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[28748] 略して『だせこきて』~男装麗人と、性転換淑女と、小悪魔男の娘と、筋肉乙女と、天才幼女のいるところ~
Name: 仙戯◆97bdbc1a ID:d9a73d31
Date: 2011/07/09 15:30
 タイトル:アナザー・プラネット・ウォー

 ●1

 まだ八歳だった。

 背丈は父の腰のベルトまでぐらいで、体重はりんご五十個入りの木箱とどっこいどっこいだった。マロングラッセみたいな色の髪は、長く伸ばしたせいで綿のようにふわふわしていたし、狼と同じ琥珀色の瞳は母親譲りだった。
 確かにヴォルクリング家は旧体制における名門貴族で、現在でも高名な政治家を輩出し続けている名家で、カーチャことエカチェリーナ・ファン・ヴォルクリングはその跡取り娘だった。
 が、しかし。
 いきなり【特務少佐】というのはいくら何でもやり過ぎで、出来過ぎで、ハッタリの利かせ過ぎではなかろうか。
「流石に引きますね……」
 本来なら、少なくとも今の五倍以上は歳月を呑み込まなければ就けない階級である。未だカーチャの胃袋に収まっている星霜は、たったの八つだった。
 誰がどう見ても、何をどう考えても、割も計算も合わない。
 唯一の救いは、少佐の上に【特務】とつくことだろうか。
 否、違う。それは救いではない。救われている部分もあるにはあるが、それ以上に、少女に決して良くない未来が待ち構えていることを示唆しているのだ。
「階級名に特務がつくということは、やっぱり【あの】特務機関に所属する――ってことですよね」
 特務機関における少佐と正規軍のそれとはイコールではない。むしろ全くの別物と言っても過言ではないだろう。故に、正規の少佐ほど栄光や権力を所有するわけではないので、その点がカーチャにとっての救いである。実際には、救いと言うよりは『多少はマシ』といったレベルなのではあるが。
「しかし、よりにもよって【あそこ】ですか……まぁ当然といえば当然なんでしょうけれど」
 そもそも特務機関とは何か? という話から始めるべきなのだろうが、今回に限ってはその説明に意味はない。
 【あの】特務機関は、特務機関であって特務機関ではないのだから。
「グラッテン国ワルキュリア軍付属特務機関ラーズグリーズ……」
 脳裏に浮かんだ文字列をそのまま舌に載せて転がしてみる。
 字面だけを見ればとても厳めしい名前。だがここでは敢えて、その真相をぶっちゃけてしまおう。
 ゴミ箱である。
 特務機関などと言えば聞こえは良いが、実際の所、ラーズグリーズは所属人数が四人しかいない、ただの窓際部隊なのである。
 ゴミ箱には無論、ゴミが入っている。と言うより、ゴミしか入っていない。
 よって特務機関ラーズグリーズにも、その風格に相応しい危険人物共が押し込められていた。
 お前もその一員になれ。カーチャの手に握られた辞令にはそんなことが書いてあった。
 カーチャは幼いが馬鹿ではない。これだけの知識と情報があれば、自分の未来がそう明るくないことぐらい簡単に想像できた。
「うーん……我が父ながら、本当に難儀なことをしてくれますよね……」
 とはいえ少佐は少佐で、特務は特務だ。何にせよ八歳の小娘におっかぶせる肩書きではない。
 どうしてこうなった?
 カーチャはそう自問せずにはいられない。
 何が悪いのかと言えば、まず世の中が悪いとしか言いようがない。
 現在、カーチャの生まれ育った国グラッテンは隣国のスペルズと戦争状態にある。
 その期間、今年で百十年になるという超長期だ。これ一つでグラッテンという国にどれほどの負担を強いているのか、政治家の一人娘としてはあまり考えたくない事柄である。
 次に、誰が悪いのかと言えば、それはカーチャの父になろう。元は門閥貴族、今も格式ある名家を自任するヴォルクリング家の現当主、レオニード・ファン・ヴォルクリング。今日でも正統貴族を示す『ファン』を使い続けているのは、歴代首相の八割を輩出した実績を持つヴォルクリング家だけだ。そんな名跡を受け継いだ父も、やはり典型的な貴族主義の持ち主で、自身およびその親族が天に選ばれた特別な存在だと心の底から信じている。
 究極的には、カーチャの運が悪い、という結論になるだろうか。
 国が戦争中で、父親が権力志向の元首相で、しかも現在でも決して小さくない影響力を持っている――それだけでも十分な要素だというのに、カーチャ自身にも現状を呼び込んだ要因の一つがあった。
 頭が良すぎたのだ。
 実を言うと、カーチャはこう見えて既に大学の卒業課程までを修了している。物心ついた時から知識を吸収することに貪欲で、気がついたら若干八歳にしてこんな所にまで来てしまっていた――カーチャ自身の実感としてはそんな感じであるのだが。齢八つにして一流大学を卒業したこの頭脳は当然、一般的には異常なもので、少女は『天才』と『奇跡』と『伝説』の三つのタグを、まるで呪いの人形に貼り付ける札のごとくベタベタとくっつけられて、今や世界的な注目を浴びていた。
 もちろんこの事実は選民思想の父を大いに喜ばせた。流石は我が娘、選ばれし者よ。お前はこの国の頂点に立つために生まれてきた!
 父としては、愛娘の才能をより大きく開花させ、来るべき日のために下準備をさせようと取り計らったつもりなのだろう。少なくとも悪意の発露でないことだけは、カーチャにだってわかっている。
 ――詰まる所、時代、親、カーチャの資質など全ての要素が絡み合い、そこに政治的な思惑も介入し、さらに建前のペンキを塗りたくった結果が、今の状況だった。
 グラッテン国ワルキュリア軍付属特務機関ラーズグリーズ所属、エカチェリーナ・ファン・ヴォルクリング特務少佐。
 馬鹿馬鹿しい。
 八歳で、軍属で、特務機関とはいえ少佐の階級章を着用している人間など、世界中どころか歴史上のどこを捜しても見つかりはすまい。
 我がことながらどうしても他人事のように感じてしまうが、これ見よがしも良い所だった。いかにもなシナリオが想像できる。
 稀代の天才少女が幼くして軍に入り、いきなり少佐の地位に就き、もちろん特務機関故に戦死することなく平穏無事に退役し、その経歴でもって堂々と胸を張って政界へ進出する。
 美しすぎて反吐が出る。
 しかし父は【こういうの】が大好きなのだ。それは娘である自分が一番よく知っている。
「いくら箔をつけるためだからと言って、この年齢の娘を軍に入れますかね、普通」
 トチ狂っている。そう言う他ない。しかしながら、これは現実であり、世の中は実際そういうものだということをこの八歳は理解していた。
 だから深く溜息を吐く。
 見上げるのは、門。
 頂上に十二柱の戦女神を構えた鈍色の格子門が、カーチャの眼前に傲然と立ちはだかっていた。

 グラッテン国ワルキュリア軍中央基地グラズヘイム。
 別名〝戦女神の寝所〟。
 その別称が示すとおり、ワルキュリア軍は女だけの軍隊である。
 男のみで編成されているアインヘルヤル軍の中央基地ヴァルハラは、国会議事堂を挟んで首都の北側にある。南方を拠点とするワルキュリア軍と北のアインヘルヤル軍は、共にグラッテン国の軍事を司っているが、指揮系統はそれぞれで独立していた。
 別に男と女で喧嘩し合っているわけではない。大体、そんな内乱をしていては隣のスペルズに付け込まれてしまう。男女混合軍でないのには、合理的で立派な理由があるのだ。
 さて、カーチャが所属する特務機関ラーズグリーズはこのグラズヘイム内にある。
 本日のカーチャの出で立ちは当然ながらワルキュリア軍の特務機関所属を示す深紅のグラッテン軍服で、両肩と両襟に少佐であることを表す大きな金の薔薇マークがついた階級章を佩用している。
 勿論、特注の子供サイズだ。軍服も階級章も財力に物を言わせて用意させた、不格好にならぬよう比率が調整されている特別製である。
 門扉の近くに立っていた女兵士達に声を掛けたら、案の定ぎょっとされた。が、カーチャの持つ辞令と階級章が玩具でないことがすぐにわかったのだろう。自分の半分も生きていないだろう子供に対して彼女達は礼儀正しく敬礼をし、ちゃんと門を開いてくれた。
 そして予想通り、門をくぐり抜けたカーチャの背に門番達の押し殺した失笑が浴びせ掛けられたわけだ。
 彼女らは知っているのだ。自分達が身につけているコバルトブルーの軍服ではなく、深紅のそれを纏っているのが何者であるかを。
 問題はない。このようなことは予測していた。背中に投げつけられた不躾な気配を、カーチャは意識的に遮断する。子供だからと言って、子供っぽい言動をしなければならないという法はないのだ。
 軍の本拠地だけあって流石にグラズヘイムは広い。徒歩で移動するには大人の足でもきついだろう。なにせこの敷地内には司令部、兵舎、工場、娯楽施設、貨物ターミナルに倉庫、滑走路など他諸々、列挙すればきりがないほど多くのものが収容されているのだ。下手をすれば、この中で遭難することだってあり得るかもしれない。
 移動手段は一兵卒であればバス一択なのだが、佐官ともなれば専用車が用意されている。カーチャは門からほど近い駐車場へ向かい、係の者にまたも微妙な気配を滲ませた対応を受けつつ、運転手付きの車に乗り込んだ。
 ――来ていきなりですけど、気疲れしますね……
 しばらくの間、基地全体の人間がカーチャに慣れるまで、この何とも言えない居心地の悪さが続くのだろう。いや、最悪の事態を考えれば、ずっとこのままかもしれない。先が思いやられてしまって、つい後部座席で深い溜息を吐いてしまう。
 ――それにしても今時、内燃型精霊機関ですか。佐官用の車と言っても割とケチ臭いんですね。
 運転席を見て、元々精霊機関に興味のあったカーチャはそんな感想を抱く。内燃型は運転手の精霊を燃料にして走る。肩章を見るに運転手は二等兵のようだが、訓練とはいえ一日中この車を運転しなければならないのなら、それは随分と過酷な負担になろう。金はかかるが外燃型の方が楽だろうに、と金持ちの娘としてはそう考えてしまう。
 第一、歴とした佐官を乗せているならともかく、今後部座席に尻を載せているのは自分のような子供だ。いくらカーチャより年上とは言え、まだまだ若く見えるこの運転手は一体どんな気持ちで車を走らせているのだろうか?
 子供らしい無邪気さを装って聞いてみようか、と思ったその時、
「到着しました」
 いかなる感情の匂いもさせない声で運転手が告げて、車が停止した。好奇心そのものをぶった切られたようなタイミングと声音に吃驚しつつ、反射的にお礼を言って車を降りる。
 扉が閉まると、車はカーチャが乗っていた時の倍ぐらいの速度と荒々しさで、来た道を戻っていった。
 僻地。
 そう呼んでも決して言い過ぎではないだろう。
 時代に取り残され、誰からも忘れられたような空き地。そこにぽつんと屹立する、妙に新鮮な三階建て。本体や周囲にこれといった看板や表記がないということから、逆説的にここが特務機関ラーズグリーズの本部であることがわかった。
 いかにも、手に負えなくなった危険物を押し込むために急遽用意した、という感じの建築物だった。必要最低限。そんな言葉がよく似合う。
 噂は大体聞いている。幸か不幸か、ラーズグリーズには有名人が一人いた。あるいは、その有名人のせいでラーズグリーズの噂が一人歩きしているのかもしれない。
 イオナ・デル・ジェラルディーン。
 旧体制で軍閥貴族を表した『デル』を今なお名乗る、グラッテン帝国時代の英雄ジェラルディーンの子孫。
 〝世界で最も精霊に愛された男〟としていまや絵本にもなっている英雄ジェラルディーンの血を引く怪物、とも、おつむが残念で可哀想なことになっている狂人、とも言われている。
 曰く、ラーズグリーズが発足したのは上層部がこの恐るべき女を正統な指揮系統から排除するためだ、とか。曰く、国家転覆を狙う不届き者であるが英雄の直系のため上層部もおいそれと手が出せず仕方なく適当な特務機関を与えて封じ込めているのだ、とか。曰く、真性のレズビアンで近くの女を片っ端から食べた上にゴールドフィンガーでメロメロに誑し込んでしまうので緊急隔離したのだ、とか。正直ゴールドフィンガーとやらはよくわからないが、噂からはともかく彼女が周囲からとんでもない女傑だと思われていることだけはよく理解できた。ちなみにゴールドフィンガー云々の話をカーチャに教えてくれた屋敷のメイドは、何故か翌日から姿が見えなくなってしまった。そういえば彼女と言葉を交わした直後に、ひどく怖い顔をした父と廊下で出くわしたのだが、それが関係しているのだろうか?
 ともあれ噂は噂で、その内容がどうあれカーチャがこの建物に入らなければならないことに変わりはない。
 履き慣れない軍靴で地面を踏みしめて、カーチャは建物に近付いていく。
 塗装されていない鉄色の扉に歩み寄り、爪先立ちになってドアノブに手を触れようとした瞬間、
「ようこそ! 我が城へ!」
 いきなり扉が奥に向かって開かれて、ロケット弾のような声が飛び出した。
「――ッ!?」
 カーチャはたまらず目を丸くし、体を硬直させ、現れた人物の顔をまじまじと見つめた。
 ――男の人……?
 有り得ない、と真っ先に思った。ここは〝戦女神の寝所〟、女だけの空間のはずだ。男性がいるわけがない。
「…………」
 件の人物はあらぬ方向――主にカーチャの遙か頭上――に笑顔を向けたまま固まっていた。カーチャは呆けたように、その面貌を下からまじまじと観察する。
 単純に、美形だ、と思った。俳優か何かみたいに整った顔立ちをしているし、陽の光を七色に反射する銀色の髪は細くて柔らかそうだった。猫にも似た金色の瞳があまりに綺麗で、思わず胸がドキリとする。まるで外国の王子様、なんて言葉が脳裏をよぎった。
 でも、やっぱり、どう見ても、それは男だった。
 ――どうして?
 カーチャは混乱した。もしかしたら変質者かもしれない。いや違う、軍の偉い人かもしれない。何か理由があってここにいるのかも。待て、じゃあさっきの「ようこそ! 我が城へ!」というのはどういう意味だ? いやいや、そんなことより、この人が着ているのは自分と同じ特務機関の制服ではなかろうか? もちろん女性用のスカートではなく、男性用のパンツを着用しているようだが。
「……んん?」
 不意に美形の笑顔が崩れ、眉根を寄せた訝しげなものへと変化する。前触れもなくその視線が下に向いて、いきなりカーチャを捉えた。不意打ちみたいな視線移動だった。
「――!?」
 頭蓋骨の内側で思考を七転八倒させているカーチャは、対外的には完全に石像状態だった。唐突な視線に悲鳴をあげそうになったが、しかし驚きすぎて喉がピクリとも動かなかった。
 両手を胸の高さに挙げて、目を皿のように丸くして、口を半開きにして自分を見つめているカーチャを、美形はどう思ったのか。口をあんぐりと開けて、
「おお……!」
 と感嘆の声を漏らし、
「天使よっ!」
 叫び、出し抜けにカーチャを抱き上げたのである。
 ――へ?
 カーチャにしてみれば、突然なま暖かいものに体中が包まれたかと思ったら、やけに視点が高くなっていた――という感じである。
 遅れて気付いた。
 見知らぬ男に抱きつかれている――と。
 瞬間、ぷちん、とカーチャの中で何かが切れて、
「――んにゃぁああああああああっっっ!?」
 本能だけが爆発した。自分でも意味不明かつ変な声が口から勝手に飛び出していた。
 相手はその叫び声が聞こえているのかいないのか、カーチャの胸のあたりに顔をうずめて、
「ああもうっ何と愛らしいっ! 翼を無くした天使とはまさにコレのことだ! ああもう香りまで芳しいなっ! くんかくんかっ!」
 まさに変態の所行であった。
 ――なにが……!? 一体なにが……!?
 訳が分からないまま、されど事態は無情に進行し、変態の両腕がカーチャのあちこちをまさぐり始める。その感触に抗議と悲鳴が同時に口を衝いて飛び出す。
「にゃっ!? にゃにをっ!? ちょあのそこはだめっへ、変態っ! 変態がいますよっ!? いやあの匂いを嗅がないでっ誰かっちょっと誰かぁぁぁぁっ!?」
 じたばたと暴れながら助けを求めて叫ぶと、いきなり変態の動きが止まった。
 ぴたり。
「変態?」
 その単語を繰り返すと、変態はカーチャを地面にすとんと降ろし、頭を巡らせた。そして周囲を鋭い視線で切り払い、
「――おのれ、どこにいる変態! 出てきて神妙にお縄につくがいい!」
「あなたのことですよぉぉぉぉ!?」
 予想の斜め上を行く超反応に、カーチャはたまらず変態を指差してそう叫んでいた。
「ん?」
 蒼い顔をして自分を指差すカーチャに気付いた変態は、やおら背後を振り返り、
「……誰もいないようだが?」
「ちょっ!? だ、だから! あなた! 私の目の前にいるあなたっ!」
「んんん?」
 変態はカーチャに向き直り、自らを指すカーチャの右人差し指を確認する。その先端をじっと見つめた後、変態は自分自身を指差して、
「――俺か?」
「そう! そう! そうっ!」
 ぶんぶんぶんと頭を縦に振るカーチャに対して、変態は腕を組み、片手で顎をつまみ、ふむ、と一言。
「なら、しょうがない」
「しょうがないぃっ!?」
 驚愕だった。短いながらも八年間生きてきて、こんなにも頭のおかしい人間は初めて見た。
 驚きのあまりカーチャが硬直していると、変態は目を細め、口角を釣り上げると、実に爽やかな笑みを浮かべた。
「さて、服装から察するにエカチェリーナ・ファン・ヴォルクリング特務少佐だな。話は聞いている。改めて歓迎しよう。ようこそ、我が城こと特務機関ラーズグリーズへ」
 カーチャの遙か頭上から日輪のごとき笑顔と声を燦々と降り注ぐと、変態は颯爽と踵を返した。
「さあ、中へ。皆に紹介しよう」
「ちょっ、あの、あなた、おとこ、へんたい、ここ、ワルキュリアのグラズヘイム……」
 カーチャはその背中に慌てて抗議をぶつけようとしたが、上手く言葉にならず、ぶつ切れの単語だけが出てきて、挙げ句には尻窄みになってしまった。
 何故なら、変態の歩みがあまりにも堂々としていたから。
 律動的な歩調で廊下に音高く靴音を響かせ、建物の奥へ進んでいくその後ろ姿は、確かにここの主である風格を漂わせていた。
 何故男がここにいるのか。その男がどうして自分の名前を知っているのか。疑問は尽きないが、ここは大人しく従うしかない。そう判断して、カーチャは渋々と変態の後ろについてラーズグリーズに足を踏み入れた。

 通されたのは三階の一室で、どうやら談話室のようであった。
 見た目の簡素さとは裏腹に、贅沢な調度品がふんだんに用意された、品の良い部屋だった。
 しかし、そこにいたのは上品な調度とは相容れない人物だった。
 まず信じがたいことに、それは、男にしか見えなかった。
 ――って、また男の人ですか……!? 特務機関って実は男の集まりなんですか……!?
 次に、それは筋肉がムキムキだった。服の上からでもわかるぐらい、実に逞しい肉体の持ち主だった。
 さらに肌が真っ黒で、髪の毛が縮れていて、揉み上げが鼻の穴の中まで繋がっていた。その上、向こう側が見通せないほど真っ黒でごついサングラスを掛けていた。
 なのに、カーチャと同じ深紅の軍服に身を包んでいた。しかも男性用のパンツではなく、女性用のスカートを穿いて。
「…………」
 開いた口が塞がらなかった。
 ――お、オカマさん、でしょうか……!?
 その一方で、あの肌の黒さと縮れ毛は地方豪族の末裔だろうか、とカーチャは記憶の抽斗から歴史の知識を取り出す。旧体制時代、獅子身中の虫として警戒されていた一族があのような肌と髪を特徴として持っていたはずだ。今では他の人種と混じり合って純血の者は少なくなったらしいが、どうやらあそこにいる人物はその希少種のようだった。
「喜べ、サイラ! 彼女が我々の新しい仲間、エカチェリーナ・ファン・ヴォルクリング特務少佐だ」
 先に談話室に入った変態が、アフロヘアーの筋肉に向かってそう言った。
 ――サイラ? 名前だけは女の人みたいですね……オカマさんだけに、愛称でしょうか?
 そう思うカーチャの視線の先で、サイラと呼ばれた人物が椅子から立ち上がり、こちらに挙手の敬礼をした。ぴしりと一本筋の通った、見事な敬礼だった。
 続いて変態はカーチャに向かって、
「ヴォルクリング特務少佐、彼女はサイラ・グロリア特務少尉だ」
「あ、は、はいっ」
 言われてから自分が答礼していなかったことに気付き、慌てて手を上げかけて、
「――彼女?」
 止まった。
 思わず変態の顔を仰ぎ見る。聞き間違いだっただろうか? いや、そうでなくてはおかしい。目の前にいるのは【彼女】ではなく【彼】のはずだ。
 途端、ぷっ、と変態が吹き出した。
 してやったり、という顔である。変態は、くっくっくっ、と意地悪げに笑いながら、
「ひっかかったな、少佐。残念だがサイラはこう見えても、歴とした女だ。見た目に易々と騙されたろう?」
「はい?」
 言っている意味がよくわからなかった。
 変態の上に馬鹿なのだろうか、この人は。断言してもいい。アレは男だ。見ればわかるはずだ。だって、あの人にはおっぱいがないのだから。自分は子供だが、これぐらいは知っているのだ。女の人はおっぱいがある人、男の人はおっぱいが無い人、と。
 乳房とはしょせん一割が乳腺で九割が脂肪の塊であり、肉体を鍛えすぎるとその膨らみのほとんどが筋肉に換わって無くなってしまうということを、この時はまだ知らないカーチャであった。
 変態はニヤニヤと唇を曲げながら、サイラに含みのある視線を向ける。
「なぁ、サイラ?」
「イエス・マム」
 問いかけに答えた涼やかな声は、見た目にそぐわぬ、しかし確かに女性のそれだった。
「ええっ!?」
 天地がひっくり返ったかのような衝撃だった。男が女の声で喋った。その猛烈な違和感にカーチャは体を震わせた。
「サイラ・グロリア特務少尉であります。以後よろしくであります」
 しかもよく聞けば、どこか可愛らしいというか、若々しい声だった。見た感じは三十代と言われても納得できるぐらいだが、声から察するに、意外と若いのかもしれなかった。
 驚きのあまり、ぽかーん、としていると変態が手振りでサイラを椅子に座らせ、
「で、まだもう一人いるのだが……サイラ、アイリスはどうした?」
 質問に対し、サイラはラウンドテーブル上のティーカップを無言で指差した。変態は、ああ、と納得の息を吐き、
「茶を淹れに行っているか。やはり機を見るに敏だな。俺が少佐を迎えに行ったのを見て、準備に行ったのだろう。なら、そろそろ戻ってくるはずだが……」
「あらあらまぁまぁ。可愛らしいお嬢さんですね」
 変態の台詞に被せるように、背後からおっとりとした女の声。振り返ると、談話室の出入り口にブルネットの美人が笑顔で立っていた。やはり深紅の軍服を着用しており、両手にいかにも高価そうなティーセットを載せたトレイを抱えている。
 ――今度は、女の人です……よね?
 まるで狙い澄ましたかのようなタイミングで現れた人物に、反射的に猜疑心まみれの視線を向けてしまうカーチャ。
 無理もない話だった。最初に出てきたのが男で、その次に会ったのが男にしか見えない女だったのだ。今度の人物が、女に見える男でないという確証がどこにあろうか。
「おお、アイリス。ちょうどよかった。これからお前を紹介しようと思っていた所だ。こちらの愛らしい天使が、エカチェリーナ・ファン・ヴォルクリング特務少佐だ」
「はい」
 にっこりと微笑んで、アイリスと呼ばれた人物はカーチャに向かって軽く頭を下げた。
「両手が塞がっていて失礼いたします、少佐。私はアイリス・ララリス特務曹長ですわ。以後、よしなに」
「あ、はいっ、よろしく……です」
 予想外に柔和な雰囲気を醸し出すアイリスに、どこか気圧されるようにカーチャは答礼の姿勢をとった。
 ちらり、と上目遣いに変態を見上げると、
「ん?」
 視線に気付いた変態が小首を傾げるので、カーチャは質問を口にした。
「あの……ララリス特務曹長は……その、女の方、ですよね……?」
 内容が内容だけについ小声になってしまった。
 これを聞いた変態はまたも、ぷっ、と吹き出し、
「はっはっはっ、正解だ、少佐。貴官の見立て通り、アイリスは女だよ」
「ほっ……」
 その答えにカーチャは胸をなで下ろし、安堵の息を吐いた。だが次の瞬間、
「今はな」
 と、聞き捨てならない台詞が耳に滑り込んできた。
「へ?」
 弾かれたように顔を上げると同時、こちらに歩み寄ってきたアイリスがラウンドテーブルにトレイを載せた。
「お茶をご用意いたしましたわ、少佐。どうぞこちらへ」
「あ、は、はいっ、あ、ありがとうございますっ」
 相手の言葉に律儀に反応してしまう自分の性格が恨めしい。
 ――今は? 今はって、今はってどういう意味ですか!? 昔は違ったってことですかぁぁぁ!?
 混乱する思考をぐるぐると空転させながら、カーチャはアイリスが勧めてくれた椅子に腰掛ける。座ると床に足がつかなくなるが、いつものことなので気にしない。
 目の前ではアイリスがテキパキとお茶の用意をしている。軍人だというのに、カーチャの屋敷のメイドもかくやという手際だった。
 ――もしかして、元は男の人だったんでしょうか……!? で、でも、何ですか、どう見ても女の人にしか見えないというか……お、おっぱい大きいですよ……!?
 一言で言えば、アイリスはグラマラスボディの持ち主だった。豊満なバストに、きゅっと絞ったウエストと、魅惑的なヒップ。しかもそれを助長するかのような、ミニスカートの改造軍服。裾から伸びる生足が実に艶めかしい。
 それでいて、優しげな物腰と顔立ち。豊かなブルネットはゆるく波立ち、緑の瞳は慈愛に満ちた聖母のようだ。女であるカーチャですら『こんな姉が欲しい』と思うほどの、まさに女性の鑑だった。
 ――そ、それなのにっ……!?
 昔は女でなかった、とあの変態は言った。
 ――し、信じられないっ……!
 と、ここでカーチャははっと気付いた。
 ――っていうかあの変態さんの名前聞いてませんよ!? いやいや、それ以前にサイラさんもアイリスさんも結局は女の人ですけど、あの人はやっぱり男なんじゃ!?
「あ、あのっ!」
 小さな身体を更に縮こまらせながら、意を決して大きな声を出したカーチャに、
「ん? どうした、少佐」
 その向かいに座ろうとしていた変態が顔を向けた。
 この時、麒麟児と呼ばれていたカーチャの脳細胞は忙しさにかまけて、その本領を全く発揮できない状態だった。故に、その口から飛び出したのは実にシンプルな質問だった。
「あなたはっ、変態さんはっ、男ですよねっ!?」
 かちゃり、という音を最後に、お茶の用意をしていたアイリスの動きが止まった。
 サイラはさっきからずっと微動だにしていなかった。
 変態は両目をぱちくりとさせた。
 無音のまま、数秒が経過した。
 世界そのものが唖然としているような、ひどく気まずい沈黙。
 それを破ったのは、ぷっ、という変態の吹き出しであった。
「はっはっはっはっ!」
 腹の底からの大笑いである。
 次いで、アイリスがくすくすと笑い出す。
 サイラはびくともしない。
「? ? ? ?」
 何故笑う。カーチャにはまずそのことが理解できない。あれ、おかしいな、いま私は何を言いましたっけ?
「なるほど! さっきから貴官の俺を見る目がおかしいと思ってはいたが、そういうことか!」
 はっはっはっはっ、と笑う変態は実に楽しげだ。
 椅子の背もたれに手を掛けていた変態は、何故かそのまま腰を下ろさず、ラウンドテーブルをよけてカーチャに近付いてきた。
 すぐ傍まで来ると腰を屈め、カーチャと目線の高さを合わせ、にんまりと殊更に相好を崩す。
 本能的に警戒態勢をとったカーチャの腕をむんずと掴むと、変態はそれをそのまま自らの股間に導いた。無論、子供の腕力で抗えるはずもなく。
 ぴと。
 カーチャの小さな手が強制的に変態の股間に触れさせられた。
「――ぴぎゃぁああああああああっっっ!?」
 ものすごい悲鳴が迸った。屠殺される豚とてまだマシな声を上げるだろうに。全身に電流を流されたようにカーチャは体を震わせて、あらん限りの絶叫を上げた。
 が、はた、とその動きが止まる。
 ――あれ……?
 カーチャは内心で首をひねった。
 【ない】のだ。あるべきはずの【感触】が。
「自己紹介が遅れたな、少佐」
 頭上から降ってきたその声に、カーチャは面を上げる。
 そこにあったのは、どこか勝ち誇ったかのような顔。改めてよく見てみれば、それは中性的と称しても良い相貌だった。
 刹那、氷のように冷たい嫌な予感が、光の速度で背筋を駆け抜けていった。

「俺はイオナ・デル・ジェラルディーン特務大佐だ。特務機関ラーズグリーズの機関長で、当然、貴官の上司にあたる」

 混乱とか焦燥とかそんなものを一気に通り越して、頭の中が真っ白になった。
 単細胞生物並になった思考能力で、それでもカーチャは何かを考えようとした。この変態は実はあの有名なジェラルディーン特務大佐で、大佐と言えば少佐よりも偉くて、その大佐は紛うことなく女性で、その女性はカーチャよりも偉くて、
 偉い。
 ぬう、と額と額がくっつきそうなぐらい顔を近づけてきたイオナが、いじめっ子の声で嬉しそうにこう言った。
「上司を変態呼ばわりした件については、ようく覚えておこう」
「ぴっ……」
 やってしまった。そういう思いの一部が変な声に形を変えて外に飛び出した。
「ド貧乳ですまなかったな。あと、男装は趣味だ。俺はガチレズでな。こうしていると女が寄ってくるから都合が良いんだ」
 ふーっ、と甘い息が耳に吹きかけられる。ぞくぞくするようなくすぐったさに、ぶるっと体を震わせて、カーチャは目の前が暗くなっていくのを知覚した。
 ――ああ、もうだめです……
 端から眺めると、若い男が幼女の手を股間に押し当てているようにしか見えない構図のまま、精神的限界を迎えたカーチャは【ぽっくり】と気を失った。
 後に伝説となる幼女と、生まれながらにして既に伝説だった女傑との、これが【初めての出会い】であった。




