韓昌祐物語

〜不屈の豪快〜

 

 

 1945年10月21日午後11時。

少年は故郷・朝鮮半島慶尚南道三千浦を後に舟に乗り込んだ。

向かう先は日本。下関というところだと聞かされていた。

少年は勉強がしたかった。

しかし、朝鮮半島の情勢はそれをゆるしてくれそうになかった。

それまで35年に渡って半島統治をしていた日本が戦争に敗れ撤退。

この機に乗じて、共産主義圏拡大を目論むソ連と資本主義の楔を東亜に打ち込んでおきたい米国との思惑が、このちっぽけな半島を呑もうとしていた。

隣国中国も日本相手に共闘していた国民党と共産党が再び内戦を始め、いつその飛び火が来るかわからない。

日本の戦争は終わったが、半島の動乱はこれからの様に感じられた。

旺盛な知への探求心が、国境を越えるには明らかに力不足に見える小さな舟に足を進ませた。

手にした荷物は米二升と英語の辞書。

6時間の船路。

そして踏む土は日本のもの…であるはずだった。

予想だにしない大しけ。

24時間が過ぎた頃、ようやく下関に着いた。

旅館にふらふらとたどり着き、そのまま布団に倒れ込んだ。

地面がゆれている様な錯覚にとらわれ、気が付くと畳をつかもうとしていた。

「こんなしんどい思いをするとわかっていたら死んでも日本に来なかった。」少年は60年後に冗談交じりに豪快に笑い飛ばす。

 その笑顔には王者の風格と挑戦者の意欲が同居する。

 

 銭湯に向かう浴衣の女性のカランカランという下駄の音。

それが日本に来たことを実感させた。

未だに耳に残っていると韓昌祐氏は言う。

 

 3年間勉学に勤しんだ韓氏は48年、法政大学経済学部に入学。

昼食を抜いてまで、クラシックコンサートのチケットを買った。

その会場で初めて聞いた生の演奏がメンデルスゾーン、バイオリン協奏曲だった。

メンデルスゾーンはその死後、ナチスによりユダヤ人であることを理由に名誉を奪われ、曲目の演奏を禁じられ、闇に一旦は葬られた作曲家である。

通学途中の電車で、前に座ったおばさんたちの「チョーセンジンは気が短い。」等々の発言を黙って聞いていた韓青年がこの曲目に邂逅したのは偶然といえば出来過ぎだろう。

 

 1952年卒業を迎えた韓青年であったが、就職先が見付からなかった。

当時は一流大学を卒業した人も就職難の時代であった。

特に外国籍ともなれば一層厳しい風が吹いていた。

多くの在日朝鮮人・韓国人は廃品回収など日本人がいやがる仕事、日銭を稼げる仕事に就くしかなかった。

韓青年の義兄も例外ではなく、京都の峰山で20台ほどのパチンコ店を営んでいた。

他に仕事が見付からず、そこに身を寄せた。

ある日、いつもの様にホールに立っていると、一人の老人の姿が目に入った。

負けていた。

玉を買って、台の前に座る。玉が無くなる。また買う、無くなる。

何度か繰り返した後、最後に寂しげに帰っていく丸まった背中があった。

いたたまれなくなった。

追いかけて行き「これ、少ないですけど…。」と、玉を融通した。

老人は何度も「おおきに」と言って、台に向かった。

また、玉は無くなった。

もう一度、玉を渡した。また、玉は無くなった。

恥ずかしそうに、ちらとこちらを見てから帰る老人を見送った後、どうしても老人の顔が忘れられず、景品置き場からタバコ一箱をつかんで追いかけている自分がいた。

 

 義兄が韓国に帰ることになった。

韓氏は後を受け継ぐと業務拡大に取り組んだ。

57年、喫茶「るーちぇ」をオープンさせた。

当時としては珍しい自動ドアに従業員の蝶ネクタイ姿。

やるからには徹底的にサービスを拡充させた。

「喫茶店に行くと不良になる。」と世の大人たちが子どもに注意し、背伸びしたい盛りの高校生などは反発するように通った。そんな時代のことである。

「るーちぇ」はほどなく地元でかなり名の通った店になった。

 

