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[19752] 【実験・習作】読み専が書くローゼンメイデン二次創作
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/02/19 09:56
※ご注意
 本作の趣旨は実験ですが、書いてる本人は実力が無いので本文書くのも全力投球状態です。

 ただし、実験対象は本文内容ではなく、あくまで「1日でどれだけの分量書けるか」です。

 9回の実験の結果、【転生オリ主物】では10kB/日程度は書けたわけですが、同じ話の続きで主役を交代したらどう書けなくなるか(執筆速度が鈍るか)を検証しつつ、現在に至っています。
 ジャンルとしては【転生オリ主物】→【特定登場人物強化物】になるかと思います。


 以下本文は、1記事目が【転生オリ主物】の実験、
 2記事目が現行の実験との橋渡し的な部分
 3記事目以降が【特定人物強化物】という形になります。



[19752] 転生の章(転生オリ主物実験、旧1~9回投稿目)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:72695fa3
Date: 2011/01/18 23:28
これは雑談掲示板【転生オリ主物は何故増えたのか考えてみよう】スレッドを見ていて
「本当にオリ主転生物って書きやすいんだろうか?」という疑問を持った、普段読み専の黄泉真信太が、数年ぶりに書いてみたSSです。
本来わざわざ発表する意味はないものですが、一応「このくらいの分量書けました」の証明的な意味合いで投稿させていただきます。

実験結果としては、確かに書き易いですね。
私は以前SSを書いていた頃も相当の遅筆で、一日に20行程度進めば御の字でしたが、約1日で100行程度書き上げられました。
うーん、これなら確かに流行るのも分かるような気がする。

おっと、忘れるところでした。本文入ります。

***********************

2011/1/17追記:
この後、当実験は延べ9回の投稿で平均テキスト量は約10KBでした。
実験終了から時間も経過し、投稿記事数があまりに増加したこともあり、9回分をこの記事に纏めます。

纏めに当たり、各話タイトルを削り、語彙を数箇所修正しました。
文章としては最初から破綻していますので大幅な変更は行っていません。

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 確かその日は寒かったと思う。
 コートの襟を立てていたのは覚えている。髪が湿っていたような気もするから、雪だったのかもしれない。まあ今となってはどうでもいいことだ。
 帰宅途中だった俺は、交差点で信号が青に変わったのを確認して横断歩道を渡り始めた。そこに、信号無視の車が突っ込んできた。いや降雪時だったとすれば、ブレーキが間に合わずにオーバーランしてしまったのかもしれない。どちらにしろ今となっては確かめようもないし、結果も変わらない。
 横滑りするような車と、驚愕に目を見開いている運転手が俺の「前世」での最後の記憶だ。
 こちらの世界におぎゃあと生まれて思ったことは「ああ、生まれ変わりってあるんだなあ」という感慨だった。
 そこから十数年はある意味で忍耐の日々だった。詳しく書こうとすると愚痴の羅列になるので割愛するが、赤ん坊時代のままならない状態とか、小学校までの学校の授業の退屈さといったらなかった。
 三歳頃円形脱毛症になって親を大いにビビらせてしまったが、振り返ればあの頃が一番苦労していたような気もする。

 しかし、後知恵だからもうどうしようもないが、当時の俺に言ってやりたい、と二度目の中学生をやっている俺は思う。
 いっそ生まれ変わりを公言するか、秀才とかって触れ込みにして脳の柔らかいうちに余分に勉強やっとくべきだった。まあ俺の頭なんで早晩馬脚は現しただろうが、十年間ほどまともに勉強していたら末は学者先生とは行かないまでも今後の受験なんかで随分と楽ができたはずだ。
 実際のところは、元来騒がれるのが嫌いでなおかつ勉強嫌いの俺はひたすら「生まれ変わり」であることを隠し、退屈な時間をただただ惰眠やらなにやらに浪費してしまった。
 結果として、二度目だというのに俺はまたもや優秀な何かを発揮することもなくこの人生を過している。当然、進学関係については親やら担任の笑顔を見ることもほとんどない。
 宿題が必須なのは転生云々に関係ないが、予習復習も必要なのだ。一度通った道とはいえ、主観時間でもう三十年近く前になる中学校時代の勉強内容はかなりの部分が俺の鳥頭から抜け落ちていて、特に英語やら古典の文法関係はほとんどお天道様に返却済みだった。
「現実は散文的ってやつか……」
 最初の頃はバレて騒ぎになるのが厭で隠すのに苦労した生まれ変わり云々も、今となってはばらしてみたところでオカルト好きな連中の話題の種程度にしかなりそうもない。若しくは比類なき痛い子として匿名掲示板あたりで祭り上げられるだけだろう。
「歴史は何のために俺をこの世界に呼び込んだのか……」
 うろ覚えの半村良の某小説の台詞を呟いて、俺は机に突っ伏した。まあ気楽な学生生活を他人の二倍送れているからありがたいといえばありがたいわけだが、しかし。
「また病気が出た」
 いや、独り言だって。
「テストの点が悪かったからって、自分が異世界人って設定で言い訳するのはどうかと思う」
 はいはいそうですね。顔を机に付けたまま、俺は右手をひらひらと振ってみせた。
 最初にこの呟きを追及されたとき、咄嗟に邪気眼っぽい言い訳をしたのは拙かった。冷静に受け流しとけば変な口癖で済んだところだが、いまや変なやつという認識が広まりつつあるらしい。
「まあ次は本気出す」
「そうしてね」
 前の席から返って来た声は明らかに何の期待もしてなかった。
 この遣り取りもなにやら既に恒例になりつつあるな、と考えてから、ふとあることを思い出して俺は顔を上げた。
「そろそろ始めたほうがいいんじゃね?」
「……うん」
 前の席に座っていた柏葉巴は小さく頷くと、椅子を引いて立ち上がった。
 柏葉は学級委員で、これから始まるホームルームでいくつかの連絡と評決の司会をすることになっている。整った顔立ちの美人なんだが若干物静か過ぎるのと、頼まれごとを断れない性格なのが災いして、どうも常に損をしているような気がしてならない。

 ……っと、今更そういう説明は要らないかもしれない。
 そう、ここは──某元首相も空港で読んでいたという噂のある、例の──ローゼンメイデンという漫画の世界、またはそれにごく近い世界なのだ。
 そして、今は本編開始前の状況。ここは主人公桜田ジュンの所属する一年三組の教室。原作で数回にわたって「厭な記憶」としてリフレインされる、彼が中学一年生の折の「桑田由奈嬢文化祭のプリンセスに選ばれること」の段というわけだ。
 もっとも、この段階では柏葉がクラスの面々に淡々と連絡を行うだけだ。この場で即何かが起きるわけではない。
 主人公桜田ジュンが不登校の原因となる「中学生の男子が描いたにしては本格的過ぎるプリンセス用のドレスのラフデザイン」を課題提出用のノートに思わず走り書きしてしまうのは今夜のこと。翌日うっかりそれを消し忘れたまま提出したことが全校集会でのカタストロフィに繋がるのだが、そこまではまだ数日はある勘定だ。
 とはいえ、既に俺という異分子がこの場に混じっているわけで、今後の出来事が漫画のまま進むとは限らない。絵を描き上げた桜田がハッと気付いて消しゴムでゴシゴシやってしまったり、そもそもノートでなくその辺のチラシの裏にでも描いてしまえばそこで終わりではある。
 腕を上に伸ばして大欠伸をしがてら桜田の席を見遣ると、眼鏡を掛けた中性的な顔立ちの少年はごく真面目に正面を向いていた。ふむ、まあ取り敢えずホームルームの内容を聞き漏らして例の絵を描かないとかいう事態にはならないらしい。

──さて、どうしたもんか。

 ローゼンメイデンでの大イベントの一つと言っても過言でない場面に刻一刻と近づいているのに、どうして俺が落ち着き払っているかって?
 それはぶっちゃけ、事態がどう転ぼうと中学生としての俺の生活にはさして影響がないからだ。
 ローゼンメイデンという作品(面倒なので以下「原作」と呼ぶことにする)は、恐らくどう展開してもドールたちとその媒介となった人々以外にほとんど影響が出ない話なのである。
 酷な言い方をしてしまえば、この後桜田が不登校になろうとなるまいと、ドールたちが血みどろの死闘を繰り広げようとまったり安穏と時を過そうと、同級生としての俺には殆ど関係ない。せいぜい「桜田君登校してね寄せ書き」を書いたり「同級生のみんなで桜田君のうちに説得に行ってみるイベント」が起きる可能性が出たりするかどうかの違いである。
(ちなみに、後者は原作ですら起きていない。桜田の家に連絡に行ったのは柏葉で、説得に行ったのは担任だった)
 そのうえ、これからの出来事が原作どおりに進むかどうかも分からない。俺が何もしなくてもイベントが起きない可能性さえあるのはさっき言ったとおりだ。
 そんなこんなで、俺としてはいまいち盛り上がりに欠けてしまうのである。

──ただ、まあ。

 それとは別の立場というのも当然ある。それは、曲がりなりにもこちらの世界で十数年という時間をかけて成長してきたゆえのしがらみというやつだ。

 欠伸をしながらそんなことを考えていると。
「──各学年から一人投票でプリンセスを選出するんですが……」
 お、きたな。
「一年はうちのクラスの桑田由奈さんに決まりました」
 原作どおりの柏葉の言葉に、まばらな拍手といくつかの賞賛の声があがった。斜め前の席に座った桑田は恥ずかしそうにありがとうを返している。
 桑田は可愛さと美人さがほどよく調和した女の子といっていいだろう。性格も穏やかで友人も多い。過度に嫉妬を買うこともなければ、このことで天狗になるようなこともあるまい。まあ、無難な人選と言えるのではないか。
「──文化委員会でデザインを募集していますので……」
 ちらりと振り返ってみると、桜田はぼんやりと桑田のほうに視線を向けていた。おそらく、頭の中ではそろそろドレスの形が出来始めているのだろう。いかにもそんな雰囲気だった。

 やれやれ、と俺は溜息をつく。結局、何もなければ筋書きはおおむね原作どおりに進むわけか。
 言い換えれば、桜田ジュンに厭な思い出を作らせるかどうかは俺の胸先三寸ということだ。
 俺がちょっかいを出さなければ、桜田は原作どおり桑田の衣装のラフスケッチを国語のノートに描き上げ、それを担任で国語教師の梅岡が発見して掲示板に貼り付け、さらに全校集会で名指しまでされて桜田は引きこもり一直線ということになるだろう。あまり後味のいい選択肢とは言えない。
 反面、引きこもり状態にならなければ、今後のストーリーは原作どおりに進まないはずだ。下手をすると(原作の設定にのっとるならば)もうローゼンメイデンはこの世界に現れないかもしれない。そうなってしまって、果たしていいものなのだろうか?
 正直なところどちらも御免蒙りたいのだが、上手いこと両立できる方法は思いつきそうもない。そして、どちらにしても俺の状況にはさして変化がおきるとは思えない。どうにも気の進まない二択問題ではある。


 翌朝の目覚めは最悪だった。何年かぶりに上司に仕事の失敗を責められる夢なんてものを見てしまった。それだけ自分の決定に自信がもてなかったのだろう。
 前夜寝る直前まで考えてみて、結局俺はちょっかいを出してみることに決めた。
 理由はいくつかある。
 まず、このまま進んだら間違いなく全校集会でゲロの臭いを嗅がされることになるということ。これは文句なしに厭だと言い切れる。それに、原作では詳らかに語られていないが、そういう事件が起きたらクラス全員、いや文化祭自体が微妙な雰囲気になってしまうのは間違いない。なにしろ全校生徒が一堂に会する場所でやらかしてしまうわけだから。
 二度目とはいえ、既にどっぷりとこちらの人生に漬かってしまっている俺としては、折角の文化祭が白けてしまうのは楽しいものではない。ならばその要因は取り去っておくべきだろう。
 次に、個人的な興味もある。外部から来た俺のような異分子が、いわばこの世界の歴史に働きかけるわけだ。その結果がどうなって行くのかというのは興味深い。バタフライ効果というやつが現出するのか、それとも歴史の修正力というやつが働くのか。
 まあ、原作でしばしば語られていた世界の分岐というやつが起きて、原作で出てきた「巻いた世界」「巻かなかった世界」以外の世界、というオチになっていくだけかもしれない。それはそれで楽しめそうな気もする。
 そして最後に、これが一番でかい理由になるだろう。
 桜田ジュンは一応単行本を全部買う程度にはファンだった漫画の主人公であり、なおかつ現在は俺のクラスメートでもある。
 俺という小人物は、そいつが公衆の面前でゲロを吐いた挙句不登校になってしまうのを知っていながらみすみす見逃して、後からああだこうだと悩まずにいられるほど神経が太くないのだ。

 さて、その実行の方法だが。

「よう、おはよ」
「おはよう……今日は早いんだね」
 君が始業三十分前に来るなんてなんかの前触れかな、と苦笑するクラスメートに、俺はにやりと笑って課題のノートを振って見せた。
「なあんだ。宿題やってなかったの」
「うむ」
 うむじゃないでしょ、と言いながらそいつは俺のノートを覗き込み、眉をしかめた。
「なにこれ……?」
「すげーだろ」
 俺は胸を張ってみせた。課題ノートの1ページ丸まる使って、原付バイクのチューニングポイント……排気ポートを何ミリ削るとか、キャブレターのセッティングはどうとかびっしり書き込んである。
 当然、普通の中学生が覗き込んだところで、何がなにやら理解できないだろう。
「昨日の晩、就寝時間を削って考えた」
 それは大袈裟だが、それなりに時間は掛っている。キャブの断面図を描いていたらつい懐かしくなってしまって、課題を最後までやる時間がなくなってしまったのは事実だ。
「いや、そうじゃなくてさ。これ課題ノートでしょ。こんな落書きして」
「アイデアが浮かんだら即書きなぐる。これがいい物を作る鉄則らしい」
「いやでもさ、提出物に宿題の代わりに落書きしてたなんて、さすがの梅岡先生でも怒ると思うよ」
「だから、今宿題もやってるって」
「むちゃくちゃだよー」
 そんなやりとりをしているうちに、次第に人が増えてきた。そのうちの何人かは俺たちの遣り取りに気付いて、俺の机を覗き込んで行ったりする。
 最初の奴と問答をしながら課題の残りをやっつけ、よっしゃと言いながら顔を上げると、ちょうど数人のクラスメートがこちらを覗き込んだところだった。
 その中に桜田の顔があることを確認して、俺はガッツポーズを取った。
「どうだ、始業前に終わったぜ」
「だからー、落書きが問題なんだってば」
 すかさず最初の奴が言う。ナイスだぜ相棒。
「んー」
 俺はきょろきょろと周りを見回す振りをして、桜田の顔を窺った。まだこちらを見ている。よし。
「やっぱ落書きはだめですか?」
「だめです」
 俺は妙にレスポンスのいいクラスメイトに内心感謝しつつ、筆記用具入れから消しゴムを取り出した。
「勿体無いが仕方ないか……」
「当然だね」
「ちぇっ」
 実際のところ消してしまうのは惜しいような気もするが、俺は丁寧に消しゴムを動かした。さらば幻のポッケ強化計画。もう二度と日の目を見ることはないだろう。だが、これも全て桜田のためだ。
 すっかり消えたところでノートを持って立ち上がると、もう桜田は自分の席についていた。何かノートのページを切り離すような作業をしている。そこに桑田用ドレスのラフデザインが描かれているであろうことは容易に想像できた。

──畜生、その手があったか。

 恐らくちょっかい出しは所定の成果を収めたのだろうが、ある種の敗北感が湧き上がってくるのは何故だろう。

 ともあれ、そんなこんなで、俺の行動によってこの世界は原作から違う道を辿り始めた。それがどういう結果を齎すかは、まだなんとも言えないのだが。


 最初は何かの見間違いかと思った。
 次に、これは夢なんじゃないかと極ありきたりの疑いを持った。
 試しに自分の頬をつねってみた。痛かった。
 最後に、それがここにある訳と自分がここにいる訳を結びつけようとしてみた。なにやら繋がるような気も繋がらないような気もする。
 長いため息を一つついてみる。それから意を決して一つしかない質問の片方の選択肢にチェックをつけ、運勢判定サイトの「結果を見ます」ボタンをクリックする。
 わずかなローディングの時間が過ぎ、ごくありきたりの結果が表示された。ブラウザの戻るボタンをクリックしたが、再表示されたページにはよくある毒にも薬にもなりそうもない質問が並んでいるだけだった。

 そして今、俺は幼稚園児くらいの背丈の、やけに不機嫌そうな黒衣の天使とテーブルをはさんで向き合っている。
「茶でも飲むか?」
「いらないわよ」
 苛々した調子で即答した彼女は……ああ、説明は要らないか。
 どういう巡り合わせか分からんが、俺はローゼンメイデン第一ドール水銀燈のネジを巻く役に抜擢されたのだった。
「まあ、説明は理解したんだが」
 目の前の銀髪のお嬢様がいつまで経っても茶菓子に手をつけないので、俺は月餅を引っ込めてチョコレートを置いてみた。お、これは食べるのか。
「だったらさっさとこれを嵌めて契約しなさいよぉ」
 不貞腐れた調子で無造作に指輪を投げて寄越す。その手つきは華麗といってもいいんだろうが、片手では食いかけのチョコを持ってるから、なにやら拗ねたおこちゃまという感じで微笑ましい。
「何ニヤニヤしてんのよぉ。緊張感のない奴」
「いや、全然。光の加減でそう見えるだけだろ」
 そう言ってやると、ちっ、と言いそうな表情をしてそっぽを向いた。
「ああもう……なんでこんなのを選んだんだか」
 鋭い視線を傍らでチカチカ光ってる蛍の親分みたいなものに向ける。そいつは困ったようにくるくると回って、部屋の隅に逃げ込んでしまった。
「あのちっこいのが工作とかスカウトを担当してるわけ?」
 確か人工精霊だったか。物を運んだり攻撃の増幅だかなんだかもしてたり、かなり優秀なサポート役だ。
「まぁね……そんなことはどうでもいいんだけど」
 じろり、と赤い瞳がこちらを見る。俺は思わず笑いを引っ込めた。さすがにこういう表情には迫力がある。
「契約か」
 俺は腕を組んで天井を見上げた。安物の丸型蛍光灯が僅かに揺れ動いている。

 正直に言うと、運勢判定サイトで「まきますか まきませんか」を見るまで、こういう事態は全く予想していなかった。
 なにしろ俺のちょっかい出しが成功したにもかかわらず、同級生たる桜田ジュン君は現在ご自宅に天の岩戸状態なのだ。
 結果として工作が不発に終わってしまった俺としては、歴史の修正力というのはあるんだなあと実感し、このまま進めばほぼ原作どおりの展開になるだろうと漠然と考えていたのだ。


 桜田が引き篭ってしまった理由は実に簡単だった。
 あの日、俺のちょっかい出しを見た桜田は国語の課題ノートに描いたプロはだしのラフスケッチを思い出し、そのページを切り離して提出した。
 結果、ラフが梅岡教員の目にとまって無断で掲示されることはなく、数日後の全校集会で名指しされた桜田が吐いてしまうこともなかった。
 そこまでは良かった。俺も心中胸をなでおろしたものだ。
 だが、破局はあっけなく訪れた。
 数日後の朝、いつものように始業ぎりぎりに登校した俺が見たものは、教室の黒板に書かれた大量の中傷の言葉と、その中心にある桜田の例のスケッチ、そして教壇の前で蹲って吐いている桜田とそれを取り囲んでいる野次馬だった。
 俺が教室の入り口あたりで呆然としている間に桜田は教員を含む何人かに連れられて退場し、以来学校に姿を見せていない。
 タネを明かせば簡単なことだ。
 あの日桜田がノートのページを切り離しているのを、以前から桜田に付き纏っていた馬鹿どものひとりが見ていたのだ。ほどなく連中のうちの誰かがそれを桜田の鞄から持ち出し、黒板に貼ったというわけだ。
 中傷の言葉を書いたのはそいつらだけではないらしい。消す前に見た限りでは、女子のものと思しき字を含め、軽く十人は下らない種類の筆跡が黒板に躍っていた。
 「桜田が桑田の『エロい』衣装を密かにデザインし、それをばらされるとゲロ吐いた」という噂は文化祭前には全校に尾鰭をつけて伝播してしまった。その後行われたプリンセス云々が微妙なムードになったのは言うまでもなく、クラスについて言えば文化祭自体も白けたものになってしまった。
 最悪の顛末だった。小賢しい工作などやってもやらなくても何の変化もなかったわけだ。

 異分子たる俺が積極的な介入を試みてもこの世界の歴史の流れには逆らえないのだろう、とこの件で俺は悟らされた。
 同時に、不謹慎ではあるが安心もした。これでローゼンメイデンの物語は成立する。桜田ジュンはいずれドールの薇を巻き、彼女等とともに自力で成長していくのだろう、と。


 しかし現実にはご覧のとおりだ。
 原作ではこの街の大学病院に入院しているジャンクな(失礼)美少女のもとに現れ、どうやら半ばその子のために戦っているらしい黒翼の天使が、なぜか今現在目の前で俺に契約を迫っている。
 まずいだろう、これは。
 まきます、の選択肢にチェックを入れて送信ボタンを押した段階では、まさか相手が水銀燈だとは想像しなかった。
 ストーリーと媒介(契約者)との関わりにおいて、原作のドールたちは概ね二つのグループに分かれる。一つはストーリー上欠かすことのできない媒介と、深く契約しているドール達。もう一つは原作開始時点での媒介が誰であれストーリーの上ではあまり重要でないドール達だ。
 水銀燈は間違いなく前者だ。しかも水銀燈と媒介は愛憎だの立場だのという点で非常に似通っていた。少なくとも、人間である俺より水銀燈の方がよほど原作での媒介の少女に似ているだろうと思えるくらい、お似合いのはずなのだ。
 だから薇を巻く相手は雛苺か金糸雀になるものと決めて掛かっていたのだが……。
 視線を正面に戻してドールにしては大きな、人間としては小さすぎる存在を見やる。俺の態度に退屈したらしく窓のほうを見ている横顔もまた、人間というには整いすぎ、人形というには硬質な生気に溢れすぎているような気がする。
「契約しなくてもパワードレインはできるんだよな」
 水銀燈は若干眉根を寄せてこちらを見たが、目顔で肯定した。俺は腕を組んだまま一つ息をついた。
「まあこっちが死なない程度なら力は吸い取ってもらって構わんが、契約するのは待って貰えないか」
「あらぁ、怖いのぉ?」
 くすくすと笑う。非常に残念ながら、見惚れてしまいたくなるほど美しい。凄艶というのはこういう姿を言うのだろうか。
「うん、ぶっちゃけ怖い」
 どう考えてもこのドールの相方に相応しい少女がいる。その子は自分だけの天使を待っているのだ。偽善かもしれないが、その子からこの黒衣の天使を奪ってしまうのが怖い。
 そんなこっちの気分を知ってか知らずか、水銀燈は今度は満足そうに笑った。
「いいわぁ。そのくらい聞いてあげる。どの道貴方は私の糧になるんだもの」
「それはありがたい」
 俺は素直に頭を下げた。変な人間、と水銀燈は笑いを大きくした。表情がころころ変わるのは思春期の少女のようで、少しばかり可愛らしく、そして意外だった。


 翌朝、俺は大学病院に向かった。
 起床したときまず鞄の有無を確認したが、部屋に似つかわしくない鞄は相変わらず昨夜の場所に鎮座していたし、そっと開けてみると黒い逆十字のドレスを着たドールも消えずにその中で眠っていた。やはり原作どおり、夜型なのだろう。
 土曜日だというのに正面玄関は混雑していた。どうやら幾つかの診療科は土曜日も外来を開いているらしい。
 人ごみを縫って案内窓口に行き、柿崎めぐという名前の少女がどの部屋に入院しているのか尋ねると、あっさり西棟の716号だと教えてくれた。プライバシーの保護上あまり芳しくないんじゃないか、とも思ったが、俺はありがとうと素直に礼を言ってその部屋に向かった。
 なんとなく違和感を感じたのは、病棟のエレベータに乗っているときだった。

──脳神経外科……放射線科……腎臓内科……

 何気なく眺めた診療科ごとの病棟分けを全部読み終わる前に、エレベータは目的地に到着した。
 ナースセンターの前を過ぎ、個室の並ぶ一角に入ってからも違和感は消えなかった。むしろ、次第にはっきりしていった。
 716号の前には「柿崎めぐ」と名札が掲示されていた。ドアは閉まっていたが、俺はノックせずにそこを開けた。
 広く、設備の整った個室だった。窓は大きいが、壁の面積に比べれば広いとはいえない。ベッドは窓に近づけられており、座ったままでも手を伸ばせば窓を開けられそうな配置だった。
 部屋の主は眠っていた。酸素マスクをつけ、点滴と心電図計が繋がっている。他にも何やら大掛かりな機材があったが、俺にはどういったものかよく分からない。
 ただ、近づいて覗き込んだとき確実に分かったことがある。
 この少女にはもう、契約だかなんだか知らないが、そういったものに耐えうる余力なんぞ残っていない。手足は明らかにむくみが出ていたし、頬は紅潮しているくせに肌には全く艶がない。到底、原作のようにベッドの上で両手を広げて元気な電波発言をできるような状態ではなかった。
 西向きの窓から空を眺め、俺は循環器内科の領分のはずのこの患者が、腎臓内科の病棟の外れ、ナースセンターから最も遠い場所に、一等広い個室を与えられている理由が漸く分かった気がした。

 ここからの眺めはすばらしいのだ。いつでも本物の天使が孤独な命を空へと攫って行ってくれそうなほどに。

 柿崎めぐの病室の中にいたのは二十分ほどだったろうか。その間、誰も病室を訪れることはなく、柿崎めぐが目を覚まして電波なことを言ったり癇癪を起こすこともなかった。
 帰り際にナースセンターの前で俺を呼び止めた看護士は、ひとしきり俺に柿崎めぐの近況、というよりはほとんど病状を話してくれた。
 時折非難がましい口調が挟まれていたのは、俺のことを柿崎めぐの親族か友人だと勘違いしたからだろう。実際のところ全く見ず知らずの他人なのだが、特に訂正する必要もなかった。俺は黙って彼女の話を聞き、丁寧な説明に感謝してその場を立ち去った。


 自宅に帰り着いてみると既に正午を過ぎていた。
 ごく簡単に昼食を済ませてから畳の上にごろりと転がり、現在の状況と考えを整理しようとしているうちに、しまりのない話だがいつの間にか寝ていたらしい。
 目を覚ますとベランダの窓は開け放たれており、部屋の中に夜風が吹き込んでいた。昼寝にしては長いこと寝ていたものだ。
 鞄は元の位置にあったが、中身はもぬけの殻だった。馴れ合う気はないと原作で言っていたが、どうやらそれは俺に対しても同じらしい。水銀燈は水銀燈、といったところか。
 昨日の今日で別段気を使われたわけではないと思う。しかし今はそのドライさが有難かった。お蔭様で今後について考えをまとめる時間ができそうだ。

──さて。

 俺は特に何をするでもなくこの十数年を生きてきた。生まれ変わりということを意識してはいたものの、何か特殊な能力を発揮することも、異次元転生者狩りエージェントみたいな存在が出現して命を狙われるなんてこともなかった。
 なけなしの原作知識とやらを使って桜田ジュンのトラウマを作らないために下手な工作もしたが、それもあっという間に覆されてしまった。それ以来俺は転生したという利点を生かして能動的な何かを試みることは諦めていた。
 だが、今になってローゼンメイデンの媒介として選ばれたということは、俺にはやはり何等かの役割が与えられているのかもしれない。
 元の世界に極近いが異なる世界の戦国時代に移動した自衛隊の面々が生き延びるために戦っていったことが結果としてその世界の信長や秀吉たちの不在を埋めることになったように、俺にもなにがしかの代替的役割が求められているのか。

──だとすれば、それは柿崎めぐの不在を埋めるものなのだろう。

 その認識は実に面白くなかった。人選としても疑問が残る。
 手前味噌な話だが、俺は原作の柿崎めぐほど派手に壊れてはいないと思う。転生した体は五体満足だし、あれほどピーキーである意味素直な性格でもない。
 実を言えば、俺は水銀燈に力を与える代わりに、柿崎めぐとの契約を提案するつもりだった。原作のままならば、二人の関係は他者が入り込む余地のないほどぴったりと平仄が合っている。
 しかし今朝見た光景は、柿崎めぐに本来の役割を押し付けるのが無理だということを嫌でも分からせてくれた。

 頭を振りながら台所に立ち、ケトルを火にかけていると、蛍の親玉のような光が横切ったかと思うとくるりと顔の周りで一回りした。
 部屋のほうに視線を遣ると、暗い空を背景に、銀色の髪を靡かせた黒衣の天使が開け放った窓から入ってくるところだった。
「あら、起きてたわけぇ? もう目覚めないかと思ったのに」
 くすりと笑う彼女は掛け値なしに美しい。
「生憎と、そう簡単には死ねないもんでね。誰かさんと契約しなきゃならないから」
 へえ、と彼女は肩をすくめ、昨夜と同じように無造作に指輪を放って寄越した。
「決心がついたんならさっさとしなさぁい。また、怖くならないうちにね」
「そうだな、お言葉に甘えさせてもらうとするぜ」
 ケトルの笛が間抜けな音を立てる狭い台所で、俺は水銀燈と薔薇の誓いを交わした。



「ハハッ、この『シルヴィア』は最強だぜェ!」
「1/7のピースを足してやっただけでこの能力アップ…全部集めたら、そして完成したらどんな化け物になるのだこれは」
「ンな事ァ知るかよ! 今はこいつのパワーを存分に使いきってやる。その次は2個目、それから3個目だ! どんどん強くなるぜこいつはよォ」
「ああ、そうだな…」
「ボヤボヤしてる暇はねーぜ。見ろ。早速お出ましだ」
「……! 『アゲート』と『ピンクコーラル』か。思ったより早かったな」
「さあ、おっ始めてやるぜ、ALICE GAMEをよォ!」

 Advanced Logistic & Inconsequence Cognizing Equipment。それは、自律型学習コンピュータの究極の形である。
 1年戦争終結後、モビルスーツを含む宇宙機パイロットの深刻な不足に悩んだ地球連邦軍は、完全な無人兵器による戦闘を構想していた。その制御A.I.として開発されたのがALICEであった。
 しかし、ALICEと、その搭載機であるスペリオルガンダムは確かに高性能であったものの、そのコストはあまりにも高すぎた。
 ALICEを中心とする無人戦闘システムの開発が難航するうちに人工的ニュータイプ──強化人間の実用化の目処が立ち、研究は中止され、ALICEとスペリオルガンダムも4機を試作したのみで量産は放棄された。
 後にペズンの叛乱と呼ばれる一連の紛争において、α任務部隊に配備された1機のスペリオルガンダムが実戦に参加したものの、母機の大気圏突入の際にそのALICEは失われてしまった。
 残る3機も数年のうちに分解・破棄され、その機材はあるものはスクラップとなり、あるものは分解されて安価な二線用装備に流用されて、ALICE達はモビルスーツの無人化計画とともに時代の徒花として消えていった。
 公式には、そのように記録されている。

 宇宙世紀0097。世に言う【ラプラス戦争】の直後から、この物語は始まる。



「なるほどね……」
 俺は夜食を食いながら見ていたDVDの音量を少し下げた。夜中に見るにしてはこのアニメはだいぶ音がでかい。
「退屈な感じぃ……」
「同感だ」
「なら、なんで見てるわけぇ?」
 窓枠に腰掛けた水銀燈が至極当然な質問をしてくる。俺は首を傾げ、少し間を取ってから答えた。
「んー、なんだろな。話題づくり? 友達との」
「くっだらなぁい」
 そう鼻で笑いながらも、昨日借りてきたDVDをきっちり全部見ているのはどういうわけなんだか。
 にやにやしながら、俺はお茶漬けの残りを掻き込んだ。

 今後のことをいろいろと考えているときにふと「こっちの世界ではローゼンメイデンの代わりにどんなアニメが放映されたんだろう?」などという下らないことを思いついたのは随分前のことだった。
 そのときは、番組名と宇宙世紀物のガンダムの続編らしいということを知っただけで満足してしまった。さほど興味も湧かなかったし、よくよく考えれば長寿人形劇くんくん探偵シリーズなど、深夜枠どころかゴールデンタイムの番組さえ違った編成になっている。ローゼンメイデンの代わりどころの話ではなかった。
 それを今になって見ている理由は、番組のあらすじをたまたま伝え聞いてしまったからだ。


「アリスゲーム?」
 単語としてはこの世に生まれる前から知ってるが、その名前を人間の口から聞くのは初めての言葉だった。
「なんだ知らないのかよ。これだから種と00しかガンダムしらねー奴は」
「悪かったな」
 残念ながら彼のご期待には添えない。何故ならタネとかゼロと言われてもさっぱり理解できないからだ。
 俺が知ってると言えるのは前世で見ていたVガンダムとかGガンダム程度のものだ。物心ついた頃にゼータガンダムとかをやってたのは覚えているが、内容は完全に忘れている。難しい話だったというから、若しかしたら当時は理解できなかったのかもしれない。
 向こうで死ぬ数年前に「MAJOR」の裏番組で新作のガンダムを放映していたのも知っていたが、それは全く見ていない。ビール片手にぼんやり見るにはライスあったけマジうめー♪ の方が気楽だったのだ。
 こちらの世界でも同じ番組を見てしまっているのは許されることと思いたい。さすがに昨今の規制下では未成年がビールを買ってくるわけにはいかないが、十数年ぶりに見る再放送のようなもので懐かしさがどうしても前に立つのだ。
「アリスってのは超すげえAIなんだ」
 メガネを掛けた、いかにもという感じのクラスメートは、得意げに語り始めた。
「けど、開発途中で解体されて七つに分割されちまった。んで、それぞれが別々のモビルスーツに補助コンピューターとして搭載されたわけよ」
「へえ」
 何やら怪しい話になってきた。
「AIは七分の一になっても自分で学習して機体制御できるわけ。けど、全部集めれば超すげえパワーになるんだ。ニュータイプよりつええの」
 ニュータイプはエスパーみたいなもんじゃなかったっけ。
「だからそれを奪い合うのがアリスゲーム。んで、モビルスーツに乗ってるAIがさあ」
 その後何十分かに亙る彼の懇切丁寧というか執拗というか微妙な説明を要約すると、要するに演出上の都合で「AIの操っているモビルスーツ」を表現するのに、オーバーラップで少女たちを重ねるような手法を取ったらしい。
 AI自体も女性の人格が与えられているという設定で、実際に喋りながら戦う。まさに萌え狙いというか、あざとい商法だ。
 ALICEを現出させるために少女たちは文字通り死闘を繰り返す。擬人化しているといってもロボット同士だから、腕がもげたり体が消滅したり、人間同士ならスプラッタになるところを美しく演出できたという。
 モビルスーツの擬人化としては斬新な方法だったようで、当時はその筋の人々には大人気、2ちゃんねるには各AIごとのファンスレが立ち、ガレージキット屋からはフィギュアのみならず限定品のドールまで発売されたとか。
「で、お前さんは誰が好みだったわけ?」
「そりゃーもちろんサファイアだろ! さふぁ子は俺の嫁! ボクっ子は正義!」
 そうですか。
 肩を竦めて辺りを見回すと、放課後の教室に残っていた面子は呆れたようにこちらを眺めていた。普段寛容な柏葉の視線さえもだいぶ低温になってきている。
 できれば声を慎んでほしいものだ、と思わず溜息が出てしまう。桜田にこの厚顔無恥さの半分でいいから分けてやりたい。そうすれば、学年が変わったのを切っ掛けにしてでも登校を再開するように誘えたのに。


「ちょっと」
 細い指が俺をつつく。はっとして顔を上げると、画面は青くなっていた。眠気に負けてついうとうとしてしまったようだ。
「終わってるわよ」
「あー、すまん」
 結局今晩も水銀燈は四話分のDVDを最後まで見ていたらしい。こっちは最後の一話分ほどはストーリーがあやふやなのだが。
「半分にした方がいいんじゃないのぉ? お馬鹿さぁん」
「返却期日の関係があるからなー」
 前期後期と特別篇で合計二十六話、まさに元居た世界でのローゼンメイデンの放映話数そのままのアニメだが、それを全部一気に借りてきたのだ。一週間で見終えるためには毎日四話ずつ消化しなくてはならない。
「ぷっ」
 本当に馬鹿ねえ、と笑う彼女は、原作よりも幾分肩の力が抜けているような気がする。
 原作では柿崎めぐに対して心を許していることを認めたくなくて──または心を許してしまっている自分を見せたくなくて、かもしれないが──自分のスタイルを貫くべく突っ張っていたが、俺に対してはそうする必要もないほど見下しているというわけだ。
 それが残念とは思わない。原作の媒介とは違い既に契約を交わしているのだし、同じようになぞることには意味がないだろう。こちらのやり方で付き合っていけばいいだけの話だ。
 ただ、関係がべったりしていないことにはいささか問題がある。
「そういや、昨日話してた『本物の』アリスゲームはどうなってるんだ」
 こうして聞かなくてはならないこともその一つだ。
 桜田が実際に媒介になっているかどうかは確認が取れていないが、少なくとも原作の桜田は頻繁に戦いの場に連れて行かれていた。戦いの経緯についても、お互いに話して愛情を深めていたようなフシもある。
 しかし、今のところ俺にお呼びが掛かったことはない。向こうからゲームの進行状況を報告してきたこともない。尋ねてみたのもこれが初めてだった。
「貴方には関係ないでしょ。必要になったらいつでも力を吸い上げてやるから安心しなさぁい。そのための契約なんだから」
 余裕のある含み笑いとともに、ある程度予期していた言葉が返ってくる。俺はDVDプレイヤーの電源を落とし、台所に向かいながら窓枠の天使を振り向いた。
「そりゃ、そっちはそれでいいかも知れんが、こっちだってパワードレインを受けるんだからな。それなりに進行状況くらい知りたいと思っても当然だろう」
 水銀燈は頬杖をつき、若干面白くなさそうな顔でふぅんと鼻を鳴らした。
「今のところ、進展はなし」
「まだ全機揃ってないってとこか?」
 先ほどのDVDに引っ掛けてそう言ってみると、はっきりと機嫌が悪くなったのが見て取れた。
「まあそうね。その割に、もう一人中途半端に脱落してるけど」
「……そりゃ、早いな」
 雛苺か、と喉まで出掛ったが、どうにか抑えた。雛苺が真紅に負けてから蒼星石が自刃するまでなのかと思ったが、展開は原作どおりとは限らない。
「勝った者がローザミスティカを奪わないなんて……恥知らずもいいところだわ」
「ゲームの勝者はローザミスティカを奪う決まりだったっけ?」
 小さなティーカップに紅茶を淹れてやると、意外にも素直に受け取って口をつける。淹れ方が適当なので不味い紅茶だと思うが、彼女は文句も言わずに返事をした。
「取り決めなんてないわ。でもゲームの目的はローザミスティカ。それを奪わないなんてイカレてるのよ……真紅のやつ」
 ふむ、まあここまでは原作どおりか。多分負けたのは雛苺で間違いないだろう。
 俺は自分の分の紅茶をマグカップに注いで窓から外を眺めた。水銀燈に肩が触れたが、彼女は少し避けただけで文句は言わなかった。
「まあ、物は考えようじゃないか?」
 日付が変わって、街の明かりはそろそろ消え始めていく。ある意味で一日中で最もさびしい時間帯だ。なんとはなしに、水銀燈に似合うような気がするのはなぜだろう。
「真紅ってやつのローザミスティカが二つになっちまえば、その分だけパワーアップするんだろ? お前さんにしてみれば、相手がチョンボしてくれて大ラッキーじゃないか」
「……」
 水銀燈がこちらを向く気配が分かったが、俺は気づかない振りをして続けた。彼女の言いたいことがなんとなく分かるような気がしたからだ。
「どうせ奪い合うことになるんなら、相手のミスはこっちの加点だ。後ろ向いてニヤリと笑って、その状況を有利に使ってやればいいのさ」
 片目を瞑って見上げると、黒衣の天使は毒気を抜かれた表情で何かを言いかけたがそれを引っ込めて、紅茶の残りを飲み干した。
「不味いわね、これ」
 そう言ったときには、彼女はもうごく当たり前の表情に戻っていた。
 そいつは失礼、と俺が頭を下げると、水銀燈は優雅といえる手つきでこちらにカップを返して寄越した。
「温度はめちゃくちゃだし、苦すぎるわよ。せめて次からはミルクを入れて」
「了解」
「全く……退屈しちゃう。少し飛んでくるわぁ」
「俺は寝るとするか。紅茶の効き目もないし。もう目が落ちそうだ」
 水銀燈はふわりと宙に浮き、くすりとこちらをみて笑った。
「それは死ぬときの表現でしょ、おばかさぁん」
「そうだったっけ」
 水銀燈はくすりと笑い、机の上のPCを指差した。
「起きたらそこの大きな箱で調べなさぁい。……おやすみ」

 おやすみ、と返す間もなく、黒衣の天使は銀色の蛍を従えて闇の中に消えていった。
 俺はPCを振り返り、ひとつ欠伸をした。明日登校する前に紅茶の淹れ方くらい調べておこう。いや、原作でも真紅が何巻だかで淹れ方をのりに教えてたよな。確か本棚のあの辺りに……
「ああ、そうか……」
 当然のことに気づいて苦笑いする。この世界にはローゼンメイデンはなかった。どうも眠気のせいでおかしな調子だ。


「ああ、別に風邪も引いてないし、元気にやってるよ。そっちこそデモとか巻き込まれないようにね。……あはは、それじゃ」
 毎度ながら、通話を切ると唐突に寂しさが襲ってくる。部屋の中に一人ということを意識する瞬間だ。
 この春の人事異動で両親は東南アジアの現地法人に出向させられた。長くても数年で戻るということもあり、俺は社宅から小さな安アパートに移って元の中学にそのまま通学している。
 今の状態を考えると便利といえば便利な状況というべきか、生活が落ち着き、まるで彼女を迎えるための環境を整えたようなタイミングで水銀燈は現れた。何やら胡散臭いものも感じるが、その点は深く考えないことにしている。
 ともあれ、生まれ変わったとはいえ、赤ん坊の頃から十数年間同じ屋根の下で暮らしていた両親が居なくなるのは寂しいものだ。一人暮らしそのものは大学時代から数えて十余年続けていたから慣れているが、かえってそのせいで一人暮らしに新鮮味もなく、不便なところばかり目に付いてしまう。
「電話?」
 振り返るともう一人の住人が目を覚ましたところだった。既に鞄は閉じており、テーブルの上に腰掛けている。この辺りの隙を見せないのが水銀燈の矜持なのだろう。それとも、鞄が開いただけでは気配に気づかないこちらが鈍いだけなのか。
 俺は生返事をして固定電話の子機を戻した。
「今日は早いんだな」
 まだ土曜日の午後三時を僅かに過ぎた時間だ。大抵二十時過ぎに起きてくる彼女としては例外的な早起き、というよりは夜中に起き出したようなものと言っていい。
「どうでもいいじゃない。早めに目が覚めることだってあるのよ」
 僅かながらいらつきの混じった声に苦笑しながら台所に立っていき、冷たい麦茶を持って戻ると、水銀燈はどこか思いつめたような表情で視線をこちらに向けていた。
 今日に限ってどういう風の吹き回しなのか。異例ずくめだなと思いつつ、早くも汗をかき始めているコップを渡すと、水銀燈は受け取った姿勢のままそこに視線を落とした。
 一体何を思い悩んでいるのか、とちらりと考えたが、原作の動向まで含めると心当たりがありすぎてとても推測しきれるものではない。お互い無言のまま時間が流れた。

「──扉が開いた」

 唐突に沈黙を破ったのは水銀燈のほうだった。何の扉だと聞き返す間もなく、彼女はコップを置いて立ち上がり、漆黒の翼を広げた。
「行くわよ、メイメイ」
 主の声を聞いた人工精霊が慌てたように鞄から飛び出すのも待たずに、彼女は慌しく青い空にむけて飛び立った。途中ちらりとこちらを振り向いたような気がしたのは、俺の勘違いか、それとも相棒がついてきているか確認したのだろうか。
 彼女の残していった何枚かの黒い羽が部屋の中に舞っている。それがゆらゆらと床に落ちる頃には、黒衣の天使も銀色の相棒も既に昼の光に呑まれて見えなくなっていた。
「扉、か……」
 俺はその言葉の意味するところを思い出そうと、曖昧な記憶を手繰り始めた。

 忌々しいくらい良い午後だった。PCの画面を睨む俺の機嫌が悪くなっていくのと逆比例するかのように、時折振り返って見てみる空は雲の量を減らしていき、その色も秋の空のように高く澄んで行く。

──畜生。

 俺は机の天板をぶっ叩いた。安物キーボードが音を立てて跳ね上がる。クラッシャーよろしく叫びながらキーボード自体を叩きまわさなかったのは、ひとえに俺に染み付いた貧乏性のせいだ。
 生まれ変わった場所がローゼンメイデンの世界だと気付いたときから、俺は原作について備忘録を付けていた。
 準備が良かったと誉められるような代物ではない。これからの役に立つかもしれないという功利的な動機すら建前のようなもので、本音は「記憶の中にしかない好きな作品を忘れないうちに記録しておきたいから」程度のものだった。
 そんなものだから、書いていて思い出すこともあれば、書いてしまったことに安心して忘れてしまうこともある。扉云々はまさにそれだった。

『バーズ版三巻
 翠星石が気づく(ロールがほどけている)
 翠:扉が開いているです……
 蒼:行くよレンピカ(出撃)
 翠星石、ジュンに懇願。告白っぽい。ジュンドキドキ。でも夢の扉を開く罠(ピアノ線引っかかって転ぶ)
 ……』

 ここまで読めば、いくら頭の良くない俺といえど流石に思い出す。
 蒼星石が扉を開いたのだ。それを翠星石と水銀燈が知ったことで、この時点で登場していたドールと桜田ジュンが全員nのフィールドに揃う。そして当然のようにゲームが始まり、真紅が腕をもがれるのだ。水銀燈に。
 原作最初の大きな戦いだが、実のところここでゲームは半ば終わっていたかもしれない。真紅の腕をもいだことで欲を出した水銀燈が蒼星石との約束を反故にし、蒼星石まで攻撃するようなことがなければ。
 架空戦記ネタで喩えるならばミッドウェイの兵装転換とか真珠湾の第三次攻撃のような「痛恨の一事」に値するだろう。後知恵でいろいろ考えられるところも含めて。
 もっとも、原作において全ての事柄は兎頭の慇懃無礼紳士に操られている可能性もないではないから、決着がつかなかったことは既定事項だったのかもしれない。

──いずれにせよ、俺はここで待つほかない。

 nのフィールドに俺は単独で侵入できない。全てを桜田に話した上で同道する手は──成功の可否は無視するとして──あったのだろうが、今となっては時間的に間に合わない。
 原作どおりに進まない可能性が僅かながらある、という点だけが慰めだ。
 水銀燈が蒼星石との共同戦線を張る際の口実として使った「殺したい相手がいる」というのが柿崎めぐの父親を指していたなら、おそらく柿崎めぐと面識すらないであろう今の水銀燈には蒼星石と共同戦線を張る理由がない。
 いや、分かっている。それは俺の希望というか手前勝手な妄想に過ぎないことは。
 損得ずくで考えれば、何か適当な理由をこじつけても蒼星石を抱き込んだほうが水銀燈としては得策だ。そもそも原作の取引きにしてからが、手を組むための虚偽の口実に過ぎない可能性もあるのだ。
 俺はもう一度机を叩いた。マウスが床に転がり落ち、画面のカーソルがあらぬところに飛んだ。
 舌打ちをしてかがみ、マウスを拾い上げる。こんなことは意味がない、と俺の中の冷静な部分が告げる。物に当たったところで何も変化はおきない。

──だいたい、何故こんなに悔しがる必要がある?

 原作どおりに進ませればいいではないか。真紅が片腕を無くすことで真紅と桜田ジュンは確実に成長できたのだし、二人の絆も深まった。むしろ、妨害や偶発的な要因で不首尾に終わらせてしまう方が、二人にとっては不幸だし俺にとっても損ではないのか。
 第一、nのフィールドに入り込んだからといって俺に何ができるわけでもない。せいぜい水銀燈の媒介として狙われる程度のものだ。

──理屈はわかってる。

 だが、何かが気に喰わないのだ。それはただ能動的な関与を諦めねばならないから疎外感を受けたというような理由ではない。むしろ──
「なっ……」
 マウスを置こうとして画面に視線をやって、俺は息を呑んだ。光沢加工をしたモニターが半球状に盛り上がり、波打っている。
「これは……ッ」
 何が起きたのか把握する前に、俺は何かの手に掴まれてモニターの中に引きずり込まれていた。


 モニターが広めで良かった。17型なら途中でつっかかっていただろう。
 引っ張り込まれた瞬間、俺はモニターから飛び出していた。とっさに受身を取り、目の前に迫っていた床に激突するのをどうにか避けたはいいが、柔道の授業そのままに手を斜め横にバタンとやったら椅子の脚らしい部分にしたたかに打ち付けてしまった。
「ってえな」
 手をぶらぶらやりながら立ち上がると、そこは見覚えがあるようで全く異質な場所だった。
 知らない店の暖簾をくぐったら自分の部屋に出たような奇妙な感覚。それと、自分の体が自分のものでないような感触。これは……
「いらっしゃぁい……」
 上の方から声が響いてくる。振り仰ぐと、黒い翼を持った少女と、青い服を着てでかい鋏を持った少年がゆっくりと降りてきた。いや、少年と呼ぶのはいくらなんでも失礼だろう。
「水銀燈と……蒼星石」
「初めまして、水銀燈のマスター」
 蒼星石は俺と視線の合う所まで降りてくると、帽子を脱いでお辞儀をした。所作は完全に少年のそれだ。宝塚で男役をやったら国民的な人気女優になれるだろう。
「ここはnのフィールド。その中の、貴方の記憶とイメージの世界さ」
「ほお。それはそれは」
 特に意味もなく裾を払ってみるが、当然のように埃は付いていなかった。肩を竦めて顔を上げると、水銀燈と目が合った。
「やあ。俺の世界にようこそ、お二人さん」
 蒼星石はもう一度礼をし、水銀燈は鼻を鳴らした。
「汚くて狭いところね。ある程度想像はしてたけど」
 そう言ってわざとらしく周囲を見回す。蒼星石が小首を傾げた。
「想像? 君が毎日帰っている場所じゃないのかい」
 水銀燈は胡散臭そうに俺を見、それから蒼星石に向き直った。
「見るのは初めてよ。ここも、そしてそこの男の姿もね」

 俺は改めて自分の身体を見た。血管の浮き出たがさがさした手。洗いざらしのツナギ。多分一回り背が伸びて、体型自体も変わっている。懐かしい「俺」の姿だった。
 そう。ここは俺が十数年間忘れずにイメージしてきた、生まれ変わる前の俺の部屋だ。壁も天井も机も、あちこちに無造作に置かれたパーツやら工具の山も。
 既にそこで暮らしていた時間よりも回顧している時間の方が何倍にもなってしまっているが、俺の記憶の中では強固に結晶化して崩れることはなかったらしい。まるで本物のように、本棚の本の並びまで手に取れそうなほどはっきりと質感を持っている。

──ローゼンメイデン。

 近づいて、恐る恐る本棚から出してみる。ある種の恐怖と期待がない交ぜになった興奮は、しかし読もうと開いてみたときに急速に凋んだ。漫画はカバーと形だけで、中身は白紙だった。一巻から順に全部開いてみたが、全て同じだった。
 一つ大きく溜息をつき、ま、世の中こんなもんなんだろう、そう上手くは行かないものさ、と漫画を元通り棚に戻したところで、俺は二人がこちらを見つめていることに漸く気が付いた。

「やっと戻ってきたみたいね」
 水銀燈が呆れたように言った。
「説明してもらうわよ、人間。貴方は一体何者?」
 言い終わると同時に、黒い羽が俺を取り囲む。蒼星石も一歩引いたところで鋏を持ち直した。
 後から考えればあまりにも急転直下の展開だったわけだが、そのときの俺には恐怖や驚きはなかった。原作どおりに進んでいないことへの疑問やら考察やらも浮かんでこなかった。

 ただ、二人が──水銀燈がこちらをねめつけている視線に全く温度がないことだけが、些か悲しく思えた。

「何者って言われてもな」
 いきなり実力で脅迫とは理不尽だとは思ったが、編成自在の羽毛の軍団と斬り突き両用の武器を持った相手に丸腰で勝てるわけがない。俺はまあまあと手を上げながら、その場に座り込んだ。
「見てのとおり、機械弄りが好きでヲタクなオッサン『だった』だけの、無力な一般市民だぜ」
「信じられるものですか」
 水銀燈が警戒を緩める素振りはない。
「それが何故姿形を変えて子供になっているわけ? しかもその漫画、題名がローゼンメイデンなんて、ありえないじゃない」
「確かにな」
 そりゃ、ありえない話だ。死んだと思ったらおぎゃあと生まれて、あまつさえその先が愛読してた漫画の世界だったなんてな。実際に死ぬまでそんな可能性を考えたこともなかった。
 生まれ変わってからでさえ、同じクラスに桜田やら柏葉の名前を発見するまで、そんなトンデモな異世界に迷い込んでいるなんてことは想像もしなかった。生まれ変わったこととどうやら十数年ほど時間を遡行していることだけで奇天烈体験は腹一杯だった。
 結局のところ、俺は異常な環境に放り込まれたにもかかわらず、これまでただ漫然と生きているだけだったとも言えるし、逆の見方をすれば目の前のことで一所懸命だったとも言えるだろう。
 いずれにせよ確かなのは、こちらの世界に生まれ変わったからといって、日常のこまごました俗事をCtrlキーでスキップできるようなことはないということだ。
 生まれ変わったと言っても飯を食わなければ死ぬし、金がなければ飯は食えない。痛いものは痛いし、無くし物は探さなければ出てこないのだ。
「物分りが悪いわけでもなさそうねぇ」
 俺は頷いてみせた。頭が良くないのは自分でも承知してるが、現状を受け入れる能力だけは人並み以上にあるつもりだ。
 俺の態度を従順になったものと解釈したのか、水銀燈の顔から険が消えた。
「なら、さっさと洗いざらい話しなさぁい。それとも──」
 羽がこちらを指向する。まあ、痛い目に遭わせるだけのつもりなのは明白なんだが、それでもこういうシチュエーションは嬉しいものじゃない。
「痛いほうがいいのかしら?」
 そう言ってうっそりと笑う顔には、契約を迫ったときに見せたものと同じ凄みと色気が同居していた。
 やはり彼女はSっ気があるらしい。それも原作そのままというわけだ。
 俺はやれやれと肩を竦め、これまでの経緯を話し始めた。


 水銀燈は片膝を立てて窓枠に座り、気だるい風情で夜空を眺めている。
 nのフィールドに俺を引きずり込んだ日から、こっちが起きている間だけでも毎日一度はそんな姿を見せるようになっていた。
 媒介の危険性について考えているのかもしれないが、今のところ契約を解除したりエネルギーを吸い取りきって殺してしまうつもりはないらしい。
 ただ、それまでも大して多くなかった会話は、あの日を境にほとんどなくなった。俺との間に新たに一線を引いているのは間違いなかった。
 俺はと言えば、相変わらずだ。面倒臭い宿題を片付け、翌日当てられそうな所だけ渋々予習して、後は雑事に追われている。毒にも薬にもなりゃしない。

「ねえ」
 水銀燈が声を掛けてきたのは、課題を終わらせて立ち上がろうとしたときだった。
 随分久しぶりのような気がしてそちらを見ると、思ったよりは近くに、そっぽを向いたままの彼女の姿があった。手の届くほどの場所ではない。それでも近いと思うほど、最近は距離を置いていたということかもしれない。
「前の暮らしに戻りたいと思ってるでしょ、貴方」
「なんだい藪から棒に」
 俺は何回か目をしばたたいた。てっきりアリスゲームの話か、契約を破棄したいとかいう話をするのだとばかり思っていた。
「言い方を変えるわ。今の生活は楽しい?」
 俺は絶句するしかなかった。全く予想外の質問だった。何も言えないでいるうちに、水銀燈は自分で回答を口にした。
「楽しくも、おかしくもない。生まれ変わってからずっと。違って?」
 目の前の水銀燈はいらついた調子で、しかし何かを辛抱強く耐えているようにも見える。
「最初は変な人間だと思っただけ」
 斜め下を向いたまま、半歩だけ彼女がこちらに歩み寄る。
「次は、退屈なやつって思った」
 じり、とまた距離を詰める。
「そして、真紅の話をしたとき──ぞっとしたわ」
 あのときか、と俺はぼんやり思い出す。真紅が雛苺のローザミスティカを奪わなかったことをラッキーだと俺が言い放ったときだ。
「貴方の中には何かある。とても空虚で深い闇が。それがどうしても知りたかったからあの世界に行って、……貴方の話を聞いて、やっとものすごい勘違いに気が付いたってわけ」
 どんな勘違いなんだ、と言おうとしたが、何かに縛られたように口が動かなかった。しかし、言われなくても何故か分かっているような気がした。

「貴方の中には何もなかった。
 いいえ、むしろ貴方はここにいない。歩みを止めて、終わってしまった夢の底にこびりついているの。
 ここに居る貴方は抜け殻。
 義務感は持ってる。社会にも順応してる。
 でもそれはただ、目の前のことだけに対処しながら、日々を繰り返しているだけ。
 人間としての生活も、媒介としての私に対してのありようも全部そうなんでしょう?
 当たり前よね。貴方の時間は、こちらの世界にくる前の瞬間で止まっているのだもの」

 水銀燈はそこで漸く顔を上げた。
 それは今まで俺に見せたことのない、真摯な怒りの表情だった。

「貴方は生きてない」

 何かの圧力に襲われたような気がして、俺は体を震わせた。彼女の怒りに満ちた双眸は俺を真っ直ぐに射抜いていた。
「器となるべき体は生まれかわっている。生命は確かに生き返っている。でも、心は死んだままなのよ。魂の時間は止まっているのよ。生まれたときからずっとね」
 それは、俺のありように対する全否定だった。
 言われるとおりだった。自分でも薄々は考えてきたことだけに、纏めてぶつけられると反撃する言葉もでてこない。図星をつかれたようなものだった。
 怒りがないといえば嘘になる。だが、それは目の前の小さな天使に対してのものではなかった。こんなときでもどこか他人事のように覚めた目でこの世界を見ている自分自身への怒りだった。

 温度の低い怒りに目を閉じ、また開く。水銀燈は視線を脇にやりながら、まだそこにいた。赤い瞳がちらりとこちらを見た。
「本当……むかつくったらないわ。こんな死人と契約したなんてね」
 自分の言葉が終わらないうちに彼女はくるりと俺に背を向け、何も言わせないタイミングで窓の向こうに飛び去った。銀色の相棒がどこからか漂い出、俺の周りをくるくると二度ばかり回ってから彼女の後を追った。

──追わなきゃ。俺も。

 何故かは自分でもわからない。反射的にそう思った、としか言えない。
 いつものように理屈を捏ね回すことはなかった。
 俺は玄関先に停めてある自転車の施錠を乱暴に解除し、飛び乗って彼女の飛び去った方向を目指して走り始めた。
 当てはない。ただ、追いかけなくてはならないという気持ちだけが先に立って、俺は子供のようにがむしゃらにペダルを踏み込み、夜道を駈けた。


 街路灯だけがぽつぽつと灯る中を、闇雲に自転車を走らせていると、不意に一つの光景が浮かんできた。
 天井の高い、戦争映画に出てくるようなコンクリ剥き出しのぼろぼろの教会のような建物の中。運び去られた聖母像と埃まみれの説教壇の間に立つ黒くて小さい姿。
 解体寸前の古い礼拝堂は、大学病院の裏手に、確かまだあったはずだ。
 大通りを逆走し、ニアミスした酔っ払いの怒鳴り声を後ろに聞き流し、最後に「工事中」のバリケードにぶつかって派手に鳴らしながら俺はその場所に辿り着いた。
 庭は重機の置き場になっているものの、礼拝堂はほとんど完全な形でまだそこにあった。
 入り口の扉には×字に板が打ち付けられていたが、世話好きの案内人が待っていた。
「メイメイ」
 俺の言葉が聞こえるのかどうかは分からないが、人工精霊はついてこいと言うように礼拝堂の脇に回り、割れた窓を教えてくれた。
「済まないな」
 人工精霊はくるくると回り、ろくに月の光も差し込まない室内を、闇に溶け込むような服を着た天使のところまで案内してくれた。

 水銀燈は不貞腐れたような顔で、割れていない窓の近くに座り込み、窓越しに外を見ていた。
「……何よ。無様に生きてる人形に情けでもかけに来たわけ?」
 俺は黙って水銀燈と同じ窓際に並んだ。彼女はこちらを見なかったが、どけと言うことも自分からよそに移ることもなかった。
「きちがい人形師に作られ、そいつの顔をもう一度見るために自分たちの命を奪い合う七体の可哀想なお人形。一段高いところから見ていればさぞかし楽しい見世物でしょうね」
 激烈な内容の言葉だったが、彼女の口調は静かだった。
「知ってるんでしょう? これから起きることも」
「ある程度のところまでは」
 原作の連載が終了する前に俺は死んだ。だから、結末は知らない。いつ結末がつくのかも知らない。
「だがそいつは漫画の上のことだ。この世界のことじゃない」
「詭弁ね。貴方が媒介であること以外、ほとんど漫画をなぞってるって言ったのは貴方よ、異邦人」
 水銀燈はぴしゃりと俺の言葉を抑えた。
「もしもこの先が貴方の知っている漫画とは違っても、ここまでの出来事を貴方は全部知っている。私たち薔薇乙女のことも」
「謎が明かされている部分はね」
「私の心の中も覗いていたのでしょう。悪趣味すぎるわ。ただの媒介のくせに」
 薄く笑ったが、からかうような響きはなかった。乾いた笑いだった。
「君の心じゃない」
「同じことよ。きっと。貴方が漫画を読んでイメージしている『水銀燈』を言葉にすれば、私と同じになるはず。それは、私が心を覗かれたのとどう違うというわけ?」
 正論だった。何も言えない。
「貴方にしてみれば、ここは舞台の袖みたいなもの。貴方は時の止まった夢の中で、漫画で描かれたのと同じ場面の再演を舞台のごく間近で見ているだけ」
 ただしそこには少しばかり危険もある。その部分は水銀燈は指摘しなかった。
「いっそのこと、薇を巻かなければ良かったのに。そうでなければ持ってる知識を全部使って可哀想なマリオネットたちを好きに操れば良かったのに。貴方はどちらも選ばなかった」
 肩を竦め、いっそさばさばした調子で、半ば自嘲するように彼女は喋りつづける。
「観ている分には面白いけど、そこまでのめりこむ『作品』でもなかった、ってわけね。私達の人形劇は」
 ちがう。それほどの知識量を俺は持っていない。全員を手玉に取るなんて不可能だ。

──いや、果たしてそうか?

 水銀燈の言うのは極論だ。だが、真実を突いている。
 あの日、あのサイトで「まきません」を選べば、少なくとも俺の前に水銀燈は出現しなかった。そのまま、流れるままに任せて行けば、全く関わりを持たないことだって有り得た。
 逆に、その気になればできたことはいくらでもある。水銀燈の思うところに沿って手助けしてやることもできたし、桜田の同級生という立場も利用すれば、桜田の家に入り浸るなどして逆に真紅に肩入れすることさえもできた。
 そのほかにも、例えば薔薇屋敷の主人を無益な犯罪をするなと諭してみたり、誰か特定の一人だけにそれとなくその後の情報を垂れ流すだけでも、場合によってはその後の展開は大きく変わりうる。
 nのフィールドに引き込まれた日にしてからが、ダメ元で桜田の家に電話を掛けて状況を確かめるという選択肢もあったはずなのだ。
 それらは成功したかもしれないし、失敗する目の方が大きかったかもしれない。ただ、真剣にこの世界と向き合っていくなら、手を出してしかるべき枝だった。
 情けない話だ。「まきます」を選んだとき、柿崎めぐの状態を見て指輪に口付けたとき、そのいずれのときにも俺は、誰かの力になろうと思ったのではないのか。

「確かにゾンビだな、俺は」
 病院のベッドの上でしか暮らしていない柿崎めぐの方が、俺よりもよほど生きている。
 彼女の代わりを務めるには、今までの俺では役者が足りない。
 柿崎めぐを水銀燈が愛せたのは、彼女が不遇だからというより、もがきながら懸命に生き方(と、恐らく死に方)を探っているのに共感したからなのだろう。
 不遇さはともかく、その懸命さが、俺にはない。
「だけど、椅子の上にふんぞり返った観客で居ようとした訳じゃない。結果的には、そう見えるかもしれないが」
 水銀燈は言い訳を聞く気はないと言いたげにそっぽを向いた。だが、その場から去ろうとはしなかった。
「俺はただ、臆病だったんだ。その辺の砂粒くらいの度胸しかないチキン野郎だから、手を出すのをひたすら怖がってた」
 桜田が傷つきながら成長していくのを止めてしまうことが怖かった。水銀燈が、翠星石が、蒼星石が、真紅が、雛苺が原作どおりに痛みを抱きつつも変わっていくのを邪魔したくなかった。
 本気で何かを変えようとするなら、それによって引き起こされる痛みを受け止めなければならない。俺にとってはそれが、漫画のキャラクターたちが自分の知らないものに変化していくことだったのかもしれない。
「失礼な話だよな。君たちは全力で生きて、前に進もうとしているのに、俺は重心を後ろに残したままちょっかいを掛けようとしてたんだから」
 そのくせ、契約した相手が姉妹の腕を引き千切ることを原作の展開から勝手に予想して、それを止めさせたいと考え、止めるのが無理だと思えば癇癪を爆発させたりもした。その意味ではまさに彼女の言うとおり、ダブルスタンダードな観客だ。
「本当にごめん。それから……ありがとう。そんなに真摯な言葉をくれて」
「……お礼なんか要らないわよ」
 僅かな間があって、そっぽを向いたまま、水銀燈はぶっきらぼうに呟いた。
「私はただ──」
 がさりと物音がして、俺は反射的にそちらを振り向き、水銀燈も言葉を呑み込んで立ち上がった。
「やあ、水銀燈。水銀燈のマスターも」
 青い光が近づいてくる。メイメイがすっと飛び上がり、それを迎えるようにくるくると回った。
「貴女がここに来るなんて珍しいわね、蒼星石」
 二つの人工精霊の放つ僅かな光と、外からの薄明かりに照らし出されたのは、見覚えのある青い服を着た少年のような少女だった。
「約束を果たしに来たんだ。君が探し物の在り処を教えてくれたお陰で、時間に余裕ができたからね」
 蒼星石は色の違う瞳で俺を一瞥した。瞳には紛れもない生きた意思の光があるが、表情はビスクドールのように硬質だった。
「お邪魔だったかな」
「構わなくてよ。話は済んでるわ」
 水銀燈はこちらを見ずに答えた。蒼星石は軽く頷き、ちらりと窓の外の重機を見た。
「外はだいぶ準備が進んでるようだけど、鏡はまだあるのかい」
「まだ壁に嵌ったままね。丸ごと壊すんじゃなぁい?」
 水銀燈は奥の部屋に続いているらしい入り口に視線を向けた。扉は壊れたのか運び出されたのか既になく、黒い穴がぽっかりと口を開けている。
「そう。来た甲斐があったよ」
 蒼星石はまたこちらを見上げた。
「彼も一緒でいいのかい」
「ええ」
 水銀燈は頷くと、ふわりと宙に舞った。
「自分の目で確かめればいいのよ。どんなに歪な形をしているか」


 床のない世界というのは初めてだった。
 水銀燈が無言で先頭を飛び、蒼星石も泳ぐように頭から「下」に向かって舞い降りていく。俺は足を下にしてそれに続いた。
 床に相当する部分はないのに天地は存在していて、天には太陽のようなものがかかり、一本の太い幹が曲がりくねりながらそこへと伸びている。
 底の見えない巨大な井戸のような世界だった。幹はさながら井戸に投げ込んだ水汲み桶の縄のような按配で、幹の末も、根元もどうなっているのかは遠すぎて見えない。
 俺たちはそれに沿って緩やかに降りていった。
 幹の周囲には幾つかの光がまとわりつくように見えている。近づくと、それは一つ一つが小さな苗だったり雄大な樹木だったりした。心の木というやつなのだろう。
 幹そのものも一様ではない。曲がり、枝分かれし、ときには繁茂しているかと思えば全く心の木が見当たらない場所もあった。
「心の木の姿が人の数だけあるのと同じように、世界樹にも無限の様相がある」
 いつのまにか蒼星石が隣にいた。
「違うのは、世界樹は決して死なないこと。心の木は容易に枯れたり朽ちたりするけど」
 そう言って伏目がちになる。思いつめたような表情だった。
「……伐り倒すのかい」
 彼女は驚いたような顔で俺の顔をまじまじと見たが、すぐに元の硬い表情に戻った。
「そうか、すべてお見通しだったね」
「たまたま知ってるだけさ」
 会話はそこで途切れた。暫く無言のまま、俺たちは先を行く水銀燈を追って降下を続けた。
「どんな結果が出ることになろうと、マスターがそれを望むのであれば、僕は鋏を使う」
 ぽつりと呟くように彼女は言った。
「たとえそのために誰かが犠牲になるとしても」
 俺はごくりと唾を飲んだ。硝子のように割れる世界と力尽きた蒼星石が、昨日読んだかのように浮かんでくる。
「……それが、媒介や自分自身であっても?」
「それは──」
「見えたわよ」
 だしぬけに前から声がかかった。俺たちはそれ以上会話を交わすこともなく、水銀燈の示す場所に向かった。

 俺のものだというその心の木は、水銀燈の言葉で思い描いていたものとは全く違っていた。
 捩れたり曲がったりはしているが、それなりに大きく根を露出させながら、枝を伸ばして立っている。ただ一つの点を除けば、立派だろうと鼻を高くしても良さそうな按配だった。
 そう、完全に枯れていることを除けば。
「この木は不思議だね」
 蒼星石は木の周りを一周して首を傾げ、近づいてきて俺の顔を見上げた。
「枯れてから十数年経っている筈なのに元の姿を留めている。こんな木は初めて見るよ」
 木に近づいて一回りしてみる。遠目からは立派に見えたが、近づくと樹皮は腐ってきており、根元近くにはウロがあいて草か何かが生えてきていた。張っていると見えた根も、単に浮いてきているだけなのかもしれない。
 それでも、見上げれば葉の一つもないまま、うねる幹は頑強に天を目指し、枝は恐らくほとんど折れもせず頭上で存在を主張している。
「あの世界、そのままね」
 水銀燈は不快感を隠そうともせずに言い捨てた。
「とうに終わってるくせにしぶといったら……」
 蒼星石はウロの辺りに屈みこみながら、考えを整理しているような口調で、水銀燈に答えるともなく言った。
「人は何かに依存しているものだ。現在、未来への希望、他者……過去に囚われることだってある。それが強くなれば、こんな形もあり得るのだろう」
 ご覧、と立ち上がった彼女に促されるまま、俺はウロの中を覗き込んだ。幾本かの雑草に混じって、小さいが明らかに若い樹木とわかるものが生えていた。
「それが今の貴方の木よ」
 肩越しに水銀燈が言う。俺は一歩下がり、枯れた木全体を見上げ、うろの中の小さな木に視線を戻した。
 生まれ変わってから十数年。それは年数だけ取ってみれば一度死ぬまでの年月の半分近くにもなる。それなのに、この違いはどうだ。
 頭の中がもやもやとしたもので満たされていく。漠然とした不快感のような。
「うろは木の成長を妨げているけど、守ってもいる」
 蒼星石の声が、なぜか少し遠く聞こえた。もっとも彼女は俺にではなく、背後の水銀燈に語りかけているようだった。
「それでもいいのかい?」
 一拍置いてから水銀燈の声がする。
「構わないわ。やっちゃって」
「契約者と僕たちの心は繋がっている。マスターの木はドールの木と同じだ。それも分かっているんだね」
「構わないわ」
 今度は間髪をいれずに返事があった。
「いざとなれば契約を解除すればいいんだもの。簡単なことよぉ。そうでしょう?」
「君は……」
 蒼星石の声に僅かに苦笑の響きが混じったような気がした。
「なによ」
「いや、わかったよ。……レンピカ」
 靄が立ち込めてきたようだった。うすぼんやりとした視界の中、蒼星石の手の中にあの大きな鋏が出現した。
 彼女は鋏を構えると、物も言わず枯れた木の幹に切りつけた。二度、三度。
 次に、逆手からうろの近くを突いた。持ち替えてまた突く。切りつける。
 だが、俺のぼんやりとした目では、木には全く変わった様子は見えなかった。彼女はさらに二度ばかり切りつけて、ぐらりとその場に蹲った。
「蒼星石?」
 水銀燈が座り込んだ蒼星石に歩み寄った。

 俺もそこに行こうと霞の掛かったような視界の中を歩き出したが、何かに蹴躓いた。
 緩慢な動作でそれを見遣る。
 何であったか理解すると、唐突に霞は晴れてしまった。

「手ごわいね……これは」
 蒼星石は疲労感を滲ませていた。
「……十余年変わらずにここにあったのは偶然じゃないってことね」
 水銀燈は憎しみさえ感じさせる声で言い、思い切り幹を蹴りつけた。ばらばらと腐った樹皮が落ちてきたが、それだけだった。

「何かのSFかファンタジィで読んだことがある。『異界の由来を持つ物質は、その世界の構成物でなければ壊すことができない』。まあ、よくありがちな便利設定だと思うが」
 二人がこちらを向き、信じられないものを見るような目になった。
 俺はさっき拾い上げたチェーンソーを目の前に置き、オイルタンクと燃料タンクを確認した。どちらも満タン。キャブレターの燃料ポンプをくちゃくちゃやると、懐かしいガソリンの匂いが鼻を突いた。畜生、そろそろタンクのパッキンの交換時期だったか。
 だが、構わない。どうせもう二度と使うことはないのだ。今回使うには十二分だ。
「仲間内でバカやってな。チェーンソーのエンジンでバイク動かそうとか。そのために阿呆みたいにチューンしたエンジンのなれの果てがこいつだ」
 小さい素朴なエンジンだが、少しでも馬力を上げたくてだいぶ長いこと弄っていた覚えがある。結局その計画がポシャったときにも、捨てるのが忍びなくて元通りチェーンソーに組み込んだほどだ。だから、この場に現れたんだろう。
「きっとこれは、死んだ俺に対して誰かがくれた最後のプレゼントなんだろう」
 リコイルスターターを引く。一度では掛からない。
「だから、自分のなれの果ては自分で始末させてくれ」
 四度目でかかった。こいつにしては優秀だ。
 耳栓が一緒に現れなかったのは誰の不備なんだろうか。耳を聾する轟音が辺りに響き渡った。
 俺はオイルの飛び散るチェーンソーを大事に構え、身振りで安全圏に出ていろと二人を下がらせて、幹に刃を食い込ませた。
 腐りかけの枯れ木などこいつの手に掛ればあっという間だ。二人の位置を確認し、逆側に木を倒すまで、ものの二分と掛らなかった。
 伐りながら、手応えが妙に軽いような気がして、俺は手元を見た。
 情報連結を解除された朝倉涼子のように、役目を終えつつあるチェーンソーは光の粒子になって消え始めていた。
「もうちょっとだけ保てよお前。いい子だから」
 うろの周りを注意深く切り広げる。チェーンソーの起こす風で、なよなよした若い木が揺れ動く。まだ持ち手と刃は残っている。まだいける。
 若い木の障害物になりそうなものをあらかた削り終えたところで、轟音は止んだ。手の中にはガソリンとオイルの匂いだけが残っていた。
 俺は二人を振り向いた。水銀燈が微笑んだように見えたが、そのまま彼女はかくりと倒れこんだ。慌てて駆け寄ろうとした瞬間、俺の目の前も急速に暗くなってきた。
 恐らく、『俺』はここで消える。なんとなくだが、わかってしまった。
「蒼星石っ……水銀燈を連れ帰ってくれ」
 その声が出たのか、それとも頭の中で形成されただけなのかはわからない。俺の視界は黒一色になり、そして、すぐになにもわからなくなった。


 意識の底。奔騰するイメージ。縦横に流れて自分を攫う濁流。
 自分が何者であるかなどわからず、達観して流れに身を任せる余裕もなく、ただ、自分を保たなければ呑まれて消えるという恐怖だけがあった。
 どうにか姿勢を保ち、方向を定めて移動を始める。何処へ辿り着こうとしているわけではない。ただ、せめて流れの緩やかなところに出たかった。ここは危険すぎる。

 どれだけそうしていたかはわからない。
 いつのまにか、目の前に一つの人形が流れていた。
 優雅に拡がる灰白色の髪、切れ長の紅い眼、逆十字を標された黒いドレス。なんだろう、確かに見覚えがある。ひどく古いようでとても懐かしいイメージ。
「あなた……だれ」
 名前は……なんだったか? 思い出せない。自分のも、人形のも。
 まあ、何だっていい。その場でそれぞれを識別できれば問題ない。ジョン・ドゥとメリー・ドゥでも一号と二号でも。
「たすけて……ここから出たいの」
 まだあどけなさの残る白い顔を大きくゆがめ、必死にこちらに手を伸ばしてくる。待ってくれ。こっちだってここから出る方法なんか知らないんだ。
 しかし逡巡する暇はない。いま手を繋がなければ、どんどん離れていってしまう。
 辛うじて手を取り、胸元に引き寄せる。
 瞬間、横合いから突風のような激しい流れが押し寄せた。咄嗟に両腕で人形を抱き締める。
「こわいよ……おとうさま」
 胸元にしがみついてくる人形は、おこりのように体をがくがくと震わせている。

──守ってあげなくてはいけない。

 頭のどこかでそんな声がする。
 そうだ。ここにはこの子と自分だけだ。この小さな存在を護ってやれるのは他にいない。
「お父さんのところに行きたいんだな」
 腕の中で頷く気配があった。
「わかった。一緒に行こう」
 どうせ何処に行く当てもないのだ。それなら、目標がある方がいい。
 それにしても、名前は何だっただろう。確かに知っていたはずなのにどうしても思い出せない。
「君の名前を──」
 教えてくれ、と言い終えることはできなかった。今までで最も激しい流れが横合いから襲ってきたからだ。
 大きな波の圧力とともに、頭の中に記憶の奔流が押し寄せる。
 麻枝准なら「耳の中に無理やり鉄棒を押し込まれるようなもの」と書くのだろうか。理解不能の事柄が、そのほとんどは痛みを残すだけですり抜けていく。覚えていられるのは頭の中に引っかかったごく僅かな残滓でしかない。
 それでも、腕の中の人形の名前を思い出すには十分だった。あまりにも繰り返し繰り返し、記憶が絶えてからも反復して思い出していた名前のひとつ。
「──『水銀燈』」
 なぜ忘れていたのだろう。人形師ローゼンによって作られた七体の人形。その最初の一体。こんな大切なことを。
「わたしのなまえ……?」
「そうだ。君は誇り高いローゼンメイデンの第一ドール」
 人形は口の中で何度かその言葉を反芻し、かぶりを振った。
「お父さんに会いたいんだろう? だったら思い出さなくちゃいけない。何故会いたいのか、どうやったら会えるのか」
「おとうさま……おとうさま……」
 人形は必死に何かを思い出そうとし……そしていきなり、激流が途絶えた。


 どのくらい歩いたろうか。『水銀燈』のかすかな記憶だけを頼りに、無限とも思える世界を俺たちは彷徨していた。
 どれだけ歩いても飢えもしなければ渇きもしなかった。不思議に思ったが、『水銀燈』が言うにはここは夢の世界らしい。
 その説明だけでなんとなく納得したような気になるのは、まだ俺の方の記憶が整理しきれていないせいだ。もやもやして絡み合った記憶は、奔流が去ってからもほとんど解けていない。
 なぜか、疲労感だけはあった。疲れて座り込めばそこが野宿の場所になり、目覚めれば出発だった。そうしたサイクルをどれだけ繰り返したかも覚えていない。
 ただ、変化は確実に起きていた。『水銀燈』が次第にこちらを見上げることが多くなり、出発を渋るようになってきたのだ。いまや、お父さん探しは俺が『水銀燈』を引きずりまわしているようなものだった。

「ねえ」
 そしてついに、決定的な瞬間が訪れた。
「もう、疲れちゃったわぁ……」
 俺の前を飛翔していた『水銀燈』がいきなり地面に降り、膝を抱えてしまったのだ。
「もう少しだけ探してみないか、折角ここまで頑張ってきたんだから」
 『水銀燈』は首を振った。
「きっとどれだけ探しても、どんなに求めてもお父様には会えないのよ」
 俺は黙ってその隣に座った。なぜか最初から分かっていたような気がした。会えないと認めたくないのは俺のほうだったのかもしれない。それでも、何がしかの可能性があることを信じたくてここまで来たのだ。
「ここから出ようか」
 その言葉を口にするのは勇気が要ったが、言うのは俺でなければならなかった。
「外に出たら、どうなるの」
「わからない」
 俺は正直に答えた。
「でも、どうなったとしても、ここで絶望しているよりはいい」
「外には、なにがあるの」
「……そうだな」
 俺はまだ解ける気配のない記憶の断片をいくつか取り上げ、思いつくままに喋ってみた。
 外には他のドールたちがいる。ここから出て記憶が戻れば、『水銀燈』は彼女達の動力源を巡って他のドールたちと敵対することになるかもしれない。
 相手には神業級の職人もいる。それは何人ものドールのミーディアムになっている少年で、彼らの絆は深い。遣りあうとなれば分は悪い。
「それでも、君は独りじゃない。ミーディアムもいる。それから……」
「あなたは?」
 不安そうな瞳が俺を見上げる。
「あなたはそこにいてくれるの?」
 その肩を抱きかかえると、緊張の糸が切れてしまったように胸の中に倒れこんでくる。俺は大きな息をついて、震えている灰白色の髪を宥めるように撫でた。
「出るときは一緒だ。俺も君も同じ世界に行く」
 突然、目の前に扉が現れた。
 驚きはなかった。夢の世界なのだから当然だろう、と漠然と思った。俺は人形を抱き上げ、扉を開けて世界を越えた。


 扉を抜けて出た先は、最悪といっても最高といっても良かった。
 「向こう」の出口は姿見のような鏡だったが、それを通り抜けるとドールたちがこちらをあっけにとられたような表情で見つめていた。その数三体。
 どういうことだと俺は緊張し、俺の腕の中の人形は記憶が一気に戻ったらしく音を立てるような勢いで俺から離れた。
 その後のてんやわんやの騒ぎはひどいもので、ノリさんが顔を出して(彼女にしては珍しい)雷を落とすまで続いた。
 後から知ったところでは、ドールたちはジュンに裁縫するからと部屋を追い出され、鏡のある部屋で遊んでいたところだったらしい。全く、どんな間の悪さだ。

 既にアリスゲームは終わっていたが、『水銀燈』は他のドールたちとは若干距離を置いていた。これまでの経緯からして止むを得ないのだろう。
 『水銀燈』と『蒼星石』のミーディアムの病状が気懸かりではあるが、その他は平穏な日々が続いている。
 俺はあまり話し相手の居ない『水銀燈』の相談に乗ってやったり、ミーディアムたちと話して他のドールとも遊んだりもした。
 『蒼星石』は、時折双子の姉の手も借りながら、再び老夫婦と静かな時を過ごしている。
 ジュンを巡る『翠星石』と『真紅』の関係は次第に恋の鞘当て状態となり、両者のミーディアムでもあるジュンとしてはストレスの溜まる日々らしい。
 図書館で一緒に課題を片付けているとき、ジュンは二人の見え見えのアタックについてあれこれと零すのだが、全て惚気にしか聞こえないのは何故だろう。
 『雛苺』は再びトモエをミーディアムに選んだものの、少々居づらいのか桜田家に入り浸っている。恋の板ばさみに悩むジュンとしては、ある意味で気兼ねなく話のできる『雛苺』はいいお相手らしく、最近は部屋でわざと遊ばせておくこともあるようだ。
 『金糸雀』とそのミーディアムはいいコンビで、二人して他のドールを撮りまくっている。特に『翠星石』か『真紅』がジュンとツーショットになったところを狙い撃ちするのがいいのだとか。
 お見舞いがてらそんな他愛のない近況話でメグと盛り上がった後、俺は病院の屋上に出た。
 手すりに凭れて見るともなく町並みを眺めていると、『水銀燈』が隣に飛んできて手すりに座った。
「いい風だわぁ」
「そうだな」
 目を閉じてみる。隣に『水銀燈』を感じているせいか、古い記憶が呼び覚まされては消えて行った。
 甘いような、それでいて苦いような不思議な感覚だった。暫く存分にそれを味わってから、俺は自分の手を見つめ、予想していたとおりのモノを見つけた。

「──そろそろ終わりでいいよ」

「……な、何? どうしたのよ」
 唐突な言葉に驚いてこちらを見る『水銀燈』を片手で制し、俺はもう一方の手でそのモノをぐいと引いた。
 若干の痛みと手ごわい感触があったが、力任せに引き絞るとモノは巻きついていた手から離れた。そのまま振り向きざまに両手で引くと、それはずるりと動いてぴんと張りつめる。病的に白い、太陽の光を受けたことのないいばらの蔓だった。
 その先に何が居るかを俺は知っていた。
「いい夢をありがとう、第七ドール」
 その瞬間、世界は池の表面に張った薄い氷の膜を踏み抜くように割れ落ちていった。


「……どういうこと……?」
「全ては偽りだったってやつさ」
 俺は茨を引き千切りながら、素早く周囲を見回した。以前水銀燈と蒼星石に連れて来られた事のある場所だ。死んだときの俺の部屋を模したという世界だった。
 ただ、部屋の中はがらんとしていた。あのときはもっと大量にあったはずの家具や私物はほとんどなくなっており、玄関の戸は開け放たれて闇がぽっかり口を開け、力を失った白い茨がそちらへと伸びている。
 心の木を伐り倒したためなのだろうか、うそ寒い光景だった。
「出て来てくれてもいいんじゃないか? 夢のお礼くらいしたいんだがね」
 玄関に向かって怒鳴ってやると、ゆったりとした足取りで相手が現れる。柔らかな、柔らかすぎる声が場違いすぎる舞台に響いた。
「残念ですわ……もうお気づきになってしまわれたのですね」
 薄暗い部屋の入り口に立っているのは、純白の茨を従えた、純白そのものの小さな姫君だった。
 無垢そのものの顔立ちをした、何色にも染まっていないがゆえに何色にも染まろうとする貪欲さを持つ夢喰鬼とでも言うのだろうか。瞳に狂気を宿しているわけでも、所作に異常な点があるわけでもないのに、一目見ただけで悪寒が背筋を這い上がるのが分かる。
「夢を操ったというの、このドールが」
「そういうことになるかな」
 なんでもいいから武器になるものが欲しかったが、がらんどうに近い部屋の中には得物になりそうなものは見当たらない。いや、あるにはある。だが遠い。むしろ相手のほうがそれに近い位置に居る。
「第七ドールって言ったわね。名前は?」
「さて、名前か。何だったかな」
 俺は肩を竦めて一歩下がった。白い少女は満足そうな表情で優雅に会釈した。
「申し遅れました……初めまして。私は薔薇乙女の末の妹、雪華綺晶」
「手の込んだ夢をありがとうよ、雪華綺晶。こっちの自己紹介は必要なさそうだな」
 背中が壁際の本棚に行き当たった。埃っぽいその上を後ろ手でなぞると、なにか四角い小さなものがあった。それを急いで握りこむ。藁にも縋るとはこのことだ。
「ええ……存じていますもの、黒薔薇のお姉さまのマスター」
 雪華綺晶は微笑み、右手をこちらに向かって伸ばした。それとともに白茨がぞろりと動き出す。
「さ、参りましょう? 黒薔薇のお姉さまもお待ちです」

「!?」

 俺の脇で灰白色の髪のドールが驚愕に目を見開く。俺は心にずきりと痛みを感じながら、純白の妖怪を睨みつけた。
「……水銀燈を確保してるとはね」
 苦い思いが広がる。この夢の世界に残っているのは自分だけだと思っていたのだが。
 蒼星石に叫んだつもりだったが、やはり間に合わなかったのか。勢いで心の木を伐採する前にこうなる可能性について考えておくべきだった。
 俺か蒼星石が心の木を伐り、俺たち二人がダメージを受けて無防備になる。この夢喰鬼には俺を捕食し、水銀燈を葬り去る絶好の機会だったというわけだ。
 それにしても。
「タイミング良過ぎるじゃないか、大したもんだよ」
「お褒め戴き恐縮ですわ」
 雪華綺晶は言い終わらないうちに手を一振りした。ザッと床と擦れ合う音が立つほどの勢いで、一群の茨が俺に殺到し……
「させないわよ!」
 『水銀燈』の召喚した両手剣がそれを両断した。
「まあ……」
 雪華綺晶は隻眼を丸く見開き、片手を口に当てて無邪気な驚きの表情を作った。
「まだこんな力が残っているなんて……貴女は──」
「言うなッ」
 両手剣が唸りを上げ、力任せに振り払われた一撃は雪華綺晶の寸前まで迫り、彼女の纏う茨と服の端を切り裂いた。
 雪華綺晶の表情はしかし、驚きから含み笑いに変わっていた。軽く体を開いて次の一撃をやり過ごすと、『水銀燈』の後ろに回りこんで耳元で言い放った。

「──ただの、舞台装置の消え損ないですのに」

 その言葉に鋭く胸を抉られたのは、『水銀燈』ではなく俺のほうだったかもしれない。
 だが、躊躇する暇はなかった。俺は転がりこむような勢いで部屋の隅に打ち捨てられた物を拾い上げた。
「あら、そこではお逃げになった意味がありませんわ」
 囁くような声は、もう間近に迫っていた。
 振り向くと、純白の隻眼鬼は俺に手を伸ばすところだった。茨の間から、倒れている『水銀燈』の姿がちらりと見えた。音も無く倒したのか、活動限界だったのか。
「おいたをしないで、参りましょう? お姉さまのところに」
 満面の笑みで、雪華綺晶は俺の顔を両手で挟んだ。
「ああ……そうするしかないみたいだな」
 俺は拾ったものを持った両手を体の前でちぢこめた。茨とドールの体がのしかかり、殴りつけることすらできなくしようとしている。
「うふ……聞き分けの良い方は、大好き──」
「──だけどな、行くのは俺だけだ」
 左手でジッポーのフタを開けて点火し、同時に右手で殺虫スプレーのスイッチを押す。
 何かを感じたらしい雪華綺晶は反射的にとびすさったが、彼女の茨に簡易火炎放射器の炎が浴びせ掛けられるのを防ぐことはできなかった。
 火力は大したことはないはずだ。だが、茨は生木が燃えるときの独特の匂いを放ちながら呆気なく燃え始め、あっという間に俺と雪華綺晶の間には灰の緩衝地帯ができてしまった。
「ここは俺の夢の世界だ。あんたとしてはその方が手の込んだ罠を構築しやすかったんだろうが、ここでは俺の精神もアストラル体であるあんたも同時にダメージを受ける可能性がある。裏目に出たな」
 雪華綺晶は呆然と茨を見つめていたが、やがて無言でそれを引っ込めた。
「悪いが、俺のご都合主義がある程度通るこの世界じゃ、こんなチンケな火炎放射器でもあんたを焼き殺すことができるかもしれん。ここは痛み分けってことで、大人しく引いてくれないか。あんたを傷つけるのは本意じゃない」
 ハッタリもいいところだった。ご都合主義云々は今この場ででっち上げた嘘だ。だが、軽く恐慌状態に陥っている雪華綺晶には効果があったらしい。
「……はい……」
 呆然とした顔色のまま、彼女は空間に穴を開けて出て行った。

 がらんとした部屋の中には、俺とアニメ版ローゼンメイデンの水銀燈の形をしたドールだけが残された。
 俺は屈んでドールを抱き上げた。かくん、と手足が重力に逆らわずに折れ曲がる。夢の世界で重力もくそもないものだが、俺がそういうイメージで捉えているからなのだろう。
 どうして未だにこのドールが形を留めているのかはわからない。本来はこの世界の上に構築された幻影が割れてなくなったときに消えていてしかるべきだった。

──まあ、そんなことはどうでもいい。

 実時間ではほんの短い時間だったのかもしれないが、俺は伐り倒したときに心の木から湧き出た記憶の奔流の中でこのドールと出会い、旅をし、暮らした。
 その中で、本来雪華綺晶が配置しただけのドールの中に自我に近いものが芽生え、この夢の世界とはいえ、実際に動き回るまでに急激に成長した。そう思いたいような気がした。
「君は」
 物がなくなってしまった机の上にドールを横たえながら、そっと囁いてみる。
「幸せだったかい?」
 偽りの幻影とはいえ、ほんのいっときだが、まるでアニメ版ローゼンの終了後のような世界に生きて、楽しかっただろうか。苦しかったのだろうか。

 人間が使うなら片手で振り回せるような小さな両手剣を拾い上げたとき、部屋の窓が波立ち、銀色の使者が飛び出してきた。
「メイメイ」
 水銀燈の相棒は嬉しそうに俺の周りをくるりと回った。
「連れて行ってくれるんだろ、水銀燈のところに」
 もちろんだとばかりに、メイメイは窓に飛び込んだ。
 窓をくぐる前に、俺は机を振り向いた。
 蒼星石や翠星石に連れられてこの世界にまた来ることはあるかもしれない。だが、次に来たときはもう、机の上は空っぽになっているような気がした。
「さようなら、『水銀燈』」
 懐かしいその名前を呼んで、俺は窓に体を沈めた。


 メイメイに連れられてやってきた先に広がっていたのは、湿気と温度を無くした濃霧の中のような光景だった。
 数メートル先、というのも視覚的なイメージに過ぎないわけだが、とにかく何も見えない。それでいて暗いという印象はなかった。
 ためしに、何故か手にしたまま消えていない剣を前に突き出してみたが、剣の先端は霧に巻かれるようなこともなくクリアに見える。物が何もないから霧が濃く見えるだけなのか。
「なんていう世界なんだ、ここは」
 メイメイに尋ねてみるが、人工精霊は困惑したようにジグザグに飛んでみせるだけだった。こちらの言うことは通じるようだが人工精霊のほうでは俺に伝えようが無いのだ。
 いやまて、この濃霧には覚えがあるはずだ。
 嫌な予感を抱きながらおぼろげになってしまった記憶を必死で探る。ほどなくして、それは記憶の闇の中から見つかった。
 原作の連載中断前くらいに何度も出てきた場所。金糸雀以外の五姉妹がみんな捕まったり、あるいはそれぞれの想い人を追いかけて行き着いたところ。
「例の雪華綺晶が罠を張ってたエリアか」
 頷くように二度ほど跳ねてから、ついてこいと言うようにメイメイは先に立って飛んでいく。
 舌打ちしながらその後を泳ぐように漂っていくと、ほどなくそれは現れた。

──繭か?