[28748] ●2
Name: 仙戯◆97bdbc1a ID:d9a73d31
Date: 2011/07/09 15:31

 何か柔らかい物に頭を載せて横たわっている感触。
 うっすらと目を開くと、丸い屋根のような物が照明の光を遮るようにカーチャの顔を覆っていた。
 それがアイリスの巨乳であると気付くのに一秒。自分が彼女の膝枕を借りているのだと理解するのに一秒。失神する寸前までの記憶を思い出すのに一秒。計三秒の時間をかけてカーチャは覚醒した。
「ッ!?」
 がばっと起きようとして巨乳の天井に顔をぶつけて跳ね返った。
「あうっ!」
「きゃっ?」
 ぼよん、ととんでもない弾力で押し返されたカーチャは、これまた絶妙な柔軟性を有した膝枕に、ぽよん、と頭を載せなおす。
 ――な、なんて無様なっ。何やってるんですか私はっ!
「す、すみません、ララリス特務曹長……」
「あらあら、いいのよ。もう少しゆっくり寝ていても」
 うふ、と微笑むアイリスを見て、ああこれでこの人って前は男だったのか、などと考えてしまい、カーチャは何とも言えない微妙な気持ちになる。
「い、いえ……ありがとうございました……」
 ありがたいようなそうでないような申し出を丁重に断り、カーチャはアイリスの胸を避けるようにして上体を起こした。
 どうやら気を失っていたのはそう長い時間ではなかったらしい。テーブル上のティーカップに注がれた香茶からは、まだ湯気が立っていた。
 テーブルを挟んだ向こうに、すらりと長い脚を組んで優雅に茶を嗜む上官がいた。
 イオナ・デル・ジェラルディーン。
 特務機関ラーズグリーズが発足したそもそもの元凶と云われている、銀髪の女傑。
 英雄の直系にして、現ジェラルディーン家の当主であり、危険人物のみを集めた特務機関の長。
 ――恐るべし我が上官です。とりあえず噂通り、真性のレズビアンだったのは本人の認める所でしたけれど……まさか女性ウケを狙って男の人の格好までする人だったなんて……!
 この分では、他の噂の信憑性だって馬鹿に出来ないかもしれない。
 一見しただけでは、やはり中性的な優男にしか見えない男装の令嬢は、カーチャの視線に気付くと、
「お早いお目覚めだな、マイ・エンジェル?」
 と、若気た顔でウィンクをしてきた。意識を失ったのはあなたのせいなんですけど、という言葉をカーチャは呑み込んで、居住まいを正す。
「え、えーと……」
 おそらくカーチャを寝かせるために用意したのであろう二人掛けの椅子から、少女はおずおずと腰を上げる――というより、降りる。
 周囲を見ると、すぐ右傍にアイリス。左手前に彫像のように座っているサイラ。テーブル越しの正面にイオナ。
 思えば、紹介を受けるばかりで自分はまだ一度も正式な挨拶をしていなかったのだ。カーチャは父から礼儀をおろそかにするような教育は受けていない。
 カーチャは背筋を伸ばし、踵を揃え、薄い胸を張って、精一杯の敬礼をした。
「本日からワルキュリア軍付属特務機関ラーズグリーズに配属になりましたエカチェリーナ・ファン・ヴォルクリングです」
 何とか噛まずに言い切った。それを褒めるように、右隣のアイリスがパチパチと拍手をしてくれる。
 すると、
「ほう? まさかとは思うが、自己紹介はそれだけで終わりなのか?」
 などとイオナが意地悪なことを言う。そんなことを言われては、何か別なことも言わなければいけないような気がしてくるではないか。カーチャは瞬間的に頭を悩ませつつ、
「えと、階級は特務少佐です。……年齢は、八歳です。あ、性別は女です」
 そこまで喋って黙ると、室内がしんと静まりかえってしまった。空間そのものが『え? もう終わり?』と自分を責めているような気がして、ひどく居たたまれない気分になる。
「え、えっと、あのぅ、そのぅ……」
 ――こ、これっていじめですよね……? 私、そろそろ泣いた方がいいですよね……?
 非常に惨めな気持ちになりつつ、しどろもどろになっていると、そういえば、と思い出したことが一つあった。
「……もう一人、いますよね?」
「ん?」
 ぽつりとこぼした問いに、イオナが小首を傾げる。カーチャは、いえ、と前置きをしてから、
「ラーズグリーズの構成人数は四名と聞いていました。ジェラルディーン特務大佐に、グロリア特務少尉に、ララリス特務曹長で三名です。あともう一人、どなたかいらっしゃいますよね?」
「ふふん」
 上手くこちらの無茶振りを切り抜けたな、というイオナの金色の瞳。どことなく嬉しそうなのはカーチャの錯覚だろうか。同時にそれでいて、どこか試されているような気もするのだが。
「少佐、いちいち肩書きに〝特務〟をつけなくてもいいぞ。面倒くさいだろう。それに俺のことはイオナ、あるいはダーリンと呼んでくれ。堅苦しい喋り方もなしだ。俺が許す。アイリス、サイラ、お前達も少佐に対してタメ口でも構わんぞ。なに、気にすることはない。ここはある意味、正規の軍事施設ではないのだし、彼女は少佐とはいえ、聞いての通り八歳のお嬢様だ。まぁ天使のように愛らしいからな、あだ名はエンジェルでどうだ? エカチェリーナだから、チェリーなんてのもいいな」
 ぺらぺらと質問の答え以外のことを話した後、イオナはティーカップをテーブルに置き、足を組み直すと、
「さて、質問の答えだが。実はもう一人は、今日はちょっとした用で使いにやっていてな。顔合わせは後になる予定だ。何か不都合でもあるかな?」
「はい、イオナ大佐」
 カーチャの肯定に、ぴく、とイオナの片眉が跳ね上がった。表情から余裕が消え失せて、険がのぞく。
「不都合があると?」
 急に不機嫌っぽくなったイオナに対して『何故?』と内心で首をひねりつつ、カーチャはあくまで素直に自分の希望を述べた。
「ええと、タメ口とかは別にいいのですが、出来ればチェリーとエンジェルはやめてください。私にはカーチャという愛称がすでにあります。あと、ダーリンもちょっと……」
「……ふむ」
 イオナは何故か虚を突かれたような顔をしていた。自分は何か変なことを言ってしまっただろうか? ここに来てから何故か自分の発言に自信が持てない。
 ――いやまぁ冷静に考えれば、おかしいのはここの人達だとは思うのですが……
 イオナは腕を組み、片手で顎を摘み、真剣な表情で、
「変態は良くても、ダーリンはダメなのか……」
「あっ!? ちょっ、そ、それはっ!」
 そういえば謝罪するのをすっかり忘れていた。とはいえ、
「……た、確かに勘違いでしたけどっ、それはこちらの落ち度でもありましたけどっ、別に男の人じゃなくてもいきなり抱きつかれて匂いを嗅がれたりなんかしたら、誰だって吃驚すると思うのですが……!」
 まごまごと言い訳をしていたら、いきなりイオナが大きな声を出した。
「しょうがないだろうッ!」
「ひゃっ!?」
 椅子を蹴って立ち上がり、猛然と腕を振って変態は力説する。
「お前のような愛らしい天使を目の前にしておきながら抱き付いたり香りを嗅いだり手籠めにしたりしないのは失礼に値するだろうが! そんな不作法ができるものか!」
「今すごいこと言ってますけどわかってますか!? ほ、保安中隊! 誰か保安中隊を呼んでくださいっ! ガチレズどころかガチロリな変態がいますよーっ!?」
「まあまあ、落ち着いて? 大佐もカーチャちゃんも」
 穏やかな声でアイリスが無駄に興奮している二人の間に割って入った。
「カーチャちゃん、誤解してしまうかもしれないけれど、大佐はこれでもあなたのことを褒めているのよ? それだけはわかってあげて?」
 緑の瞳で柔らかに微笑みながら、アイリスは背後からカーチャの首に両腕を絡めてくる。小柄なカーチャはなすがままにされつつ、
「そ、それはわかっていますけど……」
 愛らしいだの天使だのと言われて嬉しくないと言えば、それは嘘になる。これでも女の子なのだから。しかし、同時に神童ともてはやされる耳年増でもある。ゴールドフィンガーの示すところは知らなくても、手籠めにするという言葉の意味はちゃんとわかっており、年相応の恥じらいを持つカーチャだった。
 と、その時、
「ただいまぁ」
 談話室の扉を開いて、誰かが入ってきた。
 ――あれが最後の一人? 女の子、ですよね……?
 入室してきたのは、長い金髪の少女のようだった。だが、もはやカーチャは油断などしない。女の子に見えるというだけではもう安心しない。自然と、相手を見る目が厳しいものへと変化していた。
 とはいえ、だ。見る限りでは、やはりその人物は少女にしか見えなかった。
 蜂蜜色に輝くセミロングのカーリーヘア。吊り目がちだがぱっちりと大きな瞳は深いラピスブルー。まるで精巧な陶器人形のごとき美貌に、一瞬だけ心を奪われた。
 愛らしいだの天使だのという言葉はあちらの方こそ似合うのでは無かろうか。カーチャがそう思っていると、
「ラケルタさんのところ行ってきたよ。足長おじさんが言うには、説得や説明は全部ボクらに任せるってさ。適当だよねぇ」
 陶器人形は言いながら、こちらに近付いてくる。
 そんな陶器人形が着ている深紅の軍服には、他の三人よりも激しい改造が施されていた。至る所に純白のフリルがあしらわれ、ボトムスは布を花びらのように何枚も重ねて形を作るペタルスカートだった。しかもよく見れば、カーチャを含めた他全員が黒革のアーミーブーツを履いているというのに、あちらは赤いエナメルのローヒールパンプスだった。そのパンプスとスカートの間に挟まれた白い素肌がとても眩しく見える。
 年齢はカーチャとさほど変わらないように見えた。まぁカーチャのような特例でもなければ、軍に入れるのは十五歳からなので、大体そのあたりだろう。
 イオナが陶器人形の方へくるりと振り返り、
「意外と早かったな、ベル」
「だって、今日は例の新人が来るんでしょ? ボク、ちゃんと急いだ――んだけど、なんだ、間に合わなかったのか」
 台詞の途中でカーチャの姿を認めたらしい。ベルと呼ばれた陶器人形は、はぁ、と溜息を吐く。あの人は自分のために急いでくれたのか。そう思うと少し嬉しかった。
 確認する。見た感じは、確実に女の子だ。それも美少女だ。そして、サイラの時の教訓を生かして気を配った所、声も問題ない。まだ声変わりしていない可能性もあるが、微妙なアクセントが実に女の子女の子しているのだから、おそらく大丈夫だろう。ただ気掛かりなのは、一人称が『ボク』であること。とはいえ、少し前まで通っていた大学にも『ボク』という一人称を使う女性徒は何人かいた。なので、これも問題なしと判断出来る。
 ――というか、よくよく考えてみればイオナ大佐も、サイラ少尉も、アイリス曹長も、結局は女の人でしたっけ。
 それもそうか、と納得する。ここは仮にも〝戦女神の寝所〟とまで称されるワルキュリア軍の中央基地なのだ。男子禁制の敷地内に男なんぞいるわけがなかったのだ。アイリスとて、イオナの口振りから察するにすでに性転換は済ませてあるのだろうから、男性不可侵の掟はしっかり厳格に守られているのだ。
 だから安心していい。間違いない。ここには男っぽい女か、女っぽい女のどちらかしかいない。つまり、陶器人形は見た目通りの美少女なのだ。
 不意に目があった。
 すると陶器人形が、蕾が花開くようににっこりと微笑んだ。カーチャも反射的に笑みを返す。が、すぐにはっと気付いて、アイリスの両腕を振りほどき、慌ただしく敬礼をした。
「ほ、本日から配属になりましたエカチェリーナ・ファン・ヴォルクリングです。階級は特務少佐です」
 かしこまるカーチャとは対照的に、陶器人形は砕けた感じで、あは、と笑い、
「ボクはベル。階級は特務軍曹だよ。今日からよろしくね」
 と、カーチャに歩み寄り、手を差し出してきた。その気軽さが嬉しくて、カーチャは再び破顔してその白魚のような手を握った。まるで心の器に温水が注がれていくような、暖かい感覚がカーチャの小さな胸を満たす。
「ねぇキミ、歳はいくつ?」
「や、八歳です」
「そっか。ボクは十四歳だよ。歳も近いし、仲良くしようね」
 はて? とカーチャは小首を傾げた。確かワルキュリア軍に入隊できるのは十五歳からだったはずだが、これはどういうことだろう? そういえば、アインヘルヤル軍なら十二歳から入隊できると聞いた記憶があるのだが――
「……え?」
 にわかにベルと握手していた腕が引っ張られた。手首を掴まれ、なんだかつい先程にも経験したような気がする流れに導かれ、カーチャの手はベルのスカートの中へ潜り込んだ。
 ふに。ころ。
 なにやら名状しがたい感触が掌に伝わり、瞬間、電撃がカーチャの神経網を駆け抜けた。冗談抜きで目の前に火花が散った。
「――。」
 身体が石になった。
 自分に何が起こったのか。それすら理解できなかった。
 許容量以上の情報が入力されたのだ。ちっちゃな頭蓋骨にどんと詰め込まれた巨大な事実を、それでもカーチャの脳細胞は懸命に処理しようとした。噛み砕き、要約し、加工し、オブラートに包んだ。
 けれど、その結果を大脳皮質が拒否した。それは到底受け入れることなど出来ない、恐るべき事実だったのだ。
 ガクガクと、油の切れた機械のように不穏な動きで面を上げて、カーチャは涙目でベルの顔を見つめる。
 カーチャの涙混じりの目線に気付いたベルは、にぱー、と満面の笑顔を返した。スカートの中に先の尖った黒い尻尾を隠していたとしても不思議ではない笑い方だった。
 カーチャはぷるぷると全身を小刻みに震わせながらベルから顔を逸らし、その背後にいるイオナへ助けを求めるように視線を向けた。
「ん? どうした、カーチャ?」
 イオナの態度は素っ気ないものだった。が、その唇が微妙にわなわなと蠢いているのをカーチャは見逃さなかった。ほぼ確実に、それは笑いを堪えている表情だった。
「な、な、な、なに、なに、なにになになになになななににに」
 粉々に砕けた言語機能をそれでも駆使したところ、唇からその破片がぽろぽろ零れるだけだった。無論、涙もぽろぽろ零れている。
「なに、なに、なにか、なにかが、な な な な」
 壊れたレコードのように一音を繰り返す声に、その内段々と感情がのってきた。
「なっ、なにかっ、なにっ、なにっなになになにっ、なにか、なにかっ、なにか……なにかがっ! なにかがっっ! なにかがっっっ!」
 はっはっはっはっ、とイオナが弾けたように笑い出し、鷹揚に頷く。
 そして、こう言った。
「ああ、【ナニ】がついているな」
「(声にならない叫び)」
 電光石火の動きで腕を引いた。
 顎が外れんばかりに口を開き、カラスのごとき『あ』に濁点のついた声で悲鳴をあげる。
「唖――――――――――――――――――――――ッッッ!!」
 ここにいるのはどうせ全て女。そう安心しきっていただけに、眼前の現実との落差はとんでもない衝撃だった。
 号泣と共に絶叫する。
「お と こぉ――――――――――――――――――ッッッ!!」
 凄まじい慟哭だった。
 よしよし、とアイリスに抱き竦められても半狂乱になって意味不明な言葉を喚き散らすカーチャを無視して、イオナは背後からベルの肩に手を乗せ、
「ベネディクト・ロレンス特務軍曹。愛称というか源氏名というか、通称がベルだ。まぁ見ての通り――いや、【触っての通り】、こいつは【男】だ。ここのみならず、ワルキュリア軍で唯一の男性軍人だぞ。珍しいだろ?」
 と、ものすごく楽しそうな声音で紹介した。
 珍しいとかそういう問題ではない。男がここにいていいのか。この基地は男子禁制だったのではないのか。というか、いきなり股間を触らせる奴は変態ではないのか。ここは変態の巣窟なのか。いきなり抱き付いてきたり匂いを嗅いだり股間を触らせたり一体なんなのだ。自分が一体どんな悪いことをしたというのだ。助けてお父様。
 そんな内容のことをまき散らしたカーチャであったが、残念なことに呂律が全く回っておらず、周囲にとっては全く意味をなす言葉になっていなかった。
「もう、ダメよベルちゃん。カーチャちゃんはまだ小さいんだから、そんな変なことしちゃ」
 どうどうとカーチャを宥め賺しているアイリスが、めっ、とベルを叱るが、しでかしたことの大きさに比べれば全く軽い怒り方であった。当然、叱られた側も、
「ごめんごめん、【つい】。だってさー、こういう小っちゃい子ってからかうとすっごくおもしろいんだもん。ボクこういう小動物系ってだーいすき♪」
 このようにこれっぽっちも悪びれない。合わせた両手に頬を寄せるその額には、目に見えない、ねじくれながら伸び上がる二本の角が生えているに違いなかった。
 ――だっていうのに、全然男に見えませんし! そんな小悪魔的な仕種がすんごい似合う美少女ですしっ!
 愛らしいだの天使だのはベルの方が似合う、と思ってしまった自分が間違っていた。この女装男子にぴったりなのは『変態悪魔』という単語しか有り得なかった。
 散々喚き散らして少し落ち着いてきたカーチャは、それでもこれだけは看過できぬ、と声を荒げて詰問する。
「これはどういうことですかイオナ大佐! 男性がいるだなんて私は聞いていません!」
「ああ、それはそうだろう。俺達のことは基本的に機密扱いだからな。お前が事前に知っていたなら、その方が問題だ」
 しれっと、とんでもない事を言ってくれる。イオナは急に真剣な顔付きになり、人差し指で、びし、とカーチャを指差し、
「いいか、カーチャ。ここは伊達に特務機関を名乗っているわけではないぞ。お前もわかっているだろうが、【ここに集められているのは只の軍人ではない】。どいつもこいつも臑にキズある奴らばかりだ。常識で考えていると、しまいには火傷してしまうぞ?」
 低い声で突き放すように言い放ち、唇の端を釣り上げた。優男風の顔で粘つくような笑みを形作る物だから、その表情は余計に凶悪に見えた。イオナはそのまま両手を広げ、まるでこの胸に飛び込んでこいと言わんばかりの体勢で、
「改めて歓迎しよう。ようこそ、我が城、ワルキュリア軍付属特務機関ラーズグリーズへ。今日からここがお前の魂のふるさとだ」
 ばっ、と勢いよく右手をカーチャに向かって差し出す。
「今この時、この瞬間より、お前も俺達と同じヘンタ――特務機関の仲間だ!」
「言い直しましたよねいまっ!? ヘンタまで言い掛けて言い直しましたよねっ!? むしろヘンタイって言っちゃいそうになってましたよねっ!? うわぁんもう嫌ですぅぅぅぅぅお家に帰りたいぃ――――――――ッ!」
 カーチャは再び声を上げて泣いた。
 神様という存在を恨んだのは、生まれて初めてだった。
 上役である大佐は男装趣味で、ガチレズで、ロリコンの気もあって、言動は変態チックで、横暴。
 部下の少尉はどう見ても異族の男で、筋骨隆々で、でも中身は意外と若そうで、女性で、無口で、不気味。
 もう一人の部下の曹長は優しくて、暖かくて、柔らかくて、綺麗で、グラマラスで、でも元男。
 最後の部下である軍曹は、可愛らしくて、明るくて、歳も近くて、仲良くなれるかもと思ったが、実は現在進行形で男の子で、女装していて、意地悪。
 ――どう考えても、ただの変人集団じゃないですかっ……!
 運命のサイコロが投げられ、ひどい目が出たことはここに来る前からわかっていた。しかし、現実はその予想の遙か上を行っていた。
 自分は、今日から、この変人集団の仲間になるのだという。
 もはや考えるまでもなかった。
 カーチャの前途は、多難に満ちている。
 無論、握手などしてやらなかった。




[28748] ●3
Name: 仙戯◆97bdbc1a ID:d9a73d31
Date: 2011/07/09 19:52
 

 初日はとにかく忙しかった。
 上官と部下との初顔合わせは情報量的に怒濤の勢いであったし、なんとか落ち着いて皆でアイリスが淹れてくれた香茶を飲んだ後も、いきなり外へ連れ出されたのだ。
「パレードだ」
 何事かと尋ねたカーチャに、イオナは簡潔にそう答えた。
「案ずることはないぞ。俺の時だってやったことだ」
 それのどこが案ずる必要のない理由になるのだろうか。
 目的地に向かう車の中で、詳しい説明をしてくれたのはベルだった。どうやら彼女――彼と呼ぶと本人が非常に怒るのと、機密保持のために敢えて彼女と呼んでいる――はそのパレードの準備のために外出していたらしい。
 首都ガングニルの中央環状道路を一周。それがパレードのコース。華麗なデコレーションの施されたステージ付きの大型車が十台と、それに追随する小型車が百台。随伴するのは高名な政治家や芸能人達。それにパレードを盛り上げる音楽隊やダンサー。そして、それらを見物するために集まった大勢のグラッテン国民。
 戦争に勝ったのかと思うほど、どえらい規模のパレードだった。
 夢にも思わなかった事態に、カーチャはただ唖然とするしかない。
「……き、聞いてません、よ?」
「そうか。それは残念だったな」
 素敵な笑顔で事も無げに言うイオナ。
 ――いやどう考えても意図的に伏せてましたよね!? ロレンス軍曹のことを聞いた時、明らかに適当に誤魔化していましたよね!? あれはこういうことだったんですねぇーっ!?
 胸骨の内側で嵐が吹き荒れるが、カーチャはもはや喚き散らす愚をとらない。どうせ抗議した所で意味など無いと理解している。カーチャに出来るのは、同様の手口で何度も騙されぬよう気をつける事だけであった。
 話を聞くと、彼女が軍に入った時も同様のパレードが催されたらしく、それはどうやら国民の戦意高揚をはかるデモンストレーションが目的だったらしい。有名人、あるいはその眷属が軍に入ったことを上手く利用したのだ。イオナが言うには、今回もその類だろう、とのことだった。
 そういえば、とカーチャは記憶を紐解く。何かの折りに聞いた、五年前の軍事パレードで爆弾発言をした大佐がいた、という話を思い出したのだ。その事を口にするとベルが笑って、
「そうそう、それそれ。いきなりマイクで『国民よ、俺を最前線に送ってくれ!』だったっけ? イオナ大佐もすごいことするよねー。もうみんな大騒ぎ。ま、勿論聞き入れて貰えなかったんだけどさ」
 所詮はデモンストレーションに使う客寄せパンダだ。戦力になることなど端から期待していないし、そもそも大切な看板に傷が付いては大変だ。しかも国民的英雄ジェラルディーンの直系とあっては、下手に戦死でもされた日には、政・軍双方の上層部で何人が首を吊れば国民が納得してくれるのか、わかったものではない。
「そうは言うけれど、そのおかげで今のあたし達があるのよ、ベルちゃん? 感謝しなくちゃ」
 うふふ、と心の底から嬉しそうな声でアイリスが言う。彼女――アイリスに関してはカーチャはこう呼ぶことに全く抵抗を感じない――の言葉には何か大きな含みがあるように、カーチャには聞こえた。
 考えてみると、何となくわかる気がした。あと、何故こんなろくでもない人間が特務機関という受け皿を用意されてまで今なお軍に居続けているのか、その理由も。
 軍としてはパレードを催してまで歓迎した人物を、多少素行が悪い、あるいは扱い難いからといって放逐することが出来なかったのだ。無理に退役させれば世間から反発も受けよう。だから『特務機関ラーズグリーズ』なるものを設立し、さらについでと言わんばかりに、元々いた問題児達をもかき集めて詰め込んだのだ。これにて、めでたく鼻つまみ集団のできあがり、というわけだ。
 アイリスも、ベルも、そしてサイラも、見るからに曲者揃いだ。きっとラーズグリーズが出来るまでは、どこにも居場所がなく、不遇な扱いを受けてきたに違いない。そんな彼女らにとってラーズグリーズというのは、おそらく軍に入って初めて得た、自らの居場所だったのだろう。
「軍上層が俺をキャンペーンガールに使うだけ使って、後は適当なところに配属させるつもりなのはわかっていたからな。民衆の前で堂々と言ってやれば、仕方なく前線に送ってくれるものだと思っていたんだが……当てが外れたらしい。奴らの保身根性もどうやら筋金入りだったらしくてな。まぁそれはそれで、結果的には都合が良かったが」
 自嘲気味に笑って肩をすくめるイオナの隣で、巌のごとく鎮座していたサイラが無言で頷く。イオナの言葉に同意する部分があったらしい。
 ――どうしてイオナ大佐は、そんなに前線に行きたがってたんでしょう?
 疑問を抱いた時、目の前に相手がいてもすぐに質問せず、自分なりに思考を巡らせてしまうのはカーチャの悪い癖である。それもなまじ頭が良いだけに、ほとんどのことならあっさり答えを見つけることが出来てしまう。
 ――ああ、なるほど。今でも『デル』を名乗っている軍閥貴族の末裔ですからね。戦うことこそが本懐、というわけですね。
 だから、こうして正解らしきものを得てしまうと、結局答え合わせすることもなく自身の内だけで完結させてしまうので、余計に質が悪い。確かにほとんどの事実がその頭脳ではじき出した答えと合致しているのだが、たまにはそうでないこともある。全知全能の存在でないが故、それは当然のことだ。しかし何故か、得てしてそういう時に限って、致命的な落差があることがほとんどだった。イオナの性別に関する時もそうだったではないか。
 この時もそうだった。後に、カーチャはそれを思い知ることになる。

 さて、肝心のパレードであるが、実のところカーチャの記憶からはそのほとんどが蒸発してしまっている。本人にしてみれば、実に恐ろしい話である。
「ええ、そうねぇ。ものすごぉく緊張していたわねぇ」
 アイリスの証言である。どうしてそんなに嬉しそうに言うんですか、とは聞かなかった。
「食べてしまいたくなるぐらい美味しそはっはっはっはっ、いや可愛かったぞ、カーチャ」
 イオナの戯言である。何を言い掛けたのかは敢えて尋ねないことにした。あと『食べる』という意味に関しても興味を示さないようにした。無駄にウィンクとかしないで欲しい。
「噛み噛みだったよねぇ。あんなに笑ったのボク久しぶりだったよアハッ! アハッ! アハハハハハッ!」
 ベルの意地悪である。蒸発をまぬがれた記憶の中には、直立したオットセイがごとく身体を反らせ、こちらを指差して大笑いしているベルの姿があった。
「元気、出してください。少佐」
 サイラの励ましである。無口な彼女が喋ってくれたのは嬉しかったが、同時に、悲しみも深かった。
 ともかく、最低限の役割は果たしていたらしい。僅かに覚えているのは、集まってくれた著名人の中に現首相のシーグル・ゼノがいたことだった。まさかこんな大それた人物まで来ているとは思わなかったので、記憶野に深く刻み込まれていたのだ。
 それ以外のことは思い出したくもない。大型車のステージから集まってくれた人々に手を振ったりしていたのだろうが、どうせ可動関節の少ない人形を無理矢理動かしているような有様だったに違いないのだ。パレードの終盤ではマイクを渡されて何か挨拶をしたらしいが、喋った内容どころかそんな事実があったことすら頭から消し飛んでいた。かてて加えて、一緒にいたイオナ達の証言を鑑みれば、自分は余程の醜態を晒してしまったらしい。ああ、もう駄目だ。記憶をほじくり返しても出てくるのは絶望だけに決まっている。最後に希望など出て来やしないのだ。
 こうして最悪の一日目は激浪のごとく過ぎ去り、二日目の朝が当たり前にやってきた。
 げっそりである。
 恥辱の記憶というものは、心が落ち着いてくればくるほど、思い出した時の刺激がひどい。今のカーチャがまさにそれで、起床してから朝食を採って職場に出てくるまで、何度も昨日のことを反芻しては悶え苦しんでいた。ともすれば大きな声で叫んでしまいたくなるほどだ。
 と、そんな風に暗い気分でいた所、
「あっれー、カーチャじゃん。おっはよー♪」
 昨日と同じく専用車で送ってもらった三階建ての玄関前で、ベルとばったり出くわした。
「あ、おはようござ」
 います、と続けようとした言葉がぴたりと止まった。
 原因はベルの格好である。彼女――しつこいようだが厳密には男であり本来ならば代名詞は彼――が着ているのは昨日と同じく、大掛かりな改造が施されたラーズグリーズ専用の深紅の軍服で、ボトムスがスカートなのも相変わらずだが、問題はそこではない。
 後ろに背負っている精霊駆動式兵器こそが瞠目の理由だった。カーチャは正気を疑う眼差しを向けて、ふるふると震える指先でウィング型の兵器を指し示す。
「ベ、ベルさん……? それは……」
 ちなみに呼称については、階級を見れば下位ではあるが年齢では年上にあたるので、両者のバランスを考慮した結果〝ベルさん〟という無難なものに落ち着いた。というより、ラーズグリーズでは階級で呼ばれているのは機関長であるイオナだけで、それ以外の者は全て、立場に関係ない呼び名で親しんでいるのだ。
「んー? あ、これ? いいでしょー、ブルマンの最新モデルなんだよ」
 ベルの応答は実に嬉しそうで、かつ実に意味不明だった。いや、わかることはわかる。ブルマンというのは軍需企業の一つで、正式名称を〝ブルー・マンイーター〟という。その略称〝ブルマン〟は、主に風や水といった流体系の精霊と相性の良い機種を得意とするメーカーで、空兵や水兵、他には狙撃兵などに愛好家が多い。そして今ベルが自慢げに見せているのが、そのブルマンが誇る個人空戦用飛行機『ディオネ』シリーズの最新モデルであることも、カーチャは知っていた。
「いえ、あの、ど、どうしてそんな物を……?」
「え、見てわかるじゃん。移動用だよ?」
 基本フォルムは『天使の翼』と言えばわかりやすいだろう。細長い剣のようなメタリックブルーのフィンを羽根とした、全長が両翼合わせて三メートルほどの翼である。フィンに込めた風の精霊から浮力を得て空中を飛ぶのだ。さらにこの最新モデルには空気を圧縮させる機構が搭載されているので、より高度で高速で精密な機動が可能となる。
「移動用って――それ一応というか当たり前に戦術兵器ですよねっ!?」
 声を大きくするカーチャに、ベルは笑顔のまま軽く手を振って、
「別にいーじゃん。ほら、ボク達って色々とアレだから基地内の施設に泊まれないでしょ? だから外から通わないといけないんだけど、イオナ大佐やカーチャならともかく、ボクとかは専用車なんか使えないし。だったらもうこれで来た方が早いじゃん?」
「そ、そういう問題ですかっ!? というか、本当にそれで街中飛んできたんですかっ!?」
「うん」
 誤解を恐れず言えば、ディオネで街中を飛んできたというのは、言い換えると、戦車で公道を走ってきたのとほぼ同じ意味を持つ。
 完全無欠に軍規違反である。
「……!」
 驚きのあまり口をぱくぱくと開閉させるカーチャに、あは、と笑ってベルが言う。
「気にしない気にしない。他所はともかくウチはそこのところ自由なんだから。っていうか、そのための〝特務機関〟って肩書きなんだし。カーチャも早く慣れないとしんどいよー?」
 シュラン、と音を立ててディオネの翼がコンパクトに折りたたまれる。ベルはそのまま背を向けて、本部の中へ入っていった。
 ――なんですか、ここ、本気で問題人物の集まりじゃないですか……!
 自分だけはそうはなるまい。そう心に決めたカーチャは、しかしベルの背中にくっついて一緒に職場へ乗り込んでいくのだった。

