1 夢野カエデ
「カエデ、カエデ。いつも通りに頼むわよ」
声に交じってブウウンと低周波の振動が俺の身を包んだ。棺桶のようなカプセルの中で横たわる俺は、まるで動物実験の被害者にでもなった気分でいっぱいだった。
「テスト開始」
俺は静かに呟く。それから頭の中にパルス信号が鳴り響いた。音の塊。高周波の叫び。今、俺の深層心理が電子によって現実へと引き上げられているのだろう。
心という曖昧な存在がパルスによって定義付けられ、電子が架空の存在を構築している。電子的な映像が俺の意識にスライドインする。
それから夢を見ているかのような意識の昏迷状態に陥った。夢と現実の狭間、曖昧な線引きのど真ん中に俺は立っている。響くパルスが一層強く泣き出した。俺の聴覚をめちゃくちゃに跳ね回っている。開いている眼に幻想のような幾重科学模様が揺れ現れた。
転入成功。次、夢想バイナリと深層心理の電子結合だ。パルス音がビートを刻む。俺の心臓の音がそれに重なる。俺は電子の一部になっている。意識も夢も深層心理も、すべてが統一されて夢想バイナリに再構築されているのだ。
一度の瞬きで、世界が変わる。見渡す限りの白い世界。そして俺は俺が誰だか判らなくなった。ここに存在しているのは、一個の意識と無限に広がる夢想の世界。
「接続終了よ。夢想バイナリを楽しんで」
その声が聞こえた瞬間に、俺は自意識を失った。
めくるめく白昼夢、意識をよぎる狂おしい程の孤独。俺は最後の一人なのだ。真の人間たるものの最後の個体なのだ。俺はふと空を仰ぎ見た。そこには人間を模した神がいると、信じていた。いや、信じているのではない、そこに神がいてくれと祈っていたのだ。
しかし、そこに神の姿はなかった。かわりに、あの忌々しい半人間が、歪んだ翼をはためかせて空を我が物にしている。空はもう、鳥たちのものではなくなっていた。そこは彼の、いや、彼らのものになっていたのだ。
俺は振り返った。そこに、何か救いがあると思ったから。だが、そこにも半人間がいただけだった。犬の遺伝子情報を自らのそれに書き加えた彼は、真っ赤な舌をぶら下げながら鼻を蠢かせ、毛むくじゃらの顔をこちらに向けて、俺の隣に立っている。
「やあ、久しぶり。なんだ、まだ君は人間なのか」
残念そうに彼は言った。
なんだ、まだ人間なのか、だと?
俺の意識の中に彼岸花のような赤い怒りの花弁が、さっと舞い踊る。俺は犬人間に向けてでたらめなののしりを叫んだ。呪いの言葉を、腹の底に飼うおぞましい化け物を、言の葉に乗せて彼の自尊をずたずたに引き裂こうとしたのである。言葉の中に五臓六腑より絞り出した悪意を込めたうえで。
しかし、叫んでいる途中で俺は気付いた。叫びが音として彼に届いていないことを。犬人間はけらけらと笑っていた。彼の声は俺に聞こえる。しかし、俺のしたためた呪いが彼に届くことはない。
「それが人間の体の限界さ。人間の体は、これ以上の進化をしない。バイマン進化論が一世を風靡した事を忘れたのかい?」
ふざけるな! 俺の怒号が俺の意識の中だけで渦巻いた。人間を愚弄し嘲った彼を、犬人間をこの手で殺してやりたい。積りに積った殺人衝動が血流にのって、全身に充満してゆく。ほのかな高揚と、確かな殺意の感情が意識を支配して叫ぶのである。この畜生を殺せ、と。
俺の体は俺のものだ! 進化のない体でも何でもいい、俺の体を弄繰り回す権利は世界政府の物でなく――俺の物なのだ!
