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第一章『【唯我独尊】と無謀の侍』
獣(ケダモノ)の唄

 地獄のような景色だった。壊れた屍体が転がり、人の破片が散らばっている。
 逃げ出そうとする学生たちの目の前には地獄の悪鬼か閻魔の部下か、黒い牛鬼が立ち塞がっている。
 ぐしゃぐしゃとその口が動く。ぐしゃぐしゃと肉が噛み潰される。口の端からは大量の血液が滴っている。
 輩の肉だ。

「―――悪魔―――」

 誰かが、そう言葉を零す。だが、そうではない。そんなものではない。
 銀髪を逆立てた長身の戦士。設楽工房製A+ランク長槍【ガムノイ】を片手にした男、堂島海ドウジマ カイはこの依頼を受けるべきではなかったと、自身が下した判断を改めて間違いだったと内心で断じていた。
 海の目の前では牛鬼が足元に散らばる屍体に腕をたたき付けている。ぐしゃり、と肉がはじけ、鎧や衣服が破壊されていく。
 がきばきぐしゃり。がきばきぐしゃり。
 骨が砕かれ、肉が混ぜ合わされる。
 Sランクモンスター【ミキサージャブ】。【掻き混ぜ喰らう者】。恐ろしき悪魔。恐るべき悪鬼。
 最強の人類たるSランク。それを四人。単純計算にして十六倍の戦力をたった一頭で撃退した強すぎる生き物にランクA+のパーティー【狩猟者の宴】は全滅の憂き目に遭っている。





 【手垢のついた設定の手垢のついた物語】





「ふ、副リーダーッ。ど、どうすりゃいいんですか」
「海さんッ」
「海ッ」
「海さぁんッ!!」

 アリアスレウズ三十六階、彼の獣が封印されていた階層。アリアドネの森。
 中央の石室とそれ以外は全て生体と機械を混ぜて生育されている木々によって作られた森林地帯。主に出現するアリアドネと呼ばれる巨大蜘蛛のモンスター以外は、それの餌になる繁殖能力の高い飛蝗型モンスターや蝶型モンスターのようなランクの低いモンスターしか存在しない階層。
 今現在、その入り口は丸々と幹を太らせた木々が積み重なり、封鎖されている。学生が薪や部材として使えるようにか、転移用のナノマシンが組み込まれていないそれは―――基本的に転移用ナノマシンは組み込まれた対象から生命力が完全に失われた際に転移を開始するように設定されている―――管理側の転移によっても排除することができない。
 そもそも基本的に、ダンジョン実習はそれらを排除することなども含めて実習と見なされている。そして、単位を失っても、力がないと判断されても、命を失うのが嫌ならば、単位を消費してでも管理部に救助を要請するべきであった。
 そうするべき状況は既にできている。それでも彼らはそうしない。彼らの人生は勝利しかなかったからだ。勝利の味しか知らない彼らは、敗北に耐え、屈辱を受け入れるということに耐えられない。だから、自力で逃げ出そうとする。どうにもならない状況でも自分たちが持っている材料のみでどうにかしようとしてしまう。
 それでも都合の悪いことに、この階層を外部から封鎖したのは、彼らが討伐しようとしていたミキサージャブだった。
 学園側が公表したミキサージャブの現在地を頼りに狩猟者の宴がこの階層に訪れ、探索へと向かってすぐにミキサージャブが封鎖してしまったのだ。

(どうしてこんなことになりやがった……)

 海たちは、この階層に訪れた。最も効率的に狩れると判断した階層。【勝利の塔】が遭遇した階層でなかったことは残念だったが、策は幾つも用意してあった。
 今回は陣地を用意し、重火器や火器の射線に誘い込む予定だった。
 そうして、捜索と誘導のために狩猟者の宴はパーティーを分割し、探索に向かわせた。陣地は強固に造ってあった。戦力も固めてあった。そこを襲撃されるなど夢にも思わなかった。いや、誘い込むのだから都合が良いとすら思っていた。
 そんな予想は簡単に覆される。探索に向かったもの達からではなく、木々のない、四方の見晴らしの良い広場に作られたAランクやA+ランクで固めていた指揮所が襲われた。距離もあり、建材を転移し、簡易的な砦にもなっていた。それを急襲された。ミキサージャブは砦を攻めるために咆哮のひとつもあげず、駆け寄った。狩猟者の宴は前情報から猪突猛進のみが特徴のモンスターだと油断していた。
 砦は攻勢に出る前に壁をブチ破られた。防御も間に合わない速度での侵攻。まさしくあっと言う間だった。事実、崩壊寸前になってから副リーダーである海の元に救援要請が来たぐらいだ。
 当然、間に合うわけもなく。砦の人員は全て殺されていた。全てが終わった後に海だけが見に行った場所には、歯型のついた鎧と所有者のいなくなった武器のみが乱雑に砦に残されているだけだった。
 だから、この場にいる、生き残った彼らの中から倒すという考えは完全に失せていた。最初の目論見である、四方を岩で囲まれた一本道に誘い込み、銃弾で一方的に蜂の巣にしようという計画が、この階層に来たことで達成できなくなった時点であきらめるべきだったのだ。
 擬似的にそれを為そうとした砦は先に制圧され、今、海を含め、狩猟者の宴は途方にくれるしかできていない。

「どうすればいいと思う?」

 逃げるためには、生き残るためには。
 単位を使うなど論外だ。今回の損失を埋めるだけでも相当に金を必要とする。リーダーも殺されている。主力もいなくなった。ここで単位を使ってしまったら卒業が危うくなる。海たちのような派遣を目的としているパーティーは、失敗イコール仕事がこなくなるのと同じだ。派遣パーティーはいくらでもいる。誰も、一度失敗した人間の手を借りようとは思わない。それも壊滅しかけだ。誰もそんなパーティーに力を借りようとは思わない。
 だから、自分たちだけで逃げる。風評はもう取り返しはつかないが、単位の乱用だけは避けなければならない。
 それでも、海は最悪を考える。
 既に脱出計画は二度失敗していたからだ。
 魔法を用い、遠距離から木々を排除。その隙に出口へと駆け抜ける方法。
 爆薬を仕掛け、ミキサージャブを何名かが相手取ってる間に遠距離から木々を爆破。その隙に逃げる方法。
 既に試した二つの逃亡案は、二つとも失敗した。
 最初に試した柵の排除は、柵を排除した瞬間にミキサージャブが出入り口へと駆け寄ってきたことから。
 そしてその結果を元に作成した第二案。ミキサージャブに駆け寄る暇を与えず逃げ出す方法。
 これも失敗した。当初、残っていたA+ランクの五名のうち、時間稼ぎに志願した三名が死亡。またその際に丸太を排除し、B+ランクなどの年少の者から逃がそうとしたAランクたちも多数死亡。当然、その際に前途あるB+ランクの者たちも殺された。喰われた。
 別に、ミキサージャブが時間稼ぎを振り切ってAランクに急襲したわけではない。A+は時間稼ぎにもならずに力技で瞬殺された。それだけだ。そうして丸太の破砕音を聞いたミキサージャブが、三十五階へとつながる階段内でB+ランクを悠々と殺害しただけである。そうしてまた丸太で柵ができた。本当にそれだけだった。

「なぁ、どうすればいいと思う。皆、意見を出してくれ」
「一゛か゛八゛か゛、皆゛で゛襲゛う゛」

 そうして、誰もが黙りこんでいる中、暗い、暗い声で喜悦の混じった意見を出したのは、殺す場面を間近でみたいと、むしろ殺害に参加したいと言い、索敵に志願したために奇跡的に生き残っていた藤堂正炎だった。
 車椅子に座り、その後ろには正炎に劣らず暗い表情の少女がそれを保持している。

「意見はないか?」

 舌打ちのみでその意見を完全に無視した海は、他の面々を見る。二度の逃亡劇の失敗。それらが彼らから発想と気力を奪っていた。
 鬱蒼と茂る森。死角だらけの森。ミキサージャブに狩られ、二十名はいたAランク、三十名いたB+ランク。十名もいたA+ランク。それらが次々といなくなり。今残っているのは、たったの十五名だ。しかもそのうちのふたりは車椅子の正炎とその補助の少女。実質戦闘が行えるのは十三名だけ。さらに悪いことにその中の八名はB+ランク。

「なんで、なんで、こんなことに……」

 ぐすり、と泣き言と共に図体ばかりがでかい、普段は凶暴なモンスターに対する盾役として活躍している少年がつぶやいた。残りの数少ないAランクですらそんな泣き言をいうしかないという状態に海は内心で荒れ狂う感情を吐き出しかける。

(ああ、そうだよそうだよ。なんでこんなことになってんだよ。糞ッ。糞ッ。糞ッ。なんでだ? なんであんなに奴は賢い。待ち伏せッ。罠ッ。指揮所まで突き止めてやがったッ。なんでだ? なんでだ? なんでだ? こいつのでかい討伐は俺たちが初めてだったはずだ。人間の討伐に対応する方法なんぞ覚える暇もなかったはずだ。血道はともかくSランク連中なんぞただの遭遇戦だったはずだろう。人間の集団と戦う方法なんぞ奴ん中で確立されてるわけが……)

 海の中で何かが噛み合う。今まで全く考えていなかった可能性。自分たちがなぜ、どうして、ここまで追い詰められているのか。
 基本的な考え方の違い。狩猟者の宴が目的としていたのは、この、ダンジョンで生育されていたSランクのモンスターの討伐。そうして用意してきたのは、人間の肉の味を覚えて調子に乗ってる阿呆を袋叩きにする戦術。

「あ、あぁあぁぁああぁ」
「海さん?」
「どうしたんすか?」

 用意していたのは、追っているはずが、いつのまにか追われる側になっていた、などという状況を作り出すための狡猾な罠。

「そうか。糞ッ。ああッ、糞ッ、糞ッ、糞ッ」
「副、リーダー?」
「か、海さん?」

 それを、発揮する前に叩き潰された。つまりは、敵はそれが発揮するでろう効果をわかっていた。

「正炎ッ。てめぇッ。てめぇッ。イモ引かせやがったなッ!! 糞ッ。情報屋めッ。肝心な情報が抜けてやがるじゃねぇかッ。ああああああ、糞ッ。糞ッ。糞ッ。あああああああああああああああ。騙されたッ。何がミキサージャブだッ。糞ッ。アイツはッ、アイツはッ」
「海さんッ。ちょ、ッ、静かにッ。大声ッ。大声ッ」
「何があったんすかッ。海さんッ。ああ、やめッ」
「黙らせろッ。早くッ。早くッッ!!」

 そう。ならば導き出される答えなどわかりきっている。
 騒ぐ海の頭上より、木々を掻き分けのそりと現れた黒い影。それは声を張り上げた海の頭上から黒い、闇色の、漆黒の、血にぬれた、何もかもを砕いてきた戦斧を振り下ろすと。海へと手を伸ばした少年の頭頂部より股間までを一撃で叩き切る。
 じわり、と正炎と少女以外の全てが停止した。停止し、すぐに恐慌が沸きあがる。

「あああああッッ、なにしてんだテメェ!? なんで騒いだッッ!!」
「ああ、糞ッ、糞ッ、セムレイッ、セムレイッ!! あああ、セムレイが殺されたッ!?」
「に、逃げろッ。さっさと逃げろッ!! 海ッ!! てめぇが押さえろッ。俺は逃げるぞッ!!」
「いやぁっぁあぁぁぁああぁあああ!! もう嫌ッッ!! もうッッッ嫌ッッッ!!!!」

 逃げる者から殺される。後ろを振り向いた瞬間に追いつかれ、ばらばらに砕け散る。人間の部品が宙に浮いている。それに叫び声を上げ、正気なものが正気でなくなっていく。周囲へと肉片が散らばっていく。
 海は、こんな状況なのに仲間の一人であった男に涙ながらに殴られながら、呆然と突っ立っていた。神術を生業とする治療役としてつれてきたその男は、その一瞬後、ただの肉塊となって地面へと転がる。
 海に当たらなかったのはただ運がよかっただけだ。愛用の長槍を握った海は、完全に勝ち目がなくなっていたことを、未だに理解していない周囲の連中に、自分が見つけた絶対の真理を叩きつけるために咆えた。

「ああ、ああッ、ああッ! こいつはなッ、こいつはなッ! 外のモンスターだッ!! ミキサージャブなんてたいそうな名前はなッ! シェルターの外ッで、前線の連中ぶっ殺して入手した大層な通り名なんだよッ!! 俺たちには最初から勝ち目なんかなかったッ! 負け戦だったッ。負けるしかなかったんだよッ。てめえぇええええらぁっぁあッ!!」

 ずどん、と暴虐が止まった。ミキサージャブ、正炎と少女、海、残った三名の男女。彼らは海の言葉の意味を改めてかみ締めた、わけではない。当然、ミキサージャブの暴虐が止まったのは海の言葉の意味を理解したためではない。そんなものではない。ただ、肉が溜まっただけだ。
 ぐしゃりぐしゃりと肉がかき回される。海たちの目の前で、海たちの仲間の肉が、ぐしゃぐしゃと鎧や武器や、衣服を巻き込みながら、ただの肉の塊へと変わっていく。

「や、やめろぇッ! ぅべッッ、うべべえばぁばぁたぇぇぇぇええぇぇえええ」

 肉の中に恋人が混じっていたためか、一人が肉の中に飛び込んだと同時にただの肉になった。
 正炎が皮肉るようにして頬を吊り上げ、毒のたっぷり塗りつけられたボウガンを取り出し、その後ろでは少女が同じものを構えている。
 残った二人の男女はただ震えるのみだった。
 誰も海の言葉など聞いていなかった。
 誰も、外か内かの違いなど気にしていなかった。

 そうして、暴虐と暴食の時間が始まる中。がさりと海の背後から草と葉を掻き分ける音がした。海を通して、海の背後を見たミキサージャブが初めて、その黒く、ギョロリとしたモンスター特有の、何が映っているかわからない瞳で、明確な、敵を見る目つきでそれを見た。 

「ああ、ここにいたのか。探したぞ―――」

 人間の声に振り返る海。がさがさと葉を掻き分けて黒い男が現れた。
 黒い。漆黒の着流しを纏った東洋顔の男。全体を見て、防具として使えるのは頑丈そうなゴツいブーツだけ。
 その男は暴虐を為したモンスターを見つめ、万感の篭もった言葉を吐き出した。

「―――ミキサージャブ」

 武器だとわかるのは腰に佩いている大太刀が一本。
 海や正炎が見つめる中。狂ったような笑みを顔に貼り付けた男がただ一人。そこに立っている。

 ヴォォオオオッォオオオオオオ!!!!! ヴォオオオオオオッッッ!!!!
 