 アイリスの淹れてくれる茶は美味しい。
 二日目にしてその事に気付けたということは、それだけカーチャの気持ちが落ち着いてきていることの現れでもあろう。
 ――茶葉も一級品ですし、淹れ方も完璧です。さらにもう一工夫あるようですが、どうしているんでしょう?
 軍隊の朝は早い。カーチャが本部に入った時には、既にアイリスとサイラがそれぞれの作業を行っていた。まだ居場所もなければ役割もないカーチャが所在なく談話室で大人しくしていたところ、見かけたアイリスが茶を淹れて持ってきてくれたのである。
「戦闘訓練?」
 聞き慣れない単語に思わずオウム返しをしてしまう。
 特務機関ラーズグリーズの始まりは機関長であるイオナが出勤してきてからと決まっている。よって、それまでは基本的には自由時間となる。カーチャも遅刻しないようにと一時間以上早めに出て来ていたので、こうやって茶飲み話をする時間は充分にあった。
「そうよぉ。あたしたちも一応軍隊だから、たまにあるのよ」
 のほほんとしたアイリスの、一応軍隊だから、という言い方に気力が根こそぎ持って行かれそうになる。ベルといいアイリスといい、この特務機関の人間はあまりにも軍人としての自覚がなさすぎるのではなかろうか。
 しかし、その割には『戦闘訓練』などという真っ当な任務もあるらしい。ブルネットの美女――ただし元男――はふと何かを思い出したらしく、あらあら、という感じで頬に片手を添えて、
「ノルマって言うのかしらね? 一定期間にこれこれこういう事を、これだけやりなさいっていうお達しがあるらしくて。そういえば、カーチャちゃんにはいきなりなお話よね。ごめんなさいね、今日がその日なの。大丈夫かしら?」
 ――なんですかこう、学校の単位みたいな捉え方なんですね、アイリスさんの中では……
「大丈夫……だと思います。私の戦闘用装備は事前にここに搬入されていると聞いていますので。あ、まだ、確認はしていませんが」
「そうなの? それは良かったわ。あ、装備ならサイラちゃんが運んでくれてるわ、きっと」
 サイラおよびベルの姿は談話室にはない。どうやら彼女らはアイリスの言う『戦闘訓練』の準備をしているようだった。
 ――サイラさん、ですか……あの人、無口ですよね。仲良くやっていけるんでしょうか……?
 今頃二階の倉庫で働いているであろう、傍目からはどうあっても筋肉質の男にしか見えない黒色肌の異人を思う。あの見た目でそれでも女性だというのだから驚きだ。そういえばあちらの出身の者は独特の訛り言葉を使うらしいが、少なくともこれまで聞いたサイラの台詞にはそういった訛音は感じられなかった。血筋は地方豪族の末裔でも、生まれと育ちはグラッテンなのかもしれない。
「話は変わるけど、カーチャちゃんはあの有名な天才少女なのよね?」
「ほえっ?」
 油断していた。いきなり自分のことを言われて吃驚してしまい、妙な声が出た。かっ、と首から上が熱くなって赤くなっていくのがわかる。おかしな声を出してしまったのも恥ずかしいが、天才少女などという呼ばれ方はもっと恥ずかしかった。
 何故ならカーチャには、それ以外の部分で負い目があるのだから。
「そ、そんなに大したものではないです。ただちょっと、同年代の子達より勉強ができたってだけの話です」
 俯き、両手の指を搦めてもじもじするカーチャに、
「あらあら、謙遜することないのよ? テレビで見たことあるもの。確か、世界的にも認められているっていう、特別な賞も貰っているのよね?」
 アイリスは優しく喋りかける。その優しさこそが逆にカーチャにとっての重荷なのだが、知る由もあるまい。
「あ、はい。コロンブス賞のことですね。六歳のときにいただきました」
「あたし、詳しいことはわからないのだけど、どういったことでカーチャちゃんは賞状を貰えたのかしら?」
 実を言うとアイリスに限らず、こういった手合いは結構多い。カーチャの事はテレビで見て知っているが、何故カーチャが『天才』と呼ばれているのかを理解している人間は意外と少ないのだ。
 仕方のないことだ、とカーチャも思っている。自分が専門にしているのはそれだけマイナーなものなのだ。これは諦めるべき事柄だ、と割り切っている。
「喪失技術の研究です」
「ロスト・テクノロジー?」
 先程『戦闘訓練?』と聞き返した時のカーチャと全く同じ反応をアイリスはした。それが少し嬉しくて、カーチャは少しだけ詳しく説明することにした。知識を吸収するのは楽しいが、得た知識を誰かに教えるのもまた楽しいことだ。
「アイリスさんは〝電気〟という言葉を聞いたことはありますか?」
「デンキ? ええと、確か……ずっとずっと昔に、精霊の代わりにこの世界から消えてしまったものよね?」
 記憶の井戸の奥底から引き上げてきたようなアイリスの認識に、カーチャは決して嫌みにならないように気をつけながら、首を横に振る。
「いいえ、それは違います。失礼ですが、それはおとぎ話から得られた情報ですよね?」
 アイリスは片手を頬に当ててキョトンとすると、ええ、と頷いた。翡翠のごとき瞳が、どうしてわかったのかしら、と語っている。
 無理もない話だ、とカーチャは判断する。喪失技術については未だ一般的には『大昔の伝説』あるいは『ただの童話』としてでしか知られていない。
 だが、それは大いなる誤解なのだ。
「精霊と引き替えに、この世界から電気をはじめとした旧時代の技術の情報が失われたのは確かですが、それはあくまで『知識』が失われただけであって、技術そのものが消滅したわけではありません」
 カーチャにとってはお気の毒なことだが、この時点で既にアイリスは完全に置いてけぼりを喰らっていた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっている。
「……ええと、アイリスさんは説明書が無くても、コンロに火を点けることができますよね?」
「え? え、ええ。そう、そうね」
 カーチャは別の角度から切り込むことにした。急にわかりやすくなった質問に、アイリスは我に返ったように慌てて頷く。
「電気も同じなんです。今はもうこの世界に電気の説明書はありませんが、電気がなくなったわけじゃありません。コンロの説明書がなくなったからといって、コンロそのものがなくなってしまわないのと同じように」
「ああ、そういうことね」
 アイリスの表情が明るくなる。どうやら理解してくれたらしい。
 とはいえ、アイリスを含めた一般人の認識もあながち間違ってはいないのだ。説明書のない機械を、説明書を読んだことのない人間が、どうして使えると言うのか。この世界が精霊の存在と引き替えに喪失したのは『旧技術の知識』であることは信頼できる文献から得た確固たる事実ではあるが、人類が再びその知識を必要とせず、復活させることがなければ、それは消滅してしまったのとほぼ同義であるのも、また確かなのだ。
「私はその、【説明書の無くなった技術の復活】を研究しているんです」
 昔話を始めよう。否、それは寓話であり、童話であり、おとぎ話でもある。
 それは約三千年前のこととされている。
 かつてこの世界には、今や無くてはならない人類の伴侶である精霊が、存在していなかった。
「喪失技術は、大きく分類すると二つの分野に別れます」
 その代わり、世界には別のものがあった。それは、
「科学と魔法です」
 大昔、人類は精霊の力を借りずに火を扱い、夜を照らし、地を掘り、空を翔たという。今では到底考えられないことだ。
「科学は電気をはじめとする物質によって物理法則を自在に操り、魔法は逆に物質に因らず、時に物理法則すら超えた現象を引き起こしていたといいます」
 おとぎ話では、これら『科学と魔法』は『悪しき力』とされ、ある時、精霊界から訪れた精霊王によって浄化され消滅したと語られている。
 ――でも、それっておかしくありませんか?
 そんな疑念がカーチャの出発点だった。
「私はその中で、主に電気に関係する技術を専門的に勉強、研究していたんです。今は失われてしまった技術の説明書を復活させるために」
「考古学……みたいなものかしら?」
「そうですね。そのようなものだと思ってもらえれば……」
 精霊が人類の前に現れたのとほぼ同時に科学と魔法が消えてしまったのは、絵本だけでなく、歴史の教科書でも語られていることだ。扱いが小さすぎて、多くの者は気にも留めていないが。
「喪失技術が何故、精霊の登場に合わせるようにこの世界から消えてしまったのか。そこに因果関係はあるのか。それを考えるのも研究の一環です」
 カーチャにとっては、むしろそっちが本命である。
 子供向けのおとぎ話に本気になるのは大人げない――実際、その時のカーチャはまだ四歳だったが――ことはわかっているが、カーチャにはどうしても『喪失技術=悪しき力』という公式に納得がいかなかったのだ。父に聞いても、使用人に尋ねても、得心のいく答えは得られなかった。故に、カーチャは勉強を始めた。それが『天才少女』と呼ばれるようになる第一歩だったのである。
 ――それがどうなって、こんなところにまで来てしまったのか、自分でもよくわかりませんけどね……
「それで、その〝デンキ〟っていうのは、どういうものなのかしら?」
 このアイリスの質問は流れからして至極当然のものなのだが、カーチャは答えに窮した。
 説明が難しい。
 これが喪失技術の難点であり、垣根を高くしている要因の一つでもある。その筋の者ならともかく、専門知識もない一般人には喪失技術の何たるかを説明するのは、非常に困難なことなのだ。本格的に説明しようとすれば、『素粒子』や『イオン』といった専門用語が飛び交う上、とんでもなく長く難解なものになってしまう。
 カーチャは指でこめかみを押さえつつ、頭を絞り、
「ええと……雷の精霊によく似た力なのですが、精霊機関ではなくて、ですね? えと、簡単な例を挙げるなら、精霊の力を借りずに照明を点けることができる、とかですかね……?」
「まあ、精霊の力を借りずに? すごいのね」
 笑顔で両手を合わせて驚いてくれるアイリスの態度に、わざとらしさはない。だから、そうでしょうそうでしょう、とカーチャもアイリスと同じく笑顔になって頷く。世界中どこにでもある精霊の力を借りずに生活するなど、考えられない昨今だ。精霊抜きで文明の利器を活用できるという凄さは、やはり一般の人にもわかるぐらい大きな事なのだ。
「――あら? でも……」
 と、不意にアイリスが何かに気付いたように声を上げる。カーチャの胸が、ぎくり、と音を立てた。
「で、でも?」
 急速に膨れあがる嫌な予感を胸の内で抑えつつ聞き返すと、アイリスはまた片手を頬にあて、目線を上空にやりつつ、どこか困ったような声で、
「ええ……でも、いくらなんでも、照明ぐらいならお母さんでも点けられるんじゃないのかしら……?」
「あうっ」
 言われてしまった。
 そうなのだ。その通りなのだ。
 喪失技術の不人気および認知度の低さの理由は、まさにその『あまり意味がない』という一点に収束する。
 お母さん、とアイリスは言った。
 この場合『お母さん』とは、一般的な母親を指すと同時に、別のものを意味している。
 一言で言えば、精霊感応不全者。より詳しく言えば、正常な〝精霊核〟を持たない人間のことを示している。
 〝精霊核〟は精霊と交信し、その力を扱うために必要な器官で、別名を丹田と言う。その名の通り〝精霊核〟は下腹部、臍のさらに下に位置しており、女性の場合、すぐ傍に子宮がある。
 ここが生物学者をして『人間の女性は生まれながらにして生物的欠陥を抱えている』と言わしめる理由だ。
 〝精霊核〟は子宮の傍にあるため、女性が妊娠すると、その影響によって機能を不可逆的に阻害されてしまうのだ。
 原因には諸説あるが、特に支持されているのは以下の二つである。膨張する子宮によって圧迫され、物理的に障碍を得てしまうという説。もう一つは、一時的にとはいえ体内に〝精霊核〟を二つ有してしまうため、精霊の相互干渉から胎児を守るために母体が自らその機能を縮小させてしまうという説。どちらが真実にせよ、妊娠線と同じく〝精霊核〟の機能不全を防ぎ得ないのは厳然たる事実である。
 よって世界中の母親は例外なく、正常な〝精霊核〟を有していない。そのため外燃型精霊機関ならともかく、内燃型精霊機関の道具はほとんど使用できない。扱えるとすれば、制御もへったくれもない、照明やコンロぐらいだ。もちろん照明もコンロも動かすには使用者による精霊の制御が少しは必要だが、基本的には外燃型である。スイッチを入れるだけなら、壊れた〝精霊核〟でも十分可能だ。
 と言うより、ぶっちゃけて言ってしまえば当たり前なのだが、〝精霊核〟が壊れたからと言って日常生活に支障があるわけではない。昔はそうだったが、もはやそんな時代はとっくに終わっている。技術は日進月歩で成長しているのだ。
 妊娠による〝精霊核〟の機能不全は、精霊との完全な断絶を意味するものではない。精密な制御、および高出力が不可能になるだけで、大雑把な扱いであれば問題ないのだ。現在、日常生活に必要な機械は全て、『母親』あるいは『妊娠経験者』でも問題なく扱える仕様になっている。そして、その事を知らない者もたくさんいる。もはや、それほどまでに浸透しているのだ。
 つまり、〝精霊核〟が壊れることによって不可能になるのは、主に内燃型の使用。それも精密な制御が必要であったり、高い出力を要求される場合に限られる。
 例えば、内燃型自動車の運転である、とか。
 例えば、戦争で用いられる戦術兵器の運用である、とか。
 一瞬にしてテンションがガタ落ちになってしまったカーチャの様子に、アイリスが慌てて、
「あ、ご、ごめんなさいね? 私、お母さんじゃないから――というより、なれないのだけれど――実際の所はわからないの……間違っていたかしら?」
 とても無邪気にとどめを刺してきた。間違ってません、という言葉をすぐには言えないカーチャである。アイリスに悪気が無く、天然で言っているであろうことがわかるだけに、非常につらい。
 ついでに言えばグラッテン国軍が、女のワルキュリア軍、男のアインヘルヤル軍に別れているのも〝精霊核〟が理由である。女性兵士が妊娠すること、それは即ち兵士としての能力を失うことを意味する。兵士が減れば、戦力が落ちる。戦力が落ちれば、結果として国力が低下する。そんな事態を防ぐために政府は軍を男女で分け、兵士同士が不用意な『出会い』をしないように定めたのである。
 カーチャはしょんぼりと肩を落として、
「いえ……その、全くその通りです。今日ではお母さん……というより〝精霊核〟に異常がある方であっても使えるように、世の中の機械は安心設計を義務づけられています。正直、基本的には、何をするにも電気や他の喪失技術は必要ありません……というか、魔法に至っては資料もなくてまともな研究もままならない状態ですし……」
「あ、あらあら、あらあら……」
 どうしましょうどうしましょう、と元が男だとはとても思えない様子でふためくアイリスをよそに、カーチャは膝の上で強く拳を握り、でも、と言葉を続ける。
「でも、必要な時があります。例えそれが百万人に一人だとしても、必要としている人はいるんです。それは、絶対にそうなんです」
「カーチャちゃん……」
 憐憫の微粒子まじりの声に、カーチャは、はっ、と我に返る。顔を上げると、ごめんなさいね、と言わんばかりの表情のアイリスが自分を見つめていた。驚き、すぐに両手を振って誤魔化す。
「あ、いえ、あの、その――そ、そう! そうなんです! 思い出しました! 喪失技術の研究がさらに進むとですね、なんと、お母さんや妊娠を経験した方でも扱えるような兵器だって出来るんですよ!?」
 そう言ってから、子供を持つ母親を戦場へ送りだすための技術など愚の骨頂だ、と気付く。カーチャはさらに慌てて、もっと大きく両手を振って、
「あ! や、いや、や! ほ、他にも、火を使わずにお料理を暖めることだって出来るようになりまして、ですね!? そうすれば火災の発生件数だって大幅に下げることが可能なので!? というか、私がコロンブス賞を貰ったのも実はそのマイクロウェーブ発生機というものでしてムギュッ!?」
「偉いわね、カーチャちゃん」
 いきなり抱きしめられた。大きな胸の間に顔を挟まれてしまい、カーチャは声が出せなくなる。
「本当にもう、こんなにも小さいのに……色々な人のことを思って、色々なことを考えているのね。本当に良い子だわぁ」
 そう言うアイリスは良い匂いがする。豊満な胸に顔をうずめながら、カーチャは思う。甘いわけでもなく、爽やかなわけでもないが、とても素敵な香りがした。
 ――つまり親戚の叔母様が使っていると同じ香水ですね。
 ロマンの欠片もない天才児の思考である。
「ほふほ(どうも)……」
 そういえば、とアイリスの胸についてカーチャは思う。この人は【どちら】なのだろう、と。
 性転換には主に二種類の方法がある。一つは外科手術による肉体改造。比較的、短期間かつ安価で性転換が可能だが、肉体にメスを入れたり人工部品を挿入したりするので、副作用がひどく、後のメンテナンスも大変だ。
 もう一つは、性別を司る精霊を直接体内に注入することで遺伝子から肉体変化を及ぼす手法だ。男なら女、女ならば男を司る精霊を、数年もの時間をかけて何度も注入し、体に馴染ませていく。そうすることによって無理なく肉体を異性へ転換させていくのだ。問題は時間がかかりすぎること(個人差もある)と、費用が莫大なこと。なにより、完遂するまでは肉体が『どっちつかず』になることだ。段階によっては、男女の特徴を両方持った怪物になる時期もあるという。当然、その期間は外出も出来ないだろうから相応の苦労がある。しかし同時に、それに見合った結果も得られる。肉体が根本的に完全に異性化するので、妙な副作用もない上、メンテナンスも必要ない。【本物】になれるのだ。
 実際に法律でも、前者は戸籍の変更が認められないが、後者ならば可能だ。
 ――この柔らかさと良い、他の部分といい、多分後者だと思うんですけど……だって色々と完璧すぎますよ? この人……
 余談だが、もちろん性転換が行えるのは成人になってからである。法整備がされていない頃、実際にいたのだ。生まれてきた子供の性別が気に食わないからと、巨額を注ぎ込んで性転換させた親バカならぬバカ親が。それが社会問題となって以降、未成年の性転換は法律によって禁じられたのである。
 そんなことを考えているうちに、アイリスの掻い繰り可愛がりはエスカレートしており、カーチャは完全に等身大のぬいぐるみと化していた。
 早く離して欲しいなぁ、などと思っていると、そこに。
「おお? なにやら楽しそうなことをしているではないか。俺も混ぜろ! 是非混ぜろ! さあ混ぜろ! さあさあさあさあっ!」
 ぞぞぞぞっ、と背筋に悪寒が走る不吉な声が。そして、だだだだっ、という高速で背後に迫る足音。
「ひぃっ!? い、イオナ大佐っ!?」
 本能的に危険を察知したカーチャは逃げようとして、しかしアイリスに抱きかかえられたまま身動きができない。振り向くことすら出来なかった。
「おはよう! 良い朝だな! マイ・エンジェル! がばり!」
「ぎゃ――――――――――ッッ!」
「あらあら、うふふ」
 真後ろからアイリスごと、男のようなしっかりした筋肉を持つ腕で抱きしめられる。声が近い。吐息を感じる距離だ。もちろんイオナが女性であることはもうわかっているが、一度心に刻まれた拒否感はそう簡単に消えるものではない。
 前も後ろも人肌に挟まれた中、ちゅっ、という音を聞いた。胸の谷間から頭上を見上げると、アイリスの頬に唇を寄せているイオナを見てしまった。
 イオナは実に男前な顔と声で、アイリスのブルネットの髪をくるくると弄りながら、
「アイリス、お前は今日も美人だな」
「うふ。ありがとうございますわ、大佐」
「そしてカーチャにも――」
「ちょっ!? わ、私は結構ですよ!? いりませんいりません! おはようございます! 挨拶はこれでいいじゃないですか!」
「そう遠慮するなよ。狙いが逸れると思わず唇を奪いたくなる……」
「意味不明な上に超問題発言ですよ!? というかその妙にかっこいい顔と声やめてください! 男の人みたいじゃないですかぁっ!」
「お? なんだ、カーチャは男嫌いだったのか? それなら好都合ではないか。では早速、その瑞々しいピンクの唇を味合わせてもらおうか」
「どうしてそうなるんですか!? っていうか、どっちにせよそこに持って行く気満々じゃないですかっ!」
「ふふふふ動けまい。ハァハァ」
「ひぃぃ野獣のような吐息がっ!? ひ、ひ、卑怯者ぉーっ! いやいやいやいやぁーっ! 私はファーストキスは好きな人と決めているんですーっ!」
「なんと。幼女のくせに意外と古風で乙女チックだな。若い内は冒険することをお勧めするぞ?」
「私まだ八歳ですからね!? 若いとかいうレベルじゃないんですからね!? 何かよく勘違いされますけど! 賢そうにしててもまだまだ子供なんですからね!? というか本人にこんな事言わせないでくださいよ! お勧めするならベルさんやサイラさんにしてください!」
「カーチャちゃん……それ、遠巻きにあたしがおばさんってことかしら……」
「ああっ!? ち、違いますよアイリスさん!? 今のは言葉の綾ですから! そんなに悲しそうな顔をしないでください!」
「ふむ。ならば、これでどうだろう?」
 つつーっ、とイオナの人差し指がカーチャの背中を伝った。
「――るひゃっ!? な、なにを!?」
「挨拶のキスがダメならせめてスキンシップをだな……ここか? ここがええんのか?」
 こちょこちょこちょこちょ。無抵抗のカーチャの体を、わきわきと生物のごとく動くイオナの両手がくすぐり回す。
「あひゃひゃひゃっ!? や、やめ、くすぐった――きゅうぅぅぅんっ!? ちょ、ちょっとどこ触っ――ひゃわあああっ!?」
「やだ、カーチャちゃん可愛いわぁ」
「ちょっアイリスさん!? アイリスさん!? 手を離して、手を離してぇぇぇぇにゃひゃひゃひゃっっ! お願いですからぁぁぁぁっ!」
「それそれそれそれ、いんぐりもんぐり、いんぐりもんぐり」
「ぃひひひひぃっ!? 誰か誰か助けてくださぃぃあふぁはははははははっ!」
「――あれー? 何か楽しそうな声が聞こえたから来てみたんだけど、本当に楽しそうなことしてるしー」
 ――ッ!? この声は、まさか……っ!?
「おお、ベルか。お前もこっちに来てカーチャで遊ぶ――おっと、『で』ではなかったな。言い直そう。ベル、お前もカーチャ【で】遊ぶか?」
「言い直せてないですよぉぉぉっ!? そして私どう考えても絶体絶命ですかぁぁぁっ!?」
 こちらへ近付いてくるベルが、パキポキペキ、と指を鳴らす。サディスティックな喜悦に満ちた声で、
「うっふっふっふっ。いやぁ、実はちょっとイジメてあげたかったんだよねー物理的に。アインヘルヤルの野郎共をことごとく陥落させてきたボクのテクニックを駆使してさ、ここじゃ階級の上下関係なんて意味ないんだってこと体に叩き込んであげなきゃねぇーえっへっへっへっ」
 悪人の笑い方だった。
「い、嫌ぁ……」
 涙声を上げるが、運命を司る精霊は性格がねじ曲がっていて意地悪なことで有名だ。そうは言っても前方のアイリス、後方のイオナに囲まれて拘束されているカーチャに逃げ場などなく、この場合は運命なんて関係ない。もうとっくに結果は見えているのだから。
 にっしっしっしっ、と悪魔的な笑みと共に、うねうねと蠢く魔の手がカーチャに伸びる。
「――らめぇぇぇぇぇっっっ! ひゃぁああああぁんっっ!」

 結局、それからもカーチャを中心とした乱痴気騒ぎは続き、終息したのは、サイラが諸々の準備を終えて談話室へやってきた時だった。
 完全に玩具にされているカーチャと、その玩具で遊んでいる三人に、じろり、とサングラス越しの視線を向けると、サイラはどう見ても堅気では有り得ない動きで敬礼し、見る者全てが男だと勘違いするほどヤクザで逞しい肉体から、意外なほど若々しい声で、こう言った。
「お疲れ様です」
 誰に向けて言ったのかは定かではない。



[28748] ●4
Name: 仙戯◆97bdbc1a ID:d9a73d31
Date: 2011/07/10 12:14
 

 気がついたら戦場にいた。
 比喩でも誇張でも修辞でもない。
 正真正銘、命の奪い合いの中に、カーチャは立ち尽くしていた。
「…………」
 思考は空。意識は真っ白。何も考えられない虚ろな頭。
 増感された広角視野、その右手側では、精霊式駆動強化外骨格『ブリアレオース』を纏ったサイラが、その巨躯に相応しい漆黒の大刀を猛然と振るい、一人のテロリストの腹をぶった切っていた。
 隙間無く装備を固めているこちら側と違い、テロリスト側は余裕がないのか、ほとんどの者が所持しているのは武器だけで、防具はつけていなかった。
 故に、一刀両断。
 分断された箇所から爆発的に血が飛び散って、男の上半身が臓物を撒き散らしながら玩具のように宙を飛ぶ。
 驚きはもうない。そんな気力は最初の五分で使い切ってしまった。
 視界の端を、まるで素早い羽虫のように銃弾が飛び交っている。こちらへ飛んでくる弾丸はみな、各々が装備している装甲に弾かれて、ただの礫と化す。あちらへ飛んだ弾はテロリスト達の体のあちこちに突き刺さり、紅い花を咲かせて散らす。
 その中でも特に、テロリスト達の目玉や耳、乳首や臍、股間や尻の中心など、やたらとマニアックな箇所を穿つ銃弾は、上空にいるベルの狙撃だ。彼女は背中の鳥翼型飛行機『ディオネ』で空高く舞い、同じくブルマン製の狙撃銃『アラドヴァル』を以て超遠距離射撃を行っているのだ。その射撃のあまりの精密さが、余計にカーチャから今の状況に対する現実感を奪っていく。
 苦痛に喘ぐ悲鳴、あるいは断末魔の叫びを上げて、人間が次々と倒れていく。
 死んでいく。
 あまりにも無慈悲な光景を目の当たりにして、八歳の精神はもはや完全に麻痺していた。
 恐怖の感情ですら凍結してしまっている。
 自分の専用装備、電気起動型兼精霊駆動式装甲服『エリーカ』――体中を覆う、ずんぐりむっくりした見た目の装甲服の中で、我知らず、カーチャは失禁していた。
 動きやすさより装甲の頑丈さを優先した設計なのが幸いした。何もせず棒立ちになっていても、敵の放つ銃弾は装甲に弾かれ、近付いてくる者は頭上のベルや同行しているアインヘルヤル軍の男性兵士達が撃ってくれ、それをも突破して接近してきたテロリストはカーチャの背後を護るアイリスが撃退してくれた。
 アイリスの出で立ちは、カーチャとは真逆だった。肉感的な姿態を露わにする、総身タイツのごとき薄い装甲のシルエット――タイロン社の『バーロン』シリーズ一式に身を包んだアイリスの姿は、どこかスピードスケーターに似ている。両足に装着された機動ブーツ『ツォウロン』は、ローラーとホバーの両方を駆使して使用者に地上での高速機動を約束する。アイリスは周囲の者達に指示を飛ばしつつ、いざという時はその高い機動力を以てカーチャのフォローに入ってくれていた。
 肝心のイオナはというと、その姿はカーチャの視界にはない。彼女は戦端が開かれるとほぼ同時に、ここより更に奥――敵の真っ直中へと飛び込んでいったのだ。
 軍刀一本だけを携えて。
 装甲服もなしに。
 今頃、蜂の巣になって死んでいるかもしれない。
 ――変ですよ。これは、変ですよ……
 という心の声が、一体何に対してのものなのか。もはやカーチャ自身にもわからない。
 そう、確かに変だった。
 まず、今日の予定は『戦闘訓練』だと聞いていた。確かにそのはずだった。
 なのに今、ラーズグリーズの面々どころかアインヘルヤル軍の部隊まで合流して、こんなところでテロリストと冗談抜きの殺し合いをしている。
 ――どうしてこんな事に?
 血風渦巻く最中、原因を探るためにカーチャは記憶を遡った。ゆっくりと確かな手付きで、小一時間前の出来事を手繰り寄せる。

