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父 (その4)  「確執」

(一)
 学校の裏手にある鎮守様に「先生を連れてこい!」と指示された父の同級生、小熊さんは困ってしまったらしい。「三尺下がって師の陰を踏まず」とのドグマが生きていた大正の時代、いくら理由はあったにせよ、そんな行動が許される時代ではなかった。
 小熊さんの話を聞くと、何でも絵の上手な同級生が居て近く行われる郡の大会にキット選ばれると思ったところ、全然予想もされなかった者が選ばれたというのだ。
 その者の家族は先生のところに温かな昼ご飯を届けたり、ご機嫌取りをしているに相違はない!と言うのが父の言い分であった。
 当時も袖の下やワイロを出す不正の輩は存在していたのであろうか、父はそれらの事が承服できなかったらしく、小熊さんに使い走りをさせたそうだ。
 子供の目からみて卓越していると見えても先生から見れば異なる教育上の視点があっての配慮であったかも知れないのに、そのようなものに斟酌するような性格は若いときから父のなかにはなかったものと見える。
 「先生が依怙贔屓した。」として鎮守に呼びだし抗議したのは重大なことで、すんでのところで退学処分になるところだったと小熊さんの弁であった。

(二)
 父の実家は没落したとはいえ昔は士族だったという。
 長じて聞かされてみると、何でも父の祖父は遠田村の肝煎りとかで平時には百姓をやり、一旦戦時になると赤鞘で若松のお城に出かけたという。扶持は五人扶持でそれがどの程度を意味するのか幼い私には知る由もなかったが、父はそれを大変誇りにして居て良くお前は他の人とは違うのだから良く自覚して生きるのだと言っていた。

 当時農家のものは保有米と称する自分の家で消費する米だけを確保すると、残りは全部供出と言って政府に売り渡していた。一人年間4俵(240キロ)が保有米の限度で反当たり8俵くらいしか収穫の上げられない時代は農家の自立は厳しいものだった。父はそんな水飲み百姓は性に合わないとでも思ったものか川の砂利採取や山師的な養鶏等に活路を見い出したものと見える。
 父の名は祐吉だったが七人兄弟の四男坊で上から五番目だったために皆から五郎さん、五郎あんつぁと呼ばれていた。長兄は若いときに末弟の健吉を連れて家を飛び出し喜多方在の与内畑鉱山に出て行ってしまったのである。次兄は浜崎の塩川家に婿養子に出てしまい結局のところ父が星家の相続をやることとなった。 事実家督権の相続を母サクより受けて登記している。
 私の母と結婚したばかりの事は父から聞いたことはないが、母が「姑は男勝りで格好はなりふり構わず働く人だった」と述懐していた。
 姑のサクは若い時に東京に出て巡査をしていた夫が死亡し、未亡人となった訳だからその言葉が真実であったことは想像に難くない。若い時の無理が祟ったサクは寝たきりになり中気になる。その下の始末は新婚間のない私の母の仕事であった。
 サクが亡くなると若い時に家にいないで戻って来た長兄は、当時米4俵で父に出て行くことを要求したという。戦前の古い仕来たりが生きていた時代、長兄の権限は厳然としていて、父がどんなに喚こうがその考えが通ると言うことはなかったことだろう。
 父にしては都合が悪くなったら裸同然で家を追い出されたというのが言い分だった。
 結果として農家の四男坊の父の働く場所は失われ、農業以外で身を立てるしかなく養鶏のような不安定な仕事をせざるを得なかったのであろうか。

(三)
 やがて長男一衛の縁故で東京へと移住したわけだが、東京に出るにしても身寄りの無い不安の中で家族で移住する決断は重いものがあったことと思う。そして戦争の惨禍は更に疎開と言う新たな悲劇で我が家に襲いかかってきたのである。
 昭和19年東京から疎開して故郷に帰ってきた父に今度は厄介者が来たとの感は拭いようもなかったのが正直なところだ。
 苦しかった時代、疎開を受け入れる側も自分のことで大変だから、兄弟や親類の面倒まで見られない、というのが本音であったと思う。
 然し父の論理から言えば反対で、我が家に帰って来たのに冷たくされる仕打が我慢できなかったのだろうか、「時々帰って来なければ良かったかなー」と何度も呟いていた言葉を思い出す。

 戦時中の生活はそんな事情や感興に浸っていられる状況にはなかった。
 またこの長兄はよく私に「お前の親父の弟に廣というのが居て一緒に麻疹になったが、お前の親父が生きてしまって廣が死んでしまった。」と何度となく聞かせられた。
 それは廣が死んだのは父のせいだと言わんばかりの口調で幼い私の心にも何と手前勝手なことをいう伯父だろうと強い不快感が残った。恐らく父もこの類の話は聞かされていただろうから快く思って居なかった筈である。

(四)
 私にも似たような経験があり父のそんな憤りは理解ができた。
 田舎の学校は4キロ以上の距離で徒歩で1時間はかかった。村の外れの鎮守が登校の集合場所で4つの部落を通って通うこととなった。従兄の子に私と同級の子が居たが幾ら誘っても、待っても私と登校を共にすることはなかった。此処は俺の実家で結局お前とは違う。
 世話をしてやっているのだと言う自負と、他所者に中々心を開かないという会津人特有の考え方があったものと思う。
 幾つか通る部落の中には、悪童が居て「疎開疎開と馬鹿にするな同じ飯食って何処違う」と囃子立てられたりした。囃子立てられる位は良いが石を投げつけて来るのには閉口した。
 東京から疎開して標準語を使うとなれば当時の田舎ではアレルギーがあったのも仕方がなかったと後年になってそう思えるようになった。

