を仰ぐようにして考え込む。

「ふむ……特に理由は無いな」
「無いんですか?」

意外な答えにアンジェは思わず聞き返す。対するオルレアは少し考える仕草を浮かべるが、すぐに頷いた。

「強いて言えば、そういうものだとして染み付いている、と言えるだろうな。
人間でもあるだろう?特に深く考えたことは無いがずっと言われているとそういうものだと思い込むことが。それと同じだ」
「誰がそんな事を……」
「誰が、というわけでは無いな。お国柄、というヤツだ」

両腕をサイドカーからだらん、と垂らしてオルレアは青空をぼんやりと見上げる。

「知っているか? この国はかつての戦争中、一番の激戦区となる事が多かったんだ。最近の戦争ではそうでも無かったみたいだが、その前までは戦闘が絶えることが無かったらしい。
だからだろうな、人間は卑劣で、残酷で、下等だなんだという教育が、地域差はあるがこの国の何処でもされている。実際、私も学校でも家でもずっとそういう風に言い聞かせられてきた。事ある毎にな。そんな生物、好きになんてなれないだろう?」
「そう……なんですか……」

目に見えてアンジェは落ち込む。自分から聞いた事であるし、オルレアが人間嫌いである事はこれまでのハルとのやりとりから分かっていたつもりだったが、答えはあまりに予想外だった。それが国全体の風潮だと彼女は言った。国中の人が彼女と同じ考えを持っていると。
何故、そうだと決め付けるのだろうか。何故、自分たちの考えを決めつけて伝えてしまうのか。そんなのだと、争いなんてなくなりやしないのに。
そんな事はない、とアンジェは反論したかった。残酷なんかじゃない、下等なんかじゃない。だがその言葉は、どうしてだかアンジェの口からは出てくれなかった。
肩を落とすアンジェにオルレアも事実とはいえ言い過ぎたと思ったか、申し訳なさそうにアンジェに話しかける。

「心配するな。このままではいけない、と私も思っているんだ。
この国で生まれ、この国で育って私の周りに人間は一人も居なかったし、同じような考えのロバーに囲まれて生きてきた。
我々ロバーでも様々なロバーが居るみたいに人間にも色んな人間が居る、という事は分かってるんだ。残酷な人間も居れば逆に優しさに溢れた人間も居る。だがそれは私の中で知識でしかない。だから、お前には申し訳ないんだがどうしても人間を見ると嫌悪感が先に来てしまうんだ。
自分の目で実際に見て、現実を感じる。私たちは情報を記憶する作業が無い為に考えが凝り固まりやすい。覚える前に情報を吟味する必要が無いからな。同じ事例が続けば、どうしてだか次も同じだと思い込みやすいんだ。柔軟性が無い、とでも言えば良いのだろうかな。
だがそれは油断に繋がる。そして私たちのような仕事ではそれが致命的に成り得る。この前、それを嫌と言うほど思い知ったよ。
だから、そういう意味でもお前たちに助けられたのも良かったんだろうな」

視線をオルレアはアンジェから正面へと向ける。山道で両脇に生い茂る木々が影を作り、比較的細い道が続いていたが、遠くには畑の青々とした景色が見えていた。

「ところで、だ」

二人の話が終わるのを見計らってハルが口を開く。

「あの支部長さんが言ってた、腕の良い工場っていうヤツの場所は分かってるんだろうな?お前のGPSは壊れてるんだろう?」
「ああ。それに関しては問題は無い。地図情報を落としてきたからな。少々分かりにくい場所にあるらしいが、まあ大丈夫だろう」
「武器だけじゃ無くてオルレアの修理もそこでやってもらえるんですよね?」
「みたいだな。修理だけじゃなくて、たまにそこで作られた新しい武器も回してもらっている。私も以前は別の場所製の武器を使っていたが、確かに質は良かった」
「どういう縁なんだ?」
「そこの武器職人とアグニス部長が知り合いらしい。なんでも『マブダチ』だそうだ」

何気ないオルレアの言葉だったが、ハルは猛烈に嫌な予感がした。オルレアの話ぶりを聞いていると、オルレアはアグニスに対して思うところはないみたいだが、恐らくアグニスの腹黒さには気づいていないのだろう。気づいていない、というよりは多分アグニスがそんな素振りを見せていないのだろうが。
どうもオルレアと知りあって嫌な予感ばかりが浮かんでくる、とこっそりハルはため息をついた。いや、むしろアンジェと知りあってからかもしれない。退屈しないのはいいが、精神ばかり疲れるのはどうにもやり切れない。

「ついでだ。
ハル、お前も銃やらナイフを見てもらったらどうだ?」
「アタシもそれを考えてたところなんだ。だけどアタシたちの武器も見る余裕があるのか?」
「アグニス部長の事だ。大方、そこら辺も抜かりないと思うが」
「まあ、そうだろうな」

ハルは後ろに座って抱きついているアンジェを見る。ゴーグルを挟んで視線が交差し、アンジェは小さく首を横に振った。
その判断について、ハルは特に何も言わなかった。腕のあれはそうそう人前に晒すものではないし、アンジェ自身もきっとあまり見たく無いのだろう。
視線を正面に戻し、アクセルを捻る。道が広くなり、次第にすれ違う車も増えてくる。それまでは全く見られなかった、道の脇を歩く人もチラホラと見られるようになった。
遠くにあったビルが大きくなる。新しい街がすぐ眼の前にあった。











[25510] 第1-12~1-13章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/02/12 00:00





-12-






ハルのバイクはようやくサリーヴへと入り、振動の少ない、舗装の整った道を走る。片側数車線に及ぶ道路にはバイクに乗用車、トラックやバスが溢れている。歩道でも人が窮屈そうに歩き、信号が変わる度におびただしい数が車道に押し出される。
街に眼を向ければ、綺麗に区画されたビルがそびえて人々を見下ろし、引っ切り無しに人を飲み込んでは吐き出す。襟のある、オフィシャルな服を着て忙しそうに歩く人も居ればラフにシャツで歩いている者、オシャレに幾重にも綺麗な服を着込んでいる者、作業着らしき汚れた格好で談笑している者など、様々な姿がそこにはある。中にはアンジェやハルみたいに、旅をしているらしく大きな荷物を抱えてマントを羽織っている姿も見受けられた。
際限なく音が三人の耳に入ってくる。それは騒音や怒号と言ったものでは無く、一つ一つは何でも無い普通の会話。それも数が揃えば騒音にも等しくなる。本来ならば旧時代の遺物とも言えるハルのバイクはかなりの騒音を立てているが、それすらも気にならないほど街は賑やかだった。

「はぁ……」

ぽかんと間抜けな顔をしてアンジェは空を見上げる。空は晴天のはずで、先程まではバイクに乗っていてちょうどいい日差しだったが、今は少し肌寒い。ビルが光を遮って濃い影をアンジェに落としていて、見上げた空は想像より狭かった。

「サリーヴに来るのは初めてか?」

アンジェの顔に苦笑いしながらもオルレアは話しかける。アンジェは曖昧な返事をして、そのまましばらく街を三六〇度見渡した。

「おっきい街なんですねぇ。びっくりしました」
「ああ。大きい街だとは聞いていたけど、まさかここまでとはな……」

信号が変わり、バイクを止めるとハルもアンジェに釣られるように近代的な街並みを、感嘆の声と共に眺める。ここしばらくハルもアンジェも田舎の小さな町や村を訪ねることが多く、多少大きな街でも戦争の傷跡が生々しく残っているところがほとんどだった。瓦礫の山にかろうじて残った、ひび割れだらけのビル群。燃えつきた民家。建てかけの、だが吹けば壊れそうなまでに不安定な仮住まい。無様にも剥がれた道路の舗装が絶えずバイク越しに揺れを伝える。それが二人だけでなく、世界の至る所で見える光景だった。
しかし今見ている景色は違う。真新しい建物が数多く、所狭しと立ち並び、空に向かって高く伸びるビルはまるでバベルの塔。全ての建造物には最新の発電用パネルが設置され、その能力を最大限に発揮して、郊外に集中して建てられた住宅や工場に電力を供給している。
シグナルが赤から青へと変わり、止まっていた車たちが動き出す。後ろの車に急かされる様にしてハルもバイクを発進させた。

「ここはこの国の首都だからな」

やや冷たい風が三人の頬をなで、髪をなびかせる。

「国全体が荒廃していたが、再建の要、という事で金と資材をこの街に集中させたのさ。再建するにも金が掛かるから、という理由で政治・経済・司法の全機能をここに集めた。一箇所再生させればそこに金も人も集まるからな。基盤となる場所が生まれれば他の場所も再生しやすいし意思決定も迅速になる」
「しかし、それだと危険じゃないか? ここをやられれば国としての機能をやられるって事だろ?」

オルレアの説明にハルが危険性を口にする。オルレアは勿論それも国は考えてる、と説明を続けた。

「入ってくる時に見ただろう?街をグルッと取り囲む城壁みたいな壁と審査を」

言われてアンジェは街に入る時の事を思い出した。
街に近づくにつれて巨大な壁が視界の大部分を占めていった。遥か遠くからでもその姿が見えていたが、近くに来るとその異様さが眼につき始める。左右に顔を振れば、硬質な壁は切れ間なく、果てしなく続く。特別な高さは無いものの、数メートルの高さからは監視カメラと思しきものが近寄るものに警戒を払っている。
街へは限られた入口からしか入ることしか出来ず、その入口でさえもギルツェントの人員が重装備で常に入ってくる者を無遠慮に監視していた。その視線はアンジェたちも例外では無く、冷たいそれにアンジェは思わず身を縮ませていた。同じロバーであるオルレアも散々質問と身分照会を受け、アグニスからの連絡が確認出来たところでようやく門を通されていた。

「あれでも早いものだ。予め部長から連絡が入ってたからな」
「もしかして街から出る時もあんな感じ何ですか?」

出る時の事に思い至ったのか、ハルはうげっ、と思わずうめいた。

「マジでか? 勘弁して欲しいな……」
「残念ながらそうはいかないだろうな。元々街に住んでいる者は身元がはっきりしているから比較的スムーズに出られるが、私たちみたいな者はまず無理だろう」

返ってきたオルレアの返事にハルは当然、アンジェもげんなりした様子でハルの背中に突っ伏した。
予想通りの二人の反応に再度オルレアは苦笑いし、二人から視線を街の外の方へと向けた。
立ち並ぶビルの合間にも建設用のクレーンがそこかしこに見える。半年ほど前にこの街を訪れた時よりもビルの数は更に増えている。
オルレアは故障せずに済んだ両目のカメラの倍率を上げ、街を取り囲む壁の上を見た。監視カメラの間にもロバーが立っていて、忙しなく首を動かしている。視界を動かし、別のビルの切れ間に眼を遣れば、砲身だけで数メートルはある巨大なライフルが備え付けられていた。その風貌は近づくもの全てを威圧する。
次に倍率を元に戻し、近くの街並みを眺めた。笑う者、急ぐ者、下を向いて歩く者。表情は様々だが、様子は平和そのもの。
しかし。オルレアは思った。
この街は、この国は何処に向かうのだろうか。そして自分はどうすべきなのだろうか。
街は活気に溢れ、この時勢に珍しいほどの発展を遂げ、何不自由の無い生活を皆送っている。だが一度外に出れば荒野が広がり、人影は無く、盗賊や山賊が幅を利かせる世界。
押し寄せる全てを拒絶し、国に望まれた一部の者だけが楽園を享受する。対話も拒み、自らが作り上げた真実のみを教え、そして民もそれを自分の様に鵜呑みにして生きていく。疑うことを知らず、疑えども本当の真実を確かめる術も持たない。術を探そうともしない。
このままでいいのか、という疑念がオルレアの中でくすぶる。このままではいけない、とアンジェに伝えた想いと、このままでいい、とこれまで通りの生き方への願いがすれ違い、時にぶつかる。
自分たちが人間を憎むように人間も自分たちを憎んでいるのだろう。
人間とアウトロバー。
隣に居るアンジェとハルを見る。
姿は同じなのに、歩み寄れない。歩み寄らなければならない。なぜだかオルレアはそんな、強迫観念にも似た衝動に駆られた。初めて人間に接したからだろうか。今まで人間を理解しようなんて気は無かったのに、二人を見ているとそうすべきだと思ってしまう。自分にこんなにも影響を与える人間ではなさそうなのに。
二人の人柄に短いながらも触れた。初めて人間に触れ、人間に対する小さな印象の変化をオルレアは自覚していた。少なくとも教えられた様な人間ではない。だからだろうか?もしくは自分もずっと疑問に思っていたのかもしれない。長く聞かされてきた人間についての真偽に、憎しみしか抱かない周囲に、知ろうともしないお互いに。それがアンジェやハルと話して表面上に噴き出してきているのか。
だが、まだ歩み寄れない。自己に根付いた、作られたかもしれない真実を、まだ払拭出来ずにオルレアはいた。

「おい、そろそろ曲がるんじゃなかったか?」

ハルの声にオルレアは我に返る。気づけば、高層ビル群は後ろに流れ、比較的小さな建物が立ち並ぶ地域に差し掛かっていた。
慌ててオルレアは自分のメモリに保存されたデータを引っ張り出す。

「あ、ああ。二つ先の交差点を右に曲がってくれ。その三ブロック進んだところで左折だ」
「OK」

オルレアの指示に従ってハルはハンドルを右に切る。道路が細くなり、歩道を歩く人も目に見えて少なくなる。ビルが後ろから右へと移り、そして近くの建物に隠れて見えなくなった。
オルレアは自身の左手を太陽にかざす。影が顔に落ち、掌の中に陽は収まる。
二人と一緒に居れば、いつか自分だけは変わっていけるのだろうか。
バイクが左に折れ、太陽は建物に隠れる。冷たい手だけがオルレアに残された。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



ハルのバイクが少しだけ傾き、角を曲がる。。いつもと変わらぬエンジン音を響かせ、クラッチを切って一度エンジン音が小さくなる。曲がりきったところでクラッチを繋いでアクセルを開き、ドッドッドとまた街に低音がこだまする。

「次は右だ」
「またか?ずいぶんと入り組んだ所にあるんだな」

もう何度オルレアの指示に従って角を曲がったか。ハルはハンドルを切り、ずっと続く細い道を走らせる。
建物は小さなものが所狭しと並び、華やかな都心部と比べるのもおこがましいほどに区画全体が暗い雰囲気を出していた。むしろここいらの方が街としては普通だろうか、とハルはすでに通り過ぎた区域を思い出しながら眺める。
アンジェはゴーグルの奥から大きな瞳を忙しそうにキョロキョロさせていた。

「こういう街は見たこと無いのか?」
「いや? そういうわけでも無いですよ?」
「じゃあなんでそんなにキョロキョロしてるんだよ」
「暇だからです」

ああそうかい、とハルはアンジェとの会話を打ち切った。そしてまた運転に集中し始めて、アンジェもまた暇、という割には熱心に街を見る。
バイクに乗っている時はだいたい二人の会話はこんなものだが、隣で聞いていたオルレアは何だろうな、と首を捻る。

「んで次はどっちだ?」
「ん? ああ、また右に曲がってすぐに左だ」

あいよ、と突き当たりを言われた通りに曲がる。

「ここら辺は古い区画らしくてな。とりあえず住むところを、と家を建て続けたらしい」
「なるほどね。それでこんなにゴチャゴチャしてんのか」
「戦争中の話だからな。余裕が無かったんだろう。
その角を左に曲がってくれ。そこが目的地だ」
「ようやくご到着、か」

最後の角を曲がり、バイクが止まる。エンジン音が鳴り止み、やれやれ、とハルはゴーグルを外してコキコキと首を鳴らした。

「ずいぶんと小さいんですね。もっとおっきい建物を想像してました」

そう言いながらアンジェは建物を見上げた。見上げた、とは言っても目の前の工場はかなり小さい。二階建てで、横幅があるかと言えばそうでもない。少し首を横に振ればすぐに端が眼に入る程度。だいたい二十メートルだろうか。建物の壁はひどく汚れていて、元々は白い壁だったのだろう、うっすらとだけ地肌をのぞかせている。
続いてアンジェは正面の入口に眼を遣った。
風通しの為か一階部分の高さ一杯まである大きなドアは開け放たれ、反対側のドアから風とともに光が暗い室内に取り込まれている。二階に視線を移せば小さな窓が二つだけあり、窓越しにタンスの後ろ姿が少しだけ顔をのぞかせていた。二階は住居だろうか。
並んで建物を観察する二人を置いて、オルレアは地図情報と外観記録を照らし合わせると入り口へと足を進めた。
中に入ると外から見た以上に暗い。光が当たる部分だけは見えるが、それがかえって暗さを際立たせて部屋の隅では視界は良くない。
オルレアは片目だけ感度を調整して部屋を見渡した。人影は無く、隅にはラックがいくつか備え付けられていて、工具箱や工具が裸のままで乱雑に置かれている。ネジやボルト、座金が集められた箱は油で汚れていて、だがきちんとサイズ毎に整理されている。

「誰か居ないのか?」

奥に向かってハルが声を掛ける。が、返事は無い。
工場らしき所から簡易キッチンのある奥へとアンジェは入っていく。しかしそこにも人影は無くて、アンジェもまた声を張り上げた。

「誰か居ませんか~?」

アンジェの高い声が響き、そしてまた静寂が戻ってくるだけで、ハルは頭を掻いた。

「参ったな、留守か」
「でも留守だったらドアとか全部締め切って行きますよね?」

だよなあ、とハルが同意したその時、突如として工場にバン、と大きな音が響いた。
慌てて三人が音の方に振り返ると、床の一部が跳ね上がってそこから銀色の頭が姿を現していた。

「……誰だテメエらは?」

低い声と一緒に頭が上に昇っていき、地下へと伸びる階段を踏み鳴らしながら全身があらわになる。
男は灰色がかった髪をしていた。細く鋭い眼に二メートル近くある巨大な身体で三人を見下ろしている。濃いグレーのシャツからはアンジェのウエストほどはありそうな太い腕が出ていて、シャツの上からでも立派なガタイである事が分かる。鷲鼻の下には鼻ひげが蓄えられて、目元や口元にあるシワがそれなりの年齢を演出する。
男はただ立っているだけだが、全体的に角張った印象を与えるその体から発せられる威圧感は相当なもので、ハルとオルレアは思わず戦闘態勢に入ってしまう。
だが男はそれが眼に入っていないかのように首だけを動かして三人の顔を確認し、再度問いかける。

「もう一度聞く。テメーらは誰だ?」
「あ、えっと、アンジェ・エストラーナって言います。私たちここで修理してもらいたいものがありまして、えっと、あの……
オルレア、誰さんでしたっけ?」
「確か、ブラウン・シュバイクォーグ氏だ」
「そうですそうです。あの、シュバイクォーグさんですか?」

ワタワタしながらアンジェが尋ね、オルレアが緊張したまま目的の主の名前を口にする。すると男は無言で三人に背を向けるとしゃがみこみ、床下に向かって呼びかけた。

「親方、お客さんです」

アンタじゃ無かったのか、と三人が三人とも心の中でツッコミを入れた。
誰一人として口に出してはいないのだが、男は聞こえていたかの様なタイミングで振り返り、

「慣れている」

とだけ渋い声で答えて再び地下へと降りていった。

「……で、今のは誰なんだ?」
「さあ……?」
「俺の弟子だ」

先程の男に負ケズ劣らずの渋い声がハルの疑問に応える。今度現れた男も、三人の中で一番大きいハルよりも頭半分ほど長身で、ロマンスグレーに大分白髪の混じった髪を短く刈り込んでいる。弟子の男性よりもいささか細身で、顔の至るところに刻まれたシワの深さからかなり年上と思われるが、どちらかと言えば弟子の方が親方に見えなくもない。あまり陽に当たらないのか、やや病的な肌の白さをしていた。

「バーチェスってぇのはどいつだ?」
「私です。初めまして」

オルレアが名乗り出て手を差し出す。軽く握手をして、次いで他の二人とも簡単に挨拶を済ませる。

「アグニスの奴から話は聞いてる。アンタら二人の事もな」
「ならコイツの武器もお願いしたいのですが?」

ハルを親指で指しながらオルレアはブラウンに尋ねる。ブラウンは一度目線だけをハルへと動かし、そして近くにあった丸椅子を引き寄せて座る。

「構わん。それよりもまずはお前だ。そこに座れ」

そいつを持って来な、とブラウンがオルレアの後ろの壁に立てかけられている椅子を指し、アンジェが小走りで取りに行ってオルレアに渡す。言われるがままに座り、ブラウンの要求に従ってズボンの裾をめくり上げる。
ズボンの下からオルレアの白くて細い足が現れる。普段は綺麗な肌をしているのだろうが、先の戦闘の傷跡が残っていて痛々しい。
フィンを広げろ、と言われてオルレアがバーニア用のフィンを展開する。ふくらはぎに当たる箇所で皮膚が裂け、数枚のフィンが広がるが不具合のせいで完全に広がりきれない。

「おい」
「へい」

ブラウンが手を横に差し出すと、阿吽の呼吸でいつの間にか階下から上がってきていた弟子の男がバイザーの様な物を手渡す。それを装着し、ハンマー片手にオルレアの足に触れていく。
右足を診終えると次は左足へ。オルレアはすでに両足の感覚を遮断しているが、何処かむず痒く感じる。だがブラウンは黙って真剣な様子で足を見つめているので文句も言えない。
アンジェもハルもオルレアの後ろで、邪魔をしないように静かに眺めていたが特に面白いものが見れるわけでも無い。退屈そうにアンジェは視線をさまよわせ、頻繁に姿勢を変える。ハルに至ってはポケットからタバコを取り出してふかしているが、ブラウンも弟子も特に咎めることも無い。
ブラウンは集中して足に注意を払い、時々ハンマーで軽くオルレアの足を叩いていたが、やがてバイザーを外すと弟子の方を振り返った。

「八番を持って来い。後、工具も」

了解、と短く返事をすると男は階下へと消える。そしてすぐに右手にロバーの足と思われる物を、左手には工具箱といくつかの工具を裸のまま抱えて戻ってきた。
必要となる物をブラウンに手渡し、他の物は床に丁寧に置く。

「外すぞ」

それだけ言うと、返事も待たずにブラウンは工具をオルレアの足に突き立てた。
膝関節の隙間に小型のバールを突き刺し、人間と区別がつかない程に精巧に出来た表皮を剥がす。膝の部分をまるっと剥がし終えると電動のボックスドライバーを使って比較的大きなボルトを外していった。外側のカバーを取り、極細のパイプがいくつも通る関節部内が顕になる。弟子の男がライトでそこを照らし、その中に精密ドライバーが入っていく。
そこからの動きに皆、言葉を失った。極細のドライバーの先端が極小のビスの頭に寸分違わず吸い込まれる。それと同時にピンセットが外れたパーツをつかみ、外へと出す。そして人工筋肉を丁寧に剥がし、パイプ内を流れる液体が溢れぬよう栓をしていく。
時に右手にドライバーを、時に右手にピンセットを。巧みに工具を取り替えつつ手は止まらない。
口を半分開けたままオルレアは自分の足を見ていた。彼女自身、簡単なメンテナンスを自分で行うことがある。構造は全て把握され、どのようにすれば良いか、その手順も記録されていて、ロバーである事の利点を生かした、精密な、それこそ寸分の狂いも無く作業をすることが出来る。
だがこれは次元が違うと思わざるを得なかった。このスピード、正確さ。ブラウンの様な仕事を生業にしているものを知っているが、それと比べても、いや、比べることさえ烏滸がましい。ロバーでこういった職業を生業としている者でさえここまでの作業ができるだろうか。
その感情をまた、アンジェとハルも抱いていた。彼女たち自身は他の者が作業している様子を見たことは無いが、ブラウンの動きを見て尊敬の念を抱かずにはいられない。
どれだけこれまでにこうした作業を繰り返してきたのか。何十では足りない。何百でも足りないだろうか。神業、と呼ぶのが相応しい。
いつの間にかオルレアの右足は外されて、代わりの足が取り付けられる。先程の作業とは逆の順に作業が行われていく。いくつかの筋肉繊維の束をつなぎ合わせ、パイプを接続し、ビスを差し込む。外したカバーを取り付け、ボルトで固定する。気がつけば、見た目には元通りの足がそこには有った。
息を着く暇も無くブラウンは左足に手を掛ける。ただひたすらに眼と腕は足にだけ注がれていた。無表情で、瞬きをしているのかすら怪しい。しかし鬼気迫るものでは無く、ブラウンにとっては淡々と、数ある作業のうちの一つでしか無いのかもしれない。
数分の後にガチャリ、と金属が音を立てる。剥がされた皮膚と皮膚の境をテープで固定し、ブラウンはオルレアの新しい両足を自身の膝の上に置いて左右の長さをチェックした。

「終わったぞ」

脇に転がった工具と、取り外されたオルレアの足を弟子に渡してタバコに火を点ける。
もう終わったのか、とマジマジとオルレアは自分の新しい足を見て触る。

「ちょっと歩いてみて、感触を確かめてくれ。いらん遠慮はするなよ」
「ふむ……いや、悪くないみたいです。だが重さが気になるな」
「スペアの義足だからな。サイズもある程度調整できる仕様になっている。アウトロバーの足みたいにはいかん」

立ち上がってオルレアは室内を歩き回る。その度にガシャガシャと音を立て、大昔の鎧をハルは思い浮かべた。

「接続部に違和感は残りますが、感覚的なものなのでその内取れると思います。
どれくらいかかりますか?」
「……費用の事を言ってるなら気にしなくて良い。アグニスから労災として直接俺が受け取るからな。
時間なら、普通ならば五日、と言いたいところだが三日で修理してやる」
「三日ですか……」
「申し訳ねえが、こっちも他に仕事を抱えてるんでな」
「あっ、いえ、そんなつもりでは……」

単なる呟きのつもりだったが、ブラウンに不満としてとられ、慌ててオルレアは否定する。だがブラウンは端から気にしてなかったのか、表情を変えること無くタバコをもみ消した。

「それより他に壊れてる所は無いだろうな?」
「はい。外傷的な分は、足以外は自己治癒で何とかなりそうです」
「なら先に内蔵機器の方を修理してしまえ。んで三日後に来な」

ブラウンのその言葉にオルレアは了承の意を伝え、一歩下がってハルを前に出す。

「メンテナンスは自分でしているんだけど、所詮素人だからな。念のため診て欲しいんだが」
「見せてみろ」

ブラウンに促されてハルは懐から一丁の銃を取り出して手渡す。通常使っている比較的小口径の物で、長く使い込まれているのか銃身のあちこちに細かい傷があった。

「出来れば、でいいんだけど、表面の細かい傷も直して欲しい」
「やっておく。フレームの交換になっても問題ないな?」
「大丈夫だけど、出来るだけフレームは残しておいて欲しいな。もし交換になったら銃と一緒に返してくれないか?」

愛着があるもんで、と頬をポリポリ掻くハルにブラウンは頷いて応える。そして手に持っていたハルの銃をケースに入れて後ろに控えていた男に渡し、だが視線はまだハルに注がれたままだった。ハルもその視線には気づいていたが、ハル自身もまだ迷っていた。
もう一丁の銃は法に反して所持している物で、おいそれと人に渡せる物ではない。常人なら扱えるはずも無い大口径。まして見た目だけで判断するなら、女性であるハルが持っているとはそうそう予想もつかないはず。出来れば無闇に人前にも晒したくは無い。
しかしこの銃で人に向かって発砲するつもりもハルには無い。人間ならいざ知らず、ロバーに対しても凶悪な破壊力を持つがゆえに危険な物。自身の危機が迫っている時にまで躊躇はしないが、可能な限り牽制のみに使いたかった。それを考えると、この街に来る途中で考えたように、アンジェみたいに非貫通弾用に改造するのも魅力的に思える。貫通力よりも打撃力を。無論使い道は注意しなければならないが、それでもこれまでよりも使いどころは増える。
思考を巡らし躊躇するが、やがてハルはもう一つの銃もブラウンに手渡した。

「コイツを改造してもらいたい。実弾じゃなくてゴム弾みたいなものを使えるようにして欲しい」
「いいのか?」
「構わないさ。元々人に向かって撃つつもりはなかったからな。
それと、専用の弾が欲しい。もしくは作れる道具か何か売ってくれないか?」
「構わんが、そっちはアグニスからもらったのとは別料金になるぞ」
「幾らだ?」
「弾なら一発十二ジル、道具一式なら材料も付けて五千ジルだ」
「それなら買いだ」

即決するとハルは懐から財布を取り出して、そこから札の束を取り出した。何の気負いも無く大金を取り出したハルに、アンジェは眼を丸くした。

「ホントにお金いっぱい持ってたんですね」
「まあな。払いの良い仕事をしてたんだが中々使う機会が無くてな。普段の生活はギルトの稼ぎだけでしてるけど、こういった出費は貯金から出してるんだ」
「なら安心しました。これで何の気兼ねもなくご飯いっぱい食べられます」

今まで遠慮した事ないだろ、と突っ込みつつ、ハルは手にした札をブラウンに差し出した。

「七五〇〇ジルあるはずだ。それで道具と弾を百発頼む」
「数日掛かるが大丈夫だな?」
「ああ。その間、代わりの銃を貸してもらえないか? この街のことだし、大丈夫だとは思うが念のために」

ブラウンは頷いて奥の部屋へと引込み、手にした札束を特に数えることなく金庫に放り込む。札の代わりにケースから銃を取り出して、釣りと一緒に渡した。

「俺が昔使っていたヤツだ。しばらく使ってないが、メンテだけはしてある。不安なら裏で試し撃ちしてもいいぞ」
「そうさせてもらうよ」

銃の感触を確かめ、何度か抜き撃ちの動作を繰り返す。ブラウンの言葉通り少し古いタイプの物だったが感触は悪くない。構えた時に違和感も特に感じることは無く、何度か試せばすぐに手に馴染みそうだった。
マガジンを取り出して残弾を確認する。フルに装填されていて、他も特に問題は無さそうだった。

「お前の方はいいのか?」

ハルは視線を銃からブラウンの声の方へ動かす。その声はまだ何もしてもらっていないアンジェに向けられていて、当人は慌てて首を横に振る。特に慌てる必要も無いだろう、と思わないでも無いが、相変わらずだとハルは思った。

「そうか……」

それだけをブラウンは発したが、その眼はアンジェの腕を離れない。
チラ、と横目でブラウンはハルとオルレアの顔を見る。オルレアは疑問符を浮かべてブラウンを見返す。一方ハルは視線に気づいていたが敢えて気づかない振りをした。
部屋を巡って視線はまたアンジェへと戻ってくる。不躾とも思えるそれに、アンジェは見透かされた様な気がして小さく体を震わせる。

「ふん……」

だがブラウンはそれ以上何も言わなかった。三人に背を向けて床に散らばった工具の類を拾い上げて一箇所にまとめる。ズボンのポケットからウエスを取り出し、使った工具を拭き始めた。
特に何も無いと判断してオルレアがこの場を辞そうと二人を促し、工場から出て行く。来た時と同じようにサイドカーにオルレアが乗り、バイクの方にアンジェたちがまたがったところで低い声が聞こえた。

「気が向いたら来な。整備くらいはサービスしてやる」







-13-






ザワザワとした騒音にも似た呟きが街を彩る。時刻も昼を回り、朝から人で溢れていた街では更に賑わしさを増している。大通りには変わらず大勢の人が歩き回り、店は人を飲み込んでは吐き出し、それぞれが思い思いの午後を楽しんでいた。
だが一つ道を曲がって奥へ入れば、また違った趣を醸し出す。人通りが減り、落ち着いた雰囲気になる。道の両脇には小さなカフェが増え、テラスに広げられたテーブルに座って人々は穏やかな陽を浴びながらゆったりとした時間を過ごしていた。
その中の店の一つにアンジェとハルの姿があった。そこにオルレアの姿は無い。彼女は今、病院で治療を受けている。しばらく時間が掛かるとのことで、二人はやや遅い昼食をとり終えたところだった。

「ん~良いですねぇ。こーいうまったりとした空気……」

食事をとる前と後で明らかに形の変わった腹を叩きながらアンジェはとろける。太陽の光がテラスを覆う屋根を透き通り、ほんのりとした温もりを与える。手にはカフェラテの入ったカップ。それを口に運んでほんの少し含むと、再びだらしなく背を椅子に預け、ほえ~と気の抜けた声を出した。

「ここんところ殺伐とした事が続いてたからな。たまには良いもんだ」

椅子に深く腰掛け、アンジェと比べるとピシッとした様子でハルも同意する。カプチーノで喉を湿らせて午後の一時を満喫する。彼女の様子もいつもの食後と変わりないが、さり気なくズボンのベルトを緩めていた。
二人に取ってはいつも通りだが、オルレアが居たらドン引きするであろう量を二人は食べていた。食べている景色を眺めているだけで満腹を通り越して気持ちが悪くなるほどに。その意味ではオルレアが居ない時にランチをとったのは正解かもしれない。代わりに回りの客たちがドン引きして店を後にしていたが、二人は気づいていない。気づいていても気にしないが。

「オルレアはいつくらいに終わるって言ってましたっけ?」
「確か二、三時間は掛かるって言ってたから……後一時間は掛かるだろ」

腕時計で時間を確認しながらアンジェに応える。オルレアを病院に送ってそれなりに時間が経ったとは思っていたが、ハルが思っていた以上に経っていた。一時間半ほど前に別れて適度にぶらついてこのレストランに入り、二人にとってはそこそこの量を胃に入れただけだが、どうもこの陽気に時間感覚が狂っているらしい。
う~ん、とハルは唸る。店を出てまたぶらついてもいいが、どうにも時間が中途半端だった。またハル自身歩いて時間を潰すというのが苦手で、気も進まない。普段物を買う時も予め店の場所を調べておいて、目的の物だけを買う性質であり、余計な物には目もくれない。欲しいものが無いわけでは無いが、初めて来たこの街だと店を探すだけで徒労に終わりそうで、とても動く気にならない。
どうしたものか、と考えるが妙案が出るはずも無く、話をアンジェにふる。

「お前はどうする?」
「私はどうでもいいですよ~。このまんまここに居てのんびりしても良いですし~」

体勢を変え、今度はテーブルにグデ~と体を預けてヒラヒラ手を振る。どうやらアンジェも動く気が無いらしく、ならいいか、とこのまま時間を潰す事をハルは決めた。可愛いアンジェを愛でられるし。

「下手に動きまわるよりここにいた方がオルレアも見つけやすいだろ」

こういう時はアウトロバーは便利だと、つくづくハルは思う。ここみたいな大都市だと情報インフラも整備されているだろうし、GPSのような互いの位置を示す機能もロバーなら自由に使える。
人間でもアクセス出来る装備を持っていればアクセスできるが、そういった物は高価で、更にアクセスするだけでも高い使用料金を支払わなければならない。一箇所に定住しているならそれでも良いが、この街の様に復興している所は少なく、アンジェやハルみたいな旅人には使用できるかどうか分からない物を持って動くのは単なる荷物でしか無い。
そこまで考えてハルは考えるのを辞めた。便利だとは思うが、必要だとは思わないし特段欲しいとも思わない。なら考えるだけ無駄だ。

「そう言えば……」

アンジェがのんびりとした口調で話しかける。体勢は変わらずテーブルに突っ伏して、器用にカフェラテを飲んでいる。

「アウトロバーの病院ってあんな風なんですねぇ。もうちょっと、工場みたいな所を想像してました」
「ベルトの上に患者が乗って流れ作業で治療がされてるってか?」
「そこまでは言いませんけど、部品作ってるトコみたいに油の匂いがプンプンするって言いますか……」
「まあ機械だしな。そんなイメージがするって言えばするが」

とは言うものの、ハルもロバー専用の病院に行った経験は無い。特殊なケースは知っているが、そこは人間用と特に目立って変わった場所は無く、強いて挙げればゴツゴツした工具が多かった程度だろうか。
体を起こしてアンジェは冷めたカフェラテを飲み干すと、店の中に向かって声を張り上げた。呼ばれて出てきた店員に今度はコーヒーを頼む。

「ハルはどうします?」
「なら、カラメルマキアートを頼む」

かしこまりました、と告げて店員の女性は奥へと戻り、程なくして二人の元に注文の物が置かれる。

「ごゆっくりどうぞ」

心無しかその声が冷たいような気がしたが、二人とも気づいた風はなく、一口だけそれぞれの物を飲む。

「なのに私たちが行く病院と何も変わらなかったと思うんですけど」

アンジェは病院の事を思い出す。
オルレアに付き従って病院の中に入ると、まず白さが眼についた。ドアも、床も壁も天井も一面真っ白。ほんの少しの汚れも見当たらず、ホコリ一つ無い。入って正面に受付らしき窓口があり、その正面にあるグレーのシートがアクセントになっている。
異常なまでの白さ。まるで映像でしか残っていない大昔の病院みたいだな、とハルは呟いた。
ここでもまた同じようにアンジェは珍しそうに視線を右へ左へと忙しく動かし、もう慣れたのかオルレアも何も言わずにまっすぐに受付に向かった。
その間に二人はソファに座って待つ。周囲を見渡すと、患者の姿は殆どない。会計の所に一人居て、機械に向かって何かを差し出している。
受付にアンジェが顔を戻すと、受付のロバーがオルレアに向かって機械をかざしていた。それをオルレアはじっと見つめ、やがて女性が手を下ろすとオルレアは奥の部屋へと入っていった。

「どこに行くんでしょうね?」
「さーな」

アンジェの問に興味無さ気にしてハルは大きく欠伸をする。そして眠た気に眼を擦り、眼を閉じる。その様子を見てアンジェは小さくため息をつき、席を立つ。

「ちょっとそこらをぶらついてきます」
「あいよー」

眼を閉じたままの気だるそうなハルの返事を背中越しに聞きながら、アンジェは病院の奥へと歩き始めた。
アンジェとしては特に行動に意味はなく、単なる暇つぶしだ。外から見るよりも案外広い病院内を、案内表示に従っていく。
内科と書かれたブースの横を通り過ぎる。流石に診察室を見ることはできず、そのまま素通りすると厚みのあるガラスで仕切られた場所へと出た。
横目で覗きながら歩く。中には患者と医者らしき男が居て、全身を走査する機器を使って異常のある箇所を調べていた。ベッドの上で寝そべっている患者の上を、青く細い光を発しながら機械が動いていく。

(こういう所はやっぱり人間と一緒なんだ)

自身の記憶の中にある病院の景色と大して変わりばえのしない様子に、そんな事を考える。
一本の廊下を通り抜け、階段を下る。先程とは違った、だが似た空間に遭遇し、またアンジェは歩く。時々患者らしき病院服を来た者とすれ違い、また看護師や医師とすれ違う。
いくつもいくつも階段を降りる。地下に潜って当然採光用の窓は無く、白い電灯だけが廊下を照らす。ここまで来ると逆にどこまで続くのかが気になる。行き着く先まで行こう、とアンジェはグルグルと回りながら降りていく。
どれだけ降りたか、数えることをしていなかったアンジェには分からない。だがそれなりに深くまで降りたことは分かる。やがて一枚の扉が行く手を遮る。ドアの隣にはパスワードを入力するような装置が付いている。
アンジェはドアノブを回してみた。すると、何事も無くドアが開いた。ドアの隙間から頭だけを出して中の様子を伺うが、誰もおらず、体を滑り込ませても特に何も起こらない。
入っていいものか迷ったが、いいや、と深く考えずに先に進む。そしてまた階段が続いていた。
長々と続く階段がようやく途切れ、道が分かれる。アンジェは視線を上へと向けるが特に案内表示は無い。どちらに行こうかと逡巡し、すぐに気が向くがままに右へと曲がる。そこには左右にいくつかの部屋があり、いずれも閉じられている。正面に通路はなく、そこもまた部屋だった。
行き止まりか、と思いアンジェは踵を返す。が、その直前の、向かって右側にあるやや開かれた扉が眼に入った。扉には大きく「関係者以外立ち入り禁止」と書かれてある。

(ちょっとくらいは……)

湧き上がる好奇心に抗いもせず、アンジェは手を扉に掛け、そっと開く。
まず左目だけが中の様子を伺う。そして視界に入ってきたのはカーテンの揺らぎ。僅かな空気の流れが小さくカーテンの裾をなで、それと一緒にある匂いがアンジェの鼻腔をくすぐった。
その匂いにアンジェはひどく覚えがあった。病院特有の消毒薬の匂い。上階では全く感じなかったがこの部屋からはクラクラするほどに強くそれが感じられた。
更にそれとは別の匂いをアンジェは感じとった。消毒液に混じってしまい、それほど強くは無いが病院という場所でも違和感は覚えないその香り。
アンジェは懐かしさを覚えた。いつ、何処でかは分からない。分からないが、一時期自分はその匂いを毎日嗅いでいた気がする。強烈な消毒液と共に、体に染み付くほどに。
カーテンがひどく揺れる。左右に上下にと。揺れは激しくなり、しかしアンジェは金縛りにあったかの如く動けず、カーテンばかりを追い続ける。瞬きもできず、眼が乾きを訴えても耳を貸さず、聴覚は機能を失い嗅覚は一つの匂いに囚われ味覚は口から溢れ出る何かに支配され触覚は元より失われ呼吸をすることは叶わずただ息苦しさだけが―――



「誰だ?」

簡潔な問いと同時に肩を叩かれる。震えていたアンジェの体がピタリと止まり、声を掛けてきた男を見上げる。

「ここは関係者以外立ち入り禁止だ。君は……中の物を見たな?」

アンジェは答えない。黙ったまま自分より遥かに大きい男をじっと見つめ、無感動な視線が男の瞳を捉える。
男もまた黙って懐から拳銃を取り出した。それをアンジェの頭に向け、引き金に指を掛ける。
「どうやってここまで来たのかは分からないが、ここは入ることも見ることも許されない。生かして帰すことも許されない」

淡々とアンジェに語りかけるが、アンジェは反応を示さない。ただひたすらに男の眼を見る。恐怖も無く、動揺も無く、驚きも抵抗もせず、身じろぎさえしない。彼女だけ時間を止められてしまったかのように同じ姿勢のまま、彼女は立っていた。

「……メンシェロウトか。銃で殺すと処理が面倒だが、仕方ない。何者かは知らないが、人間なんて街に入れた門兵に苦情を上げておかなければならないな」

不気味な少女を前に彼は、マニュアルで定められた後処理の手順を頭の中で反芻する。侵入者故に上司に報告せざるを得ないが、何を言われるだろうか、と少しだけ憂鬱な気分になり、だが気を取りなおして拳銃を構え直した。
引き金にかかる指に力を込める。その直前、目の前の少女の眼が光ったような気がした。怪しい。早々に排除してしまわなければ。どうせメンシェロウトだし死んでも問題はないはずでああでも可愛い子だ殺シテしまウなんてとんデモナくてどウシテコロしてしまう必要があってこんなに震えておびエてルのかそれトモ病気ナノカもしれなくてどうシテ俺はそんな事を考エてルノか殺さナケレばならナいのに――



「キミ、大丈夫かい?」

背後から掛けられた男の声。低くも優しさを含んだそれに、アンジェはようやく意識を取り戻した。視界に映る床から顔を上げ、カーテンを見る。カーテンは揺れておらず、代わりに床に突かれた腕が震えていた。

「もしもし?返事はできるかい?」

二度目の言葉にアンジェはようやく再起動を果たした。体を起こし、手を何気なく額にやったところで初めてびっしょり掻いた汗と荒い呼吸に気づく。

「は、はい大丈夫です……」

シャツの袖で汗を拭い、二度深呼吸をして気分を落ち着ける。つい数瞬前までが不思議なほどにいつもと変わりは無かった。

「そう?無理はしないでよ。ここは病院だから……と言ってもアウトロバー専用だから人間のキミにはきちんとした治療はできないだろうけど、簡単な治療くらいはできるから気分が悪くなったら言うんだよ?」

白衣を来た医師と思われる男は優しくアンジェに語りかける。気分もすでに元に戻っていて、アンジェは礼と迷惑を掛けた事を謝る。
アンジェの顔色を見て大丈夫と判断したか、男はホッと肺に溜まったものを吐き出す。そしてやや困った様に眉の形を変えると、壁際に体を寄せて通路の方へ手を広げる。

「気づかなかったかな?このフロアは立ち入り禁止なんだけど……」
「ふえ? そうだったんですか?」
「そうだったんですよ」

言われてアンジェは階段の途中にそんなモノがあった気がするのを思い出したが、どこら辺にあったかはよく思い出せない。
それよりも、と勢い良く謝るが男はシっと指を口元に当てた。

「このフロアは結構出入に厳しくてね。黙っておくから早く上に戻りなさい」




「……ぃ、おい、アンジェ、聞いてんのか?」
「うぇ?あ、はい、何ですか?」

ハルに呼ばれてアンジェは顔を上げた。キョトンとした表情を浮かべて、明らかに話を聞いていなかったのが分かり、ハルはわざとらしく深いため息をついた。

「何ですか、じゃねーよ。この後どうするんだって聞いてるんだよ」
「この後ですか?」
「そ。アイツの足の修理が終わるまで三日。アタシの銃もたぶん同じくらい時間が掛かるだろ? だからどうすっかな、と思って」
「ビジェに戻りますか? アグニスさんなら泊まるくらいはさせてくれると思うんですけど」
「ん~……あのヤローの世話になるのもなぁ……」

