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「王道十六文(完全版)」第九章 BIコンビ Part1

[2006年08月01日]

 昭和43年の日本マット界は、
『隅田川決戦』
 で幕を開け、本格的な2団体対立時代に突入した。

 前年1月に東京プロレスとの合同興行で旗揚げした国際プロレスは、東京プロレス崩壊後の夏に単独シリーズを開催、年間2シリーズを行っただけだったが、43年1月からはTBS(東京放送)のレギュラー放映が開始された。日本のプロレス団体が、テレビ放映なしでは存続が不可能なことは、現在経営者の立場にある私も認めざるを得ないし、歴史もそれを証明している。逆に、テレビ放映継続中に崩壊した団体もない。国際プロレスは、老舗・日本プロレスー日本テレビ・ラインに充分対抗し得る団体になったということだ。

 1月3日、日本プロレスは蔵前国技館で午後1時半から、国際プロレスは隅田川をはさんでちょっと下流の両国・日大講堂で午後5時半から、それぞれ新春シリーズ開幕戦を開催した。時間差はあったが、前年8月の “大阪夏の陣”に続く興行戦争だった。

 私はこの年の正月を、インター2冠王として迎えることは出来なかった。前年12月6日東京体育館でクラッシャー・リソワスキーのインター王座挑戦を受け、2−1で17回目の防衛を果たしたものの、3本目はクラッシャーが凶器のメリケン・サックを取り出し、両者血だるまとなっての私の反則勝ちだったため、
「はっきりと勝負をつけたい」
 と私はタイトルをコミッショナー預りとしてもらった。クラッシャーとは、アメリカでは何度もその試合を見、タッグ・マッチでは対戦したこともあったが、シングル対決はこれが初めてだった。初渡米武者修行時代に“雲の上の人”と見ていたクラッシャーが、私に挑戦する。
「あっ、俺もここまで来たんだなぁ」
 という感慨が私にはあった。それが不本意な反則勝ちに終わり、私はタイトルをコミッショナーに預けて再戦を求め、クラッシャーもそれを快諾したのだった。

 『隅田川決戦』の日本プロレスのメーンイベントは、この再戦が時間無制限1本勝負反則お構いなしのデスマッチで行われた。日本で私がデスマッチに出場したのは、これが初めてだ。クラッシャーのデスマッチ戦法は、さすがに自分から申し込んだだけあって荒っぽく、巧みで、私はたちまち血だるまにされたが、私も鉄柱にぶつけてお返しし、最後は32文ドロップキックで念願のフォール勝ちを奪った。やはり反則防衛とでは、腰に巻くベルトの感触が違う。

 国際プロレスのメーンイベントでは、グレート草津がルー・テーズのTWWA世界王座に挑戦、バックドロップを食って失神し、2-0の惨敗を喫した。実は草津は、40年8月に日本プロレスに入団し、41年9月国際プロレスの設立に参加して渡米武者修行に出るまでの1年余、私の付人をしていた。その草津に42年11月ロサンゼルスで再会した時、草津は、「馬場さんは日本プロレスのトップ。僕も国際プロレスのトップです。お互い頑張りましょう」
 と言った。私はいささかカチンと来たが、やはりかつて目をかけた男のことは気になる。草津の惨敗には胸が痛んだ。これは、草津だけの責任ではなかったと私は思っている。当時国際プロレスの吉原功代表は、TBS側に実権を握られてカヤの外に立たされ、TBSのある人は、
「草津を3分間で大スターにして見せる」
 と大見得を切ったそうだ。そういう感覚でプロレスを見たこと自体が、そもそもの大間違いだった。今でもこの種の人がたまにいるが、プロレスはそんな甘いもんじゃない。