 これだけで韓氏は当然満足しなかった。

1967年、ボウリング場を兵庫の豊岡にオープンさせた。

熱狂的ボウリングブームと相まって、客足は途絶えることがなかった。

峰山、柏原……ボウリング場を次々と増やしていった。

 70年代に入り、ボウリングブームに以前ほどの勢いが見られなくなった。

業界の中には店をたたむところも出始めた。

さらにその数が増えた1972年、総工費25億円、120レーン2フロアの「一大ボウリング場」を静岡にオープンさせた。

よそが潰れても自分のところだけはだいじょうぶ、と他人の忠告など馬耳東風でした。そう韓氏は述懐する。

60億円という、現在の価値に換算すれば1200億近い負債を抱え、ボウリング場のチェーン展開と言う夢は終わりを告げた。

 

 誰に顔向けができるのか。

毎日、首を吊っている自分、ビルから身を投げる自分、そんな自分ばかりを想像した。

そんな時、6人の子どもたちの顔が浮かんだ。

自分は子どもたちをおいて何を考えていたのか。

この子たちの為にも生きなければ、そう思い直した途端に自分を信じてお金を出してくれた人たちの顔も浮かんできた。

 こんなに多くの信頼を裏切ってはいけない。

 

再起。

 

しかし、何をするか。

 

脳裏にあの老人の顔が浮かんだ。追いかけていってタバコを渡した時の、あの喜んでいるのか、困っているのか、なんとも言えない顔が。そしてその直後の「おおきに、また来るわ。」と言うしゃがれた声と、満面の笑みを。

 

 

 場所は京都の峰山、兵庫の豊岡を選んだ。それぞれ90台と160台。

パチンコ屋と言えば、挨拶も笑顔もない店員。そんな悪評を吹き飛ばす為にお客様へのサービスを徹底させた。

韓氏の信念が呼んだのか、客足は順調に伸びていった。

借金を返すためにも、そして何より生来の起業心がチェーン展開を模索させた。

ボウリングの二の轍を踏むわけにはいかない。

出店予定地に自らハンドルを握り、愛車のベンツを走らせた。

車の中で寝泊まりしたこともあった。

そんな韓氏の姿を見て、こう忠告した人がいる。

「会社をたためば、借金もなくなって、楽になれる。」

即座に首を横に振った。

「自分を信じてお金を出してくれた人、借金の保証人になってくれた人にそれでは申し訳がたたない。信頼を裏切った人間は非道だ。人間として卑怯だ。」

借金を月々、1年目は25万円、2年目は50万円、3年面は75万円…と言う風に返していくと契約した。

 

 出店予定地を決める行脚の最中、名古屋を通りかかった時、田んぼの中でぽつんと一軒だけ建っているパチンコ屋を見つけた。

経営者として、ひらめくものがあった。

こういったところなら、土地コストの安い店をつくることが出来る。利点はそれだけではない。駐車場スペースも充分とれ、お客様の利便性もはかれる。負けっぱなしのお客様には少し玉を融通したり、タバコ一箱のサービスもしやすくなる。

郊外型店舗が流行る時代が来る。

韓氏のこの読みはピタリと的を射た。

客足はさらに順調に伸び、借金も完済することが出来た。

気が付けば千葉から北九州までを走破した愛車のメーターは20万キロを超えていた。

 

 借金を完済し、順調に売り上げを伸ばす韓氏にはかなえなければならない夢があった。

「ぼくのゆめ」

16歳の時、事故で亡くなった長男哲氏が小学校3年の時に書いた作文である。

その伸び伸びと子どもらしい感性で書かれ、韓氏も愛した京都・峰山に対する思いに溢れた文章の一節に「町営グランドをつくる。」とあった。

 息子の死後、この作文を見、なんとかその夢をかなえてやりたかったが、その時はまだ余裕がなかった。

その余裕が出来た82年、峰山町(当時)に1億円を寄付した。

これがきっかけとなり、町営グランドが完成するのは95年のことである。

 

