2011-07-05 失言が許されるひと

息子と一緒にお風呂に入りながら考えた。
我々が誰かを嫌いになるとき、たいていはその人物に対する評価軸を我々は一つしか持たない。たとえば、「口が悪い」とか「ケチだ」とかそんな感じだ。ところが、口が悪い思っていたその人物に、実は結構優しい一面があることを発見したりすると、相手に対する評価が大きく変わることが多い。評価軸が二つになることで、その人物に対する好意が増すわけだ。
だから、我々がある人物を「嫌いでいたいとき」「嫌いでなくてはならないとき」、我々はその相手に対して複数の評価軸を適用することを拒否し、ある一面でもってのみその人を判断しようとする。嫌いな側面以外を見ないように一生懸命になったりもする。
もちろん、あらゆる評価軸から見て、その人物が駄目だという評価が下されることもありうるだろう。が、普通にであればそういうケースは稀で、人間、どこかしらにいいところがあるのではないかと思う。
話は変わるが、世の中には「失言」をしても許される政治家がいる。たとえば、小泉元首相とか、いまの東京都知事とかがそれにあたる。逆に、失言によって大きな憤激を買う政治家もいる。松本元復興相などがそれに該当するだろう。
なぜ前者の失言が許されるかを考えると、結局のところ、人びとが彼らに対して複数の評価軸を持っているからなのではないか。都知事のケースで言えば、「暴言吐きの石原さん」と「リーダーシップの石原さん」という二つの評価軸がある。なので、いくら暴言を批判されようとも、前者の「石原さん」の評価に回収されてしまい、後者の石原さんの評価にまでは届かない。
逆に、松本元復興相のケースで言えば、ほとんどの人は松本さんがどんな人なのかを知らなかったのではないか。あるいは、同和問題や資産家という属性だけで判断していたのではないか。そこにきて例の恫喝映像が流れたことで、我々は恫喝という観点からしか松本さんを評価しようとしなくなった。社会心理学的に言えば、プライミング効果(先行する刺激が後続する刺激に影響を与えること)ということになろうか。
したがって、世論からの支持/不支持により政治家や内閣の命運が左右される現状では、政治家が生き延びようとするなら、どうにかして複数の評価軸を獲得する必要がある。つまり、失言や失策のダメージを引き受けてくれる「もう一人の自分」が必要なのだ。その「自分」を作り出すためには繊細なメディア・イメージのコントロールが必要になるだろう。
この意味では、タレント出身の政治家は普通の政治家に比べて、やや有利な立場にあると言える。タレント時代に自分が培ってきたイメージと政治家というイメージとをうまく両立させることができれば、多少のスキャンダルがあっても前者のせいにしてしまえるからだ。
話を最初に戻すと、僕の息子には、家でだらだらしているところを奥さんに叱られている父親の姿だけでなく、複数の評価軸で父親を判断してもらいたいと思う。まぁ、僕自身、息子に肯定的に評価してもらえそうなところを何も思いつかないのが困ったところなのだが…
2011-06-05 すべてはそこから始まった

(長文注意!)
