2011/7/18
エデンの門が開くこの時期のことを,地質学者は最大間氷期とよんでいる。原生人類は地球上に現れてから,そのようなパラダイスを二度しか見ていない。最近の最大間氷期はわずか8000年前のことで,その秋の日差しの名残に浴していられる私たちは幸運なのだ。
Stephen Oppenheimer:Out of Eden
PROJECT AVALON。まずはこのビデオをじっくりと.........ビデオはアングロ・サクソン・ミッション日本語版から。ただ一つだけジムはメーソンの見世物小屋に一般大衆を惹きつけるデヴィッド・アイクのことはよく知らないようです。
日本のイルミナティごっこ・メーソン広瀬とはだ〜れ?
熱田神宮創建113年=3・11?
(管理人注)案外この辺が治外法権区域なのであろう。おそらくパリの大東社のような様々な儀式が行われていると推察できるが確証はない。
大東社(グランド・オリテント・トリアノン)ではヘブライ語あるいはイディッシュ語の呪文を唱え,裏切り者の生きている人間を収めた教皇人形の首めがけ,力の限り斧を振り下ろすと,生贄は恐ろしい絶叫をあげ左右の目が飛び出た.......これは本家の実際のInitiation Ceremonyの様子です(悪魔に愛された女・シスター・マリー・エミリー著)。日本ではどうなんでしょうか?あくまでごっこです からね。
ベートーベンもメーソン?
33位階はグランドマスター(その上にイルミナティが聳え立つ)
Freemasonry Watch
アルバート・パイク「Morals and Dogma」
熱田神宮の緯度
北緯35度07分38秒=17
東経136度54分31秒=5(バフォメット)
神社に潜む謎の勢力
よく知られたメーソン
フリーメーソンとは何か? (よく出来たWikiより)
そのWikiの下の方にメーソンのつくった赤十字 というのが出てきますが,(義援金名目の)寄付金の25%のピンはねをするところです。例えば国連のユニセフとアグネスちゃんの日本ユニセフは全く違う団体です。少しは国連に寄付しているそうですが。ソフトバンクの遜さんは日本赤十字(旧博愛社 )に 100億の寄付をしたそうですが25億円をピンはねされたということです。
べクテル社と地震と富士山噴火作戦
フリーメーソンとは何か その2は容量一杯ですので追記します。
闇の組織総合スレ
『882 : 忍法帖【Lv=2,xxxPT】 : 2011/06/01(水) 11:39:56.55 ID:N22PrGQB0 [1回発言]
民主党の前原を始めて知ったのは、オカルト板のメイソンスレだった。
京都で神戸のユダヤ教シナゴーグの主席ラビ・ガオン氏が参加した秘密会がありそれに出席したのが、民主党の前原と自民党の谷垣って報告があった。
その後、前原が民主党の代表になって驚いたよ。』
『376 :憂國の輩 :04/06/13 21:51 ID:aPfPn9Kc
昨日、京都・下鴨神社において「蛍石の茶会」 というのが開かれたそうです。
茶席の主人は千玄室・前裏千家家元。客人は下鴨神社宮司を上席にして、宮沢
喜一・元首相、白井丈二・神社本庁元総長・鶴岡八幡宮宮司、広瀬祐也(当時20代で32位階) 、西高辻・太宰府天満宮宮司、ゴアンという名の外人(正体は調査中)、前原誠司…以上 だったようです。
その中には谷垣禎一財務相や京都市長もふくまれていたそうです。』
(管理人より )京都・下鴨神社において「蛍石の茶会」を主宰したのはNPO法人「糺の会 」 で日本ユダヤ学会会員の千葉糺(ただす)氏で現在学習院高等部の教師であることが判明。
NPO法人「糺の会」のリンクには下鴨神社〜糺の森〜がリンクされている 。
下鴨神社と天皇参照
それを解く秘密は魔道書ネクロノミコンにあるのですがフリーメーソンとは何かの転載後記事にします。また,アイレスター・クロウリー「法の書」 にある性器はカトリックのヘラシー思想のようであり(カトリックの修道院には壁に男女の性器の彫刻がしてある)この本では謎を解くことはできない。(イラストはYog-Sothoth )
ヨグ・ソトースとは? (英文の方が詳しい)
『「ネクロノミコン」には、「過去、現在、未来のすべてはヨグ=ソトースの中で一つである」と書かれている。ヨグ=ソトースは時空を超越した存在であり。あらゆる時間、あらゆる空間に自在に出現できる。 千匹の仔を孕みし森の黒山羊「シュブ=ニグラス」を妻とし、その婚姻により多くの子孫が生まれ、その一部が太古の地球に飛来した。それがクトゥルフとその眷属たちを始めとする旧支配者である。これらの事は、ラブクラフトが作家仲間に送った手紙の中などに書かれている。 ラブクラフトの作品の中では、クトゥルフを超越した存在としてヨグ=ソトートは描かれていた。(参考文献 ラブクラフト著 ダンウィッチの怪)』
Project Avalonで言っていることは以下のことなのです。
フォトンベルトの真実と暗黒星ネメシス
エハン・デラヴィ・著 愛知ソニア・訳 学研 2007年2月刊
私たちの宇宙は、2012年に向けて刻々と変化を遂げている。そして、種の絶滅現象が顕著化している今、はたして人類の未来はどうなるのか?
人類の再生を賭けた新たなる時代への挑戦を検証する。
今、生きている私たちだれもが、エレクトリック・ユニバース論を知っていてよかったと思うときがきっとやってくる。私はそう確信している。
確かなのは想像を絶するようなとんでもない大転換の時期が、すぐそばまでやってきているということである。これを知るための最も簡単な方法がエレクトリック・ユニバース論であり、それを知るのに方程式も何もいらない。
科学的にみてもはっきりしている宇宙の変容の時期は、遠い昔から予言として語り継がれてきたことと一致している。それらの予言は、異なる時代や文化背景から生まれたが、すべて「2012年12月冬至」というきわめて正確な時期を示しながら一致している。これを無視することはできない。
2012年の意味
「2012年とは何か」と質問されたら、私は「科学的に実証可能な宇宙の大転換が起きる時期」と答える。地球はもちろんのこと、私たちの太陽系そのものが、広大な宇宙を旅し、移動しながらさしかかる特定の位置が、西暦2012年12月21日である。
地球が太陽を回っているように、太陽系も銀河系も回転しているので、太陽系は以前に何度もこの点を通過している。だから古代文明ではこれは知られており、これを記録しただけではなく、彼らは天で起こるイベントを前もって予知する能力を持っていた。
したがって予言と思われているものは、実は確かな経験から生まれたものであり、「御告げ」のようなものではない。
2012年12月21日というタイミングで、私たちのいる太陽系は銀河系の一定の位置を通過する。そして、銀河の中心と太陽と地球はその日に一列に並ぶ。これは『マヤコスモジェネシス』に書かれているが、同書の著者のジョン・メージャー・ジェンキンズの長年にわたる古代マヤの研究では、その日に銀河の中心にある強力な磁気エネルギーは、直接太陽や地球に降り注ぐという。
そしてこれこそ、地球上のあらゆる伝説や神話が予言として私たちに残したメッセージの内容なのである。(管理人注:むしろ極の移転の可能性もある)
古代マヤ文明はこの時期を「最後の太陽」と呼んでいるが、おそらく「太陽系がそこを通過するのは最後になる」という意味を示唆したのだろう。そして、この日にマヤ暦は終わっている。
これが実際に起きるとなればそのインパクトは大きいはずであり、こんなことをいうと受け入れてもらえないのは私も十分承知している。だが、ここであやしい学者たちを紹介し、でっち上げの仮説で説得しようなどという気は毛頭ない。
これは人類学的にみても天文考古学的にみても重要なテーマであり、私たちの未来の進化を考えるうえで見逃せないハイポイントだろう。だから15年も前から、ただこの「2012年」にフォーカスしながら、さまざまな関係テーマを研究してきた。そして私は、あるときエレクトリック・ユニバースというコンセプトに導かれたのである。
さてここで、ある大きな繭が舟に乗って世界を一周する旅をイメージしてほしい。
繭を乗せた舟は北に流されるほど冷えきり、赤道に向かうと温められる。それからその繭は南極あたりで嵐に会い、カリブ海にくるとハリケーンに襲われてしまった。
この繭と同じように今、地球に暮らす生き物すべてが、こんな災害まみれの状態に置かれている。そしてその繭を割ってはいだしてくるのはまさに私たち人間であり、この惑星地球のすべての生き物が実際にそういう状況に置かれているのである。
しかし、実際の繭からは美しい蝶が生まれでてくる。同じように、私たち人類も今までとはまったく違う生物として生まれ変わる。そのブループリント(青写真)は、今にも割れそうな繭の中に含まれているのだ。
繭を運ぶ舟は何度も世界を巡り、厳しい気象にも何回も遭遇してきた。定期的にこれを繰り返してきた。何とか災害を逃れ、生きのびて、これから繭が孵るのに絶好なタイミングを迎えようとしている。
私たちの地球もこのような旅をして太陽の周囲を回り、太陽は銀河を回り、銀河は宇宙を回り巡っている。
こういった回転のほとんどを、数学的に正確に計算することは可能である。しかしこの運動に関しては、まだまだ私たちの科学では理解できない謎に包まれたものがある。その謎の中で一番重視したいことは何かというと、こういった動きの背後には、何らかの知的意識が働きかけている可能性が考えられるという点である、ある「知性」によって、人類の進化やさまざまな計らいやデザインが創られているという考え方である。
残念にもこれは、現代科学においてまだほとんど探究されていないに等しい分野だが、少なくとも私は、まったく疑いの余地なくこれを信じているひとりである。そしてその「知性」は、宇宙のすべてを互いに連結させることができる、私たちの想像を絶するようなパワーで満ちていると思う。
そのパワーの働きは今まで知られておらず、目で見えるものでもない。そしてそのようにすべてをつないでおけるのは、私たちの科学が信じているような重力でもなければ、核融合のような原子力よりもはるかに強力であるはずだ。すべてのパワーの源は、私は電気的なパワーだと思っている。
いうまでもなく、物質の中心には電子がある。そしてすでにご承知のように電流は宇宙中に流れているが、場所によってその強さは違ってくる。それを想像していただければ、宇宙には電気がとても強い場所や時期があることがわかる。
古代人は、一番強い電気に満ちた場所を通過するタイミングを実に詳しく知っていた。どうやって彼らはそれを知ったのか。それについてこれから検討してみよう。
歳差運動(管理人注 :正確には春分点歳差運動=Vernal Equinox Precession)
春分点ってな〜に?
私たち人間にとって「春分点歳差」と呼ばれる現象は理解しがたく、それが持つ重要な意味は今の科学でさえほとんどわかっていない。しかし、なぜかこの宇宙の壮大なサイクルを古代の人々は理解していた。
古代ケルト民族や古代エジプト、マヤ、インカ、アステカ、インド、シュメールなど、世界に散らばる古代文明において、春分点歳差は例外なく認識されていて、天における何にもまして重要な動きであると見なされていた。彼らは非常に長い時間を費やしてきわめて正確な暦を作り、およそ2万6000年という歳差運動のサイクルにおけるどの時点であっても、宇宙における地球の位置や時期を知ることができた。これは驚くべきことである。
ギリシア時代になってプラトンはこの春分点歳差を「ロングイヤー」と呼んだ。実際に西洋ゾジアク(黄道帯)は、12宮の全部の星座にある星々が空の一点から移動して一周して戻る期間を1年としている。
ここで私が、「ノストラダムスの予言」のような話をしていると判断しないでいただきたい。歳差運動は宇宙で実際に超きている動きである。それは地球軸から生じていると、今のほとんどの科学者たちは信じている。
また、その結果として地球から見る星々が72年周期で、天で見えている固定した位置から1度ずつ移動する。ちょうど時計のように、72年ごとに1分ずつ針が示す位置がずれてくるようなものと考えていただければよい。
それぐらいのずれであれば日々の生活にはほとんど影響しないから、無頓着なのが今の私たちである。が、なぜ、古代の人々はそんな些細な天の動きを気にしたのか? また、どのようにして、この歳差運動を明確に知ることができたのだろうか?
この時代に生きる私たちは、それをよく知る必要があると思う。なぜなら、人類起源の文明といえるほど古くからあるインドのヴェーダ哲学によると、私たちが暮らしている時代は「カリ・ユガ」(世界が崩れいく時代)の最後と呼ばれ、世界の秩序が完全に失われる時代となり、新しい時代が始まるとされるからだ。
このように古代の人々は、今という、彼らからすると未来を、形は違えども「共通する未来」として予言していることは、注目すべきである。私はそう強く感じている。
この世が年齢を重ねていくということと歳差運動との関係については、マサチューセッツ工科大学のジョルジョ・デ・サンティヤーナ教授によって徹底的な研究がなされた。彼は歴史と科学を教えており、共同研究者であるフランクフルト大学のハーサ・ヴォンデッシェンドは神話研究の専門家である。
このふたりが『Hamlet's Mill』(ハムレットの水車小屋)を共著し、宇宙サイクルに対する世界の古代信仰に「偶然の一致」などありえないことを明かしている。
ハムレットの水車小屋
歳差運動と呼ばれる宇宙の壮大なサイクルは、1時間、1日、1年と同じように、今まで何度も繰り返し宇宙で起きてきたことである。ただ何万年という大きいサイクルであるというだけの違いである。
この歳差運動に関して、古代の人々がそれを知るほど進歩していたはずはないという意見もある。古代人の知識をなめているのだ。このように考える科学者はもちろん、私たち現代人はなんと傲慢なのだろう。
さて、この歳差運動を再び認識するようになったのは比較的最近のことだが、そこに大昔の祖先たちのような重要性はまったく見出せずにいる。現代の私たちは、地球から見える星が異なる位置に移動していても、その意味についてはあまり深く考えない。
私たちが地球から夜空を仰ぐ天の川銀河が72年に1度ずつ動き、時計のように360度を回転するのに要する時間は、2万5920年である。約2万6000年という想像を絶する長さなので、日々の食事やセックスなど、生きていくことにはまったく影響ないだろうと考えてしまいがちだ。
それにしても気が遠くなるほど長い年月のサイクルに対して、なぜ、古代の人々はそれほどにも注目したのだろうか?
今、私はきわめて明らかにその理由がわかるようになった。それは周期的に訪れるカタストロフを予測するためであった。そして歳差運動に深く関係している「西暦2012年」というテーマを14年前から重要視するようになり、『マージング・ポイント』(日本教文社、1993年)という本を執筆して以来、私はずっとこのテーマに関する講演をしたりしてきた。私の執筆したすべての書籍もこのテーマからはずれるものは何ひとつとしてない。
私たち全員が、さらにはこの地球に住むすべての命が直面することになる2012年の現実とはどんなものかというと、もちろん、今のこの現状と深く関係している。これが理由で、このテーマに関してさらにもう一冊書くべきであると決めた。それが本書である。
私の情報もあれからずい分と増え、また「2012年」というテーマに関する理解度もより具体的になっている。いまや、日本のテレビでさえ「2012年」に関して報じるようになってもいる。
インドで一番読まれている新聞は最近、このテーマを何度も取り上げていて、インターネット上にも関連ニュースが日増しに増えてきつつある。これに関するさまざまな論議で国際的に活気づいてきている。
今世紀が始まって以来のたった数年間に、世界のあちこちで多すぎるといえるほどの災害が起き、そしてそれらすべてに共通するテーマは破壊や消滅など「終わり」に関係している。今まで疑いの目で見ていた人たち、つまりインテリと見なされる懐疑主義者たちでさえ、そろそろ2012年が示すことを認めなくてはならないようになるだろう。
しかし、私はこの世の終わりを説くような宗教がかった迷信っぽい浅い終末論を示しているのではなく、惑星や宇宙を科学的に検証した現実をお伝えしているのである。そして世界中を旅するあの繭の話のように、適切なタイミングで素情らしい変容が訪れるということを忘れないでいただきたい。
その変化に備えて私たちは今、準備中である。と同時に今の地球の環境は、ちょうど繭が壊れるのと同じような状態を、確実に私たちの目に見せてくれることになるのではないだろうか。特に種(スピーシー)の絶滅現象(アセンション)に象徴されるように、地球の自然環境が急速に衰えてきていることがそのひとつとしてある。種が急速にアセンションしはじめたような状態が起こっているのだ。
ここで、なぜアセンションという言葉を使うかというと、それらが持つ物理的な姿は永久に地球から去るが、それは完全に消滅してしまったのではなく、もっと深いレベルの次元で存在しつづけていると思うからだ。
種の絶滅現象(アセンション)
何百という種が地球を去って消滅し、二度と地球には戻ってこないという現象は、最近、加速化している。地球から姿を消した動物のリストを私は『フォトン・ベルトの真相』(三五館)でお伝えしているが、あれから3年後の今どうなっているか、再度、確認してみた。
(以下、このテーマで「現在の種絶滅速度」と題する囲み記事にしてありますが、ここでは省略します――なわ・ふみひと)
以上のように急速に悪化しながら、それこそ毎日のように種が死滅していく惑星に、私たちは暮らしている。これは十分に報じられているにもかかわらず、その深刻さを私たちはあまり感じずに日々の生活を続けている。私たち人類もこの絶滅種に含まれているとは考えたくはないので、この問題をつい避けてしまうのだろう。
「次は私たちかもしれない」と考えるのは確かに恐ろしいことではあるが、実際のところ「次は人類滅亡の危機が襲ってくるのではないか」と私は見ている。「2012年の冬至までに地球での人類の時間は終わるだろう」と、どういうわけか古代人は知っていたようだ。今となってはこれを迷信とはいい切れない。
私たちのDNAが先ほど挙げた種全部とほとんど変わらないとわかっていても、また、スペースシャトルから見ると惑星上の薄いブルーラインのように見える大気と呼ばれるきわめてデリケートなゾーンの中で全生命が生きているという事実があっても、確かに今深刻な事態が訪れていることに私たちは気づいていない。
そして、世界のりーダーたちがイランや北朝鮮に核拡散阻止を訴えたり、また、鳥インフルエンザがかなり深刻な問題になる恐れがあっても、依然として私たちはあまり気にとめていない。何よりも太陽活動が、以前とは比べようもなく活発になってきても知らん顔である。そんな今、間違いなく人類は、後戻りできないほどの大問題に直面している。私はあえてそういいたいのである。
しかし、現状が、もっと素晴らしく平等な世界に向かうステップであると納得している人なら、一番必要とするのは精神科医の助けであろう。予言はすべて間違っているとか、私のような者が大げさなことをいっていると、頭から否認しつづける人々に対して、私は正直いって疲れてしまった。
真実を語ってくれる科学者たちがいるにしても、だれもあまり注意をはらわない。保守的なNHKでさえ、気候変動の危機を明らかに伝えている。 それでもまだ私たちは真剣に受け止められない。
人類が存在しないかもしれない未来もありえることを、現実的に考えられない救いようのない種が人間なのだろうか。「しようがない」というひと言で問題を片づける人たちは、「世界の終わり」について語るのは時間のムダだと思っているのだろうか。
確かに終焉を迎えても何も起こらないという意味であれば、終焉について語っても何の意味もないだろう。だが、実際にはそうではないと思う。現状を冷静に分析し、ほんの少し先の未来のことを考えるならば、そのことにだれもがいずれは気づいていくだろう。そのために本書をここまで書き進めてきたのだ。
エデンの門が開く時参照
IMAGO DEI その3参照
(
ビルはビデオで言ってますね。ポールシフト(極移動)の後は地下都市から彼らが出てきて再建する,と。)「惑星の傾斜と極移動とは同じ現象ではありません。惑星の自転軸が傾斜する現象は,地軸移動と呼ばれています。
一方,極移動とは,地軸の傾斜角度は変化しません。南北が完全に逆転したとしても,地軸の傾斜角度はもとのままで天体だけが反転する現象です。
海洋地質学の研究者たちは,根気のいる調査によって,チャーチワードなる人が提唱した幻のムー大陸が実在しそうにないことを証明しつつあります。
もし地球の自転軸に意識を集中させれば,今から30年後までに起こる可能性の地軸の傾斜傾向と,その解決策が見つかると思います。
私がしばしば記す地球の自転軸の傾斜とは,地軸の傾きが23.4度以上傾いている現状45度,60度,あるいは180度傾く現象を指します。この時,同時に極の反転も起きる可能性が高い。私たちが住む太陽系の他の惑星も,勿論このような現象を体験しています。今のところ隣の惑星の火星だけが極移動と考えられる現象を示しています。それ以外の惑星は,自転軸の傾斜があったと考えられる。小学校低学年の児童のように思考すれば,地球も過去に自転軸の傾斜が発生したことを明白,と感じるでしょう。
現在の地球の地軸が(注:赤道に対して)23.4度傾いている事実。(90度ー23.4度=66.6......それによって四季がもたらされているのは本当の神はきっといるのでしょう)
南極大陸を覆っている氷と,シベリアから冷凍状態で発見されたマンモスなどの動物は,地球の過去に生じた地軸の傾斜によるものと感じられます。また日本近海では,奄美大島から南西諸島にかけて,この島々を乗せている琉球海嶺の二箇所に,深さ1000メートルから1300メートルに及ぶ断層が発見されています。周囲の深さは200メートル。この断層だけが,1000メートル級の深海です。
そして調査の結果,この地質上の分断は今から約24000年前に生じたことが判って,それまでは陸地であったことも判りました。またこの当たりでは,与那国島などに海底遺跡が発見されています。ここで注意しておいてもらいたいことがあります。
それは,惑星の自転軸の傾斜や極移動は,地球の自然界の周期活動の一つにすぎないということです。地球に悪がはびこったので神様が地球人を滅ぼそうとしているのではないのです」
管理人注:こういうポールシフト は過去に4回も起こっていることで2012年〜2015年は一応覚悟だけはしておいた方がいいでしょう。
117
2011/7/12
7月28,29日は地震,新幹線の爆破に注意 。まさか29日頃(予定)那須の御用邸からの御用列車じゃないとは否定はできない。田布施(または熊毛郡)の朝鮮人部落出身者による皇室典範改正に向けた動きかもしれない。まさに皇統乗っ取りである。日本人はイソギンチャクでもあるので何も声をあげないで嘘ばかりつく。日本の近未来は.........皆で考えても何も出てこないだろう。都合が悪いことはすぐカモフラージュするカメレオンみたいな人種であるから支配されるのを好む国民でもある。管理人はヨブ記のヨブ以上の仕打ちを受けたのはこの日本人からである。それは管理人が「日本人離れをしている」という印象を彼らに与えた結果でもある。日本人は無色・無臭で同じでなければならないという鉄の結束でもある。だから戦前戦後リヤカーを引いて鉄くずを収拾していた朝鮮人に平気で子どもまでが石を投げたのである。そのつけが今来ているのです。
田布施グループに地位と名誉と富を与えメーソンの一員とすることは支配者にとって御しやすいということを忘れないように。例えばこんな人もそうです。
左は文鮮明 ,右は熊毛郡田布施町の朝鮮部落出身の岸信介
拙稿:ある日突然参照
岸信介(第56代・第57代内閣総理大臣):
熊毛郡田布施町の朝鮮部落(出生地は山口市)
佐藤榮作(第61代〜第63代内閣総理大臣、ノーベル平和賞受賞):熊毛郡田布施町の同じく
土井たか子 (李高順=イ・コジュン)と北朝鮮のフリーメーソン33位階グランドマスターの将軍
邪悪なサンヘドリンの投稿時間が2:57分から割り出した結果は以下の通りである。
東北新幹線なすの257号東京ー那須塩原は御用邸の近くであり万一天皇家が7月28,29に往路・帰路のいずれかでこの新幹線を使う場合危険である。宮内庁は日程を出さないがなにか意図があるのか?
בית הכנסת בקובה
神戸シナゴーグの......
דגם הרכבת תחביב
鉄道とプラモデルが趣味の.....
Rabigaon לקבל את זה. הדברים שכתבת.
ラビ・ガオンよく聞け。お前のことを記事にした。
גם לספר האמבטיה Maehara.Tanigaki
前原,谷垣にも伝えておけ
Yuya ואפילו הירוסה
そして広瀬祐也にも
28 ביולי, 29 רעידות אדמה, פיצוץ ~ שינקנסן עצור.
7月28,29日の地震,新幹線の爆破は止めろ。
מה אני לשאוף אקיטה שינקנסן?
狙っているのは秋田新幹線か?
JAL123便という悲劇がありました。秋田こまち123号(臨時便)という新幹線は六芒星 であり秋田着が14:54分=五芒星なので28,29日は注意というか乗らない方がいいでしょう。サンヘドリンのブログ発信時間は2時57分
7・28=17 =1994年1月17 日=ロスアンジェルス大地震・1995年1月17日阪神淡路大震災 など
7・29=18(666)+六芒星+五芒星=29=2x9=18
スミルナにある教会に宛てた手紙..........
.....わたしは知っている。実は彼らはユダヤ人でなくサタンの集いに属している者どもである。(ヨハネの黙示録2:9)
お前は鉄の杖で彼らを打ち,陶工が器を砕くように砕く。(詩篇2:9)
JAL123便の墜落事故が起こった1985年8月12日に、相模湾で当時の新型護衛艦「まつゆき」が試運航中であったように28,29日に日米の艦船がどこかにいたら要注意。
予告どおりスーパーあおぞら 14号 脱線炎上。
トンネル内で炎上した釧路発札幌行き特急列車「スーパーあおぞら14号」の車内。運転手は乗客を放置して逃げたという。報道はその後ない。JR内にメーソンがいるということだ。14号=5 六両編成 =6
これは殺人を狙った何らかの儀式と推察する。なぜなら6両編成の3両が炎上していることだ。5+6=11 11+3 =14=5 五芒星 あおぞら14号の事故日=5月27日=14=5(バフォメット)
11+3=3月11日(同じグループと断定していいだろう)
2011/04/24 2:57分(ここをクリック=東北新幹線なすの257号) (サンヘドリンのHP)
北海道電車警報 根室沖地震警報...........
4・24に5・28の北海道「スーパーおおぞら14号」の事故も予測しているから怖い。運転士達は乗客を放置して逃げてしまった.......
『投稿者:バラック
2011/6/9 10:33
最近の情報を集めていると、ああなるほどなと今まで見落としていたものに気づき始めました。
北海道JR車両トンネル内火災→おおぞら14号、6両編成→1+4=五芒星 6両=六芒星
『バラックさん,五芒星の意味ですがあのロスチャイルド家の五人の男の子たちを指しています。六芒星は彼らの父親のアンセルムの合計が6です。深い意味はないのですがそれによって恐怖感を煽るだけのことです。イスラエル国旗は六芒星 ですがイスラエルの盟主は誰かを考えたら分かることです。 』
フリーメーソンとは何か その3(読者コメント)
『伊勢
2011/7/14 0:26
こまち123号(はやて123号)は、7月8日まで運行(確認できるところで5月1日から)で、9日以降は列車番号が変更。東京発は9時56分。
こまちは雫石を通過します 。全日空機と自衛隊機が原因不明の衝突、大惨事を生んだ。
秋田着時刻14 時54分 。イルミナティカードゲームの1枚「和光の時計台が崩れる絵」の時計針は14時54分 辺りを指している。
10日の三陸沖震源地震(最大震度4)は、
9時57分ごろ発生。震度4記録は、東北・秋田新幹線が走行する町を縦断した形。盛岡、北上、水沢、一ノ関、栗原、仙台、古川、福島、郡山と。
平野防災担当大臣は盛岡市地元。BSE問題でアメリカを痛烈批判した経歴あり。TPPに当然反対の急先鋒だろう。
以上の件、何か繋がってくるのでしょうか。』
地震情報
ヒトラーの超人思想によれば、「天地創造は終わっていない、特に人間については終わっていない」という。そして「完全に自然科学的な突然変異」によって、21世紀中に「新しい人間」(超人と神人)が出現するという…(写真はDNAの鎖)ヒトラーの祖父は本家のソロモン・ロスチャイルド ですからその著書は読んでおいた方がいいでしょう。なお下の記事・写真はセラピストの治療を受けている方は絶対に見ないように。
米国のAREA51の地下14階にはDNA操作技術研究のためイルカから造ったグレイ (ここをクリックするとグレイが出てきます) のようなひどく悪臭のする生き物がいるそうです。イルミナティの最高峰13位階でMother Goddessまで登りつめたロスチャイルドの落とし子でもあるArizona Wilder(本名:Jeniffer Green)の右手にはArea51へ入るための刺青跡があった。別な元イルミナティ11位階の女史(シスコさんクラスの11位階でもArea51には入れない)からこのArea51から全米を縦断する地下ハイウエイ があると聞きましたがとても信じられるものではありませんでした。ただしFEMA CAMP はありましたよ 。 下記魚拓を見て発狂しないように。(管理人は何回も発狂していますので平気ですが)
Arizona WilderとArea51参照
紀元前1600年頃クノックスで描かれたイルカと思われる(魚)の壁画。次の時代は魚座と暗示している。イエスの時代は魚座(PISCES)。ヒトラー(=ロスチャイルド)の21世紀中に「新しい人間」(超人と神人)が出現するということはイエス・キリストを造りだすということであり悪魔主義者の狂気の論理でもあるのだろう。2150年の水瓶座がくる前に。2026年キリストの再臨を仕掛けてくるのかも?いずれにしても2150年以降はイエスという手は使えませんので水瓶座に相応しい神を創造する必要はあるわけです。
古代ユダヤ教会の禁じられたデザイン参照
その秘密はネクロノミコンの中にある。近日中にアップしますがこれからの記事は今までの拙稿をよく読み理解した読者に限られます。パスワードにはしませんがその辺をよくわきまえてご覧ください。生半可な状態で読まれますと場合によっては自らを破滅に至らしめることもあります。反面,偽装された光と真の光との違いが解るようになります。2012年末にはこのブログを閉鎖しますがまだ書きたいことは山ほどあります。あと,記事で500くらいでしょうか。その頃は500万アクセスにはなっていると思います。
ある読者よりのメール
『管理人様
太田龍のこともそうですが、いつも温かいご配慮をいただき感謝申し上げます。
さて天皇家の秘密資金を引き出すことのできる名義人についてですが、鬼塚英昭氏の著書に関連箇所を見つけたので以下に転載いたします。皇后の口座名義について 述べられています。宜しくご参照ください。長いので何回かに分けて送信いたします。
以下順不同に抜粋します。
天皇は国際決済銀行とスイス国立銀行に今日でも世界トップクラスの秘密資金を持っている。ポール・マニングの『米従軍記者の見た昭和天皇』にも、シーグレーヴ夫妻の『ゴールド・ウオリアーズ』にもそのことが詳しく明記されている。
横浜正金銀行(管理人注:天皇の銀行)が一九四四年九月にスイス国立銀行に開設した「第一特別勘定」と「第二特別勘定」も、天皇の資産隠しのために使われたとみる。しかし天皇は、自らの秘密口座と、皇后名義の秘密口座をスイス国立銀行に持っていた。
工藤美代子の『香淳皇后』には次のように書かれている。
『日本でも、外面的には、あくまで戦争を続け、本土決戦に臨むという態度ではあったが、その実、敗戦を予測してのそれなりの動きはあったようだ。木戸幸一をはじめ、当時の日本の首脳部にいた人々の日記は、すでにいくつか刊行されているのだが、不思議なことに、敗戦を予測しての具体的な準備について触れた記述は全く見あたらない。
しかし、実は何者かによって着々と、手は打たれていた。そう思わせる証拠の一端が、ロンドンの公文書館に保存されている。それはスイスの赤十字国際委員会とイギリス外務省との間で、昭和二十一年八月から昭和二十三年九月にかけて交わされた一連の外交文書である。(Fo 369/3969, Fo 369/3970)
これらの文書によると、昭和二十年の四月に、日本の皇后が赤十字国際委員会に一千万スイスフランの寄付を申し出たというのである(管理人注:これはFo369の最後のページで確認済み )。一千万スイスフランといえば、現在のレートで換金しても約七億円近い金額である。まして、当時のレートで換算したら、莫大な金額だったはずである。
まず興味深いのは、四月の時点で、すでにこの寄付の申し出がなされていたことである。これは日本の敗戦を予測して、皇室の財産を処分しておこうとする動きではなかったかという見方ができる。それ以外に、こんな莫大な金額を寄付する理由はかんがえられないというのが、スイスやイギリス側の見解だ。』
この工藤美代子の『香淳皇后』が出版されたのが二〇〇〇年。その翌年の二〇〇一年八月十三日に、「ジュネーブ十三日共同=藤井靖」で、この内容を追認する記事が出た。
『日本が一九四五年八月の終戦直前、スイスの赤十字委員会(ICRC)に対し、昭和天皇の皇后名で一千万スイスフランの巨額寄付を提示。連合国の対日政策決定機関である極東委員会が禁止決定を出したものの、赤十字がこれを覆して戦後の四九年、秘密裡に送金が実行された経過が十三日、スイス政府やICRCの公文書で分った。
寄付は横浜正金銀行(旧東京銀行)がスイス国際銀行に保有し「日本の秘密口座」と呼ばれた「特別勘定」から拠出された。日本が皇后名の寄付を申し出た事実は英公文書で確認されているが、その動機は不明(管理人注 :公文書館でのFo369には驚いた様子が書かれている)。公文書は米英両国にスイス、ICRCを巻き込んだ送金実行までの四年間にわたる「攻防」の詳細を明らかにしている。一千万フランは現在のレートで約七億円。当時と現在のスイスフランの購買力を単純に比較すると約三十三億円に上る。』
工藤美代子の『香淳皇后』の内容を補足する記事となっている。この後に驚くべきことが書かれている。東郷茂徳は原爆が投下された翌日に、赤十字の駐日代表に一千万スイスフランの寄付決定を伝達する。駐日代表は九日、受諾すると答えたが、通信事情が悪く、ジュネーブの赤十字本部に伝えたのは所詮直後の八月十七日となった。その前日の十六日、英米はスイス政府と合意し、スイス国内の日本資産を凍結していた。
それでは結果はどうなったのか。天皇の資産のほとんどは国際決済銀行(BIS)の秘密口座を通じて運用された。その金は、いかなる政府の干渉も受けないという超法規条項を持っていた。それでほとんど無事であった 。天皇はスイス国立銀行(ほとんどの役員が国際決済銀行の役員)に「特別勘定口座」をつくり、国際的な商取引をしていた。公的な二口座と天皇名と皇后名の二口座が確認されているが、他にもある可能性がある。
工藤美代子が指摘したように、天皇は終戦工作をしていた。ヨハンセングループから原爆投下の日を知らせてもらってからは、スイス、アルゼンチン、スウエーデンの各国の秘密口座にも資産を移した。それを”陰の政府”が支えたのである。
ウインザー城右手にある今上天皇のガーター騎士団の紋章。紋章には「Honi soit qui mal y pense (思い邪なる者に災いあれ)」と騎士団の言葉が書いてある。
ジョージ五世に歓待される昭和天皇の皇太子時代 。『ウインザー家という呼称は国王ジョージ五世が採用した。ウインザー家の実体はゲルフ家であり,ベネチアの黒い貴族の中でも最も古い名門の一つである。ヴィクトリア女王の血統は,直接ゲルフ家まで遡る』
黒い貴族ゲルフ家とは?
もう一度、「ジュネーブ十三日共同=藤井靖」に戻ろう。この記事の最後は次ぎのようになっている。
『寄付の形で動かすことを阻もうとする米英と、寄付の正当化を主張するスイス政府、ICRCが対立した。この紛争は四六年六月、極東委員会と連合国総司令部(GHQ)に委ねられた。
極東委員会は同年十月「ICRCの主張に根拠はない」として送金禁止を決定。しかしICRCは米国の弁護士を雇い、巻き返しに成功。米国務相は四九年三月、スイス政府の裁量を認めて送金に同意。英国も四九年五月「所有権の主張」を撤回した。
送金は四九年五月末。スイスが横浜正金の資産凍結を解除して実行された。ICRCは英国への配慮から一連のプロセスを「極秘」扱いとし、日本にも細かい経過を知らせなかった。』
この文章に見えてくるのは、一千万スイスフランの数十倍か数百倍の金が天皇と皇后の秘密口座の中にあり 、凍結されかかっているので赤十字国際委員会(ICRC)に依頼し、凍結を解除し、他の銀行の秘密口座に移そうとする天皇の壮絶なる闘いである。(管理人注 :現在では兆の単位ではなく京の単位であろう)
もう一度、工藤美代子の『香淳皇后』引用する。
『ある時期、日本赤十字社の総裁の座は空席となっていた。四十三年間にわたって総裁を務めていた閑院宮戴仁親王が、昭和二十年五月二十日に亡くなっていたのである。その後を承けて総裁となったのは、高松宮だった。第五代総裁に高松宮が就任するのを宮内省が許可したのは、七月一日だった。この日の高松宮の日記には何も記されていないが、七月四日には「速ニ戦争終末ノ仕事ニ準備セネバ間ニ合ワヌ」といった記述が見える。高松宮も天皇と同じく、戦争を終わらせる方向を見据えていたのが分る。』
以上が秘密口座に限定した抜粋の部分です。
以下抜粋を続けます。
国際決済銀行 (BIS)については幾度も書いてきた。この銀行を設立し、運営する組織がある。この銀行を背後で支えているのが、ロスチャイルド、オッペンハイマー、ウオーバーグのユダヤ財閥であり、また、この財閥の支配下にあるのがアメリカのロックフェラー、モルガンンらの財閥である。彼らは国家を背後から動かす力を持っていて、実際に動かしてきた。
あの原子爆弾製造の計画は「マンハッタン計画」という。この計画を立てたのは、イギリスのユダヤ財閥の王ヴィクター・ロスチャイルドである。彼は多くのユダヤ研究者をルーズベルト大統領のもとに送りつけると同時に、密かに世界中のウラン鉱を買い漁ったのである。原子爆弾を駆使して、ユダヤ財閥の王ロスチャイルドは世界制覇を狙っていたのである。
彼らは日本に目標を定めた。そして研究・開発を急いだ。それまでは、なんとしても日本との戦争を長びかさなければならない。彼らは国際決済銀行を使い、戦争をいかに長びかせるかを研究した。その甘い汁のひとつが天皇の貯蓄した金や銀やダイヤ・・・の貴金属をドルかスイス・フランにかえて、スイスの国際決済銀行かスイス国立銀行(この銀行の役員のほとんどが国際決済銀行の役員を兼任する)の天皇の秘密口座に入れてやることであった 。従って、一九四四年から一九四五年にかけて天皇は、自分の財産の移しかえに専心するのである 。その過程と原爆製造の過程が見事に一致するのである。
私は元駐日大使グルー(管理人注 :その陰にはユージン・ドーマンがいた)とステイムソン陸軍長官が日本のヨハンセン・グループと深く結ばれて、情報の交換をし続けていたとみるのである。ヨハンセン・グループというのは、「吉田反戦」という言葉から作られた、日本とアメリカを結ぶ秘密組織である。このグループの首魁は牧野伸顕、そして吉田茂と樺山愛輔の三人である。三人のほかに少数の人々の姿が見え隠れする。
上海にいたサッスーン、ジャーデイン・マデイソンというロスチャイルド財閥から援助され財をなした吉田健一は、ある長崎の女郎が生んだ子供を養子にする。吉田茂その人である。 その子が長じて東大法科に裏口入学し、牧野伸顕の娘雪子と結婚する(管理人注 :その女郎の父親はおそらく吉田健一であろう。吉田茂の子どもに吉田健一がいる)。満州利権を守るため、田布施の一族(管理人注:田布施とは朝鮮人部落のこと) と血の契りを結ぶ。のちにヨハンセン・グループを作り、天皇の承認のもとに、アメリカ大使のジョセフ・グルーに極秘情報を流し続ける。
樺山愛輔(伯爵・貴族院議員)に注目してみよう。秩父宮勢津子の『銀のボンボニエー』には樺山家と秩父宮の深い関係が書かれている。秩父宮勢津子の父は松平恒雄である。彼は自分から認めたフリーメーソン会員である。この松平恒雄と樺山愛輔は古い友人である。樺山愛輔の父は樺山資輔(元台湾総督)。ヨハンセン・グループの使者は、グルー元アメリカ大使と商売の面でも結ばれていた。樺山資輔はJ.P.モルガンのラモント(ロスチャイルド財閥からモルガンへ派遣された支配人)と親しく、J.P.モルガンの血族の一人がグルー元大使である。グルーはアメリカ大使であると同時に、隠れた政府の一員であった、というわけである。
さて樺山愛輔は貞明皇后と深い因縁にある。貞明皇后が松平恒雄の娘勢津子を見染め、秩父宮の后とした。これには深い因縁がある。貞明皇后は自分の過去を知る長州罰を憎悪していた。それゆえ、会津の松平恒雄の娘を秩父宮后に迎えた。
もう一人油断のならない人物がいる。樺山愛輔の娘正子は白州次郎と結婚している。秩父宮勢津子と樺山愛輔の娘正子は学習院初等科時代からの親友である。白州次郎はかくて必然的にヨハンセン・グループの一員となる 。白州次郎は欧米で、どうやって生活していたのか?彼はユダヤ財閥のウオーバーグから生活の糧をもらって生きてきた過去を隠しに、隠し続けた男だ。モルガンとウオーバーグの手下が、ヨハンセン・グループにいた。
サンフランシスコ講和に向かう吉田茂と白州次郎 。しかし日本語の講和は正文ではなかった=日本は独立国家ではないという意味。
『われわれは戦争に負けたのであって奴隷になったわけではない』(白洲次郎) そうですか,そうですか。
ヨハンセン・グループに近い人に関屋貞三郎がいる。この関屋貞三郎もクリスチャン。樺山愛輔もクリスチャン。彼らは貞明皇后と深く結びついている。
私がいわんとするのは、彼らが、牧野伸顕(元内大臣)、吉田茂(元外務大臣)を含めて、ヨハンセン・グループの秘密名で、太平洋戦争開戦の翌年の六月にグルー大使がアメリカに帰国するまで情報を流していたということである。そしてグルーが国務次官になった後も、このルートが守られていた可能性大である。太平洋戦争が始まった後に、すでに和平交渉が宮中と重臣たちのルート(ヨハンセン・グループ)により行われていた可能性がある。従って、このグループに参加した人々はすべて、なぜか戦犯に指定されていない。牧野伸顕、吉田茂、岡田啓介元首相、米内光政元首相たちである。
私はヨハンセン・グループが原爆投下を広島と決定し、グルーに報告したとみる。その日時も、八月六日午前八時ごろにしてほしい、と。「そんな馬鹿な!」と思う人も、どうか私の説を最後まで読んでほしい。
天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ヨハンセン・グループハステイムソン陸軍長官の極秘情報をグルーを通じて入手し、そのつど天皇に報告していたからである。
ヨハンセングループとは?
