2011年7月14日 (木)

「弁護士5年目で年収二千万超」やらせメールか

呆科大学院協会の大山ヨシミツ理事長は14日、記者会見を行い、「法曹養成フォーラム」が行ったアンケートについて、協会の課長が呆科大学院出身の弁護士にメールを送信し、5年目の弁護士の年収が二千万円を超えるとの回答をするよう指示を行っていたことを認めた。

呆科大学院は、国策により全国に70基以上設置されたが、現在、半分以上が役に立たず、稼働停止状態にある。しかも、先の大震災により法曹養成制度がメルトダウンしたため、再開のめどが立たない。そこで開催された「法曹養成フォーラム」だが、参加者の人選が不透明だとか、呆科大学院の御用学者が委員になっているなどと、当初から公正さに疑問が投げかけられていた。

大山ヨシミツ理事長によれば、加藤幸二課長が協会名で、呆科大学院出身の弁護士2300人に対して、「呆科大学院廃止反対という一国民の立場から、真摯(しんし)に、かつ国民の共感を得うるような意見とともに、5年目の年収が二千万円を超えるとアンケートに回答されたい」と電子メールで送信した。「法曹養成フォーラム」には2千通を超える回答が寄せられ、「人権のため成仏してこそ弁護士」「阿呆の支配を社会の隅々に」「貧乏人は田舎に行け」などの書き込みとともに、年収二千万円以上と記入されたものが多かったが、指示メールとの関連は不明だ。

もっとも、呆科大学院協会幹部が匿名を条件に語ったところによれば、協会名で出された指示メールは、実は昨年の給費制騒動で日弁連に横車を押されたと怒る最高裁幹部らが、貸与制を実施するため、呆科大学院協会を語った偽メールを出した可能性があるとしており、真相は藪の中ともいえる。加藤幸二課長とは連絡がつかないという。

大山ヨシミツ理事長は記者会見で、「私は知らなかったし、指示していない。誰がやったかなんてことがそんなに大事なんですか?さっき玄海町長が電話をかけてきましたよ。なんて言ったと思います?『何を信じていいか分からない。もうゲンカイ』なんちゃって」と意味不明の駄洒落を飛ばして記者会見場を凍りつかせた責任を取り、辞意を表明した。

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2011年7月12日 (火)

アルフレッド・C・オプラーと内藤頼博と裁判所法

Alfred Christian Oppler(以下オプラー)は、1893(明治26)、ドイツ人裁判官の子として、当時ドイツ領だったアルザス・ロレーヌ地方で生まれ育ったが、第一次世界大戦後、同地がフランス領になったため、ベルリンに移住して判事になった。38歳でドイツ最高行政裁判所陪席判事、翌年にはドイツ最高懲戒裁判所副長官という「まれに見る経歴」で出世するものの、祖父母がユダヤ人であったことから迫害され、1939(昭和14)、命からがらアメリカに移住し、一事は庭師として職探しをするほど困窮したが、ハーバード大学で教職を得、1945(昭和20)に米国市民権を得た。1946年(昭和21年)223日、米国防省の要請に応じて占領統治下の東京に着任し、民政局に配属される。当時はGHQ草案が日本国政府に提示された直後である。このようなタイミングから、オプラーは日本国憲法の制定にはほとんど関与せず、日本国憲法に基づく各種の法制度(憲法附属法)の制定に取り組むことになった。特に、裁判所法は、憲法の公布(194753日)から施行までの半年の間に、オプラーとその部下たち、及び日本側スタッフの手により法典化されたものである。このとき、日本司法省側の担当者として活躍した裁判官の内藤頼博は、信州高遠藩主の嫡流である。

1947(昭和22)312日、枢密院の御前会議で裁判所法案が議決されたとき、オプラーは内藤頼博の手を握って「あなたと私の間にいい子どもが生まれた。きっと立派に育つだろう」と述べたという。オプラー55歳、内藤39歳であった。