 イオナは男にはめちゃくちゃ厳しい。
 朝。カーチャ達はラーズグリーズ本部を出てすぐ、サイラが必要な物資を積み込んだトラックへと乗り込んだ。
 山と積まれた装備の中に自分の『エリーカ』があるのを確認したカーチャは、これから行われるであろう『戦闘訓練』に小さな胸を膨らませた。小柄な胸骨の内を占めるのは『ちゃんとやれるだろうか』という不安だったが、その中には期待の微粒子もわずかながら混じっていた。未知のものに対して恐怖より興味が先行するのは、カーチャの幼さ故か、それとも天才故か。
 トラックが行き着いた先は、しかしカーチャにとって全く予想外の場所だった。
 首都の北部、アインヘルヤル軍中央基地ヴァルハラ。〝闘神の城〟とも呼び馴らわせられる、その敷地内である。
 ――何故、こんな所に?
 という疑問にはベルが答えてくれた。
「ボク達って特務機関でしょ? それって実はアインヘルヤルにもあるんだよね。まぁ【こっち】にはイオナ大佐みたいな指揮官クラスがいないから、実質うちの支部みたいなもんなんだけど」
 駐車場に降り立つと、そこには男性兵士二十人ほどの集団がカーチャ達を待ち受けていた。
 誰も彼も屈強な肉体をしていて、見るからに厳めしく、暑苦しい感じだった。ワルキュリア軍における正規の軍服の色はコバルトブルーだが、アインヘルヤル軍ではそれがロリエグリーンになる。彼らを指して『ラーズグリーズの支部みたいなもの』とベルは言ったが、カーチャ達と違って着用する制服は特別製ではなく、通常のものであるらしい。
 鮮やかな緑の一団が揃って敬礼をとり、リーダー格の男が野太い声を張り上げた。
「お待ちしておりましたッ! デル・ジェラルディーン大佐殿ッ!」
 それに対するイオナの返答が、これである。
「黙れッ! 俺の許可もなく醜い声で喚くな! 耳が腐る!」
「――へっ?」
 我が耳を疑った。
 一瞬、聞き間違いかと思った。しかし見間違いであるはずもなかった。目の前でアインヘルヤル兵を怒鳴りつけたのは、間違いなくイオナだった。
 猛獣の雄叫びに怯える草食動物のごとく、ものすごい勢いで男性兵士達の身が竦んだ。
 ――あ、あれ? ちょ……イオナ大佐の顔が……!?
 激変していた。
 そこに、鬼がいる。
 そう幻視してしまうほど、凄まじいまでの気迫を全身に纏ったイオナが、そこにはいた。先程までとはまるで別人だった。
 彼女はツカツカと、まるで距離を力ずくで削り取るような歩調で男性陣に近付いていく。冷凍させた剃刀のごとき空気がさらに緊張していくのを、カーチャは肌で感じた。
 野獣にも似た瞳が、つい、と横にそれた。途端、その右拳が走った。
「あっ――!?」
 瞬間、カーチャは思わず声を上げてしまった。
 男性陣の先頭――おそらくは部隊長――のすぐ横にいた兵士がイオナに殴られたのだ。
 パンチ一発で宙を飛ぶ大人――というのは、ひどく衝撃的な光景だった。
「服装に乱れがあるッ! 気がたるんでいる証拠だ! 総員、腕立て五十!」
 殴り飛ばされた男が地面と接吻するのも待たず、イオナは一方的に言い放った。どうやら殴った男の身だしなみに何かしら問題があったらしい。
 日に焼けた浅黒い肌に無骨な顔付き、おそらく二十代後半であろう部隊長が恐怖に嗄れた声で叫ぶ。
「アイ・マム!」
 その一声に他の者達が続く。
『アイ・マム!』
 そして、その場に立っていた男性兵士全員が一斉に腕立て伏せを始めた。逆に、【立っていなかった】一人は倒れ伏したまま、完全に気を失っているようだった。
「…………」
 突然の出来事に、カーチャは開いた口がふさがらない。唖然とするしかなかった。
 ――なんなんですか、アレは……!?
「ビックリしたでしょう? カーチャちゃん」
「え? へっ、あっ!?」
 心配して声をかけてくれたであろうアイリスに、思わずビビって反応してしまうカーチャ。妙なポーズをとってしまっている事に本人は気付いていない。
 アイリスは、にっこり、と笑って、
「実は大佐はね、ああ見えて男の人には厳しいのよ。意外だったでしょう?」
 くすくすと可笑しそうに言う。
「い、いえ、意外というか、何というか……」
 ガチレズだ、とは本人の弁から聞いていたが、まさかここまで露骨なものだとは思わなかった。男性に対する態度が、女性に対するそれと比べて、あまりにも違いすぎる。
 ――というか、死んでませんよね、あの人……?
 もんどりを打って倒れた男性兵士は、先程からピクリとも動かない。その姿だけで、イオナの拳の威力がどれほどのものだったかが、容易に想像できた。
「でもね、カーチャちゃん。あれは男の人が嫌いだから、というわけではないのよ?」
「えっ?」
 それこそ意外だ。カーチャは顔を上げてアイリスを振り返る。
 アイリスはニコニコと実に嬉しそうに、今もなお男性陣に怒鳴り散らすイオナを見つめていた。
 ――……あれ? 何か、おかしいような……そういえばアイリスさん、【さっきも笑ってましたよね?】
「あれはね、大佐の【愛】なのよ」
「あ、愛?」
「そうよ。軍人はいつだって常在戦場。ほんの少しの気の緩みが、すぐに死に直結するの。だからこそ大佐はああやって、あの人達に気合いを注入してあげているのよ」
 確かに正論ではあった。カーチャとて軍隊に入る前に一通りのことは勉強している。その中には無論、軍人としての心構え、というものも含まれていた。それと照らし合わせれば、アイリスの主張は理にかなった、実にもっともなものだった。
 しかし、である。
「愛、ですか……」
 カーチャはげんなりしながら、本部でのイオナの姿を思い起こす。
 カーチャの事を天使などと呼び、無茶苦茶なやり方で愛でようとするイオナ。あれも確かに、愛と呼ぶなら愛なのかもしれない。カーチャにとっては迷惑以外の何物でもないが。
 だがカーチャには、あれと、今目の前で行われているこれとが、全く同じ感情から生まれた行動だとは到底思えなかった。
「そう、あれは優しさの裏返しなの。大佐は、愛に溢れている人なのよ」
 優しさや愛情の裏返しが鉄拳制裁になるとは、前代未聞だ。そう思っても口には出さないカーチャである。
 ――あれはどう考えても、愛というより、単なる男女差別のような気がしますけど……
 胸中で呟く言葉を直に発さないのは、指摘するのが面倒だというのもあるが、それ以上にアイリスの声音から【不穏な何か】を感じ取っていたからでもあった。
 カーチャはそっとアイリスの横顔を伺う。
 いつの間にやらアイリスの表情が、カーチャの知る常のものから、別のそれへと変化していた。
 頬を上気させ、緑の瞳をとろんと蕩けさせ、唇を僅かに綻ばせた顔。
 八歳のカーチャにはまだ理解する由もないが、それは〝恋する女の顔〟であった。
 ただそれが尋常でないことだけは、カーチャにも解った。
 ラーズグリーズに入隊してまだ二日目。それでも何度も衝撃的な経験をしたせいか、早くもカーチャはある種の予兆を感じられるようになっていた。つまり、嫌な予感、というものである。
 その嫌な予感が、したのだ。
 ――まさか……
 次の瞬間、とうとうアイリスが呆けたように、
「ああ、大佐……格好いいわぁ……」
 と、陶酔境にひたった声を唇から漏らした。その呟きに、幼女の本能がゾクゾクと反応する。
 ――へ、変……っ! 変ですよっ!? アイリスさんが何か変ですよーっ!?
 変人集団ラーズグリーズの中にあって唯一その感覚だけはまともだと信じていたアイリスが、完全に壊れていた。正確に言うと、壊れてしまったのはカーチャが抱いていたアイリスのイメージなのであるが。
 この時、カーチャが受けたショックは計り知れない。信じていた人に裏切られるというのはこういうことなのか、と大人顔負けの思考が小さな頭蓋内を巡っている。
「あー、それ、気にしない方がいいよ。アイリスさん、大佐にベタ惚れなんだからさ。たまに発作が出るんだよねー」
 顔を蒼白にしてアイリスの横顔を見上げていると、逆隣からベルの呆れ声がかかった。
 振り向くと、彼な彼女はふてぶてしく腕を組んで、片足に重心をかけて立ち、視線は腕立て伏せをさらに三十回追加された男性陣に向けていて、口元に小悪魔的な微笑を浮かべていた。
「ほっ、発作? いえ、あの、ベタ惚れって……?」
 腕立て伏せを強制されている大人達を見ることの何が楽しいのだろうか。サディズムとマゾヒズムを言葉でしか知らないカーチャが疑問を口にすると、ベルはチラリと一瞥をくれ、
「んー? ああ、まだ聞いてなかったんだ? アイリスさん、元々はイオナ大佐にベタ惚れしたアインヘルヤルの人でさ。イオナ大佐が男を愛さないガチレズだって知って、性転換に踏み切ったんだって。これ、アインヘルヤルでもワルキュリアでも結構有名な話だよ」
 一瞬、ベルが何を言っているのかよく理解できなかった。数秒の間を置いてようやく理解した瞬間、頭をハンマーで殴られたのかと思うほどの衝撃がカーチャを襲った。
「――ええええぇぇぇぇえぇっ!?」
 驚きすぎて堪らず目を剥いて大声で叫んでしまった。
 吃驚仰天。その一言に尽きた。
「そっ、そんな理由でぇッ!?」
 ――だって、そんな、時間もお金もものすごくかかることなのに……!? い、いえ、そういう問題だけじゃなくてですね、生まれ持った性を変更するというのはそんなに軽いものじゃないと思うんですがっ!?
 という、様々な感情や言葉がカーチャの中で渦を巻き、結果、一つの抗議の声となった。
「――はぁあぁあぁあぁあぁっ!?」
 もし目の前に精霊の王、あるいは神と呼ばれる存在がいたとしたら、今のカーチャなら詰め寄って抗議したことだろう。これは一体どういう事だ、と。それほどまでに、カーチャにとって理解不能な原因と結果だった。
 不意に、つい先刻聞いたアイリスの台詞がカーチャの脳裏に蘇る。
『あ、ご、ごめんなさいね? 私、お母さんじゃないから――というより、なれないのだけれど――実際の所はわからないの……間違っていたかしら?』
 母親になれない――その言葉の意味を履き違えていたことに、カーチャは気付いた。てっきりワルキュリア軍の兵士であるが故、〝精霊核〟を失うわけにはいかないから、アイリスは母親になれないと言っているのだと思っていた。だが、それは勘違いだったのだ。
 アイリスは女としてイオナに愛されるため、性転換をした。そして、女同士では子供を産むことは出来ない。少なくとも現在の技術ではその壁を越えることはまだ出来ない。だからアイリスは言ったのだ。自分は母親にはなれない――と。
「――そういう意味だったんですかぁぁぁぁっ!」
 思わず脳内のアイリスに対して、実際に声を出して突っ込んでしまう。
 流石にと言うべきか、ようやくと言うべきか。先程から連続して大声を発しているカーチャにアイリスが気付く。彼女は自分の腰辺りにあるカーチャの顔を微笑で見下ろし、片手を頬に当てて、
「……あら? どうしたのカーチャちゃん? あ、お腹空いたのかしら?」
 カーチャは猿から生まれたエイリアンでも見るような顔でアイリスを見上げた。
 気が付くと、周囲の視線が全てカーチャに集中していた。腕立て伏せをしていたはずの男性陣も、動きを止めてこちらを見つめている。それを監視し叱咤していたイオナも『何事だ?』という顔をして振り返っていた。
 頭上から、ぷっ、と吹き出す声。
「――っあはははははっ! 騒ぎすぎだよカーチャー♪ みんなビックリしてんじゃーんぁはははははっ!」
 腹を抱えて笑ったのは誰あろう、衝撃的事実をしれっとカーチャの耳に注ぎ込んだ張本人である。カーチャのど派手なリアクションと、くるくる変わる百面相が余程おもしろかったのだろう。ベルは身をよじりながら、可笑しくてたまらないという風に呵々大笑していた。
 ほとんど直感でカーチャは気付いた。
 ――こ、この人わざとですね!? 親切に教える振りして実は私を驚かせる絶好のタイミングを狙ってましたね!? ひっ、非道いっ! い、意地悪ですっ! 鬼です悪魔ですっ!
 目尻に涙を浮かべながら哄笑するベルの顔を、カーチャは歯ぎしりしながら彼女とは逆の意味での涙目で睨み付ける。ただ残念なことに、まるで迫力がない。
 と、ベルの笑い声で我に返ったイオナが、静止している男性陣に思い出したように喝を入れる。
「誰が休んでいいと言った貴様らぁ――――――――ッッ!」
 男共は先程に倍する速度で腕立て伏せを再開し、声を重ねる。
『アイ・マムッッ!』
「あと誰が勝手に俺の天使達を見て良いと言ったぁ――――――――ッッ!」
『申し訳ありません!』
 ここでイオナは一旦声を落ち着かせ、いっそ優しげに、
「五十追加だ――と言いたい所だが、この後に任務もあれば、今日は新人の初陣でもあるからな。少しは容赦をしてやろう。半分ぐらいが適当か? ふん、計算が面倒だな。貴様らに聞くが、五十の半分とはいくらだ?」
 最後までその口調は穏やかだった。それ故に、悲しき男共は暗黙の掟に従い、汗にまみれた顔でこう合唱する他なかった。
『一〇〇であります!』
 そんなやりとりを背景に、笑いの波がおさまってきたベルが、それでも口元を楽しそうに綻ばせながら、
「あーあ、ラケルタさんも大変だなぁ」
 と、目尻の涙を拭う。そういえば、とカーチャは思い出す。ベルは現在ラーズグリーズ所属だが、年齢から計算すれば、元々はこのアインヘルヤルにて軍属になったはずだ。
 ――あと、ラケルタさんという名前もどこかで聞いたことがあるような……
「あの、お知り合いがいるんですか?」
「んー? あ、ボク? そりゃそうだよ。ボクだって元はこっちの出身だし、大体あしな――じゃなかった、まぁ、ちょっとした野暮用とかで、あそこの隊長のラケルタさんとはしょっちゅう会うし」
 どうやらラケルタとは、あの浅黒い肌で強面の部隊長のことらしい。そう把握しつつ、『あしな――』とは一体何を言い掛けたのだろう? とカーチャが疑問を抱いていると、ベルがやおら男性陣を右の人差し指でさし、
「それに、ラケルタさん以外の奴とは全員付き合ったことあるしね。あ、そうそう、実はあいつらって全員【穴兄弟】なんだよねー」
「付き合う……え? あな、きょうだい……?」
 カーチャはそれらの単語を知らなかった。幼い少女の知識の泉に沈んでいるものは、その大半が書物から得たものだった。故に本に記載されていない言葉――例えば〝ゴールドフィンガー〟や〝穴兄弟〟など、わかる者にしかわからないもの――は知り得ないのだ。
 よって劇的な反応を示したのは、当の本人達だった。
『な、なんだってぇーっ!?』
 ラケルタを除く男性全員が一斉に驚愕の声をあげた。それはもう、ほとんど悲鳴に近い響きだった。
「馬鹿な! そんな馬鹿な! 嘘だろぉ!?」「お、お前らっ! マジでか!? 本当に!? こ、この変態野郎共がっ!」「いやお前が言うなよ! 同類だろ!?」「ちくしょう! ベルちゃんの愛を受け取ったのは俺だけだと信じていたのに……くっ!」「っていうかお前ら全員俺を騙していたんだな! くそっ! 裏切り者め!」「なにをお前こそ!」
 醜い争いが生まれ、瞬く間に殴り合いへと発展した。
 ――うわぁ……
 何だかよくわからないが、眼前で展開しているものが醜悪であることだけはカーチャにもわかった。わかりすぎるほどにわかった。
 またも隣でベルの笑い声が弾ける。本当に性格の悪い人ですねぇ、と辟易しつつも、カーチャはもう一度質問する。
「あの、ベルさん。【あなきょうだい】ってどういう意味なんですか?」
「んー? あーそっかぁ。知らないんだ。穴兄弟っていうのは――」
 と、楽しそうに説明しようとしたベルの口を、分厚いグローブのような黒い手がそっと塞いだ。
 サイラの掌だった。
「……軍曹、その……それぐらいに……」
「ふぁいふぁふぁん?」
 言葉を止められたベルが目だけでサイラを振り返り、見上げる。カーチャもそれに倣って視線を向けると、漆黒の仮面のごとき大女の顔が、なんとなくだが、ほのかに紅くなっているような気がした。ごついサングラスのせいで表情が読みづらく、確信が持てないのだが。
 しかしカーチャが得てない確信を、ベルは手にしたらしい。彼女は目だけでもわかるほど、にやり、と笑い、口元を覆っていたサイラの掌から唇を離すと、
「またまたぁ、サイラさんってば乙女なんだからぁー」
 にっしっしっしっ、といやらしく笑いながら、肘でサイラの腰辺りをうりうりと小突く。すると、サイラは何も言わずそっぽを向いた。だが、こちらに見えるようになった耳が、どう見ても赤黒い。
 ――もしかして、照れてるんでしょうか……?
 穴兄弟の意味も知らず、そもそも大の男が揃いも揃って血涙を流しながら殴り合う理由もわからないカーチャには、当然サイラの言動が示す所を察することなど出来るわけも無く、キョトンとするしか術がなかった。
「て、テメェらっ! いい加減にしねぇか! 大佐殿の前だぞ! ぶっ殺されてぇのかッ! つうか俺を巻き込むんじゃねぇよこの変態ロリショタ野郎共がぁっ!」
 乱闘を繰り広げている部下達へ、隊長のラケルタが立ち上がって怒鳴りつける。その顔は焦りに満ちていた。それもそうだろう。部下の失態は上司の責任だ。このままではラケルタはまたしても由のない処罰を受けかねない。それにしてもあんなに腕立て伏せをしていたのに元気なんですねぇ、と感心していたカーチャは、ふと気付いた。
 イオナの姿が見えない。
「――?」
 どこに行ったのだろうか。そう思って視線をあっちこっちに彷徨わせると、すぐ隣に立つアイリスの体の向きが変わっていることに気がついた。彼女が見つめる先をカーチャも追う。イオナを照準しているであろうアイリスの瞳は、何故かカーチャ達が乗ってきたトラックへと向けられていた。
 やがてトラックの扉が開き、イオナが姿を現した。とても爽やかな表情で、しかしその左手にはひどく物騒な物が握られていた。
 大口径の拳銃である。
 ご機嫌な様子でトラックから降りてきたイオナは、そのままカーチャ達の方へ近寄ってきて、燦然と輝く笑顔のまま拳銃を差し出し、こう言った。
「カーチャ、あいつらを撃ち殺せ。俺が許す」
「ちょ――!?」
 ――いきなり何言ってるんですかこの人ぉ!?
 愕然とするカーチャに、イオナは有無を言わさず黒光りする鉄の塊を握らせる。背後に回り、カーチャの両手を包み込むようにして自分の手を添え、小さな女の子に自然と完璧な射撃姿勢をとらせる。
「え? は、あれ? あの、ちょ、た、大佐っ!?」
「いいからいいから。気にするな」
 右腕を真っ直ぐ伸ばし銃床代わりに。銃把を握り込んだ右手を包み込むようにして左手を被せ、肘を内側へ絞り込む。イオナの軍靴の爪先がカーチャの踵を押し出し、左足を前へと移動させる。膝を軽く曲げ、肩の力は抜いて、重心は前方に。
 素晴らしいまでのスタンディングポジション・アイソレイトスタンスの出来上がりだった。
 あれよあれよと言う内に自らの体が他人によって動かされ、全く抗えないことにカーチャは恐怖を感じた。そして、自分の手が行おうとしていることに対しても。
 カーチャの耳元で、イオナが明るく爽やかに断言した。
「あれは人間ではない。ただのゴミだ」
 迷いも躊躇いもない、本気の声だった。
「ひぃぃぃぃぃっ!? ちょっちょっちょっ、ちょっと待ってくださいちょっと待ってください――!」
「いいかカーチャ、息を吸ったらちょっとだけ吐いてすぐに止めろ。そして引き金を引くんだ」
 思わず言うとおりにしてしまった。が、流石に引き金までは引けない。明らかに握力が足りないのだ。ほっと安堵したのも束の間。イオナの長い指がトリガーガードの中にするりと忍び込んできた。そのまま引き金にかかったカーチャの指に覆い被さり、力が込められる。
「あッ――!?」
 容赦なく引き金が引き絞られた。

 カキン、という拍子抜けする音だけが響いた。

「……あれ?」
 遅れて銃口から激しい閃光と必殺の威力を秘めた弾丸が飛び出し一人の男性兵士の頭をトマトのようにぶちまけた――なんて事も起こらなかった。
「――あっ……!」
 生じた現象を正しく理解した瞬間、カーチャの顔から血の気が引いた。薄いヴェールを被せたかのように、鮮やかな速度で顔色が蒼白に移り変わる。
 弾切れ、というわけではなかった。軍人が使用することを前提にしている兵器は全て、精霊駆動式だ。この拳銃とて例外ではない。正常な〝精霊核〟を有し、精霊の加護を得る者が引き金を引けば弾が出る。そういうものだ。
 なのに、不発に終わった。それが意味するところは、一つしかない。
 カタカタと体が震え出すのを、カーチャは意思でねじ伏せようとして失敗した。自分の弱さに内心でほぞを噛む。
 ――バカです。こうなることがわかっていたのに、私は……!
「……ふむ。不良品だったか。サイラ、これはどうやら使い物にならんようだぞ。後で整備課に回しておけ」
「――!」
 カーチャは驚き、弾かれたような勢いで顔をイオナに振り向かせた。そんな馬鹿な、嘘だ、気付かなかったわけがない――そんな感情が露骨に顔に出ていた。
 目を見開いて自分を見つめるカーチャに気付いているのか、いないのか。イオナは意に介した様子もなくサイラに拳銃を渡すと「興が醒めたな」と呟き、そのまま男性陣の元へ戻っていった。
 その背中を、呆然と見送る。
 傍らのサイラが本当に拳銃をトラックにしまいに行く気配を感じつつ、カーチャはイオナの背を見つめ続けた。
 気付かなかったはずがない。悟らなかったわけがない。絶対に察したはずだ。なのに何故、誰も何も言わないのか。
 周囲を見回すと、相変わらずアイリスは猛獣のごとく暴れるイオナを陶然と見つめているし、ベルはイオナに殴られて人形のように飛んでいく男性陣を見ては大笑いしている。サイラはトラックに拳銃を置いて戻ってくると、カーチャの隣に立つだけで何も言わない。
 下手なことを言えばやぶ蛇になる可能性もある。そう考えて、カーチャは何も出来なくなった。
 ――最低ですね、私は……今さっき自分から言い出さなかったことを後悔したばかりなのに……
 独り、拳を握りしめ、唇を噛みしめる。どうしても自分から告白する勇気が持てなかった。言い出そうか、いや本当に気付いていないのかもしれない。最後まで知られることがなければ、それはないのと同じだ。黙っていればバレることはない。
 イオナの腰に下げられていた通信端末が呼び出し音を発する。が、カーチャはそれを意識の表層だけで聞き流した。少女は自分の世界に埋没している。
 もう二度と精霊起動式のものに触れなければいい。自分は特例だ。喪失技術の研究者なのだし、それ故の特務機関所属なのだから。大丈夫、問題はないはずだ。
 イオナが暴れるのを止め、通信端末を手に取りながら総員に集合を命じる。カーチャ以外の全員がその命令に従った。
「――カーチャ? どうした、集合だぞ? 早くこちらへ来い」
 俯いて微動だにしないカーチャに、イオナがそう声をかける。しかしその声もカーチャの耳には入っていなかった。
 でもそれは卑怯なことではなかろうか。バレなければいい、知らんぷりをすればいい、そんな考えで本当に良いのだろうか。それは自分を含め周りをも不幸にしてしまう考え方ではないだろうか。
 通信端末で何者かと会話したイオナは、それが終わると彫像と化したカーチャを見つめ、吐息を一つ。
 言うべきだ。今言うのは一時の恥で、言わないのはきっと一生の恥だ。
 他の者にその場での待機を命じ、イオナがカーチャに歩み寄る。そんなことにすら気付かず逡巡に没頭するカーチャの前で、イオナは膝をつき、少女の顔を下から覗き込んだ。
 けれど、何と言えばいい。どう切り出せばいい。言うべき瞬間はもう過ぎ去ってしまった。次の機会を待つべきだろうか。いや、それはいけない。いけないからこそ自分から告げるべきなのだ。では、どうやって?
 イオナはしばしカーチャの様子を観察し、それでも自分の存在が全く感知されないのを確認すると、やおら抱え込むように両手を少女の頭にかけた。その感触にさえ、カーチャはとうとう気付かなかった。
 考え得る中で最も正攻法なのは、訓練が終わった後に皆を集めて話を聞いて貰うことだろう。皆さんに大事な話があります、聞いてください。よし、これだ。これさえ言えれば後は流れで唇に柔らかいものが押し当てられる。それは柔らかい上に温かかった。吐息の感触。人肌の手触り。目の前に、さらりと柔らかい綺麗な銀髪。嗅ぎ覚えのある香り。
 イオナがカーチャにキスをしていた。
「――ッッッ!? !? !?」
 ようやくカーチャは現実の状態に気付いた。
 思考の海に潜行していた意識が急速に浮上し、かつてない混乱に陥った。何故、なにがどうなって、こんな事をされているのか。
 ぬるり、とそんな状況把握を遮断するように生温い舌が、
「んんん――――――――ッッッ!?」
 さらに白黒になったカーチャは、それでも不器用な悲鳴をあげた。元より体は硬直して動かなかったが、例え自由が利いたところでイオナの腕がカーチャの頭を完全にホールドしていたため逃げることは不可能だったろう。
 すっくとイオナが立ち上がった。両腕は器用に動き、右腕はカーチャの頭をがっちり固定し、左腕は小さな体を抱きかかえる形となる。短く細いカーチャの足はあっさり大地から離れ、余計に身動き出来なくなったところをさらに責め立てられる。
「んーっ!? んんーっ!? んんんんーッッ!?」
 イオナは執拗だった。もはや上下左右すら定かではないほど錯乱しているカーチャにもそれだけはわかった。
 絵に描いたような、熱いベーゼ。周囲から『おおーっ!』と沸く声。
 手でイオナの肩を叩いたり、足をバタバタさせたり、そんな抵抗ができたのも最初の五秒ほどだけだった。やがて行き場のない両手両足をピンと伸ばし、痙攣するかのように震わせ――段々と諦めの気持ちと思考の停止がカーチャを蚕食していき、四肢からは力が抜け、最後には短時間ではあるが意識を手放してしまった。
 結論から言えばイオナの蹂躙は三十秒程度で終わった。
 まるで精気を根こそぎ吸い取るかのごとき熱烈な接吻が終わり、きゅぽん、と音を立てて互いの唇が離れた。
 酸欠で頭が朦朧とする中、カーチャはこんな言葉を聞いた。
「ふふ……ご馳走さまだな、マイ・エンジェル。覚えておけ、俺の前で隙を見せるとこうなるぞ」
 艶々した顔でカーチャの耳元に囁く、低音混じりのイオナの美声だった。
「……へ……ほぇぇ……?」
 残念なことに、脳内が混濁しすぎてほとんど意味を理解できなかった。表情筋をだらしなく緩め、青紫色の顔でカーチャは目をパチパチさせる。
 ここで一度、意識が途切れた。

 次に我に返った時には、トラックの中で再び振動に揺られていた。
「……はれ……?」
 放心状態からキョトンとする。薄暗いトラックの荷台の中、壁際に背をつけて座っている自分を発見する。何気なく視線を泳がせると、隣にイオナが座っていた。
 寝ぼけ眼だった魂に火が点いた。
「っぎゃ――!?」
「まて、作戦行動中だ」
 悲鳴をあげようとしたカーチャの口をすかさずイオナの手が塞いだ。片手の人差し指を唇の前に立て、静かに、とジェスチャーする。
 だがそんなもので治まるほどカーチャの不満は小さくなかった。眉を逆立て、そのまま思いの丈をまくし立てる。
「ふむもっ! ふもももふむうふふふっ! ほふっ!」
「わかったわかった。ところでマイ・エンジェル? さっきから唇が絶妙に俺の掌をくすぐって気持ちいいんだが……あぁいいぞ、もっとやれぇっ……」
 体をくねらせ妙な声を出すイオナにカーチャは愕然とする。
「ふぶっ!?」
 ――この人はまだそんな事を……!
 許せない。乙女の純潔は決して安くないのだ。それをどうにかして思い知らせてやらねば気が済まない。そう思ったカーチャだったが、やにわに眼差しを真剣なものへ変えたイオナにたちまち怯えてしまう。これまで向けられたことのない視線だった。胸の真ん中を強く打たれたように、思わず体を竦めてしまった。
「落ち着いたか? では、お前にはまだ説明してなかったことを手短に言うぞ。支援部隊のイーヴァから該当地域の囲い込みが完了したとの報告が入った。これから俺達はテロリストの制圧に入る。以上が連絡事項だ。何か質問はあるか?」
 ――ちょっと待ってくださいってば……!
 あるに決まっていた。次から次へと一体何だというのだ。自分をこんな状況に放り込んだ不可視の存在に憤慨しながら、カーチャは首を縦に振った。すると、イオナが口元を塞いでいた手を離してくれる。カーチャは二度、深呼吸をして息を整えてから質問を口にした。
「……まず……テ、テロリストの制圧ってなんなんですか? 今日は戦闘訓練のはずじゃ……?」
「そうだが?」
 イオナはカーチャの疑問を無造作に一刀両断した。
「……はい?」
「その戦闘訓練が、今言ったテロリストの制圧任務だ。なんだ、アイリスやベルから何も聞いてなかったのか?」
「き、聞いてませんけど!? 何ですかそれは!?」
 意味がわからない。何故ただの戦闘訓練がテロリストの制圧任務になるのだ。アイリスだって言っていたはずだ。これは定期的に行われるものだ、と。
 カーチャの噛み付くような詰問に、イオナは、ふむ、と顎を摘む。
「詳しく説明すると長くなるのだが……面倒だな。まぁ今はそういうものだと理解すればいい。どうだ?」
「ちょっ……!? む、無茶苦茶言ってますよ!? 納得できません!」
「では、そうだな……カーチャ、試みに問うが、俺達ラーズグリーズは軍の中でどういう位置づけになると思う?」
 流石にここまでくるとカーチャにも手持ちの遠慮が足りなくなってくる。
「鼻つまみ者の集団、ですか?」
 率直に言うと、何故かイオナが、ふっ、と嬉しそうに笑った。
「間違ってはないな。では軍や政府の上層部の立場になって考えてみろ。鼻つまみ者達には何をさせたい? 前線には出さず、のんびりと戦闘訓練だけさせて、のほほんと給料泥棒させる――そんなことを許したいと思うか?」
「思わないと思います」
 きっぱりと言った。イオナの笑みがより深くなる。
「ならばよし。賢いお前のことだ。後は言わなくともわかるだろう?」
 カーチャは考える。詰まる所、ラーズグリーズは雑用係で、使い捨てで、どうなったところで関係ない存在なのだろうか、と。例えば、正規軍は戦争のための戦力として残しておかねばならない。だから国内の問題には原則的に出動しない。警察機構によって対応するのが通常だ。なのに、ラーズグリーズを主としたこの部隊は、その国内の問題のために動くという。
 つまりはそういうことか、とカーチャは理解した。前線には出せないが、さりとて何もさせないわけにもいかない、実に扱い難い集団。ならば警察の真似事でもさせればいい。上の人間はきっとそう考えたのだ。
「……なんとなく、ですが」
 あくまで想像で得た答えのため自信満々で肯定することは出来なかったが、それでもイオナは満足げに頷き、
「それで充分だ。さあ、ぐずぐずしている内に現場に着くぞ。奥でサイラとアイリスも準備をしている。お前も装備をととのえておけ。特に厳重にな」
 最後の一言をウィンク付きで告げたイオナに背中を押され、トラックの奥へ向かったカーチャは、しかし、この期に及んでまだ自らの置かれた状況を正しく認識出来ていなかった。
 心のどこかで思っていたのだ。どうせ〝戦闘訓練〟と称されているのだ、テロリストの制圧と言っても大したものではないだろう――と。
 何人もカーチャを責めることなど出来はすまい。少女がそう錯覚するほどイオナの口調は軽かったのだし、また周囲の人々の態度も大げさではなかった。何も知らない八歳に全てを正しく察しろと言う方が無茶だったのだ。
 それからまもなくして、カーチャは現実の重みというものを思い知ることになった。