気付けば俺は目の前の犬人間の喉に手をかけていた。そうだ、こうすればこいつは黙る。簡単なことを何故俺は見落としていたのだろう。こいつは畜生なのだ。俺はそろそろと、喉笛を締め上げてゆく。
別に人間を殺しているわけでもない。みるみる内に、犬人間は苦しみを表情に浮かばせてゆく。甘美な眺めだ――俺は今にも鼻歌を歌い出しそうなほどに、喜びに満ちていた。犬人間の口の端から透明な唾液が滴り落ちる。とろりと垂れた液体が、俺の手に生温かさをもたらす。
なんとすがすがしい気分だろう! 恍惚にして歓喜の波が俺の意識に溢れ、とめどないオーガズムが脳味噌で歌い、快感を振り回す。犬人間の口の端からは泡が溢れていた。生臭い犬の唾液も、今の俺にとっては甘い蜂蜜のようなものに過ぎなかった。
そうだ、貴様ら半人間は死滅するが良い。自らの体に誇りを持てぬならば、自殺してしまえ。自殺こそが人間の持つ特権なのである。半分の人間を持っている内に、全てが畜生になる前に特権を行使するのだ!
死こそが全ての救済である。死んで俺の気持ちを満たしてくれ。犬人間の目玉が今にも破裂せんと言わんばかりに飛び出ている。今のお前の青白い苦痛の表情を写真で保存して、世界にばらまきたいものだ。タイトルは何にしようか。
「まったく、度し難いね。変化を受け入れられないなんて」
掌にあった犬人間の温もりと、喉笛の感触、獣臭と香水の入り混じった匂いが一瞬で消えた。俺の掌は虚空を握り潰していたのである。犬人間のか細い苦しげな呼吸の代わりに、俺の驚愕の声があたりに飛び散って拡散した。同時に俺の血の気がさっと退き、からからに乾いた殺意だけが残った。
「僕たちは、半人間だが、確かな人間だよ。この耳、この鼻、この目、確かにこれらは人間ではなく、犬のものに酷似しているがね」
まるで祈るような格好で虚空を握る俺の手を、犬人間が救いを与えるように両手で握る。俺は一歩もその場から動けなかった。何が起きているのか理解できていないこともさることながら、体が言う事を聞かない。俺の意識と俺の体がバラバラになっている。体という台の上に意識と映像が乗せられているような感覚が、俺の恐怖感の表面をちくちくと刺激していた。
「しかし、これらは紛れもない僕の細胞で出来ている。僕の細胞が書き加えられた遺伝子情報を読み取って、健気に姿を変えただけなのさ。僕の体には犬の素晴らしい能力と、人間の英知が存在している」
彼はそういうと微笑んだ。ちらと見えた犬歯が俺の意識を刈り取らんと、白く光る。
人間の形をしていない畜生風情が、何を語り出しているのか――まるで神父のような表情を見せる犬人間を見据えた俺の意識の中で侮蔑が踊り、糞尿と区別がつかないほどの汚い感情をばら撒いている。
人間の形をしていない時点でそれは人間ではない。ましてや故意に体を変態させたのだ。
「奇形児や達磨人間はどうなんだい? 彼らは俗に言う人間の形から逸脱しているようにも思わないのかい」
確かに彼らは人の形をしていない。だが、人間の定義は人格の有無にある。彼らは人格を持つから、彼らは人間だ。
「うん、その通り、解っているじゃないか。人間とは人格を持つから人間と呼ばれる。そして、僕も人格を持っている。だから僕も人間のはずだろう」
微笑みのまま、犬人間が俺の顔に頭を寄せる。上等なシャンプーの香りがふわりと漂った。
ふざけるな、お前らは望むべくして畜生の遺伝子を体に取り入れた。お前らの遺伝子情報の半分は動物のそれになっている。人格を持っていようが、どこまで論理を練ろうが、お前らは半人間のままなのだ。未来永劫、人間には戻れない。
