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正当防衛と生命の尊厳  

2010年 12月 08日

             ◇書籍「現代文明と宗教」の一文を転記します。
「問い」(抜粋)
正当防衛は、刑法上も認められています。
しかし、他の生命を傷つけたり奪うという結果については同じです。仏法においては、正当防衛という問題を、どのように考えているのでしょうか。

「答え」(ほぼ全文)
このように考えなければならないと規定した教えは、仏法にはないようです。
どう考え、どう行動するかは、各人の自由に任せ、その基盤となる哲学を打ちたてたのが仏法ではないでしょうか。
同じ仏教でも、小乗教は殺生をするなと、具体的な行動を規制しています。
大乗経になると、そういうことにはこだわらず、正法を護るためには殺生も許されるという説き方が、強く表に出てきます。
たとえば、仙予(せんよ)国王は、大乗を謗ったバラモンの命根を断つことによって、以来、地獄に堕ちなかったとさえ説かれています。また、有徳(うとく)王は、正法をもった覚徳比丘(かくとくびく)を守るために戦ったとされている。大聖人御在世のときも、小松原法難では、武器をもった在家の弟子が、大聖人を守るために戦っていますし、日興上人の遺誡には、仏法守護のために刀杖をもつことを許すとされている。
こうしてみると、大乗仏教は、いかにも好戦的に映るかもしれませんが、小乗の不殺生戒を否定しているのではなく、それは当然の前提として、その上で論じられているのです。
武力を使うのは、武力をもって侵害してきた場合、法を護るというための防衛としてであって、積極的に侵害することは、断じてあってはならないと考えるべきでしょう。
むしろ、仏法が偉大であるがゆえに、仏法を守ることがいかに尊いかを教えるために、そうした説き方がされたと思います。
生命を大事にする、暴力や武力を誡めるという点では、仏法ほど明快に徹底して強調している宗教は他に例をみないくらいです。
とくに、正法を誹謗する者に対して、「命根を断つ」ということについては、あくまで、釈迦以前の過去のことで、釈迦以後は、「其の施を断つ」ことだと明示されています。
これは、宗教上の対立は、教義論争で解決すべきだということです。
事実、東洋の仏教国においては、西欧のキリスト教国のような宗教戦争を行った例は、歴史上、一つとしてないのです。
先に私は、仏法を守るために武器をとった例、あるいは武器をもつことを許された例をあげましたが、仏教には、その逆の例、つまり、あくまで武力によらず、すすんで命を捨てた例も多く説かれています。
したがって、そうしたことは、各人の自主的な判断に任せられていると考えるのが妥当であり、仏法を好戦的とみるのも誤りなら、非暴力・無抵抗主義とするのも正しくないといえましょう。
大事なことは、あくまで法を護ることです。
戦わざるを得ないときは戦った例もありますが、反対にわが生命を捧げることが法を宣揚することになるときは、戦わないで敢然と命をなげだしていったのです。
そういう意味から、結論的には正当防衛は認められていると考えてよいと思います。
ただし、過剰になってはならない。最善の防衛は敵を味方にすることです。「法華経に勝る兵法なし」の真髄は、ここにあるのです。
次善の策として、相手の攻撃力を、こちらの危険がない程度にまで弱めることです。相手を死に至らしめるのは、下の下策というべきです。

以上、「答え」は、当時の池田会長のお考えになります。書籍は、1970年代当時、大白蓮華に掲載された質問対談がまとめられたものです。
次回は、今回の一連の出来事から、「最終的にどのように受け止めたのか」について申し上げ、このシリーズの結論にしたいと思います。
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by sokanomori | 2010-12-08 23:45 | 戦争・紛争 | Trackback | Comments(8)

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Commented by eco at 2010-12-09 04:59 x
>>“た・だ・し”過 剰 に な っ て は な ら な い 。
>>最 善 の 防 衛 は 敵 を 味 方 に す る こ と です。
>>「法華経に勝る兵法なし」の真髄は、ここにあるのです。

だから、今こそ題目なんじゃないでしょうか?
祈りこそ“最大の防衛”なんじゃないでしょうか?

本来はココから始めなければいけない筈なのに
菊川氏の場合は、ミサイル一つで、お手上げにもなった
簡単に諦めて安逸に戦争と叫び、臆病にもなった、あなたがいる。
Commented by sokanomori at 2010-12-09 07:03
ecoさん、おはようこざいます。
>菊川氏の場合は、ミサイル一つで、お手上げにもなった
>簡単に諦めて安逸に戦争と叫び、臆病にもなった、あなたがいる。
言っている意味が分からないのですが、「簡単に諦めて安逸に戦争と叫び」ということはありませんよ。打つ手を全て打って、全ての手段がダメな上で、「防衛戦争は容認される」とは発言したけれど。
>本来はココから始めなければいけない筈なのに
これはその通りです。^^
★菊川広幸
Commented by さみーん at 2010-12-09 07:05 x
菊川さん、書いている時間が数分間ほどしかないので、言葉足らずになると思いますが、ごめんなさい。ただ、書かずにいられないので。

菊川さんが「正当防衛」とおっしゃっている時、その相手のことを「鬼、畜生」と思っていらっしゃるように感じます。仏界を具えた人間と思っていらっしゃらないように感じるのです。

対話とは、相手の存在(仏界)を認めるところから始まるのではないでしょうか。戦いとは、戦争とは、相手の仏界否定です。熱原の三烈士にしても、牧口先生、戸田先生にしても、生命を奪われるほどの権力からの圧力に対して武力は使われませんでした。それが学会精神だと私は信じます。

そして、話は全く変わりますが、詰まるところは、本末究竟して等しいと思います。部分的な師弟不二はあり得ない、ということです。

それでは。
Commented by sokanomori at 2010-12-09 12:45
さみーんさん、こんにちわ。
ここまではプロセスです。ご心配かけてスミマセン。
記事は、一度に書けないのです。
結論をご覧になられたら、おそらく納得いただけると思います。
もし、結論が違っても、それは私の考えですけれど。^^

私は、このブログで、「創価学会の正解」を書こうとは考えていません。
私は大幹部でもないし、「師弟不二」を言える私でもないのです。
過去より、私は、創価三代の会長の師弟不二、大聖人と日興上人の師弟不二は語ってきました。
でも、私自身が師弟不二と申し上げた記事は、一度もありません。
私にとって、師弟不二とはあまりにも大きく深いものなのです。
愚鈍で怠け者で、弱虫な自分自身だって沢山ある。
「先生はスゴイな。でも私は、なんでこんなこともできないのだろう」と考える局面が多い。勿論、今日は、師弟不二だったという日はありますけれど。^^
私は、師弟不二を努力して目指すけれど、常にギャップを感じながら歩いています。
★菊川広幸
Commented at 2010-12-09 22:11 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by sokanomori at 2010-12-09 22:17
非公開コメントさん、本当にお久ぶりです!
どうされて、いるのかとずっと思っておりました。
ありがとうございます。
本当に嬉しい。(涙)
過去は、本当に失礼しました。
一歩、一歩、前進します。
これからも、宜しくお願い申し上げます。
★菊川広幸
Commented at 2010-12-09 22:33 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by sokanomori at 2010-12-09 22:37
了解です。^^
★菊川広幸
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