漁民が引けないたたかいに 玄海原発プルサーマル反対 “魚がいなくなった” 2005年9月20日付 |
「ミサイルの標的」が不安 九州電力の玄海原発(佐賀県玄海町)周辺の呼子町漁協、鎮西町漁協、小川島漁協、加部島漁協の漁民は、九州電力のプルサーマル計画に抗議する海上デモを、今年5月と今月15日の2回おこなった。1号機の運転開始から30年近くたつなか、原発にたいして漁業者が一丸となって抗議行動を起こしたのはこのたびがはじめてとなる。 自家製の水産加工品を売る漁業婦人(呼子町) 玄海原発周辺の漁民のなかでは、長年にわたり表に出ることがなかった「漁業を守れ」という切実な思いが渦巻いている。行動をおこなった漁業者などに、行動への思い、漁業の実情を聞いた。 「漁業守れ」と切実な思い 2回の海上デモに参加した呼子の漁師は、「原発が動きだして30年。わたしたち漁師も、“おくればせながら”漁業を守りたいとの思いで行動をはじめた。プルサーマルは、通常の原発より、何倍も危険で毒性が強いと聞く。ただでさえ漁業がきびしいときに、風評被害が出るだけで玄海産の魚介類はアウトだ。呼子、鎮西だけでなく玄界灘の漁業は1発で終わる。このたびは、引くことはできない」と力強く語る。 50代の漁師は、「原発ができるときも、このたびのプルサーマルも、国と県、玄海町の了解をとるだけで、周辺の漁師や一般の住民にはほとんど発言権はないままだ。呼子や鎮西は10`圏内で、玄海町とまったく同じだがきちんとした説明すらせずにすすめている。国のエネルギー事情だか知らないが、周辺に住むわたしたちや漁業はどうなるのか。プルサーマルには絶対反対だ」といった。 鎮西町の40代の漁業者は、「新聞やテレビでは、デモをやった船を約140隻と報道していたが、200隻以上は確実にいた。船の整理をしていると、つぎつぎと海のなかからわくように船が集まってきた。まわりの漁師はみんなプルサーマルに反対しているということだ。もっと、唐津や長崎の漁師まで行動が広がればいい」とうれしそうに話した。 漁業者のなかでは、原発がテロに狙われるということが大きな問題となっている。呼子の80代の老漁師は、「豊臣秀吉が朝鮮を攻めるとき、鎮西町は本陣となった場所だ。それだけ、壱岐、対馬をはさんで朝鮮や中国と一番近い。日本が、朝鮮や中国と問題を起こすたび、原発が狙われると不安になる」という。 玄海原発のすぐそばには、アメリカの9・11テロ事件以後、巡視船が年間をとおして警戒をつづけている。「年に何度か、テロ対策訓練もやっている」と漁業者は語る。 30代の漁業者は、「有事という言葉は、わたしたちにとって人ごとでない。戦争になれば、原発は絶対に狙われる。戦争でなくても、やられるかもしれない。漁業を守るどころでなくて、九州の半分は消滅するのではないか。いつも、冷や冷やしている」といった。 子供や孫達のためにと真剣に語る呼子の漁民 行動を起こした4漁協は、玄海町に隣接する唐津市の呼子町、鎮西町内にある。呼子町漁協は、町内6漁協のうち、小川島、加部島をのぞく四漁協が合併して組合員260人で発足。鎮西町漁協は町内の六漁協が合併して発足した。唐津市と合併した旧呼子町と旧鎮西町は、山に囲まれ昔から漁業を中心産業としてきた。近年は、呼子、小川島を中心に「活魚」として販売するイカ釣りが漁業の大半を占めている。 漁業者は、4・9dの船に乗り、夏場は壱岐、対馬の周辺、秋口には福岡県の沖、山口県の近くまで、冬場は、五島列島に届くぐらいまで、イカの移動にあわせて、1人か2人で漁をする。「大まかに、1月から6月までが昼の仕事、残りの半分は夜の仕事」といい、午後3時過ぎから若手はつぎつぎと出漁していく。「帰ってくるのは、午前3時か4時。12時間とか14時間労働だ」という。「隠居」と呼ばれる80代の老人たちは、夕方から夜にかけ、先に出た若手に海の様子を聞きながらむりのない程度に出漁していく。 周辺の漁業者が釣ってきたイカの多くは、呼子に水揚げされる。