戻る


   大きなことをやってのけた小さな町

                    The little Town That Did.     


              
 ― シュメイナスの人たちと日本人 ―
                         
            
    
バンクーバー島は防波堤

 広いカナダの最西部、いつもは穏やかで美しく、ときに荒れ狂う太平洋に面しているブリティッシュ・コロンビア州(以下、BC州)に、まるで太平洋に相対する防波堤のように、南北に長く横たわってバンク−バ−島があります。その長さは 470km 、幅は 120kmと、ちょうどサツマイモのような形をしています。 広さは九州よりも少し小さいといったところです。
 島の最南端には、BC州の首都であり、また気候がカナダでは最も温暖なので、長年の仕事から引退した人たちが多く住んでいるビクトリアがあります。もちろんビクトリア女王の名前をいただいたわけです。
 日本からの旅行者は、バンク−バ−から飛行機で30分で、あるいはフェリ−ボ−トに2時間半乗って、ビクトリア観光にいきます。そしてほとんどの人が、町外れにある「ブチャ−ト・ガ−デン」(Buchart Garden )を訪れます。
 ここは、かってセメントを造る石灰石を採取した広い跡地を、オ−ナ−であったブチャ−ト氏が亡くなってから、ブチャ−ト夫人が長年かかって土で埋め戻し、美しい花や木を植えて夢のような花の公園に造り上げました。一年中いろいろな花が咲いていて、年間75万人の観光客を引き寄せています。まずはバンク−バ−島観光の目玉商品といえるでしょうか。
 ビクトリアから、島の東岸のハイウエ−を80km北上して、右折して 2kmいくと、シュメイナス(Chemainus)という小さな町に着きます。西側はモミや杉などの針葉樹が茂っている急俊な山地で、東側はジョ−ジア海峡と呼ばれる美しい内海です。このあたりの海は穏やかで魚が豊富なためか、鯨がたくさん集まってくるので、ホエ−ル・ウオッチングを楽しむ人も多いのです。
                   
                                   
白人の出現

 白人たちがバンク−バ−島に現れはじめたのは、ほぼ 200年前からですが、アメリカとカナダ(当時は英国領でしたが)の間で紛争が続いていた西部の国境線について協定が成立してからは(1846年のオレゴン条約により北緯49度線を両国間の国境と定めました)、バンク−バ−島、そしてBC州が急速に開けけていきました。
 バンク−バ−島の産業の三本柱は、鉱業、林業そして漁業ですが、先住民(インディアン)との毛皮などの交易を別にすれば、島の北部での石炭層の発見が開発の口火を切りました。これは当時カナダ全域で独占的な交易・開発権を女王から与えられていたハドソンベイ会社が設けた砦に来たインディアンが、石炭の存在を教えた(1835年)のが始まりだと言われています。
 19世紀の中頃は、カリフォルニアのゴ−ルド・ラッシュが起こり、カナダでもBC州中部での金鉱床の発見、バンク−バ−島での石炭や銅鉱床の開発などが続き、多くの鉱山労働者が最初はヨ−ロッパから、そしてアメリカから続々と来るようになりました。最初は白人たちでしたが、次第に中国人、日本人も増えてきます。
 鉱山業の宿命として、掘り尽くしてしまえば鉱石はなくなってしまいますが、林業は常に再生産が可能です。バンク−バ−島の針葉樹林は樹齢千年といわれるほどですが、一番大きな木はシュメイナス近くにあったもので、高さ 300フィ−ト、直径13フィ−ト、周囲45フィ−トともあったといいます。
 残念なことにこの木は、1913年11月に突風で倒されてしまいました。あいにく国道のほうに倒れ込んだので、取り除き作業のために国道が3日間閉鎖されました。この木がまだ元気な頃の写真が残っていますが、横に立つ人間が本当に小さく見えます。
 
