南条殿御返事 (妙経 2004年6月号 御書拝読より) Top
信行のポイント
登山とは、私たちの総本山である多宝富士大日蓮華山・大石寺に参詣させて頂くことをいい、日々の仏道修行のなかでも最も重要な修行である。 登山は、日蓮大聖人の御在世中に、阿仏房や四条金吾殿、南条時光殿、日妙尼など、多くの信徒が大聖人をお慕い申し上げ、大聖人のもとへはるばる詣でてお目通りを願い、御指南を賜わり、時間を作ってはお給仕をさせて頂いたことに由来している。 このことは、大聖人の御在世当時にあっては、大聖人の御身そのものが、本抄で自ら仰せられているように、諸仏入定・正覚成就の仏身であらせられ、法に即した人の本尊として、信仰の対象だったからである。 大聖人御入滅後の今日においては、大聖人が出世の本懐・究竟として御図顕された本門戒壇の大御本尊にお参りさせて頂くことが、御本仏日蓮大聖人にお目通りさせて頂くことになるのである。 なぜなら『経王殿御返事に』に、 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」(御書六八五) と仰せのように、御本仏日蓮大聖人の御法魂を止めおかれた、大聖人の御当体が本門戒壇の大御本尊だからである。 また総本山大石寺には、大聖人より唯おひとり、血脈を相承された時の御法主上人猊下がおいでである。御法主上人猊下は、この唯授一人の血脈を相承されているが故に、御本仏日蓮大聖人のお代官・お代理として、御本仏の御仏意に基づきつつ、現実にその時代の僧俗を教導下さるのである。私たちは戒壇の大御本尊にお参りさせて頂き、かつ時の御法主上人猊下の御尊容を拝することによって、そのまま大聖人の御在世当時と同じ登山を成就することができるのである。 特に出世の本懐として御建立あそばされた本門戒壇の大御本尊は、総じて閻浮提の衆生が根本に帰依する御本尊であるところから、日寛上人は「総体の御本尊」と名付けられている。更に日寛上人は大聖人直筆の御本尊や各末寺の御本尊、各家庭の御本尊の根本・源となる御本尊であるところから、大御本尊を「根源」と仰せである。 すなわち総本山大石寺が広宣流布の根源の道場となるのは、信仰の根源となる、この本門戒壇の大御本尊が御安置されているからである。 信心をしていく上で、常に信仰の根源を求めていくことは、中国の妙楽大師が、 「化を受け教を稟(う)く須(すべから)く根源を討(たづ)ぬべし。 若し根源に迷はば則ち増上して真証を濫さん」(『摩訶止観輔行伝弘決』大正蔵四六―一四三B) と説いているように、増上慢の心をなくし、真実の悟り・仏果を得るために大切なことである。換言すれば、私たちが成仏していくためには、常に信心の根源の道場である総本山に登山し、戒壇の大御本尊に参拝させて頂くことが肝要である。 登山の意義として、ここで是非述べておきたいことは、登山の第一義は、戒壇の大御本尊と御本仏日蓮大聖人への御報恩のために参詣させて頂くということである。『新池御書』に、 「かやうに此の山まで度々の御供養は、法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふに成るべく候。弥(いよいよ)はげませ給ふべし、懈(おこた)ることなかれ」(御書一四五七) と仰せである。新池殿が何度も大聖人お住まいの身延の山まで登山し、御供養をされたのは、「法華経並びに釈迦尊」、即ち私たちからその意義を拝するならば、戒壇の大御本尊と御本仏日蓮大聖人に対し奉り、その大恩を報ずることにある。それ故、いよいよ登山参詣に精進し、懈ってはならないと誡められていることからも、登山の第一義が報恩謝徳にあることを知るべきである。
次に登山参詣の功徳について述べたい。 本抄拝読の御文には、 「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」(御書一五六九) と仰せである。ここには登山の功徳として、罪障消滅と三業即三徳成就の二つの功徳が明かされている。 先ず罪障消滅の功徳についてであるが、私たち一人ひとりは、過去から今日まで、数えきれない生と死を繰り返して来ているが、その間、殺父(しふ)、殺母(しも)、破和合僧(はわごうそう)などの五つの逆罪、あるいは偸盗(ちゅうとう)や妄語(もうご)や貧欲(とんよく)など、身口意にわたって種々の悪業を重ね、それにともなってたくさんの罪障を積んで来ている。 のみならず、『顕謗法抄』には、 「懺悔(さんげ)せる謗法の罪すら五逆罪に千倍せり」(御書二七九) と仰せのように、仏法上重い罪とされるこれらの五逆罪よりも、尚一千倍も重い罪と断定されている謗法罪を積み重ねて来ている。