オプラーは、「占領法制改革に臨むにあたって、かなり早い段階で『日本の法体系がコモン・ローではなく大陸法に基づいている』という認識を示し、『アングロ・サクソンの法体系が大陸法のものよりも優れていると考えがちな傾向を』戒め」たという(出口雄一「『亡命ドイツ法律家』アルフレッド・C・オプラー」法学研究821)

独仏国境紛争地帯に生まれ育ち、ドイツ裁判官として栄達を極め、ユダヤ人の血統故に迫害された後米国民として占領軍に参加したオプラーの経歴は、裁判所法をはじめとする「憲法附属法」に込められた思いを忖度する際、欠かすことはできない。

オプラーは、1955(昭和30)に日本を去った後、1976(昭和51)”Legal reform in occupied Japan”を著し、同書は1990年、日本評論社より、『日本占領と法制改革―GHQ担当者の回顧』として翻訳され出版された。同書の監訳をつとめたのは内藤頼博である。

1976(昭和51)、オプラーは夫人を喪い、1980年、ニュージャージー州の老人ホームに転居した。内藤頼博によれば、1981(昭和56)に再会した際、88歳となっていたオプラーは「日本の人たちは、今は私を忘れてしまった。しかし、私は彼らを忘れていない」と紙片に書き、内藤を悲しませた。実際のところ、憲法調査会(1956年~1965年)の会長を務めた高柳賢三東京大学名誉教授は、「占領軍の法律家の中には大陸法系の知識と理解を持った人は誰もいなかった」と発言し、オプラーを驚愕させたという。このときすでに、オプラーは忘れられていたのだ。

1982(昭和57)428日、オプラーは89歳の生涯を閉じた。内藤頼博は、1973(昭和48)に退官した後弁護士になり、多摩美術大学学長、学習院院長を務めた後、2000(平成12)125日に92歳で死去した。裁判所法の制定過程に関して『日本立法資料全集』という大部の書籍を遺しているが、古書でなんと50万円以上するので、とても手が出ない。どなたか、貸して下さい。

日本におけるオプラーの業績の研究は、驚いたことに、始まったばかりである。

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2011年7月11日 (月)

給費制と「強い司法」

まだまだ勉強が足りないのだが、時間がないので、給費制に関する私の考えを簡単に書いておきたい。素描に留まるので飛躍もあるが、おいおい補充するゆえ、ご容赦賜りたい。

司法修習生は、その9割以上が弁護士になる。弁護士はいうまでもなく、民間事業者だ。民間事業者を国費丸抱えで養成するわが国の制度を、私はほかに知らない。つまり給費制というのは、とても珍しい制度だ。弁護士は、まずこの点を弁えるべきだ。

給費制は、戦後導入され、64年間維持されてきた。導入当時の弁護士志望者は9割なかったが、それでも相対的に多かったはずだ。しかも国家財政は敗戦で窮乏を極めていた。それにもかかわらず給費制が導入されたのには、深いわけがあるはずだ。

思うに給費制は、「強い司法」を作るという憲法意思の表れであった。「強い司法」を実現するため、すべて法曹は国家が養成する。この断固たる決意表明が、給費制である。

ここに「強い司法」とは「大きい司法」と同義でない。「大きい司法」は「強い司法」の必要条件かもしれないが、十分条件ではない。「強い司法」とは、裁判所が行政府や立法府と拮抗する政治的実力を備えることを意味する。

現行憲法の意思はこうである。明治憲法下の「弱い司法」から脱却させ、権力分立を実効あらしめ、国民の権利保護と健全な民主主義を実現するためには、司法権限の飛躍的強化が必要だ。そこで裁判所に行政裁判権や違憲立法審査権、規則制定権等を賦与し、独立を強く保障し、これを支える法制度の策定を立法府に要請した。これを受け創設されたのが、国費による法曹養成制度である。弁護士をも国費で養成するのは、弁護士が有能でなければ、「強い司法」は実現しないからだ。

これが現在まで続く統一司法修習制度であり、給費制の本質である。

もちろん、「強い司法」が憲法上の要請であるとしても、給費制はそうではない。「強い司法」を実現するのは立法府の義務だが、その手段は給費制に限られない。たとえば仮に、「強い司法」は実現したというのなら、あるいは給費制より優れた「強い司法」実現手段があるなら、給費制をやめてもよい。