日米開戦と戦後日本(講談社)
ではどうして八月六日なのか。それはこの日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。
東郷茂徳も天皇から”急げ”と告げられ、赤十字との交渉を急いだ。東郷茂徳は八日、天皇に会い、最初に「無事にスイスの件はうまく処理できました。当分資産は凍結されますが、遅くとも三〜五年後には凍結を解除してくれるとステイムソンが申しています・・・」と言ったはずである。それから天皇と原爆を”天佑”として終戦工作に入るべく相談したにちがいない。
ではどうして広島だったのか。
有末精三の『終戦秘史 有末機関長の手記』の中に、その謎を解く鍵が見えてくる。有末精三は原爆投下のあった翌日、参謀本部第二部長として、部下十名、理化学研究所の仁科芳雄博士たちと広島に視察に行っている。広島には第二総軍司令部があった。
八月六日朝ごろ、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。
この日、間違いなく、第二総軍の全員は、八時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり畑元帥のみが理由はともあれ、この総司令部に行っていないのである。
「山の中腹、松本俊一(外務次官)氏父君の別荘におられる畑元帥」と有末精三は書いている。
私は東郷茂徳外相の依頼か、他のヨハンセン・グループの依頼を受けた松本俊一次官が原爆投下前のある日、密かに畑元帥と会談し、八月六日午前八時すぎごろの広島に原爆を落とす計画を打ち明けたと思う。そのときに松本俊一次官は、この日の八時すぎに、第二総軍の全員が集合するようにして欲しいと依頼したとみえる。
この第二総軍を全滅状態におけば、陸軍の反乱の半分は防げるからである。
八月初旬に広島県庁に入った畑元帥は、高野源進広島県知事と中国地方を総監を説得した。第二総軍を動員し、八月三日から連日、義勇隊三万人、学徒隊一万五〇〇〇人を出動させよと命じた。畑は密かに、高野知事に真相を打ち明けた。高野知事は広島を去った。こうした中で、八月六日の朝八時十五分を迎えた。第二総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くが死んだのである。
私の説を誤謬とする人は、これに反論する説を述べられよ。すべてが偶然と言いはるつもりなら、もう何も言うべき言葉はない。
一九九七年に国立国会図書館は「政治談話録音」なるものを一般公開した。木戸はその中で「原子爆弾も大変お役に立っているんですよ。ソ連の参戦もお役に立っているんです・・・」と語っていた。天皇は原子爆弾の悪口を一生語らず、生涯を終えた。一九七五年十月三十一日、日本記者クラブとの会見のとき、アメリカ軍の広島への原爆投下に関する質問が出た。
天皇「エ・・・この・・・エ・・・エ・・・投下、された、ことに対しては、エ・・・エ・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないこと,と私は思っています」
もうひとりの記者が戦争責任について質問した。「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学的方面をあまり研究していないので、よく分りませんから、そのような問題については答えかねます」これについては批評の書きようもない。「日本のいちばん醜い言葉」の一つであるとのみ書いておく。
原爆投下と深く結びついたヨハンセン・グループのすべては、戦後、一人として戦犯とならなかった。(731細菌部隊もそうだった)
東郷は太平洋戦争そのものに反対した。しかし敗戦処理内閣の外相になったがために戦犯となった。二十年の禁固刑。獄中死した。どうしてか。
ここで明確にしよう。国際検事局に密告し続けた二つの秘密ルートがあった。一つは天皇ルートであり、も一つはYルートであった。ヨハンセン・グループ吉田反戦グループである。戦後首相となった吉田は多くの人々をこの検察局に売った。東郷は原爆の秘密と、天皇の財宝の処理について知りすぎていた 。それゆえに消されたのである。
第二総軍司令官畑俊六元帥はどうなったか。彼も戦犯となり、終身刑の判決を受けた。彼は広島に原爆を投下させた功労者ではあった。しかしヨハンセン・グループと深く結びついていなかった、
天皇はもう一人の知りすぎた男、有末精三を検察局に売ろうとしていたことが後に判明する。「有末精三はどうして戦犯にならんのか」側近に語っているのである。
私はここで私なりの結論を書くことにする。原爆投下は完全に避けられた。少なくとも、ポツダム宣言が出たときに、天皇がマイクの前に立ち、国民に詫びの言葉を述べ、「わが身がどうなろうとも、この戦争を敗北と認め終戦としたい。ポツダム宣言を無条件で受け入れる」と言えばよかった。どうして言えなかったのか。天皇と上流階級はその甘い生活をやめられなかった。それでステイムソン陸軍長官らの”陰の政府”と交渉した。天皇制護持を条件に原爆投下を受け入れた 。彼らの条件の最大のものは、天皇・皇室、上流階級および重臣たちが、原爆投下の非難の声をあげないこと、および日本国民をそのように誘導することであった。
数々の交渉がヨハンセン・ルートでなされた。天皇と重臣は第一の原爆投下の地を広島と決定した。多分米内光政のルートで、畑第二総軍司令官のもとに依頼が入った。八月三日から、学徒、兵隊を入れた大動員がなされた。八月六日、第二総軍は壊滅した。
ここに、終戦反対を叫ぶ最も恐れた第二総軍は消えた。残すのは第一総軍(杉山元司令官)のみとなった。天皇と皇室と上流階級は偽造クーデターを起こし 、第一総軍を中心とする反乱を未然に防いだ。かくて鶴の一声が全国津々浦々まで鳴り響き渡る時を迎えることができた。原爆投下は天皇・皇室・上流階級にとってまさに”天佑”そのものであった。
ー私たちはこの事実から何を学ぶべきか。
結論はただ一つ。一人、一人が真実を追究すべく立ち上がるべきである。
以上、鬼塚英昭著『日本のいちばん醜い日』より 順不同に抜粋しました。
ペリマリ拝
ベリマリさん,ありがとうございました。迂闊にもこの本だけは読んでいませんでした。
第18条(地球支配21か条より)
国際連合(UN)や国際通貨基金(IMF)、国際決済銀行(BIS)、国際司法裁判所のような超国家的制度を強化し、300人委員会の目的の障害となる局地的な機関に対しては段階的に廃止させたり、国連の影響下に置いてその効力をできるだけ弱める。
『敗戦の日に(心に青雲より)
2007年08月15日
8月15日は言わずと知れた大東亜戦争敗戦の日である。厳密にいうと、敗戦の手続きが完了した時点がどうたら言うが、それはともかく。
鬼塚英昭氏の新著『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)は、そのとき起きた宮城事件を追い、あの陸軍抗戦派(継戦派)将校による一種クーデターとされるものが、実は昭和天皇とその重臣(木戸幸一ら)による偽装騒乱事件だったことを見事に検証した本である。わずか10人たらずの陸軍将校は、事後にほとんどが自決しているが、彼ら実行部隊を率いたのが昭和天皇の弟にあたる三笠宮(当時、陸軍中佐)であったことを、鬼塚氏は突きとめている。それを検証したのが、この『日本のいちばん醜い日』である。
この事件が、昭和天皇の策謀による三笠宮主導の偽装クーデターであり、それが見事に成功したことは、単に昭和20年8月15日の出来事にとどまらない。今日まで醜悪な死臭を放ちながら続く問題である 。
昭和天皇は、戦争をユダヤ=国際金融資本勢力と呼応するかのように、大規模に始め、延々と続けた。延々続けられたのは、ユダヤ資本が協力したからだが、その問題は後日取り上げたい。その目的も鬼塚氏は暴いているが、すべては金儲けのため、蓄財のためであった。戦争はある種のマネーゲーム、とは見事に本質を突いている。天皇はカネ儲けのために満州に侵出し、支那事変に乗り、太平洋で米国とまで戦争をやった。アメリカに引きずり込まれた面と、昭和天皇自らが積極的に撃ってでた面とがある。
戦争を始めたのは昭和天皇の責任である。命令を下したのは裕仁である。陣頭指揮をとったのも彼であった。しかし、敗戦間近となって、戦争や麻薬、人身売買で蓄財した巨額の資金を、スイスの口座に保ち、かつ天皇一族の生命を保障してもらうべく連合国=ユダヤ勢力と交渉し、成功するのだ。天皇は財産保全と生命保障の代償として、沖縄を戦後も米軍基地にして差し出し、原爆実験を引き受け、日本国憲法も認め、陸軍将兵から戦犯も出し、ソ連には捕虜(100万人説もある)をシベリアでただで酷使させるために差し出した。唯一マッカーサーが企図した日本のカソリック化だけが失敗した(それを描いたのが、鬼塚氏の前著『天皇のロザリオ』)
敗戦によって、当然天皇の責任は問われるのだから、それを回避するために8・15の宮城事件=偽装クーデターは仕組まれた。天皇は開戦にも反対だったし、早期に終戦もしたかったのに、陸軍が戦争をやりたがり、戦争を継続したがったのだという偽装をしたかったのだ。「だからほら、終戦時に陸軍が継戦を主張してクーデターまでおこしたでしょ」と言いたかったのだ。なんたる卑劣!
ユダヤ権力から、戦争末期に財産保全と生命の保障は得てはいたものの、世界の表舞台(マスコミで取り上げる世界)と、国民には芝居を打たねば納得してくれない。だから、すべては陸軍が悪く、陸軍が戦争を仕掛けたのであって、天皇に責任はなくむしろ被害者だったという大芝居を打たねばならなかったのである。昭和天皇は、絶対君主だったのであるが、それを隠蔽する工作があの8・15宮城事件だった。それをまことしやかに演出するために、森赳近衛師団長は三笠宮の命令で惨殺されたし、阿南陸相も自決させられた。天皇の指示であった。
昭和天皇は、後年(1975年)、日本記者クラブの会見で戦争責任を問われると、「私はそういう言葉のアヤについては、私はそういう文学的方面をあまり研究していないので、よく分かりませんから、そのような問題について答えかねます」とイケ図々しく答えたものだった。これを鬼塚氏は「日本のいちばん醜い言葉」と表現した。まったくそのとおりである。
『日本のいちばん醜い日』に、昭和天皇が開戦1年後に内大臣木戸幸一に語った言葉が紹介されている。
「この大戦後には、ソ連とアメリカのみが傷まずして、他の列国はみな疲労することとなるは、ほとんど疑いなきところなり。さすれば、この両国間に挟まれたる我が国はけだし非常に苦心せざるべからざる環境に置かるるものと信ず。しかし、さりとて必ずしも悲観するを要せず。これら両国も付近に強大なる競争国を失えば自然に気がゆるみてやがて腐敗するは必至なれば、我が国にしていわゆる臥薪嘗胆の10年を覚悟し、質実剛健なる気風を作興すれば、有終の美を挙ぐるは困難ならずと信ず云々。」
これは昭和天皇が、まだあと2年半は続く日米戦争の結末と、その大戦後の世界をあらかじめ知っていたことを意味する。鬼塚氏は言う「天皇は太平洋戦争の前から、闇の権力者たちが創作した、世界のグランド・デザインをどうやら知っていたらしい。近々日本が『非常に苦心せざるべからざる環境に置かれる』とは、戦争以外のなにものでもない。大戦後に、まさしくアメリカとソ連が世界を二分する大帝国となることも知っていたらしい。」と。
鬼塚氏も今回の著書で、ついに「闇の権力者」の存在に言及している。鬼塚氏はフリーメースン、イルミナティとは呼ばずに「国際金融同盟」と呼ぶと言っているが。
そういえば林秀彦氏もいちばん新しい著書『この国の終わり』(成甲書房)で、ついにユダヤ闇権力の策謀を全面的に記述するようになった。
彼ら「国際金融同盟」が、フランス革命も第一次世界大戦も、意図的に引き起こしたこと、その彼らがBIS(国際決済銀行)を創って第二次世界大戦を引き起こすのだが、昭和天皇もどうやらそうしたユダヤの動きを承知していたらしいのである。例えば第一次世界大戦でたいして戦果をあげていない日本に、ユダヤは南洋の島々(サイパンやトラックなど)を委任統治領としてくれてやるのだ 。それがあったればこそ、日本は南進政策をとり、(対ソ連戦争をやめて)アメリカとの戦争を選択する。南洋の委任統治領を日本がユダヤからもらったのは、次はアメリカやイギリスと戦争をやってユダヤの儲けに協力するんだよ、という指令であったのである。そして最後は日本が負けるシナリオも押しつけられた のであり、それでも天皇一家の蓄財と生命は助けてやるから、と言われて始めたのであろう。だから日本は勝てる戦争を、なぜか海軍のミスまたミス(に見せかける作戦)で意図的に敗戦に導かれていった(管理人注 :ミッドウエイ海戦)。
大東亜戦争で亡くなった方々には、気の毒で言葉も出ない。
支那事変直前の2・26事件は、北進(対ソ連戦)を主張する陸軍皇道派をはめて壊滅させ、南進を企図する陸軍統制派を登用するための天皇の陰謀=ヤラセだったのである。
昭和20年8月15日に終わったあの戦争が、なぜ起きたか、なぜ日本が負けたのか、その歴史の真実がまた鬼塚氏の労作によって一段と明らかになった。』(管理人注 :ザビエルが日本に着いた日は8月15日、終戦も8月15日。8月15日はカトリックの聖母被昇天祭 でもあるのは偶然とは思えない。なぜなら1534年8月15日はイエズス会結成の日でもあるからだ。)
阿修羅の投稿から
・歴史家松重楊江が著者に語った説。
「明治維新で職を失った旗本たちの娘の中から、美女を選び城内に入れて「千代田遊郭」なるものを伊藤博文らがつくりました。そこは、天皇や重臣たちの遊び場でした。
・『国際金融同盟』の中の一文は、「戦争とはなにか」を如実に示している。戦争は国家間の利害、憎悪の衝突から起こるものだけでなく、巨大はマネー・ゲームでもある。ヒトラーもスターリンも(管理人注: ヒトラーの祖父はソロモン・ロスチャイルド,スターリンの父はエドモンド・ロスチャイルドと言われている)、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は(管理人注:対ソ連戦争をやめて)、巨大なマネー・ゲームの創造であった。 天皇とその一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。
ヒストリアン
『第二次大戦後、ヨーロッパで生じた「新しい情勢」、すなわち東西冷戦の構図は占領下日本にも波及し、昭和23年(1948)1月には米陸軍長官ケネス・C・ロワイヤルが、ソ連要因に照らして「日本を反共の砦に」と演説するまでになった。この年から26年にかけてアメリカの対日占領政策は転回していく。
左翼陣営からは逆コースと名付けられる経済復興の道である。
この転回の中心を担ったとされるのが、ACJ(アメリカ対日協議会、対日理事会とは異なる)という非公式団体の存在である。ACJが結成されたのは、1948年6月。設立の発起人は、戦前、駐日大使をつとめ、1944年から45年まで国務次官の要職にあったジョセフ・グルー、グルー駐日大使時代の参事官ユージン・ドーマン、 「ニューズウィーク」外信部長ハリー・カーン、投資会社の顧問弁護士ジェームズ・カウフマン、元国務次官ウィリアム・キャッスルらで、委員長はカーンである。
1944年5月、グルーが極東局の局長に就任すると、ドーマンは、傘下のIDACFE(極東に関する部局間地域委員会)に加わった。
ここで作成される占領問題に関する文書が、国務省の政策の根幹である。翌45年2月には、グルーの代理人として、日本降伏後の対日占領計画を練っていたSWNCC(国務・陸軍・海軍三省調整委員会)に属するSFE(極東小委員会)の委員長に推された。
ACJの設立目的について、カーンは、「(アメリカの)大衆を啓蒙し、勝利を確かなものとするため、諸問題を解決し、トルーマンを支援することだ。」と、公式声明で述べている。極東にアメリカ製品や資本を広めようと爪を研ぐ実業界や、そのおこぼれにありつこうと舌なめずりする政府高官たちには 、カーンの真意はよく理解され、支持を受けた。
カーンは「ニューズウィーク」の国際欄で筆を奮い、公職追放された日本の財界人たちを「もっとも活動的で、有能かつ教養ある国際人」(1947年1月27日号)と賞賛し、「アメリカの再建計画と共産主義封じ込め政策の一環として、日本を極東の工場にする機会は消え失せるだろう」(同年6月23日号)と、GHQのニューディール派らの政策を糾弾した。
またトルーマン政権の「逆コース」を戦略的に理論づけたのは、ソ連封じ込め戦略を提唱した国務省政策企画局長ジョージ・ケナンであるが、このケナンをはじめとするワシントン当局に対して、ACJは政治力を駆使して、影響力を及ぼしていた。
ただこれらはいわば表の顔で、彼らには「ドーマン機関」というもうひとつの組織があった。
ACJの活動は、「逆コース」が固まった1953年初頭に停止したとされている。だが、その後もカーンたちの活動は終っていなかったようだ。
日本の戦後史には数々の疑獄事件があり、そこにG2、CIAなどの工作があったらしいことはまず間違いないだろう。保守政権の存続と発展に賭けたACJとドーマン機関という組織の軌跡を見ていくと、彼らの人脈が日本に深く根を張っていたことがわかる。
ドーマン機関(管理人注:通称D−2G......ユージン・ドーマンは国務省幹部で帝銀事件にも関与したがこの機関は今でも生きている )は1945年11月ニューヨーク・マンハッタンの「真珠商会」で結成された。ACJの発起人でもあるドーマンの名を冠したこの組織には、彼のほかに、カーン、カウフマン、そして「真珠商会」の経営者である日系二世ケイ・スガハラといった面々が名を連ねていた。彼らは、日本における「天皇制」の維持、軍の再構築、財閥の復興を掲げて団結したのだった。
戦時中OSS(戦略情報局、CIAの前身)に属していたスガハラは、戦後、ドーマンの下で働くようになり、旧児玉機関を再編成して、中国本土に隠されていた500トンのタングステンを市価の半値以下で、密輸した。これを市価の6割で国防総省に売却したCIAは、そこで得た差額を対日工作の資金に充てたという。このあたりのいきさつは萬万報の園田義明氏の記事Wの衝撃に詳しい。
注目すべきは、彼らの活動の中心には、必ずといってよいほど、オーガナイザーとしてカーンの姿があったことである。
ここで興味深い著書を紹介したい。ティム・ワイナー著『CIA秘録』(文藝春秋)である。この上巻第12章に、
「それから7年間の辛抱強い計画が、岸を戦犯容疑から首相へと変身さえた。岸は『ニューズウィーク』誌の東京支局長から英語のレッスンを受け、同誌外信部長のハリー・カーンを通してアメリカの政治家の知己を得ることになる。カーンはアレン・ダレスの親友で、後に東京におけるCIAの仲介役を務めた。岸はアメリカ大使館当局者との関係を、珍種のランを育てるように大事に育んだ。」という記述があるのだ。
朝鮮戦争後の50年代半ば、アイゼンハワー政権下のアメリカは、国務長官ジョン・フォスター・ダレスとCIA長官アレン・ダレスの兄弟主導で対ソ連「冷戦政策」に舵を切り、それまでニューディール派を重用したマッカーサーGHQ司令部の日本政策をも軌道修正させ、日本に「反共・親米派」の保守政治家を誕生させた。
そしてその象徴が、A級戦犯容疑で収監された巣鴨プリズンから釈放されて8年後に首相の座にまで上り詰めた岸信介元首相ではなかったのか。さらにその工作に重大な役割を果たしたのが、件のハリー・カーンであったのではないか――。
ニューヨーク・タイムズ記者のティム・ワイナーは、入手した60年に及ぶCIAの公式記録をはじめ、ホワイトハウス、国務省の封印が解かれた秘密文書を精査し、10人の元CIA長官を含む情報機関と外交当局関係者300人以上とのインタビューを行なったうえで、本書を著した。しかもインタビューに関しては、すべてオンレコである。つまり、本書が紹介するCIAによる秘密工作はすべて「事実」ということだ。
ハリー・フレドリック・カーンのパーソナル・データ。
1912年、コロラド州デンバー生まれ。ハーバード大学卒業後の32年、当時、モルガン、メロンなど大財閥と近かったアスクー家が保有していた『ニューズウィーク』に入社。太平洋戦争開戦翌年の42年、同誌の戦争報道部長に就任。戦後の45年に外信部長に就いている。
カーンは国務省内の反共グループに人脈を築いたが、その中心がアイゼンハワー政権の国務次官で、日米開戦時の駐日大使だったジョセフ・グルーである。そしてグルーを通じて、当時の国務長官フォスター・ダレスと知己となり、さらには後にCIA長官になるアレン・ダレスを知った。国務長官就任前のジョン・フォスター・ダレスは50年10月、朝鮮戦争勃発直後にピョンヤンを占領した国連軍視察の帰途、日本に立ち寄ったが、同行したカーンのセッティングによって岸と会っている。
一言で言えば、岸信介は冷戦政策を推進するダレス兄弟のお眼鏡に叶ったのだ。 本書には、以下に紹介する2006年に開示された国務省声明も紹介されている。「(1958年から68年までの間)アメリカ政府は、日本の政治の方向性に影響を与えようとする4件の秘密計画を承認した。<中略>アイゼンハワー政権は58年5月の衆院選挙の前に、少数の重要な親米保守政治家に対しCIAが一定限度の秘密資金援助と選挙に関するアドバイスを提供することを承認した。援助を受けた日本側の候補者は、これらの援助がアメリカの実業家からの援助だと伝えられた。」
この声明を紹介したうえで、著者のワイナー記者は、次のように書いている。「CIA、国務省、及び国家安全保障会議関係者と私が行ったインタビューによれば、4件目は岸に対する支援である。」――。
第2次岸政権下の58年総選挙で、岸信介元首相がCIAから秘密資金援助を受けたと断じているのだ。
同書では、岸の他にも、東条英機内閣の蔵相を務めた岸の盟友、賀屋興宣もまた58年総選挙で国会議員に選出された直前もしくは直後からCIAの協力者であったこと、さらに賀屋は59年2月にワシントン郊外のラングレーにあるCIA本部を訪れ、アレン・ダレスと面会している事実を明らかにしている。
それだけではない。岸の弟の佐藤栄作(当時蔵相)が、58年7月25日に在京アメリカ大使館のS・S・カーペンター1等書記官と会談した際、共産主義との闘争を続ける日本の保守勢力に対し、アメリカが資金援助をしてくれないだろうかとの打診をしてきたことを、当時のグラハム・バーンズ国次官補宛のダグラス・マッカーサー駐日大使の公電に添付された「カーペンター覚書」は明かしている。これらの事実は、すべて07年公開の国務省文書に記されているのだ。
要は、岸政権が丸ごとアイゼンハワー政権に飼われていたということである。そしてその契機となったのが、8年間、CIA長官の座にあったアレン・ダレスの「手先」(同書の表現によれば、スプーク=スパイ)であったハリー・カーンと岸信介 との出会いということになる。』
ついでですから管理人から追加.......
『占領日本を支配したダグラス・マッカーサー元帥は,CIAをその草創のころから嫌い,信用していなかった。1947年から50年まで,東京のCIA支局を極力小さく弱体にして,活動の自由も制限していた。元帥には同時のスパイ網があったのだ。広島、長崎に原爆を投下した直後から構築し始めたものだった。CIAはこのスパイ網を,元帥から受け継ぐことになったが,これはいわば毒の盛られた遺贈品だった。
マッカーサーを軍事諜報面で補佐していたのはチャールズ・ウイロビー少将だった。ウイロビーの政治的立場は,米陸軍の将官の間では最も右よりであった。ウイロビーは1945年9月,最初の日本人スパイをリクルートすることで,敗戦国日本の諜報機関を牛耳ることになった。この日本人スパイは,戦争終結時に参謀本部第二部長で諜報責任者だった有末精三である。有末陸軍中将は1945年の夏,戦勝国に提出するための諜報関係資料を秘密裏に集めていた。
それが,敗戦後自分自身の身を守ることになると考えていた。多くの高位にある軍人同輩と同じように,戦争犯罪者として起訴される可能性もあった。が,有末はかつての敵の秘密工作員となることを自ら申し出たのである。それはドイツのラインハルト・ゲーレン将軍がたどったのと同じ道だった。ウイロビーの最初の支持は,日本の共産主義者に対する隠密工作を計画し,実施せよというものだった。
有末はこれを受けて,参謀次長の河辺虎四朗に協力を求め,河辺は高級指揮官のチーム編成にとりかかった。1948年,アメリカの政治戦争の生みの親であるジョージ・ケナンは,日本については政治の改革よりは経済の復興の方がより重要であり,実際問題としても,実現が容易であると主張していた。日本の産業界を解体し,解体した機材を戦争保障のために中国に送る,共産主義者が今にも中国を制覇しようとしているときに,そうした措置をとることにどういう理屈があるのか,とケナンは問いかけた。ケナンの力によって,アメリカの対日政策は1948年までに急転換を遂げた。日本の当局者に対する戦争犯罪訴追の脅威と占領の懲罰的な性格は,緩和され始めた。これでウイロビー指揮下の日本人スパイにとっては仕事がやりやすくなった。
ウイロビーはその年の冬,暗号名「タケマツ」という正式な計画を発足させた。この計画は二つの部分に分かれていた。「タケ」は海外の情報収集を目的とするもの,「マツ」は日本国内の共産主義者が対象だった。河辺はウイロビーにおよそ一千万円を要求し,それを手にした。スパイを北朝鮮,満州,サハリン,千島に潜入させること,中国,朝鮮,ロシアの軍事通信を傍受すること,それに中国本土に侵攻して制覇したいという中国国民党の夢を支持し,台湾に日本人の有志を送り込むこと,などを約束した............CIAはその実体を知り,驚愕する。日本人スパイは諜報網などというものではなく,右翼団体の復活を狙う政治活動であり,同時に金儲けのためのもの,とうのが結論だった。「地下に潜った右翼の指導者」は諜報活動を「価値ある食いぶち」とみなしていた,とCIA報告は当時の状況を要約している。
アメリカの諜報機関が日本で行った「お粗末な仕事のやり方」の古典的な見本は,政治的マフィア児玉誉士夫との関係だった。児玉は1911年生まれ,21 歳の誕生日を迎える前に,帝国議会議員に対して殺害の脅迫をしたかどで五ヶ月間,投獄された。21歳のとき,暴力団・右翼反動派の集まりである「天行会」とともに政治家と政府当局者に対する暗殺を計画したが発覚,投獄されたが,四年と経たないうちに釈放されて極右青年運動に着手,これが戦前の日本の有力な保守派の指導者の支持を得た。
戦時中は上海に足場を置き,五年間にわたって戦時の最大規模の一つと言われる闇市を取り仕切った。占領中の中国を舞台に数千人の(児玉機関の)工作員が,戦略金属から阿片に至るまで,日本の戦争遂行機関が必要とするあらゆるものを買い付け,盗み取った。戦争が終結したとき,児玉の個人財産はおよそ一億七千五百万ドルに上った................児玉は1948年,アメリカ占領下の拘置所から釈放され,日本の政治の行く末に重要な役割を果たすことになる.......アメリカがその狙いを達成するのを助ける,真に強力な日本人工作員を雇い入れるまでには,さらに数年を要することになる。その任務はまさに,アメリカの国益に資する日本の指導者を選ぶことに尽きていた。CIAには政治戦争を進めるうえで,並外れた巧みさで使いこなせる武器があった。それは現ナマだった。CIAは1948年以降,外国の政治家を金で買収し続けていた。しかし世界の有力国で,将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった』。<LEGACY OF ASHESより一部転載(文芸春秋発行:CIA秘録)]
『占領軍による情報統制の大枠は、一つは表の機関としてCIE(Civil Information and Deucation Bureau)がある。CIEの役割は、長期的、戦略的に日本人の思想を民主化、非軍国主義化させる、もっと言えば「親米化」させるということであった。GHQはこれを「再教育」(Re-education)と呼称した。
もう一つは裏の機関であったCCD(Civil Censorship Detachment)があり、マスメディアと、電話や電報、郵便、そして一番多かった手紙の検閲などをやっていた。最盛期には、全国で8700人ぐらいの検閲者を使っており、そのほとんどが日本人だった(8)。これは日本の反米的な動きや、ソ連などから入ってくる情報をチェックするような、要するに情報入手が狙いだったと考えられる。
表の機関、半公然の機関であるCIEは、メディアの方向を指示したり、メディアを使った「啓蒙」活動を行っていたが、日本人の多くはCIEについてさえよく知らなかった。またメディア関係者は検閲に直面していた。したがってCCDに日頃接触していた。
しかしメディア関係者ですらも、CCDとCIEを混同したりしている状況であった(9)。GHQではCCDないしその上部機関のCIS(Civil Intelligence Section:民間諜報)の存在を知らしめないために、意図的に混乱させていたとも言える。
アメリカの方ではきちんと分けていて、CCDは実際の言説のチェックをもっぱら行う。それはある程度、長期的には思想操作や日本人の再教育という狙いはあったが、どちらかというと実際上の、当面の問題を扱う。
一方CIEの方は、戦略的、長期的に日本人工作を考えているというものと考えてよいだろう。
端的に言えば、「検閲」の方は、日本人の「過去」の遺物を削除し、「再教育」は、その取り除かれ、空っぽになった部分にアメリカ的イデオロギーを注入することだったと言えるかもしれない。
部隊まとめ
G2(General Staff 2:参謀第二部)チャールズ・A・ウィロビー部長。諜報を担当し、日本語文書の翻訳、情報収集などを担当。1946年5月にはCISが移管されている。外国使節とSCAPの機関との間及び日本政府と占領軍との間の公式の連絡、などを任務とした。 GSと対立しており、その争いが日本政治に及ぶことも珍しくなかった。
(管理人注 :戦前の駐日大使館付(ジョセフ・グルー大使)であった米国特務機関工作員ユージー・ドーマンを中心とする米国対日評議会(ACJ)はGHQの民生局(GS)にたいし圧力をかけ占領政策の主導権は治安情報局(G2)に移った。このG2が通称ドーマン機関人脈と呼ばれている。)
OSS(Office of Strategic Service:戦略諜報局)長官はCOIの長官でもあったウィリアム・ドノバン 。陸海軍と連携して宣伝活動を行った。諜報と工作を行う謀略機関として、戦時中、日系人や捕虜日本兵を使ってのラジオ放送やビラによる宣伝を実施。後にCIAの母体となる。1946年1月12日解散。
USSBS(United States Strategic Bombing Survey,:米国戦略爆撃調査団)米軍の行った戦略爆撃の効果や影響について調査する機関。日本では原子爆弾の効果を確かめる他、ビラやラジオによる宣伝の効果も分析した。
(8)検閲官として働いた人々は、同胞を裏切っていたという意識からかほとんど口を閉ざしている。そんな中でわずかながらも告白している人はおり、その一人の著書に、甲斐弦『GHQ検閲官』(著葦書房、1995/8)がある。
(9)前掲『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』219項 』
田布施の怪 その1
『小泉前首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)出身の朝鮮人である。鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、朝鮮人部落 である。小泉純也は上京して小泉又次郎というヤクザ(刺青大臣と言われた)の婿養子となって「小泉姓」を名乗り、日本国籍を取得したのだ。小泉の次に安倍政権、そのいずれもが朝鮮人部落だった田布施の出身であることが偶然であるわけがない。』
『「週刊朝日」06年10月6日号に掲載された「家政婦は見た〜安倍晋三研究」で、安倍家の家政婦の証言として、安倍晋三の父・晋太郎は、日頃から「自分は朝鮮だ」が口癖で、亡くなったときの遺骨を見ても韓国系の体型だったと言っている。』
田布施の怪 その2
『現在の天皇家としては明治天皇=大室寅之祐の血筋は途切れたものの、田布施(または熊毛郡)出身の一族郎党が国の権力を握っていることに変わりはないようだ。安倍晋三が首相を辞めない(辞められない?)その傲慢さも、彼が明治以降に日本を牛耳ってきた権力を受け継いでいるからだろう。それに安倍晋三は統一教会と縁が深いのだからまさに朝鮮半島勢力である。明治天皇とその取り巻きが、なにせ田布施出身の朝鮮人系統なのだから、現実の政治はその流れに沿うのである。』
3038
2011/7/9
一番下に地震,新幹線注意情報 がありますのでご注意ください。
代理人は,彼らの忠義を彼らの国ではなく,風の征するモレア=イルミナティに捧げるのである。彼らの狙いは彼らの愛すべき国を破壊して,その殺戮から利益を得ることである。
<ヘンリー・メイコウ>
בית הכנסת בקובה
神戸シナゴーグの......
דגם הרכבת תחביב
鉄道とプラモデルが趣味の.....
Rabigaon לקבל את זה. הדברים שכתבת.
ラビ・ガオンよく聞け。お前のことを記事にした。
גם לספר האמבטיה Maehara.Tanigaki
前原,谷垣にも伝えておけ
Yuya ואפילו הירוסה
そして広瀬祐也にも
28 ביולי, 29 רעידות אדמה, פיצוץ ~ שינקנסן עצור.
7月28,29日 の地震,新幹線の爆破は止めろ。
י
ום ראשון 28-29 יולי יולי 10 ו -11 ימים שם.
7月28,29日は7月10,11日でもある。
טוב לקרוא פרק 7, סעיף 18-20 מיכה.
ミカ書第7章18〜20節をよく読むように。
רוטשילד מספרת את גיגית!
ロスチャイルドに伝えておけ!
מ לפקח עליך.
お前を監視する者より。
TWITTERをやっている方々は出来るだけこの記事を広めてください。
何で7月8日(金)に岩手地盤の1899・福田組が商いを伴って急騰するのか?
7/8(金)1,154,000株 265円
発生時刻 7月11日 13時29分
震源地 岩手県沖
ちょっと小さかったようだな。
7・11=18(666) 13時29分=6=六芒星
18+6=24=六芒星
天皇皇后両陛下の7月のご予定
所詮身を挺して闘わなければ努まらないのが歴史的仕事ということでしょうか。覚悟はしていますが,それにしてもこんな国のために身を挺する必要なんてあるのかな,との自問葛藤も無きにしもあらずです。
日本よ滅ぶなかれ。(石井紘基)
日本が自滅する日
@kharaguchi 原口 一博(元総務大臣)
国会Gメンの隊長石井代議士。「これが公表されれば政権が崩壊する。」平成14年10月25日、殺害される一週間前に私と交わした言葉です。闇金、外交機密費問題など当時、石井代議士が私とともに追及していたテーマ。その他にエネルギー利権の闇を追いかけていたらしいことが耳に入りました。5月29日 webから
なんだと思いますか?
「福島第一原発の安全装置ECCS(非常用炉心冷却装置)は(小泉政権の)8年前に外されていた 」原口氏が衝撃の告発」か,あるいは,皇室典範の改正による2026年に半島出身の渡来人に天皇家を売り飛ばし天皇マネーを手に入れる?.........しかし秋篠宮が天皇になる日が週刊誌で記事にされると皇室典範改正はトーンダウンしたように見えますが大連立が成立するとまっ先にやると思います。
原口一博氏が万一暗殺されるような事態になったとしたら機会主義者の手先であるこんな無智な国から脱出した方がいいだろう。
出典:La Voz de Aztlan(機会主義者とは)
聖なる土地でパレスチナの人々を抑圧している邪悪なシオニストたちの多くは、実際には古代ヘブライ種族に属するものではない。彼らは、1000年以上も前に自分の利害関係のためにユダヤ教に改宗したロシアや東ヨーロッパから移住してきた機会主義者どもである(管理人注:13世紀スペインでの異端尋問のように逆に偽キリスト教徒に改宗した人を隠れマラーノとよぶ)。ユダヤ教は多くのあり方でシオニズムに乗っ取られてきているのだ。
イスラエルのシオニストたちはパレスチナ人を陵辱しているばかりではない。彼らは同時に純粋なユダヤ人たちを陵辱しているのだ。シオニストたちは信心深くなくユダヤ人自体を憎んでいる。こんなことはあなた方が米国の主要ニュース・ネットワークでは読むことも聞くことも無いだろう。この世界で真の反ユダヤ主義者(アンチ・セミット)は、実際にはシオニストたちなのだ。セム族の人々にはパレスチナ人とその他の中東諸民族が含まれているのだ。(訳バルセロナより愛を込めて)
拙稿:蛮族戦闘団体と文明 その2参照
かれらの最大の挑戦は,遊牧社会を異質的な環境へ移動させ,そこで動物でなしに,異種の人間社会を支配するという,新しい問題ととりくまなければならないことであった。その離れ業はオトマン奴隷家族であった 。つまり,バーディシャー(解説:オスマン帝国はパーディシャーを元首号とし、しばしば皇帝とされますが、ガージャール朝ではバーディシャーは地方領主の号)の人間家畜を管理する人間番犬を選び訓練することであった。 かれらは出来るだけ人間性を捨てて動物性を身につけたり,単線的な本能的行動にもっぱら心を向けるという,驚くべきことをやってのけた。
羊,山羊を飼育する畜産民は,子羊が生まれると,一年以内に雄は種付け用を少し残し,後は殺して食べる。ごくわずかの雄を去勢して群れの先導役にさせる。それを人間支配の技術に転用するのが去勢の意味。シオン長老の議定書(プロトコール)第18議定書より。これこそがバーディシャー由来の人間家畜の管理術。
はじめて見る方も多くいると思いますが.....
