☆本日限りの回答☆
○『微睡みのセフィロト』と『エスパーお蘭』につきまして。
不思議なメッセージがありました。
@ubukata_summitのタイムライン上のもので、見ると「フォロー1、フォロワー0、ツイート2」という、
ボットと同類の誰かが、ただ一言発信するためだけにアカウントを作った、何者でもない方のツイートです。
内容は以下の通りです。
「@ubukata_summit 『マルドゥック・フラグメンツ』のパクリ問題に付随して冲方先生の「微睡みのセフィロト」が平井和正の「エスパーお蘭」にそっくりでは?という問題も浮上してるようですがどうなんでしょう?」
はじめは意図がわかりませんでしたが、つまり「冲方丁も盗作をしているのだ」ということが言いたいのでしょう。
そもそも、『微睡みのセフィロト』が、徳間と早川から二度出版される過程で、何の指摘も抗議も受けていないにもかかわらず、ただの噂に対し、「公式」というのも、実におかしな考え方です。
なんであれ、答えは、読んでおりません。
僕は、バブル崩壊後になってようやく日本に住むようになりました。
それ以前の日本の出版物はおろか、日本のカルチャー自体、なかなか享受できなかったし、理解できなかった。美空ひばりが誰かもわからず、プラモデルが日本産であることもよくわかっていなかった。
帰国して間もなく影響を受けたのは、小説では夢枕獏先生と、栗本薫先生でした。
あまりにもお二人の作品の影響を受けすぎたため、デビュー作を書く際には、『上弦の月を食べる獅子』を鋸で真っ二つにし、『魔界水滸伝』を学校の焼却炉に放り込みました。今考えても何の意味もない行為ですが、そうでもしないと、一生、呪縛され続けると思っていたのでしょう。
『微睡みのセフィロト』を執筆する際に念頭にあったのは、子供の頃に読んだアメコミの「続き」を考える、ということでした。
突如として進化した新たな人類と、旧来の人類が争った、「その後の世界」を描きたかった。このことから、最も影響を受けたのは、まず間違いなく「X-MEN」でしょう。
しかし当時の僕にそこまでの実力はなく、そもそも『マルドゥック・スクランブル』を出版してもらえず、放浪していた時期でありました。そのため、徳間書店の編集部から「このような作品だったら出版できる」と、枚数から内容、シーン構成など、様々な指示・指摘を受けて書いたのが、『微睡みのセフィロト』です。
その過程で、『エスパーお蘭』というタイトルが出たことはありませんでしたし、早川で出版し直した際にも、参考書として意識して書こう、といった話はありませんでした。
今はただ、あのとき書き損なった「その後の世界」が、課題として残るばかりです。
しかしここで重要なのは、「読んでいない」という不勉強の自慢ではありません。
その昔、SF評論家である鏡明さんに、「SFをもっと読んだほうがいい」と言われ、不勉強を指摘されるのが嫌だった僕は、「山田正紀さんの『機神兵団』のアニメは見ました」と強弁し、「それ言ったら、あいつ泣くよ」と笑われたことがあります。
それでも、そうした隔世の間隙においても、受け継がれるものはあるのです。
僕は、『ブレードランナー』を知りませんでした。
けれども、『サイレントメビウス』で描かれた、あのランドスケープやギミックを通して、SFならではの退廃と高揚に満ちた世界を知るきっかけを得ました。
僕が「ESP」という言葉を見て、何の意味かすぐわかるのは、『ファイア・スターター』と『僕の地球を守って』のお陰です。
いわば平井和正先生は、僕にとって、第一世代です。
直接は知らないものの、第二世代として活躍された方々が、第三世代である僕に、第一世代が生んだ素晴らしいものごとを伝えてくれましたし、今も伝え続けてくれているのです。
僕は、『エスパーお蘭』を読んだことはありません。
しかし、つながっているはずですし、つながるよう、努力すべきなのです。
なぜなら、いつか、僕の次に来ている第四世代に、なるべく多くの遺産を受け継がせねばならないからです。
不思議な問いかけに対する、おかしな回答は以上です。
ところで。
僕にも、今回の問いを投げかけたあなたに、質問が二つあります。
あなたは、読者ですか?
「オオカミが来た」とわめくのが楽しいだけで、僕や平井和正先生、『微睡みのセフィロト』や『エスパーお蘭』に、本当は何の興味もないのではないですか?