 同じく95年。念願の東京進出を果たす。渋谷の7階建てのビルに1000台超というまさに「度肝を抜く」出店となった。

一度でもここに行ったことがある人ならば、あまりに従来のパチンコ屋とは違う、と感じるのではなかろうか。

先ず、タバコの煙が店内に充満、ということは決して無い。笑顔できびきびと動く店員。女性専用の休憩場。カップル専用シート。

「営業本部長を務める息子が、この業界は徹底的に変わらなくては駄目だと言って、専門チームをつくって次々とアイディアを出し、実践しているんですよ。」

そう韓氏はうれしそうに語った。

 

 この東京進出をきっかけにさらに、さらに売り上げは幾何学的に増えていく。

 

 99年。いったん(株)マルハンコーポレーションと88年に変えた会社の名前を再び原点である(株)マルハンに戻した。

 そして韓氏も一つの決断をくだす。

 

 韓氏は先に家族全員に日本国籍を取得させていた。

自分が生活している国の国籍をとればよいと言う考えからだった。

しかし、自身は日本国籍取得に踏み切れないでいた。

金持ちの家に養子に行くような感覚があり、後ろめたさを感じていた。

しかし、韓国も経済発展を果たし、そういった感覚は徐々に韓氏の中で薄らいでいった。

2000年、日本国籍取得のための申請書を提出した。

関連のあるものは全国のパチンコ店の営業許可証まで提出し、結果1990枚と言う途方もない数の書類が必要になった。

ある時、入管と法務省が「貴方みたいなこんなに税金をたくさん納めて、こんなに立派な経歴の人が日本籍を取ったら韓国政府が文句を言いませんか」と言ってきたという。

心配してくれているのか、遠回しに国籍取得は無理だと言ってきているのか。

すぐに出てくると思われた日本国籍取得の通知は2年後の2002年にようやく届けられた。

 

 韓氏のこの国籍に対する考え方は、総連や民団など朝鮮・韓国国籍に固執する団体からしばしば攻撃を受けている。

「国籍が変わったところで、朝鮮民族、韓民族であることになんら変わりはない。」当たり前のことを当たり前に言う。

イデオロギーに囚われた人たちにはこの正論が聞こえない。

心の底から日本で暮らす同胞の身を案じているからこそ、発言は過激になる。

そのことで一時矢面に立とうと、目を覚まさせるには痛すぎるくらいの刺激が必要だ。

韓氏はあえて、憎まれ役をかってでているのであろうか。

 

 ちょうどこの頃、バブル崩壊のあおりを受け次々破綻していた在日系金融機関の受け皿機関として、民団・在日韓国大使館・韓国政府が主体になって全国銀行をつくろうと言う動きがあった。

 当初、民団が広く在日社会から出資を呼びかける予定であったが、それでは時間が足らない。力のある在日系企業に出資を呼びかけ、当然の如く韓氏にも声がかかった。

結果、韓氏は発起人総代として名を連ね、自身とその人脈をフル活用して出資金を募っていくのだが、何もやらない人たちからの非難の声があがった。

「発起人に韓氏の名前があるのは納得できない。」

その場は一丸となって銀行設立に尽力しようということでおさまったかに見えたが、不穏勢力はくすぶり続けた。

「今、進められている銀行は“日本人の銀行だ”という人がいる。本国政府が100億円も出す銀行が“日本人の銀行”であってはならない。発起人の中に民団や地方参政権に反対する人がいてほしくない。」

こういった民族主義的意見がこの銀行の行き先を遮っていった。

公的資金注入の最小化を金融当局が重視したことと、在日社会を一枚岩にまとめることが出来なかったこと。この二点の為に破綻した金融機関の受け皿にこの銀行は選ばれることなく、その産声を聞かないままに計画は終わりを告げた、と言われる。

