「素敵な宇宙船地球号」毎週日曜よる11時放送

[第412回] 1月15日 23:30〜24:00放送
「鉄鋼の街の挑戦」 〜青空を取り戻した主婦たち〜
↑予告動画がご覧いただけます。


 福岡県の北九州市。今でこそ、澄み切った青空が広がる日本で有数の地方都市ですが、かつてこの街は、多くの工場から吐き出される「七色の煙」が街を多い、住民を苦しめていました。近くの海は分厚いヘドロに覆われ、一匹の魚も見つけることはできないほどだったのです。
 今から50年ほど前の高度成長期、この街を舞台にした一本の映画が制作されました。木下恵介監督の「この天の虹」です。工場の煙突から吐き出される色とりどりの煙から漬けられた映画のタイトルは、当時の繁栄の象徴でした。
 北九州市は、1901年、日本で初めての近代的製鉄所・官営の八幡製鉄所が造られ、中国大陸の鉄鉱石や筑豊の豊富な石炭を利用した重化学工業の拠点として日本の近代化を支えてきました。戦後復興から高度成長期、製鉄とともに発展を遂げたのです。しかしその一方、深刻な問題は進行していました。
 大小80あまりの工場に囲まれた城山小学校。1956年に開校したもののわずか20年で廃校に追い込まれます。その原因は、工場から出る粉塵、煙、有毒ガス。城山小は、全国一の公害被害校になりました。当時、その被害は、風向きによっては、工場から白い粉が降ってくるので、体育の授業を中止にせざるをえなかったほど。30年前、この小学校を卒業した山下竜一さんは言います。「特に喘息がひどかったと思いますけど、咳き込むのは当たり前という時代だったと思います…」
 しかし、学校は工場に抗議をすることはできませんでした。それどころか、教師たちが求められたのは、公害に負けない強い子どもの育成。なぜ、教師や児童までもが公害を受け入れなければいけなかったのでしょうか。
 それは、ここに暮らす労働者の多くが、工場で働いていたからです。妻や子どもが工場の煙で苦しんでいても、その家計を支えているのは、その工場で働く一家の主なのです。
 5つの市が合併して誕生した北九州市では、八幡製鉄所の従業員は4万3千人以上。他の企業も含めると、ほとんどの市民が工場に依存していたのです。
 しかし、あまりにひどい現状に立ち上がった人々がいました。一家の健康を守るため、主婦たちは、静かに活動を始めたのです。
 化学知識もない主婦たちが最初に行ったことは、室内や屋外に白い布をぶら下げることでした。時間がたつと、布が真っ黒になっている様子に、驚愕とした彼女たちは、この地区の悲惨な現状を知ってもらうべく8ミリ映画を作ることにしたのです。この映画は、いろいろな場所で上映され、新聞などでも取り上げられるようになると、北九州の空をなんとかしようという気運が次第に高まってきました。
 そんな中やってきた運命の日。1969年5月8日。風がまったく吹かないこの日、北九州には、全国ではじめてスモッグ警報が発令されました。北九州で本格的に公害との戦いが始まった日でした。
 しかし、この警報発令がきっかけとなり、市と議会、地元企業が一丸となって、公害対策をなんとかしようという雰囲気が作りあがったといいます。厳しい条件を突きつける市に対し、企業側も公害対策技術の開発に力を入れるようになりました。その結果、北九州は、警報発令からわずか4年にして、国の環境基準をクリアすることができたのです。
 今、北九州では、工業発展を進めるアジア各国の研修生を受け入れ、公害防止のための技術指導をしています。97年には全国に先駆けて「エコタウン事業」の認証を受けました。蛍光灯、廃棄材、家電などのリサイクル事業も発展し、リサイクル産業の一大拠点へと変身を遂げたのです。また、「国連環境計画」で高い評価をうけ、地球サミットでは、「地方自治体表彰」を受賞しています。
 日本一の公害の町から環境リーダーへ。第一歩を踏み出した主婦たちの思いは、行政や企業、国を動かしたのです。

ナレーター: 室井 滋 


  • 北九州市
    日本の四大工業地帯。八幡製鉄所の建設などで日本を代表する工業都市として発展。一方で、公害に悩まされてきた町。
  • 国連環境計画
    1972年6月ストックホルムで「かけがえのない地球」を合い言葉に開催された国連人間環境会議で採択された「人間環境宣言」及び「環境国際行動計画」を実施に移すための機関。
  • 地球サミット
    1992年6月に、ブラジルのリオデジャネイロで開催された環境と開発に関する国際会議。北九州に贈られた表彰状には「死の海から国際的な環境リーダーへ」と書かれている。