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第一章『【唯我独尊】と無謀の侍』
破断、そして死亡遊戯

 純白の通路で接触したミノタウロスや大蛇を血祭りにあげながら浩一は進んでいく。
 壁と床で四方が囲まれた、曲がり角や行き止まりだけで造られた構造。二十階層は単純な迷宮タイプの階層だった。

「二十一匹目、か……」

 水道代やら電気代やらの諸経費はこれでそろった。二十一階層への道は既に見つけてあるがパートナーである雪が傍にいないことからそちらへは足を向けずPADの情報を更新していく。
 一時的にアイテムや学内通貨をプールしてあるウィンドウを見るが、大分資金やアイテムが溜まっていた。学園の規則により、アイテムの類は今この場でも使えるが、通貨の類はきちんと受付にて手続きをしないと財布へ移行できないため手は付けられていない。

「むぅ……」 

 大蛇からのドロップ品のひとつ、蛇の蒲焼を食べながら浩一は唸る。疲労ではなく精神的な苦悩。戦闘効率が良すぎることで生まれたものだった。
 雲霞緑青。たった一振りの刀の威力は絶大だった。戦闘が楽になりすぎた。一振りで相手は怯み、二振りで勝機が浩一の手に落ちる。
 毒はモンスターの神経を侵食し、数秒で動けなくさせた。後は倒れたモンスターの首を好きなように叩き落すだけ。
 本来なら十分に時間稼ぎをした後、準備した射線に誘い込み、大火力で一撃するという方法が。たった一本の刀によって変革されたのだ。
 心が揺れる。武具の優劣程度で自身の心情は変わらない、はずだと浩一は唸る。先ほど結論したことだ。己に強化措置を施すことができない以上、自身の力を地道に挙げていくことが肝要だと。
 一本。芯が通っていたはずの心根。それを思いながら浩一は黙り込んだ。手に持ったものが自分を損なうと確信していたはず。だが、手元にあるそれはここで浩一が生きていくためには飲み込まなければならない不条理だと。戦果でもって浩一に語りかける。

(毒刀、か。アレが武具の優劣程度で埋められる差だったなら、喜んで購入しただろうが。これを俺の力にすることはできんぞ。修練と実利を考えると腰掛程度に考えることもできんし。楽を覚えたら覚えたで対応能力は下がる。それでも、か……)

 毒刀一本でここまで変わるということは、それだけこの時代では武具の力が上昇しているということを意味する。個人の修練など関係ないとばかりの力。たかがB+の刀一本が、人間にこれだけの暴力をもたらしてくれる。
 それは、きっと幸福なことなのだと思う。もう人類には明確な敵など少数しか存在していないのではないか、とすら思える程度には。
 そして、過去から現在、この地下迷宮が十分に機能を果たしてきた結果がこれならば、と、そこまで考えが達したところで浩一は頭を振る。
 この思考はまずい。行き止まりどころか、迷いすぎている。武具の優秀さと自身の力の相乗が戦果だと思い込むことはできないが、自身を過小評価しすぎている気もしてならない。
 慢心や傲慢は油断と過失を生む。雪さえいれば、と少しだけ一人の状況を恨みつつ手の中の刀を恨めしげに眺めた。
 雪さえいれば、そんなことを考えず。ただただ敵を見つめていられるのに。浩一はただ強い己であれるのに。
 武具の優劣に傾倒するあまり、力への慢心と自身の修練への卑屈が生まれかけている。浩一は少し思考を落ち着けることにした。大蛇の蒲焼を飲み込み、床に直に座ると胡坐をかき、頭の中を空っぽにする。

 ギャァぁぁぁぁぁぁぁああああぁあああ

 だが、精神集中のための瞑想を始めようとした途端に、悲鳴が迷宮内に響き渡る。近いものだ。浩一は特に何も考えなかった。立ち上がり、走ってその場所へと向かっていた。
 無数の戦闘ともいえない殺戮が判断能力を奪っていた。無自覚に奢っていた。無傷の戦果がこの階層に敵はいないと浩一に知らしめたからだ。