[28748] ●5
Name: 仙戯◆97bdbc1a ID:d9a73d31
Date: 2011/07/10 19:06
 

 時折、小さな昆虫のようなものが視界をよぎる。
 銃弾ではない。ビー玉ほどの大きさの軍用カメラだ。風と光の精霊の力を封入してあり、撮影した映像を無線で記録器本体に送る機能を持つ。正式名称は〝エアリアル・アイ・レンズ〟というが、長ったらしいので関係者は単純に〝エア・アイ〟あるいは〝エア・レンズ〟などと呼んでいる。中にはそれすら煩わしいようで〝虫〟、または〝目ン玉〟などという身も蓋もない呼び方をする者もいる。敵国のスペルズからは〝パパラッチ〟という実にありがたい蔑称までいただいていた。
 形状はまさに〝羽虫〟と呼ぶのが正しく、レンズを内蔵した小柄な本体の両横に、空中を浮遊・滑空するためのウィングが備え付けられている。
 グラッテン軍において、戦闘の記録は重要なものであると考えられている。故に全ての戦闘行動はこの〝エア・レンズ〟を用いて詳細に記録されるのが決まりだ。無論これは記録用だけではなく、戦場においては斥候・偵察にも活用される。また自動で動くものではなく、内燃型精霊機でもあるので、専任の兵士がいて、一切の管理を行っている。今この時も例外ではなく、後方に控えている支援部隊の誰かが操作するいくつもの〝エア・レンズ〟が、市街戦を展開するカーチャ達を観察するように撮影していた。
 直前にイオナから説明された作戦の内容は、至極簡潔なものだった。まず、カーチャはまだ対面していないが、ラケルタ率いるアインヘルヤル兵とは別にいる支援部隊――以降、イーヴァ隊と呼称する――が、テロリストのアジトがある地域を封鎖し、近隣住民を遠ざける。イーヴァ隊はそのまま封鎖区域の周辺を警戒し、外からは内に入れず、内からは外に出られない包囲網を展開する。続いてラーズグリーズ隊とラケルタ隊との混成部隊が正面からアジトに殴り込みをかける。
 きょうび子供同士の遊びでも、もう少しマシな作戦を立てるのではないだろうか。そう思いつつも、周囲の大人達がやけに自信満々かつ余裕綽々の振る舞いを見せていたので、カーチャもつい深く考えることなく戦闘に臨んでしまった。
 確かにイオナを長とする混成部隊には、テロリストの軍勢を正面から粉砕するだけの準備も実力もあった。そのことには何の問題もない。しかし。
 敵を一網打尽にする。言葉にすればこんなにも短い事象が、実際にはどれほど凄惨なものなのか。幼いカーチャには想像すらできていなかった。
 知識の上では知っていた。戦闘とはつまり殺し合いであり、それが発生したならば必ず誰かが死ぬ。それはちゃんと理解していた。けれど。人が死ぬ――それはどうやって? それはどんな形で? それはどのような光景なのか? 全く知らなかったし、考えたこともなかった。
 だから衝撃だった。〝死ぬ〟と言うことは〝命を失う〟ということであり、絶命とは痛みや苦しみの延長線上、その終端にあるものだったのだ。血が飛び、肉が千切れ、骨が砕け、断末魔の叫びがあがる。人間は糸の切れた操り人形のように、簡単にも綺麗にも死ねない。時には醜くのたうち回り、時には汚いものをぶちまけて死んでいくのだ。
 それが〝殺す〟と言うこと。〝命を奪う〟と言うこと。
 そんな当たり前な世界の真実を理解した時、カーチャは声なく戦慄した。
 少女は今、恐怖の蛇に絡め取られ石と化してしまった体で、戦場に立っていた。戦闘が始まった途端、あまりの衝撃に本能がここに至るまでの記憶を放り投げてしまったのを、理性がようやく引き戻した所である。
 ――そういえば結局、肝心なことを告白することも出来てなければ、ファーストキスを奪われた文句さえ言えてませんでした……
 現実から一歩引いた思考でそんなことを思う。感覚が鈍っているせいか、言葉ほど悔やむ気持ちもなかった。
 もはやカーチャには〝戦闘に参加している〟という認識すら失せていた。幼すぎる少女はまるで人間大の〝エア・レンズ〟になってしまったかのように、目の前で起こることをただただ観察していた。
 精神的ではなく物理的にそのような余裕があるのには、もちろん理由がある。
 銀色を基調とした装甲服『エリーカ』は、一言で言えば海底探査服に似ている。ずんぐりむっくりとした見た目だが、その姿から得られるイメージ通り防御力は非常に高い。このため余程の攻撃でもなければカーチャには傷一つ与えることはできない。その安心感が、今はカーチャの崩壊寸前の心を支えてもいた。
 余談だが、装甲が厚い分『エリーカ』は動きが鈍重になってしまうのが弱点である。しかしそれは豊富な火力で補うという設計になっていた。今は全く意味を成していないが、両手には連射式の散弾銃を握っているし、全身には至る所に武器が仕込まれている。また装甲服の駆動系および武装は全て外燃型精霊機関だ。実を言うと『エリーカ』のでかい図体の原因は主にそこにある。外燃型は内燃型と比べて、どうしてもサイズが大きくなってしまうものなのだ。また『エリーカ』には通常の兵器とは一風変わった点があった。カーチャの十八番、喪失技術である〝電気〟が起動部分に用いられているのだ。このおかげで『エリーカ』は、正常な〝精霊核〟を持たない母親などの精霊感応不全者でも使用できる、世界で唯一の精霊駆動式兵器になっていた。
 とはいえ、そのせっかくの発明も、今はカーチャの漏らした小水によって汚れてしまっているのだが。
「――ったくよぉ! こんな子供を連れてきて何考えてんだ大佐殿はよぉ!」
 カーチャの左側面に敵が現れたのだろう。サイラほどではないがよく鍛えられた肉体を持つ男がカーチャの傍に回り込み、テロリストがいるであろう方向に銃弾をばらまく。
 誰よりも勇猛果敢にカーチャを守護してくれているのは、ラケルタ隊の隊長だった。ラケルタ・オイゲンという名を持つこの准尉は、イオナから直々に『初陣のカーチャを死守せよ』との命令を受けている。カーチャが髪の毛一本ほどの傷でも負ったものならば、彼の肉体はこの大地から消滅してしまうこと想像に難くない。そんなストレスも相まってか、イオナが傍にいないことを良いことに遠慮無く不満をぶちまけながら戦うラケルタだった。
 そんなラケルタが身に纏っているのは他のアインヘルヤル兵と同じく、歩兵の標準装備である強化全身鎧兵装である。軍服と同じくロリエグリーンを基本色としたそれは、頭のてっぺんから足の爪先までを完全に防護し、なおかつ精霊の加護で装着者の筋力や体力を強化し、感覚器を増感させ、神経伝達速度を上昇させる。現在、アインヘルヤル軍で制式採用されているのは〝ALFA〟というメーカーのものだったはず――とカーチャは記憶の抽斗からそのあたりの情報を手に取った。
 ワルキュリア、アインヘルヤルの両軍に所属する兵士の武装は原則として、本人が手ずから用意する物であると決まっている。制限もほとんど存在しない。一定の予算を与えられ、その枠内で自ら装備を試着し、検分し、工夫し、思考して装備を整えることを軍は推奨している。さらに、予算が足りなければ自腹を切って良いことにもなっている。戦場に出れば装備の優劣が即、生死に繋がるのだ。妥協できない者が出てくるのも当然の話だった。よって、本来ならば〝標準装備〟という単語は存在し得ないはずなのだが、悲しいかな、人は群れる生き物である。様々なメーカーが多くの武器防具を販売している中、兵士達は各々がこれと見込んだものに手を出し、使い込んでいく。すると性能や使い心地、なにより予算との兼ね合いで、やがて兵士達の間で【最適解】とでもいうべき認識が生まれてくるのだ。歩兵ならあそこのメーカーの何々が良い、狙撃銃ならあのメーカーが一番安心感がある――といった風に。結果、軍から下りる予算内におさまる値段で性能の良いものが、自然と兵士達の〝標準装備〟として【制式採用】されるのだ。
 逆に、そういった凡百と交わらず、己が道を邁進する者達も少なからずいる。ラーズグリーズの面々がそうだった。
 例えば、カーチャ達のいる位置から右斜め前方三十メートルほどで戦っているサイラなんかは、その中でも特に希有な部類だろう。
 精霊式駆動強化外骨格『ブリアレオース』――それがあの怪物の正式名称である。ラケルタ達の装着している全身鎧は、例えるなら〝衣服〟になる。しかし『ブリアレオース』は、例えるなら〝乗物〟だった。あの外骨格はそれほどまでに規格外の存在なのだ。
 言うなれば【歩く戦車】である。
 ただでさえ二メートル近いサイラの身長が、さらに四割ほど増している。小さなカーチャにとってはまさに山のような存在感だった。マットブラックの装甲に、関節に動力を届けるための赤いラインが体の線に沿って這っている。
 完全武装した漆黒の巨人。そう聞けば理解も早いだろう。あれはもはや鎧ですらなかった。装着者ですら部品の一つに過ぎない。装着者の生命を核として動く、別種の生物のようでもあった。
 あの『ブリアレオース』が業界では有名な機体であることをカーチャは知っていた。あれを開発した〝ジノース・フェイズ〟の社訓は『角を矯めて牛を殺す』に違いないと人々は口を揃えて言うが、カーチャもその意見に同感だった。
 確かにその性能は凄まじい。特に膂力において『ブリアレオース』に勝る兵器は皆無だろう。装甲は厚く積層型で、装着者のステータス増幅倍率も最高級で、大きな体に見合った高出力の精霊機関が搭載されているため、ブースターとスラスターを駆使すれば巨体に似合わぬ高速機動戦闘をも可能とする。すぐにでも全軍で標準装備するべき、実に素晴らしい強化外骨格だった。
 勿論、その機動の負荷に中の人間が耐えられるのなら、という言葉が頭につくが。
 発揮する能力が高いだけに、『ブリアレオース』が装着者に求める条件は多く、そして過酷だ。強大な破壊力を生み出すかわりに、その反動もまた強烈だった。常識的な人生を送ってきた人間がどれほど体を鍛えようとも、火事場の馬鹿力でも発揮しなければ、まず『ブリアレオース』を動かすことすらままならない。カタログスペックによれば素の装着状態で『ブリアレオース』が装着者に求める筋力値は二百キロに近く、戦闘になればそれ以上の負荷がかかるという。
 本末転倒もいいところだった。強力すぎて装備できない兵器などお笑い種にもならない。畢竟、この破天荒な逸品は試作機が作られたのみで実際に市場には流通しなかったという。だがサイラは一体どのような経緯でか、その怪物を所有し、さらには使いこなしていた。どうやら、およそ女性には見えないあの肉体には、カーチャには想像もできない程の怪力が秘められていたらしい。
 彼女が手にしている、これまた漆黒の大刀は〝ジノース・フェイズ〟の提携企業〝ライジングサン〟が専用装備として開発した『玄天上帝』である。『ブリアレオース』の巨体に見劣りしない鴻大な太刀だった。水の精霊の加護を用い、斬れ味の上昇と劣化の防止処理を施してあると聞く。
 今まさにその『玄天上帝』がテロリストの一人を真っ二つに切り裂いた。振り下ろされた大上段の一撃はそのまま大地を切断し、刀身の根元までを埋没させた。遅れて、二つに分かたれた男の体が勢いよく中身を撒き散らしながらそれぞれ左右に吹き飛ぶ。一見ド派手で無駄な力の使いすぎのようにも見えたが、実際にはその光景は、味方であるカーチャからしても心胆寒からしむるものだった。敵であるテロリスト達が受けた心理的脅威はそれ以上だったろう。目に見えて敵の動きが怯んだ。
 その隙を見逃すことなく、上空から銃弾の雨が降ってきた。サイラの威容にたじろいだ者達が次々と再起不能の海に突き落とされていく。魔弾の射手は間違えようもない。ベルだ。
 戦端が開かれる直前に見た彼女の姿は、普段の陶器人形のような可憐さとは一時的に縁を切っているようだった。間違いなく味方の中で一番の軽装だったが、それは目的と性能を極端に絞り込み、先鋭化させていたからだろう。彼女は狙撃手ではあるが、その勇姿は研ぎ澄ませたナイフのようにシャープなものだった。
 ブルー・マンイーター製の鳥翼型飛行機『ディオネ』と、槍と見紛うばかりの長大な狙撃銃『アラドヴァル』。その他の装備も全てブルマン系列のブランドで統一されていた。スカイブルーを基調とした衝撃吸収ボディスーツに、動きを妨げない軽くて薄い蒼の装甲板。頭には風防と照準機付きのヘッドセット。両腕と両肩には射撃補助機能と空中機動の助けとなる補助翼がついたものを身につけ、両足には最高速度を爆発的に向上させる馬鹿でかい推進ユニット。
 飛ぶ、撃つ。それだけをとことん突き詰めた兵装。その出で立ちはまさに蒼い凶鳥と言って良い。深いラピスブルーの瞳と黄金のカーリーヘアを持つ彼女が武装した姿に、カーチャは空を司る戦女神を幻視した。
 そして、これで男でなければ、と心底思った。
 このようにこちら側が隙のない武装をしているのに対して、テロリスト側はいっそ哀れに思えるほど貧弱な装備だった。余程軍資金が足りないのだろう。中には装甲服を纏っている者もいたが、大半が防具もなく武器は自動小銃一挺という体だった。
 戦況は一方的。戦術に明るくないカーチャから見ても、こちらは特に損害なく勝利を得られるだろうと予想できた。
「イオナ大佐が敵の本丸に乗り込んだわ。サイラちゃんとベルちゃんは引き続き露払いをお願いね。ラケルタ隊の皆さんはこのまま橋頭堡の確保をお願いします」
 カーチャの背後を護るアイリスが、それでも状況を楽観視していない硬い声で、状況報告と指示とを通信機で飛ばす。階級から言えば特務曹長のアイリスより特務少尉であるサイラの方が上位で、本来ならばそちらが指揮をとるのが常識である。だが、見ての通りサイラは完全に突撃兵だ。適性から言えば指揮はアイリスの方が優れている、とイオナが判断したのである。ベルも言っていた。ラーズグリーズにおいて階級の上下関係なんてものに意味はない、と。むしろこの自由奔放さこそが、特務機関ラーズグリーズの真骨頂なのかもしれなかった。
 長であるイオナから現場の指揮権限を委任されているアイリスの武装は、サイラやベルに負けず劣らず異種なものだった。
 老舗メーカー〝タイロン〟が誇る全身鎧『バーロン』シリーズは軽装歩兵に良く好まれている。だが、アイリスの身に纏うそれは大掛かりなカスタマイズが施され、ほとんど別物と化していた。それもそのはず。本来『バーロン』は男性専用のブランドなのだ。それを無理矢理、女性用に改造してあるのだから、面影程度にしか原型が残っていないのも致し方ない。
 おそらくは男性時代から愛用していたものを改造したのだろう、とカーチャは推測する。
 上品な紫紺をメインカラーとする『バーロン』シリーズはその名の通り八つのパーツから成る。幾度ものバージョンアップを重ねてきたその形状は、例え改造品であっても流麗にして優雅。装着者の扱う精霊の力の強弱によって展開する基礎システムが、既に美しいほどの完成度に達しているのだ。
 グラマラスなボディラインを強調するかのような薄い装甲。このシリーズの特徴は軽量化と性能の両立を極限にまで突き詰めた所にある。各パーツに埋め込まれた特殊な精霊機関は、普段は邪魔にならぬよう圧縮されている。が、ひとたび装着者を守護している精霊の力が加われば、内部に押し込められていたフレームが展開し、その本領を発揮する。例えば、つい先程アイリスがカーチャを護るために使用した両足の『ツォウロン』なら、精霊の力を流し込むことによってブーツのような基本形状から前後二つの車輪が飛び出し、両側面のフレームが展開してホバークラフト機能を発露させる。このように必要に応じて機能を展開する多層構造によって、徹底的な軽量化をはかっているのだ。
 無論、特性上この装備を使いこなすためには人並み以上に優れた〝精霊核〟が必要になってくる。アイリスの場合、元々から優秀な軍人であったのだろうが、さらに肉体の性が変化するほどの精霊の力に触れたことで、その適性はこれ以上ないものになっているに違いなかった。
 さて、残る一人、ラーズグリーズの機関長であるイオナは一体どのような格好をしていただろうか? その疑問に対する記憶に触れた時、つい先刻確かにその目で見たはずなのに、カーチャは自らの頭脳が正常に働いているのかどうかを疑ってしまった。
 裸一貫、と言っても過言ではない身なりだった。特務機関ラーズグリーズに所属していることを表す深紅の軍服。それと、前時代的な一振りの軍刀だけを手に持っていた。
 自殺志願者か。殺してくれと言っているようなものではないか。そう言わざるを得ないほど、イオナは無防備だった。
 だというのに、たった一人で敵の中に飛び込んで行ってしまった。
 実を言うと、カーチャ自身にはこれっぽっちも自覚はないのだが、アイリス達は好きでこの場所にいるわけではなかった。戦場は大通りから外れた裏道で、テロリストの潜伏先は老朽化して放置されていた、以前は公民館として使用されていた建物だった。
 現在、カーチャを含めた部隊のほとんどは元公民館から二百メートルほど離れた公道の真ん中にいる。先程アイリスは「橋頭堡」と言ったが、そこは特にこれといった障害物もなく、身を隠すに適していると言い難かった。敵を迎え撃つにしてももう少し場所がありそうなものだが、それでも彼女たちはそこに留まっている。
 何故なら、【そこでカーチャが立ち止まってしまったからだ】。
 生まれて初めて人が殺される場面を目の当たりにして、その恐怖で萎縮してしまった頭では気付けないのも無理はない。イオナを始め大人達もそうなるだろうとは予測していた。故に普段とは違う戦法を用いることは最初から織り込まれていたのだ。
 本来ならここに留まることなく、隊列を前進させ、戦力において遙かに劣るテロリストを蹂躙しつつ、敵将を追い込み、討つのが常道である。だが今回はそうはいかない。そのため、長であるイオナが決定した非常識な戦術が次のこれである。
 イオナ単身による電撃戦。
 勿論カーチャは作戦内容を知らなかった。知っていれば反対したであろうし、それが叶わぬなら出撃を拒否していただろう。しかし同様に、カーチャはもう一つのことを知らなかったのだ。
 何故〝ジェラルディーン〟という名が伝説として語られているのか――その理由を。
 果たして、その伝説は今、カーチャの前に現れる。
 突然の爆発音。地響きと共にくぐもった轟音が耳を劈く。
 誰も彼もが爆心地に振り向く。味方は安堵の息を漏らし、敵は絶望の気配を滲ませた。元公民館の出入り口から、もうもうと煙が空へ昇っていた。
「……制圧完了ね。シャワーが楽しみだわぁ」
 そう呟くアイリスの声。カーチャの思考。察するに爆発は敵の中枢で起きた。誰が起こした? イオナは爆弾など持っていなかった。となると、テロリスト側の誰かが自爆でもしたのだろうか。しかしそれなら、イオナも巻き込まれてただでは済まないのでは――
 そこまで考えた時、『エリーカ』によって増感されたカーチャの目が、爆煙の中、こちらへ向かって歩いてくる人影を捉えた。
 まず目にしたのは、銀色の煌めき。オーロラのように揺らめき、たゆたう光。外縁部はまるで虹のごとく七色に変化しては流れる。あれは精霊の輝きだ、とカーチャは気付いた。極端に強い精霊の力が一点に集中したとき、あのような可視光を放つことがある。自然現象の一つだ。その光が、有り得ないことに、人影の周囲を踊るように飾っていた。
 やがて極光の発生源が煙の圏外に脱し、カーチャの視界に飛び込んできた。
 ――イオナ、大佐……?
 無傷だった。衣服にも煤汚れ一つ無い。爆発による影響など微塵もない姿だった。鞘に収めた軍刀を肩に背負い、いつもの不敵な表情でこちらに歩いてくる。
 アノイ・デル・ジェラルディーンとは〝世界で最も精霊に愛された男〟として世界中に驚歎をもたらした英雄の名前である。彼は誰よりも精霊に愛され、守護されていた。生まれてから死ぬまでの間、一度も傷つくことなく、病気にかかることも無かったという。成長して軍人になった彼は、スペルズとの戦争が勃発した初期において、比類ない武勲を立てた。戦いに臨む時はいつも、精霊の加護の証たる煌びやかな輝きがその身を包んでいたという――
 ただのおとぎ話だ。そう思っていた。英雄ジェラルディーンの逸話なんて絵本でしか見たことがなかったし、過剰に誇張されているだけで、現実に精霊が可視できるほど人間に集中することなど有り得ないと信じていた。自分だけが特別なわけではないだろう。きっと誰もが、そう思っていたはずだ。
 あれを見るまでは。
 おとぎ話は、伝説は、真実だったのだ。
 生き残ったテロリストの大多数がもはや戦意を喪失し、茫然自失の体でいたが、中には諦めの悪い者もいた。そいつはこの期に及んでもなお戦いを続行せんと、銃口をイオナに向けた。引き金が引かれ、銃声がこだまする。
 大気を貫いて飛んだ無数の銃弾はしかし、揺らめく銀の光帯に触れた瞬間そのままの勢いであらぬ方向へ逸れていった。まるで空間の表層をすべっていくかのように。
 ん? という風にイオナが銃撃があった方向を見やる。彼女はそこに不屈の戦士を見つけ、やや不快そうに眉をしかめた。言うまでもないが、発砲したテロリストは男であった。
 イオナは右肩に乗せていた軍刀を下げ、左手を鞘に添える。無造作にすらりと抜き放つ。
 英雄ジェラディーンにはこのような逸話もある。曰く――ジェラルディーンは武器を持てなかった。どんな武器を使用しても彼の元には精霊が集まりすぎてしまい、過剰すぎる力がそれを壊してしまう。だから、精霊達は彼のために一振りの剣を鍛え、与えたという。それがかの有名な聖剣『ディオスカール』である――
 異様な刀身だった。黒と白が入り交じった木目状の模様が、全体をびっしりと埋め尽くしている。まるで混沌をそのまま刃の形に固めたかのような、ひどく面妖な剣だった。
 イオナを包む極光が軍刀にまで伝播した。刹那、閃光が爆ぜる。
 次の瞬間、眩しさに顔を顰めたカーチャの視界から、イオナの姿が消えていた。
 低い呻き声。気がつくと、イオナは彼女自身を銃撃した男の喉を軍刀で貫いていた。信じられなかった。距離は少なくとも十メートル以上は離れていたはずだった。それを一瞬で、しかも生身で詰めたというのか。
 一瞬遅れて、男の体がびくんと跳ねた。途端、体内に何を注ぎ込まれたのか、全身の毛穴という毛穴から血が勢いよく噴き出した。どう見ても即死だった。力を失った体がそのまま崩れ落ちる。返り血ですらイオナを防護する光輝に阻まれ、その身に届くことはなかった。
 命の灯火を無理矢理かき消したことに何の感慨もないのか、イオナは面倒そうに男の喉から軍刀を引き抜くと、刀身を濡らす血を払い、声を張り上げた。
「サイラ! アイリス! ベル! ついでにラケルタ隊! 何をしている! 殲滅しろ! 一人も生きて帰すな!」
 中性的な声音はこの時、清冽なほど凜と響いた。普段は陽光のごとく金色に輝く瞳は、今ばかりはドライアイスのように冷たく、乾ききっていた。
 その命令に皆が声を揃えて応答する。
『アイ・マム!』
 掃討戦が開始された。アイリスとラケルタは変わらずカーチャの傍にいてくれたが、それ以外の全員がとうとう逃げ惑い始めたテロリスト達を追撃するべく駆け出していった。〝エア・レンズ〟も映像を残すために方々へ散っていく。

 残酷で凄惨な戦いは、大した時間もかからずに終了した。既に包囲網は完成していたのだ。テロリストは誰一人として逃げること叶わず、生き延びることは出来なかった。
 作戦をつつがなく完了させた後、イオナは通信機で新たに指示を出していた。
「――ああそうだ。後片付けはジンハルト部隊に任せておけ。俺達がこれ以上働くのは超過勤務だからな。お前もよくやってくれたな、イーヴァ。今度ご褒美をやろう。ふふふ期待しておけ。勿論アイリスには見つからないようにしなければいかんが……ああ、そうだな。ではまた」
 通信を切ると、イオナはその場に立ち尽くすカーチャに視線を向けた。道に転がる死体を避けながら歩み寄り、すぐ傍まで来ると優しげな微笑みを浮かべ、
「ご苦労だったな、カーチャ。大変だったろう。だが初陣とはそういうものだ。これも訓練の一つだからな。次からはお前も最善を尽くせるよう頑張ってみるといい。……カーチャ?」
 返答はなかった。数拍の間を置いてその事に気付いたイオナは、カーチャの背後にいたアイリスと顔を見合わせた。次いで、腰を屈めて『エリーカ』の風防越しにカーチャの顔を覗き込み、
「――器用な奴だな」
 と言った。それから、カーチャの頭越しから『?』と疑問符付きの表情を向けてくるアイリスに、イオナは状況説明として的確な一言を放った。
「こいつ、立ったまま気絶しているぞ」
 カーチャは今度こそ白目を剥いていたという。




[28748] ●6
Name: 仙戯◆97bdbc1a ID:d9a73d31
Date: 2011/07/11 09:12
 

 流石に三日ほど出勤拒否になった。
 カーチャの心が負った傷は深かった。
 あの後、目が醒めてからも、ずっと介抱してくれていたアイリスにしがみついて離れることが出来なかったし、そのアイリスがどうしても席を外さなければいけない時は相手がイオナだろうがベルだろうがサイラだろうが関係なく抱き付いて離れなかった。着替えの時も、シャワーの時も。トイレの時でも外で手を繋いでもらっていた。体はひどい風邪をひいた時のようにずっと震え続けていた。
 屋敷に帰ってからも傍付きメイドのハンナにずっと手を繋いでもらっていたし、最初の晩なんかは久々に父親のレオニードに添い寝して貰ったぐらいだった。
 カーチャ自身にも何が何だかよくわからないが、自分が生きていることそのものがとんでもなく危ういことのような気がして、一人でいるのが心細くてたまらなかったのだ。誰かに掴まっていないと、いきなり足元に穴が開いて死の淵に落ちていくかもしれない――そんな不安。自分が生きていたのは、こんなにも簡単に人が死んでいく世界だった。もしかすると自分は今までずっと、薄氷の上で何も知らずにはしゃいでいただけではないのか。ふとした瞬間に、なんだかよくわからない理由で自分はあっけなく死んでしまうんじゃないのか――
 つまりは極端な被害妄想に陥ってしまったのである。
 とはいえ、幼い心は脆く傷つきやすい反面、柔軟でもある。幼い魂は肉体と等しく、いつまでも同じ場所に止まっていられないのだろう。
 三日も経てば流石に落ち着いてきて、本能にやられっぱなしだった理性もそろそろ反撃を開始する頃合いだ。
 なんだかんだ言って、自分は生きている。そう、冷静に考えよう。思い返せば、彼我の戦力差は圧倒的だった。だからこそイオナも問題ないと判断して、自分を戦場に連れて行ったのだ。つまり、最初から自分の安全は考慮されていた。それはきっと、これからもそうに違いない。
 軍隊なのだ。戦争もしているのだ。人が死ぬのは当たり前ではないか。何を甘えたことを言っているのだ。情けない。これのどこが天才少女だというのだ。これではただのヘタレではないか。
 この際、カーチャの思考からは『自分の年齢から考慮されるべき甘さ』という成分は除外されている。これは客観的な話ではなく、主観的な問題なのだ。矜持に関する自問自答なのだ。
 ダメだ。これではダメだ。このまま屋敷に引き籠もっていたら自分はダメになってしまう。それはいけない。許せない。そんな自分を許してはいけない。
 四日目の早朝、ベッドで半身を起こして思索にふけっていたカーチャは、不意に顔を真っ直ぐ前に向けた。琥珀色の瞳には迸るほどの決意が滾っていた。
 そうだ。自分にはやるべき事がある。皆に言わなければいけない事もある。逃げていてはダメだ。何も解決しないし、進まない。
 有り体に言うと、無意識の部分で屋敷に籠もっていること自体に飽きがきているだけなのだが、そのような自身に都合の悪い事情は自動的に排除されるよう出来ているのが子供の思考というものである。カーチャは賢くとも、まだまだ子供であった。
 幸い、今日のカーチャは早起きだった。というより三日目の晩にしてようやく眠れぬ夜が終わり、昨晩は心底ぐっすり眠れたのである。
 ――よし、行きますか! 皆さんにお礼も言わなければなりませんし!
 カーチャはベッドの上に跳ね起きた。両手の拳を握り、脇を締め、柔らかい頬をぷっくり膨らませ、
「ふんす!」
 と気合いを入れる。そのままベッドから飛び降りると、急いで支度に取りかかった。
 カーチャは他の上流階級の娘とは違い、自分のことは自分でする少女だった。勿論、可能な範囲で、の話である。半分は常人より発達した知性がそうさせているのであろうが、もう半分はカーチャ自身の性格でもあった。昔から、何でも自分でやってみなければ気が済まない質なのである。あるいは、そういった志向こそが今の彼女を作り上げたのかもしれない。
 世間における旧帝国貴族の令嬢の場合、八歳ならまだ服の着替えまで使用人にしてもらっている年頃だ。カーチャは知識としてそのことを知ってはいたが、自身がそれに倣おうとは思わなかった。そういうのは格好悪いと思うのだ。
 それは母親がいないからではないのか――他人からそう言われたのなら、きっとカーチャは全身全霊でもって反発したであろう。違います、そんなことはありません、乳母のミリーナさんもいるし、メイドの皆さんもいるし、お父様だって優しいから、私はお母様がいなくたって平気です――と。
 そうは言っても無関係でないはずがなかった。本人は頑なに自覚するまいとしているが、母親の不在が幼い少女の精神の地平に、不毛の凍土を形成させているのは紛れもない事実なのだから。
 カーチャの母親はもう亡い。カーチャが物心つく前に病気でこの世を去った。以来、父は再婚することもなく、使用人の手を借りながらではあるが、男手でカーチャを育てている。
 カーチャの頭の中には母親に関する想い出がない。顔は写真で見て知っているが、そこに写っている栗色の髪と琥珀の瞳を持つ淑女が、自分の母親である実感はまるでなかった。結婚当初から母の年齢は父の半分以下で、まだ若かったという。実の娘であるカーチャから見ても容姿端麗な母が何を思って、昔の写真の中ですら白髪の父と結婚したのか、全く想像がつかなかった。
「それは勿論、旦那様が奥様を愛し、奥様も旦那様を愛しておられたからですとも」
 とは乳母のミリーナの言である。だが若い女と老人が結婚するというのは、幼い子供でもおかしいと思えることだった。元より余命が少なく、結婚を急いだのかもしれない――そんな可能性を考え、質問したこともあった。するとミリーナは驚いた顔で、
「お嬢様。お産というのはとっても大変なものなんですよ。病気の体ではとてもとても……。ですからね、お嬢様、そんなことは有り得ません。絶対に。わかりましたね?」
 全部が全部そうであるとは限らないが、少なくともカーチャはミリーナの言葉から嘘の匂いを嗅ぎ取った。口には出さなかったが、カーチャはこう考えた。きっと母は体が悪いのに自分を産んだのだ。そして、そのせいで天国に行ってしまったのだ。なら自分は、その母の分まで立派に生きなければいけない――
 幼心にそう決意したことを、しかし今のカーチャはもう覚えていない。それでも、その時の決意の〝核〟は、今もカーチャの中に根を張って生き続けている。
 顔を洗って歯を磨き、髪を梳いて寝癖を直し、ラーズグリーズの軍服に着替えた。部屋を出て食堂に行くと、先客がいた。
「おはよう、カーチャ。気分はどうだい?」
 父のレオニードが、新聞を読みながら食後のコーヒーを飲んでいた。カーチャは小走りに父の元へ寄って、爪先立ちになって頬に挨拶のキスをする。
「おはようございます、お父様。今日はとても良い気分です」
 笑顔で言うと、父もまた相好を崩して、そうかそうかと頷いた。
「……今日は行くのかい?」
 カーチャの纏っている軍服を見ての言葉だ。カーチャは、はい、と頷き、
「いつまでも落ち込んではいられませんから」
「そうか……うむ。流石は私と母さんの娘だな。……でもたまには、この間みたいに添い寝をねだってくれてもいいんだぞ?」
 にやりと笑いながらの一言に、カーチャの顔がわずか赤く染まった。
「も、もうっ……お父様のばかっ」
 恥ずかしさのあまり、ぽかぽかと軽く父の肩を叩くカーチャ。それでも嬉しそうに笑う父はもう無視することにして、カーチャは壁際に控えていた傍付きメイドのハンナに顔を向ける。黒髪のメイドは礼儀正しく一礼し、
「おはようございます、お嬢様。朝食になさいますか?」
「おはようございます、ハンナ。すぐに出ますから、軽く簡単なものをお願いします」
 カーチャは相手が使用人であろうと居丈高な態度はとらない。かつて母がそうしていた、とミリーナから聞いたからだ。ハンナに挨拶を返すと、カーチャはいつもの席に着いた。
 すぐに運ばれてきたパンと卵とサラダ、そして香茶を行儀良く、かつ素早く胃に流し込む。
 カーチャが朝食を片付ける頃、ちょうど父もコーヒーを飲み干したのか、背後にいたメイドに声をかけた。
「エルザ、今日は何か予定はあったかな?」
 この屋敷でメイド長を勤めるエルザは、二十年前なら道行く若者達が口笛を吹いたであろう面貌にかけた眼鏡を、くいっ、と持ち上げてこう答えた。
「本日はオイゲン様との約束が御座います、旦那様」
 かつてこの国の首相をも務めていた父は、政界を引退してから、どうやら暇を持て余しているようだった。いわゆる隠居生活というやつで、たまに来る客人が数少ない楽しみの一つとなっているらしい。そうかと応える父の声が、少し嬉しそうだな、とカーチャは感じた。
 ――……はて? オイゲンってどこかで聞いたような……?
 そう思った時、ふと壁際の時計が目に入った。まだ余裕はあったが、カーチャはいつも一時間は早く目的地に到着することを旨としている。その意味ではギリギリだ。
「――それではお父様、カーチャは行ってまいります」
「ああ、行っておいで。気をつけるんだよ。ジェラルディーン大佐にはよろしく伝えてくれ」
「はい」
 新聞を畳みながら眼を細める父に恭しくお辞儀すると、カーチャは食堂を出た足で洗面所に向かい、歯を磨いてから屋敷を後にした。
 玄関を出てすぐの場所に外燃型の車が用意してあった。ハンナの手配である。エルザには及ばないが彼女もヴォルクリング家のメイドとして長い。実に良い手際だった。後部座席の扉を開けてくれた運転手に礼を言って、カーチャは車に乗り込む。
 ヴォルクリングの屋敷からグラズヘイムまでは車で三十分ほどの距離である。その間、カーチャは車内で頭を悩ませることになった。
 ラーズグリーズに行くと決めたはいいが、いざ行くとなると、どうすればいいのかわからなくなったのである。
 ――そ、そういえば、色々と精神的にアップアップだったのですっかり忘れてましたけど、自分すごいことやったりやられたりしてました……!
 今更のように頭を抱えるカーチャ。四日前のことが脳裏にまざまざと蘇る。今ではあの時の戦闘で、自分がどれほど愚鈍で、どれほど皆の足を引っ張っていたのかもよくわかっていた。その件に関しては勿論、首が引っこ抜けるほど頭を下げなければ、と思っている。だが、それ以上の問題がある。人として、否、乙女として避けては通れぬ問題だ。
 イオナにディープキスされた。
「ひぁああああ……!」
 思い出しただけで悲鳴が出た。真っ赤になった顔を両手で覆って、両足が意味もなくジタバタと暴れる。何だかよくわからない感情の奔流で体が爆発してしまいそうだった。
「――お嬢様、具合がお悪いので?」
 バックミラー越しにカーチャの不審な行動に気付いたのだろう。初老の運転手が心配そうな声をかけてくる。三日間も引き籠もっていた子供が、今また背後で妙な動きをしているのだ。心配するのも無理はなかった。カーチャは慌てて首を横に振り、
「い、いえっ大丈夫ですっ何でもありませんっ平気ですっ」
「そうですか……しかし、ご気分が優れないようでしたら、すぐに言ってくださいまし。急いで戻りますので」
「は、はい……」
 返事しつつ、カーチャは胸の動悸が静まらないことに動揺していた。顔の火照りもおさまらない。熱病の発作のようであった。そしてその発作は、どうもイオナの中性的な顔を思い出す都度にひどくなっていくようなのだ。
 ――そ、そんなにイオナ大佐に会うのが怖いんでしょうか、私は……
 両手を胸に当て、体を精一杯縮めて、言うことを聞かない心臓を必死に押さえ込みながら、カーチャは思う。これは異常だ、と自分でもわかる。顔を思い浮かべただけでこんなに胸が苦しいだなんて。
 それは幼いカーチャにはまだ理解できない感情だったのだろう。具体的に言えば、視床下部が発した巨大すぎる信号を扁桃体がどうにかこうにか色付けに成功したが、肝心の前頭葉が経験不足すぎて肝心な処理に失敗してしまったのである。
 気付くはずもなかった。四日前、アイリスがイオナを見ていた時と同じような表情が、自分の顔にも張り付いていることになど。
 とくん、とくん、とようやっとおさまってきた胸の高鳴りに安堵しつつ、カーチャは考える。
 ――どんな顔をして会えばいいんでしょうか……
 会わせる顔がない、とはまさにこの事だ。イオナの前に出た時、怒ればいいのか、泣けばいいのか、さっぱりわからない。いっそポーカーフェイスで全てなかったことにすればいいのか。いや、それが出来れば一番だが、イオナと目を合わした時のことを考えると、とても平静でいられる自信がなかった。
 時間は無情である。結局カーチャは答えが出せないまま、車を降りることになった。
 グラズヘイムはもちろんのこと、軍用施設に一般車両は入れない。大地に足を下ろしたカーチャは運転手に礼を言って帰らせると、十二柱の戦女神が自分を見下ろす門へと歩いて行った。余談だが、この戦女神達はかつて神々の戦争において、天使の身でありながら誰よりも主神を助けた功績を称えられ、戦いを司る女神の位に昇華したという。自分にもその勇気と力を分けて欲しい、とカーチャは切実に願った。
 門番は笑顔で遇してくれた。どうやらすっかりカーチャの存在は好意を伴って受け入れられたようである。また佐官の専用車の運転手も態度が柔和になっていた。本物の少佐のような扱いで、カーチャをラーズグリーズ本部前まで届けてくれた。
 急な対応の変化にカーチャは戸惑いが隠せない。一般兵士の彼女たちに一体何があったのだろうか、と頭を捻る。実は、四日前にカーチャが戦闘中に失禁した件がイオナとベルの吹聴によってワルキュリア軍全体の知る所になっていたことを知るのは、後日のことである。
 ともあれ、カーチャはラーズグリーズのすぐ前まで来てしまった。当然ここに至るまでの間も脳みそをこねくり回し続けたが、良い結論は出せず仕舞いだった。
 立ち尽くす。
 いかにも世界の果てに放置されて忘れ去られたかのような三階建ての建物を前にして、カーチャは足を進めることが出来ずに凝然としていた。
 こんなところでこうしていても仕方がないし、行かなければいけないこともわかっている。だが、勇気ある第一歩がどうしても踏み出せなかった。そこに、
「少佐」
 背後から声がかかった。
「――っひゃっ!?」
 弾かれたように振り返ったカーチャは、そこに山男を見た。
 違う。よく見たらそれはサイラだった。
 相変わらず真っ黒な髪と肌に、よく似合うごつめのサングラスをかけ、逆に全く似合わないラーズグリーズの深紅の軍服を纏っている。スカートの裾からのぞく筋肉質な足は熊ですら一撃で蹴り殺せそうだった。
「さ、サイラさん……? あ、あっ、お、おはようございますっ!」
 大きい、男の人だ、いや違う、スカートをはいている、女の人だ、あっ、これはサイラさんだ――という順番でようやく相手を認識したカーチャは慌てて姿勢を正し、敬礼をとって朝の挨拶をした。
「おはようございます」
 びしっと音が聞こえてきそうなほど見事な答礼をするサイラは男前だった。というより、サイラの性別に関してはカーチャは今でも半信半疑である。なにせ縮れた揉み上げがそのまま鼻の穴の中にまで繋がっているのだ。言っては何だが、どう見ても〝女の顔〟ではなかった。
 声だけは若い女性の物だと認識できるサイラが、
「どうしたのですか? こんな所で」
 その声音にはカーチャを気遣う色があった。だがカーチャはそれには気付かず、質問の内容にただ慌てた。
「あ、えっと、その、あの、ですね、何というか……その……あの……えっと……ですね……何というか……」
 自分でも何を表現したいのかよくわからない身振り手振り付きでカーチャは何か良い言い訳をしようとしたが、結局何も思い付かなかった。しどろもどろに動いていた手足はやがて失速し、カーチャの視線はサイラから外れて足元に向かった。
 俯き、終いには沈黙してしまったカーチャに、
「……少佐、こちらへどうぞ」
 とサイラが言った。
「……え?」
 カーチャが顔を上げると、既にサイラは大きな背を向けて歩き出していた。足の向かう先はラーズグリーズ本部――ではなく、その右側のようだった。サイラの背中が有無を言わせない空気を発していたので、カーチャは少し迷った後、追いかけることにした。
 サイラは本部の右側面を通り、そのまま建物の裏へと回った。歩幅が違いすぎるためカーチャは小走りになって、壁の向こうに姿を消したサイラを追いかけた。
「……わぁ……!」
 そしてラーズグリーズ本部の裏庭に出たカーチャは、視界一杯に飛び込んできた光景に思わず声を漏らした。
 そこは、一面の花畑だった。色取り取りの花々が所狭しと咲き誇り、陽の光を浴びて輝いていた。殺風景な中に突然現れたこの世の楽園に、カーチャの瞳も光を帯びて煌めいた。
「綺麗……!」
 まさか軍の敷地内に、しかもラーズグリーズの裏庭にこんな美しいものがあるとは夢にも思わなかった。流石に屋敷の庭園と比べれば見劣りするが、それでも周囲の環境を思えば、充分に立派な花畑だった。
 水の音が聞こえたのでそちらに目を向けると、サイラが建物の傍に備え付けてある水道の近くでしゃがんでいた。どうやら如雨露に水を注いでいるようなのだが、体の大きいサイラと普通の如雨露とではいかにも比率がおかしい。本来なら掌全体で掴むはずの取っ手を、まるでそれがカップか何かのように二本の指で引っかけていた。はっきり言って、似合わなかった。思わずカーチャは小さく吹き出してしまう。
「……喜んで貰えて、嬉しいです」
「え?」
 サングラス越しなのでよくわからなかったが、どうやらサイラはカーチャの事をずっと観察していたらしい。笑った途端にそう言われて、カーチャはキョトンとする。一拍遅れて、言葉の意味に気付いた。
 ――サイラさん、もしかして、私を元気づけようと……?
 見ると彼女の口元には確かに笑みがあった。本当にカーチャの笑顔を見て喜んでくれているようだった。
 そう理解した瞬間、カーチャの体は微かに震えだした。掌で口元を押さえる。それは、魂の奥底からわき起こる感情だった。
 ――か、感激ですっ……! なんだか生まれて初めて人の優しさに触れたような気分ですよ……!?
 冗談抜きでちょっと涙が出たカーチャだった。
 如雨露で花に水をやり始めたサイラに、カーチャはゆっくりと歩み寄る。
 見た目だけでは、この花畑にサイラは不釣り合いな存在だった。正直に言うと、今の今までカーチャの心には、この大きな女性に対して怯えている部分さえあった。
 それが、今は完全に氷解していた。今なら、この女性ほど花畑が似合う人はいないと断言できる。カーチャは、サイラの心に、直接触れたような気がしていた。
 きっと不器用な人なのだ。カーチャはそう思った。大きくて、筋肉質で、男の人にしか見えなくて、口数は少ない。けど、それは全て表面だけのこと。その内側には、こんなにも綺麗なお花畑をつくる繊細さと、花の美しさを愛でる優しさとが、ふんだんに詰まっているのだ。
 カーチャはサイラの横に立ち、シャワーを浴びる花たちを眺めた。陽光が煌めいて、小さな虹が見えた。
「……ここはサイラさんがお世話をしているんですか?」
 その質問はカーチャの中から、驚くほどするりと出て来た。自分でも意外なほど、簡単に声が出たのだ。
「はい」
 サイラの返事は短い。だがそれを不安に思うことはなかった。今日まではサイラの寡黙さには、どことなく何を考えているかわからない不気味な雰囲気を感じていたのだが、そのカラクリはもう解けた。カーチャは自然と笑顔を浮かべて、言葉を継ぐことが出来た。
「お花、お好きなんですか?」
「はい。好きです」
「そうですか。私もお花は好きです」
「はい。良かったです」
「お花を見ていると、心が落ち着きますもんね」
「はい。死者への手向けにもなります」
 カーチャの笑顔が凍り付いた。
「…………」
 サイラがテロリストを斬り殺すシーンを思い出して一気に萎えた。カーチャの中で色々な物が台無しになった瞬間だった。
 カーチャの急激な表情の変化に気付いたのだろう。サイラが声を改めて、
「……すみません。自分は、苦手で」
「……苦手?」
 妙な言い方だな、と思ってカーチャは聞き返した。サイラは花に水をやりつつ、ゆっくり横に歩きながら、何かに迷うような沈黙を数秒。
「……言葉が、苦手です。正確には、公用語、なのですが」
 片言な喋り方でそう言った。言われてみれば、とカーチャは思い出す。これまでサイラの口から聞いていたのは、考えてみればそのほとんどが片言な口調だったように思える。そういえば初めてサイラと会った時、その外見の特徴から、カーチャは彼女が地方豪族の末裔なのではと推測したのだ。
 公用語が苦手、とサイラは言った。つまり、
「……公用語でなければ、苦手ではないんですか?」
 サイラは、こくり、と頷く。カーチャの見間違いでなければ、サイラの耳あたりが若干赤いような気がするので、照れているのかもしれない。ちょっと可愛い、と年下ながらに思う。
 ――つまり、訛っている言葉を聞かれるのが恥ずかしいんでしょうか……?
 そう推察したカーチャだったが、そんなことより地方の方言を生で聞けるかもしれない、という興味のほうが先に立ってしまった。
「あの……ちょっと喋って貰ってもいいですか? サイラさんのふるさとのお言葉」
 如雨露の水が尽きた。だが、サイラはそのまま動かず、沈黙したままだった。顔を見上げると、先程より赤味が増しているようだった。
「……あの……そんなに、恥ずかしいんですか?」
 サイラは、こくり、と頷く。
 地方出身者が都会に上がってきた時、その方言をバカにされて無口になってしまうことがままある――という話はカーチャも聞いたことがある。
 けれど、それはおかしい、とカーチャは思う。言葉の違いはつまり、文化の違いでもある。国内の異文化をバカにするのは、他国の文化をコケにするのと何も違わない。一区切りされた国家の中ですら地域によって文化の違いが生じる。それはとても素晴らしいことだと、学者肌のカーチャは思うのだ。だからバカにするなどとんでもないし、それを恥ずかしがる必要なんて全くないと考える。むしろ個人的には興味深い事柄なのだ。
 だがサイラの様子を見る限りでは、余程の劣等感を抱いてしまっているようだった。それでもカーチャは、自分の思う所を拙くても良いから伝えようとした。
「あの、サイラさん、私じつは地方の言葉にも興味がありまして! ほ、ほら、これでも一応学者ですから! なのでサイラさんのふるさとの言葉にも興味がありまして、なによりですね、私サイラさんのことをもっと知りたいなぁって思いまして! だ、大丈夫ですよ! 気にしなくて全然大丈夫です! ほら、自分が気にしていることが他の人は意外と気にしてなかった、なんてことは結構多いですから! だから恥ずかしがらないでください! 私は絶対に笑ったりしませんから! ね? ね? だから勇気を出して――」
 不意にぴたりとカーチャの口が止まった。
 自分の言葉が、そのまま自分の胸に突き刺さったのだ。
 ――勇気を出して、ですって? はっ、どの口が言っているんですか、この馬鹿は。
 いきなりカーチャの中にいる冷酷なカーチャが、今まで適当に思うがままを口にしていた愚かなカーチャを、冷たく見下ろして嘲笑った。
「……?」
 一時停止ボタンでも押されたかのように突然硬直してしまったカーチャに、サイラが首を傾げる。
 冷酷なカーチャが、考え足らずのカーチャに遠慮のない侮蔑の視線と言葉とを浴びせる。
 ――勇気を出して言ってください? はん。よりにもよって、エカチェリーナ・ファン・ヴォルクリング? 貴方がそれを言うんですか? この――勇気の一欠片もない、臆病者の負け犬がッ! 本当に勇気を出して言わなければならないことがあるのは、貴方の方じゃないんですかッ!?
 自己の内なる声に打ちのめされ、カーチャは両の拳を強く握りしめた。歯を食いしばり、サイラの顔を見るために上げていた視線を地面に向け、俯く。
 絞り出した言葉は、謝罪だった。
「……すみません。私、馬鹿です。サイラさんに偉そうなこと言える資格なんてありませんでした……本当にごめんなさい」
 下を向くと、サイラが精魂込めて世話しているであろう花々が視界に入る。花は雨に打たれても俯かないのに、それに比べて自分はなんと情けないのだろうか。カーチャは唇を噛みしめる。
 せめて、見習おう。自分は小さくて、臆病者で、負け犬だけど、少しでもこの花たちのように空に向かってまっすぐ大きくなれるように。
 カーチャは大きく息を吸い込むと、
「――すみません! いきなりこんな事を言っても驚かれるでしょうし迷惑に思われるかもしれませんけど……! 私、皆さんに隠し事があったんですっ……!」
 勢いよくサイラに向かって腰を折り、深く頭を下げる。
 サイラは無言。出し抜けの謝罪と告白に困惑しているのかもしれない。だがそこに構っていられるほど今のカーチャに余裕はなかった。
「ずっと、ずっと、言おうと思っていました。でもなかなか機会がなくて……なんて言ったら、言い訳にしかなりませんよね。先日、どうしようもないほど絶好の機会があったんですから……」
 四日前のことが脳裏に蘇る。あの日カーチャは、イオナから手渡された精霊式拳銃の引き金を引き、しかし撃つことが出来なかった。
 多分、あれを見た全員が気付いていたはずだ。
 だから、言おう。意を決して。

