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源重成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/11/06 16:41 UTC 版)
天承元年(1131年)には大炊助、永治2年(1142年)には兵部少丞となっているが、その後は散位となる。久安3年(1147年)の祇園闘乱事件に際しては京武者の一人として延暦寺衆徒の入京阻止に動員されている(『本朝世紀』)。保元元年(1156年)7月、保元の乱で後白河天皇方として源義朝と行動をともにし、従五位下式部丞に任ぜられ式部大夫を称す(『兵範記』)。乱の後、捕らえられた敵方の崇徳上皇を仁和寺から鳥羽付近まで護送した。
平治元年(1159年)12月、平治の乱においても義朝の麾下に参加。この時は義朝軍が一時拘束した後白河上皇を護送し、さきの崇徳上皇の例と合わせて「二代の上皇を護送した」として世上大きな話題になった。
しかし平清盛軍の前に敗走し、義朝とともに僅かな人数で東国を目指して落ち延びる。途中、美濃国にて落武者狩りの一団に遭遇した際、義朝を逃した上で「我こそは源義朝なり」と名乗って自決した。その際に、身元が割れないようにするべく、自ら散々に顔面を傷つけた上で果てたという。
系統・系譜
関連
- 『平治物語』
- 1 源重成とは
- 2 源重成の概要
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