 紡錘形の真っ白なものが、蜘蛛の巣のような網の真ん中に鎮座している。更に近づくと、網も繭も同じものでできているのが分かった。白茨の蔓だ。
 これがそうだと言うように、メイメイは繭の周りを回ってみせた。
「入念に巻いてくれたもんだな」
 予想はしていたが、中身がまるで見えないようになるまで巻きつけてあるとは思わなかった。体を拘束するにしては物々しすぎるんじゃないのか。
 なんにしても、雪華綺晶が現れないうちにこれを切り開かなければならない。先ほどの火炎放射に対するショックのせいで自分の世界かどこかに戻っているのだろうが、気を取り直して出てこられたら今度は手の打ちようがない。
 どれだけ使えるか分からなかったが、俺は剣を振るって蜘蛛の巣状の白茨を切り始めた。最悪の場合繭のままでも、蜘蛛の巣からは切り離そう。無様なだけかもしれないが、切り離せれば抱いて逃げ回ることもできる。
 白茨は意外に脆かった。原作でも茨の刺自体で誰かを傷つける描写は確かほとんどなかったが、これも同じだった。思い切り握って引っ張り、テンションを掛けて一本一本斬っても、茨を持った手は痛い程度で済んでいる。
 だが、斬り落とすたびに他の痛みが走り抜けていった。

 ──586920時間38分ぶりね、真紅。
 ──なぁにそれ。意味あるのぉ?
 ──そういうおままごとにはつきあってられなぁい……

 俺が直接知らない水銀燈の記憶の断片が、茨を一本断ち切るたびに浮かび上がるのだ。それ自体が痛々しいわけではない。痛むのは俺の内心の何処かだった。
 俺と契約してから今日までの水銀燈の闘いを、俺は原作でしか知らない。
 大筋は同じなのだろう。だが、概略を知っていればそれで良かったのか? 良いはずがない。
 水銀燈が笑い、怒り、驚き、虚勢を張り、内心悔しい思いをしていたとき、契約者の俺はほぼ知らぬぞんぜぬを通していた。
 彼女は何も言わなかった。聞かれて答えたのは雛苺が真紅に敗北したこと、それなのに真紅がローザミスティカを取り上げなかったこと程度だ。
 それは俺を必要以上に巻き込むのを嫌っていたせいだ。契約のときは大仰な言い方をしていたが、要は、媒介は必要なときに力を貸してくれればいい、それ以上のことは求めないのが彼女なのだ。
 ローザミスティカに関しては容赦も仮借もないが、自分の媒介には必要以上の関与をさせない。
 本人が意識しているかどうかは分からないが、それが水銀燈の戦い方だった。

「くそったれっ」
 普通の媒介に対してならそれでいい。しかし、俺は水銀燈の行動はおろか、その後何が起きるかまでも知っていた。その気になれば安全に、かついくらでも力になってやれたのだ。
「くそっ、このっ」
 俺は半ば自分への罵りを口に出しながら、柄が細すぎて握りにくい剣を不器用に振るった。

 ほどなくして、繭は蜘蛛の巣から離れた。
 雪華綺晶はまだ現れない。
 メイメイに安全な場所まで案内してもらうことも考えたが、繭が世界を飛び越えるときにどうなるか、自信が持てなかった。中にいる水銀燈もどうなるか分からない。できればここで開けて連れ帰りたい。
 剣を茨の間に強引に滑り込ませ、削ぐようにして断ち切る。いかにも分厚そうな繭を相手にするのには心許ないやり方だが、中にいる水銀燈を傷つけたくなかった。
 不思議なことに記憶の断片は現れなかった。いや、不思議ではないのかもしれない。茨が何らかの方法で雪華綺晶に接続されているのだとすれば、雪華綺晶が俺にわざと水銀燈の記憶を見せていた可能性はある。
 俺は独り言も漏らさず、機械的に白茨を切りつづけた。手にマメができて潰れ、皮が剥けて握ったところの茨にリンパ液と血が滲む。純白だった繭は切り口のあたりが薄汚く汚れていった。

 やがて茨の中に銀色の髪と黒い翼が見えてきた。
「はは、メイメイ。ご主人様だぜ」
 俺は思わず安堵の息をつき、人工精霊を振り仰いだ。メイメイはチカチカと光って返事をした。
 俺は暫く雪華綺晶のことも忘れ、ひたすら丁寧に剣を動かした。だが、剣を動かして更に白茨を切り続けていくと、突然妙な違和感を覚えた。
 その原因は考えるよりも早く自分の目に飛び込んできた。

──ドレスもなにも着てない?

 水銀燈は胎児のような姿勢で、こちらに背を向けて繭の中に横になっている。手足の球体関節は丸出しで、衣装は何も着ていなかった。
 裸を見た、というような興奮はない。むしろ、別のことが頭に浮かんでしまった。

──雪華綺晶にボディを奪われたドールは、素体になっていた。蒼星石も雛苺も。

 まさか、という焦りの思いが、鈍っていた作業のペースを早くした。どうにか体を持ち上げられそうな状態まで繭を切り開いたところで、俺は待ちきれずに水銀燈を繭から抱き上げた。
「水銀燈っ」
「……う……あ」
 背中から漆黒の翼を生やした少女は、のろのろと苦しそうに動き始めた。
「わかるか? 水銀燈──」
 俺が安堵を噛み締める前に、水銀燈は俺の胸にくずおれる。
 その瞬間、今までにない鮮明で連続的な記憶が、洪水のように頭に流れ込んできた。


 俺が水銀燈と距離を置いている間に、事態は原作の筋どおりに、しかもかなりの部分まで進んでしまっていた。

 水銀燈は蒼星石に探し物を教えることとバーターで、俺を夢の世界に連れて行くこと、そして危険だと思ったら俺の心の木をズタズタにしてしまうことを要求した。
 そしてあの日、俺の夢の世界を見た水銀燈は、俺があまりにも予想の斜め上を行く存在だと知って判断を保留した。
 原作では後から乱入してきた桜田と三人のドール達は、水銀燈が俺を即座に夢の世界に引きずり込んだことで間に合わずにニアミスで終わってしまったらしい。
 だが、今度は蒼星石に水銀燈が探し物の在り処を教える段になって、再び夢の世界で会同した二人を桜田たちが追いかけてきた。
 激しい戦いの末、水銀燈は真紅の右腕を引っこ抜き、勢いに乗って全員を倒しにかかったが、これは裏目に出た。
 結局その場では蒼星石とは敵対したが、水銀燈も約束は違えなかった。
 今日、彼女は蒼星石に探し物の在り処を教えた。いつものようにあてどない探索に出ようとしていた蒼星石は、水銀燈と同道して心の木の位置を確かめ、探し物が見つかったと契約者に告げ、彼から翠星石を説得するよう求められると桜田家に赴いた。
 そこからあとは、俺の見てきたとおりだった。

 声が聞こえる。
「真紅の言うとおり……ジャンクなのは私」
 それが水銀燈が呟いている声なのか、頭の中に響いてくるメッセージなのかは分からない。
「ローザミスティカを集めてお父様に会う、そのためだけに動いてる機械みたいなもの」
 なにか言ってやろうとした瞬間、頭の中を今度は整理されていない映像が駆け抜ける。戦っているときの情景ばかりが順番もごちゃごちゃに圧縮されていた。
 最後に、赤い腕を根元から引き千切るさまが浮かぶ。
「姉妹を壊して、六つのジャンクに変えて、それでどうなるの。たった一つの願いがかなうだけ」
 大きな手のようなイメージが浮かんで消える。その後に、桜田を守るように前に立つ真紅と雛苺の姿が浮かび上がる。
「アリスゲームがあるかぎり、姉妹の絆も、マスターとの絆も引き千切られて消えていく。
 だったら、最初からなくていい。千切られてから絶望するくらいなら、最初から絶望していればいい。
 世界には私と、お父様だけいればいい……」
 すべての映像は消え去った。

「……真面目過ぎるよ、君は」
 俺は息をついて、小さな背中を抱き締めた。
 多分、これは体と離れた水銀燈の意識下の心なのだろう、とやっと見当を付ける。原作で桜田が出会った水銀燈も、夢の中で膝を抱えていた。物理的な体の方は蒼星石が連れ出してくれたのだろうか。
「あまり生真面目だから、長い間にそんな風に固まってしまったんだな」
 この声が届くかどうかはわからない。だが、届かなくても構うものか。
「俺がそれを解いてやれるかどうかはわからないけど、死人にどこまでできるか、挑戦してやるよ」
 そろりと立ち上がり、彼女の体に引っかかっていた茨を取り去ってやる。
 メイメイがくるりと回り、彼方を指し示すように飛んでみせた。お帰りはあちらというわけだ。
 俺は頷き、人工精霊の後に続いた。
「逃げ回ってばかりの死人の俺と、馬車馬みたいに真っ直ぐ生き急いでる君。お互いぶっ壊れでいいコンビかもしれないな」
 腕の中から、お馬鹿さぁん、という声が聞こえたような気がした。


 くたびれた古いブラウン管テレビを点けたことがあるだろうか。
 リモコンも前面ボタンもないそれは、選局か音量のツマミを引くとトゥン、と独特の通電音がして、音だけが聞こえ始める。
 最初は画像は映らない。画面の真ん中だけがなにやら光っている。
 半秒くらいの間を置いて、光っている部分が全体に広がり、やがてぼんやりと薄暗い画像が映りだす。

 まさにそんな風にして、俺の意識はゆっくりと戻ってきた。
 目を開くと、そこが以前見たことのある場所だとわかる。薄暗い解体寸前の礼拝堂の、撤去され損ねた鏡の前だった。蒼星石が俺を眠らせ、三人で夢の扉をくぐった場所に戻ってきたわけだ。
「お目覚めだね」
 小さな声がする方を見る。蒼星石が手近な瓦礫に座ってこちらを見ていた。傍らに黒い羽毛と銀色の髪が広がっている。水銀燈だった。鞄の中にいるときのように、胎児のような姿勢で横になっている。
 俺はがばっと跳ね起き、そのままの勢いで思わず乱暴に抱き上げた。

──軽い。

 ぞくりとする。こんなに軽いとは思っていなかった。なんとなく、同じ背丈の人間の子供と同じような重さを想像していたのかもしれない。
 黒衣の天使は力なく俺の胸に頭を凭せ掛けた。黒い羽が何枚かふわふわと目の前に舞う。
 背中を冷たいものが伝い落ちる気がした。細い顎の下に手を遣って上向かせる。端正な顔にはまったく表情がなかった。

「意識はないけど、迷子にはなっていない」
 蒼星石の声に俺は安堵の息をつき、水銀燈を助け出してくれた礼を言うのを忘れていたことに気づいた。
 振り向いてありがとうと頭を下げると、蒼星石は微笑んで首を振った。
 この少女はこんなに柔和な顔もできるのか。初めて見る彼女の表情に、今まで見せていたのとは違う一面を垣間見たような気がした。
「貴方は心の木を一気に伐り倒した。そこから記憶が噴出したのが原因なのだろうね」
 蒼星石は手を伸ばし、目の前に浮かんでいる黒い羽をつまんだ。微笑は翳り、また硬質な表情に戻っている。
「僕らにも心の整理をする時間は必要なんだ。いちどきに多すぎる情報をぶつけられたときにはね」
 そう言う彼女は、自分の心の整理はついているのだろうか。いやに多弁な気がする。まるで、言葉を発することで自分自身を落ち着かせようとしているように。
 しかし、それは無理もないことかもしれない。
「……怖いものだね、いざとなると」
 寂しそうな、それでいてニヒルな笑いが、かすかに浮かぶ。
「水銀燈をここに運んできたとき、見えてしまった。彼女の近くにいたせいかもしれないね」
 何を見たかは言われなくても分かった。
 たぶん遅くとも数日のうちに、薔薇屋敷と呼ばれている結菱家で、蒼星石は桜田とドール三体を迎え撃つことになる。
 物事が原作どおりに進んでしまっていることを疑う要素はもうない。水銀燈が真紅の腕をもぎ取り、その呵責に耐えていたのだから。
 そして、予定外のことが何も起きなければ多分全ては蒼星石の見てしまったとおりに進む。何も起きなければ、だが。
「それでも、やるのかい」
 色の違う瞳がこちらを見た。
「やるよ」
「望まない結末が見えているのに?」
 蒼星石はもてあそんでいた羽を指で弾き飛ばした。色の違う瞳は決意の色を湛えていた。

「それが、『僕』だから」

 月が翳りかけていた。暗がりに慣れた目でも色が分からなくなりかけている中で、彼女は背を向けて立ち上がった。
「だいぶ夜更かしをしてしまった。僕はもう行くよ。明日は万全の状態で臨みたいからね」
 何気ない一言だったが、蒼星石がもう戻れないところまで来ていることを俺は確信した。
 蒼星石が翠星石を連れ帰るのを諦めた翌日、桜田と三人のドールは薔薇屋敷に乗り込むのだから、もう彼等への宣戦布告は済んでしまっているはずだ。恐らくここにくる直前に桜田の家に赴いたのだろう。
「俺は暫く様子を見て、ぼちぼち帰るとするよ」
「それがいいだろうね。水銀燈も貴方の近くに居た方が目覚めが早いだろう」
 何事もないような言葉を俺たちは交わした。
 蒼星石は迷いの一切ない足取りで鏡に向かい、人工精霊を呼んだ。彼女の忠実な相方は無駄のない動きで鏡に近づき、表面を波立たせた。
「明日は敵対するかもしれない。もしそうなったときは全力でお相手するよ、水銀燈のマスター」
「望むところだ」
 俺は腕の中の小さな少女を見つめた。
 水銀燈に、考え方やらやり方について言ってやりたいことはある。
 だが、彼女が望むなら望むだけ、俺は力を与えるだろう。媒介だから、契約者だからというのはさして重要じゃない。いずれ強制的に力を奪われるからでもない。
 顔を上げると、蒼星石は鏡に腕を突きたてていた。波紋が広がり、腕は異空間に入り込んでいく。
「それじゃ……」
「蒼星石」
 振り向いた彼女に、水銀燈を抱いた窮屈な姿勢のまま俺はもう一度頭を下げた。
「ありがとう。君のお陰で俺たちは助かった、二人とも」

 蒼星石がここに連れてきてくれなければ、水銀燈の体は心と離れ、ずっとnのフィールドを漂うことになったはずだ。そして、そうなってしまえばいずれ俺もあの白い夢喰鬼に捕食されてしまっていたに違いない。
 俺が心の木を伐り倒した瞬間に記憶が噴出し、その一部を「見てしまった」だとすれば、水銀燈の体を抱えてこちらの世界に戻ってくる時点で蒼星石は既に知っていたはずだ。
 自分が明日自刃に近い形で契約者の望みに決着を着けることも、そのとき自分が翠星石に託そうとしたローザミスティカを、水銀燈が横合いから奪うかもしれないことも。
 それでも蒼星石は水銀燈の体を夢の世界から連れ出し、無防備な状態の彼女を置いてひとり姿を消すこともなかった。
 そんな蒼星石の姿勢は甘いといえば甘いのかもしれない。しかし、今は素直に感謝したかった。

「僕は特別なことは何もしていない」
 蒼星石は照れたようにかすかに微笑み、静かに首を振った。
「水銀燈との約束を果たしただけさ」


 水銀燈は家に帰り着いてからすぐに意識を取り戻した。
 運んでいる間でなくて良かった。自転車の前籠に入れられて運ばれるというのは彼女にとって愉快な体験ではなかったろうから。
 もっとも、そのことを知らなくても水銀燈の機嫌が良くないのは同じだった。
「人間に抱きかかえられていたなんて……おぞましいったら」
「じゃあどうすれば良かったんだ、あのまま目を覚ますのを廃屋で待ってろとか?」
「その方がまだマシだったわ」
 水銀燈は窓枠に横向きに座った。怒気のせいか顔が紅潮しているのが、薄暗い照明の下でも分かる。
「それで、用向きはなぁに? 聞くだけは聞いてあげる」
 俺は細めのショットグラスにライム汁と氷を入れ、アルコールの代わりに水で割った。レモンを添えてストローを挿して手渡しながら、明日のことはどうするつもりなのかと尋ねた。
 水銀燈は緑色の液体を飲みにくそうに口に含み、酸っぱさをまともに食らってなんとも言えない顔つきになったが、それについてはコメントせずに答えた。
「貴方から力を吸い上げることになるかもね」
「横取り決行か」
「そうよ。好機は好機。見逃すわけにはいかないもの」
 赤い瞳がこちらを見る。
「ただし、蒼星石があのとおり動くかは分からない。そこは五分五分」
 片膝を立てて窓枠に背をもたせ、月を見上げながら片手でグラスを揺らす。もう少し細いグラスならさぞかし絵になるだろう。
「かなり苦しむことになるんじゃないのか、取り込んだら」
「大したことはないわ、そんなこと」
 言い切って、またストローを咥える。勢い良く吸い上げて、また眉を顰めた。
「翠星石に揃えさせる訳にはいかないのよ」
 空になったグラスをこちらに差し出す。お代わりかと尋ねてみると、別のものにしなさいと少し強い口調になった。

 チョコレートと冷たい紅茶で口直しをしてから、水銀燈はやや機嫌を直したようにテーブルの向こう側に座った。
「如雨露と鋏が揃ったら、さっきの貴方と同じことがいつでもできるのよ。他人の生きた樹相手にね」
 チェーンソーのようには行かないが、時間を掛ければ人間の心を確実に殺してしまえる。
 それで他のドールの媒介を端から潰していけば、アリスゲームは翠星石の思いのままというわけだ。
「性格的に無理なんじゃないか、そういうことは」
 桜田の許にいる姉妹は、真紅を除けばある意味ゲームを半ば投げていると言っていい。翠星石は特に、桜田と蒼星石がいればゲームなどどうでもいいと考えて……いたと思う。
「今みたいに他のドールがそれぞれ孤立している状態で──お馬鹿さんの真紅は雛苺を半端な形で従わせているけど──独りで倍の力を持っていたら、どう考えを変えるか分かったものじゃないわ」
「疑い深いなぁ」
「──今ここで力を全部吸い上げてあげましょうか?」
 俺は少し考えてから肩を竦めてみせた。
「それはあまりいい方法じゃないように思えるな。まあ、取り敢えず今は勘弁」
「いつまで他人事みたいに言えるかしらね」
 水銀燈はふんと鼻で笑ってまた窓の外に視線を転じた。
「とにかく、他の姉妹に渡してしまうくらいなら私が持っている方が安全というものよ。真紅が2つめを持つことがあり得るのだから、特にね」
「……雛苺の分、か」
 しかしそれは同時に、あの雪華綺晶に雛苺のボディが奪われることを前提にした話でもある。

──あれだけは駄目だな。

 先ほど夢の中で会った白いドールを思い出すだけで、耳の後ろが粟立つような気分がする。
 他愛ないハッタリであっさり引いてくれるあたり、案外目の前の黒衣の少女などより余程与し易い相手かもしれない。チャンスを掴むのは上手いが、手が込みすぎていて墓穴を掘ったようなところもある。稚拙と言ってもいいだろう。
 蜘蛛のような捕食方法にしても、単独になったところを狙って行くやり口も、独りローザミスティカの争奪を放棄して姉妹の体を欲しがることも、存在の特異性とこれまでの経緯を考えればいっそ哀しく致し方ないことなのかもしれない。
 だが、なんというか、駄目なのだ。頭では分かってもいざ対面して相対してみると生理的に受け付けない。
「七番目は誘き出して叩くしかないわ。今のところね」
 水銀燈はどこか作文を読むような調子で言った。
「そのためには雛苺と蒼星石のボディは餌として必要ってことか」
「そう。物質化しているところを潰すほかに七番目を倒す方法はないのよ」
「いや、もう一つある」
 水銀燈は訝しげにこちらを見る。俺はその前に菓子を並べた。
「相手が例の取引を持ちかけてきたらそれを呑む。君はゲームに勝利し、相手は君以外の全姉妹の体を手に入れる。履行されればどちらにもハッピーエンドだし、場合によれば隙を突いて倒すことだってできるだろ」
 水銀燈は菓子に伸ばしかけていた手を中途で止め、何か言いかけてやめた。
 ふっと息をついて彼女が口にしたのは、恐らく最初に言おうとしたこととは別の言葉だった。
「自分を買い被るのもいい加減になさい、お馬鹿さぁん」
 どこかわざとらしいゆっくりした手つきで菓子を手に取り、包み紙を綺麗に剥いて中身を口に入れる。
「あれは漫画のジャンクな媒介と私が特別親密な関係にあったから持ち掛けられた話でしょう。媒介が貴方じゃ有り得ないわぁ」
「それもそうか」
 口ではそういいながら、俺は眉間に縦皺を寄せるような勢いで眉を顰めた。……そうだったのか?
「ええ。間違いないわ」
 彼女もなぜか少し早口に言い、ティーカップに口をつける。
「で? それだけなのかしら、用件は」
 明日のために少し寝ておきたいんだけど、と彼女は時計を見上げた。俺も釣られるように壁の時計を振り返る。
 あの世界の中での体感時間は莫大な長さだったが、実際の時間ではまだ日付が変わったところだった。まさに夢の中ということなのか。
「もう一つあるんだ」
 正面を見ると、彼女もこちらを見ていた。目が合って、自然に俺は居ずまいを正した。
「俺の前世の記憶は多分、次に目覚めたときには消えてる」
 水銀燈は固まったような、口の端を吊り上げるような表情になった。

 短期記憶は睡眠時に整理されるという話だ。おそらくその時に、前世の記憶は抜け落ちていく。根拠はないが確実な予感がある。
 今も次第に昔の記憶の鮮明さが失われていくのが分かるのだ。
 さっきの取引うんぬんの話も、水銀燈に指摘されても、漫画の中で柿崎めぐのことを絡めていたかどうかあやふやのままだ。PCの中のカンペを見れば分かるかもしれないが、それは読んで思い出すというよりは読んで知るということに近い作業になるだろう。
 案外今の今まで前世の記憶を引っ張っていられたのは、さっき噴き出した記憶にあてられているからで、本来の古い記憶は既に消えているのかもしれない。どちらにしても長いことは保たないだろう。
 前世の記憶が消えたときの俺は、果たしてどんな木偶の坊になるのか。
 幸か不幸か元々頭のいいほうではないから、傍目から見れば何の変化もないように見えるかもしれない。

「当然の報いね。自分で自分の心を刈り取ったんだもの」
 水銀燈は冷ややかに言い放ったが、表情は少しずつ歪んで行き、すぐに嘲笑に変わった。
「あは、あっはははは! そう! 今まで散々何でも知ってるって顔で余裕ぶってたくせに! あはははは」
「余裕ぶってた訳じゃないさ」
 俺はぶつぶつと応えた。実際のところ、特に水銀燈の薇を巻いてからは状況を変えたくない心理が先に立って、余裕どころか逆に思い悩むことが多かった気がするが、さっきの謝罪を繰り返すのは気恥ずかしい。
 目の前の黒い翼の少女は、そんなこちらの態度を見てか、まだ笑いつづけている。
「あは、あは、あはは……おっかしー」
 目の端に涙さえ浮かべているのが少々癪だ。
 さすがに笑いすぎだろう、と目の前の菓子と飲み物をさっと片付ける。水銀燈はむっとした顔になって笑いやんだ。
「それで何が言いたいわけ? もう役立たずだから契約を解いて下さい、ってことぉ?」
 人をあしらうときの、少しばかり語尾を伸ばすような言い方になってこちらの様子を眺める。
「そうねえ、媒介としては使うけど、お望みなら契約は解いてあげてもいいわよぉ? どっちにしても──」
「それは好きにしてもらっていい」
 俺は被せるようにして水銀燈の言葉をさえぎった。
「俺の覚えていた限りのことは、さっきの一件でまるまる君に伝わってる。つまりこっちに記憶があってもなくても、情報源としての俺の役目は終わってるってことに変わりはない」
 あとは、純粋に水銀燈の力の媒介としての役目だけだ。それも、別に契約を必要とするわけでもない。彼女がその気になればいつでも誰でもドレインはできるのだから。
「ただ、一つだけ──今の気持ちを整理しておきたいんだ」
 水銀燈はまた口の端を吊り上げるような表情になった。
「遺言のつもり?」
「まあ……そんなとこかな」
「殊勝なこと」
 そう言う顔はまた嘲笑の一歩手前という風情だった。俺は目を閉じてひとつ息を吐き、よしと水銀燈を見据えた。
 水銀燈が笑いを引っ込めてこちらを見直す。目が合ったところで漸く俺は口に出した。
「君が好きなんだ」

 元々、俺は誰かの熱烈なファンというわけではなかったと思う。思う、というのは今もその頃の記憶が次第に抜けていくのが分かるからだ。
 ただ、強いて言えば漫画では水銀燈と雪華綺晶がお気に入りのキャラクターだった。
 メインヒロインの真紅や、そこに親しく出入りしている姉妹には(ヒキコモリだからどうとかいうことは置いておいて)マスターとの楽しい暮らしがある。自然と、かけがえのないみんなの今を守るというような雰囲気になる。特撮ヒーロー物の王道のような話だ。
 だが水銀燈には暮らしはない。たった一人の壊れかけの媒介がいるだけ。
 雪華綺晶に至っては誰もいない。理解者すら与えられず、アリスゲームの盤上に立っていると言いながらも目的はゲームの進行ですらない。
 何故かそういうところが、当時の俺にはツボだったのだろう。

 その前提があって今の気持ちがあるということを、俺はネガティブな意味では捉えていない。昔憧れていた子に似た人を好きになったっていいじゃないか、と思う。
 また逆に、昔の記憶がなくなってしまえば、何かのストッパーが外れて彼女に対して年齢相応の熱烈な恋をするかもしれない。それも否定しない。
 ただ、今の気持ちが、昔の記憶が無くなってからも同じように続くことはないだろう。
 仮に同じところから続くとしても、それは今の俺の預かり知らない新たな始まりなのだ。
 その意味では、これはまさしく遺言のようなものだった。

「人形に恋をするなんて、とんだフェティストね」
 やれやれと水銀燈は大仰に肩を竦め、掌を天井に向けて首を振ってみせた。
「死人は人間を愛することもできないってことかしら?」
「そりゃ斬新な視点だな」
 思わず苦笑すると、水銀燈は楽しそうな笑い声を立てた。
「まあ、それで……君には怒られてばかりだったし、苛々もさせたし、迷惑ばかりかけどおしだったけど」
「そうね。こんなに手のかかる媒介は初めてだったわ。契約がこんなに重荷になるなんてね」
「そこは悪かったと思ってる」
 何度目になるかわからないが、俺は頭を下げた。
「だけど、君に会えて良かった。本当に感謝してる」
「当然ね。どれだけ感謝されても足りないわぁ」
 それ寄越しなさいよ、とさっきこちら側に寄せてしまった菓子を指す。
「手厳しいな」
 目の前に置いてやると、当然でしょ、と水銀燈は菓子の子袋を破った。
「言いたいことはそれで終わり?」
「ああ」
 俺は椅子を引いて立ち上がった。
「御清聴ありがとう。シャワー浴びて寝るよ」
 彼女は菓子をぽりぽりと齧りながら、視線をこちらに向けもせずひらひらと手を振った。
「そうなさぁい。これ食べたら私も鞄に入るわぁ」
「おやすみ、水銀燈。寝坊するなよ」
「失礼ね、貴方じゃないわよ。おやすみ」


 シャワーを浴びて寝間着に着替え、部屋に戻ると、水銀燈の姿はなかった。
 言っていたとおり、明日のために早めに鞄の中に戻ったのだろう。動機は違うが、彼女も蒼星石と同じく、俺の知っていたそのままの行動を取ることになったわけだ。
 布団を敷いて蛍光灯を消し、布団に潜り込む。複雑な気分だった。
 結局俺の存在はなんだったのだろう。俺の記憶を持とうが持つまいが、今後の彼女達は同じ道を行くということなのか。
 妙な話だが、自分が完全に消えてしまうとかいう、ありがちな悲劇的な状況でないのがもどかしいような気もする。現に、こんな状況だというのにもう睡魔がそこまでやってきている。我ながら緊張感のない話だ。
 朝起きたら記憶がだいぶ欠落していて、ひょっとしたら忘れたことさえ分からないかもしれない。まあ、それだけの話だ。どちらかと言えば喜劇的かもしれない。
 うつらうつらとそんなことを考えていると、かすかな風を切る音が聞こえた。
「まだ起きてる?」
 水銀燈は少し離れたところから声を掛けてきた。開け放たれた窓枠に座っているのかもしれない。
「いま布団に入ったところさ」
 なんとなくそちらに寝返りを打とうとすると、いいから寝なさいよ、と水銀燈は言った。
「柿崎めぐって子の病室を覗いて来たのよ」
 意外だが、なんとなく頷けるような気もする。
「少しは元気になったのかい、彼女」
「さあね……」
 そこで暫く声が途絶え、かさりと小さな音がしたかと思うと、今度は背中のあたりで声がした。
「貴方の記憶を見せられて、あの子のことを可哀想だと思ったし、興味も湧いたわ。少しはね」
 でもあの子じゃ駄目ね、とふっと息をつく。
「私は天使じゃないから」
「漆黒の堕天使でいいじゃないか」
 ぼすっ、と腰の辺りに衝撃がくる。蹴ったのか殴ったのか。
「ああもう全く、最後まで口の減らないったら」
 ぼすぼす、と更に何度か、あまり力の乗っていない攻撃を加えたあと、水銀燈は続けた。
「あの子が薇を巻いていれば、今より確実に癒されてたでしょうね。あの子のために自分を犠牲にしても何かしてあげたいと思っていたかもしれない。七番目に捕えられたら何処までも追いかけて探しに行ったかもね」
「間違いなく、そうなってたさ」
 柿崎めぐと水銀燈の境遇はとてもよく似ていた。二人はお似合いのカップルみたいなものだったはずだ。
「でも、メイメイも私も貴方を選んだ。今はそのことを後悔してないわよ」
 どんな返事を口にすればいいか途惑ったが、ありがとうという月並みな言葉しか言えなかった。
 暫く水銀燈は黙っていた。俺の方はさっきの彼女の一言で安心したせいか、現金にも眠気がまた忍び寄ってきていた。
 はっきりしない意識の中、多分こんな言葉を聞いたような気がする。

「今までこんなに世話を焼かせた媒介はいなかったけど……嫌いじゃなかったわよ、貴方のこと。おやすみなさい、良い夢を」



[19752] 始動の章(次実験との間奏的な部分)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/18 23:35
主役・口調・文体を変えたらどう書きにくくなるのか? の実験のため再始動。
貯まって来るまでsage進行でした。

一人称、視点の変更もありません。
纏めると短いですね。2話分です。

纏めるに当たって雪華綺晶の三人称パートの位置を入れ替え、次に回しました。

**************************************

 …
 ……
 ……
 夢。
 夢を見ていた。

 見たことのない、柔らかな表情で赤い眼の女の子に手を引かれて、ひどく懐かしいところに二人で戻ってゆく夢だった。

 その女の子が水銀燈と同じ服装をしていた理由はなんだろう。
 理由はすぐに思い当たった。俺は真っ赤になった。
 布団から顔だけ出して、恐る恐るテーブルの脇の大きな鞄を見てみる。
 幸いというかなんというか、黒いドレスの小さなお姉さんはまだ起きていないみたいだ。

 うはぁぁぁぁぁぁ。恥ずかしすぎる。死にたい。ていうか死ぬ。俺乙。

 俺は布団に包まったままゴロゴロと転げまわった。あれはこの後一生忘れられそうもない。

 俺は、ローゼンメイデンの第一ドール水銀燈の契約者だ。もっとも、水銀燈からはもっと簡単に「媒介」とか「人間」で済まされている。たまにマジになると「貴方」に昇格するからちょっと嬉しい。
 彼女と出会ったのは四月の頭で、それから俺たちは少しずつ愛を育んできた……訳じゃない。
 そもそも媒介とか契約は好き嫌いとあんまし関係ないみたいだし、水銀燈は俺のことを全然そういう目で見てないらしい。
 でも、俺のほうでは水銀燈を好きになってしまった。それについては色々とあるんだけど、あれだ、上手く言語化できないってやつ。別の言い方すると説明が面倒臭い、ってかぶっちゃけ恥ずかしい。

 取り敢えず、俺は水銀燈に昨日の晩、君が好きだと告白してしまったのである。

 彼女の反応は超クールだったけど。
 そりゃそうだよな。水銀燈は人間じゃない。生きてるけど人形だ。レンアイ対象としてどーかとは思う。

「でもしょうがないだろっ、好きになっちゃったんだから」

 う、口に出したらまた恥ずかしくなってきた。もう一度ゴロゴロと転がってから、俺は立ち上がって頭をぼりぼり掻いた。
 取り敢えず、水銀燈が起きてくる前に布団畳んで着替えて朝飯食ってしまおう。うん、それがいい。


 ところで、今日はとても大切な日なのだ。
 あ、俺がじゅうろくさいになったひ、ではない。まだ中学生なんで念のため。
 今日、桜田ジュンとローゼンメイデン三人が、坂の上のでかい屋敷に殴りこみにいく。水銀燈はそれに便乗して、戦闘で弱った奴からローザミスティカを奪おうとしているらしい。

 凄い! なんて頭脳派な行動! さすが冴えてますね姉御!

 ……じゃなくて、それはどうかと思うんだ。
 どういうわけか知らないが、悪いことが起きそうな気がするんだよね。ローザミスティカはローゼンメイデンのエンジンみたいなもんだけど、それ2つ持ってるからってパワーが単純に倍増ってこともないみたいだし。
 なんつってもエンジンの燃料は俺の生命力? らしいから、俺が一緒にいないと何個持ってても大して変わんないだろうし、俺がいるときでも燃料が倍に増えるわけじゃないんだよな。
 で、敵はエンジン3つに燃料タンク1つ、とエンジン1つにタンク1つの組み合わせ。
 水銀燈としては多分エンジン1つの方が弱ったとこで、そいつのミスティカゲットだぜ! なんだろうけど、相手のほうがだいぶ弱っててくれない限り、まともに相手したら逆にやられてしまうんじゃないのか。
 あと、ミスティカを奪ってツインエンジンになってちゃんと動くのか? ってのも気になる。
 なんで気になるのかよくわからんけど、絶対まずいことになりそうな予感がする。
 心臓移植とかでもそのときは大丈夫でも、後から拒否反応とか出て結局上手くいかないことがあるだろ? ミスティカもそんなことになりそうな気がするんだ。
 そんな訳で、俺としては水銀燈を止めたい。彼女を止めるなんて媒介として失格かもしれないけど……それに、そんなことをして嫌われるのも怖いけど、悪い予感がおさまらないんだ。

 問題はその方法だったりする。
 水銀燈に直接言うのは、多分無理。俺の言うことで行動を変えるようなお姉さんじゃありません。
 それに、細かいとこまでは覚えてないんだけど、昨日寝る前に話した時は水銀燈も悪いことが起きるかもしれないって覚悟はしてるみたいだった。覚悟完了した人を説得するのは俺には無理だ。
 次は、水銀燈に頼んで俺も一緒に連れてってもらうこと。んで、羽交い絞めとかで腕力に任せて止める。
 これも×。今まで水銀燈が俺を戦いに連れてったことは一度もないんだ。今度に限ってOKしてくれるなんてことはあり得ない。
 こっそり後をつけていくのもダメ。
 今度の戦いはnのフィールドって亜空間みたいなところが舞台になる。もし自力でそこに入り込めても、多分中で迷子になってしまう。
「やっぱし、あの方法しかないかなぁ」
 歯を磨きながら、もごもご呟いてみる。気乗りしないんだけどしょうがない。
 あ、今度から歯磨き粉は塩の味のしない奴にしよう。なんか気持ちが悪い。


 鞄が開いた気配がないのを確認して、俺はそぉーっと家を出た。コーンフレークと牛乳で朝飯にしたのは初めてだけど、ガス台使ったりして気配で水銀燈を起こしたくなかったんだ。
 まず、手土産が必要だ。何がいいんだろう?
 最初に開店したばかりの本屋に寄ってみる。なんとなく直感が閃いてハヤカワのSFを手に取った。
「三冊で2400円かよ……」
 あうち。いきなり痛い出費になってしまった。
 次になんとなく選んだのは「レンジでできるお料理入門」。こっちは1000円台で済んだ。
 それからおもちゃ屋でちっちゃな人形何体か。店員さんに妹さんに上げるの? と聞かれてしまった。ハイと答えたらにこにこしながら簡単にラッピングしてくれた。何故か胸が痛い。あと財布にも痛かった。
 最後に、不死屋で売れ線の菓子を買い込む。これで準備は完了だ。
 同時に俺の小遣い分もほとんど終了してしまったけど、これも水銀燈のため……。な、泣いてなんかいないもぅん。
 時計を見るともう十一時前だ。やばい。急がないと昼飯の時間になってしまう。


「えーと……こんにちわー……」

 俺が主に眼のあたりから出た汗を拭いながら向かった先は、桜田の家だった。
 桜田は、今は三人のローゼンメイデンの契約者なんだけど……一年のときにちょっとした事情から不登校になってしまった。
 そこから、俺たちは一度も顔を合わせていない。

 文化祭のときに学年対抗で女王を決めるんだけど、そのための衣装のデッサンを桜田が宿題のノートに描いてたのをクラスの奴が見つけて、面白半分に黒板に貼り出した。
 下手ならまだ良かったんだろうけど、桜田の描いた衣装は誰が見てもプロ級だったんだよな。それがエロいとか上手すぎるとか、衣装のモデルの桑田が可哀想だとかで大勢がよってたかって黒板に文句を書き殴ってしまった。
 俺が登校したときはもう、桜田が黒板の絵と落書きを見てゲロ吐いて保健室に連れて行かれるところだった。なんのことかよく分からずに黒板拭いたけど、黒板消しで足りずに雑巾で拭き取ったくらいひどい落書きだった。
 実は、俺は偶然……だったと思うんだけど、その何日か前、桜田が宿題のノートにやばそうな絵を描いていたのを知ってる。でもそのときは、桜田も自分で気がついてデッサンを描いたページを切り取ってカバンに仕舞っていた。
 それをわざわざ見つけ出して、多分放課後か登校時間前に貼り出した奴がいたわけだ。不登校の直接の原因はそいつらってことになるんだろうけど、担任の梅岡先生がそいつらを連れて桜田の家に謝りに行っても桜田は会いもしなかったみたいだ。
 当たり前って言えば当たり前か。クラスみんなにいじめられたようなもんだし。
 学年が変わってクラス替えもあった。一応桜田といじめた連中は別クラスになるように組まれたみたいだけど、桜田はまだ一度も学校に顔を出していない。
 ちなみに俺は相変わらず桜田と同じクラスで、担任も梅岡先生のままだ。
 桜田だって、登校してくればそれなりに楽しいと思うんだけどなあ……。でも、家に三人も可愛い女の子がいれば、そっちのほうが楽しいのかもしれない。

 そんなこんなで、あまりどころかとても気乗りしないけど、俺は桜田家のインターホンを鳴らした。
「はーい、どなたですか?」
 なんか可愛い系の声がインターホンから聞こえる。う、これはまさかドールの誰か? いやいやいや、まさかなー。
 いや、そうじゃなくて。挨拶しないと。
「桜田ジュンくんの同級生です、はじめまして」
 一瞬間が空く。なんか厭な間だな、と思っていたら、半オクターブくらい高くなった声で、まあ、どうぞどうぞって言われて扉が開いた。
 顔を出したのは、ちょっと桜田に似た、ウェーブのかかった髪の女の子だった。桜田のお姉さん……かな?
「こんにちは、ジュンくんのお友達なのぅ? はじめまして」
「はい、桜田くんに会いたいなって……」
「あらぁ、それじゃ上がって待っててもらっていいかしら? いまジュンくんお部屋なの」
 俺を客間っぽいフローリングに通すと、お姉さんはぱたぱたと廊下を走っていった。
 やべえ、むちゃくちゃ可愛いじゃんお姉さん! これは引き篭もりたくなるね! ってか都合四人のハーレムかよ! 普通に学校行く気なくなるんじゃね?
 ってお姉さんは学校行ってるなら関係ないか。
 あーでも畜生、引き篭もりなのに女の子たちとキャッキャウフフのリア充とかどうなってんだよ。世の中不公平すぎるだろ。

 そんなことを考えていると、スリッパの音がぱたぱたと聞こえてきた。
「ごめんなさいね、そのぅ……ジュンくん、今ちょっと具合が良くないみたいなのぅ……」
 お姉さんの顔は困ったような、ちょっと泣きそうな感じだった。うん、明らかに嘘だよねそれ。なによりもその表情が物語ってます。
 この人をもっと困らせるのは心が痛むんだけど……ここは言うしかない。

「大事な話なんです。蒼星石のことで──」

 言いかけた途端、がたん、とドアの外で音がした。反射的にそっちを向くと、ガラス戸にひっついてる髪の長い金目銀目と、金髪縦ロールの小さな姿がある。
 しかしなんだ、盛んに指差してなんか言ってるけど、俺の左手の薬指がそんなに気になるのか?
 左手の甲を見せてコンニチワと手を振ってみると、金目銀目がせいいっぱい手を伸ばしてドアレバーをぐいっと押し下げ、ドドッと走ってきて……お姉さんの足の後ろに隠れた。もう一人も同じように走ってきて、逆側に隠れる。なんだそりゃ。
「あ、あのぅ……二人とも」
「や、やい人間、蒼星石の何を知ってるですか! 洗いざらい全部吐きやがれですコンチクショウ!」
 お姉さんの後ろからべそかきそうな顔で言われても怖くないんですけど。っていうかお姉さん無茶苦茶困ってるじゃん。
「それとその指輪、契約の指輪なのよー。誰のなのー?」
 あんまりびびってない感じの縦ロールの子が、俺の左手を指差して首を傾げる。
「あ、これは──」
「チビ苺は黙って真紅とチビ人間を呼んでくるです! こいつの尋問は翠星石の仕事なのです!」
「うゅ……」
 チビ苺……雛苺って子だよな、確か。しぶしぶという感じでお姉さんの足から手を放して、俺とお姉さんと金目銀目……こっちが翠星石か。その三人を交互に見つめている。
 お姉さんは俺の方を見てごめんなさいと言うように頭を下げた。
「それじゃヒナちゃん、一緒にジュン君たち呼びに行こう?」
「うー、うん」

 お姉さんに手を引かれて、なんか名残惜しそうにこっちを振り返りながら雛苺がドアの向こうに消えると、部屋には俺と翠星石だけになった。
 視線を合わせてみる。びくっとしてソワソワし始める。
「あ、えーとその……」
 ぎくぎくって感じになった後、泣きそうな目でじーっと睨みつけてくる。

──ファンが多かったのも道理だな。この上目遣いは反則だろう。

 ん? 今なんでそんなこと思ったんだ俺。そもそもファンってなんだよ。
 まあいいか。
「薔薇屋敷に行くんだよな?」
「なっ、なんでお前がそれを知ってるですか」
 いちいち反応するのが可愛い。くそう、桜田……この調子であと二人もいるなんてマジでハーレムじゃねーか。
 でも……あれ?
「白ァ切るつもりですかっ、とっとと喋りやがれですこのアホ人間」
「あ、蒼星石から聞いたんだ、昨日の晩」
「え……」
 じりじり接近していた翠星石の勢いが止まった。
 と同時に、俺のほうも思考が止まってしまった。
 蒼星石から聞いたのは間違いないんだけど、おかしい。なんだかその前から知ってたような気がする。蒼星石から聞いたんじゃなくて確認を取っただけみたいな覚えも……
「蒼星石と、会ったですか」
「うん」
 それは確実。夢の中じゃない。っていうか、俺と蒼星石と水銀燈で俺の夢の世界に入ったんだけど、さっきの話を蒼星石から聞いたのは出てきた後だ。……ん? いや合ってるはず。
 あるぇー、確認取ったってのが覚え違いなのかな。どうも昨日の晩のことはよく思い出せない。
 まあ、大事なことに気を取られてて、細かいことは忘れちまったんだろう。忘れるくらいだから大したことはないんだ。うん。
 なんて考えてたら、翠星石が俯いてしまっている。
「やっぱり、戦うって言ってたです……?」
「……うん」
 あ、やばい。泣く。
「う……」
 ぽろぽろと落ちる涙はまるで真珠のようで。じゃなくて。
「泣くなー!」
「な、泣いてないですコンチクショー!」
 顔を真っ赤にしてなんか手当たり次第に投げつけようとしたみたいだけど、生憎とフローリングの床の上には投げるもんがない。
 どうするかと思ったら接近戦に持ち込んできた。フッ、だが貴様は所詮ちびっ子! 立ってしまえば圧倒的な背丈の差が……あれ?
「ちょ、あ、足痺れて立てねえしっ」
「フッ……お前の動きは見切っていたです、くらえっ」
 翠星石は数少ない飛び道具、クッションを投げつけ、俺の視界を奪ってからフライングボディプレスをかましてくる。たまらずひっくり返ったところをそのままマウントポジションに移行しやがった。
 くそぉ、体勢が崩れすぎていなければ……ていうかつい正座してた俺が悪いんだけど。
「うわわ、いて、いててててっ、髪むしるなっ」
「さあさあさあ、観念して全部ゲロするです……って」
 翠星石の動きが止まった。チャンスとばかり相手の両腋の下に手を突っ込みリーチの差を最大限に利用してひきはがし……
「……ん?」
 なんだか翠星石は脇の方に視線を向けている。
 その先を追ってみると。

「会ったばかりだというのに随分仲がいいのだわ」
「ヒナ知ってるの。二人はすでに強敵と書いてトモと読む仲なのよー」

 雛苺とお姉さんに挟まれるようにして、赤いドレスを纏った片腕のドールと、それを抱いている桜田がいた。
 視線を戻す。自分の姿を確認してみる。OK。
 俺は半分膝を立てて仰向けに寝っ転がり、両手を真上に最大限に伸ばして、翠星石さんを精一杯高い高いしています。
 あ、やっと向こうもこっちを見ました。目が合ったでござる。

 眼を反らさず見詰め合う俺たち二人の瞳の間に何か見えない光が交錯してッ……
 漢と漢の友情が今ッ……!!

「……いいかげん下ろしやがれです」
「はい、そうですね」


「えーと、順番ぐちゃぐちゃになっちゃってすいません、これ……」
 幸い潰れもせず原形を留めている菓子箱をテーブルの上に置く。向かいに座っている雛苺の瞳がぱあっと見開かれた。
「うにゅーなのー」
「うにゅう? い、いや苺大福だけど」
「ふふ、ありがとうございます。ヒナちゃんは苺大福のことをうにゅーっていうのよ」
 お姉さんは優しく笑って雛苺に苺大福をあげている。なんか、和むなぁ。姉妹っていうか親子みたいだ。

 そういえばこの子達、似てないけどみんな水銀燈の妹なんだよな。
 正面で左手一本で不器用に紅茶を飲んでる赤いドレスの子……真紅を見て、なんだか複雑な気分になった。
 真紅の右腕は、水銀燈が壊した。事故とかじゃない。最初からやる気で、もぎ取った。俺はその場にいなかったけど知ってる……ん? なんで知ってるんだろう。
 多分本人から聞いたんだと思うけど、いつ聞いたんだか忘れてる。今日はやけに多いな。
 俺の頭がぶっ壊れなのは置いとくとして、やっぱ、姉妹で壊し合いするのって良くないよなぁ。こんな風に楽しくやってるのに、最後はみんな壊れて独りだけになっちゃうなんて切な過ぎる。

 水銀燈は切なくないのかな──

「──で、お前は蒼星石の何を知ってるですか」
 はっとして隣を見ると、翠星石がこっちを見上げている。
 テーブルが小さいんで渋々隣に座ることにしたみたいだけど、こっちとしてはさっきのどたばたのせいか、他の子や桜田に隣に居られるよりは気が楽だ。
 これが拳と拳で語り合った仲というやつなのか? いやいや。
 しかし、何から話していいのか……
 ほんの少しの間微妙な沈黙が流れた。
 一番最初に動いたのは、お姉さんだった。
「……ジュンくん、お姉ちゃんちょっとお台所に行くからよろしくねっ」
 ごゆっくり、と俺に頭を下げてお姉さんは出て行った。明らかに空気読んで席を外したな、お姉さん……。

 なんとなくドアが閉まるまでお姉さんを見送ってから、俺はその場の人をそろりと見回した。
 桜田以外全員こっち見つめてる、というより睨んでる。当たり前か。
「蒼星石が薔薇屋敷で私たちを待っている。それは知っているわ」
 ティーカップを置いた真紅が静かに言った。
「昨日の晩、蒼星石本人が言い残して行ったの。だから、私達は薔薇屋敷に行かなければならない」
「そっか……」
「貴方がそれを告げに来ただけならば、用はもう済んでいるのだわ」
「あ、いや俺はそのことを言いに来たんじゃない」
「そう」
 真紅はちょっと微笑んだ。あ。今の……ひょっとして助け舟なのかな。
 ありがとうと言うのもなんだけど、ちょっとだけ真紅に頭を下げて俺は話し始めた。
「蒼星石は、自分のマスターがほんとは何を望んでるか知ってるんだ。マスター本人は気づいてないみたいなんだけど」
 不思議なほどすらすらと言葉が出てくる。まるで俺じゃない誰かが喋ってるみたいだ。
 ちらっと翠星石のほうを見ると、俯かないでちゃんとこっちを見ていた。
「だけどマスターが気づかなければ、蒼星石は言いつけどおり翠星石と戦う」
 スカートを握っている翠星石の手がぎゅっと握り締められる。
「気づいたら……どうなるです?」
「蒼星石はマスターの心を覆ってる殻を壊す。それがマスターの本当の願いだから」
「それは……ダメです!」
 翠星石はがばっと立ち上がって俺の襟元を掴んだ。
 ぐっ、二度までもインファイトに持ち込むとはッ、このちっこい少女のどこにこんなスピードとパワーがっ……
「や、やめれ」
 なんとか翠星石の両肩を押さえる。取り敢えず止めさせないと俺が死ぬ。ていうかマジやばい、主に絞め落とし的な意味で。
「マスターの心は蒼星石の心なんです。それを無理矢理壊すなんて……そんな無茶したら蒼星石まで……」
 攻撃再開かと思ったら、翠星石はそのまま下を向いてしまった。
 やばい。これは、また泣く。
「冷静におなりなさい、翠星石」
 真紅がぴしゃりと言うと、翠星石ははっと気づいたように俺の襟元から手を放した。
 凄いな真紅。なんかリーダー的存在みたいだぜ。っていうか、俺にお説教するときの水銀燈にちょっと似てる。
「それで、貴方は蒼星石を助けたいのかしら」
「うん」
 くちゃくちゃになってしまった襟を直しながら俺は頷いた。
「俺は心の専門家じゃないけど、蒼星石は少し焦ってる気がする。心の殻って、他人にいきなり破って貰わなくてもいいんじゃないかな。切っ掛けは要るにしても、マスター自身が少しずつ突っついて壊していけばいいと思うんだ。蒼星石と一緒に」
 お、今の言葉ちょっとかっこ良くね? 俺えらい!
 しかし、相変わらず自分の口からでてると思えないほど滑らかに回ってるよな台詞。
「それに、蒼星石がもし大怪我したり……もう会えない、とかになったら、マスターは当然心に別の重荷を背負うだろうし、みんなも悲しいだろ?」
 俺に肩を掴まれたままの翠星石が顔を上げてこくりと頷いた。
「だから、止めさせたいんだ。みんなと蒼星石が戦うことも、蒼星石が無茶をすることも」

「……ねぇー」
 む? 結構いいところだってのになんだ。
 声のほうを振り向くと、雛苺がテーブルのこっちにきて、翠星石の右肩の辺りを指差している。
 そこにあるのは翠星石の肩を掴んだままの俺の左手くらいなもんなんだけど。何が問題なのかな?
「誰の指輪なのか教えてほしいのよ」
 雛苺の人差し指は俺の薬指の付け根の辺りにある指輪を指している。
 俺は翠星石の肩を放して、指輪を見つめた。
「これか」
 今言っちゃっていいのかな、とも思うけど、どうせいつかはばれることなんだよな……。

「……水銀燈の契約の指輪だよ」

 その瞬間、部屋の中の温度が三度ほど下がったような気がした。


 言った途端に、みんな凍りついたような表情になった。
 それだけじゃない。元々熱い視線じゃないのは分かってたけど、この視線の冷たさは何よ。北海道から一気に南極って感じだ。
 やっぱまずかったかなぁ……。

「……尋ねてもいいかしら」

 固まった中で一番先に動いたのは真紅だった。
「貴方の今までの話、水銀燈も同じことを知っているのでしょう」
 俺は頷いた。水銀燈は全部知っている。蒼星石が翠星石と戦うことになっても自分から心の壁を壊すことになっても、隙を見て一番弱っている誰かを倒してローザミスティカを奪うつもりなんだ。
 真紅は、そう、と頷いて俺を真っ直ぐ見詰めてきた。
「それでは、貴方が此処に居て私達に話をしていることはどうなのかしら」
「水銀燈には言ってないよ」
 案外、こっそり起き出して来たからまだ寝てるかも……
「でも、遅かれ早かれ気付くことになるでしょうね」
 う、確かに……。起きてたらとっくにばれてるかもしれない。水銀燈は俺の考えそうなことなんて全部読んでしまいそうな気がする。
「それは仕方のないことだけれど、貴方はそれでいいの?」
 ちょっと意外な一言だった。俺はまじまじと、片腕の無い金髪の女の子を見つめた。

「蒼星石の戦いを止めれば、水銀燈の目論見は実現しないのではなくて?」

「え……それは……」
 背筋を冷たい汗が流れるってこということを言うんだなきっと。
 なんでこんなに眼光鋭いんだこの子。眼の色や物の言い方は違うけど、ほんと水銀燈に良く似てる。
「どういうことですか真紅」
「少しは察しろよ」
 あ、今桜田に言われてむくれた翠星石に凄く親近感が湧いたような気がする。
 でもあれか。翠星石が気付かなかったのは蒼星石のことで頭がいっぱいだからかも。ちぇっ。
「水銀燈はお前たちの誰かが負けたら、ローザミスティカだっけ? ……それを奪うつもりだってこと」
 桜田もすごいなぁ。偏差値高いだけはある。でも、それをそっぽ向いてぶっきらぼーに言う辺りは……やっぱり桜田だな。
「た、確かに奴の考えそうなことですぅ……」
 翠星石はちらっと俺を見上げた。釣られるように雛苺もこっちを見上げる。小首を傾げてるのはなんでだ。
「そうなの?」
「うん、合ってる」
「わー!」
 雛苺はまんまるく目を見開いた。銀英伝の最終巻みたいに言うと両目と口で三つのOを作ったって感じ。
「真紅すごいのー! くんくん仕込みのパーフェクトな推理なのよー」
「いいからお前は黙ってこっち来い」
 桜田がひょいと手を伸ばして雛苺を抱き上げ、なんとも言えない雰囲気が周囲に漂った。

 いいタイミングで、かちゃ、と音がしたのは、真紅がティーカップを置いたからだ。音を立ててしまってちょっと口惜しそうな表情になったのは見なかったことにしてあげよう。
「貴方がやろうとしていることは水銀燈を不利にするかもしれない。それで良かったのかしら」
 真紅の視線を俺は受け止めた。
「良くなかったかもしれないけど」
 改めて言われるとちょっと迷うのは確かだ。でも。
「もう教えちゃったし、蒼星石には無事でいてほしいし……それに、なんか嫌な予感がするんだ。ローザミスティカをそんなふうにして手に入れたら、水銀燈になんか悪いことが起きる気がして」
 たっぷり一拍の間、真紅は俺の目を黙って見返していた。それから、ぱちぱちと二度ばかり瞬いて、視線を斜め下に逸らした。
「……そう」
 それはちょっぴり寂しそうで、でもなんか優しい感じのする顔だった。
 アンニュイっていうんでもなくて、なんかこう、見てるだけで切なくなってくるっていうか。
 あああああ、桜田お前関係ないほう向いてる場合じゃないだろ! なんかフォローしてやれよ! だっこするとか!
「──るのね……」
 真紅はそのまま、小さな声で呟いた。
「え?」
 よく聞こえない。なんなんだろう。
「貴方の行動が正しいか、正しくないかは分からないけれど」
 俺が目をぱちくりしている間に、こっちに向き直った真紅は、もう元の生真面目な表情に戻っていた。
「教えてくれてありがとう。想いは私達にも伝わったのだわ」
「ど、どういたしまして」
 なんとなく気圧されるような感じでぺこっと頭をさげたとき、がちゃりとドアの開く音がして、何か非常に美味そうな匂いとお姉さんの元気のいい声が流れ込んできた。

「さあ、みんなお昼ご飯よぅ。ジュン君のお友達もご一緒にどう?」
「あ、俺はその……」
「ごはんっ」
「ヒルメシですぅー」
「いただくのだわ」
 三人の子はそれぞれ嬉しそうな声を上げて、どたばたとてとてと部屋を出て行った。背丈がちょっと小さめだけど、普通にお腹を空かせたがきんちょって感じだ。さっきまで超シリアスな雰囲気だった真紅も、後姿だけ見ていると子供にしか思えない。
 どうしたもんか、と立ち上がると、桜田と目が合った。
「いいのかなぁ」
 桜田は困ったような顔つきになってポリポリと頭を掻いて、そっぽを向いて口を尖らせた。
「……食べてけば?」
 素直にありがとうと言うのと、腹が鳴ったのは同時だった。
「ぷ、くくく」
「笑うなよ」
 そう言うか言わないうちにまたもうひとつ腹が鳴った。
 ああああ畜生。なんだこの間の悪さは。
 なんかツボにはまってしまったらしく背中を向けて笑いつづける桜田に続いて、やれやれと肩を竦めながら俺は部屋を出た。

 まあ、いいか。
 ほんとのことを言うと、なんかちょっぴり解放されたような気分もあるんだ。ここに来たのは同級生って立場じゃないけど、やっぱりこいつは俺の同級生だから。
 みんなによってたかって黒板に酷いこと書かれてゲロ吐いて顔見せなくなった桜田が、ここで腹抱えて笑ってる。
 月並みだけどそれがなんとなく嬉しい。
 水銀燈や蒼星石たちのことはもちろん大事だけど、それとは別の大事なものもあるんだよな。



[19752] 新実験(現行)その1 薔薇屋敷の章
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/18 23:54
 雪華綺晶は水晶の森の中で膝を抱いていた。

 途惑っていた。
 途惑う、ということ自体が初めてなのかもしれない。彼女は作られて放たれてこのかた、あらまし同じことだけを繰り返してきたし、それは最初から成功が保証されていて、失敗などすることは今まで一度もなかったからだ。
 薔薇乙女達は常に似たような形で媒介と契約を交わし、そしてさまざまな形で契約を解く。その「お下がり」の媒介のうち、使えそうなものを夢の中に引き込み、あるいはこちらから夢に入り込んで自分の領域に確保する。
 媒介を引き込むことは簡単だった。引き込めるような媒介を見分けるのが簡単だったと言い換えてもいい。
 薔薇乙女を失った媒介たちは大なり小なり消えない寂しさを背負い込む。媒介となる資質を持つような人間にとって、永く自分の傍にあった薔薇乙女は自身の一部のようなものだ。もう逢えないと分かっていても心がそれを否定したがっている。
 雪華綺晶に必要な工作は、彼らの見ている夢にほんの少し手を加え、彼らが決して目覚めたいと考えないくらいに幸せなものに変化させることと、そうして閉じこもった彼らの意識を自分の領域に運び込んで幸せな夢の中で遊ばせつづけることだけだった。

 周囲を見回す。水晶の結晶の中には何人もの媒介たちが、眠りについたときの姿のままで収められている。

 雪華綺晶の欠けた心、欠けた実存を埋め、放って置けばすぐに弱ってどこかに消え去ってしまうはずの不完全な魂をローザミスティカの近くに保つためには、媒介たちを確保し、夢を見続けて貰わなければならない。
 大抵の場合はひとつの時代にそうして確保できる媒介は一人か、多くても二人に過ぎなかった。それを彼女は大切に「遊ばせた」。数は多くないから失敗は許されなかった。糧が途切れれば、ローザミスティカだけでは彼女を保つことはできないから。

 これまで彼女が捕えてきた媒介たちは、自分から幸せな夢を拒むことはなかった。
 媒介として選ばれる人間達に心の強い人々は多くない。薔薇乙女を求めたからこそ選ばれ、薔薇乙女を愛したからこそ別離がくれば悲しみに沈む。
 今回も、そのはずだった。違っているのは、媒介が契約を解除される前に媒介の心が壊される予定だ、という点くらいだった。
 契約の相手が水銀燈で、どういうわけかその本人が媒介の心を壊す瞬間に立ち会うというのは好都合だった。普段は他の姉妹に比べて媒介に依存しないし依存させない水銀燈だが、媒介の心を壊す現場に立ち会って無事で済むはずはない。
 水銀燈が心に大きな負荷を掛けられ、何もできない隙を狙ってそのボディを盗む。心を壊されて脆弱になった媒介は夢の世界に引き入れて遊ばせる。場合によっては水銀燈の心すら自分の領域の水晶に閉じ込めて無為に遊ばせることができるかもしれない。
 しかも、どちらかは失敗に終わってもいいのだ。
 ボディを失った水銀燈は精神だけの何もできない漂流者に成り下がるだろうし、媒介は無力な人間に成り下がる。そしてボディさえ手に入れてしまえば自分ははれて物質界の一員となれる。
 仮にそちらが不発に終わっても、媒介の心を確保してしまえば、当面の糧を確保できるだけでなく水銀燈に対しても何等かの交渉ができるだろう。
 やり方は複雑になるが、流れで見ればいつもの手順だ。できなくはない。なにしろ、相手は完全に無防備なのだから。
 そんな風に考えていた。

 それでも、二つの作業を平行して行うのは失敗の危険がある。
 雪華綺晶は慎重に段取りを整えた。
 万にひとつの失敗もないように、幸せな夢を見せるのは媒介の精神世界で、と決めた。媒介の記憶と想念の世界でなら、そこのパーツを使って夢の構成を補強することができる。より「本物らしい」夢を展開するほうが媒介の誘導には効果的だ。
 そのために彼女は媒介が好み、彼の世界の延長線上で違和感がないものを彼の世界から「借りて」幻覚の罠の中に配置さえした。夢の中で媒介がそれに依存してしまえば、もし夢だと分かってしまったとしても、彼はもうそこから抜け出たいなどと思うことはないだろう。
 水銀燈についても、最初からボディを欲張らずに心を縛りつけることを選択した。ボディにはローザミスティカが残っているはずだから、心が朽ちないまま確保したとしても雪華綺晶の思うまま扱うわけには行かない、という事情もあった。
 心を失ったボディはいつでも回収できる。魂が離れていけばいずれローザミスティカもボディから抜け出てしまうだろう。自分の手元に手繰り寄せるのはそれからでも問題はない。
 ローザミスティカには拘りはなかった。むしろそれよりも物理的な身体が欲しい、というのが雪華綺晶の本音だった。
 体を得て、煩わしく不確定な糧の確保という制約から解放されれば、自分もやっと他の姉妹と同じスタートラインに立てる。いや、自分の能力を考えれば、物理的な体躯に依存している他の姉妹よりも一気に優位に立てるだろう。
 ここから動かず、生きるためだけに生きることには飽きている。かといって、死ぬ気もない。

 彼女は既に長いこと機会を待ちすぎたのかもしれない。
 いつ自分がローザミスティカに興味をなくしたのかさえ、覚えていない。
 孤高の人形師ローゼンが彼女を今のありように作ったのも、このnのフィールドに放ったのも、ローゼンの考える至高の少女──アリスとするためだった。
 そのためには姉妹全てのローザミスティカを揃えることが必要の筈だった。少なくとも、そう思われていた。
 しかし、彼女はあまりにも永く、同じ目的の姉妹の誰一人とも接触を持つことなく、それでいて姉妹たちの姿を見つめながら生きてしまった。
 姉妹の誰もが次の媒介と契約するまで眠りに就いているときも、媒介も薇も鞄も、話し相手の人工精霊さえも持たない彼女はひたすらここで待ちつづけていた。しかも、それはほとんどが自分が生き延びるための糧を見定め、確保し、そこから細々と心を吸い上げて生き続けるために根を張るだけの待機だった。
 途方もない、孤独。
 永い永い時間の間に、アリスというもの自体に対する考えさえも変わってしまった。
 姉妹達はお互いに争って生命の欠片を奪い合い、勝者を定めることを当然と考えている。だが、それに勝ち残ったところで、他の個性は全て失われるしかない。ローザミスティカは生命の源であって、心ではないからだ。
 自分はからっぽの白、器すら持っていない。だが、姉妹達のボディを集め、その心を確保すれば。
 自分はからっぽ。からっぽだからこそ、何色にも染まることができる。ときとして烈しく、愛しく、切なく、無垢で、気高く……
 ただひとつでなく、製作者の呻吟して生み出した全ての個性、つまり心と形を兼ね備え、時宜に応じてそれを着替えることができる。
 それこそが至高の少女ではないのか?
 ならば、それに成り得るのは、無機の器というしがらみを持たないがゆえに自由に器を乗り変われる自分しかいないではないか。
 それは──詰まるところ彼女自身の物理的な実体を持ちたいという欲求が先にあってこじつけた、論とも呼べない考えなのかもしれない。
 だが、雪華綺晶はそれを信じた。なにがしかの目的がなければ、彼女は自らの在りようを保つことさえ危うかった。

 視線をゆっくりと動かし、茨のひと揃いに目をとめる。
 そこは昨日の晩に焼かれたまま、灰色に薄汚れていた。

 不思議だった。
 タイミングこそシビアだったが、その分いつもより周到に夢を誘導した。そのために、水銀燈の媒介が最も好むだろう人形を、彼の記憶の中から選んで幻覚の中に配置したほどだ。
 案の定、最初の幻覚にするりと媒介を入り込ませることはできた。あとは、放っておいてもそこから媒介は自分で夢を紡いでゆく。今までそこに例外はなかった。
 水銀燈の心を確保するのも簡単だった。媒介の近くで倒れた水銀燈の心は全く無防備にnのフィールドを漂っていて、彼女はそれを茨の中に完全に封じてしまうことさえできた。
 いくらか誤算があったとすれば、媒介が蒼星石に水銀燈の身体を物質世界に持ち帰るように警告したことと、蒼星石が予期していたかのように機敏に脱出してしまったことくらいだった。
 だが、それは些細なことでもあった。心を確保していればボディは抜け殻に等しい。いずれ奪い取ることができる。
 そこまでは、何等の問題も起きなかった。全ては手はずどおり進んでいたはずだ。
 蹉跌が生じたのは何処だったのか。考えてみるが、分からない。
 確かなのは、媒介を雪華綺晶の領域に引っ張ろうとする前に、向こうから夢を破ってしまったことだ。それも、何かが切っ掛けで偶然見破られたというよりは、途中からずっと気付かれていたように思える。

 そこからは、彼女にしてみれば一方的な展開だった。
 力と言葉で媒介を誘導しようと試みたが媒介はそれに乗らず、あまつさえ戦い慣れた薔薇乙女なみに狡猾に自分の世界の構築物を使って彼女に反撃し、最後は恫喝で彼女を退けた。
 媒介の夢の中に配置しただけの人形が、夢が破れた後も確固たる存在のまま残り、自分に刃を向けたのも予想外の出来事だったし、自分が呆然としてここに戻る間に彼が水銀燈の心を封印から解き放ち、易々と物質世界に帰還してしまったのも慮外の痛恨事だった。
 もっとも、あのとき自分が水銀燈の心の傍で媒介を迎え撃ったとして、結果が変わったとは思えない。いや、圧倒的優位にあったのは彼だった。恐らく、自分は手もなく捻られて魂と生命──ローザミスティカ──を切り離され、こうして自分の領域に戻ることもなく永久に無意識の海を彷徨する魂のひとつになっていただろう。

 千歳一遇と言うべき好機を逃した。それは口惜しい。しかし、それだけではない。
 もっとぞくりとした、何か。肌が粟立つような感覚。それに、彼女は途惑っていた。

 他の姉妹がその感覚を説明されたら、それを恐怖だと表現するかもしれない。
 同じ感覚を抱いた水銀燈なら、多分それが異質なものに対する本能的な嫌悪感だと理解するだろう。
 いずれにせよ、雪華綺晶は途惑い、そして、既に存在しないものの影に萎縮していた。結果的には、そのことが彼女に大きな見落としをさせてしまうことになる。





「じゃあ、みんなお夕飯までにちゃんと帰って来るのよぅ」
「わかったから早く行けっての」
 ジュンが口を尖らせるのを見て、のりはやっと踵を返した。
 ここは薔薇屋敷と呼ばれる高台の家。華族の出の一族が優雅に暮らしていたというが、昭和の中頃から急速に没落していき、今は見る影もない。とはいえ、広大な家と庭を手放さずに維持するだけの資産は残しているらしい。
 のりはもう一度振り返った。よく見る屋敷の姿にどこか違和感を感じたからだ。
 暫く考えて、あ、と彼女は思い出す。

──お庭の薔薇がお手入れされていたのね。荒れ放題だったのに……

 ジュンが急に薔薇屋敷に行くと言い始めたことについて、のりは詳しいことを知らない。三人のドールと、今日の昼前に尋ねてきたジュンの同級生という少年が関わっているらしいことは分かったが、それ以上踏み込むことはできなかった。
 自分は一歩退いたところから見ていた方がいい。
 自力で動く人形の真紅が家にやって来てからというもの、ジュンが不思議なことに巻き込まれているのは明らかなのだが、自分は彼が教えたがらないことまでは知りたがらない方がいいのだ、と彼女は割り切ることにした。
 真紅が来てから、ジュンは少しずつ明るくなっている。自分も可愛い小さな妹達を持ったようで、大変だけど楽しい毎日が過ごせている。
 今はそれでいい。いつか、教えてくれることもあるだろう。
「さあ、今日のお夕飯はみんなの分、腕によりをかけて作らなくちゃね。ジュンくん、久しぶりの遠出だもの」
 どんなときも、みんなが安心して帰る場所を作っておくのが自分の役目だ。
 暗い気分を振り払うように青い空にうんうんと頷いて、のりは坂を下っていった。


 現実世界ではのりが今夜の食材を買い足すためにスーパーマーケットに入った頃になるだろうか。
 蒼星石が用意した舞台で、一同は対峙していた。
 ある女性──蒼星石の契約者である結菱老人の過去に深く関わる人──の、心の木がそこにある。
 老人が蒼星石に命じたのは、その木を蒼星石の持つ庭師の鋏で切り刻むことだった。

 半世紀以上昔の話である。
 結菱老人には双子の弟が居た。二人は何をするにもお互いを必要とするような関係だったが、弟はある外人女性と恋に落ち、引き留める兄から逃げるようにして彼女の待つ海外に渡ろうとした。
 渡ろうとした、というのは、その途上で海難事故に遭い、船もろとも海の藻屑と消えてしまったからである。
 結菱老人(当時は未だ青年だったが)は突然のことに呆然とした。
 損傷が激しいものの、その船に乗り合わせた客の中に東洋人は一人だけ、ということで形ばかりの遺体確認に立ち会った彼の中で、何かが音を立てて崩れていった。
 こんなのはちがう。死んでいいはずがない。ならば目の前のこれは誰だ。誰の遺体だというのか。
 ……簡単なことだった。
 その場の人々に向かい、彼はとんでもない話を始めた。スキャンダルと言っていい内容だった。
「死んだのは、兄です。彼は僕の名前を騙って、船に乗りました──」
 その瞬間、彼は法的に死んだ。
 同時に、自分が手がけようとしていた一切の事業も失うことになった。家は傾き、彼の手元にはほとんど財産は残らなかった。
 だが、そんなことさえも彼には些細なことだったかもしれない。自らの半身と認めていた弟が、もう二度と戻ってこないのだから。

 弟の名前を使い、薔薇屋敷に逼塞しながら、老人は半世紀をずるずると生きてきた。消し残しの蝋燭が一本だけ点いているような人生だった。
 それが俄かに熱を持ったのは、ごく最近のことだった。
 弟が恋に落ち、死ぬことになった原因の女性が、生きていることをひょんなことから知ったのだ。
 老人は彼女を激しく憎んだ。弟と同じ船に乗り、同じように事故に遭い、同じく海の藻屑と消えたはずの女がいまだに生きて結婚をしていまや孫に囲まれた幸せな生活を送っている。
 許せるものではなかった。
 老人は双子のドールの薇を巻き、そして、女性の心の木を腐らせ、刈らせることを命じた──。


 結菱老人の夢の世界。それが彼の執着対象である女性の心の木の場所まで広がっているのは、彼の執念の強さの故だろう。あるいは更に強く、女性の心の木をこの場に現出させるほどの頑強な妄執なのかもしれない。
 どちらにしても、今の翠星石には無関係だった。
 蒼星石に心の木を傷つけさせるわけにはいかない。それは人を直接手にかけるのと同じだから。
 誰にもそんなことは許されない。まして、こんなことで蒼星石の手を汚させるわけにはいかないのだ。
「今日は君と存分に戦えると思ったのに……」
 蒼星石はシニカルな笑顔で言った。
「木を背にしてもまだ如雨露を持ち出さないんだね、翠星石」
 翠星石は顔を上げた。既に二度ばかり蒼星石に跳ね飛ばされていて、木にぶつかった背中と腕がずきずき痛む。
 でも大丈夫。まだ、泣いていない。まだ自分はがんばれる。
 だが、彼女の目の前の双子の妹はあくまで冷徹だった。
「君が無抵抗を貫くなら僕にとっては好都合だ。心の木を切り倒す前に君も倒してしまおうか」
「蒼星石、貴女は──」
「真紅」
 翠星石は真紅の言葉を遮った。
「これは……私達の戦い……ですなの。真紅たちは見守っていてくださいです」
「うぃー……で、でも」
 雛苺が翠星石と真紅を見比べ、真紅は一拍置いてから返事をした。
「わかったわ。でもローザミスティカを奪われそうになったら、その時は否応無く手を出させてもらうわよ」
 それは目の前に見えている蒼星石でなく、姿を現していない水銀燈かもしれない。真紅は言外にそう含めていた。
「……はいです」
 翠星石の人工精霊が、彼女の得物──庭師の如雨露を召喚した。
「一人は怖いです……けど、頑張るですよ」

「翠星石……」
 少し離れたところで、水銀燈の契約者である少年は無念そうな声を上げた。
「それでいいのかよ……ってぐるぐる巻きじゃ俺にはどうしょーもないけどね!」
 ジュンよりちょうど頭ひとつ大きい少年は雛苺の苺わだちで縛り上げられていた。
「ジュンの言いつけなの」
 雛苺は申し訳なさそうに言った。
 のりに言われるまま桜田家で昼食をご馳走になった少年は、そのままこの場所に連れてこられていた。要は水銀燈が来襲したときの人質のようなものらしい。
 水銀燈は契約者に限らず、その場の人間を媒介として力を得ることはできる。しかし契約した者の方が力を使いやすい。放っておけば水銀燈が彼を伴って来襲することも十分考えられる。
 同じなら手元で拘束しておいたほうがいい、というわけだ。
「ヒナは真紅のけらいで、ジュンは真紅のマスターだから、言うこと聞かなきゃなの。ごめんね」
「この状態で頭なでなでしてもらってもあんま嬉しくない……」
「うゆ……」
 雛苺にしてみれば、可哀想だな、と思う。何か出がけにジュンと真紅がひそひそ話をして、どうしたんだろうと思ってそっちに行ったらジュンが怖い顔をして雛苺に命令したのだ。戦いが始まったら縛り上げろ、と。
 悪いことしたわけじゃないのに縛るの? と聞いたら、悪いことをするかもしれないから縛るのだとか。よく分からない理由だったが、真面目なときの真紅とジュンの命令は絶対だった。
 すっかりアヒル口になってしまった少年に、雛苺はごめんねと謝った。あとでマポロチョコくらいは分けてあげてもいいと思う。
 ジュンがその様子をじろっと見遣った。
「頭まで巻いてもらったほうがいいか?」
「いえ、結構です」
 少年は即答した。

 鋏を構えて翠星石に突き進んだ蒼星石は、視界をいきなり如雨露の起こした霧で塞がれ、一瞬たじろいだところを心の木の枝で突き飛ばされた。翠星石の力は場所が限定されるものの、弱弱しいものとは到底言えなかった。
「やる気になってくれたみたいだね、嬉しいよ」
 体勢を立て直し、蒼星石は不敵に笑った。今の攻撃で頬が傷付いてしまったが、痛みは気にならない。
 自分には契約者がついているが、それは相手も同じだ。更に、翠星石には手負いと能力を制限されたコンビとはいえ真紅と雛苺がついている。相変わらず状況は有利とは言えなかった。
 しかし、だからこそ克ちたかった。
 昨晩、今後のことを僅かに見せられたうえで水銀燈の契約者と話したことを思い出す。
 なにが起きるか見えてしまったのになお自分の気持ちを貫くのか、と彼は尋ねてきた。
 彼に曖昧な一言で返したのは、自分の気持ちがはっきりと言葉にできるところまで行っていなかったからだ。
 今なら言える。これは自分が「双子の庭師の片割れ」でない、自分自身になるための戦いなのだと。
 確かにここで死ぬかもしれない。自分のローザミスティカは誰かに奪われるかもしれない。だが、そんなことは些細なことだった。ここから何度契約者を代えて生き続けても、双子の片割れのままでは何も変わらない。
 その思いの強さが、どこか迷いのあるような翠星石の防禦を掻い潜った。何度か弾かれ、防がれながらも、蒼星石は霧を抜け、翠星石の間近に飛び込んだ。
「僕は君を断ち切る、翠星石。僕が、僕自身になるために」
 金属質な音を立てて鋏が半開きにされる。蒼星石がそれを僅かに引き、突きの姿勢に入ろうとした瞬間、翠星石は心の木を後ろに庇ったまま、結菱老人を睨み付けるようにして叫んだ。
「思い出すです陰険おじじ! おじじの望みはこんなことなんですか? 蒼星石も分かってるはずです、おじじが本当は何をしたいのか!」
 一瞬の間があって、空間は酷い振動に見舞われた。

「地震!?」
「違うわ、これは」
 この空間が、記憶自体が揺さぶられているのだ、と真紅は気付いた。
 老人が何かを思い出そうとしている。恐らく──
「本当の願いに関わる何か、なのね」
 振動の中で真紅は水銀燈の媒介の少年の方をちらりと見遣った。苺わだちに絡めとられたまま、雛苺と一緒になって無様に目を回しながら揺さぶられている。まだ水銀燈の気配はなかった。
「いつ仕掛けてくるの……」
 必ず来る、という確信はある。媒介ですらあれだけのことを知っていたのだ。水銀燈自身が把握している情報はもっと正確なのだろう。それを利用して、最も効果的な瞬間を狙ってやってくるに違いない。
 しかし、何時なのか、何処からになるかは分からない。そのときに自分は皆を守れるだろうか?
 右腕が無いからといって薔薇の花弁を操る技には関係ない。しかし、幾分軽くなったバランスの悪い身体でどこまで俊敏な行動が起こせるか自信がなかった。

──ジュン。もしかしたら、ここでアリスゲームは終わってしまうかもしれない。

 もちろん、その結末が自分の思い描いていたものでないことは間違いない。勝者はこの場に姿を見せている誰でもない。
 それは絶望に近い感覚だった。傍らの眼鏡の少年に縋り付きたい気分を断ち切るように、真紅は翠星石たちの方を見つめた。彼女が弱気を見せていいのは、ジュンと二人になったときだけだ。


「思い……出した」
 振動の中心で車椅子に乗ったまま頭を抱えていた老人は、ぼそりと呟いた。
「私は彼女を」

──好きだったのだ。

 記憶がつながった瞬間、振動は嘘のように止まった。

 弟と老人は似すぎるほど似ていた。何をするにも常に一緒だった。二人は当然のように同じ一人の女性に恋をした。
 皮肉にも、そのことが弟が兄から離れてゆくきっかけになった。
 弟のほうが人間として正直だったのかもしれない。彼は女性の心をつかみ、兄弟でやってきた事業も財も捨て、駆け落ち同然で女性の故郷へと旅立ち、その途上で死んだ。
 老人が弟の名前を名乗った理由は、弟を失った喪失感だけではなかった。

 ──何故自分は愛されなかったのか。どうして弟なのか。自分と弟は二人で一人、同じ半身のはずなのに。何故なのだ。理不尽だ。
 ──そうだ、死んでいいのは恋に破れた双子の兄なのだ。弟になることで、自分は女性を勝ち取ったことになる。愛されたのは、自分ということになる。

 病的、倒錯も甚だしい心境と言えるかもしれない。それは老人もどこかで理解していた。そして、そのような思考をした自分を認めたくなかった。
 だから、いつのまにか記憶の中で綺麗な話に摩り替えてしまっていたのだ。
 女性を殺したいほど憎むのも道理だったかもしれない。彼女の存在自体が、自分の一番触れたくない汚い部分にざらりと障るサンドペーパーのようなものなのだから。

「ようやく、分かった」
 顔を手で覆ったまま、老人は搾り出すように言った。
「私が殺してしまいたかったのは、彼女でも弟でもない──」
 弟の名前を借り、自分の心を繋ぎとめている、自分自身の影だったのだ。

 蒼星石は心の木の前から老人のもとに歩み寄った。
 自分でも驚くほど、気持ちの角が丸くなっている。何かずっしりと心にのしかかっていた重石のようなものが嘘のように消えていた。
「マスター……やはり、それが貴方の本当の望みなんだね」
 車椅子の上で、老人の姿は哀れなほど小さく見える。恐らく、自分もそうなのだろう。
 蒼星石は独り言のように呟いた。
「僕も同じだ。半身なんかじゃない、本当の自分自身になりたくて」
 ずっと永いこと、もがいて、あがいて。
「そして気が付けば、自分自身の影にがんじがらめに縛られている」
 いや、それを気付いてもなお、自分はその欲求を満たすことも解消することもできずにいた。
「だからきっと、僕は貴方の願いを叶えてあげたかったんだ。そうすれば自分もこの迷路から抜け出せるような気がして」
 力なく提げていた鋏を持ち直す。
 認めたくなくて言わずにいたことを口に出してしまったせいか、不思議なほど心が軽かった。
 とん、と宙に舞う。

「だめえっ、蒼星石!」
 如雨露を抱えたままの翠星石は慌てて立ち上がった。
「蒼星石!」
 真紅は目を見開き、蒼星石の方に飛び出した。間に合わないことは分かっているが、見過ごすことはできない。
 周囲の声が聞こえないかのように、蒼星石は鋏をふりかぶった。

「それで貴方が解き放たれるなら、僕は──」

 瞬間、彼等の目の前に黒い羽毛が舞った。
 横合いから突進してきた黒と銀の何かが、蒼星石を突き飛ばすようにして彼女の動きを止めた。

「かっこつけタイムは終了よ、自殺志願のお馬鹿さぁん」
 突然の奇襲に倒れこんだ蒼星石を抱き起こしながら、彼女を突き飛ばした張本人──水銀燈は囁いた。
「生憎だけど、貴女にはもう少しやってもらいたいことがあるのよ」
 そこで周囲を見回す。僅かな差で間に合わず、目の前のことに呆然と立ち尽くしている真紅を見つけ、にやりと笑いかけた。
「わざわざうちの媒介を運び込んでもらって悪かったわね、真紅。お陰で間に合ったわぁ」
 蒼星石を抱き寄せながら水銀燈は微笑む。
「どうしたわけ? 揃いも揃ってお間抜けな顔しちゃってぇ。私がここに来ることは知っていたでしょうに」
 真紅ははっと我に返り、急いで周囲を確認した。庭師の鋏はさきほどの衝突で蒼星石の手から離れ、少し向こうに転がっている。翠星石は二人を挟んで鋏の逆側にいた。
 雛苺は言いつけどおり水銀燈の契約者を拘束していて、すぐにはこちらに来れそうもない位置に居る。
 ジュンは慌てたようにこちらに急いでいるが、まだ遠い。
 蒼星石を人質に取られたような状態だった。

「水銀燈……」
 蒼星石は困惑していた。水銀燈の両腕は蒼星石の背中に回され、黒い羽と両方で彼女を抱きすくめている。
「邪魔しないでくれ。僕は……」
「聞こえなかった? 貴女にやってもらいたいことがあるの」
「僕を止めない方が君のゲームは有利になるはずだろう」
 結菱老人の心の影を壊すことは、蒼星石にとってそのまま自分の心を壊すことと同義だった。そうなれば結菱老人の心は救われるが、彼女はローザミスティカを失って物言わぬ人形になる。
 水銀燈はそのローザミスティカを奪えばいい。少なくとも、蒼星石が『見た』未来ではそういう筋書きになっていたはずだ。
 それでも蒼星石は、他の選択肢を取らなかった。彼女なりの意地のようなものもあったし、何より結菱老人のために心の影を壊したかった。
 水銀燈は意外そうな顔をした。
「あら、まさか本当に契約者の心の影とやらに体当たりして自殺するつもりだったの? ゲームを放棄してまで、たかが媒介ひとりのためにそこまでするぅ?」
 からかうような声に、蒼星石は俯いて唇を噛んだ。
「僕には僕の価値観がある」
「そうね。私には理解できないけど。美しくないもの、お父様の意思に逆らって、僅かな時間を共にするだけの媒介のために死ぬなんて」
 それは耳に痛い言葉だった。父の望みどおり至高の少女になることが彼女達の目的だったはずなのだから。
 しかし、そう言いながらきゅっと力を込める水銀燈の腕や、身体をきつく取り巻いている黒い羽にふと懐かしいような温かみを感じてしまうのは、蒼星石の錯覚だろうか。
「君だって人のことは言えないじゃないか、マスターの──」
「とにかく、貴女にやってもらいたいことがあるの。勝手に自殺されちゃ困るのよ」
 水銀燈は急に早口になって蒼星石の言葉を遮った。
 普段なら、蒼星石は水銀燈の顔に僅かばかりの焦りか照れのようなものを見出したかもしれない。しかし、今の蒼星石にそこまでの余裕はなかった。
「僕が易々と君に従うとでも……?」
「あら怖い目。でも、この体勢でそんな反抗的な口を利いても説得力ないわよ?」
「く……」
 蒼星石は絶句した。
 水銀燈は自分を固く抱きすくめていて、容易に動けない。華奢な水銀燈がしているからそうは見えないだけで、鯖折りやベアハッグに近いような按配だった。
 そのうえ黒い翼までが身体を包んでいる。その羽は何かあれば即座に自分を切り刻める。得物のない自分の不利ははっきりしていた。
 だが、言葉に詰まったのは有利不利のためではない。
 傍から見れば、熱烈に抱きつかれて親しげに囁き交わしているような姿勢だったからだ。しかも、自分自身どこかでこの状態に安心感さえ抱いている。
 そんな蒼星石の混乱を見透かしているように水銀燈は目を閉じ、くすくすと笑う。珍しく、全く険のない笑顔だった。
「分かったら落ち着いてこれからの身の振り方でもお考えなさいな」
 口を蒼星石の耳元に寄せ、相変わらずからかうような口調で囁く。
「これから……?」

「そうよ。
 契約者の望みを叶えるために命を懸けました、なんて格好付けじゃなくてね。
 じっくりお考えなさい。生きている貴女がその死にかけの老人にしてあげられることは何なのか。
 死んでしまったらそこの薔薇園も、老人の心の木も手入れをする人が居なくなるのよ。庭師の仕事は契約が終わるまで続くのではなくて?」

 蒼星石は色の違う両目を大きく見開いた。
「水銀燈……」
 暫くそのまま水銀燈の閉じた目を見つめていたが、やがて視線を逸らすと首を振った。
「……頭を冷やして、よく考えてみるよ」
 まだ、ありがとう、と素直には言えなかった。
「そうなさいな、不器用な庭師さん」
 水銀燈は目を開き、蒼星石の拘束を解いてぽんと軽く肩を押し、数歩分後ろに飛びのいた。
 ぐらりとよろめく蒼星石を駆け寄ってきた翠星石が抱きとめ、安堵したのか堰を切ったように泣き始める。黒い羽が数枚、二人の周りを舞っていた。

「真紅」
 名前を呼ばれて振り返ると、ジュンが傍らにいた。
「あいつ……なんで蒼星石を助けたんだ?」
「分からないわ」
 ただ、真紅も呆然と成り行きを見ていたわけではない。蒼星石と水銀燈の会話は小声過ぎて全ては聴き取れなかったが、蒼星石を水銀燈が説き伏せたのは見て取れた。
 水銀燈の媒介が言っていた言葉を思い出す。