露骨に嫌そうな顔を浮かべてハルはアンジェの案を却下し、そのハルの表情にアンジェは苦笑いを浮かべた。
どうしたモンか、と腕を組んでイスにもたれかかりながら空を見上げる。と、その視界を影が遮った。

「待たせたな」
「あれ? 早かったですね」
「ああ、思ったより早く終わってな」

言いながら空いていたテーブルからイスを引き寄せて座り、注文を聞きに来た店員にコーヒーを頼む。

「もういいのか?」
「故障してた内部パーツも交換したしな。後はここだけだ」

そう言って自分の足を叩く。布ずれに混じって硬質な音が響く。

「他に何か用事はあったりするのか?」
「いや、私の用事は全部終わったよ。二人はどうなんだ?」
「私たちも特には……」
「で、これからどうするか、て話をな、今してたところだ」

ふうむ、とハルと同じく腕を組んでオルレアも思案する。そこへちょうど来たコーヒーを受け取って一口飲み、口元に手を当てて小さくうなる。
他の二人は特に希望は無い。二人とも手元のカップを傾けながらオルレアが口を開くのを待った。

「……ならメンシェロウトの街へ連れていってくれないか?」
「メンシェロウトの、ですか?」

思いもしなかったオルレアの言葉に、ハルは怪訝な表情を浮かべ、アンジェは心配そうに見つめた。

「……いいのか?」

ハルは一言だけでオルレアに確認をとる。その意図するところに、オルレアは深くうなづく事で応えた。

「せっかくの機会だからな。見識を広める意味でも実際のメンシェロウトを見てみたいんだ」
人間の汚いところを見れるかもしれないだろ。言い訳のようにオルレアは自分に向かってだけ言い放つ。
ハルは、少しうつむき気味で熟考する。オルレアの意見を取り入れるかどうか。取り入れるなら何処へと向かうか。自身の知識を元に判断を迷う。数秒の時が流れ、小さくハルは息を吐き出した。

「……他に案も無いし、仕方ない、行くか」
「何処にですか?」
「ちょっと遠いけどな」

足元の荷物を抱え上げ、袋の中から大きな地図を取り出してテーブル一杯に広げた。
今自分たちが居るサリーヴからハルの指が滑り、国境を越えて一つの街で止まる。

「スピールト。ここでどうだ?」






[25510] 第1-14~1-15章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/02/19 00:30




-14-





朝日が差し込む。カーテンの隙間から入り込む光が部屋を照らし、容赦なく朝の到来を告げる。部屋は広くない。一人用の、それも子供向けの小さなベッドで三分の一が埋まり、残りも勉強机とタンス、そして母親にねだって買ってもらった本棚でほとんどが占められている。
ベッドの上では少女が眠っている。幼く、まだあどけない寝顔は可愛らしい。眼を閉じたまま何事かを呟くように口元を動かすと寝返りをうち、だらしなく口を開いて布団がはだけた。長くサラサラとした金髪が枕一杯に広がって朝日を反射させて輝いている。
やがて少女の長いまつ毛が小刻みに動き始めた。まぶたが開き、その下から大きな青い瞳が現れる。半開きのまま瞬きを二、三度繰り返し、それでもなお寝ぼけ眼のまま何もない天井を見つめた。

「あー……」

小さく呻いて枕元の時計に手を伸ばす。デジタル表示の時刻を半分寝たまま見つめる。ボサボサの髪に注意が行くわけでも無く、明らかに脳はまだ寝ていた。時計を見たまましばらくぼーっとして、ようやく活動を再開するがすぐにポテ、とベッドから落ちる。

「ふにゃ……」




綺麗に洗濯されたシャツをタンスから引っ張り出し、もがきながら頭から被る。慌ただしく服を着替え、ゴムを手に取って長く伸びた髪をポニーテールに縛る。机の上に広がった勉強道具を乱雑にお気に入りのカバンの中に突っ込んで背負った。昨日もらったプリントがあったのを思い出したが気にしない。多分クシャクシャになってるだろうけど。
カバンと同じくお気に入りの靴を履き、少女は部屋から飛び出した。お腹が可愛く鳴いているけど、朝食を食べている時間は無い。
部屋を飛び出し、玄関へ続く廊下をダッシュ。開いた扉からいい匂いが少女の嗅覚とすきっ腹をくすぐるがガマン。

「行ってきまーす!」

通り過ぎ様にキッチンで準備しているであろう母親に向かって声を掛け、玄関のドアノブを回す。まばゆい太陽の光に眼を細めた。

「ちょっと、アン!」

再び駆け出そうとしたアンと呼ばれた少女を、後ろから母親が呼び止めた。

「なに?」
「なにって事は無いけど……寄り道しないで真っ直ぐ帰ってくるのよ」
「うん、分かってる。大丈夫だよ」
「最近、変な人が出るって噂だから……殺人事件も増えてるみたいだし、お母さん心配だわ」
「もぅ。心配性なんだから」
「だって……」
「大丈夫大丈夫! いざとなったら走って逃げるから」

私の足の速さはお母さんも知ってるでしょ、とアンは駆け足の仕草をして見せる。母親は頬に手を当ててため息をついた。

「ホントに気をつけなさいよ? もしアウトロバーが犯人だったら……」
「もう、お母さんったら! アウトロバーの人はみんな良い人だよ? そんな事言っちゃダメだよ!」
「でもこの間事件に巻き込まれた人も言ってたのよ? 腕とかが金属で出来てたって」
「それってヤンのお母さんが言ってた噂でしょ? 噂で判断しちゃダメってお父さんも言ってるし、良くないよ」
「……そうね。ゴメンナサイ、アンの言う通りね。
ダメだわ、お母さん。人を疑ってばっかりで」

嫌だわ、と母親はため息をついた。アンが壁に掛かっている時計を見ると、ずいぶんと時間が経っていて慌ててドアを押し開けた。

「それじゃ行ってきまーす!」
「とにかく、気をつけるのよ!!」

後ろからの声にアンは手を振りながら駆け出していった。




「よう、アン」

息を切らして走るアンの横に頭半分大きい影ができる。アンのスピードに合わせて隣に並び、同じように息を弾ませている。

「お、はよう、キルネ」
「大丈夫かよ、おい。そんなんで学校までもつのか?」
「だい、じょうぶ、だよ」
「本当かよ」

アンは足は速いが体力は無い。アンの途切れ途切れの返事に半信半疑ながらも、自身も懸命に走る。キルネはアンに比べて余裕があるとはいえ、時間的にはギリギリ。遅刻に対して担任は厳しい。今日の罰は何だろうか。冷たい廊下に素足で立たせるやつか、はたまた居残りのマンツーマンでの補習だろうか。いずれにしても勘弁願いたい。アレは拷問だ、と遅刻常習犯のキルネは走りながら器用に身震いした。

「先、に、行ってて、いいよ……」
「バカ、気にすんな。俺が一緒に走った方がペース上げやすいだろ?」

少しだけ前に出てニヤ、とキルネは笑った。汗で髪を額に張り付けながら、それを見てアンも笑顔を浮かべる。
学校の建物が見えてくる。白い壁にピカピカに磨かれた窓。太陽の光が反射してまぶしい。入り口にはアンたちと同じくギリギリに登校している子供たちが集まって楽しそうに笑い声を上げていた。
入り口にデカデカと掲げられた時計を見ると、チャイムにはまだ数分だけ余裕があった。走る速度をゆっくりと落としていって、汗だくの額を拭い、大きくアンは深呼吸をした。キルネも歩き始め、荒くなった呼吸を整えていく。
校舎に入りかけていた少女の一人がアンに気づき、手を振る。それを見て他の子も手を振り、アンも大きく振り返す。
止まってくれていた友人たちにようやく追いつき、アンは荒い息をつきながらも笑顔を浮かべて朝の挨拶をした。友人たちもまた「おはよう」と返して笑った。
それはいつもと同じ一日の始まり。誰も疑いもせず、基本退屈で、時々楽しい毎日が続くのだと信じていた。続くはずだった。
そう、続くはずだった。

彼女たちの後ろで突如として爆発が起こった。ついさっき通り過ぎた家が吹き飛び、瓦礫が舞い上がり、太陽以上の熱を持った風が打ちつける。
爆発音についでパンパン、と乾いた音が響く。そしてまた爆発。壊れる景色。崩れる世界。見慣れた町が見る見る間に姿を変える。
崩れかけた家からアンもよく知るおばさんが慌てて出てきた。いつも朝に挨拶をしてくれるおばさんだ。だけどもすぐに固い地面に倒れ込んだ。そこに崩れた瓦礫の山が覆いかぶさり、おばさんは見えなくなった。
三度目の爆発。砂埃がこれでもか、というほどに舞い上がり、視界を塞ぐ。遠くから悲鳴と怒号だけが聞こえてきた。
アンもキルネも、他の子も何が起きているのか分からない。いつも通り学校に来ただけで、何も変わったことはしていないのに、何も悪いことをしていないのに。
校舎の中も騒然とし、外で遊んでいたクラスメートたちが校舎の中に逃げこむ。先生はアンたちに向かって何か叫んでいたが何も聞こえなかった。ただ得体の知れない恐ろしさだけが彼女たちを襲っていた。
あちこちから火が上がり、その光景をアンは昔読んだ絵本の地獄の様だと思った。空まで真っ赤に、赤と黒で塗り固められた地獄の絵。眼に見える世界は絵本の世界と同じだった。
何かがアンのすぐそばを通り過ぎる。小さな悲鳴が上がり、ちょっと前までアンの正面にいたクラスメートが倒れた。白い壁には紅い花が咲いていた。
後ろから手を引かれ、アンはバランスを崩しそうになったが踏み止まって顔を上げる。そこにはいつもは優しい先生が怖い顔をして立っていた。
先生はアンたちをかばう様にして校舎に向かって押す。その力に抗うことはせず、みんな成されるがままに重い足を動かし始めた。
直後、先生の頭だったものがハジけた。そこから何かをまき散らし、ちょうど見上げたアンの顔を真赤に染め上げた。
何が起こったか。理解できず、悲鳴を上げる事さえアンは出来なかった。
次の瞬間。
何かがアンの体を持ち上げ、宙へと放り上げる。アンの意識はもうすでに無かった。







-15-






三人がスピールト近郊まで到着した時、すでに辺りには暗闇が足を伸ばしてきていた。
目的地を決定して一晩時間を置き、翌日の午前には出発したのだが、ハルの予想以上に時間が掛かっていた。オルレアのナビゲーションに従って最短ルートで向かっていたが、途中の山間の道路が崩れていてとても通れる状況では無かった。近くに川があり、見るからに増水していたので恐らくは浸食で崩れてしまったのだろうと見当をつけたが、だからと言って状況をどうこうできるわけでもなく、仕方なく迂回ルートで進んでいくハメになった。
だが迂回ルートといっても予定のルートは一本道で、しかもそれでかなりの道程を進んでいたために大幅に戻る必要があった。
田舎の道路に街灯があるわけもなく、舗装も整っているわけでもない。夜になれば危険なモンスターも活動を始めるし、野盗の類も動きが活発になる。もちろんそういった輩に遅れをとるつもりは毛頭ないが、何事にも絶対は無い。例えアンジェやオルレアが十二分に戦えると分かっていても。
だからハルとしては危険な夜道を避けるつもりで、かなりの余裕を持って残り二人を早朝に叩き起したのだが、結果としてそれも徒労に終わっている。
時刻はすでに夕方というより宵の口と言った方が近く、葉の生い茂った山道は平地よりもかなり暗い。付近に家屋は無く、バイクの明かりだけが道を照らしていた。

「なんだか……不気味ですねぇ……」

心持ちいつもよりも強くハルの背中に抱きつきつつ、アンジェは呟いた。だがオルレアは不思議そうな顔をしてアンジェを見返した。

「田舎だし、夜が近づけばこんなものだろう?」

基本的に田舎の方ではみな小さな集落を狭い範囲に作る。よって山では居る所には比較的多くの人が住んでいるが、そうでない場所だと極端に人気が無くなる。今走っている場所もそういった場所に当たると考えれば、静けさに特に疑問は無い。

「それはそうなんですけど……何か変な感じがします」
「ははっ、結構怖がりなんだな、アンジェは」

笑ってオルレアはアンジェを茶化すが、アンジェの表情は優れない。ゴーグルを外し、緊張した面持ちで辺りに注意を払う。その顔は恐怖、というよりも警戒の意味合いの方が濃い。オルレアの顔からも笑みが消え、幾分声を潜めて尋ねた。

「……何かあるのか?」
「分からない」

バイクの音にかき消されそうな程のオルレアの問い掛けに、ハルが応える。あまり顔を動かさず、前だけを見て運転する様はいつもと同じ。しかし、その声はいつもよりも硬い。

「ただ……何か胸騒ぎがするな……」

それが何に依るものか、ハルにもアンジェにも分からない。形の無い不安。何の根拠も無いが、やけに現実感を伴って二人の中で粟立つ。
ハルの強張った口調にオルレアもそれ以上何も言えず、風に吹かれた木々が三人が通り過ぎた道に向かって奇妙な悲鳴を上げた。





速度を落としながら慎重にバイクを走らせること数十分。開けた台地上の土地が遠くに現れ、家々の明かりも密集して点いている。
夜の帳はすっかり落ちて、バイクのライト無しだとほとんど何も見えない状態にまで暗くなっていた。いつもなら、こういった山道を走れば遠くからは野犬の様な遠吠えが聞こえてくるが、今はそれも無い。
アンジェとハルが警戒するに合わせ、オルレアも片目を暗視モードに切り替えて周囲に注意を払っている。今のところは近くに人の気配は無く、集落に近づくに連れてその静けさが増しているようにも思える。
まるで嵐の前の静けさだな。
ハンドルを操作しながらハルはそう思った。
山の夜道にしても異常なまでの静けさ。当たり前が当たり前に感じられない。違和感ばかりが残る。

「……気をつけろ、正面に誰かが居る」

オルレアが警告を発した。
緊張が高まる。暗闇のせいでオルレア以外の二人からは姿は見えない。手には明かりを持っているらしく、光源が揺れながら時にハルの視界を遮る。

「向こうは……五人だな。全員武装している。場所を考えると恐らく国境警備兵だと思うが検問所からは少し離れ過ぎている気もするな……
どうするんだ?」
「相手の身分を確認できるか?」
「流石にそれは無理だな。制服は着ているが、細かい意匠までは確認できない。だが物々しい雰囲気だ。当たり前だが友好的には見えない」
「ならとりあえずゆっくり近づいてみる。こっちは旅行者だからな。抵抗しなきゃいきなり発砲はされないだろ」

ハルもゴーグルを外し、やがてアンジェからも姿が確認できるほど近づいていった。
向こうも近づくこちらに気づいたのか、銃を構え、ハルたちには上手く聞き取れないが何か言葉を発しているらしい。

「停止命令みたいだな」
「なら大人しく従うとしますか」

バイクを止め、エンジンを切る。だが警戒は怠らず、いつでも銃を抜けるよう心構えだけはしておく。
兵士たちは銃を構えながらゆっくりと近づいてくる。バイクのライトに照らされて次第に姿がはっきりとしてきた。
兵士たちは全員モスグリーンの制服を着ていた。長い銃身の銃を構え、腰には帯剣をしている。視線は鋭く、帯びている雰囲気はピリピリとしていて少しでも動けば躊躇なく発砲しそうだ。

「私たちはただの旅行者だ。怪しいモンじゃない」
「何か証明できる物は?」

言われてハルはマントの内ポケットからギルツェントの登録証を提示した。兵士の一人が顎で他の兵士を促し、銃を構えたままハルの手から証書を受け取る。

「ハル・ナカトニッヒ、ノイマン……か」

人種を確認したとき、兵士たちの表情がやや強張り、警戒の色が強くなる。その向きも三人からハルの方へと集中する。

「他の二人は?」
「私はオルレア・バーチェス。アウトロバーでヘルゴーニ共和国のビジェでギルツェント常駐職員をしている。入国目的はただの観光だ」
「えっと、アンジェ・ユース・エストラーナです。えっとぉ、その、身分を証明するものはありません……」

段々アンジェの声が小さく消えていく。代わりに疑惑の眼は強く、引き金に掛かる兵士たちの指に力がこもり始める。ナハハハ、と笑ってごまかしてみるが当然ながら疑惑が緩むわけでも無く、逆に一層厳しさが増す。

「こいつはまだ見習いなんだ」

兵士たちとアンジェの間にハルが立つ。アンジェの頭にいつも通り手を置くと明るい口調で割って入る。

「来月からオルレアと同じビジェのギルトで働くことになっていてね、まあ見ての通りマヌケでドジなんだが」

ムッと口を尖らせてアンジェはハルに噛み付こうとするが、ハルは頭の上の手を拳に変えてグリグリと押し付けて黙らせた。

「証明書を持って来いって口を酸っぱくさせて言ったのに忘れてしまってるんだ。だから申し訳ないけど、ビジェのアグニス・グラードマンまで連絡を取ってくれないかな? ビジェでギルトの支部長をしているから身分保障の相手としては十分だと思うんだけど」
「そんな言い訳を信じろと言うのか?」
「とは言われてもな。こっちとしてはもう他にどうしようもない」

銃の照準をハルの頭に合わせる兵士と無手で笑って立つハル。だが互いは確実ににらみ合っていた。

「……まあいい」

先に折れたのは兵士の方だった。銃を下ろし、それに従うように取り囲んでいた他の兵士も警戒を緩める。

「助かるよ」
「勘違いするな。見逃すだけだ。例え身分保障があったとしても入国は許されんからな。すぐに立ち去れよ」
「入れないって、どういう事だ?」

持ち場に戻ろうと背を向けた兵士たちに、今度はハルが呼び止めた。

「今言ったとおりだ。入国は認められない」
「それじゃあ納得できないね。
私は何度かこの国に入った事があるけど、ここまで厳しくはなかったぞ? せめて入国拒否の理由くらい教えてくれないか?」
「理由はお前たちがノイマンとアウトロバーという事だ。現在、この国へはメンシェロウト以外の入国は認められていない」
「だからその理由をこっちは聞いているんだ」

進まぬ問答に、被った猫がわずかに剥がれ、ハルの口調が徐々に苛立に満ち始める。だが兵士の方は逆に呆れ顔で軽くため息をつく。

「敵国の人間をどうして入れる必要がある? 今、この瞬間にも攻撃があるかもしれないのにお前たちに構っている暇は無いんだ」
「攻撃とはどういう事だ? ギルトではそんな話は聞いていないが……」
「実際にもう始まってるんだ。北側の国境でな」
「そんなバカな……」

さっさと去れ、と言わんばかりに手で割って入ったオルレアを追い払い、町の方へと戻っていく。
オルレアは兵士の言葉に立ち尽くし、そして表情を厳しくする。
それは他の二人も同じだったが、ハルはすぐに立ち直ってバイクの方へと足を向けた。

「……行こう。ここに居てもしょうがない」
「ですけど……」
「あいつの言う通りだ。もし話が本当ならここに居たら危険だ。ヘタをすれば戦闘に巻き込まれる。戻るしかない」
「……はい」

ハルに諭され、アンジェもバイクの方へと戻り始める。歩き始め、一度オルレアの方を振り向いた。オルレアは兵士たちの後ろ姿を見送り、そして二人の方に向き直ると義足を鳴らして戻ってくる。

「気にするな。今回は運が無かっただけだ」
「そう……だな」

当分お預けか。
残念そうに呟き、二人の間を抜けてサイドカーへと乗り込む。
バイクのエンジンが掛かり、低い音が響き始める。静かだった森に色が生まれ、時を再度刻む。
アンジェは先程の兵士たちを見遣った。もう大分遠くへと進んで、姿が小さくなっていた。こちらにはもうあまり注意は払っていないようだった。
その時、不意に何かを感じてアンジェは脇に広がる森に向かって振り向いた。その先に暗闇しか無く、バイク以外に音は無い。しかし確かにアンジェは一瞬だけ何かを感じ取った。
眼を凝らして奥の方を見つめる。それでも特に何も見えない。見えないはずなのに、何処か確信めいた感覚がアンジェの中にはあった。アンジェ・エストラーナという個を形成する、何よりも重要なモノがアンジェをかき立て、それに抗えずアンジェは叫んだ。

「逃げて下さいっ!!」

その声が引き金となった。
森が動き、突如として生命の躍動が顕となる。彼らはその身に宿していた殺意を明確にして森から飛び出した。
アンジェの声に振り返った兵士たちもまたその姿を認めた。暗闇に包まれた森から動き始めた幾つもの影を。

「敵襲だっ!!」

訓練された彼らの行動は素早い。即座に反応し、影に向かって躊躇い無く発砲する。それと同時に信号弾を打ち上げ、町全体に異常発生を知らせる。
事が公になり、影たちは姿を隠すことを辞めた。動き辛い迷彩装備を脱ぎ捨て、彼らの持てる最大戦速、最大火力で人間たちに迫った。
アンジェは駆けた。両脚に力がこもる。一歩踏み出す毎に加速し、ブーツが地面に足型の穴を空け、狙われた兵士たちに手を伸ばす。
だが届かない。両者に空いた距離はあまりに遠かった。
迷彩を外したロバーたちの腕から次から次へと弾丸が飛び出し、兵士たちの武装を貫いていく。一人は蜂の巣の様に至る所に穴が空き、また別の兵士は近接されて袈裟に切り落とされる。
血の匂いが満ちる。オイルでは無い、人間の命が抜けていく。血しぶきが宙を舞って走り寄ったアンジェの体を濡らした。
アンジェは悟った。先日、病院で気を失いかけた時の、懐かしくも体を震わせる匂いの元を。
それは血だった。鉄臭く、こびりついた油の様に拭っても拭っても落ちない強固な匂い。ベチャリとアンジェの顔の半分近くにかかり、アンジェの呼吸を止める。
意識が白濁する。白と黒の世界が明滅し、辺りを染める赤さえも色を失ってモノクロへと変化していく。

「うあああああああああっ!!」

アンジェの口から雄叫びが弾け飛んだ。呪詛の言葉にも聞こえる叫び声を撒き散らし、襲ってきたロバーたちへとそれを叩きつける。
ロバーたちの幾人かが近づくアンジェに気づき、発砲する。秒間何十発もの弾がアンジェに向かって吐き出される。
コンマ数秒にも満たない世界。弾丸がアンジェに肉薄したその刹那、アンジェの脚が膨れ上がり、蓄積されたエネルギーが爆発する。
ブレーキを掛けることも無く、反作用に耐え切れ無かった地面をえぐり、有り得ない角度でアンジェは右へと跳躍して弾丸を避けた。
次の一歩で再び前へ。そして次は左に。ジグザグに動き、蹴り砕かれた地面を巻き上げながら数瞬の内に十メートルもの距離をゼロへと変え、肉薄した男の一人に向かって空中から脚を上段に振り上げた。
襲撃者は咄嗟にガードをする。だがアンジェの蹴りはその腕ごと容易に男の頭を蹴り潰して地面に叩きつけた。
ガチャリ、ともグチャリ、ともつかない音が山に広がる。金属片をばら撒き、瞬間的に遅れて循環液が吹き上がる。
息を飲む。一瞬だけ全員の動きが止まり、状況確認に普段以上の時間を要する。
その中でアンジェだけは止まらない。蹴りつけた反動を利用して軽い体が跳ね上がり、そのまま周囲がわずかに呆けてできた隙を狙って拳を突き出し、蹴りを叩きつける。
二の腕が裂け、刃が飛び出る。鋭い切れ味を持ったそれは容易くロバーの関節部に突き刺さり、潰されているはずの刃を用いて力任せに根元から切断する。
アウトロバーにも痛覚はある。その痛覚を切断する暇も無く腕を切り離され、全身を駆け巡る激痛に断末魔の悲鳴を上げて倒れた。
三人。瞬きにも等しい時間の中でアンジェは三人を行動不能に追い込んだ。と同時に、それが勢いに任せられる限界でもあった。
ロバーたちの注意が完全にアンジェへと変わり、弾幕が張られる。本能的に危機を察知したアンジェは、倒れていたロバーを掲げた。流れ出ていたオイルが体を濡らすが、それさえ気にせず盾として時間を稼ぐ。だが盾を貫通した弾がアンジェの頬と脇をかすめ、紅い筋が白い肌に幾つも浮かぶ。
しかしアンジェは顔色一つ変えない。理性を失った頭で冷静に次の行動を練る。
いかに速やかに現状を打破するか。いかに効果的に敵を無力化させるか。

いかに、争いを停止させるために全てを破壊するか。

次なる行動に移るため、アンジェの四肢に力がこもる。履いているズボンがはち切れんばかりに張り詰め、それを解放しようとしたその瞬間、アンジェの後方からエンジン音と銃声が聞こえた。
左手で銃を構え、右手だけでバイクを操作させながら発砲。振動で揺れるバイク上からロバーの装甲の薄い、ほんの数センチを狙って精密な射撃をハルは行っていた。

「あいつらの回収は任せたからな!」
「分かっている!」

フルスロットルで集団にバイクごと突っ込み、塊を散らす。すれ違いざまにハルは空中に飛び上がり、その状態で引き金を何度も引き続ける。
だが敵も自らの弱点は熟知している。わずかに体をずらし、装甲を以てしてハルの銃弾を弾く。そして宙に浮いた、無防備な目標に向かって弾丸を返信する。
しかしそれもハルは想定していた。例え隙間なく銃弾が自らに迫っていようとも、それを一瞬でも視認できるのであればハルにとってそれは問題では無かった。

ハルの瞳孔の形が変化する。
ラスティングを発動させた状態では反応はできなくとも、弾丸を視認することは可能。そして一度視認してしまえば、全ては終わる。
ハルの視界にある全ての弾丸が空中で突如として弾けた。何かを爆発させて蹴散らしたのではなく、一つ一つの弾が何も無いところで爆発して消えていく。
何事もなく着地。そして顔を上げたところで視線を水平に、ロバーたちの腕に高さを合わせてスライドさせた。
次の瞬間、それぞれの装備した銃が小さな爆発を起こす。その爆発により銃身が歪み、また運が悪かった物は折れて地面に落ちる。

「こ、こいつは……!!」

驚愕の声と共にロバーたちが後退る。その声には幾許かの恐怖が混じり、動きを鈍らせる。
その隙を見逃さず、ハルはロバーの弱点の一つである顎を蹴り上げた。頸部に強烈な衝撃が加わり、内部の回線がショートして意識が刈り取られる。
蹴り上げた脚を今度は水平に薙ぐ。ロバーたちの壁に隙間が生まれ、通り過ぎていったオルレアの運転するバイクの姿を捉えた。
不意に背後に鋭い気配をハルは感じ取った。ロバーたちとは違った気配。絶え間なくこめかみでうずく鈍痛を堪え、感覚の赴くままに身を反転させ、迫り来る拳を受け止めた。

殺意を明確に、アンジェは振りかぶった拳をハルへと向けていた。今の彼女の世界には彼女以外の者は無く、全てが物に過ぎない。与えられた衝動に従い、全てを終わらせる。原因たる全てを破壊し尽くす。それだけが彼女のレゾンデートル。
だがハルはそれを受け止めた。激しい衝撃がハルの体を貫き、腕からは細かく皮膚が切れて血が流れ落ちる。
しかしハルは顔色一つ変えなかった。逃げること無くアンジェを受け止め、離さないとばかりにその拳を包み込む。
拳をつかんだまま、ハルは力任せにアンジェを引き寄せる。軽いアンジェの体は容易く浮かび上がり、真っ直ぐにハルに向かって行った。

「ふん!!」

ゴス、と鈍い音がした。思い切り頭を振り下ろしてハルは一撃の元に正気を失ったアンジェの意識を刈り取った。
倒れこむアンジェの首元を乱暴につかみ、引きずるようにしてハルはロバーの囲みを抜け出した。




「くそっ!無茶をさせてくれる!!」

無人となったハンドルを制御するために、オルレアは悪態をつきながらバイクの方へと乗り移る。生まれて初めて運転する、荒れるバイクを何とかコントロールし、真っ直ぐに走らせる。
戦闘能力の限られた彼女に課せられたのは、彼女の目の前で倒れているメンシェロウト側の兵士の回収。流れ弾とオルレアを狙う銃弾が飛び交う中を、目的のために走っていく。
バイクを止め、血を流して倒れている兵士たちの元へ駆け寄る。五人が五人とも攻撃を受け、身動き一つしない。体に手を当てて確かめてみるが、すでに事切れていた。
その中で一人だけ小さなうめきを上げる。重傷を負ってはいるが、オルレアの見る限りでは急所は幸いにして外れているようだ。
生き残った一人を抱え上げ、いささか乱暴にサイドカーへと放り込んで、再びオルレアはバイクをスピールトの町に向かって走らせた。そして思わず鼻で笑ってしまう。
ヘルゴーニ人である自分が敵国の兵士を助ける。しかも嫌いなメンシェロウトを。そして自分と同じアウトロバーを、ハルとアンジェが蹴散らしている。
自分の行動が正しいのかどうか、オルレアには判断がつかない。人としては正しく、人種としては間違い。
本当にそうなのか。自分はヘルゴーニのギルトに所属するアウトロバー。だが国の兵士では無い。ならば助けたことは善なのか。正義なのか。もし、本当に戦争が始まったのならば、都市間の争いでは無く国として争うのならば、いつか戦場へと招集されるかもしれない。そうすると今度は助けたメンシェロウトを殺して回るのだろう。何という矛盾か。何という偽善か。
アクセルをひねる。加速し、景色が瞬く間に流れる。弾がオルレアの体をかすめ、時折バイクに当たって甲高い音を立てる。
町との境を作るゲートは目の前。しかしゲートの前にはたくさんの兵士が並び、中にはランチャーの様な武器を抱えている者も居た。
小銃が構えられ、オルレアに向かって引き金が引かれる。弾が迫り来る中でオルレアは必死にブレーキを掛け、ハンドルを切ることでなんとか避ける。が、制動を掛けた結果、車体は逆を向き、追い打ちの弾丸が飛んでくる。仕方なく元の道を戻り始めた。

「バッカヤロウ!! こっちはお前たちの仲間を積んでいるんだぞっ!!」

町の方を振り返り、オルレアは叫んだ。だが相手は聞こえていないのか、それとも聞く気が無いのか、散発的にではあるが発砲の手を緩めない。

「っ!!」

歯を食いしばり、オルレアは腕をハンドルへと叩きつけた。何度も何度も叩きつけ、その度にハンドルと腕が金属音を立てるが止まらない。
どうして!
こちらはお前たちの仲間を助けてやったのにどうして攻撃するんだ!どうして話を聞いてくれないんだ!どうして、どうして!!
訳の分からない悔しさがこみ上げ、呼吸が苦しい。胸が詰まり、息を吸うことさえままならない。
バイクを一度止め、サイドカーの中の人間を見た。血に汚れ、埃に塗れてすでに虫の息に近いほどに衰弱している。放っておけば、すぐに死んでしまうだろう。
じっとその男をオルレアは見つめた。冷めた眼で見つめた。
それは時間にしてほんの数秒で、やがてオルレアはバイクを降りて男を抱え上げた。
体を背を向けていた町の方へ反転させ、ガシャガシャと義足を鳴らしながら走り始めた。
それと同時に止んでいた銃声が鳴り始め、オルレアの体に当たって服に穴を開けていく。表皮が傷つき、血に似た濃い液が流れる。だが当たる場所さえ気をつけていれば並の銃弾ならば重大なダメージには至らない。男に弾が当たらないように腕でガードしながら進む。
ダメージが無いことが向こうにも分かったのか、それまで静観していた、ランチャーを持った兵士が動き始める。
その瞬間、オルレアは抱えていた男を高く掲げた。兵士たちはオルレアの意図が読めず、警戒からかわずかに銃撃が弱まった。
そのタイミングを見計らってオルレアは走る脚を速めた。本来の脚ほどの速度は出ないが、それでも一気に距離を詰めて抱えていた男を十メートルほど先の仲間の元へとできるだけ柔らかく投げた。
銃撃が止み、投げられたのが仲間だと分かって慌てて数人で駆け寄って受け取る。そして生死を確認しているのか、肩を揺すりながら声を掛けた。
その様子を確認すると、オルレアは踵を返してバイクの方へと戻っていった。後ろからオルレアを呼ぶ声がするが、彼女は聞こえない振りをする。

これで良い。
オルレアは自身に言い聞かせた。それ以上何も考えず、湧き上がる思考を遮断する。これで、良いんだ。
自らを説得した直後、突如として背後から激しい爆風が彼女の体を跳ね飛ばした。アウトロバー故の重い体を容易く跳ね上げ、数メートルに渡って地面を転がっていく。

「くっ……」

着ていたシャツは汚れ、衝撃にぐらつく視線を上げてゲートの方を彼女は見た。
そこには炎があった。轟々と真っ赤な炎が立ち上がり、数メートルの高さからオルレアを見下ろしていた。
ゲートはすでに無い。兵士たちの姿も無い。全てを炎が飲み込み、その存在を誇示するかの様にユラユラと揺れる。
再度轟音がオルレアの耳を打つ。繰り返される爆発音の度に町中から火の手が上がり、世界を焦がさんとばかりに夜空を赤く染め上げる。
その光景を呆然とオルレアは眺めていた。立ち上がることもできず、いたずらにゲートのあった場所を眺めることしかできない。
不意に片腕が引っ張り上げられる。ユルユルとした動作で振り返ると、ハルが脇にアンジェを抱えて立っていた。

「……行くぞ」

ただ一言、そうオルレアに伝えてハルはサイドカーにアンジェを放り込む。頭を下にした状態になり、意識を失っているのかそれでも動きもしない。
次々と着弾の音が聞こえる。空を見上げれば光のラインが遠くから弧を描いていて、それらが町中へ落ち、炎を高々と立ち上らせる。
攻撃が本格的に始まったためか、ロバーたちは地面に転がっている一人を除いて誰も居なかった。代わりに町の方から爆発に混じって銃声が聞こえてくる。

「早く乗れ。置いていくぞ」

立ち上がったものの、それでもオルレアの視線は町に向けられたままだった。次第に広がっていく炎の壁に魅入られたようにその場にオルレアを固定する。

「バーチェス!」

厳しい口調でハルはオルレアを呼びつけた。その声にゆっくりと動き始め、ハルの後ろにまたがる。

「……しっかり捕まってろよ」

傷ついた車体のバイクをハルは走らせた。昼間のような明るさが遠ざかり、山の静けさが戻ってくる。
オルレアは額をハルの背中に押し付けた。回されたオルレアの腕がハルの体を締めつける。表面は皮膚で覆われて、だがその下には固く冷たい金属が広がっている。少しだけオルレアの腕に触れて手を離し、それからハルは何も言わず、ひたすらにハンドルを握りしめた。
アンジェはサイドカーの中で身じろぎせず、しかし右腕だけがアンジェの目元を覆い隠していた。
誰も一言も発せず、バイクのエンジンだけが山道に響いた。







[25510] 第1-16~1-17章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/02/26 14:19




-16-




朝日が昇り始める。山間から少しずつ太陽が顔をのぞかせ、夜から朝へと切り替わっていく。空は青く、森は緑に、道路は土色に。黒一色からそれぞれが自らの色を取り戻し始める。
スピールトを離れて数時間、アンジェたちは夜通し山道を走り続けた。誰も一言も口を開かず、沈黙だけを乗せて、ようやくバイクから再びサリーヴの頑強な城壁が見える様になってきた。
わずか一日前に眺めた壁は当然ながら変化があるわけでもなく、変わらぬ姿をそのままに平地に晒す。

「やっと戻ってきたな」

建造物の向こうから差し込む朝日がまぶしい。ハルは眠た気な眼を擦り、呟いた。

「そうですね。……戻ってきちゃいましたね」

アンジェもまたハルの後ろで呟くように応える。昨日はこの壁を背にして出ていき、今は顔を向けて臨んでいる。
まさか一日で戻ってくるとは思っていなかった。出ていってからは予想外の出来事の連続で、これまで生きてきた中でもとりわけひどい夜だった、とハルはハンドルを握りながら振り返る。
久々ではあったが、ハルにとっては特別珍しい事ではない。戦時中には奇襲など当たり前で、前線では睡眠もおちおち取れず、精神的にも追い込まれる者が多くて、ハルもそういった経験には事欠かない。
だからハルが立ち直るのは早かった。切り替えは戦場で生き残るためには重要で、今回も早々に頭を切り替え、一晩中バイクを走らせ続ける事もできた。だが他の二人の事が不安だった。
アンジェは年齢を考えれば、戦争の真っ只中にある時は従軍には早すぎるし、オルレアも、ギルトに居る以上生死には耐性があるだろうが、見る限りああいった苛烈な戦闘経験は無いだろうと推測し、そしてそれは正しいだろうと思っている。
アンジェもオルレアも、スピールトを離れてから一度たりとも口を開かなかった。ハル自身の体の事もあり、何度か休息のために停止して軽い食事を摂ったりもしたが、その時も二人はノロノロとした動きしかせず、心ここにあらずといった感じが続いていた。渡した携帯食料も受け取りはしたものの、手に持ったままボーっとして口に運ぶ気配すら無く、だから半ば強引にハルが二人の口に押し込んだ。それでも抗議の声すら上がらなかったが。
いつかの時みたいに、アンジェを抱き締めてやろうかとも思った。そうすればアンジェも落ち着くだろうし、抱き締めることで何となくハル自身も自らに巣食う不安感を取り払うことができそうな気がした。が、それは躊躇われた。オルレアがいるからでは無く、アンジェ自身が誰かと触れるのを拒絶しているように思えたから。だからハルはそのまま朝までバイクを走らせ続けた。
だがそれも仕方が無い、とハルは諦めていた。自分の様にすんなりと受け入れるには二人ともまだ若く、経験が少ない。オルレアはともかく、アンジェには何となくこういった経験を積んでなど欲しくないとも思うが、遭遇してしまった以上已むを得ない。ここ数年は世界的に落ち着いていると言っても、今後どうなるか分からないし、今回の戦闘でまた各地で激化する可能性は十分ある。慣れてもらうしかなく、そして心の整理をつけるには時間が必要だ。経験からハルはそれを知っていた。
そしてだからこそ、アンジェがハルの呟きに返事をしてくれたのは驚きで、かつ嬉しくもあった。

「もう大丈夫なのか?」
「はい。ご心配をお掛けしました」

そうアンジェは答えたが、まだ声色は暗い。ハルの背中に隠れてミラー越しに確認することはできないが、顔色も良くはないだろう。
だがとりあえずは大丈夫か、とハルは安堵のため息をついた。

「オルレアはどうしてる?」
「えっと、たぶん寝てるんだと思います。腕組みしたまま全く動いてませんし」
「悪いが起こしてくれないか。もうすぐ中に入るからな」
「はーい」

左手でハルのベルトをつかみ、上半身を乗り出してサイドカーのオルレアに声をアンジェは掛けた。だが静かな朝に響くエンジンの音はけたたましく、しばらく言葉を発してなかったせいか声があまり出ない。なんとか振り絞ってみるが疲れを知らないエンジンは強く、眠ったオルレアには届かない。
景気よくハルに返事をしたは良いが、どうしたものか。思い切って飛び移ってみるか、いやいやヘタをすればオルレアにぼでーぷれすをかましかねないし、失敗すればバイクからの墜落死というマヌケな事になりかねない。
寝不足の頭でクダラナイ事に頭を働かせていたが、背に腹は変えられないと決死のダイブをアンジェが覚悟を決めた辺りでオルレアがゆっくりと眼を覚ました。
朝日の強い眼差しに眼をしばたたかせて、眠気を払うようにオルレアは頭を振った。

「気分はどうだ?」
「最悪だな」

寝起きでそれだけ言えれば上等、とハルは口元を軽く吊り上げる。

「っと、朝からご苦労さん」

城門に到着し、昨日出て行く時と同じ兵士に挨拶を交わす。また時間が掛かるな、と大きく欠伸をしながら、ハルは前もって書いてあった入国書を当直の兵士に手渡した。

「二、三日後と言ってたのにお早いお帰りですね」
「分かってて聞いてるだろ?」

若干険のある言い方だったが、この国のロバーにしては珍しく、年若く人の良さ気な兵士は小さく苦笑いで応えた。

「大変だったみたいですね」
「まあな。おかげでコイツもボロボロだよ。タイヤが無事だったのは幸いなんだろうけど」
「どっちにしろ、命あっての物種でしょう?」
「確かに」

比較的リラックスした雰囲気で会話を交わしていたが、その最中にゲートが開き、門の奥から再度まぶしい光が差し込んでくる。
最初に入った時と比べてあまりにも早い入国許可に、ハルはキョトンとして兵士の顔を見上げた。

「もう入れるのか?」
「ええ。お三方とも身分保障はしっかりしてますし、予め戻ってくるとの連絡もされてましたから」

まさか一日で戻ってくるとは思ってもみませんでしたけど、と苦笑して、ハルもそれには同意せざるを得ない。

「まあこの中は安全ですから」
「そうであることを本気で願うよ」

バイクを発進させ、後ろ手に兵士に手を振って城門を離れる。
街の中は早朝ゆえに昼間の喧騒は鳴りを潜め、朝の早い生活を送る者だけがパラパラと眼につく。それは出国時に見たばかりで特段の目新しさも無い。だが昨夜に眼に焼き付けられた記憶のせいか、同じ景色であってもどこか違った様にも感じられた。
三人は暗黙の了解の元にホテルへと向かう。バイクの音も街の静寂に吸い込まれていく。
引き払ったばかりのホテルに到着し、そこでも城門と似た様な会話を繰り返す。疲労を感じながらもハルとアンジェは笑顔を浮かべて説明し、そして部屋の中に入ると三人はそれぞれのベッドへと倒れ込んだ。





重いまぶたを開き、ぼんやりとした視界が時間の経過と共に少しだけクリアになる。半開きの眼で、体は寝かせたまま首だけを左右に動かし、視覚情報をせっせと脳に送るが途中で伝達経路は途切れて意味を成さないまま情報は廃棄される。
頭は全くもって機能していないが、なんとなく、といった風にアンジェはベッドから上半身を起こした。カーテンは閉められているが、裾からは光が差し込んできていて現在が昼間であることを教えてくれている。

(起きなきゃ……)

やはりなんとなくそんな考えが頭に浮かび、ポケーっとしたまま隣のベッドを見る。ベッドの上ではボロボロのシャツを着たオルレアが枕に顔全体を突っ込んで、死んでるんじゃないか、とばかりに全く動かない。
ロバーだから息しなくても苦しくないんだろうなぁ、いや、そもそもロバーって呼吸をしてるのかな、そうかしてないから苦しくないんだと完全に見当外れの納得をしてそのまま思考停止。眼は完全に閉じて、小さな口からはよだれが伝っていき、体が徐々に傾いて、ついにはベッドから墜落。

「ふみゅ……」

可愛らしい声を上げ、そのまま夢の中へと意識を落としていく。が、下半身はベッドの上で上半身はベッドの下、ついでに顔面は硬い床にキスしている。どう見ても寝苦しい事この上ない体勢だ。

「なんつ―体勢でお前は寝てるんだよ……」

落ちたアンジェをハルは、首をつかんで猫を持ち上げるようにして起こす。

「ふぁ……オハヨウゴザイマス」
「おはよう。とは言ってももう昼過ぎてるけどな」

シャワーを浴びたハルは下着とタンクトップだけを着ている。タオルで濡れた髪を乱暴に拭きながら、アンジェをベッドの上に下ろして自身も腰を下ろす。
ハルの手によってベッドに戻されたアンジェだったが、再びうつらうつらとし始め、今度は隣に座ったハルの方へと倒れ込んでいく。

「おっと……
ったく、コイツはどうしたいのやら……」
「はふぅ……ん~……気持ちイイですぅ……」
「っ、コラッ、人の胸を揉むんじゃない」

抱きつくようにしてアンジェはハルの胸に顔をうずめ、嬉しそうに顔を緩ませる。だらしない表情でスリスリと顔を押し付けるアンジェをハルは押しのけようとするが、思いのほか力が強く、中々引き剥がせない。

「んっ、こ、らっ!離せって!」
「ん~……お母さん…………」

アンジェの口から小さな呟きが漏れる。幸せそうな表情で、だがどこか悲しそうな、泣き出してしまいそうな顔をして寝ていた。
ハルは引き剥がそうとしていた腕の力をそっと抜いた。そしてため息をつくと、アンジェに扱いを任せた。寝息が多少くすぐったいが、少し自分が我慢すればいい事だ。ちょっとくらい良い夢を見させてやっても良い。
視線を下ろすと、セミロングで細い毛質のアンジェの髪が眼に入る。サラサラした金髪は絡むこと無く撫でるハルの指を抜けていく。
優しく、優しく、繰り返しハルはアンジェの頭を撫でる。自分が母親になったらこんな気持ちなのだろうか。湧き上がる感情に頬が緩むのを自覚しながらも、そのままにしておく。

「っひゃい!?」

悲鳴を上げてハルは飛び上がった。
見ればアンジェの手がハルの胸に乗せられてワキワキと揉みしだいでいたりする。

「っ~!」

起こさないように丁寧に手を剥がそうとするが、そうすればするほどガッチリと掴んで離さない。
起きていてわざとやってるんじゃないか、と思わないでもないが、寝顔を見る限りそんな素振りは見られない。コイツはいったいどんな夢を見てるんだ。というか母親の胸を揉む夢ってどんなシチュエーションだ。グチャグチャの思考に任せて内心で愚痴る。
だがアンジェの寝顔は可愛い。あどけなくて、この世界の汚い部分を何も知らないかのように無垢で。だから起こしてしまいたいが起こしたくない。そんな相反する衝動がせめぎあって、結果何もできずにくすぐったさと微妙な気持ち良さに悩まされる事になったが、いい加減に耐えられず、できるだけそっと起こしてしまおうとハルはアンジェの頭に手を伸ばした。
が―――