「私には〝精霊核〟がありません」

 言った。
 それはカーチャが、ヴォルクリング家がこれまで世間にすら隠し続けていた事実だった。
 発生する確率は、百万人に一人とも、一千万人に一人とも言われている。とても、とても希有な症例だった。
 人間の生物としての機能の一つである〝精霊核〟を持たない者は、一般的に『障害者』に分類される。その中でも特に、世の母親達のように『精霊核を有していたが壊れてしまった』のではなく、『生まれつき体内に精霊核が備わっていなかった』人間には、蔑称でもある別称として『見捨てられた者』という烙印が与えられる。
 当たり前の話だが、〝精霊核〟を持たぬ者は精霊の加護を受けることが出来ない。それは実生活においては兵器や家庭機器も含めた〝道具〟が使用できないことを示し、周囲から不便な人だと思われる。
 それと同時に、精神的な側面からでも、世界中に満ち、人類と共存している精霊との接点を持たず、生まれながらにして彼らに見捨てられた存在であるとして、周囲から不憫な人だと思われる。
 この国には、〝精霊核〟を持たずに生まれた来た子供は腕や足が無い者よりも一層哀れな存在である――という風潮があった。大切な〝精霊核〟を、母親の胎内で取りこぼしてしまったのだ――と。
 ヴォルクリング家がこの事実をひた隠しにしたのは、元門閥貴族としての体面もあったからだろう。だがカーチャはそんなことなど関係なく、ただ他者からそのように思われることが、たまらなく嫌だったのだ。
 自分は哀れな人間などではない。父と母に愛されて誕生したし、周囲の人々もよくしてくれている。〝精霊核〟を母親の胎内に忘れてきた? そんな不快なことを言うのは止めて欲しい。精霊と交信できないからなんだ。精霊の力を利用する技術がダメなら、そうでない技術を使えばいいだけではないか。
 かつてカーチャを喪失技術の研究へ向かわせたのは、きっとなによりも、この劣等感であったろう。精霊に依らず用いられる力。誰もが平等に使える力。おとぎ話においては『悪しき力』として精霊王に消滅させられてしまった力。それこそが唯一、カーチャを『見捨てられた者』としないものだったのだ。
 とはいえ、である。
 その気概は確かに素晴らしいものであったろう。だが、その肝心すぎる事を隠蔽して軍に入るとなると、話は別だった。
 ラーズグリーズの面々を見ているだけではとてもそうは思えないかもしれないが、本来、軍隊とは子供の遊ぶ場所でもなければ、烏合の衆でもない。厳格なる規律で成る暴力集団であり、公的な行使機関である。カーチャの肩と胸にある階級章も、玩具では決してないのだ。
 武器を扱う能力のない人間が、どうして軍人となりえるのだ。
 これは、金もないのにレストランで食事を注文する輩よりも質が悪い。無銭飲食は弁償なり何か別のもので補填すればよいが、軍においてはそのような甘っちょろい理屈はまかり通らない。一人の力足らずが、他の一人の死に繋がるからだ。
 カーチャの抱えていた秘密は、いくら特殊な事情で、どれだけ特別な部隊に入隊したとはいえ、本来ならば真っ先に申告しておくべきことであったのだ。
 故に、カーチャは頭を下げている。隠してはならぬことを隠してしまったことを、謝るために。
「……申し訳ありません。私は、私自身のエゴのためにこのことを黙っていました。本当なら、一番最初に言うべき事だったのに……」
 だが、カーチャは〝精霊核〟を持たぬ身で軍隊へ入ったことを謝罪しているのではなかった。
「――嘘をついていて、本当にごめんなさい……!」
 人として、ただ、嘘をついたことを詫びていたのだ。
 色々とひどいこともされたが、それ以上にイオナもアイリスもベルもサイラも、まっすぐ自分と接してくれた。戦闘時には、それこそ体を張って自分を護ってくれた。なのに、そんな人達に嘘をついたこと、つき続けることは、途轍もない罪悪であるようにカーチャには感じられたのだ。それに、彼女たちは知らないだろうが、拳銃を撃てなかった時ですら自分はこのまま誤魔化し続ける選択肢を思い描いていた。それは明らかに、心からの裏切り行為であったと言える。
 だから自分は、心から謝らなければいけない。カーチャはそう思っていた。
 くす、と誰かが微かに笑った。一体誰が笑ったのか、というより、それが何者かの笑い声であることにすら、カーチャはすぐには気付かなかった。何故かと問われれば、少女はこう返しただろう。だって、私とサイラさんしかいなかったのに、この状況で誰かが笑うなんて夢にも思わなかったんですもん――と。
 サイラが笑ったのだ、と気付いた瞬間、カーチャは顔を跳ね上げた。サングラスの真下にある、漆黒の肌に包まれた唇は、だが確かに笑んでいたのである。左右の広角をやや持ち上げて、とても優しそうに。
「知っとったよ、みんな」
 その口から、流暢だが聞き慣れない言葉が溢れ出た。これが、おそらくはサイラが生まれた地方の言葉なのだろう。それも驚きだったが、カーチャがそれ以上に吃驚したのは、その言葉の内容だった。
「……え?」
 それはどういう意味か、という聞き返しである。これにサイラは軽く頷き、
「うん。イオナ大佐も、ララリス曹長も、ロレンス軍曹も、ウチも、みんな前からそれ知っとったんよ。ごめんな、黙ってて。ウチら、大佐から黙ってるよぉ言われとったんよ」
 淀みのない喋り方。これまでのサイラからは考えられないほどの饒舌っぷり。間違いなく、この話法こそが彼女の素なのだろう。
 しかし、カーチャはそれどころではなかった。
「……え? え? ……えっ?」
 目がふらふらと泳ぎ、体は小動物のように小刻みに震えている。声は発する毎に音階が上がっていった。だらだらと、全身から嫌な感じのする汗が滲み出てきた。
 信じられない真実を無理矢理ねじ込まれた脳が、拒否反応を起こしているのだ。カーチャは精神病棟の患者のごとく意味もなく辺りを見回して、無駄に体を揺すぶると、いきなり前振り無しでサイラに顔を向け、
「――知ってた? 全部? それも、皆さん全員が?」
 世界の終わりでも見てきたかのような表情で聞いてくるカーチャに、サイラも流石に若干引き気味になった。
「う、うん……イオナ大佐は少佐が入隊する時に少佐のお父はんから聞いとったらしいから……ほ、ほんまにごめんな? か、堪忍してな?」
 サイラの言葉をカーチャは最後まで聞かなかった。
 愕然とした表情のまま、突然、両手を振り上げ、掌を叩き付けるように耳に当てた。その顔が段々と赤くなっていく。ばっ、と音が立つほど勢いよくサイラに背を向けると、口を限界まで大きく開き、
「――ぃいいやああぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁぁっっ!!」
 北のヴァルハラ基地にまで届かんばかりの悲鳴をあげたのだった。

 考えてみれば当然の話で、流石にカーチャの抱える『欠陥』については父・レオニードからイオナへきちんと伝えられていたのだ。
 むしろ、それ故の特務機関所属であったとも言えよう。
 だが、そこで一計を案じたのがイオナ・デル・ジェラルディーンという女である。
 彼女はカーチャが配属されてくる前、配下の三人にこう申しつけたのだ。
「ヴォルクリング特務少佐が自ら申告するまで、彼女の【特徴】については気付かない振りをしろ」
 その真意は説かれなかったが、サイラは次のように推察しているのだと言う。
「多分、そうすることで少佐がウチらの中にほんまに溶け込むことになるって考えてはったんちゃうかな。ウチらもみんな、色々と【理由持ち】やから。大佐も、少佐が自分から言うんをきっと待ってはったんやと思う」
 体内を駆け巡る感情の激流を雄叫びに変えて迸らせたカーチャは、ようやく落ち着き、裏庭の片隅にあったベンチにサイラと共に腰掛けていた。
 ――西側の地方の言葉、ですよね。バナン地方かな……
 サイラの口調をそう分析する余裕も出来た。かつて西方を征したバナン族は、漆黒の肌と髪と瞳、そして屈強な肉体をもつ戦闘的な種族だったという。見た目と言い、常人離れした膂力と言い、サイラがその血を色濃く引いているのは間違いなさそうだった。
 ところで、今、サイラはサングラスを外している。彼女も彼女で、これまでカーチャの秘密を知りながら黙っていたことを謝罪してきたのだ。その際、礼を失さないためサングラスを外してくれたのだが、何気にカーチャはサイラの素顔を見るのがこれが初めてだったのである。
 初対面したサイラの瞳は、なんだか草食動物のようにつぶらで、カーチャは思わず吹き出しそうになってしまった。
 ――か、可愛い! 可愛いじゃないですか! 確かに乙女です! 乙女チックな瞳ですよ!? こんなにゴッツイのに! ギャップが! ギャップがすごいですよ!?
 過日、ベルがサイラのことを『乙女』と称していた理由がよく解ってしまった。確かに肉体は圧倒的に逞しいが、年下のカーチャでも『可愛い』と思ってしまう何かが、サイラにはあった。
「【理由持ち】、ですか……」
 それはともかく、カーチャはサイラの台詞の中にあった単語を繰り返した。
 その言葉の指し示す意味は、何となく察している。
 例えばアイリスだが、彼女はおそらく以前はアインヘルヤル軍の男性兵士だったのだろう。それが『イオナに惚れた』という理由一つで完全な性転換に踏み切ったという。部分改造ならともかく、性別が完璧に女になってしまったのなら、勿論アインヘルヤル軍にはいられない。だからワルキュリア軍に転任してきたのだろうが、きっとこちらでもひどい困惑があったはずだ。元男がこの〝戦女神の寝所〟に入ってくる。どう扱えば良いのか?――と。
 ベルも似たようなものだろうとカーチャは推測している。具体的なことはよくわからないが、多分、性的なことが理由だと思う。大人の男達があんなにも醜く殴り合っていたのだ。何か問題があったのは想像に難くない。それ故、ベルはアインヘルヤルにいない方が良い、という決断を何者かが下したのだ。だから、男の身でありながら彼女はこのグラズヘイムにいるのだろう。
 結論から言ってしまうと、カーチャのこの想像は正鵠を射ていた。ベルことベネディクト・ロレンスは少年でありながら、その類い希なる容姿から『アインヘルヤル軍の戦乙女』とまで称され、アイドルよろしく絶大な人気を得ていた。が、幸か不幸か、ベネディクトは快楽を好むバイセクシャルだった。彼は次々と言い寄ってくる男共と分け隔て無く【関係】を持ち、最終的に殺人未遂事件が起きるほどの修羅場を生じさせてしまったのだ。
 しかし、その殺人未遂事件というのが、これまた微妙なものであった。事件は、ベネディクトを愛する男二人が自分勝手に引き起こしたもので、当人はこれっぽっちも関与していなかったのである。ベネディクト自身は、自分と他の男性兵士との【関係】を口外したことは一度もなかった。殺し合った二人はたまたま、酒の席で互いの想い人がベネディクトであることが判明し、口論の末、殴り合いに発展し、ついにはナイフを取りだしたところで周囲の人間に取り押さえられたのだ。
 これが逆に問題であった。本人は悪くない。しかし、原因ではある。つまり、似たようなことはこれからも起こる可能性が高い。しかも、連続して。
 もはや男達にとって、ベネディクト・ロレンスという少年は【魔性の女】であった。よもや男だけの集団の中で、惚れた腫れたの痴情のもつれが起こるなど、誰が予想しただろうか。
 この事態を重く見た軍上層部は、苦渋の決断を下した。確かに問題児ではあるが、彼は優秀な兵士でもある。退役させるのは国益の損失に繋がる。ならばいっそ――と試行錯誤した結果、ベネディクトは当時新設されたばかりの特務機関ラーズグリーズへと編入することになったのである。
 この詳細な事情をカーチャが知ったのはかなり後のことで、ちょうど彼女が思春期にさしかかるか否かの頃だった。今とは大分雰囲気の変わった彼女が、とある男性兵士からこの話を聞いて言い放ったのが、次の一言である。「ま、そんなことだろうとは思っていたさ」――失笑寸前の表情であったという。
「あの、サイラさんの理由って……聞いてもいいですか?」
 遠慮がちに、だけどはっきりとした声でカーチャは質問した。秘密を知られた自分には、サイラの事情を聞く権利がある――そう思って。なにより、先程も言ったようにカーチャはサイラのことをもっと知りたかったのだ。もっと知って、もっと仲良くなりたい、と。
 サイラもそれは予想していたらしく、すんなりと頷いてくれた。
「……ウチは、この見た目やろ? どこの部隊に行っても気味悪がられたり、怖がられたりしてな……」
 つぶらな目が、すっと細まる。つらい記憶なのだろう、とカーチャは察する。悪いことを聞いてしまったかもしれない、と今更ながらに後悔した。
「それに、ウチ、こうやって訛り言葉でしか上手く喋れんでな。公用語にすると、どうしても片言になるし、それがどうも威圧的っていうか怖いっていうか、とにかく拒絶的に見えよるみたいで……まぁ実際、公用語で喋っとると動きも堅苦しくなっとるんは、自覚してるんやけどね」
 サイラは自らの右手を見つめながら、そう語った。確かにカーチャにも、公用語を話すサイラと、今の彼女とが同一人物だとはとても思えなかった。まるで別人である。言葉の使い方一つで人間はここまで変わるのか、と感心してしまった。
「それに、ウチは父ちゃんから受け継いだ血のおかげで、体が大きくて力も強いから……上官もなかなか文句言われへんみたいやねん。そうやってるうちに、男みたいで怖いとか、団体行動が上手く行かんで邪魔やとか、陰険なイジメみたいなんもあって……」
 サイラの両目が潤んできたように見えた。つられるようにカーチャの涙腺もじわっときた。
「ひどい……」
 ――サイラさんはこんなにも優しくて良い人なのに。見た目だけで怖がった挙げ句に、中身も知ろうとしないで、邪険に扱うなんて……
 カーチャが思わず漏らした感想に、サイラが振り向き、寂しげに微笑んだ。
「しゃーないわ。公用語の練習せんかったウチも悪いし。訛り言葉で喋るんが恥ずかしくて出来んかったのも、思い返したら情けない話やし……」
 しかし、ここでふと、サイラの瞳に強い光が宿った。
「――でも、イオナ大佐は違ってん。あっちこっちでタライ回しにされてたウチを、あの人は拾ってくれてん。『気に入った! お前は俺の所に来い!』って言うて……あの時はほんまに嬉しかったわぁ……」
「う、うーん……」
 過去を思い出して嬉しそうにするサイラとは逆に、カーチャは解せない顔で唸った。
 ――確かに美談ではあるんですが、イオナ大佐の真意がよくわからないのが不気味です……
 いくらガチレズとは言え、サイラの見た目がイオナの好みのタイプであったとは考えにくい。とすると、
「……あ。サイラさん? イオナ大佐と会ったのはどんな時でしたか?」
「えっとな……確か、こことは別の所にある花壇の手入れをしとった時やったと思うけど……」
「……なるほど」
 やっぱりだ。カーチャは確信する。
 イオナが『気に入った!』と言ったのはサイラの容姿ではなかったのだ。気に入ったのは、その中身。花を愛でる品格の高さであったに違いない。
 イオナは、サイラの中にある『乙女』の部分を見事に見抜いたのだ。
 ――意外ですし、認めたくないですけど……あの人、ちゃんと人を見る目はあるのかもしれません……
 イオナのことを考えるとまた胸が痛くなった。そんな風に複雑な心持ちでいると、
「――大佐はええ人やで」
 とサイラが言った。思わず心臓がドキリと飛び跳ねる。
「ふえっ!? な、なんですかいきなりっ!?」
 慌てふためくカーチャに、サイラは、ふふ、と笑みを見せて、
「たまに変なことしはるけど、あの人はほんまにええ人やで。少佐もそれがわかってるから、今日は来たんやろ?」
 うぐ、とカーチャは言葉に詰まる。サイラも意外に鋭い。まったくの図星であった。が、この数日で多少なりとも鍛えられたカーチャは、すぐさま話題を逸らすことを思い付く。
「あ、あっと、えっと、サイラさん? その、少佐はもうやめてください。私たち、もう友達じゃないですか。カーチャって呼んでください。いえ、呼んで欲しいです」
「え……」
 先程とは逆に、今度はサイラが言葉に詰まった。子犬のような瞳が、はっと見張られる。やがて、その目尻から透明な液体が零れた。頬を伝い、流れ落ちる。
「サ、サイラさんっ!?」
 何故泣くのか。カーチャは驚き、慌てた。ポケットを探ってハンカチを取り出す。
「……嬉しい……」
 滂沱と流れる涙を拭いもせず、サイラは呟くようにそう言った。
「え?」
 カーチャが動きを止めて見返すと、サイラは泣き笑いの表情で視線を下に向け、
「ウチ……初めてや。都会に来て、初めて人様から『友達』って言われた……」
「サイラさん……」
 鼻を何度も鳴らしながら、震える声でそう言ったサイラを、カーチャは言葉もなく見つめた。カーチャもまた目頭が熱くなっていた。自分のような子供に『友達』と言われただけで、こんなにも泣いてしまうなんて。巨人みたいに大きくて逞しくて、でもガラスみたいに繊細な心を持ったこの人は、今日までどんな仕打ちを受けてきたのだろう。どれだけ傷ついてきたんだろう。それを思うと、彼女がとても可哀想で、胸が痛くて、涙が溢れそうになった。
「あ、あれ……ご、ごめんな、ウチ、泣いてもうて……」
 そこでようやく自分の涙に気付いたらしい。サイラはカーチャの頭を包んでなお余りあるだろう手で、その体格からは想像もしなかった繊細な動きで涙を拭った。
 カーチャは我知らず、その手を伸ばし、サイラの服の袖を掴んでいた。そして、精一杯、微笑んでみせる。
「サイラさん、これ、友達の証に」
 ハンカチを差し出した。すると、サイラの両目から溢れる涙がどっと増えた。ず、ず、とサイラは何度も鼻を鳴らしながら、
「あ、ありがとう、ありがとうなっ……! あ、あんな……あんな……ウチ……カ、カーチャちゃん、って呼んでもええ、かな……?」
 カーチャは笑顔で何度も首を縦に振った。
「はい。カーチャちゃんって呼んでください」
「じゃあ……じゃあ、ウチのことも……その、あんな……」
「……サイラちゃん、ですか?」
 涙とはまた別の理由で赤くなったサイラが、小さく頷いた。年は離れているが、それでも対等の友達のように『サイラちゃん』と呼んで欲しいのかな、とカーチャは彼女の意思を正確に汲み取ったのである。
 握手――しようとしたがサイラの手が大きすぎて、人差し指を握ることしか出来なかった。カーチャは自分の腕ほどもある太い指を握りしめ、
「はい、よろしくです。サイラちゃん」
 サイラさん改め、サイラちゃんにそう言うと、大きな女の子はとうとう崩れ落ちた。おいおい泣きながら、巨体がもたれ掛かってくる。やっていることは小さな女の子同然なのだが、いかんせん彼女の体は大きすぎた。カーチャも一生懸命受け止めようと頑張ったが、残念ながら激しすぎる体格差だけはどうにもならなかった。
「サ、サイラちゃん、ちょ、ちょ、ちょ――!?」
 結局、耐えきれなかった。ああー、という間延びする声をあげてカーチャが背後に倒れると、サイラの体もよりそちらへ傾き、最終的には端に体重をかけられすぎたベンチのバランスが崩れた。
 そのまま二人はベンチごとひっくり返ったのだった。