 ──心の殻って、他人にいきなり破って貰わなくてもいいんじゃないかな。

 水銀燈は同じことを別の言葉で伝えたのだろう。
「どういう風の吹き回しなんだよ。それともアイツが嘘ついてたのか?」
 ジュンは雛苺が頑張って引き摺って連れてこようとしている少年を指差した。
 水銀燈がこの場で敗れた者──または蒼星石──のローザミスティカの横取りを狙っていると言ったのは他ならぬ彼なのだ。
 蒼星石を助けてしまったら、ローザミスティカは手に入らない。
「彼が嘘をつく意味はないわ。何の得にもならないもの」
 水銀燈のほうに、何か行動を変えるような判断の変化があったのだろう、と真紅は思った。その原因まではわからないが。
「今は水銀燈の行動に感謝しましょう。少し不本意だけれど」
「……」
 ジュンは不決断に黙っていたが、水銀燈をちらりと見遣ると真紅を抱き上げた。
「ジュン?」
「やっぱり僕はあいつを信用できない」
 ジュンは自分の体で真紅を庇うような姿勢になった。
「お前の腕をもぎ取って、一度は一緒に組んだ蒼星石を裏切ったりした奴じゃないか。か……感謝なんてできるもんか」
 真紅の右腕の付け根を自分の胸に押し付けるように抱き締めて、ジュンは水銀燈を睨みつけた。
「……ジュン」
 ジュンの鼓動と想いを感じながら、真紅はふと、その中にかすかな危うさのようなものも感じ取っていた。

「丸々全部聞こえてるわよ。おばかさん」
 水銀燈はジュンのほうを向き、やれやれと肩を竦めた。
「ま、感謝なんて興味ないし、筋違いもいいところだけど……メイメイ」
 呼ばれて、銀色の人工精霊はするりと彼女の脇に控えると、心得たとばかり何かを召喚した。
 水銀燈の背丈の半分ほどもある両手剣だった。それを、水銀燈は無造作に放り投げた。
 唐突な行動に身構える真紅とジュンの脇を抜けて、両手剣は雛苺の引き摺っている苺わだちを両断した。
「わぷっ」
「のわぁ」
 突然のことに何がなんだかわからずに雛苺は前のめりに倒れ、苺わだちで曳かれていた水銀燈の媒介の少年はわだちでぐるぐるに縛り上げられたまま放り出され、両手剣の近くまで転がっていった。
「おはよう、人間。一晩で随分働き者になったようね」
 水銀燈は少年に若干笑いを含んだ声を掛けた。
「お、おはよってもう昼過ぎだぜ」
「定番の口答えね。それにしても、想像してはいたけど無様ねぇ」
「う……ごめん。でもなんだこの剣。こんなの持ってたの?」
 少年は不審そうに両手剣を眺めた。人間が使うには柄が細い片手剣というところか。いずれにしろ、蒼星石の鋏並に物騒な意匠の得物だった。
 水銀燈は何故か僅かに落胆したような表情になった。
「それは貴方の得物よ。どうやら忘れてしまったようだけど」
「俺の?」
 少年は芋虫のように身体を捻りながら首を傾げて見せた。全く思い至るフシが無いと言いたそうな声に、水銀燈はやや不満そうに腕を組んだ。
「ええそう。好きなように使ってとっととこっちに来なさい」
「でもどうやって使うんだか……手は縛られてるし」
 少年がぶつぶつ言いながら首を捻っていると、両手剣はひとりでに動いて苺わだちと彼の身体の間に入り込み、わだちをすぱりと切断してその場に落ちた。
「勝手に動いたの……」
 雛苺はびっくりして目をぱちくりした。少年本人も呆気に取られた表情をしている。
「なんだこれ、考えただけで切れた」
「全自動なんて便利ね。予想外だわ」
 情けない声を上げる少年が滑稽に見えたのか、水銀燈はくすくす笑ったが、すぐにそれを引っ込め、早く来なさいと少し強い調子で言った。
「勝手に抜け駆けするような媒介にはお仕置きしなくちゃね」
 少年は一瞬びくりと強張ったが、こわごわと剣を拾い上げる。

「うゅ……」
 雛苺は少年とジュンを交互に見遣った。もう縛らなくてもいいよね? という視線なのだが、ジュンは水銀燈と少年に向かって身構えていて、雛苺のほうを向いている余裕は無さそうだった。
「そんなに怖い顔しなくたっていいのよ」
 こっちを向きもしないで水銀燈の出方を窺っているジュンに、雛苺は聞こえないくらいの声で呟いて口を尖らせる。ちょっとだけ不満だった。

 この少年は怖くない。それに嘘もついていない。
 なんとなくそれが分かったから、雛苺は最初から怖がらずにお話することができたし、人見知りの翠星石もすぐに馴染めた(と、雛苺は思っている)。
 怖くなく正直者というのは、裏を返せば他人に言われるまま主体性なく、あるいは刹那的に行動していて何も考えていないだけなのかもしれない。
 もっとも雛苺はそこまで細かく考察しているわけではなかった。あくまでも怖くないと思っているだけだ。

 少年が雛苺の方を向き、ごめんな、と片手で拝むようなしぐさをして、水銀燈に向かって小走りに駈けて行く。さっき雛苺を転ばしてしまったことを謝ったつもりらしい。
「ジュンも真紅も命令しないから、ヒナ縛らなかったのよ?」
 にこにこして手を振ってから、「いいの?」と言うようにもじもじふらふらと漂っているベリーベルに雛苺は言い訳をした。


「これがヤツの遺留品の山ですか……」
 翠星石は顎に手を当てて首を傾げ、買い物袋をじろじろと見比べた。
「小さいのが一つ、薄ぃーのが一つ、そして大きいけど軽そうなのが一つ……むむむ」
「中身は何かしらね」
 真紅はそう言うもののあまり興味なさげに、ジュンの膝の上に陣取って本を開いている。右腕の代わりにジュンがページをめくっていた。
「スリルでサスペンスなのー」
 雛苺は開けたくてしょうがないと言いたげに、紙でできた買い物袋をつついてみている。
「迂闊に突付くなですチビ苺!」
「うょ?」
 思わず一歩下がった雛苺の耳元に手を当て、翠星石はヒソヒソ囁く。
「ヤツにとってここは紛れもない敵地……午前中、ヤツは相当の覚悟をキメて乗り込んで来たに違いねえです。
 自分が殺されたときはこの家の全員道連れにする!
 まさに決死の潜入! です」
「ふぇ!?」
「いや、あいつ玄関から入ってきたし、思いっきりリラックスしてただろ。いきなりお前と取っ組み合ってたし」
「つまりこの中身は」
 翠星石はキッと買い物袋を指差し、睨みつけた。
「な、中身は……?」

「ずばり爆弾です……!」

「キャー!!」
「ない、ないから!」
 ジュンは空いている左手をぶんぶん振って、妄想街道を突っ走りはじめそうな翠星石を止めた。

 薔薇屋敷全体と契約者三人、薔薇乙女五人を異空間に巻き込んでの大立ち回りは、現実の時間では十分にも満たないものだった。
 水銀燈は自分の媒介の少年を羽根で突付きながらnのフィールドから去り、ジュンは現実世界の屋敷で紅茶をご馳走になった後、ドール三人を連れて帰途についた。
 帰る道すがら、結局何も起きなかったようなものですぅ、と翠星石は軽口を叩いたが、桜田家に帰ってみるとちょっとした騒動のタネが出現していた。
「ジュン君たちが帰ってくる前にお電話があったのぅ、女の子から」
 のりは困ったような顔をしていた。
「うちのバイカイからドールたちへのプレゼントらしいわよ、適当に開けちゃってねって。バイカイって何かわからないから聞き返したんだけど、すぐに切られちゃって……」
 そう言ってのりが示したのは、客間のテーブルに置かれたままになっている、少年が薔薇屋敷に行く前に渡し損ねていた手土産だった。

「このままでは埒が明かないわね。ジュン、包みを開けて頂戴」
「お前達宛ての荷物だろ? 自分で開けろよな」
 口ではぶつぶつ言いながらも、ジュンは真紅を膝に乗せたまま、小さな包みを買い物袋から取り出してナイフで丁寧にセロハンテープを切り、包装紙を開いた。
「ご本なの」
「随分小さなペーパーバックね」
「文庫本って言うんですよ。この国ではありふれたサイズです」
 ジュンが広げた包装紙の上に、翠星石が一冊ずつ本を並べた。真紅は題名を眺めて首をひねった。
「どれも随分個性的な題名なのだわ。どんな本なのかしら」
「SFだろ」
 ジュンはあまり関心なさそうに題名を眺めた。
 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』『人間の手がまだ触れない』『時間外世界』……
 知っている題名はあったが、読んだことのあるものはなかった。
「きっとこれは私かジュンに読んで欲しいということね。SFというのは読んだことがないけれど」
「『ドールにプレゼント』って言ったんだから、対象はお前だろ」
 少しだけ面白くないようにジュンは言い、今度は薄めの包みを開いた。
「これは翠星石向きのようね」
 真紅は思わず微笑んだ。
 翠星石は料理をのりから教わっているのだが、のりがいないときに火を使ってはいけないと釘を刺されている。「レンジでできるお料理入門」という題名のその本は、今の翠星石にはぴったりだった。
「翠星石おめでとうなのー」
 雛苺がふらつきながら一生懸命差し出す大判の料理本を、翠星石はぶすっとした顔で受け取った。
「ま、まあ貰ってやらんこともないです。翠星石は寛大ですからね」
 こんなもので懐柔されるほど安くもないですけどね、と言う口調は、しかし満更でもなさそうだった。
「最後のこれは……?」
 どういうわけか一番大きな包みだけは綺麗にリボンが掛っている。ジュンは気をつけてそれを外し、包装を解いた。
 覗き込んでいた雛苺の顔がぱっと明るくなる。
「お人形なのー!」
 ごく薄い透明プラのケースの中に、十センチを少し上回るほどの人形が七体入っている。だいぶ時期を過ぎてしまったアニメのキャラクター人形だった。
 実はワゴンセールで千九百円の値札が付いた在庫処分品だったのだが、そのことは買った当人しか知らない。
「ヒナだよねっ、ねっ」
 雛苺は飛び跳ねながらみんなの顔を見回した。
「なーんか一人だけ沢山ですけど……しゃーねーです。確かにチビチビが喜びそうな大きさですし」
 翠星石も雛苺が寝転がって遊んでいる人形のサイズを思い出していた。
 落書き用の画用紙やぬいぐるみなどは思い切り大きなものが好みの癖に、おままごとに使う人形は小さなものが好きなのだ。
「そうね、雛苺の好きなサイズだわ」
 言いながら、ふと真紅は首を傾げた。何か引っかかることがあるような気がする。

 五インチ=約十二分の一というサイズは、丁度標準的なドールハウス用人形の大きさだった。その大きさの人形で遊ぶことに雛苺は慣れていた。以前、雛苺が幼い少女と契約していたとき、その少女が雛苺と遊ぶときによくドールハウスを持ち出していたからだ。
 コリンヌ・フォッセーという名のその少女との暮らしは、雛苺に多大な影響を与えていた。それは雛苺本人も気付かないほど深く心に入り込んでいる。

 だが、そこまでは翠星石も真紅も知らない。知っていたら何かに気付いたかもしれないが、二人ともこのときはそこまでの推理やら憶測を巡らせることはなかった。
 ジュンが唐突に口を開いたからだ。
「雛苺」
「うぃ?」
 歓声を上げていた雛苺は、ジュンの声に訝しげに振り向いた。少しばかり思いつめたような言い方だった。
「これ、一旦僕が預かっていいか」
 その言葉に真紅と翠星石もジュンの顔を覗き込む。ジュンは先ほどまでの仏頂面を止めて、無闇に真剣な顔つきになっていた。
「ど、どうしたですかジュン、そんなに人形が気に入ったですか?」
 翠星石の言葉にジュンははっと顔を上げた。そして何故か頬を赤くしてしどろもどろに、いや全部じゃなくて半分でいいとか、雛苺の人形を取り上げてしまうつもりはないというようなことを言い訳した。
「ジュンが欲しいなら、全部ジュンに上げてもいーよ」
 雛苺はにこにこして答えた。
「ジュンの机の上に飾ってあっても、ヒナも見れるもん」
 手にとって遊べないのはちょっぴり悲しいけど、本棚や机の上に飾ってある人形たちの仲間が増えるのは雛苺にとっても嬉しいことだった。最近はそういった人形の埃を払ってあげたり、あちこちいろんな角度から見つめて意外な表情を見つけたりするのも楽しくなっている。
「……そうじゃない」
 ジュンはどういうわけかますます顔を赤くしていた。
「と、とにかく……これとこれとこれ! あとこれ……だけ、暫く、僕が、預かっとく、からな!」
 言いながら、物凄い勢いで人形をプラケースから出して抱え込んでしまう。勢いに押されて雛苺はただあいあいと頷くしかなかった。

 客間からジュンの部屋に移動してもジュンは人形をどこかに並べたりはせず、机の上に置いてパソコンを弄りだした。
 恒例の「ジュンのぼり」もすげなく断られた雛苺は、運んできたプラケースを覗き込んだ。
「うーと、残ったのは紺色と、黄色と、紫……?」
 プラケースの中には三体だけが残されていた。それを取り出して雛苺はためつすがめつしていたが、やがて何かを思いついたように叫んだ。
「あ、この紺色の子、銀髪でちょっと水銀燈に似てるのー!」
「ほえっ? な、なんてこと言いやがるですか縁起でもない」
 料理の本を広げようとしていた翠星石はびくっとして振り向き、胡散臭そうに雛苺の持っている人形に視線を向けた。
 何故か机に向かったジュンもびくりとしていたが、翠星石の視界には入らなかった。
「そう言われてみれば多少は似てなくもないですけど……銀髪って言ってもかなり白っぽいですし」
 プラケースを眺めて首を傾げ、にやりと笑って残った人形の片方を取り出した。
「それを言うならこの人形のほうが。……黄色い服に緑の髪で、どっかの誰かさんに似てるですよ」
「ほんとだー! かなりあに似てるの!」
「『水銀燈どこかしらー』」
 翠星石が黄色い人形にコミカルなポーズを取らせ、彼女達の姉妹の一人、金糸雀の口真似をさせる。雛苺はぷっと吹き出して、手に持った銀髪の人形で黄色い人形を小突いた。
「『痛いかしらー』『ふん、おばかさぁん』」
「翠星石、物真似上手なの」
「ふっ、口真似なんぞちょろいもんです。『くらうかしら! カナのおとっとき』『何よそれぇ。全然当たらないわよぉ』」
「あは、あはははは! 似てるー」

「……騒々しいわね」
 部屋の隅で人工精霊に苦労して文庫本のページをめくらせていた真紅は、呆れたように溜息をついた。栞を挟んで雛苺の隣に歩いていくと、二人がはしゃいで振り回している人形を見遣る。
「……似ているというほどではないのだわ。色遣いだけね」
 二人に聞こえない程度の声で呟くと、ケースの中に残った最後の一体を見て何かを思い出そうとするように唇に指を当てていたが、何かに得心したように頷くと、懐から時計を出して蓋を開いた。
「あら、もう二十一時を回っているわ」
 少し大きな声で言う。二人がこちらを向いて部屋の壁掛け時計を見上げているのを見遣り、ややオーバーなアクションで、そろそろ寝なくてはね、と言って蓋を閉じた。
「そうですねぇ……とっとと片付けて寝ちまいますか」
「うぃー」
 時刻が二十一時を回っているのは嘘ではなかった。三人は散らかした小物を仕舞うと、ジュンにおやすみを言ってそれぞれ鞄の中に入った。

「……やっと寝たか……」
 ジュンは念のため振り返り、鞄が三つとも閉じられているのを確認して机の上の人形を一列に横たえた。
 赤、ピンク、緑、青。服装自体はほとんど似ていないが、どことなく自分の周囲のドールたちの雰囲気がある。
 水銀燈が見たら、馬鹿じゃないの、と苦笑するか微笑するに違いない。それは、彼女と彼女の媒介が一週間でどうやら二十六話分を見終えた例のアニメのキャラクターグッズだった。
 薔薇乙女とは比較にならない、大量生産品のちいさなドール。それを見ていてジュンは何気なく思いついたのだ。

──こいつらそっくりの服を着せて、改めてそれぞれにプレゼントしてやろう。

 水銀燈の媒介である少年には、彼のプレゼントを勝手にいじってしまって悪いような気もする。だがそこは、自分への当て付けのようにプレゼントを持ってきたのはそっちなんだ、という言い分で開き直ることにした。
 初対面のくせに──自分はそうではないけれども、ドールたちとは初対面だ──なにか手土産を持って来るということ自体、どことなく胡散臭い。なら、こっちはこっちで使ってやったって別にいいだろう。そんな気分もあるにはあった。
「まず真紅からかな……一晩でどこまでやれるかな」
 ひとりごちて、裁縫道具を引出しからそっと取り出す。
「布地、あったかな……」
 色味の似た赤い布を探していると、ことん、と目の前に紺色の人形が置かれた。
「うわっ」
「あら、失礼ね。大声を立てるものではないわ」
 真紅がいつのまにか机の脇まで来ていた。
「お前、寝たんじゃなかったのかよ」
「眠れなくて起きてしまったわ、何をしているの?」
 だいたい分かっていると言いたげな口調で、真紅は机の上を見つめている。ジュンは赤くなった。
「この子達に良い衣装を作ってあげようとしていたのでしょう、恥ずかしがることはないわ」
 でも内緒にしておきたかったのね、と真紅は微笑んだ。
「もう、お前にばれちゃったけどな」
 ジュンは真っ赤になってそっぽを向いた。
「……す、翠星石たちには言うなよ」
「誰にも言わないわ、でも一つお願いがあるの」
 真紅はもうひとつ、黄色い人形もジュンの目の前に置いた。
「この子達二人にも、服を作ってあげてくれないかしら」
 それが口止め料よ、約束したら私も誰にも言わないという約束を守るわ、と真紅は微笑み、抱っこしてちょうだいと片手をジュンに伸ばした。
「……うん」
 ジュンは真紅を膝の上に座らせると、表情を引き締めて作業を始めた。




[19752] その2 夢の章
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/18 23:57
「あれ……ここはどこです……?」
 無数の扉が浮いている空間に翠星石はぽつんと立っていた。
「あれは夢の扉」
 そうですか、と合点して小さく頷く。ここは人々の夢と夢の狭間、人々の夢が混在して在るところ。
 それが分かると、ちょっとした悪戯心が湧いてくる。
「折角だからチビチビの夢でも覗いてやりますかねぇ」
 彼女がこうしたところに迷い込むのは初めてではない。夢の庭師としての力がそうさせるのか、まどろんだときにごく近しい人の夢の扉がある場所に出てしまうことは何度かあった。
 開けてみなければ誰の夢の扉かは分からないが、今まで開けた扉は全て、精神的にも物理的にも近い位置にいる人の夢に続くものだった。恐らく自分にとって近しい人の扉ほど近く、遠くに行けば行くほど縁遠い人の夢なのだろうと翠星石は理解していた。
 自分に一番近い存在は、いま一緒に暮らしている桜田家の面々。それでなければ、蒼星石しか思いつかない。
 人見知りを自認する翠星石が全く躊躇せずに適当に手近な扉を開けたのは、そういう理由があってのことだった。

「……なんですか、ここは」

 しかしそこに広がっていたのは、彼女が想像していたような光景ではなかった。
 がらんとしてほとんど何もない暗い空間に、白い髪の人形が仰向けに横たわっている。
 恐る恐る近づいてみると、球体関節人形らしいことが見て取れた。大きさは自分と同じくらい。塗装されているのか、腹部だけが暗い背景に溶け込んで──
「ひっ」
 もう一歩進んだところで翠星石はびくりと立ち止まった。
 人形が目を見開き、こちらを見ている。
 ピンク色の虹彩、シャギーの入った前髪、そしてまるで生きているような顔立ち。
「──」
 それは何かを言いたげに口を開け、右手をこちらにゆっくりと動かす。
 翠星石は異様過ぎる光景に、思わず数歩あとずさった。視線は魅入られたようにそれに固定されていて、外すことができない。
 やがて、もがくようにこちらに寝返りを打つと、それはゆっくり立ち上がって……いや、立ち上がろうとしてがしゃんと崩折れ、胸から上と腰から下が泣き別れになった。
 腹部は、塗装されていたわけではなかった。その球体関節人形には、腹部そのものがなかったのだ。
 上半身はこちらに頭を向けてうつ伏せに転がり、下半身はそれと百八十度捩れた体勢で、腰の空洞を薄暗くこちらに見せながら倒れた。
 だが、やがてそれらはまたもぎりぎりと音を立てるように動き始め、上半身は不器用に手で這いながら、下半身は蠢くように不恰好に這いずりながら、それぞれがこちらにじりじりと……

「──っ」

 そこまでが限界だった。
 目を瞑り、竦んだ足をどうにか動かして回れ右を──しようとしたとき、後ろから伸びてきた手が彼女の肩を叩いた。
「ひぃぃぃぃっ!」
 びくんとして、思わず数センチ飛び上がる。だが、案に相違して、聞こえてきたのは聞き慣れた声だった。
「あら、ご挨拶ね翠星石。そんなに怖がられるなんて、むしろ光栄というべきかしら」
 笑いと毒気を含んだ声。こわごわと目を開くと、にやりと笑う黒衣のドールがいた。
「す、水銀燈……?」
「貴女も酔狂な趣味を持ってるものね」
 水銀燈は失笑する寸前の表情で翠星石の顔を覗き込んだ。
「よりによって、私の媒介の夢を覗くなんて」


 上下が分離してしまった人形を、水銀燈は丁寧に元のように寝かせた。人形はぶつぶつと呟きながら力なく抵抗していたが、下半身と上半身が(腹部の長さほどの距離をおいて)揃うと、やがて安堵したように紅い目を閉じて静かになった。
 水銀燈は翠星石に背を向けたまま人形の手足を真っ直ぐに伸ばして揃え、あやすようにその髪を撫でた。
「……意外です……」
 翠星石はふと思ったままを呟いてしまった。
「何が?」
 水銀燈は振り返りもせずに尋ねた。翠星石はびくりとして両手で口をふさぎ、しまったという表情になったが、もう一度尋ねられて口を開いた。
「……出来損ないとか言ってぶっ壊しちまうと思ってたですよ」
 嘘を言っても仕方がない。正直に彼女は答えた。
 翠星石が認識している水銀燈は、ある意味完璧主義者だった。役に立たないもの、穢れたものは「みっともない」と捨て去ってしまう。自分の媒介の夢の世界の中とはいえ、こんな怪談じみた人形を大切に扱うのは彼女らしくない。
 なにか謂れのある人形なのか、なにがしかの利用価値があるのか、それとも。
「なんか悪いモンでも食ったんですか」
 言ってしまってから翠星石は青くなった。つい、いつもの癖で一言多くなってしまったのだ。怒り狂った水銀燈に羽で縛り上げられるかもしれない。
「貴女、どこまで人を凶暴なイメージで捉えてるのよ」
 水銀燈はこちらを振り向いてわざとらしい溜息をついたが、案に相違して怒りの表情はそこにはなく、ただ呆れたような顔をしているだけだった。ただ──
「壊すには惜しい価値があるから壊してないだけ、かもしれないけれどね」
 そう笑う横顔にはいつもの獰猛さが戻っている。余計な一言はなるべく慎もう、と翠星石は思った。

「始まるわ」
 水銀燈は立ち上がり、上を向いた。
「何がです?」
 釣られるように翠星石もその視線を追う。しかし、見上げてみてもこの夢には夜空もなければ太陽もなかった。漠然としたものが広がっているだけだ。
「夢の切り替わりよ」
 水銀燈がそう言った瞬間、夢の世界は大きな一室に変貌した。
 全く同じパイプ机が何十個も並んでいる。一方の壁には大きな窓があり、開放的な雰囲気の部屋の中はざわめきで包まれていた。
 ジュンが夢の中で着ている服と同じものを着た少年達と、つい数日前に初めて逢った雛苺の元契約者──柏葉巴──と同じ水兵服を着た少女達が大勢、それぞれ何人かずつの小さなグループに分かれてお喋りをしている。
「学校、ですか」
「今日はそんな夢みたいねぇ」
 水銀燈はあまり関心もなさそうに言い、手近にあった大きな机の上に腰掛けた。それは教卓なのだが、翠星石は名前を知らなかった。
 翠星石はなんとなくその机に隠れるような位置に移動する。
「凄い人数ですねー……」
 夢の中とはいえ、あまり大勢の人間が出てくるところは得意ではない。翠星石は身体を縮めるようにして教卓の陰から周囲を見回した。
 そして、あるものを目に止めて大きく目を見開いた。
 ローザミスティカのかすかな脈動が、急にはっきりと聞こえてくる。人間なら「心臓が高鳴る」というところだろうか。
「三、四十人ね。ひとクラス分よ」
 今は授業の合間か昼休みってところかしらね、と水銀燈は言い、つまんないわぁ、と一つ伸びをして、組んだ足の上に肘を置き、上に向けた掌に顎を乗せた。
 しかし、翠星石にとってはつまらないどころの話ではなかった。
「……ジュンがいるです」
 ジュンは、水銀燈の媒介の少年の近くにいた。家で見せるのと同じ、あからさまに機嫌が良くない顔つきで机に座っている。
 思わずそこに近づこうと歩き出し、こちらに来る少女にぶつかりそうになって仔リスのように慌てて机の下に逃げ込む。水銀燈がそれを見て笑ったが、それも耳に入らなかった。

 何度かそんなことを繰り返して、翠星石はジュンと少年の声が聞こえるところまでどうにか辿り着いた。
「──久しぶりの学校だって悪くないだろ?」
 少年が屈託なく笑いながらジュンに言っている。ジュンはぶっきらぼうに生返事を返すと、照れたようにそっぽを向いた。
「気分いい時だけでいいからさ、たまにゃ出てこいよ」
「……ああ」
「クラス換えして、お前んとこイジった連中は別のクラスになったし」
「……うん」
 そこで少年は人の悪そうな笑みを浮かべ、ジュンの耳に手を当て、もう片方の手で誰かを指し示しながら囁いた。
「あいつも待ってるぜ」
 ジュンは顔を上げ、少年の指差すほうを視線で追いかける。翠星石はそのジュンの視線の先を更に追いかけた。
「なっ!?」
 ジュンの顔がぼっと音を立てそうなほど赤くなる。そこには、翠星石も知っている顔──雛苺の前契約者、柏葉巴がきょとんとした表情でジュンたちを眺めていた。
 胸の中に何とも言えない感情が湧き出るのを翠星石は訝しく思った。今まであまり経験したことがないような、腹立たしいようで切ないようなもどかしい気分だった。

 少年はそんな観客がいることを知りもせず、さっと身を引いて、にやにやしながらとんでもない事を言った。
「ま、でも出て来たくない気持ちも分かるぜ」
「……どういう意味だよ」
「なにしろ、お前ん家には恋人が三人もいるもんなぁ。完璧少女の真紅、可愛い妹の雛苺、それと──」
 恋人。ジュンの恋人。
 翠星石はごくりと生唾を飲んだ。顔は真っ赤になっているのが自分でもわかる。
 自分は一体なんだろう? 小さな淑女? ちょっぴり恥ずかしがり屋のお茶目さん? それとも──

「──熱き漢の魂を持つ女、翠星石!」

「何頓珍漢なこと言ってやがるですかっこの馬鹿人間!」
「いてっ、いてててて、向う脛蹴るかよ容赦ねーな翠星石さん!……て、翠星石?」
 少年は脛を押さえながら、信じられないものを見たと言いたげに翠星石を見つめた。
「すっ、好き勝手言ってんじゃねーよです! 翠星石はローゼンメイデン第三ドール、花も恥らうれっきとした乙女です。熱きオトコとかそういう蒸せそうな存在とは無縁です!」
 茹で蛸のように真っ赤な顔で、翠星石は力説した。
 少年がなんと反応していいのか分からずに目をぱちくりさせていると、水銀燈が教卓の上から滑るように飛んできて彼等の脇の机に座った。
 少年はああそうかと長い息をつき、気の抜けたような声で呟いた。
「水銀燈、やっぱり毎晩夢に入り込むのは止めてほしいなぁ」
 水銀燈はそれには答えず、いいものを見せてもらったわ、とにやりと笑った。


「お馬鹿さんね、あれは私の媒介の夢の中の虚像のひとつ。貴女の契約者じゃないのは分かっていたはずでしょう?」
 窓枠に腰掛けながら、水銀燈はくすくすと笑った。
 安物のテーブルの、これまた安物の椅子に腰掛けた翠星石は口を尖らせたが、黙っていた。水銀燈の媒介の少年が見ていた夢の中に出てきたジュンは──もちろん、本物ではない。夢の主が好き勝手に構築した偽者だ。
 分かっていたのに、その姿を見つけただけでどきどきしてしまったし、少年が自分をジュンになんと紹介するか、などという些細なことで羽目を外してしまった。「心の専門家」としても恥ずかしい。
 これ以上、この性格の悪い長女に言質を与えるわけにはいかない。必要最低限以外のことは口に出さず黙っているべきだ、というのが翠星石の考えだった。
 幸いにも水銀燈は翠星石にそれ以上ちょっかいをかけようとはせず、すぐに用件に話を移した。
「ところで、聞きたいことは何なのかしら」

「……さっきの夢のことです。切り替わりとか、あの……人形とか」

 それが聞きたいから、翠星石はわざわざ現実空間の少年の家に乗り込むような真似をしたのだ。
 少年の夢は、翠星石と水銀燈が現れたことで破れた。最近、毎日のように夢の中に入り込んでは監視している水銀燈に辟易しているらしい少年は、一旦目覚めることを選んでしまったのだ。
 夢の世界が消えていく中、あっさりと「戻るわ」と言って去ろうとした水銀燈を、翠星石は、聞きたいことがあると引き留めた。
 翠星石としてはnのフィールドの中の何処か適当な世界を借りればいいと思っていたのだが、水銀燈はやはりあっさりと、ならば自分達の部屋に来いと言った。
 二人はグレア仕様のパソコンのモニターを通り、この狭くてあまり綺麗とは言えない部屋にやって来たのだった。

「人形ねぇ。何から話せばいいのか分からないくらい長い話になるわね」
 満更茶化しているだけとも思えない言い方で水銀燈は肩を竦めて見せた。
「長くて込み入っている割に、中身がなくて面白くもない話よ。それでも聞く?」
 翠星石はまじめな面持ちで頷いた。最近の若干不可解なことがらが、全てそこに繋がっている。何故かそんな気がしたからだ。
 水銀燈はやれやれと言いたげに天井を見上げ、彼女の言ったとおりの長い話を始めた。



 昔々あるところに、一人のきちがい人形師がいました。後に素晴らしいオートマータを何体も作りだすことになる、たぐい稀な業の持ち主でした。
 いつの頃からか、その工房の隅の作業台の上に、一体の作りかけの人形が居りました。
 人形は、ほとんど完成していました。白い髪も、薄紅色の眼も、他の人形達に優るとも劣らない出来栄えでした。でも、肝心の、胴の部分がありませんでした。人形師がすぐに次の人形を作り始めてしまったからです。
 人形師は、素晴らしい人形を次々に作り出しました。薇のネジを巻くと動き出す、最高のオートマータです。人形達はみんな綺麗に造作を整えられ、人形師の手で優しく抱かれて工房を出て行きました。
 作りかけの人形は、工房の隅の作業台の上で埃をかぶったまま、美しく完成した自分の妹達が人形師と共に出て行くのを、いつもただじっと見守るしかありませんでした。
 どうして、自分だけ完成させてもらえないのだろう。
 作りかけの人形はいつも、そう思っていました。悔しかったのです。だって、胴の部分さえあれば、自分も妹達に負けない美しさを持っているのだし、自分のドレスさえももう出来上がっていて、工房の中に飾ってあるのですから。
 あるとき、人形師は、今までで一番素晴らしい人形を作り上げました。
 人形師は、いつもよりもっと念を入れて人形の仕上げをしました。やがて、いつものように完成した人形を抱き上げると、大きな鞄を片手に持って、工房を出て行こうとしました。
 作りかけの人形は、それをじいっと見つめていました。そして、動かない口で必死に叫びました。
 『待って、行かないで。私も連れて行って』
 すると、どうでしょう。動力も入れられていないのに、作りかけの人形の身体はぎしぎしと動き始めたのです。
 作りかけの人形は、必死にかいなを上げました。届かない人形師の背中に手を伸ばしました。立ち上がろうと、身体を前に動かしました。
 でも、やっぱり人形は作りかけのできそこないでした。すぐに前のほうにのめり、そして、胸から上だけが作業台から床に転げ落ちました。胴の部分がないから、立つこともできないのです。
 それでも、できそこないの人形は人形師を追いかけて、両手だけで人形師のほうに這いずりました。
 『お父様、お父様、連れて行って。私を作って、妹達のようにここから連れ出して』
 その目の前で、扉がばたんと閉まりました。人形師は、作りかけの人形のことなど気にも留めていなかったのです。
 工房の木屑だらけの床の上に、できそこないの人形の涙がぽたぽたと跡を残していました。
 」

「──それがさっきの人形なんですね」
「そういうことになるわね」
「……可哀想なお話ですぅ」
 翠星石はもらい泣きしそうな顔になって視線をテーブルの上に落とした。天邪鬼な振りをしているものの、根が素直な性格の彼女にはじんと来る話だったらしい。
「夢の中にあんな風にぽつんと出てくるなんて、その人間はとってもそのお話を気に入ってたんですね」
「ええ」
 水銀燈は吐息のような声で肯定した。
「でも聞いた覚えがない話です……なんていう童話なんですか」
「『Rozen Maiden』ってアニメよ。その中の『Overture』って話ね」
 翠星石はオーバー気味な身振りでテーブルに突っ伏した。
「まじめに教えてくださいです。せっかくいいお話だと思ってましたのにぃ」
「間違えてないわよ」
 口を尖らせる翠星石に、水銀燈は皮肉な微笑を浮かべた。
「そして作りかけのドールは、ローゼンメイデン第一ドールとなる『水銀燈』……」
「だーかーらー!」
 翠星石はテーブルを叩こうとしたが、水銀燈の媒介の少年が布団を敷いて寝ていることを思い出して、行き場を無くした拳をぶんぶんと左右に振った。
「いくらなんでも水銀燈が作りかけじゃないことくらい知ってます。それに翠星石たち……私と蒼星石より先に世の中に出ていっちまったじゃねーですか」
 結構覚悟キメて来たんですからまともに話してください、と翠星石は顎をテーブルに載せて水銀燈を睨みつけた。
 水銀燈はそんな翠星石の視線には構わず、微笑を浮かべたまま淡々と話し続ける。
「契約者として人工精霊に選ばれた者が『巻かないこと』を選んだら、世界はそこで分岐する。そうして幾つもの世界が平行していくけれど、私達ローゼンメイデンは常に一人ずつしか存在しえない……貴女も知っているでしょう」
「そりゃ知ってますけど、いきなり何を……」
「では、その外側に私たちが認識できない別の世界があったらどう? そこは、私たちがフィクションの産物として存在しているところ。現実的な形ではなく、活字の上や映像上の登場人物という形でね」
 水銀燈は肩を竦めた。
「私自身まだ疑問が残ってるけど、とにかく、そういう世界は存在するのよ。そして、そこで寝てる媒介は、その世界のとある住人が死ぬと同時にこの世界に生まれ変わった異邦人ってわけ」
 翠星石はぽかんと水銀燈の顔を眺めていた。あまりにも現実離れしていて、うまく話が繋がらない。
「そういうことがよくあることなのかは分からない。でも、そいつの場合明らかに普通と違ったところがあるわ。それは前の人生の記憶をそっくりそのまま受け継いでいたこと」
 翠星石は斜め下を見た。水銀燈の媒介の少年は、二人がひどくシリアスな話をしていることを知りもしないように太平楽に眠っている。
 異邦人と言われても実感が湧かない。確かにおかしな、というよりも何かが欠如しているようなところはあるが、少年に前の人生の記憶があって行動しているようには思えなかった。
 彼の行動はどちらかといえば刹那的というか、衝動的な風にさえ見えたのだ。
「そいつの愛読していた漫画のひとつが『ローゼンメイデン』。呆れるほど詳細に記憶に残っていたわ。意識上ではそれほど鮮明に覚えていたわけではないでしょうけど」
「……アニメじゃなかったんですか?」
「元々は漫画だったようね。それがアニメにもなったってわけ。貴女達の好きなくんくん探偵だって人形劇がオリジナルで、絵本や漫画、小説まで作られているでしょう? 順番は逆だけど、同じことよ。
 アニメのほうは私達の現実とは近いけれど、細部は懸け離れているわ。例えば貴女達双子の契約者が没落貴族ではなくて、どこかの時計屋の老夫婦だったり、『水銀燈』がさっきの人形だったりね」
 だいたい分かるかしら、と水銀燈は念を押した。翠星石はこくりと頷いた。

「でも漫画は違う。私達の現実とごく近かった。少なくとも薔薇屋敷の一件までのところは殆ど一致していたわね。
 明確に違っているのは、漫画では私の媒介がそこの異邦人ではなくて病弱な少女だったことくらい。
 そしてもう一つ困ったことに、漫画はもう少し未来のところまで描かれていたってわけ。
 ──つまり、そいつはこれから何が起こるか知っていたのよ」

 それなのにそいつは何もしなかったのよ、と水銀燈はやや呆れたような声で言った。
「もちろん契約したときも、他の契約者とは違って薇を巻いたら何が起きるか明確に知っていたことになるわね。……何もしないのなら薇なんか巻かなければ良かったのに」
 翠星石は黙って下を向いた。
 水銀燈の言い分は正しいのだろう。
 契約者といっても一つの典型には収まらない。薔薇乙女と契約して狂ったように愛玩する者もいれば、彼女たちの戦いに身体を張って介入する者もいる。蒼星石の契約者のように自分自身の目的を果たすための道具として見てしまった者もいる。
 しかし今後のことを知っていても手を出さないというのは、それらとはどこか違っている。ドールに対する執着が薄いか、見世物でも見ているような気分だったのだろうか。

──でも変ですね。

 翠星石は内心首をかしげる。
 その人物像と、自分が見たこの少年のイメージとが全く繋がらないのだ。むしろ反対に、そういった知識があれば何処かに向かって暴走していきそうな性格にしか思えない。
 そのことを問い質すと、水銀燈はあまり面白くなさそうな顔つきになった。
「もう一度質問するわよ。ここからが長くてつまらない話になるけれど、それでも聞きたいかしら」
「覚悟キメて来たって言いましたよね? バッチコイです」
 椅子の上でふんぞり返る真似をすると、安物の椅子がぐらりと揺れた。翠星石は慌ててテーブルにしがみついた。
 水銀燈はその様子を見ても笑いもせずに、少年と契約してからの経緯を話し始めた。


 開いた窓から夜の風が吹き込んできた。
 翠星石は水銀燈が寄越したオレンジジュースを吸いながら、机の上のデジタル時計に視線を向けた。
 既に時計の表示は日付をまたいでいた。
 普段二十一時には寝てしまう翠星石が水銀燈の話をここまで聞き通せたのは、一応一旦寝て起きた形だからというよりも、水銀燈が語った内容が自分達の過去から未来にまで亙って関係することがらだったからだろう。
 いくら一度眠った後とはいえ、そんな重大な内容でなければ話の半ばで船を漕いでいたに違いない。
「どう? 少しは話が見えてきたかしら」
「……」
 翠星石はこくりと頷いてストローから口を離し、水銀燈の長話の間もほとんど寝返りも打たずに気楽な顔をして眠っていた少年を見遣った。

「可哀想な奴だったんですね、この人間も」

 水銀燈は眉根を寄せた。もう少し別な感想が出てくるかと思ったのかもしれないが、斜め下の媒介の頭の辺りに視線を向けただけで何も言わなかった。
「翠星石の頭は欠陥品かも知れんです。今の話を聞いても、真紅や蒼星石みたいに冷静にパッパと整理はできないです」
 翠星石は音を立てないように注意して椅子から降り、少年の布団のほうに歩み寄った。
「ただなんていうか……」
 煎餅布団に横たわり、毛布にくるまって太平楽な表情で寝ている少年の頭の近くに座り、水銀燈を見上げる。
「こないだ、おじじの屋敷に行った日、こいつがいきなりペラペラ喋りだした理由だけは分かった気がするですよ」
 翠星石は数日前のことを思い出していた。
 いきなり現れた、契約者の指輪を嵌めた少年。蒼星石のことをいやによく知っていたこと、やけに子供っぽい振る舞いをしていたくせに蒼星石の意図の説明のときだけは立て板に水といった調子で喋ったこと。
「あれはきっと、伐り倒しちまった心の木の最後の残りカスってやつだったんですねぇ」
「そんなところでしょうね、きっと」
 水銀燈は目を細め、くすりと人の悪い笑みを浮かべた。
「それも結果的には貴女達を振り回す誤情報に過ぎなかったわけだけど」
 そこは翠星石も苦笑するしかない。
 水銀燈が蒼星石の無茶を止めるという、他の皆にとって良い方に転んだ形で終わったからいいようなものの、少年の持ち込んだ「水銀燈が敗者のローザミスティカの横取りを企んでいる」という話は肝心なところが間違っていたわけだから。
「でも、翠星石の言葉がきっかけで、おじじが本当の気持ちに気付いたのなら──」
 少年がもぞもぞと動いて向こうに寝返りを打った。翠星石は驚いて一歩下がったが、動きが止まると近づいて少年の肩に毛布を掛けなおしてやった。
「こいつのやったことも、全部無駄になったってわけでもないですよ」
 あの日、蒼星石に鋏を構えられたとき、翠星石は少年が言った「本当の願い」を結菱老人本人に思い出させようと声を上げた。
 それが結菱老人に何等かの影響を与え、結果として老人が閉じられた記憶に辿り着けたのであれば、少年のしたことは必ずしも無意味というわけではないはずだ、と翠星石は水銀燈を見上げた。

  水銀燈は翠星石の顔を見つめ、一拍置いて黙って頷いた。
  漫画でも同じタイミングで老人は「本当の願い」を思い出している。そこに翠星石の台詞はなかった。
  だから、実のところ翠星石の言葉は言っても言わなくても同じだったのかもしれない。媒介の行動は全くの無意味だったと言ってしまってもいい。
  だがそのことを教えて翠星石を落胆させたところで、何がどうなるわけでもない。
  それに、この現実と漫画で、老人の心理が完全に同じとは限らない。この世界では、老人は本当に翠星石の言葉で思い出すきっかけを得たのかもしれない。
  正確なところは時間を巻き戻して検証してみなければ分からないことだ。
  どちらとも言えることなら、翠星石は翠星石の望む解釈を信じていればいい。余計な口を挟む必要はない。真実は人の心の数だけ存在していいのだから。

  問題は、事実がどうなのかが重要になってくることがらの方だ。
  例えば、アリスゲームの真の意味、狙い、といったような。
  それは少年の知識の中にもない、しかしその知識を得て否が応でも考えざるを得なくなったことがらでもある。

「もう一つ確認したいことがあるです」
 いいですか、と翠星石は上目遣いに水銀燈を見上げ、水銀燈は飲みかけていたジュースのコップを置いて、どうぞと返した。
「毎日夢の世界を覗いていたのは、こいつの記憶を……」
 そうよ、と水銀燈は頷いた。
「昔の記憶に強く依存して生活していたせいね。そこがごっそり心から抜け落ちたから、今のそいつの記憶は残りの部分まで穴だらけ。
 それだけならまだ良いのだけど、整合性を取るために残った記憶で強引に辻褄合わせをしてしまうの。スカスカになった部分なんかは無茶苦茶になりかけてるわ」
 だから、なるべく事実に沿うように調整してやるために媒介の夢の扉を開けているのだと水銀燈は言った。
 本来許されるべきではないことかも知れないが、事情が事情だけに看過できないのだと。
「都合のいい嘘で塗り固めた世界が完成したら、目も当てられないものね」
 あの爺さんみたいに、と言われると、翠星石としても頷かざるをえない。
 結菱老人は自分が恣意的に忘れてしまった記憶の辻褄を合わせるために、逆恨みに近い形で昔の想い人を恨み、生きていると分かって手に掛けようとし、それに蒼星石と自分は振り回されてしまったのだ。
 今現在の契約者があんな風になってしまうのを見過ごすことは、翠星石にもできないだろう。
「夢が切り替わるまで──あの人形がいる空間が見えている間のことよ──それが、意識下で辻褄合わせが一番活発にされているときのようね。切り替わってからの夢は、いつもかなり鮮明ではっきりしているわ」
 さっきのようにね、と水銀燈は笑い、翠星石は顔を赤くした。
 まるでテレビドラマの場面を見るように鮮明で精細な光景だったから、思わずその中にいたジュンに我を忘れてしまったのだ。
「いつもはもっと混沌とした状況よ。なまじ鮮明だから余計酷く見えるってのもあるわね」
 伐った晩の記憶なんかは毎回筋書きが変わって迂闊に手を付けられないわ、と水銀燈は肩を竦める。
「ただ、学校の教室が舞台のときは別。大抵貴女の契約者が出てくるのよ。あんな風に話し掛けたのも初めてではないわ。
 過去の記憶があまり関わらない部分で、ずっと気に掛けていたのかもしれない。俗な言い方をすれば「目下一番気がかりなこと」ってわけね」
 契約したドールよりも他のドールの契約者の方が大事なんて呆れたものよ、と言いながらも、水銀燈は満更でもない表情をしている。
 それは、何事にも根本的には無関心で積極的な興味を示さなかったように見えた少年が、昔の心の木を伐ったことで多少は周囲に目を向け始めたことを、水銀燈自身無自覚のうちに喜んでいることの現れだったかもしれない。
 もっとも、翠星石はそこに気を回す余裕はなかった。
「……そうですね」
 ジュンが不登校になった原因を、翠星石はおぼろげながら理解していた。真紅の腕を取り戻したとき、彼の記憶から来る痛みを共有していたし、日常の何気ない会話からも少しずつ経緯の断片を窺い知ることはあった。
 真紅は恐らくもっと的確に知っているのだろう。自分よりずっとジュンに近いから。
「ま、あれは過去の記憶でなくて今の願望だから、私が手を付ける必要はないところよ。
 ただ、お気をつけなさい。あの日よりはだいぶマシになってきたけど、まだ行動に抑制が効かないから。また乗り込んでいってひと騒動起こすかもね」
 内向きに落ちそうになった翠星石の思いを知ってか知らずか、水銀燈はそんな言葉で話を締めくくった。
 翠星石は顔を上げ、大丈夫ですと不敵な笑みを浮かべた。
「失礼なことをやらかしたら、翠星石がしばいてやるです。なにしろ相手が水銀燈の媒介ですからね、何かあれば容赦無しですよ」
 その途端、少年が大きく寝返りを打って翠星石の方を向いた。翠星石は小さな悲鳴をあげて机の下に逃げ込んだ。
 頼もしいこと、と水銀燈は唇の端を上げて笑った。


 5体目の人形の服が仕上がった。
 ジュンは大きく伸びをして、凝り固まったような身体をほぐした。
 最近、立ち上がろうとしてちらりと後ろの鞄の様子を窺うのが癖になってしまっている。言うまでもなく作業しているところを真紅以外のふたりに見つからないようにするためだ。
 今夜は三人とももう寝入っている。鞄を開けて起き出していることもなかった。
 ジュンはほぅと小さな安堵の息をつき、机の上を手早く片付けた。
 小さな布地を手縫いするのは慣れていたが、真紅以外のドールに見つからないように作業時間を取るのが大変だった。
 夜、彼女等の寝入った後か昼寝の時間を利用していたのだが、どういうわけか最近翠星石が夜の散歩を覚えたらしく日付が変わる頃まで鞄に入らなかったり、昼間は昼間で今仕上げた黄色い人形のモデルが来訪し始めたりと、予定は狂いっぱなしだった。
 ジュンは少し恨めしげに今仕上げた服を人形に着せ始めた。金糸雀という名前の第二ドールは雛苺や翠星石といい仲間のようで、昼間やってきては夕方まで遊んで帰っていく。
 お陰で雛苺と翠星石の昼寝の時間はあったりなかったりで、ジュンとしては中々工作をする時間が取れなかった。
 毎日1体分ずつ作って行けるだろうという目論見はすぐに崩れて、もうあれから二週間以上経ってしまっている。
 それでもここまでは、見本が向こうからいくらでも纏わりついてくるから模倣するのが楽だった。

──あとは、あいつか……

 最後の一体が大問題だった。
 ジュンは引出しを開け、紫がかった濃紺の服を着ていた小さな人形を手に取った。今は元の布を取り去り、ドロワーズだけを履かせている。
 軽くカールが掛っていてやや多目の白い髪は、モデルどおりに輝くようなストレートの銀髪に代えてある。ペイントされていただけの瞳も刳り貫いて自作した小さなアイを入れ、顔の輪郭も地のポリ材に穴があかない範囲で多少整形している。
 実のところ作業が遅延している理由の一つには、他の人形も同じような改造をしていたから余分に時間を食っているという側面もあるにはあった。だが、作り始めるとそういった些細な部分がどうしても気になって仕方ないのだった。
 作るものに安易に妥協しないというか、凝り性というか、彼らしい一面ではあった。

──顔やヘッドドレスは作れたけど、あの服は実物を見ないとどうしようも……

 一度は手を付けたのだが、どうしても上手い具合に頭の中で裁断図が浮かばない。それで送り送りになってしまって、とうとう最後に残ってしまったのだ。
 ジュンにしてみれば、元々真紅に言われなければ作る予定もなかった分だし、そもそもモデルの水銀燈本人に対していい感情は持っていない。
 ならばいっそのこと適当に作ってしまえば良さそうなものだが、そういう選択肢は彼の心には浮かんでこないようだった。
「どうしたもんかな……」
 小首を傾げたものの、いい思案は浮かんでこない。眠気もかなり強くなってきている。
 取りあえず今日は寝よう、と点けっぱなしになっていたパソコンの電源を切ろうとしたとき、モニターの画面が波打つように歪んだ。
 はっとして飛び退き、回転椅子の背もたれの陰に身を縮める。
「まさか……また?」
 彼の懸念どおり、瞬く間に画面は半球状に膨れ上がった。

「ごきげんよう、人間。客観的な時間では371時間23分ぶりね」

 モニターの画面が破裂するように黒い羽が噴き出し、そこからうっそりと微笑みながら出てきたのは、彼がまだ右手に握ったままの小さな人形のモデル。水銀燈本人だった。

「な、何の用だよッ。真紅たちならもうみんな寝てるぞ」
 ジュンは椅子を盾にして、というよりは椅子の陰に隠れて水銀燈の様子を窺った。彼女は以前ここに現れたときと同じように笑いを顔に貼り付け、机に腰掛けてこちらを眺めている。
「そう、真紅も寝てるの。それは丁度良かったわぁ」
 とは言っているものの、眠りに就いている時間を狙って来たに違いない。もう時計の針は夜中の一時をとうに回っている。
 とすると、彼女の目的は……
「言わなくてもお分かりのようね。貴方に用事があって来たの」
 さすがにうちの媒介とは違うわね、と水銀燈は机を降り、ジュンの隣に歩み寄る。
 ジュンは素早く椅子を回して距離を取った。
 水銀燈が逆に回る。ジュンは椅子を回してその反対側に動く。
 そんなことを数回繰り返すと、水銀燈は肩を竦めて椅子の上に飛び乗った。背もたれを掴んでいるジュンの手を、水銀燈の小さな手が、しかしかなりの力で押さえる。
 二人は背もたれ越しに顔を合わせた。正面から至近距離で見詰め合う形になって、ジュンは思わず視線を逸らした。
「……前言は撤回するわ。案外似たようなものねぇ」
 ジュンは頬を赤らめた。くすくすと笑う声の邪気の無さに、なんとなく気恥ずかしさを感じてしまったのかもしれない。

「それで……何の用なんだよ」
 結局こうなるんだな、とジュンはティーカップを水銀燈の前に置きながら口を尖らせた。
 水銀燈はちらりとそれを眺めただけで、手を付けようとはせずにジュンを見詰めた。
「勿体ぶった話は得意じゃないから、用件から言わせてもらうわ。──取引しない?」
「取引? ぼ、僕が?」
 吃るほど大層な話じゃないわよ、と水銀燈は黒い羽根を一枚拾い上げ、指で弄んだ。先ほどパソコンの画面から出てきたときにばら撒いた羽根だ。また掃除しなきゃいけないのか、とジュンはちらりと考える。
「そう、貴方の可愛いお人形について、ね」
 気のない風の水銀燈の言葉に、ジュンの肩がびくりと震えた。
「お前、これ以上まだ真紅を……」
 あら怖い顔、と水銀燈は笑う。
「でも早とちりしない方がいいわよ? 用件は確かに真紅のことだけれど、あの子をどうこうしようって訳じゃないわ。むしろ逆」
「逆って」
「それのことよ」
 水銀燈は弄んでいた羽根を人差し指と中指の間に挟み、手首のスナップを利かせてダーツのように飛ばした。羽根は部屋の隅に向って飛び、歪んだ鳥籠に当たって床に落ちた。
「それを、元通り真紅に戻す方法を教えてあげる」
 鳥籠の中にはドールの腕が納まっている。
 nのフィールドから拾い上げてくることはできたものの、どうやっても鳥籠から出すことができないでいる真紅の右腕だ。
「その代わり私に協力しなさい、人間」
「──お前ッ」
 ジュンの顔が赤くなった。今度は恥ずかしさとか照れではない。
「元はと言えばお前がやったことじゃないか! それを今更っ」
 水銀燈は落ち着き払い、真紅に負けないほど優雅な動作で紅茶を口に運んだ。
「確かに腕をもいだのは私よ。今更否定はしないわ」
 かちりとも音を立てずに、機械仕掛けの人形のように精確にカップをソーサーに戻す。
「そして、普通なら欠けたパーツを戻すなんて有り得ない。だから、真紅は諦めて現状を受け入れようとしているわ。当然の反応ね。……でも」
 水銀燈はジュンの手を指差した。
「貴方にはできる。恐らく世界でただ一人、神業級の職人たる資質を持っている貴方だけはね」
「そんな……何言って」
「あら、真紅にも言われたことがあるんじゃなくて? 思い出して御覧なさいな」

 ジュンは瞬いた。確かに似たことは言われたことがある。

 ──その指はきっと魔法の指だわ。
 ──いまに、王女のローブだって作れるわ。

 そのときちらりと見せた真紅の瞳は、二人だけのときに見せる甘えるようなそれとも、偶に見せる優しいそれとも違っていた。まるで夢見るような、憧憬にも似た何かを感じさせるものだった。
 ジュンは水銀燈を見詰めた。水銀燈の紅い瞳は甘酸っぱさなど微塵も含まずにこちらを見据えていた。
「……僕が、そんなに凄い腕前を持ってるわけないじゃないか」
 ジュンは俯いてかぶりを振った。
「たまたまぬいぐるみを直したりしただけだ。裁縫なんて、ただの遊びで」
「別に遊びだろうが食べるために厭々商売してようが、この際関係ないのよ。貴方にはその資質がある。大事なのはそれだけ」
 水銀燈は部屋の隅を指差し、次に真紅の鞄を指した。
「そこの腕をその子に付け直すことはできる。貴方にはそれを可能にする資質がある。でも現状ではまず、あの鳥籠を開けなくてはならない」
 それは資質とは無関係なのよ、と水銀燈は言い、溜息をついた。
「真紅が諦めているのは案外そっちなのかもね」
「そっちって何だよ」
 水銀燈は直接それには答えなかった。
「あの子は姉妹の中でも一番諦めが早いの。智慧があるから抑制が利き過ぎているとも言えるわね」
「……そんなことないだろ」
 ジュンは普段の真紅の姿を思い返して、むしろ正反対だろうと思った。契約した自分を下僕と言い、何かといえばこき使う。生粋のお嬢様タイプだ。もちろん悪い意味で。
 腕をなくしてからは、どちらかと言えば甘えん坊にシフトしてきたような気はするが……。
「あの子は本当に不器用だから」
 苦笑するように水銀燈は口の周りを歪める。
「下僕、家来、そういう風に定義づけしないと契約者に甘えることもできないのよ。覚えておくと良いわね」
 水銀燈はまた紅茶を口に運んだ。冷めかけているのが気にならないのか、と思ってしまう。
 自分が目の前の水銀燈と真紅とをつい重ね合わせてしまっていることに、ジュンは気づいていなかった。
「だいぶ脱線したけど、ともかく貴方は鳥籠を開けなくてはならないわね。そして、それを為す鍵は物理的な物や方法ではなくて、貴方の心」
 ジュンは息を呑んだ。
「翠星石も言ってた。籠は僕の心だって」
「そうね。あの子もそこまでは踏み込んだのねぇ」
 もう一歩踏み出せばいいのに、と水銀燈は呟いた。翠星石が、ドールが契約者に抱く想いとは一線を画した感情をジュンに向け始めているのを知っているからだが、当のジュンには勿論知る由も無かった。
「……僕は、何をすれば」
 ジュンは顔を上げて尋ねた。それは二週間前に翠星石から籠のことを聞いて以来考えつづけ、どうすればいいのかわからずに保留していた課題だった。
 思い返せば水銀燈の媒介が置いていった人形を薔薇乙女たちに似せようとしたのも、そこから目を離したくて別のことに逃避した証なのかもしれない。
 それで二週間も無駄にしてしまった、とジュンはちくりと心が痛むのを感じる。

 もっとも、ジュンはつい内罰的にそう思考してしまうのだが、周囲──彼を取り巻くドールたち──は鳥籠についてそんな風に捉えてはいない。
 ジュンが翠星石とnのフィールドに入り込み、傷だらけになりながら鳥籠を持ち帰ったことも、腕力ではどうしても鳥籠を壊せないと諦めるまで、どれだけ必死に開けようとしていたかも知っているからだ。
 当面は手をつけられずにいるのだろう。でも籠を見えるところに置いているから、まだ諦めてはいない──と思っているだけだ。
 薔薇乙女の外れたパーツを元通りにできることなどないと考えているから、当然といえば当然のことだった。
 むしろ、臆病だと自他共に認めてはばからないジュンがそこまで頑張ったことを多かれ少なかれ肯定的に捉えてさえいる。
 翠星石がジュンに胸をときめかせるようになったのも、そのときnのフィールドで痛い記憶に苦しみながらも鳥籠を茨の中から取り出したのを見たことがきっかけだった。
 真紅とジュンの立場に立てば籠を開けることを安易に諦めるべきでないわけだが、それを知っていたのは水銀燈だけだった。

「その前に、私に協力してくれると約束してもらえるかしら?」
 水銀燈はまた顔に微笑を貼り付けていた。そこまでお人好しではないのよ、と言外に語っているようでもある。
「……わかった」
 僕にできることだけだぞ、元はと言えばお前のせいなんだからな、と念を押すように言うジュンを、水銀燈はろくに見てもいない。
 彼女の視線はジュンの肩越しに、彼の机の上のあるものに向けられていた。
「じゃ、まず協力の一つ目」
「うっ……うん」
 何を言われるのか、とジュンは唾を飲み込んだ。
「なんでもいいから服を着せてくれない? ドロワーズだけで放り出されてるのはいい気分じゃないから」
 ジュンは水銀燈の視線を追い、自分の机を振り向いて頬を染めた。
 机の上には、さっきつい仕舞い損ねた小さな人形がモニターにそっと立てかけられたままになっていた。


「……いや、水銀燈の役に立つっていうのは嬉しいんだけどさぁ」
 部屋の真ん中に敷かれた布団の上に上半身を起こして、パジャマ姿の少年は頭を掻いた。
「いくらなんでもこりゃ、寝にくいっていうか……」
 そう言ってばつが悪そうにぐるりを見回す。
 狭いアパートの一室に、彼の布団を中心にして、ドールと人間合わせて都合七人が座っている。この場に金糸雀のマスターがいれば失神しそうな眺めだった。
「時間も時間だし」
 窓の外は鮮やかな夕焼け空だった。少年のいつもの就寝時刻とはだいぶ違っていた。
「大丈夫、僕が貴方を眠らせる。確実に夢に入れるようにね」
「そうです。蒼星石の力を信じられないですか」
 双子の庭師がそう言っても、少年はまだ首を傾げている。
「そうは言っても、みんなの役に立つ夢なんて一発必中で見れるかどうか……」
「この期に及んで女々しいこと言うんじゃねえです」
 翠星石は腕を組んで少年を見下ろした。
「人数が多いのは全員一緒に夢の中に入る必要があるからです。そうじゃなけりゃこんな狭っ苦しい部屋にわざわざ来やしねえですよ」
「そうね、浴室の鏡が使えて良かったのだわ。パソコンから出ていたのではジュンが引っかかってしまったでしょうね」
「……僕一人なら、別に歩いてきても良かったんだぞ。鏡を通ってきたのは嵩張る物を抱えてたからで」
「そんなこと言ってるくせに、真紅を抱いて離さないところがジュンの可愛いところかしら」
「真紅だけ抱っこしてもらってずるいの。ヒナもジュンのぼりするのよ」
「よせ、ますます重たいだろっ」
「重いとは聞き捨てならないわ、私達ドールは人間の女の子ほど重くなくてよ」
「絶対的な重さってのはあるだろ」
「ジュンはひ弱かしらー」
「自分でも認めるヒッキーだから仕方ねーですよ」

「えーとぉ」
 少年は苦笑いして窓の方を見遣った。西の空を染めている夕焼けを背景にして、いつものように窓枠に座っている水銀燈は、黙って呆れたように部屋の中を眺めていた。
「そろそろ始めようか」
 枕許に座った蒼星石の生真面目な言葉に、それまで騒いでいた者も静かになった。
「これから貴方を眠らせる。横になって、目を閉じて」
「あ、うん。オーケー」
 少年は言われるまま枕に頭を載せ、目を閉じた。
「姉ちゃんのときはいきなり眠らせたくせに……」
 ジュンが口を尖らせると、蒼星石の動作は一瞬止まった。無表情だった横顔が複雑な表情に変わっていく。
 翠星石はジュンをぽかりと叩いた。
「余計な茶々入れんなです! 蒼星石を悲しませるのはジュンといえども許さんですよ」
「……ごめん」
「謝る必要はないよ。君が言ったことがらは事実だ。僕のほうこそ、あのときは手荒い真似をして悪かった」
 蒼星石は立ち上がり、帽子を取ってジュンに深く一礼した。
「次に逢ったら君のお姉さんにも謝っておくよ」
 顔を上げ、硬い表情のまま帽子を被り直して、少年の額に手をかざす。
「始めるよ」
 少年は薄目を開けて蒼星石を見た。視線が合って蒼星石が瞬く。少年が気にするなと言うように頷くと、蒼星石は薄く微笑んだ。
 少年は目を閉じ、布団に入ったままガッツポーズを取った。
「おう、もうジャンジャンやっちゃって。バッチコーイっス」
「お前も無駄口叩くなです」
 翠星石は容赦なく少年の腰の辺りを蹴っ飛ばした。ぐぇっというような呻きの後、了解、と少年は眉を顰めながら返事をした。
 痛そうな声に、ハッと気付いた金糸雀と雛苺が水銀燈を見遣る。しかし、彼女は自分の媒介が蹴られても軽く肩を竦めただけで、窓枠から離れて少年の枕許にふわりと降り立った。
 ほどなく、少年は寝息を立て始めた。
 同時に彼の頭上の空間が、さながら池に小石を投げてできた波紋のように揺らぎ、夢の世界への入り口が現れる。
「急ぐわよ」
 水銀燈は短く言い、飛び込むように夢の中に入っていった。
 翠星石がすぐに続き、他の姉妹たちもそれぞれ夢の中に入り込む。ジュンは途惑うような素振りを見せたが、真紅が促すと意を決したように波紋の中心を越えて行った。
 その場に残ったのは蒼星石だけだった。

 真紅が心配そうな視線を自分のほうに向けているのを軽く頷いて返し、ジュンの背中を見送ってから、蒼星石は少年の顔を見下ろした。
 硬い表情は崩れない。そのまま、淡々と蒼星石は呟く。

「貴方はこうなることを恐れていたんだね。

 水銀燈が一番のお気に入りではあるけれど、僕達全員を好きだった貴方は、僕達が互いに傷つけあいながら成長していく漫画の展開を肯定的に捉えていた。
 貴方自身は完結まで読みきることができなかった漫画。そのラストに貴方は希望を抱いていたんだね。
 僕たちは皆一つずつ階段を上り、最後は誰もが幸せになれるだろうと……。
 だから、自分が柿崎めぐの立ち位置になることで、漫画の展開になるべく近い方向に進むようにと願っていた。
 『巻かない』を選ぶことはできなかった。それは次の時代に僕達の成長を持ち越し、もしかすると成長の機会を永遠に逸してしまうことになるから。
 積極的に水銀燈に手を貸すこともできなかった。自分がストーリーに手を加えることでストーリーが変化することよりも、僕達の誰かの成長を阻害してしまうのを、臆病な貴方は恐れていたんだね。

 それなのに、どうして貴方は──」

──自分で自分を切ってしまったのか。水銀燈に完全な知識と膨大な量の記憶、そして僕には不完全な知識と貴方の思考の軌跡だけを与えて。

「臆病な僕には、水銀燈と契約してからの貴方の選択を間違っていると指弾することはできない。
 僕も、同じ立場になったら迷ってしまうかもしれないから。

 でも、心の木を伐ってしまった理由は判らない。理解できない。
 何通りでも推定はできるけれど、どれも決定的ではないんだ。それに、どれであっても我侭な僕には納得できそうにないよ。

 真紅の腕は戻らず、彼女の契約者はまだどこか絆が欠けている。僕との別離を知らない翠星石は子供のままで、逆にその後を見せられてしまった僕は水銀燈の言葉を受け入れて、おめおめとこうして生きてしまっている。
 知識を得た水銀燈は何か大きな事を考えているようだし、ここにいる貴方はもう、貴方ではない。

 僕達のちっぽけな世界は、貴方が恐れていた方向に動いているんだ。
 貴方が心の木を伐ることで、自分のスタンスを放棄して……ある意味で積極的に僕達に関わり始めたときから」

 蒼星石は膝を抱いて座り込んだ。
 その目の前に、青い人工精霊がすっと現れる。
「レンピカ……?」
 人工精霊は二度ばかり瞬くように光ると、主人の命令もなしに何かを召喚した。
「両手剣か」
 見覚えはある。薔薇屋敷の一件で水銀燈が召喚し、この少年に向かって「貴方の得物よ」と言ったものだ。
 蒼星石は座り込んだまま、手を伸ばして剣の柄を握った。いきなり、両手剣はまるで人工精霊のように強く明滅した。
「──っ」
 何かが、頭の中に流れ込んでくる。
 人工精霊との会話や念話のような整然としたものではない。剥き出しで未整理の汚くて醜い情報。
 それでも、言いたいことはおおむね理解できた。
「……貴方はやはり、飽くまでも水銀燈の契約者。そういうことなんだね」
 蒼星石は首を振り、長い息をついた。
「臆病で疑心暗鬼の塊、と自分自身を評価していた貴方に、そこまで信頼されている水銀燈が羨ましいよ」
 剣はちかちかと二度ばかり光り、また一塊の情報を蒼星石に叩きつけると、初めて硬い表情を崩して驚いたような顔になった彼女をその場に残し、そのまま幻影のように薄れて消えていった。

 蒼星石は立ち上がり、まだ揺らめいている夢の中への入り口を見上げた。
「まだ間に合うかな? どう思う、レンピカ」
 レンピカは一度だけ瞬くと、最短距離で入り口を潜り抜けて夢の中に飛び込んでいった。
 何事にも独りで果断に対処していた我武者羅な貴女はどこに行ったのですか、と言いたげなその行動に蒼星石は一瞬苦笑いを浮かべる。
「……どうも弱気になっていていけないな、あれから」
 一つ首を振ると帽子を目深に被り直し、生真面目な表情に戻って自分も波紋の中に身を沈めていった。


「真っ暗なの……」
 雛苺はジュンの右足にしがみついた。
「夢の主の心の闇を表現しているかしら」
 金糸雀は左足に要領よく掴まる。ジュンはしがみつくなと口を尖らせたが、二人は無視して話を続けた。
「第0世界ほどではなくても、夢はその人の深層に迫っているから」
「うー」
 雛苺はきょろきょろと周囲を見回したが、どれだけ見直してもなにやら薄ぼんやりとした不定形のものが見えるばかりで、不気味としか言いようのない空間だった。
「こんなのがあの子の夢なんて、信じられないの」
 水銀燈の媒介とは薔薇屋敷の一件のときに会っただけだが、そんな闇を抱えているようには到底思えなかった。むしろ裏表ない素直な人物に見えたのだ。
 だから水銀燈の媒介だと言われてもなんとなく悪い感情が湧かなかった。
 しかし、これは酷い。絶望して何もない世界より不気味だった。
「人の心は一筋縄ではないわ。特に夢や無意識の領域は──」
 真紅は雛苺を諭そうとして言いかけた台詞を飲み込んだ。隣にいるジュンがぎゅっと拳をつくったのに気づいたからだ。
 真紅は黙ってその拳に手を重ねた。一筋縄でいかないのはジュンの心も同じだ。自分の趣味に対して劣等感とプライドを合わせ持っているから一層複雑なのかもしれない。
「これが貴女の見せたかった物なの?」
 真紅の声に、数歩前に立っていた水銀燈は振り向いて首を振った。
「あら、せっかちねぇ。こんな殺風景な眺めなんてわざわざ見に来るわけがないでしょう?」
 それとも化け物が出そうで怖くなったのかしらぁ? とからかうような声になったが、自分の言葉にそれぞれがどう反応したかを確かめることもなく、また前を向いた。
「これがあいつの夢の全てって訳じゃないわ。今は、パソコンで言えば電源スイッチを押してから使えるようになるまでの時間ね」
 水銀燈は左右を見渡して何かを見つけると、ついていらっしゃいと先に立って歩き始めた。
 一歩前を歩いていた翠星石はジュン達を振り返り、大丈夫ですよというように頷いてそれに続く。残りの面々は顔を見合わせたが、黙って水銀燈の後を追った。


 彼女は孤独で、絶望していた。
 自分が何者かはよく分かっていない。何故此処にいるのかも完全には理解できていない。
 ただ、自分が此処から動けないこと、そして此処には殆ど誰も来訪しないことは知っている。
 昔の記憶は断片的にしか存在していないし、前後の順序も判然としない。
 記憶の多くの部分は、忘れてしまい心に浮かばないという状態でさえなかった。記憶そのものが最初から存在しないのだ。
 持っている記憶さえも、その殆どは自分の体験ではない。植え付けられり与えられた擬似的なものだ。もっとも、彼女自身はその違いの意味を知らなかった。
 彼女の意識は毎日一回から数回、ほんの数分間だけ開いて閉じられる。
 その時間、自分の存在する場所の裏側で、混乱した作業が忙しく続けられていることなど彼女は知らない。
 作業が済んで、そのときの夢の舞台が整ってしまえば、彼女の存在する空間は閉じられ、彼女の意識も閉じこめられるのだ。

 最近、毎日一度かせいぜい二度、彼女を訪れる者がいる。
 それは彼女の心をかき乱し、擬似記憶を励起させる。だが、いつも彼女はそうやって提示された記憶を一つに繋ぎ、纏めることができない。
 彼女に与えられた時間はそれほど短いものでしかなかった。
 それでも、彼女はその者の来訪を期待するようになっていた。
 彼女にとって、それだけが他者との繋がりだったからだ。
 今日も彼女は胴のない体を苦労して動かしながら、それが来るのを待った。
 暫くしてそれがやってきたとき、彼女はいつもとは比べ物にならないほど心が突き動かされるのを感じた。


「見せたいと言ったモノの一つは、あれよ」
 水銀燈が指差した物を見て、金糸雀はまあと口元を手で押さえてジュンの服の裾を掴み、雛苺はびくりとしてジュンの後ろに隠れながらもこわごわそれを見詰めた。
 裸の球体関節人形だった。それがぽつんと横たわっている。
 服も着せられておらず、腹部のパーツもない。まるで作りかけの状態だった。
 ジュンは首を傾げ、右隣を歩く真紅に視線を向けた。
「なんでこんなとこに人形が置いてあるんだ?」
 真紅はジュンを見上げることもせず、人形に歩み寄る。
「分からないけれど、確かに不自然ね。何もない場所にドールだけ……」
「あいつ、そんなに人形に興味あるのかな」
 そんな風には見えなかったけどな、とジュンは両足を掴まれて歩きにくそうに人形に近づく。
「興味ではなくて……あの人形のことを気に掛けていたのです」
 翠星石がジュンを振り返った。
「哀しい過去を持った人形のことを、ずっと気にしていたから、ああして夢に……」
 真紅は立ち止まり、首を振った。
「いいえ、それでも不自然よ」
 どういう意味ですか、と尋ねる翠星石の手に真紅は左手で触れた。
「優しい翠星石、でも今は事実を見て。あの子は夢の世界の一部ではないわ。魂がある。生きているのよ」
「そんなの、ブーさん人形とかと同じだろ」
 ジュンは自分の部屋の呪い人形達を思い出していた。適当に通販で買った人形達だが、魂があると言ったのは真紅だし、現実に動いたところさえ見せられている。
 喋り出したりこそしなかったものの、真紅や水銀燈が力を付与しただけで暫くの間活発に動いてみせたりしたのだ。
「そう。だから不自然なの。夢の世界は、当人が夢を見終われば閉じてしまう。そこにヒトの手で作られた人形が存在するなんて」
 翠星石は「あ」という形に開いた口を手で覆い、人形の方を見遣った。
「人形は自力では動けないわ。でも、私達以外にここには誰もいないし、訪れる者もほぼ存在しえない」
 真紅は人形の傍らまで近づいた。
「一体誰が、何のためにここに人形を置いたというの、水銀燈」
 水銀燈は微妙な笑みを浮かべ、人形を挟んで真紅の向かいに回り、腰をかがめた。
「流石と言うべきかしらね。ご明察よ、真紅。その話をするために──」
 水銀燈はぎくりとして言葉を中途で止め、弾けるように跳び退った。真紅も後ろに大きく跳んで身構える。

 倒れていた人形がむくりと上半身を持ち上げ、真紅に視線を向けたからだ。

「しん……く……しん、く……」

 薄紅色の瞳は真紅に向けられ、のろのろと右腕が差し伸べられる。繋がっていない下半身ももがくように動く。
 胴部が無いのにもかかわらず、人形は立ち上がる動作をしようとしていた。
 あまりにも異様な光景に、真紅はさらに数歩後退した。元来、この手の化け物じみたシチュエーションはあまり得手ではないのだ。

「しんく……真紅ぅ……真紅……!」

 何かを懇願するようだった表情が、いきなり凍りつき、そして次の瞬間には憤怒と憎悪に染まった。

「真紅ッ……! うああああああああああっ!」

 どっ、と音を立てるようにして、人形の背中から黒いものが噴出する。後方でそれをまともに食う形になった水銀燈は咄嗟に腕を顔の前で交差させ、視線を背けた。
「翼……なの?」
 雛苺は瞬いた。人形の背中からは、一対の長い黒色の翼が禍々しく伸びていた。
 噴き出した物は細かく分かれ、ひらひらと周囲に舞っている。それはこの場の誰にとっても、よく見慣れたものだった。
「黒い羽毛……。水銀燈のと同じかしら」
 のんびりとした口調で言いながら、金糸雀はすっとジュンの前に進み出る。
「事情は分からないけど、念のため、ジュンは後ろにいて欲しいかしら」
 ウィンクをしながら事も無げに言う彼女にジュンが返事をしようとしたとき、次の変化がおきた。

「わたしは……壊れてなんか……」

 歯を食いしばるようにして立ち上がろうとしている人形の口から、途切れ途切れに言葉が発せられる。その間も、人形の視線は真紅に固定されていた。

「ジャンク、なんかじゃ……ない!」

 その言葉と共に、まるで胴部が存在しているかのように人形は立ち上がる。青白い炎のようなものが人形の体を包み、それが収まると裸だった人形は濃紺のドレスを纏っていた。

──そっちの方に記憶が繋がったか……

 水銀燈は舌打ちをし、自分も翼を広げる。この事態は想定していなかった。
 翠星石や真紅の寝ている間に話をつけ、桜田ジュンだけを連れてくるべきだったか、とちらりと考える。
 そもそも彼女としては、ジュンだけにこの人形の存在を知らせればそれで事は足りた。蒼星石に頼んで媒介を眠らせ、ジュンと二人で夢の世界に入ればいいだけの話だった。
 それがこんな大人数になってしまったのは、翠星石に説明したときのもどかしさから、様々なことを一纏めにして一度の説明で済ませようという思惑を持ってしまったことが原因だった。
 もう一つには、誰と遭遇しても人形は大して反応を返さないだろう、と高を括っていたという側面もある。
 まさか、真紅という名前にここまで激烈な反応を返すとは思っていなかったし、人形の記憶が真紅に対する憎悪と怒りの部分で繋がるというのも予想外だった。
 要は急ぎすぎてしまったのだが、それにしても。

──時系列を追って……最後に作り直されたか、その手前の破壊されたところ辺りまで順序良く思い出してくれれば好都合だったのに。

 あるいは、そういう「製造時」に与えられた記憶でなく、実際に「彼」と見た夢の末尾まで思い出すか、そうでなくても自分が体験したことを優先して思い出してくれれば。
 しかし、今となっては繰言だ。
「よりによって最悪のところに繋がるとはね」
 水銀燈は独語し、人形を大きく回りこんで真紅のもとに向かった。
 あの人形の力は未知数だが、元々あまり闘いが得意でない真紅が、片腕を失った状態でまともに相手ができるとは思えない。攻撃されるなら手助けが必要だ。
 今はまだ、真の意味での脱落者を出すわけにはいかないのだから。

「水銀燈と同じ格好なの……」
「逆十字のドレス……」
 雛苺が息を呑み、ジュンが目を見張る。金糸雀は人工精霊を呼び、いつも持ち歩いている傘をバイオリンに変えた。
「念のためかしら」
 愛想良く片目を瞑ってみせたが、その場の誰も、何も起きないなどとは思ってはいなかった。

 翠星石は混乱していた。何がどうなっているのか、分かるようでいて分からない。
 彼女は水銀燈から、媒介が生まれ変わる前の世界で視聴していたという「ローゼンメイデン」の話の筋を全て聞いたわけではない。ただ漠然と、水銀燈に相当するドールがひどく哀しい存在だということを知っているだけだ。
 それでも、人形が憎悪を抱いている対象が真紅でないことは分かっている。あの人形は、自分の物語の中の『真紅』と、目の前の真紅を取り違えているのだ。
 『水銀燈』が『真紅』をそこまで憎悪する理由については、水銀燈は端折って話さなかった。あの時点ではそれは特に必要のない話だったし、『水銀燈』が誰を憎もうと自分達にはあまり関わりのないことでもあった。
 哀しいハンデを背負い、お父様への想いで動いている第一ドール。そんな思いで人形を見ていたのに、目の前の人形はむしろ『真紅』への怒りで動き始めている。
「一体何があったですか、『水銀燈』と『真紅』の間に……」
 それに答えるだけの知識を持っているのは水銀燈だけだった。
 翠星石は真紅と人形の間に割って入ろうとする水銀燈の姿を目で追いながら、何かこの場で自分にできることを必死に見つけ出そうとしていた。

「っあああ!」
 目の前の人形から、無数の黒い羽根が放たれる。攻撃方法もその姿も、まるで水銀燈そのものだ。少なくとも真紅にはそう思えた。
「ローズテイル!」
 薔薇の花弁をぶつけ、自分に向かってくる羽根だけは辛うじて反らす。
 何がどうなっているのか分からないのは真紅にしても同じだった。ただ、降り掛かる火の粉は払わなければならない。
 真紅にとって幸いなことに、人形の第一撃の狙いはめちゃくちゃだった。怒りに任せて方向だけを示して放った、荒っぽい攻撃だった。
 同じ攻撃を繰り出したのが水銀燈だったら、片腕では逸らしきれなかったに違いない。
 いや、水銀燈の攻撃には限らない。人形が冷静に真紅を狙えば同じことだ。悪いことに、人形の飛ばした羽の速さ、密度、量といったものはむしろ水銀燈のそれよりも苛烈だった。
「弾くだけ?」
 人形の顔に、初めて憎悪と憤怒以外の表情が生まれる。それはかすかな疑惑だったが、すぐにまた怒りで上書きされてしまった。
「本気でかかってきなさいよ! それともまだ、わたしを小馬鹿にしてるの?」
「待って。貴女は何か勘違いをしているわ。私が貴女に会うのはこれが初めてよ」
 言いながら、真紅は後ろを確認した。
 ジュンの前には金糸雀がバイオリンを持って立っている。雛苺もジュンの陰から出てこちらを見守っている。視界の隅では翠星石が人工精霊に命じて如雨露を召喚していた。
「私は確かに真紅。ローゼンメイデンの第五ドール。でも貴女は……一体何者なの?」
「白々しいことを! それとも、わたしを存在しなかったことにしたいわけ?」
 人形は嫌悪感の詰まった言葉を放った。薄紅色の虹彩が異様な光を放つ。
「いいわ、そっちがその気なら、嫌でも分からせてあげる。金輪際無視できなくさせてやろうじゃないの!」
 どっ、と音を立てそうな勢いで黒い羽根の束が形成される。
「行け!」
 人形が手を振ると、それは大きく口を開けた獣のような頭部を持った蛇に変化し、奇怪な叫び声を上げながら真紅に迫った。
「ローズテイル!」
 紅い花弁が蛇の頭部を叩いたが、蛇は全くダメージを受けた様子もなく、一瞬の遅れが生じただけで真紅を指向してくる。直撃されるのはステップを踏んで辛うじて避けたが、そこに行き過ぎた蛇の体が鞭のようにしなって襲ってきた。
「ッ…」
 真紅の身体は横ざまに払われ、高く舞い上がった。
「真紅!」
 ジュンは思わず駆け出していた。金糸雀と雛苺が制止の声を上げたが、無視する。手を伸ばし、ヘッドスライディングするような恰好でどうにか落下する前の真紅を拾い上げた。
「ジュン」
 真紅は一瞬だけ安堵したような表情になったが、すぐに気づいて警告した。
「左! 来るわ」
「えっ……うわっ」
 真紅を胸元に抱え込み、そちらを向いたジュンの左肩を、蛇の胴の一撃が容赦なく叩いた。ジュンは真紅を抱えたままごろごろと転がった。

「真紅のミーディアム? 無駄なこと──」
 人形が蛇を引き戻そうと腕を振ったとき、いきなりその半身に十数本の黒い羽根が突き立った。
「何ッ」
 痛みよりも驚愕を感じたように人形はそちらを向く。
「貴女も左ががら空きよ、お間抜けさん」
 水銀燈はにやりと、しかしあまり余裕のない声で言い、横合いから滑り込むように飛んで来てジュンと真紅の脇に立った。
「お前っ、何やってたんだ」
 一番人形と真紅の近くに居たくせに、とジュンがなじると、水銀燈は肩を竦めた。
「真紅ったらとっとと逃げればいいのに、正面きって防ごうとするんですもの」
 真紅はジュンに抱かれたままむっとした顔になっただけで、水銀燈にはその表情を見せなかったが、ジュンは腹立ちを隠そうとしなかった。
「他人事みたいに言いやがって……あいつなんなんだよ!」
「第七ドールに作られて、ここに独りぼっちで放置されてる哀れな幻影よ」
「第七?」
 真紅はジュンの懐から顔を覗かせた。
「貴女、末妹に会っていたの」
「ええ、一度だけね。……詳しいことは落ち着いてから話すわ、流石にこれは想定外だったけどね」
 言いながら、横薙ぎに来た蛇の頭部に燃える羽根をぶつけて炎上させる。蛇は退いたが、炎もすぐに消えてしまった。
「まずあいつをどうにかしろよ。ここにみんなを連れてきたのはお前なんだぞ!」
「善処はするわよ」
 水銀燈は前を向いたまま薄く笑った。このまま素直に正面から力をぶつけ合ったら勝ち目はない。人形の力は出鱈目に強力だった。
 それは雪華綺晶が水銀燈の媒介に対して、他ならぬこの夢の世界での短い闘いで抱いたのと同じ印象だったが、水銀燈もそこまでの知識は持っていない。
 ただ、雪華綺晶と違って彼女には目の前の人形に対する勝算が全くないわけでもなかった。
「とんだとばっちりを喰ってしまったものね、真紅」
「謝罪の言葉と受け取っておくわ。それはいいのだけれど」
 真紅は腑に落ちないといいたげな表情だった。下手をすれば壊されていたかもしれないのにここまで冷静で居られるのは、真紅らしいといえばらしい態度ではある。
「どうして私の名前を知っているの、あの子」
「それも落ち着いてから」
 水銀燈は答えながら人形の様子を窺った。
 人形は自分の姿とよく似たドールを見て少なからず動揺しているようだった。攻撃は散発的に続けているが切れがなく、どれも水銀燈の手で防がれている。
「今のところは、『そういう風に作られたから』というありきたりな回答で満足してもらうしかないわね」
「偽りの記憶を埋め込んで作ったというの……」
 真紅は絶句して人形を見遣った。
 おぞましいと言いたげな表情になっているのは、真紅の美的感覚というよりは倫理観の方が関わってくるかもしれない。記憶、時間、経験といったものに対して彼女は潔癖だった。
 水銀燈がその表情を見れば皮肉に顔を歪めたかもしれないが、生憎と彼女は前に注意を向けていなければならなかった。
「ええ、それもごく短時間に。ほぼ即座でしょうね。もっとも──」
 黒い羽根が雨のように降り注ぐ。水銀燈は舌打ちして翼を広げ、自分達に降り掛かる分を防いだ。

──こんな形で存在し続けることまで予測していたかどうかは別だけれど。

 媒介が水銀燈を雪華綺晶の「繭」から救い出したときに、水銀燈は媒介と雪華綺晶のやり取りの記憶を「見て」いる。そのせいで人形のことも知っているのだが、当の人形に対して雪華綺晶は冷淡に「ただの舞台装置」と言っていたはずだ。
 雪華綺晶は媒介を他の契約者達と同じように自分の糧とする腹積もりだったのだろう。人形は媒介に心地よい幻を見させ、抵抗力を失わせるための道具に間違いない。
 本来、そういった道具は幻が破られればそれとともに消え失せるものだ。それだけの力しか持っていない。
 人形がこうして残っている理由は、雪華綺晶の能力の高さによるものではあるまい。媒介の心という全くの異物──あるいは薔薇乙女ですら到達し得ない遠い異世界とこの世界との接触による歪み──に触れているうちに、人形自体が命を持ち、自律して動き始め、実体を持たぬままこの夢の世界に定着したのか。
 恐らく、推論は正しい。直接の証拠はないが。
 第一、雪華綺晶がそこまでの能力を持っているのなら、姉妹の誰かがnのフィールドに入ったところを一人ずつ葬っていけばアリスゲームは簡単に終わってしまう。
 今まで散発的に続けられたゲームで誰一人落伍者が出ず、かつ誰も雪華綺晶に出会ったことがなかったのだから、nのフィールドだけに根を張る異質な存在とはいえ、雪華綺晶が出鱈目な力を持っていないことは明らかだ。
 また、そうでなければ、水銀燈自身が自分らしくなく回りくどく手配りをしていることも全くの無駄ということになってしまう。

──全く、厄介なものを産み落としてくれたものねぇ。でも、こうなったからには有効に利用させてもらうわよ。

 既に自分と蒼星石の記憶の中にしか居ないツナギを着た男と、全身が禍々しいほどの白さに包まれていた雪華綺晶とを若干恨みがましく思い出しながら、水銀燈は人形に向かって一歩踏み出し、そこで思わぬところから放たれた声に舌打ちした。

「い、いい加減にするです、『水銀燈』!」

 翠星石には、目の前の状況は絶望的に見えていた。
 手負いの真紅、力を制限された雛苺、媒介のいない金糸雀、戦い慣れていない自分。ジュンが居るとはいえ、四人でせいぜい水銀燈一人分の力しかないだろう。
 その水銀燈でさえ、隙を見て初手を取った後は防戦一方に回っている。人形の方では水銀燈の姿を見て動揺したのか攻撃を躊躇っているようだが、それでもジュンと真紅を庇うように立っている水銀燈は防禦で手一杯に見える。
 人形が本気に戻ったら、多分今度は勝てない。全員がらくたとなってこの夢の世界に閉じ込められたままになってしまう。
 それだけは避けなければならなかった。

 人形が横目で翠星石をじろりと見る。翠星石はびくりとしながらも、必死に言葉を継いだ。
「『真紅』とお前の間に何があったか知らねぇですが、そこにいる真紅はお前の知ってる『真紅』ではない……です」
 人形の攻撃の手が一旦止まる。翠星石はなけなしの勇気を振り絞った。
「翠星石達は……ここにいるお前以外のドールは、お前とは別の世界の存在なのです。それとジュンも」
「……有り得ない嘘をつくんじゃないわ」
 人形は翠星石に向き直った。翠星石は思わず目を瞬き、如雨露の取っ手をぎゅっと握り締めて自分に言い聞かせる。大丈夫、まだ泣いてない。まだ頑張れる。

「時間稼ぎにはなりそうね」
 水銀燈はふっと息をついて、ジュンを振り返った。
「金糸雀と雛苺のところまでお戻りなさい。真紅を抱いたままね。早く」
「水銀燈──」
 真紅が何かを言いかけたが、ジュンは真紅を抱く腕に力を込めて立ち上がった。
「わかった」
 水銀燈は返事を聞く前に翼を広げ、翠星石の元に飛んだ。

──これで金糸雀が技の出し惜しみをしなければ、防戦で負けることはないわね。

 むしろ今まで傍観に徹していたことが訝しいくらいだが、金糸雀には金糸雀なりの思惑があるのだろう。この場に自分の媒介が居ない不利というのもあるだろうし、何か他の考えもあるかもしれない。
 人形が自分と概略同じ種類の攻撃しか繰り出さないのであれば、金糸雀の技とは相性が悪い。それは、水銀燈自身が単独で行動している金糸雀を真っ先に狙わなかった理由でもある。
 それよりも翠星石の蛮勇が問題だった。

「真紅は私を無視し、アナタは嘘をついて惑わすの? そう! そんなにわたしを除け者にしたいってわけ」
 人形は一群の黒い羽根を礫のように放った。翠星石は咄嗟に如雨露をかざし、彼方にある世界樹の枝を呼び寄せて伸ばす。羽根は全て枝に阻まれた。
「やるじゃないの」
 人形の顔が獰猛な笑みを湛える。
「これは防げないわよ」
 また蛇のような形に羽根を集め、世界樹を回りこむように放つ。翠星石は別の枝を伸ばしてそれを防ごうとしたが、蛇はその隙間を縫って翠星石を突き飛ばした。
「きゃっ……」
 倒れこんだ翠星石を、蛇が大きく口を開けて飲み込む態勢になる。翠星石は慌てて立ち上がろうとするが、蛇の口の方が早かった。
 翠星石は観念して目を閉じかけたが、その耳に金属質の音が聞こえ、続いて蛇の発する耳障りな叫びが響いた。
 こわごわと目を開くと、蛇は庭師の鋏に顎を切り離されて退却するところだった。
「……蒼星石!」
 蒼星石は翠星石を振り返って済まなそうに微笑んだ。
「遅れてごめん」
 全くです、と減らず口を叩こうとしたが、言葉にならなかった。翠星石は蒼星石に抱きつき、蒼星石は途惑ったようにその頭を撫でた。
 大きく回りこんできた水銀燈は二人の様子に肩を竦め、人形の方を見遣った。

