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[19764] ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール【とある禁書目録・超電磁砲】【再構成】
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2011/06/06 12:37
はじめに
これは「とある科学の超電磁砲」と「とある魔術の禁書目録」のSS、ファンフィクションです。
原作小説ではチョイ役でしかなかった『トンデモ発射場ガール』、婚后光子をヒロインに据え、その上で禁書目録の本編を再構成する展開となります。
本作品を理解するためには、小説またはアニメの禁書目録を先にご覧になることをお勧めします。
また、超電磁砲の登場キャラも出てきますので、アニメ版超電磁砲を見ているほうが楽しめると思います。

細かい注意書き
時系列は、小説版禁書目録とアニメ版超電磁砲に依拠します。マンガ版超電磁砲と比べアニメ版超電磁砲には、ストーリーの進展しない話が数話と能力体結晶編が挿入されます。それによりマンガ版では当麻がインデックスを助けるべく奔走しているその裏で起こったことになっている幻想御手(レベルアッパー)事件が、夏休み前の出来事へと前倒しされます。そして能力体結晶編が当麻がインデックスを助けた直後、8月初旬に差し込まれます。また婚后光子の常盤台転入は原作では二年の二学期からとなっていますが、アニメ版では一学期からすでに在籍しています。この点もアニメ側に準拠することとします。
超電磁砲をマンガでしか知らない人は時系列がご存知のものと異なる点をご了承ください。

2010年6月:初投稿
2010年9月:prologue終了, ep.1_Index開始
2011年3月:ep.1_index終了
2011年4月:ep.2_PSI-Crystal開始
2011年5月:ep.3_Deep Blood開始
2011年6月:ep.4_Sisters開始


最新話の連載について
このSSは最新の内容を一度SS速報VIPに掲載し、まとまったところで加筆修正をし、Arcadiaに投稿するというスタイルをとっています。
これはこのようなやり方が、最も更新速度を速められるとの判断に基づいています。
どちらの規約にも反していないと私は判断していますが、なにか問題がありましたらご指摘願います。
当該スレッドはこちら(アドレスは添付不可につきお手数ですが各自で検索してください)
SS速報VIP
【禁書】ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール【本編再構成】【上条×婚后】
【禁書】ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール【本編再構成】part2



[19764] prologue 01: 馴れ初め
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/06 19:26


雨の日が増えて梅雨空に憂鬱になる、6月も半ばを過ぎた時期。
当麻は第七学区の大通りと狭い路地を折り合わせながら必死になって駆け抜けていた。
「ハァハァ、ちくしょう、あいつら絶対昨日のこと根に持ってるな」
そう、昨日も追いかけてくる連中には会っていた。おてんばそうな中学生くらいの女の子が囲まれているのを見て、つい、不良たちのその子に間に割って入ってしまったのだ。おそらく彼ら、当麻を追う不良たちはそのことを根に持っているのだろう。いつも通りに下校する当麻を発見するや否や全速力で走ってきた辺り、恨みの深さはかなりのものだ。
当麻は何も体力に自信があるわけではない。昨日は助けたはずの女の子にビリビリと雷撃を飛ばされながら追い掛け回された。そのせいで今日は襲われる前から足は筋肉痛だった。それでも何とか撒いて撒いて、あとは最後の1人から逃げおおせればどこかに隠れてやり過ごし、鬼ごっこをやめてかくれんぼで帰れるところまで来ていた。
足がガクガクだ。だが相手も本気の武闘派スキルアウトではないようでかなりの疲労が見て取れる。この路地を抜ければあとは――――


カラン。アウトローで小汚い猫が、当麻の進路上へと空き缶を蹴り転がした。


「は? うわっ!」
マンガみたいにすってんと転ぶことはなかった。だが右足がぐしゃりと缶を踏み潰し、大きく体勢を崩す。
そして明るい大通りにもんどりうって出たところで、当麻は派手に倒れた。
「あいでっ……くそっ」
「あー、疲れた。テメェも諦めの悪い奴だな。ま、よく頑張ったよ」
肩でゼイゼイと息をする不良がゆっくりと路地から出てくる。気づくと、大通り側からも数人の仲間が集っていた。
非常にマズイ展開に、当麻は脱出の方策を必死で練る。だが、当麻を包囲した相手はすでにやる気満々だった。
「とりあえずゴクローさんってことで一発貰ってくれやぁぁぁぁ!」
そう言いながら、やたらガタイのいい不良がサッカーのようなフォームで起き上がろうとする当麻に蹴りを入れようとした。
当麻はその一撃を食らうことを覚悟し、とっさに腕で体をかばった。
べしゃんっ、とアルミホイルを勢いよく丸めるような小気味の良い音がした。


婚后光子は不良の真似事をしていた。もちろん彼女の主観ではの話だ。
彼女の通う学校は学舎の園(まなびやのその)と呼ばれる、近隣の女子校が互いに出資して作った男子禁制の区画の中にある。そこは日用雑貨の店なども全て揃えられた、一通りの機能がそろった一個の街である。そして彼女の寮もその区画内にあった。だから2年になって常盤台に転校して以来、彼女は学舎の園から出たことはなかった。
彼女は良家の子女らしく、小学校を卒業するまでは繁華街を1人歩きなんて選択肢を知りもしなかったし、中学に入って執事を侍らせない寮生活になってからも能力の伸びるのが楽しくて、そんなことを考えもしなかった。
だから、今日が初めてだった。繁華街を1人で歩くなんて不良みたいな行為は。
日直として学舎の園の外にあるほうの寮に住むクラスメイトにプリントを届けた帰り、彼女はまっすぐ自分の寮を目指すことなく、駅近くの繁華街へと繰り出していたのだった。

彼女はツンと済ました顔をしながら、内心でその光景にドキドキしていた。沢山の学生が練り歩き、そのうち結構な割合が男女で連れ添って手や腕を組んでいる。あれがデートなのだろうと光子は考えた。なにせ小学校から女子校通いなのだ。執事のようにほぼ家族である男性以外にも、住み込みの庭師たちやその子息など意外と男友達はいるが、それでも腕を組むなど考えたこともなかった。
道の傍にある広場ではクレープ屋が甘い匂いを放っている。手を繋いだ男女が洒落たテーブルではなく店のそばの花壇のへりに腰掛けてクレープを食べあいしていた。その光景を凝視してしまう。椅子に座らないなんてとても悪ぶった感じがする。品がないとは思うが、たとえば自分にお付き合いをする殿方が出来てあんなことをするなら、それも面白そうだと思った。
いけない、と自分を戒める。そういう不良に憧れる心が堕落への一歩なのですわ。
町を彩るもの一つ一つは安っぽい。良いもので勝負するなら光子の生きてきた世界のほうがはるかに満たされている。だがその雑然とした雰囲気は、明らかに低俗なのに、魅力的で嫌いになれなかった。

もう少し先まで行ったら引き返しましょう、そう光子が決めたときだった。
店と店の間の、小型車量しか通れなさそうな路地から倒れこむように高校生が飛び出してきた。それまでにかなり走ったようで、尻餅をつきながら荒い息をついている。
ハリネズミみたいに黒髪が尖っているが、顔は凶悪そうにも見えない。上背がそれほどないためか、不良というには凄みが足りないように思った。
……と、少し眺めたところで、光子のイメージ通りの不良達が数人湧いて、そのハリネズミさんを囲んだ。そこで光子は状況を理解する。つまり、あのハリネズミさんは襲われている、と。
焦った顔のハリネズミさんに不良たちがニタニタとした表情で何かを言った。そしてそのうち1人が、蹴りのモーションに入るのが見えた。

婚后光子は、箱入りのお嬢様である。繁華街を1人で歩くだけで不良っぽいと思うほど、だ。そして彼女はお嬢様のあるべき姿をちゃんと知っている。
――困った人には、手を差し伸べる。
おやめなさいと言って止まるタイミングではない。だから光子は傍にあった看板に手を伸ばす。木の枠に薄い鉄板を打ち付けてペイントした粗末なものだ。
トン、と光子に触れられたそれは、一瞬の後に不良に向かって人間の全速力くらいのスピードで飛んでいった。


金属板を顔の形にひしゃげさせて、当麻を追っていた男が倒れた。
電灯に立てかける安っぽい看板が、冗談みたいにスーッとスライドしながら不良に体当たりをかましたのだった。人がこの看板を投げたのなら、たぶんブーメランのように緩やかに回転しながら角が不良に突き刺さったことだろう。だが実際には看板の宣伝が書かれた面が不良の顔面を叩くように、看板は飛んできた。
一瞬の戸惑い。そして学園の生徒らしく、当麻はそれが能力によるものだとアタリをつけた。
「おやめなさい! 罪のない市井の人を追い回すような狼藉、この婚后光子の前では断じてさせませんわ!」
「へ?」
当麻と不良たちの声が唱和した。不良に制服を見せた上で名前も教えるとか、この人はどれくらい自分の実力に自身があるのだろう。あるいは、馬鹿なのか。不良たちは気弱い学生と真逆の態度をとるその常盤台の女子中学生に困惑した。
立ち直りの早かった不良の1人がへっへっへと笑いながら光子に近づく。
「昨日に引き続き常盤台の女の子とお近づきになれるなんて幸せだねぇ」
肩でも掴もうというのか、不用意に不良が手を伸ばした。
「おい、やめろ! その子は関係ないだろ!」
当麻は当然の言葉を口にした。昨日、常盤台の女の子を不良から助けようとしてこうなったのだ。その結果別の女の子が被害にあうなんてことは、あってはいけないのだ。
当麻のその態度に気を良くしたのか、婚后と名乗る少女は薄く笑った。
パシン、と不良の手がはたかれる。大した威力はなく、不良は怯むよりもさらに手を出す口実を得たことが嬉しいようにニヤリと笑い、そして。
「イッテェなぁお嬢ちゃんよぉ。このお詫びはどうやってして、っておわ、うわわわわわわっ!」
叩かれた手の甲が釣り糸にでも引っかかったように、不自然に吹っ飛んだ。それにつられて体全体がコマのようにクルクルと回り、倒れこむ。倒れてからもごろんごろんと派手に回転しながら10メートルくらいを転がっていった。
当麻は風がどこかで噴出しているような不思議な流れを肌で感じた。気流操作系の能力か、と予想する。
「手加減をして差し上げたからお怪我も大したことはありませんでしょう? これに懲りたらこのようなことはお止めになることね」
自信満々の態度で、そう正義の味方みたいなことを口にする少女。それをみた不良たちが、目線で示し合わせて当麻たちから離れ始めた。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんこと?」
少女は勝ったつもりでいるらしく当麻に近づき、その身を案じてくれた。だが、当麻はその少女を見ない。こそこそと走り去る不良たちが、携帯電話を手にしたのを見て。
「くそ、やっぱり人を集める気か。おい、逃げるぞ!」
いきなり仲裁に入るのなら、もっと場慣れしていて欲しい。
そう思いながら当麻は目の前の女の子の手を握り、駆け出した。


「ちょ、ちょっと一体なんですの? いきなり手を握られては、わ、私心の準備が……っ」
「やっぱり慣れてないのか! 昨日といい常盤台の子はどういう神経してるんだ!」
「慣れてっ……私がこのようなことに慣れているとお思いですの!?」
慣れてないのかって、そりゃあ慣れていない。婚后光子は箱入り娘なのだ。繁華街で男の人と手を繋いで走るなんて、想像を絶するような出来事だ。
女性と全く触れた感じが違う手、力強くそれに握られている。光子は当麻が喧嘩の仲裁に慣れていないのかと聞いた質問の意図を、完全に勘違いしていた。
「どこへっ、向かいますの!?」
それなりの距離を走って息が苦しくなってきた。よもやこんな手で誘拐されるとは思っていないが、それでも行き先をこのハリネズミさんに預けたままなのは気になる。
「この先の大通りだ。あそこまで行けばたぶん縄張りが変わるからそう簡単に追っては来れなくなるはず! そこまで頑張れ!」
ひときわ強く、ハリネズミさんが強く手を引っ張った。戸惑いと、よくわからない感情で胸がドキリと高鳴る。
周りは自分達のことをどう見ているのだろう、はっとそれが気になって周りを見ると、青髪でピアスをした不良らしき学生が、あんぐりと口をあけてこちらを眺めていた。
やはり奇異に映るのだろうか、自分でも何故走っているのかわけが分からないのだ。


「と、とりあえず、そろそろ大丈夫なんじゃないかと、思う」
「説明なさって。どうして、私を連れて、こんなことを?」
状況確認を行いつつ、先ほどの通りとは別の大通りの隅で荒くなった息を整える。
「いや、だってあいつら人を呼ぼうとしてただろ? 何人来るかわかんないけどさ、1人で崩せる相手の人数なんてたかが知れてるんだ。逃げるっきゃないだろ?」
「この常盤台の婚后光子を見くびらないで頂きたいですわね。私の手にかかれば不良の5人や10人どうということはありませんわ!」
「いやその、君に戦ってもらおうって考えはないんだけど……」
やけに好戦的な女の子に戸惑いながら、当麻はまだ自分が礼も言ってないことに気づいた。
「まあでも、助かったよ。不幸なタイミングでこけちまって、ちょっとやばかったしさ。ありがとな。お礼にジュースでも、ってのは常盤台の子に言う台詞じゃないか」
「お礼が欲しくてやったのではありませんわ。私は私が振舞いたいようにしただけです。ですからお気遣いはなさらないで」
目の前の女の子は荒い息を押し隠し、優雅に当麻に微笑んで見せた。
こうやって落ち着いてみると、実はかなり綺麗な子だった。やや高飛車な印象があるが、肩より下まで伸びた長い髪にはほつれの一つもないし、しなやかに揺れている。色白の肌に目鼻がすっと通っていて、流麗な印象を抱かせる。おまけにスタイルは高校生並だった。吹寄といい勝負をするのではないだろうか。
「いやでも、年下の女の子にあそこまで助けてもらってサンキューの一言で終わらせるのは悪いだろ? そうだ、君はどういう用事で来たんだ?」
「え?」
お礼をするのを口実に女の子を口説くなんてのはありがちな手段だ。だが当麻はそんなことをこれっぽっちも考えていなかった。単に、お礼をしようとだけ考えていた。
その申し出に、光子が視線を彷徨わせた。
「いえその、私」
言ってみれば、彼女は不良ごっこをしに来たのだ。買いたいものがあったわけではないし、行きたいところもない。恥ずかしくて正直に目的を告げるわけにもいかなかった。
「お、もしかしてこういう所、初めてだったりするのか?」
当麻は口ごもるその子の様子を見て、ピンと来たのだった。案の定、女の子は言い当てられて驚き、
「え、ええ。そうなんですの。あまりこういうところは来ませんから……」
「そっか、じゃああの店とか行った事あるか?」
「? こちらに来たことなんてありませんから、当然あのお店なんて存じ上げておりませんわ」
女の子は困惑気味にそう返事をした。当麻は住んでる世界の違いを感じた。なにせ当麻の目の前にあるのは、日本ならどんな田舎にでもあるハンバーガーのチェーン店だ。
それを知らないと彼女は言った。
「よし、じゃあ君、おやつ食べるくらいのお腹の余裕はあるよな? ハンバーガーかアップルパイ、どっちがいい?」
「ちょ、ちょっと。私そのような礼は要らないと……もう、分かりましたわ。殿方の礼を無碍(むげ)にするのもよくありませんし、奢られてさしあげますわ。私、甘いもののほうが好きですわ」
仕方ないという風にため息をついた後、女の子は当麻を立てるように笑い、リクエストをした。
「オッケー、じゃごちそうするよ。あ、食べる場所は店の中か外か、どっちがいい?」
「1人ではお店の中に入るのも気が引けますし、せっかくですから中がよろしいわ」
「わかった。じゃあ、行くか」
昨日みたいに訳も分からず助けたはずの女の子に怒られるようなこともなく、当麻は自然な展開にほっとした。
「お待ちになって。レディをエスコートするのでしたら、お名前くらいお聞かせ願えませんこと? ハリネズミさん」
「ハリネズミって。まあ言いたいことは分かるけど。俺の名前は上条当麻。君は……本郷さん、でいいのか?」
「いいえ。婚姻する后(きさき)と書いて、婚后ですわ。婚后光子と申しますの」
「あ、ごめん。婚后さんね」


騒がしいカウンターで注文と会計を済ませるのを後ろから眺め、差し出されたトレイを持って二階へ上がる当麻について行った。
初対面の相手についていくのは勿論良くないことだと認識してはいるが、目の前の殿方は悪い人に見えなかった。
「まあ常盤台のお嬢様にとっては何もかも安っぽいものだろうけど、これも経験ってことで試してみてくれると嬉しい」
「ええ。そのつもりで街に出てきましたから、私にとっても願ったりですわ」
硬めの紙に包まれたアップルパイを取り出す。思わず首をかしげた。
「これ、アップルパイですの? 本当に?」
「え、そうだけど?」
光子の知るそれと全く違う。家で出されるアップルパイは、シナモンと林檎の香りが部屋中に立ち込めるようなモノだ。パイ生地のサクサクした食感と、角切り林檎のバターで半分とろけた食感の協奏を楽しむものだと思っていたのだが。
一方目の前のアップルパイは林檎が外からは全く見えず、生地もパイ生地ではないし揚げてある。光子は恐る恐る、角をかじった。
生地はパリパリ、そして中はとろとろだった。林檎の香りが弱いのは残念だが、そう捨てたものでもない。
「これをアップルパイと呼ぶのはどうかと思いますけれど、嫌いではありませんわ」
ご馳走してくれた上条さんに、微笑みかける。それを見て当麻もニッと笑った。


「それじゃ、気をつけて」
「ええ、上条さんもお気をつけになって」
ファストフードの店を出て学舎の園の近くまで送り、当麻は光子と何気なく別れた。
自分に自信があり、自慢好きなところもあったが、相手を立てて気遣うことも出来る女の子だった。
「そりゃあんな綺麗な子と付き合えたら幸せだろうけど、上条さんにそういうフラグは立たないのですよ、と」
自分の不幸体質にため息をつき、当麻は今日の晩御飯代が420円少なくなったことを念頭に置きつつ、レシピを考えながらスーパーへ向かった。



これが、当麻と婚后光子の、馴れ初めだった。





[19764] prologue 02: その心配が嬉しい
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2010/09/10 21:26
ベッドサイドの当麻が眠りだしたのを半目で確認して、婚后光子はそっと体を起こした。
外には夕日。何の飾りもない白い壁と緑のシーツ、そして光子自身は慣れて気づかなくなってしまった薬品の匂い。そこは典型的な病室だった。
当麻はどこにももたれかからず、椅子に座りながらうなだれる様に深く俯いてかすかに舟を漕いでいる。光子は扇子を開き、そよそよとした風で当麻の頭を撫でた。
扇子を返すときに流れが剥離し、乱流にならないよう気をつける。手首のスナップには、光子が遊びの中で培った空力使い特有のこだわりがあった。
弱い風は層流と呼ばれる、整った流れを持っている。そして風が強くなると流れに乱れ、渦が生じ乱流となる。その乱流とならない限界ギリギリの最大風速を狙い、整った流れの中に無粋な渦を生じさせぬよう丁寧に扇子を動かすのが、誰に言うでもない彼女の嗜みの一つだった。
バサバサではなくそよそよ。優雅に揺れる当麻の黒髪が受けているのは、普通の人類が実現しうる最高速度の「そよ風」だ。
もちろんそれを作り出すのには風の流れを読める測定機器や感覚を持つ人間が必要だし、彼女ならば人類には実現できないような風の流れも意のままに作り出せる。だが光子はその特別な力に頼ることなく、扇子で扇ぐ手間すらいとおしいと言わんばかりに、幸せに浸り、可憐な乙女らしい笑顔を顔一杯に咲かせていた。


隣でうたた寝をする上条当麻という人は、巷の言葉づかいで言うところの「彼氏」という人だ。


殊更に幸せを感じる理由は、ひどく心配した顔で当麻が自分の病室を訪ねてきてくれたから。家族に溺愛されてきた光子にとって、大事にされるということはむしろ空気に近い当然のことだったが、想い人の訪れはそれとはまったく別だった。
来てくれないかもしれない、心配されていないかもしれない、そんな不安と表裏一体の来て欲しいという願望。それが実現したときの喜びと安堵は、今まで光子が感じたことのない感情の揺れ幅だった。

もちろん、当麻がひどく心配したのも、面会がかなったその当日に病室を訪れたのも、当然の理由がある。暴漢に襲われた恋人が一週間の面会謝絶となるほどの怪我を負ったというのだ。
彼は毎日学校が終わるとすぐ病院に通っては、落胆と不安を味わうという日々を続けて、今日やっと光子の穏やかな寝顔を見られたのだった。

……というのが当麻の知る状況だったが、実際には光子のほうに色々と事情があった。
一週間前、光子は姿の見えない暴漢に襲われスタンガンにより昏倒させられた。犯人は中学生の女の子だったらしい。怪我らしい怪我もなく、身体的にはとっくに回復している。
問題は眉毛だった。何の恨みか、学園謹製の消えにくいマジックペンで光子の眉毛は太く太くなぞられていた。あらゆる溶剤を突っぱねるそのインクのせいで、新陳代謝によりインクの染みた皮膚が更新されるまでの一週間、光子はとても人前に顔を晒せる状態ではなかったのだった。
そして光子の女心は「今は眉毛が太くなっていますからお会いできませんの」と当麻に告げることを許さず、病院に無理を言って面会謝絶の札をかけさせたのだった。

そしてようやく眉が元に戻ったのが今日。さっそく夕方に当麻が訪れてくれたが、久々に想い人に会えた光子は恥ずかしくてつい寝たふりをしてしまった。
その顔を見て当麻は光子が寝ているものと早合点した。その単純な反応を見て光子は、自分でどんな顔をしているかも分かりませんのに想い人にうかつに寝顔を見せる婚后光子ではありませんわ、と澄ましていた。しかし、医者に面会謝絶と言われる当麻がどれほど不安に思っていたかに気づかず、彼が心配顔で訪れてきたことを素朴に喜んでしまうあたりは光子らしかった。

で、今は元気そうな光子を見てほっと一息つき、彼女が起きるまで待つかとベッドの傍で眠り始めた上条当麻を見て、光子は幸せを噛み締めているという訳である。
明日は退院だから、当麻さんとお買い物に行きましょう。セブンスミストは庶民向けのものが多くて珍しいし、当麻さんにも合うものがあるだろうし、それがいいわね。
そう考えを巡らせながら扇子を畳み、初めて、当麻の髪に触れた。
尖った髪の先の、ツンツンとした感触。整髪料……ワックスというものを使っているのだろう。地毛もごわごわした感じで、自身の髪とはまったく異なっていた。
肩よりすこし長く伸ばした髪を、光子は自慢にしている。お嬢様学校にいることもあって彼女の周りには丁寧に整えられた長髪を持つ少女は山のようにいるが、自分ほど綺麗な髪をしている女はそう多くないと自負している。浅ましいことは分かっているが、髪の手入れが悪い同年代の少女たちに対して優越感を感じていたことも事実だった。
だが、当麻の髪にそういう気持ちは抱かなかった。雑巾を石鹸でゴシゴシ洗ったような艶のない粗い質感の、安っぽい香りのする整髪料をつけた髪だというのに、愛着すら感じる。当麻の髪の感触は面白く、つい、ツンツンと何度もつついてしまう。人差し指で弄んだ後、手のひら全体でその尖った感触を楽しんだ。

それで、調子に乗ったのがいけなかったか。
見えにくい寝顔を覗き込もうと、体をひねって当麻の顔に自分の顔を近づけたその時。
衣擦れの音に目が冷めたのか、んぁと間の抜けた声をだして当麻が目を開いた。
まだ光子は当麻と口付けを交わしたことはない。結婚するまではだめよなんて自分に言い聞かせているものの、その禁を自分で破ってしまうのもそう遠くない気はしているが。
しかし現段階においては、この偶然の一瞬が、当麻ともっとも顔を近づけた瞬間だった。

「あ……」
「え、あ、婚、……后?」

どうしよう、目をつぶったほうがいいのかしら、なんて考えが頭を巡るのとは裏腹に、

「婚后、目ぇ覚めたか! 大丈夫なのか?!」
バッと顔を起こした当麻に肩を掴まれる。真剣なその表情にドキリとする。
「え、ええ。もうすぐにでも退院できるくらい回復していますから」
「本当か? 入院期間だってやたら長いし、医者は大丈夫だとは言うけど、やっぱ顔を見ないと、なあ」
ほっとした顔で『すっかり回復した』光子の表情を見つめる。……そしてパッと肩を掴んだ手を離した。
戸惑いはにかむ光子の顔を見て、自分が何をしているのか悟ったからだった。

「心配、してくださったの?」
「あ、当たり前だろ。メールが丸二日来なかったんだぞ? 今までそんなことなかったってのにさ」
照れくさそうにそっぽを向く当麻に、少し申し訳なく思った。昏倒したその日から電話もメールも出来たのに、ラクガキされた自分の顔を見られたくない一心で面会謝絶にまでした以上、引っ込みがつかず元気そうな便りをあまり送れなかったのだった。
「お見舞いの花とか持ってなくて、ごめんな。初めて来た日は一応持ってったんだけど」
「ううん、そうやって気遣ってもらえるのが、一番うれしいですわ」
さらさらと髪を揺らしながら、首を横に振る。掛け値なしの本音だった。恋心を抱く殿方に真剣に気遣ってもらえる。その人の注意を自分のほうに向けてもらえるというのは心満たされることだった。そう思うのは親元から皆が離れて生きる、学園都市という特殊性も要因の一つだったかもしれないが。
光子の表裏の無い柔らかな笑みに、当麻は思考能力を思いっきり奪われた。
この可愛さは犯罪だろ……やばい、こうやってふんわり笑われるとなんというか。高飛車で我侭なお嬢様だと思った第一印象と全然違ってるじゃないか。と、ついイケナイことをしてしまおうとする邪(よこし)まな考えが脳裏にいくつもマルチタスクで展開されていく。
「それで、退院はいつなんだ」
「明日ですわ。ちょうどお休みの日ですし、買い物に付き合ってくださる?」
二人っきり、それもベッド付きで―――というこの素晴らしい空間を明日にも引き払うというのに内心でかなりの落胆を覚えつつ、同時に感じた安心のほうを顔に出す。
「そっか。かなり治ってるんだな、良かった。あ、でも、痕とか残らなかったか……?」
「ええ、あまり強い電流ではありませんでしたの。使われたのも女性が護身用に持つものでしたから。首に当てられると気を失いやすいですけれど、傷跡が残るようなことはありませんわ」
そう言って光子は耳に掛かる髪を手で留め、後ろ髪を空いたほうの手で集めて首筋を見せた。
傷一つ無いその肌は、病的な白と活動的な小麦色のどちらでもない、自然で暖かな肌色だった。髪を触るその仕草は何気ないのにやけに色っぽくて、母親を除き身近に長髪の女性がいない当麻はそれだけで見蕩れてしまった。
「貴方はこの一週間、どう過ごされましたの? 私ずっとこの部屋におりましたからそれはもう退屈で退屈で」
「あー、まあ学校行って授業聞くかつるんでる連中とバカ話するかして、放課後は病院に顔出して、することっていったらそんなもんだったな」
我ながらつまんねー人生送ってるなと思いながら、当麻は頭をガシガシと掻いた。
「夕方や夜は何をなさるの? メールのやり取りも、電話も無かったからお暇だったんじゃありませんこと?」
「まあ最近無かった感じの暇だよな。テレビ見たりネットに繋いであれこれしてたな。ま、何って言うほどのことでもないさ」
照れ隠しの意味もあって説明になっていないような説明を当麻がすると、光子はやや不満げな顔になった。
「常盤台の女子寮はテレビを部屋に置くことは禁止されておりますし、私テレビはあまり好きではありませんから詳しくはありませんけれど、どういうプログラムをご覧になってるのかが知りたいんですの」
光子の追求を面倒に思いながら、自分の見ていたテレビ番組を思い出す。スポーツ特集のテレビだったり、ドラマだったりするが、どれも毎週見るようなものではなかった。1人暮らしにありがちな、BGM代わりに使っていることも多いからだ。
「適当につけてるだけだからこれを見てる、って言えるような番組は無いんだよな。なんていうか、家に帰ったらとりあえずスイッチを入れるもので、メシ作ってて聞こえないときも付けっぱなしにするようなものというかさ」
当麻の説明に、光子は分かったような分からないようなふうに首をかしげた。
「そういうものですの」
「そういう婚后は何して過ごしてたんだ?」
「私は寮の友人に最近読んでいなかった小説を持ってきていただきましたから、それを読んでおりましたけど――」
そこまで言って、む、と当麻の言葉を聞きとがめ、
「二人っきりでいますのに、名前で呼んでは下さらないのね」
そう、拗ねた声を出した。
「い、いやだってさ! 改めて付き合ってってなると下の名前を呼ぶのもなんか特別な感じがするし……それにそっちだって俺のこと名前で呼んでないじゃないか」
いきなり飛んできた言葉の槍を必死で回避しつつ、質問を投げ返す。
「私のほうから名前でお呼びするのは。その……不躾ですわ。そういうところはリードしていただきたいんですの」
下の名前で呼びあったことは初めてではない。いろいろな巡り合わせがあって、いい雰囲気になったときにこそばゆい思いをしながら呼んだ事は何回かあった。
「光子。えー、あー、」
視線を絡めあう所までは、当麻のレベルではたどりつけなかったが。
「これでいいか?」
「名前で呼んでくれたのは嬉しいですけれど、何も用が無いのにお呼びになったの?」
なけなしの根性をつぎ込んで呼んでみたというのに、からかうようにつーんと澄ましてそっぽを向く光子。
当麻はやけになって、
「好きだ、光子」
言ってやった。
「あ……はい!」
にっこりと笑うその表情の飾り気の無さは、丁寧に仕立てられた婚后光子という女性の容姿や仕草がむしろそれを引き立てていて、可愛いという言葉以外が出てこなかった。
「私も、お慕いしておりますわ。当麻さん」

会話がそこで途切れる。
ふと気づけばぽっかりとあいた空白。
不意に走る緊張感。

以前、名前を呼び合ったときのように、そっと光子の髪に手を伸ばし、軽く撫ぜる。
光子は何かを悟ったかのように、引き寄せられるように当麻の肩に頭を乗せた。
撫ぜていた手がそのまま抱きかかえる手にシフトする。そして少しの間、光子の髪を不器用に撫ぜ続けた。

「光子」
三度目でようやくマトモに呼べるようになってきた。
上目遣いに光子が当麻のほうを見て、そして恥ずかしさに耐えかねるようにむずがった。
そっと光子の双眸が音を立てずに閉じられる。
ほんの少し当麻が首を動かすだけで、"それ"が成される、そのときに。




パタパタと、ナースのサンダルが足早な音を立てて近づいてくるのが聞こえた。




ぱっと寄りかかっていた体をベッドに引き戻す。
期待を裏切られた当麻は情けない顔をしていたが、幸い光子に見られることは無かった。
目をつぶって完全に"待ち"に入った自分の顔がどんなだっただろうと、急速に理性を取り戻させられた光子の側にも余裕は無かったからだ。

二人して警戒したが、ナースはこの部屋には用がなかったらしく、扉についた窓からチラとこちらを見ることすらせずに離れていった。
なあんだと二人で顔を見合わせて、慌てて眼をそらした。光子が咎めるように当麻に囁く。
「もう、当麻さん。そういうことは、け、結婚してからするものですわ。気が早いのはよくなくてよ」
「う、なんだよ。俺のせいか。光子だって、期待してたくせに」
かああっと光子が顔を赤く染める。
「そ、そんなことありません! そんなことを言うんでしたら先日の当麻さんこそ私のむ、む」
「おいおい! だからあれは不可抗力だったんだって!」
街中で出会い頭につまずいて光子の胸にダイブしたのは、断じて当麻の意思ではない。
「とにかく、当麻さんはもう少しエッチなところを自重して下さる? 殿方は多かれ少なかれ、そう言うところがあるとお母様に聞きましたけれど……」
だが光子はまったく斟酌(しんしゃく)してくれなかった。

廊下のスピーカーから、扉越しに蛍の光が聞こえた。
「あ……」
その意味を瞬時に悟り、光子が寂しげな声をあげた。
日本においてその曲の意味は余りにも有名。営業時間の終了、ここは病院だから面会時間の終了をアナウンスしていた。
「もう、帰る時間なのか。ごめんな、長くいてやれなくてさ」
「当麻さんのせいではありませんから……」
語尾を濁す光子の素振りが、明らかにまだ一緒にいたいと告げている。
その顔を見て、当麻は閃く。
うすっぺらい鞄を担ぎ、じゃ、と手を上げた。
「また明日、な」
「え……あの」
去り際に、ほんの少しの触れ合いも残さず立ち去ろうとする当麻の態度に、光子は寂しさを感じた。
「いやさ、光子に触っちゃだめなんだろ? 嫌って言われちゃ仕方ないよな」
意地の悪い顔で当麻がそんなことを言った。
「そんなっ……私、その、嫌だとは、言っておりませんわ」
「俺がエッチだから駄目ってさっき言ったじゃないか」
「もう……当麻さん、嬲るのはおよしになって。去り際がこんな素っ気無いのは、寂しいです」
拗ねたその顔が可愛くて、当麻は満足した。
「光子」
「あ……」
そっと髪を撫でる。光子が嬉しそうに眼を細める。
「これで満足か?」
そう尋ねると、何か物言いたげな顔をして、結局そっぽを向いた。
ちょっと強引に抱き寄せる。
「あ、と、当麻さん。いけませんわ、こんなこと」
光子が当麻の胸の中で慌てていた。しかし、それもすぐおさまる。夕焼けの色が鮮やか過ぎてもう光子の頬の色は分からなかったが、たぶん、当麻は光子の内心を理解できたと思った。

リピートを何度かして、蛍の光がスピーカーから聞こえなくなった。
眼を閉じていた光子が顔を上げ、そして当麻はそっと体を離した。
「名残惜しくなっちまうから、そろそろ行くな」
「はい。仕方ないですものね。その、すごく嬉しかったですわ」
「俺もだ」
二人ではにかみながら見詰め合う。
「それじゃあ、また明日な」
そこではっと気づいたように光子が言葉を繋ぐ。
「あ、いえ、きょ、今日の夜にお電話はできますの?」
「え? ああ、できるよ。いつもの時間にまた掛けるから」
「嬉しい。お待ちしていますわ」
にこりと微笑んで、当麻の退出を見送った。


カラカラと音を立てながら扉が閉じる音を背に受けながら、エントランスへと当麻は向かった。
きっと不幸体質のせいなんだと信じ込むことにしていたが、基本的に自分は自分がもてない男であると、しぶしぶ事実を受け入れていた。
それが今ではひょんな経緯からお嬢様学校の女の子と付き合い始めることとなり、マメにメールや電話をしているのだ。彼女の容姿に文句なんてこれっぽっちもないし、性格もクセはあるが付き合いに慣れればひたすら可愛かった。
どう考えてもこれ幸せじゃね? 何故俺がこんなに幸せに? という不信感がぬぐえないあたり、当麻はまさしく不幸の人だった。
付き合いだしてからも学校帰りに卵パックが割れたり自転車にドロを跳ね上げられたりする程度で、不幸の量は以前と何も変わったところはない。
まあ運が良いことが人生に一回くらいあったっていいだろう。あとは、愛想をつかされないように付き合っていくだけだ。
当麻はそう思いなおし、病院の玄関を潜り抜けた。



[19764] prologue 03: レベル4の先達に師事する決心
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2010/09/10 21:27
「婚后さん! あたしに空力使い(エアロハンド)の極意、教えてくださいっ!」

どんな心境の変化だったろう。
彼女では足元にも及ばぬような高位の能力者。それも低レベルの自分をいかにも見下していそうな高飛車なお嬢様。
自分らしくない嫌な気持ちが湧いて出るからと、彼女は婚后光子とは距離をとっていたのに。

当麻と待ち合わせをした、学舎の園と普通の区域の境目にて。
時計は無粋だから持ち歩いていない。携帯電話にはもちろん時刻が表示されているだろうが、それに光子が気づいたことはない。
周りに同じような子女が多い環境で育ったからか、周囲を見回せば大概は大時計や花時計が見つかるのだった。
待ち合わせまでまだいくらか時間がある。少し離れた位置にある時計から視線を戻すと、向こうも遊ぶ気だったのだろうか、小綺麗な花を髪飾りに生けた少女と、ごく普通の花飾りで長い髪を留めた少女が歩いてくるのが見えた。彼女達とは、つい先日の水着撮影のときに知り合った。白井黒子の友人らしい。
お互い顔は見知っているものの名前を光子は把握しておらず、簡単な挨拶と名前を互いに教えあったところで、



いきなりあんなお願いが飛んできたのだった。



「え、ちょっと、お待ちになって。一体全体唐突になんですの? 藪から蛇でも出てきそうですわね」
「それを言うなら藪から棒に、ですよ。にしても、佐天さん一体どうしたんですか?」
初春にとっても寝耳に水だったのだろう。友人の意図を量りかねているようだった。
「え、いやあ。アハハ」
いきなり指摘を受けて佐天は視線をさまよわせ、しかしそれでもはぐらかしたりはしなかった。
「あたしの能力、一応空力使いなんです。あ、全然大したことないですけど。それで、伸びない自分から逃げないで、ちゃんと向き合いたいって最近思うことがあったんですよ。知り合いにレベル4の同系統の能力者の人がいるなんてすっごくラッキーな偶然じゃないですか。もちろんご迷惑になるでしょうからそんなに教えてもらえないかもしれないですけど、アドバイスとかもらえたら嬉しいなーって」
光子がどう思うか、それは初春には分からなかった。しかし佐天の自分を茶化したような態度の裏に、いつになく真剣な思いが潜んでいることに初春は気づいていた。
佐天はそこで言葉を切って、真面目な顔で頭を下げた。
「あの、お願い、出来ないでしょうか」
光子はじっとその姿を見つめた。目の前の少女は、直接話したことはほとんどないが、明るくて物事をあまり深く考えていなさそうな子だとしか認識していなかった。
「佐天さん、だったわね」
「あ、はい。佐天……佐天涙子って言います」
「可愛いお名前ね」
「はあ」
佐天は肩透かしを食らって気の無い返事をした。
「もし、軽い気持ちでアドバイスを貰いたいのなら、お断りするわ。能力の伸ばし方なんてそれこそ人によって違うのだから、簡単な助言が欲しいのなら学校で先生に聞いたほうがずっといいわ。私は先生ではありませんから、あなたにとって良くないアドバイスをするかも知れませんし」
それは事実だったし、興味本位にアドバイスが欲しいという程度の安っぽい仕事を引き受ける気は光子にはなかった。
試されているのを感じたのか、佐天は姿勢をキュッと正し、
「あの、答えになってないんですけど、婚后さんは自分のこと、天才だって思ってますか?」
「ええ、勿論。あんなふうに世界を解釈し、力を発現できるのは世界でただ1人、私だけですもの」
即答だった。そして、佐天の返事を聞くより先に言葉を繋いだ。
「でも、努力ならいつだってしていましたわ。そして一切努力をせずにレベル5になれるような人だけを天才というのなら、私は天才ではありませんわね」
その言葉の意味を理解するようにほんの少しの間、佐天は返事をするのに時間をあけた。
「私も、この学園都市に来たからには自分だけの力が欲しくて、でも学校の授業を聞いても、グランドを走っても、能力が身につく気がどうしてもしないんです。それが一番の近道なのかもしれないけど、それも信じられなくて……。だから、努力をして力を身につけた人の言葉が欲しいんです。婚后さんが、学校の授業を真面目に受けるのが一番だって言うなら、それを信じます。いままでよりもっとがむしゃらにやります。だから……」
ふ、と光子は自分の昔を思い出して笑った。それは低レベル能力者が誰しもが感じる悩みだ。かつて自分もそれを抱えていた人間として佐天の思いをほろ苦く感じながら、言葉に詰まった佐天に助け舟を出した。
「私、弟子を取るからには指導には容赦をしなくってよ!」
弄んでいた扇子をパッと開き、挑むような目で佐天を見つめた。
「えっ、あの、助けてくれるんですか?!」
半分、手が差し伸べられるのを信じていなかった佐天はあっさりとした承諾の返事に思わず聞き返してしまった。
「貴女にやる気があるのなら、ね」
「はい! 頑張ります!」
ビッ、と敬礼のポーズをとった。
初めは驚き、ただ話を聞いているだけだった初春も、佐天の少し後ろで安心するように笑った。
劣等感を隠すための強がりとしての明るさと、生来の朗らかさ、その両方を佐天涙子という友人は持ち合わせている。前向きなときも後ろ向きな時も明るく振舞ってしまうのが、気遣いができる彼女の美徳であり短所であった。初春は彼女が前向きな気持ちでこうした話を出来ていることが嬉しかった。能力の話は、彼女が最も劣等感を感じ、苦しんでいる事柄だったからだ。

「そうね、それじゃまず申し上げておきたいことは」
しばらく思案していた光子が言葉を紡ぐ。
「まず、学校のことを学校で一番になれるくらいきちんとやるのは最低限のことですわ」
その一言で、佐天の顔が曇った。『出来る人間の台詞』が第一声に飛んできたからだった。
「別に次の考査で学年トップになれなんて言ってるわけではありませんのよ。ただ、あとで後悔するような努力しかしていなければ、そこから前向きな気持ちが折れていくでしょう? それでは伸びませんわ」
わずかに佐天の表情も明るくなったが、やはりその言葉は聞きなれた理想論でしかなく、彼女の閉塞感を吹き飛ばすものではなかった。
光子も常盤台においては上位クラスに所属するもののその中ではごく凡庸な位置にいるので、自分自身が自分の垂れた説教を好きになれなかった。
「それで佐天さん、あなたのレベルはいくつですの?」
「あ、えっと……ゼロ、です」
噴出する劣等感を顔に出さないようにするのに、佐天は必死になった。ただレベルを申告するだけなら、チラリと顔を見せるその感情に蓋をするだけでよかったかもしれない。だが幻想御手(レベルアッパー)という誘惑に負けた自分の浅ましさは、レベル0であるという劣等感を何倍にも膨れ上がらせ、持て余すほどに堆積していた。
「ゼロ? あの、出鼻をくじいて悪いですけど、本当に空力使いという自信はおありなのね?」
弱い意志が誘惑に負けてズルをした過日の自分を思い出して、ひどい自己嫌悪が蘇る。
「あ、はい! あたし一度だけ力が使えたことがあって、そのとき、手のひらの上で風が回ったんです。先生にも相談したらほぼ間違いなく空力使いだって」
はぐらかす自分も嫌になる。何もかもが後ろ向きになって、思わず光子に謝って今の話を無かったことにしてもらおうかなんて考えすら湧いてくる。
「そう、分かりましたわ。そうですわね……私もこれから用がありますし、この週末に時間をとってやるのでよろしくって?」
「はい、それはもうもちろん! レベル4の人に見てもらえるなんてどんなにお願いしたって普通は出来ないことなんですから!」
彼女は自分の退路を一つ一つ断っていった。それが最善の道だと気づいていた。
「ふふ。じゃあ、宿題を出しておきましょうか」
「え、宿題、ですか?」
光子は頼られるのが好きだった。真面目でひたむきな佐天の姿勢は、先輩風を吹かせたい気持ちをくすぐるものがあった。そして、かつて自分の面倒を見てくれた先生からかけられた言葉を思い出し、それを口にする。
「貴女、風はお好き?」
「え? あの、風って。扇風機の風とかですか?」
その問いはあまりにシンプルで、逆に難しかった。
「扇風機も確かに風を吹かせるわね。もう一度言うわ。風はお好き? それ以上のアドバイスはしませんから、自分でよく答えを考えてみなさいな」
「はあ……」
どうしたらよいのかと思案すると同時に、今までとまったく違ったアプローチで攻められることが面白く思えていた。
「私が自分の力を伸ばすきっかけになった質問ですのよ、それ。念のために言っておきますけれど、ちゃんと考えて答えを出さないと何の意味もありませんからね」
「自分で、ちゃんと考えてみます」
不思議と面白い思索だった。返事をする傍ら、頭の中ではすでにぐるぐると回る風の軌跡が描かれていた。
「そうしなさい。今週末に答えを聞かせてもらうわ」
「ありがとうございます。でも……あの、いいんですか? 自分で言うのもなんですけど、こんな面倒なお願いを簡単に引き受けてもらっちゃって」
「あら、私こう見えても後輩の面倒見はいいほうですのよ? 真面目に何かを学び取ろうとする人は、嫌いではありませんし」
佐天に微笑みかけるその表情は、すでに教え子を見る顔になっていた。





それからもう少し軽い話をして、初春と佐天は学舎の園の中へと向かっていった。
当麻は待ち合わせの時間より5分遅れてやってきた。
遅刻されるのは嫌いだった。相手にも事情があるだろうとか、そんなことを考えるより、自分のことを大切に思ってないのだろうかという不安のほうが先に湧いてくるからだ。そして不安の矢は当麻の側を向いて、怒りや苛立ちに変わるのだった。
「どうして遅れましたの」
最大限に自制を効かせてそう尋ねると、財布を溝に落としたので拾い上げようとしたら自転車とぶつかったとの説明が帰ってきた。当麻は硬貨を、相手は買い物を散々にぶちまけ、さらには外れたチェーンの巻き直しまでしたのだとか。
ひと月に足らないこの短い付き合いですっかり納得させられるのもどうかと思うが、この上条当麻という想い人の運の悪さを光子はよく理解している。だからそんな絵に描いたような言い訳を、それでも疑いはしなかった。なじるのを止めたりはしなかったが。

二人で歩くときは当麻の左を歩くのが、光子の習慣になっていた。
当麻は鞄を右手で持つことが多い。それに合わせて当麻の左手と自分の右手を繋ぐのだった。
「鞄、持つぞ」
自分の鞄を持ったままの当麻の手が、光子の前に伸びてきた。
「お願いしますわ」
ありがとうを言わず、微笑を返した。その気安さが嬉しい。
鞄を持ってもらい、開いた自分の両腕を使って当麻の左腕に抱きついた。当麻が照れるのが分かる。こうしてべったりと抱きつくといつもそうだった。
私も恥ずかしいですけど、でも嬉しいんですもの。当麻さんもきっと喜んでくださっているのよね。
そう光子は納得していた。
自分のプロポーションに自信があるものの、それをダイレクトに感じている男性がドキッとしていることに思い当たらないあたり、光子は初心(うぶ)だった。

「それで、佐天さんに空力使いとしてちょっと指導をすることになりましたの」
安いファストフードの店でホットアップルパイを食べるのが光子のお気に入りだった。初めてそれを口にしたのは当麻と知り合ったその日だから、それは特別な食べ物なのだ。今でもアップルパイとは認めていないが、中身のとろとろとした食感は気に入っていた。
そのファストフード店への道すがら。頼ってくれる人間が出来たことが嬉しくて、すぐさっきの話を当麻にした。
「へえ。そういうのって珍しいんじゃないのか? 能力者が能力者の指導をするなんてさ」
「まあ学校の先輩後輩でなら稀にありますけれど。でもこんな風に依頼されたのは私くらいかもしれませんわね」
「しかも相手はレベル0なんだろ? なんていうか、それで伸びるもんなのかね?」
そこで、光子はハッと息を呑んで、当麻の顔を見た。
彼もレベル0であり、その彼よりも別の能力者の手伝いをすると言った自分の無神経さに気づいたからだった。
自分がレベル0であることに、当麻は全く劣等感を見せない。彼の能力について聞いたのは付き合う前だったから、実はあまり能力の話はしたことがなかったのだった。
レベル4の自分が話を振るのは、すこし怖かった。
「あの、怒ってらっしゃらない?」
「へ? なんで?」
いきなり話が変わって、当麻は間の抜けた顔をした。
急に光子が深刻そうな表情を見せたことが全く理解できなかった。
「その、当麻さんも確か」
「あ、あー。そういうことか。俺もレベル0だ。まああんまり気にしてないけど。右手のせいなのは分かりきってるしな」
「当麻さんの能力は確か、AIM拡散場を介した超能力のジャミング、でしたわよね?」
「へ? なにそれ」
まるで初耳だといわんばかりの顔で当麻は聞き返した。光子は学園都市の言葉で説明のつかないその能力を当麻の適当な説明を聞いて理解していたため、それがもっともらしい理解の仕方だった。
「違いますの?」
「能力を打ち消すところは合ってるけど……。そうか光子はそんな風に解釈してたのか」
ニッと笑い、
「試してみるか」
大通りの隣にある休憩スペースのベンチを指差したのだった。


ベンチに腰掛け、すぐさま『実験』を始めた。
「嘘……なんで、どうしてですの?!」
能力者に特別な準備は必要ない。すぐさま当麻の手を握って、そして愕然とした。
初めは小さな威力で、そしていまや自分の最大出力。台風を優に超える風速と風量で当麻は自分の視界から消えるくらい吹っ飛ぶはずなのに。
当麻の右手には何度やっても風の噴出面を発現させられない。これっぽっちも自分の能力による大気の変化を観測できないのだった。
次にその右手を自分の右手の甲に重ねてもらい、その状態で当麻の鞄に触れる。
「そんな、何も出来ないなんて……。当麻さん、あなた本当にレベル0ですの?」
レベル4の自分の能力を完璧に封じ込めて、それどころかどんな能力で封じ込めたのかすらも悟らせない。
AIM拡散場を介した超能力のジャミング、さっきまで自分がしていた勘違いで説明をするなら、上条当麻はレベル5でなくてはならないだろう。
「誰が好き好んでレベル0なんてランク付けを貰うんだよ。もっと高かったら小遣い増えるのにさ」
カツカツの経済状況をもたらすことだけが、当麻にとってレベル0を疎む理由らしかった。劣等感から道外れた世界へ踏み出す人間が掃いて捨てるほどいるこの都市で、その認識はあまりにおっとりとしていた。
「でも、それならレベル0と認定された能力で、どうして私の能力を無効化できますの? ……自慢に聞こえたら嫌ですけれど、私、自分の能力は非凡なものを自負しておりますのに」
「うーん、なんでって言われてもな。俺の右手はそれが超常現象なら何でも無効化できるんだ。レベル5の電撃でも平気だったし、たぶんレベルは関係ないんじゃないか?」
「あ、あなた、超能力者(レベル5)と能力をぶつけ合ったことがありますの?!」
怪我をさせないようにと丁寧に気遣った自分がバカだったかも知れない。光子はそう嘆息した。レベル5で電撃といえば、やはり常盤台の超電磁砲だろうか。グラウンドから見たあの水柱は、自分の能力で防げるようなものではないように思えた。それを防ぐというなら、自分の能力でも何も出来ないだろう。
「ああ、なんか道端で知り合ってさ、それからアイツがやたら絡んで来るんだよな」
「……常盤台の学生、ですの?」
「お、やっぱりビリビリと知り合いなのか? あいつ確か中2って言ってたし、光子と同級生だよな」
共通の知り合いがいるのかもしれないと思って嬉しそうに話を振った当麻だったが、光子の表情を見て固まった。
「仲、よろしいんですの?」
自分だけの席に、無理やり割り込まれたような気持ち。知り合いというだけなら当麻にも女性のクラスメイトはいるだろうに、同じ常盤台の中学二年で当麻の心許した相手というのが、やけに疎ましかった。
「い、いや。別に、ただ知り合いってだけだぞ? なんかいちいち突っかかってくるから相手してるだけで」
「そうですの」
全然納得してない表情の光子を見て、なんなんだ? と首をかしげる。そしてふと気づいた。もしかして妬いてるのか?
わずかにツンと尖らせた唇は、まさにそれらしかった。そういう機微に気づく当たり、誰とも付き合っていなかった頃の上条当麻とは違うのだった。
ベンチに座ったまま、光子の肩を抱き寄せる。
唇はもっと突き出されてしまったが、照れ隠しなのが見て分かった。
「可愛いな、そういうとこ」
「だって」
抗議するように軽く睨んだ光子に笑みを返した。
夕方までベンチでベタベタとじゃれあう二人は周りにとってはいい公害であり、警備員(アンチスキル)に追い払われるまでこの公園で甘い雰囲気を撒き散らしたのだった。






そして週末。
第七学区の中央近く、小さな公園で待ち合わせだった。
「こんにちは、佐天さん」
「あ、こんにちわです。婚后さん」
姿勢を正して、丁寧に腰を折り曲げる。
「今日はよろしく、お願いします」

「それで宿題はできましたの?」
単刀直入に本題に踏み込んだ。
「あ……はい、一応、考えてきました」
「一応ね……答え次第では今すぐにでも話を終わりにしますわよ? ちゃんと自分で納得した答えですのね?」
短く、そして答えの読めない質問。それ一つで自分を量られることへの不安。
佐天は思い切れないでいた。
宿題をもらった瞬間の、やってやろうじゃん、という気持ちはすっかり萎えきっていた。
数日間自分で悩みぬいた結論。それを自信を持って伝えることが出来ない。
もっといい結論を自分は出せないかと色んなふうに考えてみたが、結局、満足出来るようなものを胸に抱くことが出来なかった。
「……自分で、結論を出しました。精一杯の答えだから、変わったりはしません」
「そう、じゃあ、話して御覧なさい。『貴女、風はお好き?』」
少し前に聞いた問いと、寸分たがわぬ言い回し。

空力使いだというなら、心の底からそれを愛しているのが自然だろうに。
きっと高位の能力者の人たちは、それを満喫しているだろうに。
自分の答えのつまらなさが、たまらなく不快だった。
「嫌いだなんてことはないですけど、私は多分、風っていうものを、そんなに好きじゃないと思います」



[19764] prologue 04: 渦流の紡ぎ手
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2010/09/10 21:27
「嫌いだなんてことはないですけど、私は多分、風っていうものを、そんなに好きじゃないと思います」
くじけそうな顔をする佐天を見て、どうやら自分の思惑とは違うことになっていることに光子は気づいた。
「そう」
しかし、辛そうな顔の佐天をフォローすることなく、話を続けることにした。
「そのまま続けて質問に答えてくださいな」
返答次第ではその場で教導を終えると言われた佐天にとって、合否が伝えられないのは苦しい。
しかし、有無を言わせない態度の光子を前にして、「私はやっぱりダメですか」とは問えなかった。

「どうして好きになれないの?」
「なんでって……。色々考えてみましたけど、全部、違うなって……。そう思っちゃったんです」
「違う? 説明して御覧なさい」
ためらいの雰囲気。弱いものいじめはもう止めて欲しい、そんな佐天の声が聞こえてきそうだった。
だが、追い詰めないと、また本音を隠すだろう。
前向きになろうという決意と、そういう決意を出来た自分に酔うことが彼女の防衛機制、つまり逃げであることを、光子は漠然と理解していた。
解決できない現実問題に対し、そうした逃げを持つことは誰だってやっている。恥ずべきことではない。実際にはそれで上手くいくこともあるだろう。
だけど、本当の意味で物事を進展させるには、時には追い詰められることも必要だ。
無言で圧力を掛け、光子は佐天が逃げることを許さなかった。
「風が気持ちいいとか、空を飛べたらなあって、そういう風には思うんです。でも、それって特別なくらい好きって訳じゃなくて。水が気持ちいいのと同じくらいにしか好きじゃないし、空を飛べなくても、きっと私は火の玉でも何でも良いんです。超能力を使えれば」
空力使い失格だと、そんな罪を告白するような思いで佐天は言った。
もっと、がむしゃらに一つのことを突き詰められたら良いのに。たとえば尊敬できる年上の友人、御坂がそうであろうように。
そんな佐天の様子に一向に反応せず、光子はさらに質問を投げつける。
「風、といわれて空を飛ぶことを想像したのね。あなたが使う風はどんなだったの?」
「使う風、ですか?」
「空力使いなんて珍しくもない能力ですわ。でも、空を飛べる人はそんなに多くない。レベルの問題ではなく、能力の質の問題で無理な方は多いんですのよ」
そういって光子はすっと手を掲げ、空気に切れ目を入れるように扇子を横に薙いだ。
「カマイタチ、なんてものが古代から日本には伝わってますわよね。空力使いの中にはまさにカマイタチ使いがいますのよ。空間に急激な密度差を作って、その断層でものを切断する力ですわ。そしてその能力者は飛翔には向いていない」
空を飛べない空力使いがいる、ということに佐天は軽い驚きを感じた。だが言われてみればそういうものかもしれない。知り合いに発火能力者(パイロキネシスト)が二人いるが、片方はマッチくらいの火を手の上に出して熱がりもしないタイプで、もう片方は目で見えるところならどこにでも火を出せるがその火に触れることは出来ない能力者だった。そういう小さな差はむしろ能力者にはつきものだ。
「私はコントロールに難ありですが、それでも飛翔は得意なほうでしょうね。それで言いたいのは、空力使いは何も空を飛ぶだけの能力じゃないってことですわ。風にまつわる現象で、あなたが好きになるものがあれば、それがきっかけになるかと思うのですけれど」
「えっと……私が想像したのは、なんか手からバァーって風が吹いていく力とか、腕を羽みたいに広げたら風と一緒になって飛ぶ力とか、そういうのでした」
到底それに及ばない今の自分のレベルの低さを思い出して、嫌になる。佐天は耐えかねて、
「あの!」
思わず声をかけた。
「合格ですわよ。もとから不合格になんてならないと思っていましたけれど」
その声に、少しほっとする。良かった、まだ見捨てられてなかった。
しかし気楽になれはしなかった。自分はどうしたら良いんだろう、その未来が霧中から依然として姿を現さないからだった。
「あの、婚后さんの能力って、どんなのですか?」
「あら、お聞きになりたいんですの?」
光子が良くぞ聞いてくださいましたわと言わんばかりの顔をしたのを見て、佐天は内心失敗したと思った。この人は自慢が好きそうだ。
だが、その思いが露骨に顔に出ていたのか、ハッと光子は我に返り、扇子で口元を隠した。
「参考になることもあるかもしれませんわね。簡単に説明しますわ」
そう言って、佐天の肩に手をポン、と押し付けた。
「え?」
光子は笑って手を放す。そして一瞬の後。
ぶわっという音と共に風が起こり、佐天はだれかに軽く突き飛ばされたような力を受けた。
「うわわ……っとっと。びっくりしたあ」
乱れた髪を軽く直し、肩に触れる。特に変化は見当たらなかった。
「これが私の能力。触ったところから風を出す能力ですわね」
「へえ……」
「まあ出てきた結果は今はどうでもいいですわ。今はそれよりどうやって動かしたかのほうが大事ですわね」
ふむ、と光子は思案して、
「学校で気体分子運動論はやってますの? 統計熱力学でも構いませんけど」
「はい? いやあの、そんな難しいことやってませんよ! なんか名前聞いても何言ってるのか全然わかんないです」
「まあそうですわよね……流体力学も?」
「それってたしか高校のカリキュラムじゃないですか」
学園都市のカリキュラムはきわめて特殊である。能力開発を第一に優先するため、投薬実験(するのではなくされる側になる)という名の授業が普通に存在するあたりが最も特殊だ。だが、目立たないところで都市の外の学校と違うのが、数学や物理といった教科の進み具合だった。
低レベル能力者なら小学校で2次方程式や幾何学の基礎を修め、中学校で微積分やベクトル・行列の概念まで習得し、高校では多重積分や偏微分、各種の変換などをマスターする。高レベル能力者なら各自の能力に合わせ、いくらでも高度な教育が受けられるようになっている。そしてレベルによって受けられる教育の差は外の世界の比ではなかった。それは能力による差別というよりも、高レベル能力者の演算能力の高さに低レベル能力者が全くかなわない、その実力差の一点に尽きた。
光子が修めてきた、そして能力の開発に役立ててきた各種の学問を、佐天はいまだに受けたことがないのである。
「まあ超能力者を輩出しだして10年やそこらの現状では仕方ないかもしれませんけど、もっと世界の描像を色々伝える努力は必要でしょうに」
光子は嘆息した。自分の能力が人より伸びるのが遅かったのもそのせいだといえた。
「どういうことですか?」
「風、というか空気というものはどこまで細かく分けられると思います?」
「え?」
質問を質問で返された佐天は軽く戸惑った。
「風船を膨らませて、その口を閉めるとしますわね。箱の外にも空気はあるし、箱の中にも空気がある。それは自然に納得できることでしょう?」
「はあ、それはそうですけど」
「では、風船の中身を別に用意したもう一つの風船に半分移せば? 当然空気は半分に分けられますわね?」
「はい。……えっと、すいません。あたしバカだから婚后さんが何を言いたいのか分からないです」
「話を続けますわ。風船の空気をさらに他の風船と分け合って……というのを何度も何度も繰り返せば、風船の空気は何百等分、何千等分と分割されますわね。その分割に、限界は来るでしょうか?」
そこで佐天は話の行き着く先を理解した。その話は理科で習ったことのある話だった。
「あ、確か、空気は粒で出来てるんですよね。粒の名前は……量子とかなんとかだったような」
「量子は別物、粒子の名前ではありませんわ。空気の粒の名前は分子。2000年以上前にその概念を提唱されていながら、ほんの150年前まではあるかどうかもわからないあやふやな存在だったものですわね。光の波長より小さな粒ですから、光学顕微鏡ではこれっぽっちも見えませんし」
「へぇー」
確かに、そんな話を授業で聞いた覚えはあった。それも最近のはずだ。
「私は空気というものを連続体として捉えて能力を振るう、典型的な空力使いとは方式が異なりますの」
普通の空力使いは分子の存在を考えない。気体を『塊』として捉え、それを流動させるのである。
光子は足元の石を拾い上げた。
「私の力は、こうして私の手が触れた面にぶつかった風の粒の動きをコントロールするものですわ。私が触れた後すぐにその面には分子が集まって、その後私の意志で分子を全て放出する。そうすれば」
ボッと何かが噴出する音がして、小石ははるか遠くに飛んでいった。
「こうして物体が飛翔するというわけです。文学的な説明をするならマクスウェルの悪魔を召還する能力、とでも言うのかしらね」
「はぁー……。あの、人の能力をこんなにちゃんと聞いたのは初めてなんですけど、……すごい、ですね」
「このような捉え方で能力を使う人は多くはありませんわね。ですから私は自らの能力に自信もありますし、愛着もありますわ。それで、この話をしたのには意味がありますのよ」
自分をしっかりと見る光子の視線に、佐天は姿勢を正した。
「私はこの力を得るのに、人より時間がかかりました。常盤台に一年からいられなかったのも、それが理由ですわね。去年の私はレベル2でしたから」
「え? 一年でレベル2から4ですか!?」
それは飛躍的な伸びといってよかった。レベル0から2とは全く違う。成績の悪い小学生が成績のいい小学生になるのと、成績のいい小学生が大学生になるのの違いくらいだった。
「ええ。そして伸びた、というよりもそれまで伸びなかった理由は、分子論的な、そして統計熱力学的な描像を思い描くことが出来なかったからですわ。能力開発の先生が言うことが、いつも納得行きませんでしたもの。何度ナビエ・ストークス式の取り扱いを教えられても、ピンときませんでしたの」
そして光子は扇子をパタンと畳み、優しげな顔をしてこう言った。
「世界の見方は、目や耳といった人間の感覚器官で捉えられる世界観だけに限りませんわ。貴女の知らない『世界の見方』の中に、他の誰とも違う、『貴女だけの見方』と近いものがきっとあるでしょう。沢山学んで、それを探すことが遠回りなようで一番の近道だと思いますわ。今日の私の話が、その取っ掛かりになれば幸いですわね」
能力開発のためには沢山の知識を授け、よりこの我々の世界というものの描像を正確に伝えてやらねばならない。だが、そのためにはその個人の脳を高い演算能力を持つ脳へと開発することが必要となる。それは開発者たる教師たちを常に悩ませるジレンマだった。
佐天はメモ帳を取り出して、光子の言った言葉を書き込んでいた。気体分子運動論、統計熱力学、流体力学。そしてナビなんとか式。
それらの言葉はやたらに難しそうで、そして自分の知らない世界の広がりを感じさせて、すこしやる気になった。
「それで、もっと詳しく能力を使えたときのことは考えましたの?」
「え?」
「どうして風は吹くのかしら? 凪(な)いだ状態から風がある状態へ、その変化のきっかけを考えることは意味がありますわ。あなたは自分が能力を使って風が吹いた状態になった後を想像されましたけど、その前段階はどうですの?」
そう聞かれて、佐天は自分のイマジネーションの中でそれがすっぽりと抜け落ちていたことに、はじめて気がついた。
「私、頭の中ではいつも風をコントロールできてるところから話が始まってて、どうやって動かそうとか、考えもなかったです」
それは重要なことのように思えた。そりゃそうだ、原因なしに結果なんて出るはずがない。佐天は自分の努力に穴があったことに気がついた。そして、その穴を埋めれば先が広がりそうな、そんな予感がした。
光子も顔を明るくし、アドバイスを続けた。
「大事なところに気がつかれましたわね。レベル0とレベル1を分けるきっかけなんて、そういう些細な事だったりもしますわよ。もちろん、この学園都市の開発技術が及ばないで能力を伸ばせない人もいますけれど」
その励ましにやる気を貰って、佐天は自分なりの風の動き始め、というものを考えた。が、数秒の黙考の後に、
「あー、えっと。さすがにここじゃ思いつかないかもです」
そう光子に言った。部屋にでも帰ってじっくり考えてみたい気分だった。
「まあ、この場で思いつくようなものでもありませんしね」
光子も、今日はこの辺でいいだろうと思った。腐らずに自分に向き合い続けるのが最も能力を伸ばせる確率の高い方策だ。その意欲を湧かせてあげられただけで良しとすべきだろう。
「はい、ちょっと考えてみようと思います。自分だけの風の起こし方って言われても、まだピンと来ないんです。自然に吹く風みたいに、ほら、渦がこうぐるっと巻いて、そこから風になるような感じにはなかなかいかないじゃないですか」
自然とは違うことをしなきゃ超能力とは言わないですよね、と同意を求める佐天に光子は思わず反論をしようとして、止めた。
「自然の風はそうだったかしら。それじゃあ、扇風機の風も、渦から発生してるの?」
「……え? だって、扇風機も回転してるじゃないですか。スイッチ入れたら、クルクル回るし」
佐天は首をかしげた。空力使いの大能力者が、まさかこんな根本的なところの知識を押さえていないはずがない。
「では扇子は?」
「扇子とか、うちわや下敷きもそうですけど、なんかこう、板の先っぽのところで風がグルグルしてるじゃないですか」
ふむ、と光子は思案した。
風は、渦から生まれるわけではない。そもそも風とは渦まで含んだマクロな気体の流れであって、別物として扱いのもおかしな話だろう。
風を起こす元は、地球規模で言えば熱の偏りだ。太陽光を強く浴びる赤道は熱され、光を浴びにくい北極や南極との間に温度差や空気の密度差などを生じる。そしてそれを埋めるように、風は流れていくものだ。そしてこの流れが地球の自転によるコリオリの力と組み合わさり、複雑怪奇な地球の気象を作り出している。季節風でも陸風海風でも、温度や圧力、密度の勾配を推進力(ドライビング・フォース)とするというメカニズムは普遍的だった。
自然界の法則に縛られている限り、目の前になんの理由もなく風が生じることはないのだ。空力使いとは、まさにその起こるはずのない風を起こさせる『こじつけの理論』を持っている人間のことだった。
佐天が何気なく説明したそれは、自然界のルールとは違う。
「ちょっと佐天さん、渦から風が発生するメカニズムを説明してくださる?」
「え? えーと……」
授業中に嫌なところで教師に当てられた学生の顔をした。
「すみません、ちょっと思い出せないです」
「そう、どこで習いましたの?」
「習ったっていうか、たしかテレビの教育番組とかだったと思うんですけど……」
それも学園の中か、実家で見たかも定かではなかった。
はっきりと残るヴィジョンは、床も壁も真っ黒な実験室でチョークの白い粉みたいなものが空気中に撒き散らされている映像。突然画面の中で、空気がぐるりと渦を巻いて、ゆらゆら漂っていた粉が意思を持ったかのように流れ始める、と言うものだった。
きっと、子供向けのなにかの実験映像だったのだろう。別に感動もなく、ふーんとつぶやきながら見た気がする。
それを光子に話すと、何か考え込むように頬に手を当てうつむいた。
佐天が光子の言葉を待って少し黙っていると、意を決したように光子は顔を上げ、こう言った。
「五分くらい時間を差し上げますわ。やっぱり今この場で、風の起こるメカニズムを説明して御覧なさい。分からない部分は、今までにあなたの習った全ての知識を総動員して補うこと。いいですこと? その五分が人生の分かれ目になるつもりで真剣にお考えなさい」
「っ――はい!」
突然の言葉に驚いたが、その目の真剣さを見て勢いよく佐天は返事をした。


渦を考えようとして、まず詰まったのが空気には色も形もないと言うことだった。それは佐天が空力使いとしての自覚を持ってからも常に抱えた問題点。空気はそこにあるという。確かに吸うことも出来れば吹くことも出来、ふっと吹いた息を手に当てれば、どうやら風と言うものがあるらしいというのはわかる。だが、見えもしないし手ですくえもしないものを、あると言われてもどうもピンと来ないのだ。
そこでいつも思い出すのは、あのチョークの白い粉だった。いや、チョークの粉だというのも別に確かなことではない。小麦粉かもしれなかったが、幼い佐天にとって最も身近な白い粉が黒板の下に溜まるチョークだっただけの話。佐天はここ最近まで、あの粉が風そのものだと思い込んでいた。チョークの粉だという認識と、なぜかそれは矛盾しなかった。
その幼い描像に、『分子』という概念を混ぜてみる。
そういえば、名前は中学校で習っていたはずだけど、あたしとは関係ないと思ってすっかり忘れてた。空気は、分子という粒から出来ている、だっけ。
その捉え方はひどくしっくりきた。粒はあるけど、とっても軽いから触ったらすぐに飛んでいってしまう。すごく粒がちっちゃいから、よっぽど視力がよくないと見えない。そう思えば風というものが手にすくえず目にも映らない理由を自然に納得できた。
頭の中にゆらゆらと揺れる空気の粒を思い描く。なぜかは上手く説明できないが、その粒はある瞬間、ある一点を中心にくるりと渦を描き始めるのだ。理由は説明しにくかった。ただ、不思議な化学実験を見せられたときの、不思議だなと思いながらそこには何かしらの理由があるのだろうと漠然と確信するような、それに似た気持ちを抱いていた。


「今、婚后さんも言ったように、空気は粒から出来てるじゃないですか」
五分までにはまだいくらか間が合ったが、佐天が話し出すのを光子は静かに聞いた。
「ええ、そうですわね。つかみ所のない空気は、とてもとても小さな分子の集合なのですわ」
「なんで、っていうのが上手く説明できないですけど、空気の粒がゆらゆらしているところに、自然と渦は出来るんです」
それは確信だった。水が高いところから低いところへ流れることを、理由などつけずとも納得できるように、佐天はその事実を納得していた。
「そこをもう少し上手く説明できません?」
「……なんていうか、粒は止まってるより、動いていたいって言う気持ちがあるんです。それで、一番起き易い動きって言うのが渦なんです」
「そこから風はどう生まれますの?」
光子は矢継ぎ早に質問を投げかけていく。佐天の脳裏にしかないその描像に迫れるよう、必死で空想を追いかけた。
「渦が出来るってことは、周りから空気の粒を引き込むってことじゃないですか、その引き込む流れが風なんだと思います」
「そう。それじゃあ、渦はそのうちどうなるの?」
本人ではないからこそ気になったのかもしれない。渦というものの行き着く先が気になった。
「え?」
「ずうっと空気の粒を引き込み続けますの?」
「えっと……いつかはほどけるんだと思います。膨らませたビニール袋を押しつぶしたときみたいに、ボワって」
「なるほど、わかりました」
佐天はにっこりと笑う光子を見た。よくやったとねぎらう笑みだと気づいて、佐天も微笑んだ。
……次の瞬間。
「では今の説明を、何も知らない学校の先生にするつもりで、丁寧にもう一度やって御覧なさい」
一つレベルの高い要求が飛んできた。

身振り手振りを使ったり、基礎となる部分を必死に説明しながら、佐天は同じ説明をもう一度した。
その次のステップはさらにえげつなかった。学園都市の小学生に分かるように説明しろと言うのだ。
佐天が難しい言葉を使うたびに指摘を受け、何度も何度も詰まりながら、なんとか通しで説明を行った。
特に佐天には語らなかったが、光子の目的は単純だった。佐天が思い描くパーソナルな現実、それを彼女の中で固めるためだった。固まっていないイメージを人は妄想という。それは常識という何よりも強いイメージとぶつかったとき、あっけなく霧散するものだ。常識を身に着ければつけるほど、つまり大人になるほど能力を開発しにくくなる理由はそこにあった。

「さて、そろそろおしまいにしましょうか」
ぱたりと扇子を閉じて光子が言った。
「はあー、えっと、こんなこと言うと悪いんですけど、ちょっと疲れました。ハードでした」
佐天はふうと空に向かって長いため息をついた。
「宿題も出しておきますわね」
笑顔でそう言い放つ光子に、思わず、げ、と言う顔をした。
「あー、はい。がんばります」
「宿題といっても今日の復習ですわ。学校の先生に説明するつもりで、何度でも説明を繰り返してみなさい。イメージに不備を感じたら、そこも練り直しながら」
「わかりました」
真面目にそう返事をする。
「あの、この説明するってどんな意味があるんですか?」
佐天の説明を光子が否定することはなかった。ということは、おそらく自分はちゃんと理科の教科書に載っている正解を喋っているのだろう。それを定着させるためだろうとは思っていたが、説明に乏しくただひたすらあれをやれこれをやれと言う光子に、説明を求めたい気持ちはあった。
「イメージを固めるためですわ。佐天さん、今から言うことは大事ですからよくお聞きになって」
「あ、はい!」
「佐天さんのなさる説明、まったく自然現象からかけ離れてますわよ」
信じられない言葉。おもわずへ? と聞き返してしまう。
「じゃ、じゃあ婚后さんはあたしに勘違いをずっと説明させてたんですか?!」
自分の説明にそれなりに自信はあった。それを、この人は笑いながら何度も自分に繰り返させたのか。
「なんでそんな……」
「どうして、と問われるほうが心外ですわ。あなた、自然現象の勉強をしにこの学園都市にいらっしゃったの?」
佐天の憤りも分かる、という笑みを見せながら光子は佐天の勘違いを訂正した。
「……違います」
「私もあなたも、超能力を手に入れるためにこの都市に来たはず。そしてその能力は、誰のでもない、あなただけの『勘違い』をきっかけに発動するんですのよ」
「あ」
パーソナルリアリティ、自分だけの現実。それはさんざん学校の先生が口にする言葉だ。それと光子の言わんとすることが同じだと佐天は気づいた。そして学校の先生が何度説明してもピンと来なかったそれが、光子のおかげでずっと具体的な、実感を伴ったものとして得られたことに佐天はようやく気づいた。
「さっきの顔は良かったですわ。あなたはあなたの『勘違い』に自信がおありなんでしょう。教科書に載っている正しい知識なんて調べなくても結構ですわ。とりあえず、あなたは今胸に抱いている『勘違い』を最大限に膨らまして御覧なさいな。5パーセント、いえ10パーセントくらいの確率で、それがあなたの能力の種になると私は思っていますわ。充分にやってみる価値はあるはず」
すごい、佐天は一言そう思った。レベル4なんだからすごい人だってのは知ってたけど、あたしが全然掴めなかったものをこんなにもちゃんと教えられる人なんだ!
能書きではなく、佐天は光子のその実力を素直に尊敬した。面倒を見てくれと頼んだそのときよりもずっと、この人の言う通りにしてみようと思えるようになっていた。
「あたし、頑張ります!」


光子に丁寧に礼を言って、家に帰り着くまで、佐天はずっと風の起こりの説明を頭の中で繰り返していた。おかげで買い物が随分適当になった。納豆や出来上がった惣菜を買って、料理のことを今日は考えなかったからだ。
帰宅してからは体に染み付いた動きだけでご飯を炊いてさっさと夕食を済まし、あれこれと考え時には独り言をつぶやきながら、風呂に入った。
説明をしてみると言うのは中々楽しい作業だった。どこでも出来るし、ひととおり筋の通った説明を出来るようになると、自分が物を分かった人間のような、偉くなったような気分になれた。
その説明は世界の真実ではない。教科書に載るような知識とは真っ向から対立する。だが、それ故に、自分が一番納得のいく理屈を追い求められる。
それはおとぎ話を書くような、創作活動に似てるように佐天は感じていた。

風呂上りに麦茶を飲んで、本棚の隅に置いた小さな瓶を手にした。それは週に何度か行われる能力開発の授業で配られた錠剤と乾燥剤の入った瓶だった。
もちろん、それはその授業で飲んでいなければならない代物。だが、佐天はそれをこっそりと持ち帰っていた。
能力開発の授業で飲む薬を、先生に隠れて飲まないままテストを受ける、そういう遊びが低レベル能力者の学生の間で流行っていた。それは教師らへの反抗の一種であり、劣等感から逃避する一つの手段であった。薬を飲んでないから能力が発現するわけがない、そういう理屈をつけて曲がらないスプーンの前に立つ。そうして薬を飲んでもスプーン一つ曲げられない自分達の無能さを紛らわすのだった。
つい数週間前にやったそのイタズラの痕跡を、佐天は瓶から取り出して飲んだ。どうせ湿気てしまえば捨てるだけなのだ、ここで飲んだって損することはない。
そして佐天は紙とペンをデスクの上に置き、椅子にどっかりと腰掛けた。薬が効いてくるまで、今まで散々やった説明を書き出してみるつもりだった。
コツンとペンの頭で、フォトスタンドを小突く。両親と弟と一緒に幼い佐天が写った写真。電話をすればいつでも繋がるし頻繁に連絡だってとっているが、すこし家族を遠くに感じていることも事実だった。
お盆はどうしよっかなー。初春とかと遊ぶ予定も色々立てちゃったし、帰ったら姉弟で遊ぶので時間つぶしちゃうだけだし、ちょっと面倒だな。
左手で頬杖をつき、右手は人差し指だけピンと立てる。真上を指差しているような格好だ。そして佐天は右手首から先だけをぐるぐると回した。綺麗な真円を描けるよう腕を動かすのが、佐天の癖だった。
「あー、思ったより効きが早いなあ」
薬が回ってきたときの独特の感覚に襲われる。食後だからだろうか、あるいは夜だと違うのだろうか。
こうなってから字を書くのはもったいないなと佐天は思った。もっと空想を思い描いたほうが、せっかくの薬を無駄にしないだろう。
「えっとなんだっけ。そう空気がゆらゆらしてて、こう、ぐるんって」
指を回して描いた円の中心に渦を思い描く。まあそれでいきなり渦を巻いたらそれこそ奇跡だろう、と佐天は気楽に笑った。
今度また薬を家に持って帰ろうか、と佐天は思案した。何人も人がいて空気がかき乱された部屋で風のことをじっと考えるのはイライラするような気がした。
「まあ無能力者の言い訳だけどね。……ってあれ?」
佐天が見つめるその虚空に、風の粒が見えた気がした。
この薬を飲んだときには、強く何かをイメージするとチラチラと幻覚が見えることがある。
佐天はいつものことだとパッと忘れようとして、軽い驚きを感じた。普段の授業で見る幻覚は、せいぜい一瞬見えて終わる程度のもの。ぼやけた像がほとんどで、何かが見えたとはっきり自覚するようなものなんて一つもない。
なのに。この指先にある空気の粒だけは、やけにリアリティがあった。
指をすっと走らせると、それにつられて空気の粒もまた揺らぐ。こんなにもはっきりと何かが見えたことはない。普段なら見えた幻覚をもう一度捉えようとしても二度とつかまらないのに、このイメージは眺めれば眺めるほど、自然に見えていく。
佐天は数分間、夢中でその幻覚と戯れた。何か、確信にも似た予感があった。
指でかき混ぜるほどに、漠然としたイメージが丁寧な肉付けを施され、色づけを行われ、さまざまな質感を獲得する。
幻覚というにはあまりにそこに存在しすぎている何か。それを、なんと言うのだったか。





パーソナルリアリティって、自分が心の中に思い描くアイデア、そういうものだと思っていた。
違うんだ。
あたしだけが観測できる、確かに目の前に起こるもの、それのことなんだ。
そしてつぶやく。目の前でゆらゆらと揺れる風の粒は、どうなるのだったか。
「風の粒は揺れていると、自然に渦を巻き始める」
その言葉を口にした瞬間、佐天はあの日一度だけ感じたあの感覚を思い出した。能力を行使したあの瞬間の、あの感覚を。





ヒトの感覚器官の遠く及ばない、ミクロな世界でそれは起こっていた。
約0.2秒、数ミリ立方メートルという、気の遠くなるほどの長い時間・広い空間に渡り、億や兆を超えるような気体分子がその位置と速度の不確定性を最大限に活用しながら、一つの現象を生じさせるように動いていく。
それは確率としてゼロではない変化。1億年後か1兆年後か、遥か那由他の果てにか。それは永遠にサイコロを振り続ければいつかは起こりうる事象。佐天の観測するそれは量子論のレベルで『自然な現象』だった。エネルギーや運動量、質量の保存則に破綻はない。ただ、今ここでそれが起こる必然、それだけが無かった。
途方もなく広い確率という砂漠の中から、たった一粒だけのアタリの砂粒をつまみとる。佐天がしたそれは、ただ、超能力と呼ぶほか無かった。

「あ……あ! これ、これって!!」
言葉にするのがもどかしい。風の粒が自分の意思でぐるぐると渦巻いたのを、佐天は理解した。
規模は大したことがない。なんとなく指の先がひんやりする気もする、という程度。
機械を使っても中々測れないかもしれないけど、風の見えないほかの人たちには分かってもらえないことかもしれないけど……!!
佐天の中に、自分が渦を起こしていると言う圧倒的な自覚があった。誰になんとも言わせない、それは明確な確信だった。
「すごい! すごい!」
世界に干渉する全能感。それを佐天は感じていた。
もっと大きな渦を、と望んだところで渦は四散した。だが不安はなかった。右手の人差し指を突き出し、くるりと回すと再び渦は生じた。
「あは」
馬鹿みたいに簡単に、空気は再び渦を巻いた。何度頑張ったって、痛くなるくらい奥歯を噛み締めて念じたって出来なかったことが、人差し指をくるり、で発現する。
自分の何気ない仕草が始動キーになることが嬉しかった。それは幼い頃に憧れたアニメに出てくる魔女の女の子みたいだった。その幼い憧れはすでに他の憧れに居場所を譲ってしまっていたが、あのアニメも自分がこの学園都市へ来たきっかけの一つだったと思い出す。
その能力で空が飛べるだろうかとか、そんな最近いつも描いていたはずの夢をほっぽりだして、佐天は渦を作ることに没頭した。


二次元的に描かれる渦や、名状しがたい複雑な三次元軌道で描かれる渦、そんなものをいくつも作った。
渦の大きさを膨らませるようこだわってみたり、より粒の詰まった渦を作るようこだわってみたり、遊びとしての自由度には全く事欠かなかった。
個数で言えばそれはいくつだっただろうか。疲労を感じると共にうまく渦が作れなくなってきて、ふと我に返った。
時計は、薬を飲んでから2時間を指していた。とっくに効き目は切れる時間だった。だから大丈夫だと思いながらも、今自分のやったものが全て幻覚ではと不意に不安を感じて、渦を作ってみる。
手元には確かに渦がある。佐天は五感以外の何かでそれを理解し、そして同時に気づいた。これでは誰か初春みたいな第三者に、自分が今能力を使っていることを確認してもらえない。
すぐに佐天はひらめいた。ハサミをペン立てから抜き、目の前に用意した紙を刃の間に挟んだ。しばしその作業に時間を費やし、そして実験を行う。
机の上に集めた小さな紙ふぶき。そのすぐそばで佐天はくるりと指を回す。
ふっと不安に感じて、しかしあっさりと渦の可視化に成功した。紙ふぶきは誰が見ても不自然に机の上で渦巻いていた。
「よかったぁ……」
これが自分の幻覚ではないという保証もなかったが、もしこれが本当に起こったことなら、初春あたりにでもすぐに確認してもらえる。
今から見せに行こうと佐天は考えつつ、ベッドに倒れこんだ。
能力を使うと疲労する、それは学園都市の常識だった。佐天は自分の疲れをきっと能力を使いすぎたせいなのだろうと判断した。
あーこれは寝ちゃうかも。初春のところに行かなきゃと思いながら、佐天の意識は睡魔に奪われていった。
多分大丈夫だと思う感覚と、明日になれば力を使えなくなっているのではと言う不安が脳裏で格闘していたが、どちらも睡魔を払いのけるような力はなかった。





髪を整えていると、けたたましいコール音がした。
「もう、こんな朝から誰ですの?」
当麻の着信音だけは別にしてある。だから、これはラブコールではなかった。
「もしもし」
「あ、婚后さんですか!」
「佐天さん? どうしましたの?」
「あのっ、渦が、渦が巻いたんです! あたし、能力が使えるようになったんです!」
「え――」
興奮した佐天の声を聞きながら、ありえない、光子はそう思った。アドバイスは彼女の役に立つだろうとは思っていたが、そんな一日や二日で変わるなど。
「本当ですの?」
疑っては悪いと思うながらも、懐疑を声に出さずにはいられなかった。
「はい! 昨日の夜に出来るようになって、今朝も試してみたらもっとちゃんとできるようになってて……! 紙ふぶきを作ったら、ちゃんと誰にもわかるようにグルグル回るんですよ!」
紙ふぶきを動かせる規模で能力を発現したのなら、充分第三者による検証に耐えられる。光子が一目見ればそれがどのような能力か、どれほどのものかも分かるだろう。だが、彼女とて学業がある。今すぐ確認しに行くわけにもいかなかった。
「是非、今日の放課後にでも見せていただきたいですわね」
「はい、もちろんです! その、婚后さんの能力に比べたらずっとちっぽけですけど」
それを言う佐天の声に卑屈さはなかった。
「そりゃあ一日でレベル4の私を追い越すなんて事は私の誇りにかけてさせませんわよ。それで佐天さん、一つ提案があるのですけれど」
「はい、なんですか?」
「学校でシステムスキャンをお受けになったらどうです?」
年に一度、学園都市の全学生を対象に行われるレベルの判定テスト。だが少なくとも年に一度は受けなければいけないというだけで、受検の機会は自由に与えられるものだった。
授業を公的に休んで受けることが出来るため、レベルの低い学生達によくサボりの口実に使われていた。受けすぎる学生はコンプレックスの裏返しを嘲笑されるリスクもあったが。
「え……っと、変わりますかね?」
レベル0から、レベル1へ。
「力の有無は歴然ですわ。紙ふぶきで実証できると言うのなら、おそらく問題はありませんわ」
その言葉に佐天は元気よく返事して電話を切った。携帯電話を鞄に仕舞って、朝からふうとため息をつく。
「案外、こういう簡単なことで化けるものなのかもしれませんわね」
そして光子は、学生が派閥を作ると言うことの意味を、ふと理解した。
同系統の高位能力者に指導を受けられることのメリット。それはたぶん、今の佐天でわかるようにとてつもなく大きい。そして光子はそんなことをするつもりはないが、佐天の能力の伸びる方向を自分は左右できる。それは自分の欲しい能力を持った能力者を用意できるということだった。
「そりゃそれだけ美味しいものでしたら、他人には作らせたくありませんわね」
そしてそれ故にしがらみもきっと色々とある。学園内で派閥を作ってみようと考えたこともあった光子だが、浅ましい利害で能力開発の指導をしたりするのは光子にとって不本意だった。自分がやるなら今の自分と佐天のような、他意のないおままごとで構わないと思った。




朝の学校。職員室に行って担任に相談した。そしていつもならうんざりするテストを、やけに緊張して受ける。
低レベルの能力者の集まる学校にはグラウンドやプールを使うような大掛かりな測定はない。小さな部屋で済むものばかりだった。
手の空いた先生が時間ごとに代わる代わる測定に付き合ってくれる。一つ一つの項目をこなすごとに、佐天の自信は深まっていった。
今までとは比べられないくらい、判定があがっているのだ。そこにはレベル1の友達となんら遜色ない数字が並んでいた。
「前回のシステムスキャンから一ヶ月やそこらでこれか。佐天、何があったんだい? 佐天みたいなのは年にほんの数人しかいないね」
「珍しいんですか?」
書類を書きながら笑う担任の若い男性教諭に、佐天はそう質問を投げかける。
「何かをきっかけに能力が花開くってのはよくあるけど、そこからこんなに伸びるというのはあんまりないんだよ。おめでとう、佐天」
担任は、祝福するようににこりと笑って、結果を佐天に差し出した。
「あ……」
佐天の顔写真が載ったそのカードには、レベル1と、確かに記載されていた。



*********************************************************
注意書き

大量にオリジナル設定が登場しているので原作設定との勘違いにご注意ください。
佐天の能力はアニメで手のひらの上に渦が巻く描写がありますが、細かい設定は公表されていません。マンガ版ではどのような能力が発現したかの描写自体がありません。アニメのブックレットにて空力使いと書かれているようですが、空力使いが大気操作系能力者の総称なのかなど、未確定な点は多いようです。
婚后の能力は原作小説には『物体に風の噴出点を作りミサイルのように飛ばす能力』『トンデモ発射場ガール』とありますが、そのミクロなメカニズムについては言及されていません。またこのSSでは噴出『点』と書かれた原作の『点』という言葉の意味を面積を定義できないいわゆる一次元の『点』とは捉えず、単に『スポット』として捉え、正しくは噴出『面』である、という解釈を行っています。
またこの話で出した学園都市のカリキュラムや投与される薬物が幻覚作用を持っていること、パーソナルリアリティの解釈などはオリジナルです。詳細を語らない原作と未だ矛盾はしていないかと思いますが今後は分かりません。

こうした解釈・改変を加えることは今後も充分にありえますが、まあSSの醍醐味の一つと思って許容してくださるとありがたいです。
今後ともよろしくお願いします。



[19764] prologue 05: 能力の伸ばし方
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2010/09/10 21:28
「さて、それでは始めましょうか」
「はいっ! よろしくお願いします!」
その講義が待ち遠しくて仕方なかったように、朗らかな表情で佐天は返事をした。
常盤台中学の敷地内にある小さな建物、その一室。そこへと光子は佐天を導いていた。佐天が建物に入る直前に見たプレートには流体制御工学教室と書いてあった。そして建物内に入り光子が教師と思わしき白衣の女性に一声かけて鍵を貰うと、この教室を案内されたのだった。
部屋のサイズは学校の教室としては小さく、一般家庭のリビングぐらいだった。お嬢様学校らしい外装とは裏腹に、床はシンプルな化学繊維のカーペットが敷いてあり、壁は薄いグレー、そして厚めの耐火ガラスがはめ込んである。佐天のイメージでは、むしろ企業のオフィスに近かった。
「まずは……そうですわね、今貴女が作れる最も大きな物理現象を見せていただけるかしら?」
涼しい空気に一息ついたかと思うとすぐに、婚后からそう指示が来た。
「はい」
その一言で、佐天は周りの空気の流れを感じ取る。ほんの数日前にはできなかったはずなのだが、今では五感を効かせるのと変わらない。それほど佐天の中で自然に行うことになっていた。
部屋はエアコンが効いているというのに不自然な風を佐天は感じなかった。この部屋は気流に気を使っていて、それが自分をこの部屋に案内した理由なのだろうと佐天は気づいた。
そっと手を胸の高さまで持ち上げ、手のひらを自分のほうに向ける。それをじっと見つめると、手のひらの上でたゆたっていた空気の粒がゆらりと渦を巻く。きゅっと唇を横に引き、鈍痛を覚えるくらい眼に力を入れて、より大きな、より多くの空気を巻き込んだ渦を作るよう意識を集中する。
「あら」
光子は思わず驚きの声を上げた。能力が発現したと電話を貰ったその日の放課後に見た渦より、3倍は大きかった。渦の終わりを厳密に定義するのは難しいが、佐天がコントロールしている渦はおよそ直径15センチ。レベル1の能力としてなら誰に見せても恥ずかしくない規模だった。明らかに、成り立てのレベル1域を超えていた。
「こんな、とこです。あ!」
佐天が光子に何かを言いかけてコントロールを失った。二人とも髪が長く、それらが部屋にはためいた。生ぬるい風が肌を撫ぜていく感覚に、改めて光子は驚きを感じた。
「渦流の規模も大きくなりましたし、その巻きもタイトになりましたわね。貴女、きっと才能がおありなんですわ」
「はい? え?」
才能があるなんて言葉は、佐天は生まれてこのかた聞いた覚えがなかった。
「才能って、アハハ。婚后さん褒めすぎですよ」
「そんなことありませんわ。流体操作系の能力者は低レベルであってもかなりの規模を操れますからレベル2の認定を受けるのには苦労があるかもしれませんけれど、貴女は私と同じでちょっと変わった能力者ですもの。その能力の活かし所や応用価値を正しく理解して申請すれば、レベル3より後はずっと楽ですわ」
「へっ?」
やや熱っぽく褒める光子に佐天は戸惑った。念願のレベル1になれて、佐天は自分の立ち位置に今はものすごく満足しているのだ。もっと上を目指せるといわれても、まだピンとは来なかった。
「あの、能力が変わってると後が楽なんですか?」
「ええ、勿論。その能力の応用価値が高いほどレベルは高くなりますもの。空力使い(エアロハンド)や電撃使い(エレクトロマスター)のような凡百な能力の使い手は、高レベルになるためにはそれはそれは大変な努力が必要ですのよ。その意味で、凡庸な能力でありながら学園都市で第三位に序列される常盤台の超電磁砲は相当のものですわよ」
光子はそう言い、パタンと扇子を閉じた。
「貴女の能力がどのような応用可能性を持つか、まだまだ判断するのは尚早ですわね。どんな風に力を伸ばしていくのか、よく考えないといけませんし」
「はあ」
佐天にとって光子の言は高みにいる人の言うことであり、どうもよくわからなかった。
「では、色々と試していきましょうか。少々お待ちになって」
そう告げて光子は部屋の片隅にあったボウルを手にした。部屋を出て純水の生成装置についたコックに手を伸ばす。気休めにボウルを共洗いしてから、惜しまずたっぷりと2リットルくらいの純水を張った。
部屋に戻り、佐天の目の前の机に乗せる。佐天が怪訝な顔をしていた。
光子は厳かに告げる。
「貴女が空力使いかどうかを、確かめますわ」
「……はい?」
佐天は間の抜けた答えしか返せなかった。
「たまにいるんですのよ、流体操作の能力者には水と空気の両方を使える人が。渦を作る能力なんてどちらかといえば水流操作の分野ですし、試してみる価値はありますわ」
「はあ……」
運ばれてすぐの、大きく波打つ水面を眺める。動かせる気がこれっぽっちもしなかった。
ふと目線を上げると、失礼します、という素っ気無い声とともに白衣の女性が入室し、てきぱきと小型カメラがいくつもついた機械をそのボウルに向かって備え付けだした。
「水流を光学的に感知する装置、だそうですわ。私も水は専門外ですから装置を使いませんとね」
打ち合わせは済んでいるのか、光子が白衣の女性と二三言交わすと、すぐ実験開始となった。


「……ぷは、あの、どうですか?」
光子を見ると、光子が白衣の女性のほうを振り返る。無感動にその女性は首を振った。
「駄目らしいですわね。やっぱり水は無理ということかしら。佐天さん、なぜできないのかを考えて説明してくださる?」
「せ、説明って。あの、私自分のことを空力使いだと思うんです。水は空気じゃないし……」
困惑するように服の裾を弄ぶ佐天を見て、婚后は思案する。
「気体と液体、どちらも流体と呼ばれるものですわ。その流れを解析するための演算式なども、ほとんど同じですのよ。超高温、超高圧の世界では両者の差はどんどんとなくなって、気液どちらともつかない超臨界流体になりますし。ですから、空気も水も一緒だと思って扱ってみるというのはどうでしょう?」
光子は自分自身が液体を扱えないので、想像を交えながら案内をする。師である自分に自信が無いのを理解しているのか、佐天の表情も半信半疑だった。
「うーん……」
佐天もピンと来ないので戸惑っていた。何より、早く別の、空気を扱えるテストに移りたい。
「ああ、そういえば貴女は流体を粒の集まりとして捉えてらっしゃるのでしょう? 水もそれは同じなのですから、その認識の応用を試してはいかが?」
「粒……水の粒……」
あの日、空気がふと粒でできたものに見えた瞬間の感覚を思い出す。水の中にそれを見出そうと、水面をじっと見つめる。
なんとなく、水を粒として見られているような気もする。だが勝手が全く空気の時と違った。これっぽっちも揺らがないのである。佐天にとって空気の粒は『ゆらり』とくるものなのだ。それが渦の核となる。水には、その核を見出すことはできなかった。
ふう、と大きく息をつく。それにつられたのか婚后も軽くため息をついた。
「無理そうですわね。空気と同じようには認識できませんの?」
「そうみたいです。すみません」
「謝る必要はなくてよ。貴女の力の伸びる先を見極めるための、一つのテストに過ぎませんもの。残念に思う必要すらありませんわ。でも、なぜ無理なのかはきちんと言葉にしておいたほうがよろしいわ。そのほうが、自分の能力がどんなものかをより詳しく把握できますから」
「はい。……なんていうか、水はゆらっと来ないんですよ。粒に見えたような気もするんですけど、動きが硬いって言うか」
「圧縮性の問題かしら?」
時々光子は佐天に分からない言葉を使う。それは能力の差というより学んできたものの差だろう。佐天は知識の不足を実感していた。
「圧縮性? あの、どういうことですか?」
「空のペットボトルは潰せるけど、中身入りのは無理ってことですわ。空気は体積に反比例した力がかかりますけれど、圧縮が可能です。しかし水はそれができない。分子はぎゅうぎゅうに詰まっていますから」
その説明で佐天はハッと気づく。
「あ、たぶんそれです。粒が詰まってて、上手く回せないんですよね」
「圧縮性がネック……典型的な空力使いですわね」
光子がやっぱりかと諦める顔をした。パタンと扇子を閉じて白衣の女性を振り返り、ボウルと観測装置を片付けさせた。


「それじゃあ次は何にしようかしら、非ニュートン流体はもう必要ありませんわね。水が無理ならどうせ全部無理ですわ」
また佐天には分からないことを呟きながら、光子は小麦粉を取り出した。
「次のはなんですか? ……なんていうか、あたしが想像してたのと全然違う実験ばっかりでちょっと戸惑ってます」
小麦で何をするというのだろう。思いついたのは小麦粉の中に放り込まれるお笑い芸人の姿だった。もちろん、実験とは関係ないだろう。
「いきなり水でテストして困らせてしまったわね。でも、ここからは多分、得意な分野だと思いますわ」
スプーンで市販の小麦粉のパッケージから小麦粉を掻き出し、机に置いた平皿に出した。ふと思いついたように光子が佐天を見た。
「静電気の放電や火種は粉塵爆発の元ですから危険ですわ。夏場ですから放電は大丈夫として、佐天さん、ライターなどはお持ちではありませんわね?」
「ライターなんて持ってませんよ」
この年でタバコなんて吸わない。発火能力者(パイロキネシスト)の真似をして遊ぶのには使えるが。
「では、これで渦を作ってくださいな」
そう言って、光子はスプーンの上の小麦粉を宙に撒いた。白いもやがかかった空気が緩やかに広がりながら、地面へと近づいていく。
佐天が驚いてためらっているうちに、視界を遮るような濃い霧は消えてしまった。
「やることはわかってらっしゃる?」
その一言でハッとなる。
「あ、はい」
「スプーンでは埒が明きませんわね。これで……佐天さん、どうぞ」
平皿を小麦粉の袋に突っ込んで山盛りに取り出し、光子はそれを高く掲げた。そして皿を振りながら少しづつ小麦粉を空中に飛散させる。
空気中に白い粉体が飛散することでできたエアロゾル。いつか見たテレビ番組と同じシチュエーションだ。
目の前の白い霧はむしろ自分の親しみのあるものだと気づくと、あとは水とは大違いだった。
50センチ四方に広がるそれに手をかざすと、その全体が銀河のように渦巻きながら中心へと向かった。
「すごい」
思わず佐天はこぼす。眼に見えるというのは、すごいことだった。普段だって空気の粒は見えている気でいるが、能力の低い佐天には描けないリアルさというものがある。粉体を使うことでそれはあっさりとクリアされ、いつもよりずっと精密で大規模なコントロールを実現していた。
普段はグレープフルーツ大が限界なのに、今はサッカーボール大の白い塊が手の上にあった。その球の中で小麦粉は勢いよくうねっており、時々太陽のプロミネンスのように表面から吹き上がり、そしてすぐに回収されていく。
「私の予想通りですわね。エアロゾルはむしろ得意分野、ということですわね」
「そうみたい、ですね。ってあ、やば!」
言われるままに渦を作ったが、よく考えれば佐天はいつも制御に失敗すると言う形で渦を開放するのだ。少しずつ弱らせていくとか、そういうことはできなかった。
もふっ、と音がした。隣を見ると光子の制服と顔が真っ白だった。それは、往年のコメディの世界でしか見られないような光景だった。
他人がやっていると笑えるが、まさか常盤台のお嬢様に対して自分がやるとなると、もう冷や汗と乾いた笑いしか出てこない。
「すっ、すみません! ほんとにごめんなさい!」
あっけにとられた光子はしばらくぽかんとして、そしてクスクス笑い出した。
「いいですわ。実験にはこういう失敗があっても面白いですし。それにしても、あなたのその能力、罰ゲームか何かでものすごく重宝しそうですわね」


建物の外に出て湿らせたハンカチで顔をぬぐい、服と髪をはたいている間に研究員が部屋を掃除してくれたらしかった。
「それでは次の実験に参りましょうか。最後に残してあるのはお遊びの実験ですし、これが本題になりますわ」
「あ、はい」
「3つ試していただきたいの。可能な限り大きい渦を作ることと、可能な限り密度の高い渦を作ること、そして可能な限り長い間渦を維持すること。以上ですわ」
「わかりました。じゃあ、大きいのから頑張ってみます」
軽く息を整えて、より大きく、世界を感じ取る。佐天は粒だと思って見えた領域しか集められなかった。だから、渦の規模を決めるのは空気が回ってからではなくて、それ以前の認識の段階だ。
手のひらをじっと見る。その手の上に乗るくらいの塊が、佐天が掌握できる世界だった。
「く……」
もっと大きく掴み取りたい、そう思った瞬間だった、掌握した領域の中心で空気の粒がゆらりと動いて見えてしまった。そして次の瞬間にはもう渦が巻いていた。
グレープフルーツ大、先ほどと同じ程度の渦ができて、佐天の手の上で安定してしまった。
「これくらいが限界みたいです」
出来上がった気流を見せながら、佐天はそう報告した。当然のことながら気流は視覚では捉えられない。だが、二人の空力使いたちは何の問題もないように、気流は見えるものとして話を進めていた。
「今日初めに見せていただいたのよりは、ほんの少しだけ大きいようですわね。でも、あんまり大きいとは言えませんわ」
「うーん……その、渦になる前にどれだけの空気を粒として掴めるかが大事で、それが中々難しいんですよねえ」
二度三度と渦を作るが、いずれも15センチ程度が限界だった。
「成る程……では能力発現前の認識領域を拡大できれば渦は大規模化できますのね?」
「ええっと、多分。そんな気がするんですけど」
自分の能力だが決して完璧に理解しているわけではない。佐天は自信なさげに応えた。
「では先ほどの、小麦粉交じりの空気を使って渦を作る練習が効果を上げそうですわね。ああいった練習を毎日なさるといいわ」
「はい。あの、でも毎日小麦粉を浴びるのは……」
「ああ……確かにそれは難儀ですわ。渦を消失させるところまで上手く制御できませんの?」
「頑張ってみます」
そうとしか言えなかった。ただ、その答えは佐天も光子もあまり満足する答えではない。
「ええ、最後までコントロールしないと能力としては不完全ですからね。……あ、確か繁華街の広場に、水を霧にして撒いているところがありましたわね?」
ふと思いついたように光子が顔を上げる。
「あ! はい。それ知ってます。もしかしてそれを使えば……」
「もとより人に浴びせるために用意してありますし、誰の迷惑にもなりませんわね。水滴は小麦粉と違って合一してしまうのが難点ですからうまく行かないかもしれませんが、お金もかかりませんし試す価値はありますわね」
「はい、じゃあ昼から早速試しに行ってみます!」
初春とデザートの美味しい店でランチをする気だったのだ。そのついでとしてちょうど良かった。スケジュールを簡単に頭の中で調整する。
「ええ、そうされるといいわ。ふふ、そういう貪欲な姿勢、嫌いではありませんわ。さてそれじゃあ、次の課題もやっていただきましょうか。可能な限り渦を圧縮して御覧なさい」
「はい」
休憩も取らず、佐天は一番慣れてやりやすい10センチ台の渦を作る。そして慎重に、渦の巻きをぎゅっと絞っていく。
佐天は呼吸を止めた。渦を圧縮すると内部の気流が早くなり、コントロールが難しくなるのだ。
野球のボールより一回り大きかった渦がキウイフルーツ大になったところで、ぶぁん、と鈍い音がして渦が弾け飛んだ。
佐天は残念そうな顔をしていたが、光子は驚きを隠せなかった。そして頬を撫でる風が生ぬるいことに気づいた。
「んー、これくらいが限界みたいです」
何度か繰り返したが、同程度の圧縮率だった。
「これくらいっておっしゃいますけど、貴女、圧縮率だけならレベル1を軽くクリアできますわね」
光子が少し驚いた顔で、佐天にそう告げた。
「佐天さん、直径が半分くらいになるということは、体積はその3乗の8分の1くらいに圧縮していますのよ。空気は理想気体ではありませんから誤差含めてですけれど、つまり渦の中心は8気圧まで圧縮されているのですわ。普通の空力使いがこのような高い気圧の流体を作ろうと思えば、レベルで言えば3相当が必要になりますわ」
やりますわね貴女と光子が微笑みかけると、佐天は自分を誇れることが嬉しいといわんばかりのささやかな笑みを浮かべた。
「あんまり意識してなかったけど、あたしってこれが得意なんですかね?」
「発現方式が違うから秀でて見えるだけで、それが貴女にとっての得意分野かどうかは分かりませんわ。もちろん得意でなくとも人よりは高圧制御が可能でしょうけれど」
「ちなみに婚后さんはどれくらいまでいけるんですか?」
「私? 私は分子運動の直接制御をしておりますから、圧力を定義するとかなり大きくなりますわよ。圧力テンソルの一番得意な成分でよろしければ、100気圧程度は出せますわ」
自慢げな声もなく、光子の応えは淡々としたものだった。
「ひゃ、百ですか。アハハ、褒めてもらいましたけど婚后さんに比べれば全然ですね」
「比較は無意味ですわ。貴女には私の能力は使えませんし、私が渦を作ろうとしたらあなたより拙いものしか作れませんもの。さて、それじゃあ最後のテストですわ。かなり消耗するでしょうけれど、それが狙いでもありますわ」
「はい、なるべく長く渦を持たせればいいんですよね」
手ごろなサイズの渦を作って、目の前に持ってくる。浅く静かに息をしながら、佐天は渦の維持に努めた。

じっと固まった佐天を横目に、光子は温度計を用意した。測定部がプラチナでできた高くて精度のいい温度計だ。携帯電話みたいな形状で、デジタルのメーターが、少数第3位と4位をあわただしく変化させている。
エアコンの設定温度は26.0℃だ。最先端の技術で運転しているそれは、この部屋の温度を極めて速やかに0.1℃の精度で均一にするよう作られている。温度計の数字はエアコンの性能をきちんと保証するように、少数第2位までは26.0℃と表示されていた。
その温度計を、佐天の渦の傍に持っていく。光子とて空力使いであり気体の温度くらいは読み取れるが、他人の能力の干渉領域にまでは自信が無いし、なにより数字を佐天に見せてやりにくい。
温度計が示す直近1秒間の平均温度は24.1℃から25.4℃の間を揺れている。室温26.0℃のこの部屋の、それもエアコンから遠い部屋の中心が設定温度以下と言うのは明らかに不自然だった。その数字は、佐天が周囲の熱をも渦の中へと奪っていっていることを意味する。
……いえ、違いますわね。常温で進入した空気が、外に漏れるときには運動エネルギーを奪われ、冷えて出てきているのでしょう。だから周囲が冷えている。……ということは。
ちょうど2分くらいだっただろうか、佐天が苦い顔をした瞬間、渦はほどけてあたりに散った。その風が温度計のあたりを通過すると、数秒間だけ42.2℃という高温を示した。
佐天がストップウォッチを見て、
「ふう、2分12秒かあ。最高記録はこれより30秒長いんですけどね。すいません、あんまり上手くできなかったみたいです」
「いえ、結構ですわ。この3つのテストは私に会うたびに定期的にやるつもりですから、記録をとって伸びたかどうかを見つめていきましょう。それより、面白いデータがありましたわよ」
「なんですか? ……あ、それ温度計なんだ。ってことは、なんか温度が高くなってたとかですか?」
「ああ、自覚がありましたの」
「はい。空気をぎゅっと集めると、あったかくなりません?」
「断熱圧縮なら温度は上がりますわね。圧縮するために外から加えた仕事が熱に変わりますの。ですが、もし渦の中から外に熱を漏らしていたら、極端な話温度は一切上がりませんわよ。これが等温圧縮ですわね。……あら?」
光子はおかしなことに気づいた。佐天は念動力使いではないから、渦は外から力を加えて作ったものではない。すなわち圧縮は誰かに仕事をされてできた結果ではなく、ハイゼンベルクの不確定性原理を最大限に利用した、あくまでも偶然の産物なのだ。数億、数兆という分子がたまたま偶然に、いっせいに渦を作る向きに動き出しただけ。
そのような不自然な渦がどのように熱を持つのかなんて、光子には理解する方法がない。能力をもっと理解した未来の佐天にしか理解できないだろう。
「……一つ言えるのは、貴女の渦は熱を集める性質がある、ということですわね」
「へー。……言われてみると、そんな気もするような」
「よく熱についても見つめながら能力を振るうようになさい。水流操作系と違って我々空力使いは熱の移動も重要な演算対象ですわよ。圧縮性流体を扱うものの宿命です」
「はい」
「それよりも、面白いのは別のところですわ。渦の周りの温度が下がっていましたの。貴女、これの意味はお分かりになって?」
「え? だから、圧縮で渦が熱を持ったってことじゃ……」
「いいえ。貴女は渦を作るのに仕事を必要としていません。なのに温度が上がるのは渦を作るときに周囲から熱を奪い取っているのですわ。そして、当然周りの温度は下がったでしょう。その時に室温は0.1度くらいは下がったかもしれません。でも2分もあればこの部屋のエアコンは26.0度に戻しますわよ」
「はあ」
光子の説明が学術的過ぎて、佐天は余所見をしたり頭をかいたりしたくなる衝動を押さえつけなければならなかった。
「渦が完成してからしばらくも渦の周りが冷えていると言うことは、その渦は、出来上がったときだけではなく恒常的に、外から入った空気の熱を奪い、漉しとり、蓄える機能を持っているということです。空力使いという名前と渦という現象を見れば軽視しがちかもしれませんが、あなたの能力にとって熱というのは重要な要素な気がしますわね」
「熱を、集める」
「ええ。いい能力じゃありませんか。暑い室内で渦を作って熱を集めて、部屋の外に捨てれば部屋の温度を下げられますわね。人力クーラーといった所ですわ」
「あ、そういうことに使えるんだ。それ電気代も浮くし便利ですね」
そう佐天が茶化して言うと、
「あら、結構真面目に言ってますのよ。能力を伸ばすには色々な努力が必要ですけれど、そのうちの一つは慣れですわ。毎日限界まで能力を使おうとしても、単調な練習は中々続きませんもの。部屋を涼しくするなんて、とてもいい目標だと思いますけれど」
そんな風に、真面目な答えが返ってきたのだった。


ちょっと休憩を挟んで、佐天が連れてこられたのは小さな部屋だった。4畳くらいしかないのに、天井は建物の最上階まで突き抜け、4メートル近くあった。
「これ……」
「燃焼試験室ですわ。私がかかわっているプロジェクトの一つですの。より高性能なジェットエンジンの開発を目指して、燃焼部の設計改善に取り組んでいますの。私の力で時速7000キロまで絞り出せるようになりましたのよ。夏休みが終わる頃には実証機が23区から飛び立つようになるでしょうね」
光子がそう自慢げに言った。万が一そんな飛行機に乗ることになったら中の人は大変なことになるんじゃないかと佐天は思ったが、口には出さなかった。
「えっと、それで何をすればいいんですか?」
「先ほどと同様、私が霧を作りますからあなたはそれを圧縮すればよろしいの」
「はあ、分かりました」
「言っておきますと、結果次第では貴女にお小遣いを差し上げられますわ」
「お小遣い、ですか?」
「ええ。可燃性エアロゾルの圧縮による自然爆発、これはディーゼルエンジンの仕組ですけれども、航空機用ディーゼルは完成して日も浅いですから改善の余地がまだまだありますの。貴女がそこに助言を加えられる人になれば、かなりの奨学金が期待できますわよ。すぐには期待しませんが、可能性のある人として月に1万円くらいなら私に与えられた予算から捻出して差し上げますわ」
「ほ、ホントですか! 現金なリアクションで恥ずかしいんですけど、できればもうちょっとお小遣いが増えたらなー、なんて思ってるんですよね」
恥ずかしげに佐天は頭をかいた。
「協力してくれる能力者の育成と言えば10万円でも20万円でも出ますけど、そうすると成果報告が必要になってしんどい思いをしますわ。とりあえず、貴女の伸びをもう少し見てからそういう話はすることにしましょう。まずは、実験をやっていただかないと」
その言葉に従い、佐天は今いる準備室と思われるところからその部屋に入ろうとした。光子がそれを止める。
「あれ、入らないんですか?」
「貴女がそこに入って実験をすると、爆発に巻き込まれますわよ?」
クスクスと光子は笑う。壁のボタンを押すと、準備室との間の壁が透明になった。
「今から、部屋の内部にケロシン……液体燃料の霧を放出します。手で触れられはしませんけれど、壁が薄いですから操れますわね?」
「はい、窓越しに渦を作ったことくらいはあるんで、何とか……」
「では行きますわ」
光子がそう言うと、密閉された実験室の壁からノズルが伸びて霧を吐いた。さっきも自覚したが、霧は束ねやすかった。渦が手の上にないというハンデはそれでチャラだった。
「なるべく長い時間、なるべく強く巻いてくださいな」
「……」
佐天は返事をせずに、渦に集中する。
1分ほどかけてサイズを半分にしたあたりで、突然、渦が佐天の制御を離れた。いつもの渦の制御失敗とは違っていた。
ボッ、という音と共に渦が爆発する。青白い光はすぐさまフィルターされ、眼を焼かない程度になって佐天達に届いた。
「ば、爆発?!」
思わず佐天は一歩のけぞる。光子は平然としたものだった。
「ええ、燃料は混合比と温度次第で自然着火し、爆発しますのよ。炎の色も悪くありませんし、お小遣いはちゃんとお支払いしますわ。まあ、その代わりにこの実験にはこれからも付き合っていただきますけれど」
「はい。喜んで参加させてもらいます! なんか、嬉しいです。まだまだお荷物なんでしょうけど、自分の能力が評価されるのって、いいですね」
「ええ。私もそう思いますわ」
光子はにっこり微笑んだ。そしてふと時計を見て、
「あら、もうこんな時間ですの。そろそろお仕舞いにしますわね。お昼には私、ちょっと用がありますの」
なんてことを喜色満面で佐天に言うのだった。
「婚后さん、それってもしかして」
佐天は思う。この人は自分の考えていることをあんまり隠せない人だ。こんなお花畑いっぱいの笑顔を見せるって、そりゃあやっぱり、ねえ。
「え? あ、オホン。別に大したことではありませんわ」
「彼氏さんと遊ぶんですか? どこに行くんです?」
「な、どうしてそう思われますの? ……まあ、『光子の手料理が食べてみたい』なんて言われましたから、今からお作りしに行くのですけれど」
しぶしぶなんて態度を見せながらそりゃあもう嬉しそうに言うのだ。
「はー、婚后さんオトナですねぇ」
「お、大人って。私達まだそう言う関係じゃ……」
ぽっと頬を染めて恥ずかしがる光子を見て、この人うわぁすごいなーと佐天は思った。
この人につりあう男の人ってどんな人だろう。あたしが派手だと思うようなことを平気でしちゃいそうだもんね。きっとお金持ちで、心の広そうな好青年で、学園都市の理事長の孫とかそういう冗談みたいな高スペックの人間じゃないとこの人は抱擁しきれないと思う。
「ま、まあ深くは突っ込まないことにしておきます。それじゃあ、あたしお暇します」
そう佐天が告げると光子がはっと我に帰った。
「ああ、ちょっと待って。最後に確認をしておきましょう。よろしいこと? 当面目指すのは三つ。掌握領域の拡大と、圧縮率の向上、そして制御の長時間化。毎日どれくらい伸びたかを記録なさい。当分は家でもどこでもできるでしょうから」
「わかりました」
「掌握領域の拡大に関しては、エアロゾルを使うのが一つの工夫でしたわね。小麦粉を飛ばしたり、広場の水煙などを利用してみること」
「はい」
「そして熱の流れも意識するようにして圧縮を行うこと。貴女は単なる気流の操作よりも、熱まで含めて圧縮などを考えるような制御のほうが向いてる気がしますわ」
「はい」
「そして最後。上級生の補習に顔を出して微積分の勉強をなさい。今はまだ感覚に頼って能力を発現していればよろしいですけれど、それではすぐに頭打ちになりますわ。微積分は流体操作の基礎の基礎ですから、夏休み前半の補習が終わるまでには偏微分までマスターしていただかないと」
「う……」
微積分というのは3週間でマスターできるようなものなのだろうか。佐天は不安になった。
「そう嫌な顔をしなくても大丈夫ですわ。空気の流れを計算できるくらいに慣れてきたら、むしろ面白くて仕方なくなりますわよ」
「あー……、はい、頑張ります」
「よろしい。では、常盤台の外までお送りしますわ」
光子の顔は、すでにこれからのことを考えているようだった。


その頃。当麻はスーパーまで走っていた。エアコンの効いた店内の風が気持ちいい。
部屋の掃除はすでに終わらせた。だが、昨日の停電のせいで冷蔵庫の中身は全滅だ。あと一時間もすれば光子が部屋に来て料理を作ってくれることになっている。だが、ちょっとした食材くらいは余分においておかないと、いざというときに足したり、あるいは失敗したときのフォローがきかない。
「まさか腐って酸っぱくなった野菜炒めなんか食わせるわけにいかないしな」
そんなくだらない冗談を呟きながら、キャベツやにんじん、少々の鶏肉を買い込むのだった。
空は布団を干せばきっとお日様の匂いをたっぷり吸い込むであろう絶好の晴天。そう、今日は記念すべき夏休み第一日目だった。




[19764] prologue 06: 彼氏の家にて
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2010/09/10 21:28
「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」
ーーーーいーはーるーぅぅぅ、と続くであろう、佐天の声が後ろでする。
「今日は! 断じてさせません!」
不意打ちで何度も何度もご開帳をさせられてきたのだ。今日という今日はきっちりと防ぎきって、このスカート捲りが好きな友人にお灸をすえてやらねばなるまい。
初春はそう決心し、佐天の手を迎撃すべく両手を伸ばした。素直に自分のスカートを押さえることはせずに。
「ぅぅぅるゎせんがーーーーん!!!!!」
今日の佐天は、今までと違っていた。
佐天が、ついこないだ能力に目覚めたことを初春は知っている。一番にそれを聞き、そして共に喜んだのは彼女だった。だから佐天の行動様式の一つに、能力を使ったものが追加されるのは自然だった。
螺旋丸? と、それが小学生の頃に流行った忍者アニメの主人公の必殺技名だったことを思い出す。
おかしいなと思いながらも、なぜか自分のスカートに手を触れようとしない佐天の腕を拘束したところで、ぶわっとした上昇気流と共に視界が暗転した。

「え、ええっ?」
初春のくぐもった声を聞きながら、佐天は成功しすぎて、むしろヤバッと思った。
人通りの少なくないこの道の往来で、フレアのスカートが思いっきりまくれあがって視界をふさぐ、いわゆる茶巾の状態にまでなっている。初春がワンピースを着ていたせいで捲れるのが腰でとどまらず、おへそどころか見る角度によってはブラまで行ってしまっている辺り、これは大成功と言うより大惨事なのではなかろうか。
「あ、あ……」
何が起こったのかを理解した初春が、眼をクルクルさせながら真っ赤になっている。
佐天はもう笑うしかなかった。
「アハハ、今日も可愛らしい水玉じゃん。その下着、四日ぶりだね。上下でセットのをつけてるなんてもしかして気合入ってる?」
「さささささささ佐天さーん!!!!! なんてことしてくれるんですか!」
テンパった初春の非難をを笑って受け流しながら、佐天はぽんぽんと初春の肩を叩いた。
「やーごめんごめん。今日も婚后さんに色々教えてもらっちゃってさ、出力が上がったみたいだから初春のスカートくらいなら持ち上がるかなーって。そう思うと、やっぱ試したくなるでしょ? 私もやっと夏場の薄いワンピースくらいなら突破できるようになったかあ。冬までには重たい制服のスカートを攻略できるように、頑張るよ!」
「そういう能力の使い方はしなくていいです! 螺旋丸なんて名前までつけちゃって……」
初春が膨れ顔でそっぽを向いた。
「え、でもこの名前あたしは気に入ってるんだけどな。能力的な意味で佐天さんは『うずまき涙子』なわけだし」
アニメよろしく手のひらに渦を作って突き出している佐天を見て、初春はため息をついた。
「確かに、あの主人公も佐天さんと同じでスカート捲りとか好きそうでしたもんね」

佐天の提案で大通りの交差点にある広場にたどり着く。その広場のモニュメントからはシューとかすかに音がしていて、水が霧になって噴出している。デザインはいかにも西洋風のキューピッドなのに、水を流す細いパイプとポンプの動力を得るための黒い半透膜、有機太陽電池でできているあたりは学園都市だった。
「ここで試したら、どれくらいの大きさの渦を作れるんですかね?」
自分のことのように嬉しそうに、初春はそう聞いた。
「やってみなきゃわかんないよ。でもさっきは50センチくらいの塊を集められたからそれよりは大きくできるといいな、って」
どこまでできるか、佐天はワクワクしながら霧の噴出し口に近づいた。近くには小さい子達がはしゃぎ回っていた。
「む……」
今日は風が強い。そのせいか気流がやけに不安定で、霧は5秒もすれば散逸してしまっていた。
「これはちょっと、難しいかも」
「風、強いですもんね」
初春がそう相槌を打つ。
「漂ってる霧を手に取るのが一番なんだよね。吹き出てすぐのは、流れが不自然で集めにくくって」
「こう、綿あめみたいにぐるぐる巻き取るのはどうでしょう?」
屋台のおじさんみたいな仕草で腕をグルグルさせる初春を佐天は笑った。
「初春上手だね、真似するの。……でも、いい案かもしれない」
噴出し口を眺めていると、その流れにはかなりのパターンがあった。そして一定量が継続的に噴出する。
綿あめというよりも、トイレットペーパーを手にくるくる巻き取るようなイメージで、佐天は水霧を巻き取った。
「お、お、お……」
一つの口から吹き出る霧の量は知れている。そのせいか、5秒たっても10秒たっても、佐天はまだまだ集められた。
「すごい! 佐天さん、かなり沢山集められてますよ!」
手の上に50センチくらいの大玉ができた。束ねるのがちょっと危うい感じがしたので、佐天はそこで集めるのを止めた。
「いやー、今までの最高記録の3倍くらいになっちゃった。あ、直径じゃなくて体積なら……27倍?」
佐天の体感では「3倍」だった。どうも、集めた体積よりも集まったときの直径で自分はサイズを評価しているらしい。
「なんかこんなに濃く集めると、霧っていうより雲ですね。触っても大丈夫ですか?」
初春がそんな感想を口にしながら、指を突き出した。
「うん、いいよ。まだあたしの能力じゃ怪我する威力にならないし」
自分でも試したことがあるから知っている。初春の指が流れに食い込むと、その周りで気流が激しく変化した。だが、人差し指をちょっと突っ込んだくらいならなんとかコントロールできるのだった。
「おおぅ、渦がピクピクしてますねー。うりゃりゃ」
生き物を突付いて遊ぶ子どものような感想だった。
「ま、まあこれくらいなら何とか押さえられるんだけど……って、初春、だめ、それ以上は!」
指どころか腕ごとねじ込まれては、さすがにどうしようもなかった。
「ひゃっ!」
渦は佐天の手を離れ解き放たれる。なぜか合一もせず回っていた水霧が、周りの子ども達と初春に水滴となって襲いかかった。
霧のレベルなら服が湿って終わりだったろう。だが、小さくても水滴と呼べるサイズになったそれは、点々と初春の服に染みを作っていた。
「あー、今のは初春も悪いと思う」
「……何も言わないでください佐天さん」
ハンカチを出して初春のほっぺを拭いてあげた。
「うーん、やっぱりコントロールに失敗して終わっちゃうんだよねえ。なんとかしなきゃなぁ」
「でも随分と大きく集まりましたね」
「うん、どうやらあたし、霧みたいなのと相性がいいみたいなんだ」
「そうなんですか。なんか、やっぱり教えてくれる人がいるとそういうのが見つかりやすそうですね」
「婚后さんにはホント感謝してる。教わってまだ一週間ちょいなのに、こんなに伸びるなんてさ」
嬉しそうに鼻をこすりながら笑う佐天。初春は、
「きっと佐天さんには才能があるんですよ」
本心でそう言った。
「もう、やめてよ初春。いくら褒めても何もでないよ」
「でもいつか、アレを動かせちゃう日がくるかもしれませんよ?」
初春はまっすぐ上を指差した。
「アレって……雲?」
天候に直接関与できる能力者は少ない。理由は人間相手に必要な能力の規模と自然現象相手に必要な規模はまるで違う、それだけのことだった。
「いやいや初春、天候操作は大能力者(レベル4)以上じゃないとまず無理って言われてるじゃん。いくらなんでもそれは」
「試してみませんか?」
「え?」
「減るもんじゃなし、せっかくだからやってみましょうよ」
初春がそう進言すると、佐天は黙って空を見た。
雲はあまり高いところにいない気がする。サイズは小さくて、ゆっくりと太陽の方向に流れていっている。
「……いけるかも」
佐天がポツリと呟いた。
「え、ええぇっ?!」
初春の驚きをよそに、佐天は足を肩幅に開き両手を突き上げ、構えた。
すうっと息を吸い、キッと眼に力を入れて佐天が空を見上げ、そして叫んだ。
「この世の全ての生き物よ、ちょっとだけでいいからあたしに力を貸して!」
「え?」
またどこかで聞いたことのあるフレーズだ。思わずポカンとしてしまう。
どうやら、佐天はバトルもののアニメを見て育ったらしかった。
「ぬぅん」
低い声でそう唸って、佐天が上半身を使って腕をぐるりと回した。
雲が、ほんの少し形を変えて、流れていく。
それは佐天の能力が届いたような気が、まあ贔屓目に見てもしなかった。
「……あの」
「っかしーなぁ。みんな力を分けてくれなかったのかな?」
何故失敗したのか分からないといった風に首をかしげる友人を見て初春は叫んだ。
「もう佐天さん! ほんとにできるのかと思っちゃったじゃないですか!」
「いくらなんでもあんな遠いところの気体なんかコントロールできるわけないじゃん!」
大能力者への道は、果てしなく遠い。




ザァザァと水の流れる音がする。
「気体は圧縮で随分と密度が変わりますから、空間中の圧力や密度の揺らぎまで計算に入れるのは意外と面倒ですのよね」
学校に備え付けのシャワールームで、光子は佐天に浴びせられた小麦粉を落としていた。
「その点は空力使い(エアロハンド)は大変ですわね」
「私たちは非圧縮性流体の近似式で取り扱えますし」
ちょうど水泳部が部活上がりなのか、ばったり会った泡浮と湾内の二人と会話する。二人は一年生、つまり光子の後輩だ。先日の水着の撮影に参加したときに仲良くなったのだった。
この二人の後輩と光子の仲がいいのには、もちろん性格の相性が良かったこともあるが、能力の相性がいいことも影響していた。
二人は水流を操作する超能力者であり、光子は気流を操作する超能力者である。
気流と水流は共に流体。そして空気も水も流れを計算するための基礎式はどちらも同じ式。必要とされる知識・テクニックはかなり似通っているのだった。それでいて系統としてはまったく別の、つまり直接のライバルにはなりえない能力者なのである。他の能力者たちと比べて水流と空力の能力者は親近感の湧きやすい間柄なのであった。
「あら、でも水流も精度の高い制御をするとなると色々と補正項を追加しなくてはなりませんでしょう? 水の状態方程式のほうが気体よりずっと複雑ですから、空気を扱うよりむしろ大変なのではなくて?」
「そうなんですの。そこを直してもっとコントロールの制御を上げようとしてみたんですけれど、計算コストが増え過ぎてむしろ制御しづらくなってしまうんですの」
液体は、気体よりも固体に近い属性を備えた相だ。気体の取り扱いは極限的には理想気体の状態方程式という極めてシンプルな式で行える。シンプルというのはPV=nRTという式の単純さと、そして式が分子の種類の区別なく適用できることを意味している。
固体はその真逆だ。分子と分子の間に働く分子間力がどのような性質を持っているか、それに完全に支配される。つまり固体は完全に分子の個性を反映しており、違う物質を同じように取り扱えるケースは少ない。
液体は分子というスケールで見たとき、物質の種類、個性に縛られない気体に比べてずっと取り扱いが複雑なのだ。光子のような流体を塊と捉えずに分子レベルで解釈し能力を振る超能力者にとって、水というのはこの上なく使いづらいものだった。
「本当、水分子は大っ嫌いですわ。空気の湿度が上がるだけでもイライラしますもの。この使いにくい分子間力、何とかなりませんの?」
シャワーから出る水分子を体いっぱいに浴びながらそう毒づく光子。そんな冗談で湾内と泡浮はクスクスと笑った。
水が水素結合という扱いの難しい力を最大限に発揮するのは固体ではなく液体の時だ。光子の言う使いにくい分子間力を制御することこそ、泡浮と湾内の能力だ。
それも彼女達はレベル3。充分なエリートだった。
「あ、ところで密度ゆらぎを考慮するときのテクニックですけれど、私使い勝手のいい推算式を知っていますわ」
「本当ですの婚后さん、よろしかったら是非教えていただきたいですわ」
流体制御は時間との戦いだ。今から5秒間の水流・気流の流れを予測するのに5秒以上かかったのでは意味が無い。だからこそ素早く結果が得られるよう、沢山の近似を施して式を簡単にしていく。だが、同時にそれは嘘を式に織り込んでいくことでもある。そのさじ加減は、いつも彼女達を悩ませるものだった。
「これだけ流体操作の能力者がいますのに、まだナビエ・ストークス式の一般解が導出できたとは聞かれませんね。どなたか解いてくださらないかしら」
おっとりと湾内がシャンプーを洗い流しながらそう言う。
「流体制御系の能力者がレベル5になるにはNS式の一般解を求める必要がある、なんて噂もあながち冗談ではないかもしれませんわね」
それは外の世界でミレニアム懸賞問題などと名前がつき、100万ドルがかけられている世紀の、いや千年紀の大命題だった。




シャワーを終えると、やや遅刻気味で光子は足早に当麻の家に向かった。
上がったことは無いが、近くまで来たことはあったから場所は知っている。部屋番号の書かれた紙をもう一度見直して、光子はエントランスをくぐった。
コンクリートが打ちっぱなしになった廊下や階段。砂埃とこまかなゴミがうっすらと堆積していた。どこか使い古された感じがして、清潔とは言いにくい。
「ここ、ですわね」
エレベータで七階に上がり、教えられたルームナンバーの扉の前に立つ。表札が無記名なのがすこし不安だった。息を整えてインターホンを押す。
ピンポーン、という音がすると、「はーい」という当麻らしい声が部屋の中から聞こえた。
光子はほっとため息をつき、右手の買い物袋を握りなおした。

「こんにちは、当麻さん」
「おう。来てくれてありがとな。ほら、上がってくれ。狭いし散らかった部屋で悪いんだけど」
「はい、お邪魔しますわ」
光子はドキドキした。男性の家に上がるのは初めてだし、そうでなくても彼氏の部屋なんてドキドキするものだろう。
靴を脱いで部屋に上がり、長くもない廊下を歩く。バスルームと台所を横目に見ながら、ベッドの置かれたリビングにたどり着いた。
「これが、当麻さんのお部屋なのね」
当麻にくっついたときの、当麻の服と同じ匂いがした。服は部屋の匂いを吸うものなのだろう。当麻自身の匂いとはちょっと違うしそれほど好きというわけでもなかったが、どこか気分が落ち着いた。
部屋にはテレビがあり、その下には数台のゲーム機が押し込められている。コードが乱雑なのは、普段は出して使っている証拠だろうか。
「ま、まああんまりじろじろ見ないでくれよ。なんていうか、恥ずかしいしさ」
当麻はそう言いながら光子の手にあるビニール袋を受け取り、台所に置いた。
「今日は何作ってくれるんだ?」
「出来てからの、お楽しみですわ」
相手に知られていないものを見せるのは、当麻だけではなかった。光子は料理の腕を、見せることになる。
食事は学園側が全て用意するという常盤台の学生に比べ、三食自炊の当麻のほうがおそらく料理には慣れているだろう。
じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉のスライス。あとは見慣れないフレーク状のものだが、明らかにカレールーと分かるもの。
……隠すも何も、今日はカレーじゃないか。
勿論当麻は何も言わなかった。
「い、言っておきますけれど、そんなに上手なほうではありませんのよ? 失敗は、多分しないと思いますけれど……」
ちょっと怒ったような、拗ねたような上目遣いで睨まれた。
「大丈夫だって! 光子にお願いしたのは俺だし、楽しみにしてる」
麦茶をコップに注ぎながら、当麻は笑った。
「それに何があっても光子の作ってくれたものなら、食べるよ」
「もう!」
失敗が前提かのような冗談を言う当麻に、光子はふてくされるしかなかった。


テレビもつけず、当麻はリビングのちゃぶ台に頬杖を付く。
常盤台の制服の上から持参したワインレッドのエプロンをつけて、光子がトントンと、まな板を小気味よく鳴らしている。
「……いいなあ」
「ふふ、どうしましたの? 当麻さん」
「彼女がさ、料理作りに来てくれるってすっげー幸せだなー、って」
「それは良かったですわ」
光子は思ったより手際が良かった。カレーなんて失敗するほうが難しい料理だが、危なげなく整った包丁のリズムは安心して聞けるものだった。
その音で今切っているのがにんじんだと当麻は分かった。音が重たいから、たぶん光子は具を大きく切るタイプなんだろう。
「結構練習した?」
「え……ええ。もう、当麻さんは嫌なことをお聞きになるのね。泡浮さんと湾内さんのお二人に手伝っていただきながら、何度か作りましたわ」
光子は自分が好きなものを隠せないタイプだ。仲の良いあの二人には、かなり惚気(のろけ)話をしているのだった。それでも嫌がらないのは、泡浮と湾内がそれだけできた子だということだ。
その二人にお願いして、寮が出す夕食を何度か断りながら、カレーを作ったのだった。
どうしたほうが美味しくなるかをあれこれ談義しながら食べるのは楽しかった。光子は不慣れではあるが、料理は嫌いではなかった。
「当麻さん、フライパンはどちらにありますの?」
「下の扉を開けたところだ。わかるか?」
光子の質問で当麻は立ち上がり、台所に入った。
「こちら、ですの?」
「あ、そっちじゃなくて」
別の扉を開けて、フライパンを取り出した。ついでにサラダ油も。
「ありがとうございますわ……あ」
1人暮らしの台所には、2人で使えるようなスペースはない。恋人の距離を知ってからそれなりに時間も経っているが、改めてこの距離で眼を合わせるとドキリとした。屋外で会うときに比べてこの場所は人目というものがないせいかもしれなかった。
「今からそれ、炒めるのか?」
「ええ。でも当麻さん、完成するまでは見てはいけませんわ。お楽しみがなくなってしまいますわよ?」
「ああ、ごめん」
謝りながら、当麻は立ち去らなかった。光子は隠しているつもりかもしれないが、何を作るかなんてわかりきっている。
光子は斜め後ろに立つ当麻を気にしながら、フライパンに油を引き、コンロに火をつけた。
当麻がカチリと、換気扇のスイッチを押す。
「あ、すみません」
「ん」
うっかりしていた光子に笑い返す。
光子が先ほどまではつけていなかった和風の髪留めで、背中に広げている綺麗な髪を束ねていた。台所はどうしても暑くなるから、うっすらと首筋に汗をかいているのが見えた。
ゴクリ、と当麻の喉が鳴った。
「きゃ、ちょ、ちょっと当麻さん! いけませんわ、そんな……」
火加減を調節したところで、光子は当麻に後ろから抱きしめられた。首筋にかかる当麻の吐息にドキドキする。
「火を、使ってますのよ? 危ないですわよ」
「光子が可愛いのが悪い」
「もう……全然理由になってませんわよ。さあ、お放しになって。フライパンが傷みますわよ」
中火で30秒ではまだまだ傷むには程遠いのを当麻は分かっていたが、意外とあっさり振り払われたのを寂しく感じながら、光子の言葉に従った。
「もう、料理の途中では私が何もできないじゃありませんか。そういうことはもっとタイミングを考えて……」
そこまで言って、光子が顔を真っ赤にした。
「じゃ、またあとでな」
当麻は笑って婚后の髪に触れた。


軽く炒め終わった後、鍋に具を移して火にかける。沸き立ったら火を弱めて灰汁を取り、あとはしばらく待つだけだ。
ベッドに背をもたれさせながら光子と話をしていた当麻の横に、光子はそっと座った。
「台所はやはり暑いですわね」
「だよなあ、この時期は料理が辛いのなんのって」
当麻はその辺に転がっていたうちわでパタパタと光子を扇いだ。エアコンは昨日の落雷で故障してるし、それはもう部屋の中は暑いのだった。
「ご飯もあと20分くらいで炊けるし、ちょうどいいかな」
「そうですわね」
時計は11時30分を指している。朝飯はカップラーメンくらいはあったが、掃除に買い物にと忙しくて抜いてしまった。いい感じに空腹だ。
朝からカレーも平気な当麻にとっては、光子の作っているものはブランチにしても問題なかった。
「はぁー、幸せだ」
ガラにも無い言葉を呟く。
「私も、なんだか夫婦みたいで嬉しくなりますわ」
コトリと光子が当麻の肩に顔を乗せた。
同じ部屋で女の子と過ごす。それは喫茶店で喋るよりも落ち着いた時間で、後ろで煮える野菜とブイヨンの香りなんかですら幸せを醸(かも)し出しているのだった。
土御門は舞夏が料理を作ってくれてるのをいつも見てるのか。そう気づいて、なんとなく隣人をそのうち殴ってやろうと心に決めた。
「さっきみたいには、してくれませんの?」
甘えてくる光子が卑怯なくらい可愛い。当麻はすこし体をずらして、光子を後ろから抱き込んだ。
「ふふ、暑いですわね」
「ああ、暑いな」
真夏にクーラーもつけずに部屋で抱きしめあっているのだ。抱きついてるのが仮に母親あたりであったなら、即刻引き剥がしているところだ。
暑いくらいが、嬉しい。
「ふ、ふふ。当麻さん、右手をお放しになって。くすぐったいわ」
当麻の左腕は光子の胸の上を、右腕はお腹を抱きしめるように回してあった。ちょうどその右手がわき腹をくすぐっているらしい。光子の胸は主張しすぎててやばいので触らないように気をつけていた。触ったら戻れないような、そういう魔力を感じる。
「あはっ! もう、当麻さん!」
つい調子に乗って、わき腹で指を踊らせた。光子が当麻の腕の中で暴れる。腕に豊かな柔らかい感触が当たって、当麻はドキドキした。
「もう、あんまりおいたが過ぎましたら私も怒りますわよ? ……あ」
光子が体をひねって、腕の中から当麻を覗き込む。唇と唇の距離は30センチもなかった。
「う……」
突然の膠着状態。二人ともどうしていいか分からなかったのだった。
「と、当麻さんは、どなたかとキスしたことありますの?」
「ねえよそんなの!」
「じゃあ、初めてですの?」
「……うん。光子、お前は?」
「私だって初めてですわ」
付き合ってそろそろ一ヶ月。いい時期だと当麻も、そして多分光子も思っていた。
普通の基準で言えば遅すぎるのかもしれない。いい雰囲気になっても、屋外ではなかなか進展がなくてモヤモヤしていたところだった。
……い、いいよな?
眼で光子に問うと、そっと、眼をつぶった。
化粧をしていないナチュラルな肌は、それでいてきめの細かさと白さをたたえている。薄く艶のかかった桜色の唇がぷるんと当麻を誘っているようだった。
当麻はつい手に力を入れてしまう。ついに、ついにこの日が来たかという感じだった。
すぐ傍まで当麻も顔を近づけて、眼をつぶった。



――――プルルルルルルル
そんなタイミングで、人の意識を惹きつけて止まない文明の音がした。



ビクゥと二人して体を離す。光子は動転した勢いで後ろに倒れてしまったし、当麻はそれを抱き起こすことを考えもしないで携帯に飛びついた。
「は、はい上条です!」
「こんにちわー、上条ちゃん。どうしたんですか? まさか部屋に女の子なんか連れ込んでませんよねー?」
「ととと当然じゃないですか!」
電話の主がのんきに言った冗談が、まるで笑えなかった。当麻のクラス担任、月詠小萌の声だった。
「それで、何の用ですか? 先生のことはクラス連中もきっと好きですけど、夏休みに会いたいとは多分思ってないです」
「ああ、学校の先生は寂しい仕事ですねえ。私は上条ちゃんもクラスのみんなも大好きですよー。だから上条ちゃん、今日は先生に会いに来てくれますか?」
「はい?」
「上条ちゃーん、バカだから補習ですー♪」
最悪のラブコールだった。今日は光子と過ごすはずだったのに、ガラガラと予定が崩れていく。
「いやあの先生、今日の補習って、初耳なんですけど」
「あれーおかしいですねー。昨日の完全下校時刻を過ぎてから電話をかけたんですよ? 上条ちゃんは出なかったですけど、留守電を残しておいたはずなんですけどねー?」
学生寮の固定電話は停電で逝ってしまった。ついでにちゃんと帰宅してなかったことを把握されてて、微妙に首根っこまでつかまれていた。
「あの、明日からいきまーすとか、そういうのは」
「上条ちゃん?」
「いえなんでもないです」
この小学生並みの慎重と容姿を誇る学園都市の七不思議教師は、それでいて熱血なのだ。逃がしてはくれないだろう。
当麻はどうやって光子に謝ろうと思案しながら、適当に応対して電話を切った。
「光子」
「聞こえていましたわ」
つまらなそうな顔で、光子は拗ねていた。
「昼からは一緒にいられませんのね?」
「……はい」
「明日からも補習漬けですの?」
「……はい」
「いつなら、お会いできますの?」
「……今日日程表貰ってくるんで、それからなら、分かるかと」
「そうですか」
はあっと、光子がため息をつくのが分かった。
「補習って、皆受けるものですの?」
「……いや、ごめん。俺の出来が悪いからだ」
「これまでに頑張ってらっしゃったら、避けられましたのね?」
「……ああ」
むっと、悲しい顔をした光子がスカートを気にしながら立ち上がる。
「そろそろ料理もできますわ。せめて、それくらいはお食べになって」



光子のカレーはよく出来ていた。味付けも火の加減も申し分ない。
「み、光子、料理上手いじゃないか」
「褒めていただいて嬉しいですわ」
これっぽっちも嬉しそうな顔をせずに光子が返事をした。カレーは出来たてなのに、二人の間の空気が冷めていた。
自分が悪いのは分かりきってるものの、当麻はどうしようもなかった。
これ以上謝ったって光子の機嫌は直らないだろう。手詰まりなのを感じながら、自分のとは味の違う、光子のカレーを口に運んだ。

もくもくと、二人でカレーを消費する。

「……当麻さん」
「なんだ?」
「今日はいつ、学校に行かれますの?」
「あー……、時間は聞いてなかった。でもたぶん、昼の1時からだと思う」
登校にかかる時間を考えれば、すでに遅刻だった。
「まあでも今日は時間を知らなかったことにして、少しくらいなら遅刻してもいい、かな」
小萌先生は怒るだろう、だが、光子にもっと構ってあげるのも重要なことだった。
「そうですの。……怒ってもご飯は美味しくなりませんわ。せっかく当麻さんのために作ったお料理ですのに」
当麻を許そうとして、寂しさや不満がそれを阻むような、そんな顔をしていた。
「ごめんな、光子。今日じゃなくて悪いんだけど、ちゃんとこれからスケジュール組んで、なるべく光子といられるようにするから」
「……」
光子はむっとした表情を変えない。
「こないだ言ってた店に買い物に行こう。暑いからプールって話のほうでもいい。なんていうか、今日をどうにも出来なくて、それは謝るしかないんだけどさ、埋め合わせはするから」
「ふんだ。私はそれでつられるつもりはありませんわよ? ……それで、味はどうですの?」
ちょっと不安があったらしい。光子は、ふてた態度にすこし窺うような雰囲気を混ぜてそんなことを尋ねた。
「あ、ああ。美味しいよ。なんてったって光子が作ってくれた料理だし」
「私が怒っているから、お世辞を言っているだけではありませんのね?」
「ちがうって! ……彼女の作った手料理を食べるって、男子高校生にとってどれだけ幸せなことか女の子にはわかんないか。今、スゲー嬉しい思いしながら食べてる」
「自分のほうが上手いと思ってらっしゃるんじゃないの?」
率直に言うと、そういう部分はあった。家カレーなんて慣れたレシピと味のが一番だから、その意味では光子のカレーは文句なしに最高、とは言いがたいだろう。
だけど違うのだ。
「いや。味だけで言えば俺達が作ったのよりも店で1万円くらい出したほうがいいのが食べれるだろ? そういうのじゃないんだよ。誰かが俺のために作ってくれるっていう、そこが嬉しいし味にもなるんだよ」
「ふふ。分かってますわよ。さすがにシェフの作ったものには私のカレーもかないませんわ」
光子が笑った。少しづつ、機嫌は快方に向かっているらしかった。


食べ終えた皿を水に浸し、二人して氷入りの麦茶を飲む。カレーは今日の夕食分くらいはゆうにあった。ご飯もたっぷり炊いてある。当麻は地味にそれも嬉しかった。
「その、光子はこれからどうするんだ?」
言ってから失言だったと気づいた。光子の顔があからさまに不機嫌になった。
「たぶんお友達はみなさんどこかへ行かれましたし、部屋に帰って本でも読むか、1人で町を散策するかのどちらかですわね」
「う……ごめん」
「当麻さんも、あまり長居はできませんでしょう?」
今なら30分の遅刻といったところだろう。
「まあ、な」
「……寂しい」
ぽつりとこぼした言葉は、光子の本音だった。
何日も前から努力して用意してきて、なんだかそれがないがしろにされてしまったような、そんな気分になるのだ。
当麻はもしかしたらそれほど悪くはないのかもしれない。事情はあるのかもしれない。だけど構ってもらえないのは、嫌だった。
また、当麻に抱き寄せられる。当麻の胸に頭をおいて、心臓の音に耳を澄ます。
当麻が髪をそっと撫でるのが分かった。その感触が心地よくて、眼をつぶる。
「何度も言った言葉でわるいんだけど、ごめんな」
「はい」
でも、あと15分もしないうちに、当麻は光子を放して出て行くのだろう。
「光子」
名前を呼ばれた。
「どうされましたの」
「キスしていいか」
「――っ!」
ドキン、と心臓が跳ねた。
そっと上を見上げると、真剣な表情をした当麻の瞳とぶつかった。
心の準備は、ないでもない。当麻の家に来るのが決まったそのときから漠然と予感はあったことだ。
口付けも、それ以上のことも、本来は結婚してからすべきことだろう。まだ、それにはあまりに早すぎる。
当麻が高校と大学を卒業して、いや、しなくても1年くらいなら早められるだろう。それなら、あと6年くらいだ。
……手を繋いだだけであと6年を、光子は待てそうになかった。
「当麻さんの、好きになさって」
恥ずかしくて、それ以上は言えなかった。
「それは嫌だって、意味か?」
当麻は確認もつもりなのかもしれなかった。
「もう、私の気持ち、ちゃんと汲み取ってくださいませ」
こんなに当麻にしなだれかかって、それでノーなんて言うはずが無いのに。
「光子、好きだ」
「私も……」
「私も?」
続きを言うのが照れた。
「当麻さんのこと、すごく大好きです」


呟く光子のあどけない笑顔が、当麻はどうしようもないくらい可愛かった。
はにかんでうつむきがちの光子の頬をそっと手で撫でて、上を向かせる。
光子の体は硬い。きっと、緊張しているのだろう。こちらも同じだった。
当麻は、そのつぶらな唇に、そっと自分の唇を押し当てた。


「ん……」
ぴくん、と電気が走ったようにわずかに光子が身じろいで、あとは何秒間か分からないくらい、そのままでいた。
当たり前のことだが、光子の唇は人肌のぬくもりを持っていて、そしてどんなものとも違う柔らかさを持っていた。
そっと顔を離す。眼をつぶっていた光子がこちらを見つめ、パッと顔を赤く染めた。
当麻の体に腕が回され、ぎゅっと光子がしがみつく。
「嬉しい、嬉しい……」
自分の気持ちを確かめるように、光子がそんな風に呟いた。
当麻はもう一度、いや何度でもキスしたくなった。
ぐっと顔を光子に近づけ、その唇をついばむ。ちゅ、と僅かに濡れたような音がそのたびに聞こえた。
「はあ……」
体を支えるためだろう、光子が背もたれ代わりのベッドの上にあった、掛け布団の端を握っていた。
それを見て、当麻はドキリとした。
「どうしましたの?」
光子は、その意味を考えてないみたいだった。
「いや、光子が……ベッドのシーツ握ってるからさ」
「はあ……って、あっ」
恋人、二人きり、そしてベッド。
二人のすぐ背後には膝くらいの高さの、甘美な台地が広がっていた。
「そそそそんな、私はっ」
「ま、待て待て光子。俺はそんなつもりじゃ」
二人してバタバタと慌てる。まだ恥ずかしくて、そしてまだ早いと二人は思っていた。
「お、俺布団干すわ。ちょっとごめんな」
「え、ええ。仕方ないですわよね」
何が仕方ないのか、光子も言っていることをわかってないだろう。
当麻はこのままだと確実に暴走する気がした。布団さえ干せば、とりあえず何とかなる。
――べつに床でも、って駄目だ! 光子だって嫌がるだろうし……
頭の中で渦巻く馬鹿な衝動を鎮めながら、当麻は足でベランダへの網戸を開けた。
そこで、おかしな光景が眼に入った。
「……あれ? 布団が干してある」
自分で言ってることが変なのは分かっていた。だって、今時分が抱えているものこそ、当麻の布団だ。
勿論1人暮らしだから、これ以外のものなんてない。
「当麻さん?」
怪訝に思ったのだろう、光子が後ろから声をかけた。




ベランダの手すりにかかっているのは、白い服を着た女の子だった。




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あとがき
長い間プロローグにお付き合いいただき、ありがとうございました。
次回から、原作小説の第一巻の再構成モノとなります。

今回を含め、以降では明示しない形での本編文章の引用を行うことがあります。あしからずご了承ください。



[19764] ep.1_Index 01: 魔術との邂逅
Name: nubewo◆7cd982ae ID:a8d5efc6
Date: 2010/09/10 21:29
当麻が切なそうな目でその子を見つめていた。光子が恨めしそうな目でその子を見つめていた。
透き通るような銀髪に緑色の双眼。そして豪奢なティーカップみたいなデザインの白の修道服。
明らかに日本人ではない顔立ちと、学園都市の学生とも思えないような服装の少女は、
「美味しい、美味しいよ!! 空腹って言うスパイスがなくてもこれならまだまだ食べられるくらい!」
流暢な日本語を駆使しながら光子の作ったカレーにがっついていた。


「俺の晩御飯が……」
「行き倒れだという人間をたたき出すほど冷血では無いつもりですけれど、もう少し食べる量を自重してくださいませんこと?」
会心の出来というわけでもないが、光子が生まれてはじめて人のために作った料理であり、大切な恋人に美味しいと言ってもらえた料理なのだ。
どうして誰とも分からない胡散臭いシスターに振舞わなければならないのだろう。それも三皿も。
「あ、ご、ごめんなさい。丸一日くらい何も食べてなかったし、すっごくすっごく美味しかったからつい」
自分の立場を分かってはいるのだろう。しゅんとなってその少女はすぐ謝った。
「なあ光子。今度また、作ってくれるか?」
「ええ。もちろんですわ。もっと喜んでいただけるよう、練習しておきますわね」
光子が嬉しそうに笑った。当麻はガラステーブルをはさんで向かいにいる少女に気づかれないよう、こっそり光子の手を握った。
「で、えーと。一体何が起こってたのか、話してくれるよな? インデックス、って呼べば良いのか」
空腹時に嗅ぐカレーの匂いが持つ威力はすさまじい。それでこの目の前の少女は挨拶も自己紹介もそこそこに食事にむしゃぶりついた。インデックス・なんとかさんと名乗ってはいたが、まるで女性名に聞こえない。
「うん、インデックスはインデックスだよ」
「どうしてこの家のベランダに干されていましたの?」
「干されてた訳じゃないんだよ!」
スプーンを握り締めながらインデックスが抗議する。だが、8階建ての学生寮の7階のベランダにだらりとぶら下がる少女を、それ以外にどう表現すべきだったのか。
「おおかた空力使い(エアロハンド)の能力者に吹き飛ばされでもしたのでしょう」
「エアロハンド? なにそれ」
「何って、気流操作系の能力者の通称じゃないか。いやでもさ光子、それだと吹き飛ばされて怪我一つ無いことの説明ができないぞ」
「肉体操作か念動力系の能力者なんではありませんの? ビルから飛び降りても平気な能力者なんて常盤台なら両手の指の数じゃ足りませんわ。私もその一人ですし」
インデックスと名乗る少女は二人の会話の中身をまるで理解できないように首をかしげた。
「何を言ってるのか分からないけど、私が怪我してないのはこの防御結界のおかげだよ」
スプーンを置いて両手をそっと広げて、彼女は自慢げに修道服を二人に見せつけた。
「防御、」
「結界?」
思わず当麻と光子が顔を見合わせる。
「知ってる?」
「……原理的に難しいですわね。衝撃吸収性の服を着たって、殺せる運動量なんて高が知れています。それにこれ、手触りからしてただのシルクですわ。防御結界というのはどういう原理の対事故安全機構ですの?」
「どういうって、これは『歩く教会』って言って、教会として最低限の要素だけを集めて服に集約したものなんだよ。布地の織り方、糸の縫い方、刺繍の飾り方まで、全てが計算尽くされ尽くしたとっておきの一品なんだから!」
まるでそれは説明になっていなかった。服が教会を模したとして、だから物理法則が曲がるかというとそんなわけはないのだ。そんな科学は常盤台でも当麻の高校でも教えられていない。
「はあ。貴女、ずいぶん歪んだ教育を受けてきたようですけれど、一体どちらの方なの?」
「なんていうかさ、お前、学園都市の学生らしくないよな」
「それはそうだよ。だって私はこの街の住人じゃないもん。私はイギリス清教の修道女(シスター)で、魔術の心得もあるんだよ。それとあなた、歪んだってのは失礼なんだよ! この世の中に相容れない主義主張がいくつあると思ってるの? あなたの知らないものを歪んでるって言っちゃうのは視野が狭いかも」
「仰りたいことはわかりますけれど……その、魔術の心得、ですの?」
インデックスはちっちっちと不遜な顔をするが、光子はその言葉に怪訝な顔をせざるを得なかった。ありとあらゆる超常現象が投薬によって発現し目の前で再現されているこの街において、魔法なんてものは旧時代に超能力を理解できなかった人々が作った不適切な用語でしかないのだ。
「む、まだ信用してないんだね?」
「インデックスさん、この学園都市は超能力開発の町ですのよ? 海を割り雷を落とすような人間が学生服を着てアイスクリームを舐めながらショッピングをしているのに、魔術などというよくわからない言葉を受け入れられないのは自然だと思いますけれど」
「どーしても魔術を信用しないってこと?」
「というか、魔術とあなた方が仰るものは結局複雑な原理で働く科学なり超能力なりではありませんの?」
「なら試してみる! あなたがバカにしたこの歩く教会、傷つけられるものならやってみてよ! それでどうして傷つかないのか、科学で説明できるならしてみるんだよ!」
むすっとした顔でぶんぶんと腕を振り回すインデックスをもてあますように、困った顔で当麻と光子はため息をついた。
「まあ、疑って悪いとは思いますけれど、殊更に否定するつもりはありませんわ。学園都市の超能力とは雰囲気が違うのは事実ですし」
「あなたは結局私の言うことを信じないんだね!」
さらにヒートアップし始めたインデックスの横で、当麻は時計を気にしていた。補習の開始時間である午後1時をとっくに過ぎていた。
「お前これから、どうするんだ?」
「え?」
「そろそろ俺は補習にいかなくちゃなんねえし、これからのことを考える必要があるんだよな」
「そうでしたわね……。もう、10分だけでも二人でお話したいと思っていましたのに」
当麻と光子は憂鬱にうなだれた。インデックスはそれを見てへの字に曲げていた口をきゅっと引きしめ、居住まいを正した。
「あの、お邪魔してごめんなさい。二人にだって予定があるよね。食事を恵んでくださって、どうもありがとうございました。私はそれじゃあ行くね」
「行くって、どこにだよ?」
「イギリス清教の教会。日本じゃ珍しいけど、ないわけじゃないから」
当麻は首をかしげた。おかしい。学園都市の住人以外がここに入るときは、かなり厳しいチェックと内部関係者の身元保証を必要とする。
「お前、どうやってこの街に入ったんだ?」
「どうやってって、普通に歩いて、というか走ってだよ」
「誰にも見咎められずにか?」
「うん、この辺りに来たのは昨日の夜だけど、門をくぐってもなんともなかったよ」
光子と顔を見合わせた。どうやら、昨日の停電のタイミングで上手く切り抜けたのだろう。
「……ってことはこの街の住人用のIDカード持ってないんだな? それで街を歩くのはまずいだろ。……っていうか、なんでそんなことになったんだ?」
「追われてるからだよ」
こともなげに彼女はそう言った。薔薇十字や黄金夜明と呼ばれるような魔術結社に追われている、と。
自分が魔術師だという主張に加えて、さらには魔術結社ときた。それらの単語を、当麻と光子はきちんと理解し受け止める努力を放棄していた。
「その、追われているという貴女を信じないつもりはないんですけれど、どうしても単語が私達にとっては突拍子もなくて……」
「だからさっきから言ってるじゃない。ほら、あなた達も超能力者なんでしょ? この『歩く教会』の法王級の防御性能をそれで確かめてみればいいんだよ!」
「そうは言うけど」
この街の科学は原理すら悟らせないトンデモ現象をいくらでも作り出す。インデックスが魔術だと言い張るものは、おそらく科学でどうにか説明付けられてしまうだろう。
当麻はどうも胡散臭さの消えない彼女の言葉に、戸惑いを覚えていた。
「当麻さん。試しましょう。それで信じられるのなら一番話が早いですわ」
「お、おい光子?」
そう言うと、光子はインデックスのお腹辺りに触れた。
光子は彼女の触れたところに風の噴出面を作り出し、あらゆる物体を飛翔させてしまうトンデモ発射場ガールだ。その能力を利用して、光子は軽い衝撃をインデックスの腹部に打ち込もうとしていた。何も体を鍛えていなさそうなこの少女ならちょっと痛がりそうな程度の強度で。
「……あら?」
光子の触れた部分は光子の支配下となり、気体分子を集積する。そして全ての気体分子を同一方向のベクトルを持たせて噴出することで衝撃を与えるわけなのだが。
それ以前に、そもそも能力の発現面を上手く作ることが出来なかった。
水面のように揺らぎやすい面などに能力発現面を作れなかったことはあるが、服を着た人間という物体を対象にして能力を失敗したことなど当麻の右手を除いて一度もない。そして服に触れたときに感じた、奇妙な圧迫感。そちらは全く初めての感覚だった。
「……」
「ほーらどうしたのかなー? 何かしようとしたんだよね? 私、なんともないんだけど」
もう一度、光子はインデックスに触れた。しっかりと集中して、万が一にも失敗などないように。
だが結果は同じ。光子は内心で混乱していた。能力そのものを封じる素材の服など、聞いたこともない。
「……っ」
本棚から週間少年誌を引き抜いて、インデックスに飛ばす。人間が本気で週刊誌を投げ飛ばしたくらいの速度だった。当たれば当然痛がるだろう。
ところが雑誌がインデックスの修道服に触れた時点で不自然に運動量を失って、彼女の体にこれっぽっちもダメージを伝えることはなかった。衝撃吸収素材だとかそんなありふれたものでは断じてなかった。
「そ、んな。私はレベル4の能力者ですのよ?! どういう原理で防ぎましたの?」
この学園都市の学生らしく、光子は自分の能力に自信を持っている。向き不向きはあるから光子とて出来ないことは山ほどあるが、それでも能力の発現そのものを押さえつけられたことはなかった。さらに、全く別な能力と思われるやり方で、光子の飛ばした雑誌も防がれた。この結果は、光子の知る超能力では説明が付かない。
「ふっふーん。だからさっきから言ってるでしょ? 魔術だよま・じゅ・つ! あなたは自分の力に自信があったみたいだけど、全然何も出来なかったね。魔術だって馬鹿に出来ないものでしょ?」
「く……」
光子は憎まれ口のひとつでも叩いてやろうかと思ったが、そもそも能力を発動させられないのでは負け惜しみにしかならない。完全に敗北だった。
「じゃあ次はそっちの君も試してみる? 君がどういう力を使うのかは知らないけど、『歩く教会』は全てを防ぐんだから!」
光子が何も出来なかったことに驚いていた当麻は、自分に話が回ってきて驚いた。
「え? 俺もやるの?」
「魔術を信じないって言うならやってみるんだよ。それともこっちの人が失敗したのでもう認めてくれたのかな?」
パッと光子が顔を上げた。
「そうですわ当麻さん。当麻さんの右手なら、この子の服くらい突き抜けられるんじゃありません?」
「まあ、たぶん、出来ると思う。それが異能の力だっていうなら、神の奇跡だって打ち破れる」
「……敬虔なる神の子羊に対して、それはずいぶん挑戦的な言葉だね。やれるものならやってみればいいよ!」
「それじゃ、お言葉に甘えて」
光子が期待のこもった目でこちらを見ていた。勝って態度の大きくなったこのシスターに一泡吹かせたいらしい。
女の子に手を上げるのもなんだけど、ほんの少し痛い程度に体を叩けばそれで足りるかと当麻は意を決した。
その前段階のつもり、とりあえず服の手触りを確かめようと手を伸ばして、肩から足元までをゆったりと覆うその服をつまんだ瞬間。