「なんだ? ミノタウロスにでも襲われたか」

 ミノタウロスが出現するのは二十階層からだ。知られた情報であるから浩一も雪も自分たちの実力を考えてから降りる決心をした。
 しかし、実力も考えずに降りてくる無謀な連中もいる。
 そういう物を知らない人間を助けるのは先に潜っている人間の役目だ。無視をしても後味は悪くなるばかりであるし、無視したことが知れ渡れば噂や情報が広まり、人間関係に支障をきたす。浩一は好んで孤立したがっているわけではないため、これは必要な行動だと自身に言い聞かせている。
 それに、並の学生より強いと思われる個体と闘えるのがいい。
 迷宮内の規定で決まっているのだが、襲われているにせよ、闘っているにせよ、無断で倒すと横から獲物を掻っ攫った略奪者と認定され処罰を受けることになる。そのため直接的な助けを与えるにはそのパーティーの認証が必要だが、とにかく助けが必要なら自身のためにも、行き、事情を見るだけでもしなければならないだろう。
 声を頼りにし、確認を怠っている浩一は気づいていない。その先は、先ほど確認した下の階層への階段がある場所だと。上から降りてきた人間がそこに最短で辿り着いたにしろ。下から昇ってきた人間がそこへ辿り着いたにしろ。十を越えるミノタウロスや大蛇を殺さなければそこへ辿り着けないことを。
 そして、そんな人間がわざわざミノタウロスごときに悲鳴を上げるようなものだろうか。つまりは――――――

 ――――――浩一の速度が落ちた。

 未だ悲鳴の場所へとたどり着いてはいない。浩一の歩みだけが速度を落としていた。
 身体に纏わり付くのは濃密な殺害圏。強いモンスター特有のもの。記憶にある過去に、一度だけ経験したことのあるそれが浩一の身体を纏っていた。
 お前を殺せるぞ、と。この先にいるナニカが不特定多数に向けている殺気の塊。肉食の生物特有の傲慢な空気。
 認識すらされていないのに、浩一の身体はその脅威に対して怯えている。
 だが、浩一は歩いてしまった。惰性でか、気性でか、心根でか。傲慢を理由に走りだした身体は、忘我によって歩みを進め、致命の場へと身体を送る。
 そうして、無自覚に浩一は殺戮場へと歩を進めていた。進めてしまっていた。

「……ああ、糞ったれめ」

 だから己を損なうと、技量を勘違いするものだと。あれだけ確信していたのに。
 浩一は一目見た瞬間に自身が酷い失策を行なっていたのだと悟った。目的を達成したならば直ぐに撤退するべきだった。欲に目が眩み、己の本分を忘れた間抜けの死亡率の高さを、学園都市での十年でイヤというほど学んでいたはずだった。

 ヴォォォォオォオォオォ……

 それは、絶望が形を成したかのような禍々しさを持っていた。
 手に持つのは黒い、黒鉄の戦斧。身につけているのは簡素な獣の皮。事前に聞いていたもの。警告を受けていたものと特徴を同じくしていた。寸分も違わない。浩一の全身からドッと汗が流れた。カタカタと体中の細胞が警告を告げている。決して敵う存在ではないと。
 それの前には四人の学生が立っていた。否、逃げ出そうとしていた。男たちは逃げ道を探し、女たちはどうにかして撤退しようと考えをめぐらせている。そして、浩一は気づく。彼らは誰もがどこかで見たことのある人間だった。しかも一人はつい最近に出会ったばかりの人物だ。
 仕切り直しを考えているのか、澄ました顔を今は険しくゆがめた【青の癒し手】アリシアス・リフィヌス。杖を構えつつも、防御魔法の一つも発動させていない【百魔絢爛】戦霊院那岐。巨大な槍を背負うも、それを構えすらしていない【怪物騎士】ドライ・炎道・ソレイル。片足を引きずり、畏れに身を包んだ【暴風】リエン・滅道・カネキリ。十七から二十、各学年の主席を集めたパーティー。学生だけと限定するなら都市で最も強力な火力を持つ集団。この迷宮内なら最強と言われている彼ら。
 だが、浩一は正面を向きながらも通路を戻り、彼らの視界から隠れた。そうすることが正しいのだと、思考より早く本能が理解したのだ。

