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東日本大震災:「5階にも薬があれば…」 志津川病院

公立志津川病院の前には、チリ地震の津波碑が残る。巨大津波で水中深く沈み、教訓とならなかった=宮城県南三陸町で、鈴木梢撮影
公立志津川病院の前には、チリ地震の津波碑が残る。巨大津波で水中深く沈み、教訓とならなかった=宮城県南三陸町で、鈴木梢撮影

 がれきが重なり、車が突っ込んだ正面玄関に「昭和35年5月24日 チリ地震津波水位 2.8メートル」と記された碑が倒れていた。宮城県南三陸町の公立志津川病院。碑文が1960年の津波で41人が死亡した惨事を伝える。半世紀後の東日本大震災。志津川病院は、入院患者107人のうち72人の死亡・行方不明者を出した。【鈴木梢】

 ◇「もっと上がれ!」

 74年、海から約300メートルの市街地に建設された地域の基幹病院だった。10年後に増築、鉄筋5階建てでベッド数は126床。チリ地震津波を基に病床は地上6メートルの3階、9メートルの4階に配置した。

 毎年5月24日は訓練を欠かさなかったが、津波想定は「チリ地震の2倍」の5.6メートル。3階以上の患者の避難は念頭になかった。

 3月11日。外来診療は午前で終わり、医師3人と看護師など約100人の職員が、平均年齢80歳を超える107人の入院患者の回診などにあたっていた。午後2時46分。激しい横揺れが襲ったが、耐震構造の病棟に被害はほとんどなく、院内には安堵(あんど)の空気すら漂った。

 「6メートル以上の津波が来ます」。緊迫した防災無線が院内にも届いた。それでも、ほとんどの職員は「3階以上に逃げれば大丈夫だろう」と考え、患者らを3階から上へ誘導し始めた。

 約30分後。津波が高さ5.5メートルの堤防をはるかに超えるのが見えた。星愛子看護部長(55)は、5階会議室に誘導するため、会議室の鍵と患者名簿を手に階段を駆け上がった。灰色の濁流は民家をのみながらわずか3分程で到達した。「もっと上がれ!」。院内に叫び声が飛び交った。

 ◇「みとるしかない」

 自家発電機は、旧館1階の電気室、新館は敷地内にあったが、水没した。エレベーターが止まり、がれきが混ざった水が3階の窓ガラスを破った。数十人の患者と看護師3人がのみ込まれた。患者を背負い階段を上る職員の足元にも海水が迫る。5階にいた菅野武内科医(32)も死を覚悟し、勤務中は外している結婚指輪を身元確認できるよう左手薬指にはめた。

 津波から1時間後。水が引き始めた。水が達しなかった5階に避難した患者は32人。マットに横たわった患者が引き波で4階から屋外に流れていくのが見えた。職員10人が下の階に向かった。

 4階の周囲の壁には、男性の背丈をはるかに超えた位置に黒い筋で津波の痕跡があった。地上約11メートルの高さになる。倒れた患者が次々と見つかり、10人が命を取り留めていた。いずれも床ずれ防止の空気入りマットごと押し上げられ、天井とのわずかな空間で呼吸を続けていた。

 日没。強い冷気が襲う。会議室に集めた計42人の患者は、冷たい床の上に敷いた段ボールや紙おむつを布団代わりにした。経管で胃に栄養を注入する脳梗塞(こうそく)の患者、心不全や肺炎、腸閉塞の患者もいた。酸素ボンベは2本しかない。自発呼吸が難しい高齢者は、すぐに一刻を争う事態に陥った。翌12日午後に救助ヘリが来るまでに、7人が低体温症などで息絶えた。「薬も酸素もない。ただ患者をみとるしかなかった」。星部長は悔いる。

 薬剤は1階にあり、5階にはなかった。菅野医師は「5階に最低限の薬剤や食料、非常電源があれば、救えた命があったかもしれない」と話す。横山孝明事務長(58)は「チリ津波の体験が想像しうるすべてだった」と語る。チリ津波後の固定化した想定が、いつしか「安全の保証」にすり替わっていた。

 ◇「絶対はない」

 エレベーターが動けば、もっと多くの患者が避難できた可能性もある。発電機を地上に設置したのはなぜか。職員からは「津波が来たら大丈夫か」との声もあった。横山事務長も「まずかったと思う」と話す。問題視しながらも、大規模な工事が必要だとして改善は見送られ続けた。

 4月にはプレハブで診療を再開し、6月に隣接する登米市の旧病院施設を間借りした。再建に向け議論も始まった。星部長は言う。「防災対策に絶対はない。海のそばでの再建はもうあり得ない」

毎日新聞 2011年7月20日 20時47分(最終更新 7月20日 21時16分)

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