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「王道十六文(完全版)」第十章 全日本プロレス設立 Part1

[2006年08月01日]

 インター・タッグ王座をザ・ファンクスに奪われ、猪木は翌日から欠場して、BI時代は終わった。シリーズ最終戦昭和46年12月12日東京体育館大会で、テリー・ファンクのインター王座初挑戦を受けた私は、不覚にも1本目にダブルアーム・スープレックスを食い、フォールを喫してしまった。だが、これがかえって、私のモヤモヤを吹っ飛ばしてくれた。

「クソッ!インター王座まで奪われてたまるか!」
 私はもう八つ当たりのような荒っぽい攻撃を仕掛け、テリーを踏みつぶし蹴っ飛ばして2、3本目を奪った。負ける気はしなかったが45年7月に続いて2度目の来日のテリーは、見違えるほど歯応えのあるレスラーに成長していた。

 その翌日に、代官山の日本プロレス本社で、
「会社乗っ取りを策した」
 として猪木の除名が発表された。猪木の欠場は、いったんは"盲腸炎のため"としていたのだが、事の重大さを知った幹部が、ついに決断を下したのだった。同時に私も、選手会長を辞任した。当初は私も会社改革には賛成だったのだから、これは仕方ない。

 日本プロレスの幹部にはこの時、猪木が新団体を設立するとは、夢にも思っていなかったようだ。仮に私が猪木の立場だったら、アメリカ定着の道を選んでいたかもしれない。TBSのバックアップによって軌道に乗っていた国際プロレスも、東京プロレス時代のトラブルが尾を引いていて、猪木には声をかけなかったという。猪木は完全にマット界から見離されたわけだが、そこから立ち上がって来た猪木の強さ、渋とさは、やはり凄いと思う。猪木には、追い詰められるととんでもないことを考え出すことわざがあると感じたのは、この時が最初だった。

 昭和47年も、日本プロレスは順調な滑り出しを見せた。1月26日に猪木が新日本プロレスの設立を発表したが、猪木には東京プロレスという"前科"があったためか、日本プロレス内部には全く同様の色は見られなかった。

 私は1月6日大阪大会でブブ・ブラジル、2月29日東京・大田区体育館でブルドッグ・ブラワーの挑戦を退け、インター王座を防衛した。ブラワーは、私が再渡米武者修行中の38年ころ、カナダのトロントでは、ジョニー・バレンタインと並ぶトップ・スターだったが、日本ではあまり人気が出なかった。ブラジルは、43年6月に私からインター王座を奪ったころが、ピークだったろう。この2人との防衛線より手応えがあったのは、2月25日後楽園ホールのメーンイベントで対戦したハーリー・レイスだった。

 レイスはこれが4度目の来日だったが、後年レイスの持ち味となったタフで粘っこいファイトを、この試合で初めて見せた。私は16文キック、脳天チョップ、バックドロップまでやったがフォールに結びつかず、両者リングアウトと反則の2−1で勝っている。前年12月のテリー、この時のレイスには、新しい波の台頭を肌で感じたものだった。

 新日本プロレスは3月6日大田区体育館大会で旗揚げをした。すでに2年前の45年3月に、国際プロレスで引退興行まで行っていた豊登が、東京プロレスでの告訴合戦を水に流して猪木の助っ人として参加したと聞き、日本プロレスの面々は、
「いろいろと、やってくれるなぁ」
と苦笑したものだが、それを脅威と感じてはいなかった。新日本プロレスにはテレビ放映がついていない。だが、日本プロレスは2局放映だ。いささかオーバーだが、
「日本プロレスは永遠に安泰」
と信じ込んでいたようなところがあったのだ。