「く、来るな。くるな。クるな。く、クるなぁぁぁぁアアァぁああ!!!!!!」

 たった数瞬。目を離した隙にそれは始まっていた。逃げ遅れたのか、絶叫を伴い、ぐしゃり、と闇色の豪腕が放った漆黒の金属にリエンだったものが潰されかけた。骨や筋肉、皮膚などを金属に改造しているのだろう。轟音と共に迷宮を揺るがした一撃を喰らっても未だ戦士は生きていた。が、生きているだけだ。ボロ雑巾のようになった男は抵抗することなくバリバリと砕けた鎧を剥がされ、下に着ていた肌着と共に開けた大口に飲み込まれる。
 完全な死者蘇生は学園都市の技術でも未だ到達できていない領域。死んだら終わりだ。いくら主席でも覆らない。例外は旧世界の神の子だけだがそんな人間はこの場にいなかった。

(―――ッ。……く、喰った。喰いやがったッ)

 そうして、浩一は片手で口元を押さえ、気力で身体の震えを抑え、残った片手を壁につくことで身体を支える。来た道を、退路を一瞬だけ目が捉えた。

「リエンッ。ああッ。くそッッ、リエンッ!!!」

 離れた位置、仲間を喰われた全身鎧の戦士が悲痛な声を出した。背面に鬼に縊り殺される戦士の図画が画かれた鎧に身を包んだ彼はドライ・炎道・ソレイル。一人だけ兜に隠れて顔が見えないが、このパーティーで全身鎧【滅亡せし御門】を着込んでいるのは彼だけなので浩一にはドライだとわかる。
 ドライは背負っていた巨大な突撃槍を構えた。しっかりとした、隙のない構えだが行動には戸惑いが見えた。彼らを襲っている獣。それに向かって突撃することを戸惑っている。この一瞬、一刹那が大事な場面だというのにドライは激情に従うことに戸惑っている。 
 そして獣が咀嚼を終える。その牙のない顎がゴクリと既にダレかもわからなくなった肉塊を飲み込んだ瞬間に彼の戸惑いは終わっていた。全身に悲壮感を漲らせた彼は遠目にもわかるほどに視覚化されたオーラを振りまき、突撃を開始した。
 【勝利の(ア・バオ・ア・クゥー)】と呼ばれる四人だけのパーティーは主席のみの構成だった。つまり四人が四人、戦技Sランク以上の戦闘能力を持つ学生。名誉補正が掛けられたとしても戦技は確実に浩一の上のランク、SやSSで固められたパーティーだった。未だB+の人間にとってSランクの人間との距離は、天と地、霊長類と微生物以上の差だ。努力して努力して努力しても、そこに才能と運、そして特殊なスキルなどがなければ飛び越せない溝。
 その人間がまともに抗えずに殺されたというのは一体どういうことなのか。悲壮をにじませて闘わなければならないというのは、どういうことなのか。
 素人が装備してもAランクやA+ランク程度のモンスターならば瞬時に肉塊へと変えることのできる武具で身を固めた三人は覚悟を決めてようやく立ち向かえる戦意を維持できていた。
 突撃したドライの背後で、残りの二人は魔杖を構えている。
 彼らに襲い掛かっているのは黒いミノタウロスだった。先日佐竹の言っていた、賞金首モンスター。ここに来る前に二人の友人に注意を促された【ミキサージャブ】。学内通貨で二千万ゴールドという金額が懸けられた化け物。主に三十階層を狩り場にしていると聞いたそれが、何故二十階層に居るのか。疑問が浩一の頭を占めるが、答えは見つからない。

「おおォおおおおおおおおおぉおぉぉぉぉおおおおッッッッ!!!!!」

 目前の何もかもを踏み潰す全力疾走が、眼前に立つミキサージャブを突き倒さんと激震する。Sランク重騎士による、最大の一矢。貫けないものなどない。蹂躙できぬものなどない。世に謳われる騎士突撃。
 鎧を含めた全身。ドライの身体を覆うオーラが錐のように鋭く先鋭化していた。
 ドッッ!! と爆発したかのような激震が迷宮内に走った。戦斧を構えるミキサージャブの前でドライが更に加速したのだ。オーラによる爆発的な多段式走法。手にもつ突撃槍は所有者に重さを一切与えず、内部の非魔導機関により、敵手のみに、蓄えた重さと熱量を解放する工匠ハルイド製Sランク突撃槍【解体されしベルッツァンネル】。