          
カウチャン  − 暖かい土地

 シュメイナス一帯は、カウチャン(Cowichan, インディアンの言葉で、暖かい土地の意味)地方と呼ばれていますが、この地には古くからコ−スト・サリッシュ族と呼ばれる北米インディアンが住んでいて、さらに北方のハイダ族と対立していました。ハイダ族は戦闘的だったそうですが、サリッシュ族は暖かい土地柄から、けもの、魚、食用になる木の実類が豊富であったので、温和な性格であったといわれています。
 先住民であるインデイアンは、白人との交易で、鉄や鋼、そして鉄砲を知りましたが、食生活の上での大きな変化は、ハドソンベイ会社の人たちからのジャガイモの導入です。 南米のアンデス山地原産のジャガイモは栽培も容易で、冬期間の保存もできます。それまで食べていたカマッシア(Camassia 北アメリカに分布するユリ科の球根植物。先住民はこの卵形の地下茎を常食としていました)よりは遥かに良い食べ物でした。
 ジャガイモの導入は、それまでの狩猟を基本とした遊牧の暮らしから、農業への移行による定住化を押し進めましたが、一方では白人が持ち込んだ天然痘などの伝染病の大流行による人口減少を招き、また、アルコ−ルやタバコといったこれまで無縁だった悪習も入ってきました。
 バンク−バ−島の林業が白人によって始められたのは1858年(安政5年)で、1862年にはこの海沿いの小さな町を流れる川の水を動力源とする、独自の水車を開発して最初の製材所が稼働しました。

 19世紀の中頃では、バンク−バ−島の南部には、先住民(インディアン)が3万人、白人が1千人住んでいたそうですが、白人の入植が増加するにつれて、材木の需要も急増していったのでしょう。
 木材の積み出しに良い港があるので、シュメイナスを中心とした林業はほぼ安定して栄えていきました。道路も鉄道も、林業と鉱山業の発展と共に伸びていきます。この平和な時代は 120年続いたのです。
 しかし、ただ一つの産業に依存する町は、極めてもろい地盤に建っているビルと同じで、大きな経済変動があればひとたまりもありません。その嵐がついにやってきました。木材やチップの輸出不振から、林業会社は町のメインの産業である老朽化した製材所の閉鎖を発表しました。閉鎖までの猶予期間は2年間しかありません。 

         
 いよいよ来たリストラの波 

  120年も続いてきた製材工場を、赤字続きだから閉鎖するといわれたときは、いつかは来ると覚悟していたシュメイナスの人たちも、大きなショックを受けました。
 林業ひとすじで生きてきた町のリハビリをどうするか、このまま伝統ある町は滅びてしまいゴ−スト・タウンになっていくのでしょうか。多くの人が家族を育ててきた愛する故郷を、離れなければならないのでしょうか。
 このときここに、カ−ル・シュッツというドイツから来た移民がいました。21歳でハイデルベルグからきたこの男は、機械工、大工、ビジネスマンとして、この町に長く暮らしていましたが、長期的な視野を持ったカ−ルは、既に1971年に町の商工会議所に一つの提案をしています。 カ−ルは、かって訪れたことがあるモルダビア(ル−マニア)の修道院の壁に描かれたフレスコ画にヒントを得て、次のように主張したのです。
 「シュメイナスの町にある大きな建物の壁に、大きな絵を書いて飾ろう、これまで町の発展を支えてきた林業と、先住民であるインディアンの歴史を記録しようではないか。そうすればそれを見に多くの人が来てくれるようになるだろう。私たちの町が、林業という一つの産業だけに依存しているのは危険なことなのだ、遠くから人が訪ねてきてくれるような町造りを考えなければいけない」

 しかし、どこの国でも町でも、企業でも、先覚者の意見はすぐには受け入れられないものです。カ−ルが町民を忍耐強く説得しつづけて10年たったときに、ついに恐れていた現実 ― 林業の不振による製材工場の閉鎖が、目の前のものとなりました。
 ブル−ス町長はカ−ルの提案を受け入れて、まず1980年に町の再活性化計画を作ることにしました。すぐにシュメイナス開発委員会が組織されて、カ−ルのリ−ダ−シップの下で『開拓者たちの時代と今日の結合を図る』というテ−マで進められていきます。
 まず、町は1万ドルを拠出して、1982年には最初の5つの壁画(ミュ−ラル mural といいます)が描かれました。
 幸いなことに、シュメイナス地方の歴史をたんねんに記録して豊富な写真を添えた立派な本
『Water over the Wheel』(水車を回す水の流れ)が W.H. オルソンによって既に1963年に出版されていました。オルソンは、シュメイナスに生まれて、長くここの製材所の会計責任者として働き、引退後は地域の歴史研究家として著名な人です。

           
 壁画の町を創ろう!