ばさりというよりもしゅるりという音を立てて、インデックスの肩より下を覆う全ての布が取り払われた。


「――え?」
それは、三人全員の声だった。
インデックスは唐突に布が体を滑って脱げていく感触に、光子は突然に目の前の女の子の肌が露出したことに、そして当麻は自分の手の中に修道服が存在することに、それぞれ戸惑いを覚える声だった。

「いやあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「ご、ごめんっ!!!」
体を隠しながらしゃがみ込むインデックスに、当麻は慌ててただの布になってしまったそれを突き返す。
「ばかばかばか! 信じられないんだよ!」
「うわ、ちょっとおい止めろ! いでででで!」
インデックスは布をひったくって体に無理矢理巻きつけたかと思うと、すぐさま当麻に噛み付いてきたのだった。
もちろん服としての機能が失われていているから、それは完全に体を隠したりはしない。チラチラと体のあちこちの見てはいけないところが見えたり見えなかったりして、当麻は直視することが出来なかった。
暴れる二人は、第三者から見ればじゃれあっているように見えた。そう、この場にはもう一人、婚后光子という人がいるのだった。

「あらあら当麻さん? 何をなさっているのかしら?」
「はひぃっ?」

優しい問いかけ声だった。だがそれに当麻はこれっぽっちも抗えなかった。その口調と声色には遺伝子レベルで逆らえないような気がした。
「何をなさっているの、とお聞きしたのですけれど?」
「いや、な、何をって」
「服が脱げてしまったのは、まあ良いでしょう」
「これっぽっちも良くないんだよ!」
「でも私の前で仲良くじゃれあうなんて、どういう意思表明ですの?」
「いや、べつにじゃれあってなんかないだろ? いえ、ないでせう? 当麻さんはこの女の子にただ噛みつかれただけで」
「当麻さん?」
「すみませんでした」
迷わず当麻は頭を地面にこすり付けた。逆らえなかった。
「何を謝っているのか分かりませんけれど、」
光子は冷たい目で平身低頭する当麻を睥睨したあと、傍らで必死に体を隠すインデックスに目を向けた。
「とりあえず貴女の服を何とかしないといけませんわね」




替えを着せようにも当麻の服ではサイズは合わず、それどころか下着を身に着けていないことが発覚して、結局布きれに変わってしまったそれを着なおすことになってしまった。
仕方ないから縫いましょうと光子が言ったものの、一向にソーイングセットが見つからない。
その結果が、目の前の光景だった。
「なんというか、非常にシュールな服装になっていますわね……」
「言わないで欲しいんだよ……」
縫い糸の代わりを何十本もの金属の安全ピンが成している。光子と二人がかりで何とか服の形にまで戻して、もそもそと袖に腕を通す。
「おーい、終わったか?」
玄関で廊下へ続く扉の方を向いたまま、当麻は正座している。裸の女の子のいるところから追い出され、反省を求める空気に負けて正座をしているのだった。
「ええ。当麻さんが引き毟(むし)った服は、暫定的にですけれど形を取り戻しましたわ」
「う。その、ぜひ私めの話を聞いていただきたいのですが当麻さんは決して狙ってやったんではないのですのことよ?」
「狙ってないのにどうしてここまで酷いことをできるのかな……」
インデックスは非常に落ち込んでいた。ずいぶんと愛着のある服だった。信頼もしていた。それが、ちょっと触れられただけで壊れてしまった。
「君はどういう能力なの? 右手で触るだけで霊的守護の行き届いた教会をガラガラと崩壊させる術なんて、絶対に魔術じゃありえないんだよ」
「詳しいことを俺もわかってるわけじゃないんだよな。生まれつきこうでさ、しかも学園都市のあらゆる測定機械で無能力判定だし。……そういや、魔術があるかどうかって話をしてたんだっけか」
よ、と当麻は立ち上がって二人のいるリビングに戻った。カレー皿は片付けられ、光子はテーブルサイドに、インデックスは当麻のベッドの上にたたずんでいた。
「そうだったね。なんか、そこからやけに遠いところにいっちゃった気がするんだよ」
「話を戻しましょう。……そうですわね、魔術はあると、認めざるを得ませんわ。魔術という言葉には抵抗がありますけれど、この学園都市のやり方とは違う超常現象の起こし方がこの世に存在するということは、受け入れましょう」
「……で、その魔術の関係でお前は追われてるんだっけか」
「そうだよ」
「俺達に出来ることって何かあるのか?」
「ご飯を恵んでくれたよね。それで充分なんだよ。それ以上は地獄の底まで一緒についてきてもらわなきゃいけないから。さすがにそんなことはお願いできないしね」
さらりと触れたその言葉は、冗談めかした比喩表現のはずなのにどこか真実味が合って、重たかった。
応えに戸惑って、わずかに会話が止まった。
「これからは、一体どうしますの? IDを持ってないんでしたら交通機関も限られますし、そもそも夕方の完全下校時刻以降は町を歩くこともままなりませんわよ?」
「うーん、まあ何とかするよ。イギリス清教の教会さえ見つかれば保護してもらえると思うし」
不安を気づかせないためなのだろうか、インデックスはなんでもないことのようにさらりとそう言った。
それを見て、光子はふむと考え込んだ。
「インデックスさん。これからその教会くらいまではご一緒しますわ。私と一緒なら怪しまれる可能性も減りますし、貴女と違って町の施設検索なども出来ます。なんだかんだといって広い学園都市ですから、あなた一人が歩いて探してもすぐには見つかりませんわよ」
「だめだよ! あいつらはあなたも私の協力者だとみなして襲うかも知れないし」
「ではあなた一人で目的の施設を見つけられる見込みはありますの? イギリスは確か歴史的にいわゆるカソリックとは異なる派閥になったでしょう? そうした系列の教会が日本にそう多いとも思えませんが」
「う……」
「追われているという人間を放っておくのも寝覚めの悪いものですわ。さっさと街に出てさっさと調べて、私達も安心したいですわ」
光子の言葉を聴いて、少しだけ当麻は納得しないものを感じた。出会って30分やそこらの女の子に地獄の底まで付いていくなんてのは無理だ。だけど、放っておくのも良心が痛む。光子が言い、そして当麻も異を唱えないそれがどこか偽善めいて感じられるのだった。
「危ないんじゃないのか?」
「私を誰だと思っておりますの? この子と同じ服を着ているのなら話は別ですけど、そんじょそこらの暴漢にやられるような実力ではありませんわ」
「『歩く教会』なんて着てるわけはないから、あなたの能力が通じないことはないと思うけど……。それじゃあ、教会の場所を調べるだけ、お願いしても良いかな? ちょっとくらいなら見つからないと思うし、人の多いところを歩いていれば異変はすぐに察知できるから」
「わかりましたわ。さっさと済ませてしまいましょう」
話がまとまって、光子はすっと立ち上がった。インデックスがそろそろとベッドを降り、光子に並ぶ。
「えっと、じゃあ俺も」
「当麻さんは補習がおありでしょう? 大丈夫ですわよ」
手を上げて言った当麻はむべなく断られた。まあ、補習をサボるとなると全ての話がひっくり返るのだ。今日のほんの数時間は光子といられるが、夏休みトータルではむしろ減ってしまう。
「……わかった。授業中でも電話が鳴ったら絶対出るから、必要ならかけてくれ。それとさ、光子」
「はい、なんですの?」
シンプルなキーホルダーが付いた鍵を、当麻が差し出した。同時に自分のポケットからも鍵を出して光子に見せる。
「あ……それ、もしかして」
「ん。まあ、この部屋の鍵だ。元から今日渡すつもりだったんだけどな、万が一何かあったらここに勝手に入って構わないから」
「……ふふ、嬉しい」
付き合っている彼氏の部屋の合鍵を持つのは、学園都市の女の子にとってひとつのステータスなのだった。逆のパターンも時折あるが、それははしたないと言われたりもする。なにせラブホテルの数は非常に限られ、しかも大人のIDを持っていないと入れないのだ。学生たちにとって彼氏の家というのは、色々と深遠な意味を持つ場所だ。そのせいか、合鍵プレゼントは初デートやキスと並ぶ、一つの重要イベントだった。
キーホルダーをおそろいにするという定番までちゃんと当麻が押さえて、初キスと初の彼氏の家訪問をしたその日にもらえたのが、光子にとってすごく嬉しいことだった。
隣ではインデックスがはてなマークを頭に浮かべていた。
「ねえ、もうちょっと待ったほうがいいの?」
「あっ、いえ。行きましょう。それじゃあ、当麻さん、また」
「ああ、なんかドタバタしちまったけど、埋め合わせはちゃんとするから」
「はい」
光子がにこりと微笑んだ。先に進んだインデックスが扉を開けて辺りを見回していた。彼女の視線が、扉によって遮られる。
その瞬間を当麻は見逃さなかった。
「光子。好きだ」
「え? あっ……」
インデックスに隠れてこっそりと、当麻は光子にキスをした。
余韻を楽しむように、唇を離してからもしばらく見詰め合う。
「見つかってしまったらどうしますの」
「別にそれでも問題はないけど、しないほうが良かったか?」
「ううん。すごく嬉しかったです。それじゃあ、行きますわね。当麻さんもお気をつけて」
「サンキュ」
二人が出て行くのを見送って、当麻も軽く部屋を片付け鞄を用意して、家を出た。
「はぁ、どういう言い訳を用意すりゃいいんだ。ありのままになんて絶対話せないしな。不幸だ……」




[19764] ep.1_Index 02: 誰ぞ救われぬ者は
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2010/09/10 21:30
冷房の行き届いた部屋で、ソファにインデックスは腰掛けていた。
目の前のテーブルにはミルク色の飲み物が置かれている。さっきお代わりを貰ったところだ。
味は甘酸っぱくて、ヨーグルトに近い。
涼しげなそれを眺めながら、インデックスはじっとしていた。
「ありませんわね。これで、第一学区から第二十学区までが全滅ですわ」
「他のところもこの調子だと望み薄ですね……」
奥では眼鏡をかけたオドオドした女性と光子がファイルを漁りながら教会を探している。
『昨日の落雷と停電のせいで、警備員(アンチスキル)の詰め所にある施設検索システムが落ちたらしいですの』と光子は言っていた。一言一句は思い出せるものの、その意味をインデックスはさっぱり理解できなかった。
一方、目の前で行われていることはよく分かる。便利そうな機械を使うのを諦めて地図と施設名の一覧をめくっているのだ。
結果は芳しくないらしかった。
「やっぱり調べるときの条件がシビアすぎるんですわ。イギリス清教の系列教会に限定すると、これっぽっちも見つかりませんわね……」
光子がぼやく。さっきから何度も「この教会は?」「そこじゃダメなんだよ」の繰り返しだった。
手持ち無沙汰にソファに腰掛ける風でいながら、インデックスは周囲に意識をやって魔術師の襲撃を警戒していた。
ここはいわゆる警察の交番に相当するような施設らしい。こんなところを襲撃するほど追っ手は過激ではないようで、今のところ何らかの魔術が使われたような形跡を感知することは出来なかった。
インデックスはこの一年、断続的に二人組の追っ手に追われてきた。何度かあったニアミスで相手の手の内はある程度は知っていた。
男のほうはルーン使い。人払いなどの細かい裏作業を担当している。女のほうは長刀を持った東洋人だ。これまでもずっと前衛としてこの女とは何度か相対してきた。女のほうの身体能力の高さはおそらく何らかの魔術による補助を受けたもので、追いかけっこでは絶対に適わないような相手だった。
それでもいつも逃げ切ってきたのは二人が魔術の実力をかなり注意深く隠し、実力を欠片ほどにしか発揮しないでいるからだった。自分達の追う相手が禁書目録である、その意味をきちんと理解しているが故のことだろう。
その実力の程をインデックスは読みきれていないが、本気を出された場合、あっさりと捉えられてしまう可能性と魔術を逆手にとって手痛いダメージを与えられる可能性、両極端な二つの選択肢が転がっていた。
「ふう。これで……全滅、ですわね」
「そっか……」
「ごめんなさいね。時間ばっかりかかっちゃって」
ため息をつき困惑した表情をした光子の隣で、ややいかついジャケットを羽織った大人の女性がインデックスに謝った。
二人を労うよう、インデックスは笑みを浮かべて礼を言った。
「調べてくれてありがとうございました。あなたも、ありがとね。私一人じゃここまで調べられなかったんだよ」
「お役に立てなかったのでお礼を言われると心苦しいですわ。それで、これからは……こちらにいると仕事のご迷惑でしょうし、外で話しましょうか」
「え? うん」
「あの、別にここで相談してくれてもいいんですよ? 警備員の詰め所はそういうことをするためにありますから」
「お気遣い、助かりますわ。でもなんとかするあてはありますから、どうぞご心配なく」
「はあ……」
IDも持たない不法侵入者と一緒に警備員の詰め所で話をするなんてのは論外だった。その辺りの機微をつかめていないインデックスを押しながら、光子は出口のドアを開く。
気弱な警備員で助かった、そう光子は思った。ネチネチと学生に質問をする面倒なタイプの警備員なら、もっと苦戦しただろう。
「暑いんだよ……」
「そうですわね……でもあそこでお話をするわけにもいきませんし」
そして方策を練らねばならない。少女に頼るべき保護者がいないとなると、今後の身の振り方は考えてもどうにかなるものではないかもしれないが。
あっという間に首筋を伝い始めた汗を指で拭っていると、そっとインデックスが口を開いた。
「もう、充分だよ」
「え?」
「これ以上は、どうやっても返せそうにない借りを作っちゃうかもしれないから、ここで別れよう」
インデックスが、その顔に優しい笑みをたたえていた。
「そうは仰いますが、IDも持たない貴女は不法侵入者で、この街はそういった者にひどく厳しい対処をとるんですのよ。ここは外の世界よりも20年か30年ほど進んだ技術を有していますから」
「うん、だからさっきの女の人みたいな人たちにも捕まっちゃだめなんだよね?」
「貴女が企業スパイでないことを示せるのなら数週間もすれば放免されるでしょうが、どこかに拘置されますわよ。貴女の言う魔術がこの街と全く無関係なら、捕まるのもまた一つの手段かも知れませんけれど」
警備員ならそこまで非道なことはしないだろう。そう言う意味で、インデックスは捕まるのもアリなのかもしれないと光子は考えた。
だがそのアイデアは、インデックスが微笑みながら首を横に振った。
「だめだよ。一箇所に留まると向こうにも準備を整えられちゃうから。この街の警備って優秀かもしれないけど、魔術には全然気を使ってないから追ってくる連中には無意味かもしれないし」
「でも、他に貴女をかくまってくれる所はないんでしょう?」
「なんとかなるよ。これでも一年間逃げてる身だからね」
「でも、身を寄せる場所もなく街から外に出ることも難しくって、おまけに夕方以降は外出もままならないのでは、難しいんではありませんの?」
インデックスは、笑みを絶やさなかった。
優しくて、楽天的な印象の微笑。
どれだけ光子が懸念をぶつけても変わらないそれは、光子を拒否する笑みだった。
「ありがとう」
「インデックスさん」
呼びかけても、また笑みが返されるだけだった。
「ずっと追っ手から逃げる旅をしてきたけど、あなたたちみたいに優しい人のお世話になったのは、初めてだったよ」
インデックスが身支度を整えるように、ピンの位置を気にしたり、はだけた裾を直したりした。
「二人には感謝してる。だから、ここでもう、いいよ。これ以上は巻き込めないからね」
これで最後というように、もう一度インデックスがにっこりと笑った。
「追われてるなんてのは、実は嘘なんだよ。友達と鬼ごっこしてるだけだから。だから気にしないで、明日から日常に戻ればいいんだよ。それじゃあ、とうまにもよろしくね、みつこ」
タッと、軽やかな音を立てて、インデックスは通りを駆け出した。
「あ、ちょ、ちょっと!」
制止する間もなかった。運動などあまり出来そうにもない子だと思いきや、意外と足は速かった。
光子は体格で勝る。きっとすぐ追いかけていれば、捕まえられるだろう。
だが、足は動かなかった。
追ったところで、自分に出来るのはせいぜい警備員に彼女を突き出すくらいだ。一緒にどこかに隠れたならむしろ光子が学園中で捜索されるようになる。当麻の家になら匿えるかもしれないが、想い人の家をそのような用途に使うのにはためらいがあった。
「……嫌になりますわね、こういうの」
駆け出していった少女に手を差し伸べたいという善意は、結局不都合を背負ってまで成し遂げたいものでもないのだ。
きっと光子の中で、この後味の悪さは数日もすれば消化されてしまうに違いない。
すぐ手近な路地を曲がってしまったインデックスの姿はもう見えない。光子は、さようならもきちんと言えなかったことを悔やんだ。


光子は一人で街中を歩いた。
目的が曖昧で、足取りは何かが絡みついたように野暮ったかった。
インデックスと名乗る少女が現れなければ、おそらく一人でショッピングでもしていたことだろう。だが今こうして繁華街をうろついているのは、形式上だけのショッピングである。ついさっき別れた、あの奇抜な格好をした少女のことをさっぱり忘れて遊べるほど、光子はさばけた性格でもなかった。
当麻は案の定、電話に出ない。補習中だから当然のことかもしれないが、モヤモヤした気持ちが晴れない。
そして結局買い物を楽しむでもなく、積極的にインデックスを探すでもなく、漫然と足を動かすだけになるのだった。
「あれ、婚后さん? 珍しいわね、こんなトコで会うなんて」
突然、聞き覚えのある声がかけられた。
「御坂さん、ごきげんよう」
光子と同じ制服を着た、常盤台の同級生。御坂美琴だった。光子とソリの合わない白井黒子とは一緒ではないらしく、美琴は一人だった。
片手には本が入っているらしい紙袋を手にしていた。
「婚后さんも買い物?」
「え、ええ。まあそんなところですわ。御坂さんも買い物でしたの?」
「あーうん。ま、ね」
僅かに気恥ずかしそうにするのは、おそらく紙袋の中身がマンガだからだろう。それくらいのサイズだった。
「婚后さんは何買うの?」
美琴とはそれほど親しいわけではない。お友達として付き合い始めたのもつい先月のことだし、美琴も群れるのが好きなタイプではないらしく、学校でもあまり話し込むことはなかった。
「特に何かを買うつもりがあるわけではないんですの。ちょっと遊ぶ予定だった相手が急用でいなくなってしまいましたので、一人でぶらぶらしていましたの」
「それはご愁傷様ね」
同情するように僅かに笑みを浮かべて、美琴は髪を軽くかき上げた。実は美琴も同じ境遇で、黒子と遊びに行く予定だったところを、風紀委員(ジャッジメント)の同僚である初春(ういはる)に奪われたのだった。どうも期限一杯まで放置した始末書を始末するために、今日一日忙殺されるらしい。
――まあ、似たもの同士でこれから夜まで暇な上に、夜になってからだってすることないしね。ちょうど良いからお茶でも誘ってみようかな。
美琴は割と光子を気に入っていた。常盤台のトップを走る二人のうち片割れである美琴は、同級生にも尊敬の眼差しを向けられ、対等に扱われないことがままある。光子は自分をそのように扱わず、ごく対等な感じに話してくれるのでそこを気に入っていた。まあどうやら、美琴が常盤台を代表する超電磁砲だと気づいてないらしいせいなのだが。
「ねえ婚后さん、あのさ――」



そこまで言いかけたところで突然光子の携帯電話が鳴った。ハッとなった光子の表情がやけに輝いていて、綺麗だった。
メロディはリストの夜想曲。『愛の夢』という組曲の三曲目で、一番有名な作品だった。『愛しうる限り愛せよ』なんて副題とあいまって、なんとなく、光子がどのような関係の相手から電話を貰ったのかが予想できた。
「ごめんなさい御坂さん。ちょっと失礼しますわね」
光子が美琴に謝って通話ボタンを押した。そして一歩美琴から離れ、口元を軽く隠すようにしながら話をはじめた。
耳年増なことをするのも悪いかと思って殊更に聞き耳は立てなかったが、光子がやけに嬉しそうで、しかも敬語を使っていながら甘えた感じなのを見て取って、相手が彼氏であることを確信した。
――彼氏から電話があるんなら、私はお邪魔か。ま、しょうがないわね。
光子が気づくように、大きめに手を振る。唇を大きめに動かしてまたね、と伝えると、眉を申し訳なさそうにきゅっと寄せて、光子が目礼を返してくれた。それを見届けて美琴は立ち去る。
「彼氏かー。確か婚后さんてホンモノのお嬢様よね。お嬢様学校に通うお嬢様が彼氏持ちかぁ。許婚とかそういうヤツだったりするのかしら」
光子に聞こえない距離になって、そう独り言をこぼす。とはいえあんまり異性に興味のない美琴にとっては、彼氏がいるとかいないとかはどうでもいいことだった。
……はずなのだが、ふとあのツンツン頭の高校生を、思い出した。
「だーっ、もう、いい加減に忘れろ私! なんでこのタイミングであのバカのことなんて思い出すのよ。へへ変に意識してるみたいじゃない。第一アイツにだってもしかしたら彼女だって――」
誤魔化そうとしてブンブンと振り回した手が、ピタリと止まる。
「ハッ、やめやめ。あの冴えないヤツに彼女なんて出来るわけないじゃない。変な心配してどうすんのよ」
学園で三番目に勉強が出来る人間とは思えないような論理矛盾を放置しながら、御坂美琴は独り言とともに雑踏へ消えていった。



「ゴメンな光子。さすがに授業中には出られなくてさ」
「こちらこそ、ごめんなさい。お邪魔になるのは分かっていたんですけれど、どうしても相談したくって」
光子は立ち去ろうとしている美琴と会釈を交わし、さっき起こったことを報告した。
「……そっか。あの子、行っちゃったか」
「ええ。どうしたらいいか、当麻さんに相談に乗って欲しくて」
「うーん」
当麻は光子から事情を聞いて、頭を悩ませた。悩みの中身は光子と同じだった。探したところでどうにも出来ないし、探すほどの義理があるわけでもない。しかし光子とそう変わらない年の女の子が追われていると言っているのにそれを無視するのは良心が咎める。けれども追われているという説明も魔術という言葉のせいでどうも真実味を感じられない。
しばらく考えて、当麻は決断した。
「光子、この後会えるか?」
「はい。当麻さんこそ大丈夫ですの?」
光子の声が僅かに上向いた。
「ああ。ちゃんと真面目に相談したら、頭ごなしに学生の言い分を突っぱねるような先生じゃないからさ。話せる範囲で事情を説明したら、そう暗くならないうちに開放してもらえると思う」
「嬉しい。……それで、当麻さんと合流できたらあの子を探しますの?」
「だな。捕まえられるならそれが一番だし、完全下校時刻までは歩いてみよう」
「お付き合いさせていただきますわ。でも、あの子と会えたとして、それからどうしますの?」
「うちの副担任に相談しようかなって、思ってる」
「はあ、警備員(アンチスキル)の方か何かですの?」
「ああ。黄泉川先生って言うんだけどさ、たぶん一番頼れる人だと思う」
黄泉川愛穂(よみかわあいほ)は警備員で、いわゆる業界の有名人というやつらしい。豪放磊落な性格で、並み居る不良をバッタバッタと朗らかに殴り飛ばすのだとか。学校でも面倒見がよく親身になってアドバイスをくれるので人気は高かった。スパルタ上等な授業内容にはみんな辟易していたが。
ちなみに当麻のクラスの担任の月詠小萌も学生に人気のある教師で、当麻は誰もがうらやむ『アタリ』のクラスに所属する幸せ者なのであった。黄泉川の警備員としての仕事の激化で担任を受け持つのが困難になったところに、産休で休んでいた先生の予想外に早い復帰が重なった結果らしい。
不幸なことに黄泉川先生も小萌先生も、クラスの問題児上条当麻を非常に愛しており、当麻は仲のいい友人と共に愛の鞭を雨あられと浴びているのであった。
「私には頼れる伝手(つて)はありませんから、当麻さんにお願いしますわ。でも、警備員に相談というのはちょっと気が引けますわね」
「いやでも、ほっとくわけにもいかないだろ? あの子を追っかけてるヤツがいるなら野放しにするわけにもいかないし、それに考えたくはないけど、あの子が俺達を騙してる可能性だってゼロじゃあない」
「騙しているにしては随分と下手な論理でしたけれど」
「俺だってそこまで疑ってるわけじゃないよ」
当麻が声を和らげた。光子も当麻の言いたいことは分かった。
結局は大人に頼らざるを得ない、それはどうしようもないことだろう。インデックスを裏切るようなことになって後ろめたい所はあったが、光子は仕方のないことだと自分を納得させることにした。
「分かっていますわ。補習が終わったら、連絡を下さる?」
「ん。すぐ電話するよ。待ち合わせは駅前か隣の公園か、あのあたりにしよう」
「わかりましたわ」
もうしばらく、近くをぶらつくことになりそうだった。
「それでは当麻さん、また後ほど」
「ああ、またあとでな。光子、好きだ」
「えっ? あ」
照れ隠しだろうか、返事も聞かずに当麻が電話を切った。
「もう、当麻さんたら。私の返事くらい待って下さってもいいのに」
まんざらでもない顔で光子はそうこぼした。つい数時間前に交わした口付けの感触を、光子は鮮やかに思い出した。


夕方といえる時間帯の初めくらい、影が伸びてきて夜の訪れを意識しだすその時間帯まで、光子は街を歩いて過ごした。
本屋に入って料理の雑誌を眺めてみたり、当麻と二人でよく行くファストフードの店で水分を補給したり、インデックスがいないかと通りを端から端まで歩いてみたりと、あれこれと時間を潰してみるもののどうにも気持ちが漫(そぞ)ろだった。
「一人で歩くと、なんだかすごく色あせて見えますわね……」
自販機でジュースでも買えばよかったのに、ファストフードのあの店に入ったのが良くなかった。当麻と二人で過ごしたときの楽しさが、今の寂しさを対比的に浮き上がらせていた。
携帯電話を取り出して時刻を見る。完全下校時刻までには合流すると言った当麻だが、もう大して時間も残っていなかった。
「あまりここから遠くへもいけませんわね」
光子は当麻が通学に利用する駅の近くにある公園に来ていた。
この駅は常盤台からも当麻の高校からも近く、買い物にも適した場所だった。その駅近くにあるこの公園はそれなりの大きさのあるもので、大通りから近い入り口のほうはベンチがカップルで埋まるような場所なのだった。
遊びの時間は盛りを過ぎていて、公園内にあまり人気はない。光子はさすがに疲れてきた足を休めようと、ベンチの並んだ場所へと向かった。
そしてその後の算段を、頭に描く。
もうじき当麻から連絡が来ることだろう。第七学区内だけですらたった二人で探すには広すぎるのだ。完全下校時刻までうろついても、それは自分達への慰めにしかなるまい。
年はそう光子と変わらないだろうが、幼く純真な感じのする少女だった。研究などで大人と対等に接するために、大人びた言動やものの捉え方を光子は身につけていた。成果で大人を凌駕するといえど、その振舞いは子どもが背伸びをしたものかもしれない。だが自分の考えが、あの少女の無垢な笑みを『都合』という言葉で汚してしまっているような、嫌な気持ちになるのも事実だった。
このあと、二人で探して不発なら当麻の学校の先生だという警備員の人間に連絡をして、それで終わり。
ふう、と息をついたその時だった。


茂みの向こうで死角になっていた道から、件の少女、豪奢な修道服に身を包んだシスターが飛び出してきた。
「えっ?」
「みつこ?!」
それなりの距離を走っているのか、インデックスは荒く息をついていた。
「どうしましたの? そんなにお急ぎになって」
「どうしたって、追われてるんだよ!」
「追われて、って」
「言ったでしょ? どっかの魔術結社に追われてるんだって!」
逼迫した目が、真実味を帯びている。訳の分からないリアリティが光子を襲い始めていた。
インデックスは光子の判断が鈍いのに苛立ちを感じながら、逃げる方策を考える。
まだ間に合う。まだ追っ手にみつこが見られていない今なら、きっとみつこを平穏な世界に帰してあげられる。
「みつこ、よく聞いて。みつこは全速力であっちに逃げて。振り向いちゃだめ。様子も見ちゃだめ。電車に乗ったらすぐ家に帰って」
「ちょ、ちょっと。貴女はどうしますの?」
「私なら大丈夫だよ。時間がないから、早く言うことを聞いて!」
「そんなことを仰っても、このような状況で貴女を放り出すことなんてできませんわよ、インデックスさん!」


口論が、余計だった。
追っ手は息一つ切らせず、声はあくまで冷静で、遠くまでよく通った。
「鬼ごっこはお仕舞いですか。……隣の方は?」
身長と変わらないような長刀を手にし、左右非対称な長さのジーンズを身に着けた奇抜な美女。年恰好は20くらいだろうか。
予想外に荒くれても醜くもない追っ手の姿を、思わず光子はぼんやり眺めていた。
隣のインデックスが、舌でも噛み切りそうなほどに後悔に苛(さいな)まれていた。
「ごめんね、みつこ。ごめんなさい……」
この追っ手は振り切るので精一杯なのだ。こうして近距離で対峙してしまっただけでも間違い。肉弾戦で攻めて来る相手には防戦しか出来ないのだ。
そして防戦で頼みの綱となる歩く教会はすでになく、そしてそもそも隣の少女を守るものは何もない。
……巻き込んでしまった。平穏を生きるべき市井の人を。魔術を知らない普通の人を。暖かさを分けてくれた、その人を。
自分の中の10万3000冊を相手に渡すわけにはいかない。そのためには、隣の少女を盾にして逃げることすら正当化されるだろう。だけど、インデックスはそんな選択肢を選ぶつもりは、絶対になかった。
「鬼ごっこはすぐに再開してあげるよ。ねえ、この子は関係ないから逃がしてあげたいんだけど」
「逃げてくれるのなら殊更に追いはしませんよ。我々の目的には確かに関係のない人のようですから」
ほんの一瞥を光子に向け、あっけなくそう言った。
「聞いてた? みつこ。今すぐ逃げて」
「……貴女はどうするつもりですの」
「なんとかなるんだよ! だから」
「何とかなる人はそんなに焦ったりしませんわ」
必死の表情で光子に逃げろと促すインデックスを放って、光子は逃げるつもりはなかった。
「素直に逃げていただけるとこちらとしても随分と助かります。そうしてはくれませんか? その少女をかばい立てするようなら、あなたにも危害を加えることになってしまいます」
インデックスだけが目的である相手にとって、光子は単に障害物なのだろう。追っ手のこの女は光子を路傍の小石程度にしか思っていないようだが、それは過小評価というものだろう。光子が道をふさぐ大石であればインデックスは逃げ切れる。
光子は深く息を吸い、その女をキッと見つめた。
「確認しますけれど、インデックスさん、こちらの方が貴女の言う追っ手ですのね?」
「そうだよ」
嫌な予感に、インデックスは襲われていた。光子が目に強い意思を込めて、周囲を見渡していた。
「みつこ、まさか」
「貴女独りでは、もはや逃げられない状況なのは分かりますわよ? でも、手を合わせれば話は別。二兎を追うおばかさんになってもらえばよろしいわ」
それを聞いてなお、追っ手は無表情だった。刀の鯉口に添えられた左手だけが、そっと臨戦態勢を整えていた。
慌てたのはインデックスだけだった。
「だ、だめに決まってるんだよ! 何考えてるの?」
「もう決断しました。言い合うのは逃げ延びてからにしましょう。それにレベル4の大能力者というものを、貴女は分かっておられませんわ」
レベル4ともなれば、限定的にではあるが天候すら操作しうる規模の能力を発現させるのだ。単独で軍隊を制圧しうると言われるレベル5には及ばないが、それでも対人戦では驚異的な武器を持っていることに変わりない。
「考え直してはいただけないのですか?」
「貴女こそ、ここで考え直してまっとうな人生を送ってはどうですの?」
「残念ですが、それはできません。その少女を逃がすのに加担するというなら、七閃の刃をもってあなたを排除しましょう」
追っ手の女の黒い瞳の中が、光子の問いかけで僅かに色を揺らした。狂信で行動を支えるカルトとは一線を画すらしい。
危険を顧みず、一向に逃げる気配を見せない光子にインデックスは文句の一つも言ってやりたかった。どうして逃げないのか、どうして自分をもっと大事にしないのかと。
だがそこで、茶化して自分が言った言葉を、思い出した。
――それ以上は地獄の底まで一緒についてきてもらわなきゃいけないから。
光子は親切で正義感のある少女なのだ。自分に関わったばっかりに、彼女は地獄に誘い込まれしまったのだ。
「……恨んでくれて、いいから」
最早ごめんなさいと言う事すら、許されない気がした。
「恨むも何も、ここで憂いを絶てばいいだけのことでしょう? 逃げ切ってしまえば、あとはこの都市がよしなにしてくれますわよ。外来の危険人物には非常に厳しい土地ですから」
トントンとつま先で地面を叩いて靴の履き心地を整える。運動に向かないローファーだが、それなりに穿き潰してあるので走りにくいほどではない。
あとは数メートル離れたこの相手に、いつ背を向けるかだけが問題だった。
「私を誰だかご存知ないでしょうね。か弱い相手に暴力を振るう下賎な追っ手さん。この常盤台の婚后光子を相手にした不運を恨むことですわね」
「ご紹介痛み入ります。私は神裂火織と申します。あなたの仰ることは一言一句が正鵠を射ていますので私から言うことはありません。とはいえ行いを改めるつもりはありませんが。それと」
神裂という女が、瞬きをした。ただそれだけのことが合図になった。抑揚に変化なんてないはずなのに、声の強さが変わった気がした。
「私にはもう一つ名乗るべき名前があります。ですが私はそれを名乗りたくはない。どうか、私にそれを口にさせる前に、抵抗を止めてください」
ザリッという音と共に、神裂が一歩を踏み出した。



身構えた光子と対照に、インデックスは身を翻して光子の手を引っ張り、駆け出した。
「みつこ、走って!」
「ちょ、ちょっと」
光子は初手を自分から出す気でいた。空力使いの能力を活かし、相手を吹き飛ばしてアドバンテージを得てから逃げる気だったのだ。
重心を落としていた分体勢を崩しながら、インデックスの後ろを走る。
それを見た神裂また、素早い対応を見せた。
冗談みたいな加速。
爆発するようにトップスピードに乗り、数メートルの距離をあっという間に詰める。
遅滞のないそのリアクションで、二人はすでに追い詰められていた。
光子が、小道の傍らに建つ小屋の壁に手を着く。
数瞬遅れ神裂が刀の柄に手をかける。

ビュアッ、と風が暴れる音がした。
インデックスは弾かれたように後ろを振り向き、驚きに目を見開いた。

こちらをまっすぐ追いかけてきた神裂が、横から誰かに突き飛ばされたように転がっていった。
受身はとっているものの、その表情が驚きの大きさを物語っている。
「これが超能力、ですか。成る程、発動の条件が全く読めないのは厄介ですね」
すぐに体勢を立て直す。だが、距離は20メートル近く開いていた。


「どうしますの? また追いつかれますわよ」
「とにかく全速力、いまはそれしかないんだよ!」
「そうですか。なら、加速が必要ですわね」
「え? あ、わ、うわわわわわわ」
光子がインデックスの背中をそっと撫でた、そのすぐ後だった。
インデックスは背中を何かが押しているような、そんな感覚に襲われる。
一歩一歩のストロークが普段の倍近い。慣れないペースと歩法のせいで足に負担がかかるが、確かにこれは早かった。
光子も自分の背に能力を発動して、加速する。
二人の足の速さは100メートルを10秒台で駆け抜けるレベルだ。
その速さはこの大きな公園でさえ一瞬で走破する。
光子は逃げ切ったことを確信した。

インデックスは慣れない速度に足をとられないよう注意を払いながら、後ろを警戒していた。
相対するこちらが魔術師ではないのだ。敵が飛行魔術でも使ってくればこの程度の速さは問題とならない。
だが、その懸念は無用だった。
「うそ……」
生身の足を使って、神裂は追ってきた。
速度は大差ない。だが、カーブでスピードが全く落ちない。
そして、腕を振らずに刀に手をかけても、その速さが変わらなかった。
「っ! みつこ!!」
名を呼んで注意を促すしか出来なかった。
光子も不穏な気配は感じ取ったらしかったが、瞬間的にとるべき行動を選べるほど、場慣れはしていなかった。

鋼糸で腱を切断しても、おそらく後遺症も残らないでしょう。リハビリは必要でしょうが――
神裂は、二人の数メートル後ろにまで肉薄していた。
この街の医療レベルは高い。取り返しのつく怪我を負わせて、この超能力者を排除するつもりだった。
インデックスが叫んで注意を促すが、もう遅い。

光子の対応が間に合わないことに気づくと、後のことは、条件反射に近かった。
光子と神裂を結ぶ直線状に、インデックスは自分の体を滑り込ませた。
みつこに怪我はさせない。
言葉にならない瞬間的な思いを表すなら、そういうことだった。

好都合だ、と神裂は思った。
七閃を使うのを止め、刀にやった手で柄をしっかりと握る。
霊的守護の行き届いた教会を切断できるほど、神裂の唯閃は強力ではない。
歩く教会を着たインデックスに、気絶程度のちょうどいいダメージを与えるいいチャンスだった。



神裂は流麗な動作で刀を鞘から滑らせ、その勢いを少女を庇うインデックスの背中に向けて容赦なく解き放った。
衝撃を吸収され、そして刀の切れるという特性すら殺されてしまって、衝撃がインデックスを気絶に追い込むだろうと思っていた。
――――だというのに。


ザクリと、刀の先がシルクの白い布に飲み込まれる音がした。
空気とも水とも違う、粘りを感じながら、刀が布を切り裂いていく。
取り返しの付かないところまで刃を沈めてようやく、何が起こっているのかに気づき始める。
「あ――」
途中で一閃を止めることは出来ない。
棍棒のつもりで振り抜いた刃の先は、ぬるりと光っていた。

信じられない、信じられない、信じられない。
歩く教会が機能を失うなんて、何をすればそんなことが起こるのかさっぱり理解できない。
そしてインデックスの身を守る結界が失われていることに気づきもせず、刀を振るった自分が信じられない。

インデックスと目が合う。
倒れ行くその瞬間。傷を負ったことに驚愕しながらも、敵意ある瞳で神裂を見つめていた。
――この人は、傷つけさせない。
神裂を取り巻く事実の全てが、彼女の意思をバキンとへし折った。


「ちょ、ちょっとインデックスさん! 大丈夫ですの! インデックスさん!」
近くて遠い目の前で、誰かの叫ぶ音がする。
「テメェ!!」
遠くて遠い公園の入り口で、誰かの叫ぶ音がする。


神裂はそれらを受け止めることも出来ず、自分がインデックスに刃を突き立てた、そのことに呆然となっていた。



[19764] ep.1_Index 03: 傷ついた者を背負って
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2010/09/14 11:57

「だいすきだよ、かおり」


たとえ彼女が、自らその運命を受け入れたのだとしても。
神裂火織は、インデックスという名の少女の人生が幸多きものになることを願わずにはいられなかった。
――Salvere000(救われぬ者に救いの手を)
それは彼女が自らの魂に刻み付けた決心。


イギリス清教が持つ裏の部分、必要悪の教会(ネセサリウス)。そこが神裂の居場所。
言葉や文化にも慣れてきた頃に上から与えられた使命が、彼女の護衛だった。
完全記憶能力によって優に万を越える魔導書という名の猛毒を頭の中に収め、そしてそれが故に一年ごとに記憶のリセットをしなければならない修道女。はじめてその情報を聞いたときは、なんて苛烈で、敬虔な信仰の持ち主なのだろうかと恐ろしくすら思ったものだった。
だが会って、そして仲良くなるにつれて、分からなくなった。その生き方が、彼女の幸せなのか。
同僚として共に護衛にあたったステイルとインデックスと三人で過ごす日々は、いつだって楽しかった。同年代の、そして対等に接してくれる人たち。
神裂が決別し、故郷においてきた家族とも言うべき人たちは彼女を女教皇様(プリエステス)と呼び、慕ってくれた。だがその在りようは、十を少し超えた程度の少女には軽々に容れられるものではなかった。
未開の国の村々でシャーマンから魔導書を口伝で聞くときも、何が起こるかわからない大英博物館の倉庫を探検するときも、敵意という針で全身を射抜かれるような思いをしてヴェルサイユ宮殿の書庫で魔導書に目を通したときも、いつだって三人には笑いがあった。
ステイルは自分の才を鼻にかけた自慢げなところがあって、インデックスとつまらない張り合いばかりしていた。ティーンエイジャーになる前から煙草に手を出し始めた彼を毎回諌めるのがインデックスの仕事だった。面白い話なんて出来ない性格の神裂はそれを見守りながら、時に話に加わるのだった。
初めの半年は、ひたすらに楽しかったと思う。だが、リセットの日が近づくその足音が聞こえて来る頃になると神裂は失うものの大きさにおびえていた。
彼女と出会ってから学んだ術式。その一つは彼女の記憶を奪うものだった。
インデックスは記憶をリセットしなければ死んでしまう。そんな彼女を『護衛』する任務というのは、襲いかかる敵からその身を守ることだけではなかった。一年ごとに迫ってくる死の淵を遠ざけるために、彼女の記憶を奪う。あるいはそちらこそが、最も重要な任務だったのかもしれない。
自分で学んだ術式だから、神裂はそれを行使した結果がどのようなものかをどうしようもなく理解していた。
二度と、インデックスは自分達を思い出さない。

初めての別離の時には、彼女は幼子のようにインデックスにすがりつき、泣いた。
そしてすがりついたその手で、インデックスから記憶を奪い去った。
それから年に一度、インデックスから記憶という名の幸せを奪い去るのが仕事になった。それが彼女に訪れる最悪の不幸、死を遠ざけるために必要なことだった。
どれほどの非行でも、それがインデックスの幸せに繋がるなら、あるいは不幸せを打ち祓うなら、彼女はためらわずやってきた。
救われぬ者に、精一杯の救いの手を差し伸べているつもりだった。


目の前で、インデックスが倒れている。
他でもない、それを成したのは自らの振るう、七天七刀という名の凶刃だ。
その刃は、救いの手ではなかったか? 何かしらの幸せをもたらすものではなかったか? 魔を退ける聖刃ではなかったか?
よく見れば、インデックスの着る修道服には無数のピンが刺さっており、魔力なんてこれっぽっちも発していない。人よりも優れた身体、あるいは運命そのものを与えられた自分がそれに気づけなかったのは、ミスを通り越して罪だと言っていい。
刃を振るう意味を忘れた自分を呪い殺したくなる。それは切るためにあるものだ。ほんの少しの注意不足で、切るべきではないものを断ち切ってしまう。
刀を手にして救いを口にするものは、その一閃の振るい方を絶対に誤ってはならないというのに。


神裂は振るった刃を仕舞うことも出来ずに立ちすくみ、うずくまるインデックスとすがる少女をぼうっと眺める、それしか出来なかった。




「はぁ。何とか開放してもらえたけど……こりゃ明日からもっと大変になるかもなあ」
当麻はようやく小萌先生に解放されて、電車を待ち合わせの駅で降りたところだった。
改札を出ても、光子は見つからなかった。人で混雑したそこで待ち合わせをせず、デートの時には傍の公園を指定することも多かったから、光子はそちらにいるのだろう、と当麻は考えた。
携帯を取り出し電話をする。だが、10コール待っても光子は出なかった。切ってすぐにメールを送る。到着を知らせる簡単な内容のものだ。
完全下校時刻という、光子を寮に帰してやらねばならない時間はすぐに訪れる。しかし当麻はその後も町を歩く気でいた。当麻にとって、不良に絡まれた女の子を助けた代償に不良から追いかけられ回されて深夜まで町を徘徊する、なんてのは珍しくない。

インデックスという名の少女を見つけられないことを前提に、当麻は黄泉川先生に連絡を取ったときの内容を頭に思い描く。
たぶん、怒られるだろう。不審者にはこの街は厳しい。この街の財産を流出させる人間や、それを助けた内通者は非常に厳しい罰を受けることになる。
純真そうなあの少女がまさかそうした企業スパイだとは考えにくいが、警備員(アンチスキル)である黄泉川先生なら、当麻の判断を良くなかったと評価する可能性は高い。

アスファルトの黒い道からこげ茶のタイルで出来た公園の道へと、足を踏み入れる。その境界に、いつもと違う気配でも感じられればそれらしかったのに。
公園を照らす夕日も、長閑な声を出すカラス達も、全てが何気ない日常だった。
だから、光子が離れたところにある角から走って現れたときも、鈍い反応しか出来なかった。
「あ、光子」
本人に聞こえるわけもない、独り言。
ついでに光子が先ほどの少女と一緒に走っているのに気づく。
なんだ、見つかったのか。まあその方が説明しやすいし、よかったよかった。
そんなことをぼんやり考える。
二人の表情がやけに強張っているのには気づいていたが、その意味が、まるで頭の中で予想できなかった。

奇抜なファッションの女性が、二人の後ろにいた。手には刀。
そこでようやく、当麻の中の危機感を告げるアラームが警鐘を控えめに鳴らし始めた。

「っ! みつこ!!」

焦りに満ちたインデックスの声。
警鐘は早鐘を打ち出す。
そしてそれでは、遅かった。
数十メートルを隔てたその先。平凡な高校生の当麻にそれを埋める術はない。
刀が水平に薙(な)がれるのを、インデックスが崩れ落ちるのを、ただ眺めるしか出来なかった。
「嘘だろ……なん、だよ、これ」
非日常は、簡単には行動指針を設計させてくれない。
喧嘩慣れした当麻だが、こんな光景は見たことがなかった。

「ちょ、ちょっとインデックスさん! 大丈夫ですの! インデックスさん!」

当麻を始動させたのは、聞きなれた光子の声だった。
刀を持った危険人物が、恋人のすぐ横にいる。
光子が危険に晒されている。
当麻の心は一瞬で気化燃料で埋め尽くされた。
「テメェ!!」
考えるより先に足が動く。
当麻は光子と追っ手の女の間に走りこんだ。



ハッと神裂は、誰かが自分の前に迫っているのに気づいた。
距離は1メートル。
そして手にした七天七刀は2メートル。
もはや振り回して迎撃は間に合わない。
「オォォォアァァァァァァァァッ!!!」
敵意の乗った叫び声をあげる少年。
その拳が、神裂の頬をめがけて飛んできた。
「くっ!」
七天七刀を握った手を引いて、腕でその拳を受け止めた。

体重のよく乗った拳だが、格闘に慣れた神裂にはどうということのパンチ。
暴力に晒されることで、むしろ神裂は冷静になれた。
今すぐあの子を回収しなければ。手遅れにならないうちに。

神裂が感情を自分の中からバサリとカットして、当麻に向き合った瞬間。
手元から、パキンという音がした。
「え――」
七天七刀は、基本的には刃の付いた鉄の延べ棒だ。それを折れにくく、また霊的なものに干渉できるようさまざまな術式で強化してある。
今の音は、そんな術式が剥落する音だった。


「光子! 今すぐその子と一緒に逃げろ! お前の能力だったら、いけるよな?」
「え、あの、当麻さん!?」
当麻は舌打ちする。光子は動転している。
だが刃物を持った相手に当麻はそう応戦できるとも思わない。
「今は俺の言うことを聞くんだ! いいか、その子を連れて全速力で逃げろ!」
光子は力強く断定的な当麻の言葉に、あれこれ反論しようとして止めた。
今は議論をする瞬間ではない。光子は痛みに気を失ったインデックスの手足を整え、背中に触れた。
ぶわりという風をヘリコプターのように真下に吹き降ろしながら、インデックスの体が持ち上がる。
重力とつりあうだけの風力で重みをキャンセルしたインデックスの体を、これまた加速した自分の体と共に運んで、光子は一目散にそこを離れた。
インデックスを当麻に任せて自分があの女と相対するほうがよかったのではとか、他にもっといい選択肢はなかったかとか、不安ばかりが心を蝕んだ。


当麻は、素直に逃げ始めた光子にほっと息をつく。
そして時間を稼ぐために拳を握り締める。
さきほど手の甲が僅かに触れたとき、刀から変な音がしたのが分かった。
右手に備わる幻想殺しが何かを殺したのだと、気づいていた。
当麻の右手を明らかに警戒する動きで、追っ手の女は立ち回る。
表情は焦りに染まっていた。
「一体テメェはなんなんだよおおぉぉ!!!」
あからさまに大声で、当麻は敵に叫びかける。
内容なんてどうでもいい。
ここは開けた場所だ。叫び声で、すぐに誰かの気は引ける場所だった。
当麻は制服を着た男子高校生。
目の前の女は長刀を持った奇抜な格好。
当麻は時間さえ稼げれば自分に分があることを自覚していた。

神裂も短期で目の前の少年を打倒し、インデックスを追わねばならないことは当然分かっていた。
だが、それでも迂闊には動けなかった。
何をされたのかが皆目見当が付かない。
自分の持つ最も大きな攻撃手段が、すでに効力を失っている。
長すぎるこの長刀はそもそも儀礼用で、術式による補強がなければ、堅いものを切れは半ばであっさり曲がってしまうのだ。
主武器は失った。そして他の攻撃手段や、携帯する手当ての護符など、壊されてはインデックスを守り救えなくなってしまうものがいくつもある。
どうやって武器を破壊されたか、それが全く分からないが故に迂闊に神裂は手を出せなかった。

叫び声に触発されたのか、鋭い神裂の耳はいくつかの足音を聞き取っていた。
「……く、あの子を助けなければいけないのに」
ぼそりとそう呟いても、人前から撤退するしか、どうしようもなかった。
心配で押しつぶされそうになる心臓を無理矢理駆動させて、神裂は人気の無い方へと走り去った。





追っ手が姿をくらますとすぐ、駅近くに当麻は引き返して光子に電話をかけた。
喧騒が声を掻き消してくれる所で、当麻は壁を背に周りを窺った。
「もしもし、光子です! 当麻さん!」
「大丈夫か、光子。どこにいる?」
「怪我はありませんの? あの人はどうしましたの? 当麻さんがもし怪我をされたらって私、心配で心配で」
あっという間に、光子の声がくぐもった。ぐずぐずとした音が聞こえて、泣いているのが分かる。
「俺は大丈夫だよ、光子。人が集まったせいであっちはすぐ逃げた」
優しく諭すように、光子に声をかける。不安げな光子の声を聞いて、当麻は冷静さを取り戻していた。頼られているのだという自覚がそうさせた。
「光子。混乱してるのは、わかるよ。でもこういうときだから一つ一つ答えてくれな。まず、あの子はどうしてる?」
「今しがた、目を覚ましましたわ。じっと座っていれば耐えられないほどではないそうです」
「傷は……浅くはない、か?」
「そんな易しいものではありませんわ! だってこんなに血だって出てきて、服が血の色に染まってますのよ!」
ヒステリックな答えが返ってくる。
「そうか。光子、今どのへんにいるのか、教えてくれるか?」
さすがに遠くに逃げることも無理だっただろう。その予想通り、光子が言ったのは近くの路地裏だった。
当麻は走ってほどなく、そこにたどり着いた。人通りのある通りからほんの数歩立ち入ったところだが、死角にあり、人気が少ない場所だった。

「当麻さん!」
救いの主が現れたかのように、ほっとした表情の光子が駆け寄ってくる。瞳が不安定に揺れていた。
当麻は何より先に、光子を抱きしめた。
「あっ……」
「光子。怪我とかは、ないか?」
「私はなんともありませんわ。でもこの子が……私をかばって」
混乱の中に沢山の感情を込めた奔流が、抱擁をきっかけに堰を切った。
こんな光子を、本当なら一時間でも二時間でも抱きしめ続けて、癒してやりたい。だが怪我のない光子よりも、優先すべきはインデックスだった。
光子を撫でて、一度だけ強く抱きしめる。そして、そっと光子から体を離した。
光子もわきまえていたのだろう。不安げな表情をしながらもそれに当麻に逆らわなかった。

「ごめんね……」
インデックスの傍らにしゃがみ込む。まず口にしたのが、それだった。ごく普通の人生を送っていた人たちを、危険な目にあわせてしまったこと。それを悔いていた。
楚々とした白の修道服をどす黒く染めるほど傷ついてなお、最も彼女の中で強く渦巻く感情は当麻たちへの申し訳なさと後悔だった。
「こっちこそ、ごめんな。お前が追われてるって話を、信じてやれなかった」
「いいんだよ、そんなの」
「なあインデックス。応急処置でどうにかなるような怪我じゃ、ないよな。救急車を呼んでいいか」
当麻は一応、尋ねた。怪我の処置という意味ではそれが最良の選択肢だ。
だが、問答無用で当麻が呼ばない理由をインデックスも察していた。
「呼んだら私、捕まっちゃうよね?」
「ああ」
「じゃあ、それは、ダメ。とにかく血を止められれば、たぶん何とかなる、から」
長い言葉は苦しいのか、息が途切れ途切れだった。
「魔術とかそういうので、ぱーっと治ったりってのは、さすがにないか?」
当麻はだんだんと、超能力ではないそれを受け入れ始めていた。
ゲームの魔法みたいに傷を癒す呪文なんてものがもしあるなら、それに頼れるかもしれない。
「あるよ。でも、ここでは使えないかも」
「ここで、ってどういうことだ?」
「お昼に説明したことだけど。私には、魔力がないから。知ってるけど使えないんだ」
「じゃあ、じゃあ私達なら何とかなったりはしませんの?」
光子の悲痛な声が聞こえた。当麻はまだ傷口を直接目にはしていないが、光子は見たのかもしれない。
センチメートルのオーダーで出来た傷はあまりに凄惨で、慣れない人なら動転する。
「それも駄目なんだよ。あなた達は、超能力者だから。別の回路を頭の中につくっちゃった人には魔術は使えないの」
理不尽な事実に、光子は唇を噛んだ。
「能力開発してない普通の人間なら、いいのか?」
「……よくは、ないんだよ」
「インデックスさん?」
「素人に魔術をお願いしてもし失敗したら、取り返しの付かないことになっちゃう。それに成功しても、また、巻き込む人が増えちゃう」
「でもこのままだと、お前は」
「うん……。そうだね。迷惑をかけないようにしたら死んじゃうかも」
インデックスはそれだけ言うと、悔しげにうつむいた。


当麻は携帯を取り出し、電話をかけた。
「当麻さん……まさか」
「救急車じゃないよ」
光子の懸念を否定した。
「土御門か」
『お、カミやんどうかしたにゃー? コッチは今舞夏がすんげー美味そうな晩飯を作ってくれたところぜよ。悪いけど遊びの誘いなら今日は断るにゃー』
「悪い土御門。そういうのじゃない。聞きたいんだけど、黄泉川先生の家の場所とか、電話番号とか、わかるか?」
『……やけに焦った声だな。カミやん。どうかしたのか?』
「ちょっとな。また話すわ。それで、わかるのか?」
『住所録と連絡網を見ればいいんだろ? たしか……』

程なくして、番地や建物名が伝えられる。
ありがたいことに、ここからそう離れてはいなかった。

『にしてもカミやんがまさか黄泉川先生に告白しに行くなんてにゃー。結果は後で教えてくれ』
「違うっての。じゃ、切るわ。ありがとな」


「警備員(アンチスキル)の先生、でしたわよね?」
「ああ。黄泉川先生は、たぶんこういうときに一番頼りになる人だと思うからさ」
時間が惜しい。もう多くを、二人は語らなかった。
当麻はインデックスにそっと触れ、痛みをなるべく感じさせないよう体を起こすのを手伝った。
インデックスを背負い、揺らさないように歩き出す。
「ごめんね」
その一言を、当麻は聞かなかったことにした。空はすでに宵闇。なんとか、通報されずに黄泉川先生の家までたどりつけそうだった。



黄泉川愛穂は完全下校時刻の見回りを終えて、家に帰り着いたところだった。
ザクザクと切ったキャベツと椎茸と鳥の手羽元を少量の水を張った炊飯釜に放り込み、飲み残しの白ワイン少々とコンソメのかけらを入れてスイッチを押す。隣の炊飯器には研いだ米が漬けてあったので、そちらもスイッチを押した。
もうじき風呂も沸くだろう。
「あー疲れた。って言ってもやっぱ夏休みは副担任だと余裕があるなあ」
出勤の時も働いているときも常にジャージ姿の黄泉川は、家に帰っても特に着替えない。寝巻き用のジャージで出かけることは一応控えているが、デザイン自体は同じなのだった。
早めに目を通してしまったほうがよさそうな資料を頭に思い浮かべ、溜めた映画の一つでも見る暇はあるかと思案する。
プルルルと、その思考を遮る音がした。
「はい」
壁に掛かったオートロック解除のモニターに向けて呼びかける。
新聞屋か宅配便かと思いきや、声は聞き覚えのあるものだった。
『黄泉川先生、ですよね?』
「上条? 何の用じゃんよ?」
『追われてます。済みませんけど、匿ってもらえませんか』
緊張したその声でモニターを凝視すると、不安げな常盤台の女子生徒と、そして気を失って当麻に背負われている少女が映っていた。




[19764] ep.1_Index 04: 魔術との対峙
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2010/09/29 12:26

「とりあえず背中に背負った子を見せな」

教職員用のマンションの13階、家族で住むような間取りのそこに通されてまず一声目がそれだった。
リビングにはすでに毛布が敷いてあった。インデックスをそこに、そっと横たえる。
「これ、かなりやばそうじゃんよ。……お前らには怪我はないのか?」
「あ、はい。俺と婚后は大丈夫です」
「そうか」
傍らには警備員(アンチスキル)御用達の救急キットがあった。部分麻酔と銃弾などの摘出と縫合までなら何とかなるだけの、かなり本格的なものだ。
黄泉川がハサミで黒ずんだ修道服を切り広げた。背中から腰や、お尻までがあらわになる。
だが、女性である二人は当然として、当麻もそこに性的な感情を覚えることが出来なかった。
空気に触れて酸化した血で肌がどす黒く汚れている。10センチを越える長い傷が、腰から10センチくらい上を横に走っていた。
これほど酷い切り傷は、当麻だって見たことがない。あまりの凄惨さに、我を忘れそうになって。
「ひっ」
光子の存在を思い出した。振り向くと、光子が引きつった顔をして口元を覆っていた。
インデックスを視界から隠すように、光子に体を軽く触れさせる。血で汚れた手で光子を抱きしめるわけにはいかなかった。

「上条。救急車だ。そこに電話があるから、いやお前の携帯でもいい。ここに呼べ」
傷を明るいところで見ればどう考えたってそれは正論だった。だが目の前で倒れるインデックスには、それを許さない事情がある。
「あ、いや……」
「戸惑ってないでさっさと動け! お前はこの子の傷を見て、医者でもないあたしの手に負えるとでも思ってんのか!?」
うまく黄泉川を誤魔化す言い訳を、当麻は考える暇がなかった。本当はここまでの道中に考えておくつもりだったのに、途中でインデックスが気を失って、それどころではなくなってしまっていた。
当麻が硬直したその一瞬に滑り込むように、無機質な声が発せられた。
「――――出血に伴い、血液中にある生命力(マナ)が流出しつつあります」

あまりの声調の平坦さに、そしてそれを発したのが倒れて気を失っていた人間だということに、三人はぎょっとした。
話の中身は自分の体にかかわることなのに、あまりに事務的すぎる。
「――――警告。第二章第六節。出血による生命力の流出が一定量を越えたため、強制的に『自動書記(ヨハネのペン)』で覚醒めます。……現状を維持すれば、ロンドンの時計塔が示す国際標準時間に換算して、およそ十五分後に私の体は必要最低限の生命力を失い、絶命します。これから私の行う指示に従って、適切な処置を施していただければ幸いです」
うつぶせに寝かされたその姿勢で首だけを動かし、インデックスが光のない硬質の瞳で黄泉川をじっと見据えた。


「先生。その子の言うとおりにしてくれますか」
「はあ?」
「そいつの能力、かなり高レベルの肉体再生(オートリバース)なんです。緊急時には意識がなくてもこういうインターフェイスが立ち上がるようになってて、開発者に手伝ってもらう必要があるらしいです」
「……」
訝しげな黄泉川の沈黙と、当麻のついた嘘に齟齬を生じさせないよう黙った光子の沈黙が交差する。
当麻は指摘を受ける前に、言葉を重ねる。
「他の超能力者じゃ、うまく手伝えないらしいです。だったよな?」
「――――はい。超能力者、特にあなたの能力は私の魔術を破壊する恐れがあります。この部屋を退出していただけるよう、要請します」
「そうか」
当麻は自分ではどうにも出来ない歯がゆさを内心に押し隠した。光子は、不安や悔しさを唇に乗せて、それを噛んだ。
「言いたいことは山ほどあるけど。上条。お前がついた嘘はこの子を助けるのに必要なものだけだな? この子を助けるのに、邪魔になるものはないな?」
学生のとっさの嘘なんて、お見通しなのだろう。だが、それでも黄泉川は当麻がこの子を助けたいと思っていることは疑わなかった。
「はい。インデックスを、助けてやってください。俺は外に出てますから」
当麻に出来るのは、それだけだった。
そっとリビングを離れ、当麻は入り口のドアノブに手をかけた。
すっかり夏めいた、夜になっても生温い風が部屋に吹き入る。その横を通り過ぎて、当麻は部屋を出た。
「……同じフロアでも、まずいかな」
自虐的な思いのにじむ、独り言だった。
右手に宿る幻想殺し(イマジンブレイカー)が誰かの役に立ったことなんて、一体何度あっただろう。
不良の攻撃を無効化するのには役立つ。だが、当麻が自ら路地裏にでも行かない限りそんなものは役に立たないのだ。
当麻の右手には何かを壊す力しかない。治癒なんてのはどうやったって無理だ。それが歯がゆかった。
力なくエレベータに乗り込み、当麻は1階のボタンを押した。



「場所は特定できているのかい? 神裂」
「ええ。13階です。ルームナンバーも把握しています。この街の安全をつかさどる警備員(アンチスキル)という役職に就いた人の家のようです」
「そこで治療を受けている可能性は?」
「低いでしょう。あの傷は皮膚を縫い合わせるだけは済みません。専門の医者を呼ばない限りはあそこでは、あの子は……」
とあるマンションの1階エントランスで最低限の打ち合わせを済ませて、ステイルと神裂は二手に分かれた。
丁寧な下準備を必要とするステイルは階段を上って。そして万が一の逃走経路を潰すために神裂はエレベータで。
中身のないエレベータの前で、ギリ、と神裂は刀の柄を握り締める。剣先についた脂は丁寧に拭い、あの少年に破壊された術式は時間の許す限り組みなおした。
自分のつけた傷だ。程度の酷さは知っている。処置を施さねば、命にかかわるレベルだった。どういうつもりなのか、そんなインデックスを背負った彼らは、病院に運ぶでもなくこのごく普通のマンションへと来たのだった。
ステイルと歩調をあわせるにはしばらく神裂が待つ必要がある。
呼吸を一つ。それで焦りを押し殺した。遠くに聞こえるステイルの足音は今10階にたどり着いたことを知らせている。
潮時か、と左腰の刀に手を添えて歩き出した、その瞬間だった。



タイミングよく降りてきたエレベータの扉越しに、一人の少年と目が合った。
互いに驚きを隠せなかった。
当麻はもはや追っ手がそこまで迫ってきていたことに。そして神裂はインデックスを守る少年が独りでエレベータに乗って降りてきたことに。
日常を象徴するトロくさい勢いで、エレベータは開く。
当麻は何も言わずに閉じるボタンを連打した。
神裂は何も言わずに半開きになったドアを蹴り飛ばした。
扉がゆがんで、エレベータはただの箱になった。

「インデックスを、奪いに来たのか」

少年の、敵意と怒りに染まった目を神裂は直視した。
――奪う? 違います。あの子を救いに、私は来ているんです。
その一言は口には出さない。余計な情報を相手に与えても、何の得もない。
それよりも確認すべきことがあった。
「貴方はどこかの魔術結社の人間ですか?」
「……さあな。超能力者の街、学園都市でお前は何を言ってるんだ」
「では超能力社の何らかの集団に所属していると?」
「お友達グループ同士の喧嘩が随分好きなんだな。そういうのは他人の迷惑にならないところでやれよ。インデックスを巻き込むな」
神裂は、目の前の少年が何らかの組織の意思に基づいて動いているわけではなさそうだと判断した。
厄介なことだった。魔術結社の人間なら、神裂はためらわずに切るつもりだった。インデックスを利用する輩を彼女は救うべき対象とは見ない。
だがもし、彼が善意でこれをやっているのなら、神裂にはこの少年は殺せない。無辜の人を殺めるのは名に反する振舞いだからだ。
「なんと言われようと私は引きません。貴方にお願いがあります。そこをどいては、いただけませんか?」
だから請願から始める。そして従わないなら、少年が戦意を失うくらいの暴力を神裂は振るうつもりだった。
言葉の裏にある威圧感を少年も感じ取っているのだろう。右手をぎゅっと握り締め、足元を固めていた。
「俺がここをどいたら、お前は何をするつもりだ」
「貴方や、貴方のお連れの人には何も。わたしはただ『アレ』を回収するだけです」
無理解を示すぼんやりとした表情。アレ、という響きを少年は理解できなかった。それは人を指す言葉ではない。そして理解したとたん、不快で表情を染めた。
その反応を苦い思いで見つめる。いつから私は、あの子をアレと呼ぶことに慣れてしまったんだろう。
「回収して利用するつもりか。そんなのを、目の前で黙ってはいそうですかって許すとでも思ってんのか?」
「手ひどく扱うつもりはありませんよ」
その言葉は単に信じて欲しいという気持ちの発露だった。誰が可愛いあの子を、酷い目にあわせるものか。
だがそれは、『ついさっきの神裂のしたこと』で神裂を判断する当麻にとって、ブラックジョークにしか聞こえなかった。
「ハッ、お前らの手ひどくってのはどの程度なんだ? 後ろから背中をその刀で切りつけるのは、手ひどくなんてこれっぽっちもないわけか。ふざけんな! あんなか弱い女の子を相手に何のためらいもなく刃物を振り回せるお前みたいなのを信用できるわけないだろうが!」
神裂は自分の言葉が不用意だったことを内省した。目の前の少年の言い分は尤もだった。そして少年の言葉は、神裂が自分自身にナイフを突き立てて作った傷の上に、さらに足を乗せて踏みにじられるようなものだった。
弁明が思わず口をついて出そうになって、それを押し込める。
今すべきことは彼に納得してもらうことではない。インデックスの傷を癒すことだった。
ステイルは先行している。家にはインデックスのほかに最大で2人の女性がいるだろうが、どちらも戦力はそう高くない。
七天七刀をも無効化しうるこの少年を自分に引きつけておくことが一番重要な仕事だろう。
「そうですね。私が交渉のための言葉を持っていないことを、素直に認めましょう。そして改めて問います。そこを退く気はありませんか?」
「断る」
「断られた場合、貴方に危害を加えてでも私はそこを進みます」
「通さねえよ」
それは最後の問答だった。神裂は言葉を片付けて、左腰に差した刀の鞘をぐっと握り締めた。。



光子はエレベータの前に立ち、1階に止まったままいくら待っても動かないそれに苛立ちを感じていた。
インデックスについているべきか迷ったが、結局光子もあの子を救う戦力にはならないのだ。そして当麻に声をかけてあげたかった。
自分は混乱するばかりで、当麻や黄泉川先生の言葉に従うだけだった。当麻だってほんの2つしか変わらないただの学生なのに、沢山の判断を押し付けた。
部屋を出る時の、苛立ちと悔しさのにじんだ当麻の声を聞いて、光子はそれを慰めたいと思ったのだった。
「――もう。なんで帰ってきませんの?」
一向に上ってこないエレベータに痺れを切らして、光子は階段を探した。そう離れていない位置に見つけ、カツカツと段差を降りてゆく。
遠くに夕日がほぼ沈んで、辺りを照らす光は夕日の赤と電灯の白が拮抗する程度。人声はなく、自然音だけが耳に届く。
部屋を出て独りになったせいだろうか。ふと、エレベータが1階で止まったまま動かないのが、先ほどの追われていた焦燥感と結びついた。
――もしかして、当麻さんは襲われてるんじゃ。
不安があっという間に心を埋め尽くしていく。当麻の顔が見たくて、階段を下りる足を速めた。
11階の階段を降りた、その時。

「やあこんにちは。君は、神裂の言ってた子かな?」

男が、下の階からぬうっと現れた。本能的に恐れを感じてしまうような長身。気持ち悪くなるような長髪の赤毛。目の下のバーコード模様のタトゥといくつも耳に空けられたピアスが見る人にあからさまなくらいの警戒感を抱かせる。
どちら様ですの、と光子は問わなかった。必要を感じなかったからだ。
目の前の男が横に咥えた煙草を軽く吸い、煙を吐いた。40センチ近い身長差のせいで煙は光子のすぐ真上を漂い、掻き消えた。
「神裂も相対したんならどんな術式――おっとこの場合は能力って言うんだっけ――それをちゃんと解き明かしておいて欲しいんだけどね。まあ君のほうが油断の塊でアレを神裂の七天七刀に晒したんだったかな?」
「あれはっ! ……貴方に何を言っても詮の無いことですわね」
「うんうん、君はいい子だね。物分りがいい。僕らに話すことはないし、そうだな、見逃しちゃって後で妨害されるほうが困るし。仕方ないね」
斜に構えた態度は地なのだろう。その上に友好的に見えなくもない笑顔を浮かべて、初対面の相手に頼みごとをするときの申し訳なさそうな仕草で、こう言った。
「悪いけど、死んでくれるかな」



黄泉川は、機械的な表情で目の前の少女が行う説明に混乱していた。
仮想人格を構築して能力を他人が間接的にコントロールする技術、というのはおそらく実在する。精神操作系の超能力者によって必要な手段と知識はすでに蓄積があったし、そんな便利な技術を学園都市の研究者達が開発していないと思うのは、希望的観測かあるいは何も知らないだけだろう。
能力開発の最先端、いや最暗部に足を突っ込んでいたこともある黄泉川にとって、人間味の感じられないインデックスの人格は受け入れられるものだった。
問題は、能力を発動させるのに必要なコマンドのほう。
屈折率の小さいアクリルで出来た小さなテーブル。黄泉川はその傍のソファに腰掛け、インデックスはその対岸に敷かれた毛布の上に跪いている。
そのテーブルの上に、血で描かれた五芒星。そこに部屋の家具と同じ配置になるよう救急キットの中身がぶちまけられている。
……いやこれも、まだ許容できる。煩雑な手続きを踏まないといけないようにするのは、いくらか理由をこじつけられる。
だが、「天使をイメージせよ」というインデックスからの要請、これだけは理解できなかった。
精神感応者(テレパス)と肉体再生(オートリバース)の能力は同時に持つことが出来ない。今から目の前の少女は肉体再生をするのだから、黄泉川が頭の中に何を描いたかを読み取ることは決して出来ない。
だから、黄泉川が天使をイメージすることと、インデックスの超能力発動は絶対に関係がない。
――魔術。
さっきからインデックスの使うその言葉が、気になっていた。
目の前の五芒星は、いわゆる魔方陣と呼ばれるものに見える。この少女が成そうとしているのは、超能力と呼ぶにはあまりに儀式的で、神秘的だ。
「――どうしたのですか。あまり猶予がありません。協力を要請します。思い浮かべてください。金色の天使、体格は子供、二枚の羽を持つ美しい天使の姿」

黄泉川は混乱を、捨てることにした。あれこれ判断しようとして手続きを止めるよりも、今は流れに身をゆだねるほうが先だ。
目をつぶる。そして頭の中で、どこかの噴水で仕事をしていた天使の彫刻に金箔を塗って羽を足す。
『何か』で満ち始めた部屋の空気をなんとなく肌で感じながら、黄泉川は祈りに似た仕草で瞑想を続けた。



神裂は最も不要な装備、刀の柄で当麻を殴打した。簡単な強度補強の魔術をかけておいたが、別にこれは破られてもなんら困らない。
数時間前に対峙した時に、目の前の少年は何気なく振るった拳で結界を破壊した。原理はさっぱり不明。だが呪文詠唱や特別な結界を必要とはしていないようだし、そうなると接触式だろうと予想はつく。
こめかみを薙ぎと鳩尾を突き足を払う。それで少なくともこの三点は結界を破壊するような力はないことが分かった。
「ゲホッ、が、あ……」
敵意ある人間に相対しても怯まない程度には喧嘩慣れしているようだが、人間を越える身体能力をした神裂を相手に出来るだけの力はないようだ。
急所を守ることすら出来ずに、地面にうずくまっている。
「そこでそのままうずくまっていてくれるなら、私は何もしませんよ。そのほうが互いにとって有益でしょう」
「ふざ、けんなっ」
神裂は心の中でため息をついた。少年の目は死んでいなかった。
「どうして、それほどアレに入れ込むのです? 我々が見失ってすぐにアレと出会ったのだとして、まだ6時間程度の付き合いだと思いますが」
「時間は関係ない。そんなんじゃねえよ」
「では何故?」
光子はどうかわからないが、当麻はインデックスとそれほど言葉を交わしたわけではない。だけどインデックスは目の前の女に襲われたときに光子を庇った。自らの体を刃に晒してでも他人を気遣えるその少女が、自らの境遇を『地獄』と称する。なるほどそのとおりだろう。これほど危険な女に追われ、このままでは捕らわれてしまうのだから。
そんなものを、当麻は断じて認めない。
「お前らみたいなワケの分からない連中がいることを、理解したからだよ。アイツを、インデックスを『地獄』から引き上げてやらなきゃならないからな」
「……貴方にできるほど、浅い沼ではありませんよ。そこは」
神裂はもう一度跪いた当麻へ鞘を振るった。パキン、と音がして魔術が壊れた。
――当たったのは右手。そういえば先ほども右手の一撃で壊れたんでしたね。
もう一度、魔術効果のない棒切れになった鞘を振るう。今度は何も起こらなかった。魔術破壊は出来ても、それ以上は特に何も起こらないらしい。
あまり少年の立ち位置には気を使っていなかった。ふと見ると、彼は階段を背にして立っていた。エレベータを壊した以上、この階段が上へと続く唯一の道だ。
悪くない判断だろう。たしかに自分の持つ七天七刀は室内で振るうには長すぎる。階段を切り落としては後が面倒だし、唯閃と七閃は使わないほうがよさそうだ。
だが特に、問題はない。鞘で小突いてもいいし肉弾戦で殴り合ってもいい。いや、殴りあうといっても反撃を食らう可能性はゼロだろう。
「13階まで上がらなければなりませんし、あなたを解放するわけにも行きません。一緒に上っていただきましょうか」
「行かせねえよ」
「歩いてくれなくて構いません」
神裂は爆発的な脚力で当麻に迫り、ガードの上から蹴り上げた。
「蹴るなり突くなりで、持ち上げてあげますから」
あとはこの少年が致命的な損傷をする前にギブアップしてくれることを祈るだけだった。



「あああああぁぁぁぁぁっ!」
数歩先にいた赤髪の神父の手に、突如として炎の棒が生じた。およそおしとやかとは言いがたい叫び声を上げながら光子は下がって避けた。
足をすくませてしまわなかっただけでも合格点だろう。こんな荒事をほとんど経験したことのない光子にとっては。
常盤台中学のカリキュラムには護身術の授業がある。混乱で能力を使えないときには、あるいは使えるときにはどう行動すべきなのか。
――まずは逃げながら能力を使えるのか、小さく試す。
直前にインデックスと逃げた経験があったからだろうか、すんなりと足は廊下を蹴ってくれた。
赤髪の神父から逃げる。そして壁に手を突いて能力を発動する。何の問題もなかった。
問題は逃げられないことだ。この階から移動するには神父の後ろにある階段とエレベータを使う必要がある。そこが封じられている以上、いくら逃げても行き止まりが近づくだけだ。
それを神父も理解しているのだろう。急いで追ってくることもなく、悠々と近づいてくる。
近くの家のドアノブに手をかけてあけようとするが、オートロックなのか一つとして開かなかった。
「セキリュティの良いマンションで残念だったね」
いたわるような響き。それが逆に、酷薄な本音を照らし出している。
「……張り紙なんて、何をなさっているの?」
脈絡のないその言葉は、精一杯の強がりだった。声が震えていたかもしれない。
「ああ、これかい? これはルーンを記した符でね」
神父は鷹揚に答え、ぺたり、と手に持っていた最後の一枚を貼った。
そこで思い出したかのように、
「ステイル=マグヌスと名乗りたいところだけど、ここはFortis931と名乗っておこうかな」
そう言って煙草をふかした。
光子もそういう名乗り口上をよくやるほうだ。返礼の一つでも返す余裕があったなら、やっただろう。
出来るだけのゆとりはなかった。
「魔法名ってやつなんだけど、殺し名って言ったほうがこの場合はふさわしいかな」
「気障ったらしい趣味ですわね」
「僕の趣味というよりこれは魔術師の伝統なのさ。さて」
光子は会話をしたことを後悔した。どうして相手に時間を与えるのだ。まさか本当にただの張り紙をしているわけでもないのに。
「それは生命を育む恵みの光にして、邪悪を罰する裁きの光なり。
 それは穏やかな幸福を満たすと同時、冷たき闇を滅する凍える不幸なり。
 その名は炎。その役は剣。
 顕現せよ、わが身を食らいて力と為せ」

理解の出来ない言葉の羅列。そして。
虚空にタールの塊のような黒いどろどろとしたものが表れたかと思うと、それはあっという間に赤々とした炎を纏い、人の形をとった。
その名は『魔女狩りの王(イノケンティウス)』。その意味は『必ず殺す』。




[19764] ep.1_Index 05: 交戦
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/01/17 23:31
赤毛の神父の生み出した人型の炎には、素早さはなかった。
人が歩くのより少し遅い程度。だが、煌々と赤黒く輝く体と対照な瞳の部分の昏(くら)い色は、ジリジリと光子の冷静さを奪い取っていく。
光子は傍においてあった植木鉢をつかんで、投げやすいように構えた。
「――くっ。近寄らないでくださいませ!」
「投げても君の腕力じゃとどかないと思うよ」
何をするでもなく、目の前の少女の足掻きをステイルはぼんやりと眺めた。
『魔女狩りの王(イノケンティウス)』に当たったところでどうもならないし、ステイル自身にまで届くことはありえない。
だが、その予想に反し、植木鉢の軌跡はあまりに直線的だった。
ボッ、という音と、サッカーボールのような弾道。植木鉢はまっすぐに『魔女狩りの王』に突っ込んだ。
「へぇ。それが君の能力なのか。すごいね!」
大げさに、ステイルは驚いてみせる。余裕を感じさせるリアクションだった。
「ただ、僕の『魔女狩りの王』はそれじゃ止められないよ」
赤い炎と黒いタール状の体が無残に飛び散っていた。だが、それだけだ。『魔女狩りの王』はあっという間に元の形に戻り、焦げた植木鉢は廊下に落ちて割れた。
自分の能力が事態を何も好転させなかったことに、光子はじわりと焦燥感を覚えた。

「あまり遊んでられないし、さっさとアレを回収しないとね。死なれちゃ困る」
真面目にやろうという合図だったのだろうか。深く吸ってから投げ捨てた煙草の吸殻が、激しく燃えて消え去った。
「アレ……?」
「君たちが匿っている、あの子だよ。詳しくは言えないけれど、アレはきちんと管理しておかないと大変なことになるんだ。君たちみたいなどこの誰とも分からない人間の手元に置いていいものじゃないんだよ」
神父は知ってか知らずか、光子が聞きとがめた事とはずれた返事をした。『誰』の話をしているかなど、とっくに分かっている。
「訂正していただけませんこと? アレという代名詞は、日本語では人には使わないものですわ」
「知っているよ。そんなに気に食わなかったかい?」
殊更に露悪的に振舞うその神父の態度が、癇に障った。
脳裏を少しずつ恐怖以外の感情が占めていく。あの少女の苦しそうな表情を思い出す。
インデックスは光子を庇って傷ついた。だが、それでも恨み言の一つも言わず、気を失う直前まで光子を気遣ってくれた。

すくんでいた足を、まっすぐ立たせる。
このまま放りだして逃げ出すことの出来ない、そういう理由、いや矜持が光子にはある。
勇敢にとまではなれなくとも、それが光子を奮い立たせる。
少しだけ取り戻した普段の態度で、光子は相手に話しかけた。

「名乗っていただいたのに返礼がまだでしたわね。私は常盤台中学の婚后光子と申しますの」
「ああどうも。で?」
「人と物の区別もつけられないような馬鹿な神父さん。狼藉物の貴方を、成敗して差し上げますわ
この神父の出した炎は、正体不明なせいで恐ろしく感じる。だが、超能力者でも似たようなことは出来る。
そして系統は違えど、自分だって超能力者なのだ。見かけにおびえることはない。いま用意すべきは、何よりも心構え。
ここで引いたら、インデックスと当麻が次に襲われる。それだけは、止めなければならない。

「この街には、発火能力者(パイロキネシスト)と呼ばれる超能力者がいることはご存知?」
「ああ。火を操る異能の力って意味じゃあ、親近感を覚えるものがあるしね」
光子に付き合うのは、あちらにも余裕があるからだろう。いや、余裕を見せ付けあうのも駆け引きのうちだということか。
「特に詳しいわけではありませんけれど、あの方々の能力開発の基礎のとして叩き込まれる知識を、貴方は学んでおられないのかしら?」
「……謎解きをする気分じゃないね。時間稼ぎがしたいだけならそろそろ鬼ごっこを再開させてもらうよ」
光子はもう一つあった植木鉢を持ち上げた。それを、ステイルに向ける。とはいえその間には『魔女狩りの王』が立ちはだかっている。
「燃やす、あるいは熱を伝えて物を溶かすという行動において気をつけなければいけないのは炎の温度でも量でもありません。正解はなんだかご存知?」
胸の高さに置いた鉢の底にそっと触れる。それだけで、植木鉢は砲弾となる。
「対象の熱伝導率と接触時間ですわ」
再び、空気を切る音と共に植木鉢が飛翔した。

光子は加減をしなかった。
見得を切っている数秒の間、植木鉢の底に気体分子を『チャージ』した。蓄えられた推進力は冗談にでも人に向けてはならないレベルだ。
す、と植木鉢から手を離す。
次の刹那、レーシングマシンみたいな加速が始まった。向かうは『魔女狩りの王』。
二酸化珪素を主成分とするレンガの植木鉢、それは金属などとは比べるのも馬鹿らしいほど、熱を伝えない。炎の温度なんてものは気にするに値しない。
光子の能力による飛翔体の航行速度は音速にまで達する。
この短い加速距離ではその四分の一がせいぜいだが、それでもあの炎の塊をぶち抜くことなど0.01秒で事足りた。

「なっ!」
水面を叩いたような、バンという破裂音。『魔女狩りの王』が花火のように飛び散った。
荒れ狂う炎と陽炎の壁。それを突き抜けて植木鉢が、砕けつつもなおミサイルのように飛んで来た。
そして背の高いステイルは立っているだけで大きな的になる。
「く、おォォっ」
ステイルはみっともなくしゃがみ込んだ。
頭を掠めて、植木鉢ははるか先に飛び、ばしゃんという音と共に割れ散る。
視界一杯に広がった『魔女狩りの王』が、人型ではなく火の海を作っていた。少女がいる廊下の先が、全く見通せない。
――直線状の廊下はまずい。
ステイルは防御に関して脆弱だ。それは自らの能力をめいいっぱいに攻性魔術に振り分けた代償。
追い詰めたはずの少女から遠ざかり、階段に身を隠す。
そして『魔女狩りの王』を再構成。視界を遮っていた炎と煙の壁を取り払う。
「なに?」
炎の先に、いるはずの少女が、いなかった。


光子は綺麗な廊下を走る。焦げ目のある荒れた廊下は、ひとつ下の階だ。
ここから階段を降りれば、あの神父に見つからずに攻撃できますわ――!
空力使いの能力の一つの応用例、飛翔。
光子のそれはロケットの射出に近いものがあるが、それを使って光子は神父との間の視界が悪いうちに、一つ上の階に上がっていた。
足音を立てないように進む。弾になるものがなかったので、財布からコインを取り出す。
苦肉の策だ。銃弾にするには光子の能力が出せる速度は不十分だから、出来ればもっと大きな質量のものが欲しかった。
とはいえ、直撃すればそれなりの怪我を負わせることにはなるだろうが。
「ふっ!」
10円玉3枚を、階段から身を乗り出してすぐに放つ。
神父はいなかった。マントの端がかすかに視界に映って、それで敵がさらに下の階に降りたことを悟った。
「お待ちなさい! ――っ!!」
背後に言いようのない圧迫感を覚える。振り返るのと同時くらいで、『魔女狩りの王』がそこに顕現していた。
「きゃあっ!」
無造作に振り下ろされる、真っ赤な腕。レンガは無理でも、人間なら容易に燃やせる炎の塊。
みっともなく階段を滑り落ちながら、光子はそれを避けた。追いかけてこられる恐怖が、頭の中をじわりと支配し始める。
「そんな、自律的に行動しますの?!」
神父はここから見えない階下にいる。目の前の炎の塊は、光子を追ってくるらしかった。
自分は赤毛の神父を追いかけ、そして『魔女狩りの王』が自分を追いかける。
身の危険をチリチリと感じる、鬼ごっこが始まった。


「そろそろ、答えのほうを変えてはいただけませんか?」
「こと……わるっ!」
目の前の少年の意志の固さに、神裂は戸惑っていた。
階はすでに5階にまで達している。それは2メートル近くある1階分の高さを4回も蹴り上げられたことを意味していた。
肉体破壊が目的ではないので毎回ガードはさせているが、それでも気絶くらいはしていいダメージだし、普通の人間ならそろそろ意思が折れていることだろう。
だが、少年の目はまだ火を灯している。
「このままではあなたが蹴られる一方で、状況は何も変わりませんが」
「……」
当麻も、ジリ貧な現状を理解していた。
殴りかかってはみたがまるで歯が立たない。超常現象が一切介在しない純粋なケンカにおいては、当麻は本当にただの一般人だった。
鍛えた人間にはかなわない。
――考えろ。今一番必要なのは、時間を稼ぐことだ。それが足りればインデックスは回復するし、光子や黄泉川先生が帰りの遅い当麻を心配してくれるだろう。殴り合いでは時間が稼げない。接触はマズい。なら。
幸いに、階段の傍には防災設備が備え付けてあった。よろける足を踏ん張って、5階から6階へと、自分で駆け上がった。
「……ご協力に感謝を。自分の足で上がっていただけると助かります」
冷めた口調で、見えない階下からそんな声が聞こえた。おそらく当麻が何かをたくらんでいるのだと、気づいているのだろう。
当麻は意図を見透かされているかもしれないという不安を意に介さず、階段から少し離れた場所にある非常ベルのスイッチを、躊躇わず押した。


ジリリリリリリリリリリ、というけたたましい響きがマンション中に響き渡った。
神裂にとって、勿論それは不都合な出来事ではある。だがあらかじめ予想していた事態でもある。
「困ったことをしてくれたものです。脱出の面倒が増えました。……まあ、もとよりあの子の回収はあと数分で終わる予定でしたから何も変わりはしませんが」
カツカツと少年が待ち受けるであろう6階へ歩みだす。
どこにいるのかと辺りを見回した瞬間。目の前がホワイトアウトした。


消火器の中身を、遠慮なく長髪の女に浴びせかける。粘性の強い、消えにくく熱にも強い泡が階段を立っている女ごと真っ白に染めた。
何秒間でこれをやめるか、そのさじ加減が問題だ。装置そのものは1分間頑張ってくれるらしいが、まさか1分も突っ立って消化剤を浴びてくれる相手ではないだろう。
嫌な予感に背中を押されて、当麻は弾けるように飛びのいた。直後、当麻の頭があった部分を強烈なアッパーが通り抜けた。
テレビのお笑い番組でしか見ないような、真っ白に染まったその状態で、目の前の女は当麻の頭部を性格に補足しているらしい。
「ずいぶんなことをしてくれましたね」
これまでより、一段と声が冷ややかだった。
鋭い蹴りが飛んでくる。消火器でそれを受け止めつつ、当麻は放射をやめなかった。
「残念ですがあなたの居場所は見えずとも分かります。無駄なあがきは……なっ」
攻撃を繰り出そうとした神裂の体が、くらりと揺れた。自分の体が意思に反したような動きだった。
「効いてきたらしいな」
「な、何を……」
「消化剤がお前の周りの酸素を食ってるんだよ。死ぬほどの低濃度にはなりやしないが、お前の周りの酸素濃度じゃ、激しい運動は無理ってことだ」
学園都市謹製のこの消火器は、酸化反応による酸素消費と、並行して起こるポリマーの吸熱熱分解反応による二酸化炭素の放出によって、酸素濃度と物体の温度低下を行う作りになっている。万が一人に向けて使っても死には至らないよう設計されているが、危険なのは間違いなかった。
「小ざかしいことを……っ」
「がっ!」
だが、その程度の支障では女は止まらなかった。手にした消火器ごと、当麻は蹴り飛ばされた。
「成る程、消防団を呼んで時間稼ぎですか。策そのものは賢明でした。ですが私がそれに付き合う義理はない」
五発、六発、と倒れた当麻に重い蹴りが突き刺さる。それを当麻は避ける術がなかった。
「ご安心を。手加減はしましたから病院にいけば回復しますよ。さて、ステイルがそろそろ……ステイル? なぜ降りてくるのですか?」
階段を駆け下りる音はベルの音にまぎれて聞こえなかった。
「神裂! 随分と面白い仮装をしているじゃないか」
「本意ではありませんよ。それより、どうして降りてきたのですか」
「ちょっと梃子摺っていてね。……神裂、空だ! 避けろ!」
「!?」
反射的に長身の二人組みが身を翻した。ほんの少し遅れて当麻が廊下の外に目をやると、光子が上から降ってきた。
手の平からそっと投げられた硬貨が、すさまじい速度で相手を狙う。
「当麻さん!」
「光子! 大丈夫か?!」
「ええ。私は。それより……当麻さんが」
「大丈夫だって。骨は折れてない」
「そんなの大丈夫だって説明になってませんわ!」
「今はそんなこと言ってる場合じゃ、って光子!」
当麻は光子の後ろの何もない空間に、手を突き出した。いや、当麻が動くとほぼ同時に、そこに炎塊が出現した。
「くっ、おおおおおおおおおおおお!!!!!」
「当麻さん!」
当麻がせき止めた『魔女狩りの王』の傍の壁を光子は手で叩く。
一瞬後に壁から噴出した風が、『魔女狩りの王』を吹き飛ばした。


「……君が何とかしてくれるだろう、という考えはまずかったようだね」
「私もそれは反省するところです。時間も限られています。手荒な方法も致し方ないでしょう。構いませんね、ステイル」
「もとより僕はそのつもりで動いているよ」
「くっ……」
光子と合流は出来たが、事態は好転したとはいえなかった。
こちらは別に戦うことにおいて、タッグを組んだペアではない。一方、目の前の赤髪の神父と神裂という女は、明らかにそういう二人組みだろう。
その二人よりもさらに一枚手前に、あの人型の炎が再び姿を現した。
あれを押し留めるだけなら、当麻にも出来る。だが、光子を守りながらさらに二人組みをどうにかすることは、当麻には無理そうだった。
ジャリっと、神裂という女が足場を固める音がした。もう、躊躇する時間もない。
「それでは、いきますよ」
感慨もなく神裂がそう告げた。その時。
目指す階上で、この学園都市にはありえない、魔術の光が瞬いた。



目の前の光景に、黄泉川は呆然となった。
10枚の羽根を持った金色の天使。明確な感情を表情に載せることなく、アルカイックな笑みを浮かべている。
それを説明付ける何かが欲しくて、ひたすらに頭の中で物理の教科書を手繰ろうとする。
「想像を揺らさないで! ここには確かに、今貴女の目に見えているものがあるのです」
その言葉にドキリとする。そうだ、超能力というのは、まず理屈でなく頭ごなしに受け入れてみることから始まるのだ。
……目の前にあるこの天使についても、その姿勢は流用できる。
黄泉川は自分が物理法則という言葉で語りえぬ目の前のソレを言外に受け入れつつ、インデックスの紡ぐ歌を唱和した。
テーブルの上にはこの部屋の『コピー』がある。上に乗せられた二つの人形が、自分達に同期して歌う。
そして歌のフレーズに区切りがついた瞬間。インデックスを模した人形についていた傷が治癒していくのを黄泉川は見た。
それは生物のプロセスとしての治癒には、お世辞でも見えたとはいえなかった。
むしろ塩化ビニルの高分子が加熱によって溶融し、形の汚くなった傷口を均していくような、そういう物理だった。
向かい合わせで座ったインデックスの背中に起こっていることを、黄泉川は想像できなかった。
「――――――生命力の補充に伴い、生命の危機の回避を確認。『自動書記(ヨハネのペン)』を休眠します」
その一言で、どうやら成功したらしいと黄泉川は悟った。



「そんな、魔術……だと?」
「あの子は使えないはず……いえ、誰かに協力してもらったということでしょう」
「神裂、それは」
「禁書目録を使う魔術師が、上にはいるということです」
「この町を根こそぎ荒野に変えるくらい造作もない魔術師をあと数分で制圧しろ、ってことかい?」
「……残念ながら撤退という選択肢を選ばざるを得ないようですね」
「チッ」
忌々しげにステイルは二人の少年少女を睨みつけた。
「貴方達の健闘は、賞賛すべきもののようですね。我々は今回は時間切れのようです」
ファンファンと警笛を鳴らす車両の音が、もう近づいてきていた。
「これで終わりだとは思わないことだね。……行こう神裂」


切り替えが潔いのもまた、手馴れているということなのだろうか。
光子と当麻は、二人の足音が遥か遠くなってもまだ、体の硬直を解くことが出来なかった。
「行った……のか?」
「……」
落としていた重心を少し上げて、当麻は構えを解いた。
「光子!」
尻餅をつくようにくたりとなった光子を、慌てて抱きかかえる。
「どっか怪我とかしたのか?!」
「ううん。大丈夫です。けど、ちょっと気が抜けてしまったから」
支える当麻に、光子はぎゅっとすがリついた。
「当麻さん」
「ん?」
「よかった、お怪我されてなくって」
「それは俺の台詞だって。光子に怪我させちまったら、ゴメンじゃ済ますことなんて出来ないし」
「もう。それは当麻さんにだって同じことですのに」
ようやく二人は、ほっと息をついた。ざわざわと、マンションに人の気配があるのが無性に心強かった。
「って! そうだ! インデックスはどうなったんだ?」
「そうですわね! 様子を見に行きましょう」
ほんの数階分の高さが、疲弊した二人には辛かった。




[19764] ep.1_Index 06: 黄泉川家
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/01/22 11:40

「……上条? どうした、その格好は」
「えっと、まあ。インデックスを追いかけてきた奴に襲われまして」
「さっきの非常ベルはそういうことか。で、逼迫してるようには見えないし、何とかなったって事でいいんだな?」
「とりあえずは追い返しました」
黄泉川の部屋に帰ると、インデックスは静かに眠っていて、黄泉川が部屋を片付けていた。
当麻と光子が危険な目に会ったらしいと分かると、すぐさま怪我の様子を診てくれた。
幸い、服の汚れはそれなりにあるものの、光子は怪我らしい怪我を負っていない。それは本当に僥倖だったと当麻は思った。
一方当麻も、幸い骨折に至るような怪我はなさそうだった。擦り傷などの手当てはシャワーを浴びてからということになった。
「インデックスさんは、その、もう何ともありませんの?」
「眠ってしまう前に、体力の消耗が激しいだけで傷は完治したって言ってたよ」
「そうですの。……良かった」
「……で、上条。それと婚后だっけ。とりあえず緊急事態は脱したみたいだし、洗いざらい、事情を喋るじゃんよ」
インデックスの傍に座ってほっと息をついた婚后を尻目に、黄泉川はそう切り出した。
当麻とて、ある程度は覚悟してきたことだ。黄泉川は警備員(アンチスキル)でもある。
魔術の手伝いだけしてもらって、何も聞かずにいてくれるなんて事はないだろう。
一瞬の間を空けて、当麻は口を開いた。


「先生。さっき、インデックスの傷を回復させるのに使った技術は、なんだと思いましたか?」
「おかしなことを聞くな上条。あれが超能力以外の、どんな物理だって言うんだ?」
「先生には、あれが超能力に見えたんですか」
とぼけたような当麻の物言いに、同じように黄泉川は答えを返す。
……そんな言い回しを当麻がする理由にも、思い当たるところはあった。
むしろ、ある意味で上条よりもっとリアルに、黄泉川は事の意味を理解していた。
「腹を割って話そう、上条。あの子は、学園都市の学生じゃないんだろ?」
「……」
「ま、黙っててもいいさ。あたしはこの点について確信があるし、警備員の事務所に問い合わせれば一発だしな。それにこの子の使った術は、少なくとも学園都市謹製の超能力じゃないのは確かな事だ。能力開発の専門家として言わせて貰うが、あれはこの街の超能力の系譜をたどってないよ」
「先生は、あの子を警備員として連行する気ですか?」
当麻も、一番聞きたかったことを率直に口にした。インデックスの傍で、光子も厳しい顔をしていた。
黄泉川は二人の様子を見て、苦笑した。この街の生徒のために自分は働いているのだ。学生の幼い敵意を向けられていることに慣れているとはいえ、理不尽だなと思う気持ちもないではなかった。
「言っておくが、とりあえずそれは一番の大正解じゃんよ。不法侵入者は取り締まる。お前らに不利益はないし、あたしにもない。ああ婚后、落ち着いて最後まで話を聞け。とりあえず数日は、面倒を見てやる。この家の中から出ないって条件でだけどさ」
二人の表情が、呆気にとられたようなものとなる。まあ、まさか匿ってくれるとは思っていなかったのだろう。
「あんまり喜んだ顔はするなよ。ちょっと必要な根回しが済んだら、この子にはこの街から出て行ってもらうことにはなるじゃんよ」
匿うことを決めた理由は、宣言通り根回しをするつもりだったからだ。このシスターの能力は、学園都市の多くの研究者にとって、物珍しすぎる。考え無しに事務所に突き出してこの子を拘束し、その後のことに黄泉川が関われなくなったとき、事と次第によってはこの子の『末路』がどうなるのか、想像しても愉快なことはなかった。
経験として黄泉川は知っていた。この学園都市には、学生とモルモットの区別をつけられない大人が、多すぎる。
とはいえ、学園都市から追い出しただけでこの子の幸せを確保できるかどうかは分からない。身寄りがあるのか、ないのか。
「まあ、これ以上のことはこの子が回復してからでもいいじゃんよ。とりあえず上条、お前はシャワーを浴びてこい。その間にこの子の体を拭くじゃんよ」
「はい。その、先生。迷惑かけて、すみません」
当麻と、婚后がそろって頭を下げた。
「何言ってんだ。それが教師の仕事じゃんよ」
お前みたいな問題児にはいつだって手を焼いてる、なんてどこか嬉しげに見えなくもない黄泉川の態度が、無性に有難かった。



あちこちにできた擦り傷が傷むのを感じながら、当麻はざっと汗と汚れとインデックスの血を洗い流した。
風呂場から出てみると、洗濯機が静かに仕事を始めていた。下着を残して、当麻の服はなかった。
「ほれ、さっさと来い。次はお前だ」
「へ? いやあの、服は」
「傷の手当てが済んだらあたしのジャージ貸してやるじゃんよ。とりあえず服を着る前に怪我見せてみな」
信じられない暴挙だった。黄泉川はめんどくさそうに洗面所に乗り込んで、下着一枚の当麻の頭を鷲掴みにしてリビングへと引きずっていった。
「きゃ! と、当麻さん?!」
「……」
光子に見るな、と言うのも自意識過剰の気がして恥ずかしかった。とはいえ、学校の先生に下着一枚の状態で手当てをされるなんて、どう考えても高校生の扱いではなかった。
手当て自体は非常に手馴れていて、あっという間に終わっていく。熱を持っていた打撲箇所にシップを貼られて、ようやく無罪放免となった。
「ほれ、あたしと大して背格好は変わらないし、家の中はこれでいいだろ?」
今も黄泉川が着ている、濃淡三色の緑のジャージ。上条に手渡されたのはそれと同じものだった。作りがシンプルすぎて、恐らく男女の別もないのだろう。
……とはいえ、普段は黄泉川が着ている、つまり女性の服なのだ。豪快すぎて言動からはいまいちピンとこないのだが、黄泉川は着飾って黙っていれば、間違いなく一級の美人だ。そう考えると心なしか服から薄く漂う匂いもなんだか華やかで――――

「あらあら当麻さん? そんなに服を顔に近づけて、何をなさっているの?」
「いぃっ、いえいえいえいえ、なんでもありません。なんでもありませんのことよ光子さん」

速攻で当麻は頭を下げて、そしてなんでもないことのように平静を装いながらジャージに袖を通した。
……サイズが自分に合っているのが、すこしプライドを刺激される当麻だった。
「さて婚后、お前もその服は洗うしかないだろ。上条の制服とこの子の修道服がじきに洗い終わるから、お前もシャワー浴びて来い」
「分かりましたわ。それじゃあお風呂をお借りしますわね。その、当麻さん。私がシャワーを浴びている間に、変なことはなさらないでね」
「変なことってなんだよ。覗いたりなんてしないぞ?」
「黄泉川先生やインデックスさんに、ですわ」
「当たり前だ」
「当麻さんは時々その当たり前が通じませんもの」
憮然とした表情の当麻にそんな言葉を返してから、光子はそっと洗面所の扉を閉めた。
その様子を傍で見ていた黄泉川が、意外なものを見たような顔をした。
「……上条お前、尻にしかれてるなぁ」
「ほっといてください」
「最初は大人しいお嬢様をお前が振り回してるのかとあの子の身を案じたんだが、心配は要らないみたいだな」
「なんですかそれ人聞きの悪い」
「付き合い始めてどれくらいなんだ?」
当麻は突然の質問に思わずむせた。
「副担任がそれを聞きますか」
「だって面白そうじゃんよ。月詠先生に教えたら喜ぶだろうな」
「止めてください。そんなことしたら良い笑顔でしごかれまくるに決まってるんですから」
「でもな上条。本当に良い事だなって思うところはあるじゃんよ。超能力で人を判断すれば常盤台のあの子は間違いなくエリートで、お前はまあ、それほどじゃないだろう。けど、そんなつまらない物差しじゃなくてもっと別のものでお互いを測れてるお前らは、この学園都市の子供らに歪んだ価値観を刷り込んでる大人としては、良いなって思えるんだ」
「はあ……」
別に常盤台の超電磁砲であっても臆さず鬼ごっこをする上条には、その悩みがいまいちピンと来なかった。
「さて、客が増えたことだし、飯を増やさなきゃな」
黄泉川はそう言って、夕食の準備を始めた。



「お、シャワー終わったのか」
「はい……あの! 当麻さん。あまりこっちを見ないで下さる?」
「え? なんで?」
「それはその、秘密です。いいから見ないで下さい」
突然そんなことを言われて戸惑う当麻だったが、2秒で事情を理解した。
洗面所と廊下の間の段差を降りた、光子の胸が。
……いつもよりたゆんって、たゆんって。
「光子もしかして、その下――」
「当麻さんの莫迦! 見ないでって言いましたのに!」
「いや、だって、着けてないとは……」
「違います! ちゃんと黄泉川先生に新品を頂きましたから。でも、その……」
「ああ――」
サイズがね。そうだね。光子もすごいけど、黄泉川先生はね。
つい訳知り顔になった当麻をみた光子の目が、すっと切れ長になる。
「当麻さん?」
「なんでもないです。そして俺は光子に満足してるから、別になんとも思いません」
いつもより脳みそが猿だった当麻に、光子はひたすら莫迦、と呟いた。
「借りておいて文句を言うのは筋違いだって分かっていますけれど、当麻さんにお見せする服がよりにもよってこんなジャージだなんて……」
「まあそう言うな婚后。あたしの勝負服で着飾ったって、しょうがないじゃんよ?」
「先生それ以外に服持ってたんですか?」
「当たり前だ。あたしは警備員だぞ。インナーウェアは自分で洗濯なんだから家に何枚かある」
「先生それ勝負用ってか戦闘用の服じゃないですか」
「まあ、一応何年も着てないスーツと、必要に駆られたら着るドレスくらいはあるじゃんよ」
「どれも着られませんわね」
「そういうことだ。さて、あたしもシャワー浴びてくるかな。お前ら二人っきりだからって変なことするなよ」
「しませんって!」
カラカラと笑いながら、黄泉川先生は洗面所へと消えていった。
「……そりゃあ、こんな場所では恥ずかしくて出来ませんけれど」
「光子?」
拗ねたような顔をして、光子が扇子を弄んでいた。
自分達二人は幸いにしてほとんど無傷だ。だけど、心をすり減らすような出来事に直面して慰めを欲している光子の気持ちを、当麻は少し感じた。
当麻自身にも、触れ合いたい気持ちはあった。
「とりあえず、コイツの面倒でも見てようぜ。っても寝てるだけだけど」
「はあ」
当麻は、静かに眠り込むインデックスの隣に腰を下ろして、隣の床をぽんぽんと叩いた。
その意図を察して、光子は、そっとそこに腰を下ろした。壁と、そして当麻にもたれかかって、そっと当麻の腕を光子は抱いた。
「これくらい、別に良いだろ。先生に見つかったとしてもさ」
「そうですわね。恋人なんだから、こうするのは変なことじゃありませんわ」
光子がそう言って、そっと目を瞑った。
「当麻さんって、暖かい」
「風呂上りだしな。光子も暖かいよ」
「それだけじゃありませんわ。私は、自分で言うのもなんですけれど、我侭なほうだと自覚してはいますわ。そういうのが苦手な方は私と仲良くはしてくれませんし、学校ではつい負けないようにと肩肘を張りますの。……でも、当麻さんには。全部、預けられますから」
「まあ、俺と光子じゃ元からレベルは比べても仕方ないしな」
「そうですわね。レベルなんて、私が当麻さんを好きになった理由とは、なんにも関係ないことですわ」
きゅ、と服がすれる音がした。冴えないジャージ姿の二人だが、おそろいの服を着るなんてこれが初めてだ。なんだかおかしくて、少し嬉しかった。
光子が当麻の腕を抱きしめなおした。ほお擦りをされているのが感触で分かった。
「でも当麻さん。当麻さんの能力は学園都市にも測り取れない、もっとすごい何かなのですわ、きっと」
「光子?」
「当麻さんと合流して、あの炎の巨人から私を守ってくださったでしょう? ……その、すごく、格好よかったです」
「う……な、なんか褒められると照れるな」
「荒事への心構えを持つのも淑女の嗜みと学校の先生は仰いますが、やっぱり、ああいうのは……」
思い出したのだろうか。光子の声に、少しおびえが混じった。
当麻は身を乗り出して、光子の顔を真正面から見つめた。
「これ以上、光子を危険な目に合わせないように、何とかするから」
「ううん。そういうことを言って欲しいのではありませんわ」
「え?」
「当麻さんが行くところへならどこでも、私は付いて行きますから。だから、ずっと一緒にいてくれって、言って欲しい」
光子はそう言って、キスをねだった。
その唇をふさぐ前に、当麻は言った。
「嫌だって言うまで、お前を放す気なんてないよ。光子」
くちゅ、と音が聞こえそうなくらい、当麻は光子に深い口付けをした。
「ん……ふぁぁ」
唇を離すと、光子はぼうっとした様子で当麻を見つめた。
当麻は迷った。光子の態度は、もっとキスをしても拒まないと告げている。
……嫌がられたりはしないよな?
「光子。愛してる」
「嬉しい。私もお慕いしていますわ。……ん」
再び当麻は口付けた。黄泉川が風呂から上がるまで、せめてこうしていようと思ったその時。
「んん……あれ、ここ」
当麻と光子のすぐ横で眠っていたインデックスが、覚醒した。
「イイイイイイインデックスさん?」
「おおお起きてたのか?」
「ふぇ?」
どうやら、そうではないらしかった。二人して、ほっとため息をつく。
そんな二人の挙動不審をこれっぽっちも意に介さず、インデックスは部屋の匂いを嗅いだ。
「おなかすいた。いい匂いがするんだよ」



インデックスが待ちきれないという顔をするので、インデックス用のおかゆを先に食べさせることになった。
だが、どうも自力で動けないくらい、衰弱しているらしい。テーブルの上に立ち上る湯気を爛々と見つめるその目とは対照的だった。
「ほれ、そいじゃテーブル前まで運んでやるから。脇開けろ」
「うん。ありがとう、とうま」
「あっ! 駄目です! 当麻さんお待ちになって!」
「え?」
「どうしたのみつこ?」
毛布から、インデックスの下半身がずるりと引き抜かれた。
インデックスには、黄泉川の服が決定的に合わなかった。それは着るべき下着がないという意味であり、ズボンを穿かせても脱げるという意味であり、別にジャージの上がミニスカート並みの長さになるしズボンはいらないんじゃないかという意味でもあった。
……要は、穿いてない下半身が光子と、そして当麻に丸見えになったということだった。
「え、え、……え?」
「いやぁぁぁぁぁ!! とうまの馬鹿! えっち! 一日で二回目って信じられないんだよ!」
「ご、ごめんインデックス! 悪気はない、悪気はなかったんだ!」
「当麻さん? あらあら、悪気がなければ、許されると思ってらっしゃるのかしら?」
もう今日何度目か分からない気炎を光子が上げる。遺伝子のどこか深いレベルで、そういう怒り方をする女性には無条件に負ける当麻だった。
「許してくれ光子! 悪気がないってことは、わざと見る気なんてこれっぽっちもなかった、つまり悪気がないってことなんだぞ?!」
「とりあえず目を瞑ってジャージの下を取りに行ってくださいませ」
「わ、わかった」
インデックスは本当に力が出ないのか、一回目のときのように噛り付いてくることはなかった。
光子の冷ややかな視線に、上条は本当に目を瞑って廊下を目指した。途中で壁にゴンと頭をぶつけたが、この際それくらいで済んだと思うべきだ。
リビングが視界から消えて、ようやく目を開ける。クローゼットのある部屋の前に進み、躊躇いなくノブをひねった。
「――え?」
いつの間に、風呂から上がったのだろうか。
薄くピンクに染まった肌が、綺麗だった。太ももやヒップ、バスト、そういうところの肉付きが良い。鍛えてあるから筋肉質の引き締まった体だろうに、一番体の外を飾る肉が、たまらなく成熟した女の色香を放っている。
仕草を見れば、何をしているのか予想は付く。自分の下着が、この部屋にあったのだろう。人を呼ぶとこういうときに面倒だ。一人なら廊下を裸で歩こうが何をしようが勝手だし、人を呼んでも普段の生活習慣どおりについ、物事を進めてしまう。。
黒いブラの肩紐を直して、ん? と黄泉川は上条に気づいたらしかった。
「なんだ覗きか? 彼女のいる場所でやるとかお前どういう神経してるんだ」
「あ、いや。インデックスが目を覚まして、ジャージの下が要るって」
「ああそうか。目を覚ましたんなら必要だな。ほれ、これ持ってってやれ」
「あ、どうも」
あれ? と当麻は首をかしげた。ごく普通の受け答えをしているのに、なにか、ひどく非常識な展開のような。
「で上条。今から覗きでお前を警備員の駐在所に突き出して、一晩冷たい床で寝て、反省書と小萌先生の説教と保護者呼び出しのフルコースでいいか?」
「すみませんでしたもうしません悪気はないんですほんとに悪気はないんです!!!!!」
「悪気はないってさっきお前あっちの部屋でも言ってたじゃんよ。ほれ立て。まあ大目に見てやるから」
「ほ、ほんとですか!」
「だから腹筋に力入れとけよ?」
「へ?」
洗練されたモーションのアッパーが、当麻の腹に突き刺さった。目の前で、光子のより激しく、胸が揺れた。
「ゴハァッ!!!!」
当麻は、床に這いつくばった。視界の片隅で、黄泉川がジャージを身に着けていく。
一応加減はしてくれたのだろう。1分くらい悶絶したら、リビングに戻れそうだった。
「あらあら当麻さん? また、ですの?」
訂正。リビングには戻れないかもしれなかった。



夕食を済ませて、当麻と光子とインデックスは、携帯端末から服を注文した。
さすがに下着のないインデックスはジャージの着心地がすこぶる悪いらしく、服を気にしていた。
当麻と光子も、ここを出ることは難しい。事実上の篭城作戦だった。
一人帰すのにも不安があった光子も、黄泉川先生の名前を出すことで何とか外出許可も降りた。やはり警備員の中でも特に信頼の厚い黄泉川の名は、それなりに力があったらしかった。
「ふぁ……ごめん。もうそろそろ眠たくなってきたかも」
「病人みたいなものですものね。インデックスさんはもう寝たほうがよろしいわ。……私たちも、そう遠からず寝ることになりそうですけれど」
当麻はインデックスにあくびを移されていた。今日はゴタゴタが多かった。
「だなぁ。もう寝ちまえば良いんじゃないか?」
「そうしましょうか」
布団はすでに敷いてある。だだっ広い家に見合うだけの客用布団の数があった。
黄泉川とインデックス、光子は当麻と襖を一枚隔てた和室で寝ることになっている。
あたしはもう少ししたら寝るから、という黄泉川を置いて、三人はそれぞれ、床につくことにした。
まだ起き上がるのはしんどいのか、ぺたりぺたりと四つん這いで布団に向かうインデックスを横目に、当麻と光子はこっそりとおやすみのキスをした。
「……ふふ。同じ部屋では勿論眠れませんけれど。眠る直前まで当麻さんといられて、嬉しい」
「俺もだよ。いいな、こういうの」
「本当は当麻さんに撫でてもらいながら寝るのが、一番良いんですけれど」
光子には自覚がなかった。当麻をドキリとさせるくらい、きわどいことを言ったのを。
しばし逡巡して、当麻は冗談めかしてこう言った。
「インデックスが寝た後、俺の布団に来るか?」
「えっ? え、あ……だめです、そんな。私たち、まだ、そんな」
「じょ、冗談だって! それに先生に見つかったらそれこそ洒落にならないし」
「そ、そうですわね。……その、私、ごめんなさい。嫌だとかそう言うわけではありませんのよ。でも……」
「いいから。ごめんな、困らせて」
「ううん。それじゃ、当麻さん。おやすみなさい」
「おやすみ、光子」
もう一度キスをして、光子は和室の布団にもぐりこんだ。
隣では、暑いのとめんどくさいので、インデックスが掛け布団の上にだらりと転がっていた。
仕方ありませんわね、とクスリと微笑んで、インデックスの掛け布団を引き抜いて、足とお腹にかけてやる。
「ねえインデックスさん。必要なことがあったら仰って。寝ていても起こしてくださって構いませんから」
「ありがとねみつこ。それじゃあ、今お願いしても良い?」
「ええ。なんですの?」
「インデックス、って。呼んで欲しいんだよ」
明かりを消して間もないせいで眼が暗さに慣れていなかったが、インデックスが微笑んでいるのが、光子には分かった。
「私はみつこのこと、みつこって呼びたいから。他人行儀じゃないほうが、嬉しいな」
「そう。分かりましたわ。インデックス。おやすみなさい」
「おやすみ、みつこ」
光子はインデックスが眠りにつくまで、そっと頭を撫でてやった。年恰好以上に、なんだか可愛らしかった。



当麻は、隣に随分と暖かいものを感じて、ふと目を覚ました。
「え、み、光子……?」
明らかに、隣に人がいる。真っ暗な部屋で誰かは咄嗟に分からない。
しかし男の上条の隣に来る女性といえば、そりゃあ光子しかありえないだろうと思うのが自然だ。
恐る恐る、隣の子の肩がありそうなところを、触ってみる。
ふにょりと、それはそれは柔らかい感触がした。
「ん……」
もうその声だけで誰か分かった。驚きが自分の頭を占めていく。
なんで、インデックスが、ここにいるわけ? 確かに寝るときは、光子のいるあちらの部屋で寝ていたはずだ。
その疑問をまるで無視して、インデックスは抱き枕みたいに当麻の体に自分の手足を絡めていく。
柔らかくて、いい匂い。当麻の心臓がドクリドクリと強く脈動する。
当然罪悪感も湧いてくる。こんなところ、光子に見つかったら――――
分からない。何故こんなにも今自分が焦りを感じているのか。光子が寝ているうちに何とかすれば良いだけのこと。
なのに。


パッと、部屋が明るくなった。
入り口に、仁王立ちする女性が、一人。
「あらあら当麻さん? インデックスさんと随分仲がよろしいのね?」
ああそうか、と。当麻は納得した。
心のどこかで、こうなると、自分は分かっていたのだ。


当麻はそっと布団から出て、土下座した。
怒涛の一日はまだ、終わらない。



[19764] interlude01: 数値流体解析 - Computational Fluid Dynamics -
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/17 01:17
光子に常盤台で指導を受けてから数日。

「あっ……ホントだ、だいたい合ってる!」
「お、もう佐天には見えるのか。やるなあ」

佐天は、柵川中学のある一室で、先生と一緒に実験器具とパソコンを眺めていた。
目の前には、透明なアクリルでできたダクトがある。縦横は人が一人入れるくらいで、水平には大体3メートルくらいの長さがある。
片方の端にはファンが付いていて、ダクトの中の空気を外に排出している。ダクトの中を定常的に風が通り抜けているわけだ。
ダクトのちょうど中央辺りには、一本だけ、円柱の棒が生えている。金太郎飴くらいの直径だった。
これは、主にその円柱の周りの風の流れを見る装置。
「もう『見えてる』のなら別にいらないわけだけど、一応トレーサー流すから。ちゃんと視覚でも捉えてくれ」
「はい」
先生がそうやって、ダクトの入り口から水か何かを噴霧した。霧を孕んで僅かに白く濁った空気が、ダクトの中に吸い込まれていく。
佐天は霧がなくても流れは見えている。風はだんだんと柱に近づいて。
進行方向から見て円柱の背中に当たる部分で、霧は、くるりと渦を描いた。
「うん。ちゃんと乱れてるね。解析どおり」
「はい。この渦、可愛いですよね」
「……? うん、まあ」
今佐天が実演してもらっているのは、風洞実験と呼ばれるものだ。人工的に風の流れを作り出して、それを可視化する。必要なら温度計や圧力計を設置して、温度と気圧の変化も測る。円柱の代わりに飛行機の模型を置けば飛行機の性能試験になるし、ダクトの代わりにパソコンの筐体を使えばハードウェアの冷却試験もできる。
今日の目的は、この風洞実験の結果と、もう一つ。目の前にあるパソコンで、シミュレーションによって求めた円柱回りの風の動きが一致することを、体感させることだった。
「はぁー、ホントに計算で合うんですねー……」
「そりゃあな。物理ってのは物理法則に従う現象しか出ないんだから。その法則を数式にして、それを解けば当然答えは出るよ。誤差がないとは言わないけど。佐天は計算と合わないって思った部分はあったか?」
「えっと、間違ってるんじゃないんですけど、曖昧だなって」
「曖昧? どこがだい?」
「渦ってもっと中心まで細かく巻いてるのに、ほら、計算結果だと全然そういうの見れないじゃないですか」
「そうだね。有限要素法で解くと、格子の刻み幅より小さい現象は見られなくなるからね」
この世を貫く最も根源的な法則のひとつ、運動量の保存則。それを数式化したのがナビエ・ストークス式だ。式としては古くから定式化されているものの、『解く』ことに関しては、未だ一般的に解析解を得る方法、すなわち解の公式はない。初期条件と境界条件が都合のよい形になっているケースでないと、解けないのだ。
そういう時に、近似解を得る一つの手法として、有限要素法がある。
空間にメッシュ、あるいは格子を規定して、空間を小さなブロックに分けていく。そしてそのブロック一つ一つが、ある一つのベクトルを持つ風であるとするやり方だ。
隣り合うブロック同士には、風のベクトルに見合っただけの運動量のやり取りがある。それを逐次計算していくことにより、風の流れが変化するさまをシミュレートする方法だった。
「じゃあもっと空間の刻みを細かくすればいいってことですか?」
「細かく刻めば細かく見れる。だけど計算時間も膨大になる。計算機の、あるいは能力者の演算能力との相談になるね、その辺は
「そっか……」
「残念なのか?」
「できたら渦をもっとよく見たいなーって」
「うーん、渦はどこまで細かく見ても終わりのないものだからなあ。フラクタルな形状をしてるせいで微分不可能な特異点になるから、中心の点を見る、なんてのは無理だよ」
虫眼鏡で渦の中心を拡大してみても。渦は同じ形の渦しか見られない。そういう、小さく見ても大きく見ても同じモティーフが現れるフラクタルな構造だ。渦は、流れの解析においては少々不便な存在ではあった。
「まあ、佐天の能力は渦に関係しているみたいだし、おいおいそれについても考えたほうがいいだろうね。今日はまだ流体解析のイントロの部分だから、難しいことは後に回そうか。佐天。質問がなければ、演算処理のプロセスの構築をしよう」
先生は、綺麗なトパーズブルーの粉末を薬包紙に載せて、水と一緒に佐天に差し出した。
「これ初めて見る薬です」
「あれ、そうか佐天は飲んだことないか。レベル1用の、計算力開発の試薬だよ」
学園都市の学生は薬の色が変なくらいで戸惑うことはない。だが佐天はコップの水をあおる前に、手を止めた。
「あの先生。質問っていうか、聞きたいことがあるんです」
「なんだい?」
「私に能力が目覚めるきっかけを作ってくれた先輩が、言ってたんです。格子……えっと、格子ボルツマン法っていうのも勉強しろって」
「格子ボルツマン? なんでまた……」
「あの、別に勉強する必要ない……ですか?」
婚后は、佐天にとってとても頼りになる人だ。能力発現のきっかけをくれた人だし、実力が見る見るうちに延びるのは、全部この人のおかげだ。今日、夏休みなのにこうして先生に個人指導をしてもらえるのも、そもそも婚后の勧めで補習に出たからだ。
だが、それでも婚后は学生だ。能力を開発すること自体には、秀でているわけではない。
だから、婚后の勧めることと、学校の先生の方針、それがあまり一致しないときには佐天は戸惑いを覚えるのだった。
「いや、別に不要ってことはないよ。あれはあれで便利な計算手法だしね。ただ、あんまり普通は手を出さないんだよなぁ……ああ。そういうことか。佐天は、空気を粒のように捉えて、動かしているんだったね」
「はい。そうです、けど」
「成る程。それなら、ちょっと考えてみよう。けど今日のところは普通に有限要素法をベースにいろいろやろうか。通り一遍等で良いから普通のやり方にも習熟しておかないと、能力を伸ばせる幅が狭まるからね」
「はい」
そう言って、先生は佐天に薬を飲むよう指示した。効くまでに時間がかかるからだろう。佐天はそれに従った。
「それで、佐天。格子ボルツマンって、意味分かって言ってるかい?」
「えっと、いやー……あはは」
「まあそうだろうね。特別な意図がない限りは、あまり使わないやり方だからね」
「そうなんですか」
「格子ボルツマン法って言うのはね、いくつかの空気分子をまとめて一つの粒として見て、気体の流れをその粒の衝突として捉える方法なんだよ」
「えっ?」
その言葉に、ドキリとした。なんて、分かりやすい考え方なんだろう。
「そして演算に出てくる主要な要素が、有限要素法ならテンソルだけど、格子ボルツマン法ならベクトルなんだよね」
黒板に先生がつらつらと式を書いていく。一週間前ならちんぷんかんぷんだっただろう。今なら、ぼんやりとは意味が分かる。
要約すれば、こういうことだった。
格子ボルツマンで考えるような、単純な球と球のぶつかりあいであれば、受け渡しをする運動量について、
ベクトルのx成分
ベクトルのy成分
ベクトルのz成分
この3個の情報を考えればいい。だが、有限要素法で流体の流れを解く場合、空間には格子が切られていて、それにはいくつかの『面』がある。分かりやすく立方体に切ったのなら隣り合う立方体との間に6個の面を接している。その場合、
x軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのx成分
x軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのy成分
x軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのz成分
y軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのx成分
y軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのy成分
y軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのz成分
z軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのx成分
z軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのy成分
z軸に垂直な面でやりとりする、ベクトルのz成分
この、全部で9個の情報を考えなければならない。ベクトルの個数の二乗を考える、この9個の要素をテンソルと呼ぶ。
有限要素法と格子ボルツマン法、テンソルとベクトル。それらはどちらも同じ自然現象を再現する手法でありながら、演算の体系が全く異なるのだった。
「佐天の演算能力をテンソル系の能力者らしく作るか、ベクトル系の能力者らしく作るかってのは、その後の方向を結構変えていくからね。これは、注意して選ばないといけないんだ」
「へー……やっぱり、私も普通の人みたいに鍛えたほうが良いんですかね?」
「そこが難しいんだよね。……僕の、というかこの学校の先生は皆、能力を発現させられない子や思うように伸びない子が、なぜそういう状態にあるのかを研究して、一人でもレベル0と1を上に上げるための研究が専門なんだ。佐天は、今見てる限りじゃ空力使い(エアロハンド)の中でも多分特殊な能力者になると思う。そういう、個性的な能力を適切に伸ばすってのは、それはそれで難しい仕事になるんだよ。言い訳にしかならないけれど、僕らよりも、佐天の助けになる先生は他にいる気がするね」
「先生、それって」
安楽椅子に腰掛けたまま、佐天は先生の言った言葉の意味を反芻して、動揺を隠せなかった。
「うん。このまま伸びれば、佐天はこの学校じゃ収まりきらない能力者になるだろう。もちろん佐天の意思が一番大事だけど、転校も考えに入れておくと良いんじゃないかと、僕は思う。二学期からにすれば、ちょうどいい区切りになるしね」
その言葉は、今まで羨ましいとすら思った言葉だった。レベルアップによって先生から転校を進められること、それはつまりその学校でトップクラスに優れていたということの証明なのだ。その言葉を贈られた同級生たちはみな、佐天やほかの同級生から見れば眩しいばかりの学生達だった。皆が羨望を持って、そんな生徒を見たものだ。
だけれど。実際に佐天がその言葉を貰って感じたのは、寂しさだった。この学校にいる沢山の友人。それと離れ離れになって、知らない人たちと競争をする。
「皆おんなじ顔をするよ」
「えっ?」
「佐天の知ってる優等生たちも、みんな今の佐天と同じ気持ちだってことさ。でも会社なんかに入れば、佐天が今勧められているものは『栄転』と呼ぶんだよ。学生は友達づきあいだって大切なことだからね、どうしても自分の居場所を変えたくないのなら、それもいい。でも、自分を試すってことも、同じくらい大事だから。よく考えなさい」
「はい」
先生の穏やかな顔に、佐天はすこし心が軽くなるのを感じた。そうだ、今この手に作れる自分だけの世界、それをもっと広げてみたい、可能性を試したいという気持ちもあるのだ。
先生は、深刻になった佐天の顔をほぐすように、冗談めかしてこんなことを言った。
「まあ先生は佐天が能力を伸ばして、高校は霧ヶ丘女学院あたりに行ってくれると鼻が高いな」
「いやいや先生。柵川中から霧ヶ丘なんて聞いたことないですよ」
そこは個性の強い能力者を開発することで有名な、超エリート高校だった。
「だからすごいんじゃないか。……まあでも、いくら特殊でも霧ヶ丘じゃあ空力使いは目立たないかもしれないね。空気を粒のように扱う佐天のやり方も、佐天が初めてって訳じゃない」
「えっ、そうなんですか?」
自分と似た能力を持つ人がいる、というのは驚きだった。何度か婚后や、少ないながら同じ中学の空力使いの能力を見てきたが、自分とこれっぽっちも似ていなかった。
「言ったろう? 空気を粒のように扱うということは、テンソルを使わずに流体を制御するってことさ。普通の空力使いはそんな面倒なことをしないけどね。空力使い以外の、ある一人の高位能力者が、それをやったんだよ。佐天も名前くらいは知ってるだろう」
「はあ」
謎かけをするように、先生はそう言って演習の準備を始めた。薬もそろそろ、効いてくる頃なのだろう。



「君がもしかしたら進むかもしれない一つの道筋。それを最初に切り開いた人はね。
 ――――すべてのベクトルの支配者、"SYSTEM"に最も近い者。学園都市第一位の超能力者<レベル5>、一方通行(アクセラレータ)、その人だよ」



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おことわり
テンソルの説明は厳格なものではありません。格子ボルツマン法の説明は不確かです。
この辺は数学的にきちんとしたことを言うには作者が不勉強なので、分かる人はニヤニヤしながらこいつわかってねーなーと思ってください。
また、小難しい話を躊躇いなく出しましたが、これを理解しないと読めないSSにはまずならないので、深く考えずにさらっと呼んでいただいて大丈夫です。
風洞実験は流体解析の基礎の基礎ですし、有限要素法も格子ボルツマン法も、全て実在している学術用語です。
詳しいことが知りたければ調べてみてください。
それと、一方通行は現象の解析と制御において、テンソルを用いずベクトルで解く能力者である、と本作では設定しています。
かまちーはテンソルを知らないんだと思いますが、その設定の裏というか穴を突いていきたいと思います。



[19764] ep.1_Index 07: 決意
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/02 23:45

「あー、こんなに楽な朝も久しぶりじゃん。それじゃ、大人しくしてろよ。なんかあったらちゃんと連絡入れるように」
「はい。じゃあ先生、いってらっしゃい。小萌先生によろしくです」

ヒラヒラと手を振って出て行く黄泉川を、三人で見送った。
朝食は当麻が作った。四人分、それも健啖家を含めたそれは、これまで当麻の作ってきたどんな食事より量が多かった。
二リットル鍋に一杯の味噌汁や、五合炊きの炊飯器いっぱいの白米。卵も一食で七個も消えた。
思わず食費を計算して、背筋が寒くなった。もちろん当麻が全額出すわけではなく、当麻と光子は実費ということにはなっていたが。
「ごちそうさま、とうま。ちゃんとしたご飯を食べるのは久しぶりだから、すっごく美味しかったかも」
小さななりをして、インデックスは食べる食べる。当麻と変わらない量を平気で平らげた。
「そりゃ良かった。光子の口にもあったみたいでよかった」
「……そりゃあ、美味しかったですし、当麻さんの作ってくれたものですから」
おそらく自分より当麻のほうが料理が上手いことに、少し悔しい思いがあるのだろう。少し拗ねた態度が可愛かった。
「午前中に服は届く予定だし、洗濯はそれからでいいか。掃除は朝ごはんの片付けが終わったらさっさとやろう」
「そうですわね」
光子はお嬢様だからその辺は何も出来ないのかと思いきや、常盤台の寮では掃除などは学生の義務なのだと言っていた。
それも教育の一環ということだろう。雑巾の絞り方の分からないお嬢様、というわけでもないらしかった。
「ねえインデックス。もう体のほうはいいの?」
食後のお茶を淹れた湯飲みをインデックスに差し出しながら、光子はそう尋ねた。
当麻もお茶を受け取って一口啜る。美味い。きちんと手順を踏んで、適切に茶葉を蒸らした結果だから当然ともいえる。料理と違ってこちらは作法の部類に入るからなのか、光子のお茶を淹れる仕草は優雅だった。
「本調子とはまではいえないかもだけど、歩けることは歩けるよ」
確かに、朝起きたときには昨日と違って這いずることはなかった。壁に伝って、独りで起きてきた。
だが、この家から出ていけるほどには回復していない。黄泉川がインデックスの熱を測っていったが、充分に高いといえる温度だった。
「動くにしても、やっぱ明日か明後日か」
「あ、うん……」
インデックスは、何かを気にして言いよどんだ。自分が迷惑をかけてしまったこと、体が回復したらここを出て行かねばならないこと、そういったことを考えてしまったのだろう。
「まあ今はよろしいじゃありませんか。インデックス、冷蔵庫にヨーグルトがありましたわよ?」
「食べる!」
「……あれ先生のだろ」
食料品も配達してもらうので、確かに問題はないのだが。


光子と二人で、掃除を始めた。
食器洗いとゴミの始末を光子がして、掃除機を当麻がかけた。1Kの自分の部屋と違い、3LDKのこの家は恐ろしいほどだだっ広い。
掃除機は三分あれば済むという当麻の常識を覆して、それには十五分くらいの時間がかかった。しかも腰が痛い。
黄泉川愛穂という人は大味なのか、どの部屋もそこそこ散らかっていた。
目も当てられないようなことはないが、女性の真実を見たような、ちょっとやるせない気持ちを感じないでもなかった。
そもそも、本人のいないところで男の当麻が下着と洋服の詰まったドレスルームの掃除をしているのはどうなんだろう。
「こちらは終わりましたわ。何かお手伝いすることはあります?」
「いや、大丈夫だよ。こっちもすぐ終わるから、光子はインデックスの相手でもしてやってくれ」
「すみません。それじゃ、お願いしますわね」
光子は当麻より先に仕事を終えることを申し訳なさそうに詫びた。
「光子」
「あっ……」
ここなら、インデックスの目がない。
当麻は光子にキスをした。
「もう……。急には恥ずかしいです」
「今日、まだしてなかったからさ」
「ふふ。ほんとのことを言うと、私もしたかったです」
もう一度、口付ける。新婚生活みたいで、なんだか心が躍った。


掃除機を片付けて、細々とした仕事を済ませてリビングに戻ると、光子がインデックスに膝枕をしてやっていた。
「ご苦労様でした、当麻さん」
「ありがと。光子もお疲れ。で、インデックス、随分と幸せそうな場所にいるじゃないか」
「んー? あ、とうま」
インデックスが姉に可愛がられる妹、というより飼い主に可愛がられる犬か猫みたいな顔をしていた。
光子の隣に、当麻は腰掛けた。娘と妻がいる男のような、不思議な立ち居地にいる気分がした。
ぺたぺたと、ジャージの上から太ももを触られる。
「とうまのほうが硬いかも」
「へぇ。やっぱり男のほうが硬いとか、そういうモンなのかね」
「えへへー」
今まで枕にしていた光子の膝に体を預けて、インデックスは頭を当麻の膝に乗せた。
当麻と光子、二人並んだ膝の上に体を預けた格好だ。
怪我をしていたインデックスを負ぶさったときには何も思わなかったが、こう落ち着いたときに顔をすぐ傍で見ると、どきりとする。
あどけなさがまだまだ魅力を隠しているとはいえ、インデックスはものすごい美人なのだった。
――不意に条件反射で背筋に冷たいものが走る。隣の光子の顔を恐る恐る見ようとして。
表裏なく優しく笑った光子が、当麻に腕を絡めながら空いた手でインデックスの体を撫でた。
なんだかそれに毒気を抜かれて、光子に軽く体重を預けた。
そして当麻も空いた手でインデックスの頬を軽くつねった。
「痛いよ当麻。もう、なんでいじわるするの? 光子は優しいのに」
「優しいだけじゃ良い子に育たないだろ? 誰かが叱ってやらないと」
「むう、人をお子様扱いして! 当麻だってそんなに大人じゃないし、私と光子はほとんど同い年くらいのはずだよ!」
「そうは言うけど、なあ」
精神年齢が離れて見えて、スタイルが離れて見えるこの二人を同年代として扱えというのも。
「もう、当麻さん。どこを見てらっしゃるの」
「ご、ごめん」
「うー」
二人の差が歴然と現れている胸元。光子のそれを覗いたら、女の子二人ともに怒られた。
インデックスが当麻の太ももに噛み付いた。
「いでっ、痛いって! インデックス!」
「わたしだってすぐに光子みたいになるもん!」
「そう言うのは説得力ってのをよく考えて言うんだな」
「とうまのばか! えっち! 私の裸見たくせに!」
「いやだから、あれは事故だって!」
「二回もやっておいて事故なんて絶対に嘘なんだよ。当麻は絶対にそういう星の元に生まれてるに違いないんだよ!」
「なんか魔術師がそれを言うと妙に怖いんですけど! ……って言うか、『そういうの』ってほんとにあるのか?」
どう考えても他人より不幸な自身のある当麻としては、是非聞いてみたいことだった。
当麻の真意を、光子は察したらしかった。気遣わしげに、抱いた当麻の腕をきゅっと引き寄せる。
とはいえその気使いは無用だ。上条当麻という人間は、降りかかる不幸に心折れることは、ない。
じゃれていたときの甘えた表情を潜めて、インデックスは口を開いた。
「もちろん。生まれたときの星の巡りや、その人の血統、色々なものが影響して決まるものだよ。運のよさなんていう分かりにくいものじゃなくても、貧しい家に生まれるか裕福な家に生まれるかだって生まれる前から決まってるよね。それと一緒」
「なら、俺のこの右手も」
「……それはよく分からないかも」
「え?」
「当麻のその手は、規格外だよ。魔術で人型に組まれた炎の巨人を押しのけた、って。そんなことが出来る右手を生まれつき持ってる人なんて聞いたこともない」
超能力者の街、学園都市ですら上条の右手を理解することは出来なかった。そして、今、世界で最も豊富な知識を持つ魔導図書館がまた、上条の右手を理解できないものだと言った。
「当麻の面白体質は、右手のせいかもね。神様のご加護とか、そういうのを片っ端から消しちゃってるんじゃないかな」
「……最悪だ」
「気にすることはありませんわ。当麻さんのことは、私が絶対に幸せにして差し上げますもの」
何か気に入らないことがあったように、つん、と光子が澄まして言った。
夫婦は苦楽をともにしてこそ。当麻は自分ひとりで背負わなくて良いのだ。もう、自分が隣にいるのだから。
「みつこはとうまが好きなんだね」
「ええ。とっても」
「……いやその、嬉しいんだけど、光子は恥ずかしくないのか?」
「どうしてですの? この子に聞かれても、私は別にどうとは思いませんわ」
そう言って、光子はインデックスを撫でる。
「とうまは光子の事どう思ってるの?」
「……ああもう。好きだよ。すげー惚れてる」
「ふふ。当麻さんの言ったことが分かりました。これ、嬉しいですけど恥ずかしくってこそばゆいですわ」
照れる光子の横で、もう一度、当麻はインデックスの頬をつねった。


「……さて。ホントはもっと早くすべきだったのかもしれないけど。これからの話、しておかないとな」
じゃれあうのが一段楽したところで、当麻がそれを切り出した。
インデックスが、二人の膝を枕にするのを止めて、フロアにぺたりと腰を落ち着けた。
「そうだね。ここもいつまで安全かは分からないし、いつまでも私はここにいられないし」
「あいつらが諦めたって可能性はないか?」
「ないよ。それは断言できる」
甘えているときや、食事をしているときの浮ついた感じの全くない、冷たさすら感じるような断定口調だった。
「どうしてですの?」
「自慢じゃないけど、私の持ってる10万と3000冊の魔導書は、欲しい人たちなら何をしてでも手に入れるくらいの価値はあるから。日本には親を質に入れてでも欲しいって言い回しがあるけど、私っていう『禁書目録<インデックス>』は家族どころか知り合い全部の命を差し出してでも欲しがる人が、いるんだよ」
「10万3000冊って……あの、そんなものがどこにありますの?」
「ここだよ」
インデックスは指でこめかみをコツコツと叩く。そのサインが意味するものは。
「全部、覚えてるっていうのか?」
「うん。私はそれが出来る人間だから」
「それも魔術なのか?」
「んー、ちょっとわからないかも。小さい頃から、こうだったはずだから」
「ふうん」
消えない記憶を持つ人間。それは学園都市の人間にとっては、魔術を信じる人間よりはずっと受け入れやすい生き物だった。
「サヴァン症候群と理解するのも少し苦しい気はしますが……まあ、ありえない話とまでは言えませんわね」
「それで、つまりお前は重要な書物を持ってるせいで狙われてる、ってことか?」
「そうだよ。だから、もう諦めたなんて事は絶対無い。私を匿う人がいればその人を殺すことなんてきっと道端に転がったゴミを踏むのと同じくらい簡単にやるし、手に入るまでに10年でも20年でも、平気で追い続けると思う」
脅すような、芝居がかった口調はなかった。むしろインデックスの口調は淡々としていて、逆にそれが話すこと一つ一つに真実味を与えていた。
恐ろしく長いあの長刀の一閃を、激しく熱いあの炎塊の巨人を、つい昨日覚えた恐怖と同時に思い出す。
人知れず自分の右手がソファの縁をつかんでいることに当麻は気づいた。
「本当に、助けてくれてありがとね。とうまとみつこが助けてくれてなかったら、もう捕まってたかもしれない」
「……でも、私が関わらなければ」
光子が公園でインデックスに再開しなければ。インデックスは今頃、逃げ切れていたかもしれないのに。
「みつこ。それを言い出したら、そもそも二人のいたあの部屋のベランダに落ちた私が悪いんだよ。だから――――」
不意にインデックスが立ち上がった。勢いをつけて、元気そうに。
だが、立ちくらみを起こすくらいに病み上がりなのだ。ふらりと頭が振れそうなのを、隠しているのが二人にはよく分かった。
「朝ごはんまで作ってくれて、ありがとう。もう、一人で大丈夫だから。二人と、あいほにも迷惑をかけないうちに、出て行くね」
ぺこりと、日本人らしくインデックスが頭を下げた。それで前につんのめって、たたらを踏む。
「ちょ、ちょっとインデックス。貴女そんな体で歩けるつもりでいますの?! いいからもっとお休みなさい」
「大丈夫だから。これ以上、ここにいちゃ駄目だから」
優しい笑いは、遠慮の塊。光子の好意を突き放す笑みだ。
「でも! 貴女、まともに歩けもしないでしょう」
「そんなことないよ? ほら」
「ふらついていることも分かりませんの?」
「大丈夫だよ。すぐに良くなるし。心配してくれて、本当に嬉しいけど。大丈夫だから」
「そんなこと――――」
光子より、インデックスの声のほうが切なかった。まるで光子より自分を納得させるための言葉のようだった。
ブチリ、と指の先で音がした。ソファの縁の縫い糸が切れた音だった。強く、握りすぎた。
「ここにいたら、何で駄目なんだよ?」
ビクリと、隣の光子が怯えるように身を固めた。こんなにドスの聞いた声を光子に聞かせた覚えはなかった。
インデックスも怒られた子供のような顔をしていた。
「だって。みんなに……迷惑がかかるから」
「だからどうしたって言ってんだよ」
「どうした、って。死んじゃうかもしれないんだよ? 今日や明日を乗り切っても、これから何年も、もしかしたら一生だって、ずっと何かに怯えることになるかもしれないんだよ?」
「お前が今から一人で行こうとしてる世界が、そこなんだろ? そんな地獄にお前が行くと分かってて、その手前で俺たちはお見送りでもしろってか?」
「で、でも」
「頼れよ」
「だめ、だよ。私は二人に、幸せでいて欲しいんだから」
「お前は幸せに、なっちゃいけないのか? 俺がお前に手を差し伸べたら」
「とうま! ……駄目。それ以上言ったら、私」
否定の声は、弱弱しい。
誰かに助けて欲しい、そんな思いが見え見えだった。そして同時に誰も不幸に巻き込んではならないという強い決意があるのも分かってはいた。
だが、上条当麻は、そのどちらも選ばない。
「お前が独りで抱え込んでるもの、俺にも貸せよ。何でも出来るって訳じゃないかもしれない。けど、俺はお前の不幸を許さない。お前が笑って安心できるようになるまで、絶対にお前を独りになんてしない」
インデックスが僅かに肩を震わせて、顔をくしゃりとさせた。誰かに自分の辛さを背負って欲しい気持ちと、そう思えるくらい好きになった人を不幸にしたくない気持ち、それが危ういところで均衡を保っている。
それを突き崩すように、当麻は言った。
「頼れよ、インデックス。お前と一緒にいることで俺が不幸になるなんてことは絶対にない。そんなつまらない幻想は、俺がぶち殺してやる」


インデックスはしばらく耐えるように当麻の顔を見上げていたが、
ふぇ、と。いきなり、目元から涙がぽろりとこぼれた。


「……とうまは馬鹿なんだね」
その言い方が、甘えた感じで。インデックスが少し荷物を自分に分けてくれたのだと当麻は理解した。
「だってとうまにはみつこがいるのに。みつこをどうするつもりなの?」
「あ……」
隣の光子を振り向くより先に、手の甲にそっと手が重ねられた。
「当麻さん。今から、私に何を仰る気でしたの?」
「えっと、ごめん。光子の話を何も聞かずに、先走っちまった」
「それはよろしいですわ。それで?」
「荒事にもなるから、光子は隙を見て……」
「当麻さんの莫迦」
きゅ、と手をつねられた。つんと尖らせた唇が、あからさまに不満を伝えている。
「私を誰だとお思いですの?」
「……常盤台中学のエース、婚后光子さん、か?」
望まれている答えを、当麻は言ったつもりだった。
「そうじゃありませんわ。私は、その、上条当麻という方の、女です。当麻さんとの馴れ初めだって、あの時当麻さんは不良に絡まれていた方を助けたツケで追われていたんでしょう? あれからだって、当麻さんがこうやって人助けをしにいくところを見てきたんですから。当麻さんていう方が、どういう人かは私が一番知っています」
「光子」
「私、昨日も当麻さんに念を押しました。覚えていては、くださいませんの?」
――――当麻さんが行くところへならどこでも、私は付いて行きますから。だから、ずっと一緒にいてくれって、言って欲しい。
昨日光子は、そう言った。それに対して返した自分の答えも、覚えている。
「後悔しないか?」
「当麻さんに置いて行かれるほうが、よっぽど後悔します。それに、婚后家の人間として品行方正と破邪顕正を体現する義務が私にはありますもの。寮に帰れなんて、言いませんわよね……?」
光子は最後に上目遣いで当麻を見た。当麻の考えを伺う体でありながら、目には意志の強さを表す光があった。
「光子の、意外な面を見た気がする」
「そう? 私、結構我侭なほうですわ。偉そうに言うようなことじゃありませんけれど」
「お嬢様って決め付けはしてないつもりだったけど、もっとこういうときの押しは弱いかと思ってた」
「もう。そういうところ、お嫌?」
「心配にはなるけど、嫌ではないよ。まあ惚れた弱みって事で」
「ふふ」
話は決まった。少しだけ涙をこぼした顔でこちらを見ていたインデックスを、光子が抱きしめた。
「インデックス。今度は貴女を傷つけさせたりはしませんから」
「光子だって危ないんだからね」
「私たちを頼りなさい、インデックス。貴女と一緒にいることで私たちが不幸になるなんてことは、絶対にありませんわ。そんなつまらない幻想は、私たちが打ち払って差し上げます」
格好をつけて臆面もなく当麻の台詞を真似た光子に、当麻は思わず苦笑した。
そして抱きしめあう二人を、さらに後ろから抱きしめた。



[19764] ep.1_Index 08: イギリスへ辿り着く道
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/06 20:19

「で。一番大事な方針が決まったけど、具体的なプランはまだ白紙だ。それもちゃんと考えないとな」
「そうですわね。当麻さんには何か妙案がおありなの?」
「いや、それは今からちゃんと考えようと」
今後の見通しが立つから方針を決めたわけではない。やりたいことがまずあるから方策を練るのであって。
だから別に無策なのを攻められる謂れはないと思うのだが、ジト目でインデックスに睨まれた。光子にまであきれたようにため息をつかれてしまった。
「とうま……かっこいいこと言ってたけど、口だけなんだね」
「なにか案あってのことだと思ったんですけれど……」
「いや、ごめん」
「それで、インデックス。私たちはまず貴女の事情を聞いておかなくてはいけませんわね。魔術というものがあることを、私は受け入れますわ。だからもう一度、何故貴女がこうした境遇にいるのか、説明して頂戴」
「だな」
何をどうするにも、確かにそこが出発点だった。インデックスは何者で、何故追われるのか。
ソファに座った光子と当麻の間にインデックスは体を落ち着けて、今は光子にもたれかかっている。
「後悔、しない?」
「確認を取る必要はありませんわ。私も当麻さんも、それは今さっき済ませましたでしょう?」
「うん。ありがとう。……ねえ光子。この世の中には、魔術がありふれてるって言ったら、びっくりする?」
「そうですわね……そもそも、そんなものはあるはずがないとつい昨日まで思っていましたわ。今でも、ありふれているといわれても、ピンと来ないというか」
「普通の人にとってはそうだよね。でも魔術って、世界中のどこの文化にでも存在して、いつの時代も使われてきたんだよ。キリスト教徒もそれを使うし、キリスト教徒に敵対してきた人たちも、それを使ってきたの」
不意に太陽が雲に隠れて、陽気が部屋から遠ざかる。
「邪教なんて言い方をすると一方的だけど、普通の人の知らないところで、私たちは主の教えに従わない魔術師と戦ってきたんだよ」
「……私たち?」
「そう。『必要悪の教会<ネセサリウス>』って呼ばれる、イギリス清教の一番暗くて一番穢れた所」
主の怨敵を払う為。邪教に相対することはおろか染まることですら厭わず、あらゆる仕事を引き受けてきた部署。
自分のいるべき場所を、インデックスはそう説明した。
「私には魔術は使えないけど、代わりに、世界中のあらゆる集団のあらゆる術式に精通してる。どんな魔術師と敵対することになっても、どんな魔術なのか、どうすれば防げるのか、どうすれば倒せるのか、全部知ってる」
「つまりお前は、敵のステータスが細かいことまで全部乗ってる攻略本みたいな存在なわけか?」
「攻略本っていうのがよく分からないけど。私はイギリス清教が誇る最悪の蔵書、『禁書目録<インデックス>』なんだよ。私を手に入れれば、世界中のあらゆる敵を打ち滅ぼせる。だから私を追う人が、後を絶たないんだよ」
「じゃああの二人も、そういう連中だって訳か」
「別に確認してみたことはないけどね。まず間違いないんだよ」
なんでもないことのように、インデックスは淡々と話す。それが逆に背筋を空寒くさせる。いつ終わるとも知れない、いや、いつまでも終わることのない逃避行は、いったいこの少女の心をどれほど蝕んでいるのだろうか。
「ずっと、ですの?」
「え?」
「いつからこういう生活を続けてますの?」
きゅっと、光子がインデックスの頭を引き寄せた。甘えるように薄くインデックスが光子の胸に鼻をこすりつけた。だが、困惑したような、何かをはぐらかそうとするような微笑が、ずっと顔から消えなかった。
「え……っと。一年前から、だよ」
「それまでは、誰かと一緒でしたの?」
「……隠しても仕方ないよね。わからないんだよ」
「わからない?」
「うん。わたし、一年以上前のこと、覚えてないから」
さらりと、そう言った。
理由も分からないまま気がつくと日本にいた。自分が何故ここにいるのか、自分にはどんな知り合いがいたのか、そんなことはすっかり忘れているくせに魔道図書館としての機能にはこれっぽっちの傷も付いていなかった。
そしてそのまま、一年間、逃げ続けた。
……それが彼女の知る彼女の全てらしかった。
「なにも、覚えていませんの?」
「うん。気がついたら日本にいたの。『必要悪の教会』だとか、そういう知識だけはあったけど。それですぐに私を追ってくる敵が現れたから、ずっと逃げてた」
「一年間も、独りで、ずっと?」
光子は言葉を上手く継げなかった。あまりの苦境だと思う。何故この子が、と言わずにはいられない。
そしてそれは、当麻にとっても同じだった。
「なんだよ、それ……」
「とうま? どうして怒ってるの?」
「なんでお前がそんな目にあわなくちゃいけないんだ?」
「きっとそれが、私の決めた生き方だから」
「インデックス」
理不尽を嘆いても、誰も責めないだろう。
この幼い少女がこんなにも追い詰められた生活をしているのだ。嘆くぐらいは許されたっていい。
「何も覚えてないんだろ? 誰かに無理矢理押し付けられた生き方かもしれないじゃねーか」
「確かなことは分からないけど。でもねとうま。私が記憶している10万と3000冊を、他の人には背負わせられないよ。普通の人の普通の幸せを守るために、こんな狂信と敵対心の詰まった本を誰かが引き受けなきゃいけないんだったら、私はそれを引き受けるよ」
それはインデックスの、決意だった。決して人並みとはいえない辛い人生を、すでにインデックスは自分で選択している。
光子も当麻も、それぞれ乗り越えなければならない壁や苦労を毎日背負っている。だが切実さが、比べようもないほどインデックスとは違っていた。
「貴女も、私たちと同じような、平凡な幸せを満喫できればいいのに」
どこか悔しそうな、そんな響きを持った一言だった。
それを見てインデックスは笑う。当麻は怒ってくれた。光子は悔しがってくれた。
短い付き合いでも、そうやって思ってくれる人がいれば、まだ頑張れる。
「とうまとみつこがいてくれるから、これからは幸せだよ。ずっと一緒にはいられなくても、私のことを気にかけてくれる人がいるってことは、それだけで幸せなんだから」
むしろインデックスが二人を慰撫するように、優しく微笑んだ。


「……結局、やっぱりゴールはイギリスの『必要悪の教会』ってことになるのか」
「そうだね。とうまとみつこに一生助けてもらうことは出来ないから。そこまで帰れれば、あとは同じ教会の人たちと助け合えると思う」
「それが、きっと良いのでしょうね」
「うん……」
まだ実感はないが、寂しさがないでもない。それに結局、『禁書目録』という生き方をするインデックスを自分達の世界に引き入れることは出来ないのだ。
「あの、ホントにいいんだよ。私は、とうまとみつこがここで見送りをしてくれても、恨んだりしないし、もう、充分嬉しい気持ちにさせてもらえたんだから」
「それじゃ逃げ切れないって結論が出てるだろ。体調も万全とは言えなくて、しかもスタート地点からすでに相手にばれてるこの状況じゃ」
「それで、やっぱり飛行機でイギリスまで行くしかないということでよろしいのね?」
シルクロードを伝うなんてまるで現実的じゃない。異教の民の渦巻くそのルートは、腹を空かせたライオンの群れの隣を歩いて帰るようなものだ。船も長旅になる。補給も必要で、いつか船に乗り込まれてしまったらそこでおしまいだ。
相手を振り切って飛行機に乗って、そのまま一足で『必要悪の教会』までたどり着いてしまう、それが唯一の方法だった。
「飛行機っていってもな……お前、パスポートとかあるのか?」
「ぱすぽーと? なにそれ」
相手はどうやって日本に来たのかも分からない少女なのだった。
「もしかしてこれかな?」
「ああ、持っていますのね。……って、これは」
懐から取り出したそれは、確かにイギリス国民のパスポート。しかし渡航暦は全くの白紙。
偽造でもないようだからちゃんと渡航はできそうだが、手続きのときに問いただされそうな不安を感じる。
「ま、まあ有るんなら飛行機には乗れるんだな」
「でも当麻さん。この子は学園都市のIDを持っていませんのよ? 外の空港には出て行けないし、中の空港だって、IDのチェックで引っかかってしまいますわ」
「げ、そうか……」
情報の漏洩には厳しいこの街のことだ、こっそり飛行機に忍び込むなんて真似は、絶対に出来ないだろう。
つくづくインデックスがこの街に入ったことは困難の原因だと思う。これでは脱出もままならなかった。
申し訳なさそうに、インデックスがうつむいた。
「飛行機にさえ乗れれば、道は切り開けるってのに」
「そうですわね」
悩んでいる暇も、実はそうない。すぐに襲ってくる素振りこそ見せないが、相手もインデックスを捕まえる準備をしていることだろう。それに、黄泉川が警備員として、いずれインデックスをどうにかすることになる。完全記憶能力を持った少女を学園都市がすんなり開放するわけがない。黄泉川はそれなりに信じられる相手だったが、黄泉川が従わざるを得ない学園都市の意思というのには、二人は信用を置けなかった。
当麻は街の裏路地を歩く程度には学園都市の『表』以外の部分を知っているが、禁止薬物の売買や企業スパイなどとはさすがに無縁だ。
強引にインデックスをイギリスへと飛ばす方法が、思いつかなかった。
申し訳なさそうに、インデックスがうつむく。その頭をぽふりと光子が撫でて、
「二十四日の夜、ちょうど三日後ですわね、第二三学区で新型航空機の、性能実証試験がありますの」
すこし自慢げにそう言った。
「実証試験?」
「中型なんですけれど、戦闘機以外では学園都市どころか世界でも一番早い音速旅客機になりますわ。最高速度は時速7000キロ超。私、この旅客機を撫でる表面流の摩擦低減のための材料開発を担当していましたのよ。材料創生は私の仕事ではありませんけれど、どんな機能や構造を持った表面であれば望み通りの物性が発現するのか、理論的な側面から候補になる新規材料の評価とスクリーニングを手伝ってきましたの」
「光子、それって」
財布から光子が一枚のカードを取り出す。学生証とは別になった、機密の多い第二三学区への入区許可証だった。
「実証試験は、日本イギリス間の往復が課題ですわ。最高速度のベンチマークテストと、振動や騒音などの旅客機としての品質テストをやる予定ですの」
比較的イギリスには学園都市との協力機関が多い。まさかインデックスとはなんの因果関係もないだろうが、その偶然はまさに渡りに船だ。
「部外者が乗れば勿論犯罪ですから、コンテナ辺りに忍び込むことにはなると思いますけれど。それでも普通の空港よりずっと確実でしょうね」
「……いいのか?」
失敗すれば、光子は極めて辛い立場に立たされることになるだろう。上手く行っても、疑われるようなことがあれば同じだ。
はっきり言って、光子にとってはデメリットの多い行いになるだろう。
「あの飛行機はもう私の手を離れていますし。それに開発者としての信用が失われても、別に構いませんわ。そういう生き方をこれからもするつもりじゃありませんもの。ねえ当麻さん?」
「え?」
「こういう逃げ方はよろしくないのかもしれませんけれど。私が一番なりたいのは当麻さんの妻ですもの」
ぱしっと肩を叩かれた。インデックスがニヤニヤしていた。そっぽを向いて頬しか見えないが、光子が真っ赤なのはよく分かった。おそらく、当麻も同じなのだろう。
「そ、それじゃ、光子。いいんだな? そのプランで」
返事をせず、こっちも見ないで光子はコクコクと頷いた。
「それで、その二三学区っていうのは遠いの? この家からそこまでが、一番危険な道のりなんだよ」
「大丈夫ですわ。それにも、案がありますから」
つまりは、妙案を持っているのは完全に光子のほう、ということだった。





「あの子はどうだい?」
「さきほど少し見えました。傷は塞がって、歩けるくらいにはなっているようです」
「そうか。他に誰がいる?」
「あの少年達はいるようですね。それと家の持ち主は朝出かけました。それ以上は分かりません」
インデックスの匿われた部屋は、マンションの13階だ。それなりに高い場所にあるせいで、1キロ以上離れたところにある高層ビルの屋上からしか中を窺うことが出来なかった。
しかも間取りを手に入れたところ、あの家はかなり広い。神裂から見えないところに、5人以上は匿えそうだった。
最悪の場合、あの家には禁書目録を手にした魔術師に加えて超能力者、そして魔術を打ち消す少年がいることになる。その見積もりで行けば、人数でも実力でもこちらを上回る。
カーテン越しに横顔を見るのが精一杯の現状では、相手の会話を拾うことも出来なかった。まさか禁書目録を相手に、魔術を使った盗聴など出来るはずもない。
「……幸せそうですよ、とても」
「……」
ステイルは応えず、カチンとライターの蓋を開けた。くわえた煙草に火をつける。
神裂は憂鬱そうな表情で、カーテン越しにごく薄くだけ見える三人の影を見つめた。
「あの少年達の真ん中に座って、三人で、幸せそうにしていますよ」
「儚い思い出さ。どうせ、あと一週間もしたら、なかったことになるんだ。全部ね」
淡々と、ステイルが紫煙を吐き出す。
神裂はいつも、こういう時のステイルの態度を測りかねていた。強がりなのだろうか、それとも過去の出来事を乗り越えたのだろうか。まさか、どうでもよくなったとか、そういうことではないだろう。
二年。あの子に忘れ去られて、あの子の敵になってからもうそれほどの時間が経つ。それだけの時が流れてもなお、時折この境遇が神裂の心をギチギチと締め上げる。
「かつての自分達を、重ねずにはいられませんね。あの構図は」
神裂とステイルの間に座って、ああでもないこうでもないとはしゃいだインデックスの姿が、今でも脳裏に浮かぶ。
そしてそのヴィジョンにはいつも『最期』の姿がおまけとして付いてくる。誰にも悟られないよう、胸につかえた鈍く重たい何かを、ため息と同時にそっと吐き出した。
――――全てを教えれば、あの二人はインデックスのために泣きじゃくるのでしょうか。
自分達の背負った苦しみを、あの二人にも背負わせてやりたいような、暗い気持ちがかすかに芽生える。
「関係ないよ。僕らはこれからずっと、あの子のためにあの子から全てを奪うんだから」
気負いのない態度で、ステイルはそう応えた。神裂にもその決心はある。だが、きっと飄々とした態度のステイルのほうがきっと、神裂よりも強い覚悟があるのだ。
「それで。準備のほうはどうなっているのですか」
「あのマンションにうっかり焦げ痕を残したせいで、ちょっと近寄りがたかったけど、ようやく落ち着いてきたね」
ステイルは今、あそこに攻め込むのに必要な術式を組上げているところだった。魔術は思い立ったらすぐ、で使えるほど便利なものではない。相手を逃がさないだけの規模の魔術を構築するには、時間が必要だった。
「攻め入るまでに、どれほどかける予定ですか」
「60時間。僕はこれがベストだと思ってる。あっちがどういうつもりで篭城しているのかよく分からないけれど、あの子の回復を待っているのなら、ちょうどそれくらいの時間にあちらも動き出すだろう。未完成でも45時間後くらいで動けるようにはしておくから、何かあれば連絡をくれ」
「分かりました」
そう言ってステイルは、神裂のいる屋上の壁の目立たないところにルーンをぺたりと貼って、挨拶もせずに出て行った。
残り15万枚。マンションの周囲2キロに渡って、ステイルはルーンを刻み歩く。
神裂の仕事は、準備が終わるまで、幸せそうな一つの家庭を複雑な気持ちで眺める、それだけだった。





