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日本の農村は怖い _ 狭山事件の背景
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/340.html
投稿者 中川隆 日時 2010 年 4 月 06 日 22:09:55: 3bF/xW6Ehzs4I


荻原祐介氏は狭山事件発生直後から独自を調査を重ねた結果、真犯人が石川青年ではありえないことを確信した。 そして石川氏が一審で死刑判決を受けたことを権力の謀略といち早く見抜き、石川氏に面会して、あの有名な二審冒頭での爆弾発言、

「裁判長殿、私は善枝ちゃんを殺していません!」

という「名文句」を授けた人でもある。 正に石川氏とその家族が「命の恩人」として慕う人でもあった。

荻原氏は同時に石川氏を死刑台に送ろうとした首謀者たちを法廷に引きずり出して、
その卑劣な仮面を引き剥がそうと目論み、様々な告発を行なった。
その中の一部に、浦和簡易裁判所宛に提出した、当時の埼玉県警本部長警視監・
上田明氏を被告とする緊急証人喚問請求がある。 以下にその一部を紹介する。


尋問事項

一、被告は中田善枝さんの母、故ミツ(明治42・11・18生、昭和28・12・30死亡)
  の存命中の素行を熟知しているか。

二、母故ミツが中田栄作と昭和8・5・12、婚姻したが婚礼中の翌朝中田家の庭に
  何が持って来て置いてあったか。

三、○○○○は男好きの奔放な女性で死亡まで肉体関係をしていたという色男が
  十人位いたということを知っているか

四、母ミツは昭和28・12・30午前十時三十分に東京都北多摩郡小平町小川六六二〇
  国立療養所精神科病院に於て「脳腫瘍」という一万人に一人位しかいないと
  いう珍しい病気にて昭和28・12・19に入院して昭和28・12・30午前十時三十分
  に死亡しているが、この母故ミツの死因について村人たちは○人いたという色男
  の中の誰かがやきもちをやいて毒を呑ました、中田家で死んだのでは世間体が
  まずいので、遠い所の病院へ運んで死なせたのだ、といっているのである。

  原告が専門医の意見を徴たる処、国立武蔵野療養所は患者は全部精神病者にして、
  外科医の治療を受けねばならぬ脳腫瘍患者が専門外の精神病院に収容されたこと
  及び脳腫瘍という病気は発病してから三年位患ってから死亡するのが此の病気に
  なった患者の発病から死亡するまでの過程であるという。

中田家周辺の住民は母故ミツは病院に連れていかれるまで毎日丈夫で働いていた
ということからして、発病して三年経過しなければ死に至らぬという病気が僅か
入院して十日位で死亡していることは何か臭い、死亡診断書が臭いとの意見
である。

五、被害者中田善枝は、昭和22・5・1生まれで、十六歳であったが、体格は一人前
  の女に成長し、性格は死ぬまで○○○○をしていた色男が十人もいたという
  多情多感、○○な母に似て中学一年位の頃から既に男性に積極的で○○○○を
  持ち、母故ミツに劣らぬ○○が相当いたはずと村人はいっているのである。

  中田善枝さんが強姦されて死んでいるのではなく、和姦の後、格闘乱闘、抵抗の跡
  もなく、おとなしく殺されていたという殺害の状況よりして、村人たちは十人以上
  居た善枝さんの色男の中の誰かが、合意に依る和姦の後、殺害したのに
間違いない。
  
  真犯人は善枝さんと事件以前から肉体関係を持っていた10人以上の色男の中
  の誰かであるといっているのである。

  故に善枝さんを見たことも聞いたこともない通りがかりの男が慾情にかられ
  て殺したのではないと異口同音に村人たちは話している。

六、被告は被害者善枝に肉体関係をしていたという10人以上の色男の所在を突き止め、
  以てそのアリバイを確認する捜査をしたか。

七、狭山市、入間川の菅原部落及び柏原の下宿部落には、環境の相違よりして中田善枝
を知っている男性は一人もいないのである。
  この犯人のいない所謂部落に集中捜査攻撃が加えられたことは差別的偏見による
  偏見捜査であったと断定せざるを得ない。

  原告に多分の暇があれば詳細なるききこみを続行して十人以上いたという色男の
所在を突きとめ、真犯人を発見するのだが、毎日多忙の体でそれができず遺憾
である。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/3.html

エサクとミチュが結婚した翌朝、自宅の庭にとんでもない光景が広がっていたというのは皆さんご承知の通りです。

では誰がやったのか?

ミチュと関係のあった10人以上いたというイロ男たちでしょうか。
もしかするとそうかもしれませんが、それはどんなヒトか・・・

そしてミチュは不審な死を遂げ、恐怖に怯える長女が家出。
さらに利権のからんだ当事件につながっていく。

たとえばです、ヨッチャンの父親が部落民だったとしたらどうでしょう。

当時の農村における差別意識を想像するに、エサクや長兄の心境は?
考えただけでも恐ろしいです。

中田家も、街道も、警察も、真犯人逮捕を望まなかった。
むしろ絶対に避けなければならなかった。 それぞれの事情でです。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/5.html

日本の農村共同体( 講 )での婚姻は家と家のバランス、双方が親戚となった場合の他家との兼ね合い、または両親が無くなったあとなどにどう言った財産関係が出来上がるかなども考えられた上でなるべく血の薄い相手を「講」の中で選んで縁談させるのです。

なぜそうまで考えるかというと講というシステムの中では特出した金持ち、土地持
ちなどは必要とされず、全ては平等の元にという小さい規模の共産主義のような
意識が基本であるからと考えられます。なので婚姻により財産が大きく増えたり土地、田畑が大きくなるのはタブーであったと思われています。

ただし、中田栄作さんの場合は「講」の外である川越の裕福な農家から嫁を入れる
ことになりました。

これは当時の中田家の経済事情であったとか入間川のある資産家から縁談を持ち込まれ断るに断れなかったなど諸説ありますが、結果としたら講に対する奉納品を倍増するなどしてこの縁談を押し通したこととなり、他のこれまで規律を守ってきた講員らには面白くないことと思えたでしょう。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html

493 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2007/08/26(日) 00:39:10 ID:???]

この地区は事件まで夜這いの風習が残っていたらしい。
古い農村の夜這いの風習が、事件を横溝的に恐ろしくするキーワードだよ。
母親の結婚した時の惨状しかり、異父兄妹関係しかり。


793 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2007/11/14(水) 10:37:00 ID:???]
例えそれが嫌がらせでも、、、

普通墓石なんて考えつくか??

なぜ墓石?

昔のイジメはこれが定番なの???


795 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2007/11/14(水) 13:04:03 ID:???]
>>793
「共同墓地からの追放」ってことを意味するんじゃないかねぇ


796 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2007/11/14(水) 13:21:53 ID:???]
重い墓石をわざわざ運んでまでやるわけだから、いたずらというには度を越しているよな。

何で運んできたんだろう?リヤカー?軽トラ?

善枝さんの自転車も、何で運搬してきたのかが謎になっていることを思えば、不気味な因縁を感じるね。

事件とは直接関係のないただの嫌がらせだったのかもしれないが。


797 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2007/11/14(水) 14:35:15 ID:???]
車が一般的に普及し始めたのって昭和40年代ぐらいじゃない?
よしえサン事件の時車持ってるって聞いてお金持ちだなあと思った。

だけど墓石事件の時って昭和20年代ぐらい、、だよね。
車なんてないんじゃないかな。

しかもあんな重いものをワザワザ。。。。

やっぱリヤカーで村ぐるみなのかね?

798 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2007/11/14(水) 15:00:34 ID:???]

昭和八年の五月


799 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2007/11/14(水) 15:05:24 ID:???]
墓石投げ込みを、一人でやるとなると、相当な労力がいるだろうからかなり根が深い怨恨だったんだろうね。

複数とすると、結構組織的嫌がらせという感じがしてくる。

…つーことを考えると、やっぱり狭山事件との関連性が、
どーしても頭に浮かんでくる。

単独犯か、複数犯か。
痴情怨恨か組織的脅迫か…
http://yomi.mobi/read.cgi/bubble6/bubble6_archives_1140268024

長兄の手記 (発表されたのは、石川一雄さんが逮捕された日)


善枝の位牌の前で犯人逮捕の報をきき「善枝! 本当にこの人なのか?」
と聞いても 遺影は何もいわず、表情すら変えられないのです。

全国から多大なる激励、慰めの手紙をいただき一刻も早く今日のこの日を待って居たのですが長引いてしまいました。 

これも農村という古くからの何ものかゞ ひそんで居たのではないのか?

と責めざるお得ないのです。 この様な憎むべき犯罪が善枝以外に 誰の許にも起らぬ様、世の皆様にお願ひ致します

犯人たるおまえに なぜ善人に戻って呉れなかったのか、悪に取りつかれたおまえでさえ戻るのみの善をおまえはもって居た筈であり、その善は今日のこの日を待っては居なかった筈なのに

苦しかった事だろう 善枝よ!
安らかに ねむりたまえ!
http://blog.livedoor.jp/higurashi/archives/841936.html
http://flowmanagement.jp/sayama/article.php/20090506074847968

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狭山事件(さやまじけん)とは、1963年5月1日に埼玉県狭山市で発生した、高校1年生の少女を被害者とする誘拐殺人事件である

この事件では中田家を中心に不幸な出来事が続いた。

まず、事件後に中田家の農業手伝いの奥富玄二さん(当時31歳)が自分の結婚式の前日に農薬を飲んで自殺。

続いて、不審な人物を見たと警察に証言した田中登さん(当時31歳)がナイフを突き刺して自殺。

さらに捜査線上に浮かんでいた付近の養豚場勤務の石田登利造さんが自殺した。

更に驚愕したのは、佐野屋で犯人と唯一会話した善枝さんの姉が石川の死刑判決直後に自殺。

善枝さんの次兄も自殺した

不可思議な事は、石川被告の家宅捜査は3回行われたが、第一回の家宅捜査(5月23日)で徹底的に捜査して何も事件につながるものが出てこなかったのに3回目の家宅捜査で善枝さんのピンクの万年筆が勝手口の鴨居から発見された。

捜査員自らこれを取らず被告の兄に取らせて写真を撮影するなど実に不思議なことが起こっている(尚、この第三回目の家宅捜査の時間はたったの24分間で、第一回と第二回の家宅捜査では2時間以上を費やしている)。公判ではこのピンクの万年筆が物的証拠として有罪の決め手になっている。

取り調べ中も「自供したら10年で出してやる」と自白を強要したり、留置場から浦和拘置所に移された後、この留置場の床に「中田よしエさん ゆるしてください」と書かれていたとして川越警察署が証拠として提出したりしている。

が、前述の通り、石川は字が書けないのである(自分の名前、住所のみ漢字で書ける程度)。

その他の状況も含めて鑑みると「真犯人は別に居る」と見た方が素直である。

だから尚更、警察は「何が何でも石川」という演出に走っていったと思われる状況が多々ある。だが、一審の判決は「死刑」、二審で「無期懲役」の判決によって平成6年12月の仮釈放になるまでの実に31年7ヶ月間を獄中で過ごす事を余儀なくされた。
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage51.htm


警察にも関与者が居るような気さえしてくる。強引に冤罪者を作ったり、後に何人も出てくる自殺者の状況も怪しきものばかり。

●次姉は空井戸に落ちているのに警察は溺死と判断。

●養豚場の経営者が踏切に飛び込んで自殺。狭山市・入曽の両駅の日誌から、なぜか当日のページが紛失(破り取られる)。

●事件当日に死体発見現場のそばで怪しい3人連れを見たと届け出た証人が包丁で胸を突いたとして死ぬ。(警察で犯人扱いされ厳しい取り調べでノイローゼ状態)
 (もしかすると重要な証言者だったのかも…)

また、気持ち悪いのが次兄の首吊り自殺。
オカマでも無いのに自殺の遺書は女言葉で綴られている。
事件そのものじゃなくて、後々に沢山出てくる自殺(死)者だけでも謎深いよ。

この家庭は良い家柄だけど、変わった家庭らしくて被害者の母が嫁入りした時も
家の庭に墓石やそとばが大量に投げ込まれていたらしい…

ちなみに被害者の少女は1963年当時16歳だけど、事件で犯される以前にも何度かの性体験があったということが検死(処女膜より)によって明らかになってる。

当時としては早いと思うけれど、もしかして、もしかして父か兄とやってた??
http://jbbs.livedoor.jp/study/56/storage/1149838795.html

1. 狭山事件の謎

事件から45年を経過した現時点でなお、真犯人が誰なのかわかっていません。石川一雄さんが逮捕されて有罪とされましたが、その判決文を読むと物理的にも論理的にもありえないことが大量に書かれていて、「推理」とも呼べないようなものです。
本当にこの事件を起こしたのは誰なのか。事件直後から様々な「推理」が提示されましたが、未だに万人を納得させるものは登場していません。


2. 狭山事件の猟奇

この事件の関係者(被害者の家族(兄と姉)、容疑者、重要な目撃者など)が次々と謎の死を遂げています。

「謎の死」という月並みな言葉を使いましたが、この事件に関しては本当に謎な死に方なのです。

公式にはことごとく自殺あるいは事故死として処理されていますが、それをそのまま信じるなんてとても無理だろ常考。という死に方です。


3. 狭山事件のトリック

事件に際して、奇妙な、当て字を多用した脅迫状が被害者宅に届けられています。例えば「警察」を「刑札」と書いています。
刑札ではこれを「知能が低い者の犯行」と見ましたが、その「刑札」でもわかるように微妙に意味が通る当て字で、なおかつ当の刑札自身がこの脅迫状に「車出いく」と書いてあったのを真に受けて身代金受渡し場所で犯人を取り逃がしていたりして、少なくとも刑札よりは知能が高い者の犯行であることは確実です(笑)。

さらに、身代金受渡場所に犯人自身が現れて、身代金を持ってきた被害者の姉と会話しています。その様子は張り込んでいた刑事たち(複数)も聞いています。
その上で犯人は悠々と包囲を突破して逃げおおせています。それを「単なる偶然」と片付けることは可能でしょうが、堂々と脅迫状を出した上に、警官38人の包囲をサクっと突破して逃げる犯人というだけでも推理小説のネタになるでしょう。


4. 狭山事件の陰謀

上の「謎」で名前が出た石川一雄さんは、なぜ「犯人」に仕立て上げられなければならなかったのか。あるいは、被害者はなぜ殺されなければならなかったのか。そのあたりにプチ陰謀論の種も大量に転がっています。

特に、石川さんを犯人に仕立て上げるにあたっては、数多くの「証拠」がでっち上げられています。このでっち上げは誰が何の目的で行ったのか。そこにも陰謀のニオイをかぎつけることは可能でしょう。

くりか江す(これも脅迫状にあった誤字です)と、これは実際に起きた事件です。
「事実は小説より奇なり」とはよく言ったものです。
http://flowmanagement.jp/wordpress/archives/192
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1. 狭山事件関係者一覧

1963年(昭和38年)5月1日事件当時(狭山市大字上赤坂100番地)


中田家

父親: 中田栄作(明治38年8月14日生57歳):善枝の父、富豪、地域の有力者、
平成2年(1990年)没

母親: 中田ミツ(明治41年(1908年)生まれ。昭和28年(1953年)没。享年45 、
死因は脳腫瘍。入院して10日前後で急死した。近親憎悪の対象?

長男: 中田健治(昭和12年5月5日生25歳), 事実上の家長?、あいまいな証言

長女: 昭和9年生まれ。事件の8〜9年ほど前に家を出て東京で働いていた。
実家とはほとんど縁を切っており、その後結婚して子供が出来た時も実家に
入れてもらえなかった。

二女: 中田登美恵(23歳) 、昭和15年(1940年)生まれ。昭和39年(1964年)没。
享年24。自殺だった。真相を知る?、善枝の理解者 、中学卒業後、高校に
行かず家業を手伝っていた。
さのヤに身代金(に見せかけた包み)を持っていった。

三女: 夭折?

二男: 中田喜代治(昭和19年生まれ19歳) 入間川分校定時制4年生 、
昭和52年(1977年)没。享年33。自殺だった。
女言葉で書かれた奇妙な遺書を残している。

四女: 中田善枝((昭和22年5月1日生16歳) 、 昭和38年(1963年)5月1日没。
川越高校入間川分校別科1年生 、被害者、異父姉妹 
        
三男: 中田武志(昭和27年生まれ11歳) 堀兼小学校6年生 。後に他家に養子に出た。

 YH:登美恵の婚約者、健治と同級生

父親は近所では評判のしっかり者で、妻の死後も遺産相続の原因となる後妻を娶らず、
区長としても自分の考えを貫き通し、成績優秀の子供達も「百姓には学問はいらん」
との方針で四女以外は夜間高校に通わせるほどの徹底した頑固者だったと伝えられている。

長兄は高校卒業後、神経系の病気になって通院していた。病気は顔面神経痛と脊髄の疾病らしいが、詳しい病名は判らない。 東大病院に通院しながら会計事務所で働らき、会計士を目指して専門学校にも通っていたらしい。

その後勤めた新聞社というのは「東京タイムス」じゃなかったかな。
死体発見現場で写真を写していた(「最愛の妹がむごい姿で見つかったというのに
涙一つこぼさずにカメラマン気取りとは」と、のちに長兄が犯行に関与しているのではと大いに疑われることになる原因の一つ)のは、新聞記者だった頃の名残りかもしれない。

この新聞社は今はもうないみたいだけど、当時は農業関係の業界紙も発行していたんだろうか?

結局、長兄は父の説得に負けたのか、夢破れて(?)実家の農業を継ぐことになったらしいが。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/4.html


被害者はもともと7人きょうだい(三男四女)でしたが、長兄以外のきょうだいは全員死去するか通常でない形で家を出るかしています。

そのことと、被害者宅が裕福な農家だった(「百万円様」とあだ名されていた。さらに、父親は地区の区長を務めていたこともある)ことから、「被害者の長兄が遺産相続で独り占めをするために他の兄弟を次々と排除していった、その手始めが狭山事件である」という「長兄犯人説」が唱えられています。


中田家のその後

 長男・・・結婚して中田家の「家長」となる
 長女・・・家出して東京で結婚。中田家とは没交渉。
 次女・・・事件の1年後、「自殺」。
 三女・・・幼くして病死。
 次男・・・事件の十数年後、「自殺」。
 四女・・・事件により殺害される。
 三男・・・事件の十数年後、養子縁組。改姓して中田家を出る。

つまり7人のきょうだいの中で存命者は長男・長女・三男の3人のみ。
そのうち事件が起こったあの家に残ったのは長男のみ。


27 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/10/17 16:00

次兄が経営していたのはラーメン屋だったらしい。大きな料理屋なら経営苦で自殺というのもうなずけるがラーメン屋程度なら、うまくいかなくても本家から相続分の畑でもわけてもらって農業をやってもいいわけだし、借金があったのなら土地を売るという手もあったはず。

父親と長男は相談に乗ったのだろうか。
なんでも末の弟も家を出て、次男の店から東京の大学に通っていたそうだ。
どの兄弟も長男とは一緒に暮らしたくないほど、仲が悪かったのか。


31 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/10/17 18:03

店をたたんで農業やるとか考えられたにも関わらず、自殺とは何かがおかしいと思う。
頭下げられないほど実家とは仲悪かったのか? それとも下げるに下げられない「何か」があったのか・・・
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/3.html


249 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/02/09 17:18

末弟も、のちに養子縁組して中田姓を捨て、家を出て行った…

それ以前に、大学へも実家からではなくのちに自殺する次兄の家(中華料理店)から通っていたというから、よっぽど実家にはいたくなかったのだろう。

そんなに父または長兄との折合いが悪かったのか…
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/4.html


230 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・投稿日:02/04/11 15:12

結局中田家の財産を相続したのは誰なんですか?

231 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・投稿日:02/04/11 17:48

兄じゃろう。でもそんなに財産あるのか?


262 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・投稿日:02/04/27 00:02

中田家の農地、山林四町歩(潜在的価格は坪十万円と安く見積もっても十二億円)は長男健治氏の心境ではすでに自分一人のものであるらしい。姉、弟とともに将来は四等分、均等配分の意志なぞみじんもないようである。 これについて昭和46年9月「週刊アサヒ芸能」の記者が兄健治と対談した記事をみると次のようである。

「犯人身内説を受けて中田健治さんがいう。「うちの財産ですか。兄弟はみんな外にでて、たしかに私が中田家を継いでいますが、ここらあたりは一反歩百六、七十万円でうちは三町もっているから四千五百万円ですが地価のとくに安いところですから、百姓やっていてもバカをみますよ。以前、名古屋のほうの新聞だったかに長男が怪しいなんて書かれたんですが、ぼくはやましいことないから平気ですよ。」 静かな口調だった。」

ところで兄のいうようにかりに一反歩(三百坪)百六、七十万円なら坪五、六千円 とみているわけだが当時でも坪二三万円とみられている。又、「うちは三町」といっているが父の警察調書では畑二町三反、山林一町三反、宅地一反三畝計三町七段三畝、一万一千九○坪である。平均坪五千円として五千五百万円、坪三万円とすれば三億三千万円である。

そして兄は中田家を継いでいる、と称しても父がいなくなれば姉弟四人で四等分ではないか。誰も相続権を放棄していないし、長男が勝手に「自分独りのもの」とみなしているところにおかしな心境がみえているのではないか。「百姓をやっていてもバカをみる」といいながら独りで継いだ気になっている

ところに矛盾がある。「バカをみる」なら長男が農家を継ぐことを拒否している例もあることゆえ土地を長女や弟に譲って勤人でもする方がよい。長女、弟たちに父の存命中に土地を四等分して「バカをみないようにする」なら長男の言行は一致し「長男が怪しいなんて書かれない」事になるわけだ。犯罪があるとその結果誰が一等利益したか、又誰がその利益を世間にごまかそうとするかの二点を世間は疑いの的とするのは定石であり、多くの実例と推理小説が強調するところである。 (亀井トム「狭山事件 権力犯人と真犯人」1977)

※この著書は次兄喜代治の「自殺」以前に発表された。
http://mblog.excite.co.jp/user/hageguma/entry/detail/?id=574093

重要人物

石川一雄 事件犯人?、被差別部落民

奥富玄二 B型の血液、1週間後に自殺、中田家の元作男 、土建会社と中田家の仲介人

石田養豚場

  石田登利造 長男、アリバイ不明、3年後自殺、ひこつくしが得意

  石田一義 弟、養豚場経営者、スコップを盗まれたと証言


事件証言者、協力者

増田秀雄 元PTA会長、村の有力人物、現金受け渡し時に協力

内田幸吉 怪しい人物が訪ねる、あいまいな証言

田中登  矢けん坂で不審な3人を目撃、10日後自殺

Q 40代、元浦和の部隊所属の軍人、石田Tと事件の協力する、S30〜S35増田秀雄の元で働く

X 30代 主犯?警察の動きを把握する、医学・薬学関係者

H 訓読みではA、事件直後取調べを受ける、その後行方不明

C 17歳、町の不良少年、取調べを受けるがシロ
B A,Cの仲間、唯一車の免許を持つ、事件後行方不明
A 18歳、Cの親分格、怪しい背後関係、矢けん坂に自宅

O 中田栄作と対立する元区長、土建会社Kを経営

U 大物狭山市会議員、Oと懇意にしている, 水利工事を牛耳る

森(仮名)戦後復員し、紡績業を営むが村の「講」を破り追放
  善枝さんの実の父親?川越の周辺を渡り歩く。母親の秘密?

森の次男 =田中 中田家を恨む。石田登利造の仕事を手伝う。真犯人?

田中幸男= 森の次男? Uの経営するバーに出入りする、善枝さん誘拐・監禁実行犯?

O2=田中? Uの経営する店の従業員、暴力団関係者、アリバイ工作に協力 、善枝さん誘拐・監禁実行犯?

土建会社K 元区長Oの経営する会社,狭山市の水利工事を担当、
U議員が工事の都合をつける
      奥富に対立する中田家との交渉を依頼

事件後の変死者一覧

奥富玄二 S38.5.6 農薬エンドリンによる自殺-井戸で発見。B型結婚式前日。

田中登(31)  S38.5.11 事件当日見た不審な3人連れの男たちについて証言。

中田登美恵 S39.7.14 薬物自殺。遺体がきれいになって、農薬のビンも洗われていた。

石田登利造 S41.10.24 石田養豚所の経営者石田一義の兄。礫死体で25日に発見。

中田喜代治 S52.10.4 中田家二男自殺


事件の関係者で変死したのは以下の通り(死亡順)。

@中田善枝(事件の最初の被害者)
A被害宅の元作男、奥富玄二(農薬を飲み、井戸に飛込自殺)
B目撃情報をもたらした、田中登(心臓を包丁で一突き自殺)
C佐野屋で犯人の声を聞いたPTA会長、増田秀雄(脳内出血で急死)
D被害者の次姉、中田登美恵(農薬自殺)
E石田登利造(鉄道列車で轢死)、「ひこつくし」の名手
F被害者の次兄 中田喜代治(首吊り自殺)
G善枝の母親 中田ミツ (精神科の閉鎖病棟にて脳腫瘍の為病死)


以上、遺書があり自殺として扱われているのはADF。

A 奥富玄二は以前からノイローゼ状態ともいわれており、結婚式を前に、性的不能を悩んでの自殺ともいわれている。

B田中登は警察発表では、支援していた議員の落選を苦にしての自殺とされているが、家族はそれを強く否定。

C増田秀雄は単なる病死とする意見が多く、事件の「不審死者リスト」からは外されている。

D中田登美恵は事件後からノイローゼで通院しており、一審の死刑判決後、日記を中断。妹の後追い自殺といわれている。

E 石田登利造は自殺、他殺、事故死いずれも不明。重いアルコール依存症で、入退院を繰り返しており、病苦とも借金苦による自殺ともいわれている。

F 中田喜代治は経営する飲食店の不振が原因とされているが、妻はそれを否定。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/4.html


かって中田家の三男喜代治の「自殺」をある週刊誌は「また死んだ・・狭山事件の八ッ墓村」 というタイトルで報道した。

むろんこれは当時ヒットしていた映画のタイトルになぞらえたに過ぎないのだが、はからずもこの事件の本質を示していた。この事件は被害者一家を巡る人間関係、それを取り巻く地域社会の特性に着目しないかぎり絶対に理解、解明はできない。


農村地帯特有の奔放な男女関係、

住宅地図を開くと一目だが隣近所が皆同姓という濃い血縁関係の集落、

東京オリンピックを翌年に控えた好景気の中、東京の衛星都市として急発展し地価も急騰する農村、その中に芽生えた遺産相続にまつわる近親憎悪、この事件の背景は横溝正史の小説がくりかえし描くところと全く同じものである。彼の小説がいつの時代も読者を魅了するように、この事件の真相もまた人類に普遍的な問題を孕んでいるのだ。
http://mblog.excite.co.jp/user/hageguma/entry/detail/?id=574093

狭山事件資料
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/sayama.htm
http://flowmanagement.jp/sayama/
http://sayamacase.web.fc2.com/ie_index_1iay.html

狭山事件写真
http://sayamacase.web.fc2.com/0/jiken.html
http://flowmanagement.jp/wordpress/wp-content/uploads/2008/05/higaisha-3.jpg
http://flowmanagement.jp/wordpress/wp-content/uploads/2008/06/higaisha-4.jpg
http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/sayama/photos/kyou2.jpeg
http://sayamacase.web.fc2.com/3/sayama2007.html

狭山第二鑑定
http://www.kanshiki.com/sayama/


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2. 本当は怖かった日本の農村

世間には「犯罪とは都市で起こるものであり日本古来の農村地帯は牧歌的で秩序だっていて、近代の都市部とは違い平和で犯罪はなかった」という誤解があります。
しかし、そういう閉鎖された農村地帯とか地方コミュニュティーというのは実は陰鬱でおかしな犯罪の温床でもあったのです。

例えば、間引き、夜這い、村八分、村の権力者による暴行、強姦、犬神や狐憑き殺人のような迷信や因習に縛られた暴行事件、実は殺人事件であった神隠しなど犯罪行為はゴロゴロありました。

まあ村の女性がレイプ同然に暴行されてたり、村のある一家が村八分で酷い目に合わされたり、嬰児が大量に間引きで処理されても、お上には訴えられず表立った犯罪にはなりにくいということはありますけどね。

「昔は村や地元の秩序状態が犯罪にはなりにくい犯罪を誘引していた」が正解です。

ただ、夜這いについては現代では少々、誤解があり、まるで村の女性が村の男に有無を言わさずレイプされてしまうよう言われてますが、実際は当時の独身女性には貞操観念などなく、しかもセックスは最大の楽しみであり、村の女性たちは

「村の男が私を悦ばせにやってくる」と夜ワクワクして床についたそうです。

薩摩だったかの逸話に村の男が男色に耽り女性とのセックスをサボりだしたのに怒った女性たちが、男たちが集まって男色している所に殴りこんで乱闘になったという逸話すらあります。

「当時の村の女は夜這いによって無理矢理犯された哀れな性奴隷であった」
という現代の誤解は「女性が自分の意思でセックスを求めるわけがない」という歪んだ女性像から来ています。

第二に女性の側にちゃんと自分の体調や相手によっては拒否権があり、
もしも、それを破って強引な夜這いに及んだ男は村八分などの制裁を受けます。
つまり夜這いは「村の男女の性の捌け口であり最大の娯楽」という男女共に楽しめる平等なものでした。

しかし、これもあくまで過去の時代の話しで現代では夜這いは一般的風習にそぐわない単なる犯罪行為になってしまったのも事実です。 夜這いの習慣の名残は各地でトラブルを生みました。

例えば単なる旅行者の女性が村の若者に村の夜這いの習慣によって集団レイプされた事件とか南九州で東京から来ていた女性が地元の男に略奪婚の習慣で拉致されて、親子ともども「うちにもやっと嫁さんが来た」と泣いて喜んだ事件とか表立った騒ぎになった事件がいくつもありました。

あと名張毒ブドウ酒事件とか津山三十人殺しも動機は夜這いのもつれらしく、陰鬱な農村型犯罪です。

他に月ヶ瀬村の殺人や殺人事件とは思いにくいですが「便層で死んだ男」事件などもそのカテゴリでしょう。
http://pandaman.iza.ne.jp/blog/entry/526459/


これが日本の農村の風俗


30年前に徳山ダム予定地で水没する運命だった徳山村に入って民俗調査したとき、飲み屋のママが「「毎晩、若い衆が「やらせろ」と忍んでくるので本当に困る」」 とこぼしていた。徳山など西日本の閉ざされた村では、後家さんが若衆の性教育をする義務があった。

 女子は初潮が来れば離れに住まわせ、赤飯を配った。これが「おいで」の合図で、その晩から近所の若衆が娘の元に夜な夜な忍んでくる。これを「夜這い」と呼び、1960年代まで、西日本では、ありふれた習俗だった。

 当然、子供ができるが、お腹が膨らめば、娘は忍んできた若衆のなかから一番気に入った男を夫に指名する権利があった。若衆は、これを拒否することはできなかった。もし拒否すれば、村から叩き出されるほどの指弾を浴びた。 

夫指名はお腹の子の種男である必要はなかった。どうせ、生まれた子供は、村の共同体みんなで育てるのであって、誰の子でも構わないのだ。子供は村全体の財産であり、みんなで育てる義務があった。村の共同体では、困ったことは、みんなで相談して解決するのであって、一人でも飢える者を出すことは許されず、餓死するときが来れば、みんなで一緒に餓死したのである。そこには貧しくとも、孤独という苦悩は皆無であった。 
やがて若衆が都会に出るようになり、都会の家畜的労働者の習俗を村に持ち帰ることによって、夜這いも廃れ、共同体も瓦解していったが、祭りなどには、そうしたフリーセックスの習慣が遅くまで残り、1980年代まで村の祭りは無礼講であり、どの人妻と寝ても良かった。

できた子供が、父親の子である必要があるのは、権力と財産を相続する必要のある名主や武家に限られいて、共同体生活をしてきた民衆には、受け継ぐべき権力も財産もなく、したがって父の子を特定する理由がなかったのである。
http://blog.livedoor.jp/hirukawamura/archives/1805329.html



「夜這い」

 筆者は若い頃から民俗学が大好きで、宮本恒一の熱狂的ファンを自認し、その真似事をしながら、山登りの途中、深い山奥の里を訪ねて、その土地の人と世間話をしながら、新しい民俗的発見をすることを楽しみにしていた。

 かつて、揖斐川の上流に徳山郷 という平安以前に起源を持つ古い村があって、その奥に能郷白山や冠山という奥美濃山地(両白山地)の名峰があり、このあたりの山深い雰囲気に惹かれて何度も通った。今は無意味な形骸を晒すのみの巨大なダム底に沈んだ徳山の里は、筆者の足繁く通った1970年代には、いくつかの立派な集落があり、春から秋までは渓流釣りマニアでずいぶん賑わったものだ。

 そのなかに、名古屋からUターン里帰りした中年女性の経営する小さな飲食店があった。そこでよく食事をして世間話に興じながら、おばちゃんに村の事情を聞いていたが、実におもしろい話がたくさんあった。

 一番凄いと思った話は、近所の農家の中学生の娘が妊娠したことがあったが、その相手は祖父だったという。しかし、当時の徳山では、この程度は全然珍しいものでなく、ありふれていると言ったことの方を凄く感じた。

 夜になると近所の若者が飲みにくるが、必ず店仕舞のときまでいて「やらせろ!」としつこく強要し、うっとおしくてかなわないという話や、この村では後家女性がいれば、婿入り前の若者たちの性教育係を務めるのが村の伝統的義務とされているというような話も驚かされた。

 参考までに、昔の性事情を知らない若者たちに言っておくが、戦前の日本では、とりわけ西日本における古代弥生人の末裔たちの里にあっては、国家によって定められた一夫一婦制結婚形態というのはタテマエに過ぎず、それが厳格に守られた事実は存在しない。つまり適当なものであった、というより、民衆レベルでは自由な乱交が当たりまえであって、生まれた子供が自分の子供である必要はなかった。

 というと、ほとんどの若者たちが「ウソー!」と驚くに違いないが、これが真実なのだ。例えば一番典型的だった中国山陽地方の集落では、一つの集落で、結婚まで処女を保つ娘は皆無だった。初潮が始まると、親が赤飯を炊いて近所の若者宅に配る。それが「おいで」の合図となる。その日から娘は離れの座敷に寝泊まりするのである。

 これは、山陽地方(西日本の古い農家といってもいい)の古い農家の作りを見れば分かる。必ず夜這いのための娘の泊まり部屋が設けられていたはずだ。古い民俗家屋展示を見るときは、昔のこうした光景を見るのだ。すべての構造に歴史の深い意味が隠されていると知ってほしい。

 若者の男たち、ときには、なりすましの親父たちも、赤飯の出た家に夜這いをかけて、初々しい少女を抱いて性欲を満足させたわけで、これなら風俗性産業が必要なはずがない。昔だって男たちに強烈な性欲があった。それが、どのように処理されていたか? 考えながら、赤線・性産業の由来・必要性を考えるのだ。

 夜這いの結果、もちろん子供ができてしまうわけだが、生まれた子供が誰の子であっても、事実上関係ない。子供の父親を指名する権利は娘にあった。別に実の父親である必要はなかった。夜這いをかけた誰かの内、一番好きな男を父親に指名するのである。これが、やられる側の娘の権利であった。

 夜這いを拒否することは、男にとって大きな屈辱だった。そんなことをすれば後々まで男に恨まれて「八つ墓事件」のような事態が起きかねない。津山殺戮事件の裏には、こんな背景も考える必要がある。

 父親を特定することが意味を持つのは、子供たちに受け継がせるべき財産・権力のある有力者に限られていて、持たざる民衆にあっては、受け継がせるべきものもなく、名もない我が子種を残す必要もなく、したがって、女房が誰の子を産もうと、どうでもよいことなのである。

 生まれた子供は「みんなの子供」であった。集落全体が一つの大家族だったのだ。みんなで助け合って暮らし、みんなで子供を育てたのであって、小さな男女の家族単位など、権力が押しつけたタテマエ形式にすぎなかった。

 タテマエとしての結婚家族制度は、明治国家成立以降、政権が租税・徴兵目的の戸籍制度整備のために、それを強要したのである。

 それは権力・財産を作った男性の子供を特定するための制度であった。それは名主・武家・商家・有力者などの権力・財産を「自分の子供に受け継がせたい」インテリ上流階級にのみ意味のあることであり、このために女性を婚姻制度、貞操に束縛したのである。

 農民をはじめ一般大衆にとっては、束縛の多い不自由な一夫一婦制など何の意味もなく、たとえ配偶者がいても、誰とでも寝るのが当然であり、生まれた子供は「みんなの子供」であって、集落全体(大家族)で慈しんで育てたのである。

 このようにして、かつての日本では夜這いに見られるような自由な性風俗に満ちていた。「集落全体が大家族」という考え方で助け合い社会が成立していて、夫を失った後家は、若者たちの性教育係になり、冒頭の飲食店のオバサンも、徳山の若者たちから、そのように見られていたわけで、決して徳山の若衆が性的変態だったわけではない。

 そうした自由な性風俗は1960年あたりを境にして、急速に失われていった。その後、読者が知っているように、女性に貞操観念が求められるようになった理由は、世の中全体が豊かになり、個人が財産を蓄積する時代がやってきたことによるのである。

 豊かになれば財産を「自分の子供」に相続させたくなる利己主義が芽生えるのである。「自分子供」を特定するために、誰の子かはっきりさせる必要があり、女性の自由な性を抑圧し、貞操観念に閉じこめる必要があった。
http://protophilosophy.noblog.net/blog/t/10590234.html


八つ墓事件(津山30人殺し)については

こんな女に誰がした_1
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/332.html

のコメント欄 09〜12 を参照下さい.