しかし、憲法施行後64年経つのに、司法は弱いままだ。そうだとするなら、給費制を支える立法事実は、今なお存在する。

しかも、法曹志望者の極端な減少をはじめとする様々な指標は、司法が今後、さらに弱くなることを示唆している。給費制の廃止が、司法の弱体化に拍車をかけるおそれがあるなら、当分の間続けてみるのも、現実的な解決策の一つだ。

給費制の復活を目指すなら、日弁連は今何をすべきか。給費制が廃止されれば、法曹志望者の減少傾向に拍車がかかると、説得的に主張すべきである。また、法曹志望者の減少傾向に歯止めをかけることが、最優先の政策課題であると論証すべきである。貸与制になれば返済に汲汲として人権活動ができないなどという馬鹿げた主張は頼むから封印してほしい。軽蔑されるだけだ。また、修習専念義務の対価もしくは補償との主張も、給費制の本質に反するから、やめるべきだ。

貸与制の施行は1年延期された。だが、給費制の廃止が決定していること、このまま11月になれば貸与制が施行されることに変わりはない。しかも2004年(平成16年)、日弁連が給費制廃止を容認した歴史的事実は動かせない。だから日弁連には、当時の判断を誤ったと認め、給費制には廃止を許さない価値があると主張・立証する責任がある。

だが、本当に重要なことは、給費制の存続や廃止ではない。戦後の財政窮乏時に、なぜ給費制が導入されたのか。そこに込められた憲法の意思、国家の意思、先達の意思を、確認することだと思う。

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2011年7月 8日 (金)

『日本国憲法制定の過程』有斐閣

「司法にハンディキャップをつけた人たち」の連載を始めた後、標記書籍の存在を知った。著者は高柳賢三、大友一郎、田中英夫の3氏。以下は、司法に関する該当箇所の要約であり、太字の部分は原文そのままである。

1.  はじめに

憲法の司法の章を起案した中心人物は民政局の軍服を着たロイヤーのラウエルと見受けられる。この章は、国民の基本的人権の保障を確実ならしめるため、司法権を拡大、強化し、確固、独立の司法部を樹立することをめざし、このことに最も意を用いて起草されているといってよい。それは、GHQ内部においても、司法権が余りに強く、独立的に過ぎ、政府の他のすべての部門を支配する司法的寡頭制をもたらすものではないか、と問題にされたほどであったが、これに対して起草者からは、司法はこれまでの日本では無力な存在であったのにかんがみ、その権限を意識的に高めているという説明がなされた。

2.  司法権、裁判所

草案が日本政府に示された後、冒頭の「「強力で独立の司法部は国民の権利の防塁であるから」という文言が削られたが、この文言は、「司法」についての起草者の基本的な考えを表わすものとして記憶にとどめられるべきものである。

3.  特別裁判所の禁止、行政機関の終審的裁判の禁止

GHQの第一次試案は、特別裁判所とともに、行政裁判所は禁止すると規定していた。これが司法的寡頭制をもたらすと批判されたため、第二次試案では、行政裁判所の設置を認めつつ、終審を禁止した。

GHQの想定する行政裁判所とは、明治憲法におけるような一個のものではなく、事件の類型に応じて設けるものを考えているのであり、また特別裁判所としては、特定の事件について設けられるような、まさに通常でないものを考えているとものとみられる。

4.  裁判官の独立

この部分については、GHQ第一次試案、第二次試案とも特に議論なく日本側でも特に修正は加えられなかった。

5.  最高裁判所の規則制定権

最高裁判所の規則制定権は、第一次試案から規定されており、司法的寡頭制をもたらすと内部からも批判されたところだが、維持された。起草者は、最高裁判所規則は行政府からの独立を確保するためのものであり、立法より優位であるとまでは考えていなかったようであるが、詰めて議論された形跡は見られない。