 ヴオオォオオオオォオオオオオオオオオオォオオオオオオッッッッッッッ!!!!!!!!!

 直後、言葉に応えるようにして、獣が咆哮を上げた。
 それが闘いの、死闘の始まり。




       第一章『【唯我独尊】と無謀の侍』
               最終話【(ケダモノ)の唄】




 学園都市で、ダンジョン実習で、外の世界で、この世界の彼方此方で、弱いことは罪で、それに対する罰が身体の欠損や、生命の喪失へとつながる。もちろん、身近な人間の死というものもそれには加わっている。
 弱さで何かを為すことはできない。肉体的にも精神的にも弱者であるものには敗北しか用意されていない。
 ミキサージャブへと向かう道中は、浩一にとって自身の弱さを次々と思い知らされる場面の連続だった。
 ちゅぃん、と、再び月下残滓が名前のない無銘の生体剣に弾かれる。

「―――ッ。らッ、ッ、せぃ!!」

 一対一。Aランクの亜人であるナイトとの戦闘。それもナイトの中では最も位の低い従騎士との戦闘。
 浩一が二日前に相手にしていたアックスよりも確実にランクがひとつは下がる斬撃が執拗に浩一へと襲い掛かる。
 無骨な生体剣が縦へ一閃。横へ二閃。浩一の着流しの(エリ)に切れ目を入れ、その下の肌に赤い線が走る。皮を切られ、浩一の身体から血が噴出する。浩一の両眼は従騎士の動きを捉えているが、対応ができていない。速さに身体が追いついていない。
 それでも闘いは続く。跳ねるようにして浩一は距離をとり、全身を錆色の全身甲冑で覆い、鉄兜を被った少年の姿のモンスターへと再び襲い掛かった。



 戦闘の終わりまでには十分ほど掛かった。細かい傷を全身に負いつつも浩一は、月光を纏わせた月下残滓を用い、ナイトの右腕を甲冑ごと切断。更に腕を失い体勢の崩れたナイトに追い討ちをかけ、その首の切断にも成功した。
 鉄兜の奥にある感情のないモンスター特有の目玉が見つめてくる中、浩一はぜぇぜぇと息を吐き出し、床へと座り込んでいた。
 ここはアリアスレウズ地下三十四階。目的とするミキサージャブまであと二階層。

「新しいモンスターが出るたびに苦戦に次ぐ苦戦。本当に大丈夫ですの?」

 ニヤニヤ笑いながらアリシアスが呆れ混じりの言葉を吐く。身体能力において遥かに上のモンスター。相対した経験も、戦闘を行った回数も皆無の敵たち。
 撃力で敗北し、速度において劣り、耐久などBランクと隔絶した硬さを誇る彼ら彼女ら多種多様なモンスター達。

「まぁ、な。きついが……」
「きついが?」
「見ろ。ちゃんと倒した」

 笑う浩一の前でナイトの死骸が光へと変わっていく。また、浩一が一体を倒す間にアリシアスが倒した四体のナイトの死骸も光へと変換されていく。

「まったく、変なところで自信家ですわね」
「男なんてそんなもんだ。っと、来たな」


 No.0038467 ナイト[new]
 耐久:A  魔力:C  気力:A  属性:無
 撃力:B  技量:B+ 速度:B+ 運勢:C
 武装:生体剣 生体甲冑
 報奨金:1200G
 入手アイテム:獅子紋の欠片

『ナイト種『従騎士』三体、ナイト種『騎士』一体の討伐を確認しました。イベント『王国征伐』を進めるには更にナイト種『騎士』を四体討伐してください。また、ナイト種『騎兵』、ビショップ種『僧侶』、ナイト種『騎士団長(ナイトリーダー)』を倒すことでイベントは進行いたします。なお―――』
 
 あらあら、如何します? とアリシアスが問いかけてくるのに、浩一はにやりと笑う。

「当然。下の階に一直線だ」
「妥当ですわね。それに無駄に時間を使ってる暇ではありませんもの」
「まぁな。確かに経験にはなるが。今は一刻も早くアイツと闘いたい」

 血を流させ、肉を切り裂きたい。無論、それの逆もあるかもしれないが。それでも死闘への欲求は尽きない。
 血振りを済ませ、月下残滓を鞘に収めると浩一はそんな己の高ぶりを治めるようにして息を吐く。

「それで、どこまでミキサージャブについて知っていますの?」
「と言うと?」
「アリアスレウズ。つまりここを攻める前に一日のインターバルを入れましたから。調べたのでしょう? それなりに確度のある情報を」

 まぁ、な。と浩一は頷く。新聞部にして情報屋の側面を持つ友人から一応の情報を仕入れることはできていた。もちろんこれはダンジョンに潜る前に頼んでいたことだったため、結果を知るだけでよかった。
 無論、ソースをひとつだけに限定するわけにもいかないから、借りをあまり作りたくない人物の元にも訪れてはいた。

「借りを作りたくない?」
「……峰富士、智子さんだ」
「ああ、【智の暴虐】ですの? というか妙なコネがありますのね」
「バイト先だよ。で、だ。ミキサージャブについてだが」

 情報屋の友人からは仕入れた情報はひとつ。ミキサージャブについてではなく、ミキサージャブを討伐しようとする狩猟者の宴と呼ばれる派遣パーティー。主要人物と装備のみを聞き、周到に用意をすればミキサージャブといえど苦戦は免れないと推測はできていた。
 それでも浩一の現在のパーティーメンバー。唯我独尊の通り名を持つ修道女は嘲笑いながら否定する。

「浩一様、恐らく狩猟者の宴では無理ですわ。何故なら」
「何故なら?」

 アリシアスは可憐に、見るものを虜にするだろう微笑みを浮かべ、口元に闘争への自信を浮かべ。

「わたくしが敗北した相手にそこらのパーティーが勝てるわけありませんもの」

 当然。というようにのたまった。

「そ、そうか。いや、ま、まぁ、そうかもしれんが。とりあえず峰富士さんからもらった情報もひとつだ」
「あら? ひとつ、ですの?」
「ああ、そうだが。何かあるのか?」

 奇妙な表情で首を傾げた後、いえ、とアリシアスは首を振る。そうして浩一に先を言うように促した。
 促す一瞬、アリシアスの顔が策略か何かに嵌められたかのように悔しげにゆがんだような気もしたが、浩一は構わず続けた。隠すということは知られたくないからだろうし、知って何かをしようとは思わなかったからだ。

「ミキサージャブは、外から連れてこられたモンスターらしい」
「他には?」
「いや、あまり必要そうな情報じゃなかったな」
「どんなものですの?」
「三年前に南部の前線にある森に出没して、前線の一部で兵士を喰いまくってたって情報だが」
「はぁ、……馬鹿」

 おい、と顔をしかめた浩一にアリシアスは管制から手に入れた情報で、【狩猟者の宴】が戦闘を行っていると思われる三十六階の構造を懇々と語ってやる。三十六階層は一部を除き、森林が鬱蒼と茂る階層だと。
 ああ、なるほどと浩一は不機嫌そうな顔の中に、理解の色を浮かべた。

「接触する前に戦場を決めた方がよさそうだな」
「それが良いと思いますわ」
「ああ、助かった。ありがとう」




 都市構造のような石材製の建築物が並ぶ迷宮を進む。周囲への注意は怠らず二人は会話を続けていく。
 そんな中、アリシアスは思考をも進める。
 恐らく、峰富士智子は不意打ちからの接触で浩一が死なないように釘をさしたのだろうとアリシアスは推測したが、どうして浩一に目を掛けているのかまではわからなかった。
 当然、外から連れてこられたモンスターだというのはアリシアスも知っている。一度敗北しているためか、調査は念入りに行っていたからだ。とはいえ、アリシアスが未だ知ってはならない軍機にも触れるため、前線の情報までは降りてこなかった。だから森を住処にしていたというのは初めての情報だ。

(わたくしと同じような興味をもったのでしょうか?)

 浩一を、軍機を教える程度に気に入っている? それとも利用価値がある?
 むしろ他にも教えられる情報がありそうなのに、それだけしか教えなかった、というのも疑問だ。アリシアスが傍にいるなら必要ないと判断したのか。それとも浩一ならばそれだけで問題ないと判断されたのか。
 経験や熟練のみで敵を打倒する男。そんな生き方に、あの【智の暴虐】が何らかの興味を示す。ありえなくもないが、的を得ているとも思わない。あれはそんな即物的な人間ではない。アリシアスのように今、ここにある力を欲しているわけではない。

 浩一はなんらかの餌? それとも何かの実験中? わたくしのような人間を引っ掛けるため?

 思考を進める。ミキサージャブのことは思考から外す。それは浩一が考えるべきことだからだ。
 自分がなんらかの罠に嵌りかけているのかもしれないという面白くない状況を打破するためにアリシアスは思考を進めていく。



 三十六階層へとつながる通路。螺旋階段が存在するフロアは地獄の様相を呈していた。
 血飛沫。人の破片。壊れた武具。それらが無残に転がっている。天井からは誰かの腸らしきものもぶら下っていた。

「四十三区の家畜小屋じゃあるまいし。凄まじいな」
「四十三? ああ、ダンジョン【畜生道】ですわね。あそこはわたくし行った事はありませんわ」
「悪臭が酷い場所だった。あとはこの状況と大体は同じだ。【歩く肉】って繁殖力のやたら強いモンスターがいてな。そいつの肉目当てに肉食連中が闊歩してるような場所だった」
「……わかりましたわ。その、歩く肉の肉片がフロア一面に転がっている、ということですわね?」
「まぁ、そんなもんだ」

 頷いた浩一は肉を踏まないようにして普段よりも幾分か慎重に階段を下っていく。壁に張り付いていた人の顔がこの先にミキサージャブがいることを如実に物語っていた。

「それで、どうしてそんなダンジョンに? 浩一様の趣味ですの?」
「趣味、というか。単位目当てにな」

 なるほど、とアリシアスが自身の進路上にある肉片を蹴り飛ばす。自身に避けようという考えは浮かんでいないようだ。
 浩一も他人の主義に口を出すような趣味はないためそれには触れず階層を下っていく。

「三十階層をひとつ下るも、十階層をひとつ下るも同じ一単位。ならばさまざまなダンジョンをそれぞれに下るのも本人の自由。とはいえ、そこに単位以上の意味がないならば授業の一つも受けたほうが身になりますわ」
「それは、そうだ、な」
「忠言は耳に痛し。苦言は心に痛しともいいますけれど。ふふふ、浩一様はどのように感じます?」
「あー。あまり苛めるな。わかってはいる。いるが、刀を振るう理由にもなるしな。実戦は経験になる。無駄とは思わん。それに俺は生活費を稼ぐって目的もある。単位ひとつが目的じゃないんだよ」

 ぼりぼりと頭をかきつつ降参、というように本音をこぼす浩一。自身が貧乏と金持ち相手に言うのは最初は嫌味や妬みにとられるかと思い自重していたのだろうが、これではさらに情けなさが出てきてしまう。とはいえ、アリシアスは浩一のそんな気遣いというよりは見栄が面白いらしくクスクスと笑っている。
 これからミキサージャブと戦うというのに二人は落ち着いて話を続けていく。浩一が何かを取り繕うたびにアリシアスは剥ぎ取って本音を引き出させてしまっているが。
 しばらく二人は細々と会話を続けながらも進み、そうしてそれに進行を阻まれたのだった。

「木、ですわね……」
「木、だな。これは、学園がやったのか?」

 それにしてはお粗末だな、と続ける浩一。封鎖したいならシャッターのひとつも下ろすものだろう。

「いえ、浩一様。これはモンスターが行ったようですわ。一度か二度、魔法で排除したあとがありますもの」
「……ミキサージャブか?」
「そこまではわかりません。とはいえ、今の状況下なら十中七は、ミキサージャブですわね。確かに、外のモンスターであるならばその程度の知恵は持っていそうですし。人間ならばついでに地雷の一つも仕掛けてますもの」