すべてはそこから始まった。
1992年の秋も終わろうとする、ある晴れた日のことである。
その日、大阪のさる予備校のスタッフたちは、自習室で勉強している学生のチェックを行うことになった。どうやらその予備校の学生ではない連中が勝手に自習室に入り込んで勉強しているらしいのだ。満席の自習室に入れない学生が続出する状況のなか、「もぐり」の連中を容認しておくことはできない。何の予告もなく、スタッフたちは自習室に突入し、「今から学生証のチェックをします」と自習者たちに言い放ったのである。
数だけは多い団塊ジュニア世代である1992年の18歳人口は205万人。2010年の122万人に比べると、1.68倍の人口規模である。大学・短大への進学率は今よりも低く40.9%ではあるものの(2009年で56.2%)、大学の入学定員は今よりも少なく47万人であった(2010年は55万人)。したがって、現役で大学に進学できない者は今よりずっと多く、巷には浪人生が溢れていた。大阪の地下鉄御堂筋線沿いでは駿台、代ゼミ、河合塾という三大予備校が覇を競い、同線は「親不孝線」とすら呼ばれていた。車内で石を投げれば当たるのはやくざか浪人生かという始末である。無論、多少の誇張は入っている。とはいえ、オールナイト・ニッポンの第二部では河合塾の模試で使用される回答用紙の余りをどう使うかが話題になる時代であった。
話を戻そう。唐突な学生証チェックにざわめく自習者たち。中には慌てて参考書を鞄に詰めて自習室から逃亡を図る者もいた。そんな「もぐり」たちのなかに、一人の浪人生がいた(ここでは仮に津田正太郎(19)としておこう)。彼は近所にある予備校に通っていたのだが、そこの自習室が満席だったため、やむを得ず他校の自習室に無断で侵入していたのである。血相を変えて自習室を脱出した彼らの後ろをスタッフたちの声が追いかけてくるが、ここは逃げるが勝ちである。
逃亡には成功したものの、自習室を追い出された彼とその友人には他に行き場所がない。仕方なく自分たちが通う予備校へと戻ってきた。もう夕暮れも近く、校舎内の人口は減少しつつあった。彼らは空き教室を見つけ、そこで受験勉強を虚しく再開した。なにゆえに勉強する場所を求めて放浪しなくてはならないのか、という疑問を抱えつつ。
勉強を再開後、しばらくして、ある大学の説明会が今から開催されるとの告知が校内放送で流れた。そういえば、そんなことを午前中も言っていたな、と彼は思い出した。だが、彼はその大学にはとんと興味がなく、どんな学部があるかすら知らなかった。なので、そんな説明会のことはすっかり忘れて他校へと「もぐり」に行っていたのだ。しかし、なんとなく集中力を無くしていた彼は、「せっかく戻ってきたわけだし」という思いも手伝って、その説明会に顔を出すことにしてみた。
大学説明会とは、大学にとっての「営業活動」である。高校生あるいは浪人生たちに「うちの大学に来ませんか、いや、別に来なくてもいいからせめて受験だけでもしませんか」というメッセージをオブラートに包んで語る場である。美しい校舎、崇高な学部の理念、快楽に満ちた薔薇色のキャンパスライフ。それがどこまで現実であったかはさておき、不毛な受験勉強に疲れた彼にとって、大学説明会で聞くそのイメージあまりに眩しすぎた。説明会が終わるころ、彼は残りの受験生活の全てをその大学に受かるためだけに費やすことに決めたのである。
それから4ヶ月ほどが過ぎた。ここで、この不毛な物語の鍵を握るもう一人の人物が登場する。その日、この人物は、大学で陸上競技のサークルの新入生勧誘を行うことになっていた。割り当てられた場所にサークルの机を設置し、いたいけな新入生たちに加入を勧めるのである。だが、この人物は、自分のことをちらちらと見ながら、机の前を行ったり来たりする新入生に気がつかなかった。あるいは、その新入生が見からに陸上競技とは縁のなさそうな体躯をしていたがゆえに、声をかける気にもならなかったのやもしれぬ。
いずれにせよ、この人物が声をかけなかったことは、その新入生(とりあえず津田正太郎(19)としておく)の運命を大きく変えることになった。4ヶ月ほど前にこの大学の説明会に参加し、突如として志望校を変更した彼は、なんとか新入生としてもぐりこむことに成功していたのである。