「ふふふ、強情だねえ。でも、世界は半人間を受け入れたのさ。2189年今現在――動物の遺伝子情報を自らの遺伝子情報に書き加えた半人間が、人口の九割を占めている。残りの一割の中に人間が入っている。いわば君は世界の少数派なのさ」
犬人間は慈しみの視線を俺に送った。それから彼は天を仰ぎ、俺に背を向けて歩き始めたのである。そして、俺はわが目を疑った。一歩、また一歩と犬人間が足を踏み出すたびに、その姿が増えてゆく。陽炎か、蜃気楼か、適当な言葉が俺の中から見つからない。俺は半分口を開いたまま立ち尽くした。眩暈に似た喪失感が脳髄から全身へと伝達される。化学反応を起こしたかのように、俺の手が震える。
もうすでに、視界は半人間で埋まっていた。俺の感情が絶望を叫び、凄まじい渦となって、俺の耳、鼻、口、目から噴出しようと体中の肉を喰らい始めている。俺は犬人間に囲まれながら、ひざまずいた。行き場を無くした俺自身の悪意が、意識の中ではじけて狂い咲く。脳みそのピンク色が、絶望という色に染まり、俺は目玉をぎょろぎょろと動かした。
そうか、人間は、もう、いないのか。体内からあふれ出る絶望の波が、俺の自我を、人格をごうごうと燃やす。もう、何も聞きたくはない。俺は、俺の内なる悪意に耳を塞ぎ、絶叫した。
「まるでムンクの叫びだ」
犬人間達が、笑った。
最悪な深層心理だ――俺は目の前のカプセルの蓋を押しあけ、それから自己嫌悪に陥った。俺は腕時計を確認する。夢想時間はきっかり十五分、予定通りだった。ひどく頭が痛む、首を寝違えたようだ。カプセルの中に敷いている低反発のクッションが問題なのではない。問題は俺が見た精神世界にある。
「どう、使い心地は?」
鉄の棺桶に似た夢想カプセルから上半身だけ起こしてうなだれる俺へ、傍らに立っていたビジネススーツ姿の女性が猫の耳を凛と揺らして顔を寄せる。
「問題ない」と言いかけて、俺は首の痛みに表情を歪めた。くそったれ、暫くは右を向けないな、と俺は毒づいた。小さな笑みが彼女の口の端に浮かぶ。発達した八重歯が少し姿を見せた。
「クッションの量を増やすべきかしらね」
微笑んだ彼女は手元のクリップボードへペンを走らせてから、俺の眼を正面から直視する。宝石のような、ブルーの猫目に灰色の短髪が相まって美しさを奏でていた。しばしの間彼女と見つめあった俺は思わず偶然を装って目をそらした。先ほど見た深層心理の夢想の記憶まで、彼女に見透かされてしまいそうな気がしてやまなかったからである。
「オーケー、瞳孔は正常ね。次、私の尻尾を目で追って。反射のテストだから」
彼女の後ろ腰から灰色の毛並みを持つ尻尾がぬっと現れて、その先端がおぼろげな様子で左右に揺れていた。「はい、始め」彼女のその声とともに、尻尾の先が素早く上下に揺れ始めた。事もなげに俺はそれを目で追う。規則的な眼球運動をしながら、俺は腕を組む。
「この夢想カプセル、使用者の深層心理を外部からモニタリングする機能はないよな?」
ロシアンブルーの遺伝子情報を持つ彼女は、手元のクリップボードに視線を落したまま、小さくうなずいた。
「モニタリング機能は実装してないわ。それを実装しているのは精神科なんかに卸す医療用夢想カプセルだけよ。何故?」
彼女はかすかに首を傾げさせた。
「気にしないでくれ」
俺は思わず胸をなでおろし、安心して尻尾の先を目で追う作業に没頭することができた。
夢想カプセル、別名懺悔装置。メンタルケアの一般家庭用医療器具として世の中に普及している家具だ。これに入って横になると、あるパルス電波が内部に放射され、対象の深層心理を刺激して意識の奥底にある感情を夢の中にまで浮上させる。そして夢想バイナリと呼ばれる仮想世界を形成して、その中で個人の意識と深層心理を対面させる。要は自分自身の感情と対話することができるのだ。その浮上する感情はひとそれぞれの人生の色が出る。罪の意識、快楽の想い出、哲学的な思想――夢の中で深層心理を再解釈し、精神の救い、安らぎを探求するのである。まるで教会での懺悔に似た感覚であろう。