 そうして排除しようと杖を振ろうとするアリシアスを留める浩一。

「ちょうどいいからこれはこのままにしておくぞ。恐らく鳴子の役目もあるだろうから、手近な隙間から入ろう。上手くいけば気づかれずに接近できるかもしれんしな」
「隙間のようなところから入って、身動きのとれないところに襲われる、という考えは?」
「ない。なぜなら」

 浩一は自信に満ちた口調で言い切る。

「そこまで接近してるなら既に戦闘は始まってるからな」
「……ですわね。わかりましたわ。浩一様に従います」

 それに、と二人は同時に思考を進めた。
 戦闘するべき場所を最初に探しておくべきだと。ミキサージャブと突発的に闘いを始めても、ただ殺されるだけだ。



 戦闘を進めるに置いて、場所の選定こそが一番重要視される。
 草を刈ったり、石を除去する、とまではいかないが、周囲を探り不確定要素を排除する程度の下準備は必要だった。
 浩一とアリシアスは物音を立てずに木々に囲まれた開けた平地をいくつか探り、それらに優先順位をつけていく。途中、血飛沫や肉の塊、また、中身や持ち主のいない武具を見つけ、狩猟者の宴が全滅していることも確認していた。もしくは全滅している途中なのか、と。
 しかし戦闘の空気は感じ取れない。絶叫や悲鳴なども届いていない。やはり全滅したのだろう。いや、ならば出入り口を封鎖している意味はない。やはりいまだ生き残りがいるのだろう。小声でそのような考えを交わしつつ、二人は五箇所めの戦闘に適した場所を発見し、周囲の索敵といくつかの仕掛けを施していく。
 さすがに無策で挑むわけにもいかないからだ。浩一は未だ強さが足りず。アリシアスは戦闘に加わるつもりがない。ならば多少なりとも策を施しておくべきだろう。
 ここに訪れる前にアックスを倒し、手に入れた報奨金は全て準備に使い切っていた。アックスから入手したアイテム類も売り飛ばし、その際の資金へと変換している。

「浩一様」
「ああ、わかってる」

 そうして、遠く、何か巨大な気配を二人は感じた。森の中、離れた場所とはいえ一度感じている気配。しかも相手は狩りの途中。優れた戦闘者であり、索敵即殺を所持し、ミキサージャブとの戦闘経験が一度なりともある二人にははっきりと感じ取れるものだった。
 いや、相手に隠すつもりがないのだろう。周囲は獲物ばかり、周囲は肉ばかり、ならばむさぼり食らうのみ。そう敵は語っていた。

「そろそろ、か」
「そうですわね」

 無銘の着流しを浩一は脱ぎ、購入しておいた衣服をPADより取り出した。浩一が脱いだ着流しをアリシアスが畳み、PADで転送する。
 浩一は遠くにいるであろうミキサージャブを想い、黒く染められた着流しを身に纏う。
 新しい衣服特有の着慣れない感触も、その場で月下残滓を振るい、剣術の型を実践し、消していく。

「【速度上昇B】【俊敏上昇B】が掛かっていますわ。東方系統の武具での一流メーカー【大和】のA+防具【白夜】。アックスとの戦闘で得た報奨金がほとんど消えてしまいましたけれど、着心地の方はどうです?」
「ああ。動きやすいな。服一着で随分と違うもんだが」
「だが?」
「これだけじゃ勝てないな」
「当然ですわ。それで、埋められそうですの? 彼我の差は」

 わからん、と浩一は楽しそうに笑った。それにアリシアスは馬鹿馬鹿しい、と呆れるしかない。ここまで来て勝てるかどうかわからない賭け事のような気持ちをさらに味わわされている状況にもうんざりしてしまう。
 それでも、どこかわくわくした気持ちが捨てきれないのは、胸の奥にある熱のような感情が原因なのかもしれなかったが、それは言わないでおいた。

「それで、どうしますの? まだ準備致します?」

 むしろしなさい、と言いたい気持ちを抑えて浩一に問うたアリシアスに浩一は首を小さく振った。
 遠くで誰かが大声を上げ、ミキサージャブがそれへと動いていく気配を感じながらも、二人は動かなかった。
 そうして数秒の後に浩一は大きく息を吐き、少しだけ浩一は白夜の稼動域を再確認し、この約一ヶ月あまり振り続けた月下残滓の柄に手を当て、頷いた。

「じゃ、行って来る」
「ええ、わたくしは待っていますわ。この場で」

 仮定した戦場のひとつ。恐らく最初の戦場になるだろう場所を見渡して浩一は頷き。
 殺戮が始まっているだろう場所へと、歩を進めていくのだった。



 会話もなく、始まったのは斬撃の応酬ではなかった。
 
 ヴオオォオオオオォオオオオオオオオオオォオオオオオオッッッッッッッ!!!!!!!!!

 海も、正炎も、その場にいるものたちが薬で散らしている本能から来る恐怖をスキル【侍の心得】の持つ胆力で乗り切った浩一が行ったのは、刀を鞘から出すことなく、普通にダンジョン受付で購入できる拳銃の弾丸を空中にばら撒き、それらの尻に懐から取り出した小刀の先端を勢いよく叩きつけることだった。

「あ、あいつは、何を?」

 海が呆然と言葉をこぼす。雷管を叩かれた弾丸は確かにミキサージャブへと一斉に弾頭を飛ばしていき、それらは確かにミキサージャブへと当たってはいる。
 だが、なんの意味があるのか? ミキサージャブには一切効いていない。Sランクモンスターの耐久はその辺りにいるモンスターとは比べ物にならない。弾丸など、その皮膚で弾き返してしまう。意味はない。挑発程度の意味もない。現にミキサージャブはゆるりと浩一へと歩みを進めていっている。押し留める以上の役にも立っていない。

「ふむ。まぁこんなもんか」

 じゃらりと浩一は更なる弾丸を懐から取り出すとそれらを今度はミキサージャブの顔面へと向けて放ち始める。意味はない。ミキサージャブには効いていない。まるっきりダメージになっていない。
 それでも多少はイラつくものがあるのかミキサージャブの顔面にびしびしと当たる合金の弾頭は、ぱしり、と音を立ててミキサージャブのまばたきに挟まれていた。

「おぅ。ついでだ」

 戦斧を振り上げ、浩一へと歩みを進めるミキサージャブへと一本の筒が放り投げられた。ミキサージャブもそれを打ち落とそうとはしない。両者の距離は縮まりすぎている。ミキサージャブに致命を与えるものならば浩一には致死だろう。その考えがあったのか、ミキサージャブはただ浩一を肉塊へとかえるべく戦斧を振り下ろそうとし。
 カッ、と世界が白に染まった。



 ミキサージャブを浩一が選んだ戦場へと誘導するために主導権を握る。そのために必要なのは真正面から闘いを挑み、ずるずると引きよせていく方法ではない。そんなことができるなら最初からその場で闘いを始めている。重要なのは浩一が主導権を握ること。浩一が主導権を握られないことの二点。
 つまりは、浩一がどれだけミキサージャブから優位をもぎ取れるのか。緒戦で重要なのはそれだけだった。
 そしてそのために必要だったのが、遠距離から攻撃できる手段とそれを上手く扱うための方法である。

「ふむ。まぁこんなもんか」

 浩一は体質からか、銃器や道具類の扱いが致命的に下手だ。文字通り、戦闘では命に関わるほどに、機構の仕込まれた戦闘用の道具類を上手く扱うことができない。刀を愚直に扱っているのもそのためであるし。当然、ピストルやライフルなど、100発撃って10発も的に当たればいいほうだった。
 だから浩一が遠距離へと攻撃するには投針や投石などを用い、ただ単純に投げるなどを行うしかない。だが、それには十分な熟練が必要で、そんなことをするぐらいなら刀を一回でも振るほうが未だ勝率が上がるだろう。
 もちろん、ならば最初から接近戦、というわけにもいかない事情がある。緒戦の目的は用意した地点への誘導。浩一が周囲を把握している場所での戦闘が必要である。遭遇した場所で戦闘を始め、興奮したその場のモンスターが参戦してきたら薄い勝ち目がさらに薄くなってしまうからだ。
 そのために浩一に必要だったのは距離をとって攻撃、というよりは挑発を行える手段だった。もちろんそんなもので警戒心の強い外のモンスターをおびき出せるとは思わない。必要なのは決定的に相手の意識を戦闘へと向けさせる一撃だった。

「おぅ。ついでだ」

 小刀を恐ろしく繊細に、かつ素早く扱い、弾丸を顔面へと撃ち込んでいく浩一。弾丸の尻にある雷管を叩くことで確かに弾丸は弾け飛ぶ。だが、それを確かな場所へと打ち込む方法を会得しているものはそう多くはない。行うことはできるだろうが、やはり無駄だからだ。浩一は太刀と同じく習熟していた小刀を用いての連続した突き、既に熟練している技術の流用を持って浩一はそれを為していた。
 攻撃は止まらない。更なる銃弾の合間に一本の筒を放り投げる。シャコン、とそれは空中で中身をさらけ出すと、周囲の生物の目を押しつぶすような光を放った。

「―――ッッッッッ。シャッッッ!!!!!!!」

 呼気を吐きつつ、たんッ、と自身は光が放たれる前に目を瞑り、一歩を踏み出す。直後に浩一の背に光が放つ暖かな熱が一瞬だけ通り過ぎた。
 ミキサージャブの目には弾丸が挟まっている。確認した。今この一時、敵は確かに光の直撃を浴びている。右目だけだが浩一は確かにそれを確認していた。だからこそ、今このときに発生しているだろうミキサージャブの死角へ向けて、超反応で斬撃を繰り出す。

 ヴォオオッォオオオオオオオオオォオオォオオオ!!!!!!

 殺った、とは思わない。斬撃は深くもなく浅くもなく、確かに脚に重く切りつけている。だが、それだけだ。それだけだった。それでもたった一撃でも相手にダメージを与えた。 
 喜びに身を浸らせる暇はない。素早く離脱し距離をとる。未だ緒戦は終わっていない。この一撃も、ただの挑発に過ぎない。戦闘は、未だ準備の段階に過ぎない。

 それでもどこかで上手くいっている、という慢心が心のどこかにあったのか。

 ズ、ズォン、と浩一が半秒前にいた地点へと戦斧が叩き込まれた。
 ゾッ、と背筋を寒気が襲う暇もなかった。早すぎる。浩一の反応速度を超えていた攻撃だった。浩一が助かったのは最初の予定通りに離脱したからにすぎない。これは本当に緒戦に過ぎないのだと、一切の油断を心から排除しろと。浩一の胸の奥、ごろりと転がっている心根が囁いてきたように浩一には感じられた。




「―――は……」

 今回、この探索に出てから一切敵の血を浴びていない愛槍を片手に、堂島海の口から漏れたのは単純な、唖然としたような、呆然としたような声だった。
 ぴしゃり、と自身の頬まで飛んできた、その少しの血液を恐る恐る触る。自身の所属するパーティーのことごとくを血に沈めた怨敵の血液。

「え、Sランク、なのか?」

 A+の集団を一蹴したモンスターにたった一人で挑み、一撃を与えた男。彼は海が馬鹿にした方法を隠れ蓑とし攻撃を成功させている。強さは、Sだ。S以上に決まっている。そんな想いを抱きながら海は呆然とそれを見ている。既に自身が関われる話ではない。全てを失ってしまったと、そう思っているからだった。
 そうして浩一が再び銃弾を懐から取り出そうとするも、そんな暇を敵と認識したミキサージャブが悠長に待っていてくれるわけもなく。
 浩一が手から弾丸を取りこぼす。それに追撃を掛けるようにしてミキサージャブが距離を詰める。浩一の動きはミキサージャブより遥かに遅い。浩一は死ぬ? 海の脳裏に今まで殺されてきたものが辿った肉の塊が思い出される。しかも浩一が着ているのはただの衣服にしか見えない。あんなもので攻撃が防げるわけがない。海の脳裏に絶望が走り、同時に、自分が持っているものが思い出される。
 槍。投げることも前提とした武装。しかも、自身のそれならば投げたあとにも回収が可能な機構がついている。

(助けるべきか? 助け? 助けてどうなる。実力も把握できずに突っ込んできたあいつが悪い。俺が助ける理由なんぞあるわけが……)

 勇気の欠片もない思考を進める海の視界で、よろめきつつも、にやり、と浩一が嗤う。
 速さが変わる。浩一の動きが先ほどよりも少しだけ上昇し、タン、スタタン、と致命の距離にいた浩一がミキサージャブの戦斧を回避。体勢を立て直す。その中途で先ほどの弾丸をミキサージャブへと撃ち込み、声高に声を上げて笑い出す。笑い、駆け出していってしまう。

「逃げ、た……?」

 男を追いかけ、ミキサージャブも場からいなくなる中。海は呆然と呟いた。それに、助かっただと……。
 後ろを振り返らない。完全な逃走に見える。勝てないと悟り、逃げた? あれだけの接触で? 確かに勝てないとわかるには十分だ。十分だが、逃げることが、そんな容易いものでいいのか? 海の脳裏にそんな考えが浮かぶも、死よりマシという思考が囁いた。当然だと。当然の判断だと。だが、心が納得しない。俺たちは逃げることすらできなかった。なのに、と。

