南極猫の記録
第2次南極観測隊の宗谷(4866トン)は昭和32年12月23日からはまり込んでいた氷の海から昭和33年2月6日に脱出したものの、2月22日には越冬の最後の努力を2月24日まで続けるとして事実上の越冬断念を発表した。宗谷は第2次観測隊を南極に下ろして代わりに第1次観測隊員を収容する手はずだったものの、この不測の事態により第1次観測隊員は南極の昭和基地から小型機とヘリで宗谷に収容された。その際に犬そりを引くために第1次南極観測隊が同行していた15頭の犬がそのまま南極の昭和基地に残された。本来は第2次越冬隊が来た際に回収する手はずだった犬たちだったが、越冬断念となり、置き去りになったのである。
南極に第1次越冬隊が同行していた犬はすべて置き去りにされた訳ではなく、この15頭の犬とは別に、8頭の子犬と1頭の母犬は事前に飛行機で収容されている。しかし日本国内の世論は下手をすると人よりも犬への関心が高く、樺太犬を見守る会はまだ越冬の是非が不明だった2月11日に文部省に対して8000人の署名と2000通の手紙を渡し、犬を麻酔で輸送するか、だめなら安楽死させるように申し出ている。結局、第1次越冬隊の11人は3月24日午後10時45分にオランダ航空機で羽田に帰国した。
置き去りにされた犬たちはどうなったのか話題にはなったが、なにせ南極の話なので生死すらわからない。恐らく死に絶えたのであろうという結論となっていた。ところが1年後の昭和34年1月14日午後2時45分、シコルシキー2機編隊の1、2便で第3次南極観測隊が昭和基地へたどり着いた時に見たものは、南極に置き去りにしたうちの2頭の犬、タロとジロが飛び出してきた姿だった。2頭はまるまると太っていて、仲間を共食いしたのではないかという疑惑も当時の朝日新聞などには報じられている。
ゴロ、ベス、モク、アカ、紋別のクマ、ポチ、クロの7頭はつないでおいた雪の下から死体となって発見された。シロ、デリー、アンコ、リキ、ジャック、そしてタロ、ジロの父犬の風連のクマは共食いされたのか行方不明となっていた。後に映画「南極物語」で有名になる話であるが、無論、昭和34年当時も大変な話題になった。爾来、南極といえば犬の感動物語とセットになって多くの日本国民の頭の中に記憶されている。
タロとジロのその後であるが、日本に帰国したのはタロのみで、ジロは結局、南極で果てている。
昭和35年7月9日午後7時10分
(日本時間7月10日午前1時10分)、樺太犬のジロは南極の昭和基地で心臓衰弱で死去、4歳2ヶ月だった。ジロは衰弱していたため、6月27日には居住棟の通路に入れておいたが下痢が凄かったという。
一方の樺太犬タロ
は昭和36年5月4日午前10時40分、東京の日の出桟橋に接岸した宗谷で帰国している。タロは生後10ヶ月で南極へ渡って第1次から第4次までの南極観測隊に同行してまる4年を南極で過ごし、帰国した時には5歳4ヶ月になっていた。船旅で体重は4kg痩せて42kgとなっていたが、置き去りにされた時にアザラシなどを食べていたためドッグフードは苦手で、牛肉を食べたりと船の中でも贅沢をしていたという。タロはそのまま午後2時には全日空機で札幌へ向かっている。
タロは
その後、北大植物園で暮らし、昭和45年8月11日午前7時30分、札幌市北18西9の北大家畜病院で15歳で老衰で死去している。7月29日から入院していたという。
タロ
、
ジロ
の
感動の再会からさかのぼる2年前、タロやジロがまだ無名の犬として南極で労役にいそしんでいたのと同時に、犬ではないある動物が昭和基地で遊び暮していた。昭和31年11月8日午前11時に宗谷で東京港を出港した第1次南極観測隊には樺太犬のタロやジロらと一緒に猫とカナリヤの夫婦が同行していたのである。犬はそりを引く仕事用だったが、特に仕事もない猫とカナリヤはさながらバカンス気分であった。樺太犬は航海中、暑さに弱い事が危惧されたがスコールで解消していたという。
第1次南極観測隊は昭和32年1月29日午後8時57分(日本時間1月30日午前2時57分)に南極のオングル島リュツォホルム湾に上陸を果たし、午後9時15分に日の丸を掲げて隊長の永田武は現地を昭和基地と命名した。永田はその後、帰国したものの建設したばかりの昭和基地では西堀栄三郎ら11人が越冬を試みる事となり、オスの三毛猫も一緒に過ごす事となった。
この猫はたけし=写真右=といい、神奈川県川崎市生まれで南極上陸時には1歳であった。無論、猫が自分から南極へ行きたいなどと言った訳もなく、オスの三毛猫は珍しくて縁起がいいという話から永田が越冬隊員らの慰安用のペットとして連れてきたものだった。