「おっふろ♪ おっふろ♪ おっふっろー♪」
リビングでインデックスが、そんな歌を歌っている。
昼からも何をするでもなくだらだらと家で過ごし、時刻はもう夕方だった。
インデックスが少し遅めの昼寝をしている間に、光子と二人で野菜や肉を調理して、後は時々灰汁を取れば終わりの段階だった。
作ったのはカレー。光子に無理なく手伝ってもらえるし、分量も稼げるから便利だった。
……まあどこから見ても新品だった鍋を使うのに抵抗はあったが。
台所の横を光子が横切る。和室に置いておいた着替えを持ってきたようだった。
「それじゃ、入りましょうか。インデックス」
「うん!」
「当麻さんは、ちゃんとお料理の様子を見ていてくださいね?」
「あ、ああ。わかってるって」
「別に私達の様子を見にいらっしゃらなくって結構ですのよ?」
「しないって!」
まるで信用されていないことにトホホとなる。
「とうまは全然信用できないもん! ねー光子」
「信じられないなんて言いたくありませんけど、当麻さんは、ねえ」
困りますわよねえ、なんて感じでインデックスと頷きあって、二人はバスルームへ向かった。
「昨日のあれでは拭き残しもあったでしょうし、ちゃんと洗ってあげますわ。インデックス」
「うん。ありがとねみつこ」
ひとりで風呂に入らせるとまだ危なっかしいインデックスに、光子が付き添う。
扉二枚を隔てたその先にお花畑があるのが、ちょっと悶々とするところもある当麻だった。
邪念を振り払いつつ、カレールーのパックをあける。
軽く割ってぽいぽいと鍋に放り込んで、焦げ付いたりジャガイモが煮崩れたりしないように少し注意しながら混ぜて、頃合を見て火を落とした。
ちょうどそこで、鍵がガチャリと開く音がした。
一瞬身構えたが、見知った長髪の美女、この家の家主だと気づいてほっとする。
「ふいー」
「あ、先生お帰りなさいです」
「へっ? ああ、上条いたんだっけか。ただいま。良い匂いがするじゃんよー」
「今日はカレーです」
「いいなぁ。帰ってきたらご飯を作ってくれてる同居人がいるって」
「彼氏作って同棲したらいいんじゃないですか」
「彼女持ちがそういうこと言うとムカつくじゃんよ」
軽く当麻を睨んで、手にしたリュックサックをリビングの所定の位置にやってうーんと伸びをする。
胸の揺れが大胆すぎて、思わず当麻は目を逸らした。まったく黄泉川は頓着しない。
「ご飯とお風呂、どっちにします?」
「ぷっ……上条、お前それ似合いすぎじゃん。それじゃあ風呂に入ってくるかな」
やけに主夫が板に付いた当麻の態度に黄泉川が噴出した。
独り暮らしをしてるんだから学園都市の男子はこんなもんだと思うんだけどな、と当麻は憮然となった。
「あ、先生。いまインデックスと婚后が入ってるんですけど」
黄泉川を当麻は止めようとした。さすがに三人目は入れないだろうし、待つ必要がある。
黄泉川は違う違うといった風に手を振った。
「分かってるよ。手を洗うだけだって」
そしてガラリと洗面所の引き戸を開けた。



「えっ? きゃあっ!!」
「あー、ゴメンゴメン」
「先生早くお閉めになって! 当麻さんに、その、あの……。当麻さん!」
「ごごごごめん!」
洗面所にはブラとショーツだけしか身に着けてない光子が、インデックスに服を着せているところだった。インデックスはすでに服を気負えていたせいで、難を逃れた。
デザインは黄泉川先生並に色っぽい。布地が少ないとかそう言うことはないが、清楚な常盤台の制服の下にあんなワインレッドの下着をつけているのかと想像すると、なんというか、こう、当麻も男の子なのである。
胸を庇うように腕を畳んだ光子が可愛い。スタイルには気を使っておりますし、自信もありますからと豪語する光子だが、さすがに不意打ちは恥ずかしいらしい。
……正直に言って、インデックスや黄泉川先生よりも、光子の体に当麻はドキドキした。



「……当麻さんの莫迦」
「う、でもあれは俺が悪いんじゃないと言いたい」
「間接的にでしたけど、きっと当麻さんが悪いんですわ」
髪を濡らしたまま出てきたインデックスとは対象に、光子はしばらく洗面所から出てこなかった。
唇を尖らせて文句を言う光子の頬は、まだ赤かった。
「でも、下着姿の光子、やばいくらい可愛かった」
「……もう。嬲るのはお止めになって」
「本当だって」
「どうしよう。今つけている下着がどんなのか当麻さんに知られてるなんて。落ち着きませんわ」
ひそひそ声で、二人はそんな会話を交わした。
今回は光子以外に被害がないので、怖いことはないのだった。恥ずかしがる光子がひたすら可愛い。
「あっ。て、天気予報の時間ですわ」
話を打ち切るように、テレビの前にいるインデックスの隣に光子が逃げた。
タオルでさらにインデックスの髪をぬぐいながら、一週間分の予報に耳を傾ける。
「良かった。24日は、夜までずっと晴れですわ」
「この街って天気の予知を無料で聞けるんだね。これって当たるの?」
「予報って言ってくれ。予知だとこの街じゃ別の意味になっちまう。で、この予報だけど、学園都市じゃ的中率100%だ。原理的に外れないんだよ」
「え?」
「お前だって算数くらいは出来るんだろ?」
「当たり前でしょ。馬鹿にしてるね、とうま」
「時速100キロで走る車は1時間で何キロ進むでしょうか」
「引っかけ問題なの? ……100キロに決まってるんだよ」
「なぜそう分かる?」
「なぜって……馬鹿にしてるの? とうま」
タオルをかぶったその顔で、インデックスは当麻を睨みつけた。
「そうじゃねーよ。今のは簡単な算数のレベルだけど、必要な情報をそろえたら未来のことでも分かる、ってのが科学だってことさ。もしこの地球に存在する全ての空気分子の動きを計算できたら、それって未来を予測できるって事だろ? 学園都市の上に浮いてる『おりひめⅠ号』って衛星に積まれた『樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>』ってスーパーコンピュータが、それをやってるんだ」
「分子? こんぴゅーた?」
「まあ、人間よりも計算の上手い機械に、一から全部計算してもらってるから正しい、って事だよ」
「ふうん。よくわからないけど、信じていいってこと?」
「……当麻さんの言っていることは間違いですけれど。およそ外れない、という意味では信じてよろしいわ」
黙って話を聞いていた光子が、仕方ないというように軽いため息をついて答えた。
そして間違いを指摘する時の先生のような表情で、光子が当麻を見つめた。
「当麻さんのそれ、よく巷で流れている説明ですけれど。そんなやり方で予測をしているはずがありませんわ」
「え……? そうなのか?」
「もう、計算科学なんて基礎の基礎……あ、ごめんなさい。自然科学系の能力者でもなければそうとまでは言いきれませんわね」
光子がタオルでインデックスの髪を拭くのを止めた。そして傍に置いたドライヤーで、髪を乾かし始める。
「たとえばここにある22.4リットルの空気。この中に空気の分子が一体いくついるかご存知?」
「アボガドロ個数個だから、6.02×10の23乗個だろ?」
「そうですわ。その全ての分子の、今この瞬間の情報を記憶するとしたら、どれくらいのデータ量になるでしょうか。仮に16桁の精度で位置と速度のベクトルを記憶したとすれば、三次元空間なら一つの分子につき384ビット、22.4リットルの空気なら2.3×10の26乗ビット、つまり200ヨタバイトくらいのメモリが必要ですわね。ヨタって分かります? 当麻さんの携帯はあまり新しくはありませんからテラバイトくらいのオーダーでしょうね。たった22.4リットルの空気の情報を記録するのに、当麻さんの携帯が1兆個くらい要りますのよ。地球上の全ての空気は、その一兆倍でも足りませんわ」
「えっと……まるで実感が湧かないな」
「ええ。それだけの情報をメモリに保存して、読み書きをするのは大変なことですわよ」
「だから無理、ってことか?」
「無理な理由なんていくらでもありますわよ。空気の流れはナビエ・ストークス式で解くわけですけれど、その微分方程式を解くには初期条件が必要ですわ。つまり、計算の始点になるある瞬間の、世界中に存在する全ての空気分子の位置と速度のベクトルを把握する必要があるということです。そんなこと、超能力者でもなければ出来ませんけど、そんなことが出来る超能力者はレベル5程度ではありえませんわ」
空力使いだから、だろうか。なんだか口調が当麻をたしなめるようで、謝ったほうがいいのだろうかと思案してしまうのだった。
「それにこの世界は量子力学が支配していますから、どこまでも確かなこと、なんて絶対にありませんのよ。過去も未来は一つに定まらない、というのが科学の常識ですのに」
「えっと、その、すみませんでした」
「え? あの。……ごめんなさい当麻さん。口が過ぎましたわね」
はっと我に返ったように、光子が謝った。充分に乾いたらしく、インデックスの髪に当てていたドライヤーを切った。
途中から話についてくるのを完全に放棄したインデックスが、ぽつりと聞いた。
「結局、この人の言ってることって信じていいの?」
「ええ。原理上、100%なんてことはありませんけれど、99.9%くらいまでは正しいですから」
「なあ光子。『樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>』がそんなにすごいわけじゃないのなら、何で外と違って学園都市の予報ってこんなに当たるんだ?」
「それは私達、空力使いの努力の賜物ですわよ。確かに気象というのは予測のしにくいカオスな所はありますけれど、外の学者はカオスという言葉を言い訳にしすぎですわ。カオスではないものにカオスであるってレッテルを貼って逃げたりせず、真摯に誠実に、空気の流れというものを見つめれば、もっと精度の高い予測モデルを組み立てられる、それだけのことです。この街には空気の流れが『見える』能力者が多いですから、もちろん大きなアドバンテージを持っているわけですけれどね」
「へー……ごめん。完璧には理解できてないかもしれないけど」
「ううん。こっちこそ熱くなってしまってごめんなさい。でも、『樹形図の設計者』は力技で何でも出来る夢のスーパーコンピュータではありませんわ。結局、外から見てもたかだか30年しか進んでいない技術ですもの。分子レベルで世界の全てを演算することなんて、それ自体がこの街の最終目標そのものですわ」
小萌先生が時折口にする『SYSTEM<神ならぬ身にて天上の意思にたどり着くもの>』という言葉。当麻はそれを思い出した。軍事にも民生にもとてつもなく貢献しているレベル5の超能力者でさえ、学園都市にとっては副産物でしかない。神様にしか分からないことを理解するために神様みたいな人間を作ること、超能力者の総本山は自分達のスローガンが神学的なことを、むしろ逆説的に愛していた。


バタリと、そこで風呂の扉が開く音がした。黄泉川先生が広から上がった音だ。
「あ、あいほが上がってきた。ほらとうま、早くおふろ入って。とうまがお風呂からあがってこないと晩御飯食べられないんだから」
「ん。わかった。けど先生がちゃんと出てきてからじゃないと動けないだろ」
「むー。それはそうだけど」
インデックスに苦笑いしつつ当麻は腰を上げる。自分の着替えを整えるためだ。
なんだかんだでインデックスがご飯を待ってくれるのは、実はちょっぴり光子が怖いからなのだった。

***********************************************************************************************************************************
あとがき
工学系の専攻の統計熱力学の授業で、教授が「古典力学、ニュートンの世界では未来と過去は唯一つですが、これに不確定性原理を導入すると未来は一つではないし、過去も一つではありません」なんて言いだしたときにはドキドキしたもんです。量子力学なんて化学反応のためにあるとしか思ってなかったですからね。



[19764] ep.1_Index 09: 鬼ごっこ
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/28 00:46
怪我をしてから、きっかり三日。夕焼けが街を真っ赤に色づけている。その日が落ちれば、動き出すことになっている。
インデックスはこの三日でかなりの回復を見せた。
はじめて見たときと同じ、瀟洒な刺繍の入った修道服に身を包み、頭にフードを載せる。もう一人で歩くくらいは、何の問題もなかった。
とはいえこれから敵に追われてかなりの距離を走るのだ。それには不安がないわけではない。
「もう、走れますの?」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃなくても、走ることになるけどな」
「そういうこと。それじゃあ、二人の準備はもういいの?」
当麻と光子は、コクリと頷く。光子がインデックスの服のよれを直した。
「ねえ。もう一度だけ聞くね。本当に、私についてくるの?」
「ああ」
「ええ」
「ここでお別れしたほうが、二人は幸せかもしれないよ」
「それはない」
「そんなことをしたら、ずっと後味の悪いものが残りますもの」
当麻と光子の返事は素っ気無かった。もう決まりきったことだからだ。インデックスは、もうそれ以上は聞くまい、と思った。
もし、本当の本当に危機が迫ったなら、自分が囮になれば二人はきっと助けられる。
一度相手を振り切れば、あとは自分ひとりで何とかなるのだ。これまでもそうやって生きてきたのだから。
今ここで二人と別れない理由は、相手に補足されているからではないと、インデックスは分かっていた。
別れたくないのだ。この数日間が自分にとってかけがえのないほど暖かだったから、それを手放したくなくて、自分は二人の好意に甘えているのだ。
……心のどこかでそう分かっていながら二人を突き放せない。
それは禁書目録を背負う強い少女の、弱さだった。
部屋の明かりはまだ点いていない。いや、今日はもう点ける予定のないものだ。
黄泉川に書置きは残さなかった。保護してくれた人間を振り切って逃げるのに、ありがとうを言う資格はないだろう。
インデックスはついさっきまで、そこにあった穏やかな空気に別れを告げる。真っ暗で人のいないリビングは、何も返事を返さなかった。
「じゃ、行くか」
「うん」
「まずはこのマンションを無事降りるのが一番の仕事だな」
「だね」
当麻が、ドアノブをひねる。
ガチャリというありふれた音が、戦いの火蓋を、切って落とした。


「な、なんか拍子抜けするくらいだな」
「……」
マンションを出てすぐ。
インデックスは廊下をざっと見渡して、あの炎の巨人を呼び出すルーンがないことを確認した。
そしてエレベータが近くの階にいたのを見て、それで降りてきたのだ。当麻と光子にしても三日ぶりの下界だった。
「人が、いませんわね」
社会人の帰宅には少し早い時刻。おかしいとまでは言えない。
「思ったより、速いかも」
「え?」
「もう私たちの動きを知ってて、人払いの魔術が発動してる!」
「っ……走るぞ!」
「はいっ」
目指すは駅。沢山の人を乗せた交通機関に乗れば、相手は手出しが出来ないはずだ。だからそれは相手の最も警戒していることでもあるだろう。
これは鬼ごっこ。
逃げるこちらは三人。そして追うあちらは二人と、そして。
「とうま! 右!」
「くっ、おおおおおおおお!!」
何の拍子もなく不意に現れる、炎の巨人。
発現からノータイムで襲ってくるそれは、インデックスの指示がなければ対応すら出来ない。
黄昏時のなんてことはない道路が真っ赤に照らされる中、当麻の右手が炎と拮抗する。
当麻一人なら、もうこの時点で詰みだろう。
「当麻さん!」
地を走るのが仕事のはずの大型バイクが、滑空する。
鈍重で知性を感じさせない炎の巨人は、ぼんやりとそれを見つめる。
粘性のベシャリという音とともに『魔女狩りの王』は飛び散った。
「光子! 無理するなよ」
「このくらい! 平気ですわ」
「能力は使いすぎると消耗するんだから、光子は温存してくれよ」
「はい。分かっていますわ。でも当麻さんが」
「大丈夫。何とかなる」
「二人とも! もうこっちは終わったから! 行こう」
壁に黄泉川家から持ってきた果物用のペティナイフで何かをガリガリと刻んでいたインデックスが走り出す。
進むにあたってやることは、変わらない。
顕現の前触れをインデックスが読み取って、当麻に指示を出す。当麻が炎の巨人の腕をつかんで動きを止める。
光子がそこらにある何かを投げつけて、『魔女狩りの王』を吹き飛ばす。そしてまた逃げる。それの繰り返しだった。
10メートルに一度、インデックスが壁や木にナイフで何かを刻む数秒と、50メートルに一度、顕現しなおして襲ってくる『魔女狩りの王』をいなす数十秒が、三人の足を止める障害だ。
全力で走っているはずが、結局早足程度のペースにしかならない。
「あっちがこのままだったら、乗り切れるんだけどな」
「うん。とうまとみつこがいればこの術式だけなら楽勝だね。でも」
「もう一人」
インデックスを背後から切りつけた、あの女がいる。あちらにこちらの動きが知られているのは明らかだ。
ものの数分で襲ってくるだろう。駅までは幸い1キロもない。
問題は、そうなる前にどこまで逃げられるか。




「そちらの首尾はどうですか、ステイル」
「予定通りだけど、人払いに忙殺されそうだ」
「では『魔女狩りの王』のみの参戦で貴方は裏方に徹するのですね」
「そうなるね。ま、止めは君に任せるよ」
「誰も死なせる気は、ありませんが」
「そうかい」
通信魔術で二三言ステイルと話をしてから、息一つ切らせず、神裂はビルの最上階から地上までを降り切った。
エレベータよりも自分で降りたほうが早い。その膂力を遺憾なく発揮して、神裂はインデックスたちとの距離を詰めにかかる。
殺したくない、と神裂は思っている。
確証はないがインデックスを匿った少年少女は、禁書目録を悪用する気のある人間に見えなかった。もっと素朴な好意で、匿っているように見えた。
昨日と一昨日の二日間は、チリチリと自分の中の思い出を焦がすような嫌な気持ちを感じるくらい、彼らはごく自然に、仲睦まじく見えたのだった。
自分の直感が正しいのなら、あの二人は自分が刀を振るっていい相手ではない。
――もちろん、インデックスを救うことよりそれは優先しない。
結局、自分は二人を死なない程度に痛めつけることになるのだろう。誰も傷つかないで、誰もが幸せになることはもう、諦めていた。
「お願いだから、あの子を素直に渡してください」
まだ少年たちに対峙もしていない。聞こえるはずのないお願いを誰にともなく呟く。
話し合いの出来る相手であって欲しい。もしそれが叶う相手なら、まだしもましな未来を全員に配り歩ける。

神裂の目が夕闇を走るインデックスを捉えた。純白の修道服はよく映える。
逃げられやすくなるというから不都合なことだが、足取りが確かであることに、神裂は安堵した。
「止まりなさい!」
その一言で、三人がびくりと振り返った。だが覚悟は決めてきてあるのだろう。誰一人、足を止めなかった。
「言い方が悪かったですね。止まらないのもご自由ですが、その子の回収だけはさせていただきます」
ギリ、と自分を睨む少年の顔を見つめ返した。
――と同時にコンクリート辺が、神裂めがけて飛んでくる。
七閃でそれを落とす。神裂にとってどうということのない攻撃だった。
「そちらこそ、言葉一つで説得されてはいただけませんの?」
「申し訳ありませんが、そうもいかない事情がありますから」
意志の強そうな瞳。敵は少年一人ではないことを神裂は確認した。

追いすがる神裂に、もう一片、コンクリート片が飛んできた。
先ほどと同じ。神裂の足を全く緩めさせることのない無為な攻撃だった。
無駄と思いつつも、忠告はする。それで相手の心が萎えてくれればと僅かに願うからだ。
「無駄です。石やコンクリートなど、一瞬と言われる時間に七度は切り捨てられますから」
「じゃあ、炎は切れるの?」
「え?」
久々に、あの子から話しかけられた。不敵に笑った目で、憎憎しげに見つめられながら。
「――――っ!」
呼吸が止まる。瞬間、右に弾け飛ぶように逃げた。
『魔女狩りの王』が神裂のいた場所を抱きしめた。
「まさ、か。もう」
「ちょっと読むのに苦労したけど。ルーンなんて所詮はラテン文字の亜種なんだから。ゲルマン系とラテン系の古語を知ってれば知らない文字があっても読めるんだよ」
神裂は背筋が寒くなるのを感じた。
ステイル・マグヌスは失われたルーン文字を復活させ、新たに力ある文字を加えるほどの術者だ。あの年齢にして、ルーン使いの中ではトップクラス。
そのステイルが己の全てをかけて編み出したのが『魔女狩りの王』だ。
それを、インデックスはほんの一瞥で読み取り、それどころか逆手にとってしまっている。
それは魔術師としての底を見透かされたということだった。
インデックスという少女が蓄えた知識、それが凄まじいものであることは神裂も知っている。
だが、こうまでも恐ろしいものなのか。ここまで読まれてしまうものなのか。
――――手の内を明かしてはならない。
自分が何者なのかを知られればどんな『毒』を吹き込まれるか、分かったものではない。
神裂は、自身の使える魔術はどれ一つとして見せることが出来ないのだと、悟った。

インデックスが何かを呟く。
再び、『魔女狩りの王』は禁書目録の命に従い、神裂に襲い掛かった。
遠隔操作なのがまずい。ステイル本人が目の前にいれば、操作を奪い返すことも出来るだろうに。
「くっ!」
無様に『魔女狩りの王』から逃げる。
防ぐための魔術を使うことが許されない条件では、神裂にもそれしか手がなかった。
いや、唯一手はある。
なんの手加減もせず、全力の抜刀術をもって『魔女狩りの王』と少年達切り殺せばいい。
正確には、何の手加減も出来ないのだが。そうすれば何の障害もなくなって、晴れてあの子を助けることが出来る。
禁書目録は恐ろしい存在だが、単体ならただの非力な少女なのだ。
……だから。三年前、自分は彼女の傍にいたのだ。
「切らなければ、ならないのですか」
神裂は呟く。出来ることなら、と辺りを見渡す。
幸い『魔女狩りの王』は鈍重だ。次に襲い掛かってくるまでに退路を確保しようとして。
『魔女狩りの王』が突然進路を変えて、超能力者の少女に襲い掛かった。


「光子!」
神裂とは違い、あちらの陣営には魔術に対するジョーカーがある。上条の右手が『魔女狩りの王』の身動きをあっさりと封じた。
「そういうことですか。ルーンを書き換えた場所でしか、貴女は『魔女狩りの王』の制御を奪えないのですね」
「とうまがいればそれでも充分だけどね」
「そうですか?」
返事をするのと同時に七閃を繰り出す。
滑空する自転車と、神裂に向かっておかしな勢いで倒れこむ樹木を細切れにした。
どちらもあの少女の能力だろう。それで足止めをする気らしい。
「私の足止めが甘いように思いますが」
「もう終わったけど?」
上条が押さえていた『魔女狩りの王』が姿を消して、また神裂に襲い掛かる。ルーンは木にナイフで刻むもの。習字のような丁寧なものではない。
『魔女狩りの王』が正しくあちらを攻撃するのは少しの間だけ。
「ふっ! ……成る程、厄介ですね」
「当麻さん! 速く!」
「おう!」
三人は住宅街の信号のない道を抜けて、駅前大通りに抜け出た。閑静だった住宅路とは違い、いつもよりずっと少ないものの車の往来がある。
まさに今、人の気配が消えつつある場所のようだった。
「やっぱり。こんな大都市の駅前から五分で人を消すことなんで無理なんだよ」
「ってことは一旦逃げ切れたってことで良いのか?」
「楽観されては困りますね!」
『魔女狩りの王』を避けながら、こちらに神裂が追いすがってくる。もうすぐにあちらも大通りに出てくることだろう。
こちらが開けたところにいて、あちらが隘路にいる。この一瞬がチャンスだった。
「光子」
「ええ。分かっています」
婚后光子の能力は、豪快だった。
本当は繊細な能力の使い方もあるのだが、本人の性格のせいか、とかく『ぶっ放す』ことが多い。
今しようとしていることは、その際たるもの。

神裂はチラリと目の前の少女と目が合ったのに気づいた。
それで、何かを仕掛ける気なのだと看破する。戦い慣れのしない、分かりやすい視線だった。
先手を取られる前にこちらから仕掛ける、そう決めて踏み足にぐっと力を込めたところで。

ぶわっと、足元から突風が吹き出した。呼吸が止まる。
この風速ではフルフェイスのヘルメットでもして口元の風を緩めないと息も出来ない。
体に先んじて吹き上げられた長髪に痛みを感じながら、神裂はなすすべなく大空に舞い上がった。
――――やられた。
神裂は空で自分を動かす方法を知らない。落下までの五秒がひどく緩慢だった。
「凶刃を振るう貴女に、手加減はしませんわ。この子を傷つけたことを後悔なさい」
視界の外から、冷ややかな声が聞こえた。少女の声は、身の危険に戸惑っていた先日とは雰囲気が違っていた。
次の瞬間。
バシュゥゥゥゥゥゥゥゥッッッッ
圧縮空気が激しく空気をかき乱す音と共に、重量1200キログラムのそれが、持ち上がった。
「な……っ!」
「死なないように受身をお取りになることね」
神裂に出来るのは斬ることだけだ。だが切ってなんになる。運動量は切ったところで減りはしない。
目の前に迫る乗用車に対し、神裂に出来ることは何もなかった。

ガゴッ!!

神裂は、時速30キロで空を飛ぶ乗用車に、なす術もなく轢かれた。




ガヤガヤとしたショッピングモールを足早に駆け抜ける。
人払いが全く効いていないのか。それとも諦めたのか。夕暮れ時の駅ビルの中は帰宅中の学生達で一杯だった。
「ついてきていますの?」
「わかんないんだよ。魔術の気配がしないから」
「それは逃げ切れたって意味じゃねーのか」
「探してるのは間違いないから。それに追いかけるのが専門の相手から逃げ切ることなんて簡単には無理」
土地勘のある上条の先導で人ごみを突き進む。
長髪の女に対しては、あれから三台くらい車を住宅路の先にねじ込んで、道をふさいでおいた。
迂回したのか乗り越えたのか、その光景に立ち会うより先に三人は駅前に飛び込んでいた。
今のところ、あの赤髪の神父からもあの女からも、見つかっていないように思う。
もう目と鼻の先には、最上階にあるモノレールの駅へ通じる広場があった。
「まだ走れますの?」
「大丈夫だよ。光子こそ、まだ疲れてない?」
「ええ。大したものは飛ばしておりませんから」
インデックスのしっかりとした足取りにほっと一息をついて、再び前を向いて走り出した時、光子はドシンと人とぶつかった。
「ごめんなさい」
一言謝って、あとは無視する気だった。知らぬ人の心象が悪くなったところで、どうでもいい。
だが、その人から、声をかけられた。
「あ、婚后さん?」
「えっ……佐天さん!?」
「どうしたんですか?」
「いえ、その」
「みつこ!」
「ごめんなさい、今急いでいますの。お話はまた今度」
「え?」
佐天は友達と遊んだ帰りに、駅前をぶらついているだけだった。
急に会って驚きはあったが、できれば光子にいろいろと報告したかった。だが後姿はもう人影にまぎれ始めている。
――知り合いと一緒にいて、やけに焦ってるみたいだったなー。婚后さん。
この時間は五分に一度電車が来る。あんなに焦って一体どうしたのかと首をかしげた。
いや、焦りというよりはむしろ、緊張感に近かったような。
まあいいやと忘れようとしたところで、ふたたび背後からカツカツと足早な音を聞いた。
振り向くと、気持ち悪いくらいの赤髪の、長身の神父がいた。
終日禁煙指定の学園都市の公共スペースでくわえ煙草をするその姿は、衆目を集めずにはいられない。佐天も多分に漏れず、その神父を凝視してしまう。
……と、その神父が辺りを見渡して、光子たちがいる方向に目線を合わせて、すぐさま歩き出した。
直感で、佐天はその神父と光子たちが関係が有るのだと、そう感じた。光子たちは神父にまだ気がついていないように見える。
そして彼らの関係は、きっと平穏なものではない、そう佐天は判断した。
自然と次に佐天が取った行動は、思慮の結果というよりは、直感に近かった。
「婚后さーん! こっち!」
ぶんぶんと、探していた友達を呼ぶように手を振る。
それなりに声を出したから、近くの人たちがいっせいに佐天を見た。
もちろん、光子たちも。そして佐天の意図どおり、佐天以外の誰かを見つけたのだろう。
急に足取りを速めて、その場からいなくなった。
「チッ……」
忌々しそうな目で、神父がたっぷり三秒くらいこちらを睨みつけた。
それに対して目を合わせずに、あれーおっかしいなあ、という態度を佐天は繕った。
急いでいるからか、もとからそれほど佐天には興味がないのか、神父は目線を外すとすぐ光子たちを追い始めた。
そこまでして、佐天は自分の背中が嫌な汗で濡れているのに気づく。さっきの神父の視線は、なにか普通と違う、嫌な視線だった。
もし光子たちが困っているのなら何か手伝ったほうが良いかもしれない。
そう思いながら、しかし佐天は足が前には向かなかった。




「神裂、そっちは?」
「今、駅の改札にいます。彼らは今どこに?」
「間に合ったらしいね。こっちは今から広場に出るよ」
そう言った瞬間に、ステイルは広場に出た。中央のエスカレータを上れば改札だ。
階上にいる神裂と目線を合わせる。距離にして30メートルくらいの二人の間に、ちょうどインデックスたちを挟みこめた。
「悪いね。モノレールの旅はまた今度にしてくれ」
三人に聞かせるでもなく、そう呟く。ここを目指すであることは前日から予想できていたから、ここの地図は完全に記憶に入っている。
この配置で、次に逃げる位置はもう一つしかない。
少し遅れて三人は神裂に気づいたらしかった。慌てて進路を変えたのが分かる。
ステイルも神裂も、すぐには追いかけない。都合のいい方向に逃がしていくのにちょうどいい距離、というものがあるからだ。
逆に言えばそれを測れるだけの余裕があるという意味でもあった。
三人が広場を後にしてきっかり15秒後、神裂とステイルは合流した。
「さて、それじゃあ仕切りなおそうか」
「ええ。あちらも充分消耗してきているでしょう」
「そういえばさっき、随分と外で面白そうなアトラクションが見えたね」
空を飛ぶ車に轢かれるという貴重な体験をした神裂が、ふんと鼻を鳴らす。
まんまとしてやられたのことに少し自分で苛立ちを覚えているらしかった。
「……全身を打ちましたから本調子とは言えないですが、どこかを損傷したということはありません」
「そうか」
別ルートから上条たちを追い抜いて改札に先んじるくらいのことは、出来る状態だった。
神裂の受けたダメージついては、ステイルは問題ないと判断した。
これからは、振り出しに戻る、ということになる。
目の前の通路はエレベータと螺旋階段に繋がっていて、上に行けば袋小路、それを避ければ下に、つまりまた街中へと出て行くことになるからだ。
五分に一度、百人単位で人を吐き出す駅前を無人にすることはかなり無理があるが、人の流れに手を加えることは出来る。
彼らの逃げる先は人のいない、つまり『魔女狩りの王』とステイルと神裂、三人で立ち向かえる場所だった。
「エレベータがちょうどあったらしいね」
「こちらは間に合いませんね」
目の前で三人がエレベータに乗り込むのが見えた。15秒遅れて、ステイルたちもたどり着く。
「そう速くないことを祈るね」
「走って降りても追いつけるでしょう。扉の開閉は時間の掛かるものですよ。……ちょっと待ってください! ステイル」
「どうした、神裂」
ステイルは階段を下りようとして、立ち止まる。
「エレベータは上へ向かっています」
「……まさか、上に逃げたのか?」
このエレベータは一階と、駅のあるこの階と、そしてビルの最上階の展望台にしか止まらない。
つまり展望台に上がってしまえば、逃げ場がないのだ。非常階段で下りることは可能だろうが、それにしたって結局一階まで一本道。
「してやられたね。上と見せかけて下に行ったか」
「あるいは本当に上に逃げていて、こちらの予想を超える手立てがあるか、ですね。混乱をきたして愚策を選んだのかもしれませんが」
「二手に分かれるか?」
「そうですね。ただ、手の内を読まれているあなた一人では苦しいのではありませんか、ステイル」
「……嫌なところを突いてくるね」
「私が上に行きます。ステイルは下を探してください」
「わかった」
僅かな目配せ。マントを翻してステイルがその場をすぐに去った。
神裂は軽く息を整える。上に登りきったエレベータが、もうじき降りてくるところだった。




屋上展望台に出て一息つくほどの暇も与えられないまま、エレベータは再び下に降りて新たに誰かをまた、ピストン輸送してきた。
……いや、誰かとは言うまでもない。心当たりが一人しかいなかった。
「ああ、ステイル。こちらにいましたよ。……ええ」
手にした携帯電話で、ひとことそんな連絡を取る長髪の女。上条たちの後ろに、神裂火織が追いついた。
「それで、どうするつもりなのですか」
大きめの声で神裂が声をかけた。このビルの屋上はかなり広かった。
神裂のいるエレベータ前からここまで、一挙手一刀足の距離とはいかないだろう。
「別に。覚悟を決めてた、そんだけだよ」
「覚悟、ですか。捕まる覚悟をしてくれたのならいいのですが。無駄と知りつつ戦う覚悟でもしましたか」
真っ直ぐではなく、神裂は壁を伝うようにしながら上条たちに近づいていく。非常階段がそちらにあるからだ。
下に逃げられたところでステイルがいるのだが、神裂はもう、ここでけりをつける気でいた。
「ちげーよ」
上条は、不敵に笑った。……正直に言うと、ちょっと恐怖心を隠していた。
インデックスは祈るような仕草をしていた。祈りたい気持ちは、上条には分からないでもない。
そっと目を開いたインデックスが、上条を前から抱きしめた。
唐突の抱擁に、神裂は混乱する。
「……な、何を」
「何の覚悟を決めたかって言うとな」
上条がカチャカチャとベルトを伸ばしてインデックスに巻きつけて、素早く留めた。
二人は屋上の端から2メートルくらい離れたところにいる。上条が端に背を向けて、インデックスがビルの外を向いていた。
そのインデックスの背に、とん、と光子が触れた。
「マジでコレ聞いたときは怖いって思ったし、やっぱ実際にここに来るとビビっちまったんだよ。ちょっとそれで覚悟に時間がかかったんだ」
「酷いですわ。私、100キロ程度の質量を100メートル飛ばす時の誤差は5センチ以下ですのよ?」
「もうなんでもいいから早くして!!」
神裂はその言葉で、むしろ自分達が手玉にとられていたのだと悟った。
ついさっき、見せられたではないか。目の前の少女はトンを超える鉄塊でも飛ばせるのだ。人間など、造作もないことだろう。
「地図を見れば分かることですから、お教えして差し上げますわ。この一体には数キロ四方に渡ってビルが乱立していますの。私達がどれを伝っていくのか、せいぜい頑張ってご推理なさるのね」
「くっ……させません!」
「もう遅いですわ」
神裂は分かっていなかった。光子がインデックスに触れた瞬間から、気体のチャージは始まっているのだ。
常人離れした膂力で神裂が間合いを詰めるよりも早く、上条とインデックスは、空を飛んだ。
「いぃぃぃぃぃぃぃぃやああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」
「うわぁぁぁぁ! ってインデックス! 落ち着け!」
「……だから大丈夫だって言ってますのに」
屋上から飛び降りた経験のある人にしかわからないだろう。
掴まるものが何もない空中から、街を見下ろすのがどれほど怖いことかなんて。
三人は、神裂を振り切って、空を伝って逃げ出した。
……あといくつも、これをやらなければならないのかと思うと、上条はゾッとした。




「ただいま。帰ったじゃんよー」
ガチャリと黄泉川は自宅の扉を開けた。
ようやく家に誰かがいて、ただいまというのが習慣になってきたところだった。
「あれ?」
部屋が、暗いのに気づいた。
さすがにもう明かりをつけないとやっていけない時間帯だ。
それに夕食の匂いもしない。こちらから要求こそしなかったが、子供達は毎日食事を作ってくれていた。
「おい上条、婚后、インデックス、いないのか?」
……結果は明らかだった。
きちんと掃除された部屋、片付けられた自分達の布団。彼らの私物は一つもなかった。
ここを出て行ったと、いうことなのだろう。
「あんの馬鹿野郎ども……」
警備員である黄泉川を信じられなかったのか、それとも迷惑を掛けたくなかったのか。
どうでもいい。――――無事でいろよ。
黄泉川は荷物もおかずに、再び街へと駆け出した。



[19764] ep.1_Index 10: ここに敵はいない
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/27 18:35
いくつものビルを飛び越えるうちに、インデックスがぐったりしてきた。
ヴァーチャルリアリティなりあれやこれやで、学園都市の人間は非常識に慣れているほうだ。
インデックスも魔術的な意味では非常識に慣れているだろうが、さすがに人に任せて生身で飛翔するという行為は気疲れするらしかった。
「平気か?」
もうそういう次元じゃないんだよ……」
インデックスは当麻の胸に顔をうずめたまま、もごもごとそう呟いた。
隣の光子の顔を一瞬気遣うが、まったく意に介していなかった。
それもそのはず。光子はそれを気にする余裕がないほど、疲弊していた。
「光子、そろそろ」
「大丈夫です。まだ、いけますから」
「……ん、分かった」
そっと、というには若干重たいどしんという音と共に腰から地面に落ちる。
地面というのは勿論どこかの屋上だ。さっきはビアホールの片隅に下りて悲鳴を上げられた。だんだん、着地の瞬間が荒くなっている気がする。
光子にとって長距離を飛ばすことと落とす場所をコントロールすることは大した苦痛ではない。
ただ、壊れないようにそっと物を「降ろす」には細心の注意が必要で、それが光子の集中力をガリガリと削っていた。
その光子に何もしてやれない苛立ちが当麻の中で募る。
右手はポケットに入れっぱなしだ。空中でうっかりインデックスの背中にでも触れようものなら、その瞬間から垂直落下が始まるのだ。洒落にならない。
「……ごめんなさい当麻さん。これが多分、最後になりますわ。
 これ以上はもう当麻さんたちをちゃんとコントロールできなくなりそう」
「ここまで来りゃかなり引き離しただろ。このまま行けば逃げ切れるはずだ」
「ありがとね、みつこ」
ニコリ、と光子はくたびれた顔で微笑んで、インデックスの背中に触れる。人間二人を持ち上げるだけの力が、その背中に加わった。
またインデックスの表情が苦しげになった。この瞬間は呼吸が止まるからだ。人間の体は瞬間的な力には弱いが、ゆっくり掛けていけばかなりの応力に耐える。
この発射の瞬間も、光子の精神力を削る作業の一つだった。
「――――ぷは」
「うし、これで終わりだな? 外すぞ」
「ん……」
「終わり、ですわね」
最後のビルに飛び移ってすぐ。光子が浅い息をつく。当麻はインデックスから離れて、光子を抱きしめに行った。
顎を伝う汗を指で拭ってやる。
「あ……ごめんなさい」
「いいって。お疲れ、光子」
「こんなの、大したとはありませんわ」
つんと澄まして強がる光子がつい可愛くて、頬と髪を撫でる。
ただ急いだほうがいいのは分かっているから、名残惜しくても慰撫するのはそれで終わりにした。
「とりあえず降りるか」
「ええ」
上条たちがいるのは4階で終わりのビルだ。
狙っていたわけではないが、階段なりエレベータなりを駆け下りるのに楽なビルだった。



下に降りると、幸いに大通りにタクシーがいくつも走っていた。一番先に呼び止められたのが、幸運にも無人タクシーだった。
乗ったのが誰なのか、誰か一人の学生証の提示が必要だが、余計な受け答えはせずに済む。
「お待ちになって。私が先に乗りますから」
「え? ああ」
光子を先に乗せて、奥から光子、当麻、インデックスの順に後部座席に乗り込んだ。
当麻の身分証をかざして行き先を告げると、タクシーは静かに走り出した。緊張をほぐすのに、数秒がかかる。
「なんとか、乗れたな」
「ええ……。当麻さん!」
ぎゅっと、突然光子に抱きつかれる。反対側のインデックスも当麻の腕を抱いて、もたれかかってきた。
「ど、どうした二人とも」
「良かった。二人をちゃんと怪我させずに、運べましたわ」
「ありがとな、光子」
「嬉しい。こんなにも自分の能力が誰かのためになったことなんて、ありませんでしたの。自慢には思ってきましたけど。でも、やっぱり大切な人のためになるときが、一番嬉しい」
「みつこ、ありがとね」
「ふふ。礼には及びませんわ」
当麻の胸の辺りで、二人が見詰め合ってそっと微笑んだ。当麻はそれで心が随分と癒されるのを感じた。
一人じゃないというのは、すごいことだと思う。
どんなに疲弊していても好きな子のためだから頑張れるし、その子が微笑んでくれば、疲れさえ吹き飛んでしまうものなのだ。
それは、絶対に一人では起こることのないサイクルだった。
「どれくらいかかるの?」
「えっと、どれくらいで着きますか?」
誰もいない運転席に向かって問いかける。スピーカーが抑揚のない声で『あと20分程度です』と返事をした。
あと20分は、タクシーに任せて心と体を休めることが出来る。その言葉に上条はほっとした。
上条自身は、出来ることのなど知れていると分かっていても、気を緩める気はなかった。
自分を頼って、安心してくれている二人がいるだけで、充分だった。
……同時に、良くないことだと知りつつ、光子の言ったその言葉に、嫉妬を覚える。
役に立っていないとまでは行かないが、上条当麻がこれまでずっと付き合ってきた、右手に宿る『幻想殺し』は、さっきは光子の邪魔になる存在だったし、刀を振るうことを主体にしたあの長髪の女に対してはまるで無力だった。
別にヒーローになりたいって訳じゃ、ないけどな。そう心の中で呟く。
両手がふさがれているから、頬でインデックスの髪に触れた。さすがに寝てしまうつもりはないのだろうが、かなりリラックスできているらしかった。
それを見て思いなおす。自惚れじゃなく、今二人の女の子が心の拠り代にしてくれているのは自分なのだ。
元から折れるつもりなどないが、それでも、自分が心折れてしまえば、きっと二人も崩れていくだろう。
「光子。好きだよ」
「……はい。ふふ」
「とうま。私にも何か言ってくれてもいいと思うんだけど」
「あー。好きだぞ? お前のことも」
「別に良いけどなんかみつこより言い方がぞんざいなんだよ」
「きっと照れ隠しですわよ。大丈夫。みんなが笑える未来を、手繰り寄せましょう」
「ん。そだね」
再び光子とインデックスが微笑み会う。三人は、じっと絡まりあって、20分の猶予を過ごした。



お金を支払って、タクシーを降りる。
動き出したときには夕暮れ時だったのが、今はもう、夕焼けが遠い空に僅かに残るだけだった。
二三学区そのものはセキュリティの塊なので、車で入ろうとすると厄介だ。だから降りた場所は、二三学区の近くの住宅街。
正規の入り口からはそれなりに離れた場所だった。
「なぁ、これ、乗り越えて大丈夫なのか?」
「ええ。そもそもこの広い学区の全域に監視の目を光らせるのはかなりコストがかかりますから。重要な施設の周りにだけ、重点的に監視網が敷かれていますの」
固体表面における気体分子の物性物理が専門の光子は、航空産業の中心地である二三学区とはそれなりに関係が深く、内情をよく知っているようだった。
常盤台中学きっての空力使い、その面目躍如といったところだろう。
「だから、このフェンスなんていい加減でしょう? 本命の滑走路の近くにはもう一重に険しい障壁が有りますわ」
がしゃ、と光子が金網のフェンスに手をかけた。イタズラをする子供への対策なのか金網の壁に返しがあって、上手く越えないといけない。
とはいえおざなりなものなので、越えられないようなことはない。
「じゃあ、これを登ればいいんだね?」
「そうですわ。あの、当麻さん。絶対にこちらを見ないでくださいね?」
「え? ……ああ、うん。わかった」
「こっちも駄目なんだよ?」
光子の貼り付けたような微笑に戸惑いを覚える。インデックスも光子の言わんとすることを理解していた。
登るときにも降りるときにも、光子の短いスカートは非常にきわどい光景を提供してしまうのだった。
インデックスは長いローブだから見えにくくはあるが、一度見えると胸元まで全部行ってしまう作りだ。
本音は極力出さないように努めながら、当麻は気にしていない風を装った。

ガシャガシャと音を言わせて揺れる金網に精一杯気を使いながら、暗い学区の境のフェンスをよじ登る。
住宅の並ぶ手前とは対照的に、これから行く先はだだっぴろい場所だ。
アスファルトは打ち付けてあるが、ひび割れから草は生えているし、殺風景な印象しかない。
「あの遠くに、機首が見えますでしょう? あれに、忍び込むのが目的です」
三人でフェンスを越えて、フェンス際のライトから遠ざかる。
もう一般人には見つかることのない場所だった。これから見つかるとしたら、学園都市の治安部隊だ。
そしてそれはインデックスと光子の社会的死を意味する。上条は失うものに乏しいのだった。
「見つかれば勿論終わりですわ。あそこに近づいてからは、絶対に私の言うことを守ってくださいね」
「わかった」
「うん」
「それまではどうせ見つかる理由もありませんし、さっさと向かいましょう」
そして、三人は歩き出した。学園都市の掟を破った、その第一歩目はなんてことがなかった。
見つかる心配の低い場所で、緊張感がなかったせいとも言えるだろう。
万が一に備えることは難しいことだが、一番体力のある自分がしっかりしなければと、当麻は言い聞かせた。


何歩目か、両手で足りる程度だろう。歩き始めてすぐの、すぐその時。
――――上条は左足のふくらはぎの辺りに、すっと何かが走る感触を覚えた。紙で指を切ったときに近かった。
「え? あ……ぐ、あああぁぁぁあ!」
「とうま!?」
隣にいたインデックスが当麻の声に不審がるより先に、当麻は足で自重を支えられずに、地面に倒れこんだ。
「不意打ちで恐縮ですが、これ以上先へ行かれると困りますので」
先ほどから、何度も聞いた声だった。姿はほとんど見えないが、誰なのかは聞くまでもない。
その追跡者の体の近くで、糸状の何かが、きらりと瞬いた。
神裂火織と名乗る、魔術師だった。




「当麻さん!」
「いぎ、が……」
熱い。左足がひたすらに熱い。ジリジリと当麻の理性は苛まれて、声は自制と関係無しに漏れていく。
急速にズボンが濡れていく感触がする。なぜ濡れているのか、当麻は察していた。
「心配には及びません。この程度なら死に至るまでには相当な時間がかかりますから。今すぐその子を開放していただければ、後遺症もなく完治しますよ」
「人を……切っておいて言うことはそれなの?」
「……ええ、それが何か」
神裂の反応は鈍かった。冷ややかというには切れの悪い答え。それでもインデックスの心の中に憎しみの炎を灯すには充分だった。
光子は一瞬周りのことを忘れたように当麻さん、当麻さん、と声をかける。
「だい、じょうぶだ。インデックス。いいから光子と先に行け!」
「とうま。それは出来ないよ」
「俺と光子の目的が何か、忘れるなよ。いいからお前は早く逃げ切れ」
当麻は膝を立てて、腰を上げようとした。だが左足に全く力が入らなくて、再び崩れ落ちる。
光子が支えるように体に腕を回す。当麻にじっとしていろとか、そういうことを言わなかった。
それはつまり、当麻が神裂の足止めをするという途方もない無茶を、呑んでいるということだ。
立っているのがやっとに近いが、上条はなんとか、神裂とインデックスたちの間に置かれた障害物になった。
「インデックス。走りますわよ」
「でも」
「でもじゃねえよ。良いからさっさと行け」
「……彼我の脚力差をよく考えてください。この遮蔽物のない場所でどうやって逃げ切るつもりです?」
「なんとでもして見せますわよ」
「やれやれ。神裂は優しいね。好きなだけ鬼ごっこに興じれば良いさ。その間に、僕はこの男を殺すよ。嫌なら逃げないことだね」
カチンと、ジッポを開く音がする。一瞬だけ長髪の赤毛が暗闇に瞬いた。
長い吐息は、紫煙を吐き出しているのだろう。煙草の小さな明かりがゆらゆらと揺れていた。
「とうまをこれ以上、絶対に傷つけさせないんだよ」
「馬鹿、違うだろ」
「違ってない。とうまの命と引き換えで助かるなんて、死んでも嫌」

当麻と神裂の距離は、およそ5メートル。インデックスはその間に、立ちふさがった。

「逃げずに立ち向かう勇気を、賞賛する気にはなれませんね」
「別に、敵に褒めてもらう趣味はないんだよ。そっちの人はルーン使いの十字教徒みたいだけど、あなたも?」
「ええ。……あまり詮索をされても困ります」
「もう充分だよ。貴女がもう主の御名も無原罪の懐胎をした御母の名前も忘れちゃった人たちなのは、分かったから」
「な――」
「ずいぶんと、あっちこっちの宗教を習合しちゃってるね。そっちのルーン使いより分かりやすいよ。貴女がカクレだって」



カクレキリシタン。
長崎の沖に点在する小さな島々にのみ生きながらえた、異質の十字教徒。
教えの記された聖書を失い、マリアという象徴を観音像に秘め隠し、祝詞(のりと)の中にオラショを偲ばせ、彼らはかろうじて信仰を守ってきた。
長い年月を経ていつしか正しい教えは失われ、形式上のみ受けいれたはずの仏教と習合し、もはや、彼らの自覚以外には、十字教徒であることを示すものが何一つない人々。
「なぜ」
「そっちの人が十字教徒なら、貴女もそうでしょ? なのに十字の一つも着けてないし、逆にケガレを忌避するアクセサリを着けてる。それだけ分かればあとは予想は簡単なんだよ。貴女がカクレだってことは。どこの宗派か知らないけど、西洋の教えとコンタクトを取ったのなら、正しい教えに帰依したら? それとも自分たちしか信じてないおかしな形の神様を捨てちゃうと、やっぱり祟りが怖いのかな?」
取り合ってはならない。
世界を殺す毒の詰め合わせ、禁書目録が囁く『魔滅の声<シェオールフィア>』はもう紡がれ始めているのだ。
唇の形すら見てはいけない。それだけで、神裂という一人の信徒の信仰がガラガラと崩壊するかもしれない。

体に繰り返し繰り返し刻み付けた、その挙動だけで刀の柄に手をかける。
鞘から刃は引き抜かない。ホルスターに手をかけて、ぱちんと鞘ごと外す。
刃渡り2メートルに及ぶ七天七刀は、鋭くなくとも長物として充分に役目を果たすのだ。

狙うはインデックスの鳩尾。話すのが困難になる程度に横隔膜を突いてやれば問題ないのだから。
視界から外したつもりで、インデックスの唇がどこかにちらついている。
いつもより切っ先がぶれてしまって戸惑う。もう、『魔滅の声』にやられてしまったのか。
――――違う。それより前に、自分はあの子を傷つけたのだ。
どんなことをしてでも救いたいと願った女の子をその刀で傷つけて、さらにもう一度振るおうとしている。
ちゃんと鞘に刃を仕舞ってあるくせに、ためらいが消えてくれなかった。
それでも充分素早く、神裂は突きを繰り出した。そのはずだった。

バシン、という音と共に鳩尾に目掛けて突いたはずの切っ先がぶれた。
婚后という名の少女が、闇雲に振り回した手に当たった結果だった。
再び神裂は腕を引いて、インデックスに突きの狙いを定める。

「無駄ですわよ」
「な?!」

バヒュッと音がして軌道が逸れた。もう初対面ではない。それで何が起こったのかは理解した。
神裂の手元から離れるように、七天七刀が荒れ狂う。
さして自慢でもない怪力で柄を握り締めていると、やがて鞘だけが遠くに飛んでいった。
神裂は歯噛みした。傷つけずにインデックスの意識を奪う術が、またひとつ失われた。
「超能力ですか」
「ええ」
インデックスが、神裂にだけ分かる言葉を呟き続ける。
意味は光子にも理解できるが、光子には何の意味もない言葉だった。
神裂が一瞬、呆然となった。
その隙を逃さず光子は、神裂の懐に攻め入った。
「やめておくんだね」
「くっ! かは……」
ステイルが横から割り込んで、光子の通ろうとした場所に拳を置いた。
光のないところに『魔女狩りの王』を顕現させて監視網に感知されるのを嫌った苦肉の策だった。
能力で加速していた光子は、腹部にその拳をまともに受ける。
肺からずべて、息が出て行きそうになった。
「光子!」
「あ、ふ……」
「格闘は専門外だけど、こうも見え見えだとね」
光子は渾身の力で腕を振るう。だが手は警戒されているのか、ステイルに当たることはなかった。
場慣れ、体格の差、そういうものを光子が埋めるには超能力しかない。
そして相手に触れるまでが難しいのなら、自分を加速するしかない。
「だから、直線的過ぎるんだよ。君の能力は」
ステイルは加速する光子から体一つ避けて、再び拳を通り道に置く。
根がお嬢様なのだ。なんの捻りもないカウンターで、光子はうずくまるように崩れ落ちた。
インデックスが心配げに一瞥して、しかし言葉を乱さずに、神裂にだけ効く毒を吐き続けた。
「だ、大丈夫、です。当麻さん」
「まあカウンターで沈まれちゃってもね」
「……馬鹿な魔術師さん」
「なに?」
「私に触れておいて平気な顔ですの?」
「何?」
別に光子は、手で触れたものにしか術を使えないわけではない。
経験に乏しい光子がどれほど浅知恵を捻っても、光子の手が届くことはなかったろう。しかし。
手で触ることは能力発動のトリガーとして優秀だが、お腹で何かに触ったって別に能力発動そのものは可能なのだ。
光子は数秒でステイルの腕に充分すぎる気体分子を集めていた。分子の運動速度は、人よりずっと早い。
そもそも空気中で音を媒介するのが分子運動なのだから、音速以上の速さを持っていることは自然と分かることだ。
ステイルの腕にはもう、重みを感じられるレベルの分子が集積していた。
光子は容赦をする必要を感じなかった。だから、人には決して用いたことのない威力のそれを、開放した。


多くの空力使いは空気を連続な塊とみなす。あるいは極稀な能力者が空気を粒の集合体とみなす。
それは神ならぬ人の身では、分子一粒一粒を見つめて制御することなど、到底あたわぬからだ。
だが、光子はそれらのどちらとも違っていた。婚后光子が制御するのは、分子集団の『可能性』。
一つ一つの分子がどう動くか、などという厳密なコントロールはしない。
分子から、好きなように動く、という可能性を奪う。ある一つの場所、固体の表面に留まってしまうように。
そうすれば分子は自然と集積されていく。そして溜めた気体を解放するときにも光子は可能性を束縛する。
ランダムな方向へ飛ぶはずの分子から可能性を奪い、99.99%の分子が同じ方向、個体平面に垂直な方向へと動くように仕向ける。空気の集積とコントロールしつつの開放、それが光子の能力だった。
分子一つ一つを制御せず、状態の出現確率を収束し、可能性を限定する。その可能性の名はエントロピーという。空力使いといえば流体力学の専門家、という常識に全くなじめない、異色の能力者だった。


ステイルがいぶかしんだ直後。
音速を優に超える、秒速500メートルで風がステイルの腕から噴出した。
悲鳴を上げる暇すらない。
ビシリという手の甲にヒビが入る音がステイルの耳に伝わるより先に、その手がステイルの胸元に向かって体当たりならぬ腕当たりをぶちかました。
ガホ、という肺がつぶれる音と共にステイルはごろごろと転がって、暗闇の奥に横たわった。
「……残るは貴女ですわね」
優雅に髪を払って光子は神裂のいた場所へそう宣告した。


ステイルのそれは確かに油断だったし、光子のこれも、油断だった。互いを読み切れない超能力者と魔術師のすれ違いだと、言えなくもないだろうか。
とすりと、傍にいるインデックスの胸元で軽い音がした。
気づけばそこには、長い神裂の髪が舞っていた。
「あ――――」
あっけない音と共にインデックスが気を失う。呼吸を奪って脳髄に的確な一撃。それでインデックスは堕ちたらしかった。
「インデックス!!」
「チ。邪魔です」
当麻が自由の利かない体でインデックスをそのまま奪っていこうとする神裂に抱きついた。
それを振り払う隙に、光子が神裂の体に手を伸ばす。神裂はその手から必死で逃げる。
幸い、インデックスを奪われることはなかった。当麻が精一杯インデックスを庇いながら倒れこんだ。

再び、神裂が二人から距離を取った。
あちらもこちらも、一人ずつがリタイヤ。だがそれは決して痛み分けではない。当麻はもう走れない。インデックスを背負って神裂から逃げ切り、さらには学園都市のセキュリティまでかいくぐるというのは、あまりに無理がある話だった。
「……もう、いいではないですか」
「ああ?」
「どうして、そこまでその子に肩入れするのですか」
「つらい目にあってる女の子を助けるのに、あれこれ理屈をつけないと、動いちゃ駄目なのか?」

馬鹿馬鹿しい。

「俺はてめーがわかんねえよ。どこの誰に命令されたのか知らないが、こんな女の子を酷い目にあわせるのに、どうしてここまでやれるんだ。アンタは、人をいたぶって楽しむような趣味には見えない」
インデックスを横たえて、ずるずると当麻は立ち上がる。
神裂に隙はない。体勢や周囲の状況への気配りだけではなく、意思にも揺らぎを見出せなかった。
ただ、灰色に意思を塗りつぶしたような表情に、すこしだけ物言いたげな色がついた。
「……事情はあるのですが。貴方に説明する必要がありませんね。そこをどいてください」
す、と剥き身の七天七刀を神裂は当麻に突きつけた。
インデックスの前に膝を着いた当麻は、その切っ先が真っ直ぐ上条の額を狙っていても視線をゆるがせなかった。
これまでの疲労のせいか表情に精彩を欠いた光子が、当麻の少し後ろでじっと様子を見ている。
何度か牽制の視線が神裂から飛んできている。不用意に動けば、当麻に危害が及ぶことが予想できて、自分から動けなかった。
「どいたら、どうする気だ?」
「以前も言った気はしますが、あなた方をどうこうする気はありませんよ。その子を連れて帰る気です」
「――――ハッ。連れて帰る、ね。インデックスは俺達の仲間だ。勝手なことをされちゃ困る」
ズルズルと、当麻はインデックスから離れ、神裂に迫る。
左足の痛みが引いている。それはむしろ危険なことで、普段の当麻ならきっと不安を感じたことだろう。
後のことなんて、考えにも浮かばなかった。
神裂火織まで、ちょうど2メートル。これ以上進めば、突きつけられた切っ先が頬辺りに刺さることになる。
す、とその刃を退けようと腕で触れようとしたところで。

ガキィィィン、という音が自分のこめかみの辺りから鳴り響いて地面が急に目の前に迫ってきた。

「当麻さん!」
「ごっ、あ……」
光子は退けられた当麻の代わりにインデックスとの間に割り込もうとして、ギン、と神裂に強い視線で睨まれて、足がすくんだ。
一瞬遅れて、どうしようもなく自分を恥じる。ここで自分が守らねばインデックスが悪い魔術師の手に堕ちると分かっているのに、足が前に出ない。
「彼を痛めつけていることについて苦情を受け付ける暇はなさそうです。ですが貴女とはまだ話が通じそうですね。貴女の感じているものは人として当然の感情です」
それは遠まわしに馬鹿にされているのと同じだった。
婚后家の直系として、常盤台中学の学生として、あるいは上条当麻の隣を歩く人として。正義が為されぬことから目をそむけてはならないと教えられているのだ。
これを不正義と言わずして何が不正義か。見栄とは、こういうときにも張るから許されるのではないか。
「ごめん遊ばせ。私もこの人と、志を同じくする人間ですわ」
「……くだらない面倒を、掛けさせないで下さい」
光子に触れると危険なことを神裂は理解している。だから、光子に近く出来ないくらいのスピードで刀を振るって、こめかみを峰打ちした。
もう一度、先ほどと同じ鈍い金属音が響く。悲鳴もなく、光子は崩れ落ちた。
「……最悪ですね」
皮膚が切れたのだろう。たった今峰打ちで倒した少女の頬にじわじわと血が伝うのが見えた。
少年の左足にはもっと酷い傷を負わせた。どちらの二人も、敵でなかったなら、好感を抱けるいい人たちだった。
インデックスを大切に守ろうとしてくれる、いい人たちだった。それを、こんなにも手ひどく傷つけた。
「本当に、最低の行いですね」
「そう、思うなら、なんで、やめねーんだよ」
「――――」
神裂が動くより前に足首をつかまれた。意識を飛ばすつもりでこめかみを打ち抜いたはずの、少年の手だった。
「魔術師ってのは相当えげつない連中だってインデックスは言ってたけど、アンタ、まともじゃないか。そっちのヤツはどうか知らないが、アンタはちゃんと人の痛みを分かってる。なのに、なんで」



負けられない、と当麻は思った。
常識も良識も持ち合わせたこの女が、一体何に心折れたのか知らないが、自分は折れてなるものか、引いてなるものか。
全く言うことを効いてくれない体をよそに、目線だけは神裂よりも強い意志に輝かせて、神裂を睨みつける。
神裂は無意識に、ほんの少しだけ重心を後ろに引いた。それは当麻には気づけないような極小さな変化でありながら、神裂の意思を押し返したという、大きな意味を持っていた。
「なんで。アンタはこうまでしてコイツを地獄に陥れようとするんだ!」
「……違う! 私はそんなことしてない!」
足をつかんだ腕を、神裂は蹴って振り払う。乱暴なそれは上条を軽く吹き飛ばした。
「私やステイルがどんな気持ちであの子を追っていると思っているのですか!」
「知ら、ねえよ。事情も話さずに切りつけてきたのはそっちだろうが」
「それは……っ!」
「いつの間にか『アレ』が『あの子』に変わってるよな。アンタらがインデックスの敵なら、なんで、そんな呼び方するんだろうな」
当麻は、少し前から感づいていた。インデックスの知識が必要なだけの人間にしては、気遣いが丁寧すぎる。
観念したように、神裂はボロボロの当麻から視線を逸らして言った。
「私達の所属は、『必要悪の教会<ネセサリウス>』といいます」
「それ、インデックスの」
その名は確かにインデックスの口から聞いた。敵対する魔術結社の名前などではなかった。
「ご存知のようですね。そうです、これはあの子の所属する場所の名前でもあります。あの子は、私とステイルの同僚にして――――大切な親友、なんですよ」
「……じゃあなんで、インデックスはお前達をどこかの魔術結社の悪い魔術師だなんて言ったんだ」
「あの子のこの一年を振り返れば、妥当な予測だろうね」
いつの間にか、遠い暗がりでステイルが起き上がっていた。
立つ気がないのか立てないのかは知らないが、足を伸ばして座っている。
とはいえ座っているから戦えないとは限らないのが魔術師だ。立っていても戦えない当麻とは違う。脱臼でもしたのか、不自然に右腕をだらりと揺らしたまま、ステイルは左手で器用に煙草に火をつけた。
「あの子の記憶を消してから一年、ずっと僕らは追いかけてきたわけだし、ね」
「記憶を、消した?」
一年前から、記憶がないと確かにインデックスはそう言っていた。それからずっと追われているとも。
「ええ。この子がそれまで持っていた記憶を、私達と一緒にいたという事実を、この子の頭から消し去りました。私が、この手で確かに」
「なんで、そんなことを」
「まあ、話す義理があるわけでもないけど。その子は一年に一度、記憶をリセットしないと死んでしまうんだよ」
ぷかりと、ステイルが煙草の煙を宙に浮かべる。
追い詰めた側の余裕なのだろう。神裂は少し離れたところに飛んだ七天七刀の鞘を回収しに行った。
「死ぬってなんだよ」
「完全記憶能力、というのがこの子に備わった特殊な才能でね」
「それで10万3000冊、だっけ、訳のわからねーことが書かれた本をあれこれ覚えてるんだろ」
「ああ。そこまで知っているのなら話は早い。この子は、もうこれ以上何も覚えられないんだよ」
「え?」
「あんまりにも沢山のことを覚えすぎて、もう頭の中は一杯。人生、今は70年くらいかな。70年分もくだらないことを覚え続けられるほど、この子の頭に容量はないんだ。だから何かを捨てていかないといけない。魔導書を捨てられないなら、過去を捨てていくしかないよね」
「だから、私は、あの子の記憶を一年ごとにリセットするんです。楽しい思いでも、つらい思いでも、何でも」
再び五体満足な神裂がインデックスを取り巻く当麻たちの前に戻ってきた。それは、確かに絶望的なサインだったはずだ。
だが当麻は意に介さなかった。もっと、問いたださねばならないことがあった。
「親友だって言ったよなお前。自分の親友からそんなにも大事なものを奪って、お前、それで平気でいられるのかよ! 何とかしようとか、そうは思えないのかよ!」
「思いましたよ! この子を助けられるのならと情報を集めましたよ!でも、これしかないんです。この子から記憶を奪っていくしか、方法がないんですよ。この子の中に『溶けて』しまった魔導書は、自分という書物が消えないために、ありとあらゆるプロテクトをかけてしまっているんです。この子から自分の記憶以外のものを奪う気なら、この子と同じ10万3000冊の魔道書を読んだ天才が必要になるんです」
それは自家撞着な結論だった。インデックスを救うには最低限、もう一人の『禁書目録』が必要になる。
神裂は説明が済んだとばかりに、一歩を踏み出した。
「話はもう終わりです。分かっていただけたでしょう。この子を、返してください」
足元のインデックスにチラリと目線をやる。気がつくと、光子がインデックスに覆いかぶさるようにしていた。焦点の合わないぼやけた目で、神裂を見つめている。
「どうして。この一年。インデックスの傍にいてあげませんでしたの」
光子がそれだけ言った。なじる様な一言だった。
後ろめたそうな感情が神裂の表情によぎった。
「何も、本当に覚えていないんですよ。この子は。どれほど忘れがたい思い出を作ったつもりでいても、写真を渡してもアルバムを渡しても、一年たてば、もう絶対に思い出せないんです。申し訳なさそうに、ゴメンとしか言わないんです」
「だから何だよ。また、思い出を作り直せば良いじゃねーか。一年で全てを忘れるんだとしてもそのたびにイチからでもやり直せばいいじゃねーか。それすらせずに何で一年も逃げ回るだけの生活なんてさせてんだよ!全部テメェらの都合じゃねえか! テメェらが勝手に見限って――」
「――うるっせぇんだよ、ド素人が!!」
当麻の言葉は鞘に入れた七天七刀の横殴りで遮られた。
インデックスから1メートル以上はなれた所に倒れこんで、その体に雨を降らせるように神裂が鞘を何度も突きたてた。
「私達がどんな気持ちで、あの子を追いかけているのか。あなたなんかに分かるんですか!? 何度でもやり直せばいい? あの子との別れを経験したこともないあなたにそんなことを言う資格なんてない!! どんな思い出を作っても、あの子はもう二度とそれを思い出せないんです。記憶をリセットする度に、あの子は何度も何度も、幸せを失うんです。一年後にそれが来るのを分かっているあの子に、それでも毎年幸せを与え続けろというんですか? ……私には、もう耐えられないんですよ。あの子の痛々しい笑顔を見ることが」
肋骨が、いくつか酷いことになっている気がする。まともに息が吸えなくて酷く苦しい。
だがもっと苦しいことは、他にある。
「なんで、俺と光子はこんなに殴られてるんだろうな?」
「おいおい、今更命乞いかい?」
神裂が怒りに身を任せている間、ステイルはずっと煙草を吸い続けていた。
足で踏んで火を消すこともしないで、先端がまだチリチリと燃えた吸殻がいくつも足元に転がっている。
ステイルにの気負いのない風を装った態度の奥にはくすぶった思いがあることを、それが告げていた。
突然その吸殻がボッと瞬いて一瞬で灰になる。
冗談めかして命乞いかと聞いたステイルは、言葉の裏で、本気で不愉快を感じていた。
「ちげーよ。そんなことがしたいんじゃない。純粋に聞いてるんだ。この場所に、インデックスを不幸にしたいやつが一人でもいるのか? 敵同士のヤツが一人でもいるのか? 傷つけあわないと幸せになれない理屈があるのか?」
ステイルも神裂も、当麻の言葉に反論しなかった。お互いに、悪意のある相手だという誤解はもう解けたのだ。
当麻は酷く傷ついた、否、傷つけられた体のことなんて忘れて、ただ、真実を告げた。
「ここに、敵はいないんだよ」
「……」
理不尽が苦しい。殴られたことではない。こんな馬鹿馬鹿しい殴り合いしか出来ない、自分達に怒りを覚えた。
「お前らだって、インデックスを助ける方法なんてもう見つからないってくらい探したんだろうさ。けど、人が多ければ開ける道はあるかもしれない。お前達二人が駄目でも、ほかに救い手がいれば、助かるかもしれない。なんでそれを、その可能性を模索しないんだよ。ここは学園都市だぞ」
「学生の貴方達に、何かが出来るとでも?」
「ここの学生は超能力者だ。確かに俺は無能力者だし、光子だって記憶を操るような能力はない。けど例えば光子の同級生には学園都市最強の精神感応能力者がいる。その子なら出来るかもしれない。それにそもそも学園都市は科学技術だって世界最高峰だ。『治療』できる可能性だって有る」
「そんな言葉じゃ、僕らの考えが揺るぐことはないよ。正直に言って、あの子の頭を切り開いて脳を弄るような科学者達に任せる気にはなれない」
「随分と酷い偏見ですわね。……当麻さん?!」
足元の傷とはいえ、失血量はそれなりだ。加えて呼吸がまともに出来なくて、視界が定まらない。
――――くそ、せっかく道が切り開けるかもしれないのに。インデックスの未来を、変えられるかも知れないのに
「救いたく、無いのかよ」
「これまでも救いではあったと、思っていますよ。少なくともあの子を死なせてはこなかったのですから」
「それが救いだって? お前それ本気で言ってるのか? インデックスを救ったってお前胸張っていえるのかよ?! なんでそんなにも力があって、そんなにも強い意思を持ってるのに、可能性をもっと探せないんだよ! アイツを幸せにしてやるために、なんでできること全部やらないんだよ!!!」
答えは無かった。
ふつりと、自分の意識の糸が切れたのが分かる。せめて、傍にいられるようにと、上条はインデックスに向けて倒れた。
光子、ステイル、そして神裂。意識の残った誰かが動くよりも先に。


パッ、と五人を車のライトが照らした。拡声器から音が聞こえる。
『そこにいる連中! 全員大人しくするじゃんよ!』
警備員の服を身に纏った、黄泉川愛穂だった。




[19764] ep.1_Index 11: 反撃の狼煙
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/22 02:31

目を覚ますと、そこは真っ白い部屋だった。窓の外には学園都市が見えている。場所を特定できるような風景はない。
自分が着ているのは、手術服とでも言えば良いのか、緑一色の安っぽい化学繊維でできたローブだった。
「あれ俺、なんで」
まるで何日も寝たように、現実味がない。
確か、俺は二三学区で光子たちと――
「そうだ! 俺はあの二人組と戦って、それで」
二人がいない。
自分がいるのは病院だろう。なら、二人はどうなったのだ。
慌ててベッドに降りようとして、足に包帯が巻かれている感触がするのに気づいた。
自分でも思い出すとぞっとなるくらい、酷い傷をしたはずだ。当麻は恐る恐る、布団をめくって左足を見た。
包帯でガチガチに固めてあった。ただ、指を動かしてみると問題なく動く。足首もスムーズに回る。
そっとベッドから降りてみると、それほど違和感なく左足は仕事をしてくれた。
チクチクとした痛みはあるが、激痛だとか、そういうのはない。
これなら、二人を探しにいける。そう思ってベッドから少し離れた扉に向かおうとしたところで。

ノックもなく、カラカラと音を立てて扉を横に引きながら、光子とインデックスの二人が入ってきた。
二人の顔は暗い。何かあったのだろうかと当麻はいぶかしんだ。
……自分が目を覚まさなかったのが理由だとはすぐに思い至らなかった。
「光子、インデックス」
「えっ?」
「え、当麻さん?」
当麻はすこし気まずかった。なんだかあちらの予想を裏切ったみたいで申し訳ないような気分だった。
光子もインデックスも、一瞬、呆けたようにベッドサイドの当麻を見て。
「当麻さん……!」
「とうま、とうま!!!!」
あっという間に二人に抱きしめられた。そしてそのままベッドに倒れこんだ。
当麻さん、当麻さん、とうま、とうま。
首筋に回されたのがどっちの腕なのかも分からないし、名前をこうも連呼されるとペットの犬になった気分だ。
なんでそんなにも、喜ばれるのかが不思議だった。
「ちょ、ちょっと落ち着いてくれ。なんか俺、死ぬはずの状態から生き返ったみたいじゃないか」
「縁起でもないことおっしゃらないで。当麻さん、どれくらい寝ていたと思っていますの!」
「そうなんだよ! もう、こんなに無茶して、こんなに傷ついて……」
「その、何日寝てたんだ?」
「ほぼ二日、ですわ。もうずっと目を覚まさなかったらって、私、心配で」
枕元にあるデジタルの時計には7月26日と書いてあった。時間は夕方というには少し早い、といった所だろう。
さすがに24時間以上意識を失っていた経験はないので、自分の体に不安を感じないでもない。
……というか、ほんの40時間やそこらで左足のあの怪我がどうにかなってるっておかしくないか?
「怪我のほうは、大丈夫ですの?」
「ああ。なんか、信じられないけど、折れたと思ったアバラもなんともないし、足の怪我もそれなりに治ってるぽいし」
「ここに連れてきてくださったのは黄泉川先生なんですけど、先生曰く、相当の名医だということらしいですわ」
「医者の腕っていうよりこれ物理に反してるレベルだと思うけど……まあ、再生医療の最先端ってこんなものか?」
医療は特許の塊であり、また科学のあらゆる分野の中でも特に倫理・道徳との折り合いが難しい学問だ。
学園都市の人間でも、学園都市の医療がどんな手法で、どんな治療を出来るのかをよく分かってはいなかった。
たいていの怪我と病気が治るので、あまり気にしないのだ。
「ほんとに痛いところとかないの?」
「かなり回復してると思う。それより、光子とインデックスは大丈夫だったのか?」
「ええ。ここの絆創膏も明日には取れるってお医者さんが言ってましたし」
光子がこめかみに貼った絆創膏を指差した。女の子が顔に怪我をしている光景は、なんとも痛ましかった。
そっと傷の近くに触れると、気遣われたのが嬉しいのか、光子が微笑んだ。
「傷、残るのか?」
「お医者さんに尋ねたら、『光学顕微鏡じゃ分からないくらいに修復してあげるから』だそうですわ」
当麻にはよく分からなかったが、要は電子顕微鏡の必要な、分子レベルの誤差で修復するということだった。
「インデックスはどうだ?」
「私は、どこも怪我はなかったから」
罪悪感をにじませて、インデックスはそう報告した。
確かに構図としては、巻き込まれた二人が傷ついて張本人が無傷だった、ということになる。
当麻はうつむくインデックスの頬をつねってやった。
「いひゃいよ、とうま」
「そういうの、気にすんなよ」
「うん……ありがとね、とうま、みつこ」
「それで、これからどうなるんだ? 何か分かるか、光子」
「二三学区進入の件は暴漢に襲われていたから逃げるためにやった、という風に処理したと黄泉川先生が言っておられましたわ。だから私達にお咎めはないんですけれど、近いうちにインデックスはどうにかしなきゃいけないって」
「それって」
「……このままではこの子は、警備員に拘束されることになります。私達は三人とも、病院から出ようとするのは禁止されていますわ。黄泉川先生は悪いようにはならないようにすると仰ってくれていますけど……」
どうにもならない事態に、光子は唇を噛んだ。インデックスは怒るでもなく光子を見つめていた。
「あの二人は?」
「あの場ですぐさま逃げて、それからは知りませんわ」
「そっちも問題か」
「ええ……」
本当ならもっと助かったことを喜び合いたい。明るい明日を、これからのことを語りたい。
丸二日を無駄にして、出来たことは少し事態を悪化させたことだけだった。三人で、晴れやかとはいえない気分で見つめ合った。




コンコンと、扉がノックされた。どうぞと当麻が返事をすると。
――――病院にまるでなじむことを知らない、赤髪の神父と長髪の日本刀美女が、部屋に入ってきた。




「やあ、目が覚めたのが見えたんでね、失礼するよ」
「失礼します」
飄々とした態度のステイル。日本人らしい仕草で目礼をした神裂。
どちらにも、悪びれた風はない。
「何しにきたの?」
三人の誰よりも早く、インデックスはその二人の前に立ちはざかった。
声に憎しみを込めて、目に怒りを灯して、当麻たちと神裂たちの間に線を引くように。
神裂とステイルがそれで怯んだのが分かった。
一瞬の戸惑いを捨てて、再びステイルが軽薄そうな笑顔を浮かべた。
「お見舞いさ」
「ふざけないで。貴方達が、とうまとみつこを傷つけたくせに!」
「下手に動かないことですわね。私たちは警備員の方々に、少々目をつけられていますの。この部屋で荒事があればすぐ面倒なことになりますわよ?」
光子の冷ややかな声がする。相手を自分と同じ人と認めないような、軽蔑の篭もった響きだった。当麻は二人の態度に少し、驚きを感じた。
「別にこちらに争う意図はないよ。ただ穏便に、禁書目録を渡してくれとお願いしに来ただけさ」
「まだ、そんなことを……!」
光子は怒りに言葉がつかえているようだった。その影でインデックスが視線を揺らした。
逃げ延びるチャンスは減る一方で、返すあてのない借りばかりが当麻と光子にたまっていく。
自分が諦めさえすれば、という提案が、魅力的に見えた。
「インデックス」
びくりと、その背中が震えた。上条に釘を刺されたのだと理解したのだろう。
その通りだった。諦めさせてやるつもりなんて、これっぽっちもない。
「光子も。ちょっと落ち着いてくれ。今すぐ戦おうってんじゃないんなら、話もできるだろ」
「当麻さん?! 当麻さんは、あんなにも酷い怪我をさせられて、まだこの狼藉物と話をする余地があると思ってらっしゃいますの?!」
光子の中で、当麻が傷つけられたことは絶対に許せないことだった。
話し合う必然性だとか、歩み寄る余地だとか、そんなものはこちらにはない。
だって、あんなに酷く人を傷つけられる人間と、同じ言葉で会話できるとは到底信じられないのだ。
「光子。あの時、俺は言ったよな。ここに敵はいない、って」
「……」
光子を静かに見る。物言いたげな目で光子は見つめ返したが、当麻の意思が変わらないのがわかって悔しげに視線を逸らした。
こちらの意思はまとまった。当麻は神裂のほうを向いて問いかける。
「それで、あんた達には俺の言いたいことは伝わったのか?」
「……ええ、そのつもりです。だから問答無用にこの子を奪うことはしませんでした」
それも可能だった、と言わんばかりの口ぶりだった。
「僕としてはその必然性を感じなかったけど。どうせ」
「改めてお願いします。禁書目録を、こちらに引き渡してください。貴方なら分かってくれるでしょう。私達はこの子を、悪いようにはしません」
神裂はステイルの言葉にかぶせるように、上条たちにお願いをした。
その言葉に嘘はない、と上条は思った。
そもそも一昨日の話が真実なら、神裂はインデックスの親友なのだから。
「なあインデックス。こいつらが、どこの魔術しか知ってるか?」
「さあ。十字教徒みたいだからローマ正教のどこかの支部だとか、その辺じゃないのかな」
インデックスが興味なさげに呟いた。目の前の二人が、僅かに動揺を浮かべた。
「上条さん、でしたね。その話は……止めていただけませんか」
「断る」
隠したままで、話が進むわけがない。
そしてインデックスを救う気なら、インデックスの敵のままではいけないのだ。
この二人に覚悟がないのなら、こっちから背中を押してやるだけだ。


「インデックス。こいつら、『必要悪の教会<ネセサリウス>』の魔術師らしいぜ」
「えっ?」


ガラガラと、インデックスのこの一年の生き方を決定してきた大前提が、崩れる。
インデックスは一瞬理解が及ばないという顔をして、魔術師二人を見た。
「……そんなはずない! だってそこは」
「お前の所属する教会だ、っていうんだろ?」
「そうなんだよ。とうまが何を聴いたのか知らないけど、この二人は敵なんだから、そんなことありえないんだよ」
「違うんだよ。一年前、お前の記憶を消したのがこいつらで、お前は勘違いでずっと逃げ続けてきたんだって」
「そんなの嘘だよ。だって、この二人には何度も追い詰められかけたけど、一度だって仲間だとか、そんなことは言わなかった! 逃げ場がなくて雨水を飲んだときも、どこかのお店の廃棄物を食べたときも、この二人はずっと敵だった!」
唇を噛むようにして、神裂がいたたまれなくなって目を逸らした。
その態度を、どう見れば敵だと思えるのか。だがインデックスには神裂たちは敵以外の何者にも見えなかった。
「なあインデックス。お前は、『必要悪の教会』の中でも、飛び切りヤバイ存在なんだろ? だから色んな魔術師が追ってくるって思ったんだろ? だったら、なんで肝心の『必要悪の教会』の人間が、お前を一年間もほったらかしにするんだよ?」

……それは、何度も気になったことだった。どうして誰も救いの手を差し伸べてくれないのか。
だけど、もし。ずっと隣にいたのだとしたら?
敵だと思って逃げ続けてきた相手が、実は救いをくれる人だったのだとしたら?

「こいつらは、お前の記憶を消して、そしてまた一年後に同じことをするために、ずっとお前に付き添っていたんだとさ」
「そんな、はず……ないんだよ。だってそうなら、どうして」
どうして、あんな目にあわせたのか、と。戸惑いのせいで言葉にならなかったそれは、容易に神裂とステイルに届いていた。突き刺さっていた。
記憶をなくしたインデックスに、それがお前のためだったのだ、と言っても仕方がない。
そして、これ以上は心が持たないと、そう思った自分達の弱さと向き合わざるを得なくなって、結局二人は、何も出来なかった。
「一年間、幸せな思い出を作っても、お前はそれを失う運命なんだとさ。けど最初からそんなものがなければ、とびきりの幸せもどん底の不幸もない、そういう生き方が出来る。そういう選択肢を、お前に与えたって事だ。別に悪意じゃない。こいつらなりに考えた結果なんだろうさ」
「知らない。私、そんな一年が欲しいなんて、言った覚え、ない」
受け入れられないと、インデックスは頭を横に振った。二人を仲間だとは、思えなかった。
今はそれでもいい、と当麻は思った。感情的に納得できなくとも、一年で記憶をリセットしなければ生きていけないなんていう、馬鹿みたいな呪いを解いた後に、ゆっくり失った時間を取り戻せばいい。
「事情は、一応これで説明したからな。俺たちは、いがみ合う敵同士じゃないんだ。これから、どんなことをしてでもお前の不幸を取り除いてやる。そのためにはこいつらとも手を組まなくちゃいけないんだ。……だろ?」

当麻は魔術師二人の目を、見つめた。
――――反応は、薄かった。

「……決して貴方の意見を馬鹿にするつもりはありません。ですがもう、遅すぎるんですよ」
「え?」
「あと二日。55時間くらいかな。それがこの子の『タイムリミット』さ」
「二日……だって?」
「一年前に記憶を消したといっただろう。そして一年しかこの子の脳が持たないともね。ちょうど一年まで、あと二日なのさ」
「そん、な」
「貴方の気持ちはありがたく思います。ですが。あと二日でこの子は貴方達を忘れます。二日ではどうしようもないでしょう。静かに過ごしてくれるのであれば、そのときまで私達は身を引きます。ですから、どうか、この子の命が失われてしまうような真似だけはしないで下さい」
当麻は二人が何をしにきたのかを、ようやく理解した。リミットを告げて、諦めてくれと言いにきたのだ。
知らずに逃げて死なせては、それこそ誰の幸せにもならない。だから、お願いをしに、正面から来たのだ。
「ちょ、ちょっと待てよ! 二日じゃどうにもならないなんて保証もないだろ? それに、この二日で無理でも、次の一年があればこの街なら」
「この二日で急ごしらえで対策をするのですか? それが、確かな策になりえると? そして仮に、次の一年をこの街で過ごすとして、あなた方学生にこの子を預ける理由がありますか?」
「……」
「そもそも、我々は『科学』をそれほど信用できません。世界中の魔術を探して、それでもどうしようもないこの子の完全記憶能力を、科学ならどうにかできると? ……この子の脳をクスリに浸して、メスで切り刻んで、機械に犯されても、この子の命を無駄に削るだけに決まってる」

馬鹿馬鹿しい妄想だ、と当麻は言ってやりたくなった。
だが、逆に科学の支配するこの街でどうにも出来ないことがあって、魔術にそれが出来るとして、はたして当麻は魔術を信じられるだろうか。きっと答えは、否だ。
どんな物理・生物的作用を持つのか訳の分からない儀式で、無駄に時間を使うだけだと思うだろう。
咄嗟に言葉を見つけられなかった当麻の代わりに、光子が口を開いた。
「この街は世界で一番科学が進んだ街ですけれど、その中でも一番進んでいるのが人間の脳を開発することですのよ。180万人もの被験者を使って脳のメカニズム解明、さらなる機能開発にいそしんでいます。それと同じことを、魔術はやってきましたの?」
「……」
「それに、随分と貴女の仰る科学とやらは猟奇的ですのね。この100年で生まれてすぐに亡くなる乳幼児の数が半減どころか100分の1にまで減ったことはご存知? きちんと食事を皆が摂れるように、肥料、つまり窒素とリンの化合物を安定供給したのは誰の功績かご存知? それまでの時代に、一体魔術は何をしていましたの? 科学は、人に牙を向くこともありますけれど、使い方さえ誤らなければ、ずっと魔術よりも優しいものですわ」
「……その言葉で、我々の考えを改めろといわれても、できるものではありませんよ」
「なら。この場に要れば良いですわ。私達は今から、あらゆる手を使って、解決策を探しますから。それが貴方たちにとって許せないことだと言うなら、そこで考えれば良いでしょう。……たとえ二日で叶わなくても、貴方達だって、この子を幸せにしてあげたいのでしょう?」
不信感。どちらの陣営もが相手に対して、それを抱いている。
手を取り合えば簡単なことが、往々にして出来ないのだ。人間には。
「とうま。みつこ」
「なんだ?」
「……私、二人のことを忘れるのは嫌だよ」
本音が漏れた、という感じだった。
インデックスは一年以上前の記憶を喪失している。だからこの突拍子もない話にも、リアリティを感じているのだろう。
「そうか。じゃあ、二日で何とかしないとな」
「なんとかなるかな」
「なんとかする。諦めちまえば、そこで終了だからな」
ニッとインデックスに笑いかけてやる。心の中に燃料を投下して、エンジンを回すのが何より重要なのだ。
打開策はいつだって動いているからこそ見つかる。同調するように、軽い感じで光子がそれに応えた。
「……じゃあ当麻さんは、テスト前はいつも試験を受ける前から終了していますのね」
「う、嫌なトコつくなあ光子は……」
「あは」
不安が心を押しつぶしそうな局面だが、インデックスはまだ自分が笑えることに感謝した。
二人がいてくれれば、絶望なんてものと自分は無縁でいられる。その幸福に、インデックスは小さく、心からの微笑を浮かべた。
「……ステイル」
「別に。僕は反対はしないよ。……あんな、微笑みを見るとね」
「率直に言って、私は自分があの輪の中にいないことに、やるせない思いはありますよ」
「そんなものは、過去に捨ててきたよ。どうするんだい、神裂?」
「私ももう、腹をくくりました」
そっと、二人は囁きあう。
もう分かっているのだ。二年前、目の前にある光子と当麻の席は、自分達のものだったのだ。
インデックスという少女の幸せを最後まで担ったのが自分達だったと、自負している。
二日という制約に縛られないほうが良いといえば良いのだ。
唯一つ、目の前にあるインデックスの幸せをまた、取り上げてしまうことだけに目を瞑れば。
――――二人にはそれが、出来なかった。
ステイルが、当麻たちに向かって、一歩、踏み出した。
「やってみろよ。超能力者。けど、この子を弄ぶなら必ず殺す。いつでも殺す。何度でも殺す」
「訳の分からないことを仰るのね。私達がこの子を徒に死なせると? 貴方こそ無理解の果ての勘違いで駄々を捏ねるようなら、容赦なく吹き飛ばしますわよ」
光子が身長差のせいで見下ろしてくるステイルに怯まず、そう言い返した。
当麻はここにいる全員を見た。
わだかまりを抱えていても、ようやく、インデックスを救うために全員が纏まれた。
ここは病院。ならやることはまず、医者に話を聞くことだろう。当麻はベッドサイドにある、ナースコールをカチリと押す。
小さな音で、五人がたたずむ病室に、可愛らしいメロディが響いた。


――――それは、魔術と科学が手を取り合って。
インデックスという女の子の一年に一度全てを失うなんていう幻想<ふこう>をぶち壊す、
そんな反撃の狼煙だった。



[19764] ep.1_Index 12: 黒いマリア
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/27 18:36
「……で、あたしらに情報がないか、教えてもらおうと」
「妥当な判断だね? 人に聞くのを躊躇わなかったのは、正解だよ」
窓際に置物のように立った神裂とステイル、そしてベッドに腰掛けた三人に、黄泉川先生とカエルみたいな顔をした中年の医者が向かい合っていた。
「こう言っちゃ悪いけど、要領を得ない説明だからな。こちらから確認していくじゃんよ」
今は一通り、事情を説明したところだ。先生も隣の医者も、なんだか微妙な表情をして、こちらを見つめていた。
インデックスを救うことが、可能だとも不可能だとも言わない。むしろ、なにか頓珍漢な答えを口にした学生を前にしているようだった。
「インデックスは、10万冊を超える書物を一字一句完璧に記憶している。そしてそれは脳の記憶容量を酷く圧迫する。現状でその占有率は85パーセントで、残り15パーセントを生命維持に使える。そして類稀な記憶能力のせいで、その15パーセントはきっかり一年で消費され、放っておけば死に至る。だから一年ごとに脳の容量を確保するために記憶を消している。なお、書物を覚えた部分の記憶削除は出来ない。……こういう現状を、なんとか改善したい、であってるか?」
ちらりと、神裂たちを見る。コクリと頷いた。
「前提が、ずいぶんとおかしいんだね?」
「どういうことですの?」
困ったというように頭をかく医者に、光子が尋ねた。
ふむ、と黄泉川は嘆息して、腕を組んだ
「婚后、お前常盤台の学生だろうに。まあいい、夏休みだから、今度上条と一緒に小萌先生の補習を受けるじゃんよ」
「はい?」
「記憶野が一杯になるなんてことが有ったとして、それで人が死ぬとお前本気で思うか?」
「……それは。呼吸は出来るでしょうし、食事も摂れるでしょうね」
しばし逡巡して、光子は答えた。
情報を記憶する細胞と、生きるためのプログラムが書き込まれた細胞は別物だ。
生命維持に必要な部分を侵食するような『記憶』行為を、人は記憶するとは呼ばない。
指摘されてみれば、たかが記憶が一杯になった程度で死ぬなんて、おかしなことだった。
「この場合記憶って長期の記憶だろう? 短期、中期的な記憶は保持できるから、ある程度の会話も可能だな。喜怒哀楽を失うこともない。それに今まで覚えたことは忘れないんだろう? ……お前達の言うことを最大限信じたとして、インデックスはそれなりに人間らしい生活を送れるじゃんよ」
ステイルと神裂は、難しい顔をしたまま黙っていた。
科学的にはそれはおかしいことになっている、という議論を、どこまで受け入れるべきなのか。
神裂は、インデックスに一つ、尋ねた。
「……頭痛は、ありますか?」
「さあ? どうかな」
「ちゃんと教えてくれ。……その、どうなんだ」
弱みを神裂たちに見せるのにためらいがあったのだろう。だが今はその逡巡は不要だった。
インデックスは、嘘がばれたような顔をして、一言こぼした。
「二三日前から、時々ちょっと痛む、かも」
「ちょっとどころではないでしょう。一年前も、そうでしたから」
「……」
「あなた方が言うことと、矛盾しているように思うのですが」
神裂がじっと黄泉川先生と医者を見つめて言った。
「矛盾、って言われてもな。そもそも85パーセントって数字の根拠はなんなんだ? 1冊100メガバイトで計算して……10万冊なら10テラバイトか? 記憶できる情報量で言えば、全シナプス数の1パーセントくらいだけどな、それ」
単純なフェルミ推定だ。100メガバイトという値に信憑性があるかは分からないが、テキストデータなら本一冊100メガバイトは見積もりすぎだし、画像データとしてもそんなものだろう。少なくとも、2桁も精度がおかしいことはないはずだ。
「学園都市ですら、脳細胞の何パーセントがどの機能を持つ細胞か、なんてのを完全には把握できてないじゃんよ。それを、お前らの誰が知ってて、誰が数字をはじき出したんだ?」
答えは、なかった。
「おい、答えろよ。魔術師」
「……根拠、と言われましても。我々もこの事実は突きつけられたに過ぎません」
「知らない、ということですの? どうしてそんなあやふやなことでこの子を追いまわして……」
「理屈なんてどうでもいいだろう。……実際一年に一度記憶を失っていて、頭痛で意識さえ保てなくなってくるこの子を見ているのに、憶測でああだこうだと言われてもね」
成る程、現場がまず成すべき仕事は問題解決であって、解決法の改善だとか、そういうのは現場に遠いことだから出来る、というのは事実だろう。
黄泉川も医者も、所詮は他人事だから、まるで現実に即していない憶測をあれこれ捏ね繰り回せる。現場の直感と理論屋の理屈が合わないのは、よくある話だ。
ただ、現場の人間、つまりステイルと神裂が、黄泉川の常識で言ってあまりに経験則に頼りすぎだった。
「別に難しいことじゃないじゃんよ。確かな事実の積み重ねにちょっとした推論を足しただけだろ」
「その確かな、というのがどこまで確かなのかは疑わしいね。科学に基づくと、なんていうと聞こえは良いけど、本当のところはこの子の頭に穴でも開けてみないとわからない癖に」
それは確かにそうだった。ある一個人の特性全てを、あらかじめ知ることは出来ない。
科学が把握しているのは、人間という生き物の平均的な姿と、平均からのずれ方だ。禁書目録と名づけられたある一人の少女のことを、あらかじめ知っているわけではない。
だが黄泉川は科学者の直感として、インデックスがこれまでの脳生理学の常識を覆す、人類初のケースだとは思えなかった。
もっと、これまでの科学が集めてきた経験的事実で、説明付けられるはずだ。
その態度は、科学を信仰する、つまり大概の事実はすでに人類が持っている科学法則で説明が出来ると、そう信じることを意味している。
だから異教徒である魔術師には、その言葉は届かなかった。


「僕からも言わせてもらうとね?」
口を挟んだのは、魔術師でも科学者でもない、医者だった。
科学寄りではあるが、科学が持つ哲学、信仰としての側面には頼らない。
あくまで人を死なせないことに最も重きを置く、そういう職業の人だった。
「考えてみるべきなのは、君たちらしい理屈で言って、この子を一年に一回、記憶喪失にさせるメリットはあるのか、だね」
「……答えにどんな意味があるかは分かりませんが。メリットはあるでしょうね」
「それはどんな?」
「この子を10万3000冊の書庫とするなら、その管理人が必要です。誰か一人がその任を独占してしまうより、一年の任期を与えたほうが健全と言えるでしょう」
「なるほどね。それじゃあ、科学寄りの僕の意見を言わせてもらおうか。記憶能力のせいで余命一年だという説明より、君が言ったような理由で、一年に一回何らかの処理を受けないと死んでしまう体にされてしまった、と捉えるほうがよほど自然だね」
ギクリ、と。神裂とステイルの顔が、はっきりと強張った。
「そ、そんなはずは――――」
「……あの女狐の好きそうなことだね。真実かどうかは分からないけど」
「しかし、我々に嘘をついて何の得が?」
「実に都合のいい存在じゃないか。あの子と仲良くなるのを避けているくせに、どこへ逃げるときにも文句一つ言わずずっと付き従って、僕らはあの子の監視だけをしている」
「それは……そうですが、しかし」
「別にこの医師の言葉を完全に受け入れたわけじゃない。ただ、一理ある、と言っただけだよ」
医者は、納得したように頷いて、もう一言添えた。
「そういう考えを裏付けられそうな方法は、あるかい?」
「裏づけ、ですか?」
「ああ。一年に一度処理をしないとこの子を死なせてしまう魔術がこの子に掛けられている、そういう仮説を確かめられる何かさ」
神裂が鋭い表情で、医者を見た。
「……ずいぶんと魔術に親しみがあるような言い方ですね」
「まさか。僕は医者だよ。人間にはさまざまな信仰を持つ人がいる。命を助けた上で幸せにするのに、必要な方便を沢山知っているだけさ。科学はいつでも人を納得させてくれるわけじゃない」
肩をすくめて、医者はそう言った。
超能力者を開発する科学者、学園都市の高校教師である黄泉川にはその柔軟性はなかった。
人の生死に近いところには、理性でカタのつけられない世界があるのだろう。
黄泉川は医者が魔術という言葉をそういう意味で使っているのだろうと理解した。
「神裂。この子の体に、なにか魔術を施されたような痕跡は?」
「……別にまじまじと見たわけでは有りませんが。そんな目立つものは、見えるところには……」
神裂は何度となく二人でシャワーや風呂を共にしたことがある。そのときに、特徴となるような刺青や聖痕は見なかった。
わざわざ見ないような場所だとか、内臓に直接彫られているだとか、そういうことなら分からない。
光子が医者を振り返って尋ねた。
「レントゲンとMRIは撮れますの?」
「ああ。でもMRIは駄目だね」
「どうしてですの?」
「金属が体に埋め込まれてたら発熱が大変だよ。刺青のインクに金属微粒子が入ってた場合も危険だね」
「何をしようとしているのですか?」
「切らずに体の中を見ようとしているのですわ。それで何か分かるかもしれませんでしょう? 仮にこの子の体に魔術が施されているとして、その場合どんな痕跡があるとお思いなの?」
「……そんなのあるかどうか分からないけど、人に施す術にはやっぱり刺青が多いんだよ」
まさに自分のことなのだ。気味の悪そうな顔をしながら、インデックスは答えた。その答えに光子は考え込む。
MRIは原子の磁化変化を調べることで生体内の様子をイメージングする技術だ。磁化の変化を促す磁場のせいで金属の発熱が促されると、40℃以上の熱に弱い生体に悪影響がある。刺青には発色のため金属粉が混ぜられることがあるから、安易には使えなかった。
レントゲン、X線CTは原理が違うからこの心配はない。超音波イメージングも可能かもしれない。
……問題は、そういった技術でインデックスの体を隅から隅まで調べられるか、という問題だった。
むしろ、まずは触診を行うべきなのだろう。
「まあ、必要なら言ってくれれば用意はするよ。……ところで、この子の上顎、軟口蓋の所に彫ってある魔方陣は、関係あるのかな?」
「えっ?」
インデックスがまず、一番驚いた。それはそうだ。知らないところで、自分の体にそんなものが彫られていたのだから。
神裂とステイルは硬直していた。別に、医者の言い分が正しかったのかは分からない。
ただ自分達が信じてきた前提がだんだんと不確かになって、全く別の可能性が存在感を増している。
当麻と光子は、インデックスを上向かせて口を開いた。医者がペンライトを渡してくれる。
意味など、二人に理解のしようもない。
だが、確かに、そう大きくもない紋章が一つ、インデックスの喉の辺りに、彫られていた。
「なあ魔術師」
「なんだい?」
「お前らならこの紋章の意味、分かるのか?」
「……君と違って、紋章の魔術的な意味を損ねることなく書き写すことは出来ると思うよ。意味を理解することが出来るかは、見ないとわからないね」
「そうか」
「だけどここには、10万3000冊の魔道図書館がある。僕が知らなくても、この子ならわかるかもしれない」
ステイルは、どうせ何も二日では出来ない、と思ったことを自嘲した。
この子を救うのに、あと二日もある。それは、とても希望に溢れた事実に思えた。


ステイルが一歩、インデックスへと踏み出す。
当麻はステイルと神裂に、インデックスに触れさせることを一瞬、躊躇した。
そして当麻以上に、インデックス自身にためらいがあった。
その隙を突くように、部屋にピリリリ、と携帯端末の音が響く。
「はい黄泉川。……また、か。分かったじゃんよ。こっちは人を減らしても大丈夫そうだから、すぐ行く」
黄泉川が事務的な口調で二三言を交わして電話を切った。そしてステイルと神裂を見つめる。
……事情の説明のなかで、結局この二人と共闘することになった経緯が、きちんと伝えられなかった。
「上条。こいつらと、一緒で平気なのか」
「俺たちは一つの目的に沿って動いてます。こいつらは俺を信じてるわけじゃない。けど、インデックスを助けたいってことについてだけは、俺もこいつらも信じあえる」
ふん、と馬鹿にするようにステイルが鼻で笑った。青臭く信じる、なんて言葉を使われたことに対する照れ隠しだった。
「……わかった。それじゃあたしはちょっと地震対策のほうに顔を出す。悪いけど、病院からは出ちゃだめじゃんよ」
「黄泉川先生。また地震ですか?」
一番敏感に反応したのは医者だった。
二日前まで黄泉川家で眺めていたテレビでも、盛んにその件を報道していた。
学園都市の、それも一部だけを襲う地震。震度は大したことがないから大きな問題にはなっていないが、普通の地震ではないことは確かだった。
「ええ。原因は特定されつつあるらしいですけどね」
「困ったな。僕も設備の点検をしておかなくてはならないね」
ここでは体で感じるほどの地震はなかった。だが精密機器の多い病院は、地震に神経質だ。
医者は当麻たちのほうを向いて、諭すように口を開いた。
「君達。何をするにしても、万が一の準備だけはしておくよ? ここは僕の病院だ。死なせないためのあらゆる技術を、ここなら提供できる。かならず相談してくれ」
神裂と、当麻と光子は、部屋を出て行く医者と黄泉川に向かって丁寧に頭を下げた。


「さて。それじゃあ、調べようか」
「……」
嫌味な笑みだとか、そういうのを全部消して、ステイルが酷く真面目にそう宣言した。
手には当麻の手からひったくったペンライト。インデックスが、きゅ、と上条の袖をつかんだ。
記憶を失ってしまった過去に、目の前の神父が仲間だったと言われても、インデックスの警戒感は解けてはくれなかった。
「インデックス」
「わかってる。とうま」
「……こうしましょうか」
光子が、ベッドに座るインデックスを後ろから抱きしめた。
そして当麻が、インデックスの顎に手を添えて、口を開いて上向きにさせた。
ステイルはペンライトを当てて覗き込むだけだ。
「随分と厳戒態勢だね」
「悪く思うなよ」
「別に構わないさ」
胸元からメモ帳のようなものをペンを取り出してから、ステイルはインデックスの喉にライトを当てた。

一瞬の硬直。

周囲の誰しもがその意味を窺う中、すぐさま我に返って、紋章の写しを取り始めた。ステイルは恐ろしく上手かった。中心に一文字あって、それを囲うように円が書かれている。その円はよどみのない真円を描いているように見えるし、円を縁取る細かな文様までも、正確だった。
「……描けたよ」
さして時間も掛からず、ステイルは写した紋章をインデックスの手のひらの上に置いた。神裂が身を乗り出してそれを覗き込む。
「……これで意味が分かるモンなのか?」
「君は黙っていろ。何も期待なんてしていないからね」
当麻は言い返してやりたかったが、全くそのとおりなので黙ることにした。
光子はインデックスを抱いた手を離さず、後ろから眺めた。
「私の知らないルーンが有るね」
「……ははっ」
乾いた笑いが、ステイルからこぼれた。軽薄な響きの癖に、怒りが篭もっているのが分かった。
「どうしました、ステイル」
「いやなに、このルーンは、僕が新しく付け加えた字なんだよ。力ある字を加えるってのは、かなり高度な技なんだけどね。……僕以外にこれを作ったルーン使いがいるとしたら、そいつは僕の読んだ書物なんかを全て知ることの出来る立場にいるんだろうね」
『必要悪の教会』に自分の知らされていないルーン使いがいるのかと笑ったステイルだったが、事態はもっと外道だった。
自分の編み出した術式を、丸ごと盗んで使った術者がいる。そしてそれを可能にする権限を持った人間も関わっている、そういうことだった。
「あの女狐ならやりかねないな」
「こういう手が好きそうだというのは否定はしませんね。……それでステイル。あなたはこれを読めるのでしょう?」
「ああ。当然だね。
 『姉妹よ、救済者が他のすべての女性たちよりもあなたを深く愛しておられたことをわたしたちは知っています。あなたが覚えている救済者の多くの言葉、あなたが知っていて、私達の聞かなかった言葉を私たちに話してください』
 ――――だってさ」
「……どういう意味ですか?」
「福音書の一節だよ」
インデックスが、素っ気無く答えた。ああ、とステイルが相槌を打つ。
「十字架に架けられ墓に埋葬された主が復活するくだりか。……こんなシーンだったか?」
「十二使徒に女性の使徒はいませんが」
原語のまま読めるステイルと違い、神裂はステイルの日本語訳を聞いただけだ。
別段聖書に慣れ親しんでいるわけでもない神裂には、ピンとこなかった。
いぶかしむ二人に、当麻は答えを急いた。
「これ、聖書の引用なのか?」
「……考えているところだ。せかさないでくれ」
「聖書の一節、ではないんだよ。聖書っていうのは、マタイ、マルコ、ヨハネ、ルカ、この四人の使徒が書いた福音書から出来てるの。これはこの四つとは違うね」
「これは外典からの引用なのですか?」
「むしろ偽典と言っていいかも。マグダラのマリアの福音書だね」
「マグダラの……あの罪深き女の守護聖人、ですか」
なるほど、と神裂は思った。あらゆる魔導書を取り込んだインデックスは、キリスト教的価値観から言って、まさに罪深き女だ。
「マグダラのマリアの加護を、利用した魔術なのですね」
7つの悪霊をイエスに追い出してもらい、ほかの婦人達と共に自分の物を出し合って、主イエスにガラリヤから付き従った女。
かつては娼婦であり、知性の足りぬ女という生き物が、それでも改悛をしたという象徴的な存在。
カトリックという教えの中で、売春婦達の心の拠り所であり続けた。
神裂は不愉快を、そっと心の中に押し留める。
誰かが穢れを引き受けなければならないから、それを引き受けただけなのに。
インデックスを罪深き人のように象徴することは受け入れがたかった。
「あなたもカトリックの人なんだね。とんだ勘違いなんだよ。マグダラのマリアが罪深い人だなんていうのは」
「え?」
「まあ、歴代のローマ教皇がそう認定してきたから、カトリックにとっては『そう』なのかもしれないけど」
「どういうことですか?」
いぶかしむ神裂を尻目に、インデックスは光子に問いかけた。
「キリスト教は、その成立時点でかなりばらばらに分かれちゃったんだよ。どうしてだと思う?」
「それは……やっぱり主義主張の違いではありませんの?」
「例えばどんな?」
「例えば……ああ、聞いたことがありますわ。キリスト教はユダヤ教の派生として生まれたわけですけれど、たしかユダヤ教はかなり女性を低く見る宗教だったようですわね」
地政学の授業で聞いた話が、どことなくリンクしている気がした。
「そうだね。礼拝所に女性は入ってはいけない、なんて戒律があったみたいだね。そういう考えが自然な社会に、もし女性の高弟がいればどうなると思う? 今まで皆を導いてきた救済者イエスが人としての肉体を失ってしまった後に」
「……仲たがいを、起こしましたのね?」
「確かなことはもう分からないけど。今のキリスト教を広めた12人の使徒の中に、女性はいないんだよ。聖書に載った『正しい』福音書にはね、マグダラのマリアは、主の使徒に奉仕した女性、つまり使徒の使徒であり、主が復活したときには驚き慌てて、取り乱しながら男性使徒に報告しに行ったって風に書いてあるの」
「マグダラのマリアが書いた福音書ではどうなっていますの?」
光子はそう尋ねた。
聖書に書かれたことは、確かに真実なのかもしれない。
だが、女性とは蒙昧な生き物であるという社会常識が前提となっていたなら? 女性はそのように書かれるべきという考えが普通だったなら?
インデックスは自らが収録した邪教の教えを、次々と明らかにしていく。
「主が亡くなって、教えを広めようとしたときに男性使徒はみんな怖気づいたの。異端の宗教である主の教えを広めれば、弾圧されるから。マグダラのマリアはそんな皆を慰めて、ほかの使徒たちに語られていなかった主の教えを伝えたの。そうしたら、ある男性使徒がこんな風に言ったって書いてある。
 『あの方がわたしたちには隠れて内密に女と話したのか。わたしたちのほうが向きを変えて、彼女に聞くことになるのか。あの方は、わたしたちをとびこえて彼女を選んだのか』
 って」
「時代や風土によって価値観は決まるものですから、悪いとは言えないのかもしれませんけれど。……女は馬鹿だと、そういう前提があるのでしょうね」
「ちなみに、こんなことを言った人のお墓、『使徒十字<クローチェ・ド・ピエトロ>』の上に、ローマ正教の大聖堂は建てられているんだよ」
仕方ない側面はあるのだろう。
水が少ないあの土地では、月に一度、血で汚れる女はさぞかし穢れて見えるのだろう。
日本ですらそうだったのだ。女という生き物がそんな役目を引き受けた『合理的な』理由を考えれば、自ずと女は男より罪深く、劣った存在だという答えが出てくるのだ。
マグダラのマリアと相容れなかったペトロは、その時代のユダヤ教徒の、ごく普通の価値観の持ち主だっただけなのだろう。
そして主に最も愛された女使徒は、いつしか元売春婦というレッテルが貼られ、教皇達によってそれが承認されてきた。
正しい過去は塗りつぶされ、罪深い女になった。
「……つまり、マグダラのマリアの福音書をわざわざ引用したのは」
「私の過去を否定する、そういう意味合いがあるのかも」
「ふうん、気が効いてるね。たとえこの子の紋章を見つけても、今までの僕らなら、この子を保護するお守りに見えたわけだ。本当は首輪なのにね」
面白そうな口調で、ステイルはそんなことを言う。目が全く笑っていなかった。
「それじゃあインデックス。この真ん中の文字は分かるかい?」
「ルーン文字だけど……アルファベットのMの借用文字だよね」
「マグダラのマリアのM、ということですか」
「どうかな。Mに象徴されるのは普通、聖母マリアのほうだろう。……ああ、そういうことか」
「何か分かったの?」
「マリアをルーン文字で、それも黒に金粉を混ぜた墨で書いた意味はなんだろうね。ヒントは、銀髪で分かるように君がケルトの血を引いてるって事かな」
つまらなそうにステイルがヒントを出す。
科学側の二人にも神裂にも分からなかったが、それだけで、インデックスは分かったらしかった。
「黒いマリア」
「ご名答」
「説明してください、ステイル」
「あなたは日本人みたいだから知らないかな。ヨーロッパの各地に、黒塗りのマリア像があるんだよ。キリスト教では黒は死の象徴だから、マリア像に黒を塗るなんておかしいよね」
北西ヨーロッパに黒人などいるはずもない古代。そんな時代から深い森に生えた古木の洞(うろ)や洞窟の中に残されてきた、黒いマリア像。黒塗りの下には金が塗られているものもある。
インデックスに彫られた紋章は、それを象徴していた。
「何故そんなことを?」
「君こそその心境をもっともよく理解する人だと思うけどね、神裂。キリスト教を押し付けられたケルトの民が、マリア像のなかに自分達の女神を隠したんだよ。いや、どこまでその認識が正しいかは君に聞いたほうが早いな。観音様の中にマリア様を隠した君たちは、それでもマリア様だけにすがったのかい? それとも観音様とマリア様、どちらにもすがったのかな」
「……」
「なんにせよ、マリアという存在に塗りつぶされて、ケルトの女神は名前すらも忘れられてしまったんだ。こう言えばもう、言いたいことはわかってくれたかい?」
「ケルト人のインデックスを、この名前すら忘れられた女神になぞらえている、と。そう仰りたいの?」
「よくわかっているじゃないか。全く、よく出来た仕掛けだね。この子を二重にマリアになぞらえる。過去を否定されて、いつしか娼婦になったマグダラのマリアと、過去を塗りつぶされて、いつしか聖母マリアに同化させられてしまった『黒いマリア』とにね。一人の人間からただ過去を奪うだけなのに、随分と凝った術式だ」
そして、術式を発動させるのは神裂火織なのだ。正しい教えから離れさまざまな宗教を習合させてしまった、天草式十字凄教の元女教皇。
これほどうってつけの人材も少ないだろう。
神裂が使ってきたのは、主の教えから遠い天草式が、それでも忘れないで保ってきたマリアの加護、それを利用する術式だった。
正当なカトリックであればあるほど、マリアの加護に頼ることはしない。もともとそれは正しい教えではないからだ。
そもそもマリア信仰は、歴代の教皇達に何度も否定されてきた。信仰の対象は主イエスであるべきで、その生みの母は無価値な人ではないにせよ、注目すべき人でもないとされてきた。
だが、民衆は常にその意に常に反した。なぜなら、マリアは母の象徴だから。子どもを産むという、その行為の象徴だから。
数字を見れば笑ってしまうほど子どもの死亡率が高い近代以前において、最も人が救われない思いをするのはわが子を失ったときだ。
だから、異端とは言わずも正統ではない、と何度教皇がそう認定してもマリア信仰は失われることはなかった。
そしてその信仰の根深さは、異端を取り込むときにも存分に発揮される。
古代ケルトにおいても、そして日本の九州においても、主イエスよりも強い影響力を、マリアという存在は担ってきた。主がその御名どころか存在すら忘れ去られる一方で、カクレキリシタンはマリアを忘れることだけはなかった。
そして今、その信仰の有り様を逆手に取られていた。神裂ならマリアの力に頼ると分かっていたから、マリアの紋章に呪われたインデックスの、記憶消去を託されたのだ。
一人では、神裂はその紋章の深遠な意味に気づくことはなかっただろう。そしてこの事実は、とても大きな意味を持っていた。神裂は、ステイルに問いかける。
「確認をとります。私はこの子の記憶を消しましたが、新しい記憶は何度もそこに上書きされていると思っていました」
「違うらしいね。この術式、『黒いマリア術式』とでも名づけておこうか。これはこの子の記憶を消し飛ばすものじゃない。徹底的に否定して、隠匿する術式だよ」
「つまり、それは」
インデックスが言葉を継いだ。
「この式を正しく解いたなら、私は今までのことを、全て思い出せるんだね」
神裂は、胸を押さえた。とめどなく沸いてくる希望が、胸につかえて苦しい。
ステイルが笑った。いつもどおりの嫌味な笑いを作るつもりだったのに、失敗していた。


言葉に詰まった魔術師二人の代わりに、光子がインデックスに声をかけた。
「上手くいけば、インデックス、晴れてあなたも人並みの生活が送れますわね」
心の中には、チクリと刺すものがあった。
全てを思い出せば、たった一週間を過ごしただけの自分達は、ちっぽけな存在になるだろう。
励ました言葉にキレがなかったことは認めるが、それ以上に、インデックスに喜んだ雰囲気がなかった。
「インデックス?」
「この人たちが私を助けるために頑張った人たちなら、それを忘れた私はどれだけ薄情なんだろうね。そうやって到底返せないような借りを、私は何人の人に対して作っちゃったのかな」
それは迷いでもあった。過去は時に重荷でもある。
人は誰しもその荷を下ろすことが出来ない。しかし換言すれば慣れているという意味でもある。
逆に今から背負わねばならないインデックスにとっては、過去を背負うことは漠然と恐ろしかった。
「……あなたに忘れられた私達ですが、それでも貴女を恨んだことなど、ただの一度たりともありはしません。きっと、歴代の、あなたの傍にいた人たちも全てそうでしょう」
神裂はそれに自信があった。それだけ、愛らしい少女なのだ。
その心に一年間触れた人間が、インデックスを恨むことなどありえない。それは確信できることだった。
「……で、結局なんとかなる、ってことでいいのか?」
「ステイル」
当麻の質問を、神裂はステイルに振った。
「原理は簡単なんだ。『黒いマリア術式』を解呪するには、『黒いマリア』の力を借りればいい。ただ、この便宜的な名前じゃなくて、ケルトの名もなき女神からマリアの要素をちゃんと差し引いた、本来の女神の力を借りられればいいんだ。それも大規模な魔力は必要ない。その女神をその女神として看做す、それだけでいいんだけど」
ステイルがそこで言葉を切った。ルーンやカバラのように、莫大な知識を必要とする術式ではない。そういう意味で簡単な術式だった。
……ただし、マリアと習合してしまう前の、古い女神の本当の姿さえ分かるならば。
神裂がインデックスを見る。インデックスが女神の真名を知っていれば、それで解決する問題だった。
インデックスは静かに首を横に振った。
「知らない、か。……真名に頼れないと長くなるけど、祈祷文を作ってみよう」
祈りを捧げるというプロセスで女神の力を引き出す。英国人には珍しくもない、ステイルもケルトの民の末裔だった。
正しい祈りさえ捧げられれば、力は問題なく発動する。だがその正しい祈りというのが難しかった。
ケルトの民は、大和王権が統一する前の日本のように、似たような原語と文化を持っていながらそれぞれ違う集族として纏まっているような、そういう有り方をしていた。
比較的詳細に史料の残った『トゥアハー・デ・ダナーン<ダーナ神族>』の物語のような、特定の集族のものに頼りすぎれば本質を見逃すかもしれないが、そういう具体的記述に頼らなければ女神の本質に迫ることさえ出来ない。
確実な呪文を構築するのが難しい術式だった。

「なあ、俺の右手で触っちゃまずいのか?」
当麻は、ついそう聞きたい気持ちを抑えられなかった。
「……最後の手段として、決して否定はしませんが。貴方の右手は何もかもを壊します。例えば時速60キロで走る車から、突然エンジンとブレーキを取り外せばどうなります?」
「そりゃ、事故るだろうな」
「貴方の右手がすることは、そういうことです。それでは戻る記憶も戻らなくなるでしょう。下手をすればこの子の命を脅かすことになるかもしれません」
「だから早まった真似だけはしないでくれよ」
「言われるまでもねーよ」
トントン、と地面をつま先で叩いて、無力感を紛らわせる。いま必要なのは不貞腐れることではない。
「いつやる?」
「今日やろう。時間はもう少し遅いほうがいいだろうね」
「インデックス。絶対に……救ってみせますから」
「……うん」
神裂の、万感篭もったその瞳に、インデックスはたじろいだ。それが今の二人の距離感だった。いや、インデックス側の距離感だった。
神裂はしまったと後悔した顔を一瞬見せて、あとは事務的な表情を装った。
「その、こういうのを聞くのはよくないかも知れませんけれど、失敗したらどうなりますの?」
「どうもならないか、正しい記憶封印の術式以外に晒されることでペナルティが発動して、この子の死を招くか、そんなところだろうね。まあこの子に魔力はないから、周りを巻き込むような派手な死に方はしないだろうけど」
「では失敗したら、この街の医療に頼ることになりますのね?」
「……そうだね、魔術で、咄嗟にペナルティを解呪するのは難しいだろうね」
「そう。じゃあ、あとで医師の方に伝えておきますわ」
「頼みます」
「で、場所はどうするんだ?」
「……聞いてどうするんだい?」
「どうするも何も、そこに行くに決まってんだろ?」
「正直、魔術を使う場所に君は必要ないんだけどね。その右手がどんな悪さをするか分からないし」
「……」
そっと、当麻の袖をインデックスが引いた。
「とうまと、みつこに隣にいてほしい」
「魔術には、必要ないだろう? 君だって分かっているはずだ」
「二人がいてくれたほうが、私はずっと頑張れるから」
インデックスに真っ直ぐ見つめられて、ステイルは苦々しげに目を逸らした。
「好きにしなよ。だが上条当麻。君はこの子からちょっと離れていることだね」
「……いいさ。理由は理不尽じゃない。従うよ」
話は、決まりだった。インデックスという少女が、死を迎えるまでにあと2日。
それだけの時間を残して、今日、全ての決着がつく。
みんなが幸せになれる未来が手繰り寄せられるように、当麻はそれだけを決意に。
インデックスの頬をつねってやった。
「むー! いひゃいってば、とうま!!」

****************************************************************************************************************
あとがき
『黒いマリア術式』を考案するにあたり以下の文献を参考にしました。
『マグダラのマリアによる福音書 イエスと最高の女性使徒』 Karen L. King著 山形孝夫・新免貢訳 河出書房新社(2006)
『聖母マリア崇拝の謎 「見えない宗教」の人類学』 山形孝夫著 河出ブックス(2010)
『カクレキリシタン オラショ-魂の通奏低音』 宮崎健太郎著 長崎新聞新書(2001)



[19764] ep.1_Index 13: ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/02/28 22:34

おにぎりを頬張る。
時刻はもう夜といっていい時刻だった。今日がなんてことのない平穏な日だったなら、夕食を囲んで談笑しているところだろう。
しかし今は、そういう明るい気持ちにもなりきれなかった。あともう少ししたら、屋上に行くことになるからだ。
星の見える場所で、インデックスにかけられた呪いを解く。そういうことになっていた。今頃あの二人は準備をしているのだろう。
こちら側に出来ることは何もない。せめてその時まで、心を落ち着けて体を休めておくくらいだった。
「みつこ」
「どうしたの?」
「呼んだだけ」
「……ふふ。ちょっと待ってて頂戴ね」
三人は病院の個室にあるベッドに腰掛けて、売店で買った軽い夕食を摘んでいた。
インデックスは自分の分をさっさと平らげてベッドに転がっている。座っておにぎりを咀嚼する光子の腰に腕を回して、じゃれ付いていた。
「ごちそうさんっと」
「とうま」
返事をせずに、当麻はベッドに倒れこんだ。光子に抱きつくインデックスを、後ろから撫でてやる。
猫みたいにインデックスが目を細めた。
「ご馳走様でした。……もう、インデックスも当麻さんもお行儀が悪いですわよ」
そう言いながら、自分もインデックスの腕を解いて、ベッドに倒れこんだ。すぐさまインデックスが光子に抱きつく。
たいして年齢差のないであろう二人なのに、ちょっと年の離れた姉妹みたいだった。インデックスを撫でる光子と、目が合った。
「ほらインデックス。当麻さんが寂しそうですわ」
「ふーん」
「構ってあげたら?」
「やだもん。とうまはすぐほっぺたつねるから」
「照れ隠しですわよ」
「意地悪なだけだと思う」
酷い言われようだった。悪い子は、つねるしかない。
インデックスに手を伸ばすともう当麻の意図が分かっているのか、すげなく手を払われる。
「なんだよ。触ったって良いだろ」
「良くないんだよ。っていうかとうまは男の人なんだから気安く触ってもらっちゃ困るんだよ!」
「まあ、そりゃ俺は男だけど。触っちゃまずいような体か?」
「とうまの意地悪!」
光子より体型が子供なのを揶揄されると毎回ムッとするのだった。
「もう。当麻さん。そういう意地悪は女の子にとっては嫌なだけですわ。こういう時くらい、ちゃんと向き合ってあげればよろしいのに」
「いいんだよ。私にはみつこがいるから」
光子の言葉を受けて、当麻はふむ、と考え込む。
「インデックス。これからのこと、怖いか?」
「え?」
「強がりだって、悪いことじゃないから何も責める気はないけどさ」
「……怖くないって言ったら嘘になるよ。でもね、とうま」
光子に抱かれたまま、インデックスが幸せそうに笑う。インデックスが本音を偽れる悪女なら、相当の手練手管だろう。
本当に幸せを感じてくれている、自分達は幸せにしてやれていると、そう信じてしまう笑顔だった。
「こんなにもみつこととうまが私のことを気遣ってくれるから。それにあの二人も頑張ってくれてる。それを、不幸だとかそんな風には思えないよ」
「そっか。なあインデックス」
「うん?」
「こっち来いよ」
いつも、光子が抱きしめるインデックスを外から見る構図だった。
不用意に光子以外の女の子をべたべたと触るもんじゃないし、それで済ませてきたが、インデックスを、抱きしめてやりたいという気持ちは当麻にだってあった。
腕を開くと、疑うことを知らないインデックスが、ぽふりと当麻の胸の中に飛び込んだ。
「えへへ、とうま」
「インデックス」
ぎゅ、っと。息が苦しくなるくらい抱きしめてやった。
光子より硬い印象のある抱き心地。光子より小さくて、やはり幼かった。
「とうま、力強いね」
「そりゃ光子よりはな」
「ねえとうま」
「ん?」
「大好き、だよ」
ドキリと、当麻の胸が高鳴った。
ほんの一瞬だけ隣に光子がいることすら忘れて、インデックスをもっと抱きしめたくなった。

サラリと、細い指が当麻の頬と首に絡みついた。
光子が、当麻の同意を取ることもなく、いきなりキスをした。
インデックスの見ている目の前だった。

「み、光子……」
「あー、みつこ今、妬き餅やいたでしょ」
「だ、だって。当麻さんは私の恋人です!」
「別にとったりしないよーだ。みつこととうまは、お似合いだからね」
事実、光子の妬き餅は思い過ごしだ。光子と当麻が仲良くしていると、インデックスも嬉しそうだったから。
予定の時間まで、あと20分。互いの情愛を深め合うように、三人はベッドの上でじゃれあった。




医者と簡単な打ち合わせをして、当麻たちは屋上への階段を上る。
扉を開けて、物干し竿がいくつも並んだその先に、ステイルたちの影がうっすら見えた。
今日は晴天。明かりの豊富な学園都市の中だから余り星は綺麗に見えないが、それでも力強い光が、点々と見えていた。
「よう。待たせたか?」
「いえ、定刻までは我々もすることがありません。ちょうど頃合に来てくれましたね」
「もう準備は出来ていますの?」
「ああ。あとはその子に、ここに立ってもらえばいい。それだけさ」
空には月。地には、直径5メートルくらいの車輪模様に敷かれた護符。
「呪文は、もう練れたの?」
「ああ。ゴール語で文章を組み立てるのは無理だし、ラテン語だけどね」
ラテン語はケルトの民を攻め滅ぼした側だが、それは後世に資料を残した本人達だということでもある。
ラテン語から翻訳した英語で唱えるよりは、まだしも原点に近い。
「何かあれば、すぐ行くから」
「……とうまはよっぽどおかしいことがあるまでは、ちゃんとここで待っててね」
インデックスを中心として発動する、車輪の魔方陣よりさらに数メートル離れたところで、当麻はインデックスを見送った。隣に光子も残った。
カツカツとかかとを軽く響かせながら、インデックスは車輪の内側へと足を踏み入れる。そして中心点で、立ち止まった。
「それじゃあ、はじめるよ。だけどその前にもう一度確認しておこう。インデックス。君は今から僕の魔術に、命を託すことになる。失敗すれば死ぬ、と覚悟しておいたほうがいい。それは充分にありえることだ」
車輪のすぐ外に片膝を着いたステイルが、インデックスにそう尋ねた。まるで止めておけというような、否定的な響きさえ感じられる言い方だった。
事実、ステイルに迷いがないとは言えなかった。
後一度、インデックスが全てを喪失してしまうことさえ諦めれば、もっと時間をかけて準備をすることが出来る。
死ぬかもしれないリスクを、冒すべきだと断定は出来なかった。
「あなたは、失敗する気なの? 自信がないの?」
「こんな専門外の魔術に自信を持てというほうが無茶だとは思うけどね。……はは。今の君に言っても仕方のないことだけれど。僕は今この瞬間のために、魔術の腕を磨き続けたんだ。何にでも誓うよ。この命に代えてでも、失敗なんてするものか」
「ありがとう。貴方のことを覚えていない私に、そこまでしてくれて」
それはむしろ謝罪だったと思う。淡く笑って、ステイルはそれには返事をしなかった。
「こんな言い方をすると悪いけど、私は貴方の死を背負いたくはないんだよ。そういう風に誰かの命の上に生きていきたいとは、思えないから」
「こちらとて死ぬ気はないよ。……それじゃあ、やろうか」
「うん。とうま! みつこ! すぐ、終わるから」
「おー、途中で寝るなよ」
「そんな子どもじゃないんだよ! とうまのばか!」
ほっぺたをつねられるのも、こんな冗談を飛ばされるのも、インデックスは嫌いじゃなかった。
落ち込んだときだとか迷ったときに、こういう冗談でいつも気持ちをしゃんとさせてくれるから。
光子はニコリと微笑んで、頷いてくれた。
助かろうと、そう思える。あの二人がいなかったら、自分はこの魔術に頼ろうとしただろうか。リセットされて困るだけの一年になっただろうか。
絶対に光子と当麻のことを忘れたくない、その思いがインデックスを奮い立たせてくれた。

「――――O Fortuna imperatrix mundi」

ケルト、そしてローマの地に繰り返し現れる、出産、生と死、輪廻、車輪、そして運命をつかさどる女神の元型<アーキタイプ>。
一言一言を踏み締めるように、ステイルが祈るように手を組んで女神への祈りを唱え始めた。




ただの黒いインクで描いたルーン文字、それが光を帯びて、金へと変わっていく。
そして青色、赤色を経て黒い光を発し、そして金へと還る。
その中心で、インデックスは手を胸元に組んで、俯くように祈っていた。
朗々とステイルが祈りの文を読み上げる。隣では神裂が目を瞑って、こちらも祈っているようだった。
祈りは救い。どのような身分でもいかなる時でも、人は祈ることが出来る。
科学の言葉で言えば、それは無価値な行いだ。
科学を信じる人にとって、世界を作り変えるのは祈りではない。物質世界への主体的な働きかけだ。
だから当麻たちは祈ることが出来なかった。祈る以外に、すべきことを探してしまう。
当麻と光子は、徐々に光の強さを増していく魔方陣を、じっと見つめていた。

「――――Fortune plango vulnera stillantibus ocellis」

祈りによって熱を帯びた魔方陣が、光で飽和するように、ある瞬間を境に瞬き方を変えた。
地上からでも光が見えそうな、それくらい強い光を発している。
インデックスを含め、全員の顔を昼と遜色ないくらい見分けられる明るさだった。

「――――Ave formosissima, Ave formosissima, Ave formosissima」

車輪の外周に、少しづつ文字が現れ始めた。見た目からしてルーンというやつなのだろう。
はっと、インデックスが驚いたように唇を押さえる。口腔内に彫られた紋章が、反応したのだろうか。
魔方陣に現れた文字は、インデックスに刻まれた紋章を打ち消すものだ。それが完成したとき、解呪の魔術は成される。
再びインデックスが俯いて祈り始めた。

光子は、目の前の出来事に語るべき言葉を見つけられなかった。魔術を見たのは初めてではない。『魔女狩りの王』に何度も追われているのだ。
だが、儀式めいた、魔術らしい魔術を見たのは初めてだった。光を再現する分には、もちろん超能力でも可能だろう。
だが、心のどこかで理解できるのだ。これが超能力ではないことを。
この学園都市のみがたどり着いた一つの答えと、まったく矛盾する存在であることを。

七割、八割、そして九割。
もとより院長に許可を取って、屋上でやっている行為だ。邪魔が入るはずもない。
神裂も当麻も光子も油断はしていなかったが、警戒すべき外乱の影すら見当たらなかった。

――――そして、車輪を縁取るルーン文字が完成した。
魔方陣がひときわ強く瞬く。そしてステイルが何かを一言呟くと、シュン、という音と共に、魔方陣から全ての光が失われた。
成すべき仕事を終えたのか、神秘的だった何かが失われていくのを光子は肌で感じた。

「……うまくいった、のか?」

その呟きが聞こえたわけでもないだろうが、ステイルの目線が一瞬当麻と交錯する。
そして小さな頷きが帰ってきた。
術式そのものは簡単だ。そして手ごたえもステイルの中にはっきりと残っていた。
だから、術式が用を成さなかったという意味の失敗は無いと断言できる。
問題は、解呪が済んだ後のインデックスに、ペナルティがかかるかどうか。

俯くインデックスを四人は注意深く見つめる。
どうなったのか、それを確かめるのが怖くて誰しもが足を進められなかった。
インデックスが組んだ腕をだらりと下ろした。
そして、顔を上げる。

危険な兆候はない。足取りは少なくとも確かだ。
もしペナルティがかかっていれば、もうインデックスの体を蝕んでいていい時間だ。
だからステイルの中の期待が痛いほど膨らんでいく。
その目で見つめて、名前を読んで欲しい。微笑んで欲しい。
それだけで、全てが報われる気がする。

インデックスがまず顔を向けたのは、ステイルのほうだった。
それはきっと記憶を取り戻したからだと、そうステイルは思った。
当麻のほうではなかったことに素朴な喜びと優越感を覚える。
読み取りにくい表情で、インデックスが双眸を開くと。

――――生来の緑を塗りつぶして、血のように紅い魔方陣が両目に浮かんでいた。




「ステイル!」
呆けるステイルを我に返らせたのは当麻の声だった。
咄嗟に体を捻ると、キュッという、自分のわき腹が焼ける音がした。
「が、あああああああああ!!!!」
理解できない。今自分は何をされた?
拳銃でも撃たれたのだろうか。それは酷く納得できる答えだった。
もしかして、なんて自分の頭の中を巡っている可能性に比べれば。
「ど、うして……あの子が、魔術を使えるんですか!?」
それは一番最初に本人から与えられた情報だった。沢山の魔導書を読んだが、自分自身はその力を使えないのだと。
これは、その事実に反している。
そして説明の言葉はインデックスからはなかった。ただ、無機的なアナウンスが口から流れる。

「――――警告。第三章第二節。Index-Librorum-Prohibitorum――禁書目録の『首輪』の消去を確認。10万3000冊の『書庫』の保護のため、侵入者を迎撃します」

突きつけられたインデックスの指から、再び赤い光が飛ぶ。現代で言えば銃弾と同じような、目にも留まらぬ速さだった。
それを神裂は咄嗟に防いだ。
「神裂! ステイル! なにぼけっとしてやがる! どうすればいい? 何をすればインデックスは元に戻る?!」
「――っ! 発動しているのはこの子の緊急時を預かる『自動書記<ヨハネのペン>』です。これを止められれば」
「どうやれば止まる?」
「そんなこと……っ! 考えたこともなかったんです!」
次々と飛んでくる光の矢を、神裂は造作もなく弾き飛ばす。
埒が明かないとインデックス、いや『自動書記<ヨハネのペン>』は判断したのだろう。
ジロリ、と当麻を見つめたのが分かった。

「――――侵入者に対し最も効果的と思われる魔術の組み込みに成功しました。これより特定魔術『聖ジョージの聖域』を発動、侵入者を破壊します」
インデックスの瞳に浮かんだ魔法陣が一気に拡大して、目の前に投影された。直径は二メートル強。二つの魔方陣は互いに重なり合った。
「    、    。」

当麻と光子、いや神裂たちにも理解できない声で、『何か』をインデックスは歌う。
バギン、という空間がきしむような音と共に、黒いひび割れが空を這った。
それはまさしく雷の先駆放電であり、次の瞬間、二つの魔方陣から、黒い雷が奔流となって当麻に襲い掛かった。
「当麻さん!!!」
「お、お、おおおおおおあああああああ!!!」
誰もがその光を、人間など一撃で死に至らしめるものだと理解している。
当麻も勿論知っていた。だから、それに立ち向かう。自分がよければ誰に当たるかなんて考えたくもない。
ごく、手馴れた仕草で当麻は右手を突き出した。自信があった。自分の右手は、それが超常現象なら、神様の奇跡だって打ち消してみせる――――!



「『竜王の殺息<ドラゴン・ブレス>』って、そんな」
「どうしてこんな強力な魔術をこの子が……」

離れたところで魔術師達が呆然と呟いている。隣では光子が余波で尻餅をついていた。
ジリジリと右手が焦げていくような錯覚にとらわれる。秒単位で皮膚が削れていくようだった。
そして受ける圧力は、音速の風でも掴めばこうなるか、というような硬質な流れを感じさせる。
強風にガタガタと音を鳴らす窓のように、骨をへし折りかねない、嫌な振動を指が起こしている。
「おい! ステイル! 神裂! 寝ぼけてねーで起きやがれ!」
「……く! 上条当麻! あの子の紋章を何とかするんだ! 少なくともそれでこの攻撃は収まる!」
「そうは言うけど、これじゃ」
動けない。馬鹿みたいな圧力で、足を踏ん張って立っているのがやっとだ。
「当麻さん! 今!」
気づけば光子が、数十個のコンクリート塊を頭上に打ち出していた。能力で床にヒビを入れ、強引に砕いてはがしたらしかった。
雨の様に振るそれは当然ながらインデックスにとっての脅威。迎撃のために視線が逸れて、当麻は自由になる。
「ステイル!」
「気安く名前を呼ぶな!」
当麻は、ステイルがカバーしてくれることを疑わなかった。
神裂はもう光子の隣に駆け寄って、手ごろなサイズのコンクリート塊を量産している。


神裂火織とステイル・マグヌスは魔術師だ。普通の人が決して背負わぬほどの誓いを、魂に刻みつけた人々だ。
これまでもその名に違わぬよう、道を外さぬよう、精一杯やってきた。だが、これほど、今ほど、魂を震わせてその名を口に出来たことはなかった。
あの子を絶対に救い出す。幸せと笑顔を取り戻す。
「――――Fortis931<我が名が最強である理由をここに証明する>」
「――――Salvare000<救われぬ者に救いの手を>」
二人は同時に叫んだ。
そしてステイルが、胸元からありったけのルーンを取り出してばら撒た。
「顕現せよ、わが身を喰らいて力と成せ。『魔女狩りの王<イノケンティウス>』!」
インデックスに接近する当麻を、再びインデックスが捉えようとする。その刹那。何かに突き動かされるように当麻は頭を下げて転がった。
一瞬後に頭のあった場所を太い『光の柱』が薙ぎ、そしてそれを炎の巨人が受け止めた。

「『魔女狩りの王』の発動を確認。反抗魔術<カウンターマジック>、『神よ、何故私を見捨てたのですか<エリ・エリ・レマ・サバクタニ>』を組み込みます」

瞬時に『自動書記』が対応を練る。
『魔女狩りの王』を一度も見せていなかったなら、もっと時間が稼げたかもしれない。
もし、たら、れば。全部無駄なことだ。現にステイルは、もうインデックスの前で手の内を明かしてしまった。
仕方ない状況があったとはいえ、それはインデックスと対峙する上で最もやってはいけない愚だ。
『魔女狩りの王』が『竜王の殺息』を受け止めて数秒後には、もう、ジリジリと押され始めていた。
「……く。上条当麻! 急いでくれ!」
「――――! 上! 避けてください!!」
相反することをステイルと神裂が叫んだ。
空には幾枚もの純白の羽。直感でそれが酷く危険な、『竜王の殺息』と変わらないものだと気づいた。
それを迂回するように当麻は光子から見てインデックスの反対へと回る。
それはどうしようもない隙だった。視線の外では『魔女狩りの王』とそれを成す全てのルーンが引きちぎられていた。
「こっちですわ!」


光子は歯噛みする。
自分には援護しか出来ない。しかも、援護のためにばら撒いたコンクリートが明らかに危険そうな羽根に変わるのだ。
だけど、数秒でもインデックスの視線を上条から逸らさないと、近づくことすらできない。右手で触れることが出来ない。
病院の床を削られないように、もう一度数十個のコンクリート塊を空に飛ばす。密度がなるべく低くなるように、散り散りに。
インデックスの視線が空をあちこちと掃引した。視界にあったいくつもの雲が引きちぎれる。
学園都市のあちこちで予報から外れた局地雨が振っていることだろう。下手をすれば衛星だって打ち落としそうな威力だ。
神裂の用意してくれる速さより、自分の能力のほうが遅かった。あっという間にこめかみに浮いた汗を袖で乱暴に拭う。
レベル4、学園都市に在籍する空力使いの中でも、ほとんどトップにいるはずの自分の力を持ってしても、

「間に合って! 当麻さん!」

あと50センチが足りなかった。
もう少しなのに。あと少しなのに。
当麻にたった1秒の猶予を与えてあげられれば、それで全てが解決したのに。
奥歯が割れるんじゃないかというくらい、光子は歯を食いしばった。

「おおおおおおお!!!!!!!」

叫び声を上げていなければ押し返されそうだった。拮抗。神裂や光子は、二人の距離が近すぎて手を出せない。
あと5秒あれば、神裂辺りは妙案を思いついて何とかしてくれるかもしれない。
ただ、当麻にその時間がなかった。
ビキ、と小指の骨が割れた音がした。薬指ももう限界だ。
だが当麻は痛みを感じなかった。そんなちっぽけな痛みよりも、もっと救ってやりたい女の子が、前にいるから。

「俺はお前に誓ったよな。インデックス。お前といるせいで俺達は不幸になったりなんてしないって。言っとくけどお前もだぞ。俺たちといて不幸になんてさせるか! 呪縛なら俺が断ち切ってやる! お前が悪夢から覚めないってんなら、その幻想<ゆめ>をぶち壊してやる!!」

さらに耐えたその1秒で薬指が逝った。もう、光の奔流を押さえ切れなかった。
……だから押さえることを、諦めた。

「くっ、曲がりやがれえええぇぇぇ!!」

圧力に負けじと突っ張った体を無理矢理に傾けて、当麻は『光の柱』をいなす。
真横に伸びた巨大な円柱の側面を撫でるように、ザリザリザリと右手が壊れる音を耳にしながら、上条は最後の距離を詰めて、インデックスの魔方陣に手をかけた。
――――学校の宿題のプリントを破るより、軽い抵抗しか手に残らなかった。

「――――警、こく。最終……章。第零――……。『 首輪、』致命的な、破壊……再生、不可……消」

カッと開かれていたインデックスの真っ赤な瞳が、色あせると共に閉じられていく。倒れそうになるインデックスを、当麻は確かに胸に掻き抱いた。
当麻は気づいていた。もう身長と変わらない所まで降りてきた、沢山の白い羽根に。
逃げ切ることは出来ない。右手はピクリとも動いてはくれない。せめて、インデックスに触れさせるまいとした。

遠くでステイルと神裂の叫ぶ声がする。ただそれは絶望的に遠かった。
くそ、こんなところで諦めてたまるか。俺たちはこいつのせいで不幸な目にはあっちゃいけないんだ。
それは、この少女との一番大切な、約束だった。自分のせいで人が傷つけば、この少女はどれほど自分を呪うだろう。
記憶を取り戻して、これから幸せにならなければいけない少女なのだ。
その門出に、こんな理不尽はあってなるものか。
ギリ、と当麻は歯噛みする。諦めることだけは絶対にしない、そういうつもりだった。



「当麻さん! インデックス!」



ハッと周りを見渡す。その声は、やけに近くから聞こえた。当麻はその声を聞いて、ニヤリとなった。
「愛してる、光子」
後で冷静になって考えれば、そんなことを呟く時間はなかったはずなのだ。実際に呟いたのかどうかは誰にも分からなかった。
生身の人間が出してはまずいような神速の踏み込み。
光子は自分の能力に出し惜しみをせずに、死の羽根の舞うインデックスの傍へとたどり着いて、二人を抱きしめた。
そして、えげつない運動量をもってして自分ごと、その場から吹き飛んだ。
後にははらはらと舞い落ちながら消える、羽根だけが残された。








目を開くと、空が見えた。綺麗な星空だ。
体がズキズキする。擦り傷だらけで全身が痛いし、それ以前に右手が怖いくらい腫れている。
直ったと思った左足も筋肉痛を酷くしたような痛みがあった。
「当麻さん!」
綺麗な髪も調えてあった服もをぐしゃぐしゃにして、光子が抱きしめてくれていた。よく見れば隣でインデックスが眠っている。
「……なあ、問題解決ってことで、良いのか? ステイル、神裂」
「とりあえず『自動書記』による迎撃は止みました。というかほとんど『自動書記』自体も破壊したので、再びこの子が襲ってくることはないでしょう。そういう意味で、我々の身の安全はおおよそ確保されました」
煮え切らない言い方だ。それもそのはずだ。自分たちが何故こんなことをしたのか、当麻の頭から蒸発していた。
記憶の封印は、破れたはずだ。まだ目を覚まさず眠っているインデックスが起きたとき、それが本当の勝負なのだ。
「酷い怪我ですわね」
「まあ、あの医者なら何とかしてくれるだろ。それはそれで怖いんだけどさ」
「もうすぐ担架が来ますから」
気を失っていたのは一分やそこらだったようだ。こと頭への衝撃に限れば大したことはなかった。
「ん……」
「インデックス!」
僅かに漏れた声に、一番早く反応したのはステイルだった。
「おーい、起きたか?」
「インデックス?」
「とうま、みつこ……あ」
愕然と、何かに驚いたようにインデックスが目を見開いた。
くるりとステイルと神裂にも向けられて、二人の背中がビクリと震える。
息をすることすら忘れて、泣きそうな顔をして、こらえるように唇を噛んで、インデックスは数秒間、何かを耐え忍んだ。

そして。
おぼつかない足でふらふらと立ち上がり、座り込んだ光子の肩に捕まりながら、
まっすぐ、ステイルと神裂の二人を見つめた。
「ごめんね、って言うのは二人に失礼になっちゃうかな。……ありがとう。かおり、ステイル。ずっと私を見守ってくれて」

ひう、と女々しい吐息がこぼれた。
それが神裂のものだったからステイルのものだったか、当麻は分からなかったことにしてやった。

「インデックス。インデックス……っ!」

どたどたと、普段の足取りの切れの良さなんて微塵も見せないで、
神裂が倒れこむように、膝を突いてインデックスを抱きしめた。
「思い出して、っ……くれたんですか」
「うん」
「良かった。良かった……! ああ……」
ぽろぽろと幼子のように神裂は涙をこぼした。どちらが年上か分からなかった。
インデックスが、自分の知っている仕草そのままに、自分を抱きしめてくれる。
止め処のない喜びが後から後から溢れてきて、どうしていいか分からなかった。
「まったく、一年ぶりとは随分薄情だったね」
「ごめんね」
「……謝ってもらおうと思って言ったんじゃないんだけど」
「うん。ステイルこそ随分と時間をかけてくれたね」
「ごめん」
「……私こそ謝ってもらうことじゃないんだよ」
シニカルな口調が全然似合わない、少年みたいな笑い方だった。
ははっ、とステイルが空を見上げて息を漏らした。上向きは、一番涙がこぼれにくい向きだった。
その光景を好ましく、しかし寂しく光子と当麻は見つめる。
自分たちだけがインデックスの仲間だったついさっきとは、もう事情が全く違うのだ。
これからはインデックスは目の前の二人と歩んでいくのかもしれない。
自分たちは、ほんの一週間の付き合いだから。
「みつこ、とうま」
「インデックス」
泣きすがる神裂に一言ごめんと告げて、インデックスは、当麻と光子にしがみついた。
「約束、ちゃんと守ってくれたね。三人みんなで幸せになるって」
「おーい、体が結構痛いんだけど」
「ごめんね」
「馬鹿。いまのは謝るとこじゃないだろ」
「もう。みんなそれを言うんだから」
優しいインデックスの微笑を、当麻は可愛いと思った。陰影のないその表情を、これからも守ってやりたい。
光子を見ると、同意するように、笑ってくれた。

遠くの扉が開いて、ガラガラとストレッチャーが運ばれてくる。
誰のためかといえば、そりゃあ自分のためだろう。
ああ、さすがに痛くて眠い。
もういいやとばかりに、当麻は自分の意識を放り投げて、幸せそうに笑って、気絶した。

****************************************************************************************************************
あとがき
ステイルの唱えたラテン語は、Carl Orff作曲の世俗カンタータ『Carmina Burana(カルミナ・ブラーナ)』より引用しました。
それぞれ意味は、
「――――O Fortuna imperatrix mundi(全世界の支配者なる運命の女神よ)」
「――――Fortune plango vulnera stillantibus ocellis(運命の女神の与えし痛手を涙のこぼれる眼もて私は嘆く)」
「――――Ave formosissima, Ave formosissima, Ave formosissima(幸あれかし、この上なく姿美しい人よ)」
となっています。



[19764] ep.1_Index 14: 記憶回復の代償、そして未来
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/06 00:21


「部屋を間違えていませんか?」



当麻の第一声は、それだった。
困惑したような表情で、目の前にいる女性にそう尋ねた。
「貴方の容態を私が見に来るのはおかしいですか」
憮然とした神裂がそう返事をする。
実は目覚める直前におでこに手を当てて熱を測ったりなんてしたもんだから、内心では結構、神裂はドキドキしていた。
「いや、なんつーか。最初に見たいのはやっぱ光子の顔かなって」
「起きて最初にすることが惚気話ですか。……脳に障害でも負いましたか?」
「その台詞シャレになってないぞおい」
確証は無いが、光子が助けてくれなかったら、あの舞い散る光の羽根は当麻に何をもたらしただろう。
死か、あるいは四肢の消失や人格の破壊か。本当に笑えない。
今更にちょっと背筋が寒くなるような思いをしている当麻の隣で、これまでと変わった様子の無い当麻に神裂は安心していた。
「それで、インデックスと光子は? ……たぶん、そんなに酷い怪我は負ってなかったと思うんだけど」
「ご心配なく。経過観察――要は湿布の張替えに行っているだけです」
「そっか」
ほっと一息つく。二人に怪我が無ければ、当麻としては万々歳だった。
「そっか、ではありませんよ。貴方がそれほど酷い怪我をしては、あの子達が気を揉むでしょう」
「う、いやまあ、そうかもしれないけどさ」
「本当にもう大丈夫なのですか? 一応私も、治癒のための魔術に心得はあるほうだと自負しているのですが、貴方の体質に対しては全くの無力でして……。その、ここの医者を疑うつもりはありませんが、もう、なんともないんですか?」
ずい、と神裂が身を乗り出してそう尋ねてきた。慌てて上条は怪我をしたところを思い出して、確認していく。
マズイ方向にぽっきり折れていた右手の薬指と小指はガチガチに固められている。感覚が無いので、麻酔を打って手術でもされたのかもしれない。
ほかにも体中に絆創膏が貼り付けてあるが、どれも耐えられないような痛みを発するところは無かった。
「まあ、右手以外はほとんど大丈夫そうだな」
「そうですか」
神裂が、ふう、と安心するようにため息をついて優しく微笑んだ。
ドキリとする。背も高くてスタイルのいい神裂は、これまで当麻の前では厳しい顔や真面目な顔しか見せてこなかった。
よく考えれば、上条より年上の、ちょっと好みのタイプなのだった。
剣を持たず険のある表情を止めて、少し野暮ったい感じの私服にエプロンでもしていたら、見とれてしまうかもしれない。
まあ剣を振るっている時の怖い顔だと好みだと感じることも無いが、優しく笑われると、こう。いやもちろん一番好きなのは光子なのだが。
心の中で光子への言い訳を考えていると、それが届いたのか、当の本人がインデックスを連れて部屋に入ってきた。
「当麻さん! あ……」
「み、光子」
「しし、失礼しました。私はこれで」
「あ、おい」
「落ち着いたらステイルともう一度伺います」
ベッドに横たわる上条へと半身を乗り出していた神裂は、こちらの確認も取らずに、あわただしく部屋を出て行った。
「あらあら、私の知らないところで、随分あのひとと仲良くなっておられたのね?」
「ち、違うんだって光子! 今目を覚ましたばっかりで」
「目を覚ましてすぐに、口説き落とせるんですの? 私も当麻さんの手練手管に引っかかったのかしら」
「だから違うんだって」
「とうま、どういうつもりなの?」
慌てて光子に弁解していると、どうやらインデックスもご機嫌斜めらしかった。
「どう、って。ほんとにどうもこうもねえよ。つーか怒られてたんだよ。お前らに怪我がなくてよかった、って言ったら、俺が怪我してるせいで全然安心してなかったぞって」
当麻としては上手いこと言ったつもりだった。
……逆効果だった。
わが意を得たりといわんばかりに、二人は柳眉をきりりと吊り上げて、心配を不満に変えて当麻にぶつけだした。
「そうですわ! 本当に、本当に心配したんですから……!」
「そうなんだよ! ……私、全然覚えてないし、私が悪いんだけど、でもあんまり無茶しちゃ駄目なんだよ!」
「う、ごめん。いやでも、光子が助けてくれただろ?」
「あんなの、何度も出来る保証有りませんわ! 当麻さんが危ないって思ったら咄嗟に足が動きましたけど……。当麻さんの莫迦。もっとご自分のことお気遣いになって」
「そうは言うけどさ、光子。じゃあ、もう一度あんな場面があったとして、光子はどうする? 次は危ないかもしれないから、インデックスを助けないのか?」
「……当麻さんの意地悪。二回目があったって、そりゃあ、同じことをしますわ、きっと。でもそういうことじゃありませんの! もう、怪我をした人はちゃんと反省してください!」
理屈抜きで怒られた。ただ、自分を心配してのことだと分かるから、嬉しい。
傷つけた張本人が自分らしいと言うのは聞き及んでいるらしく、インデックスは攻める口調を途中からトーンダウンさせた。
そのほっぺたを、つねってやる。
「むー」
「もっと怒っていいぞ。お前はお前に出来る一番の選択肢をちゃんと選んだんだ。いちいち細かいことで気に病むなよ」
「でも、とうまが」
「だーから、いいんだって! ほら、結局、なんとかなったんだし」
「……えへへ、とうま」
「おう」
「みつこも。ありがとね。大好きだよ」
くしゃりと髪を撫でてやる。光子が後ろからインデックスを抱きしめた。
光子と当麻はそっと顔を近づけあって、軽いキスを交わした。
「ん……」
「光子、愛してる」
「ふふ。私もですわ」
「だんだん遠慮しなくなってきたよね、とうまとみつこ」
「だって、あなたの前で隠すこともないでしょう?」
「んー、別にみつこが見られて平気なんだったら私はまあいいけど。でもちょっと目のやり場に困るんだよ。私は一応、イギリス清教の修道女(シスター)なんだし」
目を泳がせながら弁解をする光子に、憮然とインデックスが答えた。
当麻は慌てて話を変える。
「それでインデックス。お前、これからどうするつもりなんだ?」
「あ……」
「やっぱり、あいつらと一緒にイギリスに帰るのか?」
「……」
「当麻さん。そんな急にはインデックスも決められませんわ」
光子にそうたしなめられる。ただ、それも本当にインデックスのことを想ってというより、自分の手元からインデックスが離れるのが寂しい光子自身が、時間を欲しているように見えた。
「ここにいたら、とうまとみつこに、迷惑かかるかな」
「えっ?」
インデックスの言葉は、二人にとっては意外だった。
「迷惑なんて事ありませんわ! でも、よろしいの?」
「うん……。最大主教(アークビショップ)が記憶を取り戻した私をどうするつもりか、分からないしね」
一度は記憶を全て手放す事を受け入れた。それは強制ではなく、禁書目録として生きると心に決めたときに、最大主教に施してもらったのだ。
あの時は、それで良かった。今は、それで良いというには、捨てても良いというには、大切な思い出を貰いすぎた。
「もう一度、記憶を消されるのか?」
「危険な書庫をきちんと管理するには、正しい方法なんだよ。それは」
「だからって、受け入れますの!?」
チクリ、とインデックスの心に光子の言葉が突き刺さる。咎めるような響きがあった。
「それが嫌なら、どうしたらいいと思う?」
「俺たちか、神裂たちか、それ以前にもお前の面倒を見てくれた人がいるんだろ? その、誰かのところに転がり込むになるってことか」
「うん……そういうことを考えたときね、みつこととうま以外に、頼れる人はいないんだよ」
「え? もちろん、私達は全然構いませんけれど、どうしてあのお二人では駄目なの?」
「魔術師だから。いざとなれば私の知識を活かして、危険な魔術を行使できるから」
10万3000冊を自在に使う魔術師、畏怖を込めて人はそれを魔神と呼ぶ。誰しもが憧れ、そして誰しもが恐れる魔術師だ。
イギリス清教の意思より優先するものを持った魔術師にインデックスを託すことは、リスクが大きかった。
インデックスの預け先になるには、魔術を使えないことが必要な条件になる。だから当麻と光子が適任だった。
「じゃあ、決まりだな」
「ですわね。身の振り方を考えませんと」
「え? あの、みつこ、とうま」
インデックスとしては、結構恐る恐る出した提案だった。
当麻にとっても光子にとっても、インデックスはイレギュラーな存在だ。
自分がいるだけで、今までどおりの生活は送れないだろう。それだけの迷惑を、背負わせるのは心苦しかった。
だから、心のどこかで期待していながら、快諾なんてしてもらえるわけがないと思っていた。
「住むところが一番の問題だな」
「学園都市のID発行のほうが大変だと思うんですけれど」
「そっちは神裂辺りに相談してみよう」
「それでなんとかなると良いんですけれど。それで、家のほうは……私は」
「常盤台は全寮制だもんな。そうなると、まあ、俺の家か」
「……」
光子の沈黙の意味が当麻には分かっていた。
光子に会える時間は限られている。もとより学び舎の園という男子禁制の世界で生きている光子だ。
そうなると、当麻は光子の何倍もの長い時間を、インデックスと二人っきりで過ごすことになる。
きっと何事もないだろう、と光子は信じている。だけど、信じる気持ちと疑う気持ちは心の中で同居するのだ。
不安に押しつぶされてしまう不安が、光子にはあった。
「住む場所って、そうだよね、一番大事な問題だよね」
インデックスはてっきり、これからも黄泉川の家で暮らせると思い込んでいた。だがそんなわけはないのだ。あそこはあくまで、間借りしているだけだった。
「……ちょっと、考えがないわけでもありません。でもまずは学園都市のIDが要りますわ。これが無いとどうしようもありませんし、警備員の黄泉川先生と知り合いである以上、インデックスがここで暮らすにはIDを作成するほかないでしょうね」
法の番人とは少し違うが、警備員は規律に厳しく有るべき立場の人だった。なあなあで、インデックスを置かせてはくれないだろう。
「インデックスがここにいるのが一番だって点であいつらと合意が取れたら、やれることも増えるかもしれないだろ。あとでちょっと聞いてみよう」
「そうですわね」
そろそろ昼食時だ。そのうちステイルと神裂は来るだろう。
三人はステイルたちや黄泉川先生が来るのを、上条のいる個室でじゃれあいながら待った。






インデックスがきょろきょろを外を見回している。
まさか高速道路を走る車に乗ったことがないのだろうか。
それについて尋ねると、
「"ハイ"ウェイがホントに高いところを走ってる国なんて日本くらいなんだよ」
とブリティッシュな答えが返ってきた。
ここは黄泉川の運転する車の中。空には茜色がかすかに残る、夕飯時だった。
面会時間を過ぎてすげなく病院から追い出されたインデックスと光子は、今日はまた黄泉川の家に泊めてもらうのだった。なんだかんだで数日振りの部屋だ。
イギリスへと飛んでしまって二度とその部屋には戻れないことを覚悟していたから、三人で幸せに過ごせたあの場所に戻れるのは二人にとって嬉しいことだった。
ただ、上条はいなかった。
「で、婚后。寮にはいつ帰るんじゃん?」
由々しき問題だった。外泊届けは、二日前に期限が切れている。
黄泉川の取り成しで無断外泊という重大な校則違反こそ回避できたものの、寮長に目をつけられているのは間違いないし、一週間くらいは謹慎が出てもおかしくなかった。
親にも怒られるかもしれない。甘やかされて育ってきたから、事実上、人生で一番の親に対する反抗だった。
……そういう現実問題を考えると、ちょっと頭の痛い光子だった。
まあ、一番の反抗は多分、当麻という彼氏と付き合い始めたことなのだが。
「明後日の朝に、と思っていますわ」
「明日はだめなのか?」
「明日の夜が、この子が突きつけられていた『本来の』期限ですわ。あの魔術師も見届けるそうですし、当麻さんも、当然インデックスもいます。そこに居合わせられないのは、嫌ですから」
「そうか。ま、お前の校則違反のレベルじゃ、今更だしな」
「そういうことですわ」
帰り際に、二人はステイル達と会っていた。インデックスの今後について話す為にコンタクトを取って来たらしかった。
当麻の病室で話したとおり学園都市に在留する旨を二人に伝えたところ、ある程度予想していたのか、それを受け入れて早速動き出したらしかった。
そしてその時に聞いたのが、明日の夜の予定だった。インデックスがもともとの期日を過ぎても健在なのを見届けたら、二人は学園都市を去るということだった。
「あの二人、インデックスをあまり引き止めませんでしたわね」
「……そうだね。たぶん、私が決めるべきだって考えてくれてるんだと思う」
あれほどインデックスを救おうと努力してきた二人だ。自分の気持ちを棚に上げて言うと、あの二人はもっとインデックスに傍にいて欲しいといっても許されたと思う。
だが、インデックスが全ての記憶を思い出したのなら、一年ごとに代わったインデックスの保護者全てが、平等なスタートラインに立つ。
だからこそ、インデックスに誰を選ぶのかと委ねたのだった。
「それにしても、魔術って言葉に、えらく馴染んだじゃんよ」
「ですわね」
嘆息する黄泉川に光子はため息交じりの笑いで同意した。あるわけがないと、そう思っていたものが今では自分の中でリアリティを獲得している。
今でも半信半疑なところがある。だが、もう魔術を鼻で笑って無視することはないだろう。
「あとどれくらいでつくの? おなかすいたかも」
「病院食は質素ですものね。あと20分くらいかしら」
「そんなところだろうな。けど晩御飯が出来るまでは一時間以上あるじゃんよ」
その一言でインデックスがげっそりとなった。黄泉川が差し出してくれた眠気覚まし用のガムはおなかの足しにはなりそうにない。
ぐでー、ともたれかかってきたインデックスに膝枕をしてあやしながら、光子は隣に当麻がいない寂しさを感じていた。
……夜、晩餐に当麻がいないときには、もっと寂しさを感じた。