「ッ゛。追゛え゛。あ゛い゛つ゛を゛ッッッ!!!!」

 だが、そう思わなかった男が傍にいた。浩一が逃走した先を指さして背後の少女に声を上げる少年。藤堂正炎。彼にはそうは見えなかったらしい。

「トリティ。細波。木を排除して俺らは逃げるぞ。あの有様ならさっきより多少はマシだろう」

 慌てて正炎の車椅子を押して走る少女。それを呆然と眺めながら海は、残った二人の男女に視線と言葉をめぐらす。狩猟者の宴はもう駄目だが、残った人間だけでも生き残らせなければならないだろう。そんな想いもあったのだが。

「お、俺たちも追うぞ」
「わかってるわ。一矢ッ、一矢でも報いなきゃ。私たちはなんのために来たのかわからないもの」

 なんだ。それは、と言う前に駆け出していく二人の男女。
 そうして、ギシリと海の歯が苦鳴を上げた。



 よろめいたのも、弾丸を落としたのも全ては演技だった。手から転げ落ちた弾丸も、転びそうな仕草も全てはミキサージャブに容易い獲物と認識を与えるために必要な全てだった。外のモンスターは頭が回ると聞いている。ならば浩一が手ごわい相手、という認識が入ったならば浩一が主導権をとるような真似は防いでいくに違いない。具体的には、浩一が今からとる手段に容易く嵌ってはくれなくなるだろう。
 だからこそ、嵌めなければならない。相手の思考の中に自分を当てはめていく行為。容易い相手と認識を与えなければならない。
 転んだのも、武器を取り落としたのも、全ては演技だ。鞘に収めた月下残滓には触れず。浩一は思考で切り替える。
 【上昇D】発動。
 白夜に仕込まれた機構が動き出す。着用した人物の全体としての速度を上昇させる【速度上昇】。そして反射などの性能を外的方面から上昇させる【俊敏上昇】の発動。
 もちろん緒戦で全ての手を明かすわけにもいかないから二つランクを落として発動を行う。浩一の思考を読み取った武具は少しだけ浩一の身体を補助し、浩一の体質に引っかかり、多少の性能を落とすも、結果として、紙一重、戦斧の衝撃をいくらか受ける程度にまで距離を離すことに成功。その合間に弾丸を射出し、挑発の役に立つしかないとはいえ、多少の反撃を行うことにも成功する。

「くく、ははは、はっはははははははははははははははッッッ!!」

 そうして浩一は嗤う。嗤った。挑発的に、威圧的に、自分がどれだけ弱いのかも理解しながらも嗤うことでミキサージャブを挑発した。

 ヴォオオオオォオオオオオオオオオオオオオッッッ!! ヴォォオオオォオオオォオオオオッッッ!!!!

 ミキサージャブも咆えた。己を害するものに咆えた。そうして息の根を止めようと走り出そうとした瞬間に。

「あばよッ」

 弾丸を放ちつつ、浩一は走り出した。



 木々が道の両脇に、道を作るように林立している。人工的に作られた土の道を火神浩一は疾走している。
 背後を振り返る必要はない。浩一の背後に迫ってくる存在が放つ威圧感など、一〇〇メートル離れていても確実に感知できる。が、今問題なのはその距離だ。近い、近すぎる。戦斧を振るわれればまともに衝撃を喰らう可能性がある。白夜で速度を上昇させることはできる。が、今が限界速だと思わせておくためにも今の速度を維持しなければならない。
 それでも追いつかれるわけにはいかない。このまま戦闘を始めては浩一はすぐに肉塊だ。だから用意しておいた手段を起動させる。たった一日の準備期間の間だが、計画を考える期間は十分にあった。その上で、逃走経路用に簡易的な罠を購入しておく資金もあった。目印も何もないが、仕掛けている場所は覚えている。

(発動ッ!!)

 現在では当たり前に存在している機能。PADの思考操作。
 だが浩一のPADには搭載されていなかったそれ。簡単なツールをつけるだけで可能となるものだが、金銭的に余裕のなかった浩一は今まで行っていなかった。
 余計な部分に回す余裕のなかった人生。ただ身体を苛め、鍛えるだけの人生。それが、今は違う。自分よりも遥か上の生物に対抗する手段を整え、抵抗する方法を考え、その上で仕留める策を練ることができている。
 浩一は己の幸運に感謝し、戦いへと意識を埋没させていく。風と音、血と刃。なんと楽しいことか。なんと嬉しいことなのか。そうして背後で仕掛けておいた罠がミキサージャブにちょっかいをかけたことを感覚で理解し、走る速度を変えずにただ目的地へと目指していく。

 ヴォオオオォオオオオオオオオオオオオオッッ!!

 ダメージなど一切ないだろうただの罠。単純に針を三本だけ発射する機構の罠。Sランクの耐久を突破する効果のないそれは学割を使い、三百ゴールドも出せば売店で売ってもらえるもの。
 戦場に向かう途中で木にぶら下げていたそれは、数秒だけだがミキサージャブの意識を奪い、浩一はその間に距離を伸ばすことができた。もちろん、逃げ切ることが目的ではない。ない、が。本気で逃げるつもりで駆けていく。
 単純に逃げるために仕掛けたのだと思われなくてはならない。一応、目論見をはずされた際の戦術も用意はしてある。してあるが、それは望みではない。浩一は今すぐ戦いたいし、熱が急かすのもあるが、さっさと決着をつけるための場所に駆け出したい。本気でぶつかり合いたい。そう、切に思う。
 果たしてミキサージャブはどうするのか。ダメージ量と追撃がないことから無人だと判断したのか、咆哮ひとつのあと、再び浩一に向けて駆け出してくる。もちろんこれは単純に威圧感だけで判断したことだ。しかし、先ほどよりも速度を上昇させ、確実に追いついてくるだろう速度で駆け出しているミキサージャブに浩一の頬が緩む。
 この生き物は、例え罠があったとしても、それごと粉砕する気概で来ている。ミキサージャブから感じる威圧が変わっていた。先ほどのは獲物を追い詰める狩人のもの。今は自分と同じ、戦士のもの。

「はははははは。はははッ。はははははははッッッ!!」

 そうだ。来いッ。来いッ。来いッ。来いッ。来いッッッ!!
 視界から木々が消えていく。木々によってはさまれた道は終わっていく。終点。終着。周りが何もない開けた空間。
 殺し合いに最適の広場。邪魔も何もない。だだっぴろい空間。
 そうして駆け出す速度をほんの少しだけ上げ、浩一は足元の切り株を蹴飛ばしつつ、振り向きざまに月下残滓を放った。
 再びの一閃は背後まで駆け寄っていたミキサージャブの胸へと刃を潜行し、血飛沫を飛ばし、振りぬかれる。ヴォォォオオオオオオオ、ミキサージャブが咆哮。ははははははは、浩一が嗤う。
 再びの外気へと触れた刃。その刀身は穏やかな光を纏っている。
 月光。斬撃に付与された光によって、斬った傷口を焼き、敵対するものの再生を阻害する力。強力な再生能力を持つミキサージャブに対抗するために必要不可欠な力。 
 アックスを一撃で斬り飛ばせた一閃。ナイトの首を斬りおとした一閃。それらは通用している。確かに傷を与え、Sランクモンスターにダメージを与えている。攻撃を可能としている。
 しかし喜ぶ暇などない。浩一の身体は跳躍している。以前の経験から、アックスとの戦闘から空中にい続けることの危険性は理解している。浩一は背筋に走る恐怖に逆らわず、身体を勢いに流す。ミキサージャブが反射的に放った拳が地面へと突き刺さり、自身の足先にその衝撃が波となって襲い掛かる。
 着地は腕からだった。受身を取りつつすぐさま転がりつつ立ち上がり、地面を蹴る。
 一瞬でも止まることはできない。既にミキサージャブは浩一を敵と認識している。浩一が止まったとき、それが浩一が殺されるときだと身体と頭の両方で認識している。
 胸板、右脚から血を流し、それでも一切動きを止めない黒いミノタウロス。ミキサージャブ。それを視界の隅に収めながら浩一は再びの逃げる振りをする。走り出した浩一をそのまま両断しようと戦斧を振り上げたミキサージャブへと浩一は振り返りざまに突撃した。
 緩急。擬態。主導権をとり続けることが力で劣り、身体で劣り、力で劣る浩一には必要なものだった。一方的に叩きのめせる状況を作ること。刀を振り、真正面から立ち向かい、それでも自身が優越できる場所を作ることが。
 しかし、と浩一は口中に広がった苦い味の唾液を飲み干す。立ち向かって思い知らされる。斬撃を振るう隙、というものがミキサージャブには存在していない。今までは強引に隙を作り続けてきた。閃光弾。速度の変速。それらを使って、一閃を打ち込んでいた。
 だが、三度目にして、小細工の時間が終わりを告げたことを思い知らされる。正面から立ち向かう以上、ミキサージャブには通じない。アレは近接戦闘の王者だ。正面から虚をついても意味はない。
 だが、浩一はそれに悲観しなかった。核心があったからだ。今までの接触は単純に、傷を負わせるだけのものではない。この場に誘い込むことを目的としたものであり、なおかつ、浩一の中にデータが溜めるためのものだった。
 索敵即殺がカチカチと、ガチガチと身体の中で蠢いている。今までの一瞬一瞬のデータが、浩一が溜め込んできた戦闘経験とつながっていく。三〇〇〇を超えるアックスの情報。そうして、死んだ主席組、砕けた雲霞緑青に蓄えられたデータ。
 浩一は、何も無手、無情報でここに立っているわけではない。索敵即殺を手に入れる前、アリシアスが月下残滓の戦闘データで映像を作り出した時に考え付いていた方法があった。
 映像データとの擬似戦闘。
 就寝前の一時間。それを見ることと身体を慣らすことに使用した。
 だから、一ヶ月は無駄ではない。火神浩一には戦闘経験が染み付いている。本物ではない、本気ではないとはいえ、ミキサージャブとの戦闘は、確実に浩一にミキサージャブと戦える基礎を作り上げていた。
 それが索敵即殺とつながった。浩一の意識が、身体が、変わっていく。この闘いに耐えられる身体へと変わっていく。

 ヴォォオオオォオオオオオオオォオオオ!! ヴォォオオオォオオオオオッッッ!!!

 咆哮と共に戦斧が振るわれるが退く事に意味はない。踏み込みと共に戦斧をかいくぐる。戦斧の衝撃と発散される攻撃的なオーラによって気力や体力が削られるが、傷というほどの傷はなく、速度を減じることもない。直撃さえ受けなければいい。一撃で死ななければ復帰する方法はいくらでもある。
 丸太のような太い脚に斬撃。散る血液。それを見届けることなく跳躍。足元を拳が過ぎる。上方に向けて刃を立てる。ミキサージャブの頭突きだ。ミノタウロスだけあって立派な角がその頭部には存在する。当然空中にいて耐えられるわけもない。視界が赤に染まりながらも浩一の動きは止まらない。刃を流すことにより頭突きを用い、ミキサージャブより上へと逃れるとその背を蹴り、距離をとるもミキサージャブの動きは止まらない。浩一は空中にいながらにして丸太のような脚によって蹴り飛ばされ、鞠のように、身体が地面を跳ねていく。
 着流しに防御力は期待できない。これはそういうものではない。浩一は重い鎧を着る趣味はないし。硬い金属に身を守ってもらおうとは思っていない。
 思考でPADを操作し、周囲に配置しておいた機械を発動させる。追撃してくるミキサージャブから素早く逃れ、その地点に身を置いた。
 ぱしゃん、と浩一の全身に薬品がかかる。
 リフィヌス本家でも一部の人間しか使用を許されないSEIDOU製の最高級品の回復剤【青の恩恵】。液体を液体のまま魔力で固め、先ほどの針を飛ばす罠と同じ機構で射出したのだ。それが飲んでいる暇も自身でかける暇もない戦闘中にどうするかを考えた策のひとつ。
 アリシアスに任せる? そんなことをしてアリシアスに攻撃を集中されたら浩一には守りきる自信がない。
 そして、アリシアスにミキサージャブを討伐する気は一切ない。既に話し合っていた。これは浩一の戦いだからだ。浩一もアリシアスの介入は好まなかった。自分ひとりが戦うことを、自分ひとりで殺すことを望んだのだ。
 浩一は失われた体力と気力、そうして先の一撃で潰れかけた内臓、身体のいくつかに負っていた傷が強引に薬によって治療されていくのを感じながら嗤う。
 戦えていると。自分は闘っているのだと。

 ヴォォオオオオオオオオォオオオオオオオッッッッ!!!!