「モニタリング機能を全面撤廃すべきだと思わないか?」
俺は首を擦りながらポツリと呟く。夢想カプセルに入るたびに、こんな類の夢を度々見る。その度に夢の漏えいを心配するのに、俺は心底疲れてしまっていた。
「そうすると、精神疾患の治療が容易でなくなるわ。深層心理を引っ張りだして心の傷が何なのか、知りうる手段がなくなるのよ。そしたら昔ながらの地道な治療しか出来なくなる。ただでさえ、ヒューマンコンプレックス症の患者が増えているのに――」
そこまで彼女は言うとふと言葉を止め「あなたを侮辱したわけではないからね」と慌てた様子で付け加えた。別に俺は気にも留めなかったから、彼女が気にしようが、どうでもよかった。
人間の体に対するコンプレックスによって誘発される精神病は、人口一割以下になった人間を苦しめている、いわば2180年代の社会病だ。それは遺伝子に手をつけていない人間に発症する精神病で、症状は頭痛、吐き気、精神衰弱、自殺意識、うつ症状、倦怠感、まるで全ての精神病が全てひっくるめられたような感情が、発症者に生まれるのである。発症の原因は簡単なものだ。
世界中が半人間へと進化してゆく中で感じる、人間の体は進化に適さないという、絶対的な憔悴感と未来への漠然とした不安感が、それを引き起こす原因だった。
漠然とした不安なら、誰でも感じた事があるだろうに。俺は彼女の尻尾を追いながら考える。未来という観点を持つ人間は、今までそれと幾度となく戦ってきた。ノストラダムスの大予言に人々は畏れおののき、ネット上の未来人の言葉を信じ、未来という名前の化け物に振り回されながら、漠然とした未来への不安をやり過ごしてきた。なぜ今更2180年代においてそれが引き金となり、深刻な精神病のもとになったのだろうか。
その理由は簡単だった。次の進化の形として示された、人間と動物とのハイブリットの台頭が、世界を根本から変革させたのである。
この世界の九割が新たな進化を体現した半人間で構成されている。そもそも半人間とは何か。自らの遺伝子情報に動物の遺伝子情報を書き加え、進化を科学的に解明し、科学に進化を約束された人間を指し示す。見た目は人型だが、随所に遺伝子に書き加えた動物の形が浮かびあがっている。たとえば俺の目の前の彼女も世界の九割を占める半人間の一人であった。
彼女の名はニーネ・宮下。東洋人の血が流れており、中性的な顔つきをしている。ハブシス社夢想カプセル開発部門の所属社員であり、歳は俺と同い年ながら彼女の方が勤務年数は上だ。彼女の遺伝子にはロシアンブルーの情報が書き加えられていた。もともと真っ黒であった髪も灰色に近いロシアンブルー色に染まってしまったし、瞳孔も猫のそれに変態した。そして、尻尾が生え――その内、掌に肉球が生まれるだろう。
「いつまでこうやっていれば良い? 猫の尻尾なんていつまでも見てられるものじゃない」
ニーネは気分を害したかのように「あらそう」と、ぶすっと呟いた。俺は知っていた。彼女が自分の尻尾に絶対的な愛情を注いでいたことを。
「これは猫の尻尾じゃない、紛れもない私の尻尾よ。毛の一本一本、細胞の一欠けらも、私の遺伝子から出来ているのに、あなたは猫の尻尾というのね」
可愛く愛しいニーネの尻尾、君は大事にされているのだね。と俺は心の中で呟いた。俺たち人間が自分の体を可愛がる以上に半人間は自分の体を可愛がる。自分たちの体がさながらノアの方舟のように思えているからなのであろう。彼女、ニーネの体の中では、ロシアンブルーが永遠に生き続けるのである。未来永劫、彼女の人間と共に。