「くうううううたぁぁぁあぁばぁっぁあぁぁぁれぇぁぁぁぁぁぁ!!!」

 ズズンッ!! とドライが歪んで見えるほどにオーラが発生、先鋭化した。炎のような熱が周囲を焦がしつつミキサージャブを捕捉する。
 仕留めた、と外から見ている浩一でも理解できた。しかし、後方のアリシアスはつまらなそうな顔でフードを被ると一歩後退。那岐ですら自身の眼前に精神守護系下位の魔法【心盾】を無詠唱で展開していた。

 ヴォォォオオオオオォオオオオォオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!

 ズズン、と静かな音を立ててミキサージャブの直前で停止するドライ。貫いたわけではない。オーラで敵を焦がしつつも、本命の突撃槍は射程ギリギリの位置でドライの突進と共に停止している。槍先が、込められた力は発散されず、ぶるぶると、何かに抗うように震えている。

「――――――ッ!?」

(・・・し、身体停止。いや、これは)

 浩一は自身を絡め捕るそれを全身で味わっていた。狐鬼とはまた違うそれ。戦闘力の優越程度では覆せないもの。人間が未だに身体と心、そして魂に色濃く残しているもの。それのせいで身体は思うように動かず、意思は泥のような停滞を見せる。

(――――――恐怖、か)




 ドライが必殺の一撃を直撃させる数歩。その距離で放った咆哮。前衛系Sランクが常の状態ならば決してかからなかったそれは、数時間前に一度敗れ、数秒前に友を失ったことで容易にその心を捉えていた。
 スキルですらないただの咆哮。獣のオーラだけが込められた本能に訴えかける叫び。ドライの身体は地面に縫い付けられたかのように動けず。その心が内心で賦活の叫びを上げようとも一切の挙動は失われる。
 だから――――――・・・・・・



 主を失った全身鎧は血液だけが末路を顕す血色の床にひしゃげながら転がった。鬼に縊り殺される勇者を描いた鎧の持ち主は、絵のごとく、黒牛鬼の贄となり、その命を消失させている。

「如何しましょうか? わたくし、有効な撤退手段を有してはおりませんわ」

 前衛が死ぬ前に稼げた距離は僅か一歩。それはミキサージャブが全力で追撃を開始した際には一秒も満たずに踏破させられてしまう距離だ。
 しかし、彼女たちは己が持つ矜持ゆえにドライの死亡が確定する瞬間さえも後退することを己に許さなかった。敗者が喰われている間すらも。

「とはいえ、魔力殺し相手に後衛が二人ってのもね。アリシアス、アレを留めることは」
「全力で半秒、いえ、なんとか一秒、といったところですわね。ただ、わたくしの死亡が前提ですけれど」

 人類の頂点の一人、【怪物騎士】ドライ・炎道・ソレイルを腹の内に収めたミキサージャブが二人を見る。魔杖を構え、血路を開こうと意見を交わす二人は、どちらを先に腹に収めようと思案している獣の目を見。

「三秒。なんとか稼いで」
「無理。とは言えませんわね。はぁ」

 アリシアスはため息を突きながら前進を開始しようとし、遠くに見えた人影に首をかしげた。



 戦場を見つめながらも、全力で卑怯者のように隠れている臆病者に何ができる理屈もなかった。
 ただ、正しかった。己の命を優先させるだけならば。ただ隠れて生き、これからも己の命だけを大事にするならば。
 そう。彼より数段上にいる者が勝てなかった相手に、たかが【刀だけ(イクイップワン)】が勝てる道理はないのだから。
 彼は己の未熟を悟り、助けられなかったものや、助けなかった自分を嘲り嗤いつつも、それがこの都市の常識なのだと自らに言い聞かせるのだと思っていた。
 だが、彼が信条に反して選んだ心情があった。それによって、万に一つ、否、億に一つだけ、可能性ができた。
 勝利は恐怖に宿るものではない。活路は悲壮から見出すものでもない。ただ、決意の中にこそ生まれる。
 確固とした自分の中にこそ作られる。力はなく、ただ意思だけを持つ彼は、刀をぶら下げ気軽に歩いた。