「双子が揃ったか」
 人形は舌打ちし、真紅の姿を追って辺りを見回す。赤い服のドールは、契約者に抱えられて金糸雀のもとに向かうところだった。
「させないっ」
 人形は翼を長く伸ばし、ジュンの足首を掴んで締め上げた。
「うわっ」
 たまらず、ジュンはバランスを崩して前のめりに倒れる。それでも、真紅を抱えた腕はそのままだった。
「放してジュン、あの子の狙いは私なのよ」
「もうばっちり全員ターゲットになってるよっ」
 ジュンは顔を赤くして怒鳴った。
「そ、それに──」
 立ち上がりながら何かを言いかけた彼の背中に、黒い羽根が降り注ぐ。相変わらず狙いは絞れていないが、それでも少なくない数の羽根がジュンの服に突き立った。
「っ、こ、こういう攻撃なら僕の方が身体が大きい分、打たれ強いだろ」
 そのまま、痛みをやせ我慢して真紅を守るように背中を丸めて立ち上がる。
「しぶといわね」
 人形は羽根を滞空させ、それに炎を灯した。
「燃やしてあげる──」
「それこそ、させるものですか」
 撃ち出す寸前の羽根の群れに、全く同じ羽根の一群が横合いからぶつけられる。羽根同士が接触して燃え上がり、下に落ちた。
「小癪なッ」
 人形は腕をぶんと振り、伸ばした翼を薙刀か大鎌のように振るった。
「くっ……」
 水銀燈は咄嗟に自分も羽根と翼で防ごうとしたが、力負けして横ざまに放り出され、倒れこんだ。
 起き上がりながら、受けるのでなく避けるべきだったと後悔したが、後知恵でしかない。その間に人形はジュンに向き直って一撃を放っていた。
 相変わらず芸のない乱射だった。しかしジュンと、たまらず金糸雀の制止の声を振り切って駆け寄っていた雛苺の足を止めるには十分だった。
「ひゃぅ!」
「ぐぅ……」
 痩せ我慢も限界だった。ジュンはよろめき、その場に尻餅をついて座り込んだ。半身になりながらも人形の方を向いたのはほとんど意地だけだった。
「しぶとさだけは大したものね」
 人形は嘲笑した。
「ミーディアムに用はないの。さっさと抱えてる真紅を放しなさい」
「ジュン」
 真紅は俯いてしまったジュンの頬に触れた。
「……もう、やめろよっ」
 ジュンは振り絞るような声を出し、真紅は驚いて手を引っ込める。痛みに耐えながら立ち上がると、ジュンは顔を上げて人形を見た。
「ミーなんとかってのは、僕は知らない。お前が何者かとか、何があったかなんて興味もない。だけどっ」
 右手で真紅を抱えなおし、人形を睨みつける。
「八つ当たりか、恨みか知らないけど、もうこいつらを苛めるなっ」
 薔薇の指輪の嵌った左の拳を突き出す。その手はみっともないほど震えていたが、それでもその顔には決意の色があった。

「どうしてもやりたいなら、ぼ、僕が相手になってやる!」

 人形の隙を窺って次の一撃を入れようと身構えていた水銀燈ははっとして目を見張った。

──そうか、これで。

 その直感は正しかった。
 真紅を抱えたジュンの足元から、いきなり一本の巨大な薔薇の蕾がぬっと生えた。足を掬われるような恰好になったジュンはまた尻餅をつき、真紅はジュンの腕の中から出て薔薇を見上げる。
「なんだこれ……」
 薔薇はゆっくりと開花してゆく。その中心にあるものを見て、ジュンは息を呑んだ。
「真紅の……腕?」
 その瞬間、ジュンの指輪から赤い光を放つ糸がするりと伸びた。
 それは真紅の右腕の関節部と真紅の肩の穴をテンションゴムのように繋ぎ、花弁の中の腕を勢いよく引き寄せた。

「私の……手」

 拍子抜けするほど呆気なく、真紅の右腕は元通り繋がっていた。
「い、今のなんなんだ? ど、どーしちゃったんだ一体」
 つい先ほどの必死の決意もどこへやら、全く状況を理解できないと言いたげに、ジュンは指輪と自分の手を眺め回す。

「凄い……です」
 蒼星石にしがみついていた翠星石の手にきゅっと力が篭る。
「ジュン……」
 蒼星石は翠星石の顔をちらりと見て、途惑ったようにまた前を向いた。翠星石の瞳には素直な憧憬と、恋する者の熱が篭っていた。それは蒼星石の見たことのない、眩しい色だった。

「まさか。そんなこと」
 雛苺を助け起こしながら金糸雀は信じられないと言いたげに瞬いた。
「薔薇乙女の外れたパーツを全バラせずに組み直すなんて非常識なことができるのは、お父様本人か……」
 雛苺は金糸雀を見上げた。
「ジュンはマエストロなのよ、カナ」
 金糸雀は頷き、生唾を飲み込んだ。
「……凄いわ、ジュン……やっぱりあれは本当だったのかしら」
「あれって?」
 雛苺に答えることも忘れたように、金糸雀は真紅とジュンを見守っていた。

 水銀燈は構えを解き、人形に数歩歩み寄った。
「そろそろ続きを思い出しても良いのではなくて? 『水銀燈』」
 自分で自分の名前を呼ぶというのも奇妙なものだと思いつつ、呆然と立ち尽くしている人形に声を掛ける。
 人形は鋭い動作で振り向いたが、その瞳は不安定に揺れていた。
「貴女の記憶にもあったのでしょう、今と似たような光景が」
「うるさい!」
 人形は黒い羽根を数本飛ばしたが、水銀燈は上体を軽く開いただけでそれを避けた。狙いが甘すぎ、先ほどまでの鋭さもなかった。

「貴女の記憶の大部分は私も持っている。ええ、ほぼ同一でしょうね。なにせ、出所は同じですもの」

 それどころか、今や人形の構成要素そのものが全て水銀燈の知識の中にあると言っていいし、人形自身が体験したことも媒介の記憶として概ね知っている。
 水銀燈は苦虫を噛み潰したような表情になっていた。こういうシチュエーションを好む者もいるのだろうが、少なくとも彼女にとってはあまり愉快な感覚ではなかった。
「何を言って……」
 人形の動揺は激しくなった。水銀燈は視線を逸らした。警戒しなければ危険なのは分かっているが、どうにも自分自身を見ているようでやりきれないのだ。
「他人から与えられた記憶だけで自己完結していてはつまらないわよ。貴女には貴女自身の体験があるでしょう。思い出しなさい、そこまで」
「わたし自身の……?」
 人形は頭を抱え、小さく震え始めた。

「貴女は今とほぼ同じシチュエーションで『真紅』と戦って敗れた。
 媒介──ミーディアム、と言ったかしら?──の力を得た、貴女の姉妹の中でも最高傑作の『真紅』には、媒介なしの貴女では為す術もなかった」

 何故そんな極端な設定にしたのかと言いたい気分はあるが、こればかりはどうすることもできない。今更異世界のアニメ製作者に問い質すことはできないのだから。
 ちらりと見遣ると、真紅はじっとこちらを見詰めている。水銀燈は話を続けた。

「その後、貴女はローゼンの弟子である人形師の手で修復され、彼の思惑に乗って姉妹達と戦い、そして姉妹ともども、その人形師のドールに薨された」

 彼女に柿崎めぐという媒介がいたことは省いた。最後に腹部を作りつけられて再生されたことも。
 何故かそこは人形に思い出させるままに留めて置いた方が良いような気がした。

「──そこまでが、貴女に捻じ込まれていた記憶。
 残念だけど、そこにいる、貴女が躍起になって羽根を当てていた真紅は、翠星石の言うとおりの存在よ。
 貴女の記憶にある『真紅』とは、言わば同名の別人ね」

 人形は何も言わずに蹲った。身体の震えはおこりのように大きくなっている。

「そこから先──九秒前の白のような世界で誰かと出会ってからが、貴女の大事な記憶。
 本物の、貴女自身の記憶ということになるわね」

 水銀燈はできるだけ柔らかくそう言い、ゆっくりと人形に近づき、肩に手を触れた。
 人形は反射的にそれを払いのけた。水銀燈は一歩下がって身構えたが、人形はそれ以上何もせず、震えつづける。
「今は思い出せなくてもいい。でも、それは君だけの大切なモノだ。君自身が思い出さなければ、他に知る者はいない。いつか、思い出して」
 いつのまにか水銀燈の隣に来ていた蒼星石が、どこか自分自身に語りかけるような響きでそう言うと、人形は初めて、かすかに頷いてみせた。

 そのまま、暫く誰も言葉を発しなかった。
 やがて、水銀燈は人形が肩を震わせて涙を流していることに気付いた。先ほどまで薔薇乙女六人を相手に大立ち回りを演じていた姿が信じられないほど、邪気のない姿だった。
 水銀燈は大きく息をついて構えを解いた。
 首をひとつ振って脇を向くと、若干非難の色を含んだ蒼星石の視線があった。
「真紅の腕、真紅のマスターの決意……こうなることを知っていてわざと利用したのかい、『水銀燈』を」
「まさか」
 水銀燈は力なく笑った。
「あれがあの男並みの法外な力を持ってるなんて、予想外もいいところよ」
 あの男、というのが誰を指すのか、蒼星石には言わずもがなだった。彼女達二人、それに恐らく雪華綺晶と蹲ったままの人形の記憶以外にもう何処にも存在しない異邦人。
 結局、彼がその力を発揮したのは一度だけで、それもその殆どは彼女達の前ではなかった。しかも、本人はそれをまともに認識していたかどうかも怪しい。
「でも、君はあの剣を使わなかった」
 蒼星石は硬い表情のまま、淡々と指摘した。追及の手を緩めるつもりはないようだった。
「メイメイに召喚させることはできたはずだ。あの剣なら、彼女を貫くことも切り捨てることもできた。違うかい」
 水銀燈は肩を竦め、頷いた。
「ええそうね。何が何でもあの人形を屠るって気はなかったわ。使える物は何でも利用する方が有利でしょう?」
 アリスゲームのためにはね、と水銀燈は笑い、蒼星石は思わず苦笑してしまう。
「……敵わないな、君には」
「何のこと?」
「僕は君ほど──」
 蒼星石が続きを言いかけたとき、蹲っていた人形の姿が不意に消えた。
「時間のようね。だいぶ手間取ったけど」
 水銀燈はやれやれと首を左右に傾けた。
「どういうこと?」
「夢が、切り替わるです」
 翠星石が真紅に告げる。
「ここからは、あのアホ人間の普通の夢です……」


 目映い光が辺りを包んだかと思うと、そこは明るい昼過ぎの教室に変わっていた。
 当番が給食道具を片付けた後なのか、教室の中には一クラスの半分ほどの人数が残ってそれぞれに好きなことをやっているようだった。
「最近こればっかりね」
 水銀燈はひょいと手近な机の上に飛び乗った。
「突拍子もない場所が出てこなくなったのはいいけれど、あまり変化がないのもつまらないものね」
「突拍子もない場所?」
 蒼星石は水銀燈を見上げて首を傾げる。
「例えば架空の宇宙ステーション、例えば古生代のジャングル。他にも記憶のどこから出てきたのか分からないような混沌とした場所とか……一度は教会の中、ってのもあったわね」
 水銀燈は遠くを見るような目になってそう言い、自分の言葉に慌てたように首を振った。
「……そうなのかい」
 蒼星石はそんな水銀燈の仕草を見なかった振りをして、内心でくすりと笑った。どうも例の病院裏の廃教会が舞台という訳ではなさそうだった。
「僕には新鮮だよ、この光景も。初めて見るものも沢山ある」
 へえ、と水銀燈は意外そうな声を上げて蒼星石に視線を向けた。
「貴女は契約した相手の夢をいつも覗いているものだと思ってたわ」
 蒼星石は苦笑した。
「マスターが命じれば毎日でも夢に入るさ。でも、できればあまり覗いてしまいたくないんだ」
「……それもそうね」
 水銀燈はまた視線を戻した。
 記憶の補正という、水銀燈が時間を掛けて手作業でやっていることを、蒼星石や翠星石は(それぞれ手段が偏っているとはいえ)自らの能力であっと言う間に片付けてしまうことができる。
 それだけに、一旦覗いてしまったら自分の思うように契約者の心を変えたくなってしまう誘惑も大きいのだろう。
「でも、君のしていることを否定するつもりはないよ」
 蒼星石も前を向いた。ジュンや水銀燈の媒介の少年の姿を目で探しながら、若干の羨ましさが混じった言葉を口にする。
「鋏で枝を切り揃えたり、如雨露で水を遣ったりして──ばっさりと不要なところを整形するのは簡単だ。
 自制さえしなければどんな相手に対してでもすぐにできる。それが僕たち双子の力だから。
 でも、君のやっていることは違う。よく知っている相手に、その人のことを想って接していなければできないことだ」
「それは誇大評価ね。私はこいつの記憶を、自分のできる範囲で、破綻が起きないように自分に都合のいい方向に改変して再構築させようとしているだけかもしれなくてよ」
 水銀燈は礼を言う代わりに素っ気無くそう切り捨て、大きく辺りを見回した。
「他の子は何処に行ったのかしらね。こう人間が多いと見付けにくいわ」
 ややわざとらしくやれやれといった風情を作り、水銀燈は天井近くまで舞い上がった。
 蒼星石は微笑んでそれを見上げ、視線を転じて教室の中の喧騒を眺めた。
 夢にしてはとても鮮明で、細かいところまで作られている。明るく開放的な雰囲気こそ正反対だが、心の木を伐る前に見たこの夢の主の夢の世界とどこか似ているように彼女には思えた。

──夢の世界を緻密に構成するという点では、心の木を伐る前の貴方も、今の貴方も変わらないのかもしれない。

 その感覚に安堵してしまうのは何故だろう、と蒼星石が首を傾げたとき、彼女が注意を向けていなかった教室の入り口の方から声があがった。

「しっかりするですチビ人間! ここはアホ人間の夢の中です、現実じゃないですよ」

 翠星石は制服姿になったジュンの袖をつまんで必死に言い聞かせた。
 ジュン達──ジュンと、彼と契約している二人、それに真紅を介してジュンから力を得ている雛苺──が出たのは同じ夢の中でも教室ではなく、その外側の廊下だった。
 廊下自体は薄暗く、まるで教室とは別の領域のように静かだった。
 水銀燈と蒼星石のように教室の中に移動しなかったのは、水銀燈の媒介の少年と彼等との距離を示しているのかもしれないし、ジュンの側で無意識に拒否感のようなものが働いたのかもしれない。
 ともあれ、三人の薔薇乙女達は引き戸を潜って教室の中を見回し、初めて見る光景を珍しがったり、既に何度か同じような光景を見て慣れている翠星石が得意げに雛苺に説明をしたり、と夢の風景を楽しんでいた。
 しかしそうしているうちに、彼女達の契約者の方は次第に顔色を悪くして、遂にはその場に座り込んでしまったのだ。
「どうしたのかしら」
 教室の中から金糸雀が顔を出したときには、ジュンは立てた膝を抱え込んで座り、俯いて上目遣いにぼんやりとした視線を引き戸に向けているだけで、翠星石と雛苺が話し掛けても反応を返さないところまで悪化してしまっていた。
「ジュンは大丈夫かしら」
「ここは、ジュンの心の傷に直に触れる場所なのだわ」
 金糸雀は真紅に目顔で尋ね、真紅は目を伏せて呟いた。
「ジュンも夢に入ることを決めたときに、こうなることをある程度は覚悟していたようなのだけれど……」
「そう……」
 頑張ってジュン、と金糸雀が右腕にそっと触れたが、ジュンはかたかたと震えるだけだった。
 それでもこの場から逃げ出したいと言ったり、目や耳を塞いでしまわないだけ、ジュンとしては意地を張っているのだ。ジュンの服装が制服に変わっているのもその表れだった。
 何度かトラウマに触れたときのジュンを見ている真紅にはそれが痛いほど分かったが、口にするのは躊躇われた。
 意地を張っているということは、この教室はジュンにとって、自分の力で何食わぬ顔で克服したい事柄なのだ。そうであれば、なけなしの意地を張っているなどと見抜かれたくもないだろう。
「貴女達、姿が見えないと思ったらここに居たの」
 水銀燈はもう一つの引き戸から出て廊下を飛んできたが、ジュンの様子を見ると眉根を寄せた。
「……まずいわね」
「あら、どうってことないのだわ」
 真紅は努めて明るい声で言った。
「確かに下僕は少し具合が悪そうだけど、私達に問題はなくてよ。それとも、私達だけでは貴女の用向きに差し障りが出るのかしら」
 水銀燈は何かを言いかけたが、真紅に問い掛けるような視線を向けると、一つ二つ瞬いてその言葉を飲み込み、ふっと息をついて別の台詞を口にした。
「そうね、差し障りはないわ。その気なら中の様子は見えるものね」
 実際には、引き戸を潜らなければ中の様子は見えない。それどころか音もほとんど漏れてこない。だが、水銀燈は厭味でそんなことを言っているわけではなかった。
 水銀燈は翠星石と雛苺の肩に手を置いた。
「貴女達はこっちにいらっしゃい。金糸雀、貴女もね」
 翠星石は抗議の声を上げそうになったが、水銀燈の顔を見て頷いた。部屋の中では少年の記憶が再生されている、それも何か重大な時点の記憶だろう、と見当をつけたからだ。
 そして、それは正しかった。当たっていなければよかったと後悔したくなるほどに正しかった。

 水銀燈に促されて三人がめいめい振り返りながら教室の中に入ってしまうと、真紅はジュンに寄り添って座った。
「ジュン」
 名前を呼ぶのは今日何度目だろうと思う。
 返答はないと思っていたのに、ジュンは僅かに身じろぎして真紅に視線を向けた。
「……お前は、入らなくていいのかよ」
「貴方を置いて行くわけにはいかないもの。全くどうしようもない下僕ね」
 こういうときの突き放した物言いは水銀燈の方が上手いのだろう、と真紅は僅かに羨望を覚えた。自分はどうしても何処かに本音がちらついてしまう。
「どうせ、どうしようもない奴だよ僕は」
 ジュンは恐怖も嫌悪感も何もかもぐるりと一周してしまったのか、膝を抱えるように組んだ腕の中に顔の下半分を埋めたまま淡々と言った。
「ウソの学校の中でも、こうやって教室に入れないで座ってるし」
 真紅は暫く黙ったまま、ジュンの横顔を見詰めていた。
 自虐の言葉には慣れていない。下手に慰めてはいけないのだとは思うが、では何と言葉を掛ければ良いのか、彼女には今ひとつ良い方法が浮かばない。それがもどかしく、そして自虐の言葉を安易に口にするジュンに苛立ちも感じる。
 それならば、と真紅はひとつ息をつき、素直な心境を口にした。
「ホーリエの選択に文句を言う気はないけれど、貴方の一体何処がこの真紅と共鳴しているのかしら」
「……なんだよ、急に」
 真紅は手を伸ばし、今度は顔をこちらに向けたジュンの頬に触れた。
「私の瞳を覗いて御覧なさい」
 ジュンは無言で真紅の瞳を見た。
「どう、何か見えて?」
 ジュンは何回か瞬いたが、よく分からないと言いたげにかすかに首を傾げる。
 真紅は僅かに落胆したが、それを表情には出さずに静かに語り始めた。
「人は皆、心に海を持っている。貴方も行ったことがあるでしょう、あの無限に広がる無意識の海のほんの一部がジュンの心の領海なの」
 人と薔薇乙女が契約するということは、薔薇乙女がその人の心の海から力を汲み上げることを契約することなのだ、と真紅は説明した。だから契約者の心が薔薇乙女に流れ込むことも起き得るのだと。
 だから、人工精霊はそれぞれの乙女の心に似合う心の持ち主を選ぶ。ホーリエがジュンを選んだということは、真紅の心とジュンの心は似通っているか、何処か平仄が合っているということなのだ。
「マスターの心はドールの心。蒼星石がマスターの心の影を壊していたら……あの子の魂は遠くに行ってしまったでしょうね。それ程までに契約者と私達は……今のジュンと真紅は近いものなのよ」
 私の瞳の中に貴方の心は映っていて? と真紅は小さな両手でジュンの頬を挟むようにして顔を近づける。
 だが、ジュンは辛そうな表情になって視線を逸らしてしまった。
「……僕はお前と近くなんかない」
 ジュンは腕を解き、真紅の肩を掴んでそっと引き離した。真紅は何も言わずにジュンを見詰めた。
「わかってるさ、そんなこと」

 真紅がジュンに薔薇乙女と契約者の繋がりを語っている頃、教室の中では過去の情景のリプレイが上演されていた。
 水銀燈がジュンの状態を見て表情を険しくしたのも当然だった。
 リプレイされているのは昨年の文化祭の前、ジュンのクラスから学年対抗プリンセスの候補が選ばれたことが発表されたことから始まる、ジュンにとっては非常に厳しい情景の連続だった。教室に入る前から躓いているのでは、到底正視に耐えられないだろう。
 水銀燈の媒介の少年は、一貫してあまりやる気のない風で教室の真ん中後方に座っている。雛苺の前契約者とは仲が良いようで折々に話はしているが、全体としてみれば何にもあまり関心を向けずにぼんやりと過ごしているようだった。
 リプレイの中のジュンはそうではなかった。プリンセス候補に選ばれた少女の方を熱っぽい視線で見遣り、翌日にはその娘をモデルにした衣装のスケッチを、あろうことか課題のノートに描いてしまっていた。
「随分積極的かしら」
 金糸雀は目をぱちくりさせた。
「でも、あのノートは国語のノートみたいだけど……」
 金糸雀の言葉が届いたわけではないが、ジュンもどうやらノートを提出する寸前にそのスケッチを描いたことを思い出したらしい。ジュンはそのスケッチを描いたページだけをノートから切り取り、鞄に仕舞いこんだ。
 水銀燈以外のドール達が息を呑んだり小さな悲鳴を発したのはその後の場面だった。

 ジュンが衣装のラフスケッチを描いたノートのページが黒板の真ん中に貼り出されている。
 勿論、賞賛の意味合いでなど欠片もない。むしろ反対だった。濃緑色のはずの黒板は色とりどりのチョークで書き殴られた非難、揶揄、悪意ある煽り文句といったもので埋め尽くされ、大袈裟に言えばほとんどその色を留めていない。
 遅れて教室に入った少年が見たのはその黒板の惨状と、その前で座り込んでしまっているジュンの姿だった。
「これは……」
 蒼星石は呆然と黒板を眺めた。
「酷いの……ジュン悪くないのよ」
 雛苺は泣き出し、金糸雀に縋り付いた。
「醜い嫉妬。才のある者が疎まれるのはいつも同じかしら」
「嫉妬だけではないです」
 翠星石は込み上げて来る感情をどうにかこらえていた。中傷の一つを指差す。
「男らしくないマイナーな趣味持ってる……って、排斥の対象になってるですよ」
 ジュンは既に数人の大人に抱えられて教室を出ていた。教室の中は事情を知らずに黒板を見て驚く者、黒板に中傷を書いた者を非難する者もちらほらと居たが、大半は黒板を遠巻きにして無感情な顔で眺めているだけだった。
「難しいことはわかんないけどさ、苛めの構図、ってヤツ? あれだよ」
 水銀燈の媒介の少年はドール達を振り向いてそう言い、黒板を消し始めた。しかし、チョークを大量に浪費して書かれた文字たちは分量が多すぎ、なかなか一気に消せない。
 結局少年はバケツに入れた雑巾を持ってきて、濡れ雑巾で黒板を拭いた。
「桜田は頭はいいんだけど、友達を作るのが下手で大抵一人ぼっちだったからさ」
 少年はドール達に向き直り、苦い声で言った。
「金持ちのボンボンでお高く止まってる、って言うヤツもいたし、親譲りの変な趣味持ってるって前から噂を広めてるヤツもいた。そういうのが一気に噴き出したんだよな」
 もちろんジュンの鞄から絵を盗み出して黒板に貼り付けた者が直接の原因なのだが、少年はその一人か数人だけに罪を擦り付ける積もりはないようだった。
「あとは、便乗、便乗さ。多分半分くらいのヤツはただ面白がって書いただけ。雰囲気に乗っただけだ」
 少年はバケツの水で雑巾を洗い、残りをどうにか消してしまった。
「あと、俺みたいなヤツもいる」
 少年は本来の色になった黒板に、何にもしなかったヤツ、と書いた。一拍の間自分の字を見つめて、そして雑巾で拭き取った。
「注意すればできた。前から桜田の粗を探して付き纏ってるヤツがいるのは知ってたし、黒板の事だって、桜田より先に見つけたヤツが消しちまえば、桜田が見ることはなかったんだ」
 みんな最低ヤローだよ、もちろん俺もだ、と少年はクラスメイトを一纏めにして吐き捨てた。
「俺は桜田が課題ノートになんか描いて学校に持ってきたのは知ってたんだ。あのとき学校に持ってくんなよって注意しとけば、何も起きなかったかもしれない」
「意味のない繰言よ。それとも自虐で許しを請いたいの?」
 水銀燈は媒介の妄想を冷徹な言葉で止めた。

 蒼星石が水銀燈の心境を知ったら、微笑むか苦笑したかもしれない。
 媒介は実際には回りくどい方法でジュンにとってのカタストロフィを回避しようとし、それ自体は成功した。ただし、ジュンにとっては更に辛い結果を招来することになった──水銀燈はそのことを説明せずに、彼の言葉だけを窘めて話を終わらせた。
 その行為をしたことで、ある意味で更に酷い結果を招いたのだ、と告げるのは、行為の意図が何処にあったかの記憶を持たない彼にとってあまりに残酷な気がしたからだ。

 自分がそこを敢えて触れないことは、自ら口にしたように「都合の良い記憶の捏造」とも言えるのではないか、という認識は針のように水銀燈の内心のどこかを刺した。だが、彼女はそれを無視して言葉を続けた。
「あちこち記憶を失っていても、後悔する癖は抜けてないようね。卵が割れた責任の所在を後からどう論争しても、卵は元には戻らないわよ」
 その言葉は間接的に媒介のした行為をも赦すものだったが、口にした本人以外は恐らく誰もそのことを知らない。
「……ごめん」
 少年は素直に頭を下げた。
 水銀燈は軽く頷き、今日は本当に悪い方にばかり事が進んだわね、と溜息をつく。一気呵成に物事を進めるというのは、なかなかに骨が折れることだった。


 教室の風景はまた賑やかな昼休みに戻っていた。
 いち早く気を取り直した金糸雀が少年にあれこれ質問し、少年もすぐにいつもの調子に戻ってそれに答える。どこか薄ぼんやりしていたモノも少年が説明にかかると急にはっきりとした輪郭を持って存在し始めるのは、夢の中特有の光景だった。
 雛苺は巴の姿を見つけて盛んに話し掛け、抱っこしてとおねだりしてみたり、膨れたり笑ったりしてみている。もちろん夢の中の虚像だからろくに反応を返しはしない。雛苺もそれは分かっているはずなのに、楽しそうに巴の隣に寄り添っていた。
 蒼星石と水銀燈も少年の傍でなにやかやと話をしているのを確かめてから、翠星石はそっと教室の引き戸を開けた。ジュンのことが気になっていた。

──まあ、真紅がついてるから、大丈夫なんでしょうけど。

 翠星石にも、自分より真紅の方がジュンに近いのは分かっている。普段の日常では等距離と言ってもいいが、こと重大な局面では真紅とジュンは表裏一体といってよいほど近い存在だった。
 ジュンが何かを乗り越えようとするときは、必ず真紅が関わっていた。nのフィールドに漂っていた腕を取り戻したときもそうだったし、先ほどの人形との戦いでも、ジュンは真紅を必死に護ろうとして何かを吹っ切り、腕を繋ぎなおすことができたのだ。
 真紅がいればジュンには他に助けなど要らないだろう。むしろ、他人が介在するのは邪魔なのかもしれない。
 それでも翠星石はジュンの様子を確かめたかった。理由は自分でもよく分からないが、自分だってジュンをマスターにしているのだから当然だ、と思うことにする。
 何処となくもやもやした気分のまま引き戸を開けると、ちょうど真紅が引き戸の前にいた。
「ジュンは……」
 真紅は少しだけ驚いたような表情になったが、大丈夫よ、とはっきりした声で言った。
「これから中に入ろうと思っていたところよ」
 翠星石は真紅の背後を見た。ジュンは廊下の壁に手をついて、前かがみになりながらもどうにか立っている。操り人形のようにぎこちなく、それでも一歩ずつ引き戸に向かってきていた。
 頑張って、と翠星石は声には出さずにジュンを見つめた。これで中に入れれば、ジュンは多分何かもう一つ吹っ切ることができる。
 それは何なのか、具体的には分からないけれど──
「──翠星石」
 思わず身を乗り出していた翠星石を真紅がつつく。
「あ、はい」
「もう水銀燈の用向きは終わってしまったのかしら」
 翠星石は一拍の間考え、いいえ、と答えた。
 教室の中は少年を中心にして雑談に花が咲き、何とはなしに和気藹々といった雰囲気になっている。普段の水銀燈ならそういうことを無駄だと断じて、用事は終わったと皆を追い出してしまうはずだ。
「元々水銀燈はジュンに話したいことがあったはずです。だから、多分」
「中で待っている、ということ?」
「はいです」
 もっとも今はみんなアホ人間と騒いでるだけですけどね、と翠星石は水銀燈を真似て肩を竦めてみせた。
「そう。だったら、どうしても中に入らなくてはね。これだけ前座芝居を長く見せて貰ったのですもの、本番くらいはこちらから出向かなくては」
「……だから、そのために、もうここまで来てるだろっ」
 ジュンは青い顔のまま強がってみせる。
「ぼ、僕は別に教室に入れないわけじゃないんだ。ただ、ちょっとこういう世界に慣れてないから、調子が悪いだけで」
「それならば早くなさい、あまり待たせると水銀燈が痺れを切らして襲い掛かってくるかもしれないわよ」
「……わかってるよ」
 いざるように引き戸に近寄るジュンを、真紅は微笑んで見守っている。翠星石は何故かそれを見詰めるのが苦しくて、ジュンの顔に視線を向けた。
 ジュンが減らず口で言い訳ができるような心境になれるまでに真紅がどれだけ頑張ったのか、翠星石にはわからない。ただ、真紅は必要ならばいくらでも時間を掛けてジュンを励ますだろう、ということは知っている。
 真紅は不器用だ、と水銀燈は言った。そうかもしれない。それでも、真紅には時間がかかっても自分のやり方を通すだけの粘り強さと、それを裏付ける賢さと忍耐がある。
 翠星石はそういった資質には劣っている。その代わり、直感で物事を見抜く力や行動力には長けていた。
 そういった長所は、真紅にとってはいっそ眩しいくらいに映ることもあるのだが、今の翠星石自身としては全く意味のないことにしか思えなかった。
 むしろ、如雨露を持たないときの自分は全く無力だ、と思う。いつでも直截な言葉か捻くれた台詞しか掛けてやれないなんて。それでも──

「──頑張るです、ジュン」

 言ってからハッと気づく。今度はつい口に出してしまった。
「言われなくても頑張ってるだろ」
 ジュンは言葉だけはすげなく、しかしあるかなしかの感謝を込めて返事をした。
 翠星石は思わず口元を手で覆った。

──翠星石の気持ちが、通じたのですか。口を滑らせただけなのに……

 そんなことは契約しているから当然なのかもしれない、とは思う。しかし、それでも素直な嬉しさが胸を満たしていく。
 翠星石は泣いているのか笑っているのか自分でもよく分からない顔で、頷く代わりに毒づく。
「そんなヘナヘナな姿勢で言っても説得力ゼロですぅ。悔しかったらもっとシャキっと背中伸ばして二本の足で立ってみやがれですこのチビ人間」
「うるさい!」
 ジュンは顔を真っ赤に染め、今度は本当に怒りを露わにした。
「た、立って堂々とすればいいんだろ。やってやるよ」
 もう、引き戸まではわずか数歩の距離だった。ジュンは翠星石の言ったとおり、壁に寄りかかるのをやめ、背中を伸ばしてギクシャクと引き戸に歩み寄る。
 だが、それはあと僅かのところで止まってしまった。

 三人とも、暫く無言だった。
 あと一歩。それがなかなか踏み出せない。
 こんなときジュンの肩を抱いたり、後ろから支えて導いてあげられたら、と翠星石は思う。偶然にしても気持ちは伝えられるが、そういったことは彼女には無理なのだ。
 それは人形と人間だから、とか、作られたときに与えられた性格付けが、とかいった高尚なこととは無関係だった。単に、彼女とジュンの背丈の差だけの問題だ。
 それでも、できることはないわけではない。彼女は真紅の手を取った。
「翠星石……?」
 真紅の手を、ひどく震えながら引き戸の方に伸ばそうとしているジュンの手に重ね、自分もそこに手を添える。真紅はやっと得心したように頷き、ジュンの手を引き戸の取っ手のところに導いた。
「ほーらジュン、また前かがみじゃねーですか。陰険おじじもびっくりの前傾姿勢ですぅ。いっそ杖でも突きますか?」
 目の前の真紅は安堵したように微笑んでいる。それは先ほどまでの作った微笑ではなく、彼女自身の嬉しさが滲み出た笑いだった。
 ジュンがどもりながら抗議するのを聞きながら、自分は今度はちゃんと笑えているだろうか、と翠星石は思った。


「さて……全員揃ったわけだけど」
 少年はきょろきょろと周囲を見回した。
 彼の近くには蒼星石と水銀燈が座り、雛苺は無理をしてどうにか巴の虚像の膝の上に乗り、他の四人はジュンを真ん中にして、入り口近くの場所に集まっていた。
「みんな集めて、どんな話があるんだい」
 言葉を向けられた水銀燈は、最近お気に入りらしい教卓の上に飛んでいった。そこに腰を掛け、ジュンに視線を向ける。
「初めに言っておくけど、今日はことごとくサイコロに裏切られた心境」
 彼女にとっては概ね悪いほうにばかり転んだわけだが、水銀燈は悔しさや苛立ちは見せなかった。
「そこの媒介が酷い夢を見たお陰で、結果的には話したかったところ以外まで生々しく見せられたわけだけどね」
 皮肉たっぷりの口調で言ったが、当の本人には上手く伝わらなかったようだ。媒介の少年はどちらかと言えばこそばゆいような表情をしている。
 水銀燈はまじまじとその顔を見遣り、全員の視線が少年に集まってから大仰に肩を竦めてみせた。
「ま、事故だと思って頂戴。本人にもどんな夢を見るのかまでは操れないのだから」
 そもそも全員同意の上で同行したのですものねぇ、と言い置くのも忘れない。
 ブーイングこそ出なかったが、何人かはぶすっとした顔になった。
「あの子についても、やはり事故なのかしら」
 真紅は生真面目な表情のまま、真っ直ぐに水銀燈を見る。水銀燈は視線を逸らさずに答えた。
「あの人形の件は私の見込み違いよ。予想外もいいところだったわ。甘く見過ぎていたかもね」
 動き出して立ち上がるくらいのことは想定していたが、真紅を見て一気に記憶が戻るとは思いもよらなかった。しかも完全に全てというわけではなく、考えうる限り最悪の時点まで。
 まるで何者かにその辺りを操られているようでもあった。
 もっとも、仮に操る者がいたとしたら、その正体には大体目星はついているのだが。
「それで話っていうのは……」
 ジュンはそちらに興味が向いているようで、水銀燈を急かした。意地の悪い見方をするならば、彼にとってここは依然として居心地が良くない場所だから用件を早く済ませたいのかもしれない。
「人形のことなのか?」
「まずはそれね」
 単刀直入に言うわ、と水銀燈はジュンに視線を向けた。
「人間、貴方には、あの人形のボディと衣装を作って欲しいの」
「え? ぼ、僕があれの……なんでだよ」
 ジュンは混乱しているようだった。水銀燈はそれを無視して、事も無げに続ける。

「勿論、あの人形を現実世界に存在させるためよ」

 何のことか分かっていない少年以外の全員が一様に息を呑んだ。
 最初に小首を傾げてコメントしたのは金糸雀だった。
「水銀燈らしい大胆な提案ね、でも理由がわからないかしら」
 彼女は水銀燈の意図を肯定も否定もしなかったが、他の反応は概ね否定的だった。
「水銀燈、遂に頭イカレちまったですか」
 翠星石は直截な言葉を放った。
「アンタがその……『水銀燈』に拘りを持ってるのは分かってますけど、無茶苦茶です。そんなことできるかも分からんですし、出来たとしても何になるって言うんですか」
 真紅は翠星石を手で制してジュンを見遣り、水銀燈に視線を戻した。
「此処にいればあの子は曲がりなりにも自分の力で動けるのだわ。此処は幻影──アストラルでも存在することができる場所なのだから。でも現実世界ではそうは行かない。エーテルの体が自律して動くためには誰かが力を与えるか、それに代わるものが必要よ」
 例えばローザミスティカのような──真紅ははっとして水銀燈を見詰めなおす。
「まさか、貴女はローザミスティカを……」
「そうなったら美しいお話ね。でも生憎とただの可哀想な人形にそこまで入れ込むような趣味は持ち合わせてないわ」
 むしろ逆ね、と水銀燈はあっさり首を振った。
「此処を含めて、nのフィールドにあれを置いておくのは危険なのよ。おわかりでしょう、さっきのことだけでも」
 その点について異議のある者はいなかった。
 更にもう一つ、と水銀燈は若干間を置いて続けた。
「あれの力を雪華綺晶──第七ドールが利用する可能性もあるわね」
 真紅は瞬き、先程の水銀燈の言葉を思い起こした。
「貴女、第七に逢ったと言っていたわね、水銀燈」
「ええ。中々の狂いっぷりだったわよ」
 水銀燈は何かを思い出すように視線を天井に向けた。
「彼女は何もかも異質。それに、言わばあれの生みの親でもあるわね。もっとも意図して作り上げたのではなくて、勝手に育ってしまったのでしょうけど」
 真紅は少し顎を引き、金糸雀と視線を交わした。
「詳しく教えて欲しいのだわ、水銀燈。私たちの末妹と、あの子の作られた経緯を」
 水銀燈は頷き、長くなるわよ、話してるこっちがうんざりするほどにね、と前置きをしてから、自分の媒介のこと、そして雪華綺晶のことを順を追って語り始めた。


 水銀燈が長い話を終えると、その場には何とも言えない空気が流れた。
 事前に話を知っていた双子の庭師以外の者にとって、水銀燈の媒介が奇妙な存在だったことはもちろん驚くべき事実には違いない。しかし未だに見たことのない第七ドールの異質さはそれを遥かに上回る衝撃だった。
「実体を持たないゆえに、何にも縛られない自由な存在……」
 そんな都合のいいものなのだろうか、と真紅は首を傾げる。
「制約はあるのよ。現実世界に出て行けない、力を振るえない、というのはアリスゲームを遂行する上で絶対的な不利かしら」
 金糸雀は床に丸を描くように傘の先を回した。
「捕食者としては優秀でも、正体を知られて警戒されて、例えばnのフィールドでいつも複数で行動されたら息を潜めてるしかないの」
 今度は動き回っている生徒の虚像を傘の先でひょいひょいと示す。なにやら彼女としては傘を説明の補助に使っているらしいが、お世辞にも役に立っているとは言えなかった。
「それにマスターの心を糧にしてるなら、一人か二人しか起きていない時代に姉妹の数を減らしていったら、下手をするとその先自分の糧が断たれてしまうかしら」
 翠星石は得心したようにぽんと手を鳴らした。
「今まで誰も会ったことがなかったってのは、そういうことだったですか」
「推測だけど、多分間違いないかしら。七人全員が揃って『起きている』時代に一気に勝負を掛けないと雪華綺晶の勝ち目はない。しかも複数を一時に相手取ったら勝てないかもしれない。こいつはハードルゲロ高かしら」

 ただし、と説明をしながら金糸雀は思う。
 こちらとしてもnのフィールドに潜む雪華綺晶を最初のターゲットにするわけには行かないから、初期配置時点ではさほど不利とは言えないかもしれない。
 何しろ何処にいるのかさえ知られていないのだから「誰かの次」の目標にするしかない。そして、雪華綺晶側は戦いの行く末をじっくり観察した上で、戦いがnのフィールドで行われているときを選んで好きなように介入できる。あわよくば漁夫の利を狙うこともできよう。
 気長に考えれば、どこか戦機が動いたところで後の先を取ることが出来る彼女はゲームのプレイヤーとして特殊だが立場は互角とも言えるだろう。
 だが、それは正体が知られるまでの話だ。
 金糸雀は巣を張って昆虫を待ち構える蜘蛛を思った。巣を掛ける場所をどれだけ選んだところで、そこに巣があると分かれば虫はなかなか寄り付かない。
 そして今、最初の待ち伏せに失敗してしまい、巣の在り処を虫達に知らせてしまった蜘蛛はどう行動するのだろうか?
 巣を掛け変えて更に時を待つのか、それとも慣れないけれども襲撃者として動こうとするのか。

「なんか、厭だな俺」
 水銀燈と雛苺がジュンのところに集まり、結果的に少し皆と離れてしまった自分の席で、少年は呟いた。
「どうしたんだい」
 隣の席に器用に座った蒼星石が少年を見上げる。
 彼女にとって、水銀燈の長い話を聞いているのは微妙な心境だった。退屈とは言わないがあらましは知っていたし、言わば当事者の一人でもあったからだ。
 それでも、蒼星石は同意や意見を求められたとき以外は黙って聞き役に徹していた。語る方に加わるには彼女の関わり方は薄すぎた。
 それについては致し方ないと思う。何しろ雪華綺晶が二人を襲撃したとき、彼女は自分自身のことで手一杯だったのだから。
「アリスゲームが大事ってのは知ってるけど、今の説明じゃ……なんていうか」
 昔の俺なら上手く説明できたのかな、と少年は情けない笑いを浮かべて蒼星石をちらりと見る。彼女は困惑して首を傾げることしか出来なかった。
「雪華綺晶って最後に生まれたんだよな」
「そうだね」
 蒼星石は少し遠い目をした。

 人形師にして錬金術師ローゼン、彼女等の父であり創造主は、膨大な時間を費やしてローザミスティカを生成した後、最高の素体──ローゼンメイデンを創り上げた。
 しかしローザミスティカを七つに割ったひと欠けずつを入れられた彼女達も、彼の追い求める究極の少女たり得なかった。
 一体作っては嘆息し、二体作っては絶望に打ちひしがれながらも、ローゼンは自分の娘達に愛情を持って接することは止めなかった。姉妹の数が六人になったときも、彼はまだ創るのを止めようとはしなかった。
 しかし、姉妹の誰にも見せずに七体目を作った後、ローゼンは遂に絶望の淵から帰ってこなかった。彼は近くて遠い何処かに去り、彼女達は野に放たれ、そして──

「作ったときはみんな、その時の最高傑作なんだよな」
 少年はぽつりと言った。蒼星石ははっとして少年の顔に視線を向けたが、少年は考えを言葉に纏めようと必死になっているだけで、その一言に特別に意味を持たせたわけではないようだった。
 蒼星石はまた、そうだね、とだけ答えた。
 彼女達は皆、最高傑作でありながら同時に不完全だった。それが薔薇乙女の誇りであり負い目でもある。
 彼女達が皆アリスになろうとするのは、父に逢いたいという願望のためだけではなく、真の最高傑作かつ完全なモノに成るためでもある。いや、何人かにとってはむしろその方が重要なのかもしれない。
「だったら……どうして雪華綺晶だけ、独りぼっちにしたのかな」
 少年は蒼星石に視線を向けた。彼女は返事に詰まり、その視線をただ受け止めるしかなかった。
「あの説明のままじゃあ、まるでアリスゲームをするためだけに生まれてきたみたいじゃないか」
 それは記憶を失ったことでほとんど何も知らない状態になってしまった少年だからこそ生まれた感想なのかもしれない、と蒼星石は思った。
 幼稚な感想かもしれない。だがいつもそうであるように、今回もまた彼女には頭ごなしにその感想を否定することはできなかった。
「……僕達だって似たようなものさ」
 金糸雀を中心に、雪華綺晶に対してどうすべきか、というような話題になりかけている他の面々を眺めながら蒼星石は呟いた。
「人間が子供を作って自分の遺伝子を残すように、僕たちはアリスゲームを克ち抜いてアリスになる。そう刷り込まれているんだよ」
 どんなに動くさまが似ていても、彼女達は人間ではない。遺伝子を残すことを最初から否定されているという点では生物であるとさえ言えない。
 しかしどれほど外見が同じだからといって、ただの自動人形でもない。自律して自我を持ち、生きる意味と闘う意味を明確に持っているのだから。
「本来、他のことは全てそのための準備や布石に過ぎない。マスターとの生活も、姉妹での語らいも……」
 少年は蒼星石を見詰めた。その視線を感じながら彼女は敢えて淡々と言葉を続ける。
「雪華綺晶の立場では偶々そういったものが周囲に無いだけなんだ。
 それに……これは僕の推測に過ぎないけど、彼女が本当にマスター達の心を吸って生きているのなら、その心に触れることだってあるんじゃないかな」
 最後の一言は、どちらかと言えば蒼星石の願望に近かった。
 少年は暫くの間、どうにか彼女の言葉を納得しようとするように黙り込んでいた。やがて、申し訳なさそうにごめんと首を振った。
「……それでも厭だな、俺。良いとか悪いとかじゃなくて、なんか、上手く言えないけど、厭だ」
 蒼星石はますます困惑して少年を見詰め返した。
 もしかしたら自分は何か大事な視点を欠いているのではないか、とふと感じてしまったからだ。
 少年は何を誤解したのか、ごめんな、とまた頭を下げ、ついでに帽子の上から蒼星石の頭をわしゃわしゃと撫でた。
 どうやら彼なりの謝罪のつもりらしいが、少年の撫で方は壊れ易い人形に対するものというよりは親しい元気な男の子を構ってやるときのように粗雑だった。
 父親からも今までのマスター達からも、こんな撫で方をされたことはなかった。彼等は常に彼女を大切なドールとして丁寧に扱ってくれていたし、そもそも頭を撫でるという行為自体、あまり一般的でない場合が多い。
 しかし、不思議と少年の手の感触は悪いものではなかった。彼女は素直にそのがさつな謝罪を受け入れた。

 蒼星石がもう少し散漫な性格か、そうでなくても気持ちに余裕があれば、少年の直前の言葉の意味をおぼろげなりとも理解したかもしれない。
 しかし、こういった契約者以外との些細な触れ合いが雪華綺晶には有り得ない、彼女の世界は完全に閉じているのだとこの場で再認識するには、蒼星石の感性は生真面目過ぎていた。


 夢から出ると、空はもう真っ暗だった。部屋の真ん中に敷いた布団で相変わらず太平楽な表情で眠っている少年をそのままにして、ユニットバスの鏡からジュンと薔薇乙女達はそれぞれの家に戻った。
 ジュンの部屋に戻った真紅は右手で時計を持って時間を確認し、ひとつ溜息をついた。右腕側で何かをするというのは久しぶりの感覚だった。
 もっとも、真紅にとっては片腕が戻ったことよりも、何処かが欠損していても自分は自分なのだということを知ったときの方が嬉しかった。右腕がなくても不便なだけだ。今なら、負け惜しみでなくはっきりとそう言える。
 今も彼女に背を向けてなにやらパソコンに熱中しているジュンをちらりと見遣り、もう一度時計に視線を落として先程のことを思う。

 別れ際、真紅は最後に鏡の前に残った。ちらりと部屋を振り返る。
「水銀燈」
 蛍光灯が消されて豆電球の明かりだけになった部屋の中で、水銀燈は姉妹達を見送ろうともせず、窓枠に座ってなにやら外を眺めているようだった。
「教えて貰ってもいいかしら」
 薄暗い中で水銀燈がこちらを向いた。真紅は風呂場を出て部屋の戸の前まで歩み寄った。
「あの人形がどうして『真紅』をあれほど憎んでいたのか」
「『そういう風に作られた』では満足できないの? さすが、無駄な知識欲の塊ねぇ」
 くすくすと笑い声が夜風に乗って吹き込んでくる。
「茶化さないで。……知りたいの」
「呆れた」
 水銀燈は肩を竦めた。
「どう考えたって面白くない物語なのはお分かりでしょうに」
「それでも知りたいの。お願い」
 貴女が話したくないのなら諦めるけれど、と言うと、水銀燈は座っていた足を組み替えて視線をまた窓外に向けた。
「腹部のないドールが勝手に動いて貴女の足元に擦り寄ってきたら、貴女はどうする?」
 ああ、聞くまでもなかったわねぇ、と水銀燈はにやりと笑い、先程の光景を思い出した真紅は恥ずかしさとからかわれたことへの怒りで頬を僅かに染めた。
「作られると同時に工房を出され、それからアリスゲームにのみ生きていた『真紅』は違う反応をしたのよ。どうやら、心霊現象には強かったようね。
 ローゼンメイデンの第一ドールと名乗るだけで、ただ『お父様』を求めること以外にろくに記憶も知識も持っていなかったその不完全な人形に手を差し伸べたってわけ」
 とは言っても、そのとき人形はもう逆十字のドレスを着ていたのだけどね、と水銀燈は自分の服を指差す。
 真紅はどきりとしたが、黙って頷いた。水銀燈の仕草は、まるで自分自身のことを話しているかのようだった。ただ、それは──
「世に放たれてから幾つかの時代を経て、その間ひたすら姉妹と戦い続けてきた彼女にとっては、その人形に優しくしてあげること自体が慰め……というのは言い過ぎかしらね。癒しだったのかもしれない」
 それは、まるで水銀燈自身が──
「『水銀燈』は作りかけの習作。あるいはジャンク。動力源も胴体部も持たないのに自律して立って動く化け物とも言えるわね」
 化け物という言葉に真紅が抗議しかけるのを、貴女だって化け物と思ったでしょう、と水銀燈はにやりと笑って制した。
「その人形が、人形らしく楽しく暮らしてくれること。それが彼女の望みだった。
 でも人形はあろうことか動力源を手に入れ、いよいよおおっぴらにローゼンメイデンを名乗ることになってしまった」
 その動力源も誰かから奪ったのではなくて、『お父様』が後から思い直して彼女にくれたらしいわ、と水銀燈はシニカルな笑いを浮かべる。
「どうして……」
「そこは明かされていないの。だから実も蓋もない言い方をすれば、作劇上の都合でしょう。『水銀燈』をより悲劇的に見せる為の。
 劇中の経緯から敢えて推測するなら、やっと『お父様』への想いに気付いて遅まきながら第一ドールとして認めてあげた、という筋なのかもね」
 水銀燈はあっさり切り捨て、あっさりと続けた。
「ともかく、それで彼女は思ったままを口にしてしまうのよ。貴女は作りかけの可哀想なドール、究極を目指して作られた私達とは違う、ってね」
 真紅はなんとも言えない気持ちになって水銀燈を見た。

「『水銀燈』は怒って『真紅』が大切にしていたブローチを壊してしまう。それは『お父様』から貰った大切なもの。それを見て、彼女は遂に本音を吐くのよ。
 『どうして……ジャンクのくせに。作りかけの……ジャンクのくせに!』
 ってね」

 端折っているけどだいたいこんなところね、と水銀燈は薄く笑った。これじゃ恨まれてもしようがないでしょう? と肩を竦める。
 真紅はありがとうと言い、ごめんなさい、と頭を下げた。
「謝るようなことをされた覚えはないけど」
 水銀燈は首を傾げた。真紅はふるふると首を振った。
「『真紅』のことを話していた貴女は、まるで自分の過去を振り返るようだったわ」
「そう?」
「ええ。貴女──戦いだけに生きていたという『真紅』は、貴女にとてもよく似ていたから。そんな風に突き放して話すのは、辛いのではなくて?」
 それなのに、私は貴女に無理を言ってしまった。ごめんなさい、と真紅は俯いた。
 水銀燈はやや困惑したように黙っていた。そういう視点があるとは思わなかったのかもしれない。
「それから、もう一つ」
 真紅が続けると、水銀燈はくすくすと笑った。
「やけに素直なのね。いいわ、神父の代わりに懺悔を受けてあげる」
「茶化さないで」
 真紅は少しだけむきになったような声を出したが、すぐに改まった調子になった。
「……ジャンクなんて言って悪かったわ」
 水銀燈は今度ははぐらかすようなことは言わなかった。それは『真紅』が『水銀燈』に放った言葉のことでないのは、説明されるまでもなかったのだろう。
 真紅はもう一度、ジャンクなんて言ってごめんなさい、と呟くように言い、顔を上げた。不粋だとは思うが、聞きたいことができたのだ。
「貴女の知っている世界でも、私は同じことを言ったのかしら」
「……シチュエーションに違いはあったけれどね」
 水銀燈は漫画の場面のように激昂する代わりに、真紅の右手を取った。
「そして貴女はこうも言っていた。
 『ジュンが迷子のぬいぐるみや私の右腕を蘇らせたように、呼んでくれる声に気付きさえすれば、誰もジャンクになんてならない。そうジュンが私に教えてくれた』
 ──それは、この世界でも貴女の想いとして捉えていいのかしらね?」
 真紅は目を見張り、それから返事の代わりに水銀燈の手をきゅっと握った。
「本当になんでもお見通しなのね」
 本音を言えば少しだけ怖い。今の水銀燈に仕掛けられたら、勝ち目はないように思う。
「たまたま知ってるだけよ」
 真紅は知らないことだが、水銀燈は以前、自分の媒介が蒼星石に答えた言葉を使った。それなりの諧謔を秘めた言葉なのだが、その意味も真紅には分からなかった。
 ただ、水銀燈に自分の心持ちが伝わっていることだけは、素直に嬉しかった。自分は元々戦いが得意ではない。それよりは、こうして姉妹や契約者、そしてその周囲の人々と心を通わせていたいのだ。

 実のところ、もう一つ真紅が知らずに通過してしまった出来事がある。

 水銀燈が漫画の場面のように激昂しなかったのは当然だった。怒る理由がなかった。
 漫画の世界の真紅は、この時はまだ水銀燈が柿崎めぐと巡り逢って、事実上めぐのために戦っていることを知らずに、水銀燈を激昂させる一言を放ってしまった。
『あなたのように人間を糧としか思わない子に、マスターとドールの絆なんてわからないでしょうけれど』
 それは、少なくとも漫画の世界では真紅が水銀燈の「外面(そとづら)」しか見ていなかったことを示している。水銀燈が決して自分の行動の裏を取らせなかった、とも言える。
 だが、水銀燈は敢えてそのことには触れなかった。

「もう二十一時ですか?」
 回想を破る明るい声が響き、階下でなにやらやっていた翠星石が部屋の扉を開けて入ってきた。真紅は目を上げて微笑んだ。
「いいえ、まだ二十四分三十七秒あるわ」
「じゃ、そんなに急がなくても良かったんですねえ」
 むう、と翠星石は少しだけ口を尖らせた。どうやら、明日の朝食用の何かの下ごしらえをしていたらしい。
「もう一度広げて続けてる時間はないですし、しょうがねーです。明日は早起きです」
「食えないもん作るなよ」
 背中をこちらに向けたまま、ジュンがぼそっと言った。翠星石がむかっ腹を立てて怒り、ジュンはそれを軽くあしらう。そのうちに八時からの番組を見終わった雛苺が階段を上ってきて、部屋の中の雰囲気はいつものこの時間帯のように混沌とし始めた。
 真紅はそんな様子を横目で眺め、ジュンの椅子の後ろに陣取って水銀燈の媒介からプレゼントされた文庫本を開いた。今日の夕方まで、一人では開きにくくページをめくりにくかった本だ。
 彼女は微笑んだ。確かに片腕しかないというのは不便だった。しかし、それより大事なことはある。この場の雰囲気、暖かさ、姉妹とジュンの声。
 些細な日常かもしれない。だがもし自分が何かのために戦う必要があるならば、この日常を守るために戦いたいと真紅は思った。




[19752] その3 黒い人形(1)
Name: 黄泉間信太◆bae1ea3f ID:d11f58f6
Date: 2011/01/19 00:01
「御機嫌宜しゅう、黒薔薇のお嬢さん」
「随分とお久しぶりね、腹黒兎さん」
 二人は同時にお辞儀をする。片方は慇懃無礼に、もう一方はわざとらしく。
「今日もまた御出掛けですか」
「ええ。最近はすっかり暇なんですもの、散歩が日課になってしまったわ」
「おお、それはいけません。変化のない日常はつまらぬもの」
 兎頭の紳士はステッキを傘に変え、ぽんと一挙動で広げてみせる。
「いつ見てもお見事ね、その傘の開き具合は」
 黒衣の少女はくすりと笑う。心底楽しそうに見えないのは、口の端が釣り上がっているからだ。
「ところが魔法の傘だと思っていたそれも、今になってみればごく一般的な自動傘と同じ機能でしかないわねぇ。トリヴィアル(つまらない)!」
「おやおや、これは台詞を取られましたな」
 まさに剥製のような兎の顔からは紳士の表情を読むことはできない。その口調もまた、顔つき以上にその裏側を読めないものだった。
「そうです。科学の進歩は速い。いずれ人は生きて動く人形さえもごく当たり前に作り、それが世に出ることもあるでしょう」
 紳士は傘を畳んだ。傘は元通りステッキに戻っていた。
「そうなったとき、果たして我々は如何様に身を処さねばならないか。非常に重要な案件ですな」
「同情するわ」
 全く心の篭っていない声で少女は答える。紳士は慇懃に帽子を取って礼をした後、小首を傾げて少女を見た。
「ご同情は感謝致しますが、貴女も例には漏れませんぞ」
「ご心配ありがとう。警告として有難く受け取らせてもらうわ。随分貴方らしくない言葉だけど」
 少女は表情を変えずに肩を竦めた。
「でも、ご心配には及ばないわ。私に関してはね」
「それはまた、傾聴に値するお言葉ですな」
 紳士はおどけてステッキをぐるりと回した。
「どんな物も時の流れには無関係では居れません。たとえそれが天才の創り出した最高傑作であっても」
「そうね」
 少女はあっさりと肯定した。
「ただし、それは生きていればの話」
 紳士は首を傾げ、すぐにぽんと音を立てて掌をもう一方の拳で叩いた。
「おお、おお。このうすのろ兎にも話が飲み込めましたぞ。なるほど、なるほど」
 何度も何度も頷いてみせる。
「確かに、アリスはもうすぐ生まれます。そうなれば──」
「──そうなれば用済み。ローザミスティカを失って動きを止める」
 少女は言葉を引き取り、いっそ楽しそうに続ける。
「依然として魂がそこに在ったとしても、物言わぬ人形になってしまえば世俗の自動人形がどうあろうと関係ない。そうでなくて?」
「その通り、いや、まさしくその通り」
 ぱち、ぱち、と紳士は間の不揃いな拍手を送る。まるで歌のように奇妙な拍子を付けていた。
 相手を焦らすように随分長いことそうしてから、口の端を歪める。
「しかし、残念ながら聊かその予測は性急でもあります」
 少女は意外そうな顔を作った。紳士はステッキを振って台詞を続ける。
「死後のことは関係ない、とはよく言われる言葉。しかし首尾良くアリスと成った暁には、果たしてそのように言い切れるでありましょうや?」
「そうね」
 少女はまた、あっさりと肯定した。
「……アリスが生まれるときにはその一部になるのだったわね、皆、一様に」
「そうです、そうですとも、それについてはその通り」
 紳士はまた間の不揃いな拍手をした。
「しかし先程から貴女らしくないお言葉を続けられていらっしゃいますな、黒薔薇のお嬢さん。貴女こそは何を措いてもアリスに成る、そのための生き方を貫いていらっしゃったのではありませんか」
 紳士は少女を覗き込むような仕草をする。少女ははっきりと皮肉な表情を浮かべ、否定も肯定もせずに言葉を返した。
「ところで、私は少々忙しいのだけど。貴方の目的が久闊を叙することだけならば、そろそろお暇乞いをしたいところね」
「おお、これは申し訳ございません」
 紳士はまた慇懃に一礼した。
「わたくしめの用向きなぞ、貴女の貴重なお時間を割かせるほど重大なものではございません。それではこれにて失礼させていただきましょう。また後日」
「悪いわね、ラプラスの魔。それではごきげんよう」
「ごきげんよう、黒薔薇のお嬢さん」
 紳士が帽子を取ろうとしたとき、少女は紳士がしたように不揃いに手を叩いてみせた。紳士は──兎の剥製の顔にそういう表現が許されるなら──微笑に近いものを浮かべ、ぽん、と音を立ててその場から消えた。
 少女は一つ息をついた。
「どういう風の吹き回しなの」
 呟いて、いつものように自分の媒介の夢の扉をくぐった。


 ジュンはパソコンの画面を睨んで口を尖らせている。真紅は当然のようにその膝の上に座り、机の天板に手をついて画面を見守っていた。
「すぐには製作に取り掛からないのね」
 服はあっという間に仕上がったのに、と真紅は壁際のハンガーに掛けられた濃紺の複雑な形状のドレスを見遣る。水銀燈の媒介の少年の夢に入ってから今日までのわずか一週間で、ジュンは水銀燈のものとほぼ同じ形状のドレスを仕上げていた。
 ジュンは型紙さえ殆ど描かなかった。まるで必要な図面が既に全て頭の中にあるように、生地を無駄なく切り、縫い合わせ、刺繍を施して作り上げてしまった。
 しかし工程はそこで止まってしまっていた。服ができてもそれを着させるボディがまだ無かった。
「服のほうは作ったことがあったけど、ボディは初めてなんだ」
 二人が小声なのは、雛苺と翠星石が既に寝ているからだ。
 既に時計は二十三時を回っている。真紅も一度は鞄に入ったのだが、妙に寝つきが悪くて起き出してみると、ジュンがパソコンにかじりついていたのだった。
「フィギュアみたいに型取りしてレジンで複製するか、最初から軽量紙粘土で作る方法しか紹介されてないな……お、ここはビスクの作り方が出てる」
 ジュンは腕の中の真紅をちらりと眺め、何度か見た薔薇乙女達のボディを思い起こしていた。パーツの分割は今風の球体関節人形のように複雑だが、素材はビスク(二度焼き)という手法で作られた、硬くて軽い焼き物……のはずだ。
 本来割れやすいはずのそのボディが強靭なのは、素材や焼き方そのものが特殊なのか、それとも薔薇乙女達の手や顔が自在に動くように何か不可思議な力が働いているのか。
 どちらにしても、今作ろうとしているドールボディにはビスクそのものが使えない。どこかの焼き物工房にでも申し込まなければ、窯のないこの家では焼入れも前段階の素焼きもできない。
「強度的にはウレタンに真鍮線入れるほうがマシなのかな」
 紙粘土は本当に軽量に仕上げられるらしい。その分強度を稼ぐ必要はなくなる。
 しかし、もし水銀燈が意図したように人形が自律して動くなら、薄い粘土ではあまりにも脆すぎるような気がする。いや、その方が都合は良いのかもしれないが。
「でもウレタン型取りだと重さにばらつきが出そうだし……ムクで作ったら重過ぎるだろうし……それはビスクも同じか……」
 ぶつぶつ言いながらページをめくる。真紅は彼女にしては珍しく、興味津々といった風でそれぞれのページの画像を見ていたが、ジュンがページを移動するのに文句を付けることはしなかった。
「やっぱり窯を買って……あれ?」
 ジュンは目をぱちくりさせた。画面が急に真っ暗になってしまったのだ。慌てて本体を見たが、電源LEDは緑に点灯しているし、特に異音もしていない。
「まさか……これってまた」
 その予想は当たっていた。ジュンが真紅を抱えて机の脇に転げ込むのと、画面から黒い羽根が噴き出すのはほぼ同時だった。
「あら」
 肩から先だけ出した水銀燈は、机の横に並んで座ったジュンと真紅を見てにやりとした。
「さすがは真紅のナイトね。準備が良いようで何よりですこと」
「ナイトではなくて下僕だけれど、今の判断は的確だったわ」
 真紅はさらりと言い、下僕かよ、とジュンは口を尖らせた。
「ナイトの方が良いんじゃなくて? 頬が随分赤いわよ」
 パソコンのモニターを窓枠のようにして姿を現すと、水銀燈はそんな軽口を叩きながら一旦モニターから出、真紅の抗議の声を聞き流してまだ波打っている画面の中に腕を突っ込んだ。
「退席するか隠れなさい、真紅。ちょっと厄介なものを引きずり出すから」
 真紅は憮然とした表情になったが、黙って鞄のところまで退却した。それでも完全に鞄を閉じることもなくパソコンの方を見守っている。引きずり出されるものが何なのか、彼女にもだいたい見当はついていた。
 果たして、引きずり出されたものは真紅の推測の通りのモノだった。

 人形は裸の状態で、やはり相変わらず胴部の無いまま、パソコンのモニターから引き出された。
 胴部がないのにあたかも透明なパーツで繋がったように上下がいちどきに出てきたものの、その身体には全く力は篭っておらず、テンションも掛っていなかった。
「じっ……実体化?」
 いきなりの事態に、ああでもないこうでもないと悩んでいたボディ製作がほとんど必要なくなったことに気が付く余裕もなく、ジュンは目を見張るしかなかった。
「げ、幻影じゃなかったのか」
 妙に軽い音を立てて引き出され、キーボードの上に積み重なったそれは、ドールとしては大きかったものの、どことなく安物の人形のような風情があった。
 引きずり出す、と自分で言っていた水銀燈自身も唖然としている。ただし、彼女の視点はジュンとはまた別のところにあった。
「やけに軽いと思ったら……」
 自分とほぼ同じ背丈の人形を床に降ろし、手早く仰向けにさせると、彼女は内部の見える腰と胸のパーツをしげしげと眺めた。
「やっぱり、未塗装部分を見れば一目瞭然ね」
 人形の表面は白っぽい肌色、というよりは肌色がかったクリーム色に塗装されている。しかし、パーツの内部までは塗装されていなかった。黒い地肌がそのまま表れていた。
「どんな素材で出来てるんだ?……っていうか無茶苦茶だ、なんで実体化できるんだよ。元は想像の中だけのモノなんだろ」
 ジュンは座り込んだまま手を出そうとしない。好奇心に駆られて痛い目を見るのは懲りているのか、それとも別の理由なのか。
「炭素繊維強化プラスチック。俗に言うドライカーボンってやつ。レースマシンのカウルとかに使われている素材よ。軽くて強靭、熱にも強い……ええ、確かに無茶苦茶ね」
 水銀燈はにやりとしてみせた。
「こんな複雑なパーツの塊を全部カーボンで作るなんて。想像が産んだモノか、完全に採算を度外視して作った物でなければ有り得ないわ」
「へえ……ってそこじゃないだろ、僕が言ってるのはなんで実体化できたのかってことだよ」
 とは言うものの、素材の名前が出たせいで興味が勝ったのか、ジュンは水銀燈の隣に来て人形の胴部を覗き込んだ。動かないのを見て取った真紅も鞄から出て人形に触れてみる。
「顔や手は、私たち薔薇乙女そのものだわ」
「あいつもそこまでは材質の想像が及ばなかったようね」
 水銀燈は人の悪い笑みを浮かべた。
「あいつって……雪華綺晶ってやつのことか」
「いいえ。もし雪華綺晶が作るなら、当然陶製の焼き物……ビスクでしょう。末妹が欲しいのは他の姉妹達のようなボディ。こんな素材は美しくないもの」
 水銀燈は言い切って顎に手を当てた。
「これは私の媒介の仕業よ。いくら軽くて強靭な素材だからってドライカーボンで出来たドールを想像するなんて、おぞましいったら」
 あの男らしいと言えばそこまでだけど、と言う口調には嫌悪感だけでなく、妙な懐かしさのようなものも混じっていた。
「この子は雪華綺晶が彼の夢の中に作り出した舞台装置ではないの?」
 真紅は膝の上に人形の頭を乗せ、手櫛で髪を梳いてやりながら首を傾げた。裸の胸の上には可愛らしいハンカチを載せてやっている。
「そして、雪華綺晶が意図しなかったのに舞台装置は何故か勝手に成長して自我を持ち、魂も持った──貴女はそう説明したわ」
 水銀燈はちらりと真紅を見遣り、お優しいこと、と呟いてから答えた。

「成長というよりはあの男が作っていったのかもしれなくてよ。
 恐らく末妹の能力は夢を誘導すること。誘導するための舞台装置の「材料」は本人の中にあるのだから、複雑な部分は夢の主に勝手に作らせているはず。
 あの男は夢の中を緻密に作り上げる方だった。多分最初は薄ぼんやりしていたこれを、あの男は緻密に作りこんでしまった。自分の夢の世界の都合のいい住人としてね。
 そして、本人は無自覚だったとしても、あの男に纏わり付いていた何か奇妙な力が、これを『誰かが夢の中に置いていった実体のある人形』に近いものとしてあそこに生成してしまった」

 全ては憶測でしかないけれどね、と水銀燈は溜息をついてみせた。つくづく厄介なものに関わってしまったと言いたい気分のようだった。
「桜田ジュン」
「なっ、なんだよ」
 いきなりフルネームで呼ばれて、腰の空洞から球体関節の繋ぎ方を観察していたジュンはびくりとした。なんとなく気恥ずかしいような気分になる。
「胴部だけでもお願いできるかしら。素材は何でも構わないわ。そうね、上下の球体関節さえ十分な範囲で可動して、上半身の重量に負けない程度の強度があればいい」
 ジュンは腕を組んだ。
「レジン──ウレタン系のプラや紙粘土でも?」
「任せるわ。私は樹脂や工作粘土の強度については知識が無いから。貴方がそれで十分だと考えるもので構わないわよ」
「かーぼんというのは使えないのかしら」
 真紅が思いついたように言う。
「同じ素材では揃えられないの?」
「それは、原型を作ってドライカーボンのエアロパーツを作っている工場にでも特注すればできないことはないでしょうけど」
 でも高くつきすぎるわ、と水銀燈は眉をひそめた。
「もちろん技術的には問題ないでしょう。でもあまり現実的とは言えないわ」
「そう……」
 真紅は手を止め、残念そうな顔をして人形の顔を見た。
「貴女がそれでいいのなら、私が口を出す事柄ではないけれど」
 でも、と視線を下に向けたまま呟くように続ける。
「それで本当にいいのかしら」
「どういう意味よ」
 ハンガーに吊るされたドレスを見遣っていた水銀燈は視線を真紅に戻し、小首を傾げる。真紅は暫く言い辛そうにしていたが、意を決した風に続けた。
「神業級の職人がいて、良い素材のあてがあって、ここに奇跡のようにこの子がいるのに、それでも簡単な素材しか使えないなんて」
 残念だわ、と真紅は目を閉じる。
「仕方ないでしょう、それは」
 水銀燈はドライな口調で告げた。
「そもそも、人形のボディにカーボンなんてオーバースペックもいいところだもの。加工の手間を考えたらマイナスと言い切ったっていい。
 無理矢理軽量化しなくてはいけない物でもないし、強度はソフトビニールでも間に合う程度のものなのよ。なんでも金銭を積めば良いというものじゃないの」
「そうかしら」
 真紅は顔を上げ、目を開いて水銀燈を真っ直ぐに見た。
「貴女は『真紅』と同じ間違いをしているような気がする」
 水銀燈は虚を突かれたように黙った。真紅はまた目を伏せた。
「貴女は何故、この子を創り出した人物がボディを軽くて強靭な素材にしたいと思ったのか、分かっていないのではなくて?」
 私には素材の良し悪しは分からないけれど、その人の想いはおぼろげに理解できるわ、と真紅は人形の背中に手を回し、何かを拾い上げて水銀燈にかざして見せた。
 水銀燈ははっと目を見開き、何度か瞬いた。
「『水銀燈』は軽くて、しかも強くなくてはいけなかったの。自在に飛んで、戦うために」
 真紅がかざして見せたのは、水銀燈のものと見分けが付かない黒い羽根だった。

「ビスクでできたボディよりも強く、しなやかで、軽いボディがあれば」

 真紅は歌うように言った。何かが乗り移ったようにも見えた。

「『真紅』にも誰にも負けなかったかもしれない。
 狂気と言われ、姉妹から憎まれ、『ミーディアム』にも恵まれなかったけれど、いえ、それだからこそ、せめてボディだけは望みうる最高のものを……」

 口を噤み、羽根をそっと手放して、真紅はまた視線を人形の顔に落とした。

「姉妹で最も物理的な力に恵まれ、契約しなくても媒介に困らない貴女には分からないかもしれないけれど」
 真紅は人形の髪を撫でた。
「貴女のマスターはこの子にもう一つの翼を与えたかったのではないかしら。精一杯生きたけれど、最後まで力を満足に振るうことのできなかった『水銀燈』に……」
 水銀燈はふっと息をつき、肩を竦めてみせた。
「それにしては随分と適当な仕事をやらかしたものね。だったら胴のパーツも構築しておけば良さそうなものだけど」
 それもあの男らしいかもしれないけど、と言って、水銀燈はジュンを見た。
「いいわ。自作パーツ関係に強いショップは幾つか知ってる。もしドライカーボンを使いたくなったら言って。口利きはできないけど教えて上げるわ。……強制するわけじゃないけどね」
 ジュンは慌てたように顔を上げた。
「え、でも費用は」
「こちらで持つから心配ないわ。記憶を無くしたといっても本人が作ったものなんだから、作り忘れたパーツの経費くらい捻り出させてもいいでしょう」
 ただし手間賃は貴方に泣いてもらうけどね、と水銀燈はまたにやりとしてみせた。


 水銀燈が窓から去って行くのを見送ってからふと時計を見直すと、もう時刻は零時を回っていた。
「……いつも無駄に緊張させるよな、あいつ」
 はあ、と大きく息をついて、ジュンは真紅を振り返った。
「水銀燈だもの、当然よ」
 真紅もやれやれという表情になっていた。こと、この時代にあってはアリスゲームのために敵対していたから、という部分を差し引いても、元々あまり仲が良いほうではないのだ。苦手と言ってもいい。
「でも、変わったわ」
 真紅は苦労して人形にドロワーズとキャミソールを着せながら微笑んだ。
 ジュンは何故かそれを見ていられずに視線を逸らした。裸のときは胴部が無いことも手伝ってパーツの集合体としてしか意識しなかった人形が、下着を着けただけで急にエロティックな姿に見えてしまったのだ。
「無駄に攻撃的じゃなくなったことか?」
「それはやり方を変えただけかもしれないけれど、他にも変化があるわ」
 真紅は何度も人形の体を不器用にあちらこちらと動かしながら、どうにか下着を着せ終わった。
「他人の言うことを素直に受け入れるようになった。それは、とても大きな変化……」
 言いながら、真紅ははっとして動きを止めた。背中を向けてパソコンを見ていたジュンはその姿には気付かなかったが、真紅の意識に浮かんだ単語を無造作に言い当てた。

「成長って言うんだろ、そういうの」

「……ええ」
 真紅は呆然と頷いた。ジュンからは見えない位置のままだったが。

──私達人形は、成長しない。ただアリスゲームという衝動によって突き動かされているだけ……。

 それが真紅の認識だった。そして、彼女が知り得る範囲内では、今までの時代ではそれは常に正しい認識でもあった。
 彼女達は世に放たれたときのまま、それぞれに付与された精神と性格のまま、眠り、再び起きて契約者を変え、経験と記憶だけを積み上げて生きてきた。そう思っていた。
 そして、その認識こそが真紅の漠然と抱えている絶望でもあった。

──もしかしたら、私はとても大きな勘違いをしていたのかもしれない。

「──ジュン」
 真紅は水銀燈が「真紅のナイト」とふざけて言った、自分の契約者の名前を呼ぶ。
「なんだよ、急に黙り込んだと思ったら……」
 椅子を回してこちらを向いたジュンに、真紅は両手を差し伸べる。
「抱っこして頂戴」
 全くおこちゃまだな、とジュンはいつものように口を尖らせながら、慣れた手つきで彼女を膝の上に引き上げ、パソコンに向き直るでもなく彼女をゆるりと抱いてくれた。
「これでいいか」
 真紅はもぞもぞと位置を直し、いつものように返事をする。
「ええ。抱っこは上手になったわね、合格点だわ」
 手に手を重ねると、お子ちゃまの癖に人を子ども扱いするなよ、とジュンはそっぽを向いてみせた。真紅はいつものように少し気取った顔になり、ゆっくりと目を閉じる。

──もし、私達が成長できるのだとしたら。

 今はまだそう言い切れる材料は整っていない。だが、もし人間のように成長することができるなら。
 私は、何をすることができるのだろう。何をしたいのだろう。
 心地よいジュンの鼓動と心を感じながら、真紅は眠くなってくるまでのひととき、そんな想像を楽しんでみることにした。


 数日が過ぎていた。
 ジュンはハンガーに掛けたままのドレスを見遣り、次に壁際に置いた椅子の上を見て少し疲れた表情になった。
 椅子の上には厚手の型紙で作った筒を胴代わりにして、例の胴のない人形を座らせている。下着だけでは可哀想だと雛苺が言うので今はジュンのトレーナーを着せているが、のりに言わせると「よく眠ってるから、お布団掛けてあげたくなるのぅ」ということで、ときどきタオルケットがその上から掛けられていたりもする。
 ただ、人形自体は相変わらずぴくりとも動かない。
 動力源が無いからだと水銀燈は説明していた。必要ならそのときだけ力を付与すれば動けるわよ、と言ってもいたが、その後水銀燈が力を付与してみたときも一向に動き出そうとはしなかった。
 真紅や翠星石の言うところでは「魂はここにある、でも自分の殻に閉じこもっていて殆ど会話が成り立たない。身動きしたくもないらしい」ということだが、それは水銀燈に無理矢理引きずり出されたからじゃないのか、とジュンは疑っている。あの夢の世界の中での暴れ具合を考えると力ずくで水銀燈がこの人形に勝てるとは到底思えないが、どうにもそんな風に思えて仕方がない。
 彼の推測が当たっているかどうかは兎も角として、問題なのは肝心の胴が原型さえ手付かずということだった。
 既存の人形に胴体部分を作りつけるというのは存外に大変なことだ、とジュンが気付くまでにはそう大した時間は必要なかった。
 胸と腰を採寸してそこに合う丸棒を押し込めば良い、というわけにはいかない。上下には関節を仕込まなければならないし、胴体そのものも単純な筒型で間に合わせるわけにはいかないのだ。大分タイトな球体関節の造り付けが必要になるだろう。
 それに加えてもう一つ問題がある。
 胸と腰のパーツを見る限り、人形はドールというよりはキャラクターフィギュアに近いボディラインをしている。要するにアニメのキャラクター、それも高校生から成年女性に設定されているような体型だった。
 それは正直なところ、ジュンにとって完全にではないものの未知の分野だった。当然ながら似たようなフィギュア類の実物は見たことがない。人形の服飾類はいくつも作ったことはあるが、それはドールだったりぬいぐるみだったりしていて、キャラクターフィギュアのようなものは対象外だった。
 いっそ見えない部分だから適当に作ってしまえばいい、と割り切ってしまえば簡単なのだが、それは彼の内心の何かが許さなかった。職人気質とでも言うのだろうか、納得できるまで徹底して作らなければ気が済まないのだ。
「材質なんて考えてる場合じゃなかったな……」
 人形が現れたときの真紅と水銀燈の遣り取りを思い出しても苦笑する余裕さえない。
 椅子の上の人形の髪を撫で、なかなか取り掛かれなくてごめんな、と小さく呟くと、ジュンはアイデアを得ようとパソコンに向き直った。
 部屋の入り口、ドアの陰から小さな黄色い姿がそれを見守っていたが、ジュンはその姿に気付くこともできなかった。

 金糸雀に似た小さな人形はトコトコとぎこちない動きで歩き、廊下の端で待っている二人の元に戻ってきた。
 その報告に何やら耳を傾けた後、金糸雀はふむふむと頷いてみせる。ジュンから貰って以来、金糸雀は「ピチカート二号かしら」といたくお気に入りで、ちょっとした「偵察」に人形をよく使っていた。
 もっとも、人形の外見はピチカート二号というよりはミニ金糸雀と呼ぶ方が相応しいのだが、そこのところは気にならないのか、敢えて自分の名前を避けているのかは分からない。
「確かにちょっと重症かしら。スランプってやつね」
「うー……」
 雛苺は眉を八の字にして、一生懸命にどうしようか考えているらしい。それは金糸雀からは泣き出す数秒前の顔にしか見えなかったが、案に相違して雛苺は涙を見せずに頑張っていた。
「胴体って難しいのね」
 ぽんぽんと自分のお腹の部分を叩く。
「おへそとかあるからかな?」
「おへそは……うーん、あんまり関係ないかしら」
 金糸雀は動きが止まった人形を拾い上げ、胸の下辺りを指差した。
「球体関節のドールは、普通は二分割で作ってあるの。鳩尾──この辺で上下に分けるのね」
「うん」
 雛苺はこくこくと頷いた。金糸雀は人形の足をひょいと持ち上げる。
「球体関節なら脚の付け根がよく曲がるから──この子はただのソフビ人形だからいい具合に曲がらないかしら──ポーズ取らせるだけなら二分割で十分なのよ。みっちゃんのドール達も二分割や分割なしだけど、股関節の球体関節がしっかり動けば大抵のポーズは取れるかしら」
 雛苺は自分の鳩尾のあたりを手で押さえ、はっと顔を上げる。
「あ! でも、あの子は新しいお腹付けたら、二つも関節があるのよ。三分割なのよ」
「そう! そこが大問題かしら。三分割した人形の胴体を壊しちゃうと後からはとても作りにくいの」
 金糸雀はびしっと人形の下腹部を指差した。
「普通は三分割にはしないのね。人間のお腹は柔らかいし背骨も多関節だから、確かに三分割の方が動きの再現性は高いんだけど、実際問題として二分割だと股関節から鳩尾まで綺麗に作れるし、鳩尾のところで球体関節を入れればほとんど人間と同じポーズができるから」
 そして、少し声を落として続ける。
「私達姉妹の中でも、お腹が完全に別パーツなのは水銀燈だけかしら」
「水銀燈は三分割なのー?」
 知らなかったのー、と雛苺は目を見張った。金糸雀はこくりと頷いた。
「水銀燈はいろいろと特殊なの。違う点は他にもいろいろあるけど……お父様が初めて自分で傑作と認めたドールだから、仕上がりはとても美しいわ。他の姉妹と同じに見えるでしょ」
「うん」
 水銀燈おっかないけど綺麗なのよ、と雛苺は無邪気に言う。それを見て金糸雀は何故か言葉に詰まったような素振りを見せたが、すぐに、ええっと、と唇に指を当てた。
「つい脱線してしまったかしら……そうそうそれでね、後から胴体を作るのは大変なのよ」
 金糸雀は人形の胸の辺りと腰の辺りを人差し指と中指で指し示した。
「胴体が壊れると、大体この間がなくなってしまうことになるのね」
 雛苺が自分の体を触ってみたりしてうんうんと頷くのを待って、金糸雀は話を続ける。
「この部分の細さとか、長さとか、お腹の張り具合なんかは、『大人の』フィギュアの美しさの何割かを占める大事な部分なの。特に、あの子みたいなセクシャルボディの子は、お腹が不出来だと全体のバランスが崩れてしまうかしら」
「ほぇー」
 何故か力説し始めた金糸雀に、雛苺は丸い瞳を瞬いた。微妙な反応に気付くこともなく金糸雀は脇腹と背筋とくびれの大切さを語り、ドールと男性向けフィギュアの違いはそこにあると言ってもいい、とまで言った。
「ジュンは今、そこで壁にぶち当たっちゃってるかしら。他の人の作ったところにパーツを組み入れる形だから、自分の美的感覚とボディを作った人の美的感覚も違うだろうし、前途多難かしら」
「ふーん……」
 雛苺は暫く考えていたが、不意にもやもやの晴れた表情になった。
「いいこと思いついたの! 水銀燈に頼んで、お腹のふくせいを作ればいいのよ。水銀燈も『水銀燈』も三分割なんだから」
 ね? ね? と小首を傾げて金糸雀の顔を覗き込むが、今度は逆に金糸雀の方が難しい表情になってしまう。
「それはちょっと無理かしら……」
「なんでー? 水銀燈なら背丈もおんなじくらいだし、少しちょうせいすればきっと合うのよ」
「確かに削ったり盛ったりすれば寸法はどうにかできるけど、そう簡単な問題じゃないかしら」
 金糸雀は手に持った人形の胴体の部分を軽く指で突ついた。
「水銀燈は確かにパーツ分割は同じだけど、基本は少女体型なのね。ぶっちゃけカナ達と同じ、言わばズン胴ってやつかしら」
 でもあの子はモデル体型っていうかフィギュア体型なの、と金糸雀はお手上げといった素振りをする。
「同じ大きさだからってぬいぐるみの胴体をドールにくっつけたら、みっともないおでぶちゃんになっちゃうでしょ? それと同じことかしら」
 大分大袈裟な喩えではあるが、それだけに雛苺にもよく分かったようだ。
「あぅ……」
 雛苺は困り顔になり、ジュンの部屋の方を見遣った。部屋からは何の物音も聞こえてこないが、多分今もジュンはパソコンと向き合って手懸りを模索しているのだろう。
「まあ、手は無いこともないかしら」
 金糸雀はにっこりと、取って置きの腹案があると言いたそうな笑みを浮かべる。
「ここはカナにお任せかしら!」


「……ってカナはゆーんだけど、ヒナは心配なのよ。カナ、たまに『どじっこぞくせい』が出ちゃってカラ回りするから」
 苺大福をもしゃもしゃと食べながら、雛苺は珍しくませた口ぶりで、ジュンというよりは金糸雀の方を心配しているようだった。
 雛苺に手元の大福を取られ、あーあ、といかにも残念そうな情けない声を出した水銀燈の媒介の少年は、雛苺の隣に座って口の周りについたあんこを拭いてやっている柏葉巴に視線を向けた。
「どんなアテがあるんだろ?」
「さあ……」
 巴は微笑みながら小首を傾げる。夕暮れの公園のベンチに座った巴は少し大人びて見え、柏葉ってこんな顔もできるんだなぁ、と少年は妙な感慨を抱いた。
 少年が巴の表情を見たことがあるのはほとんど学校の中だけだから、その感想は当然とも言える。巴のこの笑顔は雛苺の世話をしているとき以外は殆ど見せないものだった。
 こんな場所で三人が顔を揃えるのは偶然もいいところだった。「ぽすとにお手紙を預けに行った」雛苺を部活帰りの巴が見つけて抱き上げ、そこに買出しに来た少年が通りがかったのだった。なにやら確率を操作されているのではないかとさえ思えるような偶然だった。
「カナはね、マスターがたくさんお人形持ってるって言ってたの」
 そんな少年の感慨には気付きもせず、雛苺は話を続ける。
 金糸雀のマスターの草笛みつはドール好きが昂じて今の仕事に鞍替えしたほどで、部屋には大小さまざまのドールが飾られている。金糸雀がドールについて詳しかったのも、以前から人形のボディに興味があったからというわけではなく、マスターの人形を実際にポージングさせたり着替えさせたりと、みつの助手のようなことをやってみた経験から来たものだった。
 雛苺はそこまで詳しいことを知っているわけではなかったが、金糸雀が任せろと胸を張ったのはそういうことだろうと見当を付けていた。それなりに長い付き合いではあるのだ。
「でも、フィギュアまで持ってんのかなー」
「それはわかんないのよ」
 そこが心配だと言いたそうに雛苺は巴を見上げ、巴は元気付けるようにまた微笑んだ。雛苺はその表情を見てにっこり笑い、安心したように巴の胸に頬ずりする。
 微笑ましい二人の世界を眺めて、少年は思ったままをつい口にしてしまう。

「……お母さんって感じだなぁ」

「ふゅ?」
 こちらを向いた雛苺の口に、割った板チョコのひと欠けを押し付ける。雛苺は疑問符を浮かべたような表情のまま、取り敢えずそれを口に入れ、頬の中で転がした。
「いや、柏葉が雛苺のさ。なんか、雰囲気ってゆーのか、そんな感じ」
「えっ……」
 巴は雛苺の口の周りを拭いていた手を止め、ぱちぱちと瞬いてから一拍置いて頬を薄く染める。雛苺は溶けかかったチョコを喉を鳴らせて飲み込んだ。
「トモエがヒナのママ?」
 無邪気そのものの表情で巴を見上げる。巴はますます赤くなったが、何も言わず雛苺を抱き締めた。雛苺は嬉しそうに笑ってまた巴に頬ずりする。ひとしきりそうしていた後、雛苺はもぞもぞと体を動かして少年に向き直った。
「じゃあね、じゃあね、パパは?」
 明らかに一つの答えを待っている言葉だった。少年は間髪入れずに、期待どおりの答えを返した。

「そりゃあ、桜田に決まってるじゃん」

 わーい、と喜ぶ雛苺と、自分の言ったことの意味を把握しているのかどうか、傍目からは判断できない少年の顔を交互に見比べながら、困惑を絵に描いたような巴の顔は西の空の夕焼けよりも赤く染まっていった。


「ええええええええっ、そんなぁぁぁぁぁ」

 日曜の朝の桜田家の応接間に、女性の悲鳴に近い叫びが木霊する。
 実際のところ、それだけならばほぼ毎日のことだ。のりか翠星石か雛苺、あるいは遊びに来た金糸雀。稀には真紅のこともあるが、今日のところはその誰でもないというのが珍しいところだった。
 叫んでいるのは草笛みつ。金糸雀の契約者であり、ドールに対する知識や熱量といったものは、恐らくこの時代に限らず数多の契約者達の中でも最右翼に位置するだろう。
 なにしろ、自分でドールの本体を自作する以外のことは一通りやってしまうだけの熱意があり、その熱意のために仕事も変え、そして将来はドール服のショップを開くという夢さえ持っているのだ。もちろん日本でそういった店を開くことがどれだけ経営的に難しいかは分かっているはずなのだが、それでも夢に向かって突き進んでいる。
 ただ、熱意が昂じて些か猪突猛進が過ぎるきらいはあり、そして、空回りする率もあまり低くはないようだった。

 今日の悲鳴の原因も空回りに近いが、そう言い切ってしまうのは気の毒なところもあった。
「それじゃあ、もう出来上がりってことかしら……」
 ややオーバーに肩を落としているみつの代わりに、金糸雀が恐る恐る尋ねる。あまりの急転直下のしょげっぷりにジュンも気の毒に思うというよりはやや引き気味になっていたが、うん、と小さく頷いた。
「まだこれからが長そうだけど、原型はだいたい出来上がった」
 今朝早くなんだけどさ、と言う口ぶりも幾分歯切れが悪い。
「のり……姉ちゃんも協力するって言ってくれたんだけどさ……」
 どういう種類の協力かはさて置くが、結局ジュンはそれを真っ赤になって断った。のりは非常に残念がっていたが、それもさて置く。天然と言うべきかブラコンと言うべきか、微妙なところだった。
 行き詰まっていたのを解決したのは昨日巴が持ち込んだ、数体の有名メーカー製のフィギュアだった。
 アニメ好きのクラスメートから借り出してきたというそれらは、数年前深夜に放映していたアニメのフィギュアだという話だった。まさに「大きな男の子向け、二次元キャラ立体化フィギュア」と言うべき出来上がりの代物で、真紅に言うところによると凄腕の職人の作品とのことだが、翠星石に言わせれば、チビ人間にはまだ早いです、という品物らしい。
 ともあれ、そのうちの一つがどことなく胴のない人形に似た面影を持っていたこともあって、ジュンは一晩を丸々費やして一気に紙粘土製の原型を粗方完成させてしまっていた。あとは粘土の乾燥を待って球体関節となる部分と接合し、上下のパーツと擦り合わせをすれば原型の完成ということになる。
「──なるほどね。今はどこに置いてあるのかしら」
「僕の部屋。まだスチロール型も外れてないけど」
 その言葉に反応したように、みつはがばっと身を乗り出した。
「ねえ、それ、見せてもらってもいいかな? あ、ううん、文句付けるとか偉そうに指導したいって訳じゃないの。その人形とかジュン君の作った胴体とか凄く興味があるのよ。それからねこれが本命なんだけど──」
「み、みっちゃん、ジュンが引いてるかしら。取り敢えず一旦座るかしら」
 金糸雀は慌ててみつの裾を引っ張った。みつははっと気が付いて座りなおす。
「ごめんなさいね、つい興奮しちゃって」
 てへっ、と舌を出してみせるみつに、ジュンは顔を引き攣らせないように努力しながらこくこくと頷いた。