ふと、彼女の尻尾の先の動きがいやに速くなり始めた。
「悪かった、悪かった、だからもうそんなに早く尻尾を揺らさないでくれ、俺の首がとれちまう!」
俺の目は尻尾ではなく、懇願の視線で彼女を見つめていた。彼女がクリップボードに一筆書きこみ、尻尾が動きを止める。彼女の意に沿うような結果は得られたのか――俺がクリップボードを覗き込もうとした時、ニーネが意地悪げな表情を浮かべた。
「最後に、あなたの名前を言ってください」
俺はその言葉がただのいたずらにしか思えなかった。どれだけ人を馬鹿にしたテスト項目なのだろうか。ため息が先行して口から漏れる。
「一応、テストなのだから」と悪びれもせずに彼女が付け加えた。
テスト、テスト、テスト、テスト――そう言われてしまえば、従うしかない。人間はなんと規則、科学的根拠のある不条理に弱い生き物なのだろう。俺は切なく頭をかいた。
人は科学の上に立つが、時として科学に虐げられる。科学の進歩のためと言われれば、俺たち人間は全てを差し出さねばならない場合もある。一応の民主主義に守られているから、科学に強制はない。が、これから先科学が完全に一つの意思を持って人の上に立つ時が来るだろう。そうなれば個人個人の人格など無視されて、全てが科学的流動の進化に支配されてしまうのだ。
俺はいくつかの嫌味を思いついたが、静かにそれらを飲み込んだ。俺が牛ならば、また反芻して吐き出せたのかもしれないが――俺はただの人間だ。
「カエデ・夢野」
「所属は?」
間髪入れずにニーネが続ける。
「またテストか?」
「真面目に答えて」
彼女の瞳は獣の威圧を放っていた。まるで彼女の瞳に轟々とした炎が宿っているような気がして、俺はとうとう観念した。
「ハブシス社、夢想カプセル開発部門所属の平社員だ」
「家族構成は? 年齢は? 両親の仕事は何?」
「父、母、俺は二十四歳独身、家族はそれだけ。両親とも地方で畜産を生業にしている」
「はい、ありがとう、これであなたの嫌いなテストは終わりよ」
走らせていたペン先を止めた彼女は、小さく笑った。やっと、午前中の業務が終わった。俺は立ちあがってうんと背伸びをしてから、ようやく夢から覚めた気分でいっぱいになった。あの夢は忘れようにも忘れられそうにないな――そうして俺は、すっかりと現実に帰った。
食堂で、俺は彼女とともに昼食をとっていた。猫舌な彼女は冷やしヌードルを、俺はカレーライスを目の前にして椅子にどっかりと腰掛けた。
「新型カプセルのテストをするのは平社員の役目、この社風どうにかならないのかね」
俺は二人分のグラスにピッチャから水を注ぎつつ呟いた。
「仕方ないわよ」とニーネがぶっきらぼうに言う。
「この会社の末端構成員なんだから、実験動物扱いにも耐えなきゃ」
実験動物。その言葉が俺の現状ときれいにリンクした。新しく開発されたカプセルに入れられ、一日の半分を自分の深層心理と対面することに費やしている。まるで精神的刺激に対する動物実験のようではないか。新しいものが作られる裏側には、必ず犠牲が生まれている。新しい夢想カプセルが作られる度に俺がテストし、その度に俺の精神が削られ、実験にさらされているのだ。
「科学が進歩して、作られるもののフォーカスが完全に人間にあてられたのよ。アニマルを使った実験は、そりゃ行われるけど、最後の確認は人間でやらなきゃならないの。科学に奉仕する真摯さはないのかしら、人間君」
彼女は割り箸を割って、それから慣れた手つきでヌードルをすすった。