「よう、ミキサージャブ。初めまして」

 闇夜のような黒瞳が、重油のような皮膚が、漆黒の戦斧が、赤黒く染め上げられた腰布が、何もかも黒だけに囲まれたソレの、白目だけが光を放っていた。
 浩一は雲霞緑青の柄を握りながら、気軽に歩いていく。畏怖と恐怖、二つの感情は腹の奥にずしんと転がっている心情がきっちりと消化していた。両者とも戦闘前に敵を探るためのものであって戦闘中には微量以上に必要はない。ただ死線を感じる際の指針のひとつに過ぎない恐怖も、形を為すほどに感じてしまえば己を縛る枷となる。それでも、少しだけ柄を握る手を震えさせることで主張をする、相も変わらず生き汚い己の信条を苦笑しながら宥め。侍としての矜持で最後の恐怖の塊を殺した。あの通路から出る前に殺し合うと決めていたからだ。もう畏れはしない。
 ぎょろり、とミキサージャブが浩一を睨んだ。餌ではなく、死体にたかる羽虫を見る眼光で。少なくとも先ほどの戦士より格下に見えた。だが、その目には恐怖を知りつつもそれに飲み込まれていない光がある。
 黒い着流しの浩一は雲霞緑青を鞘から抜かずにミキサージャブを見つめ。一瞬、その背後の二人に目線だけで撤退しろ、と告げた。

「全く、酷く度し難い。どうせ闘うなら最初から出りゃよかったんだ。そうしたら四人とも逃げれただろうによ」

 助けようとは微塵も思っていない。ただ、己が弱者のように振舞うことが許せなかっただけだ。隠れ、見逃してもらおうなどと考えていた性根が許せなかっただけだ。自分のことだけを考えた。他人のことなどどうでも良かった。
 自分は善人ではない。殺戮も好みではない。今日は殺戮しかしていない。気分が、悪かっただけだ。

 ――――――断じて助けようなどと、思い上がっちゃいない。

 ミキサージャブには人間の言葉はわからない。浩一がぶつぶつと独り言を言おうとも彼の認識にあったのは、ただ獲物が逃げていくこと、それだけを感じていた。追撃のために身体を反転する前に、前方の軽装の獲物は脅威なのかそうでないのかの確信が掴めなかった。
 ミキサージャブは獲物を刈り殺すだけの凶暴なモンスターではない。嗅覚で獲物を察知し、それが襲えるか考え、殺し、喰らう。最も恐ろしいタイプに分類されるモンスターだ。そして、ミキサージャブは最初からそうだったわけではない。外の世界にいたころ、こんな四方を石に囲まれた空間でない場所で、一度だけ敗北の苦渋を飲まされたときの経験がある。
 白衣の女に襲われ、身体の大部分を抉られた経験から見極めている。あれも、最初は獲物に擬態していた。そうして掛かったミキサージャブのような獲物を駆逐する化け物だった。
 目の前の侍はどういう生き物なのか。獲物なのか。狩人なのか。ミキサージャブは思考する前に吼えた。

 ヴォォオオオォォオオオオオオオォオオォオオオオオオオ!!!!

 ミシミシと空気が軋む。世界に皹が入る。ミキサージャブほどのモンスターなら、ただ吼えるだけで空間を殺意で汚染することができる。
 獲物であるなら怯えるはずだった。そして狩人ならば――――――。
 浩一は立っている。毒の刀を手に。ただ立っている。未だにぶつぶつと文句を言いながらもその身体は半身を前にし、腰を落とし、決して刀から手を離していない。
 だから、瞬間にして浩一は敵と認識された。

 ヴォォォオォッォオォオオオオオオオオオオオオオ!!