猫のたけしは隊員らに毎日いじられ、かつお節を餌にして「気をつけ」の芸などを仕込まれていた。椅子に立って前足をテーブルの上にまっすぐ伸ばし、その上に顔をのせてじっとするのである。中には猫のたけしにビニール袋をかぶせたり、たけしの鳴き声を録音してたけしに聞かせおどかすなどのいたずらをする隊員もいた。
猫のたけしのねぐらは発電造水棟であった。ここがいちばん昭和基地の中で暖かい場所であったのである。隊員たちの部屋は人それぞれで乱雑なままだったり、整頓されていたりしていたが、たけしの散歩ルートでもあったようである。また猫のたけしは海苔巻きが好きであった。たまには犬の食事を勝手に食ってしまう事もあり、犬の係の隊員に怒られたりもしていたという。隊員たちの食生活はこってりした洋食が多く、南極では入手不可能な生野菜を皆、食べたがっていたという。隊員たちは濃縮した酒を薄めて飲んでいたが、猫のたけしも一緒に酒を飲まされて酔っ払う事もあった。隊員たちの生活は意外に多忙で、昼間ひまを持て余しているのは猫ぐらいだったという。空き時間には隊員らは麻雀などを楽しんでいた。また隊員たちは新内のレコードなども持参していた。
この第1次観測隊では立見辰雄越冬隊員の教え子で、南極行きを希望しながら北穂高で昭和31年3月に遭難死していた21歳の東大スキー山岳部員の小川透の骨が南極に持参されて現地に埋められたり、非越冬隊員らがペンギン15羽を日本へ持ち帰ったなどの話もあった。また第1次越冬隊を下ろして帰還途中の宗谷が氷海に閉じ込められて、昭和32年2月28日にソ連のオビ号の救援により辛くも脱出するという出来事もあった。
猫のたけしは途中から飛行機で帰国した第1次越冬隊員11人に遅れる事およそ1ヶ月、昭和33年4月28日午前11時10分に宗谷で東京の日の出桟橋に帰国した。宗谷にはタロ、ジロなどと違って置き去りにされなかった犬のシロや、シンガポールで生まれた子犬8頭、さらにカナリア2羽なども乗っていた。この時点で「南極物語」の犬たちは昭和基地に置き去りにされており、猫のたけしは猫だった事が幸いして無事に帰国が出来たのである。
余談であるが、第1次越冬隊には犬や猫のみならずダッチワイフも同行していた。昭和33年5月19日号の「週刊新潮」SNAPで報じられるなどこの事は当時でも一部では知られていた話で、ダッチワイフは2体同行されたという。いずれも「赤線」と呼ばれた小屋に十二単などを着せられてスタンバイしていたが、結局、処女のままだったとされる。小屋へ行くと余りに目立つので越冬隊員が牽制し合って1年間、誰もダッチワイフのところへ夜中に忍ばなかったものらしい。そしてダッチワイフの1人?は日本へ帰国したが、もう1人?のダッチワイフはタロ、ジロらと一緒に南極に置き去りにされていた。当然ながらこの置き去りにされたダッチワイフは映画「南極物語」には出演していない。
いろいろなものを南極で越冬させた日本の観測隊であったが、猫については恐らく南極で越冬したのはたけしが初めてと思われ、世界史上、たけしは歴史に残る猫の1頭になった。たけし以外にも歴史に残りそうな猫はいる。2003年(平成15年)7月12日、ロシア南部のスタブロポリで世界唯一の警察猫として活躍していたルーシク=写真左=が殉職した。ルーシクはキャビア密輸の取り締まり専門の警察猫として2002年に採用され、犬よりも優秀であると評判も上々だった。そしてめぐってきた運命の日。ルーシクはバスの調査を終えて路上に降り立ったところを、後続の猛スピードの車に轢かれて殉職したのだった。ルーシクを轢いた車は逃走、現地紙によれば密輸組織の犯行と目されている。この殉職した警察猫というのも後にも先にもルーシク以外出そうになく、歴史に残る猫であろう。
日本に猫は何頭いるか?おおよその推計ではあるが、公の記録によると800万頭いるらしい。だがこの800万という数は人間に飼育されている猫の数なので、道端に転がっている猫は含まない。都内に限っていえば室内から出てこない猫が60万頭、飼い猫だけれども表をほっつき歩いたりする猫が45万頭、野良猫が11万頭としているが、実際には野良猫はもっと多いのではないかとも思う。猫先進国のアメリカでは7500万頭の猫がおり、イタリアでも700万頭の猫が暮らしているというから、日本の猫の生息数は人口比などからするとやや少ないのかもしれない。