最高裁判所の規則制定権に関する草案は、日本政府に提示されてから、「弁護士の資格賦与」に関する事項とあったのが、「弁護士」に関する事項という広い表現の文言となった。日本側では、「資格賦与(admission)」という言葉をどのように表すかが困難であったことから、「ソノ他司法事務処理ニ必要ナ」事項の中に含ませるものとしたのであったが、それが斥けられて、このような包括的な表現の規定となった

また、「検察官は、裁判所の成員(officer of the court)であり」という文言が、日本側によって、「裁判所の職員」と受け取られたことから、削除され、「(検察官は)最高裁判所の定める規則に従わなければならない」とだけ規定されることになった。

6.  裁判官の身分保障

GHQの第一次試案では、裁判官の弾劾についての規定がなく、それが司法的寡頭制をもたらすと批判されたことから、第二次試案では、国会の弾劾による罷免が規定された。なお、日本政府側は、裁判所による罷免を提案したが、総司令部は拒否し、懲戒事由にあたる罷免は、すべて国会の弾劾に待つべきであるとされた

7.  裁判官の選任方法

裁判官は任命によるものとすべきか選挙によるものとすべきか、またその場合の分限(任期)をどのように定めるべきかが、起草にあたって大きな問題とされた。第一次試案では任命制・終身官と規定されたが、司法的寡頭制ができると批判され、これに対して、裁判官が一定の任期をもって選挙されるのでは、威厳もなく独立性のないものになろうという反論がなされ、妥協の産物として、下級裁判所裁判官は任命制・10年任期となり、最高裁判所裁判官は任命制、10年ごとの国民審査が定められた。

なお、ラウレルの初見として、会談したほとんどすべての日本の法律家は、司法に関する悪弊の多くは、下級裁判所の裁判官が選挙色であれば除去されると考えている。アメリカに見られる選挙による裁判官が望ましいかどうかについては、意見の一致を見ていない、と記している。

8.  違憲立法審査権

最高裁判所にどの程度において違憲立法審査権を与えることとすべきか検討されたが、裁判所が、具体的な争訟を待たずに立法を違憲であるとして拒否する権限を持つとするのではなく具体的事件において憲法の解釈問題が生じたときには立法に対し完全な審査権を有するとすることは、さしつかえないとの結論に至った。

GHQ草案における違憲審査権は、国会が権利章典の規定に関する判決以外の一切の判決を再審査する権限を与えるものであった。これは、米国憲法のあり方とも異なるものであったが、当時、ニュー・ディール立法に対し最高裁判所が保守的態度を取ったため混乱が生じた経緯に鑑み、考え出された規定である。

ところが、この案を示された日本政府が、「三権分立の主義を貫くならば、最高裁判所で決定されたものをその後で国会の審査に付すというのはおかしい。最終的にはすべて最高裁判所で審査されるということで徹底すべきではないか」と意見を述べたところ、あっさりと、日本側の意見のようにしようということになった

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2011年7月 7日 (木)

司法にハンディキャップをつけた人たち(7)

憲法は、法律を解釈し適用する最終的な権限を、裁判所に独占させた。これが「司法権の独立」である。司法の独立は、裁判所の権限を強めるものであるが、憲法は、どの程度強く、司法の独立を保障したのだろう。

あまり知られていないことだが、現行憲法の立法、行政、司法の章を、明治憲法のそれと比べてみると、とても単純だが、すごく興味深いことが分かる。立法と行政の章は、ガラガラポンして一から作り直してあるが、それと比べると、司法の章は、あまり改訂されていないのだ。その詳細は省略するが、立法府に関する現行憲法規定は、明治憲法と似ても似つかぬものになっており、行政府に関する規定は、数こそ大幅に増えたものの(明治憲法下で天皇の権限だったものが引っ越してきたため)、規定の大半は、内閣を監督し、権限を抑制する内容だ。これに対して司法に関する規定は、明治憲法下の規定がほぼそのまま残っており、これにいくつかの条文が付け足され、権限が大幅に強化されている。司法の章に限っていうならば、現行憲法は、明治憲法を承継し発展させているのだ。