 攻防は瞬間。神速の居合いと颶風の一撃。片方は何もかもを斬り裂き、敵対した生物の神経を悉く破壊する一閃。片方は触れずとも衝撃のみで人間の身体を木っ端のごとく吹き飛ばし、当たれば肉片をぶちまけ、生命を跡形もなく消失させる重撃。
 迫り来る重刃を目にしながらも、浩一の意識はぶれなかった。浩一の一撃は、ミキサージャブを一瞬にして殺害できるわけではない。そして、ミキサージャブの一撃を受ければ死ぬ。浩一は真正面から対峙し、同時に攻撃を放っていた。回避する手段などない。手を尽くさなければ一瞬にして挽肉。
 浩一には思いしかなかった。生き延びる決意だけ。敵を殺害する願いだけ。死闘を味わう思考だけ。だから、自身の状況を全く不利だと感じることがなかった。そもそも勝てる勝負というのは一体何だ? 疑問が思考の奥で瞬いた。
 毎年毎月毎週毎日傷つけ破壊し殺しているモンスターたちとの闘いと今の闘いになんの違いがあるのか。殺意をもった者同士が全身全力全霊の力と意志と感情をぶつけ合っているこの状況はなんの変わりがあるのか。ならば、やることはなにもかもが決まっている。そこに一閃以外の要素が、介在する余地などない。
 斬、と浩一の一撃が深く黒沼のような穢れた皮膚を切り裂いた。真正面からでは勝利できないと確信した浩一は、最大の急所たるその極厚の首ではなく、巨大なミキサージャブの腕目掛けて最速の一閃を打ち込んだのだ。戦斧を握った手首を深く毒刀が傷つける。が、直後に威力も速度も減じてない一撃が浩一の身体を木っ端のごとく吹き飛ばす。

「―――ッ・・・・・・!!」

 戦斧の直撃だったならば、その五体は無残にも破壊されていただろう。しかし、手首の傷によって軌道がズレたため、間一髪、直撃だけは回避できていた。それでも余波だけで相当な気力が削られる。
 意識を途切れさせることなく、空中で体勢を整えた浩一は敵を視界から外すことなく着地する。

「な、に・・・・・・」

 犠牲者たちの残骸が散らばる地面にバックステップで下がり、間合いを取った。石畳を総身から零れ落ちる血の雫が染めていく。浩一は失われていく生命力を測りながら、自身の限界を推測。直撃の余波すら、もう一度は喰らえない。が、問題はそこではない。

「なぜだ?」

 自身の傷跡を見ているミキサージャブ。なぜ、その傷跡から血の一滴も流れ出ない。いや、浩一の視覚が捉えた。止まっている。神経破壊の毒刀【雲霞緑青】で斬り付けた傷の周辺には固まった血液が見て取れた。
 しかし、なぜ即座に治癒している。ただのミノタウロスですら傷痕から大量の出血での失血死を懸念されたのに。なぜ。
 浩一の疑念は解消されていないまま、ミキサージャブが突撃してくる。一端疑問は棚上げし、ミキサージャブの動きを凝視。その一撃を把握すると回避だけに専念。
 びりびりと肌を風が抉っていく。ぎしぎしと衝撃が骨を揺らす。数発も避けることは敵わないだろう。それでも不用意に攻撃することはできない。先程の一撃が成功したのは運だと理解できたからだ。次はない。決して次はない。

「ま、さ、か」

 戦斧を回避。咆哮を気力とスキルで克服。あらゆる攻撃を紙一重で回避しながらも攻勢につなげることはできない。浅い傷。効かぬ毒。それらが解明されなければ一切の攻勢は無意味だ。
 だが、浩一は嗤う。まさか? そう、ま、さ、か、だ。最初の一閃の後に気づいていた。本心では知っていた。なぜだ、だと。俺は馬鹿か。己を嘲笑いながら浩一は戦斧の一撃を避ける。
 しかし回避するだけでも、全力の一閃、三発分に相当する気力を持っていかれる。それぐらいの集中を行わなければ身体ごと持っていかれる。その確信があった。
 そもそもが最初に気づかなかった己が愚かだったのだ。Sランクを瞬殺するようなケダモノに、たかがB+の毒刀が、如何に良質な刀を量産する村正工房製だろうと敵うわけがないのだと。
 そもそもなんのために武具に位階が決められた。斬るだけでは不十分だと。ただ斬るだけではモンスターには敵わないのだと。学園に入学する以前。自身が生涯を賭してでも行なうと決めた行為の以前から教えられた事実を、何故忘れていたのか。
 驕っていたのか。油断していたのか。殺戮に酔ったか。自分の強さを勘違いしたか。いずれにせよ。