この謗法には、正法を信じようとしない「不信」の咎(とが)、正法を捨てる「退転」の咎、そして積極的に謗る「毀謗」の咎等がある。 これらの謗法の種類を考えると、私たちは過去遠々劫から今日に至るまで、どれほどの謗法を重ねて来ているか測り知れない。 世法の十悪、仏法の五逆、そして謗法の重罪と、私たちの生命(いのち)の業の中には、無量の罪障が積み重なり、雪ダルマのように膨らんでいるのである。だが大聖人は、「此の砌」即ち戒壇の大御本尊に詣でる者は、この過去遠々劫からの重く大きな、たくさんの罪障が忽(たちま)ちに消滅すると仰せである。 もちろん過去からの無量の罪障が、一度や二度の登山参詣によって、そう簡単に消滅できる筈はない。大聖人の御教示は、 「毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、はげむべし」(四条金吾御返事 御書一五〇二) と四条金吾殿に仰せられたように、一年に何度も登山をさせて頂いてこそ、罪障消滅の大益を得ることができるのである。また「忽ちに」の意味は、ここでは「無始」即ち久遠悠久の時間の長さに比べての「忽ち」であるから、金吾殿へのお言葉のように、「今生一世」の間と拝すべきであろう。 一人ひとりの寿命の長短はあるが、また信心の厚薄もあるが、金吾殿のように、大聖人を求め、大御本尊を求める強盛な求道の信心を貫いていくならば、今世で生きている間に、必ず無始以来の罪障を消滅させていくことができるのである。登山の功徳として、私たちはこのことを確信し、多くの方々に語り伝えて啓蒙していきたい。 次に登山の功徳の第二として、三業即三徳成就の功徳について述べると、本抄には、 「三業の悪転じて三徳を成ぜん」 と仰せのように、「三業」即ち身体と言葉と心で造る諸の悪業を転じて、仏の「三徳」即ち法身と般若と解脱の三つの徳を成就できることを示されている。 この「三業の悪」とは身・口・意の三つによる悪い行ないということで、煩悩・業・苦の迷いの三道からいえば、業道に属するものである。この三つが迷いの三道といわれる理由は、煩悩を因として悪い行ないをなし、そこに苦しみの結果を受けていくという、苦果に至る因果の筋道を明かす故である。初めの因となっている煩悩が、人間の本能や欲に基づいているため、三道から抜け出すことは容易なことではない。しかし『当体義抄』にも、 「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、云云」(御書六九四) と仰せのように、方便邪教を捨てて、正直に御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え、更に志を重ねて戒壇の大御本尊在(おわ)す総本山大石寺に参詣していくならば、煩悩は転じて智慧を開く般若の徳と現われ、業は転じて何ものにも縛られない自由自在な解脱の徳と現われ、苦しみは法の理に叶って清浄な仏の生命、即ち法身の徳と現れると説かれている。 つまり、本抄で仰せられる「三業の悪転じて三徳を成ずる」とは、衆生の迷いの三道に即して仏の悟りの三徳を現わすということであり、私たち末法の衆生が最勝・最尊の大御本尊に縁して、その身そのまま成仏できることを説いたお言葉である。 今、登山参詣の功徳として、罪障消滅と三業(三道)即三徳成就の功徳について述べたが、帰するところは宗旨及び本尊の根源となる本門戒壇の大御本尊への参詣の功徳となる。それはまた大御本尊の功徳そのものである。日寛上人は、戒壇の大御本尊の広大で深遠な功徳について、 「則ち祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕われざる無きなり」(観心本尊抄文段上 御書文段 一八九) と、大きく四点にまとめて仰せのように、罪障消滅と三業即三徳成就の功徳の他に、一切の願いが叶うことと福徳が招来する功徳について明かされている。 登山参詣には、このように私たち一人ひとりの過去の無始にまで遡(さかのぼ)って、全ての罪障を消滅させて生命を浄化し、のみならず現在世においては所願満足と福徳充満につつまれ、更に現世と来世に向かって仏の境界に安住するという大きな功徳が存するのである。人として生まれ、これほどの至福と歓びはないだろう。