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村落共同体(農村講)


講(こう)とは、同一の信仰を持つ人々による結社である。ただし、無尽講など相互扶助団体の名称に転用されるなど、「講」という名称で呼ばれる対象は多岐に渡っている。

元々の講は「講義」「講読」の「講」であり、平安時代に仏典を講読・研究する僧の集団を指すものであった。後に仏典の講読を中心とする仏事(講会)を指すようになり、さらに各種の仏教儀式一般に講という名称をつけるようにもなった(報恩講など)。

この「講」が中世ごろから民間に浸透する過程で、様々な信仰集団に「講」という名称がつけられるようになった。信仰集団としての講には、地域社会の中から自然発生的に生まれたものと、外部からの導入によるものとがある。

前者の講は、氏神・産土といった地域の神を信仰する氏子によって、その神祠の維持のために運営されるものである。社格の高い神社の講では、「村」の範囲を超えて広い範囲に構成員を持つものもある。

講は講社ともいい、講の構成員を講員という。講の運営にあたっては講元(こうもと)、副講元、世話人などの役員を置き、講員の中から選任され、講の信仰する寺社から委嘱されるのが通常である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9B

763 名前:入曽歴3年:02/09/15 11:45

「農村講」というものは農村単位での自治集団といえば分かりやすいでしょうか、昔
飢饉や不作などに困窮した日本の各地で自然発生し、根源は非常時の助け合いが
目的と思われますが実際は非常な内向的社会で外部との接触も必要最小限であり
なによりも自らの利益や自治意識を優先させた集団との見方が適当かもしれません。

「講」の組織自体は日本各地でまさにさまざまで、ある集落内の親戚の集まりで形成
されていたり、あるいは複数の村をまたぎ大掛かりな集団であることも珍しくは
無かったようです。 しかし時代が明治となり、大正昭和となる頃には「講」自体の存在自体価値が乏しくなり自然消滅していったのが一般とされています。
ただ日本各地の豊穣を祈願する春夏秋のお祭りなどにその起源を垣間見ることも
珍しくなく、もっとも近年「講」のシステムを受け継いできた町村も昭和40年代
まで福島県や長野県で見うけられたそうです。

そしてシステムや規律もそれぞれの「講」で違いは多く、その「講」の数だけさまざま
な組織が存在していたと考えられます。 中には少数精鋭の秘密結社的な「講」もあり、または伝統行事などを継承するための「講」も存在していたそうです。歴史的に言うと前者は時の政府などと折り合いが悪く、早期にその存在を無くしていき後者のように時代に対応した組織のほうがどちらかと言うと後年まで組織的に生き延びた経緯があるようです。

ともかく日本の各地に「講」(地域によっては組とか御講、または御講組などと呼び名
はさまざま)と呼ばれる助け合い組織、または幕府や明治政府を頼りにしない自治集
団が存在したということは理解頂けたでしょうか。

NSさんらの調査では埼玉県堀兼、上赤坂地域で小規模ながら「講」が機能していたのは
終戦直後辺りまでと推測しています。「講」が機能していた、していないを判断する
のは「講」内の結束を確認する「覚書・おぼえがき」がいつ頃まで交わされていたかで
判断するのが一般とされているようです。

そこで過去に「講員」(講を構成する人々)であった人々にその点を調査してみると
一様に「講」については口を閉ざすのが常であったようです。
なぜなら「講」内には厳しい規律がありそれに反する者は覚書の元に厳しい処罰を
受けなければならないからです。

「講」における処罰はまったく私刑的なものでもっとも厳しいとされていたものが
「はなれもん・追放」で組織からと土地からの追放を意味します。わかりやすく言うと
ここから出ていけ、二度と戻るな、という意味で該当する人物の家族も含まれます。
(例外あり)何をするとこれほどの処罰を受けるかというと、殺人、放火、重度の
窃盗などがあげられます、いずれも意味合いは講の中でという事と思われます。

次に厳しい処罰が「はちぶ・村八分」となります。これは馴染み深い言葉のとおり
組織内で完全に孤立することを意味します。農作業も一家族でせねばならず、当然
出切ることできない事が起こり家族としては非常に困窮を極めることとなります。
「はちぶ」だと起こした事の程度について期限が決められることもあったようです。
そして何をするとこういった罰を受けるかというと、軽度の盗み、傷害事件、姦通、
覚書に反すること、などがあげられます。

こう言ったことを書くと必ず大したこと無いじゃないの、と思われるかもしれませ
んが当時の農業をしていて講の内部で助け合って生きている者にとって他の土地に
裸同然で放り出されることはすなわち死を意味した事と考えられます。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html

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夜這と村落共同体


日本における夜這の事例が数多く紹介されていますが、村落共同体の実態が紹介されないで、性関係だけが取り出されていると、一対婚しか知らない現代人には違和感の方が強くなりかねません。夜這いを理解するためには、村落共同体がどんなものだったかを理解する必要がありそうです。

大きな特徴は、村落の構成員に大きな変化が少なく、長年にわたって婚姻を重ね、地縁・血縁が複雑に重なり合った共同体であることでしょうか。現代は、苗字があり家族以外は他人という強い意識がありますが、当時は苗字等もなく、村中の人たちが大きな家族のようなものだったのでしょう。

村全体で、田植えをし、水路を整備し、里山を管理し、稲刈りもしていた。年貢を納めるのも、村全体の課題だったかもしれません。子を育てるのも、家を作るのも、共同作業で家だとか個人とかいった観念は非常に稀薄であったように思えます。
みんな家族のようなものだから、誰の子種でも気にする必要は無いし、どっちみち、みんなで育てるのだから更に、誰の子でも良い。年貢もみんなで払うのであれば、相続なんて形式的なもので、どうでも良い。

このような状況では、家と言う意識が稀薄であり、家父長権は殆ど存在せず、色んなことは寄り合いでみんなで決めていた。

みんなが生まれたときから生活を共有し、気心も知れた者どうしだから、警戒心も違和感も好き嫌いもなく、支配も被支配もない。だから村人同士であたりまえのように性を満たしあう。

一対婚は私有制度を母体にした婚姻制度であり、このような血縁と地縁の双方で一体化した村落共同体には、一対婚制度こそ全く相応しくない制度だったといえそうです。
このように考えてみると、明治以降村落共同体を破壊し、夜這から一対婚に変わっていった原因に、家父長権の法制度化が存在する可能性が見えてきます。

それまでは、武士階級にしか存在しなかった家父長権が、明治憲法により農民にも拡大され、名字と一緒に一人ひとりの男に権利が与えられました。その結果、農村にも支配権力が発生し、私権意識、家意識が少しずつ浸透していき、ついに農村も私権を中心とした家が、村落共同体の紐帯を解体し始めた。

そして、村落共同体の中で貧富の差などの、身分意識が形成され、夜這制度も解体されていくという流れをたどったのではないでしょうか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=83440

★娘の通経を村内へ披露する理由

遠州国曳馬村地方:女子に初めて月経が来ると、隣家では米二・三合を袋に入れて贈り、『初花が咲いてお目出とうございます』と祝詞を述べた。女子は月経の度に別に立ててある小屋に入ることとなっていた。

讃岐国小豆島:娘が十七歳になると村内の若い衆を招き、『娘も通経があるようになったから、何分ともよろしく頼む』と披露することになっていた。もし娘の家が貧しく披露の宴をひらけないときは、若衆が各自醵金して宴を張る定めであった。
八丈島:女子の初潮のときは『タビ祝い』として村内の若者が芋酒一升と里芋一籠を持ち寄って祝宴を開いた。娘が一人前の女―即ち妻となり母となる資格ができたことを村内に披露するのである。

「而して此の女子が通経を機会として、その事実のあったことを部落中へ披露―即ち若者の共有に提供することに就いては、種々なる方法と手段が存していたのである。他屋(月屋またはひま屋または汚れ屋などとも言う)と称する定められた家屋に別居することもその一つであるし、十三詣り(この事は後に述べる機会があろう)と称して神社仏閣へ参拝するのも又たその一つであった。」


★村内の娘を女にしてやる若者の権利

阿波国山城谷村:未婚の娘と寡婦は、村中の若者の自由になると考えていたから、他の村の者が娘に通じようとすれば、まず村内の若者に酒を買い黙認を受けることになっていた。守らなければ石打または殴打されるのが普通であった。

磐城国草野村付近:娘が年頃になると村の若者が集って、旧正月十五日の夜に『誰々の家の娘は、まだ女になっていぬから、あれを女にしてやろう』といって、娘達を呼び出して女にする行事が近年まで存在していた。

下野国氏家町:五人の若者を我が家に引き入れた娘に親が怒り、娘を裸にして外に立たせ、通行人に向かってこれが浮気女のよい手本ですと懲罰の意で説明したことを若衆が知り、神聖なる淑女を侮辱する不法の父母なりとして押しかけて大論判をした事件があった。

梁田村(筆者の生まれた隣の村):明治二十五六年頃、寺の娘が若者数名に悪戯され、親である寺の住職が立腹して告訴すると息巻くのを、村内の故老が調停に立ち、言った。

『昔は娘は若者持で身分の高下なく自由にして差支なかったのである。それに村の娘が他日嫁入りする際に不具者であるようなことがあれば、ただに親の恥辱ばかりでなく村の名折れになる。

それ故に嫁入りする前に娘が不具でないか否かを試験するために若者はこれを自由にする権利が与えられていたのである。

此の村の古い掟も知らずに告訴して表沙汰にするというのなら、住持は傘一本で追い出してしまう』

こうしてその住職は屈服しなければならなくなり、そのまま結末を告げた。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/12/000485.html

★処女は若者の共有物たりし類例

陸奥国東通村:明治の初期までは村の娘と出戻りの婦人とは青年男子の共有物であった。

娘達は十五歳になると娘宿に泊まりに行き、村の青年達の要求には絶対に従う事になっていた。

理由なく拒絶すると、拒絶された男子は直ちにこのことを娘の父兄に知らせると同時に村中に報じる。

娘の父兄は娘を一室に二週間も監禁して村の掟を説くが、それでも従わなければ村から放逐する。

また、反対に外来者に対しては、娘達は絶対に貞操を固守せねばならず、背くと同じく放逐される。実際に、区長が娘を青年に提供しなかった為に、襲撃された事実がある。

羽後国檜木内村:妙齢の女子を持つ親達は、旧正月十五夜に、一定の場所に仮小屋を設け、青年の男女を会合して徹夜させることになっていた。

もしこの会合に娘を出さぬ親があると、大勢の青年が押しかけて砂石を飛ばし誹謗をなし、さらにその娘の嫁入の妨害まで行なった。

★娘の嫁入には若者の承諾を要件とす

羽後国秋田群の村々:「媒介者の斡旋で縁談が進むと、新郎新婦の双方とも家族や親属の承認を経ることは勿論だが、更に村内の友人(即ち若者達の意)の異議の無いということが成立の要素となっていた。

かくてこれ等の者が総て承知すれば内約を取り結び、改めて組頭へその旨を口頭で届け出で式を挙ぐることになっていた。」

こうして若者の異議の有無を確かめるということは、未婚の女子は村の若者の共有であるという習慣から導かれたもので、親達と言えども、若者の承諾を得なければ嫁入りさせる事はできなかった。

★露骨で極端なる女子共有の風俗

「越後三條南郷談」より:明治四五年までは毎年盂蘭盆になると、村の若者が盆の休日間だけの妻女を村の娘の中から籤(くじ)引きで決めた。

もし自分の気に入らない娘が当たったら、清酒一升を出せば取りかえてもらえた。
勿論、この盆くじが縁で夫婦となる者も多い。村内の男女の数に過不足があるときは、その数だけ白籤を入れ、引いたものはその年だけ妻なしで過ごす。ただし酒を出して娘を譲ってもらう事はできた。

★村の娘の結婚の許可権は若者の手に

加賀国能美群:処女は村の若者の共有である。認めぬ家があると、若者が大挙してその家の屋根をめくり、またその娘の嫁入りを妨げて婚期が遅れるようにした。また、その娘が生活に困っても、同情せぬのを常とした。
美作国勝北群:娘は若者の共有物であり、他村に嫁ぐには若者団体の承認を要した。もし若者団体が異議を唱えたら、若者と仮に配婚して、その後に他村へ嫁ぐ習俗となっていた。

丹波国志賀郷村:村内の男女同士で結婚することが慣わしであり、これを破ると両人を素っ裸にして提灯を持たせて村民がその後ろにつき、村内を囃しながら歩かせる制裁があった。

安芸国十二ヶ浦:娘が他村のものと関係することは禁じられていた。
破ると、『樽入れ』と称して、村の若者から僅かな酒肴をその娘に送る。これを受けた娘は日時を定めて氏神の社に村内の人々を招き、できるだけ手厚い酒食の饗応をせねばならず、これを『樽開き』と称した。

これに要する莫大な費用は他村の男の負担となり、この樽開きをしないとその男と結婚することはできなかった。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/12/000481.html

共同婚(乱婚とも雑婚とも称し、部落中の男女が共同的に婚姻するものをいう)
共同婚の遺俗としての嬥会(かがい)

『常陸風土記』に現れた嬥会は、共同婚の遺風として認められる。『他妻に吾も交らむ、吾妻に他も言問ひ』とある。そこに参加した女は、「嫂財」として「貞操を提供する義務が負わされた」のである。

嬥会は、国初時代に入ると、歌垣として各地で行われるようになり、この系統の結婚方法は、明治初期まで行われていた。

土佐国西豊永村:毎年七月六日の例祭には、近隣から数千の男女が集まり参詣。夜になると男女で押し問答し、女が答えられぬようになると、男の意に従うことになっている。


三河国の山中村:毎年春に未婚の男女が盛装して山行を行い、夫婦の約束をすれば、父系は必ずこれを承認せねばならない。婚約の出来なかった女は笑いものになるので、近頃では山行の前に内約させたり、他村の青年を養子として必ず婚約できるように仕向けたりしている。


美濃国東村:三日間行われる秋祭りで、村中の若者が鎮守の森に集まって輪になって踊り続け、夜が更けると村長・村会議員・青年会長なども交じって、踊りながら共鳴した男女が交わる。

「此の奇習によって生れる幾多の喜悲劇は、総て神の裁きとして解決され、且つこの踊りが縁となって結ばれた男女は、氏神の許した夫婦として、村人から羨望される」

紀伊国白崎村:「旧暦の盆踊の最中に双思の男女は婚約するのを習いとしている。此の約束が出来ると後で他家からその女を貰いに来ても、身代や身分がどうあろうとも盆踊で約束したと断り、一方、断られた者も盆踊で約束した中では言うて引き退がるのを常としている。」


  この種の土俗が結婚の礼式となって存在する例を、次に挙げる。
下野国の宇都宮市を中心とした村落:「新婦の一行が乗りかけ馬で新郎の家の前まで来ると、門前に二人の男が立っていて『大勢して一体どこから来た』と問う。
新婦の方では『若者に美しい花をやるために来た』と答える。
かくて両者の間に押問答が始まるのであるが、先ず嫁方から口達者な一人の女が出て、婿方の男二人を相手に問答し合う。若し此の問答に嫁方が負けると、馬は元へ引き返してしまう。実に念の入ったものであるが今では稀にしか行なわれぬようになった。」

信州木曾山中の婚礼:花嫁が婿の家に往く道すがら、おこしを撒き散らしながら行く。媒酌人は、顔一面に墨を塗って婚礼の席に出る。
「嫁婿の座が定まると嫁は携えてきた小豆一升を入れた麻袋を取り出し、婿へ投げつけながら『わりゃ(私)、うね(郎)を頼りに来たぞ』と言うと、婿は『オウ石の土臺の腐るまで居ろよ』と答え、此の問答が済んでから盃事になるのである。」

 これらは、嬥会系に属する掛け歌の形式化・単純化されたものであると推知される。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/11/000477.html

★我国にも貸妻の習俗は各地に在った

阿波国澤谷村:かなりの山奥で十三戸しかない寒村であるが、宿屋がないので旅客は普通の民家に宿泊する。

旅客を迎えた家では、その夜は娘(なければ妻)を同衾させる。
もし旅客が娘に振られるようなことがあると、娘は『出戻りさんだ』と大声を発し、親や夫が出てきて夜中であろうとその旅客を追い出してしまう。一度『出戻りさん』の名を負わされると、その村では宿を得られない。

肥前天草島:他地方から旅客が来ると良家の子女が自らすすんで枕席に侍る。こうして多くの異性に接するほど、早く良縁が得られると信じていたためである。


肥前国富江村:殊の外に外来人を忌む風俗がある。それは昔から今(昭和二年の秋)に至るまで、外来人が『あの女を借りたい』と言うと、処女でも妻女でも貸さなければならぬ習慣があるためだと言われている。


他に、山陰の因幡・伯耆や越後国三面村等でも、貸妻が行なわれていた。それらは物質的な報酬を受けるのではなく、全くの好意に外ならぬのである。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2008/12/000485.html


3. これが狭山事件の真相(?)

171 :名無しのオプ:2009/07/25(土) 22:23:51 ID:S4bEmZu4

今年出発された伊吹本と昔オカ板で書き込まれた元警察官の甥っ子898さんの有力情報を照らし合わせると、点が線になる。

黒幕は中田父と区画整備とか土木工事だかの入札とかで敵対する隣の区長だか市議会議員だかで、実行犯は黒幕の息のかかった2〜4人ぐらいの養豚所がらみの不良青年達ABC。

結婚式直前に自殺した元作男 奥富玄二氏はカネにつられたか弱味を握られたかで脅迫状を書いたり、善枝さんの死体を埋めるのを手伝わされた共犯。
後年電車にひかれて亡くなられた養豚所経営者の兄も、もしかしたら車を出したりと一部共犯かもしれん。

だいたいこんな感じだ。 これで決まりだ
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/mystery/1222783294/

686 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/02 17:59

黒幕とは、中田家と土地の利権(それ以外にも?)で対立していた元区長のO1氏と、
その親分格の市会議員U氏。

中田家の秘密を子飼いの同家元作男 奥富玄二から聞き出したO1は、中田家を秘密の
暴露をネタに同家をゆするがうまくいかず。Uに相談し中田家を揺さぶることにした。
Uは配下の元暴力団幹部O2に指示して事件を計画。

実行犯はO2の手下の未成年A・B・Cの3名。3人のアリバイはO2が作っていた。

最初の計画では善枝さんを殺害する予定ではなかったが不測の事態が起き、
彼女を殺してしまったので営利誘拐事件に見せかけることになった。

脅迫状を書いたのは元作男の奥富玄二。
彼はのちに嵌められたことを気付き、犯人扱いされることを悲観して自殺?

佐野屋には、善枝さんとは幼なじみで3人の中では最も度胸があるAが事前に
警官の配置を調べた上で近づき、身代金を取りに来たふりをしてうまく逃走した。
その後、捜査撹乱のために一味の意を受けた田中登が、事件当日やげん坂で怪しい男たちを見たと警察に届けるが、警察はこれを不審に思い、彼を二日間厳しく取り調べる。
ノイローゼ状態になった田中登に対し、犯人一味は寝込んでいた彼を襲い、ナイフで
心臓を一突き。口封じをした上、自殺に見せかけてすばやく逃げ去った。

警察の一部の捜査員はA・B・Cを怪しいとにらみ、取り調べたが、結局アリバイが
崩せず、そのあと石川氏が逮捕されたこともあり、その線の捜査は打ち切られた。

以上、前スレで898さんが彼の伯父さんである警察の元捜査官に聴いた話です。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html

55 :名無氏物語:2006/04/16(日) 13:17:41 ID:E3zNiCO0

つまりこーゆーことか。

@中田善枝は母親が同和地区出身者との不倫の結果生まれた子だった。それは閉鎖的な堀兼地区の豪農であった中田家では容認しがたい事実だった。

Aそれを知った奥富玄次がつながりのあるU市議会議員に情報を漏らした。

BU議員は入間川工事入札にあたって現地の土木会社に有利なように進めていたが、中田栄作氏の強硬な反対にあっていた。

C中田家のおぞましい秘密を使って中田氏を脅すことにより、何とか入間川に関わる利権をモノにしようと画策したU議員は、中田氏が一番恐れるであろう善枝さん誘拐という行為に及び、子飼いの O2を使って奥富の新居で殺させた。

D中田氏は「犯人はよく知っている人物だろう」と言ったが、それは奥富とU議員を指した。

E奥富の自殺は、結果として殺人事件にまで発展した事件にうまいこと使われた自分への絶望から?

F姉の自殺は善枝という呪われた血の存在と、健次が佐野屋の際、偽札を用意したこと→種々、犯人グループへ協力したことを呪い、石川氏に死刑判決が出たため?


追加すると、

・奥富=U議員は以前にも電話で中田家を脅した(善枝の出自について)。しかし中田氏が動じないので善枝さんを誘拐するまでに至った。

・兄:健次は善枝を捜しに行った際に自転車と脅迫状を発見していた。

・警察の初動捜査は発表された時間よりも早かった。

・佐野屋での身柄引き渡し時には中田家は善枝さんが殺されている事を知っていた。だから健次は偽札を持っていった。

・被害者家族から犯人への憎悪や悲しみのコメントがあまり出て来ないのは善枝の出自によるもの。

・裁判での遺族の不自然・不可解な発言理由も同上。

・犯人は中田家が絶対に口外出来ない事情を利用することにより、自分達の安全が確保されると確信していた。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/kobun/1137408263/


898 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/07/22 10:24

実は私には大宮に伯父がいまして私の父の8人兄弟の長兄なのですが元警察官なの
です。で最近私が狭山関係の本を図書館から借りたりしているのを見た父が一言
「大宮の大きいアンちゃんは昔狭山事件にかかわったことがあるぞ」と。
私の幼少の頃は伯父はまだ現役で大宮の警察署のちょっと偉いさん、といった印象
でした。しかし実は警官としてのキャリアは所沢と大宮を10年周期くらいで往復
するような感じだったようです。

で昭和38年当時は所沢署で警備課の主任という役職であったようです。
そこで私は本や雑誌で得られない、疑問の部分を伯父に直接聞いてみようと十何年
ぶりに大宮を訪れました。日曜の午後で時間的制約もあるのがわかっていたのと
伯父がどの程度事件にかかわっていたのかがわかりませんでしたので、かなり大
雑把に質問を考えていきました。

1)事件当日のこと
2)被害者の家族のこと
3)上記以外でわかる範囲で細かいこと(脅迫状、自転車などなど)

最初にお断りをいれますが伯父は現在77歳で自分ではしっかりしているつもりの
ようですが記憶違いやあとからの新聞などの情報などがごっちゃになっている
部分があるかもしれません。しかし職業的なものか当時のことも手帳にびっしり
とメモをしている一面もあり少しは頼りになるかなと言った感じもあります。


1)事件当日の記憶
5月1日はメーデーであったので市内各所、とくにH製作所やNなどの警備に当たっ
ていた。特に大きな混乱は無く署に戻ったのは15時くらいであったはずである。
その後は交通課のMらとPCにて市内を巡回し再び署に戻ったのは16時半から17時く
らいであった。

当日報告を書くか書かないか課内で雑談したり出前をとったりしている内に18時か
18時半くらいであったかH署長名で召集がかかった。
会議室に集まるとすでに20名ほど署員がおり署長の報告があった。

「本日夕刻狭山市内にて営利目的による誘拐事件が発生した」と。

「所沢署捜査課捜査員がすでに4、5名狭山署に応援に行っているので、ここに
いる署員は西武園、狭山湖周辺の不審者または被害者の捜索にあたること」

不審者、捜査対象者は不明、被害者は女子高校生一年生十六歳と被害者の特徴が
発表された。自分の課は課長が不在であった為自分が班長となり交通課の協力も
あり12名ほどで狭山湖の捜索および警備に向かうこととなった。
車両の手配、雨中装備など準備を整え署を出発したのは召集がかかって一時間ほ
どしたころであった。(ちなみに西武園および狭山湖は所沢署の目と鼻の先である
そうです)

雨の中狭山湖を捜索しつづけ考えたこと。
署長の「誘拐事件が発生した」との言葉を聞いたときの署員の雰囲気だ。
有名な3月の吉展ちゃん事件の話題がいまだ冷めやまぬどころか数分前ま
でああでもないこうでもないと推理をしていたところに自分達の身に降り
かかった本物の誘拐事件、息を呑むのもやむをえない。

今では誘拐事件は犯罪として公に認知されているが当時としてはやや物語
の中のものという感じが強く犯罪者が金を欲した時に人を略し金を要求す
るというのは今一つピンと来なかった。
どちらかと言うと犯罪者が金を欲すれば刃物を携えて強奪に至る、と考え
たほうがわかりやすい時代ではあったからだ。
5月1日の夜の捜索は23時近くまで行われたが大きな成果も無く終了した。
2日の朝8時半に再度召集命令があったのは官舎に戻った零時前後であった
と思われる。

5月2日午前8時半、本来召集がかかるはずであったが9時に延期された。
理由はすぐにわかった。県警の機動捜査隊が協力にくることになっていた
ようであるからだ。再度9時に召集し昨日の20数名とは違い60名を超え
ようかというほど会議室は人であふれかえっていた。

まず昨日までの報告が署長からあると思っていたら県警の捜一(捜査一課)の
おそらく課長クラスの人物が今後の指揮系統の説明をしだした。
結局署長は口を開かず捜一課長が現場指示責任者となり昨日までの報告は
一切なかった(はず)それとともに本日も西武園、狭山湖周辺の不審者、被害
者の捜索が厳命された。伯父は裁判所関連の用事で午後まで班から離れる事
になったが裁判所でも誘拐事件のことは頭から離れなかった。

誘拐事件であるからには犯人との交渉は進んでいるのか、しかし捜一の課長
が不審者の捜索はともかく被害者の捜索も厳命するとは、これは被害者は
かなりの確率で死亡、遺棄されているのではないか。そう思えてくるからだ。
捜査一課は殺人、強奪、強盗などが専門でそういった部署が専従班を率いて
所轄にやってくる、これはただ事で無いとこの頃思い出したそうである。

午後より捜索班に合流しようとした伯父はいったん立ち寄った署で捜索班は一時
狭山署預かりとなったことを告げられた。
それでまだ向かっていなかった者達と狭山署に向かった伯父は「ただ事でない」
事象を実際に目にすることとなった。狭山署に刻々とマスコミが集まって来ている
ことであって、そのトドメは狭山署に県警本部長がいたことであった。

伯父はそれまでかなりの数の事件に関係してきてはいたが本部長が指揮をとる(実
際の指揮系統の頂点は捜査一課部長クラス、本部長はお神輿だが)のをみたことが
なかった。マスコミが集まるのと比例して捜査員の数も増えていくようであった。

捜索範囲は西武線と川越街道を挟む四角区間を4等分に、その周囲を8等分にして
ローラー作戦で行われた。伯父ら所沢組みは結局再び周囲の南側にあたる西所沢
周辺の担当となった。狭山署を離れる際所沢署より応援で出ていた捜査員のTを見か
けたので捕まえて捜査状況を聞き出そうとしたが脅迫状が来ているそうだが内容は
しらない、被害者宅には十数名の常駐の捜査員が張っている、これくらいであった。
この日の深夜取り逃がしがあるのだがほかの所轄の応援組である叔父らにはそれが
事前に知らされる事はなかったらしい。2日は20時くらいまで地域の巡査の協力の
もとに捜査を進めたが狭山署の本部に21時集合して明日朝9時集合を命令され解散と
なった。

犯人取り逃がしの時間は・・・・家で寝ておった。大きい事件にかかわっている
期間のくせに割合早く帰れたので風呂に入って、テレビを少し見て0時には寝てい
た。実は5時くらいに起きて署(所沢)に行って持っている事件の報告書を仕上げね
ばとも考えていた。それが本当に4時か5時に電話で起こされた。
電話の相手は課長ですぐ署に来い、狭山でなく所沢のほうだぞ、と。

署に着くと名ばかりのロビーに記者が3、4人来ていた。どうしてここにいるの、
狭山はいいの?と言うとSさん(伯父)知らないのですか、と記者にいわれた。
すごく悪い予感がしたのですぐに課部屋に逃げ込んだ。そこで聞いたのが狭山の
犯人取り逃がしだった。朝の6時半くらいだっただろうか会議室に狭山の応援組み
がほとんど集まって捜一課長から説明があった。そこから出た言葉は忘れもしない
県警の不備により犯人を取り逃がした、所轄の諸君には不備は無いというものだっ
た。日頃ならばこれほどの言葉を聞くとすっきりするはずがまったくしなかった。
これからくる大変な事態が予想されていたからだ。

5月3日の狭山署は蜂の巣をつついたような騒ぎであった。あの狭い署内は人で
溢れかいり前の県道にはテレビ局や新聞社の通信車で通行もままならぬ感じがした。
記憶が間違っていなければ捜査会議らしい物がはじめて開かれたのは3日の午前で
あったと思う。これまでは捜査会議と名がついていても一方的に指示をだされる
だけであったからだ。脅迫状の文面を見たのもおそらくこの時が初めてと思う。
実物を拡大した物で無く、黒板に似せて書いたものであったと思う。当然それを
手帳に写した。それと同時に西武園の捜索の意味もわかったが同時に被害者は助か
らないと悲観的な空気が流れたのも確かである。

これまでの捜査状況の擦り合わせが行われたのもこの頃であったと思う、午後には
本部長らの記者会見があるためと考えられた。
午後には県内より150名に及ぶと思われる警察官が応援に到着した、その中に川越で
巡査をしている甥のS・Sも応援に来た、それと同時に狭山署以外に所沢署にも合同
捜査本部が開設された。これは狭山署の手狭なこともあるが地域的な問題が大で
あったと思う。今後は所沢組みは県警の応援を含めて200人体制で所沢を本部に
捜査を進めていくこととなった。

5月4日からは狭山の特捜本部と所沢の臨時本部を往復することが多くなっ
た。4日朝所沢にて刑事部長による特別な訓示があった。
内容は被害者の早期発見と容疑者の情報収集についてであった、同時に警察
の信頼復活に努力を惜しまないようにとあったかもしれない。
4日午後狭山より一報あり、被害者が堀兼の通称吉田農道より発見されたと
の報告。4日夕刻には空には新聞社のセスナ機が飛び交い、各本部はテレビ
カメラや記者で混雑した。

4日20時くらいに所沢本部にて被害者発見時死亡の報告を受ける、細かい
検証は5日午後検死の結果を受けてからとなり。各班の捜査結果の発表があ
った。この日堀兼駐在所の巡査と面会かなう。追ってN課長より取り逃がし
時の詳細の報告を受ける。容疑者が自動車で現れるとの思いこみが人員配置
に穴を作った、とのことであった。

5月5日朝特捜本部より重要容疑者が発表(計3人、この日より市民による
通報が増え出す)追って捜査方針が検討され実行に移される。
正午頃、浦和より検死結果到着(内容は告げられている通り)
続いて正午頃警察庁長官、引責辞任を発表。これは捜査員間でもかなりの
話題になる。

不審者の補導、尋問が始まる(当時は祠を住家にするような不良少年や乞食
は非常に多かった)
22時頃帰宅すると、親戚の巡査であるS・Sが泊まりに来ていた。被害者宅
周辺の警備を担当していたSに聞くと被害者宅は相当な豪農といった雰囲気
であるそうである、昔で言う間続きの屋敷で農機具や自動車なども充実して
おり、Sいわく裕福な農家が金目当てに狙われたとの説を論じた。

5月6日午前重要参考人が一名追加され四名とされ任意による聴取が始まるが、その
中の一名が特捜部の監視をのがれ自殺。

重要参考人の四名のうち三名はすべて被害者家族および親類からの聴取による参考人
であった、自殺した人物はその三名の中のひとりであった。

所沢署ではその内のひとり17歳の無職の少年を聴取、結果シロ。
この頃より市民情報(たれこみ)が日に百軒を超えるようになり厳選して捜査員を
派遣しても手が足らない状態となった。
機捜が日に3、4人引っ張ってくる為留置場が足らず川越、大宮その他まで留置
場を使用することとなる。全県を挙げての捜査という雰囲気となっていった。

(事件の謎)
自殺した人物というのは紛れもない奥富玄二氏ですが、接点というのは意外な部分な
ようです。

「奥富玄二という人はな、聞くことはまずまずあったと思うが早い時点で毒を飲んじまっただがな、毒を飲んだ時点では聞くことはあったが、ほぼノーマークだったよ。

興味を引くネタがづるづる出てきたのは、そうさな死んで3日位してからかな意外な人
が背後にいたんだ、これはそうそうに事件に関係なしと言ってしまってまずかった
なと思ったね」

早期の重要参考人、その一人を取り調べたわけだが。

「俺達が調べたCだがな、ありゃ白だった。だけどね、
Cの親分格Aは限りなく黒だと確信したよ。

なにより度胸が据わっている。18の小僧の癖にね。

大柄な捜査員5、6人に恫喝されて顔色一つ代えやしない。惜しかった。一つでも何かでればすぐに逮捕だったよ、だけどね何も出ないんだ。背後関係しかね。目(目撃情報)
のひとつもあればね、拘留も伸ばせたのに」

当時の中田家について

「中田さんの所はね、事件当時はそりゃあS・Sの言ったとおり大農家だったよ、だ
けどねあれだけ裕福になったのは昭和も三十年代になってからだろうね。

昔はさ、土地もあるし小作もいたし、しかし金がドーン動くようになったのは三十年代になってからだね。どこに道路引くとかどこに宅地つくるとか。それと同時に栄作
さんは力付けて事件の前年には区長になるまでになった。

それで面白くないのはさ前の区長や取りまきだよ。区長てのは、今は農協とか助け合い組織あって便利だけど昔はその土地の作物の取引は区長に裁量があった、

俺は被害者の葬儀の時に長女Kさんにツテを使って面談したんだ。ホンの5分くらいだったけど。Kさんは早々に他所に出ていて今の家のことはわからないと言っていたけどヒントがあったんだ。 これはその時は気がつかなかったけどね、あとからアッと思ったよ」

重要容疑者A,B,C、そしてBの逃走。

「Aがどうにもこうにも臭い、というのはさっきも言ったけど、拘留期限が来てAと
Bは一度出した、それでAは尻尾を出さなかったが、Bのほうがすぐに建築資材の盗難
に関して容疑が出て引っ張ろうということになった。しかしドロンしちまった。

結局数年か永久かわからないけど出てこなかったんじゃないかな。
Bに関しちゃ実は4月30日に車を運転しているところを見られている。A,B,Cの中で免許を持ってたのはBだけ。

まあ時代がおおらかだったんで無免で運転している奴は多かったけど、
とりあえず事件の前日車を転がしているのをBは見られている。

Aを引っ張りたかったけど肝心なBが姿を消したことでAにはますます手が届かなくなった、残念なことにね。」

脅迫状のこと

「取り逃がしのあった次の日だったか特捜部で堀兼の駐在と面談がとれた、で聞きた
い事は山とあったけど一番聞きたかったのはどう言う経路で脅迫状が届けられたか
だった。

家族と親類の調書を取った捜査官と駐在とその他の捜査官が質疑したのだ
けど、足跡の事が大きく扱われた、駐在が狭山署の依頼を受けて中田家に行った時は
親類の捜索隊が大勢出入りしていて土間に足跡どころじゃなかったと言うんだ。で誰
がどの時点で脅迫状を見つけたかというとたぶん親類の誰かが見つけて中田のボン
(長兄)が開いて読んだというんだ。あとからでは誰が見つけたかわからない。

たぶんその場にいて10分後に誰が見つけたんだとやってもわからなかっただろう、と
いうのが駐在の意見だった。調書では中田の長兄が見つけたことになっていたと思う
(親父(栄作氏)の具合が悪く、私がその場で読んだ)となっていたのでイコール見つけ
たのも中田の長兄と調書では解釈してしまったのかもしれない、なので結局脅迫状は
土間の何処かにあったのは事実でそれ以外のことは曖昧になってしまったというのが
事実、ちょっと残念だがね。」


佐野屋の件、同時にAらの素性。

「俺が思うに石川さんには申し訳ないがAと石川さんを比べたら十倍以上Aの方が
臭かった。佐野屋に現れたのもAだと確信している。

証拠はずばり佐野屋から逃げ果せたことが大きい。地図で書くとわかりやすいが佐野屋からAの自宅まで薬ケン坂の雑木林を通れば奴なら8分で帰られる。石川さんでは包囲網から出るのも容易ではなかったはずだ」

*佐野屋では声からして中年男との説が多いですが。

「声からは年齢を特定するのは難しいよ。大体男なら声変わりして五十の終わりまで
声質が変わらないということも珍しくない。高校生くらいに電話に出てお父さんと
間違えられたことがあるだろう?それと昭和四十四、五年大宮で郵便局に強盗が入った
ことがあって犯人は一人で覆面していたんだ。それで局員と客七人くらいは声から
して四十前後の男と証言していたんだがいざ捕まえたら二十歳の男だったということ
もあった。声紋でも取っていれば別だが印象に捕らわれると間違いやすいよ。」

「佐野屋は当時地域のための雑貨と食料品店という店で塩とタバコの公社の小さい
看板しか出していなかった、一見すると大きい民家に見える。その佐野屋を指名して
くるということは地の利に精通していることが想像されるのと佐野屋の位置、道路
状況が理想であったと考えられるね。

もしかしたら最初は車で行くつもりだったのかもしれない、しかし要所要所に追跡車両を隠したり捜査員を納屋に隠したりしているのは地元民のAからしてみたら筒抜けだったろうね。それで裏を取って雑木林から暗闇を利して佐野屋の横の畑まで行くことができたのだろうと思う」


*危険を侵してまで佐野屋にくる理由はやはりお金ですか?

「いや、金ではない。一種の虚栄心だろうね。俺はこれだけ出切ると親分に
アピールする意味もあったろうて。しかし危ない橋には違いない、だけど
逃げ切れる自信は10割あって実行したと思うよ。

佐野屋からAの家までの経路をいろいろ復習してみると危ないのは1箇所どこで道路を横切るか、くらいであったよ。恐らく入間川線まで出て道を横切って家に逃げ込んだ。
これが最も早くて交差点などにポイントを置いていた捜査陣に一度もはち合わず家に帰れる。


*親分とは?

まあ後で説明するがUという議員だよ。ちょうどAの逃走経路に薬ケン坂が
出てくるので言うけど薬ケン坂で怪しい人間を見て、それを証言後自殺した
田中登はUの子飼いの人物だったよ。


*よく目撃者は自殺他殺問われ亀井氏などは他殺と解きますが?

ます゛頑張って7割は他殺だろうと思っている、今も昔もね。
実感したのは検死書を取ってみた時だね。大体自分で心臓を刺す時刃を立てには刺さない、横にするのが手首が返らず力が入って刺しやすい。

それに戦中派はね。当時米軍が本土にきて陵辱されるよりは死を選べって時が合ったのよ。その当時のことを知っている人は刺し方を知っているんだ。本当は青酸ソーダでも
あればかなり楽だけど、そこらにある物でもない、そこで何処にでもある
包丁で心臓をこう、サクッと刺すと薬の次に楽に逝けると聞いたもんさ。

その時刃は縦にしてはいけない、横にして肋骨を避けてミゾオチより一握り
上の少し左を刺すのさ、そうすると苦しまずに死ねる。縦に刺すとね肋骨に
当たったりしてうまく行かずに苦しむ、戦中派なら知っていることだ。

むろん田中氏もね。しかし刃の跡は縦だった、こりゃ殺しの線もありだなと
思った。問題なのは奥さんがすぐ見つけたことだね。ただしUから奥さんに
何かのアプローチがあれば別になるけども。」


*では田中登さんは殺されたとしたら何故ですか。

「田中は薬研坂で怪しい男たちが、それもよそ者風で何か重たい物を抱えていたの
を見た、と出頭してきた。当時重要容疑者は100名にも上がっていたがこれと言って
成果はなかった、一部はスコップの土を調べたり一部は前述のAやBの足取りを調べ
たり、そんな壁に当たりかけているところに怪しい男たちの証言は普通に考えてどう
写る? 捜査のかく乱と思えはしないか?

まず実際そういった男たちを本当に見たとしても、その出頭者がどう言った人物かは調べなければならない。

で出た結果がUと言うわけだ。

もう言わなければならんけどUは中田栄作さんと対立している元区長のOとは懇意にしている、確か姻戚関係があったのではないかな。

それでUやOは否定するだろうがAやBなどの愚連隊を都合のよいように使っている。

今の時代では信じられないだろうけどA、Bやその仲間のような奴らは利用する側に
してみたら良く働く、ライバル会社の工事を妨害したり、恐喝したり、捕まること
がまるっきり怖くないんだ。

で特捜部としては田中さんにはかなり揺さぶりを掛けた。しかし掛けすぎたのかも知れない、Uらにしてもかく乱するつもりが田中がかなりおびえながら帰って来たらどういった対応をとるだろうか。少し予想が入っているけどもどう転んでも田中さんにしては不幸なことだったと思います」

被害者中田家とA、そして元区長のO

「事件から10日経った頃、俺達の班の班長であったT警部は俺達のいわゆる怨恨
説班としての捜査を支持してくれたよ、それで地域的な背景、地元への捜査を人員
をこれまでより割いて行うことになった。まあ他の線も行き詰まっておったからね。
調べる内にネタは沸くように出てきたよ。

地区に投入される金の動きに驚いたね。河川整備事業、上下水道整備事業、宅地造成事業、道路計画による保証金などなど、どれがどの地主どのように働いているかも一目瞭然であった。

時代はもう戦後を過ぎて大きく膨張を続けざる時期に来ていたんだ、オリンピック
に新幹線、高速道路、日本中に大金持ちが溢れだしておった。しかしねホンの10
年前にはみんな慎ましやかな生活をしておったんだよ。

中田の川辺りの土地の横にはAの親父の土地が合った。水害で川が溢れたりしたら皆して力合わせて土手を直したりしていた、むろん元区長のOらもね。それが金が人間を狂わせ始めたのかもしれない。

俺達はひとつの事業に目を付けたよ、事業主が中田栄作さんの土地にかかる事業の選定にOが取り入っていたというものだった。

Oは家族経営でちょっとした規模の土建会社を持っていた、その役員はかねてから
出てくるUだ。この件を洗っていくと意外な人物が出てきた、井戸に身を投げた奥富玄二
なんだ。」


「元区長のOはそれ以前に栄作さんに農業技術会の役員の件で蹴られたことがある、
それで双方の溝は深まったのだけど今度の事業だけは逃すことはできなかった、
なにかプランがあったんじゃないかなOの頭には。

それでそのアプローチ以前か以後かわからんが元作男の奥富玄二があるネタ、中田の家を揺さぶるネタを持って登場したと考えられる。

最初は小遣い稼ぎ程度に元作男の奥富玄二も考えていたかも知れないが、交渉役として使われるようになって後悔し始めたんじゃないかな。死ぬ1ヶ月前くらいから大変な事になったと家族や同僚に繰り返している。

おそらく元区長のOやUの圧力は凄かったんじゃないかな、事件後元作男の奥富玄二はUらの本当の怖さを知ったことになった。奥富玄二の神経は一杯一杯だったと思うよ。

それでどうにも首を縦に振らない栄作さんにUや元区長のOはゆするネタをそのまま
に娘に手を掛けたんじゃないかと思う。Aを使ってね。

俺はAを見て最初から殺す目的でさらったのでは無いと思っている、顔見知りだしね、
一日二日連れ出して家に心配を掛けさせる、言ってみれば揺さぶりを掛けるのが目的
だと思うよ。揺さぶるのが目的だから事前に脅し文句もあったかもしれない。

そう考えると居なくなった時の家の対応の早さもわかる。居なくなった時点で助か
らないと捜査陣に漏らしたこともうなずける。

それで我々は西武園を早い時期で捜索したんだ、最初に誘拐ありきなら捜索は少し
先になるからな」


* それだけ事象があって被害者の家族はなぜ訴え出なかったのでしょうか?

「それがこの事件の一番大きなポイントなんだよな。肝心なことに踏みこむと中田
の家族はだんまりするんだ。

一度班長と家を尋ねたことがある。すると親父は具合が悪くて息子(健治氏)が出てきたけど、事前にゆすり、脅しがなかったか? と聞いても(そういった事実はありません)と言うんだ。

そのあともう一度行ったが同じだったよ。これは、もう奥富玄二の持っていたネタ、中田の家の秘密が外に出ることが一番恐れていることなんだと確信したよ」

5月18日特捜部を離れる事に。

「奥富玄二の持っていた秘密についてね、確認することがあったので同じ班のTとKが川越筋にでかけた、その帰りに狭山の駅を出たところで特捜部の狭山署の捜査員G警部補と
かちあった。俺はその場に居なかったので聞いた話だけどAやUの話しになったらし
い。

でGはいつまでもその線を追っても何も出ませんよ、と言ったらしい。なかば
凄みさえしたそうなんだ、あとで何となくわかったんだけどね、その日18日に刑
事部長から捜査員の削減と捜査本部の縮小の発表があった。

特に所沢組みは初期からの捜査員5名以外は全て外されることになった。もちろん俺もね。それで次の日県警からの捜査員Hに引継ぎをした、Hは非常に有能な捜査員で安心して引継ぎできた。

それで所沢に戻ってまた通常勤務に戻ったんだけど次の日だったかなHから電話があって石川一本で行くことになりましたって、残念だったね。すでに部外者であったことがね。T警部に電話したんだけど何も出ないのだから仕方ない、と残念そうだった」
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/1.html

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415 名前:入曽歴3年:02/11/17 15:40

自転車は何故納屋に収められていたのか、これは中田長兄が奥富玄二さんの指示でおそ
らく菅原の祠あたりに置いておいた自転車を回収したと考えているそうです。

では長兄は犯人グループか?ということになります。ここからは少し長くなります。

当時農地への水利事業が狭山市主導で進められていました、各地の区長も計画に
参加し後は予算と計画の練り直しと考えられていました。それが農水省主導により
県が計画推進することに計画が大きく変更されました。 県は浦和市にある大手建設会社に工事を依頼します、

そして大手は狭山市内の工事については入間川にあったKという土建会社に工事を依頼しました。 つまり丸投げをしたと考えられます。

その工事と予算をKに持ってきたのがUという市会議員であり工事の規模は当時の価格で六千万円ほどであったといわれています。

もともと地元の小さな土建会社が各地域で3分割ほど工事を分け合い施工
されるはずが特定の1社のみが工事を請け負う形となったわけです。

地元の、とりわけ責任のある区長らは反発しました。しかし時期が経つにつれ工事
は少しずつ計画に乗っていったと言われています、

しかし最後まで工事に反対していたのが中田栄作区長でありました。

それは計画の大きな変更もありますが自分の土地を通る水路の計画も最も気にいら
ない点であったと考えられます。

入間川のK社はしだいにあせり出したのかもしれません、あまりに反対が続くと県が
地域民に考慮して計画を変更するかも知れないからです。

そうしてU議員に泣きついたのではないでしょうか。当然U議員にしても自分のマージンが削られる事になるかもしれないので何かしら打つ手を考える必要があった事でしょう。

そして自分の息の掛かった会社の社員であった奥富玄二さんを交渉役として抜擢したのではと思われます。交渉役にされてからは奥富玄二さんは仕事よりもそちらを優先するように仕出したようです。

奥富玄二さんは当初栄作さんに直接考えを改めるよう交渉しだしたと思われますが時期が経つに連れ無理と判断し長兄にその矛先を替えたのではと考えられます。

長兄はある時期から父親には悟られぬように工事計画を飲んではどうだ、と家の中
で発言しだしたのではと予想されます、しかし父親の意見は最後まで変わらなかっ
た。それどころか父親が自分と奥富玄二さんが密かに意見を交換している事に感ずいたらどうなるかと考え出したのではと思われます。

そしてU議員は中田家四女をU議員の経営するバーに出入りする田中(O2?)という
二枚目に接触させ拉致監禁しその間長兄に父親の考えを変更させようという計画を
奥富玄二さんを通し伝えさせたのでは無いかと。

しかし田中(O2?)なる人物は諸事情により当初から監禁にとどめる気はまったく無くむしろこれを機に中田家を落とし入れる考えがあったのではと。

658 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/28 20:17

898さんからの情報を元に推理すると、事件の大枠は地元の有力者に逆らった
中田家への「報復殺人」という見方が一番当たっていると思う。

中田家側も、報復と思ったからこそ、誘拐の脅迫を受けてすぐに警察に届けたの
だと思う。ただこの時、以前に黒幕の有力者から脅迫を受けていた事実は話せなかった。

犯人側からすれば、営利誘拐事件に見せかけながら中田家を恐怖に陥れることに
最大の目的があったような気がする。

家族が殺されるという最大の恐怖があれば、以後の「交渉」の無言の圧力となる。
したがって、この事件は最初から四女殺害が目的であり、決して「ゆさぶり」な
どという生易しいものではない。

計画を見破られて尻尾を捕まえられないよう、首謀者は完璧なアリバイを構築し、
実行者には中田家と接点がない若者を使った。

ただ、被害者の呼び出しについては、彼女が見知らぬ男に付いて行くわけがない
ので、中田家の元作男を利用したのだろう。犯行現場も彼の新居かもしれない。

そして、警察の眼をあざむくために様々な偽装工作をほどこした。
一番の難題は身代金受取りで、張込みに気付いて逃げた犯人が怒って被害者を殺
害した、という筋書きのために仕組んだが、目論見どおり見事に成功している。
そして、警察の捜査の眼が養豚場に向くよう、巧みに偽装・誘導しており、事実
そのとおりになった。また、中田家の長男も黒幕に感づいていながら、
「最初からあの養豚場が臭いとにらんでいた」などと発言している。
もともと腹違いで不仲の妹だし父親にとっては赤の他人だ。

これで母親と被害者の出生の秘密で脅されることもなくなるし、将来の遺産相続
の取り分も増える。

黒幕と取引したのかどうかは判らないが、肉親の情より現実の算盤勘定が勝った
のだろう。それは、石川氏逮捕の日の新聞手記を読めばよく判る。

ただ、次女だけはそんな家族の態度が許せなかったのだろう。

中田家の二人の女性の死の原因は、黒幕と中田家の確執にあり、真相が闇に葬ら
れたのは、黒幕の策略に嵌った上、途中で気付いたが引き返すことが出来なかっ
た警察組織に最大の責任があることは言うまでもない

犯人から中田家への脅迫の時刻が確定判決よりも早いのかどうかは不明だが、
いずれにせよ中田家は脅迫されて、すぐさま警察に届けている。
確定判決では、脅迫状を見てわずか5分後には自宅を飛び出している。

犯人は24時間以上の猶予を与えているのにも関わらず、異常なまでのすばやさだ。
可愛いはずの娘・妹の身を案じて、わずか20万円を渡して彼女を返して貰おう
との深刻な相談もなく、父と長男は一目散に派出所に駆け込んだと言うのである。