 話はちょっと脱線したが、インター2冠王に返り咲いたのも束の間、その5日後には、今度はインター・タッグ王座を失ってしまった。1月8日広島大会でのことだ。その前日7日は大阪府立体育会館で試合が行われ、私はプリンス・イヤウケアの挑戦を退けてインター王座を防衛した。そして翌日、私たちは汽車で広島入りしたのだが、広島は雪だった。私と猪木のコンビはこの日、クラッシャー、ビッグ・ビル・ミラー組の挑戦を受け、インター・タッグ王座初防衛戦を行うことになっていた。

 ところが、猪木が広島入り出来なかったのだ。猪木は前夜の大阪大会終了後所用のため東京に帰り、この日は東京から空路広島入りすることになっていた。だが広島空港は雪のため閉鎖されてしまった。パートナーがいなくては防衛戦は行えない。やむなくタイトルを返上し、改めて私は吉村道明と組み、クラッシャー、ミラー組と王座決定戦を行ったが、引分けに終わった。コミッショナー預りと返上では全く違う。預りの場合は手元に認定書とベルトがなくても、王者の資格は認められていた。その意味では私は、この年の正月を2冠王として迎えたとも言えるのだが、返上は、王者の資格も剥奪されて空位となる。王座が他に移らなかったというだけで、転落と同じだ。

 正直言って腹が立った。猪木にはいろいろな事情があったのだろうが、たとえ私生活面に何があろうと、そのために試合出場不能になるという、結果よりもその気の持ち方が許せなかった。だが猪木にそれをさとせるのは幹部であって、私がやれば越権行為になる。黙って我慢するしかなかった。

 王座決定戦は改めて2月3日東京・大田区体育館で行われ、私と猪木のコンビがクラッシャー、ミラー組を破り、王座に返り咲いた。正確にはこれが、“BIコンビ時代”の幕開けということになるだろう。

 BIコンビ時代はこれから46年12月まで、3年10カ月にわたって続くことになる。パートナーの猪木はその間、常に私に張り合って来たが、
「やりにくい相棒だな」
 と思ったことは一度もなかった。コンビを組んで張り合って来たのは、猪木だけではない。大木金太郎もかなり強烈だった。だが私は誰と組んでも、やりにくいとは思わなかった。自慢話めくが、当時の私はそれだけの力があった。相棒がセリ込んで来れば、その上をやった。猪木が10出せば、
「よし、俺は12だ!」
 とやった。30歳になったばかりで、プロレスが面白くて、毎日の試合が楽しくてたまらなかったころだ。こういう張り合いも嫌いじゃなかったし、自信があった。パートナー同士が競い合ったから、なおさら、
「BIコンビは強い」
 という印象をファンに与えたのだろう。だが吉村だけは、私に張り合おうという気を全く見せず、チームの勝利だけに徹していた。タイム・マシンに乗って日本プロレス時代に戻れるなら、私は吉村と組みたい。最高に気持ちのいい試合が出来るパートナーだった。

 43年2月には、ハーリー・レイスとディック・マードックがそろって初来日している。 「こいつは伸びてくるな」
 と一目でピンとわかったのはレイスだった。マードックの方は、タッグ・マッチでコーナーに控えている時、口をポカーンと開けたどうしようもない顔をしていて、
「ちょっとヌケてるのかな」
 と思わせたが、体をぶつけてみると、実にいいセンスとリズム感を持っていた。
「顔だけで判断しちゃいけない」
 と見直したものだ。

 このシリーズの外人組ボスはディック・ザ・ブルーザー。BIコンビは2月26日大阪大会でブルーザー、レイス組を退けてインター・タッグ王座初防衛を果たし、私は28日東京体育館大会でブルーザーを破って、インター王座20回目の防衛に成功した。これは力道山の同王座連続19回防衛を越える新記録だったそうだが、私にはそういう意識は全くなかった。後年の3千試合無欠場記録達成の時もそうだが、後で人に言われたり新聞・雑誌に書かれたりして、
「あっ、そうだったのか」
 と思うだけで、特別の感慨は湧いて来ない記録に挑戦しょうという意欲に乏しいのかもしれないが、私自身は、
「記録にこだわるよりは、いい試合を」
 と心がけているためだと思っている。