自分から声をかけるほどの勇気はないので、できれば向こうから声をかけてくれないものだろうか、という極めて都合の良い願望を抱いたまま、陸上競技サークルの机の前を行ったり来たりする。しかし、その願望は何時まで経っても報われそうもない。不毛な往復運動に疲れてきた彼は、一人暮らしを始めたばかりの自宅に戻ることに決めた。彼の自宅には布団とテレビ、スーパーファミコンしかないというあるまじき事態に陥っており、せめて冷蔵庫ぐらいは買わねば、と考えたのだ。ちなみに、彼は上京してから入学するまでのあいだ、布団にくるまりながらスーファミの女神転生をすることにただただ時間を費やしていた。
陸上競技サークルから声をかけてもらえなかったことに憤然としながら、彼は大学の正門へと向かう。途中、唐突に見知らぬ女性二人が彼に声をかけてきた。ここで彼は大いに狼狽する。というのも、彼は共学の中学、高校を卒業していたにもかかわらず、在学中は女性と極めて縁が薄かったことに加え、浪人中は全くといって言いほど女性と会話をする機会を持たなかったからだ。浪人生活の後期には、店先で女性店員に話しかけられただけで赤面してしまうという状態にまで陥っていた。
そんなわけで彼は、その女性二人―言うまでもなくサークルの勧誘である―と頭のなかを真っ白にしたまま話し、気がつけば学食で昼食をおごってもらう事態にまで発展していた。昼食をおごってもらった以上、そのサークルの部屋に行かないのは極めて不義理ではないか―と彼は思った。あるいは、ひょっとしてそこに何らかの下心のようなものがあった可能性も否定できないが、真相は忘却の彼方である。後で知ったところによれば、おぼこい新入生に昼食をおごるための費用は明確に予算化されており、決してその女性たちの特別な厚意によるものではなかったのだが、この時点ではそんなことを知る由もない。
そうして彼は、そのサークルの部屋に行き、練習見学に参加し、新歓コンパ、新歓合宿に参加し、翌年には勧誘する側にまわっており、気がつけば追い出しパーティーにて追い出される立場になっていた。ちなみに、彼はそのサークルで出会った同期生と後に結婚し、子まで成したわけであるから、陸上競技のサークルで彼に声をかけなかった人物は、間接的にではあれ、声をかけないという不作為によって新たな二つの生命の誕生に貢献したということになる(あるいは、別の生命の誕生を阻止したと言えるかもしれぬ)。いずれにせよ、もし彼の子ども、またはその子孫が将来的に人類の救世主とも言うべき存在になったとすれば、彼は不作為により人類の救済に貢献した稀有な人物として永遠に記憶されるであろう。ただ、それがいったい誰なのか、性別すら不明であることが惜しまれるところではある。
時間軸を1995年の初頭まで戻そう。その日の早朝、ある大学図書館の前には行列が出来ていた。その行列に並ぶ一人の学生がいた(言うまでもなく津田正太郎(21)である)。彼がわざわざ早起きをしてまで開館前の行列に並んでいたのには理由があった。試験前で混雑する図書館において「縄張り」を確保するためである。二年近く前、女性の甘い勧誘に乗って彼が所属することになったサークルは、試験前になると図書館の一角に縄張りを設け、共同で勉強することを慣わしとしていた。大学の近所に住んでいた彼は、縄張りの確保に格好の人材だったのである。
とはいえ、大学生が集まって勉強することほど無益な試みはないというのは当時においても同様である。集中力は10分も続かず、気がつけば四方山話に花を咲かせている。あるいは、麻雀の面子を探しに来た先輩に連行され、試験開始の2時間前であるにもかかわらず雀卓を囲んでいるという体たらくである。そのせいか、2年生までの彼の成績は決して褒められたものではなく、「超」とまでは言えないが低空飛行であることに変わりはなかった。
というわけで試験の日程さえまともに確認していない彼は、その日、図書館の縄張りから離れて学部掲示板へと向かった。途中、掲示板の片隅に小さな掲示がなされていることに気づいた。その掲示は、次年度から新たなゼミが開講されることを告げていた。テーマはマス・コミュニケーション論/ジャーナリズム論/情報化社会論。その掲示を見た彼は、即座にそのゼミを志望することに決めた。それまで彼は何となく日本政治のゼミを志望しようかと考えていたのだが、まさに「情報化社会論」こそが自分のやりたかったことなのだと確信したのだ。
