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福島原発:訴訟元原告団長、新潟で避難生活「依存脱却を」

避難先の新潟市内で約18年に及んだ原発訴訟を振り返る小野田三蔵さん=2011年7月11日、伊藤一郎撮影
避難先の新潟市内で約18年に及んだ原発訴訟を振り返る小野田三蔵さん=2011年7月11日、伊藤一郎撮影

 約18年間に及び裁判で原発の危険性を訴えたものの聞き入れられなかった元高校教諭が、東京電力福島第1原発の事故で避難生活を強いられている。92年に敗訴が確定した福島第2原発訴訟の原告団長、小野田三蔵さん(73)。自宅のある福島県富岡町は全域が警戒区域となり、約200キロ離れた新潟市内で暮らす小野田さんは「次の大地震だっていつ来るか分からない。今こそ原発依存からの脱却を」と訴える。【伊藤一郎】

 小野田さんは県立富岡高校の教諭だった75年、国による第2原発1号機の設置許可の取り消しを求め、福島地裁に提訴。「安全性が保障されないまま第1原発に続いて設置される。我々はモルモットではない」と考え、同僚教諭らと協力し401人の原告を集めた。

 訴訟では大地震や津波で原発が大事故に至る可能性も指摘したが、1審判決(84年)では「国の安全審査は合理的」と退けられた。2審の仙台高裁判決(90年)は原発が発電量に占める割合などを理由に「結局、原発を推進するほかはない」とお墨付きまで与え、92年に最高裁で敗訴が確定した。敗訴後も機会あるごとに東電に対し第1、第2両原発が津波で機能不全に陥る危険性などを訴えてきたが、何の反応もなかったという。

 今年3月11日。車の修理に来ていた福島県南相馬市で大震災に遭い、津波に巻き込まれた。海水が車輪半分の高さまで達したが、アクセルを踏み込み間一髪、高台に逃げ切った。戻った自宅は津波にのまれていなかったものの天井が落ちていた。車内で一泊し、目が覚めると町の防災無線が避難を呼び掛けていた。第1原発の爆発事故だった。

 福島市内の長女の家に約1カ月間、身を寄せた後、94歳の認知症の母親が入院することになった新潟県十日町市の病院に通うため新潟市内で市営住宅を借りた。6月14日、防護服を着て一時帰宅したが、雨漏りで家の中は水浸しだった。「放射性物質を含んだ雨だから乾かしても使えない」。そう判断し、わずかな生活用品だけを持ち帰った。

 36年前に始めた裁判について小野田さんは「原発の危険性を世間に知ってもらうには裁判しかなかった。我々の訴えに裁判所が耳を貸してくれていたらと思うと残念な気持ちもある」と唇をかむ。

 上告審まで原告として残ったのは計17人。震災後、同じように避難生活を送る人もいれば、連絡が取れないままの人もいる。「同じ悲劇を繰り返さないためにも、一刻も早く自然エネルギーへの転換を図るべきだ」。小野田さんはいつ戻れるか分からない故郷を思いながら、強く訴えた。

毎日新聞 2011年7月20日 11時02分(最終更新 7月20日 11時20分)

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