 その後、泥だらけになったまま二人で談話室に行き、早速イオナ達に笑われた。
 それでもカーチャは椅子に腰を下ろす前に、イオナとアイリスとベルに、四日前の戦闘とそれに関することへの謝罪と礼を述べ、続けざまに自身の〝精霊核〟について包み隠さず打ち明けた。
 反応は三者三様であったが、この時イオナが浮かべた嬉しそうな顔を、カーチャは永く忘れることはなかった。
 初めてこの人の笑顔を見たのかもしれない――そう思うほどの表情だったのだ。
 だが無論のこと、サイラはちゃんと謝ってくれたが、他の三人にはカーチャの秘密を知りながらそれを敢えて黙っていたという罪状がある。その点に関しては、これ見よがしに皆の前で『サイラちゃん』と仲良くしてみせることで、ささやかな復讐を果たした。
 初めてサイラと手を繋いで、
「サイラちゃん♪」
「カ……カ、カーチャ、ちゃん……」
 と呼び合った時など、流石に剛胆なイオナも、大らかなアイリスも、意地悪なベルも、総じて鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたものである。してやったり、であった。カーチャは堪らず大笑いしてしまった。
 サイラの推測は当たっていたのかもしれない、とカーチャは思う。イオナは本当に、カーチャが自らその秘密を告白することで、ラーズグリーズの皆へ心を開き、距離感が狭まることを見越していたのかもしれない。
 少なくとも、自分から打ち明けたことでカーチャの中にあった、モヤモヤした気持ちの悪い罪悪感は綺麗さっぱり消えてしまっていた。良い意味で、自分は四人に対して遠慮しなくなったように思える。
 だからカーチャはもはや躊躇も慈悲もなくイオナにこう言い放った。
「次、変なことをしたら本気で保安中隊呼んだりお父様に言いつけますからね」
 満面の笑顔で言ってやった。虚を突いてやった、と思ったが、それは甘かった。
 イオナはにやりと挑戦的に笑うと、出し抜けに腰を屈めて顔を近づけ、妖しい声でカーチャの耳元にこう囁いた。
「今度はそんなことなど忘れてしまう程の熱いキスをご馳走してやろう。楽しみにしておけ、マイ・エンジェル」
 最後に、ふーっ、と耳孔に息を吹き込むものだから、カーチャは悲鳴をあげてその場から飛び退いてしまった。
 所詮カーチャなどまだまだ子供である。格の違いというものを見せつけられる遣り取りであった。
 だが不思議と不快感はなかった。体が爆発するかもしれないと思っていた動悸も、いざイオナの顔を見てみると予想外に小さく、とりあえず誤魔化すことが出来る程度のものだった。
 むしろ、僅かに高鳴る鼓動と共に、安心感すら感じていた。
 その感情が何であるのか。どういう種類でどういう名前がつくものなのか。
 幼い彼女には、それはまだわからないことだった。




[28748] ●7
Name: 仙戯◆97bdbc1a ID:d9a73d31
Date: 2011/07/11 23:48
 

 カーチャがラーズグリーズに来て早くも一ヶ月が経過した。
 光陰流水のごとし、である。
 イオナのセクハラをしのぎ、アイリスの優しさに和み、ベルの意地悪を堪え、サイラの純朴さに癒される。
 そんな毎日が怒濤のように過ぎ去っていった。もちろん、楽しいだけの日々ではなく、『戦闘訓練』という名目の治安維持活動も何度かあった。相変わらずカーチャは装備を固めるだけ固めて、何も出来ずに終わるのだが、とりあえず周囲へかける迷惑は少しずつではあるが減らしつつある。いずれ自らの手で引き金を引かねばならぬ時が来るのだろうが、それはまだ当分先のように思えた。
 そんな日々が続く中、それはあまりにも唐突すぎる出来事だった。
 カーチャの父が亡くなった。
 レオニード・ファン・ヴォルクリング。享年六十八歳。
 死因は急性心不全――と駆けつけた医者は言った。
 発作は就寝中に起こり、おそらくは苦しまずに逝っただろう、とのことだった。
 年齢を考えればさほど不自然な死ではない。が、この際、自然であるか不自然であるかどうかなど、娘であるカーチャには一切関係なかった。
 幸い、長らく政界に貢献してきた功績もあったおかげで、葬式の準備には政府の重鎮である人々が動いてくれた。国葬である。不思議なことに、まるでその死が前もって予測されていたかのように迅速かつ的確な段取りで、父・レオニードの葬礼の準備は進められた。しかし、カーチャがその不自然さに気付くことはなかった。無理もない話だった。父親を亡くしたばかりの、ましてや八歳の子供に、そんな気を配る余裕など微塵もなかったのだから。
 レオニードはかつての国家元首である。その葬儀は壮大に、かつしめやかに執り行われた。
 国葬は一万人以上が収容できるドームで開かれた。喪主の名義はエカチェリーナ・ファン・ヴォルクリングだったが、実際の進行は現首相シーグル・ゼノの側近とも言われている、総務大臣エゴン・シスレーが行った。
 国を挙げての行事になってしまったため、子供であるカーチャには出番が全くなかった。メイドのハンナもエルザもその事についてひどく怒っていた。この葬儀は旦那様のものだというのに、そこにお嬢様の居場所がないなんてひどすぎる――と。
 今のカーチャには怒る気力さえなかった。父の死という現実があまりにも重すぎて、感情を司る回路が完全に麻痺してしまっているかのようだった。
 カーチャはただ、椅子に座って呆然としていた。
 国葬が執り行われているドームは、普段はスポーツの試合や芸能人のコンサート等が催されている場所だった。カーチャはその中にある、通常は控え室として使用されている部屋にいた。
 メイド長のエルザは「総務大臣に抗議して参ります」と言って出て行ってしまったため、現在はカーチャとハンナの二人っきりだった。ハンナは先程からカーチャを気遣って何度も話しかけているのだが、天涯孤独の身となってしまった少女は虚ろな目をして生返事を返すだけである。
 光沢のない黒無地のワンピースを身につけ、髪をまとめたカーチャは、椅子に座ったまま、じっと床の一点だけを見つめ続けていた。
 死と運命を司る精霊を恨んでいるわけではなかった。恨んでも仕方がない、と考えているわけでもなかった。ただひたすらに、今のカーチャは何も考えていなかったのである。
 母のルイディナ・ファン・ヴォルクリングは、カーチャが物心つく前に亡くなった。それから七年後の今、今度は父のレオニードが亡くなった。この大きく重く、そして辛すぎる現実を、カーチャの心は受け止めることが出来なかったのだ。
 もう何も考えられない。否、何も考えたくないと、心の奥底が訴えていた。考えることを始めたら、父の死を少しずつでも受け入れなければならない。そんなことになったら、この小さい胸は張り裂けて死んでしまう。本能がそう察して、思考回路を停止させていた。
 どこか遠くから、激しい足音が聞こえてきた。何者かが建物内を全速力で駆けているかのような、強い音。まずハンナがその音に気付き、あまりの激しさに驚いて腰を浮かせた。「何? どうしたのかしら……?」と呟くが、カーチャが返事をするわけもなく、ハンナは一人で意味もなくキョロキョロと辺りを見回すだけだった。
 どうやら足音はこちらへ近付いてきているらしい。感覚の鈍っていたカーチャですら音に気付き、ゆるゆると面を上げた。
 途端、足音が部屋のすぐ傍にまで来た。その瞬間、
「――カーチャァッッ!?」
 バンと音を立てて部屋の扉が開き、何者かが飛び込んできた。
 カーチャの琥珀色の瞳が、じんわりとその人物に焦点を合わせる。
 髪を振り乱し、必死の形相で荒い呼吸を繰り返していたのは――蜂蜜色のカーリーヘアと澄んだラピスブルーの瞳を持つ、少女のような少年だった。
「よかった……! ここにいた……!」
 喪服としての軍服、つまり純白のショートマントをも含めた最上位礼装――あくまで女物ではあったが――を身に纏い、猛然と部屋へ入ってきたベルは、カーチャの姿を認めると顔色を和らげ、ほっと安堵の息を吐いた。
「……ベル、さん……?」
 しかし反応が妙に鈍く、表情の変化が薄いカーチャを見つけると、ベルは頬を張られたように顔付きを改めた。今日ばかりは色艶のないパンプスで足音を立てながらカーチャに歩み寄る。腰を上げかけた状態だったハンナが、その行動を止めるか否かと迷う素振りを見せたが、結局それは実行されなかった。
 カーチャの前まで来ると、ベルは両手を腰に当て、足を肩幅以上に広げ、上体を前へ倒し、まるで頭上から食いかかる獣のようにその顔を近づけた。
 カーチャの視線とベルのそれとが、真っ正面からかち合う。
 目に光のない放心状態のカーチャはたっぷり五秒ほど経ってからそのおかしさに気付き、
「あ」
 と小さく声を漏らした。が、そこで思考が止まったのか、それ以上唇は動かず、のろのろした動作で視線を斜め下に逸らし、しばらくして何かに気付いたように、また、
「あ」
 と言うと、再びベルと視線を合わし、抑揚のない声で、
「……この度は、お忙しい中、父の葬儀に駆けつけてくださり、ありがとうございます……」
 と言った。
「……きっと、父も喜んでいます。私はまだ、見ての通り、未熟者ではございますが、亡くなった父に笑われぬよう、精進していきたいと思っておりますので、どうぞ、これからもご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます……」
 まるで機械のように。まるで入力されたデータを、ただ自動的に読み上げるように。カーチャは無機質に、典型的な喪主の挨拶を紡いだ。
 その目は、多分、眼前のベルを見てなどいなかった。
 あまりにも痛々しいその言葉を聞くベルの体は、小刻みに震えていた。その顔は、怒りを堪えているかのようだった。歯を食いしばり、眉を歪め――それが限界に達した時、
「バカッッ!」
 と怒鳴ったベルは、勢いよくカーチャの体を抱きしめた。小さな体を、抱え上げるように、強く。
「……!」
 若干だが、カーチャは驚き、息を呑んだ。その時、ベルがいつも薄く纏っている香水の匂いが、ささやかに鼻腔をくすぐった。そんなはずはないのに、何故だかとても久しぶりに嗅覚を使ったような気がした。
 未だ感覚と感性に分厚い膜がかかっているような状態で、それでもカーチャは現状を訝しがっていた。
 おかしい。これは、おかしい。異常事態だ。こんなこと、あるわけがない。
 カーチャの胸の奥にあるノートには、ベルことベネディクト・ロレンスについてこう記されている。――意地悪な人。アイリスやサイラより、どちらかというとイオナに近い性格。他人をからかうためにはあまり手段を選ばないところがある。二重の意味でいやらしい。よく性的なことを口にしている。ある程度までいくとサイラが止めてしまうので程度はわからないが、それでもかなり助平なようである。顔は可愛いし、仕種も女の子っぽいし、声も鈴を転がすようだけれど、無邪気なように見えて実は腹黒で、まるで小悪魔みたいで、しかも本当は男の子。
 だから、そんな人が、自分をこうやって抱きしめているのは、絶対におかしい。何かが間違っている。カーチャの中のベルは、こんな時にはきっと、「なーにしょっぱい顔してんのさぁカーチャー♪ 元気だしなよー。ジジイとかオッサンが死ぬとこなんて戦闘でもう何度も見てきてるじゃん? ほらほら、顔びろーん」とかするに決まっているのに。
「バカ……! 本当にバカだよお前っ……!」
 どうして実際のベルは、こうしてカーチャを抱きしめて、鼻水混じりの涙声で喋り、肩を震わせているのだろうか。
「……いたい、です……」
 ベルがあまりにも強く抱きしめるので、思わずカーチャの口からそんな声が漏れた。その途端、ベルがカーチャの両肩に手をかけて、ばっと体を引き離す。改めてカーチャの視界いっぱいにベルの顔が現れたのだが、その常ならば悪戯っぽい光が宿っている瞳に、この時は見慣れない物が付着していた。
 涙だった。パッチリとしたラピスブルーの双眸に、今にも溢れんばかりの雫が溜まっていた。いつもの澄まし顔はどこへ行ったのか、口をわなわなと震わせ、今にも嗚咽しそうな表情だった。傍で見ているハンナからすれば、人形のごとく無表情のカーチャと並んでいて、実に対照的に見えたことだろう。
 ベルは駄々っ子のように顔を歪めてカーチャを睨み付けると、絞り出すように怒鳴りつけた。
「なんで……なんで泣いてないんだよ! お前は本当にバカか!? 親が死んだんだろ!? こんな時にまで優等生の顔しなくたっていいんだよ! 無理しなくていいんだよ!」
 これは演技ではなく、本気なのかもしれない。カーチャはそう思った。何故なら、ベルの声が、いつもの作った女声ではなく、普通の男の子の声だったからだ。故にカーチャは直感的に悟った。今、彼女――否、彼は、心の底からこの言葉を言ってくれている、と。
 だが、凍り付いた心は、固着した仮面は、そう簡単には柔らかくならない。カーチャは思わず、何気なしに、小首を傾げた。するとベルの顔が更に歪み、とうとう目尻から涙が零れた。
「なあ、頼むよ、泣いてよ、カーチャ……僕にも解るんだ、親がいなくなった時の気持ち……だから、そんな風に無理してる顔を見ているのは辛いんだよ……!」
 ベルの腕がカーチャの肩を揺さぶる。その動きで、ようやくカーチャの心と体に、亀裂が走った。壊れないよう、綻びないよう、心を止めて踏ん張ることで、悲しみの淵に落ちていくことがないようにしていたのに。抱きしめられた時に感じた力強さと、暖かさが。今も肩に触れる手の温もりが。カーチャの事を真剣に想ってくれている顔と声が。カーチャの心の奥深くにどんどん進入してくる。
 目頭が熱くなる。鼻の奥がつんと痛くなる。喉が締め付けられるように苦しくなってきた。
「ベルさん……」
 無意識に、震える声で名前を呼んだ。そうしたら、ベルの両手が肩から頬へと移った。少年だと思えないほど綺麗で繊細な指が、優しくカーチャの薔薇色の頬を撫でた。それでも顔は涙を流しながら、歯を食いしばった声で、
「なあ、お願いだよ。悲しいのが大きすぎて、辛いなら……ぼ」
 そこで嗚咽が混じった。「ひうっ」というしゃっくりのような音を混ぜて、無理矢理に彼女は言葉を絞り出す。それは濁音だらけで、およそ人間の話す言葉ではなかった。
「ぼくも、ぼくもいっしょにないてやるからさぁ……! はんぶんもたすけてあげられないかもしれないけど、ひとりでなくよりぜんぜんましだからさぁ……! おねがいだからぁ……!」
 ぐちゃぐちゃだった。「泣け」と言っている本人の涙腺こそが完全に崩壊していた。もう言葉も紡げなくなったのか、ベルは顔をべちょべちょにしたまま再びカーチャを抱き締め――否、抱き付いた。幼い少女の肩口に顔を埋め、声にならない声で噎び泣く。
 その姿が、硬直していたカーチャの心を強く打った。氷結していた魂に、熱を注いだ。
「――どうして……?」
 カーチャの細い喉から漏れ出たその声もまた、他者には人の言葉に聞こえなかったことだろう。どう控えめに聞いてもそれは「どぶじで」としか捉えられなかった。その後はもう、言葉にすらならなかった。
 ――どうして、いつもはあんなに意地悪なのに、どうして、こんな時に限って、こんなにも優しいんですか……!
 気がついた時にはカーチャの目からも涙が流れていた。鼻水が垂れ、すすり、収縮した喉奥から嗚咽が溢れ出る。短い腕は縋る物を求めるようにベルの腰に回り、軍服の裾をぎゅうっと握りしめていた。
「――~っ……!」
 わかった。わかってしまった。自分が今まで泣かなかった、いや、泣けなかった理由が、カーチャにはわかってしまった。
 自分には、足りなかったのだ。
 一緒に泣いてくれる人が、足りなかったのだ。
 ハンナもエルザも、その他の使用人も、皆が皆、父の死を当たり前のように受け止めていた。当然、涙は見せていたが、それはどこか予定調和のようにカーチャには感じられた。父は老人と言っても良い年齢であったし、使用人とは結局は雇い雇われの関係で、肉親ではない。だから悲しみもどこか他人行儀だった。そんな人々の真ん中で、どうしてカーチャ一人だけが本気になって泣くことが出来るだろうか。周囲とのあまりにかけ離れた温度差に、自然とカーチャの心も体温を奪われ、凍り付いてしまっていたのだ。
 けれど、ベルはそうではなかった。本気で、恥も外聞もなく、泣いてくれた。使用人達とは違う、予定調和の涙ではなく、堪えきれない何かを吐き出すような嗚咽を聞かせてくれた。カーチャ一人では背負いきれない悲しみを、半分こにしようとも言ってくれた。
「――……っ!」
 嬉しかった。この人は、私と悲しみを共有してくれる。私を抱き締めてくれるし、抱き締めさせてもくれる。父が亡くなった瞬間から、今この時まで、カーチャを包んでくれる人は誰もいなかった。だから、誰かの体温がこんなにも温かいなんて、すっかり忘れてしまっていた。それを思い出して、心にも血が通うように、温度が戻ってきた。
 息を呑む。
「――あ……!」
 声が、本音が、とうとう漏れた。
 湧き上がる感情を抑えることは出来なかったし、そのつもりもなかった。カーチャはベルの肩に顎を乗せた状態で、大きく口を開き、泣き声を上げた。
 体の中で荒れ狂う激情を吐き出すように、声を出せばそれだけ感情の熱が体外に放射されると信じているかのように、ただ一途に、火がついたように、カーチャは号哭した。

 子供達が泣いている。
 ハンナは互いに抱き合い、寄り添って号泣する八歳の女の子と十四歳の少年を、涙ぐみながら見つめていたが、やがてここに自分の居場所はないと判断し、静かに退室することにした。
 お嬢様と共に泣くのは、自分の役割ではない。そうハンナはわきまえていた。その役割を果たすのは、お嬢様の【仲間】であるべきことを、彼女は知っていたのだ。
 カーチャとベルが気付かないよう、密かに扉を開けて部屋を出る。廊下に身を移して扉を閉めると、子供達の泣き声はやや遠のき、密度の違う空気とわずかな静寂とが、彼女の白い肌に触れた。
 と、人の気配を感じた。若干の予感を胸に抱きつつ、そちらへ視線を向けると、果たして扉のすぐ傍にその人物はいた。
「イオナ様……いつから、そこに?」
 照明の光を受けて七色に輝く銀の髪と、それ自体が光を帯びているかのごとき金の瞳を持つ男のような女が、腕を組んで壁にもたれるようにして立っていた。いや、彼女だけではない。そのすぐ隣に、緩くウェーブのかかったブルネットと肉感的な肢体を誇る元男と、筋骨隆々の男戦士にしか見えない女も控えていた。全員、深紅の最上位礼装の出で立ちである。
 ハンナと彼女たちは知己であった。
 ハンナの問いに、イオナは片手をゆるく上げて、薄く微笑して見せた。一部始終を聞かせてもらっていた、とでも言っている風だった。その隣のアイリスも目を伏せて慈母的な表情をしていて、さらにその隣のサイラに至っては、どうやら貰い泣きしたらしく、サングラスの下から滝のような涙が床に向かって流れ落ちていた。音を立てないよう我慢していたせいだろう、とめどなく漏れ出る鼻水が、頭髪と繋がった鼻毛に絡まって、すごいことになっていた。
 ハンナは先程自分が出て来た扉を一瞥し、小さく嘆息した。きっとこの三人は、部屋の中でお嬢様と一緒に泣いているベルに気を遣ったのだろう、と推測する。彼が孤児であることはハンナも知っていた。ちょうど今のカーチャと同じ年頃に、事故で両親を亡くしたと聞いている。その後、収容された施設で変態にひどいことをされたり、夜中に逃げ出して男娼になったり、紆余曲折を経てアインヘルヤル軍に入隊したりした彼は、同様の境遇となってしまったカーチャに強く共感するものがあったに違いない。三人もそのことを知っているからこそ、敢えて入室せずに、ここで見守っていたのだろう。
 それはベルにとって重大なことであったろうが、同時に、カーチャにとっても重要なことでもあった。今のお嬢様には、身の回りの世話をするメイドではなく、共に涙を流してくれる【仲間】こそが必要だったのだから。
 故に、ハンナは三人に向かって頭を垂れた。
「お心遣い、痛み入ります。これからもお嬢様――いいえ、我が当主を、よろしくお願いいたします」
 面を上げた水色の両眼に、忠義に篤い者だけが持つ輝きが宿っていた。

 発作のような悲しみの波が一旦おさまりかけた頃に、イオナ、アイリス、サイラの三人までもが部屋に駆けつけてくれた。
 カーチャは彼女たちにも涙ながらに礼を言い、抱擁を交わした。
 肩にのし掛かってくるような重い空気が充満する部屋で、少しでも場を和ませようと思ったのだろう。涙をハンカチで拭ったアイリスが、こんな事を口にした。
「カーチャちゃん、男の子ってね、可愛いと思っている女の子ほど意地悪したくなっちゃうものなのよ?」
「はい……?」
 いきなりすぎる話に、カーチャは赤い目をキョトンとさせる。
「ね? ベルちゃん」
 アイリスはそう言って、笑いながら目線を部屋の隅っこの椅子に座っているベルに向けた。水を向けられたベルは、吃驚したように肩を震わせて、唇に塗り直していたグロスを取り落とす。涙で崩れてしまったので、化粧直しをしていたのだ。
 その場にいる全員から注視を受けたベルは、油の切れた機械のようなぎこちない動きで体をこちらへ向け、でも泣き腫らした目はちらりと一瞥させただけですぐについっとあらぬ方向に逸らし、唇を尖らせて、
「な、なんだよう……」
 と拗ねたような声で言った。顔が明らかに茹でたタコよりも赤かった。そして、そのまま両足を大きく開いて椅子に深く腰掛けなおし、両手で股の間の座席部分を握り、ぐにぐにと弄りながら、
「ぼ、僕は別にカーチャのことを可愛く思ってなんかないし、ただこんな時まで意地悪なこと言うのもなんだし、ちょっと可哀想だから優しくしてやっただけで、僕は別に……」
 僕は別に、と二度も繰り返しながら段々と声が小さくなっていく。その語尾に被さるようにイオナの笑い声が響いた。
「はっはっはっはっ! 良いことを教えてやろうマイ・エンジェル」
 偉そうにふんぞり返るようにして椅子に浅く腰掛けていたイオナは、それこそ、いつものベルが浮かべているようないじめっ子の表情でにやりと笑うと、人差し指で女装少年を差し、
「ベルの奴この会場に着いた途端、何も言わずに一人だけで走り出してな。それはもうものすごい勢いだったぞ。もっと言うと、ここに来るための車に乗る前にも、俺達の準備が待ちきれなくて一人だけ『ディオネ』で飛んで行こうとしていたぐらいだからな。よっぽどお前のことが心配だったらしい」
 イオナに恥ずかしいことを暴露されて、ベルが爆発した。
「ちょ――っ!? バ、バカッ! イオナ大佐のバカッ! 変なこと言うなよなっ! 違うし! ぜんぜんちがうしっ! 僕そんなことしてないしっ!」
 真っ赤っかになった顔で叫んでも、説得力はまるでなかった。
 さらに言い訳を言い募ろうとしたベルに、珍しくサイラが、
「……軍曹、足が。それと、言葉遣いも……」
 と突っ込んだ。ぶっとい人差し指が、大股開きになったベルの下半身を示していた。それは女子の座り方ではない、男の座り方である、と。また、本人は気付いていないだろうが、先程からずっと声と口調がいつもの可愛らしい少女のものではなく、そこらにいるような普通の少年になっていたのである。
 動揺しているのがモロバレだった。慌てて両膝を閉じてスカートの乱れを正し、咳払いをして喉を整えるが、誤魔化せるタイミングはとっくに過ぎ去っている。それでもベルは、手遅れと解っているだろうに、悪あがきをする。肩に掛かる髪を払って、ぷいっと顔を逸らしながら、
「きょ、今日だけなんだから! 今日だけ特別! 今日のボクは特別なボクなの! 明日からはいつも通りだもんね!」
 無理矢理にとはいえ、あんなに泣いた後でもちゃんと声の調子をいつものものに切り替えたのは大したものだった。
 わずかな沈黙。それを挟んで、イオナが居住まいを正し、急に控えめな声で話しだした。
「それにしても、すまなかったな。来るのが遅れてしまって。【事情】があってな、俺達にヴォルクリング氏の死がなかなか【公式に通達】されなかった。心細い想いをさせてしまった……お詫びにキスしよう」
「……結構です」
 最後の一言さえ無ければよかったのに。カーチャの胸の中が残念な気持ちで一杯になる。
 それにしても妙な言い方をするものだ、とカーチャは思った。【公式に通達】されなかった、とはどういう意味なのだろうか。そんなものが無くとも、ラーズグリーズへの連絡はエルザがしてくれていたはずなのだが。
「あの、【事情】というのは……?」
「ああ」
 カーチャの問いに、イオナは大仰に頷き、視線をアイリス、サイラ、ベル、そして最後にハンナに向けた。それは何かの合図だったのだろう。期してカーチャ以外の全員が椅子から立ち上がった。
「えっ……!?」
 驚くカーチャを他所に、まずハンナが少女の座する椅子のすぐ隣に立った。続いてイオナを代表とした四人が、カーチャと向かい合う形に並んだ。彼女たちを取り巻く空気に、先刻までの和気藹々としたものは残滓もない。急速に緊張感が高まる中、なんとイオナがその場に片膝をついた。後ろに控える三人も、一拍を置いてそれに倣う。
 端から見ればそれは、まるで幼い女王にかしずく家来達のようだった。
「ヴォルクリング家の新しき当主、エカチェリーナ・ファン・ヴォルクリング様にお話があります」
 突如として質の違う声で語りかけるイオナ。その表情は『真剣』の一言に尽きた。その瞬間、カーチャは理解した。
 今、イオナは、カーチャに話しかけているのではない、と。
 イオナは、【ヴォルクリング家の当主】に話しかけているのだ。
 訳がわからなかった。だが、イオナの双眸に宿る凄烈な意思が、ここでカーチャに狼狽えさせることを許さなかった。ここでカーチャが私人として振る舞えば、それは結果的にヴォルクリング家の名を貶めることになる。カーチャにとて、名門貴族の末裔としての矜持が少なからずある。目の前の女性が『イオナ大佐』ではなく『イオナ・デル・ジェラルディーン』として姿勢を決めた以上、自らも公人たる態度を貫かなければならなかった。
 カーチャは椅子に座ったまま、背筋を伸ばし、両手を膝の上で重ねた。呼吸を整え、まなじりを決し、低く抑えた声を発する。
「――それはどのようなお話でしょうか、イオナ・デル・ジェラルディーン様」
 然り。今はもういない父が、そう頷いたような気がした。
「とても大切なお話です。聞いていただけるでしょうか」
 それはもはや問いではなく、確認であった。故に、カーチャは厳かに頷いた。
「聞きましょう」
「ご厚意に感謝いたします。が……残念ながら、ここでは話せません」
 その言葉の意味する所をたちどころに理解したカーチャは、傍に立つハンナに指示を出した。
「ならば、当方が場所を用意いたしましょう。ハンナ、屋敷に連絡を」
「かしこまりました」
 深々とお辞儀をして、ハンナは携帯通信端末を手に退室した。客を迎える準備、移動手段の確保を行うためである。
 ハンナの足音が聞こえなくなると、室内は急に静まりかえった。五人それぞれの吐息すら聞こえてきそうな静寂の中、耐えきれなくなったようにカーチャは唇を開いた。
「……詳細は後でかまいません。ただ、心の準備をしておきたいと思います。ジェラルディーン様、その話とは、我が父に関係することでしょうか?」
 父の死に関連しているのか、とは敢えて問わなかった。
 ここでは話せない話だ、とイオナは言った。そして、カーチャの父レオニード・ファン・ヴォルクリングが卒去したこの日に、イオナが改まって話を持ちかけた相手は【ヴォルクリング家の当主】だった。
 この二つを合わせた時、予感が生まれた。
 ここで話せない、ということはつまり、ここにいる誰かに聞かれては困る、ということだ。今日、この会場には、大勢の政治家や著名人が足を運んでいる。そんな人々には決して聞かれてはならぬ話を、彼女はしようとしているということだ。
 政治のきな臭い匂いを、カーチャは感じていた。
「ご明察」
 短く、しかしはっきりと、イオナは肯定した。カーチャは我知らず、固い唾を飲み込んだ。
 人はこの世から去るとき、形のあるもの無いものを問わず、様々なものを遺していく。
 カーチャの父が遺していったのは、一体どのようなものだったのか。
 おそらくそれは、イオナの話を聞けば、おのずと判明するのものなのだろう。
 ただ、それが決して軽いものなどでないことだけは、明白だった。