 結果的に実を結ぶことはなかったが、韓氏は日本で暮らす同じ血を持った人々の生活を真に憂い、行動で示した。その事実は動かせないものだ。

 

 そんな韓氏が一気に世間の注目を集めたのは2005年。3月に発表されたフォーブス「世界の長者番付」に日本人として24位にランクされた。

 テレビや雑誌などが取材に訪れ、「不屈の経営者」として紹介されたが、「日本社会から言い様もない差別を受けながらも成功をおさめた在日韓国人」としての側面を強調したがる記事が多く韓氏を苦笑させた。

 差別が無かったわけではない。地元の青年会議所に韓国籍を理由に加入を断られたことがあった。

恨み言など言わなかった。

差別はどこの世界にもあること。それを打ち破って行くには知性と教養を増やし、経済的成功を果たして、そして地域社会に奉仕しなければならない。そう考えて、他人が8時間働く時、自分は15時間働いた。

 韓国の新聞にマルハンの名の由来について、こう書かれたことがある。

「マルハンの“マル”は日の丸の“丸”。“ハン”は恨みの“恨(ハン)”。日本を恨むと言う意味の社名だ。」と。

韓氏は笑い飛ばす。

「パチンコ玉は“丸”。地球は“丸”。円満の“丸”。それに自分の名前の“韓(ハン)”をつけただけだよ。」

マスコミへの露出が増えても主張は変わらない。

在日朝鮮人・韓国人は世界で最も立ち遅れた民族だ。

権利として日本国籍をとって、言いたいことをしっかり言うべきだ。

非難は増える。

マルハンの行動指針の中にこうある。

【依存ではなく自立】

【正しいコトは正しい】

これらは韓氏が身を以て実感したことからつくりだしたものだ。

 

 2005年6月22日。幕張メッセでマルハン売上一兆円達成記念式典が大々的に執り行われた。

 フルオーケストラの演奏で幕を開け、葉加瀬太郎作曲によるマルハンイメージソング演奏、日韓若手テノールによる競演、さらにはマルハン社員を含めた総勢七千人にフランス料理のフルコースを振る舞うという韓氏の豪快さをそのまま体現した「度肝を抜く」式典だった。

式典上、サッカーJ1リーグの大分トリニータの胸スポンサーに決まった、と鈴木社長が発表すると会場の雰囲気は最高潮に達した。

かつて、サッカー場に看板広告を出そうとしてパチンコ屋だからと断られた時から考えると隔世の感があった。

 

 現在、パチンコ競技人口は減少傾向にある。

韓氏はこの業界は徹底的な透明性を確保しなければならない、と主張する。

「今はあらゆる収入と経費などがリアルタイムで電算処理されるようにし、金融当局も感嘆して行くほど」のシステムを構築した。

収益金の1%を地域社会奉仕に充てている。

株式上場も会社の透明性を社会に広く知ってもらうためだ。

その為に現在、金融当局と協議中だ。

 企業の透明性確保・業界のイメージ向上は株式上場の為だけではない、

 

「両親がパチンコ屋で働くことに反対している。」

「彼女が別れようと言ってきている。」

「レンタルビデオ店の会員証すら作れない。」

 

そう言う思いをした社員たちのためでもある。

 

企業は利益をあげ、それを社会に税金として還元する。

社会的な面から見た企業の存在意義は平たく一言で言ってしまえば「カネ」なのかも知れない。

しかし、平たく一言で言い切ってしまえない物語がそこには存在する。

その物語を大切に考えているからこそ韓昌祐氏はここまで来られたのだろう。

次なる目標は2010年の売上五兆円。

この時の達成記念式典はどの様な模様だろうか。

またしても「度肝を抜く」ものになることだけは確かだろう。

 

END

→fromXi Novels トップページへ

メールはfromxi@yahoo.co.jpまで(コピペする場合は@の全角を半角に換えて下さい。)