──なんか、今までで一番凄いのが来たな。

 翠星石といきなり取っ組み合いを始めた水銀燈の媒介もなかなかインパクトが強かったが、彼は一応クラスメートだったこともあってそれなりに馴染みがないでもなかった。しかし今回は全く見ず知らずの女性だし、その上さっきは自己紹介もまともに終わらないうちに真紅と翠星石を両手に抱きしめて頬ずりを始めたのだ。
 巻く・巻かないの話から、自分達がどうやって薔薇乙女を「お迎え」したかというような話をしている間はノーマルだったものの、これでまた暴走しかけた訳だ。やはりこの人は情熱を増幅して少し外れたところにぶち当てる特技でも持っているのではないか、とジュンは半ば嘆息するような気分で考えた。


 水銀燈は宵っ張りで朝に強くない。特に最近は媒介の夢に入り込んでいることもあって、ほとんど昼夜逆転とも言える生活になっていた。
 あまりいい生活習慣と言えないのは分かっている。だが、鞄に入る時間はきちんと取っているし、特段疲労がたまってきているわけでもない。
 それでも自分の夢の中で、知識として知ってはいるが出会うはずのない人物と会話してしまうほどには疲れているのかもしれない。それがごく普通の夢のありようなのだと言ってしまえば、それまでなのだが。
「また君かね」
 長身の男はうんざりしたような素振りで水銀燈を見る。またこの夢か、と水銀燈は舌打ちしたい気分でそっぽを向いた。
「ええ、どういうわけかしらね」
 そこは人形工房だった。小綺麗に整頓されているのに、山のように失敗作のパーツが積まれたままになっている。普通はありえない光景だった。これだけまめに掃除されている仕事場なら、そういうものは誰かが片付けてしまっているはずだ。
「何度来られても、私の人形はそう簡単に完成しないし、もうお披露目先は決まっているんだ。この次の作品までね」
「いいのよ。ここにこうして私がやってくること自体に意味があるのでしょう、きっと」
「それもそろそろ聞き飽きた」
 そう言いながらも、男はいつものように椅子を勧める。水銀燈も素直にそれに座る。そうすると、男は水銀燈に気兼ねすることなく作業を始めるのだ。
「今日もまた、荒唐無稽な話を聴かせてくれるのかね」
 作業台に向いたまま、男は溜息をつくような声で言う。水銀燈はせせら笑った。男が本当はその話を楽しみにしているのは見え見えなのだ。
「気が向いたらね」
 とは言うものの、話さなかったことはない。水銀燈もその話をするのを日課の一つにしているのだった。日課と言ってもあくまで夢の中での話だが。
 暫くの間、男の使う鑿と鑢の音だけが響いていた。
 水銀燈はこの音の出所を知っている。媒介の見たアニメ作品でもなければ、それやら漫画を基に彼が膨らませた想像でもない。自分自身の記憶だ。
 遠い遠い、それでいていつも近い記憶。工房の中で姉妹達が作られて行くのを、水銀燈はこうして椅子に座って見ていた。椅子の上で様々な話を聞いて、様々な受け答えをした。
 ときには椅子を降りて様々にねだりもした。だが、ねだったモノが与えられることはいつもなかった。父親は優しくはあったが、工房の中ではそのときの仕事が最優先だった。
 水銀燈もそれを知っていながらねだるのだった。ほんの少しの間でいいから人形を作っている手を休めて自分の方を振り向いてほしくて。
「その微笑ましい話の娘がまた何故、そんな真っ黒な服を着せられたのかね。ご丁寧に逆十字まで標されて」
 珍しく、男は水銀燈のことを尋ねてきた。所詮自分の明晰夢だ、とあまり関心も無かったので気に留めていなかったが、案外これが初めてかもしれない。
「さあ、何故かしらね」
「はぐらかすのは良くないな」
「はぐらかしているのは貴方のほうでしょう。其処に掛かったドレスと、其処に座った人形が答えよ」
 水銀燈は作業台の上の人形を「座っている」と表現した。実際には、人形には下半身がなかった。
「容姿と服装が似ているからといって、意図するところが同じとは限らん。私には私の、君の父上には君の父上の、それぞれの思惑がある」
 くっ、くっ、くっと男の肩がわずかに震える。笑っているようだった。
「それとも君は、あの出来そこないの作り掛けと自分を同一視しているのかね。あんな、あんな」
 くくくく、と笑いが大きくなる。
「どうしようもない、がらくたと」
 水銀燈は肩を竦める。
「似たようなものでしょ、どちらも。完成に漕ぎ着けたかどうかは別として、所詮は失敗作に過ぎなかった」
「完成したかどうかは重要だと思うがね。それはまだ、失敗作にすらなれていない」
 男は背を向けたまま、持っていた鑿で人形を指し示した。
「作り上げていないからね。完成に近いところまで行ったが作業を放棄した、言わばジャンクの塊の一つに過ぎない」
 そうしてまた、くくく、と笑い、作業を続ける。
「放棄したにしては、随分と未練があるじゃないの。ドレスはこれ見よがしに飾ってあるし、人形自体はがらくたの山に埋もれさせるでもなく、そうして座らせて置いてある。確か名前もついていたわよね。やはり失敗作と見るべきではなくて?」
「私は『まだ、失敗作にすらなれていない』と言ったのだよ。確かにこの時点ではあれはがらくたに過ぎん。そして結果としても、がらくたの域を出なかった。動力源も無しに自ら動き出しただけあって力だけは人一倍あったものの、私の最高傑作に終に及ばなかった。その力を見込んで、後から動力源まで与えてやったのにな」
 まあ、その最高傑作も、結局のところ弟子の作ったドールに敗れたわけだが、と男はさも残念そうに言った。
「結局あれのしたことは、『ローゼンメイデン』の一人をゲームから退場させ、一人を最後の場面で守ったことくらいか。後者は結果的には無意味な行動だったが。まあ、見方を変えれば与えたモノの対価くらいは支払ったとも言えるだろう」
「あれだけ暴れれば十二分に支払ったと言えるでしょうね」
 水銀燈は人形に視線を向けた。灰白色の髪の人形は動き出す素振りも見せない。
「むしろ貴方の思惑が、『アリスゲーム』という名の下に自分の娘達を殺し合わせる退廃的な娯楽にあったのなら、その人形はどの『ローゼンメイデン』よりも貴方のお眼鏡に適う働きをしたのではなくて? だとしたら、むしろ私と姉妹達なんか足許にも及ばない大成功作よ」
「はは、それは面白い」
 男は鑿を置き、ぱちぱちと手を叩いた。その仕草は誰かによく似ていた。
「だが残念なことに、その人形はがらくたなのだ。今も、そしてこの時点から見た未来においても」
「そうかしら」
「そうなのだよ。何故ならあれは、完璧な少女たり得ない。なにしろ当初は姉妹のうちに数え入れられず、あまつさえ体さえも作り掛けのままなのだから」
「口ではそんなことを言っても、最後の最後で貴方はその人形に対する今までの扱いを見直したのではないの? 復活させるときボディを作ってやったでしょう? まさかお忘れかしら」
「ああそうとも。ご褒美さ。がらくたにしてはよくやったことに対するご褒美。そして新たな、腕力にものを言わせない戦いに挑ませるためのアメ、でもある。実に哀れなものじゃないかね、物理的な力が必要なくなってから物理的な欠損を補ってもらうというのは」
 男の背中がく、く、とまた震えるのを見て、水銀燈はやれやれと肩を竦めた。
「……悪役を気取るなら止めはしないけど、結局のところは薔薇水晶とかいうドールとの戦いの後、貴方はその人形に対しても他の『ローゼンメイデン』と同じスタートラインに立たせることに決めたわけでしょう。だとすれば、その人形はやはりがらくたで終わったわけではないわ。
 むしろ、貴方はその人形をがらくたから失敗作さえ越えて他の姉妹達と同じ場所にまで引き上げるために、『ラプラスの魔』や自分の弟子までも巻き込んで、現実時間で百何十年も掛けて延々と回りくどいことをやってのけたと言っても過言ではないわね」
 男は黙りこんだ。鑿の音も鑢の音も止まっていた。
「貴方は死んでもそれを認めることはないでしょうけど、貴方達の紡いだ物語は全て、貴方がその人形の立場や状態を他の姉妹達と同じくするための布石だった。言い換えれば他人にも自分にも素直になれない貴方の、その人形に対する不器用な想いの軌跡。そんなふうに見ることも出来なくはないわ」
 かけがえのない自分の作品を二体も犠牲にしてね、と水銀燈はかすかな羨望を交えて言葉を終えた。
 男は黙ってまた作業を始めた。背中が震えているのを除けば、それは会話を始める前と何等変わらない光景だった。

 暫くは、鑿と鑢の音しかその場にはなかった。やがて、男はぽつりと言った。
「君は自分を失敗作だと言い切っている」
 水銀燈は無言で男の背中から視線を逸らし、人形を見た。人形はぴくりとも動かない。水銀燈の夢の中なのだから動き出してもよさそうなものだが、動き出したとしてもそれは現実世界に引き出されて胴部の補修を待っている人形そのものではない。水銀燈の夢の中にある虚像だ。
「それは正しい認識だろうか?」
「……少なくとも私はアリスではなかった。その意味では間違いなく、私は不完全で失敗作よ」
「はぐらかすのは良くないな」
 男は先程と同じ台詞を口に出した。水銀燈は言い返さずに男を見遣った。
「数日前から思っていた。君は自分が他の姉妹より劣っている、だから遮二無二ローザミスティカを集めなければ、姉妹には勝てないと言いたいのではないかと」
 手を止めずに男はぽつぽつと喋った。
「そして様々に類推してみた。黒い翼と服を纏わせられたからなのか。最初に作られたからなのか。契約についての特異性か。それとも、そのボディに欠陥があると思っているのか」
 水銀燈はちらりと人形を横目で見た。相変わらず人形は動く気配すら見せない。
「部分的にはどれも当たっているだろう? そして、君の懸念事項は恐らく、言ってしまえば当然ながらある意味で正しい。君に不完全な部分、他の姉妹より劣っている部分は確実に存在する」
「……でしょうね」
 素直な声音で水銀燈は答えた。男は向こうを向いたまま軽く首を縦に振った。
「君は紛れもなく、不完全な失敗作だ。だが……」
 男は椅子を引き、できたばかりのパーツを取り上げて木屑を払った。水銀燈の冷静な部分が軽い驚きを感じる。アイホールも開けられていなかったが、それは、彼女の目にはドールの顔部分のように見えた。
「まさか、顔が木彫とはね」
「これは手慰みだよ。本物は粘土で作り、窯で硬く焼き上げる」
 言いながら、彼は人形に歩み寄り、そのうつろな顔面に仮面のように木彫の顔を押し当てた。そして、手早く人形の髪をツインテールに纏め、前髪を梳いた上で、懐から出した赤いボンネット調のヘッドドレスを器用に被せる。
「さあ。何に見えるね?」
 言われるまでもなかった。髪の色は違い、その長さも、末端のカールも無かったが、そこには即製の真紅がいた。
「君の、他の姉妹達との違いなど、私に言わせればこんなものだ。Aの代わりにBを与えられ、Cに劣る分Dで優る。その程度だ。ちょっとしたことで補いはつくし、AとB、CとDを入れ替えれば均質になる。
 君と、君の五人の姉妹達は全て、言ってしまえば私の作った『真紅』以外のドール達のようなものだ。それぞれ欠けたところがあり、ユニークな部分もある。全てが失敗作であり、彼にとっての最高傑作だ。君の言うとおりだな。
 君のお父上とて全能ではないだろうから、付与された能力の種類によって、結果として優劣は付いてしまったかもしれないがね。まあ、そんなものは些細なことだ」
 男は手際良く人形の頭を元に戻した。再び人形は水銀燈に似た顔に戻り、何事も無かったようにそこに止まっている。


「凄い……凄いわ。神の子を見つけちゃった……」
 ジュンの部屋で、周囲の視線を全く気に留める風も無く、みつは完全に舞い上がっていた。視線は、何気なく壁際のハンガーに掛けられているドレスに釘付けになっている。
「天使。悪魔的天使……。今回のドルフェス出展作のテーマに合わせたとしか思えないわッ。蟲惑的でありなおかつ冷笑的、神にも刃向かう凛とした雰囲気を持ちながら少女の愛苦しさを生かす大胆なデザイン……! 神様神様、年始参りくらいしかやってないけど神様、貴方は私に自らの子を遣わしてくださったの? これも日頃の行い? 毎年お賽銭けちらずに払ってるから? 今年の運勢凶だったのは超クールだと思ってたけどもしかしてツンデレだった? それともこれは貧しい少年が死の間際に見たルーヴェンスの絵画ってこと? いいえまだ私死ねない、到底死ねないわせっかくこんな素晴らしい才能にめぐり合えたっていうのに! あああパトラッシュ私まだ全っ然眠くないから! だから連れて行かないでおじいさんのところには貴方一人じゃなくて一匹で行って明日の朝の牛乳配達は私が全部やっとくからあの牛乳缶クソ重いけど!」
 明らかに天国でなく何処か異次元に行ってしまいそうなみつの雰囲気に、部屋に入りかけた翠星石達はその場で固まってしまった。部屋の中ではジュンが必死に何か言っていたが、一言言うたびに相手のテンションがいちいち上下していくので辟易しているようだった。
「……なんかいろいろとネジがぶっ飛んでやがるです」
「ああなっちゃったらみっちゃんは誰にも止められないかしら……ネジっていえば、初めて巻かれたとき、最初に感じたのは火傷しそうなほっぺの熱だった……」
「カナ、あいと、あいとーなの」
「うう……かえって切なくなってしまったかしら……」
 ぐす、と鼻を鳴らす金糸雀の脇で、真紅は一人冷静な表情だった。
「貴女達」
 部屋の中の喧騒に視線を遣らずに真紅は言った。
「こちらはこちらで話があるの。行きましょう」
 三人は一瞬虚を衝かれたようにぽかんとしたが、顔を見合わせてから揃って頷いた。


「第二ドール金糸雀。彼女の性格は人懐こく明るく、しかし才気走ったものとされた。そして、容易にめげない克己心を根底に持つ。
 小柄で腕力には劣るものの、人工精霊の手助けを得てある程度空中を浮遊でき、音を使った技も持たされた。
 マスターへの依存度は小さいが、性格的にマスターを大切に思うようになることが多かっただろう。
 ローザミスティカへの執着はそれほど大きくないが、目的意識は高い」
 相変わらず背を向けたまま、男は歌うように言った。
「今日は厭に多弁なのね」
 水銀燈は苦笑した。
「やめるかね?」
「いいえ。その調子で全員分お願いするわ」
 男は軽く頷いた。
「そこまでの二人は、言わば個で全てを網羅しようとしたのだろう。どちらも完成度は高かったが、完璧とは言えなかった。そこで彼は考える。ある程度の完成度を持った二人に、お互いの不足を補わせれば良いのではないか。一人では無理でも、二人なら高みに到達できるのではないか。
 そうして作られたのが庭師の双子だった。
 一方は前向きで猪突猛進、臆病な面も見せるが好奇心が旺盛。他方は思い遣りに富み慎重だが容易に曲がらない信念を持ち、いざとなれば冷徹果断になれる。そして、二人とも感受性は強かった。
 技においても二人は表裏一体となった。そして他の姉妹には無い大きな力──他人の心をある程度操れるという能力を付加することで、更に『何か』を獲得させようとしたのかもしれない」
「何か、とは?」
「私は彼ではないから、その点は分からない。私が私の作った姉妹に持たせた能力は、極めてシンプルだから。
 即物的なパワー、音波を操るパワー、心を操るパワー。それらのいずれかを動力源の欠片一つ一つに込めただけだ。だから、私の娘達は他の動力源を奪えばそのパワーも振るえるようになった訳だが。
 君の父上はそれを人工精霊に与えたり、逆に人工精霊を増幅器としてのみ行使させたりしている。結果は同じだが、そこに至る過程は異質過ぎて推測しかできない」
「ふむ」
 水銀燈はちらりと腕時計を確認するような仕草をした。
「続けて頂戴」
「そのようにかなり大胆な作りをしたのだが、しかし、これは失敗だった。双子は性格付けの強さと二人一組という行動形態、そして何よりあまりにも平仄の合うお互いを持ったゆえに、強く依存し合うようになってしまった。高みに到達する、どころの話ではなくなったわけだ。
 彼はここで初心に帰ることにした。つまり、次のドールは今までの姉妹達の経験を踏まえて、その時点での全てを込めて正攻法で作ったのだ」
 水銀燈は溜息をついた。
「それが真紅」
「そう。高潔で思慮深く、知識欲旺盛だが慎重で、固い信念を持つが他者を思い遣る心も併せ持ち、技に依存することのないよう特異な能力を持たないが、その代わりに物の時間を巻き戻せる時計という重要な品物を持つ」
「でも、彼女も至高の存在には届かなかった」
「それら要素を全て併せ持った結果、彼女はとっつきにくく頭でっかちで、こと物理的な能力においてはか弱い存在となってしまった。後年、ローザミスティカを巡るゲームでは他に弱い立場の姉妹がいない限り繰り返し真っ先に狙われるような。性格付けそのものも厳し過ぎたのだろうが、彼としては気付いていなかったのだろう、作っている間は」
「それでも、彼女は『選ばれた』わよ、マエストロのパートナーに」
「さあ、それも私には分からない方面の話だ。私の真紅は確かに桜田少年を『選んだ』が、これは選ぶ側が逆だからな。君の妹が本当に、君の言うように契約者のパートナーとして『選ばれた』のなら、それは私には理解できない世界の話ということだ」
 男はちらりと水銀燈を振り向き、水銀燈は肩を竦めた。
「事ここに至り、彼は自分にほぼ絶望してしまう。結局自分の思う至高の存在など、自らの手では作り出せないのではないかと。神ならぬ自分の想像力や創作力には限界があり、理想を具現化しようとしてもどこかしら届かないのではないかと。
 そして、次の娘には、敢えて彼が避け続けてきた要素だけを盛り込んだ」
「純真無垢、天衣無縫……」
「そして、未完成。雛苺はある意味で他の姉妹とは反対の手法で作られた。その人形としてのボディ以外は。
 だが、そうしてできあがったのはどこにでもいる素直で可愛い子供に過ぎなかった。至極当然だがね。言わば成長することに全てを託したのだから、成長する前の段階で完成しているはずがない」

「結果として、君達は全て何等かの欠陥を抱えたが、それは能力的な不均一という意味でなく、どちらかと言えば性格的なあれこれだった」
 男の言葉に憐れむような響きが幾らか混じった。
 その憐れみが自分達に向けられたものでないことは、水銀燈にはよく分かっていた。
 彼は自分の娘達にやや不均等な能力を与えた。そしてそれは、自分達よりも物理的な力に優り、幾らか戦闘的な、そして動力源を集めれば集めるほど強くなれる彼女達にとっては致命的な格差でもあった。
「よく分かる話だけど、まだ総括には早いのではなくて? 貴方は五人分しか考察を話してないわよ」
「ああ済まない、君の分が未だだったな。だが分かってほしい、私にとって金糸雀から雛苺までの五人は、自分の作品でもあるのだ」
 水銀燈は鼻を鳴らし、素直じゃないこと、と足を組みなおした。
「どこまでも水銀燈はがらくただと言い張りたいわけね」
「それはイエスでもあり、ノーでもあるが、君の話とは無関係だろう」
 男は作業台に道具を置き、水銀燈に向き直った。
「さっきも言ったとおり、君は他の姉妹とさして変わらない。強いて言えば、君と真紅だけにしかない特徴はあるが」
「そのときの実力を注ぎ切った、ということ?」
 男は頷いた。
「君は薔薇乙女として最初の作品だけに、彼は持てるものを全て注ぎ込んだ。仕上がりの美しさを犠牲にして人間に近い動きに拘った腰部と胸部の二重の胴関節こそ、胸部関節の適切化で金糸雀以降は使わなくなったが、君に初めて使い、その後の姉妹達に使いつづけた技法は数多い。むしろほぼ全ての技術は君で既に完成されていたのだ」
「言わばテストベッド。試作品ということね」
 水銀燈の皮肉な言葉に男は渋い顔をする。
「君が試作品かどうかについては興味ある議題だが、今のところは私にはそうは思えない、とだけ答えさせていただこう。
 君のコンセプトは、天使だった。誇り高く自分を貫く意思の強さを持ち、高く羽ばたける翼を身につけている。自分の内面は誰にも見せず、誰かのために一途に生きて行く。無駄なことに脇目を振ることもなく、愚直なまでにまっすぐに」
「誰かに言わせれば『馬車馬みたい』だけどね。全く上手いことを言ったものだわ」
 水銀燈は今では自分の記憶の中にだけある言葉を思い返していた。言ったのは決して好きにはなれなかったが、嫌いにもならなかった人物だった。まだ数ヶ月と経っていないのに遥か昔のことのような気がする一方で、まるで今も薄汚れた作業着姿のまま肩を竦めながら、何か手を出すでもなくこの場をただ眺めているようにも思える。
「君には契約者との繋がりはさほど重要ではなかった。それは、君が個として完成していたからだ。
 他の姉妹達は契約者がいなければ力を振るえないが、その理由は簡単だ。奇形的に性格付けされた彼女達は、傍に人の想いがなければ暴走しかねない。何があっても人から遠ざからないように、彼は言わば保険として契約という行動の制限を設けた。考えてみたまえ──」
 男はほぼ完成しているドールを棚から下ろし、机に横たわらせた。
「君を作り始めたときの彼は、それこそ永年の想いを結晶化させていたはずだ。それこそローザミスティカを生成しようとした頃からの、彼本来の理想だ。その理想には──あくまでその時点までは、だが──揺るぎ無いものがあった。それが苦し紛れの迷走を始めるのは、君を作った後のことだ」
「それは取りも直さず、私が失敗作だったからということでしょう」
「否定する訳ではないが、私が言いたいのはそこではない」
 男は苦笑した。
「少なくとも君は、思いつきやその場のひらめきで作られた代物ではないということだ」
 言葉にもひどい苦味があるように、男の顔は次第に歪んでいった。自分の身に照らして、自分の作品のうちのいずれかに思いを馳せてしまったのだろうか。
 顔を強張らせながら、男は続ける。
「結果的に彼の力が、彼自身が求める水準に及ばなかったとはいえ、君は確固たるコンセプトに沿って作られた。だから君には音を操ったり心を強制的に動かすような奇妙で特殊な力はない。ただ、羽を自在に操ることができるだけだ──これは、ある程度原点に立ち返って作られた真紅も同じだな。彼女は強くあれとすら求められなかったから、能力はより限定されているが」
 水銀燈は眉根を寄せたが、何も言わずに続きを促すような素振りをした。男は苦い顔を隠そうともせず、これで終わりだ、と素っ気無く言った。
「そんなに不満そうな顔をするものじゃない。言っただろう、私から見れば君と他の姉妹の違いなどそんなものだと。

 ──そして、そこの人形は君『達』と根本的に違うのだと」

 男は斜め下に視線を落とし、溜息を一つついてまた机に向き直った。作業を再開しようとしたが暫くして道具を乱暴に置き、抽斗から何かを取り出して抛りつけるように机の上に転がすと頭を抱えた。それは不規則にゆっくりと転がって行くと、机の端から床に落ちた。木と木のぶつかる音がして、それは水銀燈の足許まで転がってきた。

「ああ、ああ、そうだとも。素型を作っているうちから分かっていたさ、その人形が何か異常な力を持ってしまったことくらいは!
 だから私は完成させることを躊躇した。出来上がったが最後、あれは私の手を離れて勝手に動き出すだろう。そして至高の少女どころか悪魔に、神に刃向かうものにすらなりかねない。
 しかし、簡単に打ち棄てることもできなかった。そうするには、あれが作り上げる前から独り手に自我を得たという事実はあまりに魅力的だったのだ。究極の少女となるのに必要なリソースの一つ足り得るのではないか、と思えてしまうほどに」

 水銀燈は立ち上がり、転がり落ちたものを拾い上げた。微妙なラインで構成され、上下に半球状の丸みを付けたそれは、人形の胴のパーツだった。
「ドレスに標された逆十字はそのせいなのね」
 自分の胴とはあまり似ていないそのパーツをためつすがめつしながら、水銀燈は尋ねるというよりは確認する口調で言った。
「仮に完成させていたとしても、悪役扱いは免れなかったということかしら。どう転んでも不幸の種にしかなり得ないじゃないの、その人形は。いっそ後顧の憂いを断つためにも壊してしまえば良かったのに」
「そこであっさりと自分の命題を解く鍵になりそうなものを壊せるような果断で執着心のない人間が、膨大な時間を注いでローザミスティカなどという如何わしい物を作り、自分の作品に埋め込もうなどと考えるはずがないだろう。いや、少なくとも私には壊せなかった。そして」
「ずるずると、それが勝手に動き出した後も見て見ぬ振りを続け、七体目までを完成させて『アリスゲーム』が始まった後もまだ未完成のままとしていた。その認識が変わるのは、貴方の最愛の娘が人形に情けを掛けたから?」
「それもある。だが、あれが言った言葉が引き金だった。『ローゼンメイデン第一ドール』と、あれは名乗ったのだ。
 個々の仕上がりだけで『アリス』を目指していた頃ならば、戯言を言っているだけだと思っただろう。だが、私は動力源の最後のひとかけらに剣のイメージを宿してあれに渡した。
 力ずくで動力源の欠片を奪い合う試練を課したからには、あれにも相応の使い道が出来たのだ。動力源も力を与えてくれる者もなしに平然と動き回れるのだから、あれに動力源の一片を渡してお前も『ローゼンメイデン』だと言ってやれば、絶好の敵役になれるのだ。事実、そうなった」
 水銀燈はパーツを机に置き、人形を見遣った。
「それだけではないでしょう。今更貴方に認めろとまでは言わないけど、人形に対する愛着も当然あったはず。けれども自分の内心を認めたくない貴方は、パーツを作り付けないまま動力源だけを与えた。中途半端な形とは言ってもその人形にも至高の少女になれるチャンスを与えたのは、何か言い訳をしない限り自分の心に嘘を吐けなかったということよ」
 男は黙り込んだ。水銀燈は暫くそのまま待っていたが、やがて元の椅子に戻って腰掛け、足を組んだ。
「貴方が最終的に自分の気持ちに素直になるには、貴方の娘達が弟子の人形一体に全滅させられること、その弟子の人形が見せた純粋な想い、そして無力なはずの一人の契約者が貴方に問い掛ける言葉が必要だった。
 自分が作ったものが自分を慕うくらいの生半可な働きかけ──」
「──そうだ。彼女達からどれだけ愛されようと、私の中で何かが変わることなど有り得ない。娘達が碌に話を交わしたこともない私を慕うのは当然だろう。そういう風に性格付けされているかもしれないのだから。私自身が無意識のうちにそうしていない保証など、何処にもない」
 男は早口で、水銀燈の言葉に被せるように言う。水銀燈は目を閉じ、希代の錬金術師にして人形師がとことん自分を信じられない性格とは皮肉なものね、と呟いてから続けた。

「でも、貴方は気付いた。貴方がドールに与えた全ての能力よりも、力の源とした不可思議なクリスタルよりも強く働くものがあり、それは存在を知らなかった新奇なものでも全く見落としていたファクターでもなく、ただ単に重要視しなかっただけのありふれたモノだと。

 それは、ヒトの手によって作られ、魂を持ったモノが自ら持つ『想い』。

 貴方の想いを一身に受けて作られたその人形は、貴方が異様な未知の力だと勘違いするほど強い想いを持った。動力源を持たずとも勝手に動き出すほどに。
 娘達が貴方を慕ったのも、貴方が製作時に与えた特性ではなくて、自らの想いの発露に過ぎなかった。
 そして、本来貴方の作った娘達の動力源を体内に取り込めば壊れてしまうような、弟子の作った脆弱なはずの人形が、ほんの一時にしろそれを行使までして貴方の最高傑作を打ち破ったのも、弟子と人形のお互いの想いの結果だった。
 それを知ったからこそ、貴方は自分の宣言したルールを破らないぎりぎりの形で貴方の娘達を修復し、動力源の欠片を与えなおした。さり気なくその人形も含めて、ね」


「ま、まさかこんなにボッタクリ価格なんて……」
「由々しき問題かしら……」
 真紅が示した金額を見て、金糸雀と翠星石はこわばってしまった。
「じゅうにまんえんって?」
 雛苺は実感が湧かない様子で、指を唇に当てて小首を傾げる。
「少ない月のみっちゃんの家賃引いた手取りに匹敵するかしら……」
 金糸雀は引き攣った顔を隠そうともしない。みつの場合、その手取りが多かろうと少なかろうと惜しげもなくドール関係に注ぎ込んでしまうことの方がより一層の問題なのだが。
「うー、ますますわかんないのよ」
「お前の好物不死家の苺大福十二個入りを百箱買える値段ですよ。お子ちゃまには過ぎた買い物ですぅ」
 翠星石は言い捨て、早速数え切れないほどの苺大福に囲まれた想像を始めたらしい雛苺をさし置いて真紅に視線を戻した。
「ボッタなのは分かったですが、どうするつもりです? ドールにゃ百円だって稼げねーですよ」
「そうね……でも、なんとかしなければ。言い出したのは私なのだから」
 真紅は珍しく落ち込んだ表情で考え込んでしまった。ふむ、と翠星石は腕を組み、真紅が持ってきた紙を見遣る。
「確かにこれは、なんとかしないとですねぇ。額がでかいってことは、水銀燈やアホ人間にも大変だってことですし」
 ウェブページをそのまま印刷した紙には「フルオーダーワンオフ/ドライカーボンパーツ 60,000円~ /1点」というところに赤いマーカーで大きく丸が付けられていた。先日家に来た巴に真紅がこっそり頼んでプリントアウトしてもらった、カーボンパーツ専門店の価格表だった。
 胴部のパーツが容易に一体整形できないことは水銀燈から聞いていた。どう繋ぐかは別問題として、二つ以上のパーツ分割が必要らしい。塑像みたいには行かないのよ、と水銀燈が肩を竦めていたことを思い出す。
「私達にはアルバイトはできないし、何か作って売るしかないかしら」
「あ、ヒナいいこと思いついたのよ。翠星石が手作りクッキー作って売るのよ。薔薇乙女特製クッキーなのよ」
 おお、と他の三人がその素晴らしい提案に乗りかけたとき、後方から無慈悲な声が響いた。
「クッキー何枚必要だと思ってんだよ……無理だって」
 ぎくりとして振り向くと、そこにはジュンとみつが並んで立っていた。
「い、いつから聞いてたのかしら」
「『少ない月の……』からかなー?」
 みつが少し強張った顔で言う。
「ごめんねカナ、みっちゃんの手取りが少ないばっかりに……」
「み、みみみみっちゃんごめんなさいかしら! 泣かないでー!」
 思わず駆け寄った金糸雀をみつはひょいと抱き上げる。
「捕獲成功! ああんもうカナったら可愛いんだからぁ。そんなに想ってもらえるなんてみっちゃん幸せ……!」
 言い終わらないうちに、おろしがねで大根おろしを作るような勢いで頬ずりを始める。
「み、みっちゃんほっぺが、ほっぺが摩擦熱でぅぇぇぇぇ!」
 ちょっとした地獄絵図だ、とその場の他の四人は思った。

「十二万円ねぇ……」
 客間に戻り、漸く冷静になって話を聞いたみつは、形の良い顎に指を当てて暫く考えていた。それは金策の方法というよりも、具体的な金額の予測をしている風にも見えた。
「まだ、それと決まったわけではないのだけれど……難題なのだわ」
 真紅は居心地が良くないような風情で斜め下を向いた。みつはその姿とジュンを交互に眺め、ふふ、と笑った。
「多分大丈夫よ。アテがあるの」
 全員の視線がみつに集まる。みつはにっこりと、艶然と言ってもいいような笑みを浮かべた。
「ええ、みっちゃんにどーんと任せちゃって。これでも社会人ウン年目なのよ。だから、ジュンジュン」
「え、その呼称で固定なのかよ」
 抗議は当然のように聞き流し、みつはジュンにびしっと指を突きつける。
「さっきの話、よろしくね♪」
「……なんでそうなるんだよっ」
 口を尖らせながらも、ジュンは嫌だとは言わなかった。


「根本的に間違っていたのだ。至高の少女など限られた特質の中で優劣を競わせて決めるものではない。むしろ長い時間をかけて無数の人々の想いに触れ、そこからも単純な取捨選択をするのでなく、自分なりに全てから何かを汲み取って変化していかなければ生成し得ない」
 男は頭を抱えていた手を伸ばし、水銀燈が置いた胴のパーツを手に取ると机に肘を突いて両手でくるくるとそれを回した。
「そこに気が付くまでに何百年と掛かるとは、私は何処まで頑迷だったことか。より良い何かを生み出すために練成と変化が必要だということは、動力源を生成する過程でよく分かっていたというのに」
「そうねぇ。でも」
 水銀燈はふっと微笑んだ。
「間違った道を行き止まるまで我武者羅に突き進んだのも、自分の感情に気付かない振りをして遠回りをしてしまったのも、とても……人間らしい。到底賢明とは言えないけど、少なくとも懸命ではあった。
 私は貴方のそういうところ、嫌いじゃないわよ。愛すべき性格とはお世辞にも言えないけどね。
 何を考えているか分からないほど超然としていて、全てを予測してシナリオを組み上げている存在より余程『生きている』もの」
 男は手を止め、水銀燈を眺めて苦笑した。
「それは……君の父上のことかね」
 さあ、どうかしら、と水銀燈が言うと、男は苦笑を微笑みに変えた。
「君が抱いているのは幻想かもしれないぞ。少なくとも私と彼には──異なる世界の同一人物だ、というのは置いておいても──手法や技術が異質であるとはいえ、それほどの差があるとは思えない。例えば、あれがそうだ」
 水銀燈は男が指した方を見遣り、訝しげに瞬いた。
「その人形と私は似ても似つかない。そう言ったのは貴方じゃなかったかしら」
「そうだとも」
 男は頷いた。
「確かに君とは外見と名前、そして第一ドールという点くらいしか共通点はない。だが、あれに相当するものはいるだろう。生まれたときから異質で、まるで悪役と定められて生まれてきたようなドールが」
 水銀燈は体を何かが走り抜けたような気がした。
「……末妹が、そうだと言うの」
「ああ。彼女こそは私にとってのあれに相当する特異なドールだ」
「仮にあれをドールと呼ぶのなら、という感じだけどね」
 なにしろ物理的な本体さえない。魂だけの存在。どのように製作されたのか、そもそもどうやったらそのようなモノを製作できるのかさえ明らかでない謎のドール、それが雪華綺晶……

──どうやって製作されたか不明……?

「共通点はだいたい理解できたようだね」
 水銀燈の内心を見透かしたように、男は続ける。
「彼の『手』で作られたものでなく、彼のイデアが『生んだ』モノだとしたらどうだ。ここまでの文脈に沿って、想い、と言い換えてもいい。まるで、あれの自我と同じじゃないか」
「……屁理屈だけど、そういう見方もできなくもないわね」
 それに、雪華綺晶が取っ掛かりを作り、水銀燈の媒介の記憶の世界の中で信じられないほど急速に自我を持つまでに成長した『水銀燈』とも同じだ、と水銀燈は微かな良心の痛みと共に考える。
「そして、私があれを『アリスゲーム』の悪役駒として活用したような泥縄式の遣り方でこそなかったが、彼もまたアリスゲームにおける雪華綺晶を独特な立場として設定した」
 男は口の端を吊り上げた、やや偽悪的な笑みを浮かべた。
 水銀燈は黙って男の顔を見詰めた。男の笑いがまた自虐的な、あるいは自嘲的なものに変わるのではと思ったのだが、どういうわけかその気配はまるでなかった。

 水銀燈は左の手首を軽く押さえた。
「雪華綺晶が独特な立場というのは理解できるわよ、多少は末妹のありようを知っているから。誰かから押し付けられた知識だけじゃなしに、実際に危うい目に遭わされたこともある、という意味でね。もっとも出会ったのはそれきりだけど。
 でも、雪華綺晶の特殊な立ち位置というのは存在の異質さに起因しているんじゃなくて? 何かしら後付けの特殊な立場が有り得るのかしら」
 男はくくく、と笑った。ちらりと見ただけで不快になるような厭な笑いだった。
「君には分からんのだろうな、と予想していたが、そのとおりだったな」
 そう言ってから笑いを引っ込め、感情を見せない表情で淡々と続ける。
「偶然生まれてしまったモノと呻吟と試行錯誤の末に生まれたモノという違いはさておき、私と彼のそれらに対しての処置には共通する点がある。それは、手に入れたモノを最大限自分の目的のために活用したことだ。
 生まれてしまった雪華綺晶を見た彼が、私のように『とんでもないモノが宿ってしまった』と思ったのか『遂に実体のないドールの製作に成功した』と喜んだかは知らん。だが少なくともそれが自分の思い描くアリスでないことは即座に理解したはずだ。
 恐らく、彼はそこからいくらの時間も経たぬ内にアリスゲームを始めることを決意した。あれが純粋に私を慕っていたように、君の末妹もまた純粋に彼を慕っていたのだろう。だから、彼女の特性も織り込んでアリスゲームの『汚れ役』をやらせるには丁度良かった」
「分からないわね。悪役だったら私にやらせておけば良いようなものでしょう。なにも現実世界に出て来れない、不利な立場の雪華綺晶に悪役をさせる必要はないでしょうに」
「もし悪役が必要なら君を選んだだろう──極端な性格付けをされていないために最も個として安定していて、特殊な力こそ持たないが戦いとなれば手強い、それに尽きせぬ不安と不信を何処かに抱えている。確かに都合がいい──だが、汚れ役というのは何も悪役だけを指しているわけではないのだよ」
 男は無感動な視線を人形に向けた。

「ゲームを長期間に亙り遂行する上で、どうしても必要だが厄介な廃棄物と化してしまうものがある。それが契約者だ。
 契約を終生のものとした場合、各々の契約者が寿命を終えるまで待っていたら、いつまでもゲームは進まない。また、死に際の契約者を抱えた薔薇乙女はそれだけでゲームの遂行上多大なハンデを背負うことになる。よって、契約は薔薇乙女の側から随意に破棄できるものとしなければならない。
 ところがそうなると、今度は使い終わった契約者が問題になる。薔薇乙女の側から一方的に契約を破棄されれば、精神的な依存が強ければ強かったほど残された契約者は不安定になる。
 最悪の場合は何等かの経路を通じて薔薇乙女の存在を妄りに広めてしまうかもしれない。方法は書籍の執筆、その手のコミュニティへの参加、放送媒体への露出など、幾らでも考えられる。そうなれば、いずれ薔薇乙女自身やらローザミスティカを目当てに暗躍する者も出てくるだろう。
 中には特異な能力を持つ者もいるとはいえ、物理的には薔薇乙女達は大きなお人形に過ぎない。それなりのコミュニティが血眼になって捜索し、手段を選ばずに獲ようと思えば、いずれかの時代の何処かで必ず捕獲されてしまう。そうなればもうアリスゲームどころの話ではない。
 ただ、薔薇乙女に強く依存している契約者だけでも、その場面の全ての契約が終わり、薔薇乙女が眠りに就いた後に隠密裏に始末してしまえば、そういった情報の漏洩は最小限に抑えられるのではないか。つまり──」

 何かを抗議しかけた水銀燈を男は手で制した。
「──雪華綺晶に求められた役割は悪役などではない。むしろ君達姉妹の尻拭いと言った方が良かろう。彼女に期待されたのは、ゲーム環境の維持だ。つまり、君達の名を過度に広めず、同時に、特に君以外の姉妹達が契約を解いた後まで以前の契約者達のことを心残りとして必要以上に引き摺らないように」
 水銀燈は悪寒を感じたように身震いした。
「素養のある者の意識を自分の領域に引き込んで死ぬまで離さない、雪華綺晶にとっては自分の存在を維持するために欠くことの出来ない捕食行為。ゲームのためにそれを利用した、いえ、むしろそういうふうに雪華綺晶を作ったと言いたいわけ?」
 いくらなんでもそれは、と言いかけて、水銀燈は思いとどまった。

──雪華綺晶だけではないかもしれない。

 以前、訝しく思ったことが何度かある。
 他の姉妹がやたらと強調する契約者との繋がり、それは自分にとっては殆ど理解できないほど強いものらしい。ならば、果たして契約の終わった後、時代を超える眠りから目覚めるときまでに、それまでのしがらみをすっかり捨て去ることなどできるのか、と。
 自分だったら、到底忘れることなどできそうもない。
 契約者との繋がりが薄いらしい自分でさえ、最初に契約した人物のことを未だに覚えている。流石に今でこそ懐かしさと寂しさに心を食い荒らされるようなことはなくなったものの、最初の頃は苦労したものだ。
 その経験があったからこそ、それからは契約を交わしても馴れ馴れしくすることはなくなった。煩わしいと思えば契約を結ばずに媒介として利用するだけに留めてしまうこともあったし、それはそれで気楽にやれた。
 今回の相手もそのはずだった。最初に契約を拒まれれば鞄置き場としての役目と薇を巻く役目だけ押し付ける予定だった──実際にはこれまでにないほど振り回されている訳だが。
 自分ですらこのとおりなのだ。自分よりも感受性が強く契約者との繋がりも深いらしい他の姉妹ともなれば、下手をすれば以前の契約者のことをトラウマとして持ち続けるはずではないのか、と。
 しかし、どの時代で出会ったどの姉妹からも、その折々の契約者に対しての愛情やら共感は感じられるものの、それ以前の契約者に対する未練は全く感知できなかった。それは、今の時代においても全く同じだ。記憶そのものが消えている訳でないのは分かるが、少なくとも精神的な依存は綺麗さっぱり無くしてしまっている。
 それでいて以前からの記憶はそのまま保持しているのだから、不可解だった。
 その不可解さは媒介から得た知識でも深まるばかりだった。雛苺は前の契約者との別れのことを半ばトラウマのように覚えているらしいが、他の姉妹は以前の契約者のことを思い出すような素振りも殆ど見せない。
 彼女達は今までの経験を、それを得たときの情景とは全く切り離して蓄積しているのだろうか、と首を傾げたくなるようなこともあった。それにしては、例えば真紅は猫を苦手にしている理由を以前の契約者と結び付けているらしい。謎だった。
 結局、そのときは分からずじまいだった。どうにもすっきりしないまま、その問題を放り出さざるを得なかった。
 後になって媒介から得た知識も、その問題を解決するための役には立たなかった。そこは彼が死ぬまでに読んだ範囲の漫画でも語られていなかった部分なのだ。

──しかし、「後から振り返ることのないように作られている」としたら。

 ゲームの遂行のため後付けで設定されたか、それとも作られたときから刷り込まれているのかは分からない。しかしどちらにしても、彼女達の造物主は、彼女達に器と魂と性格、才能、技までを与えたのだ。そこに更なる細工を組み込むことができないはずはない。
 例えば鞄の中で次の時代を待つ間に、前の契約者への依存やら愛情を「懐かしい記憶」に変え、依存の対象を次の契約者へとすんなりと移動できるように作っておく、あるいは刷り込んでおくというような細工は造作も無いだろう。つまり──

「ああ、君の考えていることが概ね分かるというのは良いのか悪いのか、微妙なものだな」
 男は口の端を皮肉に歪めた。
「自分の娘達全員に問い掛けられ、詰られている気分になる。
 ま、それはこちらの事情だが、私の言いたいことは君の考えていることと恐らく殆ど同じだ。つまるところ、君達姉妹は全員、ゲーム遂行のために何等かの──ローザミスティカに対する渇望のようなもの以外にも、ゲーム進行に関する──心理的な後付けの制約を掛けられている。つまりは、ゲームを遂行してアリスに成るためにある程度最適化された、言わばゲームのための駒なのだ」
 水銀燈は何かを言いかけたが思い直して途中でやめ、続けて、と先を促した。
「君の末の妹は実体を持たない。強固な自己イメージで真っ白なドレスを身に着けたアンティークドールという姿を保持しているが、実際はボディを持ったことのない、ただの幻影のようなものだ。彼女に関しては何かしら他とは違った方向性でゲームに参加させる必要があった。
 ただ、それが彼女にとって有利だからといって、例えばnのフィールドの中では姉妹の誰にでも化けて襲撃するというようなありきたりな行動をさせてはいけない。糧となる人間を手当たり次第に確保させてもいけない。そういった見境のない行動は短期的には有効でも、いずれ彼女の意識を拡散させ、消滅させるか、ただの捕食衝動の塊に変化させてしまうだろう。自分の傑作、薔薇乙女である限りは誇り高くなくてはならない。
 彼女に他の姉妹の契約者だった者を選択して糧として確保させることで、これらはそれなりに上手く解決できるわけだ」
 なるほどね、と水銀燈は首を振り、頬杖をついた。
「彼女は厭でもゲームのことを覚えていなければならないし、一旦ゲームが動き出せば関わらざるを得ない。他の姉妹のマスターだった人間を騙し、糧とするために長期間もっともらしい夢を見せ続けることは、直接繋がっていないながらも現実世界の動向を注視する必要と、マスター達の精神に触れる機会を生む、ということね。良く出来ているわ」

「流石に理詰めでゲームシステムを構築するだけのことはある。確かに良く出来てはいた」
 男は皮肉な顔のまま頷いた。
「だが、大きな見落としも同時にしていた。それは、雪華綺晶の心情というものについて殆ど考えなかったことだ」
 そこのところが私と彼の最大の共通点だろうな、と男は肩を震わせて笑った。
「長丁場のゲームの遂行にあたり、半永久的な無機のボディを持つ六体は孤独とは無縁だ。人との出会い、別れはあるが、他の五人のうち一人は必ずどこかにいる。人工精霊も話し相手にはなる。更にその場その場では契約者が彼女達を愛している」
「雪華綺晶には誰もいない、という訳でもないでしょう。元マスター達が必ず自分の世界に──」
 言いかけて水銀燈は息を呑んだ。いや、違う。彼女が確保している契約者達は、当然のごとく自分達に都合のいい夢の中だ。その意識の中に雪華綺晶は当然存在していない。彼女はあたかもどこか無人の場所で、カタログを見て注文して配達されてきた物言わぬ人形に囲まれて生活しているようなものだった。
 しかも、悪いことに雪華綺晶は常時それらの世話──目覚めることを忘れているほど楽しい、あるいは美しい夢を見せ続け、夢が悪い方に転がり出したらそれを修正したり──をしなければならないはずだ。
 長く世話をすればするほど彼女の養分にはなるかもしれない。だが、その分手間は多くなる。投げ出せば自分が飢える可能性が出てくる。なにしろ、次いつ新しい糧が得られるかは、完全にあなた任せなのだから。
 そして、彼等は自分に都合のいい夢の中に居るに過ぎない。絶対に雪華綺晶そのものを愛してはくれない。それはおろか、存在そのものも感知し得ないし、させてはいけないのだ。
「──更に、彼女には時代をまたぐための眠りすら許されない。ひたすら糧を啜り、時を待つしかない。もっとも彼の考えでは、それがゲームへの執着と自己認識の強化を生起するものと思えたのかもしれないが」
 男は力なく首を振った。
「彼の思惑通りには行かなかったのだろう。『僅か』ここ百数十年の間に、雪華綺晶は疲弊してしまった。そしてアリスに対して独自の解釈を持つに至った」
「要は狂ったわけね」
 水銀燈は彼女らしい割り切った言葉で切り捨てた。
「そこの人形と同じように、自分の欠損部分とゲームの目的を重ね合わせてしまった、ということでしょう。もっとも、アリスになることで欠けた部分を埋める、そのためにゲームを遂行しているのは皆一緒かもしれないけど」
 そういうことだ、と男は溜息をついた。
「まあ、私も彼も、他と異質なモノの本質に対して深く掘り下げて考えるよりは、その特質をどれだけ自分の目的に活用できるかを優先した。そこは多分変わらない、ということだ。そして、恐らく──」
 言い切る前に、男は振り向いた。そして、そこに居た者を見て微笑んだ。
「──来たわね」
 水銀燈は立ち上がり、人工精霊を呼んだ。メイメイは待ってましたとばかりがらくたの山の中から飛び出た。掬い上げるような軌道で勢い良くカーブを描くと水銀燈の頭くらいの高さで急ブレーキをかけ、彼女の隣に控える。
「随分長いこと様子見していたものね、雪華綺晶」
 言いながら水銀燈は左の手首に絡んだ細い白茨を掴み、引き千切った。ぶつりと音を立てて切れた茨から、早くも透明な樹液が垂れる。色は着いていなかったが、彼女にはそれが何故か血のように見えた。
 雪華綺晶は無言で工房の隅に立ち尽くしている。どこか虚ろな表情は、以前遭ったときの雰囲気とはまるで異なっていた。
 あまりの違いに水銀燈がやや面食らったように次の行動を起こすのを躊躇っていると、雪華綺晶は視線だけを彼女に向け、体のどこも動かさぬまま、茨の太い束を二本、男に向かわせた。
 男は抵抗する素振りもなければ何か言うでもなく、案山子のように立ったままで左右から包むように押し寄せた茨に巻かれた。
「どうするつもり?」
「糧にいたしますわ」
 雪華綺晶は虚ろな表情のまま、口だけを動かして答えた。水銀燈は眉をしかめた。
「錯乱しているの? 悪いけど、その男は間違っても糧にできるようなモノじゃないわよ」
「糧にできなければ潰してさしあげます。いいえ、いいえ、錯乱などしてはおりませんわ黒薔薇さま。ただ──」
 茨の伸びていない、一つだけの開いた眼から、つうっと一筋の涙が流れた。
「当たらずとも遠からずな推論を語られ、改めて悲しくて寂しい気持ちになったのだろう? 雪華綺晶」
 男が低い声で語り掛けたが、雪華綺晶は視線も向けなかった。返事の代わりに白茨が膨れ上がり、男の体は頭の先からつま先まで白茨の渦に飲み込まれてしまった。
 男を取り込んだ茨はまるで巨大な繭か卵のようにも見えた。だが次の瞬間、それは無残な形に萎んでしまった。
 茨が空しく元のように引き込まれると、その中に捕えていたはずの男の姿は何処にもなかった。繭に包まれた瞬間に忽然と消え失せてしまったようだった。
 嘆くように茨が退却していく間も、雪華綺晶の隻眼は水銀燈を固定されたように見つめていた。
 愛らしい口からぽつりと短い言葉がこぼれた。

「──もう、意地悪しないで」

 水銀燈は何も答えず、何か身振りをすることもなかった。
 二人は暫くそのまま無言で見詰め合っていたが、やがて雪華綺晶は二、三歩あとずさり、それからふっと消えた。自分の領域に移動したようだった。
「神出鬼没、か」
 水銀燈は呟いて、人形を見た。人形は最後まで微動だにしていなかった。ただ、どういうわけかその無機質な眼も今にも泣き出しそうに潤んでいた。
「少し急がなければいけなくなってきたようね」
 誰にでもなくそう言うと、水銀燈は人形の目蓋をゆっくりと閉じさせ、今度ははっきりと人形に向かって言った。
「そんな顔しないで頂戴、広い意味ではみんな同じなのよ。私達は人形劇のマリオネットなのだから」
 ただ、それで終わりたくなくてこれ見よがしに足掻いてみせているか、そうでないかの違いだけだ。
 その違いが大きいか小さいかは水銀燈には分からない。しかしたとえ微細な差であっても、あるいはなにも変わらないとしても、自分は足掻くのを止めないだろうと彼女は思った。それなりの知識を得てしまったからには、それ以前のような真っ直ぐで純朴なアリスゲームのための歯車では居られないのだ。


 膝の上に真紅を抱いて、ジュンは刺繍の針を動かしている。
「……白薔薇ね」
「ああ……生地が水色だから」
 あれから暫く打ち合わせという名目の雑談をして、みつは帰っていった。
「あの話、引き受けるの?」
「……ああ」
 あの話、というのはみつが持ち込んできた、ドール服を作ってほしいという依頼だった。ドルフェスというドール関係の即売会に合わせてデザインしているドール服がなかなか思うように行かないらしい。ジュンの作った人形用のドレスを見たみつはえらい熱の上がりようだった。絶対悪いことにはならないからチャレンジしてみて、と迫られるとジュンとしても首を横に振るわけにもいかなかった。
「みっちゃんの作ったドレス、大したことないなんて言っちゃったけどさ」
 ジュンは下絵もなしに、手早く美しい薔薇の花弁を仕上げていく。真紅は半ばうっとりとそれに見入っていた。
「仕事の合間にコツコツやってるんじゃ、一ヶ月に一着くらいだろうな……値段も原価ぎりぎりだって言うし、好きじゃなきゃやってられないかも……」
 真紅は刺繍針が動いている辺りの布を押さえてぴんと張らせた。
「あ、指危ないぞ」
「……ふふ」
 真紅の笑いに、ジュンはくすぐったいような感覚を覚える。
「どうしたんだよ」
「成長したわね、ジュン」
「……は?」
 一瞬だけ、手が止まる。だが、ジュンはすぐに口を尖らせた。
「呪い人形に言われたくないな、そんなこと」
「──そうね」
 真紅は漸く手をどけた。
「私達人形に成長はない。本来、何かに突き動かされているだけ」
「なに言って……」
「あなたはどう思うかしらジュン、薇が錆びて朽ちるまで、アリスゲームに生きること。
 人が眠るように、呼吸するように、あるいは心臓の鼓動のように、それが私達の──薔薇乙女に本来求められた、自然であり必然なのだとしたら──」
 遠くを見るような瞳で、真紅は独語するように言った。
「どうって……」
 ジュンは手を止め、暫く次の言葉を探していたが、やがて刺繍を再開した。
「どうしたんだよ。なんかみっちゃんに感化されたりしたんじゃないだろうな」
「──ふふ」
 そうかもしれないわね、と真紅はまた柔らかく微笑んだ。
「……おいおい」
 正面から真紅を見ていたら、その表情に僅かに寂しさと羨望のようなものが混じっていることに気付けたかもしれない。だが、ジュンの視線からは真紅のヘッドドレスと自分の手元しか見えていなかった。
 ジュンの溜息がヘッドドレスをかすかに揺らす。真紅は目を閉じ、ジュンに体を預けるようにした。
「ねえ、ジュン」
「ん……」
「貴方は成長する。そしていつか在りし日の人形遊びを忘れていくでしょう。でも」
 そっとトレーナーの裾をつまんでみる。
「いつかここから貴方が飛び立っていってしまっても、私が眠りに就いて現実世界から消えてなくなってしまっても……」
 きゅ、と少しだけつまんだ手に力を込める。
「私達の時間が交差したこの瞬間は、世界に確かに存在していた。それだけは覚えていて」
「……ん」
 ジュンは不明瞭に返事をして、やや間を置いてから、なに大袈裟なこと言ってんだか、とわざとらしい溜息をついてみせた。
「飛び立つとか何言ってんだよ。僕には無理だ。なにしろ自他共に認めるヒキコモリだし。だけど……」
 また刺繍の手を止める。だいぶ続きを言いづらそうにしていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「お、お前達こそ……ゲームが終わって……アリスになっても、僕のことを忘れるなよ。そ、そりゃ、ヒッキーで取り柄も何もないかもしれないけど、お前達のこと三人も纏めて面倒看てやってるんだからな」
「忘れないわ。貴方は魔法の指を持った神業級の職人。そんな人間のことを忘れるはずがないもの」
 真紅は即答した。
「それに、貴方がたとえ貴方の言うとおりの存在だったとしても──」
 それから口の中で不明瞭に何か続きを呟いた。
「え?」
「──なんでもないわ。ドレスのアイデア出しの邪魔をしてしまったわね。静かにするから続けて」
「……うん」
 真紅はトレーナーの裾を掴んだまま、眼を開けて刺繍が出来ていくのを見守った。
 静かな部屋の中に、ジュンの息遣いと針の進む音だけが僅かに聞こえていた。



[19752] その4 黒い人形(2)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/19 00:03
「柏葉ぁ、おはよっ」
 少年が大きく手を振る。竹刀袋を肩に掛けた巴が大きな袋を持ちにくそうにしながらそちらを向くと、少年は慌てたように駆け寄って来た。
「ごめんな、朝練行く途中だってのに寄り道させて、おまけにでかい荷物持たせちゃって」
 片手で拝むような手真似をしながら、少年はにっと笑って袋を受け取り、ありがとな、と頭を下げてから少し心配そうな顔になった。
「ホントに役に立ったのかな? こんなんで。大きさ全然違うし」
「さあ……」
 巴は首を傾げたが、右手を口のところに持っていき、ほんのりと笑顔になった。
「でも桜田君はありがとうって言ってたわ。参考になったって」
「そっか、ならいいや」
 少年はうんうんと頷き、ちらりと袋の中を覗いた。
 袋の中身は何体かのキャラクターフィギュアだった。数年前深夜に放映していたアニメのヒロイン達の立体化ということだが、素人目にはあまりデザインに統一性があるようには思えない。
 強いて言えばどれもこれも露出度が高く、特に胸の下辺りから腰骨の上までは生身が露出している、いわゆるヘソ出しなところが共通点といえば共通点だった。
 言うまでもなく先日、巴がジュンの家に持ち込んだものだ。

 そのときも少年は巴に、でかいし重くて悪いんだけど、と片手で拝むような仕草をして、これを桜田のところに持ってって欲しいんだと袋を差し出したのだ。
 訝しく思っている巴に、少年は胴体のない人形の一件とジュンが胴体を作ることになった経緯をごく簡単に説明し、参考になるかと思ってアニメ好きの友人から借りてきたんだ、と袋を開けて中身を見せた。

──持ってくのは俺より柏葉の方がいいかと思ってさ。

 いつものように理由を言わずに少年は頭を下げてみせた。巴も特に理由を聞かずにこくりと頷いて引き受けた。
 巴がそういう人柄であったり、二人の間に以心伝心とかいう高等な事情があったわけではない。そこで理由を尋ねても、少年に納得の行く説明を求めることが無理だと分かっていたからだ。
 雛苺の言うところではごく最近、少年は昔の記憶を失ってしまい、そのために性格が変わってしまったらしいが、巴にはそうしたところが以前と特に変わったようには思えなかった。クラスメートになってからずっと、外から見る限りにおいては、少年はいつも理屈より感性を信じて動くタイプに見えていたのだ。
 もちろん変わったと思うところがないでもない。どこか世の中を皮肉に眺めていたような眼差しは好奇心が丸出しの素直なものに変わったし、謎のような苦笑は快活な笑いになった。だが、そうした変化でさえごく親しい何人か、そして彼をよほどじっと見つめていた者以外は気付いていないだろう。

「ところでさ、桜田のやつ今日のこと何か言ってなかった?」
 相変わらずのあっけらかんとした声に、巴は短い回想から引き戻された。
「今日?」
 何も言っていなかったけど、と巴が返事をすると、少年は斜め四十五度に首を傾け、眉間に皺を寄せて暫く考えていたが、目の前の巴が怪訝な顔をしているのに気付いてごめんごめんと笑顔になった。
「そっかぁ。いやさ、今日はお出かけみたいなこと聞いてたから」
「お出かけ?」
 意外な言葉に思わず鸚鵡返しに尋ねると、うん、と少年は頷いてみせた。
「金糸雀のマスターが運転して、水銀燈がナビやって、みんなで例の人形の胴体作ってもらいに行くんだってさ」
「そうなんだ……」
 巴は思わず微笑んだ。車の中で大はしゃぎする翠星石と雛苺の姿が見えるようだった。
「柏葉は行かないのか……なんとなく関係者全員なのかなーとか思ってたんだけど。あ、でも朝練あるから当たり前か」
 あら、と巴は瞬いた。
「栃沢君も一緒に行くの?」
「俺? なんでさ」
 少年は驚いたように巴をまじまじと見、ひらひらと手を動かした。
「全然お声もかからなかったって。『ただの媒介』だもん、俺」
 ならばどうして自分が呼ばれると思ったのかと巴が尋ねると、少年は腕を組んで小首を傾げた。
「柏葉は雛苺の元マスターで、今でも雛苺が一番懐いてるじゃん。それに桜田も……」
 それは何かとても重大な勘違いをしている、と巴は赤くなって抗議したが、少年は大きな疑問符を頭の上に浮かべたような表情で首を捻るばかりで、話は上手い具合に噛み合わなかった。


 郊外の幹線道路で、みつはレンタカーを快適に走らせている。日曜日の午前中の道路は適当に空いていて、適当に混んでいた。
「すごいの、とっても速いのよ」
 雛苺は目を丸く見開いて後部座席の背もたれにしがみつき、後ろに流れ去って行く景色を、言わばかぶりつきで見詰めている。あまり外に出かけたことのない彼女には見るもの全てが新鮮で、驚きに満ちているようだった。
「いろんなお店がいっぱいあるのね……」
「後ろ向きで景色見てると三半規管がイカレちまうですよ。おとなしく前向いてやがれです」
 鞄に乗って街の中程度なら何度か行き来している翠星石は、何処で仕入れて来た知識か、最初だけはそんな風に少しばかり姉らしい注意をしてみせたが、雛苺が何あれと興味を示すとその都度隣に並んで指差す方を眺めては適当な答えを返している。
「RED BARONってなに?」
「それはですね……」
 ボソボソと翠星石が雛苺の耳元で何事かを囁くと、雛苺は愕然として首をぶんぶん振った。
「うう……赤男爵さん可哀想なのよ。そんなにじこぎせいしちゃ駄目なのよ」
「レッドバロンは中古バイク屋かしら……」
 流石に何度も似たような問答を繰り返しているせいか、ややうんざりした顔でおざなりな訂正をする金糸雀も、後ろを向いているうちの一人だった。
 彼女がうんざりしている理由は翠星石の出任せだけではなかった。
「ちゅうこばいく、というのは何なの」
「中古……他人が一度は所有したバイクってこと。バイクはわかるかしら?」
「教えて頂戴」
 意外にも通過していく事物に興味深々なのは真紅も同じだった。しかもその知識も雛苺と似たり寄ったりに過ぎない。
 魔法や錬金術、心理学や哲学関係の書籍は読み漁っているくせにニュース関係にはあまり興味が向かないらしい──そのくせワイドショーはよく見ている──彼女の知識はひどく偏っていた。唯一の常識人として相手をしている金糸雀としては、それこそ一般常識の基礎と言えそうなことも全て噛んで含めるようにして説明しなければならない。
 悪いことに、真紅は飛び飛びに知識は持っていて、しかもそれは正しかったり微妙に間違ったり、あるいは古かったりとごちゃ混ぜだった。そこを丁寧に説明すると「知っているのだわ」と不機嫌になったりいじけたりもする。金糸雀は延々と忍耐力を試されているような気分だった。
「──そのうちコンビニを役所とか言い出しかねないな、あいつ」
 助手席のジュンは振り返る気力もないとばかりに溜息をついた。真紅が頓珍漢なことを言い出すのか、翠星石が適当にそう言うのかは特定しなかった。両方有り得ると思ったのかもしれない。
「あの子が活動的になったら苦労しそうね」
 ジュンとみつの間で背もたれに寄り掛かりながら水銀燈はにやりとしてみせた。
「興味が人形劇と小難しい学問からどこか変な方にシフトしないように、一生傍についてて世話を焼いてやらないといけないかもね。ご愁傷様」
「勘弁してくれよ」
 一生呪い人形の世話を続けるなんてどんな笑えない未来だ、と言いながらも、ジュンの顔は満更でもなさそうだった。
「それよりさ、お前」
 ジュンは改めて水銀燈をしげしげと眺めた。
「──いいのか?」
「確かに少し眠いけど、吸血鬼じゃないんだから昼間に弱いって事はないわね。それとも金糸雀の契約者と二人きりが良かった?」
「ジュンジュンと二人きりねえ……それも悪くなかったかな」
 瞬間、みつの横顔が大人の女性らしい艶っぽさを見せる。ジュンはまじまじとそれを見詰めてしまい、かあっと顔を赤くした。
 しかしすぐにそれは過ぎ去り、みつはいつものフェティシストの顔に戻った。
「でもローゼンメイデン五人揃い踏みも実現させたかったのよねぇ。もう幸せで舞い上がっちゃうくらい……」
 みつはマニアが趣味の対象を見るときの目でバックミラーに視線を向ける。そこには色とりどり、四つのドールの後姿が仲良く並んでいた。
「なっ……そうじゃなくって。その、水銀燈は服装とか、そんなんでいいのかって」
 ジュンは赤い顔のまま、慌てたようにぶんぶんと手を振った。
 今日の水銀燈はいつもの凝ったドレス姿ではない。長袖のシャツにジーンズにスニーカー、頭には野球帽を被って度のない眼鏡まで掛けている。
 靴と眼鏡以外はのりが用意したジュンのお下がりだった。紛うことなく五歳児くらいの男の子用の服装なのだが、意外にもよく似合っている。やや脚が長いことと髪の毛が銀色に輝いていることを除けば、どこにでもいる子供だ。いや、白人の子供だと言ってしまえばそれも特に気にならないだろう。
「あまり気に入ったデザインじゃないし翼も広げられないけど、悪くはないわよ。機能的だし」
 一揃い媒介に揃えさせてもいいわね、と水銀燈は薄く笑った。
「ただ、学校や職場に制服があるように、製作者が作ったドレスは私達が私達であることを示すものでもある。無駄にプライドの高い薔薇乙女にとっては、普段からそれ以外の服を着て過ごすのはなかなか勇気が必要なのよ」
 それでもいいなら、と水銀燈は左右の二人を見比べるようにした。
「貴方達が思いの丈を込めてドレスを作ってもいいかもね。綺麗な服を贈ってもらって悪い気はしないはずだから」
 みつはそうよねそうよね、とうんうんと頷いてみせたが、ジュンは若干複雑な表情になってしまった。

──考えてみたら、あいつらに作るより先にあの水銀燈もどきの服作っちゃったことになるな……。

 しかも服を作る間と人形のボディに時間を取られている間、三人の相手もろくにしていなかった。この間みつが来た日の夜中、いつも九時には寝ているはずの真紅が彼の膝の上に乗って刺繍を見せてとせがんできたのも、寂しかったからかもしれない。
 これからはもっと一緒にいる時間を増やした方がいいのだろうか。確かに、例えば蒼星石は起きてから寝るまで結菱老人の傍にいるか家の庭の手入れをしているらしい。真面目な性格もあるのだろうが、そうしていることが幸せらしいと半ば呆れ顔で翠星石が言っていたのを思い出す。
 一方、水銀燈と契約者の関係はほとんど正反対だ。一日のうち二人が顔を合わせている時間は、水銀燈が少年の夢の世界に潜り込んでいる時間を合わせても多分数時間にも満たないはずだ。それでいて水銀燈が少年を蔑ろにしている訳でもないことは、それこそ毎日夢の世界に入ったり、そこにいた人形を危険だからと引きずり出して見せたことでもよく分かる。
 一方少年の方も、水銀燈にとってのアウェーであるはずの桜田宅に自分一人で乗り込んできた。少年自身は気付いているかどうか分からないが、あのときから水銀燈とその媒介の二人に対しての他のドール達の対応は大きく変わった。ばらばらに行動しているけれども、二人の繋がりが弱いようには思えない。
 ケースバイケースということなのかもしれないが、事実上三人の契約者の自分は誰を基準にして対応すればいいのだろうか、などと考え込んでいると、何時の間にか水銀燈の視線がこちらを向いていることに気づいた。
「必要以上に深く考えてもいい考えには辿り着けないこともあるわよ」
 水銀燈はジュンの気持ちを見透かしたように、若干意地の悪い笑みを浮かべた。
「貴方は慕われてる。そして慕ってるドール達も全くの子供って訳じゃないの。裏づけのないモノじゃないんだから、自分に自信を持つべきね」
 その言葉はジュンが黙り込んだ原因に対して誤解を含んだもののようにも思えたが、ジュンは素直にありがとうと答えた。
「それにしても、お前が僕のこと励ましてくれるなんて、ちょっと前には考えられなかったな」
「御生憎様」
 水銀燈は照れた風もなく肩を竦める。
「励ましが必要なら貴方の可愛いお姫様にやってもらいなさい。私が言ったのは掛け値なしに客観的な、貴方が気付こうとしていない現状。それ以上でも以下でもないわ」
 ジュンはふっと息をついた。
「はい、はい……」
「生返事ね、ま、どうでもいいことだけど」
 遣り取りだけは真紅との会話に似ている。しかしやはり水銀燈は水銀燈の言葉と雰囲気を持っていた。
 それが具体的にどういうものかは、まだ漠然としていて上手く説明できない。だが、真紅が持って回った表現で人を励ますのが得意でなく、ついぶっきらぼうな言い方になるか真摯に直截な表現で語ってしまうように、水銀燈も表に出てくる言葉ほどは冷徹な内心を抱えている訳ではないことは、何処となく分かったような気がした。


「じゃ、午後二時にこの先の駐車場で」
「分かったわ。みんなの世話はみっちゃんに任せといて♪」
 運転席で片目を瞑ってみせるみつに、車を降りたジュンと水銀燈は顔を見合わせた。その語尾の跳ね上がり方が一番気懸かりだと言いたいのは二人とも同じだったが、お願いしますと形だけは素直に揃って頭を下げた。
「頑張ってねジュン。水銀燈もバレないように気をつけるかしら」
「……余計なお世話よ、お馬鹿さん」
「むう、人がせっかく心配してあげてるのに。水銀燈ったらもう少しは感謝の心を持つべきかしら」
 口を尖らせる金糸雀の隣で、雛苺がぶんぶんと手を振る。
「こうしょう頑張ってなのよ。あいとあいとあいとー!」
「ヒッキーにゃいろんな意味で荷が重いでしょうが、精々頑張りやがれです」
 翠星石はジュンが重そうに持っている大きな鞄に視線を向けた。そこには胴のない人形と、それを完全なものにするための胴部の原型が収められている。
「その子を宜しくお願いするです、ジュン」
「──うん」
 ジュンは鞄を少し持ち上げてみせる。
 鞄の提供者は翠星石だった。段ボールで持って行けばいいとあっさり言う水銀燈にそれではあんまりだと抗議して、自分の鞄を貸し出すことにしたのだ。
 話の転びようによっては、もしかしたら翠星石は一週間以上鞄で寝られないかもしれない。だが、そうなったら大変だと思いはするものの彼女は鞄を貸し出すことを躊躇しなかった。彼女も彼女なりの遣り方で『水銀燈』のことを気に掛けているのだった。
「ジュン」
 真紅は後部座席の窓にしがみつき、目から上だけを出してジュンを見た。暫く、といってもほんの数秒だが、二人の視線が交錯し、真紅の顔が微かに笑みをたたえる。
「行ってらっしゃい、ジュン」
「……うん」
 真紅が何か続きを言いかけたとき、信号が青に変わった。みつは水銀燈に手を振り、車を発進させる。薔薇乙女達の身体はぐらりと揺れ、慣性で後部座席の背もたれに押し付けられたり座席の上に倒れこんだりした。
「感動のお別れシーンが台無しね」
 ぷっ、と水銀燈が吹き出す。
「みっちゃん、急発進しすぎじゃないのか?」
「それもあるし、自動車の動きに慣れてないのよ。金糸雀以外は初めてでしょうね」
 ふと水銀燈は目を閉じた。

 彼女が最後に自動車に乗ったのは、爆弾の雨は降らなくなったものの、まだ時折何処からともなく無人の飛行機や大型のロケット弾が降ってくる街の郊外だった。
 確かアメリカから大量に供与された四輪トラック、戦闘神経症で後送された当時の媒介が運転するそれのサスペンションは、今から思えばあまりにも旧式で、軍用としてはどうか分からないが、人間も運ぶ車としては最低限の機能しか持っていなかった。
 鞄の中に入っていても眠りに就けないほどに手ひどく揺さぶられながら、彼女は媒介の実家に運ばれ、そしてそれきり媒介と会うこともなく長い眠りに入った。
 仮に今生きていたとしても、彼は九十歳近いはずだ。今更会いたいとは思わない。だが、消息が全く気にならないと言えば嘘だった。
 結菱老人の一件の後、少年の目を盗むようにして試しに人名で検索を掛けてみたこともあったが、しかし、それらしい結果には行き当たらなかった。これといった特技や資産のない男だったから当然といえば当然だが、一抹の寂寥感が残ったことも事実だった。

「──行きましょうか」
 まだなんとなく不決断にレンタカーの走り去った方を眺めているジュンを、水銀燈は軽くつついて現実に引き戻した。
「……うん」
 ジュンはひとつ頷くと、水銀燈の後ろについて歩道を歩き出した。
 五歳児くらいの子供の背丈なのに、水銀燈の足はさほど遅くなかった。大股で迷いなく──まるで毎日通って知っている道のように──そのくせ軽やかに歩いていく。まるで羽を広げているようだ、とジュンは思った。実際には彼女の羽は今まで見たことのないほど小さく、近づいて見てもシャツの上からではほとんど存在が分からないほどに畳まれているのだが。
 対して、ジュンの足取りは軽くない。鞄は確かに大きく嵩張っているが、中身が軽いから見た目ほど重いわけではない。足を遅くしているのは別の要因だった。
 服は作ったことはあるが、人形のパーツは初めてなのだ。しかも他の部分を作ったのは自分ではないから、出来上がってしまえば自分の作った胴体部分が他の部分の作風と合わない可能性が大きい。それを、確実に一人以上の赤の他人の目に晒すことになる。
 あれは違う、と思いつつも、どうしても自分の描いたラフスケッチの顛末を思い出してしまう。黒板一杯の中傷の文字、その場の全員の蔑むような冷たい視線、嘔吐してしまった自分を見ても手を出そうとしないクラスメート達。
 額に汗が浮かぶ。しかし、歩みを止めるわけには行かなかった。こんなところで座り込んだらみんなは落胆するだろうし、前を歩いている子供の姿をした黒衣の人形には鼻で笑われてしまうだろう。それは癪だった。
 百メートルほどの距離を歩くと水銀燈は唐突に立ち止まった。振り返って大分遅れているジュンを見ても何か特別なことを言うでもなしに「ここよ」と素っ気無く到着を告げた。
 ジュンはガラス張りのショールームの中に並べられているスポーツバイクや大柄なスクーターを眺め、視線を上げて看板を確認し、それまでよりは幾分ましな歩調で水銀燈の前まで歩み寄った。
 水銀燈は帽子の下でにやりと笑い、両腕を大きく広げてジュンを見上げた。
「機械と油と熱と騒音の世界へようこそ、綺麗な世界のお坊ちゃん」
 ジュンは何度か瞬いた。水銀燈の姿が、何故か長身の男のように見えた気がしたからだ。


「良かったんですか真紅」
 後部座席に並んで座りながら、翠星石は真紅をちらりと見遣った。
「何の事かしら。ジュンのことなら心配要らないわ。水銀燈だって、まさかジュンを焼いて食べたりはしないでしょう」
 澄まして答える真紅に、翠星石は水銀燈のように肩を竦めてみせた。
「ジュンのことはいいんです。ホントは一緒に行きたかったんじゃないですか? ジュンと」
 真紅は翠星石の顔を見、それから視線を前に向けた。金糸雀と雛苺は助手席に移動してみつとはしゃいでいる。肝心の運転が気もそぞろなのは決して誉められることではないのだが、それは経験の乏しい彼女達にはあまりよく分からない種類の事柄だった。
「そうね、水銀燈の代わりになれるのだったら一緒に行ったでしょう」
 でもそれは貴女も同じではなくて? と真紅は翠星石の手に手を重ねる。
「水銀燈のように変装してしまえば、いいえ、貴女ならそのドレスのままでも可愛い女の子で通るわ」
「真紅だってそうじゃねーですか。現に、おじじの家からはみんなで歩いて帰ってきましたよね? あれでも騒がれることがなかったんですから。それにチビチビやチビカナだって平気で外に出てます。いくら小うるさい時代になったからって、その気にさえなりゃ、薔薇乙女には外を闊歩することなんて御茶の子さいさいなんです」
 それなのにどうして、と翠星石は真紅を見詰める。真紅は伏目がちになり、貴女も分かっているのでしょう、と呟くように答えた。
「ジュンは、一度は閉めてしまった扉を開く鍵を手に入れたの。それは偶然与えられたものかもしれないけれど、自分自身で使うべきものよ」
 それを私達が邪魔すべきではないわ、と真紅はちらりと翠星石を見、また前に視線を戻した。
「今日の水銀燈には役割がある。それはジュンの側の私達にはできない役目。代われるものなら代わりたいけれど……」
 翠星石の手に重ねられた真紅の手に、僅かばかり力が篭る。
「人は成長するわ。子供は在りし日の人形遊びを忘れていく。ジュンが重い扉を開こうとしているなら、私達はこちら側からそれを見守ることよ」
 それにね、と真紅は固い表情をやや崩した。
「一緒に行ったら、私はきっと嫉妬してしまうわ、水銀燈に」
 ちらりと翠星石の顔を見上げる。どうしてですか、と口には出さなかったが、翠星石の表情がそう尋ねていた。真紅はまた俯き、少しばかり照れたような、それでいて寂しいような顔で続けた。
「彼女にはその場での役割があるもの。でも、私にはなんの役割もない。ただの見物人に過ぎないの。それがきっと妬ましくなってしまう……」
 そうですか、と翠星石はこくりと頷いた。真紅がこんなにはっきりと弱気な部分を見せるのが少しだけ意外だった。

──真紅でも、他人に嫉妬したりすることはあるんですね。

 正直なところ、翠星石がジュンに同行しなかった理由の半分ほどは似たような理由だった。自分が居てもジュンにして上げられることがない、というシチュエーション自体が怖かった。
 今回の件は事務的なことについては水銀燈がいれば全て事足りてしまう。また、もしジュンが精神的にダメージを受けるようなことがあっても、今の水銀燈なら尻を叩いてでもその場は切り抜けさせてしまうだろう。未知の場所に同行してお邪魔者になるだけという図式は、真紅ほどプライドが高くない翠星石であってもやはり楽しいものではない。
 そして、真紅がもう一つ理由を持っているように、翠星石にもそれ以外の理由がある。それは、ついて行くなら真紅も一緒でなければ、という翠星石自身の拘りのようなものだった。
 何故そういう拘りを持ってしまったかについては、翠星石本人にも明確な答えは出せない。ただ漠然と、真紅が片腕を失っていた間自分が感じていたちょっとした疎外感とか、小さな嫉妬とか寂しさのようなものを、自分が味わわせたくはないという気分があるだけだ。
 だから、その部分については翠星石は心の中に仕舞って置くことにした。
「──翠星石も同じですよ」
 彼女は微笑み、真紅の手を取って指を絡み合わせ、助手席で元気一杯にしている二人を見遣った。
「さっきの難しい話は、今は置いておくです。でも、真紅がちょっとだけデレてくれて嬉しかったですよ」
 それは身勝手な思い込みかもしれない。しかしこの場はそういう納得の仕方をしておけばいい、と翠星石は思い、空いている方の手で真紅の肩を抱き寄せた。
「──翠星石?」
 驚いてこちらを見上げる真紅に、翠星石は少し意地の悪い──雛苺や金糸雀に見せるような──にやりとした笑みを見せた。
「いいから、たまにはジュン以外にも甘えるです。お姉ちゃんが抱き締めてやるですよ、このツンデレ妹」
 ひっひっひ、という笑いに真紅が身体を強張らせるのをぐいと抱き寄せ、翠星石は真紅の顔を自分の胸元に押し付けた。真紅がくぐもった声で何か言ったが、翠星石は気付かない振りをして目を閉じた。

 二人は全く気付かなかったが、運転席のみつはバックミラーでそれを確認し、金糸雀に左手の人差し指を立ててみせ、次に親指で後部座席を示した。金糸雀は流れるような動作で敬礼を返すと、懐から取り出したカメラを後部座席に向けて立て続けにシャッターを切った。
「……完璧な連係プレーなの」
 雛苺は目を丸くしてひそひそと囁き、金糸雀は無言で親指を立ててみせた。


「変わった形のパーツですねえ……縮んだ芋虫? おっきな抵抗器? みたいな」
 ショップの受付担当だという女性は、なんとも言いがたい形状をしている原型を見て、ごくありきたりだが的確な形容をした。水銀燈は思わず吹き出し、ジュンは居心地が悪そうな表情になって原型をまた鞄に仕舞った。
「今、担当を呼んで来ますね」
 女性はあくまで笑顔で、事務所の奥に消えた。
「あは、あはははは」
 水銀燈は腹を抱えて笑い出した。
「確かに抵抗よねぇ。細くなってるところにストライプ入れたらそのものだわ」
「なんのことか分かんないぞ」
 ジュンは口を尖らせる。水銀燈はなおも暫く笑ってから、ジュンに向かって人差し指を立てて説明を始めた。
「電子基盤なんかで使われてる抵抗器のことよ。大きさは全然違うけど、形がね──」
「お待たせしました。カーボンパーツ担当です」
 後ろ斜め上から声が降ってくる。振り返ると、ツナギ姿で書類ファイルを脇に抱えた長身の男が立っていて、こちらを見てお辞儀をした。ジュンは慌てたように頭を下げ返し、男はもう一度軽く頭を下げて、どうぞと二人を事務所の隅のテーブルに案内した。

「バイクやクルマのパーツじゃないって事務員から聞いたんですけれども、まず現物を見せて頂いていいですか」
 ジュンははいと頷き、少し苦労しながら鞄をテーブルの上に置くと、そこから白い紙粘土製の原型を取り出した。
「……こりゃまた、凄いですね。フィギュアのヘソんとこみたいな」
 男は原型を手に取り、ざっくばらんな口調になった。形式ばった言い回しは苦手なのだろう。それでもお客相手という意識があるのか、丁寧語だけは使っている。
「フィギュア、というか……」
 ジュンは口ごもってしまう。改めてこうして他人の目に触れさせると、どうにも恥ずかしさが先に立ってしまう。姉や親しい人に作った服を見せたときとは違う感覚だった。
「ご名答。球体関節人形の胴体部よ」
 水銀燈がぼそりと補足した。男は、おや、というような表情をして水銀燈をちらりと見たが、なるほどねぇ、と頷いてまた原型をくるくると回した。
「他の部分はどうなってるんです? これから作成とか……」
「もう、できてます」
 ジュンは少し詰ったような言い方で、なんとか答えた。水銀燈は少し眉根を寄せてそちらを見る。
「それも全部FRPで作るんですか?」
 男は当然の疑問を口にする。まさか、と言わなかったところは商売人と言うべきかもしれない。
「いえ、もう……」
「そのパーツ以外は、完成してるの。ゲルコートも」
 しどろもどろになりかけたジュンの言葉を水銀燈が引き取る。
 真紅が見たら失望の溜息を漏らしたかもしれない。あまり行儀のいいやり方ではないし、ジュンの心を思えばさっさと口を挟むべきところではなかろう。
 ただ、水銀燈には水銀燈の事情があった。野球帽と眼鏡のせいもあって外見にはそう見えないかもしれないが、彼女もまた少なからず緊張しているのだった。
 もっとも、そういう事情がなかったとしても彼女の場合、焦れて口を挟む可能性が無いわけではない。最近変わりつつあるとはいえ、お世辞にも気が長い方ではないのだ。
 そんな二人の事情には気付かないように、ほう、と男は一オクターブ高い声を上げた。
「もしかして全部カーボン……とか?」
「はい」
「そりゃ凄い、いや、これって完成したら全長、全高って言うのかな? 多分一メーターくらいありますよね。それを全部……」
 見てみたいな、と男は子供のような素直な声を出した。ジュンは開いたままの鞄をくるりと回し、男から中身が見えるようにした。
「こりゃ……」
 男は目を見開いて絶句した。人形の出来に目を奪われてしまっているようだった。
「失礼、いや、なんというか」
 暫くして男はやっと口を開いた。視線はまだ人形に注がれている。
「最近はハンドレイアップ……ええと、ウェットカーボンって言った方が通りが良いかな、ホームセンターで売ってる手作りFRPセットのガラス繊維をカーボン繊維に代えたやつ、って言いますかね。そういうのをカーボンって言ってる場合もあるもんで。いやしかし凄いな、これは。物凄く綺麗だ」
 取って付けたように人形の美しさにも言い及んだものの、男の視線は専ら胸部と腰部の内部──塗装されていないために素材が剥き出しになっている部分に注がれているようだった。案外、綺麗だというのもそこの曲面の貼りこみやら仕上げ具合を指したのかもしれない。
 暫くどうしても買って欲しいが買ってもらえない玩具を見る子供のように熱い視線を注いでいたが、やがて嘆息と共に目を上げ、はっとして赤くなり、ありがとうございますと二人に向き直る。
「失礼しました。人形としての形も素晴らしいと思うんですが、仕上がりが美しいですね。つい魅入ってしまいました」
 二人は頷いた。何処の仕上がりかは、言われなくても分かる気がした。

 そこから後暫くは、事務的なつまらない話だった。仕上がりまで一週間以上は必要なこと、雌型が必要になること、肉抜きが上手く出来ない形状なので分割後結合することになること、分割ラインについては一任すること──但し、極力目立たないように分割するし、結合面の強度については責任を持てると彼は言った。
「もちろんばらばらの分割パーツでなく、一つに結合済みの完成品としてお渡しします。それと──」
 男は開いたままの鞄にまた目を遣り、原型の上下を指差した。
「球体関節なんですね、この上下の半球が」
「はい」
 組み合わせてもらっていいですか、とは彼は言わなかった。ただ、ちらちらと鞄の中を見ながら考え込むような素振りをしているのは、頭の中でそれを実行してみているのだろう。
 ジュンは手を伸ばし、水銀燈を促して二人がかりで人形を鞄から取り出し、テーブルの上に寝かせた。原型を胴のところに組み入れると、そこだけ色違いではあるものの人形はどうやら人間の形になった。
「こんな風になるんですけど……」
 背中部分に手を回し、上下の胴部の関節を軽く動かす。首がかくんと後ろに仰け反るのを見て、男は自分も立ち上がって人形の頭を支えた。
「かなり自由に動くんですねえ」
 人形の髪を自然に整えながら、ほうほう、と男は何度か頷いた。
「この原型の状態で、パーツの擦り合わせは出来てるってことですね。分かりました。それを確認したかったもんで」
 ここまで擦り合わせができていれば、後は完成品でどうしても微妙に発生するヒケ、歪みを取ってやる程度でいい、と男は感心したように言った。
「上下のパーツを預かって宜しければ、こちらで擦り合わせをした状態で塗装までやっておきますが」
 どうしますか、と尋ねる男に、ジュンは咄嗟に返事が出来なかった。男はパーツ工場の関係者らしく上下パーツという言い方をしたが、それは要するに人形を預けるということと同義だった。
 確かにパーツ原型の製作者は自分ということになるのだが、その依頼者は水銀燈なのだ。人形を丸ごと預けてしまってよいものなのか。
 だがジュンが視線を向けると、水銀燈はあっさりと頷いた。ジュンは男に頭を下げた。
「お願いします」
 分かりました、お預かりしますと男も頭を下げた。

 さきほどの女性が三人分のコーヒーを持ってきた。テーブルの上の人形を見てまあと口に手を当てる。
「凄いですねぇ。お客さんが作ったんですか?」
「……違います」
 男と女性がジュンに視線を向け、ジュンはちらりと水銀燈を見遣る。水銀燈はポーションタイプのミルクを律儀に垂れ残しのないようにコーヒーに溶かし込み、その表面が微妙な模様を描くのを観察してからジュンを見、そして視線を男に移した。
「原型もパーツ本体も、どこかのパーツ屋に居た人が作ったの」
 水銀燈は子供の声色や喋り方を真似ることもなく、普段どおりの発音で言った。
「でも、今年の冬亡くなったわ。胴部だけ作り残して。中途半端ったらないでしょう」
「そう……それは惜しいなあ。良い仕上がりなのに」
 男はコーヒーを啜り、遺作ってことかぁ、と天井を見上げた。高い天井には大きな換気扇がゆっくりと回っている。
「しかし、そういうこととなれば気合入れて作らないとね」
 正直、まさかカーボン製とは思わなかったんですよ、とジュンを見て苦笑する。
「でもこれなら納得だな。どっかのメーカーで鉄腕アトムのフルカーボン人形作って展示してたけど、あれは非可動フィギュアだった。わざわざ可動人形で、しかも外見に判らないように作るなんて自分の技術の限界に挑戦してみましたって感じで、その、言い方は悪いけど──」
「──バカっぽくて良いでしょう?」
 水銀燈がふっと笑うと、男は何度も頷き、楽しそうに笑った。
「そうそう! 技術と設備持ってる人にしかできない、まさに道楽。これは是非とも完成させないと」
 発注を受けた愛想も幾分かは含まれているかもしれないが、本気でそう思っているらしいことは伝わってくる。

──それにしてもよく喋って笑う人だな。

 男にはドールの話をしているときのみつと同じ雰囲気が何処かにあった。話し好きというのもあるだろうが、専門バカと言うのだろうか、趣味と仕事を一緒にしてしまった人特有の何かだった。
 ジュンはややうんざりしながら男を眺め、コーヒーを啜った。この手の人の相手はあまり得意ではない。
 あまり飲みなれないせいか、それとも豆のせいなのか、コーヒーは少しばかり苦っぽいような味がした。どうにか顔に出さずに水銀燈を見遣る。あまり居心地が良くないんだけど、という気分を視線に込めてみたつもりだった。
 彼女はコーヒーを啜りながら男の顔を見詰めていたが、ジュンの視線に気付くとこちらを横目でちらりと眺めた。その眼にどこか照れのようなものが見えるのは何故だろうとジュンは訝しく思った。


「お疲れ様!」
 待ち合わせ場所の駐車場には、既にみつのレンタカーが待っていた。
「どうだった? 首尾よく無償でご提供いただけそう?」
「それはいくらなんでも無理だろ……」
 ジュンが憮然とした表情で言うと、みつはわざと大きく舌打ちの真似をして見せ、まあいいわ、と何度か首を縦に振った。
「アテはあるもの。取り敢えずは第一関門はクリアしたってところね?」
 ジュンを見て片目を瞑ってみせ、彼が頷くのを確かめると、さあ乗って、とドアを開ける。
「水銀燈──」
 ジュンは斜め後ろを振り返った。来た時と同じ順序なら先に乗るはずの水銀燈は、一歩下がったところで軽くかぶりを振った。
「帰りは寂しがりの誰かを抱いて上げたらどうかしら。もう道案内は要らないでしょう?」
 やや意地の悪い、しかし厭味のない笑顔で水銀燈は後部座席の窓にかじりついてこちらを見ている姉妹達を眺めた。姉妹達は顔を見合わせ、次いでジュンに視線を集める。
 なんてこと言うんだよ、とジュンは水銀燈を睨み、水銀燈は素知らぬ風で肩を竦める。ジュンは一つ溜息をついた。
「──抱いてやるのは一人だけだぞ。もう一人は僕とみっちゃんの間な」
 歓声こそ上がらなかったが、彼女達の表情はぱっと明るくなる。水銀燈は皮肉な笑顔になり、大変ね保父さん、とジュンを肘でつついた。