 だがその2局放映のお陰で、私は苦しい立場に立たされた。47年春の第14回ワールド・リーグ戦は3月31日に開幕したが、その1週間ほど前に私は幹部から、
「馬場チャン、NETの試合にも出てもらうよ」
と言われた。前にも書いたが44年にNETが割り込んで来た時、日本プロレスの日本テレビとの間に、
「馬場の試合とワールド・リーグ戦公式戦は、日本テレビの独占とする」
 という契約を結んでいる。だが、日本プロレスの幹部は、日本テレビの了解をとらずに、私の試合をNETのブラウン管に乗せることを決めたのだ。私は日本テレビの人に、
「馬場さん、あんたがNETの試合に出たら、ウチと日本プロレスの関係は終わりになりますよ、出ないで下さいね」
 と言われ、極力幹部を思いとどまらせようとしたが、無駄だった。幹部たちには、
「そんなこと言ったって、本当にやめやしないさ。出ちまえば、何とかなるだろう」
 と高をっくくったところがあった。この“何とかなるだろう”という姿勢で突っ走ってしまうのは、一般会社からは想像もつかない日本マット界の体質みたいなものだ。62年3月に長州力が、日本テレビ・全日本プロレスの契約違反、全日本プロレスと新日本プロレスとの間に交わされた協定破りを承知の上で新日本プロレスに走ったのも、この“何とかしてくれるだろう”という考え方からだった。事実長州は、それを口にもしている。

 この時の日本プロレス幹部がそうだった。日本テレビが警告しても、私が口をすっぱくして説いても、
「本当にやめはしないだろう。何とかなるさ」
 と開幕第4戦4月3日月曜日の新潟大会で私の試合をNETに生中継させることに決めてしまったのだ。

 たとえ口約束であっても、いったん約束したことを破るのは、私の性格としては、出来ない。NETが、番組のエースとした猪木を、日本プロレスのお家騒動で失ったことに対する不満と、それに代わるものを求めなくてはならないことはわかるが、約束は約束、契約は契約だ。ましてや日本プロレスは、日本テレビと番組スポンサーの三菱電機には大恩がある。その恩義にそむくようなことは、絶対にすべきではないというのが、私の信念だった。だが一方、メーンイベントのカードのまで決まっている新潟大会を欠場することは、ファンへの裏切りとなる。私はどう対処していいのかわからないままワールド・リーグ戦に臨み、開幕戦後楽園ホール大会で、アブドーラ・ザ・ブッチャーにフォール負けを喫してしまった。

 唯一の望みをかけた幹部の翻意もついに得られず、私は新潟大会で出場し、NETはそれを生中継した。日本プロレスの所属選手であるがゆえに、私は自分の信念に反した行為をしてしまったのだ。
「もう、この会社にはいたくないな」
 と思うと、かえって腹がすわった。私は、2度とNETの試合には出ないと強硬に幹部に申し入れ、内心“これが最後のワールド・リーグ戦だ”と決めて試合に臨んだ。スタートのブッチャー戦にはつまづいたが、割り切ってしまえばファイトに全力投球出来た。外人組の副将に選ばれたほど成長していたディック・マードック、因縁の敵カリプソ・ハリケーン、初来日の実力者ホセ・ロザリオらを降して、5月12日東京体育館での優勝決定戦で私はゴリラ・モンスーンと対決、1-1の後32文ドロップキックから逆エビ固めでギブアップを奪い、3連覇通算V6を達成した。

 この試合が日本テレビの、日本プロレス放映最後の試合となった。3日後の5月13日、日本テレビ本社で行われた記者会見で、日本プロレスは放映打ち切りを宣告されたのだ。
「もっと常識ある社会人かと思ったが、日本プロレスの幹部には、子供みたいな感覚しかない。もうバカ負けした」
 ときびしい言葉を吐いたのが松根光雄運動部長、現全日本プロレス社長だ。

 これで私の腹は決まったが、“何とかなるだろう”とパッと飛び出せないのが私の性格だ。松根部長、原章プロデューサーから、
「マトモなプロレス団体なら、放映を再開してもいい」
 という日本テレビの意向を聞かされ、最終的には当時の小林予三次社長から、
「君にやる気があるなら、後は俺にまかせろ」
 という言葉をいただいて独立に踏み切ったわけだが、それまでにはやはり、ちょっと時間がかかった。