おそらく、最初に平井和正先生や出版社に、同じようなメッセージを投げつけたものの、相手にされなかったか、思った通りの事態にならなかったため、仕方なく僕のところにやって来たのでしょう。加害者であることを認めさせる前に、まず普通は、被害者の怒りを煽ろうとするはずだからです。
しかも、対話を拒絶し、最初から誰とも何の関係も持とうとせず、「公式」を要求しながら自分は匿名のメッセンジャーになりすましながら。
そういうあなたの問いかけに、律儀に返答している僕は、とびきりの愚か者ということになるでしょう。
ただし、「公式」の見解として、一つだけ述べさせていただきます。
ここ一連の出来事の中で、あなたが最も悪質です。
くだんの賞を取り消された方は、確かに様々な点で咎められるべきでした。
けれども、事が起これば罰を受ける場に、自ら望んで立っていたのです。それが彼の良心でなくてなんでしょうか。
あなたは、最初からどこにもいません。
僕は、あなたを読者とは思いません。
「業界への貢献、クリエイターの利益、読者が享受すべき喜び」僕が学び、守るべきこれらの中のどこにも、あなたはいません。
このブログや公式ツイッターは、読者と作品の架け橋の場です。
今後、読者ではない方の問いかけに、僕が答えることは二度とないでしょう。
人は、喜びを求めるだけでなく、選ぶことができます。
ボタン一つで何かを操作する喜びも、全身全霊をかけて何かを成し遂げる喜びも、自分の姿を隠したまま他人が傷つく場面に参加したくて仕方ない喜びも。
どれも、人の喜びです。
喜びを選んで下さい。
2011年7月18日月曜日
2011年7月17日日曜日
【さておき】☆本日のお知らせ☆【仕事しなきゃ】
○《2011大学読書人大賞》受賞メッセージ 紀伊國屋書店さん
http://www.kinokuniya.co.jp/20110712205318.html
遅ればせながら、大学読書人大賞、本当にありがとうございます。
若い読者の熱意にふれることができて、とても嬉しかったです。
全てのプレゼンターと賞の運営に携わる方々に、御礼申し上げますとともに、ぜひその熱意を育て続けて下さることを念願いたします。
○映画『天地明察』撮影見学
近々、撮影を見学させていただくことになりました。
なんと撮影スタッフの方から、特製台本カバーとディレクターズチェアまで用意していただいてしまいました。恐縮です。
それにしても滝田組の一人一人の熱気と個性にびっくり。あまりに素晴らしすぎて、許可が出るものなら、「本日の一言」でご紹介したいくらいです。
見学の様子は、近々、開設予定の光圀伝HPなどでご紹介するかも。お楽しみに!
○《2011大学読書人大賞》受賞メッセージ 紀伊國屋書店さん
http://www.kinokuniya.co.jp/20110712205318.html
遅ればせながら、大学読書人大賞、本当にありがとうございます。
若い読者の熱意にふれることができて、とても嬉しかったです。
全てのプレゼンターと賞の運営に携わる方々に、御礼申し上げますとともに、ぜひその熱意を育て続けて下さることを念願いたします。
○映画『天地明察』撮影見学
近々、撮影を見学させていただくことになりました。
なんと撮影スタッフの方から、特製台本カバーとディレクターズチェアまで用意していただいてしまいました。恐縮です。
それにしても滝田組の一人一人の熱気と個性にびっくり。あまりに素晴らしすぎて、許可が出るものなら、「本日の一言」でご紹介したいくらいです。
見学の様子は、近々、開設予定の光圀伝HPなどでご紹介するかも。お楽しみに!
ラベル:
本日のお知らせ
2011年7月15日金曜日
本日のお知らせ
☆本日のお知らせ☆
『マルドゥック・フラグメンツ』内収録短編と、ある漫画賞受賞作品との間で生じた問題につきましてコメントいたします。
※主文※
関係者からご連絡をいただき、すでに賞を運営されている編集部と、描き手の方、双方より、謝罪文を公表する意志を示していただいております。
そもそも、攻撃的な悪意があっての行いではなく、先方の迅速な対応があったことから、その後の早川サイドと先方との話し合いが穏便に進む限り、僕から何かを申し立てる、というようなことはありません。
また、インターネット上で非難されるなど、すでに編集部および描き手の両サイドが、いわゆる「社会的警告」を十分に受けているとのことです。
よって、今後は一件がスムーズに収束し、むやみと尾ひれがつかぬこと、関係者全員の成長の機会となれることを切に望みます。
また、僕自身も今回の一件を、より良い作品作り・業界作りのためのヒントの一つとして受け止めたいと思います。
※今件の試案※
重要なのは、作品が類似することそのものではありません。
多少、キャラが似ようが、語彙が似ようが、物語の展開が似ようが、作風が似ようが、正当な作品作りをしている限り、誰も問題にしません。
そうではなく、「ある人が正当な対価を得るのを、邪魔する可能性を作る」こと、これが今回の問題の核心であったと考えます。
作品を世に出す過程で、多くの人間が労力を費やし、時間を割き、アイディアを振り絞っております。
そうした人々にこそ、対価が支払われるべきである、と考えるのは自然なことでしょう。そうでなければ、誰も、作品作りを本業にしたいとは思わなくなります。
そのような対価を侵害し、正当な報酬を受け取ることができない人々を作ってしまう可能性こそ、「著作権侵害」として咎められるべきものなのです。
マルドゥック・シリーズにつきましては、今なお早川書房の編集者が非常な労力を費やしており、さらには漫画が連載中であり、アニメ作品が製作中であり、主要参加者だけでも延べ100人以上にのぼっております。
その全員が、作品に尽力している最中であることから、原作者としては、まず第一に、彼ら参加者たちの正当な対価を守る態度を取らねばなりません。
ですから、
「作ってしまったのだから後付けで原作権を貸与する」
「引用を黙認あるいは追認して販売に賛成する」
といったことは、現状の僕自身、許されていないのです。