 黒いミノタウロスが咆哮を上げた。



 成果は出ている。闘争に身を置いた男は咆え、太刀を振るっている。暴力と暴威が支配する場に立ち、真正面からそれらを受け止めている。
 浩一がミキサージャブをこの場に連れ、闘争を始めている。木の陰で経過を眺めていたアリシアスは、浩一が走ってきた道に椅子を転送すると、そこに腰掛、それを見始めた。傍らには小さな純白のテーブルがある、中身の入ったティーカップと苺のショートケーキが置かれていた。
 そうして、陶然としながら頬に手を当てる。胸の熱がカッカッ、と熱を発し。堪えられぬように吐息を漏らす。

「ぁあ。素敵ですわ。浩一様」

 熱は発散されていない。心は熱を孕んだまま。今見てるものこそがそれを発散させるのだと少しは期待していたために、それには首をかしげながらも、熱心に黒と黒の闘いに見入る。
 ミキサージャブが戦斧を振るう。浩一が掻い潜る。改造を受けているアリシアスでも認識のし難い斬撃を浩一が放つ。早いわけではない、間の取り方が絶妙なのだ。
 ミキサージャブの血が舞い。ミキサージャブの脚が振られる。跳躍を用い回避。それでも浩一が攻撃の余波だけで弾き飛ばされ、すかさず拳が追ってくる。空中で浩一が斬撃を振るい、ミキサージャブの指の一本に深い傷を与えるも、構わず振られた拳によって浩一の身体が勢いよく吹き飛んだ。
 傷を与えることによって威力を軽減したとはいえ、浩一の身体は脆すぎる。受身を取りつつもバウンドして地面を転がる浩一に、思考操作したのか途中で射出された回復剤がかかる。途端に跳ねるようにして立ち上がった浩一は直後に来た拳を蹴り上げながら飛び跳ね、ミキサージャブの懐へと入る。咆哮。血が舞い。牛鬼の胸板から血液が飛び散った。
 アリシアスは胸を押さえる。一ヶ月前まではB+だった男。いや、今も国家ゼネラウスが制定し、このシェルター間を通じ、大崩壊世界に広まったランク制度では、ランクB+より上位に上がれない火神浩一という男は。浩一よりも遥かに戦闘に長けたSランクを殺し、浩一よりも遥かに力量のあるA+をゴミのように潰したあの怪物と互角に渡り合えている。
 回復、罠、地形、それらによる補正を忘れている? 違う。それを使いこなしているからこそ、火神浩一という男は評価できるのだ。猪ではモンスターと同じ。そして、地力が低く、強くなるのに愚直な努力しか必要でない彼だからこそ、自身の心に熱を持たせ、琴線を振るわせたのだと今なら確信が持てていた。

「はぁ―――浩一様……」

 燃え上がる胸の熱を押さえるようにしてアリシアスは紅茶に口をつける。
 瞳は一秒たりともそれから逸らされてはいない。わくわくするような、ドキドキするような。遥かな、幼きころに、祖父の話や、英雄譚に心を振るわせたかつての自分。
 十二年前に自ら捨てたソレが目の前にあった。いや、今も可能性として諦めているソレが目の前にある。
 この闘いはなにを持って終わりとするのか、アリシアス・リフィヌスはその美麗な顔を歓喜に振るわせつつ、蒼眼を凝らす。闘い自体に興味はない。熱を震わすのは、火神浩一という男が何を見せてくれるのかだ。
 あの時の、Aランクを一蹴した姿を思い出す。
 あれが始まりだった。アリシアスにとって、この熱はその出会いから始まっていた。
 燻るような、燃え上がるような、不安ではなく、期待を抱かせてくれる不思議な感情。
 恋でも、愛でもない。奇妙に好意を持たせてくれるそれを奇妙な気持ちで燃え上がらせながらアリシアスはティーカップをソーサーへとゆっくり下ろし、杖を振った。

「邪魔をしないように」

 カツン、カツン、とミキサージャブへと放たれていた矢がアリシアスが振るった魔匠ハルイド製Aランク魔杖【リベァーロンの腕】によって妨げられる。
 広場を覆うようにして作られた薄い、本当に薄いそれは、アリシアス・リフィヌスの保持魔力の半分ほどを使用した大結界だった。

「シ゛ャ゛マ゛ヲ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛」

 息を切らしながらも、憎悪を眼に溜め。安物の車椅子に座り、片腕でボウガンを構えた少年が叫ぶ。

「するな。……ですわ」

 アリシアスはそれを超える静かな激昂を持ち、ちらりとだけ少年を視線で見た。

「良い憎悪。力量と身体への労わりがそれと同等であれば貴方もあの場に立てたでしょうに。藤堂正炎。全てが終わった遅れ人」

 とすん、と遅れてやってきた二人の男女が同時に腰を落としていた。ガタガタと、車椅子を下半身で支え、上半身は少年と同じようにボウガンを構えていた少女がぺたり、と土の地面へと腰を落とした。ミキサージャブと同じ、いや、威圧で言うならば僅かにアリシアスが劣っている。だが、と同時にこの場にいた四人は思った。これは、威圧というよりも。奇妙な、本能的な恐怖がアリシアス・リフィヌスを見ていると湧き上がってくる。
 ミキサージャブと既に相対している四人には如何なる威圧から立ち上がれる自負があった。ミキサージャブは圧倒的だったからだ。あの威圧に耐え、戦えるならどんな戦場でも戦っていける。そんな納得があった。ミキサージャブは圧倒的だが、どこかそこには納得のいく、憎悪や奮起につなげられるものがあったからだ。
 だが、寒気というよりも怖気の走るアリシアスの鬼気は、向けられた対象に、人間としての何か大事なものを腐らせられるような感覚に襲われてしまう。力を振るわれてしまえば最後。そこから先には、どこにも行けないような。人としてまともな死に方さえも否定させられてしまうような。そんな終幕を喚起させられてしまう威圧。
 二人の男女と正炎へと付き添っていた少女が膝をつき、反吐を吐きつつ地面へと転がる。そうして眠ることが安らかになれるひとつの術とでも言うように気絶していく。

「オ゛、オ゛マ゛エ゛ハ゛」
「その声。少し、耳障りですわね。―――【治癒】」

 ストン、とアリシアスは、闘いから眼をそらさず杖を地面へと叩きつけた。小さな魔法陣が正炎の喉に神術を発動し、怖気が全身を襲う中。正炎は喉だけが温かさを感じるという奇妙な感覚に襲われつつも、全身から怒気と憎悪を搾り出す。
 願うだけでは何も叶えられない。圧倒的な理不尽の前には、力を振り絞ることでなければ己の我を通すことなどできない。過去の経験を思い出し、それを源として正炎はアリシアスへと向き直り。
 そうして、アリシアスの言葉に一瞬の怒りを忘れた。

「さぁ。そこに座って見てなさいな。今行われているのは世にも奇妙なB+ランクがSランクを正面から打倒する場面。【刀だけ】と嘲られた男の舞台」
「な、あ、ば、馬鹿、な」
「彼が死んだら復讐でも仇討ちでも好きなだけしてくださいな。ただ、それまではそこで黙って座ってなさい。ふふふふ。あははは。あははははははは。さぁ、浩一様。どうぞ、貴方様の強がりを現実に、本物にしてくださいませ」
「馬鹿な……」

 そうしてアリシアス・リフィヌスは紅茶を一口飲む。
 愕然と、ランク差。そう、自身が所属していた、尊敬していた男たちよりも遥かに実力の劣っているはずの男が互角に戦っているという現実を突きつけられた少年が、呆然と、愕然とした眼で闘いを見つめていることなど、瑣末なことだといわんばかりに、意識の欠片すらも少女は向けることはない。



 振るわれる戦斧の内側に入り、斬撃を打ち込む。同時にさらに踏み込みを進め、身を沈める。上半身のあった部分を通過した拳に構わず黒牛鬼の脇を疾駆。振り返りざまに斬撃を放ち、瞬時に地を蹴り、宙へ舞う。身体のあった空間をミキサージャブの脚が貫くもそれを足場に後方へ跳躍。呼吸を整えつつ再び疾走。それを迎えるようにしてミキサージャブが戦斧を振り上げる。
 浩一の戦闘速度はミキサージャブとの速度へと慣れていたが。同時にミキサージャブの戦い方も浩一へと対応したものへと変化していた。
 戦斧、拳、脚、頭突き、突進、指、咆哮、蹴り、殴打、身震い、ミキサージャブの攻撃はどこまでも物理に偏っている。
 だから今の今まで生身で武器を振ってきた浩一には対応がわかる。と、同時にこの戦闘を通して晒してきた浩一の対応も対応されてしまう。いずれ、完全に動きに対応され、動く前に先手を取られることになるだろう。
 発動、と戦闘に振り分けていなかった思考に囁かせる。間髪も置かず、浩一が纏った着流しがスキルを発動させた。ぎちり、と肉体の速度が強引に上昇させられる。外的な補助を受け、浩一の速度が上がっていく。
 【速度上昇B】【俊敏上昇B】、ちまちまと段階ごとではなく一気に速度を上げていく。徐々に上げるだけでは有効にはならない。緩急こそが浩一に唯一使える戦術だ。
 しかし。

(これで、手は全部使っちまったかッッ)

 ズン、と一瞬前の浩一ならば完全に両断されていたであろう斬撃が後方へと振り下ろされた。
 しかし、この展開を多少は予測していたのだろう。地面に突き刺さり、土地を耕していた戦斧が躊躇なくミキサージャブへと強引に引き寄せられ、同時にミキサージャブへと向かう浩一へ、人間の胴体程度容易く叩き潰しそうな拳が叩きつけられんとする。
 前後、両方向からの攻撃。それに浩一は一度は深い斬撃を与えた右脚へと疾走しかけるも、慌てて手に持った月下残滓を縦に立てる。
 ズドン、と凄まじい音を立て、ミキサージャブの蹴りにより、浩一の身体が宙を飛んだ。

(は、反応が)

 今までと、浩一が速度を上げる前と完全に速度が違っていた。いや、そもそも浩一が速度を上げられることを読まれていたのか。自身が騙すつもりで敵も速度を温存していたというのか。驚愕と苦痛、衝撃に乱れる思考を纏め、これまでと同様に着地点に回復薬を射出した瞬間。風斬音が聞こえ、地面を衝撃が揺らした。
 薬は浩一へと掛からない。薬はミキサージャブの投げた戦斧によって浩一へと続く射線の途中で刃にぶつかり、戦斧の表面を濡らしていたからだ

「なッ……。糞ッ!!」

 先ほどの蹴りを防いだ際、無理な力が掛かったためか、月下残滓の背を押さえた右の手首が砕けていた。同時に、強大すぎた衝撃だったためか、衝撃の殆どを受けた右腕の筋が使い物にならなくなっていた。
 痛み程度ならば耐えられた。しかし怖いのは痛みによって集中が断ち切られること。
 今すぐにでも回復しなければならないだろう。五体満足のときですら勝機が一割を切る相手。幸い、利き腕である左腕はまともに動かせる。それでも片腕が使用不可能となった今、浩一の勝機は万にひとつもない。
 ミキサージャブに回復方法を見抜かれた以上。アリシアスの薬は使えない。いや、PADからアイテムを転送し、アリシアスの手配した薬以外を用いる方法があるが、それでは戦闘中に薬剤の副作用を覚悟しなければなるまい。いや―――ッ、
 続く思考を断ち切る。この間、一瞬もなかった。しかし既に無手で疾走を開始している巨体。このままでは仕留められる。浩一の策を反対に用いられた。舌打ちする間も惜しいとばかりに浩一は立ち上がりと同時に跳躍し、その場から離れるも。

 ヴォオオォオオオオオオオオオォオォォォオオオオオオオオオッッッ!!!!!!

 突進と共に巨大な拳が降り注ぐ。猛襲に次ぐ猛撃。雷火のごとく降り注ぐ手指と甲、そして衝撃。戦斧がないからといって浩一が有利になったわけではない。ミキサージャブの武器はあくまで膂力と速度。優れた知能や偽装もそれらを引き立てる添え物に過ぎない。浩一の身体能力では明らかに天と地だった。
 索敵即殺の恩恵によりなんとか埋められていた差が次々と覆されていく。経験していない速度。経験していない窮地。それでも速度の上がる前の経験を強引に適応させ、降り注ぐ拳と拳の間隙に身体を潜り込ませ続け、ミキサージャブの腹の内側にもぐりこむも、すかさず巨大すぎる膝が迫り、次いで開いた掌が猛襲する。
 捕まれた瞬間に身体を潰されかき混ぜられる。異名を思い出す暇もなく浩一は月下残滓を鞘に納め、身体を後方へと流し、地面へと自ら倒れこむ。身体の上を膝、脚、足首と流れた瞬間に、左腕のみで身体を跳ね上げ、即座にミキサージャブより距離をとるも、ミキサージャブの追撃は止まらない。
 人間とは明らかに違う体力。引きつる頬を強引に笑みで破壊し。浩一は叫んだ。

「おおおおおおぉぉおぉおおおおぉおおおおおお!!!!!」

 言葉など要らない。小細工も不要だ。タン、と浩一は踏み込むと月下残滓を引き抜き斬撃を当てる。退いたところで浩一の体力の限界まで追撃が来るだけだ。ならば、活路は前にしかない。
 幸い、今の攻防で索敵即殺に修正が効く。今までの戦闘経験が変化し、浩一の対応速度が上昇していく。速度も、反応も、何もかもが遅くとも、神懸ったかのような予測を持って浩一の体が動く。
 無論、本当に未来が見えているわけではなかった。ミキサージャブの思考を読んでいるわけでもなかった。
 状況や戦闘に対応する程度の力しかない索敵即殺の力の源は、火神浩一の十年間の蓄積を基礎としている。
 今までの、無駄とだけ言われ続けてきた闘いの記憶。ゴブリン、オーク、コボルト。それら下位ランクのモンスターからミノタウロス、アックス、ナイト。中位から上位へのモンスターたち。
 そして、今、Sランクの力を持ち、同時にそれを越える智を持つミキサージャブとの戦闘経験が融合し、浩一の中で成長し始めていた。

「なぁッ。俺の敵ッ!!」

 強くなっていく実感。明らかな弱者であったはずの自分が強くなっている事実。浩一の頬が自然と上がる。胸の中の熱が燃え上がっている。
 身体が熱い。心が熱い。それでも思考だけは冷静。
 刀を振り、拳を掻い潜り、傷を与え、傷を与えられ、浩一は笑う。

「楽しいなッ。楽しいなぁッ。おいッ!!」

 力を込め、技術を注ぎ、月下残滓を振るう。刃こぼれ一つない美しい刀は浩一の熱気に当てられたのか、穏やかな光に熱気を孕み、輝いていた。

 ヴォォオオォオオオオオオォオオオオオオォオオオオオッッッ!!!!