 短いが白熱したジャンケンの結果、ジュンの膝上のポジションは翠星石の、隣は雛苺の勝ち取るところとなった。雛苺は歓声を上げて座席に座り、翠星石は何か無闇に怒ったような赤い顔で、そのくせしどろもどろな言い訳をしながらジュンに抱かれた。
「そういえば、初めてかもしれないわ」
 後部座席で金糸雀と水銀燈に挟まれるように座った真紅は、幾分眠そうな眼をして呟いた。
「貴女と並んで座るのは1078950時間37分ぶりだけど、初めてではないわよ」
 水銀燈はドアの内張りに寄り掛かり、窓外の景色を眺めたまま否定する。真紅はふっと息をついた。
「それは覚えているわ。あれで喧嘩別れをしてから、食事のときもお茶のときも貴女は私の隣に座ろうとしなかった……」
 でもそのことではないのよ、と真紅はぼうっと微笑む。
「翠星石がジュンの膝の上に座るのは……多分初めて……」
 ふあ、と可愛らしく欠伸をすると、それを待っていたように金糸雀が真紅の肩にこてんと頭を載せる。彼女はもう眠っていた。
「じどうしゃというのは、どうしてこんなに眠くなるの」
 真紅はいつものようにすげなく振り払うこともなく、かと言って慈しむような顔になるわけでもなく、とろんとした眼で誰にともなく呟くとゆっくりと目を閉じた。じきにその頭が金糸雀に寄り掛かる。二人は絵のように可愛らしく寝息を立て始めた。
 水銀燈はちらりと二人の妹を見遣り、素っ気無く呟いた。
「……それは貴女達もそれなりに緊張していたからよ。お疲れ様、真紅」
 そのまま、また窓外に視線を向ける。流れていく景色をぼんやり眺めながら、彼女はさきほどのことを思い出していた。


 ショップからの去り際、建物の外で男は水銀燈を呼び止めた。ジュンは振り向いたが、水銀燈が目顔で頷くと先にその場を歩み去った。二人とも、何処となく男の用件が分かっていたのかもしれない。
「済まないね、君に聞いた方が良いような気がしたもんだから」
 男は照れたように笑った。
「言い難くなかったらでいいんだが、あの人形を作った人の事を教えてくれないかな。ああ、原型じゃなくて……パーツの実物の方を」
 水銀燈は帽子の下で薄く微笑んだが、突き放したような言葉を口にした。
「訊いてどうするの? さっきも言ったけど、もうその人はこの世界の何処にも居ないのよ」
 正確にはそうではないとも言える。だが、少なくとも今現在は、あの人形を作り育てた男は、僅か数人の記憶の中にしか存在していない。前世の記憶こそが彼の本体だとするなら、彼は自分で自分を殺し、自分が宿っていた少年を捨て、その上彼女に文字通り全てを押し付けて去って行ってしまった。
 いっそのこと出来の悪い小説のように自分の中で一つの人格として生きていてくれれば文句の一つも言ってやれるのに、と水銀燈は口惜しく思う。実際に彼女が得たのは、一人の人間が平均寿命よりだいぶ短い時間を生きただけの記憶と知識でしかない。
 有益な情報を含んではいるが、そこに生命は宿っていなかった。膨大ではあるがただの知識だった。
 そんな事情を知るはずもない目の前の男は、何処にも居ないからさ、と両手を広げてみせた。
「生きてれば会うこともあるかもしれない。名前を聞くことがあるかもしれない。なにせ同業者だからね。だがもう会えないってことになれば、ここで聞いとかないとその人のことは謎のままなんだ、俺の中で」
 たった一つのパーツのことで大袈裟かも知れないが、最後の一ピースを組み上げる仕事を任されたからには多少は知っておきたいんだ、と男は真面目な顔で言った。
 水銀燈は少しだけ躊躇い、残念だけど、と男を見上げた。
「名前や住所、会社の名前はちょっと教えられないわ。もっともそんなことは些細なことよね?」
 少し意地の悪い顔になって口の端を持ち上げる。男は腕を組んで苦笑した。
「まあ、そうかな……うん」
「そういうことにしておいて」
 水銀燈は今度ははっきりと微笑んだ。
「そうね……臆病で、死ぬ間際まで好きな人に告白できないような人だったわ」
 そう来るか、と男は首を少し傾げる。その反応を無視して水銀燈は続けた。
「漫画好きでアニメ好きで、ある作品に物凄く入れ込んでたわ。オタクって言うのかもね」
 思わず笑いがこみ上げてくる。
「その思いの丈を籠めたのがあの人形よ。ドールフェチでもあったってことかしら」
「なるほどねぇ」
 男は少し食い足りないような顔で返事を返した。
「──それから」
 言うつもりは無かったのだが、水銀燈はつい口走ってしまった。
「水銀燈を愛していた……」
「え」
 男は何か途轍もない言葉を聞いたかのように固まった。
「えっと……まあフェティシストってのはいろいろあるらしいが……その、水銀灯ってあの水銀灯かい、道路とかにある──」
「──そう、その水銀灯よ」
 視線を下に向け、男の言葉に被せるように水銀燈は言った。
「水銀灯が一番のお気に入りだったわ。愛の告白までしたことがあるのよ」
 可笑しいでしょう、とにやりと笑って男を見上げる。男はなんとも言えない顔になって水銀燈の顔を見詰めた。

「えーとそれは……『愛している、水銀灯、君をこの世の他の誰よりも』……とか?」

 水銀燈の笑顔は仮面のように凍りついた。
 数秒間、どちらもそのまま動きを止めていた。
 男が何かおかしなことを言ってしまったかと焦り始めた頃、水銀燈は表情の消えた顔で呟くように言った。
「もう一度、言ってみて」
 男は問い返さなかった。ごく生真面目な顔になって、少し顎を引いて同じ台詞を言った。
「もう一度……」
 子供がものをせがむような口調で水銀燈が言うと、男は何かを了解したようにそっとかがみこみ、視線の高さを彼女に合わせた。

「君の事を愛している、水銀燈。どの世界の誰よりも」

 水銀燈は何度か瞬いた。そして、物も言わずに彼の首に両腕を回してしがみついた。
 二人がそうしていた時間は大して長くなかった。最初に男が台詞を口にしたときと同じ、精々数秒間だっただろう。男が子供をあやすつもりで彼女の背中に手をやろうとしたときには、水銀燈はもう離れていた。
「ありがとう」
 素直な声音で彼女は頭を下げた。
 男は何かを言いかけて口を閉じ、こちらこそありがとう、と微笑んだ。
 男はそれ以上何も訊かず、水銀燈の方も何も言うこともなく、そのまま踵を返してジュンの待つ街路に向かった。


 車は郊外から彼女達の住む街に戻っていた。水銀燈は空を見上げ、一つ息をついた。
 助手席では翠星石がなにやらジュンと雛苺を罵っている。二人が軽く聞き流しているのを横目で見たみつがくすくすと笑っていた。
 飽きないわねぇ、と水銀燈は呟き、欠伸をして目の端に溜まった涙を指で拭いた。自分にも眠気が忍び寄っている。元々このくらいの時間は寝ているのが彼女の生活リズムだから、当たり前といえば当たり前だった。

──今日くらいは媒介の夢に行かずに寝ておこう。

 もっともその前に桜田宅に寄って着替えなくてはいけなかった。それが面倒だと感じるのも、多分眠気のせいだ。
 特に何か事態が出来しない限り、家に戻ったら明日の夜まで寝てしまおうと水銀燈は思った。媒介は心配するかもしれないが、勝手に心配させておけばいい。



[19752] その5 黒い人形(3)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/19 00:07
 工房の中では、赤い人形が最後の仕上げの工程に差し掛っていた。
 水銀燈はいつものように足を組み、肘を突いた手に顎を乗せるようにしてそれを見守っていた。
「虚しい作業だ」
 手を動かしながら男は呟いた。
「この上もなく虚しく、そして背徳的な作業だ」
「貴方が言うとちっともおかしくないような気がするから不思議ね。でも、その子に聞かせていい台詞じゃないでしょう」
 水銀燈が言うのは、男が今は髪を梳いている金髪の人形そのもののことだった。
「自覚しているかどうか知らないけど、もうその子に確り意識はあるわよ。多分動力源を入れるまでは口を開いたり手足を動かすことはできないのでしょうけど」
「知っていたさ」
 だから尚更虚しいのだ、と男は言った。
「私達の世界は閉じているのだ。他の世界と交わる、交わらないではなくて、時間が閉じている。だから私はどこの時間にも存在するし、どの時間にも存在していない。全ては虚しい作業に過ぎない」
 言いながらも男は手を止めようとはしない。水銀燈はその見事な手捌きを半ばうっとりと眺めながら、ぽつりと補足した。
「貴方達の物語は終わってしまったものね。貴方が弟子の人形に壊された娘達を修復したところで」
 男は頷き、カールを掛けていた部分を整える。
「私についてはそれで良かった。娘達が究極の少女になれる道筋の見込みがついたのだから。だが、そこから先はない。彼女達が踏み出し掛けで止まってしまった時間に、次の一歩を踏み出す機会は永遠に訪れないのだ」
「誰だって最期の瞬間はあるわ。それが分かり易い形で一斉に来ただけのことよ」
 水銀燈は目を閉じた。
「終わりのない人生をこれからも生きていくはずだった貴方には却って理解できないかもしれない。でも人の生き死になんてそんなものじゃなくて? 誰の時間だって、何処かで終わって閉じるのよ。それも大概は望まない時点で、しばしば唐突にね」
 人形だって似たようなものよ、と水銀燈は息をつく。
「人形は死なない、魂が何処か遠くに行くだけ、とは言うけど。要は壊れて捨てられればそこで御仕舞い。形が無くなってしまえば呼び戻してくれる人はいなくなり、二度と生き返ることはできなくなる。ありようが違うとはいえ確実に終わりはあるのよ」
「一種の極論だな、それは。全くもって慰めにならん」
 男は静かに櫛を置き、以前作業台の上の人形に被せてみせた赤いボンネット調のヘッドドレスを取り上げる。しかし、思い直したようにそれを置くと、凝った意匠のブローチを取り上げてそれを見詰めた。
「だが、実に君らしい意見だ。どういう訳か安心できる」
「お褒め頂いて恐縮ですわ、人形師様」
 水銀燈は目を開いて皮肉に口の端を歪めたが、男はちらりと彼女に視線を遣っただけで作業を続ける。暫くは衣擦れの音と時折仕事道具が立てる僅かな音のみがその場を支配していた。

──真紅のときもこうだったわね。

 工房の様子は全く違う。しかし、目の前で最後の化粧と衣装を整えられていくのがよく似た姿の人形であるだけに、思い出はこの場の光景と混ざり合っていくようだった。
「しかし違いはあるだろう」
 男がぽつりと言う。水銀燈は眉を顰めた。
「貴方がこちらの考えを読めることを今更どうこう言う気はないけど、わざわざ回想を邪魔しなくてもいいでしょう」
「懐かしき日々、か。それほど素晴らしかったのかね? むしろ忘れたい部類の記憶ではないのかね」
 男の声の揶揄するような響きに、水銀燈は苦笑する。短い付き合いだが、彼が偽悪的になるのは本心を隠したいときだと分かっていた。
「手元が疎かになるわよ。大事な最後の仕上げでしょうに」
「なに、大した作業ではないさ。ほぼ終わっているようなものだ」
 男は軽く答え、机の上からその人形を丁寧に抱き上げると背凭れのついた椅子に注意深く腰掛けさせ、息をついて一歩脇に退いた。
「見事な出来ね」
 水銀燈はお世辞でなくそう言った。
「可愛らしい顔。切れ長の瞳というのは現代的だけど、丸顔なのがアンバランスでいいわね」
 男は黙って微笑み、人形にヘッドドレスを被せると顎の下で結んだ。
「完成だ、私の娘。何者よりも気高く、力強く、慈しみ深い、私の五番目の娘」
 男が囁くように語り掛けると、人形は蒼い目を薄らと開けて彼を見詰める。彼は微笑んだまま人形を抱き上げ、椅子の脇に置いてあった鞄を取り上げた。
「呆れた。作り上げたと思ったらもう行くの?」
「行かないで欲しいのかね?」
 男は含み笑いのような表情で水銀燈を振り返った。
「残念ながらご希望には添いかねる。先方は既に待ちかねているのだ」
「あっさりしたものだこと」
 水銀燈は肩を竦め、にやりとした。
「引き留めてまで貴方と喋っていたいとは思わないけど、先方とやらにその人形を預ける場面には興味があるわ。許されるならご同道したいところだけど、どうかしら?」
 男は無言で、彼女と同じように肩を竦めてみせた。二人ともそれが無理な注文だというのはよく分かっていた。
「行って来るよ、生意気な黒人形さん」
「行ってらっしゃい、きちがい人形師さん」
 男は軽く一礼して、扉を開けて出ていった。垣間見た扉の向こうの青い空と緑の木々が皮肉だと思えてしまったのは、水銀燈が作業台の上の人形に感情移入してしまっているからかもしれない。

 水銀燈は椅子の上で背中を丸め、膝を抱いた。何か変化があるものと思っていたが、男が出ていってからも工房の風景に変わりはなかった。
 自分の夢の中だというのに奇妙な寂寥感を感じているのも、放置されたままの人形のせいかもしれない。
 その人形は何故か動き出さず、どこか諦観を感じさせる瞳で彼の去った後を見詰めている。いや、それもまた水銀燈の感傷がそう見せているのかもしれない。人形の表情など、見る角度だけで様々に様子を変えるのだから。
 気分を変えるためというわけではないが、そのままの姿勢でぐるりを見渡してみる。飾り気とゴミのない工房の中で仕事机と作業台とがらくたの山だけが目立っていた。
 一通り見回した後、水銀燈の視線は仕事机の上に向けられた。綺麗に揃えて置かれた仕事道具の間に、白い紙のようなものがあることに気付いたのだ。
 椅子から机の上に飛び乗って手に取ると、紙は短い手紙か書置きのようなものだった。宛名は書かれていないが、それが自分に宛てたものであることは文面を見れば確実だった。
「右の三段目……ねぇ」
 手紙を持ったまま机から降り、やや苦労しながら抽斗を引き開ける。有り難いことね、と呟いたのは、抽斗の中身が水銀燈の視点からでもよく見える高さだったからだ。
 抽斗の中を覗き込み、水銀燈は息を呑んだ。
 男の様子から仕事道具が詰まっているとばかり思っていた抽斗の中身はほとんど空だった。ただ、実に無造作に指輪のケースが二つ収まっているだけだった。
「──まさかね」
 そう言いながら、恐らくこれだろうという予感はあった。一つのケースを取り、胸元で開けてみる。
 予想は当たっていたが、溜息が出るのを抑えられなかった。
 中に入っていたのは淡紅色に光り輝く結晶と薔薇の意匠の指輪だった。
 元通り閉じて、もう一つも同じように開けてみる。結晶の形が若干異なることを除けば、全く同じものが収められていた。
「……どうしろって言うのよ、こんなモノを」
 そう言ってみるものの、それも思い当たる用途はある。水銀燈はケースを閉じて手に持った紙を裏返し、そこに書かれていた予想通りの文章を眺めてやれやれと肩を竦めた。
「つまるところ、貴方は出来損ないの第一ドールを他のどの娘よりも愛していたってことじゃない。全く、素直じゃないったら」


「えっ、立て替えるってどういうことですか」
 事務員は目を瞬いた。男は歯切れ悪く、やや照れたような表情で答える。
「ああ、まあ、タダっていうか、こっち持ち……俺持ちでね。これは俺の腕試しみたいなもんだから」
「それにしても、経費くらいは取ったっていいんじゃないですか? これ工賃だけでも相当な額ですよ」
 少し怒ったような顔で事務員の女性は男を見た。男は肩を竦める。
「会社に迷惑はかけない。俺の給料から天引きでも、直に払ってもいいが、兎に角これは俺の持ちにしたいんだ」
 ごめん、と男は長身を曲げて片手で拝むような姿勢になった。
「あの人形、作ったのはあの野球帽の女の子の親父さんじゃないかと思うんだ。あれは多分、形見みたいなものじゃないかな」
 妄想ですか、と事務員は首を振る。
「前から思ってましたけど、子供にはとことん弱いんですね。それともロリータ野郎って言った方がいいですか?」
 膨れっ面になる事務員を、まあまあと男は手で制した。
「それに、実際凄いものだった。俺の作った部分が依頼者から金取れるほどいい出来になったかどうか自信がないんだ」
 言いながら、男はパーツ製作の依頼書を眺める。
 依頼者欄には桜田ジュンという、あの中学生ほどの男の子の名前が書かれていた。ただ、もう一つその隣に別の名前も連署されている。

──水銀燈、ね。

 最初気付いたときには、子供にしては……いや、子供だからわざわざ難しい字を選んだのか、と吹き出しそうになったものの、自分の名前をそんな風に書いてまで「愛している」と言わせたかったのか、と思うと可笑しいというよりも切なさの方が先に立つように思えた。
 男の想像では、人形を作ったのはあの子供の父親だった。人形は彼女に何処となく似ていたし、立たせてみると背丈も殆ど同じだった。
 どうして胴体を最後回しにしたのかは分からないが、兎も角最後のパーツだけを残して、大好きな父親は死んでしまった。そこで彼女は知り合いの少年に頼んで残りのパーツの原型を作って貰った。咄嗟に自分を水銀燈という名前に偽り、男に愛していると言わせたのも死んだ父親への愛情がさせたことだろう──そんなストーリーが男の中には完成していた。
 何もかも知っている視点では、それは酷く大きく間違ったストーリーかもしれない、と男は思う。実際そのとおりなのだが、そのことは男の知るところではない。
 しかし、男が費用を自分で持つと言い出したのはそういったストーリーに酔っ払っただけではなかった。彼の視点からは凄腕としか言えない職人の遺作なのだ。あまり褒められた形ではないかもしれないが、その男に対する手向けというか敬意を表したかった、というのが本当のところだった。
「まあなんだ、CBRはもう一月我慢するよ」
「大馬鹿ですね。専門バカっていうか、無駄に職人気質っていうか」
「褒め言葉と取っていいのかな、それ」
 男が腕を組むと、事務員はべーっと舌を出した。
「生憎と貶してます」
 男は苦笑した。
「そりゃ、どうも。そっちじゃないかとは思ってたけどさ」
 言いながら、男は依頼書を書類入れに仕舞いなおし、まだ何か言いたそうにしている事務員に片手をひらひらと振って事務所から出ていった。


 今日も蒼星石は庭に出る。持っていくのは自分の得物──庭師の鋏──ではなく、柄がアルミ製の両手鋏だった。
 庭師の鋏は手に馴染んでいるものの、実用品というには装飾過多だった。やはり取り回しでは味も素っ気も無いこちらの方がやり易い。保守的とか頑固とか姉に文句を言われる彼女だが、その点について拘りは無かった。
 薔薇屋敷と言われる彼女の契約者の家の庭は、広大でしかも荒れ放題だった。薔薇園だけは蒼星石の手でどうにか形になってきたものの、他は依然として荒涼たる有様だ。
 もっとも外回りは梅雨になる前に結菱老人が雇った職人が見た目を繕ってくれたようだが、門から足を踏み入れてしまえば、壁の中はちょっとした荒地の体を為してしまっているのがよく分かる。毎日手を入れていても仕事の終わりは一向に見えてこなかった。
 作業が進まないのは彼女にも問題があった。それは主に体格の面で、分かっていてもどうしようもないことだった。大人の体格なら簡単に手が届く場所でも、彼女は踏み台を使い、あるいは脚立を引き摺って来てよじ上らなければならない。物を運ぶにしても、何かをするにしても、小さな彼女にはいちいち面倒なことが多すぎた。
 薔薇の剪定ならそれでもどうにかなった。それは比較的近年まで薔薇だけは手入れされていたからかもしれないし、彼女の意気込みもあったからかもしれない。
 ただ、池の跡らしい湿地に生えている灌木ともなると、視点が低いせいもあってそれが伐っていいものかどうか彼女には判然としない。わざわざ植えたようにも、偶々そこに根付いてしまっただけにも見えてしまう。また伐るにしてもその周囲に蔓延っている──彼女の背丈を超えるものもある──イネ科の草をどう先に片付けるか、先ずそこから考え、計画を立てなくてはならなかった。
 冬が来るまでに目処はつくだろうか、とふと蒼星石は思う。
 年末に近づけば、今度はいよいよ薔薇の剪定の時期になってしまう。薔薇園だけはどうにか綺麗に整えておきたいと思う反面、他の部分があまりにも酷いのも考え物だった。
 もっともこの土地は雪は殆ど降らないというから、あまり神経質にならなくても良いかもしれない。少し寒いのを我慢すれば、剪定と平行して庭の整理もできるだろう。

──気長に行けばいい、か。

 蔦のたぐいが絡まってしまった庭木を見て、蒼星石は微笑した。昨日の土曜日、翠星石がふざけ半分に鎌を振るってその木まで「道」を付けたのだ。
 昨日珍しく尋ねてきた姉は、殆ど手伝いにはならなかったが明るさと楽しさを振り撒いて帰って行った。まだ結菱老人には素直に接することはできないようで、あまり顔を合わせようともしなかったが、その分も蒼星石の近くで賑やかにお喋りをしていった。
 鋏を置いて「道」に足を踏み入れ、左右を見る。繁り放題に繁っている草は彼女の背よりも高く育ってしまっていて、恐らく十数メートルと離れていない道路側の壁も、反対側に目を転じても家の壁もよく見えない。
 まるで草原の真ん中に隔離されているようだ、と苦笑する。青臭い臭いと虫の音に包まれ、これを全部刈るにはどれだけ掛るのだろうと現実的なことを思いながら、同時にどこか幻想的な部分も感じていた。

──マスターは、ずっとこうしていたのだろうか。

 足が弱る前、結菱老人はよく庭に出ていたと言っていた。かといって薔薇園以外は手入れをするわけでもなく、ただ茫然と庭を見回すのが常だったという。
 結菱老人の見ていた風景と、蒼星石の見ているこの無限にも似た草の中の風景は当然違うはずだ。いくら荒れ放題といっても彼の視線まで妨げるほどの丈の草というのはあまりないだろうし、薮蚊も刺しに来るから長いこと立ちっぱなしでいるわけにもいくまい。
 それでも、何処となく分かる気がする。
 何かをすっかり諦めてしまい、静かで緩慢な終末を迎えるだけになっていた老人の孤独が、心を触れ合っているから、というだけでなく、この風景から滲み出てくるような気がするのだ。
 それは多分、彼女自身──
「見つけたっ」
 はっとして振り向いたときには、伸びてきた手が彼女を腋の下でひょいと掴んでいた。そのまま、視点がすっと上に移動する。たちまち草の海は眼下に広がるちょっとした草叢に戻り、庭を囲む壁と建物は本来の存在を主張し始めた。
「こんち、蒼星石」
 斜め下から朗らかというよりは能天気に近い声がした。
「……こんにちは」
 蒼星石は声の主を見下ろして瞬いた。高い高いの要領で彼女を持ち上げたのは、水銀燈の媒介の少年だった。
「い、いきなり蒼星石に何しやがるですかこのノータリン!」
 少年の後ろから翠星石が駈けて来て、思うさま少年の脛を蹴り上げる。辛うじて向う脛でないのは敢えて避けたのか、位置的に蹴りやすいのが脛だったからかは微妙なところだった。
「いててててっ! いて、マジ痛えからそれ」
「何日ぶりだか知らねえですが、他人様に会っていきなり抱き上げるヤツが何処の世界にいるですか! 水銀燈の教育方針は全くもってなってねえです!」
 言いながら更に何発か蹴りを入れる。力の乗ったものではないが、今度は向う脛にも当たりだした。
「てててて、わかった、わかったから止めてくれって」
 少年は翠星石の前に蒼星石を降ろし、数歩後ろに下がって脛をさすった。
「ってー……手加減ってもんがあるだろ、翠星石さんよぉ」
「お前なんかに言われたかねーですよ。他人の契約したドールに手ェ出すヤツはサイテーです」
 ふん、と翠星石はそっぽを向く。スキンシップのつもりだったんだけどなぁ、と少年は腕を組んで首を傾げた。
「んー、じゃ自分のマスターなら良いのな。蒼星石なら結菱さん、翠星石なら桜田ってことか」
 ふむ、と素で頷いてみせ、やっと思いついたというように片方の掌をもう片方の拳でぽんと叩く。
「そういや、この間雛苺も言ってたっけ……」
「チビ苺はベタベタですからね。ジュンやのりだけならいざ知らず、前のマスターにまでデレデレです。誇り高き薔薇乙女にあるまじき媚びの売りっぷりですぅ」
「いやそうじゃなくて、翠星石がさ。桜田に抱っこされて凄く喜んでたって──」
「──ち、違います! まったき誤解でありますです! あれはその、ジャンケンの結果で致し方なく……」
 怒っているのか照れているのか、真っ赤になりながら少年に抗議する翠星石と、天然なのか故意犯なのか分からないがとぼけた調子でのらりくらりと躱す少年を見ながら、蒼星石はふと目を伏せ、幽かな微笑を浮かべた。

──貴方は僕に感傷に浸る暇も与えてくれないんだね。

 それは愚痴のような思いだったが、重くなりかけていた心は不思議なほどに晴れていた。

 俯いて長く息をつくと共にひとつ首を振り、顔を上げて気持ちを切り替えて二人を見直す。奇妙なことに、二人は動きを止めてこちらを窺っていた。
「そ、蒼星石?」
「俺なんかヤバいことやっちまった? ご、ごめんな」
「やっちまった? じゃねーです! お前が要らんことするから蒼星石が悲しんでしまってるじゃねーですか! どう責任取るつもりですかこのどあほうのコンコンチキ」
「違うよ」
 蒼星石は苦笑に近いものを浮かべ、翠星石を見遣る。彼女がぱちぱちと瞬いて見返してくるのを見届けてから、今度は少年を見上げた。翠星石の契約者よりだいぶ背の高い少年は、彼女と同じように瞬いて蒼星石を見返した。
「この草を見て、少し憂鬱になってしまっていたんだ。なにしろ、ほら──」
 翠星石の視線の高さに指を伸ばし、左右を指し示す。翠星石は改めて気付いたように声を上げる。
「──うわ、なんですかこれは。全然壁も家も見えねーです」
 昨日も刈っている最中に見ていた風景のはずだが、あるいは彼女のことだから前だけを見て闇雲に鎌を振るっていたのかもしれない。
「どうら……お、ホントだ。すげえ、ジャングルみたいじゃん」
 少年も屈み込み、半ば感嘆の声を上げた。視点の高さの違いが面白いのか、無闇にきょろきょろとあちこち見回してみている。
「でも、抱き上げてもらって下を見てちょっと安心したんだ」
 蒼星石は爪先立ちになったりちょっと飛び上がったりして左右を見ている翠星石の肩に手をぽんと置いた。
「君も抱き上げてもらったら?」
 翠星石は形ばかりの抗議をしたが、幾分かは興味もあったのか、蒼星石が言うなら、とすぐに折れた。少年は翠星石の腋の下に手を入れ、精一杯上に差し上げた。
「うわ、結構な高さですね……って、上見やがったら承知せんですよアホ人間」
「見ねえって。どうせ中身かぼちゃ半ズボンだし……っていてて! 顔蹴んなって!」
「ドロワーズですぅ! ったくもう」
 もうひとつ、力の乗っていない蹴りを入れて、翠星石は下を見回した。
「あれ? 意外に大したことねーじゃねーですか、これ」
「うん」
 蒼星石はにこりとしてみせた。
「確かに物凄い草ぼうぼうの場所だけど、生えてるのは無限大の広さじゃない。昨日君がやってくれたように少しずつでも刈っていけば、そのうち綺麗にできる。改めてそのことが実感できたんだ」
 だからありがとう、と蒼星石は少年に頭を下げた。
「少し視点をずらしてみるだけで、全貌が理解できるようになる。それに改めて気付けたのは貴方のお陰だ」
「い、いやそれほど大したことじゃーないけどさ、へへ」
 少年は照れたように笑い、そして何かに気付いたように上を見ようとして、すんでのところで思い留まった。蹴りの動作に入っていた翠星石は、やり場をなくした足をぶらぶらさせて口を尖らせる。
「……いいかげん下ろしやがれです」
「おうさ」
 してやったりという表情で少年は頷いた。

 翠星石をそっと地面に降ろすと、少年はもう一度、今度は自分の視線で周囲を見回した。
「結構育っちゃってるけど、まあ行けるんじゃないかなぁ」
「やってやれないことは無い、です。まあ、じゃなくてやるんです」
「へいへい」
 翠星石にひらひらと手を振ってみせ、少年は蒼星石を見た。
「この辺なんだけどさ、俺が刈っちゃってもいいよな?」
 え、と言葉に詰まった蒼星石に、翠星石が得意そうに胸を張ってみせる。
「今日は日曜日、暇面こいてるアホ人間に機械の下僕になるチャンスを与えてやったのです」
「おいおい……」
 少年は肩を竦めてみせた。まだ何のことか分かっていない蒼星石に、にっこりしながら説明する。
「このうちの倉庫? 物置かな、どっちでもいいけど、あそこでいいもの見つけたんだ」
 翠星石はあくまで得意気だった。
「見つけた日は昨日で、見つけたのは翠星石ですけどね。……まあ、機械がデカブツ過ぎて翠星石には扱えそうもなかったんで、こうしてアホ人間を召集したわけです」
 翠星石の言葉が終わるのを合図にしたように少年は元来た方に走っていき、暫くして蒼星石が何処かで嗅いだ記憶のある臭いと共に戻ってきた。
「あれですよ、堤防道路とかで一日中暴れまわってるブンブン機械です」
 少年が片手に持っているのは、自分の背丈ほども長く見える金属製の丸棒の先端に丸い円盤がつき、逆側の先端に四角いエンジンのついた機械だった。それには蒼星石は見覚えがなかった。
「ジャジャーン! 草刈機だぜ。おじさんちの畑でやらされたことがあるんだ」
 少年は得意そうに機械を置き、翠星石は偉そうに頷く。
「翠星石の眼に狂いはねーです。柔弱ヒッキーのジュンと違って、アホ人間には力仕事くらいは任せられるって寸法です。ま、その代わり頭脳労働は到底無理ですがね」
「あ、ひでぇ」
 はっはっは、と二人は蒼星石の目の前で笑い合った。なんやかやで、気は合っているようだった。

──君に感謝しているよ、水銀燈。

 蒼星石は強引に自分に時間を与えた黒衣の長姉に、面と向かっては到底言えそうもない言葉を心の中で告げた。
 命を助けられたようなものではあるが、それが姉妹愛の発露だと考えるほど、蒼星石は事情を知らないわけではなかった。不完全ながらも水銀燈の媒介の記憶は幾らか得ている。自分を救い、今までの遣り方を放棄して姉妹達と距離を置かなくなったのは恐らく水銀燈の状況判断、もっとはっきり言ってしまえば今後の計画と利害が絡んでのことだろうと理解していた。
 だから蒼星石は未だに水銀燈を好きになれない。その点では、第七ドールを除いた全ての姉妹や媒介達より、彼女は確実に醒めた視点で水銀燈を見ている。水銀燈が何か目論んでいるのならば、手放しでそれに賛同することは恐らく出来ないだろう。

──でも、僕に機会を与えてくれた君に、僕は感謝したい。

 仮初めの時間かもしれないが、前だけを向いていた自分にこうやって周囲を見回すだけの余裕をくれた者。それが水銀燈なのは事実だった。
 そして、自分にとって双子の姉と契約者の次に近しい存在──まだまだ思慮に欠け、智恵も回らず、そして関心は殆ど自分ではない誰かに向いているけれども──を、こうして見出すことができたのも、彼女のお陰だった。
 それが他ならぬ彼女の媒介というのは、些かならず皮肉だけれども。

 笑い終わった少年は蒼星石を、若干自信の無さそうな顔で見詰めた。
「いいかな? 蒼星石の仕事取っちゃうことになるけど……」
 蒼星石はにっこりと笑った。
「ありがとう。嬉しいよ」
 できたらこことあそこと、それからあの辺りも……と言い出した蒼星石に、結構ちゃっかりしてますね、と翠星石は眼を見張り、少年は一体何時間掛るんだろうと帰りの心配をし始める。そうそう、刈り取った草の始末は翠星石と僕でやるからね、と蒼星石はにっこりと、厚かましい笑顔を作った。
「大丈夫、夕食は僕が腕を振るうから」
 そう言って、端から丸一日かける予定なのだと知って急にテンションが下がったらしい二人の反応をそ知らぬ顔で受け流し、丈の高い草の間から空を見上げる。まだ太陽ははっきりと東の空にある時刻だった。
「昼メシも頼むぜ。がっつり食うぜー」
 少年は覚悟を決めたらしく、開き直ったように言ってみせる。翠星石は容赦ない言葉で追い討ちをかけた。
「他人に奢って貰うくせに卑しいヤツです。野良猫並みです」
「肉体労働はカロリーを消費するんだってば」
 もっとしっかり朝飯食って来れば良かったなぁ、とぼやきながら、少年は刈払機のリコイルスターターを勢い良く引いた。短い排気管から白い煙が短く噴き出し、小排気量の2ストロークガソリンエンジン特有の耳障りな音が響き渡る。

──ああ、そうか。

 翠星石に手を引かれて少し離れたところに歩き出しながら、蒼星石は思わず頷いていた。
 どうしたんです、と翠星石が顔を覗き込んできたが、蒼星石は微笑んで首を振った。その音は、それほど以前に聞いたものではなかったが、何故かとても懐かしい音だった。

──やはり、貴方は貴方だね。

 いつか見た心の木を伐る男の背中を少年の後ろ姿と重ね合わせながら、蒼星石は暫く微笑を浮かべたままその場を動かなかった。


「はいもしもし、って、ええ? 珍しいじゃん、てか初めてだよな。どしたの」
 少年は受話器を持ったままふんふんと頷いている。人間はどうして電話越しの相手にも頷いたり頭を下げるのだろう、と水銀燈が今更のことを疑問に思っていると、少年は受話器を顔から離し、送話部を手で覆った。
「水銀燈、真紅から。話があるってさ」
「電話で?」
 水銀燈は苦笑したが、少年が頷いてみせると眺めていた小箱の蓋を閉じ、それを持ったまま少年のところに歩み寄って受話器を受け取った。
「もしもし」
『水銀燈? 随分変調してしまうものなのね』
 電話越しの真紅の声は幾分遠かった。
「電話だもの仕方ないでしょう。それで、用件は何?」
『相変わらず短気ね』
 あっさりと返答されたことが物足りないのか、不満そうに溜息をついてから、パーツが出来上がったそうよ、と真紅は言った。
『今日電話があったの。水曜日以外の午前十時から午後七時までの間においでください、と言っていたらしいわ』
「そう」
 水銀燈は目を閉じた。

 意外に話好きで、人生を楽しく送っているようだった男のことを思い出す。
 どういう理解をしたかは兎も角、いきなり抱きついた彼女に途惑うこともなく受け入れたところを見るとそれなりに包容力と余裕のようなものも持っているのかもしれない。それが生まれ変わってどこか虚無的な態度に変化したのは何故だろうか。
 彼の記憶の前世の部分についてはほぼ完全に──恐らく本人が普通に思い出せていたそれよりも整然として緻密で深く──一群の知識として把握できている彼女だが、彼がこちらの世界に生まれてからの記憶についてはそうではない。流れを追える程度に知っているに過ぎない。
 中途半端な話だったが、彼の前世の記憶そのものがこの世界にとってイレギュラーな存在なのだから致し方ない、と彼女は自分にそんな納得のさせ方をしていた。
 いずれにせよ、彼女にとって彼の変質の原因は謎と言えば謎のままだった。

 ただ、ひとつ思い当たるフシはある。

 少年のパソコンは記憶を失う前から同じもののままだ。その丁寧に階層化されたブックマークの中に、あのショップのサイトもあった。
 少年──その頃はあの男の記憶を持っていた──が、初めてパソコンに触る機会が与えられたとき、まず検索したのがあのショップのサイトだった。
 それなりに技術に自信のあるショップなのだろうか、サイトの中にはスタッフ紹介というページもあり、そこには男の名前と顔写真もあった。まだ肉体的にひどく幼い頃だったとはいえ、それを彼が見逃したはずはなかった。

 妙な話だが、彼女の契約者は薔薇乙女とアリスゲームの行く末だけでなく、この世界の自分に対しても臆病だったのかもしれない。
 生まれ変わった年代が、本来向こうの世界で生まれた年代とずれてしまったこともあるが、彼はこちらの世界にも「自分」が生きていることを知り、改めて思い知ったのだろう。もう、今一度同じ人生を歩むことは出来ない、と。
 以前の知り合いは皆、彼と十数年の年齢差をもって、こちらの世界の「彼」と共に暮らしている。
 彼自身が自分の素性を隠してそこに割り込むことは容易くないとはいえ、不可能ではない。彼はそれを目指して生きても良かったはずだ。
 しかし、そこには「彼」が居る。更に十数年という時間の開きまでも存在する。それは致命的な相違でありズレだ。再び生まれ変わって時間遡行でもしない限り、同じ立ち位置を確保することは永遠に不可能だった。
 所詮この世界では、自分という人間は外から入り込んだ異物に過ぎない。
 その認識が、彼の心を内向きに閉ざしてしまったのではないだろうか。
 確証は何もないし、そもそも今となってはそんな推測に殆ど意味もない。しかし、水銀燈はそんな風に思えているのだった。

 電話の向こうでは真紅が、みつには既に連絡を取っており、次の日曜日に人形を受け取りに行くことに決めたこと、自分達は同行することなどを説明している。ところどころ声が遠くなったりしているのは、翠星石辺りがいちいち注意しているのかもしれない。
 それもまた彼女達らしい、とちらりと考え、話の切れ目で用意していた台詞を告げる。
「私は行かないわよ。請求書は取りに行くから暫く預かっていて頂戴。渡したいものもあるし」
 言いながら、大分世間ずれしたものだ、と思う。自分で用意した台詞とはいえおよそ至高の少女云々などとは懸け離れた内容だった。
 電話の向こうで真紅が長い息をついたようだった。だが、彼女はそれ以上踏み込もうとはせず、わかったわ、と答えた。
「なぁに? 仲良く一緒に行って欲しかったわけ?」
 水銀燈はにやりと、やや意地の悪いからかい言葉を放ってみた。
『そういう意味ではないの』
 躊躇うような間の後、真紅は少しトーンの低い声で続けた。
『パーツを製作してくれた男性が、貴女に逢いたがっているらしいの。電話を受けたジュンがそう言っていたのよ』
 そういうことか、と水銀燈は納得した。
「それなら、尚更行くわけにはいかないわね。生半可に興味を持たれて人形だと知れたら厄介だもの。そうでしょう?」
 真紅はまた少し間を置いた。電話に慣れていないせいで間の取り方を必要以上に気にしているのかもしれない。
『……それで貴女が良いのならば、私からは強く誘わないわ』
 本当にいいのね? と念を押す真紅に、水銀燈は目を閉じ、ええ、と短く答えた。
「用件はそれだけ?」
『ええ、これだけよ。……こういうときは、ごきげんよう、でいいのかしら?』
「この国では『そろそろ失礼します』でも良いのよ。そうね、この時刻だから貴女達には『おやすみなさい』でもいいかもね」
『そうね。それではおやすみなさい、水銀燈』
「おやすみなさい、真紅。良い夢を」
 電話を切ると水銀燈は笑い出した。どうしてわざわざ電話という手段を選んだのかまでは分からないが、最後まで真紅の声の調子が固いままだったのがどうにも可笑しくてならなかった。
 シャワーを浴びてきた媒介の少年がどうしたんだと言いたげに彼女を見たが、彼女は何でもないと手を振りながら暫く笑い続けた。笑い過ぎて薄らと涙が滲むほど笑って、それから彼女は夜の空にふらりと飛び出して行った。


 電話を掛け終えてからも真紅は暫くその場に立ち尽くしていた。やがてぶるっと身体を震わせると、ふっと息をついて漸く受話器を元に戻し、乗っていた踏み台から降りた。
 人形のことを伝えている間付き添っていてくれたジュンと翠星石は、それが済んだところで部屋に引き上げていた。水銀燈との会話ということで真紅に気を遣ってくれたのかもしれない。
「真紅ー、お電話終わったの?」
 廊下の端から真紅を見ていた雛苺が、とてとてと彼女の許に駆け寄る。
「──ええ、終わったわ。水銀燈ったら用件以外ほとんど喋らないのだもの。あの子はもう少し愛想というものを学ぶべきだわ」
 むくれたような顔を作り、真紅は強がってみせた。ほえー、と雛苺は目を瞬いた。

 彼女が水銀燈を苦手にしているのを雛苺は知っている。
 あの薔薇屋敷の一件以来、水銀燈がそれまでと殆ど正反対とも言える行動をするようになってからは、落ち着いて正論を述べる真紅と自己の美学に従って直線的に生きる水銀燈という構図は逆転していた。水銀燈は──多分全部でないことくらいは雛苺にも分かっていたが──自分の知り得たことを姉妹達に語り、真紅はそれを受け入れて今後のことを考え始めている。
 思慮深く優しいとはいえプライドも高い真紅にとっては、それはあまり面白い図式とは言えないだろう。加えて今までの関係が反対になったことで、これまでは時折論破することで辛うじて苦手意識を克服してきた水銀燈に対して、何やら手も足も出せないような気分になりつつあるのかもれしない。
 無論、雛苺はそんな小難しい言葉を並べて考えてみたわけではない。彼女は直感的に「そんな雰囲気」を感じ取り、真紅を気の毒に思っているだけだ。

 そして、雛苺は少しだけ真紅の気分を変えてあげたくて無邪気な笑顔を見せてみる。
「ねーねー、真紅」
 真紅はいつものように、やれやれといった表情でこちらを見る。雛苺はぴょんと飛び跳ねて、大好きな一番下の姉のドレスにしがみついた。
「今日もね、ヒナとっても楽しかったのよ。カナもトモエも来てくれて、翠星石とケーキ作って……怒られちゃったけど」
 えへへ、と少し舌を出す。真紅は一つ二つかぶりを振った。
「あれは翠星石に怒られても仕方なくてよ。生地にカルピスを混ぜるのは一度やって懲りているのではなかったの?」
 以前、真紅がジュンの部屋で読書に耽っている間に、翠星石と雛苺が階下で掃除機を迷走させて窓ガラスに突っ込ませた上、昼食を作ると称して何やら得体の知れない食材のなれの果てを作ったり、電子レンジの中で卵を爆発させたりしてしまったことがあった。
 二人は「のりのお手伝いをしたかった」と言っていたが、実のところは真紅ばかり相手にしていて自分に構ってくれないジュンに対して点数稼ぎをしたかった翠星石が雛苺を唆して家事をやろうとしてみた、というのが正しい。
 結果は無惨なもので、自分達が割ってしまった窓ガラスの破片の掃除以外は何一つ満足にできたことはなかったが、帰宅したのりは言い訳を聞いても怒る素振りを見せずに微笑んだだけだった。
 今日のケーキはそこまで酷くはないものの、食べられない物を作ってしまったという点では何等変わりはない。あれから翠星石の家事の腕は目に見えて上がっているが、雛苺の方はその点で進歩していると言えるかどうかはまだ微妙だった。
「うー、美味しいと思ったんだもん」
 雛苺は口を尖らせたが、すぐにまた笑顔に戻る。
「でも、次は頑張るから。うにゅーに負けないくらい美味しいケーキ、ヒナが作るのよ」
 その意気は買いたいところだけれど、と真紅は微笑んだ。
「間違っても苺大福を入れたケーキ生地を作ったりしては駄目よ」
「どうしてわかったのー!?」
 まだまだ前途は多難そうだった。

 暫くの間、真紅はいつものようにくどくどとお菓子や紅茶のあれこれについて説明し、雛苺はこれもまたいつものように半分聞き流しながら、それでも決して口を挟まずにそれを聞き終えた。
 話が終わると、雛苺はにっこりと笑って真紅を見上げた。
 くどい説明そのものには辟易することが多いが、真紅の話を聞くことは嫌いではない。それに、そういう話をしているときの真紅は何故か楽しそうなのだ。今も、話し終えた真紅は電話を切ったときの少し陰のある雰囲気を何処かに追いやれたようだった。
 もっとも雛苺はそれを、良かったね、と殊更に口には出さず、態度に表すこともしなかった。それは彼女がこの家で暮らすようになってから得た最大の変化かもしれないが、本人さえもそれには気付いていなかった。
「ね、真紅」
 代わりに、雛苺は別の言葉を口にする。
「ヒナはずーっとずーっと、泣き虫の独りぼっちだった。独りになるのがいやで意地悪もしちゃったわ。でも今は違うの。ずーっとみんなで仲良く楽しく過ごしていきたいの」
 真紅が瞬いてこちらを見る。雛苺はまたにっこりした。
「水銀燈も仲良くなってくれるし、いつか……」
 真紅は雛苺の頬に手を伸ばした。漸く彼女が何を言いたいのか分かったような気がした。
「そうね、いつか」
 雪華綺晶、名前だけを伝えられてまだ見ぬ第七ドールのことも、いつか良い方に向く。雛苺が望むように仲良く楽しく過ごせるようになるのかは分からないけれども。

「──私達みんなで、アリスゲームを終わらせるのだわ」

 そう言う真紅の表情が静かな決意に満ちているのを、雛苺は頼もしく思う反面、少しばかり残念にも思う。真紅に重いことばかり考えさせたくなくて話を変えたつもりが、同じところに戻ってしまったからだ。
 優しい姉に微笑みを返しながら、失敗しちゃった、と雛苺は内心でちょっぴり後悔する。
 あるいはこの面でも、まだまだ彼女は成長の途上にあると言えるかもしれない。それでも、彼女は愚図ったりせず、次は頑張ろうとあくまで前向きに思うのだった。




[19752] その6 黒い人形(4)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/19 00:08
 日曜日の午後の桜田家の客間は、あまり例がないほど満員御礼だった。
 今しがた人形を受け取ってきた面々に結菱邸の草刈をやっている最中に呼び出されて来た水銀燈の媒介の少年と蒼星石も加わって、二桁に届こうかという人数があまり広くない部屋に詰め込まれている。
 部屋の中央では人形がキッチンから持ってきた椅子の上に座らされている。あまり艶はないがしっかりしてやや多目の灰白色の髪は綺麗に梳かれ、既に真紅と翠星石の手で下着が着せられていた。
 そこに、ジュンが殆ど黒に近い濃紺のドレスを慎重に着せていく。こういった作業にはある意味彼よりも慣れているみつと金糸雀が手伝っていたが、ジュンはまるで作業を何度となくやってきたような手捌きで、決して手早くはないが丁寧に仕事を進め、彼女達の出番はそれほど多くないようだった。
「……すげぇナイスバディってか、エロいな」
 人形を直接見たことがなかった少年は、後から駆け付けたのと背が高いという理由で後ろの方から覗き込むように作業を見ていたが、少し背を伸ばすと相変わらずの直截な表現をした。
「記憶を失う前の貴方の妄想の塊だからよ」
 素材まで含めてね、と行儀悪く家具の上に腰掛けた水銀燈は口の端を吊り上げてみせた。
「何処のモデルよりも美形、というよりは妄想でしか有り得ないプロポーションではあるわね」
「そうねー、いかにも男の子の作ったお人形って感じがするわ」
 でもこういうのもいいわね、とみつは半ばうっとりと呟く。
「みっちゃん、次はドルフィードリームなんて言わないで……ね──」
「ああ、それよ! それいい! ナイスアイディアよカナ! 大人っぽい子、欲しくなっちゃったぁー」
 薮蛇かしら、と金糸雀は引きつり気味の顔に乾いた笑いを浮かべる。既にぎゅう詰めの人形棚に、近日中に新たなラインナップが加わることはほぼ確実な情勢だった。
「自分の妄想が具現化したからって、劣情を催したら承知せんですよ」
 翠星石が振り向き、上目遣いにじろりと少年を睨む。
「催さねえってば。だいじょーぶ」
 少年は顔の前で扇ぐように手を振る。それを創り出したのは記憶を失う前の自分であり、今の自分とは違うのだと指摘することはなかった。
 代わりに、少年は厭味のない賞賛の言葉を口にした。
「でもさ。そーゆーのとは別でさ、なんかすげーよ。ちょっと感動する」
 同じく一歩離れたところから作業を見ていた蒼星石は、何気なく少年の視線を追ってみる。それは人形そのものでなく、服を着せて行くジュンの手つきに向けられていた。
「……うん。凄い」
 そこにはとても繊細で美しい世界があった。蒼星石はもう一度素直に魅入っている少年の顔を見、それから自分達の着ている服についた草の匂いを意識する。とにかく早くと急かされ、庭仕事の後片付けもそこそこに、それこそ着替える暇もなく少年の自転車でやって来たのだ。
 今日の蒼星石は、結菱老人に頼まれて少年が買ってきた子供用のブルーのツナギ服姿だった。
 老人が、遅れ馳せながらドレスのまま庭仕事をさせることの愚に気付いたと言うべきだろうか。あるいは、彼女の態度に何かを感じて、少年とお揃いの服にしてやろうと考えたのかもしれない。何にせよ、今は関係ないことだった。
 自分の服と同じように、泥や草の切れ端は払い落として拭いたものの草の匂いと染みのついたままの少年の服に視線を移し、蒼星石はふっと微笑む。
 塵一つない新品の人形に、繊細なマエストロの手で着せられる新品のドレス。今さっきまで庭の池の跡の湿った土の上で灌木の根掘りに汗を流していた服装そのままの少年とは、ある意味で正反対の世界だ。
 確かに、彼はジュンのような異能を持ってはいない。取るに足る才能も持ち合わせていないかもしれない。前世の記憶も言わば水銀燈に譲り渡してしまい、恐らく彼の中には幾許かの残滓しか残っていまい。
 それでも、彼には──
「……完成ね」
「ああ」
 ジュンは溜息のような声を上げ、真紅に頷いた。真紅がゆっくりと微笑み、何かを言おうとしたとき、二つの影が二人の間に割って入った。
「ジューン! お疲れ様なのー!」
「ジュン! やっと完成させやがったですコンニャロー!」
 雛苺はぴょんと飛び上がって横合いからジュンに抱きつき、翠星石は逆側からジュンにしがみついた。
「こっこら! 放せ重たいだろっ!」
 中腰だったジュンは焦ったように言ったが、二人がそれと気付いて離れようとする前にバランスを崩して尻餅をついた。
「ってぇ……」
「ドール二人くらい余裕で支えやがれですぅ、ジュンは筋力なさ過ぎです」
 翠星石は開き直って口を尖らせ、大体お前等が、とジュンは当然の抗議の声を上げる。出遅れてしまった真紅は腹立ち紛れなのか、翠星石と雛苺を叱り付けてジュンから引き離した。
「いい雰囲気ねえ……」
 ほぅ、とみつは至福の息をつき、金糸雀はこくこくと頷いて彼女の言葉にだけ同意する。既にすっかりマニアの色に染まってしまっただろうみつの頭の中についてはあまり深く考えないことにした。彼女が構えている一眼レフにも。

 少年はその一場の寸劇のような遣り取りの間もじっと人形を見詰めていたが、やがて水銀燈に視線を向けた。水銀燈はまるでそれを待っていたかのように少年を見返し、ふっと笑みを浮かべると小さな箱を持って人形の正面に舞い降りた。
 下を向いた人形の顎を持ち上げ、咽喉もとの辺りを触れてみる。人間で言えば鎖骨の合わせ目の辺りに、思ったとおりの感触があった。
 流石はあの男の妄想の産物ね、と独りごちる。彼女の契約者はディテールに無駄に拘っていたらしい。
「水銀燈……」
 何をするつもり、と言いたそうな真紅に、水銀燈は手に持った箱を見せた。
「誰かからの力の付与無しに人形が自律して動くには、何等かの動力源が必要。もっとも、この人形のモデルになった存在のように勝手に動き出す個体も存在するけど。まあ、それは何処までも例外。ハプニングと言ってもいいわね」
 全員の視線が自分の方に向いたことを確認して続ける。
「動力源になるかどうかは保証の限りじゃないけど、ここにこんなものがあるわ」
 全員に見えるように人形を背にしてかちりと箱を開けると、薄紅色の目映い光が溢れ出た。
「何の結晶だ……?」
 ジュンが息を呑み、少年は眉間に皺を寄せた。
「LED入りのビーズ? クリスタルかい?」
「それはみっちゃんが人形棚の夜間照明に使ってるのよ……青色LEDだからもう毎晩怖くて……」
 金糸雀はぶるっと身体を震わせてから、そうじゃなくて、と手を一振りする。
「ローザミスティカ……?」
 真紅は蒼い眼を見開いていた。
「そんな……貴女、もしかして自分の」
「そういう趣味はないって言ったはずよ、お優しい真紅ちゃん」
 水銀燈は肩を竦め、自分の胸元に手をかざす。淡い光がそこに生まれ、彼女の中に本人のそれがあることを示した。
「私は貴女ほどこの人形に思い入れを持っているわけじゃない。これはこの人形に思い入れたっぷりのきちがい人形師が私に寄越したモノよ。彼女のために、ってね」
 光の加減のせいかどこか寂しそうにも見える笑いを浮かべると、水銀燈は箱の中に入っていたもう一つのものを摘んで取り出した。
「見てのとおり、契約の指輪らしきものもある。準備は万端ということになるわね」
「きちがい人形師って誰?」
 雛苺は小首を傾げる。金糸雀も疑問符を浮かべたような表情になった。
「ローザミスティカはお父様が生成したモノ。他に二つと無い物を、七つに割って作られたのが私達のローザミスティカかしら。それが他にもあったということ?」
 少し違うわね、と水銀燈は首を振った。
「この世界には無かった。私達が知覚して移動できる範囲のどの世界にも、と言い換えてもいい。ただ、私の媒介やらこの人形がそうであったように、訳の分からない歪み、ひずみが、ある繋がらないはずの世界を繋げたってわけ。
 その世界は、人形師にとっては理不尽なことに、殺し合いをしていた彼の娘達にそれ以外の方法でも目的は達成できると漸く伝えることができた直後に、時間が閉じてしまった」
「そこから先の時間は無くなってしまった……?」
 何時の間にかまたジュンの傍に来ていた翠星石が独り言のように尋ね、ジュンの服の裾をきゅっと握り締める。水銀燈は、私は専門家ではないから、と前置きした。
「無くなってしまったというのか、ある時点から先の未来に進めなくなったというのが正しいのか分からないけど、そういう理解でいいはずよ。彼は『時間が閉じた』と言っていたけどね」
 箱に元どおり指輪を戻し、蓋を閉める。溢れていた光が収まり、部屋の中は僅かに暗くなった。

 そこにこちらの世界が──より正確には水銀燈の夢の世界が──繋がった。何者のせいなのか、それとも偶然なのかは不明だが、どちらにしても閉じた世界の側から見ればこちらの世界は可能性に満ちていたことは間違いない。
 当然のことだった。こちらの世界はまだ明確な終わりに達していないのだから。
 そこで彼は、ある時点で手元に残していた二つのかけらを水銀燈に託すことを思いついた。娘達そのものとは行かないまでも、自分の作り上げた何かを閉じてしまった世界の外で生かしたいと思ったのだろう。
 あるいは最初から自分にこの小さな箱を渡すために、彼の能力で強引にこの世界とあの世界を繋げていたのかもしれない。水銀燈はあの日以来夢に出てこなくなった人形師とその工房に、そんな理解をしていた。それならば、あの世界と繋がったのが自分の夢の世界だった理由も分かる。
 それにしても、とその場の皆に分かるようにかみくだいた説明をしながら彼女は別のことを思う。

──行って来るよ、が別れの言葉になるとは皮肉なものね。

 もっとも彼は、水銀燈に宛てた置手紙と同じようにその言葉も予め用意していたのだろう。
 自分の世界では時間の超越者になってしまった彼にとって水銀燈は久しぶりの、あるいは初めての、ある程度対等に話せる相手だったのではないか。その彼女にまた逢いたいという感情を込めて、さらばではなく行って来るという表現を使った。
 ステレオタイプで俗な想像過ぎるかもしれない。だが、超越者でありながら奇妙に人間臭く虚弱な内心を抱えていた彼には、そういう未練がましい別れ言葉が似合うような気がするのだ。

「羨ましいな」
 水銀燈の短い話を聞き終えた蒼星石はぼそりと言った。
「僕も逢いたかった。逢ったら言いたいことが沢山あるのに」
 全員の視線が集まる。その口調が真剣だったから、というよりはその場の薔薇乙女達の願望を代弁したものでもあったからだろう。父親に逢いたいというのは彼女達に強固に刷り込まれた本能のようなものだった。
 たとえそれが別の世界の住人で、直接彼女達を作った人物でなくても逢いたかったと思うのは当然だった。
「特に、最後に『僕』が復活しなかった理由とかね」
 しかし、にこりと笑ってそう続ける蒼星石の口調は明るかった。
 ただ、意図が周囲に伝わるには少しばかり間の取り方が悪かった。言葉の意味自体も正確に理解できるのは水銀燈だけだった。そのせいでそれが冗談のようなものだと全員が理解するまでには暫くの時間が必要だった。
 やがて、蒼星石が冗談を口にしたという事実に気付いた者がそれぞれに驚きを示し始める。逆に言えばそれほど彼女がその手の言葉を口にすることは珍しかったとも言えるかもしれない。
 周囲の反応を置いてきぼりにして、蒼星石は少年を見上げる。
「その小箱を託したのは、記憶を失う前の貴方が見ていたアニメーションに近い世界の存在。……そうじゃないのかい、水銀燈」
 ええ、と肯定を返しながら水銀燈は他の者とは別の意味で少しばかり驚いていた。
「そこまで知識を受け取っていたのね、貴女」
「たまたま知ってるだけさ」
 蒼星石はいつか水銀燈の媒介が言った台詞を彼女に返した。もっとも、それはユーモアではなかった。掛け値なしの事実でしかない。
「あの場で僕が得てしまったごく僅かの知識の中に紛れ込んでいた。それだけのことなんだ」

──だから君は僕のことは気にしなくていい、好きなようにやればいい。

 蒼星石は流石にそこまで口には出せずに水銀燈を見遣る。彼女が近いうちに、あるいはここから何かを始めようとしているのは明らかだったが、それがどういうことであれ自分はそれに対抗できるほどの知識を得たわけではないし、止める手立ても持っていない。

 視線の意味を正確に理解したかどうかは分からないが、水銀燈は軽く頷いた。異世界の人形師の話をするのを打ち切りたかったのかもしれない。
「まあ、そういう出所の怪しい品物よ。これはね」
 あっさりと言い切って、もう一度箱を開ける。今度は目映い光の源を取り出し、ジュンの手にそれを握らせた。
「ちょっ……お前」
「神の手、と言ったら大袈裟かもしれないけど、多分世界でただ一人の技術を持つ者。そしてその人形の仕上げをした者。最後の仕上げにこれを入れるのは、貴方がもっとも相応しいからよ」
 それに、と少しばかり皮肉な顔になる。
「貴方と貴方のパートナーに、その人形ははっきりと敵対したことがある。本当に動き出させていいのかどうか、その判断も任せるわ。私の依頼した協力の最後の一つと思ってもらってもいいわよ」
「そんな、急に」
 抗議しかけるジュンを水銀燈は手で制した。
「最初にこの人形のボディの製作を依頼したときから貴方にも分かっていたはずよ。もし敵対したときにどれだけ厄介な相手になるか、そして実際に敵に回る可能性が有り得るということも」
 ジュンは言葉に詰まった。それは考えたくないから後回しにしていた事柄でもあった。目の前の魅惑的な作業に没頭するあまり忘れていたというよりは、判断を後送りして、できれば他人に委ねたかった選択だった。
「……お前はどうなんだよ。動かしたいのか、この子を」
 辛うじてそう反撃してみるが、水銀燈はあっさりと頷いてみせた。
「動かしたいと思っているわよ。例えば私が動力を与えた時点でその人形に屠られるとしても。もっとも、そうなったら必死で抵抗はするし、ただで勝たせてやる気なんてさらさらないけどね」
 その言葉もまたあっさりとしたものだったが、表情には最近あまり見せなくなった獰猛さが表れていた。
「私自身はその人形が自律して動くことにその程度の価値はあると思っているということ。ただ、貴方には貴方の価値観があるでしょう。私の意向は置いておいて、それを尊重してくれればいい。これでいいかしら?」
 ジュンは頷いた。
「……わかった」
 手の中のかけらを見遣る。一旦それを軽く握り締めて顔を上げ、ぐるりを見回した。
 翠星石は不安そうに、雛苺はにっこりと、真紅は励ますようにやや固い微笑で彼に視線を返した。金糸雀は成り行きを見守る表情になっており、みつはにっと笑って頷いた。
 視線を斜め後ろに遣る。彼を注視している蒼星石の顔は生真面目だったが、それ以上の感情は読み取れなかった。水銀燈の媒介の少年がにやりと笑い、まるで庇うように半歩蒼星石の方に動き、ジュンに片手の拳を突き出して親指を立ててみせた。
 ジュンは少年に同じように親指を立ててみせる。ドール達にとっては不本意かもしれないが、ジュンには少年とみつの態度が背中を押してくれたように思えた。

「この子に、このクリスタルを入れる」

 改めて水銀燈を見詰め、ジュンは宣言するように言った。彼女の言葉に怯えたわけでも、気圧されまいと意地を張ってみたわけでもない。自分自身に気合いを入れるためだった。
 もっとも、クリスタルが真にローザミスティカに相当するものだったとしても、それを埋め込んだからといって直ぐにどうなるというものでないことは分かっている。
 もし人形の動く原理までが薔薇乙女と同じならば、発条に該当するものを巻いてやることで初めて人形は動き出す。そして永続的に動き続けるためには契約が必要──いや、もし人形が見たまま水銀燈に近い存在であれば、契約は直接必要ないのかもしれないが、どちらにしても動力源を埋め込んだだけでは動き出しはしない。
 それでも、ジュンは自分に気合を入れたい気分だった。

 改めて人形の横顔を見る。これが動き出すかもしれないという想像は、水銀燈の指摘したような危険性とはまた違った何かをジュンに感じさせた。
 画龍点睛という言葉があるが、ある意味ではまさにこれがそうなのだろう。動かないはずの人形に最後の一ピースを付け加えて、自律して動くようにしようというのだから。
 掌をそっと開くと、また光が溢れ出す。妙に輝きの強いそれはやはり何処となく作り物めいていて、少年の言ったようにLEDを仕込んだアクリルの小物にも思えた。
 だが、ジュンにとって今はそれはどうでもいいことだった。人形が薔薇乙女のイミテーションであるなら、これは間違いなく龍の目玉の点一つ、最後の一ピースと言っていい。
 危険は当然のようにあるかもしれない。薔薇乙女六人を相手取って全く退かなかった凶暴な力はジュンの記憶にも新しい。だが、同じく水銀燈が言っていたように、この人形を完成させることにはそのリスク以上の「何か」があるような気がした。
 何より、自分の手でこの人形を完成させることを了解し、胴部の原型を作ったのはジュン自身なのだ。
 彼は意を決したように掌を人形の喉元に持っていく。光源が移動し、動かない人形の顔に微妙な表情をつけた。
「この辺で……いいんだよな」
「そうですぅ」
 小さく肯定の返事をしたのは意外な声だった。
 翠星石はジュンの服にしがみついたまま、彼と一緒に動いていた。
「ここ……です」
 小さな手が僅かに下、鎖骨の合わせ目の辺りを指す。ジュンはその指し示すとおりにクリスタルを置いた。
 一瞬、クリスタルは目映く光ったかと思うと、そのまま溶け込むように人形のボディの中に消えていった。
「これで、いいのか?」
「……です」
 翠星石は腕を回し、ジュンの服に顔をうずめて彼を抱き締めるような姿勢になった。
「よくやりやがったです、ジュン」
「お前が素直に他人を褒めるなんて珍しいな」
「失礼なこと言いやがるんじゃねーです! 翠星石はいつでも率直で素直ですよっ」
 くぐもった声は何故か涙声のようにも聞こえた。
「ははぁ、お前感動して泣いてるな。それで僕の服に顔を押し当ててるんだろ?」
「ばっ、バカ言うなです。泣いてなんかねーです!」
 ジュンのからかいに、服にうりうりと顔を擦り付けながら、翠星石はあくまでそう言い張った。

「これで、後は」
 真紅はまた行儀の良くない位置に舞い戻っている水銀燈を見上げた。
「ええ。キーを入れて回すだけよ」
 水銀燈はまるで自動車を始動させるときのような言い方をした。
「薇ではないのかしら」
 金糸雀が訝しげに首を傾げる。雛苺は急に訳知り顔になり、金糸雀をつついて人形の背面に移動した。
「キーなのよ……ほら」
 少し伸び上がるようにして指差したそこには、薔薇乙女達のような丸穴ではなく、細い縦長のスリットがやや斜めに開いていた。
「み、妙に近代的かしら」
「設計した男の趣味の一環ね。全く何を考えていたんだか」
 言いながら、水銀燈は例の小箱にいくらか古びた小さな両面キーを入れた。つまんない品物、と呟いて口の端を歪める。
 それは彼が一番長く乗りつづけ、死んだときにもまだガレージに置いてあったバイクのキーだったが、それについてはいま敢えて語るまでのこともないだろうと彼女は思う。あまりにありきたり過ぎて気が向いた者は何も言わなくてもそれと類推できるだろうし、興味のない者には言う必要もないたぐいの話だった。
「誰が巻いてあげるのかなー?」
 みつは軽い調子で、興味津々という顔で尋ねたが、しかしその眼は笑っていなかった。先程の水銀燈の言葉がまだ耳に残っている。人形がいきなり大暴れを始めないとは限らないのだ。
「それは私が──」
「私が巻くわ」
 ゆっくり口を開こうとした水銀燈を制するように、真紅はやや早口に、しかしはっきりとした口調で言った。
「リスクは分かって言っているのでしょうね? 真紅」
 水銀燈は肩を竦め、十分に分かっているわ、と真紅は頷いた。
「この子の胴部を戦いに堪えられるほど強い素材で作ってと頼んだのは私だもの。目覚めたこの子がまた私を狙うとしても、私がこの子のゼンマイを巻く。それくらいはしても良いでしょう、水銀燈」
「ええ」
 水銀燈はにやりとして床に降り立った。
「貴女がもしバラバラに砕け散っても、ローザミスティカくらいは拾ってあげるわよ」
「生憎だけれど、貴女に託すつもりはないわ。もしものときは……」
 振り向いて、ジュンに縋り付いたままの翠星石に微笑む。
「下僕を共にする貴女に受け取ってもらうわ、翠星石。雛苺との契約も貴女に委ねるけれど、立場が変わっても雛苺を苛めたりしてはだめよ」
「真……紅?」
 翠星石は意外な言葉に戸惑うように瞬いたが、ぶんぶんと首を振る。
「駄目です! そ、そんなのダメなんです! す、翠星石は絶対そんなモン受け取らねーですよ。だから変なこと言わないで……」
「もしものとき、よ。早とちりしてはいけないわ」
 真紅は微笑み、水銀燈から小箱を受け取ろうと歩み寄った。
「ジュンを一番想っている貴女に託すのが、私の──」
 小箱に伸ばした手は、しかし空を掴んだ。横合い、というよりは斜め上から、まだ染みついたままの草いきれの匂いが水銀燈の手の中のものを攫って行った。
「はいはい、誰か忘れてやしませんかっと」
 少年は雑な手付きで箱を開けてキーを取り出し、箱の方は蓋を閉めようともせずにジュンの手にぽんと押し付けた。
「俺にも多少はお鉢回してくれてもいいんじゃね? 元々俺の妄想が作ったもんらしいし、俺がネジ巻いたって構わないよな?」
 呆気に取られたり、出遅れた抗議の声を上げたりするその場の面々を、いっそ呆れたような顔で彼は見回す。
「大体そんな深刻な話じゃないだろ? なんかあったら俺が抑え付けてやるよ」
 それは特段恰好を付けてみたというわけではなく、明らかに、単に事情を知らない人間の発言だった。蒼星石は息を呑む。

──そうだ。この中で、彼と金糸雀のマスターだけは知らない。

 水銀燈のそれとは全く段違いとも言える、無限の羽をまさに自在に操る人形の能力や、少なくとも一度は覚醒した瞬間から圧倒的な憎悪をもって彼等に敵対した事実を。
 あるいはみつは金糸雀から人形の恐るべき力を聞かされていたかもしれない。だが、少年は何も知らされていないようだった。
 蒼星石は警告の声を上げようとしたが、少年の方が先に口を開いた。
「それに、早いとこ動けるようにしてやんないと可哀想じゃん。大体、みんなこの子に失礼だぜ。動けないだけでみんなの話し声は聞こえてるんだろ?」
 蒼星石は言いかけた言葉を飲み込んだ。それはこの場で多分少年──と、敢えてもう一人挙げればみつ──だけが持つことのできる視点だった。
 無論、事情を知らないから、周囲の反応から類推できるほど頭が回っていないから、と切り捨ててしまえばそこまでの話ではある。だが、それでいいのだろうか。
 椅子に座っているのは危険な存在かもしれないとはいえ、ここまで何人もの手を経て漸く完成した人形だ。
 薔薇乙女とは違うベクトルの上に存在するとはいえ、同じように自律して動き、コミュニケーションを取り、考える存在なのだとしたら、それをただの危険物として扱ってよいのだろうか。それは人形だけでなく、この場にいない製作者達、その想いをも踏みにじるものではないのか。
 少年は蒼星石のそんな逡巡に気付くはずもなく、単純に納得できないと言いたげな表情のまま、人形の後ろに回り込む。
「こいつ、俺の夢ん中でずっと独りだったんだろ? ……ごめんな、今、動けるようにしてやっから」
 後ろからわしわしと折角整えた髪を乱暴に撫で、翼の意匠が刻印された小さなキーを差し込んで無造作に捻った。

 水銀燈は思わずびくりと身体を震わせた。丁度いいところだというのに、それを狙い澄ましたようなタイミングですぐ外から矢鱈に金属的で喧しい2ストロークエンジンの吹け上がる音が聞こえたからだ。

──何処の馬鹿野郎よ、一体。

 いつもなら聞き流してしまう音だが、流石にこのタイミングは酷すぎる。かっとなり、窓から羽根でも飛ばしてやろうかと身体を捻って身構えた。
 だが、騒音を振り撒いた相手を探そうとした彼女の目には意外なものが飛び込んできた。
 そこに「窓の外」はなかった。後ろを向いた彼女の視界には小奇麗に整頓された家具類と良く掃除された壁紙しか存在していなかった。
 状況はすぐに飲み込めた。いつものように、繁華街の裏手の安アパートの二階で開いた窓を背にして立っていたわけではなかったのだ。
 ここは閑静な住宅地にある桜田家の、廊下と壁に囲まれて窓のない客間で、彼女は室内で壁を背にして立っている。あまりに近かったエンジンの音に、それをつい忘れてしまっただけの話だった。
 しかし、それは無理もないことだった。仮にこの家のほんの近くで誰かが無闇にスロットルを開けて始動したのだとしても、塀とガラスと壁越しということになる。普通に考えれば、戸外のエンジン音があれほど喧しく聞こえるはずはなかった。

 彼女は一瞬ウロがきたようにぽかんとしたが、はっと気付いて人形の方を見遣った。
 人形の背後で少年がゆっくり息をつくのと同時に、人形は薄っすらと切れ長の瞳を開け始めていた。
「──お目覚めね」
 水銀燈は一つ頭を振り、にやりと、しかしやや固い笑いを浮かべて人形に近づいた。
「初めての実体の気分はどう?」
 人形はゆっくり瞬き、薄紅色の瞳を半眼にしてやや斜め下の水銀燈を見詰め、憎々しささえ感じさせる声音で答えた。
「……最悪」
 言い終わると同時に人形は椅子に手をつき、勢い良く飛び出そうとして──後ろから伸びてきた腕に腋の下を抱えられ、そのままひょいと持ち上げられて椅子から引き離された。
「何っ?」
「窮屈だと思うけど勘弁な。ここで暴れるのは無しってことでさ」
 少年は自分の言葉どおり、身体で抑え込もうとするように人形を後ろから抱きすくめてみせた。
「これでいいだろ?」
「そうね、貴方にしては上出来だわ。初めて役に立ったんじゃない?」
 もっとも肝心なのはその姿勢から羽根を飛ばされたときに圧力に耐えられるかどうかってところね、と水銀燈は乾いた笑い声を立てた。そうなれば少年は到底耐えられまい。
「ま、貴女もこんな大勢を纏めて相手にするつもりはないでしょうけど」
「……ええ、そのとおりよ。ドール六体にミーディアム三人。これ以上の不利はないもの」
 人形は怒りを抑えているような声で言った。薄紅色の瞳は怒りを湛えて紫がかっている。
「忌々しい女。何かといえば数を恃んで威圧するしか能がないの? 見下げ果てたカスだわ」
「挑発しているつもりなら意味がなくてよ、お馬鹿さん。単独では到底貴女を止められないんだもの、何等かの方策を取るのは当たり前でしょうに」
 水銀燈は椅子の上に飛び乗り、人形と視線の高さを合わせた。目が合うと人形の瞳は一層鋭く光ったが、水銀燈は醒めた目でそれを見返した。
「確かに私が貴女をnのフィールドに置いておきたくなかったのは事実。それに同情や憐憫なんてものを絡めたつもりはないわ。まだ自我の定まっていない、記憶も曖昧なところを残している貴女は、私にとってあの場所に置いておくのは危険過ぎた。それが、私が貴女をこちらに引き摺り出した理由よ」
 それに、と水銀燈は怒りに燃えるように小さく揺れる人形の瞳を見詰め返した。
「こちらに出て来たい、というのは貴女の願望でもあったはずじゃないかしら。利害が一致したから私は貴女を現実世界に連れ出し、貴女も敢えてそれを受け入れた。それを忘れてもらっては困るわね」
「……っ」
 人形はぎりっと歯を食いしばる音が聞こえてきそうな表情になった。
 いっそ相手が余裕綽々の、あるいは憐憫たっぷりの態度を取っていれば安易に激発できたかもしれないが、目の前の水銀燈は感情の篭らない言葉とは裏腹に苦虫を噛み潰したような顔をしている。それが人形の気勢を後僅かのところで殺いでしまっていた。
 そして、そのことが人形には酷くもどかしく腹立たしい。
「感謝しろって言いたいわけ? アンタに」
「まさか」
 水銀燈は苦笑した。
「もし誰かに感謝したいなんて殊勝な気分になってるなら、私以外の誰かにすべきね。俗な言い方だけど、誰も見返りを求めずに貴女の完成に手を貸したのだから」
 水銀燈は周りの面々を示すように片手を振り、その手を胸のところに当てた。
「私達を作ったのは一人の人形師。何処までも追っていけば、それは無数の人の手が関わっていると言えば言えるかもしれないけどね。でも、積極的に私達を作ろうとして関わったのは、あくまでその人形師個人に過ぎない」
 唐突に何を言い出すのか、と人形は虚を突かれたような表情になった。水銀燈は視線を逸らさずに続ける。
「でも貴女は違う。少なくともそこの人間──桜田ジュンは、貴女の欠けていた部分を補うために何日も掛けて試行錯誤した末にパーツを完成させた。翠星石はパーツが仕上がるまで貴女のために鞄を提供した。二人とも本来の貴女のボディを作った男とは直接の関わりさえ持たないのにね」
 実際にパーツを作った男のことには、水銀燈は言及しなかった。他の名前を出すだけで人形が思い出すには充分のはずだった。何しろ丸々二週間は男の許に居たのだから。
「何人もの思いが込められてる、と言ったら大袈裟かしらね。ただ、その結果として貴女のそのボディはある。それは間違いないことよ」
 水銀燈は目を伏せ、面倒な話よね、と独り言のように呟いてから、また真っ直ぐに人形を見詰めた。
「係累もいなければ目的も見失っている状態の貴女を現実世界に引っ張ってきたのは酷だったかもしれない。それを恨みたいのなら幾らでも恨んで貰って構わないわよ」
 肩を竦めてふっと息をつき、一拍置いて続ける。
「ただ、貴女に多少なりとも矜持やら誇りというものがあるのなら、恨む相手は私以外に求めないことね。このお人好しの集団は全くの好意だけで貴女の完成に手を貸したに過ぎないのだから」
 それだけよ、と放り出すようなあっさりした口調で水銀燈は話を終え、そのまま人形の顔を眺めた。
「見縊らないで。そんなことくらい分かってる」
 人形は険悪な表情のまま目を細めた。
「分かってるからムカつくのよ。こいつらみんな、結局手前勝手な思い込みを押し付けてきただけじゃない」
「そうね。なまじ思惑も何もなく、貴女への同情と共感と幾らかの楽しい妄想だけで出来上がったのが貴女の胴部と衣装と言えるかもね」
 水銀燈はその場に誰もいないかのようにあっさりと人形の発言を認めた。
「それに、貴女の記憶の中にある『水銀燈』らしくもなく、こうして群れて馴れ合っている──」
「──そうよ! アンタが一番滑稽で汚らしくて気分が悪くなるわ。反吐が出るくらいにね!」
 あはははは、と人形はやや金属的なヒステリックな声で笑った。

「何でも知っています、って澄まし顔してるくせに、やってることは数を恃んで馴れ合ってるだけ!
 逆十字を標された最凶のドールが聞いて呆れるわ! 結局独りじゃ何もできないんじゃない、至高の存在を目指してます、なんて口で言ってるだけ。
 呆れるのを通り越して笑えるわ。おぞましいったらありゃしない」

「そ、それは違──」
「──ええ、そのとおりよ」
 何かを言いかけたのが誰なのかまで気に留めようともせずに水銀燈はその言葉を遮った。

「私は予定調和を壊したい」

 貴女には直接関係のないことだけどね、と人形を見上げる瞳には先程見せた獰猛な光が戻っていた。
「至高の少女となってお父様の愛を得ること。そこは変えようとしても変えられない。当然ね。それは私達薔薇乙女の宿命であり本能のようなものなのだから。
 ただ、自分の経験とあの男の記憶を合わせ持ったことで、私には幾つか見えてきたからくりがある。まだおぼろげに見えているだけではあるけどね」
 最近の新しい視点には自分の夢の中での人形師との会話もヒントになっているのだが、そこまでは彼女は言及しなかった。蛇足に過ぎないし、そのことで大きく視点が変化したわけではない。
「姉妹七人が揃ったこの時代のうちに、それをぶち壊してやる。それが今の私の目的。そのために必要なら姉妹で群れたり馴れ合ったりなんて幾らでもやってやるわ。たとえ私のやってることが蟷螂の斧に過ぎないとしてもね」

──やはり、そうなのか。

 周囲が凝固したように静まり返っている中で、蒼星石は顎を僅かに引いて水銀燈の横顔を見遣った。
 何かを彼女が目論んでいるのは分かっていた。それが造物主である父に牙を剥くものである可能性もあるとは思っていた。
 だが今彼女が口に出したのは、流石に予想できなかった言葉だった。それはアリスゲーム自体を壊すということと同義ではないのか。
 急に自分の体内のローザミスティカの脈動をはっきりと意識する。人間であれば心臓の鼓動がはっきりと聞こえるというところだろうか。まるでなにかと共鳴しているようにさえ感じられるほど、それは大きくなっていた。

──この場でそれを明かすということは……

 自分も凝固したように身体を強張らせ、脈動に耐えながら、蒼星石は考える。
 結論はすぐに出た。

──始めるつもりなのか。ここで、このときから。

 数歩下がった位置から成り行きを見守っていた真紅も、殆ど同じ結論に達していた。
 彼女は蒼星石ほど水銀燈に近い立場にない。水銀燈の媒介の記憶も全く受け取ってはいない。他の姉妹と同じように、ほんの僅かな断片を水銀燈の口から聞いているだけだ。それは水銀燈の状況説明に都合のいい部分だけを取り出したものだろうということも分かっていた。
 それでも、彼女には今まで蓄積してきた知識と積み重ねてきた思索がある。自分なりの展望も持っている。それは水銀燈のように激烈なものではなかったが、広い意味では造物主の意図に沿えないかもしれないと危惧してもいた。

──馴れ合いのときは終わりが近いというの、水銀燈。

 それはいずれ来ると覚悟していたこととはいえ、真紅にとっては哀しい認識だった。
 真紅が、自分の右腕をもいだ相手にも関わらず、契約者であるジュンの不信を諌めてまで苦手な水銀燈と友好的に接してきたのは、もしかしたら水銀燈が自分と似た構想を持ち始めているのではないか、あるいは暫く友好的に過ごしていればこちらに考えが傾いてくれるのではないかという願望も込めてのことだった。実際、水銀燈は次第に軟化してきているようにさえ思えたのだ。
 だが、現実はそれほど甘くはなかったようだった。いつか水銀燈が言っていたように、自分はとんだ甘ちゃんなのかもしれない。
 真紅は唇を噛んだ。哀しみと敗北感と自責の思いで打ちのめされそうになりながら、それでもどうにか真っ直ぐに立っていた。彼女が弱みを見せていいのは、ジュンと二人きりのときだけなのだ。

「……下らない」
 凍りついたようなその場の面々の中で最初に動いたのは、少年の腕の中の人形だった。
「それがアナタの願いなら、わたしは──」
 どっ、と音を立て、人形の背中から黒い羽が噴出する。少年は声にならない呻きを上げ、それでも堪えてみせたが、僅かに腕を緩めた隙を突いて人形は空中に飛び出した。胸板を派手に蹴られた少年はバランスを崩して倒れる。
「──アナタの願いをぶっ壊してやるわ。……レンピカ!」
 青く光る人工精霊がふっと現れ、客間と隣の部屋をつなぐ戸のガラス部分が瞬時に暗黒に変わり、狭い水面に小石を投げたように波立ち始める。
「な、何するつもりですかっ」
 搾り出すような声で翠星石は、どうにかそれだけは口に出した。
 人形は初めて水銀燈以外に薄紅色の視線を向け、翠星石のぎくりとした表情に対して何故か少しばかりの笑みを浮かべる。それは、どういうわけかとても素直で、何処か寂しげな表情だった。
「……アナタ達が仲良しごっこをする分には関係のない事よ」
 そして言い終わらないうちに身を翻し、強引にドアに開けた入り口からnのフィールドへと消えた。
「メイメイ!」
「追って、ピチカート! 2号も!」
 水銀燈と金糸雀が辛うじて人工精霊を呼ぶ。メイメイはいつものような調子付いた動きではなく、珍しく真っ直ぐに入り口をくぐった。小さな人形を投げつけられたピチカートは一瞬たじろぐような動きをしたが、それでもどうにかそれを引っ張るようにしてnのフィールドに消えていき、その背後で暗黒の扉は閉じてしまった。


 二つの人工精霊が消えてしまうと、客間には凝固したような静寂だけが残った。
 人形の残した黒い羽根がひらりと舞い、ジュンの目の前を横切る。なんと表現していいのか分からない、ただ何処となく後味の悪さと空虚さだけが支配する中で、ジュンはそれを手に取った。
 軸を指で挟み、くるくると回す。羽根はあのときと同じ、水銀燈のそれと全く見分けが付かないものだった。
 この場で一番根拠のない楽しい妄想をしていたのはジュンだったかもしれない。もう少し穏やかな、暖かな、祝福された目覚めになるものと漠然と思っていたのだ。
 だが、蓋を開けてみれば人形をnのフィールドから引き出した水銀燈本人は至ってドライに人形の脅威を指摘し、そして、残念なことにそれはほぼ当っていた。怪我人が出なくて良かったと思ったほうが良さそうなほどの険悪な一幕だった。
 羽根を回すのをやめてふっと息をつく。この一月という時間は何のためにあったのだろう、という徒労感がじわじわと湧いてくるようだった。
 服の裾を引かれる感触があって下を見ると、彼の契約した二人の薔薇乙女がこちらを見上げていた。真紅はジュンを心配するような表情で何処かすまなそうに、翠星石は今にも泣き出しそうな顔で助けを求めるように、並んで彼の顔を仰いでいる。
 ジュンは微笑むように顔を歪めて二人を抱き寄せた。真紅は安堵したように長い息をつき、翠星石はまた涙を誤魔化そうとするように彼の服に顔をうずめた。

 静寂を破ったのは、雛苺の声だった。
「ほんとに痛いとこないの?」
 殆ど誰も気が付かないうちに、彼女は蒼星石よりも水銀燈よりも早く、多分人形が飛び出してすぐに少年のもとに駆け寄っていた。
「うん」
 頭ぶつけてねーし大したことねーよ、と少年はにっこりして雛苺の頭をうりうりと撫で、いてて、と言いながら立ち上がった。蒼星石が心配そうな顔で歩み寄ると、少年はやや丁寧にその頭も撫でた。少年の手は少しばかり草の匂いがした。
「ごめん。逃がしちゃった」
 今までの話をどう聴いていたのか、少年は緊張感のない、悪びれない表情で片手で拝むような仕種をしてみせる。そこここで溜息が洩れ、全員の間にどこか弛緩したような空気が流れた。
「痛いのは大口を叩いた罰ってところかしらね」
 水銀燈は先程の自分の言葉などどうとも思っていないと言いたげな、普段と変わらない態度でにやりと笑う。
「あれを喰らってたじろがない方がおかしいけど。現実世界でも健在だったわね、あの無茶な力は」
「ありゃひでーよ。せいぜい刺すんだろうな、くらいしか思ってなかった……」
 少年は上半身いたるところに刺さった黒い羽根を抜き始めた。
「刺されるのは大丈夫なの?」
 雛苺は目をぱちぱちと瞬いて少年を見上げる。そっちは慣れてるぜー、と肩の辺りの羽根を抜きながら少年はちらりと自分の契約した黒衣のドールを見遣り、それから漸く思い出したように全員を視野に入れて頭を下げた。
「ホントごめん。特に桜田と真紅……」
「全くです。でかい口叩いて暴走するなんて、お前は全くのアホ人間ですぅ」
 翠星石がジュンの服から顔を上げ、眼の端に涙の溜まったまま口を尖らせる横で、真紅は少年の傷だらけの顔を見上げた。
「でも、誰がやってもあの子は止められなかったでしょう」
 まだ顔の強張りが残って、やや固い表情になってしまったが、それでもぎこちなく微笑む。
「ありがとう。私が巻いていたら、本当に壊されていたかもしれない」
 少年は照れたような少しばかり困った顔になり、口の中でもごもごと謝罪なのか感謝なのかよく分からない言葉を呟く。水銀燈は面白そうにそれを眺めた。
「真紅が自分のナイト以外に素直に感謝の言葉を言うなんて殆どないことよ。一生ものだからよく記憶しておきなさい」
 真紅は一瞬意味を掴みかねたような表情になったが、その顔はすぐに真っ赤に染まった。
「……貴女の感謝の言葉なら、翌日は香港で大雪が降るのでしょうね、きっと」
 苦し紛れの言葉に水銀燈はひらひらと手を振って応える。
「あらぁ。そんな素晴らしい効果付きなら、誰かに雇ってもらおうかしら。世界経済に大打撃を与えられるものねぇ」
「物の喩えに決まってるじゃないの」
「分かってるわよ、お利巧さんの真紅ちゃん」
 水銀燈はにやりと笑い、そこまでで真紅をあしらうのを切り上げて床に散乱した黒い羽根を眺めた。椅子の上からその周囲に、まるで烏をまるまる一羽毟ったような量が落ちている。
 ほんの一瞬のことなのに、凄まじい量を放出したものだと思う。人形の怒りがそこに凝縮されているようにも見えた。

──不安と嫉妬、と言うべきかもね。

 やや目を伏せ、飛び去った人形に思いを馳せる。似た姿だから、あくまで知識としてだが同じ記憶をほぼそっくり持っているから、という理由だけではなく、水銀燈には人形の心情がある程度理解できた。
 要するに人形は、ジュンの部屋の雰囲気が堪らなく辛く、自分に向けられる無償の好意が酷く鬱陶しかったのだ。
 自分にはどうやっても戻れない和気藹々とした場所を髣髴とさせる、部屋の中の雰囲気。自分には絶対に占められない位置。その人々から向けられる、「自分たちとは違う可哀相なお人形」に対する同情と憐憫と身勝手な期待のようなもの。
 それらは『水銀燈』が『真紅』から受け、完全にトラウマと化し、最後まで克服できなかった仕打ちと全く同一の種類の、そして恐らくは更に苦しい経験だったはずだ。
 だがプライドの高い『水銀燈』の性格──それは当然ながら水銀燈にもとても近い──と記憶を持たされた人形は、自分がまたもや同じことをされて同じように苦しんだことは直接表に出せなかった。
 それがまた苛立ちと憎悪に拍車をかけ、結局それら諸々は、水銀燈への憎悪という形で収斂したのだろう。
 そして、それは確かに水銀燈の不手際、あるいは見込み違いによるものだったのも事実だ。

 彼女に幾つかの誤算というか見積もり違いがなければ、もう少し友好的な始まりがあったかもしれない。
 例えばジュンの手を経ずに、原型製作から全て誰かに──パーツそのものを作った、こちらの世界のあの男にでも──頼んでしまえばよかったのだろう。
 彼は恐らく相当の時間をかけてパーツを作り、見事なバランスで組み上げ、しかも代金すら全く受け取ろうとしなかったという。普通なら恐らく何万円かにはなるはずの、経費も馬鹿にならない仕事だというのに。
 彼が御伽噺に出てくるような全き善意の塊というわけではないだろう。彼なりに何か感じるものがあったに違いない。それは勘違いに起因するものかもしれないが、それで彼の心が満たされたのなら、好意として受けておいていいのだと彼女は思う。
 胴部のパーツを原型どおりに作るだけでさえそういう思いを持った彼のことだ。確証はないけれども、仮に向こうの世界の彼と同じ立場と技術を持っていると仮定するなら、稚拙な出来になったかもしれないがフィギュアを参考にして胴体部の原型まで自分で作ってしまっただろう。
 衣装についてもどうにかして調達してしまったに違いない。注文するか伝を辿るか、どちらしてもそのくらいの実行力は持っているはずだ。
 そうすれば、人形の心があそこまでこじれることはなかっただろう。むしろ、静かな場所で彼に全てを委ねられたら、酷く穏やかで素直な──夢の世界の中で、二人きりで旅をしていたときのような──心で居られただろう。
 もしかしたら動き出した人形が彼に自分の知り得る全てを明かし、彼とずっと生きていくような道を選ぶことさえ有り得たかもしれない。
 しかし、あれこれと想像の翼を広げたところで今となっては繰言に過ぎない。人形は怒りと新たな傷を抱えて飛び去ってしまった。

──今度会ったときは殺されても仕方がないわね。

 あっさりとそういう考えが浮かび、水銀燈はそのことに納得してしまっている自分が少しばかり可笑しくなった。予定調和を壊したいなどと派手なことを言い放った割には、だいぶ達観してしまっているものだ。

