「殺せ」はイズムなのか?イズムたり得るのか?

あるブログを読んでいてそんな感想を持ったが、結論的に言えば、ブログ主が大嫌い(であると予想する)な新左翼過激派がかつて「爆弾の時代に突入した」と「政治」集会で指導者クラスが発言したのと同程度のものだと思います。当時も熱狂的かつ圧倒的な「異議無し」コールで迎えられたものですが、結局「不発」に終わりましたね・・・・・

当時は誰しもが武装蜂起を考えていましたから、闘争の武装的発展という命題は「革マル派」以外の党派はたいていの場合抱えていたか、かなりの程度に意識していたと思います。 しかし、結局の処その「出発点」が間違っていたのですから、爆弾が「時代性」を獲得することなく、無辜の警察官やその家族を「死」に追いやるという無惨な結果のみを残すことになりました。合掌

さて、「殺せ」がイズムとして成立するか否かは、一つはその「出発点」から「殺せ」に致るプロセスを理論化する事が必要であり、また、他方で最終的に「運動体」としての目的=時代性の獲得を目指すのなら、その出発点そのものを常に検証していく必要もあります。

つまり、このブログ主に因れば、一般的に言う部落民などの「被」差別者や在日外国人などの社会的「弱」者が利権を中心に為政者を操り、国家の主人公たる日本人が「殺」されているから、弱者ならぬ社会的強者を「殺せ」、本来の主人公たる日本人を護らない為政者なら「殺せ」がイズムとして成立する、というロジックです。

筆者としては彼(等)の出発点が現象として、或いは「在り方」としての問題としてこの日本社会に存在する事は認めるにやぶさかではありませんが、それは日本の社会が抱える本質的な矛盾ではなく、極狭い切り口で取り出した問題を「それが全て」であるかのように描き出している点で一種のデマゴギーだと評価しています。

そして、デマゴギーを出発点とする「殺せ」はイズムたり得ず、同じく間違った出発点から時代性を獲得できなかった左翼過激派の「爆弾」闘争と同じ轍を踏む事になると考えています。 つまり、爆弾が「思想性」すら獲得できなかった経緯を振り返れば明らかなように、間違った出発点からは如何にあがこうとも正解にはたどりつけないと言うことです。