NHK解説委員長谷川氏の死
『長谷川氏はNHKの番組でこう発言した。「崩壊解体された世界貿易センターの死者には、4000人いたイスラエル国籍のユダヤ人二重国籍米国人が1人もいなかった」と 。そして、米国のシナリオ通りに「同時多発テロ」だと決め付けて報道しようとすることに異論を唱えた。
当時の小泉政権 は米国ネオコン主導のブッシュ外交に隷属する“売国奴”政府だから、駐日アメリカ大使館を通じて何らかの圧力がかかったとしたら直ちに「Yes Sir!」と言うがままだったはず。ここで「何らかの圧力」の真意が「長谷川を消せ」だったかどうかは定かではない。ただ、長谷川氏の発言がハイジャック事件の主犯はアルカイダではなくイスラエル政府が関与していることを想起させるもの、としてネオコンの逆鱗に触れたかもしれない。そして、第2、第3の長谷川が出ないように“見せしめ”が必要だったのかもしれない。』
中川一郎 は自殺と見せかけられて消されたがその息子もまた.......長州人脈でしょうね。(理由はこれ以上の米国債の購入を拒否したためである)
中川昭一の死因とは?
PODAM Y新聞の女性記者とは?
特に越前谷は会見直前にロイター(ロスチャイルドの通信社)の記者に「今日の会見は面白いことになる」と告げていたそうです。趣味は溺愛中の息子(7歳児)。平日会える時間が少ない分、土日はたっぷり一緒に。遊園地に動物園、プールではしゃぐ息子の姿を見ると、こちらも気分がリフレッシュ!最近は庭でバーベキューが定番です,だそうです。(2CH)
読者の皆さんはどんな方か想像できませんが一通り理解されたらこんなブログは見ないで人のことは人のことと割り切り毎日を充実して過ごされてはいかがでしょう。塩が吹き出るくらいジョッギングや運動をしシャワーを浴び冷たいビールをグイッと。夜は藁のように熟睡する。この世に実体はありませんので単純ですがそれが一番いいと思います。
生半可な知識で興味本位に拙稿を読まれると自らを破滅させる畏れもありますので注意してください。
IMAGO DEI その2参照
記事のなかにイルミナティのトリックが解説してあります。単純なものですよ。実際の本物の元イルミナティの女史の話によるとイルミナティの論理はなんら論理的裏づけがあるものではなく単に狂気の悪魔理論にすぎないと聞きました。
前の記事で書きましたが
『基本的には、われわれが作った秘密のメーソン、かの家畜ゴイが存在を知らず、知ってもその目的を考えてもみなかったメーソンを作ったことが役立った。ゴイ御一同様の目を晦ませるべく、われわれがメーソン・ロッジ[結社の集会所・支部のことだが小屋≠フ意味もある]の見世物∴鼾タに彼らを惹きつけておいたのである。』(11議定書)
デヴィッド・アイクの役割は その”見世物”一座にどうせ意味も分からない一般大衆をひきつけること。(実はわれわれの代理人が書いたのであるが.....20議定書)
多くのブロガーのうちでも陰謀論を飯の種にしている人たちには気をつけた方がいいでしょう。回し者か紐付きか一応警戒はするべきです。メーソンという『見世物一座に彼らを惹きつけておいたのである』とあるように今一度胸に手を当てて考え直してみてください。悪魔なんて本当にいるのですか?つまり何回も書きますがこういうことです。
悪魔や天使が実在しているかどうかは,魔術師にとってはさほど重要な問題ではない。重要なのは,そうしたものが,現に存在しているかのように働くという事実なのだ<ゴールデンドーン魔術師Bイネス>
メーソンという『見世物一座に一般大衆を惹きつけておく」ということはいくら抵抗しても無駄だ ,ということを中枢神経にインプットさせるのが目的なのです。プロテスタントの牧師たちはそれに輪をかけるように「サタンに対抗できるのはイエスの再臨を待つしかない」と追い討ちをかけているのです。多くの牧師はイルミナティのことをこと細かく書いていますが注意してみると「聖書を信じること」『イエスを信じること』この二つは譲らないわけです。
前の記事でヒラリーが先日来日した目的は米国延命装置としての天皇カンパニーからの支払保証手形(Promissory Note) でありそれによってしばらくは暴落はないであろう,と書きましたが以前英国国立公文書館で確認した書類にはスイスの赤十字などに一千万ドル単位で送金した名義人(注:管理人の記憶違いで一千万スイスフランを寄付したい旨の皇后陛下の手紙でした。ここに訂正してお詫びします )は実は天皇陛下ではなく『皇后陛下』の名前 であり天皇カンパニーの出金できる唯一の名義人は「皇后陛下」の可能性もあります。最終確認はまだしておりませんが,英国滞在の日本人の勇士はぜひもっと調査されるようにお願いします。場所はロンドン市内ではなくウインブルドン近くのKEW GARDENにあります。実は管理人はその国立公文書館を捜すのにやっと見つけたと思ったところがロンドン公文書館でそこの職員にKEW GARDENまで行かないと資料はないとのことであまり時間はありませんでした。
ヨブへの答え・教会の原理と精霊の原理参照
それならば,キリストの死が人間を救うためではないとすると,それは何を意味しているというのであろうか。それについてのユングの解釈は正統派キリスト教のそれとは驚くほどの違いを見せている。ユングは十字架上でイエスの叫び「エリ,エリ,レマ,サバクタニ 」に注目する。(管理人注:アラム語で「わたしの神よ,わたしの神よ,なぜわたしをお見捨てになるのですか 」という意味でそれは詩篇22にある)ある人物が定義上ありえない言動をするときには,そこに深い意味が隠されているものである。さきにユングは,全知全能の神としてはありえないヤーウエの言動から,ヤーウエの無意識性を明らかにした。ここでも彼は,人間の罪を背負って犠牲になることを承知しているはずのイエスにしては,この叫びが奇妙であることに注目する。なぜここで神に対して苦しみないし恨みの叫びが出るのであろうか 。
聖職者の人もここのブログを見ていると思います。答えてください。答えられる牧師様がもしおられるならば。
逆ハニートラップ・イトマン事件
画廊を経営する住友銀行頭取の娘が愛したイケメン男は山口組幹部であった。
イトマン事件の黒幕は許永中
竹下登ほめ殺し
東京佐川急便事件
皇民党ほめ殺し事件
ユダヤ人アダム・ヴエイスハウプトがした事
「そして、一七○○年代になるとパパリアのインゴルシュタット大学の教会法の教授アダム・ヴェイスハウブトが視界に入って来る。ヴェイスハウプトはユダヤ人として生れたが後にカトリックとなり、イエズス会士となった。イエズス会は一五三四年ローマカトリックの秘密結社として設立された。その目的はプロテスタントが広がるのをどんな犠牲を払っても食い止めることであった。
ヴェイスハウプトは後年イエズス会を退会し、次の五年間を瞑想に費やした。彼はフランス王室に幾人かの友人を持っていたが、彼らは黒魔術や、幼児の生け贅を行っていた。また彼は『カバラ』『ソンの大きな鍵』『ソロモンの小さな鍵』を書き写そうと願っていた。これらの本はオカルトの訓練によって、どのように悪霊をコントロールできるかについてあらわしている。ロスチャイルド家とヨーロッパの銀行家の家族はこれらの本を持っていた。そしてヴェイスハウブトはそれらを解説してもらったと伝えられる。これは一七七○年代の初めのことである。
ロスチャイルド家の財政的支援とオカルト的支援を受けてアダム・ヴェイスハウブトはこれらの本の他に『シオンの長老の議定書』『陰の書』『ネクロモニクロン』などを元にイルミナティという組織を作る計画を思いついた。ところでロスチャイルドと言う名の本当の意味は〃Roths チヤイルド〃または〃 サン オブ Wrath〃すなわち〃憤怒の子〃の意味である」アダム・ヴェイスハウブトについてはいろいろと違う情報を知っているが、この説が一番判りやすいと思う。特にロスチャイルド家とのつながりと役割をこれほど筒潔明僚に説明しているもの
もない。ロスチャイルドと言う名はドイツ語のロート・シルド「赤い盾」が英語読みになったものだと一般には知られているが、ユダヤの最高位に位置するこの家族の名には何か別の意味があるに違いないと思っていた。
〃怒りの子〃とは適切な名である。聖書に悪魔に従う者を「生まれながらの怒りの子であった」エペソニ:三とある。因みにロックフェラーはロック(岩)すなわちキリストをフェラー(倒す者)と言う意味があるという。『ソロモンの大きな鍵』『ソロモンの小さな鍵』『陰の書』『ネクロモニクロン 』などはイルミナティでも最高位のものだけが持つことができる極めて限定されたオカルトの書物である。中には世界に3冊しかないと言うものもある。イエズス会については私の著書『世界を動かすユダヤ教の秘密』を参照されたい。「アメリカのイルミナティは一七七六年五月一日に設立された。
この頃、ヴェイストハウブトとロスチャイルド家とは彼らのプライベイトな魔術師集団ゴールデンドーンを発足させた。この集団は今でもロスチャイルド家のプライベイト魔術師集団である。一七八二年七月一六日イルミナティとフリーメーソンは合同した。会員は3○○万人であった」これは短いが非常に重要な資料である。ゴールデンドーン(黄金の夜明)はイルミナティの重要な結社。ここで魔術師集団と訳した語は英語のcovenであるが日本語には適切な訳語がない。
幼児の生け贅などを含む悪魔礼拝の祭司団である。メーデーが五月一日であるのは当然この関わりである。「一七八五年、イルミナティの急使が雷に打たれて死んだ。この急使はイルミナティの秘密文書を運んでいたのである。パバリア政府はこの文書を入手し、イルミナティの本部を急襲した。それでイルミナティは以後地下にもぐったのだが、このようなパパリア政府の報告にも関わらず、多くの国や教会はイルミナティが社会を脅かす事などないと考えた。ヴェイスハウブトの狙いは筒単なものであった。
1全ての国家の廃止。
2全ての個人財産の廃止。
3全ての相続権の廃止。
4全ての愛国心の廃止。
5全ての家族、結婚、子供の公共教育の廃止。
6全ての宗教の廃止。
これに加えてこの新しい秘密結社の八つの階級が発案されていた。
1(国王)
2(キリストの誕生の時に来た、三人の博士の称号。占星術師、魔術師)
3 (摂政)
4(僧侶)
5フリーメーソン
6 (少しだけイルミネイトされた者?)
7ミネルバル
8(見習い修道士)
(管理人注 )上の東方の三博士については聖書ものがたり・マタイ福音書参照
僧侶から上の階級だけが秘密を守る誓いをさせられ、イルミナティの本当の計画を教えられる。一八二六年キャプテン・ウイリアム・モーガンはイルミナティによって最初の死刑を執行された人物である。彼らの計画に反対したフリーメーソン員として、モーガンは舌を抜かれ、はらわたをえぐり出され、手足を切られた。モーガンの死に様を知ったフリーメーノンの会員の四○%がこの結社を離れた」使者が雷に打たれてイルミナティの陰謀が暴露されたのは有名な話。またこの刑はフリーメーノンの入会の時の誓いの言葉を思実に実行したものである。
前記「続・悪魔最後の陰謀」の一九七ページ参照。Rexという言葉に注目してほしい。「一八二九年イルミナティは共産主義として知られる全ての破壊者集団を一つの頭の下に結集させる事にした。一八三○年にアダム・ヴェイスハウブトは、偽りの死亡時懺悔をし、カトリック教会に再改宗して死んだ。イルミナティはもはや死んだと思われた」普通、人は死ぬ時には本当の事を言うものである。多くのフリーメーソンがフリーメーソンであることを表して死んでいった。しかし、アダム・ヴェイスハウプトという男は死に臨んでも偽りと、神と人類への挑戦を止めなかったのだ。
三回の世界大戦はアルバート・パイクの計画
「一八四○年、アーカンサス州リトルロック出身の南軍の将軍アルパート・パイクは『ルシファーの僧侶団』の頭領であり、イルミナティの一三階級だった。一八五九年から一八七一年にかけてバイクは二○世紀に起こす三回の世界大戦の計画を作り出した。バイクの計画は次のようなものであった。第一次世界大戦 ロシアの皇帝をひきずり落とし、カール・マルクスの『共産党宣言』によって共産主義を制定する。さらに他の国々の政府も共産主義によって滅亡させる。第一次世界大戦はイギリスとドイツという二つの異なった体制の揚力によって実現した。
第二次世界大戦 ナチズムをてこに、ファシズムとシオニズムの間の違いを利用して、ドイツを滅亡させる。それによって、〃ユダヤ人の〃イスラエルをパレスチナに造る事が出来るだろう。共産主義国をアメリカと同じ力になるまで育てる。フランクリン・ルーズベルトとウインストン・チャーチルがこれを助けた。
第三次世界大戦 キリスト教民主主義国家を滅亡させる。世界平和のためのルシファーの教儀が公に宣言され、無神論共産主義が世界中で確立する」ある程度この道の事を学んだ人でないとこの辺の事は理解できないかも知れない。今世紀に起こった世界大戦が緻密な頭脳によって十分練り上げられ、巨大な力によって周到に準備された計画的なものだったなどという事を信じろというほうが無理というものであろう。もちろん事実はここに書かれたものほど単純ではないし、アルバート・パイクという一人の人物によって全てが決まったというものでもない。
しかし、確かに二つの戦争の前に、そのような戦争を起こそうという計
画があったという文書が今に残されているのである。間題はこの計画によれば、さらにもう一つの世界大戦があるということである。第一次、第二次の二つの戦争でどれほど多くの人々が死に、どれほど悲惨な事態が起こった事であろうか。それでも飽き足らずにさらに第三次まで起こそうというこれらの集団は、確かに人間とは言えない。彼らはサタンに身を売った悪鬼である。一体このような悪業をなぜ神は許されるのだろうか。二○世紀に流された数千万、数億の血を神はなにゆえ黙って見過ごしておられるのだろうか。私にも判らない。
しかし、今は本当の世の終りである。人間の罪と、サタンの悪が最後の一滴まで注ぎ出される時なのである。物質の世界の限界が来ようとしている。そのように全てのものが極限まで熟して、人の知恵、力、サタンの悪の全てが残りなく出尽くした後に、神の介入が成されなければならない。中途半端ではまた出てくるだろうから。
「一八六五年、南北戦争で荒廃した南部を再建しようと思っていたアブラハム・リンカーン は、国際銀行家集団からの戦時債の返還を拒否した。それでイルミニスト、ジョン・ウイルクス・ブースによって暗殺された。ついでに加えると、ジョン・F‐ケネディも同じようにして殺された。彼はイルミナティ結社に反抗したからだと伝えられている。両方の殺人ともに大統領のシークレット・サービスが協力した。一九○○年代初期のロシア革命はニューヨークのアメリカの銀行家によって財政支援されたと言う事は有名な話である。イルミナティは一九六三〜六五年にかけてマフィアを打ち砕いた。
ローマ銀行そのぼろ儲けの秘密参照
最近公表されたところによればイルミナティはその名をモリヤ〃征服の風〃と変えた」 リンカーン、ケネディ共にイルミナティによって殺害されたのは研究者の間では周知の事実である。ロシヤ革命はもちろんのこと、その後のソビェトの全てがイルミナティによってコントロールされていた。ただスターリンは手強かったらしい。この辺の事は多くの書物があるので参考にされたい。ところで『モリヤ 』とはイスラエルのエルサレムにある神殿の境内の、今はイスラム教の「岩のドーム」が建っている場所の事である。ここでアラブ人とユダヤ人の祖先アブラハムが神の命令に従って自分の子イサクを 捧げようとした場所である。
かつてこの側にイスラエルの誇るソロモンの神殿が建っていた。ユダヤ人たちはいつかここに神殿を再建し、そこから全世界を支配する号令を出す事を夢見ている。だからイルミナティがモリヤ〃征服の風〃と言う名に変わったというのは、いよいよその夢の実現が近づいたと言う事であろう。これは実にさり気なく書いてある小さな一行だが実に重要な情報である。ジョン・コールマン氏は〃征服の風モリヤ〃という名称を使っている。なおモリヤという名は聖書からは「ヤハウェは備えたもう」であって「征服の風」という意味はない。「たしかにイルミナティは世界の経済、政治、市民、宗教、社会の全ての分野を支配しているが、さらにそれ以上のものである。イルミナティの深みを、あなたはこの本を読み進む内に判ってくるだろう。神が私たちの理解の目を開いてくださるように」(角笛より転載 )
NECRONOMICON(ネクロノミコン)とは?
原題『アル・アジフ』……アジフとはアラブ人の間で用いられる単語で、夜間に聞こえる音(昆虫の鳴き声)を意味する。アラブ人はこの音を悪魔の咆哮であると考えていた。
著者であるイエメンの都市サナアの狂える詩人、アブドル・アルハズラットは、およそ西暦700年頃のウマイヤ朝のカリフの治世に活躍したと言われている。彼はバビロンの遺跡や隠匿されたメンフィスの地下を訪れ、古代人がロバ・エル・カリイエあるいは「虚空」、現代のアラブ人が「ダーナ」あるいは「深紅」の砂漠と呼ぶ、邪悪な霊と死の怪物によって守られた広大なアラビア南部の砂漠において、10年間をひとりで過ごした。この砂漠については、その地を踏破したかのように装う人々によって、数々の奇異と信じ難い驚異が伝えられている。アルハズラットは晩年をダマスカスで過ごし、『ネクロノミコン』(『アル・アジフ』)はそこで執筆され、そして西暦738年における彼の死あるいは消失についての多くの恐ろしくも相反する言い伝えを残した。12世紀の伝記作家イブン・カリカンによれば、白昼公然と目に見えない怪物に捕らわれ、恐怖で凍りつく大勢の衆目の前で貪り喰われたとされる。彼の狂気ついても様々な言い伝えがある。彼は伝説に登場する円柱都市アイレムを見た、名もなき砂漠の廃墟の地下で衝撃的な歴史や人類より古い種族の秘密を発見したと主張した。彼はムスリムでありながらイスラームの教義には無関心で、専ら彼がヨグ=ソトース やクトゥルフと呼ぶ未知の存在を崇拝していた。
ヨグ=ソトース
エイボンの書
Testament of Solomon
西暦950年、この時代の哲学者たちの間で相当数が秘密裏に流通していた『アル・アジフ』は、コンスタンティノープルのテオドラス・フィレタスによって『ネクロノミコン』の表題を与えられ、密かにギリシャ語版へと翻訳された。この本は1世紀もの間、ある種の実験者たちを恐ろしい企てへと駆り立てることとなり、その後総主教ミカエルによって発禁にされ焚書にされた。それ以降のことについてはただ密やかに噂されるのみである。中世以降(1228年)にはオラウス・ウォルミウスによってラテン語へと翻訳され、このラテン語版が2度、1度は15世紀にブラックレター書体(明らかにドイツ)で、もう1度は17世紀(恐らくはスペイン)で印刷されているものの、いずれも版を識別できるような記載はないため、ただ印刷物の形跡からいつ、どこで出版されたのかを探り当てることしかできない。ラテン語版へと翻訳されて間もなくこの書物が注目を集めるようになったため、1232年に教皇グレゴリウス9世により、ラテン語版とギリシャ語版のいずれもが発禁となった。ウォルミウスの時代にはアラビア語の原書が既に失われており、彼の序文にはそのことが記されている。1500年から1550年の間にイタリアで印刷されたギリシャ語版の写本は、1692年にセイレムに住んでいた人物の蔵書が焼失して以降、全く存在が報告されていない。ディー博士によって翻訳された英訳版は印刷されず、ただ原典の写本を元にした断片が現存するのみである。現存するラテン語版の1冊(15世紀版)は大英博物館に錠と鍵がかけられ保管されていることが知られており、その他の1冊(17世紀版)がパリのビブリオテーク・ナショナルに納められている 。17世紀版はハーバード大学のワイドナー図書館、アーカムのミスカトニック大学図書館、およびブエノスアイレス大学図書館にも蔵書がある。他の多くの写本はおそらく秘密裏に現存し 、そのうち15世紀版の1冊が、とある著名なアメリカ人の億万長者の所蔵品の一部になっているという根強い噂がある。更に信憑性の定かではない噂として、セイレムのピックマン一家が16世紀のギリシャ語版を保存していたというものがあるが、それが真実であったとしても、その本は1926年に失踪した画家のR・U・ピックマンと共に失われたのであろう。この本はほとんどの国の政府、および教会組織とその分派によって厳しく出版が禁止されている。読めば恐ろしいことになる。一説によれば(一般大衆にはあまり知られていないものの)、ロバート・W・チェンバースは初期の小説『黄衣の王 』のアイディアをこの書物から得ていたとも噂されている。(Wikiソース)
CTHULHN MYTOS(クトウルフの神話 )
続・緊急ニュース参照
PS:続・緊急ニュースで記事にしたサンヘドリンのブログ主は........
ガオン=イスラエル宗教省が直々に送り込んできた神戸のユダヤ教シナゴーグの主席ラビ
の可能性も否定できない。
そのブログには7月28,29地震,新幹線注意とある。7・28=7・10
7・29=7・11
http://blog.hangame.co.jp/E157782911
二つの警告はともに二時57分 に発信されている。7月10日朝の地震9時57 分。
2011年7月10日 9時57分の単数化=5(バフォメット)
א
ני Rabigaon הכנסת בקובה. תקשיב קרוב.
神戸シナゴーグのラビ・ガオンよ良く聞け。
להודיע לך על מאמר הסנהדרין .
お前のサンヘドリンの記事に警告する。
זה ממזר מלוכלך, תוכלו
汚い野郎だな,お前は。
נקמת האל יהיה
復讐は神がするだろう。
闇の組織総合スレ
882 : 忍法帖【Lv=2,xxxPT】 : 2011/06/01(水) 11:39:56.55 ID:N22PrGQB0 [1回発言]
民主党の前原を始めて知ったのは、オカルト板のメイソンスレだった。
京都で神戸のユダヤ教シナゴーグの主席ラビ・ガオン氏が参加した秘密会がありそれに出席したのが、民主党の前原と自民党の谷垣って報告があった。
その後、前原が民主党の代表になって驚いたよ。
376 :憂國の輩 :04/06/13 21:51 ID:aPfPn9Kc
昨日、京都・下鴨神社において「蛍石の茶会」というのが開かれたそうです。
茶席の主人は千玄室・前裏千家家元。客人は下鴨神社宮司を上席にして、宮沢
喜一・元首相、白井丈二・神社本庁元総長・鶴岡八幡宮宮司、広瀬祐也(当時20代で32位階) 、西高辻・太宰府天満宮宮司、ゴアンという名の外人(正体は調査中)、前原誠司…以上 だったようです。
その中には谷垣禎一財務相や京都市長もふくまれていたそうです。
写真は神戸シナゴーグの中の様子。
神戸の寺院
コメントにあったsister moonさんへの答えです。凝縮された曼荼羅 は読んでいただけたと思います。さて.......
イシスとホロス マリアとイエス
ホロスの父はオシリス ,イエスの父はヨセフです。
これはエジプトの「死者の書」と呼ばれているもので左がオシリスです。聖書に出てくるモーゼの十戒はここからのものです。sister moonさんは素直で心の美しい女性なんでしょうね。でもイエス様を愛し信じることはとても大切です。昭和の名宰相と言われた高橋是清もルカやマタイを読み立ち直ったのですから。
以下はここから
『ホルスは12月25日に生まれましたが、母親は処女のイシス。 誕生のさい東の星が現れ、三人の王がその星をめぐり誕生した救世主に贈り物を捧げました。 12歳で天才少年教師と呼ばれ、30歳でアナプという存在に洗礼され牧師として活動を始め、ホルスは12の使徒と共に旅をし、病を治し水の上を歩いたりなどの奇跡を行い、ホルスは様々な別名で呼ばれました。 例えば「真実」「光」「祝福されし神の子」「良い羊飼い」「神の子羊」などであります。 テュフォンに裏切られたホルスは十字架に掛けられ三日の間、理葬され、そして復活します。
一方、イエス・キリストは処女マリアから12月25日、ベツレヘムで生まれ、東の星が彼の誕生を示し、三人の王がその星をめぐり、誕生した救い主を見つけ出し贈り物を捧げました。 12歳で教師となり、30歳でヨハネに洗礼され、彼の牧師活動が始まりますが、イエスは12の使徒と共に旅をし、病を癒し水の上を歩き、死者を蘇らせるなどの奇跡を行いました。彼の別名は「王の中の王」「神の子」「世の光」「アルファとオメガ」「神の子羊」などなどであります。 そして、ユダに裏切られ、十字架に掛けられて、墓に入れられ三日後に復活し天に昇ります。
いかがでしょうか、ホルス神とキリストの話はあまりに似すぎていて、キリスト伝説はエジプトのホルス神のパクリである事がわかります。 これは、古くから伝えれる神との整合性をとっておかなければ、混乱が生じ、人々を治める事ができなくなってしまうからです。』
またまたお星様きらきら参照
1101
2011/7/5
支配者は奴隷が結束しない様に奴隷間に憎しみを起こさせる問題を作る。日本と近隣諸国との問題も同じなのである。(下段のビデオ参照)
三菱の創始者、岩崎弥太郎 がチャンスをつかむのは、同郷の坂本龍馬が暗殺されてからで、後藤象二郎が「海援隊 」 を自分のものとし、「土佐商会」 と改名し、その主任として岩崎を雇いましたが、後に岩崎が譲り受ける事になります。
騎兵隊天皇
『1867年最後の将軍徳川慶喜は大政奉還(政権を朝廷に奉還)する。それから4年後の1871年12月政府は岩倉具視を正使とする使節団を欧州諸国に派遣した。しかしこれまた奇行珍談ばかり。たまらず伊藤博文は今度は欽定使節(天皇が定める)として渡欧しゴッドという存在を目の当たりにする。
南ドイツの君主的絶対主義的憲法を学び,意気揚々と帰国した。1889年の紀元節である2月11日「大日本帝国憲法」が公布され日本の暗黒の歴史が始まる。』
なかでも、グラバーの手引きによりイギリスに密航し留学した長州藩の5人の若者たちは「長州ファイブ」または「マセソンボーイズ」と呼ばれました。というのも、今の価値で10億円とも推測される彼らの留学費用の大部分を負担したのはグラバーの勤めるマセソン商会の社長、ヒュー・マセソンその人だったからです。
さらにヒューマセソンの上には、世界一の金融王ネイサン・ロスチャイルドの息子であるライオネル・ロスチャイルドがいました。
ライオネルやマセソンにかわいがってもらった5人の若者たちは日本に帰り、明治新政府ができた後、日本の最高指導者となります。
いわば、ロスチャイルド家当主の子分であった若者たちによって、明治の日本が作られていたわけです。(写真・文ともThinkerより)
↑ 長州こそ、「大日本帝国」の主体であり、その真の創設者である。
従って、敗戦と共にこの「大日本帝国」が崩壊したとき、
蜷川新 先生のような徳川幕府陣営の人物は、
「長州」も、そして「長州天皇」も、
当然、退陣するものと考えた。
しかし、徳川家広 によれば、敗戦後も長州勢力は、うまく立ち廻って
主導権を握った、と言う。
ここに、現代日本史の核心が存在する。
坂本龍馬関係目次
黒船襲来
メーソンペリー
メーソンだらけの明治維新
大政奉還
長州ボーイズ
メーソン中のメーソンリ・大東社
原文はここから
特に龍馬から受け継いだ海運事業や武器取引は、後に西南戦争、日清戦争、日露戦争で、三菱のドル箱事業となってゆく事になり、坂本龍馬が暗殺されて、最も得をしたのは、同じ土佐藩の岩崎弥太郎であります。 すなわち、坂本龍馬がいなかったら、三菱財閥は存在し得なかったでしょう。
フリーメーソン-57 龍馬暗殺 〜幕末の政情〜
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/649.html
フリーメーソン-58 龍馬暗殺 〜真犯人〜
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/650.html
この二人の悪事は、坂本龍馬の海援隊だけではなく、後藤象二郎はトーマス・グラバー の高島炭鉱も二束三文で払い下げを受け、自分のものとし 「蓬莱社」 と改名し、これまた後に、岩崎に譲っています。
三菱高島炭鉱PDF版
また、維新政府が全国統一貨幣制度に乗り出した時に、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ていますが、この情報を流したのも新政府の高官となっていた後藤象二郎であります。 これは明らかなインサイダー取引で、この2人は国を食い物にして私腹を肥やしていたのです。
岩崎弥太郎は、高知県安芸市の地下(ちげ)浪人の長男として生まれましたが、とにかく貧乏で、幼少の頃から奇行や盗み癖が目立ち、泥棒をしては何度も刑務所に入っていました。 確か、司馬遼太郎の 「龍馬がゆく」 にも、この事は書いてあったと記憶しています。
また、岩崎は、25歳の時吉田東洋の門下生となり、土佐藩の命で長崎に派遣されましたが、藩費を浪費・使い込み、翌年解職されています。 もっとも、何度も刑務所にブチ込まれている彼としては、何ら経歴に傷がつくほどの事ではなかったと思われます。
17-18世紀にヨーロッパで興った 「啓蒙思想」 が産み落とした 「理性」 「自由」
「平等」 「博愛」 「自然科学」 の 「フリーメーソン思想」 により、欧米諸国は近代国家として大きな発展を遂げ、
江戸末期に、フリーメーソン思想に染まった欧米諸国に開国させられ、明治維新を成し遂げた日本も近代国家の道を歩むようになりますが、封建制度が廃止され、職業軍人としての特権を奪われた武士階級に代わる、国民皆兵の徴兵制度によって、農民や一般庶民が武器を手に取り、国家総動員での戦争が始まるようになりました。
これこそが、フリーメーソンに寄生した 「イルミナティ」 、戦争男爵ロスチャイルド、など軍需産業の死の商人達の望むところなのであり、日本は明治維新後、日清・日露戦争、そして第一次・第二次世界大戦と戦争に明け暮れるようになり、政府とべったり癒着した軍需産業から、多くの財閥が生まれることになります。
フリーメーソン-63 西南戦争と新興財閥
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/655.html
フリーメーソン-64 大倉財閥
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/656.html
フリーメーソン-65 伊藤博文とアジア侵略
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/657.html
新政府の国民皆徴兵制より、職業軍人としての特権を奪われた士族の反乱が続く中、西郷隆盛は、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるも、田原坂の激戦を経て、生まれ育った鹿児島に戻り、城山での最後の決戦に散りました。
こうして、徳川封建制度で長く続いてきた士農工商の身分制度はなくなり、明治維新は事実上、成し遂げられる事になります。 西郷隆盛、享年49歳。
フリーメーソン-60 田原坂 (たばるざか)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/652.html
ある意味で西南戦争も、旧式の武器である刀を持った職業軍人としてのプライドを持つ武士たちが、銃を持った農民・一般庶民で構成された新政府軍に敗れて、散ってゆく姿は象徴的であると思います。
日本を開国させた欧米の次のターゲットは朝鮮、さらに日本を使って中国からロシアを追い出すことでした。 そして、1874年(明治7年)に台湾出兵が行われ、朝鮮開国、日清・日露戦争に突き進んでゆきました。
そして、中国に進出した三菱は、阿片ビジネスに手を染めるようになります。
フリーメーソン-66 台湾出兵
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/658.html
フリーメーソン-67 朝鮮開国
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/659.html
フリーメーソン-68 日清戦争
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/661.html
フリーメーソン-69 日露戦争
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/662.html
フリーメーソン-70 ジェイコブ・シフ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/663.html
フリーメーソン-71 日韓併合
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/664.html
フリーメーソン-72 戦争男爵 ロスチャイルド
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/665.html
フリーメーソン-75 カールマルクス
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/668.html
フリーメーソン-76 ロシア革命
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/669.html
フリーメーソン-73 三井・三菱の阿片ビジネス
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/666.html
『若い頃から泥棒癖があり刑務所にもブチ込まれた岩崎弥太郎は、
維新政府が、藩札を買上げ、全国統一通貨制度を導入するという、インサイダーを情報を後藤象二郎から貰い、藩札を買占め莫大な財産を築き、
坂本龍馬暗殺では、海援隊を後藤象二郎が手に入れた後、払い下げを受け、それが基礎となり日清・日露戦争で海運事業を独占し、巨万の富を蓄え、坂本龍馬をしゃぶりつくして、三菱財閥の基礎を築きました。
さて、そんな盗人癖があり、金に汚く下品な男を、創始者に持つ三菱が、満州で阿片ビジネスに手を出さない訳がありません。
1840年の阿片戦争以来、中国では阿片患者が急増し、阿片の消費量は700万満貫(5億円)にも上っていました。
当時、日清・日露戦争で台湾、朝鮮、中国侵略の足がかりをつかんだ日本政府の軍部と癒着していたのが、三井・三菱・大倉などの財閥でありましたが、日清戦争後に台湾を領有したことで、日本は阿片中毒者対策で阿片を必要とし、ケシ栽培と阿片輸入は本格化することとなりました。
大阪府三島郡福井村の二反長音蔵(にたんおさおとぞう)は、台湾で必要な阿片の殆どを輸入に頼っている貿易赤字を改善するため、内務省の後藤新平の支持で、ケシ栽培に取り組み、モルヒネ純度の高いケシの品種改良に成功して、大阪府・和歌山県・京都府・岡山県・福岡県の医薬品原料の商品作物として、農村の収益を高めました。
三菱は、阿片ビジネスをはじめる事を決め、ペルシア(イラン)から阿片を輸入し、中国の人に売りつけましたが、三井もその仲間に入れることにしました。 これは、三井は老舗の財閥で、従来から政府と癒着していたので、三井をいれておかねば、後で痛いしっぺ返しをくらう可能性があったからです。
そうして、三井と三菱は隔年ごとに阿片をペルシャから輸入し、中国に送り込み、日本政府は、厚生省に後の内大臣の木戸幸一を入れ、阿片政策を推進させました。
さらに、遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進め、拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていきます。
植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造。 阿片・麻薬の需要は増大し、三井物産と三菱商事が、ドイツ・イラン・トルコ・シンガポールの阿片・麻薬を一手に輸入していました。
三井物産は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び込み、南京維新政府の財政を助け、三菱商事は三井の3.5倍もの量を1939年2月に満州の大連へ運び込んでいます。
そうして、日本は満州進出、21ケ条要求、満州事変と日本の侵略は拡大し、日中戦争に突入し、日本は中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を樹立してゆきました。
これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合い、傀儡政権の満州・内蒙古では堂々とケシが大量栽培されました。
満州帝国では、約3000万人が20万貫の阿片を吸引し、毎年4万貫の阿片が輸入され、約7万町歩のケシ栽培が行われていたと言われています。
阿片王と呼ばれた二反長音蔵は、満州の長白・臨江・安図へ3回、また満州の熱河省へと指導に赴き、長白市だけでもケシ栽培は216万坪にもなっていました。
中国軍閥の張宗昌(阿片将軍)は日本軍と組んで、吉林・黒竜江省で50〜60万貫のケシ栽培を扱ったと言われています。
内蒙古の山西・チャハルの傀儡政権「蒙古連合自治政府」でも阿片が製造され、張家口には阪田組のヘロイン製造工場があり、阿片・塩・鉱山物が政府の重要な財源となっていたのです。
日本の占領地経済をまとめていた興亜院が阿片・モルヒネを製造・輸入・販売を管理する組織となり、中国民衆を阿片漬けとしていきましたが、満州での日本政府の阿片販売は国際連盟の議題にもなりました。
そんな国際社会からの非難をよそに、三井・三菱の幹部たち、また彼ら財閥から賄賂をもらった政治家や軍人たちは、阿片で儲けた金で、遊興に明け暮れていたのです。
動乱:阿片戦争の紙芝居
フリーメーソン-68 日清戦争
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/661.html
フリーメーソン-69 日露戦争
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/662.html
フリーメーソン-70 ジェイコブ・シフ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/663.html
フリーメーソン-71 日韓併合
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/664.html
フリーメーソン-50 亀山社中
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/642.html