「おはよ、とうま」
「ごきげんよう、当麻さん。お加減はいかが?」
「おはよう。二人とも。まあ手以外はもうほとんど大丈夫だ。手は固められてるからよくわかんねーんだ」
黄泉川家で一晩過ごし、朝一番に二人は上条の病室を訪れていた。
どうせ今日の夜までは落ち着かないし、それならここにいるのが一番だという結論だった。
社会人たる黄泉川の都合に合わせた光子たちも、することがなくて早く寝た当麻も、夏休みとしては充分朝早い時間から、しゃっきりと目が覚めていた。
「悪いんだけどさ、これからすぐに検査があるから、ちょっと待っててくれるか」
「あら、そうなんですの」
「ごめんな」
「ううん。当麻さんのベッドで二人で待ってますわ」
「……あ、うん」
「どうかしましたの?」
当麻が歯切れの悪い返事をした。理由に特に思い当たらない。
座り心地の悪いソファよりはインデックスも自分もこちらのベッドに腰掛けるほうが楽だった。
別にベッドに座られるのが嫌だということはないだろうと、思う。隣のインデックスも首をかしげた。
「ベッドで、彼女が待つってさ」
「え……あっ! もう! 当麻さんのエッチ!」
「とうま何考えてるの……」
「そうですわ! 私達って私言いましたわよね? まさか当麻さんインデックスまで」
「馬鹿! 違うって!」
結構光子はエッチな話に免疫がないのだった。それでいてキスのときとか、表情が中学生と思えないくらい大人びていて、当麻はつい惹き込まれる。
「うー、みつこ。とうまはエッチだからこの部屋にいないほうがいいんだよ。ここにいたらうつされるかも」
「人を変な病原体の保持者みたいに言うな」
「むー! ほっへたはあめあんだよ!」
頬をつままれて呂律が回らないままインデックスは抗議する。
摘んだまま、当麻が手を頬からビッと離すと、歯を見せてぐるぐるとインデックスが唸った。
「とうま。怪我は治ったんだよね?」
「え? 今から検査だけど」
「治ったんだよね?」
返事を聞いちゃいなかった。
靴を脱いだかと思うと、すぐさまインデックスがベッドの上に上がって、掛け布団の上から当麻にまたがった。
ちょうど当麻の腰の上に、インデックスが腰を下ろした位置関係だった。
「お、おいインデックス」
当麻の戸惑いは、インデックスが怒っていることにではなくて、きわどい体位にインデックスがいることに起因していた。
それにまったく気づかず、インデックスはキシャァッと鋭い歯を見せて。
「止めろって、おい、あいででで! 痛い、痛いって!」
「これは仕返しなんだよ! いつもいつもとうまはみつこには優しくするくせに私にはいっつもいっつも意地悪ばっか!!!」
「そ、そんなことないだろ! それに光子は彼女だ!」
「別にみつこといちゃいちゃしてもいいけど私にももっと優しくして欲しいんだよ!」
文句を雨あられと降らせながら、インデックスはガジガジと上条の頭皮を削っていく。
ちょっと健やかなる毛髪の育成が心配になる当麻だった。
「わ、わかったわかった。じゃあ何すればいいんだよ? 光子みたいにキスしろってか?」
「え――――」
勿論、冗談だった。冗談ぽく聞こえるように言ったつもりだった。
だというのにインデックスがピタリと硬直して、さっと頬をピンクに染めて、誰もいない窓のほうを向いた。
隣にいる光子が頬に手を当てて、ふう、とため息をついた。
「あらあら当麻さん。とてもおもてになる当麻さんは、私一人ではやっぱり満足ましていただけませんの? よりによって、インデックスだなんて。むしろ勇気があるって褒めてあげるべきなのかしら」
「い……いやいやいや! 違うんですよ光子さん! 今のは、決して」
「……とうまのばか」
ちょっぴり顔を赤くしたまま当麻のベッドを降りるインデックス。
貼り付けたような朗らかすぎる光子の笑顔が消えるまで、当麻はひたすら謝りとおした。



当麻のいないベッドで、光子とインデックスはごろごろする。
検査のためについさっき出て行ったばかりなので、当麻の温かみと、匂いが残っていた。
インデックスが枕をぎゅーっとしているのが光子は気になった。
それは自分がしたい。というか、まさかとは思うが当麻の匂いを求めて抱きしめてるんではなかろうか。
「その枕、そんなに好きですの?」
「え? 別にそんなことはないけど。光子はベッドで横になると抱きつくもの欲しくならない?」
「いえ、あまり……」
なるほど、と光子は納得した。
寝ている間にインデックスに抱きつかれた覚えが、インデックスと同じ家で寝た夜のと同じ回数分だけあった。
二度ほど、あろうことかインデックスは当麻のほうに行こうとしたこともあった。
どうも悪気がなさそうだったので、あまりやきもきせずにきたのだが、それは当たりらしかった。
まあ、インデックスが本気で当麻に気があるのなら、自分はインデックスと一緒にはいられないだろう。
インデックスは美人だ。あと数年もすれば、きっとすごいことになると思う。そのときに、自分はインデックスよりも魅力的な人でいられるだろうか。
人は外見だけではない。そう思いつつも、焦りが無いといえば嘘だった。
「えへへ、ねーみつこ」
とはいえ、今においては全くの杞憂。
当麻の匂いなんてまるで気にしていないのだろう。ぽいっと枕を近くにおいて、インデックスがぎゅっとしがみついた。
「なんですの? インデックス」
「こうやってだらだらするのもいいね。とうまがいないとちょっと物足りないけど」
「ふふ。でも当麻さんがここにいたら、またほっぺをつねられますわよ?」
「あれほんとにひどいよね。わたし、悪いことしてないのに」
光子は当麻の気持ちが分からないでもない。可愛いからつい意地悪をしたくなるのだ。
当麻のまねをして、インデックスのほっぺたをつまんでみる。
むー、と拗ねる顔を期待したのだが、軽く驚いた後インデックスは笑い返してきた。そして光子の頬をつねった。
別に痛くはなかった。当麻のつねり方はもう少し強いのかもしれない。
「みふこがはなはないほはなひてあげない」
「いんでっくふこそはきにはなひて」
ぷにぷにと頬を上下させながら、わかるようなわからないような会話を続ける。
「正直に言うとね、インデックス」
「なあに?」
「どんな事情であれ、私と当麻さんの所に残ってくれるって決めたこと、嬉しかったですわ」
「……邪魔じゃなかったかな? 私がいなければ、とうまとみつこはふたりっきりになれるし」
「いいんですのよ。あなたがいなければ、黄泉川先生の家であんなに同棲みたいな事をすることも出来ませんでしたわ」
損得勘定をすると、得だったかもしれないとさえ光子は思う。
補習三昧の当麻とは、毎日会える時間も知れているだろう。夏休み前の延長みたいな、そんなデートしかしなかったと思う。
インデックスを間に挟んでだが、当麻との距離がすごく縮まったのを光子は感じていた。
「良かった。ちょっと、邪魔だって思われてないかって気になってたから」
「じゃあこれからはもう気にしないことですわね」
「うん。とうまもおんなじかな?」
「きっとそうですわ。ふふ、気になるなら後で聞いて御覧なさい。きっと、つまんねーこときくな、ってほっぺをつねられますわ」
「うー、それは嫌かも」
心底嫌です、といった顔を作るインデックスにクスクスと笑いかけて、そっとフードや修道服の乱れを直してやった。ついでに短めの自分のスカートも直した。
検査がどれくらいかかるのか分からないが、あまり長いと寝てしまいそうだと思う光子とインデックスだった。






ザリザリという音をさせながら、当麻は階段を上る。
砂とホコリで汚れた階段だ。無理もない。打ち捨てられてそれなりの年月を経たビルだった。
隣には、光子とインデックスと、黄泉川。
「夜の屋上は、やっぱり落ち着きませんわね」
階段を上り詰めて、空を見上げて光子が発した第一声がそれだった。まあ、言いたいことは分かる。
当麻は屋上で重症を負ったし、光子はギリギリのところで当麻の死を回避した。
そしてインデックスは無意識にせよ、それほどの窮地へと二人を追い込んだ本人だった。
階段を上りきると、あの時と同様に、床一杯に張られたルーンと、そして二人の魔術師。
「随分と回復したようだね。上条当麻」
「ああ、おかげさまでな」
「貴方の治癒に関しては、我々は何も出来ませんでしたが」
時刻は午前零時。
インデックスが何の処置も受けなかったらそこで死ぬはずの予定時刻から、ちょうど十五分前だった。
全ては解決したと、おおよそ誰もがそう思っている。だがこの死線を潜り抜けるまでは、安心できない。
何かがあってもいいようにと選んだのがこの廃ビルの屋上だった。
「インデックス。正直に答えてください。頭痛など、体の不調はありませんか?」
真剣な目で、神裂がインデックスを見つめた。
もちろんずっとと奥から見守っていたから、そんな素振りを見せなかったことは知っている。
だが、それでも確認はしておかねばならない。
「大丈夫だよ。体におかしなところはないし、晩御飯も一杯食べたから」
「ふふ。あれは食べすぎです」
神裂がそう返事をする。夕食を一緒にとった覚えはないのだが、どこかから見ていたのだろう。
「育ち盛りだしいいじゃないか」
「ステイル。あれが適正な量に見えたのですか?」
「なんだ。正直に言うほうが正解かい? あれじゃ、太るよ」
「……ふんだ」
思ったより反応が薄いことにステイルと神裂は少し戸惑った。
少なくとも一年前なら、ひと喧嘩やらかすくらいのネタだったはずなのだが。
そうやって、お互いの距離感を測りなおす。
「そうだ、インデックス。これを」
「え? これ何?」
「学園都市のID……ですわね」
「こんなもの、どうやって手に入れたじゃんよ?」
疑うような声で黄泉川がそう尋ねた。当然だ。偽造カードを見過ごせる立場の人ではない。
この場くらいいいじゃないかと、思わなくもなかったが。
「正式に統括理事会、だったかな。この街の上層部から発行されたものだよ。僕ら魔術師は超能力なんてものがこの世に存在するのを認めてないし、同時にこの街のトップも魔術師を認めてない。それが建前さ。だけど、裏ではちゃんと話を通すためのラインが繋がってる。だからむしろ当然だと思って欲しいね。こっちとそっちの上が話し合って、決まった結果がこれだってことさ」
ステイルはインデックスの手のひらからIDを取り上げて、黄泉川に渡した。
偽造技術もレベルの高い学園都市で、チェックを目視でやるのは無意味に近かったが、黄泉川はカードの表から裏まで全ての情報をきっちり読んだらしかった。
「ま、事務所に帰ってきちんと調べるじゃんよ。それで婚后。インデックスがこの街に残るなら、相談があるって言ってただろ。ちょうど暇だ、今でいいか?」
「ええ、私はそれで構いませんわ」
ちらりと、光子が当麻のほうを見た。それに頷き返す。三人で話し合って、決めた結論だった。
とはいえ、結論などと胸を張って言えるものじゃなくて、誰にどうお願いするか、ということなのだが。
「インデックスを誰がどこに住まわせるか、が問題ですわよね」
「だな」
「私達が預かるからこそ、『必要悪の教会』はインデックスの在留を認めたのですわ。ですから、少なくとも私達のどちらかは、この子と同居する必要があります」
「どちらか、な。まあ常識で言って上条はないじゃんよ」
「となれば私が一緒にいることになりますけれど、私は今、常盤台中学の寮にいるのですわ」
「だから、現状では一緒には住めない、と。ここまでは分かってる。で、何が決まったんだ?」
三人はすっと、姿勢を正した。離れたところで神裂も同様にしていた。
「この子と私の二人を、先生の家で面倒を見ていただくことはできませんでしょうか」
「……」
皆、腰をきちんと折って、そうお願いした。
「答える前に質問だ。婚后、それって可能なのか?」
「はい。自律を促すため、という名目で常盤台の学生は学生寮に住むのですわ。もちろん能力者として価値の高い学生を集めていますから、セキュリティ上の都合もありますけれど。逆に言えばこうした問題をクリアできるなら、申請すれば学生寮以外の場所に寄宿することも認められていますの。監督責任者が親類でないこと、信頼できる身分の人間であること、女性であること、といった条件ですわ」
「まあ、あたしは適任って事か。で、婚后。いつまでいる気だ?」
「……短いほうがよろしいのでしたら、他に引き受けてくれる方をなるべく早く見つけるようにします。それと、高校は自由の利くところを選ぶようにしますから、私が卒業するまで、最長で一年半です」
「ほかの引き取り手に心当たりは?」
「……今のところは、その」
「ふむ」
黄泉川の中で、答えはすでに出ていた。実はそれほど抵抗もなかった。たぶん問題のある学生を泊めるのが好きな知り合いの教師の影響だとは思う。
それと、光子の性質もそう悪くはない。調べた限り相当のお嬢様だったが、家事などもそれなりに積極的だった。
甘やかされてはいたのだろうが、他人のために尽くせるいい性根の持ち主だ。
出来の悪い子好みな性分から言えば上条のほうがしごき甲斐があるが、まあ、同居人に求める資質ではない。
「上条」
「はい」
「仮に、婚后とインデックスがうちに住むとして、お前はどうするんだ?」
「いや、俺は男ですし、一緒には無理ですよね?」
「要するに、お前が通い婚をするわけか」
「通い婚って……まあ、会いに行っても良いなら、行きたいですけど」
「そうか」
当麻も、ちゃんと線引きは分かっているらしかった。
なら構わないだろう。
「婚后、インデックス。一年半先までどうなるか保証は出来ないけど、しばらくはウチに来い。面倒見てやろうじゃんよ」
「ホント? いいの?」
「もちろんお客様じゃない。別に楽をしたいわけじゃないけど、家の仕事はきちんと引き受けてもらう」
「当然ですわ。あの、それじゃ、ご迷惑をおかけしませんよう気をつけますので、どうぞよろしくお願いいたします」
再び、光子がぐっと頭を下げた。
当麻とインデックスもそれに習う。黄泉川が神裂に目をやると、神裂も御礼をした。
「無事に決まって、こちらとしても安心しています」
「さて、それじゃあ後はインデックスのデッドラインを見届ければ、めでたくハッピーエンドだな」
当麻は時計を持っていない。
後何分あるかは分からないが、万が一に備えて、治ったばかりの右手を確かめるように握り閉めた。
その当麻を、ステイルが馬鹿にしたように鼻で笑った。
「もう終わったよ」
「え?」
「君たちがお気楽そうに話をしている間に、もう時間がとっくに過ぎてしまったよ」
光子が慌てて時計を見ると、零時十七分を差していた。インデックスを見ると、まるでなんともなかった。
杞憂は、無事に杞憂のままだった。
「さて、それじゃ長居しても仕方ない。帰ろうか、神裂」
「そうですね」
荷物らしい荷物もない二人は、軽く身だしなみを整えるだけで、もう出発の準備を終えた。
当麻は傍らのインデックスを、ぽんと押し出してやった。
一瞬インデックスがこちらを見て、そして神裂とステイルのほうへと歩き出した。
「ありがとね、ステイル、かおり」
「礼を言われるようなことじゃあないよ」
「そうだったね」
その答えに二人は微笑んだ。ずいぶん遠い昔に交わした約束を、インデックスが覚えているという証明だった。
「また、会いに来ます。暇はあまりありませんが、年に一度くらいは、必ず」
「うん。待ってるね」
ぽん、とステイルがインデックスの頭に手を置いた。神裂がインデックスを抱きしめた。
それに微笑を返す。
「それじゃあ、また」
「うん」
別れはとてもあっけなかった。
むしろ隣で見ている光子と当麻、そして黄泉川のほうがそれでいいのかと気にするくらいだった。






黄泉川家に帰ってきて、インデックスは光子たちに気づかれないように、そっとため息をついた。
ようやく、この心苦しさから少し開放された。
それは根本的な解決ではない、というか、解決なんて一生しないものだ。

インデックスは記憶を取り戻した。それは、嘘ではなかった。
初めて神裂とステイルに会ったその瞬間から別れ際まで、時系列に沿って全ての思い出をインデックスは書き出せる。
とても幸せな日々だった。確かに記憶は、戻ったのだった。

でも。例えば。
インデックスにとって、神裂とステイルとの幸せな日々の始まった日は、大好きな『先生』と別れた日でもあるのだ。
『先生』も自分にはよくしてくれた。必ず思い出させてみせると、不幸な境遇から救い出してやると誓ってくれた。
そんな『先生』を、自分は、どれほど恩知らずの恥知らずでもやらないほど完璧に、忘れたのだ。
『先生』が涙して、自分も涙して、お別れをしたその数時間後には、自分は神裂とステイルと仲良くなり始めていた。
そして一年後、自分はまた、『先生』の時と何も変わらず、ただ、隣にいる人だけをとっかえて、泣きじゃくっていた。
次に目を覚ましたときも、神裂とステイルがいてくれた。二人を思い出せない自分に、絶望する顔が鮮明に浮かぶ。
薄情にも許される限度があるだろう。これは殺されていい程度だと、自分でも思う。
二年目の二人は、疲れていくばかりだった。一年目と比較できる今なら、ようやく分かる。
不安と諦めが、二年目の終わりの二人には会った。こんなによくしてくれた人を、よくもここまで苦しめられるものだ。
自分の浅ましさに、窒息しそうになる。
そして、三年目。自分は一体どんな感情を持っていただろう。
勿論それだって覚えている。これは記憶を消されていない部分だから当然ともいえるが。
神裂とステイルに、憎しみを覚えていた。二人は理不尽の象徴だった。
人と関わることを許さないように、つかず離れずで二人はインデックスを追い詰める。
どうして私が、と誰に対しても吐き出すことの許されなかった苦しみを、心の中でインデックスは全て二人に背負わせた。

そんな最低の自分にできることはなんだろうか。
謝ることなんて、もう無意味だ。とても償える額の負債ではなかった。
せめて、喜ぶ二人のために、一年前か、二年前の自分でいてあげようと思う。
確かにそれも、自分だったのだから。

インデックスは一年以上前のことを、確かに思い出した。
ただそれは、記録としての記憶に、アクセスすることが可能になった、というだけ。
記憶を、自分の記憶として引き受けたという、そういう意味ではなかった。
リアリティがないのだ。いつ、だれと、どこで、何をしたのか、それを全て覚えている。
だというのに、それを行ったのが自分だったという実感だけが、得られない。
それは当然だった。ステイルや神裂といた頃の自分は、その時点で持っていた記憶だけを頼りに生きる自分だった。
こんな俯瞰的な視点で過去を見た自分は今までにいない。
今の自分は、もう、いままでのどのインデックスとも別人だった。
救おうとしてくれた人の期待に応えるインデックスでは、ない。
神裂とステイルが愛したインデックスは死んだ。死んで、しまったのだ。

自分にとっての救いは、光子と当麻だった。
彼らに愛されたインデックスは、自分だ。
正しいことは分からないが、自分にとって幸いなことに、自分は光子と当麻が好きなインデックスだという、自覚があった。
だから、こうして、ソファで三人座っている今の時間が、たまらなく幸せだ。
だけどそれは、二人にとっての幸せではない。
あれだけの人に支えてもらいながら、光子と当麻にしか心からの感謝を見出せない自分は、きっと二人にとってもお荷物だと思う。嘘つきだし、不誠実だ。
そんな内面を、二人に説明するのが怖い。
嫌われたら、沢山の人に沢山のものを貰ったはずの自分が、全てを失った人になってしまう。

テレビがよく分からない番組を流している。
画面越しに見る人くらい、自分が空虚になった気がした。
「インデックス。もう眠い?」
「えっ? ……うん、そうだね」
「もう遅い時間ですものね」
明日の朝から早い家主が、一番風呂だった。三人はこれからお風呂に入る。眠くもない目をこすると、光子が布団を敷くといって出て行った。
当麻と二人きりになる。じっと、見つめられた。その視線にドキリとするより、当麻の言葉のほうが早かった。


「お前、隠し事、何かしてるだろ」


答えなんて、言えるわけがない。むしろ指先が震えそうだった。
真夏の、冷房もまだろくに聞いていない部屋で、そんなことになったら怪しまれるに決まってる。
今でももう怪しまれているのだから。
「隠し事、って?」
「あいつらを見送ったとき、お前は何かを取り繕うような顔をしてた」
「別にそんなことはないんだよ」
「あいつら、気づいてたかな」
「……」
「浮かれてたから、そうでもなかったかもな」
インデックスはむしろ、当麻にこんなことを言われていることに驚いていた。
心の機微に気づくなんてことからは、遠い人だと思っていたのに。


「お前、全部を思い出したはいいけど、昔のことを割り切れてないんじゃないか?」


あまりに、核心をついた一言だった。避ける余地すらなかった。
目を合わせられない。糾弾する人の顔を見られないのは、疚しい自分にとって当然だった。
だが、無理矢理にでも目を合わせるようにと、当麻がインデックスの正面に回った。
逃げられずに、目を合わせてしまう。ただその目を怖いとは、思わなかった。意外だった。
優しい目をしているわけではない。ただ、案じてくれて、すがりたくなる、そんな目だった。

「私を助けてくれた人たちのために、私は、その人たちのインデックスでいなきゃいけないんだよ。救ってくれた人に、せめて、それくらいは」
「ばーか」

本当に馬鹿にするように、当麻がそんな返事をした。むっとする。
「救われたのはお前じゃないんだよ。きっと」
「え?」
「お前が幸せでいてくれることで、救われるやつってのがいるんだよ。まあお人よしって言うんだけどな、そういう連中のことは。……そういう連中にとって一番は、今、お前が幸せでいることだろ」
「でも、私、それじゃ何も返せない」
「代償が欲しくてやったと、思ってるのか? そういう側面も有るだろうさ。けど、例えばステイルと神裂にとって、一番大切な目標はなんだったと思う? 自分たちを思い出してもらうことか? それとも、記憶を失うことで不幸になる、そういうお前を救い出すことか?」
「……」
「仮面を取り繕ったって、誰も幸せにはならねえよ」
「そう、だね」
でも、どうすればいいのだろう。もう一度神裂とステイルに会ったとき、落胆させればいいのだろうか。
「また仲良くなれよ。喧嘩でもして仲悪くなったと思えばいい。ただの仲直りだ」
「うん」
「俺たちとだって、そうやってやり直せばいい」
「え?」
「会って高々一週間の付き合いだ。気まずさなんて、すぐ薄れるだろ? だから――」
当麻が思い違いをしていることにインデックスは気づいた。
ステイルたちに疎遠な感覚を覚えてるのとは違って、居心地が悪いのにここにいるわけではない。本心を偽って、ここにいるわけではない。
唯一ここ、当麻と光子の隣は、自分の居場所なのだ。
「光子と当麻には、嘘ついてないよ」
わかって欲しくて、真剣な響きを込めて当麻にそう伝える。だが、これすらも取り繕いだと思われたら、どうしようか。
心に差した不安が膨らむより前に、後ろから声をかけられた。
「じゃあ、一緒にいたいって、本当に思っていてくれてますの?」
振り返ると光子がいた。当麻とは全然違う、優しい顔だった。二人がいてくれて良かったと、インデックスは思う。
過去に向き合う勇気を当麻はくれた。今という居場所を光子はくれた。
「みつこ、とうま」
「ん?」
「なんですの?」
「大好き。すっごく、大好きだよ」
「私もですわ」
「俺もだよ。……言ってて恥ずかしいな」
もう、とたしなめるように光子が当麻に笑う。そして光子と二人で笑いあうと、当麻が髪を撫でてくれた。
「ま、それじゃあこれからもよろしくな、インデックス」
「うん」
あっさりとした、そんな言葉のやり取り。
幸せな日々をはじめるのだと、そうインデックスは笑って誓った。

****************************************************************************************************************
あとがき
これで第一巻分の内容が終了となります。お付き合いくださって、ありがとうございました。
この後は軽い目のお話を少し挟んで、能力体結晶編(アニメ版超電磁砲の後期エピソード)に触れていこうと思います。
アニメを視聴されていない方にも分かるよう、なるべく説明を端折らないようにしながら描いていく所存です。
これからもよろしくお願いします。

さあ、お待ち兼ねの佐天さんが動き回る章に突入です!



[19764] interlude02: 渦流転移 - Vortex Transition-
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/05/20 00:32

びっくりするほど、昨日は暇だった。寮の個室で本を読む以外にすることがないのだ。

どうも噂では学び舎の園の外にあるほうの学生寮は鬼寮監がいるらしく、光子のようなケースは厳しい罰が与えられるらしい。
こちらの寮監はそれほど苛烈ではない。男子禁制の空間の中だから緩いのかもしれなかった。
とはいえ、一週間近く外泊をした上、最後の数日は警備員、黄泉川からの連絡で延長したものだった。
夏休みといえど、そして事情があったといえど、慎み深い生活を送ってくださいねと諭す寮監の言葉に、光子はきちんと従わざるを得なかった。
何せ、来週からは黄泉川で暮らすことになるのだ。寮で暮らさないだけで不良みたいな目で見られかねないのに、これ以上学校から睨まれるのは面倒だ。
それで、早朝に黄泉川家から戻って以来、寮内で謹慎していたのだった。
ついさっきまでは。
「大義名分が出来て、本当に助かりますわ」
「いえいえ。っていうか、どうして謹慎なんてことに?」
「こないだ駅でお会いしたでしょう? あのときの関係ですの」
「あー、なんか、その」
「ごめんなさい佐天さん。ちょっと、お話し辛い事情がありますの」
「あ、私のほうこそ変なこと聞いちゃってごめんなさい」
「気になさらないで」
学び舎の園の入り口の程近いバス停で、光子は佐天と話をしていた。
昨日、ちょうど佐天から連絡があって、話している内にまたレッスンをすることになったのだった。
読書にも早々と飽き、暇を持て余していた光子にとっては幸いだった。
そしてやけに歓迎されたことに戸惑いを覚え、佐天は光子が謹慎中であるという事情を知ったのだった。
そして面倒だと思われないのなら、佐天は光子に自分の伸びを是非見て欲しいと思っていた。
光子にとってはまだまだちっぽけかもしれないが、この数日でまた能力が伸びたという自覚がある。
最初に自分の能力を芽吹かせてくれた人だから、報告したかった。
「それにしても婚后さん、ちょっと会わないうちに、なんか雰囲気変わった気がします」
「えっ?」
「なんだか優しくなった、っていうか。あ、すみません。変なこと言っちゃって」
「ふふ。妹が出来たからかもしれませんわ」
「はあ、妹さん、ですか?」
親元から離れている自分たちに年の離れた妹が出来たとして、果たして関係が有るだろうか。
そう佐天が首をかしげていると、光子が訂正するように笑った。
「正しく言えば妹分、ですわ。血縁のある妹という意味ではありませんの」
「はあ、要はその妹さんの面倒を見るようになった、と?」
「そういうことですわ」
笑い方が、前より絶対に優しいと思う。そしていい傾向だと佐天は思った。
初めて会った、一ヶ月ちょっと前と比べて、ずっと親しみを感じる人になっていた。
妹が出来たからだというが、彼氏が出来たからじゃないかとも佐天は思う。
だって、人としての輝き方が、なんだか嫉妬してしまうくらい綺麗なのだ。
「バスが来ましたわ。近い距離ですけれど、お付き合いくださいな」
「はい」
謹慎中で商店街に近づけない光子にあわせて、バスに乗った。
行き先は一度佐天が行ったことのある場所、常盤台中学内の別棟、流体制御工学教室だった。



「お、おじゃまします……」
「そんなに緊張なさらなくても良いですわ。初めてではありませんでしょう?」
おしとやかな女学生ばかりが歩く常盤台中学のキャンパスをここまで歩くと、やっぱり縮こまってしまう佐天だった。この建物は静かだからなおさら緊張する。
「いやー、やっぱりここに来るとどうしても落ち着かないんですよね」
「知り合いが少ない場所ですから、仕方ないかもしれませんわね。コーヒーでもお飲みになる? こないだと違って実験から始める気はありませんから、気持ちをほぐす意味でもよろしいんじゃありません?」
「あ、はい。確かにちょっと喉が渇いちゃったかも」
佐天がそう言うと、光子がまだ行ったことのない部屋へと案内してくれた。扉を開くと、コーヒー豆の匂いが鼻をくすぐる。休憩室なのだろう。
事務的で常盤台にしては質の悪い明るい色のソファと、無機質な感じのするガラスのテーブルが置かれていた。
部屋の端にはコーヒーメイカーとポット、そして個人のものなのか綺麗な瓶に入った茶葉があった。
「すぐ淹れますわね。って、あら、湾内さんに泡浮さん」
「まあ婚后さん。ごきげんよう」
「それに、佐天さんも。どうなさったの?」
対面で全部で10人くらい座れるソファの端に、水着の撮影会で知り合った湾内と泡浮が座っていた。
大き目のポットで二人分淹れた紅茶を、二人で仲良く飲んでいるところのようだった。
ポットとカップ、ミルクサーバーが綺麗な絵をあしらったボーンチャイナで、絶対にあれは高いだろーなー、なんてことを考えてしまう佐天だった。
「こんにちは。湾内さん、泡浮さん。実は婚后さんにちょっと能力のこと、色々教えてもらってるんです。今日も面倒見てもらえたらなって思って、押しかけちゃったんですよね」
「まあそうでしたの! じゃあ、すごく筋の良いお弟子さんというのは、佐天さんのことでしたのね」
「え?」
「ふふ。名前はお伺いしなかったんですけれど、自分のことみたいに婚后さんが自慢なさって、ちょっと後輩の私達が妬いてしまうくらいだったんですよ」
「もう。恥ずかしいですから嬲るのはお止めになって、お二人とも」
コーヒーを二つサーバーから淹れて、光子がソファへと佐天を誘った。
「そう仰っても、私達、婚后さんにお聞きしたいことはたくさんありますのよ?」
「そうですわ! ねえ、佐天さんも気になりませんこと?」
「え?」
「婚后さんの、お付き合いなさっている殿方について、ですわ」
二人ともおしとやかなのだが、やっぱり女の子なのだった。
そりゃあ常盤台という女子校の中にいると、出会いは少ないだろう。そうでなくてもこんな話、盛り上がらないほうがおかしい。
……とはいえ佐天は、気になるけどちょっぴり聞きたくないような気持ちもあるのだった。
婚后光子は、感覚で言うと『師匠』に近い。
彼女もまた人なり、ということは分かっているが、恋愛だとかそう言う浮ついた話と、自分の才能を花開かせてくれたすごい人という感覚が、どうも相容れないところがあるのだった。
とはいえまあ、勿論話は聞かせてもらう気なのだが。
「ちゃんと聞いてなかったですけど、やっぱり彼氏さん、いるんですか?」
「え、ええ……まあ、その。イエスかノーかといわれると、イエスですわ」
「当麻さん、って仰るんでしわたよね?」
「もう泡浮さん! ちょっと名前を漏らしただけなのに……もうお忘れになって!」
「悪いですけど、お断りしますわ。ね、湾内さん?」
「ええ。苗字をお教えいただくまでは忘れようにも忘れられませんわ」
そんなものを聞いた日にはもっと記憶が確かになることだろう。こっそり佐天も心の中にメモをする。
「付き合ってどれくらいなんですか?」
「もう、佐天さん。お答えするの恥ずかしいですわ、そんなの」
「そろそろ一ヶ月半くらい、ですわよね?」
「もう!」
「婚后さん、かなりばらしちゃってるんですね」
「だって、その」
聞かれたらつい喋ってしまう、そういう性格なのだった。光子は。
だって惚気話をするとつい幸せになってしまうのだ。
「初デート前日の慌てっぷりといったら、もう幸せそうで見ていられませんでしたもの」
「ええ、明日友人と遊ぶのですけれどどの服がよろしいかコメントくださる?って」
「女友達とならあんな風に迷ったりなんてするわけありませんのにね」
「ですわよねえ」
光子は顔が火照ってきてどうしていいかわからなかった。
お座なりに佐天に勧めて、自分が先にコーヒーに口をつける。
「婚后さん」
「なにかしら、佐天さん?」
「もうキスしたんですか?」
ぶほ、という返事があった。慌てて光子がテーブルを拭いた。
向かいのソファでは、まあ、という顔で二人が光子を見つめていた。晩生(おくて)の二人には、ストレートすぎて聞けなかったのかもしれない。
「さ、ささささ佐天さん?! なんてことを聞きますの?」
「え、だって恋人同士なら普通じゃないですか? キスくらい」
「そんなことありませんわ! 結婚もしてない男女が、その、そのようなこと……」
常盤台らしい、貞淑な価値観だと思う。光子が口にするのは。
だが佐天は口ぶりとは裏腹に、どうも光子は経験があるらしい、と踏んだ。
「別に恋人同士ならキスくらいは普通だと思いますけど」
「知りません!」
「キスしてないんですか?」
「知りません!」
鋭く突っ込む佐天を、対岸の二人は頬を赤く染めながらわぁぁ、と期待した目で見つめていた。
そこまでは、二人は聞けなかったのだった。佐天はそっと、光子の肩に手をかけて、耳元で囁いた。もちろん全員に聞こえる音量でだ。
「……やっぱりレモンの味なんですか?」
「そ、そんな味するわけありませんでしょう?」
あ、と光子が漏らす。他愛もない。語るに落ちるとはこの事だった。
「じゃあどんな味だったんですか? 婚后さん?」
まさかカレーの味だったというわけにもいかない。
というか、なんでばらしてしまったんですの私の馬鹿、と頬を染めながら自省し、でもちょっぴり話せて嬉しい光子なのだった。
「いつごろ、しましたの?」
「もう、許してくださいな……」
「それじゃあ、いつしたのかだけお聞きしたら、もう止めますわ」
引き際を心得た二人は、そうやってもう一つ余分に情報を聞き出す気だった。
光子は光子で抗えないのだった。
「今月の20日……ですわ」
「夏休み初日ですわね」
「まあ、じゃあ婚后さんは夏休みをキスからお初めになったのね」
「それじゃあ、この先はもっと……きゃあ! 婚后さんってば大胆すぎますわ!」
「ちょ、ちょっと泡浮さん?! 私そんな破廉恥なことしませんわ!」
「そうは仰るけど、だって、初日にキスですもの!」
「ねえ? 佐天さんも気になりませんこと?」
「やっぱりキスよりもっと先の――――」
「もう佐天さん! それ以上言ったら今日はここで終わりにしますわよ!」
それは困る。
まあ、冗談だろうと分かってはいたが、武士の情けで今日はここまでにしてあげることにした。
……先は長い。ここでなくとも、いくらでも、光子をからかう機会はあるのだった。


「そう言えば、お二人はここでどんなことをしてるんですか?」
話が変わってほっとしている光子を横目に見ながら、佐天は二人に質問した。
能力の話をしたことはなかったが、ここにいるということはやはり流体操作系の能力者なのだろうか。
「今日は今開発中の発電システムの改善点の洗い出しに来ましたの」
「私と泡浮さんは他の方と何人かで同じプロジェクトに関わっていますの」
「発電、ですか?」
そう聞くと発電系能力者の仕事のようにしか佐天には思えなかった。
ピンとこないので首をかしげていると、二人は丁寧に説明してくれた。
「海洋深層水ってご存知ですか?」
「あ、はい。化粧水とかに入ってるアレですよね?」
「そうですわ。ちょっと非科学的な宣伝が出回っているせいで誤解もあるんですけれど、基本的には、表面の海水と比べて冷たくて清潔で、栄養分が豊富で、酸素が少ないただの海水ですわ」
「それを汲み上げて、温度差で発電しますの」
表面海水は東京近海なら年間を通して10℃程度はある。一方深層水は2℃くらいだ。冬で8℃、夏で30℃くらいの水温差を利用して、発電を行うのだった。
通常、発電用のタービンを回すのは水蒸気だ。原子力や化石燃料を燃やして作った高熱源体に水を触れさせて蒸気を作り、水が気化するときの膨張仕事をタービンのトルクに変え、電力に変換し、最後に低熱源体で蒸気を再び水に戻してリサイクルする。
水を使うのは量が豊富で安いこと、入手簡単なこと、捨てやすいことなど利点が多いからだ。
しかし湾内と泡浮の携わる海洋温度差発電プラントは、高熱源体に30℃程度の表面海水を、低熱源体に深層水を利用するシステムのため、気化・凝縮のサイクルを繰り返す媒体に、常圧の水を選ぶことは出来ない。
減圧して10℃くらいで水を気化するか、加圧してアンモニアを気化させるか、といったちょっと面倒なコントロールが必要なのだった。
「私は不得意ですけれど、ちょっと気体も扱えますからアンモニアと水の熱機関部の開発に携わっていますの」
「へえー」
おっとりとした湾内が語るその内容が、佐天には眩しく見えた。同時に、すこし嫉妬も感じる。
何かを成した人とそうでない人の差がそこにはあった。だが、能力者を眺める無能力者の卑屈さはなかった。
「私は排水の応用の幅を広げているんです。この間、第七学区でお魚や貝のお祭りみたいなセールをしたでしょう?」
「あ、私行きました。生物プラントじゃない、海水養殖の学園都市産、っていうのが売りでしたよね」
「そうですわ。プラント培養は癌化などの問題を抱えていて、多品種少量生産は苦手ですから。一番確かなのはやっぱり海水を利用した養殖ですのよ」
学園都市に海はない。だから海産物は日本の周辺都市から仕入れるか、生物プラントでの培養に頼ることになる。
だが生物プラントは生物の複雑な仕組みを再現するのは苦手だ。だから牛や豚、鶏のような比較的大きい生物の、ロースやバラ、ももといったそれぞれの部位を培養し、製品化することになる。
生物全体を食べる貝などは苦手な品目だし、内臓で作る製品、イカの塩辛や魚醤のようなものはそもそも作れない。それを打開するのが泡浮の仕事の一つだった。
発電に使った水は、ミネラルを多く含んだ排水とほぼ純水の二つに分かれる。
それらをポンプを使って学園都市まで輸送し、純水は飲料に、ミネラルの多い排水を海由来の肥料としてそのまま利用することで、恒常的に富んだ海を内陸部に作るシステムを構築していた。
「世界の海に温度差が有る限り、無尽蔵にエネルギーを取り出せるシステムですから、 開発する価値は充分にありますわ」
「濃縮海水からは金やウラン、希土類も回収できますから、学園都市が自前で元素を確保する意味合いもありますし」
「はー、なんか、すごいですね」
人の生活に密着したところで、それほどの業績を上げられるのは、本当にすごいことだと思う。
だが謙遜なのか、二人は軽く笑って手を振る。
「でもこれ、外の世界でも、15年位したら普通に実用化するレベルの技術ですの」
「それに熱効率が悪いから、原子力みたいな出力はなかなか得られませんし」
「まあ、私達にはちょうどいい課題、ということですわ」
「それでもやりがいはありますもの」
ね、と二人は笑いあった。
外の世界に持ち出せる程度の技術のほうが儲かり、そしてそういう簡単な技術をレベル3程度の能力者に開発させる。
このレベルは学園都市の、一番の稼ぎ頭なのだった。


「長くお引止めしてすみません。それでは、婚后さんも佐天さんも、頑張ってくださいな」
「また機会があったら一緒に遊びましょうね」
「はい、それじゃあまた」
湾内と泡浮の二人に自分の学校の同級生には見せないような丁寧な挨拶をして、佐天は光子を振り返った。
「それじゃ、レッスンを始めましょうか」
「はい、お願いします」
きゅっと顔を引き締めた佐天の顔を光子は気に入った。学んで自分を伸ばしたいという、前向きな意欲で満ちている。
休憩室から出ながら、佐天の進捗状況を尋ねた。
「微積分の講義のほうはどうですの?」
「えっと、流体力学に使う簡単な微積分はだいたいマスターしました」
「そう」
微積分といっても、応用先は山ほどあるし、数学的に厳密なことを言い出すといくらでも深みに嵌れる。
佐天が今必要としているのは厳密な証明などではなく応用のためのツールとしての微積分だ。
特に流体であれば時間発展の微分方程式を解けることが最重要となる。それに必要な知識は、大体身についていた。
教室に入って、光子は佐天が暗算できそうな問題をいくつか解かせた。
飛行機の翼周りの流れ、湾曲した円管内の流れ、固体表面へと吹きつけた空気の流れ、そういったもの一つ一つに佐天は的確に答え、正解した。
解くのに構築した演算式を聞くとまだまだ計算コストの低い方法はいくらでも考える余地があったが、それはこれからブラッシュアップしていけば良いものだ。
前に会ってから9日、充分すぎるだけの伸びといってよかった。
「満点、ですわね。よく努力されましたわね、佐天さん」
「ありがとうございます!」
「こう言ってはなんですけど、一緒に補習を受けた二年や三年の先輩方より出来が良かったのではなくて?」
「あ、途中から私、担任の先生が付きっ切りで見てくれるようになったんです。だから上の学年の補習に顔を出したのは一日だけで、そのへんはよく分からないです」
「そう。では言っておきますけど、これだけできれば十中八九、佐天さんの学校では佐天さんがトップですわね」
「え?」
「私も去年レベル2であまり上位の学校にはいませんでしたから予想がつきますわ」
誰かと比べてどうか、ということは佐天にはよくわからなかった。
自分が数日前の自分と比べて明らかに伸びたことは分かるのだが。
「そういうの、気にしちゃうと私調子に乗っちゃいますから。あんまり見ないほうが良いって先生も思ったのかもしれませんね」
「違いますわよ。佐天さんほど伸びる学生を他の学生と混ぜてしまっては玉と石を自分から混ぜるようなものですわ。特別扱いは当然のことですから、お気になさらないことですわね」
「はあ」
「それで、計算能力が上がったのは確認できましたけれど、能力そのものの開発はされましたの?」
「はい。うちの学校で扱ってる一番強い薬、貰いました」
「もしかしてトパーズブルーの粉薬ですの?」
「そうです」
低レベルの能力者にとってはきつめの開発薬だ。光子にも飲んだ覚えがあった。
今光子が投与されるのはもっと作用の強い薬になる。レベルが上がるほど、専門の開発官に副作用を細かく管理してもらう必要のある高価なものになっていく。
「それでどんなことを?」
「えっと、どういう方程式の解き方で流体を解くのが一番かっていうのを、相談しながら色々探したんです」
「そう。好みだったのは連続場と粒子場のどちら?」
「粒子場でした」
「やっぱり」
佐天は、空気の粒が見えるといった。そういう世界の描像の持ち主なら、当然の選択だろう。
決まっていないなら、光子もそれを勧めるつもりだった。
「それと、渦を作り方も数式として纏めるようにしたんです」
「あら。今日それをやろうと思っていましたのよ。もう出来てますの?」
「あ、これで良いかは分かりませんけど……」
「どういうものか説明なさって?」
「はい。えっと……」
佐天は説明のために、先生と一緒に勉強した理論の名前を思い出す。
数式ならすぐにでも書けるのだが、言葉にするのがちょっと難しかった。
「ランジュバン方程式に向心力を足した式を解く、ってことなんですけど……」
「ランジュバン? それって確か、コロイドの……ああ、成る程」
「はい。ブラウン運動をランダムウォークで再現したあれです」
コロイド、身近な例で言えば花粉だとか、あるいは牛乳の濁りの元になっている油液滴だとか、そういうもののことだ。
これらは水中で、不規則で無秩序な運動、いわゆるブラウン運動をしている。
この不規則な運動は、分散媒である水分子の揺らぎによって、瞬間的に不均一な力がコロイド粒子に加わることで、酔歩のような、予測できない動きをする現象だった。
「どうしてそんなものが出てきますの?」
それが光子の素朴な疑問だった。
確かに空気の粒という考え方は、確かにコロイドとイメージが近いかもしれない。ただ、あまり空力使いとはなじみのない現象だった。
「えっと、まずはじめに考えたのは、渦を作る式を作ることだったんです」
「ええ、それで?」
「そしたら、中心力を入れようってまず考えるじゃないですか」
「まあ、それは分かりますわね」
中心力は、何かの中心に向かって働く力のことだ。たとえばそれは磁力だったり、静電気力だったり、重力だったりする。
渦の中心に向かって空気の粒を引き寄せるような力を考えれば、確かに空気の粒を回転させたときに生じる遠心力と上手くつりあって渦が作れそうだ。
「でもそれだけじゃ駄目だったんです」
「どうしてですの?」
「星と同じで、綺麗な軌道の粒子だけが残っちゃったんです。後のは全部、ぶつかっちゃって」
「ああ……」
沢山の無秩序に動く粒があって、それがある一つの中心に向かって吸い寄せられる系(システム)。
それは原初の宇宙そのものだった。ブラックホール周りの星系はそんな感じだったろう。
だが今では、天体は、極めて美しい均衡の取れた周期を形成している。
たとえば地球は随分と長い間、他の星と衝突して星の形を歪めるような出来事を体験していない。宇宙には無限に星があって、それらは動き回る上、互いに引き合っているのにだ。
これはお互いにぶつかってしまうような周期のかみ合わせの悪い星同士はすでに衝突を終えて、今我々の目の前にある宇宙は、お互いに均衡の取れた、秩序ある宇宙に落ち着いてしまっているからだ。
向心力によって空気の粒がある一点の周りを回る系を作ると、宇宙と同様にあっという間に粒子が衝突・合一してしまい、鈍重で遅い、綺麗な軌道の渦しか残らないという問題があるのだった。
これでは、渦の演算に使える式ではない。
「それで、お互いがぶつからないようにするのと、もっと乱れた流れを作るために、何かいい方法はないかなって色々考えたんです」
「その結果が、コロイドのブラウン運動でしたのね」
「はい。あれって、なんかすごくイメージに合うんですよね。無秩序に、こう、ゆらゆらっと」
「要は中心力と遥動力で渦を制御する、と」
「あ、はい! そうなんです」
とてもシンプルで、佐天はその結論を気に入っていた。
渦を作る『種』は向心力だ。まるで太陽のように、あるいはブラックホールのように、空気の粒をある一点へと引き寄せる力。
だがこれだけでは渦の軌道が整然とした、逆に言えば内包するエネルギーに乏しいものになってしまう。
だからそこに、揺らぎを加える。
無秩序な揺らぎを加えることで、渦は乱雑で、そして複雑怪奇な軌道を描くようになる。
渦は普通は二次元だ。だが佐天は、この揺らぎによって三次元の球形の渦すらも作り出せる。
そして渦を巻きながら強く強く圧縮された空気の球を作る、それが佐天の得意技だった。
この支配方程式の良いところは、遥動力という唯一つのパラメータでさまざまな渦軌道を作り出せ、そしてその空気玉の規模というか威力を、中心力、まあ言ってみれば佐天の気合一つで決められる、非常に扱いやすい方法論であるところだった。
「えっと、お聞きした範囲では、非常に理にかなっていて良いように思いますわ」
「本当ですか?」
「ええ。何より佐天さんが気に入っておられるのでしょう?」
「はい」
「なら、当面はそれで能力をコントロールすればよろしいわ。ここまでよくまとまっているんでしたら、能力の伸びを再測定して、あとは一番大事なところに手を伸ばせそうですわね」
「大事なところ、ですか?」
佐天は首をかしげた。
どういう演算式で能力をコントロールするか、というのが一番大事なことだと思う。
それ以上のことなんて、あっただろうか。
「ええ。能力解放の仕方、ですわ」
「あ」
渦を作るのが楽しすぎて、暴発でしか能力を終わらせられないことを、すっかり忘れていた佐天だった。
「これまでずっと、発動した能力を終わらせるときは、暴発でしたの?」
「あ、はい。先生もどうしていいのかよく分からないみたいで」
「まあ流体制御の能力者には普通存在しない悩みですものね」
「そうなんですか?」
渦というキーワードが重要となってくる自分の能力は、確かに変り種だとは思う。
とはいえ、そんな根本的なところで人と違うのか、と首をかしげる佐天だった。
「空力使いは普通、気体を『流す』能力者ですわ。自分の意思で空気の流れを作るのを止めれば、また自然な状態に還っていくだけですから、空力使いが能力の終わりで悩むことはほとんど有りません。一方、私と佐天さんは、空気を『集める』能力者でしょう? 集めたからには開放しないといけない、という理屈で、私達は変わり者なんですのよ」
「あー、なるほど。言われてみればそれって確かに変わってますね。……自分で言うのも変ですけど」
言われてみて、確かに気づくことがある。
渦として空気を集める以上、解放しなければいけないのだ。そういう能力を授かった身なら、終わりまでコントロールしきって一人前。
半分しか出来ない自分は、半人前だということだ。佐天はそう、増長しそうな自分を戒める。
その姿勢はもはや無能力者の、そして劣等感に苛まれたかつての佐天とは一線を画していた。
「それで、解放の練習は何かしましたの?」
「あ、いえ。何をしていいのか、全然手がつかなくて……」
「そう。暴発、と表現してきましたけど、まずはそれから見直しましょうか。弱い威力でよろしいから、渦を作って、ここで解放して御覧なさい」
「はい」
光子が指導者らしい口調になったのを受けて、佐天は姿勢を正した。
そして言われたとおり、10センチくらいの小さな渦を作って、光子がじっと見つめているのを確認してからいつもどおりコントロールを止めた。
ボワ、という鈍い音が小さく響いて、風肌を撫でる。光子はその空気の流れをじっと見詰める。
「これはこれで、綺麗ですわね」
「え?」
「かなり等方的、どの方向にも均一に広がっていますのね。もっと歪なのかと思っていましたの。使い勝手は良くないかもしれませんが、これも一つの解放の様式、でしょうね」
「はあ……でもこれ、ただ広がってるだけですよ?」
「その通りですわね。制御が簡単、というか無制御でこうなる分イージーですけれど、その分、利用価値がないですわね。等方的というのはそういうことですけど」
方向によって性質が異なること、異方性というのは重要なことだ。
分子を並べる方向によって光の反射・屈折特性が変化することを利用して液晶ディスプレイは出来ているし、工業的に重要な触媒が重金属に偏っているのは、重金属がd軌道電子という極めて異方的な軌道を持つ電子を持つためだ。
佐天の能力で言えば、佐天が蓄えた100の力を、全ての方向に均一に散逸させれば、威力の減衰があっという間に起こってしまう。
それでは佐天の蓄えた渦という高エネルギー体の利用価値はあっという間に損ねられてしまうのだった。
「えっと、すみません。どういうことを考えたらいいんですかね?」
答えそのものを聞く学生になってしまったことを恥ずかしく思いながら、佐天は光子に尋ねる。
「そうですわね……。私の言葉で言えば、相転移を考える、ということかしらね」
「相転移?」
「流れている渦にこの言葉を使うのは不適切かもしれませんけれど、渦という一つの相(フェイズ)から、全くそれとは別の相(フェイズ)へと劇的に転移させる、という考えですわ。球形の渦が佐天さんにとって、一番自然な相なんでしょう。そこから、不安定だけど利用価値のある相へとガラリと転移させるのですわ」
相転移というのは、気体から液体、あるいは固体といったように相を転じる現象一般を指す言葉だ。
鉄の磁化も相転移だし、ただの伝導体が超伝導体になるのも相転移だ。そういう、ある温度や圧力、磁場強度を境としてガラリと状態が変わってしまうことを相転移という。
『流す』能力者と違って、『集める』能力者は何かをトリガーに劇的に状態を変化させないと、価値ある現象というのを引き起こしにくいのだった。
「相転移、うーん、すみません。ちょっとピンとこなくて」
「私も言葉が悪かったかもしれませんわ。要は、式に入力する値を変えるなどして、全く違った状態に変化させる、という意識を持てということです」
「あ、はい」
「ためしにやってご覧になったら?」
「はい……えっと、パラメータを適当にいじるので、どうなるか分かりませんよ?」
「構いませんわ」
佐天はいつもどおり、渦を作る。そしてしばし眺める。
いい仕上がりの渦だ。一週間前に自分が作っていたものが稚拙に見えるほど、巻きが安定していて、それでいて内部に大きなエネルギーを蓄えている。
その渦の制御式の遥動力の項に、今までに入れたことのないようなパラメータを代入する。
どうなるかはやってみないとわからない。とはいえ、予想はつくのだが。
――――さっきと変わらない、ボワ、という音。先ほどと同じような風が、二人の肌を撫でる。
それだけといえば、それだけだった。
「綺麗に広がった先ほどと違って、今は随分と広がる方向が乱雑でしたわね」
光子は違いに気づいていた。槍の様に、天上に向かう風が二条、そして足元に向かう竜巻が一つ。
水平方向には大体同じような広がりだった。
「変な値を入れて渦を目茶目茶にすると、こうなっちゃうんですよね」
「簡単なことですの?」
「え? まあ、数字を変えるだけですから」
「……」
考え込む光子を邪魔しないよう、佐天は黙る。
そして同時に自分でも考える。要は、全ての方向に均一に広げなければいいのだ。
それだけでも使い道は生まれてくる。そして、ある方向にだけ延ばすとなると……
「槍みたいに吹き出させれば、いいんですかね」
「あら佐天さん。私と同じ答えにたどり着けましたのね」
軽く驚いたような顔をして、すぐに褒めるように笑いかけてくれた。
「私がイメージしたのはさっき佐天さんの話に出た天体ですわね」
「え?」
「重力崩壊する星はパルサーと呼ばれる電磁波を放出しながら崩壊するのですわ。その放出方向は全方向にではなくて、大体自転軸に近い方向にのみ吹き出しますの。ちょっと試しに、やってくださらない?」
「あ、はい。……どうしたらいいですか?」
「そうですわね、まずは、一つの回転軸を中心に回る渦を作ってくださる?」
「はい」
それは簡単だ。
佐天は手のひらの上に、渦を作る。
水風船を回したときのように、垂直に渦の中心軸が出来るような流れを作る。
「それを上手く変化させて、全ての運動量を軸の方向に噴出させられませんか?」
「これを垂直にですか? それは……えっと」
こんな感じだろうか、とアタリをつけて値を入力し、渦に変化をつける。
再び鈍い音と共に、渦は破裂した。
「うーん……」
「イマイチ、でしたわね」
僅かに狙ったような傾向は見えたものの、結局は全方向に空気が散ってしまった。
「もし代案があれば、そちらを試してもよろしいのですけど……」
「ちょっと、思いつかないですね。すぐには。それに狙った変化を起こすのに必要なパラメータが今は予想できないので、なんとも」
「まあ、焦る必要は有りませんわね。毎日意識しながら能力に向き合っていれば、いずれ妙案を思いつきますわ」
「それで、大丈夫ですかね?」
「心配はもっと時間が立ってからされればよろしいわ。佐天さんはたった二週間くらいで、こんなところまで来ましたのよ。まずはもっと喜んで、自慢に思っても罰なんて当たりませんわ」
そう言って光子が笑いかけてくれた。
勿論、そんなことは重々承知していた。毎日が嬉しくて、渦を作りまくっているのだから。
「それは大丈夫ですよ! あたし毎日、能力が使えなくなるまで渦を作ってから寝るようにしてるんです」
「いい心がけですわね」
「おかげで長袖のパジャマで寝てるくらいですからね」
「え?」
「渦で熱を集めて窓の外に捨てるって、婚后さんのアドバイスにあったじゃないですか。あれ毎日夜にやってるんです。おかげで今週はクーラーいらずでした」
「ああ。ほら、やっぱりそういう練習が一番続くでしょう?」
「ですね。あはは」
光子に自慢をするつもりで、佐天は手のひらに、一番巻きの強い渦を作り出す。体を力ませないように気をつけながら、全力で。
出来た渦は中心が揺らめいていた。高圧に圧縮した空気の屈折率が変化するせいだ。
それは内包するエネルギーが相当強くなった、三日前くらいにようやく出来た現象だった。
「……ここまで、巻けますの?」
「え?」
驚いたあと、光子は予想に反して少し厳しい目をした。褒めて欲しかったのだが。
「あ、ごめんなさい。すごいですわね。目視で分かるくらい、渦の中は物性が違っていますのね。……とても、レベルが上がってから一週間やそこらの能力者、それもレベル1とは思えませんわ」
「はあ」
「もちろん褒めているんですのよ。ごめんなさい、同じ空力使いとしてつい」
何気に、その反応は嬉しかった。レベル4の光子が遠い存在なのは、勿論分かっている。
だからこそ、その光子が無視できないだけのものを作れた自分が、嬉しかった。




「……ふうっ」
「ここまでにしましょうか」
「はい」
3分間、佐天は散り散りになりそうな渦を耐えに耐えてコントロールした。
平均で直径30センチ、渦をスイカくらいの大きさで30気圧くらいに制御して、それだけの間、渦を崩壊させないで維持したことになる。
規模、時間、あらゆるファクターで一週間前の倍以上をマークした。
「素晴らしい伸びですわね。佐天さんのポテンシャルが、それだけ高かったのでしょうけれど」
「あはは、ポテンシャルなんて。褒めすぎですよ」
「何を仰いますの。短期間でこれだけの伸びを見せるなんて、努力でコツコツとでは得られませんわよ。こういうのを才能と言いますのよ」
佐天は落ち着かなかった。そりゃあ伸びれば嬉しいし、褒められるとついにやけてしまう。
だが、どうも才能なんて言葉と自分が結びつかないのだ。
「まあでも、すぐに頭打ちになりますわ。能力の伸びにまだまだ知識が追いついていませんし、体に染み付けないと、次のステップに進めないなんて事は山ほどありますわ」
光子のその言葉はむしろ佐天を安心させるような言葉だった。
苦労しながら伸ばすのが能力というものだろう。
壁に突き当たれば苦しい思いをするのかもしれないが、順調に伸びていて能力を使うのが面白くて仕方ない今は、そんな困難の一つくらい気合で乗り切ってしまえなんて風に心の中が勢いづいているのだった。
「さて、それじゃあ午前はこんなものにして、お昼にしましょうか」
「はい」
「どちらで摂りましょうか。学外の関係者の方々の利用する食堂があちらにありますけれど、それよりは、私達学生用の食堂かテラスのほうがよろしいかしら」
常盤台女子は男子禁制の学び舎の園の中にある。
しかし、レベル5を二人も要することからも学園都市の最高学府のひとつであることは間違いない。
当然のことながら、学生と共同研究を行う男性の研究者は沢山いて、常盤台の中に来ることもある。
人目に触れないように常盤台の外れに案内されるので大半の人間には気づかれないが、実は結構、常盤台には男性が入ってくることがあるのだ。
そして彼らは食事を摂りに出かけることすらままならない。そういう研究者向けの食堂が、この常盤台の外れに一つあるのだった。
とはいえ佐天は服装以外はここにいてもなんらおかしくない女子中学生だし、常盤台に知り合いがいないわけでもない。
「あー、視線を集めるのはちょっと嫌なんですけど、初春に、ぜひとも常盤台の皆さんのお食事している場所がどんなのか、その目で見て教えてください、って頼まれちゃってるんで」
「はあ。別に大したものはありませんわよ」
「常盤台でもですか?」
「私達も、佐天さんと同じものを食べる同じ女学生ですもの」
クスリと笑って光子は腰を上げた。佐天と知り合いなのは湾内と泡浮、そして御坂と白井だろう。
湾内と泡浮となら、上手くいけば会えるかもしれない。
居心地が悪いであろう佐天にとっては知り合いが多いほうが良いだろう。
なるべく知り合いを探そうと思いながら、光子は佐天を食堂へ誘った。




[19764] interlude03: 乙女の昼餐(そう淑やかでもない)
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/17 01:43

休憩室を覗いて、湾内と泡浮の二人を探す。食事に行ったか、あるいは出かけたか、二人はいなかった。
夏休み中で、昼に学外へと昼食を摂りに行くのもアリだから、そうしたのかもしれない。待っても仕方ないし、二人は流体制御工学教室の学舎を出た。
「あつー……」
「分かってはいますけれど、外はたまりませんわね」
光子は扇子を取り出してパタパタと仰いでいる。渦を作って、佐天も首筋に風を作り出した。
風も生ぬるいので、あまり意味はないのだが。
「冷たい麺類にしようかしら」
「あ、いいですね」
「割とあの食堂の冷製パスタは気に入ってますの」
「パ、パスタですか」
ちょっと予想外だった。てっきり冷凍麺で作った冷やし中華やうどん、そばだと思ったのだ。学食なんて普通はそんなもんだ。
しかし、確かにこの学校の雰囲気にはパスタのほうが合っていた。
「細かく刻んだ蛸の食感とバルサミコ酢のさっぱりした感じが、暑い日には軽くて良いですわ」
「へー」
とりあえず佐天の昼は決まった。具体的な説明があるとつい味を想像してしまう。
聞いたところ材料はそう突飛でもないし、バルサミコ酢は家にないが黒酢ならあるから、家で真似することも出来るだろう。
「おーい、佐天さん! 婚后さん!」
「あら?」
「あ、御坂さん」
「ごきげんよう佐天さん。それと、婚后光子」
「どうして呼び捨てにされなければいけないのかしら? 白井さん」
別の建物から出てきたらしい二人、白井黒子と御坂美琴に返事を返す。どうも光子は白井と反りが合わないのだった。
いや、反りが合わないというか、光子としては普通に接しているつもりなのだが、どこか光子の態度が白井には合わないらしかった。
レベルは同じだが、学年は一つ上なのだ。もう少し態度に敬意があれば、光子のほうから歩み寄る気にもなるのだが。
「これは失礼しましたわ、婚后先輩」
「過ぎた慇懃は無礼と同じ、それくらい学びませんでしたの?」
「私は精一杯丁寧にお詫びを申しあげただけですわ、婚后先輩」
先輩という響きは、あまり常盤台では聞かれない。慣例としてさん付けが多いのだ。
だからその先輩というフレーズを強調する白井が、やっぱり気に入らない光子なのだった。
そしてお姉さまに比べて自分の能力を鼻にかけてお嬢様な態度をとりがちな先輩の婚后が、どうも気に入らない白井なのだった。
「ま、まあまあ。それで佐天さん、今日も婚后さんにレッスン受けてたの?」
「はい。そうなんですよ」
「佐天さんは物凄く伸びがよろしいですわ。二学期が始まる前が大変でしょうね」
「……え? なんでですか?」
「転校されるんだったら、どこに移るかは大事なことだと思いますけれど」
「え? 佐天さん転校するの?」
「え? いや、私まだ考えてないですけど……」
サラリと光子が言ったことは、先生には言われていたが、光子とは話をしたことがなかった内容だ。
突然だったので動揺してしまった。
「今の段階で、通ってらっしゃる中学ではもう一番だと思いますわよ。上の学年も含めて」
「へー! 佐天さんそんなに伸びたんだ。すごいじゃない!」
「い、いや、全然実感がないんで分からないんですけどね」
「今、レベルはいくつですの?」
「まだレベル1ですけど」
「すぐに上がりますわ」
レベルを尋ねた白井に、光子が隣でそう断言した。もうレベル2という評価がすぐ手元に近づいている状況だった。
そしてレベル2なら、中堅の学校を狙う段階だ。支給される奨学金の額が全く変わってくるからだ。
きりもちょうど良いし、確かに順当に行けば転校が自然なことなのかもしれない。
「でも、初春さんと別れちゃうのは寂しいよね」
「そうですね。入学してからずっと一緒に遊んでましたし」
「大丈夫ですわ。あの子は転校したくらいで忘れる薄情者じゃありませんし、風紀委員の支部に来れば毎日でも会えますわよ」
白井と初春の信頼関係は、自分と初春のそれとは違う。
二人がスキンシップを取っているようなところは見たところがない。
なんというか、相棒なのだ。そういう関係が羨ましくないこともなかった。
「ねえ、立ち話もなんだし、さっさと食堂に行きましょ」
「ですわね。お姉さま、今日は何にしますの?」
「んー、麻婆豆腐の気分かな?」
「御坂さん、この暑いのによくそんなもの召し上がりますわね……」
「今日は東洋の気分なのよねー」
「東洋?」
「お姉さまの共同研究先、今回は東洋医学の方々らしいですわ」
「え、御坂さんが医学、ですか?」
発電系能力者というのはそんなこともするのか。佐天は軽い驚きを感じた。
それに美琴が、シュッシュッとシャドーボクシングをしながら茶化して返事をした。
「まあね。ちょっと殺気の感じ方を勉強しようかと」
「え?」
食堂に入る。中はそこそこ混んでいて、僅かに並んだ人の列の最後尾で四人は立ち止まる。
美琴の不思議な発言に、白井が軽く顔を片手で覆っていた。
「変わった依頼をお引き受けになったと思ったら、マンガが動機ですの?」
「別に良いじゃない。それなりに成果をまとめる自信があるから引き受けたんだし」
「西洋医学でも発電系能力者を必要としているところなんて山ほどあるでしょうに」
「そういうところに協力したこともあるわよ。筋ジストロフィーのとか。今回はそういうので見てないところに切り込もうってだけ」
オーダーの順番が回ってくる。佐天と光子は冷製パスタを、美琴は麻婆豆腐、黒子は炊き込みご飯のランチセットを手早く頼む。
「御坂さん、東洋医学と電気、というのはどういう組み合わせになりますの?」
「ん? ほら、人間の体にはツボってあるじゃない? 足の裏のある場所を押すと肩こりがほぐれる、とか。お灸や鍼もあるよね。経験則として東洋医学はこれを体系化してるけど、東洋医学でここにツボがあるっていう場所を切開しても、西洋医学では何も見つけられないんだよね。で、この前黒子に肩揉んで貰ってて、ふと思ったのよ。皮膚の表面電位とツボって関係してるっぽいって」
「お姉さま……もしかして、黒子がお役に立って、いましたの?」
「え? うんまあ、あの後手が急に胸に伸びてこなきゃ感謝しようと思ったんだけど」
「じ、事故ですわ」
「随分と意図的な事故だったように思うけど?」
感極まって目をウルウルさせたかと思うと、一転して冷や汗をダラダラ垂らす白井だった。
「ま、まあそれでさ。考えれば当たり前だなーって。脳は人間の体を制御する重要な部位だけど、国家だとかと同じで、中枢が何でもかんでも裁くわけにはいかないでしょ。細かいことは現場、人間で言えば皮膚が知的な処理ってのを行っててもおかしくないのよね」
空いた席に適当に座って、四人はランチを始めた。常盤台の常識なのか、座ってきちんといただきますを言う三人に佐天も唱和する。
細いパスタ、カッペリーニに黒みがかったソースと蛸を乗せて、口に運んでみた。
「あ、美味しい」
「でしょう?」
「さっぱりしてていいですね」
「辛っ……」
「お姉さま、かなり辛いと書いてありましたの、読みませんでしたの?」
「い、いや学食のメニューなんてもっと万人向けじゃない? 普通は」
「数量限定メニューですわよ、これ」
白井があきれた目で炊き込みご飯をパクつきながら、涙目の美琴を眺めた。



空腹をとりあえず解消する程度まで箸を進めて、軽く落ち着いた辺りで白井が美琴に尋ねた。
「そういえばお姉さま、お昼からはどうされますの?」
「え? 昼から? んー」
「婚后さん、私達は?」
「昼からは佐天さんは猛特訓ですわ。へとへとになって意識が混濁するまで頑張ってもらいますわよ」
「え、意識が、混濁ですか?」
ニコニコとたおやかに微笑む光子の裏に、ゆらっとオーラが見えた。
スパルタ指導者の雰囲気というか、そんな感じだった。
「ええ。昼からは外部の研究者の方もいらっしゃって、航空機のエンジン開発の手伝いをしてもらう予定ですわ。あら佐天さん。そんな顔はおよしになって。新薬の被験者に応募するのの倍くらいはお小遣いが手に入りますわよ?」
「自由になるお金が増えるのはありがたい事ですけれど、そんな直截的な言い方ではあまりに品がありませんわ。裕福な家庭の子女の多い常盤台ですけれど、それだけに成金上がりも多いですから、どうぞ言葉遣いには注意なさったら? 婚后さん」
「素敵な箴言をくださってありがとう、白井さん。でも杞憂ですわ。婚后は旧くからの名家ですし、その子女として厳しく躾けられてきましたもの。私が強調したかったのは、学園都市や両親から与えられたお金ではなくて、自分の努力で手にしたお金が手に入る、ということですわ」
「ああ、そうでしたの。それは失礼しましたわ。婚后さんがそのようなことを仰るとは思い至りませんでしたの」
「分かってくだされば結構ですわ」
ふふふふ、と本音を見せずに微笑みあう婚后と白井を見て、仲がいいんだか悪いんだかと佐天は心の中で呟いた。
「それで、御坂さんは昼から何するんですか?」
「あ、うん。私は佐天さんたちと違ってもう学校に用事はないから、ちょっと出かけようかなって。黒子は確か風紀委員の仕事よね?」
「そうですけれど、それが何か?」
「いや別に、ちょっと確認しただけ」
ちょっと、黒子には聞かれたくないことだった。
だがそれに何か感づいたのか、黒子がクワァッと目を開いて、手をわななかせた。
「おおおお姉さま。まさか、まさかとは思いますが。その……殿方と?」
「へっ?」
「いけません、いけませんわそんなこと!」
「ハァ? アンタ突然何言ってんのよ。私デートなんて一言も」
「デートっ!? お姉さま、今デートと仰いましたの?!」
「だから落ち着け! ったく!」
「これが落ち着いていられますか!」
両手を頬にぎゅっと押し付けてアッチョンブリケな表情をして黒子があとずさる。
傍らには椅子が倒れていた。
「お姉さまは最近、変ですもの」
「へー、御坂さんのそういう話、ちょっと気になるなー。ね、婚后さん?」
「ええ、まあ」
そうでもない光子だった。彼氏持ちの余裕だった。
とはいえここは佐天と白井にあわせたほうが面白そうなので、相槌を打っておく。
「佐天さんと婚后さんまで……もう、別に遊びに行くわけじゃないわよ」
「ふうん……白井さん、御坂さんって気になる人、いるんですか?」
「そうなんですのよ佐天さん! 私というものがありながらお姉さまったら最近はことあるごとに、あのバカは、あのバカなら、あのバカと、なんて『あのバカ』さんの話をなさいますのよ」
「グガホゲホゴホッ! わ、私は別にそんな何度もアイツのことなんか――」
「やっぱりいるんですね! 気になる人!」
「ちちち違うわよ! 大体す、す、好きな人にあのバカとか言うわけないでしょ!」
「好きなんですか?」
「だから違う! 逆、逆よ。大体頼みもしないのに助けてくれちゃったりさ、正義の味方気取りの調子に乗ったヤツなのよ!」
ん? と光子は首をかしげる。なんとなく引っかかりを感じたのだ。
となりで歯噛みする白井と目を爛々と輝かせた佐天が容赦なく追及していた。
「御坂さんが不良に絡まれてるときに、助けに来てくれたってことですか?」
「え、ああ、うん。まあ勿論手助けなんていらなかったし、余計なお世話だったんだけど。……ってああもう! この話はもういいでしょ?」
「分かりました。それじゃあ次行きましょう。どんなところに惹かれたんですか?」
「だーかーらもう、佐天さん! からかわないでよね」
「アハハ。ごめんなさい。でも、御坂さんも可愛いとこありますね」
「か、可愛いって……。そ、それより! 佐天さんはどうなの?」
攻撃は最大の防御と言わんばかりに、美琴が佐天に矛を向ける。
光子は美琴の恋愛事情よりは興味があった。自分の弟子の話だからだ。
「私も聞きたいわ。佐天さんは気になる殿方はいらっしゃるの?」
「え? やだなぁ、そういうの、今はないですよ。今は初春一筋ですから」
「えっ?」
美琴が凍りつく。なにせ、『そういうの』の実例が自分の同居人にして今も隣に座っているのだ。
そういう趣味には見えなかったのだが、言われてみれば佐天はかなり初春とのスキンシップが好きだ。
それも、結構濃くて、初春が真っ赤になるような感じの。
「初春ですの? それじゃ同性じゃありませんか」
「え?」
「? 何か?」
不審な目で白井を見つめた美琴に、不審げな視線が帰ってきた。
自分の普段の行いをまるで振り返っちゃいない態度だった。
「白井さんだって御坂さんのこと好きでしょ?」
「ええ、心の底から体の先、髪の一本一本に至るまでお姉さまのことをお慕いしていますわ」
「気持ちだけなら受け取ったげるから離れろ黒子!」
イカかタコのようににゅるりと腕を滑らせて白井が美琴に絡みつく。
見事な手裁きで美琴の脇の下に差し込まれた腕は、明らかに美琴の慎ましい胸にタッチしていた。
「私も初春のこと、なんかほっとけないんですよね。クラスの男子は皆ゲームだのなんだのってはしゃいでて、あんまり興味もてないし」
「じゃあ佐天さんは年下の男性が好みですの?」
「え? 年下……って私達の年じゃ年下っていくらなんでもピンとこないですよ」
「まあそうですわね」
「婚后さんは年上の人とだからいいのかもしれませんけど」
「婚后さん、彼氏いるの?!」
美琴はこないだ街中で会っているときに彼氏に電話をしているらしい光子に出会っていたから、ちょっと気になっていた。
隣で白井が露骨にありえない、という顔をした。
「えっ? ええ、まあ……」
「あなたに……? まあ、物好きな殿方もいらしたものね」
「少なくとも白井さんに懸想する殿方よりは普通だと思いますけれど」
こんなお姉さまLOVE!という空気を撒き散らす女子生徒に寄り付く男のほうが、当麻よりも物好きだと思う。
「そういえば私も聞いてなかったですけど、どんな方なんですか?」
「どんなって、その、ちょっとエッチですし何かとおっちょこちょいなことをして不幸だなんて呟きますけど、格好よくて、いざというときにはすごく頼りになって、私には優しくって……」
「へー……好き、なんだね」
白井が露骨にイラッとした顔を見せ、佐天と美琴は困ったように顔を見合わせた。惚気話というのはこんなにもめんどくさいのか。
独り者のやっかみかも知れないが、正直長く聞いていたい代物ではなかった。
「そ、それはやっぱりお付き合いしているんですもの。好きに決まっていますわ」
「一応聞いておきますけれど、ちゃんとお相手の方からも愛されていますの?」
「と、当然ですわ! 失礼なこと仰らないで」
「ごめんあそばせ。でもそんな顔をその方の前でされたら千年の恋も冷めますわ」
当麻は光子の怒った顔も結構好きなのでそんなことはないのだが、光子はくっと堪えて自制する。
そしてスカートのポケットから丁寧に鍵入れにしまった鍵を取り出す。
「物で証明するのは浅ましいとお思いかもしれませんけれど。あの人は家の合鍵を、私にくれましたわ」
「おおおおおおおーーー!」
「う、わぁ。それ、確かに常盤台の寮の鍵じゃないよね」
「ええ、それはこちらですもの」
違う寮に住んではいるが、光子の寮の鍵は美琴のと同じ意匠だ。
光子が手にしているのはいかにも下宿の鍵、という感じの鍵だ。それにちょっと劣等感を覚える美琴だった。
光子はまあ、率直に言って相当に我侭なお嬢様っぽい感じがするが、スタイルもいいし間違いなく美人だ。
受け答えも知り合った頃、一ヶ月前より丸くなった気がする。
彼氏に対してあまり我侭を言わないのなら、付き合いたいという男が山のようにいてもおかしくはない。
「はぁー、婚后さん、大人だね。年上って言ってたけど、三年生? それとも高校生?」
「高校一年の方ですわ」
「近くに住んでるの?」
「ええ、同じ第七学区の学校に通っておられますの。寮もこの学区内ですわ」
「じゃあ出会いのきっかけってナンパとか……そういうのですか?」
「違いますわ。その、不良に追われてらっしゃったのを私が助けたのがきっかけなんですけれど」
「あ、それじゃ御坂さんと逆なんですね」
「そうなりますわね」
あれ、と美琴は首をかしげる。そういやこないだ、あのバカを追いかける不良どもを軽く焦がしてやったっけ。
なんとなく引っかかるものを感じた。
「それからどうやって仲良くなったんですか?」
「佐天さん、もうよろしいんじゃありませんこと? 婚后さんが話したくってうずうずされてますわ」
「べっ、別にそんなことは……!」
「惚気たいって顔に書いてありますわよ。まあ、恋人が出来るというのはそういうことなのかもしれませんけど」
「まあいいじゃないですか白井さん。ね、御坂さんも気になりません? 街中で知り合った男の人と仲良くなる方法」
「え? そ、そんなの別に興味ないわよ!」
こういうとき素直になれないのが美琴なのだ。佐天はそれが分かっているから、光子を誘導する。光子も佐天の意図に気がついた。
白井に嫌味を言われたことだし、自慢にならない範囲で美琴のアドバイスになるよう、言葉を選ぶ。
「助けて差し上げた関係で初めて会ったその日に、ファストフードのお店でアップルパイをご馳走していただきましたの。それもあってたまたま街中で二回目に会ったときも、自然と立ち話をできましたの。あと15分で卵のタイムセールがおわっちまう、一人二パックまでいけるんだ、なんて仰るから、つい面白くなってお手伝いしましたの。そうしたらまた同じ店でアップルパイをご馳走してくださって」
「へー、結構家庭的な彼氏さんなんですね」
「そうですわね。私より、料理の腕は確かですもの。ちょっと悔しくなってしまいますわ」
「おー。じゃあ、気になる男の人がいる御坂さんに何かアドバイスは?」
「ア、アドバイスですの? そんなこと言われましても、その方がどんなことか分からないことには……」
面白くなさそうな白井の横で、『わ、わたしそんな話興味ないわよ!』という顔をしながら耳を澄ませている美琴を見る。
露骨に動揺して、『うぇっ、だ、だから好きとかそんなんじゃないって』という感じだった。
「御坂さんも隠すのは得意なほうではありませんわね」
「か、隠すって何よ。私は別に、アイツのことなんか気にしてないし!」
「じゃあ例えば他の女性がその方と仲良くしていても問題ありませんのね?」
「そりゃ、そりゃそうよ。私とアイツはなんでもないし……」
ズズズズガラガラガラガラと氷っぽくなった紅茶を吸い上げて、美琴がガジガジとストローを噛んだ。
隣の佐天がわかりやすいなあ、と苦笑いを浮かべていた。
「その人って高校生ですか?」
「も、もうこの話はいいでしょ?!」
「何言ってるんですかこれからですよ!」
「高校生の方とお見受けします」
「え?」
「ブツブツと部屋で呟いているお姉さまの口の端から聞こえてきた情報ですわ」
「ほっほーぅ、婚后さん、御坂さんも高校生が好きらしいですよ。何かアドバイスを!」
「さ、佐天さん。もう……そうですわね、やっぱり、あまり妬き餅を焼かないことですわね。口げんかをするとすぐに年下扱いされて、同い年ではありませんことを思い知りますの。クラスメイトの女性の方と話す当麻さん……あの人を見たことがありますけれど、やっぱり私では子どもなのかしらって、悔しくなってしまって」
「……」
今光子はなんと言っただろう。ドキリ、として美琴は咄嗟に相槌を打てなかった。
こっそりとネットワークにハックして手に入れたアイツの情報。
名前が、似ている気がした。しかし聞き返すのもおかしいいし、確かめられなかった。
「ですから天邪鬼な態度はお止めになったほうがよろしいわ、御坂さん」
「え?」
「好きなら好きだって言ってくれたら嬉しい、って。あの人とお付き合いする前に言われたことですわ。素直じゃないところも可愛いけど、素直なところが一番可愛いからって」
「はぁー、もうっ! 婚后さん惚気すぎですよ」
「さ、佐天さん。今のはアドバイスであって惚気とかそんなんじゃ……」
「まったく。もうお姉さまを解放してくださいまし。昼休みが終わってしまいますわよ」
「ごめん遊ばせ。御坂さんが可愛らしくて、つい」
「可愛いって、もう、婚后さん」
「ふふ。ごめんなさい。でも御坂さんはお綺麗だし、その方にアタックすればきっと」
「しないって!」
「それでお姉さま。お昼から、その方のところでないのなら、どちらへ?」
「ああ、うん」


急に醒めたように、美琴が浮ついた表情を消して、椅子に腰掛けなおした。


「木山のところに、行ってみようかなって」



[19764] interlude04: 爆縮渦流 - Implosion Vortex -
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/23 01:25

美琴たちと別れ、再び先ほどの教室へと戻る道すがら。
「佐天さん、どうされたの? あまり顔色が優れませんようですけれど」
「あ……」
光子は気がそぞろになった佐天の様子が気になっていた。集中できないとあまりレッスンにも意味がない。
そして佐天は、何気なくであったのに、光子にそう尋ねられたことに息が詰まりそうな思いを感じていた。
「木山春生っていえば、確かあの幻想御手<レベルアッパー>事件で主犯格として拘束された人でしたわね」
「……」
「その方の逮捕に白井さんが関わっている、というのはまだ分かりますけれど、どうして御坂さんが……って、佐天さん? あの」
「ごめんなさい」
唐突に、佐天が光子に謝った。
反射的に問い返そうとして、追い詰められたような佐天の表情に口ごもった。
「謝ってもらうことに、心当たりがありませんわ。嫌ならこれ以上はお聞きしませんけど、もし話を聞いて欲しいなら、いくらでも付き合いますわ」
「……あの、わたし」
右手をきゅっと握り締めて足元を見つめた佐天が、そこで言い淀んだ。
初めてアドバイスをしたときもこういうことがありましたわね、と光子は思い出した。
気を重たくさせぬように微笑んで、僅かな仕草で空気をかき回す。
「婚后さんが今言った幻想御手、私、使ったんです」
「えっ? それって――」
確か、一時的に能力は伸びたが、暴走によって使用者全員が意識を失った大事件だったはずだ。
テレビでそう話しているのを光子は見た覚えがあった。
「前に一度、言いましたよね。私、一回だけ能力が使えたことがあって、それで空力使いだって分かったって。何の能力かもわかんないくらいの無能力者だったのに、いきなり能力が使えるわけないじゃないですか。……幻想御手<レベルアッパー>で、私はズルをしたんです」
「そう、でしたの」
「ごめんなさい」
「どうして謝りますの? それに後遺症とかは、大丈夫でしたの?」
「はい。後遺症とかはぜんぜんなくて……でも、大事なことなのに、婚后さんに黙ってました」
自分から沈み込んでいくように、佐天が懺悔を続ける。
佐天が謝る意味を、ようやく光子は理解し始めていた。
「ずるいやり方で能力を伸ばしたから、私に謝っていますの?」
「……はい」
「別に、気にする必要なんてないと思いますわ。だってそういう人、普通にいますもの」
「え?」
困惑するように佐天が光子を見上げた。
流体制御工学教室、と書かれた見知った建物に佐天と光子は再び入り、二人のために用意した部屋へと戻る。
冷房の行き届いた部屋で汗が引くのを待ちながら、光子が続きを話した。
「私は開発官が勧めてくれた未認可の薬を何度か服用したことが有りますわ」
「え?」
「レベルが2の頃でしたから、今みたいな細かなチェックをしていただけるわけもありませんし、健康に対するリスクから、人数の多い低レベル能力者への投薬を認められていないものでしたわ」
学園都市の大半は、無能力者や低いレベルの能力者だ。そして学生達をチェックする大人の数は、かなり限られている。
その結果、当然のこととして大半の人間に与えられる能力開発の試薬は効き目がマイルドで、安全な物が多い。
能力を伸ばすために高レベル能力者が使う試薬に手を出す、それはある種の禁じ手でありながら、功を焦る開発官と劣等感に苛まれる学生の利害の一致から、しばしば横行する反則技だった。
もちろんそれが反則技になる理由は明快だ。管理できないほどの人数に、強い幻覚剤を与えて安全なことなどあるはずがない。副作用で精神的な障害を負うことだってないとは言えないのだ。
そういう危険を承知で、細かなチェックをすることでリスクを潰しながら、数の少ない高レベル能力者は作用も副作用も強い薬を服用していく。
ぱたり、と扇子を閉じて穏やかな表情で光子が佐天を見つめた。
「皆やっているから、でこういうことを許すのが良いとは限りませんけれど、開発の現場で、反則行為というのは横行しているものですわ」
佐天はその表情の意味を読み取れなかった。
微笑みを浮かべているものの、表れた感情は佐天への同情とも、反則を正当化するような意思とも、いずれとも違っているように見えた。
「あの。責めるんじゃないですけど、そういうことをして、悪いなとか、良くないなって思いませんか?」
「……普段は考えないことにしていますわ。みんなしていることだ、とあの時開発官は繰り返しましたから。それに、身につけてしまった能力は、たとえ私が好まざろうとも、もう私のものですわ。それを間違ったものだといっても、もう、捨てることも嫌うことも出来ません」
「……」
「だから、といってしまうのは浅ましいかもしれませんけれど。どんな方法を使ったにせよ、確かに佐天さんは能力を伸ばしたのですわ。だからもう、それでいいじゃありませんか」
光子の返事は答えというより、正当化の理屈、だっただろう。現に佐天は釈然としない思いを感じている。
言われてみれば幻想御手という反則は、実は気に病むほどの行為ではなかったのかもしれない。
でも、だけど。
「婚后さんはもう、吹っ切りましたか? また勧められたら、またやりますか?」
それを、聞かずにはいられなかった。光子が目を伏せながら笑った。
「勧められたこと、ありますの。でも断りましたわ。当麻さんの顔を思い出したら、やめようって思いましたの」
「彼氏さん、ですか」
「ええ。能力を伸ばしても、あの人に胸を張れないのは嫌ですの。あの人に褒めてもらうのがすごく嬉しくて、今は頑張っていますから」
当麻はレベル0だ。だが、それに卑屈になることのない人だった。
そんな人と心を通わし合えたおかげで、レベルなんてものが、本当の人の価値を測る定規ではありえないことを理解できた。
手段を選ばずレベルを上げるような人間じゃなくて、あの人に尊重される人でありたい。その考え方の変化を、とても光子は気に入っていた。
そしてその理屈は、佐天にとっても、すごく格好よく見えるものだった。
「はぁー……。彼氏さんが出来るって、いいことですね」
「あ、ごめんなさい。また惚気だって叱られますわね」
「でも羨ましいです。そういう風に思える人が隣にいるって」
「恋人じゃなくても、佐天さんの隣には、きっと素敵なお友達がいるんじゃありませんこと?」
真っ先に思い浮かべたのは、初春の泣き顔。佐天が幻想御手の副作用から意識を回復させた後に真っ先に見た表情。
ちょっと鼻水が出てグズグズの情けない顔だったのに、すごく嬉しかった。
頼りなくて涙もろい友達だけど、初春には胸を張って能力を伸ばしたい。
「レベル4の能力者にアドバイスを頼むのも、一応反則技ですのよ?」
「え? そうなんですか?」
「規則としては、開発のサポートは開発官にしてもらうものですから」
「……でも。婚后さんに教えてもらって、私はすごく、嬉しかったです」
「そう。まあ、駄目と規則に書かれているわけでは有りませんし、いいじゃありませんか」
「そうです、ね。もっと、頑張って伸ばします」
「ええ。私も負けないように頑張りますわ。ね、佐天さん」
「はい、あっ……」
不意に、光子に抱きしめられた。いい匂いがして、ドキドキする。
婚后さんってこんな人だったのかな、と佐天は不思議に思った。
こんなにお互いに仲良くなってからも大して経っていないと思うのに、すごく優しい人だと感じる。
ナデナデと頭を撫でて、目の前でそっと微笑んでくれた。
「ふふ」
「こ、婚后さん、あの」
「照れてる佐天さんも可愛らしいわ」
「ちょっと、もう、恥ずかしいですよ……」
「是非常盤台にいらっしゃい」
「えぇっ? いや、いくらなんでもそんなの」
「あら、無理だなんて仰ってはいけませんわ」
「はあ……」
普段は初春に抱きつく側だし、年上の美琴もこういうスキンシップを佐天にとってくることはなかった。
年下扱いも、意外と悪くなかった。
「さてそれじゃあ、続きのレッスンをしましょうか。スパルタで行きますわよ?」
「はい! 望むところです!」
意識を切り替えて、二人は実験室へと向かった。




先日、燃料を爆発させる実験をやったときの部屋の辺りに、佐天は連れてこられた。
実験室は四畳くらいの小さな部屋だったはずなのに、部屋と部屋の区切りが取り払われて、教室二つ分くらいの広さになっている。
そのせいで前と同じところに来た実感をいまいちつかめなかった。
「あちらがこのプロジェクトのリーダーですわ。事実上、学園都市で一番の空力使いです」
常盤台に外部から来ているからなのか、スーツ姿の研究者達がパソコンと向かい合う中、少し大人びた感じのする常盤台の女学生が微笑んで会釈した。もしかしたら三年生だろうか。
佐天もペコリとお辞儀を返した。
空力使いにレベル5はいない。だが、おそらくレベル4の空力使いはかなりいるだろう。
能力の分類でいえば念動力使い<サイコキネシスト>や発電能力者<エレクトロマスター>と同様、カテゴライズされる人間の多い、平凡な能力だ。
「一番ってことは、あの、婚后さんよりも?」
「ええ。数字の上では、私より上ですわ」
向こうがその光子の一言に苦笑いを浮かべた。だが、瞳の中に謙遜の色はない。
事実そうだと言い、負ける気は無いという気の強さを感じさせる目だった。
「ま、このレベルまで来ると比べてもあまり意味がありませんわ。個々の能力に特色がつきすぎて、比較が無理矢理になってきますから」
もとよりこの話は続ける気はないのか、光子が佐天をラボの端の机の島へと案内する。
島ごとにチームが分かれているらしい。
「今日佐天さんがお手伝いするのはここの班ですわ」
「よろしくお願いします」
にこやかに笑いながら、先生とは違う雰囲気を持った大人たちが対等な感じで自分に会釈をしてくれた。
「最初は私もお付き合いしますわ。慣れてきたら私も担当のブースに顔を出しますけれど」
「え? 婚后さんは別のところなんですか?」
「ええ。ここには超音速旅客機をつくるグループが集まっていますけれど、私は機体表面の設計グループの長ですから。エンジン設計のグループであるここは、担当外になりますの」
ここのプロジェクトリーダーは、先ほどの生徒とは別の空力使いらしい。もちろん常盤台の学生だ。
よく見るとちらほらいる常盤台の生徒には皆研究者とは別の大人が付き添っていたりする。一瞬秘書かと思ったが、どうやら先生らしい。
能力的には天才の集まる常盤台であっても、所詮は皆中学生だ。指揮を執る才に恵まれた人ばかりではない。
おそらく、そういう慣れない部分を補佐するために、マンツーマンで先生がついているのだろう。
「婚后さんには先生、いないんですか?」
「私も普段は助けていただいていますわ。今日は非番ですの。一応佐天さんの面倒を見るつもりでしたから」
「あ、なんだかすみません」
「いいんですのよ。メリットを出せるかどうかは佐天さん次第ですけれど、絶対に損をするとは限りませんから」
心臓が緊張に跳ね上がるのを佐天は自覚した。試験などとは違う形で、自分は今、試されているのだ。
うまくやれれば、ここで自分は誰かのために能力を使うことが出来る。
駄目でもともとと思われているかもしれないが、でも、失敗すればお荷物になって貴重な他人の時間を浪費させてしまう。
姿勢を正して、目の前の人たちにもう一度挨拶した。
「出来るだけのことは、やります。よろしくお願いします」



光子が佐天の担当部署の長にあたる1年生らしい人に声をかけ、佐天を紹介してくれた。
そしてすぐさま、仕事を割り振られる。説明は簡素だった。おそらく光子が細かいことはしてくれるとの判断だろう。
「さて、それじゃ始めましょうか」
「あ、はい。えっと、これとあれを比べればいいんですよね?」
「ええ。そうですわ」
手元には、データの入った小さなメモリと数式の書かれた紙の束。そして指差す先には燃焼試験室。
佐天が割り振られた仕事は、その二つを比較してコメントしてくれ、というものだった。
光子が事情を理解した顔をしているので頼ることは出来るだろうが、佐天は何を頼まれたのかよく分かっていなかった。
「あの、比べるって、なんていうか」
「佐天さんはあまりレベルは高くありませんでしょう?」
「あ、はい」
「そういう人が研究開発に従事するとき、まずすることは何かご存知?」
「え? えっと」
下っ端がすることといえば、お茶汲みかコピー取りじゃないのだろうか。あるいは掃除か。
だが少なくとも渡されたデータの重みは、そんなレベルじゃないように感じる。
「測定装置代わりになること、ですわ」
「装置の、代わり?」
「ええ。研究というものは最終的な目標がまずあって、それを達成するために何をすればいいのかを明らかにし、どうやって達成していくか計画を立て、それを実践する、そういう流れになりますわ。でも佐天さんにいきなりその流れに沿って何かをやれといっても難しいでしょう? だからまず、研究をする側の人ではなくて、研究者に使われる測定装置になってもらいます」
「はあ……あの、それはいいんですけど、何をしたらいいんですか?」
「まず、このデータを拝見しましょうか。数式の意味は理解できる?」
「えっと……これがよく分からないんですけど、あとは」
論文というか報告書というか、ファイルになったその紙をめくっていくと、基本的には佐天が慣れ親しんだのと同じ手法で表現された流れの支配方程式が並んでいる。
ただ発熱に関する部分が、化学反応、どうやら燃料の燃焼に関する式で書かれているらしく、そこだけ怪しかった。
「ああ、これは結局、気体自身が発熱するんだと思えばよろしいわ。細かい化学反応の部分は後でも理解できます」
「あ、はい」
「それで、佐天さんはこれを解析できます?」
「……たぶん、なんとか」
じっとその数式群だけを見つめながら、佐天はそう返事をした。扇子で隠した口元で、光子は満足げに微笑んだ。
「ではこれに従って流れを想像して御覧なさい」
「はい」
書かれた式を脳裏に思い浮かべ、数値演算で無理矢理解けるよう、式を変形しながら連立していく。
そして書かれた初期条件、境界条件を丁寧にイメージし、確かな幻を作り上げる。
あとは解くだけだ。集中力はいるけれど、もう不可能なことは何もない。
微積分を習う前には、レベル1になって渦を作れるようになった後でもそれは出来なかったことだった。

ケロシンという揮発性の高い航空燃料の充満したチェンバー。エンジンの心臓となるその空間を、複雑な形状まで注意深く想像する。
演算を開始する。内壁の一部が気体を押しつぶすように内へ内へと向かう。佐天にとってそれは、シミュレーションボックスの端、つまり境界条件の動的変化に相当する。
そしてボックスの圧縮率がある敷居値を越えた瞬間、佐天にとってのブラックボックス、化学反応式がトリガーされる。
暴虐的な熱と運動量が、何もないところから生じる。もちろんケロシン蒸気で満ちているから、何も無いというのは佐天の主観だが。
そして爆発によって起こった気流が内壁を押し返し、その壁が接続されているプロペラを回す。プロペラへ伝わる動力は佐天にとっては抵抗としてのみ意識される。
仕事を終えた内壁が再びチェンバーを圧縮すると同時に、排気とケロシンの再噴霧が行われる。
……これが、1サイクル。
1秒間にエンジンの中では何千回と起こるそれを、佐天はたっぷり1分はかけて計算した。
「……ふぅ」
「どう? 再現できましたの?」
「あの、1サイクルだけ」
「そう。初期条件の人為性を消して、ちゃんと定常状態を計算するには1000サイクルくらいは要りますわよ?」
「そっか。そうですよね。……ちょっと待ってください。色々整理します」
「ええ、どうぞ」
こちらの思考を邪魔しないようにだろう、光子が少し離れた自分のデスクで報告書を読みに行ってくれた。
そう高くもなさそうなコーヒーの香りを味と僅かに楽しんで、頭をスッキリさせる。もう一度佐天は数式から、現実を頭の中に組み立て始めた。

二度目は振り回されない。佐天が解くのは計算機と同じ方程式でありながら、機械と佐天は決定的に違う。
何でも出来る計算機は、特化が出来ない。そして何かに特化すれば、それは汎用性を捨てることとイコールだ。
佐天は違う。経験を元に、この方程式に特化した演算処理システムを作る。そしてそれはいつでも忘れられる。
式の解き方と特化するための方法論だけを記憶して、大掛かりなシステムそのものは忘却できる。それを生かすのが能力者だった。
勿論、佐天が脳内に構築する回路はたとえば光子と比べてまだまだ稚拙だ。
それでも二度目は、1サイクルの演算を20秒で済ませた。1000サイクルを、これなら6時間くらいで計算できる。
現実的か非現実的か、どっちとも断言しづらいギリギリのラインだった。そこまで持っていくのが佐天個人の限界だった。
この計算時間では今日は何も、ここにいる人たちに渡せるものがない。焼け石に水と知りつつ5サイクルを演算。
そこで、佐天は思考を中断した。疲れてそれ以上は上手く出来なかった。
「どう?」
「あ、1サイクル20秒くらいには縮まったんですけど……」
佐天は聞かれるままに、自分の組み立てた解法を光子に伝える。
「佐天さん、その三つの式は対称性がよろしいから、ベクトル化できますわ」
「あ、そうですね」
「それとこの式だけ随分と精度の高い式で解いていますわね。精度は一番悪い式に引きずられますから、この式の精度は落としてもよろしいでしょう。指数関数の展開が簡単になりますから」
「はい」
「それとこの式の展開型、ラプラス変換で一度変換してから戻すと多項式近似で綺麗に近似できますわ」
「おー……婚后さん、すごい」
「そりゃあ、一応レベル4の空力使いですから」
佐天が解釈しなおした式を紙に書き出すと、それが真っ赤になるほどに訂正を加えられた。
知恵熱を出しながら解いたのがバカらしくなるほどの修正だった。
そんな計算コストの削り方があったのかと、目からうろこが落ちるようなテクニックがあれこれと出てくる。
それは宝の山だった。逸る気持ちを必死に押さえる。自分の能力の演算にこのテクニックを応用したら、どうなるだろう。
だけど今は目の前の式を解くのが先だ。


すう、と息を深く肺に溜める。アドバイスを生かして、もう一度初めから佐天は1サイクルを計算した。
正確な数字は分からなかった。だって、1秒以下の時間を正確に測るのは佐天にも難しい。
「1サイクル1秒……!」
「まあ、こんなものですわ。1000サイクルで1000秒、17分ですわね」
それはもはや非現実的な数字ではない。
早速演算をしようとする佐天に、光子が薬を差し出した。こないだから飲み始めた、トパーズブルーの薬。
演算能力を一時的に伸ばす薬だった。
「昨日は使っておられませんわよね?」
「はい」
「なら大丈夫。うちの先生を通して佐天さんの担任には報告しておきます。明日はお飲みにならないで」
「分かりました」
水と共に渡されたそれを、佐天は嚥下した。効いてくるまでの数分間を、座り心地のよいソファに寝そべって過ごす。
これっぽっちも眠くはならない。誰かの邪魔だったかもしれないが、それをあまり気にかけなかった。
薬が効いてきたら、どれほどのことをできるだろうという期待で周りがよく見えていなかった。
「頃合ですわね」
「はい。ちょっと冴えてきた感じがします」
「じゃあ、時間を計りますから。……どうぞ」
さらり、と現象が紐解けていく。そんな流麗な印象を、自分の演算に対して佐天は感じた。
初めて能力が使えたときの、あの爆発的な全能感とはまた違う。
自分の世界が広がっていくような、トロくさかった自分の世界の流れが加速するような、広がりを感じる。
清流の滞りがなきが如く、1ステップずつ、1サイクルずつがさらさらと解けていく。
―――17分と見積もられたその演算、複雑な現象であるエンジン内の爆発現象を、佐天は10分で再現しきった。
「……できました」
「そう。予想よりかなり縮めてきましたわね。さて、正しいかどうかの検証は私達では出来ませんから、データに頼りましょうか」
「あ、そのためにあるんですね」
「そういうことですわ」
言われてみれば当然だが、佐天は自分の演算結果を見える形に表現できない。
可視化できないということは、光子と議論が出来ないということだ。そこでこのデータを使うのだった。
光子が自分の計算機にそれを差し込むと、中には数値のままの生データが入っていた。
カチカチと可視化プログラムにそのデータを投入して、見やすいように色などを調整する。
二人の目の前に1000サイクル分があっという間に表示された。
「どう?」
「……大まかに言うと一緒なんですけど、最後のほうは同じとはいえない感じ、です」
「流れの一部一部が同じでないことは別に構いませんわ。熱量の規模だとか、風の流れだとかは大体合っていますの?」
「それは、はい。だいたい合ってます」
「ならよろしいわ。計算はサイクルが進むに連れて計算誤差の影響を膨らませていきますから、ずれは仕方ありませんし」
労うように光子が佐天に微笑を向けて、リラックスを促すように自分も椅子に腰掛けなおした。
「少し休憩しましょう。それが終わったら、本格的に定常化した流れのデータをお渡ししますから、次はそれで演算しましょうか。それが済んだら実験に向かいますわね」
「はい」
佐天はそれでようやく、自分がかなり汗をかいていることに気がついた。
すこし気持ち悪い。ハンカチで軽く拭くが、乾くまではしばらくかかるだろう。
ふうっ、と息を吐く。頭が熱を持っているような感じがする。
それを冷ますように手近にあった紙束で自分を仰いだ。
「あ。これ、かなり過敏になってるなぁ」
光子がまた自分のデスクに向かっている。誰も自分に注視していないのをいいことに、そう独り言を漏らした。
部屋中の空気の流れを感じる。目を瞑っているのに、全てが分かる感じ。
それを手元に集めればどうなるだろう、という考えに心が惹かれるが、迷惑なのでさすがにやらない。
そのまま5分くらい、佐天はじっとしていた。
「さて、そろそろ再開してもよろしくって?」
「はい。やりましょう」
光子が、膨大なデータを佐天に見せた。16桁の数字の羅列。大体100万行くらいだ。
カタカタとデータを間引きして、読める量にする。さっきの演算とは違い、あらかじめ気流にベクトルが与えられている。
うねる炎の流れを時間ごと止めたようなデータ。そこから演算を始めることで、定常的なエンジンサイクルを再現できる。
佐天はあっさりとそのデータを読み込み、脳内でそのシミュレートを始めた。


どかん、ぐるん、どかん、ぐるん。
爆発とプロペラ回転のとめどないサイクル。それが内燃機関の基本原理だ。
1サイクル1サイクルは微妙に動きが違っている。だが、大きくは変化せず、ある平均的な状態に近いものばかりが再現される。
ようやく佐天は、再現に必死なだけではなくて、それを冷静に横から見つめる視点を得られ始めていた。
「そろそろよろしい?」
「はい。また1000サイクルくらいはやれました」
「あら、また少し早くなりましたわね。それで、余裕は出てきました?」
「かなり。こういう閉じ込められた空間で出来る渦って不思議ですね」
「ああ、佐天さんは制限空間は専門外ですものね。ところで、何か気づいたことはありません?」
「気づいたことですか?」
「ええ。ここで空気抵抗が大きいなとか、そういうことですわ」
ああ、と少し佐天は納得した。それを見つけるのが、自分の仕事なのか。
「排気弁の近くが、流れが汚いって思いません?」
「そう……かもしれませんわね」
「この辺とこの辺の流れがぶつかって渦が出来るんですけど、弁から飲み込むにはサイズが大きいから変にほどかないといけないじゃないですか」
「ああ、言われてみれば」
「だから、弁を大きくするとか」
「ふふ。さすがにそれは厳しいですわ。この形は色々な都合で決まっていますから」
特定の部分、部品に熱と圧がかからないように、必要な出力が得られるように、化学反応で煤が出ないように、なんて風にエンジンには沢山の『都合』が存在する。
そしてそういう都合を全て満たすような答えが、これまた無数に存在する。その答えの中で一番いい答え、最適解がどんなものか、それを見つけるのはとても難しいことだ。
計算機上でエンジンをデザインし、その演算をすることは簡単なことだ。だが、それでは局所解しか得られない。
エンジンと名のつくあらゆる可能な形状の中で、どれが一番優れたエンジンなのかはあらかじめ分からない。
全ての可能性を調べつくすことも出来ない。エンジン設計はアート、芸術の世界なのだ。
だから、新しい風をいつも必要としている。今までの人々とは違うものが見える人を。
もちろん、エンジンに限らずあらゆるものの設計にそれは通じていることだが。
成功するかはさておき、光子は佐天にそういう期待をしていた。
「ここまで出来たら、本題に移れますわね」
「あ、はい」
充分に今までもタフな作業で、それが本題でないことなどすっかり忘れていた。
疲労は充分にある。だが、まだやれる。まだやりたい。
実験を行うチームは他にないのか、燃焼試験室の近くはがらんとしていた。
「あ、これ」
「気づきましたのね。そう、さっきからずっと計算していたエンジンのレプリカですわ」
「えっと、まあ、形は一緒ですけど……」
数値としてのスペックは勿論、シミュレーション条件だから全て佐天の頭に入っている。
だが目の前のそれはどうも与えられた数値よりも小ぶりに見える。
佐天の身長よりも高いはずのエンジンは、腰までくらいの高さしかなかった。
そして何より、エンジンという無骨な響きに反し、それは全ての部品が透明だった。
視界を遮らないいくつかの部品は鋼鉄製なのだが、エンジンの外壁がガラスか何かで出来ていて、中まで丸見えだった。
なるほど、おそらくそれが目的なのだろう。
「流れを見るために、あえてこうしているのですわ。あとスケールが小さいのは小さな熱で済ませるためです。ガラスでも、さすがにエンジン内部の熱には耐えられませんから」
例えば、飛行機の羽根を設計したとして、揚力がどれくらい得られるかを実験するとしよう。
それを試すのに、設計図どおりの大きさに羽根を作り、空を飛ぶときと同じだけの風速を巨大な扇風機で作り、
実機どおりのスペックでデータを得ることも、一つの手段ではある。
だが、それにはあまりにお金がかかるし、スケールが巨大すぎる。気軽にはとても実施できない実験になる。
そこで利用されるのが、実験のスケールダウンだ。羽根のサイズを10分の1にして、上手く同じものを見ようという思想になる。
だがこれには問題もある。羽根を10分の1にしたとき、ほかの条件、たとえば風速はどのようにスケールダウンすればいいだろう。
もちろんそれにも制約があって、レイノルズ数とマッハ数が一定に保たれるように決める、ということになる。
エンジンには燃料の爆発というプロセスがあるから、さらに制約は増える。
中が透けて見えるエンジンを作る、ということはそれだけで大きく困難な現象だった。
「佐天さんが計算したあのエンジンよりも全てが何分の一かの規模ですけれど、現象としては相似なはずですわ。今から点火しますから、よくよく流れをご覧になって、先ほどのシミュレーション結果と比べて頂戴」
「わかりました」
光子が目配せをすると、いつの間にいたのか、佐天の協力部署の人たちが何人か実験の手伝いに来ていた。
コンソールのボタンを押すと、エンジンに付いたピストンが緩やかに動き、エンジン内部に吸気が始まった。
「これを」
光子に暗視用の眼鏡を渡される。
燃焼試験室と測定室の間を隔てる透明の壁は強すぎる光を遮断してくれるのだが、万が一のための保護眼鏡だった。
それをつけると、いきます、と研究員の人が佐天たちに声をかけた。



爆発だから、ドン、と音がするものだと思っていた。
――エンジンなのだから鳴り響くのは唸るような音だった。1秒間に数千回の爆発が起こる音とは、そういうものだった。
「どう?」
「どうって、これ目で追えないくらい早いんですけど」
「そう? 本当に?」
本当だった。視覚はまるで用を成さない。佐天の動体『視力』はそこまでハイスペックじゃない。
だが空気の流れを感じる佐天の第六感は、大量に情報を間引きながらも、その空気の流れを捉え始めていた。
「どこまで真に迫れるか知りませんけれど、可能な限りこの流れを追って御覧なさい。全ての現象の元には、必ず『観測』という行為がありますわ。大きく、詳しく、正しく現象を観測できる人ほど、大きな能力を使えます。世界を観測することと世界に干渉することはコインの裏表、それがハイゼンベルグの不確定性原理が暗にほのめかしたことで、そして超能力の生まれる源でもありますわ」
わかる。光子の言っていることが、佐天には納得できる。空気の流れを感じる時、それはその流れを制御できる時だ。
目の前の超高速の爆発サイクル、エンジンを佐天は掴みきれない。だから操ることは出来ない。
だけど、手の届かないほど不可思議な現象じゃない。

取っ掛かりは、爆発直前の渦。
ディーゼルエンジンに点火部はない。空気と混合した燃料を圧縮することで、自然発火させるのだ。
その基点となるのは、いつも渦だった。一様に圧縮されたエンジン内部の中で局所的に圧力の高まる、流れの特異点。
渦が出来る位置はサイクルごとに微妙にずれはするが、エンジン形状に固有の、渦の出やすいポイントは存在する。
そこのことなら、佐天は誰よりも観測が上手い能力者だ。レベル5相手なら知らないが、光子にだってこれだけなら勝てる。
幾度となく繰り返される爆発を観測し、佐天は脳裏に渦の平均的な姿を浮かび上がらせた。

次は爆発。
渦はその中心に、外へと広がる滅茶苦茶な運動量を発生させる。そしてその高温高圧の空気はあっという間に広がる。
広がるときにも、渦を作りながら広がる。複雑な形をしたエンジンの内壁は、流れを乱す要因になるからだ。
壁の近くに出来た渦のいくつかは、その回転周期と内壁の振動周期を一致させ、ブーンという騒音を発生させる。

「ここ、渦酷いですね」
「え? ……そうですわね、渦が共鳴して、騒音の元になっていますのね」
「これってやっぱり、よくないことですか?」
「ええもちろん。振動が助長されると壊れる原因になるし、騒音公害の元にもなりますから」
渦共鳴は時に冗談にならない破壊力を生み出す。ほんの少しの強風が自動車用のつり橋を壊したことがあるくらいだ。
佐天の指摘した部分は、致命的ではないがこのエンジンが抱える問題点のうち、まだ知られていないものだった。
「まだご覧になる?」
「あ、そろそろ……すみません、集中力のほうが限界かも」
「ふふ。この実験はこれくらいでいいでしょう。佐天さん、少し休憩したら、今みたいな調子でこのエンジンの問題点を洗いざらい書き出してくださいな。他に影響を及ぼさない改善案まで出せればもっといいんですけれど、さすがにそこまでは注文しませんから」
「わかりました」
すこしふらふらする。渦に集中しすぎたせいだろう、小説にのめりこんだ時みたいに、頭の中にぐるぐる回る渦と、眼球が脳に送ってくる情報の、どちらが現実なのかよく分からなかった。




光子は佐天を置いて休憩室に入り、携帯をチェックする。
当麻からの連絡が恋しいこともあるが、もうじき引っ越すさきの家主である黄泉川からも連絡が多い。
「もう、当麻さん」
朝七時にきちんと起きた光子と同様、黄泉川に叩き起こされて当麻も早起きしたらしい。
他愛もないことがつらつらと書かれていた。
返事に、佐天のことをあれこれと書く。別に当麻は佐天のことを直接は知らないのだが、
光子が何度となく話に出しているから、当麻も佐天のことはよく知っている。

すぐにきびすを返して実験室の前のラボに戻ると、佐天がエンジン開発部のメンバーから質問攻めにあっている。
開発部長は確か1年で、そしてレベル3だ。光子に気づいて微笑み付きの会釈をしてきたが、心中は穏やかでないだろう。
レベル1だと聞いているだろうが、佐天のあの結果を、一体誰がレベル1の成果と見ることやら。
常盤台ですらないレベル1の学生に刺々しく当たれば、むしろ自分の株を落とすことくらいは分かっているらしい。
だから指摘が嫌味にならないように気をつけながら、鋭い指摘になりえるものを必死に探しているのが分かる。
「えっと、すみません。これくらいしか、思いつくことがなくて」
大人の研究者達が営業スマイルで佐天を褒めた。よく頑張った学生をおだてることくらいなんでもないし、実際面白い結果だった。
開発部長の1年がやや褒めすぎなのは、複雑な感情の裏返しだろう。
それを裏でそっと笑う自分もまた、同じようにレベルという序列の世界にいることに気づく。
当麻の顔を思い出して、自戒した。優越感は劣等感の裏返しでしかない。
「ご苦労様、佐天さん。皆さんも申し訳ありませんけれど、最後に一つ山場が残っていますし、こんなところで」
「婚后さん」
「休憩はもう充分?」
「え? いやあの、今まで話しながらずっと頭の中で計算してて……」
しんどいという感想を正直に顔に出して、佐天がそう言った。
クスリとそれを笑いながら、光子は休憩はいらないだろうと思った。
最後の仕事は、何かの実験を追いかけるような内容ではない。
「最後のは、佐天さんに渦を作ってもらう仕事になりますわ」
予想通りだった。少し笑ってしまう。その一言で佐天の顔が変わったのだった。
疲れが抜けたのではなくて、疲れていてもなおやりたいという顔に。
「やります」
答えはすぐさま返ってきた。




ようやく試せる、と佐天は胸を高鳴らせた。
別にちょっと失礼と一言言って屋外に出ればいつでも試せたことだが、佐天は渦が作りたくて、仕方がなかった。
だってまた、能力が伸びたことに気づいていたから。これまでとは違う。渦を発現させてみてから能力の伸びに気づくパターンではない。
使う前から、きっと伸びていると確信があるのだ。

感覚が研ぎ澄まされている。もう、空気の粒は見えない。
それは香水の匂いに似ている。匂いは確かにあるが、慣れてくると意識されなくなるのだ。
す、と指で文字を書くように空気をかき混ぜる。それにつられた風の流れを、粒と思うこともなく、佐天は粒として処理した。
「やって欲しいのはこないだと同じ、燃料を渦で圧縮して点火することですわ。エンジンの内部にカメラや温度計を差し込むことは簡単ではありませんから、佐天さんの渦を使うことでその代替をしようという試みですの」
「わかりました。けど、その前に普通の空気でやってもいいですか?」
「ええ、もちろん。納得するまでやってから、声をかけてくださいな」
燃焼試験室は、四畳くらいの狭い部屋だ。それでいて天井は高い。その部屋の中の空気を、余すところなく、手中に収める。
ファンがあって外から空気を取り込めることが感じとれる。たぶん、今までで一番大きな渦になるだろう。空気の量で言えば。
それをどこまで圧縮できるかが、勝負になる。
圧縮すればするほどコントロールが難しくなるから、部屋一杯の空気を、運動会で使うような大玉に出来ればいいほうだろうか。
「とりあえず、作ります」
「ええ。頑張って、佐天さん」
気負いはない。ただ、発動の瞬間にカチン、と頭の中で何かが噛みあったような音がした。
一瞬遅れて、現実にも、音が響いた。

ガッ、という硬質の音。それは佐天が風を集めた音だった。
今までと桁が一つ違う速度だった。稚拙な能力でゆるゆると集めていた頃には起こらなかった空気の悲鳴。
音速の10分の1を超え始めた、突風の音だった。隣で光子が息を呑んだのが分かる。
次は集めた空気をタイトに巻いていく作業だが、これも、あっけないくらい簡単に完了した。
それなりに大きな部屋の空気全てを、一つのスイカの中に詰め込むくらい。
佐天が思ったよりも、それは高圧縮になった。
「……ねえ佐天さん」
「はい」
「何気圧くらい、ですの?」
「100、ってとこです」
「そう」
光子は、佐天に危機感を覚えた1年を笑ったさっきの自分を、笑った。こんなものがレベル1であってたまるものか。
淡々とした佐天の表情がむしろ空恐ろしい。どこまで、上り詰めたのだろう。どこまで自分に追いついたのだろう。
「すみません、なるべく上下に逃がしますけど」
「構いませんわ。好きに解放して頂戴」
顔をしかめた佐天が、渦を手放した。
ボンと鈍い音がしてすぐ、試験室と観測室を隔てるガラス壁がビリビリと音を立てた。
「すごいですわね」
「あ、はい……。それで、実験は」
「ああ、やりましょうか。すぐ用意しますわ」
佐天にも光子にも戸惑いがあった。
あまり喜んだふうに見えない佐天と、素直に喜んであげられない光子。
「それじゃ燃料を噴霧しますから、上手く纏めてくださいな」
「はい」
プラグの先から、霧吹きみたいに燃料が飛び出す。
佐天はそれを苦もなく集めて、待機する。あわただしく周りがカメラやセンサをセッティングしているのが分かるからだ。
「……できましたわ。佐天さん、いつでもどうぞ」
「それじゃ、いきますよ」
佐天はその緩い渦を、握りつぶす。
周りが何を望んでいるのかは知っている。コントロールなんてされていない、無秩序に広がる爆炎が見たいのだ。
佐天はそれに逆らう気だった。そうしたいという気持ちに抗えなかった。

燃料の爆発、それはすさまじいエネルギーを渦の内部に生じさせる。外から取り込むのではない。
佐天はそれを、コントロールできる気がした。そしてするべきだと思った。べきだ、という思いに合理的理由はない。
ただ、心のどこかで気づいていたのだ。
――――あの程度のエネルギーなら、『喰える』と。

慎重に渦を束ねていく。内へ内へと巻き込み、渦を圧壊させていく。
何度かの経験で、爆発限界は肌で感じ取っていた。その一線を、超える。
カッと光が周囲を照らす。佐天はそれを失敗だと感じた。違うのだ、自分の能力は、こうじゃない。
全てのエネルギーを飲み込んで、漏らさない。そんなイメージの渦。それが今の佐天に思い描ける理想だった。
光るということは輻射熱が漏れるということ。それは美学に反している。だから気に入らない。
ある程度エネルギーを散逸させたところで、渦は落ち着いた。渦のままだった。
「嘘……」
「婚后さん」
「あれを、押さえ込みますの?!」
光子の焦りが少し、気持ちいい。師の予想を上回るというのは愉快なことだ。
ようやく気持ちが舞い上がってきた。
そう、そうなのだ。自分の力は、こうなんだ。ベースは確かに空気。だけど、それだけじゃない。
エネルギーを、外に漏らさず蓄えて、そしてさらにそのエネルギーを内へ内へと向かう力に変える。
『爆縮する渦流』、きっとそういうイメージなのだ、自分の能力は。
ただ、爆縮には限界がある。いつかは外へ向かう、いわゆる爆発へと転じなければいけない。
何とか束ねようとして、それには失敗した。


ガウゥゥンンンン!!


間延びした爆発音が、試験室を満たす。生じた煤はあっという間に流されて、綺麗な部屋の光景がすぐに戻った。
ほぅ、とため息を一つついたつもりが、膝の力まで抜けてしまう。
「佐天さん!」
「あ、すみません、婚后さん」
「かなりお疲れのようですわね」
「はい、なんか急に、思い出したみたいに疲れちゃって」
光子が咄嗟に支えてくれた。申し訳ないとは思うのだが、抱きついていたい。ちょっと幼い自分の思考回路を佐天は反省する。
「あの、婚后さん」
「なんですの?」
「私今、あの爆発を纏められ、ましたよね?」
半信半疑だった。確信があったはずなのに、渦を消したらなんだか霧散してしまった。
そんな佐天に、にっこりと光子が微笑んだ。棘のない、褒めてくれる笑顔だった。
「ええ、自分でも覚えているんじゃありませんこと? その感触を」
「はい……はい!」
「すごかったですわ。よく頑張りましたわね、佐天さん」
「はいっ!」
褒められて、なんだかじわじわと嬉しさがこみ上げてきた。ようやくだった。
佐天はぎゅっとそのまま光子にしがみつく。ぽんぽんと背中を撫でてくれた。
「あーどうしよ、嬉しくってなんか変です、私。あの、なんだか少しだけですけど、自分の能力がどんなのか分かった気がするんです」
「そう、良かったですわね。少し落ち着いたらまた聞かせてくださいな」
「はい。本当に婚后さん、ありがとうございます」
「私も佐天さんがすくすく育って嬉しいですわ」
「あはは、すくすくって子どもみたいですね」
「あらごめんなさい」
そこでようやく、光子が回りに目で謝っていることに佐天は気がついた。
そりゃそうだ、ここには沢山の研究者がいて、しかも自分は実験中だったじゃないか。
「あ、ごめんなさい! つ、続きを……」
「その様子じゃ無理ですわよ。まあ、初めての参加でここまでやれたなら合格……でよろしい?」
光子がプロジェクトリーダーに話を振った。ええそうね、と気前のいい返事が返ってきた。
「だそうですわ。まあ、これからも参加してもらいますから、覚悟なさって」
「はい! こちらこそ望むところです」
「そうそう、このデータ、あとで佐天さんの学校に送っておきますわ」
「はあ、別にそれはいいですけど」
「明日には新しい学生IDが交付されるでしょう」
「えっ?」
佐天のIDカードは、まっさらだ。なにせ変えてから一ヶ月もたっていないから。
変えた理由は、レベル0から、レベル1に上がったから。飛び上がるくらい嬉しくて、貰ったその日はずっと眺めたくらいだ。
それが、もう一度変わるというのは。
「何を驚いていますの。あの測定値ならどう低めに見積もってもレベルは上がりますわ。システムスキャンなんてする必要もありません」
システムスキャンは、能力者としての実力の測り間違いがないよう、総合的なチェックを行うものだ。
だが、レベルアップの認定にそれは必ずしも必要ではない。
ギリギリレベル2に上がれる程度ならいざ知らず、誰が見てもその規模がレベル2相当だと分かる能力を発動すれば、そのデータをもってしてレベルアップの根拠に出来る。
佐天はすでに、その域にいた。それだけだ。
「えっと、なんか前より実感ないですね」
「ふふ、システムスキャンをしたほうが通過儀礼がちゃんとあって、締まりますものね。でもレベル1と2は待遇が全然違いますから、早めに取って損はありませんわ。夏の間にもっとのびるかもしれませんし、ね」
「やだなあ。これ以上伸びたら、それこそ出来すぎですよ」
「まるで伸びないような物言いね?」

くすりと、光子が笑った。

「ね、佐天さん。もう実験はよろしいですけれど、また休憩したらなるべく皆さんと仲良くなって、顔を覚えるとよろしいわ」
「はい。また勉強させてもらえるんだったら、そうしたほうがいいですよね」
「それもありますけれど、特に常盤台の学生とは、いずれお友達になれるかもしれませんでしょう?」
「はあ、年は近いですけど、私バカだしあんまりお嬢様みたいに振舞えないですよ。雲の上の人みたいに言うと、婚后さんは怒るかもしれないですけど」
「私が言いたいのは、いつか同級生のお友達になる人がいるかも、ということですわ」
「え?」
佐天は、自分が柵川中くらいのレベルに身の丈があっていると思っているから、全く気づけなかったのだ。
周りの常盤台の学生達が、佐天のことをどう見つめ始めているのか。そして、光子がどう見ているのか。
戸惑う佐天に向かって、光子がちょっと挑戦的で、誘うような目を向けた。
きっとすぐだと、光子は思うのだ。

「佐天さん。常盤台の入学基準は品行方正な女生徒、そして、レベル3の能力を有していること、たったそれだけですのよ?」

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湾内・泡浮や美琴の研究ネタを書くにあたり参考にした書籍:
『ブレイクスルーの科学者たち』 竹内薫著 PHP新書(2010)
また渦の破壊力に関してはタコマ橋で検索すると勉強になるやも知れません。



[19764] interlude05: ローレンツ収縮が滅ぼしたもの
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/25 01:31

「ここか」
「……」
「気に入らないか?」
「別に、そんなことないけど、この都市の教会っていうのがどんなものか分からないもん」
当麻は朝から、インデックスと二人である教会までやってきていた。
イギリス清教の主流派、聖公会の流れではなくピューリタン系の弱小会派、ということらしい。詳しいことは当麻には分からなかったが。
「まあそう言うなって。学園都市の住人になるからには学校に通う義務が当然あるし、まさか超能力開発をやる普通の学校には通えないしな」
「それはそうだけど、『必要悪の教会』はカトリック寄りだし、こんなプロテスタント側に寄った学校にしなくてもいいのに……」
まあそりゃあ、不安はあるだろう。聞いたところ、学校に通うのはこれが生まれて始めてらしい。
読み書きは手の空いた修道女達に交代で教えてもらい、算術や暦の読み方など、魔術を学ぶ上で必要となる専門的な素養は『先生』に叩き込まれたのだそうだ。
「とりあえず、中に入るぞ。暑くてたまんねーし」
「うん」
「どうしても嫌って言うなら、まだ考え直せるけど」
「いいよ。これ以上の場所はないのも、分かってるから」
受け入れるように薄く笑ったインデックスを見て、当麻は大仰な扉につけられたノッカーに触れた。
コンコンと音を鳴らして、二人は中へと入った。




「……確かに、イギリスからの紹介状ですね」
「はい。時期的に突然で申し訳ないんですけど、面倒を見てやってくれると助かります」
「我々に拒む理由はありませんよ。ええと、インデックスさん、君が望んでくれるなら」
「……あの、おねがい、します」
教会の長となる司祭であり、また神学校の校長でもある老齢の男性は、頭を下げたインデックスにニコリと微笑んで、立ち上がった。
「今は夏休みで、授業は特に開いていません。本格的に通うのは九月からになりますな。隣の寮に移るのを希望されるのであれば、手配をしておきましょう」
「あっ、あの。ここじゃなくて、今いるところから通いたくて」
「そうですか。まあ、友達を作ったりするのもそれからでいいのであれば、また九月に来なさい。それとも一人で寂しいようなら、毎週の礼拝と、掃除を手伝いに来ても構わないよ」
「はい」
「ああそうだ、せっかくだから敷地の中を見ていくといい。私がしてもいいが、手続きの書類を纏めないとね」
そう言って、司祭は応接に使う木のデスクから離れ、近くにいたシスターに二三言、何かを呟く。
シスターが待っていてくださいねとこちらに告げて出て行った。案内してくれるのだろうか。
ようやく人目から解放されて、当麻とインデックスは辺りを見渡す余裕が出来た。
コンクリート製の建物に、あちこち絨毯が敷かれている。おかげで近代的な建造物の安っぽさは隠れていた。
見渡すところにある調度品には木製のものが多く、これも教会らしさを醸し出している。
だが、いたるところに電源があり、そして無造作にパソコンが置かれている所は良くも悪くも学園都市らしいといえる。
ここはかなり保守的だが、それでも宗教を科学する、そういう教会の一つなのだった。
「案内は君と同じ学生が良いと思ってね、今、連れてきてもらったよ」
司祭がそう言って、一人の少女を紹介してくれた。年恰好は、たぶん光子と同じくらい。僅かにインデックスよりは大人びて見えた。
シスター達と司祭も含め日本人の多い場所にあって、はっと目を引く天然のブロンドと碧眼。
髪に癖は少なく、さらりと肩まで流れた金色が白地のローブと紺のカーディガン・フードで出来た修道服と綺麗なコントラストを作っていた。

「こんにちわ。エリス・ワイガートって言うの。これからよろしくね」

こちらからの挨拶を聞くのもそこそこに、エリスはインデックスと当麻に握手を求めた。
気さくな笑顔の持ち主で、とっつきやすい感じにインデックスも当麻もほっとする。
それじゃあ案内するねと言って扉を開き、教会の敷地、教室のあるほうへと誘った。



「インデックス、って変わった名前だね」
「む。私は気に入ってるからいいの」
「あら、そりゃごめん」
当麻は少し離れて、二人の後を追う。インデックスが作るべき友達関係だし、一歩引いているつもりだった。
だが、エリスも年頃だからか、チラチラと当麻のほうを何度か気にしていた。
「一緒についてきた人、結構カッコイイよね」
「えー、とうまが?」
「あ、とうま、って言うんだ。ねね、あの人、インデックスの彼氏さん?」
え、とインデックスが硬直した。
そしてすぐにブンブンと首と腕を振り回す。
「ち、ちがうもん! とうまはそんなんじゃなくて」
「ふーん? アヤシイなぁ」
「だ、だってとうまはみつことお付き合いしてるし!」
「みつこ? なんだ、もう別の相手がいる人なんだ。じゃあなんで今日は一緒に来たの?」
「え? なんでって、とうまは私と一緒にいてくれるって、言ってくれたから」
インデックスの言い方は、いちいち誤解を招く。
ちょっと心中穏やかじゃなくなった当麻は、口を出した。
「俺と光子って子の二人と、一緒に暮らそうってことになったんだよ。インデックスは」
「あ、そうなんだ」
当麻よりは年下に見えるのだが、エリスは敬語を使わずインデックスにも当麻にも対等な感じに喋る。
「エリスはいつからここにいるの?」
「んと、10年には届かないかなあ、ってくらい」
「へー」
「インデックスはいつから教会暮らしなの?」
「んと、生まれたときから、かな?」
「あ、ごめん」
「別に気にしてないよ」
エリスの謝り方には、引け目がない感じがした。
それはつまり、彼女もまたそういう境遇だということなのかもしれない。
「そういえば。ここは教会だけど、エリスは学園都市の学生だよね。エリスは超能力、使えるの?」
それは素朴な疑問だった。
インデックスにとって教会とは魔術の暗い匂いがする場所だ。正確にはそういう教会にいた。
だから教会に超能力者がいるのには違和感がある。だが同時に、ここは学園都市でもあるのだ。
光子がそうであるように、ここにいる生徒は超能力者のはずだ。まあ、例外中の例外が二人の後ろをのんびり歩いているのだが。
「うん。使えるはず」
「はず?」
「もう何年も使ってないから。大した能力じゃなかったし」
無関心な感じの素っ気無さに、触れて欲しくなさそうな態度が透けていた。
「教会にいる人でも、能力使えるんだね」
「いや、学園都市じゃ当たり前でしょ。というか、どうして教会と超能力が相容れないと思ったの?」
「え?」
確信を突かれた質問で答えに窮した。教会は魔術に通じるところだから、という答えをまさか返すわけにもいかない。
「ま、言いたいことは分かるけどね。ここだって必死に隠してるから。信仰心っていうのがどんな性質を持つ心の働きなのかとか、そういうのを調べる場所でもあるからね。司祭様だって、心理学の博士号持ってるし」
良くも悪くもそれが、学園都市の教会というやつなのだ。


エリスはこぢんまりとした校舎を案内してから、校庭にもなっているグラウンドというには小さな庭へと出た。
小等部と中等部があるらしいが、建物は一緒で、両方あわせても生徒は50人もいないような、小さな学び舎だった。
「さて、とりあえず場所の紹介は全部終わったけど」
「うん」
「これからどうするの?」
「どうするの? とうま」
「お前のことだから自分で把握しとけよ。インデックス。……そろそろ書類もそろってるだろうし、必要事項書かなきゃな」
「だって。ありがとね、エリス」
「うん。頼まれごとだったし、それはいいんだけど」
当然のことかもしれないが、エリスと当麻たち二人は初対面で、互いの間に引いた一線を越えられないまま、他人行儀に過ごしてしまった。
それがエリスには少し、気になっていた。
「せっかくあそこのオレンジが綺麗に生ったからご馳走しようかと思ったのに」
エリスが少し離れた壁際を指差す。深緑で大ぶりの葉をつけた低木が、目にも鮮やかな色の柑橘を実らせている。
教会までと、そして案内で歩いた分、喉はかなり渇いていた。だが剥くのがちょっと面倒くさい。
「食べるなら剥いてあげようか?」
「そ、それはとっても嬉しいかも。施しをしてくれる人を拒むのは良くないって主の教えにもあった気がするし」
「おいおい、食べ物に釣られすぎだろ」
「あはは、気にしないで。水はやってるけど、勝手に生ってるようなものだし。あ、でも結構甘いよ」
「贈り物を断るのは良くないんだよ、とうま。すぐ追いかけるから」
「ちょ、おいインデックス。まあ、いいけどさ」
当麻にもエリスの気遣いはなんとなく伝わっていた。
保護者の自分がいると仲良くもなりにくいだろうし、先に行くかと思案した。……とそこで。
ぐに、と足元の感触が芝生とも石畳とも違う感触を伝えた。ホースのゴムらしい感触だった。おまけに中に水が流れている。
視線の先には、シスターらしい人が掃除に水を撒いているところが映る。
返す刀で、水の根元をたどると。


プシャァァァァァァッッッ


「きゃあっ!!!!」
「ひゃっ! な、何? 水?」
当麻から少し離れた地面、まさにエリスとインデックスがいる辺りでホースが外れて、二人に水が襲い掛かっていた。
白に金刺繍のインデックスと、白に紺のカーディガンとフードのエリス。どちらも、濡れるのに弱い服装というか、そういう感じで。
光子に言われて付け始めたらしいホックなどのないブラのラインが透けたインデックスの上半身と、
こちらはインデックスと違ってホックもワイヤーも入った正規のブラの、あの独特の凹凸をくっきりと再現したエリスの胸元が見えた。ちなみに色は黒だった。
「ご、ごめん。えっと、その、大丈夫でせうか……?」
「とーーーうーーーーまああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「お、おい止めろってインデックス、その、透けて、あいででで痛い痛いって!」
「なんていうか、お客様に文句を言うのはあれだけど、エッチだね」
「いやその、ごめん、悪気は……なっ!!!」
「死ね」
突如、男の声が後ろからして、当麻は反射的に身をよじった。間一髪で、後頭部が合ったところを拳が突き抜けた。


「ちょっとていとくん! お客さんにいきなり手を出さないで」
「だから帝督だって。ちゃんと呼んでくれよ、エリス」
「いきなりそういうのは駄目だよ。垣根くん」
「だからそうじゃなくてさ。まあいいや。ところでエリスの透けた修道服の中を見ようとしたコイツは誰だ?」
「いや、事故だって点ははっきり言わせてくれ。それと、そっちこそ誰だよ」
「俺か? 俺はエリスの彼氏だ」
「ちがうでしょ、ていとくん」
「否定しなくてもいいだろ」
「もう。あ、インデックス。それと上条くん、こちら、垣根帝督くん。高校の名前忘れちゃった」
「構わねーよ。どうせ通ってない。転校三昧だし」
当麻は知らなかった。目の前にいる人が、学園都市第二位の超能力者であることを。まあ言われても咄嗟には受け入れがたかったかもしれない。
当麻より10センチは背が高くシックな服装に身を包んだその垣根という男は、受け取る側に迷惑をかけない程度の数輪の花を持って、エリスに相対していた。
「垣根、でいいか。まあそっちに謝る理由はない気もするけど、エリスに水をかけたのは悪気あってのことじゃない」
「ていうかとうま、私には一言もないの?」
「い、いやそりゃ悪いと思ってるけど」
「お前、名前は?」
「上条だ」
「そうかい、なあ上条。悪気がないんならこれ以上は言わないが、エリスに手を出す気ならまず俺に勝ってからにしな」
「ていとくん?」
「なんだよ。文句あるか」
「私、ていとくんとはお付き合いしないって言ったよね?」
う、と垣根が怯むのが分かった。そんなに惚れているのか。
結構光子の方から熱を上げてくれたので、実は当麻はここまでのアプローチはしたことがない。
「とうまにはみつこがいるから、心配要らないんだよ」
「そういうこと。もう、変な言いがかりはつけないでよね。こっちが困るんだし」
「ふん……」
「エリス。とりあえず着替えが欲しいんだよ」
「そだね。ほら! 上条くんもていとくんも、反省してここにいること!」
「コイツは分かるがなんで俺が」
「文句言わない!」
二人でお互い見せたくないところを隠すようにしながら、室内へと逃げ込んだ。
当麻は垣根と二人、燦燦と太陽の降り注ぐ死ぬほど暑い神の庭に取り残された。


「暑い」
「黙れよ」
罰としてちゃんと日差しの当たるところにいないと後で文句を言われそうなので、当麻はその場で直立している。
垣根は早々に近くの影に逃げていた。
「お前、エリスに惚れてるのか?」
「ああ。それと上条、エリスを下の名前で呼ぶな」
「いやあっちがそう呼んでくれって言ったんだし」
「チッ、それでも気を使えよこの三下野郎」
「はあ? 気を使うってお前にか? 垣根」
「お、やる気か? 誰でも殴るほど分別がないつもりはないが、エリスが絡むなら話は別だ」
「やらねーよ。だからあの子に手を出す気はないって言ってるだろ?」
「ならいい。ま、やる気があってもお前じゃ相手にもならねーけどな」
「だから喧嘩を売るなよ。殴り合いで怪我でもしたら困るのはエリスだろ?」
「俺に傷がつくわけねーよ。悪いが犠牲者はお前一人だろうさ」
「俺が怪我したってエリスは困るだろ」
街のチンピラよりは分別があるのに、垣根の物言いはチンピラそのものだった。
自分は無害な子羊なのだ。何も好き好んで牙をむき出した生き物の近くに寄りたくはない。
「……」
「……」
沈黙が息苦しい。時々牽制のように垣根からきつい視線が飛んできて、当麻の神経をピリピリさせる。
「お前のほうこそ、インデックスに手を出す気はないだろうな?」
「あるわけないだろ。お前こそあんな色気のいの字もないガキにお熱か?」
「ちげーよ、惚れた子は別にいる」
「じゃあ何であのガキと二人でいるんだよ?」
「俺と彼女とで、インデックスの面倒を見ることになったからな」
「ふーん、まあ、刺されろ」
「は?」
「ガキだからいいのかもしれねーがな、女を二人同時に囲うのは男としてよっぽどのクズかよっぽど出来たやつだ」
「囲うって、だからインデックスは違う」
「そーかい」
別に対して興味がないのだろう。当麻の弁解を垣根は適当に聞き流した。
「なあ垣根、エリスのどこが好きなんだ?」
「い、いきなりだなおい」
「別に話したくねーならそれでもいい。暇だから聞いてみただけだ」
「……ほっとけないんだよ、アイツ」
靴の裏にこびりついた泥をこそぎ落とすように石にガリガリと踵を擦り付けながら、垣根はボソッと呟いた。
「どういう境遇か知らないが、人懐っこいわりに最後の一線踏んで立ち入るのは許さないんだよ。そういうの、ムカつくだろ? で、今は追い詰めてる最中だ」
「追い詰めるって、ひでー言い方だな」
「本気で拒まれてるんならとっくに止めてる」
「それにしても、なんでこんなところにいるエリスと出会ったんだ? お前も普通に能力者だろ?」
「普通じゃあないが、超能力者には違いない。にしても上条。大して興味もないのに出会ったきっかけなんか聞くなよ」
「言いたくないなら言わなくていい」
「……あいつ、俺より能力が上なんだよ」
「? ……で?」
結局喋りたいのかよコイツと思いながら、当麻は話を続けさせた。自分も光子の方が圧倒的にレベルは上だし、ちょっと気になったのだった。
それなりに自分の能力に自身のありそうな男だ、レベル1や2ってことはなさそうだが。
「第二位にそう思わせるってのは無茶苦茶なことなんだよ」
「第二位?」
「あん?」
「お前、『未元物質<ダークマター>』の第二位か?!」
「サインでもやろうか?」
「いらねーよ。っていうか、ちょっと待て。第二位のお前より上って、エリスはそれじゃ、あの」
ガスッと、当麻は何かを額にぶつけられた。痛い。
足元を見ると乳白色の玉が合った。ピンポン球くらいだが、金属並に重たい感触だった。
なんてことはない石に見えるが、これが『未元物質』というやつだろうか。
「いってーな、おい」
「なあおい、あのクソ野郎とエリスを並べるとか死刑ものだぞ? ってか、お前もクソつまらねぇ噂を信じてるクチか? あのいけ好かない『一方通行』の野郎が女だとかいうアレをよ」
「いや興味ないから知らねーよ。っていうか、お前の言い方だったらそうなるだろ。エリスが学園都市第一位だって」
チッ、とまた垣根は舌打ちをして、当麻の足元に視線をやった。
そちらを見ると、ふっと雪が解けるように、あの白い玉が消えてなくなった。
そしていつの間にか、垣根の手のひらの上に、それと同じものがある。
「ありがたく思えよ。『未元物質』について俺が直接講義をする相手なんざほとんどいないんだ。俺の能力はこの世にはない物質を生み出す能力だ。素粒子のレベルで全く違う、そういうものをな」
「……で?」
「エリスは俺にも作れない『物質』を作れる。惚れるより前に気になった理由はそれだ」
大して知識もないが、上条は思案する。第一位と第二位は、その特殊さで群を抜いている、というのが定説だ。
この世にない物質を創作する能力なんて、『未元物質』以外に聞いたことがない。
発電系能力者<エレクトロマスター>や空力使い<エアロハンド>とはレア度が違うのだ。
「それって、エリスも相当な能力者ってことじゃ」
「私がどうかした? 上条君」
濡れた服を動きやすそうなジャージに替えて、エリスが当麻の後ろから声をかけた。
後ろには同じ格好のインデックスもいる。学校指定の体操着なのだろうか。
エリスはそのまま近くの物干し竿に二人の服をかけた。この日差しだ、ものの30分もあればカラリと乾くだろう。
「それで何の話をしてたの?」
「垣根のやつが、エリスは自分以上の能力者だって」
「え?」
驚いた顔をして、エリスが垣根を見つめた。
そしてすぐ、申し訳ないような、だけど嫌そうな、そんな顔を垣根に向けた。
「ていとくん。そういう話、誰かにされるの嫌」
「え? その、悪い」
「うん、私の方が我侭言ってるの分かるから、謝らなくていいけど、もうしないで。上条くんもあんまり気にしないでね。別に私、ただのレベル1だし」
「あ、ああ」
お前何やってんだよ、という視線を当麻は垣根に送った。
知るかよ死ね、という視線が返事だった。



「案内してくれてありがとね、エリス」
「サンキュな」
「うん。またね、インデックス」
二度と来んなという垣根の視線をスルーして、当麻はインデックスと教会内へと戻った。
ちなみに垣根が声に出さなかったのはエリスに足を踏まれているからだ。
「……そんなに、気にしてたのか。エリス」
「ていとくんは自分がすごい人だって分かってないよ。そんな人が『俺よりすごい』なんてこと言ったら、私が目立っちゃうし」
「悪い」
「ん」
そんな一言で、エリスは許してくれた。その気安さに救われている自分を、垣根は感じた。
安い同情を買いたくなくて突っぱねているが、学園都市第二位というのは中々に不愉快な立場だ。
友達になれるヤツなんて数えるほどしかいない。だってクラスメイトという概念が垣根にはないのだ。
絶滅危惧種なのに実験動物、垣根は学校にいるときの自分をそう思っていた。
「ていとくんが私以外とあんなにおしゃべりしてるとこ、初めてみたかも」
「そうか? 街の不良相手なら結構喋るぜ」
「上条くんはそういうのには見えないけどなー」
垣根はガラでもない、と思いながら頬が火照るのを自覚した。
安い好意を売りたくないと思いながら、ああいう気さくなヤツが垣根は嫌いではない。
……悟られるのが嫌で、垣根はもう一度、手元に石つぶてを用意して当麻に投げつけた。
相手のレベルなんぞ知らないが、周りの物理を何も歪めはしないただの石だ。
「あっ、もうていとくん!」
「いいんだよ」
ぶつかったって怪我にはならない。それにあっちが切れたって万が一にも負けることはない。反抗の子どもっぽさに垣根は目を瞑った。
エリスが気をつけてと当麻に言うよりも先に。垣根は突然当麻が振り返ったのに気づいた。
そして、当麻の右手が未元物質で出来た石を、軽くはたいた。
「すごーい! 上条くん、背中に目でも付いてるみたい!」
「どうしたの? とうま」
「垣根テメェ! 喧嘩売ってんのかよ!」
「買いたいんなら売ってやるぜ」
「いらねぇよ。馬鹿」
やってられるかと当麻が垣根に背を向けた。隣ではてなマークを浮かべるインデックスを急かした。
「アイツ、自分のことを一切喋らなかったが、なるほどね」
正体は不明。だが垣根の能力を、何気なく消し飛ばした。
燃やしただとかテレポートしただとか、そんなチャチな能力じゃない、もっと何か得体の知れない能力の片鱗だった。
「ていとくん!」
「エリス、いてててて!」
耳を引っ張られた。こういう態度をとってくれるのが嬉しくて、つい露悪的に振舞う。
垣根自身、自覚はしていなかったが、エリスといるときは少し精神年齢が低くなるのだった。
「ああいうのよくないよ。友達減っちゃうよ?」
「大丈夫だ。友達ってのは正の整数しか取れない変数だ」
「え?」
「ゼロから何を引いてもマイナスにはならん」
「友達いないの?」
「この身分と性格じゃ、な」
「そうかなぁ。上条くんは友達になってくれそうだよ」
「はあ?」
「ちゃんと仲取り持って、あげようか?」
「うぜえ」
別にあんなヤツとつるまなくても、エリスがいればいい。それが本音だった。だがさすがにそれをストレートに言うのは躊躇われた。
エリスがトコトコと垣根から離れて、木に生ったオレンジに手を伸ばした。
低いところの実は採りつくしたのか、微妙にエリスには届かない。
「ほら」
「ありがと、ていとくん」
「帝督、って呼んでくれよ。呼び捨てでいい」
「そういうのはお付き合いしてる女の人にお願いしなよ」
「いねぇよ。エリスに、そう呼んでほしいんだ」
「駄目って、前にも言ったよ?」
垣根はもう二度ほど、エリスには振られている。付き合ってくれというお願いにはっきりとノーを突きつけられたのだ。
ただ、一度も嫌いだとか、迷惑だとか、あるいは付き合えない理由だとかを教えてはもらえなかった。
そして垣根がここを訪れるたびに、裏表のない優しい顔で、エリスは迎えてくれる。
「ねえ、ていとくん」
「ん?」
「ていとくんってやっぱり私の体が目当てなの?」

息が一瞬、詰まった。

「俺はエリスの心も体も全部自分のものにしたい」
「……ていとくんは、いつも直球勝負だね」
「変化球のほうが好みか?」
「ううん。直球が一番。ところで私が言いたいのはそういう意味じゃないよ」
体が目当て、というのは色のある話ではない。もっと物理的に直截的な意味だ。
垣根がエリスという人以外にも体そのものに興味を持っていることは知っていた。
初めて会ったときに、垣根がエリスに釘付けになった理由は、それだから。
エリスという女性に、垣根が一目ぼれをしたわけではなかった。
「知りたいって気持ちがないわけじゃないが、エリスに嫌ない思いをさせる気はねえよ。エリスが教えてくれる気になれば、聞かせてくれ。その心臓のこと」
「私は誰かとお付き合いをしたことはないけど、そんな人ができても教えるつもりはないよ」
「それでもいい」
「でも、だめ。好きな人には全部知ってて欲しい」
「じゃあ教えてくれ」
「だめ」
垣根は当麻に、ぼかして話を教えていた。エリスが能力を使うところなんて、垣根も見たことがない。
ただ知っているのは一つ。

――――この世のどんな元素とも違い、そして『未元物質』の垣根にすら解析不能な、そんな元素でエリスの心臓は出来ている。

「なあエリス」
「うん?」
「こないだ誘ったやつの、返事が欲しい」
「うん……」
数日後に第七学区で行われる、花火大会。垣根はそれに誘っていた。
教会の修道女が行くにはいささか晴れやか過ぎるイベントだが、この教会はそういうのに緩い。
エリスの意思以外に、障害はなかった。
「前向きに検討、っていう時期をさすがに過ぎちゃったね」
「本気で検討してくれるんなら、当日の昼過ぎにでも俺はここに来るぜ」
「あはは、それは悪いなあ」
この教会に寄宿してから、かなり経つ。エリスはその間一度もここから出たことはなかった。
買い物にだって、出かけたことはないのだ。それだけは断っていたから。
だから、単純に外が怖い。だけど、外を恐れている気持ちは、理由のはっきりしたものじゃなくて、ぼんやりと抱いた恐怖でしかないのだ。
連れて行ってくれる人がいるのなら、外へと出てもいいのかもしれない。垣根の熱意に絆されている部分も、確かにあった。
あっさりとした決断を装って、エリスは自分にとっての大きな決断を、口にする。
「じゃあ、行こうかな」
「よしっ!!」
珍しく斜に構えていない、本気の垣根の喜んだ顔を見られた。エリスはそれに笑顔を返す。
「浴衣とか、着たいか? もしそれならなんとかする」
「え、いいよ。そんなの悪いし」
「気にするな。どうせあぶく銭が捨てるほどあるんだ。この教会丸ごとかって釣りが出るくらいには」
「もう。お金持ちをひけらかすのは格好悪いよ。……ていとくん、見たい?」
「見たい。死ぬほど見たい。エリスの浴衣」
「……じゃあ、私のことは私が何とかするから」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫。見たいって言ってるていとくんに買わせるのは、私が嫌だから」
「……わかった。ありがとなエリス、それと愛してる」
「莫迦」
垣根は別れの挨拶をせず、ニッと笑顔を見せて踵を返した。エリスはその後姿にまたねと声をかけた。
垣根帝督に夏休みなどない。垣根を材料にした実験は、100年先までやれるくらいのプランが後ろに控えている。
だがそんなことをお構い無しに昼間に時間を作って会いに来てくれる垣根を、エリスとて憎からずは思っていた。
ただ。
「ていとくんは優しすぎて、どうしていいのかわかんないよ……。こういう時、相談に乗ってくれる相手がいればよかったのにな。ね、シェリーちゃん」
胸元に手を当てて、ずっと昔に別れた親友の名前を呟いた。

****************************************************************************************************************
あとがき
タイトルは謎架けになっています。意味が分かるとエリスの秘密がちょっとわかるかも?
ちなみに姓として与えたワイガートは森鴎外の『舞姫』のヒロインから拝借して英語読みに直したものです。



[19764] interlude06: 能力者を繋ぐネットワーク
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/03/26 01:36

「久しぶりね」
「……ああ、君か。元気そうだな」
「そりゃ夏休みだからね」
「学生はそんな時期になるのか。こう空調が行き届いた場所にずっといると、実感がなくてね」
美琴は窓越しに、そんな言葉を交わした。
目の前にいるのは、美琴の知っている姿と同じスーツ姿の木山春生だった。
「ところで、何の用だい? こう見えて色々と、忙しいのだがね」
「随分と暇そうな場所にいるように見えるんだけど」
「そうでもないさ。以前言った気がするが、私の頭はずっとここにあるんだ。考えないといけないことなんていくらでもある。やれることもある」
気だるそうで何を考えているのかよく分からない木山だが、その瞬間だけ、怜悧で明晰な思考を覗かせた。
「あれだけのことをしても、救えるかどうか怪しいんでしょ? ……その、どうにかなるものなの?」
「君は優れた能力者だが、研究者としての哲学はまだ持っていないようだね。どうにかならないものをどうにかするのが研究だよ。工学とはそういうものだ」
それは答えのようでいて、答えではなかった。
「それで、繰り返しで悪いが、何の用だい?」
「う、いやえっと。アンタの過去を覗いちゃった身としては、あのまま忘れることも、出来なくて」
「ああ、そうだったな。そうか、君は私の教え子の身を案じてくれたのか」
「そりゃあ、ね」
「そして特にそれ以外の具体的な目的はなかったと」
「う」
実のところ、それが実情だった。あのヴィジョンは、生々しく脳裏にこびりついている。
それがずっと気になるせいで、つい話を聞こうと思ってしまったのだった。
「知ってしまったら、忘れて戻ることは出来ないわ」
「君は優しいな、ありがとう」
「何か、出来ることはない?」
「ならここから出してくれないか。君のレベルなら、相当の額を持っているだろう。保釈金が欲しい」
「……それは駄目」
「何故?」
「アンタはまた、幻想御手<レベルアッパー>みたいな方法で、誰かを犠牲にしようとするかもしれない」
「犠牲は出さない予定だったがね。……まあ、あんな予測していなかった化け物を出した身で、言えた事ではないか」
少し前、美琴は木山のやろうとしたことを食い止めた。
幻想御手というプログラムによって、能力者と能力者をネットワークで繋ぎ、それを統括することで巨大な演算能力を手に入れる。
『樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>』を利用できなかった代わりの、苦肉の策だった。
幻想御手が安全だったという保証は、ない。結果的に後遺症を残した人はいなかった。だけど、あれを使ったことで、傷ついた学生がいたのは確かなのだ。
だから間違ったことをしたとは思っていない。
しかしその一方で、木山が救おうとした教え子達を、目覚めることのない今の状態から救い出すのを阻止したことを、美琴はずっと気にかけていた。
「そういやさ、アレは幻想御手を使った人たちの思念の集まり、だったのかな?」
「データを取る暇もなかったんだ、推察でしかないが、そうだろう。君もそう感じたんじゃなかったのか?」
木山が演算を暴走させた瞬間生まれた、幻想猛獣。
暴走するそれを美琴は打ち抜いた。そのときに、沢山の能力者たちの声を聞いた気がする。
だから、アレが生まれるきっかけが、能力者たちの思念だったことに疑いは持っていない。
しかし。
「ずっと気になってたのよね。幻想御手でネットワークの部品になっていた能力者たちを解放した後も、アレはずっと自律して存在してた。それって、変じゃない?」
「そうか、話す暇がなかったな、そういえば」
「え?」
「虚数学区、五行機関、そういう名前に心当たりはあるか?」
「よくある都市伝説のひとつでしょ?」
脱ぎ女だとか、どんな能力も打ち消す能力だとか、そんなのと同じだ。
……と言おうとして、どちらも真実だったことに思い至る。
「アレがそうだ」
「え?」
「虚数学区という言葉を大真面目に使う研究者達が記した論文にはね、常にAIM拡散力場の話が出てくるんだよ。あの幻想猛獣はそのものではないにせよ、確実にその系譜に身を連ねる何かだ。ふふ、分野はかけ離れているが、その方面の学会で発表すれば最優秀研究者として賞をもらえるのは確実だな。なにせ虚数学区を実体化させた人間なんて、まだいないのだから」
そこまで言って、ピクリと木山が体を震わせた。
そしてすぐ、何かを笑い飛ばすように、ふっと息を吐いた。
「何よ」
「いや、考えすぎだとは思うがね。……私の試みは全て誰かの敷いたレールの上を走っていて、あの幻想猛獣を形作らせること、それを目的にした人間がいるんじゃないか、ってね」
「そんな、考えすぎでしょ」
「そうかな……。だがずっと、私も引っかかっていたんだよ。例えばアレが頭の上に浮かべていたものだとか、な」
「え?」
そう言われて美琴はお世辞にも美しいとはいえない幻想猛獣のフォルムを思い出す。
確か、頭の上には輪っかが付いていた。学園都市には不似合いな特長だった。
何が影響して、アレはあの光の輪を頭にかざすに至ったのか。
「天使の輪、あるいは後光、そういうものは中央、西アジアで興った宗教、つまりゾロアスター教、ユダヤ教、キリスト教、仏教、イスラム教あたりには共通して見られる概念だ。そういう意味で、人の集合的無意識が備えている一つの元型<アーキタイプ>だという主張も通らなくはないが」
「気にしすぎじゃない? もうそれで、一応の説明にはなっていると思うけど」
「そうだな。追いかける手があるわけでもなし、保留以外にはない。だが、やはり気になるのだよ。私が構築したやり方では、どんな偶然が起こってもあんな存在は生まれるはずがないんだ。もちろんAIM拡散力場なんて、まだまだ未解明な部分は多くて、確かなことは誰にも分からないのだけれど。原理も分からず振り回す科学者の言い訳かもしれないが、誰かが意図を持って、私のプランに介入したんじゃないか、そんな冗談を吐いてみたくもなるものさ」
ふふっと自重するような笑みをこぼして、木山は足を組み替えた。
仮に、仮に誰かが自分のプランに介入したのだとして、その人間は何故、幻想猛獣を天使に模したのだろう。
オカルト趣味なのか、あるいは、例えば天使は実在する、なんてのが真実かもしれない。
稚拙ではあったが、幻想猛獣は高次の生物的特徴を備え、自意識を持ったAIM拡散力場の塊だ。
人類がこれまで獲得したあらゆる概念の中でアレに最も近いのは、きっと天使だろう。
そんなどうしようもない思考の坩堝に陥ったところで、木山は考えるのを止めた。
ウインドウの向こうで、美琴もまた沈黙していた。
木山は、過去に名目を偽られて、実験に加担したことがある。それで教え子達を、植物人間にした。
それを思えば、そうやって誰かが自分を都合の良いほうに誘導しているのだという考えをを笑い飛ばすことは出来ない。
だが、やはり考えすぎだろうという感覚が一番強いのだ。
学園都市にとってもかなり有益な存在であろう自分の日常に、そんな暗い影だとか、陰湿なものはない。
「幻想御手ですら誰かの手のひらの上だった、なんて。アンタの生徒のことを思えば、考えすぎ……って、言えないのかな」
「私の意思と無関係に、全く別の人間が描いたレールの上を走って、私は教え子を傷つけた失格教師だからな。そういうことに、鈍感ではいられないんだよ」
ふう、と憂いを体の外に吐き出すようなため息を木山はついた。
「まあでも、あんなこと考える無茶苦茶な研究者はそういないでしょ」
「……そんなことはない。あれは、君に教えてもらったアイデアだよ」
「え?」
そんなものを開発した覚えも、提唱した覚えも美琴にはなかった。
木山は驚いた様子の美琴に付き合うでもなく、話をぼかしながら、取り留めなく喋る。
「君は発電系能力者<エレクトロマスター>の頂点に立つ能力者だったな」
「ええ、そうよ」
「ネットワークを構築するものといえば、普通はパソコン、電気で動くエレクトロニクスだ。君の能力は、精神操作系の能力と並んで、ネットワーク構築に向いている。なまじ物理に根ざしている分、扱いやすいくらいだ」
「……何が言いたいの?」
いらだつ美琴に、木山はぼんやりと答えた。
二人の会話に同席している保安員が、ちらり、と木山を見た。
「私は何度も『樹形図の設計者』の使用申請をして、すべてリジェクトされた。一般に募集されている計算リソースの割り当て枠にはいくつかのジャンル、素粒子工学の計算や、天体の多体問題計算、生物工学なんてのがあるんだがね、私は脳神経工学で応募していたんだ。そして、同じ採用枠で競っていつも負けた相手がね」
木山が、透明のウインドウの前の小さな出っ張りに肘を乗せて、美琴の至近距離に迫った。
得体の知れない不安に、背筋が寒くなる。
「『学習装置<テスタメント>を利用した発電系能力者ネットワーク構築のための理論的検討』という題目だよ。よく似ているだろう? 私の研究と。ちなみに主任研究員は長点上機の学生だったよ」
「発電系能力者<エレクトロマスター>の、ネットワーク?」
「ああ。学習装置を利用して特定の脳波パターンを全ての能力者に植え付け、それを使って複数の発電系能力者の意識を繋ごう、という計画さ」
「そんなの、無理に決まってるじゃない!」
それは発電系能力者としての、美琴の正直な感想だった。
「そうだな、もし実行していれば、私と同じ結果になるだろう。そんなことはね、『樹形図の設計者』を使わなかった私でも理解できるし、たどり着ける程度の高みなんだよ。だから私は自分のプロジェクトの優位性を何度も申請書に書いたし、あちらの批判を書いたこともある。率直に言って、あんなお粗末なプロジェクトが一位として採用され続けるはずがないんだ」
「どういうこと?」
「……おかしいと思わないかい? プロジェクトに関わって意味がある程度の、高レベルな発電系能力者は学園都市に一体何人いるだろうな? そして、君を外す理由なんて、あるだろうか?」
それはそのとおりだ。発電系能力者にとってそれほど大きなプロジェクトなら、美琴が関係しないわけがない。
たとえ何らかの理由でプロジェクトから外されても、そういうものがあること自体は、知っていなければおかしいのだ。
「君の知らないところで、有力な発電系能力者を集めることなんて不可能だ。じゃあ、彼らはどうしたんだろうね」
「……」
「一つの答えは、新しく作ればいい、さ」
「作るって、誰にどんな能力が宿るかは、予測不可能ってのが定説でしょ?」
「そうだな。だが、そんなまどろっこしいことはしなくてもいい。例えば、レベルの高い能力者の遺伝子からクローンを作って、ソレに能力を使わせればいい」
「えっ……?」
「再生医療と遺伝子工学、そちらの方面のプロジェクトでも、その長点上機の生徒の名前はよく見たよ。能力者ネットワークの研究と同じ名が名を連ねるには、随分とかけ離れたテーマだがね」
「それって、まさか」
暗に木山が言っていることを、じわじわと美琴は理解し始めていた。
能力者のクローンを作って、同じ能力者を大量に用意する、それは倫理的な問題に目を瞑ればシンプルな思想だ。
そして、サンプルに使う発電系能力者は高レベルなほうがいいだろう。
蓄積されていく事実に、キリキリと美琴の内臓が締め付けられていく。


――美琴は、過去に自分の遺伝子マップを、学園都市に提供したことがあった。



「ああ、そろそろ面会時間が終了のようだ」
「待って! 詳しい話をもう少し」
「悪いね。実を言うとこれ以上詳しいことは覚えてないんだよ」
そう言って、木山はとんとんと地面を叩いた。
ハッと美琴はその意味に思い当たった。正当な方法で得た情報だから、木山はここまで隠さなかった。
そして不正に得た情報を、どうやって得たのか説明つきで語ることは拘置所では到底出来ない。
そういうことらしかった。
「そうそう。長点上機のその優秀な生徒の名前だけは教えておこう。論文を読むといい。勉強になるからな」
「……」
保安員に促されて立ち上がった木山が、別れを惜しむでもなく美琴に背を向ける。
その別れ際に、一人の名を呟いた。
「布束砥信(ぬのたばしのぶ)だ」




拘置所を出ると、夕方というにはまだ早く、夏の日差しがようやくほんの少しの翳りを見せた頃だった。
今から風紀委員の仕事に借り出されている白井のところに向かえば、ちょうどいい時間になるだろう。
しかし美琴は、その足を寮や白井のところへは向けなかった。