おまけに佐野屋に次女を行かせる時、父も兄も現金を持たせることは
「まったく考えなかった」なぜなら「本当にあの時は夢中でして」。
16歳の四女の命より、有力者に逆らって起きた一大事に震え、下手をすれば
次は自分たちが殺されると思い、警察に身の安全を託したのだろう。
家の財産と面目と自分らの命を考えるのに「夢中だった」のではないか。

中田家の「秘密」をネタにした脅迫も、ストレートなものではなく、手下を通して婉曲に行われたものだと思う。 ところが中田家側が言うことを聞かないので「家族がどうなっても知らないぞ」くらいの捨てゼリフはあったように思う。

つまり、中田家は家族が誘拐され殺害されることに十分な心当たりがあったが、
事件の黒幕に有力者がいるとの証拠はないし、家の秘密をさらすことと、さらなる
「報復」を恐れて有力者との確執は明るみに出来なかったのだろう。
土地を離れる覚悟と有力者と徹底的に闘う気持ちがあれば全て話したかもしれないが。

関係資料などを見る限り、中田一家の実質的家長としての権限は、この頃から長男が
握っていたようだ。父親は「犯人は知り合いの者に決まっている」と言い続けており、
石川氏逮捕の報を聞いても「まだ本当の犯人かどうか分んないけども・・・」と言っている。

対して、死体発見現場に駆けつけ冷静に死体と野次馬達をカメラで撮っていた長男は、
石川氏逮捕で「石川が犯人に間違いない。」と早くも断言している。

真犯人の偽装工作を十分知りながら、お家の危機を回避するため、それを明かさず
石川氏犯人視に迎合することで、有力者の無言の圧力に屈してその後の「取り引き」に
応じたのだと思われる。ついでに家の秘密と不仲の厄介者も消し去ることができた。

長男にとって石川氏無罪は、即事件の真相解明への道が拓かれることを意味する。
こう考えると、二審での彼の「健忘症ぶり」も納得がいく。
長男の不審な言動は、彼が事件の主犯だからではなく、真犯人の意図を早々と察して
おきながらそれを隠し、二人の妹を犠牲にしてまで家の体面と自分の身を守ろうとした
ことに起因するものだと思う。

199 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/02/05 19:23

狭山事件の真犯人の動機が、単なる営利誘拐目的ではなかったならば、
事件の十年前におきた母親の死にまつわる不穏な噂話を、真犯人が
犯行に利用した可能性は少なからずあると思う。
また、「森の息子」なる人物が真犯人とすると、母の死をめぐる怨念が
直接的な動機ということになるのはいうまでもない。

ここでは犯行動機が前者(不穏な噂を利用し、被害者家族を何らかの形で恐怖させ、
それによって得られる実利を目的としたもの)であったと仮定してみる。
そうみると、この事件の被害者が四女であったことに、必然性がでてくるのである。
どういうことかというと、真犯人の真の標的が家長の父親であったならば、
そして何度も脅迫を繰り返したが父親が妥協しない人物であり、
最後の手段として家族に手をかける手段を選んだのであれば、
四女は犠牲者として最も相応しい人物であったろうと思えるからだ。

なぜか。

それは、四女が父親とは血のつながりのない家族だったからではなかろうか。
真犯人は被害者家族の内情を熟知しており、母親の生前の行状とその死、そして
兄弟姉妹の中に他人の血が混入しているという事実に起因する不和・不協和音が
家庭内に発生していることを利用したのではないかと考えられるのである。

父親は近所では評判のしっかり者で、妻の死後も遺産相続の原因となる後妻を娶らず、
区長としても自分の考えを貫き通し、成績優秀の子供達も「百姓には学問はいらん」
との方針で四女以外は夜間高校に通わせるほどの徹底した頑固者だったと伝えられている。

このような性格の人物を落とすには、かなり荒っぽい手段に出るしかないと考えた人物が眼をつけたのが、他ならぬ四女だったのではなかろうか。

誘拐するなら、小学生の三男を狙った方がはるかに容易である。
だが、相手は単なる「ゆさぶり」だけで落ちる相手ではない。
家族に一員を「消して」、家長に尋常ならざる恐怖の念を与えねばならない。
だからといって幼い実の子を殺されたとなれば、逆に態度が硬化する可能性がある。
かくなるうえは、母親と似て自由奔放で勝気な性格、何かにつけ家の方針に逆らい、
昼間の高女行きも認めざるを得なかった、家族とは異質な存在の四女に
「犠牲の子羊」となってもらうしかない。

血のつながりのない四女が、下校時に不良に襲われ暴行のあと殺される。
あくまでも主犯の姿は見せないが、その死の意味は父親にだけは理解できるように
真犯人は綿密に計画を立て、実行したのではないだろうか。
それゆえの様々な偽装工作であったと思えるのである。

事件直後の父親の印象は薄く、一気に老け込んだという感じである。
やはり事件を起こした真犯人の意図が十分に伝わったのだろうか。

父親が事件翌日には早くも「もう殺されている」と涙し、
「犯人はどうせ知り合いに決まってる」
「犯人の方でも私の顔を見れないだろうし、私も見たくない」
と言った言葉でも、そのことは十分に窺い知れるのである。

665 名前:660:02/08/29 17:44

中田家の長男を手厳しく批判したが、むろんこの事件で最も責められるべきは
卑劣な真犯人グループであり、その首謀者である。

と同時に、面子を重んじるばかりに犯人逮捕を急ぎ、証拠を捏造し無防備な青年を
騙して代用犯人を仕立てた警察であり、それを黙認し追随した検察の罪も深い。
権力の偽装を見破れず(見破ったが見逃した?)、石川氏を有罪とした上、再審
の門も閉ざしつづける裁判所も同罪である。

中田家の父親と長男は、法的には偽証罪(時効ではあるが)に、道義的には真犯人の
心当たりがあるにも関わらず、それを隠したことに対して責められるべきだとは思うが、別に彼らの肩を持つわけではないが、当時の(今も?)農村の閉鎖的な共同体でそれからも生きていくには、仕方がなかったのかもしれない。

事件の前に、真犯人側にとっては絶対に許せない言葉を、中田家の父親か長男が
吐いたのかもしれない。「四女殺害」という報復でもって、中田家は彼らの本当
の恐ろしさを感じ取ったのだろう。

仮に過去のいきさつを警察にすべて告白したところで、本当の黒幕まで捜査の手が
伸びるという保証はなく、この地で生きていく以上、こうなってしまえばもう彼らに
屈服せざるを得ない。これだけの事件が起こせる、この地の有力者と対決したところで、ますます自分たちが窮地に追い込まれるだけだと、父と息子は判断したのではなかろうか。

そして真犯人側は、中田家の家庭内に吹く「すきま風」を十分に知っており、
四女を殺したとしても、「報復」に対する中田家の「反撃」はまずあるまい、
と読んでいたのだろう。

あとはいかに警察をあざむくかに全力を挙げて知恵を絞った結果が、
あの「奇妙な脅迫状」と「死体埋葬」そして「佐野屋の逃走劇」であったのだ思う。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html

581 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/03/06 21:38

事件直後に流れた犯人像としては、

 1、顔見知りのボーイフレンド説
 2、区長選挙をめぐる父親への怨恨説
 3、流しの不良説
 4、米軍の不良外人説

などがあり、2はかなり有力な説だった。

つまり、堀兼地区の利権について発言権が大きい区長である頑固な父親をめぐって、他の有力者との対立が抜き差しならぬところまで来ていたのではないか、との憶測。
第1スレの898さんの伯父さんの話はこの説を裏付けていて、今のところ、この説が最も真相に近いと思う。

ところが、この説を追った刑事は、異様とも思える地元住民のだんまりと捜査拒否にあって立ち往生する。 そこに様々な未確認情報とやらが舞い込んできて、さらに混乱をきたしたという訳だ。

おそらく、地元民にとっては地価の高騰に伴う水利事業などの利権構造は、自分達の財産価値に直接影響する事態でもあるので、単純な正義感だけでは発言しにくい雰囲気があったのだろう。

結局、世論の強い批判を受けた警察は、3の説をとって、弱い立場の青年を犯人に仕立て上げることを選択した、というのが本当のところだろう。 ちなみに「森の息子」とやらの情報も、そのときに囁かれた根拠のない噂話が元ネタになっていると思う。

結局、3の説ということにはなったが、養豚所の元使用人たる石川氏が逮捕されたとき、これに2の説をくっつけて、親父と対立する一派が石川氏らを遣ってやらせたとみる向きもあった(事実、親父と長男はそう思い込んでいたはず)。

地元民としては、黒幕がいることに薄々気付いていながらも、まあ実行犯が逮捕されたのならいいかと思っていたように感じる。
石川氏逮捕を聞いて、芋づる式に2〜3人の実行犯が逮捕されると考えられていた。
ことによると黒幕まで行ってしまうかも?と、戦々兢々いた者も多かったはず。
ところが結論は石川単独犯ということでケリがついた。これには実際、たまげた地元民が多かったと思う。

現地に行って、石川自供の通りに歩いてみると、その犯行の実態がいかに現実にそぐわない作り話であることがよく認識できる。 その意味では、雑木林付近で農作業をしていたK氏の証言(「雑木林の方からは悲鳴など全く聞こえず、あの時刻にあそこで殺人事件が起こっていたなどとは信じられない」)などは、地元民としては大変勇気がある行為だと思う。

772 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/29 21:44

これが40年前の東京近郊の農村で起こった事件だということを忘れてはならない。
次第に薄れつつあるとはいえ、現在でも日本の農村社会に巣食う、血縁・地縁が
絡むドロドロとした閉鎖的で排他的な慣習は、厳として存在し続けている。
そしてそれを直接的間接的原因とする犯罪もまた、少なからず発生し続けている。
ただ、都会で起きる事件とは違い、それが明るみになる事例は極めて少ない。

事の善悪を問わず、それら農村社会で発生する非日常的な事件は、背景に土地の
有力者の存在が噂される場合も少なくないが、これが明るみになる事もまた稀だ。
都会人の視点から見れば、片田舎の大地主や区長、市町村議会の議員や首長クラ
スの者など、取るに足らない小物だろうが、その土地での「力」たるや、「子飼いの人
物」が平気で殺人を犯すほどの影響力を持っていたのが、数十年前の日本の農村の
裏の顔でもあるのだ。

その当時の雰囲気は、898さんの元刑事の話で極めて正確に活写されている。
狭山事件の背景に、かかる事象が潜んでいるのかどうかは不明だが、少なくとも
一人の無学な青年が行きずりに犯した犯罪とするよりは、可能性は大であるよう
に思う。当時の水利事業など利権構造をめぐる地元の確執が、どの程度のもので
あったのか、そして区長たる被害者の父親は、その渦中にあって、いかなる役割
を果たしていたのか、人間観関係などを含めて綿密に調査すれば、今からでもあ
る程度は判明する部分があるように思う。



711 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/04/04 19:56

時は高度成長期の真っ只中で東京オリンピックの前年。
のどかな農村共同体の善良な農民も、時代の波に呑み込まれ、カネが人間を変えていく過程で起こった事件だった。 この事件、その動機を大別すると

 @男女関係のもつれ
 A被害者家族の母親にまつわる怨恨
 B土地開発をめぐるトラブル

の3点に絞られると思うが、事件を丁寧に調べると、事件発生時よりも、佐野屋の一件以降の事後対策に犯人側は全力を尽くしている感じを受ける。
ゆえに元刑事サンの言うとおり、動機はBであって、被害者殺害は突発事故。
事件の背景を気取られないよう、事後処理にあらん限りの知恵を絞ったとみていいと思う。

もうひとつ。

死体の埋没は一人でも可能という意見もあるが、とんでもない。
あれだけの作業を深夜に一人でやれば、軽く三時間以上はかかる。
その他の証拠偽装工作、撹乱情報などを考え合わせると、やはり犯罪に手馴れた
組織の存在を疑わざるを得ない。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/5.html

776 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/30 16:54

地元の有力者が背後にいたと仮定しても、その有力者が直接計略した事件ではないと思う。

有力者(政治家?)は「あの中田栄作、なんとかならんのか」くらいは言ったかもし
れないが、実際に計画に携わったのは、有力者と権益を共にする「親分」だっ
たと考えられるし、事実、元刑事の話にもそれを裏付ける内容がある。

狭山地区ではないが、関東の田舎の農村に住む知り合いの老人(93歳)に聞
いてみると、昔の農村社会では、今の暴力団的組織とは違う任侠系組織が確
かに存在していて、そこの親分の命令なら、親でも殺しかねない人物がごろご
ろしていたそうだ。

この事件は、そういう組織の親分の命令で、数名の手下達が実行犯となってし
でかした犯行とみていいと思う。

ただし、こういう大きな「シノギ」の場合、実行犯は地元の者ではない人物が選
ばれるそうだ。それは組織と友好関係にある別の組織の構成員などで、失敗し
たときの背後関係を判らなくする為らしい。

とはいっても、一人だけは地元の地理に詳しい人間がいたはずで、おそらくそ
の男が佐野屋に行ったのだと思う。おそらく組織構成員は、だいぶ以前に離れ
ていたが、親分にかなりの義理があり、危険を承知で引き受けたのではないか。
ただし、その危険度の高さから考えて、元刑事がいう二十歳そこらの若者では
ないように思う。若者が佐野屋に来ていたとしたら、姉と会話した男ではなく、
多分探りの投石をした人物だろう。そして会話した男の「おらけぇるぞ」の声を合
図に走り去ったのだと考えられる。

奥富玄二は組織構成員ではないが、構成員の誰かと親しい関係にあり、被害者を誘う
ために利用されたのだと思う。この時代には、普段は善良な百姓や勤め人が、いざというとき事件に利用される大勢ができていたそうだ。
田中登についてはよく判らない。

芋穴の棍棒とビニール風呂敷は、先に穴を掘ったグループが、死体を運んで来
る地元民ではないグループに、その場所を誘導するために残したものだと思う。
有力者は、事件後に自らの身に捜査の手が及ばないよう、実行犯らがなした偽
装工作を、豚屋関係者が犯人と見られるよう、捜査当局幹部をうまく誘導したの
ではないだろうか。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/5.html

656 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/03/12 20:29

市長はエライというより「大きな権力と権限を持っている」というのが正しいかな。
区長はむろん市長に比べて権力の幅は比較にならないほど小さい(つまり市長より
エラくない)とは言えるが、それだけに田舎の農村でしかも地価の高騰に結びつく
土建工事などをめぐっては、利害関係を持つ地元民にとってそこの区長は莫大な権力を
握っている人物ということになる。

特に東京オリンピックを翌年に控えた事件の年、狭山市近郊は都心のベットタウンとして注目を浴び始めていた矢先で、開発も急ピッチで進んでいた。
なにしろ水利事業ひとつにしても、それがどのコースが選ばれるかで地価が何桁も変わってくるのだから、その決定権を持っている区長の周りには実際、さまざまな思惑が渦巻いていたことだろう。

そのことで区長の親父さんが恨みを買っていたとしても不思議ではないし、事件の黒幕がこういう背景の後ろに隠れている、と言う人がいても当然という気がする。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/4.html

407 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/02/20 14:40

父親は当時、農村共同体のリーダーたる区長という立場。 身内のスキャンダルは、即その地位を危うくする。 事件当時から、上赤坂地区の区長は大きな権力を有していた。 当然のことながら、利権が絡む区長選挙などには相当な確執があり、当初は、その遺恨が引き起こした犯罪という見方もあった。 898さんの元刑事の話には、そのことを想起させるものがある。

そして今一度、あの脅迫状に眼を向けてみると、あることに気付く。
それは真犯人が、事件の真の動機を気付かれないような工夫を凝らしているという点である。

まず、犯人は四女とは顔見知りではない人間であることを示すため、最初は「少時家」の子供を狙ったが果たせず、行きずりに出遭った女子高校生に眼を付け、身代金を取るついでに性欲を満たそうと考え、下校途中の四女を襲った、というストーリーを考えた。

そして四女を拘束したあと、脅迫状の宛名たる父親の名前を四女に訊ねる。
四女が「中田栄作」と言ったのを「なかた・えさく」と聞き違え、封筒には「中田江さく」「中田江」と万年筆で書いた。 本文は「少時様」宛に以前に書いておいたと見せかけるために、ボールペン書きにしておいた。

そして封筒の宛名と本文の訂正箇所を万年筆で書くことによって、四女のカバンの中にあった筆入れから万年筆を奪い、あとから書いたように見せかけた(このとき、インクの色を確かめなかったのはうかつだった)。 このことを強く印象付けるため、筆入れごと持ち去って処分した。

見ず知らずの四女の住所をそれで知ったと思わせるためと、誘拐がいたずらではないことを示すために、脅迫状の封筒には四女の生徒証を同封しておいた。
もし父親が不在だったら他の家族が開封せず、発覚が遅れては困るので、封筒は一度封をしたあと、ちぎって開封しておいた。

指紋がつかぬよう軍手を用いたが、これも二種類のものを使い、手袋痕を検出されても複数犯との印象を与えるよう、念には念を入れておいた。

身代金の金額は、貧乏な若者が犯人との印象付けのため、20万円にしておいた。
では警察の捜査をどこへ誰に向けさせればいいだろうか?

そうだ、菅原四丁目の被差別部落の人間にしよう。
ちょうど四女宅の近くに養豚所がある。ここは部落出身の兄弟が経営していて、部落の若者が多く出入りしている。 たわいないものばかりではあるが、いろいろと悪さもしているようだし、地元の人間も差別意識丸出しでこの養豚所を見ている。 それを利用して、彼らに疑いがかかるように工作しよう。

それには身代金受け取り場所を「佐野屋」に指定するのがいい。
ここなら養豚所に近いので、そこで働く者は誰でも知っているはずと思われることだろう。

「少時様」の「前の門」の「前」を訂正し、稚拙な字の共犯が訂正したと見せかけるため、この箇所は左手で「サノヤ」と書いておこう。

それに佐野屋は五本の道路が交差する場所なので、張込み刑事を分散させ、身代金を取りに来たと見せかけて逃げるのに都合がいい。 しかし捕まっては行けないので、過去の事件(斎藤恵子さん誘拐殺人事件)を参考に、指定時刻を「五月2日の夜12時」と書いて前日にも張込みをさせるよう誘導しよう。 そして1日夜に、大体の張込み配置を確かめておこう。

佐野屋での逃走を成功させるため、犯人が自動車でやって来るように見せかけよう。
脅迫状に「友だちが車出でいく」と繰り返し書いて、複数犯と車の使用を印象付けよう。

ちょうど養豚場にはトヨエースがあり、経営者兄弟が乗り回しているので大いに疑われることだろう。

714 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/04/05 14:51

脅迫状に「こども」と書き、金を持って来るのを「女の人」としたのは、犯人があくまでも家族および善枝さんと面識がない「よそ者」であることを強調するためと、最初は「少時様」の子供を狙っていたと思わせるために考え抜いた偽装工作だろう。

実にややこしい工作だが「顔見知りではない行きずり犯」であることを示すのに、これほど効果的な方法も他にそうあるまい。 電話があるのに、わざわざ足のつきやすい手紙を書いた必然性がここにあるように感じる。

被害社宅には、善枝さん以外に女性は次姉しかいなかったので、「母親」ではなく「女の人」とせざるを得なかったのが、きわめて作為的だし、養豚場に近い佐野屋を指定したところなど、最初から警察を誤誘導する計画性の高い犯行と思える。

(「女の人」と書くことで「少時様」の母親と中田家の次姉の両方の意味を持たせることができる。 「こども」も同様で、すなわち文章の訂正を必要最小限度にとどめた、ともとれる。この点、脅迫状の文章を考察して導き出せる「狡猾で合理的な思考をする犯人像」とも合致する。)

稚拙さを装った脅迫状には、「養豚場にたむろする漢字も満足に書けない不良達が数人で、4月29日にしょうじ家の子供の営利誘拐を企てたが果たせず、3日後の5月1日に下校途中の善枝さんを待ち伏せして襲い拉致し、貧乏人にとっては大金の20万円を強奪することにした」 という犯人側の見せかけの意図が透けて見える。

そして、死体と証拠品埋没、その前後の撹乱情報まで、その意図は一貫している。

当初の捜査本部にあった「犯人は顔見知り」という真っ当な見方に、地元民は異をとなえ「あんなことをするのは“よそ者”に決まっている」と言い、捜査への協力を拒否したと聞く。

だとすると、そのような意見を主張し地元民による警察批判の声を煽った者の中に、
真犯人につながる人物がいるのではないだろうか。

http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/4.html

578 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/15 20:03

事件当時の現地航空写真を、改めて見てみると、真犯人がなぜ佐野屋を
身代金受け取り場所に指定した上、脅迫状にトラップを盛り込んだのかが
よく理解できる。 警察を出し抜いて逃走するというのが、計画犯罪成就の絶対条件だったとするならば、あの日、あの時刻、あの地区で、あの場所以外に適当な箇所を捜すのは難しい。

すなわち「佐野屋」は、

 @「よそ者」が集う養豚場が近くにある
 A川(不老川)の附近
 B5本の道路が交差する変形十字路である
 C道路側の茶垣の丈が高い
 D道路に街灯がない

犯人は、「車出いく」と見せかけ、5本の道路側に刑事を分散配置させ、
畑側から声をかけた。街灯の明かりもなく、茶垣に隔てられていては、
自分の姿を見られる心配もない。警察犬がいないことも事前に知っていたが、
臭気は2、3日残るため、不老川に入って臭いを消している。

察するに犯人グループは、かなりの手間ひまをかけて、この計画を遂行している
と思われる。

警察犬は狭山署にはいないので、川越署から派遣しようとしたが、同署の訓練士
がなんと二人とも病気などで出動できず、張込み前までには準備できなかった。
急遽手配した大宮署からの警察犬が現場に到着したのは、すでに犯人逃走から
3時間以上も経ってからだった。

警察犬の手配が間に合わず、投光機やトランシーバーなども用意できていない
ことは単なる偶然で、犯人にとってはまれに見る僥倖だったのか?
いや、そうではあるまい。

現地の地図を広げ、用意周到に計画を練っていると思われる犯人グループが、
この点のみは、いちかばちかで決行したとは到底思えないのだ。
結論として、この大胆不敵で壮大なトリックを成功させるためには、警察当局
の動きを逐一把握できることが必須条件であったに違いなかろう。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/5.html


538 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/03/03 16:50

堀兼地区の住民にとっては、地元にあの養豚場ができて、被差別部落の青年が出入りしていることに眉をひそめる者が多かったときく(豚と「よそ者」の臭いでたまらんということらしい)。

それで事件当初から「やったのは養豚所の者」という雰囲気が出来上がっている。

事実、警察が養豚所に眼を向けたのはスコップ発見後ということに公式上はなっているが、実際には事件当日から内偵を開始したらしい。1日夜の養豚場のスコップ盗難についても翌朝には警察はその事実を把握していた。

実行面の主犯格と思われる人物は、土地の有力者(計画面の主犯?)の意向を受けて、
警察・マスコミ・地元民が養豚場を疑うように、事件後も情報操作と誤誘導を行なった
節がある。

堀兼農協に集まって「警察不信任決議集会」なるものを開き、地元民への捜査に圧力を
かけ、警察が部落への見込み捜査を開始すると一転して、署長夫人まで繰り出しての
炊き出しを始めたのは、一体どこの誰がリーダーとなってやったことなのか。
そして石川氏が逮捕されると、マスコミに石川氏の素行不良ぶりを針小棒大にリークし、「犯人に間違いなし」との世論を形成せしめた、陰の大物は誰なのか。
このことは、事件が奥富玄二の自殺で完結するものではないことを如実に示している。


568 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/03/06 15:49

奥富玄二にしても田中登にしても、犯行の「手伝い」をしている可能性は高いと思う。
奥富玄二は被害者を誘い、新居に案内した(?)役目で、被害者の殺害計画までは
知らなかったと思う。

ちなみに、被害者が殺されたのは奥富玄二の新居とみている人が多いが、被害者は後頭部に頭蓋骨まで達する裂傷を負っている。 かなりの出血があったはずだが、新居からはルミノール反応は検出されなかったようだ。

このとこから、被害者は奥富玄二の新居でトマトとおにぎりの接待を受けた後、身柄を拘束され(あるいはなんらかの口実に乗って自ら進んで)、車で別の場所に移されたのではないだろうか。

彼女が殺され、しかも新居近くで死体が発見されたことで奥富玄二は、進退窮まったということで死を選んだような気がする。

田中登にしても同様で、割と軽い気持ちで事後の撹乱工作の手伝いのため偽情報を持って警察に行ったのだろうが、取調官に証言の矛盾を突かれ、怪しまれて背後関係を追及されたのだろう。

ベテラン刑事にとっては、それが善意の情報であるのか、それとも作為あるデマ情報なのか、いずれかを見抜く眼力はあるはずだ。 では、本当のことを打ち分ければいいではないかと思う人もいるだろう。 しかし、そうすれば自分が犯行に関与したということになり、閉鎖的な農村社会では、家族には村八分という厳しい制裁が待っている。

かといって、ヘマをして警察に感づかれたと、仲間に助けを求めても口封じに殺されるのがオチである。 こうなれば、もう自ら死を選ぶしかない。
犯人グループはそのことも計算の上、「普段からおとなしく、気が弱い」
性格の奥富玄二と田中登に、その役割を振り分けたのではないだろうか。


571 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/03/06 18:05

あの時代、あの農村社会の中で起こった事件という事実を考えると、犯罪に利用された気弱な農村青年が、あの情況下で死を選ばないと考える方が「短絡的」。逃げ出してどこかで一人で生活するということを選択するはずがない。

それに、映画のセリフじゃないが「警察はあきらめても組織は絶対にあきらめない」。
自供すれば、いかに利用されたとはいっても殺人事件の共犯。
家族は村にはいれなくなるだろう。
ちなみに、吉展ちゃん事件の犯人小原保が、厳しい取調べでもなかなか自供しなかったのは、「田舎の家族が村八分にされて苦労するから」だったそうだ(そして実際そうなるのだが)。


578 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/03/06 20:32

田舎の狭い世界しか知らない住民に 「全てを捨てて遠くに逃げる」
なんて発想ができたかどうか。 村八分になるのが怖い&地域の連帯大切っていうのも納得できる。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/4.html


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4. 中田家の秘密

974 名前:898:02/07/27 10:30

被害者の家の秘密に付いて

「中田の家の秘密にしたいことなんだけど俺達が調べたことが全貌だったのか一部
だったのか実は整理がついていない。

最初は見当もつかなかった。栄作さんの兄弟なんかにかなり取り入っている捜査員などに頼んでも何も出なかった。だけど思い出したんだ、長女のKさんの言葉を。それで川越方面を中心に調べてみたらポッと出たんだ、被害者達のお母さんのことだった。

健治さんにさぐりを入れた時に外殻の部分を言って見たんだけど否定されたよ、当然だわな」 「お姉さんが言ったことはヒントになっただけだったよ、

お母さんのことでもひどい事なのに何故善枝がこんなことに、

て言われたと思う。
恐らくこのことが白日の元に出れば良くても栄作さんは今の地位を追われ悪くて土地を後にしなきゃならないかもしれん。土地にとどまっても今までの生活は無理だろうからね」

「事件のあと、もしかしたら栄作さんとUの間で手打ちがあったかもしれない、もう
これ以上踏みこまないということでね。

それは暗黙のうちであったかもしれんし、誰か間に入ったかもしれない。だけど耐えられんよ普通の人間には。犠牲になったのはお姉ちゃんじゃないかな(次姉)、丸い顔した愛嬌のある子だった、あの子には耐えられない、事実が全て伝わったらね」

「さっきも言ったけどAもBもあるいは奥富玄二にしてもUにしても娘を殺すつもりで連れだしたとは思わないし思いたくない。いくらUが心底極道でもそうは思いたくないよ。

一晩くらいかな連れ出して栄作さんらにたっぷり冷や汗かかせりゃ良いくらいに
考えていたと思う。なので連れ出す以前に娘には気おつけろよ、くらいは言ってた
かもしれない。

だけども実行犯であるAは娘さんをあやめてしまった。予想以上に手がかかったか、逆にたしなめられてかっとしたのかもしれない」

「それで泡くってUに連絡したと思う、Uは裏の仕事に精通しているO(Oが多くて迷
いますが、このOは実質Uが経営している飲食店の経営者でO2です、

ちなみにAとBの5月1日のアリバイはOの飲食店(キャバレー)の改装の手伝いをしていたことになっている)に指示して事件の隠匿、あるいは偽装を敢行したんだと思う。それが
脅迫状であり誘拐事件と言うことと思う」

「あの脅迫状は娘が居なくなったのは脅しの方向ではなく誘拐事件ですよ、と行為
をぼやかす意味と時間稼ぎが目的と思う。
5月1日に誘拐しておいて5月3日の未明に金持って来い、というのは時間が空きすぎる。当然それはUらが自分達に塁が及ぶのを避けるためにAとBにも十分なアリバイを作るための時間稼ぎであったと思う。

警察としても誘拐事件ならば脅迫状の取引時間まで相手の出方を待たねばならない
、なのであの脅迫状で重要だったのは3日の午前0時まで興味を引きつけておくこ
と、その間に実行犯はその後に容疑が及んでも大丈夫なようにアリバイをしっかり
作っておくことが大事だったと思う」

「あの脅迫状はいろいろ脚色されているとは思う、特に思慮の無い者が20万ぽっち
の金欲しさに子供をさらったと方向付けしているが、金の引き渡しがさきすぎる、
思慮の無い者の仕業とするなら当日の夜でも良いし、二日の朝方でも良い、金は早
く欲しいとなるだろう、だけど脅迫状の犯人はのんびりしているね、時間を稼ぎ
たかったんではないかな」

「アリバイの偽装にそんなに時間がかかるかというとかかるんだ。詰めのあまい偽の
アリバイほど崩しやすい。

AとBのものに関してはほぼ完璧だった。O(飲食店)の書いた筋書きとおもうけどね。
あそこで崩せなかったのが惜しい、何度思いかいしてもね」

「石川さんがやってないとしたら、それはそう大変なことだとおもう。だけど石川
さんはもう刑期を追えて市井の人として無実を訴えている、それは立派と思うよ。
再審は難しいではないかな。真犯人が名乗りでもしない限りはね、無実の証拠を
積み上げても今になっては、どうかな。時間が経ちすぎている。未公開の証拠と
いっても大した物は無いと思うよ、特に真犯人を判断する材料はね」 
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html

201 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/03/31 22:38

中田家には事件以前に家を出て、実家との音信を絶って生活していた長女がいるが、次女の登美恵は「うちは女は義枝(被害者)とあたしの2人だけだったので・・・」と証言しことさら長女の存在を隠そうとしている。

長女が家を出た原因については明らかでないが、家に留まっていればさらなる犠牲者の発生をみただろうという指摘もある。

何れにせよこの事件が被害者一家と無関係な第三者による身代金目当ての誘拐や、行き
ずりの性犯罪の結果でないことは確実である
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/1.html

682 名前:本当にあった怖い名無し:2005/10/05(水) 12:07:04 ID:2+Old3dP0

一家の秘密なんですが、家出して東京に行った姉とは無関係?

姉の旦那の田舎は、貧しくても、色々な物を送ってくれても被害者一家は姉のもとにネギ1本も送ることもなく姉が子供を出産する時(里帰りして、お産をするのが普通の時代)も家に入れてもらえなかったと昔の記事にあったので・・

被害者家族の姉に対する仕打ちが普通ではないようで気になりました。 http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/11.html

620 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/18 11:47

自分が一番気になる点は、やっぱり「中田家の秘密」なのですが
母の性格とか被害者の出自とかではなく(これらは近隣の人達には周知の事実だったはず)墓場まで持っていかなければならない秘密と言うならば、中田家(父or長兄)が犯した何らかの犯罪行為(横領とか仲間を死に追いやるとか)があったのではと思うのです。

それと被害者の死が繋がったところに答えがあると思います。既出の意見ですが
この答えは絶対に分からないでしょうね。農村の気風もあるけど、バレたら罪を問われる訳ですから。

そういう意味では家出した長女がポイントなのではと考えます。
結局は真相は闇の中なのでしょうけど・・・。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/5.html

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648 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/07/07 22:51

・父母の結婚式、中田家の庭に大量の墓石投入事件

・前日まで元気だった母を、精神病院に強制入院、数日後に死亡事件

・長姉の中田家縁切り家出事件

・末っ子の被害者だけタネちがい


これらの事は、じつは母親が事件の真相に係わっていることを意味している。
狭山事件は、すでに母の死から始まっていた。


昭和8年5月12日被害者の母故ミツは隣村である川越市中福から中田家に嫁いだが
婚礼の翌朝、村落の墓地の墓石や卒塔婆が大量に庭に投げ込まれていた。

ミツは平素から素行になにかと噂があり、この時も結婚を妬んだかっての男たちが嫌がらせに行ったのだと囁かれている。

また結婚当時「中田家に生まれた女子は育たない」という予言めいた噂も流れたが、
長女は事件前に家族と対立して勘当同然に家出、次女登美恵が事件後「自殺」三女善
枝が事件で殺害され、結果的にその通りになった。

ミツは昭和28年12月30日午前10時30分に東京都北多摩郡小川町(当時)の
国立療養所精神科で、死亡診断書によれば「脳腫瘍」で死亡した。病名とは関係のな
い精神科で死亡していること、自宅から近い川越や所沢の病院でなく、遠い縁のない
病院に入院していること、入院から約10日で死亡しているが、近隣住民の目撃によ
るとミツは入院前日まで畑仕事をしていた、脳腫瘍がそれほど短期間に発病して死に
至るとは通常考えられない、などの疑惑が囁かれている。

ミツは結婚後も男との噂が絶えず、当時地元ではミツに振られた男が腹いせに毒を飲
ませた、近所の病院では噂が広まり世間体が悪いので、家族が医者に金を含ませて遠
隔地の病院に入院させ死亡診断書も工作させたとの噂が流れた。この事件の犯人と善
枝の出生、後年の善枝殺害との間に関連をみる人もいる。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/1.html

725 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/10 15:19

被害者の母親は農村のタブーに触れた女性だったようだ。

被害者もまた勝気で現代的な女性で、ボーイフレンドも多かったそうだが、
彼女もまたなんらかのタブーを犯したとは考えられないか。
特にその異性関係において。

インドやパキスタンの田舎では、異性間の交渉でタブーに触れた女性は
親戚縁者がよってたかって私刑をくわえたり、場合によっては殺してしまうことさえ
いまだにあるらしい。これを「名誉殺人」というのだそうだ。
警察もこの名誉殺人については見てみぬふりをすることが多く、犯人が逮捕され起訴されても一般の犯罪に比べて刑が軽いと聞いている。

別に狭山事件が「名誉殺人」だと主張するつもりはないが、犯人側と被害者家族側との
利害が一致する時点がどこかであったような気がしてならない。
むろん警察の利害も同様である。

三者とも、事件の真相が明るみになることだけは絶対に避けたいとの思いが強いこと
は間違いなさそうだ。


388 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/06/02 03:43

長男と被害者は戸籍上は兄妹だが、実際は被害者が母親の不行跡、つまり不倫によって生まれた「種違い」であったらしいことが裁判の過程で示唆されている。


441 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/08 11:24

中田家の秘密とは、色情狂の母親が、遠くの精神病院にブチ込まれて、不審な死に方をした事に、父親と長兄がただならぬ係わりをもっていたということですね。

被害者はその事を知って、悩んでいた。 長兄に詰め寄っていたかもしれない。
そして・・・
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html

733 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/10 23:09

中田家の闇の部分は母の件と、
善枝が近親相姦によって生まれた子だということ。

735 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/11 14:17
>>733
その話は、私も耳にしたが事実なのでしょうか?


736 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/11 19:28
善枝ちゃんの父親はいったい誰???

http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html

686 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/12/21 12:57

真相は、母親の不倫相手の出自にあると思う。
当時の農村社会で、主婦の不貞だけでも許されないのに、その相手が「よそ者」だとして、家族にその「よそ者」の子供が混ざっているとしたら…

当時、それだけで村八分の対象になったかどうかは判らないが、一家にとっては
絶対に隠し通したいスキャンダルであったことは想像に難くない。
こう考えると父親と長男が事件の真実の一遍を隠そうとしたことや長女の家出、
次女・次男の自殺の謎も解けるように思う。


687 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/12/21 14:23

>当時の農村社会で、主婦の不貞だけでも許されないのに、

ちょっと違う。

農村社会の内部に於てという限定条件の下で性は今よりもオープンであった。
男手が足らない家に「種付け」すること、未亡人に子を産ませ後に養子として
引き取ること、他、いわゆる夜這いという行為も多くの場合黙認されていた。

だから、問題になるとすれば、
「講」に属さない者との性交渉が「講」と中田家の問題であったのだろう

688 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/12/21 15:25
>>687
大筋では同意だし、昔の日本の農村が性に対しておおらかであったということも
事実だろうとは思うが、本家の正妻の不倫となると話は別なのではあるまいか。
「未亡人への種付け」とはわけが違うと思う。

それとこの場合、家族に「よそ者」の血が混ざっていることの方がスキャンダルとしての意味あいが大きかったのだと思う。

大尽農家としては正当な嫡出子と不貞の子供とでは家督争いの種に十分なり得る。
事件の背景には、かかる「お家騒動」の側面があったようにも思えるのだが。

517 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/11 10:44

墓石に秘密があるような気が。
自分もなんでいやがらせに墓石?と思っていたが


519 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/12 09:02

投げ込まれた墓石は、当然中田家のものです。
そこには、栄作の母親の死が関係している。
近所の人たちは知っていたのです。


522 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/12 12:45

俺の聞いた噂では、墓石は中田家のものじゃないよ。
「中田家の秘密」とは、その件の真相と被害者の四女の出生に関わる秘密のこと。http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/3.html

729 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/10 20:22

長兄のあの手記は、非常に意味深だ。
石川氏逮捕の日、まだ彼が本当に犯人かどうか分からない時点で、
記者に「石川が犯人だと思う」と語った上であの文章を書いたのは、なにか真犯人へのメッセージのような気もする。

「農村という古くからの何者かが潜んでいたのではないのか」

とは、

「妹は農村という古くからの因習の犠牲になった」

という風に長兄が思っていることを吐露したものではなかろうか。

その古き因習の中に自分自身も身をおいているので、真犯人の名を明かせずに
いることへの自責の念も読みとれる。
最後の二行を離して書いていることも奇妙だ。
つまりこれは、あの脅迫状を書いた犯人に宛てた「返書」なのではないだろうか。

http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html

37 名前:3-679:03/02/01 10:25

母ミツは、昭和28年に精神病院に入院、11日後に「脳腫瘍」という一万人に一人位
しかいないという珍しい病気で死亡しています(正式な死亡診断書あり)。

つまりこの事件全体において、父栄作氏および長兄が、義枝さんの誘拐
殺人に関して、なんとも不可解な行動や発言をしていたのは、母の不審死
についての秘密を隠すためではなかっただろうか、と考えることもできる
わけです。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/4.html

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93 名前:研究歴一週間:2005/08/21(日) 17:26:01 ID:Qp2TBMg60

被害者家の母親がどのようにして失踪したか。
「脳腫瘍」という診断で遠方の精神科に収容される、というのはそもそも話がおかしい。

一方、「脳腫瘍」というカルテに惑わされて「鈍器で殴りつけてしまった息も絶え絶えの母親を、包帯でぐるぐる巻きにして救急車で運ぶ途中、なぜか行き先が縁故の精神科になった」ということでもないような気がする。

まったくの憶測でしかないのだが、おそらく母親は「だまされて車に乗せられ」遠い場所へ運ばれたのだろうと思う。あるいは睡眠薬などで眠らせて、健康体のまま二度と出られぬ施設に送られた。

まぁ、そのあたりが898さんの伯父さんが語っている事柄だろうと思う。
これは精神科側が明らかに共犯なわけだが、その共謀がどのルートからか、漏れたのだろう。

しかもなんとなく、「そういう話が昔あったらしい」というのではなく、具体的な実行過程が全部バレてしまったんだろうと思う。それがとっておきのユスリネタとして、今回の事件のターゲットとして被害者家を『選定』せしめた。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/11.html

634 名前:3-679 ◆2gw3ijNQ4E :03/07/19 17:21

私も母親の死因=脳腫瘍 は、あり得ないと思います。おそらく死因は、頭部外傷に
よる脳内出血(例えば、鈍器で殴られたとか)ではないかと考えています。なぜなら、
脳内出血であれば昏睡や幻覚、妄想など、精神疾病のような症状が現れることもあり、
脳腫瘍のように死に至るまでに時間がかかる疾病ではなく、入院後10日で亡くなる、
という点で納得がいくからです。

635 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/19 18:48
>>634
でもそれだと、医者も殺人のグルということになるよ。
鈍器で殴られた死んだとなれば、明らかに殺人事件。
それを脳腫瘍と偽って隠すとなれば、大変な犯罪。

精神病疾患で入院し、発作か何かでの自殺を、世間体を考えて
脳腫瘍による病死と発表した、とする推理の方がまだ無理がないと思うが。


636 名前:3-679 ◆2gw3ijNQ4E :03/07/19 19:06
>>635氏
>医者も殺人のグル

あり得る話だと思いますが。そもそも「脳腫瘍により死亡」とされたことに疑問を
もって書き込んだ訳ですから。

>精神病疾患で入院し、発作か何かでの自殺
まあ、私も40年前の精神病棟の様子が判らないで書いているのは確かなんですが。
過去スレにも書きましたが、私はその閉鎖病棟に入院歴があるのですよ。
精神科の病棟は、病気を治すためだけではなく、自傷他害を防ぐための管理施設
であるとこは事実なんです。

とくに昔は、患者のプライバシーなどは後回しにして、自傷他害に対する監視を
今よりも厳しくしていたと思うんですがね。従って、自殺、というのは考えられない
のですが。

637 名前:635:03/07/19 19:43
>>636
自分が思ったのは、仮に、何かの鈍器でうまいこと外傷なしに脳内出血を
引き起こしたとして、それを疾病に見せかけるのなら、やはり脳外科なりの
病院に入れるのではないか。精神病院に入れるというのはどう考えてもお
かしい。ということ。

村の噂では、母親と関係があった「色男」が、他の男と「いい仲」になった
母親に嫉妬して毒を呑ませた。というものがあるらしいが、毒を呑んでこう
いう症状が出るものなのかどうか。

それにしてもこの一家、作男まで含めると5人も不審な死に方をしている
わけで、こういう一家というのも、ちょっと他にないんじゃないかな。
全てが偶然の産物とはとても思えない。

643 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/20 00:05

しかしいくら何でも、原因不明で倒れた病人を精神病院に入院させたりしないでしょう?
特に隣人の陰口や噂話を極端に嫌う農村で、どうぞ噂して下さいと言っている様なものです。

それに裕福な家庭の人間なら東大病院とか脳外科専門の病院とかいくらでもお金を積んで最先端医療を受けさせますよね?
患者を助けようと思っていたらね。
それを小平の精神病院に入れるっていうのが不自然だという話なんです。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/5.html

663 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/07/08 13:17

善枝ちゃんの母チャンはあることが原因で善枝ちゃんを連れて実家に帰る
ことにしました、しかしそれは善枝ちゃんの家が母チャンの実家にお金を
返さなければならないことになります。

それで家族は母チャンを病院にいれます。良くわからない事を口しゃべる
からと放り込んだのです。ほんとうはほとぼりを冷ますつもりだったので
すが、今と違い精神病院はひどいところです。

母チャンは悲観して自殺してしまったと聞きました、しかし病院では自殺は
許されません。善枝ちゃんは中学の時に親戚に知らされました。上の姉ち
ゃんが家を出た理由もそれだと知らされました。

善枝ちゃんは相当に悩みました。母チャンが家を出る理由が自分にあったの
かも知れなかったからです。


630 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/19 04:26

例えば昭和30年代の精神病院といったら、不衛生で正常な人間でも狂ってしまうような
所だったのではないでしょうか?たぶん状況からいって、この母は措置入院あつかいだったと思われます。

担当医にもお金を包んでいたでしょうし、少なくとも父親はたぶん死ぬだろうと考えて入院させているように思えます。

では、なぜ入院させなければならなかったかと言うのが不明なのですが、それが秘密に関わって来るのだと思うのです。
その結果、長兄は将来の家長として秘密の共有者になり、長女は反発して縁を切ったのではないでしょうか?
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/5.html


625 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/18 17:18

元刑事がいうには、その秘密が知れると「今の地位を追われ悪くて土地を
後にしなきゃならな いかもしれん」ということであり、そこには犯罪の臭いま
では嗅ぐことができない。このニュアンスでは、あくまで地元に留まる事ができ
ない、なにか世間体を気にせざるを得ないスキャンダルという感じがする。

そうである以上、母親をめぐるスキャンダルとこの事件は直接関係があるわけで
はなく、むしろそのスキャンダルを最大限に利用した計画的犯行と思われる。
10年も前のスキャンダルをもとに、家族を恐怖のどん底に突き落とすような犯行
となれば、利権獲得というのが主たる動機であるとはいえ、やはり家族に対して
強烈な遺恨と怨恨を持った人物が主犯であると思えるのだが。

626 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/18 20:17
>>625
なるほど。しかし母親の死亡については、精神病院に入院したのに死因が
脳腫瘍だったり、入院してたった10日で死亡したりと自然死と考えるには
変な事が多すぎる気がするのです。しかも入院直前まで元気だった姿を
目撃されている訳ですし。

となると、父や長兄に死んでしまっても構わないと言う「未必の故意」があった
のは明白なのではないでしょうか?