もしこれが今から二十年後であったならば、違う態度を取ったかもしれません。70ページ超もの紙面を絵で埋めることが、どれほど労力がかかることか、よく存じております。
しかし今回は、はるかに巨大で長期にわたる労力を費やしている人々がおり、僕もふくめ、いかなる対価の侵害も許されない状況にある、という点を、重ねて、各関係者および読者の方々に、ご承知いただきたい次第です。
ただし。
更にこの上、記者会見や賠償や雑誌回収といった、攻撃的制裁をはかるのは、明らかに過剰反応であり、そんな馬鹿げた主張をしたところで、何ら良い結果になりません。
今後、編集部と描き手が全ての言い訳を棄て、修練に励み、最高に独創的で面白い作品を発表せねばならない、というハードルの高さこそ、何よりの試練となり、ひるがえって業界の健全な活発化の良い契機になると考えます。
※さらに試案※
もちろん、上記のような考え方を前提としつつ、むしろ過去の作品と類似したもの、引用を積極的に行うものが、歓迎される場合もあります。
状況によって千差万別ですが、主に、次の三つのパターンが考えられます。
第一に、競合作品をあえて出すことで、シェアに食い込もうとする場合。
第二に、時代風潮やジャンルを分析することで、必然的に互いの作品が似てくる場合。
第三に、意図的にパロディやオマージュを仕掛ける場合。
いずれの場合も、編集者やプロデューサー、あるいは制作者の狙いがあり、状況も千差万別で、ときに争いも起こります。場合によっては、制作陣の内部で反発が起こることすらあります。しかしその争いが、建設的な競争である限り、必ず良い結果につながってゆきます。
その暗黙の大原則こそ、「業界の活発化」であるというのが冲方の態度です。
競争があるからこそ、どの作品も洗練され、分析力が高まり、過去から現在へのジャンルの歴史が浮き彫りになる。そして、おのずと業界の注目度が高くなり、買い手が増える。結果、業界に参加する全員の、利益を得る機会が増える。
たとえ一社・一者の独占的な状態が、一時的には利益をもたらしてくれるとしても、その状態をいつまでも維持できるわけではありません。むしろ多数の参加者があることによって、発展的な成長があると考えます。
ただしそうした活発化には、様々な大前提があり、その一つが先述の「正当な対価の保障」、そしてまた一つが「新しい視点」です。
あまりに類似した作品群が多くなると、当然のことながら買い手は飽きてまったく買わなくなるか、もしくは少数の作品に傾倒し、他はかえりみなくなります。どれを見ても似ているなら、労力を少なくするため、少数作品から他を類推するようになるのが自然な成り行きです。
そのような「飽き」を吹き飛ばす「新しい視点」を提供して行くことが、昨今では大いに求められているように感じます。そのための類似であるならば、むしろ歓迎されることになるでしょう。とはいえ、それはきわめて困難なニーズであり、努力と失敗を何度も重ねることでしか、応えることはできません。
※もうちょっと試案※
しかし一方で、上記に属さない、第四のパターンが、いまや大きな認知を得ている状況にあります。
インターネットや即売会といった発表の場の多様化、アプリケーションや印刷・編集技術による表現の容易さによって、既存の作品を流用したマッド作品や同人誌の流通が増大し、多くの観客の心をつかむことに成功しました。
これも状況次第ではありますが、多くは、
「広告効果」
「ファン同士の交流」
「セミプロの育成の場」
という三つの点で、多少なりとも業界に貢献しているとみなされる限り、原作サイドから黙認されるか、むしろ喜ばれる傾向にあります。
ですが、そもそもなぜそうなったかと言えば、単にインターネットや同人誌といったものに関する法制度が、空白だらけだったからでしょう。
いわば、だだっ広い草原を、みながめいめいに動き回り、家を建てたり、車を走らせたりしている状態で、どうしようもなかった、というのが現実だと考えます。
いずれ衝突事故の多い場所から「交通整理」が行われてゆくでしょうが、まだしばらくは、「抜け道だらけの巨大な空き地」とみなすしかありません。
そして、あまりにその空き地が広々としているものだから、「空き地の外」までもが、同じような状態である、と信じてしまう傾向が生じるようになったのではないでしょうか。
今この時代、プロになるとは、まずそうした「空き地」を棄てることを意味するようになってきていると感じます。
「空き地」を出て、新たに入るのは、建設に建設が重ねられた、より巨大な場です。
過去何十年もの間、とてつもない数の人々が、本当に信じがたい努力を費やして築いてきた場所です。
しかも、様々な条件に従って、はじめて参入できるそこは、厳しく、複雑で、報われることが少なく、理不尽な戦いを永遠に続けねばならない場です。
もちろん、そこでしか得られない、素晴らしい喜びと学びに満ちていることも確かです。しかしプロになってのち喜びと学びを享受できるかどうかは、誰にもわかりません。
他方、「空き地」は、今後ますます、豊かで、面白く、刺激のある場になるでしょう。
ときに自分を育て、鼓舞し、癒してくれる大切な場になるに違いありません。
万人に解放されており、いつでも自分に共感してくれる誰かがいて、自分が好きなものに没頭できます。自分が何かを作るための材料も手段も惜しみなく与えられ、アイディアを実行に移すことを止められたり、実現を妨げられたり、様々に条件を課されることなど、ほとんどありません。
黙って座っていても、次々にどこかで生まれた斬新なアイディアを受け取れるし、誰かが作ってくれた何かを好きなだけ享受できます。
どんなものに対しても、共感するかどうか気ままに決められ、どんな野放図な考えを抱いてもよく、思いついたこと全て、いつだって好きなように発表できます。
本当に、誰にとっても生き甲斐となれるような、素晴らしい、愛しい場所です。
だからこそ、そこで学んだ自由さが、絶対的な基準になってしまうことがあるのでしょう。
さて。
その愛しい場所を去れますか?