「──水銀燈」
 黙り込んだ水銀燈に最初の一声を掛けたのは金糸雀だった。
「幾つか質問してもいいかしら。私達、貴女から聞いて少しは事情を知っているけど、まだ分からないことが多すぎると思うの」
 水銀燈は視線を上げ、腕を組んだ。
「いいわ。答えられることは答えてあげる。私も無限の知識を持っているわけじゃないけどね」
 あまり力のない笑いが口許に浮かぶ。だがその諧謔を金糸雀は受け取らず、軽く頷いて真剣な表情になった。
「まず、一つ目ね。貴女の言ったこと……からくり、とはどういうことなのかしら」
 いきなり本題に切り込んできたか、と水銀燈は内心苦笑した。
 金糸雀にはそういうところがある。普段は可愛らしく少しばかりそそっかしい少女だが、それだけにこういうところでずばりと本質を突いても許される雰囲気があるし、本人も知っていてそれを利用しているフシもあった。
 真っ直ぐ切り込むことを避け、幾つか得やすいヒントを得てそれを組み合わせることで事実を類推する癖のある真紅、逆に直感に頼って平押しに真っ直ぐな質問を繰り返すことしかしない翠星石と雛苺、一度自分の中でストーリーを組み立ててしまってから確認を取る蒼星石……それら姉妹達にはない手強さが、金糸雀には確実にある。
 そして、ここで仮に水銀燈が説明を拒んでも、彼女は精々不満げに口を尖らせるだけで、けろりとして次の質問に移るだろう。そういう強かさも彼女にはあった。
「まだ正しいかどうかは分からない。ただの見込み違いの可能性もあるけど」
 前置きして、水銀燈は金糸雀の瞳を見詰めた。
「アリスゲームは単純な小石の欠片の奪い合いじゃない。戦いはそれと分からないように何処かで制御され、恐らく姉妹全員が揃ったときでなければ決着は着かないようにできている。その一端が垣間見えたというわけ」
「それが、からくりなのかしら」
 水銀燈は頷く。
「例えば力ずくで奪ったとしても、ローザミスティカは即座にそのドールの力になるわけじゃない。あるいは、力は使えても副作用が残る」
 真紅に視線を移すと、彼女は他愛のない怒りをもう何処かに追い遣り、生真面目な顔でこちらを見詰めていた。
「貴女が雛苺からローザミスティカを奪わずに下僕としたことは、リスクを回避する方策として正しかったようね」
 真紅がそんな意図はないと抗議するのを、知っているわ、そういう側面もあるということよ、と水銀燈は受け流した。
 その遣り取りを見詰めながら、蒼星石はぎゅっと拳を握り締める。

──そして君も、リスク回避のために僕を生かした。そういうことだね。

 予想していたこととはいえ、あまり認めたくない話だった。ローザミスティカの脈動は治まっていたが、逆にその分、冷たいものが体の中を駆け巡っているような気がした。
 あの場で自分が倒れていれば、自分は確実に翠星石にローザミスティカを託していた。漫画の成り行きもそうだったようだが、あの時点で自分に他の選択肢は無かったように思う。
 それは水銀燈にとって嬉しくない展開だったのだろう。一人で二つのローザミスティカを持った翠星石が水銀燈の脅威となるのは確実だし、だからといって横取りしても蒼星石のローザミスティカが水銀燈に副作用をもたらさないとは限らない。
 最も確実で構想を練りやすいのは、蒼星石に恩を売って生かし続けることだ。

──そして僕は、分かっているくせに君の提案に乗った。

 いや、分かっていたからだ。どういう展開が待っているか断片的とはいえ知っていたからこそ、一度はそれを選んだのに、幾つかの短い説得の言葉だけでその選択肢を捨てた。
 そこに、例えば野心などという大層なものはなかった。契約者と双子の姉を悲しませるのが辛く、そして何よりも自分自身が長いこと孤独に彷徨い苦しむという未来図に耐えられなかっただけだ。全ては自分の臆病さが原因だった。
 結局はそこだ、と蒼星石は臍を噛むような思いで自分を責める。水銀燈はあくまで自分に対して、水銀燈の媒介が垣間見せた選択肢を再提示したに過ぎない。やり方は狡猾と言っていいかもしれないが、選んだのは蒼星石自身だった。
 拳に力が篭り、かすかに震える。
 知識を得て、水銀燈は美学という名の直線的なやり方を捨て、形振り構わぬ強さを身に着けたのだろう。人形が表面だけを見て嘲笑したのとは逆に、水銀燈のアリスゲームへの熱意はそこまで高くなっているとも言える。
 対照的に自分は弱くなってしまった、と蒼星石は考える。それは何故なのだろう。あるいはこれが持って生まれた、いや、「持たされた」資質の違い、ということなのだろうか──
 すっと、広い手が彼女の肩に乗せられる。
「──大丈夫か?」
 ひそひそ声は少年のものだった。ごく単純に自分のことを心配しているらしいその顔を振り仰いで、蒼星石は表情を少しだけ弛緩させる。

──もしかしたら。

 自分が弱くなったのはこの少年のせいなのかもしれない、と蒼星石は漠然と思う。
 それでも彼の掌は暖かかった。体の中を暴れまわっていた冷たい塊を溶かし、どこか暖かいものを胸の奥に感じ取れるほどに。
 その暖かさに全てを忘れることができるほど蒼星石は器用ではなかったが、彼の手と態度に敢えて作為のようなものを無理矢理に見付け出すほど猜疑心に溢れているわけでもなかった。
 つまるところ、契約者に全てを託していたときには現れなかったそうした隠れた中庸さが、蒼星石の思う「弱さ」の原因なのかもしれない。だが、彼女がはっきりとそれを意識するのはもう少し後になってからのことだった。

 水銀燈はそちらをちらりと見遣ったが、何も気付かないような素振りでまた金糸雀に向き直った。
「私達姉妹、特に貴女と私は積極的にローザミスティカを集めることを考えてきた。私は力ずくで、貴女は計略で、という手段の違いはあったけどね」
 もっとも貴女はすぐに情に流されてしまうところはあるのだけど、と水銀燈は薄く笑い、金糸雀は少しばかり怒ったような顔になったが、何も言わずに水銀燈を見詰め返した。
「でも、それではゲームには勝てない。もし片っ端から全てのローザミスティカを奪取してその副作用に耐え切ったとしても、恐らくそれだけでは至高の少女としては認められない……」
 加えて、そもそも自分のもの以外の六つものローザミスティカの反応に耐えられるのかと言われれば、それは微妙な話だ。
 水銀燈が媒介の記憶から得た知識の中では、彼女は蒼星石のローザミスティカ一つですら持て余してしまっていた。恐らく二つ三つと増えれば、その分だけ反応は激烈なものになるのだろう。
 彼女に二つのクリスタルの欠片を渡して姿を消した──と表現してもいいだろう──人形師の世界なら良かったのに、と水銀燈はつい思ってしまう。彼等の世界ではローザミスティカは集めれば集めるだけ強くなれるパワーの源で、ご丁寧に各個の技まで使えるようになる。話が幾分単純で、素直なのだ。
「じゃあ、どうすればいいってことかしら」
 金糸雀は小首を傾げた。
「競い合い、奪い合いで決着が付けられないとしたら、何をもって決着がついたと判定されるのかしら。それも難解ね」
 取りようによっては揶揄に近い言葉だったが、金糸雀の口から出ると厭味のない感想に聞こえるのは不思議だった。恐らく揶揄なのだろうとは思っても、金糸雀が真実素朴にそう考えていないとも言い切れないのだ。
 全く厄介な相手だこと、と水銀燈は口には出さずに考える。
 なまじお互いをよく知っている上に技の相性の悪さもあり、彼女はこの次女をあまり得手としてはいない。それは金糸雀にとっても同じかもしれないが、いずれにしても水銀燈がこの時代で真っ先に真紅を標的とした理由にはそういった側面もあったのだ。
 溜息をつきたい気分で水銀燈は答える。
「恐らく、競い合うのは是、しかし奪い合いは非、といったところでしょうね」
 そこでまた真紅に視線を戻す。真紅は何かを掴めたような表情になっていた。
「真紅、貴女の構想を話して頂戴。貴女のアリスゲームの構想をね」
 どうして、とは真紅は尋ねなかった。ただ、彼女はすぐには口を開かず、慎重に水銀燈の次の言葉を待っているようだった。
 もう一押しがなければ話すつもりはないのだろう。水銀燈は肩を竦めたい気分だった。金糸雀も手強いが、真紅は真紅で、これだから御しがたい。
「多分それがゲームクリアの方法に最も近いはずよ」
 それは、分かっていてもあまり言いたくない台詞だった。知識を得るまでの自分の行動を全否定し、真紅が正しかったと認めているようなものだからだ。
 しかし、言い切ってしまうと何故か肩の荷が下りたような気分になったのも事実だった。
「話してくれるわね」
 念を押されて、真紅はすっと息を呑み、蒼い瞳を閉じた。

 二人の姉の視線を感じる。
 姉妹の中で自分だけが行使できる大きなエネルギーを持て余すように襲撃者として生きてきた水銀燈は当然として、金糸雀も好戦的でこそないものの、父親から言われたことをストレートに受け取り、忠実にそれを履行しようとしてきたことを今更のように思い知らされる。
 対して、自分は最初から捻くれていた。それは正攻法に疑問を持ったというよりは、正攻法では勝てないから、という言わば弱者の論理でもあった。
 真紅には力が足りなかった。思索に耽る能力、冷静に物事を考えられる能力は、却ってゲームに臨む前から彼女に自分の限界を思い知らせていた。
 水銀燈の自在に空中を飛び回り変幻自在の羽を操る力、金糸雀の傘とヴァイオリン、双子の庭師の心を操る鋏と如雨露。それらに相当する技能は自分の中にはないか、似たようなものではあっても決定的に劣っている。正面から戦いを挑まれれば、どうにか負けないことはできても勝つことはできない。
 力押しでは自分は勝てないゲームだから、彼女はそれ以外の方法を模索した。
 暫くして辿り着いたそれは水銀燈から見れば美しくなく、金糸雀から見れば馴れ合いの皮を被っているだけかもしれない、搦め手というよりは姑息かもしれない方法だった。しかし、彼女には他の方法は見出せなかった。
 父が知ったら失望するか怒りを感じるかもしれない。それでも真紅は、自分が遂行するアリスゲームとはこれなのだ、と自分自身に言い聞かせてゲームに臨んだ。
 幾つかの出会いと別れ、戦いと休息、不和と和解を経て彼女の考えは幾らかずつ変化してきた。いつしかそれは単にゲームの遂行ではなく、ゲームを終わらせるために自分が採るべき手段として彼女に認識されるようになっていた。
 それを今、ゲームを遂行するための正しい方法に近いものだから開陳しろ、と、これまで真紅の思惑など鼻にも引っ掛けなかった長姉が言っているのだ。
 なんという皮肉だろう、と彼女の中の悲観的な部分が嘆く。だが別の部分は、これが好機かもしれないと沸き立っていた。姉妹殆ど全員の前で、偏っているかもしれないと恐れ、理解されるはずがないと諦めて仄めかす程度に終始してきた自分の展望を堂々と表明することができるのだ。今までは望むべくもなかった好機だった。

「──ええ」
 逡巡していたのは数秒間ほどだったろうか。真紅は眼を開いて水銀燈の顔を見返した。
「私は……誰か独りがアリスゲームに勝ち残ることよりも、私達みんなでアリスゲームを終わらせたい。そう思っているわ。これから話すことは、その前提で聞いてほしいの」
 真紅は振り返り、その場の全員を視野に入れられる位置に移動した。

「アリスゲームは七つに砕かれた魂の欠片を一つにするための闘い……そう認識していることは私もみんなと変わらないわ。
 優れた者が劣った者を倒し、その欠片を取り込んで行けばローザミスティカはいずれ一つになる。確かにそれは直接的で分かりやすい方法でしょう。
 でも、それだけでいいのかしら。
 腕力や策謀勝負なら、確かにより強いものが淘汰されて生き残るでしょう。でも、勝ち残ったそれは至高の少女なのかしら。
 薔薇乙女の宿命とは、幾つもの世代を越えてだらだらと続く最強決定戦ではないと私は思うの。
 私達が生きてきた時間と記憶、想いと絆……それらが全て揃った、其処にアリスは生まれる」
 そう信じたい、と真紅は斜め下を向いて小さな声で言った。ややあって、前を向いてしっかりした発音で続ける。
「主義や主張が違えば、戦いになることもあるでしょう。それを避けようとは思わない。私の言葉はいつも足りないから……時間をかけずに誰かを説得することができないから、最後はきっと戦わなくてはならない。
 それが私のアリスゲーム、私の制すべき戦いということになるかしら。
 ただ、そうして打ち勝ったとしても、負けた相手を物言わぬ人形にすべきではないと思っているわ。最後はみんなが揃って、全員同意の下でアリスを……」
 そこで真紅は珍しい表情をした。少し照れくさそうな顔になったのだ。
「アリスを『生む』の。誰かが『成る』のではなくて、みんなで七分の一のものを一つに還し、アリスを孵すのだわ」

 水銀燈は可笑しいような、感銘を受けたような、何とも言えない表情で真紅の言葉を受け止めた。
 もっとも述べている本人も、それが甘い願望だということは分かっているのだろう。時によれば戦って相手を打ち負かし、不本意に自分に従わせる必要もあるかもしれない。
 それはまだ許容できるとしても、自分の手にかけるのであればまだしも、何処か手の届かぬ場所で姉妹が消えてしまうこともあるだろう。人形に動物のような死はないとはいえ、ボディまで消滅してしまったら普通の方法では魂を呼び戻すことはできない。
 七人が揃っている時代であっても、誰かの意図に同意し、その言葉に従って協力し合うということでさえ、他の姉妹が奪い合いを標榜している中では酷く難しいことなのだ。
 ただ、彼女は粘り強い。あるいはそんな都合のいい夢物語も、偶然と幸運に頼るのではなく時間と労力をかけて現実のものにしてしまうかもしれない雰囲気が、真紅には確かにあった。

──今というタイミングならある程度のところまでは可能ではあるかもね。いえ、既に相当のところまで実現していると言うべきかしら。

 自分がお膳立てしたようなものだが、雪華綺晶を除く六人の姉妹はその契約者も含めて今までになく親しくなっている。総合的に見て良いことなのかどうかは判断が難しいとは思うが、少なくとも真紅の構想を実現させるためにはプラスに働くだろう。
 ただ、それの実現には一つ大きな問題が横たわっているように、水銀燈には思えた。

「──真紅はお父様に逢えなくてもいいの?」
 きょとんとした顔で言ったのは、雛苺だった。
「お父様はアリスにしか会ってくださらないのよ。だからみんな、アリスになるために戦ってるんでしょう? ヒナはもう負けちゃったからダメだけど……」
 できることなら、機会があるのなら、自分だって逢いたい。そう言う代わりに雛苺は手近にいた少年の後ろに隠れてしまった。
「いいもん、ヒナにはパパとママがいるんだから。ねっ、そうよね?」
 ぐいぐいと少年の、まだ少し汚れの残っているツナギ服の脚の部分を引っ張る。少年はなんだっけと一瞬考え込んだが、ぽんと手を叩いてうんうんと頷いた。
「そうそういるいる。ちょっと可愛い系だけど決めるときは決めるかっこいいパパいるもんな」
 誰なんだよ、と言いかけて、ジュンは少年が自分のほうを、いかにも申し訳なさそうな顔をして片手で拝むような姿勢で見ていることに気付いた。
「ちょっ……まさか……」
「えへへっ、パパ大好きなのーっ」
 雛苺はとてとてとジュンに駆け寄り、真後ろから足にしがみついた。みつがふんふんと頷く。
「ジュンジュンと雛苺ちゃん……そういう関係だったのねぇ……」
「ご、誤解だって! ない、ないから!」
 にんまりと笑うみつにジュンは慌ててぶんぶんと手を振った。
「いいのよいいの、ドール好きなら誰でもそうなの。ドールはみんな可愛い子供。もうみんなホント目の中に入れても痛くないくらい可愛いんですもの。うふふふ。
 でもそうなるとママが誰なのか気になるわー、……ねっヒナちゃん、ママは誰なの?」
「もっちろん、ママはトゥ──うぷ」
「わーっ、わーっ」
 ジュンは真っ赤になって雛苺の口を手で塞いだ。
「だ、脱線終わり! 本題に戻って戻って!」
 そこここでくすりと笑いが漏れ、ぎこちなかった空間に僅かに緩みが出たようだった。
 ジュンは赤い顔のまま、まあいいか、と呟く。いきなりのパパ扱いは衝撃的だったが、多少でも雰囲気を明るくできたのなら歓迎すべきなのかもしれない。

「パパ、ママのいる子はいいとして……」
 金糸雀はまだ可笑しいのか、くすりと笑ってから真剣な目で真紅を見る。
「ヒナの言ったことは核心を突いているわ。真紅のプランでは、結局誰もお父様には会えない。それじゃ、みんな認めようにも認められないんじゃないかしら。結局真紅が他の姉妹を従わせて、自分のプランを遂行するだけになってしまわない?」
「……そうね、そのとおりだわ」
 真紅は微かに寂しそうな表情になった。彼女もそれを疾うの昔に分かっていたからこそ、公言することは避けてきたのだ。金糸雀はごく当たり前のことを指摘したに過ぎない。
「私が勝たなくてはゲームが終わらない、という点では私の戦いは何処までも私だけの戦いに過ぎないかもしれない……。誰も賛同はしないでしょうね」
 やや伏目がちになり、一つ息をついて水銀燈を見遣る。
「こんなところでいいのかしら」
「ええ」
 充分よ、と水銀燈は軽く頷いた。
「大体考えていたとおり。実現の道が困難なのかどうかは置いておくとして、真紅のやり方自体は恐らく正解に近いはずよ」
 そこで、何かを決意するような間を置いた。

「──結局、戦って相手を屠り、強引にローザミスティカを奪うことはマイナスにしかならず、全員を納得ずくで味方に付けるか、従わせるか、アリスゲームの完遂にはどちらかが必要だという点でね」

 言い切って水銀燈は周囲を見回し、少しばかり意外な顔になり、それから小さく肩を竦めた。
 思ったよりも反応が薄いことに気が付いたのだ。ローザミスティカに対する執着は水銀燈に次ぐはずの金糸雀も、いかにもその指摘を覚悟していたというような表情で頷いている。翠星石と蒼星石に至っては、ただ真剣な顔で聞き入っているようにさえ見えた。

──なるほどね。

 結局のところ、アリスゲームと言ってもこんなものなのだ、と思う。一人は既に脱落し、二人は最初からゲーム自体への興味が薄く、一人はいざとなれば最も有力かもしれないが、興味そのものはあってもその折々の情や姉妹との関係に流されやすいために些か影が薄い。
 つまるところ、アリスゲームを連呼しているだけでなく、自己の課題として取り組んでいるのは自分と真紅、二人だけだった。
 その点で自分はやはり悪役、またはライバルとして設定されているのだと改めて思う。あの人形師は盛んに否定するようなことを言っていたが、それは所詮外部からの視点に過ぎない。
 内心であまり愉快でない思いを巡らしながら、水銀燈は真紅に視線を向けた。彼女は何故か居づらいような雰囲気で、一人離れたところに立ったままだ。自分の表明した構想が、改めて口に出してみると他者には到底受け入れがたいもののようにでも思えているのだろうか。

──お生憎様。結局のところ、貴女の構想は既にほぼ実現しているのにね。

 水銀燈はなかなか肯定できない自分の荒々しい部分に言い聞かせるように考えを進める。
 真紅がアリスゲームから脱落した雛苺を「家来」として従え、翠星石がそこに舞い込み、金糸雀は中に潜む計算高さと冷徹さを何処かに置き忘れてその輪に入り込んでいる。
 蒼星石は最終的には真紅に協力するだろうし、自分もこうして馴れ合いの輪に入っている。
 後は雪華綺晶に出会い、説得するか従わせることに成功すれば──

 但し、そこから始まる予定調和を許す気は、今の水銀燈には更々ないのだが。

「ただ、納得ずくであれば、恐らく姉妹が揃っている必要はないわ」
 水銀燈は瞬いた。
 蒼星石が翠星石に恐らくそうしようとしていたように、あるいは媒介が読んでいた漫画の世界の中で雛苺が真紅に己を託したように、自発的な意思があれば。
「望まない相手に取り込まれたローザミスティカは副作用として拒絶反応を起こす。しかし、相手に全てを委ねることを望んでいるなら、ローザミスティカは相手の身体にも馴染む。それは真紅の言う時間と記憶は不完全な形でしか提供できないでしょうけど、想いや絆といったものはきっちりと伝わって行くはずよ」

 真紅の言う、全ての姉妹が揃ってアリスを「生む」という、どこか牧歌的なものを感じさせる結末の姿は、水銀燈の考えるところとは違っていた。
 とは言っても、知識を得てしまった彼女は以前のように単純な潰し合いこそが正しく美しいとは到底言えなかった。
 また、例えば、雪華綺晶の思う至高の少女──いつでも個性を着替えられ、どの姉妹にも変化できる存在。それは思いの外アリスに近いのかもしれない。
 だが、それだけでは足りないのもまた分かっている。自在に着替えられるだけでは、単に何人もの少女が入れ替わり立ち代わり出現するのと変わらない。そこに何かを足さなければ、彼女達の造物主が望んだ高みには届かない。
 恐らく至高の少女に必要なのは様々な──恐らく姉妹に分け与えられた全ての──個性を併せ持つだけでなく、姉妹全てを纏め上げるか姉妹全てに慕われる、もっと言ってしまえば自分を委ねてもいいと認められる資質なのだろう。力ずくで屈服させるのでなく、様々な個性から等しく仰がれる──カリスマ性と言ってもいいかもしれない。
 そして、それは彼女達が最初から与えられた特質ではなく、後から獲得して行くべきものだった。
 それを最も強く持った姉妹をベースとして、残りの姉妹達のローザミスティカ──経験と心、知識、個性──を付加されてアリスは「作られる」。
 それが孵化したとき、恐らく役目を終えた薔薇乙女達は皆物言わぬ人形に戻り、魂そのものも消えてなくなるか、もしまだ残滓が何処かに残っていたとしても「どこか遠く」へ散逸してしまうのだろう。
 そのこと自体を理不尽だとは、水銀燈は思わない。生物が生きて子を成し、役目を終えて死ぬように、薔薇乙女はアリスを作るための土台となって動き、役目を終えれば止まるのだ。どちらもそういう風に作られたのだから仕方がない。

 だが、そこに至るまでの過程を彼女は気に入らなかった。

 自分のここまでの経緯にはまだ納得できる。最初の契約者で躓いたことも含め、概ね納得の行く出会いと別れを続けてこれた。
 いい思い出も、思い出したくもない経験もある。それは他の姉妹達のこれまでの年月に比べて遥かに汚く、醜いものばかり内包しているはずだ。その反動もあって、彼女は美学に拘り、怠惰な生を否定してきた。
 それは今となっては却って彼女に「生きてきた」という実感さえ与えているような気がする。本来生きていくには綺麗事では済まないことの方が多いはずなのだ。
 だが、偏った弱い心のよりどころとして契約者が必要という制約をかけられた他の姉妹はどうなのか。
 契約者を愛し、愛され、そして愛した事実さえ一見綺麗に思い出という名前で整頓され、記憶の隅に整然と保存させられていく。後を振り返ることはない。いや、できない。
 性格付けと言ってしまえばそこまでだが、要はそういう風に後腐れないよう最初から作られているのだ。

 契約者まで含めて徹頭徹尾、全てはアリスゲームのためのからくりでしかない。

 雪華綺晶に至っては、もはや存在のありよう自体がゲームのために利用されている。それは異世界の人形師が皮肉たっぷりに評したとおり、まさに他の姉妹の後始末のためにあるようなものだった。
 彼女は最初から最後まで、孤独と渇望と不安に苛まれながら、最後の最後に舞台に立つまで誰にも知られることなく逼塞するほかなかったのだ。

──その哀れな存在に無慈悲にも最初の躓きを与えたのもまた私、というわけか。

 今更ながらそんなことを考え、何処まで悪役として作られているんだか、と改めて可笑しくなる。
 全てはアリスの基礎となるべきドールに成長のきっかけを与えるためだけに、彼女は精一杯生きてきたわけだ。全くそれと知らされず、自分こそがアリスになるのだと叶わない幻想を抱いて。
 この場に誰もいなければ乾いた笑いの一つも浮かべてやりたい気分だった。ここまで思索を進めるといつもそうしているように。

 考えを巡らせていたのは僅かな間に過ぎなかった。
 しかし周囲はそんな水銀燈の内心とは無関係に、途切れた彼女の言葉の続きを待っていた。
「……つまり、お互い恨みっこ無しの正々堂々の勝負に勝って託されたローザミスティカならば拒絶反応も起きないしアリスとなるための条件にもなる、ということかしら」
 なかなか次の言葉が出てこないのに幾分焦れたのか、金糸雀は自分で水銀燈の言葉を纏め、小首を傾げる。
「勝負に勝ったときよりも誰かがアクシデントに見舞われたときの方がありそうだけど。どっちにしてもカナには不利な条件かしら……」
 残念だわ、と言う顔は言葉どおりの残念さを見せていたが、すぐに彼女は気持ちを切り替えたように次の質問に移った。
「ローザミスティカのことは大体分かったけど、からくりはまだ他にもあるんでしょ?」
 金糸雀は水銀燈に一歩近づいて彼女の顔を見詰める。二人の背の高さの関係で、そうすると金糸雀はやや上目遣いになり、何かを訴えたいような表情にも見えた。
「それは、第七──雪華綺晶のことも含んでいるのではないかしら」
 金糸雀はそのまま小首を傾げてみせる。内心に何かを抱えているのかもしれないが、可愛らしさがそれを上手く覆い隠してしまっていた。
「何故そう思うの?」
 尋ねたのは水銀燈ではなく、真紅だった。彼女は小走りに金糸雀に近づき、金糸雀は顎の先に指を当ててそちらを振り向くとにこりと笑う。
「雪華綺晶という名前しか知らない末妹が、仮に水銀燈の言ったとおりの存在なら……貴女もそう考えてるんじゃないかしら、真紅」
 真紅は瞬き、立ち止まる。僅かに躊躇したようにも見えたが、しっかりと頷いた。
「……ええ。実体を持たないアストラルの彼女には、アリスゲームを遂行する上で何等かの特別な役割が求められるはず。そうでなければ──」
「──そうなの、他の姉妹に比べて不利な立場かしら」
 金糸雀は真紅の台詞の後半を引き取り、水銀燈に向き直った。
「幾ら行使できる力が大きくても、雪華綺晶は本質的に受身の立場。しかも自分の糧を確保していくためには、七人全員が揃った時代でないと迂闊に仕掛けられないのよ。
 もしアリスゲームに何の仕掛けも無ければ、私達他の姉妹は全員揃わなくても少しずつ相手を減らせるし、そしたら雪華綺晶は何もしなくてもますます不利になるから、普通に考えたら雪華綺晶のハンデは大きすぎる……あれ? 前にも言ったかしら」
 うんうんと雛苺が頷く。金糸雀はばつの悪そうな顔になったが、とにかく、と言葉を続けた。
「こう言っちゃ失礼かもだけど、真紅とヒナ、それからカナもね。三人が今まで無事で来れたのも、多分誰かがバランスを取っていたお陰かしら。翠星石と蒼星石はいつも二人一緒だったから手出しされにくいけど、私達はばらばらだったから──」
「──こわぁいお姉さんにいつジャンクにされても可笑しくなかった?」
「そう。バトルホリックの漆黒の堕天使に──って、あ」
 金糸雀ははっと口に手を当てた。それは流石に目の前に本人が居るところで言っていい言葉ではなかった。
 しかし、出た言葉は返って来ない。
「……ごめんなさい」
 金糸雀は素直にぴょこんと頭を下げ、水銀燈は肩を竦めて息をついた。
「いいわ。続けて頂戴」
「え、ええ」
 顔を強張らせながら、金糸雀は推論を再開させた。
「とにかく、アリスゲームが水銀燈の言うように何処かでコントロールされてるのは間違いないかしら。それは多分、誰も負けないように誰も勝たないように……という方向だと思うのね。そうでなければ、特に……」
 金糸雀は少し言い辛そうに真紅の顔を見た。真紅はこくりと頷いた。
「私は多分、本当は何度も負けていたわ」
 この時代だけでも、と真紅は目を伏せた。
「最初は何の疑問も感じなかった。でも」
 いや、この時代で彼女は実際に何度も負けていたはずだ。
 水銀燈との再会のときはまるで水銀燈の退場まで切れるのを待っていたかのようなタイミングで薇が切れ、雛苺との戦いのときには雛苺の契約者は既にまともに力を与えられるような状態とは言えず──それでも雛苺は瞬間的には本来の力を放ってみせたが──、次の戦いでは媒介がついていた上に数の有利がありながら遂に片腕をもがれてしまった。
 そこで何故か水銀燈が取って付けたように仲間として引き込んだはずの蒼星石まで標的にし始め、逆に水銀燈が全員から攻撃を受けかけて不利になりかけると今度は戦いの場としていた夢の世界が壊れた。薔薇乙女五人と契約者一人を巻き込んでいたのに、あのときでさえ勝敗は結局着かずに終わった。
 そして、片腕を失った彼女が酷く不利になったその後はまるでそれを補うかのようなタイミングで水銀燈の態度が軟化し、彼女に腕が戻った後はローザミスティカを巡る戦いそのものが有耶無耶のうちに休戦状態に入って今に至っている。

──これでは、まるで……

 考えを巡らしかけて、止める。それは真紅の自尊心というより潔癖な部分、大袈裟に言ってしまえば倫理観が看過できそうもない想像だった。
 真紅は目を伏せたままかぶりを振って溜息をつき、呟くように続ける。
「……いえ、多分そうね。誰もが脱落しないように、誰も欠けないように。そんな風に何処かで制御されていたのだわ。一番弱かった私が生き延びてこれたのは、多分そういうこと。
 私は生き延びてきたのではなくて、ずっと生かされてきた……」
 考えが到達しそうな事柄は、敢えて口には出さなかった。それでも自嘲気味の言葉になるのは避けられなかった。
 水銀燈が羨ましかった。彼女なら多分、自分自身を含めて全てを突き放した視点から、割り切った口調で斬り捨てるのだろう。みんな所詮哀れな操り人形に過ぎないのだと。
「真紅だけじゃないわ」
 金糸雀はぶんぶんと首を振って笑顔を見せた。
「カナも何度も何度も危ない橋は渡ってきたかしら。アリスゲームだけではないけどね。多分ヒナもだし、他の三人だってきっとそうよ。でもここまで誰もゲームから脱落しなかった。中の要因だけではなくて外部からの干渉からも守られてきたんじゃないかしら。
 薔薇乙女は姉妹全員、戦い合いはしても全てお父様の大きな手の中にいるってことかしら。多分……ね」
 その言葉が潔癖すぎる真紅への慰めになっていないのは承知だったが、何故か言わずには居られなかった。

 それがどちらかと言えば自分自身への言葉になっていることには、金糸雀は気付いていない。
 姉妹は皆同じだから特定の誰かだけが優遇されたり冷遇されているわけではない、と信じたいという気持ち、それに気付いてしまったこと自体を認めたくなかったのかもしれない。
 大きな手の中に守られて居るということは、大きな手の中に囚われていると言い換えることもできる。だが今はまだ、そのことに気付かない振りをしていたかった。
 そうでなければ、これまで懸命に生きてきたことがあまりにも虚しいような気がするのだ。

「話を戻しましょう」
 水銀燈はぱんぱんと手を叩いた。その仕種は誰かに似ていなくもなかったが、その場で気付いたのは雛苺だけだったかもしれない。
「金糸雀の言うとおり、恐らく最初から何処かで戦いは制御されている。それと同じように、雪華綺晶の役割も最初から規定されている。それもからくりの一端でしょうね」
 見ている、というよりは人形師との会話で辿り着いた結論だったが、彼女はそこまでは言わなかった。
 金糸雀に視線を向け、貴女の推測どおりよ、と目顔で伝える。金糸雀は予測が当たって嬉しいというよりは困惑したような、聞きたくなかった言葉を聞かされたというような表情になった。
 そんな顔をするなら賢しらに推測などぶち上げず、真紅のように沈黙の裏で考えを巡らせるだけで済ませておけばいいようなものだが、そこで言葉にしてしまうのが金糸雀の性格なのだろう。

「そして、彼女の役割は──」

 喋り始めてみると、今度の話はどうにも長くなりそうな気がした。
 考えてみれば、媒介の記憶を受け取ってからこの方、何かといえば長口上ばかり言わされているような気がする。

──悪役だけでは足りずに延々と解説役もやらされるわけね。

 皮肉な思考が頭を過ぎり、水銀燈はどうしても苦笑を抑えることができずに口の端を吊り上げるような表情になる。話を聞いている姉妹達には冷笑に見えたかもしれないが、そのことを指摘したり厭な顔をする者はいなかった。
 水銀燈には彼女達の反応が相変わらず薄いようにも思えた。
 それは姉妹それぞれが各々の考えを巡らせているからだったが、水銀燈にもそこまで気を回すだけの余裕はなかった。彼女はただ、何処となく不安と不満と悲しさと苛立ちのない交ぜになった姉妹達の放つ感情の流れだけを感じ取り、それが自分に対しての反感から出たものだろうと考えて多少残念に思っただけだった。
 ついそちらの方に類推が行ってしまう辺りが、あるいは彼女の哀しい限界なのかもしれない。


 人形は漂うように虚空を飛んでいた。
 薄紅色の瞳は閉じられ、黒い翼は畳まれている。脇に寄り添う青い光は途惑うように点滅を繰り返しているが、人形は反応を返そうともせずにただ流れていた。
 彼女は疲労していた。そして、ローゼンメイデン達の鞄のような回復装置を持っていない彼女は、疲労をただじっと動かずに眠ることでしか和らげることはできない。
 今まではここまで疲労したことはなかった。動ける時間より眠らされている時間の方が遥かに長い暮らしを続けてきたのだから当然だと彼女は思った。
 今までと同じように眠ればいい。眠れば、いずれ疲労は回復するだろう。

──そうすればまた──

 はっとして人形は目を開き、自分の漂い飛んできた方角を見詰めた。
 銀色の光点が接近してくる。かなりの速度だった。自分を追跡してきたのは間違いなかった。
「っ!」
 反応が遅れたのを彼女は苛立たしく思う。『レンピカ』が点滅を繰り返していたのはこのためだったのか、と舌打ちする。
 もっとも、その光点に対して逃げ戦をするつもりはない。苛立たしく思ったのは対応時間が短くなったからで、それ以上の理由はなかった。
「何か知らないけど良い度胸じゃない。粉々にしてやる……」
 一瞬、苛立たしさが凶暴な衝動となって人形を駆り立てる。彼女は接近してくる銀色の光に交錯するような軌道を取った。
 すれ違いざまに羽根の一群をお見舞いすれば、相手が何であれただでは済むまい、とにやりと笑う。人形は自分の攻撃能力には自信を持っていた。
 しかし、意気込みは肩透かしを食らった。銀色の光は既に光点ではなく光球と言うべき大きさになっていたが、彼女の羽根の有効射程ぎりぎりで直角に近い急ターンを行って、彼女と等距離を保つような軌道に乗った。
「……監視するつもり、わたしを」
 猪口才な、と人形は下唇を噛み締める。
 そのときには相手が何者であるかについても分かっていた。あの女──水銀燈の人工精霊だ。

 別れ際に見た厭なイメージが頭の中を過る。人を小馬鹿にしたような口振りで話をしているくせに表情は硬く、まるで嫌々ながらもやむを得ず何かをさせられているといった風情だった。
 人形が水銀燈の内心まで読むことができていたら、あるいはまた別の別れ際があったかもしれない。だが人形は少なからず狭量で、しかも自分のことで切羽詰っており、更に心を読むといった特殊な力も持ち合わせていなかった。

 人形は鼻を鳴らした。どれだけの力を持っているか知らないが、人工精霊如きに何ができるというのか。
 人工精霊は監視を続けたいようだが、その意図を挫いてやるのは簡単なのだ。あちらは一つきりだが、こちらは一体ではないのだから。
「『レンピカ』」
 青い光は二三度瞬いて、彼女の右手に移動してきた。
「追跡してこっちに追い込むのよ」
 了承の合図はなかったが、青い光は大きな弧を描いて銀色の光へと近づいていった。

 人形は一つ思い違いをしていた。
 それは些細なものだったが、この局面では無視できないほどの誤認でもあった。
 彼女が知る世界──水銀燈の媒介が以前生きていたところで視聴していたアニメーションの中の世界──では、人工精霊はさほど重要な位置を担っていたわけではない。自律判断ができる万能の召使ではあったが、ローゼンメイデンとの間には、いざとなれば手放して相手に与えることができるほどの繋がりしか持っていなかった。
 しかし水銀燈が放ったメイメイは、水銀燈の内にあるローザミスティカそのものに繋がり、そこにきつく縛りつけられている。それは、仮にローザミスティカが元の主人の意に沿わぬ相手の許に回収されてしまったとしても、そこに否応無しに付随させられてしまう程の強固な拘束力だった。
 それでいながら、自己の判断力や個性も持っている。それは人工精霊自体がひとつの心を持った生命だと言い換えても良いほどの完成されたものだった。
 そしてメイメイは仕事や役割というよりはあくまで主人を第一に考える個性を持っている。これまでも、時によれば主人の表面的な言葉に逆らっても、自分が主人のためと思うことは躊躇無く実行してきたほどだ。
 主人から与えられた役目は、果たさなければならない。それが人工精霊の誇り、などと言ったら大袈裟だろうし、メイメイには誇りやら矜持といったものは無縁だったが、義務感や使命感は確実に存在していた。
 メイメイは至近で飛び回る青い人工精霊の牽制を半ば無視して、時機を窺い続ける。そこには紛れも無くメイメイ自身の強い意思があった。

 一方の『レンピカ』は言われたことを字義通り忠実に履行しようとしていた。追跡し、相手の軌道を人形の方に変えさせるのがその任務だった。
 威嚇の動きを暫く続けた後、効果がないと理解した『レンピカ』は実力行使に出る。銀色の光球を弾いて軌道を変えさせようとしたのだ。
 だが、その試みは虚しかった。弾こうとして加速して接近してきた『レンピカ』の目前で、メイメイは突然意外なものを召喚してみせたのだ。
 急停止しようとする『レンピカ』を、それは横合いから強かに叩いた。『レンピカ』は為す術もなく弾き飛ばされ、間遠な点滅をしながら漂い遠ざかっていった。

「剣を……勝手に?」
 人形は瞬いた。メイメイが召喚したのは、彼女が少なくとも一度は──幻影が破れ、雪華綺晶が現れたとき──実際に使った両手剣だった。
 形が同じだけの別物ではない。何故か、それが人形には分かってしまった。
 メイメイは剣の腹で『レンピカ』を弾き飛ばした後、剣を脇に従えたまま、茫然としている人形にゆっくりと接近した。
「……何故お前がそれを?」
 主人のいないところで召喚し、行使できるのか。そもそも、何故持っているのか──。
 メイメイはチカチカと点滅し、人形に短い思念を送り付ける。人形の表情は唖然としたものから驚愕に変わった。
「まさか、そんな」
 薄紅色の瞳が大きく見開かれ、視線は剣に固定される。メイメイはそれをそっと押し出すように人形の方へ送った。
 人形の手が剣の柄を掴む。そこまで確認すると、メイメイはまるで手を叩いてでもいるかのように小刻みに数回上下に動き、いつものような調子付いた動きで人形の周りを一周すると、もと来た方向に飛び去っていった。




[19752] その7 白い人形(1)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/19 00:12
 既に日は沈んでいた。西の空にはまだ薄紅色の夕焼けの残滓が残っているが、暫くすればそれも闇に呑まれていくだろう。
 午後早くから始まった一連の騒動は、あまり後味が良くないものを残しながらだらだらと長く続いて、この時刻になって漸く一応の終わりをみた。
「結局一日まるごとレンタルさせちゃって……ごめん」
 ジュンは肩を落として頭を下げた。みつは一瞬何のことか分からずに金糸雀と顔を見合わせる。
「その……レンタカー」
 みつが例のパーツショップに車を走らせたのは午前中だったから、彼女と金糸雀、そしてジュンにとってはほぼ丸一日が潰れた勘定になる。ジュンはそのことを気にしていた。
「なぁんだ。いいのいいの、そんなの別に。好きでやってるんだし」
 みつは朗らかに笑う。
「今日はねぇ、みんなの真剣な顔が沢山見れてみっちゃん大興奮だったわよ。あのカーボンちゃんの凛々しいお目覚ってのも凄かったわねー。黒い羽根ばさーって。今までこういうシチュってなかったもの。一大スペクタクルって感じ? ほんと感動したわー」
 少しドールマニアのスイッチが入りかかっているのか、みつの目は爛々と輝き始める。だが、ジュンが今一つはっきりしない表情をしているのを見て取ると、さっと生真面目な顔に変わり、その肩にぽんと手を置いた。
「ま、アリスゲームのことはアリス候補生達に任せましょ」
 ジュンは顔を上げ、何度か瞬いた。
「あの子達が真剣に悩んでるときは、マスターはゆったり構えて適当に悩みに応えてあげれば良いの。一緒になって悩んじゃったら、あの子達は本当に頼るものがなくなっちゃうわよ?」
 みつはちらりと後ろを振り返り、助手席の窓にしがみついてこちらを見ている金糸雀ににっこりと笑いかけた。金糸雀は少し難しい顔をしていたが、いつもの笑顔になってこくこくと頷いてみせる。
 みつはジュンに視線を戻し、ジュンジュンにはまだ大変かもしれないけど、と微妙に苦笑のようなものを浮かべた。
「そうねぇ……栃沢くんって言ったっけ、水銀燈ちゃんのマスター。あの子みたいに天然入ってた方がいいとは言わないけど、少し肩の力抜こうか、ジュンジュン」
「……うん」
 それは分かっている、と言いたげにジュンがまた視線を落とすと、みつはばんばんとジュンの肩を二度ほどはたいて、おやすみと言って車に乗り込んでいった。ライトの光条が薄青い辺りの風景を貫き、車はすぐに角を曲がって見えなくなった。
 ふう、と息をついてジュンは肩を押さえる。
「痛って……」
 全く、手加減しろよな、と呟きながら家に入ろうとすると、今度は脇の方から声が掛った。
「桜田」
 今しがた話に出た少年が、青い作業着のまま、同じように青い作業着を着た蒼星石を自転車の前籠に乗せて自転車に跨っていた。
「おやす!」
 別れの挨拶以外の言葉を言わないばかりか、おやすみの「み」まで省略して、少年は大きく手を振って薔薇屋敷の方に自転車を漕ぎ出した。しっかり掴まってろよ、と言う声に蒼星石が律儀にうんと頷いて籠にしがみつくのは見て取れたが、そこから先は薄暗がりの中に紛れ、頼りない自転車の前照灯だけが暫くゆらゆらと見えていた。
 確かに、彼くらいお気楽に振舞えたら楽なのだろう。だが、ごく普通に中学生生活を送っている彼と、そこから追い立てられるようにして弾き出されてしまったジュンでは、内心に抱えている鬱屈の量自体が違っている。
 もっと分かりやすく劣等感と言ってしまってもいいかもしれない。ジュンは誰もが通っている義務教育の場から爪弾きされてしまったことで、他の様々な事柄に対しても余裕を失くしている。
 少なくともジュン自身は自分の内心をそう感じ取っていたし、事実が何処にあれ、そう感じているうちは鬱屈としたものが消えて行くことはないのだった。

「なあ、蒼星石」
 自転車を漕ぎながら少年はぽつりと言う。
「結局のところ、みんな何やってんだろうな」
 蒼星石は少年を振り仰いだ。少年は進路を見詰めながら、先程は全く見せなかった──多分、記憶を失ってからこの方殆ど見せたことのない──生真面目な表情になっていた。
「まぁ今の俺はなんにも言えないし、なんにもしてやれないけどさぁ」
 蒼星石は長い睫毛をやや伏せる。それが誰に対してなのかは言うまでもない、とかすかな寂しさと共に考える。彼は水銀燈の契約者なのだから。
「媒介って結局……契約が終わるまで、契約した子のコンディションを整えてあげて、また新しい契約まで安心して眠っていられるようにするのが仕事なんだと思ってたんだ」
「……そんなことは」
 むしろあべこべだ、と蒼星石は思う。
 記憶を失う前の彼が読んだ漫画の世界で、真紅が何度か言っていたように、薔薇乙女の契約者は言わば束の間の人形遊びを楽しむだけなのだ。薔薇乙女達は彼等に形にならない何かを与え、その代わりに自らの庇護と媒介としての役割を果たしてもらう。
 そして、役目を果たして契約が終われば、薔薇乙女達はまた新たな眠りに就くのだ。契約者達に見送られて。
「それは、うーん」
 蒼星石の説明を聞いても、少年は今ひとつ納得できないようだった。
「俺に『巻いた』ときと同じ記憶がないから、ダメなのかなぁ」
 少し照れたような、困ったときのような表情で蒼星石の顔をちらっと見遣り、また前に視線を向ける。車が一台脇を過ぎていった。
 前籠が少し揺れ、蒼星石も前に向き直って籠を掴む手に力を込めた。
「貴方の義務感は分かるけれど、契約はそこまで一方的なものじゃない。薔薇乙女はマスターのことを愛して、マスターの記憶に何かを残していく……」
 蒼星石はそこで口をつぐんだ。それは水銀燈がさきほど別の言葉で説明したことの焼き直しに過ぎない、と思っただけではない。何か別の理解を見つけたような気がしたからだ。
 残していく。記憶に。

──僕達が確かに居た、僕達に愛されて過したという消せない記憶を。

 それが契約者の心の糧になる場合もあれば、癒えずに心に残った傷となり、負担になる場合もある。
 その負担になってしまう場合──多くは、もっとずっと長く、永遠に一緒に居たいと望んでしまった場合──雪華綺晶が、その元契約者の心を糧として終わらない夢を見させることになる。そういう説明を、今しがた水銀燈から聞いたばかりだった。

「──結局、雪華綺晶もアリスゲームの駒の一つに過ぎない。その意味では私達は少し立ち位置が違うだけのマリオネット同士、哀れな人形姉妹よ」
 水銀燈は雪華綺晶の「からくり」との関係についてそう締め括っていた。
「ただ、彼女にはまだ秘められた力がある。具体的なことは見えてこないし、最初から持っていたのか、ゲームの開始を睨んで付け加えられたものかも分からないけど。それを見極めない限り、雪華綺晶の力量を早計に判断はできないし、警戒を怠ることもできない」
 それが今の状況と言ったところね、と水銀燈は溜息をついてみせたのだった。

 馴れ合うように見せていながら、そしてアリスゲーム自体への不審と不満を抱えながら、水銀燈は結局自分のゲーム進行に全力を注いでいたのだ、と蒼星石は思う。
 蒼星石を生かしておいたのも、媒介の夢をチェックしていたのも、自分の得た情報を問われるままばら撒いて見せたのも、今日の午後、あの人形を放ったのさえ計算ずくだったのかもしれない。
 それらは殆ど全て、未だ彼女しか実物に接触したことのない雪華綺晶の行動を間接的に阻害し、弱らせるものだった。
 それを水銀燈の口から明かされたとき、真紅は哀しそうな表情をし、翠星石はつい不用意な一言を水銀燈に浴びせてしまった。なるほどと頷いてみせたのは金糸雀だけだった。
 ただ、断片的にではあるが雪華綺晶についての知識のある蒼星石には水銀燈の意図が分からないでもなかった。
 もし雪華綺晶が彼女の知るままの力を持っているのなら、どれだけ警戒しようと警戒し過ぎることはないはずだ。直接的な力そのものだけでなく、その性質も異質で厄介な相手なのだから。
 蒼星石を生かしておいた理由の一つは、彼女を失った結菱老人の心を糧とさせず、蒼星石のボディを与えないためだろう。もちろんローザミスティカを自分の中に取り込むリスクの回避という側面もあるはずだが、いずれにしてもメリットの方が大きいと判断したのだろう。
 他の姉妹とも和解し、早くから少しずつではあるが雪華綺晶のことについて明かしてきたのも、今になれば雛苺を狙わせないためと解釈できる。
 そして、彼の夢の中に頻繁に出入りしていたことには、水銀燈自身が言っていたような「夢を捻じ曲げる」ような意図はやはりなかったのだ。彼の夢の中に居たあの人形だけでなく、まだ記憶が穴だらけで不安定な彼自身を渡さないためでもあったのだろう。
 そうやって、水銀燈は確実に雪華綺晶の取れる選択肢を奪っていった。いや、もしかしたら今後も選択肢を切り取り続け、最終的には一つに絞らせてしまうつもりなのかもしれない。

 割り切った言い方をしてしまえば、あの廃教会で三人が顔を揃え、そして彼が記憶を失った日がターニングポイントだった。恐らくその晩から水銀燈の主標的は真紅から雪華綺晶に変更されたのだ。
 以来水銀燈は、不利と見れば出てこない相手に対して罠を掛けるといった積極的な方法でなく、相手の選択肢を減らして行く作業を丁寧かつ周到に続けてきた。その努力には並大抵ではないものがあるはずだ。
 そのやり方は水銀燈らしいとは到底言えない。彼女は常に襲撃する側だった。むしろ周到な策を立てて実行していくような地味なやり方は金糸雀や真紅、そして今それを実行されている方の雪華綺晶にこそ相応しい。
 しかし、何故──

 赤信号で少年はブレーキを掛け、籠がゆさりと揺れる。蒼星石のとりとめのない思いはそこで一旦途切れた。
「ごめん、ちょい急ブレーキだった」
「大丈夫」
 蒼星石は固い表情のまま、少年の顔に視線を向けた。怒らせちゃったかー、と少年は額をぱちんと右手ではたく。芝居じみた動作だったが、彼がやってみせる分にはあまり違和感がなかった。
「怒ってないよ」
 ぎこちなく笑みを浮かべて、でも次はもう少しゆっくり停まってくれると嬉しいな、と注文を付けると、了解しましたと少年は敬礼の真似事をしてみせた。
 信号が青に変わり、蒼星石は改めて籠にしがみつく。動き出すときが一番不安定なのだ、と今日の行き返りの行程で学習していた。

──貴方は、ずっと覚えていてくれるだろうか。自分の契約したドールですらない僕を、こんな風に運んでくれたことを。

 忘れられても仕方がない。自分はあくまで結菱一葉と契約したドールで、彼の契約したドールは水銀燈なのだから。だが、じきに埋もれていってしまう記憶であっても、たまには思い出してほしかった。
 そして、もし覚えていてくれるならば、それは楽しい思い出の端に連なるものとしてであってほしい。契約者の心が雪華綺晶の糧になるというような話は置いておくとしても、寂しく思い出すようなことにはなってほしくなかった。
 我侭だな、と自分の考えに苦笑しながら、今まではそんなことを考えたこともなかった、とふと気付く。
 彼女はずっとマスターと翠星石、それから自分だけを見て生きてきた。アリスゲームに関わることよりも、その時点での契約者の方が優先だった。
 以前の契約者のことを振り返ることもなかった。目覚めてしまえばそこには将来の契約者がいたし、契約してしまえばその相手のために一所懸命に尽くすのが蒼星石だった。
 翠星石は、どうだったのだろう。
 彼女はいつも契約者よりも自分を見ていたように思う。何を置いても双子の妹が心配で、甘えたくて、甘えさせたくて、そして一旦心を開いてしまえば契約者にも大いに甘えていた。

──前の契約者のことを思い出すような素振りを見せたことは無かった。

 それは蒼星石に昔のことを思い出させてしんみりさせることがないように、という配慮だったのかもしれない。だが、仮にそんな話を切り出されても、蒼星石にはそのとき目の前にいる契約者の方が大事だった。
 それを感じ取っていたから、敢えてそういう話を避けていたのだろうか。

──だが、そうでないとしたら。

 先程は別の考えに彷徨い込んでしまった思いを、蒼星石はもう一度、今度ははっきりと意識する。

──僕も翠星石も「昔の契約者のことを過度に思い出さないように」制御されているとしたら。

 ぶるっ、と蒼星石は身を震わせる。背筋が冷たくなるような、薄ら寒いものを感じたからだ。
 戦いは何処かで制御されている。それは、多分もう疑う必要も無いほど明白だった。
 そうであれば、自分達の記憶システムに、前後の経緯に齟齬が出ない形で何等かの枷が嵌められていても全く不思議はない。

 水銀燈が何等かの手段でこのときの蒼星石の考えを読むことができたら、そうねと小さく肯定した後で、貴女がそこまで思いつくとはね、とやや意外そうな顔をしたかもしれない。
 頑固で一途、且つその折々の契約者をマスターと呼んでその命令には絶対服従を貫いてきた蒼星石が、幾つもの示唆があったとはいえ自分でその結論に達するとは水銀燈は思っていない。水銀燈自身ですら、以前から疑問には思いながら夢の中で人形師と会話するまでは確固たるイメージを持てなかった話なのだ。
 時代を越える間に記憶が弄られているかもしれない、いやその可能性の方が高い、という仮説だけは、水銀燈は故意に披露していない。
 それは姉妹達にとって余りにも辛い話であり、それによって激烈な反応が呼び起こされるのも、単純に悲嘆にくれさせてしまうのも水銀燈の本意ではなかったからだ。

 だが、蒼星石は水銀燈とは全く別の思考の道筋を辿ってそこに到達してしまった。
 激しい感情に揺さぶられることもなかった。ただ、戦慄と共に限りなく冷たい何かがごとりと音を立てて胸の奥に転がり、それが果てしなく下に落ち続けていくような感覚を味わっただけだった。
 自分の知識の中で繰り返し真紅が言っていた言葉。それは、こんなものだったように思う。

 「人は成長する。子供は在りし日の人形遊びを忘れていく。やがては老いて土に眠るけれど、人形は人形のまま朽ちて塵へと還るの」

──あべこべだったのは、それの方だ。

 契約者が全てそうであるわけではない。中には納得の行く別れ方をした者も居るはずだ。
 だが、雪華綺晶が糧とするような者については、こう言い換えてしまった方が正しい。

 薔薇乙女は在りし日の契約者達を忘れていく。契約を終えれば鞄に眠るけれども、契約者は取り残されたまま、心はしゃぶり尽くされるまで弄ばれ、動かなくなったその身は朽ちて塵へと還る。

 いや、違う。
 なんのことはない。もっと、シンプルな話だ。
 人形とは契約者のことで、それを使って遊び、満足すれば人形を棄てて眠りに就いてしまう子供が薔薇乙女なのだ。
 彼女達は皆これまで、契約者という名前の人形を幾つも飽きて捨て、あるいは壊れるまで丁寧に遊び相手とし、そうやって打ち捨てた人形達のことなど一顧だにせず、眠りと目覚めを繰り返してきた。まるで移り気な子供が常に新しい玩具に興味を示し、昨日まで遊んでいた古い玩具をすぐに忘れてしまうように。
 それだけのことだった。

 自転車は空走して行き、やがて門の前でゆっくりと停まった。
「着いたぜ。いやーお疲れ様!」
 少年は注意深く後輪スタンドを立て、身を硬くしている蒼星石を籠から抱き上げる。
 今までは、そういったことに注意を逸らされ、思考を中断させられていた。だが、今の彼女は胴部の関節を丸め、手足を強張らせ、胎児のような姿勢のままゆっくりと彼を見上げる。頭の中では負の思考の渦が止まらなかった。
「どした? ご、ごめん、今のブレーキでもそんな怖かった?」
 記憶を失くす前の彼なら、無駄のない仕組みだ、とただ頷いてくれただろうか。それとも、そんなことはない、と一時の励ましをくれただろうか。
 いや、今の彼に話してもいい。彼はきっと彼女の思いの斜め上の、しかしどこか安堵できる答えと、とても月並な気休めをくれるだろう。
「……いや、そんなことはないよ」
 がちがちに強張った首をどうにか横に振る。どうにか微笑みに近いものを浮かべることもできた。
 ただ、臆病な彼女は、結局自分の思考の到達した結果についての話を少年にすることはできなかった。
「だいぶ揺れてたもんな。ホントごめんな」
 蒼星石の態度をどう誤解したのか、彼は照れたような顔つきで言う。
「やっぱサス付きの自転車にするわ。ブレーキももうちょい良いのにする」
 それは、蒼星石をまた乗せるという意思表示のようなものだった。
 ほら、やっぱり。彼のそんな他愛ない一言は、彼女の心のほんの僅かな一部分にではあるけれど、温もりをくれる。
「ありがとう」
 多分、少しだけ赤みの差した顔で、蒼星石は彼に微笑んだ。今度は少しだけ、上手に笑えたように彼女には思えた。

 少年が結菱老人に蒼星石を送り届け、ついでにちゃっかりと遅目の夕食のご相伴に与っていた頃、ジュンの家の古びた大鏡の前では真紅が水銀燈と対峙していた。
 いや、対峙しているというのは真紅の気構えに過ぎないかもしれない。水銀燈は鏡の近くにあった箪笥に背を凭せて腕を組んでおり、真紅の言葉を待っているだけだ。真紅はそんな、ごく自然体に見える水銀燈に話を切り出すのに躊躇しているのだった。
 ただ、真紅にとっては、これからする質問は気構えしなくてはならない程度に辛いものだった。
「雪華綺晶の糧は乙女達と契約していた者の心、そのもの……」
「確かにそう言ったわよ。わざわざ確認するほどの事でもないでしょうに」
 真紅の声が微かに震えているのに気付いているのかいないのか、水銀燈は彼女の消え入りそうな語尾に被せるようにして答えた。水銀燈は水銀燈で、真紅には話してもいい部分というものがあるようだった。
「全く厄介な相手よ。ここだけの話、私が知ってる範囲だけでも今現在も以前の契約者達は何人か生きてる。その全員について糧にしている可能性が捨てきれない。
 相当に意思堅固な人物でも、年月が過ぎて老い衰えれば薔薇乙女にもう一度逢いたいと思ってしまう気持ちが芽生えてこないとは限らない。悪いことに、生きてさえいれば生命力そのものの大小は雪華綺晶が糧とする分には関係がないわけ」
 意外にそういうケースで糧を得ることも多いのかもしれないわね、あの末妹は、と水銀燈は視線を斜め下に向けて忌々しそうに舌打ちした。その言葉を聞いて真紅が息を呑み、更に表情を険しくしたのには気付いていないようだった。
「とにかく、今契約している媒介達だけでも渡さないように──」
「──水銀燈」
 水銀燈は訝しげに視線を上げて真紅を見遣り、眉根を寄せた。真紅は今度はもう少しはっきりと声を震わせていた。
「私は、覚えているのに思い出していなかったわ」
 真紅は脅えてはいない。ただ、目を伏せ、自分を責めるような口調になっていた。
「いいえ、思い出そうとすれば思い出せる。今までの契約者達の顔も、名前も、印象的な出来事も。彼等から私はとても多くのことを受け取り、学んできた。それなのに……彼等のことを思い出そうとしていなかった」
「……そう」
 やはり来たか、と水銀燈は軽く頷く。姉妹の中で最も思索を好み、外から見る分には常に凛と背を伸ばして傲然と構えているようだが、内面では常に周囲を気にかけている。そんな真紅なら今日の自分の言葉だけでそこに考えが到達するだろう、というのは計算の上だった。
「忘れようとしたわけではないの。いいえ、忘れようとさえ思わなかった。ごく自然に、まるで──」
「──何処かに整頓されて収まってしまっているように……?」
 水銀燈は部屋の入り口に視線を向けた。声の主は、表情こそ逆光になってよく分からないが、言葉の響きだけでどういう顔をしているか想像がついた。
「盗み聞きとは感心しないわね、翠星石。その分だと雛苺もいるんでしょう」
 びくり、とする気配がこちらまで伝わってくる。出てきなさいと言うまでもなく、怒られるのを覚悟しているようなシルエットが翠星石と並んだ。
「うゆ……ごめんなさい」
「ま、貴女達は三人一組みたいなものだものね。媒介も共通だし」
 水銀燈は怒る気も失せたと言うように苦笑した。
「そっちが構わないなら、私は二人増えようが増えまいが同じことだけど」
 どうするの、と真紅に尋ねる。真紅は諦めたように何か一言呟いて視線を上げた。
「……分かったわ。ここにいるみんなで話し合いましょう。ただし、ジュンやのりには伝えないで。これ以上余分な心配を掛けたくないから」
 はい、と二つの返事が返って来る。
「相変わらずの秘密主義ねぇ」
 水銀燈は自分のことを棚に上げてくすくす笑ってみせたが、真紅はそれに応じる余裕はなかった。場所は、と訊かれて鏡の向こうを指す。
 水銀燈は笑いを収めずに頷いてみせた。
「それなら、お誂え向きの世界を見つけてあるわよ」


 nのフィールド。
 水銀燈が選んだのは、ひとつの小さな世界だった。
「ここは誰かの家ですか? なんか懐かしい感じです」
 翠星石は欧風の石造りの高い天井を振り仰いだ。現代日本の家屋にはない広さと、暗さと、生命感のかけらのようなものがある。
 様々な国、時代を過ぎてきた彼女達にとっては、ある意味でごく普通に懐かしさを感じ取れる場所のはずだ。それこそ、敢えて今更言葉にする必要もないほど。
「第32768世界。全てが反転する数の一つ。ゼロに一番遠く、ある意味で一番近い数でもあるわね」
 もっともここを選んだのは数字合わせじゃなくて偶然に過ぎないけど、と水銀燈は言い、部屋の扉を開いた。
「大きな人形工房……」
「ドールのパーツがいっぱいなの」
 雛苺は仕事机の方に駆けて行き、そこに吊られて仕上げを待っているアンティークドールの手足を興味深そうに眺めた。
「こっちはちょっと不気味です……」
 翠星石が指差す一方の壁際にはずらりと顔部分のパーツが並んでいた。既に顔の造作から耳まで作られているが、ドールアイの無い眼窩はうつろで髪も睫毛もなく、塗装もされていない。
 部屋の隅に不自然に積まれたジャンクパーツの山や作りかけで放棄されたドールまでは存在しないものの、そこは水銀燈が夢で見た例の人形工房の様相にとても近かった。一昨日の晩発見したときには似すぎていると首を捻ったほどだ。
 案外ここの風景を基にして特徴的な記号を幾つか散らしたのがあの人形工房の姿なのかもしれない、と水銀燈は思っていた。それならば、きちんと整頓された工房の中に唐突にジャンクの山があったことも説明が付く。
 いずれにしても、今はあまり関係がない。ただ一点を除けば。
「適当に狭いし、話をするには悪くないでしょう。我ながら趣味がいい場所とは言えないけどね」
 言いながら水銀燈は持っていた小箱を机の上に置いた。精々数日前の出来事ではあるが、こう一つ物を置いただけで懐かしさが滲んで来るような気がする。
 いつも座っていた椅子ではなく、男が居た仕事机の椅子に水銀燈は陣取り、手を広げてみせた。
「適当に座って頂戴。どうせ誰も来ないわ、……多分」
 つい語尾に一抹の期待のようなものを乗せてしまったが、その意味に気付いた者は本人以外には居なかった。三人は薦められるまま、それぞれ部屋の中の思い思いの場所に落ち着いた。

「それで、忘れようともせず、かといって思い出しもしなかった、ということがどうかした?」
 水銀燈は真紅に視線を向け、少し意地の悪い言い方で話し出すよう促してみる。彼女は机の近くの──丁度、水銀燈がずっと座っていた辺りの椅子に腰を下ろしていた。
 真紅は何かに耐えるような表情になった。
「……契約が解けて鞄に入るとき、私はいつもそれまで契約していた人物のことを考えていたわ」
 貴女達はどうなの? と言いたげに真紅は雛苺と翠星石を順番に見る。雛苺は少し難しい顔をして俯いたが否定はせず、翠星石は自分も同じだと肯定した。
「そして、長い眠りの間にその想いが新たな契約の指輪を少しずつ作って行く……そのことに何の疑いも持っていなかった」
 言いながら、真紅は伏目がちになってしまった。彼女が自分の前でこういう表情になるのは珍しい、と水銀燈は妙なところが気になった。真紅が視線を逸らしたり隠すのは、よほど内面で感情が動いているときなのだ。
「眠りから目覚めてしまえば、前の契約者のことは心の中で整理がついていて、新たな契約者のことだけを考えていた。それが自然なことだと疑いもしなかった。でも、それ自体が私達の意志でなかったとしたら……?」
 問い掛けるような視線が水銀燈を見る。
「元契約者の方にも同じことが言えるわ。でも、そちらは……貴女の言ったとおり、私達との再会を強く願ってしまえば雪華綺晶の糧となってしまうのね。けれど私達は、いいえ、だからこそ私達も、不自然な何かを施されているのではなくて?」

──不自然な何か、か。

 それはとても皮肉な言葉であり、考え方だ。そう考えること自体が不自然だとは、どうして考えないのか。
 本来彼女達はアンティークドールだ。動物のような生命は持たない。自律して動くこともない。それを無理矢理人間のような知識と知恵と性格付けを与えられ、動力源を入れられて動かされているに過ぎない。
 元来がヒトの手でヒトの思いを体現したものなのだから、作り上げたヒトの都合のいいように作られていて当たり前なのだ。むしろ、究極に都合のいい存在を創り出すための前段階、それが薔薇乙女だった。
 だが、自分がその究極に都合のいい存在を創り出す過程をどうしても気に入ることができないように、真紅は自分が精神や記憶に作り手の便利な細工を施されて作り出されたとは思いたくないのだろう。どちらも自律した存在だから致し方ないとはいえ、作り手側にしてみれば有り難くなさそうな話だった。
 アリスゲームそのものだけでなく、時間、記憶、契約者といったものに真紅は潔癖な傾向がある。思索や心理学を好むから、却ってそこに絶対的なものや理想を求めるのかもしれない。
 そんな彼女だからこそ「からくり」らしきものが介在していることに気付けばそれを看過できないだろう、ということは、水銀燈は当然のように想定していた。あまりそちらに素養があるとはいえない自分さえ辿り着いたのだから、ヒントさえ与えれば真紅が気付くのは時間の問題だった。
 意外だったのは真紅にとってそれが自制を大量に必要とするほどの事柄らしいということだ。水銀燈が推測していたよりも、真紅は更に潔癖なのかもしれない。
 あるいは、それさえも過度に考えが進まないよう制御されているのか。真紅のようなタイプはともすれば思索の中に沈んでしまう可能性もあるから、真紅がそれなりの積極性も有している事情の裏には、そういった制御の存在も有り得ることだった。

──やはりこうした話は……

 真紅達とではなく金糸雀とする方が良かったのだろう。もっとも、水銀燈としてはどちらが情緒に流れるかをもう少し見極めてから決めるつもりだったのだが、帰宅する前に真紅から呼び出されてしまったという側面もあるにはあった。
 ただ、そこで先に雪華綺晶の糧のことを喋ってしまったのは早計だったかもしれない。真紅の状況を見極めてからの方が得策だった。いくら姉妹の中で最も思索が深いとはいえ、あまり動揺が激しくては共に策を練る相手としては不都合だ。
 まだまだ自分は他人を巻き込んで何かをすることを苦手としている、と水銀燈は苦々しく思う。じっくり観察して得られた情報を考察する余裕もないし、つい行動が先走ってしまう傾向もあるのだろう。この辺りは、当の真紅の方が数段優っている。
 だからこそ期待もしていたわけだが、と思い、そこで水銀燈は自分の思考が円環状に固着し始めていることを感じた。愚痴しか生み出さない、良くない傾向だ。

 気持ちを切り替えて真っ直ぐ真紅に向き直る。
 たちまち破れる詭弁に過ぎないかもしれないという危惧はあるが、真紅の提起した疑問自体には、まともに自分の推論をぶつける以外の回答も用意してあった。
「私達が目指すのは至高の少女。確かにその資質には私達が誰も持っていなかった部分はあるはず。でも元を辿れば、個別の薔薇乙女は、各々そのときのお父様が至高の少女を目指して造られたもの。複数の姉妹に共通する資質が全くないということはむしろ有り得ない」
 むしろ根底に一つくらいは一貫した物があるはずよ、と水銀燈は机の周辺にある完成間近のドール達を手で示す。残念なことにそれらはほぼ同じ型を使って作られたパーツを組み上げた量産品に過ぎないが、この文脈で使う分には別に構わないだろうと水銀燈は思った。
「この工房の中のドールに共通する、この工房だけのデザインの特徴があるように、私達を作った人形師にも至高の少女に対する変わらないイメージがあって然るべき。恐らくその一つに、過去に囚われずに現在と未来を見続けることがあるのよ」
 真紅は大きな背凭れの付いた椅子に座ったまま黙っていた。伏目がちのままで、表情は上手く読めない。こう見るとやけに小さく見えるものね、と妙なところにふと気付きながら、水銀燈は続けた。
「過去のしがらみに拘泥せず現在と未来に生きる。それが至高の少女の資質の一つだというイメージが何処かの時点で湧いたとすれば、過去を振り返らず前を向いて歩いていく性格が薔薇乙女に共通に織り込まれていても不思議はないわ」
 それは水銀燈自身の仮説に対する弱い否定でもある。確かに、常に前向きであれ、というのは彼やゲームの都合の良し悪しに関わらず、最初から与えられていてもおかしくはない性格付けだった。
 ただ、この説明は全ての薔薇乙女に適用するには口先だけの気休めに過ぎないことは水銀燈自身にも分かっていたし、少し考えれば理解できることだった。
「……ヒナは……やっぱりダメな子なの?」
 恐る恐る、といった声がした。男が人形を座らせ、最後の仕上げをしていた椅子の上で、雛苺はそのことを確認するのが怖いというよりは発言して良いのかどうかを迷っているような声で真紅と水銀燈を交互に見ていた。
「違います、今のは水銀燈の考えで」
「違うわ雛苺、これは──」
「──どうしてそう思うのか、言って御覧なさいな」
 慌てたように口を開きかけた二人に被せるように水銀燈は雛苺を促した。
「アリスゲームから脱落してしまった貴女の視点は、ゲームの中にいて常に引っ掻き回されている私達には重要かもしれない。離れているからこそ見えてくるものはあるはずよ」
 雛苺は、恐らく真紅が予想していなかった表情をした。とても嬉しそうに、そして懐かしそうに笑ったのだ。
「ヒナはね、よく思い出すのよ。コリンヌの手。ヒナの、前のマスターの……。
 ジュンもトモエもノリも、おっきくてあったかい手でヒナを抱き締めたり撫でたりしてくれるの。でも、コリンヌの手は細くて、とっても柔らかくてすべすべしてたのよ。その手で、そおっとドールを持つの……」
 雛苺は最近持ち歩くようになった、彼女には大きめに見える肩掛けポーチを開け、ジュンが手を入れて彼女に似せた小さな人形を取りだした。
「──こんな風に、宝物みたいに」
 まるで壊れ物を扱うような手付きで、ゆっくりと雛苺は人形の足を曲げ、自分の脇に座らせた。
「コリンヌは沢山お人形を持っていたわ。でも、どのお人形もみんなそうやって大事に扱っていたの。ヒナはあんまり持つのが上手じゃなかったから、棚から床に落として瀬戸物のお顔や手足を壊してしまったりしたわ。そうすると、コリンヌはとっても哀しそうな顔をするの。
 しまいにはコリンヌはヒナと遊ぶときはセルロイドの小さなお人形しか使わなくなっちゃったの。でも、小さなお人形にはおうちのセットがあったから、小さなお人形を使うのも楽しかった」
 ドールハウスのことね、と水銀燈は頷いた。屋根裏部屋で沢山の人形に囲まれた幼い少女二人。何やら微笑ましい光景のような気もする。
「みんなの手も大好きなのよ。でも、コリンヌの手も思い出すの。ひとりでに思い出してしまうの。手も、声も、表情も、胸に抱いてくれたときの心臓の音も……」
 そこで、雛苺は少し照れたような、それでいて寂しげな、曖昧な微笑を浮かべた。
「ヒナはコリンヌのことを憶えているから、お別れを忘れることができなかったから、トモエと出会ったときもトモエにコリンヌの代わりを押し付けてしまったの。一緒に遊んで、一緒に居て、もう独りにしないで、って……。
 優しいトモエは、指輪に引き込まれそうになってもヒナを大事にしてくれたし、今もヒナのことを可愛がってくれる。大好きなのよ。
 でも、ヒナはコリンヌも忘れることができないの。そういうダメな子だから、きっとアリスになれなかったのね」
 雛苺は微笑を浮かべたまま、その視線を床に落とした。
 泣いてはいない。うつろでもない。それは、敢えて言えば限界に到達したことを知ってしまったり、もう自分ではどう変えようもない事柄があることを悟ってしまった表情だった。
 真紅は、何か耐えられないものに突き動かされるようにして椅子を飛び降り、雛苺の座っている椅子によじ登った。
「優しい雛苺」
 雛苺の頬に手を触れる。何か励ますような言葉を言ってやろうとしたとき、雛苺は視線を上げ、逆に真紅に微笑んだ。真紅は口をつぐみ、恐らく言おうとしていた言葉とは別のことを口にした。
「私達みんなでアリスゲームを終わらせる。その約束を破るつもりはなくてよ」
 水銀燈は金髪の姉妹が向き合う様を眺め、なるほど、と思う。

 真紅の意図が通り、彼女がゲームを制することがあれば、誰もアリスにはならない。真紅本人も、アリスを作るための一人にしか過ぎなくなる。そのことがもし誰かの救いになるとしたら、それは既にアリスになることを否定されている雛苺なのかもしれなかった。
 ただ、そういう形にはならないだろう、と水銀燈は醒めた思いが心の底に蠢くのを感じてもいる。恐らく真紅がゲームを制すれば、彼女が拒否しようとしまいと、彼女を基にしてアリスは作られる。
 もっとも、どちらであろうと大して変わりはないとも言える。そうなってしまえば全ては終わっているのだ。
 殆どの人間が百年後の世界を見ることができないように、アリスゲームが正常に終わってしまえば彼女達もその後を知覚することはないだろう。
 アリスゲームを彼女達の生とするなら、その終わりは全員の死を意味する。彼女達のローザミスティカは、そのボディが残っていようといまいと一つに還元され、アリスの生命となるのだから。
 もちろん、何処かに各々の魂は残り、何処か遠くへと当てのない永遠の旅に出て行くのかもしれない。その意味では、アリスゲームの終わりは新しい始まりでもある。だが、それは現実世界とは繋がりを持たない、観念の世界に過ぎない。
 現実から見れば彼女達は停止し、物言わぬ人形となる。水銀燈の想定している通りならばそこに魂が残っているかどうかも怪しい。人間的な判断基準で考えれば、それは死んだと言ってしまって構わないだろう。

「真紅、ヒナはね、こんな風に思ってるの」
 雛苺は微笑んだまま、真紅の手に手を重ねる。
「多分、お父様はヒナを作られるときに、ちょっとだけ背伸びをしちゃったのよ。水銀燈から真紅までのみんなは、とっても強くてお利巧さんに作られてたの。でも、それでもアリスにはなれなかった。だから、お父様はヒナで、ちょっとだけ背伸びをして、後ろ向きなダメな子を作っちゃったの。アリスにはちょっとダメな子のほうがいいんじゃないか、ってつい思っちゃったのよ。
 だから、だからね、水銀燈が言ってること、ヒナは分かるのよ。みんな凛々しくて、前のことなんか振り返らないように、ってお父様が願いを込めて作ったのよ」

 残念だがそれはニュアンスが違うだろう、と水銀燈は目を伏せた。
 雛苺に後ろを振り向かない制約が課せられていないのは、恐らく彼女が精神的に大きく成長するように考えられて製作されたからだ。経験を積み、成長していくためには、過去を振っ切る強さを自分で獲得しなければならない。ただ、それもやはり彼女達の父親が考えるアリスではなかった。
 その意味では、まだまだ雛苺は成長の途上にあるのかもしれない。だが、彼女は既にゲームに負けてしまい、その将来はなくなった。
 成長段階を省略して完成された姉妹達の中に一人だけ成長前の存在を放り込んだのだから、雛苺が敗北するのは当たり前といえば当たり前だった。むしろ、この時代まで脱落せずに過してきた方に、何等かの操作があったと見るべきなのだろう。
 単独でアリスを製作することを諦め、ゲームによって作り出すべく方向転換を行った時点で、雛苺に後付けで過去を振り返らない操作を施さなかったのは、アリスゲームにおいて彼女は最初から負けるべく配置されていたからだ、とも言えるかもしれない。確かに成長に全てを賭けたドールという投機的で異質な存在の雛苺は、その路線を信じて最終的にアリスになるようにゲームを調整するか、最初に脱落させて誰かの補強材料に使うのが妥当な「用途」というものなのだろう。
 そして、彼女の敗北した相手が真紅というのもまた既定の路線と見て間違いない。最後の最後に来て本格的なぶつかり合いが起きたときに、真紅単独では最後まで生き残るには脆弱なのだから。
 事実、真紅は雛苺がいなければ、もっとあからさまな介入がなければ水銀燈に敗北していたはずだ。

 視線を上げて雛苺の椅子を見遣ると、真紅はそこから降りて、律儀に元の椅子に戻っていた。
「雛苺」
 水銀燈は少しばかり迷ったが、言っておくことにした。どうせ、いずれは言わなければならないことの一つなのだ。
「後ろを振り返っているのは貴女だけじゃない。私も似たようなものよ。特に、最初が酷かったわね。
 それからは、後から過去に縛られるのが厭で契約を結ばず、媒介としただけで過した時代の方が多かった。それでも、そんな媒介達のことでもふっと思い出すことはあるわ。懐かしいことばかりじゃなくて、思いだしたくもないのについ思いだす厭な思い出も腐るほどあるけどね」
 それでも、それなりに納得の行く別れ方はしてきたように思う。最初に躓いたこと以外は。
「案外、私の失敗を見て、お父様はその後のドール達には強くあれと願ったのかもしれないわね」
 どうにか中間地点に軟着陸させられただろうか、と水銀燈は真紅を眺めた。こういう話術は不得手もいいところだ。結果は保証の限りではない。
 真紅は何か納得していないような顔をしていたが、彼女が何か言う前に、水銀燈に対する反論が別のところから発せられた。
「でも、それじゃ説明がつかないです。チビ苺はどうして前のマスターのことをこんなに思い出してしまうですか」
 どういうわけか、翠星石は泣きそうな顔をしていた。
「翠星石は、いつでもマスターより蒼星石のほうが大事でした。今は別々のマスターになっちゃいましたけど、いつもいつも蒼星石と一緒だったことを思い出すんです。
 でもマスターのことは、思い出そうとしない限り浮かんでこないですよ……。
 強くあれ、前むいて歩けって願われて作られたんなら、翠星石はぶっ壊れてます。だって蒼星石と一緒だったことも、蒼星石が笑ってくれたことも、怒らせてしまったことも、悲しませてしまったことも、ほんとにしょっちゅう思い出してるんですよ。
 翠星石はいつも後ろ向きなんです。昔と、今のことが大事なんです。
 でも──前のマスターのそういうことは、思い出そうとしないと、思い出さないんです。変ですよ。だって、翠星石は蒼星石が大好きですけど、一番心が近いのは契約したマスターのはずなんですから」
 おかしくないですか、と翠星石は水銀燈を半ば睨むような強い視線で見詰めた。
「それは貴女が常に何よりもまず蒼星石を見ていたからじゃないの? より強い執着対象のことばかりよく覚えていたって別段不思議はないわよ」
 言いながら、大分白々しい言い草だと思う。
「それに貴女達は双子。記憶も一部分共有しているのかもしれない。現に夢の世界は共有しているでしょうに。そんな貴女達なら、後ろを振り返るというよりはお互いの記憶がフラッシュバックすることもありえるんじゃなくて?」
「そ、それは屁理屈ってやつで──」
「──水銀燈」
 真紅が静かに口を開いた。
「翠星石も、もういいわ。二人ともありがとう」
 もう震えていない、しっかりした口調だった。
「私達は人形。強く性格付けされている。それを呪わしく思おうと当然だと受け容れようと、結果は変わらないのね」
 そうなのでしょう、と真紅は水銀燈を見た。思考を連ねた末に全て理解したような、いつもの顔に戻っていた。水銀燈と翠星石の遣り取りの間に、気持ちを整理できたということなのかもしれない。
「アリスゲームのためのからくりだとしても、至高の少女として作られた故の性格付けであったとしても、それを拒むことはできない」
 また後戻りか、と水銀燈は僅かに警戒した。否定的な言葉を連ねているのは、下向きの螺旋に囚われているようにも見えた。
 だが、それは杞憂のようだった。
「出来ることを、出来る範囲で変えて行くしかないのね。私達は。その積み重ねが何処かで実を結び、新たな選択肢を提示してくれるよう願って」
 結局真紅は自分の路線を再確認したのか、と水銀燈は頷いた。それは自分の性格付けを認識したことで随分希望の小さなものになってしまったかもしれないが、それでも未来を見ているのは変わりがない。

──やはり、真紅はアリスたるべく条件付けされているのね。

 全ての果てに絶望と虚無しか見えていない自分と比べて、彼女の描く未来像には救いがある。それが、毒の蒸気で周囲を照らす物の名前を冠され、闇を示すドレスに反逆者を示す印を標された自分と、人間にとって生命の色である名前を冠された彼女の、最も大きな違いなのかもしれない。
「話したかったのは、それだけ?」
 水銀燈は仕事机の丸椅子の上で大きく伸びをしてみせた。実際、今日は昼過ぎ起床という彼女にしてはひどく「早起き」をしたせいで若干眠くなりかけていた。
「いいえ、もう一つあるわ」
 真紅は少しばかり申し訳なさそうに首を振り、水銀燈をじっと見詰めた。
「貴女が目指していることを知りたいの」
 珍しく直球で真紅は水銀燈に切り込んできた。
「貴女は……何を、壊そうとしているの」


「二号、お疲れ様」
 マンションの一室に鎮座している大きな鏡を抜けて来た小さな人形を、金糸雀は両手で受け止め、僅かに力を補充してやった。小さな人形は金糸雀の与えた力を使いきり、まさに止まりかける寸前までnのフィールドに留まっていたのだ。
「メイメイの行方は知れたかしら」
 人形はこくこくと頷いてみせた。口は動かないし本物の人工精霊ほど高い知性を持っているわけでもないが、金糸雀に簡単な内容を伝えることはできる。日頃の猛訓練の賜物だった。
 金糸雀がピチカートと小さな人形に追えと命じたのは、黒衣の人形ではなくメイメイの方だった。人形だけを伝令に遣してピチカートはまだメイメイを追い続けているのだろう。
「ふーん、やっぱりそうなのね……」
 みつの大量のコレクションの手入れを手伝っているお陰で、もはやほとんど習い性になっているとでも言うべきか、ごく自然に人形の服の乱れを直したり髪を整えたりしながら金糸雀はふんふんと頷いてみせた。
「あの剣……大分デンジャラスな感じの代物だったけど、持ち主に返しちゃったのね」
 自分のことを殺してくれと言わんばかりじゃない、と金糸雀は呆れた。
「危険物を自分で持ってるよりは安全だと思ったのかしら。どっちにしても水銀燈らしくない弱気ね」
 これから恐らくアリスゲームも大詰めに入って来るのだろうに、使えそうな物を手許に置いておかないというのは不思議といえば不思議、弱気の現われと言えばそうとも言えそうだった。
「ゲームを諦めたわけでもなさそうなのに、……よくわかんない心理かしら」
 金糸雀は一つ息をついて、人形を人形棚の端に座らせた。なるべく視線は横に動かさないようにする。青色LEDに斜め下から照らし出されている大小さまざまなドールの姿は、怪奇物が苦手な真紅でなくとも目が冴えて眠れなくなる程度には不気味なのだった。


「ただいまー……」
 声を掛けてみたものの、部屋の中には気配はない。
「まだ帰って来てないみたいだな」
 少年は玄関先の蛍光灯を点けながら、後ろに続く小さな影に、どうする? と振り返った。
「マスターに許可を貰ったから……迷惑でなかったら、待たせて貰っても良いかな」
 蒼星石はいつもの服装に着替えているものの、硬いままの表情で少年を見上げる。少年はいいよと笑って、手に持った蒼星石の鞄を下駄箱の上に置いた。
 少年もご相伴に預かった夕食の後、どうしても水銀燈に確認したいことがあるから、と蒼星石は結菱老人に頼み込んで少年と一緒に彼の家に行く了解を取り付けた。老人は意外そうな顔をしたが、微笑を浮かべて頷いた。
「お前が私に頼みごとをするのは初めてだ。よほど大切なことなのだね」
 その事実に気が付いた蒼星石がびくりとして顔を上げると、老人は若干照れくさそうな顔をしながら彼女の頬を手で触れた。
「行ってきなさい、後は私一人で問題はない。少し時間を潰して、眠るだけだ」
 そして少年を何か言いたそうな目で見詰め、少年が訝しげな顔をすると、苦笑して自分から視線を逸らした。
「蒼星石をお願いする」
 少年はその言葉の大仰さに違和感を持つこともなく、真面目な顔になってはいと大きく頷いた。蒼星石も──普段なら言葉の裏まで読んでしまったかもしれないが──許可が下りたという安堵だけを感じて、ありがとうございますと頭を下げた。
 そんな大袈裟な遣り取りまでして来たのに、まだ水銀燈は帰っていない。いささか拍子抜けするような展開だった。
 取り敢えず洗濯物を洗濯機に放り込んで、少年はコーヒーとお茶菓子の用意をすることにした。小さな台所から窺うと、蒼星石は椅子に座ったまま、何かをじっと考えながら小さなテーブルの上に視線を落としていた。


「貴女が壊したい予定調和というものが、私が守りたいものの一つだとしたら」
 真紅は言い辛そうに続ける。
「私は貴女と戦わなければならないかもしれない」
「貴女が考えを変えない限りは、そうなるわね」
 水銀燈はにやりとしてみせた。
「そうなれば少し不利だけど、負けてあげるつもりはないわよ」
「私も、戦うことになれば負けるつもりはないわ」
 そう言いながら辛そうにしてしまうところが真紅の気持ちをよく表していた。本来戦いたくないのだ、と言わなくても表情でそれと知れてしまう。
「でも、貴女の壊したいものが私の戦わなければならないものと同じだとしたら、私達はこれまでのように協力できる。そうでしょう、水銀燈」
 だから教えて欲しい、と真紅は視線を逸らさずに言いきった。
「いいでしょう。ただ、その前に」
 水銀燈は振り返り、奥のドアの方に声を掛ける。
「居るのなら出てきてくれないかしら。盗み聞きと監視は貴方の得意技だけど、たまには真紅とマエストロ以外にも姿を見せても撥は当らないわよ、ラプラス」
 ドアはあまりよく手入れされていない蝶番特有の軋み音を立てて開き、兎の剥製の顔を持った紳士は長身を屈めるようにして部屋に姿を現した。
「これはこれは、このような一大転機となるやも知れぬ会合の場にご招待に与り光栄ですな」
 紳士はシルクハットを取り、慇懃に一礼した。
「合従連衡は戦の常。孤独な戦いは美しいとは言え、それだけでは中々に勝ち進めぬもの。孤高の誇りを捨てても逸早く他に先んじてそれを為そうというわけですかな、黒薔薇の御嬢様。おっと、紅薔薇の御嬢様も同じことをお考えでしたか」
「相変わらず口の減らない兎ね」
 やや憮然とした顔で真紅は文句を付ける。水銀燈は肩を竦めた。
「仕方がないでしょう。大事を為すには多少の我慢は必要というものよ」
「そこにお気付きになるとは、いやはや流石に御目が高い」
「お褒め頂き汗顔の至りですわ」
 水銀燈はわざとらしく笑い、仕事机の椅子から作業台の上──あの作りかけの人形が置かれていた場所に飛び乗った。
「私の席で良かったら座って頂戴、貴方にはお似合いの場所かもしれないわよ」
「おお、これは勿体無いお言葉。では、老兎は有難く座らせていただくことと致しましょう」
 紳士はゆっくりとその椅子に腰を下ろした。長身の彼がそこに座ると、服装こそ場違いなものの、まるでこれから人形作りに取り掛かるような姿にも見える。
「流石、昔取った杵柄というやつかしらね。中々堂に入ってるわよ」
「はてさて、何を仰いますやら」
 紳士は全く意味が分からないと言いたげな素振りをしてみせた。
「ささ、これ以上うすのろ兎にお構いなく。本題を御続けくださいませ、御嬢様方」


 雪華綺晶は、見ていた。
 彼女の最も大きな力は、nのフィールドに居ながらにして姉妹やそれに関わる契約者達を即座に探し当て、監視できる能力なのかもしれない。同時に複数の相手を追跡することもできたし、よほど相手が警戒していない限り勘付かれることも殆どない。
 ただ、今まではその能力を十全に活用できたことはなかった。新たな素養を持つ者を探索し、選定する力は、人工精霊を持たない彼女には備わっていなかったからだ。
 一度でも姉妹達と契約を交わした者か精々その縁者でもなければ、彼女はシュプールを追うことができない。糧としてはどこまでもお下がりを受け容れるしかなく、糧を確保するためには現状を打破することも侭ならなかった。
 それを一挙に解決できそうな事件も起きるには起きていた。現実時間でつい二ヶ月ほど前、水銀燈の契約者が自分で自分の心の木を伐り倒したときだ。
 それは彼女が待ちに待っていた始動のときでもあった。しかし、彼女は無惨にも失敗してしまった。
 雪華綺晶は待つのには慣れている。孤独に心が歪みかけ、糧の夢を操るのにうんざりしていても、待つこと自体は苦にならなかった。
 ただ、襲い掛かるのはやはり得手ではなかったのかもしれない。初めてということで冒険を避け、手慣れている糧を捕獲する方法を拡大したやり方を使ってさえ、完全に失敗してしまった。獲物には全て逃げられ、自分の存在も暴露し、手許には敗北感しか残らなかった。
 彼女は姉妹達のように鞄で寝ていない。この百数十年間はずっと一続きの時間だった。それだけに、待ちに待った初手での躓きは大きかった。彼女は萎縮し、暫くは何も行動を起こす気力さえ湧いて来なかった。
 若干彼女に有利なのは、自分から行動を起こさない限りは他の姉妹に存在を掴ませず、安全圏に逼塞していられることだろう。彼女は白茨を引き寄せ、水晶の檻の中で自分の心が癒えるのを待った。
 孤独な待機の中で、彼女の思いは少しずつ変わっていった。少しずつというのは語弊があるかもしれない。彼女にとって二ヶ月間というのは、今までの孤独な時間と比べればほんの短い間に過ぎない。
 その短い時間の中で、彼女は今までにない感情を育てていた。

──逢いたい。

 自分が初めて捕獲できなかった相手。そして、自分が知り得る範囲の探索の結果とその後の水銀燈の振る舞いなどから見て、もう現実世界の何処にも存在しない人。
 最初は恐怖と、おぞましさのようなものだけがあった。根本的に異質で強大な力の片鱗を見せ付けられたのだから、当たり前だった。
 しかし彼は、nのフィールドにしか存在できない亡霊のような雪華綺晶を、自分と自分の契約した相手を取り込もうとした彼女を、倒そうとはしなかった。

  ──ここは痛み分けってことで、大人しく引いてくれないか。あんたを傷つけるのは本意じゃない。

 雪華綺晶は自分が誰にでも受け容れられる存在だとは思っていない。姉妹達のような体も持たず、糧の種類から存在のありようまで全てが異質。そこは長い時間の間によく把握している。
 それでも、彼はそんな彼女を、敵対したにも関わらず赦した。一つ何かが噛み違えば、自分は糧にされ、水銀燈はボディを奪われて永遠に何処か遠くを彷徨することになっていたかもしれないのに。
 考えてみれば、彼女を彼女と認識して声を掛けた人間は、彼が最初でもあったのだ。彼女を作り上げた主と、ゲームの検分役である兎頭の紳士を除けば。

──逢いたい。好意なんてなくてもいい、憎まれても、忘れられていても構わない。もう一度だけ、言葉を交わしたい。

 できることなら、今度はもう少し友好的な形で。
 だが、彼女の追跡能力でも、彼の痕跡はもう掴めなかった。水銀燈の媒介は今も確かに存在しているが、中身はまるで別人だった。その中にはもう雪華綺晶の逢いたい彼は確認できないのだ。
 彼に逢う方法は、今の自分では到底見つかりそうにない。
 見つけられるとしたら、それは──

 思索はそこで打ち切られた。
「……なんということ」
 雪華綺晶は呆然として呟く。思索に囚われて見失ってしまったのか、いきなり姉妹のうち四人が集まっている世界が見えなくなってしまっていた。
 思いはたちまち甘酸っぱい何かから現実に引き戻される。監視を気付かれたのか、と考えてみるが、もしそうであっても、世界を移動するなりしなければ彼女の目から逃れることはできないはずだ。
 その場に居ながら彼女の目を晦ます、そんな芸当ができるのはただ一人しかいない。少なくとも彼女の知る限りでは。
「でも、貴方は何故こんなことをなさるの? これは貴方の権限から逸脱しているのではありませんか……」
 呟きながら、彼女はその意味について忙しく考えを巡らし始める。無論、他の場所を監視するのはその間も怠っていない。彼のことは既に頭の隅に追い遣っていた。
 雪華綺晶は見続けている。機を窺いつづけている。だが、彼女は一つ二つ大きな見落としをしていた。