人通りは途切れないものの、数は多くなく、また中を覗かれにくい公衆電話を探す。
手ごろなものを一つ見つけて、手持ちの端末を繋いで、ネットワークにアクセスした。
公衆電話からのアクセスで与えられる権限は"ランクD"、これは美琴自身が持っているものと同じだ。
細かな能力開発の履歴を閲覧しないならば、個人情報の取得は一般教師の保有する"ランクB"で事足りる。
指先に意識を集中させる。電磁誘導で端末の回路の一部に、自分の意思を反映した電流を流した。
美琴は電気現象のスペシャリストだが、情報工学のスペシャリストではない。
電流を制御するのは誰より上手いが、0と1で表されたバイナリデータそのものを読む力には乏しい。
だから端末には、普段は使わないデータ翻訳用のコアが積んであった。
ハッキングが違法なのは美琴にとってもそうだから、このコアと搭載した特殊な処理系は完全に自作で、ハッカーとしての美琴の唯一にして最大の武器だった。
難なく、場所も知らないありふれた高校のパソコンの一つにアクセスし、そこのランクB権限を使って、長点上機学園の生徒一覧を参照した。

「布束砥信、長点上機学園三年生、十七歳。幼少時より生物学的精神医学の分野で頭角を現し、樋口製薬・第七薬学研究センターでの研究機関をはさんだ後に本学へ復学」

ありがたいことに、今は名の知れたエリート高で普通の学生をしてくれているらしい。
さらに調べればあっさりと学生寮の場所までつかめた。
「ま、家で大人しくしてるかどうかまでは知らないけど」
カチャカチャと手早くケーブル類を回収して、美琴は布束の家を目指した。思い過ごしであればいいと、そう思う。
木山春生という人間を、自分は半分信じて、半分疑っている。
人並みに誰かを慈しめる人だということは疑っていない。だから好意で美琴に情報をくれたのかもしれない。
だが、昏睡状態にある教え子たちを救うためならかなり手段を選ばないことも、疑っていない。
例えばこうやって美琴を動かすことも、木山の手の一つで、まんまとそれに自分は乗っているのではないか?
そんな不安も、拭い去ることは出来なかった。
「おーい」
電車とバスを乗り継いで、大きな駅前に出る。
長点上機学園は第一八学区にあるから、電車を使ってある程度の遠出をすることになる。
門限破りもありえるが、美琴の足は引き返すほうには動いてくれなかった。
「おーい、って聞いてないのかビリビリー」
「だぁっ! うるさいわね! ビリビリじゃなくて私には御坂美琴って名前が――――って、え?!」
「ん? どうかしたのかビリビリ、じゃなくて御坂。随分暗い顔して」
「……アンタはやけに幸せそうね」
上条当麻が、目の前にいた。




つい昼に、光子や佐天、白井たちとの話で出てきたばっかりの人だから、ドキリとする。
まさか、誰かと噂をした日に会えるなんて。
だがそんな美琴の内心の動きになんてまるで気づかず、当麻は幸せそうにニコニコしていた。
「いやー、さっきショートカットしたら路地裏でマネーカード見つけてなあ。1000円だぜ1000円。人生でお金拾ったのなんかコレで何回目かな。最高金額の記録がこれで10倍になったな、うん」
「ショボ」
「んな?! おい、お前今なんて言った? ショボイとかおっしゃりやがったんですか?!」
「そりゃ1000円拾ったら私だってラッキーって思うけど、アンタ喜びすぎでしょ。カジノで一山当てたくらいの喜び方じゃない? それ」
「人の喜びに水を差すなよ。こんなラッキーなことなんて俺にとっちゃ奇跡みたいなことなんだよ」
「ふーん」
美琴は当麻に、少しだけ苛立ちを感じていた。
悩みのなさそうな明るい顔で、今焦りを感じている自分の気持ちと、対照的だったから。
「おい、御坂」
「――――え?」
「なんかやけに元気ないな」
「別に、そんなことないわよ」
「そうか。なら、いいけど。ところでどこ行くんだ?」
「なんで言わなきゃいけないのよ」
「言いたくないなら別にいいさ。でも軽く聞いたっていいような内容だろ?」
それはそうだ。白井のところに行くのなら、美琴だってはぐらかしたりはしない。
ただ、今はそう納得させる余裕が少し欠乏していた。
「アンタこそどこ行くわけ?」
「どこって、そこら辺のスーパーに行くだけだ」
インデックスは神学校の見学から帰るとすぐに暑さでばてて、『買い物はとうまひとりでがんばってね、応援してるよ』とのことだった。
「そ、じゃあさっさと買い物して晩御飯の仕度すれば」
「まあそのつもりだけど。……俺がイライラさせたんなら謝る。けど今日のお前、なんか変だぞ?」
「変って、アンタに私のことがなんで分かるのよ? 大して会ったこともないくせに」
「回数は知れてるかもしれないけど、夜通しで遊んだ女の子なんてお前しかいないぞ?」
「う」
かあっと顔が火照るのが分かる。コイツの言葉に他意なんてない。
けど、まるで、それじゃあ私が特別な女の子みたいで――ッッ
「……ちょっと人探し」
「人探し? この時間に? 完全下校時刻ももうすぐだぞ?」
「まあいいじゃない。そういうのにうるさく言える立場じゃないでしょ、アンタも」
「そうだな。それで、名前は?」
「え?」
「探してるやつの名前」
ジトリと、当麻を睨みつけてやる。
軽く受け流すようになんだよ、と呟く態度が気に入らない。
「何で聞くわけ?」
「まだ時間はあるから付き合ってやってもいいし、そうでなくても俺の知り合いだったら話は早いだろ?」
「知り合いなわけないわ。レベル0のアンタとじゃ一生接点のなさそうな相手よ」
「そうは言うが、レベル0でもレベル5のお嬢様と知り合いになったりはするんだけど?」
もっともな切り返しに、美琴は口ごもった。
別に、名前ならいいかと思う。長点上機の三年生という点を伏せておけば、それ以上探られることもないだろう。
やましいことを美琴はしたわけではないが、どこか、細かな説明をするのは躊躇われた。
「探してるのは、布束砥信、って人。知らないでしょ?」
「……」
「ほら、さっさと買い物済ませて帰りなさい」
「あの目が……ええと、パッチリしてる三年生か?」
顔写真を見た美琴にも、よくわかる外見の説明だった。パッチリというのは男性の当麻が見せた女性への気遣いだろう。
美琴なら迷わず、目がギョロっとしていると言うところだった。
「……なんでアンタが知り合いなのよ」
「いや、知り合いって程でもないけど、これ絡みで」
「え?」
そう言って当麻が見せたのは、例のマネーカードだった。
「それ絡みって、どういうこと?」
「お前知らないか? ちょっと前から噂になってるらしいんだけど、学園都市の裏通りを歩いてるとマネーカードを拾える、って話」
「知らない」
「……まあ、常盤台の学生ならこの額じゃ小遣い以下か」
「別にそんなんじゃないわよ。噂を仕入れるような情報網を持ってないだけ。その手のソーシャルネットワークサービスとか嫌いだし」
「そっか。ごめん。常盤台だから、みたいな色眼鏡で見てものを言うのは良くないよな」
「う、うん。分かってくれればいいわよ」
まさか謝られるとは思ってなくて、美琴は思わずたじろいだ。
だけど嬉しくもあった。話す前から自分との間に壁を作る人は少なくない。
常盤台の人だから、あるいは第三位だから、そんな風に美琴を遠ざけて話す人は多い。
そんなものを取っ払って、気安く話してくれるところは、とても高評価で。
……そんな思考を振り払うようにブンブンと頭を振った。
「で、マネーカードの噂と布束って人の関係は?」
「これ置いてるのが、その布束先輩だ」
「はぁ?」
「なんかよくわからないけど、こないだ会ったときには街の死角を潰すため、とか言ってた」
「死角を、潰す? 何のために?」
「なんかよく教えてもらえなかったけど、止めたい実験があるんだってさ」
そのフレーズに美琴はピクリと反応してしまった。
起こって欲しくなかったことが、あったのかと、そう疑ってしまうような一つの事実。
「こないだ布束先輩がカードを置いて回ってて不良に絡まれたところに偶然居合わせてさ」
「それじゃあ、もしかして」
「人通りも多かったし、今日はこの辺でやってるのかもな」
「ありがと。良い情報貰ったわ」
近くにいるのなら、取り逃がす前に捕まえるに限る。
美琴は早々に会話を打ち切って、路地裏へと歩き出した。
「で、ビリビリ、なんで布束先輩探してるんだ?」
「……なんで付いてくるのよ?」
「探すなら二人のほうが早いだろ?」
「仲良く歩いてちゃ意味ないでしょうが」
「それもそうだな。じゃあちょっと携帯貸してくれ」
「え?」
「俺のアドレス教えとくから」
「えっ? え、あ……え?」


急にピタリ、と美琴が立ち止まった。セカセカと歩いていたので急変に当麻はびっくりした。
手分けをするのなら連絡先が必要だ。美琴のアドレス帳にアドレスを登録して、自分の携帯には着信履歴を残す気だった。
自分の携帯にはさすがに美琴のアドレスを載せる気はなかった。
可愛い彼女に操を立てる意味も込めて、必要がない限り女の子のアドレスは登録しないようにしていた。
「ちょ、いいの? そんなにあっさり」
「いいのって、そりゃむしろ俺の台詞だろ。お前こそ嫌なら止めるけど」
「だ、大丈夫。私だってアンタに知られて困ることなんて別に……」
「よし、じゃあ貸してくれ」
びっくりするくらいの急展開だった。
アドレスが手に入るって事はつまり、いつでも、寝る前にだって連絡できるし、朝起きてすぐにだって連絡できるし、休み時間のたびにだって連絡できるし、会いたいときにはいつだって連絡できるし、例えば明後日の盛夏祭、美琴たちの暮らす常盤台中学の寮祭に当麻を招待する事だって、できるのだ。
当麻はおずおずと差し出された可愛らしい携帯に何もコメントすることなく、カチカチとアドレス送信の手続きを行った。
処理に問題など生じるはずもなく、上条当麻という登録名のアドレスが、美琴の携帯に一つ増えた。
「……なんだよ、ぼうっとして」
「なんでもない」
「で、お前はどっちのほうを探す? 土地勘あるか?」
「あ……」
そもそもそういう話でアドレスを貰ったのだから今から当麻と離れることになる、ということに、美琴はいまさら気づいた。
そしていきなり心のどこかで、一緒に歩いていても視線が二つになるだけでかなり違うのではないかとか、二手に分かれて当麻のほうが布束に接触した場合、自分が駆けつけるまで待ってくれないかもしれないし、そういえば当麻と布束は知り合いでしかも待ってる間は二人っきりなのかそうなのかと、そんな言い訳みたいななんともいえない思考が沸きあがってきた。
「場所は、あんまりわかんないかも」
嘘だった。風紀委員の白井に付き合ってそれなりになじみの場所だった。
「そうか。……まあ、お前の実力なら危ないトコに迷い込んでも俺より安全な気はするけど、でも女の子がそういう場所にフラっといっちまうのを見過ごすのも嫌だしな。効率悪いけど二人で探すか……って、ありゃ」
「え?」
当麻が突然会話を打ち切って、目線を横に滑らせた。
その先を美琴も追うと、絵に描いたような不良が5、6人と、その真ん中に白衣の女子高生。
耳の下までくらいの濃い黒の髪をピンピンと跳ねさせ、ギョロリとした瞳を揺らすことなく不良に付き従っている。
当麻には会った覚えが、美琴には見覚えのある人が、そこにいた。
布束砥信、その人だった。

****************************************************************************************************************
あとがき
漫画版とアニメ版の超電磁砲の違いについてコメントしておきます。
漫画版では、幻想猛獣を倒してすぐ、木山が警備員に拘束される直前に、美琴に対して意味深な説明をしています。これが布石となって次の妹達編へと進むわけです。
しかしこのSSは基本的にアニメ版に基づいたストーリーとなっています。すなわち、木山は捉えられる直前に超電磁砲量産計画に繋がるような情報を美琴に与えたりはしていなかったため、このSS内で美琴が木山を訪ねて始めて、美琴はその情報を手にしたことになります。
ですので漫画版からすると木山が美琴に美琴の『絶望』について二度喋っていることになりますが、こういった事情があるのだということをご理解ください。
……ただ、多くの人にとっては気にならない程度のことではないか、と思います。



[19764] interlude07: 最強の電子使い(エレクトロン・マスター)
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/06 22:07

物陰から、美琴は様子を窺う。
当麻自身が言ったとおり、この場面での実力で言えば間違いなく美琴が最強なのだ。身を潜めるべきは自分じゃなくて当麻だろう。
だというのに。仲の良い知り合いのふりして助けてくる、無理なら布束をこちらに誘導するから適当に逃げてあとはうまくやってくれ、と言うのだった。

「大人しくしてくれりゃー手荒なことはしねぇからよ。ウチのリーダーは女子供に手出すの禁止してるからな」
「砥信! 悪い、遅れた」
「お、にーちゃん彼氏か? こえー顔すんなよ。俺たちがお世話になりたいのはカラダのほうじゃなくてカネだけだ。出すもんだしてくれたらすぐ立ち去るぜ。紳士だからな」
「こっちにも事情があってやってるんだ。悪いけど、これをお前らの小遣いにしたいわけじゃない」
「……いいわ」
ちらりと当麻が布束を見た。布束の首が横に振られたのが見えた。
鞄が不良たちに預けられる。躊躇いなく開かれたそこからは、たった2枚のマネーカード。
「おいおい、コレだけしかないのか? その懐に溜め込んでんじゃねーの?」
「砥信に触るな」
「あぁ? 誰に口聞いてんだ?」
「落ち着けよ、お前こないだ彼女に振られたばっかりでひがんでんのか?」
いきり立つ不良を、格上らしい男が揶揄する。周りがそれで爆笑していた。
「格好良い彼氏君よ、お前がやって良いからポケット全部探りな。手ぇ抜いたら俺らがやるぜ?」
「……ごめん」
「構わないわ」
プツプツと制服の上から来た白衣のボタンを外し、白衣と制服のジャケットについたポケットを、当麻に改めさせた。
「ホントにコレだけかよ。おい彼氏君調べ方が足りないんじゃないか? おい、代わりに調べてやれよ」
「ああ、まー好みの顔じゃねえけどなぁ」
「お前もっとババァでもいけるだろ?」
「ひでー」
そんな下品なやり取りをして布束に手を伸ばそうとした不良の動きを、当麻は遮る。
「触るなっつってんだろ」
「ああ?!」
額をこすり付けそうな距離で、不良が当麻を睨みつけた。
怯まない当麻より先に、不良は脅す視線ににやりと嘲笑を混ぜて、距離をとった。
「大して可愛くもねー女にお前よくそんな惚れてるなあ」
「惚気話でも聞きたいのかよ?」
「面白そうだから言ってみろよ。カラダは悪かねーし、具合がいいんなら俺にもやらせてくれよ。金なら出すぜ?」
「くだんねー話で砥信を汚すな」


イライライライライライライライライラ
当麻はこないだ知り合ったと言っていた。明らかに彼女とは違うような口ぶりだった。
だからこれは演技だからこれは演技だからこれはただの演技。
美琴はずっとそう言い聞かせながら推移を見守っていた。


「砥信、あっちから出れば繁華街に近い。先に行ってろ」
「……それは申し訳ないわ」
「いいから」
そう言って、当麻がこちらを見た。意図は、布束を回収してうまく逃げてくれ、だった。
美琴はそんなお願いを聞いちゃいなかった。
「……いい加減にしなさいよ」
「え、おい、隠れてろって」
「お? 嬢ちゃんがもう一人?」
「なんだ? お前ら、どういう関係?」
「話がこじれたじゃねーか、ビリビリ」
「どうせこの子にも手を出せるわけじゃねーしなあ、サクっと貰うもん貰って彼氏君と楽しく遊ぼうぜ。小銭で楽しく格ゲーでもやろうや」
「ところでお嬢ちゃんは俺らと楽しいことする気はない? 付いてきてくれるならアリだよな?」
美琴が好みなのか、不良の一人がそんなことを言って誘ってきた。
いい加減、我慢の限界だった。美琴のそんな様子を察した当麻が、空を仰いだ。
この結末を回避させてやりたくて、不良のために当麻は努力を尽くしたのだが。
「悪いけど、外野は寝てて」
「あん? っておぎぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
ビリっと一発、人間から人間への志向性を思った放電、道具なしのスタンガンが炸裂した。
「アンタ達、事情はきっちりと聞かせてもらうわよ」
ジロリと立ったままの二人、布束と当麻を美琴は睥睨した。




「アンタ達、どういう関係な訳?」
場所を移そうと提案して歩き始めたばかりだというのに、美琴が待てないのか早速食って掛かってきた。
「どういうって、こないだも路地裏で不良に絡まれてたから、ちょっと声かけたんだよ。それだけだ」
「Don't worry. 私達の関係は誰かが嫉妬する必要のない程度のものよ」
「わ、私は別に」
嫉妬なんて、と続く言葉が口から出なかった。
目の前にいるのが高校生二人組で、子供扱いされている感じがムカつく。
まるで動じた風のない布束に当麻がすみませんねと謝っているのが、嫌だった。
「なんにせよ、まずはお礼を言うべきだったわ。ありがとう」
「先輩、喧嘩慣れしてないんだったら気をつけたほうがいいっすよ。口では金以外に興味はないって言ってたから、助けなくても良かったかもしれないけど、何かあってからじゃ遅いです」
「そうれはそうね。でも、やれることはやらないと」
「こないだも教えてもらえませんでしたけど何やってるんですか? ……ってそういやビリビリ、御坂がなんか聞きたいことがあるって」
「そう……。あなた、オリジナルね」
「え?」
もとより気安い人間ではなさそうな布束だが、美琴に向けられた視線がどこか余所余所しさに欠けるというか、初対面ではないような雰囲気を持っていた。
そして、聞き逃せない単語を、呟いていた。
オリジナル、という言葉の裏には、コピー品かイミテーションか、そういうものの存在を感じさせる。
人間においてコピーであるというのは、それは。
「やっぱりアンタあの噂のこと何か知ってるの?! 教えて!」
「あ、御坂」
返事は鞄の角だった。ガスッと、美琴の頭に突き刺さる。
「いたっ」
「長幼の序は守りなさい。あなたは中学生、私と彼は高校生」
「前回俺もやられたなあ。つか御坂、俺にも敬語使ってくれたって良いだろ」
「ふざけんな、なんでアンタに! って痛い、ちょっといい加減にして……下さい」
「常盤台の知り合いは他にいるけど、そっちは敬語使ってくれるんだけどな」
布束先輩は上条先輩に敬語を使わない美琴もNGらしかった。また鞄の角が振るわれる。
そして当麻は、敬語を使ってくれるほうの子が自分の彼女だとは気恥ずかしくて言えなかった。
「それで話を戻すけれど。噂というのは?」
「あ、その」
話そうとしたところで、隣にいる当麻が気になった。
聞かれたくなかった。気にしすぎだと笑われるのは嫌だったし、自分の懸念が正鵠を射たものだったとして、頼れるわけでもない。
何があったとしても、それは自分が撒いた種で、そして自分はレベル5なのだ。
「悪いけど。ちょっと外して……下さい」
「俺が聞いちゃまずいか?」
「うん。ごめん」
「わかった」
美琴を立てて、当麻は言うとおりに従ってくれた。
そうしたのは美琴のプライドと、それを尊重する当麻の気遣いだった。
廃ビルの小さな階段を上り始めた布束に美琴は付いていき、当麻は表で待つことにした。
「Then, 話を聞きましょう」
「私のDNAマップを元に作られたクローンが軍用兵器として実用化される、なんて噂があるじゃないですか。それについて何か知りませんか?」
コクリと布束が頷いた。それは悪い知らせ。だが、覚悟はしていた。
布束というこの女子高生の専門をくまなく調べれば、薄々分かること。
「噂にはそう詳しくもないけれど、事実についてはあなたよりは詳しく知っているわ」
布束のほうも美琴が自分にたどり着いたことの意味は理解していた。
冗談では済ませられないほど確度の高いソースを持って、事の真偽を、そして真実を求めに来ている。
そりゃあ、自分のことなら知りたいと言う気持ちはあるだろう。それは分からないでもない。
「教えて、ください」
「『妹達<シスターズ>』、私がかつて関わったプロジェクトの名前よ。今ではもう目的も内容も変わってしまったようだけれど」
「それって」
「あまり深追いしないことね。知っても苦しむだけよ。あなたの力では何もできないのだから」
「それはあなたが決めることじゃない」
「Exactly. ……アドバイスはしたわ」
布束は、それ以上を語らなかった。
たとえ御坂美琴がレベル5であっても。レベル6に群がる大人たちにはかなわない。今自分与えた単語で、どこまで辿れるだろうか。
きっと、本当に深いところまでは、来られないだろう。
それで良いと布束は思う。学園都市は御坂美琴そのものは表の顔として綺麗なままにしたいらしいように見える。
それならそれで、幸せを謳歌すればいいのだ。
レベル5であっても、御坂美琴本人はその程度の利用価値だから。
「あまり彼を待たせても悪いから降りましょうか」
廃墟に取り残されたデスクの引き出しから書類を取り出して、火をつけながら布束が言った。
もう話は終わりだと暗に告げる布束に、美琴はこれ以上声をかけなかった。
だって、噂が事実なのなら、あとは全力で探すだけだから。
僅かに焦げ後を残した廃墟から出て、当麻と合流する。律儀に待っていたらしかった。
降りてくる二人に気づいて、表通りまでの近道をナビゲートしてくれた。
「先輩、もうあんまりやらないほうが」
「そうね。今日のも尾行されていたみたいだし、やり方には気をつけるべきね。それじゃあ、私はこちらに帰るから」
「あ、はい。それじゃ」
「どうも」
長点上機の近くに住む布束が真っ先に別れた。
気になっていたはずなのに、あっさり布束を解放した美琴の様子に当麻は首をかしげた。
「いいのか?」
「うん。これ以上は話してくれなさそうだし、自分で調べるから」
「困ったことがあれば連絡入れろよ。まあ、大して力にはなれないけど」
「私を誰だと思ってんのよ、アンタに頼るほど落ちぶれちゃいないわ。じゃね」
「御坂、それじゃな」
「うん」
駅前で、素っ気無く美琴は別れた。
余計な心配をされるのが嫌だったし、別れ際が気恥ずかしかったからだった。
そして、心のどこかで、アドレスを知っているから繋がっているような、そんな思いもあった。




「さて」
スーパーに向かう当麻を見届けて、美琴は町をうろついた。
昼下がりと同じ、公衆電話を探してだった。

目的は一つ、樋口製薬・第七薬学研究センターにアクセスすること。
幼少期なら長年にわたり布束がいた場所だ。『妹達<シスターズ>』という計画に、一番関わっていそうだった。
最低限、場所の見取り図を。そして出来るのなら、全ての情報を。
美琴は直接潜入することも辞さぬつもりで、その前段階として情報を得るつもりだった。
まさか、機密がこんな簡単に手に入るわけはないだろう。

初めから、美琴は全力で逆探知回避の策を講じ、そして私企業のプライベートデータにアクセスできるだけの権限を偽装した。
ネットワークから一切切り離された情報には美琴はアクセスできないから、本当に大事な情報は手に入らないつもりでいた。

「見取り図はこれ、と。意外に緩いわね」

施設として機密性の高いところを探し、潜入すべき場所にアタリをつけていく。
電気的なセキュリティは簡単に無効化できるからあまり気にしない。
警備員の配置についても情報がある。まあ人はスケジュールどおりに動かないものだが、ないよりは良いだろう。

必要な物をそろえた上で、次は研究データの探索に当たる。
これは一番大事な情報だから、当然セキュリティも極端に厳しい。
すべて量子暗号によってデータはロックされていた。

「……バックアップのためにデータが流れてる」

どういう手続きで中身を見るかが問題だった。
誰かの権限を奪って、正規の手続きを踏んで情報を見るのも一つの手だが、その場合閲覧したという履歴自体を消さなければならない。
それよりも、データバックアップのために流れている、暗号化されたデータを傍受するほうが確実だった。
理由は簡単。それは原理上、出来ないことになっているからだ。
光の量子状態を巧みに操って行う量子暗号は、観測に弱い。
それを逆手に取ることで、送り手と受け手以外の誰かが送信されたデータ内容をどこかで傍受、すなわち観測すれば、それによってデータそのものが変質し、第三者による傍受がすぐに検出される。
そういう『理論上第三者による情報の傍受を絶対検知できる』という性質を量子暗号は持っているのだ。
だから、普通のやり方なら、傍受なんて諦めて別のハッキングを試すことになる。

美琴は、だからこそその逆を行く。
光という電磁波を、美琴は制御下に置ける。超能力によって、量子の基本原理すら捻じ曲げて、物理的に不可能とされる痕跡を残さない量子暗号の傍受を行うのだ。
こんな風にはっきりと犯罪に当たる行為に使ったことはなかったが、技術としてすでに美琴はそれを身に着けていた。
そして、コレをやれる能力者は、発電系能力者でもレベル4では不可能だろうと実感している。
つまりこの美琴の破り方を警戒している研究者はいないし、ましてや対策が講じられていることなんてあり得ない。

「何もアラートは鳴らない、わね」

情報を横から掠め取る。傍受はばれるときはすぐさまばれるはずだから、それが無いということは、このセキュリティは美琴にまるで気づいていないということだった。
流れる情報を手元の端末で逐一デコードし、解析にかける。ほぼ全ては無関係で不要なデータだが、美琴が集中している間に、いつの間にか一つヒットしていた。
集中を切らさないよう気をつけながら、そのファイルを開く。
「超電磁砲量産計画、通称、『妹達』……その最終報告書」
タイトルからして間違いなかった。
「あったんだ……噂じゃ、なかった」
カチカチと歯が音を立てたのが分かった。
美琴を対等な一人の人間として認め、腰を落として尊の目線に合わせ、そして握手を求めてくれた、そんな科学者がいた。
美琴のDNAマップを使って研究をして不治の病を治したいのだと、そう言った彼と彼の患者を救いたくて、美琴は首を縦に振ったのだ。
それが、まるで冗談、酷い嘘だったことを突きつけられた。
今日、今も、この町のどこかで御坂美琴の外見をした御坂美琴ではない生き物が、御坂美琴のふりをして生きているかもしれない。
あるいは、美琴を研究するために、非道な実験に使われているクローンがいるかもしれない。
それは、おぞましい可能性たちだった。

真夏の電話ボックス内で、美琴はぶるりと震えた。
誰かに混乱しまくった頭の中をそのままぶちまけたくなる。
始めに思い浮かべたのは何故だか、ついさっき別れたばかりの、当麻の顔だった。
今なら、探せば会えるかもしれない。声を聞けるかもしれない。

「って、アイツに相談したってどうしようもないでしょうが。……悪いのは、私なんだから」

つまらないことを考えた自分の弱気を振り払うように、美琴は髪を掻き上げた。
そして端末の実行キーに、人差し指を触れさせた。ページをめくるのが、怖い。
……アイツは、事情に一切気づいてなかったのに、私のことを気にかけてくれた。
もし、どうしようもないくらい困ったことがあれば、あのバカはきっと、力になってくれる気がする。
いつでも、連絡は出来るのだ。メールだって電話だって、出来るのだ。美琴の意思一つで。
その事実はどうしてか、美琴の気持ちを軽くしてくれた。
どうせ見ずにはいられない資料。不安という名の呪縛を振り払って、美琴はキーをそっと押し込んだ。
カタ、と音を立ててページが送られ、資料の内容が表示される。
「本研究は超能力者<レベル5>を生み出す遺伝子配列パターンを解明し、偶発的に生まれる超能力者<レベル5>を100%確実に発生させることを目的とする。――――本計画の素体は『超電磁砲』御坂美琴である」
イントロダクションの一行目で、美琴は自分の不安がそのまま現実になったと、そう理解した。
ああ、と心の中で声が漏れる。現実が歪んでいく。どうしようもないことを、自分はしたのだと、ようやく理解した。
心の底に降り積もった絶望をさらに追い増しするように、続きを読む。
乾いた笑いすら口からこぼれる今の美琴の心境では、もう、苦痛とすらも感じなかった。
ここまで堕ちれはもう同じ、そんな気分だった。

美琴のDNAマップの入手経路、そしてクローンの合成法、
美琴の成長と同じ年月、すなわち14年をかけずとも美琴程度の肉体にまで急速成長させる方法、布束砥信の作成した『学習装置<テスタメント>』による教育、いや機械的な知能の注入法、そんなエクスペリメンタル・メソッドの説明に目を通す。
これまで、グレイゾーンに足を突っ込む科学者も多い、なんてのを平気で喫茶店で話してきたくせに、完全にブラックな所にいる科学者のことを考えられなかった自分を、美琴はあざ笑った。
よく書けた報告書だ。主観を排除して必要な情報をきちんと列挙した、お手本のような実験手法の紹介。
扱っているのがラットでもカエルでもないこと以外は、至極まっとうだった。
御坂美琴のクローンを作ることが、極めて低コストに実現可能であること、それがよく分かる内容だった。
「それじゃ、学園都市には私の知らない私が歩いてるって、そういうことなんだ。――――あれ?」
それ以上に細かなチューニングには興味はなくて、読み飛ばす。
するといつのまにか、成功物語の報告書かと思いきや、少し違う感じのするストーリーが訪れた。
――『樹形図の設計者』に演算を依頼、『妹達』の能力について計算を依頼。
――その結果として、『妹達』はどのようなチューニングを施しても、レベル2程度の能力しか宿さないことを確認。
「本計画よりこうむる損害を最小限に留めるため委員会は進行中の全ての研究の即時停止を命令。超電磁砲量産計画『妹達』を中止し永久凍結する」
あとはデータの取り扱いの細かな支持だけだった。

周りに、音が戻ってきた。怪しまれないために人通りの絶えない場所を選んだので、それなりの喧騒があった。
長いため息を美琴はついた。額の汗を指で拭う。
「……ったくなによ。ほいほいこんな能力コピーされちゃたまったもんじゃないわよ。ま、レベル2なんて量産する意味、あるわけないし。これで資金に困った研究者あたりが、飲み会の話のネタにでもしたのが噂になって広まった、ってのが実情なの」
ずるずると壁にもたれかかったままへたり込む。もう歯の根がかみ合わないことはなかったが、腰が砕けたように、起き上がる力が入らなかった。
「にしても、あの時のDNAマップが、ね……。過ぎた事は言ってもしょうがないか」
端末を回線から丁寧に落として、ケーブルを回収する。
とそこで、コツコツと外から透明のボックスの壁がノックされた。
外には、豊かな胸元を無骨な警備員のジャケットで覆った長髪の美女がいた。
「おーい、もう完全下校時刻過ぎてるぞ。なにしてるじゃんよ」
「あ、すみません。すぐ帰りますから」
「常盤台のお嬢様がこんなことしてちゃ、寮監が黙ってないだろう」
「知ってるんですか?」
「まあな。常盤台の学生でお前と同じ不良少女を知っているんでな」
「はあ。あの、すみません、帰ります」
「おう、まだ明るいけど、細い道は通るなよー!」
「はい」
足取りも軽く、美琴は帰路に着いた。
自分の犯したミスに、美琴は気づいていなかった。






「麦野ー。持ってきたよ、カーディガン」
「ありがと。まあ、無駄になっちゃったけど」
「え? もう終わったの?」
「ええ。あちらの完勝でね」
悔しくもなさそうに、そう呟いた麦野がうーんと伸びをして自分の端末を閉じた。
胸元は大きいと言うほどでもないが、大人びたルックスとそれに見合うスタイルの持ち主である麦野の、妖艶すぎない、均整の取れた色香に遠目で見ている男達の視線が釘付けになる。
来ているビキニの布地も、面積は少なめだった。冷たい無表情で男を見返すと、皆目線をすっと外した。
「終わったんなら麦野も泳ぐ?」
「当然。滝壺は……プールは浮いて遊ぶところだって言ってたけどホントにあの子浮いてるだけなのね。絹旗は?」
「さっきまであっちのプールサイドで昼寝してたみたいだけど」
「ふうん」
滝壺はクラゲそのものと言った感じで、色気のないスクール水着みたいなワンピースを着て、髪を広げながら水面に浮いている。
絹旗は中学生にはちょっと早いんじゃないかというデザインのビキニ、目の前のフレンダは逆に、ちょっとメルヘン過ぎるくらいの可愛いフリルが着いたビキニだった。
ちなみにそんな装いなのに四人で歩くと一番視線を集める胸は滝壷の胸なのだった。
楚々とした女の子ほど狙いたくなるのが男の性かもしれないが。

手元のジュースに口をつける。氷が解けて味が薄くなっているのに麦野は顔をしかめた。意外と、集中していたのだろう。
ここのトロピカルジュースとスモークサーモンのサンドイッチはお気に入りだったのだが。
外はかなり暗くなって、窓の外には光の海が広がっている。
この一体で一番高いビルである超高級ホテルの、最上階のプール。麦野たち四人はそこで遊んでいた。
いや、許しがたいことにリーダーである麦野沈利にだけ、仕事が割り振られたのだった。
「それにしても、麦野にそんな仕事を頼むなんて変な仕事だったねー」
「そうね」
「結局、どうなったの?」
「ん? さっきも言ったでしょ、あっちの勝ちだって。全部情報は取られちゃったし」
フレンダは首をかしげた。麦野沈利という女が、負けてこんな態度のはずがない。
そしてそもそも、電脳戦で負けるなんてことがあるはずがない。仮にもレベル5の発電系能力者が。
その表情から言いたいことを汲み取ったのだろう、超然とした微笑を麦野は浮かべた。
「負けたのは私が加担した側ね。私個人では、勝ってるわよ」
「なんだ。まあ当然だよね。結局麦野が一人勝ちって訳ね」
「結果はそうだけれど、なかなか面白い相手だったわ」
「へえ」
麦野にそう言わせる相手は、遊び相手として面白いくらいの実力があって、そして麦野に完敗した相手だ。
電脳戦そのものにはそう強いわけでもない麦野だが、ひとつだけ、専門があった。
「発電系能力者<エレクトロマスター>ってのは電子や光子一粒、ってくらいの世界になると、途端に甘さを露呈しだすのよね。まとまった流れが無いと扱えないのかもしれないけれど」
「ふーん?」
「あれ、麦野、終わったんですか?」
「ええ。絹旗は泳いでいたの?」
「来たからには超泳いでおかないと損ですから」
こちらに気がついたのか、フラフラと滝壺も漂いながらこちらに近づきつつある。
麦野はちゃぷ、とプールサイドで水を掬って、自分の足にかけた。
もとから体を濡らしていた三人はすでにプール内で待っている。
軽くだべりながら、ビニールの玉でバレーもどきの遊びをするつもりだった。
太ももに塗り、胸にかけ、足を浸す。四人ともそうだが、真夏にこの長い髪は暑いことこの上ない。
じゃぽんと音を立てて水に入って、髪を濡らすと気持ちよかった。

麦野が引き受けた仕事は、今晩、ハッキングされるかもしれないある研究施設を、監視することだった。もちろんネットワーク上で、だが。
つまらない仕事のつもりだったから、わざわざプールサイドにまで出てきて、せめてもの慰めにするつもりだったのだ。
だが、意外な収穫があった。
たぶん、自分が今日情報を抜き取っていく様を眺めていたその相手は、御坂美琴。
最強の発電系能力者だ。

麦野は自分を発電系能力者だと思っていない。電子に関わる能力でありながら、麦野は電流操作なんてほとんど出来なかった。
電磁場の制御なんて、きっと麦野は御坂に逆立ちしたって勝てないだろう。
それを悔しいとは思わない。魚に嫉妬する水泳選手がいないのと同じだ。

ただ、唯一の自分の土俵で、麦野は勝った。
仮に麦野がレベル4ならあちらには勝てないだろうから、自分の土俵といっても相手が何も出来ないほどの場所ではない。
その土俵というのは、量子的な情報の盗みの上手さ、だ。

この世に存在するあらゆるものは波でありそして同時に粒である。
観測によって粒らしさ、波らしさのどちらの特性を発現するかは決まるが、観測されない限りはそれは『未定』なのだというのが、いわゆるコペンハーゲン解釈だ。
麦野はそんな物理の常識を超越する。人間の五感、理性においては矛盾するはずの二つの特性、それをコントロールするのが最も上手い能力者が、麦野沈利だった。
御坂美琴とて相当の手練であり、実際研究所のセキュリティはまるでハッキングに気づいていなかった。
だが、その美琴に、自らが監視されているのを気づかせないだけの実力が、麦野にはあった。
「ねえ、例えば、自分のクローンが突然目の前に現れたら、どう思う?」
「気持ち悪ーい」
「超嫌ですね」
「私は、あんまり気にならないかも」
返事はどうでも良かった。一番聞いてやりたい相手は、御坂美琴だったから。
美琴がひったくったものを、麦野もこっそり閲覧していた。
学園都市の『闇』の中でもトップクラスに生ぬるいプロジェクトの、最終報告。
ハン、と麦野は笑う。超電磁砲がアレで満足したんなら本当に脳みそお花畑だ。
学園都市が、まさか超能力者のモルモットを簡単に手放すわけがない。
レベル2程度だろうと、どんなことをしてもどこからも文句の出ない能力者で、しかも何でも好きに教えこめるのだ。遊び甲斐なんていくらでもある。
「そんなのがもしいたら、ちゃんと本人には伝えてあげるのが、優しさよね」
店先でお気に入りのおもちゃを見つけた、そんな顔を麦野は見せていた。
ニィ、と嬉しそうな笑顔を浮かべて。
学園都市最強の発電系能力者<エレクトロマスター>は御坂美琴だ。
だが、量子の風の使い手、『電子使い<エレクトロン・マスター>』としては、第四位、『原子崩し<メルトダウナー>』麦野沈利のほうが上、そういうことだった。



[19764] interlude08: 電話をする人しない人
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/01 01:22

「これとこれは、もう要りませんわね。勿体無いですけれど、仕方ありません」

確認するように光子は自室でそう呟く。
もうじき黄泉川家へと引っ越すので、その荷造りの前段階、要らないものを捨てる作業に入っているのだった。
光子に割り当てられたスペースは今いる寮の自室の半分くらいだ。それなりに私物は捨てるなり、実家に送るなりしなければならない。
「せっかく揃えましたのに……。飾るスペースがないのでは仕方ありませんけれど」
大きな棚を埋め尽くすように静かに座った西洋人形たち。光子の部屋にはもう一つ棚があって、そちらには主に文学小説が並んでいる。
棚の端っこには漫画がある。当麻に借りたものと、話を聞いていて気になったものだった。当麻と同じ物語を共有したのが嬉しくて、ここ最近で一番読んでいるのはこの漫画だった。
この棚の半分以上は実家に送らないと、黄泉川家には入らない。
一番広い部屋を貰えたとは言え、黄泉川家は庶民向け家族用マンションだ。
そんなところペットのニシキヘビ、エカテリーナのための巣箱とエサ用冷蔵庫、さらには勉強机まで置こうというのだから、すでにそれだけで手狭だ。
ちなみに光子はベッドも入れようとしたのだが、計画段階で黄泉川に駄目出しをされてしまった。
常盤台の寮で使っているベッドは光子の実家から持ち込んだもので、ゆうにダブルベッド級のサイズだから部屋に入りきるはずがない。
ではどうすればいいのかと聞くと、カーペットが敷かれただけの床に直接布団を敷いて寝るべし、とのことだったが、布団は畳に敷くものという常識を持っている光子には仰天モノだった。
そのアドバイスに従うことにしたのは黄泉川の一言のせいだ。
曰く。『下宿暮らしなら珍しいことでもないじゃんよ。それに、上条はお坊ちゃんじゃないぞ? あいつと暮らすならこれくらい慣れとかないといけないじゃんよ』
だそうだ。その一言で光子の腹は決まった。
将来、婚后の家が当麻を応援すれば、光子は今と同じ暮らしをずっと出来るかもしれない。でも、そういうものがなければ、財閥の令嬢の暮らしをきっと当麻は維持できないと思う。若くて収入がないっていうのは、きっとそういうものなのだ。
惨めな暮らしをしたくないとは思う。本音としてそれはある。だけど、いつか迎えたい当麻との未来において、あれこれと文句を言うだけのお嬢様になんて、絶対になりたくない。できるなら当麻と苦楽を共にする、パートナーでありたい。
部屋が狭いくらいで、床に直接布団を敷くくらいで、文句を言うようじゃきっと駄目なのだ。
……ファミリータイプのマンション暮らしよりも新婚生活は貧しいであろうことまでは予想の埒外だったが、光子はそういう決意を持って、黄泉川家に引っ越すのであった。


捨てるものをまとめて、部屋の隅に置く。時計を見ると、いつも当麻と電話をする時間だった。
電話は何時間でもしたくなるけれど、大体20分から1時間くらいと決めていた。
会えなかった日は必ず、どちらからか電話をする。デートをした日も今日の楽しかったことを二人で思い出して、短めにかける。
当麻と同じ屋根の下で暮らした日々のギャップで、一人でいることがいつもに増して寂しかった。
今日はインデックスの通う学校に挨拶しに行ったはずだから、それも聞いておきたい。
光子は鞄に入れてあった携帯を取り出し、慣れた手つきで当麻に電話をかけた。
「もしもし」
「あ、当麻さん。私です」
「おう。元気してるか、光子」
「はい」
受話器の外の喧騒がいつもと違った。アニメらしい爆発音や女の子の声がする。
この時間のアニメではないから、録画だろうか。
「もしかして黄泉川先生のところにいますの?」
「よくわかったな」
「後ろでカナミンの音がしますもの」
「あー、なるほど。いまインデックスが必死だよ。いけーだのやれーだの」
そんなこといってないもん! という声がうっすら聞こえた。
「でも当麻さん、こんな遅くに先生の家から帰るのは危ないですわよ」
「大通りならまだまだ人はいるけどな。でも今日は泊まることになるかもな」
「え?」
「こないだから地震多いだろ? それも不自然なのが。そのせいで対策会議だの資料作成だのが大変らしくて、まだ先生帰ってきてないんだよ。インデックスを一人にするのも良くないしさ、帰ってくるまではいようと思って」
「そう、ですの」
「光子?」
「当麻さんは、インデックスと二人っきりですのね。まだ私だってそんなことしてませんのに……」
「い、いや仕方ないだろ? それにインデックスといたって何もないって」
「それは、信じていますけれど」
「だって考えてみろよ。光子と俺が二人っきりだったら、俺は理性保てない自信がある」
「えっ? も、もう! 当麻さんの莫迦。エッチなことばっかり仰るんだから」
「へー? 具体的に光子はどういうこと考えたんだ?」
「知りません! もう」
ちょっと声が大きくなったのを自覚して、光子は慌てて布団にもぐりこんだ。
顔までシーツをかぶって声を漏らさないようにする。
「インデックスに替わろうか?」
「あ、はい。でもカナミンに夢中じゃありませんの?」
「今終わったところだよ。ほれ、インデックス」
途中から当麻の声がインデックスに向けたものになる。
「あ、みつこ?」
「元気にしてますの? インデックス」
「うん。っていうか一昨日まで一緒だったんだからそこから急に変わるわけないよ」
「風邪でもひいていたら話は違うでしょう?」
「風邪とかは大丈夫だから。ねえねえみつこ」
「どうしたの?」
「今日、とうまと一緒にこれから私が通うっていう学校に行ってみたの」
「そうでしたわね。どうでした?」
「学校を経営してる教会は胡散臭すぎてちょっとどうかと思うけど……。でも司祭様もシスターの人たちも、あと友達になったエリスも、みんな良い人だったよ」
「もうお友達が出来ましたの?」
「うん。校舎を案内してくれたの。あー、それとね! 聞いてよみつこ! 当麻が水道から出たホースを踏んだせいで私とエリスの服に水がかかったの!」
「あら、それは災難ですわね」
「私もエリスも服が透けてきちゃって、とうまがジロジロ見てくるし」
「あらあら。当麻さんはやっぱり、当麻さんなのね。どこに行っても、何をしても」
お、おいインデックスと当麻の戸惑う声がする。光子は当麻への恨みを書いた心のノートに、この一件をしっかり記録した。
いずれ、電話ではないところできちんと問い詰める必要がある。
インデックスが話してくれた続きを聞いて、再び電話を当麻に替わってもらった。
「当麻さんのエッチ」
「む、替わってすぐがそれかよ」
「だって。一緒にいられないときに当麻さんはすぐそうやって他の女の人と仲良くするんですもの」
「そんなことないって」
「じゃあ今日は他の女の人とは会いませんでしたの?」
「ないない」
「もう……疑いだしたら切りがありませんから、これくらいにしておきます」
この流れで、当麻は布束先輩と美琴に会った話をする勇気はなかった。
実際、別にナンパだとかそういうわけではなかったのだし。
「光子は、今日は何してたんだ? たしか昼過ぎにはあの佐天って子の面倒を見てるってメール見たけど」
「ええ。今日は朝から佐天さんにお会いしていましたの。あの子、今日また一つ、レベルが上がりましたのよ」
「へぇ。たしか一ヶ月前にはレベル0だった子だろ? すごいな、そんなに上がるものなのか」
「才能がおありなんですわ。私と違って」
「そう言う光子はレベル4だろ?」
「……たぶん、レベル3もすぐですわ、あの子。私と肩を並べることも充分ありえると、最近思いますの」
今日佐天は、簡易検査でレベル2認定を受けた。
それは、幅広い知識を身につけ自分の能力を最適化することや、反復練習によって能力をより深く体に刻み込むことなしに、とりあえずで取れる点数がレベル2クラスだったということを意味している。
能力を使えるようになって一ヶ月どころか、まだ三週間にも満たない。『慣れ』という最も強い武器を未だ手にしていない佐天が、あと一ヶ月でどこまで伸びるか。
レベル4に届かないでいて欲しいと、そう嫉妬する自分がいるくらい、佐天は先が知れなかった。
「あの子みたいな方を、たぶん、天才というのですわ」
いい師だと自画自賛するのは気が引けるが、おそらく、彼女は指導者にも恵まれたのだろう。
ほんの少しの間に学べたことが、あれもこれも、能力を伸ばすのに活きている。
同時に心配の種でもある。これからは、むしろ花開くまでに時間の掛かる知識を詰め込む作業になる。
今までの伸びが急激なだけに、伸び悩みに屈しない気持ちの強さを持てるかどうか、それが問題だった。
「天才……か。そう言うって事は、光子もライバルって意識し始めてるのか」
「そうかもしれません。最近、私自身は伸び悩んでますの。だから余計に」
「そっか。ま、能力は人それぞれ。誰かと競争するものじゃないしさ、あんまり気にするなって」
「ええ。そうですわね」
それで良いと思う。光子も最近気づいたのだが、よく考えれば光子は誰とも競ってなどいないのだ。
自分の能力、可能性を広げたい、その思いでこの街にいるのだから、他人は関係ない。
学園都市は競争原理を持ち込んで能力者の開発をしていて、小さい頃から先生に誰彼より上手い下手だなどと言われなれているせいでつい引きずられてしまうが、仮にレベルが0のままだったとして、別に、誰かより劣るなどと考える必要はないのだ。
本当にこれっぽっちの劣等感も感じさせず、レベルで人を測らない当麻を、光子はとても尊敬していた。自分には中々それが出来ないがゆえに。
「俺もレベルが上がれば生活は楽になるから、それだけは羨ましいんだけどなあ」
「ふふ。でも当麻さんみたいな『原石』の方には、レベルという概念自体が無意味なのかも知れませんわね」
「原石?」
「そういう名前が付いていると、常盤台指定のヘアサロンで耳にしましたの。学園都市に来るより前から、何らかの能力を身につけていた人のこと、らしいですわ」
「へー。たしかに俺、その定義のとおりだな」
「私達が養殖で育った能力者で、当麻さんが幻の天然超能力者、ということなのかしら」
「なんかそれ全然嬉しくないぞ。ブリか鯛みたいだ」
「ごめんなさい。でも、原石なんて意味深ですわよね」
「え?」
「だって、磨けば光る、ということではありませんの? 当麻さんの能力も、もしかしたら」
「んー……、別に、昔っから何も変わらないけどなあ」
あまり興味なさそうな当麻だった。
電話している時間はかれこれ20分くらいだろう。
布団の中に篭もっている光子のほうが、実はいつも先に眠くなるのだった。
当麻の声を聞いた後、そのまま眠るのが習慣になっていた。
「ねえ、当麻さん」
「どうした? 光子」
「明日、お暇はありますの?」
「特に予定はないけど、宿題やらないとな」
「もし、よろしかったらですけど、常盤台の寮祭にいらっしゃいませんこと?」
「寮祭?」
光子は、今日佐天に言われて思い出したことを、当麻に伝えた。
盛夏祭は学び舎の園の外にあるほうの寮でやるイベントなので、あまり興味がなかったのだ。
だが、当麻に会える唯一の手段となれば話は別。
「私も忘れていたんですけれど、明日は寮を外部の方に公開する日なのですわ。インデックスも暇でしょうし、それに」
「そこなら、俺と会える?」
「……はい。当麻さんの顔が、見たくって。来てくださいませんか?」
「勿論。俺も、光子に会いたいからさ」
「当麻さん」
光子はベッドの中で目を瞑る。布団の暖かみを当麻の抱擁に重ねて、抱きしめられているときを思い出す。
「好きだよ、光子」
「私も。大好きですわ、当麻さんのこと」
「じゃあ明日はデートするか。常盤台の寮で」
「はい、恥ずかしいですけれど……。そこでしか、会えませんものね」
「佐天って子も来るのか?」
「ええ。時間があったら紹介いたしますわね。あと、湾内さんと泡浮さんも」
「おー、話にしか聞いてなかった光子の友達と会えるんだな。楽しみだ」
「私じゃなくて、私のお友達の女性と会えるのが楽しみですのね」
「光子が一番なんて、言うまでもないことだろ? 受付なんだったら、出会い頭にそこでキスでもしようか?」
「だ、駄目ですわ! そんなの恥ずかしすぎて死んでしまいます! 大体当麻さんだって、恥ずかしくて出来ないくせに」
「さすがに人前ではなぁ。だから光子、人のいない場所、探しといてくれよ」
「え?」
さらっと言った当麻の一言が、光子の胸を高鳴らせた。
「会ってキスの一つもできないんじゃ、寂しいだろ?」
「……はい。わかりました」
「ちなみに人前で手を繋ぐのは?」
「あの、ごめんなさい。先生に目をつけられると、困りますから」
「そうか、それじゃあ、人前ではあんまりそういうのできないんだな」
「ごめんなさい」
「いいって。光子、声がだいぶ眠たそうだけど、もう寝るのか?」
「あ、はい。もういい時間ですし、このままがいいです」
「そっか」
当麻が歩く音がした。ガラガラとベランダの窓を開く音がして、家の中の音が遠ざかった。
理由はなんとなく分かった。きっと、インデックスに聞かれるのが恥ずかしいのだろう。
「光子」
「はい」
「愛してる」
「ぎゅって、してください」
「ぎゅーっ。……はは、光子可愛いな」
「当麻さんのためだったら、いくらでも可愛くなりたい」
目を瞑って、当麻に抱きしめられているつもりになって、話をする。
話の中身だとかには僅かに差異があるが、この中身のないピロウトークはほぼ毎日の、寝る前の儀式なのだった。
「こないだ町で俺の同級生に会っただろ? アイツ、あれから羨ましいしか言わねえんだよな」
「そうですの」
「正直、光子と付き合ってなくて、光子みたいな可愛い子の彼氏やってる友達見たら、羨ましいしか言うことないと思う」
「嬉しい。もっと褒めて、当麻さん」
「光子は最近可愛くなった。なんか、甘え方が上手になった気がする」
「ふふ。ずるくなったとは言わないで下さいましね?」
「ずるくても可愛いからいいよ」
「じゃあ、もっとずるくなりますわ。……ねえ当麻さん、外は暑いでしょう? そろそろ私は寝ますから、当麻さんも部屋にお戻りになって」
「ああ、じゃあそうするな。光子、お休み」
「キスして、下さい」
「ん」
ちゅ、という音が耳に聞こえる。キスを聞かせるのが、互いに随分と上手くなった。
「光子も」
「はい」
耳に当てていた携帯を目の前において、音の受信部に口付けをする。
自分の気持ちが全部、当麻に伝わるようにと願いながら。
「光子、愛してる」
「私も。当麻さん、愛してます」
「それじゃあ、おやすみな」
「はい、おやすみなさいませ」
電話を切るのは、いつも当麻のほう。寂しくて切れない光子のかわりにやってくれる。
もちろんそれは寂しいことでもあるが、光子はいつまでも余韻に浸っていられる。
寝る準備は、もう済ませてある。
光子はベッドの中から出ることなく、リモコンで明かりを消して、眠りに付いた。
当麻が傍にいてくれる光景を、心の中に浮かべながら。






あと、1プッシュ。それで届く。

美琴の携帯電話のディスプレイに映るのは、
『今日はありがとね。あなたのおかげで、すぐに布束さんが見つかったし、問題も解決しました。お礼って程じゃないけど、もし明日暇なら、常盤台の寮祭に来ませんか? もしよかったらだけど、来てくれたら案内くらいはします』
というメッセージ。ホントに、ガラでもない。
アイツに敬語なんて使ったこと、一度も、いや、布束に言われたとき以外にはないのに、なんでこんな丁寧な表現のメールにしたんだか。
理由は、今日の夕方のやり取りだった。アイツには、常盤台の知り合いが他にいるらしい。
その子はきちんとした言葉遣いで話すらしい。まあ常盤台ならそのほうが普通だ。年上の男の人なんだし、生意気にアンタなんて呼ばれてうれしい事は無いと思う。
だから、お礼のメールくらいはちゃんとしたほうがいいのかな、とか、でもいつもとギャップがありすぎたら絶対笑われるし、本音の部分では軽く見ているのだと思われるのは嫌だなんてあれこれ考えてしまう。
黒子にばれないようにコソコソ何回にも分けて推敲を重ねたのに、送らないのも勿体無いわよね。
……まあ、あのバカに寮祭なんてそれこそ勿体無いかもしれないけど。お嬢様の多い場所で鼻の下なんか伸ばしたら承知しないんだから。
ルームメイトの白井は、今ちょうど入浴中だ。何をするにも、今ならばれない。
扉の向こうの音は、ちょうど髪か体を洗い流しているらしいシャワーの音を立てていた。
「やっぱり、電話にしようかな」
誰にともなく、そう呟く。電話なら言葉遣いで戸惑うことなんてない。いつもどおり喋ればいい。
頭の中で会話をシミュレートする。
『もしもし』『御坂美琴です』『おうビリビリか』『今日はありがとね。ねえ、明日うちの寮に来ない?』『え? 何しに?』『寮祭があってさ、その、案内くらいはするから』
「ああもう……。お礼に寮祭って絶対変じゃない。別に来てもらったって大してお礼は出来ないし。ってかアイツにお礼するほどのことしてもらってない!」
それならそもそも当麻を誘うという発想自体が要らないのだが、その考えに美琴はたどり着かない。
そして悩んでいるうちに、だんだんメールの内容まで陳腐に見えだして、送信ボタンを押す勇気がまた萎えてしまうのだった。
「『ウチの寮祭に興味ある?』って書くのは……なんか『はい』って言われても下心が見えてイヤ。かといって明日寮に来なさいって命令するのは全然話が通ってないし……」
ごろごろとベッドの上を転がる。
『明日よかったら、ウチの寮祭に来ない? 案内するから』ではどうだろう?
「駄目駄目。こんなんじゃ私がアイツに来て欲しいみたいじゃない。――――そんなわけ、ないんだから。っていうか、私の誘いなんか、むしろ断るほうが普通よね。追い回してばっかりで、仲良くなんてしてこなかったんだし」


断られたときをシミュレートしようとして、1ケース目で挫折した。
『よかったら明日、寮祭があるから来て』『悪い、忙しいんだ』『そっか、ごめんね?』『おう、じゃ』
この反応ならいいほうだ。せっかく誘ったのに、断られたら怒ってしまうかもしれない。
『来て』『忙しい』『せっかく誘ってやってるのに何よその態度!』『はあ?』
……こうなるとお終いだ。次に会ったときにもうこれまでどおりには話せなくなる。
電話をするからには、疎遠になんてなってはいけないのだ。
「やっぱりメールにしようかな……。でも、男の人にどれくらい顔文字とか付いたメール送っていいかわかんないし。それに黒子とでも内容の取り違えで喧嘩するんだから、アイツとならなおさら……。よし、腹をくくれ御坂美琴。ただ電話をちょろっとかけるだけじゃない。ハッキングと違って、緊張なんか要らないのよ」
メールを保存して、アドレス帳を開く。上条当麻という名前の検索は10回以上はしたので、慣れたものだ。
あとは、これまた1プッシュで当麻に電話が繋がる。

押せ押せ押せ押せ。あとそれを押したら、もう後はなるようになるに決まってる!
たかが寮祭にちょっと誘うだけじゃない! つまんないことでウジウジするのは私らしくない!
ほら、さっさと指、動いてよ! 動けっつってんのよ!

力の入らない親指を、コールボタンの上に乗せた。あとはぎゅっと押し込むだけ。左手を上から添えて、出力不足を補う。
これを押して、アイツを誘って、寮の中を案内したりお昼ご飯を二人で食べたり、その後のヴァイオリン独奏を聞いてもらったりするだけじゃない!
別に変な意味なんてないし、さっさと電話すればいいのよ!
「もう一度息を吸ったら、ボタンを押す!」
それは自分への宣言だった。残った息を肺から追い出す。
急に仕事をしだした心臓に苛立ちを覚える。なんで緊張してるみたいにドクドク言うのだ、今このタイミングで。
スゥゥゥゥゥ、と美琴は息を吸い込んだ。
もうどうにでもなれ、と思いながら親指にグッと力を込めて――――
「ああ、いいお湯でしたわ。お姉さまも早くお入りになったら……って、床に転げ落ちるなんて何をしていおられましたの?」
「なななななななんでもない! 別に何もしてない! ちょっと携帯弄ってたらベッドから落ちただけ!」
「だけ、って。それは充分おかしなことだと思いますけれど。それでお姉さま。まだ入られないんでしたらお風呂のライトを消しますわ」
「入る入る! すぐ入るからそのままにしといて!」
「はあ。……まあ、言われた通りにはしますけれど」
テンションが高いというか、やたらめったらに慌てている美琴にいぶかしみながら、黒子は体を流れる水の雫をぬぐった。
美琴は開きっぱなしの携帯をベッドに上にぽんと放り出して、パジャマと下着の準備を始めた。


「もしもし? なあ、返事してくれビリビリ」
返事がない。ただのいたずら電話のようだ。
……とはいえかけてきたのが御坂美琴なのは電話番号で分かっているので、いたずらなのかもよく分からない。
何かの緊急事態かとも一瞬身構えたのだが、後ろで、『お姉さま、ご一緒させていただきますわ』『黒子アンタいま入ったところでしょうが!』
なんて平和な声が聞こえるので、どうもそういうわけでもなさそうなのだ。
「ねーとうま。またみつこから電話?」
「いや違う。光子は寝たからな」
「それじゃ、あいほ?」
「いや、先生もいい加減電話くれても良いと思うけど……今のは違う」
「じゃあ誰」
「まあ、知り合い、かな」
「女の人だよね」
「え?」
「とぼけても駄目だよ」
インデックスに、なぜか睨まれている。
それなりに遅い時刻に女の子から電話を貰ったというのは光子になら謝らなければならないような気もするが、インデックスには、こう言ってはなんだが関係ない。
「言っとくけど、俺からかけたんじゃないぞ。それに御坂のやつ、かけてきた癖に出やがんねーんだよ。わけがわかんねえ」
「ふーん。……浮気じゃ、ないんだよね」
「当然だ。ってかあっちも俺のことなんて別に気にしてないだろうさ」
「ならいいけど」
「俺と光子が喧嘩したら、心配か?」
インデックスの髪を撫でてやる。お風呂上りだからか、乾かしたものの僅かに湿りを帯びて、柔らかい。
「当たり前なんだよ。みつこは、とうまに嫌われたら絶対に落ち込むもん」
「いや、俺も光子に嫌われたら本気で落ち込むけど」
「とうま、やめよう。そういうの考えるの嫌だよ」
「だな」
くぁ、とあくびしたインデックスが、ソファに座った当麻の隣に腰掛け、そのままぽてんと倒れた。
「眠いなら布団に行けよ」
「まだ起きてる。あいほが帰ってこないし」
「そう言いながら俺の膝を枕にするな」
「しらないもーん。とうまだからいいの」
腰に手が回されて、ぎゅっとインデックスがしがみついた。
テレビの音量を落として、髪を梳いてやる。ものの数分でインデックスは落ちたようだった。
まるで子供をあやしながら夫の帰りを待つ主婦みたいだな、と自分の境遇を自嘲しながら、当麻は黄泉川を待った。






「佐天さーんお邪魔しますよー、って、寒っ!! なんですかこれ?!」
「あ、ういはるー。いらっしゃい」
今日は、七月の終わり。冷房のない外はうだるような暑さで、当然のことながら初春は半袖のシャツとスカートという夏向きの軽装である。
ところが初春を招いた佐天はと言うと、モコモコの半纏を着て、季節外れのコタツに入っているのだった。
「なんでコタツが出てるんですか……」
「え、なんでって。鍋にはやっぱコタツでしょ?」
「そもそもこの季節に鍋っていうのが分からなかったんですけど」
初春はさっき電話で、鍋するからうちにおいで、と佐天に誘われてきたのだった。
突拍子もないことを考える友人なのは知っていたから、夏に鍋ということはさては相当辛いヤツで汗だくになるイベントか、と覚悟していたのだが、どうやらおかしいのは鍋じゃなくて室内温度のほうだった。
電気代が、すさまじいことになっていると思う。
「エアコン何℃にしてあるんですか?」
「ふっふーん、エアコンは切ってあるよ」
「え? じゃあ」
「うん。窓から熱だけ追い出してる」
窓を見ると半開きになっていて、それをハンパにふさぐようにダンボールが目張りされている。
窓の上下二箇所が開いた状態になっていて、どうやらそこから換気扇みたいに空気をやり取りしているらしい。もちろんファンなんてどこにも見えないが。
「片方の口から部屋の中の空気を追い出して、もう片方から外の空気を入れてるの。んで、外の空気は取り込むときに熱だけ私の渦の中に溜めておいて、熱が一杯になったら外に捨てるって訳」
「こないだも人間エアコンやってましたけど、なんか随分性能上がりましたねー……」
この前は、室内で渦を作って、佐天が窓際に歩いていって渦を捨てる、という動作を必要としていた。それで普通の冷房並みの温度に保っていた。
今日はどうやら、窓のところに定常的な渦を作って、それを制御しているらしい。
ぶるりと初春は体を震わせた。エアコンの設定温度なんてどれだけ頑張っても20℃くらいのものだが、この部屋の温度は、どう考えてもそんなレベルじゃなかった。
「ほら見て初春。なんかキラキラして綺麗でしょ?」
「え、ちょっ……佐天さん! それダイヤモンドダストです! 冷やしすぎですよ!」
「え? ダイヤモンド?」
知らずに作っている同級生に初春は頭痛を覚えた。
道理で寒いはずだ。まさか、氷点下とは。高い湿度、緩い風。確かにダイヤモンドダストができる好条件は整っている。
すでに準備が終わっているらしくコタツの上にはガスコンロと切った野菜、そしてお肉が並んでいて、電灯付近でキラキラ瞬く細氷のせいで文字通り肉が霜降りになりかけていた。
ここで夏服の自分が過ごすのは、どう考えても無理というか無茶苦茶というか。
「ほら初春。そんなカッコじゃ風邪引くよっ」
「あ、ありがとうございます。じゃなくて佐天さん! 何もこんなに冷やさなくても」
「え、でも今からお鍋だよ? 寒いほうが美味しいじゃん」
「やりすぎです! 佐天さんのご実家だって、まさか氷点下の室内でお鍋なんてしないですよね?」
「当たり前でしょ。それに空気は冷たいんだけど、床とかが全然あったかいんだよね。だから大丈夫」
「あ、ホントだ……」
佐天は空気なら冷やせるが、他のものは間接的にしか冷やすことが出来ない。
真冬の建物は真冬並みの温度になっていてすこぶる冷たいものだが、ここはそれとは違い、地面なんかは真夏の温度から冷えていっているところなのだ。
地べたに座り込んでも、腰が冷えるような感覚は覚えなかった。
……意外と、いいかもしれない
「じゃ初春、さっさとご飯にしよっ。私のこの能力も、長くは持たないし」
「あの佐天さん、食べながらコントロールするって大変なんじゃ」
「んー、でも毎日やってるからね。もう慣れたかな?」
佐天は今月の電気代を見るのが楽しみだった。
エアコンを自分が肩代わりすると全くといっていいほど電気が要らないので、恐らくは春先よりも電気代は下がるだろう。自己最安値を更新するだろうと見込んでいた。
エアコン修行は、何気に一番お気に入りの修行だ。
帰宅から就寝までの5時間くらい、常に冷やさないとあっという間に室温は上がるし、お風呂上りを涼しくしたいなら入浴中も能力を保たないといけない。
そして渦の形や熱吸収の効率など、工夫するポイントはいくらでもある。
……それが本当はレベル1の能力者にとってどれほど過酷なはずの修行なのか、あっさりと今日、レベルアップを果たした佐天にはまるで分かっていなかった。
「実用性のある能力が使えたらレベル3って言いますけど、佐天さんってもうその域にあるんじゃ」
「うーん、でもエアコンのほうが疲れないわけだし、実用性って言われると微妙じゃない? あ、でも、ほら」
佐天は財布からIDカードを取り出した。光子は交付は明日だと言っていたが、面倒見のいい担任が、今日のうちに認可して、カードを作ってくれたのだった。レベル2と刻印された、佐天のカードを。
「えっ? レベル……2?」
「うん。今日、上がったんだ」
「すごい! すごいじゃないですか佐天さん! こんなにあっという間にレベルがまた上がるなんて。これちょっとした話題になるレベルですよ!」
「あは。ありがとね、初春」
「ゆくゆくは御坂さんを超える逸材に……」
「ちょっと、それは無理だって。御坂さんレベル5だよ?レベル2になっても大人と子供くらいの差はあるんだから」
「じゃあ白井さん超えで」
「いやレベル4もあんまかわんないでしょ。そういうことは、もっと伸びてから言わないとね」
謙遜する佐天を初春は見つめる。レベル4の白井に並ぶことを、無理とは言わなかった。
さすがに学園都市で7人なんていう超エリートは見据えていなくても、佐天は今、とても高い場所を見つめている。憧れではなくて、手の届く場所として。
そんな風に親友が前を向いてくれてるのが嬉しかった。
「佐天さん。お腹すきました。晩御飯食べましょう」
「だね。じゃあ、ささっと用意するから」
足が冷えてきたのでコタツにもぐりこむ。
真夏に半纏とコタツで鍋をする、というのも、意外と悪くないものだと初春は思った。



[19764] interlude09: 盛夏祭開始!
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/04 23:42
「光子」
「当麻さん! 会いたかったです!」
「俺もだよ」
「おはよ、みつこ」
「インデックスも来てくれましたのね」
「とうまが遊びに行くのにおいてけぼりはやだもん」
昼前の、常盤台中学女子寮。
二つあるうちの、光子たちが今いるのは学び舎の園の外にあるほうだ。
普段光子が暮らしているのはこことは別で、美琴や白井が住む場所となる。
今日は盛夏祭、つまりこの女子寮の寮祭で、一般に対して寮が開放される日なのだった。
光子は朝から、入り口で受付の仕事をしていた。当麻が来るというので急遽引き受けた仕事だ。
ここなら絶対に当麻に会えるので、好都合だった。実際、一目見ただけで光子は心が躍るのを感じていた。
「あの、こんにちは」
「ええと、ごきげんよう」
光子はインデックスと当麻に満面の笑顔で挨拶をして、そして二人の後ろからおずおずと出てきた女の子に、
お互い戸惑いながらの挨拶をした。光子の知らない、金髪の少女。
「昨日知り合ったばかりなんですけど、インデックスが遊ぼうって言ってくれたからついてきました。この子が二学期から通う学校の生徒で、エリスって言います」
「インデックスがお世話になりますのね。こちらこそよろしくお願いしますわ。私の名は婚后光子と申しますの」
「はい、お二人から色々伺ってますよ。上条君の、彼女さん……なんだよね?」
「ええ、そうですわ」
にこやかに会話をするエリスと光子の隣で、当麻はぶるりと震えた。
いつもの五割り増しで愛想を振りまく光子の顔が、明らかに怒っている時の笑顔だった。
「まったく当麻さんたら。初対面の私達をほったらかしにして他の女生徒に目移りなんて、よっぽど私じゃ退屈なのかしら」
「えぇっ? いや、そんなことないって!」
「……ふふ。上条君は婚后さんに頭上がらないんだね」
「う、茶化すなよ、エリス」
「あはは。ごめん」
「……本当、当麻さんはどこでも女の人と仲良くなってくるんですから」
面白くなさそうに光子が呟いた。
「本人の前でいうのもアレだけど、エリスとはなんでもないって。第一、エリスには惚れてる相手がいるし」
「もう! 上条君、ていとくんのことを言ってるって分かるけど、そういうのじゃないよ。私とていとくんは」
ちょっとエリスは光子に申し訳なく感じていた。そりゃあ彼氏が知らない女と一緒に歩いていれば気に入らないだろう。
エリスが同伴した理由は、第一には教会に取りに来てもらう予定だった書類を届けることになったついでだからというのと、本音としては垣根と二人で夕方の街を歩く前に、女の子の知り合いがいるところで、日中に出歩いておきたかったから。
垣根には悪いが、一番初めが男の子と二人っきり、というのはやっぱり怖いのだった。その点、インデックスとは話しやすいし、同伴の上条は彼女持ちだからエリスをそういう目で見ない。
そんなこんなで、急遽、光子には不本意であろう形で話が決まったのだった。
「みつこ。その、エリスは私が連れてきただけだから。今回はとうまは悪くないんだよ」
「もう。みっともないって分かりましたから、あまりフォローをしないで頂戴」
エリスに嫉妬して当麻と光子の空気が悪くなったのを気にしたのだろう。今回に関してはその一因を担っているインデックスが、一言挟んだ。
その状況を察してか、エリスがインデックスに声をかけて、当麻から少し距離をとるようにしてくれた。
「当麻さんの莫迦」
「む、俺は光子以外の女の子に愛想振りまいたりなんてしてないぞ」
「じゃあどうして女性の知り合いが増えますの?」
「どうしてって、たまたまだよ。……ところで光子、受付、しなくていいのか?」
「えっ?」
名前くらいしか知らない、受付担当の生徒達が興味津々と言う顔で光子たちのほうを見ていた。
慌てて光子は当麻と距離をとった。


「じゃあ、光子が仕事終わるまで、適当に見て回ってるよ」
「はい、時間になったら、待ち合わせ場所にすぐ向かいますから」
「おう」
当麻の後ろにも入場希望者が集ってきている。インデックスとエリスはすでに先行して、敷地内をふらふらしているようだ。
迷惑にならないようにと当麻が光子の傍を離れようとしたところで。
「ごきげんよう婚后さん」
「お勤めご苦労様ですわ」
「ああ、湾内さんと泡浮さん」
光子の友人である二人が、校舎のほうから歩いてきた。
わざわざ受付に来たのには目的があるらしく、どう見てもそれは視線の先にいる、当麻だった。
「あの! もしかして、こちらの方が?」
「えっ? ええ……はい。そうですわ」
茶色がかったふわふわした髪の女の子と、清楚な感じのストレートな黒髪の女の子。
どちらも穏やかな顔をしていて、当麻の知っている二人の常盤台の女の子、光子と美琴のどちらよりもとっつきやすい感じの女の子達だと思う。
その二人が、光子への挨拶もそこそこに、興味津々と言う顔で当麻に近寄ってきた。
「あの! お名前でお呼びして不躾ですけれど、当麻さん、でいらっしゃいますか?」
「あ、うん。そうだけど」
「はじめまして。私、婚后さんの後輩で、湾内絹保と申します」
「私は泡浮万彬と申します。婚后さんにはお世話になっています」
「あー! 光子のよく話してくれる二人だな。俺は上条当麻だ。俺が言うことじゃないかもしれないけど、光子と仲良くしてくれてありがとな」
「お名前を存じ上げていなくてすみません。上条さん、でいらっしゃいますのね」
「本当に婚后さんにはお世話になっていますし、その、失礼ですけれど上条様のお話も、いつもとても楽しく聞かせていただいておりますわ」
「いつもって、光子はどんな話してるんだ……?」
「上条さんとどこへデートで行っただとか、どんなふうに髪を撫でてくださったかだとか、あとは、その……ね?」
「ええ、これはご本人の前では言えませんわ」
きゃっと頬に手を当てて、二人で恥ずかしがりながら微笑みあう。
つい昨日、ファーストキスの日付をばらしてしまった光子は、二人の反応の意味を理解して真っ赤になった。
「み、光子。別に話されて困ることはないけど、さすがにあんまり詳しくは……」
「ご、ごめんなさい。でも私だってなるべく惚気話なんてしないように気をつけていますのよ」
「まあそうでしたの? 婚后さん。私達も楽しみにしていましたけれど、婚后さんもそうとばっかり」
「もう! からかうのはおよしになって! 当麻さん、受付の仕事もしなければいけませんから、そろそろ中にお入りになって。交代の時間になったら、待ち合わせ場所に伺いますから」
「お、おう。そうだな」
女子校で自分の彼女と、その彼女から色々聞いた女の子達に囲まれる。
なんというか、ちょっと嬉しいところもあるのだが、動物園の動物になった気分だった。
さっさと退散してインデックスに合流するかと当麻が思ったところで。
「もしよかったら私達が案内しますわ。上条さん」
「え?」
「あら、湾内さん、積極的ですわね」
泡浮が少し驚いた顔をした。湾内は女子校育ちで、学校の先生のような人を除いて、基本的に男の人が苦手だからだ。
たぶん、分類で言えば当麻は苦手な部類に入るはずだ。
「心配してくださらなくて大丈夫ですわ、泡浮さん。知らない殿方にはやっぱり怖い感じを受けますけれど、なんだか上条さんは大丈夫ですの。婚后さんに優しい方だと聞いておりますし、今お会いして、そのお話に間違いないように思いますから」
ね、と微笑んでくれる湾内に当麻はドキッとした。
年下の子の年下らしい可愛らしさというのはこういうものだと思う。
光子よりはストレートに可愛らしい感じだ。もちろん、惚れてるのは光子にだが。
「あらあら当麻さん。鼻の下がずいぶん伸びてらっしゃいますわ。治してさしあげたほうがよろしい?」
おっとりと困ったわねえ、という表情で頬に手を当てて光子が首を僅かにかしげる。
遠めに見るとホントにちょっと困ったという感じの態度のお嬢様にしか見えないのだが、ゆらりと立ち上る気炎はぶっちゃけ当麻にはよく見えるしちょっとドス黒い感じなのだ。
「そそそそんなことないって!」
「鏡なんて当麻さんはお持ちでないし、気づかれないんでしょうけれど。本当に伸びてますもの。もう、どうしたら当麻さんはこの病気を治してくださるのかしら」
「だから別に鼻の下なんか伸ばしてないし、光子以外の女の子に気持ちが行ったことなんてないぞ」
「……もう」
周りを気にして当麻が小声でそう伝えると、まだまだ言い足りなさそうな顔をしながら、光子はしぶしぶと引き下がった。
受付の仕事を再開しないと、受付に人が並んでしまいそうだ。
「それで、話を戻しますけれど。もしよかったら私達でご案内しますわ」
「あ、ああ。連れが他にいて、そっちもまとめてでお願いしたいんだけど」
「承知いたしました。それでは参りましょうか……あっ、湾内さん」
「えっ?」
そこで。突然泡浮に呼ばれた湾内が、振り返った。事情は当麻にはよく分からなかった。
ただ、湾内は当麻の横を抜けて先導しようとしたところであり、呼ばれた自分ではないのに当麻も振り向いてしまったことで、自分と湾内の位置関係があやふやになったのは確かだった。


ふよん、と手の光に柔らかい感触が乗ったのを、当麻は感じた。


「へ?」
「あっ……えっ。あの」
お互いになんだか分からない顔をして、至近距離で湾内と当麻は見つめあった。
湾内にとって、人生で最も男の人に接近された経験だった。恋人との距離、と言える短さだ。
一瞬の無理解が生んだ空白を経て、湾内はさあっと頬に血が上って行くのを自覚した。
初めて、男の人に胸を触られた。
「ごめんっ!」
すぐに当麻が真剣な顔をして謝った。湾内もショックだったが、だけど嫌悪感のようなものはなかった。
事故だとすぐに分かったし、謝ってくれる態度が誠実だったから。
動転しながらも赦す笑みを返すとほっとしたように当麻が笑い返してくれた。やっぱり優しい方だなと湾内は思った。
……そして、気づけば満面の笑顔の光子に睨まれていた。当麻だけじゃなくてどうやら自分にまで笑顔の矛先が向けられていた。
「こ、婚后さん、お許しになってあげてくださいな。上条さんは悪気はありませんでしたから。私も、すこしはしゃぎ過ぎてしまって」
「……当麻さんはこういう人ですから、湾内さんもお気をつけになって。それで、大丈夫でしたの? 湾内さん」
光子の怒りがおおよそは当麻に行っているのにほっとしながら、湾内は自分の男性恐怖症を気遣ってくれた光子に微笑を返す。
「はい。上条さんにでしたら、私」
「えっ?」
「わ、湾内さん?!」
上条さんは婚后さんの彼氏さんですから心配していません、と伝えたはずだったのに、酷く光子と泡浮に驚かれた。
それで自分の言った言葉を反芻して、やけに深遠なことを言っているように取れることに気がついた。。
「ちち、違いますの! そういう意味ではなくって、婚后さんのお付き合いされてる男性だから、気にならないというだけですの! 別にその、婚后さんがいま思い浮かべてらっしゃるようなことじゃなくて!」
真っ赤になった湾内が、弁解という名の泥沼にはまるのを、一緒に溺れながら当麻は優しく見つめた。
この先どれほど当麻に問題がなかろうとも、湾内が余計なことを言うたびに、光子の沼が深くなるのは確定なのだった。






当麻の後姿が建物の中に消えたのを確認して、光子はため息をついた。乙女の園、常盤台中学に当麻を呼んだのは浅はかだったかもしれない。
学校に来る前から知らない女を連れてきた。そして建物にも入らないうちから、あんな風に湾内と仲良くなった。湾内もあんな思わせぶりなことを言わないでくれればいいのに、と思う。
心の中にわだかまるモヤモヤしたものを顔に出さないようにしながら、笑顔と元気よい挨拶をして入場者を迎えていく。
多くは来年常盤台に入るつもりらしい小学生の女の子達や、その保護者らしき人。そして同年代であろう女子中学生たち。
……その中に、見知った顔があった。うち一人は寮など見ずとも、つい昨日常盤台の敷地にいたくらいだ。
「ごきげんよう、佐天さん。それと、初春さん、でよかったかしら」
「は、はい! ご、ごきげんよう、婚后さん」
「その挨拶、初春が真似しても全然しっくりこないね。こんにちは、婚后さん」
昨日もそうだったが、街中で会うよりも佐天の装いが良家の子女らしい感じになっている。
襟付きの白いシャツの上から紺のカーディガンを羽織り、ベージュのパンツを履いている。パンツの裾が短くサンダルを履いているのは夏らしかった。
初春のほうも、薄手だが長いスカートを履いていた。いつものことながら、髪飾りに生けた花が可愛らしい。
「昨日は寮祭のこと、思い出させてくださって助かりましたわ」
「どういたしまして、って……もしかして、婚后さん?!」
佐天が寮祭のことを話に出してくれたおかげで当麻と会えた。そのことに礼を言うと、目を煌かせて佐天がこちらを見た。
まあ、言いたいことは、分かる。
「……ええ。お呼びしましたわ。だって、会いたかったですもの」
「おおおおおおおおおお!!!」
「え? どうしたんですか?」
話を聞いていないらしい初春が、困惑しながら光子と佐天の顔を往復で見た。
「婚后さんの彼氏さんが、今日ここにきてるんだってさー!」
「ちょ、ちょっと佐天さん! 声が大きいですわ。先生方に見つかったらなんて言われるか……」
「あ、すみません。でも気になるよね初春っ! ……初春? ちょっとどうしたの?」
「婚后さんのお付き合いしてる人……はぅ。どんな人なんでしょう。やっぱり婚后さんに釣りあう人ですから、いいところの育ちで、すっごく紳士な感じなんでしょうか」
「聞いてないや、こっちのこと」
「もう……変な想像はしていただいても困るんですけれど」
普段の言動から佐天にはなんとなく初春の脳内のイメージ図が予測できた。
おそらく白馬にでも乗っているのだろう。あと歯はキラリと輝いているはずだ。
初春の想像図の雰囲気は察せた光子は、なんともいえない気持ちになった。
残念ながら当麻は光子の、というか常盤台の学生にふさわしい印象の生徒ではないだろう。
客観的に見てそうだということは、分かっているのだ。だけど勿論、当麻のことが大好きだ。
もし、初春が当麻を見てがっかりしたりするなら、それはすごく嫌だなと、光子は思う。
落胆されるようなところなんて、当麻にはないのに。
「それで、お二人の待ち合わせは……ああ、ちょうど来ましたわね」
「あ、ほんとだ。おーい御坂さん、白井さん」
自室から直接来たのだろうか、寮祭で公開されてない建物から二人は出てきた。
白井が挨拶をすると同時に、あきれたような顔になった。
「ごきげんよう、佐天さん。それと初春……の燃えかすですの? これ」
「燃えかすって酷いですよ白井さん!」
「初春さんなんか考え事してたみたいだけど、どうしたの? あ、おはよう」
ジト目の白井の一歩後ろから美琴が挨拶をした。
聞いてくれとばかりに、佐天が情報の売り込みにかかる。
「聞いてくださいよ御坂さん! 婚后さんが彼氏さん呼んだらしいですよ」
「へぇー! そ、そっか。やっぱそういう子もいるのよね。それじゃ仕事終わったら会うの?」
「え、ええまあ。呼んだからには会いますけれど」
努めて素っ気無い態度を光子は取るものの、彼氏持ちを羨む周囲の視線にちょっと優越感を感じる光子だった。
ケッ、という擬音がふさわしいような態度で、白井がそれに冷や水をかける。
「寮祭でカップルがイチャつくというのは随分と斬新ですわね」
「別に二人っきりで会うわけではありませんもの。私達の共通の知り合いも含めて案内するのですわ」
「そうですの。良かったですわ、婚后さんが破廉恥なことをなさる学生でなくって」
「ええ、貴女とは違いますもの。良識くらい、わきまえていますわ。白井さん」
カチンときた白井が光子をにらみ返す。
人のことをアレコレいえるほど、白井は常識人ではないだろうと光子は思うのだが、白井は白井でおかしいのは光子だけだと思うらしい。
「私が非常識なような物言いですわね」
「違いますの? 御坂さん」
「う、私に話振っちゃうか。……悪いけど黒子、フォローはしないから」
「そ、そんなっ! お姉さまの露払いとして恥ずかしくないよう、精一杯振舞ってきたつもりですわ」
「ああそう。アレが、そうだったのね」
ジットリと睨みつけられた白井が怯んだ。
いつものやり取りらしく佐天と初春は苦笑いで見ていたのだが、ハッと気づいたように佐天が美琴のほうを向いた。
「そうだ! 御坂さんは気になる人、呼んだんですか?」
「へっ? い、いやそんなわけないじゃない!」
「えー、呼ばなかったんですか?」
つまらない、と佐天は口を尖らせる。面白くなさそうに白井がそっぽを向いて嫌味を言った。
「昨日もお会いしておりましたのに?」
「ぅえぇっ?! 黒子なんでアンタ……!」
「お姉さま、まさか」
がばりと振り返る。ちょっとカマをかけただけだったらしい。釣れると思ってなかった大物が釣れてしまったようだ。
過剰反応する美琴を見て、白井が絶望的な顔をした。
「べべべべつに会ってなんかないわよ! それに別に誘うようなヤツじゃないんだから! あんなヤツここに来たらどうせ女の子みてヘラヘラするに決まってんのよ!」
「……」
ちょっと共感してしまった光子だった。まあ、殿方というのはそういう生き物なのだろう。
自分とて、きちんとした服装と仕草を身に着けた好青年と、だらしない青年なら、どちらに愛想良くするか。
おそらく平等には扱うまい。そういう論理で納得は出来ないが、そういうものなのだろう。
「それじゃ、時間も勿体無いですからそろそろ行きませんか?」
「そうですわね。初春が待ちきれないようですし」
「だってせっかくの常盤台ですよ! 今日はは最初から最後までリミッター解除ですから!」
ふんす、とこぶしを握り締めて初春が鼻息を荒くした。
「彼氏さんをまた紹介してくださいね、婚后さん」
「え、ええ。まああの人に佐天さんは紹介してくれって頼まれていますから」
「へっ?」
「よく私が佐天さんの話をしますのよ」
「あー、あはは。なんかちょっと恥ずかしくなってきました」
「それじゃあね、婚后さん」
「ええ、御坂さん。独奏頑張ってくださいね」
「うん、ありがと」
彼氏を呼んだ光子を羨ましそうな目で一瞬見つめてから、美琴は白井を連れて二人を案内しだした。






はしゃぐエリスとインデックスを後ろで見守りながら当麻が歩いていると、後ろから歩いてきた集団に見覚えのある女の子がいるのを見かけた。
案内役らしい常盤台の女の子が一人、私服の子が二人。大きな生花の髪飾りをつけた子に見覚えがあった。向こうも気づいたらしい。
「あっ。こんにちは」
「おう、こんにちは。たしか風紀委員の」
「初春です」
「ああそうだ、下の名前は覚えてたんだけど」
飾利という名前は髪に付けたアクセサリとよく対応しているからだ。
だがそれをどうも気障ったらしい意味合いに受け取ったのか、隣の常盤台の女の子が不審げな顔をした。
「初春。こちらは?」
「えっと……上条さん、でよかったですか?」
「ああ」
「こちら、固法先輩の中学時代のお知り合いの方で、上条さんです。春先くらいに町をパトロールしてるときに、ちょっとお世話になったんです」
「固法先輩の?」
「なんか親しそうだったんで固法先輩の好きな人だったりしないかなーって思ってたら、上条さんから固法先輩の本命の相手を教えてもらっちゃったんですよね」
「……初春。その話は後でじっくりしましょうか」
「いいですよ、白井さん」
ニヤ、と二人で笑ったところを見ると、どうやら常盤台の女の子、白井のほうも風紀委員らしい。
固法も大変だなあと当麻は心の中で思った。一昔前はワルの側にいてうるさいことは言わなかったのに、進学校に行って風紀委員になってからは固法はどちらかというと会いたくない相手だった。
「そういやさっき固法のやつをチラッと見かけたな」
「あ、そうなんですか。ところで上条さん、今日は誰に誘われたんですか?」
うっ、と当麻は初春の興味津々な態度に怯んだ。
あまり物怖じしない子だなとは以前会ったときにも思ったことだが、誰に誘われたのかを話すのはちょっと恥ずかしい。
入場チケットは当然、常盤台の生徒から貰っているはずで、それが誰かといえば、彼女からなのだ。
「あーうん、まあ。常盤台の知り合いからさ」
「知り合いじゃなくて彼女でしょ、とうま」
「イ、インデックス」
離れていたはずのインデックスが引き返してきて、女の子と仲よさげにしている当麻を睨みつけていた。
光子以外の女の子に光子を彼女ではないかのように説明するのは、インデックス的にはアウトなのだった。
それは、浮気である。
「上条さんって常盤台の彼女さんがいらっしゃるんですか?!」
「あ、ああ」
「あの! もしかしてそれって、婚后さんて人だったりしませんか?」
「へ? なんで……」
黒髪の可愛らしい女の子が、光子の名前をスバリと当ててきた。思わず怯む。
「私、佐天涙子って言います」
「お! それじゃ光子の教えてる子って」
それで当麻にも合点が行った。えへへ、という感じで佐天が頭をかく。
「はい、私です。白井さん! この人が婚后さんの彼氏さんみたいですよ」
「どうして分かりましたの?」
「いまそっちのシスターの子が、下の名前呼んでたじゃないですか。それで」
佐天と白井がインデックスのほうを見つめると、むーーっ!!と敵対的な目でにらみ返された。
連れと思わしき金髪の女の子が一歩離れて苦笑していた。
「とうま。この人たちとどういう知り合い!?」
「どういうって、初春さんは友達の後輩って感じで、佐天さんは光子がアドバイスしてあげてる子だ。言っとくけど疚しいことは何もないぞ」
「……まるで彼女に弁解するような口ぶりですわね」
光子の彼氏であるはずの当麻がインデックスの尻に敷かれているのを見て、白井は困惑していた。
「コイツはインデックスって言って、今度光子が一緒に暮らす相手だ」
「暮らす? 常盤台の学生は全て寮暮らしですけれど」
「あれ、知らないか。光子は今度寮を出て、インデックスと一緒に別のマンションで暮らすんだよ」
「そうなんですか? 昨日婚后さんと会いましたけど、そんなこと言ってませんでした」
微妙に佐天が悔しそうな顔をした。佐天は光子の弟子、インデックスは光子の妹。
ちょっとポジションがかぶってお互いに面白くないのであった。
「にしても。婚后さんとお付き合いする殿方にしては、いささか普通の印象の方ですわね」
「ちょ、ちょっと白井さん」
白井がストレートな感想を当麻の前で臆面もなく吐き出したのを見て、初春が焦った。
自慢が多く高飛車な婚后光子の事だから、彼氏もさぞかしお高く留まったお坊ちゃんだろうと思っていたのだ。
それが意外と、率直に言ってみずぼらしいどこにでもいそうな高校生なので、拍子抜けしたのだ。
「まあ、言いたいことは分かるけどな。光子がお嬢様なのは確かだしさ。でも光子は裏表のあるタイプじゃないしさ、うまいこと付き合ってやってくれるとありがたい」
「……ええ、そうやって頼まれた以上は、ある程度は応えますけれど」
軽く頭を下げた当麻に、白井は困りながら応えた。
あまり好きではない相手の彼氏だが、普通の感覚を持った人間のようだし、頭を下げられたのを無碍に扱うのは常盤台の学生としての沽券に関わる。
「これからどちらへ行かれますの? よろしければご案内しますわよ」
「ああ、ありがとう。でももうじき光子と合流できるからさ、大丈夫だ」
「そうですの」
エリスが頭を下げ、インデックスが不満げに佐天から視線を外す。
光子に嫌な思いをさせそうで湾内と泡浮の案内も断ったので、白井の申し出も同じ理由で遠慮した。
待ち合わせ場所は食堂だ。少し早いが、混む前に食べたほうがいいだろう。当麻は軽く手を上げて、佐天たちから離れた。
後姿を見つめる佐天が、耳打ちするように白井に呟いた。
「後で御坂さんにも教えてあげなきゃいけませんね。婚后さんの彼氏って、結構いい人みたいでしたよって」
「別に私はどちらでもよろしいですわ。どうせそんな話をしたら、上条さんなどそっちのけで、ご自分の気になる『あのバカ』さんのことでお姉さまの頭の中は一杯になるのですわ」
ふんっと詰まらなさそうに白井がため息をついた。美琴は午前に割り当てられた雑用をこなしているところだった。






「ごちそうさま、っと」
「よく食べましたわね、当麻さん」
「バイキングだとやっぱな。……まあ、あっちには到底かなわないけど」
「当麻さんより食べるって、どういうことなのかしら」
光子と合流して、当麻たちは昼食を摂り終えたところだった。エリスとインデックスは当麻と光子から離れ、料理に近い場所に席取っている。
エリスがこちらに遠慮をしたのもあったし、インデックスが料理に心奪われたのもあった。
ようやく二人っきりになれて、光子は食事をしながらチクチクと当麻に恨みつらみを吐き出していたのだが、お腹が一杯になって怒りも収まったのか、ようやく態度が柔和になってきたところだった。
……のだが。
「あれ、舞夏か」
インデックスの席に近づくメイドが一人。当麻のクラスメイト、土御門元春の妹の舞夏だった。
光子はいつもなら瞬間的にさっと嫉妬の炎を燃え上がらせるものだが、余りにも今日は回数が多いので少々反応は鈍かった。
はあっとこれ見よがしにため息をつく。嫉妬の火種が深いところまで浸透しているので、完全な沈火はいつもより大変そうだった。
「当麻さん。次は誰ですの?」
「い、いや。クラスメイトの妹だよ。兄貴が寮の隣部屋に住んでてよく飯を作りに来てくれてるらしい」
「そうですの。それはそれは、当麻さんとも仲がよろしいんでしょうね」
「そんなことないって。第一、舞夏に手を出したら土御門のヤツに殺される」
「そのわりには下の名前でお呼びになって」
「それは兄貴と区別するからで」
「じゃあお兄さんのほうはどうして苗字なんですの?」
「男同士で下の名前で呼ぶのはないだろ」

当麻が必死に光子をなだめているのを横目に、インデックスは舞夏に問いかけた。
「それで、あなたは何をしにきたの? バイキングだし、沢山食べて怒られるのは納得行かないんだよ」
「怒ってはいないぞ。料理の責任者だから、食べてもらえて勿論嬉しいからな」
「じゃあ何?」
「まだ食べるのか聞こうと思ったんだ。それなら用意しなきゃいけないからな」
「んー、もう八分目だし、あとはデザートかな。エリスももういい?」
「私はもうとっくにおなか一杯になってるんだけど……」
初めてみたインデックスのすさまじい旺盛さに引きながらエリスは半笑いになった。
清貧を旨とする修道女として、この食べっぷりはどうなんだろう。
というか同じ学校で同じ釜から食事を食べる身になったらどれだけ大変なのだろう。
「にしてもちっこいのによく食べるんだな」
「む、そっちだって小さいくせに」
「名前はなんていうんだ?」
「インデックス。……名前を聞くんだったらそっちから言うのが筋だと思うけど」
「これは失礼した。私は土御門舞夏である」
「つち……みかど?」
「どうかしたのかー?」
「もしかして、まいか。にゃーにゃー言う変な日本語のお兄さんがいたりしない?」
「兄貴はいるけど、もしかして知ってるのか?」
「なんでもない」
まさかそんなわけはない。土御門元春は陰陽師の大家で、事情があって『必要悪の教会』に入った男だ。妹が超能力者の街にいるなど、冗談が過ぎる。
……あやうくおかしな日本語を教え込まされかけて、身に付く前に神裂に訂正してもらった身としては、土御門元春には恨みのあるインデックスなのだった。
なんにせよ、知り合いのほうの土御門と目の前の舞夏は似ていないし、人の良さも違う。
「デザートってあれだけしかないけど、出てくるの?」
「うん。昼食にはまだ随分早い時間だったからな、デザートの配膳は今からだ」
「よう舞夏」
インデックスが詳しくデザートの話を聞きだそうとしたところで、当麻が横から割って入った。
舞夏が気安い感じで、おやっという顔をした。
「あれ、上条当麻じゃないか」
「エリスとインデックスに何か用か?」
「大した用事はないぞ。というか知り合いなのか?」
「ん、まあな。そういや土御門のやつは来てるのか?」
「チケットは渡したし、昼ごはんを食べに来るかもなー」
「とうま。まいかとどういう関係?」
またか。またなのか。
いい加減にして欲しいとため息をつきながらインデックスは当麻を睨む。
光子のほうを見ると、向こうもこちらを見て頷いた。女二人の意図はよく一致している。
エリスもなんとなく当麻という人間が分かってきたのか、苦笑いの中に咎めるような雰囲気が混じった。
「上条君。彼女さんを大事にしてあげたほうがいいよ」
「え? なんだよ急に」
「女の人の知り合いが多いって、それだけでも不安になると思うけどな」
「……って言われても、なあ」
ちらと当麻が光子のほうを見ると、あからさまに視線を逸らされた。光子はこれからまた一度仕事に戻る。
そのあとはインデックスとも離れて本当に二人っきりになる予定なのだが、この調子ではそのときに機嫌を回復させられるかどうか。
「女難か? 上条当麻」
「ほっといてくれ」
世の男性の恨みを一身に集めそうな贅沢な悩みを抱えて、当麻は不幸だとため息をついた。






「ちょっとトイレ行ってくる」
「うん、ごゆっくり。光子によろしくね」
「……おう」
昼食後に軽くぶらついた後、トイレを装って自然に席を外す予定だった当麻にインデックスがにっこりと笑みを返した。
となりのエリスがクスリと笑う。インデックスにも内緒で光子に会う気だったのが、バレバレだったらしい。
場所は中庭。先ほどまではオークションが行われていたらしいのだが、次は何かイベントに向けて準備中だった。。
特に興味はなかったが、なにやら人が多いのと、あらかた見回ってしまった都合もあって、光子を除いた三人は並べられたパイプ椅子を確保していた。

校舎に入って、周囲を見回す。待ち合わせ場所は確かこの先を曲がったところのはず。
……だったのだが、光子はいない。そして初めてきた場所だということもあって、なんとなく自分が場所を間違えたのではないかという気もしてくる。
どうするか。待つか、探しに歩くか。
昼ごろから機嫌の悪かった光子だ。ここでさらに待たせると、謝っても簡単には許してくれないかもしれない。
結局、間違ったところで待っているのが一番機嫌を損ねるだろうという判断から当麻はとりあえず足を動かすことにした。
1階で待ち合わせておいて階段を上り下りするほどの方向音痴ではないが、学校というのはどこの廊下も似たような作りで、しかも曲がりくねっているからなかなか把握しづらいのだ。
ぐるっと歩いても光子どころか人影も見当たらないし、待ち合わせの場所だったような気がする場所が二箇所になって、どうしたらいいものか当麻は途方にくれてしまった。
……ようやく、人の影を捉える。当麻はほっとしてその子に声をかけた。



「やだもう、へんな汗でてるし。なんでこんな……胸がドキドキしてんのよ」
昼食後、初春と佐天の案内から離れて、美琴は着替えを済ませていた。
そして自室で弦を拭き、弓に松脂を塗り、軽くヴァイオリンの音出しをする。
プログラムには明記されていない、本日の最終イベント。御坂美琴によるヴァイオリン独奏がこれからあるのだった。
別に、美琴の腕が学園一というわけではない。下手なほうではないと思うが、上には上がいるものだ。
なんとなく、音楽の実力以外の要素のせいで、客寄せパンダに任命されたような居心地の悪さがある。
それなのに白井はおろか、初春や佐天も期待してます、なんて目を輝かせて言うものだから、なんだかいつもの自分らしい調子というのが狂って、落ち着かないのだった。
手にしたヴァイオリンもなんだか心もとない。一通りチューニングは済ませたが、昼下がりの日光に晒されるあんな環境で弾けば、すぐにまた音程は狂ってしまうことだろう。
もしかしたら真夏の炎天下を嫌って常盤台きってのヴァイオリニストたちは辞退したのかもしれない。
そんな考えが、ぐるぐる美琴の頭の中で渦巻いていた。

近くのパイプ椅子に楽器を置いて、ため息をつく。
この校舎の扉を開ければ、すぐステージ裏だ。もう五分もしたら、そこで待機しないといけないだろう。
――これって緊張? いやいやいや、私に限って、そんなまさか。
軽く息を整えてみる。だけどそれも上手く定まらなくて、気持ち悪い。
「ああもう、しっかりしろ!」
自分の頬をぴしゃんとやって叱咤するのに、一向に気分がいつもどおりにならない。
そんな風に戸惑う美琴の傍に、不意に人が近づいてきた。それをふと見上げて、美琴はカチンコチンに硬直した。
「あのう。お取り込み中すいません。実は……って、あれ、ビリビリ?」
「へっ?! あ、が、う……?」
信じられない。この、タイミングで、なんで、コイツが。
そんな美琴の態度にまるで頓着しないで、このバカは淡々とした態度のままだった。
「ちょっと知り合い探してんだけどさ、悪いけど教えて――」
「――んでここにいんのよ」
「へ?」
「なんでこんなトコにいんのかって聞いてんのよ!」
があーと美琴が吼えた。ちなみに顔は真っ赤だった。
「な、なんでって。招待状もちゃんと持ってるし」
「人の発表を茶化しにきたわけ? 慣れない衣装を笑いに来たわけ?!」
「い、いやちげーよ、ってか普通にきれ」
「ばかー!!!!!!!!!!」
「うぉわ、落ち着け、落ち着け御坂」
「何よ何よ何よ! 見てわかんないわけ? コッチはいま取り込み中!」
「いやこっちも困って、ってだから落ち着け! その綺麗な格好見たらお前の事情は大体分かるから!」
「えっ?」
きれ、い?
絶賛爆発中だった怒りを全て萎れさせてしまうくらいの破壊力が、その一言にはあった。
振り上げていたパイプ椅子を、美琴はそっと下ろす。
「落ち着いたか? 落ち着いたな? お前あれだろ。今から何かやるんじゃないのか?」
「……うん」
「そのヴァイオリンか?」
「……そう。私より上手い人がいるってのに、何で私が」
「まあ、お前レベル5だろ? この学校の顔じゃないか」
「それとヴァイオリンは関係ない! こんな歩きにくい格好までさせられちゃってさ」
スカートの端を摘む。サマードレスだから暑くはないのだが、汗が気になる服だった。
髪飾りも、いつもよりもずっと大仰で、視界にチラチラ入って鬱陶しいことこの上ない。
「そうは言うけど、よく似合ってるぞ」
「馬子にも衣装って分かってるからそれ以上言わないで」
「そんなこと言ってないだろ。ってか、褒められるのがイヤか?」
「え?」
「普段のお前と違って、やっぱり女の子らしい格好すると映えるもんだな。……まあなんだ。別に自分で駄目だと思う必要なんてねーよ。自信持っていけ」
「ア、アンタに言われたって嬉しくないんだから」
「ところで下に短パン履いてるのか?」
「このドレスでんなわけあるかあっ!」
顔が火照って、胸がさっきとは違うドキドキで満たされて、全然コントロールが聞かない。
指摘されてスカートの下がいつもよりスースーするのが気になってきて、落ち着かない。
そんな美琴を見て当麻は、さすがに履いてないか、と心の中で呟いた。
とはいえ見えるわけでもなし、さして興味はなかった。なにせ、自分が一番可愛いと思う女の子は美琴じゃなくて光子なのだし。
もうちょっと後になったら、相対してるだけの美琴とは違って、光子の体に触れ、唇を啄ばむ気なのだし。
「ところで話戻していいか? 実は知り合いとの待ち合わせ場所がどこだったか迷っててさ」
「あ」
誘ってなかったのに、当麻が来てくれた事に色々と感じ入っていた美琴が、そこでようやく、とても大切なことに気がついた。
ここに当麻がいるということは、この学園の誰かが当麻に招待状を送ったということだ。
白井に当麻のことは知られていない。だからどういう思惑にせよ、白井が当麻に送った筈はない。
だから、当麻に会いたいと思った女の子が、きっとこの学園に、いる。
そしてコイツは、その子に、会いに来たんだ。
「……アンタ、誰に誘われてここに来たの?」
「へ? 急になんだよ」
「なんでもない。ごめん、変なこと聞いた」
それ以上、問い詰められない。だって何でそんなことを尋ねるのかと問われても、何も言い返せないから。
質問を無視された形の当麻と、質問を投げつけておいて横に捨てた形の美琴の間に、沈黙が流れる。
それを破ったのは男の声だった。
「おーいカミやーん。本番前の女の子をナンパするなんて、ほんと困ったヤツだにゃー」
「げ、土御門」
「また会ったなー。上条当麻。御坂も元気してるかー?」
「……何、アンタ土御門と知り合いなの?」
咎めるような美琴の声に、当麻は戸惑った。
当麻が呼びかけた兄、土御門元春と親しくしていて怒られる理由が分からない。
……そうか、御坂は兄貴を知らないのか。
「御坂。コイツ、土御門舞夏の兄貴だ。俺のクラスメイト」
「あ、どうも」
「どうも妹がお世話になってますにゃー」
「なあ舞夏、ちょっと聞きたいんだけど」
なあんだ、と美琴はほっと息をついた。
舞夏が自分の兄とクラスメイトに招待状を送ったのなら、別にいい。
見てても当麻と舞夏の間におかしな空気はない。
……って、何を安心してるのよ私は! どういうことよ。
「あれ、やっぱあそこで合ってるのか」
「待ち合わせなら早く行ってやれよー」
「おう、そうするわ。御坂。それじゃ悪いけど俺行くから」
「あ……うん」
「演奏、頑張れよ」
「言われなくてもいつもどおりやるわよ、バカ」
「ん。もう大丈夫そうだな」
最後に微笑んで踵を返したその当麻の表情に、美琴は胸が高鳴るのを感じた。
バカみたいに突っかかって喧嘩をしていた以前には、一度も見せてくれなかった、こちらを気遣う優しい顔。
いつの間にか、心の中のパニックが嘘のように引いていた。
熱を散々放出してクリアになってきた頭の中と、そして胸の中にだけ、ぽっと灯った静かな高揚。
一番、自分がノッているときの状態だった。



[19764] interlude10: キッス・イン・ザ・ダーク
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/06 22:31

「ごめん! 光子」
「……」

うつむいて、光子はその場に立ちすくんでいた。遅れたことに関しては、光子の側が悪かった。つい服装に乱れはないかと、わざわざ遠回りしてトイレの鏡でチェックして遅れてしまったのだ。
そして、当麻に落ち度がないことも分かっていた。目と鼻の先で、御坂美琴や土御門兄妹と話をしていたのも、そもそもは自分を探してのことだった。
「光子がいなかったから、場所間違えたのかと思って、つい」
「……御坂さんと、仲がよろしいのね」
「え?」
知らなかった。自分は莫迦だ、と思う。
常盤台中学どころか、学園都市をも代表するのが七人しかいないレベル5の超能力者たちだ。
そのうち2人までもがこの学園にいるというのに、光子は今まで、その顔と名前をきちんと覚えてこなかった。
当麻の言うところの、レベル5の『ビリビリ』。彼女は何度も折に触れて話にのぼり、当麻の影にチラチラと映る嫌な存在だった。
それがまさか、自分の友人だったなんて。
鉛を飲み込んだような、重たい感覚に体が支配されている。
だって御坂美琴は、自分とインデックスを除いて今まで一番当麻と親しくしてきた女だから。
知り合いの女性の多い当麻の口から、今まで一番多く出てきた人。
自分と会う直前に美琴に見せた当麻の笑顔に、光子はじわりじわりと心の中に嫉妬という毒を振りまいていた。
「み、光子?」
「朝はエリスさんを連れてきて、湾内さんに破廉恥なことをして、さきほどは白井さんや佐天さんや初春さんに会ったといいますし、繚乱のメイドともお知り合いのようですし。それで、挙句の果てに御坂さんですの」
なんだ、と馬鹿馬鹿しくなってくる。呼ぶんじゃなかった。こんな場所に。
自分が大して愛されてもいないんだって、思い知るような結末なら、いらなかった。
「……光子以外、見てなかったよ」
「嘘。当麻さんはいつもデレデレしてましたわ」
「そんなことないって。……見つかるとまずいだろ? 移動しよう」
「見られたら困ることでもありますの?」
「俺にはない。なんなら御坂の前でキスでもしてやろうか? 言っとくけど、ホントに光子と二人で会えるのを楽しみで、ここに来たんだからな。……ほら、見つかると、これから先デートがしにくくなるだろ? 行こうとしてた場所に、案内してくれよ」
僅かに目線を下げて、高さを光子に合わせてくれた。
そして髪を撫でられる。この状態でも先生に見つかったら大問題だ。
これくらいでは納得も出来ないし当麻を再び信じることも出来ないけれど、貰った優しさを動力に、光子はとぼとぼと逢瀬の場所を目指した。
「ここ……」
「人来ないのか?」
「調理室の火が落ちましたから。夕方までは誰も来ませんわ」
夏にはほとんど用のないボイラー室、そこの鍵を開けて光子は中に当麻を案内した。クーラーの効いていないそこは、二人でいればすぐ蒸し焼きになりそうだ。
でも、誰も来ず、安心していられる場所は少ない。外から見えにくい場所の窓を申し訳程度に開けて、当麻は光子に向かい合った。


「当麻さんが……悪いんですわ」
いきなり、ほろりと光子の瞳から涙がこぼれた。
泣かせたことは、あんまりなかった。
「み、光子?!」
「昨日の夜、当麻さんをお誘いしてからずっとずっと、楽しみにしていましたのに。朝来る前からもう、私以外の女の人と一緒にいて、さっきだって。私と待ち合わせをしているときに、御坂さんと会わなくたっていいでしょう?」
「……ごめん」
「仕事をしている間も、ずっと不安で、イライラして」
「ごめん」
「こんな嫉妬深い女なんて嫌われるってわかっていて自己嫌悪もしますのに」
「いい。光子ならなんだって可愛い」
「でも、当麻さんが他の女の人と親しくしているのは、嫌なの」
「光子と光子以外の女の子は、ちゃんと分けてる。もっと光子にも伝わるように、努力するから」
ぎゅ、と光子は当麻に抱きしめられた。安心する。だから余計に涙が出てくる。泣くのは悲しいからではないのだ。
自分が悲しいということを、当麻が分かってくれると思うから当麻の胸で泣くのだ。
ぐずぐずと鼻を詰まらせながら光子は当麻に自分の涙をしみこませる。
「光子」
「……御坂さんとは、いつからのお知り合い?」
「光子とはじめてあった日の、前の日から」
「私が追い払った不良は、前日御坂さんを助けたときに絡まれた相手でしたのね?」
「そうだ」
「……莫迦みたい。当麻さんの特別な人になれたと思っていましたのに、私は、御坂さんのおまけでしかありませんでしたのね」
「光子は莫迦だな。俺が光子を、どれだけ特別だと思ってるかわかってないよ。……こんなに好きな女の子、光子が初めてなんだからな。まあ、初めて付き合った子だし」
「嘘」
「嘘じゃねえよ」
「じゃあどうして、御坂さんにあんな甘い顔をしますの?」
「してたか?」
「していました! 私にはそんな顔、ちっとも見せてくださいませんのに」
「そんなことないだろ? つーか御坂のやつにどんな顔したかなんて思いだせねーよ」
「私が一番なら、もっとそういう態度、見せてください」
拗ねた光子が今までで一番可愛かった。やっぱりかなわないな、と当麻は思うのだ。
だって、こんな顔を見せられたら。惚れ直さないわけがない。
気丈な光子が涙で僅かに目を腫らし、幼さを感じさせるような上目遣いで、こちらを見ているのだ。
抱きつかれたときにほつれた髪を、そっと直してやる。
「キス、するぞ?」
「……どうしてお聞きになるの?」
「今までより激しいの、するから」
「えっ? あ、ん……」
薄暗がりの中、唇で唇に噛み付くように、当麻は光子に口付けをした。
驚いて少し腰を引いた光子を捕まえる。腰にぐっと手を当てて、自分の体に密着させる。
「ん、ん、ん」
「光子、可愛いよ」
「ふあっ」
光子の目が大きく開かれた。当麻が、キスをせずに光子の唇を舌で舐めたから。そのまま光子の下唇を、噛んだり、舐めたりする。
しょっぱい味がした。残念なことに自分のこめかみから流れた汗の味だった。
「ごめん、光子。汗が」
「ううん。気になさらないで。私もその、汗はかいていますし。それに当麻さんのなら私、気にならない」
「そっか」
「だから、その」
もっとして欲しい、という言葉は言わせなかった。言われなくても分かっていたから。
「ん、ちゅ、あ……」
当麻は、舌を光子の歯と歯の間にねじ込んだ。噛まないようにと、光子が慎重にキスに応じる。
よく分かっていないせいか動きの緩慢な光子の唇に強引に自分の唇を押し当てながら、光子の奥深くへと舌を滑り込ませ、蹂躙していく。
「あっ! あ」
ガクリと、光子の膝が落ちた。
抱いた両腕でそれを支える。むしろその方が良かったのかもしれない。
ぐいと引き上げられて、光子の唇が、より当麻に接近した。
光子の瞳の中から強い輝きが失われた。代わりに艶のある、にびた光がとろんと浮かぶ。
当麻を求めてくれているのだと、そう感じさせる瞳だった。
「光子、愛してる。俺が見てるのは、光子だけだから」
「……当麻さんは誰にでもそんなことを言いますの?」
「そう思うか?」
「知りません。だって、光子はいつも、当麻さんに騙されていますもの」
「騙してなんかないよ。むしろ、俺がどれくらい本気で光子の事好きなのか、分かってくれてないみたいで悔しい」
「わかりませんわ。だって、当麻さんはいっつも、あ、ん、だめ、だめ……」
嫉妬をくすぶらせる光子が可愛くて、つい、当麻は耳を噛んだ。
そのまま舌でつつつ、と耳をなぞると、ピクンピクンと光子が震えた。
そして耳の裏へ舌を滑らせ、汗を舐めとる。
「あ! 当麻さん! そんなの、いけません。汗なんて」
「いいって言ったの、光子だろ? 俺は全然気にならないよ。しょっぱくて、光子の匂いがする」
「あ、汗の匂いなんて駄目ですっ! 匂いなんて嗅がないで……」
「いい匂いだけど」
「そんなはずありませんっ! もう、やだ……あ! だめ、です。当麻さん」
調子に乗って、当麻は耳の裏の髪に隠れた辺りを強く吸った。
「痛……えっ? 当麻さん、いまのまさか」
「おー。痕、ついてるな」
「嘘、嘘! 当麻さんの莫迦。私、この後皆さんと片づけをしますのよ?! そんなときに見られたら……!」
「困るのか?」
「困るに決まっています! だって、見られたら当麻さんと何をしていたのか、皆さんに」
「今、何をしてるんだ?」
「えっ?」
「光子は今俺に、何をされてるんだ?」
「……莫迦」
上目遣いの瞳が、可愛い。
「耳噛まれたり、首筋にキスされるの、嫌か?」
「……そんなことはないですけれど、でも、恥ずかしい。それに力が抜けてしまいます」
「じゃあもっとすればいいんだな?」
「当麻さんの、好きになさって」
ぷいと目を逸らして素っ気無く光子は言った。
その口元が、期待に緩んでいるのを当麻は見逃さなかった。
「光子、舌、出して」
「え? んん、ちゅ……」
当麻の舌が、再び口の中に入り込んできた。
ゾクゾクする。背骨に沿って、得体の知れない感覚がぞぞと這い上がってくるのだ。
快感というには、まだ、光子の体がそれを受け入れられていなかった。
おずおずと、光子は舌を当麻の舌に絡める。舌と舌で互いを撫であうような、不思議な感覚。
当麻の鼻息が頬にかかってくすぐったい。でも、自分のだってきっと当麻にかかっていることだろう。
息苦しくて、吐息を気遣う余裕はなかった。
「ん?! んーっ」
突然、舌を当麻に吸われた。当麻の舌と唇で、光子の舌は愛撫される。腰の辺りがじわりと重たくなるような、不思議な反応を体が見せ始めた。
体つきは大人びているが、自分の体が当麻に与えられる刺激でどんな風になるのか、光子はよくわかっていない。
知識としてはいろいろなことを知っていても、経験で言えば、光子はインデックスと代わらない、初心な少女なのだった。
「どうだ? 光子」
「ふぁ……おかしく、なりそう」
「次は逆に、俺のも吸ってくれよ」
「当麻さんはエッチですわ」
「え?」
「どこでこんなこと、覚えてきましたの?」
「覚えてって、俺も初めてだよ。だから光子に嫌な思いさせてないか、ちょっと不安だ」
「……なんでも、してください」
「え?」
「当麻さんのなさることで、光子の嫌なことなんてありませんもの」
光子を見つめると、優しく微笑んでくれた。
暑い。それは気温のせいでもあるが、たぶん、高ぶってきた自分の気持ちのせいでもある。
光子の後頭部を抱きかかえるようにすると、じわりと汗で湿っているのが分かる。
「ん、あ」
鼻にかかった声が光子から漏れて、それがたまらなく当麻をくすぐる。
光子のほうからも舌を積極的に出しはじめて、キスにぴちゃりぴちゃりと水音が混ざる。
腰砕けになった光子はすっかり当麻に体重を預けていて、豊かな胸のふくらみが当麻の胸板でつぶれていた。
「光子」
「はい……ん」
キスで口の中に溢れてきた、自分と光子の唾液が混ざったものを、掻き出すように光子の口に中に注ぎ込む。
驚いた顔をした光子。キスを止めずに、口付けたまま至近距離でずっと見つめてやると、コクンと、それを飲み込んだ。
ほう、と蕩けた様なため息を漏らした。
「味は?」
「当麻さんの莫迦。味なんてしませんわ……」
「嫌だったか?」
「当麻さんのですもの」
軽くキスをしてやる。そして口付けたまま動きを止めると、光子は一瞬戸惑った後、口を動かした。
そして、おずおずと光子の唾液を返してきた。
「んッ」
強く吸い上げて、光子の口の中から残さず唾液を搾り取る。そして当麻も飲み込んだ。
ぼんやりとよく分からないといった顔をした後、光子がじわじわと喜びを口元に表した。
「ちょっと、光子のほうが冷たいかな」
「当麻さんのは、熱かったです。どうしよう……こんなことされて嬉しいって、私変なのかしら」
「俺も嬉しいよ」
「じゃあ私は変なのですわね」
「俺は変態扱いかよ」
「だって、当麻さんはエッチですもの。あっ!」
エッチなんていわれたら、期待に応えるしかない。
光子のお尻から15センチくらい下、太ももの裏に、当麻は手のひらを当てた。
そうしてすうっと撫でながら、手を上に滑らせていく。
「あ、あっ、あっ……当麻さん駄目、それ以上は」
「止めて欲しい?」
「だ、だって。スカートが」
常盤台のスカートは短い。こんな風に太ももから直接撫で上げていけば、それは当麻の邪魔をしないのだ。
つまり、スカート越しじゃなくて光子の履いた下着に、直接触れることになる。
優しい肌触りの布の縁に、当麻の指がかかった。そこは太ももの終わり、お尻の始まり。
当麻はキスをする。そうして顔をどこにも逸らせなくなった光子の、真っ赤になった顔を眺めながら、当麻は下着の上からお尻に触れた。
「ああ……駄目って、言いましたのに」
「柔らかいな」
「莫迦」
女の子のお尻だった。ぷっくりと丸くて、柔らかい。
泣きそうな顔の光子が可愛くて、つい、お尻を撫でたまま強引なキスをした。






美琴は舞台に立って、お辞儀をした。足元の座席には、白井と初春、佐天がいる。
うっとりした表情の白井にイラッとし、同じ表情の初春には苦笑してしまった。佐天と目が合うと、微笑んでくれた。
それらを落ち着いて眺めながら、もう一度楽器のチューニングをする。
寮祭はそれほど大規模ではない。おそらく、この時間には展示を見るのにも皆飽きてきたのだろう。
人は結構多くて、色んなところから見ていてくれる。自然に辺りを見回しながら、美琴は一曲目を奏で始めた。
「ああ、御坂さん……なんて美しいんでしょう」
「初春があっという間にトリップしちゃった。白井さんはいつもだけど……」
「お姉さま、ああお姉さま、お姉さま」
実際、美琴の演奏は上手かった。
佐天はクラシックに造詣などないが、器楽を専門にしていない一人の中学生の演奏としては、なによりまず、堂に入っていると思う。曲の世界観をちゃんと表現できていた。

演奏しながら、美琴には余裕があった。
あ、湾内さんと泡浮さんだ。婚后さんは……仕事だっけ。アイツが見えないのよね。でも、この場にいてくれた。
土御門の兄あたりと遊んでいるのかもしれないわね。こういう音楽に興味がありそうなヤツには見えなかったし。
だけど構わない。たとえBGMでも、自分の音は、きっと当麻の耳に届く。
自分が立っているのが舞台だなんてことを忘れて、美琴は気持ちの乗った演奏を続けた。
結局当麻に連絡を取れなかった昨晩からついさっきに至るまでの、どんよりした気持ちは吹き飛んでいた。
音を奏で、届けたい人に届けられることが楽しかった。






「あ……」
遠くで、ヴァイオリンの音が聞こえ始めた。優しい音色が、二人の熱気と荒い吐息で満たされたボイラー室にまで届く。
すぐに光子が窓を閉めた。聞こえる音量はそれで半分くらいになった。もう耳を澄まさないと聞こえない。
光子の、それは妬き餅だった。
「当麻さん、大好き……」
「俺も好きだよ、光子」
「もっと……ああ」
腰ではなくて、下着の上から鷲づかみにしたお尻をぎゅっと持ち上げて、光子を自分のほうに引き寄せる。
窓を閉めてさらに部屋は暑くなった。密着した二人の頬で汗が交じり合って、光子の胸元へ滴っていく。
光子、と耳元で吐息混じりに呟いて、じっと目を見つめた。
「とうま、さん」
真剣で、燃えたような当麻の瞳に見つめられて光子はクラクラと眩暈を覚えていた。
心臓が痛いくらいにドキンドキンと鳴っている。
なにか、重大な言葉を告げようとしているのが、光子には分かった。
「もっと触りたい。光子に」
「……」
「胸に触っても、いいか?」
答えられなかった。イエスと言うべきなのかもしれない、だけど、答えはノーだから。
「光子が嫌なら、絶対にやらない。でももし、望んでくれるんだったら」
「……嫌いにならないで、くださいませ」
「え?」
「怖いの……」
遠まわしに、気持ちを伝える。告げた言葉が全てだった。
当麻を怖いと思ったことはない。手つきはずっと優しかったし、体が目当てなのではないと、光子の心を欲してくれているのだとも分かっていた。
だけど、あまりに深い関係は、光子をひどく不安にしてしまう。
一度越えてしまえばもうきっと戻れない。容易に失ってはならない純潔を、流されて、捧げてしまいそうになる。
それではいけないとも、光子は思うのだ。当麻のためにも。
当麻にも光子にも、将来を添い遂げる覚悟はない。いや、覚悟をしたくても幼さがそれを許さない。
だから、怖い。
「怖がらせてたんなら、ごめん。光子が可愛いからさ」
「ううん。当麻さんが怖いんじゃないの。だけど……。ごめんなさい
もう一つ、光子には怖いものがある。
遠くから聞こえてくる、この曲。御坂美琴という友人の気持ち。
常盤台の生徒にしてはざっくばらんな性格で、好ましく思っていた。面倒見が良くて、いつも大人びた感じのする同級生だと思っていたのだ。
だけど、当麻に見せた顔は、光子の知らない顔だった。本音むき出しで、すこし幼さすら見せる感じで。当麻という人に、甘えているのがよく分かった。
それを当麻も自然と受け止めていて、すごく、お似合いな気がした。
高飛車で我侭で、当麻を困らせてばかりの自分より、美琴のほうが当麻も好きなんじゃないかと、そんな後ろ向きな気持ちが、心の片隅にずっと引っかかっているのだ。
「光子」
「えっ?」
さらさら、と髪を撫でられた。
優しい当麻の笑顔に、無条件に安心してしまう。
「なんか今日は変だな」
「そうですか?」
「……俺が色んな女の子と喋ったからか?」
「だって、嫌ですもの。御坂さんとだってあんなに仲良く」
「んー、光子が何で御坂をそんなに気にするのかがわからないんだけど」
「……」
「う、ごめん。泣くなよ」
「泣いてません!」
ちろりと目尻を当麻に舐められた。
女の涙腺は一度緩むと、止めどがないのだ。
「よくわかんないけど、光子が嫌なら、御坂のやつとは距離を置くようにするから」
「嫌な女ですわ、私。そうして欲しいって、思ってしまったの」
「光子が他の男と仲良くしてたら、俺だって絶対にそうなるから。だから気にするな。光子、キスするぞ。分かってもらえるかわからないけど、俺が惚れてるのは光子だって、教えてやるから」
「はい……」
光子が、当麻の頭を抱くように手を伸ばした。
耳にかかるように置かれた光子の手のせいで当麻は美琴の音楽を見失って、光子の甘い吐息だけに集中した。
「ん! ふぁ……あ、あん」
耳を噛み、首筋を舐め、唇と舌でぐちゃぐちゃに光子の口内を犯す。
壁に光子の体を押し付けて、さらに自分の体を押し付ける。二人が一つに溶け混じりそうだった。

美琴の演奏が終わって、中庭に喧騒が戻るまでの間、二人はそうやってキスを続けた。






日もまだ翳るには早い夕方、当麻とインデックスはエリスを送って教会の前にまで来ていた。
「今日はありがとね、インデックス。それに上条君も」
「また今度ね、エリス
「次は夏祭りだな」」
「うん、ありがとう。それじゃあね」
数日後の夏祭りでまた会うから、挨拶は軽いものだった。
あの後、当麻と二人で過ごしてかなり機嫌の回復した光子は、エリスともある程度打ち解けてくれた。
インデックスに加えてエリスの浴衣の着付けまで引き受けたようだった。
……実はエリスが垣根と逢瀬をするつもりなのだとわかって安心したから打ち解けたのだった。
光子もエリスも、そういう事情を当麻にはわざわざ教えなかった。
扉を閉めるまで手を振ってくれたインデックスに笑顔を返して、エリスは中庭へ出る。
「お帰り、エリス」
「あ、ていとくん……」
いつもどおりの態度で迎えてくれた垣根が、どこか拗ねているのに雰囲気で気づいた。
ちょっと後ろめたく思った自分の態度が、垣根の本音をうまく説明している。
形として、エリスはデートに誘ってくれた垣根を差し置いて当麻と遊んだことになるから。
「ていとくん。今日のこと、話すね」
「いいよ。……そういうので怒るほど、了見は狭くない」
「私が嫌だから、話をさせてほしいんだ」
「そうかい。ならまあ、聞くけど」
そっぽをむいた垣根の唇がわずかながらに尖っている。妬き餅を焼かれるのは、嬉しい。
良くないことと知りつつ、垣根に好意を向けられるのを喜ぶ自分がいた。
「今日は常盤台の寮祭に、インデックスと一緒に遊びに行ってたんだ。ていとくんが怒ってるように、上条君とも一緒だったけど」
「へー」
「上条君の彼女さんに怒られちゃった。もちろんインデックスも一緒だったけど、上条君とも一緒にいたから。でも彼女、婚后さんにも悪いから、上条君とは一度も横に並ばないようにしてたよ」
「並びたかったんなら、並べばよかっただろ。あのヤロウの彼女がどんなもんか知らないが、エリスより可愛いことはない。すぐに追っ払えたんじゃないか?」
「ふふ。そんなことするわけないでしょ。上条君はいい人だけど、別になんとも思ってないし」
「なんとも思ってないのは、アイツだけじゃないだろ?」
フンと自嘲めいた笑いをこぼす垣根に、心が引っ張られた。
違うんだけどな、と心の中でエリスは呟いた。
「ていとくんは、特別扱いしてあげてるよ?」
「そうなのか?」
「……もう。夏祭りの約束、忘れちゃったほうがいい?」
「上条とでも行くんじゃないのかよ」
「あ、ていとくん。今の妬き餅の焼き方、好きじゃない」
「別に妬いてねーし」
「上条君は彼女さんと一緒だし、そうじゃなくても、一緒には行かないよ。私を誘ってくれたのは、ていとくんだったし」
「そーかよ」
ずっとエリスを直視しないその横顔が僅かに緩んだのを見て、エリスももう、と笑った。
当麻はたぶんいい人だが、インデックスがいつも間に挟まるために、すこし遠い人だった。
光子がいなくても、たぶんその次はインデックスに遠慮していただろう。
光子がいない世界がもしあるなら、インデックスと当麻はもっと恋心を抱きあうような関係になっている気がするから。
「ね、ていとくん。私のお小遣いそんなに多くないけど、それにあわせてくれる?」
「別にいいぜ。全額出すくらいのことはなんでもないけど、それが嫌なら、エリスにあわせる。夜店で遊んで晩飯食えるくらいはあるのか?」
「うん。でも品数はあんまり揃えられないし、半分こしよ?」
「お……おう」
「あーていとくんがデレた」
予想外の反応。ストレートなお願いに、垣根が戸惑っていた。可愛いと思う。
しかしすぐさま気を取り直して、また気障を装った。
「なんなら全部口移しでもいい」
「いいよ? じゃあそうしよっか」
また、照れさせるつもりでエリスはそんな冗談を言った。
これで垣根が真っ赤にでもなったら、とても楽しいと思う。
だけど、垣根のリアクションは真面目だった。
「本当に、いいのか?」
「えっ……?」
「そこまで俺に踏み込ませて、いいのか?」
「……」
それは垣根の気遣いだった。
三度も垣根の告白を拒み、あと一歩の距離を譲らなかったエリスが見せた油断に、つけ込まなかった。
「……ごめん」
「いつでも本気にしてやるから、その気になったら言ってくれよ」
「ねえ、ていとくん」
「ん?」
「そういえば、私が何歳かって、ていとくん聞いてきたことなかったね」
「どうでもいいからな。エリスが何歳でも、エリスはエリスだ」
「もしかしたらていとくんよりおばさんかもしれないよ?」
「そうは言うけど年上の余裕を感じないぞ? エリス」
「むー」
垣根はそれで悟った。おそらく、エリスは自分より年上なのだろう。
冗談めかした言い方に、真実を混ぜている味がした。
でも、本当に関係ないと思う。だって本当にエリスは可愛いくて、そして自分が好きだと思っている気持ち以上に重視すべきことはない。
「ね、ていとくん。オレンジ剥いてあげるよ」
「ん、サンキュ」
「でも届かないから……手伝って」
「……いいぜ」
垣根は能力者だから、手の届かないところにあるオレンジをとる事なんて、工夫次第でなんとでも出来る。
だけどそれを言い出さなかった。エリスが望んでいるのはそういうことではないと思うから。
かがんで、エリスの腰を抱く。突っ張った態度の裏で、とんでもないくらい垣根は動揺していた。エリスの優しい匂いに、クラクラする。
悟られないように足を踏ん張って持ち上げると、抱いた手に、そっとエリスの手が重ねられた。
「ありがとう、帝督くん」
「エリス、重いから手早く頼む」
「もう! ていとくんのバカ!」
ずっと抱きしめていたいけど、そんな気持ちを悟られるのが嫌で垣根は意地悪をした。
エリスはそんな垣根の態度も、分かっていた。そして自己嫌悪にそっと蓋をする。
こんな風に好いてくれる人を弄んでいる自分は、なんなのだろう。
ずっと一緒にはいられないと分かっている癖に。自分の事情に未来ある人を巻き込んではいけないと分かっている癖に。
当麻が悪いのだ。あんなに、恋人との幸せそうな光景を見せ付けるから。
人とのつながりが、ぬくもりが、エリスは恋しかった。






「こんなトコ、かな」
美琴は自室の脱衣所件ドレスルームに備え付けの大きな鏡の前で、軽く髪を手でほぐす。
別になんてことはない。演奏が終わったというのに着替えもさせてもらえず、挨拶ばかりやらされていたのがちょうど終わって、ようやく制服に戻れたところだった。
いつもどおりの制服に戻った、ただ、髪飾りは元のヤツに戻さなかった。白い小さな花をふたつあしらった、可愛らしいデザインの物を身につけた。
「まあ前のもこれもママがくれたヤツだし、世代交代しても文句は言われないわよね」
ちなみにこの髪留めを渡した当のママ、御坂美鈴は美琴に向かって、恋するお年頃なんだからアクセサリくらい気を使ったら、と言っていたのだが、当麻と知り合う前だったので聞き流してしまって覚えていないのだった。
自分が髪飾りを替えようと思った心境を、美琴はちゃんと把握していなかった。
綺麗だと言ってくれた当麻の、その言葉が引き金だった。
白いサマードレスは着替えざるを得ないけれど、青リボンをあしらった花飾りを取る段になって、いつもの素っ気無い髪留めに戻すのが味気ないと感じたのだった。
とはいえドレスに合わせた髪飾りは実用性が低いし、これだけ目立つと寮監のチェックが入る。
そう思って、アクセサリーの入った小箱から取り出したのが、この髪留めだった。
「ま、これなら別に誰にも何も言われないでしょ」
白井は当然出会い頭に大仰に驚くのだが、そこに美琴は気が回らなかった。
そろそろ、戻らなければならない。片付けはそこかしこで行われているから手伝わなければ。
美琴は疲れもあまり感じていなかった。大仕事としておおせつかったヴァイオリン独奏が会心の出来で、楽しんでいるうちに終わってしまったから。
歩きつかれた客が休憩するのにちょうどいい程度の時間でプログラムは終わったし、まだまだ手伝える。
「土御門が皿洗いやれってうるさかったし、あそこに行けばいいかなっと」
足取りも軽く、美琴は自室の扉を開いた。
今日は一日、楽しい盛夏祭だった。



[19764] 他作品の紹介
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/03 11:27
私nubewoがこれまでに執筆したSSを紹介させていただきます。

『Portraits of EMIYA -士郎のいる象景-』
【原作】Fate/stay night, Fate/hollow ataraxia
【状態】打ち切り
【ジャンル】大長編(の予定だった)・ロンドンもの(の予定だった)
【掲載場所】私立アール図書館
【あらすじ】
Unlimited Blade Works編のGood End(Sunny Day)直後の士郎を取り巻く日常・非日常を描いた作品。
構想としては伏線を張りつつロンドンものへと話を展開する予定だった。
【コメント】
処女作なのに大長編プロットを描いて序盤で頓挫するという絵に書いたような初心者の過ちをやったSS。
しかしプロット練りのために調べたことが今後のSSで役に立ったりと、決して無駄ばかりでもなかった。
読者の方には無駄な時間を割かせてしまったかもしれない。


『エンゲージを君と』
【原作】Fate/stay night, Fate/hollow ataraxia
【状態】塩漬け
【ジャンル】中編・恋愛・シリアス
【掲載場所】Arcadia TYPE-MOON板
【あらすじ】
なんてことはない穂群原学園の生徒、氷室鐘には婚約者がいた。
普段は言葉も交わさないはずの衛宮士郎とひょんなきっかけで接点を持ったその日の夜、
10年前の大火災で死別したその人の名前が士郎であったことを知る。
そんな不思議な出来事をきっかけに、二人の距離は縮まって――――
【コメント】
二作目。Portraits of EMIYAが長大すぎること、また執筆力の低さに困った結果、
短編を書いて実力をつけようという意図から書き始めた。
ところが士鐘モノ、しかもセイバーend後という設定から強い批判も受け、
設定と描写の緻密化に試行錯誤した結果、短編で終わらなくなった。
そして書き手の構成力の限界から、続きを書くのが難しくなり中断。
終わりまでが遠くないので処女作と違い続きの執筆を諦めきれずにいる。
「マリア様がみてる」という小説の影響で女性の心理描写を濃くすることに面白さを感じ、
以降の自分のテイストが出始めるきっかけとなった。


『上条「姉妹丼ってのを食べてみたいんだけどさ」』
【原作】とある魔術の禁書目録・とある科学の超電磁砲
【状態】完結
【ジャンル】短編・恋愛・ギャグ
【掲載場所】Arcadia その他板
【あらすじ】
街中で御坂美琴、御坂妹と出くわした上条当麻。
ちょうどお昼時だったこともあって上条はクラスメイトに聞いた、「姉妹丼」なるメニューを出すお店に行こうと二人を誘う。
よくわかっていない当麻、お子様の美琴、斜め上の方向に想像のかっとぶ御坂妹、
それにお姉さまの「妹」白井黒子が横槍を入れて、事態はとんでもない方向へ――――
すれちがいと勘違いが織り成すギャグテイスト短編。
事態はとんでもない方向へって実は本当にとんでもないことになります↓
【コメント】
三作目。エンゲージの中断から数年ぶりに執筆したSS。
絶対に完結させるという目的のため、短編で終わることを強い枷として書いた。
面白いアニメを見る→アフターストーリーを妄想→他人のSSを読む→自分で書きたくなる
という王道のルートを数年ぶりにたどって執筆熱が沸いた。
またギャグという路線は初めてだったため、読了感の出し方が分からなかったことを今でも後悔。
数年前と比べ自分で描いた空想への没入感が浅くなり、アニメ・小説に燃えられなくなった自分を感じると同時に、
空想を自分から突き放せるようになったことでSSを書くことが昔より楽になったのを実感。


『上条「姉妹丼ってかなり美味いよな」』
【原作】とある魔術の禁書目録・とある科学の超電磁砲
【状態】完結
【ジャンル】短編・恋愛・18禁
【掲載場所】Arcadia xxx板
【あらすじ】
『上条「姉妹丼ってのを食べてみたいんだけどさ」』の続編。
変な勘違いをきっかけに、正しい意味で姉妹丼を頂いちゃうことになった上条さん。
初二つの女の子達を五段重ねにして丸ごと平らげちゃうとかマジ鬼畜。
Sっ気のある上条さんが無垢な女の子達にあれやこれやしちゃいます。
【コメント】
18禁も人生経験だし書いておくか、というよく分からない動機で書いたSS。
自分が最も興奮を覚える文体の官能小説とはこのようなものであると思う。
作家とは自分を切り売りする生き物だと言われるが、
確かにこのSSで自分はまぎれもなく性癖を公開したのであろう。


『ボーイ・ミーツ・トンデモ発射場ガール』
【原作】とある魔術の禁書目録・とある科学の超電磁砲
【状態】連載中
【ジャンル】長編・原作再構成
【掲載場所】Arcadia その他板, ss速報vip
【あらすじ】
初夏のある日。
上条当麻は不良に襲われているところを、ひとりのお嬢様に助けられた。
佐天涙子は伸びない能力に向き合うため、ひとりのお嬢様に助けを求めた。
常盤台中学が誇る空力使い(エアロハンド)、"トンデモ発射場ガール"がヒロインのお話。
【コメント】
短編の予定が長編になるという失敗をまたやらかしたSS。
しかし以前と違い、構成力の不足で執筆を断念する気配は今のところ無い。
アニメで好きになった婚后光子を活躍させたいという思いが動機のひとつ。
もうひとつは、どうやら描写の濃さが自分の売りらしいと自覚しはじめ、
それならば原作を超える描写の量で説得力を確保し、
原作では落ちこぼれ扱いだった佐天涙子を成長させようというもの。
現在、自分の作品中で最長の作品。文庫一冊分を超える文字数となっている。


『上条「もてた」』
【原作】とある魔術の禁書目録
【状態】完結
【ジャンル】中編・恋愛
【掲載場所】製作速報vip, ss速報vip, まとめwiki
【あらすじ】
とある魔術の禁書目録のSS。中編。
クラスメイトとの口論から、上条は女の子をデートに誘うことに。
偶然すぐ傍には、姫神秋沙がいた。その偶然が、二人の関係をガラリと変えていく。
いわゆる姫神大☆勝☆利!
【コメント】
どうやら時代は2chタイプの掲示板にレスという形で連載するものらしいということで、
そういう環境で書いてみたくて立ち上げたSS。
行数が少なくても投稿が可能で、しかも感想が気軽につくため、大きなメリットを感じた。
これに影響を受け、トンデモもss速報で掲載してからArcadiaにまとめるというスタイルを採用した。
エンゲージで好きになったコテコテの恋愛モノをそのまんま禁書でやった感じ。

















以下はnubewoのお気に入りSSのまとめです。
知りたい人がいるかは分かりませんが、興味がおありでしたら、是非読んでみてください。

『凍った時』
【原作】痕(きずあと)
【状態】打ち切り
【ジャンル】長編・後日談
【掲載場所】最果ての地
【あらすじ】
千鶴end後、次郎衛門の記憶を取り戻した耕一がその記憶と恋人たる千鶴への想いの間で葛藤する話。
他ヒロインendで得た設定などをきちんと昇華しつつ、鬼との混血という彼らがこれから
どう生きていくのかにきちんと向き合ったSS。原作に無い道教の要素を取り入れているところも非常に面白い。
【コメント】
原作後すぐから始まり本編が残した課題に向き合う、というスタイルが確実に『Portraits of EMIYA』や『エンゲージ』に影響を与えている。
また、道教の要素を足すことで原作から一歩進んだ世界観を作っているところは、『トンデモ』に影響しているかもしれない。
いくつかのKanon SSと並び、SS界に自分を引きずり込んだ一作。


『最強格闘王女伝説綾香』
【原作】To Heart
【状態】連載中
【ジャンル】超長編・バトルもの
【掲載場所】なつのき会
【あらすじ】
全年齢版にあった来栖川綾香ルートの後日談。
浩之は惚れた相手である綾香に勝つという大きな目標を胸に、格闘技の研鑽を積むことに。
作中では触れられるだけだった格闘技大会エクストリームに浩之が参戦するなど、
格闘技の要素をつよく押し出している。
【コメント】
大量のオリキャラによってもはや原作からはかなり離れている。
ガチの格闘技モノであり、バトル描写は物凄い。
そしてなにより物凄いのは3日~2週間に一度の更新ペースで10年以上ずっと執筆し続けていることだろう。


『二分の一の恋愛劇』
【原作】Kanon
【状態】完結
【ジャンル】長編・並行世界モノ
【掲載場所】参加することに意義がある!!
【あらすじ】
美汐が死んだ世界の祐一と栞が死んだ世界の祐一の話。
【コメント】
起承転結が美しく、読了感が非常に良い。
SSとは書きかけて投げるものだと言って良いほど途中で終わるSSは多いが、
並行世界モノであることの意味をきちんと描いてきちんと終われたSSという意味でも高評価だと思う。


『I LOVE MY FATHER』『LOVE LOVE MY FATHER』
【原作】Kanon
【状態】完結
【ジャンル】短編・娘モノ
【掲載場所】(本文で検索を)
【あらすじ】
祐一と佐祐理さんの間に生まれた娘の話。
【コメント】
本文の一部、
『公序良俗とかモラルとか世間体ってのは、きっと本気で人を好きになった事が無い人が言い始めたんじゃないかと私は思っている。』
『つまるところ自分は若さを持て余したお母様とおとうの『一時の過ち』の産物なのだと気付いたのは、私が人知れず『女』になった日の午前0時を回った頃だったと記憶している。』
で検索すると読める。HPに掲載されているのではない様だ。
すさまじい隆盛を誇ったKanon SSの中では娘モノなどありふれたネタでしかないが、文体にとても惚れていた。


『Proto Messiah』
【原作】Fate/stay night
【状態】打ち切り
【ジャンル】長編・本編再構成
【掲載場所】on the lock
【あらすじ】
言峰に拾われていた「言峰士郎」が遠坂凛と組んで聖杯戦争を戦う。
【コメント】
序盤で更新停止。しかし文体に惚れる。
言峰士郎モノは書ききった例を知らないが、これは一番有名な部類ではなかろうか。


『Brilliant Years』
【原作】Fate/stay night
【状態】打ち切り
【ジャンル】長編・後日談
【掲載場所】なし(web archivesで読むしかない)
【あらすじ】
Unlimited Blade Works編Good End後の話。ロンドンもの。
ルヴィアゼリッタと親交を深めつつ、研究を通してゼルレッチの第五魔法を目指す。
【コメント】
更新停止を最も惜しんでいる作品。
研究生活を主題においたSSは後にも先にもこれしかないのではなかろうか。
その設定のすごさには引き込まれるばかり。
『Portraits of EMIYA』でロンドンものをやろうとしたきっかけであり、
『トンデモ』で佐天の能力開発をやろうとしたきっかけの作品である。
たぶん一番影響を受けているSS。


『マブラヴ オルタネイティヴ MAD LOOP』
【原作】マブラヴ オルタネイティヴ
【状態】連載中
【ジャンル】大長編
【掲載場所】Arcadia Muv-Luv板
【コメント】
文章の量がすでに一日では読みきれないほどの量にまで増えているSS。
原作ではある意味「投げて」しまった人類救済への道筋を、説得力ある描写で描き続けている。
確かな更新ペースと文章量に敬服せざるを得ない。


『クロスゲージ』
【原作】Fate/stay night
【状態】完結
【ジャンル】長編・三次創作
【掲載場所】Arcadia TYPE-MOON板
【コメント】
『エンゲージを君と』の続きをnubewoが一向に書かないことに業を煮やした中村さんが書いて下さった三次創作。
掲載前にnubewoの了解を取り付ける、作品の雰囲気を壊さない、ちゃんと完結させるという、非常に模範的な姿勢で書いていただけた。
正直に嬉しい。ただ、続きを書こうかという煮え切らない自分の態度のせいでまだ未読である。申し訳ない。




[19764] ep.2_PSI-Crystal 01: 乱雑解放(ポルターガイスト)
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/13 22:23

「あの子たちに鎮静剤を。大至急だ」
「わかりました」
時刻は日付の変わる少し前。
医者であっても当直や救急でなければとうに仕事を終えている時間に、カエル顔の医者は病院の廊下を早足で歩いていた。
向かうは地下、一般の患者の立ち入りを禁じた一区画に、医者は少年少女たちを寝かせている。
学園都市に捨てられた子供たち、いわゆる置き去り<チャイルドエラー>であり、施設で育った子たち。いずれも目を覚まさない。
医者の超人的な力を持ってしても、回復の見込みそのものが立っていなかった。
子供たちのいる治療室に入り、医者はバイタルデータ、心拍数や脳波と、AIM拡散力場の変位測定装置を見る。
この異常事態において、脳波はむしろ正常だった。普段の植物状態で示す異常値に比べて、ずっと波形が覚醒した人のそれに近い。
そしてAIM拡散力場は。
「……木山君は、明日保釈か」
解決策に最も近い、頼みの綱の知人の名を呟く。覚醒を始めた子供たちを、再び眠りに引き戻すことしか出来ないことを憂う。
だが、こうしなければ、危険なのも事実。
「今日の乱雑開放<ポルターガイスト>が小規模だといいが」
木山に依頼をされて、初めてこの子達を覚醒させようとしてから数ヶ月。
だんだんと、薬で沈静させるのが難しくなりつつあった。覚醒の周期も早まっている。
いつしか止められなくなる日が来る。それは、もう遠くない未来だった。
それでも医者は絶望しない。希望を捨てず、淡々と意欲的に、解決策を探す。
無痛針をカシン、カシンと押し当てられていく子供たちを見つめながら、医者は考え続けた。






カタカタカタカタと家具が揺れる音がして、光子は読みかけの本から顔を上げた。幸い、身の危険を感じるほどの揺れではなさそうだ。
「地震? そう言えば黄泉川先生が地震がどうのと言っておられたけど……」
とはいえ地震など珍しくもないのが日本だ。
よくあること、と自分を納得させ、紅茶に手を伸ばす。さあっと陶器が木の机をすべる音をさせて、紅茶が逃げた。
「えっ?」
読書用のデスクに置いたカップに、光子はナイトキャップティとして薄く淹れたアールグレイを注いでいた。その紅茶はカップの中で激しく揺れ、いくらかこぼれていた。
自分の手でカップを突き飛ばしたかと、一瞬疑う。だがそんなことがあれば気づくだろう。
元の位置より10センチは動いていると思うから、こんなに動くくらい手を当てれば痛みの一つも残っているはずだ。
「……気のせいかしら」
そう呟くのと同時くらいで、カタリと音を立てて、棚に座らせた人形が一体、床に落ちた。
「誰ですの?!」
飾るくらいに人形の好きな光子だ、こんな風に情けなく倒れ落ちるような座り方はさせていない。現に人形が落ちたことなんて今まで一度もなかった。
そしてデスクを離れたとたん、今度はカップががしゃんと、床に落ちて割れた。これはもう、怪異というほかない。
「私を常盤台の婚后光子と知っての狼藉ですの?」
一番に警戒したのは、自分の姿を隠せる能力者。
一ヶ月ほど前に実際に襲われた経験があるので、常盤台にそんな能力者が侵入するわけがないと一蹴は出来なかった。
だが返事はない。人の気配も感じられない。
先生を呼ぶべきか、と考えたところで、ふと自分自身に違和感を感じた。
能力使用中に動転してしまった時のような、力がコントロールを外れる感覚。それを光子は感じていた。
その感覚が光子の混乱をさらに呼び、その混乱が光子の感覚をさらに乱す。

背中に視線を感じて、光子は部屋の中で大きく振り返った。
人などいるはずもなかった。代わりに、いつの間に動き出したのか、お気に入りでコレクションした西洋人形達が、覆いかぶさるように重なりながら、ガラスの目で光子を見つめていた。
普段人形を愛でる光子を、恐ろしいという感情一色で染め上げるほどにそれは、シュールな光景だった。
「いや……っ、いやあああぁぁぁぁぁぁ!!!!」
その日の夜、学び舎の園は、同系統の能力者たちが上げた悲鳴でちょっとした騒ぎになった。
だがそんなことは教職員が多く住むファミリータイプのマンションの中で、携帯を耳に当てながらどっかりとソファに腰を下ろしたレベル0にはまるで関係がなかった。
「……光子、出ないな」
「光子に愛想尽かされちゃったの?」
「そんなはずはない。寮祭のあとは、ちゃんと仲良くやってるし」
「ふーん。まあそうだよね、あれからみつこの機嫌はよかったもん。とうま、何したの?」
「何って……そのまあ、キスをだな」
「とうまのえっち」
聞いてきたほうのインデックスがむしろ顔を赤くして、当麻から離れた。






朝、初春はいつものようにざっと食事を摂って髪を整え、制服に着替えた。
風紀委員をしている限り、夏休みでもこうやって制服で仕事をしに行くのは普通のことだから、寝坊もせず定刻どおりに起きて生活することは、初春にとって別段大変なことでもなかった。
とはいえ今日は、風紀委員の仕事とは別だ。担任の先生から呼び出されたのだ。
頼みごとがあるとのことだった。
「失礼します」
「ああ、おはよう、初春」
「おはようございます、先生」
そこは初めて入る部屋だった。教室や職員室ではなく、応接室。
掃除当番で入室する生徒もいるようだが、ほとんどの生徒にとっては卒業まで縁のない場所だ。
「座ってちょっと待っていてくれるかい?」
「はあ」
担任は、つけ始めてすぐで慣れないのか婚約指輪を気にしながら、そんなことを言った。
ますます初春には事情が分からない。
「そういえば昨日、地震があったみたいだけど君の寮はどうだった?」
「大丈夫でした。こっちは全然揺れませんでしたから」
「そっか。不思議だね、同じ第七学区でも揺れた場所と揺れなかった場所があるなんてさ」
「そうですね。……何か、普通の地震とは違うんでしょうか」
「地球科学は僕の専門外だからなあ。ところで初春。佐天とは確か、仲良かったよね」
「あ、はい」
「来月からのこととか、何か聞いてないかな?」
「え?」
佐天とは夏休みに入ってからもほとんど毎日一緒に過ごしているが、改まった話をした覚えはない。
いつもおやつの話だとか、テレビの話だとか、宿題の話だとか、そんなのばかりだ。
だけど先生の言うことに心当たりはあった。佐天はもう、柵川中学では並ぶものがいないレベルの能力者だ。
「それって、佐天さんが転校するかも、っていう話ですか?」
「話をしているのかい?」
「いいえ。佐天さんからは何も。でも、あれだけレベルが上がったらそのほうが自然ですよね」
「そうだね。もっと高みに上れる人は、上を目指したほうがいいとは僕も思う。ただ、そういう話を進めてみたはいいけど、佐天のほうから音沙汰がないんだよね」
良かれと思ってレベル2のIDをすぐ発行し、そのときにも改めて聞いたのだが、それから数日たっても何も言ってこなかった。
親友と離れがたいのが一因かと思い探りを入れたのだが、そのあたりは初春の反応を見てもよく分からなかった。
「まあいいや。今日は転校は転校でも別件でね」
「はい?」
ちょうどタイミングよく、コンコンと扉がノックされた。入っておいで、と担任が言うと、控えめな感じに扉が開かれた。
現れたのは初春と同じくらいの体格の少女。柵川の制服を着ている。髪の一房をゴムで縛って触覚みたいにしてあるのが可愛らしい。
大人しくて優しそうな印象の女の子だった。
「新学期からの転入生の子だ。実は君のルームメイトになる」
「へ、えぇっ?」
「いやーごめん、急に決まったことでさ。こういうとなんだけど、わが校の風紀委員として、この子の力になってあげて欲しいんだ」
「あ……はいっ!」
そうやって任されるのは、初春とて悪い気はしなかった。
少女に向き合うと、緊張した面持ちで、ぺこりと頭を下げてくれた。
「春上衿衣(はるうええりい)……なの」



唐突に春上を紹介されて数時間。すっかり日は真上まで上り詰めて、お昼時を示していた。
二人は今、初春の自室の前、これから春上にとっても自室となる寮の扉の前で立ち尽くしていた。
「ちょ、ちょっと佐天さんに連絡とってみますから! 白井さんも来てくれると思うし、そうすれば」
「はいなの」
慌てて携帯を耳に当てる初春を春上は戸惑いながらぼんやり眺めた。二人の目の前には、うず高く積まれた春上の私物。
引越し業者のダンボールに詰められたそれは、扉を開けられないように置かれていた。
見慣れないマークの引越し業者で、信じられないような対応の悪さだった。
事の次第はこうだ。
朝一番に春上の紹介を受けた初春は、大急ぎで帰宅して片づけをした。なんでも今日の昼に引っ越してくるらしかったからだ。
そして引越しのトラックとは別にやってくる春上を駅まで向かいに出ている間にトラックが着いたらしく、信じられないぞんざいな対応で、荷物をごっそり扉の前においてさっさと引き上げた、ということのようだ。
動かしてもらおうにもその業者の電話はずっと通話中で、まるで当てにならない。
「あ、佐天さん? 今どちらに……あ、はい。わかりました」
電話を切った初春が春上のほうを見て、にっこりと笑う。
「力持ちが来てくれそうなので何とかなりそうです」
「力持ち?」
「まあ、力を使わずに物を運べる人なんですけどね、正しくは」
白井を自分の住む寮に招いたことはなかった。
だが、転校生の話を聞いた佐天が白井と美琴を迎えに行ってくれているらしい。
「ういはるーぅ。お待たせ」
「あ、佐天さん。それに白井さんと御坂さんも」
「やっほー」
「ごきげんよう……で、コレはなんですの」
「引越しの業者さんが置いて行っちゃったんですよ。春上さんを駅に迎えに行ったのと入れ違いで。 ……あ、それでこちら、新入生の春上衿衣さんです」
「はじめまして、なの」
「んでこちらが私達と同じ柵川中学の佐天さん、それと常盤台中学の白井さんと、その先輩の御坂さんです」
よろしくねと笑いかけた美琴に春上は微笑を返す。
その隣ではこれ運ぶの大変なんですよー、と白井の眼を見つつ初春が言ったのに、白井がため息をついていた。
「お昼も近いことですし、さっさと運びませんとね」
そっと白井がダンボールの山に手を触れる。ただそれだけのことで、目の前から荷物が文字通り消えた。
白井の能力、空間移動<テレポート>が発現した結果だった。この程度の重量と距離なら、白井にとっては造作もない。
「白井さん、助かります!」
「おおぉ~」
春上が口を可愛らしく開けて驚いていた。それを見て、素直な賞賛に白井は気を良くした。
「これだけのことができる空間移動能力者はそうおりませんのよ?」
「とってもすごいの」
「さて、それじゃあパッパと済ませちゃいますか」
初春が扉を開いて五人は荷物の整理に取り掛かるべく、靴を脱いで部屋に上がった。



春上の荷物をてきぱきと仕分けし、新しい居場所であるこの部屋に仕舞っていく。
重い荷物は白井がささっと移動させてしまうため、非常に手早く済んでしまった。
ぱんぱんと服の汚れを払いながら立ち上がった佐天がにこっと笑って春上を見た。
「これでおしまい、でいいのかな?」
「うん、これで終わりなの。皆さん、今日は手伝っていただいてありがとうございました。とっても助かりました……なの」
「どういたしまして。それにしても、おなか空いたわね」
「朝もあれだけ召し上がりましたのに、もうですの?」
「あれだけって、いつも通りじゃない。それにもうお昼摂ったっておかしくない時間でしょうが」
「皆さん! これから一緒にランチしましょう! 春上さんはこの辺りのこと良く知らないし、懇親会もかねて!」
文句を言い合う白井と美琴をよそ目に、初春がそう提案した。
春上はよくわかっていないのか、ぼんやりした顔をしている。佐天がそれを見て微笑みながら、賛成と手を上げた。
しかし白井があきれた顔で初春を見つめた。
「初春、忘れましたの? 私達は午後から合同会議ですわよ?」
「へ? あっ……。そうでした」
「合同会議? 誰との?」
「風紀委員と警備員の、ですわ。このところ地震が頻発していますでしょう? その関連だそうですわ」
「地震で、風紀委員と警備員が合同会議?」
議題がピンと来ないのか、美琴が首をかしげた。実際、白井と初春にも趣旨が良く分かっていなかった。
せっかくのランチ計画が、とうなだれる初春を見て、もう、と佐天が笑った。
「それじゃあお昼はうちで冷や麦にしましょう」
「え?」
「テーブルが足りないからちょっとお行儀悪いかもしれないですけど、いいですよね」
頭に買い置きの薬味を思い浮かべる。しょうがとすりゴマは常備しているし、タイミングよく大葉と茗荷もあった。冷や麦は実家から大量に送ってもらったから問題ない。
佐天の家でなら移動の時間は掛からないし、麺類ならすぐ作れる。ちょっとドタバタするが、これなら全員で親睦を深める暇もあるはずだ。
「賛成! 賛成です! 佐天さんありがとうございます」
「いいってことよ。初春のルームメイトなんだから春上さんは私にとっても親友候補だもんね」
「ですよね! クラスメイトとして仲良くやっていきましょう!」
「あ……」
「えっ?」
急に、佐天の勢いがしぼんだ。それで初春はハッとなった。春上のタイミングがやけにおかしいだけで、転校シーズンはむしろこれからだ。
夏休みを使って転校先を探し、二学期から編入というのが王道のパターン。そして、佐天はそうやって栄転する可能性の高い、そういう立場にある人だった。
「ご、ごめん。雰囲気悪くしちゃったね。さっ、うちに行きましょう! 早速準備しますから」
佐天自身も、未だ身の振り方を決めあぐねている、そんな段階だった。
まだ一週間くらいは、何も動かなくても間に合う。そういう考えに佐天は甘えていた。






「それではこれより、風紀委員と警備員の合同会議を始める。あたしは警備員の黄泉川だ。 今日の議題に関しての担当になる。……前置きは別にいいだろう、それでは早速説明を始める」
アンチスキル第七学区本部第一会議室、会議室というには大きく、演壇とそれに向かい合う沢山の座席からなるホールであるそこに、初春と白井を含めた風紀委員の学生、および警備員を務める教職員が集まっていた。
少なくとも風紀委員の側は、地震に関する議題だとは知っているもののそれ以上の情報は与えられていないらしく、皆一様に落ち着かないような、そんな雰囲気だった。
「このところ頻発している地震について判明したことがある。結論から言えば、これは地震ではない。正確には、これはポルターガイストだ」
「ポルターガイスト……?」
「普通は家具が宙を舞うようなものですわよね」
白井と初春が小声で会話する。その声が演壇上の黄泉川に聞こえるはずもなく、淡々と説明が進んでいく。
「地震は波動の伝播メカニズムの違いにより、P波とS波という伝播速度の異なる波を必ず生じる。だが一連の揺れにはこれがなく、またその発生地域が極めて局所的だ。この点で所謂地震ではないことが分かる。また地震、というと語弊があるがこの現象は全て学園都市内でのみ起こっている。この事からも、この学園都市に固有の事情でこの揺れが生じていると見るのが自然だ。こうした事実から我々はこの揺れがポルターガイストの一種であると仮説を立て、調査を行ってきた。その結果先日、この仮説が実証された。今日はその仮説の中身について説明していく。調査と実証の手法についてはレポートにまとめてあるから興味のあるものは各自読んで、提供できる情報があるならあたしの所まで連絡をくれ」
黄泉川はそこまでを通しで喋って、舞台袖をチラリと見た。
そちらと目配せで情報をやり取りしてから、再び聴講しているこちらへ体を向けた。
「この現象、地震にも似た局所的な揺れは、端的に言うとRSPK症候群の同時多発によって引き起こされたものだ。詳しいことは先進状況救助隊のテレスティーナさんから説明してもらおうじゃん」
黄泉川が舞台袖に体を向けて、壇上中央に招くように手を差し出した。
それに答えるように、カツカツと小美味いい音を立てて、スーツ姿の女性が姿を現した。
年は二十台半ばくらい。理知的な印象を与える丸い銀縁の眼鏡と、ピンできちんと留められた髪。
ヒールを履かずともそれなりに背丈もあるところは異なるものの、髪の色や毛先をカールさせているところは白井に似ていなくもなかった。雰囲気はかなり違うが。
テレスティーナが黄泉川からマイクを受け取って、息を整えた。
「先進状況救助隊って……白井さん、知ってました?」
「いいえ。まあこの手の研究機関は山ほどありますし、その一つではありませんの?」
「えー、ただいまご紹介いただきました、先進状況救助隊のテレスティーナです。RSPK症候群とは、能力者が一時的に自律を失い、自らの能力を無自覚に暴走させる状態を指します」
スクリーンに『Recurrent Spontaneous PsychoKinesis(反復性偶発性念力)』という名称が示される。
この症候群そのものは、割と学園都市では有名だった。というのも能力発現とこれは裏表の関係だからだ。
超能力は普通の現実から人を切り離すことで発現する。
例えば佐天が能力発動に至った鍵である幻覚剤の投与、他にも五感の遮断などによって学園都市は超能力を開発する。
そして、これとは違う現実からの切り離し方として、子供にトラウマを植え付けたり、安定した庇護を受けられない環境に追いやりストレスを与えるといった行為が挙げられる。
このようにして不安定かつ暴走的な形で能力を発現させた子供の例は学園都市が出来る以前よりしばしば見られ、RSPK症候群の一種、いわゆるポルターガイストを発現させることが知られていた。
児童虐待と能力開発の関係は、反面教師として教職員には周知であり、また学生達も能力開発史の授業で学ぶことだった。
「RSPK症候群が引き起こす現象はさまざまですが、これが同時に起きた場合、暴走した能力は互いに融合しあい、一律にポルターガイスト現象として発現します。さらにこのポルターガイスト現象がその規模を拡大した場合、体感的には地震と見分けが付かない状況を呈します。これが今回の地震の正体ということになります。RSPK症候群が同時多発した原因については目下調査中ですが、一部の学生の間ではこの現象を具にもつかないオカルトと結びつけ、それによって集団ヒステリーなどが起き、被害が拡大することも考えられます。今回風紀委員の皆さんに集まってもらったのは、そのような噂を学生達が面白半分に広めないよう、注意を促してもらいたいからです。私からの発表は以上となります」
「今日の内容を後で各自の携帯端末に送っておく。風紀委員の皆にはそれを熟読してもらい、学生への周知を図ってもらいたい。……風紀委員の皆への用件はこれで終わりになるじゃんよ。何か質問はあるか?」
テレスティーナからマイクを受け取り、黄泉川が皆にそう尋ねた。
終わりとばかりに腰を上げ始める白井の隣で、一緒に座っていた固法が首をかしげていた。



