マル共連BBS再建協議委員会(準)

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No.1243に関するツリー
-守田典彦(青山到)氏死去。 [希流] (06/04 01:42)
 ├Re:守田典彦(青山到)氏死去。 [すえいどん] (06/04 17:17)
 ├Re:守田典彦(青山到)氏死去。 [nez] (06/06 12:53)
 │└Re[2]:守田典彦(青山到)氏死去。 [nez] (06/06 12:55)
 │ └Re[3]:守田典彦晩年 [nez] (06/06 13:23)
 │  └同盟員20人で常任1人 [すえいどん] (06/06 18:43)
 │   └スレ違いかもしれませんが [擦れ違い] (06/07 12:40)
 └偲ぶ会のお知らせ [希流] (07/01 00:48)

[1243] 守田典彦(青山到)氏死去。
Name: 希流
Date: 06/04 01:42
5月26日に亡くなったそうです。
詳しい経歴などはどなたかフォローしていただけると幸いです。

参考として著作の紹介を。
http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1546-2.html

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[1244] Re:守田典彦(青山到)氏死去。
Name: すえいどん
Date: 06/04 17:17
所行無常

1929年生 松本礼二、武井昭夫、守田典彦、岩田弘、さらぎ徳二

ちなみに
1930年生 太田竜、不破哲三 
1931年生 島成郎
1932年生 森田実
1933年生 香山健一、広松渉
1934年生 蔵田計成 本多延嘉 
1936年生 陶山健一、北小路敏、松崎明
1937年生 唐牛健太郎、清水丈夫
1938年生 青木昌彦

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[1248] Re:守田典彦(青山到)氏死去。
Name: nez (HOME)
Date: 06/06 12:53
ここで一言、青山到の果した歴史的役割についてふれておこう。
 五〇年当時から日共国際派の党員として、反戦学生同盟の活動家として、九大、九州学連で活動していた青山到は、五六年ハンガリア革命の衝撃を真摯にうけとめ、黒田寛一と交通を開始、探究派に加盟し、日共九大細胞を全体として左翼化することに尽力すると同時に、たびたび上京し、全学連フラクとの政治的折衝にあたっていた。黒田は、青山が全面的にかれを信頼し、個人的にも上京のあいだは九州との組織的・個人的な交通のポストを委託されていたという事情を、こともあろうに逆用し、なんらの正当な理由もなく、青山宛の親書を開封し、かれの夫人宛に秘密に青山の誹謗中傷を書き送るなど、赦しがたい非人間的裏切り行為に走り、青山はここで決定的に黒田不信を抱くにいたったのである(本書二九三ページの「個人的トラブル」とはこの事実をさす)。
 だがここから、青山は、探究派の反帝・反スターリン主義の思想と戦略、本多書記長らの政治指導部の構成のもつ意味を冷静に検討することを放棄し、黒田への人間的不信から、五〇年レッドパージ闘争の僚友島成郎(六〇年ブント書記長)にたいする全面的信頼へと一転して走り、全学連フラクション(五八年十二月一〇日合同反対派としての共産主義者同盟結成にいたる)に没入するにいたるのである。
 青山の革命的前衛党創成にかんする発想法は、きわめて無責任なものであって、本書二九三ページで批判されているとおり、大衆闘争とイデオロギー闘争とを二元論的に分離し、「大衆闘争は全学連にまかせておけばよい、そこで出てきた活動家を黒田理論(『プロレタリア的人間の論理』)で獲得すれば、党に結集することができるのだ」という論理に尽きるといってよい。ここには、大衆闘争を革命闘争にたかめていく指導部としての革命的前衛党の意義と歴史的役割は、完全に抹殺され、矮小な学習会集団としての党の位置づけしかなしえず、大衆闘争は学習会参加メンバーのプールとしての役割しか与えられず、帝国主義打倒の現実的たたかいは彼岸におしやられてしまうのである。
 事実、「大衆闘争の方針は全学連にまかせておけばよい」という青山の発想法は、活動家が血と汗とをもってたたかっているその方針と思想とを全学連(六〇年ブント指導下の)にあずける、ということを意味するがゆえに、全面的にかれの方針と思想とをもって活動家を掌握しえず、決定的瞬間にかれの組織的構想はつねに破綻せざるをえなかったのである。青山は九大を拠点に、ある段階までは六〇年ブント内の批判的反対派(ブントの大衆運動主義批判と黒田理論の学習を基軸とする)を形成しえたとしても、戦旗派中央を掌握した六〇年秋以降は、みずからが、「大衆闘争の方針」を含む党指導の全面的責任をとるべき立場にたたざるをえなかったがために、完全に破産に陥り、六一年三月の戦旗派全国細胞代表者会議において、その破産は満天下にさらけだされたのであった。
 この段階において、本多書記長の決断によって、革共同政治局は六〇年ブント戦旗派との合同を否決し、戦旗派全員の個人審査による革共同への個人加盟へと方針を転換するにいたるのである。かくして革共同政治局の全一的掌握のもとに、戦旗派の大多数とさらに約一ヵ月のちにプロレタリア通信派の一部とが革共同に加盟し、六一年春の時点で、革命的左翼の分裂は、基本的に止揚されるにいたるのである(六〇年安保闘争と六〇年ブントについては、本選集第四巻U部の安保闘争論を参照)。
 青山は、しょせん全国的政治指導部を形成する指導的人格たりえない人物であった。六一年の革共同再加盟後、六二〜六三年の第三次分裂当時は若干の積極的活動を展開したが、黒田理論をみずからのりこえる思想的拠点をどうしても構築しえず、六三年日韓闘争にかんする討論が開始されるとともに、「被抑圧民族の立場なるものは存在しない。そういう規定を用いることは、民族主義に陥る」と反発、会議に出席しなくなり、脱落するにいたるのである。ここには結局、黒田=カクマルと同じくレーニン主義、レーニン帝国主義段階論・民族理論の拒否があるのであり、初期マルクス『経済学哲学草稿』の絶対化が、結局青山の思想の核心なのである。そして革命党創成の現実的論理を、みずからのものとしてはなにひとつもちえず、孤立的個人に、最終的には回帰せざるをえないのであった。黒田は、『日本の反スターリン主義運動1』(三八四ページ)において、青山と大川の「陰謀」についてふれているが、青山がなぜたびたび組織的動揺をくりかえしたのか、その根拠には一言もふれえていない。なぜなら、青山は黒田の矮小化版であるからである。