 この本は、本文 170頁、古い貴重な写真を38頁にわたって掲載している堂々たるもので、シュメイナスの壁画は、すべてオルソンが集めて記録した写真に基づいて描かれています。
 壁画といっても、シュメイナスの壁画の面白いところは、すでに建っていて現在も使っている建物の壁を、そのまま巧みに利用していることです。実際に使っている建物の壁ですから、窓も開いているし、ドアがあったりします。形も真四角とは限りませんが、すべてあるがままを使っています。
 どの壁画もたいへん大きなもので、人物なども実際の人間よりははるかに大きく書かれています。横が33mと長いのもあれば、縦14mと背の高いものもあります。
 最初の年に作られた5つの壁画は、林業に依存する暮らしの基本的な姿を示しています。 まず1番目は、蒸気エンジンを使った動力機で、これは森で切り倒した大きな木を引っ張ったり、邪魔になる切り株や岩をどかすのに使われました。このスティ−ム・ドンキ−と呼ばれた動力機が1882年に発明されたことによって、馬や人力に頼っていた重労働の運搬作業が楽になったのです。
 2番目は、貯木場に浮かぶ丸太に乗って、鳶口を巧みに操っている人や、山から丸太を運んでいる機関車です。
 3番目は、シュメイナス川に架かる橋を、丸太や鉱石を運ぶ機関車が煙を吹き上げて渡ってくる勇ましい姿です。
 4番目は、ホン・ヒンという名の中国人が開いた雑貨屋で、1915年頃に開店したものです。コカ・コ−ラやセブン・アップの広告が既に出ています。
 最後は、高い木を斧を使って切り倒している二人の伐採夫の姿です。
 この5つの壁画を見ても、歴史に基づいて自分たちの町の歴史を語ろうという強い意図がうかがわれます。

 こうしてスタ−トした町の再開発は着々と進みました。最初の年は壁画は5つでしたが、翌年は7つ、次の年には4つと、毎年着実に数を増やしていき、絵の題材も「イギリス帆船の到着を見守るインディアンの酋長の娘」とか「ロギング・キャンプの日曜日」があります。キャンプの日曜日に洗濯や散髪をする姿はいずこも同じです。
 1863年に起きた殺人事件の調査で派遣されてきた軍艦の絵もあります。1871年にこの地で生まれた最初の白人の子、ジュリアも描かれています。彼女はインディアンの産婆さんの手で取り上げられました。
 1900年にシュメイナスを訪れたアメリカの富豪、ロックフェラ−とカ−ネギ−も、泊まったホテルと共に描かれています。1907年まで操業したレオ−ナ鉱山も出てきます。
 これらの壁画を書いた画家たちは、最初はBC州の、あるいはカナダの画家でしたが、次第に世界中から画家を招くようになりました。アメリカやヨ−ロッパはもちろんですが、南アフリカや中国系、日系カナダ人もいます。