ちなみに、その掲示はあまりに唐突かつ目立たなかかったので、そうしたゼミが新たに開講されることを知らなかった学生も少なくなかったのだという。彼の日頃のいい加減さがプラスに働いた稀有な事例であると言える。
以上、ここで彼のどうでもよい歩みだらだらと書き連ねてきたのは、人生なるものの方向性が決まっていく上での偶然的要素の大きさを強調したかったが故である。1992年晩秋にあの予備校のスタッフが「もぐり」チェックをしなかったら、1993年春に陸上競技サークルの学生が目の前を行ったり来たりする冴えない新入生に声をかけていたら、1995年冬に彼が新しいゼミの告知に気がつかなかったら、その後の彼の人生は大きく変わっていたはずである。人生とはかように偶然的要素によって左右されるものであり、その日その日のほんの少しの選択が、自身や他人の運命の歯車を動かしていく。無論、森見登美彦の『四畳半神話大系』が雄弁に語るように、どんな選択をしようとも大して人生の経路が変わらなかった可能性も捨てきれはしないのだが。
いずれにせよ、今や大学教員となった彼に単位を落とされて人生を大きく変えてしまいそうになっている人は、彼ではなく、遠く西の空を見ながら20年近く前に予備校で「もぐり」チェックを行った人物を恨むがよかろう。
すべてはそこから始まったのだから。
(この文章は微妙にフィクションであり、やや誇張されたものであることを追記しておく)
2011-05-12 大学での講義プランの組み立て方

以下は何の根拠もない話。
大学の講義プランを組み立てるとき、大きく分けて次の2つの方法があるのではないかと思う。
(1)教員が話せることを話す。
(2)学生が知るべき(興味を持ちそう)だと教員/学部が思うことを話す。
言うまでもなく、教員にとってやりやすいのは(1)だ。自分が関心を持っていることや、専門的に研究してきたことを中心に講義を組み立てれば、講義準備をする必要もあまりないし、間違いも出にくい。学生の側からすれば、その分野に興味があればよいが、なければ「何のことやらさっぱり…」ということになりかねない。
実際のところ、大学の講義の内容はかなりの部分、教員の自主性に委ねられているので、受講生への教育効果などを全く考えなければ、シラバスだけはそれっぽいことを書いて、あとは完全に趣味の世界に走ることも不可能ではない。
他方で、(2)を話そうとすれば、それだけ準備は大変になる。必ずしも専門でないことを話さなくてはならないし、その分だけミスも多くなる。熱心な学生から見れば、突っ込みの浅い講義に見えるだろうが、体系的な講義にはなりやすいと思う。
現実的には、(1)と(2)の二つの極のあいだにほとんど大学の講義は位置づけられるだろう。視野を広くとることである程度の体系性は保ちつつ、自分の専門分野をやや手厚く話すというバランスの取り方になるケースが多いのではないだろうか。
ここで自分の話をすると、実際に僕の講義を受けた人には信じがたいかもしれないが、僕はかなり(2)を意識して話している。なので、僕が講義で話していることの多くは僕の専門からはかなり遠い。ナショナリズムとメディアの話や、途上国の近代化とメディアの話なんかは僕の得意な領域の話だが、講義全体で見れば一部に過ぎない。
(ちなみに、本当はやったほうがいいとは思うが、専門から遠すぎてさすがにできないトピックが「経済動向とメディア報道」なのだが、これをやろうと思ったらかなり本格的に経済学を勉強しなくてはならないので、現状では断念している。)
なんでこんな話を書いているかと言うと、最近講義で話した内容に誤り(というか、誤解を招きやすい部分)があることがさっき判明したからだ。僕の専門からはかなり遠い箇所でのミスだ。来週の講義で訂正を入れなくてはならない。ぐあああああ。
2010-12-19 ゼミの目標

毎年、ゼミの運営についてはかなり頭を悩ますが、僕はそもそもゼミ生にどんなふうになって欲しいのだろう、という疑問がわいてきた。そこで、僕自身が大学時代にどうだったかとか、教員としての力量などの問題はとりあえず棚に上げて、ゼミ生がこんなふうになってくれたら嬉しいなあという理想像を考えてみる。
