記事入力 : 2011/07/10 05:43:41
韓国内外の学界で再び脚光浴びる満州(中)
ユン・ヒタク韓京大学教授は「多様な民族を吸い寄せるブラックホールであり、欲望が幾重にも重なった空間だった」と語った。1930年代、朝鮮では大々的な「満州行きエクソダス(脱出)」が起こった。生きる道を求める開拓移民と、日帝の政策移民が重なった結果だった。40年の時点で、満州には日本人82万人、朝鮮人145万人が暮らしていた。光復(日本の植民地支配からの解放)のころ、現地の朝鮮人は216万人に達していた。
知識人や芸術家の間でも、満州行きが流行した。自国での活動に限界を感じた東アジアの文人たちは、1カ所に集まり「満州文学」という独創的なジャンルを生んだ。韓国映画の先駆者に挙げられる羅雲奎(ナ・ウンギュ)・尹逢春(ユン・ボンチュン)も満州で育ち、柳致環(ユ・チファン)・李泰俊(イ・テジュン)・韓雪野(ハン・ソルヤ)などが紀行文などを残した。満州を素材に朝鮮や日本で作られた歌謡曲だけでも、500曲(朝鮮110曲、日本400曲)を超える。釜山-満州-北京を結ぶ特急列車が弾丸のように駆け抜けた場所でもある。
韓錫政(ハン・ソクチョン)東亜大学教授は「満州に渡った朝鮮人の、あまたの縁がこもった現代史のブラックボックスが、今になって開かれている」と語った。このところの朝鮮族や脱北者の問題も「満州への関心の復活」をもたらす一助となった。20世紀東アジアのディアスポラ(ギリシャ語で「離散」)として浮き彫りになり、満州研究は一国史のレベルを超えて国際的・学際的性格を帯びている。
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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