フリーメーソン-58 龍馬暗殺 〜真犯人〜
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/650.html
フリーメーソン-29 サッスーン財閥
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/621.html
フリーメーソン-30 ジャーディン・マセソン商会
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/622.html 』
写真(上):1944年10月20日,レイテ島上陸を演じるマッカーサーDouglas MacArthur元帥(1880年1月26日生 - 1964年4月5日没);2005年にレイテ攻略50周年を祝う米国国防省のバナー。フィリピン亡命政府大統領オスメニャを引き連れて何回も撮影し,取り直したヤラセの映像(鳥飼行博研究室)。
東京都港区麻布台2−4−5 メソニック39森ビル
1945年8月15日、ポツダム宣言受諾から2週間後の8月30日、日本の運命を握る、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り立ちました。
マッカーサーは、フリーメーソンで、彼が所属していたロッジは、Manila Lodge No. 1, Phillipinesであります。 マッカーサー元帥は、厚木飛行場を降り立つとすぐ、フリーメーソン東京支部用の建物の確保を指令し、東京・麻布の旧海軍水交社の建物を接収し、屋上に、定規とコンパスのフリーメーソンのシンボルが掲げられました。
この、東京・麻布の旧海軍水交社が、第38メソニック森ビルにある日本グランドロッジになっています。 ビルの名前からして、フリーメーソンです。
児玉誉士夫と笹川良一
児玉誉士夫と阿片
ある日突然
『占領日本を支配したダグラス・マッカーサー元帥は,CIAをその草創のころから嫌い,信用していなかった。1947年から50年まで,東京のCIA支局を極力小さく弱体にして,活動の自由も制限していた。元帥には同時のスパイ網があったのだ。広島、長崎に原爆を投下した直後から構築し始めたものだった。CIAはこのスパイ網を,元帥から受け継ぐことになったが,これはいわば毒の盛られた遺贈品だった。
マッカーサーを軍事諜報面で補佐していたのはチャールズ・ウイロビー少将だった。ウイロビーの政治的立場は,米陸軍の将官の間では最も右よりであった。ウイロビーは1945年9月,最初の日本人スパイをリクルートすることで,敗戦国日本の諜報機関を牛耳ることになった。この日本人スパイは,戦争終結時に参謀本部第二部長で諜報責任者だった有末精三 である。有末陸軍中将は1945年の夏,戦勝国に提出するための諜報関係資料を秘密裏に集めていた。
それが,敗戦後自分自身の身を守ることになると考えていた。多くの高位にある軍人同輩と同じように,戦争犯罪者として起訴される可能性もあった。が,有末はかつての敵の秘密工作員となることを自ら申し出たのである。それはドイツのラインハルト・ゲーレン将軍がたどったのと同じ道だった。ウイロビーの最初の支持は,日本の共産主義者に対する隠密工作を計画し,実施せよというものだった。
有末はこれを受けて,参謀次長の河辺虎四朗に協力を求め,河辺は高級指揮官のチーム編成にとりかかった。1948年,アメリカの政治戦争の生みの親であるジョージ・ケナンは,日本については政治の改革よりは経済の復興の方がより重要であり,実際問題としても,実現が容易であると主張していた。日本の産業界を解体し,解体した機材を戦争保障のために中国に送る,共産主義者が今にも中国を制覇しようとしているときに,そうした措置をとることにどういう理屈があるのか,とケナンは問いかけた。ケナンの力によって,アメリカの対日政策は1948年までに急転換を遂げた。日本の当局者に対する戦争犯罪訴追の脅威と占領の懲罰的な性格は,緩和され始めた。これでウイロビー指揮下の日本人スパイにとっては仕事がやりやすくなった。
ウイロビーはその年の冬,暗号名「タケマツ」という正式な計画を発足させた。この計画は二つの部分に分かれていた。「タケ」は海外の情報収集を目的とするもの,「マツ」は日本国内の共産主義者が対象だった。河辺はウイロビーにおよそ一千万円を要求し,それを手にした。スパイを北朝鮮,満州,サハリン,千島に潜入させること,中国,朝鮮,ロシアの軍事通信を傍受すること,それに中国本土に侵攻して制覇したいという中国国民党の夢を支持し,台湾に日本人の有志を送り込むこと,などを約束した............CIAはその実体を知り,驚愕する。日本人スパイは諜報網などというものではなく,右翼団体の復活を狙う政治活動であり,同時に金儲けのためのもの,とうのが結論だった。「地下に潜った右翼の指導者」は諜報活動を「価値ある食いぶち」とみなしていた,とCIA報告は当時の状況を要約している。
アメリカの諜報機関が日本で行った「お粗末な仕事のやり方」の古典的な見本は,政治的マフィア児玉誉士夫との関係だった。児玉は1911年生まれ,21 歳の誕生日を迎える前に,帝国議会議員に対して殺害の脅迫をしたかどで五ヶ月間,投獄された。21歳のとき,暴力団・右翼反動派の集まりである「天行会」とともに政治家と政府当局者に対する暗殺を計画したが発覚,投獄されたが,四年と経たないうちに釈放されて極右青年運動に着手,これが戦前の日本の有力な保守派の指導者の支持を得た。
戦時中は上海に足場を置き,五年間にわたって戦時の最大規模の一つと言われる闇市を取り仕切った。占領中の中国を舞台に数千人の(児玉機関の)工作員が,戦略金属から阿片に至るまで,日本の戦争遂行機関が必要とするあらゆるものを買い付け,盗み取った。戦争が終結したとき,児玉の個人財産はおよそ一億七千五百万ドルに上った ................児玉は1948年,アメリカ占領下の拘置所から釈放され,日本の政治の行く末に重要な役割を果たすことになる.......アメリカがその狙いを達成するのを助ける,真に強力な日本人工作員を雇い入れるまでには,さらに数年を要することになる。その任務はまさに,アメリカの国益に資する日本の指導者を選ぶことに尽きていた。CIAには政治戦争を進めるうえで,並外れた巧みさで使いこなせる武器があった。それは現ナマだった。CIAは1948年以降,外国の政治家を金で買収し続けていた。しかし世界の有力国で,将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった』 。<LEGACY OF ASHESより一部転載(文芸春秋発行:CIA秘録)
戦前の駐日大使館付(ジョセフ・グルー大使)であった米国特務機関工作員ユージー・ドーマンを中心とする米国対日評議会(ACJ)はGHQの民生局(GS)にたいし圧力をかけ占領政策の主導権は治安情報局(G2)に移った。このG2が通称ドーマン機関(G2−D)人脈と呼ばれ日本の政界に様々な工作をした。そして上の三人(ある日突然をクリック)も加わっていく。』
対米従属の原点
↑ 『「かつてアメリカがリクルートした二人の一番影響力のあるエイジェントが
CIAの日本政府を支配する任務を遂行するのを助けた」
で、其の二人の男とは、岸信介と児玉誉士夫である。
そうこの人たちCIAに雇われた人達だった。
つまり彼らの雇い主は日本国ではなくアメリカ政府なんだね。
これが残念ながら自民党の原型だし、そこから枝分かれした経世会の民主党の
原点でもあるわけだ。岸さん(安倍さんのおじいさん)の時代我々日本人はアメリカのエージェントを首相として崇めていた間抜けということになる。まあ、よくある傀儡政権というやつだ。
そしてその流れが今でも脈々と清和会或いはその傍流として続いている。
「対米従属」「日本属国論」というのは戦後史を辿れば十分アリのシナリオだ。
日本の政治家は世襲が多いからね、そういうレガシーも引き継がれる。
ワイナー記者によれば、
1.岸信介と児玉誉士夫は、CIAのエイジェントとなった。
2.CIAの助けによって、岸信介は自民党の党首となり、首相となった。
3.児玉誉士夫は暴力団のナンバーワンとなり、CIAに協力した。
4.岸信介と、児玉誉士夫が、戦後の日本の政治の形を作った。
5.岸信介は、児玉誉士夫の金を使って選挙に勝った。
代議士になると、岸信介はその後50年に渡って日本を支配する自民党を作り上げた。
6.岸信介の作った「自由民主党」は自由主義的でもなければ民主主義的でもなく、戦争で亡びたはずの日本帝国の灰の中から起き上がってきた右翼的で封建的な指導者たちのクラブだった。
7.CIAと自民党との相互の間で一番重要だったのは、金と情報の交換だった。その金で党を支援し、内部情報提供者をリクルートした。
8.アメリカは、一世代後に、代議士になったり、大臣になったり、党の長老になったりすることが見込める若い人間たちとの間に金銭による関係を作り上げた。
9.岸信介は党の指導者として、CIAが自分の配下の議員たち1人1人をリクルートして支配するのを許した。
戦後の指導者層(政官報)にその後CIAがずっと人脈を作っていたわけだ。
ワイナーは1994年10月9日付けのNew York Timesに
「CIA Spent Millions to Support Japanese Right in 50’s and 60’s. 」
(CIAは日本の右翼を助けるために1950年代から60年代に書けて何百万ドルもの
金を使った)と言う記事を書いている。』(その後それを報道したのはポダムY新聞であった)
フリーメーソンとは何か まとめ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/770.html
カールマルクス
マルクスとサタン翻訳
拙稿:欧米から見た日本 その1でアーネスト・サトウはこう言っている。『、日本の下層階級は支配されることを大いに好み、権能をもって臨む者には相手がだれであろうと容易に服従する。ことにその背後に武力がありそうに思われる場合は、それが著しいのである。 伊藤には、英語が話せるという大きな利点があった。これは、当時の日本人、ことに政治運動に関係している人間の場合にはきわめてまれにしか見られなかった教養であった。もしも両刀階級の者をこの日本から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治はさして困難ではなかったろう。』と。見透かされていたのである。
サトウの言う「両刀階級」を追い払うまでもなくメーソンごっこをさせるのが一番手っ取り早かったのであろう。
『秘密結社に喜んで入ってくるのは、世渡りがうまく出世第一主義で、一般人の中では軽薄に属する人物が多いので、彼らを御してわれわれが仕組んだことを片付けさせるのは、さして苦労のいることではない。』(15議定書)
ですから人間に対する洞察力は必要です。シオン長老の議定書1〜24 はコピーして理解出来るまで読まれるといいでしょう。
『基本的には、われわれが作った秘密のメーソン、かの家畜ゴイが存在を知らず、知ってもその目的を考えてもみなかったメーソンを作ったことが役立った。ゴイ御一同様の目を晦ませるべく、われわれがメーソン・ロッジ[結社の集会所・支部のことだが小屋≠フ意味もある]の見世物∴鼾タに彼らを惹きつけておいたのである。』(11議定書)
デヴィッド・アイクの役割はその”見世物”一座にどうせ意味も分からない一般大衆をひきつけること。 (実はわれわれの代理人が書いたのであるが.....20議定書)
『われわれが世界の王座に昇る時は、われわれの利益に反するかかる財政上の窮策を痕跡も残さず一掃し、併せて金融市場をすべて廃止する 。われわれの権威は価格変動に左右されるべきではないから、価格上昇も下落もできないように、法令をもって価格というものを固定してしまう。(価格を吊り上げるのは落とすためであり 、実にこの方法によってわれわれはゴイムとの関係の初期に彼らを弄んだのである)。』(21議定書)
『われわれは、われわれが教え込んだことではあるけれども、ゴイムの若者たちに、われわれには嘘と解っている主義や学説を注入することによって、彼らを翻弄し困惑させ堕落させてきた 。』(9議定書)
『神に選ばれた者≠ヘ、理性ならぬ本能によって、また人間性ならぬ獣性によって動くバカげた力を粉砕すべく天から下される。この力は今は自由の原理という仮面をつけて、略奪とあらゆる種類の暴力をはたらき、凱歌を挙げているが、この力が秩序破壊の跡にイスラエル王を王座に据えるのである。だが、彼らの役割は王が王国に入ったその瞬間に終る。王国の路からは、その残骸の一片すらも残さないように一掃される必要がある。 』(23議定書)
代理人をすべて殺すという意味。
『諸兄の中には、来たるべき時が来ないうちに、もしもゴイムが真相を嗅ぎつけたら、彼らは武器を手にして蜂起すると言われる方もおられるようが、それに備えるに西欧においては、最も太い肝玉の持ち主をも戦慄させる恐怖作戦をもって対抗する・・すなわち、決定的な瞬間が来る前にすべての首都に地下鉄道、大都市の地下通路が設けられ、事到ればそれらの首都を建物や書類もろとも空中に吹き飛ばすのである。 』(九議定書)
『群集の何人かが天才的な賢者であったとしても成上がり者であり、政治を理解することはできず、指導者として前を進めば全国民を滅亡の淵に落としこむのは必然である。幼児時代から特別の方式によって訓練された者だけが、政治の基本を成り立たせているABCを理解することができるのである。
人民が人民に任せれば、すなわち人民の中から出た成上り者に任せれば、権力と名誉を追うあまり党派間の軋轢と、そこから生ずる無秩序状態に自滅するのが関の山である。』 (1議定書)
『ゴイの社会には、根深く対立抗争の種を植え込んでおいたので、秩序を回復するには権威の力を直接見せつけた容赦ない手段を執るよりほかはない。苦しむ者に一顧だに与えてはならない。未来の幸福のために 苦しみを引き受けさせるのである。いかなる犠牲を払ってでも福利を達成することこそ、どんな政府でも自分たちの存続を忠実に考え、特権維持ではなく職責完遂を顧みるならば、断じて遂行しなければならない義務である。支配を揺ぎないものとする原則は、権力の後光を輝かせることにあり、その後光というのは、その表に神秘的なもの・・神に選ばれた・・から来る不可侵性を顕現する紋章を帯びるというような、不退転の威厳に満ちた力を発揮していることが要諦である。近年までは世界中では、ローマ教皇を数に入れなければ、帝政ロシアがわれわれの唯一の競敵であった。記憶に留めていただきたいのは、イタリアである。流血にまみれたイタリアであるが、その血を注いだスッラに対しては、髪の毛一筋も手を触れることができなかったのである。彼は人民を虐げていたにもかかわらず、大胆不敵なイタリア帰還をやってのけ、不可侵性の網に囲まれ、人民の目には神と崇められたのである。人民は大胆勇敢な者には催眠術をかけられて、指一本触れないものなのである。
しかしながら、われわれの王国を実現するまでの期間は、われわれは正反対のことを行う 。フリーメーソン支部を世界各国にどんどん増設し、そこへ名士になりそうな人物、現に名士である人物を引き入れる。それというのも、それら支部は重要な情報集積所であり、情報を流す出口でもあるからである。』(15議定書)
これが世界統一政府(我々のためでなく彼らの(機会主義者 )ためのシャングリラ・楽園)の意味です。彼らは弁証法を使いますがそのシャングリラを日本のためにするには余りにも国や国民自体が財弱すぎる。とは言ってもヒラリーが先日来日した目的は米国延命装置としての天皇カンパニーからの支払保証手形(Promissory Note)でありそれによってしばらくは暴落はないであろう。しかし21議定書にある「価格を吊り上げるのは落とすためである」ことかもしれない。
ビールは放射線防護にいいらしい
5月は記録的に若い人の自殺が急増した模様ですが低気圧という殺人兵器もあるのです。ロシアの気象操作によって。そんな時サウナに入ってたっぷり汗を流しマッサージでもするといいでしょう。2039年までに面白いことがてんこ盛りですからね。命を自ら絶ったら勿体ないでしょ。ただし認知症などで迷惑をかける前にこういう歴史に残る遺書を残して死んだらどうでしょう。
I have decided to finish myself before I am unable to decide myself。
自分で判断できなくなる前に自分を終了することに決めた,と。こういう勇気も持つべきでしょう。寝たきりで垂れ流し.......いやだ,いやだ。このセリフはある映画の中のセリフです。とても素晴らしい大人の映画でした。題名は忘れましたが。
バーバラ・ストライサンドが歌う「イスラエル国家」
ユダヤ人教会(Synagogues)のユダヤ人巡礼者の新年にはミカ書第7章18〜20節に由来するPropitiatory rite of Tashlikという儀式を水の流れの前で行う。前列の人が読んでいるのは勿論ミカ書の一節である。「あなたのような神がほかにあろうか..........すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか,ヤコブにまことをアブラハムに慈しみを示してください。その昔,我らの父祖にお誓いになったように。」
聖書ものがたり・ホセヤ書からマラキ書まで参照
上の聖書ものがたりには三島由紀夫を死に追いやった聖書の「予定説」の記述があります。「仮面の告白」に三島は予定説を書いています。西欧文学をやるにはこの予定説を理解しないと一歩も進みません。語学だけならいいのですが文学の深淵さに触れるには聖書の知識が必要です。哲学でもキエルケゴール もそうです。管理人はキリスト教徒ではありませんがある程度聖書を理解するのに40年かかりました。ただ,一つ言えることは「結婚式は教会で,新年は神社へ,葬式は仏式で」では駄目なのです。毎日がチャチャチャでアチャラカの日本人の裏の顔は違うでしょうが日本人は嘘つきですね。そういう実感を長い間持っています。これは変わらないでしょう。そういう中でどういうふうに自分の立脚地を持ったらいいのか.......それがこのブログの目的です。ただ,それだけです。
日本人社会では隣り近所との仲が悪いですね。ですから聖書では「隣人を愛せよ」とあるわけです。近くにホームレスの収容施設が出来ると聞きつけるやいいおじさん,おばさんがよってたかって抗議をするのはなぜでしょう。ホームレスの中には元中小企業の経営者も多くおります。リスクをとったのに銀行と言うシステムに殺られたのです 。この現場をテレビ中継したのは何回あるでしょう。相手が弱い立場の人間と見るや日本人はこれをやるのです。これが日本の社会なのです。相手が自分と比較して上か下かそれとも同等か.......上の身分ならすぐに卑屈な態度にでる......大学でもヘーゲルはああ言った,こう言ったの権威主義ばかりです。学生はまるで檻の中にいるも同然の弱い存在です。大学の教師は何の権限も持っておりませんが学生を落第させる権限だけはもっているのです 。
二年生に進級させないとか,親がそろそろ卒業の頃と大学に連絡するとまだ一年生だったなんてことも日常茶飯事のこととしてあったのです。学生が絶望して自殺しても出席をとり続けるという悲劇が多くの大学にかつてありました。こうなるとその権威の壁に対していつまでたっても学生が教師に対してうち溶けるなど100%不可能です。(京都大学にはその壁がないようです。)管理人は幼い頃よりそうしたものが嫌でたまたま母子家庭であったため中退し航空会社に生活の糧を得て,その後も海外で長いこと生活していました。そして「ヨブ記」のヨブ並の体験をしてそれが泥の中で栄養をとり美しい花を咲かせる蓮の華のように海外で経営者として花開いたということです。そして高年収をあっさりと捨て52歳で引退して自分を何回も何回も解体・分解し直して今があるわけです。人間万事塞翁が馬。誰でも「悟り」までは簡単ですがそれからが難しいのです。
祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色,盛者必衰のことわりを
あらわす。おごれる人も久しからず,只
春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には
ほろびぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)
に同じ。 __平家物語より__
諸行無常・・この世に存在するすべてのものは
関係することであり,現象としてあらわれる全て
のものが流転し,一刻一刻変化しその全てが
また真実である。この世には実体と呼ばれる
ものはない。
現実をあるがままに認め,願っても叶わないような
ものは追い求めない。これが苦しみから救われる
路。
いかなる者もいつかは滅びる。あの泥のなかで
栄養を吸収し美しい華を咲かせる蓮の華を見て
ごらん。泥に汚されることなく転生し泥という
煩悩のなかで綺麗な華という菩提花を咲かせる。
これぞ涅槃なり。だから事実をありのままに
受け止めなさい(如日知見)。
過去ログ:生きることと考えること
『日本ですでに自己形成を完了した私が,ヨーロッパにあってどういうふうに生きてゆくか,ということだけであって,それ以外ではなかったのです。崩壊の瀬戸際に立つかもしれないような歩みは,むしろ現在はじまりつつある。そういう感じが強くしています。』
厄災の星「エレニン」
一応注意しておいた方がいいでしょう。米国は72時間前には何も知らせないがNASAは事前に知らせている。7月28,29は地震,新幹線には注意しよう。7月28=17 7月29=18(666)
8分45秒よりじいちゃんの話。
11分14秒........ここに信じてよいことがある。いかなる形の講和になろうとも日本民族が将に亡びんとする時に当って身を持ってこれを防いだ若者たちがいたという歴史の残る限り五百年後,千年後の世に必ずや日本民族は再興するであろう。(その若者の一人に管理人の叔父もいた)
特攻隊のフィリッピン戦・鳥飼行博研究室
過去ログ:なつかしい母上様,母ちゃんよ
過去ログ:恋人智恵子への遺書
わが子への遺書
父親の母校立教大学で日本舞踊を披露する素子さん。
韓国ドラマ「ホジュン」の公式サイト ・日本人はもっと近隣諸国の歴史を知るべきだろう。
チャングムの誓い
コメントにありました南京事件......49秒には!!!
コメントのアイリス・チャンはここのビデオの3分28秒
南京とは関係ないんですがついでに.........国税庁のOBが税理士になり今度は脱税指南なんてニュースがありましたが日本は天下りという利権だけで成り立っている。
高崎廣の名前をだすとシステムでコメントできませんので書きに書きます。
Kさん
http://twitter.com/#!/koji_inoue/status/80341930139070464
高崎廣氏はメーソンンの名前を出した一ヵ月後に死亡した裏づけはありますか?
273
2011/7/5
世界は,舞台裏をのぞいたことのない人間には全く想像もできない人物によって支配されている<Benjamin Disraeli>
著者はイエズス会の選挙で選ばれる総長と選ばれない総長(BLACKPOPE)について一瞬触れているが闇の世界のBLACK POPEはMR.Zであると。管理人は何回も記事にしてきましたがそれはブレジンスキー(ジミー・カーターとオバマの育ての親)。
サタン・ルシファーの組織図
イエズス会の正体A
米国のプロテスタント派キリスト教徒エリック・ジョン・フエルプスの著書『バチカンの暗殺者たち』より引用します。
イエズス会の目的を想起せよ。彼らは極東、とりわけ日本の占領を企図した。まず最初に宣教師が来た。それから外国の軍隊がやってきた。
日本占領の意図をもってフランシスコ・ザビエルが1549年、日本に到着するとイエズス会士たちは“大名”と呼ばれる日本の貴族多数をキリスト教に改宗させた。イエズス会士たちはそれから大名たちを扇動して何百という仏教寺院を破壊せしめ、さらに仏教の僧侶たちを虐殺させた。
しかし、神の子(イエス・キリストのこと)は、ひとりのプロテスタント派キリスト教徒の船長を皇帝の将軍の宮廷に送った。ウイリアム・アダムスが、イエズス会士たちによって殺害されようとするその寸前に、将軍家康はアダムスを助け出した。家康は十分な時間をかけてこの船員アダムスと会談し、アダムスの話を聞いた。そこで家康はイエズス会の歴史が血にまみれていることを知った。西インド諸島原住民皆殺し、そしてスペインにおける異端審問についても。その結果、この英国人は、異例の恩寵を与えられ、武士に取り立てられた。
将軍家康は、そこで、イエズス会および彼らが構築したトレント公会議によって指導されるローマ・カトリック教会首脳部と法王の政治的行動計画に対して反撃することにした。すなわち、
「家康は、その治世の最初から、彼の帝国を組織し、統合するとともに、彼の権力を外国の陰謀家たちに適切に対抗できるように建設した。1606年、彼はキリスト教布教活動禁止令およびキリスト教徒棄教令を公布した。家康の言うキリスト教徒はこの場合、ヴォルテールの“その土地土着原住民の政府を打倒してそこに宗派的支配権を打ち立てることを合図とするローマの悪名高き陰謀システム”を意味する」
徳川将軍がこの事情を理解したので、家康、秀忠、家光はイエズス会士とその手先たち、スペイン人、ポルトガル人を追放した、プロテスタント派のオランダ人に1854年まで日本との貿易の独占権を与えた。1614年、家康は、彼の嫡子秀忠の名において、“キリスト教”を非合法化し、イエズス会を追放する法律を公布した。1622年、多数のイエズス会士が、国家反逆罪によって死に処せられた。
1624年、スペイン人、ローマ・カトリック教は、家光の命令によって禁止された。それはなぜか。
「切支丹(イエズス会)は、致命的に危険な教義を海外に広め、真実の宗教(仏教)を根絶し、(日本の)政府を打倒し、彼ら自身を全帝国(日本のこと)の主人たらしめるために策動して来た」
そして彼ら(イエズス会)の目標は何か?
イエズス会の目的は、中国の征服以下のものではあり得ない。そしてイエズス会の神父たちは、日本の支配者の車に乗って北京に入城する希望をずっと以前から抱いていた。
イエズス会の正体B
引き続き『バチカンの暗殺者たち』(エリック・ジョン・フエルプス著)より引用します。
(徳川将軍の切支丹禁止令の結果として)イエズス会は、日本からその後250年間追放された。そしてその措置が日本民族に対して、技芸と、反映と、平和とをもたらした。
将軍は彼の家紋も、日本の国家民族も、そのことのために手ひどい仕返しをされるであろうとは、ほとんど予知することが出来なかった!
常時謀略が企てられ、永遠に報復が仕掛けられる。1854年、イエズス会はペリー准将の率いるアメリカ艦隊を使って日本を開国させた。その古き敵に対して復讐するために、イエズス会は外国勢力を使って、1868年の革命を作り出した。徳川将軍は“権力を不法に簒奪した者”という悪名を付けられ、辞職するように強制され、徳川将軍家は15代で終焉した。
将軍家を追放した後、イエズス会は、天皇崇拝を復活させ、東京に、イエズス会の将棋の駒たる明治天皇を頂点とする中央集権国家を樹立した。
1873年、キリスト教禁止令が撤廃されるや、イエズス会は公式に日本への入国を許可された!1874年、イエズス会宿命の敵たる仏教は、正式にその特権を剥奪され、天皇はもはや、長年の国教であった仏教を保護することをやめた。
この新しい絶対権力をもって、1945年までその“教会の日本刀”を行使する。彼らは天皇の軍隊をもって、イエズス会の二つの旧敵、すなわち中国(1895年)、ロシア(1905年)に対する戦争を起こさせた。北京の満州王朝は1700年代にイエズス会を追放し、モスクワのロマノフ王朝の皇帝は1820年に同じことをしたではないか。
1941年、日本人が報復を受けるべき時が来た。ローマのイエズス会は総長の監督下で、東京のロヨラの息子たち(イエズス会の兵士たち)は、米国と日本の間の戦争を作り出す。フリーメーソン、シュライナー位階によるルーズベルト大統領が完全に承知している状況の中で、真珠湾は東条の日本艦隊によって爆撃される。そして、それは全米国民に惨劇の嵐を巻き起こす。(米国)議会は、この謀略にうまうまと嵌められて、対日宣戦布告を議決する。
天皇は、彼の絶対君主制を失った。太古からの文化を保有する日本は破壊され、日本人は国家的敗北の結果、未曾有の屈辱を受けた。そしてそれからイエズス会は、日本をハワイのように彼らのアメリカ帝国に併合し、その保護と繁栄が完璧にワシントンDCに従属する如き、社会主義的商業的植民地を造り出した。
親愛なる真実の探求者の皆さん。これこそまさに1868年から1990年に至る時期に生じたことである。イエズス会は、明治天皇と彼の孫、昭和天皇を通じて日本の軍隊を思いのままに動かし、1911年満州王朝(清帝国)を廃絶せしめ、第二次世界大戦中、1945年まで『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』に述べられている如くに、中国人民を掠奪暴行し、大量に虐殺した。それから1949年には、イエズス会は、彼らの支配する英国、アメリカ、ロシア帝国をして、中国の大異端審問官毛沢東を権力の座に就けた。そして彼はイエズス会の指令にもとづき、“共産主義”の名の下に、彼自身の国の人民を五千万人、虐殺した。冷たい戦争の勝利者となったイエズス会総長は、極東の絶対権力者の地位に就き、厖大な兵力を有する中国軍という強力な、新しい“教会の剣”を彼の手に持って登場した!イエズス会総長の手の中に在るこの軍隊(中国軍)は、いずれの日か、(ローマ)法王の所有するアメリカ帝国によって先進技術を供与され、十二分な食糧支援を与えられて、日本、韓国(および北朝鮮)、台湾、マレーシア、武装解除されたオーストラリアを併合するであろう。
65
2011/7/5
巨大カルトバチカン研究
凝縮された曼荼羅参照
イエズス会の正体@
フリーメーソンに続いては、バチカンについてみていきたいと思います。
バチカンは、ローマ・カトリック教会と東方典礼のカトリック教会の中心地で、いわばカトリックの「総本山」です。
バチカンの統治者はローマ教皇であり、ローマ教皇庁によって統治されています。
バチカン市国の面積は0.44平方kmと、ほぼ東京ディズニーランドと同じくらいの世界最小国ですが、中国にも匹敵する10億人以上の信徒を全世界に有している一大勢力であり、また、信徒の中には国家元首クラスがたくさんいるので、その情報力および外交力そして影響力は世界でもトップクラスなのです。
『アメリカ ネオコン政権 最期の強敵 バチカン』によれば、そのようなバチカンの重要性を最も認識していたのは昭和天皇であり、太平洋戦争勃発のおよそ二ヶ月前に、当時の木戸幸一内大臣に「今度の戦争は避けられそうにないが、いよいよ戦争になった時は、どのように和平工作を進めるのか、今から考えておくように…。そのためにはバチカンと国交を結んでおくことは必要なことなので、すみやかにその手配をするように」と密命を与えたということです。
昭和天皇が誰よりも国際情勢に精通していたことをうかがい知ることができるエピソードではないでしょうか。
さて、そんなバチカンを支える強力組織がイエズス会*1です。
※イエズス会については『キリスト教は植民地支配の先兵だった』もご参照ください。
以下は『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)から引用です。
イギリスの歴史家ジョージ・サムソン卿は『日本−文化小史』の中で、あるスペイン船長の話を書いている。日本との取引交渉に難渋するスペイン船長に、日本人が「スペイン国王はどうしてこれだけの領土を支配できたのか」と質問した。その船長は「簡単なことだ。原住民を改宗させるために宣教師を送り込む。改宗者が十分そろったところで軍隊を送り、改宗者が現地政権に反抗するようにしむける。そしてスペインが占領するのだ」と答えた。
1549年にキリスト教を伝えるため来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザヴィエルの隠れた使命も、日本の占領にあったのでしょうか?
小岸昭(京都大学教授)の『十字架とダビデの星』の中に、ザヴィエルが描かれている。
「旧キリスト教徒の高位聖職者たちは、マラーノを正しい信仰に背いた「呪われた者」としてマラーノ憎悪を煽り立てていた。大航海と植民の拡大政策による国家の経済的発展とともに、いちじるしく力をつけてきた信仰中間層を封じ込め、かつカトリック王国を宗教的に浄化する必要を痛感していたジョアン三世は、1536年、ついに異端審問所を開設するに至った。この時、火炙りの刑に震え戦(おのの)いた改宗ユダヤ人のなかに、祖国を脱出し、新天地たる黄金のゴアに向かう者が少なくなかったのである。」
小岸はマラーノについて、「追放か洗礼かを迫る十五世紀末の『ユダヤ教徒追放令』により、キリスト教に改宗したイベリア半島のユダヤ人たち、表面上には〈十字架〉に帰依するように見せかけながらも、心の奥底で密かに〈ダビデの星〉を信じ続けた彼らは、異端審問所の執拗な追及に怯え、『マラーノ』(豚)と蔑まれながらやがて世界中に離散していく。ヨーロッパはもとより、ブラジル、インドへ…」と書いている。
ザヴィエルは、ポルトガル系のユダヤ人のマラーノである。ポルトガル系ユダヤ人は香辛料や金銀を求めて、世界的な貿易に乗り出していた。マラーノのザヴィエルは、イエズス会の会員にして貿易商人でもあった。
<中略>
『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』から彼の信仰と思想を見ることにしよう。
「神父が日本へ渡航するときには、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきてください。もしも日本国王が私たちの信仰に帰依するようなことになれば、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的な利益をもたらすであろうと神において信じているからです。堺は非常に大きな港で、たくさんの商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金がたくさんありますので、この堺にポルトガルの商館を設けたらよいと思います。」(『書簡集』第93、ゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てて、1549年11月5日、鹿児島より)
それでは「書簡第九」を見てみよう。ザヴィエルが商人であることを知ることができる。
「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述べたように、堺の港に、ついた時、持ってきたのが少なければ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けができるからです。」
堺は十六世紀中葉、日本の商業の中心地であった。ザヴィエルは1551年、堺に三万クロサド以上の財産がある商人たちは1000人以上いると推定した。80バレルの胡椒は、インドで976クルサドの価であったが、日本に来ると三倍になった。
<中略>
「書簡第九十四」は、ヴァスコ・ダ・ガマの子のペトロ・ダ・シルヴァに宛てた手紙である。その手紙は次の文で終わる。
「もし、閣下が私を信頼してくださって、この地方に送る商品の管理を私にご一任くださるなら、私は「一」から「百」以上に増やすと断言します。」
こうしてみるとザヴィエルはポルトガルの経済戦略の先兵隊員ではあったようです。
そして、このザヴィエルが貿易の目玉としたのは、火薬の原料となる“硝石”でした。
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。(二版では憲兵命令で削られた)
「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし。」
<中略>
キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが天正少年使節団としてローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。
「行く先々で日本女性がどこまでいってもたくさん目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている。」(山田盟子『ウサギたちが渡った断魂橋』)
キリシタン大名は、火薬一樽で50人を奴隷として差し出したとのことです。
また、キリシタン大名は、硝石欲しさに仏像や寺社の破壊も行ないました。
イエズス会のバテレンのルイス・フロイスの『日本史』の記述を読むと、大友宗麟の姿が見えてくる。この『日本史』は、1583年の秋からフロイスが編集した日本におけるイエズス会の布教の歴史である。
大友宗麟が織田信長に鉄砲や火薬を仲介する商人の姿が書かれている。宗麟は貴族の久我晴通に、禁裏(天皇)へのバテレン優遇の奏上を依頼している。
信長が仏寺破壊を行なって、フロイスは祝意を表明している。バテレンは宗麟にも仏像・寺社破壊を奨励した。宗麟は1561年に宇佐八幡宮を焼いたのをはじめ、領内の仏像・寺社破壊をなした。1581年10月8日に、豊前彦山の三千坊といわれる坊舎を焼いた。宗麟はヴァリニャーノに「このたびの勝利が、デウスの御業と司祭たちへの祈りの賜である」と伝えた。その報酬として、イエズス会は宗麟の武器援助の要請に応じた。
さて、次に鹿島任痢愍赦妥傾弔瞭罅戮涼罎琉貶犬鮠匆陲垢襦」
「ポルトガルとオランダが諸大名に火薬を売りつけたために日本は戦国時代になった。信長のキリシタン擁護が腰砕けになったため、宣教師は明智光秀に新式火薬を渡して、信長殺しに成功するが、そのうち秀吉の鎖国政策を嫌った宣教師たちは朝鮮征伐には火薬を供給せず、そのために秀吉の外征は失敗に終わる。しかし、このとき国内にいて火薬を温存させた徳川がのちに政権をとることができた。家康は火薬の流入が日本に戦乱を引き起こしたことを十分承知しており、鎖国の狙いはキリシタン禁制そのものでなく、火薬流入の禁止であった。」
鹿島任蓮¬醒匕・┐・ヅ朕・垢鮖Δ靴燭箸靴討い泙垢・・・攣濾廚魯ぅ┘坤慌颪・侈瑤膿・垢鮨瓩暖瑤个靴燭箸靴討い泙后」
☆八切止夫作品集は下記で読むことができます。
http://rekishi.info/library/yagiri/
何故、神の使者であるはずの彼らが、このような残虐行為をおこなえるのでしょう?