(1)学術研究 やっぱりメディア研究が主体のゼミなのだから、マス・コミュニケーション効果研究のおおまかな展開ぐらいは全員が頭に入れておいてほしい。そのうえで個々の関心に応じてメディア史や言説分析、送り手研究などの方向に進んでほしいかな。でもって、毎年、優秀卒業論文集に卒論が掲載される学生が出る、と。
(2)社会への関心 政治や経済、社会の動向に対して全員が関心をもつ。新聞を毎日読むぐらいはするし、読書をする癖がついている。新書や学術書が家に何十冊もあるのが当たり前に。その結果としてメディア研究から関心が離れるなら、それはそれでいい。
(3)文章力 用途に応じて文体を使い分けることができる。名文を書く必要はないが、言いたいことが読者に伝わる文章が書ける。語彙は多いほうがいい。
(4)コミュニケーションスキル 人の話をきちんと聞くことができる。取材活動に際して全員が社会人とスムーズにコミュニケーションをとることができる。パワポを使ったプレゼンテーションも聴衆を見ながら行うことができる。
(5)PCスキル ブラインドタッチは全員ができるようになる。ワードやパワポについては全員が普通に使えるレベルになる。「普通に」というのは、オートシェイプや罫線の配置、行間やインデントの調整なんかをマニュアルを見ずにできるレベル。でもって、ゼミ生の3分の1ぐらいはインデザインが使いこなせる。写真とかデザインに凝る学生がいればなお良し。
(6)ネットワークスキル 単に検索欄に単語を入力するだけでなく、いろいろな検索方法を知っている。ネット上でのトレンドなんかにも関心がある。また、学校のデータベースを自由に使いこなせる。コピペなどは論外。ウェブサイトが作れる学生がいると嬉しい。
(7)語学力 当面の就職のことだけを考えるなら語学に力を入れる必要はないかもしれないが、将来的なサバイバルのために基礎的な英語力は身につけておいて欲しいと思う。辞書なしでBBCのニュースサイトの内容がだいたい理解できるぐらいかな。
(8)ゼミ外の活動 ゼミの活動にはきちんと参加したうえで、趣味なりサークルなりの自分の世界を持っていて欲しい。そのほうがきっと幅が出ると思うので。
(9)一人で行動できる 仲間と一緒にいるのは楽しいが、一人で行動することを恐れない。ぼっちの時間を楽しめる。
(10)上記のすべてをクリアしたうえでの就職実績 大手企業を目指す必要はないが、可能なかぎり早く就活は終えて、下級生と触れ合ったり、卒論の準備にとりかかってほしい。大学院に進学したいという学生が出てきた場合には応相談。
以上、好き勝手に述べてきたが、もちろん大学のゼミで出来ることなんてたかが知れている。ただ、目的が定まっているのは良いことだと思うので書いてみた。
K
2011/01/18 02:41
ツイッター等に入会していないので、場違いながらここで発言させて頂きます。レジュメを色々と落とさせてもらおうかと思ったのですが、殆どのファイルが壊れているのか、落とせる状態にありませんでした。passは知っていても利用が出来ないものばかりなので直していただけると助かります
Seu
2011/01/18 14:32
確認してみましたが、どのファイルも問題なく開きました。パスワードを入力するときに大文字入力になっていないかを確認してみてください。また、それでも駄目なときには別のPCで試してみてください。
K
2011/01/21 08:46
他のPCで試したところ、きちんと落とすことが出来ました。ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます。
2010-10-24 commonとopen

Twitterで書こうと思っていたが、長くなりそうなのでブログで書くことにする。
近所の公共施設を訪れたときのことだ。施設の建物内のベンチにホームレスと思しき男性が座っていた。かなり強烈な体臭を発しており、建物内には結構な数の人がいたが、彼の近くに行く人は少ない。
男性が座っていたすぐ近くにはレストランがあって、おそらくはその店からの依頼であろう、警備員さんたちがやってきて、男性に声をかけた。けれども男性は動かない。警備員さんたちはレストランの人たちと少し話をしたあと、その場を立ち去った。