 こうして10年たってみると、壁画の数は32にもなっています。この間、町の先住民であるインディアンの歴史をきちんと残してほしい、林業で働いていた日本人のことにも触れるべきだという意見が出て、それらを表す絵も書かれています。1996年には、中国人が町の発展に寄与したことを評価して「中国人の少年の思い出」が描かれて、壁画の数は33に増えました。
 この小さな町を訪れる観光客は、壁画を作って3年目には1万5千人だったものが、今や年間40万人といいます。
 客席数 270のシュネイマス劇場もできて、古典から現代物まで幅広いものをやっています。
「アンネ・フランクの日記」も上演しました。
 1921年には人口は僅か 600人(うち半数は、日本人、中国人およびサリッシュ族)だったものが、今や4千人の町に成長しました。教会も5つ、観光客用の宿泊設備も完備しています。今年中(1998年)には、自家用クル−ザ−で来る人たちのために 130隻を収容できるマリ−ナとプロムナ−ドが出来上がるそうです。
 土産物屋やレストラン、アンティ−ク、ブティックなどの店が百を超すようになりました。おいしいと評判のアイスクリ−ム屋も繁盛しています。
 10年前、もし町で見慣れぬ人を見かけたら、「きっと道に迷った人だよ」と思われたのに、今や若者たちは安定した職を求めて腰を落ち着けるようになり、老人たちは静かで温暖なこの地をリタイアの場所として選ぶようにもなりました。
 世界最大の野外のギャラリ−(画廊)と呼ばれるこの壁画を見るのには、もちろん入場料はいりません。案内所でミュ−ラル・マップ(案内図)をもらって、あとは呑気なひとり旅。歩道に大きな人の足跡が黄色のペンキで書いてあって、これをたどって歩けば、いつの間にか「ハイ! ひと回り」という、面白い仕掛けになっています。迷子になる心配はありません。
 商店街を通って歩くのですから、いやでもショ−ウインド−に目がいきます。珍しい先住民の民芸品も並んでいます。日本の新婚旅行客がおそろいで買うカウチャン・セ−タ−はこの地方の特産品です。
 おなかが空いたり喉が渇けば、カフェやレストランがたくさんあります。鴎が飛ぶ美しい海を眺めてお茶を飲んでいると、時のたつのを忘れてしまいます。
 こうしてシュメイナスの町は見事に再興しました。あの静かなバンク−バ−島で年間40万人の観光客というと信じられないほどです。その人たちが町に落とすお金はいくらになるのでしょうか。壁画は立派な観光資源になったのです。

 シュネイマスの人たちが自分たちの町を「大きなことをやってのけた小さな町」 ( The Little Town That Did.)と誇らかにいうののもよく分かります。

         
シュメイナスから学ぶもの

 では、この小さな町が私たちに与える教訓はなんでしょうか。どうしてこの再生計画は成功することができたのでしょうか。
 この小さな町はいくつかの利点を持っていました。
 第一に、自分たちの歴史をしっかり踏まえて、過去を語り、描き、それを次の世代に残そうとしたことです。シュメイナスの歩んできた道は、アメリカやカナダのどの町にも共通するものを持っていたと思います。そのことが訪れる観光客の共感を呼び起こし、連帯感を持たせたのでしょう。バブルの時代に、日本の各地に雨後のタケノコのように作られた、ただ形だけを借りてきたテ−マ・パ−クとは基本的に違います。 
 第二に、ロケ−ションと気候のよさです。アメリカには近いし、州都ビクトリアと有名な「ブチャ−ト・ガ−デン」から国道沿いに車でわずか1時間です。車社会の人たちにとっては、すぐそこの距離なのです。
 美しい森と湖と海、海でも川でも釣りを楽しめる、キャンプもできる。宿泊設備もしっかりしている、治安もいいとなれば、家族連れでも安心です。18ホ−ルズのゴルフ場もあります、林業博物館もあるし、新しくできた製材所も見学者ウエルカムです。
 第三に、シュッツの卓越したアイデアと町の人たちの協力があります。住民に一人でもヘソ曲りがいて、自分の建物に勝手に絵を書いたり、CMの看板などを出したりすれば、全体としての景観が失われてしまったことでしょう。いまは見事に整った町並みになっています。
 それに、壁画は一度作ってしまえば、あとは経費がほとんど掛かりません。ときどき手直しをするだけで、人を雇って配置する必要もないのです。 
 第四に、レジャ−とかバケ−ションについての考え方の違いがあります。カナダ・アメリカの人たちの生活習慣は、休暇を過ごすときでも、にぎやかなところは敬遠して、自然の豊かさや美しさに触れられるほうを選びます。家族と共にゆっくりと簡素に過ごすのが好きなのです。
 観光地というと、高速道路の大渋滞、やっと着いた目的地での混雑、お金がかかる、やかましい音楽や放送、くたびれ果てて家に帰りつく、というのが、とかく私たちの持つイメ−ジですが、北米の人にはそういうところは好まれません。シュメイナスはこの点でも合格です。
 最近、このシュメイナスのミュ−ラルが評判になって、まねをする町が出てきました。アメリカ、カナダ、そしてオ−ストラリアの町とも、姉妹都市のように「シスタ−・ミュ−ラル・プロジェクト」ということで、連携をしています。どこもシュメイナスをモデルとしているようです。
 カナダ旅行の機会があれば、ぜひシュメイナスに行ってみてください。恵まれた環境を生かして、冷静な情勢分析と優れたアイデア、そして住民の熱意があって、この町の奇跡が生まれたことがよく分かります。安易なものまねでは成功はおぼつかないものです。