(獲物に毒刀を選んでいた時点で俺は)

 身体を限界まで屈め、その上を剛風と共に戦斧が空間を薙ぐ。直後に全身の筋力を使い、浩一は跳躍。その真下を柱のような太さの脚が通過。冷や汗を流しながら刀を縦に構え、自身へと直撃する拳を受け流す。直後に迫る戦斧は刀を受け流す際に与えられた力を利用し空中に上がることでなんとか回避。

(上に辿り着けないことを自らの手で)

 それでも、永遠に回避し続けることなどできるわけがなく。守勢に回りつづけた相手を仕留める手管を、数々の戦士をその胃袋に収めたミキサージャブが知らないはずもなく。

「あ、ぐ、ぁぁああぁあ」

 浩一の身体を覆うように暗闇が一瞬で覆いかぶさってくる。巨大な平手。羽虫を叩き落すようなそれ。回避不可能な空中に追いやられた失態。瞬間、浩一はべしゃりと地面に叩きつけられていた。

(証明、しちまったってことか・・・・・・)

 ―――そして、なによりも。

 即座に立ち上がるだけの気力をも失った浩一に、とどめとばかりに振り下ろされる戦斧。なんとか、身体への直撃だけでも防ごうと。浩一が刀を持ち上げた。

 ―――これにより、己が本当に愚かだと知らされる。

「ははははは」

 自らを嘲る侍。勝機などどこにもない。生き残る気力も自らに対する怒りで失いそうだ。あまりに無様な選択によって浩一は自分が如何に愚かだったかを思い知った。
 この時代の武装は折れず曲がらず砕けない、そう言われている。実際、砕けたことなど老朽化でしかありえないのではないか、と浩一は思っていた。それが。
 ぴしり、と罅が入る。最先端の技術で造られた刀に罅が入っている。まだ芯が無事だから完全には砕けていないが。時間の問題以前の話だ。そもそも接触した瞬間に皹が入った。ならば完全に振り下ろされる前に自分は死ぬ。殺される。 
(俺は)
 思考が、知覚のみが加速している。浩一の体感時間は遅く、どこまでも遅く流れている。
 上は遠い。身体能力だけでなく、武具にすらこんなにも差がある。だけれど、こんなところで死んでいられない。死ぬわけにはいかない。
 それでも、己の意地と心情だけは裏切るわけにもいかず。ただただ場違いなほどにレベルの高い闘争の場に割り込んだあげくにこの有様。
 そもそもの話。この愚かな侍は敵を見定める段階。つまりは戦う前から。

(自分で、負けを宣言してたってことか)

 刀が完全に砕け、浩一の間近に戦斧が迫ってくる。黒鉄の表面にある傷一つない刃先やさきほどの鎧の欠片、そして戦士の血肉。こびりついたそれらが如実にこそ先の未来を教えてくれていた。

(勉強になったぞ。ミキサージャブ)

 ただ、心で思い。心に誓う。今この場でも生き残る手段を模索し続けると。次を。次の動きを如何するかを。
 だから、浩一には死の瞬間の直前でも、加速した知覚の中でも走馬灯など見えなかった。むくりと顔を伸ばした己の本性のせいだった。自力。あくまで自分自身しか頼っていなかった、それ以外を使わなかった己の本性。敗北の、自らの命を終わらせるそれですらつぶさに観察し、自らのものとしないと気の済まない性根がただただ生き汚く、現実を見ているだけだった。だから。

「全く、スペック聞いて呆れたわよ。B+」

 先程、少しだけ聞き取れた誰かの声が自分を瞬時に掻っ攫ったと気づいたのは即座だった。
 剛、と先程まで自分のいた地面を破砕する音が聞こえ、直後にたった一度の探索で無残にも破砕された刀の破片が散らばる音が耳に届く。