 ブルーザーにも、もう私はビビらなくなっていたが、日本プロレスの看板を背負っているという責任感から、
「俺が負けたら、日本マット界の威信にかかわる」
 という思いが、私を武者震いさせた。こういう緊張感が無性に快かったのだから、インター王座に着いて2年3カ月で、私は大いに自信をつけていたということだろう。

 4月6日に開幕した第10回ワールド・り−グ戦には、私は3連覇を誓って燃えた。前年の第9回大会には、日本プロレスに復帰したばかりの猪木は後半戦に特別出場しただけだったが、この大会から正式参加し、初優勝を狙って闘志をむき出していた。日本人同士の対戦は行われず、日本組対外人組の総当り戦形式だったが、ワールド・リーグ戦の優勝者が日本プロレスのトップだと言う認識が特に強かったころだから、常に私に張り合って来た猪木が、私の3連覇を阻止しようとヤッキになったのは当然だった。だが私にも、インター王者のプライドがある。
「猪木には負けられない」
 という気が強かったのはたしかだ。

 外人組はキラー・コワルスキー、フレッド・ブラッシー、ジェス・オルテガ、ターザン・タイラー、パット・パターソンら曲者がそろっていた。私は開幕戦で公式戦30分1本勝負をコワルスキーと時間切れで引分けたが、後は手堅く星を稼いで優勝決定戦に進出、外人組から出て来たのは、予想通りコワルスキーだった。

 5月17日大阪府立体育会館での優勝戦は、1−1のあと逆エビ固めで初めてコワルスキーからギブ・アップを奪い、私は3連覇を達成した。コワルスキーは、私が38年3月に初渡米武者修行から帰国した時、いきなりぶつけられて45分時間切れ引分け試合を演じた因縁の相手で、これが5年ぶりの再来日だったが、実力も凄味も一向に衰えていなかった。だが、
「敵を知り、己れを知らば百戦危ふからず」
 と孫子の兵法にのっとって、私はコワルスキーを研究しつくしたのが、勝因だったと思っている。

 3連覇を達成して一段と自信を深めた私は、だがその約1カ月後に、ガン! と鉄槌を食らってしまった。6月25日名古屋・愛知県体育館大会で、ボボ・ブラジルにインター王座を奪われたのだ。

 ブラジルは、私がまだプロレス入りする前の32年8月に初来日、椰子の実が脳天に落ちてくるような“ココバット”と呼ばれる頭突きで、力道山を苦しめている。これが11年ぶりの再来日で、日本では私と初対決だったが、初渡米武者修行時代にニューヨーク地区で何度も戦い、いい勉強をさせてもらったことは、上巻に書いた通りだ。ブラジルの手の内を知りつくしているつもりの私は、
「頭突きは強烈だが、ブラジルの武器はあれしかない。頭突きさえ警戒すれば・・・」
 とそればかり考えていた。ところが、試合が両者リングアウトの1ー1となった後の3本目、再び場外乱闘となって、ブラジルはリング下で私にコブラツイストをかけた。この奇襲に焦った私が懸命に振りほどいた時、私の体はスキだらけだったのだろう。強烈な頭突きを額に食い、フラフラになりながら必死にリングに這い上がると、今度は後頭部に一発食い、立ち上がろうとしたところへココバットが脳天に落下して、私はリング上に大の字になりノビてしまったのだ。沖識名レフェリーの3カウントも、どこか遠くの方で聞こえていた。

 まさかと思っていたコプラツイストを食い、あわてて致命的なスキを作ってしまったのは、私の研究不足というほかはない。これがブラジルの来日第1戦だったが、それにしても、ブラジルは頭突きだけのレスラーだと決めつけていたのが、私の大誤算だった。40年11月にインター王者に着いて以来、私がシングル・マッチでフォール負けしたのはこれが初めて。ブラジルのココバットは、
「今の俺なら、誰にも負けっこない」
 と思い上がりかけていた私の脳天に下された、文字通りの鉄槌だった。