「んぅ……小さいです……」

握り拳が全力で振り下ろされた。





「……何があったんだ?」

鈍い音で眼が覚めたオルレアは開口一番にそう尋ねた。
ずっしりと頭にくる鈍痛を堪えることしばし。意識を覚醒させて隣のベッドを見てみればハルは下着とシャツ一枚で仁王立ちし、ペタペタと自分の胸の辺りを触っている。一方でアンジェは頭頂部にでかいタンコブを乗せ、そこから蒸気を醸し出しながらベッドに顔をめり込ませている。浮かぶ疑問は至極もっともと言える。

「何でもない。寝起きの悪いバカに最高の寝覚めをプレゼントしてやっただけだよ」

どう見ても夢よりも深い眠りに就いている様に見えるがそこには触れない。これもまた二人にとって普段の光景なんだろう、と自己完結させ内部時計で時刻を確認する。

「大分寝ていたんだな……」
「それだけ疲れてたって事だろ。どうせ今日は何もする予定は無いからゆっくりしときな」
「いや、体の各所に疲労は見られない。大丈夫だ」
「バカ、疲労ってもんは体だけに現れるモンじゃないだろ?」

ズボンをはきながら諭す様にハルはオルレアに返事をする。バツの悪そうにオルレアは顔を逸らし、それを見てハルはしょうがないな、といった風に軽くため息をつく。

「ま、今日一日色々考えておいても損は無いだろ。特にお前は今後も他人事じゃなくなるだろうし」
「…………」
「アタシはバイクの修理と燃料を補給してくるから。夕方には帰ってくるからそしたら飯を食おう」
「あっ、なら私も行きます」

むっくりとアンジェが起き上がり、ハルに殴られた頭をさすりつつ立ち上がる。
荷物の中から着替を取り出すとシャワー室の方へと走っていく。

「ならアタシは駐車場の所にいるからな。軽い飯を注文しとくからフロントで受け取って持って来てくれ。シャワーもゆっくり浴びて良いぞ」
「はーい」

先ほどまでベッドに沈んでいたのは何だったのだろう、と思わせるくらいに軽い返事をしてアンジェはトテテテ、と足音を響かせてシャワー室へ消えた。
ハルは腰に手を当てて呆れた様にシャワー室のドアを眺めていたが、壁のフックに掛けられていたマントを手に取ると自身も部屋を出て行った。そしてベッドの上のオルレアだけが残された。





-17-





「良かったですね、大した事無くて」

テーブルの上の大量の皿が運ばれていくのを見送って、アンジェはそう切り出した。代わりに出てきたコーヒーカップを手に持ち、喉を潤す。

「元々軍で使われてた物だからな。それなりに頑丈に作られてはいるからちょっとやそっとじゃ壊れはしないとは思ってたけどさ。ま、アイツにも相当無茶させてきてるし、ちょうどいいオーバーホールだよ」

代わりに金が大分飛んだけど、と自分で言いながらハルは少し落ち込んだ。
ハルのバイクは、走行自体には問題は無かったが、細部にはかなりのガタが来ていた。銃弾の雨の中を走行したせいで表面はあちこちが傷つき、多重構造のおかげで走行不能なパンクこそしなかったが表層部はすでに使い物にはならないほどに損傷していた。
加えて無茶な挙動を繰り返したためにサスペンションなどにもダメージが来ていて、だからハルは思い切って全部の取り換えをする事にした。そのためにそれなりの金額が必要となり、手持ちの金だけでは当然足りずに口座から多額の現金を引き落とした結果、残高はかなり寂しいものになっていた。
ブルーな気持ちを振り払うかのようにハルは甘いココアを一気に飲み干す。甘さが舌を滑り、少しだけ幸せな気持ちになる。

「……ホント、ゴメンナサイですね」

カップがソーサーに当たって音を立て、それに紛れるようにしてアンジェがポツリと漏らす。

「私のせいであの子にも頑張らせちゃいましたし、ハルにも、オルレアにも迷惑を掛けちゃいました。
本当に、ごめんなさい」
「よせよ」

やや大きめの音を立ててハルはカップを置く。そしてタバコを取り出して、気分を落ち着けるようにゆっくりと吸い込む。

「誰かが傷つくかもしれない。そんな時に警告するのは人としておかしい事じゃない。ま、中にはアタシみたいに何もせずに離れる奴もいるだろうけどな」
「そう言ってもらえるとありがたいですけど……結局私がきっかけであんな事になっちゃいましたし……」
「あれはもう戦争だ。遅かれ早かれ結果は同じになったさ。アタシたちが気づかずに引き返したとしてもあの兵士たちは奇襲を受けて死んでただろうし、逆にお前が行動してアタシたちが巻き込まれたおかげで時間が稼げて町の人が逃げ出せたかもしれない」
「でも代わりにあのアウトロバーの人を……私が殺してしまいました。頭が潰れて、血みたいな液体がたくさん流れて……
誰かを生かして誰かを殺してたんじゃ、結局同じです」
「……なあ」

ハルの呼び掛けにアンジェは伏せ気味だった顔を上げる。ハルは組んだ両手をあごに当て、アンジェの顔を見つめた。

「もう止めにしないか、そういう考え方」
「え……?」
「アタシもアンタも神様じゃないんだ。誰も彼も救うなんてことはできないんだよ。人が生きてればどこでだって争いごとは起きるし、人は傷つくんだ。
そりゃ誰だって痛い思いはしたくないよ。でもそれは無くならないんだ。人が人である以上はさ。
だったら、もしアンタが誰かを助けたいと思うんだったら、眼に入る範囲の相手にしか手は届かないんだから、そいつらを助けてやればいい。助けたいと思った奴を助けてやればいいじゃないか。誰かを殺さなきゃいけないなら、気に入らないヤツを殺せばいい。助けたくないヤツを見捨てればいい。それが普通だし、戦争なんて状況下じゃ絶対に選ばなきゃいけない時が来る。結局誰かが死ぬかもしれないけど、少なくとも意味はあるし、そう考えればお前の気も少しは紛れるだろ?」
「…………」
「もうさ、そういうもんだって考えるしか無いんだよ。こういうのはさ」

アンジェは押し黙ったまま、ハルの話を聞いていた。
ハルの話はきっと正しい。理想ではなく、現実を見据えた上でそう言ってくれている。自分が悩んでいる内容を推し量ってくれて、元々軍人だという彼女自身が長く悩んで、そしてたどり着いたんであろう結論を諭してくれる。その優しい気遣いがアンジェは嬉しい。
しかし、それと同時に後ろめたさがあった。
ハルの思い至った内容と、アンジェが自覚している悩みとでは言葉にすれば些細な、それでいて大きなすれ違いがあった。
アンジェは誰かを助けようなどと思っていなかった。
アンジェはただ、争いを止めようとした。それだけだった。
スピールトの町で声を発した時、危ないと思った。森の中から兵士たちが狙われていると気づいて、彼らを助けようと思った。傷つくのを止めようと願った。気づけばその場を飛び出し、感じたこともないほどの速度で走っていた。
それが叶わず、彼らの温かい血を感じてから後の事はアンジェもはっきり覚えていない。その際の体の感覚は曖昧でひどく頼りない。だが知覚した景色は断片として記憶の片隅に頑強に残り、自身の思考は明確な現実味を以て心を塗りつぶす。
行動の記憶はおぼろげなのに知覚情報は一部だけ明瞭。そして思考内容は明確。
つまり、記憶が曖昧だった間に彼女を占めていた思考は助けるではない。その思考は欠片たりとも彼女の中には無かった。代わりに全てを消滅させることで争いそのものを成り立たなくさせる、その事だけが存在していた。
みんな消えてしまえば、誰も争わないから。
フラッシュバックの様に唐突に、しかし圧倒的な存在感を持ってそんなフレーズが一瞬だけ思考を支配した。そして光陰のごとく瞬く間に消えていく。後にはフレーズの意図だけがグルグルとアンジェの心に渦巻いた。
アンジェは人知れず体を震わせた。
彼女自身、自らが異常である事を自覚していた。争いごとに対して異常なまでの関心。スピールトの件然り、オルレアと出会った時然り、ハルと出会っての最初の事件然り。そして、昨日の記憶が曖昧であるように、記憶にないだけで過去にも同じような事をしでかして、全てを破壊してしまった事があるのではないか。失われた記憶の中に同じことがあったのではないか。
ならば先ほどの謝罪の言葉さえ白々しい。所詮、在りし日の真実を事実の前に埋没させて誤魔化すためのものでしかない。

「なあ、一つ聞いていいか?」
「何ですか?」
「昨日の事をどれだけ覚えてる?」
「……あの人たちが撃たれてからはあんまり……ぼんやりとは覚えてますけど」
「そうか……」

なんでもない、とハルは質問をそれだけで打ち切った。
深く突っ込んでこなかった事にアンジェはホッと息を漏らす。そしてその事が逆によりアンジェの心を責め立てる。それでもアンジェは、自身の異常を口にすることはできなかった。
こうなると昔の記憶が無いのが恨めしい。何故自分がこういう人間になってしまったのか、その手がかりが欲しいというのに脳みその中からはその一片たりとも引き出せない。
だが同時にそれはアンジェに無意識の安堵を与えていた。記憶が無いゆえに何度も衝動に駆られて壊してしまったのではないか、という想像は結局のところ想像に止めてくれる。

すっかり冷めてしまっただろうココアをハルは口に含もうとする。が、話の前に飲み干してしまっていたのを思い出し、店の中へと手を上げて同じものを注文した。
新しいカップが出てくるまで手持ち無沙汰になり、慰みにもう一本タバコを取り出して火を点ける。そして空を見上げる。
カフェのテラスをフィルターで柔らかに操作された日光が照らす。だが上空は風が強いのか、あっという間に雲が流れて日差しを隠してしまった。眩しさにしかめていたハルの目元も自然と元に戻る。
タバコを口にくわえ、両手を後頭部で組んで視線を大通りへと向けた。目の前の片側一車線ずつの道路を店から右に四十秒も歩けばその大通りに突き当たり、大通りを挟んで正面には二十階建てほどのビルが建っている。ガラス張りの建物の四階から六階辺りには巨大なスクリーンが設置されていて、モニターの中ではアナウンサーの女性が必死に言葉を発していた。

「昨日深夜に発生しましたクローチェとの国境付近での軍事衝突ですが、政府はクローチェのスピールト市とヘルゴーニのリーブ市における、あくまで都市同士の独自行動であるとした上で衝突の事実を正式に認めました。政府の発表に依りますと、スピールト側にここ数カ月に渡って大量の武器や弾薬が持ち込まれていて、リーブ市に近々侵攻するとの情報が流れたのが事件の背景と考えられます。今回リーブ市側がその情報を事前に入手し、先制攻撃に踏み切ったとの事で、このような痛ましい衝突に発展してしまいました。
この件につきまして政府は現在事実を調査中との事ですが、外務大臣のガードナー氏は先ほどの記者会見で、もし侵攻の情報が事実であるならヘルゴーニ政府として厳重に抗議し、国を上げての武力行使も辞さないと発表しました。
これに対しクローチェ政府はそのような事実は無く、逆に事実無根な先制攻撃に非難決議を緊急採択し……」

むっつりした顔でハルはオーロラビジョンから流れてくるニュースを眺めていたが、やがて深いため息と共に顔をテーブルへと戻す。いつの間にか注文のココアが運ばれてきていて、湯気がゆっくりとくるくる回って消えていく。正面のアンジェはまだ視線をニュースへと固定していて、じっと厳しい表情を浮かべていた。

「まったく……どっちが正しい事を言ってるんだろうねぇ」
「え?」
「先制攻撃っていうのはリーブ側でも言ってるし、昨日のスピールトの兵士も言ってたから本当なんだろうけど、きっかけはどうなんだろうなって思ってな」
「確かにそうですね……なんとなくですけど、あの兵士の人たちも一方的に攻撃されたって思ってるような感じがしました」
「だからってリーブが嘘をついてるってワケじゃないかもしれないけどな。下っ端が知らなくてもこっそり、ていうのはよくある話だ」
「ハルが、その……軍にいた時にもそういう事があったんですか?」
「軍にいた時? ああ、アタシの場合は軍っていっても他の国の軍に参加する事が多かったから、あまりそういう話とは関係は無かったなぁ」
「そうなんですか?」
「うん、軍人っていうより傭兵に近いのか? 戦争している所に首を突っ込んで、最前線で暴れてる事がほとんどだったから、実際にあんな政治的な話が直接絡んでくる事はめったに無かったな。もちろん全く無しってワケじゃなかったけど、まあ、ほとんど気にした事は無いよ」
「そんなものなんですか……」
「当時のアタシはね。どっちに正義があるとか、そんなのに興味は無かったし、ただアタシが納得できる方に付いてただけだから」

タバコをもみ消してカップを手に取り、一度話を区切る。カップを傾けて口の中を湿らせ、ソーサーの上に置く。その時、ほんの一瞬だけハルは懐かしそうな、そして寂しそうな表情を浮かべた。だがもう一度ココアを口にした時にはそれは消えていた。

「まあアタシの事はともかく、衝突が起こった原因はどっかにはあるんだろうけどさ。本当にクローチェが侵攻を考えてたのかもしれないし、何かの勘違いかもしれない。下手したらどっかの誰かが裏で糸を引いてる、なんて事もあり得るし」
「誰かが意図的に戦争を起こそうとしてるって言うんですか!?」
「あくまで可能性の話だよ。
なあアンジェ。答えが分かりきった質問をするけど、お前は戦争をどう思う?」
「それは……普通に考えてしちゃいけない事です。色んな人が傷つきますし、いっぱい人が死にます。建物は壊れますし、きっと……きっと他にもたくさん失ってしまいます」
「ま、当然の答えだよな。確かにそれこそ数え切れないものが消えていくよ。
でも逆にプラスになるものもある」
「そんなものがあるんですか?」
「ある。一つは技術だよな? 昔からよく言われるけど、戦争が技術を進化させてきた」
「より効率良く人を……殺すためですか?」
「そう。善悪は別として、戦いに勝つために真っ先に思いつくことだ。敵を多く殺せばその分、助かる命もある。一番最悪なのは、いつ終わるか分からない泥沼に陥る事だから」

今みたいにな、と頬杖をついて付け足す。

「で、これはアタシの考えだけどな、どんな事でも世の中には絶対に得する奴と損する奴がいる。当然、戦争にも」
「だから戦争を起こそうとする人がいるって言うんですね?」
「そういう事。得する人数は少ないかもしれないし、得っていうのは即物的な物でも無いかもしれない。でも確実に誰かは得をする。どんな得があってそんな事をするのかは知らないけどな。
お前が今後どういう方向に行くのかは分からないけど、色んな考え方を知っておく方がいい。じゃないと口先だけの奴にいい様に使われるだけだぞ?」

少しだけ警告の意味も込め、ハルはたしなめる様にアンジェに視線を送る。それにアンジェも気づき、ハルを見返すと小さくうなずいた。その様子にハルは口元を緩め、満足そうにうなずき返した。

「あの……」

堅苦しい話が終わったと、ハルは筋肉をほぐす様に首を回していたが、そこで一つの影がハルの姿を覆った。二人はそれに伴って影の主を見上げると、男が二人立っていた。
一人はやや銀がかった金髪をしており、それを整髪料でビシッとオールバックにまとめている。身長は中背。ハルよりもやや高い程度で細身だが不健康そうには見えない。メガネを掛け、面長の顔は理知的な雰囲気を出しているが、ハルを見下ろす眼は目元が少し垂れ気味で、浮かべている笑顔も相まって取っつきにくい印象は与えない。スーツを着用しているがネクタイの類は着けておらず、気持ち開いた首筋がフランクさを醸していた。
もう一人は一歩引いて直立していた。珍しい黒髪で、硬い髪質なのか短髪では無いがピンと髪も立っている。一人目と同様に面長の顔だが釣り上がった眼は細く、本人にそのつもりは無いのだろうが睨んでいるように見えなくも無い。営業ビジネスマン然とした最初の男とは対照的にスラックスにシャツを着込み、その上には旅人が好んで着るマントを着用していた。

「何か?」
「いえ、失礼ですが旅をしていらっしゃる方だと存じますが?」

突然話しかけてきた男に警戒しつつ、ハルはうなずいて肯定の意を示す。それを聞くとメガネの男は嬉しそうに笑みを深めて後ろの男と顔を見合わせた。

「実はお願いがありまして……」

そう言うと男は事情を交えてアンジェたちに事情の説明を始めた。

ノイエン・ケルトナーは歴史学者であると名乗った。世界中を巡り、失われてしまった多くの歴史的事実を探しているらしい。だが、戦争によって多くの建物や遺跡、文献も失くなってしまったため苦労している、と全く苦労を感じさせない笑顔を浮かべて話した。
その事をアンジェが指摘するが、ノイエンは照れくさそうにセットした頭を撫でる。

「やはりこういう事が好きなんでしょうか。大変だとは思うんですけどそれ以上に楽しいんです。性分なんでしょう」
「ならもう天職だな。まったく、このご時世に羨ましいよ」
「ええ、その点に関しては運が良かったと思ってます」

代わりにお金にならない職業ですが、とノイエンは苦笑いを浮かべた。
だがハルはその言葉に怪訝な表情を浮かべた。金が無い、と言う割りにノイエンの着ているスーツは真新しい程に綺麗で、頭髪やヒゲなど身なりもきちんと整えられていて、とても旅人には見えない。

「その割りには良い物を着てるじゃないか。とても旅をしてるとは思えないよ」

とても言葉通りには受け取れないな、とハルは一層警戒を強め、返す言葉にもいささか皮肉が混じる。それでもノイエンは気づかないようで、嬉しそうに事情を明かした。

「最近スポンサーに恵まれまして、ありがたい事に調査に必要な費用の全てと私の給料まで頂いてるんです。彼も護衛としてスポンサーの方が紹介してくれましてね」

これまで一言も発せず、姿勢も崩さずに立っていたもう一人の男をノイエンは紹介した。
シュベリーン・ペリクレスです、と名前だけ述べてアンジェたちと握手を交わし、また元の立ち位置に戻って口を閉ざす。その淡々とした様にノイエンは申し訳なさそうに自分の頭を撫でる。

「こういった世の中ですし、彼にも大分お世話になっているのですが、如何せんこういう性格ですので……気を悪くしないでもらいたい」
「あはは、大丈夫ですよ。気にしてませんから」
「アンジェさん、と仰いましたか? そう言ってもらえて助かります」
「それで、本題は何だ? お願いとか言ってたけど。
ああ、別に座ってもらって構わない。ついでに何か注文しようか」

なら、とノイエンは店員を呼んでコーヒーを、シュベリーンは水を頼む。
カフェで水を頼むな、とハルは声を大にして主張したかったが、そこは自重した。代わりに他の二人が苦笑いをしていたから。
お二人はどうですか、料金は私が持ちますよ、とノイエンに尋ねられ、ならば、とハルもアンジェも言葉に甘えさせてもらう事にした。

「それでですね、お二人とも旅をされてるという事で、そのお話を聞かせて頂きたいんです」
「そりゃ構わないけど……どんな話でもいいのか?」
「そうですね……
これまでにお二人が見聞きされた、それこそ噂話程度のささいな事でも結構ですので私の仕事に関係ありそうな話して頂けると助かります。どんな所にどんな歴史的事実に繋がるヒントが隠されているのか分かりませんから。
ああ、でも特に見慣れない建物や、珍しい話などに心当たりがあればそこらを重点的に教えてくださると嬉しいですね」
「う~ん……珍しい話ですかぁ……」

改めて考えてみると難しい。
アンジェは腕を組んで眉を寄せる。つい最近から振り返ってみるが、特にそんな話は聞いた覚えは無く、更に思い出そうと躍起になってますます難しい顔を浮かべる。
そんなアンジェとは対照的にハルは、あごに手を当てて軽い気持ちで思い返してみる。ここでパッと何かを思い出せるに越したことは無いが、残念ながらそんな事は無く、またハル自身も期待はしていなかったので、ノイエンの言った通りに適当な所からの取り留めも無い話を話し始めた。
それは遥か東のイスミールでどんな建物があり、人々はどういう暮らしをしていたとか、ヴァルダナの海沿いの町ではモンスターが頻繁に現れて多大な被害が出ているなどといった、ノイエンが求めているであろうモノとはどう考えてもかけ離れている話から、北へ行ったオデオンには見たことない建物があったとか、あるいはガリアの国境あたりではこんな噂が流れていたなど、逆にノイエンがまさに求めている話まで、ハルが長い旅の中で耳にした様々な事が語られた。
アンジェも時々思い出しては話に参加し、なけなしの情報を与える。無論、ハルに比べれば非常に情報量としては乏しかったが。
それでもノイエンはどんな些細な話であっても熱心な様子でメモを取り、また興味が引かれる話には矢継ぎ早に質問をぶつけ、詳しく情報を手にしようと一生懸命だった。
ノイエン自身は聞き上手で、何でも楽しそうに聞いてくるためアンジェもハルも次第に多弁になっていき、その時々のくだらない話なんかも混ぜながら楽しい一時を過ごせていた。

「もうこんな時間か」

気づけば相応の時間が経っており、日が少し傾き始めていた。ふとした時に時計が眼に入ったハルが驚きを以てつぶやいた。

「あっと、大分お時間を取らせてしまいましたね。申し訳ありません」
「いえいえ、私たちも楽しかったですから。ね、ハル?」
「ああ。あんまり昔回った街の事を思い出す機会はないからな。良い時間だったよ」
「それで、何か役に立ちそうな話ってありました? 大した話はできませんでしたけど……」
「ええ、詳しくはこの後分析してみないと分かりませんが、幾つか面白そうな話がありましたし、うかがった中から今度幾つか向かってみようと思います」

楽しかったです、と言葉に違わない表情で何処か名残惜しそうにノイエンは立ち上がった。他の三人も同じく立ち上がって互いに握手を交わす。

「アンタらも色んな国を回ってるんだろ?できればそっちの話も聞きたいな」
「そうですね……私としてももっとお話をしたいんですが、この後もスポンサーの方のご機嫌を取らないといけないんですよ」

そのスポンサーとの事を思い出したのか、疲れた様にため息をつく。ハルも事情を理解し、同情の視線をノイエンに向け、そしてほとんど言葉を発しなかったシュベリーンを一瞥した。
護衛とノイエンは紹介したが、ハルはこの男がスポンサーから派遣された、いわゆるお目付け役ではないかと察した。
ノイエンは単なる歴史学者ではない。いや、話を聞いている時の様子からノイエン自身は一歴史学者に過ぎないのかもしれないが、調べてる内容はその領分を越えるところがあるのではないか。そしてシュベリーンはノイエンが余計な事を喋らないように監視する役目。いざとなれば口を封じる事も含めて。
そこまで考えてハルは、いつの間にか力んでいた事に気づき、そっと肩の力を抜いた。そして内心で苦笑いを浮かべた。
昨日の事が尾を引いているのか、どうにも考えが偏っている。
ノイエンの説明におかしな箇所は無いし、ハル自身旅先で何人かノイエンの様に遺跡みたいな場所を訪れていた学者を見たことがある。護衛というのも、まだ戦争が終わって間もなく治安が悪い事を考えれば当然の話。見た限りノイエンに護身に足る能力があるように見えないし、頭脳に関しては護衛をつけてもらえる程に優秀だということだろう。

「もし良かったら今晩一緒に酒でもどうだい?息抜きにもなるだろ?」

ふと何気なく口にした話だったが、自分の中で繰り返す内に名案の様に思えてきた。久々に酒を飲みたいし、オルレアも連れてこよう。アイツも息抜きが必要だろうし、博識だろうコイツと話せばアイツ自身のためにもなる。
勝手に頭の中でストーリーができ上がっていき、満足そうにうなずく。アンジェも両手を上げて賛成し、ワクワクしながらノイエンの返事を待つ。
二人のそんな様子に苦笑いを浮かべながらも、そうですね、と同意を告げる。

「美しいお二人にそんなに楽しそうに誘われたら断るわけにはいきませんね。
スポンサーとの面談がいつ終わるか分かりませんので確約できませんが、時間の都合がつき次第参加させて頂きます」

ノイエンの返事にアンジェとハルは顔を見合い、笑みを浮かべた。
そしてこちらから誘ったのだから、とノイエンの宿の近くの酒場で飲もうとホテルの場所をハルは尋ねた。
その気遣いに感謝を述べ、ノイエンは場所を説明するために先ほどニュースを流していたビルの方を指差した。
空は影っていた。黒い雲が太陽を隠し始める。
夕暮れに差し掛かり、スクリーンではニュースキャスターがニュースを読み上げていた。昼間と同じニュースを流し、解説員らしき人物がキャスターの隣で何かしら述べている。そして変化は突然だった。
一瞬、スクリーンが真っ黒に変わる。
そして、巨大なスクリーンが突如砕け散った。
破片が光を反射しながら下へと落ちて行き、不幸にも真下を歩いていた人たちを襲う。
悲鳴が湧き上がる。怒号が飛び交う。逃げ惑う人々。
ビルの中から再び爆発が起こる。火の塊が窓を突き破って生き物の様に荒れ狂う。
それを合図として、ビルは轟音を立てながら崩れ落ちて行った。




[25510] 第1-18章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/03/05 23:57







-18-













日が傾き始め、夕暮れに差し掛かろうとする頃、オルレアは高層ビルの中にいた。

アンジェたちがホテルから出ていき、一人残されてベッドから降りる事も無く時間を過ごしていた。漫然と時間だけが流れていき、部屋に備え付けのレトロな時計が一定のリズムを刻む。それに黙って耳を傾けるだけで何をする気にもなれない。

オルレアは時間を無駄に過ごすことが嫌いだ。無為に過ごす時間の価値を知らないわけでは無いが、それでも何かをしていなければ落ち着かない事が多い。何かをしなければならない。そんな想いに押されるように手を常に動かし、できることを探した。成長し、ギルトに所属する様になってからは休日を取ることも無く毎日勤務していたし、空いた時間には鍛錬を欠かさなかった。

アウトロバーは成長が遅い。能力をゼロからあるレベルまでに達することは、プログラムをダウンロードするだけなので容易いが、そこから熟達していくには恐らく人間以上の鍛錬が必要になる。生命である以上才能の差はロバーといえども存在するが、結局のところは鍛錬の時間が再重要になる。

そういった事をオルレアはきっとギルトの中で一番自覚していた。ギルトの戦闘要員の中で最も若く経験が足りない。そして最も弱い。だから日々の鍛錬を怠らなかった。いつか、ジャンやトリエラたちに追いつき追い越す。それが目標だった。経験の尊さを知っていたから、誰よりも動いた。

しかし今は体に力が入らない。動こうという気にもならない。横になった状態で見る両目のカメラは窓でもドアでも無く、遮光性のあるカーテンによって薄暗くなっている、少しくすんだ天井だけを写している。じっとしていると気分はますます沈み、それに引き摺られる様に動こうという気も深く奥底に沈んだままだ。

そんな自分に嫌気が差す。いつから自分はこんなにも悩むようになってしまったのか。人間が死んだだけなのに。あれだけ嫌いだったメンシェロウトを自分たちアウトロバーが殺した。胸が透く想いがあってもよさそうなものなのに。

そんな考えが浮かび、反吐が出そうなそれに自ら嫌悪する。また気分が沈む。ベッドに体がずっしりと沈み込んでいった。



(ダメだな……)



どこまでも沈み込んでいきそうな感覚。それを嫌って、何とか体を起こして服を着替える。思考を放棄して、何も考えずにオルレアはホテルを出た。人ごみの中を、時々ぶつかりながらアテも無く歩きまわり、気がつけばデパートへとやって来ていた。



(騒がしいな……)



多くの人で賑わう店内。あまりのうるささに顔をしかめるが、外に出るのも何となくためらわれてオルレアはぶらつき始めた。が、ふと自分の服を見た。

すっかり汚れてしまった服。あまり着る物に頓着しないが、周りを見て気後れしてしまう。かと言ってそこらのテナントの店先に置いてある、華美な服を買おうとは思えない。欲しいのはそれなりに清潔感があって動きやすいシャツ。それで十分だ。



(まあ、どこかにあるだろ)



果たして、オルレアはすぐに目的の店を見つけると今度はためらう事無く入っていった。昨晩の出来事でボロボロになったシャツを捨てて、襟のあるシャツを試着してそのまま購入する。ついでに、と同じようなシャツを数枚買い込むとショップを出てデパートの外郭部にある喫茶店へと足を向けた。



時刻は三時を過ぎ、店内は女性客を中心に賑わっていた。女性客同士のペアもいればカップルだろう男女の二人組もいて、誰もが楽しくおしゃべりに興じていた。

こういった極普通の喫茶店にもオルレアはほとんど来た試しがない。住んでいたのは田舎町で、一緒に来る様な相手もいない。カウンターに並んでから止めればよかった、と慣れない店内の空気に居心地の悪さを感じながらも、注文の順番が来たために適当にメニューの一番上にあるコーヒーみたいな飲み物を頼む。程なくそれが出来上がり、オルレアに渡されると逃げるようにして店の端の方へと向かった。

オルレアが陣取った席は窓際だった。デパートの十九階にあるそこからは、端にある向かいのビルが邪魔であるものの、少しは街の景色が見れて悪くない。空いていたのは一人がけの席であることと、すぐ横には歪な店内の形を表す壁があるからだろうか。座ってみるとすぐ横にある壁が圧迫感を覚えるが、今のオルレアには逆にそれが店と自分を遮ってくれているようで心地良かった。



席に座るとオルレアの口から意図せずしてため息がこぼれた。慣れない行動は思った以上に自身に疲労を強いていたらしく、自嘲の笑みが口元に浮かぶ。

ずいぶんと狭い世界で自分は生きていたのだ、と自覚せざるを得ない。ビシェというヘルゴーニの辺鄙な片田舎。そこが自分だけの世界だった。娯楽の少ない町で、娯楽とは縁のない生活を送っていた。小さい頃から自分の回りだけが全てで、外に眼を向けることが無かった。成長してからもギルトに勤め、代わり映えのしない生活を送る毎日。そこに不満は無かった。

オルレアはストローに口を付け、プラスチックの容器に入った、先ほど注文した飲み物を飲む。適当に注文したが、どうやらそれは失敗したらしく、ひどく苦い。一口だけ飲んで顔をしかめ、テーブルの上に戻す。そして外へと眼を向けた。

高層ビルが立ち並ぶその景色は狭い。けれども、隙間は必ずあってその奥には世界は続いていた。オルレアの席からはほとんど見えないが、それでもどこまでも広がっていた。

青々とした空に浮かぶ白い雲。景色の端には山が姿を現していて、すぐ足元に目線を移せば多くの人が地面を埋めている。

世界は広い。肘をテーブルに付き、手の甲に顎を乗せて外を眺めながらそんな当たり前の事をオルレアは思った。この街に来る途中、自分はアンジェにこのままではいけないと思っている、と伝えた。だが振り返ってみると、結局は思っているだけだったのだ、と感じざるを得ない。それと同時にこうした機会を与えてくれたアグニス部長に感謝を述べたくなった。

アンジェとハルと出会い、人間嫌いだった自分がメンシェロウトを助けた。これまで触れ合う事が無かった人間と接する事で、自分に根付く偏見も少しは和らげる事ができた。

しかしその反面として、その人間が死んでいく様を見てしまった。流れ出る血を見て、同じ生命なんだと今更ながらに当たり前の事実を実感してしまった。その生命が奪われてしまった。自分と同じアウトロバーの手によって。

一方的な攻撃だった。戦争とはそういうものなんだ、と理解はできる。が、オルレアに与えた衝撃は小さくはない。



(あれでは……まるで虐殺ではないか)



アンジェとハルといるせいでオルレアはあまり意識していなかったが、人間は脆く壊れやすい。人間側もロバーを倒すことはできるが、基本的な性能差には厳然とした差がある。

訓練していない人間の子供はどう頑張ってもロバーを殺すことはできない。だがロバーなら、それこそ一桁の年齢の少女であっても人間の大人を素手で殺すことは不可能ではない。ましてや、自分なら――

いつしかオルレアは自分の掌を見つめていた。人間と何ら変わりのない見た目の姿。なのに段違いに強い。そこに歪さをオルレアは感じる。



(お前は今後も他人事じゃなくなるだろうし)



ホテルでのハルの言葉が蘇る。ギルトは有事の際には治安維持軍としての機能も有している。そして戦況によっては相手国の土地で任に当たることもあり得る。

その時には自分が銃口を向けられ、また自分も向けるかもしれない。

ほんの数日前なら迷うこと無く人間を殺せただろう、とオルレアは思う。卑劣な弱者と蔑んで、相手の全てを否定して、嫌悪感に塗れて引き金を引き、剣を振るい、両腕で骨を砕き、それに疑問を抱かないだろう、と過去の自分を顧みてそう思った。だが今はどうなるか。直接身を守るためなら引き金を引く自信はある。しかし、それ以外の状況で、上役からの指示に従えるかの確信はどこにもない。



改めてオルレアは店内を見回した。誰もが楽しく語らい、笑顔を浮かべて今を楽しんでいる。

平和だ。きっと誰一人として昨夜の事を理解していないのだ、と苛立ちと共にオルレアは顔を歪める。所詮自分たちには関係のない、対岸の火事に過ぎないと何処かで思っているに違いない。

それが場違いな怒りだと、オルレアも分かっている。平和であることは祝福されるべきだし、一般の人ならば戦争なんて無関心で良いはずなのだ。関心がある程に身近にあってはいけない。

城壁に囲まれた街。それは箱庭であり、この街にとってはそれだけが全ての狭い世界。なのに誰も外の世界を知ろうともせず、現状で満足している。

その姿は少し前までのオルレアの姿であり、だからこそ彼女を苛立たせる。

オルレアはカップに取り付けられた蓋を外し、一気に中身を飲み干した。そして殻になった容器をグシャリと握りつぶして店を出て行った。







収まらない苛々を冷まそうと、オルレアはデパートの中をアテも無く歩いて回った。平日にも関わらずどのテナントも人が次々と入っては出ていき、それぞれの店も趣向を凝らして特徴的な趣を作り上げていた。

明るい店内にきらびやかな装飾。スピーカーからはいろんなジャンルの音楽が流れて、通路にいるとごちゃまぜになった結果、何が流れているのかさえ分からない。その中をオルレアは何処とも無く視線をさまよわせた。

のんびりと歩いていたが、やがて見覚えのある店が見えてきてフロアを一周したことを悟る。時刻は四時過ぎ。ハルは夜に飯を食うと言っていたから、まだ当分時間はある。

時間の潰し方を知らない自分を情けなく思いながらも、結局はまた同じフロアをグルグルと回り始めたオルレアだったが、ふとあるコートが目に入った。

それに吸い込まれる様に店内に入って周囲を見渡す。どうやら旅人をターゲットにした店らしく、旅に必要になりそうな物が雑多に棚に並べられていた。

だが、そうは言っても小奇麗な店内の品物には、どれも可愛らしい装飾やシンプルだがカッコいいと思わせるデザインの物が多く、中には邪魔ともいえる程に飾り付けられた物さえある。

そんな中でオルレアが目をつけたコートは明らかに場違いな雰囲気を出していた。

やや暗めのベージュ一色で染め上げられ、左右に幾つもポケットがあって細々とした物をたくさん入れられそう。触ってみると生地は丈夫で防寒性も高く、また熱い時でも見た目ほど熱はこもらない構造になっていた。

店内にはオルレア以外にも数人の客がいたが、誰も見向きもしない。派手な見た目の商品の方にばかり集まっている。



「いかがでしょうか?」



声の方にオルレアが顔を向けると、ニコニコとした女性の店員がオルレアの様子を伺っていた。



「そちらの商品は少々地味ですが、撥水性に優れてまして旅の途中の急な天候の変化の際にも十分に機能いたします。厚手の生地で作られておりますので防寒性も良く、また空気も良く通しますので夏場でも思ったほど熱くは感じないかと思います、ハイ。

ただお持ちになって頂きますと分かるのですが、かなりしっかりとした作りになっておりますので重くなってしまっているのが欠点ではありますが……」

「……なるほど、これは結構な重量みたいだな」



オルレアが実際に持ってみるとかなりの重さがあるようで、ずっしりと感じる。ロバーであれば問題ないだろうと思われ、試着してみると重くはあるが思った以上に動きやすく、あまり運動が制限される感覚は無い。



「ええ、十分な防弾性も持たせておりますので、もしお客様が本格的な旅をなさる予定であれば十分重宝すると思いますよ」



店員の話を聞いて、オルレアはあごに右手を添えて考える。

旅をしてみるのもいいかもしれない。そんな考えがオルレアの頭を過る。

今、自分の世界は広がっている。しかし、それでもまだ小さい。この数日で見た事聞いた事、それさえも整理できないほどに自分の経験は不足している。

これはチャンスかもしれない。

住み慣れた町から出て、見識が広がりかけている今こそ、いろんな物を見て回るべきなのだろうか。

そうすれば何か答えが出るかもしれない。

そうすれば何かを吹っ切れるかもしれない。

コートを着た姿が、正面の鏡に映る。決して長身では無い自分には余るコートの丈。それ以上にコートの持つ雰囲気と自分の姿がひどくアンバランスに見える。



「あまり似合ってないな」

「そんな事はありません。よくお似合いですよ」



店員のリップサービスが聞こえてくるが、どう見ても似合っているとは思えない。

でも、もしこの姿が似合っていると思えてきたら、自分は成長できているのだろうか。

コートを脱ぎ、値札を確認する。



「このまま着て帰るから、値札を外してくれないか」









何度も自身の姿を確認しながらオルレアは人ごみの中を歩いていた。買ったは良いが、季節に合っているとは考えづらい。年中穏やかな気候のこの地とはいえ、もうすぐ夏が来ようというのにコートとはいかに。

売っている店も店だが買う自分も自分だ。冷静になってみると何か間違っている気がしないでもなく、オルレアは心の中で小さくため息をついた。心無しか、周囲からもジロジロと見られている気がする。

だが笑顔が浮かぶのを上手く抑えられない。思えば欲しいと思って買う服はこれが初めてではないだろうか、とこれまでを振り返って気づく。ワクワクして、何とも言えない高揚感がある。なるほど、世間の女性が洋服にお金を掛けるのはこの気持ちが忘れられないからか、と一人でオルレアは合点した。

しかし、やはりまだ早いか、とオルレアはコートを脱ぐ事にした。ついでに少し腰を下ろそうとベンチを探し、そして窓際にそれを見つけた。

丁度いい、とそちらに向かって歩を進める。一面ガラス張りの窓からは街の様子が良く見え、よく磨かれて透き通った窓越しには向かいの建物の中まで見ることができた。

小さな女の子が窓の外を眺めていた。笑顔を浮かべて、何とか真下を見られないかと体を動かして四苦八苦していて、その様子が微笑ましい。知らず、オルレアはそれを眺め続け、顔には笑みが浮かんでいた。

隣に座っていた女性が女の子の頭を叩く。親だろうか。女の子はそれでも笑いながら窓の外を眺めて、そしてオルレアと、眼が合った。

女の子はニコリ、と向かいのビルのオルレアに笑いかけた。小さくだが手まで振ってくる。その行動に面食らったが、少し遅れてオルレアも手を振り返してあげる。それが嬉しかったのか、女の子は破顔した。その顔を見ていると、先程までの悩みがどうでもよくなってくる。思考の渦に取り込まれてしまった自分を思い出し、軽くため息をついた。



突如、ビルが爆発した。

向かいのビルが光ったかと思うと次の瞬間には炎を壁から吐き出す。女の子の姿は消えた。赤黒いそれがガラス窓を砕き、ビルの建材を巻き上げながら破片を四方へと撒き散らす。

一瞬でオルレアのいるビルの窓が細かく砕け散り、凶悪な弾丸となってオルレアを始めとする客たちに襲いかかった。

窓際にいた客が吹き飛ばされて倒れこみ、ガラスで怪我をした者は赤いオイルを滴らせて白い床を汚す。

世界が一変した。

楽しげな笑い声で満ちていた空間が今は悲鳴で溢れている。何が起こったのか理解できずにオロオロする女性。事故か、いや攻撃だ、テロだと無責任に叫び、周囲に混乱をもたらす男性。爆風に弾き飛ばされて動けない者を介抱する者。視線を少しだけずらすと、我先にと非常口へと群がる群集。尋常ではない雰囲気に子供が泣き叫ぶも、誰一人として注意を払わない。

そこへもう一度爆発。向かいのビルの別のフロアからも白煙が上がり、混乱に拍車が掛かる。



オルレアは身を守るよう咄嗟にガラスに背を向けて頭を縮こませていたが、破片の雨が収まったのを確認して自分の体をチェックする。

手の甲や頬に小さな切り傷はあるもののその他に異常は無し。コートの裾には細かな破片が突き刺さっているが、貫通している物はなく店員の言葉の正しさを実感した。



状況を確認すると、オルレアはすぐに動いた。

ギルト証を見せて身分を示して、客に煽られて混乱気味の店員を落ち着かせ、客を誘導するよう指示を出す。突然の出来事に驚きはあるものの、オルレア自身に焦りは見られない。落ち着くよう店員や客に言い聞かせ、同時に自分にも内心で言い聞かせる。非常時のマニュアルを記録の中から引っ張り出し、努めて冷静さを取り繕った。

店員に指示を出しながら屈強な男を引きずり込んで怪我人を運ばせる。女性や子供を優先させ、必要とあらば戦闘用ロバーとしての暴力も辞さない態度で秩序を維持する事に全力を尽くす。

そうした中で客たちも表情に不安の色を濃く残しながら、だが秩序を取り戻していった。非常階段は人でごった返してはいるものの、少しずつ外へと誘導されて行く。

厳しい表情でその様を見守っていたが、ある程度フロアにいる人影が少なくなったところでようやく肩の力を抜く。それと同時にドッと疲労が押し寄せるのを感じた。

どこかに腰を下ろしたい衝動に駆られるが、まだそれは早い。少なくともこのビルから全員避難してからだ。

気合を入れ直し、まだ残っている人間がいないかとオルレアが歩き始めたその時、再度爆発音が建物内に響いた。それと同時に足元が激しく揺れる。

落ち着きを取り戻していたはずの客が再び騒ぎ出し、外に眼を遣れば瓦礫が次々に上から落ちてきていた。



(今度はこっちか!)



遮るものの無くなった窓から慎重に顔を出してみれば、数フロア上から煙が上がり、細かな破片がパラパラと落下する。

悲鳴が上がる。見上げると頭上から何か塊が降ってきた。

それは人だった。断末魔の叫びを上げながら数十メートル下の地面に次々と落ちて行く。衝動的にオルレアはその光景から眼を逸らした。高性能なマイクが、遥か下で潰れる音が拾い上げる。

ほどなくして燃え続けていた向かいのビルが妙な音を立て始めた。オルレアが顔を上げた途端、待っていたかのように轟音を響かせ、崩れ落ちていった。

恐ろしい光景だった。目の前にあった、極当たり前に存在していた巨大な物が一瞬で崩れ落ちて行く。粉塵を巻き上げ、破片を撒き散らし、人を飲み込み、そして消え去っていった。

昨夜が蘇る。炎が空を穿つ光景。無力感に今も苛まれている自分。

今回はそれとは違う。全てを焼き尽くす炎は無い。しかしそれ以上の迫力と感情をオルレアにもたらす。

それは恐怖だった。恐らくは長い時間と金と人手を掛けて作られただろうビルが一瞬で崩壊する。たくさんの人が一瞬で死んでいった。命が散っていた。そこにロバーもメンシェロウトもノイマンも無い。無数にも思える誰かが目の前で死んでいた。目の前の光景がそれをリアルに想像させ、オルレアは自身が震えているのさえ中々気づけなかった。



またか。連日の無力感がオルレアを襲う。

轟音が絶え間なく叫びを上げ、それが巻き込まれた人の声にも聞こえる。音は鳴り止まず、舞い上がった煙とも粉塵ともつかない何かが立ち昇る。それが人のようにオルレアには思えた。

空が黒い。夜も近づいていたが、それ以上の闇が辺りを覆い尽くしていた。



まだだ。奥歯を強く噛みしめ、自身を叱咤する。

すでに跡地となった所に背を向け、意識を騒ぎ続ける階段の方へと戻してそちらへと走っていった。











◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆











人気の無くなったビルの中。一階と二階の間の天井裏に男はいた。

通気口からの光が差し込んで、微かに男の顔と手元を明らめる。浅黒い肌に彫りは深い。太めの眉に、長くはない髪がオールバックに上げられている。口元には小型のライトを加え、額には大粒の汗が反射していた。

ライトの光は男の手の中にあるコードを照らしており、いくつかの色分けされたそれが複雑に絡み合っている。

不意にビルが揺れる。それに従って男の手元も狂って思わず怒声を上げてしまう。



「クソッ!」



罵りは一度だけでは収まらず、小声ながらも呪詛のように繰り返し、心の中でも万に届けとばかりに同じ言葉で溢れかえっていた。そしてその言葉は、ここにはいない彼の仲間へと向けられている。

始めからツイていなかった。受け取った品物は、蓋を開けてみれば断線していてそのままでは使えず、已む無くこうしてこんな狭苦しい暗い場所で作業をするハメになってしまった。

加えて同じく実行犯のバカ野郎は予定よりも早く隣のビルを爆破してしまった。故意か事故かは知らないが、客がパニックになって騒ぎ出したおかげで物音が原因で自分の行動がばれる心配は消えた。代わりに消し去ってしまいたいアウトロバーたちは軒並み逃げ出してしまって、これだけで男の目標は八割方潰えてしまった。おまけに触発されたバカが自分がいるビルも早々に爆破させやがった。ビルは全体的にガタが来て、今にも崩れ落ちてしまいそう。なのに自分はまだこうして作業の真っ只中。

アイツらも爆発に巻き込まれて死んでしまっていればいいのに。男は憤怒に顔を歪ませながら吐き捨てる。



「……よし。

……ッ!クソッタレがっ!!」



コードの修復が終わり、付属されていたタイマーが動き出す。だがその表示を眼にした瞬間、男の眼は見開かれ、誰に向けられたのでもない罵声が口から飛び出す。

通気口の蓋を蹴り飛ばして床に飛び降り、そのまま全力で走り始める。本来の予定ならば入った時と同じルートで脱出するつもりだったが、それでは到底間に合わない。

計画通りならばもう一箇所に男は爆弾を設置する手はずになっていた。タイマーはその時間も含めて脱出に十分な時間が設定されているはずだが、表示されたのはそれよりも遥かに短い時間。設定ミスか、それとも作業している間にもタイマーだけは作動していたのかは分からないが、男にそれを考えるだけの余裕は無かった。



「まだ残っている奴がいたのか!

