himeyuri

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headline アジア・太平洋戦争の末期、日米両軍は沖縄で住民を巻き込んだ地上戦を繰り広げました。日本軍は本土決戦の準備の時間を稼ごうと、米軍を沖縄にクギづけにする持久作戦を取り、地下壕にもぐって物量に勝る米軍に抵抗しました。米軍の艦砲射撃や砲爆撃による「鉄の暴風」は約3か月間つづき、軍民あわせて20万人以上の人々の命を奪いました。

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headline 1944(昭和19)年3月、日本軍は沖縄守備軍(第32軍)を編成し、部隊が続々と沖縄各地に駐屯するようになりました。校舎も兵舎として使用されるようになっていきます。生徒たちは、陣地構築、食糧増産作業へと動員され、授業は次第に少なくなっていきました。11月からは軍医による看護教育も始まり、陸軍病院への動員に備えるようになりました。

写真●食糧増産作業

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headline 沖縄戦当時、沖縄には21の男女中等学校がありました。沖縄戦では、これらすべての男女中等学校から学徒が戦場に動員されました。女子学徒は主に看護活動にあたり、男子学徒は上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成されました。沖縄の全学徒のうち、2000名余が戦場で亡くなりました。

01―沖縄師範学校男子部 師範鉄血勤皇隊
02―沖縄県立第一中学校 一中鉄血勤皇隊
03―沖縄県立第二中学校 二中鉄血勤皇隊
04―沖縄県立第三中学校 三中鉄血勤皇隊
05―沖縄県立農林学校 農林鉄血勤皇隊
06―沖縄県立水産学校 水産鉄血勤皇隊
07―沖縄県立工業学校 工業鉄血勤皇隊
08―那覇市立商工学校 商工鉄血勤皇隊
09―開南中学校 開南鉄血勤皇隊
10―沖縄県立宮古中学校 宮古中鉄血勤皇隊
11―沖縄県立八重山中学校 八重山中鉄血勤皇隊
12―沖縄八重山農学校 八重農鉄血勤皇隊 / 八重農女子学徒隊
13―沖縄師範学校女子部 ひめゆり学徒隊
14―沖縄県立第一高等女学校 ひめゆり学徒隊
15―沖縄県立第二高等女学校 白梅学徒隊
16―沖縄県立第三高等女学校 なごらん学徒隊
17―沖縄県立首里高等女学校 瑞泉学徒隊
18―積徳高等女学校 積徳学徒隊
19―昭和高等女学校 梯梧学徒隊
20―沖縄県立宮古高等女学校 宮古高女学徒隊
21―沖縄県立八重山高等女学校 八重山高女学徒隊

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 米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945(昭和20)年3月23日の深夜、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒は、18名の教師に引率されて、南風原の沖縄陸軍病院に向かいました。動員された生徒たちの中には、卒業式を目前に控えていた最上級生、疎開の希望が叶わなかった生徒、帰省先から学校に呼び戻されていた生徒もいました。この日に学校にいなかった生徒も自宅から南風原へ駆けつけるなどして加わり、動員された生徒の数は222名にのぼりました。

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headline 生徒たちが動員された沖縄陸軍病院は、那覇市の南東5キロ、南風原に位置したなだらかな丘にありました。丘の斜面に横穴が40近くも掘られ、むき出しの土壁に沿って粗末な二段ベッドがあるだけの施設が陸軍病院の病棟でした。生徒たちは各壕に分かれて働くことになりました。4月1日、米軍が沖縄本島に上陸すると、前線から負傷兵が次々と送られてくるようになりました。負傷兵は増えつづけ、生徒たちは寝る間もほとんどないまま、昼も夜も働き続けることになりました。
 病院壕の中は血と膿と排泄物の悪臭が充満し、負傷兵のうめき声と怒鳴り声が絶えませんでした。負傷兵の看護のほかに、水くみや食糧の運搬、伝令、死体埋葬なども生徒たちの仕事でした。それらの仕事は弾の飛び交う壕の外に出て行かなければならない、とても危険な任務でした。
 陸軍病院に動員されると聞いたとき、生徒たちは弾の飛んでこない、赤十字の旗が立てられた病棟で看護活動をするものだと思っていました。しかし現実は、前線同様、絶え間なく砲弾が飛び交う戦場でした。