日本の猫どもの歴史は案外、古い。縄文時代からいたというのは遺跡などから猫の骨が出てくる事により実証されているが、その頃の猫は現在、我々が慣れ親しんでいる猫族とは違って野生で獰猛な山猫であったようだ。山猫というのは元来、野生種としての猫の一族で、生物学の分類上では野良猫は野生の猫とは呼ばない。猫が日本の古典に初めて登場するのが8世紀の「日本霊異記」で、なんと化け猫としてであった。この前に遣唐使船と一緒にいわゆる家猫が日本に渡来してきており、当時の猫というのは貴族などが紐を付けて飼う動物で極めて珍しいものだったようだ。
884年には宇多天皇が黒猫を飼い始めたという記録がある。これに先立つ「日本霊異記」の猫は化け猫であるから、記録に残っているうえで日本最古の猫の飼い主は宇多天皇という事になる。それでは日本最古の記録に残る猫の名前は、といえば「枕草子」に出てくる「命婦(みょうぶ)のおもと」という名前の猫である。この猫は999年に生まれ、一条天皇の飼い猫であったが、猫でありながら高貴な位階を持ち「五位」であったらしい。紫式部の夫の藤原宣孝が「六位」であったというから、この「命婦のおもと」という猫は「源氏物語」作者の旦那より偉かった事になる。
こうした偉い動物というのは猫以外にも日本にはいて、狐は「正一位」である。正確には狐を神の使いとする稲荷神社に対して「正一位」という位階が授けられたのであり、明治以前には神社に対してもこうした位階を授けるという事があった。942年の事であったそうだから猫よりも歴史は古い。
また江戸時代にやって来た象は「従四位」になった。1729年の事であるが、当時は天皇に会うにはある程度の高貴な位階がないと会えなかったため、象も位階を貰ったのである。象は宮中に行って何をしたのかといえば、中御門帝の前で饅頭を食って水を飲んだり、膝をついたりしたらしい。その後、宮中では貴族を集めて象についての歌会を行ったという。
このように貴族になった動物は猫、狐、象といるが、世界を見渡しても動物が偉くなる例というのは余り存在しないようだ。これは日本古来よりの万物を神として扱った神道を生活の一部として信仰してきた日本人ならではの感性だろう。
日本のように猫が貴族になる国もあれば、一方で世界には猫を食べてしまう国もある。猫を食うなんて悪趣味な気もするが、やはり何でもありの中華の中でもさらにこれまた何でもありの広東料理の中にあるそうだ。無論、メニューには「猫肉」なんて書いていない。なんとかなんとか虎なんとかかんとか、というこの「虎」がくせもので、「虎」の字が入った料理は猫肉だそうなのだ。中国人は猫を食う!と断定するのは誤りで、中国人なら誰でも猫を食う訳ではない。あの「項羽と劉邦」の時代に野蛮な土地とされていた項羽の本拠地である楚の国が現在の江蘇省にあたるのだが、広東省、いわゆる広州というのはその江蘇省よりさらに南、つまりは中国の歴代政権から見るととんでもない僻地だった訳だ。勿論、同じ中国語でも北京と広州では会話が通じないくらいに言葉の発音も違う。はるか古代には今のベトナムあたりと一緒くたのように思われていたフシもあり、正統な?中国からやや外れた位置にあるのが広州、ひいては広東料理なようだ。
沖縄でも一部では猫を食う風習があったらしいが、さだかではない。ただ興味深いのは沖縄で猫を食う文化があったとすると、沖縄の文化圏というのは広州などと繋がっている、要はあの辺の海洋文化圏に組み込まれていたという証拠になるだろうという事だ。
さて、日本人も猫を食う、それも日常的に、なんて噂が某国で流された事があったらしい。その原因はと問うにスーパーやコンビニに陳列された猫缶のせいとかで、あの猫の顔を書いた缶を見て日本人は猫を食うと誤解したとかいうどこまで本当なのかわからない話だけれども、日本に仕事しに来るフィリピン人とか、いわゆる発展途上国には猫缶なんて存在せず、猫の餌を金を出して買うという感覚がないのだそうだ。辺見庸の「もの食う人びと」にもタイで作られる猫缶の話が出てくる。だがこの猫缶、輸出向けでタイには猫缶はやっぱりないそうである。
参考
朝日新聞東京版各記事など 1957〜2003
大庭脩「日中交流史話」 2003
景戒「日本霊異記」(講談社学術文庫版) 1978〜1980
司馬遼太郎「項羽と劉邦」(新潮文庫版) 1984
清少納言「枕草子」(岩波文庫版) 1979
東京都衛生局「東京都における猫の飼育実態調査の概要」 1998
平岩米吉「猫の歴史と奇話」 1992
辺見庸「もの食う人びと」 1994
<映像>蔵原惟繕「南極物語」 1983
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