人間、人間、人間――ヒューマニズムが大前提の世界国家が人体実験を公認するとは、第三次世界大戦前よりも昔の話になる。カレーの頂にスプーンを突き立てた俺は、小さくため息を吐き出すとともに昼食の処理に取りかかった。
進歩した科学が人間を支配する。まさにこの世界を凝縮した言葉だった。今まで、科学を引っ張って来たのは人間だったのだが、21世紀の真ん中辺りから、科学が人間を先導し始めたのである。きっかけは、2020年に起きた第三次世界大戦だった。
戦争の発端は、中国の日本侵略だった。日本の科学技術を手にしようと、水面下の策略から武力行使へと考えをシフトさせたのである。日本の後ろには西側陣営がつき、中国の後ろには東側陣営がついた。そして、世界は東西半分の陣営に分かれて互いに殺しあった。
いくつもの小国が灰燼に帰し、いくつもの民族が絶滅のはざまに追いやられたのだ。結局、戦争は短期間のうちに終息した。半年の戦争期間のうちに、四十の国家が武力によって焦土と化し、戦争従事者非戦闘員含めて、十億人以上の戦死者が数えられる結果になった。
東側、西側、どちらが勝者となったのか判断がつかないほどに、世界は荒廃に包まれた。そのうちに、生き残った巨大国家の元首たちが、一つの場に集まり、荒れ果てた世界救済のため、そして同じ人間同士の戦争を根絶するために、一つのヴィジョンを全世界に提示したのである。
2040年、その年の出来事だった。
唐突に、センセーショナルに、世界は一つとなった――統一政府の誕生である。国家の枠組みをすべて取り払い、紙幣の共通化、政策の一本化、そして地球そのものを一個の国家として見据える取り決めが国際的に法令化されたのである。そして、東も西も、全てが一つになった巨大な地球国家が誕生したのだ。
それが一世紀前の革命の話。発足直後は様々な内紛が起きて混沌としたカオスに満ちあふれていたそうだが、今となっては歴史上のカオスにしか過ぎない。世界が一つになったことで、国家同士に向けられていた関心のベクトルが目標を失い、一挙に科学や文化などの内示的な英知に注がれたりもした。
要は、戦争なんかの軍需産業の予算や、外政に向けられていた労力、地球国民の興味が、金や英知の流れを伴って、科学、医療技術に注ぎ込まれたのである。それが今の世界の基礎になり、そして一世紀の短い時間の中で、科学技術は成熟していった。
成熟した科学技術を基盤に世界政府は、権力を世界に広げていった。科学も科学で抑えの利かなくなって暴走するように物質世界の理に深く踏み込んで行く。
テロメア、テロメラーゼによる寿命コントロール。電子仮想空間ネットワークによる情報取引の一本化。プラズマシステムによる代替エネルギーの発明。空中に浮かぶ建造物。実像ホログラム放映機器の普及。空間に対する実像建築。夢想カプセルによる深層心理への干渉――人間が科学を行使するのではなく、科学が世界を先導するように、新たな境地を切り拓き続けている。
科学先導の世界基準。科学を盲信する新たな文化。人間がコントロール出来ないほどに科学は肥大化して、狂おしく牙を研いでいるのだ。
「そう言えば、知っている?」
飯の後オフィスでの業務に移行して間もなく、脇に抱えた書類を届けに来たらしきニーネが、俺のデスクにやってきて誘うような、ねこなで声で言った。
「何を――」そう言いかけたところで、彼女が俺のデスクの上に乱雑に書類の束を置く。
「今サイバーワールドの中で、一番の噂のこと」
小さな笑みが彼女の表情に走った。ニーネは胸ポケットから名刺に似た形のデジタル・ディレクトリ・ホログラム・デバイス――通称コンパク端末を取り出すと、指先でなめらかな表面をなぞる。
その瞬間に、俺の目の前にいくつもの映像が踊った。