              
300人もいた日本人

 シュメイナスの再興の歴史を調べながら、私は、この町と日本人の関わりあいはどうなっていたかが気になっていました。現地を訪れたり、資料を調べると、いろいろとありました。
 ほぼ 100年前から多くの日本人がバンク−バ−島とBC州西部に定住していましたが、1930年代にはシュメイナス近在に 300人の日本人が住んでいました。勤勉でおとなしい日本人の評判は良かったのですが、経済摩擦から始まった反日感情はレイシズム(Racism)と呼ばれる民族的優越感、人種的差別・憎悪へとなっていったのです。
 長い間、いろいろな面で差別されて苦労を続けてきた日系人が、カナダ社会に受け入れられるようになったきっかけの一つは、第1次大戦(1914〜1918)での日系人兵士の活躍であったといわれます。 200人の日系人が志願兵としてヨ−ロッパ戦線で勇敢に戦い、54名が戦死、97名が負傷しました。この戦死傷者の比率は異常に高いように思えます。この戦死者の名前を刻んだ石塔が、バンク−バ−市民の憩いの場所であるスタンレ−公園の広場に立っています。まさに血を流すことで日系人の地位が認められたといえましょう。

            
日本人排斥の嵐 

 しかし、1939年に英・仏両国がドイツに宣戦を布告して第2次世界大戦が始まってからは、ドイツの同盟国であった日本に対する連合国側の圧力はますます激しくなっていきます。そして、1941年12月の日本軍による真珠湾奇襲攻撃は、カナダの日本人社会を解体して、10年にわたる屈辱の時期の始まりとなったのです。
 カナダ政府は、日本の国籍を持つ人、カナダへの帰化人、カナダ生れの日系人のすべてを『敵国人』と規定して、BC州の日系人2万1千人を海岸線から 160km以上離れた内陸の収容所に移すこととしました。日系人の資産はすべて奪われてしまいました。
 シュメイナスに住んでいた日系人は 300人でしたが、全員がはるか離れた内陸に送られました。教会の隣にあった日本人墓地も、心ない人々によってブルド−ザ−で破壊されて、墓石は住宅の石垣に使われたそうです。
 戦後、日系人による補償要求(redress リドレス)運動が実を結び、1988年になってカナダ政府が正式に謝罪して補償が認められるまで、苦難の日が続きました。
 1988年にシュメイナスのアングリカン教会の牧師が、隣の墓地で荒らされた日系人の墓石5基を見つけ出して、日本人墓地を復旧しました。1991年の夏には、昔の住民がカナダ各地からたくさん集まって再会を喜びあいました。今では毎年、8月のお盆に供養が行われています。私も、昨年このお墓にお参りすることができました。
 このシュメイナスに暮らした日本人、10家族の記録をまとめて、キャサリン・ラングが
『0-BON, IN CHIMUNESU 』(シュメイナスでのお盆)という本を出しています。