「思いのほか、早く終わりましたね」
「警備員はこの後もミーティングなんですって」
会議室から退出した白井と初春、固法は各自の端末に届いた今回の一件の報告書にざっと目を通しつつ、外へと足を向けているところだった。
注意喚起は受けたものの、することは別段これまでと変わらない。受け持ちの場所のパトロールやその他の雑務をするだけだ。
「白井さん、これからどうします? 私、春上さんと佐天さんと御坂さんに合流しようと思うんですけど」
「私もご一緒しますわ。どうせ今日は非番ですし」
うーん、と白井が伸びをしたところで、視界の端に二人の男女が映った。
風紀委員の腕章をつけていないし、そもそも今退出を命じられた会議室のほうへと逆行している。
それを奇妙に思ってまざまざと観察すると、つい先日見覚えのある、ツンツン頭の高校生と修道服の少女だった。
「あれは……」
「え、上条君?」
「固法! ちょうど良かった。警備員の先生達ってこの先か?」
「え、ええ……。でもまだ会議は続くわよ」
「こんにちは上条さん、風紀委員の退出に合わせて短い休憩を取ってますから、今なら大丈夫かもしれませんよ」
「そうか、サンキュ」
当麻にとっては固法はそれなりに久々だったし初春もいたのだが、急いでいるらしく挨拶抜きの対応だった。その後ろをインデックスがペコリと軽く頭を下げながら追いかけていく。
事情をつかめない三人が怪訝な顔をするのを後ろに放っておいて、当麻とインデックスは黄泉川のところを目指した。
幸い、タバコを吸いに来た黄泉川を二人はすぐに見つけることが出来た。
「先生!」
「上条。どうした? 早く婚后のところに行ってやるじゃんよ」
「いや、光子の入院先を教えてくれてないじゃないですか」
「しまった、すまん」
合同会議もあってうっかりしていたのだろう。端末を取り出してサッと当麻に転送する。
「みつこ、大丈夫なの……?」
「先生はさっき別条はないって言ってましたけど」
「ああ。まあ……あんまり研究者の都合をぶっちゃけてしまうのもアレだけど、この一件でポルターガイストに巻き込まれた被害者は全部経過は良好で、最近じゃ入院なんてさせてないんだ。ところが婚后のやつがレベル4なのを知って病院側が目の色を変えてな。だから本人は元気そうだったじゃんよ」
「そうなんだ」
当麻の伝聞だけでは落ち着かなかったのだろう、黄泉川の説明でようやくインデックスがこわばった顔を緩めた。
「それじゃ、悪いけどあたしはもう戻るじゃんよ」
「忙しいとこすみません。ありがとうございました」
「おう」
休憩中に一服できなかったことに僅かにイライラしつつ、黄泉川は再び会議室へと足を向けた。
ぽん、と優しくインデックスの頭を撫でながら、当麻はすぐに光子のいる病院への経路を頭に描く。
『先進状況救助隊本部・先進状況救助隊付属研究所』という病院らしくない響きの施設に、光子はいるらしい。
「あの、上条さん。どうかしたんですか?」
「え? ああ、初春さん。いや実はさ、昨日の地震……っていうかポルターガイストなんだっけ、これ。とにかくそれが原因で光子のやつが入院してるんだ」
「ええっ? 婚后さんがですか?」
「ああ、それで見舞いの場所が分からなくて、聞きに来てたんだよ」
「警備員の先生に、ですの?」
「光子は来週から黄泉川先生の家でこいつと一緒に暮らす予定だからな。それで知ってるんだよ。……それじゃ悪いけど、早く見舞いに行きたいし、俺たちはもう行くわ」
「あ、はい。婚后さんによろしく伝えてください」
「ありがとう。それじゃ」
挨拶もそこそこに、二人はまた足早に、建物の外へと出て行った。
婚后光子とそりの合わない白井がふんっと息をつきながらこぼした。
「……いい殿方ですわね。肝心の付き合っている相手は好きになれませんけれど、上条さん本人の態度には好感が持てますわ」
「そうね。……にしても意外。上条君が彼女作って落ち着いちゃうとはねぇ」
「はぁ、よく女性にモテる人だったんですか?」
「うん。けどまあ、朴念仁だったからね、彼は」
過去を知る固法が嘆息した。






暇を持て余した病室で光子がまどろんでいると、不意にコンコンと扉が鳴った。
「光子、入るぞ」
「あ……」
夢と現の境目にいたせいで弱弱しい返事しか返せなかったが、当麻はこちらの反応を待たずに扉を開けた。
ベッドの背を高くして本を読めるような姿勢にしていたから、そのまま当麻と目が合う。
当麻が痛ましそうな目でこちらを見つめた。
「みつこ、みつこ……っ」
当麻の影からインデックスが飛び出してきて、ぼふりと光子の胸に飛び込んだ。
何も言わないインデックスに、そのままぎゅっと抱きしめられる。少し遅れて傍に立った当麻が、光子の頬に触れた。
「大丈夫か……?」
「あ、はい。その、別に何ともありませんのよ?」
「無理しなくていいんだぞ」
寝起きの頭を必死にしゃっきりさせようとしているのを、強がりと取り違えられてしまったらしい。
いつになく優しい手つきで、当麻が抱き寄せてくれて、おでこにキスしてくれた。
なんだか贅沢をしているような嬉しい感じ。だが同時に、どうも分不相応というか、自分の現状から乖離した余計な心配をさせているように思う。
「あの、寝起きでちょっとぼうっとしているだけですの。ごめんなさい」
「やっぱり昨日は、眠れなかったのか?」
「事情、お聞きになったの?」
「ああ、黄泉川先生からの又聞きだけど、ポルターガイストに巻き込まれたって」
「そうですわ。でも、他の人もそうですけれど、何ともありませんのよ」
「そうは言うけど……無理しちゃ駄目なんだよ、みつこ」
「ありがとう、インデックス。でも、今日は退院できませんから、インデックスの楽しみにしていた浴衣は着せてあげられませんわね。あと、エリスさんにもご迷惑をおかけしてしまいますわ……」
今日は予定では、光子と当麻、インデックスは夏祭りに出かける予定だったのだ。
インデックスには光子のお下がりを、そしてエリスは持参した浴衣を、それぞれ光子に着付けてもらう予定だったのだが、それも光子が入院となっては無理な相談だった。
ちなみに常盤台は夏祭りに出かけられるような門限にはなっていないので、黄泉川に監督を委任しつつも常盤台の寮に部屋を残した期間、要は引越しの猶予をちょうど今日からに設定していたのだった。
「仕方ないよ。みつこがこんなところにいるのに、お祭りになんて行けないし。エリスには連絡して、何とかしてもらうようにするから」
「ごめんなさいね。インデックスはお祭り、初めてなのにね」
「今日はずっと、ここにいるから」
絶対に離れないといわんばかりに、インデックスが光子の胸の中でそう宣言した。
それを可愛く思って微笑む。そして髪を梳いてやりながら、困ったことに思い当たった。
「あの、気持ちは嬉しいけれど、夕方になったら検査なんですの。それなりに時間がかかるそうですから、お二人を待たせてしまいます」
「そうなのか。それって夜まで会えないのか?」
「いえ、ここの面会は結構遅くまで大丈夫のようですから、夜にはお話できます。それに合わせて黄泉川先生は来てくださると仰っていましたけれど……」
「んー……それじゃあ、もしかしてちょうど夏祭りに行ってれば暇を潰せるのか?」
「ああ、言われて見ればちょうどその時間ですわ」
「よし、それじゃ晩飯はそこで摂ることにするよ。光子の分まで楽しんでくるから、申し訳なくは思わなくていいからな。まあ、俺たちが遊んじまった分の恨みは、後で聞くし、埋め合わせもするから」
「ふふ。私そんな狭量な人間のつもりはありませんわ。しっかり楽しんでいらして」
ちょっぴり保護者っぽい微笑を二人が交わしたところで、光子の携帯が音を立てた。
誰でしょうかと思いながら、光子はディスプレイに目をやる。佐天らしかった。
「もしもし、婚后です」
「あ、婚后さん。……その、電話大丈夫ですか?」
「ええ」
「昨日の地震で入院したって聞いたんですけど……」
「あら、情報が早いのね。お恥ずかしながら、そのとおりですわ」
「お体は大丈夫なんですか?」
「なんともありませんわ。医師の方が酷いことを仰いますのよ。レベル4でのポルターガイスト発現例は珍しいから調べさせてくれですって」
「はあ。それじゃホントに元気なんですか?」
「ええ。外因性のもので、私自身が心的ストレスを感じてポルターガイストを発現したのではありませんし、体調不良もありませんもの。病院食が美味しくないというのは本当につらいことですわね」
「よかった。元気ならそれが一番ですよ。それで、もし婚后さんがお暇だったら、みんなでお見舞いに行こうかって話になってたんですけど、どうですか?」
「暇……まあ、取り急ぎの用事はありませんけれど」
言葉を濁したその返事に、佐天はピンと来たらしかった。
「彼氏さんが来てるんですか?」
「え、えっ? あの、どうして」
「やだなー、素敵な彼氏さんだって婚后さん言ってたじゃないですか。もしかして今も隣で抱きしめてくれてたりするんですか?」
「そそそそんなわけありませんわ! もう、嬲るのはおよしになって」
思わず当麻のほうを振り返ると、はてなマーク付きの表情だった。今は当麻とのスキンシップは控えめだ。
だがそれはインデックスが抱きついているからであって、二人きりなら佐天の言に図星だったかもしれない。
「それじゃあ、夕方くらいに皆で行ってもいいですか?」
「あ、五時から検査ですの。ですからその前なら……」
「五時ですね。わかりました。そのときにみんな、ええと、私と初春と白井さんと御坂さんと、あとうちに転校してきて初春のルームメイトになる春上さんを連れて行ってもいいですか? 婚后さんに失礼かとも思うんですけど、転校したての春上さんを放っておくのも悪いし、それにお見舞いのついででアレですけど、夏祭りに行こうとも思ってて」
「かまいませんわ。佐天さんのお友達なら、またご縁もあるでしょうし」
そこで、ふと思い至る。
光子が元気そうだから気を使わないでくれたのか、これから夏祭りに行くことを教えてくれた。
それなら頼みごとを聞いてくれるかもしれない。
「そうそう、佐天さん。夏祭りって、服はどうされますの?」
「え? 浴衣をみんなで着ようかって」
「皆さん着付けられますの?」
「ええと、分かりませんけど私と御坂さんは大丈夫です」
「そう。……あの、お願いがあるんですけれど、着付けを二人前ほど追加で引き受けては下さいませんこと?」
「それは構いませんけど、誰のをですか?」
「私の連れのインデックスと、その友人のエリスさん……たしか盛夏祭でお会いしたんではありません?」
「あ、はい。わかります」
「あの二人の着付けをお願いしたいの」
「いいですよ」
良かった、と光子は安堵した。インデックスには最悪謝ればすむし埋め合わせも出来るが、連れのエリスは当麻以外の男性と逢引と聞く。
さすがにそんな一大イベントを控えた女の子に事情があるとはいえ断りを入れるのは心苦しかった。
もう二三言交わして、光子は佐天との電話を切った。
「浴衣、着付けてくれるって?」
「ええ。助かりましたわ」
「だな。エリスに申し訳ないと思ってたところだし。集合場所はどうしたらいいんだ?」
「ここは中心街から遠いですから、駅前のほうで都合をつけるのが良いと思います。佐天さんたちがここに来たら、当麻さんは落ち着きませんでしょう? その、追い出すようなつもりはありませんけれど、入れ違いでインデックスの服を取りに行ってくださったら……」
「わかった。気にしないでいいよ、光子」
優しい手つきでまた当麻が頭を撫でてくれた。
目を合わせると、軽いキス。
突発的な入院のせいで夏祭りデートは中止になってしまったが、心の寂しさは埋められた光子だった。






インデックスの浴衣を取りに黄泉川家へ戻ったあと、エリスと合流して当麻たち三人は光子に聞いた場所を目指す。
「ごめんね、上条君。彼女さんが大変なのに手間かけちゃって」
「いいって。浴衣着れなかったら垣根のヤツが可哀想だしな」
「む、私のためじゃないんだ」
「いや、そういう言い方するとアレだろ?」
エリスのために都合をつけた、という言い方をするとむーっと怒る女の子が二人ほどいるのだ。
現に隣で咎めるように当麻を見る銀髪の女の子と、ただいま入院中の当麻の本命が。
「ふふ。尻に敷かれてるね、上条君」
「それくらいがいいんだよ。俺と光子は」
「とうまはすぐ他の女の人と仲良くなるんだもん。怒られて当然なんだよ」
「ひでえ。そんなことないだろ。……っと。ここらしいな」
柵川中学の学生寮。どうやら目標はここのようだった。詳しい場所は分からないから、当麻は光子に教えてもらった番号に電話する。
「はい、もしもし」
「あ、佐天さん、かな? 上条だけど……」
「こんにちは。もうこちらに来てらっしゃるんですか?」
「ああ。寮の目の前にいる」
「ちょっと待ってくださいね。……あ、いたいた、こっちです。おーい」
途中から声が電話じゃなくて直接聞こえるようになった。見上げると浴衣姿の佐天が手を振っていた。髪を結っていて、可愛らしい。
……もちろん当麻はそんなことを口には出さないが。
佐天は身軽にタタッと階段を下りてきてくれた。
「鏡があるし、私の部屋に案内しますね」
「サンキュ。それじゃあ、二人は着替えてきてくれ」
「はーい。とうま、変な人に声かけられちゃ駄目だからね」
「ふふ。インデックス、彼女さんみたいだよそれ」
「ち、ちがうもん! 私はみつこの代わりに怒ってるだけ」
「それじゃ、あの、佐天さん。着付け、お願いするね」
「よ、よろしくおねがいします……」
「はい。任せてくださいな」
フランクながら丁寧な感じのするエリスのお願いとは対照に、インデックスのは敬語慣れしていない子供の挨拶みたいだった。
それに苦笑いしつつ、当麻はインデックスに浴衣とインナーの入った手提げを渡してやった。
「そういや他の子はいないのか?」
こちらの女子メンバーも光子の見舞いからもう帰ってきているはずだった。
「あ、白井さんと御坂さんは寮の門限をこっそり破るらしくて、今は一旦帰ってます」
「こっそりって、大丈夫なのか? 常盤台なんて厳しそうだけど」
「白井さんはレベル4の空間移動能力者<テレポーター>ですからね」
「へー」
「あと、初春と春上さんって子は自分たちの部屋にいると思います」
「そうなんだ」
盛夏祭で会いはしたが、肝心の演奏はほとんど聴いていなかったので美琴とは微妙に会いづらい。
というか、先ほどの光子が受けた電話の辺りで、ようやくこのメンバーと美琴が知り合いだと知ったところなのだった。
またいずれ、きちんと自分が光子の彼氏なのだと、一応言っておかねばなと思う当麻だった。
もちろん美琴に対してではなく光子に対しての気遣いとして。

佐天に連れられて階段を上るエリスとインデックスを見送る。さすがにこの距離なら変なアクシデントも生じない、と思った矢先。
慣れない荷物のせいでつま先を階段に引っかけて、すってーん、とインデックスがこけた。
当麻も何度も見た事のある、白い綿のパンツが夕日に照らされた。
……何度も見たことがあるのはその、偶然と不幸の成せる技であって決して自分に負い目はないと当麻は思っている。
「とーーーうーーーーまーあああああああ!! ばかばか! こっち見なくていいんだよ!」
「す、すまん!」
……つい見てしまうのは実は当麻のスケベ心のせいなのは、当麻自身気づかないようにしていることなのだった。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 02: 友を呼ぶ声
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/04/16 23:32

「私達はあっちで待ち合わせなんで」
「上条さん、失礼します」
「おう」
「佐天さん、今日はありがとうね」
「ほら、エリスが挨拶してんだしお前もちゃんとしろよ」
「……え? あ、ありがとね、るいこ」
夕焼けの川沿いを春上、初春、佐天と当麻、インデックス、エリスの六人で歩いてきた。
全員が中学生くらいの女の子達なのでちょっと居場所のない当麻だったが、いつもの保護者気分でいると最後のほうはなんかもう慣れてきたしどうでもいいやという感じだった。
ちなみにインデックスが歯切れの悪い挨拶をしているのは人見知りのせいではない。
珍しくストレートに、当麻に可愛いよと言われてしまったせいで戸惑っているのだった。
「婚后さんにいつもお世話になってるののお礼だから、気にしないでいいよ。それじゃあ、またね」
ぺこりと頭を下げたインデックスに笑い返して、佐天は土手を登った。
日本人ではない二人に着物を着付けたのだが、やはりエキゾチックな魅力というのはあるなぁ、と思っていた。
インデックスは光子のお下がりを貰って喜んでいたが、銀髪との対比が鮮やかな、いい色選びだったと思う。光子の事だからいくつかあるお下がりから選んだのではないかという気がする。
一方エリスも、自分で選んだとのことだったが、やはり黒髪と金髪では同じ色の服を着ても印象が全く違う。
ちょっと羨ましく思う佐天だった。実際、当麻にもインデックスが可愛らしく見えたらしかった。
……改めて、光子ではなくインデックスと当麻の関係が気になる佐天だった。
「あ、春上さん。ちょっと着崩れてる。キャミが見えちゃってるよ、こっち向いて」
「ありがとうなの」
ちょっと隣で初春が悔しそうな顔をするのを見て、佐天はクスリと笑った。
お姉さんぶりたいのだろうな、なんてクラスメイト相手に思ってしまったのだった。
「お待たせしましたわね、皆さん」
「おー、春上さんも初春さんも、佐天さんも素敵ね」
ようやく寮監の監視から解放されたのか、少し遅れて白井と美琴がやってきた。運良くというか、全員上手く浴衣の色がばらけて、綺麗に並んでいた。
白井の紫や初春の桃色にはなんだか納得。そして美琴のオレンジ、というか黄朽葉色の浴衣は五人の中でも落ち着いた色で、大人っぽく見える。
本当はもっと可愛らしいデザインのを着たいんじゃないのかな、なんて邪推を佐天はするのだった。

あたりはそろそろ夜。
鼻をくすぐる祭りの匂いが濃くなって、なんとも食欲が出てくるのだった。
こういうときの切り込み隊長を自認しているので、佐天は勢いよく言った。
「あっ、あっちのほう、かなり夜店出てる! ん~っ、我慢ならん!」
「ちょ、ちょっと佐天さん! 土手を走ったらこけますよ」
「私も行こうっと!」
「あ、お姉さま! そんなに走っては……んもう!」
次に続いたのが美琴だった。白井は着崩れるのが嫌らしく、走らずに能力で飛んできた。
「春上さん、私達も」
「うん!」
いちばんおっとりしている春上・初春組も祭りの雰囲気に当てられて、はしゃいでいるようだった。




とりあえず、五人でたこ焼きを食べた。
春上はそれから林檎飴を完食し、お好み焼きをほおばり、そして今、スーパーボールすくいをやる初春の後ろでフランクフルトをかじっていた。
風紀委員の癖で自分では使い切らない量のティッシュを持ち歩く初春も、そろそろストックが切れそうだった。とにかく春上は、良く食べる上にほっぺたにソースだのをつけるのである。
可愛い顔をしているせいか不思議と怒る気にはならないのだが、このペースだと近いうちにソース類を初春はお気に入りのハンカチで拭いてあげることになる。
染みが残るのはちょっぴり嫌なのだった。
「春上さんはやらなくていいんですか?」
「うん。見てるだけで、すごく楽しいから。こんなに色々遊んだの、初めてなの」
「やりたいのがあったらいつでも言ってくださいね、私も得意じゃないですけど、お教えしますから!」
「うん! ありがとうなの」
気持ちはわからないでもないが、春上は金魚すくいで実際に掬うのをやらずとも、水槽の中の金魚を眺めるだけで満足できるらしかった。
「もうちょっとしたら花火ですね」
「そうなの?」
「ええ。大きな川が流れてる学区は限られてますから、ここの花火は学園都市じゃ大規模なほうで、人気なんですよ」
「おおー」
「一時間くらいありますから、食べ物を買って食べながら見ましょうか」
「うん。そうするの」
普段からあれこれ遊んでいるせいでカツカツの初春は、実はもうあんまり食べられないのだった。




「はぁぁ……」
ぽやー、と美琴は一点を見つめていた。視線の先には、お面のかかった屋台。
デパートの屋上でやるヒーローショーで熱くなれるくらいのお子様向けのものだと言っていいだろう。そこに何の因果か、ゲコ太のお面がかかっていたのだった。
奇跡のようなめぐり合わせに、美琴は身動きが取れないほど魅了されていた。
だって、このお面がそう売れるとは思えない。現に美琴が見つめている間に売れていったお面は、どれもこれもヒーローモノや女の子向けの魔女っ子アニメのお面なのだ。
ゲコ太は子供のなりきりたいキャラではないので、到底売れそうにもない。
……ふと気づくと、隣には銀髪の女の子。
こちらもぽやーっとお面、どうやら超起動少女(マジカルパワード)カナミンのを見つめているらしい。
「おーい、インデックス。何見てるんだ」
「と、とうま。なんでもないんだよ」
「お面? ……って、御坂じゃないか」
「んなっ、ななななななななんでアンタここにいんのよ?!」
「第七学区の夏祭りにいたらおかしいのかよ……。で、ビリビリお前は何見てんの?」
「へっ? いやっ、うえぇっ?」
隠せるわけもないのに、お面の屋台を当麻から隠すかのように美琴が手を広げる。
その様子を見て、インデックスが深いため息をついた。
「とうま。この女の人は誰?」
「えっ……?」
美琴はガツンと頭を殴られたような衝撃を覚えた。
どう見ても年下にしか見えないこの少女は、今、なんと言っただろう。
まるで恋人が嫉妬しているかのような、そんな口ぶり。
「え? 常盤台の寮祭で会ってなかったっけ」
「知らない。会ってたら私、絶対覚えてるもん」
「光子の同級生だよ」
「ふーん……」
まるで二人の会話が頭に入らない。二人の距離が、仕草が、あんまりにも近すぎる。
友達だとか知り間とかの距離じゃない。もっと、近しい人たちの距離感だ。
お祭りの熱が急に冷めそうなくらい、美琴は嫌な汗をかいていた。
「その、あ、あ、あんた達って、つつ、付き合っ……」
「ん? ああ、違うぞ」
「え? そうなんだぁ……でででもっ、じゃなんで二人で」
「いや、ホントはもう一人いたんだよ。それだけだ」
「そ、そっか。じゃあ、なんでもないんだ」
「ん、まあ、そうだな」
「確かに恋人とかそう言うのじゃないけど、なんでもないって言われるのは心外かも。この人こそ当麻の何なの?」
「何って、知り合いだよ」
「どういう?」
「……俺たち、どういう知り合いなんだろうな?」
「私に振るな!」
ふーふーと美琴は荒い息をつく。そしてさすがに周りの目を集めていることに気づいて、ちょっと心を落ち着けた。
どうやら、目の前の少女の詳しい情報を集めるに連れ、心は落ち着いてくれたらしい。良く分からないが。
そして向こうにも余裕が出来たのか、思いついたようににやりと当麻が笑った。
「で、インデックス。お前、これ欲しいのか?」
「い、いらないもん。こんな子供っぽいの、買ったってしょうがないんだよ」
それを聞いて当麻はさらにニヤっとした口元を歪める。チラチラ見るインデックスの視線が、言葉と裏腹だった。
そしてもっと面白いのが、美琴だった。インデックス以上に年上だと当麻も思っているのだが、なかなかどうして、可愛いところがある。
「御坂。お前もこういうの、子供っぽいと思うか?」
「……あ、当たり前でしょ。中学生にもなってこんなの!」
「買ってやろうか?」
当麻は二人に声をかけた。値段は良心的で、二個で五百円だ。
「ば、馬鹿にしてんじゃないわよ!」
「そうなんだよ! 私のこといつもいつも子供扱いして!」
「お前ら子供だなあ。童心に帰ってお面を買うのが恥ずかしいとか、むしろガキの証拠じゃねえか」
「え?」
「子供じゃないってのは、たまには遊びでこういうの買うものアリかなーって思う余裕があって言える事だろ」
高校生論理を振りかざして、当麻は上から目線でニヤニヤと二人に諭してやる。
なんだか全く新しいものの見方を覚えたような顔で、二人はぼんやりと当麻と、そしてお面を見た。
「ほれ、インデックスはカナミンで、御坂、お前はこのカエルか?」
「カエルじゃなくてゲコ太! ……じゃなくて! なんで、それって」
「お前の携帯、たしかこのモデルだろ?」
「うん……」
当麻が自分のことを知っていてくれたのが不意にうれしくて、美琴は口ごもった。
「よし、おじさん、これとこれ二つ!」
「あいよ!」
「ほれ」
当麻が財布から硬貨を取り出して、僅か数秒。
インデックスと美琴は、それぞれ内心で欲しいと思っていたものを、ゲットしてしまった。
「むー、だから私は別に」
「ほらインデックス、かぶるのが恥ずかしかったらこうやって帯に留められるから」
「別に、私アンタに欲しいって言った覚えないし」
「だな。別に礼はいらないぞ?」
「……ありがと」
これ以上、恥ずかしくていてもたってもいられなくなった美琴は、そのまま当麻の前からフェードアウトした。
素直に喜びを表せなかったことがちょっぴり悔やまれるのだった。




辺りに白井がいなくなったのに気づいて、美琴は集合場所へ向かう。
花火がそろそろ始まるから、穴場に向かうとのことだった。
「あ、お姉さま。どこへ行ってらしたの……って。そのお面」
「なによ」
「別に、人の趣味をとやかく言うのは好みではありませんけれど、お姉さまは常盤台のエースとしての風格を……」
「あーもーうるさいわね。別に自分で買ったんじゃないし」
「え?」
「な、なんでもない。いいじゃない。童心に返ってこんなの買ったって」
「お姉さまは童心に返るのではなくてずっとお子様なだけでしょうに」
もう、と白井が嘆息していると、次々に佐天と初春、春上も集まってきた。
「お、みんなそろってるねー。それじゃ、案内しますよっ。イ・イ・ト・コ・ロ♪」
「佐天さん、言い方がいかがわしいですよ……」
もふもふとベビーカステラをほおばる春上がコクンと頷いた。
「変なところじゃないですよっと。ちょっと川上にある公園にテラスがあって、そこから良く見えるんです」
「それじゃそこでゆっくりと眺めますか」
美琴が佐天に並んで、目的地を目指して歩き始めた。


ドーン、と空振が花火から自分たちの下へと伝わってくる。
パリパリとした肌を撫でるような響きと、お腹の底にくるような響き。
花火につきものの夏の風情を体で感じながら、五人は空を見上げる。
「ほら! また上がりますわよ!」
「おー」
珍しく白井まではしゃいで、空を眺める。
「すっごくきれいなの……」
「そうですねえ」
「飾利、キミの瞳のほうが、ずっと綺麗だよ」
「……なんの真似ですか佐天さん」
「真似じゃないよ。心の底からそう思ってるの」
「はあ……」
「うーん、初春ノリ悪い」
「佐天さんがはちゃめちゃなんですよ!」
「ふふっ」
初春と佐天の馬鹿なノリを見て春上が笑った。
「どうしたんですか? 佐天さんが面白かったですか?」
「初春……それ取りようによっちゃ酷いこと言ってる様に聞こえるんだけど」
「気のせいです」
「初春さんと佐天さん、仲、いいんだなあって」
きょとんとした顔で、初春は佐天と見詰め合ってしまった。
春上が胸元から、ペンダントを取り出す。それをそっと握り締めて、語り始めた。
「思い出してたの」
「……何を?」
「あのね、昔、私にも佐天さんと初春さんみたいに、仲のいい友達がいたの」
「そうなんですか。でも佐天さんみたいな人、珍しいですよ?」
「だから初春、なんか酷いこと言ってない?」
「そうですか?」
「佐天さんとはちょっと違う感じだったけど、明るい子で、ぼんやりしてる私を色んなところに連れてってくれて……」
「へー。……えっと、昔ってことは」
そこで不意に、昔語りに頬を緩めていたところに何かが憑いたような、そんなぼんやりした表情を春上が見せた。
何かに耳を傾けるように、顔を上げて辺りを見渡す。
「あの、春上さん?」
「……どこ?」
「え?」
「また、呼んでるの」
「春上さん、どうしたの?」
突然の豹変に初春と佐天は戸惑う。
そして二人の混乱をよそに、春上は踵を返して、テラスから公園内部へ続く階段を上り始めた。
「あ、ちょっと! 待ってください春上さん!」
「どうしたの?!」
慌てて初春が追い、佐天も遅れてその後を追う。
隣にいた白井と美琴は、どうやら花火の音にかき消されてこちらの異変に気づかなかったらしい。
のほほんとした目で離れていく初春たちを見ていた。




声が、聞こえる。
少し前からたびたび感じる、誰かに呼ばれている感覚。
低レベルとはいえ精神感応者<テレパシスト>である春上にとって、音や、言語というものすら媒介としない思念の交感は未経験のものではない。
ラジオが時々予期しない電波を拾うように、何かが聞こえてくることというのはある。
だけどこの声は違っていた。
迷子になったときみたいな不安を乗せた、助けを求める響き。
そして声の主は、どこか懐かしいというか、聞き覚えがあるような声で。
「どこなの? ねえ、応えて……」
その声は、日に日に春上の現実感を奪っていっている。
初めてその呼び声に気づいたときには、いつものノイズと同様に意識からカットしていた。
なのに何度も呼びかけに気づき、戸惑っているうちに、いつしか春上は引きずられていた。
まるで自分も居場所が分からない迷子になってしまったかのように、不安を埋めるために互いを引き寄せあい、共鳴し、そして声の主とのリンクをより太くする。
こうなったときの春上は決まって意識を手放したり、そうでなくとも声が聞こえなくなって数分が立つまで白昼夢を見ているかのように硬直したりする。
今が、まさにそうだった。
春上にはもう、初春と佐天は見えない。
「どうしたんですか? 春上さん、春上さん!」
「どこかわからないよ……教えて。絆理(ばんり)ちゃん」
ガタリと、地面が揺れた。
「えっ? じ、地震?!」
「絆理ちゃん……」
「春上さん! 動いちゃ駄目です!」
本震に先行する疎密波、先触れとなるカタカタとした小さな揺れを経ることなく、唐突に地面が揺れている。
フラフラと歩いていこうとする春上を抱きとめて、初春は足を踏ん張って揺れに耐える。
そうしなければ躓いてしまいそうなほどの揺れ。
「御坂さん!」
「お姉さま!」
階下のテラスでは、その一部がガラガラと崩れかけていた。
慌てて白井がテレポートを使って美琴と共に安全圏へと非難する。
「良かった。初春も気をつけて!」
「私は大丈夫です! 佐天さんこそそんな場所危ないですよ!」
佐天は階段の中ほどにいた。確かに、倒れれば一番危険な場所だ。
幸いに揺れも収まってきたから初春のほうに歩いていこうと、そう思ったときだった。


ギギギギ、と金属が軋む音がした。
テラスの崩れる音にまぎれて、その音源が階上の電灯であることに、佐天以外の誰も気づいていなかった。
電灯の足元、数百キロの金属棒が倒れこむその先にいる、初春と春上でさえ。


「初春! 危ない!」
「えっ? くっ――! 春上さん!」
地震の引きと同時に崩れていた春上を助け起こして横へと逃げるのは、非力な初春には無理だった。
それでも、せめてもの助けになれればと逃げずに春上に覆いかぶさった。
「逃げて!」
佐天は、その一部始終を見たところで、初春達に目を向けるのを止めた。
自然と、本当にごく自然と、体が動いていた。
――超能力なんてものは、たいそうな名前をつけて特別視するようなことじゃない。
そんなことを、しばらく前から佐天は感じ始めていた。自転車をこぐことを、現代日本人は特別視しない。二輪車に体を預けてバランスを取る行為は、ほんの100年前まで一部の酔狂な人だけの行為だったのに。
それと同じなのだ。超能力なんてものは、使える人にしてみれば、咄嗟にでも使える自分の身体能力の一部でしかない。
佐天の意識しないところで、呼吸が整えられる。
スッと必要なだけの息を肺に留めて、視線の先に渦を作った。
階段の隣の上り坂、その足元。佐天の歩幅よりいくらか広い間隔で数個並べたその渦を、佐天は躊躇いなく踏みつける。
「初春!」
その試みは初ではない。佐天の想像力の範囲で、すでに試したことのある応用。
――渦で蓄えた高圧空気を踏みつけて、バネ代わりにして加速の手助けをする。
文字通り一足飛びに、佐天は坂を駆け上がる。
ポールの倒れこむタイミングは、佐天の測ったとおり。まさに佐天の鼻先を掠めるところ。
それに、佐天はフックの軌道で掌打を叩き込んだ。
「ああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
浴衣の着崩れなんてお構い無しに、手のひらに作った最大出力の渦をぶつけた。
佐天のコントロールを離れ爆縮をやめた渦が、そのエネルギーを撒き散らす。
その爆発の方向性をちゃんと制御することは出来なくて、電柱の落下軌道を変えるだけの運動エネルギーの一部が佐天にも伝わり、右手は激痛を発しながら弾け飛ぶように電柱から離れた。


ドゴォォォォォンンン


数メートルの電柱は共鳴しながら重い音を吐き出して、地面に転がった。
初春と春上の、すぐ30センチ隣。アスファルトを舗装しなおさなければならないような深い爪あとが刻まれていた。
「あ、ぐ……いったぁ」
「初春さん! 佐天さん!」
「大丈夫ですの?!」
すぐさま白井と美琴が駆けつける。だが当たらなかった電柱は、当然ながら春上と初春には何の危害も及ぼさなかった。
「あれ……?」
「大丈夫? 初春」
「佐天、さん?」
初春は、目の前で右手を胸に抱いて顔をゆがめた佐天が自分を見つめているのに気がついた。
自分の下にうずくまる春上にも目をやったが、怪我はなさそうだった。
「これ、もしかして佐天さんが?」
「うん。意外と、こういうときに体って動くもんなんだねぇ」
「な、何のんきなこと言ってるんですか?! こんな危ないこと、しちゃ駄目ですよ!」
「でも初春と春上さんを、守れたよ。へへ……」
「それはそうですけど……って、佐天さん!?」
「ちょっと手を拝見しますわ!」
風紀委員の実働部隊として怪我慣れした白井が、すぐさま佐天の右手を診た。
ほんの一瞬前のことだ。佐天自身が感じている痛みを別にすると、外見的には手には何の変化もない。
「痛みますの?」
「……正直、かなり」
「出血はありませんけど、骨折の類、ひびくらいは覚悟されたほうがよろしいわ」
「まあ、仕方ないよね。この怪我と取引にしたのが何かって考えたら、全然安いけど」
「とりあえずすぐ病院に行きましょう。春上さんは?」
「原因は分かりませんけれど、気を失ったみたいです」
地震も収まり、ようやく状況が落ち着いた辺りで、遠くからカシャンカシャンと機械音が近づいてきた。
災害用パワードスーツ、それもあまりいい趣味とはいえないピンク色の期待だった。
「怪我はない? 大丈夫?」
「MAR……先進状況救助隊?」
「そうよ。その子、怪我?」
「はい! 咄嗟に私達を庇ったときに自分の能力で右手を……。あとこっちの子はちょっと気を失っただけです」
「そう。あちらに救急車両を用意してあるから、まずはそちらに行きましょう」
そう言ってパワードスーツは顔の部分のスモークを解除し、素顔を見せた。
長い髪をきちんと留めた、流麗な素顔の女性。
「貴女は……!」
つい数時間前、会議室で講演をしていた女性、テレスティーナだった。




当麻とのキスは、たっぷりソースの味がした。
「ん、ふ……」
「光子、可愛いよ」
誰もいない二人きりの病室で、花火を遠目に見ながら当麻と光子はキスを交わした。
光子にあてがわれた個室は窓の大きい部屋だから、花火見物のちょっとした特等席だ。
当麻は唇を離して、傍らに置いたたこ焼きに手を伸ばす。
「もう一つ、食べるか?」
「ええ、くださいな、当麻さん」
「ん」
夏祭りの会場である川沿いから時間をかけて持ってきたので、中がほろ温い程度にまで冷めている。
当麻はたこ焼きが口から少しはみ出るようにくわえて、もう一度光子に口付けをした。
最初は恥ずかしがっていたが、もう三個目だ。当麻から口移しで食べさせてもらうのにも、慣れてきていた。
「ん……」
当麻と唇をはしたなく触れ合わせて、当麻に歯を立てないよう気遣いながら、そっとたこ焼きを噛みちぎる。
たこの足が中々噛み切れなくて、まるで舌を吸い合うような深いキスをしたときみたいに、長く口を押し当ててしまう。なんだかそれが、やけに恥ずかしい。
唐突に当麻が、自分の後頭部を抱いたのに光子は気づいた。そのまま、ぐっと唇を強く押し当てられる。
「んっ! んぁ」
当麻の口から貰った分け前、まだ咀嚼すらされず光子の舌に乗ったたこ焼きの中身に、当麻が舌をねじ込む。
ソースの旨みが絡んだ半熟のたこ焼きのトロリとした感触と、当麻の舌が舌を撫ぜる感触。
性欲と食欲をぐちゃぐちゃにかき混ぜて楽しむようなその行為に、光子はいけないことだ、汚いことだと忌避感を感じる裏で、ひどく、体を高ぶらせていた。
食物は神の賜物、スパイスは悪魔の賜物。上手い格言があるものだ。背徳という名のスパイスは、確かにキスを極上の味に仕立て上げるものだった。
「っふ、はぁ……。と、当麻さん。もう、だめですわ。インデックスが帰ってきてしまいますから……」
「見られても、別に困らないけどな」
「困ります! こ、こんないけないキス、見られたわ死んでしまいますもの……」
だんだん、当麻に流されている。光子は最近の自分を振り返ってそう思っていた。
常盤台の、それも立ち入り禁止のボイラー室で貪るようにキスをしたり、今だって、口移しなんでレベルじゃなくて、もっといやらしいキスをしたり。
……嫌ではないのだ。ついその行為に溺れてしまう自分がいるから歯止めがきかないのだ。
このままでは、すぐに、引き返せないところまで行ってしまいそうで、不安になる。
「ま、まあ、今のはちょっとやりすぎだったかな」
「当たり前です! こんなの。だって私、出店のたこ焼きをいただくのだって初めてだったんですのよ?」
「え、そうなのか。……光子の初めて、もらっちまったな?」
「――――っっっ!! 当麻さんの莫迦!」
何を揶揄したのかすぐに光子は理解して、顔を火照らせた。
もう一言言ってやろうと思ったところで、これ見よがしな音量でコンコンと扉をノックされた。
「もう、みつこもとうまも病院なんだからもっと静かにするんだよ。廊下までイチャイチャが聞こえてて、入りにくかったもん」
「なっ――」
「みつこも、とうまに久々に会えたから嬉しいのは分かるけど、とうまのエッチに引きずられちゃ駄目だよ」
「……」
何も言い返せない光子と当麻だった。
肌を重ねているところを子供に見られた夫婦のように、酷く居心地の悪い思いをしながら、光子は病院着の襟を正して、口元を拭いた。
「お、俺。トイレ行ってくるわ。ついでに飲み物買ってくる」
インデックスと二人で残された光子の恨めしい視線を見ないようにしながら、当麻はその場を逃げ出した。




トイレを済ませて自販機を捜し歩いていると、曲がり角の先で二人の女性が向かい合っているのに気づいた。
どちらも長髪で、一方は二十台半ばのスーツ姿、もう一方は洒落たコートを着た大学生くらいの女性だ。
口論というわけでもないのだが、剣呑な雰囲気を醸し出している。思わず当麻は一歩下がって耳を澄ませてしまった。
「ようやくお勤めは終了? 随分と待たせてくれたわね」
「こう地震が続くと、先進状況救助隊の隊長ってのは、寝る暇がないくらい忙しいのよ」
「そう。きっとお肌のお手入れも大変なんでしょうね」
ほんの少しの年齢差を嵩に、大学生の方が嫌味を言った。
「ええ、本当に困ってしまうわ。あなたももうすぐ同じ境遇だから、気をつけることね」
ギスギスとした雰囲気。だが表面上だけでも冗談を飛ばしあっているのは、互いを牽制する狙いがあってのことだ。
「それで、こちらの依頼していた品は出来上がったの? 木原さん?」
「私の姓は『ライフライン』よ。テレスティーナ・木原・ライフライン。変にミドルネームで呼ばないで頂戴。第四位さん」
「これは失礼したわね」
「それで、依頼の品だけど」
テレスティーナは、ポケットから無造作に、目薬より一回り大きいくらいの、透明なケースを取り出した。
中には粉薬が入っている。
「学園都市で最高純度の体晶よ。ありがたく思って欲しいわね」
「もちろん。混ざり物の多い体晶で一発で壊れられちゃ、使いどころに困るもの。いいものを渡してくれたわね。……で、これって貴女の脳味噌から取り出したの?」
「さあ? それを聞いてどうするの」
「暴走しない程度に舐めてみようかと思ったんだけど、貴女の脳汁だって思うと躊躇っちゃうのよね」
麦野はファミレスで雑談を交わすのと同じ顔で、そんな言葉を吐き出していく。
テレスティーナは丁寧に作った顔で応対するのが、だんだん馬鹿馬鹿しく感じてきた。
どうせ目の前にいるのは、顔は整っているがただの下種だ。
「体晶はどれもこれも全部脳汁だろうが。気にいらねえんならさっさと返せよ」
「だから気に入ってるって言ったでしょう? そちらこそ、予算が欲しいんなら下手なことはしないことね」
二人の会話の中身は聞き取り辛く、また出てくる単語の多くが当麻には良く分からなかった。
……夜の病院でああいう会話をされると、やけにいかがわしいというか、犯罪めいた匂いがするよな。
そんな自分の考えを鼻で笑いつつ、こっそり逃げるのもおかしなことかと思って自販機にコインを入れてボタンを押した。
ピッ、ガシャコン、と自販機はお決まりの音を立てて、目的のジュースを吐き出す。
それをぐびりとやりつつ、後ろを振り返ることなく当麻は病室へと戻った。



[19764] ep.3_Deep Blood 01: 第五架空元素
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/05/17 02:28

川の向こうに上がる花火を、エリスと垣根は黙って見つめていた。
お腹はいっぱいだ。エリスの予算に合わせてそれなりに遊んでそれなりに食べた後、エリスが申し訳なく思わないギリギリの所まで、垣根がおすそ分けだなんて言いながらおごってくれたから。
インデックスたちから離れ、垣根に会った瞬間の、あの顔を思い出してクスリとなる。自惚れじゃなく、あの顔は自分に見とれている顔だったと思う。
まあ、本人の口から綺麗だなんて言ってもらえたから間違いはないだろう。
その後ここまでのエスコートをしたのが当麻だったことに妬き餅を焼いた垣根をなだめて、夏祭りを堪能したのだった。
花火は、もうすこししたら終わってしまうだろう。
はっきりとは門限のないエリスだったが、さすがにもう遅い時間だ。帰らなければならない。
そしてそれを知って、さっきから垣根が何かのタイミングをうかがっていることに、エリスは気づいていた。
「花火、綺麗だね」
「お前のほうが綺麗だよ、エリス」
お世辞が即答で帰ってくる。とても軽薄な調子だった。
垣根が本音を言うときはそうやって誤魔化すのだと、エリスはもう知っている。
「ありがとう」
「……」
調子が狂うとばかりにへっと垣根がそっぽを向く。これは照れ隠しだ。
自分の行動パターンを見透かされたせいで、戸惑っているのだ。
「ていとくん、可愛いね」
「あ? この顔のどこに可愛らしさがあるんだよ。エリス、眼鏡かコンタクトでも買いに行くか?」
「ふふ。ツンデレに萌えるってこういうことなのかなぁ」
「……」
きっとお祭りのせいだった。いつもなら垣根をこんな風に追い詰めたりしない。
もっと距離をとって、近寄られてもいなせるように、ずっとエリスは気を遣っていたのに。
本当に今日は楽しかった。浴衣を着て、気になる男の子と夏祭りの屋台を見て歩いた。
その幸福感に、大切なことを忘れてしまっていたのだろうか。
エリスの隙を突いて、垣根が、エリスを強引に抱き寄せた。
「ててて、ていとくん……?」
「エリス」
名前を呼ばれて、ドキンとなる。主導権を取っているはずなのに、あっという間に奪い返された。
「今度こそ逃げずに、真面目に、俺に向き合って欲しい」
「……駄目、だよ」
「どうして?」
「駄目なものは駄目」
「本気で俺に向き合ったら、惚れちまうからか?」
「さあ。……ていとくんは気障だね。そういうの、女の子は本気にしちゃうから駄目だよ」
それは半分本当で半分嘘だった。垣根は格好の良い男なので、気障なことを言われるとクラリとなるのは事実。
だけど、今更エリスはそれでなびいたりはしない。だって、もう、エリスはとっくに。
「なあエリス。俺のことを気障だとか口が上手いとか散々言うがな、俺は童貞だしファーストキスもまだだ」
「えっ?」
「……さすがに俺も傷つくから聞き返すなよ」
「うん、ごめん。でも意外」
「エリス以外に惚れた女がいないんだから当然だろ」
「……」
そういう言葉に、女は弱い。エリスだって弱い。
また、エリスは垣根にもっと強く惹かれた自分を感じた。
……だけど、駄目なのだ。垣根とは、一緒にいられない。
「ていとくん」
「エリス。俺は何度振られたって言い続ける。俺と、付き合ってくれ」
「……あのね、嬉しいとは、思ってるんだよ」
「事情があるから、俺のお願いに応えられないんだろ?」
「うん……」
「お前が教えないでいること、教えてくれ。全部、俺にも半分背負わせてくれ」
「いつもいつも、ごめん。それは、出来ないから」
また、いつもの返事だった。こんな言葉で、いつも曖昧なままはぐらかされてきた。
だけど、今日は引かない。そう決意したからこそ、垣根は胸の中にエリスを抱く。
「絶対に、駄目か?」
「……絶対に、駄目、だよ」
「じゃあ、こうされるのも迷惑か」
「それは……」
「嫌ならはっきりとそう言えよ。俺は小心者だからな、お前に本気で拒まれたら、きっと俺は追えやしない」
「嘘だよ。ていとくん、何度断っても付き合ってくれって言いに来るもの」
エリスは、これまで本気で垣根を拒んだことはなかった。
好きだと思うほど価値がない相手だとか、嫌いだとか、あるいは他に好きな男がいるとか、そういう断る理由を、明確に提示してこなかった。
垣根が言う、本気の拒否というのはそういうものだ。そしてエリスにはそんなことは出来ない。
だって、垣根は魅力的な男の子で、嫌いなことなんて全くないし、垣根以上に好きな男もいないから。
今だって、エリスが腕に力を込めて離れようとすれば、垣根は抗わないと思う。だけど出来ない。
好きだといってくれる男の子に、真正面から気持ちをぶつけられて、嬉しくない女なんていないから。
「エリスはいつだって、本気で拒んでない」
「あー、そういう思い込みは良くないんだよ?」
「茶化すなよ、エリス」
頬に、手を当てられた。川沿いとはいえ真夏は暑く汗をかいているから、垣根に触られるのが恥ずかしい。
視線をぶらさず、真摯に見つめてくる垣根の瞳に、エリスは身動きが出来ないでいた。
「キス、していいか」
「えっ……?」
「順番がおかしいけどな。踏ん切りがつかないんだったら、ちょっと強引にでも唇を奪っちまうぞ」
「あ……」
垣根は、待たなかった。エリスの逡巡を見透かしていたのかもしれない。
あっという間に、唇と唇の距離を詰められる。
思わずそれに流されそうになって。
「駄目!!」
はっきりと拒否の意を示すように、バッとエリスが垣根から逃げた。
そして傷ついた垣根の表情に気づいて、エリスは自分のしたことの意味を悟った。
「ご、ごめん。ていとくん……」
「……いや、謝るのは俺のほうだろ。すまん、悪かった」
「違う、違うの。その、ていとくんを拒んだのとはちょっと違って」
必死でエリスはフォローの言葉を考えた。
垣根に嫌われるのが、怖い。
ずっとアプローチしてきてくれる垣根に甘えていたせいだ。拒んでいるくせに、決定的に自分の下を去られてしまうこともまた怖いのだということを、つい忘れていた。酷い女だと自分でも思う。
踏み込まれたくない一線の一歩手前で、ずっと垣根には留まって欲しい。
何度も告白をしながらそのつど自分に断られる、そういう状況で満足して欲しいと、自分はそう思っているのだ。
どう考えたって、そんな自己中心的な願望は叶わないだろう。
「エリス。どうあっても、俺に諦めろって言うのか」
「……」
「エリスの元に、俺はもう現れないほうが良いか」
「駄目……やだよ」
「じゃあ、どうすれば良い?」
垣根は、泣きそうな顔のエリスを見て、抱きしめたい衝動に駆られる。
エリスが大好きで、エリスのために尽くしてやりたいと思う垣根にも、出来ないことがあった。
たぶんエリスが望んでいるであろう、近すぎず遠すぎない今の関係を、ずっと維持することはできない。したくない。
もっと、エリスと深い仲になりたい。
「ごめんね、ていとくん。私にもわかんないや……」
「背負わせてくれ。エリス、お前は何か俺に遠慮するような事情があって、ずっと拒んでるんだろう。それを、俺にも背負わせてくれ。人より、俺は少しくらいは役に立つと思う。俺の力が、エリスのためになるなら、こんなに嬉しいことはない」
「ていとくん……」


「エリス。俺のことは、嫌いか?」
だまって、エリスが首を横に振った。


「俺に踏み込まれるのは、嫌か?」
また、首を横に振った。


「そうか、じゃあキスするぞ」
返事は無かった。ただ、何度も拒まれたのに、今回は、それが無かった。
だから垣根は迷わず、再びエリスを胸の中に抱きしめた。
「ていとくんは、女たらしだね」
「お前を口説き落とすテクならいくらでも磨かないといけないからな」
「……ねえ」
「ああ」
エリスが、初めて、垣根の胴に腕を回した。きゅ、と抱きしめられる感触がする。
たったそれだけでも、垣根は頬が緩むのを止められなかった。
エリスが初めて見せてくれた、弱さだった。
「結構、ヘビーな内容だよ」
「そうか。俺も結構笑えない人生送ってるぜ。不幸自慢でもするか」
「ふふ。ていとくんの話も、聞かせて欲しいね」
エリスは、一線を越えてしまった自分の心に、後悔を感じる反面、重荷を下ろせる安堵と、垣根を受け入れられる嬉しさを噛み締めていた。
もう、自分は堕ちてしまった。
学園都市第二位の実力者は、きっと、自分のために大変な苦労を背負うことになる。
垣根を不幸にするのは、きっと自分だ。
……でも、きっと垣根を幸せに出来るのも自分じゃないかと、必死にそう思いこむ。
「ねえ、ていとくん。私の心臓の話、しようか」
「……ああ」
そっと、エリスは自分の胸元に手を当てる。
いつもと変わらぬ拍動が、エリスという存在を主張していた。
だが心臓を構成する材質は、ヒトとは決定的に異なる。




「第五架空元素」
「え?」
「私の心臓を形作っている元素の名前。ていとくんは、聞いたことあるかな?」
「いや……。というか、魔術(オカルト)じみた単語だな、それ」
「うん。だって、その通りだから」
エリスは苦笑いした。垣根は典型的な学園都市の生徒だ。オカルトには、勿論疎い。
とはいえそう科学と無縁なものでもないのだ。
「1904年まで、科学者も信じていた元素だよ。ローレンツ収縮が滅ぼすまで、それは優れた科学者達が皆躍起になって観測しようとしていたもの」
「……」
垣根はその情報を元に、思索をめぐらす。
ローレンツ収縮は、当時大きな矛盾を抱えていた二つの学問をすり合わせるために考えられた仮説だ。
今では正しい理論だとされ、科学の体系の中に、特殊相対性理論という名前で組み込まれている。
互いに矛盾していたのは、力学の中で公理となるガリレイ変換と、マクスウェルが完成させた電磁気学。
「光の速度についての取り扱いの話、だったっけか」
「そうだよ。さすがは第二位の超能力者、だね」
「科学史の成績で能力は測れねーよ」
電磁気学は、そして、現代の物理学は、光が誰にとっても一定速度であるということを根本的な事実と捉えている。
これは、人類の常識的な感覚からするとおかしなことだ。
100キロで走る車から、100キロで走ってくる対向車を見つめれば、相手は200キロで走っているように見える。
これがガリレイ変換だ。力学の大前提と言える。
これを適用すると、太陽に向かって進む人間から見た光と、太陽から遠ざかる人間からみた光の速さは、違うことになる。
だから日の出の時と日の入りの時に光速を測定すると、値が違うことになるはずなのだ。
「力学の常識で言えば光の速度は人によってまちまちのはずなのに、電磁気学は誰にとっても一定の値だと要請する。この矛盾を、1904年以前の人たちはどう解決する気だったか、ていとくんは知ってる?」
それで垣根は、エリスが第五架空元素と呼んだそれが何か、ようやく気づいた。
「宇宙を満たすエーテルによってその矛盾は説明される、って。そういう『信仰』を持ってたんだっけか」
「そう。結局はアインシュタインが特殊相対性理論を完成させて、エーテルは科学からは見捨てられたんだよね」
「……なんか引っかかるな。科学からは、ってさ」
「うん。言葉どおり、科学からは、見捨てられたんだよ」
いつしか花火はやんでいた。騒音が無くなり、遠くから喧騒が再び聞こえるようになっていた。
エリスは暑くなって、そっと垣根の腕を振り解く。そして自分の腕に絡めて、寄り添った。
「エーテルって言葉には、とても沢山の意味があるよね」
「化合物にもあるしな」
科学は1904年に捨てたのとは別の意味で、揮発性の有機物にもエーテルの名を冠していた。
「魔術でもね、沢山の意味があるんだよ。属性の無い魔力そのもののの塊もエーテルって呼ぶし。そのときには架空を抜いて第五元素って呼ぶんだけどね」
「……なんつうか、俺の常識には無い話だな。それ」
「うん、魔術なんてていとくんは信じてなかっただろうけど、聞いて欲しい。あと受け入れられなくても、納得して。私の心臓を形作る物質はね、天空に架かるほうの第五『架空』元素なの。古代の叡智を結晶化させた哲学者、アリストレテスが人類の手の届かぬ高みに見出した、神が住む天界の構成元素。それが第五架空元素、エーテルなんだよ」
「エリスの心臓は、それで出来ている?」
「うん、そう」
「……どう納得して良いかわからないけど、信じることにする」
垣根は心のどこかで、エリスの説明に納得していた。
垣根提督は科学が今、必死になって突き詰めようとしているテーマ、『物質とは何か』の答えに最も近い人間だ。
そして『未元物質』を創生する中で、やがて窮理の果てに、人類がオカルトと呼んで捨ててしまったものを再び手に取る必要性があるのではないかと、そんな匂いを感じていた。
だから、エリスの言うことは、なんとなく信じられる。
垣根は続きを促した。
「それで、そんな変わった物質が、エリスの胸の中に納まってる理由はなんなんだよ?」
「うん……それを話すとね、酷い話をいくつもしなきゃ」
元素の名前を漏らしたところで、エリスに痛痒はない。
垣根に本当に話せなかった話は、ここからだ。
「ちょっと回りくどいけど、ていとくんには『魔術』を受け入れてもらわなきゃいけないね」
「……魔術、ね。マジックって単語にゃ手品って意味合いがついて回るからな、この街じゃ」
時代遅れの理論を振りかざす魔術は芸の一つとして実演される手品と同じ、というのが学園都市の基本的な理解だ。
受け入れろといわれて、どう受け止めたら言いのかが分からない。
「Magic(マジック)じゃなくてMagick(マギック)、って呼ぶといいかもしれないね。私が話をしようとしてるのは、手品じゃないほうの、オカルトとしてのマギックだから」
「そんな呼び分けがあるのか」
「うん。アレイスター・クロウリーっていう世紀の大魔術師が、ただの手品や不完全な魔術から本当の魔術を分離するために、そう名づけたの」
「アレイスター……クロウリーだと?」
聞き慣れた名前だった。
なんてことはない、この学園の人間なら大半が知っている、学園都市理事長の名前だった。
「逆さ宙ぶらりんのホルマリン野郎と同じ名前じゃねえか」
「うん。もしかしたら本人かもしれないね。……それで話を戻すけど。ていとくんはこの世に無い物質を作れる人だよね。もし、ていとくんが作った物質だけで出来た世界があったら、その世界はなんていう名前なのかな?」
「……」
「そこに息づく人も、そこを貫く物理法則も、全部この世とは違う世界。……なんだかこの街が捨て去ってしまったはずの、宗教的な概念に近づくの、わかる?」
「俺だってそういうことを考えたことはあるがな。此方(こなた)に無い世界は彼方(かなた)の世界といえば、天国か地獄だろ」
「そう。……ねえていとくん。ていとくんは、超能力でそんな『在りもしないもの』を創れる人だよね。これまでの歴史の中で、超能力とは別の概念で、それを成し遂げた人がいないって言いきれる? うーん、これで受け入れてもらえるかは分からないけど、ヒトが天界という概念を手にしたのは、誰かが天界を創ったからじゃないのかな。これまでにも、ていとくんとは違う方法で、ていとくんと同じ高みに上り詰めた人がきっといたって、そんな風には思えない?」
垣根は、漠然とエリスが魔術と呼びたいものの存在を、匂いとして感じ始めていた。人がオカルトを信仰した理由を、心理学を初めとした科学書ではあれこれ説明してある。
麻薬や、集団心理、機の触れた人間の見る幻覚。学園都市の人間は疑うことなく、魔術とはそんなものだと信じている。
だけど、科学の教科書にはこうも書いてあるのだ。物理法則は絶対だ、と。そんな教科書の常識を、垣根は軽くすっ飛ばす。
魔術など無いと垣根に保証してくれる書籍の全てが、垣根の超能力などありえないと保証している。
「超能力だけが、物理法則を超える唯一の手段じゃない、と?」
「そう。魔術が無いってことは、科学的に証明されたことじゃないもんね」
「……具体的にじゃあ魔術ってなんだよ」
「うーん……これでどうかな」
エリスが木の枝を拾って、辺りに四つ、何かの紋章を描いた。ぼそぼそと何かを呟き、天を仰ぐ。
するとそれぞれの紋章の上に、盛り土が突如として生まれ、水が地面を濡らし、小さな炎が立ち上り、そしてぶわりと土ぼこりを舞わせた。
「どう?」
「どうって、エリスの能力を知らないからな。超能力でもこんなこと、出来るだろ」
「そうだね。……えいっ」
エリスが突然、垣根に顔を近づけた。垣根はその行為にドキリとなって、……そのまま、身動きが取れなくなった。
「私の能力は精神感応系のだよ。物理に作用するものじゃないの」
エリスが目線を離すと垣根の体は硬直から解放された。レベル1だと言っていたが、きっともう少しは高いだろう。
そして確かにエリスは、全く異なる能力を、多重に展開した。
いや、物理に働きかけたのが魔術だというなら、魔術師にして超能力者ということか。
「超能力は一人一つしか宿らない。だから、今のはかたっぽが魔術なの。私はね、学園都市が魔術師と手を組んで、魔術と超能力を同時に使える人を作り出すために行った実験の最初の被験者なの」
エリスの言葉に、垣根は表情を凍らせた。
ずっと、目の前の少女は学園都市の暗部とは無縁な人だと思っていたのに。
「結論から言うとその実験は全て失敗でね、能力開発をした後に魔術を使った子供たちは、全員、体中を破壊されて死んでしまったんだ」
「じゃあ、エリスは」
「うん。もう、私は、死んじゃってるんだ。享年は……何歳だったかな。その実験が行われたのはもう20年位前だから。私、ていとくんより10歳は年上なんだよ」
垣根は、エリスを確かめたくて、近づいてそっと手を伸ばす。
しかしエリスが同じだけ距離をとって、垣根の接近を拒んだ。
「それじゃ、俺の目の前にいるエリスは、なんなんだ?」
「ゾンビですって言ったら信じる?」
「信じろって言うなら、信じるさ。それしかないだろ。エイプリルフールには随分遅いが、嘘だって言うならなるべく早めに頼む」
「うん。ゾンビっていうのは嘘。だけど、超能力者だった私が魔術を使って死んじゃったのは本当なんだ。ただの人間には、魔術と超能力を受け入れるキャパシティがないからね」
どうしたらいいのか、垣根には分からなかった。
エリスとの間に開いた、二メートルくらいの距離。今すぐそれを詰めて、抱きしめたい衝動に駆られる。
だけど、無闇にそんなことをしても、エリスに逃げられる気がした。
「あ、でも精神年齢はきっと、見た目どおりだよ。死んでから10年くらいは、冷蔵庫で保存されてたから、成長して無いし」
「……エリスは20年前に命を落として、10年前に、生き返った」
「そう。計算速いね、ていとくん。私が適合者だって、誰かが知ってたんだろうね。10年前に、この心臓を植えつけられて、私の人生は再開してしまったんだ」
生を謳歌できることを、喜んでいるような響きはこれっぽっちも無かった。
そのまま死んでいたほうが、幸せだったというかのように。
「その心臓は、一体なんなんだ」
「――第五架空元素。って、今ていとくんが望んでるのはその答えじゃないね。これはね、10年位前のある京都の寒村で集められた遺灰から、生成されたものなの」
「遺灰?」
「そう。私と同じ、エーテルの心臓を持った人――ううん、生き物の遺灰」
垣根には、またしても話がピンと来ない。
だってこの世のどんな生き物の灰を集めたって、この世の物質しか得られないはずなのだ。


「ああ、ようやく話の最後にたどり着いちゃったね」
また一歩、エリスが遠ざかる。暗くてもう、エリスの表情が見えない。
「この心臓を持つ生き物はね、本来は異界に住むべき生き物なんだよ。人間界で生きていくには、人間にしか作れない栄養を、人間から摂取する必要があるの。私を含めたこの生き物はよく漫画とか映画なんかで出てくるんだけど、ていとくん、わかるかな?」
可愛らしくエリスが首をかしげたのが分かる。いつもの仕草だ。
だけど、暗がりにいるせいでそんな仕草までが、なぜか暗い色を伴って見えた。
「もう、何がなんだかわからねーよ。魔術なんてさ、小説でしか出てこないようなものだろ。エリスが言いたいソレが、俺にはどうしても実感を伴って受け止められないんだ」
「ていとくん。ていとくんが私をどんな生き物だって予想しているのか、教えて」
決定的なことを、エリスは垣根に言わせる気だった。
垣根は、淡々としたエリスの態度に戸惑いながら、自分の用意した答えを、口にした。






「――――――吸血鬼」
「ご名答。ていとくん」






クスリとエリスが笑う。エリスが得体の知れない淫靡な笑いを浮かべたように見えて、
垣根は思わず、エリスを恐れた。
「もちろん、私は無計画に血を吸ったりはしない。だってご飯のほうが美味しいもんね。それに仲間を増やしたりもしない。こんな体になって幸せな人なんていないもの。でも私は、ていとくんの知らないところで、ていとくんの知らない人から、血を啜ってるの」
「……」
「もう成長期を過ぎたから、わたしはこれからずっとこのままなんだ。私は100年でも200年でも、ずっと生き続ける。ていとくんを置いてね」
「……」
「だから、ごめんね。ていとくんは、こんな化け物に関わらなくていいんだよ。ていとくんを幸せにしてくれる人間の女の子が、きっとどこかにいるから」
また一歩、エリスが遠ざかった。電灯がさっとエリスを差して、その表情を垣根に見せた。
ギリ、と垣根は歯噛みした。自分は馬鹿だ。大馬鹿だ。一瞬でもエリスに距離を感じた自分を殴りつけたくなる。
……エリスの頬が、濡れていた。


「お前のことは、誰が幸せにするんだ」
「えっ?」
「お前の隣にいて、お前のことを幸せにしてやるヤツは、誰なんだよ。候補でもいるのか?」
「どうだろうね。私は一人ぼっちの吸血鬼だから。どうやれば同類に会えるのか、これっぽっちも知らないんだ」
「探さないのか」
「この町を、私は出られないから。目を覚まして、運良く研究所から逃げられたけど、きっと今でも学園都市は私を探してる。IDもない私は、この街の端の、あの壁を越えられないんだ」
吸血鬼と言えど、自分の力をどう振舞えばいいのかわからないエリスは、ただの人間と変わらなかった。
「それじゃずっと、独りで、生きていくつもりなのか」
「そういう運命なのかなって、諦めたんだけどなあ。ていとくんと会う前は。……ヒトより強い生き物なのにね」
「だったら、俺が」
「駄目だよ。ていとくんも、いつかは私を置いて死ぬ。そうなる前にだって、追われる私をずっと匿うことなんて出来ないし」
「関係ねーよ」
イライラとした垣根の口調に、エリスが黙った。
「幸せに、なりたいか?」
「……」
「解決方法なんていくらだってある。その心臓を、別のものに差し替えられればいいんだろう? 簡単には無理だからこその吸血鬼だろうが、俺が、何とかしてやる。『未元物質』を侮るなよ。それに仮に人間に還ることが無理でも、俺がお前と――」
「駄目! 私は絶対にそんなこと、しない。ていとくんを私の地獄(せかい)に引きずり込んだりなんて、しない」
「……。ならいい。俺は勝手に、自分でお前と同じになる」
吸血鬼も、結局はこの世界に「物質」として存在する物体だ。そう見れば、吸血鬼もまた、垣根にとっては理解不能な存在ではないはずだ。
惚れた女のために腹をくくるのは、悪くない気分だった。こんなにも、自分と誰かの幸せのために前を向いたことは、なかった気がする。
「え?」
「第五架空元素、か。はん。その底を理解すりゃ、俺はお前と同じになれるんだろう。2000年前の人間に理解できた概念だ、俺に出来ないわけがねえ。どんな風に助かりたいか、どんな風に幸せになりたいか、毎日考えろよ。俺はお前の幻想(ふこう)を全部理解して、全部解いてやる」
ザリッと音を立てて、垣根はエリスへと足を向けた。
怯えるように、エリスも一歩後ろに下がった。だが浴衣のエリスは、そう大きくは動けない。
躊躇いなんて、もう垣根には無かった。二歩三歩と進めると、エリスの表情がくっきりと目に写った。
不安、そして、垣根のうぬぼれでなければ、歓喜。きっとエリスは、自分に傍にいて欲しいと、思っている。
垣根は再びエリスに腕を回した。
「駄目、なのに。ていとくん……」
「帝督って呼んでくれ」
「もう。今はシリアスな時じゃないのかな」
「真面目に言ってるんだよ。俺を、お前の彼氏にさせてくれ。エリス」
「帝督、君」
くしゃりと、エリスの顔が歪んだ。見られまいとしてエリスが垣根の胸に、顔をうずめた。
初めて、エリスが垣根を求めてくれた瞬間だった。
エリスを好きだという気持ちが、心の中から溢れていく。自分のそんな心境に、垣根は笑ってしまう。
こんなにも人生が色彩鮮やかに、意味を持って自身の瞳に写ったことが無かった。
エリスを幸せにするために生まれたんだと、本気で思えるくらい、垣根はエリスが愛おしかった。
「愛してる、エリス」
「愛してるは早いよ、帝督君」
「じゃあ好きだ、エリス」
「うん。……帝督君が、悪いんだよ。気持ちの弱ってる女の子にこんなに言い寄るんだもん」
「悪いってなんだよ」
「私と幸せになるなんて、絶対、割に合わないよ。もっと、帝督君は別な幸せを手に出来たはずだもん」
「俺はエリスが良かったんだ。俺がエリスを選んだんだ」
「うん……嬉しい。ごめんね。すごく、すごく嬉しいの」
「謝るなよ。それより、お前の口から、俺だって聞きたいんだ。エリス」
垣根がそっと、エリスの頬に手を当てた。
エリスの泣き顔をそっと持ち上げて、垣根はじっくりと眺めた。
涙に腫れた瞳すらも可愛い。
「私も、帝督君のことが、好き」
「そうか。……初めて、言ってくれたな、エリス」
「だって言っちゃ駄目だって思ってたもん。初めて告白された日からずっと好きだったけど、帝督君に迷惑だからって」
またぽろりと、耐えかねた気持ちが目じりからこぼれた。それを垣根は拭ってやる。
何度悲しみにエリスが泣くことがあっても、絶対に、泣いたままになんてさせない。
「エリス、好きだ」
「うん……」
もう一度だけ、垣根はそう言った。それで、エリスも垣根の意図を察したようだった。
垣根の手に抗わず、エリスはそっと、垣根に唇を差し出した。
さらに溢れた涙を垣根は指で拭って、エリスの髪を撫でた。
「ファーストキスだな」
「私もだよ」
エリスは、たまらないくらい嬉しい気持ちで、垣根の温かみを感じていた。
好きな人と口付けを交わすなんて、こんな幸せな時間、叶わないと思っていた。
目をいつ瞑ろうかと、ドキドキしながらエリスはちょっと身を硬くしていた。
そんな初々しさも何もかもが、幸せの象徴で――






――――不意に、とても甘くていい香りが、エリス鼻をくすぐった。
ラフレシアみたいに自分を惹きつけて放さない、椿みたいな香り。






「エリス? なあ、エリス?」
分からない。どこから匂い、するんだろう。
風上はあっちだから、川の上のほうからかな。
弱い匂いだから、距離はあるのかも。
「なんだよ、嫌なのか。どうしたんだよ?」
隣でうるさい声がする。
匂いが消えてしまった。
風向きのせいかな。
あんなにいい香りのする血なら――――
「エリス!」
「えっ?!」
ハッと、エリスは我に返った。そして自問する。今、自分は何を考えた……?
わけが分からない。如何に生きるうえで必要な血液とはいえ、あんなに我を忘れて匂いに夢中になったことなんて、一度もない。
「突然どうしたんだよ?」
「帝督、君」
「やっぱり、急だったか?」
「えっ?」
垣根が、不安げな顔をしていた。
それでエリスは気づいた。呆けた自分の態度が、垣根には拒否として伝わったらしいと。
「違う、違うの。ごめん。ちょっと、動転しちゃって」
「う、ごめんな。こういうの慣れてなくて」
「帝督君は悪くないよ。私のほうが、謝らなきゃ」
せめて、垣根に嫌な思いをさせないようにと笑顔を繕った。
それに安心してのことだろうか、垣根もまた笑顔を返してくれた。
それだけで、ほっとする。垣根に笑いかけてもらえるだけで、自分の微笑みが本物になった。
「嫌じゃないんだったら、止めないからな」
「うん。その、お願いします」
「お、おう」
再び、仕切りなおし。
垣根がエリスの肩を抱いて、ぐっと引き寄せた。
もう一度、エリスは垣根の唇を、至近距離で見つめた。






――――ああ、なんて美味しそうな唇。めくって齧ったら、どんな味がするのかな。






「っっっ!!!!」
どんっ、と、垣根は思い切りエリスに、突き飛ばされた。
まるで無防備に、強かに腰を地面にぶつける羽目になった。
「エリ、ス……?」
「ごめん……ごめんなさい。帝督君。ごめん、私どうしてこんな、なんで……っ!」
もうさっぱり、垣根には訳が分からなかった。
ただエリスにはっきりと拒まれた事実だけが、垣根を真っ暗にさせる。
だけど同時に、エリスの様子がおかしいことも分かるのだ。
なんだか突き飛ばした側のエリスのほうが、何かを信じられないような愕然とした顔をして、心臓の辺りをギリギリと爪を立てながら鷲づかみにしている。
「ごめんなさい、帝督君。どうしよう、私」
「エリス。嫌なんだったら、きちんと言ってくれ」
「違う! 私そんなこと思ってない!」
「じゃあ、なんなんだ。今の」
垣根はしまったと、自戒した。突き飛ばされたことにショックを感じているのは事実。
だけど、それをいらだちに変えてエリスにぶつけてはいけないのに。
エリスが怯えた目で垣根を見つめた。
「帝督君……次に、次に会うときはまた普通に戻ってるから。私のせいなの。帝督君は全然悪くないから。だから、ごめんなさい。嫌な思い、させちゃったよね。ごめん。それじゃ!」
「あ、エリス!」
エリスは、浴衣の合わせが崩れるのもお構い無しで、駆け足でその場所を後にした。
それ以上、聞きたくなかったのだ。自分の中から聞こえてくる声を。
おぞましいことを言う、自分自身の声を。
「なんで、なんで……っ!」
とめどなく涙が溢れて、視界が一定しない。
好きな人とキスをしようとしただけなのに。当たり前の行為のはずなのに。
どうして、私は恋焦がれたヒトに、食欲を覚えるのか――
気色が悪い。自分という生物のありように吐き気がする。
そして、どうしようもない事実に、死にたくなる。
絶対に嫌われた。あんな拒み方をして、まだ好いて貰おうなんて虫が良すぎる。
「あはは……私、人間じゃないんだ」
かつんかつんと下駄がせわしない音を立てる。
たぶん当てもなく自分が向かっている先は、駅とは反対方向なのだろう。まるで人がいない。
自分が人の世に蔓延る悪鬼の一種だと、そう思い知らせるような静寂だった。
「化け物は化け物らしく、なのかな。こんなところ、来なければ良かった」
催眠術で周りの人を騙して作った、自分のためのゆりかご。
そこでずっと暮らしていれば、こんなことにはならなかったはずなのに。
なんで、私はこんなことになったんだろう。


また、椿の匂いを、嗅いだ気がした。きっと錯覚だ。
ぼてぼてと真っ赤な花弁を開かせ、甘い匂いを撒き散らす、品の無い花。
ほんの少し、それがエリスの五感を撫でただけで、エリスは垣根のことも忘れてその匂いを反芻することだけに集中してしまう。
自分という存在が突然に汚らわしく思えて、エリスは時々えづきながら、街を彷徨った。
教会に戻るのに、信じられないくらいの時間がかかった。

――垣根は教会に、訪ねてこなかった。






「ごちそうさま」
独り、姫神秋沙(ひめがみあいさ)は神社の境内でたこ焼きを完食した。こういう味も、悪くない。
真っ白な襦袢にソースをつけないよう気を使いながら袋にたこ焼きの入っていたトレイを仕舞う。
ポーチに入れたウェットティッシュで手を拭って、耳に挟んでいた長い黒髪をストレートに垂らした。
「……もう。帰ろうかな」
夏祭り会場にいながら、姫神は一人だった。
友人がいないわけではないが、誰かとここに来た訳ではない。
目的を考えれば、巻き込むわけには行かないのだから当然だった。

姫神が人通りの多い夏祭りに足を向けた理由は、ひとつ。
人ならざる、ある存在を呼び込むため。
一般に吸血鬼と呼ばれるそれを、姫神は探しているのだった。
……いや、正確には、姫神自身は釣り餌でしかない。
姫神の体を循環する、物質的にはなんてことも無いはずの血液。
だかそれは『吸血殺し(ディープ・ブラッド)』という名のついた、吸血鬼のための最強最悪の毒物なのだった。匂いは、たまらなく良いらしい。
もちろん姫神本人は人間だから、匂いなんて何度嗅いでも鉄臭い普通の血の匂いだとしか思わないのだが。

今日もまた、何も収穫の無い一日だった。
いるかどうかも分からないのが吸血鬼だ。だから、仕方ない。
いつか出会えるまで、自分はこれを続けるだけだ。
姫神はごみ捨て場にごみを捨てて、帰路についた。

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あとがき
科学史的に正しいことを言うと、ローレンツ収縮と呼ばれる一連の式群はアインシュタインの特殊相対性理論と全く数学的には同値な物です。
作中で語ったとおり、力学と電磁気学の間に存在していた光の扱いに関する矛盾、それを解決するために、ローレンツはローレンツ収縮という『エーテルの性質』を仮説として提出したのに対し、アインシュタインは『時空そのものの性質を捉えなおす』ということをやってのけました。この差がカギとなり、後世には特殊相対性理論の名前が広まったようです(アインシュタインのノーベル賞受賞は別の研究テーマによるものです)。こういうのをパラダイム転換というのでしょうね。

また、エリスは原作で名前のみ登場したシェリー・クロムウェルの親友なわけですが、原作の情報だけでは性別が確定しきらないようです。
というのもエリスの綴りはEllisとされており、このスペルの場合エリスは名ではなく姓の可能性が高いからです(女性名としてのエリスなら一般にElis)。
コミック版禁書目録にて男性らしい描写があったという情報もあり(私は未確認です)、それが正しい場合、エリスの性別が原作とは異なることになります。
とはいえもう変えようのない設定なので、このSSではエリスは女性であるとして、続きを描いていこうと思います。原作に忠実でない可能性がありますが、ご容赦ください。
……言い訳をすると、森鴎外の『舞姫』やベートーベンの『エリーゼのために』のせいでエリスという響きを女性名だと信じて疑っていませんでした。英国人であるシェリーが親友の名前をまさか姓で呼ぶとも考えにくいというのも一因だと思います。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 03: 水遊び、湖畔の公園にて
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/05/13 00:54

「うん、春上さんはあれから何もないみたいだし、佐天さん、あなたももう包帯は外して大丈夫ね」
「やたっ!」
夏祭りの日、ポルターガイストに巻き込まれてから数日が経っていた。
災害現場のすぐ傍にいた先進状況救助隊の隊長、テレスティーナが病院に連れて行ってくれて、春上の介抱と、能力を使って右手を痛めた佐天の治療をしてくれたのだった。
春上はその日のうちに目を覚まして寮に戻れたし、佐天も幸い、軽いヒビで済んだ。飲み薬を飲んで右手はほとんど完治していた。
そして今日で、ちょっと遠くて面倒だった通院も終わりになる。
目の前で優しくニッコリと笑うテレスティーナに微笑を返して、佐天はぐぐっと右手を握った。
もう鈍痛もない。まあ、右手に渦を握りしめるのはまだ止めておいたほうがいいらしいけれど。
「よかったですね、佐天さん。これで無事にピクニックにいけますね」
「お弁当、楽しみなの」
「期待しててくださいね。気合入れて作りましたから!」
朝食からまだ一時間やそこらなのにもう昼食に思いをはせる春上に、初春が元気よく返事をしていた。
影で佐天はこっそり苦笑した。今日、初春が作っていた海苔巻きは、以前佐天が初春に作ってやったものと同じレシピなのだ。
まあ、そのレシピは佐天も母親に教わったものだし、母親もきっと本で見たか、誰かに聞いたものだろう。そう思えば誰にレシピを教わったかで優劣のつくものではないか。
佐天は調味料に間違いがないといいなと思いつつ、待合室のソファから腰を上げた。
「初春、春上さん、それじゃあ行こっか。テレスティーナさん、どうもお世話になりました」
「といっても私が診たわけじゃないし、通りすがりだけれどね」
くすっと苦笑いをしながら眼鏡を直して、テレスティーナは小脇に挟んだファイルを軽く揺らした。
「それじゃ、私も仕事があるからもう行くわね。学生さん達は良いわね、夏休みが長くて」
「それが学生の特権ですから」
「ありがとうございました、なの」
「失礼します」
初春も今日は風紀委員の腕章を外して、涼しげな私服姿だ。当然、春上も佐天もだ。
とはいえピクニックにいこうと言いながらスカートを履くのはどうだろうと思いつつ、三人は電車の駅へと向かうため、病院の出口をくぐった。




三人であれこれと話をしながら電車を乗り継いで、第二一学区の自然公園にたどりつく。
前日のうちから計画を立てて朝早くに家を出たおかげで、昼ごはんまでにひと遊びできそうな時刻だった。
「さあ着きました! 春上さん! 何しましょうか」
「えっと……」
「初春、アンタ気合入り過ぎだって」
「そうは言いますけど佐天さん! あと遊べる時間はもう5時間くらいしか無いんですよ!」
「充分だと思うけど……」
春上と一緒にいる初春は、ずっとこうだった。
春上は転校したてで右も左も分からない状況だし、そもそも性格のせいか抜けたところがあるというか、ぽややんとした状態がデフォルトなので、初春がやたらとお姉さんぶって甲斐甲斐しく世話をするのだった。
「あれ」
「え?」
「あれに乗ってみたいかも、なの」
すっと春上が無表情に指を差した。
無表情というのは知らない人から見たらそう見えるという話で、実際にはいつもより楽しそうな感情が浮かんでいる。
指の先を初春と一緒に見つめると、公園の真ん中にある大きな池の対岸に、貸しボート屋が店を構えていた。
「ボートかぁ、いいね」
「三人ならお金も問題なさそうですね」
「じゃあ決まりっ!」
善は急げといわんばかりに、池の外周を歩いて貸しボート屋に行き、荷物を預けてボートを借りに行った。
中学生にしてみればここまでの交通費とボート代をあわせるとそこそこ手痛い出費なのだが、
春上の気晴らしにと企画したのだ、パーッと使ってやろうと佐天はむんずと財布から千円札を取り出した。
「おおっ、佐天さん奢ってくれるんですか?」
「えっ? いいの?」
「ちょ、ちょっとちょっと。いくらなんでもそれは酷いでしょ。あたしだって夏休みの軍資金はまだまだおいときたいんだから」
ボートは極普通の形で、アヒルさんのデザインなんてしていない。
なので、一時間でお札が一枚もあれば足りるのだった。


「それじゃ一時間後にここにボートを持ってきてね」
「わかりました」
「よーしいこっか!」
初春たちのいるこの公園は別段大きいところでもない。
サクサクと借りる手続きを済ませ、佐天はオールをかついでボートの縁に足をかけた。
「ほら、ボート支えてるから乗った乗った」
「ありがとうなの」
「すみません佐天さん」
スカート組を先に乗せて、初春にオールを渡す。たぶん初春が漕ぎ役を買って出ると思ったからだ。
膝より下まである長めのスカートを履いた春上はどうということもなかったのだが、なんでそうしたのか、初春は膝上までの黄色いスカートなので、大股でボートに飛び移ると下着が良く見えた。
「初春ーぅ。そのパンツはじめて見たよ。スカートとあわせたの?」
「さ、佐天さん! あっちでおじさんが聞いてるじゃないですか……!」
貸しボート屋の主人がはっはっはと笑いながら手を振った。よくある役得なのかもしれない。
もう、と呟きながら初春はぎゅっとスカートの裾を膝まで伸ばした。
その仕草を笑いながら、ぐっとボートを佐天は蹴り押した。
「え?! さ、佐天さん?」
「いってらっしゃーい、なんてね」
「初春さん。も、戻らないと」
春上も佐天が陸に残されたのに気づいて、慌てて初春に指示を出す。
しかし抵抗に乏しい水の上のこと、すぐにボートは陸から2メートルくらい離れた。佐天の渾身の一押しだった。
「大丈夫だって。私もすぐに追いつくから」
「え?」
まさかもう一台ボートを借りる気なのか、と初春がいぶかしんだところで。
佐天が足元を気にした。見えない何かを踏むように。
……いや、見えないと思ったのは一瞬だ。土ぼこりを吸って、あっという間に渦が可視化された。ぶよんぶよん、と佐天が踏みつけるたびに弾性変形する。
何をやろうとしているのか、咄嗟に初春には分からなかった。春上も首を傾げるだけだった。
二人は、ついこないだ佐天が行ったそれを目撃していなかったから。
「んじゃ、いっくよー」
湖に来た時点で、佐天はやりたくてうずうずしていたのだ。
東洋の神秘、忍者の秘術。水面歩行。
水流操作系の能力なら簡単だろう。体重と同じ力を水面下からかければいい。
空力使いも、風で自重を支えれば擬似的に水面歩行は出来る。
他にも佐天の師である光子は足底に空気の膜を作り、水との界面張力をコントロールすることで、かなり苦手ではあるが最も正当な水面歩行が可能だそうだ。
佐天はそういうのと比べると、一番スマートさに欠ける。
――水面近傍で渦を踏みつけ爆発させて、それで垂直方向の運動量を稼ぐ。
水面上で静止することの叶わない、ダイナミックな方法だった。
「ほっぷ、すてっぷ、じゃーんぷ、っと」
渦を3つ、70センチの間隔で。
湖面にさざ波を立てつつ生じた渦に目掛けて、佐天は足を踏み下ろした。
渦の下が硬い地面では無いから、その分渦の爆発で得られる力は小さいはずだ。
うっかり飛びすぎるのはいい。だが出力不足で池に落ちることだけは避けなければならない。心持ち大きめに渦を作る。
そしてぐぐっと踏むと同時にコントロールをストップ。それで、渦の持っていたエネルギーが佐天の足に伝わった。
……勿論、水面にも。
「え? わわっ、さ、佐天さん!」
「冷たいの……」
ばしゃん、ばしゃん、ばしゃん! と盛大に音が鳴る。
水溜りを容赦なく踏んだときの水跳ねをもっと酷くしたような感じだった。
佐天の移動のほうは問題なくて、無事ボートに着地した。
そして予想通り、滅茶苦茶に揺れた。
「お、落ちちゃう……」
「春上さん、掴まって!」
「って初春に掴まっても一緒に落ちるよ?」
「この揺れの張本人がのんきに言わないで下さい!」
この揺れなら大丈夫だ。佐天の運動量を奪って、ボートはさらに沖のほうへと進みだした。
それにあわせて、そっと佐天もボートに腰掛ける。
場所は春上の後ろ。ぴょこんとはえたアンテナみたいな一房の髪を眺めつつ、
正面の初春のパンツが拝める場所だった。


「さて、んさんっ、代わって下さいよ」
「えーやだ。汗かいたら春上さんとくっつけなくなるし」
「あはは……でもちょっと暑いかも」
後ろから春上は佐天に抱きしめられていた。湖上で涼しいとはいえ真夏の昼前だ。暑くないわけがない。
それを初春ははーはーと大きく肩を上下させながら恨めしげに見つめていた。
疲れて足がガクガクするたびにパンツが見えると佐天に指摘されるので、ただでさえ辛いボート漕ぎが何倍も大変だった。
「ほらっ、はるうえさん、も、嫌がってるじゃないですか」
「えっ? 春上さん、もしかして嫌だった?」
「え? そんなことはないけど……。佐天さん、優しいし」
「ほーら初春。春上さんは嫌じゃないって」
「もう、だめですよ、春上さん。佐天さんが付け上がり、ます」
もうこれ以上は腕が動かない、といった風情の初春を見て、さすがに佐天も悪いと思ったらしい。
「もう、それじゃあ代わってあげよう」
「お願いします。それじゃオール――」
「いらないよん。佐天さんは自分の力で泳ぐのだッ」
春上を抱きしめた手を離して、二人に背を向ける。そしてサンダルを脱いでちゃぷんと足を池に浸す。
そして背中を春上に預け、手でしっかりとボートを押さえた。
「じゃあ、行きます!」
数日前に咄嗟に足元に渦を作ってから、佐天は渦の発生場所を手に限定しなくなった。
四肢の先端、つまり手に加えて足でも問題なく発動できるようになったのだ。
さらに言えばそういった「指し示すもの」を一切使わなくても目の前に渦は作れる。
手はあくまでも補助の一つだったということを、佐天は理解していた。
残念ながら、遠く離れたところには渦を作れないが。

両足元に、渦を作る。
そしてその空気塊を水に浸けて、すぐ解放する。
水のはねるじゃばっという音と泡の発生するぼわっという音が混じったような音がした。
「ひゃっ? ま、またですか?」
「でも冷たくないの」
「そりゃそうよ、さっきと違って水しぶきは全部後ろに流れてるからね」
「……それはいいんですけど、ほとんど動いてませんよ」
振り返るとジト目の初春と目が合った。
うーんと今の行いを反省する。足に伝わった運動量は、渦の持っていたそれの二割程度。
ロスがあまりに大きかった。人間三人分の質量を動かす運動量なのだから、もっと効率を上げるか渦の出力を上げるしかない。
「んー、この方式イマイチだね。これで足の骨にヒビ入れたら絶対怒られるし」
渦の暴発という瞬間的な現象で運動量をまかなおうとすると、瞬間的に佐天の足に大きな応力がかかる。
渦の出力が佐天の体の破壊に繋がるレベルに達していること、それがこの間初春を助けるときに怪我を負った原因でもあった。
――やっぱり、連続的に仕事をする渦じゃないと駄目だよね。
「気液の二相混合流とかコントロールできるのかな……」
「え、佐天さん?」
「ああうん、ごめん、ちょっとコッチの話」
少しだけ、佐天は友達二人を忘れて自分の能力に没頭した。
佐天の作る渦は基本的に球形だ。それは自然界によくある円筒状の渦とは大きく形が異なる。
だが円筒型のものも、別に作るのに苦労があるわけではない。
「円筒の渦を作ったら、あれなら色々吸い上げられるよね」
アメリカに発生する竜巻など、車や家畜ですら吸い上げるのだ。
ああいうイメージで、空気で作った渦の中に水を引き込めば、渦が水を吸い、吐き出すときの反作用で船が動かせるだろう。
「よっと」
足、というか骨が一番頑丈なかかとの先を基点に、竜巻を作る。そしてそれをほんの一部だけ、水に触れさせる。空気の吸引口に水が混じりこむように。
「おっ、おっ、おっ」
「あのー、佐天さん?」
「ごめん初春いいところだから!」
「もう」
初春は自分の世界に入り込んだ佐天にため息をついた。
能力が急激に伸びていて嬉しそうな佐天を見るのは嫌ではないが、今日は春上の気晴らしにとここへ来たのだ。
春上と目が合ったので謝意を目線で伝えると、気にしていないという風に笑って首を振った。
「佐天さん。すごいね」
「ありがとー。んくっ、コントロールが難しい」
「あれでレベル2って嘘ですよね」
「うん、私もレベル2だけど、あんなにすごいことできないの」
「実用レベルってレベル3からですもんね、普通」
「柵川中学にはレベル3の人っていないんだよね?」
「はい。だからたぶん、佐天さんはうちで一番だと思います」
「すごいの」
後ろの会話をほとんど聞き流しながら、かかった、と佐天は感じた。
エンジンが始動から定常回転を始めるように、渦が水を噛む時の状態が、上手く安定した。
そして緩やかに、ボートが動き出す。
「あ、動いたの」
「ホントだ。佐天さん、上手くいったんですか?」
「うん。なんとか」
初春は再び春上と苦笑を交わす。
コントロールに必死なのか、佐天が会話に乗ってこなかった。
「さてそれじゃあ佐天さんが運転手をしてくれてる間、私達はこの空気を堪能しましょうか」
「はいなの」
うーんと初春は伸びをしながらそう宣言した……のだが。
後に佐天が方向転換は出来ないと知って対岸にぶつかりしたりしそうになって結局大変なのだった。




「ふいー、漕いだ漕いだ。もうお腹ぺっこぺこだよ」
「全部食べちゃ駄目ですからね」
「はいはい。っていうかそれは春上さんに言ったほうがいいんじゃないかな?」
「え?」
春上がきょとんとした顔で佐天を見た。3人の中で飛びぬけて大食漢であることにまるで自覚がなかった。
貸しボートを満喫して、今はもう早めの昼食時だ。早起きした三人にとってはもう待ちきれない時間だった。
さっそく初春の持ってきたボックスを開ける。
「おー」
「すごいの」
夏だからと酢を利かせた酢飯で巻いた海苔巻き。
定番の厚焼きやらキュウリやらで巻いたそれは、ちゃんとしたすし屋のには見劣りしても、そこいらにあるスーパーの出来合いの一品となら勝負になる出来上がりだった。
「朝から頑張りましたから。さ、それじゃ食べましょう」
「いただきますなの」
「ほら待った、春上さん手拭きなよ」
「ありがとう」
ウェットティッシュを春上と初春に渡して、自分も手を拭く。
そして6本も作られた海苔巻きの一つに丸のままかぶりついた。
佐天好み、というか佐天が母から教えてもらったあの味がする。
「んー、んまい」
「おいひいの」
両手で縦笛みたいに持った海苔巻きを春上がもっきゅもっきゅと食べていく。
失礼を承知で言うと、ちょっと食べ方が汚いというか、豪快なのだった。
ほっぺたにご飯粒がぽつりぽつりと付いている。
「もう、春上さん。ほっぺにご飯粒付いてますよ」
「うん」
「やっぱりこういうところで食べる海苔巻きはいいですね」
「うん。ピクニックって感じがするよね。夏のうちにまたやってもいいなぁ」
「じゃあまた計画しましょう。秋の紅葉とかも良いですし、二一学区は冬には雪が降るらしいですし、
 せっかく中学に上がったんですからこういうとこに旅行するのもいいですよね」
「うん……」
初春はこの先の計画に思いをはせて、ぐっとこぶしを握った。
しかし、それに対して佐天が淡く返した微笑が気になった。
「佐天さん?」
「いやさ、二学期から、どうしようかなって」
「あ……」
そのことを思い出して、初春は表情を翳らせた。
「初春さん、佐天さんって、2学期に何かあるの?」
「えっと……」
「転校、しようかなって思ってるんだ」
「転校?」
「うん」
自慢するように、手のひらに渦を集める。そしてそれを池に投げ入れると、ばしゃんっ、と水音を立てた。
佐天の表情は、あまり誇らしげでなかった。
そしてどうしようか、ではなくて、転校しようかと佐天が言ったことに、初春は気づいた。
「あたしのレベル、これだったら3に行くんじゃないかなあ」
「そう思うの。だってこれ、レベル2の威力じゃないの」
「システムスキャン、受けたらあがるかも知れませんよ?」
「うん。多分上がると思う」
「じゃあ」
どうして受けないのかと言おうとして、なんとなく初春は理解した。
柵川中学にレベル3の学生はいない。レベル0と1、そしてたまに2。それが柵川のランクなのだ。
レベル3の認定をもし受けてしまったら、まず間違いなく柵川にはいられない。
だからきっと、佐天は先送りにしているのだ。
「……佐天さん、近いうち、システムスキャン受けましょう」
「え?」
「もっと能力を伸ばしたいって思ってるなら、ぜったいそうするべきです! それで出来るだけいい学校に行って、お小遣いで私と春上さんにパフェご馳走してください」
「パフェ? ……あは、もう、初春。いま結構シリアスな話だったよ?」
「私は大真面目です」
「うん。そっか」
「佐天さん。転校したって、私と友達でいてくれますか?」
「え? ……それは、私が言うことだよ」
「質問に答えてください。私は、ずっと佐天さんのこと友達だって思ってますから」
「ありがと、初春。私だって、初春のことずっと友達だって思ってるから」
「じゃ、今まで通りですね」
「そだね。うん、それじゃあ転校前に春上さんともっと仲良くなっとかないとね」
二人で春上を見つめると、にっこりと笑い返してくれた。
そして、どこか羨ましそうな響きを込めて、ぽつんとこぼした。
「佐天さんと初春さん、仲良いね」
「え? うーん、それはどうかなぁ」
「佐天さんなんか今さっきといってること違いませんか……」
いつの間にか完食した海苔巻きの容れ物から残ったご飯粒を摘み上げて、初春が佐天を見つめた。
そんな様子が、ますますやっぱり仲良さげに見える。春上は胸から下げたペンダントに軽く触れた。
「私にもね、すっごく仲のいい友達がいたの」
「え?」
過去形のその言葉に、佐天と初春は返事をし損ねた。
その二人の様子に構わず、春上は言葉を続けていく。
「私とその子、どっちも置き去り(チャイルドエラー)で、施設で育ったの。ある日その子はどこかに引き取られて、離れ離れになったの。最後の日に、また会おうねって行ってくれたから、それをずっと待ってたの」
「春上さん……」
佐天自身も、そして友人にも、置き去りという境遇の人間はこれまでいなかった。そのせいで、どんな言葉を返すべきなのか佐天はわからなかった。
春上は決して自分の境遇を悲観しているようには見えない。その表情を曇らせているのは、友達と離れたこと、それだった。
「そのお友達、今は」
「分からないの。しばらくしたら、連絡も来なくなっちゃったから」
憂いを帯びた声で、春上が首を振る。
佐天はかけるべき声を見失って、しかし初春は春上と距離をとらなかった。
「探しましょう」
「え?」
「私、こう見えて情報収集とか検索とか、そういうのは得意なんです。だから」
「ありがとう」
初春の声に、春上が声を重ねた。眩しそうに初春を見上げて、笑う。
「初春さんと佐天さんには、たくさん勇気を貰ったの。待ってるだけじゃ、だめだよね」
「みんなで探せば、きっとすぐ見つかりますよ。そのお友達も」
「何か手がかりとか、ある?」
自身もあまり積極的なほうとはいえなかった初春の気持ちの強さを嬉しく思うと同時に、自分もちゃんとしなきゃと省みつつ、佐天も春上に声をかけた。
だが、気楽にしたはずの質問が、春上の表情を暗くさせた。
「声がね、時々聞こえるの」
春上がスカートの裾をきゅっと握って、じっと地面の一点を見つめた。
思いつめたような雰囲気があった。
「声?」
「うん。私、精神感応者(テレパシスト)なんだけど、その子の声が時々聞こえるの」
「それなら、その子と話をすれば」
「私、受信しかできないし、それにあの子、何か変なの」
「変?」
「うん。なんだか、苦しそうで」
「春上さん、こないだの夏祭りの夜のって」
「うん、たぶんそう。あの子の声を聞いたらいつも私、何も他のことが分からないくらい、混乱しちゃって」
佐天は初春と顔を見合わせた。
あの日、鮮明に残っている記憶は二つ。不意にふらふらと歩き出した春上と、そして地震。
結びつけるなというほうが、無理があった。
「もしかして、それってポルターガイストと――」
「ちょ、ちょっと佐天さん。いくらなんでもそんな、飛躍しすぎですよ」
「けど、春上さん。春上さんがその友達の声を聞く日って、地震とか――」
どうしてそんなことを尋ねるのか、と初春は佐天に問いたかった。
短い間に何度も学園都市を襲い、怪我人を出した局所地震。春上がその犯人かのような言い分。
春上に、すぐ否定して欲しいと顔を向けた。
佐天も佐天で、この新しい友達が厄介ごとに無縁でいてくれるなら、それに越したことは無かった。
「……春上さん?」
「――」
予期せぬ長い間に、佐天と初春は戸惑う。
返事が、なかった。あまりに唐突な、会話のやり取りの拒否。春上はぼうっとどこかを見つめている。
意図しての無視とも違う、本当にいきなり佐天と初春が眼中に入らなくなったような、そんな自然な無視だった。
目線がやけに奇妙だ。佐天とも初春とも違う、何も無い方向に向いていながら、焦点はすぐその辺りにあわせられている。
――――まるで、すぐ傍にいる誰かを探すように。
「どこ? どこから呼んでるの?」
「春上さん……もしかして」
冗談が過ぎるような噛み合わせ。ほんの数日前の焼き直し。
目の前の友人二人を意識の外に追いやって、春上は誰かの声に、意識の全てを奪われていた。
「春上さん! しっかりしてください、春上さん!」
「何をそんなに苦しんでいるの? ねえ、どこ?」
「ちょっと、春上さん。初春どうしよう」
風紀委員として怪我の応急処置や心臓発作などの対処は習っている。
だが、突然夢遊病にでもかかったような場合なんて、聴いたことも無い。
初春は呼びかけるほかに出来ることを知らなくて、ひたすら声をかけた。
「春上さん! こっち向いてください!」
だが佐天は、それを一瞬躊躇した。友達と能力で交信していること自体には、何の問題もないのだ。
この呼びかけで二人が会えるなら、それは悪いことではない。
「お願い、何を言ってるのか、分からないよ」
どうしよう、止めるべきか、止めるとしてどうやって止められるか。
そんなことを逡巡していると、不意に、意識にノイズが走ったような違和感を覚えた。
なんとなく、自分の能力が自分から遊離していくような。
渦を出す意思なくしては発動しないはずの渦が、なぜかそこに現出してしまうような。
「――あ」
まずい、と佐天は思った。
池のほとり、草の刈り取られた広場に、佐天は渦を見出してしまった。
ちょうど、お昼時で地表が強く熱されて上昇気流が起こり、冷たい湖面の風が流れていく場所。
軽く舞った砂埃が、ゆらりと弧を描いた。


同時にシャラシャラと木々が葉をこすり合わせ始めた。
湖面はさざなみを打ち、そして突如、ドンと深く低い音と共に、公園全体が揺れだした。
人が危険を感じるレベルの揺れをもつ、地震だった。
「そんな! 地震?! 春上さん! とりあえず開けたところに――」
「待って! 駄目、初春」
「佐天さん?!」
慌てて佐天は初春を引き止める。春上は相変わらず、茫然自失のままだ。
佐天は焦りを隠せない初春の向こう、広場を指差した。そこには空へと向けて立ち上る、砂埃の柱。
「竜巻!? こんな時になんでっ」
竜巻、つまり空気の渦は自然界にも存在するものだ。佐天が作ってしまったのは、小さな渦だけ。
だがそれは、種さえ与えてやれば、周りのエネルギー、すなわち気圧差や温度差を喰らって自然に成長する。
日本で生じる竜巻など規模は高が知れている。数十秒もあれば、消えうせるだろう。
だが、地震の最中に広場を占有するそれは、間違いなく人を危険に晒しかねない危険物だった。

逃げ場を探して辺りを見回す。
宙に浮いたボート、不自然に回転するブランコ、木々の間を縫って現れる断層。
そらへと逃げ惑う鳥達の羽音が耳障りだった。
「とにかく! 木の隣は危ないからあっち行こう!」
少しでも安全なところへと、二人は春上の手を引いて必死に動いた。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 04: 暴走する能力
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/05/16 11:43

低く、うめくようにざわめく待合室。佐天はそこに一人座っていた。
「夕方からまた通院なんて、ついて無いわね」
見上げると、そこにテレスティーナがいた。朝一番に、声をかけてくれた相手だった。
再び会った理由はこれまた単純だ。
数日前に佐天が怪我をしたのがポルターガイスト事件で、今回も同じ。
そして救助の先鋒を担うのがテレスティーナ率いる先進状況救助隊、そういうことだ。
「あまり気にしないことよ。あなたはポルターガイストに巻き込まれただけ。あなたを加害者にカウントするなら、あそこにいた学生の全員が容疑者で、そのうち何割かは実行犯。そんなこと、考えるだけ馬鹿らしいでしょ」
「……」
実際、ここにいる怪我人の大半は地震による転倒や落下物による傷害ばかりだ。
佐天が種を作った竜巻はたぶん、きっと、誰かを怪我させたことはないと思う。
だけど。
佐天は、あの阿鼻叫喚の図を描いた側の一人だった。
「ショックで能力のコントロールを失う学生って結構いるのよ。もし自分の能力に不安があるなら、いつでもいらっしゃい。ここの医者が相談に乗るわ」
「はい。……すみません」
「お大事にね。貴女のお友達も、もう面会できるはずよ」
超能力を使えるようになって、佐天は初めてその孤独を感じていた。
自分を取り巻く世界をどう観測するか、それが人と異なる人間を超能力者という。
佐天の持つ「自分だけの現実」は、文字通り他人には理解されないものだ。
そしてそれが歪んでしまった今、それをどう直せばいいのか、正しい答えを知る人はいない。
目の前がまた、ゆらりとなる。それが佐天には怖い。
能力を使おうと思っていないのに、いつの間にか渦を作ってしまいそうで。
それで誰かを、傷つけそうで。
「初春……」
診察室から出ると初春はいなかった。
外傷もなく意識もはっきりした佐天より、春上の元に向かうのは変なことではない。
自分も行こうかと、腰を上げたところで、病院に入ってきた美琴と白井、そしてもう一人の教職員に気がついた。
街で見かけたこともある、たしか警備員の先生だっただろう。
「佐天さん! 大丈夫だった?」
「お怪我は大丈夫でしたの?」
顔を見るなり、美琴と白井が駆け寄って、佐天を心配してくれた。
慰めてくれる人がいると、やっぱりほっとした。
「はい。私は怪我とかなんにもなしですから。初春もちょっとの擦り傷だけです」
「春上さんは」
「……あの、またこないだみたいに」
それだけで二人は察したのだろう。その意味を考えるように、沈黙した。
「その春上って子には面会できるのか?」
「え? はい。もうできるみたいです」
「そうか、じゃああたしも話し聞かせてもらうじゃんよ。ああ、自己紹介もまだだな。あたしは警備員の黄泉川だ。ポルターガイストの件のとりまとめをやってる」
ざっとそれだけ説明すると、黄泉川は春上の病室へと、先陣を切って歩き出した。




「ん……」
「あ、春上さんっ!」
「初春、さん?」
日の長い夏の太陽が真っ赤に染めた、春上の病室。
検査中も覚醒しなかった春上がようやく意識を取り戻してくれたことに、初春はほっとした。
こないだの花火大会のときにも、こんなに長く意識を失っていることはなかった。
「大丈夫ですか? どこか痛い所とか、無いですか?」
「え? うん、別になんともないの。それより私、どうしてたんだろ」
「また地震があったんですよ。それで春上さん、気を失っちゃって」
その説明は、正確ではなかった。
春上がおかしくなったのは、ポルターガイストが起こるより数秒は前だった。
だから地震は、春上の意識の混濁とは別の話だろう。
「そうなの。私、また――――あっ、ない!」
また、呼ばれて意識を失ったのかと続けようとして、春上は習慣となった仕草、胸元のペンダントを確かめようとした。
そしてそこが寂しいことに気づく。
「大丈夫、検査の前に私が預かってただけですから」
「あ……」
それで春上はほっとした。初春が手のひらにジャラリと出してくれたそれを、両手で受け取る。
付けようかと思ったところで、コンコンとくっきりとしたノック音が響いた。
「はいなの」
「失礼します――って春上さん。目が覚めたんだ」
「あ、佐天さん。それに白井さんと御坂さんも。あと――」
「悪いな。あたしは事情聴取に来た警備員の黄泉川だ。元気そうなら話が聞きたくてね」
「私も失礼するわね。一応、所長さんだし」
愛想のない黄泉川と、病人を気遣うスマイルなのか、柔らかい笑みのテレスティーナが後から入ってきた。
「春上さん、あなたが意識を失っている間にやった検査の結果なんだけれど、健康に害がありそうな病気などは見当たらないわ。急に意識を失ったその原因さえハッキリすれば、別に退院してもらっても構わないんだけれど」
「テレスティーナさん、それじゃここで質問をしても構わないのか?」
「はい。春上さんが構わないようでしたら。あまり負担をかけない範囲でお願いします」
「わかってるじゃんよ」
話をするために、黄泉川はカラカラと椅子を引っ張ってきて、春上の隣に置いた。
友人の一人、初春が警戒するように春上と黄泉川の間に収まっていた。
それに苦笑する。
「春上さん。起きてすぐに警備員に迫られて不安は有ると思うが、ちょっと話を聞かせてもらってもいいか? もちろん春上さんが悪いことをしたとか、捕まるとかそんな話じゃないから安心するじゃんよ」
「はい。だいじょうぶなの」
春上は初春を安心させるように微笑んで、黄泉川に向き合った。
「春上さん、今日、意識を失ったのは何でだったか、覚えてるじゃんよ?」
「えっと……覚えてないけど。たぶん、また呼ばれたからなの」
「呼ばれた?」
「うん。……昔の、お友達に」
「もうちょっと詳しく教えて欲しいじゃん」
意識を失った後に、この話を医者にしたことならある。だけど、警備員に話したことはなかった。
警備員に目をつけられるのは学生にとっては面倒ごとでしかない。春上は不安げに髪を揺らした。
それでも、聞かれたことには答えていく。
自分がチャイルドエラーであること。施設時代に親友がいたこと。
その子が引き取られてからほとんど交信していないこと。
ひと通り話すと、納得したように黄泉川が頷き、初春が小言をもらした。
「どうしてそんなこと聞くんですか?」
「白井に聞いたんだよ。春上さんが、地震発生より前に不安定になったってな」
「白井さん?! なんで!」
「な、なんでって。……私おかしいことをしたとは思っていませんわ」
白井が春上を黄泉川に売った、と言わんばかりの表情だった。ただ白井にだって言い分はある。
このポルターガイスト現象はRSPK症候群の同時多発によるものだ。
つまり、何らかの理由で能力者が同時に複数人暴走するのである。
偶然ではありえず、それならば原因、あるいは基点となっている人間を探すというのが筋だろう。
事件の犯人というものに悪意があるとは限らない。それに犯人でなくとも、ポルターガイスト発生より先んじて自失する春上に、何の注目もしないことのほうが不自然だ。
「今回だって、怪我人を70人も出してるじゃんよ。このまま放置ってわけには行かない。手がかりが欲しいところなんだ。友達に疑惑がかかるのは気持ちのいいことじゃないかもしれないが、これ以上被害を出さないためだと思って、わかって欲しいじゃんよ」
初春は納得いかないという目で黄泉川を見つめ返し、後ろで春上が気にしていないという風に黄泉川に首を振った。
「にしても、春上さんの友達って、どこに行ったんだろうね」
話を変えるように、美琴が春上の傍で呟いた。
初春が黄泉川に食って掛かっても止められるようにと傍にいたのだが、杞憂に終わってほっとした。
思い出を反芻するように、春上が笑った。
「置き去りの子たちは施設から出ると、中々連絡が取れなくなっちゃうの。だから仕方ないかなって。でも元気にやってると良いなあって、思うの」
病院の個室で、黄泉川は思わず煙草を探してしまった。胸糞の悪くなるような話だった。
……なぜ施設を出た置き去りの子供の足取りをたどるのが難しいのか、黄泉川は知っていた。
テレスティーナと目が合う。煙草を探したことを悟られたのだろう。目で謝ると、ニッコリと微笑まれた。
そしてそんな大人たちの仕草に気づかず、春上はペンダントに触れて、友達の写真を美琴と初春に見せた。
「枝先絆理(えださきばんり)ちゃんって言うの」
「この子……!」
「え?」
驚く美琴に、周囲が不思議そうな表情をした。あわてて取り繕う。
「な、なんでもないって。ちょっと知り合いに似てただけ」
そんなことはなかった。
いつか見た、木山春生の記憶。
彼女の教え子であり、人体実験の被験者にされ、今も目を覚まさない子たち。
春上が胸に下げたペンダントに映るその顔は、紛れもなくその子達の一人だった。




負担になるからと、短い時間で面会は終わらせた。
初春、佐天、白井、美琴、そして黄泉川とテレスティーナ。
帳が落ちて電灯の光が明るく照らす廊下を歩きながら、美琴はさっき見たものを報告する。
「つまり、春上が茫然自失となるきっかけはその親友の枝先からのテレパシーだと」
「そして、その枝先さんって子は、幻想御手(レベルアッパー)事件の主犯、
 木山春生の人体実験によって植物状態へと陥っている」
黄泉川とテレスティーナは、考え込むようにうつむく。
「いやあの、関係があるとは限りませんけど……」
「まあ、な。春上が枝先からテレパシーを受信することとRSPK症候群を同時多発させること、この二つの相関が全く取れてないからな」
「そうですね。ただ……木山の携わったその『暴走能力の法則解析用誘爆実験』というのが気になりますね。名前で全ては分かりませんが、その実験結果を手にしている木山は、能力者を暴走させるための条件を知っているのかもしれませんね」
「……」
大脳生理学の新進気鋭の研究者にして、AIM拡散力場のコントロールによる複数能力者の演算能力を纏め上げるという、倫理的な面に目をつぶれば革新的としか言いようの無い成果を出している木山だ。
ポルターガイストを起こさせることは、彼女の才能なら可能だろうとは、黄泉川も思っていた。
「木山はあの子たちを救う為になら、なんでもするって」
木山のやったことではないが、美琴は自分の体細胞クローンを作られかけた被害者だ。
学園都市は、それが利益になるなら平気で人倫の道を踏み外す連中の集まりだと肌で理解していた。
木山の行動には美琴でも納得できるだけの理由がある。未だ死者を出さないポルターガイスト現象。
きっとこれくらいなら、木山は許容範囲内だと思っていることだろう。
「……拘置所の面会時間は終わりだな。明日でも様子を見に行くか」
黄泉川が独り言をもらす。
「初春。なるべく春上の傍にいてやれ。あたしらが疑うのをお前は善しとしていないが、どっちに転んでも風紀委員が傍にいることはマイナスにはならない」
「言われなくてもやります」
詰まらなさそうに、黄泉川から露骨に目線を外して初春は返事をする。
その態度に気を悪くした様子も見せず、黄泉川は続ける。
「あたしは『風紀委員』のお前に言ってるんだ。警備員もそうだがな、身内だからってのは理由にならない。犯人が分からない今、手がかりを探すのは当然のことだ。友達想いで風紀委員の本分から外れるようなら、今だけでもその腕章は外しておけ」
「大丈夫です。言われなくても、やりますから」
「そうか」
ハラハラと見守る周囲をよそに、初春は態度を買えず、黄泉川も怒りを見せずにやり取りを終わらせた。
黄泉川は時計を見ながら、この後のことを考える。家に帰るのはまだ先になりそうだ。
新しい同居人のインデックスのおかげでまちがいなく上条が食事を用意してくれているので、最近残業が楽になった黄泉川なのだった。
「婚后の顔だけ見て帰るか。テレスティーナさん、春上は、今日は?」
「今日というか当分、こちらで経過を見てみたらどうかと思っています」
「なぜ?」
短く、黄泉川は聞き返した。二人の視線が交錯する。
テレスティーナの瞳は戸惑いに揺れた。善意の人が疑われたときの狼狽のように、誰の目にも、そう見えた。
「私の学位論文のテーマが近いこともあって、この病院はAIM拡散力場の測定装置が充実しています。ここなら春上さんのことを細かく調べられますし、それにここは普通の病院と違って人があまりいません。仮に春上さんを中心に被害があったとしても、ここなら怪我人を少なく出来ますから」
「……そうか、わかった。協力に感謝します、テレスティーナさん」
「ええ、早急に原因を突き止めましょう」
真摯な目で、テレスティーナが黄泉川を見つめ返した。




「さて、それじゃあ婚后さん、またね」
「ええ。御坂さんも、それに皆さんもお元気で。お手数をかけてすみません、黄泉川先生」
「いいじゃんよ」
春上の病室から出た後、テレスティーナを除いたメンバーで光子の病室を訪ねた。
暇を持て余していたのがありありと分かる態度だった。いつもより饒舌な光子に白井が辟易していた。
ここから帰宅するとそれなりの時間になるため皆で帰ろうとする中、佐天は一人、ここに残ったのだった。
「元気ありませんわね、佐天さん」
「……ちょっと」
それは春上の病室にいたときと、立場が逆になったせいだった。
負担をかけまいと、さっきは平静を保っていた。
だけど。
「ちょっと婚后さんに、相談に乗って欲しくて」
「あら。なんですの?」
病室に押しかけて病人にすがるというのはおかしな話だが、それでも光子の優しい微笑みに、ほっと佐天は息をついた。
「あの、婚后さんもたしかポルターガイストで、ここにいるんですよね」
「ええそうですわ。本当、私を巻き込んでこんなことをするなんて、どなたか存じ上げませんけれどいい迷惑ですわ。せっかくまたエカテリーナちゃんのお世話を出来ると思ったのにまた人に頼む始末ですし」
想像を絶するサイズのニシキヘビを飼う光子だ。エサやり代理はどんな気持ちなのだろう。
「怖く、ないですか?」
「えっ?」
「……私も今日、巻き込まれて。それで、今までちゃんと見えてたはずのものが、急に歪んで見えて」
「そう。佐天さんもポルターガイストの被害にあわれたのね」
「はい……」
光子はベッドから体を起こして、シーツから出た。そして佐天にベッドに座るよう促した。
「えっと、失礼します」
「ええどうぞ。能力は勝手に暴走しますの?」
「え? いえ、そんなことはないですよ。でも」
「時々見えてるはずの世界が歪む?」
「はい。なんていうか、渦を作る気が無いのに、空気がゆらってなるんです」
「そうですの。……あまり気になさらないことですわ」
「え?」
「そういう不調って、起こす人は起こすものですわよ。事件とは関係なく」
「そうなんですか?」
「ええ。自転車に乗っていてこけるのと、何か違いまして?」
その比喩の意図を、佐天は探る。
出来なかったことが出来るようになるという意味で、自転車に乗ることと超能力を使うことは似ている。
それは何度か光子が比喩として説明したことだった。
そして、補助輪を外した後、小さい頃に自転車にこけた後というのは、確かに乗るのが少し怖いものだった。
またこけてしまうのではないかと思うから。まあ、予想に反し慣れればそうこけるものではないのだが。
むしろ包丁の扱いのほうが佐天にはしっくり来た。
手を切ったって調理を止めるわけにはいかないし、また手を切りそうだと不安に思う反面、そうそうそんなことは起こらない。
「心配しなくても、使ってみれば案外大丈夫ってことですか?」
「ええ。だって私、今強がっているように見えて?」
「いえ、別に」
「でしょう? お恥ずかしい話ですけれど、コントロール失敗をきっかけに不調になったことなんて、何度もありますもの。今更一度の暴走でくよくよなんてしていられませんわ」
「え? 何度もあるんですか?」
「よ、四回くらいですわ」
失敗ばかりしているようにとられてちょっと恥ずかしくなって虚勢を光子は張ってしまった。まあ、正直に言うと年に一回くらいのペースだった。
特に人より早熟で初潮がきた時など、自分の体の激変によって能力がまるで使えなくなって、能力者としての自分は終わったなどと本気で悲観したものだ。
「どうやって、復活したんですか?」
「どうもこうも、落ち着いた頃に能力を使ってみればまた普通に使えますわよ。思いつめたほうが後々酷くなりますから、気にしないことですわ」
「はあ……」
「不安ならここで、荒療治してしまいましょうか」
「え、ええっ?」
随分と、光子は師としての振る舞いに慣れ始めていた。
佐天がどういう弟子かも分かってきていたし、たぶん、すぐに治せるだろう。
ベッドに乗り上げて、佐天を後ろから抱きしめる。
「ちょ、ちょっと婚后さん! その、シャワーとか浴びてませんし」
「……そんな色っぽいことはしませんわよ?」
「い、色っぽいって、そそそんな別に、私は」
当麻のせいで耐性が出来たのか、ついそんな冗談を飛ばしてしまった。
まあなんにせよ、汗の匂いが気になることは無かった。そのまま髪を撫でる。
「ほら、まずは落ち着いてもらいませんと」
「はあ。そう言われても……」
そう言いながら、光子に撫でられるのは気持ちが良かった。
お姉さんって良いなと、やっぱり思う。
髪の手入れの話や、ファッションの話、そんな他愛も無いことで時間を使うと、意外なほどに佐天のささくれ立っていた気が治まった。
疲れで眠かったのも、あるかもしれない。
「さて、それじゃあ渦を作ってみましょうか」
「えっ」
「ほら、指を突き出して」
佐天の右手を握って、光子は手を広げさせた。
そして佐天の目の高さへと持っていく。
手のひらに上にはまだ、渦は無い。
「発動させなくてよろしいから、手の上に渦を思い描いて御覧なさい。一つ一つ手順を私に説明しながら」
「はい。えっと……。手のひらの上の空気を、粒に見立てます」
「そうね、それが佐天さんの原点ね。どんな粒なの?」
「球体です。スケールはマイクロオーダー。……今思うとこの粗視化粒子、分子よりはるかに大きいですよね」
空気は分子という粒で出来ている、という解釈から始まった佐天の能力だったが、佐天も自身の描く粒が空気の分子とはサイズが桁違いなことに気づいていた。
人の扱うモノの大きさと比べて、分子は9桁くらい世界が違うのだ。分子を直接操れば、例えばサッカーボールの軌道演算よりも9桁大きな計算時間がかかることになる。粗視化は当然のことだ。
「分子よりは百万倍くらい大きいのね。粒、見えました?」
「はい」
「どんなのか説明して頂戴」
「えっと、特定の方向は持ってなくて、普通にブラウン運動しています」
「ブラウン運動って言ってしまうと完全にコロイドですわね」
空気中、あるいは水中で粒子が酔歩、つまりランダムウォークすること。ブラウン運動とはそういうものだ。
レーザーを当てれば光の散乱によりその粒子の動く行程が見える、いわゆるティンダル現象の元になる。
何気なく呟いた単語だったが、佐天はまだ学校では習ったことの無い知識だった。
もう学校のカリキュラムより、佐天の知識はずっと先んじている。
「こうやって見立てておくと埃とかのエアロゾルが混じっても把握が楽で良いですよ」
「成る程、確かにそうですわね。さて、それじゃあ渦を回す前に、どうやって回すのかを説明して頂戴」
光子は抱きしめて囁きながら、よし、と心の中で呟いた。
目の前の佐天が視界を揺らさなくなった。集中を失っていた佐天が、目の前の一つの渦に、ちゃんと集中している。
「粒の一つ一つに、ある一点へと向けて収束する力と、ばらばらに乱れる力を持たせると、自然と巻きます」
「そう。今把握している領域を渦にしたら、どれ位の規模になりますの?」
「中心圧力が2気圧、サイズは直径8センチくらいです」
それなら暴走してもどうということはない。それに光子とて空力使い。押さえ込むことは難しくはない。
「わかりました。では作って頂戴」
「はい」
佐天は失敗の恐怖に冷たい汗をかきつつ、粒に意志を通していく。
無秩序にバラバラな動きをしていた空気の粒が、ある一点を中心に、ゆらりと回転運動を始める。
手のひらの上の小宇宙。星雲の如く粒は一つの塊を作り始めた。
結果は、なんてことはなかった。尻込みしていたのが無駄だったといわんばかりに、ごく普通に渦が巻いた。
「あ、できた……」
「でしょう?」
渦が予告どおりの規模であるのを見届けて、光子はさっと抱擁を解いた。佐天は独力で克服したのだと伝えるために。
案ずるより生むが易し。そういうことだった。佐天がこちらを振り向いて、嬉しそうな顔をした。
褒めて欲しそうにしているのが分かったので、髪をまた撫でてやった。
「失敗なんてこんなものですわ。落ち着いて、自分の原点にちゃんと立ち戻れば、それで回復します。だって佐天さんにはレベル0からここまで、ちゃんと歩いてきた道がありますもの」
「ありがとうございます! あは」
佐天はもう一度、渦を巻いてみた。なんともない。なんだ、心配して損した。
やっぱり持つべきものは先達だと、佐天は思った。
自分の苦労をまるで自分しかしたことの無いもののように捉えていたけれど、そんなはずはない。
同じ悩みを抱え、克服した人は必ずいるのだった。
「ほら、そろそろ完全下校時刻までに帰れなくなりますわよ?」
「あ、ほんとだ。あのっ、なんかドタバタですみません。婚后さん、ありがとうございました!」
「佐天さんの元気な顔が見られて何よりですわ。それじゃあ、また」
「はい!」
さっきまでよりずっと足取り軽く帰路につけることを嬉しく想いながら、佐天は病室を後にした。
当麻に電話をするのは何時にしようかと思案しながら、光子は佐天に手を振った。



[19764] ep.3_Deep Blood 02: 仲直り
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/13 23:44
「ねえエリス。調子が悪いなら、ちゃんと言ってね」
「ありがとう」
顔色のすぐれないエリスに声をかけてくれるシスターに礼を言って、エリスはまた自室に戻った。
ここの人たちは皆、優しい。神父もシスターも、そして教会で暮らす子供たちも。
それはずっと、嬉しいことだった。当たり前だ。周りの人が自分のことを気遣ってくれて嫌なはずがない。
「ふう……」
だけど。
あの日、垣根を拒んで夜遅くに帰ってきた時から、この優しい世界が白々しい世界に変わってしまった。
原因は彼らにあるわけではない。完全に自分のせいだ。
エリスねーちゃんあそばねーのーという声に、ちょっとしんどいからと返事をして、ベッドにうずくまる。
ぐるぐると頭の中で巡るのは、垣根の顔。それも優しいのじゃなくて、怒った顔。
垣根をそんな風にさせたのは自分が垣根を突き飛ばしたからだ。これもまた、悪いのは自分。
あの日、自分に口づけをしてくれようとした垣根を振り払って、浴衣を着崩しながらトボトボとここまで帰ってきた。
外出すらもほとんどしない引っ込み思案のエリスだ。だからボーイフレンドと外出したというだけで、神父さまたちは驚き、喜んでくれた。
頑張っておいでと送り出してくれたその後でボロボロになって帰ってきたエリスを見て、酷く彼らも驚いていた。
垣根に弄ばれたのかと、誤解に任せて口走ったシスターもいた。
当たり前の如く、説明を求められた。
何もかもがそのときは煩わしくて、もう二度としないはずのことを、してしまったのだ。

学園都市のIDすら持たないエリスは、ここにいるために皆に暗示をかけていた。
エリスがここにいることを不自然に思わないように、と。
超能力者としてのエリスには、それが可能だった。
今にしても、自分で聡明な判断だったと思うが、エリスはその最低限の暗示以外、自分の保護者達の精神を歪めることはしなかった。
だから、気持ちよくここにはいられたのだ。
悪さをすれば叱られる。だからこそ、愛してもらえたときには素直に喜べる。
だというのに。
今、この教会と学舎に、エリスが垣根と出かけたことを思い出す人間は、一人もいない。
傷を抉るのは止めてくれと、エリスは超能力を持ってして、彼らに厳命してしまったから。
だから、彼らはいつもどおりにエリスに接してくれる。
顔色が優れなくても、エリスが大丈夫だといっている程度ならそう干渉してこない。
当たり前だ。普通にしててくれとエリスが強制したのだから。
けれど。彼らが普通であればあるほど、エリスだけには、現実が白々しいものに感じられるのだった。

あれから、もう何日経つだろう。普段も垣根は毎日は来ない。だからいつものペースだと言えばそれだけのことだ。
だけど、もう二度と来ないかもしれないと、そういう覚悟もすべきだろう。
自分が垣根にやったことは、おおよそ、彼氏に対して最も酷い対応だったと思うから。
嫌われて文句など言えるはずもない。それに垣根が来るよりも、自分が謝りに行くほうが筋だ。
家の場所も学校の名前も聞いているのだから、その気になれば、エリスは会いにいけるはずなのだ。
そうするのを、もしかしたら試されているのかもしれない。
そして例えば一週間くらい待って、もし私が来なかったら。帝督君はもっと他の女の子と――
ジクジクと心が膿んでいくのが分かる。垣根が他の女に惹かれるなんて、絶対に嫌だった。
窓から外を眺めると、ようやく太陽が仕事を終えて地平の先に落ちようかという気配を見せたところだった。
まだまだ明るくて、グラウンドで年下の寮生たちがサッカーをしている。
普段なら自分だってあれに混じったりするのだが、今はそんな気になれなかった。
扉の向こうにふと気配を感じる。コンコンと、控えめなノックがされた。
「エリス、起きてる? 垣根君が来てくれて、エリスが調子悪いって言ったらお見舞いするって」
「えっ?!」
エリスはそれで、ベッドから跳ね起きた。
どうしよう。
会うべきか会わざるべきか。
優しい垣根の笑顔なら、見たい。問い詰められるときの顔なら、見たくない。
来てくれたということはまだ愛想を尽かされていないのだと思うけれど、でもさよならを言うために来たのかも知れない。
会うことが、エリスにとって禍福のどちらをもたらすのか。
あるいはあざなえる縄の如く、どちらもなのか。
「エリス? せっかく来てくれたんだし顔だけでも出してあげなよ」
「う、うん……」
会うしか、なさそうだった。
起き上がって身だしなみを再確認する。別に、いつも通りだった。
本当は髪をもう少し整えたいが、時間がない。だけど普段も子供たちと遊んだ後ならこんなものだろう。
ドアノブに手をかけて、一瞬逡巡した後、ぐいと押し開いた。
「悪い、エリス。中々来れなくて」
「えっ? そ、その、そんなことないよ」
すらりとした長身、年齢よりも大人びたファッションスタイル、髪を切ったのか前より整っている。
やっぱり、垣根は格好良いと思う。顔に惚れた訳でなくとも、格好良いからドキッとしてしまう。
その垣根が、まず、謝ってくれた。謝られることなんて何一つ無い。
だけどそうやって心を開いてもらえたら、どんな悩みを伝えるのも、謝罪をするのも、とても気が楽になるものだ。
エリスは涙が出そうになった。きっとたぶん、まだ、嫌われていないと思う。
「じゃ、ごゆっくり」
ニヤニヤとした顔で立ち去る寮の仲間のことなんてすっかり眼中にいれず、エリスは垣根だけを見た。
「狭いところだけど、その、入って」
「ああ、お邪魔するな」
二人っきりの密室で、垣根と向かい合ったのはこれが初めてだった。


エリスの部屋は洋風の質素な見た目だ。
ここは宗教施設に併設された学生寮だから清貧であれという思想が当然あるのだろうが、しかし由緒などあるはずもないこの学生寮が、少なくとも見た目には木造らしいつくりなのは、おそらく普通の学生寮より内装が高くついているだろう。
見た目の清貧さのためにお金がかかっている辺り、なんとも学園都市らしい。
「エリス」
いっそ垣根が部屋を隅から隅まで見尽くしてくれれば良かった。
それなら、冗談めかして怒ることも出来た。
だけど、垣根はエリスから真剣な目を一向に逸らさない。
呼びかけに、エリスは応えられなかった。何を答えてたらいいのか分からない。
「その、まずは謝らせてくれ。ごめん。あの後、本当は追いかけるべきだった」
「えっ?」
「エリスを一人になんて、させるべきじゃなかった。一人にしちまって、ごめん」
その謝罪が嬉しかった。嫌われてないことの証明だから。
その資格はないと分かっていながら、恨んでいないといえば嘘だった。
垣根に追ってきて欲しかったと、エリスは思っていた。
「いいよ、帝督君。だって帝督君は全然悪くないから」
「でもさ、エリスをきっと傷つけただろうとは、思うんだよ。悪い。やっぱ突き飛ばされるとまあ、足が竦むっつーかさ。笑ってくれ。俺はお前に嫌われるかもしれねえって考えると、結構チキン野郎になるらしい。喧嘩沙汰ならいくらでも強気になれるんだがな」
「おあいこだよ。私も、帝督君に嫌われたって思って、あれからずっとうじうじしてたから。だから、私もチキンだね。……ね、帝督君。座って話しよ」
「え?」
エリスの部屋には勉強机にあわせた椅子がある。
だがエリスがぽんぽんと叩いたのは、自分も座るベッドの上だった。
その場所に二人で腰を落ち着けることは、特別な意味を持っているようないないような。
「変なことしたら多分すぐに人が飛んできちゃうよ?」
「し、しねーって」
よく自分のことをチンピラみてーなヤツなんて評する垣根だが、今日は特にそんな感じだった。
それを好ましくエリスは思う。人間としての底が浅いんじゃなくて、天才なのに愛嬌があるのだ。
この街で天才だということは、決して幸せなことではないことをエリスは理解している。
エリスの超能力は、人ならざる身に変貌してなお、直接人を視認することで相手の記憶や認識を少し歪めることが出来る程度だ。
ヒトであった頃にはそんなことすらも出来なかった。
それでいて、エリスは学園都市のエリートだった。だから、実験に投入された。
それから10年。垣根提督という能力者を作り出すのに、一体学園都市はどれほどの高みまで堕ちて行ったのか。
きっと、まともな良心なんて育たなくて普通だろう。
だけど、垣根は冷血でも、淡白でもなかった。
普通の男の子と恋愛はしたことがないけれど、垣根に感じている追慕の情は、きっと普通の女の子が抱えるものと同じだとエリスは思う。
「帝督君。ほら」
「お、おう」
恐る恐る、垣根が横に座った。軽く腕に触れると一瞬と惑った後、そっと腰に腕を回してくれた。
「嫌なら、言えよ」
「帝督君こそ。嫌だったらしなくていいからね」
「馬鹿。それならそもそも来ねーよ」
「うん……」
次に話すべきことを持っているのは自分だと、エリスは自覚があった。
なぜ、あの日垣根を突き飛ばしたのか。なぜ、ぐしゃぐしゃの泣き顔を見せながら、逃げ帰ったのか。それを説明しなければならない。
自分が嗅いだ、あの匂いのことを話さなければならない。
一度嗅いだら気にせずにはいられないなんて特徴は下水や腐った何かの匂いそのものの特徴で、それでいながらエリスにとってはたまらないくらい芳しく、甘い匂い。
そしてきっと、化け物にしかわからない。ヒトには、それは気づけない。
脳裏であの匂いを反芻する。それは自発的な行為ではない、発作だった。
嗅覚が何かのシグナルを捉えたとき、少しでもあの匂いに通じる雰囲気があれば、自分はすぐさま回想に入って、耽溺してしまうのだ。
それが食事のときでも、友人と話しているときでも、垣根と口付けをするときでも。
今、この瞬間だって――
「エリス?」
「えっ?! あ……」
「その、言いにくいことが有るのかもしれない。急かして悪い」
「ううん、違うの」
また、だった。気づかないうちに、そうやって自分は蝕まれているのだ。
怖かった。友達と楽しく遊んでいるその真っ最中に、何かのクスリの中毒者みたいに、突然に立ち止まって全ての状況を忘れ去って、ぼうっとしてしまいそうで。
「私、おかしいんだ」
「え?」
「このところ、ずっとぼうっとしちゃって。……原因は、原因の根本は分からないけど、夏祭りのときに、変な匂いを嗅いでから」
「匂い?」
「うん。甘い匂い。椿の匂いみたいなの」
「……俺の知ってる中に椿と似た匂いのドラッグはないな」
「そういういけないおクスリじゃないよ。だって帝督君には分からなかったもの。目の前に、帝督君の顔があったあの瞬間に」
「じゃあ、なんでエリスだけ反応したんだろうな」
特に深い意味を込めたでもない垣根のぼんやりした呟きに、エリスは、泣きそうになった。
吸血鬼なんだとバラしたときより、それは二人の距離を感じさせる。
ただの記号としての吸血鬼じゃなくて、今から自分の言うことは『人外』を強く意識させるから。
「椿の匂いみたいなのに、それはね、血の匂いなんだよ。きっとそれは、帝督君の感覚系じゃわからないんだ。AIM拡散力場を感じられない多くの人にとって、超能力の予兆が感じ取れないようにね」
「……」
「血の匂いなんて、鉄臭いだけだと思わない? 私はそう思えないんだ。血の味と匂いを嫌悪する気持ちはもう薄れちゃった。それでも普段は美味しいと思ったことなんてなかったはずなのに。……あの匂いの持ち主は、なんだろうね。吸血鬼を蛾か何かみたいに、集める人」
シーツの端を、ぎゅっとエリスは握った。
また不安がぶり返してきた。だけど多分、それは垣根が隣にいてくれるからでもある。
慰めもなく、狭い部屋で鬱々としているうちに鈍磨していた感情が、垣根に触れてまた鮮やかになったからだ。
慰めて欲しいから、抱えた気持ちがこみ上げてくる。エリスの期待に、垣根は間髪いれずに応えてくれた。
腰に回していた手が肩に回され、そしてもう一方の手もエリスを抱きしめてくれた。
「帝督君」
「これで、エリスがちょっとでも安心してくれると助かるんだけどな」
「もっとしてくれないと、駄目かも」
「そうか」
「ひゃっ?」
エリスの躊躇いがちの我侭を、垣根は見逃さなかった。
エリスの足の裏に腕を差し込んで、ぐいと持ち上げて自分の膝の上に下ろした。
ベッドに座った垣根の膝上にエリスが寄り添う形になった。
「えっ、えっ?」
「……なんだよ。嫌なら下ろすぞ」
「い、嫌じゃないよ」
「じゃあ、腕、回してくれよ」
「うん……はい」
膝上に乗ったエリスと、垣根の視点はそう変わらない。わずかにエリスのほうが高かった。
そして垣根の首に腕を回せば、二人の顔は自然と近くなる。
「あ、あの」
「エリス。そこまで打ち明けたんだ、俺にも協力させてくれよ」
「え?」
「問題があるなら、解決すればいい。オカルトやら超能力が絡んでいようと、問題解決の方法論ってのは変わらない。ほらあれだ、苦楽を共にするのが寄り添う二人のあるべき姿、だろ?」
「……ふふ。帝督くん、ガラにもないこと言って背中が痒いですって感じ丸出しだよ」
「わ、悪いかよ」
「ううん。悪くない。帝督君、そういうとこ格好良いよ。帝督君、大好き」
「だ――――」
「大好き」
「お、おう」
気持ちをぶつけられるほうには免疫がないのか、垣根が恥ずかしげにそっぽを向いた。
可愛らしい反応だった。
「ねえ、帝督君。私を選んでお得なことなんて絶対にないよ」
「んなことは絶対にない。お前は佳い女だよ、エリス」
「これ以上迫られたら、私帝督君に頼っちゃうよ。頼りきりにはならなくても、頼りにしちゃうよ」
「望む所だって、言ってるだろ?」
「うん――」
もういいや、とエリスは思った。
こんなにも自分のことを求めてくれる人だから。
楽な道ではないし、終わりに悲劇があるのかもしれないけれど。
この人に、寄り添ってもらおう。この人と、歩いていこう。
重荷を背負わせることになるなら、同じだけの荷を背負ってあげよう。
それが叶わぬときのことは、後で考えよう。
エリスは垣根の髪の匂いを嗅いだ。垣根の匂いがした。
それは椿の匂いなんかじゃなくて、男性の、好きな人の匂いだった。
「エリス」
真剣な目で、垣根に見つめられた。
その一瞬で思いが交錯する。垣根が何をしたいのか、そして自分が何を期待しているのか。


さらさらと髪を撫でる垣根の手つきに陶然としながら、真摯でいながら優しい垣根の微笑みに、そっと頷き返す。
三度目の正直には、邪魔は入らなかった。
緊張した手つきでエリスの頬に垣根の手が添えられて。
「――――ん」
とてもとても幸せで、嬉しくなってしまうような、そんなファーストキスを。
垣根とエリスは、静かに交わした。






「それじゃ。また行ってくるから」
「ああ」
姫神秋沙はもうこの一ヶ月ですっかりと慣れ親しんだ監禁部屋を後にした。
正確には、一週間ほど前からは監禁部屋ではなく、安全な居室になっている。
事情はこうだ。
日本最大手の大学受験用の進学塾、三沢塾。
そこが学園都市が秘匿しているさまざまな科学知識や教育の方法論を手にするため、学園都市に支部を設けた。
しかし当初の目的に反し、ゆがんだ方向に学園都市の知を吸収し、先鋭化した結果、三沢塾学園都市校は科学カルトと呼んで差し支えないような、危うい存在となっていた。
そして平凡でないオンリーワンの能力者を神輿に担ぐために、『吸血殺し<ディープ・ブラッド>』の姫神秋沙は、幽閉された。
それが一ヶ月前の出来事だった。
「本当にこんなので。見つかるの?」
「蓋然。絶対を口に出来るわけではないが、この街に吸血鬼がいる可能性は高い」
『吸血殺し』を欲していたのは、三沢塾だけではなかった。
今、姫神の目の前にいる緑髪の長身の男性。アウレオルス・イザードもその一人だった。
一週間前、アウレオルスは三沢塾を制圧し、以来、姫神はアウレオルスと共闘関係にあった。
目的は、どちらも吸血鬼。
アウレオルスは吸血鬼の持つ力、あるいは知識を手に入れるため。
姫神は吸血鬼を遠ざける力を手に入れるため。
「どれくらいで帰ってくれば良い?」
「夜の眷属の相手を夜にするのは危険だ」
「そう」
初めて聞いたアドバイスではない。夜までならどこで何をしても良いという意味の言葉だった。
姫神は普段着の巫女服に着崩れがないか軽く気にして、アウレオルスに背を向けた。
アウレオルスは姫神が外出する際にはいつも見送ってくれるのだった。
もちろん、それは親愛の情でなく、目的の成就のための行為であったのだろうが。
姫神はエレベーターに乗り込み、最新らしい制御の行き届いた音を聞きながら階を下っていく。
地上に程近いフロアに出ると、夏休みのためか日中から生徒でごった返していた。
さしたる注目も浴びず、たんたんとそこを抜ける。巫女服くらいは普通なのが学園都市だ。
さっとそこを通り抜け、真夏の日差しがまだ強い外へと姫神は足を踏み出した。
「今日は何をしようかな」
夏休みであるという以前に、家出少女と化した姫神にはすべきことが何もない。
適当に財布に入れた所持金で、適当に歩き回ればいい。本屋でも喫茶店でも、どこに訪れても構わない。
釣りと同じだ。自分は釣り餌で、釣り場の海をぷかぷかと浮いているだけの簡単なお仕事。
そういえば行きたいと思っていた高台の公園にでも行ってみようか、それとも無料のクーポン券が余っているからそれを消費しに行こうか。
漫然とそんなことを考えて姫神はバス停へと向かった。




「よう、っておい! 無視かよ」
「あん? 返事して欲しかったのか?」
光子を見舞った帰り。インデックスを連れて当麻はスーパーへと足を向けているところだった。そこに正面から垣根が歩いてきた。
もとから目つきが悪くて軽薄そうな奴だが、今日はそうした態度に緩みが感じられた。
往来を突っ張って歩くのが不良の仕事なのに、どうも今日はにへらっとしているというか。
ちなみにインデックスはエリスの想い人と分かっていながら、あまり垣根のことが得意ではない。
当麻から一歩下がったところで垣根を眺めていた。
「別に挨拶して欲しいってわけじゃないけどさ、曲がりなりにも知り合いなんだから声くらいかけるだろ。つかお前、どうかしたのか?」
「あ? どうかしたってのはなんだよ」
垣根は内心で慌ててすっとぼけた。
顔には出していないつもりだが、先ほどから心の中ではずっとニヤニヤしているからだ。
「なんつーか、浮ついてる?」
「エリスと何かあったでしょ」
「え」「な」
漠然としか当麻が捉えられなかった機微を、インデックスがばっさり突いた。男二人して、戸惑いを隠せなかった。
当麻にはまさかこの男が女がらみで浮つくほど初心にも見えず、垣根はまさかインデックスがそれほど鋭いことを言うとは思わなかったから。
「みつことベタベタしたあとのとうまとおんなじだもん」
「な、なんだよそれ。別にそんな風になったことねーよ」
「上条のヤロウがどうかは知らないが、俺がコイツ並にお花畑な脳味噌だと思われるのは不愉快だ」
「喧嘩売ってんのかよ……」
お互い嫌そうに、垣根と当麻は目を見合わせた。
「エリスにひどいことしちゃ駄目なんだよ」
「しねーよ。アイツを泣かせるような真似はな」
「ならいいけど。とうまもいつもそう言うけどよく喧嘩するし、信用は出来ないかも」
「コイツと一緒にするんじゃねーよ」
「……あの、インデックスさん? ひょっとして垣根をダシにして俺に嫌味を言ってるんでしょうか?」
なぜか自分が怒られている気になって、当麻は恐る恐るインデックスにそう尋ねた。
ところがインデックスは何かを思い出して怒りが再燃したらしく、つい、と当麻から顔を背けた。
「知らない。だいたいとうまはみつこのお見舞いにいく度に私を部屋から追い出してイチャイチャしてるし」
「なっ、イ、インデックス。何もコイツの前で――」
垣根が馬鹿にした顔でハンと笑うのが悔しかった。
ただ、当麻は気づかなかったが、エリスと当麻の仲にすこしくすぶる気持ちを抱えていた垣根にとって、インデックスがひけらかしてくれた情報は色々と気持ちをなだめるような効果を持っていた。
「模範的な高校生じゃないか、上条。犬か猿みたいに盛ってる辺り、実に良い青春だな」
「だからお前は何でそんなに喧嘩腰なんだよ。……で、お前は何でそんなに浮かれてんだ? エリスとファーストキスか?」
「……さあな、てめーに言う理由がない」
「返事遅れたぞ。なんだ、図星か」
「テメェこそ喧嘩を売りたいらしいな?」
両者の目線が交錯する。一触即発の張り詰め方というよりは、追い詰められた弱い犬同士が吼えあって体裁を取り繕っている絵に近い。
「エリスと、キスしたんだ」
「……な、なんだよ」
「別に、なんでもないもん」
じっと見つめるインデックスの視線に垣根は戸惑った。なにせエリスの女友達だ。邪険には扱えない。
しかしその視線がなんともいえなかった。
インデックスは唇を気にするようにそっと指で自分の顔に触れて――
「お、インデックス。もしかしてお前も年相応にキスをしてみたいお年頃か?」
ニヤニヤとした顔の、当麻に見つめられた。距離が意外と近くて、心臓が急に仕事をし始めた。
図星らしいインデックスの戸惑いを当麻が笑っていると、あっという間に、その柔らかい唇の下からシャキーンと歯がその威容を現した。
「とーうーまーぁぁぁ! ばかばかばか! そんなんじゃないもん!」
「いでで! おいばか、人前でやるなっつっただろ!」
「人前で変な質問するとうまが悪いんだよ!」
呆れる垣根の目の前で、二人は取っ組み合いを始めた。
付き合ってられるかと垣根は嘆息する。恋人同士のじゃれあいと言っても差し支えないようなバカップルぶりだった。
挨拶もなしに二人の横を通り抜けようとして、唐突に上条がじゃれあいを止めて遠くを見つめたのに気がついた。
「あ、おい垣根。って――あれ」
「ん?」
車道を挟んだ向こうに、この辺を縄張りにする不良が二三人。
そして、いかにも場違いなもう一人の……女学生、でいいのだろうか。巫女装束を着た長髪の少女。
どう好意的に見ても、親しい仲間内の集まりには見えなかった。
「ったく、ここら辺の不良ってどんなもんかね。からかって遊んでるだけならいいんだけど」
「……お前、興味あるのか?」
「いや、興味って」
「絡んだって得することはないだろ。お前にも決めた相手がいるんなら」
「下心があるわけじゃねーよ。ただ、ほっとけないだろ。ああいうのに慣れてそうな子には見えないし」
繁華街から遠くないここには奇抜なファッションの学生も多い。
巫女装束もそれの亜種だと言えばそれまでだが、着慣れた雰囲気から類推するに宗教系の学校の子なのかもしれない。
男慣れ、いやそれ以上に不良慣れしているとは思えなかった。
……隣にいるインデックスを見る。今、不良たちのほうに行くのを躊躇しているのは、自分が女の子を連れているからだった。
その雰囲気を悟ったのだろう。怒るように唇をへの字に曲げた。
「とうま。私だってあれくらいの相手から逃げ切るくらいは大丈夫。行くんだったら、私もついていく」
「いや、お前みたいなのが諭しに来たら向こうは絶対舐めるだろ。……垣根、ちょっとの間で良いからこいつの面倒見ててくれ」
「ちょっ……とうま! それじゃまるで私が幼稚園児か何かみたいなんだよ!」
「ちげーよ。あいつらと揉めたときにお前のほうに人が来たら困るだろうが」
「話を聞けよ」
はあっと垣根はため息をついた。
そもそも、知り合いでもなさそうな女の子をわざわざ助けるというのがもう垣根には信じられなかった。
不良どもとてこの往来でそこまで悪辣なことはすまい。
捕まってしまう女学生のほうにも悪い点はあるだろうし、目の前の一人を助けたからといって、それが何になるのだ。
「とりあえず俺はもう行く。後ろからそっちのガキがついてくるんなら止めはしねーよ」
「――ガキって、それ私のこと?」
インデックスはカチンときたらしい。馬鹿にしないでと言わんばかりの目を垣根に向けた。
「事実だろうが」
「ちょっと知り合っただけの相手をそんな風に馬鹿にできるなんて、人としての程度が知れるんだよ。自分を低く見せるってことはエリスを低く見せることと一緒だよ。彼氏さんのくせに」
「……エリスは関係ないだろ」
「おい、インデックス。落ち着けって」
「とうま。早く行こう。こんな女の人に優しくない人なんてほっておいて、さっさとあの巫女を助けてあげないと。とうまはみつこのものだから、エリスにはあげないけど。貴方よりとうまのほうがエリスを幸せにできるよ、きっと」
精神的にもタフそうな垣根の痛いところを突くにはエリスを引き合いに出すのが一番だとインデックスは思ったのだろう。
それは実際、正鵠を射ていた。そして当麻は垣根が唯一、上手く解きほぐせない隔意を感じている相手だった。
別に車道の向こうで不良に絡まれた巫女を助けなかったからといって、自分とエリスの関係が変わるはずがないと思う。
逆に助けたところで、これまた何も変わらないだろう。これからずっと、垣根が不良と戦っていく正義の味方でもやらない限り。
笑ってしまう役回りだ。この自分が正義のヒーローなんて。
「おい上条」
「あん? なんだよ」
「何でお前、そんなヒーロー気取りのことするんだ?」
あちらを気にして急かす当麻に、垣根は尋ねた。
至極、それは素朴な疑問だった。いつでもどこでも駆けつけるヒーローになんて、なれやしない。
当麻は垣根のその言葉に、背筋がむず痒くなったような顔をして、憮然と応えた。
「ヒーローって、そんなつもりはねーよ。ただ、見ちまったもんは、見過ごせないだろ」
「……」
「とりあえず行ってくる。インデックスを頼む」
「待てよ」
「あ?」
まだ引き止めるのかと迷惑そうに見る当麻の肩に、垣根は手をかけた。
青臭い当麻の物言いに、垣根は共感したわけではない。
これからも同じシチュエイションに出合ったとして、次は垣根は動かないかもしれない。
だけど、エリスを引き合いに出された上で当麻に負けたような気になることは嫌だった。
「テメェの出る幕はねーよ。さっさと止めればいいことだろ」
垣根は、二人に先んじて、車道を横断し始めた。




現地に到着してからは、一瞬だった。
「はあ? 何でお前が――」
「いいから散れっつってるんだよ。恨みたいなら存分に恨め」
ちょうど、垣根が誰なのかを知らず絡んできた不良を再起不能にしたのがつい先日のことだった。
それを覚えていたのだろうか、不良たちは対峙している相手が絶対に手を出してはいけない相手だとすぐに気づいていた。
そのおかげといえるだろう。散れ、の一言で、不良たちは腰を浮かして撤退に移っていた。
「とうま、役立たずだったね」
「うっせ」
あまりの手際のよさというか、展開の速さに当麻は立ち尽くすしかなかった。
何せ自分が絡みに行くと不機嫌になった不良が当麻に手を出そうとしたりして後処理が面倒なのだ。
能力者に蹂躙されるというのは不良達のコンプレックスを刺激するものだとは思うのだが、さすがにレベル5が相手となると次元が違いすぎてあまり劣等感も沸かないらしい。
「おい上条。もういいか」
「え? あ、ああ。……なあ、大丈夫だったか」
当麻は絡まれていた巫女装束の女の子に声をかけた。
近づいたときから気づいていたことだが、飛びきりの美人だった。
色白の整った顔立ちに、攻撃性が皆無の穏やかな顔。
腰まで伸ばした髪も長さに似つかわしくないほど艶を保っていた。
その女の子が、こくんと首を縦に振った。
「大丈夫。喋りかけられていただけだから」
「そうか。まあ、ああいうのについていくと面倒が多いし、ちゃんと振り払えよ」
「別に。振り払うことも出来た。けどたまには路地裏を歩くのもいいかと思って」
「へ?」
当麻は間の抜けた返事をしてしまった。こんな牙を持たない兎みたいな子が狼の溜まり場に繰り出すって?
巫女服の女の子の態度が気に入らないのか、苛々とした態度で垣根が地面の石を蹴った。
「ただの馬鹿女かよ。どうせ次は俺達がいないところで酷い目に遭うんだ。助け損だったな」
「振り払うことも出来たって、どうやってだよ」
垣根の言うことにも一理あると感じ、脱力しながら当麻は女の子に尋ねた。
返事がこれまた、電波の入ったヤツだった。
「私。魔法使いだから」
「…………」
三人全員が沈黙した。ただ、単なる呆れではなかった。
垣根は心の中で魔法使いという言葉の意味を反芻する。つい数日前までの自分なら、きっとそれを鼻で笑っただろう。
だが、垣根の惚れた相手は、自らを魔術師でもあると説明し、その秘術を見せてくれた。
だから魔法使いという言葉をただの冗談や妄想とは切り捨てられなかった。
それは勿論当麻にとっても同じような心境だった。そして隣を見ると、なんだかイライラと爆発しそうなインデックスの顔があった。
「魔法使いって何! カバラ?! エノク?! ヘルメス学とかメリクリウスのヴィジョンとか近代占星術とかっ! 『魔法使い』なんて曖昧なこと言ってないで専門と学派と魔法名と結社名を名乗るんだよオバカぁ!」
「?」
「その服見たらどう考えたって卜部(うらべ)の巫女でしょ!?」
「うん。じゃあそれ」
「じゃあってなんなんだよ?!」
コンクリートの壁をばんと叩くインデックス。はぁと当麻はため息をついた。
「突然に魔法使いってなんだよ」
「……魔法のステッキ」
「いやそれ、痴漢撃退用の護身グッズじゃねーか」
なるほど、彼女一流のジョークだったかとまたしても当麻は脱力した。
隣で、垣根はインデックスの言動に気になるものを感じていた。だってその物言いはまるで、魔術を知っているようで。
ただ確認してみるほどの気にはならなかった。
付き合っているのも馬鹿らしくなってきたところだったから、挨拶も面倒になったし帰るかと身を翻したところで。
「ん?」
同じスーツを着た20代から30代くらいの男達が、路地裏への入り口をふさいでいた。
垣根につられて振り返った当麻とインデックスも絶句していた。
退路を奪われるまでまるで気づかなかった。そしてすぐさま重心を落として敵襲に備える。
数の上でも位置取りでも、不利な条件だった。
「なんだ、てめえら」
「……」
垣根の誰何(すいか)に返答はない。
全ての人が硬直したその場で、ただ一人巫女服の女の子が動いた。
「大丈夫。もう解決していたから。ここにはもう用はないから次に行く」
姫神が黒服に向かってそう言うと、コクリと静かに頷いた。
どうやら、姫神を追う敵だとかではなくて、知り合いらしい。
「ありがとう。助けてくれて。それじゃあ私はもう行くから」
「お、お前――」
「姫神秋沙」
「え?」
「私の名前。助けてくれたから。一応。名前くらいは」
それだけ言うと、さっさと姫神は黒服たちの間をすり抜けて、表通りへと帰っていった。
そして助けに入った三人だけが、残される。
「……今の、なんだ?」
「スーツの襟章に覚えがある。あれは確か、三沢塾のだ」
「三沢塾って、あの進学塾のか?」
「カルト化してるって噂だがな」
「え?」
垣根は一ヶ月ほど前に、三沢塾に誘われたことがあった。ウチの生徒にならないか、と。
まあ駄目で元々だったのだろう。
垣根にしてみれば塾生になったところで良い教育が得られるわけもないし、お金にも住むところにも困ってなどいない。
誘いに乗る理由が一つもなかった。ただ、その時のスカウトに来た講師か社員かの、あの宗教めいた盲目さは記憶にあった。
「ま、助けを求める顔じゃなかったのはあの連中のバックアップがあるからか。よっぽど変わった能力なんだろうな」
「……何か厄介ごとにでも巻き込まれてるのか?」
「さあな。だが気にすることもないだろ? 宗教なんてどれもこれも似たようなもんだ」
垣根はそれだけ言って、じゃあなと呟いて路地裏から去っていった。
「とうま。私達はどうするの?」
「どうするも何も、問題は全部解決したんだし、帰るか」
「そうだね」
何か、釈然としない終わり方だった。
争いの後を欠片も残していない路地裏から、二人も立ち去った。



夜の教会。食後の片づけをしながらため息をつくエリスに、周りが戸惑っていた。
調子が悪いと言っていた数日とはうってかわって、吐息がなんだか悩ましかった。
「はぁ……」
「ねえ、エリスって今日どうしたんだろ?」
「知らないの? 今日、垣根君が来てたんだよ」
「それで? だって彼、週に二回くらいは来るじゃん」
「ここんとこエリスの様子がおかしかったし、垣根君もなんか思いつめてたのよ。あれ絶対喧嘩か何かして、仲直りしたんだよ」
エリスは、そんなあけすけな噂話にも耳を貸さず、皿を洗いながらキスの感触を思い出していた。

とても、垣根は優しかった。そして不器用な感じがした。
やっぱり、ファーストキスってのは本当だったのかな。
洗剤のついた手で唇に触れることは出来ないから、その感触を反芻することは出来なかった。
唇と唇を触れ合わせた後、別れるまでに二人は五度、キスを交わした。
何度もエリスに愛してると垣根は言ってくれた。撫でてくれた。
それは、とてもとても幸せな思い出だった。これから、毎日でもしたいくらいだった。

エリスはその日、椿の匂いを思い出すことはなかった。
そして姫神は、エリスに近寄ることはなかった。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 05: 統計が結ぶ情報とエネルギー
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/05/25 00:00