その答えは、次の逸話の中に集約させているように思います。
大航海時代の一時期、航海者たちはローマ法王に「異教徒は人間なのか」と問い合わせ続けた。法王の答えは一定していた。
「殺すなかれという戒律はキリスト教徒だけに適用する」
実に恐ろしきは“一神教”の偏狭さ也、ですね。
*1:イエズス会は、カトリックとしては二番目に大きな修道会。2万人の会員が112カ国で活動しています。ちなみに、一番大きな修道会は『ダ・ヴィンチ・コード』で有名となったオプス・デイです。
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2011/7/5
三菱フリーメーソン説C
この株式市場の崩壊と、金融引き締め政策(デフレ政策)は国際的銀行家によって予め計画されていたものだった。
1929年2月6日、イングランド銀行総裁のモンタギュー・ノーマンはワシントンへやって来て、財務長官のアンドリュー・メロン(1855〜1937、財政家、メロン・ナショナル・バンク社長を経て、3代の大統領のもとで財務長官)と会談した。
1929年8月に連邦準備制度理事会は金利を6%に引き上げた。
その翌月、イングランド銀行は金利を5.5%から6.5%に引き上げた。
この時すでに株の暴落は準備されていたのである。
しかし、全ての大銀行は不況を成功裡に乗り切ったのだ。
J・P・モルガンとクーン・レーブ商会は両方とも、儲かりそうな株の事前通知を送る人々の「選別リスト」を持っていた。
この選別リストに載っていたのは、銀行家仲間、卓越した事業家、有力な都市の政治家、共和党及び民主党の全国委員会委員、及び外国の指導者たちであった。
彼らは来るべき暴落の通知を受け、ジェネラル・モーターズ、デュポン等のいわゆる一流の株を除いた他の株は全て売却した。
これらの株価も記録的な安値まで沈んだが、その後すぐに持ち直した。
以前の恐慌の時と同様に、事情通のウォール街と外国の相場師たちは、確実優良・一流証券をその実体価値の何割かの価格で手に入れることが出来た。
1929年の大恐慌では、マリーン・ミッドランド・コーポレーション、リーマン・コーポレーション及びエクイティ・コーポレーションのように、割安な債券や証券を手に入れた巨大な持株会社の形成も見られた。
1929年にJ・P・モルガン商会はスタンダード・ブランズという巨大食品トラストを組織した。
トラスト経営者にとっては、彼らの持株を増したり統合したりする無比の機会であった。
1920年の農業不況は、州法銀行や信託会社が連邦準備制度に加盟することを断ったために引き起こされた。
1929年の大恐慌は、アメリカのほとんど全ての権力を少数の巨大なトラストの手の中に集中するために引き起こされたのだ。
1929年9月1日にはニューヨーク証券取引所上場株式の時価総額は896億6827万6854ドルだった。
32年の7月1日にそれは156億3347万9577ドルとなった。
価値総額にして740億ドル、率にして29年ピークの実に82%が株式市場から消滅した。
それはアメリカ国民一人当たりにして616ドル、アメリカが第一次世界大戦に費やした戦費のおよそ3倍の大きさだった。
名目GNPは1929年の1031億ドルから32年には580億ドルに(44%)下落した。
同じ期間に工業生産は46%、国民所得は51%、企業売上は50%、輸出は36%それぞれ下落した。
30年に失業者は430万人に達し、1年後にはさらに倍加して800万人に及んだ。
この数字は6人に1人が失業していることを示す。
32、33年には遂に1200万人を越え、失業率は約25%に達した。
職を維持できた者も、賃金カットを甘受しなければならなかった。
製造工業部門では、29年に週当たり賃金25ドルであったのが、32年には17ドルまで下落している。
30年にセールスマンの賃金はほとんど半減した。
しかも、消費者物価指数は20%程度しか下がっていない。
そのため、大衆の購買力は低下し、不景気にいっそう拍車をかけた。
1930年から、大都会の路上に靴磨きや、りんご売りの姿が目立つようになった。
自動車工業都市デトロイトでは、職を失った労働者がプラカードを立てて職探しにやっきになっていた。
レストランの前には、残飯を求めて長蛇の列が出来た。ごみ箱をつつく姿も珍しくなかった。
メロンの皮、魚の頭、腐敗した肉ですら、探索の対象となった。
それにしてもこの大恐慌は正に狂気の沙汰としか言いようがなかった。
「飢餓と余剰の並存という信じられない光景がそこかしこに展開した。失業者たちはすりきれた洋服しか着ていないというのに、農民は1932年に1300万梱の綿の売れ残りを抱えていた。子供たちは段ボール底の靴をひきずって学校へ行っているというのに、マサチューセッツ州の靴工場は年の内六ヵ月は閉鎖しなければならなかった。食事に事欠く人間が大勢いるというのに作物は畑で腐っていた。
カリフォルニアでは売れ残りのオレンジに石油をかけて燃やしているというのに、アパラッチ山脈のある地方では村民のすべてがタンポポその他の雑草で飢えをしのいでいた。アイオワではとうもろこしが余りにも値が安いため、郡部の裁判所では暖炉の薪がわりに燃やされたが、干ばつに見舞われた北西部では多数の牛や羊や馬が餓死していた。酪農家が売れない牛乳を排水溝に流しているというのに、失業中の親は育ち盛りの子供に何とか一パイントの牛乳でも飲ませてやりたいと必死だった」(林敏彦著『大恐慌のアメリカ』岩波新書)
不況が長引き、有り余る豊富の中にこれほど多数の人が欠乏を感じているのは、社会経済システムが狂っているからに他ならなかった。
1931年5月にオーストリア最大の銀行クレディット・アンシュタルトが支払いを停止した。
金融恐慌はヨーロッパ全土に広がり、ハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニア、ポーランド、そしてドイツの銀行が取り付けに見舞われた。
6月にはドイツのハインリッヒ・ブリューニング首相が、緊縮的政策を受け入れるよう国民に説得する目的で、ドイツは賠償支払い能力の限界に来たと言明した。
資金は争ってドイツから逃避し始めた。
ドイツの銀行は軒並み取り付けに見舞われ、ライヒスバンクは4日間で4億ライヒスマルクの金を失った。
6月20日にはフーヴァーが、他の重要な債権国が同調するならば、アメリカは32会計年度に期限の来るすべての国際債務の支払いを1年間猶予するというモラトリアムを提案した。
フーヴァー・モラトリアムには最終的には各国の同意が成立したが、それはようやく7月6日になってからであった。
その間に、債権者たちは先を争って流動性を確保しようとした。
ドイツではすべての銀行が短期間ながら閉鎖され、閉鎖が解かれた後も外国資金は凍結された。
ヨーロッパ大陸の金融恐慌は、イギリスに波及した。
ヨーロッパの小国の商業銀行が、ドイツの外国資金凍結によって失った金準備をポンドを売って回復しようとした。
イギリスからの資金引き揚げの速度はますます速まった。
9月21日、イギリスは金の支払いを停止して金本位制を離脱し、ポンドを切り下げた。
同時に今度はアメリカから金が大量に流出し始めた。
ドイツやイギリスで損失を蒙った各国の銀行が、金準備を確保するため、また、損失を埋め合わせるため、アメリカの銀行預金を解約して金に替えたのである。
連邦準備はこの金所有権の国外流出に古典的手段で対応した。
連邦準備銀行は公定歩合を2週間に2%ポイント引き上げた。
大恐慌の中での金融引き締めは、狂気の沙汰だった。
では、ドイツの戦時債務に対するこのフーヴァー・モラトリアムの真の狙いはいったい何だったのだろうか。
フーヴァー・モラトリアムの背後には、国際的銀行家たちがいた。
ドイツはスポンジのようにアメリカの資金を待ち望んでいた。
この計画はフーヴァーが大統領になる前から開始されていた。
フーヴァーの大統領選出は、クーン・レーブ商会の重役であるワーバーグ兄弟の影響によるものであり、彼らが選挙費用を賄った。
その見返りとして、フーヴァーはドイツの債務繰り延べ(モラトリアム)を約束したのだ。
フーヴァー・モラトリアムはドイツを援助する意図で行われたのではなかった。
ドイツの戦争債務の繰り延べは、ドイツが再軍備の資金を得るために必要であった。
1931年に国際的銀行家たちは第二次世界大戦を期待しており、侵略者(ヒトラー)なしの戦争はあり得なかったからだ。
フーヴァーはまた、ロスチャイルド家の秘密代理人として、世界中のいろいろな場所で多くの鉱山開発を行い、ロスチャイルドの主要企業の一つであるスペインとボリビアのリオ・チント鉱山の管理者として報酬を与えられていた。
フーヴァーとエミール・フランク(ベルギーの大銀行ソシエテ・ジェネラルの重役)はベルギー救済委員会を組織して、第一次世界大戦中のドイツに食料を供給した。
大恐慌に対するフーヴァーの対策は以下の通りであった。
「ウォール街崩落のあと、彼は、実業界・労働界の指導者をホワイト=ハウスにまねき、協力を依頼している。実業界の指導者は、フーヴァーの要請をいれて、賃金水準を維持し、生産水準を引き下げないことに同意した。労働界の指導者も、ストライキをやらないと述べた。農業界にたいしても、農産物価格を適当な水準に維持するため、生産制限を自発的におこなってほしいと訴えた。しかし、これらの要請がいつまでも支持されるはずもなかった。すでにみたように、30年から生産は落ち込み、失業者が増大した。31年8月、USスティールが賃金カットに乗りだしてから、労使間の協調にも亀裂が生じ、労働争議が激発した。農業政策もさして効果はなかった。自発的な生産制限は、全国的規模で実施されたときにのみ効果を生む。しかし、個々の農民は、従来の所得水準を維持するには、むしろ生産の増加をはからざるをえなかったのである。
1931年12月、フーヴァー大統領は、起死回生の法案を議会に提出した。復興金融公社法案である。この法案は、政府が5億ドルの資本を投下して、復興金融公社を設立し、銀行・保険会社・鉄道・農業不動産会社などに救済貸付をおこなうことを目的としていた。この法案提出は、政府のビジネスへの介入に消極的であったフーヴァーにしては、画期的な措置であったといえる。しかし、結局は、大銀行や大産業を救済するのに役立っただけで終わった。32年7月、復興金融公社の貸出状況を議会に報告する義務を負わせる法律が通ったが、それにもとづいて調査したところ、総額1億2600万ドルの貸出のうち、半額以上が、三大銀行への貸出しであることが判明したのである」(中村政則著『昭和の恐慌』小学館)
経済状態の悪化を反映して、連邦政府の歳入は29年から32年にかけて半減したが、歳出は5割の増加となった。
その結果、連邦財政赤字は32年には27億ドルに達した。
これはその年の歳入総額より40%以上も大きな数字であり、政府の負債残高は年間歳入の10倍にまで膨らんだ。
フーヴァーは均衡予算への復帰を訴え、増税政策を採用した。
フーヴァーは退役軍人のボーナス、公共事業、福祉事業、失業保険などを連邦政府の国債発行によって賄うことは、すべて国の信用に傷がつくとして拒否し、大不況からの回復を財政面から支援する道を閉ざしてしまった。
いまや大統領フーヴァーは、繁栄の象徴から貧困の象徴へと転落した。
1932年2月13日、ミシガン州のカムストック知事は全州550の銀行に8日間の「銀行休日」を宣言した。
デトロイトの中心的銀行、フォードの庇護下にあるガーディアン国法商業銀行と第一デトロイト国法銀行が経営危機に陥ったとの判断からであった。
ミシガンの銀行休日の直後、オハイオ全州に取り付け騒ぎが起こった。
2月20日からの1週間で金融恐慌は全国に広がった。
2月と3月で閉鎖された銀行の数は3610行にのぼった。
そして、3月4日、ルーズヴェルトの大統領就任の日、最後まで残っていたニューヨーク州とイリノイ州が銀行休日を宣言したことによって、全米すべての州で銀行が閉鎖された。
21年に3万1076行あったアメリカの銀行は、合併や倒産によって33年までにその半数以上にあたる1万6305行が姿を消した。33年中に払い戻しを受けられなくなった銀行預金残高は36億ドル、その年のGNPの6%を超える大きさだった。
こうして不況のどん底でアメリカ国民が絶望感にうちひしがれている時に登場したのが、ルーズヴェルトのニューディール政策だった。
「ニューディール」という言葉は、「トランプのカードを新しく配り直す」「新規巻き返し」「新しい対策」という意味である。
1932年の大統領選挙でのフーヴァーの対抗馬は、ニューヨーク州知事のフランクリン・D・ルーズヴェルトであった。
大統領選挙の結果は、ルーズヴェルトの圧勝であった。
1933年3月4日の大統領就任式で、ルーズヴェルトはキャピトル・ヒルを埋め尽くした大群衆とラジオの前の国民に語りかけた。
「我々はこの国の置かれた状況に正直に直面することを恐れてはなりません。この偉大な国は、これまで耐えてきたように耐え忍び、やがて復活し、繁栄するでありましょう。
したがって、まず第一に私は、我々が恐れなければならないのは恐れだけである−退却を前進に変えるために必要な努力を萎えさせる名状しがたい、理由のない、条理の立たない恐れだけである、という堅い信念を述べさせていただきます」
「両替商たちは既に我が文明の殿堂の高座から敗走しました。我々は今こそその殿堂に古来の真理を回復することが出来るのです」
「幸福は、単に金銭の所有にあるのではなく、成就の喜び、創造的努力の心のふるえにあるのであります」
「そしてそこには、十分だが健全な通貨の準備がなければならない」
ルーズヴェルトは私利を求めて経済を破滅させた両替商(国際的銀行家)たちを非難し、金銭的利潤よりも崇高な社会的価値があることを説いたが、彼自身がその銀行家たちのエージェントであることは述べなかった。
ルーズヴェルトの政治経歴は奇妙な事情から始まった。
昔の学生時代の関係から、第一次世界大戦中の海軍次官として彼は何人かのグロートン校とハーバード大学の同室の友を含む海軍の同性愛者の大組織の告発を先回りして妨害したことがあった。
このことが、旧家であり著名なニューヨークの一族のベシー・マーベリーが主宰するニューヨークーパリ間を何度も往復してきた裕福な国際的な同性愛者グループに好ましい行為として目にとまった。
ベシー・マーベリーは、後に民主国民党の有力者となった。
彼女はまたルーズヴェルト夫人エレノアを仲間に引き入れた。
フランクリン・D・ルーズヴェルトが車椅子の生活を余儀なくされて落ち込んでいたので、エレノアはベシーに相談した。
ベシーはルーズヴェルトをニューヨークの議員に推すことにした。
彼女の力で目的は達成され、ルーズヴェルトは後に大統領となった。
フランクリン・D・ルーズヴェルトは、1920年代にアメリカで巨額の外国債券を発行した評判の悪い国際銀行家であった。
この債券は償還不能となり、アメリカ市民は巨額の損失をこうむった。
『ニューヨーク重役名簿』には、ルーズヴェルトが1923年と24年にユナイテッド・ヨーロピアン・インベスターズ社の取締役社長であると記載されていた。
この会社は巨額のドイツマルク債の発行をアメリカで引き受けたが、それらはすべて償還不能となった。
『プアーズ重役名簿』は、彼を1928年のインターナショナル・ジャーマニック・トラスト・カンパニーの重役として記載していた。
フランクリン・D・ルーズヴェルトはまた、合衆国における外国証券の取引を行うイギリス−アメリカ部隊である連邦国際銀行の顧問でもあった。
フランクリン・D・ルーズヴェルトが合衆国大統領に就任した時、彼はポール・ワーバーグの息子で、国際手形引受銀行副頭取及び他の会社の重役のジェームズ・ポール・ワーバーグを予算局長に任命した。
ルーズヴェルトはW・H・ウッディンを財務長官に任命した。
ウッディンは国内最大の産業資本家の一人であり、アメリカン車両鋳造会社や多数のその他の機関車関連の工事会社、レミントン兵器会社、ザ・キューバ・カンパニー、コンソリデイテッド・キューバ鉄道及びその他の大企業の重役であった。
後に、ウッドロー・ウィルソンをホワイトハウスに送り込む手助けをしたハーレム不動産の経営者の息子であるヘンリー・モーゲンソー・
ジュニアがウッディンの後任者となった。
以上の任命は、ルーズヴェルトが、その非難した当の産業資本家、両替商(銀行家)の側に立つ人物であることをよく示している。
就任式の夜、ルーズヴェルトは財務長官ウィリアム・ウッディンに5日後までに緊急銀行法を起草するよう命じた。
翌5日の日曜日、ルーズヴェルトは側近と協議の上、初の大統領令を発した。
その第一は、3月9日に特別議会を召集すること、第二は、夜12時を回ってから発表されたが、1917年の「対敵通商法」というおぼつかない権威を拠り所に、3月10日まですべての銀行を閉鎖し、金の輸出、銀の輸出、及び外国為替の取引をすべて禁止するというものだった。
これによって、アメリカの銀行制度は完全に機能を停止した。
3月9日に開かれた特別議会で、「緊急銀行法」が発効した。
ルーズヴェルトは直ちに、新しい権限に基づいて、銀行休日を無期限に延長するとの大統領令を発布した。
しかしこの「対敵通商法」は、その合法性に関して疑問がある。
このような法規は平和状態には適用できない。
議会は、軍事措置として以外は、国の憲法や法律を一時停止する権限はなく、その場合でさえ、その権限は軍事的必要事に限られているからだ。
ではこの「緊急銀行法」はどのような結果をもたらしたのであろうか。
「1929年には3万以上の州規模ないしは全国規模の銀行があった。その数は1932年には1万9163に減っていたが、前述の指令の結果、4541の銀行あるいは残存銀行の約3分の1が永久に閉鎖し、43億5679万9000ドルに達する彼らの預金は凍結され、その大部分はなくなった(1936年度通貨会計検査官報告、112ページ参照)。こうして大統領は、法律と合衆国憲法を非道に犯して、閉鎖銀行の数千人の株主およびその銀行の数百人の預金者の財産を仮借なきまでに消滅させ、後日その著書『われわれの道』のなかでその成功を自慢している。
この指令の効果は、デフレをさらに深め、事態をますます悪くしたことである。それは幾千人の預金者の生涯をかけた預金を凍結し、彼らを安楽な身分から窮迫状態へと一転させた」(ジョージ・アームストロング著『ロスチャイルド 世界金権王朝』徳間書店)
この銀行閉鎖から救われたのは、連邦準備銀行が安全を保証した銀行だけであった。
3月12日の日曜日の夜10時、人々はラジオから流れてきたCBSアナウンサーの声に耳をそばだてた。
「大統領がお宅にお邪魔して、暖炉のそばに腰を下ろし、少し炉辺のおしゃべりをされたいそうです」。
かの有名なルーズヴェルトの「炉辺談話」が始まった。
「明日月曜日から、連邦準備銀行のある12の都市の銀行を皮切りに、既に財務省が調べて大丈夫だと分かっている銀行を開けます。それから火曜日には、ちゃんとした手形交換所のある町の健全だと分かった銀行が、すべての業務を再開します。それから水曜日には・・。いいですか、もしあなたの銀行が最初の日に開かなくても、もうそこは開かないのだと決して思わないで下さい。明日開く銀行も、それから後で開く銀行も、全く同じなのです。お金はマットレスの下に置いておくよりも銀行に預けた方が安全だと私が保証しますよ。・・」
この「炉辺談話」は大成功だった。
翌日再開された銀行はどこも取り付けには見舞われなかった。
それどころか、ニューヨーク連邦準備銀行では、加盟銀行に払い出した金額が1800万ドルだったのに対して、その日の終わりまでに帰ってきた現金は2700万ドルに上がった。
他の地域の連邦準備銀行でも同じことが起こった。人々はタンス預金を銀行に預けにきたのである。
しかし、再開されず閉鎖されたままの銀行もあったことは、先に述べた通りである。
人々の預金が安全性を保証された特定の大銀行に集中したであろうことは、想像に難くない。
ルーズヴェルトは議会に「緊縮財政法案」を提出した。
ルーズヴェルトはフーヴァー時代に膨らんだ連邦財政赤字の建て直しのために、連邦支出を大幅に削減する権限を要求した。
ルーズヴェルトは、議員、大統領を含む全ての政府職員の給与を15%まで削減し、軍人恩給を削減し、いくつかのベテラン(退役軍人)の特典を廃止し、政府の科学研究と統計サービスへの支出を削減するつもりだと説明した。
軍人恩給の削減に対してはベテランたちから直ちに強硬な反対の声が上がった。
彼らはフーヴァーの拒否権を覆してそれを獲得したのだった。
議会は緊縮財政法とヴォルステッド法(ビール・ワイン解禁)の二つを承認した。
ルーズヴェルトの緊縮財政・デフレ政策は明らかに失敗だった。
不況に対する療法は、連邦準備制度のデフレ政策ではなく、通貨と信用を膨張させて、公正かつ穏当なインフレーションを招来することにあった。
ルーズヴェルトはその療法を承知していたので、就任演説でこの方策を取ると約束したのだ。
ルーズヴェルトは口先とは裏腹に、景気を回復させるつもりなど始めからなかったのだ。
1933年6月16日、「グラス・スティーガル法」が発効した。
グラス・スティーガル法は証券と銀行の分離、連邦準備制度の強化、預金者保護のための「連邦預金保険公社(FDIC)」の設立、要求払い預金への利子の禁止などを主な内容としていた。
33年銀行法(グラス・スティーガル法)の中で最も大きな論議を呼んだのは、FDICについてであった。
「政府による保険は機能したためしがない」
「結局健全で業績のよい銀行が不健全で危険な銀行を助けることになる」
「自由かつ独立独歩のアメリカの銀行制度への根本的挑戦だ」
一時は成立が危ぶまれたが、結局FDICは1935年に設立された。
これは、小銀行に対する大銀行の力を増大させ、大銀行が小銀行を調査する一つの口実を与えることになった。
次いで銀行法は1935年に改訂され、連邦準備の政策決定権限はさらに強化された。
金融政策の決定権は従来の連邦準備委員会を改組した「連邦準備制度理事会」に移り、財務長官と通貨管理局長はその委員会からはずされた。
この法律は連邦準備制度理事会の役員の任期を14年もしくは大統領の任期の3.5倍の長さに延長した。
これが意味することは、理事会に敵対するかもしれない大統領は、自分に好意的な多数派を理事会に任命することが出来ないということである。
そのために、大統領がホワイトハウスに着任する前に採用された金融政策は次の大統領の希望に関係なく継続されるようになった。
1935年の銀行法はまた、1933年のグラス・スティーガル法の条項の一部を廃止した。
この条項は、銀行が所有する企業にその銀行が資金を貸し付けることを禁止することだったので、元来の趣旨は良いものであった。
1935年銀行法により、連邦準備銀行は今や産業に直接貸付することを認められ、巨額の貸付を実行するだけの規模を持たない会員銀行と競合することになった。
これは、J・P・モルガンが投資銀行業に戻ることができることを意味した。
1935年銀行法によれば、連邦準備制度理事会の新議長と新メンバーは、大統領によって任命されると規定されている。
そして、ルーズヴェルトはマリナー・エクルズを理事会議長に指名し、全く新しい理事陣を任命した。
エクルズはユタ州の銀行家であり、ファースト・セキュリティーズ・コーポレーションの社長であった。
この会社は、エクルズが1920年から21年までの農業不況の時に安く買った多数の銀行からなる一族の投資信託会社だった。
エクルズはまた、ペット・ミルク・カンパニー、マウンテン・ステイツ・インプリメント・カンパニー及びマルガメイテッド・シュガーのような企業の重役でもあった。
大銀行家としてエクルズはルーズヴェルトを操作していた有力者グループとうまがあった。
当初の連邦準備法は準備制度加盟銀行に対し、連邦準備銀行に下記のような準備金を保有することを要求した。
すなわち、地方銀行及び小都市の銀行は、その預金の7%、準備都市(商業中心地と目される都市で、そこに所在する国立銀行は一定率の準備金を維持するよう規定されている)の銀行は10%、中央準備都市では13%である。
1935年銀行法は、「有害な信用の膨張・収縮を防止するため」、前述の準備金要件を倍加する権限を連邦準備制度理事会に与えた。1936年8月26日に、連邦準備制度理事会はこれらの準備金条件を50%引き上げた。さらに、1937年1月30日、次の決議を採択した。
「1937年3月1日の営業開始より各加盟銀行が維持すべき準備金要件は連邦準備法第19条に定められた要件の75%増しとする。さらに1937年5月1日の営業開始より各加盟銀行が維持すべき準備金要件は連邦準備法第19条に定められた要件の100%増しとする」
この通貨の引き揚げ、信用の収縮はデフレを惹起した。
これまでの赤字財政によって1937年初めに「繁栄」が戻ったかに見えた時、ルーズヴェルトは財政支出を大幅に削減し、連邦準備銀行はマネーサプライの増加を引き締めたのだ。
こうして、一旦回復に向かったかに見えたアメリカ経済は、1938年には再び厳しい「リセッション」に見舞われた。
新聞は「ルーズヴェルト不況」という言葉を使い始めた。またまた飢餓線上をさまよう人々が出現した。
ニューディールの期間を通じて連邦財政支出がGNPの10%を超えた年は2回しかなかった。
ニューディールの財政政策は、連邦財政赤字の規模で見る限りGNPの5%に達することは珍しかった。
ニューディールの財政赤字は小さすぎて、アメリカ経済を旧来の成長軌道上に復帰させる力にはならず、回復の足を引っ張るブレーキにしかなっていなかった。
ニューディールは、総需要政策としては失敗だった。
それでは、この大不況からの脱出はどのようにして可能になったのであろうか。
戦争である。
アメリカが大不況から抜け出して1929年までの長期的成長軌道上に復帰したのは、日本軍の真珠湾への奇襲が起こった1941年になってからであった。
1939年9月1日、ヒトラーはポーランド進撃を開始し、第二次世界大戦が始まった。
1941年3月、三期目を始めたばかりのルーズヴェルトに、議会は連合国に軍事物資を供給するための武器貸与法を許した。
必要な資金は国債の発行によって賄われる。
巨大なスケールで軍事生産が開始された。
その年の1月には3.3億ドルに拡大していたアメリカの輸出は、さらに4.6億ドルに増加した。
12月7日(日本時間12月8日)には、日本軍の真珠湾攻撃が起こった。
この卑劣な奇襲によって、アメリカ国内の参戦反対派の声は沈黙させられた。
1942年の連邦軍事支出はGNPの14.4%に急上昇し、連邦財政赤字はGNPの13.5%となった。
43年には連邦財政赤字はGNPの30%に達した。
44年には連邦・地方政府を合わせた全ての政府財政支出の合計は、アメリカ経済全体の58.2%を占めるに至った。
総生産は40年から45年までに59%拡大した。
アメリカは、テクノロジーと資源の許す限りの潜在的生産力を、戦争動員のためにフル稼働させた。
武器貸与プログラムによって、40年から45年までの間に総額500億ドルにのぼるアメリカの軍事物資がイギリスをはじめとする連合国に供与された。
これは1933年から39年までのニューディールの財政支出総額よりも大きかった。
結局のところ、ルーズヴェルトがデフレ政策を転換し、大量国債発行によるインフレ財政を実行したのは、第二次世界大戦によってだったのである。
ルーズヴェルトは戦争が開始されるまで、たらたらと不況を長引かせたのである。
アメリカの失業率は1941年の9.9%から1944年には1.2%へと下がっていった。
大量失業経済は一転して労働力不足経済へと姿を変えたのである。
ニューディール政策といえば、一般的には農業調整法(AAA)、全国産業復興法(NIRA)に基づいて作られた全国復興局(NRA)と公共事業局(PWA)、民間国土保全部隊(CCC)、テネシー峡谷開発公社(TVA)、公務管理局(CWA)が有名である。
しかしTVAなど、
「既に電力は供給過剰気味だ」
「新たな電力を一体どこに売ろうというのか」
「この法律はアメリカ社会にロシアのアイデアを接ぎ木しようとするものだ」
などの強力な反対の声が保守派の議員の間から上がっている。
今から考えると、この時既にルーズヴェルトは来るべき戦争時の電力需要を見越していたのだと思われる。
結論として、ニューディール政策は首尾一貫性を欠き、総需要政策としては失敗であった。
しかし、1933年の証券法、グラス・スティーガル法、34年の証券取引法、1935年銀行法は、連邦準備銀行による政策コントロールを確立し、その後レーガン時代に至るまでのアメリカの金融制度の基礎を定め、他のいかなるニューディール立法よりも成功したものとなったのである。
先に、日本の外債を発行した銀行団は、パース銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、ロスチャイルド商会、ロスチルド商会、ウェストミンスター銀行、ベアリング・ブラザーズ商会、モルガン・グレンフェル商会、シュレーダー商会、J・P・モルガン商会、クーン・レーブ商会、ナショナル・シティー商会、ファースト・ナショナル銀行であったと書いた。
この内、ベアリング・ブラザーズ商会、J・P・モルガン商会、クーン・レーブ商会、ナショナル・シティ・バンク、ファースト・ナショナル・バンクについては、既に説明した。
残る、パース銀行、香港上海銀行、ロスチャイルド商会、ロスチルド商会、ウェストミンスター銀行、モルガン・グレンフェル商会、シュレーダー商会について、次に説明しなければならないだろう。
ロスチャイルド家については既に様々な研究書が出ているので、今更筆者がくどくどと説明するまでもないだろう。
ざっと触れておく程度にしよう。
一族の創始者であるマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、コイン売買業者としてフランクフルトに小さな店を開いた。
それ以前はバウアーとして知られていたが、赤い楯の上に一羽の鷲を描いた看板を掲げることによって商売を宣伝した。
この看板はフランクフルト市の紋章を応用したものであり、鷲の爪から彼の5人の息子を意味する5本の金の矢が広がり出るようにあしらわれていた。
この看板ゆえに、彼は「ロスチャイルド」または「赤い楯」という名前をつけたのである。
アメリカ植民地での反乱を鎮圧するため、ヘッセン選帝侯はイギリスに傭兵を貸すことによって大金を稼いだ時、ロスチャイルドはその資金の運用を委託された。彼は、自身と選帝侯両者に素晴らしい利益をもたらし、他の顧客を引き寄せた。
彼はユーデンガッセ148番地の「緑の楯」として知られる5階建ての、それまで住んでいた家より大きな家に移った。
この家はシフ家と共同で使用された。
五人の息子たちはヨーロッパの主要都市に支店を出した。
長男アムシェル・マイヤーがドイツ家を継ぎ、次男サロモン(ザロモン)・マイヤーが隣国オーストリアのウィーン、三男ネイサン(ナタン)・マイヤーがイギリスのロンドン、四男カール(カルル)・マイヤーがイタリアのナポリ、五男ヤーコプ・マイヤー(後にジェームズと改名)がフランスのパリに散る形で、ヨーロッパ全土の主要都市をおさえた。
1804年、三男ネイサン(27歳)がイギリス・ロスチャイルド商会創設
1817年、五男ジェームズ(25歳)がフランス・ロスチャイルド商会創設
1820年、次男サロモン(46歳)がオーストリア・ロスチャイルド商会創設
1821年、四男カール(33歳)がイタリア・ロスチャイルド商会創設
兄弟の中でも最も成功したのは、ロンドンのネイサンとパリのジェームズであった。
「イグナシアス・バラの『ロスチャイルド家のロマンス』という本には、ロンドンのロスチャイルドがどのようにして富を築いたかが書いてある。
彼は、ヨーロッパの運命が不安定な状態にあったワーテルローへ行き、ナポレオンが戦いに負けそうなのを知り、ブラッセルへ急いでもどった。オステンドで彼はイギリスへの船を借りようとしたが、ひどい嵐のためにだれも船を出そうとしなかった。船を借りるために、ロスチャイルドは500フラン、次に700フラン、そして最後に1000フランを提示した。ある船員は、『2000フランだったら連れて行ってもいい。それだけあれば、万が一のときでも女房にはなにかが残る』といった。嵐にもかかわらず、彼らは海峡を渡った。
翌朝、ロスチャイルドはロンドン取引所のいつもの持ち場にいた。彼の顔が青く、ひどく疲れた様子が他の人びとにもわかった。突然、彼は大量の有価証券を売りはじめた。取引所はとっさにパニックに襲われた。ロスチャイルドが売っている。わが国がワーテルローの戦いに負けたことをロスチャイルドは知っている。ロスチャイルドと彼が知っているすべての代理店は、有価証券を市場に投げつづけた。災難を止めることはできなかった。同時に彼は、だれも知らない秘密の代理店を使って、ひそかにすべての有価証券を買っていたのであった。
たった一日で、彼は100万ポンド近くの利益を確実にした。このことが次の諺となった。『連合国はワーテルローの戦いに勝ったが、実際に勝ったのはロスチャイルドだ』
1915年4月1日付けのニューヨーク・タイムズ紙は次のように報じた。すなわち、1914年にネイサン・マイアー・ド・ロスチャイルド男爵は、彼の祖父についてのワーテルローの物語は真実ではなく中傷であるとして、イグナシアス・バラの本を即刻発売禁止にするよう法廷に訴え出た。法廷はその物語は真実であると裁定し、ロスチャイルドの訴えをしりぞけ、彼に法廷費用の全額支払いを命じた。この物語にかんするニューヨーク・タイムズ紙の記述には、『ロスチャイルドの全資産は20億ドルと推定される』とある」(『ユースタス・マリンズ著『民間が所有する中央銀行』面影橋出版)
この話は有名であるが、フランス家の当主ギイ・ド・ロスチャイルドはその著『ロスチャイルド自伝』の中で別の話を書いている。
「伝説とは反対に、ロスチャイルド家の財産はナポレオンの敗北に結び付くものではない(伝書鳩がロスチャイルド家に対して誰よりも早くワーテルローの戦いの結末を知らせ、そのことによって同家が莫大な株式取引の利益を得たという、伝説。最近、ロンドンの証券取引所の行った入念な調査は、ワーテルローの前または後の英国の公債の相場はいかなる変化も受けていなかったこと、およびネイサン・ロスチャイルドの打った『大博打』という話は完全な誤りであることを、証明した)」(『ロスチャイルド自伝』)
イギリスへ船で渡ったのか、伝書鳩が知らせたのか、真実は闇の中ではっきりしない。
伝説だけが一人歩きしている感があるが、ネイサンが戦争でぼろ儲けしたことだけは確かであろう。
しかし筆者は世間でいうように、この世の支配者はロスチャイルドであるとは思っていない。
例えば、イギリス最大の商業銀行はバークレーズ銀行だが、バークレー家の先祖はスコットランドの名家の出身でクエーカー教徒のロバート・バークレーである。
例えば、ネイサンの孫娘ハンナ・ロスチャイルドはプリムローズ家に嫁いでいるが、プリムローズ家もスコットランドの名門貴族である。例えば、別のネイサンの孫娘アニー・ロスチャイルドが嫁いだヨーク家の先祖であるフィリップ・ヨーク(ハードウィック伯爵)はイギリスの首席裁判官であった。
例えば、イングランド銀行を創設した大蔵大臣チャールズ・モンタギュー(ハリファックス伯爵)、例えば、ソサエティ・オブ・フレンズ(クエーカー教団)を創設したグレイ伯爵、アイルランドのダブリン出身のギネス財閥、同じくアイルランド出身のブラウン家。
ロスチャイルド、ロスチャイルドと騒ぐ前に、これらのイギリス、スコットランド、アイルランド出身の貴族、名家、財閥の分析がしっかりとなされなければならないと考える。
ではユダヤの陰謀は存在しないのかというと、そうではない。
結果から判断すれば明らかである。
現代世界におけるユダヤ人の高い地位を考えてみて欲しい。
これをユダヤ人の優秀さのせいにしたり、はたまた単なる偶然であると考える人は、本書を読み進めるのはやめた方がいい。時間の無駄である。
陰謀の中心にユダヤがいることは確かだが、それはロスチャイルドではないということだ。
例えば、こんなエピソードがある。
「18世紀中葉のロンドンにおける最も重要なユダヤ人の一人はサンプソン・ギデオンであった。彼は英国宰相ウォルポールの友人であり、国家財政に資金を調達した。彼の金融操作は当時においては巨人の様な規模とみなされたスケールで実行された。『南海泡沫事件』の勃発に続く危機の時期、大衆は一度ならずギデオンを白眼視した。しかし彼は岩の如く確固としており、スフィンクスの如く頑固だった。当時彼はロバート・ウォルポールに対してその私的関心についてばかりでなく宰相としてのウォルポールを物質的に援助したり世論が沈静化し、信頼をとり戻すのに寄与し、かうした事を通してかなりの援助を行ったと言われている。」
1745年「王位をねらふ者」チャーリー王子の指揮の下、スチュアート家が反乱を起こし、「王位をねらふ者」の軍隊がロンドンまで迫った時、パニックが起きて大量の在庫商品が売りに出された。
サンプソン・ギデオンはそれらを最も多く買い取った。
イギリス政府公債は投げ売りされ、それらのうちのかなりの量がギデオンに買い占められた。
ユダヤ人と親密な著名な歴史家ジョン・フランシスはこの事に関し次の様に記している。
「先程述べた大反乱の時代に、『王位をねらふ者』の成功に比例して公債の値が下って行った。ある時期にはそれは非常に低価格になった。ギデオン氏は自分の可能なかぎりすべての種類の公債を購入した。友人達はそれを容易ならざる事と見なして忠告し、親切にも彼の没落を予言したが無駄であった。機敏なヘブライ人は答えた。
『もし王位をねらう者がロンドンにやってくれば彼は私の勘定を支払ふであらう。さもなければ私は大金持になるであらう。』
我々は歴史的事実を承知している。ギデオンは莫大な財産を蓄積し、準男爵となり、その子孫は時に貴族に加へられた。」
ジョン・フランシスの記述からはユダヤ人達が十八世紀初頭より英国金融市場を支配しており、ユダヤ人、サンプソン・ギデオンは十八世紀中葉に於て、約百年後にゴールドスミス家、ロスチャイルド家、リカルド家によって演じられたのと同じ役割を演じていたといふ事実について知る事が出来る。
1745年におけるイギリス政府の危機はユダヤ人集団にとっては有利な商取引だったのである。
ギデオンは1745年に自らの財産を二倍に増やした。(『ユダヤはいかにして英国を金権支配国家に変えたかー歴史的探究ー』歴史
修正研究所・刊)
このギデオンは新約聖書の国際ギデオン協会のギデオンである。
国際ギデオン協会は聖書を無料で配っている。
サンプソン・ギデオンはシナゴーグへの出席をやめ、その息子を英国国教会教徒として育てた。
キリスト教徒になったふりをしていたが、彼はシナゴーグへの献金をやめず、ユダヤ人として死んだ。
18世紀にサンプソン・ギデオンが演じた役割を、19世紀にそっくりそのまま演じたのが、言わずもがなネイサン・ロスチャイルドであった。
つまり18世紀にはロスチャイルドならぬ、サンプソン・ギデオンの大英帝国乗っ取りが喧伝されていたのである。
このことはいったい何を意味しているのであろうか。
サンプソン・ギデオンもロスチャイルドも、世界の真の支配者から目を逸らすために利用された、というのが筆者の結論である。
ネイサン・ロスチャイルドは1836年に死んだ。
ヨーロッパの諸国からぞくぞくと大使たちがネイサンの葬儀に参列し、国葬並みの一大セレモニーとなった。
当時、すべてのロンドン市民が見物に集まったといわれた。
ネイサンは急病になり、毒殺を思わせる発作に見舞われた。
医者たちは原因を突き止めることが出来ず、彼は数時間後に死亡した。
誰がこの偉大なユダヤ王を毒殺したのであろうか。
それともこれはある種の魔術の儀式(死んだと見せかけて、実は生きていた)だったのであろうか。
ネイサンの死後、ロスチャイルド家の統括権は彼の弟ジェームズに移った。
このジェームズがフランスに開いたのが、ロスチャイルド商会(フランス語読みでロチルド商会)であった。
簡単に済ますといったが、少し説明が長くなった。
これで、ロスチャイルド商会とロスチルド(ロチルド)商会の解説にかえさせて頂く。
次はウェストミンスター銀行についての説明である。
五大商業銀行の一つ、ウェストミンスター銀行の正式名はナショナル・ウェストミンスター銀行で、イギリスの商業銀行の第2位。
創業メンバーの一人デヴィッド・サロモンズは、ネイサン・ロスチャイルドの妻の姪と結婚している。
重役陣には、ロスチャイルド閨閥の名が認められる。
次はモルガン・グレンフェル商会である。モルガン・グレンフェル創業者のエドワード・グレンフェルが、J・P・モルガンと手を組み、イギリスで創設したのがモルガン・グレンフェル商会であった。
ロンドンのJ・S・モルガン商会が1910年に改組してできたのが、モルガン・グレンフェル商会である。
次にシュレーダー銀行について。
シュローダー銀行は、ドイツのシュレーダー家がイギリスに渡って分家をつくり、ナチス時代を経て分家の方が銀行家として生き残ったため、ウォール街で英語読みのシュローダー銀行として知られるようになった。
ワーバーグ一族と同じく、フォン・シュローダー家はドイツのハンブルグで銀行業を開始した。
クルト・フォン・シュローダーは1889年に生まれ、1788年創設のケルン銀行及びJ・H・シュタイン商会のパートナーであった。1933年にナチスが権力を握ったのち、シュローダーは国際決済銀行のドイツ代表に指名された。
クルト・フォン・シュローダー男爵はテュッセン男爵と共に、ナチスの財政支援を行った。
シュローダー男爵は、ITT(国際電信電話会社)の資金をヒムラーのSS(ナチス親衛隊)に集中させるパイプ役を演じた。
1938年にロンドンのシュローダー銀行は、大英帝国におけるドイツの金融代理店となった。
シュローダーのニューヨーク支店は、1936年にロックフェラー家と共にウォール街48番地にシュローダー−ロックフェラー社として合併された。
シュローダーのカールトン・P・フラーがこの会社の社長となり、アヴェリー・ロックフェラーが副社長となった。
彼は何年にもわたって、J・ヘンリー・シュローダー(イギリス家)の陰のパートナーであり、ベクテル社という建設会社を設立した。
この会社の社員は、レーガン政権で国防長官(ワインバーガー)及び国務長官(シュルツ)として指導的な役割を演じた。
ヒトラーは、1933年1月4日にケルンのシュローダー男爵邸での会談に招待された。
2時間の会談の終わりに、前首相パーペンは両者が対等の地位を占めるヒトラー=パーペン内閣を提案した。
ドイツの指導的な産業資本家や銀行家たちは、ヒットラーに資金援助することにした。
1933年1月30日、ヒトラーはドイツ首相に就任した。
1933年1月4日の会議に出席したのは、ニューヨークの法律事務所サリヴァン・アンド・クロムウェルのジョン・フォスター・ダレス(1888〜1959)とアレン・W・ダレス(1893〜1969、CIAの前身OSSのベルン事務所長)のダレス兄弟で、彼らはシ
ュローダー銀行を代表していた。
ダレス兄弟はしばしば重要な会議に姿を現した。
彼らは、パリ和平会議(1919)では合衆国を代表した。
ジョン・フォスター・ダレスはアイゼンハワー政権の国務長官として在職中に亡くなるが、一方のアレン・ダレスはCIA長官を長年務めた。
アレン・ダレスは後にJ・ヘンリー・シュローダー商会の重役になった。
彼もJ・ヘンリー・シュローダーも、親ヒトラーを疑われることはなかった。
ヒトラーをドイツの首相にして、第二次世界大戦を始めさせることが、国際的銀行家の目的であった。
一方、イギリスにあってナチスにイングランド銀行の支持を与えたのが、前出のイングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンである。
ナチスの哲学者アルフレッド・ローゼンベルクはロンドンで、ノーマンと話をした後、シュローダー銀行の常務取締役であるF・C・ティアクスと会っている。
ティアクスはイングランド銀行理事でもある。
「1934年の初頭、シティーの金融家たちの選ばれた一団が、窓のない壁の後ろのノーマンの部屋に集まった。それは、ラザール・ブラザーズのパートナーのサー・ロバート・キンダースレイ、チャールズ・ハンブロー、F・C・ティアクス、サー・ヨシア・スタンプの面々であった。ノーマン総裁は、ヨーロッパの政治情勢について話した。ナチ・ドイツという名の新しい勢力が、大きな『安定した戦力』として定着していた。ノーマンは、共同作業者たちにヨーロッパの財政支援計画にヒットラーを加えるよう助言した。反対する者はだれもいなかった」(『民間が所有する中央銀行』)
J・ヘンリー・シュローダーはイギリスのイギリス−ドイツ友愛会のメンバーであり、友愛会に資金をつぎ込んだ。
その結果、ヒトラーは、多くの著名な政治家や金融業者からなる大きな親ドイツの第五列をイギリスに有すると確信したのである。
しかし事実は、ネヴィル・チェンバレンの融和政策も、ウィンストン・チャーチルの戦争政策も、共に大衆を欺く派手な演技に過ぎなかった。
日本の憲政会と政友会、アメリカの民主党と共和党、イギリスの戦争党と融和党の対立等、すべて大衆用の見世物であった。
こうして国際政治をコントロールして、所期の目的を達成するのが、秘密結社の心理操作技術なのである。
次に香港上海銀行である。香港上海銀行はサッスーン家が設立したものである。
サッスーン財閥は、18世紀に中東のメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商となっていた。
1792年にこの一族の子供として生まれたデヴィッド・サッスーンは、イラクのバグダッドで活動していたが、1832年にインドのボンベイに移住した。
サッスーン一族はアヘンの利権を狙ってインドに移住したのである。
サッスーン一族は、イギリスと清朝中国のアヘン戦争によって財産を膨らませ、インドから香港・上海への本格的な進出を始めた。
1864年、サッスーン家がリーダーとなって香港上海銀行が設立された。
初代デヴィッド・サッスーンの五男アーサーが、香港上海銀行で最大株主となった。