 ミキサージャブが叫んだ。怒っているのか、浩一を喰らいたいと思っているのか、その咆哮には浩一が声に乗せた熱以上に力が、熱気が篭もっていた。

「そうかッ。オマエもそう思うかッ」

 細身の身体が拳を掻い潜る。烈風のような鋭さを持つそれが頬を切り裂き、頬から血と皮が弾け飛ぶ。
 動かない右腕。所々に破れが目立つ白夜。使い手と敵の血にまみれる月下残滓。満身創痍の身体に気力をめぐらせ浩一は笑う。殺戮のときに浮かべた嗤いではない。純粋な喜びに満ちた大笑。
 浩一の斬撃は、この世界での一流、Sランクと称される者達ほど速くはない。それでも拳を打ち込んだためにできた微かな、ほんの少ししかない間を絶妙に突いた斬撃はミキサージャブの身体から血を咲かせる。
 無限とも、永久にあるとも思われるミキサージャブの体力。それが削られていく。しかし対する浩一の身体も限界を訴えている。気力を身体にめぐらせても、熱を心に孕んでも肉体の疲労は隠せない。肉体の傷は癒えることはない。
 それでも、笑う。浩一は笑う。傷を負わせている。肉を飛ばし、血を流させ、皮を裂いている。血の華は目の前に咲いている。
 ならば、負けることがあるものか。傷を負わせているならば、敵の拳を避けられるならば、負ける道理があるものか。

「おおおおおおおおぉぉぉおおおおオオオオオォォォォォッッッ!!!!」

 ヴォォオオオォオッォッォオォオオオオオオオオオオオッッッ!!!!

 両者が叫ぶ。笑いながら、戦いながら、刀と拳をぶつけ、脚と心臓を動かし叫ぶ。
 その表情にお互いに対する敵意は浮かんではいなかった。己たちは、俺達は、恨みのために戦っているわけでも、自身の危地のために戦っているわけでもない。
 それは、モンスターである、己の喰欲のため、己に傷を与えたために、敵に対する本能のみで動いていたはずのミキサージャブですらそうだった。
 心の奥の熱が叫んでいた。心臓の横で脈動していた。どくんどくんと咆えている。もっと、もっと、と身体を急かす。
 浩一の斬撃がミキサージャブの脚に深い傷を与える。ミキサージャブの豪拳が地を叩く。当たらずとも衝撃は浩一の身体を貫通し、全身に負った裂傷から血を流させる。
 浩一が咆えながら跳躍。ミキサージャブが咆哮を上げながら両掌を組み、巨大な拳を振り上げる。ずどん、と間髪すら与えず地に巨大な両拳が叩きつけられる。しかしそこに浩一の姿はない。数センチ、いや、数ミリでも拳の周囲に近づいていたならば浩一は死んでいただろう。裂帛の気合が浩一の跳躍の速度をほんの少しだけ高めていた。
 浩一の斬撃がミキサージャブの顔面へと叩きつけられる。正中からはほんの少しずれ、その左の目を深く切りつけるも斬撃は浅い。その頭脳たる脳にまで届かない。それでも切っ先に込められた熱は燃え上がった。心中の熱を込め、浩一は叫ぶ。

「ウルルゥゥォォッォォオオオオオオオオオッッッ!!!!」

 血に汚れた柄に渾身が込められ、月下残滓が刀身を輝かせ、月光が刀身から放たれる。左眼とその真下の頬を通過した刃。再生を長時間遅らせるであろう光が傷口を焦熱させる。

 ヴォォオォオオオオオォォオオオォォッォオオオッッッ!!!!

 叫ぶミキサージャブ。至近にいる浩一の身体が咆哮の衝撃でびりびりと震える。両耳から数瞬のみ音が消えるも、浩一の身体は止まらない。汗と血で汚れた握りに更に力を込め、死角となった左側から攻めかかる。
 身体は休息を欲している。呼吸する間、薬を浴びる間、力を溜める間、それらを欲している。だが、浩一は止まらない。
 熱が囁くからではない。熱に急かされ、判断を逸しているわけでもない。
 今このとき。深い斬撃を与えたミキサージャブが逃げるなどと思っているわけでもない。愛すべきこの黒牛鬼は、愚かなことに自身と同じ戦士の本能に支配されていると知ったからだ。例え、浩一が人間の賢い判断で撤退してもミキサージャブは千里を駆けてでも浩一を殺しにきてくれるだろう。この剣戟の間に浩一は長年の付き合いである東雲・ウィリア・雪以上にミキサージャブという存在の性質を理解できた。
 だからこそ、浩一は駆けた。今、このとき、ミキサージャブに勝つには、勝利するには、その首を落とすには、今攻めるほかにないと。ただこの今、退くわけにはいかないのだと、熱に従い、熱を共に、熱を燃え上がらせ、浩一は駆ける。
 攻める。ただこのとき、この命を燃やして攻めるしかないのだ。

「おおぉぉっぉおおおおおッッッッッ!!!!」

 咆え、叫ぶ。死角から攻めようがなんだろうがミキサージャブは浩一の位置を把握している。咆えようが叫ぼうが関係ない。視覚が機能せず、ミキサージャブの拳がほんの僅かだけ狂う。その程度にしか期待していない。
 浩一が機能しない右腕に力を入れる。優れた技能を持つものはほんの片腕が使えないだけで戦闘の一刹那に致命的なノイズを走らせることがある。平衡感覚、間合い、斬撃、いくつもの要素が微妙にずれてしまう。それでも、この十年間。浩一の身体の中には莫大な戦闘経験が詰まっていた。その中には当然片腕を失いかけ、それでも戦い続けた記憶が残っている。
 そのときの雪の泣き顔が浩一の中に浮かび上がる。死ねない理由でも、傷つくわけにはいかない理由にもならないが、それでもほんの少しだけ生き延びたくもなる程度には愛と情を抱く少女の顔を思い出し、浩一が笑みを浮かべた。

(勝つさ。今までだって、これからだってッ)

 おおおおおッッ、自身の耳にうるさいほどに叫ぶ。オオォオォッッ、叫びながら斬撃を振るう。月下残滓がその光を強め。浩一は笑う。
 ヴォオォォォオオッッ、ミキサージャブが咆える。ヴォォオォッッ、咆哮を上げながら拳を振るい。衝撃だけで浩一の肉が抉れていく。恐ろしい速度。恐ろしい膂力。ただの一発でもまともに喰らえば死に至るそれを浩一は耳元に、身体に、視界に感じ、それでも攻めを途切れさせることなく月下残滓を振るう。
 血が、咲く。肉が、飛ぶ。皮が、裂ける。
 そうして、何時間、何分、何秒たったのか。
 浩一は自身の中で何かがガチリガチリと噛みあっていく音を聞いた。
 唸る拳を避け、迫る爪先をかわす。世界に自身とミキサージャブしかいないのではないかという妄想をねじ伏せ、倒れそうになる身体に気力を巡らす。
 何度倒れる誘惑が、何度死への憧憬が浩一を襲ったのかわからなかった。だが、浩一は倒れようとも、死のうとも思わなかった。
 ほんの少し回避を誤るだけで命を散らすことができる。ほんの少し判断を誤るだけで身体を壊すことができる。
 一瞬一瞬に生死の判断を託し、一瞬一瞬に心の迷いを見つけた。
 死と生がそこにあり、それを捩じ伏せることも闘いだった。
 汗が、血が眼に入り、視界が利かなくなることもあった。そのたびに力の入らない右袖で拭った。
 浩一は、闘争の、死闘の、修羅の道に続くそれをこの闘いの中で感じとっていた。
 これは、前哨に過ぎないのだと。これは、ただの始まりでしかないのだと。熱が、思考が、身体が囁いてきた。
 続く人生を歩むならば、これに倍する、これを遥かに超越する道を歩まなければならないのだと。ならばここで死ぬのもまたお前にとって救いなのだと。浩一に思考が囁く。浩一の理性が囁く。浩一の熱が、浩一の魂が、浩一の胸の奥にある刃が、浩一に囁く。
 ここで死ぬのもまた救い。ここで死ぬのもまた救い。ここで死ぬのもまた救い。ここで死ぬのもまた救い。

(うるせぇ)

 ミキサージャブの拳を避ける。ただ真正面に、ただ真正直に浩一を打ち抜こうとする拳を見る。
 将来、未来、安寧、浩一を戦いから遠ざけようと、浩一に平穏を突きつけてくるものを真っ向から破壊しようとする拳。同時に浩一に安らぎを与えようとする拳。
 浩一は、強くはない。才能もない。力もない。
 忌々しい体質のせいで改造はできないしスロットもない。戦闘の道具の使い方も致命的なほどに下手糞になっている。
 それでも。

(戦える。戦っていける)

 月下残滓を握る手に力が入る。握る柄から熱が流れ込んできたような気がした。戦いを続けるうちについた愛着が、柄に力を込めさせた。

「ミキサージャブ……」

 拳を避け、斬撃を与え、血を散らしあいながら思う。
 安寧も、平穏も、いらない。熱が囁くのだ。ここで死ぬのもまた救い。しかし、ここで見るべきは、自身の未来ではなく。
 ガチリ、と認識が、索敵即殺が、経験が、戦いが、熱が、■■■■が浩一の身体の中で噛みあい。

「ミキサージャブ」

 自然と身体が動いていく。
 
「ミキサージャブッッ」

 脚、身体、拳、指、眼、角、鼻、胸。傷ついていない場所など全身には一切ない。斬撃に次ぐ斬撃がミキサージャブの身体に余すところなく傷と浴びせ、血と肉を見せている。

「ミキサージャブッッ!!」

 浩一は叫んだ。噛みあった全てが教えてくれていた。相手は、この場にいる相手は、将来でも安寧でも自身の死でもなんでもない。
 体中につけた傷が教えてくれた。体中についた傷が教えてくれる。敵は目の前にいる。まともに動かせない右腕が、熱を孕む。

「ミキサージャブッッッ。オマエだ。俺の敵は、オマエだッ」

 ヴォォオオォオォオオオオォオォッォォオオオッッッッ!!!!!

 声と同時。応えるようにしてミキサージャブは一声咆え、豪拳を放ち。
 身体が、心が、熱が誘う全てに身を預けるようにして駆けた浩一は。拳が纏った颶風に身を裂かれながらも、跳躍し、全身の力と経験と気力を刃に込め、その首を斬り落としていた。



 ぼぉん、ぼぉん、とダンジョン実習イベント終了時に鳴る、鐘のような音が響く。
 立ったまま、拳を振りぬいたままのミキサージャブが光の粒子へと変わっていく。
 死闘は終わったのだ。

『特殊イベント【ミキサージャブ】のクリアが確認されました。特殊イベント【ミキサージャブ】のクリアが確認されました。参加パーティー【血道の探求者】【勝利の塔】【狩猟者の宴】には逃亡報酬単位【1】が加算されます。討伐に成功した【ヘリオルス】には討伐報酬単位として単位【7】が加算されます。該当パーティーに所属する生徒はアリアスレウズ受付にて登録されたPADを提出し、報酬単位を受け取ってください』

 アナウンスがダンジョンに響き、藤堂正炎は手に持っていたボウガンを取り落とす。ガシャリと装填された毒矢と共にそれは地に落ちた。

「な、あ、ぁ、」

 既に声は正常。しかし、心はそうではない。正炎の心には、復讐に向けられた熱は、発散されることなくその心を蝕む。
 一太刀も、一矢も、ただの一発も、正炎はミキサージャブに報いていない。正炎の熱はどこにも行けず心の中で澱んでいた。

「ぅぁ、ぁあぁ、あああああ」

 それでも、宿敵を殺した人間を恨む気持ちにはなれない。あの闘いを見た正炎は自身の脚を見た。
 車椅子に座り、たったひとりでは立つこともできない脚。それさえ無事であったならば自身もあの場に、あの戦士と同じように立てたのだろうか。それとも、今と同じようにただ見ていただけだったのか。
 闘いが終わり、座る物のいなくなった椅子とテーブルを見る。そこで先ほどまで優雅に紅茶を飲んでいた少女はいない。アリシアス・リフィヌスは闘いが終わるやいなや、立ち上がり、片付けもせずに歩き出していた。
 まるで爆撃でもあったかのように掘り返された大地を、危なげなく歩く少女。正炎は自身もせめて勝者の傍に、倒したと同時に地面へと倒れたままの男の下へと車椅子の車輪に手を掛けたところで。