コンコンと、光子は病室をノックした。
「はい。どうぞ、なの」
扉を開いた先には春上がいた。予想外の来客にぼんやりと首をかしげていた。それはそうだろう。
光子が春上と会ったのは、こないだの夏祭りの日に光子の見舞いに佐天が来たときだけだ。
碌に話をした覚えもなかったし、気が合いそうだとか、そういう予兆があった訳でもない。
「ごきげんよう、春上さん。私のこと覚えていらして?」
「あ、あの。確か佐天さんのお師匠様って」
「お師匠様……。ええ、間違いではないんですけれど、なんだか落ち着かない響きですわね、その呼び名」
「えっと」
「改めてご挨拶させていただきますわね。私、常盤台中学の婚后光子ですわ」
「あ……春上衿衣なの」
「春上さん、今、お暇?」
「はい」
「そう、それは重畳」
パタンと扇子を閉じて、なるべく優しく微笑む。
光子の目的は一つ。
「良かったら少しお話しませんこと? 私もう、暇で暇で――」
そうなのだ。光子はもとより体調不良などなく、体力を持て余している。
ここの医者はみな理由をつけてなんとか光子を引きとめよう、検査に付き合わせようとする。
そのあからさまな下心というか、そういう態度にうんざりして光子はいい加減不満が爆発しそうなのだった。
とはいえ能力の暴走は一歩間違えば重大な事故に至る。医者がうんと言わないと中々退院できない。
そんな中、同じ病院に入院してくれた春上は、無聊の慰めになる格好の話相手だった。
「私も暇だったから。でも、もうすぐ初春さんが来るの」
「あら、そうでしたの。お邪魔かしら?」
「そんなことないの」
春上は初春と光子の仲をよくは知らない。
だが佐天がたびたび尊敬している旨を口にしている相手だし、一緒にいて嫌なことはないだろう。
「婚后さんは、彼氏さんがよくお見舞いに来てるって」
「えっ?!」
「佐天さんがそう言ってたの。かっこいい人だったって」
「そ、そうですの? もう、恥ずかしいですわ」
そんな風に言いながら、光子はまんざらでもなかった。
やっぱり彼氏を褒められるのは嬉しい。
「春上さんには気になる殿方はいらっしゃるの?」
「え? ううん。そういうの、良く分からなくて。男子は、ちょっと怖いの」
「そう。私もほんの2ヶ月前くらいはそんな風に思っていましたけれど、きっかけがあれば変わるものですわ」
「そうなのかな」
今でも、当麻以外の男性にはあまり近づかれたくない。恐怖感とは違うが、どう接していいかわからないのだ。
春上も同じようなものなのだろう。線が細く、儚げな雰囲気のある子だ。
少なくとも当麻くらいには落ち着いて女の子に接してくれる年齢じゃないと、釣りあわないだろう。
そんなことを考えていると、扉の向こうから音がした。
「春上さん、起きてますか?」
「あ、初春さん。どうぞなの」
「それじゃお邪魔しますね。おはようございます春上さん、って――」
「ごきげんよう、初春さん。愛しの春上さんを先にとっちゃってごめんなさいね」
上機嫌で扉を開けた初春の脳裏には春上しかいない病室が描かれていたのだろう。
光子を見てびっくりしたのか扉から一歩入った所で足を止めていた。
「あ、いえ! そんな愛しの春上さんなんて」
「? 初春さん、私のこと嫌い?」
「え? えぇっ?! ち、違いますよ。そんなことないですけど、愛しのって」
真っ直ぐな友情以上の意味合いを含み持たされたその表現に、初春は反応して春上はまるで気づかなかった。
うろたえる初春を春上が不思議そうに見つめる。ぴょこん、と傾げた首に連動して一房くくった髪が揺れた。
「初春さん、それ」
「あ、はい。春上さんのお見舞いにと思って、ちょっと遠出して買ってきたんですよ」
初春が気を取り直してぱかりと手に持った紙箱をあけると、程なく甘く素朴な香りが病室を満たした。
光子にとってはなじみが薄い匂いだったが、先日、当麻とインデックスが買ってきてくれた屋台の食べ物と同じ匂いがした。
ほんのり焦げ目のついた、小ぶりの鯛焼きが6つほど入っていた。
「第八学区にある話題のお店の鯛焼きです。春上さん、冷めないうちに食べましょう。婚后さんもどうですか?」
「え? 私もよろしいの?」
「はい。春上さんをお見舞いに来てくれた人ですから。それに、すみません。正直に言うと、婚后さんのお見舞いの品とか用意してなくて」
「別によろしいのよ。初春さんとはそこまで親しくしていたわけではありませんもの。むしろ気を使わせてごめんなさいね」
「いえいえ。機会があったらまた遊びましょうね」
「ええ」
佐天が間に挟まれば、そういうこともありうるだろう。年上でいながら御坂は親しくしているし、ああいう風に付き合えばいい。
初春が紙の箱の蓋を開けて、春上に仲良く並んだ鯛焼きを差し出した。そのうち一つを摘んで、春上が驚いたように呟く。
「まだすごくあったかいの」
「あら、本当ですわ」
遠めに見た光子からも、出来立てと見間違うほどの湯気が立っていた。
鯛焼きを買った第八学区というと、ここ第七学区から真北にある。電車でこちらに向かったにせよ冷めるには充分なだけの時間がかかるはずだった。
不思議そうに春上と光子に見つめられた初春が、えへへと照れ隠しをするように笑った。
「実はこれ、私の能力なんですよ」
「えっ?」
「あら、初春さんの能力の話を聞くのは初めてですわね」
そう興味深げに光子が言うと、躊躇うような、光子には話したくなかったような、そんな顔を初春がした。
それでなんとなく分かった。春上にだけ打ち明けたかったのかもしれない。
高レベル能力者の前で自分の能力をするのは、あまり気持ちの良いものでもないから仕方ないだろう。
……光子は、初春が誰にも能力の話をしたことがなかったのが故に躊躇ったとは、気づかなかった。
「私の能力、『定温保存<サーマルハンド>』は持ってるものの温度を一定に保つ能力なんです。って言っても、私が触れる温度くらいの物だけですから、あんまり大したことは出来ませんけど」
「すごいの」
「な、何言ってるんですか。春上さんはレベル2なんですから私より上じゃないですか」
「私は受信専門だから。こうやって、何かに働きかけられる能力って羨ましい」
「も、もう。褒めても何も出ませんよ。ほら、あったかいうちに食べちゃってください」
「ありがとうなの」
優しく春上が笑う。その笑顔につられて初春もまた笑みを見せる。
第三者の光子は疎外感を感じないでもなかったが、初春も春上も良い子なんだな、なんてお姉さんぶったことを考えていた。
ベッドに腰掛け半身をシーツの中に潜らせたまま、春上がはむと鯛焼きにかぶりついた。
「おいしいの。初春さん、ありがとう」
「やっぱり優しい味がしますわね。この鯛焼きというお菓子は」
光子は当麻に、鯛焼きは数平方メートルの大きな鉄板で豪快に焼くものだと聞かされている。
粗製濫造な味かと思いきや、この素朴さはなんだか悪くないものだった。熱々の皮がところどころとろりとしていて、またそれが良い。
「やっぱり有名店だけはありますね。もう一つ食べますか?」
「ありがとうなの」
「私はこれで充分ですわ。もう一つは春上さんに差し上げて」
優しく大人しげな少女と思いきや、春上はどうやら食欲は旺盛らしかった。
身近によく食べる女の子がいる光子としては、その勢いで食べて太らない体が羨ましい。
普通に食べる範囲で体重が増えたことはないので光子も気を使ったことはないが、春上やインデックスの真似をすれば早晩当麻に愛想をつかされる体になるような気はする。
「んー、やっぱり鯛焼きは熱々ですね」
ふう、と初春が一息ついて、ティッシュを取り出した。もちろん口の周りを汚した春上に渡すためだ。
その後姿に、光子は先ほどから気になっていたことを口にした。
「初春さんの能力って、かなり変わっていますのね」
「え? あ、はい。温度のコントロールってあんまり聞かないですよね」
「そうですわね。でも、初春さんらしい能力ですわね」
「私らしい、ですか?」
「ええ、だって初春さんは情報処理系のスキルで右に出るものはいないって佐天さんに聞きましたもの」
「はあ。まあ情報理論にはそれなりに自信ありますけど、何か関係あるんですか?」
「あら、温度を制御するということはエントロピーを制御するということでしょう?」
「え?」
しまった、と光子は自分の短慮を気まずく思った。誰しもが自分と同じ知識を持っているわけではない。
情報系なら当然知っているかと思ったのだが、そうでもないのだろうか。
「情報学でもエントロピーという単語は耳にするんではありません? 情報量を意味する言葉として」
「あ、はい。それはわかりますけど」
「自然を支配する熱力学において、エントロピーは温度と対になる重要な概念ですわよ。『乱雑さ』なんて風に表現されますけれど」
「そうなんですか。あの、すみません。うまく話が見えないんですけど……」
「ごめんなさい。取り留めのない話し方をしては分かるものも分かっていただけませんわね。……そうですわね、まずは氷と水の違いから話をしましょうか。春上さん、水と氷の違いって何でしょうか?」
鯛焼きに夢中な春上にちょっと意地悪をしてやった。わたわたと戸惑いながら考える仕草が可愛らしい。
「え、えっ? あの……水は流れてて、氷は固まってるの」
「そうですわね。マクロに見ればそれで正解ですわ。じゃあ初春さん。分子スケールで見れば、何が違うんでしょう?」
「えっと、氷は分子同士がガチガチに動きを止めてて、水はそうでもない、でしたっけ」
「あら、佐天さんよりはよくわかってますわね」
「まあ筆記試験は私、学年上位ですから」
常盤台中学の二年生に褒められてまんざらでもないのか、頬を染めながら初春が頭を掻いた。
「初春さんの言うとおり、分子の動きの違いが水と氷の差を出しているんですわね。ところで初春さん、水と氷、どちらの持っている情報量が多いか、ご存知?」
「え? 情報量、ですか? ……そう言われても、ピンとこないんですけど。すみません」
「情報学の専門的な意味合いではなく、直感的に捉えてくださいな。情報量という言葉の意味合いを」
「はあ……。なんとなく水のほうが多そうな気はします」
「どうして?」
「動き回ってるってことは、それだけお互いの位置関係とか決めにくそうじゃないですか」
「正解。非常に模範的な答えですわ、それ」
早々についていき損ねたのか、三個目の鯛焼きをほお張りながらこちらを眺める春上を他所に、光子は講義を続ける。
最近は佐天がめっきり賢くなって、あれこれ指南してやることが減って寂しいのだった。
「氷は結晶です。つまり、たった一つの分子の位置ベクトルさえ与えてやれば、あとは結晶の格子定数というほんの少しの情報量だけで全ての分子の位置が再現できます。水は分子の相対位置が揺らぎますから沢山の情報がないとその状態を再現できないのですわ。ちなみに、水蒸気はさらに多くの情報量を蓄えています」
初春はその説明を聞いて、一つ納得していることがあった。
そもそも普段は意識すらしないことだが、初春が情報量を処理するときには普通、底(てい)が2の対数を取っている。
Xという規模の現象に対しlog2_Xという値を計算することで、ビットという単位で表される情報量が定義できる。そして8ビットを1バイトとして組みあがっているのが世のパソコン群だった。
電子機器は電流のオンオフという2つの状態を取るから、自然と2という数字を土台に据えるのがいいのだが、自然現象はもちろんそんな事情とは無関係だ。
そして『底が2の対数』などという小馴れない名前ではなく、自然現象を取り扱うときに頻繁に出現する『自然対数』というものが存在することを初春は思い出した。
「確か自然現象には自然対数を使うって――」
「そう! 筋が良いですわね。2の代わりにオイラー数eを底に取れば、それが『自然』の情報量の数え方になりますわ。自然界のあらゆる現象は、そうやって可能性、あるいは情報量と名づけるべきものをやり取りして起こっているのですわ。もちろん情報量というのは単位の存在しない値ですから、エネルギーが支配する自然現象と結びつけるイメージがわかないかもしれませんわね。――――そして情報とエネルギーを結びつける係数、それが温度ですわ」
初春はドキドキとする気持ちを抑え切れなかった。佐天があれほど光子の名を口に出す理由は、これだろうか。
「ねえ初春さん。私達空力使いは、おしなべて空気の体積をコントロールする能力だとも言えますわ。そして体積と対になる変数が圧力です。現象の大きさをつかさどる体積という示量変数と、現象の強さ、テンションをつかさどる圧力という示強変数、この二つを常に意識せねばなりません。発電系能力者なら電流と電圧が、それぞれ対になるパラメータですわね」
「それじゃ私の場合は――」
「温度という示強変数をコントロールする能力者なら、必ず対になる示量変数であるエントロピー、すなわち情報量をコントロールする能力者でもあるということですわね」
例えば初春は、自分が手にしたお湯に温度計を差してじっと眺めたことがある。温度を保つ能力というのだから温度計は必要だと思ったから、温度測定の勉強なんかは結構頑張ったことがある。
だけど、自分が手にしているモノ、系<システム>が保持しているものがなんなのかについて、思いをめぐらしたことはなかった。
自分が手にしているのが情報量なのだと、そうイメージすることは、やけに納得できることだった。
自然現象をそんな目で捉えたことはなかった。
「初春さんの能力は佐天さんと同じで変り種ですから、上手く行けば面白い伸び方をするかもしれませんわね」
「そう……なんですか?」
「温度の直接制御は珍しいですわよ。間接的に温度を維持するだとか、そういう能力にはありふれていますけれど」
「じゃ、じゃあ。伸びたら私、どんなことができるようになるんでしょうか」
その初春の態度に光子は少し感心した。佐天にあった必死さとは違う。あくまで一歩引いていて、自分の能力を客観視する冷静さがあった。
同時にそれは、佐天ほどのがむしゃらさがないという言い方も出来るかもしれない。
「そこまではわかりませんわ。能力のことを一番理解しているのは、いつだって自分ですもの。でも、そうですわね。あれこれ想像してみることは可能ですわ」
ふむ、と一旦言葉を切って思案する。仮に自分の想像が的外れだった場合、初春をひどくミスリードしてしまう。
「何を直接的に扱う能力者なのか、というのはよくよく気をつけなければなりませんわ。初春さんが情報系のスキルをお持ちだからついエントロピーに話を膨らませましたけれど、全く無関係な可能性だって勿論あります。それはまず含み置いてくださいませ」
「はい」
「その上で、まず熱的な側面の応用から考えると、単純なのはやはり保持できる規模や温度の拡大ですわね。初春さん、どれ位の規模までなら保持できますの?」
「え、規模ですか? 持てるものくらいならどうにかなりますけど……」
「質量依存ですの? それとも体積依存?」
「質量依存です」
つまり、軽いものなら大きなモノでもコントロールできるということだ。
「では質量の限界は今のところどれくらいですの?」
「えっと、それが曖昧ではっきりしないんです。大きなものの温度を保とうとすると、ちょっとずつ保持が難しくなるんで、どこまでが限界っていうはっきりしたラインが引けなくて」
「そうですの。どれくらいのものなら問題ありませんの?」
「あの、この鯛焼きくらいが精一杯で……」
恥ずかしそうに初春が目線を下に落とした。
くいくいと、春上が初春の手首を掴む。
「鯛焼き美味しかったの。初春さんの能力、すごいの」
「あは、こういうときには便利で良いですよね」
たしかに、日常生活への実用性という意味では、この規模でも充分だろう。
カキ氷を食べるときなど随分重宝するに違いない。
「どういう能力かという話からは逸れますけれど、初春さんは自分の手にも熱が漏れてくるんでしょう? そういう能力発現の境界面設定はきちんとされたほうがよろしいですわね」
「あ、はい。いつも言われます」
「そうですの、ごめんなさい。余計なアドバイスでしたわね」
持てるものは普通に触っても大丈夫な程度の温度のみということは、初春の手には温度を保っているはずの物体から熱が流れ込んでいるのか、あるいは熱を保つ境界面が初春の皮膚の内側に設定されてしまっているのか、その辺りだろう。本来、温度を完璧に保てる能力者なら、原理的に言って触れている対象物が何度だろうと何の関係もない。
それこそが難しいのかもしれないが、能力の境界面を上手く設定することは初春にとって非常に重要なテーマだろう。
「それで、初春さんがレベル5になったときの話ですけど」
「レ、レベル5って」
「あら、夢は大きいほうが良いですわ。こういうときくらい良いじゃありませんの。……対象物の温度を自在に制御、灼熱のマグマを一瞬で常温に、あるいは鉄の棒を一瞬で溶融させる、なんてのは如何?」
「はあ。そういう風になれたら良いなっていうのは、やっぱり思いますけど」
初春にとって、それは魅力的な想像図とは思えないらしかった。
まあ順当な伸び方をすればそうなるのだし、この程度の予想は初春だってしてきたことなのだろう。
「では割れたコップの復元なんてどうでしょう?」
「え?」
それは、定温保存と名づけられた自らの能力とかけ離れて聞こえた。
「コップと言う形に分子が束縛されている時に比べて、コップが崩壊していく過程というのは分子がばらばらになる可能性、つまり情報量が流入していく過程ですわ。もし割れたコップから『割れる』という現象の中で流入したエントロピーを排斥することが出来れば、コップは復元できますわ」
「えっと、それって温度と関係あるんですか……?」
「破壊に伴って僅かながらに熱が発生していますわ。すぐに散逸してしまいますから気づきませんけれど。後、情報寄りの解釈をすれば、精神感応系の能力者に対するシールド、というのも面白いかもしれませんわね」
「へ? え?」
どうしてそうなるのか、もはや初春にはさっぱりだった。
「温度を一定に保つと言うことは、初春さんが触れた系<システム>は、外部とのあらゆる情報のやり取りをシャットアウトするということでしょう? それなら、誰かに触れれば、その人に対する精神感応系能力者による意識の読み取りも防げるんではないかと思いましたの。何人にも犯されざる、聖なる領域。心の壁。誰もが持っている心の壁。そういうものをより強固に具現化させられる能力に発展したりすれば面白いですわね」
「は、はあ……」
初春がこぼしたのは戸惑いの声。だが、内心では沸き踊る何かがあった。
「……もちろん、こんなものは空想の域を出ませんわ。でも、色んな可能性を探ってみることは、決してマイナスではありません」
「それは、そうですね。……うん、佐天さんに置いてかれちゃうのは悔しいですもんね。私もちゃんと、前を向いて自分の能力と向き合わないと」
「ふふ。まあ、初春さんの能力は私からは遠くてアドバイスは難しいかもしれませんけれど、できることがあればお手伝いくらいはして差し上げますわ。温度と情報というつながりに手ごたえを感じているのでしたら、まずはマクスウェルの悪魔とお友達になることですわね」
「はい」
その表現に初春は苦笑した。
マクスウェルの悪魔はエントロピーの低い状態を作り出す仮想的なツールのことだ。
温度で言えば均一だった温度を不均一にする、例えば水だけのコップを氷の浮かんだ状態にするだとか、
あるいはスクリュードライバーというカクテルをアルコールとオレンジジュースに戻すだとか、そういうことが出来る。
情報と自然現象を繋げば自ずとマクスウェルの悪魔の名前は出てくるものだが、この学園都市で悪魔と言う響きを耳にすると、なんだかむずがゆくなるのだった。
「上手く行けば情報エンジン辺りの開発に協力する名目で奨学金の増額もありますわよ」
「はあ、情報エンジンってなんですか?」
「熱を食べて仕事をこなすエンジンと違って、情報を食べて仕事をこなすエンジンのことですわ。私も詳しくは知りませんけれど、開発が難航しているそうですの。初春さんなら、もしかしたら第一人者になるかもしれませんわね」
なんて言って、光子がクスリと笑った。自分の生きるべき地盤は、計算、あるいは情報処理、そういうものだと初春は思っている。
これだけは誰にも負けない、一番好きな分野。
佐天ほど、急激に伸びる人間はきっと稀有だろう。でもそれでも、自分の能力に突破口が見えたのかもしれないと、漠然と初春は期待に胸を膨らませた。
そんな初春の表情に、佐天の指導をしたときと同じ満足感を光子は感じた。
「そうそう、生体なんてエントロピーが増大しないように必死になっているシステムですから、うまくやればその頭の花飾りも差し替えずにずっと保存できるかもしれませんわね」
卑近な例だし、良いアドバイスを光子はしたつもりだった。
「なんのことですか?」
「えっ?」
「えっ?」
初春がきょとんと首をかしげた。






春上の部屋から戻ると、当麻とインデックスがいた。
「あ、みつこおかえり。どこに行ってたの?」
「ごめんなさいね、インデックス、当麻さん。春上さんのところで、つい話に花が咲いてしまって」
あれから程なくして佐天や白井、御坂が来た関係で大いに盛り上がってしまったのだった。
昨日の今日で佐天もすっかり能力を回復させたらしく、好調そうな快活な笑みを浮かべていた。
「ねーみつこ。退院まだなの? とうまが全然遊んでくれないんだよ」
「仕方ねーだろが。宿題サボらせてくれるほど甘い環境に暮らしてねえ」
このところ当麻は晩御飯を毎日黄泉川家で摂っている。作るのは当麻が7割黄泉川が3割といったところ。
黄泉川の帰りが遅い日はインデックスを一人にしないために遅くまで当麻も帰らないから、すでに何日かは黄泉川家に泊まっている。
完璧に通い婚の下地は出来ているのだった。
そうすると必然的に、宿題の進捗を黄泉川にチェックされることになる。止めてもらっている恩義もある分、宿題をきちんとやらざるを得ないのだった。
まあ、当麻は何もなければきちんと宿題をやる人間なのだ。自発的意志としては、やる気があるのだ。
宿題が燃えたり消えたり濡れたり、あるいは当麻自身が病院送りになったりとそういう都合で無理になることはままあるのだが。
「あとどれくらいかかりますの?」
「え? ……まあ、20日くらい?」
「あ、ごめんなさい。毎日コツコツされるのね」
「……いえその、それくらいかけないと終わらないと言いますか」
八月の上旬から徹夜攻勢でガリガリと宿題なんてやりたくない、というのが本音だった。
情けない顔をすると、光子がちょっと拗ねた顔をした。
「もう。課題は早めに済ませませんと、アクシデントに見舞われたら後々困りますわよ。その、お嫌でなかったら私もお手伝いいたしますから」
「お、おう」
「私も理科と英語と歴史くらいなら助けてあげるんだよ」
「……はい、その、ありがとうございます」
インデックスは化学や力学には疎いものの、天体と人体にまつわる理科は非常に詳しい。
英国人として英語なんてのは前提知識として持っているし、歴史も19世紀以前の歴史ならどこのを聞いても完璧だ。
まあ、学園都市か日本の教育委員会かが認めていないオカルトな歴史も普通に混じっているので、インデックスから歴史を教わるのはテスト対策としては危ないのだが。
ちなみに光子にはあらゆる教科で負けている。こちらはもう、ぐうの音も出ないのだった。
能力と違ってここは本来なら光子に勝っているべき分野だから、肩身が狭い。
「光子に愛想つかされないように頑張らないとな」
「そういうので愛想をつかしたりなんてしません。でも遊ぶ予定を潰されてしまったら、分かりませんわ。お盆の辺り、当麻さんがどうされるのかずっと気になっていますのに」
「え、お盆?」
「だ、だって。学園都市の外に出られるんでしたら、しばらく会えないかもしれませんし。それに、その。当麻さんのご実家とうちはそう遠くありませんから、外でもお会いできるかも、なんて」
光子が忙しなく扇子を開いては閉じた。ちなみにお互いの家が近いなんて話は、初耳だった。
実家の場所の話もしたことはあったが、そこまで詳しくはしていない。
実家にあまり自分の居場所としての思い入れがなかったからだ。
「そっか、近いんだったらウチに遊びにこれるな」
「とうま! 私のこと忘れてない?」
「え、いや。光子が泊めてやってくれるのかな、とか」
さすがに一人っ子の息子としては実家に年頃の女の子、それも銀髪碧眼の子を連れ帰る勇気はなかった。
それを察して光子は当然といった笑みを浮かべた。
「インデックスの部屋くらい用意させますわ。なんなら私の部屋にベッドを足して、二人で過ごしましょうか」
「えっ? いいの?」
「ええ。それくらいのスペースはありますもの」
「じゃあ当麻も一緒にいればいいよね?」
「えっ?」
「えっ?」
インデックスはごく何気なく言ったつもりだった。
しかし、当麻が婚后家に行くという事は、当然光子の両親にも顔を合わせるということなわけで。
「そそそそんな、私まだ心の準備が」
「そ、そうだぞインデックス。別に嫌ではないけど、やっぱり光子の家に行くときにはそれなりに覚悟がいるというかだな」
「え? なんで?」
「……いやだって、光子のご両親にさ、『俺が光子の彼氏です』って言いに行くことになるわけだろ?」
「事実なんだから問題ないんだよ」
「あるの! だって、なあ」
「ええ……」
ドキドキと、光子は心臓を高鳴らせていた。
そうやって自分の家に当麻が来てくれることは、とても深い意味を持っているように感じられて。
……でも同時に、怖くもある。両親が当麻のことを快く思ってくれるだろうか。
箱入りで大事に育てられた娘だと自分でも自覚している。
「な、なあ光子」
「なんですの?」
「光子のご両親って、光子が俺と付き合ってること、知ってるの?」
「……はい。何も言ってきませんけれど。当麻さんは?」
「いや、言ってない」
「えっ?」
「なんか、恥ずかしいだろ?」
分かってもらえるかと思って打ち明けたのだが、光子はあからさまに拗ねてしまった。
インデックスは完全に光子の肩を持つ気なのか、当麻に鋭い目線を向けていた。
「とうま! そういうのは良くないんだよ」
「そういうのって何だよ」
「ちゃんと光子のこと認めてあげなきゃ、女の子は不安になるんだから」
「み、認めるって。光子は俺の大事な彼女だよ。そんなの間違いないことだろ」
「だからそういうのはちゃんと周りにも報告しないと。隠されてるみたいなのは不安なんだよ」
「イ、インデックス。もうそれくらいにしてくださいな……」
恥ずかしいらしく光子が控えめにインデックスを止めた。だが本音は今言ったとおりなのだろう。我侭を言う時の目で、当麻をチラリと見た。
恥ずかしいのは恥ずかしいが、別に親に彼女がいることがばれたって何の問題もない。
「じゃあ、お盆前に帰るときに親にメールするよ。付き合ってる彼女がいて、家に帰ってからも彼女と遊ぶかもって。うちの母さんのことだから絶対にウチに連れて来いって言うんだろうけど」
「と、当麻さんのお宅に私が、ですの?」
「ほら、恥ずかしいだろ?」
「……」
顔を真っ赤にして、光子がぼうっと当麻の事を見た。
まんざらでもない顔だった。しかし急に、ハッと何かを思い出したように不安げに瞳が揺れた。
「光子?」
「あの、私のことを紹介したら、ご両親は困らないかしら」
「へ?」
「婚后の姓は珍しいですから、きっとすぐにお気づきになるし」
「ああ、良いところのお嬢様だってか?」
「……というかその、当麻さんのお父様が勤めてらっしゃる証券会社がありますでしょう。その日本支部の証券取引対策室の長が、うちの兄ですの」
「え?」
親父は確か外資系のはずだ。婚后グループは当たり前だけど日本の財閥だから、なぜ?
そのへんの機微に疎い当麻は首をかしげるだけだった。
しかし光子は物凄く気を使った風に戸惑いを見せた。
「うち、婚后グループと当麻さんのお父様の会社は色々な方面で提携していますの。それで人の出向がお互いにありまして、今は兄がそちらの会社に出向いているそうですわ」
「へ、へえー……。よくわかんないけど、光子のお兄さんが俺の親父の上司ってこと?」
「……あの、気を悪くされないで」
「いや、別に俺がどうこう思うようなことじゃないけど。改めて婚后って家はでかいんだなーと。てか、光子のお兄さんっていくつ年上?」
「自信はちょっとありませんけれど、十二、三年上だったはずですわ」
長をやるにはまだまだ若手と言っていい年だった。当麻の父、刀夜も勿論30代半ばだからまだ若手の部類だったが。
「ってことは、上司の妹に息子が手を出している、と」
「……はい、そういうことに、なっていまして」
「事情が事情だけに、ご家族は皆このことを把握していると」
「い、いえ。うちの執事が事情を把握して、それがお父様のところには流れているのは確実なんですけれど。それにうちがあちらの証券会社の日本支部を人ごとそっくり買収する話もあると聞きまして、そうなると当麻さんのお父様も婚后グループの傘下の一人ということになるんですの」
はぁー、と当麻はため息をついた。あの親父殿も、事情を知ればため息しか出ないに違いない。
玉の輿が真逆の意味で成立する関係だった。
「ですからその、私が当麻さんのお宅に伺うと、ご迷惑かもしれませんし、きっときまずくて、その」
光子が残念さや不安を隠すように笑った。インデックスもそれに気づいたのだろう。口は挟まなかったが、当麻を見つめた。
その心配は、無用だろうと思う。
「まあ、大丈夫だろうさ。まずいとしたら俺だな」
「え?」
「父さんも母さんも、そういうので色眼鏡使う人じゃないから。居心地が悪いのは保証するけどさ。でも絶対喜ぶか戸惑うかでてんやわんやにはなるだろうな。んで俺はもっと勉強しろだのなんだのと言われそうな予感がする」
正直に言うと、それは重荷だ。
光子のために頑張りたいと言う気持ちは勿論あるけれど、頑張るべきことが高校の勉強だと思えばやる気が鈍るのが学生というものだろう。
「そんな、その。私、自分が婚后の出だからって当麻さんに負担を強いるの、嫌です」
「ん、でも仕方ないだろ。親は選べない。ってか光子だって親御さんには恵まれてるほうなんだから、こんなので文句言ってちゃ罰が当たるだろ。光子のお父さん並に光子を幸せにしてやれるかは分からないけど、やっぱりほら、頑張らないとな」
「……はい。当麻さん、大好き」
「ん、俺もだよ。光子」
うまく纏まったのを見届けてよし、と頷いたインデックスを軽く撫でて、当麻は光子にキスをした。

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あとがき
『情報をもって自然現象に干渉することが可能である』ということは、2010年11月に東京大学の加藤教授らによって世界で初めて実証されました。
その結果は一流の物理雑誌"Physical Review Letters"および"Nature Physics"に掲載されています。ウェブ上では『情報をエネルギーに変換』で検索すると関連情報が入手できます。
これは情報をエネルギーに変える『情報エンジン』の開発に繋がる画期的成果です。情報エンジンはプロトタイプの作成ですらまだまだ遠い未来の話でしょうが、楽しみな分野ではありますね。





[19764] ep.2_PSI-Crystal 06: 真実を手繰り寄せる糸
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/05/31 01:51

春上を見舞った帰り。佐天たちいつもの4人組は自分達の家のほうへと岐路についていた。
検査を受ける春上と別れ、遅めのランチの上に長話を咲かせた結果、今はもう陽の色が薄赤く色づく時間だった。
「さて、初春。すっかり時間が遅くなりましたけれど、よろしければ今日すぐにでも、調べましょう」
「……わかってます。白井さんに言われなくてもやります」
「初春は私を恨んでいるのかもしれませんけれど、私だって面白半分だとか、そんなつもりで言ってるわけではありませんのよ」
「それも、分かってます」
先ほどまで楽しく談笑していたのに、初春はその一言で表情をこわばらせ、白井に頑なな態度をとった。
初春も、別に白井が間違ったことを言っているとは思っていないのだ。
ただ、あんなにも素直で、そして一生懸命な春上が色眼鏡で見られて嫌な立場に立たされそうなのを分かっていて、それでもなお問い詰める白井の態度に、どうしても納得できないのだった。
だけど、風紀委員が公平を期す存在なら、白井の態度のほうが、むしろ正しいのかもしれない。

すれ違いの原因は、学園都市をにぎわすポルターガイスト現象と春上の相関について。
関係を疑うのも馬鹿馬鹿しい、というのが当初の初春のスタンスだった。
だって、パッとしない普通の中学である柵川に来た転校生が、そんな特別な存在であるものか。
その一方で、白井のスタンスは逆だった。何度か見せたポルターガイストと春上の自失の同期。
それが偶然だとどうにも思えなくて、白井は春上からなにか事件の真相が手繰れないかと思っていた。
根拠に欠けるのが白井案の問題であり、そして初春の恨みを買った元凶でもあるだろう。

四人は風紀委員第一七七支部の扉をくぐった。入り口から離れたラックの奥に、初春のデスクはあった。
風紀委員でない美琴と佐天も勝手知ったる何とやらで、その初春のデスクの周りに集まる。
「あの、ちょっとこんがらがってきたから何を調べたいのか、整理したいんですけど」
「そうね。確認の意味も込めて事実確認と整理しよっか」
佐天の提案に、美琴が頷いた。
「まず、テレスティーナさんからの情報で、最近街で頻発している地震は正確にはポルターガイストで、そのポルターガイストはRSPK症候群の同時多発によるものだって分かってるんですよね」
「ええ。私と初春の出席した、風紀委員と警備員の合同会議でそう発表がありましたわ」
佐天の問いに白井が頷く。ここまでは確定情報だった。そして続きを美琴が継ぐ。
「RSPK症候群、まあ簡単に言っちゃえば『自分だけの現実』がゆがんで能力を制御できなくなる状態だけど、これって普通はそんな簡単に人から人へと感染するものじゃないわよね」
「ええ。まずそれが第一の疑問ですわね。心神喪失の状態にある人と接すれば自分自身も心的にストレスを溜める傾向はありますから、RSPK症候群が他人に伝播する可能性はありますわ。ですが、このような広範囲にわたっては考えにくい、というのが私達の直感的な感想ですわね」
「……そして、もう一つ気になってるのが、春上さんについてだよね」
春上のことを口にしたのは佐天だった。白井が言うとまた初春が不機嫌さを見せるのではないかと案じてのことだった。
佐天が言ったからとて初春の態度が硬化しなくなるわけではないが、白井が言うよりましだった。
「無関係な可能性だってあります」
「そうですわね。そして、その逆も」
「ここで一番問題なのは、関係があるとしたら、どう関係があるのか説明が必要ってトコよね。……第二の疑問、春上さんはこの事件と関係あるかは、結局第一の疑問が分からないとはっきりしないね」
美琴がふうっとため息をついた。
能力の暴走状態を、どのようにして他人に伝えるのか。
もちろんそれがはっきり分かっている事柄なら、こんなに今苦労はしないだろうが。
「昨日の夜、必要な情報を選んで纏めるバッチを組んでおきましたから、運がよければ情報が手に入っていると思います」
初春はそう言い、パソコンのディスプレイの電源をつけた。本体はずっと稼動していた。
ほどなくディスプレイに映し出されたのは、いくつかの論文と特許に関する文献。
およそ数百件に絞られたその情報を、初春のデスクにある複数のディスプレイに割り振って、四人でそれぞれ調べていく。
「げ、英語……」
「佐天さん、苦手なのはスルーしてこっちにまわして。さっさと数を処理していきましょ」
「ありがとうございます、御坂さん」
学術論文というのは大体がもったいぶった言い方というか、その道の専門家以外にはスラスラとは読めない文体なのだ。
どうやらそういうものが一番苦手なのは佐天らしい。慣れた感じの三人に比べ、ペースが上がらない。
「えっと……『AIM拡散力場の共鳴によるRSPK症候群集団発生の可能性』かあ」
ざらざらと論文やレポートのタイトルをスクロールしていくうちにその標題が目に留まり、佐天は思わず手を止めた。そしてレポートの頭に貼り付けられた要旨に、ざっと目を通す。
専門用語の嵐は容易に理解を許さないが、二度ほど読み返すうちに、その論文が自分達の探している情報に近そうだと気がついた。
手を止めて読みふけっている佐天に気づいたのだろう。御坂が、身を乗り出してこちらを覗き込んだ。
「何かいいのあった? ……って、これ」
「難しいんですけど、これ、アタリのような」
「見つかりましたの?」
「佐天さん?」
美琴の様子でただならぬ雰囲気を察したのだろう、白井と初春も佐天の周りに集まってきた。
「これ、概要をざっと読んだだけだけど、なんかそれっぽくて。御坂さんも同じこと思ったみたいだし」
「ああ、違うの。もちろんタイトルも関連がありそうだって思ったけど、そうじゃなくて」
美琴が佐天の言葉を訂正して、論文の一部に、そっと指を指した。
お決まりの書体で書かれた、著者の名前。
「ファーストが木原幻生、セカンドが……木山、春生」
論文を連名で投稿するときは、基本的に論文の執筆者名が筆頭に、そして研究に貢献した順に残りの著者名が並ぶ。
ファースト・オーサーが木原なのはプロジェクトリーダーであった木原が執筆したということで、セカンド・オーサーが木山なのは、その研究で恐らく実働部隊としてもっとも精力的に活動したということなのだろう。
「お姉さま。木山春生はいいとして、この木原という研究者に心当たりがありますの?」
「木山が面倒を見てた置き去り<チャイルドエラー>の子たち、あの子たちを利用して実験を行った、そのトップが木原よ」
首をかしげる白井にそう答え、美琴はいつか読み取った木山の絶望をフラッシュバックさせた。
優しく微笑む置き去りの子供達。そして実験の失敗……否、成功。目を覚まさぬ子供達を前に立ち尽くす木山。
暴走能力の法則解析用誘爆実験。
「それじゃこれって、あの実験の成果――」
「……たぶん、ね。」
目の前に表示されるこのレポートはきっと、木山が携わったあの実験の産物なのだ。
初春がデータをコピーして、それぞれのディスプレイに張った。
四人はしばし、その内容を読みふけった。


「……みんな、読めた?」
「ええ、なんとか。事情を知れば褒め言葉なんてふさわしくないんでしょうけれど、良く書けた論文ですわね」
「そうね」
美琴の言葉に真っ先に反応したのは白井だった。
優れた研究者は優れた論文を書くものだ。それは人倫の道を踏み外した研究者にも適用できる法則だった。
「あの、すみません。目は通したんですけど、はっきり分からない所があって」
「私もです……」
佐天がおずおずと切り出すと、初春もちょっとヘコんだ顔をして同意した。
「私達も専門家じゃないし、完全に理解してるわけじゃないけどね。確認がてら、おさらいしようか」
「お願いします」
薄く笑って美琴が二人を慰めた。そしてページを冒頭にあわせ、軽く息を整える。
「研究の動機はRSPK症候群、つまり自分の能力のコントロールが出来なくなる病気に罹った能力者、そういう人に接した別の能力者もRSPK症候群を発症してしまう傾向があるらしくって、その解決なり予防なりをするための方法を開発するってことらしいわね」
「ええ。そしてRSPK症候群が他人に感染するメカニズムはAIM拡散力場の共鳴である、と言っていますわね」
「で、最後に感染速度と人口密度や能力の関係を定式化した被害者数予測モデルが書かれている、と」
ざっとまとめると、そういう内容だった。
初春が押さえ切れない感情を流出させるように、身を乗り出して美琴に尋ねる。
「あの、それでこの内容って春上さんと関係ありますか?」
「論文に書かれてることそのものじゃ、分からないけど」
「お姉さまが覗き込んだ木山の過去とこの論文を両方参考にしなければならないというわけですのね」
「うん。……もちろん、本当の事はわかんないけど。でも、この論文に描いてある『RSPK症候群罹患者に協力を仰ぎ』ってフレーズ、引っかかるのよね」
マッドサイエンティストとして有名な木原だ。被験者をわざわざ探さずとも、作るほうが早いのは確かだろう。
「この被験者こそが、春上さんのお友達だと?」
「そこは、確証がないからはっきりしたことは言えないわよ」
だけど、木原と木山が共に実験に取り組んでいた時の論文が、木山の悪夢となったあの事件の時以外にあっただろうか。
「前に調べた限りじゃ、意識を失ったあの子たちは、いくつかの病院に分散して収容された後転院を繰り返して、今じゃもう居場所がたどれないの。それを例えば木山が集めて、覚醒させようとしてるなら」
覚醒させるための方法なんて良く分からない。だが、AIM拡散力場の共鳴というテーマは木山の専門だ。
このポルターガイスト事件を木山が起こしていると、そう考えるのに無理はない論文だった。
美琴は椅子から立ち上がった。白井が、どうしたのかと不審げな目を美琴に向けた。
「……木山にもう一度、会ってくる」
「えっ?」
「少なくとも、この事件には木山か木原か、そのあたりが絡んでる可能性は充分ある。関わってしまった人間として、私は目はつぶれない」
幻想御手を使った木山のやり方が良かったとは今でも思っていない。
もちろん木山が願って止まない、彼女の教え子達の回復を阻止したのが自分だということも、分かっていた。
だが誰かを弄んで目的を果たす気なら、きっと自分はまた木山の前に立ちはだかる。
それは、美琴の決意だった。
「私もお付き合いしますわ。……でもお姉さま。今日行けば確実に門限の時刻に間に合いませんわよ?」
「え? あ……。もうそんな時間だったんだ」
「ええ。それに拘置所の面会時刻にも限りがあるでしょうから、明日、じっくり話を聞かれては?」
「……そうね」
美琴が画面から目を離して伸びをし、時計を横目に見た。
佐天も人知れず、ため息をつく。
「これ、テレスティーナさんに報告したほうがいいのかな?」
「そうですわね。あの方がこの件の取りまとめ役だそうですし。……初春」
「私が連絡いれておきます。あの、白井さん」
「どうしましたの?」
おだやかに、白井が初春にそう尋ねた。
今の情報で、少なくとも春上の友達である枝先たちが、この事件に関わっている可能性は充分にあると思えるようになった。
春上が精神感応者<テレパス>であることも、間接的に春上が事件の関係者だと示しているように思える。
「春上さん、やっぱりこの事件に関わってるんでしょうか」
自分の希望的観測を諦めきれないように、初春がそう白井に問いかけた。
「確かなことは分かりませんわ。でも、もし関わっているとしたら、きっと春上さんはこのままではいい方向には向かわないのではなくて?」
「……そうですね」
「だから、私は春上さんや枝先さんについて、もっと調べてみるべきと思いますの。それが、きっと友達のためになると私は思いますから」
どこか諭すような響きを込めて、白井は初春にそう告げた。
ゆっくりと初春はそれを受け止めて、そして白井を真っ直ぐに見た。
「すみませんでした。白井さんは間違ったこと、言ってなかったのに」
「いいですわよ。友達に疑いをかけて、気持ち良いはずがありませんもの。というかそんな野暮な謝罪なんて、貴女の相棒であるこの私には要りませんわ」
「そうですね。相棒ですもんね。分かりました。御坂さんとのデートに仕事をかぶせちゃったときも私、野暮な謝罪はしませんから」
不敵に笑う白井に初春はそんなことを言い返して、初春は背筋をしゃんと伸ばした。
その裏で、佐天は美琴と苦笑いをかわした。
再び、初春が集めていた資料全てにざっと目を通した後、四人は腰を上げた。
「じゃ、帰ろっか」
「あ、私はテレスティーナさんに連絡入れてから帰ります」
「ん、ごめんね。門限は守れる日は守っとかないとね」
白井と美琴はもうそろそろここを発たねばならない時間だった。
挨拶を交わす三人の横で、佐天がなにかを躊躇うようにしていた。
美琴はその様子を見て、首をかしげた。
「佐天さん?」
「あの、私、今から木山のところに、行ってみようかなって」
「え?」
「佐天さん? 急にどうしたんですか?」
案の定、皆が佐天の言葉に驚いていた。
それは一週間くらい前に、拘置所にいる木山を美琴が訪ねると言っていたのを聞いてから、考えていたことだった。
どれくらいの気持ちで、木山は幻想御手を作ったのか。自分の起こした事件ことを、今はどう思っているのか。
責める気持ちがあってのことではない。ただ、納得したかった。
幻想御手をきっかけとして能力を伸ばし始めた自分には、いつもスタート地点でずるをしたような、そんな引け目がある。
だからというわけではないが、一人で、木山に会ってみたかった。




夕日を背に受けながら、佐天はようやくの思いで目的の建物へとたどり着いていた。
あれからすぐ、美琴と白井は寮に帰っていった。初春も、もう電話は終えて家路についている頃だろう。
乗り換えや簡単な地図を見ながらの道のりはどこか心細かった。
そして勿論、木山のいるこの拘置所、つまりゴールの前にたたずんでも、不安は和らぐことはなかった。
強化ガラス製の重たい扉を開けて、佐天は静謐な受付へと足を勧める。
「こんにちわ。面会ですか?」
「あ、はい」
「面会時間は今日はもう15分程度しか取れませんが、それでも面会されますか?」
「はい」
「ではあなたのお名前とIDの提示をお願いします。それと、面会希望の相手の名前を」
「佐天涙子です。えっと、木山春生……さんと、話をしたいんですけど」
IDを提示しながら、佐天は名前を告げた。
素っ気無い態度の事務員が、眼鏡の奥の瞳をいくらか揺らした後、その名前を検索にかけた。
ほどなく想像通りの答えが出たのか、軽く頷いて事務員が佐天を見た。
「あの、木山春生は先日保釈が認められて、もうここには拘置されていませんが」
「えっ……?」
一瞬、予想外の事態に何をしていいか分からなくなった。
木山がいない、保釈されたって。
「あの! 保釈って、お金が要るんですよね?」
「え? ええ」
「自分で払って出て行ったんですか?」
「それぞれの人のことをお教えすることは出来ません。本人が払うケース以外にも、保証人をつけるケースだとか色々とオプションがあるのは事実です」
「えっと、それじゃどこに住んでるとかは……」
「申し訳ないですけど、それも教えられません。制度としては、申告した住居に住むことになっています」
「はあ」
完全に、無駄足だった。不安を胸に抱えてきたはずの道のりの無意味さに、脱力しそうになった。
いないんだったらこんなこと、しなかったのに。
そう考えて事務員に挨拶をし、再び扉をくぐって夕日に体を晒したところで、大事なことに気がついた。
「保釈されてるって事は。木山は今、目的のために動いてるって事……!」
そして、私達は、木山の居場所を知らない。
佐天は急いで初春に電話をかけた。
「どうしたんですか、佐天さん?」
「初春! 木山、もう保釈されてる!」
「えっ?」
「木山はもう拘置所にいないんだって。だから、ホントに木山が動いてるのかも!」
点と点を結ぶように、春上衿衣という少女から始まって、ポルターガイスト、RSPK症候群、暴走能力の実験、そして木山春生へと話が繋がった。
もちろん偶然かもしれない。だけど、偶然と笑うには、そこに何かがあるという思いが強すぎた。
「佐天さん、落ち着いてください。木山先生の居場所は分かりますか?」
「駄目。拘置所が個人情報は教えてくれなかった。でも、申告した場所に住まなきゃいけない決まりがあるって」
「……分かりました。私、まだ風紀委員の支部にいますから。少ししたらもう一度連絡ください」
「もう一度って、それは良いけど。なんで?」
「木山先生の事件前のマンションなら調べられます。引き払ってるかもしれませんけど、すぐに見つかる手がかりはそれくらいですから」
「分かった。とりあえず、あたしはそっちに行くから」
「はい。細かいことはまた、後で」
初春はそれだけ言って、電話を切った。
佐天もそれを聞き届けてパチリと携帯を閉じる。
長閑な夕日が、陰りを見せ始めていた。


初春の所に戻ると、ちょうど初春も出る準備を整えたところだった。
少なくとも罪を犯す前は仮初ながらに小学校の教諭をしていた木山だから、住所を得るのは初春にとっては大したリスクもない簡単なことだった。
「案外、すぐそこなんだね」
二人でタクシーに乗り込んで、15分ほど第七学区内を走ったところで木山のマンションが見えてきた。
ごく普通の、セキュリティも大したことのないような建物。不良たちに襲撃されればひとたまりもないだろう。
幻想御手を使った低レベルな能力者たちは皆、コンプレックスを嘲笑され、今、辛い立場にある。誰しもが佐天のように幸運を手に出来たわけではない。
ここに木山が住み続けているとしたら、それは危険なことだった。
「家の周りとかポストとか見れば、分かるのかな?」
「はい。居留守かどうかくらいは判断できるはずです。風紀委員じゃなくて警備員のマニュアルですけど、そういうの、私持ってますから」
荒事に何かと首を突っ込む相棒を持った初春だ。その手の知識も、少しは持ち合わせていた。
だが、どうやらそれは必要なさそうだった。
ふと前を見ると、見覚えどころか乗った覚えすらある、青いスポーツカー。
運転手は見えないが、無人のわけはない。駐車場を出て、どこかへ行こうとしているところだった。
「あれ!」
「え?」
「木山先生の車ですよ! あの青いの」
大通りに出るべくじわりと加速を始めたそのスポーツカーの前で、無人タクシーは清算のために減速していた。
あわてて座席を揺らし、AIに通じるマイクに叫んだ。
「待って! 前の車追いかけてください!」




バタリと浴室の扉を開けて、白井は美琴に声をかけた。
「お姉さま、お風呂空きましたわよ」
「んー、わかった」
「もう、食事をとってすぐだと言うのにベッドに寝そべってゲームなんてされて。太りますわよ」
「はいはい。もう、大丈夫だってば。ちゃんと管理してるし」
「確かに今日は控えめのようでしたけれど」
管理しているとは言うが、美琴が食事の量に気を使ったところなぞ見たことがない。
いくら食べてもとは言わないかもしれないが、美琴は太りにくいのは事実らしかった。
まあ、今日の少ない食べっぷりなら確かに大丈夫なのかもしれないが。
「さて、じゃあ私も入りますか」
用意してあった着替えを手に取り、美琴は浴室へと向かった。
服を脱ぎ、浴室で軽くシャワーを浴びる。髪と体を洗う手つきはお座なりだった。
普段とて丹精を込めてというような洗い方なんてしないが、今日は特に適当だ。
理由は簡単。これから、汗をかく予定があるから。シャワーはもう一度浴びればいい。
美琴は頭に、先ほど調べていた地図を浮かべなおした。
今はもう廃墟となっているはずの、木原幻生の研究所の一つ。おそらくは春上の親友たちはそこで実験台にされたはずだ。
そこにいけば、何かしら、情報が手に入るかもしれない。
黒子が寝静まってから、部屋を出る気だった。




青いスポーツカーは淀みなく主要国道を抜けて、病院の駐車場に車を止めた。
タクシーの融通の利かなさが幸いして、少し離れた正面玄関に、初春たちはたどり着いた。
頭痛のするような額を支払って初春と佐天はタクシーを降り、木山の影を探した。
「正面からじゃなさそう……?」
「はい。あっちに関係者用の入り口がありますから、そっちから入ったんだと思います」
「それってこっちからじゃ追えなくなる?」
「えっと……大丈夫です。見たところ一般の入り口からと廊下が続いてますから」
入り口傍の地図を見て、初春がそう答えた。
時間はもう夕食時。だが夜の診察はこれからだ。中は人でごった返していて、初春たちを不審に思う人はいない。
臆せず初春は表入り口から病院に入り、受付の目を盗んで中の廊下を進んだ。
目的は木山に会って話を聞くことだったが、病院という場所へ着いて二人の目的は少し変わっていた。
確証はないが、ここで、木山は意識不明の植物状態へと追いやってしまった春上の親友たちを匿っているのかもしれない。
そうであれば、その現場を押さえるところまでたどり着きたい。
「いたっ!」
「あっち、地下への階段ですね」
「……ここから先、関係者以外立ち入りをご遠慮願います、らしいけど?」
「私、枝先絆理さんの関係者ですから」
「風紀委員の初春が行くなら、別にあたしも問題ないよね」
前にいる木山をじっと見つめる初春に、佐天は苦笑を返した。
木山が階下へ姿を消したのを見計らって、二人も病院の関係者のみが出入りする領域へと足を進めた。
病院らしいいかにもなデザインの手すりが着いた階段を下り、木山の背中を探してぐるりと辺りを見渡す。
そこで。
「君達。ここは関係者以外立ち入り禁止なんだね?」
後ろから、カエルみたいな顔をした、白衣の壮年男性に声をかけられた。
うだつの上がらない風貌で、白衣のくたびれ方からも威厳のなさが伝わってくる。
悪いことをしている自覚はあったが、二人は怯まなかった。
初春が時折行うデータベースへの不正アクセスより、ずっと罪は軽いだろう。
何事かと振り返った木山にも聞こえるように、初春が大きな声でカエル医者に返答をした。
「私達は関係者です。木山先生、枝先さんのお見舞いに来ました!」
二人の医者が、驚きに眉を動かした。そして戸惑いのためか硬直した木山に代わって、カエル医者が嘆息した。
「なるほど、こんなところにお見舞いにこられる人がいるとはね? ……木山君。ここまで来られては隠しても何も変わらないだろう。この子達を案内してあげたらどうかい」
「ええ……。そうですね」
じっと、意図の読みにくい隈のできた目で、木山は二人を見つめ返した。
「こっちだ」
「……」
「確か君は、初春さんだったかな?」
「はい」
「こちらの子は、すまない。人の顔を覚えるのは苦手でね。会ったことはあっただろうか」
「いえ……」
「そうか。まあいい、こちらの部屋だ。枝先は、この一番手前のベッドで眠っている」
長くもない廊下を歩いて扉を開いた先。
そこには、目を覚ます見込みもない、十人くらいの男の子と女の子達がいた。
一人一人は個別のベッドに寝かされ、さらに透明のカバーがベッドにはつけられていた。
呼吸補助のマスクをつけているせいで、一人一人の顔はほとんど覗けない。
ただ、例外なく華奢な手足の、自分たちの同級生だったかもしれない子達、それを見せ付けられた瞬間、清潔で静謐なその集中治療室はまさに地獄なのだと、空気が佐天と初春に思い知らせた。
子供達を覆うカバーが佐天には棺に見えて、その不吉なヴィジョンを振り払うように頭を振った。
「木山先生が、この子達を一箇所に集めていたんですね」
「ああ」
「どうして、ですか?」
「学園都市は、置き去り<チャイルドエラー>なんてどこまでも使い潰す気だ。生半可な治療では復帰を見込めないこの子達なんて、良くてお荷物、悪くて出来損ないのモルモットだ。……むしろ教えてくれ。どこなら、この子達を救ってくれるんだ?」
「……」
「何を敵にしたって、私は絶対にこの子達を救うと決めたんだ。手を回してこの子達を集めるくらい、なんだというんだ」
扉の開く音がして、静かに医者が部屋に滑り込んできた。そしてバイタルデータを一括監視するモニターの前に座った。
「木山先生。それで、次は何をするつもりなんですか」
「さあな。なんだってするとは言ったものの――」
「地震を起こして、沢山の人を傷つけてでも助けるんですか」
「……相変わらず。君は鋭いな。この子達とRSPK症候群の同時多発の関係をどうやって発見したんだい?」
軽薄な驚きと賞賛が、木山の口からこぼれた。
軽薄さが揶揄している先は初春ではなく、むしろ木山自身の様に思えた。
「そんなことはどうでもいいです。それより木山先生、どうしてこんなこと、するんですか。幻想御手の時だって、先生は誰も傷つかないための努力はしてたじゃないですか」
ポルターガイストによる被害者は、もう三桁に上っていた。一歩間違えば死者もでかねない、危険な事故がいくつもあった。
そんなやり方で助かっても、きっと枝先たちは胸を張れないと、そう思う。それをわからない木山ではないと、初春には思えたのに。
隣で見つめていた医者が口を挟んだ。
「君は、少し思い違いをしているようだね?」
「え?」
「これは我々にも計算外の事態だったんだね」
そういって医者は体を横にずらし、二人にモニタを見せた。
今映っているのは、誰かの脳波だろうか。
「静かな波形だろう? 活動中の人間のものではないんだね。だが、一ヶ月ほど前から時折、この子達は目を覚ます兆候を見せているんだ」
「え?」
「だけどこの子達は、正常には目覚められない。この子達の『現実』は、薬で滅茶苦茶になってしまっているから」
「薬、ですか?」
それは話に聞く、木山が騙されたあの実験での事だろうか。
「ああ、能力者を暴走させるための劇薬さ。能力体結晶、いや体晶のほうが通りは良いかな」
まるで麻薬みたいな白い粉なんだけどね、と付け加えて、医者はモニターのデータ確認に戻った。
二人が視線を木山に戻すと、思い出した何がしかの感情に蓋をするように唇を噛んでいた。
「別に身の潔白を晴らしたいとも思わないがね、一応言っておこう。ポルターガイストの引き金は、確かにこの子達なんだ。もう、長い間は止められそうにもない。覚醒の間隔は短くなって、今にも目を覚ましそうだ」
「目が覚めちゃ、だめなんですか?」
「いいや。覚醒自体は悪いことではない。だがその過程で必ずこの子達は周りの能力者を巻き込んで、ポルターガイストを生む。それも酷く広範囲に、な。予想としては学園都市の八割の学生を巻き込んだ、大規模災害だ」
「えっ?」
どう甘く見積もっても、そんな異常な規模のポルターガイストは、きっと学園都市を破滅的なところまで崩壊させる。
「それって」
「この子達をそのまま覚醒させれば学園都市は終わると言うことさ。まあ、この子たちのいるこの場所は地震くらいではどうにもならないから、この子達は無事だろうがな」
「……助けるためなら、手段を選ばないつもりですか」
初春と、そして佐天が身構えた。
その敵意に晒されても、木山は表情を変えなかった。ただ視線をどこか遠くにさまよわせて、ぽつんと呟いた。
「……天秤になど、かけられないよ。私はこの子達に人並みの幸せをあげたい、それだけなんだ。それだけで、いいのに」
それを学園都市は、赦さなかった。

佐天はうなだれる木山に尋ねずにはいられなかった。
「なんとか、ならないんですか?」
「せめて、体晶の成分でも分かればね」
晶の字が付くくらいだ。
それが結晶構造を有する、すなわちたかだか数種類のペプチドないしたんぱく質群からなる薬品であることくらいは想像が付いている。
経口でも効き目が出るらしいから、酸にも強い構造なのだろう。それくらいは分かる。
だが、その程度の情報から組成を推定することなど、できるわけがない。
暴走能力者の脳内でのみ分泌される特殊な神経伝達物質、あるいはホルモン。
そのサンプルさえ手に入れば、大脳生理学の新進気鋭の天才として、絶対に木山はその生理を逆算してみせる。
「私は今、あちこちを駆けずり回って体晶のサンプルを探している。間に合わなければこの子達が本格的な覚醒を始めて、学園都市は崩壊する。君達は、今すぐここを通報して私を止めるかい? そして最悪の措置としてこの子達を死なせることに、同意するかい?」
履いて捨てるほどいて、そして基本的に金食い虫でしかない置き去り<チャイルドエラー>。
それをほんの10人ほど、それも植物状態の子たちを死なせるだけで、学園都市の安全が担保されるなら。
学園都市は、一体どういう選択をするだろう。
「あの、木山……先生」
「先生をわざわざつける必要はないよ。それで、なんだい?」
佐天が初めて、一対一で木山に向き合った。
そして、一言、事実を告げた。佐天にとっての、惨めな軌跡。
「私、幻想御手を使いました」
「……そうか。私は君に、恨まれている人間だったのだな」
「恨んでないって言ったら、嘘になります。でも、私にだって弱い心があったのは、事実だから」
「漬け込む人間がいるのが悪いのだよ。私のことだがね。恨んでくれて、構わない」
「恨まれても……じゃなくて。そんなふうに傷つく人のことを、どういう風に思ってあの事件を起こしたんですか?」
それが佐天が一番聞きたいことだった。
麻薬でもタバコでも、あるいは自分を引きずり落としていく性質の悪い不良友達でも、そういうものは悪意をひけらかしたりしない。
堕ちていくとき、人の傍にあるものはいつだって優しい。幻想御手もまた、優しい薬だった。
犯人なんてものがなくても、心が弱い人はその優しさに溺れる。佐天は犯人を見つけたところで自分が癒されないのは分かっていた。
「考えていなかった」
「え?」
「救いたい人がいて、その子達のためなら君という被害者に、私は目をつぶれたんだ」
「……」
「正直な、答えだと思う。軽蔑したかい?」
「どうしようもない事態に、泣き喚くだけなら子供、何かを犠牲にして解決するなら普通の大人、誰もが幸せになれる第三の答えを生み出すことこそ、この学園都市が目指していることだって教わりました」
それは佐天たちの学校のとある先生が生徒に語る、お決まりのフレーズだった。
「いつだって、私はそれを目指しているつもりなんだ」
天才の名をほしいままにする大脳生理学者が、シニカルな顔で笑った。それは泣き顔のように佐天には見えた。
しかし木山は一瞬でその笑みを消した。
「まだ、この子たちには少し時間がある。私は諦めない。体晶のサンプルを手に入れて、この子達を助ける」
それは通告。
学園都市の中でも第一級の犯罪者になった女の、揺るがない意地だった。
人の脳を知り尽くしていながら人懐こさなど欠片も見せない科学者が見せた、それは母性だった。


「学園都市は貴女の独断行動を容認しません。木山春生」
――――冷徹な声が、佐天と初春、そして医者と木山の四人の後ろから聞こえた。


「なっ?!」
「テレスティーナさん?!」
現れたのは怜悧な瞳を眼鏡の奥に覗かせたテレスティーナと、そして配下のパワードスーツ舞台が数名。
病院に存在するには暴力的過ぎる存在。
「その子たちは、我々先進状況救助隊の施設で預かります」
「なん、だと……?」
「学園都市の生徒達を平気で意識不明に陥れる人間を学園都市が自由にすると思っているのなら、それは勘違いね」
「テレスティーナさん?! 木山先生は別に!」
「初春さん。心配しないで。この子達は責任を持って、私が救ってあげるから」
「なぜ、ここが……」
呆然と、木山は呟いた。
「直前に初春さんと電話していたからね。尾行するつもりはなかったんだけれど、初春さんが木山を追っているらしいって分かってから追わせて貰っていたの。ここに踏み込む手続きに手間取ったけど、逃げられたりする前に確保できてよかったわ」
テレスティーナが優しい笑みを初春と佐天に向けた。
「木山春生。保釈されている貴女は抵抗しなければこちらから拘束することはしない。大人しく、その子達をこちらに引き渡しなさい」
「くっ……だが!」
「言ったでしょう? 解決を目指すのはこちらも同じ。ただ、貴女と違って私たちは一線を越えない」
「なんだと?」
「教え子のためなら一万人もの学生を昏睡状態にしても平気な貴女には、大事故の引き金になりかねないこの子たちを管理する資格などないと言っているのよ」
出来損ないの社会人を見下すように、テレスティーナは木山の隣をすり抜けた。
開けてくださる?と医者に声をかけると、ため息をついて医者はその以来に従った。
「ありがとう、初春さん、佐天さん。あなた達のおかげで重大事件は深刻な状態を免れそうだわ」
「……あの! 枝先さんたちは、助かりますか?」
「医者じゃないけれど、医者みたいなことを言わせてもらうわね。最善を、尽くします。私達の最善を、ね。……やれ」
そして立ち尽くす人間達をよそに、静かにパワードスーツ部隊が搬送を始めた。






ファミレスでたむろしながら、携帯を見て突然獰猛な笑みを見せた麦野に、滝壺と絹旗、フレンダは一様に驚いた。
「来た」
「来たって、何が来たの? むぎの」
「超面白そうな顔をしていますね」
「何々? 新しい遊びのネタ?」
興味を見せた三人に応えず、麦野は電話をかけ、指示を出す。相手は何匹飼っているかも分からない兵隊の一匹。
お嬢様学園の寮を監視するという、トップレベルに安全で楽しい仕事をさせてやっている連中からだった。
「麦野、我々には超内緒らしいですね」
「そんなつもりはないわよ。シンデレラ・ガールが家を出たところって報告を受けただけよ」
「はあ。メルヘンですね」
「そうねぇ。さて、魔女としては何はともあれ招待状を拵えて届けてあげないと」
手元から取り出したのは、しつらえの良いメッセージカードだった。
刺繍入りの豪華な装飾に、嫌味のない花の香りが付いている。
「パーティでもするんですか?」
「ええ、と言っても私は参加しないで、主催者に内緒のままシンデレラを案内するだけだけれどね」
そこに書かれた内容は、とある路地裏の場所、時刻、それだけ。差出人の名前は、親愛なる妹達より、と書いた。
そのパーティは毎日時と場所を変えて開かれているらしい。
必死の思いで麦野はそのスケジュールを手に入れて、何の理由かは知らないが深夜に寮を抜け出そうという第三位に、優しくも招待状を送ってやろうというのだった。
品行方正、努力家、人当たりが良く頼れる、学園都市の模範的学生の筆頭。そんな彼女ならきっと、このパーティに興味を持ってくれるだろう。
――――もっとも、12時を過ぎた後にはシンデレラは全てを失うのだが。

連絡を終えてすぐ、兵隊の一匹がその招待状を取りに来た。すぐに、夜遊びの過ぎる御坂美琴を追い始めることだろう。
結末にあるものを予想して、麦野はニイッと犬歯を覗かせて笑った。




春上の転校をきっかけに、少しずつ手繰り寄せた真実に連なる糸。
最後に美琴が引いたのは、悪意ある誰かの混ぜた、全く別の糸だった。



[19764] ep.4_Sisters 01: 手繰り寄せた真実からは絶望の味がした
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/06 01:26

「はぁ、夜を潰して来たは良いけど、空振りか」
軽くため息をついて、美琴は変装用のキャップのつばを整えた。
明日木山を問い詰めようと約束したその夜に、美琴は木山と木原幻生の勤めていた研究所を探っていた。
発電系能力者としての能力を最大限に活かせば、自分ひとりならセキュリティなんてどうにでもなる。
美琴はそう思って一人でここに来たが、電気も通っていないここにはセキュリティなどという言葉もなかった。
打ち捨てられた計算機に慎重に通電して調べては見るものの、中に入っているのは、当然のことながら打ち捨てられて問題ないような、どうでもいいデータばかり。
「帰ろ。今からならちゃんと寝られるし、まあ、可能性を潰すってのも必要よね」
奥まった部屋を抜けて、大きな廊下へ出る。そして堂々と、明かりのないエントランスから美琴は外に出た。
治安対策なのか、無人のビルの外壁についたライトなどは光を放っており、敷地を抜ければそこはもう、ギリギリ普通の世界の側だった。夜に女性の歩く場所ではないが。
「さて、どうやって帰るかな、っと」
帰りの足について考えをめぐらせようとしたところで、美琴は進行方向を遮るように人が立っていることに気がついた。
――――気づかれてた?
腰を低く落として、敵襲に身構える。
「よう。御坂美琴サマ、で合ってんのかい?」
「……」
「まあ間違ってても、俺はアンタに渡すだけだからどうでもいいけどさ」
「私がその御坂美琴様だったら、何なの?」
「ちょっと手渡したいものがあってな」
そう言って、影に身を潜めて姿を見せなかった声の主が電灯の下に出てきた。
どこにでもいそうな、普通の不良。もしかしたら恨みでも買っていただろうか。
なんにせよ、恐らくは打倒するのに問題はない。
無能力者が相手なら銃を持っていたって、美琴は勝てる。あのバカ以外なら。
「スタンガンのショックでも手渡したいの?」
「そんなことは考えてねえよ。つか、御坂美琴って常盤台のレベル5の名前だろ? アンタがそうなら俺は何やったって勝てないんじゃないのか?」
口ぶりから、どうもこの不良はただのメッセンジャーなのだろう。
「誰の差し金でこんなことしてるわけ?」
「言わなかったらどうするんだ?」
「言わせるけど?」
「……兄貴だよ。血の繋がってる兄弟じゃなくて、この辺の不良を取りまとめてた人だ。けどまあ、その兄貴も多分、誰かに頼まれたんだろうけど。そこまでは知らねえよ」
その兄貴とやらの名前を聞き出すか、と美琴が思案したところで、不良が胸元から一通のメッセージカードを取り出した。
まるで似つかわしくない、ピンクとオレンジが可愛らしい、花柄のカードと封筒。
「とりあえず、これ受け取ってくれ。招待状だ」
「はぁ? 何処に案内してくれるわけ?」
「知らん」
「……」
「俺は頼まれて、お使いをしているだけだからな」
「ストーカーもやってんじゃないの?」
何処から美琴を補足していたのだろうか。
常盤台の寮を監視していたというのなら、まさにストーカーだ。
「俺は知らない。ほら、読んでくれよ」
「アンタが取り出しなさい」
「……疑り深いな、アンタ」
美琴はその挑発に取り合わない。
金属が仕込まれていないことは感覚で分かるが、好き好んで罠にかかる必要もない。
不良は無造作に、封筒からカードを取り出し、美琴に見せた。
「本日夜12時より、第七学区西端の廃車場にて、貴女をお待ち申し上げております。――――貴女の妹達より」
読み上げた美琴の目線が差出人の名に届いた瞬間、美琴は表情を凍らせた。
「妹……達?」
ありえない。その名は。その計画は。だって消滅したはずだ。
美琴の驚きを理解しなかったのか、不良は美琴の驚きを眺めるだけだった。
「読み終わったか? なら招待状は置いていくから、好きにしてくれ」
「待ちなさい」
「……帰してくれよ。頼む」
「ふざけないで」
「ふざけてねえよ。怪我なんてしたくねえんだよ」
「じゃあ知ってること洗いざらい喋ってから消えなさい」
「何も知らねえよ。そうじゃなきゃ誰がタイマンでレベル5の前に立つか。っておい、落ち着いてくれ! 本当に何も知らないんだよ!」
男は美琴の背後でチリチリと放電が始まったのに怯えて、後ずさった。
聞けたのは、その先をたどることも出来そうにない、うだつの挙がらない不良の名前だけだった。




「ごちそうさん、っと。上条のメシ、結構いいじゃん」
「そりゃどうも」
夜ももう遅くになって帰ってきた黄泉川に、当麻は新妻並に甲斐甲斐しい世話を焼いてやっていた。
インデックスはテレビを見ているうちにソファで眠ってしまっていた。
黄泉川が帰らないうちはベッドに入ってくれないから困り者だ。
「なあ上条」
「なんですか?」
「婚后は元気してたか?」
今日は黄泉川は病院に行かなかったらしい。まあ、保護者であるとはいえ他人は他人なのだ。
元気そうな光子のために毎日足繁く通うのは当麻とインデックスくらいだった。
「ひたすら退屈だって愚痴ってましたよ。まだ検査がしたいのかって」
「……」
「先生?」
「ああ、すまん。ちょっと、あそこの施設には気になることがあるじゃんよ」
「気になることですか?」
研究所というだけあって、病院らしさは少ないと当麻も思っていた。
しかし医師はちゃんと常駐しているし、清潔感もある。
「まあ施設がというよりは、所長のテレスティーナさんがな」
「いい人そうですよね。話したことはないんですけど」
「いい人、ね。確かにそう見えるじゃんよ」
ただ、黄泉川はテレスティーナと言う人に、どこか引っかかりを覚えているのだ。
いい人というのは目の前の上条みたいなのを言うんだろう。コイツはバカっぽくて、裏がなくていい。
打算を感じさせない点は好感がもてる。テレスティーナは、底が見えなかった。
その言い方に何かを感じたのだろう。上条がそういえば、という顔をした。
「夏祭りの日だっけな、夜に光子の見舞いをした帰りに、大学生くらいの女の人と喋ってるのを聞いたんですよ。内容とかはちゃんと覚えてないですけど、なんか怖い雰囲気でしたね」
「ふーん」
「なんだっけ、何かを頼まれて作ったような話だったと思うんですけど。体……晶だっけな」
当麻は、話の種にでもなればいいやという程度のつもりで話したことだった。
あやしげな薬なんて学園都市にはありふれているから、仮に当麻がかすかに聞いただけの話が真実だとして、別に大したことだなんて思わなかったのだ。
だが、黄泉川の反応は予想と全く違っていた。帰宅後の弛緩した空気を一瞬で吹き飛ばして、酷く真剣な表情だった。
「上条」
「は、はい」
「体晶って、お前言ったか?」
「いや、うっすら聞いただけなんで自信はないですよ?」
「そうか」
しかし黄泉川はそれを聞いても上条の話への評価を下げることはしなかった。
「春上と婚后に連絡はつくか」
「へ? 春上さんの連絡先なんて知りませんよ」
「……いや、春上はいい。婚后にとりあえず連絡して、明日すぐ、退院するように言え」
「はい?」
――体晶。超能力の研究者、黄泉川愛穂にとって、それは耳慣れない響きの物では決してなかった。
超能力を発現した学生にそれを投与すればどうなるのか、黄泉川はそれを十二分に理解していた。
上条は知らないのだろう。知っていればこんな暢気な顔などしていないことは予想できる。
そしてその不穏な響きとテレスティーナの間に、黄泉川は聞き間違いでは済ませられないような、確固たるつながりがあるような気がしてならなかった。
もちろん、杞憂ならそれでいい。自分で無駄な仕事を増やすことになるが、そんなこと笑って済む話だ。
そしてテレスティーナが体晶に関係しているという疑惑を自分が直感的に納得してしまった今、もう彼女の元に春上と光子を置いておく気にはならなかった。
光子はもとより無理をして入院させている状態だ。圧力をかければ退院は可能だろう。
問題は、春上。病状が根治したわけでもない今、警備員が何を言っても病院は退院を認めなどすまい。
そして確たる証拠を持って挑まねば、のらりくらりとテレスティーナは追求を免れるに違いない。
遅い夕食の余韻もすっかり忘れて、黄泉川は明日自分がすべきことを練った。




美琴は黙って道を進む。今いる場所はもう、表通りではない。
見えるところに姿こそないが、ここはもう学園都市にまつろわぬ学生達が跋扈する領域だった。
ドラッグをやろうが、純粋無垢な表の世界の住人の体を弄ぼうが、ここには止める人間がきっと来ない。
きっと廃車場という施設がその雰囲気を垂れ流している原因なのだろう。
「妹達<シスターズ>……ね」
美琴は定刻よりも前に、窓ガラスが割れボンネットがぱかりと開いたグシャグシャの車が幾重にも重なった場所、すなわち指示された廃車場に着いていた。
近くにはハイウェイが走っていて、建物の壁は灰色にくすんでいた。ゴムにカーボンブラック、つまり煤を混ぜて作ったタイヤという部品を車が備えているうちは、いくら科学が進もうと高速道の近辺が汚いのは普遍的事実だった。
廃車を集めるこのグラウンドや、訳アリの車格安で中古車を売りさばくディーラーなど、資金的にも社会的ステータス上でも大通りには構えられないような商売がこの辺りには多く、とにかく深夜には人が少なかった。
フェンスで区切られたこの廃車場はそう広くない。3分ほどかけてぐるりと歩いて、少なくとも美琴が感知できるような罠はないことを確認した。非金属で出来たトラップなら必ずしも感知はできないが、それも可能性としては低そうだ。
指定された時刻まで、あと15分以上はある。
「この時間で、まだ準備が何もされてない。まあ、コレが本当ならの話だけど」
まだ、手渡された招待状の内容に対して美琴は半信半疑だった。
逆恨みした不良による美琴への復讐にしては、ちょっとこれは凝りすぎだ。だが妹達は、計画段階で致命的な問題が見つかって、その生産計画自体がストップしているはずの存在。
希望的観測という他ないが、美琴は招待状の中身は嘘ではないかと、そう心のどこかで思っていた。

――――それはある意味、隙を見せたということだったのかもしれない。美琴の意識の隙間に滑り込むように、異変は静かに起こった。

キィン、と耳鳴りがした。それは、パズルのピースがはまるような感覚。あるいは自分の中のなにかが共振するような感覚。
言葉にしがたい不思議なシンクロニシティに、美琴は一瞬、パニックになった。
「何、これ……誰!?」
弾かれたように辺りを見回す。今、自分が感じているこれは、何だ?
改めて周囲を目視でスキャニングしていく。光学的情報を欲してのことではない。
美琴に近い大能力者の発電系能力者でもないと出来ない、視覚器官、つまり目を利用した電気力線の把握。
学園都市を広がる電磁波など、洪水同然だ。その中から意味ある情報など掬えるはずもない。
だが自分が無意識に発する電磁波なら話は別だ。それなら、特徴を知り抜いているのだから。
今、自分がどこかから感じ取っている電界の変化は、まさしく自分が纏っているそれに瓜二つだった。
――その事実が意味するところは、一体なんだろう。
答えはすでに自分の中にあるかもしれなかった。だが、美琴はそれに気づかないふりをして、発生源を探る。
フェンスの向こう、そう遠くない場所らしかった。
廃車場の入り口になっているフェンスを力任せにぶち開けて、草生した車道に出る。
発生源は多分、ハイウェイのほう。
頼りない電灯の明かりだけには頼らず、赤外線の情報まで拾い集めながら美琴はいくつか角を曲がって高架下の道路に出た。
一体誰が使うのか、むしろ治安悪化の材料にしかなりそうにない、汚らしいトイレと雨避けの屋根つきベンチ。
その傍には、こんなところに置かれて補充がされているのか疑いたくなる、自動販売機が一台。
そして。その目の前に、良く知った制服に身を包んだ、女子中学生が三人。
「――――」
言葉が出なかった。何を言えばいいのか、頭が真っ白で分からない。
自分と同じ、御坂美琴の姿をした誰かが、そこにいた。
いや、誰かなどとは言うまい。招待状にあったではないか。『妹達』と。
自販機に向かってじっとラインナップを眺めていた三人が、同時に美琴のほうを振り返って、美琴と同じ声色で言葉を発した。
「ネットワークに接続していない個体ですか。ナンバーを、とミサカは目の前のミサカに要求をしてみます」
「それは冗談ですか? 9982号」
「可能性としてありえないほうをミサカは口にしただけです。そしてどうやら目の前のこの方は、ミサカではない様子」
「ごきげんようお姉さま、とミサカはやや緊張しつつファーストコンタクトを取ります」
全く瓜二つの姿をした三人。いや、美琴を入れれば四人。
表情がほとんどないせいか、目の前にたたずむ三人がひどく人形めいて見えた。
そして呟かれた、お姉さまという響き。クラリと、世界が平衡感覚を失っていく。
「なん、で――」
失敗に、終わったはずだ。樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>が間違うはずがない。
美琴のクローンを作ったとして、それはたかだかレベル2程度の、使い道のない能力者でしかないはず。
事実、目の前の三人が周囲に形作る電界と磁界からは、脅威になるような雰囲気を一切感じない。
美琴の疑念に答えてくれるのか、三人のうち一人が、こちらを見て呟いた。
「お姉さまが能力を使って自動販売機から清涼飲料水を不法に奪取しているという噂は真実ですか、とミサカは今最も気になっていることを問いかけます」
「え?」
それは、冗談だったのだろうか?
あまりに場違いでくだらない言葉に、美琴の脳は処理を上滑りさせた。
日本語としては理解しているはずなのに、何を言っているのか、さっぱり分からない。
「法規に反することを無闇にすべきでないことは我々も理解していますが、お姉さまがされるのであれば、我々が真似ても許容されることのように思います、とミサカは正当化の論理を並べてみます」
「何を言っているの……?」
「生憎、我々には不要なものを買う所持金が与えられていません。しかし我々の待機場所にはこのような非常に興味深いものがあります。そこで所持金無しにこの飲料を手にする方法を考えていました、とミサカは察しの悪いお姉さまに懇切丁寧に説明をします」
身構えたこちらが、馬鹿だったのだろうか。
彼女達が恐ろしい人間のように思えたのは、得体の知れない相手に自分が投影した恐怖だったのか。
美琴を見ながらもチラチラと自販機のディスプレイに興味が行く目の前の三人は、自動販売機に群がるただの学生のようにも見えた。
「発電系能力者として、やはりお姉さまもインテリジェントな過電流で制御系を破壊もしくは書き換えたのでしょうか、とミサカはお姉さまが乱暴な真似をしなかった可能性を希望的に述べてみます」
「人を見境なく自販機を壊す破壊魔みたいに言わないで」
「違うのですか」
三人の瞳が、一斉に美琴を貫いた。おもわず、それに怯んでしまう。
「アンタ達。私の――――クローンなの?」
「はい」
その即答はあまりに軽かった。しかし、そのあっさりしすぎた肯定は、美琴の心を打ちのめした。
「あの計画は、凍結した筈でしょ? 現にどう見たって、あんた達レベル2程度でしょ」
「我々は確かに、個々の能力はレベル2相当ですが、とミサカは事実を認めます」
「なんで、アンタたちが、ここに存在するの?」
キッと美琴は再び三人を睨みつけた。答え如何によっては、暴力的な手段に訴えてでも尋ねる気だった。
だが、その美琴の鋭い視線を受けても眉一つ妹達は動かさなかった。その無反応ぶりは得体が知れなくて、ひどく美琴の心をざわめかせる。
「ZXC741ASD852QWE863'、とミサカは符丁<パス>の確認をとります」
「え?」
「やはりお姉さまはこの計画の関係者ではないのですね。それでは先ほどの質問にはお答えできません」
唐突に美琴には解読<デコード>できない何かを呟いた。
「いいから答えなさい」
パリッと、美琴は体から誘導電流を走らせた。逃げ場を欲する電子の流れは、導体として妹達を狙っている。
美琴がその気になれば、目の前にいる三人の発電系能力者など、無能力者と変わらぬ扱いを出来る。
そう、妹達に教えたつもりだった。
「関係者以外には計画の内容をお教えすることは出来ません、とミサカは規則を繰り返しお姉さまにお伝えします」
「いいから、答えなさいっつってんのよ!」
「いくらお姉さまといえど、関係者ではありませんから」
「力づくででも聞き出してやるわよって脅してんのがわかんないワケ?!」
ミサカと自販機の隣に立った電灯が一本、犠牲になった。
大過剰の電流で派手にダイオードを散らして、辺りに暗闇をもたらす。
「お姉さまが拷問慣れしているとは思いませんが」
「それにやっても詮の無いことです」
「50万円の損失では、この計画は止まりませんから、とミサカは事実を端的に指摘します」
「……50万円?」
「お姉さまが我々を毀損した場合に生じる損害です。我々の製造コストである単価18万円の三体分になります。他に金額では評価できないロスとして製造と調整にかかる数日間という時間がありますが、こちらも計画にとっては無視小です」
淡々と、化学試料の調整レシピでも語るように。
御坂美琴のクローンたちは、自分達の価値<コスト>をそう評価してのけた。その、あまりに自己愛のない突き放した感情が気色悪かった。
この子達は、自分が死ぬことを恐れていない。怖くないとか、そういう人間的な考えじゃない。
死ぬことに意味がないと思っているんだ。
「……聞いても口は割らないって、言うわけね」
「はい」
「そう。なら勝手にしなさい。どうせそのうち研究所か何かに戻るんでしょ? 勝手に尾けさせてもらうわ」
レベルの差は歴然。普通の学生なら逃げ切れないと観念させるだけの追跡力が美琴にはある。
しかしその宣言に対しても、妹達はなんの反応も示さなかった。
「……」
「で、今からあんた達は何するわけ?」
「先ほども説明しましたが、ジュースを買おうと思っています」
「ですが生憎、持ち合わせがありません」
「それでお姉さまの真似をしようかと、話し合っていたのですが」
自分達の話をするときとまったくトーンを変えずに、三人はもとの興味の対象である自動販売機に目線を戻した。
「言っとくけど私は電流で自販機を壊すなんてこと、滅多にしないわよ」
「普通は絶対にしないものですが、とミサカは法律遵守の精神に乏しいお姉さまをかすかに哀れみます」
「しかし困りました。正規の手続きでジュースを買い求めるには、我々には所持金が足りません」
妹達からは、一切の悪意を感じなかった。
会えば死ぬと言うドッペルゲンガーのような凶悪さもないし、性格を凶悪に改変されたような痕跡もない。
ただ、希薄なだけだ。
警戒心を解いたつもりは美琴にも無かった。
だが、美琴は三人を押しのけて自販機の前に立ち、ポケットから紙幣を抜いて自販機に突っ込んだ。
「お姉さま?」
「別に。これから朝まで付き合ってもらおうってんだから、喉を潤すくらい普通でしょ」
ピッという音の後に、スポーツ飲料が口から吐き出された。
自販機がくわえ込んだ残額を表示している。もう三本分くらいはあった。
「要るんならボタン、押しなさいよ」
「いいのですか? とミサカは太っ腹なところを見せるお姉さまに一応確認をとります」
「私の気が変わらないうちにさっさと押しなさいよ」
「……では、お言葉に甘えて」
誰がどれを選ぶのか、ああでもないこうでもないとにぎやかに話し合った後、三人は紅茶とオレンジジュースとコーラを選択した。
「いただきます」
「あーはいはい」
ジュースを買う手つきに慣れないところは無かったのに、初めて見たようにじっと缶とペットボトルを眺め、三人は三様に、ジュース類をぐびりとやった。軽く口に含み、官能試験をするように味や香りを吟味して、こくんと嚥下した。そして三人で、得られた情報を整理するように、味を報告しあった。
「舌に乗る渋味の収斂感がディンブラ三の茶葉のよさの一つとミサカは記憶していますが、これはそのような繊細さのある渋味ではありませんね。また保存料のデキストリンとビタミンによって紅茶以外の匂いがつき、またそれを隠すために香料で香味の上書きを行っています。水をまだしもマシな味にして飲むというお茶の起源に立ってみればこれでいいのでしょうが、ミサカはこれをお茶とは認めません」
「このオレンジジュースも加水加糖によってオリジナルの味からはかけ離れたものになっていますね。オレンジのpHを考えればペットボトルの量を気軽に飲めば胃の調子を悪くすることくらいは予想できますが、かといってこのように改変されたものをオレンジジュースと呼ぶことに違和感を覚えないものなのでしょうか」
「自動販売機で手に入る飲料にクオリティを求めるなど、おかしなことです。その点でコーラは完璧ですね。人口甘味料と香料で作られたこれは、劣化などという概念とは無縁です」
「アンタ達ジュース一つでどんだけ語るのよ……」
高々150円で買える飲料なのだ。
評論などそもそもするに値しないと思うのだが、どうやら彼女達はあれで楽しんでいるらしかった。
「そうは言いますが我々はこれも初体験のことですから」
「……そう。悪かったわね」
「お気遣いは無用です。むしろこのような楽しみに触れる時間があったことを喜ぶべきでしょう、とミサカはお姉さまにジュースのお礼を伝えます」
「いいわよ別に、これくらい。お礼がしたいんならアンタ達の秘密をバラしてくれればいいわ」
「それはできませんが」
「そ。……ならまあ、時間はあるんだから、符丁の解読でもさせてもらいましょうか。悪いけど、ここから動かないでね。ジュースを飲むのに差し支えはないようにしたげるから」
美琴は遠くの地面から、そっと砂鉄を引っ張ってきた。
先ほどから水面下で行っていたテストで、妹達が電場と磁場の変化に鈍感なのは確認済みだったから、感づかれずに行うのはそう難しくなかった。
おそらく頭につけた大仰な暗視ゴーグルは、美琴と違って電気力線と磁力線を可視化できない妹達の補助部品なのだろう。
そうした推論を立てつつ、妹達の腕に砂鉄を絡め、ギッと手錠の形に固めた。妹達の腕と腕をつなぎ、そしてその端を電灯にかける。
これで恐らく逃げられないだろうと思えた。戦闘能力で及ばないのを理解しているからか、妹達は抵抗しなかった。
それを見届け、美琴は近くにある公衆電話のボックスに入った。
端末を繋ぎつつ、初春に連絡を取る。もしかしたらもう寝ているかもしれないという危惧は、幸いにして杞憂で済んだ。
「もしもし」
「あ、初春さん。夜分にごめんなさい」
「どうしたんですか御坂さん? もしかして、木山の件で……」
「え? うん、ごめん。それとは違うんだけどさ、ちょっと、助けて欲しいことがあって」
「はあ……」
「ZXC741ASD852QWE863'って符丁、解読できる?」
友達の挨拶をばっさりと前略して、美琴は必要なことだけを聞いた。
初春は急な電話にはじめ戸惑いを見せていたが、暗号解読の依頼をされたのだと悟った瞬間、明晰な回答を瞬時に口にした。
学園都市が暗号のコーディングに使う数式、その解読の仕方、そうしたものを的確に、そして短く教えてもらって美琴は電話を切った。
何か、木山の件について話したがっている素振りがあったけど、今は聞く余裕がない。
それは確かに美琴にとっても重要な話だ。だけど、今は気持ちを割く対象にならなかった。


外をチラリと見ると、美琴の飲み残しのスポーツ飲料に手を出しているようだった。
暢気そうなその三人の態度に、美琴はどこか希望を感じる。
妹達が従事しているのは、別におぞましい実験なんかじゃなくて、たまたまクローンを必要とするような、大したことのない実験に付き合っているんじゃないか。
そうであればいいのにと、そんな希望を抱いてしまう。
一体何をするために、妹達は生み出されたのか。それは知らなければいけないけど、知ってしまうのが怖いこと。
符丁の解読が終わった。上位権限を持つ適当な研究者のアカウントをハックして、美琴はその計画書に、手を届かせた。
エンターキーをカタンと押すと、計画の要綱を示したらしいドキュメントファイルが、現れた。
「絶対能力進化<レベル6シフト>……?」
タイトルは、あまりに壮大だった。レベル2の能力者なんて使っても、どうにも届きそうにない。
まだ能力者のクローンを軍事転用する量産能力者計画<レイディオノイズ>のほうが現実味があった。
騙されているのではないかというような、半信半疑な気持ちで美琴はディスプレイをスクロールした。
だって、こんなタイトルを誰が真に受けるというのか。
――――実現するとしたらどれほどの犠牲が必要なのか、想像すら出来ないこんな計画を、一体誰がやるというのか。


優しい現実なんて、そこにはなかった。行を読み進むごとに、美琴の舌は乾いていく。
学園都市の掲げる大目標の一つである、絶対能力<レベル6>の超能力者の輩出。
その高みに届く能力者はただ一人、学園都市第一位、一方通行<アクセラレータ>のみであると、樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>がはじき出した。
通常の時間割<カリキュラム>では250年という非現実的な時間を要するため、戦闘による能力の成長促進を試みる。その相手は、第三位、超電磁砲。
しかし超電磁砲を持ってしても進化には128回の殺害数を要し、当然128人の御坂美琴を用意できないことから、その代替として、妹達を使う。
計画のために生産される妹達は20000体。その全ての殺害をもって、計画の完了となる。
――――そんな、計画だった。


「ハハ……さすがにこれは、嘘でしょ。こんな無茶苦茶なこと、できるわけ、ないわよ」
どさりと、電話ボックスの壁に背中を預けて、ずるずるとへたり込んだ。
透明の壁の向こうから、妹達がこちらを見ていた。
ジュースに興味を示して、なんだか可愛げだって感じられたような、そんな気がしたのに。
殺されるために合成されて、それを理解したうえでああして実験に赴いているのなら。
分からない。さっぱり分からない。無表情なその目は、もう無機質にしか見えない。
美琴が普段飲むジュースと同じものを飲むその生き物が、美琴には受け入れがたかった。
フラフラと、電話ボックスを後にする。
「ねえ」
「なんでしょうか、とミサカは問いかけに応じます」
「アンタは、一方通行に殺されるために、ここにいるの?」
「……計画書を読まれたのですね。それでは、隠しても無意味ですね」
「質問の答えは、イエスです。私達は絶対能力進化の一実験を実施するための部品ですから」
淡々とした返事を、ミサカたちは返した。
「なんで……。なんでアンタ達そんな平気な顔してんのよ!」
「どうしてと言われても。我々は単価18万円で替えの利くものですから」
「試料など、1グラム1万円、1ミリリットル1万円の世界でしょう。それに比べれば我々は使い捨てに向いています」
「そんなの!」
重さで価値などはかれるものか。それなら人より象は高潔だとでも言うのか。
「我々には人生がありません。知己もいません。社会性を持たない我々は、ある種の定義でいえば人間ですらありません」
「それにもう、およそ1万体が消費されています」
「え?」
いちまん、たい――?
計画は二万体を製造し、全てを殺害するとしている。
よく考えれば、この目の前の三人が、実験に投入される第一号だなんてことは、むしろ考えにくい。
すでに何人か死んでいたって何もおかしくないのだから、一万人の妹達が死んでいても、おかしなことはない。
でも。
そんな論理的な答えと、美琴が受け入れられる答えは、違う。
一万なんて数はもう想像できる数字ではない。そんなにも沢山の妹達が、死んだ?
――――違う。私が、殺した?
あの日優しげな研究者と交わした握手。病気に苦しむ子供達のために、美琴は自らの遺伝子マップを提供した。
それが、今日、今に繋がっている?
「そんな、なんで」
すっかりと馬鹿になってしまった美琴の精神に、泥水でも流し込むように、重く苦しい気持ちがせりあがってくる。
取り返しのつかない過ちをしてしまったのではないかと、そんな思いに窒息しそうになる。
だけど、どこかで美琴はその最悪の事実を受け流してもいた。規模が大きすぎ、実感がわかないせいだ。
その美琴の硬直を、妹はどう受け取ったのか。
「この後どうされるつもりかは存じ上げませんが、お姉さまが介入したところで計画が変更されることはありません、とミサカはお姉さまが無駄なことをせぬよう事実をお伝えします」
飲み干した缶とペットボトルを、妹達はゴミ箱に捨てた。
そして思い出す。なぜ、妹達はこんなところにいる?
「アンタ達。今から『実験』に行くつもり――?」
時計を見た。定刻はもう、過ぎている。美琴がみたこの計画書が真実なら、歩いて二三分のあの廃車場にはきっと、一方通行が待っている。
妹達を殺そうと、待っている。
「行かせない」
「お姉さま?」
「アンタ達なんて好きでもなんでもないけど。目の前で、死なせたりなんてしない」
一万人という響きを、美琴はどう受け入れたらいいか分からない。だけど、目の前の三人は、話をして、ジュースを奢ってやった相手だ。
このまま枷を放さなければいい。抵抗されれば電流で手足の自由を奪ったっていい。
その間に計画を止めればいいのだ。第三位(じぶん)が、第一位(あいて)と戦って。それは勝率五分の試合ではないかもしれないが、そんなこと今はどうでもいい。
計画書の末尾にあった、妹達の殺害レシピの参考例。どれもこれもおぞましくて、気が狂っていた。
そんなものにこの子達を晒す事なんて、まっぴらごめんだ。
妹達を牽制するように手をかざした美琴に、しかし妹達は僅かに躊躇うような雰囲気を見せた。
「お姉さまの決意に水を差して恐縮なのですが、とミサカは前置きをします」
「え?」
「今日の実験はすでに半分ほど終了しています。我々は先ほどより、お姉さまの足止めを担当していました」
「我々はまだスペアが充分ありますから、明日の投入予定だった個体を繰り上げで投入したということです」
合理的だった。残り一万体もいるのなら、何も今日、この三人が実験に立ち会う必要はない。どの妹も全く同じスペックなのだから。
美琴に掴まったあとにわざわざ振り切って実験に向かったりなど、する必要がないのだから。
誰か別の個体が、一方通行の『実験』に付き合えばいい。
それはシンプルで明快な答えだった。

「嘘」

美琴は三人を置いて、廃車場へと駆け出した。
全力で走ってもかかるその一分が、もどかしい。
意識を向ければ、確かに揺れ動く、戦闘用の出力らしい電磁場の変化。
不自然にふっと途切れたその変化の波は、誰かがまるで事切れたかのようだった。

こんなの、やめてよ。
冗談だって誰か笑ってよ。
妹達にジュースを奢って、暢気に調べものなんかしたりしたその裏で。
私のせいで、妹達が死んだなんて。



[19764] ep.4_Sisters 02: 序列の差
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/10 11:08
乱雑に積まれた廃車の上に腰掛けて、一方通行<アクセラレータ>は地上を見下ろす。
「あー、今日はだいぶ散らかしちまったなァ。ま、俺が掃除するンじゃねえからいいンだけどよ」
遮蔽物の多いここでの三人同時襲撃というのは趣向としては悪くなかった。
重火器を手に同期した動きを見せるあちらに対し、こちらは無手で一人。
「く……」
足首から先を失って地面に這いつくばった妹達の一人が、一方通行に良く見える場所でうごめいていた。
骨も動脈もむき出しの傷からはオイルのように血液が流出していく。
一方通行はその様子を見て軽くため息をついた。
今日の三人はこちらの『反射』を上手く回避した立ち回りを演じてきたが、一人が落ちてから瓦解までは一瞬だった。
「なァどうする? 俺はもうオマエから学ぶモンなんてないしな」
「……?」
「アリを一匹一匹丁寧に潰すってのもよォ、いい加減飽きンだよ」
そういえば通り道にあった自販機には今週のローテーションにしているコーヒーがあった筈。
それでも飲みながら帰るかと思案する。一方通行の頭の中はすでに実験は終了していた。
「ミサカはまだ戦闘能力を喪失してはいませんが」
「そォは言っても、オマエ、何してくれるの?」

体勢すら整えるのに苦労をしながら、最後に残ったミサカが自動小銃を一方通行に向ける。
ゆらゆらとぶれながらその照準が合うのを、一方通行は優雅に待った。
自身の能力である『反射』は、銃弾の持つベクトルなどまるで意に介さない。
綺麗に軌道を演算して、元の銃口にお返ししてやることすら造作ないのだ。
カチンと、ミサカが引き金を引いた。
ただし銃のではなく、一方通行の近くに隠して設置した可塑性(プラスティック)爆薬のトリガーを。
「おォ、ソッチからかよ」
バァァァン! と人気のない一帯に騒音が弾け飛ぶ。木の板を叩いた音を鼓膜が破れそうな音量にした感じだった。
その爆風を受けて、一方通行はふわりと舞い上がる。もちろん爆風の持つエネルギーを全て受けていれば一方通行ははるか先まで吹き飛んだはずだった。
だがミサカは爆風一つで一方通行が戦闘不能になる可能性など全く考えていなかったように、小銃の照準を滑らかに空中の一方通行に合わせた。
そして今度は、小銃の引き金を躊躇いなく引く。
バババ、と断続的な炸裂音が始まった次の瞬間、手にした銃は弾け飛んだ。
「俺の計算能力を上回りたいンだったら、場をもっとグチャグチャにしねえとなァ」
そう言いながら、一方通行はミサカの残った足の上に着地した。
グギリという骨が砕ける鈍い音。激痛に目を見開くミサカ。
その姿をしばし鑑賞して、一方通行は悩む。
「まあ、ここまで来たし殺ってやるけどよォ、どんな殺やれ方がオマエの好みだろうなァ」
血流を全部逆流させて殺すのはもうやったことがある。
このまましばらく待てば恐らくあちらから電撃の矢でも飛ばしてくるだろう。
それを反射して絶命されるのは面白みがなかった。
「あァ、体を流れてる生体電流を変えて遊んだことはまだなかったな」
優しい手つきで、一方通行はミサカの腕に触れた。
――――その瞬間。闖入者の存在を知らせる、カッカッというローファの足音が近づいてきた。




さっきと、匂いが違う。
操車場を目前に、美琴が思ったのはそれだった。
鉄臭い匂いと、名状しがたい獣のような匂い。
そして突然の、耳をつんざくような轟音。
明らかにそこは、30分前に自分がいた場所とは、違っていた。
「何、コレ――――」
積み上げられた廃車が視界を遮らないところに出て、美琴はそこを見た。
頼りない電灯の光が、はっきりとした情報を映してはくれないけれど。
常盤台の制服を着た、自分に良く似た、いやさっき会った三人に良く似た髪の色をした誰かが、地面に転がっていた。
誰一人として、ピクリとも動かない。
それはそうだ。転がるその子達は誰一人として五体満足ではなくて、どう見たってこんなの、生きていやしない。
「あン? 処理係か。まだ終わってないうちから来ンのは初めてだな」
「え……?」
視界の目の前にいたのに、美琴は今はじめて、その男に気がついた。明かりが逆行になって表情は良く分からない。
だけど、線の細い体格に真っ黒な服を着込んだ、若い男だというのは分かった。
「まァ待たすのは悪いしよ、さっさと殺るか」
「あ、ぐ……あ、うあぁぁぁぁぁっ」
「ちょ、ちょっと止めなさいよ!!」
「あ?」
「止めろって言ってんのよ!!」
美琴は勢いに任せて、その男に雷撃を飛ばした。人に当たれば後遺症を残すレベルだった。
しかし目の前の男は、それを意に介さない。
一方通行に踏みつけられた妹は激痛に目を見開き、涙腺が壊れたみたいに涙を流している。ビクンと体が震えるたびに、折れた足が不自然に揺れ、足首をなくしたほうの足からはダラダラと血が溢れた。
そんな、おぞましい光景を生み出しながら、目の前の男はごく平静な様子だった。

「おいおい。止めろってオマエ何様だよ。っつーか、オマエラこそこれを希望してるンじゃないのかよ」
「こんなこと、望んでるヤツがいるわけないでしょうが! アンタ、頭おかしいの?」
「イカれてンのは学園都市の上の連中だろ。……オマエ、他のヤツと随分違うな」
「何を言って――」
「まァいいや。とりあえずコイツで遊ぶのは満足したしな」
もう一度、男が妹に触れようとした。
「止めなさい!」
美琴はもう能力に制限をかけなかった。後のことだとかに気を使う平静さは無かった。
磁力で集めた砂鉄の剣を地面から引き抜く。そして躊躇い無く妹に伸ばす男の手に振り下ろした。
高周波振動のブレードはたやすく腕を切り――――裂かない。
「え?」
「面白い能力の使い道だなァ。いいぜ、そういうの。でもこの俺を相手に近接戦はいただけねェよ」
あっさりと砂鉄は美琴のコントロールを離れた。
そしてぬるりと、男の手が蛇のように美琴を狙った。
それに本能的な恐れを感じて、美琴は崩壊しかけた砂鉄の剣を幕にして、男の視界を遮った。
そしてバックステップで至近距離を脱した。
「悪くない判断だな」
息つく暇を美琴は与えなかった。自動車なんて鉄塊みたいなものだ。
この廃車場には、美琴が弾に出来るものが山ほどある。
美琴は妹の位置を計算しながら、三台の軽自動車を砲弾にして目の前の男に突っ込ませた。
男は避けるほどの身体能力を見せなかった。特に何もアクションを起こさず、静かに自動車は男に突っ込んで。
「……? この出力、オマエ」
「――――ッ!! くあ、あぁぁっ!」
次の瞬間、美琴に向かって飛んできた。渾身の力で電場を歪め、その質量弾を横に逸らす。
噛み締めた奥歯が痛い。ハァハァと美琴は荒い息をついた。
「砂鉄の剣にこの大質量のコントロール。どう見てもレベル2や3じゃねぇよな。そっかそっか。俺は勘違いしてたってワケか」
実験結果を眺めるように腕組みをして男は頷くと、美琴の中身を覗き込むような目で、呟いた。
「オマエ、オリジナルかァ」
ニィ、と目の前の男が笑みを深くした。ゾクリとする爬虫類じみたその表情に、美琴は半歩後ずさる。
次は美琴をおもちゃにするつもりなのか、一歩、男がこちらに近づいてきたところで。
不意に男の視線が後ろにやられた。
「待って下さい。一方通行」
「お姉さま<オリジナル>との戦闘は計画の大幅な修正を必要とします」
「突発的にそれを選択することはむしろ障害となりますので、ここは手を引いてください」
「それに本計画ではお姉さまを投入することは見送られたはず」
「世界にたった一つしかいない人間を無闇と消費することは赦されないことでしょう」
男は面倒くさそうな顔をした。美琴を足止めしていた三人の妹達が追いついたのだった。
男は妹達のリレー方式で喋る癖が嫌いだった。
「今日はすでに実験に投入する個体の変更をしています。これ以上、計画を変更すれば樹形図の設計者による大規模な再演算が必要となりますから、計画遂行上の障害となる、お姉さまとの戦闘は容認されませんとミサカは詳細に事情を説明します」
「チッ。はいはい分かった分かりました。ちょっとからかっただけだってェの」
いたずら心を先回りで牽制された子供みたいなすねた口調で男は妹達に従った。
その様子に満足したのか、妹達が次は美琴のほうを向いた。
「お姉さまも、速やかにここを立ち去ってください。我々はこれより死体の処理をしなければなりませんので」
「処理、って……アンタ達はコレ見て何も思わないの? こんなの、絶対おかしいわよ……」
「そうは言いますが、これは学園都市が主導する計画のひとつですが、とミサカは客観的な評価を口にします」
言葉が、通じない。絶対に、普通の人間ならこの状況をおかしいと思えなければいけないのだ。
目の前にいる妹達みたいに、自分と同じ姿をした死体が転がっている現場を見て平然としているなんて、ありえないのに。
妹達の一人が現場の隅から、寝袋みたいな袋をいくつか取り出した。
「ところで一方通行。貴方に課せられた今日の実験はまだ、終わっていないようですが? とミサカは確認をとります」
「え?」
さしたる感慨を持たぬ目で、妹達は這いつくばる自分の分身を見つめた。
痛覚をつかさどる神経を流れる電流を、いつもの数百倍流されて悶えてはいたが、両足首から先を失ったミサカは、まだ絶命していなかった。
「あァ、殺さないと実験が終わらないンだよな。この規則は変えられないのか。興が殺がれた日に後始末をするのはかったりいンだよなァ」
美琴を無視して、男が傷ついた妹に、近づいた。
美琴はその足取りを遮るように数歩踏み出し、そっと、ポケットからコインを取り出した。
人にそれを向けたことは、どこかの馬鹿を除けば、一度もない。
「止めなさい」
「あ? 指図される謂れはねェよ。オマエの妹も皆賛成だぞ?」
「知らないわよ。こんなことして平気なあなたもこの子達も頭がおかしいのよ」
「凡人よりネジが飛ンじまってるのは否定しないけどよォ、オマエ、部外者じゃねえか」
「この子達の姿を見て、部外者で私はいられないの」
「あー、そうだよなァ。さすがに俺も自分のクローンがこンな消費のされ方してたら気色悪ィな。分かるよ」
うんうんと頷く男の態度が、酷く美琴の癇に障る。
クローンを作られることになった美琴の浅はかさを揶揄しているのは明らかだった。
「まァでも、俺がレベル6になるには、コイツラを使って実験しなきゃいけないンだよ。悪いが、止められねェなァ」
見せ付けるように男はゆっくりと妹に手を伸ばした。美琴の目を見ながら、美琴の理性の減り具合を確かめるように。
ニタニタとした笑み。人を一人殺すのに、どうしてそんなに微笑むんだ。妹達だって、普通に生きられる、普通の人なのに、なんで。
ぷつんと美琴は何かが振り切れるのを感じた。心の中の引き金を、ガチンと引いた。

「止めろって言ってんのがわかんないのかあっっ!!」

コインに先駆けて、男のこめかみまでの空気をイオン化する。
雷のような曲がりくねった大気の電圧破壊ではない。
整然と伸びた二本の直線、それはまさにレールと呼ぶにふさわしい。
数メートルの加速台一杯一杯に自分と言うコンデンサから絞れるだけの電流を絞り出して、美琴はコインを加速させた。
人の認識速度を優に超える音速を獲得し、コインは急激な摩擦を持つ。
そして温度の四乗に比例して周囲に赤熱を撒き散らしながら、美琴の奥の手、『超電磁砲』は目の前の男に襲いかかった。
男に訪れる結果のことを美琴は考えなかった。

――――直後。美琴は自分の耳元で、キュインという、風を切る音を聞いた。

チリチリと髪と頬が熱風に当てられたような感覚を伝えている。
視線が僅かにその軌跡を捉えていた。男に直撃した瞬間、跳ね返った超電磁砲の軌跡を。
結果は何より雄弁だ。死んだっておかしくないはずの男が、先ほどとかわらず立ち尽くしている。
「そん、な」
歩みを止めることすら男はせず、そしてつま先で瀕死の妹を小突いた。
ただの蹴りではなかったのだろう、地面から浮き上がるくらいにビクリと妹は震えて、仰向けに転がった。
真横を向いた顔を見ると、血も涙も、あらゆる体液を垂れ流しながら、目をかっと開いていた。
妹が今まさに死んだのだと、悟るのに何の無理もない有様だった。
「嘘……でしょ」
「なァ。今の確か、オマエの必殺技だよな。……いや、悪ィな。自信喪失なんてさせるのは申し訳ないなァ。でもまさか、第三位の必殺技がそんなシケたもンとは思わねェだろ?」
蛇が忍び込むように、その男の声は美琴の心に絡みつく。
今のは一番、自分の持っている応用の中で殺傷力の高い技だった。だからその名を自分は冠しているのに。
まるで、その男は意に介さなかった。ただの一般人なわけがない。美琴は相手が誰なのか、どうしようもなく理解していた。
気がつくとカチカチと美琴の歯が音を立てていた。
足が現実を支えていられなくなって、その場にへたり込んだ。
「実験は終了しました。これより現場の処理を行います。一方通行。速やかに退出してください。お姉さまも」
「了解っと。なンだ、そう落ち込むなよ。俺も今日はかなり楽めたからなァ。ああそうだ、自己紹介がまだだったな」
汚れ一つない男が、美琴に近づいてきた。それを、美琴はどうすることも出来ない。
色素の薄い髪と肌、気色の悪い赤色の目。そんなものを美琴の視界一杯に映して、そして忘れられなくするように、耳元で囁いた。
「学園都市第一位、一方通行<アクセラレータ>だ。ヨロシク」
それだけ告げて、揚々と一方通行は引き上げた。
呆然とする美琴の前で、妹達が、死んだ妹の部品をかき集め、無造作に袋に詰め込んでいく。
自分の体に流れているものと同じ血が辺りを汚しているのを意に介さず、薬品で淡々と洗浄していく。
美琴は、崩れていく自分の世界を修復することすら出来ないまま、ただ呆然とするほかなかった。




「み、光子。……ちょっと、くっつきすぎじゃないか?」
「そんなこと、ありません。ふふ、当麻さん」
ラッシュアワー直前くらいの時刻。
当麻の二の腕にべったりと抱きついた光子にやや戸惑いながら、当麻は駅前を歩いていた。
光子が上機嫌なのは、実に一週間ぶりの外出だから。
光子はちょうど一週間前、ポルターガイストに巻き込まれ、『自分だけの現実』が歪んでしまったため、テレスティーナ率いる先進状況救助隊(MAR)の研究施設兼病院に入院した。
主治医の主張ではまだ経過を観察する必要があるとのことだったが、精神的にも肉体的にも堅調で、どうもポルターガイストに巻き込まれたレベル4を研究したいという彼らの都合のせいで、不等に入院期間を延ばされているような印象が拭えなかった。
そして昨日の夜、急に黄泉川が光子に早期退院を勧めだし、今日、退院に向けて動いているのだった。
光子は早朝に迎えに来た当麻と一緒に、以前世話になったあのカエル医者の病院に赴き、すぐさま退院して問題無しと言うセカンド・オピニオンを受け取ってきたところだった。
「ああ、それにしてもこれでやっと退院できますわ! 一緒に暮らすとインデックスと約束しましたのに、一週間も先延ばしにしてしまいましたし、本当、いい迷惑でしたわ」
「そうだよな。デートとか、する機会も減っちまったしな」
「もう、当麻さん。そういう嫌なことはもう思い出したくありません」
「ごめん」
悪態をつきながらも、光子の機嫌はすこぶるいい。
「当麻さんと二人でこうして歩くの、何日ぶりかしら」
「考えたら、インデックスが来てからはそんな時間、一度も取れなかったんだな」
「そうですわ。夏休みに入ってからこれが初めてですのよ?」
「……俺が悪いわけじゃ、ないぞ?」
「それはわかっていますけれど」
せっかくの当麻とのデートなのに、急な出来事のせいで碌なお洒落もできず、代わり映えのしない常盤台の制服を着ざるを得なかったのがちょっと不満だった。
「あ、そうだ。光子が退院できそうなら、昼からインデックスと合流するか?」
「え? あの子は確か、今日はエリスさんと遊ぶ予定をいれてましたわよね」
「そうそう。一人で電車乗り継いでな。そのために携帯まで持たせたし」
当麻と光子の携帯となら無料で通話の出来る、一番安い携帯だった。
渡されたとき、インデックスはまるで爆弾の起爆装置でも持たされたようなおっかなびっくりの態度をしていた。
「それじゃ、エリスさんはどうしますの?」
「どうするつもりかよくは知らないけど、まあアイツのことだから、エリスも含めて、俺達四人で遊ぼうって魂胆なんじゃないか?」
「はあ。……そんなにエリスさんとは、私親しくないんですけれど」
光子の入院中に当麻が親しくなった女の子だ。本人の気質とは別に、それが引っかかっている光子だった。
「まあ、これからあっちの病院でひと悶着あるだろうし、実際に遊ぶ余裕が出来るのは昼からだろうな」
「そうですわね。でも、悪いのはあの主治医の方ですもの。私、一歩も引き下がるつもりなんてありません」
早朝にここにいるのは、MARの医者達の目を盗んで抜け出したからだった。
他の医者の判断を求めるなどと言えば、あれこれと文句を言って足止めされるだろうし、時間も掛かる。
そして反則技を使った反動で、病院に戻れば紛糾するのは想像に難くなかった。
「んじゃ、その辺のことインデックスに伝えてやらないとな。さすがにもう起きてるだろ」
「あ、当麻さん。私が電話しますわ。インデックスが慌てるところを、私も見てみたいですから」
二人で意味ありげな笑顔をかわした。
インデックスは最新機器にすこぶる疎く、電話をかけると面白い反応をするのだった。
光子が携帯を取り出し、耳に当てた。駅の建物内に入ると電話はかけづらい。
光子はビルの手前で立ち止まり、インデックスと会話を始めた。
当麻も隣で漏れ聞こえる声に反応していたのだが、ふと、駅から続く歩道橋に見知った女の子が座り込んでいるのに気づいた。
いつも元気で、気丈な御坂美琴。
まばらな人通りから取り残されて、ぽつんと一人ぼっちに見えた。




あれから、廃車場を立ち去って一体どうやってここに戻ってきたんだったか。
惰性でいつも自分が歩く町へ、日常へと戻ってきたくせに、自分の部屋に戻る気になれなかった。
時計は持っていない。携帯はポケットにあるはずだが、取り出すのも億劫だ。
ぼうっと、こうして歩道橋の花壇に腰掛けて早朝からどこかへ向かう人たちを眺めていると、日常の世界にいるはずなのに、隔絶されたような、取り残されたような気になる。
……そんな表現がしっくりくる。なんてことはないはずの普通の日常の裏に、あんなものがあるなんて知ってしまった今となっては。
「朝、か……」
いい加減に行動を起こさないと、教師の見回りが始まって、面倒なことになる。
だが、この期に及んで日常を取り繕う必要があるのか。
そんなことをしたって、あの地獄は、きっと今日も明日も関係なくやってくるのだろう。
いっそ、関わらなければいい。妹達は美琴のクローンだが、他人も同然だ。
美琴が何も干渉しなければ、きっと妹達は淡々と消費されて、何も無かったかのように実験は終わるだろう。
それなら、もうそれでいいじゃない。
その弱気は、きっと美琴らしくない。自分は絶対にそんな風に割り切れなくて、ずっと気に病むに決まっているのだ。
だったら助けに行けばいい? それこそお笑い種だ。第三位なんて冠をかぶっていても、第一位にとってはゴミ同然の実力だった。
努力だとか、そんなものでひっくり返せないと思うくらい、それは圧倒的な差だった。
自分は、助けることも出来やしない。
……結局、忘れることも積極的に問題解決することも出来ない行き詰まりのせいで、今ここにいるのだった。
「夜遊びは楽しかった?」
「え……?」
不意に美琴の前に影がよぎり、声がかけられた。
のろのろと見上げると、顔立ちの整った、大学生くらいの女の人。
ミニのワンピースにニーソックス。軽くウェーブしながら腰まで伸びる長い髪。
ベビードールみたいに胸の下をきゅっと絞ったデザインで、豊かな胸を強調していた。
知り合いではなかった。濁った美琴の頭は、ただぼんやりとその女の人の笑顔を見つめた。
「私が貴女に招待状を送ったのよ。やっぱり自分のことだから、知っておきたいかなって思って」
「え……」
一体、誰?
差出人の「妹達」というのが、嘘だったということだろうか。
でもそれなら、一体この人は、どうやってあの計画を知った?
「ったく。あんな程度でこんなに脳味噌バカになんのかよ? 元が緩すぎんじゃねェのか?」
見下ろす目が、はっきり嘲りを含んでいた。
その悪意で美琴の警戒心がマウントされた。
「……あなたの目的は何?」
「んー、面白半分かな」
「趣味が悪いのね」
「テメェほどじゃねえよ。ホイホイと遺伝子マップを渡して学園都市に弄んでもらうほどマゾじゃない」
「っ!」
「おいおい黙るんじゃないわよ。もうちょっと歯ごたえ見せるかブザマに泣きじゃくるかしろよ」
「もう一度聞くわ。あなた、何者?」
「内緒だよん。あれだけ重要な情報を教えてあげたんだもの。これ以上は簡単には教えてあげない」
「……力づくで聞きだしてもいいけど?」
「やだ、怖ーい! 第三位の本気なんて怖いわ。――まあ、第一位<アクセラレータ>には蟻みたいな扱いをされる程度みたいだけど」
言葉の端々で、美琴の傷口が足で踏みにじられる。
そのたびに敵意で奮い立たせた意識が、折れそうになる。
「それで、これからどうするの?」
「あなたには関係ないわ」
「そうでもないんだけど、まあいいわ。勝てないけど足掻くってトコかしら? 泣かせるわね」
「イチイチ五月蝿いわね。それこそ第三位の本気ってので黙らせて欲しいわけ?」
「やってみろよ。優等生の立場を捨てて駅前テロやる気なら付き合ってあげる」
虚勢ではないように思えた。
目の前の女は、自分と、少なくとも絶不調の今の自分となら互角に遣り合えるのだろう。
「ま、超電磁砲<レールガン>から白星拾っとくのも悪くはないけど、本調子のを叩かないとね。今日のところは負けてあげるわ。惨めな顔も堪能したし、それじゃあね」
「待ちなさいよ。話はまだ終わってない」
「終わったわよ。私に構うより、助けてあげたほうがいい相手がいるんじゃないの? そんなこと無理だっていうのは、きっと自分が一番分かってるだろうがな。せいぜいぶつ切りの骨付き肉の生産ペースをちょっと落とすために頑張ってみたら? テメェに出来るのはその程度だろ?」
目の前の女の揶揄で、美琴は足をすくませてしまった。女が怖かったからではない。
自分が見殺しにした妹達、その死体が脳裏でリフレインして、泥沼に使ったように動けなくなった。
この女が言うことは、きっと正しい。実験を根本的に止めることなんて、美琴には、きっと。
どうしようもなく、妹達の死体が増えるのを毎日数える以外にない、それが美琴の、絶望だった。


「おーい、御坂?」
「あ……」
知り合いの男子高校生の声が、不意に美琴の耳に触れた。


「あら、彼氏でも呼び出したの? 男に慰めてもらうなんていいご身分じゃない。まあいいわ。私はもう用はないし――――そうそう。テレスティーナをあまり信じないことね。あのアバズレも関係者と言えなくもないし」
当麻がこちらへ近づくのと合わせて、目の前の女が反対方向に立ち去った。
女を追っても別に良かった。だけどそうすればきっと、当麻はついてくるだろう。
正体不明の女、こちらに近づく当麻、そして突然聞かされたテレスティーナの名前。
どれから片付けるか迷っているうちに、女は視界から消えた。



[19764] ep.4_Sisters 03: 私が、知らないだけだった
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/13 00:30
長髪の女と入れ違いに、あのバカはやってきた。
「よう、御坂」
「……なんでアンタ、こんなトコにいんのよ?」
会いたく、なかった。美琴にとって当麻は幸せな日常の一ページに登場する人だったから。
自分は、とてもそんなところに戻れるような人間じゃないと思うのに。
当麻という人と言葉を交わすようなことは許されないはずなのに。
「朝早いのは事実だけど、別に歩いててもおかしいような時間じゃないだろ。それより聞きたいのはこっちだ。常盤台の学生は外出時も制服着用だろ? お前その格好、どうしたんだよ」
美琴が身につけているのは体の動かしやすいタイトなTシャツと短パン。そして顔を隠すキャップ。
お洒落をしているようには見えないし、何のつもりの服装なのか当麻には皆目見当がつかないだろう。
「常盤台の決まり事を知ってるとかストーカーか何かなの?」
「ひでえ言い草だなおい。で、どうしたんだ」
「なんでもないわよ。別に――」
「また夜更かしか? 人のことは言えた義理じゃないけど、結構夜は危ないぞ」
「煩いわね。私が何処で何をしようと、アンタにこれっぽっちも関係ないじゃない」
「いや、あるだろ」
何も聞いて欲しくなくて突き放した美琴の言い分を、当麻が真顔で否定した。
「お前知り合いが夜な夜などっかに繰り出してて、心配しないのかよ?」
「さあね。少なくとも私の心配なら要らないわよ。そこらの無能力者なら何匹かかってきたって相手にならないんだから」
「そういう問題じゃないだろ」
美琴の言い方が気に障ったのだろうか、当麻の声に、咎める響きが混じった。
なんでだろう、大したことのないはずのそれが、ひどく美琴の気に障る
「ああもう! アンタは私の保護者じゃない! 何よ、知った風なこと言わないで」
吐き捨てるように、美琴は当麻への苛立ちを吐き出した。
当麻はその言葉に戸惑いを見せて、嘆息する。
「まあ、お前が言うように俺は大してお前と親しい訳じゃないんだろうさ。俺みたいなのに偉そうに言われちゃ、ムカつきもするか」
「あ……」
自分が突っぱねたせいで、当麻が自分から距離をとった。
バカな話だ。自分でやっといて、寂しいような気持ちになってるなんて。
「ごめん」
「別にいいけど。……俺とお前のやり取りなら、普通こんなところで謝らないだろ? 調子が狂うっていうかさ、なんか、お前が何か困ってるように見えるんだよ。それこそ余計なお世話かもしれないけど、心配しちゃ駄目か?」
いつも会ったときと変わらない、飾らない当麻の顔。
それが優しく見えて、美琴は泣きそうになった。
最悪だ。妹達を地獄に突き落とした自分が、こんな軽々しく泣いて誰かにすがることなんて許されない。
「なあ。聞いちゃまずいことだったら言わなくてもいい。けど言って楽になるなら話してみろよ。昨日の夜何やってたんだ? もしかしておねしょでもして白井のヤツに嫌われたか?」
「……」
せっかく軽口で美琴を挑発してくれたのに、美琴は当麻に何も返せなかった。
そんな出来事だったならどれほど幸せだろう。数時間前の記憶に、白井は出てこない。
バラバラでグチャグチャの妹達と、その肉片を無表情に拾い集める妹達と、そして、一方通行。
そして、眺めることしか出来なかった自分。
生々しい鉄臭い匂いがまだ鼻にこびりついている。
拭ったはずなのに、自分が吐き戻した胃液の匂いが服から漂っている気がする。
そういった話を全部、当麻にぶちまけたら。一体どんな顔をするだろう。
信じてもらえず笑われるか、それとも距離をとられるだろうか。
「アンタさ、もし取り返しのつかないくらいの迷惑を誰かにかけたら、どうする?」
「え?」
迷惑と比喩した自分の言葉を美琴は冷笑した。
迷惑なんて程度で済むような、可愛げのあるものだっただろうか。
「相当重いのか」
「例え話よ、あくまで。……絶対に弁償とか無理なレベルの、そういう迷惑」
「やらかして後悔してるのか?」
「……うん。すごく」
「謝って済むのか?」
「それはない。そんなレベルじゃないって話」
「……行き詰ってるな」
「そうね」」
行き詰ってないなら、御坂美琴はなんだって解決できるのだ。それだけの能力あるしも努力もできる。
綺麗でもない花壇の縁に、美琴は再び腰掛けた。自分のほうがもっと汚いから、服に土がつくことは気にならなかった。
その美琴をじっと見つめた当麻が、問いかけを続ける。
「お前一人じゃどうしようもないのか」
「なんで私の話になってんのよ。アンタが一人じゃどうしようもないことをやってしまったらって話」
「そうだったな。なあ、知り合いに助けてもらうのは無しなのか?」
「そんなの。許されないでしょ。誰に言ったって責められるくらいの大失敗してるの」
当麻が首をかしげた。納得の行かない顔をしている。
それはそうだろう。こんなどうしようもない設定の問題を与えられたら、誰だってああなる。
美琴はそんなふうに当麻の表情の意味を推し量った。だが当麻が納得行かないのはそこではない。
「なんか、良くわかんないな」
「何が?」
「誰かに助けてもらうのは無しなのかって質問に、許されないって答えるのは答えになってないだろ」
「え?」
「絶対に一人じゃ取り返せない失敗をしたのに、一人で何とかしなくちゃいけないって、そりゃ設定が無茶だ。知り合いを頼るって方法は駄目なのかよ」
当麻の言っていることは、至極当たり前のことなのかもしれない。
だけど。
「それほどのことをした人間が、誰かにすがるなんて許されるわけないじゃない」
だってそうだろう。馬鹿としかいい用のない脇の甘い善意で遺伝子マップを提供して、
そのせいで二万体もの自分のクローンを無残な死に追いやる自分が、
ひどいことをしてしまったの、なんて誰かに打ち明けて楽になることが許されるものか。
「お前、真面目なヤツだな」
「……え?」


ふっと、当麻が笑った。


「人一倍努力してきたお前はそれでやってこれた、って事なのかもな。自分でまいた種は自分で刈り取らないといけないんだな。お前にとっては」
「……」
「話してみろよ、御坂。一人じゃ取り返しのつかないはずのことが、皆で頑張れば意外と何とかなったりするもんだ。一般論で言ってるんじゃない。確かに、そういうことってのは、あるんだよ」
絶対に一年に一度、記憶を捨てなければいけないはずだった少女を当麻は知っている。その少女今どうしているかといえば、毎日黄泉川の家で暢気に暮らしているのだった。絶望ってのは案外、近視眼的になった人に訪れるもので、広く見渡せば何とかなることだってあるのだ。
そう諭す当麻の言葉を聴いて、美琴は初めて当麻のことを年上だと意識した。
考えてみれば、美琴の親しい相手に年上は少ない。いつも優等生の美琴は、いつだって頼られる側だったから。
……コイツに話して、どうなるとも思えないけど。
でも、話していいかな。それで少しでも楽になって、成すべき事に向き合えるようになれたら、意味はあるかもしれない。
「アンタに何が出来るって言うのよ」
「聞いてみなくちゃ、わかんねえよ。でも一人より二人のほうが、いいだろ」
「アンタにだって背負いきれるような話じゃないわよ」
「それなら、他にも助けてもらおうぜ。それじゃあ駄目なのかよ」
当麻がもう一度、美琴に笑いかけた。
言っても、信じてもらえないかもしれないと思う。話が壮大すぎて冗談にしか聞こえないから。
そして話したところで、どうにもならないに違いない。
話してしまいたくなる心に、美琴は蓋をした。もう、コイツにこんな風に言ってもらえただけで幸せなんだから。
「やっぱいいや。やめやめ」
「え? 御坂?」
「誰かに話を聞いてもらうのがアリってのは、納得した。まあ、その。今アンタに聞いてもらってちょっとスッキリしたから」
一方通行が潰せなくても、できることは他にだってある。
計画を遂行する研究施設や、宇宙(そら)に浮いた無機質の意思決定装置。
壊せば美琴は捕まるかもしれないけれど、そんなのどうだっていい。
「……ま、いいか。今のはいい顔だったし」
「え?」
「お前は笑ってるほうが似合うよ。さて、悪い御坂、実は人を待たせてるんだ」
「何よ。お人よしが過ぎるんじゃないの? ほら、さっさと行きなさいよ」
「おう。それじゃ、行くわ」
「あ、あの!」
「ん?」
身を翻しかけた当麻を、美琴が引きとめた。
その虚勢を張らない、優しい顔に少し当麻はドキリとした。
「その、ありがと。アンタが声かけてくれて、嬉しかった」
「ん。あんまり根詰めるなよ」
「うん」
素直に、美琴は頷けた。当麻の指図なんて一度だって聞かないではむかっていたのに。
それを見てしょうがないな、という感じに笑う当麻の笑顔が優しくて、また少し美琴は優しい気持ちをもらえた。
そして当麻が、いつものペースを取り戻すようにからかうような色を視線に乗せた。
「ところでお礼を言うときくらい名前で呼べないのかよ」
「――え?」
「アンタとしか呼ばれたことないだろ、俺」
軽口を飛ばしあうきっかけのつもりで投げた当麻の言葉は、美琴にとっては剛速球のストレートだった。
だってそれは。上条とか上条さんとか上条先輩とか、どれ一つとしてしっくり来ないのだから。
かあっと頭に血が上る。一番しっくり来る呼び方は、口にするのが恥ずかしいのに。
こんな呼び方、男の知り合いにしたことなんて、ないのに。
「あ、ありがと。と、と、と、とう――――」
「当麻さん? もう、一体どうされましたの?」
美琴の言葉を奪うように、誰かが当麻を呼ぶ声が、重なった。




少し時間は遡って。
「もしもし」
「は、はい! あ、あのこちらindex-librorum-prohibito……」
「インデックス?」
「えっ?!」
なんというか、どう見てもインデックスは携帯電話慣れしていなかった。
インデックスの携帯には明らかに婚后光子の名が表示されていたのだが、それに全く気づいていなかった。
「みつこなの? もう、とうまからしかかかってこないと思ってたから、びっくりしたんだよ」
「ふふ。それはごめんなさい。もう起きてましたの?」
「うん。別に朝は普通に起きられるけど、寝坊したってこの時間にはあいほに起こされるし」
黄泉川家は必ず七時には起きて夜は日付の変わる前には寝ることが義務付けられていた。
「私はあまり朝は得意なほうではないから気をつけないといけないわね」
「もうすぐみつこも一緒に暮らせるんだよね?」
「ええ。そのことですけれど、今別の病院で、退院を許可する診断をようやく貰ってきましたの」
「あ、それじゃ」
「ええ。近いうちに、これで私も黄泉川先生のお宅に間借りできますわね」
「やったぁ! 嬉しいんだよ、みつこと毎日一緒にいられるって」
「ふふ。ありがとう、インデックス。ねえ昼からはどうしますの?」
「これからすぐにエリスの所に行って遊ぶ予定だから、昼から私達もみつこと一緒に遊ぶ!」
「エリスさんは何て?」
「え? まだ会ってないからわかんないけど」
きょとんとしたその言葉に、苦笑いする。携帯電話で打ち合わせをするという考えはないらしかった。
「まあ、もし不都合がありましたら、また夜にでも会いましょう。今日は寮に帰らないといけないけれど、夕食は黄泉川先生の家で頂くつもりにしているから」
「うん! でもせっかくだから一緒に遊びたいな」
「ありがとう。でもエリスさんにご迷惑じゃないかしら」
「え? どうして?」
「だって、あまり私とエリスさんは面識があるわけじゃありませんし」
「大丈夫だよ。エリスはみつこのこといい人そうだって言ってたし。それに最近、彼氏さんが出来たって言ってたから、妬き餅焼かなくても大丈夫だよ?」
「べ、別にそういう心配してるわけじゃありません!」
「ふーん、でもみつこの学校の寮祭で、エリスに妬き餅焼いてたよね?」
「そ、そうだったかしら」
「誤魔化してもバレバレなのに。大丈夫だよ。とうまが好きなのは、みつこだもん」
「もう! そんな風に嬲らないで頂戴」
「えへへ。それじゃ電車の時間があるから、そろそろ行くね」
「初めてなんでしょう? よく気をつけてね」
「うん、それじゃあまたね」
楽しいことが重なったからかはしゃいだ様子のインデックスの言葉を聞き届け、光子は電話を切った。
自分の顔にも笑顔が浮いているのが分かる。
インデックスと三人で過ごせるのも楽しいし、昼までは当麻と二人きりなのだ。
もちろん病院でひと悶着あるだろうことは憂鬱だが、楽しさはそれを補ってあまりある。
「さて、当麻さんを探しませんと」
コールの途中で何かを見つけたのか、ふらふらとどこかへいった当麻を目で探す。
電話をしているにせよ、彼女を放っておくというのはどうかと思う。
大したことではないので怒ることはないが、一言くらいは愚痴を言ってやりたかった。
「歩道橋を上がって行きましたわね、たしか」
カツカツとローファの音を鳴らして階段を上がる。
もう30分もすれば通勤客でごった返してろくに見渡せなくなるが、この時間はまだ人はまばらだ。
まして立ち止まっている人間は皆無だったので、特徴的なツンツン頭はすぐ見つかった。
「当麻さん? もう、一体どうされましたの?」
見ると、誰かと対峙していた。背は低いからきっと女の子だろう。
それだけでもうムッとするものがある。せっかく朝から二人っきりだというのに、また女の知り合いか。
そう思いながら、短パンにTシャツ、キャップで顔の良く見えないその女の子を凝視する。
髪の色で懸念を抱いて、そして光子のかけた声に反応してこちらを見た瞬間、自分の直感の正しさを確認した。
なんで、ここに?
――――光子が一番、チリチリとした嫉妬の炎をくすぶらせている相手。御坂美琴だった。




割り込むように響いた声に、美琴は振り返った。
少し離れたところに、見慣れた常盤台の制服を着た、美琴の同級生がいた。
美琴とは少ししか身長が変わらないのに体つきはずっと大人びていて、その長く綺麗な黒髪とあいまって、ちょっと容姿では負けてるような、そんな気になる相手。
親しいというほどではなかったが、悪い人間でないことは知っている。
つい最近、彼氏がいるという話を聞いた。二つ上の、高校一年の人と付き合っている。
幸せそうにはにかむのが、羨ましかった。
「婚后さん……」
「御坂、さん?」
二人の疑問で満ちた視線が絡み合う。そして次の瞬間、キッと光子の視線が鋭くなったのを美琴は感じた。
美琴はわけも分からず、心に湧いた不安に戸惑うほか無かった。
「どうして、御坂さんがいらっしゃいますの?」
ごきげんようとか奇遇ですわねとか、そんな言葉ではなかった。柔らかさのない、端的な切り口。
どちらかというと婉曲な物言いの多い光子の言葉としては不自然だと美琴は思った。
「み、光子?」
「なんですの、当麻さん。私、ちょっとびっくりしてしまっただけですわ」
光子の声に棘を感じて躊躇いがちに声をかけた当麻に、光子は思わずなじる響きが言葉に篭もったことをはぐらかした。
その二人の会話に、美琴の心は混乱という名の思考停止に陥った。
それは無意識の逃避だった。理解してしまえば、心がおかしくなりそうだから。
だが昨日の夜から、美琴の心は何度も逃避を行い続けている。確かに美琴は自分の心の働きを具体的には理解していない。
だけど、自分が何に直面しているのか、手にかいた汗や急に浅くなった呼吸が、もうじわじわと美琴に悟らせ始めていた。
不安が心の中を染めていくのを、止められない。
「それでお二人で朝から何を談笑してらしたの?」
「え? いや、御坂のヤツ朝帰りらしくてさ」
「さっきいた場所からここまで距離もありますのに、良くお気づきになりましたわね」
「……いや、花壇に座ってる子がいるのが見えて、横顔で御坂っぽいって思ってさ」
「そう、ですの」
光子が、美琴ではなく当麻と話をした。
本来なら、それはおかしなことだ。常盤台の学生とうだつのあがらない高校生の当麻に接点なんてあるわけがない。
だから、光子は美琴と話をするはずなのに。当麻と話なんて、するはずがないのに。他人だから。他人のはずだから。
一方光子が美琴と話さない理由は、嫉妬の矛先を美琴に向けてしまいそうだったからだ。
盛夏祭、常盤台の寮祭で、綺麗なドレスで着飾った美琴が当麻と話してるのを見た。
その二人が親しげで、とてもただの知り合いなんて距離には、見えなくて。
それ以上親しくなって欲しくない、美琴と会って欲しくない、当麻にそんなことは言わないが、光子は内心では、そう思っていた。
理不尽な理由で長い入院をする羽目になって、その間にも当麻は美琴と夏祭りにだって行っていた。
勿論それが二人っきりでないことは知っている。だけど、それでも。
美琴と当麻が二人でいることに、どうしても割り切れない思いを、光子は感じてしまうのだ。
じっと、光子は当麻を見つめた。それで気持ちは伝わった。


当麻は、いつか光子にした約束を思い出す。
――――光子と光子以外の女の子は、ちゃんと分けてる。もっと光子にも伝わるように、努力するから
あの時も、光子を嫉妬させてしまった原因は、美琴だった。


「御坂」
「っ――!」
ビクリと、美琴が肩を振るわせた。その瞳に浮かぶ不安に当麻は戸惑った。
なんだか、大好きなおもちゃを取り上げられた子供みたいな、そんな顔だった。
さらにもう一つ、自分が美琴からおもちゃを取り上げるような、そんな悪者になった気分。
錯覚だ、と当麻は思うことにした。美琴は何か事情があってかなり落ち込んでいる。
直接伝えたことはないが、たぶん美琴は光子が自分と付き合っていることなんて知っているはずだと思うし、別に、今さらだろう。ちょっとくらい惚気たって。
「知ってると思うけど。光子とさ、俺、付き合ってるんだ」
「あ――――」
僅かに照れて、でもどこか誇らしげに。
頭をかきながら当麻は美琴にそう伝えた。
そしてちらと光子のほうを見て、ごく軽く引き寄せた。光子が嬉しそうに当麻の体に寄り添った。
美琴が見つめた光子の瞳の中には、どこか、優越感めいた感情があるように見える。
そのあからさまな構図に、美琴はひどく打ちのめされた。
「御坂?」
「え……?」
「いや、なんか無反応だとこちらもどうしていいか困るっつーか」
その言葉で、自分でも不思議に思う。どうしてこんなに、私はショックを受けているのか。
ただ、知り合いと知り合いが、実は付き合っていましたって、それだけなのに。
慌てて、返事を返す。頭がまるで仕事をしていないから、何を言っているのか自分でも分からない。
「ごめん。その、知らなかったから」
「え?」
「アンタ達が、その――」
その先の言葉を口に出来なかった。きっと口がカラカラに渇いているせいだ。
そういえば妹達にスポーツドリンクを横取りされてから、何も口にしていない。
吐いた口元を洗うのに含んだ公園の水道水くらいだ。
「あれ、知らなかったのかよ。白井と佐天さんと初春さんには話したから、お前もてっきり知ってるものと思ってたんだけど」
「知らな、かったわよ。――――そっか、私が、知らないだけだったんだ」
なんて、自分はものを知らないのだ。
自分は何も知らないで、自分の狭い世界で、あれこれを楽しい思いをしていたんだ。
本当はそんなの、幻想なのに。
「そう。御坂さんは、私のお付き合いしている方が当麻さんだって、ご存じなかったのね」
光子が薄い笑顔で、確認するようにそう言った。
「いつだったか、他の方も交えて好きな人の話までしましたのにね。当麻さんと御坂さんがお知り合いなのは、私もつい最近知ったから人のことは言えませんけれど」
おぼろげにしか美琴も覚えていないが、光子は彼氏のことをどう評していたんだったか。
たしか、「不幸だ」が口癖で、格好よくて、いざという時には頼りになる人。
――――どうしてあの時、疑わなかったんだろう。そんなのコイツのことに決まってる。
「そっか。婚后さんが言ってたの、コイツ――ごめん。この人のことだったんだね」
友達の恋人をコイツ呼ばわりは出来なかった。「この人」なんて、使ったこと無かったのに。
「ええ。私の知っている当麻さんと御坂さんがご存知の当麻さんは、別の顔なんてしていませんでした? 当麻さんはすぐ色々な女性と仲良くなるから、みんな別の顔をしてるのかなんてつい思ってしまって」
「お、おい光子。そんなわけないだろ。顔色の使い分けとか、そういうのはしねーよ」
「そうかしら」
当麻が、妬いた顔を見せる光子の背中に軽く手を触れた。その気遣いは、一度だって美琴に向けられたことはない。
そりゃあ、そうか。婚后さんって彼女が、いるんだもんね。
当然のことか、と嘆息するつもりなのに。ギリギリと締めあがる肺が苦しくて、何も出来ない。
その美琴の内心の動きを知ってか知らずか、光子が思い出したように呟いた。
「そういえば御坂さんにも気になる方がいらっしゃったのよね」
「えっ……?」
「確か当麻さんと同じ、高校一年の方なのよね」
「あ、あ……」
あの時、光子が惚気話をした隣で、自分は誰の話をしたんだった?
好きな人の話ではなかった。何度も自分はそう断った。
でも、自分は、誰のことに言及したのだったか。
光子は、気づいていないのだろうか。美琴が、他でもない自分の恋人である当麻の話をしたことに――――
「お! 御坂、お前好きなヤツいるのか?」
隣の当麻が、面白い話を聞いたという顔をした。
それが、たまらなく悲しい。そんな人、いるわけないのに。
どうして、よりによって当麻が、そんな風に聞くのだ。
「御坂さんは頑なに否定されていましたから、本当のところはどうか分かりませんけれどね」
光子はさっきからずっと、美琴の表情を見つめていた。
もう、美琴が誰を好きなのか、全部分かっている。
美琴はあの時、おせっかい焼きの正義の味方気取りと言った。そして、当麻の前で美琴は、恋をしている女の子の顔をしている。
……光子は今この構図を、気の毒だとも、申し訳ないとも思わなかった。
当麻は、自分のものだ。美琴になびくなんて絶対に許さない。当麻の気を惹くなんて、絶対に許さない。
二人の間に何かが起こる可能性が目の前にあったら、それを摘み取ることに光子は躊躇いなんて無かった。
「あれから御坂さんはその殿方と進展はありましたの?」
あ、は、と美琴は自分の吐息が震えるのが分かった。
何でかわからない。今まで、ずっと言ってきたことを、ただ繰り返すだけなのに。
口ごもる美琴を見て、光子は情けをかけることを、止めた。
「あの、間違っていたらごめんなさい。御坂さんの話に出てきた殿方って、もしかして」
「っ!」
「でも、御坂さんは確か好きっていうのは否定されてましたわよね」
「光子? 話が良く分からないんだが」
もう、やめて。聞かないで。
そう当麻に言いたかった。言えなかった。
「その……御坂さんの話に出てきた方が、当麻さんみたいな方で」
「え?」
当麻がその意味を理解しようと、頭を捻る。
美琴に好きな人がいるかもという噂話があった。話に出てきた懸想の相手というは、高校一年生らしい。
そして自分はこの二ヶ月、何かと美琴と会うことが多かった。
それは、つまり……?


「ち、違うわよ! だからあれは黒子の勘違い! 私が、コイツのことなんて、好きなわけないでしょ!」


もう、そう言うしかなかった。それ以外の逃げ道が美琴に無かった。
……いやその理屈はおかしい。実際、自分はこのバカのことなんてなんとも思ってないんだから、
婚后さんのためにもちゃんと否定してあげるのは、正しいことのはずだ。
「やっぱり、白井さんの早とちりでしたのね。あの方は御坂さんのこととなると冷静でいられなくなりますものね」
困ったものだというため息交じりの笑顔で、光子が美琴の言葉に同意した。
当麻がそれを聞いて、なんだ誤解かと納得したようだった。
美琴はその流れを止められない。自分の放った言葉が、瞬く間に事実として、固まっていく。
「ホント迷惑すんのよね、黒子の暴走にはさ」
なんで、そんなことを自分は笑って言えるのだろう。顔だけを取り繕ってそう言っていることに、美琴は気づいていた。
言葉というのは不思議なものだ。いざ口にしてみると、それがどれほど嘘なのか、良く分かる。
好きなわけがない、なんて。嘘だった。その気持ちにはずっと気づいてなかった。あるいは、目を瞑ってきた。なのに。
さっき言ったのが嘘だったのなら、自分の「本当」はどこにある? 美琴はもう、気づいていた。
黒子のアレは勘違いなんかじゃなくて、私は。コイツのことを。
でも、コイツの隣には、もう婚后さんが。
――――心の中が、真っ黒に染まっていく。
自分の大好きなもので彩った綺麗な部屋に、きつい匂いのタールをぶちまけるように。
美琴が大事に大事に、自分でさえ気づかず育てていたその気持ち。
それが今この瞬間に立ち枯れてしまったことに、美琴はどうしようもない喪失感を覚えた。
後の祭りだった。いや、いつ手遅れになったのかといえば、今日なんかじゃない。
ずっと前から、自分が心のどこかで当麻に会えるかもしれないと視線をさまよわせていたときから。
目の前の二人は疾うに仲睦まじくなり、優しい言葉を交し合っていたのだ。
知らないのは、美琴だけだった。
「さて、それじゃ光子、これからのこともあるしそろそろ行かないと」
「あ、そうですわね。それでは御坂さん、ごきげんよう」
「うん……」
「ま、ちょっと元気出たか? 頼りが欲しいなら、声かけろよ。俺も、光子も多分、力になるから」
「ん。ありがと」
立ち去る準備を、二人が整えた。また美琴は一人ぼっちだった。
そして去りがけに、何かを思い出したように当麻が空を見上げた。
「そういや俺が声かける前に話してた人、お前の知り合いか?」
「え? ……さあ、別に。あっちは顔知ってたみたいだけど」
「あれ、御坂は知らない人なのか。光子のお見舞いに行ったときに、あの病院でテレスティーナさんと話してるのを見た覚えがあったから、知り合いかと思ったけど」
まいいや、と言って、当麻が光子と手を繋いで、美琴のもとを去った。
涙は出なかった。そういうものじゃ、ないのだ。なくした瞬間というのは。
「私、知らないことばっかじゃない。バカすぎるよね」
妹たちのことを知らなかった。自分の気持ちを知らなかった。
――――だから、失くしてしまったのだった。



[19764] Intersection of the three stories: 繋がる人と人
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/22 02:07
コンコンというノックの音で、まどろんでいた春上の意識は覚醒した。
「おはよう、春上さん。朝早くにごめんなさいね」
「あ……おはようございます、なの」
病院が本格的に活動する前からパリッと紺のスーツを着こなしたテレスティーナが、にこりと春上に微笑みかけた。
それに少し恥ずかしくなりながらお辞儀を返す。一応、もう起きていないといけない時間だった。
「体の調子はどう?」
「大丈夫なの。普段は、なんともないから」
「そう、よかったわ。実は朝からちょっと検査をしようと思っていたの。食事前でないと困るから、起きてすぐで申し訳ないけど、準備してくれるかしら」
「わかったの」
ベッドから降りてスリッパを履き、ざっと髪を整える春上を笑顔で眺めながら、テレスティーナがカーテンを開くスイッチを押した。
夏の嫌になるような強い太陽が、燦燦と外の世界を照らしていた。
「いい天気ね」
朝から仕事で疲れるのよね、なんて感じにテレスティーナが伸びをする。
その隣で細々としたことを済ませ春上がテレスティーナのほうを向いた。
「お待たせしましたの」
「ううん。大丈夫よ。さ、それじゃ行きましょうか。今日はいいものも見せてあげられるわ」
「いいもの?」
「ええ」
テレスティーナは多くを語らず、いつもと違う方向へ春上を案内した。
そしてある一室の扉を開ける。
「ここがそうよ」
「ここ……?」
「うん。ポルターガイスト事件の核になっている子供達を保護することが出来たの。あなたのお友達も、いるんじゃないかしら」
「えっ?!」
絆理ちゃんが、ここにいる?
ずっとずっと会いたかった、春上の親友。
待ってるじゃ会えそうにもなくて、退院したら、初春に助けてもらって絶対に見つけようと思っていた。
その、枝先がこの部屋にいるとテレスティーナは言う。
10床以上ベッドが並び、各々が衝立で仕切られているから、何処に誰がいるかが分からない。
ふらふらと春上は歩きだし、ベッドを一つ一つ調べ、テレスティーナの言を確かめていく。
「あ……!」
こげ茶の髪、そばかすの浮いた頬。
手足がガリガリとやせ細って見ると苦しくなるけれど、その顔を、春上は間違えたりなんてしない。
「絆理ちゃん! 本当に……絆理ちゃんだ!」
痛ましい。どうして、こんな風になっているのだろう。そう思いながら、春上は枝先のこの姿を、どこか驚きなく見つめていた。
あれほど、悲痛な声で自分に呼びかけをしていた枝先のテレパシーを思い出すと、むしろ納得すらしてしまえそうだったから。
シーツの横から手を差し入れて、そっと枝先の手を握る。ほっと春上は息をついた。普通に、人の温かみを持っていた。
「あ! そうだ、初春さん連絡してあげなきゃ!」
「ごめんなさい春上さん。検査の装置、使う予定がつまってるからすぐ測らせて欲しいの。春上さんの検査で、この子達を助ける方法が分かるかもしれないから」
申し訳なさそうなテレスティーナの声に、春上はハッとなった。
検査の後でも、初春さんには連絡できるよね。それより、一秒でも早く、絆理ちゃんたちを助けてあげなきゃ。
「ごめんなさいなの。すぐ、行くの」
「うん、頑張りましょうね」
慌てるように春上は部屋の外へと向かった。その後姿をテレスティーナが微笑みながら見つめた。
――ニィ、と犬歯をむき出しにして。
近くの検査室では、全身麻酔の準備が整っていた。




朝の病院を、黄泉川はカツカツと進む。服装はいつもの緑のジャージではなく、警備員のジャケットに身を包んでいた。
もちろんこの格好の教師が山ほど街中を歩いているから、これで威圧感を覚える人間などいないだろう。
だが、立場をはっきりさせる意味で、黄泉川はこれを着ていた。
「朝から精が出ますわね」
「ああ、アンタを探してたんだ。おはようございます、テレスティーナさん」
「おはようございます、黄泉川先生」
アッサリとした薄い笑顔の黄泉川と、いつもどおりの優しい笑顔をしたテレスティーナ。
黄泉川はテレスティーナの笑顔の作為感に改めて違和感を覚え、テレスティーナは黄泉川の教師ではなく警備員としての笑顔に警戒感を抱いていた。
「ちょっと仕事が朝から立て込んでてね。ところで、春上の見舞いに行こうとしたら止められたじゃんよ」
「ああ、春上さんは午前一杯は検査になりますわ」
「検査? 春上自身にはほとんど問題なくて、原因はポルターガイストの引き金になる子供達だろう? 何で今更、春上の検査を?」
「事情が変わったんですよ。正式には午後にも警備員のほうへ連絡を入れるつもりだったんですけれど。――――木山春生が匿っていた懸案の子供達の身柄を保護しました」
微笑を消して、テレスティーナが重要な事実を告げた。
黄泉川も営業用の軽めの笑みを消して、テレスティーナの続きを促した。
「彼らの覚醒を手助けする上で春上さんの検査を行うことは有意義と判断した次第です」
「……そうか。まあ、医者がそう言うんなら、あたしには反論はないじゃんよ」
「ご理解頂けて助かりますわ。ところで、その子達を見ていかれます?」
「ああ。頼む」
「わかりました」
テレスティーナが、病院の奥、搬入口に程近いほうに黄泉川を案内した。
その道すがらに、黄泉川は何気ない口調で軽く訪ねた。
「そう言えばテレスティーナさん」
「はい?」
「ここって体晶のサンプルを扱ってるのか?」
黄泉川は、僅かにテレスティーナから遅れるように歩いているので、声は肩越しに届いた。
テレスティーナは、ピクン、と肩を揺らした。足捌きは、澱みながらも止まりはしなかった。
「体晶のことは知っているんだな」
「黄泉川先生。その単語には、さすがにびっくりしてしまいますわ。……知っています。研究テーマが近かったこともあって、その悪魔の薬のことは聞き及んでいましたから」
「ふうん。で、ここにサンプルはあるじゃんよ?」
「いいえ。正式な令状でもお持ちなら、捜索なさってください。疑われるのは心外ですけれど、身の潔白を証明することにやぶさかではありませんから」
黄泉川は優しげなテレスティーナの微笑みの裏に、僅かに優越感を感じた。
きっと、本当にないのだろう。
「それにしても、急に能力体結晶の話なんて。黄泉川先生、どうしたんですか?」
「ん、昨日上条が……ああ、入院していた婚后の彼氏であたしの学校の生徒だ。そいつがテレスティーナさんが大学生くらいの女と体晶の話をしていたって言ってな。聞き間違いかもしれないが、無視するには重い情報だろ?」
黄泉川は包み隠さず、そう話した。
一瞬テレスティーナが見せた苛立ちの瞳の中に、冷酷なものが混じったのを黄泉川は感じた。
「体晶は学園都市の生んだ狂気の結晶ですから、確かに危険ですけれど。そんなものがここにあると疑われるのは残念です。たぶんそれは、とある能力者の方と能力開発に使う薬品の話をしていただけですよ」
「そうか。悪かった。変に疑って。それと婚后が朝からここを抜け出しているだろう。たぶんもうじき別の医師の診断書を持ってここに来ると思う。テレスティーナさんには不愉快なことだと思うが、一週間拘束されて婚后も相当カンカンだったらしい。出て行くって聞かなかったじゃんよ」
「ああ、そういうことでしたの。主治医が困っていたから何かと思ったんですけど。黄泉川先生の指示でそうされたわけではないんですね。まあ、一週間もいれば我侭になるのかもしれません」
光子は確かに黄泉川の指示で動いたのだが、しれっと黄泉川はそれを誤魔化した。
黄泉川はもう、別のことを考えていた。
テレスティーナは、放置するにはあやしすぎる。昏睡状態にある子供達も、ここにいて安全かどうか分からない。
警備員として最短で行動を起こす方策を考えながら、黄泉川はベッドに横たわる子供達を眺めた。
いつかの、自分の過去を思い出して、平静でいることは大変だった。




朝、さまざまな商業施設などが門戸を開く時刻。
「……ええ、分かりました。では制服と下着の替えを預けておきましたから、お姉さまも体をお休めになったら合流なさってくださいませ」
白井は昨日から帰宅しなかった美琴にようやく連絡を取れていた。
あのバカと遊んでた、なんていう言い訳に大きくため息をついて、白井は私服では寮の部屋に戻れそうにない美琴のために、駅前のホテルのクロークに美琴の着替えを預けたのだった。
「御坂さん、なんて?」
「どうもこうもありませんわ。また、あのバカさんと遊んでいたのだとか」
「夜通しって、それってやっぱり、そういうことなんですかね?」
佐天がどこかぎごちない笑みでそんな茶々を入れた。普段ならいくらでも佐天と初春は盛り上がるネタだろう。
だけどなんだか考え込んだ風の初春と、場をはぐらかそうとして滑ったような佐天の二人の様子はいつもらしくなかった。
今、白井は初春、佐天と共にとある病院の前にいる。
木山春生がポルターガイストの原因となっている子供たちを匿い、そしてつい昨日、初春と佐天の目の前でテレスティーナにその子たちを「保護」された病院だった。
「まあ、お姉さまのことはよろしいですわ。それより、木山春生のことです」
「……うん」
「昨日の夜、テレスティーナさんが昏睡中の子達を保護してから、木山はどうしましたの?」
「別に、何かしたとかはなくて……呆然、って感じでした」
なんとなく、初春は木山に共感できるようなものを感じていた。
きっと、木山は学園都市を敵に回したって、その子達だけは絶対に助ける気だったのだと思う。
だからテレスティーナのやったことは、正しいのかもしれないけれど、母親から子供を取り上げるようなことみたいだった。
木山の喪失感で埋め尽くされた顔が、見ていられなかった。
立ち尽くす木山を励ますことも出来なくて、カエル顔の医者の采配で佐天と初春はタクシーで自宅に帰されたのだった。
「木山先生、まだいるでしょうか」
「……帰る場所はあるんだし、そっちかもしれないけど」
昨日の夜、暗くなってから訪れたのとでは印象が違う病院の入り口をくぐる。
ぽつりぽつりと診療に来た人たちはいるものの、片手で数えられる位だった。
そして広い待合室の奥隅に、カップのコーヒーを持ったまま、うなだれている長髪の女性の姿があった。
無造作な髪と、いつにも増して濃い目の下の隈。木山春生その人だった。
「木山先生」
「……君達か」
ちらりとこちらを一瞥して一言呟くと、木山は再び地面を見つめ、佐天と初春、白井に取り合わなかった。
「あの、昨日は……ごめんなさい」
「謝るのはよしてくれないか。君たちが悪いわけでは、ないのだろう?」
迷惑だという響きをはっきり込めて木山はそう初春に返した。実際、謝罪をすべきことはなかった。
犯罪を犯して保釈中の木山の手元から、昏睡中の子供達の身柄を保護し、しかるべきところに移す。
初春たちはその出来事に、間接的に関わっただけだった。
だけど、目の前の木山は失意の泥に沈んでいて、痛ましい。
「それで、何をしに来たんだ」
「その、木山先生はどうしているかなって……」
「見てのとおりだよ」
自嘲を頬に浮かべて、木山は氷も溶けてぬるくなったコーヒーの残りを飲み干した。
味が薄くなってひどく不味い。
「昨日の夜から、何もすることがなくなってしまってね。ずっと後ろ向きなことを考えていたよ。もう少しだったのに、なんて思い出すときりがなくてね」
「木山先生……」
木山は、初春たちに恨み言を言うことはなかった。だが本当に恨みがない、ということはないと思う。
その態度は、初春の勘違いかもしれないが、間違ったことをしていない学生を叱ることはしないという、ごく教師らしい考えを木山が守っていることのように思えた。
だってこの人は、研究にしか興味がないような態度でいながら、とても生徒のことを愛せる人だから。
教師だからといって誰にでもできることではない。
だけど、だからなおさら、昨日木山から子供達を取り上げてしまった自分達の行いが、正しかったと胸を張れない。
かける言葉を失った初春の代わりに、白井と初春の後ろにいた佐天が木山に歩み寄った。
「あの……木山先生って呼んでいいですか」
「昨日も言ったが、君は私を恨む資格がある。なにも敬称をつける必要などないよ」
「いいんです。初春もそう呼んでるし、木山先生は、先生って呼ぼうって思える人ですから」
「そうかな……そう言われるとむしろ居心地の悪さを感じるよ。私は学生の敵だからな」
親身に関わった13人の小学生を昏睡に陥れ、後に自らの作ったプログラムで一万人の学生を意識不明に陥らせた女。
たしかに学生達にとって悪魔と言える実績だった。
でも、やっぱり佐天には恨めないのだった。初春が木山に感情移入しているせいもあるかもしれない。
「先生はこれから、どうするんですか?」
「どう、というのは?」
「あの子たちをテレスティーナさんが助けるまで、何もしないで待っているんですか?」
「……彼女には救う手立てがあるのだろう。前科持ちの私の協力なんて、向こうが願い下げだろう」
「信用されないかもしれないですよね、確かに。でも」
木山は見上げた佐天の瞳に、強くこちらに問いかけるものがあるのに気がついた。
気丈に自分の目の前に立つその女の子は、一時は幻想御手で意識不明になったことがある。
何を言われるのか、木山には見当がつかなかった。
「先生はあんなズルをしても、叶えたい思いがあったんですよね。だったら、ズルがばれて信用されなくなったって、もっと足掻かなきゃいけないと、思います。じゃないと、あんな目にあった私達が、浮かばれないです。……ズルをしたら、絶対にしっぺがえしがあるんです。それはきっと当たり前のことなんです。でも、だからって生きていくことを止められるわけじゃないですよね」
幻想御手を使ってあの子たちを助けるという手を、佐天はさすがに認められはしない。
だけど、やってしまったのなら、後には引かず、信用されずともあの子たちのために最善を尽くすことだけは、止めてはいけない。
佐天は自分にも、同じ事を言い聞かせる。
幻想御手を使ってでも能力を伸ばしたいと思ったなら、それが失敗に終わっても能力と向き合うことを止めてはいけない。
……それがきっかけで、幸運にも自分は大きく能力を花開かせられたのだ。
「あの女に、協力しろと君は言うんだな」
「それが、一番あの子たちのためになる道じゃありませんか?」
「……そうだな。取り戻すのは、もう無理だろうから」
木山は内心にくすぶる、理論的でない憎悪を噛み殺す。
テレスティーナは職務を遂行しただけだ。決して、自分からあの子達を面白半分に奪ったのではないのだ。
「体晶のサンプルがあれば、ワクチンが作れるところまでプランは構築してあったんだ。引き継いでもらえるとも限らないが、やれることをやる義務が、私にはあるんだったな」
初春が潤ませた瞳で、立ち上がった木山を見つめた。
白井は二人と木山の表情を見て、そっと笑みを浮かべた。




カギを開けて、美琴はホテルの一室に崩れ落ちる。
昨日の夜からさっきにかけて、随分とめまぐるしく自分を取り巻く世界は変わっていた。
酷使した体は休息を欲していて、このままベッドに身を預けてしまいたい。
……それにも、罪悪感を覚えるのだった。心の均衡を失った人は、まず、眠れなくなるものだ。
だが美琴は、あの廃車場から離れて駅前でうずくまっているときにもうつらうつらと意識を手放したし、きっと今も、目を瞑れば眠れるだろう。
自分は、これだけの目にあって、まだ眠気を覚えるくらいに不貞不貞しい。
眠れないほどに苦しんで当然なのに。
「シャワー、浴びなきゃ」
玄関でだらしなく座り込んだ体を起こすでもなく、だらだらと這ってユニットバスへ向かう。
服は全て捨てるつもりだった。酷い汚れがこびりついているし、何より、今日に繋がる思い出なんて、何一つほしくない。
キャップを外し、髪を括ったゴムを外す。それを、躊躇い無くゴミ箱に突っ込んだ。
靴下とシャツを脱ぎ、短パンと合わせてこれもゴミ箱へ。
下着を脱ぐ。ゴミ箱の中からシャツを取り出して、シャツに下着を包んでこれもゴミ箱へ。
まだ着られる服を捨てる後ろめたさが、また美琴に引っかかる。
後ろ向きな時は、どこまで行っても後ろ向きな考えが出てくるのだった。
「木山のところ、か」
合流地点は白井に連絡を貰っていた。もちろん、無理なら来なくていいとは言っていた。
その言葉に甘えてしまおうかとも思う。だって、もう、何もかもがどうでもいい。
浴室に入って、シャワーのコックを捻る。
夏場のことだからぬるめのお湯なら温度なんて適当でよかったから、湯加減なんてほとんど見ずに美琴は頭から水に近いお湯をかぶった。
皮脂と埃で濡れにくくなった髪がシャワーのお湯を素通りで下に垂らしていく。
汚れた髪は、指で梳きながら濡らさないといけなかった。
「気持ち悪い……ホント、最悪」
しばらくばしゃばしゃとやって体全体を濡らして、ようやく汚れが落ちていくような気になる。
小さなパックに詰められたシャンプーを取り出して、髪につけた。
泡立ちの悪さに苛立ちながら、ふと隣の姿見を見る。
――昨晩、死んだあの子たちと同じ顔だった。
将来に希望なんて感じさせない、無表情。生気の無さで言えばいまの美琴のほうが酷い。
生まれてから、あの子たちは何度髪を洗うのだろう。
自分が今使っているシャンプーは、値段はそれなりに張るもののはずだ。
そういう女の子らしいおしゃれを、あの子たちはするのだろうか。
女は女に生まれるのではない、生まれてから女になるのだ。
――――偉い人はそう言った。なら、妹達は女ではないらしい。
それに妹達がおしゃれをするとして、それに意味はあるだろうか。意味があるかを決めるのは誰だろうか。
道具は、作られる前から作られる目的があらかじめ決まっている。
人間は、作られてから後に、自分が何者であるのかを決めていく。
妹達は、どちらだろうか。
シャワーで、シャンプーを洗い流す。それでようやく、人心地ついた気がした。
トリートメントで髪を整えて、続いてスポンジにリキッドソープをつけて泡立てる。
昨日、美琴の体にこびりついた何もかもをそれで剥がしとっていく。
その間にふと思い出した。靴を、まだ捨てていなかった。
「靴……も捨てればいいか」
お気に入りのスニーカーだったが、妹の血がついていた。洗っても染みは消えないだろう。
……妹の血を汚らしいものと考えている自分に嫌気が差す。
だけど、やっぱりあのスニーカーをもう一度履くのは嫌だった。
「私のこと、恨めばいいのに」
だが妹達に、そんな素振りはない。それがむしろ重荷だった。
美琴がこれからしなければいけないことは決まっている。
無駄かどうかなんて、やってみないとわからない。無駄でも、やらないといけない。
でも、あの実験を止めるなんて大きなこと、出来る自信がない。そう思ってしまう。
頭から、美琴はシャワーをかぶった。起伏に薄いその体からさらさらと泡が流れ落ちていく。
助けて欲しかった。話を聞いてくれるだけで、いい。
一番に浮かんだのは、母親だった。でも言えるわけがない。
すごく可愛がってもらった。今だっていつも気にかけてもらっている。
そんな人がお腹を痛めて生んだ自分と同じ顔の子たちが、毎日ラットみたいにダース単位で死んでいるなんて。
両親には、言えなかった。
そして自分を頼ってくれる、かわいい後輩や友人達にも。学園都市第三位が何も出来ない状態で、何を話せというのだ。
両親がだめで、頼ってくれる後輩もだめ。そう考えれば、話せる相手は一人だけだった。
美琴は昨日の夜から朝までずっと、その人の顔を思い出しては、期待しては駄目だと言い聞かせていた。
来てくれるはずがないから。迷惑だから。嫌われるかもしれないから。
……だけど現実はもっと美琴に冷淡だった。確かに当麻は、美琴の前に来た。一番来て欲しいときに来てくれた。
ただし、彼女を連れて。
嫉妬だったのだろう。あれほど、明確な敵意を光子から向けられたことなんて、無かった。
それで、美琴は頼れるかもしれなかった最後の人を、失った。
「っ……」
シャワーを頭から浴びる。
汚れた体は思考を鈍化させていた。それを洗い流すと、峻烈な後悔と悲恋の味が心に出来た傷に染みた。
泣くのも許さることじゃないと、美琴は思う。だから、必死に嗚咽を隠した。
シャワーの音が煩いのが幸いだった。
しばらくの間、じっとうつむいた後、美琴はキュッとコックを捻った。
体を拭き、浴室から出る。ざっと髪を乾かして、下着を身につけた。
そしてバスローブを羽織って、美琴はベッドでシーツにくるまった。
当麻は、自分のことを恋人としては見てくれない。
そう分かっていたのに、美琴の心を支えてくれるのは、光子が現れる前にかけてくれた当麻の言葉だった。
それしか、無かった。それを反芻しながら、美琴は1時間、意識を手放した。