豊かな空き地で充実していられた日々の一切合切をなげうち、自由を背後に置き去りにして二度とかえりみず、ただ愚直に、約束されない喜びと学びを求めて、孤独な不自由の道を、選んで歩み続けることができますか?
そんな問いが、今後あらためて、あらゆるプロ志願者たちに、そして僕自身に、課されるようになるかもしれません。
冲方は、けっこうそんな気がしております。
『マルドゥック・フラグメンツ』内収録短編と、ある漫画賞受賞作品との間で生じた問題につきましてコメントいたします。
※主文※
関係者からご連絡をいただき、すでに賞を運営されている編集部と、描き手の方、双方より、謝罪文を公表する意志を示していただいております。
そもそも、攻撃的な悪意があっての行いではなく、先方の迅速な対応があったことから、その後の早川サイドと先方との話し合いが穏便に進む限り、僕から何かを申し立てる、というようなことはありません。
また、インターネット上で非難されるなど、すでに編集部および描き手の両サイドが、いわゆる「社会的警告」を十分に受けているとのことです。
よって、今後は一件がスムーズに収束し、むやみと尾ひれがつかぬこと、関係者全員の成長の機会となれることを切に望みます。
また、僕自身も今回の一件を、より良い作品作り・業界作りのためのヒントの一つとして受け止めたいと思います。
※今件の試案※
重要なのは、作品が類似することそのものではありません。
多少、キャラが似ようが、語彙が似ようが、物語の展開が似ようが、作風が似ようが、正当な作品作りをしている限り、誰も問題にしません。
そうではなく、「ある人が正当な対価を得るのを、邪魔する可能性を作る」こと、これが今回の問題の核心であったと考えます。
作品を世に出す過程で、多くの人間が労力を費やし、時間を割き、アイディアを振り絞っております。
そうした人々にこそ、対価が支払われるべきである、と考えるのは自然なことでしょう。そうでなければ、誰も、作品作りを本業にしたいとは思わなくなります。
そのような対価を侵害し、正当な報酬を受け取ることができない人々を作ってしまう可能性こそ、「著作権侵害」として咎められるべきものなのです。
マルドゥック・シリーズにつきましては、今なお早川書房の編集者が非常な労力を費やしており、さらには漫画が連載中であり、アニメ作品が製作中であり、主要参加者だけでも延べ100人以上にのぼっております。
その全員が、作品に尽力している最中であることから、原作者としては、まず第一に、彼ら参加者たちの正当な対価を守る態度を取らねばなりません。
ですから、
「作ってしまったのだから後付けで原作権を貸与する」
「引用を黙認あるいは追認して販売に賛成する」
といったことは、現状の僕自身、許されていないのです。
もしこれが今から二十年後であったならば、違う態度を取ったかもしれません。70ページ超もの紙面を絵で埋めることが、どれほど労力がかかることか、よく存じております。
しかし今回は、はるかに巨大で長期にわたる労力を費やしている人々がおり、僕もふくめ、いかなる対価の侵害も許されない状況にある、という点を、重ねて、各関係者および読者の方々に、ご承知いただきたい次第です。
ただし。
更にこの上、記者会見や賠償や雑誌回収といった、攻撃的制裁をはかるのは、明らかに過剰反応であり、そんな馬鹿げた主張をしたところで、何ら良い結果になりません。
今後、編集部と描き手が全ての言い訳を棄て、修練に励み、最高に独創的で面白い作品を発表せねばならない、というハードルの高さこそ、何よりの試練となり、ひるがえって業界の健全な活発化の良い契機になると考えます。
※さらに試案※
もちろん、上記のような考え方を前提としつつ、むしろ過去の作品と類似したもの、引用を積極的に行うものが、歓迎される場合もあります。
状況によって千差万別ですが、主に、次の三つのパターンが考えられます。
第一に、競合作品をあえて出すことで、シェアに食い込もうとする場合。
第二に、時代風潮やジャンルを分析することで、必然的に互いの作品が似てくる場合。
第三に、意図的にパロディやオマージュを仕掛ける場合。
いずれの場合も、編集者やプロデューサー、あるいは制作者の狙いがあり、状況も千差万別で、ときに争いも起こります。場合によっては、制作陣の内部で反発が起こることすらあります。しかしその争いが、建設的な競争である限り、必ず良い結果につながってゆきます。
その暗黙の大原則こそ、「業界の活発化」であるというのが冲方の態度です。