長女がどこまで中田家の秘密を知っていたか不明ですが、この点だけを取ってみても縁を切って家出する理由になると思います。田舎の犯罪は大義名分に守られる傾向にあると考えますので父の寡黙さとあいまって、長兄と父は何らかの犯罪行為をしていたと思うのです。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/5.html

188 名前:3-679:03/02/05 00:18

母の死については、農薬ではないだろうと思っております。というのは、
農薬を致死量まで飲んだ場合、11日間も生きることができないのでは?
と考えているからです(これは奥富玄二、次姉のケースを見れば判断できる
と思います)。

精神科の閉鎖病棟で死者が出る、というのはめったにないことです(私自身、閉鎖病棟に入っていたことがあるので)。

最も真実に近いのは、「殴打などによる頭部外傷および脳内出血」で11日後にあぼーんなのではないでしょうか。

医師に対してある程度の金を積めば、「脳腫瘍により」という死亡診断書
は、簡単に入手できたのではないかと思います。

189 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/02/05 00:38
>>188
母親をこの時期に殺害するメリット何?
子供がまだ小さいのにする理由がわからん。
ただ脳腫瘍のため頭がイカレて精神病院に入ったのではないのか。
それに医者が脳腫瘍を見過ごしたっておかしくないと思われる。

191 名前:3-679:03/02/05 08:35
>>188
要はメリットを求めたのではなく、新たなスキャンダル発生、という
デメリットを阻止したのだろうと思います。
母は入院する直前まで性的に奔放であったと言われています。つまり新たな種違いの子をもうけるということを恐れて、中田家父と長兄が入院させたのではないでしょうか。
脳腫瘍を精神疾病と思い見過ごしたとしたら、かなりのヤブ医者でしょうね。というのは、

・脳腫瘍は頭部のガンであり、人格変化などの精神的症状だけでなく、
 頭痛や吐き気、めまいなどの肉体的症状が現れること。
・頭蓋骨という密閉された容器の中に、徐々にガン細胞が増殖するため、
 発病から死に至るまで数年かかること。

「家庭の医学」のような本にも書かれているような上記の症状を見過ご
したのなら、まさにヤブ医者です。

519 名前:BBB:03/03/01 16:41

善枝さんの父親が誰だったかということ。
善枝さんの母親が、被差別部落の人間と密通を重ねていたのではないだろうか?

当時は部落の人間と結婚するだけで、家族の縁を切られた時代。
富農の中田家と被差別部落という社会的立場を考えれば、殺人がおきても不思議でないような気がする。

この事件、単なる行きずりの強姦や痴情のもつれだけならば、あまりにも大袈裟すぎる。
その背後に差別問題があったような気がする。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/4.html

98 名前:ななし:02/07/29 17:23

898さん、貴重なレスご苦労さまでした。
質問ですが、鍵を握る被害者の母にまつわる秘密ですが
前スレの 652や 663 のような内容なのでしょうか?
それともまた違う内容なのでしょうか?


99 名前:898:02/07/29 17:45
>>98
内容はほぼ合っています、しかしその件は半分なんです。
思わせぶりで申し訳ありませんが確実でない為残りの半分は
伏せさせていただきます。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html


168 名前:3-679:03/02/03 23:12

う〜ん……。まあ義枝さんに本当に自分の血が入っていないなら、「影の薄い人」
が殺意を抱いていたかもしれませんね。
もしそうなら、次姉が真実を知ったときの衝撃は、想像を絶するほどだった
でしょう。
しかし、単独犯ではないような……。やはり奥富玄二が従犯かな?


182 名前:1-531:03/02/04 19:03

石川さんがそういったわけでもないのに、あの人犯人説を考えだしたら、
昨夜は眠れなくなってしまいました。
合点がいくことがいろいろ出てくるのです。

まず母の死とヨシエさんの死が直結します。
3−679氏の指摘に答えますと、ヨシエさんが自分の子でないことを
いつ知ったのかが問題になります。
たとえば、それを知ったためにかねてから問題人物であった母を・・・

そしてその憎しみが、血のつながってないヨシエさんに向けられ、計画が練られる。
長兄・次女の偽証、奥富玄二・次女・次男の自殺(あるいは他殺)、
これらの点も、割とすんなり説明がつきます。

この事件が、あの人・長兄・奥富玄二による、いわばジサクジエーンだとすると・・・

母・奥富玄二・次女・・・彼らがもし検死されていたなら、
3人から同じ農薬が検出されていたかも???

517 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/11 10:44

墓石に秘密があるような気が。
自分もなんでいやがらせに墓石?と思っていたが

519 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/12 09:02

投げ込まれた墓石は、当然中田家のものです。
そこには、栄作の母親の死が関係している。
近所の人たちは知っていたのです。


522 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/12 12:45

俺の聞いた噂では、墓石は中田家のものじゃないよ。
「中田家の秘密」とは、その件の真相と被害者の四女の出生に関わる秘密のこと。

その秘密をネタに中田家から20万円をゆすろうとしたのが事件の発端。
家族が警察に知らせず、すぐカネを出していれば被害者は殺されなかったはず。

警察に知れた以上、生きて返すわけにはいかない。
最初の計画では被害者もグルだったというのもありえない話ではない。
自分の出生の秘密を知って、家族を困らせてやろうと思ったのかもしれない。
20万円くらいすぐに出すと思ったのが計算違いだったのかも。

家族は、1日の張り込みの前に被害者が殺されたことを知っていたようだ。
ただ、この噂が本当だとすると、佐野屋に犯人一味が現れるはずはないから、
この点が謎として残る。

523 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/12 13:15
>>522
その噂は、ほぼ事実に近いと思う。
被害者を殺すかどうかで犯人一味が仲間割れした可能性あり。
カネの受け渡し方法と時刻は電話で二度ほど訂正されているようだ。
脅迫状の2日夜が最終で、このときはすでに最初の計画を立てた人間は手を引いている。


167 名前:1-531:03/02/03 22:58

好色な母の不審死にあの人が関係しているとすれば、
自分の血が入っていない被害者に執拗な殺意をいだいていても不思議ではないと・・・
はい。奥富玄二と長兄がお手伝いってことに。

507 名前:505のつづき:02/08/10 16:28

母親が中田家に嫁いできたのは昭和8年の5月12日。奇しくも事件のちょうど
30年前の同じ月である。そして結婚式の翌朝、中田家の庭には墓石が投げ込まれてあった。

これは母親と以前交際していた人物がいやがらせをやったものと思われた。
そしてどういうわけか「中田家の女は育たない」という変な噂が流されていたそうだ。

そして事実、6人の子供の内、長女は家出同然で去り、次女は自殺、三女は幼くして病死し、四女は狭山事件で惨殺され、母親自身も事件の10年前に脳腫瘍で死んでいる。
噂どおりに中田家には、女が一人もいなくなったわけだ。
(ただし事件の数年後、長男が結婚して嫁を迎えているようである。)

ついでにいうと、女ではないが次男も自殺している。

ところで、母の嫁入り当日の夜か翌朝に投げ込まれていた墓石はどこのものだったのか。

このへんに「秘密の全貌」を知る鍵がありそうだ。
ここまで書けば、私が何をいわんとしているか、事件関係の本を読んだ人には理解できるだろう。

こう考えると、狭山事件の犯人が石川さんでなければならなかったこともうなずけるような気がする。
そしてあれほど「犯人は知り合いの者に決まっている」と言い続けた父親とその家族が、石川さんを犯人に仕立てることに同意したことも。

昭和8年5月12日の墓石事件と昭和38年5月23日の石川さん逮捕は、
「ある秘密」によって一本の線としてつながっているとみてよさそうだ。

497 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/10 13:00

898さんの伯父さんの推理だと、弱みを握られてた中田家を脅してもいうことを聞かないのでゆさぶり目的で市会議員が事件を起こしたそうだけど。これってどう考えても理屈に合わないよね。

いうことを聞かないのは秘密をばらされても構わないということだから、娘が殺されたのなら少なくとも警察には洗いざらいしゃべると思う。現に当時の週刊誌には「被害者の家族をめぐる複雑な事情ががあり、怨恨での犯行ではないかとも思われる。」との報道もあったくらい。

当時、中田家の秘密など秘密でもなんでもなく、誰もが知っている噂だったのでは?
中田家が犯人側の人物を怒らせる「何か」をしでかして、事件はその報復だった、
という筋書きのほうがまだ理解しやすい。

だとすると推測に過ぎないが、やはり被害者がからんだ三角関係のトラブルがあったのでは?

それなら被害者が殺されたのもうなずけるし、家族がそれを隠したのも理解できなくはない。

502 名前:497:02/08/10 14:40

娘が殺されても言えない秘密なら、それをネタに脅迫された時点でいうことを聞くんじゃあないの? いうことを聞かないってことは「どうぞ勝手にバラして下さい」ってことでしょ?

それくらいの秘密なら警察にだけは話すんじゃない?
現実に898さんの伯父さんも、中田家の周辺を調べてすぐに分かったくらいの秘密なんだから。

504 名前:500:02/08/10 14:58
>>502
898の伯父サンは秘密の全部はわからなかったと書いているよ。

「中田の家の秘密にしたいことなんだけど俺達が調べたことが全貌だったのか一部
だったのか実は整理がついていない━

505 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/10 15:51
>>504
ということは898さんがいう「よくいわれている噂は事実の半分」どころか、
10分の1である可能性もあるということかな。

となると、市会議員Uの脅迫では、Uは秘密の一部しか掴んでいなかったので
中田家側はつっぱねた。ところが四女が殺されてしまったので、仕方なく手打ちをした。
警察に話すとなると、秘密の全貌を明かさねばならなくなるからそれは出来なかった。
というところかな。これなら一応筋が通るね。

では秘密の全貌とは何か?ということになる。
娘が殺されても言えないとなれば、これはもう犯罪がらみかそうでなければ、
当時の(今も?)社会的タブーに触れた事としか解釈しようがない。
そこで、今の段階で明かされている事実から推理してみる。

母親が中田家に嫁いできたのは昭和8年の5月12日。奇しくも事件のちょうど
30年前の同じ月である。そして結婚式の翌朝、中田家の庭には墓石が投げ込まれてあった。
これは母親と以前交際していた人物がいやがらせをやったものと思われた。
そしてどういうわけか「中田家の女は育たない」という変な噂が流されていたそうだ。

そして事実、6人の子供の内、長女は家出同然で去り、次女は自殺、三女は幼くして病死し、四女は狭山事件で惨殺され、母親自身も事件の10年前に脳腫瘍で死んでいる。
噂どおりに中田家には、女が一人もいなくなったわけだ。
(ただし事件の数年後、長男が結婚して嫁を迎えているようである。)
ついでにいうと、女ではないが次男も自殺している。

ところで、母の嫁入り当日の夜か翌朝に投げ込まれていた墓石はどこのものだったのか。

このへんに「秘密の全貌」を知る鍵がありそうだ。
ここまで書けば、私が何をいわんとしているか、事件関係の本を読んだ人には理解できるだろう。

こう考えると、狭山事件の犯人が石川さんでなければならなかったこともうなずけるような気がする。 そしてあれほど「犯人は知り合いの者に決まっている」と言い続けた父親とその家族が、石川さんを犯人に仕立てることに同意したことも。

昭和8年5月12日の墓石事件と昭和38年5月23日の石川さん逮捕は、
「ある秘密」によって一本の線としてつながっているとみてよさそうだ。

509 名前:教えて君:02/08/10 16:58
>>497
>やはり被害者がからんだ三角関係のトラブルがあったのでは?

これについて教えて君です、はい。


510 名前:497:02/08/10 17:27
>>509
別にそのトラブルの事実を知っているわけではないし、憶測で被害者のプライバシー
についてうんぬんしてもいけないとは思うけど、すでにいくつかの本に書かれている
ことなので少しだけ触れると、被害者は大変人気者で社交的な性格の女性で、
ボーイフレンドも当時たくさんいたそうだ。

だから事件後、犯人はそのボーイフレンドの中にいるのではないかと、噂されていた。
ただ、仲のいいボーイフレンドなら殺したりするはずがないので、被害者は社会人と
不倫してしまい、ヤバイことになっていたのではないか、という噂が別にあった。

前スレの488さんの主犯Xというのはその噂がもとになっていると思う。
ただちょっと違うのは、
不倫の清算ではなく、三角関係がヤバイ筋にばれて中田家は脅迫を受けていた。
それを突っぱねたのでその筋から報復を受けた。という内容だった。


511 名前:教えて君:02/08/10 18:03
>ヤバイ筋にばれて

これはO2ですか?


512 名前:497:02/08/10 18:49
>>511
はっきり言うと、そう。

この噂はずいぶん前に聞いたことがあるんだけど、このスレを読んで思い出した。
被害者の実家がゆすられていたというネタは、母親の件なんかじゃなく、実はこれなんじゃないかと思ったりする。

ついでにいうと、被害者は言葉巧みに誘拐されたあとすぐに実家は脅迫を受けたけど、
警告を無視して警察に知らせたので、報復で殺されたんだということだ。

素直に言うことを聞けば金で解決して、被害者は無事だったはずということらしい。
だから家族は、脅迫時刻について本当のことが言えないんだと思う。
これを言うとヤバイかもしれないが、脅迫状は、それをごまかすために身内の誰かが
書いて届けたのでは?という噂も耳にした。自転車の件も。
佐野屋の一件はどういうことなのかはちょっと分からないが。


515 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/11 09:57

大昔に週間文集に書かれてた奴は、確か被害者とX氏ともうひとり(身内)
の三角関係の末、X氏が行き詰まってO2関係に委託したんじゃなかったけ。
488氏はO2のとこを他の本の元軍人を当てはめていましたが。


517 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/11 10:44

>>507の推理のように三角関係より墓石に秘密があるような気が。
自分もなんでいやがらせに墓石?と思っていたがこの推理だと納得できる。

519 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/12 09:02

投げ込まれた墓石は、当然中田家のものです。
そこには、栄作の母親の死が関係している。
近所の人たちは知っていたのです。

522 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/12 12:45

俺の聞いた噂では、墓石は中田家のものじゃないよ。

「中田家の秘密」とは、その件の真相と被害者の四女の出生に関わる秘密のこと。
その秘密をネタに中田家から20万円をゆすろうとしたのが事件の発端。

家族が警察に知らせず、すぐカネを出していれば被害者は殺されなかったはず。
警察に知れた以上、生きて返すわけにはいかない。

最初の計画では被害者もグルだったというのもありえない話ではない。
自分の出生の秘密を知って、家族を困らせてやろうと思ったのかもしれない。
20万円くらいすぐに出すと思ったのが計算違いだったのかも。
家族は、1日の張り込みの前に被害者が殺されたことを知っていたようだ。
ただ、この噂が本当だとすると、佐野屋に犯人一味が現れるはずはないから、
この点が謎として残る。

523 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/12 13:15
>>522
その噂は、ほぼ事実に近いと思う。
被害者を殺すかどうかで犯人一味が仲間割れした可能性あり。
カネの受け渡し方法と時刻は電話で二度ほど訂正されているようだ。
脅迫状の2日夜が最終で、このときはすでに最初の計画を立てた人間は手を引いている。



531 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/12 19:35

522です。
俺の聞いた噂はもうすでにいくつかの雑誌や本、ローカル誌などに出ているよ。
墓石の件も。別に新しい情報じゃないって。

ただ、脅迫については何度か行われて、そのたびに時間と場所が変わっている
という話だ。だから脅迫状の「五月2日夜12時」というのも、「サツに通報したので殺す」という通告のあとだったので、その真意が分からず家族も警察もてんやわんやだったらしい。

そんな中、2日の張込みで来るはずのない犯人が現れたので、驚いたというのが真相
らしい。PTA会長はそれを知らないので、当然犯人が来ると思ってた犯人が来たのに、いつまでも飛び出してこない警察にイライラしていたそうだ。

ところが、佐野屋に近くにいた刑事はエライさんだったが、なぜかビビって足がすくんでいたそうだ。足が速くて若い刑事はみんな道路側にいて犯人に気付いていない。
これは犯人の一味が、車2台でやって来るというガセ情報を警察が真に受けたためらしい。

姉の登美恵さんは、警察に知らせたことの報復のため犯人が自分を殺しに来たと思い、
震えていたそうだ。

532 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/12 21:50

しかし、いくら信用できると言ったって、誘拐事件を民間人に漏らして協力を
要請したというのは、今ならちょっと考えられないね。
事実、PTA会長は高校に行って話してしまい、2日の午前中には先生はみんな
誘拐の事実を知っていたらしい。それと近所の金持ちのMT氏の自宅が警察の
前線基地になったことで、その近所のからも事件は漏れている。
犯人はその線から張込みの配置をつかんでいたようだ。
吉展ちゃん事件でも、信じられないミスで犯人を取り逃がしているし、
狭山事件でも、まだ善枝さんの遺体が発見されていない段階で、朝日新聞が
「姉が持っていったのはニセ札」というすっぱ抜き記事を載せている。
営利誘拐事件に対するノウハウが全くなかった時代というのがよく分かる。

535 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/13 12:33

残念ながらここのところのレスにある四女(被害者)の出生に関することというのは秘密でもなんでも無いと思う。 事件後の推理本や週刊誌にあることないこと書かれた元ネタでもあるからね。

それよりも母親の件とその背景、母親の件が秘密の一部と言い切る898さんにすこしでもヒントを貰えるとありがたいのだが。

668 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/30 19:28

狭山事件関係の本を読むと、その多くが中田家の長兄を真犯人扱いしていて驚いた。
事実そうだとすれば、これはえらいことだ。遺産相続で邪魔になる片親違いの妹を
消すために、誘拐事件に見せかけて殺し、完全犯罪をもくろんだとすると、
日本犯罪史上、他に例がない大事件ではないか!

長兄が自分を真犯人扱いした本の著者を訴えないのもおかしいと思っていたし、
二審でのとぼけぶりにも大いに疑惑を感じていた。

でも、このスレを見て、事件以前に中田家が脅迫されていたとすると、全てが理解できるような気がする。自分が疑われることで、結局真犯人をかばうことになるわけだし、
もともと犯人ではないのだから何を言われても平気だったのだろう。

警察は早くに石川氏を捕まえて起訴し、これをくつがえすことなどないことは、
誰よりもよく分かっている。
長男にとって最大の恐怖は、真相が判明して彼らから報復を受けることだったに違いない。

737 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/11 20:37

長男は真犯人ではないが、真犯人(黒幕)が誰か判っていた上で、彼らとの「取引き」に
応じたのなら、事後従犯とでもいうべきか。
その心情があの新聞手記にはよく表れているような気がする。
こう考えると二審で長男が突然健忘症になったのもうなずける。


792 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/19 19:35

中田家の長兄は、同家に恨みを持つ「農村という古いものにひそむ何者か」が
石田養豚場で働く不良たちを使ってやらせた犯行と思っていたようだ。

現に雑誌記者たちに「石川の他に複数犯があるはずで、警察もその証拠をつかんでいる
はずなので、もうすぐそれが明らかになるだろう。」と話している。
実際、怨恨の線を追っていた捜査班もあったのである。

ところが警察は単純に養豚場の不良グループの金欲しさからの凶行との見方から脱却できず、結局石川氏以外の養豚場グループにアリバイがあったため石川氏単独犯行というストーリーに仕立ててしまった。 これには長兄も腹を立てたことだろう。 この事件が無学な青年一人のみで起こせるものではないことは、誰よりも長兄がよく知っている。

彼は、今でもこの事件は中田家のタブー破りに怒った者たちが、石川氏その他の不良に
やらせた事件だと思っているのではないか(むろん石川氏は事件と何の関係もない)。

善枝さんの誘拐殺人はともかく、佐野屋に警察の裏をかいてあらわれ、まんまと逃げおおせるなど、地元の地理に明るくそうとう肝が据わった人物でなければ出来るものではない。 おそらく佐野屋に来た人物(多分2名か3名)の見当は長兄にもついているに違いない。

その中に一人は、中田家の遠縁にもあたり、誘拐の事実をも同家から知らされ相談された人物のはずである。真犯人と「密通」できた人間が中田家の近くにいたのは確実である。

長兄がその後、事件の真相と真犯人を知ったことは間違いなく、その事実は家族にも
伝わっている。 むろん、次姉の婚約者(長兄の親友)も知っているのは間違いない。

すでに中田家の実質的「家長」であった長兄は、真犯人側となんらかの「取引き」をした。このことが次姉と末弟の自殺につながっているわけである。
ニ審で長兄と次姉の婚約者が「記憶喪失症」になったのは、こういう事情があったからだ。

本当のことを言えば全てが明らかになり、中田家が窮地に立たされる。
世間からも村の仲間からも。しかし偽証は怖くて出来ない。
裁判での二人は「記憶にない」と逃げるか、沈黙して石になってしまうしかなかったのである
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html


________________________________________________


義枝さんの出生の秘密(?)


326 名前:劇団おまわり:05/02/10 21:58:01 ID:TdWOeT0N0

墓石・卒塔婆投込み事件

母の謎の死は、ひとつには家系の問題(この結婚に先祖が泣いてるぞというメッセー
ジ)、もうひとつには某氏ご指摘にようにパラシュート成金との不倫の二つが絡んで
いるのでしょう。

封建制の色濃く残るH兼で、母は中田家では寂しい存在だったのではないか、だから成金と関係をもつようになったと想像しています。

それは中田家の公然のタブーですが、一番の当事者善枝は知らされていなかったのでは。そして事件勃発。 姉の死は善枝に対する贖罪の意味もあったのでは。だから家族の一抹の良心が姉の遺体をきれいにしたのではないだろうか。

H兼および中田家の口の堅さはいったいどこからくるのか。H兼の語源となった「水を掘
りかねる」という劣悪な自然環境を住民一体となって乗り越えた結束力は、逆に排他
的営力となって「狭山事件」に作用しているのだろうか。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/10.html



「講」と言う物(形はありませんが)を理解することが狭山事件を理解するのに必要である
というのはNSさんの持論であるようです。 NSさんらの調査では堀兼、上赤坂地域で小規模ながら「講」が機能していたのは終戦直後辺りまでと推測しています。「講」が機能していた、していないを判断するのは「講」内の結束を確認する「覚書・おぼえがき」がいつ頃まで交わされていたかで判断するのが一般とされているようです。

そこで過去に「講員」(講を構成する人々)であった人々にその点を調査してみると
一様に「講」については口を閉ざすのが常であったようです。
なぜなら「講」内には厳しい規律がありそれに反する者は覚書の元に厳しい処罰を
受けなければならないからです。

覚書が最後に交わされたのが推測されるところ昭和24,5年頃、狭山事件が起こったの
が昭和38年、「講」のシステムが終了しておよそ13,4年の年月が経っていても元講
員らに影響を与えている昔の規律と言う物が事件の背景として理解せねばならない
事象ということであると言えると思います。

「講」のシステムや当時の「講員」の方々の心情を理解できないと善枝さんの本当の
父親のことやその家族の心情。はたまた中田父の犯人は知り合いに決まっておると
の発言、PTA会長が何故推されたか、などなど他にもありますがそういったことが
結局理解できないと思うのですよ。

「講」の中での処罰のみ見ると非常に厳しい世界であるなと思いがちではありますが「講」の基本は助け合いであるので最低の線さえ守っていれば講員として生きているのは講のシステムが無かった場合を考えると合理的で便利な面が多かったと考えられています。

便利な面とは呼べないかもしれませんが婚姻の面は家と家のバランス、双方が親戚
となった場合の他家との兼ね合い、または両親が無くなったあとなどにどう言った
財産関係が出来上がるかなども、まったくおせっかいとは思いますが考えられた上
でなるべく血の薄い相手を「講」の中で選んで縁談させるのです。

なぜそうまで考えるかというと講というシステムの中では特出した金持ち、土地持
ちなどは必要とされず、全ては平等の元にという小さい規模の共産主義のような
意識が基本であるからと考えられます。なので
婚姻により財産が大きく増えたり土地、田畑が大きくなるのはタブーであったと思われています。

ただし、中田栄作さんの場合は「講」の外である川越の裕福な農家から嫁を入れる
ことになりました。

これは当時の中田家の経済事情であったとか入間川のある資産家から縁談を持ち込まれ断るに断れなかったなど諸説ありますが、結果としたら講に対する奉納品を倍増するなどしてこの縁談を押し通したこととなり、他のこれまで規律を守ってきた講員らには面白くないことと思えたでしょう。

中田の家が「講」の外から嫁を迎えたことは周囲の反感は買ったかもしれないがこれと
いって処罰が無かったことを考えると明治の頃と比べると随分と「講」のシステムも
薄れ掛けて来ていたのかもしれない。

しかし時代が戦時下ともなるとこのシステムは他の地域の隣組制度以上に効果的に
機能した。この地区からは約10名の男手が出征していたが大きな働き手を欠いて
しまっている家族には何の苦労もいらないように組織として援助がなされていたの
である。

やがて終戦となりこの地区の出征者4名が復員してきた。6名は戦死あるいは行方
不明者として帰らなかった。その中でも
海軍に召集された森(仮名)は昭和12年と17年に2回召集され2度目の召集は激戦地の南方に送られたのだが無事戻ってきた軍神なのであった。

しかし森は昭和20年10月頃に復員しても老いた両親と妻、子供を残し横浜に半年
ほど居住していたようである。何をしていたかというと海軍の宿舎の備品(ベッド
や調理道具、末は航空機のタイヤまで)を闇に売りさばいて大金を得ていたよう
なのである。昭和21年の春頃売りさばく物が無くなったのか、森は地元上赤坂に
戻り奇妙な行動を取り始める。進駐軍が放出したパラシュートをトラック一杯に
持ちかえりその生地で作業用のズボンや上着を作り出したのである。

そのパラシュート生地の作業衣料は物の無い時期の池袋や新宿の闇で飛ぶように
売れたようだ。それに気を良くした森は近隣の裁縫の得意な主婦や女子5、6人
に声をかけ割増な賃金で雇い入れた。
その中に中田栄作氏の妻も刺繍や裁縫の腕を見こまれ手伝いに借り出されたと言われている。

生地がパラシュートであったのは初期であっただけと思われるが、しばらくは
衣料の闇での販売は好調であったようで知人に森はこれからは生産業で金儲けを
すると手紙を書いている。その証拠に森は所有する田畑を近隣の農家に地代を
取りながら貸してしまい、老いた両親も衣料の製作を手伝わされていたようだ
からなのだ。

しかし森にとって良い時期はそれほど長くはつづかなかった。
昭和23年の春頃、森は家族ごと行方をくらましてしまうのである。

以前「講」における処罰に「はなれもん・追放」という組織、集落からの追放という
処罰があるとご説明しましたが森の家族にその処罰が下ったのであるのでしょう
か?

時代は昭和の時代であるので住民記録もあるので消えていなくなるという事
はまず考えられない。そうして調査をすると森の家族は川越の的場集落に転居と
なっていた、しかし該当の住所地は単なる荒れ放題の河川敷であり人の住めるよう
な居住地では無かったのである。しかも転居している家族構成が森の両親、妻、
長男、長女、次男の6人であり森自身が含まれていなかったのが確認されている。
森自身は家族が転居する直前に行方不明となっていたからである。

前回までの書きこみが元講員のひとや関係者から聞きこんだ事実と思われる事々の
マトメです。これ以降それらの方々の証言から推理を働かせてこうだったのでは?
と推理編とするつもりでしたがとりあえず概略のみ書いておきます。

1) 森は失踪時、すでに殺されてどこかに埋められていると噂がたった。
2) 森がいなくなったことにより利益を得た5人の内のひとりは栄作氏である。
3) 森の家族が追放された後、家族を監視していた人物は佐野屋に出向いた人物
  である。
4) 元講員らは森の処分を覚書によって必ず同意しているはず、よってそれに関する
事にはいっさい口を開かない。

私の説明不足で「講」の掟を破ったので事件が起きたと解釈させてしまっているよう
で申し訳ありません。 講がもっともシステムとして機能していたのは明治の中頃までで昭和の初期には上赤坂地区でも風習としては残ってはいるが厳しい制裁などは行われていなかったのでは、というのが地元の風習を研究している方々の意見なのです。

それが戦後に森という人物と家族に厳しい制裁が下ったというのは「講」の規律を
悪用し森の財産を不当に取得した者達がいて講のシステムから言うと全ての講員の
同意のもとに制裁が加えられたということになるという事なのです。

それで森とその家族にもっとも恨まれるのは妻と森の不通を講の総代に訴えでた
栄作氏であったと考えられるのです。

上赤坂地区で区長と総代が統一され事実上、講の組織自体崩壊を向かえたのは昭和
29年頃であったのですが、講の規律の中で暮らしてきた人々にとってはその意識と
言う物はすぐに消え去る物では無いということが一番念頭に置きたいことなのです。

狭山事件の実行犯と推測されるのは森の次男、しかし森の次男は森の次女とともに昭和26,7年に結核で死んだと後に母親は語っているのですが、次女の死亡は医者(役場)による死亡確認ができているのにかかわらず次男はされていない。

森の家族は講を追放されてからは川越周辺の遠縁を転々と渡り歩いていたそうなのですがそのころの縁者によると次男は昭和24,5年くらい(本人は12歳の頃)に里子(里子と
言うと聞こえはいいですが事実上人身売買に近い物あり)のではという証言がある。
その先が特定地域の極貧重労働集落であったということなのです。

栄作氏は事件の時に警察に恨まれる憶えは?

と聞かれ真っ先に頭に浮かんだのは川越に今も住むあの一家のことではないでしょうか。しかしその理由は決して口外はできないものでしょう。

森の次男と推測される人物は田中幸男(仮名 = O2?)と言う名で特定地域出身という理由で事件時に逮捕拘留されている。逮捕時年齢が推定24歳(森の次男としたら26歳)
なぜ推定かというと自称戦争孤児で義父の田中卯一郎に引き取られた時の推定年齢
が元になっているからであったらしい。他の同様の逮捕理由の不良少年らと田中の
違う点は狭山市街の西洋酒場Kで男娼として生活していた点であった。

Kで雇われている訳では無く夜にKに行き日に50円を払い客を自分で取っていたので
あったらしい。そして田中は事件において奥富玄二氏と石田登利造氏を結びつける唯一の人物で有った事も因果が深まる点であったと思う。

田中は自分では東京の生まれだと言ってはいるが東京のことは記憶に無い、忘れた
との一点張りであった、確かに卯一郎は終戦直後身寄りを無くした孤児らを拾って
きて養子にしては鉄くず拾いの仕事をさせていた。手製のリヤカーを2人一組で
引かせて2日に一度入間川の鉄くず業者に持ち込み日に100円から200円ほどの金を
稼がせていたらしい。何も収穫も無く帰って来ることを卯一郎は許さず自然と田中
を含めた孤児らは窃盗に手を染めるようになっていった。

農家の納屋のトタンを剥がしたり外に出してある農機具を盗むようになったのだっ
た。うまく行けば良いのだが捕まれば凄惨なリンチにあった。時には二度と盗みを
働けぬように両手を金槌で潰されたこともあった。中でも田中は年を追って顔立ち
がハッキリしてくるとボロをまとった赤黒い風体でも男として屈辱的な行為をさせ
られる事も時にはあったらしい。

そのような経過が後年男娼として生きることになったとしたら悲惨なことであった
ことである。昭和30年頃、卯一郎が死ぬと血のつながらぬ家族は瞬く間にバラバラ
になった。その後に田中の消息の証言が得られたのは33年頃、石田登利造氏の仕事を手伝い、一緒に生活していたころになるのであった。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html


田中の過去を大方教えてもらったのが田中の義兄の人物で、その人も同時期に石田登利造氏の仕事を手伝っていたそうです。

それで義兄いわく田中が石田登利造氏の元にいたのは現状から脱する為(金)なのでその他にも基地の雑用もこなしながら獣の皮を伸ばすような仕事も文句も言わず行っていたそうです。そうして田中は34年の頃には大宮や川口、はたまた池袋や大久保などの深夜
クラブでしばしば見うけられるようになった。特に大宮の深夜クラブSではいわゆる
「顔」でSで田中を知らない者は潜りとか言われるようになった。

昭和36年Sの店長大田(仮名)が独立して同様の店を出すようになった、その場所が
偶然にも入間川駅からすぐの場所で田中の実家より歩いても10分というような
所であった。田中は当時大田と関係が有ると言われ田中自身も入間川の店が開店す
ると自然と顔を出すようになった、これが前述の西洋酒場Kである。

西洋酒場というとピンと来ませんが基地の関係者や都会に働きに言っている若い層
を客層としたバーのような店であった。
そのKに開店時より通っていたのが奥富玄二氏であり、田中とはかなり懇意にしていたと言われている(奥富玄二氏にその方面の趣味が有ったかどうかはわかりません)
大田はかなりのやり手で所沢にも同様の店を出す、と計画していた矢先起こったの
が狭山事件であった。

事件で田中は別件で逮捕され10日以上取調べを受けアリバイの有効性が決め手となって釈放された。田中はKで新聞、週刊誌記者らに警察の不当逮捕について記者会見らしきことも行っている(週間文春などに他の逮捕者の記事などと共に一部掲載)

田中は大田より本来は所沢に出店する店舗を任されるはずであったが事件後双方は
関係を解消し田中は大宮に越して牛田(仮名)という男と共同で深夜酒場を始めた
大宮の店は2年ほどで潰れ、つづいて浦和にそれより小規模の店を自分一人でを開店させる。

田中はその後昭和42年10月に右翼の青年に深夜腹を刺される(青年は逮捕、事件
は痴情のもつれとされるがNSさんらは青年は大宮の暴力団員で事件の日が田中
と初見と推理)田中は一命を取りとめるが実生活に支障をきたし東京の多摩市の
生活保護養護センターへ身を寄せ生活を送るが昭和45年4月肺炎で死亡。享年推
定31歳。

田中が森の次男であったしたら33歳という若さであった。


679 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/12/20 21:23

<母ミツの死について>

このスレ>>373で、野間宏著「狭山裁判(岩波新書)」上巻 p.119
に記載されているとして、
>善枝さんが中学三年時の担任、相沢先生が教師として善枝さんの
>家を家庭訪問したときのことを話し、変った家庭であることをつげ、

とあり、またこのスレ>>397では、荻原祐介氏が当時の埼玉県警本部長
警視監・上田明氏を被告とする緊急証人喚問請求で

>母ミツは昭和28・12・30午前十時三十分に東京都北多摩郡小平町
>小川六六二〇 国立療養所精神科病院に於て「脳腫瘍」という
>一万人に一人位しかいないという珍しい病気にて昭和28・12・19
>に入院して昭和28・12・30午前十時三十分に死亡している
>死因について村人たちは○人いたという○○の中の誰かが
>やきもちをやいて毒を呑ました、中田家で死んだのでは世間体が
>まずいので、遠い所の病院へ運んで死なせたのだ

とのレスがある。

さらに前スレでは、

>中田家の秘密とは、色情狂の母親が、遠くの精神病院にブチ込まれて、
>不審な死に方をした事に、父親と長兄がただならぬ係わりをもって
>いたということですね。

とのレスもある。

これらを重ね合わせて考えると、母ミツの男癖の悪さに辟易した父と
長兄(当時16歳)が、毒を飲ませて(?)死に至らしめた…と推測
できますよね(「村人」が毒を飲ませるより、家族がそれを行ったほうが
チャンスも多いので)。

 これに入曽歴3年さんの過去レスを絡めると、「講」のメンバーだった
復員兵の森が上赤坂に戻ってきたのが昭和21年春。パラシュート生地
の作業衣料を作っていたが、「講」の「はなれもん」とされ、追放された
のが昭和23年の春頃。

被害者の義枝さんが生まれたのは昭和22年5月1日。
つまり時系列として、森とミツが密通して生まれたのが義枝さんである
ということに矛盾はない。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/3.html

681 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/12/20 21:26

義枝さんは裕福な中田家の四女として育てられたわけだが、それと
対照的に森の次男は(もし本当に存在するのであれば)12歳の頃に
里子に出され、不遇な人生を送っている。

この次男=田中幸男(仮名) は、20代になって狭山市街の西洋酒場
Kで男娼として生活していたとのことだが、石田登利造のもとで働き、奥富玄二が
なじみの客だったことを考えると、自分の腹違いの妹が、裕福な暮らしを
していると知ったことは想像に難くない。さらに元中田家の作男であった
奥富玄二から、義枝さんの母ミツが、中田栄作とその長兄によって謀殺
されたとの噂を聞いたとしたら…。

これはゆすりのネタとしてはまさに格好の情報である。

つまりこの事件全体において、父栄作および長兄が、義枝さんの誘拐
殺人に関して、なんとも不可解な行動や発言をしていたのは、「母ミツ
を死に至らしめた」という秘密を隠すためではなかっただろうか。

次女・登美恵さん、次男・喜代治さんが自殺したのは、この真実を知った
からではないだろうか。

奥富玄二および石田登利造の変死についても、入曽歴3年さんの説によれば、田中
幸男は昭和42年10月に右翼の青年に深夜腹を刺され、その後死んだ、
とあるので、2人を口封じのために殺すのは可能であったことになる。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/3.html


539 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/11/25 09:27

「当初逮捕された3人」というのがI養豚所関係者のことだとすれば、
それはI三兄弟のことであって、森の息子ではないと思う。
狭山事件関係では、I養豚所に出入りしていた者を初めとして、
石川氏の友人関係や、素行不良の者など、別件でかなり逮捕されているから
その中に含まれると思う。

558 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/11/27 14:23

父親は、主犯として森の息子を念頭においてしゃべっていると思う。
長男の方は、自分が共犯なので森の息子にはふれることが出来ない。
そこで殺害実行犯として養豚所関係者を挙げたのだと思う。
主犯については、例の新聞手記でそれとなくふれているようにも感じる。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/3.html

_______________________________________________


5. 被害者は…


477 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/02/26 14:16

事件の日の朝に善枝さんが書いた日記は、最後の行に一言だけ。

「五月一日、私の誕生日(十六歳)。うれしい。」

この短い一行の中に、誕生日当日に彼女はなにか特別楽しいことに胸を膨らませていたことがよく分かる。 同級生には「今日は私の誕生日で、家でごちそうを作って待っているから早く帰る。」
と言っていたそうだ。

中田家では兄弟が多かったこともあって、誕生日を祝うという習慣はなかったという。
この日は姉が妹のために赤飯を炊いているが、それは朝食でのこと。
善枝さんが楽しみにするごちそうなどを作る予定は、「ぜんぜんなかったです。」(姉による法廷証言)とのことだ。
まさか夕食の天ぷらうどんを楽しみにしていたわけでもあるまい。
友人との約束であれば、日記にそのことは書いているはず。

したがってこの日の「誕生パーティー」は、善枝さん自身も誰にも言えない
相手との「秘密の約束」であったことは、想像に難くない。

昭和38年5月1日のこの日、この時刻、善枝さんが目撃された場所近くを通って、
会社を早退して新居に向っていた奥富玄二は、事件関係者の中で善枝さんと出遭う
可能性が最も高かった人物といっていいだろう。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/4.html

被害者の日記から読み取れる情報をまとめると以下の通りです。

• 被害者は、ゴールデンウイークにお金を使う予定があった。それはおそらく、5月1日の待ち合わせに関係するものであった
• その内容は、家族とは関係がないものだった
• その内容は、被害者にとって「うれしい」ものだった
• 5月1日の待ち合わせの相手は、被害者にとって対等に費用負担をしたいと思わせる相手だったhttp://flowmanagement.jp/sayama/article.php/20090822174957982

狭山事件: Mくん☆LOVE

個人的に伊吹本で最も衝撃的だったのが、被害者の日記のMくん(PTA会長の息子)への恋心を綴った部分です。

あのすばらしい……Mさんといっしょに……三日間……楽しかった
笑った顔がなんともいえない
Mさんが道でローラースケートを楽しんでいた。行きも帰りも会い、少し恥ずかしかった。早く私もうまくすべりたい。早く早く。

Mさんはこないかしら。


これだけの想いを毎日のように日記に綴っていることから考えると、学校でもラブラブ光線を発していたであろうことが容易に想像でき、そうなるとその恋心を犯人に利用されたのではないかと妄想してしまいます。被害者本人はおそらく隠していたでしょうが、周囲から見ればバレバレというありがちな状況だったのではないでしょうか。
そして、Mくんが生徒会長で野球部、被害者が副会長でソフトボール部という目立つ立場だったこともあり、堀兼中学ではそれなりにウワサになっていたのではないかと思います。

この点、なぜか従来の狭山事件本ではあまり取り上げられて来ませんでしたが、そういう被害者の恋心を犯人(あるいは犯人グループ)が利用した可能性はかなり高いのではないかと個人的には考えています。「誕生日を祝うパーティーをみんなでやろうよ。Mも来るからさ」という形で誘えば被害者は喜んでついていったでしょうし、「私の誕生日、うれしい」と書いていたり当日を楽しみにしていた理由も説明がつきます。さらに、そういうパーティーに誘われていたから、お金を用意しておきたいということで次兄に事件前日にお金を無心したことにもつながります。

ただし、Mくん自身が犯行に関わっていた可能性はまずないと思います。その理由は、被害者が失踪して遺体が発見される前の5月3日にMくんが被害者宅にいる写真が残っているからです。このような形で自分から堂々とマスコミの前に姿を現しながら事件に関係することは、Mくんの当時の年齢(16歳)を考慮するとまずありえないと思います。
http://flowmanagement.jp/wordpress/archives/759#more-759


422 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/11/17 18:45

善枝さんのボーイフレンドは全員警察が調べており、すべてアリバイが確認
されているそうだ。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/3.html


529 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2007/08/31(金) 20:31:18 ID:???]