もうひとつ、これもあまり知られていないことだが、いわゆるマッカーサー草案と比べ、大変興味深いことがある。現行憲法上新設された司法の権限として「違憲立法審査権」があるが、マッカーサー草案上は、最高裁判所が憲法違反の判決を出した場合、その全部についてではないが、立法府が三分の二以上の多数で議決すれば、違憲判決を覆せる、という規定(73条)があった。もちろん現憲法にはそのような規定はない。つまり、現行憲法上の司法の権限は、マッカーサー草案より、さらに強化されているのである(下記ご参照)。

現行憲法の制定者が、エコひいきに思えるほど、明治憲法下の司法制度を温存しその権限を強化した理由は、普通に考えて、二つだと思う。

一つ目は、明治憲法下の裁判所が、それなりにちゃんと仕事をしており、そして、軍国主義化や自由の弾圧や、他国侵略・開戦等について、積極的な役割を果たさなかった、と評価されたことである。

二つ目は、一つ目の裏返しだが、明治憲法下の裁判所が、国政においてとても地味で内気であり、立法や行政に対するチェック機能をほとんど果たさなかった、と評価されたことである。

この二つの評価のもと、憲法制定者は、司法をあからさまにエコひいきすることに決めたと考えられる。特別裁判所の禁止と行政終審裁判所を禁止し(762項)、違憲立法審査権を付与し(81条)、裁判官の独立を明記し(761項、3項)、裁判所と裁判官の独立を制度上確保するため、最高裁判所の規則制定権(77条)、裁判官の身分保障(796項、78条、8012項)を定めた。身分保障の強さといったら、国会議員より強いくらいである。

                           記

(マッカーサー草案)

第七十三条

最高法院ハ最終裁判所ナリ法律、命令、規則又ハ官憲ノ行為ノ憲法上合法ナリヤ否ヤノ決定カ問題ト為リタルトキハ憲法第三章ニ基ク又ハ関連スル有ラユル場合ニ於テハ最高法院ノ判決ヲ以テ最終トス法律、命令、規則又ハ官憲ノ行為ノ憲法上合法ナリヤ否ヤノ決定カ問題ト為リタル其ノ他有ラユル場合ニ於テハ国会ハ最高法院ノ判決ヲ再審スルコトヲ得

再審ニ附スルコトヲ得ル最高法院ノ判決ハ国会議員全員ノ三分ノ二ノ賛成ヲ以テノミ之ヲ破棄スルコトヲ得国会ハ最高法院ノ判決ノ再審ニ関スル手続規則ヲ制定スヘシ

日本国憲法

第八十一条  最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

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2011年7月 6日 (水)

司法にハンディキャップをつけた人たち(6)

「司法権の独立」とは、憲法を含む法律を解釈し適用する最終的な権限を、裁判所(官)が独占することを意味する。言い換えると、具体的な事件や紛争が起きたときに、その解決にふさわしい法律がどれであり、それをどのように解釈して適用するかを判断する最終的な権限を、裁判所(官)が独占する、ということだ。

その結果として当然、裁判所の法律解釈と、議会や行政府の法律解釈が異なる、という事態が発生しうるし、その事態を憲法は想定し容認していることになる。

「そんなつもりでこの法律を作ったんじゃない!」と議会が泣こうがわめこうが、「この法律はこう解釈するのが正しいのだ!」と断言する権限を、裁判所は保障されている。これが、「司法の独立」という憲法原理の意味するところだ。

国民主権と司法の独立の関係について、こういう話をしたらご理解いただけるだろうか。たとえば「神」という概念を持ち込んでみる。この「神」は日本にたくさんいる神様ではなく、キリスト教的な唯一神だ。

人間は弱く、悪く、間違いを犯す。人間が行う統治には必ず欠陥があるから、「神の統べる国」こそ、理想国家だ。だから、国家の統治者はよく、教祖や預言者の衣をまとった。しかし教祖だろうが預言者だろうが、統治を一人に任せるとすぐ、神の意思と称して私利私欲を図るので、信用できない。そこで預言者を合議制にして、集団で神の意思を忖度(そんたく=推し量ること)する機関を作り、その執行者(王=行政)と分離した。この合議体が議会である。