   ――――――黄金剣【飛翔空斬】

 自身の後方、遥か彼方。アリシアス・リフィヌスの知覚範囲より、正確に半歩分ほど下がった距離より放たれた黄金剣グライカリバーに搭載されたスキル【飛翔空斬】。所有者のオーラを収束、斬撃の特性を付与し射出する、所謂、飛ぶ斬撃によって、藤堂正炎の身体は下半身と上半身、その間をぽっかりと失っていた。
 正炎は何が起こったのか理解できていない。
 ずるり、と下半身と上半身の間にある継ぎ目の合わない断面から内臓をこぼれさせ、そしてばしゃりと自身の腹からこぼれた血の海に沈んでも、自身が誰に殺されるのかも、どうして殺されるのかも、何もわからなかった。

「、ど、どぼじで」

 なぜ自分ばかり奪われるのか、なぜ自分ばかり駄目なのか。ここで死ぬのか。殺されるのか。何もわからず。何も得られず。何を為す事もできず。

「あ゛ぁ゛、お、俺゛は゛ぁ゛」

 ゆっくりと、手を伸ばした。正炎の眼には、自身を裂いて進んだ刃を追いかけて走る男の背中が見える。
 自然と自身を殺した下手人だとわかった。
 そうして開放されることのなかった胸の熱を、使われることのなかったボウガンを手に取ることに費やした正炎は、そのトリガーに指を掛けると最後の力を入れ、その命を、何を為したのかも確認できずに終わらせた。



 ゼリバ・ライゴルは駆けていく。森の中を、木々の作る道の中を、自身が放った刃を追い、自身の力を込めた剣を持ち、ただただ必死に駆けていく。
 死の恐怖。それが男を駆り立てていた。ぽっかりと、空洞のような眼をしていた仲間たち。顔中を歪め、苦痛に染まりながら死んでいた母親。それをつくったモノたち。あの黒い影のような人物。

「ハァッ。ハァッ。ハァッ。ハァッ。糞ッ、糞ッ、糞ッ、糞ッ」

 既に何が起きて、何が原因で、誰が、何を、何のためにゼリバにさせようとさせているのかもわからない。
 アリシアス・リフィヌスが何のために、誰のために、何をするために殺されようとしているのかもわからない。
 ゼリバの認識の中で弱者であるはずの者に痛めつけられ、死を感じさせられた。それだけで彼の中の判断基準は狂い、まともな思考が働かなくなっていた。
 それでも、仕向けられたとしても、そうやれといわれたのだとしても、脅されたのだとしても。

「アリシアスッ! アリシアス・リフィヌスッ!!」

 あの女に関わってから、あの女に仲間を殺されてから、あの女のせいだ。あの女が原因だ。
 正解ではない。事実ではある。しかし、決定的に間違っている認識を抱きながらゼリバは駆ける。火神浩一よりも明らかに速い。飛ぶ斬撃と同等の速度でゼリバは駆け抜ける。
 その途中。車椅子に座った少年を知らずに殺害したことなど気にもせず。死闘の終わった空間へと脚を向け。
 さくん、と黄金の甲冑を破壊し、背に何かが突き刺さったことなど、気の触れたように走る男は一切気づかずに、その場へとたどり着いた。



 そっと、倒れた頭を膝に乗せた。
 闘った男。勝利した男。不可能を可能へと引き上げた男。火神浩一。

「―――彼のものに神の祝福を。【快癒】」

 溢れそうになる感情を自制によって抑えると、アリシアスはその全身に身体回復の神術を掛けはじめた。
 同時に浩一の全身を輝かんばかりに発生させた【青】属性で覆っていく。この程度の傷、大崩壊世界にて最高級の薬剤である【青の恩恵】ならば三秒程度で治せるが、あの薬はめまい、眠気、集中力の低下、ふらつきや体力の欠損などの副作用を持たないかわりに、非常に無粋だという弊害があった。

「怪物を倒した勇者には、乙女の膝枕が伝統ですものね」

 ふふ、とアリシアス・リフィヌスにしては珍しく、本当の微笑みを浮かべながら彼女は浩一の額をそっと撫でる。
 治癒には適さないこの姿勢。本来ならば医療用ベッドの方が適した状況。それでも、アリシアスは浩一に膝を貸したかった。
 【至高なる看護】なんて仰々しくも馬鹿馬鹿しい名前のついたこれは、神術師の発足に多大な貢献をした古の神術師が戯れに自身のパートナーや当時の偉大な英雄に行っていた行為が神格化、伝統と化したものだ。
 特に強制されるものでもない。神術師や治癒技能を持つ生徒や軍人が、尊敬できる人物や戦いの際に、心から治癒を行いたいと思ったときに行うものだった。
 無論、技量の不確かなものが戯れに行ってよいものでもない。治しきる自信のあるものが、治しきれると、治しきると確信した際にのみ行うものでもある。だからか、実際に行い、有難がられるのは行うものがAランクを超えてからになる。
 そうして、アリシアスにとってもそれは初めてだった。過去に、街で戯れに行ったものではない。アリシアス・リフィヌスが本気で行いたいと思ったのだ。死闘を潜り抜けた火神浩一に対して、今は意識を途切れさせ、膝枕でも、ベッドでも変わらぬであろう彼に対して。
 そして、その溢れた気持ちも浩一のためではなかった。結果を残した、力を示した、無力でないと咆えた男に対して自身が示せる最大の敬意を表したのは、アリシアス自身のためだ。胸の熱。それが囁くのだ。アリシアスに。
 これが正しい己の姿だと。本来の自身はこういったものなのだと。

(本当に、馬鹿馬鹿しい。……でも。そうも言ってられないですわねぇ)

 呆っと空を眺め、白い天板の張られた天井を見。どうにもならない駄々っ子のような自身の気性のことを思い。自然と浮かんでいた、苦笑と苛立ちの介在された笑みに、どうしようもなくなって頬に手を当てる。冷えた手が頬に気持ちが良かった。

「ほんとう、全てが全て思い通りになる世界だったらどれほど楽なことか。ねぇ?」

 そうして、苦笑すらも完全に表情から消すと傍らの魔杖リベァーロンの腕をつかみ。杖先を地面へと叩きつけた。
 ガシャン、とアリシアスの背後に何かがぶつかり、結界ごとそれが破壊される。アリシアスは背後を振り向きもせずに首を傾け、続いた一撃を見ることなく回避していた。

「貴方は。いえ、貴方様は本当に、人と人の流れ、人が抱く感情を理解できないのですわね」
「あ、あ、ああ、アリ、アリ、アリ、アリシアスッ。アリシアス・リフィヌスッッ!!」

 はぁはぁと荒い息を吐き出しながらアリシアスをにらみつける男。ゼリバ・ライゴル。あの商店街の一件の後、リフィヌスが捜索するも完全に姿を消していた男の姿がそこにあった。
 首筋に触れる刃。力を込めて横に振るうだけでその細く、力のない首を叩き落すことができる。
 アリシアス・リフィヌスを殺すことができる。SランクをAランクが打倒できる。ゼリバの頬がつりあがるも、アリシアスの表情は変わらない。首筋に当てられているも同然の距離。首を傾け、火神浩一に膝を貸した状態にも関わらず、アリシアスは慌てても、焦ってもいない。むしろ、微笑みながらゼリバを見上げる余裕があるぐらいだ。

「ダンジョンで、私怨のみ、利害のみで人を殺した場合。どうなるか理解していますの?」
「う、うるさいッ。うるさいうるさいうるさいうるさいッ。貴様はッ、貴様がッ、貴様のせいでッ」
「わたくしのせいで?」

 言葉に込められた力、だけではない。刃を伝い、空気を伝い、寒気が、怖気が、危機感がやってきた。刃に力を込めようとしたゼリバの腕からぞわりと汗が噴出する。アリシアスから溢れる威圧のせいだ。首を、首を落とさなければ、首を。

「わたくしが何を? 具体的に教えてくださりません?」
「ッ。おまえが、俺のッ。俺の仲間を殺したッ。お前に会ってから俺の運が下がりっぱなしだッ!! ぶっ殺すッ。殺してやるッ!! 殺しッ。ああッ、糞ッ」
「ふふふ。まぁどうでもいいですわ。ええ、ゼリバ・ライゴル様。貴方様は本当にわたくしの楽しみを中途で終わらせるのが大好きなようですもの。忌々しいハルイド教曰く『強運は魔王を小石で殺す』。貴方様がわたくしにとっての小石ですわ」

 ふふ、とアリシアスは小さく嗤うとPADの操作で小さな枕を転送し、浩一を膝からそれに、そっと移した。赤子を扱うかのようなやさしさの込められたそれ。
 唯我独尊の名を持つ修道女は、刃がないかのような所作で立ち上がると杖を手に持ちゼリバと向き直った。
 あまりに自然に行動するものだから、ゼリバには留める言葉がなかった。いや、留める気が起きなかった。ゼリバの腕は一ミリたりとも動かすことができていない。ゼリバの気迫、殺意は自身の危地から起きたもの。ならば、それ以上の危地を目の前にして何ができようか。恐怖から起きる勇気は、それ以上の恐怖を目の前にしたとき、なんら力を持つことはない。

「それで……。ああ、いえ、よろしいですわ。貴方様から聞きだすなど、路傍に落ちた金貨を拾うも同然の卑しい行いですもの。飢えた匹夫のような行いなど汚らわしくできませんわ」
「な、何を、おまえ、何を見て? 俺を通してッ、俺の向こうに何を見てるッッ!?」

 ゼリバの言葉にもアリシアスは薄く嗤うだけ。その言葉にも、その視線にも、ゼリバは映っている。映っているが、言葉は誰に向けているのか。
 それでも、アリシアスはアリシアスなりにこの男を見ていた。この何もかもタイミングの悪い男。図らずも、アリシアスの熱を遮断しようと苦心してしまっている男を。

「それで、何をしますの? 果し合い? 決闘? 殺し合い? ああ、無難に無残に殺し合いがよろしいですわね。自殺させるなら言い逃れもできますけれど。殺してしまえば流石にわたくしも罪を問われますもの。ふふふ、これが目的かはわかりませんが、手に乗ってみるのもまた一興。主導権は常にあちらにありましたから、わたくしも久しぶりに窮地に嵌ってみるのも面白そうですわ」
「だから、何を言ってるッ!! 誰に何を言ってんだッ。俺は、俺はここだぞッ。アリシアス・リフィヌスッ!! 俺はここにいるんだぞッ!! 俺は、俺はッ。お前を殺すんだッ!!」

 アリシアスはくすくすと嗤う。言葉の全てがわかっていない男に、アリシアスなりの優しさを向けていたというのに。今からアリシアスが殺す男に手向けの花を与えてやっているというのに、相も変わらず何もわかっていない男に。
 殺す事情を、話さないなりにヒントを与え、既にこの男が、ゼリバ・ライゴルには、手の届かない場所に推移している事情を教えてやっているというのに。理解の欠片も向けないことをあざ笑いながらも、だからこそ、手ずから殺してやろうと思ったのだと改めて納得した。

「ええ、ええ、わかっていますわ。ゼリバ様。貴方様の武器は、殺意を乗せる刃は、黄金剣グライカリバー。その黄金の刃から射出される死の斬閃は、触れるものを切り裂き飛ぶ刃。そして貴方様の鎧、纏う黄金、彩りの豪奢さ、名を偽聖鎧アキレス。魔法防御に特化したそれはわたくしが放つ魔法のことごとくを致死の一歩手前で抑えるでしょう」
「はッ。あ、ああ、俺はお前を殺すぞ。今度はそこの野郎の邪魔は入らねぇ。ここには俺とお前、ただ二人だッ。ここで、俺はお前を殺すんだッ」

 それでも、刃に力は乗っていない。ゼリバは渾身を身体に込める。刃が致命傷を与えるために、剣を振り上げ、降ろすだけ。そこに、目の前にアリシアスがいるはずなのに、それを行うことができない。アリシアスに同情しているわけでも、アリシアスの言葉を聞こうとしているわけでもないのに、体に力が入らない。今にも崩れそうな膝に力を込め、ゼリバは気合の声を上げていた。

「くすくす。ゼリバ様に与えているこれは猶予、というよりは慈悲ですわ。四鳳八院は敵と認識したものに容赦はありませんが、同時に慈悲も与えますの。私たちの持つ技能、わたくしたちに施された改造。わたくしたちに与えられたスロット。それは内部であれ外部であれ、非常に厳しい秘密主義のもとにありますわ。それでも、わたくしたちは敵と認めた個人に対して全てを隠すことはいたしません。あら? 剣があがりませんの? ふふ、理由を教えて差し上げますわ」
「ぬ、うぅッ。ああッ、ああぁあぁぁああああッ!! 殺す。殺してやる。うぅッ。うぅぅううッ」

 アリシアスは嗤う。ゼリバ・ライゴルに対して嗤う。必殺の距離にいる少女が、必殺される立場にいる少女が笑う。ゼリバ・ライゴルは、内心の恐怖を必死に押さえ込みながら、身体中の怖気に抗いつつ、剣に力を込める。
 次の言葉を言わせてはならないと全身が訴えていた。魂が、心が、何もかもが訴えていた。ゼリバ・ライゴルはアリシアス・リフィヌスに言葉を吐かせてはならない。それはカウントダウンだと、刃を向け、何度も邪魔をし、命を狙った自身を、二度目の慈悲はないと、目で、言葉で語っていたからだ。
 アリシアスに容赦はない。
 敵と、個人と認識されてしまっている。既にゼリバを見ていなかった目ではない。アリシアスはその蒼眼で、ゼリバの目を射抜いている。嗤いながらもその挙動には一切の無駄がない。自然体でいながらもゼリバの一刀を避けるか受けるかは確実にできるだろう。そして、一撃で殺せる立場にある。アリシアス自身、魔法で殺すことはできないと言ってはいたが、それを覆す手段を、今の今まで身体の自由を奪っていた手段を今から言うのだから。