中学時代も含めて同窓生は全員捜査対象になっている。
アリバイその他で重要容疑者はでてきていない。
したがって、事件当日待合わせ(?)して誕生パーティをするはずだった相手は高校生ではないと思われる。
http://yomi.mobi/read.cgi/bubble6/bubble6_archives_1140268024

539 名前:のゆ 投稿日: 2007/12/26(水) 19:07:42

亀井トム氏が昔に書いた本の中に、被害者を解剖した際、膣内に残存していた
精液の量は3人分くらいあったという話しが、非公式に捜査官から漏れていた
とのことです。確認できた血液型はBだけだったらしいです。

620 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/03/10 12:58
解剖直後の発表では「精液多量、血液型はBとO」だったんよ。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1061689365/l50


165 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/08/01 19:33

だいたい、事件発生当初は複数犯というのが大方の見方で、被害者の膣内に残された
精液の量も多く、犯人の血液型はB型とO型と書いた新聞もあるほど。

これは解剖が被害者の自宅の庭で行われたため、医師の話が漏れたためらしい。
佐野屋付近に残された足跡も二人だったらしい。

590 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/03/07 22:01

死体における上田鑑定と五十嵐鑑定があるが、
大方の見識は強姦ではないという立場じゃないの。


706 名前:盛況 ◆cQ5CwQT2.c :03/09/27 21:13

被害者の処女膜には3箇所の「陳旧性」=旧いもの と見られる傷があったか
ら、「非処女」と言えるが、これらの傷が性交によって出来たものとは限らな
い。被害者の生前の生活状況などから、運動によって処女膜が破損する事はあ
り得る。

712 名前:盛況 ◆cQ5CwQT2.c :03/09/27 21:54

処女膜の損傷部に「出血等の異常を認めしめず」との所見からすると、常識的に考えてこの損傷は旧いもので、上に書いたように性交によるものかどうかは法医学上は五分五分だが、「処女膜の破損」は確かだト言う事。


912 名前:盛況 ◆cQ5CwQT2.c :04/03/24 21:39

処女膜の損傷の件につき解答を得たのでそれをもとに投稿します。

初めに一般論として、

処女膜は性交の際に充血、腫脹し、亀裂が入る。しかし性交のほか激しい運動、
乗馬、自転車乗りなどでもしばしば破れることがあり、このような場合には後方
または側方が破れることが多い。
性交による亀裂の方向は7、8時或いは4、5時の方向に生じる事が多く、6時
及び12時は稀である。
性交以外の運動による亀裂は6時、3時、9時方向が多いと言う事になる。
但し処女膜の形態とその損傷の出来方は個人差が甚だしく、上記のような亀裂が
あったからと言って、即性交によるものか、スポーツによるものかは断定出来な
い。

本件被害者の処女膜の損傷を記した箇所を下記に引用する。

『処女膜は輪状にして、時計文字盤位の2時、7時、及び10時の処に遊離縁よ
 り附着基部に達する亀裂夫々1個存在するも、出血等の異常を認めしめず。』

これは陳旧性(旧い)傷の所見。

『処女膜の最後部即ち6時位の処には小指爪面大の挫傷1個存在し、皮下に出血
 を認めしむ。』

これは性交時、叉は死後に何らかの理由で出来た傷。

冒頭の一般論からすれば、陳旧性亀裂については、性交によるものとも、運動に
よるものとも断定出来ない。皮下出血がある新しい亀裂については、それが6時
方向(後方)にある事からすれば性交によって出来た傷ではなく死後何らかの理
由でついたものである可能性が高いが、もしこの傷が性交時についたものであっ
たならば(一般論的には性交で6時方向の亀裂が生じる事は稀ではあるが)被害
者は性交経験が無かったと言う事になる。その場合は陳旧性亀裂の方は、性交以
外の運動(スポーツ等)でついたものと言う事になる。

結論として、これらの新旧両亀裂は、共に性交、スポーツ、そして不測の理由と
の、原因が可能性として考えられる(旧亀裂は性交かスポーツ、新亀裂は性交か
他の不測の理由)。従って処女膜の所見だけでは、被害者の生前の性交経験の有
無は断定出来ない。運動好きであったとの被害者の生前の生活容態を考えれば、
尚更である。

915 名前:盛況 ◆cQ5CwQT2.c :04/03/25 00:32

小生の投稿を少し修正します。

新亀裂について、「死後何らかの理由でついた可能性」を記したが、死後につい
た傷には「生活反応」が無いので、一般的には、この亀裂が皮下出血を伴ってい
る事を考えると、この亀裂は死後に出来たものではなく、生前に出来たものと言
う事が出来る。 生活反応が無いと言う事は、死後は血液循環が停止する為、皮下出血が生じないと言う事である。

とすれば、この亀裂(6時方向についた傷)は性交時に生じた可能性が最も高い。
傷が性交時に生じたとすれば、被害者が性交未経験であった可能性も生じる、と
言う事になる(断定は出来ない)。

但し、皮下出血は心停止後もしばらくは生じうる場合もある。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/7.html


700 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/09/27 17:16

弁護側の鑑定によると被害者の下着には精液のシミがついていたらしい。
したがって被害者は性交後、一度下着をはいたあとに殺された、すなわち
強姦されてそのまま下着をずり下げられたまま殺害されたのではない、
つまり被害者と犯人は顔見知りだった…という主張だったように思う。


701 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/09/27 18:01

だいだい被害者は、1日に誰かと逢うことを、家族にも親しい友人にも内緒に
していた。これは誕生日のデートとしか考えられない。
そしてトマトなどを食べたあとボーイフレンドから強姦されたという推理も
一応成り立つが、彼女はかなり発展的な女性だったようで、非処女だったことは
法廷でも証明されている。

トマトを食べておしゃべりをするだけなら親友には秘密にしなくてもよさそうだし、
スポーツ・ウーマンの彼女が激しく抵抗した痕がないこのは、どう考えても
性行為は合意の上だったとしか思えない。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/6.html

110 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/10/23 14:18

善枝さんは乱暴されたのではなく合意の上だったというのは多分間違いないと思う。
それは善枝さんが激しく抵抗したあとがないことと、強姦時には必ず残る太もも内側の
内出血がなかったことによる。

それに父親が証言しているように、善枝さんは男勝りのスポーツ・ウーマンで、
見知らぬ男のいいなりになって付いていくような性格ではないのと、トマトと白米(おにぎり?)の接待を受けて、それを食べていることをみても強姦などではないことが分かる。

ではB型の血液型は元作男というと、地元の人に聞いてみても二人が付き合っていた
という事実がどうしても確認できない。
それどころか元作男は性的な悩みを抱えていて、結婚前にそれを苦にして自殺したのではないかと言う人もいるくらいだ。性格的にも気が弱くお人よしで、とても女子高校生と浮気するなど考えられない。ただ、お人よしの性格が災いして事件の共犯に仕立てられた可能性はあると思う(脅迫状を書いたことと新居の提供)が、真犯人ではないと思う。

事件の日、誕生日のお祝いを口実に善枝さんをデートに誘い、トマトなどを振舞って
性交したのは、やはり彼女のボーイフレンドのひとりだったのではないかと思う。

94 名前:不老川:02/07/29 15:21

私が疑問なのはAと被害者の関係です。被害者の膣内から精液が検出されたこと、
また、被害者が抵抗した形跡がないことから合意による性交と見なしてよいと思われ
ますが、この点はどうなのでしょう? 


97 名前:898:02/07/29 16:33
>>94
Aについてはアリバイのみが崩せなかったと聞いているので血液型は合致していた
と思います(また確認してみます)またAと被害者は年も近く小学校まではよく遊ん
でいたそうです(次兄も含め)また被害者宅とAの家は6,700mしか離れていないそう
です。


609 名前:前スレの898:02/08/23 09:43

伯父が実行犯として推理していた(A)ですが、盆休みに大宮の伯父の所を
再度訪ねた際に確認しましたが血液型のほうほぼB型とのことです。

ほぼというのは、それが小学二年の健康検査の資料のためで当時は精度が
若干悪く確率としては7割方はB型だろうということでした。
ちなみに(B)はO型です、双方とも中学に満足に行っていない様で中学の
検査記録が残っていたらもっと正確な物となっていたはずということです。
たぶん、容疑が固まりしだい血液検査をするつもりだったのでしょうが
それ以前に釈放せざる状況になったと思います。


622 名前:898:02/08/24 09:41

伯父説では脅迫状を書いたのは作男の奥富玄二氏ですが書かせたのはU氏の配下のO2という飲食店の店長と考えているようです
(内容を考えたのも)アリバイ製作も犯行現場の証拠隠滅も脅迫状を届けさせたのも飲食店O2氏の指導の元にと考えているようです。そのため伯父は飲食店O2氏を何故だか高く評価しています。

もともと大宮や浦和を根城にしている広域暴力団員の幹部であった人ですがU氏が手腕に惚れて大金を出して引っ張ってきたような人物だったらしく選挙のゴタゴタや言う事を聞かない人物の意見を変えさせる作業などにかなり重宝された人物とされています。

評価されている点は手腕のみでなく元ヤクザの割りにそれまで微罪で一度しか逮捕
されていないほどの「尻尾を出さない人物」として評価しているようです。
飲食店O2氏が作男奥富玄二氏に安心して脅迫状を書かせるには奥富玄二に近しい内容は排除する点が重要だったと思います。 なので4月29日といい加減な日付、前の門と抽象的な表現、娘ではなく子供との表現、西武園という有名行楽地の表記などで奥富玄二にはかかわりの無い内容として書いていただいたという推理がされます。

しかし書かせたこと自体がトラップで遺体の埋没現場も飲食店O2氏の指示であった
のなら奥富玄二は嵌められるべくして嵌められた事になると思います。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html

968 名前:953:02/10/11 15:59

田中登と石田登利造を殺った奴は黒幕(市議会議員)の部下の元暴力団員の手下だと思う。

898氏の親戚の元刑事氏の推理とは少し違っていて、佐野屋に来たのも、石田登利造を殺害したのも同一人物と思う。

殺しに慣れた中年の男。元軍人。親分のためならなんでもやる男。
ヤクザ組織での闇の仕事に加えて、軍隊で謀略・謀殺の手法を学んだ男。

ついでにいうと、5月1日にボーイフレンド(これも一味)に誘われて食事したあと、
合意もとに性交し、奥富玄二氏の新居でくつろいでいた被害者を背後から襲い、
後頭部を鈍器で殴って殺害したのもこの男。

さらにこれは確証がないが、元憲兵のPTA会長の死にも、この男の影が見える。
元暴力団員の周辺を洗えば必ず該当者は出てくると思う。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/2.html


_______________________________________________________________________________


6. 次姉は…


次姉の遺書の公表箇所

「夫」宛
(次姉)は誰とも結婚できない女です。(「夫」)さん、どうか幸せになってください
(「夫」)さん幸福に。私は美しい花を見ても美しく思えない女になってしまった。あなたを幸福にできない


長兄宛
(長兄)ちゃんとはもっと相談したかった


父親宛
お父さん力強く生きてください。自分のクヨクヨした性格で、毎日毎日が、実にいやになりました。(次姉)の生活には発展もなければ何の信念も考えもない。動物にすぎない。死を考える親から、よい子など生まれません。五月一日、(被害者)の供養をしたとき、はじめて自分がわかった。二人でまっ黒になって働いたころが一番幸せだったと思う。先立つ(次姉)のわがままを許してください。

なお、長兄が次姉の遺書について別途、「常識では考えられないことが書いてあったんだが……」というコメントを残しています。その「常識では考えられないこと」が上の文章のどれかを指しているのか、あるいは公表されていない内容を指しているのかは不明です。

この「遺書」を読むと、やはり次姉は「真実」を知っていて、それを公表できない自分の弱さを「何の信念も考えもない」と表現したのか、と考えさせられます
http://flowmanagement.jp/sayama/article.php/20090506075850770

382 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/06/01 18:16

中田登美恵の死亡診断書を書いた医師鈴木将の証言(二審第六四回公判)


問い 山上弁護人

山 そのことについて少し述べていただきたいんですが、この先生のお宅
  におうかがいして、私どもがいろいろおうかがいしたときに、先生の
  お話になられたなかに、どうも死因がわからんといいますか、非常に
  奇妙な感じを受けたんだということをいっておられましたが、それは
  何に原因してそういうふうな印象をもらされたんでしょうか。

鈴 そうねえ、一般に何で亡くなられたにしても、苦悶の形をしているね。
  老衰というのはいちばん楽な死に方だね。だけど普通の毒で死んだとか
  何とかいう人は非常に苦悶の体で死んでるな。ところがこの人はすっか
  りととのってきれいになって亡くなったね。だからすごく奇異な感じを
  もったよね。

山 すっかりととのってきれいというのは仏さんとしてきれいというんです
  か、身づくろいが。

鈴 身づくろいは普通のものだったけど、吐物がないとか、たとえば失禁と
  かいうことがなかったということですね。そういうものが伴うものだね
  たいがいね。

山 この人の場合にはそういう何か毒薬を用いたというような徴候もなかっ
  たと、こういうことですか。

鈴 それはあったかもしれないけれども、そこの様子じゃわからなかったで
  すね。ただそういう死に方もないとはいえないね。絶対用いないとは私
  はいえないよ。

山 先生は農薬を用いたんじゃないかということで、家族の方に農薬のびん
  はないかというようなことをたずねられたようですね。

鈴 うん。

山 その際、どうだったのでしょうか。

鈴 なかったね。そしてみんなきれいに洗ってあったね。

山 びんを洗ってあった。

鈴 うん、だからどうもね。

山 先生が中田さんのうちに着かれてまあすぐ死体を見られたということに
  なりますと、そのときの死体の状況はまだなま暖かいといいますかもう
  冷えきって固くなる、硬直状態といいますか、その程度は。

鈴 私もいくつも死体をみてるからもう忘れてるけれども、硬直があったと
  思います。

山 これは死後何時間ぐらいして、まあ、普通これは科学的には厳密にはな
  かなかむつかしいということを聞いておりますが、通常硬直というのは
  死後・・・。

鈴 さあ、私も法医じゃないから、そのへんはくわしくはわからないですね。
  知らないといったほうが正しいのですね。

山 とにかく硬直がきておったように思うと。

鈴 そうですね。

山 で、布団が敷かれてあって、すでに普通の人が寝るような形で安置され
  ていた、こういうことになりますか。

鈴 そうですね。


つまり鈴木医師が訪れた時には、遺体はすでに通常の通夜などの時のように
きれいな形で布団に寝かされていた。苦悶のあともなく、こういう場合につ
きものの失禁などもなかったというのである。
これは明らかに死後加工された状態である。仮に布団に入った状態で薬をあおったとしても、苦しむうちに姿態が乱れ、周囲が荒れた状態になるのが普通である。死因の追求にあまり熱心にみえない鈴木医師さえも「奇異に感じた」状況であった。
一応農薬自殺を疑った鈴木医師は、家人に農薬の瓶の有無を尋ねたが、それらはすべ
てきれいに洗ってあったというのである。


中田登美恵の死亡診断書を書いた医師鈴木将の証言(二審第六四回公判)

問い 山梨検察官


山 そのときの死亡診断書ですがね、まあ直接の死因として薬物自殺となっ
  て いるんですが。

鈴 ああ、そうですか。
(中略)
山 ただこの死亡診断書を見ますと、まあ、おいでになった時間がこれは一
  つの問題なんですけれども、発病より死亡までの時間として五時間とな
  っているんですよね。

鈴 それは想像ですよ。だって死んだ時間がわからないでしょう。だいたい
  だからうちの者がうちをあけた時間からそのへんまでということにした
  んじゃないでしょうか。あくまでも想像ですよ、それは。

山 五時間というのは本人が死んだのは何時頃という推定はどうやってつけ
  られた。

鈴 だからうちの人が朝ご飯食べるときは生きてたでしょう。それから今度
  は昼に帰ってきたといったかな、そうじゃないですか。そうするとその
  間ぐらいはだいたい五時間ぐらいあったんじゃないかというふうな、多
  くの根拠をそこにもって私書きませんでしたけれども、わかりませんで
  すよ。私はどうやってわかるかといえば食べ物を行政解剖でもして出さ
  なければわかりませんよ。出ますか。

鈴木医師は一応薬物自殺として診断書を書いたものの、薬物中毒の明確な痕
跡もなく、死亡推定時刻も特に根拠がないことを認めている。これでは先の
奥富玄二のケースと同じく「自殺」と理解することはとてもできない。少な
くとも「変死」とすべきであるし、どちらの場合も医師の診断時すでに遺体
に工作がなされている可能性を考えると、むしろ「他殺」を疑うのが自然と
すら思えるのである
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/1.html


622 名前:488:02/07/06 12:27

次姉は、石川さんが犯人とされ、裁判が始まった時くらいからふさぎ込むことが
多くなり、次第にノイローゼ症状が重くなっていた。

彼女は事件後婚約し、すでに入籍していたが中田家に女手がないので実家にとどまり、
新婚生活もままならない毎日であった。

唯一の話し相手であった妹を失った上、家を出て夫と暮らすことも許されない。
スポーツ万能で勝気だった妹とは違い、おとなしく優しい性格の次姉にとっては
耐えがたい生活だったはずだ。

次姉は、事件当時から独自に調査をしていた石川さんの支援者・荻原佑介氏の訪
問を受ける。そして石川さんが無罪であることの論拠を示された彼女は、
そのとき顔面蒼白となるのである。

「石川さんが無罪ならば、やはりあの人が…」

次姉は裁判で警察に迎合して佐野屋にあらわれた犯人の声を「石川さんにそっくり」と
証言したことを後悔し始める。
そして一審での石川さんの死刑判決の報を聞き、自責の念にかられるのである。

さらに狭山事件のをめぐる直接的・間接的関係者の内、少なからぬ人々が訴えている症状、「原因不明の頭痛と身体のだるさ」に彼女も悩まされるのである。

夫にあてた遺書のなかの「私は美しい花をみても美しく思えない女になったしまった」
という言葉に彼女の苦悩がよく表現されている。

そして次姉の日記には、真犯人の名前がはっきりと記されてあった。

次姉の「自殺」後、長兄はマスコミの取材に答えて、彼女が生前に付けていた
日記の存在を明かし、

「日記には常識では考えられないことが書いてあったんですが…」

とコメントしている。 しかしその「常識では考えられないこと」の内容については口をつぐんでいる。 これはどういうことであろうか。

わざわざ日記の存在を公表し、内容に興味を引くコメントを残しながら、肝心の
内容についてはだんまりを決めこむ。 中身が話せないならば、日記のことなど最初から触れなければいいではないか。 にもかかわらず、そこに書かれてあったことについて思わせぶりな話しをする。 それもマスコミに対して。

はたして長兄のこの不思議な言動は、何を意味するのか。

私には、あの「犯人たるおまえに」同様、これはマスコミを利用して行った長兄
の真犯人に宛てたメッセージであると思う。

つまり「自殺した彼女の日記にはおまえの名前が書かれている。俺はお前の策略
をすべて見抜いているぞ」という意味が込められているのである。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/1.html

158 名前:レイムダック 投稿日: 2004/05/14(金) 16:20

次女が自殺した後の報道によると、彼女は大学ノートに書いていた日記を石川氏の
地裁死刑判決直後から中断したようです。

「身体がだるく、頭が重い」と訴え、死の十日ほど前に訪れた堀兼診療所では、
「極度のノイローゼ」と診断されたとのことです。

また、父親宛ての遺書にはこう書いてあったとのことです。
「死を考える親からよい子など生まれません。五月一日善枝の供養をしたときはじめて
自分がわかった。二人で真っ黒になって働らいていた頃が一番幸せだった」

さらに「夫」宛ての遺書には、「私は美しい花をみても美しく思えない女になってしまった。あなたを幸福にできない」と書いてあったとのこと。

このことから、次女の遺書は一部かもしれませんが、公開されていたことが見てとれ
ますね。ただ、長男が言う「日記には常識では考えられない事が書いてあった」のが、
この遺書のことを指しているのか、それ以前の日記のことなのかが不明ですね。

もし後者とすると、彼女は日記を書くのを中断していたわけですから、一審判決以前から、次女は「常識では考えられない」精神状態に陥っていた、ということになりかねないようにも思われます。

次女は事件の年の秋にお見合いし、十二月には入籍しています。

非業の死を遂げた妹の喪が明けてからでもよかったように思われますが、なにか特別に
急がなければならない事情でもあったのでしょうか。
しかし、この年までは特に変わったことはなく、体調が悪くなったのは年が明けてから
としても、亡くなったのは七月ですから、ノイローゼは急速に進んだと見てよさそうです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1061689365/

756 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/01/05 17:48

石川氏の声をテープで聞かされた次姉の最初の証言は
「(犯人の声は)もっと低かったと思います。」というものだった。
(実際、石川氏の声は60歳を超えた今でも甲高い。)

それでテープの回転速度を遅くして「似ている」という証言を引き出したもの。
一審では石川氏も長谷部警視との「男の約束」を信じて犯行を認めていたので
中田家の家族も彼を犯人と思っており、次姉の「そっくりです」という証言に
なったものと考えられる。

その後、石川氏が一審で死刑判決を受けたあと、何らかの理由で真犯人と家族との
「関係」を知ってしまったことで良心の呵責に耐え切れなかったのだろう。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/3.html

609 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/12/02 21:51

自殺したお姉さんは可哀想だよね。

母親が死んだあと、上のお姉さんは家出。
唯一の話し相手だった妹が惨殺されて家の中の女は自分一人。
母親代わりと主婦の役目もこなさなければならないし、せっかく婚約したのに
実家に女手がないということで籍だけ入れたまま、新婚生活もままならない。

相談相手だった増田秀雄さんは急死。

そこに自分が証言したせいで無実の人が死刑になってしまうという事実を知らされたとしたら…

お姉さんは石川さんの死刑判決があった日から、毎日つけていた日記を書くのを止めて
ふさぎこんでしまったそうだ。

そこでさらに事件の真相か背景を知らされたとしたら、田舎の純朴な女性にはとても
耐えられることではなかったに違いない。

善枝さんも気の毒だけど、事件の最大の被害者はお姉さんのような気がしてならない。

134 名前:盛況 ◆cQ5CwQT2.c 投稿日: 2004/05/11(火) 20:51

その姉の遺書についてですが、公判証言をつぶさに読んで見たところでは、
「遺書」がどのような形態であったのかも語っていないし、と言う事は、その
「遺書」が夫宛のものであったかどうかも結局の処不明です。

しかし『Yさん、幸せになって下さい』と言う様な文面があったと言い、その
様にある程度内容に関してはっきりと証言していると言う事は、夫は確かに、
ある種の遺書的な文面は家族から見せられたのでしょう。

そうすると言うと、この「遺書」(姉の、夫宛の)はあったのかどうか、と言
う事になるわけですが、小生は、これは姉の日記(の最後の頁)に書いてあっ
た事を、夫はその時見せられたのではないか、と。

要するに姉の「遺書」と称する物は、「日記」に書いてあったのではないか。
 (個別宛の「封書」ではなく)
ト言うのが、現在小生がこの「姉の遺書」について考える処です。

135 名前:レイムダック 投稿日: 2004/05/11(火) 21:42
>>134
公判記録などによると、次女の遺書は3通で2通が父と兄弟宛てで、残り1通が
「夫」宛てとのことです。

ただし「夫」は遺書は見せられたがどんな内容だったか、縦書きか横書きかさえ忘れています(法廷証言は次女の死から8年後)。

遺書は日記にしていた大学ノートを引きちぎって書かれていたそうで、枕の下にあり、
封筒はなかったとのことです。

137 名前:盛況 ◆cQ5CwQT2.c 投稿日: 2004/05/11(火) 23:05

「夫宛」の遺書に限定して言うと遺族に(この夫も遺族なのですが)「遺書」
を見せられた処「ぼくのことが書いてあって‥」と言う事で、その言いっぷり
を一応信用すれば、それは実は夫宛の遺書ではなく、家族宛のものに書いてあ
ったか、やはり日記の文言を見せられたのではないか‥?と言う意味でした。

しかしこれは長兄の「日記には常識では考えられない事が書いてあったんだが」
と言う言葉を、姉のお墓の前で思い出した時に、浮かんだ考えです。

つまり、「日記」(その最後の部分が遺書を兼ねていたのかも知れない)にはその「常
識では考えられない事」が書いてあった為、夫には全部を見せられなかったか、
夫はそれも読んだが、勿論公判では全てを語る事など出来なかった‥‥のか、
と言う事です。

夫が何故通夜にも葬式にも行かなかった(行けなかった)のかについては、その裏にどうも事件総体の真相にも関わる、相当な事情があったのではないか‥‥と考えています。


158 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/02/03 20:52

野間宏の本では例の次姉の婚約者(戸籍上は夫)の裁判証言も面白いというか不気味だったねぇ…

なにしろ最愛の人の死なのに遺書もよく見てないし、通夜にも葬式にも行っていない。
いや、行っていないというのなら「ショックで行けなかった」といういいわけも成り立ちそうだが、なにしろ弁護人が「通夜には当然行ったんでしょう?葬式にも」と聞くと
無言のまま答えずさらに突っ込まれて「忘れた。バカだから」というのだから、
驚きを通り越して不気味な感じがする。

次姉が亡くなった原因や、遺書・葬式などの件になると記憶喪失状態になるのに、
夫なら当然の権利のはずの次姉の相続分の分配などは「まったくありません」と断言し、相思相愛で肉体関係はあったと証言している。 ちなみに婚約者は被害者の長兄の同級生。

出廷の前になぜか警察官が婚約者の家を訪ねて来ており、「一体なんの話をしに行ったんだ」と、弁護人が迫る場面もあった。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/4.html

503 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/02/27 21:06

二人は、事件の年の秋に婚約し12月には入籍しているが、それはYH氏の勤務先(米軍ジョンソン基地)の税金控除で有利というためで、結婚式も挙げていないし同居もしていない。 善枝さんの喪が明けたあとの翌年の秋に挙式予定だったらしい。

つまり戸籍上では夫婦だが、実質的にはまだ婚約中という状態だった。
ちなみに法廷でのYH氏は、仮にも結婚する予定で肉体関係もあった仲なのになぜ通夜や葬式に行かなかったのかと弁護士から追及され、

「まあ、死んで、たまげて行きましたしね、で、とにかく戸籍上では、そういうふうになってたけれども、まだ結婚式もあれだったりして、それ以上深く…」

と答え、他の質問にも

「バカだから忘れちゃう」

との返事を繰り返してまともに証言せず、弁護士は「事実上の証言拒否」と
苛立ち、傍聴していた女性の一人は 「彼女のお墓はY・登美恵となっていますよ!」と叫んだ。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/4.html

737 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:02/09/11 20:37

次姉の婚約者も、彼女が自殺したとき中田家の秘密と事件の真相の一部を知らされたのだろう。

愛する婚約者の通夜にも葬式にも行っていないのだから、よほどのショックを
受けたのではないだろうか?(婚約者も二審では健忘症状態)

戸籍上は夫だったわけだから、当然彼が喪主だったはず(次姉の墓の姓は彼の苗字になっている)。

喪主が葬式にも出ないとは、普通考えられない。特に昔の農村ではなおさら。
「夫はあまりのショックで式には出られない」とでも説明したのだろうか?


306 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/02/15 19:51

次姉の婚約者Y氏について、その裁判証言があまりにも不可解だったので
大いに疑惑が向けられることになったわけですが、でも本当にY氏が共犯ならば、
あるいは最初から犯行を知っていたのなら、通夜や葬式には行くと思いますよ。

つまり、次姉の死の床で、彼は家族からなんらかの秘密を打ち明けられ、そのショックで通夜・葬式に出ることができなかった。

裁判では嘘を言うと偽証罪になってしまうので、秘密を暴露できない以上、Y氏は沈黙せざるを得なかった、ということですね。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/4.html


268 名前:本当にあった怖い名無し:05/01/31 00:33:08 ID:EbJlKciq0

自殺した次兄がカレンダーの裏に走り書きしていたという「遺書」:

  私の生きる道はどこにあるのかしら。

  社会は流れ、私も流されるとしたら、余りにもさみしい夜になるでしょう。

  あすの社会もきょうの社会も余り変わりはないけれど、
  私はただ私の社会の中にきょうという日を見つめて生きるのです。

  そしてまた、私は古いものの中にいつまでもいいものがあることを願いたい。

  いまを生きるのでしょう。
  けれどもこれは余りにも遠すぎた夜かしら。

  すべてが終わり、すべてが夢だったのね。

はたしてこれが「遺書」といえるのか疑問だが、盛況氏の推理にあるように、
これは次姉の遺書の文面を書き写したものではないだろうか?

妻子ある33歳の男性の遺書とすると奇怪至極だが、ノイローゼ状態だった
24歳の女性の辞世の詩とするならば、そう違和感はない。

「さみしい夜」と「余りにも遠すぎた夜」

昭和38年5月2日の深夜、佐野屋の前に立ち、恐怖に震えた次姉ならではの
表現のように感じられてならない。
http://flowmanagement.jp/sayama-old/2ch/10.html  

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コメント
 
01. 2010年4月07日 20:51:29: MiKEdq2F3Q

『となりのトトロ』

http://tvpot.daum.net/my/PlaylistClipView.do?ownerid=UASw.Gq1yoY0&playlistid=34617&clipid=5557534
http://tvpot.daum.net/my/PlaylistClipView.do?ownerid=UASw.Gq1yoY0&playlistid=34617&clipid=5557520&page=1&lu=m_frm_pview_clip_5
http://tvpot.daum.net/my/PlaylistClipView.do?ownerid=UASw.Gq1yoY0&playlistid=34617&clipid=5557505&page=1&lu=m_frm_pview_clip_4

http://tvpot.daum.net/my/PlaylistClipView.do?ownerid=UASw.Gq1yoY0&playlistid=34617&clipid=5557490&page=1&lu=m_frm_pview_clip_3
http://tvpot.daum.net/my/PlaylistClipView.do?ownerid=UASw.Gq1yoY0&playlistid=34617&clipid=5557478&page=1&lu=m_frm_pview_clip_2
http://tvpot.daum.net/my/PlaylistClipView.do?ownerid=UASw.Gq1yoY0&playlistid=34617&clipid=5557465&page=1&lu=m_frm_pview_clip_1


『となりのトトロ』はモデルになったと言われている事件がある。

トトロの舞台となった所沢の隣町である狭山で昭和30年代に起きた"少女惨殺事件"である。 この事件を念頭において『となりのトトロ』を見てみると、大分印象が変わるというか新しい解釈、新しい発見がある。

 まず"トトロは子供にだけ見える"という印象だがサツキの同級生であるカンタには見えないなどの矛盾がある。そこで登場したのは"トトロは妖精のようなものであるから、死に近い人間が見える"という事だ。

 死期の近づいた老人が、先に死んでしまった家族を見るなど良くある話である(大概はもうろくしたと片されるがね)

 つまりサツキとメイは、あの段階で死期が近づいていたのである。

 結論から言うとメイは母親に会うために1人で病院に向かう最中に死んでしまったのである。

村の人たちの捜索で沼でサンダルが発見され、サツキは「メイのじゃない」と否定するが、実はあの段階でメイは既に水死していて、現実を認めたくないサツキがひきつった顔で「メイのじゃない」と言って走り去ってしまうという流れである。

 そして森の精霊であるトトロにすがり「メイがいなくなっちゃったの! お願い、メイに会わせて! きっとあの子、1人で泣いてるわ!」と言って、サツキは妹に会うため"自らの命を捨てる選択をする"

 そう猫バスとはこの世とあの世を結ぶ乗り物なのだ。物語中盤で登場した猫バスに、サツキが乗る事を恐れた理由も、ただ単に異様であるというだけでなく、「乗ってしまったらもう戻れない」と本能的に感じ取ったからであろう。

 その辺は、「凄い、木が避けてる!」や「みんなには見えないんだ…」のセリフからも、猫バスが実体の無い虚無の存在であると伺える。

 そして重要な証拠としてよく挙げられるのは、沼でサンダルが発見されたシーン以降、"作画からメイの影が無くなっている"のである。作画レベル世界一と言われるジブリがミスをするとも思えないし、何よりも「以降全て無い」というのは明らかに不自然である。

 そして自分が死んだ事に気づかずにさ迷っていたメイの元に、冥界の乗り物である猫バスとともにサツキが迎えに来て、姉妹は再会する。

 そうしてサツキとメイは母親の入院する病院を訪ね、メイが渡したかったトウモロコシを渡すのだが、このシーンでも不自然なポイントが2つ。

 何故サツキとメイは、お母さんに直接会って渡さなかったのだろうか?
 そして何故、病室の窓の外目の前の木に座っていた2人を、両親は見えなかったのか?

 ………ふと風が通り過ぎ、両親が窓の外を見ると、「おかあさんへ」と書かれた紙と共にトウモロコシが置いてあり、母親がふと窓の外の木を見つめ(絵では目の前に座っている)、「今…サツキとメイが笑ったきがしたわ」

 もうここまで来ると反論の余地が無い。


 そして更に悲劇としては、母親の入院している七国山病院というのは、八国山病院という実際にあった病院がモデルなのだが、その病院は"不治の病の末期患者や、精神疾患者を半ば強制的に収容していた病院"だったそうだ。明らかにお母さんの方も先は長くない…。

 映画はその病室のシーンでエンディングを迎えるが、その後に父親が知る事実と悲しみを考えればあそこで終幕なのがベストだろう。

 エンディングと共に流れるハッピーエンド風味の映像…

「サツキとメイが家に帰ってきて、おばあちゃんと再会し抱き合う」、

「お母さんの病状も回復して家に帰ってくる」、

「そして家族4人で幸せに暮らす」


 この流れを加味すると、このエンディングは全てが終わってしまった後、1人残されてしまったお父さん(作家)が、こうだったらよかったと想像する「最良の可能性」だったのであろう。
http://mp.i-revo.jp/user.php/ewalrqsy/entry/329.html

『となりのトトロ』の舞台は狭山丘陵が広がる、埼玉県所沢市松郷地区。当時、所沢周辺は結核患者の療養地であった。

「トトロ」の由来は、宮崎駿監督の知り合いの女の子(姪?)が「所沢」と言う地名を言えず、「トトロザワ」と言ったことに由来する。

2人の子供の名前はサツキ→「皐月」、メイ→「May」でいずれも5月を表している


さつき とメイは途中で本当は死んでしまい、それを父親が想像で生きていたらこうなっていて欲しかったと書いたのがとなりのトトロであり、作中でずっと書いていたのはその原稿。

さつきとメイがトトロと一緒にでかい木の上で何か吹いていたシーン、

あそこでお父さんがチラッと木を見やり、少し満足げにして書類に向かう。

確かに違和感あり。父の想像を臭わせます。


まず、トトロというのは死神、冥界への使者であり、トトロに会った人は死が近い、もしくは既に死んでいるという裏設定。

『トトロ』とはサツキがメイに「トロルのこと?」と聞き直した様に、トロルをモデルにしています。

トロルは地方によって異なりますが、死神であったり、気に入った者には幸福をもたらしたり、またある時は子供をさらうと言われています。


そして母親の入院していた七国山病院のモデルとなった八国山病院という実際にあった病院は末期患者や精神疾患患者を収容する場所であった。

当時の所沢周辺は実際に結核患者の療養地でした。


母親の病気は結核であるとウィキペディアにも記されています。
結核は1950年までは日本人の死亡原因のトップ。となりのトトロの時代設定は1950年代・・・


メイが行方不明になって池でサンダルが見つかる騒ぎが途中でありますが、
あの時既にメイは池で水死しており・・・

「これ・・これだよ」

老婆の差し出したサンダルを見てサツキは凍りついた。それはメイの物であった。
しかし、サツキはぐっと唾を飲み込み、言った。

「メイのじゃない・・・」


(確かに引きつっていました。)


今ここで本当の事を言えば、間違いなく老婆は卒倒するであろう。
老婆の身を思い、サツキは嘘をついたのだった。
妹の死を悟り、その場にしゃがみ込むサツキ。

(メイのサンダルの詳細。

ピンクで、つま先の方が2〜3本のひもで、踵にも一本あるタイプだ。
沼から出てきたのは、つま先が2本、踵ヒモもあるタイプだ。そしてピンク。)


メイの物ではないと聞き、安堵してしゃがみ込む老婆。
そしてサツキは気付いた。メイは病院へ行こうとしていた。
ならばメイの魂は未だ病院を目指して迷子になっているに違いない。

「このままではメイの魂は永遠に迷子のままになってしまう・・・」
「いや、もしかしたらどこかで生きているかも知れない・・・」
サツキは決心した。かつてメイがトトロに会ったという場所で語りかけた。

「お願い・・・トトロに会わせて!!」
木のトンネルを進むサツキ。その先には以前は無かった道があった。
サツキの言葉が冥界への扉を開いたのだ。
そしてその道の先には冥界の番人、トトロがいた。


「トトロ、メイが迷子になっちゃったの。探したけど見つからないの。
お願い、メイを探して!今頃・・・きっとどこかで泣いてるわ・・・
どうしたらいいか分からないの!」

「みんなには見えないんだ・・・」

というセリフから分かるように、さつきは自ら冥界への扉を開け、
魂を運ぶ乗り物である、猫バスに乗ってメイの元へ向かったのです。
(ネコバスの行き先表示の札に「墓道」が出てきているのも暗示・・・)


さらに病院のシーンでは母親が

「今、あの木のところで、さつきとメイが笑ったような気がした」

と言う。なぜ母親だけに二人の姿が見えた気がして、尚且つ二人は近くまできているのにも関わらず、実際には両親に会わずにメッセージ付きのトウモロコシを置いていったのでしょうか?

それは二人が既に死んでいるからです。

そして、父親は全く気が付かなかったのに対し、母親だけが死んだメイとサツキの気配に気づいたのは、母親にも死期が近づいていることを現しています。


(生きている子供のことについて、「あの木のところで・・・」なんて言うでしょうか?

そして、母親に会わなかったのは心配かけまいとして・・・と言うのであれば、なぜメッセージ付きのトウモロコシは置いていったのでしょうか。

メイとサツキは父親にはトトロのことも猫バスのことも揚々と話していました。
「心配をかけまいとトウモロコシだけ置いて帰った」というのは、不自然すぎます。)


母親の発言に対し、父親も「案外そうかもしれないね。」

もし生きているなら「こんなところにいるわけがないだろう。」

が自然な台詞です。否定しないのは、父親は二人が死んでいるのを知っているからです。


・メイが行方不明になった後から、メイの影がなくなっている。

・最後のシーンでは全員が若返っており、実はあれは後の話ではなく、生前の昔のシーンをくっつけハッピーエンド風に仕立てただけ。 もしくはエンディングの歌が始まって以降は本編とは別の終わり。
(サツキの服装を見ると、スカートではなくつなぎのようなものを着ています。これは現実ではなく、父の想像かも知れません。)


・所沢市に隣接する狭山市で起きた、女子高生が殺害された狭山事件をモデルにしている?

サツキ=皐月
メイ=May=五月
狭山事件発生日が5月1日

狭山事件では誘拐された女子高生の姉が犯人との交渉に参加している。

トトロの舞台は狭山丘陵が広がる、埼玉県所沢市松郷地区(所沢市)。


ここまでなら「偶然5月だった」という解釈も出来るのですが、宮崎駿監督は左翼としても有名な方です。ググれば一発です。彼が学生運動に参加している時代に狭山事件は起きています。

(どなりのトトロと同時上映された「蛍の墓」もメインテーマは妹の死でした。)


つまり、宮崎駿監督がこの事件について精通している可能性は高く、これを皮肉って『となりのトトロ』に盛り込んだのでは、という見方も出来るわけです。

一見平和で高度経済成長によって最先進国となった”完璧な日本”が『となりのトトロ』の表向きな姿であり、しかしその裏には人種差別や理不尽な国家権力という巨悪が潜んでいるのに、なぜ気がつかない?そんなメッセージの可能性はないでしょうか。

「となりのトトロ」の劇場での上映が、戦争によって死んで行く悲しい兄弟の話「火垂るの墓」と同時上映だった点からも、何か通じるものを感じます。


さつき、メイ・・・被害者、子供、無垢な存在

トトロ・・・闇、巨悪、日本、一見して平和的で良い子(国民)の味方
しかしその真の姿は・・・。

お父さん・・・監督

視聴者・・・日本国民、気づかない人達

・エンディングでメイちゃんとばあちゃんが抱き合って泣いてるシーンを無視。

→最後はおばあちゃんも死んじゃったんだろうな

魂になってやっとメイ達と会えたんだね
自分達の死に気づかずに家に帰るラストシーン


・もし本当にメイとさつきが死んでたとしたらラストの病院のシーンでお母さんが
『退院したらあの子たちにめいいっぱい甘えさせてあげたい』なんて言わないんじゃないかな?

→母はまだ知らされてないのさ

病人だからね
父は知っていたが心配させまいと・・・。
もしくは、末期患者が入る病院にいる為、既に正気ではなく記憶が曖昧になっているのかも。


・婆ちゃんが死んだとしても、
どうしてラストでかんたとさつきが話せているか説明がつかない
ってことはかんたも死んだのか?

→カン太は生れつきの霊媒体質なんだよ


(ウィキぺディアから抜粋)
最期のシーンで「サツキとメイに影がない」ことについて、都市伝説として「トトロは死神でサツキとメイは死んでいる」という噂が流布している。
これについて、スタジオジブリがブログで「サツキとメイの影は省略しただけなので、トトロは死神でもないしサツキとメイは死んでいない」と一蹴した。


この見解はスタジオジブリの総意であって、宮崎駿の見解ではないことに注意したい。製作発表の時、宮崎監督はこの映画は「サツキとメイの魂の開放」といった


今トトロのCDを見てみたら、さつきとメイが合体したようなひとがトトロの横に立ってました・・・

その場面って猫バス待ってるときの場面なんですけど、バストップの影しかなく、メイ&さつきの人の影なんかありませんでした(/´△`\)


CDの歌詞カードのところの裏見てみたら、また絵がありました。

そこにはトトロの世界へ行くときの穴を見ているメイの後ろ姿なのですが、そのメイにも影がありませんでした(T∇T )( T∇T)

死んじゃったんですね><残念です・・・これがほんとじゃないことを祈りつつ・・・娘には教えないでおきます;;ぁぁぁぁこわい><(@_@;)


たぶん香恋さんと同じCDありました〜〜〜!!ほんとにそのとうりです( -ノェ-)まじでこわい・・・・しかも、そのCDの中にある、「まいご」という曲の歌詞がどうしてもおかしいのですが・・・・・・ひまなかたは少し長いですがお付き合いのほうよろしくお願いします( *・ω・)ノ

今からまいごの歌詞を(問題の場所まで)下に出します。


さがしても みつからない まいごの子
はなをつまみに いったの
ふりむかないで トンボをおいかけていったのかしら
おばけが出てきたら どうしたらいいの
かくれんぼだーいすき
なきむしのあまえんぼ
へんじして おねがいだから きえてしまった小さな子
(中略)
どうしよう こまったわ
のはらにひとりきり かえってきておねがいだから
わたしのだいじないもうと
どこかしらどこかしら


と書いてありました。これは死んでしまったメイの魂を探しに行くさつきの、あのシーンの話だと思います。これはまいごということで聞くのよりも死んでしまっているという設定のほうが絶対に自然だと思いました。
こわいですねぇ;; くれは

宮崎さんはヒットするまでさまざまな作品をテレビ局などに出されてたって聞きました

その中には、「魔女の宅急便」や「天空の城ラピュタ」など、いまでは誰もが知っているようなジブリ映画の“もと”となった作品も多くあったそうでもちろんその中に「となりのトトロ」もありました

その“もと”の作品ではトトロが子供をさらうおばけのような存在であったんです。

ですからこの作品を“もと”にして子供向けでもあるこの映画を作るにあたって、
その内容ではいけない、子供でも楽しめるように、と宮崎さんが改良されたのが
いまの「となりのトトロ」なんです。

セリフとか、事件とか私は分からないけど、根本的に間違っているところは
“裏設定”じゃなくて昔のとなりのトトロつまり“原作”だったというところだと思います。


たぶん、宮崎監督は、狭山事件のことをみんなに知らせたかったんじゃないのかなhttp://houtobega-eien.at.webry.info/200705/article_17.html


[ 作中の違和感 ]
・ラストの病院の木のシーンで、母親にメイとサツキの姿が見えなかったのは何故?

・物語が進むにつれて、メイとサツキから「影」が消えていく

・「トトロのテーマはサツキとメイの解放なんです」 と宮崎監督自身がコメント

     →「解放」の意味するものは!?


・始まって15分ぐらいに荷物の食器を片付けている後ろの箱に狭山茶って書いてある。

     →狭山事件(※注2)を連想させる描写?


・家の2階に上がる階段付近に違和感がある

     →「階段が存在するはずの空間に何もない。

     →「雨戸の外には「階段」があるはずの家の壁が見えず、外の景色が見えていなかった?

     ※作画上のミスかもしれないし、意図的なものかもしれない。

・メイが描いたトトロの絵が、どう見てもトトロに見えない。

・池で発見されたサンダル、メイのじゃなければ一体誰の物?