 リーグ戦終了は坂口征二を滞同して渡米、5月18日テキサス州アマリロでザ・ファンクスのインター・タッグ王座に挑戦したが1-1で引き分け、翌19日ロサンゼルスでの再挑戦で王座を奪還した。退団の決意はほぼ固めていたが、まだ在籍している限りは全力を尽くすべきだというのが私の考え方だし、プロとして当然だと思う。坂口はビッグ・チャンスに張り切って、いい動きを見せた。このコンビは『東京タワーズ』と呼ばれたが、いいチームだったと思っている。

 BIコンビも、リングに上がってしまえばやりにくいということはなかったが、正直な話、時には、
「悪いことばかりするとヤツと、何でコンビを組んでなきゃいけないのかな」
 と思うこともあった。その点、坂口とは気分良くやれたということだ。このコンビでは6月にボボ・ブラジル、ボビー・ダンカン組、7月にキラー・コワルスキー、ムース・ショーラック組の挑戦を退けて、インター・タッグ王座を2度防衛している。

 日本プロレスに辞表を提出し、独立計画を発表したのは、昭和47年7月29日だった。サマービッグ・シリーズが開幕してすぐだったが、8月18日終了の同シリーズには、
「ポスターには名がのっているので、最後まで責任を持って出場します。会社にもプロモーターの皆さんにも、迷惑はかけません。次のシリーズのポスターからは、私を外して下さい」
 と口頭で伝えて、早目に提出したわけだ。これもプロとしては当然だと思う。シリーズ開幕戦当日に突然出場をボイコットし、他団体に走るなど、プロにはあるまじき行為だ。

 その日のうちにホテル・ニューオータニで公表したのは、辞表を握りつぶされないためと、今後の行動をオープンにしたかったからで、まだ会社名も決めず、設立準備もしてはいなかった。それは正式に退団してからのことにして、翌30日福岡大会から地方サーキットに出たが、これはかなり勇気の要ることだった。別にあからさまな嫌がらせがあったわけでもないが、やはり前日までとはムードが違う。私と行動を共にしてくれることになった佐藤昭雄、サムソン・クツワダらと、
「リングに上がっている時が、一番安全かな」
 と半ば以上本気で言っていたものだ。

 このころの私は、自身を持ちすぎていたのかもしれないが、レスラーたちに誘いの声はかけず、
「俺がやめたら、いずれ日本プロレスは崩壊するだろう。その時でいいから、みんな俺の所に来い」
 と伝えておいた。ほとんどの選手が複雑な表情でうなずいたが、その中には坂口もいた。

 8月18日宮城県石巻市中央広場特設リング大会のメーンイベントで大木金太郎と組み、ジートとベーポのザ・モンゴルズに勝ったのが、私の日本プロレスにおける最後の試合だった。35年9月30日デビュー戦から12年、記録を見るとこれが私の海外での試合を除く1663戦目になる。1-1の後ジートに16文キックをぶっ放してフォールで締めくくったが、もう別に感概はなかった。幹部からは、再三にわたって慰留されたが、私の心は完全に日本プロレスを離れていたのだ。

 東京に帰って会社設立の準備を進めていた8月25日、日本プロレスは、
「大木が、馬場のインター王座挑戦を熱望している」
 と発表した。冗談じゃない。私はもう日本プロレスとは縁を切った男だ。今さらそのリングに上がる気はない。私は辞表を提出してから20日間、シリーズに出場していた。大木が本当に挑戦する気なら、その間に出来たはずだ。私は9月2日に代官山の日本プロレス本社を訪れ、インター王座のベルトを返上した。ベルトは王座の象徴ではあるが、王者個人のものではない。タイトルの管理権は団体にある。団体を離れた私が返上するのは、ごく当然のことだった。

 赤坂プリンス・ホテルで全日本プロレスの設立を発表したのは、9月9日だった。この名称は、
「日本、国際、新日本があって、6年前には東京もあった。もうこれしかない」
 と決まったもので、私としては『オール・ジャパン』という名をまず考えて、それを日本名に直したという感覚だった。


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