こんにちは。 ホメオパシーの永松昌泰です。
ブログをやっていると、時々コメントをいただくことがあります。
応援のコメントもあれば、
質問のコメントもあれば、
批判のコメントもあります。
コメントについて、スコットが、こんなことを書いていました。
http://ameblo.jp/ex-ma11091520sukotto/entry-10900297144.html
それは、その通りだと思います。
自分の話を興味を持って共感してくれる人のためにブログはあるのですから。
そうでない人の話を聞く必要はないわけです。
確かにそうではありますが、
私にはまた別の思いもあり、今まで必ずコメントに答えていました。
・・・もっとも今思い返してみると、
批判的な内容のコメントに対しては、
必ずすぐにお答えしてきましたが、
応援のコメントをいただいた方の中には、
何もお返事をしていない方がいることに気がつきました。
ごめんなさい。
また、改めてコメントをお返ししますので、
少しお待ちください。
コメントについて、少し書いておこうと思います。
私は大学の時に、ずっとDebateをやり、
Debateは、私にとって人生の中でも非常に大きな存在です。
Debateは、表面的には「戦い」です。
議論の肯定側、否定側の両方を徹底的に勉強し、
試合直前にどちらに立つかが決まり、徹底的に戦います。
しかし、Debateの本来の目的は、相手を負かすことではありません。
肯定と否定の両方に身を置いて、
肯定、否定の議論を徹底的に尽くし、
自分の中にある偏見を徹底的に洗い尽くすこと、
焼き尽くすこと、
そうして「ありのまま」に近づいていくことです。
Debateには、質疑応答があります。
そこで、よくやってしまう質問の方法があります。
相手に、YESかNOを迫るという方法です。
ものごとを単純化し、
あたかも、答えはYESかNOのどちらかしかないかのように、
強く迫るという方法です。
これは、Debateの初心者的方法ですが、
議論に慣れていない人にはそれなりに効果があるようです。
しかしまったく意味がない方法です。
すべての背景を無視して、
状況を単純化して、
自分の都合の良い方向に答えさせようという方法だからです。
数年前に、トヨタの若い社長が、
アメリカの公聴会で喚問され、
「トヨタ車の欠陥について、
知っていたのか、知らなかったのか?」
(確かそんな質問だったと思います)
それをYESかNOで答えろ、と迫られて、
そんな単純な話ではないので、説明しようとしたら、
YES、NOのどちらかで答えろ、と迫られて、
まるで誤魔化そうとでもしているかのように、晒し者にされ、
その後で、悔し涙を従業員の前で流した、あれです。
後日談ですが、結局トヨタはシロでした。
まったくの。
単なる運転ミスだということが、
数年間かかって、ようやくそのことが証明されました。
だから、「欠陥を知っていたのか、知らなかったのか?」
という質問には、何の意味もなかったのです。
こういう類の質問には、答える必要を感じません。
本当の真実に迫っていこうとする姿勢がないからです。
時間とエネルギーの無駄です。
古来、「正しい質問には、初めから答えが含まれている」
と申します。
「正しい質問」には、シンプルにお答えできます。
十分に煮詰められた末での質問だからです。
しかし、「正しくない質問」には、シンプルにはお答えできません。
考えが煮詰められていないからです。
そういう「正しくない質問」にお答えするには、
その質問の背景から始め、
何が本当の問題なのかを煮詰めていき、明らかにしなければなりません。
「正しくない質問」には、
質問者が気づいていない「隠れた前提」があり、
そこから始めないと意味がありません。
そこに気がついてもらうために、
背景から始めなければならないからです。
そういう「正しくない質問」をされる方の多くは(全てではありません)、
本当に真摯で謙虚な意図からではありません。
だから、質問自体が未熟な「正しくない質問」になってしまうのです。
こう言わせて、こう言ってやろう、
という意図が見え見えです。
本当に真摯な態度からの質問ではないので、
その議論の背景には興味がなく、
意味がない表面的なところだけの議論をしようとします。
そういう議論には、意味はありません。
本当の現実とは遊離しているからです。
その背景をまず理解してください、と書いても、
まったく理解できないようで、
早くYES、NOを答えろ、というような
意味のないことを書かれる方もいらっしゃいます。
質問者が、真摯な意図から質問されていると感じる場合には、
これからも真剣に丁寧にお答えすると思いますが、
そうではない場合には、
コメント欄において丁寧にお答えする意義を、
まったく感じなくなりました。
その代わり、本文で、そのことについて書く事もあるでしょう。
ゆっくりと。
コメント欄に書くことには、大きな問題があります。
それは、その相手に対して議論をしなければならないことです。
私は、もちろん未熟な人間です。
議論になると、徹底的に勝とうとしてしまう癖が未だ残っています。
Debateの目的は議論に勝つことではないと言いながら、
議論を挑まれて、本当にスイッチが入ってしまうと、
徹底的にやっつけてやる、という本能が働いてしまいかねません。
そして、相手が気がついていない、
「隠れた前提」を徹底的に暴き出し、引きずり出し、
相手の無意識の「欠陥」まで
徹底的に攻撃してしまうことになりかねません。
そんなことは間違っていますし、無意味で不毛です。
ですので、スコットに倣い、
これからは、
批判的なコメントにはすぐ返事をしなければ、
という強迫観念的悪癖をやめます。
返事をする必要がある方には返事をし、
コメントではなく、時間がある時に本文で書くべきことは、
ゆっくりと本文で書く、ということにします。
ですので、これからは、
せっかくコメントをいただいても、
公開せずに「スルー」するコメントも出てくるでしょうし、
今まで公開していても、
その方を「晒し者」にするようなことは無意味で不適切だと考えて、
削除する場合もあると思います。
あしからず。