こっちだ!!」



逃げる男の姿を見つけたオルレアは大声で叫ぶ。その声に男も気づき、呼ばれる方へと逃げる方向を変えた。

男が通り過ぎて後を追う様にオルレアも走り始める。ここより上に人はおらず、静まり返ったフロアに男の足音とオルレアの脚が鳴らす金属音が響く。



「どうして今まで逃げなかった!?」



一歩遅れる形で走るオルレアが非難混じりに男に尋ねる。だが男は返事をせず、オルレアの方を一瞥だにせず足を動かし続ける。

階段のほとんどを飛び降り、一階からグラウンドフロアへ。階段部から売り場の方へ飛び出すと外の景色が見えた。



「もうすぐだ!」



足の回転が鈍ってきた男を励ますようにオルレアは声を掛ける。男はやはりうなずきさえもしなかった。

ガラスの扉を割らんばかりの勢いで二人は外へと飛び出す。それを待っていたかの様に、男の設置した爆弾が爆発する。

轟音ともいうべき音が鳴り、火炎が瞬く間にフロアを這いずり回る。意思を持って床や天井を破壊し、展示されていた華麗な商品の数々が飲み込まれ、全てをなぎ倒す。ビルを支えていた外骨格は衝撃で吹き飛ばされ、ねじ曲がる。



「危ないっ!」



吹き飛んだ破片が建物の外に弾き飛ばされて男へと落ちてくる。オルレアは男を引っ張り寄せてそれを避ける。男は一度オルレアの方を見上げた。だが口は堅く閉ざされたまま足を動かした。

ビルが不自然に傾く。ミシミシと嫌な音が、だが塞ぐにはあまりに大きすぎる音が逃げる二人の耳に入った。自分たちの背後で何が起きているのか、それを知りたいという欲求に抗えずオルレアは後ろを見上げた。

そこには迫り来る影があった。傾いていたビルは徐々に倒壊の速度を上げ、オルレアたちに向かって倒れ込んできていた。

オルレアは隣を走っていた男の肩をつかむ。そして男が振り返る間もなく体全体を抱え上げ、ロバーとしての力を使って全力で前方に向かって投げ飛ばした。

それと同時にビルが全身を地に投げ出した。彼女は迷うこと無くその身を前方へと投げ出す。

倒壊の余波に彼女は跳ね飛ばされ、七十キロを越す体が容易く宙を舞ってその上に崩れたビルの残骸が雨の様に降り注いだ。





どれだけの時間が経ったか。辺りは静まり返る。騒がしかったはずの声も今はない。砂ぼこりが舞い上がり、一面は灰色。遠くからはサイレンが鳴り響き、瓦礫の山が四方を囲む。



「う……」



オルレアはうめき声を上げながらもゆっくりと身を起こした。そのまま立ち上がろうとするが引っ掛かりを覚えて足を見てみると、ちょうどオルレアの体程度の瓦礫が乗っていた。

両腕に力を込め、少しだけ瓦礫が持ち上がる。その隙に挟まっていた足を抜き、ヨロヨロと立ち上がった。

オルレアは全身をチェックしてみるが、足以外に大きな損傷は無かった。付近には大小様々な瓦礫が散らばっていて、中にはロバーの肉体といえども到底耐えられないだろう破片も横たわっていた。挟まっていた左足はひしゃげていて、とても満足に動きそうになかったが、体が潰されなかったのは幸運と言えるのだろうか。

動かない左足を引きずりながら、オルレアは自分が投げ飛ばした男の方へ歩き始めた。

男は仰向けに倒れていて、頭に少々怪我をしているものの、命に別状は無さそう。意識はないが、男は何かを大事そうに抱え込んでいた。

それが何か気にかかったオルレアは失礼、と小さく呟いて男の腕をどかせて抱えていた物を確認した。

箱状の何か。悪いとは思いながらもオルレアはその中身に対して簡単な走査をした。



スキャンが終わり、しばらく立ち尽くしていたが遠くから救助の声が聞こえてくる。

横たわる男。刹那の時間、オルレアは男とその箱を見つめた。

やがてオルレアは男を抱え上げると、そのまま声のする方とは反対方向へと歩き去っていった。






[25510] 第1-19章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/03/05 23:58






-19-











そこは暗かった。

前後左右どちらを向いても黒しか見えず、どこまで行ってもやはり黒しか視界には入らない。自分が何処に向かって歩いているのかも分からないのに、足の裏の感覚だけは鋭敏。素足の指に、一歩踏みしめる度に泥のような何かが食い込んで生暖かい感触を与えてくれる。同時に体から熱を奪い去り、芯から凍えていく。

足に力を込める。泥を蹴り、だがぬめったそれは表面が滑るだけ。体は遅々として前に進まない。行為はただ徒労となって疲労が体に溜まっていく。

苛立つ。ひどく苛立つ。

じっとりと額に汗が浮かび、一度ぬぐえば足元の泥の様に多大な粘力で指にまとわりつく。

何故、どうして俺はこんな所にいるのだ。

疑問が男の頭に浮かび、明確な答えが出る前にタバコの煙の様に消えていく。消えれば再び同じ問いを、言葉がわずかに変わってまた男の頭を占め続ける。

どれだけ歩いたか。分からない、分からない。歩き続け、だが前に進んでいるのか後ろに退がっているのか。

やがて彼は膝をついた。両腕と両足がズブズブと音を立てて泥の中に沈んでいく。そしてそれに抗わない。

もう、いい。

ひどく疲れた声で、彼は誰とはなしに呟いた。

腕も足も重い。まるで何十キロもの重りを吊るされている様。眠るように少しずつまぶたも降りていく。



「パパ」



その声に彼は顔を上げる。ずいぶんと昔に聞いた、懐かしい声に。

顔を上げた先は光り輝いていた。光の中には子供。小学生に到達するかしないかくらいの、小さな女の子が立っていて、彼の方を見つめていた。



「パパ」



女の子はもう一度彼をそう呼んだ。その事に気づき、ようやく彼は目の前の女の子が自分の娘である事を知った。



「アナタ」



別の声と共に、女の子の隣にもう一人女性が現れる。女の子よりずっと大きい身長と、その落ち着いた声色。少女の母親であり、そして彼の妻だった。



「パパ」

「アナタ」



交互に彼に向かって呼びかける。涙がこみ上げてきて、眼に差し込む光が陽炎の様に歪む。

――ああ、そうだった



この子の為に、自分は走っていたのだ。彼女の無念を晴らす為に自分は自らを壊したのだ。それを思い出し、涙を拭って彼は泥の中で立ち上がった。



「パパ」

「アナタ」



彼女たちは呼びかけ、彼に向かって手を差し出す。

彼と比べて細く、小さな手。そして優しい温もりと柔らかさを持った手。彼はその手を取ろうと腕を伸ばす。

伸ばした。

精一杯伸ばした。

一所懸命に伸ばした。

だがどれだけ手を伸ばしても届かず、光と闇の境界線を越える事ができない。彼女たちと自分の間に細く長く広がった境目をまたぐことができない。



ああ、どうして彼女たちに触れることができないのか。

――どうして、彼女たちの顔が思い出せないのだろうか









男は眼を覚ました。そのまましばらく天井を見上げ、眼を見開いたままでいた。

何故俺はここにいるのだろうか。ぼんやりとして曖昧な記憶が刹那の間に具体化されていき、、記憶の最後にたどり着い時、今自分が生きていることを知った。

深く息を吐いて右腕で額を拭う。夢と同じ汗が同じ感覚で指にこびりついた。



「起きたか」



突如かけられた声に、男はハッとして振り向く。左隣のベッドにはハルが片膝を立てて座り、男に薄ら笑いを向けていた。



「ここは……」



どこ、と尋ねようとして体を起こすが、不意に走った痛みに言葉が途切れる。



「なるべく動かない方がいい。骨は折れてないみたいだけど、強か全身を打ちつけてるみたいだ。

生身のメンシェロウトを投げつけるなんてまったく、アイツも意外と無茶する」



それを聞いて男は布団をはがして自分の体を見てみると、綺麗に包帯が巻かれていた。腕の包帯はかなり雑に巻かれていたが。

視線を腕からハルに移し、それを受けてハルは顔を後ろに立っていたアンジェに向ける。アンジェは恥ずかしそうに身を縮こませた。

アンジェは上目遣いにそっと男を見るが、男はそれ以上特に気にするわけでもなく、痛みに顔をしかめながらも体を起こした。



「ダメですよ!まだ寝てないと」

「いや、大丈夫だ」



制止するアンジェを振りきって男は立ち上がる。感謝する、と礼を述べながらそこで男は初めて間近でアンジェの顔を見た。

困った人。そう言うかのように眉尻を下げて笑うアンジェ。一瞬だけ記憶の中の彼の妻や娘の姿と重なり、それを振り払うかのように頭を一度振った。



「どのくらい俺は寝ていた?」

「爆発があったのが昨日だよ」

「そうか」



短く返事をし、ベッド脇のチェストの上に掛けられていた肌着を着てシャツを羽織る。二人のどちらかが洗濯したのか、シワはよっているものの、汚れていたはずの黒いシャツは綺麗になっていた。



「何処に行くつもりだ?」

「そこまで教える義理は無い」

「こっちとしてはお礼くらいはしてほしいと思ってるんだけど?」

「なら金をやる。治療費と迷惑料だ」



そう言って男はズボンのポケットからクシャクシャの札束を取り出して、ハルに放り投げた。ハルはそれを受け取り、だが横を通りすぎようとする男の腕をつかんで掌に金を押し付ける。



「何の真似だ?」

「金は要らない。こっちは素人だからな。金をもらうほど立派な事はしちゃいないよ。

それよりまだ礼を言うべき相手が残ってるだろ?」



怪我をさせた張本人だけど、とハルは残る一つのベッドで寝ているオルレアを見た。

オルレアは休止モードに移行しているのか、ハルの声に反応せず眠っていて、掛布団の上には汚れたコートが乗せられている。

布団から出ている顔には幾つもの細かい傷が刻まれ、足の部分は布団が不自然な形で膨らんでいた。



「なるほど。確かに道理だな」

「というわけでコイツが眼を覚ますまではここにいる気はないか?」

「礼を言いたいのは山々だが、こちらも急いでいるのでな。悪いがそちらから伝えてくれ。
アブドラが心から感謝している、と」

「アブドラね。それがアンタの名前か。

ところで、だ。アンタの抱えてた物……あれはアンタの物と考えていいのか?」



アブドラを見ながら、ハルは親指でベッド脇のチェストを指差した。見るからに頑丈そうな箱が天板の上に鎮座し、部屋の灯りを反射していた。



「オルレアが持って帰ったは良いけど、どうにも扱いに困ってね。何とか安全に処分したいんだけど、アンタの物ならアンタに返すのが道理なんだけど」

「もしそうだと言ったらどうする? 俺をギルトにつき出すか?」

「証拠は無いからな。たまたまアンタが爆弾を見つけて、慌てて持ち出したって可能性もあるし、下手な事はできないさ。特にアタシらみたいなのはこの街では、ね」

「ふん、メンシェロウトが怪しいとあれば奴らも喜び勇んで捕まえに来るだろうな」



クックック、と肩を震わせてアブドラは低く笑う。褐色の顔に横に裂けた口を張り付かせ、嘲る様にその声を次第に大きくさせていく。

静かに、激しく笑う。矛盾を内包した嘲笑は、室内に異様な雰囲気を作り出す。アンジェは気圧されて一歩引き下がり、ハルは黙って真剣な表情でその様子を見ていた。

ひとしきり愉快気に笑った後にピタリと声が止まって、だがわずかに表情は緩めたままハルに向かって口を開く。



「だが残念ながら犯人は俺だ。いや、犯人の一人が俺と言った方が正確か」



アブドラが淡々と告白し、ハルはわずかに顔を伏せて深いため息をついた。



「やっぱりそうか……」

「それで、どうするんだ?」



アブドラが尋ねるが、ハルは一段と表情を険しくするもののそれ以上口を開かない。何かを迷うように口元で左手を遊ばせていた。

何も言ってこないハルに興味を無くしたのか、アブドラは失礼する、とハルの脇を抜けてドアの方へと進んでいく。が、アンジェがその行く手を遮った。

両腕を広げ、アンジェにしては珍しく厳しい表情を浮かべて、頭ひとつ大きいアブドラの顔を見上げる。



「どいてくれないか」

「どきません」

「体ならさっきも言った通り問題ない」

「それでも、です」

「……すまない」



短く謝罪の言葉を口にし、力ずくでアンジェをどかそうと肩に手を掛ける。しかしその瞬間、アブドラの体は宙に浮いて元居たベッドの上へと戻された。急に変化した視界に戸惑い、一瞬だけ呆然としたが、いつの間にか立ち上がっていたハルの姿を捉えると小さく舌打ちした。



「お前……ノイマンか。しかも身体系パワータイプ」

「やっぱ悪いけど力ずくでもアンタをここから出すわけには行かないな。

アンタも手ぶらで出ていくわけにはいかないだろ?」



ハルはマントの中に手を突っ込み、ポケットから何かを取り出す。それを見た途端、比較的穏やかだったアブドラの顔が一変して怒りに満ちた。



「貴様……!」

「失礼ながら勝手に中を見させてもらったよ。年季が入った物みたいだけど、随分と大切にしてるみたいだな」

「さっさとコッチに寄こせ」

「分かってるよ。別にアンタの大切なモンを奪うつもりなんて無いさ」



右手から釣り下げられたロケット。それを大事そうにハルは掌に仕舞うと、アブドラから差し出された手に丁寧に返した。

アブドラがロケットの蓋をまるで壊れ物を扱うかの様にそっと外す。そこにはずっと変わらない笑顔を浮かべている女性と、その女性に抱えられて首に抱きついている四、五歳程の女の子が幸せそうに笑っている姿があった。その写真をアブドラは、本物の二人にする様にして指で撫でる。



「アンタの奥さんと子供か?」

「そうだった。今はもういない」

「……戦争で亡くしたのか」

「違う」



ハルは最もありそうな理由を挙げるが、アブドラは即座にそれを否定した。グッと奥歯を噛みしめて眉にしわを寄せ、アブドラはこみ上げる怒りを堪える。だがそれでも抑えきれない感情が粘度を持った空気越しにアンジェとハルの二人にも伝わる。



「……理由を聞いてもいいか?」

「他人に聴かせる話など無い」

「なら」



一度口を開き、だがためらいがちにアンジェは言葉を続けた。



「どうしてそんなに泣きそうな顔をしてるんですか?」



聞いて、ハルは怪訝な顔をした。怒りは感じれども、泣きそうな、という表現は目の前の男の表情には相応しくない。しかめ面に噛み締めて音を立てる歯。憤怒、といった方が正確だろうか。少なくとも涙をこらえているようには見えない。

一方で、アブドラの内心は驚きに染まっていた。家族を失った原因に対して怒りはこみ上げる。だが亡くした妻と娘を思い出して、その思い出と失った時の悲しみが心の奥深くから蘇ってもきた。涙がこぼれそうになる。その時の表情が、彼は怒りと同質だった。そしてそれに気づいてくれたのは、今まで亡き妻しかいなかった。

アブドラはその驚きをごまかすかのように一度天井を仰ぎ、自身の内に溜まってきた悲しみを言葉と共に外へと吐き出した。



「つまらん話だ」



軽く息を吐き出し、アンジェの顔を見る。アンジェの顔が、幼き娘の顔とだぶった。



「イルークという国を知っているか?」
「名前だけは、な。東の方の、確かミットオーステンと呼ばれる地域にあって、メンシェロウトの国だったが、今はアウトロバーに半分占領されていたはずだ。

そこの出身なのか?」

「そうだ。砂漠地帯が多くて緑化に成功した都心部か、点々とあるオアシスを中心とした小さな町に国民の大部分が住んでいて、その西の端にある町とも言えない町に俺の生家があった」



記憶を探る様に眼を閉じ、アブドラは静かに話し始める。

その口調は故郷を懐かしむ様で、口元が少しだけ緩んでいた。



「個人の商店ばかりが並んで、住人はそうしたたまにやって来る旅人を相手にした店で働いているか、農業や畜産業をして生計を立てていたよ。

何もない、本当に小さな町だったが俺はそこを愛していた。誰も町の発展など望んでなくて、ゆったりと時間の流れる穏やかな町だ。若い時はそんな気質に嫌気が差したりもしたが、結婚し、子供も生まれて町の良さが分かりだすと、今度は俺が町を守っていくんだと意気込んでいた。

妻と子供と三人で死ぬまでこの町と共に生きていく。それだけで良かった。幸せだった」

「良い奥さんだったんだな……」

「ああ、俺には勿体無いほどのな」



写真に視線を落とし、彼は亡き妻に向かって微笑んだ。優しく、微笑む。優しすぎて、アンジェにはとてもアブドラが犯人だと思えない程に。



「彼女も同じ町の生まれで、幼馴染と言えるかもしれない。優しくて、少し抜けているところもあったが俺は彼女の笑顔が好きだった。

共に学び、共に遊び、共に成長して、当たり前の様に俺たちは結ばれた。俺が始めた隣の国との交易も上手くいき、眼に入れても痛くないほどの娘も生まれ、町の皆からの人望もあった。全てが順調だった。

だが戦争がイルークにも近づいてきて歯車がずれ始めた。

隣国で戦火が激しくなり俺たちの町にも流れ込んできたのだ。|機械人形《アウトロバー《 》たちが」



だがロバーに話が及び、表情が一変する。感情は削げ落ち、無表情、そして眉間にシワがより始める。



「戦争難民か……珍しくない話だな」

「珍しくない、か……確かにそうだ。その通りだろう。

だから俺たちは彼らを受け入れた。直接戦争とは縁の無い生活をしていた俺たちには余裕があった。困っている彼らを見逃すことはできない、と町の皆も彼らに住居を提供し、食事を提供し、仕事を分け合って彼らが自分たちで生きていける様に最大限の配慮をしたよ」

「しかし何事にも限界はあるもんだ。結果としてそれは破綻した」

「そうだ。噂を聞いたのかは知らないが、奴らは次から次へと入り込んできて、次第に我が物顔で町を闊歩し始めた。元々が小さな町で、町の人たちも特別な力を持たないただの人間だ。仕事をさせればすぐに覚え、我々より早く、上手く物を作ることができる。町の仕事は徐々に彼らに奪われていったが、それでも俺たちは構わなかった。彼らを助けることができた。それで俺たちは満足だったのだ。

だがそれに伴って町は荒れ始めた。奴らは俺たちを見下し、暴力を振るうようになっていき、町の雰囲気は次第に奴らを排除する方向へと傾いていった。それは俺が好きだった町とは全く異なる、荒んだ町だった。

それが嫌で、俺は彼らを説き伏せたよ。難民となった奴らの心情を慮り、受け入れた当初の気持ちを思い出してもらい、我慢を強いてそれを彼らも受け入れてくれた。

同時にアウトロバー側の代表とも話し合い、自制を促し、町で暴行を働く奴を見つければ何度も止めに入って取りなしたのだ。

そしてその結果がどうなったか、お前たちには分かるか?」



顔を上げてアブドラはハルの顔を見て、次いでアンジェへと移す。二人とも無言で険しい表情を浮かべ、だがアブドラの口調から大体の予想はつき、その為に口を開くことができなかった。



「何度目か分からないほど奴らの居住区に足を運んだ時の事だ。『努力はしている』などという中身の無い返答に、だがそれを受け入れざるを得ない現状に頭を悩ませながらも、自分なりの解決策を探りながら帰宅していた俺に奴らは襲いかかってきた。

いきなり頭を殴られて昏倒し、気づけば何処かに連れていかれた。そこでリンチだ。殴られ、蹴り飛ばされ、気を失えばまた痛みで眼を覚まさされる。

反吐の出るような笑い声を上げて、奴らは俺の反応を楽しんでいたよ。

俺は怖かった。全身が痛み、殺されるのが怖かった。幸せが奪われるのが怖かった。だから俺は情けなくも必死で奴らにすがった。何でもするから助けてくれ、殺さないでくれ、と。だが奴らは笑って俺を見下して暴力を振るい続けたよ。

俺は奴らに尋ねた。どうしてこんな事をするのか、と。そうしたら奴らはこう応えた。

『メンシェロウトのくせに生意気だ』とな」

「……」

「……それで?」

「完全に気を失って、そのうち奴らも飽きたのか、気がつけばそこには俺一人だった。

悔しかった。ひたすらに殴られて、無力な自分が情けなかった。だが、それ以上に自分の言葉が通じていなかった、その事実が辛かったよ」

「で、でもだからって……」

「それだけじゃない。違うか?」

「え?」



ハルの言葉に、アンジェはアブドラの眼を見た。

黒に近い鳶色の眼。そこには深い澱みがあり、アンジェはそれに吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えて、思わず体をのけぞらせた。



「扉に鍵は掛かっていなかった。外に出ると夜になっていてな、辺りは真っ暗だった。

頭はぼんやりとしていて足元も覚束無かったが、何とか俺は家へと向かった。

慰めてもらいたかった。妻の胸の中で泣いて全てを吐き出して、娘の顔を見て安心して、また明日から頑張ろうと思った。

バカなことに、まだ俺は諦めてなかったのだ。アウトロバーが相手だから言葉が足りなかったのだ、戦争が彼らを変えてしまっただけなんだ、と根拠のない希望にすがっていた。

そして明るくなった空に俺は顔を上げた。新しい朝がやってきたんだと思った」



だが――



「家は燃えていたよ」



轟々と燃え上がる帰るべき場所。目の前でそれが崩れ落ちて行く。

空へと昇る炎が揺れ、アブドラに嘲笑を向ける。燃え落ちる我が家があげるパチパチという狂った笑い声を、ただひざまずいて聞いていた。

昼間の様に明るい、町中でぽっかりと空いた空間。その中に彼の妻と娘が無残な姿で転がっていた。



「……まだ彼女の眼には涙がはっきりと残っていた。綺麗だった肌は腫れ上がって真っ赤になって、着ていたものは切り裂かれて犯された跡がはっきりと残っていた。

娘の手足は折れ曲がり、恐怖で顔をひきつらせたまま眠っていた。もう俺に笑顔を向けてくれることは二度と無い」



ガタガタとアブドラの座るベッドが揺れて音を立てる。ギリ、と歯が軋む音がアンジェに届き、手の中のロケットを力一杯握り締めてアブドラの体は小刻みに震えていた。



「……アンタがロバーを憎む理由ってのは分かった。その理由を理解できるし、憎しみの深さを理解できるとは言わない。

だけど、アンタが吹っ飛ばしたビルの中にはアンタと同じメンシェロウトだっていたはずだぜ?」

「関係ないな、そんな事は」



ゾッとするほど冷たい声がアブドラの口から吐き出される。その声色と口調、そして変わらず濁り切った瞳に、否応なくその言葉が彼にとって事実であることを思い知らされる。



「その日、燃えていたのは俺の家だけだった。そして周りには誰一人としていなかった。火を消そうとするヤツさえいなかった。

それがどういう意味か分かるか?」

「誰一人、ですか……?」

「おいおい、まさか……」

「察した通りだ。

俺が、俺たち家族が愛していた町の奴らは、俺たちを見捨てたんだよ。俺の家族が殴られ、辱められても止めもせず、火を消す努力もせずに。我が身可愛さにな」



そして、彼ら家族は死んだ。彼の妻も、娘も、彼自身も。全ての愛情は炎の中に。ごっそりと抜け落ちた、愛情があった箇所には入れ替わるように全てに対する憎悪が落ち着く。

何もかもを失い、やがて彼は町を出た。見送る者もおらずたった一人で。

その数週間後、彼の町は滅んだ。



「……流れてきた民に滅ぼされるっていう話は歴史上珍しくない。自分を大事にするあまりに他人を見捨てるっていうのもよくある話だ。メンシェロウトにしろロバーにしろな。

だが……どちらにしても悲しい話だ」

「全ては所詮、幻想だった。ただそれだけの、つまらん話だ」



話が終り、部屋に沈黙が訪れる。アブドラは胸元のロケットを握りしめてうつむき、ハルは顔を覆う様にし、口元に皮肉げな笑みをたたえる。オルレアはベッドの上から動かない。

そうして、誰も動かないまま時間だけが過ぎていく。部屋に備え付けられている昔ながらのアナログ時計がチクタクと苛立たし気に針を鳴らした。



「それでも……」



黙り切っていたアンジェの口が動く。それに合わせてハルの顔も上がり、うつむき気味のアンジェを見上げる。体の横で握り締められた拳が震え、全身へと伝わっていってその感情に突き動かされ、アンジェは言葉を吐き出した。



「それでも! 他にやりようがあったはずです! いくら憎いからって、貴方に殺された人は貴方を苦しめている人じゃありません!! 何の為に貴方はこんな事をしてるんですか!?」

「人とは度し難い生き物だ。痛みを肌で感じなければ何も理解しようとしない」

「そんな事はありません! 言葉でだって分かってくれる人はいます! アブドラさんだってそれを信じてそれまでやってきたんじゃないんですか!?」

「だがそれでどれだけの人間が苦しみを理解できる!? 真摯に耳を傾ける!?」

「分かりません! だけど、ただ痛みに訴えかけるよりよっぽどいいです!」

「だからそれが幻想だと言うのだ!!

俺を見ろ! どれだけ言葉を紡いだ!? どれだけ対話による解決を模索した!?

だが誰もが聞きたいことだけを聞き、そうでないものには耳を塞ぎ、俺の言葉を聞く素振りさえ見せない。

だから俺は悟ったのだ!」

「何をですか!?」

「全ては痛みでしか示せないのだと! 痛みで無理矢理にでも耳を開かせ、耳元で叫ぶしかないのだとな!!」



アブドラの怒声が狭い室内に響いてそれきり音が止む。

荒い呼吸が整えられ、それと同じくアブドラの昂ぶっていた感情も落ち着きを取り戻して、アブドラは眼を閉じた。



「貴方は……貴方はこれからもずっと、こうして誰かの命を奪って生きていくんですか……?」

「変えるつもりは無い。例え殺されようとも」

「そんな……殺された人だって家族がいるはずです。家族がいなくなって悲しいのは……」

「もう、いい。止めるんだ、アンジェ」



なおも言い募ろうとするアンジェをハルの声が止める。

アンジェは今まで何も語らなかったハルに噛み付こうとするが、今度はアブドラの声がアンジェを制止した。



「アンジェ、君がどれだけ俺を説得しようとしても無駄だ。

いくら言葉を重ねても、君の言葉は軽い」

「言葉が……軽い」

「もう俺も君と話すつもりは無い。悪いが強引にでもここを出させてもらう」



そう言ってアブドラは手を口の中に押し入れる。ガキ、と何かが折れる音がして、アブドラの手の上に乗って出てきたそれを、二人の前へと落とした。

それと同時にアブドラは身を翻し、ガラス窓の向こうへと体を投げ出した。



「っ!まずいっ!!」



ハルが叫んだその瞬間、アンジェの体は後ろへと引っ張られた。床に落ちた歯が爆発して、部屋に爆煙が広がっていった。









「……くそっ、アイツも無茶をしてくれる」

「助かりました……」



部屋の外でハルに抱きかかえられ、腕の中でアンジェは呆けていたが、やがてホッと胸をなでおろした。が、そこで部屋のベッドで寝ていたオルレアを思い出して慌てて飛び降りる。



「大丈夫だ。たぶん目くらまし用だったんだ。それほど威力は無かった」



煙が充満する中、ハルの言葉を証明するかのように、白い影が部屋の中からゆっくりと出てきた。



「ずっと起きて聞いてたんだろ?」



ハルがオルレアに問いかけ、アンジェは、えっ、とオルレアの顔を見た。

オルレアは気まずそうに顔を背け、だが小さく頷いてその質問を肯定する。



「それで、お前はどうしたい?」

「分からない……」



ポツリ、と蚊の鳴くような小さな声でそう漏らす。



「ギルトのロバーである事を考えれば助けるべきでは無かったのかもしれない……意識が無かったとしても、この街のギルトに突き出す。それが本来私がとるべき道だったんだと思う。

でも……あの写真を見たら、それができなかった」

「同情か?」

「それもある。

だが、あの男が犯人だとは信じたくなかったんだと思う……」



唇を噛みしめ、眉にシワを寄せてオルレアは悩む。

爆弾を抱えて倒れていたあの男を自分はどうするべきだったのか。

客観的な正解は知っている。そうすべきだと、そればかりは疑いようも無い。

それでも、ギルトに連れて行くことをオルレアは選べなかった。できたのは傷の手当をすることと、結論を先延ばしにする事だけ。考える時間が欲しかった。



「話を聞いて、結論は出せたか?」



オルレアはその問いかけに静かに首を横に振った。

アブドラの話は、悲しい物語だった。全てを奪われ、裏切られ、だから自分も奪うことしかできなくなった男の話だった。

途中でハルが話したように、多くはなく、だが決して珍しい話ではないのだろう。似たような話は、どこかで耳にしたことがある。それが今は自分のすぐ近くで語られただけだ。

しかし、オルレアは何を話せば良いか分からなかった。そんな男にどう接すれば良いのか知らなかった。

軽いと言われたアンジェの言葉。それ以前に、オルレアは語る言葉を持たなかった。



「でも……もっと話したいと思う」



言葉では通じないのだとあの男は言った。その是非についてはオルレアは分からない。そういう事もあるだろうとさえ思っている。

それでも話したい事があった。言葉で伝えたい事があった。

人もロバーも一通りではない。山賊の様な一方的に奪う者もいれば、ギルトの様に弱者を守る者もいる。言葉に耳を塞ぐ者もいればアンジェやハルの様な、言葉を聞いてくれる者もいるのだと教えてあげたかった。



「なら、あの野郎が次の行動を起こす前に捕まえないとな」



ハルの言葉にオルレアは、今度は大きくうなずく。

騒ぎに驚いたのか、階段の方から足音が近づいてくる。三人はそちらを振り返り、そして顔を見合わせてすぐにこの後の行動を決めていく。



「じゃあオルレアはこの場を頼む。正直に話すなりごまかすなりしてくれ。

アタシとアンジェはアブドラを探してみる。その足じゃ動けないだろ?」

「……そうだな」

「たぶん、そろそろ足の修理が終わってるだろうし、ここが片付いたらブラウンさんの所に行って、ついでにアタシの銃も受け取ってくれないか?」

「分かった。しかし、合流はどうするんだ?」

「こっちでデカイ花火でも上げてやるよ」



何をするのかは分からない。だがハルは皮肉がかった不敵な笑みを浮かべ、それを見てオルレアが了解の意を伝えると、ハルはマントのポケットから鍵を取り出してオルレアへ投げて渡す。



「バイクの鍵だ。ここの駐車場に止めてあるから使え」



オルレアがうなずき、頼んだぞ、と言うとアンジェとハルの二人は窓のふちに足を掛けて飛び出す。着地して駆け出すと、二人の姿はあっという間に小さくなっていった。

ここでも足手まといか。

その姿を少し悔しそうにオルレアは見送ったが、足音が自分のすぐ近くで止まったのに気づき振り返る。

煙の中から人影が一つ近づく。宿の人か、それともギルトがもう駆けつけたのか。事情を説明しようとオルレアは口を開きかけたが、現れた予想外の人物に思わず驚きの声を上げた。



「ずいぶんと賑やかな事になってるみてぇだな」

「シュバイクォーグさん!」



本来よりも一層白く見えた顔をニヤリと歪ませると、ブラウンは持って来た荷物を高く掲げた。



「喜べ。出張サービスだ」










[25510] 第1-20章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/03/05 23:58






-20-















夜が迫る。

まだ日は高く日没までは時間があるが、しかし確実に太陽は傾いて闇夜は近づいてくる。

空は曇り、雨が降り出さんばかりに遠くから雷鳴と共に黒い雲が街に向かっていた。稲光が時折眩くビルの窓を照らし、静まり返った街を包み込む。



アンジェとハルは暗い街中を走り抜けていた。

普段なら人で溢れかえっているはずの都心部には人の姿は無く、怖いくらいなまでに閑散として静まり返っている。当然、車やバイクの類も一台も走っておらず、放置されたままの乗用車やバスが不揃いに道を遮っている。

――まるで、ゴーストタウンだ

行くてを塞ぐ車を踏み台にしながらハルは思った。街からは全ての人が消えて何も残らない。今はこうして残っている車や家も、その内に夜に飲み込まれていく。そして初めから何も無かった様にして消えていく。そんな気がした。無論そんな事はないのだけれど。

ハルは、自分の前を走るアンジェの背中を見た。気を抜けば不可思議な何かに引きずられて脚が重くなってしまいそうな街で、軽快な足取りのまま飛び跳ねて車を避けていく。

アンジェの視線は一直線に前を捉え、迷う事無く街の外郭へと向かっている。ハルもそれを追いかける形で走っていた。もしアブドラと同じ方向に向かっているなら追いつくのも時間の問題だ。アブドラが体を鍛えていたのは見た目から分かったが、基礎能力がノイマンと比べて違う。

何気なしにハルはアンジェの背を追っていた。だが不意に不安に駆られる。

いや、まさかな。嫌な予感が過り、そんな事は無い、と笑ってみせる。

しかし、と普段のアンジェの行動を省みてみる。すると不安は増殖し、留まる事は無い。走りながら、いつしかハルの中でその不安は確定事項にまで進化していた。

ハルは必死で願う。外れてくれ、と。

そしてその願いが成就する事を確かめるため、走る速度を上げてアンジェの横に並んだ。



「アンジェはアブドラがどこにいるか、分かってるんだよな!?」



ハッハッ、と軽く息を弾ませるアンジェに尋ねた。

肩越しの声にアンジェは、何を言ってるんですか、とばかりに軽く首を傾げる。その様子を見て「そうだよな」と胸をなで下ろした。よかった、そこまでバカじゃなかったか、と。

だが。



「知りません!」



言い放った。しかも自信満々に。

黙して一秒、二秒。ようやくアンジェの言葉が染み渡って、ハルの口からはマヌケな声が漏れた。



「……は?」

「だから!知りませんよ、私は」

「じゃあどこに向かって今まで走ってんだよ!?」

「何となくコッチかな~って思いまして」



ハルは頭を抱えた。そうだ、忘れていた。コイツはこういうヤツだったよ。

ホテルの部屋からは煙のせいでアブドラがどちらへ向かったかは見えていない。しかしアンジェはその行き先を予め知っていたかの様に真っ直ぐに走っていた。その小さな背中はなぜかとても心強く、だからハルもここまで黙ってついてきたというのに。

ハルの顔を見て、ようやくアンジェもまずい事を言ったと気づいたのか、テヘ、とわざとらしい程に満面の笑みを浮かべてごまかしてみる。

問答無用のミドルキックが尻に突き刺さった。



「ったく……

まあいいさ。どうせアタシもこの方向だと思ってたし」

「アタタタ……じゃあ別に蹴る必要は無かったんじゃ……」

「確信は無いんだよ。お前があんまりにも自信満々にこっち向かうから、アタシまで疑いなくついてきてしまったじゃないか。それがムカついた。

だいたい、微妙に方向がアタシが行くつもりだった方向とずれてる」

「それで、ハルが考えてる場所ってどこなんですか?」

「アレだよ」



アゴをしゃくってアンジェの視線を誘導する。その指し示す場所に眼を向ければずっと向こう、街を囲む城壁の上に強く存在を誇示する物があった。



「ヤツの目的がどこにあるのかは知らない。だけど、もし無差別に街を攻撃するならあのライフルはもってこいだ。

あれだけデカイ代物なんだ。威力がどのくらいかは知らないけど、街を蹂躙するには十分すぎるだろうな」

「でも、同じ物が何十個ってありますよ?

まさか一個ずつ虱潰しに探して街を壁沿いに走りまわるんですか?」



城壁は一辺だけでも十数キロにも及び、それに沿ってマラソンをする事を想像してアンジェは、うへぇ、と顔をしかめてみせる。ハルは軽く苦笑いを浮かべてみせ、



「最悪の場合はそうなるな。

だけどおおよその検討はついてる。だからアレに向かってるんだよ」

「まさか、なんとなく、じゃないですよね?」

「お前と一緒にするんじゃない。

スペックが分からないから断定はできないけど、距離や遮蔽物、狙いそうな目標を考えると自ずと範囲は絞られてくるもんさ」

「……ハルは、アブドラさんが何を狙うと思いますか?」



幾分暗くなった声でアンジェに問われ、ハルは考えこむように少しだけ顔を伏せる。

そして、思いつきだけど、と前置きして幾つか候補を並べていく。



「昨日みたいに高層ビルを狙うっていうのがまず考えられる。

街全体に戒厳令が敷かれてるし、住民は結構な人数が地下に避難してるから人的な被害はそうでもないだろうけど、この街の象徴的な物でもあるからな。それを壊せば精神的なダメージは与えられる。

ギルトの建物を狙えば逃げ切れる可能性も高くなるだろうし、街外れの工場地帯を狙う可能性もある。

もし、この前の国境紛争とどこかで繋がってるなら、城壁を第一目標にしてクローチェが侵攻しやすい様にする事も考えられるな」



ハルが次々と目標候補を挙げていく。それに伴ってアンジェの表情も一段と暗くなる。



「攻撃されたら、やっぱり私たちのせいになるんですよね……?」

「どうだろうな。アタシたちがアイツを連れてきた時点ではまだ確証は無かったし、ギルトに連れて行ってても、別の仲間が同じ事をするかもしれないな。

でも、ま、どっちにしてもお前がいる以上アタシたちがやる事は変わってないよ」



そう言って走りながらハルはアンジェの頭をポンポン、と軽く叩く。相変わらず子供扱いするようなハルに、アンジェはムッとした表情を浮かべるが、それもそうですね、とため息混じりに言葉を吐き出す。



「じゃあ、とりあえず急ぐとしますかね」



その言葉にアンジェもうなずき、ハルは走る速度を上げる。

アンジェもまた硬質な冷たさを持つ四肢に力を込めた。









◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆









先日の爆破で崩れたビルから少し離れた別のビル。アンジェとハルの二人はその前を走り抜け、街外れへと消えていく。壁の影で倒れている兵士にも気づかずに。

二人が通り過ぎたビルの屋上に、二人を見下ろす影があった。フェンスも何も無い屋上の際に立ち、時折強い風が吹きすさぶ中で彼は眼鏡越しに視線をアンジェたちに送る。



「おやおや、こんな時にどこに行こうとしてるんでしょうね……」



口元に小さな笑みを浮かべ、ノイエンは独りごちた。風に彼の着るコートの裾が揺らされ、ノイエンは眼をわずかに細めて二人が向かっていった方向を見据える。



「彼らを止めるつもりなんでしょうか。

まあ、彼女らの目的がどうあれ、今回は傍観させていただくだけですけど」



ギシ、と扉の軋む音が背後から聞こえる。ノイエンが振り向くとマントをはためかせながら歩いて来るシュベリーンがいた。



「ご苦労さまでした。まさか殺してはいませんよね?」

「ああ。少しの間眠ってもらっただけだ。エントランス以外にも数人いたからそいつらにも眠ってもらったが」

「結構。これで邪魔されずに見学することができます」



そう言ってシュベリーンに背を向け、街の外壁へと再び視線を戻す。ポケットからタバコを取り出し、ジッポライターで火を点ける。美味そうに頬を緩め、煙を口の中で転がすとゆっくりと煙を吐き出した。



「タバコは健康に良くない」

「重々承知してますよ。でもいいじゃないですか。せっかく探してた物が見つかって、それが使われるかもしれないんです。どうせ見るなら最高の気分で見たいじゃないですか」

「そんなものか」

「そんなものです。君には理解できないかもしれませんが」



シュベリーンはそれには返事をせずに、ノイエンと同じ様に外壁の上に座る巨大なライフルを見た。みな一様に街の外を向いていて、変わらず街に近づく全てに対して畏怖を与え続ける。

「私が調べたところによるとですね」



タバコを左手に携えてノイエンが話し掛ける。



「あの兵器は既存のどの技術とも異なる技術が使われているらしいんです」

「そうなのか?」

「ええ、とは言ってもそれがどのような技術なのかまでは分かってはいませんが」

「お前でも調べられなかったのか」

「ソフト的にもハード的にもやたらと警備が厳重でしてね。情報を探ろうとしても何重にもプロテクトが掛かってますし、かと言って直接ライフルに近づくのも難しいんです。分かったのはあれがエネルギー兵器である事と、私が知る限り世界でこの街にしか配置されていない事、それとどうやら『ユビキタス』が絡んでるらしい事だけです」

「ユビキタス……」



シュベリーンはその名前を繰り返した。



「ユビキタスについてもどうにも情報が手に入りませんでね。ああいう兵器を作り上げるくらいですから、私たちが探してる物を彼らは恐らく持っているんでしょう。ま、彼らが一から新しい技術を開発した可能性も否定できませんが」

「だがエネルギー兵器ならそう珍しいものでも無いはずだ」



そう言ってシュベリーンはマントから腕を出した。二の腕が縦に裂けて、そこから細い筒状の銃身が見える。

シュベリーンの疑問に、だがノイエンは笑みを浮かべて首を横に振って見せる。



「既存のエネルギー兵器で難しいのは何だと思いますか?」

「威力か? いや、連射性か……」

「中々いいところをついてますが、答えはエネルギー総量なんですよ。シュベリーンは大型のエネルギー放出型兵器を見たことがありますか?」



ノイエンの質問に「いや」と短く答える。



「大体が掌サイズで、大きいものでも肩に担ぐ程度でしかありません。そして威力を重視すれば弾数は少なく、弾数を多くすれば一発の威力は小さなものでしかなくなります。というのも携行できるバッテリーに込められるエネルギーの全体量が小さいからです。

物を壊す、というのは結構エネルギーを使うものなんですよ。だから巨大な、それこそあのライフルの様に大きな物になれば、もし今までのバッテリーを使うならばそのサイズはとてつもない大きさになってしまうんです。しかもバッテリーそのものも高価です。数が作れて威力が高い武器なら火薬の方が何倍も便利なんです。だから今まで誰もそんなモノは造らなかった」

「アレは違うのか?」



ライフルに眼をやりながらのシュベリーンの問いに「ええ」とノイエンは頷いた。



「あれだけの数を作る、という事はそういった問題が解決したのでは無いかと私はにらんでます。しかし、今まで誰も見たことがありませんからね。実際の威力がどれほどなのか分からないんですよ」

「だから観察、か」



無表情ながら、どこから呆れた風にも見えるシュベリーンに、ノイエンは楽しそうに笑って見せる。そしていつの間にか消えてしまっていたタバコを投げ捨てると、また新たに一本取り出して火を点けようとライターをこする。

だが小さな雫が口にくわえたタバコを濡らし始めた。



「おや、雨が降ってきましたね」



残念、と漏らしながらノイエンはフードを被ってタバコをケースに仕舞った。



「がっかりさせないでくれると嬉しいんですが」



静かな街に雨音の調べが響き渡る。街を一望できるビルの上から全てを傍観するべく、ノイエンはそれきり口をつぐんで雨音に耳を傾け続けた。











◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆















「……音がします」



しばらく黙って走っていた二人だが、不意にアンジェがそう漏らし、ハルに先行する。

更に加速する街の景色。次から次へとビルが後ろへと流れて行く。

街が静かなのに変わり無い。だがアンジェの耳はそこに異変を捉え、そしてまた静寂が訪れた。



「この辺りです」



ハルに聞こえる程度につぶやきながら車を跳び越える。軽快な動作でジャンプし、果たして、その先には数人分のロバーが地面に横たわっていた。

着地時に踏みつけてしまいそうになり、ハルは空中で体を捻って上手くそばに着地。両の足をアスファルトに押し付け、摩擦音を立てながら停止した。



「これは……もうダメだな」



ロバーを見下ろしながらハルがつぶやく。

男たちは皆、頭部を破壊されていた。四肢のいずれかは折れ曲がっている。後頭部が完全に変形している者、首が不自然な方向に直角に折れている者、頬骨が落ち込み、圧迫されて眼から赤い循環液を垂れ流している者。見ただけですでに絶命しているのが分かる。

念のために倒れている男の首元に手を当ててみるが循環液の流れは感じられない。二人は一度眼を閉じ、軽く黙祷を捧げて男たちの服装を頭から脚へと見ていった。



「ギルトのロバーだな。不意を突かれたか、それとも力に差があり過ぎたのか。三人とも一撃でやられてる」

「アブドラさん、ですか?」

「んなわけねーだろ。爆発物に関しては知らないけど、アイツの戦闘能力は普通のメンシェロウトレベルだよ。こんな芸当ができる訳ない」

「それじゃあ……?」

「仲間がまだいるって事かな。それも直接的な荒事専門のヤツが」



そう言ってハルは目の前に迫った城壁を見上げた。視線の先には一つ目のライフルがある。



「どうやら運の良い事にいきなり当たりみたいだぞ、アンジェ」



言いながらハルはニヤ、と口元を歪めた。アンジェも一度喉を鳴らし、表情を引き締める。

辺りを見渡し、ハルが一歩を踏み出してその足が地に着く。瞬間、二人は同時にその場から飛び退いた。

二人のいた場所が突如として炎に包まれる。赤々とした火炎は暗くなり始めた世界を一瞬で明らめ、そしてまた一瞬で消えてゆく。

何処かからかの攻撃。二人がそれを避けた直後、ハルは背後にアンジェとは違う気配を感じた。

ハルは動じない。姿を確認する事も無く体を前に倒す。頭上を何かが通り過ぎ、空気を裂く音が耳を打つ。

前屈した状態で片足を後方へ跳ね上げた。ハルは捉えた、と思ったがその蹴りもまた空を切るだけだった。



「ロバー……じゃないか。ノイマン、それも身体系能力者か」



攻撃の意志が途切れたのを感じ、ハルはゆっくりと体勢を整える。そして数メートルの間を空けて相手と対峙した。

黒いシャツに黒いジーンズ。ブーツも黒と全身を黒で統一していて、手首と首周りにはジャラジャラとたくさんのアクセサリーを身につけており、とても戦闘向きとは思えない格好をしている。整髪料で整えているのか、金色の髪はツンツンに立てられていて、少し捲り上げられた袖や乱雑に開けている襟からだらしない印象を与える。



「へぇ、どんな奴かと思ったら意外とやるじゃん、アンタ。まさか両方かわされるとは思わなかったぜ」



最後の蹴りも中々のモンだったぜ、と軽薄な笑みを浮かべながら飄々と賞賛する。どこか小馬鹿にした様にも見て取れるが彼の中では言葉以上の意味は無い。ただ純粋に褒めていた。



「アブドラさんの仲間の人ですか?」

「アブドラ? ああ、そう言えばアイツの名前ってそんなだっけ?