駅前にたどり着いて、インデックスは辺りを見回した。
目の前のエスカレータを上った先に改札があって、奥のプラットフォームから出る電車に乗れば、ほどなくエリスのいる、インデックスが通う予定の神学校へとたどり着ける。
「うー……暑いんだよ。東洋の夏はどうしてこうジメジメするのかな」
当麻が歩く結界の機能を完膚なきまでに破壊してくれたおかげで、この豪奢な修道服は夏場の日本で着るには少々厳しかった。
とはいえそれくらいで元放浪少女の健脚がへこたれるはずもなく、記憶のとおりにインデックスは目的地を目指す。
「おー、誰かと思ったら、懐かしい顔が見えるにゃー」
「え?」
その声が誰なのか、一瞬インデックスは分からなかった。
忘れたからではない。いるはずのない知り合いの声だったから。
警戒しながら横に振り向くと、金髪にサングラスをかけた、いかにもチャラい男子高校生がいた。
上半身はボタンを留めずにアロハを羽織っていて、痩せぎすでいながら無駄のない筋肉をさらしている。
胸からは二つほど金色のネックレスを下げていて、まあ、お世辞にもかっこいいとはインデックスは思わなかった。
昔とはあちこち雰囲気が違うけれど、その軽薄さだけは変わらない、土御門元春がそこにいた。
「どうしてあなたがここにいるの?!」
「いやー、色々と最大主教<アークビショップ>の人使いが荒くてにゃー、こんな敵地もいいトコに単身赴任だぜい」
どんな重要な話をしているときでも、はぐらかす気なら土御門はこんな態度を取る男だ。
学園都市に何をしに来たのか、それを探るのは難しい相手だった。
ただ。
「単身赴任っていうのは嘘だよね。妹がいるんでしょ?」
「んー? 妹カフェは嫌いじゃないけど特定の子と仲良くなるには出費がきつくて難しいにゃー」
「はぐらかしても無駄だよ。舞夏もこの学区にいるんだし」
「――知ってるのか」
その声の響きにインデックスは本音の匂いを嗅ぎ取った。
舞夏のことを、インデックスには知られたくないような、
いや、「そっち側」の人間を忌避する響きだったように感じた。

「舞夏はとうまと一緒に行った学校で会った」
「ああ、常盤台でか。まさか面識ができているとはにゃー。保護者の二人はどうしてる?」
「べつにあなたに言う必要なんてないけど?」
「おいおい、冷たいぜよそれは。日本語を教えてやった仲じゃないか」
「あなたに教わってない! だいたいちゃんと日本語喋れるのに変な日本語しか教えない人なんて信用できないんだよ! かおりがいなかったら大変なことになってたんだから」
はっはっはと笑う土御門をインデックスは睨みつけた。
「で。一体何の用?」
「え? いや別に、見かけたから声をかけただけぜよ。今日はいい天気だし、この駅はあっちこっちの遊び場に繋がってるからにゃー、声をかければ誘いに乗ってくれる可愛い子もきっといるに違いない! ってな感じで」
土御門元春は軽薄な男である。それは作った顔というよりも地の一部な気がする。
だから、その態度が作り物か本音か、見分けがつかなかった。
「実はさっき巫女装束を着た超絶美人がコッチに向かってるのを見かけてにゃー、他の男が何人も玉砕してたから、ここは一発自分を試してみようかと」
「……そう」
時間に余裕は持たせてきたからいいが、すでに予定の電車に乗り損ねるのが確定している。
これ以上付き合ってエリスに迷惑をかけるのは嫌だった。
「それじゃ私はもう行くんだよ。その格好で清楚な女の子を口説くって成功率を舐めてるとしか思えないけど」
「それはどうかにゃー。なあ、答えを聞かせてくれるかい?」
土御門が、インデックスの後ろの、ごく近くに向けて声を投げかけた。
振り返るとすぐ傍に巫女服の少女、姫神秋沙がそこにいた。
「格好は。気にしないけど」
「おおっ! 八人目にしてついに脈アリ!!」
「そもそも私は君に興味がないから」
地面にのの字を書く土御門を尻目に、インデックスは姫神を見つめる。
「今日はこないだの黒服の人達、連れてないの?」
「きっとそのあたりにはいると思うけど」
「ふうん」
「気になるの?」
「……普通はあんな人たちを連れたりなんてしないんだよ」
「そうだね。でも。私は普通じゃないから」
「どう普通じゃないわけ?」
「わたし。魔法使い」
「だからそんなわけないんだよ!」
学園都市にそうそう魔術師なんているわけが――
――目の前で落ち込む当代きっての陰陽師には目を瞑った。
「そんなわけないって言われても。私は魔法使いになるのが目標だから」
「なるのが目標って。それなら、あなたはやっぱり魔術師じゃないんだね。魔術なんて使えないんでしょ」
「……使える」
「え?」
「最悪の。だけど」
「どういう意味?」
姫神はそれには取り合わなかった。
「あのー……よかったらそろそろ声かけてくれると助かるにゃー」
「あ、まだいたの?」
「インデックス、それは冷たいにゃー」
「知らない。って、私もう行かなきゃ」
長居すればもう一本、電車を遅らせることになる。
それでも遅刻は免れるが、ギリギリで走るのは嫌だった。
……のだが。すっと、姫神が胸元からチケットらしきものを数枚取り出した。
すぐ目の前にあるクレープ屋の、無料試食券。
「お礼」
「え?」
「この前。助けてくれたでしょ? そのお礼に。一枚あげてもいい」
今日は朝は当麻がいなくて味気ない朝食だった。まだまだ、胃には空きがある。
――――インデックスはその瞬間、電車一本分遅らせることを容認した。




ピリリリとけたたましく鳴る音で、美琴は意識が僅かに覚醒した。
起きなきゃ、という義務感だけで体を何とか引き起こして、アラームを止める。
「う……」
惰性で顔を洗いに行こうとして、軽くふらっと体が横に揺れた。
調子がおかしい。いや、こんな精神状態で好調とはいかないだろう。
だが、気のせいかと思ってもどうも見過ごせない、確かな不調を美琴は感じた。
そんな自分の失態に、起きてまだ間もないのに、もう苛立ちを覚えている。
「熱なんて……最近出したことなかったのに」
心のどこかで、無理もないと囁く自分がいる。
深夜から次の日の昼前まで町を徘徊したし、思い出したくないこともいくつもあった。
戦闘もしたし、胃から物がなくなるまでトイレで吐いた。体力を失って当然だ。
……そんな弱弱しい自分に腹が立つ。そんな理由で、自分は許されることなんてないのに。
しんどければ休んでいい学校とは違う。どんな目にあったって、動けるのなら動かなきゃ、いけないんだから。
夜までに、しなければいけないことが美琴にはあった。
――――テレスティーナさんに、絶対能力進化実験のことを、聞き出す。
実験を止めるのに、主役である一方通行を排除することと、妹達を逃がすことの二つは選択できない。
どちらも、美琴には止められないから。
それを再確認するだけで、足がすくんだ。
超電磁砲は美琴の唯一の必殺技ではない。手数の多さ、応用力がきっと一番の武器だとは分かっている。
それでも、やはり二つ名にもしている技をあっさり封じられたことは、ショックだった。
結局、美琴に出来るのは絶対能力進化<レベル6シフト>に関わる施設を破壊し、プロジェクトを進行不可にすることだけ。
ハッキングによって手に入れた関連施設は、どこも美琴になじみがない。日中にはアクションを起こせなかった。
今、美琴がアクションを起こせるのは、口の悪い大学生くらいのと当麻の残した、テレスティーナという糸だけ。
もしテレスティーナが学園都市の暗部、こんな非道に手を染めているのなら、春上が危なかった。
「早く、行かないと」
木山のところに行くという白井たちには悪いが、そちらに付き合う気はなかった。
なにか重要な情報があれば三人がそれを手に入れて、何とかしてくれるだろう。
不快な寝汗をタオルで拭ってから、まごつきながら美琴は制服を身につけた。
テーブルに置いた携帯を見ると、白井からの連絡が入っていた。
曰く、木山と共にMARの病院を目指すらしい。行き先は、これで同じになった。
「合流しても……ね」
あちらはもう着く頃だろう。むしろ、会わないほうがありがたかった。
自分だけでテレスティーナに対峙するつもりだった。
自分がやったことのツケを誰かに払ってもらおうなんて考えれば、きっと良くないことが起こるのだ。
朝の、あの瞬間がフラッシュバックして、ボタンを留めていた手で美琴は胸を押さえた。
誰かにすがるのは、怖かった。




「おはよう! エリス!」
「うん、おはよう」
「ギリギリ間に合ったよね?!」
「大丈夫だよ。っていうか、遅れてもそんなに気にしないけどね。寮まで来てもらったんだし」
ぜいぜいと息をつくインデックスにエリスは苦笑いを返す。
寝坊でもしたのか、随分急いで来たらしかった。
「家を出るのが遅かったの?」
「えっ? えと……うん」
なんというか嘘なのがバレバレの態度だった。
理由は良く分からないが、迷ったか道草を食ったかどちらかだろう。
行きがけに奢ってもらったクレープは非常に美味しかったが、それにつられて遅刻寸前になったとエリスに告白するのはさすがにインデックスも恥ずかしかった。
「さて、今日は何しよっか。いいなあ、インデックスは宿題ないんだよね?」
「え? うん。まあ別にあってもすぐ終わるけどね」
「へー、優等生だったんだ」
そりゃあどんな内容だってインデックスは一度聞けば全てを記憶できるのだから。
理解は記憶することと違い必ずしも一瞬ではないが、人よりはずっとアドバンテージがある。
記憶力は生来のものだし、ズルをしていないのだからインデックスはそれを恥じることはなかった。
「ここの勉強ってどんなの?」
「え? まあ普通の学校の内容と大部分は同じだよ。宗教の授業が追加されるくらい。ここは修道士を育てるとか、そういう場所じゃなくて、言ってみれば孤児院みたいなところだから」
「ふーん」
「インデックスもすぐ慣れるといいね。それで、何したい?」
「あ、今日は行きたいところがあるんだけど……」
「どこ?」
「みつこの病院。今日、退院するって言ってたから」
「あ、そうなんだ。おめでとう」
「うん!」
エリスはその誘いに付き合うか、迷った。この教会の敷地の外に出るのは、怖い。
吸血鬼の遺灰から取り出した抽出物を埋め込まれ、自身が吸血鬼になってすぐにエリスはここに逃げ込んだ。
そのときから外の世界への恐怖心はずっとあったけれど、ここ数日は、垣根の前で我を忘れたあの瞬間を思い出して、殊更外出に臆病になっているのだった。
「それで、エリスがよかったらとうまとみつこと一緒に、お昼ごはん食べて遊びたいな、って」
「うん」
「どうかな?」
「……いいよ。そうだね、ちょっと最近外出してなかったから、体を動かしに行こうかな」
「本当? やった! エリス、準備はできてる?」
「うん。って言っても、出かけるのにそんなに準備もいらないからね」
垣根と正式に付き合うようになってから、心の余裕が随分と出来た。このまま引きこもっていれば垣根に退屈だと思われるかもしれないし、一度くらい、外に出たって問題ないだろう。
エリスは棚の一つを開けて必要なものをポーチに詰めた。隣でインデックスが眺める中、準備は本当にあっという間だった。
「よし、行こっか」
「うん」
さっき乗ってきた電車のホームにインデックスはトンボ帰りすることになる。
ちょっとそれがおかしかった。真夏の炎天下ではあるが、駅まで遠くはないし、日陰もそれなりにあった。
寮の入り口を出て、教会の敷地と大通りを隔てる門をくぐる。
「エリスは指輪とかつけないの?」
「えっ?!」
インデックスが、お洒落なワンピースを来たエリスにそんなことを尋ねた。
ちょっと唐突過ぎる質問だった。
思わずそれにわたわたする。なにせ、インデックスが垣根との話を振ってくるとは思わなかったのだ。
「ま、まだ早いよ。帝督君とお付き合いしだしたの、ついこないだだし」
「そういうものなのかな? 最近、みつこがとうまにねだってたから、エリスも欲しいのかなって」
「え、えーと。それはやっぱりあれば嬉しいけど、上条君と婚后さんみたいに長い付き合いのカップルじゃないと」
「とうまとみつこもそんなに付き合ってから長くないって言ってたよ」
「そうなの?」
「うん。まだ二ヶ月くらいって」
「二ヶ月かあ……」
自分と垣根の関係の、十倍以上の長さがあった。
あっという間なのかもしれないが、今の自分にとってはずっと先に思える。
それまでに、何度、帝督君はキスしてくれるんだろう。それに、その先、とか。
「エリス?」
「なんでもない」
インデックスにばれないように、一瞬妄想に浸った自分を自戒しつつ、エリスは足を進めた。
程なくして、駅にたどり着く。時間のせいもあるだろうが、人はまばらだった。
二人で切符を買って、モノレールに乗り込む。
「この電車ははじめてなんだよ」
「私も」
「……ちゃんと着くかな?」
「大丈夫だとは、思うけど」
不慣れな二人で顔を見合わせて、モノレールの進みに身を任せた。
「ねえエリス」
「うん?」
「エリスの彼氏さん、私のこと何か言ってた?」
「え、帝督君が? どうして?」
「こないだとうまと一緒に歩いてたら会ったんだよ。それで、とうまみたいなことを言うからつい、いろいろ言っちゃって」
「色々って?」
「エリスを泣かせちゃ駄目だよとか、そういうの」
「……もう、恥ずかしいよ」
「エリス、キスしたんだよね……?」
「えっ?! もう、だからそういうのは恥ずかしいから駄目」
さすがに友達に根掘り葉掘り聞かれるのは恥ずかしくて、エリスは強引に会話を切った。
チラチラとインデックスも照れた感じでこちらを見つめてくる。
なんだろう、上条君がキスするところとか、見慣れてるんだよね。だったら何でこんなに気にしてるんだろう。
それがエリスの疑問だった。問いかけないから答えはないが、インデックスにとっては、当麻と光子のキスはもう別物というか、それは当たり前のことなのだ。
しかしやっぱり自分の友達が彼氏を作ったと聞くと、なんだかやっぱり女の子めいた気持ちになるのだった。
何か別の話を振らなきゃ、と二人が思案していると、本日二度目となる携帯のコールが鳴った。
「わっわっ、またなんだよ! 誰なのかな、直接会いに来てくれればいいのに」
さっき光子に笑われたので、ボタンを押す前にディスプレイを見る。知らない番号だった。
インデックスはそれでむっとなった。やっぱり、携帯電話は全然ひとにやさしくない!
「は、はい。こちらIndex-Librorum-Prohibitorum……です」
「……久しぶり。誰だか分かるかい?」
「ステイル?!」
携帯から聞こえてきた声は、今まで一度も電話越しでは聞いたことのない、かつて身近にいた人の声だった。
「今いいかな?」
「えっ? うん、いいけど……」
「ちょっと学園都市に来る用事があってね、良ければ、会って話せればと思うんだけれど。……君にも関わりのある、問題事が起こっていてね」
「えっ?」
「なんにせよ電話じゃ心もとない。どこかで会えないかと思ってさ」
ちらと横を見る。エリスが首をかしげてこちらを見つめ返した。
「ステイル。それって、急ぐのかな?」
「え? ああ。遅らせるほど事態は悪化するからね、今日がいいんだけど」
「そう。私、いまみつこのいる病院に向かってるんだけど、場所とかわからないよね」
「いや。上条当麻と婚后光子の場所なら把握しているよ。困ったことに君がそこにいなかったから、なんとかして電話番号を手に入れたんだけど」
「……じゃあ、みつこのいる病院で待ち合わせでいい?」
「ああ。そこで合流しようか」
「うん。他に用はある?」
「え? い、いや特にはないんだが」
「ごめん。友達と一緒にいるから、切るね」
返事を聞かずに、インデックスは通話をオフにした。
ドキドキと、緊張に心臓が鳴っていた。自然に、話せただろうか。
ステイルの期待するインデックスで、いられただろうか。
強張った顔のインデックスを、エリスが見上げる
「あの、どうしたの?」
「エリス、ごめんなさい」
「え?」
「もしかしたら、遊べなくなっちゃうかも。ごめんなさい。せっかくここまで来てくれたのに……」
はしごを外されて、エリスは戸惑った。インデックスが誘うからためらいのあった外出をしたのに。
だがすぐに思いなおす。インデックスにとっても予想外だったのだろう。そして楽しそうなことはなさそうだ。
それなら、責めるのも悪いだろう。垣根とも連絡を取れば会えるかもしれないし、光子のお見舞いというか、浴衣の件でお礼を言いにいくちょうどいい機会ではあった。
「ん。いいよ。もし駄目になったら、帝督君誘ってどこかに行くから。それに婚后さんにもお礼を言わなきゃね」
「ごめんなさい」
もう一度いいよと言って、エリスは窓の外を見た。病院まではもうそう遠くない。
自分にインデックス、光子と当麻、そして入院中の春上、最後にステイルという名の男の子。
なんだかにぎやかになりそうだなと、意外と人嫌いではないエリスは考えながら景色を見つめた。




「さて、言われたとおりのことは済ませてきたぞ、アレイスター」
ドアもなく、階段もなく、エレベーターも通路もない、建物として機能するはずのないビル。
その中で、土御門元春はシリンダーの中に浮く男に声をかけた。
足を上に、頭を下に向けた銀髪の人間。緑の手術服を着て、赤みを帯びた液体に使っている。
真っ暗な部屋を彩るように数多くの計器とモニターが光を発しているが、部屋の全体を照らしてはいない。
「ご苦労。事はつつがなく進んだのかね?」
「ああ。これで禁書目録と吸血殺しが繋がった。これはどういう目的だったんだ?」
「君に旧友と会う時間をあげたのが不満だったかい?」
「ぬかせ。貴様のプランに無関係なわけがないだろう」
「ふむ。繋いでおくと役に立つ線というのもあるのだよ。特に今回の件は私の采配で事を運びにくいのでね」
アレイスターが言うのは、この街に入り込んだ錬金術師を追い払う件だった。
まるで無策かのように困った声色で言うが、土御門の前で浮いているのはそんな隙のある生き物ではない。
「ハン。さんざん今ここでステイルをけしかけたんだろう?」
「魔術師の考えることは私には分からないさ」
「お前が言うとジョークとしてもブラックに過ぎる」
男性のように、女性のように、老人のように、子供のように。
アレイスターの笑みは友好的な表情のはずなのに、土御門はそこから何も読み取れなかった。
「ところで吸血鬼とやらはどうなっている?」
「とやら、などと知らないような言い方をするな。お前の手の平の上で踊っている駒だろう。今は禁書目録と行動を共にしているようだな。それとも第二位との関係のほうが知りたいのか?」
「どちらも気にはなっているよ。アレが私の第二候補<スペア・プラン>と交流してくれるのなら、プランの相当な短縮になる」
「どうせお前が手引きをしたのだろう?」
「まさか。人と人の交わりはそう簡単には操れぬよ」
「そうは思えないがな。何せ第五架空元素<エーテル>と未元物質<ダークマター>の組合わせだ」
報告を済ませて、さっさと土御門はここを立ち去る気だった。
だがもう数分は、迎えの空間移動能力者<テレポーター>が来ない。
地面を這うコードの一つをつま先で弄びながら、土御門は気になっていたことを問いかけた。
「科学の最先端を統括するお前が、今更第五架空元素に興味を持つ理由はなんだ」
「考えすぎだよ。計算外の事態、吸血鬼を探す錬金術師が学園都市に忍び込んだのでそれを活用しているだけさ」
「空にあんなモノを浮かべておいて、言うに事欠いて『計算外』とはな。なあアレイスター。科学は一度第五架空元素<エーテル>を捨てた。それは知っているだろう」
「今更ローレンツ収縮の講義かね? 学園都市の長である私に向かって」
「お前が忘れるわけがない。お前にとっても転機となった年に発表された理論だからな。科学がその理論体系から第五架空元素を排斥した1904年。――――それはお前が、守護精霊エイワスと交信し、『法の書』を書き上げた年だろう? そして100年後の今、お前は科学にソレを拾わせようとしている。お前は、それで何をするつもりなんだ」
アレイスターは浮かべたままの微笑を少しも変えずに、こう答えた。
「汝の欲する所を為せ。それが汝の法とならん」

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あとがき
アレイスターが法の書を書き上げた年と、ローレンツがローレンツ収縮の論文を書き上げた年がともに1904年であるというのは史実です。
歴史的事実として、アレイスターはまさに科学が錬金術や魔術的・神学的な世界観と決別した時代に生きていたんですね。




[19764] Intersection of the three stories: 其処に集う人達
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/21 22:20

木山の車に乗って、初春と佐天、白井の三人は先進状況救助隊(MAR)の病院にたどり着いた。
いつものとおり春上への面会を申請すると同時に、テレスティーナへの面会を希望する。
今までもこの事件がらみの話ならすぐに対応してくれたから、当然今日もそうだと思っていた。
しかし。
「あのう、申し訳ないんですが今日はスケジュールが埋まっていまして。所長への面会はできません。それと春上衿衣さんへの面会も、申し訳ないんですが」
気の弱そうな顔をした受付の男性が四人にそう告げた。その言葉に、初春は動揺を隠せなかった。
「は、春上さんに会えないってどういうことですか?! あの、まさか」
「ええと、詳しいことは私にも分かりませんが、容態が急変したとかで、面会謝絶です」
「そんな……昨日まで、なんともなかったじゃないですか!」
「ちょ、初春落ち着いて。受付の人に当たっても仕方ないよ」
「彼女は春上さんのクラスメイトで、風紀委員をしていますの。きちんと話をしていただければ、私どものほうから学校への連絡をしますから」
「はぁ……」
木山はそのやり取りに不審な思いを抱いたが、春上とは直接関わりがないので口を挟まなかった。
白井が身分を明かして話を聞きだそうとしているのに、受付は困り顔を少しも変えず、そして一言も説明を加えなかった。
そうした受付の態度が、木山は気になった。どうも、作り物のように思えるのだった。
頻繁に通ってきていたらしいこの三人に、完全に情報を遮断する理由はない。定期的に通ってくれる人間を病院が邪険に扱うことはそうないのだ。
「これはこの街の安全にも関わる重要な案件だ。ここの所長のテレスティーナ氏もそれは分かっているだろう。まずは取り次いで、彼女自身の判断を仰いでくれ」
「いえ、しかし。執務室にずっといるわけではありませんので……」
「テレスティーナさんは携帯持ってるじゃないですか」
「いえ、しかしそちらに連絡するのは緊急時に限られていまして」
「だからそれが今だと言っている!」
声を荒げた木山に、周囲の患者達が不安げな顔をした。
ここは普通の市民病院ではない。そのせいか数が少なく、どうやらポルターガイストに巻き込まれた被害者達らしかった。
「そ、それではメールで折り返しの電話をするよう連絡を入れておきますので、お待ちください」
「それなら電話をまずすればよろしいんじゃなくて?」
「いえ、しかし……所長はあまりこういうことで煩わされるのを好まないと申しますか、その」
その一言で木山はこの受付の態度の意味を察した。
要は怒られるのが嫌らしかった。おそらくはテレスティーナが忙しい日なのだろう。
事務方のこうした事なかれ主義には苛立たされる。古今東西、事務とはそういうものかもしれないが。
これでは折り返しの連絡を求めるメールとやらも、テレスティーナが目に留めないような代物になりかねない。
「仕方ない。ならば、執務室の前で待たせてもらおう」
「それは困ります!」
「ではすぐ連絡してくれ」
「ですが……」
歯切れの悪い受付に、学生三人の苛立ちが募っていく。
佐天が噛み付こうとしたときだった。後ろから、いつもより怜悧な声が投げかけられた。
「あら、どうしたの?」
「テレスティーナさん!」
テレスティーナはいつもの親しみやすい笑みを薄くして、どこか、こちらに興味がなさそうな顔をしながら近づいてきた。
初春、佐天、白井と顔を見て、木山のところで視点を固まらせた。
「どういった用件かしら?」
「あの! 春上さんが面会謝絶って!」
木山より、初春のその言葉のほうが早かった。
それを聞いてテレスティーナは、ああ、と安心させるように笑顔を浮かべる。
「大丈夫。春上さんは変わりないわ。今はちょっと検査のせいで眠っているけれど、またすぐに連絡があるわ」
「あ、だ、大丈夫なんですか?」
「ええ。ただ、お友達と一緒の病院に移る予定だから」
「え?」
「ほら、あなた達は関係者だから分かっていると思うけど。昨日、春上さんのお友達を含めた、13人の暴走能力者の子供達を保護したでしょう? この病院じゃちょっと対応しきれないから、別の病院に移ってもらう予定なの」
眼鏡を直しながらそう告げるテレスティーナの笑顔に、木山はクラクラと、眩暈をするのを覚えた。
あの子たちを、転院だって?
それは何度も何度も繰り返された出来事。
悪辣な実験の『証拠品』でもあるあの子たちは、その足取りを分からなくするために何度も転院してきた。
まるで、その続きが始まったみたいな。
「何処へやる気だ?!」
掴みかからんばかりに近づいた木山とテレスティーナの間に、近くにいた救助隊員が割って入った。
まあ、無理もないのだろう。木山は頭に血が上って咄嗟に理解できなかったが、木山は前科のある人間だった。
「まさか、あなたに教えられるとでも思っているの? 木山春生」
「なんだと……」
「昨日、あなたからあの子たちを取り上げた理由を分かっていないのかしら。納得してもらうためなら何度でも言わせて貰います。犯罪者である貴女には、あの子たちを管理する資格はありません」
テレスティーナが冷然と通告した。それは、木山の心を軋ませる言葉。
誰よりもあの子たちのためにいるのは、自分なのに。
こんな、信用できない女よりも自分のほうがあの子たちのためになることをしてやれるのに。
掴みかかれば、何とかなるだろうか。そんな馬鹿な考えを、木山は頭にめぐらせた。半分くらいは本気だった。
「木山先生」
手を出すより先に、冷静な声が隣からかけられた。佐天という名の、自分が幻想御手で意識不明に陥らせた少女だった。
木山が使用としたことを、咎める目をしていた。
「やっちゃいけないことをした人は、それ相応の目で見られても、仕方ないんです」
「……だが!」
「信用されていないのは悲しいわね。春上さん、佐天さん、それと……ごめんなさい、名前を覚えていないんだけれど」
「白井ですわ」
「そう、白井さんね。それと御坂美琴さんね。春上さんのお友達である貴方達には、いずれちゃんと教えてあげるから」
「今すぐは駄目なんですか?」
「ええ、だって隣に木山がいるもの。悪いけれど、少し時間を置かせてもらうわね。……用件はこれだけ?」
テレスティーナが露骨に時計を見た。
そしてためらいを見せる木山を、佐天は促した。
「木山先生」
「……わかった。これが、あの子たちのためになる、一番の方法なんだろう?」
木山が小脇に抱えていた厚手のファイルと、スティック上のメモリをテレスティーナに差し出した。
ぎゅっと紙に食い込んだ親指が、内心の葛藤を訴えていた。
「これは?」
「あの子たちを救うために、私が作ったワクチン作成スキームだ。あの子たちが投与された、『ファーストサンプル』という体晶さえ手に入れられれば、それの組成・構造解析をして、ワクチンを作成できる」
「そう」
もう一度、テレスティーナが時計を見た。そして、ニコリともせずに受け取る。
「ご協力感謝するわ、木山さん。私達の最善を尽くして、あの子たちに向き合うことを約束します」
「よろしく……頼む」
「それじゃあ、これで用は終わりね?」
最後にニコリと笑顔を見せて、テレスティーナは踵を返した。
遠くからはパワードスーツの駆動音が聞こえる。転院のための作業でもしているのだろうか。
「これで……良かったのだろうか」
「きっと、そうですよ。せめて皆が元気になってくれたときのことを考えて、いろいろ準備しましょう」
木山を、いや、自分を励ますように初春がそう呟いた。




カツカツと音を立てて、テレスティーナは関係者専用の廊下を歩く。
その道すがらのゴミ箱に、バサリと木山の資料を捨てた。
「ったくよォ、どうせ見ないんだからいらないっつうんだよ。役にも立たないゴミなんざな」
取り繕うのに、随分と不愉快な思いをした。
ようやく偽善者ヅラから解放されたと思っていたのに、まだあんな面倒が残っていた。
「ったく、朝から警備員には目ェつけられるし」
それがきっかけで、テレスティーナはもう少しだけ外面を取り繕うのを止めなかったのだ。
もう、テレスティーナの希望の星、春上衿衣は手元にある。そして使い潰しの重要な部品も、ようやく回収できた。
木山の言う『ファーストサンプル』は、テレスティーナの手元にあった。
それはテレスティーナの誇り。おじい様、木原幻生がテレスティーナの脳から抽出したそれは、
今でも世界で最も効果が高く、そして世界で始めて得られた、体晶の『ファーストサンプル』だった。
掃いて捨てるほどいる置き去り<チャイルドエラー>を救う? 馬鹿馬鹿しい。
私はこれを使って、学園都市が待ち望んだ、神ならぬ身にて天上の意志に辿り着くもの<レベル6>を生み出す聖母になる。
あとは、あの置き去り<チャイルドエラー>どもを、暴走させるだけ。
ニィ、とようやく自分らしい笑みを浮かべられることをテレスティーナは感謝した。
今日の夜までには、自分は報われる。おじい様から貰った長年の狂気<ユメ>を、ようやく叶えられる。
それがテレスティーナの、追い求めるものだった。




足取りの空虚さに、木山自身戸惑いながら病院を出た。
「木山先生。……その、元気出してください。そうじゃないとあの子たちだって」
「初春さん」
「はい?」
「本当に、あの女は信用できるのかい?」
「テレスティーナさんを疑うんですか?」
佐天は、その木山の態度を好ましく思えなかった。だって、悪いことをしたのは、木山だ。
信用をなくしてしまったのは自分なのだから、誰かを疑うなんて筋違いもいいところなのに。
「……転院なんて、する必要があるとは思えない」
「どうしてですの?」
「あの子たちは覚醒しない限り、ただの植物状態の患者だ。ベッド数も足りているし、人口密度の低い地区にあるこの病院は立地としては悪くない」
「でも、あたし達には分からない事情が、あるかもしれないじゃないですか」
「それは、そうだな」
そういう可能性があることは、木山にだって分かっているのだ。
だけど、必死に一人一人探して、手元に集めていったあの子たちが、またあっさりと自分の知らないところへ消えていくのを、どうしても、指をくわえて見てはいられないのだ。
「……初春さん、それに白井さんだったな。私が、これからあの子たちを移送する車を尾行すると言ったら、止めるかい?」
「木山先生?! どうして」
「約束する。場所を見届けて、そこが納得できる受け入れ先だったなら、私は何もしたりはしない。……私の被害妄想だというなら、笑ってくれ。だけど、もう、嫌なんだ。あの子たちがこの手からこぼれていくのは、嫌なんだ」
木山がぐしゃりと髪を鷲づかみにして、そう呟いた。俯いたその瞳が揺れていて、初春は、それを見て何も言えなくなった。
佐天も、その本音の吐露を見過ごすことは出来なかった。見届けるくらいなら、いいのかもしれない。
「白井さん。私が木山先生に付き合うって言ったら、止めますか」
初春が白井を見た。
黙って経過を見ていた白井は、はぁっと嘆息すると、諦めたように笑った。
「約束を違えるようなことをしたら、勿論止めますわ。でも見届けるだけなら、いいでしょう。私も付き添いますわ」
「あたしも、付いていきます」
「……そうか、すまないね」
少し離れたところで、こちらをうかがうことになるだろう。
木山はそう考えながら車のカギを開けた。




道すがらに誰とも会うことなく、美琴はテレスティーナのいる、先進状況救助隊の病院にたどり着いた。
門をくぐると、敷地内がいつもより騒がしい。馬力の出る車がスタンバイしている音だった。
「何かを、運び出す気なの?」
病院の現状は、美琴にはそういうふうに映った。
普通の入り口からは離れた場所にある搬入口は遮蔽物が多くて見にくいが、人の動きがチラチラとしていた。
受付には行かず、美琴はそちらを目指した。どうせ、正攻法で聞いて教えてもらえるようなことを聞きに行くつもりはないのだ。
大きなトラックの間を縫って、搬入口の見えるところにたどり着く。誰かは分からないが、どうも患者を運んでいるらしかった。
呼吸器をつけられたままストレッチャーに乗せられた人達が見えた。
そして美琴の姿に気づいた救助隊員の一人が、視界を防ぐようにやってきた。
「君! ここは立ち入り禁止だ。立ち去りなさい!」
「テレスティーナはどこ?」
美琴はその警告に取り合わなかった。
「所長? ……用があるなら受付でアポをとってくれ。さ、退いて!」
美琴はその隊員を値踏みした。この人は、『計画』に携わる側の人間だろうか。それとも、善良な人だろうか。
いっそ悪いヤツで確定なら、もっと簡単に暴れられるのに。
「話を聞いているのか? 力づくで排除してもいいんだぞ?!」
そんなことは不可能だ。パワードスーツを着たって、レベル5には勝てるわけがないのだから。
美琴は動かず、さらに運ばれてきたストレッチャーに目をやる。
業を煮やした隊員が、前言を言葉どおりに実行すべく動こうとするのを押しのけると、ベッドで眠るその女の子の顔が見知ったものであることに気づいた。
「春上さん?!」
「お、おい?! クソッ」
隊員の顔が、露骨にマズいという顔をした。
そしてスタンガンを取り出して、美琴に押し当て制圧しようとした。
「寝てろ! ……何っ!」
「寝てるのはそっちね」
腕に押し当てられて擦り傷が出来た。パチッと音が確かにしたのに、美琴はそれに無反応だった。こんなものが自分に効くはずがない。
スタンガンを無造作に払って地面に落とす。そして美琴は自分の手を使って、電流を男に返した。
これが麻酔銃だったなら話は変わったかもしれなかった。
「ねえ。話を聞かせて欲しいんだけど?」
美琴は、建物の中から搬入口の外にいる自分を見下ろすテレスティーナに、声をかけた。
「随分とうちの隊員に手荒なことをしてくれるわね」
「そっちが先にやったんでしょ。立ち入り禁止区域に入ったくらいで、ここの隊員はスタンガンで対応するの?」
「病人を運んでいるときっていうのは、デリケートなものよ。不法侵入で開き直るのはいただけないわね」
テレスティーナの瞳が、今まで美琴に見せてきたのとは全く違う、冷たい色をしていた。
美琴に、というか人間に興味がないような、そんな視線だった。
「春上さんをどうするつもり? 昨日の夜まで、元気そうだったわよ?」
「麻酔で寝ているだけよ。貴女も知っているでしょう? 昨日、初春さん達が木山春生の集めていた置き去り<チャイルドエラー>の居場所を教えてくれたの。春上さんもお友達と一緒のほうがいいだろうから、移すだけよ。これで満足?」
もう話は終わった、とばかりにテレスティーナが美琴から視線を外し、隊員たちに指示を飛ばし始めた。
聞いた話は、また、美琴の知らないものだった。
実際には白井はずっと電話で知らせようとしていたが、美琴の声色から様子を察して口をつぐんだのだった。
もしテレスティーナがいつもどおり柔和な笑みを浮かべていたなら。
そして、美琴が決して見逃すことの出来ない、あの事件に気づいていなかったなら。
美琴はここで踵を返して、日常に戻ったかもしれない。
春上は春上で、きっと枝先と共に幸せに暮らすのだろうと、そんなことを思ったかもしれない。
……全てはifの話だった。
「体晶……って知ってるわよね?」
テレスティーナに聞こえるよう、美琴ははっきりとそう尋ねてやった。
聞き流せなかったのだろう、ピクリと反応があった。
煩わしさを目じりから放ちつつ、テレスティーナは振り向いた。
「いきなり何かしら。こういう病院にいれば、それが何かくらいは知ってるわよ、当然ね」
反応してしまった時点で、テレスティーナの負けだった。美琴はその反応に、手ごたえを感じた。
まさか、何度も会ったその人が、という思いを捨てきれない。
だけど目の前の、テレスティーナの態度は、美琴の知らない裏の顔があることを、如実に知らせていた。
「絶対能力進化<レベル6シフト>――――」
「……」
「コッチも、知ってるわよね? ちょっと詳しい話を聞かせてもらいたいんだけど」
そのためなら実力行使も辞さない、と美琴は目線で伝えた。
恐らくそれは伝わったのだろう。数秒に渡って目線が交錯し、チッとテレスティーナが舌打ちした。
「誰に聞いた」
「大学生くらいの、嫌味ったらしい女が教えてくれたわよ。髪は軽い茶色で、ウェーブががってて腰くらいまであるヤツ」
「……あンのクソアマ、要らなくなったらお払い箱ってことかよ。ハン、主役になれない第四位の味噌っカスが」
ひん曲がった口元、としか言いようのない表情だった。
上品な髪留めで髪をまとめ、パワードスーツ用の綺麗なアンダーウェアに身を包んだその外見にはひどく不釣合いだ。
もう、隠すものがないということだろうか。急に振る舞いが攻撃的というか、貞淑さを失った。
「アンタもレベル6なんていう馬鹿げた妄想に取り付かれたクチ?」
「ハァァ? 妄想? バァッッカじゃねぇの? 大真面目だっつの。学園都市の最終目標だぞ?」
「こんな人間には出来ないような酷いマネしなきゃたどり着けないようなものを最終目標だなんてお笑い種よ」
「テメェの言ってることのほうがよっぽど意味不明だろうが? お嬢様のお綺麗なお研究で達成するものだとでも思ってんのかよ。大体、誰にも生きることを望まれてないあんな生き物、何匹使い潰してもかまやしねぇだろうが」
「……」
それで、美琴は割り切れた。この女を、死なせないくらいにならどんな風に扱っても良いと思えた。
妹達は望まれない子だったのかもしれないが、それでも、使い潰していいはずなんてない。それは美琴にとって、譲れない思いだった。
ただ、美琴は誤解をしていた。
テレスティーナが使い潰すと言ったのは、置き去り<チャイルドエラー>の枝先たち。美琴はそれを、自分の妹達のことだと勘違いした。
無理もないことだった。テレスティーナは確かに、絶対能力進化<レベル6シフト>に関わっていると自供したから。
体晶だとか春上さんだとかが、絶対能力進化実験にどう関わるか、美琴は知らない。
だが、そのプロジェクトに関わるもの、テレスティーナが自由に動かせるもの全てを壊す、それを美琴は決心していた。
「議論は平行線しかたどらないわね」
「箱入りのお嬢様とは喋ることなんざねえんだよ」
「そう。じゃあ、潰すわ」
美琴のその短い一言を、テレスティーナは嘲りを込めた笑みで迎えた。
雷撃を頬に向かって投げつけようとしたところで、横から機械の腕が手を出した。
MAR専用の、パワードスーツ。恐らくは手下の隊員が操っているのだろう。
「邪魔!」
美琴と力比べなど、パワードスーツ如きでは不可能だ。
美琴の作った電磁界に囚われた鉄製のパワードスーツは、美琴から伸びた電気力線と僅かに拮抗した後、形をゆがませ腕の関節を破壊された。
その装甲を一枚はがして武器に変えつつ、数メートル先のテレスティーナに迫る。
「大人しくしなさい!」
人間スタンガンの美琴につかまれて無事な人間はいない。
だから美琴との間に遮蔽物のないテレスティーナは、もう捕まえたも同然。
そう思ったのに。
「バーカ。無策で突っ立つヤツがいるかっての。カカシと間違えんじゃねえよ」
意地の悪い笑顔を浮かべて、テレスティーナが何かのスイッチを押す。
――――キィィィィィィィ、と耳障りな雑音がどこかのスピーカーから響いた。
「あ……れ?」
美琴はテレスティーナのところへの跳躍に、静電反発を利用したブーストを利用していた。
常人とは一線を画する速度で懐にもぐりこむはずだった。
なのに、不意に能力の演算がゼロで割り算をしたみたいに値を沸騰させて、その奔流が美琴の頭の中を暴れまわった。
「あ、づッ!」
「覿面覿面、効きすぎかもなぁ。大丈夫かよォ? ほら、コレくれてやる」
ひととおりの格闘の修練を受けているテレスティーナにとって、フラフラと慣性で寄ってくる美琴は美味しいカモだった。
綺麗にタイミングを見計らって、美琴の腹に膝を叩き込む。
「ゴハ、あ、が……」
ヒューヒューと喉が音を立てる。逆流しないのは胃の中身がないからだ。
テレスティーナの足元に、なすすべなく美琴は崩れ落ちる。
「テメェはコレ、初めてだったか。ざーんねん、キャパシティダウンは高レベル能力者ほど良く効くんだよ」
単なる音波でありながら、劇薬級の効き目の示す能力者対策装置。
偶然の産物だったが、テレスティーナの元で開発されたこれは絶大な利用価値があるのだった。
洗いたての美琴の髪を無造作に握って持ち上げ、テレスティーナは美琴の顔を覗き込んだ。
「満足した?」
「ふざ……けないで」
「ギャハハ! 『ふざけないで』? なーんかテンプレどおりでつまんねェ台詞だな。コッチのプランを潰しにきた悪役ならもうちょっと面白いことを言えよ!」
「あの子たちを消費して……一方通行をレベル6にするなんて、悪役はそっちでしょうが」
テレスティーナの冗談を笑って流せなくて、美琴は精一杯の怒りを込めて睨みつけてやった。
それを見て、テレスティーナが「ん?」と首をかしげた。
そして数瞬、事情を理解するために間をおいて。


「ぶひゃ」
爆笑した。


「アハハハハ! テメェ、まさか勘違いでここまで来たのかよ?!」
「……え?」
「絶対能力進化<レベル6シフト>ってプランネームは一緒でも、コッチは部署が違うんだよ! テメェが言ってるのは一方通行を……ああ! テメェ、クローンのコピー元じゃねーか! そうか! 自分のコピーを使わないで下さいってお願いしに来たのかよ! ゴメーン! ココ、そういうところじゃないんで……ギャハ、アハハハハハハ!」
「嘘、そんな……」
「ここは私が管轄してるほうの絶対能力進化<レベル6シフト>よ! 説明してあげる。暴走能力者から抽出した体晶を一人の能力者に大量投与することで、私はレベル6へと至る能力者を作るつもり。木山の壊しかけたモルモットと春上衿衣は、いい実験材料になってくれたわね」
それじゃあ、自分が、ここにいる意味は。
今こうしてロスしている時間の分、一体何人の妹が、殺される?
その恐怖に、美琴は完全に思考を停止した。
「さて、暇ならお前が泣いて許しを請うまで遊んでやるんだが、時間がねーんだ。……これで遊ぶくらいはいいか?」
キャパシティダウンは依然として、美琴の頭にズキンズキンと響き続ける。反撃も戦線離脱も、無理だった。
どこかから拾い上げた高出力スタンガンを、テレスティーナは美琴の首に押し当てた。
「スタンガンも平気な最高位の発電系能力者<エレクトロマスター>さん、この状況なら電流はどうだい?」
返事も待たずに、テレスティーナは笑ってトリガーを引いた。




腕組みをして指でトントンと二の腕を叩く光子の隣で、どこかおっかない気持ちになりながら当麻は光子の顔色を伺う。
光子がつい今朝抜け出してきた先進状況救助隊の病院に戻り、退院の許可を求めて主治医と遣り合う気だったのだが、忙しいから待てという理不尽な扱いをされたまま、もう15分は受付前のベンチに座っている。
あとどれくらい待たされるのか、待てば会えるのか、そういうことがきちんと説明されなかった。
「ああもう、そろそろインデックス達もこちらに着きますのに」
「そうだな」
「本当、どうしてこんな病院に収容されなければいけなかったのかしら。私の退院に文句があるなら早く言いに来ればよろしいのに、個室のカギをロックして私の荷物を人質に取るなんて、やり方が陰湿ですわ」
「ま、まあ落ち着けよ」
「落ち着いていないように当麻さんには見えますの?」
「う……いや、まあ」
「……ごめんなさい」
口を尖らせて拗ねながらも謝る光子が可愛かったので、当麻は撫でてやった。
一瞬はそれで機嫌が直るのだが、どうも根本的には解決しそうにない。
光子の主治医が応対に出てこない理由は、嫌がらせだけではないように当麻には見えた。
というのも、さっきから病院の敷地を出る車が何台か続いていて、忙しい印象を受けるからだ。
ここは通いの病人を診るより、事故などの救急がメインのはずだから、学園都市のどこかで大事故でもあったのかもしれない。
「何か、あったのかしら」
「なんかあっちの方、荷物積んだりストレッチャー運ぶ音がしたり、忙しそうだよな」
「ええ。また、ポルターガイストが起こったのかもしれませんわね」
不穏な空気を感じるほかの病人と共にぼうっと建物の奥を眺めていると、当麻の携帯が震えた。
ディスプレイには黄泉川先生と表示されていた。
「あれ、先生だ。……もしもし」
「上条か」
「あ、はい。そうですけど」
「お前と婚后、今何処にいる?」
長い世間話は特に好きでもない黄泉川だが、今日のはいつにも増して口調が端的だった。
「MARの病院にいます。退院の交渉したいんですけど、先生が来なくて待ちぼうけしてます」
「そうか。上条、頼みがある」
「何ですか」
「婚后が、たしか春上と面識があるだろう。すまないが見舞いたいと申請してみてくれるか」
「はあ、それはいいですけど。でもなんで?」
「風紀委員でもないお前を使っておいて何だが、色々と一般人には話せない事情があるじゃんよ。すまないが、事情を聞かずに見舞ってくれ。それで、もし断られたらすぐ連絡をくれ」
電話越しの黄泉川の声に、焦りの響きを感じて当麻は詮索するのを止めた。
警備員として腕の確かな黄泉川の指示だ。反論だの事情の詮索だのよりまずは、指示に従うべきだろう。
「わかりました。じゃあ、光子とお見舞いに行ってみます」
「頼む」
それだけ言って、黄泉川は素早く電話を切った。
話の途中から表情の変わった当麻を見て、光子も何かを感じていたのだろう。
目が合うと、先ほどの苛立ちを消して当麻の言葉を待っていた。
「ちょっと、春上さんのお見舞いに行かないか」
「え?」
「先生に頼まれたんだ」
受付が近いから、当麻は黄泉川の名前も警備員という単語も出さなかった。
それでも当麻の顔色から、意味合いを汲み取ってくれたらしい。光子が怪訝な顔をするでもなく、笑顔で応えた。
互いに、なんだかそれが嬉しかった。修羅場を潜り抜けたこともあったおかげか、阿吽の呼吸で分かり合える。
「当麻さんが春上さんに鼻の下を伸ばしてはいけませんから、ちゃんと見張りませんと」
「おいおい、そんなのしたことないだろ?」
「知りません。私、当麻さんが春上さんや他の女性のお友達と夏祭りに行ったとき、一人でここにいましたもの」
「なんか俺が女の子を引き連れて歩いたみたいな言い方止めてくれよ。後ろから離れてついていっただけだって」
「ふうん。何処を眺めながらお歩きになったの?」
「何処って、そりゃ景色だよ。……あの、すみません」
自然な感じを装うのにどうしてチクチク責められるのかと若干理不尽な思いをしながら、当麻は受付に再び声をかけた。
「はい」
「春上……下の名前なんだっけ?」
「春上衿衣さんに、お会いしたいのですけれど。私の用件のほうは待たされるようですから」
「春上さんですか……あの、すみませんが、それは出来ません」
黄泉川の危惧が的中したらしかった。
「どうしてですか?」
「春上さんは先ほど、転院するためにこちらの病院を出ましたので」
「えっ? 転院、ですの? そんな話は昨日、一度もお聞きしませんでしたけれど」
「まあ、今日決まったことなので……」
「そんなに急なこと、ありますの?」
「はあ、まあ……」
それだけ言うと追求されるのが面倒なのか、受付が事務室の奥へと引っ込んだ。
バタバタと忙しない病院、そして急に転院した春上。そしてそれを危惧する黄泉川。
何か、不穏な空気が病院を流れていることを、当麻と光子は気づき始めていた。
「とりあえず、先生に電話するか」
「ええ。それと当麻さん、ちょうど受付の方もいませんから、私と春上さんの病室まで行ってみましょう」
「ん、わかった」
転院したのが本当なら当然そこはもぬけの殻のはずだ。無駄足かもしれないが、確認の意味はある。
当麻は携帯を操作して、黄泉川へとコールを入れた。そしてその足でエレベータに乗り込んだ。
エレベータが上りきるだけの長いコールを経て、ようやく黄泉川に繋がる。
「上条、どうだ」
「春上さんには会えませんでした。何でも今日突然、転院することが決まったらしいです」
「……そうか」
光子の先導で、春上の病室の前に来た。ネームプレートはまだ掛かったままで、中を見るとまだ私物が残っていた。ただ、部屋の主はいなかった。
「今春上さんの病室に来ました。荷物はあるんですけど、本人はいません」
「了解した。上条、助かったじゃんよ。婚后の件は今日じゃなくてもいい。とりあえず今日のところは、家に戻って来い」
「あの、手伝えること、ないですか」
「上条、お前は常日頃から厄介ごとに首を突っ込む馬鹿野郎だ。何度も怒られてもう分かってるじゃんよ。この街の問題に対応するのは警備員の仕事だ。お前はさっさと帰れ。婚后を泣かせたいか?」
「う……わかりました。帰りますよ」
「ん、そうしろ。それじゃ切るぞ」
また一分に満たない時間で、黄泉川が電話を切った。事情を問う顔の光子に、当麻は軽く首を振った。
「なんか厄介事らしい。光子の退院の件も保留でいいから、今日は家に帰れだってさ」
「春上さんが、行方知れずですのに?」
「一応この病院が手続きしてるんだぜ。誘拐とはわけが違うさ」
「でも……」
「なんか普段は俺が怒られるのに、俺が光子を諭すって不思議だな」
「当麻さんに毒されたんですわ、きっと」
ただの一般人である自分達が帰らされるのは、言わば当然のことだ。
だけど放っておけないはずの人を放っておくのは、何だか居心地が悪い。
行動を起こせないことに歯がゆさを覚える辺り、光子は、当麻と考えることが似通い始めていた。
……お互い、実はそれもちょっと嬉しかった。
「とりあえず、下に降りよう。それで医者の先生に会えなかったら、帰ろう。インデックスにも連絡しなきゃな」
「そうですわね。もう、これで帰ることになったら、インデックスには随分と足労をかけてしまいますわね」
二人はそう言い合いながらエレベータで再び下に降りた。
二人きりのボックスの中で、光子は当麻の二の腕をかき抱く。
もう随分と自然になった。こうやって当麻に甘えるのはなんだか楽しいのだった。
――だというのに。
「当麻さん?」
エレベータを出る。いつもならもっと気遣いの一つくらい見せてくれる優しい当麻が、軽く振り払うように光子の腕を解いて、光子とは違う方向を見た。
「御坂!」
「えっ?」
その名前に、光子の心臓がドキンと跳ねた。
だって、また会うなんて、思っていないから。
朝の一件から時間も経って、ようやく嫉妬がどろりと流れ出すのは収まっていたのに。
だが、当麻の影で死角になっていた美琴の姿を目にすると、そんな気持ちは、一瞬で吹き飛んだ。
――――美琴は気を失って、ストレッチャーの上に寝転がされていた。
「お、おい御坂! 大丈夫かよ?!」
「御坂さん?! あの、御坂さん!」
二人で声をかけるが、一向に目を覚ます気配はない。
眠っているというよりは、完全に意識を失っているらしかった。
ただ、幸い呼吸は確かで命に別状は内容に思えた。
「どうしてコイツ、ここにいるんだ?」
「さあ、私にも分かりませんわ。朝と服が違いますし……」
さらに分からないのは、美琴の横たわるストレッチャーが、一般の病人からは見えないところ、トラックや救急車用の搬入口に置かれていることだった。
治療をする医師もいないし、これから病室に運ぶという様子もない。先ほどから騒がしいことと関係があるのかもしれない。
「そこで何をやっている!」
敵意に近い警戒感のある声が、廊下の奥から飛んで来た。
パワードスーツ用のアンダーウェアを纏った男だった。MARの隊員だろう。
鍛えてあるらしく体つきは良かったが、目つきが陰湿だった。
「この子、俺達の知り合いなんです。どうして気を失ってるんですか?」
「さあ、詳しいことは知らないね。さあ、退いた退いた」
「お待ちになって。御坂さんは今からどうなりますの?」
「それはお前等の知ったことではないよ」
「待てよ。知り合いだって言ってるだろ?」
「彼女は他の病院で治療することになった。詳しいことは、目が覚めてから本人と連絡を取ってくれ」
露骨にチッと舌を鳴らして、その男は面倒くさそうに当麻を睨んだ。
そしてもう話は終わったと言わんばかりに、男は美琴の乗ったストレッチャーをトラックに載せようとした。
「待てよ!」
「……病人の移送を邪魔するなら、警備員に通報してもいいんだぞ?」
「そっちこそ通報されて大丈夫か? 春上さんを無事に運びたいんだろ?」
当麻は、それでカマをかけたつもりだった。情報の一つでも引き出せればいいと思ってのことだった。
だが、効果は覿面すぎた。
「ほう。随分と困ったことを知られたものだ」
「な?! が……っ!?」
「当麻さん?!」
当麻は突然飛んできた拳を腕でなんとか受け止め、数歩後退した。
光子は突然の荒事に硬直した。
その二人の隙を突いて、男は美琴の乗ったストレッチャーを近くに控えるトラックのほうへと押し始めた。
「どうせ今日の夜にはコトは全部終わってるんだ。証拠隠滅も、適当で構わないな。――おい! このクソガキをさっさと積み込め! これが最後の車両だ。遅れると所長に殺されるぞ!」
その返事を聞いていたのだろう、トラックから運転手らしい男が降りてきて、後部のコンテナ部分を開いた。
後部のドアが開くタイプではなく、車両のサイドの壁が持ち上がるガルウィングドアで、中にはパワードスーツが数着、積み込まれていた。
男はそれに飛び乗り、手馴れた仕草で起動する。
「さて。お前たち二人もこれから怪我人になる。そして我々と一緒に目的地まで行こうか」
「簡単にそれを許すと思いますの?」
「ああ、思っているよ。なにせ学園都市で三番目に貴重なサンプルでも、このザマだからな」
「えっ?」
躊躇わずに、男は病院の敷地全体に届くスピーカーのスイッチを入れた。
圧倒的なスペック差をつけた状態で蹂躙するのがその男の好みだった。
――――キィィィィィィィ
当麻はその不快な音に眉をひそめた。長く聞いていると気分が悪くなりそうだ。
そしてその程度では、光子はすまなかった。
「あ……、う。これ、は――」
「光子? お、おい大丈夫か?」
「当麻さ、ん……頭が」
「一体どうしたんだよ?!」
「『キャパシティダウン』さ」
「何だと?」
「超能力ジャミングの音響兵器だ。一般人には無害だが、能力者に対する効果はすさまじいよ。そちらのお嬢さんのようにな。それにしても、レベル4の能力者に付きまとう男が無能力者とは、みみっちいと自分で思わないのか?」
当麻はその言葉に取り合わなかった。
ただ、光子の体に右手で触れても、耳や頭に触れても様子が変わらないことを確認した。
「音を止めろ」
「ああ? お前ももう少し実力差を考えて言葉を選べよ。ほら!」
「クッ!」
ひどく緩慢な動作で、男はパワードスーツの腕を振り回した。
生身の人間より遅いそれをかわそうとして、軌道の先に光子の体があることに気づいた。
光子を退けるように、抱いて横に運ぼうとする。
――幸い、光子には当たることはなかった。
「が――――は、ア?!」
「当麻さん? 当麻さん……!?」
「ほう、これは謝罪せねばならんな。すまない少年よ。君は中々に高潔な人じゃないか」
わざわざこの構図を狙って作っておいて、男は慇懃に笑いながら当麻に謝った。
この方式を気に入ったらしい。
「さて、第二撃だ。彼女は動けないぞ?」
光子は状況把握も正確に出来なくなった脳裏で、歯噛みする。
力が使えないどころか、当麻が傷つく、その理由にされるなんて。
「ゴハァッ!」
「当麻さん……!」
ダメージは運動量に比例する。速度は遅くとも、大質量の鉄塊は充分な威力だった。
そしてダメージの蓄積部位は速度に依存する。
高速な物体であれば体の表面を壊すが、この遅い腕の振りはダメージを体に浸透させる。
悠然と飛んでくるその二撃で、当麻は足元が覚束なくなった。
そして三撃目。当麻を目掛けて繰り出されたそれは、鋭く腹部に突き刺さった。
「あ……が……」
当麻は必死に打開策を考える。逃げるのは可能かもしれない。でもそれは自分だけならだ。
そして超能力なんて使えない自分は、パワードスーツなんて相手と戦うのは、そもそも不可能だ。
学園都市のパワードスーツは発火能力者や発電系能力者を意識して作られているに決まっているのだから、そこらからガソリンを拝借して火をつけたくらいじゃどうにもならない。
トラックで轢いてやればダメージはあるだろうが、そんな悠長なことは出来ないし、そもそも運転も出来ない。
「く、そ……」
「さすがに三発でギブアップか。さて、時間がないのが悔しいところだな。隣の彼女が傷つく様をなすすべなく見る彼氏、という構図は中々に悲劇的で悪くないが、生憎凝った事をする余裕がなくてね。……本当に残念だ。生身なら触り甲斐もあったろうね」
「やめろ! 光子に触るな!」
「と言われても。言っただろう? 君もこの子も、学園都市の裏の世界についてきてもらわなきゃならないんだよ。何、どうせここで私が手を出さずとも、遠からずこの子は慰み者になるさ。レベル4などそうそう価値もない」
パワードスーツの腕で、抵抗の出来ない光子を男が掴み挙げた。
そして肩に担ぐようにして、トラックへと運ぼうとする。
「くそっ、待て! 待てよ!」
足が言うことを聞かない。倒れないように必死に二歩三歩と進むうちに、男はずっと先へと進んでしまう。
どうすれば。何をすれば光子を助けられる?!
当麻は、なす術のなさに頭を真っ白にしかけた。
その瞬間だった。
「みつこ!!!」
「やれやれ、上条当麻。君はこの状況じゃ本当に使えない男だね」
聞きなれた女の子の声と、小憎たらしいどこぞの赤髪の神父の声がした。




「おや、新手かい?」
男が余裕ありげに振り向いた。
光子がどさりと美琴と一緒のトラックに載せられたところだった。
「能力者が束になるとかなりの脅威なんだがね。今はキャパシティダウンの稼動中だ。その間に動ける君達は、つまりレベル0なんだろう?」
2メートルを越す身長の男は、生身なら脅威かもしれない。だがパワードスーツを着ている限り肉弾戦では敵ではない。
後ろにいる銀髪と金髪の二人など論外だった。むしろ、憐れみすら覚えた。どちらも逃がすわけには行かない。
と言うことは、今しがたトラックに載せた女と同様、この二人にもそう明るい未来は残されていなかった。
「レベル0というのは、確かこの都市の能力者のランク付けのことだったね?」
「ん?」
その物言いからして、目の前の赤髪の神父は学園都市外の人間らしい。尚更、脅威と見るに値しない存在だった。
だがその事実を理解していないのか、神父は悠長に煙草をふかしている。
目の下のバーコードや過度に纏いすぎたアクセサリの数々が、オカルトでも信奉しているような、蒙昧な印象をかもし出していた。
「僕は超能力者ではないからね、レベル0で合っているのかな」
「開発どころか検査も受けていない人間にレベルは与えられないさ」
「ああ、それもそうか。……ところでインデックス。僕は、科学<かれら>に能動的に干渉することは禁じられているんだけど」
インデックスは、ステイルの言っていることが魔術師としてごく常識的であることは理解していた。
だけど、そんな悠長なことを言うような場合では、ないのだ。放っておけば、光子がさらわれかねない状況だから。
光子を助けようと走り出したインデックスを止めたのがステイルだった。
そんな原則論を持ち出すのならなぜ自分を止めたんだと、インデックスは非難を込めた目で見つめ返した。
すぐさまステイルは、怯んだ目をした。
「……僕が言ったのは正論だよ。まあ、どうせ彼は僕らも逃がす気はないだろうしね。それで合っているかい?」
「そうだな、反論はしないよ。君に『需要』はないが、後ろのお嬢さん達には価値がある。さあ、地面に這いつくばれ」
男は当麻を無視して、ステイルと、その奥にいるインデックスとエリスの方を向いた。
そして無造作にステイルに腕を振り上げる。それを見て、ステイルは口の端を釣り上げた。
フィルター前までしっかり吸いきった煙草をピッと指で投げ捨てる。
こちらから露骨なアクションは取れなくても、反撃なら許されるのだ。
「仕事だよ、魔女狩りの王<イノケンティウス>」
「なっ?!」
煙草の吸殻を基点に、爆発的にオレンジがかった光が広がる。
それはあっという間に人型を成し、人の身長を越える。ちょうど、パワードスーツを来た男といい勝負のサイズだった。
「やれやれ、不穏な空気を感じてあらかじめルーンをバラ撒いておいたのが役に立つとはね。さて、一応聞くけど。その機械仕掛けの鎧から降りて、降伏する気はないかい?」
「貴様。なぜ能力を使える?!」
「さあ。どうしてだろうね」
「くっ!」
ブゥン、と一度止めた腕を男は振り下ろした。魔女狩りの王がそれを受け止める。
その二者の接触面が軋みをあげ、猛烈な勢いでパワードスーツのセンサーがアラームをかき鳴らした。
異常な熱を検知した報告だった。すぐにこれでは腕が駄目になる。
炎の塊から遠ざかるために男は反射的に後ろに下がって、そして愕然とした。
重さを感じさせない炎の塊が、自分の腕を掴んだままついてくる。
なのに振り払おうとすると、今度はパワードスーツの力に負けない強さで、その動きに逆らう。
その間も、腕はあっという間に熱を持って、その温度を見過ごせない温度にまで上昇させていく。
「その装甲。何度まで耐えられるんだい? さすがは学園都市製と、もう充分褒めるに値する健闘ぶりだけど」
魔女狩りの王の内部温度は、三千度程度。
それは温度で言えば、タングステンやダイヤモンドなど、強靭な物質を溶融させるにはやや心もとない温度だ。
だが、魔女狩りの王が司るのは熱ではない。酸素の存在を暗黙の前提とする、燃焼という現象だ。
酸素雰囲気下の三千度。それだけの条件で溶けも燃えもしない物質は、学園都市のどんな生産プラントでも作れない。
この世に存在しない物質を作れる、ある男を除いては。
勿論パワードスーツの装甲はそんな物質ではなかった。
「は、離せ!」
「どうしてだい? まずはお互い、分かり合うために対話をしようじゃないか」
炎の恐怖に顔を引きつらせる男に、ステイルはゆっくりとした動作で語りかける。
目の前で怯える人がいて、それに微塵も流されない。
「くそっ!」
男が何かを決心した顔で、開いた腕に銃をマウントした。そして、それをステイルに向け、引き金を引いた。
魔女狩りの王がステイルを庇い、腕を離した。

――ガンガンガン!!

それはもう、周辺にいるあらゆる人を警戒させるに足る音だ。すぐに通報されて、野次馬もたかってくるだろう。
速やかに、この神父を制圧しなければならない。炎の塊に阻まれて神父がどうなったのか見えないが、これが消えないと言うことは。
「残念。その程度の口径の銃が魔女狩りの王を貫通することは出来ないよ。以前、高速度の飛翔体に対する対策を考えさせられる経験があってね。魔女狩りの王にはかなりの粘りを持たせてある」
ステイルがチラリとうずくまる光子に目をやって、そう呟いた。
魔女狩りの王の中身は木炭や石炭の溶けたものだ。もちろんそれは魔術的、象徴的な意味であって、物理的な正しさはない。
三千度の炭の液体などというものが実際に存在するはずもないが、もしあれば、それは水よりさらりとしていておかしくない。
温度が上がると粘度が下がるという物理法則に、魔女狩りの王が従う必要は無かった。
「にしても、面倒だな。君を殺すのはちょっと問題がありそうでね。出来れば無力化したいんだが」
「うるさい、死ね!」
「ああ、会話にならないのか。君に科学を講釈するのは釈迦に説法というやつかも知れないけれど。――――熱膨張って知ってるかい?」
ステイルに向けられた銃の機構部分を、魔女狩りの王が優しく掴んだ。
恐怖にやられたのか、男は自動小銃をフルオートで打ち始める。だが、それも長くは続かなかった。
――――バンッ!!!
ひどくあっさりと、銃がその部品を四散させた。
「うわっ! な、なんで――」
「この温度で銃が正しく動作するわけがないだろう。さあ、魔女狩りの王。そろそろ戯れは終わりだ。彼に熱い抱擁を」
「止めろ! 止めてくれ!」
「それを言った上条当麻に君はどんなリアクションをとったっけね? ――やれ」
「ヒィッ!!!」
男は、緊急脱出用のコマンドを躊躇いなく実行した。
そしてもぬけの殻になったパワードスーツの外骨格に、魔女狩りの王が絡みついた。
弾性の付与と引き換えに熱に耐性のない関節から順に、あっという間に破損していく。
そして装甲が発火したところで、ステイルは魔女狩りの王を引き離した。
「クソ、なんでこんな――」
「よう」
「え?」
先ほどとは打って変わって、腰を抜かした男はいつの間にか当麻の足元にいた。
当麻は手加減なんて微塵も考えなかった。
全力のストレートを、男にぶち込んだ。
「寝てやがれ!!!!」
「ガハァッ!!!」
ガツンと頬骨が折れる音とともに、男が吹き飛ばされて転がった。
そして当麻はすぐにトラックの運転席で事態を怯えながら見つめていたMARの隊員を睨んだ。
「今すぐこの音を止めろ!」
魔女狩りの王がすっとトラックの前に立つ。逃げ切るより自分が殺されるほうが早いと悟ったのだろう。
当麻にぶちのめされた男よりも小心か、あるいは根が腐っていないのか、コクコクと頷いてキャパシティダウンを止めた。
すぐさま当麻とインデックスが光子の下に駆け寄る。
「みつこ! 大丈夫?!」
「ええ……。頭痛はもう消えましたから。すぐに良くなるとは、思いますわ」
「ごめんな、光子」
当麻の表情を見て、光子は切ない気持ちになった。
何も出来なかったことを悔いている顔だった。当麻はレベル0だ。こんなとき、何も出来なくたって誰も責めやしないのに。
自分を庇って、助けようとしてくれただけで、恋人の自分は充分に満足なのに。
「当麻さん、気になさらないで。本当に別に、私何ともありませんから」
「ああ……」
「まあそういう感傷的な事は後にまわしてくれないか」
「っ」
面白くなさそうに煙草をケースからとんとんと取り出しながら、ステイルが後ろで呟いた。
エリスはステイルからも離れて所在なさげにしている。
「悪い。ステイル、助かったよ」
「別に君たちが被害にあうだけなら止めなかったけどね。この子に手を出すと宣言したそこの彼にでも感謝したらどうだい」
不調でうずくまる光子を見ても全く容赦のないステイルだった。
だが恨みがましい目でインデックスに見られると、居心地悪そうに目線を外した。
「なあ、ステイル」
「なんだい?」
「さっきの運転手を操るとか、そういうことって出来るのか」
「……そんなことを何故聞くんだ?」
「光子」
ステイルに取り合わず、当麻は光子を撫でた。それだけで、光子は当麻の言いたいことを全部理解した。
そして答えに、沢山の言葉を尽くす必要なんてない。
「私は当麻さんについて行きます」
「おう。じゃあステイル、頼んだ」
「状況くらいは説明しろ」
「インデックスの友達の一人、春上さんって言うんだけどな、その子がこいつらに誘拐されてる。今から、助けに行くぞ」
運転手を操った上でトラックを運転させ、前方の車両に追いつく。当麻が考えているのはそういうことだった。
事情を確かめるように、戸惑ったステイルはインデックスを見た。
懇願する目で、コクリと頷いた。
「魔術師として、この学園の超能力者と戦うのは駄目なんだよね。そういうのは、しなくていいから。だからステイル、お願い」
ろくに吸ってもない煙草を投げ捨て、足でグリグリと踏みにじる。
正義を語るようなおこがましい趣味はステイルにはない。だが、そういうインデックスの顔には、弱かった。
「ああもう、僕は知らないぞ」
この場の全員に聞こえる大きな舌打ちをして、ステイルは運転手のほうへと向かった。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 07: 科学と魔術の交差点
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/06/30 11:42
カタンカタンと、トラックが高速道路の継ぎ目を通るたびに規則的な音が室内に響く。
簡易ベンチに当麻と、光子にインデックスが座り、ストレッチャーに乗せられた美琴が横にいる。
三人から離れ噛みタバコを噛むステイルと、その全員から離れたところにエリスが座っていた。
「まったく。僕にも用があって、ここに来たんだけどね」
ハッとため息をついて、ステイルが肩をすくめた。
そういう文句はトラックに乗り込んでから、三度目くらいだ。
「いやだから、来てくれるのはありがたいけど、来いって言ったわけじゃないだろ?」
「別に僕は君達に用はないから、あそこで別れても良かったんだけど」
「ごめんね。でも、私にとっても、他人じゃないもん」
ステイルはインデックスに謝られて向ける矛先を失い、フンと鼻を鳴らした。
「それにしても、追いつくのに時間が随分と掛かるね」
「この辺は高速が狭くて追い越しとかほとんどねーんだろうさ。差がついちまってるんだから、仕方ないだろ」
当麻たちを乗せたトラックは今、春上を乗せたトラックを追いかけている。
差がついているのは、当麻たちがパワードスーツを着た男と争ったのもあるが、その後にトラックから予備のパワードスーツを下ろすのに手間取ったからでもあった。
走っている途中で遠隔操作で自爆なり脱出ポッドの強制排出なりをされてはたまらない。
だが、あんな重い機械を手で運べるはずもなく、手間取ったのだった。
「もっと彼女が、早く手を貸してくれていれば良かったんだがね」
そう言ってステイルが、エリスを横目で見た。
インデックスが不安げな顔をする。一人、エリスだけが皆から離れているのは、ステイルの采配だった。




――――MARの病院で、ステイルがルーンを使って運転手を操ったところでその事態は起こった。
エリスは一般人だ。ついて来たところで足手まといになるのは明らかだった。
当麻がそれを心配したのがきっかけだった。
「エリス。ここからは危ない。悪いけど、近くの通りまで出て、タクシーで帰ってくれないか」
「上条君……。インデックスは、構わないの?」
「ステイルの魔女狩りの王<イノケンティウス>、見ただろ? インデックスはそういうのが出来る連中の一人なんだ」
「まあ戦力外だろうけどね、今回に関して言えば」
「そんなことないもん!」
ステイルの揶揄にインデックスがむっとした顔を返す。
それは心配の裏返しだった。魔術師の中でなら、インデックスは驚異的な力を発揮する。
だが、彼女の能力は超能力者の中にあっては、一般人と大差が無かった。
あらゆる信仰を論破するインデックスをして、太刀打ちできないのが科学だった。
「君が行かなきゃ、僕も行かなくて済むんだけど」
「……別に来てくれなんて、言ってない」
「だけどさっきみたいなことがあれば、君の保護者二人はまた戦力外になる。彼らが怪我をするのは僕の知ったことじゃないが、インデックス、君に関しては違う」
「じゃあ、ステイルは私と一緒にここに残って、とうまとみつこが怪我をするのが一番いいって言うんだね?」
「それは……」
「私も行く。もう私はそう決めたから。ステイルがついてこないのは自由だけど」
インデックスと春上とは、少し話した程度の間柄だった。
夏祭りに行った日に話したのだが、その時も主に世話になったのは浴衣を着付けてくれた佐天で、ほとんど春上とは接点を持たなかった。
でも、もう春上は、インデックスの友達の一人だ。苦しんでいるところを見過ごすことの出来ない、そういう相手に入っていると思う。
それは当麻にとっても、光子にとっても同じことのようだった。
この二人は、デートしているときに突然家のベランダに引っかかった女の子を助けて、そしてずっと一緒にいてくれるようなお人よしなのだ。
インデックスは、自分の決断を間違っているとは思えなかった。
「ああもう。分かった、行くよ」
ステイルはざっと髪をかき上げ、エリスに目をやる。
「君にも、親切で一応言っておくと、ついて来ない方が良いと思うよ。いざと言うときに、足手まといがいると困るからね」
「ステイル! そんな言い方しなくてもいいでしょ!」
「事実だよ。……さて、上条当麻。トラックに積まれた機械の鎧が邪魔だな。動かして車の外に出してくれ」
ステイルは無理と分かっているのだろう、当麻はその嫌味に苛立ちを覚えた。
この場で当麻は、今のところ何も出来ていない。
「無茶言うな。こんなモン、ロックが掛かってて部外者には動かせねーよ。手で動かすには重すぎるしな。さっきの運転手にやらせるか?」
「不可能じゃないけど、時間が掛かる。僕の魔女狩りの王は動かすのは可能だけれど、トラックも壊しかねないし、あまり作業には向いていない」
「じゃあ、私がやるよ」
「エリス?」
意を決したように呟いたエリスに、インデックスが戸惑いながら尋ねた。
「やるって、どうやって?」
「エリスさんは、それほどレベルは高くないんでしょう? できますの?」
美琴のストレッチャーの隣で座り込む光子がそう確認する。
トラックから地面まで1メートルくらいの段差がある。
エリスの超能力のことは良く知らないが、空間移動、念動力、そういう能力でこのパワードスーツを動かすにはそれなりのレベルが必要だった。
どうする気なのかと尋ねる光子に、エリスはあっさりと、自分の秘密を打ち明けた。
「ううん。私、ホントはね、超能力者じゃないんだ」
「え?」
驚くインデックスに、エリスは微笑んだ。
それは仲のいい知り合いに、また一つ嘘をつく後ろめたさを隠すための笑みだった。
エリスは、本当は超能力者でもある。
だがその「でもある」をきちんと目の前の皆に説明することは出来ない。
だからこの場では、エリスは自分の超能力者としての側面を隠した。
「あの、エリス……」
「ちょっと待ってね」
エリスはポケットから、印鑑入れのようなケースを取り出した。開くと、中には白いチョークのようなものが入っていた。
その質感から、インデックスはそれが微細な塩を油とワックスで固めたもの、オイルパステルの一種だと推測した。
エリスはかがんで、そのチョークめいた白色の棒で地面に紋章を描き始めた。
超能力者の、わけの分からない理屈ではなくて、むしろインデックスの良く知った理論に沿って。
「エリス……嘘、どうして」
「ごめんね、今まで、言わなくて」
それはいい。だって、インデックスだって自分が魔術師だなんて一言もエリスに言わなかった。
もちろんindex-librorum-prohibitorum、すなわち禁書目録というフルネームを見れば、魔術師ならインデックスが何者かなんて言わなくても分かるだろうけれど。
準備が終わったのだろう、詩歌を吟じるように、いつもより心持ち低いトーンで、朗々とエリスがその紋章に向けて声をかけた。
「私の可愛い土くれシェリー。あのトラックの上のパワードスーツを、どけて頂戴」
ぐにゅり。エリスの一言をきっかけとして、硬いコンクリートの地面が突然、やわらかい音を立てた。
コンクリートがひび割れ、その下から茶色い泥が、人の形を作るようにぬるりと這い上がる。
割れたコンクリートを身にまとい、その泥はステイルより一回り大きい程度に盛り上がっていく。
そしてやがて四肢と頭を形作り、泥の人形、ゴーレム=シェリーは完成した。
作り方を親友に教えてもらった、魔術師エリスの最高位の技だった。もちろん、魔女狩りの王となんて比べ物にならないが。
親友の名を冠したゴーレムに、エリスは笑いかけた。
たぶん存命のはずのシェリーがこれを見れば、自分と同じ名前をいかついゴーレムにつけたエリスのことを一体どう思うだろう。
「……ふうん、君は魔術師だったのか」
「うん」
「インデックスに近づいた目的は?」
「逆だよ。あの子が私のいる学校に来なければ、私からコンタクトすることなんて無かったもの」
少し寂しそうに、エリスがインデックスに笑いかけた。その微笑が表裏のないものに感じられて、インデックスは、エリスを信じたいと思った。
だけど、魔術師同士であるということは、そう簡単には埋められない距離があることを意味していた。
「エリスは、どうしてこの街にいたの?」
「……インデックスには、話してもいいよ。もう帝督君には教えちゃったから」
「じゃあ」
「でも今は、嫌だな。インデックスの知り合いだからって、誰にでも喋りたいことじゃ、ないから。……例えばステイルさんは、私に学園都市に来た理由を話せるの?」
「まさか。どの結社に所属する魔術師かも分からない相手に、そんなことができるものか」
「だよね。ほら、これでおあいこ」
ステイルの言い分はもっともだった。
とある錬金術師が、「吸血殺し」という究極の対吸血鬼集蛾塔のようなものを手に、本気で吸血鬼を集めようとしているなどという話が知れたら、普通の魔術師なら何を差し置いても、「吸血殺し」か吸血鬼の横取りを目論むだろう。
だがエリスは、ステイルが内心で考えていることなんて当然知りえない。
シェリーを見上げ、トンと触れた。
「さあ、早く仕事をなさい。急がなきゃいけないから」
シェリーは物も言わず、重たげな音を立てながらパワードスーツを退けに掛かった。
――――そんな経緯で、エリスはステイルの警戒心を買い、インデックスから離れて座っているのだった。




トラックの中の沈黙を、インデックスが破る。
「ねえ、エリス」
「何かな?」
「また、落ち着いたら。一緒に遊べるかな」
ステイルのほうを、エリスはチラリと見た。返答は無言だった。
「私はこれからもあの学校にいるし、インデックスが通ってくるなら、一緒に遊ぶこともあるよ」
「うん、そっか」
「インデックスこそ、私を避けたほうがいいのかもしれないよ?」
「……そうだね、ステイルは、そんな顔してる」
「なあエリス。お前はさ、友達としてのインデックスを、裏切る気なんてあるか」
「ないよ」
「ん。じゃあ、俺らから聞くことはもうねーな」
「……ありがと、上条君」
光子が当麻の手を握って、当麻と一緒にエリスに笑いかけた。
そして目線を横にやると、ストレッチャーの上の毛布が、もぞりと動いたのに気がついた。
「御坂さん?」
「ん……」
美琴が、意識を覚醒させたらしかった。




誰かの話し声が気になって、美琴は目を覚ました。
はじめに目に映ったのは、頼りない感じのするベッドと、灰色の壁だった。
ここ、どこだろ。
そんな暢気なことをぼんやり考えていると、御坂さん、と知っている誰かの声が背中にかけられた。
誰だっけ、知り合いの声なのは確かだけど。そう思いながら、気だるい体を横に向ける。
初めに目線を合わせた相手は、ツンツン頭の、見知った高校生だった。
「御坂、大丈夫か?」
「え……?」
どうして、コイツが?
理由は単純だった。美琴のストレッチャーの隣に当麻が座っていたから。
もちろん美琴にそんなことが分かるわけがない。
心臓が、トクリと高鳴った。目を覚ましたときに、傍にいてくれるなんて。
今この状況も、数時間前の記憶も、そういうものへの理解をせず、美琴の心は当麻の気遣う声が聞こえたことを、素直に喜んだ。
……それは決して、幸せではないことなのに。
「御坂さん、大丈夫ですの?」
「え? 婚后、さん……」
肺が苦しい。ギチギチと、急に呼吸が苦しくなった。
なんで、って。そうだ。今朝、話をしたんだ。コイツと婚后さんが、その、付き合ってるって。
よく見れば、確かインデックスとエリスという名前の美人の外人さん二人組に、知らない赤髪の人までいた。
呆然とする美琴に、当麻が立ち上がって手を触れた。
おでこに、当麻の温かみが広がる。夏だからか美琴は額に汗がにじんでいて、触られるのが恥ずかしかった。
「お前、熱あるだろ」
「え?」
「さっきからお前、『え?』って言ってばかりだな」
きっと普段なら、美琴が弱みを見せたらまずはそこを攻めにかかると思う。
いつも倒す倒されるみたいな話ばっかりしてたから、今だってそうだと思った。
なのに、馬鹿だな、なんて顔をしているのに。当麻の笑みの中に美琴を労わるような優しさがあった。
それは、隣に光子がいなければ、どうしようもなくなるくらい嬉しいことのはずなのに。
「ほら、喋れるか?」
「……ば、馬鹿にしないで」
「だったらちゃんと喋るんだな。こうなってるお前に無理言う様な事して悪いけど、聞かなきゃいけないことがあるからな。……お前、どうして倒れてたんだ?」
当麻の顔が、真面目なものになった。
それでようやく美琴も、自分の意識がなぜ飛んでいたのか、思い出した。
「私、テレスティーナにやられた。スタンガンで」
「あれ、お前、そういうの平気だっただろ?」
「なんか、あの音でおかしくなって」
「キャパシティダウンだっけか。そうか、お前もアレにやられたってことは、能力者であれば即アウトか」
美琴が首をさすり、傷を探した。
手に触れると、ざらりとした感触があった。ズキンと痛みが走って、そこがひどいやけどになっているのが分かった。
「痛っ……」
「ひどいな……それ。跡が残らないといいけどな」
当麻が痛ましそうに、その傷を見た。
別に、傷が残ったっていい。傷一つないのが女の勲章、なんて価値観は美琴は持ち合わせていない。
だけどやっぱり、自分の体が綺麗じゃないところを見られるのは、嫌だった。
「残ると吸血鬼っぽくて嫌ね」
「冗談言ってる場合かよ」
「いいでしょ、それくらい。なんでアンタが私の心配するのよ」
「しちゃいけないか?」
「……うん。駄目」
「そうか」
アンタには、婚后さんって彼女がいるでしょうが。
……それを、声に出すことは、現実を認めてしまうことになるから、言えなかった。
もうその現実が覆らないことは、薄々分かっているけれど。
「今、これ車に乗ってるんだよね?」
「ああ」
「どこに向かってるの?」
それも、聞いておかなければならないことだった。
規則的な振動から、どうもこの車は高速道路を走っているらしいとわかる。
しかも医者らしい人は乗っていなくて、救急車じゃなくてもっとゴツい、トラックのような車だった。
美琴のために別の病院へ、という感じではなかった。
「……体調悪いお前には悪いけど、この車は、春上さんを乗っけたトラックを追いかけてる」
やっぱり。
美琴は自分の予想が正しいことを確認して、そしてこう、思ってしまった。
私は、こんなことしてる場合じゃ、なんて。
そしてすぐに自分を責めた。
今、自分は春上と妹の命を天秤にかけて、優先順位を決めようとした。
それは、やってはいけないことだと思う。
そんな風に命に値段をつけるということをやってしまえば、妹達には、どうしようもないほどの客観的な値段がついている。
それが許せなくて、自分は動いているはずなのに。
……だけど、妹達と一方通行の作り出したあの惨劇が脳裏にこびりついていて、それがどうしようもなく美琴の焦燥感を掻き立てるのだ。
「朝から悩んでたの、この件だったのか? とりあえず、警備員の知り合いには連絡してある。どれくらい切羽詰ってるのか、詳しいことは御坂に聞きたいんだけどさ、ここにいるヤツはみんな、荒事に付き合ってくれる気で来てる。だからまあ、頼れよ」
「……うん」
美琴は当麻の勘違いを正さなかった。
やっぱり、あれは当麻にも話せることではないと思うから。
そして、いつか美琴がどうしようもなくなった最後には頼れる、そんな希望が感じられるから。
もう、それで良いと思った。今は、春上を助けることに集中しよう。
――不意に、当麻が美琴の髪をくしゃりと撫でた。
その感触に美琴は目を瞑ったのに、当麻の手は名残を見せずにすっと美琴から離れた。
「ごめんな」
「えっ……?」
不意に、謝られた。意図が分からなかった。
「お前、朝から随分追い詰められてたよな。もっと、ちゃんと聞いてやればよかったな」
「……別に、アンタに聞いてもらったって何も変わらないわよ」
「そうか?」
「そうなの。ったく、お人よしにも程があんのよ。そんなんじゃ、アンタ」
美琴はそこではじめて、ようやく、光子のほうを見た。
「婚后さんにすぐに愛想つかされるわよ」
「御坂さん……」
それは、敗北宣言だった。
だって、当麻はもう光子の恋人で、自分の居場所はそこにはないんだから。
友達としてなら、当麻の傍にはいられるように思う。だから、もうそれでいいじゃないか。
年上の、なんだかお互いにじゃれあいたくなるような、仲のいい男友達。
「愛想つかされるって、別に光子は」
「御坂さんの言うとおりですわ。当麻さんは、もっと反省してくださいませんと」
「え、光子?」
戸惑う当麻に光子が僅かに咎める視線を送った。
美琴はその光景を見ていられなくて、腕で、視界を覆い隠した。
「お、おい御坂。変なこと言うから」
「当麻さんはあちらに座ってらして」
「え、ちょっと、光子」
光子が強引に、当麻を自分の席に押しやった。
美琴の体がわなないて、何かを堪えるように唇がきゅっと横に引かれたのを見て、光子は当麻に見えないよう、美琴の頬にハンカチをそっと押し当てた。
「婚后さん……?」
「これが、嫌味なことに思えるんだったら、ごめんなさい。朝は、私もつい……ごめんなさい」
「いいよ。別に婚后さんは、悪くない」
「ええ、それは私も、譲れません。でも御坂さん、私、御坂さんとお友達でいたい」
「え?」
光子はそれ以上、言葉を重ねなかった。
ただ、美琴の気持ちに共感するように、空いた美琴の手をとって、ぎゅっと自分の手を重ねた。
覆った腕の隙間から、美琴は光子を見た。
真摯な目で、優越感とかそういうのとは無縁に、美琴を慰撫してくれる表情だった。
「……ありがとね、婚后さん」
「お礼なんて」
美琴は光子の手を握り返した。
優劣がついて、明暗が分かれて、蹴落とした側と蹴落とされた側になったのに。
今この瞬間が今までで一番、美琴と光子が友情を交し合えた時だった。




「初春、何をしていますの?」
「なんだか、前を走ってるトラックの台数がおかしい気がして……」
木山の運転するスポーツカーで移送中の春上や枝先を尾行している最中、助手席で端末を操り始めた初春に、白井がそう声を投げかけた。
病院を去るときに見たトラックは4台だった。死角にいて見落としたかもしれないが、それならもっと多いことになる。
目の前を走るトラックは3台、数が合わない。
……もちろん全てのトラックが春上や枝先の輸送に絡んでいる保証はないので、数が合わないことが即、異常というわけではない。
だが、例えば今追っているトラックは実は全く別の目的のトラックで、自分達が勘違いしてる、なんて事があっては困る。
それで、下っ端警備員の権限でも閲覧できる監視カメラの映像を漁っているのだった。
「――我々がミスリードされている、と?」
「え? ああ、そういうんじゃなくてただ勘違いで、ってことです」
「そうか。君もそういう危惧を抱いたのかと思ったのだが、違ったか」
「え?」
木山が吐露した懸念に、佐天は首をかしげた。
トラックは百メートルほど先を車の流れに乗って走っている。
高速道路の上だから突然いなくなることはないし、そもそもあの巨体だ、隠れることは無理だろう。
「何かおかしなことでもあるんですか?」
「おかしなことではないかも知れないがね。目の前のあのトラック、相当の重量のものを積んでいるようだ」
軽い段差にタイヤが差し掛かるたび、積荷に衝撃が行かないようスプリングが揺れを緩衝する。
その揺れの周期が、どうにも重たげだった。トラックに詰めるだけ子供達を積んでも、あれほど重くはない。
「確かになんか、重そうですね」
「ああ。……そしてね、普通あの仕様のトラックに積むのが何か、君達は知っているか」
「えっと……」
考え込む佐天の隣で、風紀委員の白井はその答えがパワードスーツであることを知っていた。
それを告げようとしたところで、白井の携帯電話が音を立てた。
ディスプレイを確認すると、見慣れた同居人の名前。
「お姉さま?!」
慌てて白井はコールに答えた。
そして美琴の声からはかけ離れた、野太い声がしたことに戸惑った。
「よう、白井か」
「……誰ですの?」
「悪い、上条だ……って言って分かるか?」
「上条さん……ああ、婚后さんの彼氏、でしたわね」
婚后さん、などとさん付けでなどほとんど呼ばない相手をそう呼ばざるを得なかったことに僅かに顔をしかめながら、白井はいったいどういう状況なのか、確認に努める。なぜ、婚后光子の彼氏がお姉さまと?
「わかってくれてよかった。ちょっと御坂のヤツに携帯借りてるんだ。聞きたいことがあってさ」
「あの、お姉さまは?」
「んっと、実は今ちょっとダウンしてる」
「ダウン?! 何がありましたの?」
「えっと、その御坂の件と俺の聞きたいことが関連してるんだけど……いいや、先に答えたほうが早いな。御坂のヤツ、それと後から俺と光子……婚后もだけど、あの病院の関係者に襲われた」
「えっ?!」
白井の驚きは二つあった。
いままで足繁く通った病院の関係者が、こちらに牙をむいたこと。
そして、それによって、学園都市最強の発電系能力者である美琴が、やられたこと。
その不穏な雰囲気を察したのだろう。後部座席、すぐ白井の隣にいる佐天はもちろん、前にいる初春と木山の二人も聞き耳を立てた。
それを見て音量を上げつつ、白井は心を落ち着かせながら、情報の把握に努めた。
「そっちも病院に言ったって聞いた。大丈夫だったのか?」
「ええ。少なくとも、私達が病院に伺ったときには、暴力的なことはありませんでしたわ。ただ、春上さんやそのお友達の枝先さんという方たちが病院を移るから、面会をすることは出来ないと一方的に通告されましたの」
「そうか。御坂はそれを止めようとしてやられたらしい。んで、俺達はやられた御坂がどっかに連れて行かれかけたところに出くわしたんだ」
「そう、ですの。……まずはお礼を。上条さん、お姉さまを助けてくださってありがとうございます」
「……俺は礼を言われるほどのことは出来なかったけどな。それで、今はどうしてるんだ?」
「私達は今、MARのトラックを追跡しています」
「え? そっちもか」
「ということは、上条さんたちも?」
「ああ。かなり離れてるけど。MARのトラックを一台かっぱらった」
「そうでしたの。あの、お姉さまに替わっていただけませんか?」
「そうだな、いきなり俺がかけて悪かった」
「いえ、緊急時ですから」
謝罪もそこそこに、上条は受話器を美琴に返してくれたらしかった。
荒事の真っ最中だが、当麻はちゃんと落ち着いていて、話し合えるいい相手だった。
携帯から耳を離さずにいると、程なくして美琴の声が聞こえた。
「……黒子」
「お姉さま! ご無事ですの?!」
「ああ、うん。アンタのキンキン声で耳が鳴ってる以外は平気」
「そんな言い方、つれないですわ」
「で、私に替わってって、何かあった?」
「いいえ。お姉さまのお声を聞いて、黒子の励みにしたかっただけですわ」
本心は違っていた。声を聞いて、美琴が大丈夫かを確認したかったのだった。
白井のお姉さまは普通に戦って傷つくような実力の人ではない。
だからそれが折られたとなれば相当な事態だと思えるし、安否はきちんと聞いておきたかった。
もちろん、ストレートに心配なんてしたら、この天邪鬼のお姉さまは大丈夫だって言い張るに決まっているのだ。
「……そ。ならもう補充したわね。またアイツに替わればいい?」
「ああ、待ってくださいお姉さま。出来ればもっと黒子を優しく励ましてくださいまし」
「ったく。世話の焼ける。ほら、頑張んないと夏休み後半の予定、アンタ以外の知り合いと遊ぶので埋めるわよ」
「え、ちょっとお姉さま、そんな酷い――」
「白井か? また替わった。それで、これからのことなんだけど」
美琴にもう少し言い募ろうとしたところで上条にまた替わってしまった。
当麻には聞こえないようにはあとため息をついて、もう一度その声に応える。
「なんですの?」
「行き先とか、そっちは把握してるかって――」
「白井さん! 御坂さんたちにも教えてください! 前のトラック、多分ダミーです!!」
「えっ?!」
当麻との会話を遮るように、助手席の初春が突然に叫んだ。
「初春! どういうことですの?!」
「今、MARの病院近くの監視カメラの映像にアクセスしたんですけど、私達が前方のトラックを追ってから、後発のトラックが別方向に向かってるんです! それに前のトラック、私達が追いつくまでかなり低速運転してます。見た感じ、あっちが本命ですよ!」
「そちらのトラックの行き先は?!」
「えっと、高速に乗って初めの分岐で曲がってますから……」
「人も少ないし、病院も少ない学区のほうだな」
「そうですね」
「……木原幻生の、研究所がある。そちらには」
「え?!」
まさか、と初春は思った。
木山と枝先たちが巻き込まれた悪夢を取り仕切った研究者。
そんなところに、転院するはずの枝先たちが、行くはずがない。
「おい白井! 今木原って名前が聞こえたけど」
「え、ええ」
「それテレスティーナの親類か?」
「え!? どうしてですの?」
「あの人のフルネーム、パンフレットで見た。テレスティーナ・木原・ライフラインだ」
「そんな……」
ガンッ! と木山が力任せにハンドルを殴りつけた。
けたたましいクラクションが鳴って、何事かと周囲の車が不審げな挙動をとる。
その中、木山は周りの迷惑を一切意に介さず、乗客三人に告げた。
「舌を噛まないように気をつけろ!」
「え?!」
「反対車線に出る!」
言うが早いか、木山が高速道路の真上で、駐車でもするときのように非常識な角度までハンドルを捻った。
タイヤがギャリリリリリリリとアスファルトに爪を立てる。
「うわわわっ!」
「きゅ、急すぎますわ!」
「へ、えぇぇぇぇぇっっ?!?!」
「お、おい! 大丈夫か?」
上条が悲鳴に反応してこちらをうかがう。未だ続く横殴りの加速度に抗いつつ、白井は怒鳴り声を返す。
「今から木原の研究施設に向かいます! お姉さまの携帯……いえ、佐天さんの携帯から婚后さんの携帯に目的の場所を転送しますから!」
「わかった! ……ってそっちは青のスポーツカーか! コッチから無茶苦茶な車が見えた!」
「それですわ。こちらも一台きりのMARのトラックを確認しました。難しいでしょうが、上条さんたちも早く引き返してくださいませ!」
「ああ、わかった。とりあえず用件は済んだけど、しばらく繋いでるぞ」
「ええ。話があれば私がすぐに出ますから」
白井は当麻にそう告げて、車と車の間をすり抜けていく木山の横顔を見つめた。
大切な生徒の、無事を願う顔だった。




当麻は白井との話を一旦打ち切って、ステイルに声をかけた。
「ステイル、こっちのトラック、後発の癖に先発のダミーを追いかけてる!」
「そんなこと僕に言われても知るものか」
「責めてるんじゃねえよ。すぐに行き先変えてくれ!」
「チッ……どう指示すればいい」
「どうって」
「行き先の名前は? それも分からずあの運転席の男に命令するのは難しいぞ」
「行き先はこちらです!」
光子が佐天から送られてきた情報をステイルに渡す。
すぐさまステイルがトラック前部の男に話しかけ始めた。
「上条さん! 聞こえています?」
「なんだ白井」
「ダミーのトラックが!」
当麻はその言葉に反応して、ステイルの隣から前方を覗いた。3台のMARのトラックが、強引に車を止めている。
そしてハッチを開き、その重たい鋼鉄製の積荷を開帳した。
合計、九台のパワードスーツ。対テロ制圧用クラスの重装備で、普通の学園都市の生徒など相手にもならないレベルだった。
「マジかよ……」
当麻はうめくように呟いた。トラックではこの込み合った高速でスピードも出ないが、高機動パッケージを積んだパワードスーツなら白井たちのスポーツカーにも追いつけるかもしれない。
そして、鈍重なトラックしかない自分達など、到底逃げ切れないだろう。
当麻の後ろで、光子が美琴に歩み寄った。
「御坂さん」
「婚后さん?」
「御坂さんは、レベル5の、常盤台のエースでしたのね」
「へ?」
「私、つい最近まで存じ上げませんでしたの。ごめんなさい」
「それはいいけど……」
突然のその言葉に、美琴は戸惑った。
どこか、美琴を試すように、あるいは勇気付けるように、光子が挑戦的な笑みを美琴に向けた。
「ねえ御坂さん、このトラックから、対向車線を走るあの車に、取り付くことはできますの?」
「え?」
「一番の戦力が、こんなところで足止めなんていうのはおかしな事ですわ」
「……」
「あの邪魔な追っ手なら露払いを済ませて起きますから、御坂さんは白井さんたちと先に行ってくださいな」
「婚后さん……」
美琴は改めて、自分に問う。
こんなことを、自分はしている場合だろうか。
ここで力を使って、テレスティーナを止めても、妹達を助けるのに何一つためにはならない。
だから、この事件は誰かに任せて、自分は自分のことをすべきだろうか。
美琴は自分を見つめる光子から視線を外して、光子の、彼氏の背中に目をやった。
赤髪長身の、ステイルといっただろうか。その人といがみ合いながら必死に打開策を練っている。
ふっと、それを見て美琴は笑った。
今、ここを離れても、自分は絶対に後悔するのだ。枝先や春上たちを放っては、やはりいけないのだ。
それが、御坂美琴という人間なのだと思う。後で後悔だってするかもしれないけれど、それでも、動くのだ。
「ありがと、婚后さん」
「お礼なんて要りませんわ」
「うん」
それだけ言葉を交わし、美琴は当麻のほうに近づいて、乱暴に押しのけた。
このトラックのハッチを開くボタンがそこにあったからだ。
「お、おい御坂、なんだよ」
「邪魔。……私、行くから」
「へ? 行くって?」
「ありがと、と、と、とう、ま」
「え、なんだって?」
「なんでもない! じゃ!」
「あ、おい!」
光子の顔は見なかった。小声で言ったから気づかれなかったかもしれないし。
もう、能力は本調子。
ちょうどおあつらえ向きに迫ってきた、見覚えのあるスポーツカーに向かって、美琴はダイブした。
相対速度は、時速100キロくらいあった。
「光子、御坂のヤツ」
「あれでいいんですわ。ステイルさん、車のターンはまだですの?」
「今、減速しているだろう。もう少し待つんだね」
「……ということは、運転手の方への指示は済みましのね」
「ああ。済んだけど」
「それは重畳」
クスリと笑って、光子はステイルの背中に優しく触れた。
気味悪げに、ステイルが光子の顔を見た。
「なんだい」
「みつこ?」
光子は当麻とインデックス、そしてエリスの顔を見渡した。
「当麻さん。可愛らしい女の子二人だからって、変な気はくれぐれも起こさないで」
「へ?」
当麻に、自分が浮かべられる飛び切りの笑顔にちょっとだけ嫉妬を混ぜて、気持ちを伝える。
そしてまだ疑問顔のステイルに、光子はため息をついてやった。
光子の能力で気絶さえしたことが有るというのに、触れられて無頓着とは、どういうことか。
「婚后。君は一体何を――」
「私達は口より手を動かすのが先ですわ」
そう言って、自分とステイルに蓄えていた気体を、光子は噴出させた。
「うわっ!」
「みつこ!? ステイル!」
「インデックス! こちらは私達に任せて!」
「君は一体何を! 僕がいなくなったらトラックの行き先は変更できないんだぞ!?」
「大丈夫! 私が何とかするから!」
超能力者エリスは、人の心を操ることが出来る。
魔術師としてのエリスを知る他の面子は、エリスが魔術でそれをするものと思い込んだ。
勘違いをエリスは正さない。
「光子……」
「当麻さん。適材適所、ですわ。私はここで、あちらの方々を制圧します」
「……無茶するなよ」
「あら、それは当麻さんこそ自分で自分にお言い聞かせになって」
くすっと光子が笑う。当麻は自分の乗るトラックがギヤを入れ替え、アクセルを踏んだのが分かった。
名残を惜しむ場面でもない。しばし光子は当麻と見詰め合って、そしてすぐさま目の前の課題に集中した。
ステイルはさすがに荒事には慣れていた。やれやれという風にため息をついて、起動を完了させたパワードスーツを眺めた。
「ひどい無茶をやってくれたものだ」
「あら、そうは思いませんわ。超能力者の事情には関われないのでしょう?」
「もうとっくに巻き込まれているだろう」
「目の前のあれは、超能力とは全く関係のない、ただの最新鋭のブリキのおもちゃですわ」
「それにしては随分と攻撃的だ」
それに取り合わず、光子はステイルの腰に腕を回した。
「遠距離戦では周りに被害が出ます。とりあえず肉薄しますから、さっさと必要なビラ配りは済ませて頂戴」
「ビラとは失礼な。それと、準備は5秒で事足りるよ」
光子はステイルを引き連れ、敵地へと赴いた。
自分達がパワードスーツの連中を見逃せば、インデックスに危害が及ぶかもしれない。
インデックスを人質に取っていることになるのは不本意だが、ステイルが本気で目の前の連中を足止めするだろうことには、光子は自身があった。
炎の魔術師と風の超能力者、それに対するは9機の学園都市製パワードスーツ。
気に食わない相棒だが、相性は悪くない。
光子はステイルを信頼して、今この瞬間は、背中を預けることに決めた。
「行きますわよ!」
「ああ!」



[19764] ep.2_PSI-Crystal 08: 背中を預ける戦友は
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/07/14 00:24

木山がスポーツカーのアクセルを踏み、美琴たちの乗ったトラックとすれ違おうとしたその時だった。
白井は窓の外に、とんでもない無茶をやる美琴の姿を見た。
「お姉さま?!」
「えっ?」
「ちょっと、み、御坂さん?!」
戸惑う佐天と初春をよそに、白井は窓を開け、身を乗り出す。
呼吸が苦しいのか顔をしかめた美琴が、加速中のスポーツカーに追随していた。
もちろん足で走ってのことなどではない。
糸で繋いだタコのように、スポーツカーの斜め上に浮いているのだ。
糸の正体は、美琴の生み出した磁力だった。
「くっ、お姉さま! 無茶にも程があります!」
白井は窓を前回にして、ほぼ半身を乗り出す。
佐天は驚いて、白井の下半身に抱きついて支えた。
「手を! もっと伸ばしてくださいまし!」
無言、というか返事する余裕のない美琴に手を伸ばす。
レベル5の面目躍如というか、力任せすぎる出力でスポーツカーとの距離を詰め、そして白井の伸ばした手に自らの手を重ねようとする。
だが美琴の体を時速数十キロの乱流が上下左右に振るせいで、なかなか繋ぐことが出来ない。
「ああもう!」
相対速度がこれだけ近ければ問題ない。白井はそう判断して、シュン、と車内から姿を消した。
そして美琴の隣に現れ、首根っこにしがみついた。
「お姉さまっ」
「黒子?!」
「戻りますわ!」
高速で走る車からのテレポート、そして空気抵抗で減速する前に帰還。
それを一瞬で済ませ、黒子と美琴は後部座席に返り咲いた。どさっと背もたれにぶつかって、ほんの少しの減速分の運動量を補充する。
「いたっ!」
「ちょ、ちょっと白井さん。危ないですよ!」
「何を仰いますの佐天さん。レベル4の空間転移能力者として、この程度は当然可能なことですわ」
フッと白井はそう不敵に笑って、そして美琴へのスキンシップを再開した。
「もう! お姉さまったら昨日の夜からどちらにお出かけしていましたの? 黒子はそれはそれは心配しましたのよ」
「……ごめんね、黒子」
「え? あ、はい。分かっていただければ……」
素直な美琴の態度に、白井は面食らってしまった。
「あの、それで何をしてらっっしゃいましたの?」
「ちょっと、ね。この件の調べ物をしに木原幻生の研究所に忍び込んだんだけど、空振りでさ」
美琴はそれ以上を語るつもりは無かった。
そしてポケットの軽さに気づいて、美琴は携帯を忘れてきたことに気がついた。
「携帯はあっちに置いてきちゃったか」
「ああ、そういえば上条さんにお渡ししたままですわね。お姉さまの携帯とまだ、繋がってますけれど」
「じゃそのままでいいわ。あのバカに、後で延滞料金つきで返しに持ってきなさいって言っといて」
「はあ。あのバカさんに、ですのね?」
「え?」
「上条さんにそうお伝えしますわ」
「うん。……?」
何に白井が引っかかったのか、美琴は分からなかったらしい。迂闊なことだと思う。
白井は、美琴のその不用意な一言で理解したのだった。美琴がこれまで何度も何度も呟いてきた「あのバカ」が一体誰なのかを。
言われてみれば、なるほどという気はしないでもない。
レベル0の癖にこんな厄介ごとに首を突っ込んで、無茶をやっているなんて、当麻は確かにバカそのものだろう。
話した限り、いい人なのも分かる。そう悪い男性ではなさそうだ。
でも、だから。上条当麻が少なくとも一ヶ月くらい前からは、婚后光子の彼氏であったというのは、美琴にとって可哀想な事実だった。
電話の向こうに、光子と当麻が揃っていることは知っている。きっと美琴も、もう当麻には恋人がいることを知っているのだろう。
そう思うと、不憫だった。勿論実際に美琴と当麻の間に特別な関係が進展していたなら、自分は猛烈に反対するのだろうが。
「何? 黒子」
「なんでもありませんわ。それで初春、この車なら追いつけますの?」
「追いつくのは無理です。距離が離れすぎてますから。でも、行き先は分かりますから問題はそこじゃありません」
いぶかしむ美琴をあしらいつつ白井が投げかけた質問に、前方の景色と手元の端末の映像とに忙しく視線を往復させながら、初春はそう返事する。
問題は、追いつけないことではなくて、むしろ。
「木山先生、春上さんたちを乗せるのにトラックって何台必要ですか」
「二台もあれば事足りる」
「……白井さん。追いかけてるトラックは、四台です。ちなみにさっきのトラックには、一台あたり三機のパワードスーツが積まれてました」
「つまり、六機にいずれ襲撃される、と初春は言いたいんですのね」
「はい」
しばしの沈黙が、車内にエンジン音を響かせる。
美琴がその懸念を、ハン、と鼻で笑った。
「上等。邪魔するなら、退場してもらうだけね」
「ですわね。で、あちらとの接触はどこになりそうですの?」
「あっちがどう動くかによります。すぐにじゃないと思いますけど、正確なことはわかりません」
「じゃあ皆でしっかり周りに注意してろってことだよね」
「はい。木山先生は運転に集中してください」
「ああ、分かっている」
美琴が自分に手足を絡めた白井を強引にはがし、窓側に座る。
空間転移能力者<テレポーター>の白井は何かがあっても自力で逃げられるし、こちらから手を出す際にも窓際にいる必要がない。
美琴が、反対の窓側にいる佐天を見つめた。
「御坂さん?」
「何度かチラッと見ただけだけど。佐天さん、もう充分に戦力になるよね」
「えっ?」
そう言われるのが嬉しくて、佐天は思わず胸を高鳴らせた。
レベルなんて勿論関係なくお付き合いしているが、美琴は、誰もが憧れるレベル5の人だから。
「無理はしなくていい、ってか出来ないだろうけど。ノーマークの能力者がいるって、それだけで脅威だから」
美琴も、そして風紀委員の白井もある意味有名人だ。その二人についてはあちらも警戒しているだろう。
そこに空力使い<エアロハンド>が紛れ込むことは、決してマイナスではない。
断片的に見た佐天の能力者としてのセンス、そして光子から伝え聞くそのポテンシャルの高さ。
レベル3相当なら、少なくともかく乱には充分使える。
「私、頑張ります!」
佐天がそう宣言した直後だった。
初春と木山が見つめる前方、高速道路が別の路線へ分岐するポイントで。
「バリケード!?」
「MARのマークが入っている! 封鎖でこちらの足止めか!」
「御坂さん! あれ壊せますか?」
ギヤに手を当てて木山が前方を睨む横で、初春が振り返って美琴に訪ねる。
「止まらないと無理。コインのレールガンじゃ、あれは壊せない」
「時間が、惜しいのに……」
目前、あと200メートルに迫るバリケードは、赤い三角コーナーとプラスチックの棒で出来たような粗末なものではない。
鋼鉄製の骨子が格子状に組まれ、トラックでも止められそうな頑丈なヤツだった。
恐らくは鉄製であろうそれには美琴の磁力なら通じるから、至近距離に近づけばどうとでもなる。
だが、ポケットの中のコインをどんなに加速したってどうこうできる質量ではなかった。
バックミラー越しに首を振る美琴を見て、木山が悪態をついてブレーキに足を伸ばした。
それを。
「待って!」
佐天が止めた。
バリケードの張られたジャンクションまで、もう100メートルしかない。
「あれ越えよう!」
「佐天さん?! 私と黒子じゃ無理よ!」
白井のテレポートはこの車を動かすだけの力はない。
だからそれは美琴たちレベル4以上の二人には無理なこと。
反射的に美琴はそう返したが、佐天の発した言葉は他力を願う響きではなかった。
「大丈夫です! 私が飛ばします!」
「佐天さん?!」
初春が驚いた目で佐天を見つめる。
「木山先生! スピード上げて! 時速150以上!」
「……いけるのか?」
「はい。無茶じゃありません。私の能力なら、できます」
「わかった。君を信じよう」
木山は納得するための時間を尽くすことを、脇に放り投げた。
佐天がさっきの白井みたいに、初春のいる助手席に割り込んで、そして窓を開けて半身を乗り出す。
「初春、支えててね! お尻触ってもいいから」
「さ、佐天さん! こんな時に何言ってるんですか!!」
「こんな時だからだよっ! ――――いくよっ!!」
佐天は、突き出した左手に、ありったけの意識を集中する。
この車が、スポーツカーでよかった。鈍重なトラックや風の流れに無頓着なファミリーカーなら、こんなマネは出来なかった。
車高が低くて、車体と道路の隙間から空気が漏れにくいのがいい。
美琴が車内から佐天の能力を見つめた。もちろん空力使いではない美琴に佐天のしていることは目に見えない。
だが、その威力の大きさはすぐ実感することになった。
ふっと、佐天が呼吸を止める。そして瞬時に能力は発動した。
――空気の軋む音がやけに硬質で、ガツッという響きに近かった。
「なっ?!」
バリケードの直前で、木山は慌ててハンドルにカウンターを当てた。
佐天のいる助手席側に、車が急に曲がっていったからだ。原理は野球の球が曲がるのと同じ。
急激に佐天が気流を集めたことで気圧が下がり、車体の左右に生じた気圧差を埋めるように、車が引きずられたのだった。
問題は、佐天の手のひらの、たった数センチの渦が車を動かすだけの出力を誇っていることだった。
「先生! 絶対ブレーキ踏まないで!」
「失敗すれば死ぬのは君だぞ!」
バリケードは格子状だからしなやかだ。恐らく、車内の四人はぶつかっても生き残れる。
だが半身を乗り出した佐天はどう足掻いても無理だった。そんな状況でも、佐天は一向に不安を抱いていなかった。
だって、コレは、自分ならできることだから。賭けだとか、そんなのじゃない。
渦流の紡ぎ手たる自分が、こんなことを出来るのは、ごく当たり前のことだ。
「佐天さん……!」
バリケードが迫る。もう、ブレーキを踏んだって衝突を回避は出来ない。
初春が祈るように佐天の名前を呟く。
「はああぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」
佐天が車のボンネットに、いや、その少し先に向かって、手のひらの上の何かを投げつける仕草をした。
――直後。
ブワッという鈍い音がして、木山のスポーツカーの鼻先が、バリケードの少し上まで持ち上がった。
「きゃっ!」
「佐天さん! 車! 落ちちゃう!」
フロントウインドウ越しに見る外の世界がぐるんと移り変わって、綺麗な青空になる。
タイヤが転がり摩擦から解放されて、ファァン!と甲高い音を立てて空回りする。
そして幅跳びをする選手のように、スポーツカーは絶妙な高さでバリケードを越えた。
そして車内で誰かが悲鳴を上げたそのとおりに、高さ1メートル50センチまで持ち上がった車が、上がった分だけ落ちはじめた。
その時には、佐天はすでに次の渦を、手元に用意している。数は四つ。
着地のほうが、佐天は不安だった。
――――渦の同時生成はもうできる。けど、問題はその四つを独立に制御すること!
乱暴に持ち上げ、そして突風にさらされたスポーツカーは、四つのタイヤを綺麗に地面に向けてはいない。
真っ直ぐ落ちれば佐天の後ろの助手席側後輪が一番に落ちて衝撃を受けることになる。
それでは、車が駄目になる。中の自分達だってきっと怪我をしてしまう。
無事に目的地まで走ってもらうために、タイヤは同時に落とさないといけない。
それはつまり、タイヤの下にクッションとして置く渦を、独立に操らないといけないということだ。
佐天は目を凝らしタイヤと地面の位置を測る。
そして五感で検知できない風の流れを読み取る。もうそれは、意識すらしなくても出来る。
得られた情報を総動員して、いつ、どんな出力で渦を解放すべきか、決定する。
佐天の演算能力は、実用レベルとされる水域に充分に達していた。
「ふっ!」
身を乗り出す。まずは左後輪。そこに置いた渦を、佐天は歯を食いしばって維持する。
トンを越える重量の車重に耐えながら渦を保つのは、酷くコントロールを要求されることだった。
そして、その間に残ったタイヤの下に三つの渦を配る。真っ先に落ちてきた左後輪の対角にある右前輪の渦だけ出力を落とす。
多分、これで上手く行くはずだ。この出来なら、細工は流々、なんて言ってもいいだろう。
「後は仕上げをご覧あれってね!」
ぱちん、と佐天は心の中でトリガーを引いて、威力を丁寧に振り分けた渦を四つ、同時に破裂させた。
衝撃は、まとめて一つ。スポーツカーは車体の傾きを直しながら、四つのタイヤで見事に接地を果たした。
とはいえ高みから落ちた分の運動エネルギーを相殺するには、車のサスペンションに大きく頼ることになる。
車が、グワングワンと揺れた。
「わっ! これ、大丈夫!?」
「オフロードを走ればこれくらいは優しい部類になる。大丈夫だ。やるじゃないか」
「へへ。私、役に立てましたよね」
「やりますわね、佐天さん」
車内に戻ってバサバサになった髪を直す佐天を、初春は横目に見つめる。
ちょっと置いていかれて悔しい感じはするけれど、眩しい笑顔が、格好よかった。
佐天の努力を労うように笑みを浮かべ、すぐさま初春はディスプレイに目を落とした。
自分の戦う場所は、ここだ。まだすべきことが終わったわけじゃない。
遭遇するかもしれないパワードスーツの部隊との接触に備え、情報を集めることが必要だった。




ステイルと光子が九機のパワードスーツの元へとたどり着くのと、あちらがスタンバイを済ませたのはほぼ同時だった。
「早く準備をなさって」
「人使いの荒いことだ。分かっているよ」
ステイルは光子が文句を言うより先にすでに手を動かしていた。ルーンを刻んだカードが、意志を持ったように周囲の壁という壁に張り付いていく。
パワードスーツの一団は、六機が高機動パッケージを装備し、残り三機がこちらの相手をする腹積もりらしい。
もちろん光子は、一機たりとて逃がすつもりはない。
「いつでもどうぞ」
「ご苦労様ですわ」
光子はステイルを労うと、まるで無警戒に、パワードスーツに近づいた。
ここからさっさと立ち去り、当麻や美琴たちに迫ろうとしているほうの一機だった。
そのパワードスーツは光子の行動の意図を読めなかったのだろう、警告すべきか、無視すべきか、戸惑いをその動きに反映させた。
その間に光子は機体の足元にまで迫り、太もも辺りをコンコンと叩いて中の人間に声をかけた。
「常盤台中学二年、婚后光子と申します。春上衿衣さんを誘拐した件についてお伺いしたいのですけれど?」
慇懃に、光子は笑いかけてやる。
当麻の目の前ではこんな底意地の悪い顔をしたことはないが、今は別だ。
返答が、スピーカー越しの声で帰ってきた。
「誘拐とは何のことだ? 我々は彼女を看ている救助隊の者だが」
「その救助隊が一体どうして高速道路の往来でそんな物騒なものをお出しになっているの?」
「言わなくてもそちらが知っているだろう。すまないが、話をする暇はない」
「そう。強引に突破するというなら、お友達の皆さんを守るために、私達はあなた方を制圧します。正義がどちらにあるか、ちゃんと理解なさっていますわね?」
「ああ。若さゆえの過ちというのは誰にでもある。幸い君の歳ならまだ前科もつかないだろう。後で社会の常識をきちんと学ぶといい」
ステイルは先ほどから、このやり取りに興味がないのかそっぽを向いてタバコを吸っている。
それが決して油断を意味しないことを、光子は分かっていた。流れてきたタバコの臭いが鬱陶しくて、軽く扇子で払った。
……良くない傾向だ、と思う。ステイルといると、なんだか悪役<ヒール>めいた笑顔を浮かべたくなってくるのだった。
あくまで楚々と、自分らしい仕草や身のこなしを徹底しながら、光子は瞳の中にだけ侮蔑を込めて呟く。
「暴走能力者を利用して体晶の投与実験を行おうとするあなた方が、常識を語りますの? 本当、社会になじめないクズほど、臆面もなく開き直りますのね」
クズ、という表現を光子は生まれてはじめて使った。
自分の中の攻撃的な側面が、それでカチンとスイッチが入ったように動き始めたのが分かる。
つい一ヶ月前までは純粋培養のお嬢様で荒事なんてまったく経験が無かった。
だが、当麻と二人でインデックスを助けるために危険に身をさらし、そして今、戦うためのメンタリティというものを光子は身につけつつあった。
暴力を振るうことは良くない、という金科玉条を抱いてきたこれまでの光子には考えられない変化だった。
「……君は物知りだね。さて、我々は患者の安全を守るため、君達を排除する。抵抗しなければこちらも酷いことはしないよ」
「それなりに面白い冗談だ。君の同僚が僕らの前で、秘密を知った人間は元の世界には帰さないって言った後だから尚更ね」
ステイルがフィルター前まで吸いきったタバコを地面に捨てた。
それが、合図になった。
ギュアッ、とアクチュエーターの音を鳴らしながら、パワードスーツが光子に腕を伸ばす。
今光子と話をしていたのとは別の、ここで光子たちの相手をする気の一台だ。
「ステイルさん!」
その相手を、光子はしない。
一言ステイルの名を叫ぶと、光子の替わりに魔女狩りの王<イノケンティウス>がパワードスーツと力比べをする格好になった。
「なっ!? クソ、貴様は発火能力者<パイロキネシスト>か」
「さあ、それはどうだろうね」
ステイルがそう嘯く。その隣で高機動パッケージを積んだチームが動き出した。
「かなり遅れをとっているんだ。追いつけるうちにさっさと行くぞ」
「させませんわ!」
「退け。怪我をしたくないならな」
「別にあなた方の進路に身をさらしたりなんてしませんわよ?」
声色に嘲笑の響きを込め、光子はトントンと靴のつま先で地面を叩き、ローファの履き心地を確かめた。
そして最後にもう一度、ステイルと視線を交わした。
「ステイルさん、では、はじめましょうか」
「手短にやろう」
そんな短い一言を交わして、光子は扇子をぱたんと閉じた。
そして先ほど迂闊にも光子に接触を許したパワードスーツに仕込んだ、風の噴出点を開放する。
――――ゴウァッッッ!!!
「うわっ! な、なんだ?! お、おおおおぉぉぉ!!」
高機動パッケージを積んだ六機の先頭にいたパワードスーツが、突然自分の太ももから噴出した突風に、体の制御を失った。
尻餅をつくようになすすべなく後ろにこけて、同僚を巻き込む。そして被害を拡大させながら、機体が使い物にならなくなるまで地面を転がった。
一瞬の出来事ではなく、数秒間に渡って断続的に相手の体から自由を奪うのが光子の能力のいやらしいところだ。
その隣で魔女狩りの王と取っ組み合いをしていた一機が装甲を溶かす熱量に怯えながら毒づいた。
「クソッ、いい加減に離れろ!」
「別に構わないよ。とりあえず離せ、魔女狩りの王」
ステイルが新しいタバコを胸元から取り出しながら、鷹揚に応じた。
突如として、魔女狩りの王はそのパワードスーツの前から消え去る。
「何?!」
驚いた声を出しながらも、目の前の恐怖が去ったことに、一瞬パワードスーツの仲の男は安堵を覚えた。
だがその油断が、まさに余計。
魔女狩りの王が突如として男の後ろに現れ、機体に抱きついた。
ビービーと計器がエラーをがなりたて、男は一瞬にして混乱の渦に落ちていく。
「ヒッ?! ああっ?! 嫌だ! 火が、火が! 誰か離してくれ! 背中に火が!」
「脱出用の仕組みがあるんだろう? 別に君が死んでも僕は……ああ、今回は死なないでいてくれたほうがありがたいのか。おい、頑張って助かりなよ」
いかなる存在であっても、学園都市の人間を殺すのは魔術師ステイルにとっては剣呑だ。
インデックスを傷つけると明言した相手だから、ステイルの本心としては容赦の必要を感じない。それに、超能力者でないこの男達はどのように扱っても揉み消すのも無理ではない。だが各所に要らぬ貸しを作るのが面倒で、ステイルは情けをかけてやった。
「クソ、おそらく連中はレベル4だ! アレを起動しろ!」
「ステイルさん!」
「分かっているよ」
連中がキャパシティダウンを起動させようとしているのは、すぐに分かった。ステイルとてパワードスーツを相手に九対一は御免蒙りたいので、光子の指示に従う。
キャパシティダウンは見た目はただの大型スピーカーだ。ハッチを開きっぱなしなので、それを積んでいるトラックは一目瞭然だった。
魔女狩りの王は、ルーンで決めた領域の中なら顕現する場所を好きに決められる。
パワードスーツ部隊の誰かがキャパシティダウンを鳴らすより先に、ステイルは魔女狩りの王をそのスピーカーに触れさせた。
何も全てを破壊する必要なんてない。スピーカーの中心にある磁石に触れるだけでいい。それも溶かす必要すらない。磁性を失うキュリー温度以上に引き上げてやれば、それで事足りる。
腕を広げた魔女狩りの王が、大型スピーカーで出来た壁に取りすがるように、体全体で触れた。それだけで、キャパシティダウンはその効力を完全に失った。
「!? 音が! 鳴りません!」
隊員の一人が叫ぶ。すかさず取り乱した隊員とは別の隊員が、ステイルに銃口を向けて檄を飛ばす。
「あの赤髪が無防備だ!」
「させませんわよ」
光子はパワードスーツの連中の注意が自分から逸れたのを利用して、トンと地面を蹴って飛躍した。
目の高さより上にあるものを人は中々認識しないものだ。
上空2.5メートルを滑空し、光子はタンタンと二機の頭部を足で踏みつける。
優雅なステップだったが、その足取りはスケートリンクの上の踊り子よりずっと速い。
「馬鹿が! あのメスガキに触られるな!」
「えっ?!」
光子の能力発動のトリガーが接触であることに、隊員の一人が気づいた。
だが察しの鈍かった二人はコレでリタイアだった。
バシュゥゥゥゥッッッッ!!
銃もその他装備も満足にあったのに、二機はそれを活用することなく、メチャクチャな縦回転をしながら吹き飛ぶ。
「えええああああっっ?!」
「なんだ?! おい、うわあああああ!!」
特にカーブもない、ストレートな高速道路だから壁の高さも強度も無かった。
二機はぐしゃんと透明のプラスチック壁に衝突し、それを壊しながら高架の下に落ちていった。
学園都市の安全機構なら、アレでも死なない位のことはやってのけるだろう。だがマトモな受身は取れない。
戦闘機動は取れなくなるだろうことにも、光子は確信があった。
――――あと、五機。
後ろを振り返ると、一般人が車を乗り捨て、走って逃げていた。焦ってUターンをしようとした車のせいで、車は身動きできない状況だった。
だが混乱するのも無理はない。20メートル先でこんな大立ち回りを去れれば誰だって身の危険を感じるだろう。
「余所見をするな!」
ステイルのその叫びで光子はハッとなる。
目の前には、ようやく反撃の体制を整えたパワードスーツが、こちらに銃口を向けていた。
ステイルがいつの間にか光子の隣を駆けていた。目指す先は、誰かの乗り捨てた大型ワゴン。
「バリケードを!」
「分かりました!」
魔女狩りの王が仕事を追えてステイルや光子とパワードスーツの間に顕現する。
狙いを定めた敵からの射線をそれで塞ぎ、得られた一瞬で光子はワゴンの扉に触れて横に倒した。
そして防壁の役目が済んですぐさま、魔女狩りの王を敵に襲い掛からせる。
銃は照準を固定して使う武器だ。つまり、鈍重な魔女狩りの王にも狙わせやすい。
光子たちを、あるいは魔女狩りの王そのものを狙う銃をひと握りで無力化し、戸惑うパワードスーツの背後を取って抱擁する。
コレで四機。足の速いのはこのうち三機だった。形勢が決して良くないことを悟っているのだろう。
仕事をこなすためにも、さっさと脱利しようという意図が見て取れた。
「おい! 逃げられるぞ」
「大丈夫ですわ。人を積んだ装置が出せる加速度なんて高が知れていますもの」
射線とワゴンの間から、身を低くしつつ光子は人のいなくなった乗用車の間に走りこんだ。
無人の車が並ぶそこは、光子にとっての弾頭置き場みたいなものだ。
お決まりのデザインの軽トラックに、黒いセダン、赤のワンボックスカー。
何処にでもある普通の車にトントントン、と手のひらを押し当てていく。
エンジンが掛かっているかどうかなんて関係ない。ついでに言えば重さもほとんど関係ない。
光子が集積した気体がゴウッと噴出し、車は本来の前方などお構いなしに、適当な方向と角度を向いてパワードスーツに飛び掛った。
「え? ……うわぁ!!」
リアルな3D映画みたいに、パワードスーツを着た隊員たちの目の前に乗用車が文字通り飛んでくる。
高機動パッケージの加速よりもそれは速かった。当然だ。
光子の能力によって実現できる最大速度は分子の平均速度そのもの、音速の1.3倍程度なのだ。
パワードスーツといえども受け止められないだけの運動量を持った鉄塊が、装甲越しに隊員たちの体に衝突する。
三機のうち二機が乗用車に跳ねられ、下敷きになった。
残り一台も光子が進路を車で障害物だらけにしたせいで立ち往生した。
「あっけないものですわね。この程度ですの?」
「そういうのは勝ってからにするんだね……上だ!」
「えっ?!」
気がつくと、静かにパリパリパリと空気をはためかせる音がしていた。水平なプロペラを回転させて飛ぶ機体、軍用ヘリだ。
光子はその音に気づいていなかった。ヘリが、こんなに静かにこちらに肉薄するとは思っていなかったのだ。
「まずい! 早くアレを打ち落とすんだ!」
「ええ!」
光子は手ごろな弾を探して動こうとし、突然ステイルに腕をつかまれた。
動こうとした先が、蜂の巣にされる。
高機動パッケージを搭載した最後の一機と、本来光子たちを足止めするはずだった最後の一機、その二機のパワードスーツの援護射撃だった。
ヘリとあわせて三方向から銃を向けられるのは不利だ。今いる、往来のど真ん中はまずい。
「あちらに!」
光子がステイルの腕を掴んで走り出した。無策に見えるその背中に一瞬ステイルは怯む。
どう見ても、ガラ開きの背中を敵にさらすからだ。だが、感じた恐怖をかみ殺して光子の後を追う。
ステイルは光子を信じた。きっと案があってのことだろうと、そう自分に言い聞かせる。
すぐさま向きを整えたヘリがこちらに照準を合わせた。地上の二機もそれに習う。引き金が引かれるまでタイムラグは無かった。
ザリザリリリリリリリッッッッ
ガガガガガガガガガガガガッッッッ
断続的な発砲音がステイルの後ろで鳴り響いた。緊張に背中がこわばる。
だが、同時に聞こえた鋼鉄とアスファルトの奏でる不愉快な擦過音のせいか、ステイルに直撃は無かった。
状況を知りたくて、後ろを振り向いた。
「うわっ!」
「何を驚いていますの! このトラックは私が制御しています!」
ステイルのすぐ後ろを、横倒しになったMARのトラックが追いかけてきていた。
轢かれるのかと心臓が不安を訴えたが、どうもスピードはこちらにあわせているらしい。
これが光子のひらめきだった。逃げる先に弾除けがないから、弾除けを併走させればいい。
数トンの質量を平気で操る人間の、まさに暴力的な発想だった。
ドン、とステイルと光子は高速道路の壁にぶつかって体を止めた。
追随したトラックがちょうど、二人の目の前で止まる。隙間は2メートルなかった。
「このトラック以外の砲弾は取りにいけませんわね……」
「これを空に飛ばせるかい?」
「可能は可能です。でも、重力に逆らう方向には動きが遅いですから、避けられますわね」
「つまり君に対空兵器はないと」
「ええ。……ヘリが、問題ですわね」
ヘリが二人の真上を取るために動き始めている。
もう数秒しか安息の時間はない。じっくりと考えて策を練る暇は、なかった。
すぐさまステイルが、光子に次の動きを提示した。
「ヘリは僕が引き受ける」
「えっ?! ……わかりました。では私が地上を」
深くは聞かない。ステイルが出来ると言うなら、出来るというその言葉を信じるだけだ。
光子は引き寄せたトラックにもう一度触れた。気体が集積していく。
いつぞやの当麻とインデックスを飛ばしたときとは違う。ただ飛ばすだけだから、能力に衰えはない。
このトラックを飛ばせば、地上のパワードスーツのうち一機は無力化できる。
だが共倒れを危惧して離れている二機を、同時に落とすことは出来ない。
こちらに銃を向け今か今かと待ち構えるもう一機を、光子は生身で倒すしかなかった。
「合図で動こう。スリー、トゥ」
「ワン、ふっ!」
最後のワンカウントを光子に奪われ、ステイルはフンと笑った。
辺りに撒かずに手元に残したカードを三枚、くしゃりと右手で潰す。

「世界を構築する五大元素の一つ、偉大なる始まりの炎よ
 それは生命を育む恵みの光にして、邪悪を罰する裁きの光なり
 それは穏やかな幸福を満たすと同時、冷たき闇を滅する凍える不幸なり」

自分に、あるいは世界に言い聞かせるように、ステイルは決まりの言葉を口にする。
だが、ここからは違う。

「その名は炎、その役は鉄槌
 限りなき願いをもって、災厄の緒元をなぎ払わん

魔女狩りの王は、ステイルが決めた世界でしか動くことが出来ない。
だから例えば、空を飛びまわる相手を落とすことは出来なかった。
かつて煮え湯を飲ませてくれた敵は不思議と今自分の隣にいるのだが、ステイルは足りないものを足りぬままに放置することは、しなかった。

――――魔女狩りの王にして淫蕩と私欲の教皇、インノケンティウス八世。
かの教皇がその生涯に残した、ヨーロッパ全土に激しく広がる魔女狩りの端緒となった回勅。
ステイルがその名を冠した、それは。
「『魔女に与える鉄槌<マレウス・マレフィカールム>』!!」
ステイルの傍に侍っていた魔女狩りの王<イノケンティウス>がその形を溶かし消え去る。
それと同時に、重質の真っ黒い油が棒のように延び、ハンマーを形作った。
これまで近距離の兵装として扱ってきた炎剣とは、比較にならぬ攻撃力。
その鉄槌の発動条件も、威力も、ステイルの切り札である魔女狩りの王と同等だった。
「はあああぁぁぁぁぁ!」
ステイルはヘリを見据え、『鉄槌』を真上へなぎ払った。
魔女狩りの王と同質の素材からなるその槌は、柄を湾曲させながらしなやかに伸び、ヘリに襲い掛かった。
ヘリが照準を合わせ、引き金を引くのより僅かに速く、それはヘリの窓ガラスに届いた。
「火あぶりでどうこうなるかよ! ハッ!」
ヘリの中で、隊員が見下しながら笑う。
高速回転するプロペラが健在だし、いかな高温の炎といえど、この一瞬の接触で学園都市の兵器が壊れるわけがない。
……そう思っていた。
「な、なんだ?!」
「魔女狩りを象徴するこの炎が、そんな淡白なわけないだろう? もっと粘着質だよ」
サッと消え去る炎かと思いきや、そんなことはない。
ジクジクとその炎は勢いを保っていた。気がつくと、皮膚が熱い。
ガラス越しにこれほどの輻射熱を伝える温度は、無警戒で済ませられるものではない。
「ヤベェ! お、おいこれ消せないのか?! 消化装備とかないのかよ?!」
並ぶボタンを一つ一つ目で追いながら、隊員は必死に打開策を探す。
救急隊でありながら、火災現場になど行った事もないし、そんなことを考えたこともなかった。
だから、あるはずの装備を探せない。
戸惑う隊員を下から眺めて、ステイルは『魔女に与える鉄槌』を肩に構えなおした。
タバコをその火で付けようとして、あっという間に先が炭化してしまって渋い顔をした。
「もう一発、いくかい?」
ステイルが『鉄槌』を振り上げるのと、ヘリの乗組員がヘリを脱出するのは同時だった。




ステイルの動きの裏で、光子は飛ばしたトラックでパワードスーツを一機落とすのと同時に、もう一機に迫っていた。
射線をステイルから外すために、一旦折れ曲がった経路を光子は走った。
「く、寄るな! 死ね!」
救助隊員にあるまじきことを口走りながら、男は光子に照準を合わせようとする。
この時点で、光子は一つ賭けに勝っていた。
もしパワードスーツの男が冷静さを失わず、そしてステイルを狙ったなら、それを阻害するために足元のコンクリートか手元のコインで相手の銃を狙わなければならなかった。
打ってからも照準の微調整が出来るのが光子の能力だが、細かい演算が必要で、自分のほうが足を止めてしまう。
その心配無しに走れるのは、とりあえずは僥倖だった。
だが賭けに勝ったから安全というわけではない。むしろ、自身の身をさらすという意味ではこちらのほうが危ない。
光子は自分に真っ直ぐ銃口が向いたところで、ダンと足を慣らして飛び上がり、能力を限界まで使ってブーストをかけた。
目標は、相手の少し上。肩口にでも手が触れられれば良かった。

――――ガガガガガッッッ!

パワードスーツが引き金を引いた。
当麻が見ていたらきっと卒倒するだろう。
ほとんど水平になった光子の体の下、1メートルくらいのところを銃弾が交錯した。
「はああぁぁぁぁっ!」
――タンッ!
光子の反撃は、始まりはいつも静かだ。能力の性質上、かならずチャージを必要とするのがその理由。
銃を持つ右腕の付け根、肩当ての部分に光子は手を触れさせて、そのままパワードスーツの後ろへと飛び去る。
慎重に着地を済ませ、光子は自分の足で安全圏へと走った。光子の体にはもう気体のチャージがないからだ。
本番は、この数秒間だった。自分の体も、相手の体も、吹き飛ばすにはあと3秒はチャージが必要なのだ。
もし、吹き飛ばすならば。
学園都市で武力を振り回す人間の常識として、敵に能力者がいれば必ず能力の概要と発動条件を探るというのがある。
パワードスーツの男とて、それくらいはわきまえている。
光子がチャージを必要とする能力なのはもう把握している。だから、男は悠長に構えたりなどしなかった。

「逃げるな! 死にな!」

男が振り向いて、光子に照準を合わせに掛かった。あと2秒のチャージタイムは、余裕で光子を殺すだろう。
それを理解した男の動きの端々には、勝者の余裕、いや油断があった。
それを光子は不敵に笑う。もう逃げも隠れも時間的に不可能だった。
腰と肩の関節をぐるりとやって、銃口が光子の方にあと少しで向くという、その瞬間。
――――バギン!
パワードスーツの間接が、音を立てて壊れた。
鈍重な装甲を生身の筋力では支えきれず、男はそのまま銃を腕ごとだらりと下げた。
「な、なんだ?」
「膨潤崩裂<ソルヴォディスラプション>、とでも申しましょうか」
悠然と残りの距離を走り、光子は銃弾の届かぬ車の傍へと逃げ込んだ。そして講釈をしてやる。
「はぁっ?」
「あらゆる材料には微細なヒビがある。その隙間に滑り込んだ流体は、その隙間を押し広げるように力を加えますの。その応力って、条件によっては1000気圧に届きますのよ? 金属材料でも、これには抗えません」
何も、固体の表面に空気を集めてぶっ放すことだけが光子の得意技なのではないのだ。
表面に集めた空気は容易に超臨界流体となり、液体の表面張力と空気の拡散速度を持った流体として、ほんの少しの亀裂や、あるいは亀裂でなくても金属材料の結晶粒界に滑り込み、それを拡張し、材料の剛性を著しく損ねさせることが出来る。
古代中国では、岩の亀裂に水で濡らした布と大豆を押し込み、その膨潤応力で岩を割っていた。こと狭い穴を押し広げる力に限っては、ダイナマイトと威力は同等なのだ。
膨潤応力を受けて亀裂を拡大し脆化した関節は、ほんの少し操縦者が振り回しただけで破断させる。
これが、目の前の男の身に起こったことだった。
「本当、トンデモ発射場なんて不本意なあだ名は、止めていただきたいんですけれど。貴方に言っても詮のない愚痴でしたわね」
光子は足元から砕けたコンクリート塊を拾い上げた。制御を失った手から反対の手で銃を回収するのに苦労するパワードスーツに向かって、それを飛ばす。
ガシャン! と集中的に健在だった左肩にぶつかり、パワードスーツは攻撃能力を失った。中の男も戦意を消失させたらしかった。
ふう、と光子はため息をついた。
「そっちも済んだかい」
「ええ。で、この方に運転してもらえばよろしい?」
「そうだね。とりあえず機械の中から出てもらおうか」
光子に合流したステイルが、病院でやったのと同じく、半壊のパワードスーツの中にいる隊員に暗示をかけた。
今から追いかけたのでは、先行した二台に追いつくことはないだろう。
「当麻さん、インデックス。それに御坂さん達も。……無事でいてくださいませ」
日が傾いて、夕暮れの雰囲気を出し始めた空を仰いで、光子はそう呟いた。

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あとがき
(2011/ 07/ 10 Sun)光子の使った技の名称を『膨潤崩裂<ソルヴォディスラプション>』と改めました。元の『膨潤応力<ソルベイション・フォース>』は学術用語そのまんまで、しばらく経ってからあんまり良くないなと思ったもので。
 尚、膨潤応力が関係した現象は色々ありますが、卑近な例では粘土と水の関係があります。乾いた粘土はサラサラとしたきめの細かい砂粒であり、二酸化珪素からなる二次元のレイヤーが積層した構造をしています。このレイヤーとレイヤーの間には水を蓄える力があり、乾いた粘土を水に接触させると、層間に水を吸着しつつ粘土は膨潤します。そして水を「つなぎ」にして砂粒同士は凝集し、皆さんが粘土といわれて思い浮かべる、捏ねて土器を作ったりできるような性質を示すようになります。粘土は物凄く値段が安いのでその遮水性や応力緩衝性の高さから工業的にも色々と利用されており、上手な利用のためには膨潤挙動の理解が重要です。卑近な例といえば長風呂で手がふやけるのも膨潤現象ですね。
 この他にも、二酸化炭素固定化技術の一つとして期待される、地中泥炭層への二酸化炭素封入が膨潤現象と関係しています。二酸化炭素と泥炭はものすごく分子間力が強いので、膨潤応力によって泥炭が変形します。そのせいで二酸化炭素を泥炭層へどれくらいの速度でどんな量を突っ込めるのかの予測が難しくなります。また、大型液晶ディスプレイの「光学的むら」が問題となっていますが、その原因が有機薄膜が空気中の水分を吸湿して膨潤するからだ、という報告もあるようです。
 膨潤現象はその解析が非常に困難です。以降、専門外の人にはさっぱりわからん話をしますと、膨潤現象を取り扱うためには、特殊なアンサンブルと自由エネルギーを定義する必要があります。ヘルムホルツの自由エネルギーであれば、分子数N・体積V・温度T一定のアンサンブルの平衡状態を記述できますし、ギブズエネルギーなら体積を圧力Pに変え、NPT一定のアンサンブルの平衡状態を記述できます。ところが膨潤現象を起こす系は、膨潤する側のホストの分子数Nhは一定ですが、入り込んでくるゲスト分子については個数でなく化学ポテンシャルμを指定する必要があるため、NhμPT一定というどう扱ったらいいのかわからんようなアンサンブルになります。そのため良く知られたヘルムホルツやギブズの自由エネルギーではうまく系の平衡を記述できません。現象としても複雑なため、膨潤現象の物理化学的、熱力学的な解析はあんまり進んでいません。



[19764] ep.2_PSI-Crystal 09: 同じ世界の違う見え方
Name: nubewo◆7cd982ae ID:f1514200
Date: 2011/07/14 00:24

「ええいクソッ、こんなときに部隊の出し渋りなんて、それじゃあたしらは何のためにあるじゃんよ!!」

警備員<アンチスキル>部隊が運用するトラックの中で、黄泉川がガンと壁を叩いた。周囲の同僚達が何事かと振り向く。
きっと上に、圧力が掛かっているのだろう。テレスティーナ・木原・ライフラインが体晶を使ってやろうとしている何か。
それは随分と、学園都市のお偉方に気に入られているらしかった。
「高速道路の封鎖許可まで出すとはな……親玉はどんだけ上なんだか」
「あの、黄泉川先生。先行している学生というのは……」
「常盤台の高レベル能力者を中心に10名弱、だそうじゃんよ」
今、黄泉川が上層部から受け取った命令は、先進状況救助隊を襲撃しようとする学生を止めて来い、というものだった。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。なぜあの子たちが動いたのか。どれだけMARがいかがわしいのか、調べればすぐ分かることなのに。
制圧対象とされた学生達の名前を聞いて、黄泉川はやっぱりなとしか思わなかった。
春上の元にたびたび訪れていた初春たち、そして光子や当麻にインデックス。自分の見知った学生達だった。
ため息を一つついて、黄泉川は自分の苛立ちを整理した。警備員になって数年。
時折起こるこうした出来事に直面するたび、常に悩んできた。
不良の起こす瑣末な事件になら、警備員は完璧に対応できる。悪さをしたその子達自身とも向き合える。
だけど、こうして時折学園都市の暗部とでも言うべき事件が起こると、むしろ自分達警備員はその暗部の体のいい手先として、使われていることがあるのだ。
今回だってそうだ。排除すべき相手を守り、守るべき相手を排除する、そんな仕事を任される。
体晶に、子供達が食われそうになっていて警備員がそれを見過ごすなんて、絶対にあってはいけないのに。
子供達を非行から救い上げ、どうしようもない暴力から守り抜くのが、自分達の仕事なのに。
――せめて、やれることを。
黄泉川はそれを言い訳と分かっていながら、自分にそう言い聞かせるほかなかった。
「さて、我々の任務はMARに協力して子供たちを止めることですか?」
隣に座っていた同僚が、黄泉川に問いかけた。
薄く、ニヤリと笑った顔。黄泉川の考えていることを、分かっている顔だった。
「あのバカ連中にはお仕置きは必要じゃんよ。学生が荒事になんて、首を突っ込むべきじゃないからな」
「それは、そうですね」
「でも、それは後でできる。あたしらが一番にすべきことは、先進状況救助隊が、体晶を使った実験をしようとしているって噂の事実確認からだ」
「それがもし事実だったなら?」
黄泉川が顔をキッと挙げて、虚空を睨みつけた。
「先進状況救助隊の実験阻止を最優先に動く」
「まあ、この装備じゃ高速道路に展開した数部隊を止めるので精一杯ですけどね」
黄泉川が動かせたのは自分の所属する支部の隊員と、そして懇意にしている数支部の隊員だけ。
テレスティーナからより後方にいる以上、あちらが実験を始めるのに間に合わない可能性が高い。
この一件で、最も先を走り最も攻撃的なのは、警備員である黄泉川たちではなく、学生達だった。
良くないことだ。実験の阻止に失敗し、助けに行った彼女達も心と体に癒えない傷を負う、そんな最悪のシナリオも充分ありえるのだ。
光子や当麻に電話をかけて止まれと言ったところで、絶対に止まらないだろう。
……学生を先鋒にするなんて最低の大人だと思いながら、黄泉川は結局それを受け入れ、行動するしかなかった。




光に透かすと赤く輝くその結晶。手のひらにおさまるくらいのガラス製の円筒に入ったそれを、テレスティーナは優しげな瞳で眺める。
15年位前から、それは彼女の宝物だった。大好きな祖父で、敬愛する研究者である木原幻生その人が、テレスティーナに残してくれたものだから。
――――お前は学園都市の、夢になるのだよ。
テレスティーナの脳から体晶を抽出・精製するその直前に、祖父が残してくれた言葉がそれだった。
嬉しかった。大好きな祖父の力になれることが。学園都市の追い求めるものへと、なれることが。
……結果は、失敗だった。
テレスティーナが植物状態から1年近くかけてようやく目を覚ましたとき、そこにはもう祖父はいなかった。
遺されたのは、自分から取り出した体晶。
何度か祖父に会おうとしたが、祖父の秘書なのか、誰とも分からない人々に多忙を理由に無理だと言われた。
テレスティーナはそれをむしろ、当然だと思った。
思い通りの結果が出たなら、自分はまだ祖父の隣にいることだろう。だが、現実はそうではなかった。
テレスティーナから作った体晶では、駄目だったのだ。だからきっと、祖父は自分の手元に体晶を遺してくれたのだ。
自力で高みに登ってきなさい、と。きっと祖父はそうメッセージを、この体晶に込めてくれたものだと思っている。
テレスティーナは自分と体晶が等しくゴミとなったからまとめて捨てられたのだという、その事実に達したことは一度も無かった。
『体晶を使って生み出した暴走能力者がレベル6に至ることはない』という樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>の結論を、テレスティーナは知らなかった。
ひとしきり宝物を眺めて心を落ち着けたところで、身につけたパワードスーツからザッと無線の入った音がした。
「イエローマーブルよりマーブルリーダー。現着しました。これより搬入を開始します」
テレスティーナは最速で現地入りし、すでに実験のスタンバイを整えてある。
今の連絡は、枝先を初めとした13人の暴走能力者と、テレスティーナに成り代わって学園都市の夢になる春上衿衣が、ここ、第二十三学区の木原幻生の施設研究所へと到着したことの連絡だった。
ここまでは予定通り。問題は、こちらを追っている木山春生と常盤台の学生、そしてオマケの数名だ。
そちらは高速道路に展開した部隊が、足止めをすることになっていた。
「パープルマーブル。そっちの首尾はどうだ?」
「こ、こちらパープルマーブル。警備員<アンチスキル>がこちらに疑いをかけてきて、その、交戦中です!」
「あぁん?」
戸惑いと焦りにしどろもどろとなった部下の言葉を、テレスティーナはいぶかしむ。
たしか首尾としては、警備員はこちらの行動を最低でも黙認はしてくれるはずだ。
無線の向こうにも聞こえるよう、チッ、とテレスティーナは舌打ちした。
そういえば、警備員には黄泉川という名の、面倒くさそうな女がいた。
この件の警備員側の取り纏め役なのだし、体晶という言葉にも心当たりがあるようだった。
おそらくは、あの女の働きなのだろう。面倒なことをしてくれる。
「警備員なんてどうせ殺傷装備も持ち合わせてない雑魚だろうが。三分で殺れ」
「は? やれ、って。警備員を敵に回すなんてそんな無茶な」
「テメェは私と警備員とどっちを敵に回したいんだ? 言われたことはさっさとやれ!」
「りょ、了解――」
返事を聞くより先にスイッチを切る。
全く、困ったことを言ってくれる。パープルマーブル隊が機能しないとなると、ここまで連中が素通りでやってくることになる。

「ドイツもコイツも無能ばっかりかよ。ったく。レベル6にたどり着く人間以外、全部どれもこれもゴミなんだ。踏みにじるのに躊躇なんざしてどうする。 イエローマーブル隊! 指示が無くても手順は分かるな?! 私はアレで出る」
「了解しました」
どやされたパープルマーブル隊を意識してのことだろう、実験の準備をするイエローマーブル隊は小気味の言い返事をした。
テレスティーナはパワードスーツのバイザーを下ろし、きちんと武装をする。
そしてそれを着たまま、パワードスーツより二回り大きなその機体に、目をやった。
無骨な足腰、そしてニッパー状の両手。パワードスーツの上から着る仕様の、建築・工作用機械だった。
ブルーカラーの労働力が慢性的に不足する一方でエネルギーとテクノロジーが余っているこの街では、建設にはこうした機体が借り出されることがよくある。
祖父、木原幻生はこの研究所の建設・メンテナンスのためにという名目で用意したのだろうが、この機体には建築と工作に必要な高出力以外に、俊敏さまで備えた整備と改造が施されている。
木原幻生も単に、工作機械としてコレを導入したのではないことは明白だった。
「邪魔な羽虫はさっさと潰しておかないとな。プチっとよぉ」
テレスティーナは上機嫌に、大きな機体のコックピットを目指した。
十年来の夢が、今、叶うのだ。
「お爺様。私が、学園都市の夢を叶えて見せますから……!」
人知れず、テレスティーナは純真な少女のように、そう一人呟いた。




無人の高速道路を、木山の駆る青いスポーツカーが疾走する。
MARが高速道路を勝手に封鎖してくれたのは幸いだった。おかげで開いていた差を、かなり詰められた。
「あと10分くらいで高速の出口ですね。降りてからはすぐです」
「そうか。その10分というのは、あちらの邪魔が一切入らない場合の数字だな?」
「はい」
初春が言ったのは単純に距離を時速で割っただけの数字だった。
木山が気にしているその通りに、おそらくは妨害があることだろう。
「急ぎだし、時間通りの進行でいきましょう」
「だね」
茶化して言った佐天の言葉に、美琴が同意する。
カタカタとキーボードに数値を打ち込んだり映像を複数再生したりと忙しない初春が、よしっ、と呟いて顔を上げた。
初春なりの、解析結果が纏まったらしい。
「向こうは、高速出口の手前にある、別の線とのインターチェンジで待ち構えているみたいです。そこを塞げばこちらに逃げ道ないですから」
「バリケードはあるの?」
「金属の格子で作ったバリケードはありません。さっきと違って、この車は脇道のほうじゃなくて本線を走りますから」
先ほどバリケードで塞がれたのは、別の線へと乗り換えるための一車線の道だ。
確かに、三車線ある本線を丸ごと封鎖は出来ないだろう。
「じゃあ、この広い道をどうにかして塞いでるってことかな」
「二台のトラックを横にして道をかなり塞いでますね」
初春のディスプレイには、一車線ぶんくらいの隙間を残してトラックが道を塞ぎ、残った隙間にもパワードスーツが展開している光景が映し出されていた。
それを見て、美琴は木山に問う。
「パワードスーツが塞いでる隙間なら、抜けられる?」
「可能だ。こちらの時速を見れば向こうは回避するだろう。でなければ死ぬ」
「無人機で塞いでたら?」
「その場合は君達の援護がいるな」
「私が超電磁砲<レールガン>で隙間をこじ開けるか、佐天さんに飛ばしてもらうか、二択ね」
佐天はその発言を受けて、すぐさま軌道の演算に入る。
パワードスーツの高さは2.5メートル近くだ。それを飛び越えるのは先ほどより大変だが、可能だろう。
「御坂さん」
「何?」
「銃弾、止められますか?」
「金属なら、逸らせるわね。この車にむけて飛んでくるヤツ程度なら防ぎきれる」
「じゃあ御坂さんの仕事はそれですね」
「ま、そうなるわね。一番の懸念はあっちからの銃撃だし」
「銃弾、というが。レベル5の君はある意味で人質みたいなものだろう。おいそれと君を死なせるような判断をするだろうか」
確かに、レベル5は学園都市の顔であり、金のなる木だ。そうそう簡単に死なせられはしない。
だからその木山の考察を、つい昨日までの美琴なら真剣に受け止めて考えもしただろう。
だが、あの忌まわしい計画の、名前を知ってしまったら。
「テレスティーナは別にレベル5に執着なんてしないわよ。今から、それ以上の高みを、アイツは目指す気でいるんだから」
「それ以上……?」
美琴の言っていることを理解できないのか、ぼんやりと佐天が復唱した。
レベル5は、学園都市がこの数年でようやくたどりついた高みだ。
レベル4までの能力者とは一線を画す、天賦の才の持ち主。
それより上なんて、それは。
「佐天さん」
「は、はい」
「さっきみたいに乗り越えられる?」
「私なら大丈夫です。御坂さん。アレくらいのことなら、あと10回はいけますから」
「10回ね。それだけあれば充分でしょ。……佐天さん、レベル3はあるね」
「そうですね。自分でも、自覚はあります」
「うん。頼りにしてる」
美琴が佐天に、ニッと笑いかけた。その笑みが、美琴の隣に立てたことが、嬉しい。
佐天は、自分の実力を謙遜しなかった。さっきだって、窮地を脱する力があることを証明できたから。
「御坂さんは防御に専念してください!」
「わかった。初春さん、あとどれくらい?」
「ちょうどですね。もうすぐ、見えてくると思います」
美琴と佐天は、シートベルトを外した。急ブレーキでも踏もうものなら、きっと大変なことになるだろう。
だがそういう危険に目を瞑り、二人は、来る一瞬に備える。
運転手の木山が声を上げた。目視で、敵方を捉えたらしい。
「見えたな。あれか……」
「はい。最後の追撃部隊ですね」
「トラックの数がおかしくないか?」
「えっ?」
初春は、慌ててディスプレイの情報と目の前の光景を照合する。
監視カメラからの映像は一分くらいはタイムラグがあるのだろう。
どうやら一台、つい今しがた増えたらしい。
「MARじゃない……?」
「そのようですわね。あれは警備員のロゴですわ」
どういう状況なのかと白井はいぶかしんだ。敵なのか、それとも味方なのか、それが問題だ。
不意に、ピリリと白井の携帯がコールを訴えた。繋ぎっぱなしの上条を保留にしてそちらに出る。
「はい」
「白井か? 警備員の黄泉川だ」
「黄泉川先生?」
「そっちからあたしらの車両が見えてるじゃんよ?」
「え、ええ」
「手短に済ます。これは警備員として言ってはいけないことだけど。……頼む。あの子たちを、助けてやってくれ。目の前の連中はコッチで何とかするじゃんよ」
苦渋がにじみ出たような、そんな声だった。学生に危険分子排除の尖兵をさせるなんて、確かに警備員の理念の間逆だろう。
でも、レベル5の能力者を擁するこちらのほうが、確かに駒として上だった。
「一人の教師である黄泉川先生が、学生をそうやって案じてくださることを嬉しく思います。背中は預けますから、どうぞこちらを信頼してくださいまし」
「ああ、頼む」
白井はそれだけで、会話を打ち切った。
もう、パワードスーツの部隊まで200メートルくらいだったから。
「木山先生、車、右に寄せてください」
「右? それはいいが、どうする気だ?」
三車線ある高速道路の両端を、トラックが塞いでいる。
そしてトラック同士の間にあいた隙間を、パワードスーツの部隊が固まって塞いでいる状態だった。
トラックよりはパワードスーツのところのほうが背は低いのだし、そこを狙うものと木山は思っていた。
佐天の答えはシンプルだった
「対向車線側にはみ出します」
「佐天さん!? あっちは封鎖されてませんから、対向車と正面衝突しかねませんよ?!」
「大丈夫。べつに、対向車線を走るわけじゃないから。ちょっと説明してる時間ない! 木山先生、言う通りにしてくれますか?」
「壁に向かって走るというのは中々精神的に負担のかかる行為なんだがね」
フウ、と木山が呼吸を整えて、正面を睨みつけた。
「速度は?」
「さっきと同じで」
「わかった」
多くを木山は問わなかった。
ただ、アクセルをクラッチみたいにガンと踏みつけて、中央分離帯に向かって車を加速させた。




パワードスーツを着た男が、焦った表情で黄泉川に怒鳴りつける。
「だからあの車を止めるのが任務だと言っているだろう!」
「学生の乗った車を銃撃するような真似を任務にする部隊は学園都市にはない!」
黄泉川は自分の言が嘘だということを知っている。そんな非道な部隊くらい、きっと学園都市には山ほどある。
「学生だとはいうが、能力でバリケードを越えてくるテロリストだぞ!? こちらの安全を考えてくれ」
「お前等の何処に大義名分があるって言うんだ! さっさとテレスティーナ・木原の計画について聴取を始めるぞ!」
「勝手に所長を呼び出してやってくれ! こっちは仕事があるんだ!」
「おい! パワードスーツを動かすな! そっちがその気なら、こちらも動くしかないじゃんよ!」
「いいからやれ! 所長にどやされたいのか!」
リーダー格の男が、黄泉川から視線を外し、部下のほうに振り返って指示を出した。
封鎖した高速を走ってくる青いスポーツカーは、もうすぐそこに迫っている。
あれを止めねばここにいる全員、すなわちマーブルパープル隊はテレスティーナに殺されかねない。
町の公権力よりも、自分達のボスの非道さのほうが恐ろしいことを隊員達は理解していた。
躊躇の感じられる動きだったが、それでも5機のパワードスーツは、銃を持ち上げるのを止めなかった。
それを見て黄泉川は、さあっと瞳に怒りを走らせる。学園の名を冠するこの都市に、こんな出来事があってはならない。
子供達が夢を叶え幸せになるための町なのに、それを弄ぶような人間は、いてはいけないのだ。
「パワードスーツの連中を制圧する! 子供達に怪我なんてさせちゃいけない!」
「了解」
黄泉川の後ろに控えていた警備員達もまた、黄泉川と意志を同じくしていた。
町を巡回する美観・治安維持用ロボットを先行させて盾にしつつ、警備員のメンバーはパワードスーツが狙う美琴たちとの射線の間に、自分達の体を割り込ませた。
「あっちは子供に銃を向けてるんだ! 遠慮なんて要らないじゃんよ!」
「当然です!」
パワードスーツに乗った隊員たちがスポーツカーに照準を合わせようと、警備員を振り切るよう鬱陶しげに動く。
だが局地戦で細かな動きでマーカーを振り切るのに、パワードスーツは不都合だった。
慣性の法則を捻じ曲げる力は、超能力者にしかない。パワードスーツを着るということは、慣性を増やし、鈍重になるということだ。
それをもちろん出力で補ってはいるが、細かなストップアンドゴーにおいては、生身にパワードスーツは叶わない。
警備員達は、盾を用意しているとはいえ生身だ。パワードスーツから発砲されれば無事ではすまない。
だが、隊員達はその選択肢を選べなかった。警備員は、警備員を傷つけた相手を、決して許さない。
傷つけたのがチンピラ学生なら話は別になる。だが、学生に仇(あだ)なし、そして警備員にも仇なした相手には容赦がない。
上からの指示で今はこの目の前の数人以外は押さえつけられているが、この数人に手を出せば、あっという間に自分達を追い詰める猟犬は100倍に膨れ上がるだろう。
それを隊員たちが恐れているのを知っているから、警備員達は自分の身を、果敢にさらしているのだった。
「クソッ……近いぞ! 抜けさせるな!」
「やらせるか!」
スポーツカーは、もう視界の中で充分な大きさを主張している。ここに到達するまで、もう数秒だ。
黄泉川は目の前のパワードスーツに、非殺傷用の銃弾を躊躇わず発砲しながら、僅かに振り返ってその車の動きを見た。
「くっ、邪魔するな!」
「お前らこそ子供に銃なんてむけるんじゃない!」
「ガキは使い潰すもんだろうが! それが学園都市だ!」
「そんなこと、あたしが許さない!」
ギャリっと、タイヤが歪みながらアスファルトを蹴りつける音が聞こえた。
突然直進していたスポーツカーが、中央分離帯に向けて進行方向を曲げた音だった。
「なっ?!」
黄泉川は一瞬、それに絶望する。タイヤが銃で狙われ、パンクしたのだと思ったからだ。
このスピードでその事故は、あまりに致命的だ。
パワードスーツなど何の関係もなく、それは搭乗者を死に至らせる。
バカにしたように、ハンとパワードスーツに乗った男が笑った。
――――だがそれは、ただの勘違い。
スポーツカーから、髪の長い女の子が、上半身を出した。
黄泉川はその姿を見て、駄目だ、と叫んだ。
突然の出来事に、おかしな行動をとったのだろうか。
駄目だ、あんなことをしては、助かるものも助からない。
そんな黄泉川の心配をよそに、その少女、佐天涙子は目を細めて真っ直ぐ前を見詰めていた。
呼吸すらままならない風速に耐えながら、佐天が手を虚空にかざした。
黄泉川も、そして隊員も、判っているようで判らないことがある。
超能力者とは、つまり自分達とは違う、パーソナルなリアリティに生きる人間なのだ。
同じ世界を共有しながら、それを見るためにかけた眼鏡が全く違うのだ。
空力使い<エアロハンド>の佐天が生きる世界においては、佐天の行動は奇異なものでもなんでもない。


――――ガッ、と空気の軋む音がした。


「なっ?! そんな、空力使いだと?!」
隊員が驚きながら、そう叫んだ。無理もない。黄泉川だって知らなかった。
あそこに、あんな高位の空力使いがいるなんて。
そうか、アレが婚后の教え子か、と場違いに黄泉川は感心した。
スポーツカーが、その巨体をものともせず、跳躍した。
「対向車線に出る気か!?」
黄泉川は思わず叫んだ。
MARが封鎖したのは、こちらの車線だけ。スポーツカーが向かう先には、沢山の対向車。
だが黄泉川の視界の先で、佐天が地面に向けて何かを放った手を、再び振りかざした。
空気を吸い込み、集めるように。掃除機なんかよりずっと暴力的に。
見えない壁を佐天が掴んだみたいに、スポーツカーの軌道が、直線ではなくなった。
その軌跡はブーメラン。中央分離帯という仕切りを斜めに飛び越え、MARのトラックという障害物を回避して、そして再び空中で方向を歪めながら、そのスポーツカーは元の車道上へと、その進行方向を戻した。
「なん……だと? クソッ、抜けられた! 追え!」
「無茶言わないで下さいよ! コッチには高機動パッケージはないんです!」
「それでもやれよ! 所長に殺されたいのか?!」
黄泉川の前で隊員たちが失敗に歯噛みしていた。
スポーツカーは、速度を一度も緩めなかった。
一秒で40メートルを走破するその速度によって、あっという間に銃の射程外へと逃げたのだった。
「……やるじゃん」
自分の心配が杞憂だったのを、黄泉川は軽く笑った。
「すまん。学生を前に出すなんて、駄目な警備員だ」
聞こえないのを判っていて、黄泉川はスポーツカーに乗った子供達に、そう謝った。
せめて、自分はここの後始末をきっちりつけないと。
混乱する隊員達に銃を向け、黄泉川は自分が次にすべきことを、為し始めた。


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