競争があるからこそ、どの作品も洗練され、分析力が高まり、過去から現在へのジャンルの歴史が浮き彫りになる。そして、おのずと業界の注目度が高くなり、買い手が増える。結果、業界に参加する全員の、利益を得る機会が増える。
たとえ一社・一者の独占的な状態が、一時的には利益をもたらしてくれるとしても、その状態をいつまでも維持できるわけではありません。むしろ多数の参加者があることによって、発展的な成長があると考えます。
ただしそうした活発化には、様々な大前提があり、その一つが先述の「正当な対価の保障」、そしてまた一つが「新しい視点」です。
あまりに類似した作品群が多くなると、当然のことながら買い手は飽きてまったく買わなくなるか、もしくは少数の作品に傾倒し、他はかえりみなくなります。どれを見ても似ているなら、労力を少なくするため、少数作品から他を類推するようになるのが自然な成り行きです。
そのような「飽き」を吹き飛ばす「新しい視点」を提供して行くことが、昨今では大いに求められているように感じます。そのための類似であるならば、むしろ歓迎されることになるでしょう。とはいえ、それはきわめて困難なニーズであり、努力と失敗を何度も重ねることでしか、応えることはできません。
※もうちょっと試案※
しかし一方で、上記に属さない、第四のパターンが、いまや大きな認知を得ている状況にあります。
インターネットや即売会といった発表の場の多様化、アプリケーションや印刷・編集技術による表現の容易さによって、既存の作品を流用したマッド作品や同人誌の流通が増大し、多くの観客の心をつかむことに成功しました。
これも状況次第ではありますが、多くは、
「広告効果」
「ファン同士の交流」
「セミプロの育成の場」
という三つの点で、多少なりとも業界に貢献しているとみなされる限り、原作サイドから黙認されるか、むしろ喜ばれる傾向にあります。
ですが、そもそもなぜそうなったかと言えば、単にインターネットや同人誌といったものに関する法制度が、空白だらけだったからでしょう。
いわば、だだっ広い草原を、みながめいめいに動き回り、家を建てたり、車を走らせたりしている状態で、どうしようもなかった、というのが現実だと考えます。
いずれ衝突事故の多い場所から「交通整理」が行われてゆくでしょうが、まだしばらくは、「抜け道だらけの巨大な空き地」とみなすしかありません。
そして、あまりにその空き地が広々としているものだから、「空き地の外」までもが、同じような状態である、と信じてしまう傾向が生じるようになったのではないでしょうか。
今この時代、プロになるとは、まずそうした「空き地」を棄てることを意味するようになってきていると感じます。
「空き地」を出て、新たに入るのは、建設に建設が重ねられた、より巨大な場です。
過去何十年もの間、とてつもない数の人々が、本当に信じがたい努力を費やして築いてきた場所です。
しかも、様々な条件に従って、はじめて参入できるそこは、厳しく、複雑で、報われることが少なく、理不尽な戦いを永遠に続けねばならない場です。
もちろん、そこでしか得られない、素晴らしい喜びと学びに満ちていることも確かです。しかしプロになってのち喜びと学びを享受できるかどうかは、誰にもわかりません。
他方、「空き地」は、今後ますます、豊かで、面白く、刺激のある場になるでしょう。
ときに自分を育て、鼓舞し、癒してくれる大切な場になるに違いありません。
万人に解放されており、いつでも自分に共感してくれる誰かがいて、自分が好きなものに没頭できます。自分が何かを作るための材料も手段も惜しみなく与えられ、アイディアを実行に移すことを止められたり、実現を妨げられたり、様々に条件を課されることなど、ほとんどありません。
黙って座っていても、次々にどこかで生まれた斬新なアイディアを受け取れるし、誰かが作ってくれた何かを好きなだけ享受できます。
どんなものに対しても、共感するかどうか気ままに決められ、どんな野放図な考えを抱いてもよく、思いついたこと全て、いつだって好きなように発表できます。
本当に、誰にとっても生き甲斐となれるような、素晴らしい、愛しい場所です。
だからこそ、そこで学んだ自由さが、絶対的な基準になってしまうことがあるのでしょう。
さて。
その愛しい場所を去れますか?
豊かな空き地で充実していられた日々の一切合切をなげうち、自由を背後に置き去りにして二度とかえりみず、ただ愚直に、約束されない喜びと学びを求めて、孤独な不自由の道を、選んで歩み続けることができますか?