そうだよ、お嬢ちゃん。俺はアブドラ君のお友達で、ちょっとだけ君らと遊びたいの」

「つまり足止めか」

「一応、形上はね。どっちかっつーとただ単に俺が遊びたいだけなんだけどさ。今のやりとりだけでお姉さんたちならケッコー楽しめそうだって分かったし」



コイツら弱かったからさー、と足元に転がっていたロバーの一人を男は蹴飛ばす。蹴られたロバーは加わった力そのままにゴロ、と転がって折れた腕が不自然な方向を示した。



「参ったな、こっちはアブドラと話があるんだけど。それも大至急で」

「そうなの?」

「そうなんです。だから、またにしてもらえませんか?」

「そりゃ残念。きっと今日が会えるの最後だからさ、そういう訳にもいかないんだよねー」

「まあそうだろうな」

「そゆこと。無理やりってあんま好きじゃないんだけどさぁ」

「嘘だろ?」

「うん、嘘」



あっさり嘘を認めて男はケラケラと笑う。つかみどころの無い男の様子に、ハルは深くため息をついて頭をかきむしる。そして男とは違う明後日の方向を向くと、誰もいないはずの所に話しかけ始めた。



「そっちも早く出てこいよ。こっちは時間ないんだ」

「お姉さん、何言ってんの?もしかして、さっきの攻撃が実は当たっちゃってたりして頭がパーになっちゃった?」

「ムカつくこと言いながらトボケるな。お前一人じゃさっきの攻撃は無理だって分かってるから」



早くしやがれ、とハルが促すと放置された車の陰からもう一人が姿を現した。

その姿を見てアンジェは子供、と小さく声を漏らした。現れたのはアンジェよりもずっと小柄で、一見華奢に見える。長くも短くもない黒髪は丁寧に切りそろえられ、最初に現れた男とは対照的に白いワイシャツのボタンを一番上まで留めて、こちらは裕福な家庭の息子といった感じだ。

だがアンジェのつぶやきを聞き止めたハルはその言葉を否定する。そして、男の顔を見た瞬間にアンジェも理解する。

気持ち悪いほどに極端に青白い肌に、ギョロッとした、小さな顔に不釣合な大きな眼。精気の無い表情で男は隣に立っている男を見上げると、



「……バレちゃったね」

「っかしいなぁ。どこでバレたんだ?」

「炎のタイミングとお前が攻撃してきたタイミングがおかしいんだよ。身体系パワータイプと外界系コントローラー能力は両方使える奴はただでさえ少ない上に、通常は切り替えるのにラグが生じるはずだ。同時に使える奴以外はな」

「ヤンはいっつも出て行くの早過ぎるから……」

「っせーなー。しょうがねーだろ、敵をぶち殺すにはあのタイミングが一番なんだよ。

だいたい、自分が隠れてた方が相手を倒しやすいっつったのはテメーじゃねえか、ヨハン」

「はいはい、責任転嫁責任転嫁……」

「うわっ、なにそれ?すっげームカつくんですけど?

何、ヨハン?テメー殺されてーの?」



ハルとアンジェを放っておいて口論を始める二人。呆れた様にハルは二人の様子を眺めていたが、隣に移動してきたアンジェに目配せすると、ジリジリと後ろに下がり始める。

アンジェもハルの意図を理解して後退りし、ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるヤンとヨハンの隙を見て地面を蹴った。

一歩目を踏み、加速する。続いて二歩目。三歩目で最大速度に達する、というところでアンジェの体が後ろに引っ張られた。

後方へと倒れるアンジェの顔の正面で赤い炎が突如として現れる。

ハルの腕に抱き留められながら、アンジェは後ろを振り返った。そこにはいつの間にか口論が終わってアンジェたちを見る二人がいた。



「ゴメンねー、退屈させちゃったよね?

ヨハン、テメー、バラしてやっから後で覚えとけよ?」

「おーけーおーけー。分かったから早く始めようよ……」



アンジェに対してにこやかに笑いかけたかと思うと、コメカミに青筋を立てて隣のヨハンをヤンは見下ろす。それをヨハンがあしらう様に吐き捨て、そのセリフにまたヤンが顔をひくつかせた。

また喧嘩が始まりそうな雰囲気にハルはわざとらしく大きなため息をつき、二人にも聞こえる様に大きめの声でアンジェに話しかけた。



「メンドクセーな。

アンジェ。ここはアタシ一人で十分だからお前はさっさとアブドラの所に行ってこい」



えっ、とアンジェはハルの顔を見る。ヤンもヨハンもピタリと口論を止め、同じようにハルの顔を見ると獰猛な笑みを浮かべた。



「さっきので分かってたけど、お姉さん相当腕に自信があるんだね。

うっわー、ヤベエ、俺チョー楽しみなんですけど?」

「ヤンは黙っててくれない……?

時間稼ぎのつもりなんだろうけど、お姉さん、それ本気で言ってるの?」

「アンジェ」



アンジェから離れ、ハルは二人と対峙してアンジェに背を向ける。

自分よりもずっと大きな背中を見て、アンジェは戸惑ったものの、ハルに向かって一度うなずいて走り始めた。

だいぶ時間を消費した。アンジェは即座に最高速まで加速して、あっという間に三人の元から離れて行く。



「行かせて良かったの……?」

「別にいいんじゃねーの? お姉さん相手なら言い訳くらいにはなんだろ。

それよりさ、俺ら相手にどんだけ遊んでくれんのか、さっさと見せてもらおうぜ?」

「何か勘違いしてないか?」



明らかに見下した感のあるヤンに、ハルは不敵に笑い、ポケットの中身を確認する。

次いで懐から大ぶりのナイフを取り出すと不遜に言い放った。



「お前たち程度の相手はアタシ一人で十分だって言ってるんだよ」













◇◆◇◆◇◆













アンジェが駆け出してわずか十数秒。一般的なメンシェロウトよりも遥かに優れたアンジェの耳は、背後で開始された戦闘音を捉えた。

その音が、自分が一歩踏み出す度に小さくなり、その事実がアンジェの心をつかむ。

本当にハル一人に任せて良かったのか、そんな考えが浮かんで頭から離れない。自然と表情が歪み、だがその迷いを払うかのごとく必要以上の力を込めて地面を蹴る。

今自分が成すべきは何か。走りながら整理し、目的に集中する。

アンジェの顔から表情が消える。

止めるべきはあの男。争いを引き起こそうとする行為を止める。速やかにそれを実行するためには、直接関係のない争いは取るに足らない些事だと切り捨てる。

ハルの推測が事実なら、予測が適切なら――膨大な被害が出る。街の状態、人々の心理状態、都市と都市の冷たい関係。それらを加味すれば予想は恐らく必然へと変わる。街は機能を失い、本格的な戦争状態に入りかねない。そうなれば自分の力で争いを収める事は不可。最悪の事態を防ぐための最善は男の存在を最速の手段を以ての排除!

冷徹で冷淡。機械的な思考で結論を出す。だがハッと眼を見開き、その結論を反芻して首を横に振り否定する。



「…違う。そうじゃない……!」



無傷は無理かもしれない。でも傷つけること無くアブドラを止める。それが目的。

唇を噛みしめ、言葉を口に出すことで自分の意思を明確に示す。それが本当の自分の望みで、時折頭の中でにじみ出てくる結論など望んではいないとばかりに。



ポツリ、と何かの雫がアンジェの顔を濡らす。アンジェが顔を上げると、ついさっきまで遠くにあったと思っていた雨雲が自分の真上まで到着していた。

一滴落ちてきたのを皮切りに次から次へと雨粒が降り始め、あっという間に雨足が強くなる。

ザアザアと雨が地面を叩く音がし、そしてそれに混じって発砲音がアンジェの前方から届いた。

何かがアンジェの足元で弾けて甲高い音を鳴らし、アンジェは足を止める。

弾が飛んできた方向を見るが、建物が影となって見えない。アンジェはその建物に近づいて背を壁に付ける。金属音や発砲音が断続的に聞こえており、そっとアンジェはその様子をのぞき込んだ。

こちらでも戦闘は一方的に近かった。着ている服から判断するに、恐らくはギルト所属であるロバーが戦っていて、だけどもその周りには城門を守っていたはずの兵士が横たわっている。

ロバーの男は腕に仕込まれた銃を向け、だが発砲するタイミングを得られず、振り下ろされるナイフを受けるためだけに銃を使わざるを得ない。

連撃が、襲撃した側である女性から加えられる。アンジェの眼から見ても別段その動きが速いわけでなく、実際にロバーも反撃の糸口こそつかめていないが確実にその攻撃を防いでいく。

わずかに女性の攻撃に隙ができる。男もそれを見逃さず、銃とは逆の腕に持たれたアーミーナイフを突き出した。その攻撃は女性のそれとは裏腹に十分に速い。

しかしそれを女性は難なくかわす。まるでそう来るのが分かっていた様に、流れるような動作で避け、そのまま裏拳をロバーの頭へと叩き込んだ。



「くっ!!」



女は手の甲に何かを仕込んでいたのか、それとも女もロバーなのか。男の頭に当たった瞬間に金属音が響く。音の大きさとは違ってその攻撃は軽く、男の体勢を崩しただけでその場に踏み止まる。

隙とも言えない程に取るに足らない隙。女の乏しい攻撃力を考えれば大勢に影響は無い。

だがアンジェは飛び出した。止めないと。じゃないと、殺されてしまう。

その感覚に根拠は無い。何となくでしかない、アンジェの中にある何かに急かされ、二人の間に割って入るために走りだす。

だが二人の間には刹那の距離。対するアンジェは十メートルは離れている。当然、間に合うはずが無い。











◇◆◇◆◇◆











アンジェが一歩目を踏み出した時、女の手にはすでに新しい武器が握られていた。

パッと見は単なる棍。何か特別な仕掛けでもあるのか、見た目の意匠は非常に細かい。その短剣が男に向かって振り下ろされる。

男は視界の端で軌跡を捉えていた。はっきりとその動きが見えていて、体勢を崩していても避けるのは容易い、と彼のCPUは判断。

しかし体の方は反応しなかった。

意識はあるのに体が動かない。硬直し、意思に反してただ彼女の棍を受けるだけ。

それでも。

彼は覚悟した。歯を食い縛り、耐える事に。

どれほどのダメージが残るかは分からないが、耐えられなくはないはず。

果たして、棍は彼の首筋に叩き込まれた。

打撃音が彼と彼女の耳を打ち、衝撃もまた彼の体と彼女の腕を伝わる。

グラリ、と視界全体が傾く。痛み、きしんで、だが彼は耐えた。

痛覚を強制カットし、無防備に体を晒す彼女を見て思わず彼は笑った。

――勝った

嬉しさがこみ上げてくる。

相手は決して力が強いわけでも、速いわけでも無い。ノイマンらしいが何の能力を有しているのかも分からない。ただ一つ言えることは、彼女は強い。いや、やりにくい相手と言うべきか。

彼が駆けつけた時にはすでに門兵はやられている事からもそれは明らかだった。

自分が攻撃すれば、嘲笑うかのように全てが空を切る。そして防いでいてもいつかは彼女の攻撃をくらう。

そんな強敵に勝つ。安堵と満足感でいっぱいになり、表情を緩めてしまった。

彼はわずかに視線をずらして彼女の顔を見た。

驚きか、それとも悔しさに染まっているのか、はたまた焦りか。どんな表情を浮かべているか、といささかサディスティックな期待を込めていた。

だが彼女もまた笑っていた。彼を見下し、予想通りと言わんばかりに。

整った顔が醜く愉悦によってゆがんでいた。

カチ、と彼のすぐ近くでスイッチが入る音がする。

それが何のスイッチか、どうして彼女が笑っているのか理解できない。そして理解できないままに彼の意識は消え去った。











◇◆◇◆◇◆











倒れ落ちる男をアンジェは受け止めた。いや、受け止めるしかできなかった。

支えようとするアンジェに男の全体重がかかるが、腕の人工筋肉系の出力を調整し、アンジェはしっかりと抱えると地面にそっと横たえる。

男がアンジェの顔を見ていた。

命の鼓動は無く、口元にわずかに笑みを浮かべてじっとアンジェの方を見つめている。

気味が悪くも感じさせるままに事切れているが、アンジェはそこに幾許かの安堵を感じていた。



(苦しまずに逝けたのかな……?)



もしそうなら良い。苦しみに顔を歪めて亡くなるよりはずっと。

男のまぶたに触れて閉じてやる。それだけで幸せそうな表情に変わった。

その顔を見てアンジェもまた表情をほころばせるが、頭上から降ってきた声がそれを遮る。



「ちっ、また来たよ」



忌々しそうに女――ミシェルが吐き捨てる。眉間にシワを寄せて何度も舌打ちを繰り返しながら手の中にある武器を弄んだ。

カチンときたのか、アンジェも同じく眉間にシワを寄せて女をにらみつけるが、視界の端に探し人の姿を認めてその名を叫んだ。



「アブドラさん!!」



静かな街にその声は響き、容易くアブドラへと届く。

城門にある階段に足を掛けていたアブドラは声に反応して振り向き、そしてアンジェの方をじっと見つめた。

眼が細まり、口元が緩やかなカーブを描く。だがそれだけであり、再び前を向くとそのまま階段を登っていった。

アンジェはすぐさま立ち上がり、彼を追おうとする。が、ミシェルが前に立ち塞がって邪魔をする。



「おっと、アンタは行かせないよ?」

「……どいて下さい」

「そういう訳にはいかないね。面倒だけど、こっちも金もらってんだから。

くそっ、力使いすぎて頭痛いっていうのに、どうしてこうもメンドクサイ奴らが次から次に来るんだよ」



明らかにイライラした様子で舌打ちが止む気配は無く、釣り上がり気味の眼が鋭くアンジェを捉えて離さない。

負けじとアンジェも睨み返し、互いに攻撃範囲に入ったまま動かない。雨が二人を打ち、空気が冷え切っていく。

しばらくの間、雨だけが音を奏でる。



先に動いたのはアンジェだった。

鋭く突き出された腕が飛沫を飛ばす。ハルほどの鋭さは無く、だが通常ならば十分な速度を以て放たれる。

しかしノイマンらしい女は至極あっさりと避ける。それでもアンジェは、避けられるのは分かっていたので続けざまにパンチを繰り出す。

一発、二発、三発。

特別洗練された動きでは無いが、流れが途切れることもなく腕が振るわれる。そしてミシェルもわずかに体を動かすだけで全てを受け流す。

手に当てる事でミシェルは直撃を避け、だがその際の痛みに再度舌打ちをする。

しかし次第にそれも消え、攻撃を全て避け始めた。



(当たらない……!)



また一つ、空振りをする。

ミシェルの口は何やら動いているが、その声はアンジェには届かない。

ガムシャラに攻撃を続けるアンジェだが、内心で焦りは高まっていく。

当たる気がしないのだ。始めこそミシェルの体に触れていたが、今はどれだけパンチを放とうと、どれだけ蹴りを繰り出そうと、彼女に触れるイメージさえ湧かない。



(何かカラクリがあるはず……)



手を休めずに必死で思考を巡らせる。

一見すればアンジェとミシェルの間には、どうしようもないほどに力に差があり過ぎるように見える。全ての攻撃が見切られ、容易く避けられる。軽くあしらわれている感覚にさえアンジェはとらわれかけていた。

それと同時にどこか引っかかる。

ミシェルの戦いを先ほど見たが、その動きは速くは無くて、攻撃をする動作もさして鋭いとも言えない。むしろギルトの男の方が洗練されていて強者の印象をアンジェに与えていた。

なのに攻撃は当たらない。そして彼女の攻撃は命中する。その違和感。



(このままじゃダメだ!)



何か、何かを変えなければ状況は変わらない。

自分の攻撃に癖があるのか、それとも実はミシェルが優れているのか。

隙を作らないためにひたすらに攻撃を繰り返す。その最中でアンジェの頭には現状を打破し得る手段が浮かんでいた。

しかし、アンジェはその選択をためらった。



スピールトでの戦闘。おぼろげながらもその記憶は残っている。

ノイマンとしての能力であるラスティング。それを使えばきっと攻撃は当たり、最悪でも今の状況からは抜け出せるはず。

メンシェロウトである自分がどうして使えるのか、理由は分からない。生まれた時は確かにメンシェロウトだったはずで、スピールトでの件までは確かに使えなかった力。

失われた過去の中に答えはあるのだろう、とアンジェは常々考えている。そこには自分を駆り立てるあの衝動の原因も、きっとある。そしてそれこそがアンジェに力を振るうことを拒否させていた。

自意識を失う程の強い衝動と自身の能力。そこに強い関係があると、アンジェは漠然と悟っていた。

衝動に駆られた時に使えるのか、それとも使えば衝動に駆られるのか。恐らくはその両方。

あの時は止めてくれる人がいた。だが今はいない。

衝動に身を任せてしまえば、きっと目の前のミシェルをどうにかして倒し、アブドラも止められるかもしれない。だがその確証は無く、倒してしまった時に殺してしまうだろうという確信があった。感情など挟むこと無く冷徹にそのための行動を取ってしまうだろう、とハルと別れてすぐに過ぎった自身の思考がそれを証明している。

アンジェは迷った。不確定でも力を使うべきか否か。何か、短時間で決着する手段は無いのか。



「何か気もそぞろみたいだねぇ」



ハッとアンジェは意識を外へと戻す。しかしすでに遅すぎた。



「しまっ……!」



何度目か分からない攻撃が空を切り、反動で体勢が崩れる。

それと同時に、これまで回避一辺倒だったミシェルが攻勢に転じた。

アンジェの右脇腹めがけてパンチが放たれる。アンジェは体を無理矢理に回転させて直撃を免れるが、ミシェルもまた回転し、回し蹴りがアンジェの頭を狙う。

一回転ひねり、アンジェはかろうじて左腕でブロックをする。

直後、頭に衝撃が走った。

手に持っていた棍で殴られたのか、頭がグラグラする。焦点が定まらず、アンジェの視界が小刻みに振動を繰り返す。

だが普通と違ったのは、痛みと衝撃の割にダメージが大きい事。全身から力が抜け、意識がもうろうとする。

この程度の威力ならば、フラつきはすれども立ち留まることはそう難しい事では無い。しかし、アンジェの体は意に反して膝を突き、そして重力に抗えないままに空を見上げる事となってしまった。



「っ……!」



声を出すことすら難しく、顔を動かすだけでも困難。

それでもアンジェは全身に力を込め、起き上がろうともがく。



「おかしいね。本来なら一発であの世行きなハズなんだけど……」



手の中の武器を見てミシェルは物騒な言葉を吐く。ミシェルの関心は今はアンジェよりも湧いた疑問なのか、アンジェには目もくれず頭をひねる。



「アンタ、もしかしてロバーじゃないのかい?」

「メ…メンシェロ……ウト、です……」

「なんだなんだ、そーだったのかい。そりゃコイツの効き目が悪いわけだ」



疑問が解決してすっきりしたのか、戦う前までの不機嫌さは無く、快活に笑う。



「足音からロバーだと思ってたんだけどね。

そうか、義足なのか。今時珍しいメンシェロウトもいるもんだね」

「そ……の武…器は……?」

「うん?コイツかい?

教えてあげない、て言いたいトコだけどね。アンタが人間って分かったから教えてやるよ。ま、もらいモンだからアタシも詳しくは知らないんだけどね、何でもロバーに使われてるMAGECEMって金属によく効くんだとさ。威力はあそこでくたばってる奴らで分かる通り、頭に入れば一発で即死。

なんだけど、どうやら人間にも効果はあるみたいだねぇ」



だけどつまらないから、と手に持っていた五十センチ程の棍を腰に戻し、代わりに短剣の様な物を取り出した。だが形状こそ剣に似てはいるが、肉厚の刀身は打撃を主眼に置いていると思われた。



「さっきの奴は金属を変質させてダメージを与えるらしいんだけどね、コイツは鉄でも数回で砕いてしまうんだよ。

ロバー相手だと効率が悪いんだけど、気持ちいいよぅ……人間なんかをこれで殴ったら……ふふ……」



恍惚とした表情を浮かべ、武器を撫でる。

彼女のお気に入りなのか、見る視線にも熱がこもっている。

その間にアンジェは何とか立ち上がるが、アンジェは頭を抑えたまま下を向いていた。

時間が経てばダメージはそう残らないようで、殴られた場所が痛みこそするものの視界も元に戻り、もう一度戦闘を開始することも可能だった。

なのに、頭が痛い。割れるように内から内からと鈍痛が押し寄せる。そして吐き気と共に湧き上がる衝動。

無意識下で体が死を意識し、その事実を拒もうと衝動をアンジェ自身に働きかけ、だがアンジェはその衝動を必死で拒む。

目の前の女の存在はすでに目に入っていない。戦う相手は今は己自身になっている。

蝕む異常。そしてその異常はアンジェの脳裏にあるものをもたらした。

それは声だった。あるいは映像。交互に再生される映像と音声。やがてそれらは合わさり、一つの意味を作り出す。それは古くなったデータの様に映像は荒く、音声は途切れ途切れ。その中に現れた男が何かを喋っている。

白衣を着た男で、それ以外は映像が荒過ぎてよく見えない。何かを説明しているらしく、砂嵐ばかりの低い声は次第にクリアになっていった。



(……以上が身……で確認され……る能力だが、…こからは外界系……明になる。

まずは『予言者プレディクター』の能力に……てだ。

一般……予言者と呼ぶ事が多い……我々はこの能力を『未来視プレコグニション』と呼んでい…。

彼らは単なる勘で動いているのではなく、蓄積されたデータ、すなわち性格や行動パターン、気候などの情報を分析し、最も起こり得る結果を予測。その再現映像を脳内で再生して先読みをしている。

予測範囲は能力値によって時間、空間共に様々で、コンマ数秒先の目の前の事象から最大数時間後の半径数十メートル。上位の能力者になれば、そういった予測範囲の切り替えも能力者自身の意思で変更可能であることが確認されている。

ただし、予測範囲が広範になればなるほど予測精度は悪化する。

これは当然の事だな?

範囲が広がれば目の届かない範囲は目に見える範囲からの予測計算になり、時間が延びれば未知の情報が挿入される可能性がある。逆に言えば入手可能な情報量が増加するほどに予測精度は詳細になっていく)

(そっか……この人が未来視能力者……)



ミシェルがどうして攻撃を避ける事ができるのか、その理由にアンジェはようやく思い至った。

最初から全て予測されていたのだ。いつ、どのようにして攻撃し、どういった行動を取るのか。

その上でどうすれば相手をコントロールできるか、その術をミシェルは心得ていた。

始めだけミシェルに触れることができていたのは、アンジェの情報が不十分で予測精度が不十分だったため。攻撃することでデータが蓄積されて、より確定的な未来を彼女に提供していた。

自分も、ギルトの男も全て彼女の手の上で踊らされていた。

その事実に気づき、苦痛に顔を歪めながらも無理矢理にアンジェは体を起こして後ろへ飛び退き、相手との距離を取る。そして相手を見据えると、ミシェルは少し驚いた表情を浮かべた。



「ふぅん……ダメージはあるみたいだけど、そこまで体には残らないみたいだねぇ。

アンタがメンシェロウトだからなのか、それともアンタ自身だから回復が早いのか……

これは情報修正が必要かしらね」



ミシェルの声を聞き、そして脳内では先ほどから続く男の声が再生され続けていた。



(この能力者と戦闘になれば厄介に思われるが、前以て準備ができるならば対処は容易だ)

(対処が…簡単……)



そうだ。対処方法。この後にそれが説明されるはず。それさえ分かれば……

男の声には聞き覚えがあることを思い出す。それに伴い、映像は記録では無く記憶として判断される。

途端、クリアになる映像と音声。だが男の姿だけは白い光に焼かれて見えない。



「逃げる気は……無いみたいだね。ま、せっかくの獲物だし、逃がすつもりも無いけどね」



ミシェルの動きに注意を払いながらもアンジェは記憶を掘り起こそうと試みる。

その度に締め付けられるような痛みがアンジェを苛み、衝動が意識を飛ばそうと襲いかかる。

腹に力を込め、奥歯を噛みしめて耐える。黒い靄が意識にまとわりつく。それでも目の前の相手から意識を離しはしない。



「そっちが来ないなら……こっちから行くよ!」

(対象の情報が蓄積されればされるほど、未来が確定される。ならば……)



ミシェルが迫る。

ミシェルと男の記憶、両方の声をアンジェは聞いた。

アンジェは動かない。だが、決断する。

眼は、ミシェルの武器がアンジェの頭めがけて横薙ぎに振るわれるのを捉えた。



(相手が知らない情報を付け加えてやればいい)



アンジェの瞳孔が収束する。

世界が広がり、感覚は鋭敏そのもの。抑えつけられていた存在が解放され、五感が激しく刺激される。

格段に落ちる、アンジェを取り巻く全ての動き。だが、ラスティングを使用してもミシェルの腕は避ける事ができないほどに近い。しかし、アンジェはそれで構わなかった。

左腕を短剣の前に差し出し、体を反らす。かなりの硬度を持つアンジェの腕はいとも容易く砕け、だが剣の軌跡をアンジェからずらす。

腕の金属片が空に舞い、剣はアンジェの髪を梳くばかリ。そして砕けた左腕からのぞくスタンガン――



「いっけええええええぇぇっ!!」



叫びながらアンジェは左腕を突き出した。

電極の間で火花が散り、ミシェルの体に突き刺さる。



「……!!」



大電流が流れてミシェルは声にならない叫びを上げた。

身体に自由は無く硬直、彼女の意識は断線。伝わる信号はことごとく本来の回線を遮断し、焼き切る。瞬間の苦痛は彼女の全てを閉鎖して、余波が全身を激しく仰け反らせるとそのままの体勢で倒れていった。



「はあっ、はあっ、はあっ……」



荒い呼吸のまま、アンジェはうつ伏せに倒れるミシェルを見下ろす。ミシェルの意識は無く、それでも体だけは時折痙攣して震える。

一歩前に進み、冷徹な瞳が眼下の女を捉える。しゃがみ込み、一度雨を拭ってむき出しになったスタンガンを首筋に近づけていく。パチパチッと放電音が鳴る。

感情の色を失ったアンジェの瞳。顔に貼り付いた前髪の隙間から無機質な感情が発露する。無慈悲に、障害を排除しようと内部バッテリーの出力を上昇させる。

雨か汗か。雫が一筋アンジェの頬を伝う。



「あ…ああ……」



突然、アンジェは頭を抱え、苦悶の表情を浮かべた。

濡れた地面に膝を突き、そして胃の中身をぶちまける。



「が……ゲホッ!ゴホッ……あ…う……」



治まらない吐き気と激しい頭痛。汗が全身から噴き出し、震える。

痛みに耐えるため、アンジェは両腕をかき抱き、空を仰ぎ、頭を地面に擦り付けた。

嗚咽が零れ、止まらない涙が雨と混じってアンジェを洗う。

苦痛に悶え、だがそれに伴って意識を覆っていた黒い靄は晴れていく。それでも雨は止まない。ただひたすらにアンジェを濡らしていった。

ヨロヨロと立ち上がる。ビショビショになった顔でミシェルを見て、右手で眼を拭う。そして辺りを見渡した。そこには、ミシェルだけでなく幾つもの人が倒れ伏していた。

また泣き出しそうな表情を浮かべ、しかし唇をギュッと結んで堪える。

人の川をかき分けて、アンジェはアブドラを追うために城門へと足を進めていった。










[25510] 第1-21章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/03/05 23:59












-21-













暴風が吹き荒れる。

城門近くの街の郊外。その一角で、二人を中心として激しい攻防が繰り広げられる。

振るわれた腕が雨を切り裂き、風を切り裂く蹴りが家屋の壁を壊し、踏み止まる脚が地を抉る。

ハルが手に持つナイフを鋭く横薙ぎにする。

ヤンは上半身だけを反らし、それを避ける。

だがハルの攻撃は止まない。

逆手に持ったナイフを突き出し、薙ぎ、振り下ろす。攻撃の合間には幾つものフェイントが折混ぜられ、一つ一つの動作の隙を補完していく。

流れる様な動き。身体系ノイマンとしての基礎能力の高さに加えて、長い鍛錬によって培われてきた技量。完成された攻撃に徐々にヤンは避けきれなくなる。

チッ、と小さな舌打ちがヤンの口から零れる。ハルはそれに一切反応を示さず、表情を無くしたままに体を動かし続ける。

やがてヤンは攻撃を捌き損なった。ハルはそれを好機と見て体をヤンの懐に滑り込ませた。

ヤンの眼が見開かれ、口元が歪む。ハルはナイフを横薙ぎに振り抜いた。



「なんてね」



硬い金属音が鳴った。

驚きに染まった顔でハルがナイフの先を見る。

ナイフを防ぎ、切り裂かれたヤンの袖の下。そこから黒い篭手がのぞいていた。

ギリギリと音を立て、しかし篭手に阻まれてナイフは止まって動かない。



力が拮抗し、刹那の時間だけ互いの動きが停止。だが小刻みに震える腕が徐々にナイフを押し返し始めた。

顔を覆う漆黒の闇。その下から愉悦に歪んだ顔が姿を現す。

ハッとハルは眼を見開いた。慌てて距離を取ろうと脚に力を込める。

が、その前にヤンの咆哮が辺りの空気を震わせた。



「うおおああああっ!!」



力任せに腕を振るい、ナイフごとハルを弾き飛ばす。

軽いハルの体は容易く浮き上がって数メートル程度飛んで行き、体勢を崩しながらも足を地面に押し付けて留まる。



「もういっちょおおぉぉっ!!」



切れ長の釣り上がり気味の眼を更に鋭くし、ヤンはハルへと飛び掛かり、体重を乗せた跳び蹴りがハルの腕にめり込む。

骨が軋む。

咄嗟に両腕をクロスさせてガードするが勢いを殺し切れず、大きくハルの体が回転する。

世界が上下した。

頭上に地面を見ながらもハルは姿勢を何とか制御する。後方宙返りの様にバランスし、だがその時、視界の端にヨハンの姿を捉えた。

ハルはナイフを地面に突き立てた。アスファルトが削れ、ギャリギャリと耳障りな音を立てる。

火炎フレイムは能力者が視認した場所にしか発生しない。したがって相手の動きを予測して炎を発生させる必要がある。ハルはナイフを利用してヨハンの狙いをずらそうとした。

渾身の力を両腕に込め、反動を利用して飛ばされる方向を変換。ナイフを手放して宙に舞う。

直後、ナイフを中心にして炎が立ち昇った。

熱がチリチリとハルの前髪を焦がし、それでもバク宙をして足から着地。それと同時に腰に携えていた銃をヨハンに向けて発砲。

連続して放たれた三発の銃弾が全てヨハンの体へと迫る。

だが炎の壁が二人の間に立ち塞がる。弾は飲み込まれ、炎が消えた時には何事も無かったかのようにヨハンがハルに、無表情に濁った視線を送っていた。



「また避けられちゃったね……」

「いいんじゃねいいんじゃねいいんじゃねぇ!? お姉さんやっぱいい! 戦いってやっぱこーじゃなきゃ?

自分も相手もギリギリのトコでどつき合わないと楽しくないっしょ!」

「相変わらずジャンキーだね、ヤンは……」

「なんつーの? 相手を一方的にぶちのめすのも楽しいっちゃ楽しいんだけどさ、こう、自分もちょっとミスればぶち殺されるかもしんないっつーのがいいスパイスになってるってゆーか。

お姉さんもそう思わね?」

「アタシをお前と一緒にするなって」

「流石にヤンと一緒にするのはお姉さんが可哀想すぎるよ」

「なんでテメーまでお姉さんの味方してんだよ!」



ヤンがヨハンの頭目掛けてゲンコツを振り下ろすが、ヨハンはヒョイっと頭をずらして避ける。



「今のヤンに殴られたら多分すっごく痛いと思うんだけど? ていうか痛いで済まないよね?」

「テメーは一回俺に潰されるべきだ!」



ヨハンに向かってヤンは叫ぶが、唐突に左腕をヨハンの目の前に突き出した。そして呆れたように肩を竦ませる。



「……話してる途中に、なんてひどくね?」

「こっちはお前たちみたいに暇じゃないんだよ」



白煙の立ち昇る拳銃を構えながら冷たくハルは切り捨てる。

ヤンは手を開いてつかんだ弾を地面に落とし、ニヤリと笑うと血のにじんだ掌をペロ、と舐めた。



「そんな事言っちゃって、お姉さんもホントは戦うのが好きなんでしょ?それで待ちきれないってか?」

「アタシとしては面倒なんでさっさと終わらせたいだけなんだけどな」

「まぁたまたご冗談を。

じゃあなんで兵隊さんなんてやってたの? それも色んな国で」



ハルの眉がわずかに動く。だがそれだけで、些細な変化はすぐに元に戻る。



「俺もこんな事ばっかやってるからさぁ、色んな奴と戦ってきたんだよね。

面白かったよ? 国が違えば体の動かし方とかバラバラだからさぁ、全っ然動きが読めなかったりすんだよね。ま、そいつらみんなぶち殺してきたんだけど。

それはどーでもいいんだけど、お姉さんの動きの中に見た事ある動きがいくつもあったわけよ」

「格闘術に少し興味があってな、単に教えてもらっただけさ」

「軍人さんしか教わらない体術もあったけど?」

「たまたまその国の軍で働いてただけだ。従軍した事はあるんでな」



ハルの説明にフーン、と気の無い返事をし、でもさ、とヤンは大ぶりの口を横に広げた。



「お姉さん、さっきから笑ってるじゃん?」



ハルの双眸が驚きに開かれる。

銃口をヤンに向け、左手をそっと自身の口元へともっていった。

触れる。指先で唇の形をなぞるように。

人差し指の軌跡。それは確かに緩やかな弧を描いていた。



「もしかして気づいてなかった?

ならいけないなぁ、いけないよ。こんな時は欲望に忠実に生きなきゃ。じゃなきゃツマンないし。

それにそんなんじゃさ、お姉さん……

死んじゃうよ?」



言い終わると同時にヤンの姿が消える。

ハルもすぐに我に帰るとその場を飛び退いた。直後に炎が、先ほどまでいた空間を焼く。

炎が拡散していく。それを突き破るようにしてヤンの姿が接近し、ハルの柔らかい頬に熱がこもった。

ねじ切れそうな程に首が反転し、ハルの体が一度地面で跳ねる。背中に衝撃を感じ、それでも体勢を整えると体を低くして立ち止まる。



「ひゃああっはあああぁぁぁっ!!」



痛みに歪んだ顔を上げ、そこには奇妙な声を叫びながら飛び掛ってくるヤンの姿があった。

予想外の速度。予想外に強力なラスティング能力。だが行動は想定内でしかない。

速やかに銃を構え、ヤンの体めがけ発砲。

この距離ならば当たる。引き金を引く瞬間、ハルはそれを疑っていなかった。

しかし弾は外れた。

ヤンの皮膚一枚を削っただけで遥か後方へと流れていく。ラスティングで強化された眼がじんわりとにじんでいく血と振り回されるヤンの脚の動きを捉えた。

強化が最も施されるのは視力。故に動きを捉える事はできる。だが自身の四肢が反応できるとは限らない。体を後ろに反らせて蹴りを避けようと試みる。が、叶わない。大砲の様な音を響かせて、ヤンの足がハルの腹部にめり込んだ。



「がっ……はぁ……!」



くの字に体が折れ曲がり、吐瀉物がハルの口からこぼれ落ちた。

メリメリ、と嫌な音が強化された聴覚によって拾われ、そして何かが砕ける音。脊髄から脳髄へと衝撃が伝わっていく。

痛い。

その言葉が一瞬にしてハルの思考を支配する。

真っ赤な情景が浮かんでは暗闇に落ち込み、赤と黒が明滅。そしてほのかな光が瞳を暖める。

――ちょっと意識が飛んだか

宙を舞う中でハルは冷静に自身の状況を判断した。

体は雨を切り裂き、急速にヤンとヨハンの姿が小さくなっていく。

手応えがあったからか、ヤンの顔はこれまでよりもずっと深い笑顔が浮かんでいた。ヨハンもチャンスと見たか、止めを刺す為にハルを見つめ、うっすらと笑っていた。

そしてハルもやはり笑っていた。

今度は手で触れなくても分かる。痛みに顔をしかめていても、同時に口元は明確な弧に歪んで目の奥底では喜びに満ち満ちている。

これだ、この痛みだ。

声に出さずにハルは叫んだ。

生を否応無しに感じさせる、この苦痛。手が、脚が、頭が、脳が、心臓が自分はまだ生きているのだと訴えてきてくれる。生きていて良いのだ、と笑いかけている。

能力を使った後の様な死に向かう苦痛とは違う、死と隣接しているから触れることの適う生へと繋がる病。久々に感じた心からの歓喜に、ハルは体を震わせた。

狂っている。ヤンもヨハンも、そして他ならぬ自分自身がこの中では一番狂っている。それはどう言い繕っても隠しようの無い事実。

ヨハンの炎がハルの視界を覆い隠す。熱が濡れた体をあっという間に乾かし、焦がし始める。

もう、構わない。力を発動させた後の痛みが何だ。死に至る病が何だ。そんなモノ、今感じている快感に比べれば取るに足らないものだ。痛みで死んでしまっても構わない。だが他人に、殺される快楽を奪われるのだけは――許さない。

ハルの瞳が姿を変えた。

そして暴力的な爆発が辺りを吹き飛ばした。





ヨハンは確信していた。

ヤンの攻撃が確実に決まり、自分の火炎能力フレイムでハルを焼き殺す。自身に未来視の能力は無いが、それでも未来は確定事項。他の未来は考えられなかった。

ヤンと違って戦闘快楽者ではない、とヨハンは自覚している。人を殺すのに何も感じはしないが自分が殺されるのだけはゴメンだ、と常々思っている。殺人快楽者である事は否定しないが。

そもそも外界系能力の自分は直接戦闘には向かないのだ。能力自体に自信はあるが、身体系では無い自分では、ヤンやハルみたいな身体系能力者と一対一で向きあえばとても勝つのは難しい。ノイマンの強能力者である以上身体能力はそこそこあるので、ただのメンシェロウトやアウトロバーには殴り合いでも負けるつもりは無いが、所詮そこ止まり。まして自分の体は成長からは嫌われている。だからこそヤンとコンビを組んでいるのだ。

ハルは強かった、とヨハンは心の底から思う。とても自分独りでは敵わないほどに。ハルに自分の場所を看過された時はかなり焦った。一対一で叶わない以上、自分の役割は相手に気づかれる前に殺ること。だけどもし、万が一バレてしまった場合にどうするか。答えは単純だ。補ってくれる相方がいれば良いのだ。

ハルは強かったが、ヤンの方が能力では上。戦闘技術だとハルの方が上に見えたが、ヤンの能力がその差をひっくり返した。後は自分が止めを刺すだけ。吹っ飛ばされるハルの姿にしっかりと焦点を定め、能力を発動させる。これで終り。後は動きに合わせて炎の位置を操作すればいい。そして狙い通りにハルは炎の中に納めた。これで終わりだ。

雨でぴったりと額に貼り付いた髪をヨハンは指で拭う。そして緊張を解くためのため息を吐き出す。そのつもりだった。

突然の轟音。そして暴風。痛い程の音と風が押し寄せ、思わずヨハンは両腕で顔を覆った。

風が収まり、雨が再び二人を濡らし始める。ヨハンはそっと腕の隙間から正面を見た。そこには亡霊が立っていた。



雨音に混じって足音が届く。ピチャ、ピチャ、と水たまりが跳ねてズボンの裾を汚していく。

爆発の影響か、ハルのマントやシャツはボロ布の様に破れていた。髪の毛先は焼け焦げ、顔や手の露出していた箇所にはいくつも火傷の跡があり、それでもしっかりとした足取りで、だがゆっくりとヤンとヨハンの方へと向かっていく。その様は、口元に浮かべられた不敵な笑みと相まってひどく不気味。

ジャリ、と靴底が擦れる音がした。ヤンが足元を見れば、先ほどまで前にあった右足が左足の後ろへと移動していた。

ヤンの顔から笑みが消える。そして驚き。代わって怒りへと表情が変貌する。



「ざっけんなよ……」



自身が感じた感情は恐怖。これまでどんな強敵であっても戦闘は楽しかった。例え劣勢であろうとも、死を間近で目にしようと恐怖など感じなかった。



「ふざけんなふざけんなふざけんな……」



何度も同じ言葉を繰り返す。

到底受け入れられない。自分のアイデンティティを覆す感情。そんなモノはあってはならない。

ヤンは地面を強く蹴る。もう遊ぶ気は無かった。

一秒でも早く、奴を殺す。それだけを考え、これまでよりもずっと速くハルへと迫る。

音速の拳がハルの顔へと吸い込まれる。が、到達する前にハルは少しだけ体を動かしてあっさりと避けた。

軽くいなし、ハルとヤンの体が交差するその瞬間、ヤンは何かにつまずいた。そのすぐ後に背中に強烈な衝撃を受けて、思わずヤンは叫び声を上げた。

ただ衝撃だけが体を抜け、次に痛み。それが蹴り飛ばされたからだと気づいたのは地面を無様に転がった時だった。

水たまりの中を転がりながらもすぐに立ち上がる。即座に追い打ちが来るかと思ったがそれが無い。代わりに離れたところで爆発音が何度も鳴った。



「く、来るな!僕に近寄るな!!」



ヨハンは悲鳴じみた叫び声を上げた。雨の中で炎が猛々しく舞い上がり、だが次の瞬間には突然発生した爆発によって炎ごと吹き飛ばされていく。

ヨハンは逃げた。顔を恐怖に歪め、ギョロッとした大きすぎる眼は更に大きく見開かれている。ハルに背を向けて懸命に、懸命に走ろうとした。だが震える足は思うように動いてくれはしない。

ハルは濡れた髪を一度掻き上げ、歩く。走るでも無く、なのにヨハンとの距離は詰まっていく。

爆発で消し損ねた炎がハルの顔を焦がす。わずかに顔を逸らし、だがすぐに元の位置に戻る。ゆらめきの奥のハルの顔にはうっすらとした笑みが浮かんでいた。

ヤンの様に狂気を押し出さず、静かに笑う。瞳には何が映っているのか。決まっている。ヨハンしか見えていない。恐怖で崩れたヨハンの顔しか。それはヨハンにも伝わり、一層の恐怖を引き起こす。



