私は、すでに陸前高田市を離れて2週間近くになります。
この間に、陸前高田の松を大文字送り火にプロジェクトのことが、全国の新聞各社に取り上げられた事で、それまでは被災されて身内や友人を亡くされた当地の方だけが、送り火のマツに書き込みに来ていたのが、陸前高田意外の岩手県や宮城県からも書き込みに来て来られているようです。 私が息子と陸前高田に行って、高田松原の松から作った「送り火の薪」は200本ほどですが、7月6日現在で、すべて書き込まれたようです。 当地、陸前高田の鈴木旅館のご主人は、「無くなった以上自分で薪を作る」と言う意気込みで、今日新たに送り火の薪を、主人自らで作るという事が、関係者のブログに書かれていました。 鈴木旅館の薪置き場 この事は、すぐに京都側の関係者にもお伝えして、大文字だけで使って頂くのか、五山送り火として取り組んで頂くのかを、検討してもらわないといけない様です。 それにしても、私がイメージした事が当地の方々や、新聞各社の記者の方々、そして京都の大文字保存会の方々にまで、思いを共有して頂けるようになった事が、亡くなられた方々やそれを送り出す方々にとっても一番の支えになるような気がします。 私たちが作った送り火の薪 今回陸前高田に行くにあたって、ここまで全国から反響があるとは思っていませんでした。
昨日も朝日の方から、「陸前高田の松を大文字送り火に」の記事を自分なりに取材してまとめたので、と言う事で電話がありました。 記者の方も阪神大震災を取材して「自分の生涯でこれ以上の悲惨な出来事はないだろう」と思っていたら、今回の東日本大震災を取材して、考えを新たにしたと言っていました。 朝日新聞 2011年7月5日5時35分 その彼が、レポートされた記事です。昨日電話があり今日出ると言うので、asahi.comを探したら、掲載されていました。 思いの入った記事を読んであげてください。彼らは現地に2〜3週間入ってこれと思った記事を丹念に取材して、こうして取材するらしいです。 この記事を見た方が、送り火の薪が鈴木旅館にある事を知ってくれればいいと思います。 「 陸前高田の松を大文字送り火にプロジェクト」の整理もようやく落ち着いて、これまでの報告を兼ねて、ブログやFacebookに記事を書き込んでいたら、同じ大分の山屋さん「山渓」の伊東さんが「何か支援できたらしますよ」と言ってくれた。
そこで思ったのは、これから陸前高田に限らず、熱くなるし梅雨にもなってくるので、日除けがあったらいいと思ってそのことを言ったら、「あす現地に送ります。住所を教えて」と話が早い。 私が現地の薪の原木に関してお世話になったGさんに送る事にした。すると何日か後にこのタープがブログで紹介されていた。 すると、日を違えずにして、もう一人の友人から、「自分の会社で、アウトドア用の用品を扱っている役立つものがあったら、応援します。」という申し出があった。 そこで、私は現地でお世話になっていた鈴木旅館さんに送ったらどうだろうかと思い、鈴木旅館のご主人に電話してみた。 ご主人は、「自分の旅館の前には多くの方々がボランティアに来られていて、その道具置き場が濡れているので、そこに置かせてもらえたら、、、」と言う事で、三重のTさんにメールしました。 あす送ります。とこれまた早い。 2〜3日後に鈴木旅館に電話すると、この写真が送られてきました。 昨日も日本経済新聞に「陸前高田の松を京都「大文字」に 犠牲者供養、祈り込め 2011/6/30 12:47」 が掲載されているらしい。 被災された多くの方々が、8月16日の「大文字の送り火」に心を傾けていただけると思っている。 この送り火の計画は、この薪を何処かに設置して置いて、その場所に書き込みに来てもらうと言う方法を考えていたので、何処かに置いてもらう必要がありました いろいろ考えた結果、私が宿泊していた鈴木旅館のご主人に頼むのが一番いいという自分なりの結論に達し、この事をご主人に相談しました。 すると、ご主人も「自分も被災していない身、何か被災者の人の役に立ちたい」という御決意で、やってくれる事になりました。 そうと決まったので、すぐに新聞社に電話し、鈴木旅館前に今後送り火マツに書き込むために、ここにやってくる方に分かるように、手製の看板を取り付け、薪を1本くくりつけました。 そして、帰る日の朝、朝刊を見たら「大文字の送り火」の記事が大きく出ていました。これで1つめの関門はクリヤーできました。これで書きに来てくれればいいだけです 朝、お礼を言って陸路で 岩手ーー宮城ーー福島ーー新潟ーー京都に向かって帰路につきました 現地に入っても、まだ京都の大文字保存会側からは、「この高田松原の松を大文字の送り火に使う」と言う確証は取れていませんでしたから、複雑な心境で薪作りの作業を進めていました。夜に京都から電話があり「理事会で協議した結果、陸前高田の薪を送り火として、名前を書いたものを受け入れます」という結論が出て一安心。
すぐに、数日前に取材を受けていた地元新聞社の記者に電話して、この前の記事を、すぐに出して頂くようお願いして、翌日からは気持ちを新たにして、高田松原の薪作りに励みました。 大方、割った松を今度は「ナタ」とよばれる刃物を使って、表面をなめらかにしてゆきます。こうすることでこの木に名前を書いたり、亡くなられた方への思いをつづる時に、書きやすいようにしなければなりません。 丸太の上に座って1本1本づつ削ってゆきました。 こうして、津波でできたがれきの中に、同じ「がれきの松」から生まれ変わった「送り火の薪」が完成しました。 時間がとれたので、例の高田松原の1本松の所に行ってみた。と言っても市内からはがれきの撤去などをやっていて近づけないので、気仙町の方からぐるりと回って気仙川の対岸まで、自転車で行って撮影した。 途中の気仙町の住宅は、形が残っている住宅もあるが、部屋はほとんど津波がぶち抜いて行っている。3ヶ月経っているので持ち主が中を綺麗にして、家具や家電は外に出して、板(これも手に入らないので)で打ち付けていて、誰一人としていない。さすがに写真は撮る事はできなかった。 でも、20mほど上がった丘の上に住んでいる人は、夕明かりが見える。 松原があったのを私は知らない。皆さんは「海が見えないほどの松林だったよ」という。しかし、今はこうして瀕死の状態になった松の木が1本だけ残っている。 1/92PAGES >>
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