 王座は、2日後の27日蔵前国技館大会でのリターン・マッチで奪還した。鉄槌を食って敵を知り、己れを知った私は、慎重にブラジルの攻撃をブロックし、思い切り良く32文ドロップキックをぶっ放した。一度負けたことで、かえってブラジルの動きを冷静に読むことが出来、額の前で両手をクロスさせる新手の頭突き対策がブラジルを戸惑わせたことが、王座奪還につながったのだと思う。

 奪還後の初防衛戦は、8月7日大阪球場でのブルーノ・サンマルチノ戦だった。 WWWF世界ヘビー級王者となって、6年目に入っていたサンマルチノは、油の乗り盛りで風格も一段と増していた。前座試合の途中で雷雨に襲われていったん中断し、やむのを待って再開された時は、グラウンドは泥んこ。1−1の後の場外乱闘は、椅子で殴り合いとなったが、私はサンマルチノを泥の中に殴り倒してリングアウト勝ちをせしめた。

 新人時代に出世を誓い合った仲だが、チャンピオンとしては先輩のサンマルチノは、ファイトぶりにはっきりと変化が感じられた。かつては、パワーにまかせて真っ向からぐいぐい攻めて来たが、このころはラフ殺法を混え、駆け引きも使うようになっていた。それが椅子で殴り合う元となったのだが、私にはこれも一つの教訓となった。サンマルチノからの初勝利はフォールで奪いたかったが、リングアウトでも勝ちは勝ちだ、私が“勝つためのレスリング”を考えるようになったのは、このサンマルチノ戦からだった。

 9月28日札幌、11月2日蔵前国技館で、キラー・カール・コックスの2度にわたるインター王座挑戦を退けた私は、11月4日直江津大会の前日3日に、故郷三条の実家に立ち寄った。12月のNWA世界王者ジン・キニスキー来襲に備えて、シリーズ・オフはハワイで特訓を積むことになっていたため、
「またしばらく会えないから」
 と永く病床に伏せっていた父・一雄を見舞ったのだ。若いころから病弱だった父は、この時77歳で、もう口も手も不自由になっていた。サーキット中の、私用のための単独行動は落ち着かない。同じ新潟県下だが、私はその夜のうちに直江津で一行と合流することにしていたため、家には6時間ほどしかいられなかった。帰りしなに、
「孫に甘いもんでも買ってやってよ」
 と金をハンカチにくるんで手首に巻いてやり、
「また来るから、元気でね。じゃあ行くよ」
 と私自身はこれが最後になるとは思っていなかったから、軽い気持ちで言ったのだが、その時、父がジーッと私を見たその澄んだ目が、今も忘れられない。今にして思えば、父には“もうこれがお別れだ”とわかっていたのだろう。
「人間って、こんなきれいな目をするもんだろうか」
 と私は、強い感動に打たれて、しばらく視線をそらせなかった。シリーズは8日に終了し、9日に私はハワイに飛んだが、父が亡くなったのは15日だった。私は葬儀には帰らずに特訓を続け、29日に帰国して、そのままシリーズに突入した。

 キニスキーのインター王座挑戦は、12月1日仙台大会で60分3本勝負を0−0のまま時間切れ引分け、同6日蔵前国技館大会では、“決着をつけよう”と90分3本勝負で戦ったが、1−1の後、通算試合タイム58分18秒反則勝ちで、ともに私が防衛に成功した。蔵前大会の3本目は、リング中央でがっちりとコブラツイストを決め、“勝った!”と思ったのだが、キニスキーは、“ギブアップか”と顔をのぞきこんだ沖レフェリーを殴り倒して、反則負けを取られたものだ。NWA世界王者のプライドが、屈辱のギブアップより反則負けを選ばせたのだろう。その気持ちは私にもわかる。シリーズに参加していた外人レスラーたちの口から、
「あいつは日本で、馬場にギブアップした」
 と言いふらされるよりは、レフェリーをぶん殴って反則負けを食ったという方が、はるかに外聞がいい。米マット界は特に、反則負けは負けじゃないとする風潮が強いからだ。