「ヨハン!」



叫ぶと同時にヤンは駆け出し、手を伸ばす。

それを合図としたかの様にハルの姿が消える。消えた様にヨハンからは見えた。

ハルを見失った、と理解する前にヨハンのすぐ後ろで爆発。為す術無く弾き飛ばされ、背骨が折れる音を聞いた。

手も、脚も動かすことができない。前後も、上下も自分が今どんな状態になっているのか理解ができない。感覚は消え、痛みも感じない。あるのはただ恐怖だけ。

ハルは抵抗なくヨハンの頭を片手でつかむ。それはまるでボールをつかむように軽く、簡単に。

ヨハンの視界には熱を持ったハルの掌。雨に打たれ、それでも絶えること無く温もりを保ち続けている。

暖かい。そんな感想が頭を過り、言葉が口から出てくる前に頭蓋は地面へと叩きつけられた。

パシャ、と水たまりを踏みつけた様な音がする。どちらかと言えば、バケツの水をひっくり返した音か。

ハルの頬に赤いラインが走る。それは降りしきる雨によって簡単に洗い流され、なのに地面が砕けてその後にできた赤い溜まりは流れずにかさを増していく。そしてヨハンはそれきり動かなくなった。



現実感が乏しい。

ふわふわした感覚の中でハルは動いていた。

それでも手の中に収まったヨハンの頭が、見下ろす視線に否応無しに入り込むヨハンの体が、現実を教えていた。

ザアザアと雨音がする。ハルはラスティングを解除して眼を閉じ、顔を上げた。

ドクン。心臓が存在を主張する。折れた肋骨が痛みを訴える。能力の反動で何より頭が痛い。心は、何も訴えない。ただ小さく悲鳴をもらしただけ。



「てめえぇぇぇぇっ!!よくもっ!!」



雷鳴にも似た叫び。ハルは再びラスティングを発動させて、転がるようにその場を離れる。

見上げたハルにヤンの影が覆いかぶさる。



「くっ!」



雨に濡れた地面の上を無様に転がって避ける。頭のすぐそばで破砕音がした。砕けた地面の欠片がハルの頭をかすめ、しかしハルにそれを気にする余裕は無い。

起き上がりざまにハルは視界にヤンの姿をとらえた。

収束した瞳孔が再度形を変えかけ、だがすぐに元に戻る。



「死ねよっ!」

「ちっ!」



代わりに持っていたもう一振りのナイフを取り出して、ヤンの拳を受ける。

甲高い音を残し、残響を左から来た蹴りがかき消す。

左腕を下ろしてブロックする。それでも受けきれない衝撃はハルを吹き飛ばし、折れた肋骨から届く痛みに小さな悲鳴を叫ぶ。

顔をしかめ、今度こそハルは爆発ブロークンを発動させた。

自分とヤンとの間で爆発が起きる。しかしその規模は小さく、威力も乏しい。傷だらけのヤンが爆発の中を容易く抜けてハルへと手を伸ばす。伸ばした手をナイフで切り払う。篭手の隙間に刃が届き、ヤンの手から赤い血が流れ始めた。

ヤンは泣きながら力を奮う。目の前の敵の命を奪うために両拳を振り上げる。離れた所に転がるヨハンの亡骸だけを見て、更に遠く遥かに離れた、自分が奪った命を見ずに。

ヤンの動きが更に速度を上げる。代わりに動きは雑になる。

右のストレート。ハルの頬をかすめてヨハンの血を拭い落とす。

左からのボディ。肘を下げて軽く腕に当てて軌道を逸らす。

反転しての回し蹴り。髪を梳いただけで体へのダメージはゼロ。

ヤンの動きにハルは慣れ始めていた。すでに避けるのは難しくなくなっている。それでも攻守を交代するには、ハルのラスティングでは困難だった。



動きの激しい膠着が続く。その中でふとハルは思った。

自分は正義か、悪か。そんな質問をオルレアにしてみたくなる。



(どちらも正義か、いや、それは無いな。どちらも人殺しの悪。

アイツの事だ。分からない、と答えるかな……)



眼の前の存在は自分の別の可能性。欲望に委ね切ったか、それとも歯止めを掛けようとしたか。



(せっかく、人殺しを止める事ができたのにな……)



生きている実感を得るために軍へ入り、当然そこでなるのは合法的な殺人者。

罪悪と快楽の狭間で揺れながらも、結局は抜けだそうとしなかった。

麻薬漬けの毎日から脱出したときには、全てが遅かった。何もかもが手遅れだと気づき、後悔したはずだったのに。

右手にナイフ。左手に銃。懺悔と悔恨を繰り返し、それでも人殺しの道具をハルは振るい続ける。



膠着の中で落ち着きを取り戻したのか、ヤンは流れを変えようと一度距離を置いた。

ハルは、もう一度爆発を引き起こした。小規模なものではなく、ヨハンに使った時と同じようにヤンの体ごと吹き飛ばすほどのものを。

ヤンもそれを考慮に入れていたのか、立ち止まること無く動き回る。それでも爆風に煽られて体勢を崩し、ハルは銃を放つ。

扱い慣れてない、自分のものではない銃。だが照準がぶれる事は無い。

ヤンの頭目掛けて発砲されるも、ヤンは銃口から狙い所を知ってかわした。



(やっぱこれじゃダメか……)



威力も初速も足りない。

銃そのものは申し分ないが、所詮一般人を相手に想定したレベル。戦闘用ロバーや異常能力者を相手するには無理な代物だ。



遠くから音が近づいてくる。高くて耳をつんざく様な音だ。

その音の方をハルもヤンも振り向いた。ヤンは怪訝な表情を浮かべるが、ハルには近づいてくるのが何なのか、すぐに理解した。



――自分てめえの銃モンで決着つけろって事か



爆発と銃でヤンを牽制しながら、急速に近づいてくる影をハルは恨めしげに見つめた。



「ちっ!お仲間の登場かよっ!!」



バーニアを噴かせてオルレアは地を這う様に低空を飛行する。ヤンの行く手を横切り、上空へと舞い上がる。そして手にしていたマシンガンを地上目掛けて乱射する。

デタラメに発射された弾丸が地面をえぐり、弾幕がハルとヤンの間にカーテンを敷く。

けたたましい銃声に混じり、街の中心から爆発音と煙が上がった。

上空にホバリングしながらオルレアは街を一望する。壊れ落ちたビルの近く、そしてこことは違う別の城門で断続的に爆発音が響いた。



「ハル!」



ヤンを牽制しながらオルレアはハルの隣に着地した。



「思ったより早かったな」

「そんな事よりも他の場所でも攻撃が起こってるぞ!」

「大丈夫だ。アブドラはこの上にいる。他はたぶんかく乱だ」



ハルの言葉に頷くと、オルレアはハルにとって見慣れた銃を手渡した。



「シュバイクォーグさんから預かってきた。

私は上に行ってくる!」



話が終わると同時にオルレアのマシンガンからカチッ、と軽い音がする。

撃ち終えたそれをヤンに投げつけると、オルレアは再度バーニアを吹かしてそのまま城門に向かって飛んでいった。

残されたハルは手の中の銃を見つめた。

ずっしりとした重さを持つ、愛用の銃。もう殺さなくてもいいように改造を頼んだはずだった。なのに――



「ケッ、邪魔が入っちまったけどよ。

終わらせてやるよ。ヨハンの仇だ」



ポキポキと指を鳴らし、ヤンは四肢に力を入れる。

再びハルへと突進を試みようとするが、ハルの構えた銃が眼に入り、回避体勢に移る。

銃口の向き、引き金を引く指の動き、銃が変わった事以外は全てがこれまでと同じで、ヤンは同じタイミングで回避行動を開始した。



「なっ――!?」



だが発射音は遥かに大きく、弾速はケタ違い。容易くかわしていたはずの銃弾がヤンの頬をかすめて筋を残していった。

ハルは引き金を引く。何度も、何度も、同じ様に。

攻守は完全に反転。これまでと違った弾速の銃に、ヤンは避けるので精一杯になっていた。

空気を裂き、雨を穿ち、地を削る。

放たれた弾丸が二桁に達した時、ヤンは爆風に視界を遮られた。

そして左足に鈍痛。貫通力の無いゴムの弾丸が足元に音も無く落ちる。

とっさに頭を庇う。庇った左手が弾き飛ばされる。

背を向けて頭を守る。背中に弾丸。苦悶の声が漏れる。

目の前で再度爆発。頭部が強制的にはね上げられ、無防備にさらされる。

まずい。

避ける事も防ぐ事も適わない。襲い来るであろう頭部への衝撃にヤンは覚悟を決めた。

一秒にも満たない、わずかな、しかし十分すぎる時間。だが何も降りかかってはこない。雨足だけが強くなる。



何が――



ヤンは振り向こうとした。しかし、首筋に冷たい物が突きつけられた。



「ダメなんだよな、まったく……」

「え?」



一発の銃声が悲しく鳴いた。









白煙が銃口から上がっている。足元にはヤンが倒れ伏している。

うつ伏せに眠るように、雨のフトンがヤンを包み込んでいた。

ヤンを撃った体勢のままハルは動かなかったが、やがて力なく銃口が下を向く。

銃をホルスターに戻し、ヤンを見下ろす。撃たれ続けた雨が絶え間なく頭から流れ、ハルの頬をたどってヤンへと落ちていく。

ハルは空を見上げた。遠くで雷鳴が轟き、雨足が弱まることは無い。

雨に打たれながらハルは眼を閉じた。そしてヤンに重なる様に倒れ、意識を失った。
















[25510] 第1-22章~epilogue
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/03/05 23:59












-22-













時間を掛けてアブドラはゆっくりと階段を登っていく。

レンガで作られた通路に足音が凛と響いた。灯りの無い、冷たい空気が汗ばみかけていたアブドラの体を冷ます。

数分も経たずして階段が途絶えた。アーチ状の出口を抜けると雨音が出迎える。遠くからは雷鳴が轟き、目映い閃光に時々眼を閉じる。

城壁の上に立つと蒸すような空気がアブドラを包み込んだ。

土砂降りの雨の中を踏み出し、痛い程の刺激が顔を打つ。

正面には巨大なライフル。まだ距離があるはずなのに、その巨大さのせいで手が届きそうな気がしてくる。

歩きながらアブドラは街の方を見た。遠くに自らの手で崩したビルが見える。街の象徴でもあったはずのそれは今や崩壊の象徴へと変わり果てていた。



――まずは一つ



目的を達成し、それを確認したことでアブドラはわずかな高揚感を覚えた。

経緯にどこか誇り辛いところはあったが、まあ成功と言えた。



――後は……



もう一箇所を破壊すれば、最大の目標が達成される。そのために自分は危険を犯してこの街に来たのだ。

街の中心を睨みつけ、強く褐色の拳を握り締める。熱が内から内から湧き上がり、目的が成し遂げられるのを今か今かと、アブドラを燃え尽くさんばかりに炎が揺らめく。

足元からは雨音に混じって微かな話し声が聞こえる。見下ろせばアンジェとミシェルが戦いを開始していた。

遠くから眺めていても、メンシェロウトであるアブドラにはまともに動きなど見えない。だがそれで良い。殴っても蹴っても、所詮非力な自分には奴らにダメージなど与えられない。だからこそ他の手段を模索して、今、ここに立っている。

数秒だけ足元の戦いを眺めていたが、すぐに興味を無くしてライフルを見た。

街の外へ向けられたまま、何も無い場所へとそれは砲身を向け続ける。一度も使われていないのか砲身には傷一つなく、稲光にまぶしく反射する。

美しい。アブドラはそんな感想を抱く。

傷一つ無い、完璧な美が破壊的な衝動を宿している。兵器という壊すしか能の無い物が欠けようの無い美しさを持っている。倒錯的な何かに囚われて、アブドラは手を伸ばした。

手がライフルに届こうという時、アブドラの脚が何かを蹴飛ばした。

顔を下に向けると、倒れ伏した軍服を来た兵士。ロバーらしく、非常に重くて少し力を加えた程度では全く動かない。

すでに絶命している兵士を見て、アブドラは眉間にシワを寄せ、そして脚を振り上げた。

怒りに突き動かされて、だが脚を上げたままアブドラは動きを止める。

感情そのままに兵士をにらみ、何かに耐えるように奥歯を強く噛み締める。

時が止まったかの様にアブドラはそのままの体勢でいたが、やがて脚を下ろし、兵士をまたぎ越してライフルの前に立った。



ライフルの操作席に座ったアブドラはポケットから何かを取り出し、それをコンソール下へと接続した。

時刻は夕暮れだが、悪天候のせいで夜の様に暗い。その中で、ライフルのマニュアル操作用コンソールにあるモニターが光を放っていたが、コードを繋いだ直後モニターは黒く染まり、そしてまたすぐに画面が開かれてアブドラの顔を照らし出す。

モニターに文字が映し出される。パスコードを要求する文章が現れ、アブドラは差し込んだ端末を操作する。

膝の上に置いたコンピュータはほのかに光っていたが、操作すると光が強くなり、ホログラムモニターが浮かび上がった。

モニター上のキーボードを叩き、大量の文字列が流れ始める。

しばらくその光景をアブドラは腕組みして眺めているだけだったが、文字列が途切れ、電子音が小さく終了を告げるとコンソールモニターにタッチしてパスワードを入力した。

今度は大きめの音が鳴り、それと同時にカチッとロックが解除される音がした。

コンピュータを外し、アブドラはそれを放り投げると踏みつぶして破壊する。

完全に壊れた事を確認すると、アブドラはコンソールを操作して画面を切り替える。モニターには街の外が映し出され、アブドラがボタンを押すとライフル全体が街の方へと回転する。
光の無い街並みが眼に入ってくる。街は暗いがモニター上の景色は処理が施され、昼間の様子と変わらない。

ボタンを細かく押し、慎重にライフルの向きを操作する。

街の外れの工場地帯を通過し、街の中心にある議事堂を通り過ぎ、瓦礫の山を乗り越える。

やがて砲身は工場地帯とは真逆にある外れを指し示した。

何も無い、空白地帯。近くに住宅街はあるが、市民の憩いの場としても使えそうで、比較的土地は綺麗に整備されている。

面積はとても狭く、この街の一般的な住宅のおよそ半分程度。工事が計画されているのか、土地の周りはロープが張られていて侵入できない様になっている。

何の変哲もないただの空き地。だがアブドラは知っている。地下に要人用の極秘シェルターが建設されていることを。そして、自分が本当に殺したい奴がそこに居ることを。

だから自分はこの計画に参加したのだ。奴さえ
モニターに示される照準マーカーがそこを捉えた。マーカーが中心に向かって小さく絞りこまれ、アブドラは手元のボタンを押し込む。

低い音を立ててライフルにエネルギーが込められていく。砲身内部に光が満ちていき、闇夜に存在を主張し始めた。

瞬き一つせずアブドラはモニターを睨み続ける。モニターの隅に示されたエネルギーゲージが上昇し、そして限界までメーターが達した。

瞬きを一つ。口からは大きなため息が溢れる。

濡れた掌を拭き取り、最終安全装置を解除するためにコンソール下のスイッチへと手を伸ばした。



「そこまでです」



首筋に突きつけられた拳銃の感触と男の声にアブドラは動きを止め、ゆっくりと手を上げる。



「邪魔をするな」

「そういう訳にもいきませんね。貴方が照準をそちらに向けている以上は私も止めざるを得ません」

「俺が聞いた話では互いの行動に関しては不干渉だったはずだ」

「なら約束事を先に破ったのはそちらの方と言うわけですね」



拳銃をアブドラに押し付け、男はハンマーコックを倒す。

男は顔に朗らかな笑顔を貼り付け、左手で帽子の縁から垂れる水気を切ってかぶり直した。それでもアブドラが動こうとすると、すかさず銃を押し当てて動きを牽制する。



「私たちユビキタスと貴方たちペリオデオは確かに相互不干渉ということで合意しています。

ですが、貴方は事もあろうに私たちのトップの一人を殺した。偽装はされてましたけどね。これでは不干渉とはとても言えないでしょう?

先日貴方が殺した彼も、そして今殺そうとしている彼もユビキタスの上層部は高く評価しています。今、彼がいなくなるのは非常に困りますし、実際に困ってるんです」

「だから俺を殺す、か。暇なことだな」

「私も暇な方が好きなんですが、たまには仕事をしないと上司に睨まれてしまいますし。仕方ないので貴方の動きを監視させてもらいました。

気づいていたでしょう?」

「まあな」



返事をしてアブドラは低く笑う。分かっていながら止めようとしなかった自分を自嘲し、それと同時に目的を達成できた事を誇らしくも思う。



「貴方たちペリオデオと違って、私たちの組織はトップダウン色が強いんです。彼が死んだせいで計画の見直しも大急ぎでしてるみたいですし、エージェントも上手く動けないんで私も大忙しですよ」

「天然の天才ジェニアルたちならすぐにやり直せるだろう。凡人の俺とは違ってな」



嘲るようにアブドラは鼻で笑う。男は、縁の幅が広くて分かりづらいが、どこか困ったような表情を浮かべた。



「それを言うなら、その天才たちを慌てふためかせる貴方はもっと凄いという事です。だいたい、どうやって彼があそこにいる事を突き止めたんですか? この街のシェルターの場所は上層部の極一部しか知らないはずですが」

「情報というのは必ず漏れる物だ。要はそれを見逃さないだけに過ぎない」

「なるほど。わかりました、心に留めておきますよ」

「それで、どうした? 俺を殺すんじゃなかったのか?」



心底感心したように大仰に男はうなずいていたが、アブドラにそう言われ、また困惑の表情を浮かべてみせた。



「殺さないといけないんですけどね、実は少し迷ってます。

先ほどから言ってますけど、私は貴方をかなり評価してるんです。できれば殺したくないくらいに」

「ありがたい言葉だが、俺は全然優秀な人間じゃない。失敗して、失敗して、地面に這いつくばってばかりいる人間だ。

今ここにこうしているのもこの間、奴を殺しそこねたからだ。こんなライフルを使うのも所詮次善の策だよ」

「折角殺されないで済む口実を作ってあげたのに、どうしてそれをぶち壊すような事を言うんでしょうか」

「根が正直者でな。嘘は吐けない性質なんだ」



アブドラがそう伝えると、男は声を上げて笑った。

無邪気な笑い声に重なるようにアブドラも珍しく笑い声を上げた。

だがその声を途切れさせると、アブドラは唐突に振り返って銃口を握って男の腕ごとひねり上げた。

銃口の向きがアブドラから外れ、男の頭から帽子が落ちる。
男の顔が顕になったが、その表情には、突然のアブドラの行動にもいささかも驚いたところは無く、笑った時そのままの笑みを浮かべていた。

街の中心で爆発音がした。雨の中を黒煙が空へ昇る。それを皮切りに、街の至る所で爆発が起きる。そしてその音に重なるようにして二人の間に銃声が響いた。

建物が崩壊する音が届き、同時にアブドラの膝が地面をつく。腹部からこぼれ落ちた血が濡れた地面ににじんで雨に流されていく。

男の左手には別の銃が握られていた。右手側の銃からアブドラの手が離れ、その銃をスーツの内ポケットに仕舞うと、雨で崩れたシルエットを正すために一度スーツの裾を下へと引っ張った。



「残念ですが、正直者は不利益しか被らない世の中なんですよ」

「……まさかもう一つ……隠し持っていたとはな……」

「人を騙すのが好きなものでして。序に言えば迷っているというのも嘘です」



ニッコリと笑顔を浮かべると、男は立て続けに三度引き金を引く。

弾き出された弾は全てアブドラの腹部に命中し、だがすぐには死なない位置に穴を開けた。

一箇所に穴が開けば悲鳴が漏れ、二つ目には鮮血が、三発目には悲鳴が唸り声に変貌する。



「苦しませて殺せ、との命令でして。

ああ、恨むのは何でもいいですよ。私でも私の上司でも、この世界でも」

「ぐ…あ……」



褐色の肌の上、口元から血が零れ落ちる。食いしばった歯がべっとりと赤く染まっていた。

それでもアブドラは立ち上がった。ヨロヨロ、と指先で突いただけでも倒れてしまいそうで、だが絶対に膝はつかないとばかりに幅広に脚を開く。



「やはりしぶといみたいですね。

ですが、それだけ苦しみも長くなりますよ?」

「…構わん。俺は家族を失った。故郷も無くなった。神への信仰も捨てた。これまでの事に比べればこの程度、何の障害にもならん」



眼光鋭くアブドラは男を睨みつける。

男は腹部から流れ落ちる血を笑ったまま眺め、顔に貼りつけていた笑みを消して再度銃をアブドラに向けた。



「貴方が言うと本当にこの状況を何とかしてしまいそうな気がして怖い。何の力も持たないただのメンシェロウトだというのにね。

やはり貴方は危険です。命令違反ですが、早々にここを去ることにします。

そうだ。最後に神に祈ってあげましょう。嬉しいでしょう?」



アブドラは口に溜まった血を吐きつける事で応える。男の足元へ落ちた粘っこいものが弾け、ズボンの裾をわずかに赤く汚した。



「そういう返事をしてくれる貴方が私は好きですよ。

それでは、苦しみ抜いたアブドラ・エスラーンに神の祝福を……」

「アブドラさん!!」



男が皮肉を口にした時、アンジェの呼ぶ声が二人の間に割って入る。

とっさに男は声に反応し、注意がアブドラからアンジェへと移った。そしてその瞬間をアブドラは見逃さない。

半ば倒れこむ形で男へと体当たりをし、体勢を崩した男の銃口は虚空へと向かう。



「くっ!」



大柄なアブドラに覆い被さられ、倒れそうになるが間一髪ではい出して銃を構え直した。

だが男の左手に強い衝撃。ゴム弾頭が手に当たって宙を舞い、拳銃はカラカラと音を立てて雨の中を転がっていった。

一瞬だけ男はアンジェを見る。しかしすぐに右手の銃をアブドラに向けようとした。だがアブドラはすでにライフルを挟んで反対側へと逃げ、男には次から次へとアンジェからゴム弾が飛んでくる。



「ここに来てロバーの邪魔が入りましたか……

残念ですが引き際ですね」



腕の内部に装備されたアンジェの銃を見てアンジェをロバーと判断し、戦闘の継続を断念した。そして体の向きを都市の外へ向けると、高い城壁から躊躇なくその身を躍らせた。

銃声が途絶え、雨音だけがアンジェとアブドラ二人の耳を打つ。アブドラはしばらく警戒していたが、やがてそっと柵から身を乗り出して落ちていった男の行方を確認する。が、男の姿はすでにどこにもなく、どこへ行ったかも分からない。

ふぅ、と大きく息を吐き、アブドラは体をライフルに預けた。



「大丈夫ですか、アブドラさん!」

「近づくな」



危機が去ったと判断して、アンジェは右手の銃を元に戻してアブドラへ駆け寄ろうとする。が、アブドラは小さく、だがはっきりとした声で制止した。

閉じていた眼を開き、暗い夜空を見上げる。一度また眼を閉じ、奥歯を噛みしめてよろめきながらも立ち上がった。



「それ以上近づくな。一歩でも近づけば……俺はこの引き金を引く」



そう言ってアブドラはライフルの操縦桿をつかんでスイッチに手を掛ける。

アンジェは素早く銃を構え、照準をアブドラに合わせてみせる。



「どうして……どうしてそこまでして……」

「お前には分からないだろう。例え、どれだけ俺が言葉を尽くして説明したとしてもな。

人は経験してみない事にはその本質を理解する事はできない。奪われ、傷ついてやっと理解できるものだ」

「そんなの…理解したくありません!」

「ああ、そうだ理解する必要はない。君の様な人間は理解してはいけない」



話しながらアブドラの口からは血が流れ落ちていく。腹から零れる赤い命は濡れた服ににじみ、やがて水に溶けていく。

激しくアブドラが咳き込む。その度に血が飛び散り、世界に散っていった。



「アブドラさん!」

「なあ、アンジェ。君はこの世界をどう思う?」



顔を少しだけ伏せ、アブドラはアンジェに尋ねた。アンジェは首を横に振って、泣きそうな顔をアブドラに向ける。



「……もう、しゃべらないでください。じゃないと……」

「いいから答えてくれ。こんな、争いだらけで、傷つき、傷つけ、奪い、奪われ、神に祈ることもできない世界を……君はどう思う?」



泣きそうな顔に笑みを浮かべてアブドラは再度尋ねた。

アンジェは右腕の銃を構えたまま、ゆっくりと頭を振った。



「私には…アブドラさんがどんな答えを求めてるのか分かりません……

ですけど……とても悲しい世界だと思います」

「そうか……」

「でも……」



アンジェは眼を閉じて、これまでの記憶を思い返す。

昔の記憶は無い。両親はどんな人で、兄弟がいたのか、友人はいたのか、何もまだ分からない。自分がどんな人と触れ合い、どんな風に成長したのか、自分の中に残っている昔の世界はどこにもない。

だが今の世界はここにある。旅をして、怒られて、塞ぎこんで、痛みに泣いて、街に驚いて、景色に感動して、そして誰かと笑っている世界は確かにある。



「同じくらいに世界は優しいんです。ある時は平等に不平等で、でもある時は不平等に平等で……

大切な物を貰ったり無くしたりを繰り返して、時には厳しくて、残酷で……

だけど」



伏せていた顔を上げて、アンジェはアブドラを見た。

うるんだ瞳をアブドラの瞳に向け、アンジェは微笑んだ。



「時々美しい」



アブドラの中でアンジェの姿が誰かと重なる。

今は遠い砂漠の国。照りつける太陽の元で項垂れる自分の姿。始めたロバーと町の人との調停が上手くいかずに、嫌気が差して全てを投げ出したくなった時、いつも彼女の姿が自分の隣にあった。

幼い娘を膝の上に置き、混血故の透き通るような白い肌の手で自分の手を握ってくれた。

『どんな人でも辛い時があるの。悲しい時があるの。理解されなくて、どうしようもない時はあるものよ。

でもね、貴方を理解してくれる人は確かにいるの。悲しい時に慰めてくれる人はいるの。そのくらいには世界は美しいものよ』



――ああ、そうだった



アブドラの中で蘇る。

怒った顔も、べそをかく顔も、笑った顔も、存在自体が愛しい娘の姿が。

どんな時も微笑んで支えてくれた、かけがえの無い妻の顔が。

何度ロケットの写真を見てもぼやけた姿しか、アブドラの中では見えなかった。なのに――


アブドラは眼を閉じて天を仰いだ。



――それが今はこんなにもはっきりと見える



アブドラの顔に笑みが浮かんだ。自嘲や嘲笑では無く、心よりの笑顔。

彼女の姿を取り戻せた。それが何より嬉しく、そして、だからこそ――憎い。



「アンジェ……君には感謝しないとな。

それと先ほど、言葉が軽い、と言ったことを撤回しよう。今の君の言葉は俺の中に確かに届いた」

「アブドラさん……」



考えを変えてくれた。そう思ってアンジェは緊張を緩め、銃を下ろした。



「だが、少し遅かったようだ」



アブドラはコンソール下のスイッチへ手を伸ばした。アブドラにしか聞こえないほどの小さな音を立て、ライフルの安全装置が解除される。



「やはり君は私の様な人間を理解してはいけない。理解しようとしてはいけない。

もし理解しようとしたら、君はきっと真面目に悩み、苦しみ、それでもなお理解することを諦めないだろう。

そんな事をすれば、君は君自身を失ってしまう」

「止めて下さい……アブドラさん」

「だから……勝手な願いだが、私という存在を忘れてくれ」



アンジェに向かってアブドラは微笑みかけた。かつて、自分の娘に向けていたのと同じ優しい笑顔で。

アンジェが銃を構える。アブドラがライフルへ向き直る。照準が先ほどと変わっていないことを確認し、一度瞑目して引き金に手を伸ばした。



――間に合わない



絶望がアンジェを襲ったその時、一つの声が切り裂いた。



「アブドラぁぁぁぁぁっ!!」



ありったけの声でオルレアが叫ぶ。

バーニアを全力で噴かし、体ごと巨大なライフルへぶつかる。

激しい衝撃がオルレアに加わった。それでも痛みを無視し、肩に砲身をかつぐ形でライフルを押し上げていく。

エネルギーの充填された砲身は発熱し、押し上げるオルレアの表皮を焦がし溶かしていく。



「馬鹿野郎!今すぐ離れろ!!」

「嫌だねっ!!」



蒸発する雨に混じってオルレアの体からも蒸気が上がる。痛覚を切るでもなく、顔を苦痛に歪ませながらも向きを変えようと押し続ける。

だが固定された砲身は動かない。ギシギシときしませてわずかに上がっていくが、照準が大きく外れるには至らない。

アブドラは操縦桿を強く握りしめた。赤く染まった歯を顕にし、迷い、決断する。



「うわああああぁぁぁっ!!」



アンジェが叫び、ラスティングを発動させて走る。

ゴム弾をアブドラに向けて発砲し、アブドラの体が弾かれてライフルから離れた。だが右手だけはしっかりと引き金を握り、そして引き絞られた。

砲身の先端から一瞬だけ発光が強くなる。

まだ、間に合う。いや、間に合わない。

異なる結論がせめぎ合い、だが足は止めない

ゆっくりと時が流れる中、ライフルに体をぶつける直前。

顔を背けて街に視線が移った時、アンジェは見た。

雄叫びを上げるハルの姿を。

ライフル真下の城壁が爆発し、弾け飛ぶ。アンジェの体がライフルにぶつかる。

それと全くの同時に、制裁の光がライフルから放たれた。

三人の体はライフルに巻き込まれる様に回転し、そして一条の光が雨雲を貫いていった。













雨が止み、光線に貫かれた空から美しい夜空が顔をのぞかせる。

光を失ったライフルが空しく転がり、砕けた城壁の小さな欠片があちこちに散らかっている。土砂降りの雨のせいで水浸しになった城壁の上。オルレアは重い体を引きずるようにアブドラへと近づいた。



「ダメだったか……」



夜空を眺めながらアブドラはつぶやいた。大の字になって寝そべり、水たまりが体温を奪い去っていくが、アブドラは寒さを感じなかった。



「アブドラ……」

「分かってはいたさ」



顔をのぞきこんだオルレア。そこに肩を抑えたアンジェが加わる。アブドラはその表情と月とを見ながら語りかける。



「俺の復讐が、大部分にとっては迷惑にしか過ぎなくて、俺と同じ悲しみを俺自身が生み出していたのは分かっていた。どんなにロバーを殺そうとも俺さえ報われず、俺と同じ人種を数えきれない程に作り出すだけの、何の意味も無い行為だと理解していた」

「分かっていたのに、どうして……?」

「そうでもしなければ、耐えられなかった。生きていけなかった。自分という存在の可愛さに、俺は無数の命を食わなければならない、害悪に成り下がった。

この時代、似た様な人間は数多くいるはずで、みんな耐えてたというのにな」



まったく、愚かにも程がある。

そう言って深いため息を血と一緒に吐き出した。



「忌み嫌っていたはずのロバー以下に俺は成り下がり……楽しく笑っていたはずの人間を、ロバーを、たくさん殺してしまった。

もし、俺がしてしまった事でメンシェロウトを非難する奴がいたら……迷わずこう答えるだろう。悪いのはメンシェロウトではない、俺が悪いのだと。

区別するべきは人種では無かった……俺の家族を殺したのはロバーではなく、あの時、あの場所にいた奴らだった。見殺しにしたのはメンシェロウトではなく、町の人間だった。メンシェロウトもノイマンもロバーも関係ない。見るべきは人間そのものだった……」



ゆっくりと瞬きをする。星空はにじんで見えた。



「オルレア、だったな……」



声を掛けられてオルレアは大きくうなずく。



「お前は……ロバーであるお前は……メンシェロウトを憎むか……?」

「…いや……私は憎まない。もう、憎めない……」

「そうか……」



ありがとう。礼を述べてアブドラは血に濡れた手をオルレアに向かって伸ばした。

力なく掲げられたそれをオルレアは両手で強く握りしめた。

手にわずかに伝わる感触にアブドラは驚きの表情を浮かべて、そして笑った。



「ありが…と……」



眼はもう、開かなかった。



















-epilogue-













「ホントに一人で行くのか?」

「ああ、考えを変えるつもりはない」



城門を前にして問いかけるハルに、オルレアは真っ直ぐに見つめてそう応えた。

その隣で、頭に包帯を巻いたアンジェが心配そうに見上げる。と、その肩を大きな手が叩く。



「心配いりませんよ。彼女なら大丈夫です。私が太鼓判を押してあげますよ」

「いえ、丁重にお断り申し上げます」



アグニスの申し出をオルレアはきっぱりと断る。

ひどいなぁ、と言いながらもそのアグニスの顔は笑っていた。



「部長の太鼓判ほど当てにならない物はないですからね。何にでも簡単に押してしまいますから」

「そんな事はないですよ?きちんと相手は見極めてますから」



今回も私の言う事を聞いて良かったでしょう?

そう言ってアグニスはアンジェとハルの顔を見た。それに従ってオルレアも二人を見て、そして、そうですね、と小さく笑う。



「私としてはもう少し彼女たちと一緒が良いとは思うんですが、まあオルレアが決めた事ですから心配してませんよ」

「私も彼女たちにはお世話になりました。ですが、ここからはしばらくは一人で歩き回ってみたいんです」

「ケガには気をつけてくださいね、オルレア」

「私はお前の方が心配だがな」



声を掛けたアンジェに、オルレアはため息混じりに返した。

どういう事ですか、と頬をアンジェは膨らませて抗議するが、そのまんまだろ、とハルから突っ込まれ、ますます頬を膨らませてそっぽを向いた。

そんなアンジェの様子に微笑ましさを感じてオルレアは笑顔を見せる。

尚もアンジェとそれをいじるハルの二人を眺め、アグニスの方を見ると同じ様に微笑ましく見ていた。

オルレアは空を見上げる。先日までの雨が嘘の様にどこまでも晴れ渡っている。城門の奥に広がる街並みは廃墟。だが今、後ろには美しい山々が見渡せ、世界がオルレアの旅立ちを祝福していた。



「では、そろそろ行きます」

「あ、ちょっと待ってくださいね」



三人に背を向けようとしたオルレアだったが、アグニスから呼び止められて振り向くと、そこに手が伸ばされた。



「ブラウンからプレゼントらしいですよ。君の手に合う様に調整したって言ってました」



それは銃だった。日光に反射して黒光りし、口径も大きなそれはずっしりとした重量感を見ただけでオルレアにもたらす。

君に、と差し出されたそれだが、オルレアは手に取るのをためらう。しかし、その反応を予想してたかのようにアグニスがオルレアの手を優しくつかみ、そっと握らせた。



「世界は時々残酷です。今はこうして優しい顔を見せてくれてますが、いつ君に牙を向けるか分かりません」

「ですが……」

「君は誰かを傷つけるつもりですか?」

「違います!!」



アグニスの声に思わずオルレアは叫んだ。すぐにハッとして謝罪する。

顔を背けたオルレアだったが、アグニスは小さく笑ってみせた。



「そうでしょう?

そんな君だから彼もこれを託したんだと思いますよ」



だから持って行ってあげてください。

そう言ってアグニスはオルレアから離れる。オルレアは手の中の銃を見つめていたが、一度それを構えてみる。

風を切って銃を世界に向ける。何度も何度も。

すっと手に馴染むそれは、長年使ってきたかの様な感覚をオルレアに与えた。この手の銃を使う事は今までほとんど無かったが、安心感さえ感じさせる。



「ブラウン氏に感謝の意を伝えて頂けますか?」

「もちろん。もっとも、彼の事だからたぶん受け取らないだろうけどね」



それじゃ名残惜しいけど、とアグニスはオルレアに手を差し出した。

お元気で、とオルレアも手を握り返す。



「じゃあ元気でな」

「またいつか会いましょう」

「ああ、いつかまた、絶対に会おう」



アンジェとハルの二人とも握手をする。堅く握られたそれは容易には解けそうに無く、それでも三人は自ら手を解いて別れた。

今度こそオルレアは三人に背を向ける。手に持っていた真新しいコートを羽織り、歩き出していく。買った時には馴染まなかったその姿は、今は少しだけ似合って見えた。





オルレアの姿が見えなくなるまで三人は見送り、さて、と三人は顔を見合わせた。



「じゃあ私はこれで失礼します。ギルトのみんなも忙しさに悲鳴を上げてる頃ですから」

「この街は大丈夫なんでしょうか……?」



否が応でも眼につくビルの残骸を見ながら、独り言の様にアンジェは尋ねた。

難しいでしょうね、とアグニスは肩を竦めてみせる。



「でも何とかなると思いますよ?」

「ずいぶんと楽観的だな」

「こういう時は楽観的に考えた方が良いんですよ。

それに、私は信じてますよ。

時々人は弱い。けれど、時々、強い。今までは弱い面が出ていましたけど、ここからは強い面が顔を出してくれるはずです」



それもそうだな、とハルもうなずいてみせる。

アンジェもまた二人を見上げて大きくうなずいた。



それでは、とアグニスは二人に手を振る。オルレアとは逆の方向に歩いて行き、廃墟が広がる街の中へと消えていった。

街の外には二人と、そしてバイクが残された。



「さて、アタシたちはどうするかな?」

「ハルはどうするつもりなんですか?」

「そうだなぁ……今度は北の方に向かってみるか。これから暑くなるし。

お前は?」

「私は決まってるじゃないですか」



そう言ってアンジェは荷物を肩に担ぎ、バイクの定位置にすっぽりと収まった。



「さあ行きましょう!」



ビシッ!と彼方を指差してアンジェは叫んだ。

ハルはやれやれ、と肩を竦めてため息を吐き、ヘルメットを被ってバイクに跨った。



「そっちは南だ、バカ」

「あっれぇぇっ!?」



太陽の位置を確認しながらキョロキョロと見渡して方角を確認するアンジェ。はあああ、とわざとらしくため息をついてみせてハルはエンジンを掛けた。

低い唸り声をバイクが上げる。遮る物の無い辺りに音が無尽に響いた。



「ところで、それを持っていくのか?」



アンジェの膝の上に収まっている荷物からのぞく壊れた左腕を見てハルは尋ねた。



「はい。この街の事、忘れたくないですから」

「そっか」



短く返事をしてハルはアクセルを回す。

暖かい陽の光を浴び、舗装された道を二人は走り始めた。
















[25510] 第2-1~2-2章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/04/24 19:24


-0-





――人を憎むのをやめろだって? アナタ、ひどい事を言うのね

――だって私に死ねと言ってるんでしょ?













-1-











深い夜があった。

誰しもが寝静まる、静寂に包まれた時間。ほのかに照らすはずの月は今は分厚い雲に覆い隠されてしまっている。後ろに広がる山々を見れば真っ暗で、昼間に見れば深緑が視界を占めるが今は黒にしか見えない。ただの一色に塗りつぶされていた。木々も、空も、足元も、そしてすぐ隣で自分と一緒に歩いている男の姿もただの黒だった。

前を見た。そこも何ら変わりは無い。道がうねりながら前方へと伸びていて邪魔臭い植物は無く拓けている。背面の山は無いが夜の闇に包まれているという点では一緒だった。

一点、ホンの一箇所、夜を切り裂いている街を除けば。

大分離れたこの場所からも街の灯りが見えるという事は、それだけ大きな街である証拠。夜が来ればすぐに寝静まってしまう田舎町とは違う。ようやく見えてきた目的地に少しだけ顔を綻ばせる。

二人が街に気づいて幾分歩くペースを上げたとき、山の方から狼の遠吠えが聞こえた。何度となく叫びを上げ、それに伴って山も目覚めていく。

山に息づくモンスターにとっては今が昼なのだ。人にとっての昼間にあまり眼が利かない分、夜は人よりも遥かに眼が利き、嗅覚は鋭くなる。同種で群れ、そして山の縄張りを広げるべく毎夜モンスター同士で覇権を争う。時に静かに、時に荒々しく。きっと今回は後者なのだろう。聞こえるはずは無いが、山の方がにわかに騒がしくなってきた。そんな気がした。

だが自分たちには関係ない。基本的に昼間は人の時間で夜は獣の時間。拓いた場所は人の物で山の中は彼らの物。彼らは彼らで好きにやってくれていれば良い。自分の邪魔をしなければそれでいいのだ。彼らの争いに興味は無い。興味があるのは自分と、その周りだけ。



「来たな」



隣を歩く男がそうつぶやいたのが聞こえた。無口な男はそれきりしゃべらず周囲に払う注意を強めた。そして自分はため息をつく。

――コッチに来なくてもいいのに

男にならうように、つぶやく。横を向いて精一杯頭を傾けて男の顔を見上げた。



「どのくらい?」

「多い。そしてすぐ近くだ」



前を向いたまま、男がそう告げると同時に低い唸り声が脇の森の中から上がった。

一匹が姿を木の間から現す。それを皮切りにして二匹目、三匹目と、地面を軽く揺らしながら二人の前に次々に立ち塞がった。

月が少しだけ顔をのぞかせる。姿をはっきりと見せるには頼りないが、相手の種別と、二人にとってじゃれつこうという気がないのはよく分かった。



「マウントベア、か……」



間近で体長三メートルに及ぼうかという巨体を見上げる。二足歩行をし、下半身に比べて異常に発達した上半身。手の先では鋭く長い爪が月明かりを反射している。夜になると眼が赤く光るという特徴を持っており、目の前のそれは、開いた口からはだらしなく唾液を垂らしていた。数日前に立ち寄ったギルツェントでは、討伐の報酬がそれなりに高かったのを覚えている。



「グルルルゥ……」

「倒したらどこのギルトでも報奨金ってもらえるのかな?」

「分からない」

「ぶーっ。ちゃんと覚えといてよ。役立たず」

「すまん……」



謝罪の言葉を口にしながら、男はマントの裾を後ろに流すと腰に刺した剣に手を掛ける。ゆっくりと抜刀し、鞘と剣が擦れる音が耳をつんざく。

自分たちが獲物と判断した相手がやる気になったのが分かるのか、マウントベアたちは心なしうなりを低くし、猫背気味の体躯をのけぞるように伸ばすと吸い込んだ息を声と共に吐き出した。



「グオオオオオォォッ!!」



空気が震える。一匹が雄叫びを上げ、他もそれに呼応して更に激しく山間に声を響かせる。小さな影は手で両耳を塞いでいたが、不快気に顔を歪めると男に向かって指図する。



「黙らせて」



苛立ちをぶつけるように男に向かって言い放った。そして言葉を言い終える時にはすでに男は駆け出していた。

疾走し、剣を逆袈裟に構えてあっという間に男は正面に立っていたマウントベアの横を通り過ぎる。マウントベアの腕はまだ振りかぶられたまま。口からは相変わらずだらしない唾液をボタボタと垂れ流していた。

不意にマウントベアの体がずれた。初めはゆっくり、だが加速していき、やがてベシャリと音を立てて上半身だけが地面に落ちる。掛けられていた時の魔法が解けたかのように、断面から赤い血が空へと舞い上がった。淡い月夜の下では、血は黒かった。





「終わった」

「そう。お疲れ様」



初めにいた場所から一息に十数メートルを走りぬけ、一番最後のマウントベアの体から体液が噴き出して倒れたところで男は剣を納めた。淡々と血溜まりの中を踏みしめて連れの元へ戻って終結を告げて、その相手もまた淡々と労う。そこに感情は無い。

二人が向き合ったところで男の足が止まる。相手は急に足を止めた男に怪訝な表情を向けるが、男はチラリと後ろを振り返ると先の発言を修正した。



「まだ残っていた。訂正する」



地面が揺れる。今しがた始末したマウントベアとは明らかに異質な揺れ、そして足音。瞬く間に殺された、足元に転がるケモノとは異なる圧倒的な存在感が二人にも感じられた。

メキメキと軋む音がする。音の方に二人が顔を向けると、森が動いていた。否、動いているのは森ではない。木が次々と傾き、倒れ、新たな道を作り出していた。

果たして、現れたのは新たなマウントベアだった。

だがスケールが違った。先のマウントベアも十分に平均的なサイズだったが、今眼の前にいるのはそれとは明らかに違い、異常だった。体長は倍近い。六メートルを大きく超えそうで、二人が対象の顔を見上げるにはほぼ垂直に近い角度で見上げなければならない。呼吸音さえはっきりと耳に届き、手の爪は槍の様。睨みつける瞳は一際赤く光っていた。

マウントベアは手を振りかぶった。と、次の瞬間にはその腕は地面を深く抉っていた。砕けた地面が悲鳴を上げ、石礫が宙に舞う。



「……」



二人は一瞬早く飛び退いて腕を避けると、男は無言のままマウントベアに斬りかかった。先ほどと変わらぬ速度、タイミングで剣を奮い、そして剣はベアの腹へとぶつかった。



「……っ!」



しかし、そこで剣は止まった。皮さえ切り裂く事無く、逆に剣の方にヒビが血管の様に走っていった。

一瞬男が呆ける。だがそれもわずかな時間ですぐにマウントベアから離れる。が、そこに巨大で鋭い爪が襲いかかった。

ガキン、と金属音が夜の山に響く。爪の先は男の眼からホンの数センチのところで止まって、そのまま男は剣を手放してマウントベアから退いた。爪は地面に深く突き刺さり、巻き込まれた剣は真っ二つに折れて最早用をなさなくなった。

素手のまま男は小さな相方の所へ戻る。腰にはもう一本剣が準備されているが、それを抜く様子は無い。マウントベアの方は強者としての驕りを見せつけるようにのんびりと爪を地面から引き抜いた。