 33ある壁画では、日本人社会が二つ描かれています。  
 まず一つは、1991年に描かれた『Winning Float 』と題されたものです。1939年に林業会社の50周年を記念したお祭りがあり、山車のパレ−ドがありました。日系人グル−プは花と提灯を美しく飾った山車で参加しました。きれいな長袖の着物を着た娘さんが数人画面にいます。『ウイニング』と付けられたのは、この山車がコンテストで賞を貰ったからなのでしょうか。
 もう一つは『The Lone Scout』で、シュメイナスで活発な活動をしたシゲ・ヨシダのボ−イ・スカウト(少年団)姿の肖像画です。 シゲ・ヨシダは、若い頃からボ−イ・スカウトの活動に関心を持ち、シュメイナスにあった少年団に参加を申し入れましたが、はっきりしない理由で断られてしまいました。おそらく反日感情が強かったことによるのでしょう。 
 そこでシゲは、『Lone Scout』という資格を取るべくアメリカの通信販売会社に申し込み、通信教育を受けて5年後にこの資格を取りました。そしてすぐに日系人社会に呼び掛けて、1930年に6人の日系人によるカナダ初のスカウトを組織して、活発な活動を続けました。
 アメリカやカナダのように、土地が広くて人口が少ないところでは、近くにスカウト組織がない場合には、通信教育を受けることによって『Lone Scout』(日本では単独スカウトというそうです)という資格を取れるのです。
 第二次大戦が勃発して、シゲはBC州内陸のタシュメの収容所に送られましたが、屈することなく直ちに日系人の子弟を集めて少年団の分隊を組織しました。シゲの活動は、ともすれば希望を失いがちな収容所生活の子供たちの支えになったのです。1944年には隊員は 110名になり、翌年は 200名のスカウトたちが英国国旗を掲げて行進しました。この分隊は当時英連邦では最大の組織であったそうです。

 この日本人をテ−マとした二つの壁画は、日系人の「地域社会に対する豊かな、価値ある貢献」が評価されて作られたもので、どちらも日系カナダ人の画家の手で描かれました。
 たくさんの日本人がシュメイナスに住んでいたことのほかに、日本との関わりあいが、もう一つありました。
 1942年 6月、日本軍はアメリカ領アリュ−シャン列島のアッツ島とキスカ島を無血占領しました。軍事的にはあまり意味のある島ではなかったそうですが、翌年5月にはアメリカ軍が反攻してアッツ島に上陸し、激戦が続きましたが、5月29日には、遂に山崎部隊は全員玉砕しました。そこで、圧倒的なアメリカ軍の制空海権下にあって、取り残された 5,200名のキスカ残留部隊の救出が図られました。
 ベ−リング海特有の濃い霧にまぎれて、7月29日、連合国海空軍の包囲をかいくぐって、第一水雷船隊によって行われた撤収作戦により、全員が奇跡的に脱出することができました。その後8月13日に、連合国軍は何も知らずに無人の島に対する上陸作戦を開始し、過失によって百名以上の味方戦死傷者を出したりした末に、やっと島がもぬけの殻であることを発見したそうです。
 このキスカ島への反攻作戦のために、7月初めにアメリカ・カナダ連合軍は、秘密裡にシュメイナスに集結して、アメリカ軍の輸送船『チリコフ』と『パリ−ダ』に武器弾薬と兵員を積んで出撃していきました。しかしこの部隊がキスカ島に到着したときは、すでに日本軍は脱出した後だったわけです。製材所の波止場から輸送船に乗り込む兵士たちの写真がオルソンの書いた本に載っています。

 見事に再生したシュメイナスの町は、日本との結び付きを数多く残しています。忌まわしい戦争の時代を除いて、太平洋をへだてたカナダと日本は、昔も今も、しっかりと結ばれているのです。

       
                  (『鉱山』誌1998年4月号に掲載されたもの)

戻る

シュメイナスの連絡先:
 Chemainus Festival of Murals Society
  PO Box 1311, Chemainus ,BC, V0R 1K0, Canada  
  Tel: 1-250-246-4701
  Fax: 1-250-246-3251
  E-mail: abc@tourism.chemainus.bc.ca
    Http://www.northcowichan.bc.ca

参考図書:
1 Water over the Wheel.     W.H.OLSEN
2 Chemainus Murals.                 Chemainus Festi-val of Murals Society
3  O-BON IN CHIMUNES.                 Catherine Lang
4 MR.CHEMAINUS.                      Joy Lang Anderson
5 Smithsonian Magazine 1994/May
6 私記キスカ撤退    阿川弘之

                                                                         以上