議会はあくまで神の意思を忖度する機関であり、議会の作った法律は神の意思を具現化するものであって、議会の意思を表示したものではない。議会が作った法律といえども、神のものだから、神の許に返還される。そして事件や紛争が起きると、裁判所は、神の許から法律を借り出して解釈し、事件や紛争に適用する。ここに解釈とは、法律を通じて神の意思を追求することであって、国民の意思や、ましてや議会の意思を追求することではない(聖職者が聖書を解釈して神の意思を追求する様を想起されたい)。裁判所はあくまで、法律を通じ、神の意思に拘束されるのであって、議会の意思には拘束されない。このように、議会がアウトプットする法律と、裁判所がインプットする法律は、同じ法律だが、間に「神」が介在することにより、いったん切り離される。だから裁判所は、議会の意思に拘束されない。

もちろん、現行憲法に「神」の文字は無い(ちなみに明治憲法にはある。これはとても示唆的なことと思う)。上のたとえ話を理解したら、「神」の代わりに「抽象的な国民」という言葉を入れてもらえばよい。この「抽象的な国民」は、現実に生活し、選挙で議員を選ぶ「具体的な国民」とは切り離された、理念的・抽象的・一般的存在だ。私に哲学の知識はないが、たぶん、J.ルソーのいう「一般意志」とほぼ同義だろう。

具体的な国民と切り離された「抽象的な国民」という概念を想定し、その「抽象的な国民」が主権者であると考えることによって、初めて、国民主権と司法権の独立は矛盾せず両立する概念となる。なぜなら、議会と裁判所は、ともに「神=抽象的な国民」に仕える機関となるからだ。

いうまでもなく、それを「神」と呼ぼうが「抽象的な国民」と呼ぼうが「一般意志」と呼ぼうが、それは擬制であり、説明の道具にすぎない。ではなぜ、そんな擬制を使って、ややこしく説明するかといえば、その説明を必要とする政治制度が、最も優れているという確信と、合意が存在するからである。とはいえ、この確信と合意は、人類が数千年の試行錯誤の末、たった数百年前にたどり着いたものに過ぎず、完成にはほど遠い。チャーチルの名言が示すとおりである。

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2011年7月 4日 (月)

原子力損害賠償法の不備ではない

毎日新聞の福本容子論説委員が73日付朝刊『反射鏡』に、原子力賠償法の不備にメスを題する論説を載せた。その中で福本氏は、今回の地震と津波を「『異常に巨大な(天災)』と見なすこともできそうだが、政府の見解は違う」ことが立法当時の政府見解と異なると指摘し、「その時々で法律の解釈が変わり、リスクの規模が予見できない不安定さを放置することは健全でなく、法治国家として信用されない」と主張する。

私は、福本容子氏ほどのインテリにして、これほど無知であることを深く恥じ、同時に悲しむ。

今回の地震と津波が「異常に巨大な天災」にあたるか否かを判断する権限があるのは政府ではなく、裁判所である。法治国家とは、福本氏のいう「法解釈の安定性と予見可能性」を裁判所が担う社会のことであり、「法治国家として信用される」ためには、裁判所がその機能を果たしていることこそ必要である。大新聞の論説委員が法律と法制度を論じているのに、その意識に裁判所の「サ」の字も登場しないような国家は、言うまでもなく、すでに法治国家ではない。

法治国家とは、法が治める国家である。そして、法を司るのは裁判所だ。だから、法治国家とは、裁判所が治める国家のことである。この単純な三段論法を、福本女史は知らない。

もっとも、福本女史だけを責めるのは酷かもしれない。この問題に裁判所が登場しない最大の責任は東電にあるからだ。「異常に巨大な天災」にあたるのではないか、と思っているくせに、御用学者や御用評論家や御用論説委員や御用弁護士にブチブチ文句を言わせているだけで、自らは権利主張をしようともしない。なお、もう一方当事者である例えば南相馬市民には何の責任もない。東電がいち早く法的責任を認める意思表示をしたからだ。

ちなみに東電が権利主張をしようと思えばそのやり方はとても簡単だ。今回の事故は「異常に巨大な天災」によるものだから責任はないと意思表明をすればよい。あとは訴訟が起きるのを待つだけだ。