・ネコバスが行き先表示するときの「めい」になる前が「墓道」

[ 狭山事件との奇妙な共通性 ]

(狭山事件)
5月1日の日が沈んだころ、被害者(当時16歳)が通学に使っていた自転車がいつもの場所にもどっていた。本人はすでに死んでいるのに。外は雨。サドルがぬれていない。いったい誰が・・・。そのころ長男が被害者を探しにいく。脅迫文には「西武園の池に沈める」とあるが、実際はちがった。

(作品)
メイとさつき、雨の中、バス停で父を待つ。日がくれる。自転車に乗ったレインコートが通りすぎる。トトロとネコバスがやってくる。西武園は、まさにトトロの森のすぐそば。
______________


(狭山事件)
死体発見現場は川にほどちかい茶畑の農道。まるで棺を埋める穴のように掘られた穴に、儀式を行ったかのごとく埋められていた。
(作品)
耕された畑で儀式のシーン。新しい芽が顔を出す。三人のトトロと中を舞うメイとさつき。
______________

(狭山事件)
真犯人と巷でうわさされた長兄は、東京タイムスで勤めた経験がある。また、目白の経理学校に通った経歴がある。

(作品)
徳間書店←東京タイムス最後の親会社。宮崎←学習院大政経学部(経済)宮崎は姉と同い年、カンタとさつきは同い年。

______________

(狭山事件)
被害者の実母は精神病院に入院し、10日後急死している(脳腫瘍とのこと。10日で脳腫瘍が急変することはない)。その時、被害者の年齢は5〜6歳。姉12〜13才。病院は小平市(狭山から15km程度)。兄弟は6人だが、2人は特に仲良かった。母なきあとは、まるで姉が母のようであった。姉は、犯人との接触を買って出るほど、主体的にかかわった。

(作品)
自宅所沢から小金井を歩いて通勤したことがある。逸話となっている。位置関係が平行移動の関係。「3時間」を確かめたのか・・・。母のようにお弁当を作るさつき。トトロに会いに行くさつき。

______________

(狭山事件)
被害者には、同居する2人の兄と1人の弟がいた。被害者の死後、まもなく、後を追うように姉は命を絶った。妹と2人でいるときが幸せだったと書き残して。目撃情報によれば、3人の男と車があった。長男は、顔面神経痛と脊椎の病気を患っていた。車が足であり、顔であったようだ。次男はしばらくの後、自殺。3男は養子にだされ、家には長男が残った。

(作品)
3人のトトロと2人の姉妹とお父さん、お母さんの物語。トウモロコシを命がけで母に渡そうとするメイ。「おかあさんへ」「いもうところし」。遊んでくれない父を横目に、トトロの寝床に迷い込むメイ。トトロはメイとさつきにしか見えない。決して怖くないトトロたち
http://darknarice.jugem.jp/?eid=656

■【となりのトトロ】作中との共通(?)点

(1)トトロの舞台が、狭山丘陵(埼玉県所沢市松郷地区)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  事件の場所と酷似。

  実際に、時代設定の1950年代の所沢周辺は結核患者の療養地。


(2)迷子をイメージした歌詞…少女が行方不明になる

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   参照⇒となりのトトロ歌詞

  ●「誰かがこっそり小路の木の実埋めて」

   ⇒事件では、少女が農道に埋められていた。

  ●「雨降りバス停、ずぶ濡れオバケがいたら」

   ⇒事件当日は大雨だった


(3)入院中のお母さん

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  ●七国山病院のモデルとなった、八国山病院は実在した。

  └末期患者や精神疾患患者を収容する場所であったらしい。

  ●お母さんの病気は結核

   ⇒事件の被害者の母が入院10日後に亡くなっている


(4)サツキとメイの関係

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  ●5月

   ⇒事件があったのも5月

  ●姉が妹を探す

   ⇒事件では、被害者の姉が犯人との交渉に参加した

  ●お父さんとサツキは似ているがメイは似ていない

   ⇒被害者とその姉は異父姉妹だった


(5)メイの靴が池に浮いていた

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  事件の脅迫文に「子供は○○池の中に死んでいるとある」

  とあった。


はい。

ここまでが予備知識。

あ、ちなみに、「トトロ」の名前の由来は、宮崎駿監督の知り合いの女の子が「所沢」と言う地名を、「トトロザワ」と言ったこと。らしいです。
http://d.hatena.ne.jp/hachi-88/20080521

6 :名無シネマさん :2006/11/15(水) 00:15:19 ID:UMZDBDtt
たまにめいちゃんの陰がなくなるとか
お父さんがうつろな目をするのがヒントだとか
あそこに引っ越したのは子供が死んじゃったからとかいろいろあるらしい。

友達の友達が昔ジブリに問い合わせたらよくわかりましたねって言われたってww


9 :名無シネマさん :2006/11/15(水) 01:34:33 ID:F+vfE66h
あの田舎の村が、あの世なんだよね

死んだ姉妹がお父さんお母さんに、会いに行く物語なんだ
お父さんは想像で作り出した人物だけど、ラストのお父さんは本物

他にも色々ある


10 :名無シネマさん :2006/11/15(水) 01:40:44 ID:F+vfE66h
>お父さんは想像で作り出した人物だけど
ここは、ちょっとニュアンスが違ったかも、実在のお父さんが死んだ娘を想う気持ちが作り出した生霊

お父さん本人は気づいていないけど、それが死んだ娘と交流している姿

14 :名無シネマさん :2006/11/15(水) 02:18:36 ID:F+vfE66h
あの村が、あの世だ バスだけで外界とつながっている

だから、村の住人は死者


18 :名無シネマさん :2006/11/15(水) 02:41:31 ID:MQUC3Vw/

あの土地を舞台にしたのは狭山事件と無関係ではないんだよね。。。
狭山事件は60年代起きた少女誘拐殺人事件で有名な冤罪とされる事件。

宮崎監督は事件のことをかなり調査していて自分なりの解釈をトトロに盛り込んだ。 映画の景色は事件当時の狭山そのものだし。

犯人は被差別部落の青年とされ結審したけど、冤罪を訴える人々は犯人は実は被害者の… これ以上はやばすぎるからやめとく。。。

カンタとおばあさんは部落の人だよね

ちなみに狭山丘陵には七国山病院のモデルになった病院もある。
http://www.geocities.co.jp/playtown/1541/totoro-tour.html

見に行くとサツキとメイが登ってた木が実際にあるんだけど


32 :名無シネマさん :2006/11/19(日) 00:57:51 ID:AE8TDUWT
村の人みんな死んでて、糸井お父さんだけは生きてるってこと?
独りごと言いながら暮らしてるってこと?

33 :名無シネマさん :2006/11/19(日) 02:07:14 ID:TBnuipdP
そうらしいね
かなり寂しすぎる


36 :名無シネマさん :2006/11/23(木) 01:35:37 ID:OGFX4Xko
ラストでは、娘のサイン入りのトウモロコシが病室の窓に置かれていたけど、
どうみても怪奇現象だろ。

それに驚くことなく受け入れる両親とそれを外から眺めてる半透明の娘達。


37 :名無シネマさん :2006/11/24(金) 18:19:12 ID:BiqYOeu/
メイが迷子になった後から メイの影が無くなるらしい (見てないけど
つまり迷子になったときに死んだ


49 :おせち(1d):2006/12/27(水) 01:31:42.32 ID:VGZZ7TWnO
七国山病院

実際には八国山病院という病院が実在して、そこは末期患者を収容する所とか

メイはあの池で水死したんだろ?
http://blog.livedoor.jp/news2chplus/archives/50630935.html

投稿者: ゲストユーザ on 2010年02月11日(Thu) 03:11 JST

このトトロという話において、子供の見る映画として、入れるひつようのない描写(池に浮いたサンダル、病気の母親)があるのはどうしてなのでしょう……?

私には何かしら死をイメージさせているとしか思えません。
故に、この都市伝説はあながち間違っていないようにかんじるんですよね……
http://flowmanagement.jp/sayama/article.php/20090505183024460


02. 2010年4月07日 22:09:40: MiKEdq2F3Q

名張毒ぶどう酒事件


 事件が起きた昭和三十六年、葛尾の住人たちは閉鎖的ともいえる共同体の中で暮らしていた。奥西元被告の有罪を疑う人々の中には、当時の集落の閉鎖性が彼を犯人に仕立てあげたと主張する人もいる。捜査段階では、村人がこぞって奥西元被告を犯人にするために警察に協力したというのだ。ジャーナリストの青地晨氏は、次のように書いている。

 「もし勝が犯人でないと言明すれば、部落のなかに真犯人がいることを意味する。せっかく惨劇の傷あとが、たとえ表面的にせよ癒されているのに、勝の無実をいうことは、部落から新たな縄つきを出し、部落の平和を攪乱することに結びつく。これは部落の人びとが絶対に避けたいことであり、すべてに優先する心情なのである」(「現代」五十一年四月号)

 奥西元被告が自白をひるがえした後には、彼の家に石が投げられ、家族の夕食中に住民がなだれこみ「土下座してあやまれ」と迫ったりもした。

また奥西元被告の家の墓地は、共同墓地から追い払われ、墓地に隣接した畑の中にぽつんと建てられているという。

つまり葛尾の集落は、奥西元被告とその一家を“犠牲の山羊”にすることで、平和と団結を保っていたというのである。
http://www.e-net.or.jp/user/stako/DE/dengon-200602c.html


90 名前:名無しさん@十周年 mailto:sage [2009/06/10(水) 02:04:08 ID:NVOVQXT80]

事件直後、この部落でこんな事件を起こすやつは奥西しかおらん、と言われた男

事件が起きたのは十数世帯が住む小さな農村部でもそこには十数組の不倫カップルがいてドロドロの愛憎関係だったと判明した

つまりそういう事件だったんだよ、これは事件の背景にあった泥沼不倫の愛憎劇がいつの間にか忘れられてしまい「ぶどう酒に毒を入れた動機が不明」なんておかしな理屈が登場するから呆れる


92 名前:名無しさん@十周年 [2009/06/10(水) 08:49:57 ID:SYRkZGmx0]

この時代の農村なら夜這いは当たり前で、ドロドロでもなんでもない。

懇親会ってのも乱交パーティーだろうし、もりあげるためのドラッグ代わりに飲んだ

農薬の量を間違えただけだろ。

動機面で材料となる部分を、過去ログから引っ張ってきたよ。

4.奥西勝は、当初、疑わしい人物として、妻ではなく、奥西フミ子の名前を挙げていた。

理由として、次のエピソードを挙げている。
「フミ子さんが泣きながら『かくまって』とうちに逃げ込んできて、義母(コヒデ)と喧嘩をして追われたので、逃げてきたと言って、家に戻ろうとしないことがありました。3月23日か24日頃、寝床で妻が『今日もフミ子さんとコヒデさんが喧嘩をして、フミ子さんは、川へはまって死ぬか、薬でも飲んで死んでしまいたい、と言っていた』と話したことがありました。」

江川氏著書pp146より参考になる箇所を引用しておこう。

フミ子の夫楢雄も、翌4月1日の警察の取り調べの中で、「このような事件を起こすような理由のあると思われる人」の「第1番目」として妻フミ子の名を挙げている。

姑のコヒデとの折り合いが悪く、コヒデが時にはフミ子に手を上げたこと、
そうしたことがきっかけでフミ子は宗教団体に通うようになったを挙げ、
「長年いじめられた私の実母に対する復讐のためではないか」という。

北浦ヤス子は奥西勝死刑囚だけでなく「三奈の会」会長の奥西楢雄とも不倫関係
にあったという話もあるんやな。それで妻のフミ子(事件の被害者)から別れる
ように迫られていたと。つまり奥西勝と奥西楢雄は全く同じ状況にあったらしい
んやな。


北浦ヤス子は勝と別れるから楢雄に妻のフミ子と別れるように頼んでいたとも。
一体この村はどうなってるのか何が何だか分からん。

147 :名無しさん@十周年[sage]:2009/06/11(木) 23:14:05 ID:PPlzp7B60

ぶどう酒の購入を決めたのは、当日の朝。実際に買ったのは、Rさん

 ◆ぶどう酒が懇親会に出ることが決まったのは当日の朝。

 ◆決めたのは三奈の会会長で農協に勤めるN氏で、農協職員のRさんに購入を命じた。

Rさんは、H酒店でぶどう酒を購入。N氏宅に運んだ

 ◆Rさんは村に飼料を運ぶため農協に立ち寄った車に便乗し、H酒店で清酒2本とぶどう酒1本を買い、

 ◆N氏宅に運んだ。受け取ったのはN氏の妻・F子さん(事件で死亡)。

午後5時20分頃、公民館に(奥西)勝さんが運んだ
  その後、隣家の(奥西)勝さんがN氏宅に来て、5時20分ごろ公民館に運んだ。

事件直後の供述では、午後4時頃に到着(※)

 ◆事件当初Rさんや酒屋など運搬に関わった村人の供述では、ぶどう酒がN氏宅に届いたのは4時前。

 ◆N氏宅に1時間以上も置かれていたことになっています。

 ◆つまりN氏宅でも犯行機会があったのです。

以上、
http://www5a.biglobe.ne.jp/~nabari/mujituda-2.htm より引用

(※)
事件発生後しばらく経ってから、住民の証言が申し合わせたかのように一斉に変わる。
新証言により、N氏宅での犯行機会がなくなり、奥西勝だけが犯行機会があったとされてしまう。

 
この事件が深刻なのは、奥西勝氏が冤罪だった場合、「部落住民の誰かが真犯人」だということ。

そして、部落の住民が、奥西勝氏を陥れるために、「偽証」したことが、判明してしまうということ。


そもそも、事件直後の住民の供述によれば、奥西勝氏による犯行は物理的に不可能であり、
むしろ、毒物の混入は、N氏宅で行われた可能性が高いとされた。


ところが、事件から2週間以上経ってから、「住民の供述が一斉に変わった!」
すべての供述が、奥西勝氏の犯行を示すかのように、置き換えられたのである。


一審では、供述の変遷等が疑問視され、無罪判決。

無罪判決を受けた奥西勝氏は、葛尾部落に戻ったが、部落中から嫌がらせを受けたという。

・(奥西勝氏の)家には、石が投げ込まれ、
・家族の夕食中に住民がなだれこみ「土下座してあやまれ」と迫ったりもした。
・母親が、部落民の暴行を受けることもあった。
・家の墓地は、掘り返された挙げ句、部落の外に放り出された。


二審では、一転して、死刑判決が下る。
部落住民は、大喝采したという。


(奥西勝氏が冤罪かどうかはともかく、)
部落民は、奥西勝という生贄を差し出すことにより、部落の安定を守ろうとしたと言える。

 
150 :名無しさん@十周年[sage]:2009/06/12(金) 03:15:41 ID:66xOufbv0

「住民全員が犯人だった」というオチかな?

146 :名無しさん@十周年[]:2009/06/11(木) 23:10:35 ID:PPlzp7B60

名張市葛尾の住民が、奥西勝被告人の家族に対して行ったとされる行為を整理すると、

「彼(奥西勝被告人)の家に石が投げられ」


「家族の夕食中に住民がなだれこみ「土下座してあやまれ」と迫ったりもした。」


「奥西元被告の家の墓地は、共同墓地から追い払われ」


「(奥西勝被告人の)母親にまで暴力を振るった」


各所に書かれていることが事実ならば、名張市葛尾の住民が行った行為は、完全な犯罪行為である。
警察は、見て見ぬふりをしていたのか?

166 :名無しさん@十周年[]:2009/06/12(金) 21:51:09 ID:y7EKm3SC0

TVで特集をやっていた
ここの地区民は不気味で、インタビューで死刑囚について
酒を飲みながら、ヘラヘラと笑い語っていた

167 :名無しさん@十周年[]:2009/06/12(金) 21:52:40 ID:9vmW7nXk0

一審では、供述の変遷等が疑問視され、無罪判決。

無罪判決を受けた奥西勝氏は、葛尾部落に戻ったが、部落中から嫌がらせを受けたという。

・(奥西勝氏の)家には、石が投げ込まれ、

・家族の夕食中に住民がなだれこみ「土下座してあやまれ」と迫ったりもした。

・母親が、部落民の暴行を受けることもあった。

・家の墓地は、掘り返された挙げ句、部落の外に放り出された。


二審では、一転して、死刑判決が下る。
部落住民は、大喝采したという。

196 :名無しさん@十周年[]:2009/06/13(土) 02:15:13 ID:99qpjRPw0
 
 再審棄却時の部落民の反応からすると、

 奥西勝氏が獄死したら、部落総出で祝杯を上げるんだろうなあ。

 なんだか、怖いよ。
http://www.unkar.org/read/tsushima.2ch.net/newsplus/1244500265


さてこの日は当時取材し「ブドウ酒殺人事件公判に潜む謎」という記事を書いた富山さんの講演でした。

この記事もとても興味深く、「この地域は非常に開放的に男女の交際が行われていた」そうで、「既婚、未婚者の男女関係が半ば公然と行われていた」そうです。

事実「地域内のほかの人たちの同じような関係、つまり誰と誰が関係があったとか、現在までもどうだとか、三角関係、四角関係といった具合に供述している」と「検察側が証拠として提出した供述調書」の中に書かれている」そうです。

で、そういう中でこの容疑者だけが「三角関係の清算」というのは動機としてちょっとおかしいんじゃないの?ということなんですね。

で、一番印象に残ったのは、(これはまた聞きだそうですが)当時の主任弁護士の方の話です。

「彼は無実だよ。だって2、3日前に薬局でコンドーム買ってるんだよ。これから愛人と妻を殺そうと計画している人間がそんなことするわけないでしょ」
といっていたそうです。
http://blog.iwajilow.com/?eid=687003


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この怪奇事件

1 名前:きち 投稿日: 2004/01/12(月) 21:07

ご存知の方も多いと思います。大分昔の事件ですが、ある(東北だったかな?)村でのこと。その村の風習で結婚式の日、初夜の前に新郎の父親と新婦が結婚式場の会場で交わるという儀式があったそうで。

もちろん、ついたての向こうで行なわれるのですが、その事件のとき4時間たっても2人はでてこない。

しびれをきらした新郎が「親父、いいかげんにしろ。」と叫び、出席者もいらいらしてついに覗きにいったそうです。

そうしたら、2人は、裸で抱き合ったまま死んでいたそうです。

結局、死因もわからなかったそうですが、私もいろいろ事件について考察するのは好きなのですが、この事件2人とも亡くなったというのは心中なのでしょうか?
その日以前から2人は関係があったのでしょうか?

父親が仮に腹上死したとしても花嫁が死んでいるのはおかしいですし、皆さんの推理はどんなものでしょうか。

大体、この村の新郎の気持ちは全般にどのようなものだったのでしょうか?

中には、結婚後も父親と関係が続くようなこともあったと思うのですが、どんなものでしょうね。

母親の嫉妬とかはなかったのでしょうか?色々気になります。

まあ、夜這いなんかも今の常識では考えられないことですし、その時代の常識がそれが当たり前だと思えばそうなのかもしれませんが。皆さんの思ったところをお聞かせ下さい。

2 名前:吉之助 投稿日: 2004/01/13(火) 00:04

この事件は私も永年、気になっているのですが、如何せんかなり古い話(明治16年)なのでソースも見当たらずよくわからないというのが正直なところです。ただ、こうは考えられないでしょうか?

そもそも仮の一夜で二人は死んだのではなく何らかの理由で死んでしまった。(それこそ心中かもしれません。)

きっと、その村では隠さなければならない理由だったのでしょう。

そこで、仮の一夜で不可思議な死を遂げたことにしたと・・・

奇習が残っていた古い部落ですから死因を隠蔽することぐらい口裏を合わせれば可能だったんじゃないでしょうか?

いずれにしろ、自然死とは考えにくく捏造された事件だったんじゃないかと思います。

4 名前:吉之助 投稿日: 2004/01/13(火) 23:32

この事件については資料がほとんど見当たらずなかなか調べにくいのですが
明治16年(1883年)1月24日宮城県宮城郡のある村で起きたとしか
私の持っている本には出ていませんでした。いつぐらいまでこの奇習が残って
いたかはわかりませんが、このHPでも取り上げられている名張毒ぶどう酒事件
(1961年)の起きた部落ではフリーセックスのような習慣があったらしい
のでかなり後年まで続いていたのではないかと思います。
繰り返しになりますが、義父が死ぬのは理解できるのですが(心臓麻痺等)
若い新婦まで亡くなる、しかも伝えられるところによると抱き合ったまま
死んでいたというのはやはり無理がある。警察が来たのは当然、その後で
現場にずっといたわけではない。式の参列者は親戚と村の有力者。恐らく
式が始まる前に既に二人は死んでいたのではないか?
その部落にとってその死はあってはならない死に方(心中?)で村の有力者
親戚が話し合って仮の一夜で不可思議な死を遂げたことにした・・・
的外れかな?


5 名前:猫田 投稿日: 2004/03/18(木) 22:52

大分前に読んだ本には、

義父が妻に内緒で囲っていた新婦と、それを全く知らない新郎が出会って付き合いだし二人が祝言を挙げる段で、急に新婦を息子に取られるのが嫌になり、閨で何らかの毒を飲ませて殺し、自分も後を追った…

とあったようです。出版社や著者は覚えていませんが、結構ありきたりな心中事件だったように思った覚えがあります。


9 名前:きち 投稿日: 2004/05/07(金) 23:18

すごいといえば、30年代の名張ぶどう酒事件の村のようなフリーセックスとかもすごいですね。

10年ほど前、仕事で3年ほど住んでいた僻地の村では近親相姦やら夜這いもどきやらで全校50人ほどの中学に知的障害の生徒が8人もいました。

でもこの事件も周りの人が何時間も待っていたというのが笑えますね。

12 名前:あんず 投稿日: 2004/05/08(土) 23:17

日本は近親相姦(父→娘)が多いのはどうしてだ?

と外国人に聞かれたことがあります。なんでも彼の周りだけでも
4人の日本人の女性がそういう過去があるそうです。

そういう話を聞くと病的で嫌悪感を感じますが、もしかしたら日本は昔そういう奇習が普通(と言ったら語弊がありますが)だったのかもしれないですね。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2776/1073909229/


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身近にある近親者からの性的侵入


 家族というのは実に不思議なものです。同じ屋根の下で暮らしていながら、夫婦の寝室では、性行為そのものが行なわれているのに、他の家族に対しては、その性行為は厳重に隠されてしまうのです。そして、性の匂いを拭い去った家族の生活が、延々と続いて行くのです。このような日常生活の中で、ときとして、親と子の間の性的な境界がゆるみ、本来なら夫婦の間だけで表現されるべき性欲が、子供たちに向かって滲み出していくこともあるのです。そして、それが性的虐待と呼ばれるものへと、少しずつ発展していくこともあるのです。まずは、その具体的な例として、私が目撃した出来事から書き始めてみたいと思います。

 あれは、真夏の暑い日のことでした。強い日差しを浴びながら、人通りのない住宅街を歩いていると、アパートの前の道路で、親子が水浴びをしているのに出会いました。ビニール製の小さなプールを作って、そこに三、四歳くらいの男の子がひとり裸で立っていました。そして、その周囲を三人の主婦たちが取り囲んでいたのです。主婦たちは、なにやら男の子のオチンチンに代わる代わる手を伸ばしては、それをいじくり回しながら、話に夢中になっているようでした。私が近付いて行くにつれて、その会話も聞き取れるようになってきたのですが、「将来これで女を泣かせるようになる」というようなことを言っているのが分ったのです。そして、彼女たちは卑猥な笑い声をたてていたのですが、途中で私が接近していることに気付くと、一斉に顔を伏せて黙り込んでしまいました。顔を下に伏せただけではなくて、強い羞恥心に駆られて、さらに私から顔をそむけるようにしているのです。真ん中にぽつんと取り残された男の子は、何が起きたのかまったく理解できずに、私が通り過ぎて行くのをぼんやりと眺めていました。

 これだけの出来事なのですが、ここにはいろんな意味が含まれています。まず、この主婦たちは、人通りがなかったとは言え、そこが道路という公の場所であるということを忘れるほど、話に夢中になっていたということです。おそらく、男の子のオチンチンという、まだ未発達ではあるものの、男性性器の実物を手に取って、それを品定めしながら、お互いに卑猥な冗談に花を咲かせていたのです。そして、性的な興奮も手伝って、周囲への警戒がおろそかになっていたのでしょう。おそらく三人の主婦うちの一人は、その子の母親に違いありません。自分の息子のオチンチンを、他の主婦たちにもいじらせながら、卑猥な会話によって性的な高揚感を味わっていたのです。もちろん、彼女たちは自分のやっていることの意味を理解してたのです。理解していたからこそ、恥ずかしさのあまりに、私を見るなり一斉に顔を伏せたのです。まさに文字通りに、人に顔向けのできないようなことをやっていたわけです。

 性的な虐待というと、どうしても変質者をイメージしてしまいがちですが、実際にはそんなことはないのです。加害者で、もっとも多いのは、見ず知らずの他人ではなくて、子どもの身近にいる、一見普通に見える人たちなのです。肉親だったり、親戚だったり、近所の人だったり、学校の先生だったりするのです。そして、加害者のイメージとしては、どうしても男性の加害者を思い浮かべてしまがちですが、女性がそんなことをするはずがないと言う間違った思いこみが世間にあるために、女性による虐待が見過ごされていることが多いのではないかと思われます。それに、男性が女性から性的虐待を受けたとしても、それは虐待であるとは受け取られずに、逆に「いい思いをしたじゃないか」と羨ましそうに言われたりする風潮があります。しかし、もしこの場面で性が逆だったらどうなるでしょうか。たとえば、三人のオヤジたちが、幼い女の子の股間に指を入れながら、「将来、男を泣かせるようになるぞ」などと卑猥なことを言って笑っていたらどうなるでしょうか。これはつまり、大人の性的な興味のために、子どもの体が利用されたということなのです。体が性的に利用されたということの影響は、女の子も、男の子も同じなのです。しかし、どうしても世間では、女の子の場合には騒いだりするのに、男の子の場合には、まともに取り上げようとしない傾向があります。しかし、最近、まだ少数ではありますが、女性の加害者の問題や、男性の被害者の問題が取り上げられるようになってきています。この問題は別のところで詳しく書く予定です。

 もう一つのケースを紹介しましょう。これは会社の同僚のことなのですが、この人はたしかに仕事のできる人なのではありますが、ちょっとプライバシーの境界に曖昧な部分がありまして、家庭での出来事を、会社に来て冗談のようなつもりで話してしまうのです。普通なら恥ずかしくて言えないようなことでも、ぺらぺらと話してしまうため、この人の家庭の状態をみんなが知ってしまうことになるのです。その話の中で、幼稚園に行っている娘さんのことで、奥さんからひっぱたかれたというのがありました。幼い娘さんをお風呂に入れているときに、娘さんに自分のペニスを洗わせたというのです。洗ってもらっているうちに感じてきて、ペニスが勃起してきたのですが、気持ちがいいのでそのまま洗わせていると、突然、奥さんが浴室に入ってきて、思いっきり彼の顔をひっぱたいたのだそうです。こういうことを、会社に来て、みんなに冗談めかして話してしまうのです。

 では、このケースでは浴室でどういうことが行われたのか考えてみましょう。幼い女の子が、お父さんと一緒にお風呂に入ると、男と女の体の違いに興味を持つようになることがあります。自分の体にはないオチンチンというものに関心を持つようになるのは自然なことです。そして、その機会に親が適切な知識を与えてやるのも必要なことなのです。しかし、子どもの好奇心を利用して、大人が性的な興奮を得るとなると、これはまったく違う話になってしまうのです。おそらく、彼は性的な興味から、面白半分で娘さんにペニスを洗わせたのでしょう。親子の間で性的なことが行われる場合には、普通は秘密のこととして隠されて行われるのですが、彼の場合には、自分のやっていることの意味を理解していないために、まったく隠そうともせずに、ましてや罪悪感を抱くこともなく、堂々と開けっぴろげにやっていたのでしょう。子どもは、父親のペニスをいじることで、妙な高揚感があって、いわゆるはしゃいだような状態になったのではないでしょうか。そこで、大きな声で「オチンチン」とか「大きくなった」とか、意味も分からないままに叫んでいたのかもしれません。その声を、台所にいた奥さんが聞きつけて、普段の夫の言動からして、浴室で不穏な事態が発生していると感じたのでしょう。そして、浴室のドアを開けてみると、その不穏な事態を目の当たりにすることとなり、思わず夫の顔を力まかせにひっぱたいてしまったのでしょう。そして、おそらく子どもをすぐに夫から引き離したことでしょう。

 果たして、このような出来事は、この一回だけで終わるのでしょうか。幼い娘さんは、こういう父親と大人になるまでの間、ずっと一緒に生活していかなければならないのです。その間に、さらにいろいろな出来事があって、そのたびに性的な境界が少しずつ曖昧にされて行くことでしょうし、その他にもさまざまな影響を受けていくことになると思われます。

 ここで、性的虐待という言葉の意味をはっきりさせておきましょう。性的虐待というのは、いま書いた二つのケースのように、親などの立場の強い人が、子どもなどの弱い立場の人を「性的に利用する」ということなのです。どうゆうふうに利用するのかというと、大人が性的な刺激を得るために利用するのです。しかし、子どもを利用するにあたっては、暴力や脅しを使うというパターンもありますが、近親姦のような性行為にまでは行かないような場合には、日常的な何気ない行動を装って行われることが多いのです。たとえば、よくあるのが入浴の時に子供の体を洗ってやる場面です。まだ幼くて自分で体を洗えないような子どもは、たしかに親が洗ってやらなければならないのですが、ここに微妙な状態が発生することがあるのです。親であるとは言っても、子どもの性器に多少は興味を持つこともあるでしょう。しかし、中には体を清潔にするという大義名分のもとに、必要以上に念入りに子どもの性器を洗ったりする人もいるのです。浴室という、閉ざされた密室の中で、子供の体を清潔にするという言い訳のもとに、親が性的な刺激を得る目的で、自分の子どもの体を洗うのです。幼い子どもは、自分がされていることの意味をまだ理解出来ませんし、親の方も、ちょっとしたイタズラ、あるいはちょっとふざけてみただけ、というような軽い気持ちでやっているだけなのかもしれません。しかし、ここには、自分の子どもを、性的に利用しているという「虐待」の一面が顔を覗かせているのです。

 その他にも、子どもは成長するのに従って、さまざまな独り立ちを体験していきますが、それを妨げるような形で行なわれることもあります。たとえば、子どもが一人で寝るようになるとか、一人でお風呂に入るようになるとか、そういう自立的な行動が、親の寂しさを埋め合わせるために妨害されてしまうのです。そして、ときにはそれが性的な色彩を帯びてくることもあるのです。

 普通、何歳で一人で寝るようになるのかといった資料は持ち合わせていませんが、子どもが一人で寝るようになってもいい年齢に達しているにもかかわらず、いつまでも一緒に寝ている親子もいるのです。たとえば、息子が中学生なっているにもかかわらず、母親と一緒に寝ているようなケースもあるのです。思春期になれば、当然、性的な意識も目覚めてきますので、ただ単に一緒に寝ているだけで性的な意味はないのだとは言っても、息子の心の中には、母親の体から立ち上る「女」の匂いへの関心が少しずつ芽生えていくのです。親と子の間には、別々に寝るようになる時期というのがあるのですが、たとえば夫の不在とかの理由で、母親が自分の寂しさを紛らわすために、子供が成長を無視して一緒に寝ることで、密着感を得ようとすることもあるのです。こんなふうに、親に利用されて育った子どもは、自立へのステップをうまくクリアできない可能性が高くなってしまうのです。

 一人寝と同じように、一人でお風呂に入るようになるのも、自立へのひとつのステップとなるわけですが、ここにも自立を妨害をしようとする親がいるのです。そして、お風呂の場合には、裸になりますので、性的な要素が入りやすくなってきます。たとえば、小学生の高学年になっているにもかかわらず、母親が息子と一緒に入浴したり、息子の性器を「清潔にする」という名目で、母親が必要以上に丁寧に洗ったりするケースもあります。

 このようなことは、父親と娘の間にも時々見られます。娘と一緒に入浴することを、親子のコミュニケーションを取るためだとか、適当なもっともらしい理由をつけるのです。もう胸が膨らんできて、父親と一緒に入浴するのが不適切な年齢に達しているにもかかわらず、うまく言いくるめてしまうのです。娘の方でも、まだ世間知らずで、中学生や高校生になっているのに、風呂には父親と入るものだと思っていたりするケースも、ときにはあるのです。しかし、学校の友達との会話で、お風呂の話題になったときに、父親と一緒に入浴しているということを、何の疑問も持たずに話してしまい、その結果、友達から、異常だとか、父親が変態だとか言われて、強いショックを受けたりすることになるのです。たしかに、父親との入浴に性的な雰囲気は一切無かったとしても、父親の方としては、娘の成長してゆく肉体を眺めて、秘かに楽しんでいたわけです。つまり、自分の楽しみのために、娘をだまして利用していたことになるのです。一方、娘の方は、世間の常識を知ったことでその異常性に気づき、裏切られたという思いを抱きます。子どもというのは、親は自分のためになることをしてくれるはずだという期待を持ちますが、ただ単にそれが裏切られたというだけではなくて、自分の体が親の身勝手な楽しみのために利用されていたのだということも分かって、二重に裏切られた気持ちになるのです。

 自立心が正常に発達していけば、友達からバカにされるという思いが出てくるようになって、適当な年齢になれば、自分の方から一人で入浴すると言い出したりもするのですが、親にうまく利用されている場合には、このような自立心がなかなか育たなかったりします。それに、自分の体なのに、いつまでも親に洗ってもらっていたりしますと、自分が自分であるという感覚もあいまいになっていきますし、成長に伴って発生してくる「性的なプライバシー」も歪められてしまうのです。この、性的なプライバシーの発達は、自分といものを確立するための重要な要素となってくるのです。このような性的なプライバシーについても、親から尊重してもらえずに、侵害されてしまうこともあるのです。よくあるのが、年頃になった娘の裸を見たがる父親が、「つい、うっかりと」浴室のドアを開けてしまうケースです。そして、「ごめん、ごめん」と言って、笑ってごまかしたりするのです。父親の方としては、冗談の延長のような軽い気持ちでやったりするのですが、見られてしまった方としては不愉快な気持ちが残ります。思春期になれば、そういうわざとらしい行動の意味を理解するようになるからです。

 このような性的なプライバシーへの侵害は、娘が部屋で着がえをしているときにも行なわれます。「つい、うっかり」ノックするのを忘れてドアを開けてしまった、というようなパターンです。しかも、着がえをする時間を見計らったかのようなタイミングで、ドアを開けるのです。さらに、もっと侵略的な親になりますと、子どものプライバシーを侵害するために、もっと強力な方法を使ったりします。家が狭くて収納場所がないという理由で、子供の部屋の押し入れなどに、親が普段よく使うような品物をしまっておくのです。そして、それを取りに行くという口実で、頻繁に子供の部屋に出入りするのです。これは、子どもにとってはたまったものではありません。こうなると性的なプライバシーだけではなくて、「自我」への侵略を受けることにもなるのです。このような度重なる侵略は、自分というものの境界を確立できずに、自他の区別があいまいなまま成長することにもなっていくのです。

 性的なプライバシーへの侵害は、親が自分の性的な部分を露出するという形で行なわれることもよくあります。たとえば父親が風呂上がりに、腰に巻いていたタオルが「偶然」落ちてしまい、年頃の娘にペニスを見られてしまうというようなケースです。たしかに、偶然そうなることもあるでしょう。しかし、親が性的な刺激を得るためにわざとそうしたのなら、意味は違ってくるのです。ここには、隠された露出症的な意味合いが含まれてくるのです。他にも、たとえば、母親が湯上がりの着がえを持ってくるのを忘れたと言う口実のもとに、あらわな姿で思春期の息子の前を行ったり来たりするとか、あるいは、父親が湯船につかってから、石鹸を忘れたとか、タオルを忘れたとか言って、娘に持ってきてもらい、ドアを開けたときに、自分の股間をさらけ出したりするのです。

 このような行為は、すべて正当な言い訳のものとに実行されるのです。実際に石鹸を忘れることもあるでしょうが、たとえ意図的に忘れたとしても、いくらでも偶然を装うことが出来るのです。しかし、ときには冷静になって考えてみれば、その不自然さが浮かび上がってくるようなこともあります。たとえば母親が着替えをするときに、息子にスカートのジッパーをしめてもらうとか、ブラのホックを留めてもらうような場合です。急いでいたからとか、いろいろな口実もあるでしょうが、急いでいるのなら自分でやった方が早いでしょう。あるいは、父親が腰痛になって娘に湿布薬を貼ってもらうときに、必要以上にお尻を露出させるとかいうケースでは、果たして自分で鏡を見ながら貼ることが出来ないのかとか、そんなにお尻の方まで露出必要があるのかとかいう疑問も出てきます。

 これらの露出症的な行為に共通しているのは、性的な誘惑の存在です。しかし、親としてもあまり大胆な行動に出るにはためらいがあるのです。親子間の性的なタブーを犯そうなどという、そんな大それた考えはないのです。ですから、何気ないような日常の行動を装うのです。そうすればいくらでも言い訳が出来ますし、罪の意識も持たなくて済むのです。ですから、たとえば息子にブラのホックを留めてもらっても、息子が母親の体をじっと見つめていたりしますと、「いやらしい目で見ている」と言って、冷たく突き放してしまうことも出来るのです。こうすることで、ただ単に着替えを手伝ってもらってただけなんだという、正当な言い訳が成立するのです。しかし、息子の方としては、誘惑を受けながら同時に禁止されるという、非常に矛盾したメッセージを同時に受けとることになり、このようなことが繰り返されるに従って、徐々に根の深い性的な葛藤を抱え込むようになっていくのです。

 このような、もっともらしい言い訳というのは、立場を逆転するために使われることもよくあります。たとえば、父親が幼い娘とプロレスごっこをして遊んでいるときに、父親の手が妙に娘の性的な部分ばかり触っているのを、母親が不自然に思ってとがめたりしたしても、「これはただの遊びであって、お前がいやらしい目で見るから、そういうふうに見えるんだ」と言いくるめるのです。そして、さらに、「いやらしい目で見ているお前の方が、おかしいのだ」と反撃するのです。

 このような、反撃は、たとえば、「偶然」裸を覗かれて不愉快になっている娘に対しても、「裸は自然で美しいものなんだ。見られて恥ずかしがったり、不愉快になったりするのは、お前の方がいやらしいことを考えているからなんだ」と、逆に強引に押し切ったりするのです。そして、性的なプライバシーの侵害が行なわれているにもかかわらず、まるでなんでもないような自然なことにしてしまうのです。このようなやり方は、イジメのやり方と同じなのです。あくまでもふざけているだけなんだ、ということにするのです。もしも、イジメではないのかと抗議しても、冗談の分からないヤツだと言うことで、ごまかしてしまうのです。性的な虐待も、これと同じようにして行なわれることが多いのです。こういう状態にさらされ続けていますと、性的な境界が混沌としたものになって行くのです。

 もちろん、このような性的な侵略は、言葉によるカラカイという形で行なわれることもあります。生理が始まった娘に、卑猥な冗談を言ってみたり、成熟していく肉体に対して「色気付きやがって」などというひどい言葉を浴びせたりするのです。このような言葉によって、自分の体に対する嫌悪感を植えつけられていくのです。

 それから、性的な露出で、子どもに非常に大きな影響を与えるものに、夫婦の性生活をそれとなく露出するというパターンがあります。寝室のドアを「うっかりと」閉め忘れたことにして、子どもたちに覗き見をする機会を与えるとか、自分達のセックスの声が聞こえるようにしたりするのです。このようにして、覗かれたり、あえぎ声を聞かれたりすることで、自分たちの性的な興奮を高めようとするのです。日本の住宅事情を考えてみれば、たとえ意図的ではなくても、子どもたちへの配慮がおろそかになると、性行為の気配に気付かれてしまうこともあるでしょう。このような性行為の露出は、子どもに非常に大きな影響を与えます。たとえば性に対する嫌悪感や、羨望、嫉妬、恐怖、あるいは自分だけが除け者にされて見捨てられたような感情などをあおったりするのです。そして、こういう強烈な感情が、子どもの性的な方向性をゆがめてしまうのです。

 しかし、こういったこととは逆に、表面的には性的な要素がまったく無いような形で子供が利用されることもよくあるのです。たとえば、父親が娘に接するときに、まるで妻であるかのようにして接するのです。親子ではなくて、夫婦のような心の親密さを娘に求めて来るのです。娘の方でも、父親の求めに応じて、まるで妻にでもなったかのように振る舞うことで、父親との間に、ある種の一体感のようなものを感じることが出来るのです。別に性的なことをするわけではありません。親と子の立場の違いをなくして、まるで夫婦のような対等な口のききかたをしたり、あるいは、妻ように父親の身の回りの面倒を見てやったりするのです。しかし、妻であるかのように振る舞ったとしても、現実には、父親には本物の妻がいるのです。父親が娘の方に寄りかかっているときはいいのですが、本物の妻の方へ寄りかかって行ったときには、娘はまるで見捨てられてしまったかのような寂しさと、母親への激しい嫉妬を覚えるようになるのです。そして、このような三角関係は、やがて性的な色彩を帯びてくることもあるのです。こうなると、親子の役割や境界が混乱したものになってくるのです。このような混乱は、娘を妻の代用品として利用しようとした父親によってもたらされるのです。娘はこのような混乱の中で、本来の子どもとしての自分を失ってしまうのです。

 このような関係は、母親と息子の間にもよく見られます。仕事などで父親の不在が長引いたり、夫婦関係が希薄なものだったりしますと、母親が自分の寂しさ紛らわすために、まるで夫に接するかのようにして息子に接していくのです。つまり、息子を夫の精神的な代用品として利用するのです。もし、息子が母親の期待に応えようとしても、本物の夫が帰ってくれば、代用品の夫はもう不要になってしまうのです。息子はその時、以前のような本来の息子の役に戻ることも出来ずに、自分が何者なのかという問題に直面することになります。そして、息子は母親との濃厚な一体感を失うこととなり、見捨てられたような喪失感を味わうのです。息子は、やがて父親に対して、「あいつさえいなければ」という思いを抱くようになっていくのです。父親さえ帰ってこなければ、いつまでも母親との、まるで夫婦であるかのような、密着した精神的な一体感を持ち続けることが出来るのです。さらに、母親が夫に対する愚痴や不満をこぼしたりしますと、息子にとっては、それが自分への誘惑に聞こえてきたりするのです。しかし、現実には父親が帰ってきて、母親を独り占めしたうえに、さらに性的な関係まで持ってしまうのです。そして、息子は激しい嫉妬を抱くのです。息子の心の中で、母親を独り占めにしたいという願望が次第に大きくなっていくのですが、このような願望は、父親との関係を危険なものにしてしまいますので、心の中に深く抑圧されることになるのです。

 このような、代用品としての夫や、代用品としての妻の役をやらされて、ずっと親から利用され続けていますと、やがて自分が何者なのか分からなくなっていきます。親としては、子どもを利用しているなどという意識はなくて、ただ寂しかったり、話し相手が欲しくて、子どもにべったりと寄りかかって行くだけなのです。子どもの方は、薄々自分が利用されているという持つこともありますが、何とか親の期待に応えようとして、代用品ではなくて、本当の夫や妻になりたいという願望を抱くのです。そして、現実にはかなうはずのないこのような願望が、さまざまな葛藤を作り出して行くのです。

 このように、性的な出来事が無くても、少しずつ「近親相姦」的な感情が、植えつけられていくのです。ですから、もしも、子どもの方から親に性行為を仕掛けていったとしても、それ以前の段階で、親からの長期間にわたる刷り込みが行なわれているのです。日々の暮らしの中で、境界が少しずつ緩んでいって、親に対して性的な願望を抱くようにと仕向けられて行くのです。表面的には「相姦」のように見えても、そこに至るまでの、代用品として利用され続けていた、長い長い日々の積み重ねがあるのです。

 このような、親からの性的な接近には、ほかにもさまざまなパターンがあります。親からだけではなくても、きょうだいの間でも、たとえば、お医者さんごっこなどがエスカレートしていって、性的な虐待になったりすることもあります。いずれにしても、性行為に至らなくても、家族内での役割が混乱したり、性的な境界があいまいなものになったりしますと、それがさまざまな影響を子どもに与えることになるのです。そして、もし実際に性行為にまで進んでしまった場合には、さらに複雑で強烈な影響を与えることになるのです。
http://homepage1.nifty.com/eggs/jitai/incest/1mijika.html