神々しいまでの夕焼けの情景、子供の画いたポップアート、それから可愛げのある文化の画像が断片的にふわりと俺の視界に満ちあふれる。色彩の断片。言い換えれば只の記録。記憶の媒体としての電子の塊にすぎないのだが、まるで映像の断片を背負った蝶の大群が目の前を漂っているかのようだった。
「ホログラムの効果範囲を広げすぎだ。待ち受けを見せびらかしてなんになる」
「ちょっと、ペンで私の写真をいじくらないで」
人間だった頃の彼女の写真。それをペンでかき混ぜている事を咎められた俺は、標的を見失ったペンを書類の上に落とす。踊る映像は固定化され、徐々に薄れてゆく。それらの代わりにいくつかの見出しが視界にスライドインし、言葉がいくつか積まれて俺の意識に覆い被さった。
人間停滞論の先鋒バイマン氏インタビュー、動物愛好家敗訴、流行に乗り遅れるな。新商品お披露目――そういった、最新のニュースがサイバーワールドを介してコンパク端末に送られていた。
俺は、それがまるで、ユグドラシルの神木のようにも思えた。情報の大木がコンパクの平面から伸びて、大きく茂っている。情報という名の果実を枝にぶら下げて、健気に世界の流動を知らしめようとしている。
「あった、これこれ」
情報の渦、電子の海、文字の摩天楼――ニーネの指がその中から一筋の文字列をすくい上げ、俺の目の前で電子の封を開けた。他の情報がフレームアウトして消えると同時に、その情報を提示しているサイバーワールドにフォーカスが向けられる。
どうやらそのサイバーワールド一角はいわゆるアンダーグラウンド的な、しかも宗教的な人気のある掲示板らしく新着トピックスだけでも200件近いものが乱立されている。情報狂のたまり場。流行の盲信者。自己の存在を、仮想世界でしか叫ぶ事の出来ない意志の集合体――連中を語感だけで表現するならば、死霊のはらわたと言う言葉がよく似合う。
常に新しい情報に、流行に触れていないと駄目なのか、お前らは。
届くことのない苦言を俺はサイバーワールドに投げかけた。無意味なことだとわかっていながらも、俺は電子の向こう側を見据えた。
〈新政府からの重大発表はいつになる?〉
ニーネの指がそれを引っ張り出して、拡大させる。どうやら彼女は興奮しているらしい。ニーネの横顔に、獲物を前にしたときの猫の表情を見た気がした。
「新政府の科学省長官が近々全メディアに向けて、何か大きな発表をするらしいの。バイマン博士と大統領とともにね。また素晴らしい発見をしたに違いないわ」
彼女の知的好奇心はその話題を前にして燃え上がるように光っていた。しかし、そんな彼女に対して俺の感情はフラットで切ないほどにドライに出来上がっていた。
そんなことのためだけに俺のデスクにきたのか、だとか、どうせろくでもないことを発見したのだろうとか、俺の意識のどこを探しても好意的な言葉は存在していない。
「バイマン進化論よりも刺激的で、未来感をかき立ててくれるような発表だと良いが」
どこまで行っても平坦な言葉の隆起。当たり前だ、俺の視線はさっきから彼女のコンパク情報でなく、手元の書類に向けられている。
「カエデ、そんな調子だと一生独身のままよ」
俺の心にずしりとのしかかるような口調で、彼女が呟いた。それから今度は視線を上げた俺の目を見据えて「人間なのだから、文化的に生きなさい」と言うと、あっという間にコンパク端末を閉じて自分のデスクの方へ消えていった。儚く消えた彼女の匂い、猫の気品。俺は何を思うことなく、いつものように自分の仕事に没頭するだけだった
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