そんな問いが、今後あらためて、あらゆるプロ志願者たちに、そして僕自身に、課されるようになるかもしれません。
冲方は、けっこうそんな気がしております。
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本日のお知らせ
2011年7月14日木曜日
☆【ブログ】本日のお知らせ【復活】☆
震災後のスケジュール調整に明け暮れつつ、そろそろブログのほうも再開しようよ、というお達しゆえ久々にUP(゜Д、゜)
皆様の熱意をいただき、お陰様で三ヶ月連続イベント&蒼穹作戦も大盛況となりました。
8月下旬の「ポーカー対決・頂上決戦」、ぜひお楽しみに。勝ちます(゜Д、゜)
☆☆映画『天地明察』☆☆
先月、クランクイン時に京都にて「お祓い」に参加しました。
滝田監督をはじめ、主演のお二方、角川書店会長、社長、スタッフ総勢100名近い参列の中、初めてのお祓い体験のせいか、朝から異様に緊張しっぱなし。
「祓い給え、清め給え」の言葉に、すーっと心が洗われるのを感じました。
大勢の役者勢・スタッフ勢が力を結集する中、どうか一人の怪我人もなく、病気事故に遭うことなく、健やかに充実した撮影になるようお祈り申し上げます。
お祓いののち、「カツラ合わせ」と「衣装合わせ」に参加。
そのままの頭で撮影所内を散策。
なぜカツラか……? 理由は、まだ内緒でござる。
ぶらりと江戸の下町を散策してソウロウ。
震災後のスケジュール調整に明け暮れつつ、そろそろブログのほうも再開しようよ、というお達しゆえ久々にUP(゜Д、゜)
皆様の熱意をいただき、お陰様で三ヶ月連続イベント&蒼穹作戦も大盛況となりました。
8月下旬の「ポーカー対決・頂上決戦」、ぜひお楽しみに。勝ちます(゜Д、゜)
☆☆映画『天地明察』☆☆
先月、クランクイン時に京都にて「お祓い」に参加しました。
滝田監督をはじめ、主演のお二方、角川書店会長、社長、スタッフ総勢100名近い参列の中、初めてのお祓い体験のせいか、朝から異様に緊張しっぱなし。
「祓い給え、清め給え」の言葉に、すーっと心が洗われるのを感じました。
大勢の役者勢・スタッフ勢が力を結集する中、どうか一人の怪我人もなく、病気事故に遭うことなく、健やかに充実した撮影になるようお祈り申し上げます。
お祓いののち、「カツラ合わせ」と「衣装合わせ」に参加。
そのままの頭で撮影所内を散策。
なぜカツラか……? 理由は、まだ内緒でござる。
ぶらりと江戸の下町を散策してソウロウ。
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本日のお知らせ
2011年5月14日土曜日
☆マルドゥック・スクランブル劇場第二部「燃焼」イベント☆
5月8日のイベントにご来場いただきました方々に大感謝です!
差し入れを下さったお客様、翌日のキャスティング会議にてみんなで美味しくいただきました!ありがとうございます!
イベントは連続して毎月行われる予定です。
ぜひご来場下さいませ!
お陰様でモチベーションUPなものの、イベント翌日に発熱・咳・嘔吐・謎の背痛でダウン。
最近、体が弱いぞ自分。本格的に鍛え直さねば(゜Д、゜)
5月8日のイベントにご来場いただきました方々に大感謝です!
差し入れを下さったお客様、翌日のキャスティング会議にてみんなで美味しくいただきました!ありがとうございます!
イベントは連続して毎月行われる予定です。
ぜひご来場下さいませ!
お陰様でモチベーションUPなものの、イベント翌日に発熱・咳・嘔吐・謎の背痛でダウン。
最近、体が弱いぞ自分。本格的に鍛え直さねば(゜Д、゜)
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2011年4月24日日曜日
☆本日のいただきもの☆
『100,000年後の安全』
http://www.uplink.co.jp/100000/
日系エンターテイメントさんを経て、UPLINKさんよりサンプルDVDをいただきました。
ありがとうございます。
これは人類社会が経験する、最も「永い物語」である。
フィンランドで建設が進められている、放射性廃棄物の永久処分場「オンカロ」。
その巨大な地下都市のごとき施設の役割は、集積された放射性廃棄物が安全になるまで、人々を遠ざけ、忘れ去られること。
その想定期間は、実に10万年。
この映画が教えてくれるのは、原子力発電というものがいったい人類にどのような課題をもたらしたか、ということだ。
原子力発電というものを真剣に考えたとして、我々にはどこまで「考える能力」があるのか?
10万年。ネアンデルタール人から、今の人類へ「世代交代」するまでと、ほぼ同程度の時間だ。
そんな巨大な時間を、現代の社会問題として扱った経験など、誰にもあるはずがない。ネアンデルタール人にまで遡ったところで、一人もいないだろう。ましてや10万年もの間、機能を保ち続けた建造物など、この地球上に存在した試しがない。
だが原子力発電によって生まれる放射性廃棄物は、我々に、想像を絶する問いかけをもたらした。
10万年後のことにまで、我々は責任を負うべきなのだろうか?
このドキュメンタリー映画に登場するのは、「YES」と答えた人々だ。そして彼らこそ、人類が今後経験するあらゆる物事の中で、「最も永い物語」に挑んだ、最初の人々になるだろう。
映画を見終わって考えさせられたのは、今の「原発反対か、賛成か」という議論が、いかに未知の問題を棚上げしているか、ということだ。
多くの人々は、数カ国、数十年といった程度のスパンでしか考えていない。僕自身もそうだ。というより、それが大半の人々にとっての限界だろう。
そして、そうした限界をあざ笑うかのように、原子力発電所の「安全」は、多くのものごとが確実であるにもかかわらず、どう対処すべきかは決まっていない。
最終処分を行わなければならない放射性廃棄物の恒久的な処分方法は、先進諸国でも決まっていないか、実施されていない。
インドや中国や中東地域といった世界中の国々が、西欧先進国と同じ電力量を消費できるようになるには、原子力発電所があと千基かそこらは必要になるらしい。そしてそうした国々の中には、戦争で原子力発電所が破壊される可能性のある地域が少なからずふくまれている。
いずれ石油と同じように、ウランも尽きるが、その後の代替エネルギーは想定されていない。放射性廃棄物を再利用する技術は存在するが、それによって生じるプルトニウムなど、核兵器に転用できる物質の問題は解決されていない。
「地層処分」というフィンランドの決定の背景には、こうした問題を「本当に考えた」とき、想像を絶する課題が待ちかまえているという事実がある。
あなたは10万年後の未来を「考える」ことができるだろうか。
10万年後の未来に、責任を持つべきだと考えるだろうか。
そして、10万年後の人類を、信頼できるだろうか。
『100,000年後の安全』
http://www.uplink.co.jp/100000/
日系エンターテイメントさんを経て、UPLINKさんよりサンプルDVDをいただきました。
ありがとうございます。
これは人類社会が経験する、最も「永い物語」である。
フィンランドで建設が進められている、放射性廃棄物の永久処分場「オンカロ」。
その巨大な地下都市のごとき施設の役割は、集積された放射性廃棄物が安全になるまで、人々を遠ざけ、忘れ去られること。
その想定期間は、実に10万年。
この映画が教えてくれるのは、原子力発電というものがいったい人類にどのような課題をもたらしたか、ということだ。
原子力発電というものを真剣に考えたとして、我々にはどこまで「考える能力」があるのか?
