稀勢の里の仕上がりが、琴奨菊に比較すると少々遅れているように思えて、私は心ならずも厳しい目で見てしまう。それに多分、琴奨菊という物差しを当ててしまうせいだろう。
その上、例のがぶり寄りを琴奨菊が出してきた時には、決して、これは待ってましたという感じにはならないのだが、観客の一部と、感じ合うものがあるのではないかと思えることに気づく。
「もうあれを出して来い」「じゃあ出しましょうか」と、がぶり寄りが一種の通行手形として、共通理解の役割を果たしているような気分が、土俵に漂っているように思えたりする。それが、琴奨菊が今場所のように勝ち進んでいたりすると、両者の感情の交流は、もっと濃密なものになってくる。
このことは、実は見せる者と、見た観客の立場になる人と、真に重要な役割分担を果たしていることに関係を持っているのだ。それは相撲場を劇場だと考えれば、すぐに分かるだろう。
そのことに関係していることだが、琴奨菊は、観客ががぶり寄りに寄りつめることを望んでいるかに関して、常々から、そのことに細心の注意を払っている必要がある。
今場所はたまたま魁皇コールという良い例があった。琴奨菊のがぶり寄りも、私はあのような効果を持つものになるのではないか。そんなことを考えたりもする。
把瑠都という力士は、少々目を離すと意外な相手に簡単に負けてしまう悪癖がある。そのくせ、千秋楽近くになると、星勘定だけはきちんとそろえてみせるのだから始末が悪い。今場所も、どんな決着で、幕引きをする気でいるのだろうか。 (作家)
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