琴奨菊が、自分から闘志を燃やすように眼を閉じて、立ち合い寸前の自分自身の変化に熱中していた。
正直の話、恥も外聞もないといったところで、あまりほめられた話ではないとも思えるが、力士の土俵上の闘志の表現は大なり小なりこういったものなのかもしれないのだから、この関脇の素直な内心の表現は、理解を持って見るべきなのかもしれない。
一時モンゴル出身の横綱の闘志の表現に対し、あまりにも露骨なありように、度が過ぎていて醜いという批判があったりもしたが、琴奨菊の場合などは、どうやら、好意を持って見られているようだから、やはり、日本人らしい恥じらいを、見る側も受け取ってくれているのだろう。
表現の程度が足らないと、物足りないし、だからといって、度が過ぎると、大相撲の場合、一対一の勝負なのだから、礼に欠けるようになってしまう。
相撲はやはり難しいものだ。昔から、礼の表現でも、柔道に通じるところがあると言われている点では、多分、この辺のことに通じる点を持っているのだろう。
魁皇について、ひとつ、こんなことを考えた。安美錦という難しい相手に対して、どう立ち向かっていくのか、予想の立て方になにか難しい点だけが目立って、魁皇に関して、今場所はなんとかこの急場を乗り切ってほしいと思っている人間として、中日寸前には対戦相手に選ばれたことは、決してうれしくないことに思えた。
詳しい話は伝わってこないが、背中から腰にかけて、かなり深刻な問題があるという。私がいかに案じていても、どうなるものではないが、荒い息をこらえて、左をかかえて、なんとか攻撃につなげることができた。難敵をもう一人倒した。あと半分である。
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