デヴィッドの孫エドワード・サッスーンは、ジェームズ・ロスチャイルドの孫娘アリーン・ロスチャイルドと結婚している。
別の孫ヨーゼフ・サッスーンは、グンツブルグ男爵の娘と結婚している。
グンツブルグ家は「ロシアのロスチャイルド」として最高の評価を得てきた。
一家は15世紀の古い時代まで家系をたどることができる。
1833年にキエフ地方のユダヤ人家庭に生まれたホレス・グンツブルグは、71年に男爵位を授けられた。
その3年後に、ロシアの鉄道融資に多大な貢献をしたその父親ヨーゼフにも男爵位が与えられた。
以後、アレクサンドル2世によって一家には代々この爵位が認められるようになった。
ペテルブルグに設立されたグンツブルグ銀行が、ロシア全土の金融中枢として機能し、鉄道ばかりでなくウラル、アルタイ、シベリアに及ぶ金鉱開発の総本山となっていった。
『高橋是清自伝』の中に、高橋是清がパリで公債を募集した際に、フランス工商銀行の重役ジャック・ド・グンツブルグ男爵の便宜を受けたことが記されているが、この男爵は恐らく先のグンツブルグ一族であろう。
ドイツでの公債募集はハンブルグのマックス・ワーバーグが引き受けた。
ロンドンで公債募集に便宜を図ったのが、サー・アーネスト・カッセル、ロード・ロスチャイルド、アルフレッド・ロスチャイルドである。サー・アーネスト・カッセルはドイツからイギリスへ移民し、後のエドワード7世であるウェールズ皇太子の私設銀行家となった。
カッセルの孫娘はマウントバッテン卿と結婚し、カッセル家と現在の英国王室を直接の姻戚関係にした。
シフの親友でもあるカッセルは、機関銃のマクシムを兵器商ヴィッカースに合併させた。
アルフレッド・ロスチャイルドはネイサン・ロスチャイルドの長男ライオネル・ロスチャイルドの子供である。
最後に不明のまま残ったのが、パース銀行であった。
現在、イギリスにこの名の銀行は存在していないので、合併したか名前を変えて営業していると思われる。
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2011/7/5
三菱フリーメーソン説B
さて次の章に移る前に、高橋是清が募集した第2回4分利付英貨公債がその後どうなったか見ておこう。
この第2回4分利付英貨公債が昭和5年5月に、5分半利付英貨公債ならびに5分半利付米貨公債に借り換えられたことはすでに述べた。
満州事変勃発以来終戦に到るまで、新規外債の募集は行われなかった。
日本は国際資本市場から隔絶するに到ったから、例え、募集の意志があったにしても、実現不可能な情勢におかれたのである。
言い換えれば、満州事変勃発時点で日本の敗戦への道筋は決定していたということになる。
戦争に負けるであろう国に金を貸す程、英米銀行家もお人好しではあるまい。
したがって、政府外債としてはこの昭和5年5月の5分半利付英貨公債ならびに5分半利付米貨公債、また、民間債としては、昭和6年7月、台湾電力株式会社5分半利付米貨公債の発行が最後であった。
昭和16年(1941)12月太平洋戦争突発当時における外貨債の未償還額は、国債においては米貨債1億5265万ドル余、英貨債7714万ポンド、仏貨債8934万フランであった。
これに地方債および社債の分を合わすと、米貨債2億8334万ドル、英貨債8844万ポンド、仏貨債3億3716万フランであった。これを、仏貨債は除いて、米・英貨債だけについて、当時の為替相場により換算すると、約27億円に上っていた。
しかし、このうち約半額の13億6000万円は日本人所有のものであって、他の半額13億4000万円が連合国人所有のものと推定された。
昭和18年(1943)年1月、第81議会に外貨債処理法が提出され、2月25日両院を通過して、3月15日公布施行された。
この処理法に基づいて、外貨債は大部分、昭和18年9月15日をもって邦貨債に借り換えられるか、または政府においてその元利払義務を承継し、したがって、物上担保等原契約の効力は抹殺されることになった。
かくて、邦貨国債に借り換えられた外貨国債の額は、米貨債は1億3100万ドルで、その未償還額の85.9%、英貨債は2500余万ポンドで、その未償還額の33.1%にあたり、邦貨換算計7億400余万円が3分半利国庫債券に借り換えられたのである。
外貨地方債および社債も、国債同様に、邦貨地方債および社債に借り換え、また、発行者またはその承継者手持ちの自己債については消却されたのであるが、借換または消却されなかったものは、一括して政府において元利払義務を承継した。
終戦時の昭和20年8月末の累計国債残高は1233億円(日華事変、太平洋戦争中の発行高は1059億円)、昭和20年までは1439億7188余万円である。
うち内国債は1399億2446余円、国債総額に占める割合は97.2%、外国債は8億8742万余円、0.6%である。
内国債がいかに巨額な数字であるかは、当時の国民所得が900億円であることからも窺い知ることが出来る。
ではこの内国債は終戦後、どのように処理されたのであろうか。
結論を簡単に述べると、戦後インフレ−ションによって、累積債務は目減りしたのである。
昭和20年度末から昭和26年度末の間に政府債務総額は3.24倍に増加しているが、物価はおよそ30倍になっている。
したがって、昭和26年度末残高の実質値は、昭和20年度残高の11%の大きさに減少している。
内国債だけについてみると、6.3%に過ぎない。
結局、政府は債務者利得を獲得し、国債保有層は大きな損失をこうむった。
戦後インフレ−ションは零細な個人保有層に大きな打撃を与えた。
もちろん、金融機関も債権者損失を被った。
国債の大量保有がインフレ下の金融機関の浮沈の一因をなしたのである。
外貨債については、元本、利子共、支払時期を繰り延べて支払うことで、昭和27年9月26日にアメリカとイギリスの債権者代表との間で協定の調印をみた。
4分利付仏貨公債については、元利払いと平行して、500フラン証券一枚につき9496フランで買い入れをおこなうこととして、昭和31年7月27日、日仏間で締結をみた。
英米仏ユダヤ金融財閥はやはりただ者ではなかった。貸した金はきちんと取り立てているのだ。
それでは、彼らは何故日本に金を貸すことをしたのであろうか。商売のためか。
そうではない。
この資金は日本政治のコントロ−ルに使われたのである。
外貨債として、国債、地方債の他に社債がある。
台湾電力、大同電力、東邦電力、信越電力、日本電力、東京電灯等、電力会社に外資が入っているのだ。
このことの意味するところは何か。
普通、電力と聞けば電灯をつけることぐらいしか思い浮かばないかも知れないが、電気は工業動力としても使われるのである。
そしてこの時期に工業の発展を支えたのは、戦争であった。
つまり日本の電力事業は、戦争とともに発達したのである。
逆にいえば、重化学工業や電力事業を急発展させるためには、戦争という非常事態が必要だったわけである。
これは、兵器の進歩についても当てはまる。
第2次世界大戦がなければ、原爆など開発出来なかったに違いないからだ。
英米両国が日本の電力会社に金を貸したのも、日本に戦争の準備をさせるためであったのだ。
この金は電力会社の人事も左右した。
「当時財界の問題になっていた東京電灯株式会社の整理が行悩みとなり、6月15日払いの同社外債利払いについて、来日中のアメリカ、ガランチー・トラスト商会のウオーカーから、はなはだ悲観的な通信があった。同社取締役会長にしてモルガン商会の首席パートナーたるラモント(当時ロンドン滞在中)から、右社債の利払が不能なときは新起債の所作もむずかしいから、その利払確保に対し政府の責任ある言明を求めるという照会がきた。井上蔵相は、ただちに東電当局その他関係方面の意見を徴したところ、利払送金の実施はもとより、将来の会社経営の人的方面についても、蔵相は、ウオーカーから承認を得た案にまとまり、また配当率についても、双方譲歩的な具体案が進められるに至ったことを知った。以上のほか、会社整理案関係方面から得た印象によって、井上蔵相は、関係者が会社経営の改善、配当率の引下げ、将来に対する資金調達策につき全力を傾注していたので、その整理案の実現確実なりと認め、したがって社債の利払等にも支障をきたすことのないことを確信し、その旨ラモントの覚え書に対する回答文を送った。その結果、ウオーカーならびにラモントの満足を得、ようやく問題は解決の運びに至って、発行の所作を再開しえた」(『国債』)
この時東電に外資を導入するのに便宜を与えた人物が、三井の池田成彬であった。
国債や地方債への外資の導入も同様に、英米による日本政界のコントロ−ルに寄与したであろうことは、想像に難くないのである。
連邦準備制度
これまでの話で、太平洋戦争は某財閥とその手先である政治家が結託して引き起こしたものであったことがお分かりになったと思う。
そしてその財閥や政治家に海外から指令を下していたのが、英米ユダヤ金融財閥であった。
彼らは日本の外債を引き受け、日本に金解禁を強要し、大恐慌を引き起こして日本を未曾有の不景気の中に投げ込んだ。
そして愚かな軍人を煽って、日本を地獄の戦争へと駆り立てていったのだ。
彼らは顔の見えない透明人間ではない。日本の外債を引き受けた銀行名は分かっている。
パース銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、ロスチャイルド商会、ロスチルド商会、ウェストミンスター銀行、ベアリング・ブラザーズ商会、モルガン・グレンフェル商会、シュレーダー商会、J・P・モルガン商会、クーン・レーブ商会、ナショナル・シティー商会、ファースト・ナショナル銀行である。
これらの銀行を動かしている人物を探ることで、戦争犯罪人の名前を明らかにすることが出来る。
その前に、ある重要な事実について述べなければならない。
英米ユダヤ金融財閥は海外にいて日本政治・経済を遠隔操作するだけではなくて、日本国内に自らのエージェントをしっかり送り込んでいたのである。
1931年に満州事変が勃発したが、その翌年にジョゼフ・グリューが駐日アメリカ大使として着任している。
そして満州事変勃発の年に、ロンドンから駐日イギリス大使として着任したのが、フランシス・リンドレーであった。
リンドレーは日露戦争の日本勝利の翌年に当たる1906年に東京へ来た経歴がある。
シフやロスチャイルドが日本に大金を貸し付けたので、その返済の裏交渉に走りまわるため、表向きはイギリスの外交官として2年間も滞在していた。
そして1931年から34年まで、今度はグリューと欧米連合を組む形で、正式の大使として活動した。
満州事変直後に、日本はアメリカからモルガン家の一族グリュー大使を迎え、イギリスからロスチャイルド家の一族リンドレー大使を迎えていたが、その両人とも、「モルガン・グレンフェル」の代理人であったのだ。
それでは、日露戦争時の第1回6分利付英貨公債1000万ポンドの半分、500万ポンドを引き受けて高橋是清を喜ばせたクーン・レーブ商会の首席代表者シフとは何者であろうか。
クーン・レーブ商会の創設者は、サミュエル・クーンとソロモン・レーブである。
この両家のファミリー・ネームを組み合わせてクーン・レーブ商会となった。
また、クーン家の娘イーダと、レーブ家の息子モリスが結婚して一族となっている。
このソロモン・レーブの娘テレサと結婚したのが、ユダヤ人ジェイコブ・ヘンリー・シフであった。
シフはロスチャイルドの本家フランクフルトで1847年に生を受けた。
シフ一族は早くから金融業を営んでいた。
ロスチャイルド家の初代マイヤ−・アムシェルがまだ40代の頃、引っ越した家が「緑の楯」と呼ばれる建物で、内部が二つの区画に分かれていた。
その一方に「赤い楯」ロスチャイルド家が移り住んだ時、もう一方の隣家には、扉に「舟」の絵を掲げたユダヤ人家族が住んでいた。
舟をドイツ語でシフと言うが、この家族がジェイコブ・シフの祖先であった。
フランクフルトのゲットー以来、ロスチャイルド家とシフ家ほど親密な家族はなかったという。
シフは18歳の時アメリカへ移住し、クーン・レーブ一族となってからは、鉄道事業で商会を成長させ、パートナー(重役)としてオットー・カーン、ワーバーグ銀行のポール・ワーバーグ、フェリックス・ワーバーグらを迎えて、国際投資銀行としての地歩を築いていった。
さてこの辺でシフの系図を描いてみよう。
シフはワーバーグ家と姻戚関係にあるだけでなく、ワーバーグ家を通じてルーズヴェルト大統領やアスター家と繋がっていたのだ。
この系図にあるワーバーグ一族のポール・ワーバーグが、アメリカの中央銀行である連邦準備制度を創設した人物である。
彼は1902年にアメリカに移住し、クーン・レーブ商会に入っている。
その兄弟のフェリックス・ワーバーグも1894年にアメリカに移住してクーン・レーブに加わっている。
ポール・ワーバーグは、クーン・レーブ商会の故ソロモン・レーブの娘、ニーナ・レーブと結婚した。
フェリックス・ワーバーグは、ジェイコブ・シフの娘、フリーダ・シフと結婚した。
1918年12月12日のワーバーグに関する合衆国海軍諜報部報告は次の通りである。
「ポール・ワーバーグ…ニューヨーク市。ドイツ人、1911年市民権獲得。1912年ドイツ皇帝から受勲。連邦準備制度理事会の副議長。レーニンとトロツキーのためにドイツから供給された巨額の資金をとり扱う。ドイツのスパイ網の指導者である兄弟をもつ」
この兄弟とはマックス・ワーバーグのことである。
マックスはドイツ諜報機関の代表としてレーニンの列車が国境を通過し、ロシアでボルシェヴィキ革命を実行することを認可した。
マックスは、ヴェルサイユ講和会議(1919)でドイツの代表を務め、1924年から1933年までドイツ帝国銀行の監査役になっていたが、ユダヤ人ゆえに1938年アメリカに移住した。
ポール・ワーバーグは1931年に上院銀行通貨委員会で、自分の経歴について次のように述べた。
「私はクーン・レーブ商会の一員です。ドイツのハンブルクで生まれ、銀行業務の教育を受け、ロンドンとパリで銀行業を学び、世界中を歩いたのちに、1902年にこの国に来ました。1907年の恐慌のなかで私が最初に提案したことは、『公的な手形交換所を設立する』ということでした。オールドリッチ計画は銀行業の基本的なルールとなるいくつかの条項を含んでいます。諸君のこの計画(オーウェン−グラス法案)の目的も同じはずです。それは、準備金の集中、商業信用の流通、そして弾力的な紙幣発行の実現です」
ここに述べられている、1907年の恐慌が通貨改革が不可欠であるという世論を形成したのだ。
しかしこの1907年の恐慌は、1873年と1893年の恐慌と同じように、仕組まれたものであった。
ニッカボッカー銀行とアメリカン・トラスト・カンパニーが支払不能の状態にあるという噂が、1907年のパニックの発端となった。
モルガンがこのパニックに勢いをつけたのである。
噂を広め、その結果、ライバルの銀行を潰し、モルガンの勢力下にある諸銀行の優越性を強化するために、1907年秋の不安定な状況を利用したのだ。
1907年のパニックが与えた教訓は、合衆国は中央銀行組織を本当に必要としているというものであった。
モルガンの演出でパニックが起きた1907年には、ポール・ワーバーグはほとんど毎日、「銀行改革」の必要性について書いたり、講演をしていた。
ワーバーグはこの「銀行改革」を促進するさいに、モルガンの上院における踏み台役として知られるネルソン・オールドリッチに支持された。
オールドリッチの娘アビーは、ジョン・D・ロックフェラーJr.と結婚した。
1907年のパニック後、オールドリッチは国家通貨委員の長に任命された。
オールドリッチとその仲間は、銀行制度についての技術的な知識は何も持っていなかったにもかかわらず、中央銀行制度を研究するため約2年にわたる海外旅行を行い、ヨーロッパの中央銀行のオーナーとの飲食に30万ドルの税金を使った。
この委員会がヨーロッパから戻った後、2年近くの間、公式の会合はまったくもたれなかった。
記録によれば、委員会は審議会として機能したことはなかったことを示している。
唯一の「会議」はジキル島で開かれた秘密会合であり、この会議は委員会のどの刊行物にも記録されていない。
1910年11月22日、国家通貨委員会の委員長であるネルソン・オールドリッチ上院議員に率いられた金融業者の代表団が、ニュージャージー州ホーボーケンの駅から秘密の目的地・ジョージア州ジキル島に向けて列車で出発した。
オールドリッチ上院議員の同伴者は、彼の個人秘書のシェルトン、財務次官補であり国家通貨委員会の特別補佐官でもあったA・ピアット・アンドリュー、ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークの頭取フランク・ヴァンダーリップ、J・P・モルガン商会の上席パートナー(共同経営者)であると同時に、一般的にはモルガンの個人的な使者と見られていたヘンリー・P・デーヴィソン、モルガン−デノミネイテッド・ファースト・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨークの頭取チャールズ・D・ノートンであった。
J・P・モルガンの上官代理としても知られるベンジャミン・ストロングと、クーン・レーブ商会に年棒50万ドルのパートナーとして入社したポール・ワーバーグの二人は、列車が駅を出発する直前に一行に加わった。
このジキル島の秘密会議で、中央銀行設立が決定された。
肝心なのは、ポール・ワーバーグが仲間に伝えたように「中央銀行」という名称を避けることであった。
アメリカでは、国民を苦しめてきた中央銀行に反対する長い闘争の伝統があった。
そのため彼は「連邦準備制度」という名称に決定したが、これは、国民に中央銀行でないと思わせて欺くためであった。
ジキル島の会議後、通貨委員会とオールドリッチ法案に関する報告書が完成した。
ワーバーグは法案を連邦準備制度と名づけることを提案した。
しかしオールドリッチは、自分の名前のついていない法案が提出されれば、疑いが生じるといって、オールドリッチ法案とするよう主張した。
しかしオールドリッチ法案は議会で投票に付されることはなかった。
共和党は1910年に下院の統制力を失い、続いて1912年には上院と自党の大統領を失ってしまったからである。
そのため、新しい戦略が工夫されなければならなかった。
さて、オールドリッチ法案はウォール街工作と同一視され、民主党員が強力に反対することが予想されるために国会を通過させることが困難であった。
一方、民主党の議会に支持された民主党の候補者が大統領に当選すれば、中央銀行計画を通過させることが出来ると予想された。
このためのチャンスは、1912年の大統領選挙の時にやってきた。
現職のウィリアム・ハワード・タフトは人気のある大統領であった。
そしてタフトの共和党は、両院の共和党多数派を通じて政権をしっかりと握っていた。
一方、ニュージャージー州知事の民主党候補者ウッドロー・ウィルソンは、まったくの無名であった。
タフトが再選されることは確実視されていた。
ところが突然、共和党の元大統領セオドア・ルーズヴェルトが大統領に立候補すると発表したのである。
ルーズヴェルトはタフトの票に大きく食い込んだ。
その結果、タフトの敗北は避けがたいものとなり、ウィルソンが勝利した。
しかしこの選挙は結局のところ、茶番に過ぎなかった。
共和党、民主党両党とも綱領には通貨改革法案を含んでいた。
後にウォール街計画として糾弾されたオールドリッチ法案を、民主党は連邦準備法と書き改めていた。
どちらの政党も、これらの法案が名前以外はほとんど同一であることを国民に知らせようとはしなかった。
オールドリッチ法案が全国的な恨みと反対を喚起した後に、連邦準備法をまとめた人物はポール・ワーバーグであった。
そしてこれら二つの計画の黒幕は、ロンドンのアルフレッド・ロスチャイルド男爵であった。
銀行家たちはこれら3人すべてに資金協力していたので、誰が大統領になっても良かったのだ。
後に議会の証言で、クーン・レーブ商会では、フェリックス・ワーバーグはタフトを、ポール・ワーバーグとジェイコブ・シフはウィルソンを、そしてオットー・カーンはルーズヴェルトをそれぞれ支援していたことが明らかになった。
銀行家たちはタフトを見捨て、ルーズヴェルトを民主党勝利の道具として利用した。
ルーズヴェルトの背後には、モルガンの代理人フランク・マンシーとジョージ・パーキンスが控えていた。
彼らはルーズヴェルトのスポンサーとなり、ルーズヴェルトの話を前もって調べあげ、ウォール街の人々の援助を引き出して、反タフト運動という仕事を全部引き受けたのである。
パーキンスとJ・P・モルガン社こそ、革新政党の実体であり、他はすべてその飾りだった。
ルーズヴェルトの選挙資金の大半は、このモルガンの二人の代理人によって作られたのである。
一方、民主党の候補者ウッドロー・ウィルソンも、また同様にモルガンの「所有物」だった。
ニュージャージー州知事であり、前のプリンストン大学総長のウッドロー・ウィルソンは、オールドリッチ法案のスポークスマンとして積極的に協力させられた。
1907年の恐慌の時、ウィルソンは次のように言明した。
「わが国の出来事を手掛けてもらうために、J・P・モルガンのような6〜7人の大衆的な精神をもった人々からなる委員会を任命していたら、このような全ての混乱は回避できたであろう」
J・P・モルガンのような大金持ちが大衆的な精神をもっているとは、正に驚くべき発言である。
ウィルソンは大統領候補に指名される前まで、約20年間、ウォール街の裏道を蠢いていたという。
このウィルソンをかげで操ったのが、エドワード・マンデル・ハウス大佐であった。
ハウス大佐はアメリカ南部に住むイギリス金融利権代表者の息子であり、イギリスで教育を受けた。
もともとはオランダの出身であったが、彼の祖先はイギリスに300年間住み、後に彼の父がテキサスに定住した。
そこで彼の父は南北戦争のあいだ密航船で財を成した。
ロスチャイルド家を含む英国の有力なコネクションに対して綿やその他の禁輸品を輸送し、包囲されていたテキサス人たちに商品を持ち帰った。
ハウスの父は、テキサスの不安定な状況を信頼せず、密航船から上がった利益をすべてロンドンのベアリング商会(アヘン貿易の主要マーチャント・バンク)に金として慎重に預けた。
そして南北戦争の終了時には、テキサスで最も富裕な人間の一人となっていた。
彼は、仕事仲間にならって、息子を「マンデル」と名づけた。
「大佐」とはハウスが名誉職として用いた名前であって、彼は一度も兵役についたことはなかった。
彼は多くの歴史家によって、ウィルソン在任中、合衆国の真の大統領と記された人物である。
ウィルソンが大統領になる前の1911年にハウスはテキサスの故郷に戻り、『統治者フィリップ・ドルー』という本を書いた。
体裁は小説であるが、実際には将来の合衆国政府に対する詳細な計画であり、「カール・マルクス によって描かれた社会主義を成立させるもの」であった。
この「小説」は、累進所得税、過剰利益税、失業保険、社会保障、そして弾力的な通貨制度の導入を予言していた。
『統治者フィリップ・ドルー』の中で概観されている機関の一つは、連邦準備制度である。
シフ家、ワーバーグ家、カーン家、ロックフェラー家およびモルガン家はハウスを信頼していた。
連邦準備法がついに一定の形となるにあたって、ハウスはホワイトハウスと金融家たちの間の仲介役であった。
ハウスは8年間にわたって大統領の最も親しい相談役になった。
後に彼はフランクリン・D・ルーズヴェルト政権においても影響力を持ち続けた。
ルーズヴェルト政権は実際にはウィルソン政権の継続であり、ほとんど同じ人事のまま、舞台裏からハウスに政権を指導してもらっていた。
連邦準備法の真の目的を国民に隠蔽するために、オールドリッチ法案の作成者たち、すなわち元上院議員ネルソン・オールドリッチとナショナル・シティ・バンク頭取のフランク・ヴァンダーリップは、連邦準備法案に対して激しい非難の声をあげた。
しかし連邦準備法の内容はオールドリッチ法案とまったく同じものであった。
連邦準備法が国民のための法であるという幻想を大衆に与えるために、銀行家たちは悪役であるオールドリッチとファンダーリップに、連邦準備法案を非難させたのである。つまり、猿芝居を演じさせたわけだ。
これから20年ほどしてファンダーリップは、「さて、連邦準備計画がオールドリッチの名前をもっていたとき、その計画は崩れたけれど、その中にはその後実現した本質的なものはすべて含まれていた」と告白している。
グラス法案(最終的な連邦準備法の下院版)は、287対85で1913年9月18日に下院を通過した。
1913年12月19日、上院は54対34の票数で上院版を可決した。
下院版と上院版には40以上もの調整されるべき重要な相違点が残されたままになっており、議会両院の法案に対する反対派は、両院協議会の調整案が整うまでには相当の期間が費やされるものと信じていた。
議員たちは、調整案は翌年まで提案されないであろうことを確信し、例年のクリスマス休会のためにワシントンを離れる準備をしていた。そこで協議員たちは、たった一日で法案の40の争点すべてを均してしまい、即座に投票に持ち込んだ。
1913年12月22日の月曜日、法案は下院282対60、上院43対23で可決したのであった。
クリスマス前の一週間は重要な法律を議決すべきではないというのが長年の政治的慣例であった。
しかしこの伝統は、合衆国国民に対して連邦準備法という犯罪を行うために無作法に破壊されたのである。
後にこれは「クリスマスの大虐殺」として知られるようになる。
採決後、有名な飛行士の父であるチャールズ・A・リンドバーグSr.は、議会で次のように述べている。
「本法は地球上で最も巨大なトラストを創設する。大統領が本法に署名したとたん、金融権力による見えざる政府が合法化されるであろう。これは偽装したオールドリッチ法案である・・トラストがインフレーションを欲するときはいつでも、新法がインフレーションを起こすだろう」
連邦準備法はマネー・トラストに対する民主主義の勝利として賞賛され、そして現在でも依然として賞賛され続けている。
しかし、真実はその逆であった。連邦準備法において彼らは、通貨を発行し、その価値を統制する憲法上の権利を国民からもぎ取り、自分たちのために確保したのだ。
連邦準備ができあがれば、景気と恐慌の循環はもはやないだろうという保証がなされた。
その舞台裏で国際的な銀行家たちのために中央銀行計画を貫徹した人々は、「いまや恒久的な成長と、前進する福祉があるのみだ」と約束したものである。
しかし、チャールズ・A・リンドバーグSr.議員は辛辣にも、「今からは恐慌が科学的に作りだされるようになった」と宣言した。
中央銀行を利用してインフレとデフレを交互に作りだして、国民の大きな利得を押さえるという方法は、いまや国際的な銀行家たちの手によって精密科学にまで仕上げられているのだ。
ウィルソンは1913年12月23日に連邦準備法に署名した。
ウィルソンによる連邦準備法の署名は、彼の親密な友人ハウス大佐とポール・ワーバーグの長年にわたる共謀の頂点を示していた。
ウィルソン政権においてハウスが知り合った連中の一人に、海軍副長官のフランクリン・D・ルーズヴェルトがいた。
1920年代の共和党の亀裂の後、ルーズヴェルトはウィルソンが遂行できなかった『統治者フィリップ・ドルー』の目的を果たした。
後のルーズヴェルトの業績には、社会保障計画、過剰利益税、累進所得税率の90%までの引き上げの法制化が含まれていた。
ワーバーグは、「中央銀行」という名はどうしても避けなければならないと強調した。
そこで、州の様々な行政区に4つ(その後に12になる)の部局を持った地区準備制度計画が採決された。
特権を与えられた12の都市は、金融の中心地として途方もなく重要となるので、所在地の選定には多くの政治運動が作用した。
ニューヨークがアメリカの金融市場であったので、ニューヨーク連邦準備銀行が12の地区銀行制度の本源となった。
リッチモンドが次の選定地であった。
これは、連邦準備法のために政治的功績のあった二人のヴァージニア人、カーター・グラスとウッドロー・ウィルソンへの見返りであった。
委員会によるその他の選定地は、ボストン、フィラデルフィア、クリーヴランド、シカゴ、セントルイス、アトランタ、ダラス、ミネアポリス、カンザスシティ、そしてサンフランシスコであった。
この選定の結果、これらの全ての都市は後に重要な「金融地区」として発展した。
モルガン所有のバンカーズ・トラストの頭取ベンジャミン・ストロングがニューヨーク連邦準備銀行の初代総裁として選出された。
ストロングのもとで、準備制度はイングランド銀行及びフランス銀行との連動関係を確立した。
ベンジャミン・ストロングは、1928年の突然の死までニューヨーク連邦準備銀行総裁の地位を維持した。
ストロングの死去は、1929年から1931年までの大恐慌を引き起こすことになった連邦準備銀行の総裁たちとヨーロッパの中央銀行の指導者たちの間の秘密会議に関する議会調査の期間中であった。
ストロングはバンカーズ・トラストの頭取の娘と結婚した。彼はまた、最初のジキル島グループのメンバーでもあった。そのために彼は、制度全体を支配するニューヨーク連邦準備銀行総裁として、連邦準備制度の中で最高の地位を与えられた。
ウィルソンが連邦準備制度理事に選んだ人物は、プリンストン大学の評議員で、インターナショナル・ハーベスターなどの企業の重役トーマス・D・ジョーンズであった。
それ以外の理事は、ロックフェラーのシカゴ大学とモルガンのハーバード大学出身のエコノミストで内務副長官をつとめるアドルフ・C・ミラー、以前に財務副長官として8年間務めたことのあるチャールズ・S・ハムリン、ルーズヴェルト家の親戚でクーン・レーブ商会のために多くの鉄道を乗っ取った鉄道経営者のF・A・デラノ、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・アトランタの頭取W・P・Gハーディング、及びクーン・レーブ商会のポール・ワーバーグであった。
では、連邦準備銀行の株式を所有しているのは誰であろうか。
その前に一言述べて置かなければならないが、連邦準備銀行は民間の株主によって所有されているので「連邦」ではなく、準備金を所有する代わりに通貨を創造する目的を持っていたので「準備」でもなかった。
ちなみに日本の中央銀行である日銀は特殊法人である。出資証券のうち、55%が大蔵大臣の所有で、45%が民間(金融機関、法人、個人)の所有である。出資者の議決権はない。
従って日銀の金融政策を動かしているのは日銀総裁と大蔵大臣ということになる。
連邦準備銀行は日銀と異なり、100%民間の所有なのである。
最初の12地区の連邦準備銀行の株式は、それぞれの地区の国法銀行(連邦政府の認可を受けた商業銀行)が購入した。
ニューヨーク連邦準備銀行が金利を設定し公開市場操作を指揮することによって合衆国の通貨の日々の供給と価格をコントロールしたので、制度全体の真の支配者はニューヨーク連邦準備銀行の株主である。
ニューヨーク連邦準備銀行は20万3053株を発行し、1914年5月19日に通貨監督官が登録したように、大手のニューヨーク市の銀行が発行株数の過半数を取得した。
ロックフェラーが支配するナショナル・シティ・バンクは3万株で、他の銀行と比較して最大の株数を取得した。
J・P・モルガンのファースト・ナショナル・バンクは1万5000株を取得した。
この二つの銀行が1955年に合併したとき、単独でニューヨーク連邦準備銀行の4分の1近くを所有し、制度全体をコントロールした。
チェース・ナショナル・バンクは6000株を取得した。
後のマリーン・ミッドランド・バンクであるマリーン・ナショナル・バンク・オブ・バッファローは6000株を取得した。
この銀行は、ナイアガラ電力会社とその他の大企業を支配していたシェールコフ一族が所有していた。
ニューヨーク市のナショナル・バンク・オブ・コマースは2万1000株を取得した。
これらの同業者連は近年になって合併したり統合したので、コントロールはさらに集中している。
ナショナル・バンク・オブ・コマースは現在のモルガン・ギャランティ・トラストである。
リーマン・ブラザーズはクーン・レーブ商会と合併し、ファースト・ナショナル・バンクはナショナル・シティ・バンクと合併した。
その他の11の連邦準備地区では、同一の株主がこれらの銀行の株式を間接的に所有するか、もしくは支配している。
その他の株式はそれらの地区の主要産業を所有または支配している主要一族によって所有されている。
だがこのアメリカの大銀行も、実はロンドンのコントロールを受けていたのだ。
イギリスは第二次世界大戦後に広大な植民地を失ったので、政治的、軍事的な力は衰えた。
しかし、それに反して金融的な力は成長したのである。
あらゆる角度から見て、ロンドンは世界の指導的な金融センターである。
合衆国の10大銀行持株会社は特定の銀行の手中にしっかりと握られ、そのすべてはロンドンに支店を持っている。
それは、J・P・モルガン商会、ブラウン・ブラザーズ・ハリマン、ワーバーグ、クーン・レーブそしてJ・ヘンリー・シュローダーである。
これらすべては、主に金価格の操作を通して国際金融市場をコントロールするロスチャイルド家と密接な関係を維持している。
世界の金価格は毎日、N・M・ロスチャイルド商会のロンドン事務所で決定されている。
ロンドン・コネクションの証明として、J・P・モルガン商会を取り上げてみよう。
J・P・モルガン商会はジョージ・ピーボディ商会としてスタートした。
マサチューセッツ州のサウス・ダンヴァースに生まれたジョージ・ピーボディ(1795〜1869)は、1814年にジョージタウンDCでピーボディ・リグス商会として事業を開始し、衣類の卸売りとジョージタウン奴隷市場の運営を行った。
1815年、供給源に近づくためボルチモアに移り、そこで1815年から1835年までピーボディ・アンド・リグスとして営業した。
ピーボディは徐々にロンドンに源を発する業務に係わるようになり、1835年にジョージ・ピーボディ商会をロンドンに開設した。
ボルチモアの会社であるブラウン・ブラザーズを通じて、ピーボディはロンドンのビジネスにうまく参入した。
アイルランド生まれのアレクサンダー・ブラウンは1801年にボルチモアに移り、合衆国最古の銀行として知られ、いまも営業しているブラウン・ブラザーズ・ハリマン・オブ・ニューヨーク、ブラウン・シップレイ・アンド・カンパニー・オブ・ロンドン及びアレックス・ブラウン・アンド・サン・オブ・ボルチモアを設立した。
元合衆国大統領ジョージ・ブッシュの父、プレスコット・ブッシュは長年にわたってコネチカット州選出の上院議員であり、重役であったコロンビア・ブロードキャスティング・システム(CBS)の金融のまとめ役であり、ブラウン・ブラザーズ・ハリマンのパートナー(重役)でもあった。
ブラウン家は投機事業の資金をロンドン・シティーからウォール街へ送り込み、アメリカで行われた全ての事業が、ロンドンによって支配されていた。
この「ブラウン・シップレイ社」の重役室に席を占めて君臨したのが、モルガン・グレンフェルの創立者エドワード・グレンフェルであった。
ブラウン・シップレイ社は、1970年代に投資銀行メリル・リンチに買収される形を取りながら、現在は世界一のマーチャント・バンカーとして全米に君臨している。
イングランド銀行総裁を務めたモンタギュー・ノーマン(1871〜1950)がブラウン・シップレイ・アンド・カンパニーのパートナーであった。
ブラウン・シップレイの役員の一人がイングランド銀行の理事を兼務するというのが非公式の了解事項であった。
ロンドンでネイサン・マイヤー・ロスチャイルド男爵(1777〜1836)の支援を受けたピーボディは、商売人として非常に成功した。
彼のアメリカの代理店は、J・P・モルガンの父親であるジュニアス・S・モルガン(1813〜1890)が代表を務めるビーブ・モルガン商会というボストンの会社であった。
ピーボディは結婚しなかったので、後継者がいなかった。
ピーボディは、1854年にジョージ・ピーボディ商会のパートナーとしてロンドンで自分と一緒にやらないかとモルガンを説得した。
ジュニアス・S・モルガンはN・M・ロスチャイルド商会との内密な関係の継続に同意し、まもなく合衆国への大規模な鉄道用の鉄の輸送によって会社の活動を拡大した。
1864年に引退し、会社をモルガンの手に残すことにしたピーボディは、社名をジュニアス・S・モルガン商会へと変更することを認めた。
モルガンの会社はそれ以来常にロンドンからの指示を受けるようになった。
1857年の恐慌で、絶望的になったアメリカの投資家が証券を市場に投げ売りすると、現金を持っていたピーボディとモルガンは実質的な価値を持つ債券を大量に購入し、市場が正気に戻った時に高値で売り抜けた。
その背後にはネイサン・マイヤー・ロスチャイルド男爵がいた。
ヨーロッパのロスチャイルド家は合衆国ではJ・P・モルガン商会の陰に隠れて匿名で操作することを選んだ。
J・P・モルガンは、最初の合衆国の金融恐慌の真っ只中の1837年に生まれた。
この恐慌はロスチャイルド家によって引き起こされた。
1890年に初代のモルガンがリヴィエラでの馬車の事故で亡くなると、J・P・モルガンが企業の頂点に立った。
1864年から1871年までロンドン企業のアメリカ代理店としての業務をダブニー・モルガン商会で行ったのち、モルガンは1871年にフィラデルフィアのアンソニー・ドレクセルを新しいパートナーとして迎え入れ、ドレクセル・モルガン商会として1895年まで業務を行った。
ドレクセルはその年に亡くなり、モルガンはアメリカの支店の名前をJ・P・モルガン商会に変更した。
次に、ロックフェラー所有のナショナル・シティ・バンクについて見ていこう。
ナショナル・シティ・バンクはファースト・ナショナル・バンク、ナショナル・バンク・オブ・コマースとともに、ニューヨーク連邦準備銀行の大半の株式を購入した。
1800年代の初期、シティ・バンクと関連した最も有名な人物はモーゼス・テイラー(1806〜1882)であった。
テイラーの父は、ジョン・ジェイコブ・アスター(1763〜1848、ドイツ生まれの毛皮商人・資本家)が購入者であるという事実を隠しながらアスター家の利益のために不動産を買う秘密代理人であった。
アスターはマンハッタンの将来性のある価値の高い多数の不動産を買うことに成功した。
アスター家の富も、イギリスの対中国アヘン貿易で築かれたという。
テイラーは南北戦争中に富を増やし続け、晩年に若いジェームズ・スティルマンが彼の子分となった。
1882年にモーゼス・テイラーは亡くなり、7000万ドルを残した。
彼の義理の息子パーシー・パインが跡目を継いでシティ・バンクの頭取となり、その時点でシティ・バンクはナショナル・シティ・バンクと改称した。
パインは身体障害者であったために、銀行業務を十分に果たすことが出来なかった。
ジョン・D・ロックフェラー(1839〜1937、石油王)の兄弟であるウィリアム・ロックフェラーは、1891年に、ジェームズ・スティルマンに業務を任せるようパインを説得した。
そしてその直後にナショナル・シティ・バンクはロックフェラーのものとなった。
ウィリアム・ロックフェラーの息子のウィリアムは、ジェームズ・スティルマンの娘エルシーと結婚し、ロックフェラーの別の息子のパーシーはスティルマンの別の娘イザベルと結婚した。
ジェームズ・スティルマンもまたイギリスとのコネクションを持っていた。
彼の父ドン・カルロス・スティルマンは、南北戦争時にイギリスの代理人及び密航者としてテキサス州ブラウンズビルにやってきた。
ニューヨークにおける銀行コネクションを通じて、ドン・カルロスは息子を銀行の見習いとして働かせることができた。
1914年のニューヨーク連邦準備銀行の大株主ファースト・ナショナル・バンクは、銀行の設立者ジョージ・F・ベイカー(1840〜1931、ブッシュ政権時代の国務長官・首席補佐官の祖父)と、彼の息子G・F・ベイカー・ジュニアが、銀行の全株式のうちの25%を所有していたが、重役室のモルガン家の代表団ゆえに、一般的にはモルガンの銀行として知られていた。
テキサスのベーカー一族は鉄道王ロヴェット家とパートナーとなり、テキサスにやってきたブラウン兄弟の一族と結婚して勢力を増した。このベーカー・ロヴェット・オフィス創立者の孫がベーカー国務長官である。
ジョージ・ベイカー・ジュニアの娘エディス・ブレヴォート・ベイカーは、ジェイコブ・シフの孫であるジョン・M・シフと1934年に結婚した。
ジョン・M・シフは現在リーマン・ブラザーズ−クーン・レーブ商会の名誉会長である。
1914年のニューヨーク連邦準備銀行の大株主の一つは、ナショナル・バンク・オブ・コマースである。
J・P・モルガンはまた、ナショナル・バンク・オブ・コマースの株を持つエクイタブル生命保険会社とミューチュアル生命保険会社の支配的株主になることによって、ナショナル・バンク・オブ・コマースの株を所有した。
連邦準備制度理事会の議長であるポール・ワーバーグもまた、ナショナル・バンク・オブ・コマースの株を所有していた。
この銀行は、ロンドンのジュニアス・S・モルガン商会の子会社、ロンドンのN・M・ロスチャイルド商会、及びロスチャイルド家の筆頭代理店として知られるクーン・レーブ商会によってコントロールされていた。
ロンドン・コネクションがアメリカに中央銀行を設立して最初に手掛けた重要な仕事が、第一次世界大戦の遂行であった。
連邦準備銀行は、外国為替を規制し、金融力を集中して、アメリカの金資源の節約に大きく貢献した。
もし戦時下において、以前のような分散した旧式の銀行制度だった場合には、世界大戦のための資金調達も出来なかったし、参戦することも出来なかっただろう。
第一次世界大戦へのアメリカの参戦後、ウッドロー・ウィルソンは合衆国の政治を彼の選挙の支持者であるポール・ワーバーグ、バーナード・バルーク及びユージーン・マイヤーの三頭政治へと転換した。
バルークは戦時産業調整委員会の委員長に任命された。
ユージーン・マイヤーは戦時金融公社の会長に任命され、戦時資金を調達する公債計画の責任者となった。
ポール・ワーバーグは連邦準備制度理事会の副議長であった。
ユダヤ人ユージーン・マイヤーの父は、パリのラザール・フレールとロンドンのラザール・ブラザーズのパートナーの一人であった。
ユージーン・マイヤーは後に初代「世界銀行」総裁になった。また、アメリカの首都を制する新聞「ワシントン・ポスト」のオーナーとしてよりよく知られていた。
第二次世界大戦直後に発足した世界の金融体制は、ヨーロッパを本拠地とするIMF(国際通貨基金)と、アメリカを本拠地とするこのユージーン・マイヤーの世界銀行(国際復興開発銀行)の二大メカニズムを柱として運営されてきた。
ユージーン・マイヤーの曾祖父ザドック・カーンはフランスのパリでグラン・ラビ(大指導者)となった大人物であった。
ユージーン・マイヤーの娘は、「ワシントン・ポスト」の社主として全世界の政治家に大きな影響力を及ぼしてきたキャサリン・グラハムである。
日本の首相人事は、「グラハム女史が首を縦に振らなければ認められない」と噂されるほど、わが国では彼女の威光が恐れられてきた。
天皇家の内情も、キャサリン・グラハムには筒抜けであったという。
ユダヤ財閥によるメディア支配に話を移すと、ロスチャイルド家は、ヨーロッパのあらゆるニュースの配信をコントロールしていたロンドンを拠点とするロイターズ・インターナショナル・ニューズ・エージェンシーとフランスのハヴァス、ドイツのヴォルフの支配権を買い取っている。
CBSはワシントン・ポスト紙、アライド・ケミカル社、ウェルズ・ファーゴ銀行と関連を持っている。
ブラウン・ブラザーズ・ハリマンがCBSを、ユージーン・マイヤー一族(ラザール・フレール)がアライド・ケミカル社とワシントン・ポスト紙を、そしてクーン・レーブ商会がウェルズ・ファーゴ銀行を支配している。
さて、ここに1711年のフランクフルトのゲットーの地図がある。
ユダヤ教会のシナゴーグを中心にして、ロスチャイルド家、シフ家、カーン家、バルーク家が隣近所に暮らしていたことが分かる。
オットー・カーン一族はやがてフランクフルトの南60キロのマンハイムに移り、オットー・カーンはドイツ銀行で修行を積んでからアメリカへ渡った。
カーンはクーン・レーブ商会に入ってパートナーとなり、アメリカ大陸の鉄道事業で巨財を成した。
オットー・カーンの長女モードは後年のイギリスMI5の人事部長、ジョン・マリオネットと結婚している。
マリオネットはフリーメーソンであった。
ユージーン・マイヤーの曾祖父ザドック・カーンは、このカーン一族である。
シフ家は一時ロスチャイルド家の隣に住んでいたが、1711年の地図では、カーン家から通りを挟んで4軒目の所にあった。
一族のジェイコブ・ヘンリー・シフはクーン・レーブ商会のパートナーとして活動した。
高橋是清が日露戦争の外債をシフに引き受けてもらった時に、クーン・レーブ商会にはオットー・カーンもいたのだ。
バルーク家もラビを生み出すユダヤ人指導者のファミリーだった。
バーナード・バルークは第二次世界大戦後、国連の原子力委員会のアメリカの首席代表を務めた。
彼は全米一のウラン採掘業者グッゲンハイム財閥の代理人として働くウォール街の投機業者であった。
しかしそれにしても、ウィルソン政権の中心人物の多くが同じフランクフルトのゲットー出身だったことには驚かされる。
これを単なる偶然として済ますことは出来ないであろう。
話を第一次世界大戦に戻すと、ポール・ワーバーグが連邦準備制度理事会で活動している時に、対戦国のドイツではポール・ワーバーグの兄弟のマックス・ワーバーグがドイツ諜報部の代表として仕えていた。
ワーバーグ家と同じくジェイコブ・シフもまた、第一次世界大戦中のドイツにフィリップ・シフとルートヴィヒ・シフという二人の兄弟がフランクフルト−アム−マインにいた。
彼らもまたドイツ政府の銀行家として活動していたのである。
ワーバーグ家とシフ家の兄弟たちは、アメリカとドイツに分かれてそれぞれの政府を金融面で支援していたのだ!