近親相姦タブーと性的境界


 人間の性行動の調査をするときには、「性の秘密」という厚い壁に阻まれてしまい、その実態をつかむことが非常に困難であります。そこで、近親相姦タブーの問題を考えるにあたって、そもそも人間はなぜ隠れて性交するのかという問題から考えてみたいと思います。

 人間に近い動物であるサルは、堂々とみんなの見ている前で性交するのですが、最近、野性のチンパンジーの観察で非常に興味深いケースが報告されています。これは、極めてまれなことなのですが、群れの中で地位の低いオスが隠れてメスと性交していたというのです。観察によると、どうやらみんなのいる所で性交していると、地位の高いオスが割り込んできて、メスを横取りされることがあることから、それを避けるために隠れて性交しているらしいのです。これは、人間の性行動を考えるうえで、非常に示唆に富んでいると言えましょう。つまり、隠れて性交するということは、地位の低いサルであっても、子孫を残すチャンスが得られるということです。サルの観察でも、弱い者同士が群れを離れて別の群れを作るというケースも観察されています。ですので、おそらく人間もこれと同じように、弱い者同士が集まって、なるべく平等な集団を作ろうとしていく過程のなかで、性交もお互いに隠れてすることによって、子孫を残す機会を平等に分け合うようになったのではないか、というふうに私は推測しています。そして、隠れて性交することによって、メスとの継続的な夫婦関係や、夫婦の持ち物としての「家族の財産」といった観念が発達していったのではないかと思われます。つまり、性は公開すべきものではなくて、プライベートなものであり、隠すべきものであるというふうに位置づけることによって、そこから個人の所有の観念や、夫婦や家族などの観念が発達していったのではないかと思います。

 人間の社会にも、かつて二百数十年くらい前までは、乱交社会というのが現実に存在していまして、あの大航海時代にキャプテン・クックが初めてタヒチ島に上陸したときには、そのあまりのありさまに、ビックリ仰天しているのであります。そして、彼等が島に上陸したときに非常に困ったことは、露骨な誘惑もさることながら、島民には「所有」という観念が希薄だったということです。ですから、個人の所有物であろうと何であろうと、みんな勝手に持っていってしまい、それで島民との間でトラブルが多発することになったのです。西洋から来た人たちにとって、これはまさに泥棒行為そのものなのですが、島民にとっては何でもないことだったのです。このような所有の観念があまり発達しなかった背景には、やはり乱交による性の共有というのがあるのではないかと思われます。集団のしきたりとして、特定の異性とだけ性交することが許されず、頻繁に相手を変えて性交しなければならなかったのです。しかし、このような乱交社会であっても、若いうちはいいのですが、歳をとってくるとやはり特定の異性に愛着を持つようになるようでして、なかでも地位の高い人たちには夫婦のような関係になることも黙認されていたようです。このような乱交社会というのは、現代の我々の社会と比較すると、興味深い事がたくさんありますので、これはまた別の機会に書くことにします。

 さて、このような所有という観念も、発達の仕方がいろいろとありまして、それが性的な関係にも色濃く反映されることになるのです。たとえば、その最たるものに、家族の財産を誰が引き継ぐのかということがあります。男が代々財産を引き継いでいくのが父系社会であり、女が引き継いでいく場合が母系社会となるのです。この、両者の間には、性関係のあり方にも大きな違いがあるのです。たとえば、父系社会では、男が家の財産を継いでいきますので、生まれてくる子供は間違いなく父親の子どもでなければならないのです。妻が浮気をして作った他人の息子では困るのです。そこで、間違いなく妻に自分の子どもを産ませるために、いわゆる純潔だとか貞操観念だとかいった性道徳が発達することになるのです。そして、たとえば、結婚するまでは処女でなければならないとか、女は男を産んでこそ一人前の女であるとか、性的に活発な女はふしだらな女であるとか、そういったさまざまな価値観が、父系社会を支えるために発達していくのです。

 しかし、母系社会では様子がだいぶ違ってくるのです。女性の場合には、自分の子どもというのは、当然のことながら自分自身が産むわけですので、父系社会の父親ように、本当に自分の子どもなのかというような疑いを持つ必要はまったくないのです。ですので、子どもの父親がどこの誰であろうと、自分で産んだ子は、疑いもなく自分の子どもなわけです。このようなことから、母系社会では性に関しては全体的に開放的な傾向が見られるのです。そして、女が財産を継いでいきますので、産んだ子が男ですと「ハズレ」ということになってしまうのです。そして、女は女を産んでこそ一人前の女となるのです。

 このようなことは、民族によって風習やしきたりなどがさまざまなのでありすが、おおざっぱに言いますと、父系社会と母系社会にはこのような違いがあるのです。しかし、母系社会だからといってかならずしも女が威張っているわけではなくて、なかには、女は男の前を横切るときには四つん這いにならなければならないというような、非常に変わったしきたりのある母系社会もあるのです。

 さて、このようにして人間はさまざまな文化や性道徳を発達させていったのですが、では次に家族内での性関係はどうなのかという事について考えてみたいと思います。なぜ近親者の間では性行為や、婚姻関係を結ぶことが禁止されるのかという、いわゆる近親相姦タブーの問題です。これにはいろいろな説がありまして、だいたいみなさんは、すぐに遺伝の問題を思い浮かべると思いますが、どうもこの説にはあまり説得力がないのです。たしかに近親婚を繰り返すことによって、遺伝的に問題を持った子供が生まれる確率は高くなるとは思われますが、それは統計を取ってみて初めて分かることでして、乳幼児の死亡率が非常に高かった時代においては、死亡の原因が近親姦によるものなのか、病気などによるものなのかを区別することが不可能だったからです。では、現在では、近親姦による遺伝の問題はどうなっているのかというと、研究者によって非常に大きなバラツキがありまして、現在においても確かな事は分かっていないのです。たしかに、両親が最初から遺伝的な問題を抱えている場合には、それが子どもに遺伝していくことになりますが、そういう場合を除けば、おそらく今の高齢出産の危険率と同じくらいではないかという人もいますし、いや、もっと高いはずだという人もいます。相手が人間ですので、実際に交配して実験してみるわけにも行きませんので、おそらく危険率は高くなるだろうとは思われますが、それがどれくらいの数字になるのかということはまだよく分かっていないのです。しかし、歴史を振り返ってみますと、たとえば古代のエジプトでは、きょうだい婚による王位の継承が何代にもわたって続けられて、かのクレオパトラもそのようにして生まれてきたわけですし、クレオパトラ自身も実の弟であるトレミーと結婚しているのです。そして、遺伝的には何の問題もないのです。インカ帝国においても14代にわたってきょうだい婚が繰り返されましたが、健康上の問題は起きていません。その一方で、ヨーロッパの王家は、近親婚による血友病という遺伝的な問題を抱えていて苦しんだようです。

 では近親相姦タブーはなぜ存在するのかというと、いろいろな説がある中で、「社会化」説が一番説得力があるのではないかと思われます。これはどういうことなのかといいますと、家族の外部の人と結婚することで、親戚が増えることになりますので、このような社会化によって、たとえば農作業などの人手が必要な時に、親戚同士で助け合うことが出来ますし、食べ物やお金に困っているようなときには、お互いに融通し合うことも出来るのです。このように血の繋がりを家族の外部の人たちに解放することによって、みんなから社会の一員として受け入れられることになるのです。しかし、これを拒否して閉鎖的な近親姦をしていますと、それは社会化への拒絶となりますので、このような反社会的な行為は忌み嫌われることになるのです。しかし、これとはまったく逆に、強大な権力や莫大な財産を持っている人のような場合には、親戚が増えれば権力や財産が分散してしまいますので、古代エジプトのファラオのように、近親婚を繰り返すことで、自分たちの独占的な利権を守ろうとするのです。そして、近親婚を、王に許された神聖な婚姻であるとして、それを正当化したりするのです。

 このように、社会化がタブーの背景にあることから、そのタブーの範囲をどこまでとするのかということも、その社会の文化や価値観によって違ってくることになるのです。そこで、まず日本の現在の状況について言いますと、法律によって、直系の血族と、傍系の血族で三親等以内の人との結婚は禁止されているのです(備考欄に条文掲載)。ここで直系というのは、たとえば自分の両親、祖父母、曾祖父母というふうに、親をさかのぼって行ったり、あるいは自分の子ども、孫、ひ孫というふうに子どもをたどっていったりする、上下の垂直の血の繋がりのことで、これは何親等であろうと禁止されています。さて、ちょっとゴチャゴチャしてきますが、次の傍系というのは、直系の人たちの兄弟姉妹や、そこからさらに先に伸びていく血の繋がりのことを言います。たとえば、自分自身の兄弟姉妹との関係はどうなるのかと言いますと、これは直系ではなくて傍系ということになるのです。そして、何親等になるかと言いますと、親等の数え方は、私−親−私の兄弟姉妹、というふうに血の繋がりをたどるときに、一度親のところに戻って、それから兄弟姉妹のところに行くという数え方をしますので、2親等ということになります。そして、法律ではこの傍系の血の繋がりについて、3親等以内が禁止の対象になっているのです。

 私 −−−−−−−−−−−− 0親等
 私の両親 −−−−−−−−− 1親等(直系)禁止
 私の兄弟姉妹 −−−−−−− 2親等(傍系)禁止
 兄弟姉妹の子である甥や姪   3親等(傍系)禁止
 さらにその甥や姪の子ども   4親等(傍系)結婚可能

 ということになりますが、いくら法律上は結婚可能であるとは言っても、その年齢差を考えてみるとどうなんでしょかね。そこで、自分の年齢に近い線を探るのであれば、親のルートをたどることになります。
 私 −−−−−−−−−−−−− 0親等
 私の両親 −−−−−−−−−− 1親等(直系)禁止
 私の祖父母 −−−−−−−−− 2親等(直系)禁止
 その子、つまり両親の兄弟姉妹  3親等(傍系)禁止
 さらにその子、つまり私のいとこ 4親等(傍系)結婚可能

 ということで、いとことなら結婚できることになるのです。もしも、自分に配偶者がいるときには、配偶者の両親などは、血族ではなくて「姻族」というふうに呼ばれ、姻族については、直系についてだけが禁止の対象になっています。ですので、たとえば妻が亡くなった時は、夫は妻の妹と結婚することもできるのです。しかし、妻の母親、つまり義母は直系の姻族ということになりますので、結婚はできないのです。こういった、結婚できるかどうかという問題については、その他にも離婚や再婚をした場合とか、養子をもらった場合とかに、いろいろと複雑な組み合わせが発生してきますが、そこまで突っ込んで調べていくと、私も疲れてしまいますので、このへんでやめときます。
 さて、このような、何親等までの結婚を禁止するかということは、それぞれの国によって違いがありますし、時代によっても結婚できる範囲が揺れ動いたりすることもあるのです。なかには、非常にまれなケースではありますが、近親婚や近親姦が社会的に容認されているところもあるのです。たとえば、シエラ・マドレ山脈に住むインディアンの間では、農作業の事情と経済的な理由から、今でも父と娘の近親姦が普通に行なわれているそうですし、ジャワのカグラン族では母親との近親姦は繁栄をもたらすとされ、カシス族では母と息子の間以外であれば問題なく結婚でき、東アフリカのタイタ族では、経済上の理由から、息子が母や姉妹と結婚することがよくあったそうです。しかし、これらはあくまでも例外的なものでありまして、ほとんどの社会では、近親婚や近親姦はタブー視されているのです。

 この近親婚を禁止しようとする圧力の源となっているのが、先に書きましたように社会化という事なのですが、このことは個人レベルについても言えることでして、個人の社会化、つまり個人が精神的に成長していって、社会的な自立を達成するということでもあるのです。もしも、近親者の間で性行為が行なわれたりしますと、親離れや、子離れが非常に困難になってしまい、それが子どもの精神的な成長を妨げることにもなるのです。ですので、ほとんどの社会では、近親者の間に、何らかの境界を設定して、性の秩序を維持しようとしているのです。昔は性の秩序がルーズだった社会であっても、いわゆる「近代化」の波が押し寄せると共に、性の境界が明確にされる傾向があります。そして、このような性の境界の明確化は、同時に近代的な自我の確立を目指すものでもあるのです。

 たとえば、最近の日本では、性の乱れが指摘されることがよくあるのですが、近代化以前の性風俗を見てみますと、今の若い人たちには信じられないようなことが、ごく普通に行なわれていたのです。なかでも特に有名なのが、「夜這い」と言われる風習ですが、知らない人もいるかと思いますので、簡単に説明しておきます。これはおもに農村部で全国的に広く行なわれていたことなのですが、年頃になった娘のいる家に、夜中になると村の若い男が忍び込んでいって娘と交わるのです。昔の農村の家の作りは、ごく簡単なものであり、とくに戸締まりもしていませんので、そっと忍び込んでいって、真っ暗やみの中で娘の寝ている布団を探し出して、そこに入り込むのです。若い娘のいる家では、自分の娘の性を村の男たちに解放しなければならなくなるわけですが、もしも拒否したりしますと、村八分ということになって除け者にされてしまい、村に住んでいられなくなってしまうのです。このような夜這いは、嫁選びという意味もありますし、過酷な農作業の合間におこなわれる楽しみのひとつでもあったのです。このような村社会における女の性というのは、男たちの共有財産のように位置づけをされていたのでが、こうすることによって村の連帯感強め、水争いや百姓一揆のときなどに、団結して行動できるようにするという意味もあったのです。しかし、ここには当然のことながら、人権とか、性の自己決定権とかいうものはありません。たとえば、各地にいろんな風習があったのですが、新潟県の三条市の周辺では、明治のはじめころまで「盆かか」という風習が残っていたそうでして、お盆の三日間だけの妻になる人を、くじ引きで決めるのです。男たちは、組み合わせが気に入らないときには、男同士で互いの相手を交換する交渉をしていたそうなのですが、女性には変更する権利は、一切認められていませんでした。

 他にも、地方によってはフンドシ祝とか、腰巻き祝とかいうのがあって、親戚の年長者が若者に性の手ほどきをするとかいうのもありますし、あるいは、若い男たちが夜這に行って恥をかかないようにということで、年配の女性たちが神社などに集まって、若者に性交の実施教育をするというようなことも、地方によっては行なわれていたようです。あるいは、結婚していても、厄落としと称して、祭りの時などに夫も婦も見知らぬ人と交わったりするような風習もあったようです。ほかにもいろいろな風習があるのですが、農村部でのこのような性的にゆるんだ環境下では、おそらく近親姦もそれなりに行なわれていたのではないかと思います。全体的に言えば、子供の父親が誰なのかということにあまりこだわらないような、母系社会的な雰囲気が背景にあって、もしも父親の子どもでないことがはっきりしているときには、「祭りの子」などと言って済ませていたようです。しかし、このような淫靡な風習は、明治時代から始まる近代化の波が押し寄せるて来るに従って、しだいに消滅していったのです。

 そして、近代化と共に、「近代的な自我」の確立が求められるようになっていくのですが、これはつまり、人間としての、あるいは個人としての、自立した精神の確立が求められるようになって行くということなのです。社会においても、家庭の中においても、性の境界が設定され、性のプライバシーが尊重され、性の自己決定権が尊重され、そして個人の人権が尊重され、精神的な自立が促されるようになっていくのです。しかし、これは一つの理想でありまして、人間の心の中には、暗いドロドロとした欲望が渦巻いていたりしますので、時には歪んで屈折した心が、陽の当たらない場所で、毒々しい悪の花を咲かせたりすることもあるのです。

 しかし、1970年代にアメリカで「性革命」と呼ばれる性の解放運動が起こり、それと共に、今まで家族の秘密として厳重に隠され続けて来た近親姦の問題も、その暗いベールが剥がされて、社会の表舞台に登場することになったのです。そして、虐待的な近親姦の悲惨な実体も、世間に知られるようになっていったのです。
http://homepage1.nifty.com/eggs/jitai/incest/2taboo.html

近親姦の実態について


 実際に起きている近親姦の実態とは、どのようなものなのかと言いますと、どうやら近親姦にはおおざっぱに言って、「虐待」的な要素と、「お気に入り」的な要素の、両極端の二つの要素があるように思います。虐待的な要素というのは、言葉の暴力や、肉体的な暴力などを伴いながら、強制的に行なわれる性行為のことです。もう一方の、お気に入り的な要素というのは、いわゆる「お父さん子」とか言われるような、親子の親密で良好な関係を利用しながら行なわれる性行為のことを言います。この二つの要素は、それぞれが単独で現われるケースもありますが、二つの要素が複雑に入り混じっているようなケースもたくさんあるのです。

 ではまず最初に、虐待的なケースから書いていきましょう。これは、いわば家庭内レイプのようなものなのですが、通常のレイプ事件と違う点は、被害者には逃げ場がないということです。通常のレイプ事件というのは、もちろん被害者にとって非常にショックな出来事であり、精神的にも非常に大きなダメージを被るわけですが、それでも被害者には帰る家がありますし、そこには自分の寝室があり、自分のベッドや布団があるのです。しかし、家庭内で発生するレイプの場合には、どこにも安全な逃げ場がないのです。夜、眠っているときに、父親が勝手に寝室に侵入してきて、脅迫しながら力ずくで強姦したりするのです。そして、通常のレイプと大きく違う点は、被害者は子どもであり、しかも犯人は、自分を育ててくれている実の親なのだということです。つまり、被害者である幼い子どもは、犯人である親と一緒に生活しなければならないのです。まだ幼い子どもは、衣食住のすべてを親に依存しなければなりませんので、このような逃げ場のない状況が、さらに大きなダメージを与えることになるのです。

 さらに、家庭内レイプには、虐待的な行為が含まれてくるのです。たとえば、父親が幼い娘の膣に、むりやりペニスを挿入しようとして、膣口が裂けてしまったケースの写真を見たことがありますが、いったい、この親はなにを考えているのかと言いたくなるようなことが発生したりするのです。虐待的な親たちは、こいう唖然とするような非常識きわまりない行為を、性的な衝動に駆られたままに、平気でやってしまうのです。

 虐待は、このような性交を強要するものばかりではありません。幼い子供に対しては、ペニスをマッサージさせたり、フェラチオを強要したり、精液を飲むように言ったりするのです。もしも、子供が性的なサービスを拒否したりしますと、罵詈雑言を浴びせて、子どもの心をズタズタにしたり、浴室に連れ込んで、頭から小便を浴びせたり、あるいはトイレに連れて行って、泣き叫ぶ子どもの頭を便器の奥へ押し込んで、その上から水を流して溺れそうにさせたりするのです。ほかにも、肛門にアイスピックを挿入して直腸に穴をあけたり、膣や肛門への異物の挿入、さらに殴る蹴るだけではなくて、裸にして縛って部屋に監禁したり、食事を与えないで放置したり、何回も妊娠させて、そのつど子どもに嘘をつかせて堕胎を繰り返させたりするのです。このようにして、虐待的なケースでは、子どもの人間としての人格は完全に無視されてしまい、性的なオモチャのように扱われたりするのです。

 こういうケースでは、親は教育という名のもとに、子供のあら探しをすることがよくあります。そして、子どものやることに難癖をつけて、子どもを罰しようとするのです。そして、そのつど罰として性行為を強要して行くのです。このような親は、あらゆる思考が性行為へと結びついていくのです。このような虐待的な親の特徴としては、言うことがコロコロと変わったりして、非常に気まぐれなところがあったり、あるいは突然、怒りを爆発させたりするようなところがあるようです。怒りが暴走してしまいますと、親は自分でも感情をコントロールすることができなくなってしまい、場合によっては激怒に駆られて、突然子どもの首を絞めたりするようなこともあるのです。そして、このようなケースでは、首を絞めている途中で子どもが静かになってから、はっと我に返ったりするのです。まさに、殺人の一歩手前まで行ってしまうのです。このような、親の衝動的な行動というのは、まったく予測不可能な面があるために、子どもはいつどんなことをされるか分からないままに、常に虐待の不安にさらされることになるのです。

 こういう虐待の被害者というのは、言っておきますが、まだ幼い子どもなのです。たとえ、大人がこのようなひどい扱いを受けたとしても、精神的に大きなダメージを被ることになりますが、まだ幼い子どもたちは、大人以上に大きなダメージを被ることになるのです。普通の家庭の子どもであれば、テレビで「ドラエモン」だとか「サザエさん」だとかいう、平和な家族を描いたマンガなどを見て、無邪気に楽しんだりするのでしょうが、同じ年頃の子供たちの中には、親からフェラチオを要求されたり、むりやり強姦されたり、便器の中に頭を突っ込まれたり、首を絞められて殺されそうになったりしている子供たちがいるのです。「家族」という閉ざされた扉の奥で、このような虐待行為が行なわれているのです。しかし、それでも、子どもたちは生きていかなければならないのです。どんなにひどい家族であっても、子どもたちはそこで生きていかなければならないのです。その環境の中で、なんとかして生きて行く方法を考えなければならないのです。

 そして、その生きて行くための方法のひとつが、「心を凍らせる」ということです。心が何も感じなくなってしまえば、もう苦しむこともないのです。たとえば、手術のときに麻酔をかけて、痛みの感覚を麻痺させてしまうように、子どもは、自分の心を凍らせて、感情を麻痺させてしまうのです。そうすれば、心をズタズタに切り裂かれたとしても、もう何も感じなくなってしまうのです。なにも感じなくなってしまえば、虐待にも堪えることが出来るのです。そして、卑劣な親から強姦されるという、こういう忌まわしい出来事は、すべて忘れてしまえばいいのです。心を凍らせて、何も無かったことにしてしまえばいいのです。そうすれば、もうそのことで苦しむこともなくなるのです。このように、心を凍らせてしまうという行為は、激しいショックによって自分が発狂してしまわないようにするための、ひとつの安全装置として作用するのですが、しかし、後で詳しく書きますが、これが大人になってから、さまざまな心の障害となって現われて来るのです。

 さて、虐待的なケースについて書いてきましたが、これとはまったく正反対の位置にあるのが、いわゆる親の「お気に入り」になるようなケースなのです。この、お気に入りタイプでは、言葉による暴力や、肉体的な暴力はほとんど見られません。なぜかといいますと、親は子どもとの良好な愛情関係をうまく利用しながら、性行為へと誘導するからなのです。子どもは最初は少し抵抗を示すこともありますが、最終的には消極的ながらも、親との性行為を受け入れてしまうのです。あるいは、このような消極的な態度ではなくて、時として子どもの方から積極的に親を誘惑するようなケースもあるのです。このようなお気に入りタイプの子どもというのは、親と性的な関係を持つことによって、家族内でさまざまな特権を獲得していくことになるのです。たとえば、親の愛情を独り占めにすることができますし、自分の欲しいものを優先的に買ってもらったり、親との肉体関係を利用しながら家族内の人間関係を操作したりして、自分が家庭の中で中心的な存在になったりするのです。

 このような、お気に入りになってしまう子どもというのは、親との性行為を楽しんでいるようにも見えますし、親との間に濃厚な恋愛感情があったり、あるいは、まるで夫婦のような状態になったりするのです。しかし、子どもが大人になってから、自分のしてきたことやされてきたことの意味を知って、そのショックから精神的にボロボロになったりすることもあるのです。あるいは、いつまでたっても親との性行為を断ち切ることが出来ずに、自立の問題で苦しむことになるのです。たとえば、自分に恋人が出来たときに、親から妨害されたりして、なかなか親離れをすることが出来なかったりするのです。あるいは、たとえ親との肉体関係を終了させることが出来たとしても、精神的な分離や自立の問題を抱えることになるのです。

 お気に入りタイプでは、なぜ親が性行為へと誘導したのかといいますと、親が自分の子どもを、性的に利用したかったからなのです。親が勝手な都合によって、自分の子どもを利用しているだけなのです。こういう親というのは、子どもの自立の問題だとか、近親姦によって生じる心の問題だとか、そういうことはまったく考えていないのです。親は、性教育だとか、子どもへの愛情表現だとか、いろいろなことを言ったりしますが、それは言い訳にしか過ぎないのです。親は、ただ自分の性的な願望が満たされれば、それでいいのです。そのために、子供をうまく利用するのです。ですから、子どもが大人になって、性行為の意味を理解できるようになると、それに伴って、親が自分の体を利用していただけなんだという事も、理解できるようになるのです。そして、親の裏切り行為を知ったショックから、精神的に苦しむことになるのです。

 たとえ親が、「子どもの方から誘惑してきたんだ」と言ったとしても、大人同士の関係ならばともかく、子どもと大人の間では、このような言い訳は成り立たないでしょう。もし子どもが「あんなヤツ、殺して」と言ったら、子どもに言われるままに人を殺してしまうのでしょうか。善悪の判断をつけなければならないのは大人であり、それを子どもに教える責任が、親にはあるのです。

 こういうお気に入りタイプの近親姦の中には、ときとして歪められてしまった愛情や性欲のままに、親やきょうだいとの関係をいつまでも続けていくケースもありますし、なかには、近親姦の体験が自分にとっては有意義だったと言う人や、近親姦による悪い影響は何もなかったと主張する人たちもいるのです。しかし、こういう人たちの実態というのは、まだほとんど分かっていません。

 このように、近親姦には、虐待を伴う悲惨なものもあれば、親のお気に入りになってしまうものもあるのです。そして、実際にはこのような両極端な二つの要素が、複雑に絡み合っているような、中間的なケースもたくさんあるのです。たとえば、児童相談所などでの事例を見ますと、性交を強要する親に対して嫌悪感を抱いているにもかかわらず、ときには欲しいものを買ってもらったり、あるいは、今までほとんど親と話をしたことがなかったのに、関係を持つようになってからは一緒に食事に行くようになったりして、憎いはずの親に対して愛着を抱いたりすることもあるのです。こういう家族内の人間関係には、正反対の矛盾した感情が非常に複雑に絡みあっていたりするのです。

 このような近親姦の発生状況を見てみますと、赤ん坊の頃からずっと行なわれていることもあれば、子どもが思春期になってから発生することもあります。一回だけで終わることもあれば、何回か繰り返されることもありますし、継続的に長期間続くこともあります。そして、両親がそろっている家庭よりは、片親の家庭の方が発生率は高くなります。

 加害者は父親だけではなくて、母親も重要な役割を果しています。たとえば、夫と娘の近親姦に感づいていながら、見てみぬふりをしていたり、あるいは、夫から見捨てられて離婚になることを恐れる妻が、夫を繋ぎ止めるための材料として、娘を夫に差し出したりするようなこともあるのです。そして、最近外国で取り上げられるようになってきた、女性の加害者の問題があります。調査によりますと、従来から言われているような、夫から強制されて、仕方なく息子や娘と性行為をするようなケースよりも、女性が単独で自発的に性的虐待をするケースの方が、どうやらずっと多いようなのです。そして、このような女性の加害者というのは、どうやら想像以上に多く存在しているようなのです。この問題は、後で詳しく取り上げます。

 両親以外の加害者としては、きょうだい、親戚、知人などがあげられます。近親姦が発生する家族というのは、性的な境界があいまいなために、被害者は、複数の加害者から同時に関係を強要されたりすることがあります。たとえば、父親との近親姦と、兄との近親姦が同時に平行に進行していたりするのです。そして、ときには家族全員が近親姦に加わって、家庭内乱交のような状態になるケースもあるのです。それに、近親姦は異性間だけではなくて、同性間の近親姦も結構たくさん存在するのです。こういう近親姦の組み合わせにつきましては、後でそれぞれ個別に取り上げてみたいと思います。

 さて、このような近親姦を犯してしまう親というのは、どんな親なのでしょうか。一般的なイメージとしては精神異常者を思い浮かべるかもしれませんが、実際にはそうではないのです。たしかに、分裂病による精神的な混乱から近親姦に及んだり、知的障害者が近親姦におよぶようなケースもあります。しかし、これらは全体の一部でしかないのです。大部分は、一見普通の人たちなのです。所得や学歴、社会的な地位などには関係なく、近親姦は発生しているのです。しかし、あえて言えば、加害者には境界例的な要素が多分にあるのではないかと思います。たとえば、加害者に見られる性的な境界のあいまいさや、感情の不安定さ、アルコールなどへの依存傾向などは、境界例に通じるものがあります。それに、近親姦の被害者の症状は、境界例の診断基準にあてはまることも多いですし、世代間連鎖によって、被害者がやがて加害者になってしまうことも多いのです。

 次に、近親姦の問題を分かりにくくさせている、「秘密の共謀」という問題について書いてみたいと思います。前回、近親相姦タブーでも書きましたように、人間は進化の過程で隠れて性行為をするようになりましたので、その実態というのはなかなかつかみにくいのですが、近親姦の問題になりますと、秘密の共謀によって、さらに厳重に隠されてしまうのです。つまり、親が近親姦の事実を隠そうとするだけではなくて、子どもも事実を隠そうとするのです。加害者と被害者が、まるで共謀しているかのようにして、近親姦の事実を隠そうとするのです。

 まず親の方ですが、親としてはタブーを犯しているわけですから、もちろんなにがなんでも近親姦の事実を隠さなければなりません。もし、こんなことが他人に知られてしまったら、大変なことになってしまいます。アメリカですと、すぐに警察や福祉機関が介入しますし、親は逮捕されて刑務所に入れられてしまいます。そして、子どもが施設に保護されたり、親の親権が剥奪されたりして、あっという間に家族がバラバラになってしまうのです。アメリカでは、子どもに接する職業の人に対しては、虐待の事実を知った時には通報しなければならないという、罰則の伴った義務が課せられているのです。さらに、そういう職業の人たちだけではなくて、一般の市民の間にも、子どもへの虐待とか性行為というのは犯罪なんだという認識が、広く行きわたっているのです。ですので、もしも近親姦の事実が知られてしまったら、親は法的な処罰を受けるだけではなくて、仕事や社会的な信用なども一気に失うことになったりするのです。日本でも、不充分な形ではではありますが、警察や児童相談所などが子どもの保護に乗り出しますし、それに、もしもこんなことが近所の人たちに知られたり、あるいは妙な噂を立てられたりしますと、異常者あつかいされたり、変態あつかいされて、もうそこには住んでいられなくなってしまいます。ですので、なにがなんでも隠さなければならないのです。

 隠さなければならないという気持ちは、子どもにもあるのです。その理由のひとつは、親からの脅しです。卑劣な脅しや暴力による口封じが行なわれたり、あるいは親がうまく言いくるめたりするのです。そして、子どもは親からの報復を恐れて、口を開かなくなるのです。それだけではありません、子供自身にしても、親からひどいことをされている惨めな自分、親に性行為をさせられている自分、タブーを犯している自分、そういう自分を知られたくないという気持ちもあるのです。さらに、こんな忌まわしいことは忘れてしまいたい、無かったことにしてしまいたいという気持ちもあるのです。

 みなさんの中には、そんなひどいことをされているなら、なんで近所の人とか、学校の先生とかに訴えないのかと、不思議に思う人がいるかもしれません。これは、ふたたびレイプと比較して考えてみれば、理解が得られるのではないでしょうか。とは言っても、レイプの被害者に対しても、単純に「なぜ警察に訴えないのか」と言う人がいますが、被害者にとっては、これは非常に気の重い事なのです。訴えることによって、忘れてしまいたいような出来事に、裁判になったときに正面から向き合わなければならなくなるのです。さらに、自分自身が周囲の人から「レイプされた人」という偏見の目で見られることにもなるのです。こういうことと戦いながら、犯人を訴えるというのは、勇気と決断を必要とすることなのです。もしも、あなたが男性であれば、同性の人からレイプされた場合を想像してみてください。同性からレイプされた人として、警察で事情聴取を受けたり、裁判を戦ったりする勇気がありますか。

 近親姦の場合では、被害者は大人ではなくて、子どもなのです。大人でも訴えるには辛い思いをしなければならないのに、子供の場合には、なおのこと辛い思いをしなければならないでしょう。それに、子供の場合には、子どもの目の高さで物を見る必要があるのです。訴える相手は、他でもない自分の親なのです。生活のすべてを依存している親を訴えるということは、子どもにとっては恐ろしいことなのです。訴えた後、自分の生活はどうなるのかとか、まだ世間というものを知らない子どもにとっては、不安でいっぱいなのです。ですので、自分を絞め殺そうとした親であっても、それでも食事を与えてくれるますので、訴えるなどという見通しの付かないことをするよりは、今のままで堪えていた方がいいのです。

 さらに、このような秘密の共謀には、周囲の人たちの無理解も関係してくるのです。たとえば、もし被害者たちが訴えてたとしてもそんなことがあるはずがないということで取り合わなかったりすることがあるのです。あるいは、大人が精神療法の治療の過程で、幼いころにあった近親姦の体験を語ったとしても、こういう問題に理解のないセラピストたちが、「それはあなたの空想であって、実際には、そんなことはなかったんだ」などと決めつけてしまって、近親姦の事実が闇に葬られてしまうようなことがよくあるのです。これは、考えてみれば実におかしなことなのです。たとえば、患者が「私は若いころ、シンナーをやっていたことがあります」と言ったとき、「それはあなたの空想にしか過ぎないんだ。実際にはそんなことはなかったんだ」などと言うのでしょうか。あるいは、男の患者が、「実は五年くらい前に、女子トイレの盗撮をしたことがあるんです」と言ったら、これも空想だと決めつけるのでしょうか。

 通常の患者への接し方というのは、患者は本当のことを言っているのだ、ということを前提として話を聞くのではないでしょうか。そして、もしも途中で不自然な点や、矛盾した点が出てきたときに、初めて患者の言っていることを疑うのではないでしょうか。しかし、近親姦の場合には、最初から疑ってかかるのはなぜなのでしょうか。その理由としては、次回に書く予定の「逆転移」の問題もあるのですが、他の大きな要因として、近親姦というものが、まだ一般的には「あり得ること」として理解されていないからではないでしょうか。アメリカでは、多数の虐待の通報の中に、近親姦もたくさん含まれているために、実際にあり得ることなんだと言う社会的な認識が作られているのです。そして、たくさんの親たちが、過去の近親姦を子どもたちから告発されて、裁判で裁かれたりしているのです。

 しかし、最近になってこのような行き過ぎた告発への反動として、「偽りの記憶」という問題が社会的に取り上げられるようなってきました。これは、未熟なセラピストたちが治療の際に、過去に近親姦の事実があったのだという方向へ、患者を誘導してしまうことによって発生している問題なのです。そして、裁判になったときに、近親姦の事実関係を巡って、非常に混乱した状況が生まれているのです。そして、無実を主張する親たちが、子どもの記憶に基づいた証言によって、証拠が乏しいにもかかわらず、有罪の判決を受けているのです。その一方で、「偽りの記憶」を主張する人たちの「科学的な実験」にも、いろいろな問題点がありますので、こういった「記憶」の問題に関しましては、次回に詳しく書くことにします。

 では、日本では近親姦は「あり得ること」として認識されているのでしょうか。たしかに七十年代ころから、女性週刊誌などを中心として、盛んに近親姦の告白記事が取り上げられてきましたが、まだまだ「実際に」あり得ることとしては認められていないようです。やはり、なにかの大きな事件などがあって、警察によって近親姦の事実が立証され、さらにそれをマスコミが大きく取り上げて報道したりするようなことがないと、なかなか一般的に認められたと言う状態にはならないのではないでしょうか。

 しかし、日本でも、今から二十年ほど前になりますが、近親姦が絡んでいるのではないかと思われる、非常にセンセーショナルな殺人事件が起きているのです。川崎市に住む、予備校生の一柳展也が、金属バットを使って両親を惨殺したという事件です。当時、この事件は、過酷な受験戦争の影響による殺人事件として、マスコミで大きく報道されたのですが、ジャーナリストたちが取材をしていくに従って、不可解な点が次々と出てくるのです。もちろん警察は公式にはそんなことは一言も言っていないのですが、ここに「近親相姦」というキーワードを当てはめてみますと、たくさんの不可解な点が、すべて理解できてしまうのです。

 たとえば、検視官が意味ありげなことを漏らしていたり、殺し方に異常とも言えるほどの残虐さがあったり、あるいは警察の内部情報として、母子相姦の事実が分かって、これを公表するかどうかで非常にもめたという話があったり、その他にも事件に至るまでの家族の動向に、いろいろな不可解な点があったりするのです。そして、このような謎を解くキーワードとして、母親と息子の間に「近親相姦」があったのだという説が、浮上して来たのです。この近親相姦説は、一部のワイドショーでも取り上げられられたこともあるのですが、しかし、警察が公式的に否定している以上は、この説はあくまでも推測でしかないと言うことになってしまうのです。

 日本では、最近、子供への虐待が注目されるようになってきて、マスコミでも大きく取り上げられるようになってきました。ですので、いずれは近親姦による虐待や事件なども、大きく報道されるようになるのではないかと思います。そして、将来的には、近親姦という虐待も、身近に「あり得る」犯罪として、認識されるようになっていくのではないかと思います。
http://homepage1.nifty.com/eggs/jitai/incest/3jittai.html


03. 2010年4月10日 00:16:25: MiKEdq2F3Q

昔の農村共同体というのはこういう世界だったんですね:

1.精神病の感染

 果たして、精神病というのは伝染するものなのだろうか。

 人の心を操る寄生虫が出てくる小説(ネタバレになるのでタイトルは言えない)を読んだことがあるが、実際に見つかったという話は聞かないし、たとえ存在したとしてもそれはあくまで寄生虫病であって、「伝染性の精神病」とは言いがたいような気がする。

 実際には、たとえば梅毒のように伝染性の病気で精神症状を引き起こすものはあるけれど、純粋な精神病で細菌やウィルスによって感染する病気は存在しない。精神病者に接触しても、感染を心配する必要はないわけだ。

 しかし、だからといって精神病は伝染しない、とはいえないのである。
 精神病は確かに伝染するのである。細菌ではない。ウィルスでもない。それならなんなのか、というと「ミームによって」ということになるだろうか。

 妄想を持った精神病者Aと、親密な結びつきのある正常者Bが、あまり外界から影響を受けずに共同生活をしている場合、AからBへと妄想が感染することがあるのだ。

もちろんBはまず抵抗するが、徐々に妄想を受け入れ、2人で妄想を共有することになる。これを感応精神病、またはフォリアドゥ(folie a deux)という。

Folie a deuxというのはフランス語で「ふたり狂い」という意味。最初に言い出したのがフランス人なので、日本でもフランス語で「フォリアドゥ」ということが多い。もちろん妄想を共有するのは2人には限らないので、3人、4人となれば"folie a trois"、"folie a quatre"と呼ばれることになる。なんとなく気取った感じがしてイヤですね。

 AとBの間には親密な結びつきがなければならないわけで、当然ながらフォリアドゥは家族内で発生することが多いのだけど、オウム真理教などのカルト宗教の場合も、教祖を発端として多数の人に感染した感応精神病と考えることもできるし、以前書いたことのあるこっくりさんによる集団ヒステリーも広義の感応精神病に含めることもある。


この感応精神病、それほどよくあるものでもないが、昔から精神科では知られた現象で、森田療法で知られる森田正馬も1904年に「精神病の感染」という講演をしている(この講演録が日本での最初の文献)し、その後も今に至るまでいくつもの論文が発表されている。


2.宇宙語で会話する夫婦

 まずは精神医学1995年3月号に掲載されている堀端廣直らによる「Folie a deuxを呈し“宇宙語”で交話する一夫婦例」というものすごいタイトルの論文から紹介してみよう。

 鍼治療の仕事を営む夫婦の話である。

 夫婦は「温和で物静かな夫婦」とみられていたが、1986年8月中旬から、妻の方が「宇宙からの通信」を受け始めた。その内容は「病気はこうしたら治る」「宇宙から素晴らしい人がやってくる」といったものだった。また、それと同時に近所の人々によって嫌がらせをされるといった被害妄想も感じるようになった。

そして約1ヶ月後には夫も同様の被害妄想をもつようになり、宇宙からの通信を受け始めたのだという。妄想が感染したのだ。二人は治療を求める客に対して「あなたは価値のない人間だから」などといって断るようになる。昼間から戸を締め切り夜は部屋の電灯を一晩中ともして「宇宙からの使者を待つ」生活をして周囲から孤立していった。

 そして約二年後のこと。今度は夫の方から「宇宙語」と称する言葉をしゃべりはじめ、半年後には妻も同調して二人は「宇宙語」で会話するようになったのだという。近所に抗議に行ったり通行人を怒鳴り追いかけるときにも「宇宙語」を発して近所の人々を驚かすこともあった。

宇宙語は中国語やスペイン語に似た言葉のように聞こえたとのこと。子供が3人いたが、感化されることもなく宇宙語も理解できなかった。


1991年、妻が通行人に暴力をふるう行為があったので妻のみが入院。妻は、医師に対して「宇宙語を喋るのがなぜいけないのか。人間のレベルが高くなったからしゃべるのだ」と反論し、同席した夫と宇宙語で会話。しかし入院翌日からは落ち着きが見られ話も通じるようになった。

入院3週間後より夫との面会を許可したが、笑顔で落ち着いた様子で宇宙語は話さなかったという。退院してからは「あのときは自分は一生懸命だったのです。今となっては過去のことです。通らねばならない過程だったと思います」と冷静に振り返ることができたという。

 これは春日武彦『屋根裏に誰かいるんですよ。』にも紹介されている症例だが、おそらくこれは「愛」の物語だ。フォリアドゥの成立条件に「2人の親密な結びつき」がある以上、フォリアドゥの物語は、多くの場合、愛についての物語なのである。

 この症例で興味深いのは、もともとの妄想の発端は妻だったのにも関わらず、「宇宙語」を話し始めたのは夫の方からだというところ。

最初妻が妄想を語り出したとき、当然夫はとまどったことだろう。その時点で病院に連れて行ったり誰かに相談したりすることもできたに違いない。

しかし、結局夫はそれをせず、妻の妄想世界を受け入れる。それはつまり、二人の間にはそれほどまでに深い結びつきがあったということだ。それから二年後、夫は、世界を与えてくれた妻に対し「宇宙語」を伝え、さらに二人の世界を広げるのである。

 「宇宙語」はつまり、夫から妻へのプレゼントだったのかもしれない。

3.行者と女工

 もうひとつ、篠原大典「二人での精神病について」(1959)という古い文献に載っている事例も紹介してみよう。72歳の女行者と25歳の女工の話だ。

 まずは行者の方である。老婆は若い頃から信心に凝り、夫や子を捨てて住みこみ奉公をし、金がたまると神社仏閣を遍路するという生活を繰り返していた。いつのころからか病人をまじないし、狸がついているなどというので、昭和31年夏、I病院に入院させられた。病室の隅にお札やお守りで祭壇をつくり大声で祈り、ときどき気合いをかけたりしていた。

医師には「お稲荷さんもこの病院は嫌だといっておりますわ。いろんなことがありますが、いうと気狂いだといわれますさかい」と言っていた。

 一方、女工は18歳で母を亡くし、継母とはうまくいかず、郷里を出て工場を転々とし、苦労を重ねていた。入院1ヶ月前、3年間つきあっていた男性から別れ話を持ち出された。

その後、ほかの人が彼女には無断で男から手切れ金を取ったり、すぐあとで別の男から結婚を申し込まれるなどの事件が重なり、発病。「不動さんの滝に打たれていると自然に首が振れだし、止まらなくなりました。不動さんが私に乗り移り問答できるようになりました。故郷に帰れとお告げがあったので荷物をまとめていると、手切れ金の噂をする声が聞こえてきました」。彼女は昭和31年秋に入院した。

 1年後にこのふたりは同じ病棟で移る。すると2人はすぐさま一日中話し込み、ともに祭壇を拝み、女工は行者のお経を写すようになる。

このころ、女工は「私の病気の原因を知っていて治してくれたのです」「不思議な風が私をおさえつけもがいているときに○○さん(行者の名前)のお守りで楽になりました」と話している。

女工は、男に裏切られて以来始めて、信頼できる人に出会ったのである。このころの2人はまさに教祖と信者の関係であった。


しかしその関係は長くは続かなかった。いったんは救われたものの、行者の方が「腹の中にいる生き物がはらわたを全部食ったらおまえは死ぬ」「人を犯す霊がお前についている」などと女工を脅すようなことをいうようになり、女工は行者に不信を抱くようになる。