写真●左:沖縄陸軍病院第二外科壕の内部 右:沖縄陸軍病院壕があった南風原の丘陵

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headline 5月下旬、米軍は日本軍司令部のある首里に迫ってきました。日本軍は米軍の本土上陸を遅らせるための持久作戦をとり、本島南部への撤退をはじめます。
 5月25日、陸軍病院にも撤退命令が出され、生徒たちは歩ける患者を連れ、傷ついた友人を担架で運び、薬品や書類を背負って、砲弾の中を本島南部へと急ぎました。連日の爆撃と降りつづく雨で、泥沼と化した本島南部への道は避難する住民や兵士があふれ、無数の死体が転がり、手足のない重傷者たちが泥の中をはいずり回っていました。
 各病院壕では、歩けない重症患者に毒薬などを与えました。重症を負った2人の学友は動かすことができず、南風原に残さざるをえませんでした。

写真●南部撤退の様子(ジオラマ)

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 南風原の陸軍病院や各分室から移動してきた教師や生徒は、沖縄本島南部の伊原周辺に集まってきていました。このあたりには沖縄の言葉で「ガマ」と呼ばれる自然洞窟がたくさんあり、その中に住民が避難していましたが、もとからいた住民たちは軍によってガマから追い出され、そこに軍や陸軍病院などが入りました。
 そのころの陸軍病院は、医療器具も医薬品もほとんどなく、病院としての機能を失っていました。負傷兵を収容するのに十分な壕もなく、学徒たちは砲弾の中、伝令や水くみ、食糧確保などにあたりました。

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headline 6月18日の夜半、陸軍病院では学徒に「解散命令」が言いわたされました。米軍が目の前にせまり砲弾が飛び交う中、生徒たちは壕を出て、自分の判断で行動しなければならなくなりました。
 6月下旬、沖縄守備軍壊滅状態のなか、牛島司令官は、生き残った全将兵に対して降伏を許さず、最後まで戦うことを命じて自決しました。司令官の自決以降も、米軍の攻撃から逃れることができず、多くの住民、兵士が亡くなっていきました。
 3月の動員から解散命令を受けるまでの約90日間のひめゆり学徒の犠牲者は19名であるのに対して、解散命令後のわずか数日で100名あまりが亡くなりました。

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headline 現在「ひめゆりの塔」が建っているガマは、陸軍病院第三外科が撤退後に入っていた壕で、「伊原第三外科壕」と呼ばれています。ここには、ひめゆり学徒を含む陸軍病院関係者、通信兵、住民などおよそ100名がいました。解散命令後の6月19日早朝、米軍のガス弾攻撃を受け、80名あまりが亡くなりました。

写真●ひめゆりの塔と伊原第三外科壕

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headline 解散命令を受けて壕を脱出した生徒たちは入る壕もなく、昼間はソテツやアダンの茂みに身をひそめながら、攻撃が弱まる夜間になると海岸へと向かいました。傷ついた体を引きずりながら逃げる者、負傷した学友を助けて歩いていく者、重傷で動けずにその場に倒れる者、砲弾に吹き飛ばされていく者、海岸で大波にのまれる者など、行き場を失い、父母の名を叫びながら死んでいく生徒が続出しました。生徒たちは米軍に捕まることをもっとも恐れ、手榴弾で自決した人もいました。
 6月20日から23日の間には多くの生徒が米軍に収容されましたが、なかには2カ月以上も逃げ回り、日本の降伏も知らずに8月22日になって収容された生徒もいました。

写真●荒崎海岸

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headline ひめゆり学徒が沖縄陸軍病院に動員された3月23日は、米軍の激しい空爆と艦砲射撃によって、沖縄中が大混乱におちいりました。そのため、自宅から通学していた生徒の中には、学校に駆けつけることができず、そのまま近所の駐屯部隊に協力したり、家族とともに行動した人もいました。陸軍病院に行かなかった多くの生徒も戦火に巻き込まれ、尊い命を失うことになりました。
 女師・一高女では、陸軍病院に動員されて亡くなった生徒と教師136名、動員以外で沖縄戦で亡くなった教師と生徒91名、合わせて227名が沖縄戦で命を落としました。

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