当の本人が司法救済を求めないのだから、周りの人間が裁判所に気づかなくても仕方ない。法解釈に文句のある国民が裁判所に救済を求めないような国家は、法治国家ではない。

不備なのは、原子力損害賠償法ではない。法の解釈や適用が問題となったときに、憲法上の判断権者である裁判所に尋ねてみる、ということをおよそ思いつかないわが国民の意識こそ、極めて深刻な不備を抱えている。そしてそうなった責任の一端は、司法に携わる者すべてが負っている。

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2011年6月30日 (木)

法テラス利用者減少へ?

「法テラスの利用者数に変化がある」。ある財務官僚からこう聞いたので、調べてみた。

「日経テレコン21」で検索可能な全国紙と地方紙の本年の記事を対象に、「法テラス&件数」で検索しヒットした記事から、2009年度と2010年度の件数比が記載されたものをすべて抜き出し地域的重複を排除すると12記事。このうち7件が「減少」を示唆していた。

見出しでは、「法テラス香川 10年度相談件数設立5年目で初のマイナス 多重債務問題の沈静化一因」(516日四国新聞)「法テラス島根:10年度問い合わせ1311件 前年度より減少」(67日毎日新聞)があり、記事内容としては、「10412月の9カ月間に寄せられた相談・問い合わせ件数が3512件(月平均390件)に上り、09年に比べて、月平均の相談件数が約50件少なくなった」(125日毎日新聞 栃木版)「相談件数は4217件で、2006年の設立以降、初めて前年度より減少」(414日高知新聞)「10年度の情報提供件数は2088件。前年度に比べると271件の減少」(北海道新聞 旭川)「問い合わせ、相談、援助いずれも減った」(419日 福井新聞)「法テラス鳥取(日本司法支援センター)の利用者数が頭打ちになっている。」(424日毎日新聞)である。

もちろん、法テラス利用者減少と即断するには、記事数が少なすぎる。その内容も「減少」というより「頭打ち」に近い。また、相談援助2割増の宮崎(416日朝日新聞)を始め、埼玉(116日読売)、新潟(413日新潟日報)、山口(415日中国新聞)、愛知(613日日経)の5記事は増加を報じている。

だが、昨年は法テラス利用者数の減少や頭打ちを報じた新聞はなかった。また、記事はおしなべて、グレーゾーン撤廃や総量規制による多重債務相談の明らかな減少を指摘している。法テラスも制度開始5年を過ぎ、一定の浸透は果たしたと言えるだろう。だから、控えめに見て、法テラスの利用者数が今後減少に転じる可能性がある、少なくとも多重債務事件は減少に転じた、とはいえるだろう。

各弁護士会の法律相談センターではここ数年、相談件数が右肩下がりに減少しており、その原因を法テラスの「健闘」に求めてきた。だが、もし法テラスの利用者数が今後頭打ちないし減少していくとするなら、どう考えたらよいのだろうか。

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2011年6月29日 (水)

司法にハンディキャップをつけた人たち(5)

「司法権の独立」が実際に問題になった例としては、明治憲法下だが「大津事件」がある。1891年(明治24年)、ロシア皇太子に切りつけた巡査に対し、死刑しか選択刑のない皇族に対する罪の適用を要求した政府に対し、大審院は、この罪は条文上日本の皇族にしか適用がないとして、一般の殺人未遂罪を適用して無期懲役と判決した。結果として巡査の命は助かったわけだが、当時の児島惟謙大審院長の意見書を見ても、巡査の人権に配慮した形跡は一切見られない。また、鎌倉利行弁護士によれば、巡査は心神耗弱として罪一等を減じられるべきであった可能性があるという。そうだとすれば、大審院は重大な誤判を犯したことになる。おそらく、大審院長が死守したのは、巡査の人権ではなく、罪刑法定主義であり、これをおろそかにすれば、日本は国際的に軽蔑されるという政治的確信だった。