「ミキサージャブ。化け物め」

 浩一を抱えた声の主は撤退したはずの戦霊院那岐だった。彼女は、長い黒髪を風に揺らし宙に浮遊している。

 ヴォゥルルルゥルルルルルル・・・・・・

 壁にめり込んだ戦斧から肉の臭いがしないことに疑問を持たず。ミキサージャブは即座に振り返る。そこには、ただただ単純に狙うべき敵を掻っ攫った者がいる。数十秒前まで獲物であった肉。今では己の顎から逃げ出した敵。
 那岐の背中には魔力で作られた翼が生えていた。元々六枚あったそれは先程の接触の際に三枚ほど斧に削られていた。しかし、その動きに淀みは見られず、機動には余裕が見える。

「さ、しっかり掴まってなさいよ」

 ミキサージャブが加速の体勢を整える前に、那岐はしっかりと浩一に腰を掴ませた。
 戦霊院の名は飾りではない。自身を無傷で生き残らせた人間に借りを作ったままなど逝かれては、家名に傷がつく。それに、と那岐は呟いた。

「ま、流石に生きてるとは思ってなかったけど。それに、アリシアスに頼まれたってのも、ねぇ」

 それらを含めて那岐はここにいた。東雲・ウィリア・雪の扱う教科書通りの呪文ではなく。最新の魔導力学や魔導理論を自力で研究し、成功させた風系統魔法最上級のひとつ【天翼】。最大で二十四枚の大小様々な翼を展開させる高速機動戦闘用に開発された魔法。扱えるものは稀。そして、魔導に練達した者でも、せいぜい二枚か三枚の展開がいいところのそれを、那岐は再び唱え直した呪文で六枚に回復し、ミキサージャブに背を向けた。
 那岐の細い腰に掴まり、気力が尽きた侍。悄然とし、生存するためだけの活力を維持することしかできていない浩一には反対する理由はない。ただ刀身の砕けた柄を握りながら今回の失態を心の中で自分を百回程度殺しながら猛省するだけだ。

 グォォオオォオォグアオォオォオォォオッッッッッッ!!!!

 逃亡する、と明らかにわかった。ミキサージャブは追い詰めた獲物が再び逃げ出す気配を感じ。逃げ出せぬように再び咆哮を放つ。逃走の空気も気配も獲物が放つものだ。狩人の気配を消滅させ、獲物の気配を放つ浩一に、それを抱えた先程の獲物。二人に対して、恐慌を起こさせる咆哮を放つ。

 グォオオオァァァァアァオアァァッァァオアァァア!!

 本能を刺激し、恐怖で肉体を留める叫びが迷宮に満ちる。那岐の身体がぐらりとよろめいた。
 
「しっかりしろッ!!」

 しかし、腰を掴んでいる浩一に即座に喝を入れられ、持ち直す。

「え、ええ……。じゃ、逃げるわよッ!!」
「ああ、頼んだ」

 逃げられることは確信があった。それでも己に対する憤怒と敵に対する殺意は消えていない。ずしりと奥底に転がっている信条が喜びながらそれを受け入れたことを妙に納得しながら浩一は内心でのみ呟いた。

(・・・・・・ッ。この屈辱、必ず倍に返してやる)

 当然、ミキサージャブだけではない。自分の身体にもだ。敵意は自身にもぶつけ、慢心をいさめなければならない。今回は運がよかっただけだと教え込まないといけない。
 そして浩一は、自身を抱える少女を見上げた。ミキサージャブの全速ですら追いつけないほどの高速で迷宮を掛け抜ける戦霊院那岐。自身にはない気概と才能と、そして巨大な家名によるバックアップを持つ少女。

(意味のない羨望、か。いや、どちらにせよ・・・・・・)

 己の矜持を護るためにも、自身の目的を達するためにもやるしかないのだと。才能もバックアップもなく。刀すら折られ。有功な武器も技もない。だけれどたった一つ。殺意だけは残っている。残している。
 それだけあれば十分だと。きっと自分は知っていた。


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