10万年。ネアンデルタール人から、今の人類へ「世代交代」するまでと、ほぼ同程度の時間だ。
そんな巨大な時間を、現代の社会問題として扱った経験など、誰にもあるはずがない。ネアンデルタール人にまで遡ったところで、一人もいないだろう。ましてや10万年もの間、機能を保ち続けた建造物など、この地球上に存在した試しがない。
だが原子力発電によって生まれる放射性廃棄物は、我々に、想像を絶する問いかけをもたらした。
10万年後のことにまで、我々は責任を負うべきなのだろうか?
このドキュメンタリー映画に登場するのは、「YES」と答えた人々だ。そして彼らこそ、人類が今後経験するあらゆる物事の中で、「最も永い物語」に挑んだ、最初の人々になるだろう。
映画を見終わって考えさせられたのは、今の「原発反対か、賛成か」という議論が、いかに未知の問題を棚上げしているか、ということだ。
多くの人々は、数カ国、数十年といった程度のスパンでしか考えていない。僕自身もそうだ。というより、それが大半の人々にとっての限界だろう。
そして、そうした限界をあざ笑うかのように、原子力発電所の「安全」は、多くのものごとが確実であるにもかかわらず、どう対処すべきかは決まっていない。
最終処分を行わなければならない放射性廃棄物の恒久的な処分方法は、先進諸国でも決まっていないか、実施されていない。
インドや中国や中東地域といった世界中の国々が、西欧先進国と同じ電力量を消費できるようになるには、原子力発電所があと千基かそこらは必要になるらしい。そしてそうした国々の中には、戦争で原子力発電所が破壊される可能性のある地域が少なからずふくまれている。
いずれ石油と同じように、ウランも尽きるが、その後の代替エネルギーは想定されていない。放射性廃棄物を再利用する技術は存在するが、それによって生じるプルトニウムなど、核兵器に転用できる物質の問題は解決されていない。
「地層処分」というフィンランドの決定の背景には、こうした問題を「本当に考えた」とき、想像を絶する課題が待ちかまえているという事実がある。
あなたは10万年後の未来を「考える」ことができるだろうか。
10万年後の未来に、責任を持つべきだと考えるだろうか。
そして、10万年後の人類を、信頼できるだろうか。
ラベル:
※本日のいただきもの※
2011年4月19日火曜日
【みな】本日の一言【粛々と】
余震が続く中、急速な回復を継続しているライフライン。
これが日本の底力なのだと感動を覚えます。
自衛隊・警察・消防・海上保安庁の尽力と同じく、物資流通の回復維持を果たす一人一人もまた、復興の第一歩を我々に示してくれる、英雄的存在でありましょう。
にもかかわらず。
いまだ家族を自宅に戻せないまま、一人で東京・福島・北海道を行ったり来たり。
長引く原発災害は、かつてない長期戦を住民にしいており、家族が離ればなれになるケースが増える一方です。
「夏もこの格好なのかなあ」
福島の小学生たちのぼやき。本屋さんにて。春の陽気にもかかわらず、頭からレインコートをすっぽりかぶり、マスクと手袋をし、ふうふう息苦しそうな様子である。「なるべく体を覆って下さい」という専門家の指示に、親は従わざるをえない。明白な危険に対処するのではなく、不確実な安全対策を延々と続けさせられることは、想像以上のストレスをもたらす。
子供をそんな格好でしか外出させられない今の状況に、いたたまれなさを感じる。
「本日の環境放射線測定値です」
ラジオの天気予報にて。もはやSFである。「風向きに注意して下さい」と言われたところでなすすべとてない。本当にその数値が正しいのか、誰が計測したのか、疑い出せばきりがない。
「一元化と多元化」
地震・津波と、原発災害、何が最も違うのか。
地震や津波においては情報もその意味合いも一元化されてゆく。誰も「津波は十センチまでなら安全です」とは言わない。「近くにある電信柱にしがみつけば大丈夫です」といった場当たり的な対処法を示したりしない。「津波が発生する確率が10%以下なら安心して港での仕事を続けよう」とは考えない。全て「危険だから待避して下さい」である。
しかし原発災害においては今もバラバラで、場当たり的で、意味不明なまでに多元的だ。
何が安全なのかもわからない。日によって状況が変わり、しかも日本と世界の専門家の意見が一致することのほうが珍しい。地震や津波の際に大活躍したツイッターやソーシャル・ネットワークも、原発災害に関しては矛盾する情報ばかりで、具体的な対策効果に乏しい。
汚染という言葉の一人歩きも激しく、人々の気分で、状況の評価も変わってしまう。
こうしたことに、とにかく耐えねばならない。
こんなに疲れる災害はない。
「(子供が)汚染されていないことを示す証明書を提出して下さい」