第一次世界大戦が国際的銀行家によって引き起こされた謀略であったことがよく分かる話だ。
第一次世界大戦はアメリカ全体に繁栄をもたらした。
労働者たちには高給が支払われ、農家の生産物にはかつて経験したことのないほど高い価格が支払われた。
この二つのグループは国債に資金を投ずることなく巨額のドルを現金で蓄えた。
その資金は、合衆国の通貨と信用をコントロールしていたウォール街のグループの手の届かないところにあり、これを奪うために1920年から21年の農業不況が引き起こされたのだ。
資金の多くは、連邦準備制度のいかなる影響も拒否した中西部と西部の小さな田舎の銀行に預金されており、その地域の農家と牧場経営者たちは、自分たちの資金の管理を国際金融家グループに委ねる理由などなかった。
連邦準備制度はこれらの小規模な田舎の銀行を破壊し、戦時中に農家に支払われた資金を奪い返し、彼らを破滅させようともくろんだ。
当時、1919年と1920年のアメリカとヨーロッパでは、インフレーションが放置されていた。
ヨーロッパにおけるインフレの目的は、アメリカ国民から連合国が借り入れた戦時債務の大部分を相殺するためであり、アメリカにおけるインフレの目的は、生産に対する高い賃金やボーナスという形で労働者に分配されていた余剰資金を呼び戻すことであった。
物価が高くなればなるほど、労働者の資産価値は下落し、彼らに資金の不当な流出を課す。
一方、地価と工業製品の価値の上昇のため、資本家はインフレによって裕福となる。
労働者は相対的に貧しくなる。
これが資本家がインフレを引き起こす理由である。
労働者や農民などの消費者から資産を収奪するためである。
しかし、農家はより自給自足的だったので、別の扱いが必要だった。
連邦農業貸付委員会が設立され、蓄積した資金を土地に投資して長期に貸し付けるよう農家に奨励した。
当時、非常に裕福だった農家は生産拡大のために耕地面積を広げ、農業機械を買い増した。
そのためには農地を担保にした抵当貸付の増大が必要であり、農家は設備投資資金も借り入れなければならなかった。
農家の負債残高は増大した。
それでも、1915年から19年にかけて1.4倍になった負債残高の上昇は、農家純所得の伸びをはるかに下回っていた。
だが、戦争の終結とともに事態は一変し、農産物価格は直ちに下落し始めた。
戦争中の増産努力によって農産物の供給が急増したところへ、ヨーロッパの需要が消滅したのである。
そして、1920年に発生した突然の信用と通貨の収縮によって農家は破産してしまった。
1920年4月、5月、6月、そして7月には、製造業者や商業従事者には大幅な与信の拡大が許された。
これは、アメリカの農家を破産させようと意図した信用収縮の潮流を彼らに乗り切らせようとするものだった。
そしてこの期間、農家には与信がすべて拒否された。
農業及び家畜手形に対する金利は7%に引き上げられた。
連邦準備制度理事会の目的は、連邦準備制度の支配を拒絶した州法銀行及び共同土地出資銀行を破滅させることにあった。
この農家に対するデフレーション政策は、故意に犯された犯罪だった。
1921年には農家純所得は前年より57%も下落し、10年前の水準に逆戻りした。
農産物市況の急落と負債利子支払いの急上昇がその原因だった。
21年は戦後の反動不況から実質GNPも減少した。国中が不況に陥った。
中でも困窮した農家は、負債残高を増加させていった。
農家の負債と利子支払いがピークに達したのは23年だった。
市況の低迷と金利負担の重圧という典型的な農業不況のパターンが続いた。
全盛時代にはアメリカの農家は年間純所得のほぼ1年分の負債残高しか持たなかったが、21年には3年分の純所得に匹敵する負債を抱えることになった。
デフレによって資本家も損失を被るが、中小金融機関、企業を倒産させ市場支配を強化することができる。
これが資本家がデフレを引き起こす理由である。
インフレによって労働者、農民から資産を収奪し、デフレによって市場支配を強める。
従って、インフレとデフレは交互に引き起こされねばならないのである。
そしてインフレとデフレを交互に作りだす技術は、国際的銀行家たちによって精密科学にまで仕上げられているのだ。
第一次世界大戦後、アメリカは122億ドルに及ぶ対ヨーロッパ債権を獲得し、全世界の貨幣用の金の半ば以上を集中した。
イギリスにかわって世界経済の主導権を握ったアメリカは、大戦で疲弊したヨーロッパ諸国の財政を整理し、通貨を安定させて、ヨーロッパ経済の復興をはかることを先決と考えた。
1917年9月、アメリカは第一次世界大戦に参加するとともに、金の輸出を禁止していた。
アメリカは戦争が終わると、1919年6月には、早くも金本位へ復帰している。
金本位の祖国イギリスでも、第一次大戦が勃発すると、変則的事態が発生した。
1914年、イギリスはイングランド銀行券の発行高を金保有量によって規制していたピール条例(1844年制定)を停止し、事実上の不換紙幣制度へ移行したのである。
ついで、1916年には、「帝国防衛法」を公布し、金の輸出をできるかぎり禁止して、金本位制は事実上、停止された。
1925年5月、イギリス議会は金本位制法を可決し、大英帝国は金本位制に復帰した。
オランダ、オーストリア、蘭領インド(インドネシア)、南ア連邦の各国も、次々と金解禁に踏み切った。
イギリスの金本位制復帰を支援するため、ニューヨーク連邦準備銀行は大英帝国に対して2億ドルの金の貸付を行うことを取り決めた。
全ての交渉は、ニューヨーク連邦準備銀行総裁のベンジャミン・ストロングとイングランド銀行総裁のモンタギュー・ノーマンとの間で行われた。
第一次世界大戦直後、密接な協力関係がイングランド銀行とニューヨーク連邦準備銀行との間に出来上がった。
この関係は、イングランド銀行のモンタギュー・ノーマンとニューヨーク連邦準備銀行の総裁ベンジャミン・ストロングとの間に1928年まで存在した誠心誠意の関係に基づくものであった。
ニューヨーク連邦準備銀行の公定歩合政策は、しばしばイングランド銀行を支えたいとする願いに導かれていた。
ロンドンとニューヨークの間には、公定歩合を設定する際に緊密な協調関係があった。
1925年イギリスが戦前の平価で金本位制に復帰(旧平価解禁)したのは、戦後の疲弊と貿易収支の赤字が続く中で自国通貨を切り上げるという、無謀な決断だった。
資金はイギリスからアメリカへ逃避先を求めて動いた。
しかし、イギリス、フランス、ドイツの中央銀行は、この金の移動をアメリカの高金利のなせる技と解釈し、揃ってワシントンを訪れ、アメリカの金利引下げを要請した。
ニューヨーク連邦準備銀行総裁のベンジャミン・ストロングは、公定歩合の引き下げに踏み切った。
イギリスが金本位制に復帰した時、アメリカはイギリス経済を救おうとして低金利と金融緩和の政策を取り続けた。
この政策は、一面で景気を刺激する効果を持ったが、反面で株価の上昇を招き、異常な株式投機熱を煽る結果を招いた。
ここでイングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンについて軽く触れて置こう。
ベンジャミン・ストロングとモンタギュー・ノーマンの間の関係は、20世紀最大の秘密の一つであった。
ベンジャミン・ストロングはニューヨークのバンカーズ・トラストの頭取の娘と結婚し、後にその頭取となった。
ストロングは1914年にモルガン及びクーン・レーブ商会の共同推薦でニューヨーク連邦準備銀行の総裁になった。
モンタギュー・ノーマンは、母方の祖父と父方の祖父の両方がイングランド銀行の総裁となった歴史上唯一の人物である。
彼の父はブラウン・ブラザーズ(現在のブラウン・ブラザーズ・ハリマン)のロンドン支店であるブラウン・シップレイ商会で働いていた。
モンタギュー・ノーマン(1871年〜1950年)は、ブラウン・ブラザーズで働くために1894年にニューヨークにやって来た。
そこで彼は、ブラウン・ブラザーズのデラノ家とジェームズ・マーコーの助けを得た。
彼はイギリスに戻り、1907年にイングランド銀行の役員に指名された。
モンタギュー・ノーマンは1916年から1944年までイングランド銀行の総裁であった。
この間、彼は1929年の大恐慌と世界的な景気後退を引き起こした中央銀行会議に出席した。
1925年から28年までのニューヨーク金融市場におけるストロングの低金利政策は、ニューヨークの金利をロンドンの金利より低く維持するというノーマンとの合意を満たすものであった。
ニューヨークの低金利政策は、1920年代後半のとてつもない投機の絶頂を伴って拡大しているアメリカのにわか景気を煽ったのだ。
1927年7月、ヨーロッパで三大中央銀行総裁の会議が開かれた。
イングランド銀行のモンタギュー・ノーマン、ニューヨーク連邦準備銀行のベンジャミン・ストロング、そしてドイツ帝国銀行のヤルマール・シャハト博士の会議は、当時の世界の最高級クラブの会議といわれた。
この秘密会議は、合衆国が所有する金をヨーロッパに取り戻し、ヨーロッパ大陸の各国を金本位制に復帰させるための最良の方法を議論するために開かれた。
合衆国における銀行金利の引き下げによって7億2500万ドル相当の金を輸出させ、そのことでフランスとヨーロッパを安定させてフランスを金本位制へ導くためであった。
1928年6月、フランスのポアンカレー内閣は金本位へ復帰した。
1928年末から29年秋にかけて、アメリカ政府は、金利を引き上げる措置を講じた。
その結果、こんどは外国資金が証券投資と高い利子率を目的に流入しはじめ、株式ブームに拍車をかけることになった。
1922年から1929年までの間に、連邦準備は通貨の供給を62%膨張させた(インフレ政策)。
新しい通貨はすべて、証券取引相場を法外につり上げるために使われた。
マスメディアは証券取引で急速に財を成したというセンセーショナルな話を一般に広めはじめた。
誘惑的な新聞報道によって、一般人が投機へそそのかされた。
1928年から29年秋にかけての株式ブームは、実際の経済活動を反映しない極めて不健全な基礎の上に、狂乱の花を咲かせた。
ホテルのボーイやレストランのウェイトレスまでが株に手を出す始末であった。
そして、バブルが弾けた。
「すべてが済んだ時、ニューヨークの金融業者たちは相場師にコール=ローン(短期貸出金)の弁済を要求しはじめた。これは、相場師とその顧客が自分らの借金を解消できるようにするためには、今や株を取引所に投げ込まなければならなくなったことを意味している。これはもちろん、取引所の崩壊をもたらし、全国の銀行を片っ端から倒産させることとなった。上部の寡頭制には属していなかった銀行には、このとき相場師の弁済要求が特に強く突きつけられた。これによってこれらの銀行の弁済手段は急速につき果て、その結果、閉鎖されなければならなくなったのである。連邦準備は、弾力性のある通貨を堅持するよう法律によって義務づけられているにもかかわらず、これらの銀行には助け船を意識的に出さなかった」(ウィリアム・ブライアン著『合衆国の未解決の財政的、政治的諸問題』)
「翌10月29日の火曜日はさらに壊滅的だった。『早朝、ニューヨーク市外の銀行と事業会社が1億5000万ドルのコールローン(ブローカーズ・ローンの別名)を引き上げ、ウォール街は立会い開始を待たずしてパニックに陥っていた』。取引開始後30分で通常の一日分の商い、300万株が取引された。コールローンを引き上げられた証券業者は銀行に助けを求めたが、銀行も株価暴落によって大きな痛手を被っていた」(林敏彦著『大恐慌のアメリカ』岩波新書)
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2011/7/5
三菱フリーメーソン説@
啓蒙主義と魔術その1からの原文はここからです 。なお写真・編集・解説は管理人によります。関係の本は持っておりますがコピペで楽をしています。)
三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎がフリーメーソンのトーマス・グラバーと深いつながりがあったことは『明治維新の背後に見え隠れするロスチャイルドの影』の中で触れました。
また、天皇と三菱がビジネスパートナーであったことは『天皇の蓄財@』で触れました。
『天皇のロザリオ』には、
(大正13年)今や、頭山満が天皇の最大にして最高の賓客となった。古代宮廷主義がここに復活し、軍人と右翼(やくざと浪人)が宮廷を支えるということになった。中村雄次郎に代わり、大久保利通の二男の牧野信顕が宮内大臣となった。牧野は一味の右翼理論家の小尾晴敏、安岡正篤を宮中に入れて、皇居の旧本丸内に社会問題研究所をつくった。
翌年、大川周明がこの研究所の同人となると、その名を大学寮と改め、大正デモクラシー運動への対策を練った。また、荒木貞夫、渡辺錠太郎、秦真次などの軍人も参加し、民主主義風潮弾圧の策を練った。
この寮に、陸海軍の若手将校たちが出入りし、三菱財閥が巨額の金を彼らに渡し、美女と美酒におぼれさせていくのであった。2.26事件で北一輝と共に死刑となった西田税がこの大学寮で若手将校たちに軍事学を教えていたのである。日本の右翼は大学寮から生まれたのである。右翼たちは天皇と深く結びついていくのだ。
頭山が三菱財閥と結びつき、天皇から「浪人の元老」という資格を与えられる。北は失意のうちに三井財閥と結びつく。三菱は軍需産業を拡大し、邪魔者の排除を頭山に依頼する。満州支配のスケジュールは三菱と頭山一派の合作である。
頭山は三菱から、北は三井から金を貰い、その金でテロリストの壮士や浪人や将校を誘惑したのである。女が欲しい奴には女を、酒が欲しい奴には酒を、金が欲しい奴には金を投げ与えた結果が2.26事件であった。そして、こんなテロリストたちの首領によって政治が支配されていき、太平洋戦争へと進んでいったのである。
という記述もあります。
以下は『三菱こそフリーメーソンの牙城だ!No.1』からの抜粋・引用です。
(※読みやすくするために若干原文に手を加えてあります。)
三菱財閥
岩崎弥太郎は、土佐藩の地下浪人(最下級の武士)である岩崎弥次郎の子として、天保5年(1834年)12月に生まれた。
慶応2年(1866)、弥太郎は土佐商会主任として長崎に赴任した。
土佐藩直営の産業振興機関「開成館」は、藩の物産を売りさばくと同時に、必要な物資を買い入れる機関として、大阪と長崎にそれぞれ出先機関を設けていた。
これが後の大阪土佐商会、長崎土佐商会となったのだ。
土佐商会の主な取引先は、英国のグラバー、オールト、プロシアのキニツフル、ハルトマン、オランダのシキュート、ベルギーのアデリアンなどの各商会で、買い取った商品のほとんどは、高価な武器だった。
この頃弥太郎は、亀山社中(海援隊の前身)の坂本龍馬と知り合っている。
貧乏育ちの弥太郎と、お坊ちゃん育ちの龍馬は犬猿の仲だった。
弥太郎が土佐商会で交渉を持った外国商人の一人に、トーマス・ブレイク・グラバーがいる。
「死の商人」グラバーはイギリスの大商社ジャ−ディン・マセソンの長崎代理人だった。
グラバーはイギリスのフリーメーソンでもあった。グラバーと弥太郎の関係は深い。
グラバーが出資の面で深く係わっていた高島炭鉱と長崎造船所(三菱造船所の前身)を三菱に譲渡している。
明治26年にグラバーが住居を東京に移した時、三菱の特別役員となっている。
この時の待遇も破格で、最高役員の二割増の給与を得ている。
グラバーはまた坂本龍馬に大きな思想的影響を与えたことで知られている。
慶応4(1868)年9月8日に年号が明治と改元され10月13日に東京遷都が公布されて、長崎土佐商会は閉館と決定した。
土佐大阪商会の支配人となった弥太郎は、土佐藩の財政を一手に握って権勢を振るった。
土佐藩の財政が外国商人からの借金で補われていて、外国商人と交渉できる人物は、弥太郎以外に誰もいなかったからである。
土佐大阪商会は土佐開成社へと脱皮し、次に土佐の九十九湾に因んで九十九商会になった。
すでにこの時は、藩籍を離れて私企業になっていた。
九十九商会は、紅葉賀と夕顔の二藩船を貰い受けて、海上運輸業を開業することになった。
表面上、弥太郎は九十九商会と無関係ということになっているが、彼は土佐藩の大阪代表として、商会を支配していた。
この頃、石川七左衛門(後の七財)や川田小一郎が弥太郎の部下となっている。
明治4(1871)年7月、廃藩置県の詔書が発せられた。
弥太郎は、藩札を政府が買い上げてくれると知ると、すぐさま10万円分の太政官札を借りてきて、ただ同然に値下がりしていた藩札を買いまくった。
7月14日の相場で、藩札と太政官札を引き換えるということになって、弥太郎はぼろ儲けした。
さて、弥太郎は、藩船「夕顔」と「鶴」の両船を4万両で払い下げてもらった。
そして、川田小一郎、石川七左衛門、中川亀之助(森田晋三)の3人を代表として会社を作った。
川の字をそれぞれ名前にもっている3人の男の集まりなので、社名を九十九商会から三川商会と改称した。
航路は東京−大阪、神戸−高知間である。
そして競争相手は、郵便蒸気船会社。
これは半官半民の回漕会社で、民間側は天下の富商三井を筆頭に、東京・大阪の豪商や船問屋が資本金を出し合って株主となっている。
これが赤字を出してしまったので、明治4(1871)年、政府は会社の後始末を三井大阪店の番頭吹田四郎兵衛に一任した。
こうして8月になると、三井、鴻池、小野、島田といった富商が株主となって、日本国郵便蒸気船会社(後の日本郵船)が発足した。
明治6(1873)年3月、弥太郎は「三川商会」を「三菱商会」と改称した。
しかし汽船事業は赤字続き。そこで料金を半額に下げて、夏は団扇と氷水をサ−ビスした。
すると三井は料金を3分の1に下げてきた。三菱と三井の苛烈なダンピング競争が始まった。
ダンピングに堪えられなくなった中小の船会社はバタバタ倒れていって、残るは三菱のみとなった。
しかしこの時、不思議なことが起こった。
政府の公金を扱っていた三井と小野、島田に対して、政府は、預り金と同額の担保を入れよと命じたため、小野と島田が倒産してしまったのだ。
そこで政府はこれまでに放漫に出していた政府資金の回収に取りかかった。
そのため日本郵便蒸気船会社は借入金40万円の返済を命じられてよろめきだしたのだ。
いったい何が起こったというのだろうか。陰謀に通じている諸君は、もうお分かりだろう。
この三井と三菱のダンピング競争は、出来レースだったのである。つまり三菱と政府・三井の間で予め合意が出来ていたということだ。
その目的は、中小の船会社を倒産させて、三井と三菱で航路を独占することにあった。
ついでに小野や島田などの富商も倒産させてしまう。
政府は三菱を潰すことなど、鼻から考えていなかったのである。
その後、弥太郎は台湾出兵の時に政府に船を13隻買わせて、漁夫の利を得た。
おまけに台湾航路も開設した。
三菱汽船の攻勢に劣勢となった日本郵便蒸気船会社は解散させられた。
所有船として使えるものと倉庫などは三菱が引き取った。
こうして三菱は所属船舶40余隻という日本最大の船会社となった。
この頃、弥太郎は福沢諭吉と会っている。しかも大隅重信も同席して、以来、この3人はすっかり仲良しになった。
弥太郎がすっかり気に入った諭吉は、慶応義塾の卒業生を多数三菱に送り込んだ。
西南戦争が起こると、弥太郎は兵員と物資の輸送でまたぼろ儲けした。
三菱は船で稼ぎ、三井は陸軍の経理を引き受けて儲け、三井物産は糧食で、大倉組は、紺の脚半や足袋や干物の魚で、藤田組は軍服と靴で巨利を博した。
西南戦争の戦費4200万円のうち、三菱はなんと1500万円、つまり戦費の3分の1を手にしたのである。
こうしたところへ、三井が政府に働きかけて、三菱の独占事業に対抗する船会社が設立されることになった。これが共同運輸会社である。大久保は暗殺され、大隅は失脚していた。
自由党による激しい弥太郎への攻撃が始まった。政府は260円の大金を共同運輸に出資した。
こうして三菱対共同のダンピング競争が始まった。
この最中、弥太郎は癌に倒れた。
明治18(1885)年2月7日、弥太郎は「腹ン中が裂けるようじゃ、もう何も言わん」といって死んだ。享年52歳であった。
三菱と共同運輸の競争は熾烈を極め、3年間にも及んだ。
明治18(1885)年、共倒れを懸念した政府は合併を指令、両社の戦いは終息した。
新会社は日本郵船会社と命名された。新会社は、資本金を1100万円とし、三菱側出資500万円、共同側出資600万円と定められた。
日本郵船の支配権は、当然過半数の株を持つ共同側(三井側)の手中にあるはずだった(株券10万株は三菱に、12万株は共同に交付された)。
ところが三菱側は岩崎に独占集中されているのに、共同側の株主は分散しているうえ、その中にも三菱関係者がいた。
このため、三菱側の持株率は、逆に共同側を上回ってしまったのである。
後に、近藤廉平(元三菱汽船会社横浜支配人)が社長となるに及んで、13回の重役異動を経て、完全な三菱系企業と化してしまった。
ところで弥太郎の死後、弟の弥之助が三菱を引き継いだ。
弥之助は兄の勧めでアメリカに留学している。
弥之助は炭鉱事業に乗り出した。
弥太郎が後藤象二郎から買収した高島炭坑の利益は、弥之助の予測を上回った。
買収してから約5年で、三菱のドル箱となった。
弥之助は、明治22(1889)年には、新入、鯰田の両炭鉱を買収した。
これから筑豊炭田への進出がはじまったのである。
弥之助はここで日本最初の技術を次々と採用した(長壁式採炭法)。
弥之助はまた、金属鉱山にも力を入れた(尾去沢、生野、佐渡、槙峰、面谷など)。
そして石炭と銅の収入源を資金源として、造船を中心とする近代的な重工業財閥へと三菱をリ−ドしていくのである。
政府から払い下げを受けた長崎造船所は、その後次々と6千トン級汽船を建造していく。
しかし良く考えてみれば、当時の日本人だけで最新技術を導入することが不可能であったことはすぐ分かる。
高島炭坑に近代的な採掘機械を最初に導入し、また日本の造船技術の始まりとなったソロバン・ドック(我が国最初の洋式ドックで、入江を利用したスリップ式造船施設)を作ったのは、前出のグラバーである。三菱とグラバーの結びつきは深い。
明治33(1900)年以降は、長崎造船所で軍艦の製造にも乗り出した。
そして弥之助は、鉱山業、造船業と並んで、銀行業、地所事業に乗り出す。
また弥之助は、明治29(1896)年、川田小一郎の急逝の後を受けて第4代日銀総裁に就任している(明治29年11月11日〜明治31年10月20日)。
第3代日銀総裁(明治22年9月3日〜明治29年11月7日)の川田小一郎も三菱人であったことは、既に述べた。
ちなみに、弥之助の後の第5代日銀総裁(明治31年10月20日〜明治36年10月19日)は山本達雄であったが、山本もまた三菱人である。三菱は3代続けて日銀総裁を送ったのだ。
この岩崎弥之助日銀総裁の元で行われた重大な幣制改革が、明治30(1897)年の金本位制の採用であった。
時の首相は財政通、松方正義であった。松方はこの時蔵相も兼務している。
弥之助は松方の金本位制を終始バックアップした。当時、この金本位制には反対意見が多かった。
元老の間では、伊藤博文が反対であった。
「日本では金鉱が少なく、金の産出が乏しい。これでは不可能であろう」というのであった。
安田善次郎などは、「もし金本位制が実現するならば、自分は松方君のために純金の等身像をつくって贈ってあげる」などといってからかった。
だが最終的に天皇の裁断がものをいった。天皇は松方を信じて、金本位制の採用に踏み切った。
日清戦争の賠償金が金本位制採用の準備金となった。
ではその成果はいかがなものであったのだろうか。
「日清戦争のあと、日本と金本位制国との貿易は拡大しつつあった。ことに金本位国から日本に対する輸入が膨張した。しかし、日本はまだ銀本位であったので、銀貨の変動のために不利益をこうむるケ−スがきわめて多かった。しかし、金本位制を採用した結果、このような不利益はなんなく解消をみた。
さらに、金本位制をとったことで、日本は世界市場にそのまま直結することになった。それは外資募集に効果をあげた。外資導入が容易となり、増加することになったのである。拘束状態にあった軍事公債の売却、また三十二年(1899)の四分利付外債一億円の募集についても、みごとな効果をあらわしはじめた。あとあと日本が莫大な軍艦、兵器を輸入でき、かつ日露戦争が勃発したとき、その戦争に必要な巨大な外債募集ができたことなども、いずれも金本位制を採用したからのことであった」(『明治・大正の宰相 松方正義』講談社)
金本位制は日露戦争への道筋を準備したことになる。
戦争が起こって得をするのは、巨大財閥であることはいうまでもない。
ところでこの金本位制が採用された明治30年前後の日本の政界は、弥之助によって動かされたといっても過言ではないという。
明治21(1888)年の黒田内閣は「最初の三菱内閣」であり、明治29(1896)年の第2次松方内閣は「いっそう純粋・透明な三菱の内閣」であり、弥之助はひそかに祝杯をあげたという。
三菱財閥2代目総帥・岩崎弥之助は、明治41(1908)年3月、逝去した。
弥太郎と同じく死因は癌であった。享年58歳であった。
ところで弥之助が43歳の時の明治26(1893)年に、弥之助は三菱合資会社の経営権を、弥太郎の長男岩崎久弥に譲っている。
時に久弥は弱冠29歳、三菱3代目総帥の誕生である。
久弥は明治19(1886)年、22歳の時、アメリカ留学に出発している。
最初の2年間は入学準備に費やし、明治21年にペンシルバニア州フィラデルフィア市のペンシルバニア大学に入学。
5年後の明治24(1891)年にアメリカより帰国している。
久弥の留学先がペンシルバニア大学だったことは非常に興味をそそる。
そもそもペンシルバニア州はクエーカー教徒のイギリス人、ウィリアム・ペンが設立した州である。
そしてペンシルバニア大学の創設者は、かの高名なアメリカ・フリーメーソンであったベンジャミン・フランクリンである。
ところで、アメリカ留学前に久弥は福沢諭吉の慶応義塾に学んでいる。
福沢諭吉と三菱の縁も深い。
3代目社長久弥は自分が表面に出ないで、三菱の「四天王」に経営を任せた。
日本郵船の近藤廉平、明治生命の荘田平五郎、東京海上火災の末延道成、三菱銀行部の豊川良平である。
この4人は、いずれも弥太郎の子飼いであった。
先に戦争で得をするのは巨大財閥であると述べたが、明治27(1894)年の日清戦争、明治37(1904)年の日露戦争でも、三菱財閥は戦時利得の恩恵にあずかった。
この10年間に三菱合資会社は三菱銀行、佐渡および生野鉱山(後の三菱鉱業)、大阪製煉所、神戸製紙所(後の三菱製紙)、福岡県の牧山骸炭製造所(三菱の石炭化学工業の発端)、小岩井農場、東京倉庫(後の三菱倉庫)、唐津炭鉱、神戸造船所(第1次大戦中は潜水艦を建造)などを新たに傘下におさめている。
大正3(1914)年7月に勃発した第一次世界大戦でも、三菱は造船、製紙、鉱業で儲けるだけでなく、投機商品の取り扱いにまで手をのばし、ロンドンとニューヨークに支店を設置して世界貿易に打って出ている。
三井物産や鈴木商店と競合したのだ。
久弥は52歳になった大正5(1916)年7月、副社長の座にあった弥之助の子、小弥太に総帥の座を譲渡している。
三菱は戦争のたびに大きくなったといわれる。
第一次大戦では軍需で多大の利益をあげた。
大戦景気はその反動に見舞われ、大正9(1920)年春、世界恐慌が勃発して日本資本主義も慢性的な不況期に入った。
軍国主義の波が押し寄せ、財閥は格好の攻撃目標となった。
右翼のテロが牙を剥いた。小弥太の数少ない友人の一人である高橋是賢の父親で、小弥太が尊敬していた高橋是清も右翼のテロの凶弾に倒れている。
昭和2(1927)年春、昭和恐慌が発生した。
弱小財閥は軒並みつぶれたが、三井、三菱といった大財閥は独占的地位を確立し、産業、金融における支配力を一段と強めたのだ。
昭和16(1941)年12月、太平洋戦争勃発。
軍部は財閥に戦時協力を求めた。
三菱財閥の戦争協力は、すさまじいものがあった。
海軍艦船、航空機等、軍の要望に応えて、ひたすら増産に務めた。
この戦争で三菱財閥は、戦時超過利潤をあげた。
その先頭には、常に三菱4代目総帥小弥太の姿があった。
敗戦後、小弥太はGHQの財閥解体に反対して、昭和20(1945)年12月2日、悔しがりながら憤死してしまった。享年67歳であった。
久弥はその後も生きつづけ、昭和30(1955)年の12月1日に逝去している。享年91歳であった。
敗戦後、GHQの命令で財閥は解体された、と一般的には思われている。
しかし戦後においても三菱グル−プのまとまりは三井に比べて固い。
三菱系の社員は、『バイ三菱』主義によって、同系の電気・化学製品などを愛好するだけではなく、保険は東京海上火災、デパートは伊勢丹、カメラはニコン、ビールはキリンといった閉鎖的な性格が、戦後の企業集団のなかで最も強いという。
「戦後の日本の財界団体(経団連、日経連、日商、同友会など)の長には、財閥系の経営者はならないという不文律のようなものがあった。
しかし、財閥解体の後、徐々に力を盛り返してくるとともに、特に三菱グル−プの経営者が財界の主導権を握るようになってくる。
財界ではないが、昭和三十九(1964)年に、田実の前の三菱銀行頭取、宇佐美洵が日本銀行総裁に就任したのがその皮切りである。
三菱のサラブレットである宇佐美洵の母よしの兄は後述の池田成彬である。よしの妹なみは、元三菱銀行頭取加藤武男に嫁いでいる。
その後、四十年代に入って、牧田の前の三菱重工社長、河野文彦が経団連の副会長になり、藤野忠次郎(三菱商事元社長−筆者注)も東商副会頭になった。
そして、日経連の会長に、三菱鉱業セメントの大槻文平がなって、財界団体の長は電力や新日鉄等の独立系企業からという“ジンクス”は破られた」(『野望の軌跡』旺文社)
という。
ところで言い遅れたが、本書の目的は三菱財閥の研究ではなくて日本銀行の研究にある。
だが歴代の日銀総裁を調べているうちに、日銀と三菱が非常に深い関係にあることが分かったのだ。
ここで歴代日銀総裁の経歴をざっと見ておくことにしよう。
初代 吉原重俊(明治15年10月6日〜明治20年12月19日)
慶応2(1866)年に薩摩藩から選ばれて米英両国に留学。留学中の明治5年に外務省書記官となり、在米日本大使館に勤務するが、その後大蔵省に転じて大蔵卿・松方正義の下で活躍した。明治13年に大蔵小輔(次官)となり、在任中の明治15年に日本銀行創立事務委員に任命され、日本銀行設立とともに初代総裁に就任した。
第2代 富田鐵之助(明治21年2月21日〜明治22年9月3日)
幕府の海軍奉行であった勝安房守の推薦により米国に留学、主として経済学を学び、ニューヨーク副領事、在英大使館1等書記官を務めた後帰国し、大蔵大書記官として日本銀行創立の事務に当たった。明治15年より副総裁として、初代吉原総裁とともに日本銀行創業期の中心的役割を担った後、明治21年に総裁に就任した。
さて、初代と第2代の両日銀総裁時代の大蔵大臣は松方正義であった。
松方正義は明治14年10月21日〜明治18年12月22日まで大蔵卿、その後、第一次伊藤内閣、黒田内閣、第一次山県内閣、第一次松方内閣と、明治18年12月22日から明治25年8月8日までずっと大蔵大臣を務めている。
その後は飛び飛びで、第2次伊藤内閣の明治28年3月17日から同年8月27日まで、第2次松方内閣の明治29年9月18日から明治31年1月12日まで、第2次山県内閣の明治31年11月8日から明治33年10月19日まで大蔵大臣を務めた。
この松方正義と岩崎弥之助が深い関係にあったことはすでに述べた。
そこで今度は松方家の家系図を描いて、そこから何が読み取れるか調べてみよう。
松方正義の次男の松方正作の養子である義行は、後に森村財閥の森村市左衛門の養子になっている。
正作の妻の繁子は、弥之助の長女である。松方家と岩崎家は一族を成していたのだ。
小弥太は、薩摩島津家から島津孝子を嫁に迎えている。仲人は松方正義がつとめた。
松方正義の4男の松方正雄は、ペンシルバニア大学を卒業している。例のベンジャミン・フランクリンのペンシルバニア大学である。
その長女の富子は中上川次郎吉の弟の中上川小六郎に嫁いでいる。
次郎吉の父親が中上川彦次郎である。彦次郎は叔父である福沢諭吉の影響を受け慶応義塾で教鞭を執り、明治7年イギリスに留学、帰国後外務省に入り、退官後は三井銀行理事になって三井財閥の柱となった人物である。
第3代日銀総裁・川田小一郎、第4代日銀総裁・岩崎弥之助、第5代日銀総裁・山本達雄はすべて三菱人である。
山本は三菱汽船で川田小一郎の知遇を得て日本銀行に転じた。
営業局長として日清戦争中の国債公募を成功させたほか、明治29年にロンドンに派遣され、日本が金本位制に移行する際の基盤ともなった清国からの賠償金の運用を監督するという重責を担った。
ちなみに山本達雄は第2次西園寺内閣の明治44年8月30日から大正1年12月21日まで、大蔵大臣を務めている。
第6代 松尾臣善(明治36年10月20日〜明治44年6月1日)
松尾臣善が日銀総裁の時の日銀副総裁は、後述の高橋是清であった。松尾臣善は二宮家と白州家を通じて松方家と繋がっている。
第7代 高橋是清(明治44年6月1日〜大正2年2月20日)
高橋に目を掛けて引き上げたのが、かの三菱の川田小一郎であったことは興味深い。
高橋是清は日露戦争の時、日銀副総裁として13億円の外債募集に成功し、銀行家としての実力を認められ、1911年(明治44)日本銀行総裁、1913年(大正2)第一次山本権兵衛内閣の蔵相に就任、同時に政友会に入党した。ついで1918年、原敬内閣の蔵相となり、1921年、原敬暗殺の後、首相・蔵相を兼任し、政友会総裁となった。
財閥と政治家との結び付きと言えば、三井と政友会、三菱と憲政会・民政党、住友と西園寺公望の関係などが有名である。
しかし前にも述べたように、4代目小弥太の数少ない友人の高橋是賢の父親が、政友会総裁高橋是清であったのである。
このことからも、歴史の通説といわれているものがいかに当てにならないか、良く分かる。
第8代 三島弥太郎(大正2年2月28日〜大正8年3月7日)
駒場農学校を卒業後渡米し、ボストン大学より農政学の学位を取得した。通算7年半の海外生活の後帰国し、明治30年、31歳で貴族院議員に当選し、明治35年より予算委員として活躍。横浜正金銀行取締役、頭取を経て、大正2年、日本銀行総裁に就任。
日銀総裁三島弥太郎は三島通庸の長男に生まれている。
筆者が三島家について特に興味を持ったのは、日銀総裁・三島弥太郎の長男である三島通陽がフリーメーソンであるからだ。これはフリーメーソン側も認めている事実である。
この三島通陽の妹が第一次西園寺内閣の元大蔵大臣(明治39年1月7日〜明治41年1月14日)・阪谷芳郎の長男、阪谷希一に嫁いでいるのである。
阪谷芳郎の妻は後述の渋沢栄一の二女ことである。
そして三島通陽の叔母は内大臣・牧野伸顕に嫁いでいる。
この系図には、吉田茂や麻生財閥の麻生太賀吉も登場する。
そして三島家は大久保家を通じて、高橋是清とつながっているのである。
ここには安田財閥の安田一の姿も見える。
三島家も財閥とは無縁ではないのだ。
ちなみに三島通陽の祖父・三島通庸は警視総監(明治18年12月22日〜明治21年10月23日)も務めている。
第9代 井上凖之助(大正8年3月13日〜大正12年9月2日)
第11代 井上凖之助(昭和2年5月10日〜昭和3年6月12日)
後に述べるが、この井上凖之助が蔵相の時に、問題の金解禁を断行したのである。井上凖之助は田中義一政友会内閣の時に、高橋是清蔵相に請われて日銀総裁に就任、「飛車角揃う」と評された。
第10代 市来乙彦(大正12年9月5日〜昭和2年5月10日)
1929年(昭和4)7月2日、張作霖爆殺事件の責任をとって、田中内閣が総辞職した。
田中政友会内閣が倒壊した後、野党第一党民政党の浜口雄幸に組閣の大命が下った。
2年前の6月1日、憲政会は政友本党と合同し、立憲民政党を結成、総裁には浜口が就任していた。
浜口内閣の主要閣僚は、外務大臣幣原喜重郎・内務大臣安達謙蔵・大蔵大臣井上凖之助・陸軍大臣宇垣一成・海軍大臣財部たけし・鉄道大臣江木翼であった。
この浜口内閣の政策の二大両輪が、軍縮と金解禁であった。まず、軍縮から見ていくことにしよう。
1930年1月21日、ロンドン海軍軍縮会議が日・米・英・仏・伊の参加のもとに開催された。
日本首席全権の元首相若槻礼次郎の他、財部たけし海相、松平恒雄駐英大使(イギリスのフリーメーソン)、永井松三駐ベルギ−大使が日本全権団に任命された。
ロンドン会議に臨むにあたって、若槻ら日本全権団が政府から受け取った訓令は3つである。
・補助艦全体の対米比率を7割とする
・大型巡洋艦についても同じく対米7割
・潜水艦については7万8000トンの現有量を保持する
である。
交渉は難航したが、日本側は、補助艦総括で対米6割9分7厘5毛、大型巡洋艦は6割とするが、アメリカ側は、3隻の起工を遅らせて1936年までの条約期間中は7割とする、潜水艦は5万2700トンで均等、という日米妥協案が成立した。
4月22日、ロンドン海軍軍縮条約が調印された。
ところがこのロンドン条約が統帥権干犯のおそれがあるとして、海軍、政友会、右翼団体、枢密院の反対にあうのだ。
条約は英米への屈服であり、日本の国防を危うくするというのである。
当時の枢密院では、いぜんとして平沼騏一郎副議長、伊藤巳代治顧問官らが実権を握っていた。
幣原外交に反感を持つ平沼は、軍との結びつきも強く、ロンドン条約反対の立場を鮮明にしていた。
伊東も、「巳代治の目の黒い間はこの条約の文句のままにては、断じて枢府を通過させません」と、息巻いていた。
帝国憲法では、緊急勅令と同様に、いっさいの条約は、枢密院の審査を経て天皇が批准する仕組みになっているのである。
ところがこの審査委員長・伊藤巳代治が最終審査委員会でころっと態度を豹変させて、条約は無条件で「御批准然るべき旨」を表明し、全員一致の可決となったのだ!