彼女は行者とは別に祈るようになったが、するとますます行者は怒る。結局3週間で2人は争い分かれてしまった。女工は言う。「○○さんは私を計略にかけたのです。○○さんは身寄りがないから私を治して退院させ、退院した私に引き取ってもらおうとしたのです」

 その後1ヶ月して面会させたが、語り合わずまた争うこともなかった。行者はその後も変化はなく、女工は症状が消え3ヶ月して退院、故郷に帰っていった。

 孤独な2人の、出会いと別れの物語である。


4.フォリアドゥの治療

 この例でもわかるように、実はフォリアドゥには、鉄則といってもいい非常に簡単な治療法がある。それは、2人を引き離すこと。

もちろん最初に妄想を抱いた人物(発端者)は、多くの場合入院させて薬物などによって治療する必要があるが、影響を受けて妄想を抱くようになった人物(継発者)は、発端者から引き離されただけで治ってしまうことが多いのだ。

 ただし、引き離す、という治療法は多くの場合有効だが、そうすれば絶対に治るとはいえない。

 私がまだ研修医だったころのことだ。隣の家の朝鮮人が機械で電波を送ってくる、という妄想を抱いて入院しているおばあさんの治療を先輩医師から引き継いだことがある。

「自分が治してやろう」という意気込みは精神科ではむしろ有害なことも多い、ということくらいは知っていたが、まだ駆け出しだった私には、どこかに気負いがあったのだと思う。必死に薬剤を調整してみてもいっこうに妄想は改善しない。

万策尽き果てた私が、永年同居生活を送っている兄を呼んで話をきいてみると、なんと、彼の方も「隣の家の朝鮮人からの電波」について語り出したではないか。2人は同じ妄想を共有していたのだった。

 これはフォリアドゥだ! 私は、珍しい症例に出会ったことと、そして先輩医師が気づかなかった真実にたどりついたことに興奮し、さっそく「鉄則」の治療法を試みた。兄の面会を禁止したのである。

しかしこれは逆効果だった。面会を禁止してもおばあさんの妄想はまったく改善せず、それどころか2人とも私の治療方針に不信を抱くようになり、治療はまったくうまくいかなくなってしまったのだ。

私は2人を一緒に住まわせるのはまずいと考え、兄のところ以外に退院させようと努力したのだが、2人とも態度を硬化させるばかりであった。


今考えれば私の方針の間違いは明らかである。私は、妄想が残ったままであろうと、彼女を兄のところに退院させるべきであった。それが彼女の幸せであるのならば。私は「鉄則」にこだわるあまり、老人の住居侵入妄想はなかなか修正しにくいことを忘れてしまい、そして何よりも、永年2人だけで暮らしてきた兄に突然会えなくなった彼女のつらさに考えが及ばなかったのであった。


5.古いタイプの感応精神病

 続いて、古いタイプの感応精神病の例を紹介してみよう。最近の感応精神病は「宇宙語」の例のように、都会の中で孤立した家族で発生することも多いのだが、かつては圧倒的に迷信的な風土の村落で発生することが多かった。例えばこんな例がある。

 昭和29年、四国の迷信ぶかい土地の農家での話である。あるとき、父親が幻覚妄想が出現し興奮状態になった。そのさまを熱心にそばで見ていた長男は2日後、父親に盛んに話しかけていたかと思うと、次第に宗教的誇大的内容のまとまりのない興奮状態に発展し、互いに語り合い感応し合いながら原始的憑依状態を呈するに至った。

父親は妻、娘など一家のもの6人を裏山に登らせ裸にさせて祈らせ、大神の入来を待った。長男は家に残り夢幻様となって家に放火。一同は燃え崩れる我が家を見ながら一心に祈りつづけた。父親、長男以外も一種の精神病状態にあった。


悲惨な話だが、どこかゴシック・ホラーの世界を思わせないでもない。

 これがさらに拡大すると、村落全体が感染するということもある。


青木敬喜「感応現象に関する研究(第1報)」(1970)という論文に載っている例だが、これはフォリアドゥというよりむしろ、以前書いたこっくりさんの例のようなヒステリー反応とみなすのが適当かもしれない。


 昭和11年、岩手県北部にある戸数40程度の集落での話である。

 発端となったのは35歳の農家の妻Aである。昭和11年5月、夫の出稼ぎ留守中、頭痛や喉頭部の違和感を感じるようになり、また身体の方々を廻り歩くものがあるような感じがするようになった。あちこちの医者を回ったがなんともないといわれるのみで一向によくならない。

どうも変だと家人がいぶかしんでいる間に、患者はときどき「鳥が来る。白いネズミのようなものが見える」などといったり、泣いたり騒いだりするようになった。家人はこれは変だと患者の着物を見ると、動物のものらしい毛がついている。これはイズナに違いない、と12キロほと離れた町の祈祷師Kに祈祷してもらったところ、たちまち発作状態となり、さらに発作中に自分は集落の祈祷師Tのもとから来たイズナであると言い出したのである。

その後もこの患者は発作を繰り返すようになり、多いときには一日のうちに数回起こすようになった。

 さてAの近所に住む農家の妻BとCも、昭和11年5月頃から喉の違和感を覚えるようになる。12月にはBの夫がBに毛が付着しているのを発見している。BとCは例の祈祷師Kのもとを訪れ祈祷してもらったところ、祈祷中に2人は急に騒ぎ出し、「Tから来たイズナだ。Tで育ったものだ」と言い出す。


こうして昭和12年4月までの間に続々と同様の患者がこの集落に発生、ついにその数は10名にのぼった。事件は集落をあげての大騒ぎとなり、「集落は悪魔の祟りを受けた。なんとかして悪魔を滅ぼさねば集落は滅んでしまう」と不安と緊張が集落にみなぎるにいたる。

 こうしたなか、本当にTの祈祷のせいなのか確かめようじゃないか、という動きになり、昭和12年8月20日午後3時ごろ、集落の共同作業所に患者10名を集め、集落の各戸から1名ずつ、合計四十数名の男たちの立ち会いのもと、TとKのふたりの祈祷師の祈祷合戦が繰り広げられることになった。

まず疑いをかけられているTが祈祷をするが患者は何の変化も示さない。次にKが祈祷すると、約10分くらいして患者たちはほぼ一斉に異常状態となり、「Tから来たTから来た」と叫ぶもの、「お前がよこした」と激昂してつかみかかるもの、「命をとれといわれたが恨みのないものの命をとることができないからこうして苦しむのだ。苦しい苦しい」と泣き喚くもの、ものもいえず苦しげにもがいているものなど憑依状態となり、まったく収拾のつかない大騒ぎとなった。

このため、これは確かにTの仕業に違いないと集落のものは確信を抱き、Tに暴行を加え、T宅を襲って家屋を破壊した上、村八分を宣言したのである。

 さらにその約1ヶ月後のことである。集落の各戸から1人ずつ男たちが出揃ったところで副区長が「イズナが出ないようにするにはイズナ使いの家に糞便をふりかければイズナは憑くことができないという話をきいた。どうであろう」と提案した。

すると、一同は一も二もなく賛成し、そのまま四十数名が暴徒と化し、大挙してT宅に押しかけ、雨戸を叩き壊して座敷になだれ込み、糞便をかけ、Tをはじめ家族の者を殴打、重傷をおわせてしまった。


これまたものすごい事件である。ただ、「宇宙語」の家族は隣にいてもおかしくないように思えるが、こちらはわずか60年前の事件とは思えないくらい、私には縁遠く思える。

集落全体が外部から遮断された緊密な共同体だった時代だからこそ起こった事件なのだろう。こうした共同体が減ってきた今では、このような憑依型の感応精神病はほとんど見られなくなっている。

6.家庭内幻魔大戦

 さて今度はまた篠原大典「二人での精神病について」(1959)から。家庭内の騒動が、宇宙的規模での善悪の戦いにまで発展していってしまうという、興味深い物語である。

 昭和31年5月、Kという呉服商が相談のため京大精神科を訪れた。

 彼の話によれば、昭和23年に妻と長女、三女が彼と口論をしたあと家出。しばらくして帰宅したが帰宅後はことごとく彼と対立、離婚訴訟を起こした上、妻と長女は前年から二階の一室にこもり、ときどき外出して彼の悪口を言い歩くが、一見正常に見えるから始末に困るという。なお、別居中の義母も妻とは別に彼を悪者扱いしているという。

 そこでこの論文の著者らはただちに母と娘を閉鎖病棟に収容した。現在の常識からすればこれくらいのことでなぜ、と思えるが、当時はそういう時代だったのだろう。入院後も2人が協力して反抗してくるのでただちに分離したという(「鉄則」の通りである)。

 さて母子の入院後、2人の部屋からは数十冊にも及ぶ膨大なノートが発見される。そのノートには、驚くべき母子共通の妄想体系が詳細に記されていたという。その記述によればこうだ。

 宇宙外にある「大いなるもの」から一分子が月に舞い降り、さらに地球に来て母の肉体に宿った。太陽を経て地球にきた分子は長女に、ある星を経て来た分子は三女に宿った。彼女らは肉体は人間の形をしているが、魂は大いなるものの一部であり、月や太陽の守護のもとに人類を救済する使命をもち、「宇宙外魔」の援助を受けて彼女らをおびやかす悪の根源である夫Kを撃滅せねばならない!

 家庭内幻魔大戦というか、家庭内セーラームーンというか、とにかくそういう状態なのである。ここで、仮に母を月子、長女を陽子、三女を星子と呼ぶことにし(実際、論文にそう書いてあるのだ)、2人が書いた手記をもとに、この妄想体系が完成されるまでの経過をたどってみる(以下斜体の部分は手記の記述による)。


Kは苦労人で丁稚奉公のあと、月子と見合い結婚すると暖簾をわけてもらい東京で呉服店を開いた。一方月子は貿易商の長女で甘やかされて育ったせいもあり、派手でだらしなく浪費癖があり、夫とは常に対立していた。2人の間には4人の子どもが生まれる。長女陽子、長男、次女、三女星子の4人である。

 長女陽子は自然が好きな子どもだったが、人間は嫌いで、幼稚園の頃は太陽の絵ばかり描いていた。「父は些細なことで怒り赤鬼のようになって母を叩き、耐えている母をみて母の尊いこと」を知った。

父と母の争いにまきこまれ、成績があがらず落胆し、学校も家庭も憎み、「よく裏庭に出て月や星を仰いで」いた。5年生のときにH市に疎開、終戦までの1年間は父のいない楽しい生活を送ったが、終戦後父もH市で商売を始め、再び母との争いに巻き込まれることになった。

 しかも、中学から高校にかけては父の命令で、妹たちとは別に祖母のいる離れで寝なければならなかった。祖母は向かい合っていても何を考えているかわからない人で、「父が悪事を企んでいる」と真剣な顔で陽子に告げるのであった。

この祖母も分裂病だったと思われる。陽子の手記によれば「父から物質的恩恵を受けながら父を愛せませんでした。そのことを深刻に苦しみましたが、誰も理解してくれませんでした。知らず知らず孤独を好み、しかし一方では自分が頼りなく誰かに頼らねば生きていられませんでした」。そして高校1年のときある事件が起き、それ以来彼女ははっきりと父を敵とみなすようになるのである。

 その事件については陽子の母月子の手記をもとに見ていこう。
 昭和25年、月子と陽子はKの弟の家で軽い食中毒を起こす。このとき月子の心に最初の疑惑が生じる。

昭和27年、月子は夫の甥が陽子の部屋に無断ではいるのを発見し、夫に告げるが「夫は全然取り合わないのである。私は夫の仮面を見たような気がした」。


昭和28年1月、陽子は腎臓疾患にかかり、月子は離れで陽子を看病するが、Kが離れに出入りしたあとは必ず容態が悪化することに気づいた。

「ここに至っては夫が陽子に危害を加えていることは明らかである。私は夫と甥に警戒の目を向けた。家の中は自ら疑心暗鬼、一家をなさず私と陽子対夫と甥の目に見えない対立が生じ、間に入ったほかの子どもたちはおろおろするばかりである」。

長男は中毒事件までは母についていたが以後父に従い、次女は最初から父の側、三女星子はほとんど母についていたが、終始母に批判的であったという。

 28年3月、月子は飼い犬のえさのことで夫とひどい口論をしたときに夫に「何か一種の妖気を感じた。私は今までの夫にないものを見たのだ。以後奇怪な事件は連続して起こっていった。私たちは身体に異常を感ずるが、くやしいことにその根源を科学的に実証できなかった。しかし害を加えられるところにとどまることはできない」

 彼女たち3人は家を出て警察などに訴えまわり、3ヶ月後に帰宅した。

「家に帰ると陽子は身体がしびれて動けぬという。奇怪だ。しかしある夜、私はその正体の一部を見た。私が陽子を看病していると、といっても病気ではない。見守っていると、はなれとの境目の板塀の節穴からさっと私たちに向かって青白い閃光が走った。私も陽子もしびれるような異常を感じた。相手は見えざる敵である。あるときは右隣、あるときは左隣から来た」

 やがて29年になる。「私は陽子を連れて二階に引きこもることにした。疑いを持った人とともに生活することは無意味だからである。そしてこの不可解な事件をどう解決するかということに専念した」

 家出前後の事情は娘陽子の手記にも書かれている。

「腎臓炎になってから不思議なことが次々と起こり、布団が非常に重く感じられ、時計の音が大きく響きました」

「父が薬を飲ませたとき、味が妙だと思いましたが、あとで毒を入れられたのでそれで病気が治らなかったのだとわかりました」

「父に殺されるといったのは私で、家を出ようといったのは母です」

「隣の家から光線が出て2人とも気持ちが悪くなったこともあります」

「H先生(遠縁にあたる絵の先生で、彼女の片想いの対象)に何度も危険を訴え、殺されたら裁判所に訴えてくれと頼みました」。

笑っちゃいけないのだが、月子の手記がなんだか妙にB級ホラーサスペンスタッチなのがおかしい。母子と父の戦いはいったいどうなるのか。

 昭和29年になると、母月子と長女陽子は2人で2階で暮らすようになる。陽子の手記によるとこうだ。

「母と2階で生活し、父が来ると追い返し塩を撒きました」

「私が買い物に出て家の周りのことを母に伝え、対策を考えてはノートで敵を攻撃しました」

 「ノートで敵を攻撃」というのがどういうことかというと、つまり呪文による攻撃なのである。母のノートには「神不可抗、我等と敵魔外魔との反発源を白光通像の中へ密着入せよ」などとあり、娘のノートには

「さしもかたき暗黒の魔星、四方に砕けて、たちまち無くなれり。彼方より尊き神の御光、仰げ白光たえなる神を」とあった。

また、「敵撃滅敵撃滅敵撃滅……」という呪術的文句も延々と繰り返されていたという。ここにきて、事態は家庭内呪術戦争の様相を呈する。


 昭和30年、ついに2人は「大いなるもの」と接触する。

「『ご自身の世界に一度顔を出してください』と太陽から聞こえたり、大いなるものから『来たければおいで』と知らせてくれました。

体がしびれたとき、目を閉じるとダイヤモンドのようにきらきら光るものが見え、母に話したら大いなるものだといいました」。


困り果てた父親が精神科を訪れたのが昭和31年5月。そして2人は入院することになる。

入院3日目より陽子は「壁の後ろから父に命令されたものが電波をかける」と訴え、母の名を叫びながらノートにも

「お母さんお月さんはありますね」

「お母さんを離れては私はありません」

「お母さんの心は私の心、一心同体とお母さんは言いましたね」

などと書いた。母と会わせると抱き合って

「月と太陽が……あいつと宇宙外魔が……」と語り合っていた。

 入院第1週から月子は「私の伝記」を書き始める。これが今まで引用してきた手記である。

 第2週、娘は

「新しい素晴らしい世界ができる。その主となるのは私」

「地球も宇宙も月も捨ててしまう」

「月も太陽も出ない。宇宙を逆転させて、しめたといったのは誰だ」

と緊張病性興奮をきたし、父と面会させると

「あれは亡霊です人間ではありません」と逃げ出した。

主治医はつとめて妄想を肯定するように対応したが、すると彼女は主治医とH先生(きのうの記述にも出てきた、陽子が片想いしている絵の先生である)を人物誤認し、


「太陽は自由だった。太陽に飛んでいきたい。しかし地上にも幸福はある。それはH先生」

と書いている。この頃から興奮は鎮まり、第3週から手記を書き始めている。

 母の症状はなかなか改善しなかったが、第6週には娘は父の住む家に外泊、父は案外やさしい人だといい、逆に母を説得さえするようになった。「入院はいやだったが、病気が治りかえって自由になった」と書いている。第8週に母はなんら改善されずに退院。第10週に娘も母と別居し父と暮らす約束で退院した。

 しかし、話はここでは終わらない。陽子は1ヶ月ほど父と生活したが、H市の母のもとに手伝いに行ったのをきっかけに、ふたたび母と二階の一室で暮らすようになる。ときどき帰る父と母の緊張、H先生への恋を母に禁止されたことなどが誘引となり、10ヶ月後、再び陽子の症状は悪化してしまう。

 昭和32年4月、陽子は京都にH先生に似ているというある俳優の撮影を見に来ていたが、その俳優が殺されるシーンになると不安になり、ハンドバッグから持ち物を出し、次々と太陽にすかし池に投げ込んだ。かけつけた父を罵りますます興奮するので、主治医が呼ばれて行った。

「よい月が出ているから安心しなさい」と主治医が言うと一応鎮まり、

「二次元と三次元の世界のどちらを選ぶべきですか」と質問したという。

 かくして陽子は再入院。第1週には

「人間なんか信用できないから地球に未練はない。あの汚らわしいやつ。人間のできそこない、あいつは絶対に許されない。神でもないのに神のつもりでいるのだ。あいつは物質的恩恵を与えたつもりでいるけれど、太陽によって成り立った物質はあいつのものとはいわせぬ」

「私の元の世界は宇宙の外にある。お母さんが帰らなければ私だけH先生を連れて帰ってしまう」

などと話していたが、2週目以降はやや現実的になり、母親と離れることの不安やH先生への思いを語るようになっていった。


入院2ヶ月後にLSDを服用させて妄想を発現させたところ(驚くべきことに、昔はそういう治療法があったのである)、1時間後強迫的に笑い出し、
「ケセラ・セラの歌は私がお母さんに頼っていたことに対する警告だと思います。お母さんを捨ててH先生と結婚します」

といい、2、3時間後には「先生! オールマイティになってください」と主治医に寄りかかる。一人で立たないといけないと突き放すと不安がつのり

「空に飛びたい。元の世界に帰る」と机の上に乗って飛ぼうとする。

しかし飛べずに興奮し始め、

「過去も現在もなくなってしまえ」

と叫びながら主治医にH先生になってくれと懇願する。主治医がうなずくと次第に静まっていったという。

 念のため言っておくが、これは今じゃとても考えられない荒っぽい治療法である。 ともかく、入院4ヶ月目に陽子は退院。以来京都で父と暮らし洋裁学校に通うようになったという。

 論文の著者はこう結んでいる。「母からH先生へ、そして主治医へ、退院の頃には主治医から父へと陽子の依存性は次々と移され、その程度も弱まり遂には精神的独立を決意するに至っている。かくて主治医を通じて父との新しい人間的結合を生じ、母から分離したのである」。

 つまり主治医は、陽子の分離不安をいったん自分で引き受けることによって治療を成功させたわけなのだけど、これも下手をすれば主治医が妄想に取りこまれないとも限らないわけで、けっこう危険を伴なう治療法だと思うんだけどなあ。ま、結果よければすべてよしですが。


7.フォリアドゥと家族

 さて最後にちょっと違った視点からフォリアドゥを見てみよう。共同生活をしている家族などの中で狂気が伝染していくというのは、確かに気味の悪い現象ではあるのだけれど、ある意味、感染して同じ狂気を共有するようになった人は幸せといえよう。

抵抗をやめて吸血鬼(or屍鬼orボディスナッチャーorボーグ)になってしまえば楽になるのと同じようなものだ。

 それでは、狂うことができなかった家族はどうなるのだろう。
 家族を正気に戻すために戦う? 家族を捨てて逃げる? 

映画ならともかく、現実にはどちらもよほどの覚悟がないとできそうにない。それに、もし、戦うことも逃げることもできない無力な子どもだとしたら? 

家族は狂気を共有することを強要するだろう。暴力も振るうかもしれない。狂うこともできない子どもは家族からの虐待に耐えつつ、ただひとり孤立するほかあるまい。狂気に陥っている集団の中では、正気を保っている人物こそが狂人なのである。

 これは、狂気に感染した家族よりもはるかに悲惨なんじゃないだろうか。しかし、どういうわけか、これまでの文献は、感染した家族には興味を示すのに、狂気に陥らなかった家族についてはほとんど触れていない。「宇宙語」の論文でも、感染しなかった子どものことはほとんど書かれていないし、「家庭内幻魔大戦」の論文でもそうだ。無視しているといってもいいくらいである。

 このへん、精神医学という学問の偏りがよく現れていますね。派手な精神病症状には興味を示すくせに、狂気を耐え忍んできた人の心にはまったく無関心。今でこそPTSDなどが話題になってきているけれど、つい最近までの精神医学はこんな具合だったのだ。


フォリアドゥそのものではなく「狂えなかった家族」に焦点をあてた文献はあまりないのだが、それでも皆無というわけではない。酒井充らによる『いわゆる被虐待児症候群の事例化』(社会精神医学1987年12月)という論文から事例を引いてみる。

発端者は母親であったらしく、結婚前の18歳ごろから

「近所の人たちが自分のことをバカにして笑っている」

とくってかかるなどの行動があったという。21歳で結婚するが、しだいに夫も妄想を共有するようになり、次男Kが生まれた頃には、夫婦そろって近隣といざこざを起こし転居を繰り返していた。

 次男のKは4歳のときに幼稚園に入園したが、両親はKが保母に不当にいじめられているという被害妄想を抱き、中途退園させてしまう。またその頃父から「家族は家族だけでやっていくから、もう二度と外の人とは遊ぶな」と言われ、子どもたちは外出を禁じられるようになる。

 6歳でKは小学校に入学するが、やはり父は担任の家に電話してどなりつけたり、教育委員会に抗議に行ったりしていた。まもなく両親はKの登校を禁止。Kが登校しようとすると、両親、ときには兄も加わってベルトで鞭打つ、金槌で殴りつける、煙草の火を押しつける、鉄パイプで眼を突くなどの身体的虐待が加えられた。そのため、小学3年生以降はほとんど学校に出席できなくなった。

 他の兄弟は親に従ったがKだけは抵抗したため、Kは親の言うことを聞かない子として、兄に行動を監視され、他の家族員から仲間はずれにされていた。Kは自宅内で一人で教科書や本を読みながら過ごすようになる。


12歳、中学校に進学したが一日も出席できず、学校から自宅に届けられた教科書で勉強し、父に命じられて自宅の敷地内の草取りをしたり、自宅内で飼っている豚の世話をしたりしていた。

この頃から、両親の近隣に対する被害妄想はますます強くなり、両親は自宅周囲をトタン板で囲い、月に一、二度のリアカーでの買い出し以外外出をしなくなる。

外出のときには両親はカメラやテープレコーダーを持ち歩き、「いやがらせの証拠」を探していたという。その際にもKは外出を許されず、父から訪問者の声の録音を命じられていた。

 15歳ごろより、Kはマンガ家になりたいと思うようになり、マンガの添削教育を受け始める。しかし両親は「マンガなど描くのはやめろ。豚の世話をしろ」と反対し、Kの描いたマンガを破き、届いた郵便物を焼き捨てる。反抗すると、両親はKに暴力を加えた。

Kは両親の妨害を避けるため、自宅の隅に家具やガラクタを積み上げて「バリケード」を築き、その中に閉じこもってマンガを描くようになった。Kの態度に父は逆上、バリケードに灯油をぶちまけて火をつけ、自宅は全焼、Kは右半身に火傷を負い、翌日外科病院に入院した。

 入院したKは病院で植皮術を受ける。しかし、手術痕の回復に従い、問題行動が始まった。看護婦の体に触る、夜間徘徊して眠らない、注射・服薬を拒否するなどの行動を繰り返し、病院側から治療半ばにして退院させられてしまう。

病院は通院治療を勧めたが、父は「一旦家から離れた者は家族ではない」といって、Kを父の信奉する宗教施設に預けた。

しかしKはそこでも問題行動を起こし、自宅に帰された。両親はやむなくKを家に置くことを許したが、やはり自宅外への外出を禁じたため、Kは再びバリケード内にこもった生活を続けることになった。


痛ましい話である。Kにとってはまさに地獄のような家だったに違いない。15歳で入院し、家から離れたときになぜきちんと助けを求めなかったのかと不思議に思う人もいるかもしれないが、それは無理な話だろう。

それまで家族以外との接触がほとんどなかったKには、他者とうまくコミュニケーションをとることができなかったのだろう。

 さてこのあと、Kは意外な方法で地獄からの脱出を図る。

17歳頃になると、Kは両親が話しかけても「あなたは誰でしゅか」などと幼児語しか話さなくなり、昼夜かまわず奇声を発するようになった。

また布団の上や鍋の中に大小便をしたり、糞尿を身体をなすりつけて転げまわるなどの異常行動が徐々に激しくなり、両親も対応に困り、翌年11月、救急車で精神病院に入院することになった。

 入院したKは、主治医の質問も待たず一方的に喋りだし、

「親から離れて入院できたのは本当にラッキーでした。でも僕は本当のことは言いません。狂気を装っているんです。催眠療法してもだめでしょう」

とうれしそうな表情で話した。入院前の異常行動については

「親が鉄パイプで殴ったり、僕のものを燃やしたりするのが鬱積して、精神病の方へ出ちゃったんです」

「虐待ばかりで学校へも行かせてくれず、訴訟ばかりしている親に反抗して、家から脱出したいと思って、親の方から僕を嫌いにさせようとして狂うふりをしたんです」という。

また「これは父にやられた、ここは母にやられた」と体中の傷痕や火傷痕についてしきりに説明した。


病棟では他の患者や看護婦に一方的に話しかけ、苦情が出るほどだった。また自分の要求が通らないと大声でわめきちらし、逆に強く注意されるとその場で土下座して謝ったりと、周囲の人たちとどのように接したらよいのかわからない様子だった。

 両親への憎悪は強く、「もう自宅には戻りたくない。親戚に連絡して引き取ってもらいたい」と要求。入院が長引くにつれ、

「自分の親は被害妄想狂です。だから僕ではなく親のほうを入院させて下さい」と攻撃的な口調で退院を要求した。

 一方両親は、入院時「一生退院させない」と言って面会にも現れなかったが、月に2、3回の手紙は必ず送って来た。

Kは両親が「被害妄想狂」である証拠として、主治医に手紙の一部を見せた。手紙は、警察や近隣、福祉事務所などへの被害的内容が主で、当初は病院に対して好意的だったが、徐々に

「病院も警察とグルになって一家をバラバラにしようとしている」

と被害妄想の対象になっていった。そして、それとともにしだいにKの退院を認めてもいいとも書くようになっていった。

 翌年7月、突然父が病院を訪れ、Kを自宅に引き取りたいと申し入れ、即日退院となった。その後もKは以前のように自宅に閉じこもった生活を続けているようだが詳細は不明だという。


こうして、Kは結局地獄の家に帰ってしまうのである。おいおい、そりゃないだろ、と思うのは私だけではないはずだ。

 Kが本当に狂気に陥っていたのか、それとも本人の言う通り狂気を演じていたのか、この論文でははっきりとした結論は出していない。

それでも、Kは、両親の狂気に対して、それを上回る狂気という奇策によって脱出を図り、必死に助けを求めてきたわけだ。そんなKを、父親に言われるままにあっけなく自宅に引き取らせてしまっていいんだろうか。いくらなんでもこの結末はないだろう。

 確かにこの患者は未成年でもあることだし、普通は親が退院させたいと言えば、法的には退院させるほかはない。たとえ親の方がおかしいと思おうが、この両親を無理矢理入院させるわけにはいかない。でも、このような場合には何かほかの方法があったんじゃないかなあ(例えば親戚に介入してもらうとか)。

 この論文は、「今後はさらに、本事例児のみならず、他の兄弟の発育についても、慎重に経過を追う必要があると思われる」と結ばれているのだが、本当にそれだけでいいのか?
 その後この家族がどうなったのか、気になって仕方がないのだが、残念ながら続報は発表されていない。
http://homepage3.nifty.com/kazano/folie.html


04. 2010年4月10日 02:24:57: MiKEdq2F3Q

 1968年10月5日、栃木県矢板市で、娘(当時29歳)が実の父親(53歳)を絞殺するという事件が起きた。父親は娘が中学生の時から乱暴し続け、娘は父親の子を出産していた。


 栃木県佐久山町にTという男がいた。

 Tは農業のかたわら町役場の吏員として勤め、青年学級の指導員でもあった。妻とのあいだに長女A子をはじめ、二男四女をもうけた大家族だった。

 A子は1939年生まれ。父母が24歳の時の子どもである。

 昭和28年、農業を嫌ったTは、宇都宮に移り味噌・雑貨を扱う商売を始めた。木造平屋の二間に9人が暮らした。商売はうまくいかず、貧しい生活が続いた。

 中学2年の三学期頃、A子(当時14歳)が四畳半で寝ているところ、酒臭い父親が布団にもぐりこんできて体を触られた。

他の兄弟が折り重なるように寝ていたので、A子さんは家族を起こすまいとそのあいだ声を出すことはできなかった。そしてそのまま父親に犯されたのである。以後、母親の目を盗んでは、1週間に1度、10日に1度と犯され続けた。

「お父ちゃんが私のところへ来て変なことする・・・」

 中学3年になったA子は泣きながら母親にこのことを打ち明けている。だが母は「どうりで私のところにこなくなった。おかしいとは思っていた」と言うだけで、ショックを受けたようでも、怒っている様子でもなかった。

 娘の目にはそう見えた母親だが、子ども達のいない時に「A子に何すんだ!」とTに怒りをあらわにした。だがTは逆に包丁をつきつけて「ガタガタぬかすと、殺すぞ」と脅し返した。恐れた母親はA子や他の子ども達と逃げ出した。Tはそれまでは心優しい夫であったのだが、A子とのことがあってからは、乱暴な男に変わっていた。

 結局、母親は子どもの半分を連れて知人のいる北海道に家出。残されたA子が母親代わりとなって、弟妹の面倒を見た。Tは母親の目を気にすることもなくなったので、日に何度もA子を求めるようになった。


 A子17歳の時、母親が戻ってきた。母の実家に屋敷に掘立小屋を作り、一家はそこに住むようになった。母は父を監視して、A子の寝ている方に行こうとすると止めに入ったが、そのたびに喧嘩となった。

 それでもTの欲望はつきることなく、酒を飲んでは娘の体を求め続けた。そしてこの頃、A子は父親の子どもを身ごもった。

 身重のA子は、田植えの時に知り合った男性(当時28歳)と駆け落ちした。A子の方から「私と逃げてください」と哀願したのだった。男性は同情して、2人は黒磯まで行ったのだが、父に追いつかれて引き離された。

 この一件があって、Tは妻の留守中に矢板市に間借りして、長女とその妹H子とで暮らし始めた。この矢板市の家は一部屋で、ここでは毎晩夫婦のように父と1つの布団で眠った。Tはこの頃、植木職人をしていた。

 11月24日、A子は長女出産。

 昭和32年、市営団地に引っ越す。A子はここで二女、三女を出産。

 父親は精力はますます旺盛になったのか、毎晩1度では終らず A子が断ると、大声でわめき散らした。A子は近所の人や自分の子どもにそれを聞かせたくないから応じ続けていた。
 
 妹H子は中学卒業後、千葉県の工場に就職し、矢板の家ではTとA子、子ども3人での生活が始まった。事情を知らない人間からすれば、幸せに映っていただろう。


 1968年、A子は29歳になっていた。

 すでに四女と五女も生んでいたが、生後まもなく死亡した。5度の出産以外にも、5度の中絶をしている。

昭和42年8月、大田原市の産婦人科では「このように中絶していると体が持たないから、手術して妊娠しないようにしたほうがいい」と言われた。A子は父親に相談し、父もそれに賛成したので、8月25日に矢板市内で不妊手術を受けた。供述によると、この手術以来、A子は不感症となり、父とのセックスは苦痛以外の何者でもなくなっていた。

 A子は家計を助けるために65年から近所の印刷所に働きに出ていたのだが、ここで年下のSさん(当時22歳)という男性と知り合っている。A子はSさんに好意を持ったが、積極的に仕事を手伝うぐらいで、それを口にしたことはなかった。以前、駆け落ちした男性は嫌いではなかったが、父の元を離れたいという想いの方が強く、恋とは言えなかった。だからSさんが初恋の相手となる。

 8月の終わり頃、仕事を終えて帰宅中のA子に、Sさんが「工場をやめようかな」と言った。その理由については言わなかったが、その翌朝、Sさんが告白した。
「あんたが悪いんだ。あんたが会社に入ってこなければよかった。あんたが好きになってしまった」

 A子は父に束縛されるため遠出がほとんどできなかったので、同僚が「恋人と〜に行ってきた」と話すのがうらやましくて仕方なかった。だからこそSさんと仕事帰りに喫茶店でおしゃべりをしたり、東武デパートで買い物をしたり、花屋敷で映画を見たことは、彼女にとって初めての幸福であったに違いない。

 Sさんは他の従業員からA子さんに子どもがいるのを聞いており、また子どもが出来ないことも知っていたが、結婚を申し込んだ。

 A子は寝床で父親に結婚したい人がいるということを打ち明けた。

「お前が幸せになれるんなら良い。相手はいくつだ」
「22歳」
「そんなに若いんじゃ向うでお前をからかっているんだ。子どもはどうするんだ」
「お母さんに頼む」
「何を言う!俺の立場がなくなる。そんなことができるか。お前の子どもなんだぞ」

 父親は焼酎を一気に飲んで、「今から相手の家に行って話をつけてくる。ぶっ殺してやる!」とわめいた。A子は「勤めをやめて家にいるから、Sさんのところには行かないで」と言ってようやく納得させた。

 翌朝、A子は工場に電話を入れ、「ゆうべお父さんに話したが駄目だった。今から矢板駅に行くから来てくれ」とSさんに伝えた。Sはすぐに駅に行ったが、A子は姿を現さなかった。

 その頃、A子はよそ行きの服を持ち出して、近所の家で着替えていた。しかし、Tに見つけられ、ブラウスを剥がれ、下着まで破られた。悲鳴を聞いた近くの人が父を押さえているあいだに、A子はバス停に向かったが、バスが来ぬ間に父親に連れ戻された。

 9月20日、A子は父から逃れるために東京に出ようと決心した。その前に1度だけSさんと会ってお別れを言いたかったのだが、彼の自宅でも、工場でも電話は取り次いではもらえなかった。

 Sさんは工場長からA子が父親と関係を持っていることを聞かされていた。「深入りしないように」とも言われた。A子も工場を辞めてしまったので、もう忘れようとしていたのだった。

 A子の上京は、父が仕事を休んでまで監視するため不可能になっていた。

 10月5日、この日も父はA子を監視するため仕事を昼までで切り上げ、泥酔していた。

「俺はもう仕事をする張り合いがなくなった。俺を離れてどこにでも行けるんなら行ってみろ。一生つきまとって不幸にしてやる。どこまで行ってもつかまえてやる」

 夜8時すぎ、いつものようにTが娘の体を求める。

「俺は赤ん坊のとき親に捨てられ、苦労に苦労してお前を育てたんだ。それなのに十何年も俺を弄んで・・・・このバイタめ!」

「出ていくんだら出ていけ。どこまでも追って行くからな。3人の子どもは始末してやるぞ!」

 この罵声を聞いた瞬間、A子は父親を押し倒し跨ったうえで、傍にあった股引の紐をつかんで、首にかけ絞めた。Tはなぜか抵抗しなかった。

「殺すんだら殺せ」
「悔しいか」
「悔しかねえ。お前が悔しいからしたんだんべ。お前に殺されるのは本望だ」
「悔しかねえ。悔しかねえ」

 父は絶命した。A子にとっては父の束縛から自由を取り戻した瞬間でもあった。

 A子は近所の親しい雑貨商宅を訪れ、「父親を紐で絞め殺しました」と言って崩れ落ちた。
http://yabusaka.moo.jp/yaita.htm
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/totigi.htm
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage473.htm


05. 2010年4月10日 02:37:15: MiKEdq2F3Q

日本の農村は怖い


世間には「犯罪とは都市で起こるものであり日本古来の農村地帯は牧歌的で秩序だっていて、近代の都市部とは違い平和で犯罪はなかった」という誤解があります。
しかし、そういう閉鎖された農村地帯とか地方コミュニュティーというのは実は陰鬱でおかしな犯罪の温床でもあったのです。

例えば、間引き、夜這い、村八分、村の権力者による暴行、強姦、犬神や狐憑き殺人のような迷信や因習に縛られた暴行事件、実は殺人事件であった神隠しなど犯罪行為はゴロゴロありました。

まあ村の女性がレイプ同然に暴行されてたり、村のある一家が村八分で酷い目に合わされたり、嬰児が大量に間引きで処理されても、お上には訴えられず表立った犯罪にはなりにくいということはありますけどね。

「昔は村や地元の秩序状態が犯罪にはなりにくい犯罪を誘引していた」が正解です。

夜這いの習慣の名残は各地でトラブルを生みました。
名張毒ブドウ酒事件とか津山三十人殺しも動機は夜這いのもつれらしく、陰鬱な農村型犯罪です。

他に月ヶ瀬村の殺人や殺人事件とは思いにくいですが「便層で死んだ男」事件などもそのカテゴリでしょう。
http://pandaman.iza.ne.jp/blog/entry/526459/


06. 2010年4月10日 11:18:04: MiKEdq2F3Q

『奇子』 手塚治虫

罪の意識に悩まされながらも奇子を抱く伺朗。

「こんなことはしてはいけないんだ」

「なして?奇子を広い高いお空の上へ連れ出してくれたのは、兄ちゃんよ」

「俺を愛してはいけないんだ」

「奇子が窓から星空に飛び出せるのはこの時だけなのに、兄ちゃんはすぐにまた窓の中に引き戻そうとするのね」

「明日は奇子の15歳の誕生日だな。親父の証文をおふくろがあける日だよ。お前が15になるとき、親父が財産をどう分けるか決めた証文を見せるんだ」

「とうちゃんはまだ寝たっきり?」「ああ。意識はない。でも親父の威厳は落ちたわけじゃない」

市朗は証文を出せ、とゐばに迫る。「父さんの枕の中じゃ」その証文の中味を見て驚く市朗。

「遺産の8割は奇子の産みの母親に譲る!」

意識のない作右衛門に迫る市朗。

「親父。俺との約束はどうなった。俺はお前さんのいいなりになり嫁をもらい嫁を貸したんだ。田畑財産を譲り受ける約束だったんだ。奇子の産みの母親はすえだ。だが父親は俺じゃねえ」

そしてすえに迫る市朗。

「さあ書け」

「何を」

「お前が俺に渡す証文よ。女房から亭主が財産を譲り受けるのは当然のことだ」

http://www.asahi-net.or.jp/~an4s-okd/private/bun/man02305.htm


Yahoo!コミックでは「手塚治虫」の作品「奇子」が今すぐ楽しめます。無料立ち読みページつき!!

奇子シリーズ一覧
http://comics.yahoo.co.jp/10days/tedukaos01/ayako01/list/list_0001.html


07. 中川隆 2010年8月18日 21:13:34: 3bF/xW6Ehzs4I: MiKEdq2F3Q

狭山事件について思う事


◆◆「狭山事件・自殺した容疑者O氏について」◆◆


 一年ぶりに狭山事件の現地調査に参加した翌日、都合で参加できなか
ったM氏から電話があり

「事件発生直後に自殺したO氏はどうしても怪しい。

関係なければ結婚式の前日に自殺するだろうか」と質問された。


 同じような声はよく聞く。

事件から四十三年過ぎているが、O氏への疑いはいまだに晴れていない。自殺した直後にマスコミが「容疑者が自殺」と報じたので、その印象がいまだに強く残っているのだろうか。

また、国会でも野党議員が「自殺したO氏を調べろ」と追及したこともあった。

 O氏は当時トラック運転手だったが、婚約者がいて家も新築中だった。

五月七日には結婚式をする予定で、その前日の六日朝に自宅で農薬を飲んで井戸に飛び込んだ。家族宛に遺書もあったらしい。

 六日は善枝さんの葬儀の日だった。O氏はかつて十年前に善枝さん宅で作男として働いていた。血液型もBで条件は整っていた。

 事件発生直後から容疑者として浮かんでいて、狭山署の捜査本部は任意で呼んで調べている。連日朝早くから夜遅くまで調べられていた。自殺の直後、捜査本部はマスコミの取材に対し「O氏は事件と無関係だ」と発表した。

 なぜ、さんざん容疑者として調べていたO氏が、自殺したとたんに「無
関係」と断定したのか。そこに、重要な意味があるのではないか。

 事件発生当初は単独犯でなく、グループによる犯行と考えていた捜査本部は、O氏に仲間の名前を問いただしていたのではないか。

近くの森養豚場のスコップが盗まれていて、地下足袋がO氏の自宅付近から見つかっている点などから、O氏が犯人を知っているのではないかと追及した可能性がある。

 O氏は二十万円の身の代金を要求するほどお金に困っていない。

運転手としての収入もあり、家の新築も進んでいて婚約者もいた。

善枝さんを強姦し埋めたり、カバンや教科書を別々に捨てるような複雑な犯罪をしなければならないような、実行犯としての動機がない。

 しかし、犯行グループは知っていると見て

「だれがやったのか、知っているならいえ」

と迫ったのではないか。


警察は、よく容疑者の秘密を見つけ出し、自白しないなら世間にいうぞ、といって自白を迫る手口を使う。

かつて、自白しない女性容疑者に

「おまえは学校時代、特殊学級にいたな。

そのことを夫にいっていいか。自白すれば内緒にしてやる」

といって殺人を自白させた事件があった。


 おそらく、O氏にも警察は過去の事実を突きつけ、ばれれば結婚できないような状態で

「仲間の名前をいわなければ、おまえの秘密を婚約者にばらすぞ」

と、O氏をせめ立てたのではないか。

 だからこそ、自殺した翌日には「O氏は無関係」と断定できたのではないか。

「死人に口なし」で、その後もO氏は「犯人では」といわれ続けている。

そういう意味でO氏も被害者の一人だと思う。

簡単に「怪しい」などと裏付けのない疑いはしてほしくない。


参考図書 『狭山事件の真犯人』 著者・殿岡 駿星
http://blog.goo.ne.jp/syunsei999/e/f59e7b6d78bd25f8699f48ead8d69879

狭山事件については多くの人が謎解きをやっていますが、狭山事件の犯人は中田家の長男かO氏だというのがコンセンサスになっている様です。

しかし、この投稿を読まれた方はこの両人は何らかの関わりで犯行には止むを得ず加わっていた可能性は高いけれど殺人の実行犯とは考えないだろうと思います。

要するに、狭山事件についての多くの論者は興味本位に無責任な文章を書き散らして、狭山事件の犯人は中田家の長男かO氏だというをでっちあげて定着させてしまったのです。

死人に口無しですから、真犯人にとってはO氏が犯人扱いされるのが一番都合が良い訳ですね。

また、中田家の長男は中田家の秘密(?)を知られたくないから、自分に嫌疑が
かかっていても否認すらしない。 まあ、自分は犯人ではないから何を言われようと平気なわけですね。


こういうのも真犯人にとっては非常に好都合な訳です。

このまま行ったら関係者が全員死んで事件は迷宮入りですから、真犯人は現状のまま時間が経つのを待ってるのでしょう。

日本人はみんな人が良いから気付かないでしょうが、真犯人は口塞ぎの為に自殺に見せかけて何人も殺してる異常性格者です。

当然、真犯人はゴーストライターに狭山事件の犯人を中田家の長男やO氏だと思わせる様な文章を書かせているだろうし、ネットを通して情報操作を繰り返していると想定した方がいいと思います。

今頃、真犯人もうまくいったと ほくそ笑んでいる事でしょう。


08. 中川隆 2011年5月17日 23:16:33: 3bF/xW6Ehzs4I : MiKEdq2F3Q

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