この話を書いたのは、「公共(public)」とは何かを考えるうえで参考になると思ったからだ*1。
齋藤純一さんの整理によると、公共性には、国家に関係するということ(official)、みんなに共通しているということ(common)、そして誰に対しても開かれているということ(open)という三つの意味があるのだという(齋藤純一(2000)『公共性』岩波書店)。
とりあえずofficialの意味は措くとして、この男性について考えるとき、二番目のcommonという意味と、三番目のopenという意味とが対立していることがわかる。
二番目の意味に従うなら、この男性にはその場を立ち去ってもらうことが公共の論理ということになる。なぜなら、この男性は体臭によって周囲にいる人びとに迷惑をかけているからだ。言わば、公共の利益に反しているということになる。
ところが、三番目の意味に忠実であるなら、この施設が「公共施設」である以上、男性がベンチに座り続けることを否定することはできない。公共施設とは誰に対しても開かれていなくてはならず、体臭の有無は関係ないからだ。
この公共性の意味を踏まえて僕の見解を述べるならば、まず仮にこれが民間のレストランの店内であった場合、店側には男性を退去させる権利があると考える。それは、民間のレストランに求められる公共性はそれほど高くないからだ*2。
他方で、公共施設とは言っても、施設の性格によってcommonとopenのバランスは変化すると考えるべきだろう。たとえば、市立図書館の自習室の場合、openよりはcommonの論理のほうが強くなる。
目的論的に言うなら、自習室の目的は、そこに集う人たちが勉強することにある。したがって、他の学習者の勉強の妨げになるような強烈な体臭を放つ人物はそこにいるべきではないということになる。ただし、僕は目的論の論理はあまり使いたくない。そこで、強烈な体臭は他の学習者が自由に勉強する妨げになるから、という論理で考えることにしたい。
話を戻すと、それでは上述の僕が遭遇したケースはどのように考えるべきか。確かに、男性の強烈な体臭は他の利用者の迷惑になっていた。しかし、その公共空間は近くにレストランがあるとはいえ、特に目的を持たないし、無理に男性に近づく必要もない*3。
この場合は、やはりcommonよりはopenの論理を優先すべきだろう。つまり、我々はその場所から男性を排除することはできない。無論、閉館時間になれば、いかなる利用者であれ外に出なくてはならないから、男性も立ち退かなくてはならない。
ただし、結局のところ、この問題に関して万人が納得する答えは存在しないだろうな、とも思う。なぜなら、この空間について僕は「特に目的を持たない」と述べたが、仮に「市民が快適に過ごす」という目的があると想定すれば、目的論的に件の男性を排除する論理は成立する。また、「他の利用者の自由の侵害」の幅を広くとるなら、ここでも男性を排除する論理は成立するだろう。
しかし、それでも僕がそのような論理に乗らないのは、結局のところ、上のようにcommonの論理を拡大していき、openの論理を蔑ろにするならば、それはやがて極めて排他的な社会を生じさせるだろうという危惧があるからだ。
そして、commonの論理の暴走を食い止めるのは結局のところ、自分がいつなんどきcommonの論理から弾き出されるかもしれないという想像力しかないのではないか、とも思う。まあこれは別の話なので、ここではしないけれども。
*1:ちなみにここで考えているのは、視野をこの空間内に限定した場合の話であり、たとえばホームレスという社会問題にいかに処遇すべきかといった問題は視野の外にある。大きな社会問題の解決を目指すことは重要だが、とりあえず目の前にある問題を考えるうえでは別の論理が必要になる。
*2:これは件の男性が他の客に「実害」を与えることに起因している。男性に実害は存在しないが偏見に曝されているような場合には、民間のレストランではあっても受け入れる必要性が生じることもある
*3:なお、レストランは結局のところ、開けっ放しにしてあった店のドアを閉じることで対応した。そもそも店内まで男性の匂いは届いておらず(僕はドアに一番近い席に座っていたので確かだ)、やや過剰反応ではないかとも思った。