戦後に「司法権の独立」が問題になった例としては、「長沼ナイキ訴訟」がある。1969年(昭和44年)、北海道夕張郡長沼町に自衛隊のナイキ地対空ミサイル基地が建築されることになり、現地の保安林指定が解除されたところ、これに反対する住民が、自衛隊は憲法違反だから保安林解除も違法だとして起こした行政訴訟だ(『こん日』36頁ご参照)。

この事件を担当した福島重雄裁判官が、左翼系といわれる団体「青年法律家協会」に所属していたことから、「偏向裁判」との批判が起き、国会は福島裁判官を弾劾するかどうかの検討に入る。また、同裁判官の上司が、判決の内容に干渉するとも取れる文書(平賀書簡)を福島裁判官に渡したことも問題となった。これらの出来事は、いずれも「裁判所の独立」と「裁判官の独立」を脅かすものであり、現行憲法上容認しがたいことは疑いない。

だが、この事件が、本稿で問題にしている疑問、すなわち「司法の独立の目的は少数者の人権保護にあるか?」という疑問についてはどうだろう。この裁判は保安林指定解除に関する行政訴訟であり、形式的には、少数者どころか、誰の人権の問題でもない。実質的にみても、この訴訟の争点は自衛隊(法)が憲法違反であるか否か、という点であって、それ自体が、少数者の人権にかかわるわけでもない。

「自衛隊が憲法違反か否かは、日本の安全保障、ひいては国民の生命という究極の人権にかかわる問題だ!」と思ったあなた、語るに落ちています。その立場に立つなら、この訴訟は国民「全員」の生命にかかわる問題であって、「少数者の人権」の問題ではない。

結局のところ、長沼ナイキ事件で実質的に争点となったのは、原告の主張する、自衛隊(法)は憲法違反であるという「議会少数派」の憲法解釈を取るのか、それとも、被告の主張する自衛隊(法)は合憲であるという「議会多数派の憲法解釈」を取るのか、あるいは「どちらでもない解釈を取るのか」という問題であって、少数者の人権を守るかどうか、という問題ではなかった、というべきだろう。

このように見てくると、「司法権の独立」の目的とするところは、少数者の人権保護ではない、ということが分かる。「司法権の独立」の目的は、何よりまず、憲法と法律を解釈し、具体的な事件に適用する最終的な権限を、裁判所(官)が独占することにある。

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2011年6月28日 (火)

司法にハンディキャップをつけた人たち(4)

司法権の独立は、国民主権とある意味で対立し矛盾する原理である。そのため、国民の選任していない裁判官の判断を権威づける仕組みが必要になる。そこで現行憲法とその下の法制度は、国民から信用されるに足る優れた人材を、裁判官として登用する仕組みを整えようとした。身分保障や好待遇、過酷な選抜試験制度は、そのあらわれである。

さて、ここで疑問は最初に戻っていく。

憲法はなぜ、ここまで苦労を重ねて、国民主権と矛盾する原理を司法に持ち込んだのだろう。「司法の独立」それ自体が憲法の目的ではない以上、憲法は、この原理を採用することによって、何を目指したのだろう。

「少数者の人権救済!」

という声が聞こえる。よくできました。確かにそう書いた教科書もあるし、私の時代の受験参考書には判で押したようにそう書いてあった。民主主義は多数派の横暴によって少数者の人権を侵害することがあるから、議会から独立した裁判所が少数者の人権を守る砦となるというわけだ。

だが本当にそうだろうか。いまの私には、少し乱暴な議論に思える。裁判所の独立を保障すれば、なぜ少数派の人権が守られるのだろう。確かに、守られる場合もあるだろう。だが担当裁判官だって、多数派に属する確率が高いはずだ。それに、民主主義が普通に機能している限り、「少数派の人権を違法に侵害する」法律はそう簡単にできるものではない。せいぜい、「少数派に不利な」法律ができる程度だ。その是正は民主主義手続で行うべきであって、裁判所の仕事ではない。また、行政府による人権侵害は、その被害者が少数派だから起きるというわけではない。行政府が誰かの人権を侵害するのは、経験則に照らすと、端的に、その人独特の事情を考慮することが面倒くさいからだ。

この問題については、もう少し考えてみる必要があると思う。

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