茨城県つくば市。どうやら、福島から避難した子供が、避難先の学校に転入する際に証明しなければならないらしい、とのこと。「福島の子供は放射線を出すに違いない」とでも思っているのであろうか。
こうした、教育の現場での公序良俗軍団による見当違いな私的発砲は、いたずらに人を傷つけるだけで何の益もなく、今後ますます広まらないことを願うばかりである。
実際にそんな馬鹿げた証明書が作成されたかどうかはわからないが、こうした風聞を耳にすると、ついつい「そんな場所に子供を避難させなくて良かった」と思ってしまうのが正直なところである。
「避難? 追放だよ」
原発周辺から待避させられた人の呟き。福島市内の喫茶店にて。幸運にも震災を生き抜いた。物資流通が回復した。桜の開花に伴い、心弾む景色がようやく訪れてくれた。
なのに自宅で住めなくなった。いつ帰れるのかもわからない。仕事はできない。農地はほったらかしだ。取引先は全て失われ、仕入れた物品全てが「汚染」扱いされて売り物にならない。
町や村が、先の見えない空白の中に置かれる。
原発事故の怖さは、農・漁・工・商・観光、全ての地元経済が一昼夜にして停止し、その範囲がとんでもなく拡大してゆくところにある。
余震が続く中、急速な回復を継続しているライフライン。
これが日本の底力なのだと感動を覚えます。
自衛隊・警察・消防・海上保安庁の尽力と同じく、物資流通の回復維持を果たす一人一人もまた、復興の第一歩を我々に示してくれる、英雄的存在でありましょう。
にもかかわらず。
いまだ家族を自宅に戻せないまま、一人で東京・福島・北海道を行ったり来たり。
長引く原発災害は、かつてない長期戦を住民にしいており、家族が離ればなれになるケースが増える一方です。
「夏もこの格好なのかなあ」
福島の小学生たちのぼやき。本屋さんにて。春の陽気にもかかわらず、頭からレインコートをすっぽりかぶり、マスクと手袋をし、ふうふう息苦しそうな様子である。「なるべく体を覆って下さい」という専門家の指示に、親は従わざるをえない。明白な危険に対処するのではなく、不確実な安全対策を延々と続けさせられることは、想像以上のストレスをもたらす。
子供をそんな格好でしか外出させられない今の状況に、いたたまれなさを感じる。
「本日の環境放射線測定値です」
ラジオの天気予報にて。もはやSFである。「風向きに注意して下さい」と言われたところでなすすべとてない。本当にその数値が正しいのか、誰が計測したのか、疑い出せばきりがない。
「一元化と多元化」
地震・津波と、原発災害、何が最も違うのか。
地震や津波においては情報もその意味合いも一元化されてゆく。誰も「津波は十センチまでなら安全です」とは言わない。「近くにある電信柱にしがみつけば大丈夫です」といった場当たり的な対処法を示したりしない。「津波が発生する確率が10%以下なら安心して港での仕事を続けよう」とは考えない。全て「危険だから待避して下さい」である。
しかし原発災害においては今もバラバラで、場当たり的で、意味不明なまでに多元的だ。
何が安全なのかもわからない。日によって状況が変わり、しかも日本と世界の専門家の意見が一致することのほうが珍しい。地震や津波の際に大活躍したツイッターやソーシャル・ネットワークも、原発災害に関しては矛盾する情報ばかりで、具体的な対策効果に乏しい。
汚染という言葉の一人歩きも激しく、人々の気分で、状況の評価も変わってしまう。
こうしたことに、とにかく耐えねばならない。
こんなに疲れる災害はない。
「(子供が)汚染されていないことを示す証明書を提出して下さい」
茨城県つくば市。どうやら、福島から避難した子供が、避難先の学校に転入する際に証明しなければならないらしい、とのこと。「福島の子供は放射線を出すに違いない」とでも思っているのであろうか。
こうした、教育の現場での公序良俗軍団による見当違いな私的発砲は、いたずらに人を傷つけるだけで何の益もなく、今後ますます広まらないことを願うばかりである。
実際にそんな馬鹿げた証明書が作成されたかどうかはわからないが、こうした風聞を耳にすると、ついつい「そんな場所に子供を避難させなくて良かった」と思ってしまうのが正直なところである。
「避難? 追放だよ」
原発周辺から待避させられた人の呟き。福島市内の喫茶店にて。幸運にも震災を生き抜いた。物資流通が回復した。桜の開花に伴い、心弾む景色がようやく訪れてくれた。
なのに自宅で住めなくなった。いつ帰れるのかもわからない。仕事はできない。農地はほったらかしだ。取引先は全て失われ、仕入れた物品全てが「汚染」扱いされて売り物にならない。
町や村が、先の見えない空白の中に置かれる。
原発事故の怖さは、農・漁・工・商・観光、全ての地元経済が一昼夜にして停止し、その範囲がとんでもなく拡大してゆくところにある。
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