「さぁ、今から教えて差し上げますのは四鳳八院が一院。聖堂院家が秘法。二つのスロットのうちの一つですわ」
「ぐぐ、あぁぁぁあああッ。動けッ! 動けッ!! 動けッッッ!!」
「ふふふ。ゼリバ様は魂も、精神も、気合すらも弱いのですわね。貴方よりもランクが低く、身体の弱い藤堂正炎は耐えたものですが。ああ、いえ、馬鹿にするつもりはありませんわ。ただ、そうですわね。抗う方法を教えないのもまた正道に欠けるというもの。ああ、とはいえ教えすぎるのも問題のひとつではありますけれど」

 華が咲いたように嗤うアリシアスは、ゼリバの全身を眺め、その視線が一瞬だけ、再びゼリバを通した向こう側を見た。睨むような、懐かしむようなそれは、アリシアスの事情を知らないゼリバからしてみれば、憤怒を覚えるものだった。
 ぴくり、と剣先が動き。ゼリバの全身に力が込められる。

「俺をッ。俺を見ろッ!! 俺を無視するんじゃないッ。お前らはッ。お前はッ。虐げる人間を見ないのかッ。お前はッ。殺す人間を見ないのかッ!!」
「できるものですわね。ええ、よろしいですわ。それでは告げましょう。聖母の釘を。それでは教えましょう。魂を見る目を。ゼリバ様。貴方様を一撃で葬るわたくし、アリシアス・リフィヌスの鬼札を」

 そうして、その悪魔のように整った、天使のように美しく、紅を差したように艶のある唇から、血塗れた道のようにおぞましい言葉が漏れた。
 スロット【五番の釘】と。

「ごばんの、くぎ?」

 ゼリバの身体から力が抜けかける。言葉にはなんの意味もない。ゼリバには理解のできないものだし。その単語にも聞き覚えはなかった。それでも、たったひとつだけ理解できたことがある。
 身体から力が抜けかける。理解のできない、無力感が。全身に溢れていた、抗おうとする全ての力を吸い取ってしまっていた。
 不吉。気持ちの悪さ。それがゼリバの身体を覆い始めていたものの正体だとは、ゼリバ自身には理解ができていない。

「ええ、四鳳八院がひとつ、聖堂院の役割は、人間の思想の監視。宗教、道徳、倫理、政治、人の心、行動の方向を支配するそれらを監視することによって人民の反乱を未然に防ぐ。また蔓延するであろう思想を未然に調査、理解し、鎮圧する。当然それらを迅速に行うために対人戦の研究がなされ、聖堂院家はそれに対するジョーカーを作り上げましたわ」
「な、なんだ。それはッ……」

 五番の釘など比較にもならない情報が与えられ、ゼリバの脳裏を奇妙な納得と、怖気が支配した。
 四鳳八院に役目がある? 何の派閥にも、何の政治勢力にも懇意ではなかったとはいえ、四鳳八院の分家ぐらいには知り合いのいたゼリバでも全く知らなかったことだ。パーティーリーダーをしていたころには政治についても、多少は勉強もしていた。それでも、これは、理解のできないことだった。
 四鳳八院は、軍部の、研究機関の、商業の一員であったはずだ。いつから都市全てを管理する立場に立っていた? いつからこの都市全ての頂点に立っていた?

「全ては四鳳の叡智の下に。しかし、聖堂院家は敵対するはずの思想に長く触れすぎましたわ。それが十二年前のチェス盤の戦争の原因なのですけれど、これは蛇足ですわね。今から死ぬ逝く貴方様には必要のない情報」
「う、う、ぅぅぅぅううぅ……」

 言葉で思い出す。アリシアスはゼリバを殺そうとしている。アリシアス・リフィヌスはゼリバ・ライゴルに対して情報を与えているわけではない。慈悲を与えていたのだと。いまさらながらに思い出していた。
 剣先に力を入れた。目の前に敵がいる。目の前に殺さなければならない人物がいる。既に最初の、何者かもわからない人間に殺されるという恐怖はない。今あるのは、圧倒的なまでに不吉な存在へと抗おうとする気持ちだった。
 奇妙にすっきりした気分で、それでも全身を襲う圧力に抗いながらアリシアスへとゼリバは剣を振り上げる気力を搾り出す。それに対して、ようやく敵としてまともになったかとアリシアスは内心に浮かんだ暗い喜びに、微笑みを浮かべそうになるのを押さえながら淡く暗い嗤いを頬に浮かべた。

「つまるところ五番の釘、とは対人間用に開発されたスキルですわ。四鳳八院に敵するであろう人間に対して、武でも智でもなく、絶対的な視点から射止める釘。それがこの五番の釘ですの。ふふ、モンスターが人間ほど繊細な魂を持っていたならこの世界は500年も前に既に人間のものでしたのに。残念ですわ」

 言葉を出せないゼリバに対してアリシアスは軽快に言の葉を重ねていく。その瞳は、ゼリバの心臓を見ていた。恐らく、その釘を打つ場所を見ているのだろう。ぎりり、とゼリバの歯が唸る。その釘は、どこにある。どこから撃ってくる。アリシアスッ。
 唸るゼリバの目の前でアリシアスが杖を握り。軽快に地面へと叩きつけた。そうして嗤いながら両手を広げ。宣言した。

「さぁッ。ゼリバ様ッ。さぁッ。さぁッ。剣を振るってくださいませ。剣を振るい、わたくしに、貴方様がわたくしが躓くにたる小石だと。わたくしに釘を打たせる価値のある敵だと示してくださいませ。さぁッ。ゼリバ様ッ。さぁッ!!」
「え、あ、え?」
「ゼリバ様? 如何しました? そのだらしなくも死に犬のように力のない剣は如何しましたの? 最初の気合は? 最初の気概は? 貴方様の見当違いの方向にばかり放たれた殺意はどこにありますの? ゼリバ様ッ!?」
「釘は? どこからくるんだ? おいッ。あ、なんだその顔はッ? お、おいッ。釘について話してないぞお前?」

 アリシアスは、呆れた表情をするしかなかった。何から何まで、本当にこの男に話すと思っていたのだろうか。確かに、四鳳八院は、敵と認めた相手に慈悲を与えることがある。ただ、それは、敵がどうして死ぬのか、どうやって殺されるのかも理解できないような敵に対してだ。敵には、理解させる必要がある。四鳳八院がどれだけただの人間と隔絶があるのか、それを理解させながら殺すためにもだ。
 そして、アリシアスは言葉の全てにヒントを盛り込んでいた。自身が人間の魂に向けて攻撃することも、その攻撃が点であることも、視線で位置すら教えていた。ゼリバがどうしてアリシアスに殺されなければならないのかも迂遠に教えてやってもいたし。どうすれば回避できるのかも教えてやっていた。
 スロット【五番の釘】とは、色属性の源、人間の源泉、人間を司る三属がひとつ、魂を見ることのできるスロットだ。そしてそれを、魂を自在に操るツール【釘】を自在に扱えるようにするスロットでもある。
 現在は殺すために用いているこれは、拷問、尋問など、心や思考と密接につながっている魂を操作することにより人間から自在に全てを取り上げることのできる人倫に最も背くものだ。アリシアスが時に人間相手に扱う威圧はこれを発動し、視覚に魂を見ることのできる細工をしていない人間には見ることのできない【釘】によって、魂の最も鈍感な部分をかき混ぜているだけにすぎない。
 だから人はアリシアスの威圧に言いようのない不吉さを覚えるのだ。自身の根源を弄られているから。最も無防備な部分を自在に攻撃されているのだから。脳が理解できなくとも、魂も、精神も、理解しているのだ。

「……興ざめ、しましたわ」
「は? お、おい。ああ、ッ。糞ッ。糞ッ。く―――」

 アリシアスは呆れながらも自身の前方に、自身の魂を加工して作った触手を伸ばしていく。それでゼリバの心臓の横にある、魂の弱い部分を貫くだけでゼリバは死ぬ。
 人を直接殺すのはこれで二度目だ。一度目はチェス盤の戦争の際に聖堂院の当主を。二度目は今、自身の楽しみを何度も邪魔し、アリシアスの命を奪おうとすらした明らかな格下。
 手を下すことに後悔はない。この存在は、アリシアスに対して相性が悪すぎる。一度目もそうだったが、アリシアス・リフィヌスが同じ人物にこれだけ自身の思惑を阻害されるというのはあってはならない。この男が大成するとは思えないが、いつか致命的な、本当に致命的な騒動を起こす前に始末しておくのが最も良い選択。

「さぁ、死になさ―――」

 理由を改めて確認し、その心臓に釘を放つ寸前。どさり、とゼリバが前のめりに倒れていた。魂からも、あれだけ力強かった魂からも全ての力が失われ、アリシアスの目の前で身体から抜けていくところだった。

「あ、あら? 死んで」

 気合を入れ、宣言もし、四鳳八院としての覚悟まで決めていた。この後に起こるだろう自身の敵との戦いを思い、さまざまな思惑を立てていた。
 アリシアス・リフィヌスが正当防衛とはいえ、ダンジョン内で人間を殺害する。それによって起こるだろう危地。アリシアスの敵との政争で、必ずアリシアスは自身の目的の尻尾を掴もうと考えていた。
 それが、はずされた。アリシアスの思惑が完全に外されていた。
 ゼリバ・ライゴルは、アリシアスとは関係のない出来事で死亡していた。
 ずくり、と浩一に抱くものとは別の熱が、アリシアスの胸中で熟熟と熱を放っていた。

「ふふ、ふふふふ。あは、あははははははは」

 酷い、屈辱。おぞましいほどの侮辱をされた。アリシアス・リフィヌスが、渾身を込めて殺すと宣言した相手が、アリシアスの期待を外し続けた挙句の果てになにを達成することもなく目の前で死んでいた。
 その背には、一本の毒矢が刺さっている。
 【狂王の毒杯】、対Sランクモンスター用の毒矢だ。これは対象に刺さり、無害な無色透明の薬液を対象の全身に流し、指先や脳にすら回ったところで毒矢からまた別の、単体では無害な薬剤を流す。これを繰り返し、毒矢が行う。そして五種類の、単体では無害で、身体には毒とは認識されない薬物が全身に回ったところで鏃から特殊な波長の波を毒矢が流す。すると五種類の薬剤は一瞬にして混ざり合い、猛毒へと変化。体内の全てに浸透したそれらは対象が毒を受けたと認識する前に、対象を毒殺する。
 無論、無害な薬剤の時点で体内で分解するモンスターも存在するため、アリシアスは正炎が持っているのを確認した際、強力な再生能力を持つミキサージャブに通用するとは思っていなかった。だから武器を破壊しようとまでは思っていなかった。無用のものだと思っていた。
 しかし、それでも藤堂正炎の毒矢は、自身を殺したものの命だけは奪っていたのだ。
 アリシアスの目の前でぐすぐすとゼリバの身体が溶けていく。人としての輪郭を失い、その身体に仕込まれていた金属部分と、鎧、PAD、黄金剣を残し、ゼリバはなくなっていく。
 アリシアスは、苛々とした気分でゼリバの手から黄金剣をもぎ取ると、その先端に指を滑らせた。その際に毒に触れるが、八院の改造を受けているアリシアスの解毒能力ならばこの程度の毒で死ぬことはない。それにこの毒は、全身をまわりきり、一度に破壊することが怖いのであって、触れるだけでは、それほど効果はない。
 そうして、血が舞う。この一ヶ月。ミキサージャブ戦ですらも傷を負わなかったアリシアスの指から血が流れていた。
 アリシアスの身体に仕込まれた治癒能力が傷をすぐにふさぐものの、アリシアスの指から血は流された。
 黄金剣を血が伝い。アリシアスは感情のままに、ゼリバであったものの目の前にそれを突き刺した。

「一刺し。と認識致しますわ。ゼリバ様。貴方様の存在は非常に苛々としたもので、わたくしの思惑や思慮の全てを軽々と無視するものでした。貴方様は間違いなく、わたくしの敵でしたわ」

 そうして、アリシアスはゼリバから一切の意識を外し、青属性によって治療の終わった浩一を背負い、この平地から、森から出て行った。
 残るのは、ただ一本の黄金剣と主を失ったPADと鎧。







 死闘は終わった。

 意識を失った侍を背負い、苛々とした気分のまま、森の中を歩く修道女は気づいていない。

 これは始まり。後に起こるゼネラウス至上最大のクーデター。超人事件の始まりにすぎない。

 かつて歴史の闇に葬られた者たちが、今歴史の影に消え逝こうとする者と結びつき、叡智を欲する者と絡み合った結果生まれる騒動の。これが始まり。

 そして、少女の背負う男が、その特異性に目を付けられた男が、鍵を握っていることなど少女が知る由もなく。

 少女の使命と男の行き先がようやく絡み合い始めたことにも、気づくことはなかった。


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