東日本大震災の津波で全校児童108人中68人が死亡、6人が不明の宮城県石巻市立大川小学校が、市教委に指示された津波時の避難所指定をしていなかったことが分かった。また、地震直後に防災無線が大津波警報の発令を告げ高台への避難を呼びかけたものの、避難先を巡って教員らの意見がまとまらなかった様子が卒業生らの証言で浮かび上がった。市教委は「避難所の未指定が先生たちを迷わせた一因。市教委も未指定を把握していなかった」と市教委、学校側の過失を認めた。【百武信幸】
市教委は、市内の小中学校に防災危機管理マニュアルを定め、津波時の高台避難所を指定するよう指示していた。しかし、震災後にチェックしたところ、大川小は避難所を指定していなかったという。市教委は「震災前に把握しておくべきだった。申し訳ない」と話している。
当時6年生だった女子中学生によると、地震があった3月11日午後2時46分、授業は終わっていたが、6年生は1週間後の卒業式の準備もあり、ほとんどが教室にいた。大きな揺れの後、校庭に集合し教員が点呼を取った。
市によると、防災無線放送が流れたのは午後2時52分。大川小には校庭にスピーカーがあった。中学生は「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」との無線を記憶している。その直後、悲鳴とともに子供たちから「もしかしたら俺ら死ぬんじゃねえの」「ここにいたらやばくない?」などと声が上がった。この時「山に逃げよう」という教員もいたという。
この中学生の母が車で迎えに来たのは午後3時前。車中のラジオが「6メートルの津波が来る」と流したため、着くなり6年の担任教諭に「津波が来るから山に逃げて」と訴えた。「『お母さん落ち着いて』となだめられた。子供を不安にさせないためだったのかもしれないが、もどかしかった」と母は振り返る。教員たちは迎えに来た保護者と帰る児童を名簿で照合する作業にも追われていた。
中学生は車で帰る前、学校に避難した住民と教員が避難先を話し合っていたのを見ている。「高いところへ行こう」との意見が出ていたが、避難先が決まったふうではなかったという。最終的には約200メートル西の新北上大橋たもとの交差点への避難を決めた。
校内の三つの時計は3時37分で止まっており、津波はその時間に校舎に到達したとみられる。当時学校にいた近所の男性によると、児童や先生が校庭を出て交差点に向かって裏山沿いの道を歩いていた時、前から来た津波にのまれた。とっさに裏山を駆け上がった児童たちが難を逃れた。
学校に一番近い高台は学校の裏山。なぜすぐに裏山に逃げなかったのか。保護者の多くがその1点に疑問を持っているが、詳細な経緯は不明だ。当時学校にいた教職員11人中、1人無事だった男性教員は震災後休職。4月9日の保護者説明会には出席し「校内を見回って校庭に戻ると児童らは移動を始めていた」と話した。
市の「防災ガイド・ハザードマップ」は大川小を避難所として「利用可」とする一方、高台の避難先を指定していなかった。当時不在だった柏葉照幸校長は震災後「裏山はつるつる足が滑るので階段を造れるといいなと教員間で話していた」と語っている。だが中学生の母は「子供が低学年のころから植物見学などでよく裏山に登っていた」と話し、他にも「裏山は滑らないし、低学年でも登れる」と話す保護者もいる。
記者も登ったが、低学年が登れないほど急な斜面ではないと感じた。だが、混乱状態の中、11人の大人が108人の子供全員を無事に登らせる確信を持つには、あらかじめ避難先に指定し、訓練も必要だったとも思える。
当時の様子を証言した中学生は「亡くなったみんなのためにもその時の本当のことを伝えたい」と話している。
毎日新聞 2011年6月4日 2時35分