「お願い」



小さな影が囁いた。男は隣でうなずいてみせ、自身の大きな背中へと手を伸ばす。

風が吹いた。月を覆っていた分厚い雲が流れ、月明かりが今度こそはっきりと辺りを照らし出す。

そこには十字架があった。満月を背に、男の背中から十字がせり上がっていく。巨大な十字が影を作り、地面を、そしてマウントベアを隠していった。

もう一度、風が吹いた。







「汚れちゃったね」

「そうだな」



暗い夜道を二人は歩いていった。月はすでに隠れ、街の灯りを除けば辺りは深闇に包まれてしまっている。

暗闇で歩く二人の顔は、隣同士であっても見ることはできない。姿も、形も分からず、声だけが二人を区別する。だがそんな区別に意味は無い。周囲には二人以外誰もいないのだから。



「はぁ……やっと着いた」



城壁の前に辿り着き、小さな影が大きく息を吐き出した。煌々とした、昼間の様な明るさに二人の姿が顕になる。男の歳の頃は二十代後半。マントを羽織っており、その下からはガッチリと鍛えあげられた腕が覗いている。対照的に子供の方は小柄。金髪の長い髪を後ろで縛っていて、ライトに照らされた瞳は深い緑色の光を放っていた。男は傍らの子供を見下ろし、何かに気がついてかがんで手を顔へと伸ばす。



「どうしたの?」

「顔にも付いている」

「ホント? ありがとう。でも、このマントはもう捨てなきゃダメだね」

「そうだな」



男が同意の言葉を口にしたときにはすでに子供は赤黒く汚れたマントを脱ぎ、クルクルと丸めて木の方へと放り捨てていた。初めから男の言葉など求めていなくて、男もそれが分かっていたのか特に何も言わずに子供と同じ様に城門を見上げた。



「この街でなら、見つかるかな?」













-2-











日中の山の中。夏が近づき、どこまで行っても青々とした景色が広がっている。日差しは強く、容赦無く踏み固められただけの道を焼く。一方で木陰を流れる風は涼しく、道行く人に一時の清涼を与えてくれることだろう。ただし、今現在道行く者は誰一人としてはいないが。


「今ソッチに引き連れて行ってます! あと二十秒くらいです」



道にはいないが木々の間を一人の少女が駆け抜けた。肩を少し過ぎた辺りまで透き通るような金髪を伸ばし、ポニーテールに結んでいる。大きめの青い目に、整った鼻筋。その下には可愛らしく小さな口が乗っているが、今は荒く呼気を吐き出し、彼女は耳元から伸びるマイクに向かって声を張り上げた。



『オーケー。時間を稼ぎながらそのままこっちに向かってくれ。具体的には後一分くらい』

「ムリです! もうすぐ後ろにいるんですよ!? ちゃっちゃと準備を終わらせて下さい!」



叫びながらアンジェは後ろを振り返った。そこには体長一.五メートル程のリーセンキャットが五匹連なっていて、ヨダレを垂らしてアンジェを追いかけていた。



『おーおー、よっぽどお前がウマそうに見えるんだろうな』

「ノンキな事言ってないで早く終わらせて下さい! 後三秒で!!」

『そっちこそ無茶言うなよ。コッチだって慣れない罠しかけてんだ。だいたい、元々お前がヘマしたのが原因なんだから文句言うな』

「ハルがのんびりしてるから見つかったんです!! 責任とれーっ!」

『あ……スマン、お前が大声出すからミスった。後五分くらい走りまわっててくれ』

「ふんぎゃーっ!!」

『冗談だよ』

「冗談言ってる場合じゃないです!」



実際、話すほどにアンジェに余裕はない。大型の山猫であるリーセンキャットの特徴は、木々の間でもトップスピードで走れる柔軟性と固く鋭い牙。牙は個体によってはロバーの肉体さえ貫通するほどの強度を持つ。幸いにして最高速はそれ程でもないが、少なくとも小柄なアンジェよりは速い。ハルと話している間にもジワジワと距離を詰められていた。

そして先頭を行く一頭がついにアンジェの後ろ姿を捉えた。鳴き声を上げ、生来の足のバネを活かしてアンジェに飛び掛かる。



「キシャアアアァァッ!!」

「ちぇい!」



已む無く、アンジェは右腕を中程から折り曲げると肘から飛び出した銃身をその一頭に向ける。軽い連射音と一緒にゴム弾がばらまかれ、リーセンキャットへと命中する。ゴム弾を受けた個体はそのままゴロゴロと転がりアンジェから離れていく。しかし他の四頭はヒラリと転がった一頭を避けるとなおもアンジェを追い続けた。



「まだ来るのぉ~!!」



本来の目的であるリーセンキャットを一網打尽にするには、囮であるアンジェに食らいついて来てくれなければ困るのだが、そんな事はすっかりアンジェの頭から抜け落ちていた。



「ハ~ル~!!」

「ハイ、お疲れさん」



名前を呼んだ瞬間、スピーカーと自身の横からステレオで声が聞こえた。すれ違い様にアンジェが振り向けば、そこにはヤレヤレ、と肩を竦めた女性がいた。

茶色のショートカットにした髪に黒い瞳。やや浅黒い肌に少し釣り上がり気味の眦はどこか猫を思い浮かばせる。

通り過ぎるアンジェをため息をつきながら見送ると、ハルは左手に持っていたロープを思いっきり引っ張った。木がきしみ、セットされていた捕獲ネットが一気に地面からせり上がる。

全速力でアンジェを追いかけていたリーセンキャットたちは当然回避することもできずに、次から次へとネットへとぶつかって一塊になった。が、ロープを張り巡らせていた木が細かったか、四体分の衝撃に耐えられずメキメキと音を立てて倒れていった。

ハルはすぐにその場を離れる。キャットたちはネットに包まれて未だ満足に身動きが取れていないが、のんびりしていればまたすぐに自分たちを追いかけてくるだろう。

だがそれで十分。ハルは全力でリーセンキャットたちから離れると、右手に持っていたスイッチを押した。

静かな山に爆発音が響いた。









◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆









低いエンジン音を立てる年代物のバイクが、両脇を森で固められた山道を走る。ハルは半球形のヘルメットを浅くかぶり、目元にはゴーグルを着けていて余った革製のバンドが風でたなびく。隣にはサイドカーが取り付けられていて、ハルと同じ様にヘルメットをかぶったアンジェが乗っていた。頬杖をついて。



「いやしかし、思いの外うまくいったな。あれだ、素人でも何とかなるもんなんだな」



バイクのハンドルを握りながら、ハルはホクホク顔でアンジェに話しかけた。が、アンジェは対照的にブスッと口を尖らせてハルからそっぽを向いたままだった。



「なんだよ、まだ地雷の設置が遅れたのを怒ってんのかよ」

「べ~つ~に~。どーせ私に罠なんて作れませんからね。走るしか能が無いからしょーがないですよーだ」

「別にそんな事言ってないだろ。能力使わなければお前の方がアタシより足、速いんだし。第一お前の方から囮役を言い出したんじゃないか」

「分かってますよ。でもあんなに数が多いなんて聞いてないです。依頼を受けた時は一、二匹だって言ってたのに……」



それを聞いてハルも「そんな事も言ったな」と顎に手を当てて記憶を探る。



「確かに予想外だったなぁ……リーセンキャットは元々群れることを嫌がるから、まとめて相手することは無いと思ったんだけど。

まあそんだけお前が魅力的だったって事で」

「嬉しくありませんっ!!」



ハルに怒鳴りつけると、アンジェはまた元のようにバイクと反対側の景色を眺め始める。ハルは一つ軽いため息を吐き出すと肩を竦めた。どうやら機嫌を直させるのは中々難しそうだ。



「ま、おかげで予定より金は手に入るんだ。もうすぐブルクセルに着くし、そしたらさっさと換金して久々に旨い飯でも食おうぜ」

「むー……ご飯で私を釣ろうって事ですか?」

「なんだ、要らないのか? そういえば、確かブルクセルはチョコレートで有名だったな」



ハルの言葉にキラリとアンジェの眼が光る。仏頂面のままアンジェはブンブンと音が聞こえてきそうな勢いで首を横に振り、そしてハルに向かって広げた両手を差し出した。



「十? ああ、十個くらいチョコレート買ってやるって」

「十ダースです」

「は?」

「だから十ダース買ってください。それで許してあげます」

「バカ、そんなに買えるわけねーだろ。高いんだぞ、チョコレート。せめて一ダースだ」

「十」

「交渉決裂だな。残念。アタシだけで頂こうか」

「……五で」

「三ダースなら考えてもいいな」

「三でお願いします……」



まさに苦渋、といった顔でしぶしぶアンジェはうなずいた。それを見てハルは歯を見せながら笑い声を上げた。



「よし、交渉成立だ。ならさっさと街に急ぎますか」

「あれ、何かおかしくないですか?」

「別におかしくないだろ。元々一ダースだったのが三ダースまで増えてんだ。

いやいや、まったくアンジェは交渉上手だね」

「何か納得行かないです……」



そもそもどうして自分は怒ってたんだっけ?

ぼやくアンジェをよそにハルはスロットルをひねる。グン、とバイクが加速して感じる風の流れも一際強く、地面からの振動も激しくなっていった。夏の日差しは強く、それでも吹き抜ける風が熱を奪っていて心地良い。絶好のドライブ日和だな。空を見上げながらハルはそう思った。

一時間もそうして山道を走り抜けた頃、夕暮れに向けて太陽は傾きかけて日光は心持ち弱くなりかけていた。再びハルが空を見上げると、少しずつ雲が出てきていた。風の質もやや湿気を含んだものに変わり、そしてその風に乗って二人に届いたモノがあった。



「臭うな……アンジェ」



緊張感を多分に漂わせ、ハルはアンジェに声を掛ける。変わらない景色にうつらうつらしていたアンジェは眼を擦りながらハルを見上げ、首を傾げた。



「いつでも飛び降りれる準備をしてろ」

「どうしたんです? この先に何かあるんですか?」



アンジェはハルに尋ねる。ハルは眉間にシワを寄せて厳しい表情を浮かべた。



「血の臭いがする」



その答えにアンジェもまた緩んでいた表情を引き締める。次第に濃くなっていく鉄錆の様な血の臭い。アンジェの鼻にもそれは届き、緊張に小さく喉を鳴らした。

速度を落としながらバイクをハルは走らせる。かすかだった臭いが徐々にむせ返るような異臭へ変わっていく。



「なんだよ、これ……」



曲がりくねった道が終わり、森の木々が途切れて視界が拓けたところでアンジェとハルは言葉を失った。バラバラに切り裂かれたモンスターが道いっぱいに散らばり、森に向かって流れた、乾いた赤い血が川の様。

しかし、それ以上に異様だったのがある一体の死体だった。いや、死体と呼んでいいものか。ハルは逡巡した。

他の死体は、切られた箇所こそ違えど断面は鋭利な刃物で切られたと分かるほどに綺麗で、別れた半身をくっつければ今にも復活して動き出しそうだった。だが、たった一体だけは違う。

無事な下半身は生前の姿そのままで地面に倒れているが、その切り口は他のものとは明らかに異なっていて、何よりその下半身に合いそうな上半身が見つからなかった。代わりとでも言うように、辺りにはグチャグチャに、いくつもの肉片に散った上半身らしき・・・ものが森に住む小さなモンスターに食われていた。

クチャクチャ、と咀嚼される音がエンジン音に混じって聞こえてくる。ハルは顔をしかめ、アンジェは口元を押さえてわずかに顔色が青く変わっていた。

崩れた肉の食事をとっていたモンスターたちは、警戒するようにアンジェたちをジッと見ていたが、ハルが軽く睨みつけると怯えた様に後退りして森の奥へと消えていく。

ハルはゆっくりとバイクを進ませる。腐臭と腐肉の海を渡り、あまりにも細かく広く散らばっているために肉片を避けていくことができずに小さな振動がバイクに乗る二人に伝わる。



「また何か厄介事に巻き込まれそうだな……」



自分らとは全く関係の無いはず。だがどうしてもハルには事件に関わってしまいそうな気がしていた。



「何事も無いといいんですけど……」

「こういう時の勘って嫌になるほど当たるからなぁ……」



二人揃って口からため息が零れる。

そのまま二人は無言で山道を走り抜けた。遠くに見えていた門が大きくなっていき、ハルの予感を肯定するかのように遠くで雷鳴が響いた。








[25510] 第2-3章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/05/15 17:26




-3-











「一、二、三……六五〇〇ジルか。うん、悪くないな」

「ですねー。思ったより多かったですよね」



賑やかなメインストリートを歩きながらハルは百ギル札を数え、ついつい頬をニンマリと緩めた。あまりの金欠に、特に金額も気にせずに受けた依頼だったがそれなりの額だ。ここ最近はずっと財布の中身が心許なかったが、これでしばらくは大丈夫だろう。数え終わった札束を大事そうに財布へと仕舞うと、ハルはそれを尻ポケットに突っ込んだ。



「倒したリーセンキャットの数が多かったらしい。その特別報奨だとさ」

「ふーん……なら私も頑張った甲斐がありましたね」



頭にヘルメットを乗せて隣でバイクを押していたアンジェは満足気にうなずいた。そしてニッコリと笑顔を浮かべると小さな掌をハルへと差し出す。



「何だ?」

「私の取り分です。やっぱり私も働いたんですから当然ありますよね?」



そう言うとハルは、ああ、と顎に手を当てると財布から札を取り出し、ハルの掌に置いてやった。



「ほい。百ギル」

「えええっ! 何でですか!? 少なすぎますよ!」

「今回結構費用も掛かったんだよ。燃料代だってバカにならないしな」

「それにしたってもう少しくらい……」

「子供の小遣いにしては多過ぎるくらいなんだがな」

「子供扱いしないでください。正当な報酬要求です」

「とは言ってもな……アタシだって銃のメンテとか弾薬の補充もしたいしな。お前だって必要だろ?」



ハルの言葉にアンジェは、まだ比較的新しい左腕を無意識に抑えた。シャツに隠れているが、この下には不自然な温もりを持った金属の塊が眠っている。顔や胸を流れる血液はそこには通っていないが、すっかり馴染んだ名工の一品はすでに自分の「新しい」腕として違和感なく、こうして抑えていると脈打っている気さえしてくる。例え、眠っている物が容易く命を奪いかねない武器だとしても。



「実弾を使う気は無いんだろ? 非殺傷用の弾頭は場所によっちゃ実弾より高いんだし、今の内からコツコツと貯めとかないと、いざという時に困るしな」

「……そう言われたらしょうがないですね」



ふう、とため息を多分に混ぜた息を吐き出すと、アンジェはハルの手から百ギル札を受け取り、ポケットから取り出した小さな茶色の財布にそれを折りたたんで入れた。口では納得した風だが、どよーん、と肩を落として歩く様は誰がどう見ても気落ちしているとしか見えない。

別段アンジェとて金に執着があるわけではない。が、今回はハルに告げてはいないが、初めてのギルトの依頼報酬であり、それなりに楽しみにしていたところがあった。依頼料を聞いてその額に、報酬料を期待して色々と妄想していたため、残念だという気持ちは隠せない。

テンションが百八十度変わって隣を歩くアンジェの様子に、ハルはどうにも胸が痛んで仕方ない。別に気に病む必要は無いのだが、どうにもアンジェの喜怒哀楽は自分にひどく影響を及ぼしてくる。何とも言いがたいモヤモヤした感情に、ハルはガシガシと自分の頭をかきむしるとアンジェの背中を勢い良く叩いた。



「そんなにしょぼくれんなって。当面の生活費をさっぴいた結果なんだから、メシ代は十分にある。

というわけで、だ。早速ウマイもん食いに行こうぜ?」



そう告げた瞬間、シュパッ!と音を立ててアンジェの顔が勢い良く振り向き、キラキラした視線がハルへと注がれる。泣いたカラスが、なんていう言葉を聞いた事があるが、これにも当てはまるのだろうか。ハルは、何だかなあ、と呆れた様に息を吐き出した。



「早く行きましょすぐ行きましょう! 何を置いてでもすぐにでも行きましょう!!」

「はいはい、分かったから焦んなって。店は逃げたりしねーから」

「知らないんですか? おいしい料理には足が生えててすぐに逃げちゃうんですよ?」

「何だそりゃ」



早く早く、と声と態度の両方でアンジェは急かす。そこには気落ちしたアンジェの姿は無い。

すっかりアンジェの保護者役としての立場が板についてきていた気がしていたが、甘いなぁ、とハルは自分を顧みて思わざるを得ない。



(それでもまあ……)



しょぼくれた顔を見るよりは良いか。笑っているアンジェは可愛いのだから。いや、むくれてる顔も可愛いが。誰にともなくそう言い聞かせて、ハルは先を急ぐアンジェの背中を追いかけた。

それで自分が納得出来るほどにハルは姉バカだった。







◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆







「で、レストラン街に来たはいいんだが……」

「これだけ多いとさすがに悩みますね」



通りの左右を見渡しながら、二人は悩んだ。

ブルクセルには大きな通りが二つあり、一つはブルクセルの城門からまっすぐに伸びたメインストリート。そしてそことは別の第二のメインストリートとも言える、通称レストラン通りに脚を踏み入れた瞬間、二人は立ち尽くした。

ユーロピア地方最大の都市国家であり、それと同時に数少ない王国としての体を為しているベネルクス王国の首都、ブルクセル。そしてユーロピアの盟主としての一面をも持つこの街は交易の中心地であり、各地からの文化の流入地でもあった。

どこまでも続くかに思えるほどの長い通りの両端には、ベネルクスだけでなくユーロピア全土からあらゆるレストランが出店されていた。

まだ二人が立っているのは通りの入り口。だがあちこちから鼻孔をくすぐる、食欲をかき立てる香りが漂っていた。自然、口の中には唾液が溢れ、アンジェとハルはほぼ同時に喉を鳴らした。



「しっかし、すっげえなぁ……」



まさかここまでの規模とはな。ゆっくりと歩き出しながらハルは感嘆の声を上げた。有名なので知ってはいたが、こんなに大きな通りと店の数は予想外だった。やっぱ聞くのと見るのとじゃ大違いだな、と人々の喧騒を聞きながら胸の中に芳しい香りを吸い込んだ。



「お昼も過ぎてるはずなんですけどね。まさかこんなに人も多いとは思いませんでしたよ」

「この通りを目当てに来てる観光客や旅人も多いだろうしな。それに、サリーヴみたいな近代化を極端に推し進めた街と違って歴史ある建物も多い観光名所だからな。たぶん、一日中ここはこんな感じなんだろ」

「迷子にならないでくださいよ、ハル」

「それをお前が言うのかよ……

ともかく、お前が好き勝手歩き回っていなくなる前に、早いトコどっかに入ろうぜ。何せ有名なレストラン通りだ。どの店に入ってもハズレってことはないだろ」



とは言うものの、ただでさえ大食いの二人がここ数日間は十分な量を食べているとは言いがたい状況。いい香りを鼻先に漂わせた状態で、長々と料理が出てくるのを待つのは拷問とも言える。かと言って店内がすき過ぎているのも、味の面で疑わしい。黙っていても客が来る状況で手抜きをしている店も無いわけではない。そんな物を食うというのは食魔人グルメを自負するハルにとっても、アンジェにとっても許される事ではない。

行列のできている店では無く、かつ数席程度の空席を有している店。ハルの瞳の形が変化し、一時的に視力が強化され、遠くの店内までも鋭く見定める――



「そんな事に能力ラスティング使わないでください」

「食事に関してはできるだけ妥協しない様にしてるんだよ」



鮮明に映しだされていく数々の店の中で、ハルのややつり気味の眼が一つの店を捉えた。



「……見つけた。

行くぞ、アンジェ。あまり席に余裕が無い。一人出ようとしてるが、二人入りそうだ。そうすると残りテーブルは一つだけになる」



逸る気持ちを落ち着かせる様に、だが抑えきれないのか早足の勢いで第一歩をハルは踏み出した。



「待ってくださいよ……って、ハル!」



制止するアンジェの声に、ハルは何だよ、とばかりに眉をひそめてアンジェを見返した。と、同時にハルの足元から小さな悲鳴と、軽い衝撃がハルの体に伝わった。



「いたたたた……」



ハルがその衝撃に前を振り返ると、少女が尻餅をついて痛そうに腰の辺りを撫でていた。自分がぶつかってしまったせいだと気づき、ハルは慌ててしゃがみ込んで少女に謝った。



「す、すまない!」

「も~、気をつけてよね!」

「まったくです! ほら、もう一度謝ってください!」



座り込んだまま、勝気そうな眼で睨みつけてくる少女と呆れた風に腰に手を当てて自分を非難してくる相方。二人に責められて、ハルは小さくなりながらもう一度謝罪の言葉を口にした。



「本当に済まない。ケガは無いか?」

「うん、大丈夫だよ。お姉さんも謝ってくれたからさ、もう気にしなくていいよ」



ハルに手を引かれて立ち上がり、少女は砂の付いた短めのスカートを払いながらそう言って、快活に笑った。

立たせてみて分かったが、少女は小柄だった。ハルの胸に届くかどうか、といった程度の背丈しか無く、体つき全体にどこか幼さが残る。透き通る様な短めの金色の髪は太陽の光に透けるようで、前髪をピンで止めていて、言葉や仕草同様に快活さを表しているようだった。

笑った顔は、無邪気さとどこかませた子どもらしい皮肉さを持っているが、その笑顔で見つめられてハルは頬を赤らめた。

ガシッ、とハルの両手が少女の両肩に置かれる。へ?と少女の顔が驚きに変わるが、ハルは変わること無く両腕に力を込めた。



「お姉さんと一緒に……」



すぱぁん!



「ハイハイ、そこまでですよ」



言い終わる前に後頭部が盛大な音を立てた。



「……どっから出したんだよ?」

「どこでもいいじゃないですか。

それよりも、もしかしてハルって女の子を見かけると見境なく同じことを言ってるんですか?」



手に持っていたハリセンを放り捨てながらため息混じりに尋ねる。



「そんな訳ないだろう」



はたかれた頭を抑えながらハルは不満げに口を尖らせた。



「小さい子にしか声は掛けないさ」

「ヘンタイがいた!? 離れて! このいたいけな少女を汚さないで!」

「なんかよく分かんないけどさ……」



ハルの手を払って距離を取りつつ、少女は二人に向かって尋ねた。



「どっか行こうとしてたんじゃないの?」

「え?」

「あ」



ハルは本来の目的地に眼を向ける。が、時すでに遅し。目指していた店の中はすでに客で埋められていて、新しい行列ができていた。慌てて他の店に眼を向けるも同様。どの店も判で捺したように相似な光景を作り出していた。



「ああああ……」

「ハルのせいですよ……」



通りのど真ん中で地面に手を突き、うめき声をあげながら盛大にうなだれる。この腹の虫を刺激し続ける芳しい匂いの中で、料理が他のテーブルに流れていくのを眺めなければならないのか。この先、間もなく訪れるであろう拷問を前に、ハルの目の前は真っ暗になった。



「ふーん……ご飯食べるところを探してたわけね」

「そうなんです……その希望もたった今打ち砕かれたわけですけど……」

「アタシ、いいお店知ってるよ。安くて早くて美味しい、穴場的なお店」



ニヤ、と笑って少女はうなだれたままの二人を見下ろす。そんな少女が信じてもいない神様に見えたのは言うまでも無い。







◇◆◇◆◇◆◇◆







呆然と彼女は目の前の光景を眺めていた。眼前の、それもほんの少し手を伸ばせば届きそうにあったものが、ホンの一瞬の逡巡のせいで消えていった。そして呆気に取られている今、この瞬間にもまた一つ消えていった。彼女が欲していた物、それらが次々と正面に座る相手によって奪い取られていく。それがひどく悲しいような、そんな気がした。

だがここで諦めるわけにはいかない。気を取り直し、彼女は腹に力を込めて弱気になった自分を叱咤した。そう、諦めたらそこで終わりだ。試合終了だ。試合が終わってしまう前に、残された物を確保しなければ。

彼女は右手を高く振り上げた。そしてそれを、目の前に置かれた物に向かって全力で振り下ろした。鋭く尖った切先が肉を貫く感触。それを指先で感じ、アンジェは高らかに宣言した。



「このお肉は…私のです……!」



皿の上の、わずかに残った肉にフォークを突き刺したままニヤリと笑った。対する少女もまたニヤリと口元を歪め、アンジェのフォークが刺さった肉に同じくフォークを突き刺して対抗を顕わにする。



「そうは……させないよ……!」



カキンッ!

二人の手の中にあるナイフが皿の上で交差する。次いで逆の手にあった、肉に刺さっていたはずの少女のフォークが鋭くアンジェの皿にある、別の肉に伸びた。が、それもアンジェのフォークで防がれる。皿の上のチキンは宙を舞い、二人の両手に握られた銀食器によって皿の上に着地することを許されない。地に着く直前に跳ね上げられ、別の皿に争いの中心が移っている間にのみ落下を許される。

眼にも止まらぬ攻防を二人の少女が繰り広げ、狭い店内のうず高く積み重ねられた皿で囲まれたテーブル上で、一掴みのお肉をめぐる争いが全力で本気と書いてマジと読む勢いで行われていた。



「何やってんだか……」



二人とは対照的なまでに落ち着いて食事を進めていたハルは、そんな様子を眺めて一つため息をつき、丁寧に切り取られた肉を口に運ぶと幸せそうに顔をほころばせた。皿の山に囲まれて。そして残りの二人から気づかれない様にそっと皿を手元に手繰り寄せると、またナイフを肉で綺麗に切り分けていく。



「いくらノイマンとは言え、あそこまで本気で取り合ってくれるなんて料理人冥利につきるってモンさ。まったく、テティには感謝だね」



少女――テティ・アイナに案内されたのは、レストラン通りとは別の、人気の比較的少ない通りに面した店だった。活気こそ大通りには及ばないが、どちらかと言えば落ち着いた、と形容するのが適した通りの端に位置した小さな店。中には円形のテーブルが二つだけ。客はいなかった。

アンジェの手を引くようにしてテティに中へと通されたが、中の様子を見てハルは当初落胆した。静まり返った店内に客の姿は無し。案内されて出てきたのは店主らしき女性だけ。とても味の方は期待できそうに無かったが、空腹のままでいるよりは良いか、とばかりにいつもよりかなり控え目に注文して黙って待つことにした。が、テティの方はそんなハルの様子に気づいたらしく、女主人が奥へと引っ込んだ後にハルの耳元で囁いた。「大丈夫、嘘はつかないから」

果たして出てきた料理は――予想以上だった。想像外と言ってもいい。一皿一皿の分量は全てが皿から溢れそうなくらいに盛られていて、それでいて味の方も思わずアンジェと二人して顔を見合わせるくらいに美味しかった。シンプルな味付けながら丁寧に作られたであろう料理はアンジェを、そして食事にうるさいと自負するハルを満足させるのに十分過ぎる出来だった。

「こちらこそ彼女には感謝しないといけないな。コッチからぶつかったにもかかわらず許してくれて、その上こんないい店まで紹介してくれて。ホント、人生何が幸いするか分かったもんじゃないな」

「ハハハ、ありがとさん。そこまで褒められると逆にこそばゆくなっちゃうからよしておくれ。その代わりにまたウチに食べに来ておくれよ」

「ああ、ぜひひいきにさせてもらうよ」



しかし、とハルは店内を見回し、未だ争奪戦を繰り広げているアンジェとテティを意図的に無視して言った。



「こんだけボリュームがあってうまくて安い店なら、もっと客がいてもいいだろうに。やっぱり皆有名なレストラン通りで飯を食おうとするのかな?」

「ああ、違うんだよ。ウチの店は有名だからね、別の意味で」

「別の意味で?」

「ああ、ウチは客を選ぶからね。――ノイマンしか店に入れないんだよ」



少しだけ声を落とし、アンジェとテティに聞こえない様に彼女はそう話した。



「個人としてはメンシェロウトだろうがアウトロバーだろうが関係ないけどね。でもこの店はノイマンしか相手にしてないのさ」

「だから一皿の量がこんなに多かったのか……」

「ノイマンって奴はみんな大食いだからね。しょうがない事なんだろうけど、食費もバカにならないだろうし、ウチでは良心的な値段で出させてもらってんのさ」

「……理由を聞いても?」



料理を空にし、静かにナイフとフォークをハルは並べて皿の上に置いた。皿の上には何も無いが、ハルはそこを見続ける。

主人は、「面白い話じゃないよ」と前置いて再度話し始める。



「戦争で一番ワリを食ったのは誰だい?」

「誰って……」

「メンシェロウトかい? それともアウトロバー?」

「それは……」



ハルは返事に窮した。女主人が求めている回答は分かる。が、それを口にするのははばかられた。



「アタシはね、ノイマン自分たちだと思ってるんだ」



しかし、彼女ははっきりと口にした。



「戦争の道具として生み出されて、自由を求めてアタシらの先祖は戦いを起こした。その結果、今こうしてアウトロバーの街であるブルクセルで飯屋なんて開けるくらいに好きに生きることができるようになったさ。でも、基本アタシたちはどこに行っても嫌われもんだ」

「戦場で一番相手を殺したのがノイマンだ。メンシェロウト、ロバーにかかわらず……嫌われるのも仕方ない……」



テーブルの下でハルはギュッと拳を握りしめた。

そう、ノイマンは数多くの人を殺してきた。元々戦う者として生み出された自分らは、戦場でしか生きられない者が多数であり、そして戦場で短い生涯を閉じていく。多くの人間と機械を道連れにして。そして自分もまた、この手を、力を駆使して殺める人生を送ってきた。

だから思うのだ。仕方ない、と。

納得はできない。だが理解はできる。メンシェロウトとアウトロバーの双方から嫌われ、それでも尚その現実を受け入れざるを得ない事を。



「分かってるさ。戦争にどっちが良いも悪いも無い。アタシらの身内が殺されたのと同じ様に、アタシらの身内も人様を殺して回ってるんだろうしね。

ただね、お互い様の現実にノイマンだけが責められている様な気がして仕方ないんだよ。

こんなに活気がある街でさえ、ノイマンが就ける職業なんて殆ど無い。ノイマンだってピンキリなのにさ、皆が皆化物みたいな力を持ってると思ってる。だから武器を捨てて堅気な仕事に就こうとしても仕事が無くて、結局力の大して無い、普通のメンシェロウトと何ら変わりのないノイマンさえギルトの依頼を受けて体を張らなきゃいけない。そして命を落とすんだ。何か間違ってると思わないかい?」



もっともな話だ。ハルは心の中でのみ同意しておき、手慰みに皿の上のナイフをいじくる。

それでも、間違っていると断じていいのかハルには判断がつかなかった。職にあぶれたノイマンが生きるためにギルトの依頼を受けるというのもよく聞く話で、そして強盗やモンスターに殺されるという話も同じくらいにありふれている。生きるために、向かない仕事についたのが間違いだったのか、それとも、そうせざるを得ない状況に陥った時点で間違っていたのか。だとすればその原因となるのは、ノイマンと他の種族の関係か、それとも戦争が誤りだったか。

しかし、戦争が無ければ自分らノイマンは生まれなかった。だとすれば戦争否定は自らの否定にもつながりかねない。ならば力なきノイマンとして生まれてきたのが過ちか。

例え、メンシェロウトやロバーとして生まれたら。意味もない仮定をしてまで想像してみる。ノイマンとして生まれなければ、幸せとなれるのか。そんな保証はどこにもない。メンシェロウトとして生まれても死ぬ時は死ぬ。ロバーであっても職を無くし途方に暮れている者もいるだろう。力に恵まれたノイマンだって幸せとは限らない。戦場で散った友や、サリーヴの街で自分が殺した敵の様に。

目の前にあるのは誰にでも平等で不平等な現実で、誰であれその中を生きて行くしか無い。少しでも幸せだと死に際に誇るために。



「まったく、戦争なんて嫌なもんだね。少なくともアタシが生きてる間は起きないで欲しいもんだよ」

「それが自己否定に繋がるとしてもか?」

「自分を認めなくったって生きていくだけならできるのさ。自己を正当化しなきゃ生きられないなんて、そんなくだらない考えはそこらの犬に食わしちまいな。

争いは人をいっぱい殺していっぱい不幸にする。しかも、誰かが死んで一番不幸になるのは本人じゃなくて残されたモンだよ」



女性は未だにアンジェと料理を奪い合ってるテティを見て眼を細める。



「戦争が無けりゃあの娘ももっと幸せだっただろうね」

「テティの親も犠牲に?」

「あの娘の父親がアタシの歳の離れた弟でね、ここよりもずっと北の国で暮らしてたんだ。アタシと弟は母親が別で、弟と言っても数回しか会ったことも無いけどさ、気が弱くてね。戦争に向かないからと言って田舎でひっそりと暮らしてたのさ。それが戦争で死んだ、なんて手紙が終戦間際に来てね。娘がいたのは知ってたし、だからあの娘を引き取りたかったけど行方不明で探す当てもなくて諦めてたんだ。そしたら昨日になって、ボロボロの身なりでひょっこりアタシの前に現れたもんだから、喜ぶよりも先に驚いちまったよ」

「あの小さい子が一人でここまで来たのか?」



北の国というのが具体的にどの程度離れているのかは分からない。だが子供が一人で旅できる様な距離ではないはずだ。そう思ってハルは女性の顔を見上げたが、女性は違う違う、と首を横に振った。



「そりゃいくらなんでも無理な距離さ。

弟の知り合いがテティを助けてくれたみたいでね、彼と一緒に街を巡り歩いてたってあの娘は言ってたね」

「知り合い?」

「そうさね……と、噂をすれば何とやら、だね」



女性の言葉に振り返ると、一つのシルエットが店に入り込む光を遮っていた。人がかろうじてすれ違える程度の狭い入り口だが、そこを一人でほぼ丸々塞いでいる。上端も決して低くはないが、そこを彼は体を少しかがめて中へと入ってきた。

彼の姿が逆光から解放され、その容姿がはっきりと見て取れた。それと同時にアンジェとテティの喧騒も静かになった。

男の顔を見た瞬間ハルは意図せずして立ち上がりそうになった。そうしなかったのは、男の興味がさして自分に向いていなかったからだ。

二メートルは越すだろう身長に、素人目にも分かる鍛えあげられた肉体。盛り上がった筋肉を使えばどんなものでも容易く持ち上げられてしまいそうだ。両手の甲には篭手が装着され、半袖のシャツの上からは旅人用の真新しい防刃・防弾性能を持ったローブをまとっている。堅気な生き方をしている様には見えない、いかにも戦いを生業をしていると分かる体と装備だった。

ハルの眼を引いたのは体つきでは無く、彼の眼と持っている武器だった。

太い眉の下にある、細くも鋭さを合わせ持つ双眸。そこからはどんな感情も読み取れない。それが今だけのものか、それとも何に対してもそうであるのか判別はつかない。だがハルの中の「勘」は彼から危険な香りを感じとっていた。

それと、彼の持つ剣。腰にはローブが揺れるたびに見える剣が備わっていた。だがそれとは別に彼の背には、巨大な何かがあった。彼の巨躯に引けを取らないほどの大きな何か。幾重にも布に覆われてその具体的な何かまではうかがい知ることができない。が、彼の後頭部に位置する十字架にも見える鍔だけは隠しようも無く、十中八九中身が剣であろうとハルは当りをつけた。もっとも、ハルはその鍔部の巨大さに見合った剣など見たことも無いが。



「まさか、な……」



ハルの記憶に新しい、街の入口の惨状を思い出す。鋭利な切り口の中に混じっていた、一つだけグチャグチャの屍体。もし彼の背中にあるのが予想通り大剣であるなら、ああいった芸当もできるのでは無いか。



「ガルトー、おっそいよー」



ハルの警戒をよそに、テティは男に文句をつけると、不満そうに口を尖らせた。



「突然いなくなるから……」

「そこを見つけ出すのがガルトの仕事じゃない?」



中々に無茶な事を言う。そう思ってハルがガルトと呼ばれた男を見るが、ガルトの方はそういう要求に慣れているのか、特に表情を変える事はなかったが、威圧感を醸し出している太い眉が心無し垂れ下がったようにも見えた。



「すまない」

「ま、ちゃんと見つけてくれたから良いけどね」



そう言ってテティはガルトの腰に抱きついた。不貞腐れていた表情はそこには無く、幸せそうに笑みを浮かべている。ハルから見ても二人の仲が悪くないのが分かった。



「次はもうちょぉっっとだけ早く見つけてよ」

「善処する」



その風貌通り、元々多弁なタイプでは無いのだろう。ガルトは短くテティにそう告げると、サラサラのテティの髪を撫でてやり、テティもまた嬉しそうに顔をほころばせた。

そんなやりとりを一通り済ませると、ガルトは視線をテティからアンジェとハルの二人に移して、感情に乏しい声色で尋ねる。



「……誰だ?」

「アンジェと言います。テティちゃんにこのお店を紹介してもらったんです。ね、ハル?」

「ああ、こんないい店を教えてもらって幸運だったよ」



二人からのそんな返答を受け、ガルトは本当か、と問うように腰に抱きついているテティを見ると、テティは本当だよ、とうなずいてみせた。



「感謝する」

「それはこっちのセリフだよ。テティ、案内してくれてアリガトな」



苦笑いを浮かべながらハルが礼を口にすると、テティはガルトから離れて鼻高々に胸を張った。



「ふっふーん。もっと感謝しなさい」

「ああ、感謝してもしきれないな。テティ様、心より感謝しております」

「じゃあさ、じゃあさ。その感謝を形で見せて」

「別にいいけど、どうすりゃいいんだ?」

「ガルトー、ここ座って」



言われるがままにガルトはテティが座っていた席に座る。それまで小さなテティが座っていた所にガルトの様な大男が座ると、その威圧感と違和感はハンパない。正面に座るアンジェの顔はひくついた。

テティはポン、とガルトの膝の上に飛び乗り、そして皿の上に放り出されていたナイフとフォークを握る。



「四人でご飯食べよ?」









◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇









「これは単なる興味だから聞き流してくれても構わないんだが」



テティが席を外したタイミングを見計らってハルはガルトに話しかけた。手元には新しく運ばれてきた皿があり、手は変わらず料理を切り分け、魚の切り身をフォークで口へと運び続ける。



「あんな小さい子を連れて旅をするなんて大変じゃなかったか?」

「そうでもない」



尋ねられたガルトは、手のサイズに合わないナイフとフォークを使って丁寧に料理を食べながら短く答えた。



「でも、途中で野盗やモンスターの相手をしなきゃいけなかっただろ? まあ、アンタ強そうだからあんまり寄ってこなかったかもしれないけどさ」

「いや……それは結構あった」

「でもきちんとここまで辿りつけて良かったです。この街にずっと住むんですか?」



アンジェのその問いに、ガルトは一度ナイフの動きを止めると少し考え、首を横に振った。



「分からない……だが、俺は旅を続けるつもりだ」

「テティちゃんを置いていくんですか? あんなにガルトさんに懐いてるのに」

「テティは……強いから」



表情を変えずにガルトは続ける。



「一緒に行くと言えば一緒に行く。……残ると言えば一人で行く」



変わらず表情も声色も淡々としているが、後半を話す時にわずかにトーンが落ちたのをアンジェは感じた。それに対してアンジェは口を開きかけたが、結局それを止めた。テティの様な子に旅をさせるのは良くない様な気がしたし、かと言ってガルトに旅を止めてテティのそばに居ろ、と言うのも違う気がした。アンジェ自身も旅をしている身だ。目的あっての旅だ。ガルトも何か目的があって旅をしてるのかもしれないし、そこに第三者が、まして同じ様に旅をしている自分が口を出すべきでは無い。



「戦争もいつ起こるか分からない世の中だし、まあ安全な場所にいるのが一番だよな。

いつ街の外みたいな惨状に出くわすかも分からないしな」



話しながらハルはガルトを具に観察した。表情、動き、まとう雰囲気。もし街の外で見たバラバラのモンスターの死体を目の前の大男が作り出したとしたら、何かしらの変化を伴うはず。そして、ガルトがあの光景を作り出せる人間であるなら、彼は危険だ。必ず何らかしらの争いに巻き込まれる。その相手はギルトかもしれないし盗賊かもしれないし、はたまた国かもしれない。もしかしたら、アブドラたちみたいな危険な組織を相手にするかもしれない。そして、あの子がその事を理解しているのか――



「惨状……?」



そんなハルの懸念にガルトは顔を上げて疑問符を浮かべた。ハルと眼が合うが、そこに何の変化も感じられない。何かあったのか。ただ単純にそんな疑問を持っている様だった。



「ハル」



呼ばれて隣を見れば、アンジェが咎める様にこちらを見ていた。ガルトを再度見れば、変化には乏しいものの、眉をひそめてハルを見つめていた。



「いや、何でも無い。忘れてくれ」



微妙な空気になった事を悟ってハルは緊張を緩めた。どうやらガルトが犯人では無いだろうし、これ以上この場で追求するのも意味の無いことだ。

すまない、ともう一度謝罪を口にすると、ハルは食事を再開した。



「何が起きたのかは知らないが……」



ガルトもまたフォークを動かし始め、肉を口に運びながら話す。



「俺はあの子ほど強くは無い」



それはどういう事だ、とハルは尋ねようとしたが、トイレからテティが帰ってきた事で遮られた、



「? どうしたの?」

「いや、何でもないですよー。さ、早く冷めない内に食べてしまいましょう。美味しい時に食べないのは料理と料理人さんに対する冒涜です」

「お、たまにはアンジェも良い事言うじゃないか」

「たまに、は余分です」

「そうか?」

「そうですよ」

「よく分かんないけど、二人って仲が良いよね」

「うーん、そうなんですかねぇ?」

「テティとガルトには負けると思うけどな」



テティの話の興味がずれたことに少し安堵しつつ、新しい話題に乗る。見た目は完全に吊り合わない二人。女主人の弟の知り合い、とガルトの事を言っていたので血の繋がりは無いのだろうが、それにしても仲は良いと思う。二メートルを越す大男と百二、三十センチしか無いテティ。美女と野獣という言葉がつい頭に浮かんでしまう。いや、幼女と野獣か。どちらにしろ保護者と被保護者の間柄を表すには相応しくないが。



「だってガルトってばアタシがいないと何にもできないんだもん。世話焼いてれば自然と仲も良くなるって」

「あははは。テティちゃんがガルトさんの面倒を見てるんですね」

「見た目と真逆なんだな」

「口も下手だからさ。見た目がこんななんだから勘違いされやすいのに、弁解一つもきちんとできないし」

「……誤解されるのには慣れている」

「コレだもん。世話も焼きたくなるっての」



肩を竦めてテティは呆れてみせた。その様子はしっかり者の娘がダメな父親の面倒を見てるみたいであり、どこか微笑ましい。

そんな感想を抱いていると、にわかに店の外が騒がしくなってきた。



「なんだ?」

「お祭りですか?」

「そんな話は無かったと思うけど……」



と、一人の男が店内に駆けこんできた。慌てた様子で息を切らせ、必死に何かから逃げてる様。



「待てっ!!」



続いて押し寄せてくる武装した兵士たち。擦れる金属音をまき散らしながら邪魔だと言わんばかりに、行く手を遮っていたテーブルをなぎ倒して店に入り込んできた。



「きゃっ!!」



男はアンジェたちのいたテーブルを押し倒し、テティを突き飛ばした。そして店の窓を突き破ってまたどこかへと走っていく。ギルトの兵士はテーブルを蹴り飛ばし、粉々に割れたガラスを物ともせずに、男と同じ様に窓枠を乗り越えて外へと消えていった。



「……何だったんだ、一体?」

「さあ?」



嵐が通り抜けていき、呆然と全員が出ていった窓をハルは見送った。後に残されたのは静寂と――



「ハル」

「何だ?」

「下を見てください」



踏みにじられた料理の数々があった。



「ハル……止めたりなんかしませんよね?」

「当然だ。この手で自覚させてやらなきゃ気が済まん。自分が何をしでかしたのか、な」

「ふふ……初めて自分から人を傷つけたくなりましたよ」

「アタシも久々に全力で戦いたくなったよ……今なら許されるとは思わないか?」



ふふふふ、と不穏な話をしながら二人は笑い合うと、先を争うように裏口から外へと飛び出していった。ドアを破壊しながら。



「やれやれ。今日は賑やかな一日だねぇ」



店が破壊されたというのにどこかのんびりとした感想を主人は口にして、壊されたドアと窓を見遣る。

その後ろではテティが険しい表情をして、小さくなっていった二人を見つめていた。










[25510] 第2-4~2-5章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/06/12 20:09



-4-





男は走った。帽子を目深に被り、向かい風に飛ばされそうになるそれを右手で抑えながら走る。

通りを歩く多くの人々の間を抜け、時折ぶつかってバランスを崩しながらもその脚を止めることは無い。ぶつかりはするものの、その際にも腕をうまく使い、体をひねりながら衝撃を吸収していた。まるで何かを壊してしまわないように、注意を払っているかのように。そっと右手を帽子から離し、脇腹の辺りを押さえる。大丈夫、これはそう簡単にイカれてしまうものじゃない。

また一人、婦人とぶつかって小さな悲鳴が上がる。それを男は無視した。今はとにかく逃げること。逃げて逃げて逃げて。さもなければ――自分の命は無い。

後ろから聞こえてくる悲鳴を聞きながら、男は人ごみをかき分けて行った。




◇◆◇◆◇◆


彼は走った。片手にハンドガンを携え、腰には電磁警棒を吊り下げて。走る度にガシャガシャと全身から鎧が擦れる音がする。彼の周りからも似た音が響いている。



「止まれーっ!」



彼の同僚であるギルツェント員の一人が、前を走る男に向かって声を張り上げる。が、当然止まりはしない。そもそも声を掛けただけで止まるようなら男も逃げたりしないだろうし、自分らもこんな大人数で男を追いかけたりはしない。

彼らは走る。ただ真っ直ぐに男だけを追いかける。その行く手に人がいようが物があろうが関係ない。避けることもせず、相手が避けるのを待つ。避けなければ押し退けて通るだけ。相手が善良な市民だろうが高価な物であろうが集団で蹴散らしていく。弾き飛ばされた男性が後ろから怒鳴り声を上げるも、聞く価値も無い。

大昔に海を割ったモーゼがしたように、彼らは人ごみを割って突き進んでいった。



◇◆◇◆◇◆



そしてここにも二人、男を追いかけている者がいた。



「逃がしませんよ~……」



ウフフフ、となにやら怪しげな笑い声をアンジェは上げた。追いかけているのは男なのか、それとも男と同じ様に料理を台無しにしていったギルト員なのかは分からないが、どちらにしろやる事は変わらない。捕まえて謝らせる。自分と、料理を作った女主人に。美味しい料理をダメにした罪は重い。非常に重い。とにかく重い。食事というのはとても大切なものであり、争いのタネになるものだ。そう、だから今自分が追いかけているのは争いを止めるためだ。争いを未然に防ぐには仕方のないことなのだ。

そんな言い訳を自分にしながらアンジェは暴走していた。今まさに争いを引き起こそうとしているのが自分だというのが分からない程度には。

クケケケ、とすっかりキャラの崩れた笑い声を上げるアンジェの隣で、ハルは走りながらため息をついた。

アンジェに釣られて飛び出したはいいが、どうにも追いかけている相手が良くない。集団で店を荒らしていったのはこの街のギルト員であり、最初の男はそのギルト員に追われている。この街はギルトの本部があり、それと同時にベネルクス王国の首都でもある。故に軍としてのギルト、警察機構としてのギルトの両機能を十分に兼ね備えている。だから末端の、依頼受け付け窓口などまで含めるとギルト員は相当で、他の都市と比較にならない。

窃盗や暴行程度であれば一人の逮捕に多くて三人程度。殺人などの凶悪犯罪にしたって駆り出される人数はそう多くはならない。ここがブルクセルであることを加味しても、だ。

にもかかわらずあの男は二桁に届こうかというギルト員に追われていた。そして今も数人、目の前で合流した。それは取りも直さずあの男がそれだけの事をしでかした、と言う事。もしくは――



(何としても捕らえなければならない、何かを持っているか、ってところか……)



いずれにしろ、巻き込まれれば待っているのは厄介事。深々と再度ため息を吐き出し、未だにおかしな笑いを続けるアンジェを見下ろした。



(面倒はホントに御免なんだが……)



だが腹が立つことは立つ。

私は忘れない。あの、ぶちまけられた料理!踏みにじられたお肉!床に転がった、幸せにしてくれるスープを!あの味を!