[28748] ●8
Name: 仙戯◆97bdbc1a ID:d9a73d31
Date: 2011/07/14 00:55
 

 どうせ居続けた所で意味のない葬式会場を後にして、一行は車でヴォルクリング邸へ向かった。
 父の葬儀に関する委細は全てメイド長のエルザに任せた。勿論、少しでも長く、そして近く、父の亡骸の傍にいたいという想いも強かったが、今の自分は『レオニードの娘』ではなく『ヴォルクリング家の当主』なのだと、カーチャは己に言い聞かせた。当主には、当主にしかできぬ仕事があるのだから、と。
 貴賓室の準備は整っていた。カーチャは自らイオナ達を先導して貴賓室に通し、ハンナが香茶を用意してそれぞれの前に置いた。
 皆がソファに腰を下ろすのを確認してから、ホストであるカーチャも座り、
「人払いの必要はありますか?」
 開口一番、そう問うた。おそらく必要なのでは、と思って言ったのだが、いや、とイオナは首を横に振った。
「大丈夫だ。ここまで来れば問題ない。それに、事情を知らないのはおそらくお前だけだからな」
「…………」
 急に素に戻ったイオナにカーチャは目を丸くした。イオナはそんなカーチャの表情の変化に気付くと、軽く笑って、
「ああ、すまん。実を言うと堅苦しいのは性に合わなくてな。一応の礼儀は通したんだ、もういいだろう?」
 そう言って視線をハンナにやる。つられてカーチャもハンナに目を向けると、そこには憮然とした表情のメイドがいた。
「……しかたありませんね。イオナ様にこれ以上期待するのは愚策のようですから」
「これは手厳しい」
 容赦のないハンナの言い分に、イオナは軽く肩を竦めて見せた。
 ――これは、どういうことなんでしょうか……?
 カーチャは静かに混乱する。どうやらイオナとハンナは顔見知りであるらしい。それに、イオナの「事情を知らないのはおそらくお前だけだからな」という言葉。もしかしなくとも、父もハンナも関連しているであろう『とても大切な話』について、カーチャだけが蚊帳の外だった、ということなのだろうか。それどころか人払いが必要でないことを鑑みると、この屋敷で知らないのは自分だけだった、という可能性も考えられる。使用人全員が知っているというのに、息女である自分だけが知らなかったとなれば、それはとんでもなく情けないことであるようにカーチャには思えた。
 嫌な予感というのは往々にして当たるもので、実際、カーチャのその想像はほとんど正解だった。
「さて、何から話したものか……」
 とイオナは顎を摘んで思案する。話が全く見えてないカーチャには、ソファの上で縮こまって耳を傾けるほかに術はなかった。
「まず、戦争の話をしようか。カーチャ、お前はこの国の【戦争】について、どこまで知っている?」
 この時、カーチャはイオナが自分のことを『マイ・エンジェル』ではなく『カーチャ』と呼んだことに、耳聡く気付いた。
 ――雰囲気はいつものイオナ大佐ですけど、これはきっと、とても真面目な話ですよね……
 そう把握して、カーチャは首肯する。
「私が知っているのは……百年ほど前、このグラッテン国と隣国のスペルズとの国境上で、人種差別に関する事件があって、それをきっかけに戦争状態へ突入した、ということぐらいです」
 細部を大幅に省略してはいるが、グラッテンで育った者であればこれだけで充分通じるだろう。イオナも頷き、
「大まかに言えばそうだな。国境を挟んでの諍いが徐々に激化した挙げ句、どちらかが先に発砲して、もう一方の兵士が命を落とした――それが最大の契機だった。グラッテンもスペルズも、双方が『先に撃ってきたのはあっちだ』と主張して引かないため、真相は歴史の闇の中だが」
 当然、その程度のことならばカーチャも知っている。その後、かの英雄アノイ・デル・ジェラルディーンも参戦したという大きな会戦がいくつもあった。勃発当初はグラッテンが優勢であったが、後にスペルズが挽回し、結果として互角の均衡状態が生まれた。さらにその後、双方の国力の疲弊もあってか、国境線上での小競り合いだけが何十年も続き、現在に至っているという。学生で言えば中等部レベルの知識である。
「……こんな時に、歴史の講釈が必要なんですか?」
「まぁ落ち着いて聞け」
 一向に核心へ向かわない話に、流石に訝しげな目を向けるカーチャ。それを片手を上げて軽くあしらうと、イオナは突然こんな事を言い出した。
「そうやって始まった戦争が、今や『ゲーム化』していることは知っているか?」
「……ゲーム?」
 知らない。聞いたこともない。カーチャは小首を傾げる。
「どういう意味ですか?」
「それはこれから説明しよう。それより、今の小首を傾げる仕種が相変わらず可愛いのでちょっと抱き締めてもいいだろうか?」
 出し抜けに理解不能なことを言い出したイオナに、カーチャは含みを持たせるように言葉を句切って、確認を取る。
「……あの、イオナ大佐? 今は、真面目な話を、しているんですよね……?」
「そうだが?」
 ――それが何か? って顔をしていますよぉこの人ぉぉぉぉっ!? つ、通じない! 相変わらずこの人には私の常識が通じませんっ!
「イオナ大佐、ここは真面目にお願いしますわ」
 流石に見かねたらしく、アイリスがそっとイオナに耳打ちするのが聞こえた。イオナは不満そうに眉根を寄せ、
「むぅ……これでも真面目にやっているつもりなんだが。それにベルとはあんなに抱き合っていたというのに、不公平な……」
「――んなっ!? ちょっ!? ああもうちゃんと本気で真面目にいこうよっ! イオナ大佐のバカッ!」
 急激に頬を紅潮させたベルに怒鳴られたイオナは、それでも納得がいかないように唇を突き出していたが、不意に真剣な面持ちを取り戻した。一瞬前まで彼女が目を向けていた方向を見やると、そこには笑顔で銀のトレイを振りかぶっているハンナがいた。いい加減にしねぇとキレるぞコラ、というポーズであった。
 おほん、とわざとらしい咳払いをして、今度こそ脱線せずにイオナは話を続ける。
「グラッテンとスペルズの小競り合いは長く続きすぎた結果、一種の形骸化を起こしてしまった。つまり、戦略も戦術も、それどころか中身すらも失われてしまい、戦争はいつの間にか『じゃれあい』になってしまった、というわけだ。たまに起きる戦闘も、ただ国民に対して『戦争は続いている』とアピールするためだけのものに成り下がっている。カーチャ、お前は今までおかしいと思ったことはなかったか? 戦争をしているはずの国に、たかだか軍に天才少女が入った程度のことで、あれほど豪勢なパレードを行うような余裕がどうしてあるんだ? 国の威信、存亡を賭けた戦いをしているはずだというのに、何故スポーツの大会やアイドルのコンサートを催すドームなんぞがあるんだ? 本来、戦争をしている国というのは、もっと切羽詰まっているものだとは思わないか?」
「……!」
 カーチャは吃驚した。イオナの言ったことに、ではない。今イオナが言ったことに対して全く違和感を感じていなかった自分に、カーチャは驚愕したのだ。
 そうだ、その通りだ。言われてみれば、確かにおかしい。改めて、このグラッテンという国が戦争をしているのか否かと問われれば、カーチャの肌感覚ではその答えは『否』になる。
 戦争は経済を逼迫させる。これは通説ではなく、単なる事実である。戦争に勝利するためには強い軍事力が必要になる。軍事力を強化したり、戦闘で失った分を補填するためには、多くの軍事費が要る。その軍事費は、国民の税金などを集めた国庫からひねり出される。そしてそれは、国家が戦争に勝利するその日まで、際限なく幾度も繰り返される。そうして戦争は国の財源を徐々に蚕食していくものなのだ。
 その上、そも戦闘という行為そのものが、非生産的であること限りない代物なのである。武器防具、食料、人命、その他諸々をただ消費するだけで、逆にそれらを生み出すことは決してない。勝つことが出来なければ、ただの浪費行動だと言っても過言ではないだろう。ましてや勝利した所で、得るのは【他国から略奪したもの】である。手に入れた幸せの数だけ、同じ数の、否、場合によってはそれ以上の不幸が生まれる。どこまで行っても自国の利益は他国の不利益でしかない、愚かしいゼロサムゲーム。
 そのような行為を百年以上も続けているこの国に、普通に考えて、余裕なんてあるはずがない。いくら長期間、大きな会戦がないとはいえ、それでも大勢の人間が軍人として非生産的な仕事に就き、高額の給料を受け取り、決して安くはない軍事兵器を購入して取り扱っているのだ。財政にかかる負担は相当なもののはずだ。だが、この国にそういった面はほとんど見られない。少なくとも表面上、人々の営みは戦争状態にない他国と比べても遜色ないレベルを保っている。
 これはどういうことなのか?
 愕然とするカーチャの様子から、その理解の度合いを測ったのだろう。イオナは口元に満足げな笑みを刻み、
「カーチャ、お前は本当に賢い子だ。理解が早くて助かるぞ。今なら俺がさっき言った、戦争が『ゲーム化』している事に関しても、なんとなく想像はつくんじゃないのか?」
「…………」
 カーチャは両手で口元を押さえて沈思する。ゲーム化。即ち、その単語こそが鍵だ。一世紀以上も戦争状態にあるグラッテンが、それでも困窮しない理由。
「……――!」
 思慮の末、それは天啓のごとく閃いた。
「……戦争を、賭け事に流用している、ということでしょうか……?」
 自信はなかったので、上目遣いにイオナを見つめて控えめに聞いた。
 イオナは、にっ、と笑みを深める。
「正解だ」

 正確な時期は不明であるが、おそらくは〝グラッテン帝国〟において皇族の影響力が薄れ、なし崩し的に君主制から立憲君主制へと変化しつつあった頃だと推測されている。
 グラッテンとスペルズの戦争は、いつしか世界的なギャンブルゲームと化していた。
 双方の国から兵力を出し、戦わせ、その結果を予想するという単純なゲームである。無論、それだけでは深みが足りないので、一度の戦闘毎に様々な条件がつけられ、趣向が凝らされていた。
 やはり一番の目玉は〝エア・レンズ〟による実況中継だろう。これにより世界中から集まってきた金と暇を持て余した者達は、安全な場所にいながらにして、生死を賭けたスリル満載の戦いを、臨場感たっぷりに鑑賞することが出来るのだ。
 時に少数対多数、時に少数精鋭同士のせめぎ合い、時に王道の大兵力同士の会戦――様々な条件で戦場が用意され、それに見合うようにオッズが変動する。特に少数精鋭同士の対決時には兵士個人の情報が開示され、他の賭博レースさながらの分析が行われたりもする。その際、希望者には、戦闘訓練時に撮影された〝エア・レンズ〟の映像までもが提供されているという。
 誤魔化しもなければ、やらせもない。本物の殺し合い。世界に一つしかない、ときに星よりも重いなどと称される人の命が、塵芥のごとく次々と消費されていく光景。
 この世の快楽を貪り尽くしたと自称する非道な富豪達は、この娯楽に血湧き肉躍らせた。どれほど富める者といえど、人間の命を弄ぶことなど許されない時代である。それ故に彼らは、このギャンブルにのめり込んだ。自らの優越感、征服欲、その他の卑しい欲望を満たすために。中には、このゲームに全財産を注ぎ込んだ挙げ句、身を滅ぼす者すらいた。
 巨額の金が動いた。それこそ国の一つや二つの国庫を潤すほどの額が。
 元々はグラッテンとスペルズ、それぞれの軍の中で自然発生した非合法な賭博だった。だが、戦争によって国力が低下していく一方だった両国首脳が、これに目をつけてしまったのだ。
 これを利用すれば、国の窮乏を救えるかもしれない――そう悪魔が彼らの耳元に囁いてしまったのだろう。
 世界に精霊が現れ、悪しき科学と魔法の力が消滅したとて、人の心の醜悪さまでは消しきれなかったということか。
 二つの国はそれぞれが胴元となり、共に世界の裏側に賭場を開いた。表の世界で血で血を洗う戦争をしている二つの国が、その裏で仲良く手を繋いだのである。
 然りしこうして、この戦争は悪辣なる『ゲーム』と化した。かくして兵士達は競走馬同然の存在となり、今も大勢の軍人がいずれ舞台に立つその日のためだけに禄を食み、訓練を重ねている。軍の犬、とはよく言ったものだ。今のグラッテンとスペルズの軍人は、まさしく〝軍に飼われている〟と言っても過言ではないのだから。
 この秘密を知る輩の中には、〝エア・レンズ〟がなければこのようなものは生まれなかっただろう、と言う者もいる。とはいえ、軍事兵器の一つとして〝エア・レンズ〟を開発した学者も、よもや自らの発明品がこのような俗悪なことに使用されるとは夢にも思わなかっただろう。
 人間のドス黒い部分と、新たに生まれた技術とが望まれぬ交合をし、その結果、世にも醜怪な私生児が誕生してしまった。
 度し難きは、ひとえに人の業だった。

「よって、この国には〝最前線〟がない」
 イオナは断言した。
「ある意味、戦争はとっくの昔に終わっていた、というわけだ。だが、誰もその事を知らない。政府と軍の上層部が癒着しているからな。情報は完全に規制され、統制され、戦争がただのギャンブルになってしまったことを知っているのは、ほんの一握りの人間だけだ」
 カーチャはふと一ヶ月前のことを思い出す。そう、あれはカーチャがラーズグリーズに配属されて二日目の事だった。パレードの開始場所へ向かう車中で、カーチャはこんな話を聞いたのだ。
 ――「そうそう、それそれ。いきなりマイクで『国民よ、俺を最前線に送ってくれ!』だったっけ? イオナ大佐もすごいことするよねー。もうみんな大騒ぎ。ま、勿論聞き入れて貰えなかったんだけどさ」――
 当時、カーチャは疑問に思ったのだ。何故にイオナは前線に行きたがったのだろうか、と。そしてその疑問に、カーチャは自分で答えを用意して納得してしまっていた。きっと『デル』と軍閥貴族発祥の名を名乗っているぐらいなのだから、戦いに赴くことこそが本懐なのだろう――と。
 それが自分勝手な思い込みでしかなかったことを、カーチャは思い知った。
 五年前のイオナは、本当は、あるかどうかわからない〝最前線〟の存在を確認しようとしていたのだ。カーチャは自らの浅はかさに溜息が出る思いだった。
「……それが、この国の真実、なんですね」
 イオナの言うことが狂言でないことは、他の皆の顔を見ればわかる。アイリスも、ベルも、サイラも、ハンナでさえも神妙にしていた。カーチャをからかって遊んでいるような雰囲気ではない。それに、イオナの話はことごとく筋が通っていた。信じる他ないだろう。
 だが、それはそれとして、カーチャには聞かねばならないことがあった。
「でも、その事と父に、一体どんな関係が……?」
 戦争が一部の人間によって私物化され、悪用されているのは確かに由々しき問題ではある。だが、それと『ヴォルクリング家の当主』とがどう関わってくるのかが、カーチャにはわからなかった。
 イオナの返答は簡潔でわかりやすかった。
「レオニード氏は首相時代、〝戦争賭博〟反対派の筆頭だった」
「――!?」
 嫌な予感、と呼ぶにはあまりにおぞましい感覚がカーチャの脊髄を駆け抜けた。
「ヴォルクリング家の当主と言えば、一度は首相の椅子に座るのがしきたりのようなものだ。漏れなく最高権力の座を手にしたレオニード氏は、以前から知っていた〝戦争賭博〟を止めようと動いた。この国で権力の階段を昇れば、望むと望まないに関わらず〝戦争賭博〟のことは耳に入るだろうからな。首相になるずっと前から、時が来れば実行するつもりだったんだろう。だが」
 イオナはそこで一度言葉を切り、溜めを作った。言いにくいことをこれから言うぞ、という合図のようでもあった。
「……だが、事実を国民へ公表しようと動き出した矢先、娘を産んだばかりの妻、ルイディナ・ファン・ヴォルクリングが亡くなった。――これ以上はないってぐらい、最悪のタイミングでな」
 カーチャは息を呑んだ。そんな。そう言おうとして、喉がまるで言うことを聞かなかった。
 カーチャの八歳にしては賢すぎる理性が、状況を計算して一つの仮説を弾き出そうした。
 ――お母様が、まさか……
 だが、それ以上考えることは本能が拒否した。脳が嫌々をして、すぐにでも回路を切断しようとした。しかしそれよりも早く、イオナの言葉が氷の刃のごとく突き刺さる。
「暗殺されたんだ、お前の母親は」
 目に見えないハンマーで頭を殴られたかと思うほどの衝撃。
 ――殺された……お母様が……なら、お父様は……?
 無駄に早すぎる自分の頭の回転を、この時ほど憎らしく思ったことはなかった。明敏なカーチャの頭脳は、すぐさま父の死にまで考えが至った。
 父の死も、もしかしたら、暗殺なのかもしれない――と。
「最終的に、レオニード氏は公表を控えることにした。何故なら、彼にはもう一人、大切な肉親がいたからだ」
「――!」
 堪らずカーチャは俯き、黒のワンピースの裾を両手で強く握りしめた。
 父の大切な肉親といえば、自分しか考えられなかった。
 妻が暗殺された。次は娘にその手が及ぶかもしれない――父親ならそう考えて当然だ。苦渋の決断だったろう、とカーチャは想像する。悪逆無道な〝戦争賭博〟と、愛娘の命。その二つを天秤に懸け、ひどく懊悩したことだろう。その結果、自分を選んでくれたことには感謝しなければならないだろうし、正直な気持ちを言えば、とても嬉しく思う。しかし同時に、自分自身こそが、己が正義を貫かんとする父の足をこれ以上なく引っ張ってしまっていたという罪悪感が、カーチャの小さな胸を締め付けるのだった。
「だがレオニード氏は諦めなかった。表向きは〝戦争賭博〟推進派に下った振りをして、密かに活動を続けた。そしてそれは、任期が終わって政界から引退した後も続いていた」
 イオナの声を聞きながら、カーチャは涙を堪え、嗚咽を噛み殺す。駄目だ、泣いてはいけない。今の自分は父の後を継いだ、ヴォルクリング家の当主なのだ。もう小さな子供のように泣いてはならないのだ。
 唇を精一杯噛みしめ、カーチャは面を上げる。涙の堤防が今にも崩れそうな瞳をイオナに向け、話の続きを促す。
「……その結果、父も、暗殺されたんですね……?」
 イオナはカーチャの眼差しを真っ正面から見据え、しかし首を横に振った。
「証拠はない。だが、少なくとも俺達はそう見ている。やり口はルイディナ様のときほど露骨ではないが、葬儀の準備の手際良さを考えるとな。あれだけの規模だというのに手早すぎる。それに、今日に限って会場が空いていたというのも変だ。示し合わせたようにしか見えないだろう?」
「……状況証拠は揃っている、ということですね……」
 イオナが指摘する不自然さは、今ならばカーチャにも感じられる。父を喪ったショックでまるで頭が働いていなかったが、思い返してみれば不審な点がいくつもあった。実際、喪主であるカーチャが今ここにいること自体、おかしいのだから。
「……母の時は、どうだったのですか?」
 その質問をすると、イオナの顔がやや気色ばんだように見えた。回答を避けようとしたのかもしれない。だが、避けては通れぬ質問と悟ったのだろう。重そうに唇を開いた。
「ルイディナ様がワルキュリア軍所属の軍人だったことは、聞いているか?」
「……いえ」
 初耳だった。だが、もう驚きは少ない。今日という日はまだ半分ぐらいしか過ぎていないが、それでも既に色々なことがあった。カーチャの中にある驚きの感情を司る機構が、破綻しかけているのかもしれなかった。
「そうか……」
 イオナがこのような重い溜息を吐くのは珍しい。そう思った時、半分以上が麻痺している神経ですら衝撃を受ける言葉が放たれた。
「ルイディナ様は〝戦争賭博〟の戦場に送られ、戦死した――と聞いている。これみよがしなやり口だが、いやしくも軍上層からの正式な命令なら、従うほかなかっただろうな。軍の規律は鉄の掟だ。政治家のレオニード氏には止めることが出来なかった。出産による〝精霊核〟への影響が軽微だったルイディナ様には、命令を断ることが出来なかった」
「…………」
 言葉もなかった。
 世界が根こそぎひっくり返ったような気分だった。唯一、狂乱寸前の頭で理解できたのは、かつて乳母ミリーナが言った言葉が嘘ではなかった、ということ。父と母は愛し合って結婚し、その上でカーチャはこの世に生を受けたのだ。それは決して嘘ではなかったのだ。
 嘘だったのは、母が病没した事の方だった。実の母親が何者かに暗殺されたという残酷な事実を知らせないための、優しい嘘。
 この屋敷で自分だけが何も知らなかったのにも、合点がいった。皆が、カーチャの心を護ろうとしてくれていたのだ。真実を知って傷つかぬように、と。
 母が戦場へ送られた理由の一部は、カーチャが原因だった。カーチャがちゃんと〝精霊核〟を持って生まれてきたならば、母は少なくとも戦場で死ぬことはなかったかもしれない。今、生まれて初めて、カーチャは自身の体質を憎悪した。何故、自分はこのような形で生まれてきてしまったのか、と。
 カーチャは真相を知り、既に喪っているはずの母を、改めて喪った気がした。これまで母は、カーチャの中では『いつの間にかいなくなっていた人』だった。だから寂しいと思ったことはあっても、悲しいと思ったことはなかった。だが今、カーチャは母の死に様を聞いてしまった。そう、この時初めて、カーチャの中で母が【死んだ】のだ。
 ――私は、今日一日で、父と母の両方を喪ったみたいですね……
 涙は気付かぬ内に流れていた。目の奥が壊れてしまったように、何の抵抗もなく溢れては頬を伝っていくのだ。堪えるとか、我慢するとか、そういう段階ではもうなかった。カーチャは呼吸をするように泣いていた。
 もう何もかも吹っ切ってしまおうと思う。いっそ心が晴れやかになりそうだった。そう、ここにいる自分は今や『エカチェリーナ・ファン・ヴォルクリング』ではない。ここにいるのは『ミストレス・ヴォルクリング』なのだ。
 父も母も自然死ではなかった。つまり、何者かがカーチャから愛する両親を奪った、ということだ。
 その何者かの正体を知る義務と権利が、カーチャにはあった。
 どこか怯えの色さえ帯びていた琥珀色の瞳が、すぅ、と音を立てるようにして落ち着いた。今なお目尻から透明な液体を流し続けているが、そんなものが関係ないほど強い光が瞳孔の奥で瞬いていた。
 そこにあったのは、覚悟を決めた人間の顔だった。
「続きを」
 はっきり、くっきりした声でカーチャはそう言った。
 誰かが唾を飲み下す音が貴賓室に響いた。無理もなかろう。そこにいる少女が浮かべている表情と、発した声は、およそ八歳の女の子のものとは言えなかった。その横顔は、とても子供には見えなかった。その姿は見る者に、戦いに赴かんとする戦女神が如き高潔さ、清廉さ、気高さを感じさせた。
 皆が息を呑む中、一人、イオナだけが会心の笑みを浮かべている。
 その時、貴賓室の扉がノックされた。
 カーチャが目配せをすると、ハンナがその意を汲み取って扉を開く。
 入室してきたのは、軍服を纏った一組の男女だった。
「失礼します。ラケルタ・オイゲン准尉であります」
「失礼します。イーヴァ・クロフォード少尉であります」
 部屋に踏入って敬礼をとる男女二人組は、ラーズグリーズの面々にとっては顔馴染みだった。どちらもラーズグリーズの支援部隊を指揮する隊長である。ラケルタとはカーチャの初陣以来の付き合いで、イーヴァとはその次の出撃の際に挨拶をした覚えがある。このタイミングでここへ来たと言うことは、彼らもやはり、少なからず関係があるということなのだろう。カーチャはそう察する。
「よく来た。二人とも、俺の後ろにつけ」
 どうやらイオナが呼び出したらしい二人は、言われたとおり彼女の座るソファの背後に立ち、直立不動の姿勢をとった。
 イーヴァはサイラほどではないが、女性にしては身長が高く、ラケルタと並んで立っても頭の位置がさほど変わらない。燃え上がる薔薇のように赤い髪を持つ彼女は、いつもならカーチャと目が合うとウィンクをしてくれるのだが、流石に今日は無かった。むしろ静かな表情のまま、涙だけをはらはらと流すカーチャの姿に戦いているようだった。
「話を変えよう。もちろん、全く無関係の話ではないが」
 そう言って、イオナは香茶を一口含み、唇を湿らせた。
「俺達がここにいる理由について、だ。気になっていただろう?」
 いつものイーヴァの代わりとでも言うように、イオナが片目を瞑ってみせる。
 無論、それは最初からずっと気になっていた。政府と軍の闇を知り、母の死の真相を知り、父の過去を知っているこの女性と、それに付き従う彼女たちは一体何者なのか、と。
「はい」
 迷い無くカーチャは頷いた。実を言えば、どことなく予想はついているし、彼女らが『ミストレス・ヴォルクリング』である自分に期待しているであることも、なんとなくだが予測していた。それでも、確証はなかった。
 イオナは前髪を掻き上げながら、事も無げに言葉を続ける。
「呼び名は色々あるが、俺達自身は特にこれと言った名前は名乗っていない。だから、象徴的な名称を並べるなら――〝戦争賭博〟反対派、テロリスト、反乱軍、革命軍……こんなところになるかな」
「つまり、父の仲間だった、ということですね」
「その通りだ」
 カーチャの念押しに、イオナは笑って指を鳴らした。
「表立った活動を停めたレオニード氏は、それでも裏でずっと動き続けていた。目立たぬよう、俺達のような反対派に資金援助などをしてな。だから俺達はレオニード氏のことを〝足長おじさん〟と呼んでいた」
 その単語には聞き覚えがあった。いつだったか、ベルの口から聞いたことがある。そうして記憶を洗えば、もう一つ理解できることがあった。
 それは、ラケルタがここにいる理由。
「……そして、連絡役がラケルタさんだった、と」
 言われた浅黒い肌の男が、軽く目を見張る。ラケルタ・オイゲン。道理で初めて会った時ですら聞き覚えがあったはずだ。彼は姿こそ見せていないが、何度も父を訪ねてこの屋敷に来ていたのだ。
 イオナは背後に立つラケルタに、不味いとわかっている料理に向けるような目で一瞥をくれ、
「気付いていたか」
「いえ、確信したのは今さっきです。そういえば何度か、父の周囲でオイゲンさんという名前を聞いたことがありましたから」
「――馬鹿正直に本名を名乗っていたのか、お前」
 ラケルタに話しかけた途端、イオナの声には毒を含んだ棘が生える。男に対する嫌悪か、それともラケルタの浅薄さへの怒りか、あるいはその双方が理由であろう。
「申し訳ありません」
 隠密行動を子供に見破られた形になってしまった准尉は、言い訳の言葉もなく、頭を下げた。カーチャが推測するには、彼は父に対する一応の礼儀として偽名を使わなかったのではなかろうか、と思っている。
 やれやれ、とイオナは溜息を吐き、
「お察しの通りだ、カーチャ。俺達はこの馬鹿を使って〝足長おじさん〟とやりとりを行っていた。正確には、レオニード氏とラケルタが直接対話し、その次にラケルタからベルが連絡事項を受け取るという流れでな。実を言うと、お前のことも言付かっていた。俺達の仲間になるよう、そっちで説得してくれ――とな。残念ながら、そうする前にこんな事になってしまったんだが」
「説得……? どういう意味でしょうか?」
「そのままの意味だ――と言いたいが、実を言うと少しややこしい」
 そこでイオナは香茶をもう一口飲んで喉を潤すと、
「長い話になる。無理な注文かもしれないが、楽にして聞いてくれ」
 そう前置きし、その全てを語り出した。

 結論から言おう。
 イオナ達の最終目的は【軍事クーデター】である。
 そしてカーチャには、その後の政治の主翼を担ってもらいたいと考えている。
 ――イオナの話を要約すれば、以上のようになる。
 目を剥いて驚愕したのは言うまでもない。
 まずイオナが弁解したのは、正確に言えば自分たちはテロリストではない、ということだった。無論、先程自称したテロリストというのは言葉の綾で、そう言えば伝わりやすいと判断したからに過ぎない、とも。
 テロは歴史の流れを停める愚劣な行為である。イオナ達にはそのような非生産的なことをするつもりは一切なかった。
 実を言うと、定期的に行われる『戦闘訓練』の敵性対象の者達も、本来ならば、この国の暗部を知って立ち上がった同志なのだという。
 ちょっと待って欲しい。ならば何故、彼らをあのように殲滅してしまっているのか――当然、カーチャはその問いを発した。
 邪魔でしかないからだ、とイオナは躊躇なく答えた。遺憾だが、彼らの行為はまさしく愚かなテロリズムであり、建設的な政治手法が全く考えられていない。破壊の後には必ず創造が必要になるというのに、彼らはその事を致命的なまでに失念しているのだ、と。
 また、よりにもよって自分たちのところへあのような任務が回ってきているのだ。上層部がこちらに対して何かしらの疑念を抱いているのは、ほぼ間違いないだろう。自分たちは試されている可能性がある。そうとなれば、クーデターを企てていることを見抜かれるわけにはいかない。ましてや、戦闘中は〝エア・レンズ〟で四方八方から監視されている状態だ。いくら志が同じといっても、仲間に誘うわけにはいかない。かといって手を抜いて見逃せば、また余計な活動を起こして自分たちの障害となる可能性が生まれる。ならば、後顧の憂いは絶つのみ。
 故に、全滅させるのだ。
 そうは言っても、仲間がいらないわけではない。こう見えて密かに、ワルキュリア軍とアインヘルヤル軍の双方で同志を見つけては事情を話し、協力を取り付けているのだ。
 ――どうやって?
 そうカーチャが尋ねると、イオナはこう答えた。
 俺とベルが体を張って、と。
 話が大人にしか解らない方向へ転がりそうになった瞬間、最近とみに意思表示行動が増えてきたサイラが大きな掌でテーブルを、タン、と叩いた。それ以上はいけない、というジェスチャーである。都会に来て初めて出来た友達を護ろうとするサイラの想いは、皆が意外に思うほど強かった。これによりイオナは一旦は口を噤み、こう言い直した。
 ――俺が女と、ベルが男と仲良くなり、その中から〝戦争賭博〟で親族、友人、恋人を失った人間のみを抜粋して声をかけている。
 これは、本当に信頼できる仲間を見つけ出すための手法であり、別に好きこのんでやっているわけではなく、いや、だからと言ってやましいことをしているわけでは決してないぞ――とイオナは言い訳をしていたが、どう考えても趣味と実益を兼ねているであろうことは疑うまでもなかった。
 さて、そんな自分たちになにより必要なのは、政治的なリーダーである。我々全員の思想を体現する指導者的存在、グラッテン国民が納得できる血筋と実績を背負った人物。それがいなければ、自分たちはそれこそ殲滅対象のテロリストに変わりなく、いっそ愚連隊にすら劣る集団となる。
 当初はその役割を、カーチャの父、レオニード・ファン・ヴォルクリング氏に求めていた。だが彼は既に高齢であったし、クーデターを実行に移す日もいつになるかまだ見当もつかない状態だ。無論、充分な戦力が揃えば決行する気でいるのだが、それだけの仲間を確保するにはやはり多くの時間が必要になるだろうという結論に達した。故に、自分たちは次世代の体現者を求めた。そして最有力候補として浮かび上がってきたのが、誰あろうエカチェリーナ・ファン・ヴォルクリングなのである。
 当然と言えば当然の話だった。これまで幾度となく時の首相を輩出してきたヴォルクリング家の後継者であり、加えて世紀の天才少女として世界中から絶賛され、さらに〝戦争賭博〟反対派かつ軍事クーデターの共謀者でもある父を持ち、現在の政府に母を謀殺されたのが、カーチャという少女である。
 これ以上の逸材が他にいるだろうか?
 いたら大変である。そんな冗談が飛ばせるほど、出来すぎなぐらいに条件が整っているのだ。すぐさまレオニード氏も含めて、自分たちはカーチャを仲間に引き入れるための段取りをつけた。
 その結果、八歳のカーチャは特例で軍に入り、特務機関ラーズグリーズへ配属されたのだという。
 これは同時に、一つのカモフラージュでもあったのだ。イオナはそう語る。
 考えてもみれば、そもカーチャの母・ルイディナはワルキュリアの軍人で、無念にも〝戦争賭博〟の犠牲者となったのである。その軍に、今またカーチャを預けるというのは、何を意味しているのか。
 何の変哲もない目で見れば、愚策であろう。カーチャから母を奪った者達の手に、またしてもその生殺与奪の権利を握らせるのだ。【敵】にみすみす利する行為に他ならない。
 しかし、いや、だからこそ意味がある。【敵】はレオニード氏のこの行動を『軍門に降った』と受け取るだろう。こうして一人娘ですら預けるのだから、もう抗う意思はない。だからもう何もしないで欲しい――と言葉ならぬ言葉が伝わるはずだ。つまり、一種の〝人質〟である。
 こうして表向きは服従すると見せかけ、レオニード氏とラーズグリーズから疑いの目を逸らし、なおかつ未来への布石を打つ。面従腹背の計である。ここ一ヶ月の間、カーチャの身に降り懸かった事象の裏には、そのような目論見があったのであった。
 クーデターが成功すれば、現在の政権は粉微塵に崩壊する。その時、スペルズ及び他国がどう動くかを自分たちは想像しなければならない。そうすれば自ずと、【暴力以外の大切なもの】が見えてくるのだ――イオナはそう言った。
 話の筋は通っていた。自らが置かれた境遇を鑑みて、カーチャはなるほどと納得していた。
 自分のような子供が軍に入る羽目になったこと。その特務機関が『戦闘訓練』と称して実際には反乱分子の鎮圧を行っていたこと。イオナとベルが漁色家のようにしか見えなかったこと。全ての答えが、そこにはあった。

「お前はまず母親を奪われた。そして今日、父親までもが奪われた」
 貴賓室に響くイオナのその言葉は、ただの事実確認だった。しかし、その声にはカーチャに対して訴えかけるものがあった。
 ――理由は充分だろう?
 イオナは、言外にそう言っていた。
「カーチャ、俺は敢えて言おう。お前に、俺達の【仲間】になって欲しい、と」
 ゆっくりと、こちらをひたと見据えて放たれた言葉を、カーチャは真っ正面から受け止めた。
 これがイオナの言っていた『説得』なのだ、と悟った。
 カーチャは既に一度、ラーズグリーズの仲間としてイオナ達に迎えられている。だが今、イオナが言っている【仲間】とは、さらにその奥にある領域に立つことを示していた。
 そこに立つには、生半可ではない覚悟が必要だった。命を賭け、これまでの全てを捨て、復讐に生きることを誓わねばならなかった。それが出来なければ、待っているのは破滅だけだろう。中途半端な気持ちで望めば、皆の足手まといになることは明白だった。
 怖いなら、自信がないのなら、やめておいた方が良い。イオナのトパーズの如き瞳がそう囁いていた。もしここで首を横に振れば、きっとカーチャはラーズグリーズから離れ、両親を喪った悲しみを呑み込みながら、それでも平穏な暮らしを得ることが出来るだろう。それも一つの生き方だった。少なくとも寿命は全うできるだろう。
 人生における決定的な二択に対して、しかしカーチャは即座に答えを出した。
 迷いは無かった。
 後じさることも、腰を引くことも、躊躇うことも、怖じけつくこともなかった。
「なります」
 強い声で、真っ直ぐに答えた。
 直後、カーチャはかぶりを振った。今の台詞は適切ではなかったため、言い直す。
「いいえ、お願いします。私に、皆さんの力を貸してください」
 毅然と少女は言った。力を貸す、仲間になる――それは主か従かで言うと後者になる。それはカーチャにとっては違う。他人の尻馬に乗るのではない。自らの手で、その意思で、これぞと決めた道を進むのだ。自分こそが、主なのだ。
 カーチャは貴賓室にいる全ての者を見渡した。イオナ、アイリス、ベル、サイラ。それらの背後に立つ、ラケルタとイーヴァ。そして傍に侍るメイドのハンナ。全員が、真剣な表情でカーチャを見つめていた。
 琥珀色の眼差しに決意と覚悟を漲らせて、カーチャは断言した。

「私が、この国を変えてみせます」

 生きながら伝説となる少女の、第一歩だった。



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