地元の業者が仕入れたり、遠方に送ったりしている。漁港周辺には、イカ料理の店や旅館、料亭が並び、周辺の町にもイカの店ばかり。道路端には、婦人たちが加工した自家製のスルメやミリン干しを販売する屋台が所狭しと並んで活気にあふれている。休日や祝日には、九州を中心に「イカめあて」で訪れた観光客で、もともと狭い道路が大渋滞となる。 呼子の80代の漁師は、「江戸時代の昔から、このあたりは漁業一筋だった。以前はイワシの巻き網や棒受け網、タイの一本釣りで、いまはイカの活魚で生計をたてている。年寄りはみんな小学校、中学校を出てからその道60年、70年。退職金は、神経痛という土地柄だ。呼子から海をとったらなにも残らない」と静かに語る。 道路脇で店を開いている70代の婦人は、「いつのまにか原発ができて、あっというまに4号機までふえた。ほうっておいたら、つぎはなにをはじめるかわからない。海を壊したら、生活の場を子どもや孫に残せなくなるから、年寄りもがんばるんだ」といった。 昔はイワシ漁の町 しだいにイカ漁に転換 漁業者のなかでは、長年で蓄積された海域の変化も見過ごすことができない問題として語られている。 老漁師の1人は、「30年まえは大きな反対運動はなかった。漁師も、国がやることで安全だと思っていた。しかし、温暖化などいろいろな原因があるにしても、このまわりの生態系が変化してきた。呼子はいまでこそ、イカで有名になったが、昔は、イワシや一本釣りの町だった。イカ釣りは少なかった」と話す。 30年、40年まえと比べ最大の変化は、「イワシがとれなくなったことだ」という。3、40年まえには、港のなかにマイワシが大量に入ってくることが珍しくなかったものが、だんだんと数がへっていき、この10年はほとんどとれない。「10年周期でとれなくなることはあったが、10年たってももどってこなかった」といい、イワシの巻き網や棒受け網で生計をたてる人はだんだんといなくなった。 加部島の漁業者は、回遊魚でなく、「瀬につくタイ、クエの数がへった」という。数年まえには、「ナマコに似た生き物が大量発生して、駆除しては東シナ海の方に捨てにいった。原色の熱帯魚のようなものも原発のまわりには多い」と語った。 原発のある玄海町の仮屋湾周辺では、タイ、ハマチの養殖とあわせ底引きや一本釣りの漁業が主流だが、漁業者は、「エビが少なくなり、シャコもとれなくなった。とくに底ものがへった」という。 山口県内の瀬戸内沿岸では、ナルトビエイが漁業者を困らせているが、玄海の沖には以前からいた。それが近年、「あまり見なくなった」といわれ、「玄海のまわりには、エサがなくなったから山口県の方へいったのではないか」とも語られている。 一本釣りの漁師も急減 魚価暴落も影響 一本釣りをしていたという50代の漁師は、「釣りや網の中心魚種だったヒラメやイサキ、アラカブ、メバルなどもへった。とくにイサキはほとんどいなくなったのではないか。それに加え、釣りを主体とする漁師がやめていったのは、とれなくなったことと、魚価が極端に安くなったことだ。暴落に近い」と語る。 タイの魚価が、いいときで30年まえの3分の1、悪いときは10分の1になった。昔は、鯛を2枚釣れば生活ができたが、いまはとてもむりという。30年ほどまえからイカの活魚がはじまり、1`2300円と値段が安定しているために「15年ほどまえにみんな切りかわっていった」。 漁師はつづけて、「なにが原因かはっきりはわからない。原発だけではないにしても変化は起きている。イカもだめになれば、漁師はお手上げだ。漁師は陸にあがれば、カッパといっしょ。ホームレスになれというようなものだ」と、激しい口調でぬきさしならない思いを語った。 加部島の60代漁師は、「魚価は、2、30年まえと比べてひとつも変わらない。逆に下がった。一方で、イラク戦争をしてから油代は上がる、船の設備投資にも大金がかかる。もうけているのか、借金を返しているのかわからなくなることもある。このうえに、海まで壊されて漁師は黙っていられるか」といった。 |