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[ライフ]ニュース
【言(こと)のついでに】論説委員・清湖口敏 英霊の声を聴いた
新聞の用語にも「靖国問題」なるものが存在する。「靖国神社《 》参拝する」というとき、空欄を埋める助詞は「に」か「を」か-。「参拝」が「参って拝む」意であることから常識的には「に」ということになろうが、産経、読売、朝日などの新聞には「靖国神社を参拝する」といった表記も頻出し、「に」と「を」が混在している(だからこれらの新聞社の採用試験では、「を参拝」と作文に書いても決して減点とはならない。…たぶん)。
「参拝」にわざわざ「行く」を添えて「参拝に行く」と言ったりすることから考えると、「参拝」はどうやら、「(社寺に)行く」という部分的な義を失って専ら「(神仏を)拝む」意に捉えられるようになったため、「を参拝」が一般化したのではないかと推測している。
古典に目を向ければ、現代口語では「神に祈る」と言うところを、古くは「神を祈る」と言った。『万葉集』には「天地(あめつち)の神を祈りて」や「鹿島の神を祈りつつ」などの例があり、『土佐日記』にも「夜もすがら、神仏(かみほとけ)を祈る」と出てくる。
『日本語に探る古代信仰』(土橋寛著)から引こう。「『神に祈る』と『神を祈る』との違いは、人間と神との関係が遠いか近いかによるであろう」「我々が『神に祈る』のは、神が祭礼の時以外は縁遠い存在だからであり、万葉人が『神を祈る』というのは、神を身近かな存在として、日常的にも祈ったり祭ったりしていたからであろう」
国語の妙というほかないが、「靖国神社」についても「を参拝」と続けた場合は、「靖国神社」は単に場所や施設を示すだけでなく、「祭神(英霊)」の概念にまで高められる。英霊の存在を常住身近に感じたいと念ずるのが信仰心の極みであるとするなら、「を参拝」の方がむしろ好まれたとしても別段、奇があるようには思われない。
さて、その靖国神社では昨日までの4日間、お盆に合わせて英霊を慰める「みたままつり」が開かれ、献灯が明々と連なる参道には多数の夜店も出、盆踊りも催されて大賑(にぎ)わいだった。今年は特にさまざまな節電策が施された由(よし)である。
西南戦争で戦死した父が東京招魂社(現・靖国神社)に祭られているという明治・大正時代の小説家、田山花袋(かたい)は『東京の三十年』に、「国のために身を捨てた父親の魂は、其処(そこ)を通ると近く私に迫ってくるような気がした」と、若い頃の思い出を書きとめている。
みたままつりの始まった13日夜。喧噪(けんそう)を少し外れて能楽堂を囲む木叢(こむら)の薄闇に入ると、光が曖昧(あいまい)にこぼれた辺りに何人かの英霊が集っているかのような感じにとらわれた。
鎮魂の季節である。あと1カ月足らずで迎える終戦の日には、先の大戦でお国のために亡くなった213万余柱の御霊(みたま)よ安かれと、多くの国民が靖国神社を参拝する。国の礎となった先人を偲(しの)び、哀悼と感謝の赤誠を捧(ささ)げるのは国民の責務だ。ましてや政治に携わる者には!
が昨年、菅直人内閣の閣僚は誰一人として参拝しなかった。今年も恐らく変わるまい。彼らには護国の英霊よりも、わが日本を脅かし続ける中国の意向が大切かにみえる。
「そんな政権の下では、安心して祖国の後(のち)を託すことなどとてもできない」…ややくぐもった声がふっと耳朶(じだ)に触れた気がした。
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