 実は私はインター王座防衛戦より、キニスキーのNWA世界王座に挑戦したかった。日本プロレスの幹部にもその意向を伝え、NWA本部に申請してもらったのだが、サム・マソニック会長の答えは“ノー”だった。キニスキーと戦って、私はその理由がわかったような気がした。王座に着いて2年と11カ月のキニスキーは、精神的に疲れているという感じを受けた。WWWFのサンマルチノと違ってNWAのキニスキーは、広大なエリアをサーキットして防衛戦をこなさなくてはならない。特にキニスキーは“戦うチャンピオン”と呼ばれ、先代王者ルー・テーズよりはるかにハードなスケジュールを消化していた、NWA世界王者の過密防衛戦日程は、このキニスキーの王者時代から始まったようだが、このためにキニスキーは疲れ、それを知っていたマソニックが、
「日本で王座から転落したのではまずい」
 と判断したのだろう。これは私のうぬぼれではないと思う。キニスキーがドリー・ファンク・ジュニアに王座を奪われたのは、この3カ月後の昭和44年2月だった。

 昭和43年中に私は、王座転落劇も含めてインター王座戦を11回行い、私と猪木のBIコンビはインタータッグ王座戦を12回行った。私が吉村道明と組んだ同王座決定戦を加えれば、私は1年間に24回のタイトル・マッチに出場している。これは私のレスラー生活における年間最多数だが、30歳の私には一向に苦にならなかった。毎日試合があって、1週間に1回防衛戦を行ってもいいぐらいに思っていたものだ。

 昭和44年入って正月早々に私たちBIコンビはインタータッグ王座から転落してしまった。新春シリーズ開幕戦1月3日蔵前国技館大会でウイルバー・スナイダー、ダニ・ホッジ組の挑戦を受け、これは1−1の後時間切れ引き分けで防衛したのだが、再戦が同9日広島大会で行われ、2−1の苦杯を喫したのだ。正統派テクニシャンのはずだったスナイダーとホッジが、反則パンチをガンガンたたきこんでくるという予想外のラフ・ファイトを仕掛けて来て、そのペースにはめられたのが敗因だった。広島では、前年1月8日に王座を返上させられている。広島はことインタータッグ王座に関しては、ゲンが悪かったようだ。

 同王座は2月4日札幌大会で奪還した。1−1の後の3本目、私がスナイダーにコブラツイストを決め、乱入しよとするホッジを猪木がコブラツイストで食い止めて、リングでBIコンビのコブラツイスト競演という珍しいシーンがフィニッシュとなったが、試合そのものはあまり満足出来る内容ではなく、2月11日秋田大会で外人組のリターン・マッチを退けて、ようやく決着をつけた。スナイダーもホッジもシングル・マッチ向きのレスラーで、特にホッジは地味だったが、何かやりにくいチームだった。

 春の第11回ワールド・リーグ戦は4月5日に開幕、渡米武者修行から帰国した坂口征二が、日本デビュー戦を飾った。このリーグ戦中5月12日、NET(現テレビ朝日)が日本プロレスの放映を発表している。NETの事前工作はだいぶ前から噂にはのぼっていたが、取締役とはいっても名ばかりの私は、全くのツンボ棧敷だった。これで日本テレビとの2局方映となったわけだが、日本テレビは私の試合と、ワールド・リーグ戦公式戦は独占するということで、日本プロレス側に押し切られてしまった。 NETが番組のエースに推し立てたのは猪木だった。


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