方針転換の理由は、天皇への配慮、票決での敗北の見通し、浜口首相らの不退転の決意、軍縮を歓迎する世論、自己保身と様々にいわれている。
しかし筆者は、これまた新たなやらせ芝居ではなかったかと思っている。
伊藤巳代治はロンドン条約に反対する気などさらさらなかったのである。
枢密院での強硬姿勢は国民を欺く単なるポーズであった。
枢密院での否決を予想し、政変を当てにした政友会こそいい面の皮であった。
時の政友会総裁犬養毅、総務鳩山一郎(フリーメーソン)である。
1930年(昭和5)6月18日、大任をはたして半年ぶりに帰国した若槻全権が東京駅頭に立った時、十数万の群衆が熱狂的歓声をもって出迎えた。
新聞も世論も軍縮賛成であったのだ。
ではこの統帥権干犯の大騒ぎという猿芝居の意味はいったい何だったのか。
ここには、善玉=軍縮・民政党(憲政会)・新聞・世論、悪玉=軍部・政友会・枢密院、という図式がはっきりと見える。
政友会も枢密院も悪役を演じていたに過ぎないのだ。
善を引き立たせるには、悪の存在もまた必要なのである。
では何故、軍縮=善といえるのかというと、日本が戦争に負けたからである。
浜口内閣の外相・幣原喜重郎など、戦後、首相になっている。
ちなみに、この幣原喜重郎はフリーメーソンである可能性が高い。
フリーメーソン・松平恒雄と一緒に、1950年4月、マスタ−メ−ソンの最高階級のミ−ティングに出席しているからだ。
そして幣原喜重郎と松平恒雄は徳川家を通じて姻戚関係にある。
幣原喜重郎は三菱初代総帥・岩崎弥太郎の娘と結婚している。
幣原は大正13年、加藤高明(憲政会総裁)内閣の外務大臣を務めているが、加藤高明もまた弥太郎の娘と結婚しているのだ。
つまり二人は義兄弟ということになる。
ちなみに加藤高明は、東京日日新聞第4代社長(1904〜1906年)を務めている。
幣原はロンドンで駐英公使の林薫からフリーメーソンの話を聞き引きつけられた、と語っている。
林公使は明治35年の日英同盟の功により子爵に、明治39年の日露戦争の功により伯爵に叙せられているが、イギリスでフリーメーソンに入社しているのだ。
林公使は当時日銀副総裁であった高橋是清がロンドンで日露戦争の戦費調達の外債を募集した時に、便宜をはかっている。
この林薫がまた、岩崎家と姻戚関係を結んでいるのだ。
では、以上の関係を家系図に描いてみよう。
林薫の孫である林忠雄は、岩崎小弥太(第4代三菱総帥)の娘と結婚している。
また、林薫の娘は福沢諭吉の福沢家を通じて、岩崎家と姻戚関係にある。
幣原喜重郎の二男が野村銀行・野村証券の野村元五郎の長女と結婚している。
幣原喜重郎はまた、西郷家と徳川家と佐竹家を通じて鍋島家と姻戚関係にあるが、鍋島家は松平恒雄と三島通陽と姻戚関係にある。
松平恒雄と三島通陽がフリーメーソンであることは、すでに述べた。
ちなみに、松平恒雄の長女は秩父宮妃になっている。
そして幣原喜重郎と鍋島家を結ぶ佐竹家は、島津忠彦を通じて岩崎家とつながっているのだ。
幣原喜重郎が岩崎弥太郎の娘と結婚していることは、先に述べた。
しかしそれにしても、この系図はいったい何を示しているというのだろうか。
簡単である。
ロンドン条約実現を強く望んでいた内大臣牧野伸顕、外務大臣幣原喜重郎、駐英大使松平恒雄が一族を形成していたのだ。
そしてその一族の中心には、三菱財閥の岩崎家があったのである。
この陰謀の輪に、ロンドン海軍軍縮会議に随員として加わった樺山愛輔を加えたい。
樺山愛輔の父・樺山資記は海軍大臣などを務めているが、第3代警視総監(明治13年10月23日〜明治16年12月23日)も務めた。
樺山愛輔の二女正子は、白州次郎に嫁いでいる。
正子の姉の泰子は、元日本郵船社長近藤廉平の息子近藤廉治に嫁いだ。
近藤廉平の妻は、三菱銀行初代頭取を務め、岩崎家と縁続きになる豊川良平の妹である。
正子の妹宣子は、松方家に嫁いでいる。第5代警視総監(明治18年12月22日から明治21年10月23日)が三島通陽の祖父・三島通庸である。島津家からは島津忠重が随員に加わっている。
では、ロンドン条約実現に結集したこの一族は何を望んでいたというのだろうか。
平和の実現であろうか。そうではあるまい。
ロンドン海軍軍縮条約による軍縮実施という不況要因と、浜口内閣の大蔵大臣井上凖之助が実施した金解禁は、日本経済を昭和恐慌へと突き落としたからである。
だが、浜口・幣原が調印したロンドン海軍軍縮条約は軍部、右翼の怒りを買った。
1931年11月14日、浜口首相は陸軍大演習を陪観するため岡山へ向かうところを、東京駅で狙撃された。
犯人は右翼団体・愛国社の佐郷屋留雄。
浜口首相が狙撃されたのと同じホ−ムには、その日たまたま新任の駐ソ大使広田弘毅を見送りに来ていた幣原喜重郎がいた。
弾丸は急所を逸れ、浜口は命だけはとりとめた。
翌15日、民政党は臨時閣議を開き、臨時首相代理を設置し、これに幣原喜重郎をあてた。
浜口首相の暗殺計画は、1930年春から、愛国社盟主岩田愛之助を中心に進められていたという。
浜口内閣は金解禁の時機を誤って、日本経済を深刻な不景気に投げ込んだ。
そのため、失業者・倒産者・犯罪者が続出し、彼らは浜口内閣に対する不満を強めていたのだ。
浜口首相狙撃事件は、1930年代を彩るテロ、ク−デタ−の先駆けとなった。
翌31年(昭和6)3月(3月事件)と10月(10月事件)に、桜会将校によるク−デタ−未遂事件発生。
32年、血盟団事件、5・15事件、36年、2・26事件と続く。
日本はいよいよ狂気の時代へ突入していくことになるのだ。
三菱フリーメーソン説A
次に金解禁について見ていこう。
浜口内閣の大蔵大臣に就任したのが、井上凖之助であった。
井上凖之助はすでに横浜正金銀行頭取、日銀総裁、大蔵大臣を歴任し、自他ともに財政・金融の最高の専門家として任じていた。
井上財政と幣原外交は、浜口内閣の政策上の二大両輪であった。
前者が英・米両国財界の支持のもとに金解禁を推進したという点と、後者が英・米と妥協してロンドン海軍軍縮条約を成立させた点において共通の地盤に立ち、かつ、浜口内閣において両者は有機的に結びついている。
では、井上凖之助が実施した金解禁とは何だったのか。
それが日本経済に与えた影響とはどのようなものだったのだろうか。
金解禁とは、通貨と金の兌換を自由にすることである。つまり、金本位制への復帰である。
金本位に復帰しても金貨そのものの輸出を自由にしない国もあったが、日本の金解禁の場合は、国際間の金の移動を自由にすることを意味した。
1917年(大正6)9月、アメリカは、欧州大戦(第一次世界大戦)に参加するとともに、金の輸出を禁止した。
日本もそれにならって、その10日後に金本位から離脱した。
当時、日米両国の財政当局は、金本位停止は、第一次大戦という異常事態に対処するための一時的な措置と考えていた。
アメリカは戦争が終わると、1919年6月には、早くも金本位へ復帰している。
日本は大正11年から金解禁問題が取り上げられ、加藤友三郎内閣の蔵相市木乙彦(第10代日銀総裁)は蔵相官邸で、財界金融界の有力者を集めて会議を開いた。
国際的にも、ジェノア経済会議等で、金本位復帰の必要が強調されていた。
ところが、1923年(大正12)の関東大震災で金解禁論は頓挫した。
1925年、イギリス、オランダ、オーストリア、蘭領インド(インドネシア)、南ア連邦の各国が、次々と金解禁に踏み切った。
日本は、各国に立ち遅れたという事態に陥った。
そこで1926年、若槻憲政会内閣の蔵相片岡直温が、金解禁に着手しようとして、震災手形善後処理法案その他の法案を議会に提出して、金解禁に踏み切る準備が整えられた。
しかしこの議会中に、昭和2年の恐慌が起こって、この方策も挫折した。
1928年6月、フランスのポアンカレ−内閣が金本位への復帰をはかると、日本でも金解禁の機運が著しく高まった。
そこで1929年5月、田中政友会内閣の蔵相三土忠造は、当時財務官として英仏米に駐在していた津島寿一(のちの大蔵大臣)に電報を打ち、帰国を命じた。
この電報の一週間ばかりたって、「金解禁に関連して実行すべきクレジット問題について研究して帰朝せられたい」という電報が津島に届いた。
そこで津島は帰国前にイギリスならびにフランス、イタリア等の当局、中央銀行総裁、イギリスの銀行家等と話し、日本が金解禁を実行した場合に取るべき措置、各国のクレジット設定の手続等について意見を交換した。
さらにニューヨークに渡って連邦準備銀行総裁とか、モルガンその他銀行の首脳者とも話し合って、適当と思う方策を立てて、帰国の途についた。
ところが津島が太平洋航海中の1929年(昭和4)7月2日、田中内閣は張作霖爆殺事件の責任をとって総辞職した。
三土忠造が辞職して、井上凖之助が大蔵大臣に就任した。
この時の日銀総裁(第12代)は土方久徴である。
その前年の1928年から、国内では金解禁を要求する声がほうぼうからあがっていた。
まず、財閥系の銀行である。
金融恐慌の結果、特融(銀行界救済のための政府補償による日銀の特別融通)で約6億の金が出た。
その上に、三井・三菱・住友・安田・第一などの財閥系銀行に預金が集中した。
これらの銀行は、金融緩慢の中で資金の投資先に困り、金利の高い海外に資金を移動することを強く望んだ。
為替が下がった時に資金を輸出していたら、金解禁で為替が上がると損失になるので、銀行は金解禁を強く主張したのである。
東京、大阪の手形交換所の理事長、池田成彬(三井銀行)と八代則彦(住友銀行)は連名で金解禁即行を建議した(昭和3年10月)。
産業資本家や貿易業者も、為替相場の安定を要求して金解禁即行を唱え、日本商工会議所も金解禁断行を政府に建議した。
1920年の恐慌以来、第一次大戦中に水膨れした不良企業の整理は、日本経済最大の課題となっていた。
だが、政府は経済界の動揺を恐れて、財界整理を行おうとはせず、むしろ、日本銀行の救済貸出しや特別融資などによってその破綻を取り繕っていた。
そのため、産業の合理化は進まず、企業の対外競争力は低下し、国際収支の悪化が進行した。
一方で、欧米の資本主義国は、企業の整理集中、生産設備の高度化を進めて、戦後不況から抜け出しつつあった。
このような情勢の中、政府・財界は、1917年以来の金輸出禁止を解き、緊縮財政・財界整理を行って、日本経済の国際競争力を強めるべきだという意見が高まっていたのだ。
だが、金解禁は財政緊縮・産業合理化・消費節約等によって、不景気の到来は不可避である。
ところが、朝日、日日(現在の毎日)、時事新報などほとんどの新聞、雑誌、学者は、金解禁をした後で景気が良くなるという幻想を振りまいたのである。
しかし金解禁を行うにしても、いかなる為替相場で通貨の安定をはかるかという問題が残る。
旧平価解禁でいくか、新平価解禁でいくか、の二つの立場があった。
金解禁当時、日本の為替は下がっていた。為替の下がった大きな原因は関東大震災であった。
金の輸出を禁止していたので、震災などで品物がうんと入ってくるが、金の輸出の許可が非常に制限的であったために円為替が下がった。関東大震災で為替が平価で50ドルとか、49ドルいくつというものが、約40ドル内外の相場を、20数カ月続けた。
震災後、日本経済はその為替(新平価)を基準にして、一応立ち直ったのである。
これを為替を元に戻す(旧平価解禁)とすると、40ドルが50ドルになる訳だから、2割5分の円高ということになり、輸入は割安になり、輸出は割高となる。輸入が増え、輸出は減る。
その結果、金が流出し、通貨が収縮し、物価は下落して、デフレになる。経済は破綻する。
新平価解禁ならば、急激な物価変動を避けることが出来る。
ところが政府は旧平価解禁を選択したのである。
旧平価で解禁しても、10パ−セントの円切上げに過ぎず、たいした影響はない、と判断したのだ。
新平価解禁などは問題にもならなかった。
浜口・井上が、旧平価解禁を選んだ背景には、政治的理由も存在していた。
もし、新平価で解禁すれば、法律の改正を必要とする。
1897年(明治30)制定の貨幣法では、純金2分を1円とすると決められていたから、この規定を変更しないことには、新平価解禁は出来なかった。
これは議会で否決される恐れがあった。旧平価解禁なら、単に1917年(大正6)の金輸出禁止の大蔵省令を廃止するだけで済む。
それと、1931年(昭和6)1月に満期となる、第2回4分利付英貨公債の借換えの問題があった。
これは高橋是清が日露戦争の時発行したもので、その残額は2億3千万円もあった。
これを現金で返すとなると、在外正貨が枯渇する。だからこれはどうしても借り換えねばならないが、英米銀行家は円為替が不安定では外債の発行は難しい、通貨の安定が先で、外債発行はその後にすべきであるという意見であった。
この問題を解決するためにも、金解禁を実施して、通貨を安定させることが先決とされた。
ここで少し、この第2回4分利付英貨公債募集の経緯について触れておこう。
日露戦争の外債募集のために、当時日銀副総裁であった高橋是清はニューヨークに出発した。
高橋是清の秘書兼通訳だったのが、深井英五(第13代日銀総裁)である。
深井英五は辻家を通じて井上凖之助と親族であるが、関根家と小坂家と岡部家を通じて岩崎一族と繋がっている。
関根家はまた、玉置家と勝田家を通じて岩崎家と姻戚関係にある。
アメリカで外債募集の望みのないことが分かると、高橋はイギリスに向かった。
ロンドンで500万ポンドの公債発行の話が纏まり仮契約を結んだ高橋は、友人ヒルの邸で、偶然に米国人のシフに紹介された。
翌日、ク−ン・レ−ブ商会のシフは、公債残額500万ポンドを自分が引き受けて米国で発行したいと高橋に連絡してきた。
シフとの話が纏まって、英米で1000万ポンドの公債を発行することが出来るようになった。
これが、第1回6分利付英貨公債(明治37年5月11日募集開始)である。
発行銀行はパース銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、ク−ン・レ−ブ商会等であった。
ちなみに、この時日本は関税収入を抵当にしている。英国銀行業者たちは関税を抵当とする以上、英国から日本に人を派遣し税関を管理せしめねばならぬと主張した。
高橋がこれに反駁したので、管理人を入れず単なる名称のみの抵当となった。
万一その抵当権を実行せねばならぬようになった時はどうするか、とシフに尋ねられたベアリング商会のレベルストック卿は、Warship!(軍艦!)とただ一語をもって答えたら、シフもそれで納得したという。
イギリスの巨額の海外投資(長期の資本移動)が、世界最強の海軍力に支えられていたことが良く分かる話だ。
第1回6分利付英貨公債に引き続き、高橋是清は明治37年11月に第2回6分利付英貨公債1200万ポンドをロンドンとニューヨークで募集した。
一時帰国した高橋は、翌明治38年2月17日、再びロンドンに向かった。
そして3月29日、第1回4分半利付英貨公債3000万ポンドの募集を開始した。
ロンドンの銀行者が1500万ポンド、ニューヨークのクーン・レーブ商会が1500万ポンドを引き受けることになった。
また、7月11日には第2回4分半利付英貨公債3000万ポンドをイギリス、アメリカ、ドイツ3国で募集している。
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2011/7/4
John Toddの啓蒙主義と魔術
BEHOLD A WHITEHORSE参照
世界にある盗聴用ECHELON基地
フリーメーソン日本ロッジ幹部の証言から転載させていただきます 。 関連の本は読みましたがここはよくまとまっていますので。(編集・解説・注・写真などは管理人)
日本にあるフリーメーソンであることを表すビルの入り口
マッカーサー元帥にとって最重要事項が、周知の通り、戦後日本の方向を決める新しい憲法の制定でした。
過去ログ:真珠の首飾り参照
若き日のベアテ・シロタ・ゴードンさん。新憲法制定にあたっての日本側草案は単に「明治憲法の修正」にとどまったため嘲笑される結果となった。戦後の憲法はアメリカ人が作ったからなどと吠える向きもありますがそうではないのです。巷に言われている押付けられた.....なんという狭量な国民でしょうか。14条・全ての国民は,法の下に平等であって........24条・婚姻は,両性の合意のみに基いて成立し......これはゴードンさんの作品です。(管理人注)
新憲法制定にあたっては、日本側草案が蹴られ、マッカーサー元帥に基づき、ケーディス大佐(マッカーサー元帥の側近No.1とされる民政局長ホイットニー准将の下で、対日占領政策をリードしてきたとされる)が仕上げたというのが定説となっている。
この間の経緯を日米の関係者から取材し、関連文献も調査した在米ジャーナリスト・大森実(元毎日新聞外信部長)の著『日本は何故戦争に二度負けたか』によれば、元帥が書いたメモを基に、ケーディス大佐がマッカーサー元帥の指令で草案を書き上げるまでに要したのはわずか一週間。それを当時の幣原首相、吉田茂外相らに、ホイットニーやケーディスが
「この通りやれとは言わないが、やるべき基本原則は全部書いてある」
と示したという。しかもこの時、日本側に与えられた検討時間はわずか15分。
「マッカーサー元帥は、これに劣る策はいかなるものも考慮に入れない。この案の基本方針に反しない些細な修正には応じ得る」
というホイットニーの言葉を引用しつつ、大森氏は、
「それはまるで問答無用で、犬養毅が海軍士官に遺した言葉を彷彿させる。我々戦前派には、シンガポール攻略をやった山下奉文大将が、軍刀の柄に手をかけてパーシバル英司令官を降伏させた時と変わるものではなかったと思えるのである」
と論評している。
「昭和21年2月13日に、ホイットニーから突きつけられたマッカーサー原案を基に、幣原内閣が日本の憲法改正草案要綱を発表したのは3月6日であった。立派な顔を連ねた憲法問題調査委員会等、まったく存在価値はなく、わずか21日間の迅速作業で出来上がったこの憲法草案は、幣原内閣から吉田内閣へ引き継がれ、6月20日に総選挙後の帝国議会に提出された。衆議院で二ヶ月、貴族院で一ヶ月の審議を経て可決され、天皇の裁可を経て可決され、昭和21年11月3日に公布されたのである」
大森氏のこの著作では、いわゆる「アメリカによる押し付け憲法」論の根拠が、ケーディス大佐はじめ、当時の関係者の証言・文献を基に詳細に明かされている。それはまさしく、ペリーによる「第一の開国」に続く、「第二の開国」という表現がピッタリ当てはまるものであった。
関連して『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)からも引用しておきます。
1947年にマッカーサーはフリーメーソン最高位(真実は違う。一般的には、の意味である。)の第33位階を受けている。
日本はキリスト教のみならず、フリーメーソンからも狙われた国であった。1930年のロンドン条約批准をめぐって、ウィリアム・R・キャッスル駐日大使(戦後、グルー元大使とともにジャパン・ロビーの一員となった反マッカーサー派)は、金子枢密顧問官に次のように語っている。
「今回の日本政府の勇気ある決断によって、軍縮案が無事実施されることに、心からお礼申し上げます。それも、これも幣原外相がメーソン員としての信義から最後の請訓への回答案を示し、フリーメーソンの世界平和達成に協力してくださったからと理解しています。」
戦後の最初の首相、東久邇稔彦もフリーメーソンであり(戦後に加入)、二番目の首相の幣原喜重郎もフリーメーソンであった。ここにもマッカーサーの意志が働いているのかもしれない。
<中略>
1949年の7、8月ごろから、日本キリスト教国化のかわりに、フリーメーソンの天皇加入工作が活性化する。日本フリーメーソン化運動が見えてくるのである。天皇をフリーメーソンに加入させようとするのはキリスト教と同じ動きである。その中心として動いたのが、皇族では、前述の東久邇と李垠(夫人が皇后の従姉妹)であった。また、松平恒雄(元宮内大臣、衆議院議員、元伯爵、元駐英大使)と幣原喜重郎(元首相、元男爵、元駐英大使)の二人が東久邇と李垠の運動を支持し続けた。
マッカーサーは、まず皇族たちを入会させ、次に日本の指導者たち、そして最終的に天皇を会員にしようとした。この間の天皇工作の動きを知る本としては、赤間剛の『フリーメーソンの秘密』が詳しい。この本の中には、マッカーサー元帥の腹心の軍人マイク・リビイストの天皇入会工作が描かれている。(ここでは省略する)。
1949年後半、日本にメーソンのロッジが開かれるようになったとき、マッカーサーは次のようなメッセージを寄せている。
「日本はフィリピンを武力で征服した。今度はフィリピンがメーソンの教えで日本を征服するのだ〔日本のメーソンはフィリピン系ロッジに属する:引用者注〕。それは日本人のイデオロギーを改めるだろう。日本でのフリーメーソンの発展は我々が占領していることに関係する民主主義の目標にとって根本である。」
..........注目すべきは、水交社ビルと道路を挟み、真向かいにある「日本聖公会 」である。日本グランド・ロッジのある旧水交社、現在の「第38メソニック森ビル」の真正面に、それは位置している。 近年、改築されたらしく、比較的新しい教会が2棟、メソニック・ビルから見て左側が「聖アレジオ教会」、右手が「聖オルバン教会」である。聖オルバン教会 前に掲げられた木板の説明書によれば、「英語による聖公会(英国国教会)の礼拝は、この地で1879年以来続けられています…」と書かれている。明治12年から、英国国教会の礼拝がこの地で行われていたわけである。
英国国教会とフリーメーソンの関係はかなり古くから深いものである。フリーメーソンが英国で広まり、やがてコンノート公をはじめとする王室にまで深く関わっていった背景には、カトリックとは異なり、英国国教会がこの特異な団体を認めた事が大きく影響している。
その英国国教会の日本における拠点が水交社の前に位置していることが、水交社ビルの存在価値を高めたのであろうか。
1997年に出版された『フリーメーソンの秘密』(赤間剛著)より引用します。
メーソンへの直撃インタビュー
フリーメーソンの実態を知るためには是非、メーソンに直接インタビューする必要がある。フリーメーソンが果たして門戸を開いてくれるだろうか? 不安だったが、ともかく再度インタビューを申し込んだ。すると思いもかけずOKの返事がきた。以前、申し込みをしてから一年目のことだった。
日本グランド・ロッジは東京・港区芝公園の旧水交社がマソニック・ビルと聞いていた。しかし、「現在建て変えている」とのことで港区虎の門の第六森ビルに出かけた。応対してくれたのは東京メソニック協会の述丈夫事務局長と三人の“高級メーソン”である。
「東京メソニック協会とは、日本グランド・ロッジ傘下の2、3の有志ロッジによって作られた団体です。昭和30年に財団法人・東京メソニック協会の正式名で厚生省に設立許可された慈善団体 としての公益法人です。日本グランド・ロッジは、昭和29年の宗教法人法改定までは宗教法人として登録されていましたが、フリーメーソンは友愛団体ですから、宗教法人ではおかしい。現在、日本グランド・ロッジをはじめメーソン団体は私的な団体です」(述事務局長。32位階)
「アメリカにはメーソンは400万人いますから、2億のアメリカ人口中、およそ20人に1人の割合でメーソンがいます。フリーメーソンは秘密結社ではありません。そのように宣伝したのは戦前の軍国主義者でした。確かに一部に秘密があります。それは儀式の内容と入会者のメンバーをみだりに外部に明かさないことで、仲間うちだけにメーソンの兄弟だと通じるサインとか言葉などがあるのですね。」
フリーメーソンは個人の道徳性を高めるのが目的で、入会者の条件として、無神論者でなく、何かの超越的な神を信じ、家族を愛し、国家の合法的規約に従うという規約があります。メーソンになるには、まず二十歳以上の成人男子で、手足が不自由でない(儀式と“合図”のため)、酒を売る人は原則としてお断りするなどの規約がありますが、基本的にはジェントルマンであることが入会の条件ですね」(片桐三郎氏。某大会社役員。32位階。横浜ロッジ支部長)
説明によると入会希望者は自分から進んで、「メーソンになりたい」との意志をのべ、ロッジのメンバー2人に推薦してもらう。するとロッジからフリーメーソンの願書(履歴書・身上書)が渡され、その資料を基にロッジから別の2人が面接調査する。そして、「家族の面倒をみているか」とか「アルコール、賭博の常習者でないか」などの生活態度ほかを詳細に調べられる。しかし、実際には、「入社試験よりやさしいですよ」(片桐氏)という。このレポートにより、ロッジのメンバーが全員一致して賛成すれば入会が認められる。すると、全国のロッジに新人紹介の回状が廻るという。入会金は3万6千円、年会費が4千円 と安いが、ロッジでの各種の催事などの費用は自前の持ち寄りが原則。会費を2年間滞納すると権利停止の資格剥奪を受け、またハレンチ罪や非合法な罪に問われると追放処分される。このような裁定は内部の審判員が公平に判断し、被告はメーソン仲間の弁護人を選ぶことも可能で、民主的である。(管理人注 :黄色人種のフリーメーソンはあくまで「ごっこ」であり本家に見られるイニシエーション儀式(藁人形に入れた裏切り者をめった切りにする忠誠を誓う儀式でその後OATH(宣誓書)を読み上げる。その宣誓書はイエズス会入門と同じである)
「フリーメーソンは国家の組織に似た制度を持っています。日本グランド・ロッジは諸外国のフリーメーソンと外交関係で相互条約を交し、友好条約を結びます。日本グランド・ロッジ内部では、司法・行政・立法の三権分立機構を持っています。統轄権を持つロッジ・マスター(支部長)、グランド・マスター(本部長)も民主的に選挙されます。
各国のグランド・ロッジ間は独立国の関係と同じで平等です。日本グランド・ロッジはフィリピンのグランド・ロッジ傘下から1958年、独立しました。内部ではメンバーが除名されると傘下ロッジに回状が廻され、まあヤクザ組織と同じです。フリーメーソンの組織員は、変な意味でなくいうとヤクザ組織に似ていますが、崇高な目的があり、そこが違いますね」(安藤一夫氏。早大講師)
以下、一問一答をした。
Q.なぜ、秘密を持つのか?
A.フリーメーソンの歴史は何千年も前に始まるメーソン(石工)の口伝を起源とします(管理人注 :ソロモン神殿の石工=ヒラムでもう一人ヒラム王がいるが前者で聖職者は666=ヒラムとする説が多い)。中世の職人ギルドでは、その高度な技術が財産でした。メーソンは徒弟、職人、親方の三段階で一人前になります。その当時の石工はヨーロッパ各地をめぐる渡り職人でした。そのため各地のメーソンはギルド(同業者組合)の秘密的な暗号や儀式を踏み、仲間と認めてもらい修業したのです。
一九一七年に近代メーソンが起ると、このメーソン組織の職業と思想が、近代人の精神になり、いわゆる“思弁メーソン”としてインテリやエリートの間に広まります。しかし、メーソンの秘密は残ったのです。(同)
Q.日本のフリーメーソン史について
A.幕末に横浜の居留地に英国が持ち込み、神戸、長崎の開港地に英米系のフリーメーソンが生まれます。明治維新後、伊藤博文が駐英公使の林董にフリーメーソンの何たるかを知るために英国で秘かに入社させましたが、この結果、日本では外人のみに入社を認め、日本人の入会を禁じる交渉を日本にきていたフリーメーソンと交します。だから、戦前は日本人のメーソンはいないことになっています。しかし、外国生活をした日本人が外国でメーソンになるのは自由ですから、かなりの日本人がフリーメーソンになったと思います。推測でいうと現在まで、外国のフリーメーソンに入社した日本人は千数百人はいるのではないでしょうか。
たとえば、幕末に徳川幕府によってヨーロッパへ留学させられた西周がオランダのライデン市のロッジに入会している事実があります。また津田真道(福沢諭吉らと明六社を作り、文明開化に貢献)もそうですし、他にも英語学校を開いた神田乃武(YMCAの創設者)もメーソンでした。
日本のフリーメーソンは戦後のものです。GHQのマッカーサー元帥の働きで花開き、GHQの軍人や外人を中心に昭和22年ごろから全国にロッジができました。その後、英語のできる国際的な日本人が参加し、現在、4000人、日本人がこのうち250人の規模になりました。フリーメーソンはハイソサエティな人々が多いのです。アメリカなどでも高級将校や政府の役人、外交官などが多数入ってますよ。
昭和25年に旧水交社を大蔵省より払い下げてもらい、日本グランド・ロッジを独立させました。日本人のメーソンとしては、東久邇宮(元首相)、鳩山一郎(元首相)ほか、二十人余の国会議員(経験者)がいます」(安藤一夫氏)
(管理人注 )イルミナティになるには(あるいは,なれる家系は限られていますが)母親の胎内にいるころから訓練されることは記事にしました。子宮に針を刺し苦痛を与えたりすることです。数多くの殺人儀式を経て正式にイルミナティになる宣誓書を紹介しましょう。
The Oath administered to the Illuminathi is based upon the Oath of the Jesuits。つまりイエズス会と同じ宣誓ということです。その宣誓前に胸に刀が当てられる。
”Shouldst thou become a traiter or perjurer,let this Sword remind thee of earth and all the members in arms against thee.Do not hope to find safety;whithersoever thou mayest fly,shame and remorse as well as the vengeance of thine unknown brother will torture and pursue thee!
Then in the Oath which follows he swears;
"Eternal silence,and faithfulness and everlasting obedience to all superiors and regulations of the Order.I also renounce my own personal views and opinions as well as all control of powers and capacities.I promise also to consider the well-being of the Order as my own,and I am ready,as long as I am a member,to serve it with my goods,my honour and my life.......If I act against the rule and well-being of the Society,I will submit myself to the penalties to which my superiors may condemn me......
In the name of the son
Crucified(ie the Pentagram,the Illuminised man),swear to break the bonds which still bind you to your father,mother,brother,sisters,wife,relatives,friends,mistresses,kings,chiefs,benefactors,and all the person to whomsoever you may have promised faith,obedience,and service.
Name and curse the place where you were born,so that you may dwell in another sphere,to which you will attain only after having renounced this pestilential globe,vile refuse of the heavens! From this moment you are free from the so-called oath to country and laws:swear to reved to the new chief,recognized by you,what you may have seen or done,intercepted,read or heard,learned or surmised,and also seek for and spy out what your eyes canmet discern.Honor and respect the Aqua Tofana(ie;an imperceptibly)slow poison as a sure,prompt,and necessarry means of purging the globe by death of these who seek to vilify the truth and seize it from our hands.Fly from Spain,Naples and all accursed land,finally fly from the temptations to reveal what you may hear,for the thunder is no prompter than the knife,which awaits you in whatsoever place you may be. Live in the name of the father,son,and Holy spirit(The trinity of Illuminism.......Cabalistic and Gnostic.The father-the generating fire;the Holy spirit-the great mother nature,reproducing all things;the son-the manifestation,the vital fluid,the astral light of Illuminasm.
一般的にフリーメーソンと呼ばれている位階は1〜33まででコンパスのGは4位階を指している。全米の警察はこのマーク。
米国では実際にUN POLICEが交通違反の取締りなどをしている現場を目撃した。これは大変恐ろしいことで近い将来FEMA CAMPへ罪もない市民を連行するのは彼らです。
ホロコーストは間もなく始まる ......見られない方がいいでしょう。
日本でのメーソンのことが書かれています 。
(本物の元イルミナティ11位階の女史によると位階はもっとあって90位階まであるのよ,なんて言ってました。)33位階はグランドマスターで最上階の部屋に入るとき731と二回ノックして入り龍の指示を受ける。(大理石の龍は煙を吹きながら起き上がる........グランドマスターは事前にアヤワスカを飲まされる。)33位階から上に聳え立つのがイルミナティ。
IMAGO DEI その2参照
記事の後半にグランドマスターが受けるトリックが書いてあります。(オズの魔法使い)
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