面倒事に巻き込まれずに、このどうしようもないこの怒りを発散させる方法はただ一つ。



「……邪魔だな。

アンジェ」



小さくつぶやくとハルはアンジェに声を掛けた。そしてハルの方に振り向いたアンジェに向かって問い掛ける。



「あの男を殴り飛ばしたいか?」

「一発くらいは許される気がします」

「ギルトの奴らに一泡吹かせてやりたいか?」

「あの人達は自分の犯した罪の深さを思い知るべきなのです」

「なら……いくぞ!!」



語気を強めると同時にハルの体が一段と低く沈む。ギアが変わり、走っていた脚の回転速度が明確に変化した。

地面を踏みしめる音が増加し、前を走っていたギルト員との距離がみるみる縮まっていく。そして手を伸ばせば届く距離に達した時、ハルは跳躍した。



「が!」

「よっと」

「へぶっ!?」

「おっと」

「ぶべらっ!?」

「悪い」



男たちの背中を蹴り、肩に乗り、頭を踏みつけると、そのままハルは脇に立ち並ぶ民家の屋根を走った。



「貴様!!」

「悪いな、先に行かせてもらうぞ」

「誰だ! 名前を……」

「ハイ、失礼しますね~」



一人がハルに向かって怒鳴り声を上げるが、今度は男の足元をアンジェが走り抜けた。密集した男たちの足元を縫うように、だがぶつかること無く狭い隙間を駆け抜ける。



「お、おいっ!」

「お先に失礼しま~す」



静止の声が掛かるが、アンジェは後ろ手に掌をヒラヒラと振ってそのまま走り続けた。

ギルト員たちは、その闖入者を呆然と見送りながら惰性で脚を動かし続けた。







◇◆◇◆◇◆







「……ふぅ」



いくつもの細かい路地の角を曲がり、人気の無いところまで到達したところで男は一息ついた。深々と被っていた帽子を取り、そして慌てて辺りを見回した。周りには誰もいない。人影は無く、通りの喧騒は遙か遠く。追いかけてきていたギルトの連中は完全にまいたらしく、近づいてくる気配も無い。



「……クソッ! あのクソババアが!」



追っ手が来ないことに安心したか、男の口からはそんな罵倒の言葉が漏れる。

最近、「狩り」が行われているのは知っていた。この街に限らず、周辺の都市でも密やかに、だが大胆にメンバーが逮捕されている。つい先日、この街にやってきた男もそんな事を言っていた。どうやら、ロッテリシアのババアが本腰入れて調査・殲滅を始めたらしい。

まったく、どこから漏れたのか。男は呼吸を整えながらこの街に来てからの自分の行動を思い返してみたが、心当たりは無い。一度も組織の名前を口にしていないし、ただ近々どこそこの街でこういう作戦が行われたらしい、という話を聞いただけだ。となれば、この街に来る前の行動から漏れたのか。どこから漏れたのかは分からないが、人の口に戸は立てられないと言うことなのだろう。もしくは、隠しきれない程に自分らの組織の規模が大きくなったということか。



「にしても、末端の人間にあの人数はやり過ぎだろう……」



自分は単なる構成員の一人に過ぎない。実際の規模がどの程度の組織なのかも知らないし、どこに本部があるのかも分からない。ギルト側はそんな事は分からないのだろうが、そうだとすると、ギルトはまだ何も知らないのだろうし、だからこそ自分の様な人間にもあれ程の人員を割いているのか。どんな些細な情報でも手に入れる為に。



「何にせよ、はええトコこっから……」

「逃さねーよ」



頭上から掛けられた声に、男はハッとして見上げる。

ハルはヨッ、と声を上げると屋根の上から地面に着地し、それと同じくしてアンジェも脇の路地から姿を現した。

小さく舌打ちをすると、男は帽子を被り直して周囲を探る。どこか脱出する場所は無いか、二人から眼を極力離さずに逃亡ルートをシミュレートする。



「ムダだよ。逃げ場なんてねーよ。観念しな」



そんな男を制する様にハルは声を掛ける。男はハルから眼を逸らし、アンジェを見遣った。自身が逃げてきた通路はアンジェにすでに封鎖されていて通行不可。今いる場所が袋小路であることに気づき、冷や汗が眉間を伝った。

背中の金網が音を立てる。ここを登って逃げるか。いや、無理だ。登ってる間に捕まってしまう。



「観念して、おとなしく殴られろ」

「……は?」

「は、じゃないです。あんなにおいしい料理を台無しにしちゃって……」



何やら物騒な事を突然言い出すハルと、訳の分からない事をブツブツと呟くアンジェ。よく理解はできないが、男はやはり逃げた方が良さそうだ、と金網に手を掛けた。

が、金網の向こうから聞こえてくるいくつもの足音が男の耳へと届いた。程なくして男が逃げてきた方からも足音が響き、遠くから「見つけたぞ!」という声も聞こえてきた。

最早これまでか。男の歯がきしんだ。

もう一度舌打ちすると、男は上着の裾をつかんだ。その行動に、やや緊張に欠けていたハルとアンジェも身構える。



「お前ら! さっきの……!」

「そんなのは後だ」



ハルは駆けつけたギルト員の声を制した。その声色に、ギルト員たちも男の様子が異なる事に気づいて体を強ばらせる。

男はスッ、と上着の裾をめくった。そこにはぎっしりと体中に巻きつけられた爆弾があった。

「……!」



瞬間、これまでにない緊張が辺りに走った。微かなどよめきがハルの耳にも入る。

一発がどの程度の威力を持つか、全てが爆発すればここら一帯は間違いなく壊滅するだろう。そうなれば自分たちはもちろん、付近に済んでいる住人たちもただでは済まない。

いや、それだけではない。ギルトの本部があり、ベネルクス王国の首都であるこの街で起きる爆発事件。その事実だけで多大な影響を及ぼしかねない。



「……どうしますか?」

「……我々の扱える範疇を越えている。上に判断を仰ぐしかないだろう」



息苦しい緊張の中で尋ねてくる部下に、上司に当たるギルトの男は応える。そう、自分らに扱える事態を越えている。下手に刺激して、爆破でもされたら目も当てられない。もっとも、爆発したら当てる眼も無くなるだろうが。



「動くなよ、動いたらすぐに爆破させるからな……」



そう言って男はポケットからスイッチらしき物を取り出すと、この場にいる全員に見えるよう高々と見せびらかせる。

上司の合図を受けたギルト員の一人が、そっと場を抜け出そうとジリジリ後ろへさがる。



「そこっ! 動くなっつったろーがぁっ!!」



だがその動きも男にバレ、怒声によって牽制される。大声を出した後に、フー、フー、と荒く息を吐き、目の前にスイッチを掲げながら周囲を睨みつけた。



「もう一度言うぞ……次動いた瞬間、爆破させるからな」



にもかかわらず、ハルはアンジェの隣まで歩いて行く。



「おいっ! お前……」

「なあ、アンジェ。左腕のバッテリーって十分か?」



男の怒鳴り声を無視し、ハルは控え目な声で尋ねた。



「突然ですね。十分ですけど、どうかしましたか?」

「どうしましたかって……鈍いな、お前。状況考えればそういう事だよ」

「分かりませんよ。だからどういう事ですか?」

「あぁもう、メンドクセーな……お前の左手には何が付いてる? そういう事だよ」

「左手……ああ、スタンガンが付いてますけど?」



普通にアンジェの口から出てきた言葉に、ギルト員からはざわめきが、男は警戒を強め、ハルは頭を抱えて天を仰いだ。



「えっ? 私何か変な事言いました?」

「もういい……もういいから黙っててくれ……」



深いため息を、状況がよくつかめていないアンジェに吐きかけると、ハルはヤケクソ気味に大事そうにスイッチを胸の前で抱えている男へと話しかけた。



「というわけで、今からコイツがお前をスタンガンで気絶させるから」

「宣言していいんですか?」

「いいんだよ。お前はタイミングだけ図ってろ」

「ち、近寄るなよ? 一歩でも近づいてみろ、そうすればお、俺は迷わずスイッチを押すからな?」

「あ? 何を押すって?」

「爆破スイッチだ!」

「んなモン、どこに持ってんだよ? 良く見えねーな」

「だから!! ココに……!!」



明らかにおちょくった言い方をするハルに、男はついにキレて、怒鳴りながら右手の中にあったスイッチをハルに見せつける様に前へと突き出した。その瞬間、小さな破裂音を立ててスイッチが粉々に崩れ去った。



「っ……!」

「アタシには見えねーな」



銃口から硝煙を漂わせ、ハルはそう言い放った。

そしてそれとほぼ同時。男の手からスイッチが壊れ落ちるのを見届けるまでもなく、アンジェがハルの隣から飛び出す。ハルの放った弾丸がスイッチと男の掌を撃ち抜き、その血が滴り落ちるよりもずっと速く、アンジェは懐へと潜り込んだ。

左腕が上腕半ばから折れ曲がり、そこから二本の電極が顔をのぞかせる。撃ち抜かれた右手を抑える男の、無防備になった首筋に狙いをつけ、電極を押し当てると電圧を調整した。



「がっ……!」



男は一瞬だけ体を震わせ、だがすぐに力無く膝を折るとそのまま意識を失った。



「お疲れー」

「お疲れ様ですー」



意識を失った男をそっと地面に寝かせると、二人はハイタッチをして労う。



「こういう時は空気読めるのにな、お前」

「その言い方だと私がいつも読めてないみたいじゃないですか」

「少なくともさっきは読めてなかったけどな」



まあいいか。いつも通りむくれるアンジェの頭を二、三度ポンポン、と叩くと銃をマント下のホルスターに仕舞って踵を返した。



「んじゃ、ま、スッキリしたところで飯でも食い直すか?」

「そうですねー。あ、そういえばテティちゃんたちを置いてけぼりでした!」

「もうすぐ日も暮れるし、別の店を探してみるのもいいかもな。テティとガルトに相談してみるか

あ、お勤めゴクローさん」



二人とも会話しながら、何事もなかったかの様にその場を立ち去ろうとする。

が――



「おとなしくしてもらおうか」

「ハイ?」



取り囲まれたギルト員たちに銃を向けられて、うなずくしか選択肢は残されてなかった。











-5-











ユーロピアと呼ばれる地方は基本的にアウトロバーの国々である。国によって程度の差はあれ、アウトロバーを中心とし、一、二割程度のメンシェロウトとノイマンで人口は分布している。大小多くの国がこの地方に形成されているが、それぞれの国は多くの都市国家の集合であり、緩やかな連合国とも言える。したがってそのほとんどが共和制を取っており、各都市国家から選出された議員たちで国の方針が決定される。が、都市国家の権力は強く、国としての権限は都市にまで及んでいない。それがアウトロバーの国々の一般的な状況であって、その状況は建国以来大きな変化は無い。

そんな中でベネルクス王国は数少ない王制を取っている国だ。国土こそさほど大きくないものの、都市化を推し進めての高成長と高い軍事力、そして最も古くからあるアウトロバーの国であるためユーロピア連合の盟主として存在している。自然、各国からの人や文化の流入が多く、都市としての発展を未だに続けていた。

ブルクセルはそのベネルクス王国の首都であり、最大の都市でもある。巨大な城門をくぐってブルクセルに入り、まっすぐに続く幅広のメインストリートを突き進めば国王の住まう城が街を見下ろしている。およそ300年前に建築されたそれは見た目にも古く、だが確かな威厳を持って街に存在していた。

だがその隣。王城と遜色ない歴史を持った建物。造りも城と変りなく、しかし王城よりも遙かに巨大で豪華な城がそこにはあった。

ギルツェント本部。それがこの建物の名称である。



「あ、ハル! こっちです!」



石造りの本部内の廊下でアンジェは高い天井をマジマジと見上げていたが、向かいのドアからハルが出てきたのを認めると声を張り上げた。ハルは軽く手を上げてアンジェに応えると、ドアを開けたギルト員を睨みながらアンジェにぼやく。



「クソッ、アイツ思いっきり手錠を引っ張りやがって。まだヒリヒリしてる」



手錠の痕が残る手首をさすり、アンジェに向かってそれを見せてくる。ハルがぼやくとおり、くっきりと痕が残っている。



「抵抗するからですよ。おとなしくしてれば手錠も掛けられなかったのに」

「まさかこの街でギルトに捕まるとはなぁ……」



余計なことをするんじゃなかった、とハルは肩を落とす。が、アンジェは胸を張って誇らしげに主張した。



「料理を大切にしない人は成敗すべきです!」

「お前は気楽でいいな……」



そう言って深々とため息を吐き出す。ああ、また幸せが一つ逃げていった。



「こっちだ」



二人を拘置室から出したギルト員が二人の会話を遮った。付いて来るよう居丈高に告げると、二人に背を向けて豪華な廊下を奥に向かって歩き始め、アンジェたちもまたその後ろに従う。



「ギルト本部って初めてですけど、すごい大きいんですね。いつも依頼受けるところをイメージしてましたよ。それよりも少しだけおっきいくらいの」

「大きすぎるとは思うけどな」

「造りもお城みたいですよね? やっぱり隣の本当のお城に合わせたんですかね?」



尋ねてきたアンジェにハルは首を横に振る。



「違うな。お城みたい、じゃなくて本当に城なんだよ、ココは」

「元々こっちに王様が住んでたって事ですか?」

「いや、できたのはコッチの方が後だ。わざと作ったんだよ、王の住む城の隣に。それも王の城よりも巨大で豪華な物を。まったく、いい根性してるよ」



装飾が施された天井や柱を見ながらハルは吐き捨てる。



「建てた時のギルトのトップが誰かなんて知らないけど、よっぽど周りに主張したかったんだろう。この国のトップは誰か、ってな」

「見栄っ張りだったんですね」

「さて、ね。ま、実際ギルトの方がこの国よりも力を持ってたのは間違いないな。じゃなきゃ王宮の隣に王宮より大きな建造物を作るなんて認められるわけがない。そしてそのまま今も残ってるって事は、今もその力関係は変わってないんだろ。ユーロピア最大の強国であるベネルクスよりも強いって事だ」

「へえ……じゃあギルトの偉い人って王様よりも偉いって事ですよね? そんな人が私たちに何の用なんでしょう?」

「さあね。メンツを潰された苦情でも言いたいんだろ」



アンジェは疑問を口にしてハルの顔を見るが、ハルは適当に応えて肩を竦めてみせた。

組織が力を持てばそれだけ組織としての体面も意味を持つことになる。ギルトの面々を妨害し、先んじて犯人を捕獲という事はギルトのメンツを潰した事になり、例えちょっとした冗談のつもりであっても許されない。さすがに特別な処罰はないだろうが、灸を据える意味でも数日間は拘束される。

それがたった一晩で拘束が解かれ、あまつさえ自分らに会いたい、ときた。アンジェはあまり気にしていないようだが、おそらくまともな用件ではないだろう。最初以来まったく口を開かない、案内役の男の背中を見ながら密かに警戒をハルは強めた。

どれほど歩いただろうか。アンジェたちを連れて一言も言葉を発しなかった男が立ち止まり、二人に道を譲った。



「くれぐれも粗相の無いように」



それだけ言って再び男は黙した。

アンジェたちの目の前にあったのは、城のサイズに見合った大きな扉だった。天井の高さと相違無い程度の重厚な扉。厳かな装飾が二人を見下す。



「まるで王様だな」



事実、そうなのだろう。アンジェに伝えた様に、ギルトのトップは国のトップの力を容易く上回る。ならば王様という呼び方も強ち間違いでは無いか。

手を伸ばしてドアを押し開ける。ギギギ、と音を立て、ずっしりとした重さを持ったそれが少しずつ開いていった。

開いて入ったその部屋はまさに王の間に相応しい部屋だった。ドアから一直線に赤い絨毯が敷かれ広い部屋の両側の壁には名画であろう大きい油絵が掛けられている。その絵を辿っていくと、やがて歴代のギルトのトップの肖像画に行き着く。窓にはステンドグラスが嵌めこまれ、太陽の光がそこを通過して色とりどりの明かりを部屋に届けていた。



「ほえ~……」



まるで昔の大聖堂みたいだ。どこかの街で見た観光名所の教会をアンジェは思い出して感嘆の声を漏らす。築年数はすでに数百年。綺麗に磨かれた壁は年月を感じさせず、だが染み付いた汚れが逆に重々しさを醸していた。

アンジェが見とれる様に部屋の中を見回しているその隣を、ハルが通り過ぎる。アンジェを隠すように前に出ると同時に正面から楽しそうな声がアンジェの耳に届いた。



「おやおやぁ、誰かと思えば懐かしい顔をした人間がいるじゃないか」

「……風の噂では聞いてたんだけどな。やっぱアンタだったか、ロッテリシア・ペルトラージュ」



対照的にハルは声に忌々しげな色を多分に込めて応えてみせる。表情は見えないが、きっとまた眉間にシワを寄せてるんだろう。アンジェは不安に眉尻を下げる。



「なんだ、嬉しく無さそうだな。せっかくの再会だ。もっと喜べよ。

なあ、『魅入られし兵隊』アフィールド・リーパー













[25510] 第2-6章
Name: 新藤悟◆dafe0426 ID:649407b9
Date: 2011/07/21 14:45


-6-







各都市をその名前で呼ぶ時、大抵はその都市国家の中心部、とりわけ城壁で囲まれた土地の事を指す。城壁の外の場所を呼称する時は「サリーヴ北部郊外」「スピールト南部郊外」というふうに呼ばれ、城壁の外では野盗や異常繁殖したモンスターの脅威にさらされることも珍しくはない。内と外は明確に区別され、住居や安全性などの面で大きく異なる。

ブルクセルもまた他の都市国家と同じく四方を高く強固な城壁で囲まれている。しかし他の都市と異なるのは、ブルクセルという呼び名はブルクセル全体を指し、城門の内側のみを表す点にある。ゆえに城門の長さは他の追随を許さないほどのスケールになり、「都市国家」としては面積は狭いものの、「都市」としては膨大な広さを誇る街でもあった。そしてだからこそ、都市の内側であっても街の発展度合いが異なる場所が生まれてもくる。



「おっせぇな……」



その都市の内側、街の中心部からの距離を考えると他の都市ならば十分に郊外と呼ばれる程度遠くのアパートの前で、アンジェとハルは人待ちをしていた。都心の喧騒も遠く、それなりの広さのある通りだが人の姿はポツリポツリとしかいない。通りの向かいには寂れた飲食店、背後にはくたびれたアパートがあり、ハルはタバコを吸って時間を潰していた。



「遅いですね」

「まったく、依頼しておいて人を待たせるとはホントいいご身分だよ、アイツは」

「まー実際いいご身分の人ですからね」



腕時計を見ながらつぶやいたアンジェに、ハルは小さく舌打ちして応じる。ハルにしては珍しく不機嫌な様子を隠そうともしておらず、タバコの煙を勢い良く吐き出した。

後ろのアパートの玄関が開き、昨日に聞いた依頼対象かと思って二人は振り向いたが、出てきたのはやせ細って覇気の無い壮年の男で聞いていた人物ではない。軽く息を吐いて男からハルは眼を離す。男は通りすがりにジロ、とハルの方を見て行ったが、ハルが睨み返すと何も言わずにどこかへと向かっていく。



「だいぶイライラしてますね。そんなにあのギルトの長さんが嫌いなんですか?」

「アイツを好きな奴がいたらぜひともココに連れてきて欲しいもんだ。何より、アイツに良いように使われてるのがムチャクチャむかつく」



短くなったタバコを握りつぶし、持っていた灰皿へ詰め込みながら、ハルはすっかり癖になったため息を深々とついた。







◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆









「なんだ、嬉しく無さそうだな。せっかくの再会だ。もっと喜べよ。

なあ、『魅入られし兵隊』アフィールド・リーパー



玉座に座り、頬杖をついたロッテリシアが幾分しわがれた声でその名前を口にする。それとほぼ同時に、顔の横に一本のナイフが突き刺さった。玉座の背もたれに刺さったそれは奥深くまで達し、だがロッテリシアは微動だにせず、楽しそうに笑った。

そばに控えていた、おそらくはロッテリシアの護衛と思われる女性ギルト員たちが色めき立つ。ギルトの武装に疎いアンジェが見ても高性能さが伺える銃の安全装置を外し、腕から剣を顕す。ハルは彼女らを一睨みすると、自身もマントの下に隠しているホルスターの銃に手を伸ばし、一触即発の緊張が立ち込める。突然のハルの凶行とも思える行為と、瞬く間に変わった空気にアンジェはどうしたものか、とあたふたと互いの顔を繰り返し見る。

しかしその空気もマイストラムであるロッテリシアが軽く手を上げた事で弛緩した。

合図を受け、女性ギルト員は武器を自分の体の中に収め、それを見てハルもまた銃に掛けていた手を元の位置に戻す。冷や汗を掻いていたアンジェは、ハルの後ろでそっと胸をなで下ろした。



「いきなりご挨拶だな。せっかく可愛らしい顔をしてるんだ。もっとお淑やかにしたらどうだ?」

「お前がキチンとアタシの名前を呼べば、アタシもおとなしくしてるさ。『壊れた機械』アンタッチャブル・イェーガー

「そうか、それは失礼したな。それでは改めて再会を祝そうじゃないか。アフィールド・リーパー」

「……」

「冗談だよ。だからそう睨むな、ハル・ナカトニッヒ。かわいい顔が台無しだぞ?」



先ほど投げつけたものよりも一回り大きい、例え相手がロバーであっても傷つけることが可能そうなコンバットナイフを無言で手に取るハル。ロッテリシアはわざとらしく肩を竦めた。



「あのぉ……」



友愛と拒絶。いや、互いに拒絶しているのか。ロッテリシアの口調にそぐわない雰囲気の中でアンジェは二人の会話に割って入った。



「お二人は知り合いなんですか?」



友人ですか、とは尋ねない。ふざけてそう尋ねるには、ハルのまとう雰囲気が重すぎた。とりあえず間違いではないだろう疑問を口にし、アンジェは玉座の上のロッテリシアを見上げた。

座っているのでよく分からないが、特別大きな体では無い。身長はハルと同じくらいだろうか。肩から伸びる真紅のマントが上半身を覆い隠し、右手だけは隙間から伸びて頬を支える杖となっている。暗い色のズボンで覆われた長い脚は、頬杖と同じく尊大に組まれていた。髪は長く、ウェーブの掛かったややくすんだ金髪にいくつもの傷が顔に走っている。口元には薄く笑みが浮かんでいて、一見機嫌の良さを伺わせるが、アンジェはそうは感じ取れなかった。

目元は細められ、口元同様に笑みを浮かべているようにも見受けられるが、その奥に垣間見える視線はアンジェに対する友愛の情とは異なる。冷たい、品定め。その瞳を見た途端、アンジェは射すくめられたかの様に寒気を感じた。



「ちが……」

「そうだよぉ、アンジェ・ユース・エストラーナ」



露骨に顔を顰めて、ハルは自分の後ろにいたアンジェに否定の返事をしようとした。だがそれをロッテリシアは遮って、楽しそうに話し始めた。



「私たちは長い付き合いでね、初めて顔を合わせたのが十年前だ。そこから数えきれないほど間近でナカトニッヒの顔を見たよ。吐息がかかるほどの距離でな」

「えっ!?」

「誤解を招く言い方をするな。戦場以外でお前に会うのはこれでまだ三回目だ」

「一回目は上官と部下雇い主と傭兵で、二回目はお前が捕虜となって捕まった牢屋の中だったな、確か。あの頃のお前は可愛かった。いつもギラついた眼をして、そのくせ戦場で顔を合わせる度に瞳には絶望しか映っていなかった。そんなお前が私は大好きだった」



ロッテリシアの眼がスッ、と細められる。顔がわずかに上向き、だが視線だけは階段を挟んで低い位置にいるハルヘ向けられていた。



「――殺してやりたいくらいにな」



憎しみと侮蔑と嘲りが入り混じった、女性にしては低くかすれた声が届く。底冷えをする寒さが、直接向けられてはいないアンジェに触れ、アンジェは知らず一歩後退った。

ハルは真っ向から見下してくるロッテリシアを睨み返し、静かに言い返す。



「アタシはお前が大嫌いだ」

「フッ……嫌われたものだな。私としてはお前を愛してやまないというのに。

まあいい」



頬杖を外してロッテリシアは立ち上がった。ユラリ、とマントが揺れ、その下からは金属が擦れる音が広大な部屋に響く。

何を、とハルは身構えるが、ロッテリシアは軽く微笑みながらハルに目配せをする。そして次の瞬間にはハルの視界からその姿を消した。



「これがお前がツバをつけた娘か。中々可愛いじゃないか」

「なっ!?」



背後からのロッテリシアの言葉にハルが振り向くと、そこにはアンジェの顎に手を掛け、その顔を覗き込むロッテリシアがいた。二人からはロッテリシアが突如消えて、そして突如現れたようにしか見えていない。ハルは動きを捉えられなかった事に驚きを顕わにし、アンジェは突然の事態を理解できず、呆然としたままにロッテリシアの吐息を受けていた。



「少々幼いのが気になるが、悪くない素材だな。

ふむ……ナカトニッヒ」

「……何だよ?」

「もうこの娘を食ったのか?」

「ふぇっ!?」



記憶が無い、といえどもアンジェとて記憶を亡くしたまま何年も過ごしている。当然そう言った知識についても、多少乏しくはあるが意味を理解できる程度には持っている。顔を赤くして、アンジェは慌ててロッテリシアを押し退けた。



「い、いえっ、私は、その、の、ノーマルですから……」

「何だ、まだ食ってなかったのか? 何なら私が貰ってやろうか?」

「ええええっ!?」



クィ、とアンジェの顎を上げさせて、ロッテリシアは怪しく笑う。より一層顔を近づけ、アンジェの唇に生暖かい吐息が掛かり、ロッテリシアの口の端に牙を見たような気がして、アンジェは知らず喉を鳴らした。

近づく唇。赤くなる顔。

掛かる吐息。響かんばかりに高鳴る胸。

捕らえられたアンジェ。捕まえて離さないロッテリシア。

観念してアンジェは顔を真赤にしたままギュッと眼をつむった。



「……おやおや」



ロッテリシアは愉快気な声を発して、顔をアンジェから遠ざけた。



「冗談が過ぎたようだ。殺し合いになる前に手を引かせてもらおう」



クルリと踵を返し、ロッテリシアは元の玉座に戻って行く。その後ろ姿をアンジェは赤い顔のまま、ハルは銃口をロッテリシアに向けたまま見送る。



「さて、と」



真っ赤な玉座に腰掛け、また元の様に膝を組んで頬杖をつく。



「再会を喜ぶのもここらにして、そろそろ本題に入ろうか」

「お前が一方的に時間を使っただけだがな。いい迷惑だ」



不機嫌な様子で吐き捨てるハルにアンジェは苦笑した。ロッテリシアの方は浮かべた笑みを崩さずに手を上げて控えていたギルト員に合図する。



「何だよ、コレ?」



二人の女性がそれぞれ紙を取り出して、アンジェたちに手渡す。つらつらと書かれた都市の名前と年月。そして――右端に書かれた犠牲者の数。リストは上から古い順に並べられていて、古くは数十年前までさかのぼっている。アンジェとハルは上から下へと目線を動かし、やがて最後の行に達した時、短く息の詰まった様な声を発した。



「サリーヴ事件……」



ユーロピア南部の巨大都市サリーヴで起きたビル爆破事件。万に近い犠牲者を出した事件の容疑者は全員死亡。容疑者たちはみなメンシェロウトで、過去のメンシェロウトの覇権を再び取り戻すために無差別の爆破テロを行った、という記事をハルは思い出す。そしてアンジェもハルも、それが真実とは程遠いであろう事を知っていた。

記事では事件の内容が短く簡潔に述べられて、紙面の残りは犯人たちを「現実を直視できない夢想に踊らされた愚か者の集団」として嘲笑う内容だったのをはっきりと憶えている。

アブドラを撃った男にアンジェとハルが倒したノイマンたち。彼らは明らかにアブドラとは毛色が違った。かと言って個人的に彼らがアブドラと行動を共にしていたとも思えない。恐らくは、アブドラの背景にはアブドラたちを支援していた何かしらの組織がいたのだろう。



「ある組織が関わっていたと見られている事件の一覧だ」



ロッテリシアは姿勢を変えないままに、二人にそう告げた。



「規模・本拠地・構成員など主な情報は不明。いつ設立されたのかも何を目的としているのかも一切分からん。そこに書かれている事件も、あくまで推測だ。単に関わっているだけの事件はもっとあるかもしれんが、とりあえずは確度が高い事件だけを並べている」

「名前も分からないのか?」



ハルの質問にロッテリシアは「いや」と否定を口にする。



「名前は分かっている。と言っても、分かったのはごく最近だがな。

組織の名前はユビキタス」

「ユビキタス……」

ユビキタスどこにでも在る、か。中々どうして、実態を表してるいい名前だな、ペルトラージュ。それで、ユーロピア最大軍事・警察機構の長たるお前はどうするんだ?」

「無論、潰す」



皮肉げに笑いながら問いかけたハルに、ロッテリシアは嘲笑うように鼻を鳴らすと、眼を鋭く細めてそう言い放つ。

「だが」ロッテリシアは表情を緩める。



「組織の性格によっては共存も考えている」

「そんな!」



ロッテリシアの言葉に異論を唱えたのはアンジェだった。

アンジェはアブドラの心が悲しかった。想いが辛かった。追い詰められた感情が苦しかった。報われないと知っていて、心は晴れないと分かっていて、それでもなお、ああしなければいけなかったアブドラの存在が狂おしかった。

戦争が無ければ。争いが無ければ。誰かが理不尽な目に合わなければ、世界は優しく回り続ける。なのにその調和を壊す奴らが居る。争いの火種を撒き散らす奴らがいる。

自身からこみ上げる「何か」。アンジェ自身の心のどこかに巣食ったそれがアンジェをけしかける。それをアンジェも止めようとしない。

争いを許容できず、闘争を許容しない。

世界の調和を保つ責を持つギルトのトップであるロッテリシアの言葉を、アンジェは認められなかった。



「アンジェ」



アンジェの肩に手を掛け、ハルが呼びかける。諌める様な、気遣う様な響きを以て名前を呼ばれ、アンジェはハッと我に返ると「ゴメンナサイ」と小さく謝罪して視線をロッテリシアから逸らした。



「ふふっ……可愛いやつだな。世の中の汚れを知らない無垢なところがまた良い。つくづくナカトニッヒの物な事が惜しまれる」

「違いますっ!!」

「そんな話はどうでもいい。

で、こんなモンをアタシらに見せてどうしようって言うんだ?」



ヒラ、とロッテリシアに向けて紙を突き出す。ロッテリシアは楽しげに笑い、「依頼したい」と口にした。



「依頼?」

「そうだ。別におかしな事ではないだろう? ここはギルトで貴様たちの実力は知っている。信頼できる相手に依頼をするのは当然だ」

「信頼、ねぇ……」



胡散臭い話だ、とハルは内心だけで吐き捨てた。目の前の相手の「信頼」など、とてもじゃないが信じられないし信じたくもない。そんなハルの心の中を知ってか、ロッテリシアはニヤニヤと笑みを浮かべているが、それがまたハルの癪に障る。だから話の続きをさっさと促した。



「それで、アタシたちに何を依頼するって?」

「何、簡単な依頼だ。オシメの取れないクソガキでもできるモンさ。貴様なら人を殺すよりも容易くできる程度の依頼だよ。それこそ、そこの無知な娘でもできるだろうな」

「余計な御託はいい。さっさと話せ」

「そうせっつくな。

明日、ウチの職員がのアイントヘブンの街へ向かう。彼女の護衛を依頼する」

「……ただの観光ってワケでも無さそうだな」

「モチロン仕事だよ。それもギルト肝いりのな」

「その人って重要人物なんですか?」



アンジェの質問にロッテリシアは口だけを動かして否定する。



「彼女は単なるウチの職員だよ。少々特徴的だがな」

「にもかかわらず護衛を依頼する。しかもギルトでは無く外部に依頼する形で。という事は相当ヤバいモンをそいつは持ってるって事か」

「いい読みだ。流石だな。まあ無駄足に終わるかもしれないがな」

「どういう事だ?」

「ユビキタス、という組織はこれまで存在すら知られていなかった。あれだけ事件に関わっているにもかかわらず、だ。組織の規模自体が小さかったからか、それとも徹底的に存在が隠蔽されてきたからかは知らんがな。

だが状況が変わった。以前には組織員の事も一切把握出来ていなかったが、最近になって少しずつ構成員の場所を突き止める様になってきていてな、情報を得られるようになっているんだよ。貴様たちが昨日捕まえた男がいただろう? あの男もユビキタスの人間だ」



所詮下っ端だったがな。

その点についてはロッテリシアも期待してはいなかったのだろう。アンジェが驚きの声を上げ、ハルが眉間にシワを寄せるが、そう言い放つロッテリシアの表情は変わらない。



「ギルトとしてはユビキタスの情報なら何でも欲しくてな。丁重に・・・ご協力を願ったんだが、大した情報は得られなかった。せいぜいこの街に住む下っ端構成員の居所を知っていた程度だったよ」



何事も無さそうに話すロッテリシアの顔を見て、アンジェの背筋に怖気が走った。隣のハルを見ると、ハルは眉間にシワを寄せて険しい顔をしたままだ。

言葉の裏を読むことが苦手なアンジェでも理解した。いや、理解させられた。昨日捕まった男も、そして男から得た情報で判明した「ユビキタス」の構成員たちも恐らくは生きてはいないであろうことを。確証は無いが、アンジェはそれが事実であろうことを何となく確信していた。

それを指示したであろうロッテリシアは口元に笑みを浮かべたまま。なのにその笑みが凄惨なものにも見える。なるほど、とアンジェはハルが彼女を嫌う理由に得心した。



「一人見つかれば芋づる式にあぶり出せると思ったんだがな、やはりそうもいかないらしい。捕まえた奴らだけでグループは完結していて、それ以上繋がりは見つからなかった」

「だけど、新しい構成員がアイントヘブンの街で見つかった」

Genauその通り



鷹揚にロッテリシアは頷く。「そこで、だ」と言葉を続けながら組んでいた脚を組み替える。



「明日ウチの職員を派遣してな、ぜひご協力願おうと思ってな」

「ハッ! 今度はどんな拷問をするんだ? 指を切り落としながらか? それとも水責めか?」

「いやいや、そんな恐ろしい事は私にはできんさ。ただ知っている情報を教えてもらうだけよ」

「どうだか」



わざとらしく肩を竦めて見せるロッテリシアに向かって、ハルは侮蔑を込めた返事を返す。それにまたロッテリシアは小さく笑い、ハルは舌打ちをする。



「ユビキタスという組織の規模も力も分からんからな。ここまで情報を隠蔽して何十年も暗躍してきた奴らだ。奴らとしても情報が漏れるのは好ましいことではないだろう。どんな妨害があるか予想できんからな、実力を知っている貴様に護衛を依頼しようというわけだ。幸いにもちょうど騒ぎを起こしてくれたことだしな」



それで、どうする?とロッテリシアは二人に返事を求めた。アンジェはハルの方を見遣るが、ハルは顔をしかめて、楽しげなロッテリシアを見上げる。



「断る」



ハルはきっぱりと言った。

その返答にアンジェは僅かな驚きを以て、ロッテリシアは「やはりな」と小さなつぶやきで以て応える。



「理由を聞いてもいいか? 報酬はそれなりに弾むぞ?」

「アンタの事が嫌いだから。それじゃ不足か?」

「なるほど、確かに道理だな。それ以上の理由は要らない、か」



その言葉にハルは首肯して、アンジェに声を掛けるとロッテリシアに背を向けて入ってきた扉へと向かう。アンジェは慌ててその後ろを追いかけるが、ロッテリシアはその背中を見送りながら指を鳴らした。

それを合図として、扉が大きな音を立てて開かれる。武装した兵士が次から次へと入り込み、驚く二人を瞬く間に包囲する。



「……何のつもりだ?」

「なに、そういえば紙の最後に書かれていたサリーヴ事件。あれに貴様たちが関与していたという噂を思い出してな。犯人の一人と親交があったとも聞いてる。ぜひとも話を聞いてみたいと思ってな」

「アタシらが犯行に関わっていると?」

「そんな!? アブドラさんと話はしましたけど、爆破なんてしてません!」

「さて、私としてはそれを信じてやりたいところではあるがな、残念ながらギルトの幹部全員がそれを信じてくれるか別問題だ。

それに、アブドラという男とはどこで話をしたんだろうな?」



ハルは笑いながら話すロッテリシアの顔を睨みつける。冷たい瞳を湛えて、しかしニヤニヤと笑みを浮かべてハルは確信を抱く。

全部、知ってやがる。

あの時、あの街で何があったか。いつ、どこで、誰が、何を、どのように行なったか。その詳細を把握している。どうやって知ったか、その手段については分からない。事情を自分らの他に知っているのはオルレアと事後処理にあたったビジェの支部長であるアグニスくらいか。オルレアは旅に出ているはずだし、アグニスは口外しないと約束はしてくれたはずだが、どこから漏れたのか。

いや、確かに自分たちはあの事件に深く関わっている。が、罪を犯したか、と問われればノー、だ。アブドラをホテルで治療してギルトへ突き出さなかったところはグレーだが、犯人である確証はあの時は無かったわけだから、ギルトから問われる謂れは無いし、だからアグニスも特に聴取を行わずに送り出した。

問題は、そこらのグレーゾーンの話を目の前の女が知っている事。シロをクロに、クロをシロにすることさえできる。グレーを真っ黒にする事くらい、それこそ指先一つで可能だろう。



「おとなしく依頼を受けてくれるなら、この事を不問にするくらいはしてやるぞ? もちろん報酬もキチンと払おう」

「強引に押し通る事もできるんだぜ? この数とアンタが相手だって逃げるくらいはできる」

「ふむ……それは困るな。ギルトも戦闘要員は人手不足だからな。数を減らされるのは困る。

仕方ない。ビジェのギルト支部長のトップが入れ替えるか」



是非も無い。最初から選択肢なんて用意されていない。あるのはハイかイエスか。依頼なんて形を取る必要など無かったのだ。にもかかわらずここまで茶番を続けたのは、偏にニヤニヤ笑いを浮かべたまま二人を見下ろすロッテリシアの趣味か。



「それで、どうする?」



再度同じ問いをロッテリシアは口にし、だがハルは悔し気に頷くしか無かった。















◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆









「確かに私もあんまり好きになれそうに無いですけど」



何気ないアンジェの返答に、ハルはわずかに驚いた。

アンジェという少女は誰かれ構わず好意を寄せる習性を持っている。人一人を深く知るにはまだアンジェと一緒にいる時間は短いが、ハルはその推測を強ち間違いでは無いと、確信に近く考えている。例え相手が自らを傷つける意図を持っていたとしても、実際に行動に移されるまでは危険を排除しようとはしないし、危険にさらされても敵意を向けるかは怪しい。

だがそれが彼女の本質とは言い切れない。かつて目の前で兵士が殺された際には、理性のタガを外して相手方の兵士を半ば一方的に殺戮したのだから。しかし逆に考えれば、たった一言二言言葉を交わした相手であっても、理性を飛ばせる程の激情を抱けるとも言える。

自身への害よりも、他者への害に敏感。

それはハルからしてみれば非常に危うい事だと思うが、ハルの中ではそれがアンジェという人物像である。

そんな彼女の口から否定的な言葉が出るとは、ロッテリシア・ペルトラージュも筋金入りの嫌われ者だな。眉根に小さなシワを寄せるアンジェを見てそんな感想をハルは抱いた。



寂れた一角に、鐘の音が鳴り響く。街の空気と同様にその音色は寂しげで、音のした方向を見遣れば小さく家々から飛び出した塔があった。教会らしいそこから静かな音が付近一帯へ伝わっていった。



「鐘の音って、どこか落ち着きますよね。私は好きです」

「アタシもだよ」



宗教は好かないが、それでもこの音色は荒れた心を落ち着かせる。アンジェに同意しながら眼を閉じ、響く音に耳を澄ませる。

やがて反響も減衰していき、鐘の音が消え去って厳かな雰囲気が立ち去った。また元の街へと戻る。

ガチャ。アパートの玄関が開き、中からはメガネを掛けた女性が出てくる。白髪に蒼い瞳。彼女がロッテリシアの言っていた護衛対象であると確信し、ハルは彼女の方に向き直り、アンジェも玄関のドアを閉める彼女を同じ様に見た。



(さて、と。ロッテリシアクソババアが信頼を置く相手はどんな人間かねぇ)



護衛の対象であるリーナ・アイザワを見定めようと、少しだけ気合を入れて彼女の方に脚を踏み出した。遠くからみる限り、メガネのせいもあってかとても理知的に見える。色は白く、病的な感じを受けるがロッテリシア曰く、それが彼女にとって普通とのこと。腕や脚の筋肉の付き方を見てみるが、とても細い。骨と皮しかついていないんじゃないか、と思わせる程に。

ロッテリシアはアウトロバーだが、彼女は人種で差別したりはしない。彼女が求めるのは能力であり、生まれも性格も関係がない。アイザワはメンシェロウトだという話で、戦闘とは無縁そうに見えることから、十中八九頭脳の方で信頼を得ているのだろう。なれば油断は出来ないな。

そうは思うが、仕事は仕事。護衛するには対象との信頼関係は非常に重要だ。

アンジェに小声で「笑顔でな」とだけ囁くと、あまり得意では無い営業用スマイルを浮かべてハルはリーナに近づく。

近づいてくる二人に気づいたか、リーナはニッコリと笑い、二人に向かって手を上げた。それを受けて、ハルも自己紹介をすべく口を開いた。



「初めまして。ハル・ナカトニッヒです。本日は宜しくお願いします」

「アンジェ・ユース・エストラーナって言います。宜しくお願いします」



挨拶をしながら握手のため手を差し出す。

リーナはそれを見て、少し慌てて手を前に出してアパートの短い階段に踏み出した。



「初めましてー。リーナ・アイザワです。よろしく……」



階段には何の装飾も施されていない。ただ石の塊から切り取った様な粗雑な段があるだけだ。出っ張りがあったりはしない。

にもかかわらず。

つまずいた彼女は、手を差し出したまま地面に向かってダイブした。



「……お願いします」



リーナ・アイザワ。天然の天才ジェニアルである彼女はその能力ゆえに情報探索のみ・・についてロッテリシアの信頼を得ている。

が。

運動に関しては心配しかされていない事を、彼女はまだ知らない。







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