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[1249] Re[2]:守田典彦(青山到)氏死去。
Name: nez (HOME)
Date: 06/06 12:55
出典がうまく入らなかったようです。
http://kakukyodo.jp/h.tyosakusen/no5kaidai.html

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[1250] Re[3]:守田典彦晩年
Name: nez
Date: 06/06 13:23
ブント形成から革共同へ行き、晩年は大変だったようです。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~oyabu/ayumi/roppon.html
(大藪)大坪さんのその後については、わたしはよく知りません。守田さんは、ブントが戦旗派、革命の通達派、プロレタリア通信派に3分解した後、革命的戦旗派をつくってブントから革共同全国委への移行に大きな役割を果たしました。だが、黒田(寛一)さんとはあわなかった。革共同が中核派と革マル派に再分裂してからは、中核派に属したが、けっこう中核派の路線に批判的だったようで、重要なポストにはつかなかったようです。古武士的で、筋金入りというか、節を曲げない人。90年代になって30年振り、何回か顔を合わせ話し合う機会がありました。

(桂木)島成郎記念文集刊行会編『島成郎と60年安保の時代一』(2002年2月刊)にも書いてある。(*同書所収、守田典彦「出会いと変革」には、「一つの政治闘争の敗北くらいで動揺することなく革命党を強化すべきだ」というリード文が付され、筆者紹介は次のように為されている。「1929年生まれ。49年九大第二分校・教養部理科入学。51年除籍。九州ブント議長。現在・共産主義者」)。守田さんは二分校を除籍になって、ショッカクになった。島成郎、田中義孝、そして自治労本部書記局に入った社青同福岡地本派の人たちの寄金で生活していた。72年には、一時は三池労組青年部をはじめ400人を擁していた社青同福岡地本は自己解体したし、自治労書記になった人たちにも定年がある。島成郎なども死んだ。守田さんを支援し寄金する輪が狭まった。田中義孝と守田とは党派を越えてつながりがあり、後に森苳夫(自治労本部書記、現在は定年退職)あたりが守田さんの生活支援をしているらしい。

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[1251] 同盟員20人で常任1人
Name: すえいどん
Date: 06/06 18:43
大藪さんのホームページは面白いですね。革マル派では、60年代の後半には、労働者細胞の形成を基礎にして、労働者同盟員20人で1人の常任活動家を支えるというルールが言われていましたというあたり経験者ならではのリアリティあり。現代の日本には不適だと言う総括も。

>(大藪)ショッカクになるのは福岡ブント活動家の方針だった。わたしも一時その道を進もうとした。しかし、現実の生活はものすごく厳しい。職革は食客につうじていた。有名な翻訳家の石堂清倫さんのように、文筆業で充分食えるように見える人でも、実際には彼を経済的に支える人たちがいたのです。守田さんも、生活は大変だった。そもそも、党組織の確立に基づかないショッカクは、労働(組合)運動などが発展していない、ツアーリズム専制下で職業革命家集団を主軸にしたボリシェヴィキ党路線の踏襲であり、現代の日本には不適だと思う。革マル派では、60年代の後半には、労働者細胞の形成を基礎にして、労働者同盟員20人で1人の常任活動家を支えるというルールが言われていました。

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[1253] スレ違いかもしれませんが
Name: 擦れ違い
Date: 06/07 12:40
「有名な翻訳家の石堂清倫さんのように、文筆業で充分食えるように見える人でも、実際には彼を経済的に支える人たちがいたのです」というところ、ハッとしました。石堂の『異端の昭和史』に福本邦夫(和夫の息子)についての記述あり、彼は竹下の金庫番・フィクサーにして中野重治についてのt著作もあるナゾの人物ですが、石堂やソ連派の金銭的パトロンだったのではないでしょうか。

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[1360] 偲ぶ会のお知らせ
Name: 希流
Date: 07/01 00:48
(日時)2011年7月3日 午後2時から4時まで
(会場)小金井商工会館2階集会室(小金井市前原町3-33-25)
    JR中央線武蔵小金井駅南口徒歩7分
(会費)3000円
呼びかけ人
富田善朗 平岩章好 古賀康正 佐藤秋雄 篠原浩一郎 渡辺徹
二瓶久勝 嶋田悦司 大賀英二

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