(五)
 こんな生活のために、村の人から借りた一反そこそこの田圃では家族を養うほどの食糧は得られなかった。
 失意のなかにあった父はもう一人の隣村に養子に行った次兄盛江を頼って引っ越す羽目となる。
 昭和19年4月耶麻郡堂島村上遠田から河沼郡笈川村浜崎へと変わったが苦しさは何も変わらなかった。 東京からの荷物は戦時中の為何一つ着かない、着の身着の侭の生活がまたしても始まったのである。
 そこは長く染物屋をやっていた土間であった所を借りた為正式な出入口はなく泥棒さながら窓様の処から出入りする状態だった。
 父は借りた土間に藁を敷き上に筵を被せてくれたが、藁は直ぐに湿気ってしまうのと蚤が出るのには本当に閉口した。また歩くと藁の浮き沈みで御膳の物が溢れたり倒れたりするので厄介だった。
 特に一番困ったのは雨の日だった。屋根は錆びたトタン葺きで天井がないものだから、至るところから雨漏りはするは、音は喧しいやらで、その時は鍋や盥のオンパレードの出番となる。跳ねる雫を防ぐには雑巾を入れて沈めることも学ぶこととなった。
 便所は外便所で傍らに綿羊が飼育されていて、雄のせいか気性が荒く頭付きで柵や人に向かって来るものだから、馴れるまでは恐い感じがして用を足すのが躊躇された。
 後年次兄の伯父が亡くなって衛生上悪いので土間に床を張らせてくれるように頼んだが、そんな事をすれば自分の家を乗っ取られて仕舞うとでも思ったものか伯母は許してくれなかった。
 兄弟の中では一番心を寄せていた次兄の盛江伯父が亡くなってしまえば、未亡人の伯母に同じように接してくれと言っても詮ないことで伯母の言葉も無理からぬことだった。
 今流行のドラマのように「渡る世間は鬼ばかり???」なのに父の感覚では、兄弟として互いに助け合ってきたのに何と冷たい仕打だと映っていたのであろうか。

(六)
 中学も2年になろうとすると進学の話で持ちきりであった。
 私は余り同級生のような点取り虫ではなかった。それは父の考え方や歩みを見てきていたので型にはまらぬ生き方や考え方があったのかも知れない。
 父は一度も私に勉強しろと言ったことはない。それを良いことに試験勉強はしないで一人図書館にもぐり込み西洋文学や訳も分からない哲学書にうつつを抜かしていた。
 ただ勉強の必要に迫られて少しはやったのかなと思うのは3年になってからである。

 「父ちゃん高校に出してくれ!」ある日思い切って父に言ってみた。すると父は暫く押し黙っていたが、やがて腹の底から絞り出すような声で「功お前本当に行けると思うのか!」
「何故?」
「何故?・・家が苦しいのはお前にも分かっているだろうが。」
「父ちゃんだって親だからお前を学校にやりたいと思っているが出来ないこともあるのを知らないのか」
「・・・・・・」
「授業料は日本育英会から借りるから」
「ウン!授業料は良いとして、学生服も鞄もそして何より通学する汽車賃はどうするのか?」
「・・でも勉強がしたい!学校に行きたい!」なおも食い下がる私に向って最後の切り札を出してきた。
「家が苦しいからお前に働いてもらわねばだめなのだ!」と、学校どころの沙汰ではなく早く働いて我が家の窮乏を立て直せ。それがお前に課せられた宿命だと言わんばかりであった。終戦の悲しい傷跡は7年経った我が家になお深刻な影を落していたのである。
 父はなおも強く進学希望を言う私に「それでは姉ちゃん達を芸妓に売っても良いのか!」などと話す始末であった。
 何処にこのような父がいようぞ!子の犠牲の上になり立つ家族、社会が悪い時代が悪いと嘆いて、自暴自棄になって働かぬ父の姿は他人事ではなく、間違いなく我が家の現実であったのだ。
 何も知らない15才の少年であっても、それが何を意味するのか容易に理解出来た。
「父ちゃん、それだけは止めて!」 血を吐くような思いでそこまで言うのがやっとであった。
 殉教者のような思いで、そうだ自分さえ犠牲になって家族全部が暮らせるなら....
私は自分の生命とさえ思った進学の道を諦める外なかったのである。

 一面焼野原の東京を離れ、心を寄せた故郷の山河。純朴な人情と優しさに望みを託し帰郷したはずだった田舎。
 余りにも想像からかけ離れた現実の厳しさは精神的に幼児のような父には耐えられなかったのである。
 思い付くまま感情的に生きてきたその性格は脆さをも合わせ持っていて厳しい試練の中で埋没して行った。
 だからこそ血を分けた兄弟との確執の中で一人孤独な無念さを父が抱いていても、幼なかった私に共有できる筈もなかった。

         星 功  E-mail  gospel@violet.plala.or.jp


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