次に、登山参詣するに当たって、どのようなことを心がけたらよいか、また何が大切なのか、いわゆる登山の精神について、阿仏房並びに本抄を賜わった南条時光殿の事例を通して少し述べたい。 阿仏房・千日尼夫妻の入信は、大聖人が佐渡に御流罪となってからであるから、文永八(一二七一)年の年末、阿仏房八十三歳の時である。それから丸三年後の文永十一(一二七四)年三月、大聖人は御赦免となって鎌倉にお帰りになり、その三ケ月後には身延に入山されている。阿仏房八十六歳の時である。 伝えられるところによると、阿仏房は弘安二(一二七九)年三月二十一日、九十一歳をもって亡くなるまで、八十六歳から九十一歳に至る六年間に佐渡より計三回登山しているといわれている。 御書には一々の登山についての記述はないが、九十歳の折、最後の登山となった弘安元年閏(うるう)十月十九日付けの千日尼に与えられたお手紙には、 「年々に夫を御使ひとして御訪(とぶら)ひあり」(千日尼御前御返事 御書一二九〇) とあるところより拝すると、少なくとも前年の建治三年(一二七七)にも登山されていることが分かる。 ところで、弘安元年の九十歳という高齢をもっての最後の登山は、まさに死を覚悟しての一人旅であっただろうと考えられるが、一体何が阿仏房をしてそこまで決意させたのであろうか。ここに私たちがよく言う阿仏房の登山の精神を垣間見ることができるのではないだろうか。 この時の登山は、同(弘安元)年七月二十八日付けの『千日尼御前御返事』(御書一二四八)によると、この年の七月六日に佐渡を出発し、同月二十七日の申(さる)の刻(夕方四時頃)に身延の庵室に到着している。阿仏房の足で佐渡から身延まで二十一日間(三週間)かかったということになる。 この時、阿仏房が生命を投げ出し、不惜身命の決意をもって一人で登山を断行した理由は、出発する一ケ月ほど前になるが、六月三日付けで大聖人より賜わった一通の短いお手紙によるものと考えられる。そのお手紙には、 「然るに正月より今月六月一日に至り連々此の病息(や)むこと無し。死ぬる事疑ひ無き者か」(阿仏房御返事・御書一二二九) と記されてある。 阿仏房は、大聖人自らの死の予告文に驚愕したことであろう。そして、「生きておられる内に、もう一度大聖人様にお会いしたい」との、大聖人への渇仰恋慕の思いが日に日に募っていったことであろう。 と同時に、長年念仏の信仰をしていたが、正法に帰依できた歓びとその大恩を大聖人に直接申し上げたい、との思いも日増しに膨らむばかりであり、この二つの思いが死を賭しての登山を決意させたのではないだろうか。 また、南条時光殿は、大聖人より「至急に登山参詣をするように」とのお言葉を賜わった時は、本抄の端書き(手紙の初めや末尾の添え書き、特に末尾の文は追而書(おってがき)などともいう)からも分かるように病中であった。しかも、それから五ケ月後の弘安五年二月二十八日付けの『法華証明抄』には、この時生死にかかわるほどの重病であったことから、半年前の病気の容態は、決して軽い状態ではなかったものと考えられる。 本抄の端書きには、 「いそぎ療治をいたされ候ひて御参詣有るべく候」 と仰せではあるが、一面からは、病中であればこそ登山参詣に奮励し妙法の大益に浴すべし、との大聖人の意も拝することができる。 また、私たちは経済的に厳しい等の理由をもって登山を躊躇することがある。そのことに対してどのように考えたらよいのだろうか。 時光殿は弘安四年の本抄のように、大聖人より登山参詣を強く勧められるお手紙を賜わっているが、その頃の時光殿の経済状態はいかがであったろうか。前(弘安三)年十二月の『上野殿御返事』には、 「わずかの小郷にをほくの公事せめてにあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかゝるべき衣(きぬ)なし」(御書一五二九) と仰せのように、弘安二年の熱原法難の折に、大聖人の弟子や同信の徒を匿(かくま)ったという咎めにより、幕府から、僅かの領地であるにもかかわらず、たくさんの税金が課せられていた。そのため、上野郷の地頭でありながら乗る馬もない、妻や子に着せる着物もないという中で、常に御供養を心がけ、大聖人及び御一門を外護し通されたのである。 このことから考えると、登山参詣も私たちの求道の志こそが大切なのであって、経済的に大変な中にあっても、「登山させて頂こう」との一念をもって、普段の生活を工夫し、やりくりをして、バス代・電車代等を捻出していくよう心がけていくべきではないだろうか。 登山参詣の原点は、大聖人をお慕い申し上げる渇仰恋慕の心と、大聖人・戒壇の大御本尊への報恩謝徳にあることを再び確認しよう。 そして「毎年度々の御参詣」と、大聖人のお言葉があるように、生涯一度でも多く登山をさせて頂き、大功徳に浴した信行と生活を送っていこうではないか。 「仏語虚しからず」である。登山参詣は必ず大功徳に浴することができるのである。 私たちは、戒壇の大御本尊に名を記された法華講の一人として、年に度々の登山をさせて頂き、大御本尊への御報恩と、広布を誓い、折伏を実践する信心の境界に住するよう、更なる精進をしていきたいものである。 |