 部屋に入ってくる際にラプラスの魔が何かをしたのは水銀燈にも分かっていた。むしろ彼がこの世界に顔を出した目的はそこにあって、部屋に入るかどうかはどちらでも良かったのだろう、とも思っていた。
 ただ、彼女としては、偶にはラプラスの魔の前で喋っても良かろうという思いもあった。
 顔を合わせるのを拒否したところで、彼はどうせその気になれば全てを見聞きできる立場なのだ。ならば、この時代で一度くらいは堂々と彼の前で自説を開陳してやろう、と彼女は考えていた。
「私に情報をくれた媒介も、今後の成り行きを全て把握していたわけじゃない。むしろ今の時点になってしまえば、あいつが知っていたことで役に立ちそうなことは精々、雪華綺晶の最初の暗躍の顛末くらいなもの。その話はしたわね」
 三人は頷いた。それはあの人形と接触した日、彼女の契約者の夢の中で聞いていた。
「チビチビが危ないって話だから、翠星石も真紅もチビチビを独りにしなかったですよ。やばそうなときはジュンや泣きぼくろ女に頼んだりもしたです」
 実際のところは束縛を我慢できずに雛苺が脱走して巴に抱かれて戻って来たこともあった。食事の手伝いを一緒にしてみたものの雛苺がどうしても遊び半分のままで、怒った翠星石が雛苺を部屋の外につまみ出したりもした。
 しかし、ジュンやのりも加えた桜田家の一同が、それまでよりずっと雛苺のことを気に掛けているのは事実だった。
「陰険おじじのところにも、たまには顔出ししてやってるんですよ。もっともおじじには蒼星石がずっと張り付いてますけどね」
 蒼星石もあんなおじじに尽くしてるなんて可哀想です、と翠星石は少し不満そうに口を尖らせた。
 そうだろうか、と水銀燈はふと考える。蒼星石に居場所を与え続けているのは結菱老人の方ではないのか。
 融通が利かず、どちらかと言えば付き合いにくい蒼星石を、老人はそれなりに自然に手許に置いてやっているように見える。自分の我侭で命じたことは通らず、蒼星石が壊そうとして結局壊すことができなかった心の影は恐らく今でも度々彼を悩ましている筈なのに、そういった過去を責めることもなく静かに蒼星石と暮らしている。
 彼女がいることは老人の精神の安定にも役立ってはいるのだろうが、彼をマスターと呼んで諸々の事柄を託している蒼星石こそ、彼が契約を解除せずに以前のままを維持してくれたお陰で安定を得ているのだ。
「……で、それがどうしたって言うですか」
 翠星石はラプラスの魔が居ることで少し緊張気味なのかもしれない。先程までは黙っていたのに、少し口数が多くなってしまっている。
 せっかちねえ、と水銀燈は笑ってみせた。
「だから、ここからは私の推測ということ。当たり外れや足りないところは当然あるから、よく考えて聞いて」
 三人は頷いた。どういうわけか兎頭の紳士も茶々を入れず、帽子を机に置いたまま、兎そのものの目で水銀燈を凝視している。
 水銀燈は小さく息を吸い込み、目を閉じた。たかが自分個人の意見ではあるし、以前から仄めかしてもいる。姉妹達の反応は今までのように薄いだろう。それでもその一言を言うには多少の気構えを必要とした。

「アリスゲームは、最後の形が確定している。勝利するべき姉妹も、最後の組み合わせも確定している。一種の出来レースなのよ」


 結菱老人は就寝前のワインを飲み終わり、若干苦労して車椅子からベッドに体を移した。いつもは蒼星石が子供ほどの力で、介助と言うには足りないまでも手伝ってくれていることを強く意識する。
 時間を潰して寝る、と言ってはみたものの、実のところ寝るまでにすることも特になかった。改めて思えば最近は蒼星石がそこにいて生真面目な顔で何かをしているのを見守っているのが楽しくて、彼女が鞄に入る午後九時まで起きていたようなものだった。
 思い詰めているような蒼星石の顔と、それとはほとんど正反対に近い、楽天的で何かといえばチェシャ猫のようににやにや笑っている少年の顔が目に浮かんだ。
 彼が加わり、蒼星石の双子の姉が時折そこに花を添えれば、随分賑やかな暮らしになるのだろうな、と考える。それは実現不可能な遠い幻想ではなく、老人にとってはささやかだが現実的な未来像の一つだった。今でも、毎週末にはほとんど実現してもいるのだ。
 少年は気付いていないようだが、蒼星石は確実に彼に好感を抱いている。老人としては自分の契約した人形が勝手に他人に恋をしたような形だが、不思議と怒りや嫉妬を感じることはなかった。少なくとも双子の弟に最愛の人を取られたと感じたときのような心の動きはない。
 それは、蒼星石の心が自分と深く繋がっているからという安心感から来ている安易な感情かもしれない。だが、少なくとも表面的には、老人は自分の死後に少年に彼女を託すことも考え始めていたし、蒼星石が少年を選びたいのなら契約を解くことも考えのうちに入っている。
 そうだ、まだ寝るには早い。あまり品が良いとは言えないが、時間潰しには悪くないことがあるではないか。

 老人がまた少し苦労しながら車椅子に戻り、LEDライトを持って屋敷の廊下をゆっくりと移動し始めた頃、彼の寝室の鏡からは、細い白茨が助けを求めるように弱々しく伸び始めていた。
 蒼星石か老人が部屋に居れば異常に気付いたかもしれない。だが、それは暫くすると諦めたようにするりと鏡の中に戻ってしまい、後には何の痕跡も残しては行かなかった。


「遅いな、水銀燈」
 ちびちびと口を付けていたコーヒーは二人ともとうに飲み干してしまい、暇潰しに点けたテレビからは午後九時代のドラマが流れ始めていたが、水銀燈はまだ帰宅しなかった。
 もっとも、彼女がこの時間帯に留守なのは珍しいことではない。むしろ寝ているとき以外は必ずと言っていいほど何処かに出掛けていた。
 それが何処なのかは少年は知らない。だが遊びに出ているのでないことは、少々雨が降っても風が吹き荒れていても外出していることから流石に分かっていた。
 一度などは何処でぶつけたのか翼を折って帰ってきたことさえあった。彼女はよろめきながら窓際に帰り着くと物も言わずにいきなり彼から力を奪い取り、へなへなと座り込む彼の前でゆっくりと翼を広げ、体力だけはあるのねぇと少し感心した風に苦笑してみせた。
 折れたと見えたのが見間違いだったのか、それとも彼の与えた力が治癒によほど役立ったのか、翼はそれだけで治ってしまったようだった。翌日こそまだ痛みが残っているのか外出は控えていたが、その次の日からはまた出て行くようになっている。
 そのときばかりは、こんなことが何度か続くようなら水銀燈の出向いている場所やら目的を教えて貰わなければ、と流石の彼も気を揉んだ。だが幸いと言うべきか、彼女が目に見えるような怪我をして帰って来たことはその一度だけで、それからも特に変わった風もなく過ごしてきてはいる。
「でもさ」
 これといった話題もなくなって、そんな日常のあらましを蒼星石に語って聞かせた少年は、先程と同じ言葉を口にした。
「確かに今の俺はなんにも言えないし、なんにもしてやれないけど」
 それだけで良かったのかな、と少年は蒼星石をじっと見詰めた。
「俺は……多分みっちゃんさんもそうだけど、まず自分の生活があって、そんで、水銀燈が居るんだよ。でもさぁ」
「……うん」
 蒼星石には彼の言いたいことが分かるような気がした。水銀燈は、記憶を失ってからの彼には多くの時間と力を割いている。
 それは見方を変えれば要らないお節介でもあろうし、水銀燈からすれば自分自身の思惑のためにしている行動でもある。しかし、結果として彼の欠けた記憶と足りない心を水銀燈が「手で」補ってくれていることは事実なのだ。
 彼とすれば、そこに退け目を感じると言うほどではないにしても、お返しをしてやりたいという気持ちは当然生まれるだろう。
「せめて桜田や結菱さんみたく、一日中ずうっと傍に居てあげられたらいいんだろうなぁ」
 あんな風に真剣にいろいろ悩んだり、みんなに頼られるようには成れそうもないけどさ、と少年は頭を掻く。
「……確かに」
 くすり、と蒼星石は笑ってしまう。雛苺と二人で真紅や水銀燈のお説教を受けている彼をつい想像してしまったからだ。
 周囲に何人もの薔薇乙女が群れて、それを彼が上手いことあしらっている様は想像できなかった。むしろ真紅や翠星石にはずっと頭が上がらず、怒られ通しになってしまいそうだ。
 実のところはジュンも日常ではしょっちゅう真紅や翠星石に叱られたり怒鳴られたりしているのだが、そこまでは蒼星石は知らない。彼女の認識では、ジュンは雛苺と翠星石のマスターで真紅のパートナーであり、恐らく翠星石の好意が向いている相手でもあった。
「さっきも少し話したけど、契約というのはそこまで一方的なものじゃない。水銀燈だって、付かず離れずの距離に貴方が居るからこそ実行できている事柄も多いはずだ」

 蒼星石はふと、彼の記憶の中にあった世界での水銀燈の契約者のことを思った。
 柿崎めぐと言ったか、水銀燈は文字通りあの少女のために戦っていた。蒼星石の断片的な知識では、まるで柿崎めぐが水銀燈の全てだったようにさえ思える。
 もちろん境遇の類似や、めぐの心が水銀燈自身の心の琴線に触れたということもあるだろう。二人はとても似通っていた。
 だが、あまりに似過ぎていた契約者は水銀燈の心を虜にし、彼女は病弱で消えてしまいそうなめぐのために戦ううちに余裕を失って行き、しまいには雪華綺晶にその点をつけこまれてしまった。

 それに比べたら、現実の水銀燈は彼というしっかりとした基盤を持って行動できている。知識を受け取ったことは置いておくとしても、今の彼であっても少なくとも帰る場所と安定した力の供給源にはなっている。
 それは、まるで空気のように見えないけれども、空気のように大切なものだった。水銀燈が一貫して大きな余裕を持ったまま行動できているのは、紛れもなく、柿崎めぐでなく彼と契約したからだ。
 最終的に水銀燈にとってどちらのような契約者が良いのかは分からない。病弱で不幸な契約者のために全力を尽くすというのも、至高の少女として成り立つための条件の一つなのかもしれない。ただ、今のような大胆な行動は、少なくとも彼の存在が確立してあってこそ可能なことだった。
「水銀燈も分かっているはずだ。貴方と契約したからこそ、今の環境があるということが」
 そして、巡り巡って自分が今ここに居るのも、元を辿れば水銀燈の契約者が少年だったからでもある。
「今のままでも、貴方は充分に水銀燈のマスターとして成り立っている。自信を持って」
 蒼星石はうっすらと微笑んでみせた。


「出来レース……とは、いささか通俗的かつ野卑な表現ですな」
 兎頭の紳士は小首を傾げてみせた。
「仮に勝敗が決まったゲームだとしても、少なくとも其処に参加する貴女方御嬢様達はゲームの先行きを御存知ない。所謂八百長の加担者達とはその点が全く異なりますな」
 彼等は分かった上でゲームに細工をするわけですから、と紳士は慇懃な態度を崩さずに言う。水銀燈はそれを予期していたと言いたげににやりと笑った。
「いいえ。私達は所詮プレイヤーではない。プレイヤーに好きなように動かされる駒に過ぎないのよ。動きはサイコロの出目で決められてしまうし、僅かばかり座りが悪くて、ときどきはみ出したり盤から零れ落ちそうになったりするけどね」
 そして、私達を動かしているプレイヤーは、と水銀燈は部屋の天井を見上げる。
「たった一人。お父様だけ。彼の指先だけで私達はあっちへ動かされたり、こっちに飛ばされたり。そして、最後まで手順は決まっているのよ。
 出来レースと言って語弊があるなら、一人遊びのゲームと言ったところね。ただ、中途でそれぞれの駒の動きをサイコロに委ねているだけの」
 紳士はなるほどと顎に手を遣り、それ以上の追求をせずに水銀燈の言葉を待つ態勢に戻った。
「散々サイコロを振り続けて、それぞれの駒の取った得点がある程度以上貯まったら、プレイヤーはゲームを次の局面に移す。駒同士を上手く組み合わせて戦わせ、ある駒に他の全ての駒の得点を集める。そして、得点が最終的にある基準を超えたら、アリスが誕生するかどうかサイコロを振って、誕生すればゲームはプレイヤーの勝利になる」
「もし、誕生しなかったら……?」
「ゲーム自体が失敗だったことになるわね。目的を達成できなかったのだから。お父様はまた別の方法を考え始めるのでしょうよ。多分、今度は二度も失敗した私達のような質の悪い駒に頼らない方法をね」
 真紅は頷いたのか俯いたのか微妙な角度に顔を下げた。質の良くない駒、というのは耳が痛いが、反論しようのない事実だった。
 彼女達は皆、一度はアリスとなることに失敗しているのだ。作られたときにアリスたれと望まれ、生まれ出てすぐに失望させたのだから。
 造物主たる人形師が薔薇乙女をゲームに臨ませたのは、言わば廃物利用のようなものだった。個々の資質ではアリスたり得ないと分かっているモノを、掛け合わせるか競わせることで何かの資質が生まれるのではないかと考えたのだから。
「話を戻すわ」
 ぱんぱんと水銀燈は手を叩いた。真紅ははっと顔を上げる。手を叩いたときの水銀燈が誰に似ていたか、漸く思い出したのだ。
 それは、恐らく偶然の一致だろうが、ラプラスの魔の仕草にそっくりだった。

「勝ち残る姉妹は、最も思慮深く、最も慈愛に満ち、最も高潔で、そして姉妹から最も慕われていなければならない。つまり、真紅。貴女がそれよ」

 聴衆に驚きの反応は見受けられなかった。そうだろう、と水銀燈も予期していた。
 これまでアリスゲームを主導してきたのは、悪役であり敵役でもある自分だった。だが、最も自分に狙われ、敗北も経験し、唯一他の姉妹を従え、常に受け身ではあるがアリスゲームについて最も思索を巡らしている真紅は主役に相応しい。
 更に彼女はマエストロたる桜田ジュンと最初に契約してもいる。現状ではそれがどう今後のゲームに反映されるのかまでは分からないが、桜田ジュンと真紅の関係が特異なのは間違いのないところだった。
 少なくとも彼は一度、真紅の戻らないはずの腕を取り戻し、そして元通りに繋げている。天賦の才を持った者が偶々契約者としての繋がりを持ったわけでもなければ、真紅のことを熱烈に愛しているただの契約者というわけでもないのは明白だ。
 そうした数々の要素を備えた彼女以外に勝ち残る者が居るとしたら、それは常に真紅を襲撃する側である水銀燈しかいない。だが見えない手でゲームが制御されている以上、水銀燈がアリスになるという可能性は無いだろう。
 そのことに気付いたとき、水銀燈は自分が冷静にその考えを受け容れていることをやや意外に思った。本来、激昂してあまりにも理不尽だと叫び出し、あるいは何処か暗い場所に引き篭って膝を抱えて全てを呪っても良いような話だった。
 しかし彼女はどちらの行動も取らなかった。
 忍耐が感情を上回ったわけではなかった。ただ、一抹の寂しさと虚しさが吹き抜けていっただけだった。
 あるいはずっと以前から、彼女は知っていたのかもしれない。それこそ媒介の記憶を知識として得たり、そもそもこの時代で真紅と何度も戦ったりする前から、そんな気配があったようにも感じている。
 詰まるところ、それもゲームの進行者による制御の一環ということなのかもしれない。何をやってみようと、その行為までもが適当に処理されてしまうのかもしれない。
 だが、彼女はそれでも抗ってみたいという気持ちを抑えようとは思わなかった。それもまた、制御された結果の思考なのかもしれないけれども。

 今更のことに思いを馳せていた時間は、恐らく数秒にも満たなかっただろう。周りにはまた勿体ぶっていると見えただけかもしれない。水銀燈はふっと息をつき、気持ちを切り替えて言葉を継いだ。
「そして、それに対抗する者も決まっている。それは雪華綺晶」
 どういう経緯を辿ることになるかは未だ見えてこない。ただ、最後に残る駒──真紅の思惑通りに進めば真紅に従う姉妹達も残ってはいるのだろうが、それはもう真紅という駒の付属物に過ぎない──は、真紅と雪華綺晶でしか有り得ない。
「これも当然ね。雪華綺晶の力は私達の基準からすれば異様に強い。今は躓きのせいで消極的になっているようだけど。勝者の力量を試す最終的な障害、としては文句の付けようがない存在よ」
 一旦自分の手番になってしまえば雪華綺晶の能力は他の姉妹達のそれとは比較にならないほど強大で、姉妹を攻撃するのに都合が良い。だが以前金糸雀が指摘したように、いかに姉妹と戦うには有利であっても、彼女は自分の糧を得るために他人のお下がりを拝借するしかない立場でもある。
 そこに水銀燈が付け入った隙が存在しているわけだが、それが上手く行くかどうかは別として、本来最後の敵として設定されているのは雪華綺晶なのだろう。強大な力を持ちながら最後の最後まで行動を起こせないというのは、逆に見れば最後の敵として設定されているからだとも言える。
「最後は……どっちが勝つんですか」
 翠星石は真紅と水銀燈とを交互に見ながら、縋るような声音で尋ねた。彼女としては真紅が勝つと言い切って欲しいのだろうが、水銀燈はそこで優しい嘘をつく気はなかった。

「どちらが勝つかは、正直どちらでも良いのかもしれないわね。真紅が勝てば雪華綺晶の力を真紅が取り込み、雪華綺晶が勝てば真紅を捕食して……。
 ああ、他の姉妹がまだそこにいても、もちろん全員、全部をね。
 恐らく、どちらの場合も全部のローザミスティカが集まれば雪華綺晶の隠された能力が発揮されて、成功すればアリスが形成される。または、失敗して全てが無に帰す。
 どちらにしても長きに亙ったアリスゲームの終わり、予定調和というわけ」

 それでも、最後に勝利するのは真紅だろうという漠然とした予想が水銀燈にはあった。それは真紅が付き合いが長い、若しくは自分に近しい存在だから勝ち残って欲しいというような意味合いではない。
 彼女達を作り上げた造物主が、いかにも雪華綺晶を可愛がっていないように思えるからだ。そうでなければ、雪華綺晶だけを孤独な場所に独りで半ば放置するような仕打ちをする理由が分からない。
 尤もあの人形師は「勝手に動き出した」自分の第一ドールを畏れ、本来最も愛していたそれを最後の最後まで不完全な姿のまま戦わせていた。同じように、彼女達の造物主も表面上は雪華綺晶を冷遇していながら内心は最も愛しているのかもしれない。
 だが、今のところそれはどちらであっても無関係な話だ。
 水銀燈が気に入らないのは、造物主の内心の機微ではなく、その思惑がゲームとして表出している部分なのだから。

「だから、私はその構図をぶち壊してやりたいのよ」

 そんな重いはずの言葉を、水銀燈は軽く肩を竦めながら口にしてしまった。
 すぐに自分の仕草に気付いて苦笑する。意外に気楽に言い切れたことに自分自身途惑ってしまったのだ。

 暫くの間、誰も口を開かなかった。
 水銀燈には少し想像しにくいことだったが、このときの三人は黙ってそれぞれの思いに沈んでいた。表立って何の反応も返していなくとも内心では考えを纏めていることもあるのだ。
 沈黙を破ったのは翠星石だった。
「それは……」
 翠星石はまた泣きそうな表情になっていた。彼女の感受性が強いのは知っているが、何故泣く必要があるのだろう、と水銀燈は訝しく思う。全てが終わると告げられたからか。真紅の言う「みんなでアリスを生む」という結末を否定するような言い回しにならないように注意してみたのだが。
 言葉に詰まったようになりながら、翠星石は続く言葉を搾り出すように口にした。
「雪華綺晶と戦う前に、真紅を倒してやる、ってことですか……?」
 否定を引き出すための確認か、と水銀燈は軽く納得した。泣き出しそうな理由はまだ明確には分からないが、真紅が戦いに巻き込まれれば翠星石も無関係ではいられない、恐らくその辺りだろう。
 彼女はここ二月ばかりの平穏な日常を、多分どの姉妹よりも謳歌している。だが、それだけにアリスゲームというものから逃れられないことも了解してはいるのだろう。
 その日常が壊れるかもしれない。それは翠星石にしてみれば半ば恐怖に近い感覚かもしれなかった。
「それも考えたけど」
 水銀燈は真紅を見詰め、にやりと笑った。真紅は表情を引き締め、じっとこちらを見ている。
「もし仮に番狂わせが起きたとして、私が全員を手懐けるか屈服させたとしても、雪華綺晶が残っている限りは結果は同じになる。ただ、雪華綺晶と対決するのが真紅になるか私になるかの違いでしかない」
 単純に勝てそうもなかった、というのもあるけどね、と水銀燈は笑ってみせる。

 ただ、真紅から見ればそれは少しばかり見え透いたリップサービスだった。
 媒介から知識を得た時点で、水銀燈が真紅に勝つ方法は幾通りもあったはずだ。なんとなれば全てを見越していることをもっと大っぴらにアピールして真紅を心理的に降伏させ、それこそ真紅が雛苺にしたように従えてしまっても良かっただろう。
 先程は何かがあればローザミスティカを翠星石に渡すと表明してみせたが、今の水銀燈と直接戦って敗北すれば彼女のローザミスティカは素直に水銀燈の元に行くだろう。恐らく蒼星石や金糸雀もある程度納得して水銀燈の一部になるのではないか、と真紅は思う。
 実際、真紅は今現在でも心理的には水銀燈にほぼ負けてしまっている。アリスゲームの先行きに対する見通しの深さは兎も角として、その結末に対するドライな予測が真紅にはできなかった。どこかになけなしの希望を求めてしまっているのだ。
 永遠に近い、ドールとしての成長のない生に絶望しながら、恐らく目前に迫ったアリスを生むゲームのタイムリミットからは救われたいと何処かで思っている。そこが彼女の自覚していない二律背反なのかもしれない。

「じゃあ……水銀燈はゲームを止めちゃうの? 壊しちゃうの?」
 雛苺は何かに脅えているような声で呟くように言った。
「ゲームが止まらなければ、最後は全部同じになっちゃうんでしょう?」
 水銀燈は軽く首を横に振った。
「アリスゲームを完遂させる。アリスに成る。それは私の本能みたいなものよ。正面からそれに背くことはできない」
 たとえそれが不可能だと規定されていても、という言葉だけは水銀燈は口に出さなかった。少しばかりナルシスト過ぎる台詞のように思えたからだ。
「ただ、その過程を弄ってやる。最後の組み合わせが最初から決まってるゲームなんて、面白くないでしょう? プレイヤーさんの面白さのツボは知らないけど、駒であり、同時に一番ゲーム盤に近い観衆でもある私は出来レースなんて見ていて面白くないのよ。だから、そこを壊してやるの」
「その標的が、雪華綺晶……」
 真紅は少し眉を寄せる。複雑な気分だった。
「そういうことになるわね」
 水銀燈は口の端を吊り上げた。
「案外、私のこの行動も予め仕組まれている流れの一つかもしれないけどね」
 そこまで制御されてるならどう足掻きようもないわ、とにやりとする。紅い瞳には獰猛な光が宿っていた。
「仕組まれて制御された考えでも構わない。雪華綺晶をこっちの土俵に引き摺り出して倒す。それが今の私の目標ってことになるかしら。
 末妹を先に倒したことでゲーム全体が止まろうと、壊れようと知ったことじゃない。
 それが私の望んで挑むアリスゲームなんだもの、貫かせて貰うわ」

 ぱち、ぱちと間隔の出鱈目な拍手が響いた。
「断片的な知識がおありとはいえ、そこまでお考えになっているとは。やはり長姉たる方の御考察ゆえの鋭さと言えましょうか」
 兎頭の紳士は興が乗ったのか、喋りながらも暫く手を打っていた。
「しかしながら、それとても最終的に同じ結末を生み出すという意味では、少々不徹底の気味があるのではありますまいか」
 紳士はそこで漸く手を机の上に置き、表情と視線の行き先の今ひとつ分からない真ん丸な目で真紅と水銀燈を交互に見遣った。
「どのような証明、どのような定理を使ったところで、用意された定数と最終的な回答が同じでは畢竟式の優劣を競うだけに他なりません。それも大切ではありましょうが、予定調和を壊すと言うには聊か足りてはおりません。新公式を以て旧公式の不備を糺す、予定調和という言葉で言い換えれば予定調和を乱す。その程度でありましょう」
 水銀燈は感心したような顔になって頷き、真紅は目を瞬いた。
「貴方がどの口でそんなことを言うの、ラプラス。自分をゲームの審判者と言っていたのは貴方自身ではなくて?」
 それ故に彼はどの姉妹とも付かず離れず、に徹していたはずだ、と真紅は思っていた。
「審判がゲームに口出しをしては、ゲームが成り立たない。そう言いたいの?」
 水銀燈はくすりと笑ってみせた。
 真紅は知らないのか、知ることのないようにされているのだ。ラプラスの魔こそ、一番目につきやすい「からくり」の体現者だった。

 彼が現れるのは、決まって真紅かジュンが窮地に陥ったとき、またはジュンに真紅のために決断を迫るときだった。
 二人には飄げた振舞いと持って回った口調で対しているために──彼等の潔癖な視点からは、どうしても好きになれないタイプの性格に見えることもあって──嫌われているが、彼がいなければジュンが最初にnのフィールドに入った折に無事に戻ることもなかったかもしれないし、真紅の腕がジュンの手元に戻ることはほぼ確実になかっただろう。
 彼がここまでの立場を変えない限り、恐らく真紅以外の姉妹がアリスゲームに勝利することは有り得ない。本人達がそれに気付いていないだけの話だった。
 皮肉なことに、最近になって彼が目立って活動しなくなっているのは水銀燈と彼女の契約者のせいでもあった。
 漫画の世界のとおりに事態が進んでいれば、彼は雪華綺晶についての情報を真紅と翠星石に与え、囚われた彼女達の元にジュンを導き、ほぼ勝利を確定させていた雪華綺晶の手から姉妹の過半を救い出すヒントまでも与えたはずだ。それが必要ない状況になってしまっているのは、水銀燈が契約者から得た知識を活用して極力雪華綺晶に手番を回さないように立ち回ったからだ。
 逆の見方をすれば、水銀燈はラプラスの魔の仕事を肩代わりし、または手伝っただけと言えるのかもしれない。少なくともこれまではそのとおりだった。
 とはいえ、ここから彼がどういう立ち位置でどう行動するのかまでは分からない。
 水銀燈は自分の今後の計画を考えるときは彼の影響を考慮しないことにしていた。最大限の影響力を行使するだろうと想定すると、薔薇乙女達がどんな意思を持って行動するとしても、ゲームはそれとは無関係に彼の手の上で進んでしまうことになるからだ。
 それは悪い意味で思考停止であり、ある意味で自ら負けを認めているようなものでもあった。だが彼の真の意図が読めない以上、一方的に当てにしたり、敵に回ると決め付けておかしな作戦を立てるのは好ましいとは言えまい。

「残念だけど、どうやら私達のゲームの検分役は役目に忠実とは言えないようよ。適当な代わりが居るなら解雇した方が良さそうね」
 水銀燈は口の端を吊り上げながら、そんな言い方をしてみた。直接には今の発言を指しているが、遠回しにラプラスの魔の行動全般を示してもいる。真紅が後で冷静になったときに思い出せば、何等かのヒントになるかもしれない。
 真紅がラプラスの意図に気付かないのならそれはそれでいい。下手に頼ってしまったり、逆に頑なに拒絶したりするよりは、正体不明の謎紳士としておく方がまだ良いのだろう。
 誰にも頼らずに自分の力で道を切り開いていくのはアリスの基になる真紅には必要な資質なのだろうし、彼の言葉を一々拒絶していては、苦境に落ちたときに敗れてしまいかねない。雪華綺晶や、そして水銀燈に。
「これは失敬、言葉足らずでしたかな」
 水銀燈の意図など気付かない風に、ラプラスの魔は小首を傾げてみせた。
「不肖この兎、御嬢様達のゲームの遂行を阻害するようなことは致しません」
 なるほど、と水銀燈はにやりとする。彼は特定の誰かに荷担することまでは否定しないのだ。
「ただ、聊か腑に落ちないのでして。予定調和を壊す、という言葉は激越なもの。そこには白薔薇の御嬢様を主敵とするという方針だけではない、隠された意図を篭めていらっしゃるようにも思えまして」
 ラプラスの魔は兎の目で水銀燈を見詰める。それは彼女の採りたい行動を概ね理解した上で、ここでそれを吐き出してしまえと言っている視線だった。
 水銀燈は真っ直ぐに視線を返した。ラプラスの魔の顔が兎の剥製でなく、元々の人間の顔に戻ればいいのにと思う。こういうときくらい、少しは表情を作ってもいいのではないか。
 今となってはそれこそ繰言か、と息をつく。案外、自分もあの媒介と同じくらい、いや、時間の長さから言えばもっと見苦しく昔を引き摺っているのかもしれない。

──メイメイの見立ては間違っていなかったということね。

 その意味では、水銀燈が彼に抱いていた苛立ちは同属嫌悪のようなものだったのかもしれない。
「隠れた意図、ってほどじゃないけど」
 水銀燈は真紅、翠星石、雛苺と順に視線の先を移した。
「雪華綺晶が居ないアリスゲームは、時代を越えて継続できると思う?」


 テレビの画面の異常に気付いたのは、眠そうな眼つきで手持ち無沙汰にそれを眺めていた蒼星石ではなく、その隣でテーブルの上に課題を広げながらちらちらとそちらを見ていた少年だった。
「あれ? アンテナおかしくなったかな」
「え?」
 蒼星石がぱちぱちと瞬いて少年の顔を見、その視線の先に注意を戻したときには、既に画面はブラックアウトし、音声も途切れていた。
「ああーっ全く、夜中だってのに……」
 少年は額に手をやって立ち上がり、なにやら文句を言いながらテレビに歩み寄る。
「待って」
「え?」
 少年は思わず振り向く。その背後で、テレビ画面は池に小石を投げ入れたように波打ち始めた。
「離れて! 入り口が開く。nのフィールドの」
 蒼星石は椅子から飛び降り、彼とテレビの間に走り寄りながら人工精霊を呼んだ。間髪入れずに青い光球が、半ば開いていた彼女の鞄から飛び出して脇に控える。
 少年は事態を把握したというよりも蒼星石の剣幕に押されるようにして、テーブルまで戻った。戻った、と言っても僅か数歩の距離に過ぎないが、兎も角も彼女は少年とテレビの間に割って入る形になった。
 画面は激しく波打ち、すぐに銀色の光の球がそこから飛び出した。
 蒼星石は一瞬だけ唖然とし、詰めていた息を吐いて苦笑する。それはよく見慣れた相手だった。
「……なんだ、メイメイじゃんか」
 脅かしやがって、と少年は銀色の球を突付く真似をした。
 二人の周りをメイメイはいつもの調子でぐるりと一周し、少年の面前に停止すると何かを訴えるようにチカチカと瞬く。頻りに何かを伝えたがっているような按配だったが、生憎と少年は人工精霊とは会話できなかった。
「ごめん、何言いたいのかわかんない」
 少年はいつものとおり、片手で拝むような仕草でとても申し訳なさそうに謝る。メイメイは困ったようにぐるぐると回ってみせ、蒼星石の前で止まった。
 案外いいコンビなのかもしれない、と蒼星石は頬を緩めかける。だが、メイメイからの念話を受け取るとその表情は硬くなった。
「──分かった。僕が行こう」
 脱いでいた帽子を被り直し、蒼星石は少年を振り向く。二つの人工精霊も彼女の動きに合わせてくるりとこちらを向いた。
「nのフィールドに入らなくてはならなくなったんだ。お風呂場の鏡を使わせて貰っていいかな」
 少年はこくりと頷いたが、続けてにっと笑った。
「何だかわかんないけどさ、俺も行くよ」
 眉を顰める蒼星石に、少年は屈んでひょいと手を伸ばす。彼女が何気なく手を握ろうとすると、彼はそれを素早く躱して両手を彼女の腋の下に差し入れ、上体を起こしざまひょいと一挙動で彼女を肩に担ぎ上げてしまった。
「これで一人じゃ行けなくなっただろー」
 まるで若い父親が小さな子供にするような按配に右肩に後ろ向きに蒼星石を担いで、してやったりといった顔で彼はにやりとした。ただそこで、実は水銀燈に一回やって怒られたんだ、と情けなさそうに付け加える辺りが彼らしい。
 蒼星石は不意打ちされた気分の悪さを隠そうとせず、仏頂面を作った。もっとも、彼からはどんな表情をしていても見えない位置でもある。
「乱暴すぎるよ。何処か関節が抜けたら貴方のせいだ」
「そうなったら桜田に頼むって」
 少年は朗らかに答える。言った相手と状況によっては気分が沈みかけそうな言葉だったが、蒼星石は何故か軽い言葉で返すことができた。
「人形だと思って気楽に言ってくれるね」
 それは、少年の次の言葉が予期できたからかもしれない。
「人間だったらお医者に頼むだけの違いだよ、おんなじおんなじ」
 彼女の思っていたとおりの台詞を言いながら、彼は彼女を担ぎ上げたまま、調子付いた動作でくるくるとその場で一回転してみせた。
「行ってもいいだろ? どんな用件か知らないけど、メイメイは元々俺に頼みに来たんだしさ」
 いいだろ? と少年はぽんぽんと蒼星石の背中を軽く叩く。まるきり子供扱いだね、と蒼星石は苦笑した。
「僕は媒介なしだから向こうに長くは居られない。何かあったら貴方の身の安全が保証できない」
「そんなもんなのかぁ」
 水銀燈は一日中でも入ってられるらしいけど、と少年は少し意外そうな声で言い、軽い調子で尋ねる。
「なんか物騒な話なのかい」
 蒼星石は一瞬躊躇してからメイメイを見詰め、小さく頷いて口を開いた。
「大した事じゃないといいんだけどね。とにかく、少し急いだ方がいいようだ」


「雪華綺晶の役割は、直接操作しづらい媒介達のうち、特にゲームの遂行上危険な──薔薇乙女にもう一度逢いたいと願い、ともすればそれを実行しかねない者を選別し、その意識を自分のフィールドに取り込んで糧とすること。糧になった危険分子は衰弱して果てるまで現実世界で一切行動できなくなる。視点を変えればそんな言い方もできるわね」
 水銀燈はにやりと口許を歪めた。
「さっきも言ったけど、別れてすぐにはさして問題がない媒介達でも、年を取れば心は弱り、昔を懐かしんで薔薇乙女を求めることもあるでしょう。それらが暴発し、おおっぴらに捜索を始めたら、ローゼンメイデンはこれまでのような『幻のアンティークドール』という地味な存在ではなく『謎の生きた人形』として様々な方面から狙われる。
 例えばこの時代なら、サブカルチャー好きの連中や売り上げ第一の番組企画会社や雑誌がまず放っておかないわね。ローザミスティカを無限機関と考えて国家レベルで捕獲に乗り出すところもあるかもしれない。もう、アリスゲームなんてちゃちなお芝居どころの話じゃなくなってしまう」
 真紅は厳しい表情のまま、じっと水銀燈を見詰めている。それは彼女が漠然と考えていたことでもあった。
「薔薇乙女は、間違っても自分からはそういう行動を取らない。でも媒介達の行動までは信用できないし、制御することもできない。
 それを補うためにお父様が掛けた保険の一つが雪華綺晶の立場というわけ。もしかしたら末妹自体が最初からそのために作られたのかもしれないけど、流石にそれは考えたくないわね」
 真紅は目を見開き、翠星石はぶんぶんと首を振った。
「その保険を除いてしまって、次の時代にゲームを持ち越させたらどうなるかを確かめたいというのが貴女の考えだと言うの?」
「無茶苦茶です! 最近少し優しくなったから見直してやったところでしたのに、今度は姉妹全員を危険に晒したいなんてとんだテロリストもいいとこです」
 水銀燈はわざとらしく溜息をつき、話を聞きなさいと肩を竦めた。
「どっちが無茶苦茶なんだか。……いい? そういう保険が切れてしまったら、いい加減長い時間をかけて続けてきたゲームの主宰者はどうするのか。彼の目から見てゴールは目前、後は最終ステージを残すだけなのよ。一番簡単で確実な方法は何だと思う?」
「そりゃ、保険を使わなくてもいい方法でゲームを終わらせてしまえばいい、ですけど……」
 翠星石はもごもごと答える。水銀燈は軽く頷いた。
「そう。ゲームのルールを変えて続行に支障が出なくするか、ゲームをこの時代、もっと言ってしまえば今いる契約者の最初の一人が死ぬ前に確実に終わらせるように仕向けるか。そのどちらかになるわ」
 そして、前者はこの段階では殆ど意味がない。契約者に頼らなくてもいいように姉妹達を変えるのは無理だし、新たな契約者回収のシステムを組むのも大変過ぎるだろう。
 そこまでするなら負けを認めて薔薇乙女とアリスゲームという仕組み自体をすっかり廃棄し、全く新たなアリスの生成方法を模索する方が生産的かもしれない。
「いざとなったときに彼がどう仕組むのかは知らない。でも、彼はそこで予定調和として描いていたシナリオを一旦捨てざるを得なくなる。
 雪華綺晶を先に倒すことに、私はその程度の影響力はあると見ているということよ」
 それだけよ、と水銀燈はラプラスの魔に視線を投げた。兎顔の紳士は珍しく軽口も叩かず、ふむ、と短い毛に覆われた白い顎に白い手袋を嵌めた手を当てた。


「何度来ても薄気味悪い感じがするな、ここ」
 そんなに何度も来ている訳でもなかろうに、少年はそんな言い方で周囲を表現した。
「碌に何も見えないし、何も聞こえて来ないなんてさぁ。風は吹いてるのに風切り音も無しとか……」
「それでも、ここには無数のイメージが交錯している。無意識の海の底……」
 漫画の世界では蒼星石自身が長いこと彷徨っていた場所。そこに、他の姉妹の契約者が来たこともあったらしい。それが誰なのかは詳しく知らないけれども、漫画の主人公は桜田ジュンだったから、多分彼なのだろう。少なくともこの少年ではない。
「何も視えないし聴こえないのは、恐らく貴方の防衛本能のようなものがシャットアウトしているからだ。記憶を失っても、貴方の根底には自分を守ろうとする強い力が働いているのだろう」
 いや、と蒼星石はふと思う。記憶を失くしてしまった今の方が、彼は自己をはっきりとした形で捉えることができているのではないか。
 あの日、水銀燈のボディを現実世界に連れ戻しながら、蒼星石はちらりと彼の存在を感じ取っていた。世界樹の上から姿を消した彼が、無意識の海の底で奔騰する記憶の濁流に揉まれるイメージがあった。
 恐らくそこで彼は雪華綺晶に捕獲され、彼女によって自分の昔の記憶の世界に引き込まれたのだろう。
 そのときの彼は明確に助けを求めていた。流れに揉まれ、呑まれ、押し流されていた。
 同じ無意識の海にいながら、今の彼はそれをただの風としか感じていない。感受性が鈍い、と考えれば残念なことだが、個として確立できていると考えれば水銀燈の苦労の甲斐があったと言うべきかもしれない。
 どちらが良いとは言えない。蒼星石は気分を切り替え、二人を連れて来た依頼主に声を掛けた。
「さあ、導いておくれ、メイメイ」
 メイメイは合点承知とばかり、くるくると二度ばかり回ってから長い弧を描いて飛び出した。蒼星石は少年を促してそれに続こうとしたが、彼が逆に蒼星石の左手を取った。
「よっしゃ、こっちも行っくぜええ」
 先程、碌に何も無いと言った場所で、彼はどういうわけか勢いを付けてメイメイの方に向かって飛び出した。ぐいと引っ張られた腕に痛みを感じるほどだった。もちろん錯覚に過ぎないが、観念の世界であるここでは、腕がもげたと思えばそれは現実になってしまうかもしれない。
「凄い勢いだね」
 そのことは咎めず、蒼星石は少年を見る。ちらりと振り向いた彼は無邪気で得意気な顔になっていた。
「そりゃ、あったりまえ。全身のバネ使ったもん。このままメイメイに追いついてやるぜ」
「ふふ……」
 上下が無いとかそもそも足懸りが無いとかいう細かいことは考えていなかったらしい。この場合はそれで正解なのだが、蒼星石にはそれがなんとなく可笑しかった。
 彼には恐らく、そよ風が吹き抜けているだけの空間なのだろう。だが、蒼星石にはあらゆる方向から押し寄せる奔流の中を、それを押しのけて進んでいるように見える。
 握り合った手──と言っても蒼星石は彼の人差し指と中指を握っているだけだが──に、力を込める。道案内が居るというのに、ここで手を放したら彼に置いて行かれそうな気がする。それほど彼の前進は、いや彼女の目から見るそれは突進だったが、力強く、速かった。
「しっかり掴まっててくれよ。あいつぅ、またスピード上げやがって」
「うん」
 片手で彼の指を握り締め、もう片手でシルクハットを押さえながら、蒼星石は微笑んだ。メイメイの判断は正しかったかもしれない。彼女よりも彼の方が、メイメイの依頼を遂行するには合っているのかもしれなかった。


 兎頭の紳士は暫く考え込んでいた。
 本気で考え込んでいるなら彼にしては珍しいことだったが、考え込んでいるポーズを取っているだけなのかもしれない。それならばいつもの彼以外の何者でもなかった。
 やがて、彼はひとつ頷いて水銀燈に視線を向けた。
「なるほど、そういうことですか」
「ええ」
 水銀燈は軽い調子で肯定する。何か言いたいなら好きに言え、と思った。どうせ、彼は水銀燈の本心などお見通しなのだろう。
「だから、今は他の姉妹にかかずらわってる暇はないの。向こうから出て来ない以上、あの末妹が取れる手段を減らしていって、いずれはこちらの有利な場所に引き摺り出して叩く」
 水銀燈はちらりと真紅を見遣る。さあ言ったわよ、と言ってやりたい気分だった。
 自分が示した方針が彼女の求めるアリスゲームに──彼女が守っていたい何かに抵触するのであれば、この場で即座に戦いになるかもしれない。
 いや、それはあり得ないことか。ここは媒介のいない真紅達にとって不利な場所だし、自分は今のところ真紅と戦う気分にはなれない。
 真紅はまた目を伏せ、何かを一心に考えている。考えているというよりは悩んでいるのかもしれない。
 ややあって、その視線が水銀燈に向き、彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「今は」
 考えを纏めたときの彼女らしい、声こそやや小さいがはっきりした口調だった。
「貴女と敵対するつもりはないわ。少なくとも貴女から仕掛けて来なければ、私には貴女と戦う理由がないのだもの。それはずっと前から同じだけれど」
 最後の一言に若干の非難を込めてみせ、でも、と真紅は僅かに間を置いた。
「貴女の企てに協力することもできない。雪華綺晶から攻撃されるまでは、私は雪華綺晶とも戦う理由がないのだから──」
「──白薔薇の御嬢様は現実世界に出ることを願っていらっしゃる。それは皆様既にご存知でしたかな」
 ラプラスの魔は妙なところで口を挟んだ。
 他の四人の視線が兎そのものの顔に集まり、それぞれが思い思いに肯定の意思を伝える。ラプラスはほうほうと感心して見せ、右手の人差し指を立てた。
「しかし、そのためには器が必要となります。何故なら彼女は幻。実体を持たず、nのフィールドにしか存在し得ない」
 水銀燈は腕を組んだ。確かにそのために雪華綺晶は姉妹のボディを狙っている。もっとも、今のところ実際に不意を衝かれ、身体を奪われかけたのは水銀燈だけだが。
「五番目のお嬢さん」
 ラプラスは少し間を置き、珍しい呼び方で真紅に声を掛けた。
「慈悲深い貴女は、妹の切なる願いを叶えて上げたいと思いませんかな」
「……どういう意味かしら」
 真紅はあからさまに不快感を示した。
「ごく普通の人形では器として不適格なのでしょう? どうしろと言いたいの」
 アリスゲームに既に敗北している雛苺は雪華綺晶の標的にされやすいだろう、という話は水銀燈から聞いている。漫画の世界では実際に雛苺が彼女の最初の犠牲者になる展開になったことも知らされていた。
 だから、雛苺が不平不満を漏らしているのを知っていても、nのフィールドに入るときは必ず誰かと一緒にさせ、現実空間でさえ出来る限り目の届く範囲内に居させている。ただ、少しばかり行き過ぎているのか、それとも雛苺の我慢が続かないのか、現実世界ではしばしば脱走されているところはあまり褒められたものではないけれども。
 そんな彼女には、ラプラスの魔の言葉が雛苺を差し出してやれという意味にも聞こえてしまうのだ。
 しかし、兎顔の紳士の話は彼女の予想の斜め上を行っていた。
「なるほど、確かに既製の人形ではいけません。如何に彼女が強い力を持っているとはいえ、既に魂のあるものに宿ることはできない。ですが、最初から彼女のものとして作られた体なら如何です」
 紳士は立てた指を左右に振った。
「御嬢様方。貴女達はそれを可能にする力を持つ人物に心当たりがおありのはず。もっとも今はその力、この老兎の眼から見ましても、お世辞にも開花しているとは申せませんが」


 メイメイは濁流の中を突っ切っていく。いつもの道化た振る舞いを見慣れている蒼星石には、意外なほど力強い動きだった。

──メイメイも彼も、水銀燈とは似ても似つかないのに。

 記憶を失くして性格も変わってしまった彼は兎も角、水銀燈が教育した人工精霊が、何故いつもはあんな風に楽しそうに振舞うのだろう。それを見ていて水銀燈は苛ついたりしないのだろうか。
 蒼星石の教育したレンピカは、主人である彼女よりも更に生真面目だった。一度だけだが、彼女が気弱になったときは叱咤してくれたこともあった。
 薔薇乙女と人工精霊が似た者同士になるとは限らないのだろうか。ああ見えて、水銀燈は気楽な相棒を欲しがっていたのだろうか。
「──分からないな」
「ん? どした?」
 かすかな呟きを、彼は耳聡く聞きつけたようだった。蒼星石は苦笑するしかなかった。
「なんでもないよ。独り言だ」
「そっか」
 彼は前に向き直り、唐突に減速しながら引っ張っていた蒼星石をぐいっと抱え寄せる。乱暴な動作だったが、今度は痛みは感じなかった。
 胸に抱きかかえられる形になって、今日は不意打ちばかりだ、と蒼星石の内心の素直な部分が思う。ずるいよ、とも。
「急に何が……」
「あいつ、なんか見付けたっぽい」
 顔を上げ、もぞもぞと前を向くと、メイメイが何かを示すように回っていた。その先に何かが見える。
「あそこに連れて行きたかったのか?」
 先程まともに話の内容を聞けなかった少年は、その何かを指差してメイメイに尋ねた。メイメイは頷くように上下に小刻みに動いた。
 なるほど、と蒼星石は軽く頷く。あれがメイメイの依頼の対象物というわけだ。
「見付けた物を放っておけないから、回収して欲しい。メイメイはそう言っていたんだ」
「落し物拾いか……俺でもやれそうなお仕事じゃん」
「気を付けて」
 自分でもできそうだということに俄然やる気が出た様子の少年に、蒼星石は釘を刺すことを忘れない。
「何が起きるか分からない。……レンピカ、周囲を警戒するんだ」
 蒼い人工精霊は了解の思念を蒼星石に送りつけると、大きな楕円軌道を描いて二人とメイメイから離れていった。
「行こう」
 蒼星石は彼を見上げ、頭を巡らしてメイメイに頷いた。
「よっしゃ。ラストスパート行くぜ」
 少年の言葉を合図にメイメイは加速し、前方に飛び出して行く。少年は蒼星石を抱いたままそれに続いた。
 彼の腕の中で、蒼星石は身じろぎする。確かにこの方が片手で指二本を掴んでいるより確実だ。しかし、この体勢は少しばかり恥ずかしい気がするのも事実だった。
 少し赤くなった顔を見られたくなくて、彼女は帽子を直す振りをして少し目深に被りなおした。もっとも、こんな場所では彼以外に誰かが見ているという訳でもないのだろうが。


「ジュンに雪華綺晶のボディを作らせろ、ってことですか……」
 翠星石は絶句し、真紅は首を振った。
「ジュンはまだドールを作ったことはないわ。パーツの原型を一つ手がけたことがあるだけで、それもフィギュアを参考にしながら苦心した末のことよ」
 水銀燈は何かを言いかけて、止めた。できるだけこの場に相応しい身振りで、ラプラスの魔の方を見る。他の姉妹達が彼女の仕種を気に留めることはなかった。
 兎顔の紳士はちらりと水銀燈に視線を投げ、水銀燈は他に分からないほどの目の動きでそれに応えた。紳士は二度ほど瞬いて真紅を見遣った。了解した、という意思表示だった。
「左様、今の段階では彼に満足なドールを創ることを求めても空しいでありましょう。ですが将来的には、彼は偉大な人形師となる才能を秘めています。それもまた事実」
「少なくとも雪華綺晶に対する交渉材料にはなる、ってことかしら。随分と迂遠な話ね」
 水銀燈は少し大仰に溜息をついてみせる。ここはそうすべきだった。
「雪華綺晶が欲しいのは『今、随意に動かせる器』ではなくて? それにはそぐわないでしょう、桜田ジュンの成長に期待するという話は」
「さて、そう悲観的になるべきでありましょうか?」
 紳士は頬を僅かに持ち上げるような顔になった。見ただけではどういう感情を表したいのか分からなかったが、機嫌が悪くなるということは有り得なかった。そういう人物なのだ。
「人間の成長は速いもの。士別れて三日即ち更に刮目して相待すべし、等々名言も御座いますな。そしてそれは特に子供において然り。かの少年が全てを傾けて精進すれば、恐らく数年後には薔薇乙女の形骸を作るなど造作もないこととなるでしょう。そう、彼であれば数年でしょうな」
「数年ね」
 水銀燈は鼻で笑った。
「目の前に果実がぶら下がっているというのに、果たして末妹はその不確定な数年を待てるのかしらね」
「彼女が待つことに信が置けないのであれば」
 白兎の顔は、はっきりとある形に歪んだ。
「待つしかないようにさせれば良いのですよ。御嬢様方」
 彼は、声を立てずに笑っていた。それが少しばかり寂しそうな笑いのように思えるのは、水銀燈が彼の思いをおぼろげながら掴んでいるせいかもしれない。
 恐らくそれは正しい理解なのだろう。その証拠に、他の姉妹は彼の笑いをそのようには受け取らなかった。
「──ラプラス」
 真紅は温度を感じさせない口調で言った。
「それは、彼女を屈服させて従わせればいいという意味かしら」
「ええ」
 紳士は笑いを引っ込め、いつもの道化た声と仕種に戻った。だが、その言葉にはいつにない、あからさまで痛烈な皮肉が込められていた。
「守りだけではゲームを制することはできますまい。もっとも、積極的または消極的に関わらずゲームそのものを忌避されるのであればまだ、守りに徹するのも良かれと申せます。紅薔薇の御嬢様、貴女のお望みはゲームを忌避し、水入りさせて時代から時代へと安穏と過して行かれることでしたか」
 真紅は息を呑み、水銀燈は苦笑した。中途で妙なことからおかしな展開になったものだ、と思う。

──もっとも、こっちがラプラスの誘導したかった話なのかもしれないけど。

 どちらにしても、と彼女は貴重な示唆を与えてくれた兎頭の紳士に内心で感謝した。態度に出せないのが少しばかり残念だった。
 水銀燈自身は雪華綺晶そのものにさして含むところはない。確かに一度はボディを乗っ取られかけたが、彼女が雪華綺晶を狙うことにはその意趣返しという意味合いはない。
 できれば戦いたくない相手とかいう湿っぽい事情はないが、いつ仕掛けてくるか分からない潜在的な危険だという感触と、自分の目的のために戦わざるを得ない相手という認識の方が遥かに大きかった。
 雪華綺晶の方でもそれを分かっているはずだ。だからこそ、二度目に遭遇したとき、弱った姿を見せることで水銀燈にその場で仕掛けられる危険を無視してまで、彼女に一言泣き言を呟いてみせたのだろう。
 なるほど、外堀を埋め、相手に出戦を強いて叩く以外にも攻略の方法はあるものだ。但しそれが安易に進められるかどうかは別の話だし、契約者とはいえ他人の、しかも今は隠れている能力に依存することは投機的で危険でもある。

 真紅とラプラスの魔を交互に見遣りながら頭の中では自分の考えを巡らせ、結局今のところは自分の方針のままで行く方が良いのだろう、と水銀燈は結論付けた。
 考えを改めるのは何か変化が起きてからでも遅くはないだろう。今のところ、いずれの方策を採るにせよ現実世界での時間経過は雪華綺晶に味方しない。そうなるように、水銀燈が手を打ってきたからだ。
 もっとも、だからこそ時機は意外に早く訪れるのではないかと水銀燈は踏んでいる。
 大きなところでは、水銀燈とその媒介も、「活きのいい」契約者達も、姉妹達のボディも渡さずにきた。如何に待つのに慣れているとはいえ、そろそろ雪華綺晶も限界のはずだ。このまま我慢を続ければ、糧を全く得られずに干上がりかねない。
 そして、彼女が唯一妨害無しに獲得できる手懸りだけは、水銀燈はそれと知りながら放置している。泳がせている、というのとは違うが、似たようなものではあった。
 後は、果たして雪華綺晶がリスクを承知でそれに喰いついてくるほど進退窮まっているかどうか。問題はそこだけだと思える。

 少なくとも今、この時点では。

 そんな水銀燈の内心などに思いを巡らす余裕もなく、真紅は暫くそのまま固着したように動きを止めていた。
 先程の言葉は一見真摯な意見にも聞こえるが、相手はラプラスの魔だ。こういった言葉遊びに近い煽りや止め立てなどはお手のものなのだろう。
 彼としてはその方が楽しい、理由はそれだけなのかもしれない。ゲームが停滞して一番つまらない思いをするのはラプラスなのだろう。
 そんな風に否定的に忖度しながら、それでも真紅は兎顔の紳士の言ったことを全て戯言だと片付けてしまうつもりはなかった。彼の言葉は大抵いつも、一面の真実は突いている。今回も例に洩れないのだろう。少々癪ではあるがそこは認めざるを得ないのだ。
「……それはできないわ」
 ややあって、真紅は毅然と胸を張った。何があってもそこは曲げられない、という意思表示だった。
「他に方法がないとは思えない。それに、たとえ迂遠だったとしても、話し合いの余地があるのなら私は自分から仕掛けることはしない。それが私のやり方」
 目的を明かしたときの水銀燈の言葉に対抗するような言い方で続ける。
「確かに時間は掛るでしょう。でも、そのために不利になっていったとしても、途中で負けて何処かを欠損することがあっても、敗北してしまうとしても、私は私のやり方を貫くわ」
 王道ね、と水銀燈はちらりと考える。地道にこつこつと、不器用でも自分の道を行く。その粘り強さは姉妹の中でも真紅にしかないものなのだろう。
 それが影からの支援があってこそ成立するものだとしても、やはり泥水を啜りながら歩くような道そのものは、歩む者にとって長く険しいはずだ。真紅にはそれを実行していくだけの強さが確かにあるのだ。


 近づいて行くと、それは一点に静止しているわけではなく、周囲の流れに揉まれ、漂い流されていることが見て取れた。
 少年としてはかなりのスピードで接近しているはずなのだが、何かがあるのを認識してから形がはっきりしてくるまでが異様に長いように感じられた。距離感自体が現実世界の視界とはだいぶ異なるようだった。
 目は悪くないはずの少年が自分よりもその形を認識するのがかなり遅れても、蒼星石は特に不思議には思わなかった。
 観念の世界のようなものだから、そういった感覚には視覚以外のものが働いてくる。当然、個人差もそこにはあった。
 彼は周囲で奔騰している流れ自体を碌に認識していない。それだけを蒼星石と同じほど確実に認識できるとしたら、その方が不思議だっただろう。
「人形……?」
「そうだね。大きなドールだ……多分、僕達ほどの大きさだろう」
 言いながら、蒼星石は少年の腕の中から出たいと身振りで示す。彼は頷き、減速しながら慎重に彼女を体から離し、手を放した。
「メイメイ、間違いないんだね」
 今はもう並んで飛んでいるメイメイは、こくこくと肯定の動きをしてみせる。
「服は違うけどまた白い髪、かぁ」
 漸く少年にもはっきりと見えてきたらしい。さっきの子と同じか白黒違いってやつか、となにやら感心したように頷いている。
「じゃ、ちゃちゃっと回収して行きますか」
 な、と蒼星石を振り向いて、少年は訝しげな顔になった。彼女は何かを思い出そうとしているような視線を人形に向けていた。
「どしたのさ」
「……いや。見覚えがあるような気がしたんだけど……そんなはずはないね」
 蒼星石は人形に視線を向けたまま苦笑し、やや強く首を振った。
 白い編み上げ靴。露出の多い、左右非対称のごく薄いピンクの凝った衣装。さきほど飛び立って行った人形によく似た、しかし細くツーサイドアップにされている白いストレートの髪……

──確かに、見たことはない。だが、なんだろうこの既視感は。

 蒼星石は大きく息をついた。呼吸というのもここでは──そして薔薇乙女には現実世界であっても──観念的な行為だが、何故かそうしないと息が詰まって苦しかった。
「注意しよう。メイメイ、君も警戒してくれないか」
 遠くを巡回するレンピカを指して声を掛けると、メイメイはOKと動きで示してレンピカとは別の軌道を描いて二人を中心に周回し始める。蒼星石はよしと頷いて少年の顔を仰いだ。
「行こう」
 応、と元気良く返事をしてから、少年は心配そうな顔になった。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫さ。何かがあれば僕と人工精霊達が貴方を守る」
「そうじゃなくってさぁ」
 少年はややオーバーな身振りをしてみせた。
「蒼星石、さっきから嫌に周りを気にしてるじゃん。いつもそうってわけじゃないんだろ?」
 蒼星石は一瞬目を見開いた。言われてみればそのとおりだった。はっきり自覚してはいなかったが、何かきな臭いものを感じていたのかもしれない。
「なんかよく分かんないけどさ、リラックス、リラックスってやつで行こー。あ、そうだ」
 彼女の反応に気付いたかどうかは定かでないが、少年はごそごそとポケットを漁り、黒っぽい平たい箱を取り出して、そこからキャンディを一つ彼女に差し出した。
「オトナならタバコでも一服やるとこなんだろうけど、お互いまだ未成年だから飴玉ってことで勘弁な」
「……うん」
 ふふ、と微笑みながら蒼星石はそれを受け取った。

──貴方は知ってて言ってるのかな?

 確かに、蒼星石が「起きて」生きて来た時間は、合計するとこの国では成年に到達する年数よりはやや短い。圧倒的に長い時間、彼女は鞄の中で、双子の姉と夢を共有しながら──そうして新たな指輪を作りながら過してきた。
 ただしそれも眠りの一種と考えれば、彼女の年齢は既に人間の寿命など軽く超えている。幾つもの時代、幾人もの契約者の手を経てここまで来た古い古い人形。それが彼女達薔薇乙女だった。
「……酸っぱい」
「あ、苦手だった?」
「いや、美味しいよ」
「そっか。良かった」
 自分は何をやっているんだろう、と思わないでもない。長く居られない、危険だと彼に警告しておきながら、いざ目標を目の前にして呑気に貰ったキャンディを頬張っている。なにやら順番が逆のような気がした。
 それでも、こうしていると気付かない内に張りつめていた心が口の中のキャンディのようにごく僅かずつ溶けて行くような気がするのも事実だ。そして、それは決して悪い気分ではなかった。


「ふむ」
 兎頭の紳士は、今度は他にも分かるようにはっきりと水銀燈に視線を寄越した。一瞬どういう反応を返せばいいのか分からず、取り敢えず彼女は肩を竦めてみせた。
「どうやら我がアリス候補筆頭は、焦らしプレイが殊の外お好きなようよ」
「左様ですな」
 ラプラスの魔は水銀燈の言葉を否定しなかった。

 今日のラプラスの魔は過剰なほどサービス精神旺盛だった。但し、それを理解した者にとっては、という注釈付きだったが。
 今も何気ない一言だったが、その意味は実は大きい。
 水銀燈は名指しを避けたものの、明らかに真紅を指して発言した。それを彼はあっさりと認めた。
 ということは、自分から真紅が最もアリスに近い位置に居ると言ったのも同然だった。彼がゲームの審判とか検分役という肩書きを冠せられていることを考え合わせれば、それは決定的な一言だった。
 ただ、当の真紅本人を含めたこの場の姉妹がその意味に気付いているかは甚だ怪しい、と水銀燈は思う。むしろ、彼は水銀燈に仮説の証明を与えるためにちらちらと口を挟んでいるのではないかとさえ錯覚してしまいそうになる。
 それほど今日の彼の言葉や態度は何の前提知識も持たない者には難解なもののように水銀燈には思えた。

 水銀燈の思いを裏付けるように、彼はまた微妙な言葉を口にした。
「流石は紅薔薇の御嬢様、と申すべきでしょうか。その心掛けの高潔さは確かに素晴らしいもの」
 しかし、と彼は若干意地の悪い声音になった。
「残念ながら、こちらの御嬢様や──」
 と水銀燈を手で示し、もう片方の手で窓外を指した。
「──あちらの御嬢様は待つことがお嫌いのようですぞ」
「それは知っているわ。何が言いたいの」
「お分かりになりませんかな、聡明な貴女が」
 やや苛ついた真紅の態度を見たせいか、兎頭の紳士の声に微かに寂しさか哀れみのようなものが混じる。
「御嬢様と直接の繋がりがない方を白薔薇の御嬢様が目標としたとき、果たして貴女はどう行動されるのか。そのときも、ただ手をこまねいて待っていらっしゃるだけで本当に宜しいのですかな」
「まさか」
 真紅ははっとして翠星石を見る。翠星石はラプラスの魔から真紅に向き直り、慌てたようにまた彼の方を向いた。
「蒼星石を、雪華綺晶が?」
「いいえ」
 兎の頭がゆっくりと左右に振られる。
「いまや、蒼薔薇の御嬢様ほど狙い難い相手もそうそうないでしょう。彼女には強いお味方がついておられる。マスターも心に傷を抱えながらも、彼女と寄り添っていらっしゃる。割り込み、引き裂く隙が御座いません」
 紳士は、今度は水銀燈を見ることさえしなかった。それほど当然だと考えているのか。
「彼女が標的とできるのは、姉妹とその契約者。更に敢えて付け加えるなら、以前の契約者と、それらに例外的に近くなってしまった人物。その程度ですが──」
 紳士は机の上に手を伸ばし、水銀燈が置きっぱなしにしていた例の小箱を手に取った。
「ときに、これは素晴らしい細工物ですな」
「中身も素晴らしいわよ。どうぞ御覧になって」
 突然話を脇に逸らした紳士に姉妹達が非難の視線を向ける中、作業台の上で水銀燈はにやりとしてみせた。紳士は慇懃に礼をし、かちりと小箱の蓋を開けた。
 蓋を開けただけで、暗くないはずの室内に目映い薄紅色の色彩が溢れる。異界のローザミスティカは、先程の桜田宅の客間で見たよりも更に強い光を放っているようだった。
「素晴らしい輝きですな」
 言葉とは裏腹の無感動な言い方だった。水銀燈も笑いを立てずにあっさりと頷く。
「中に電球でも仕込んでありそうな輝きよね。金糸雀はLED入りのクリスタルとか表現してたけど」
「品物の真価は兎も角、見た目としては的確な評価ではありますまいか」
 紳士はひくひくと兎の鼻先をうごめかせ、ぱちりと蓋を閉じた。光の洪水は止んだ。
 紳士は水銀燈に一礼し、小箱を元通りに置いて、机に片肘を突くというラフな恰好を取った。常に慇懃無礼な彼としては珍しいことかもしれない。
「あまり好ましいことではありませんが、本来観測すらできないはずの、そもそも存在すら未知の世界との扉が開いてしまいました。これがその証左の一つですな」
 空いている方の手で小箱を指し示す。水銀燈は苦笑するしかなかった。
「ローゼンメイデンは無数の並行世界にただ一体ずつしか存在し得ない。ローザミスティカも然り。その法則をいとも簡単に破ってくれたってわけね」
「あちらから見ればこちらの御嬢様方はローゼンメイデンではなく異界の自動人形ということになるのでしょうな。そして逆もまた然り。我々から見てそれらは外見が酷似した不思議な人形達に過ぎません。世界自体がそれで納得でき、共存することを受け容れているのであれば問題はないことです」
 と言ってみせるものの、紳士があまり良い気分でないのは明らかだった。まだローザミスティカが二つ出現しただけとはいえ、彼から見れば──終盤とは言えなくても恐らく後半には差し掛かっているはずの──アリスゲームに影響を齎すファクターに成り得るはずだ。
 これでもしドール本体がやって来ようものなら、影響どころか厄災をもたらす、まさに闖入者と言える存在になるだろう。
 彼等の物理的な力はこちらの姉妹たちの誰よりも強い。いざ敵対するとなれば対抗できるのは自分のフィールドに引き込んだときの雪華綺晶くらいではないのか。
 一体では無理でも、数体が協力すればアリスゲームを完全に破壊することができる存在だ。能力が十全に発揮できるのであれば、それぞれがあの人形と同じ程度の力を持っているのだから。

──まさか。

 そこまで考えて、水銀燈はびくりとした。
 彼女等のうちの誰かが、既に世界を飛び越えてやって来ているのではないのか。それを雪華綺晶が発見したら……?
 いや、それだけでは駄目だ。雪華綺晶は既に魂のある器には宿れないから、直接の目標にはしにくい。
 単純に誰かと手を組むにしても、それならば水銀燈の方がまだ有利だ。なにしろ、彼女は『お父様』と親しくしていて、彼から、彼の娘達の動力源の欠片二つを預かっているほどの立場なのだから。

──では、なんだというの。

 水銀燈は改めて兎頭の紳士を見詰めた。紳士は瞳だけを動かしてこちらを見、素知らぬ顔で一つ二つ瞬いてみせる。本人としては茶目っ気たっぷりのウィンクでもしてみせたつもりなのかもしれないが、生憎横顔しか見えない水銀燈には瞬いたようにしか見えなかった。
 先程までの思いあがっていた自分に溜息をつきたい気分だった。旧知の道化師は、彼女にもまだまだ全てを明かしてくれるつもりはないらしい。


「よっしゃ、始めよか」
「そうだね」
 キャンディを舐め終わるのは殆ど一緒だったようだ。少年は気合を入れるようにぱんぱんと手を叩き、蒼星石は頷いた。
 何分という程の時間が経過したわけでもないが、蒼星石は念のために周囲を回っている二つの人工精霊に思念を送り、異常は見当たらないことの確認を取ってみた。どちらも何もなしという思念を返して寄越した。

──あんなことの後だから過敏になっているのだろうか。

 自分自身で首を傾げてしまいたくなるほど、蒼星石は慎重だった。
 しかし、取り越し苦労だとしても安易に行動するのは慎むべきだった。この場で襲ってくる可能性があるのはあの人形だけではない。未だに水銀燈以外に姿を見せたことのない末妹、雪華綺晶もまたnのフィールドでは恐るべき襲撃者に成り得るのだから。
 むしろ、雪華綺晶の方が脅威としては大きいだろう。姉妹達は取り敢えず一度はあの水銀燈に似た人形とは戦っている。単独では正面から太刀打ちできない相手であることはどうやら認めざるを得ないが、少なくともどういう技を使ってどう攻撃してくるかは分かっていた。
 しかし、水銀燈以外の姉妹で雪華綺晶に相対したことのある者はいない。外観と能力の概略だけは知らされているが、口頭の説明だけでは理解に限りがあった。
 自分が彼から受け取った知識が完全なものでないことが残念だった。雪華綺晶については、殆ど知らない状態と言っていい。

 少年はそんな蒼星石の内心には気付いた様子もなく、白い人形に手が届くところまで近づいた。蒼星石はもう一度異常がないことを人工精霊達に確認してから彼と並んだ。何かが起きても、ここなら彼を守れる。
「……おーい」
 少年は人形の頬を指でつんつんと触れてみたが、すぐに、まるで熱い物に触ったように手を引っ込めた。
「どうなってんだっ」
「何か異常が?」
 蒼星石はひやりとして自分も人形の体に触れてみる。しかし、これといって変わったところは感じられなかった。
 アンティークドールというよりは現代風の創作人形に近いスタイルと服装をしているが、その他は大きさと全体的な作りこみの豪華さ、精緻さ以外は特別なところはない。素体が露出している部分も、塗装を兼ねて上薬は丁寧に重ねてあるようだがごく普通の焼き物の地肌に思える。
「そこじゃない。ここ触ってみて」
 少年は蒼星石の手を取って、人形の顔を触らせた。
「柔らかいだろ?」
「それは、そうだけど……」
 一瞬、からかっているのかと思って蒼星石は少年の顔を見上げてしまった。確かに触感は陶器ではない。人肌のように柔らかい。
 しかしそれの何処が異常なのだ、と考え、一拍置いて彼女は自分の思考の方が異常だと気が付いた。
 つい自分達姉妹の視点でものを見てしまっていた。薔薇乙女達なら確かにそれで普通だ。だが、ただの陶器の人形の顔が、柔らかいはずがなかった。
 彼女は慌てて人形の手に触れてみる。そこも樹脂や陶器の感触ではなかった。
 柔らかく関節も露出していないそれは、まるで。
「こりゃホントにさっきの子のペアかなんかじゃないのか……」
 少年はメイメイを探すつもりなのか、視線を周囲に向け始める。

──違う。

 蒼星石はまた、何か冷たいものが体の中を果てしなく落ちていくような感覚を味わった。
 あの黒翼の人形にペアは存在し得ない。水銀燈の説明を聞くまでもなく、それは明らかだった。
 彼の夢の中にぽつんと置き去りにされていた人形にもし対となる存在や姉妹が存在していたとしても、それは既に消えているはずだ。元々あの人形も含めて雪華綺晶が彼に見せた幻影のごく一部に過ぎない物なのだ。
 そして、あの人形だけが例外と成り得たのは、元を辿れば雪華綺晶がそれを特に作り込んで配置し、彼が多大な体感時間をそれと二人きりで過ごしたことが原因なのだろう。
 同じ条件のモノは存在していない。他の全ては夢と共に消え去っている。だからこそ、あの人形は何もない場所で孤独に存在していたのだ。

──では、これは。

 自問するまでもなかった。
 精緻な陶器の体に生きているように柔らかな手と顔。薄いピンクのドレスとはいえ、白を基調としたデザイン。ドールとしては大きく、バランスが人間に近いそのボディ。
 それは、情報だけを先に知らされているが未だ実際には出逢ったことのなかったローゼンメイデン以外の何者でもないではないか。

「メイメイーっ、あーあ、あんな遠くかよ」
 少年は斜め上を見上げて残念そうな声を上げる。メイメイの周回軌道はかなり遠かった。
「しょうがない奴だなぁ。こっちは聞きたいことがあるってのに」
 頭上を前から後ろに過って行く銀色の光に、少年は些か見当違いな評価をする。蒼星石はまた硬くなった表情を僅かに緩ませながら、彼の裾を引いた。
「とにかく、今はこのドールを回収しよう。詳しいことは後からでも調査できる」
 少年は蒼星石の顔を見下ろし、白い人形に視線を巡らせてから、応、と頷いた。
 仰向けのまま流れている人形の背中と膝下に手を回し、そっと横抱きに抱え上げる。細い首がかくんと後ろに仰け反り、蒼星石はそっとそれを彼の胸に凭せ掛けるように整えた。
「右目、アイパッチなんだな」
 少年が漸く気付いたように声を上げる。服と同色の薄いパッチが人形の右目を覆っていた。
「眼、どうなっちゃったんだろうな」
「ファッションかもしれない。服も左右非対称だし、球体関節をできるだけ意識させない範囲で肌の露出も多くされている。作った人の感性で、美観を損なわない程度に左右の違いにアクセントを持たせたのだろうね」
 少年は感心したように、なるほどねぇ、と呟いて人形の全身を改めて見回した。
「かぼちゃパンツとかズボンじゃない子って初めて見たかも。フィギュアみたいだな」
 それは実に素直な感想だった。蒼星石はこんな状況なのについ、くすりと笑いを零してしまう。
 二週間ばかり前に少年に見せてもらった──ジュンがパーツを作るときに参考にした──フィギュアの服装や形を思い出す。なるほど、確かに彼女達姉妹に比べれば、この人形の造形は現代風で市販のキャラクターフィギュアに近いかもしれない。
「さあ、行こう」
 蒼星石は笑いを引っ込めて少年を見上げた。
「急いだほうがいいと思う。この子は多分──」
 言葉を言い終える前に、彼女はびくりと体を震わせた。レンピカとメイメイが揃って短い思念を送りつけて来たからだ。
「下がって。来る」
「な、何が?」
「単独のときは一番相対したくなかった相手、かな」
 蒼星石は帽子を少し目深に被り直した。
「多分初めて会う相手だけど、よく知ってる。僕の一番下の妹さ」
 そして、多分それは、少年の腕の中のドールと同一人物なのだろう。


「世界が納得して共存を許そうとも、御嬢様方からすればそれらは異世界における御自分達そのもの。それは実体を持たぬ白薔薇の御嬢様においてもまた然り。つまり、彼等は白薔薇の御嬢様にとって追跡でき、標的として見定められ、そしてボディの提供者にも成り得るのです」
 提供者というよりこの場合は捕食の対象と言うべきですかな、と兎頭の紳士は空いている方の手をぱくぱくと鳥の嘴のように動かしてみせた。
「もちろん、彼等には魂もあります。依然として正面から乗っ取り難いものではあるでしょう。しかしながら、ここに既に二つの動力源が本来の持ち主から抜き取られて存在しております。これはつまり」
 紳士は小箱を指で突付いた。
「少なくとも二体の『ローゼンメイデンの空のボディ』が何処かに存在していることをも示しております。更に──」
「──あの人形師が作ったドールも七体。つまり、最後の一体は雪華綺晶に対応している」
 水銀燈は紳士の冗長な言葉を引き取った。
「雪華綺晶にとっては自分自身。仮に相手が弱っていれば乗っ取りは他に比べて容易いかもしれないわね」
「まさしくそのとおり」
 紳士は得たりと頷いた。
「かてて加えてそのボディは、紛れもなく『七番目のお嬢さんのために』作られたもの。異界の産とはいえ、他のボディの比ではありますまい」

 何が比較にならないかは、水銀燈にとっては言われるまでもなかった。
 水銀燈が奪うはずだった蒼星石のローザミスティカ。それを失った後のボディ。それらは、どちらも最終的に新たな所持者を拒絶した。
 蒼星石が特別だった、ということではない。所詮は他者のために作られ、長いことそちらに馴染んで来た物なのだ。それを強引に入手しても、ぴったりと収まってはくれない。
 異世界とはいえ同一人物のボディであれば、そういう心配は少ない、と言いたいのだろう。妥当な意見にも思えた。
 しかし、それは詭弁であるような気配もないではない。
 異世界の同一人物とは言うが、名前と姿が同じというだけで、それぞれ人格も別なら辿って来た道も全く別なのだ。水銀燈自身、『水銀燈』と同一人物だと言われても納得ができない。それならばまだ『真紅』の方が共感できる気がする。少なくとも、ある時点までは。
 ボディにしても同じなのではないか。特に、あの世界のローゼンメイデンは等身やプロポーションもドール的ではなくフィギュア的な作りで、手足は長く胴は細く、眼は切れ長で顔は丸顔といった按配だった。
 雪華綺晶とはさほど長く会話をしたり、何度も戦いを繰り返したりしたわけではない。だが、見た限り衣装などには凝っているものの体型は他の姉妹と大差なく、顔の造作もよく似ていた。
 いくら同一人物というアドバンテージがあっても、作りの違いによる違和感などは拭えないのではないか、と思うのが素朴過ぎる感想だということはあるまい。

 それに、もう一つ問題がある。
「あちらの世界での七番目が実体を持っているとは限らない。むしろ雪華綺晶と同じくnのフィールドの中でしか存在し得ない幻である可能性も高いでしょうに。そこは無視するということ?」
 兎顔の紳士は頭を横に振った。
「残念ながら」
 その声には多少のからかいと言うか、面白がっているような響きがあった。
「あちらの第七ドールはボディを持ちます。それは確認済みなのですよ」
 その言葉がどういう意味を持つか、水銀燈にはよく分かってしまった。彼女は作業台の上で腕を組み、難しい顔になってじっとラプラスの魔を見詰める。兎の剥製の顔は、表情を消して彼女を見返した。



[19752] その8 白い人形(2)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/19 00:13
 雪華綺晶は遠目からは渦のようにも見える白い茨の群れと共に現れた。
「ご機嫌よう、そして初めまして、青薔薇のお姉様。私はローゼンメイデン第七ドール雪華綺晶──」
 白い、あくまで純白の衣装と髪の彼女は、そこで少しだけ哀しげな表情になった。
「──お久しぶりです、黒薔薇のお姉様のマスター」
「ごめん、覚えてないんだ」
 少年はドールを抱いているせいでいつもの拝むようなポーズが取れず、代わりにできる限り深々と頭を下げた。雪華綺晶は隻眼をやや伏目がちに細めた。右目の眼窩から直接生えた白い薔薇の花が微かに揺れた。
 彼女がそうした余裕のない仕草をしたのはほんの一呼吸の間だけだった。
「承知しておりますわ、お気になさらないで」
 すぐに柔らかな表情になってそう応え、蒼星石に視線を向けて艶然と微笑む。
「お姉様……良い方を選ばれましたね」
「何のことか分からないよ」
 蒼星石は周回を終えたレンピカを脇に控えさせた。
「具体的に説明してくれないか」
 雪華綺晶は少し面食らったような顔になった。
「あら、お分かりにならない筈はないと思いましたのに」
 くすくすと微笑する。見るからにポーズだと分かる演技だった。
「蒼薔薇のお姉様の殿方のお見立ては流石としか申せませんわ。
 ご自分のマスターを差し置いて、他のドールのマスターとこんなところまで逢引にお出でになっているのに、貴女のマスターは寛大にもそれを許されていらっしゃいます。
 それに、こちらの方はご自分の契約されたドールとは別のドールに異空間に誘われても、にべもなく断りもせずにこうして自然に親しく振る舞われていらっしゃる。
 契約者の方々は数多いらっしゃいました。でも、これほど独占欲が薄い方や契約に縛られない方は見たことがありませんわ」
 それを選ばれるとはやはり慧眼と言うべきでしょう、と雪華綺晶は笑う。その笑みは少しばかり意地が悪く、蒼星石の心をささくれ立たせた。
「随分余裕がないんだね」
 真紅や水銀燈の言い方を真似て皮肉を飛ばしてみる。
「ここは君の庭のようなものなのに、君が慣れない嫌味の言葉まで使って僕を苛立たせようとしているのは何故なのかな。ひょっとして、この──」
 蒼星石は少年の腕の中のドールを指差した。
「──異世界の君が実体を持っているらしいことに嫉妬しているのかい」
 あまり慣れない、安っぽい挑発だった。果たして、雪華綺晶は艶然と微笑を浮かべただけだった。
「いいえ、そんなことはありませんわ」
 雪華綺晶は微笑を浮かべたまま、僅かに距離を詰める。
「だってそれは、これから私のおうちになるのですもの」
「おうち……?」
 少年は首を傾げる。
「そりゃ、この子に乗り移るって意味かい」
 雪華綺晶は少年に視線を向けて無邪気そうな顔になり、左目を二三度瞬いた。
「ええ。そのとおりですわ。何故ならそれもまたローゼンメイデン第七ドール。私のおうちに最も相応しい身体でしょう?」
 理解の良くない子供に物を教えるときのような、優しい微笑みを浮かべる。声には一点の曇りも無かった。
「神秘の魂を半永久的な無機の器に宿し、摩訶不思議な動力源を入れられた生きたお人形……それがローゼンメイデン。でも、それでは至高の少女として不足だった。
 無機の器に縛られたのが、その限界を決めているのではないか──六体を作られた末に、お父様はそう結論付けられた。だから、私は無機の器を……実体を持たないのです」

──だが、結局のところそれでも足りなかった。

 皮肉な思いが胸の中に渦巻くのを蒼星石は感じた。
 彼女達の末妹、それはドールと呼んでいいのかどうかさえ微妙な存在だが、もし「人形師」としてのローゼンがそちらの方向を目指していたなら雪華綺晶は究極の人形だったろう。素材や技法の限界を超えてその造作に人形製作者の理想を体現化できるという点では、まさに夢のドールとは呼べるのかもしれない。
 しかし彼が欲しかったのは至高の少女であり、人形としてのドールのボディそのものはあくまでその器に過ぎなかった。素材や技法は水銀燈の時点で既に完成されており、無理にそれ以上を目指す必要はなかった。
 どこかのお話のように、人形師が精魂込めて作った人形がその思いと愛情を一身に受けて独りでに動き出すような幸せなありようとは、自分達は根本的に異なっている。まず先に実現したいモノがあり、それに沿って緻密に設計製作され、そして結果的には当初の目的を達成させることができなかった不完全な作品だ。
 人形としての体はその実現したかったモノのごく一部分に過ぎない。まして、その造作などは些細な枝葉もいいところだった。
 だから雪華綺晶は一種の理想の人形であるのにも関わらず、その「実体に縛られない」という最大の特長であるはずの部分さえ、薔薇乙女として見た場合には単に他の姉妹達との相違点といったところに落ち着いてしまっている。
 いや、雪華綺晶本人から見たそれはむしろ、分かり易い、忌まわしい欠損に過ぎないのだろう。そうでなければ、彼女が他のドールのボディを奪ってまで実体を得たいと思うはずがない。

「えっと」
 少年は首を傾げ、腕の中の人形を確かめるように抱き直した。
 折角の雪華綺晶の説明も、少年の理解を深めることには繋がらなかったらしい。彼は納得できないときによくする表情で暫く考えていたが、結局素直に雪華綺晶に謝った。
「ごめん。よく分かんないんだけど、要するにキラキ……はボディが無いから、よく似てるこの子を自分のボディにしたいってことかな」
「ええ。間違っていませんわ」
 雪華綺晶は落胆した様子こそ見せなかったが、やはり少しばかり寂しそうな表情をした。少年はじっとその顔を見詰め、何かを言いかけてから口を閉じた。
 再び彼が口を開いたときには、言葉は恐らく最初に言おうとしていたこととは別のものに変わっていた。
「それは協力できないかなぁ」
「何故……?」
 雪華綺晶は意外そうな顔をした。表情を作っているのか、本心から意外に思っているのかは外見からは分からない。
「これはアリスゲームとは無関係なこと。私の個人的な望みなのですから。黒薔薇のお姉様にも青薔薇のお姉様にも、ご自分の不利益になることは何一つありませんわ」
「そぉんなことはないだろー」
 やや間延びした言い方で、しかし間髪をいれずに少年は言った。
「もしこの子がローザミスティカ持ってたら、キラキィはそれ使えるようになるんだろ。んで、どんな力か知らないけど、この子達が持ってるローザミスティカは凄いパワーがあるって話じゃんか。それって、俺達にしてみりゃ不利だろ、アリスゲーム的にさ」
 相手の名前を半分以下に略して、少年は聞きようによってはひどく失礼な物言いをした。
 蒼星石は彼の言葉を制止しようとして口を開きかけ、思い直した。少年の意見は水銀燈から聞きかじった知識を繋ぎ合わせた不完全な理解を基にした稚拙なものに過ぎなかったが、それは一面の真実でもあった。
 少年は一拍置いて続ける。視線は真っ直ぐに雪華綺晶に向いている。何故か、雪華綺晶もごく真面目な面持ちでその視線を受け止めていた。
「それに、大事なのはそんなことじゃない。
 キラキィは体を乗っ取ってめでたしめでたしかもしんないけどさ、この子にも魂があるんだろ? それはどうなっちゃうんだい」
「ああ……そのことを気に病んでいらっしゃったのね」
 雪華綺晶は納得したような表情になり、また微笑みを浮かべた顔に戻った。
「ご心配には及びませんわ。動力源とボディを失ってしまったドールの魂は無力となり、何処か遠くに旅立ってしまいます。それが次のボディを求めて、貴方の大事な想い人──お姉様達を襲うことはありません。お約束できますわ」
 へえ、と少年は軽く頷いた。左胸に凭せ掛けられた白い小さな頭を眺め、それから雪華綺晶に視線を戻す。
「それだけ?」
「そのドールの中にある『ローザミスティカのようなもの』がご所望でしたら、それも差し上げます。いくら素晴らしい力を秘めていても、所詮は異界の品物。私には扱えるかどうかも分からない物なのですから」
「なるほど……じゃ、そっちも別に心配しなくてもいいってわけなんだ」
「ええ」
 雪華綺晶は微笑んだまま、ゆっくりと少年に滑り寄り、すっと手を伸ばす。少年は人形を抱いていた右腕を、人形の膝下に通したままそちらに伸ばした。
「お分かりいただけてとても嬉しいですわ。──記憶を失っていても、やはり貴方は思ったとおりの方。貴方は私を受け容れてくださいますのね」
 雪華綺晶の微笑みは、感動を含んだものに変わっているようにも見えた。小さな手が、少年の手に触れる。

──どうして。

 蒼星石は半ば呆然とその様を見詰めていた。
 いくら知識が失われ、思慮よりも行動に性格が傾いているとはいえ、少年が簡単に雪華綺晶に手を伸ばすのが信じられない。この隻眼の末妹は口約束を簡単に反古に出来る性格だ、と水銀燈は彼には言っていなかったのか。
 それとも、ここで彼女に恩を売っておくのが有利だと思ったのか。あるいは、彼女に威圧感を覚え、怯えてしまったとでもいうのか。
 いずれにしても、彼女にそのドールのボディを渡すことが他の姉妹に有利に働くことは有り得ないことくらいは、少年でも分かりそうなものだ。それも判断できないほど平常心を保てないでいるのか。

──どちらにしても、それだけはいけない。させてはいけない。

 理屈ではない内心の何かが蒼星石にそう言っていた。
 蒼星石が遅まきながら制止の声を上げようとしたとき、乾いた音が辺りに響いた。


「七番目の子が既に出現しているというの」
 それを声に出したのは水銀燈でなく真紅だった。
「それは……二つの意味で危険だわ」
 短い言葉だが、却ってそれがその場の全員に彼女の考えをよく報せている。真紅はラプラスの魔が示唆したような可能性だけでなく、二人が結託してしまうこともあるのではないかと恐れていた。
 水銀燈は腕を組んで難しい顔をしたまま、真紅に軽く頷いてみせる。
「第七ドールの能力は私も知らない。そういえば名前も聞いてないわね。
 情報を握り込んで時機を窺ってる雪華綺晶が敢えてそんな得体の知れないモノと手を組むかどうかは疑問だけど、仮に似たような能力で更に物理的な力を強化された──真紅に対する『真紅』や蒼星石に対する『蒼星石』のようなものだとしたら。
 二人で結託されて、実体持ちで自由に現実世界に出て来られたらもう私達の手には負えないわね。永きに亙ったアリスゲームの終焉ってところねぇ」
 他人事のように言ってしまうのは最近の水銀燈の癖のようなものだが、今回に限ってはいつもの突き放した物言いとはまた別のニュアンスを含んでいた。仮にそうであれば策を弄する余地のあるような相手ではないと感じてしまっているのだ。
 ただ、もはや手も足も出ない、と絶望しているわけでもない。それには理由があった。
「まあ、雪華綺晶には手を組むメリットがあっても、相手には大して意味がない連携でしょうね。逆に言えば、雪華綺晶からすれば精々上手いこと使い捨てにされるのが落ちの提携関係でもある。その辺は末妹の理性に期待するしかないわね」
「……そうかしら」
 真紅は首を傾げる代わりに僅かに目を伏せた。水銀燈に対して言いにくいことでもあった。
「貴女はドライに割り切れるのかもしれないけれど、私は自分の目の前に『真紅』が現れたら、彼女に手を貸してしまうと思うわ。どちらも同じ自分だもの」
 真紅らしい言葉ではあった。過剰に情に流されると言ってしまえばそれまでなのだが、ある意味ではそれも人間らしい心の動きとも言えるかもしれない。
 そして、彼女が未だ見ぬドールのことを自分に過剰に引き付けて話しているわけではないことも事実だ。真紅はむしろ最悪の状況の一つとしてそれを提示しているに過ぎない。
 そうねぇ、と水銀燈は腕を組んだまま頭を一つ振る。ストレートの髪がさらりと流れた。
「向こうの第七ドールが貴女のような慈悲深い存在でないことを祈ったほうがいいのかもね」
 あっさりと言ってラプラスの魔に視線を移す。兎頭の紳士は相変わらず表情を見せずに真紅を見ていた。
 水銀燈はにやりと口の端を持ち上げる。自分の考えが概ね正しいことを確認できたような気がした。
「どちらにしても、そこの腹黒兎さんがどっしり構えている間は、そう心配する必要はないような気がするのだけど。何か情報は掴んでいるんでしょう」
 紳士は水銀燈を見上げた。初めからそういう風に話が回ってくることを予期していたような仕草だった。
「その点の御買い被りは平にご容赦願いたいところですが……」
 私はゲームの進行者でも、まして支配者でもなく、一介の検分役に過ぎませんから、と慇懃な口調で前口上のような言い訳をしてから、紳士は真紅に視線を戻した。
「ご考察は興味深く承りましたが、紅薔薇の御嬢様の御懸念は無用のものかもしれませんぞ。かの第七ドールは恐らく、ご懸念されているような形では御嬢様達と関わろうとはしないはず」
 何故なら、と紳士は水銀燈に視線を移す。
「そのドールは白薔薇の御嬢様とは似て非なる能力を持っております。そして、扉を抜けたばかりの今は未だ動くことさえ侭なりません。誰かがゼンマイを巻くまでは」
 紳士はひくひくと兎の鼻をうごめかせた。見ようによっては、それはそこに居並ぶ面々を笑っているようにも見えなくもなかった。
「白薔薇の御嬢様にとっては、気の置けぬ仲間や信の置けぬ同盟者というよりは、今そこにある恰好のボディ、といったところでしょうか」
 その言葉が終わらないうちに、窓のところでがたんと音がした。部屋の中の視線がそこに集まり、翠星石が声を張り上げる。
「チビチビ、人が真面目な話してるときに何やってやがるです!」
 雛苺は必死に窓に取り付いていた。
「メイメイが、お外にいるのっ」
 小さな閂を開けると全身の力を込めて窓を開ける。バランスを崩して落ちそうになるのを、横合いから部屋を横断して滑空してきた水銀燈が抱きとめた。
 二人の目の前を銀色に光る球体がすっと過ぎり、ぐるりと回って部屋の真ん中で停止すると、その場の全員に思念を送りつける。水銀燈は思わず笑ってしまった。
「……なるほどね。何時まで経っても帰って来ないと思ったら、そういうこと」
 水銀燈は雛苺を床に下ろすと、仕事机の上に飛び乗り、掻っ攫うように小箱を回収して全員を見渡した。まだ口許には不謹慎な笑いを浮かべている。
「悪いけど、先に失礼させてもらうわ。蒼星石が私を出し抜いて、媒介を連れてとんでもないモノを拾いに行ってるんじゃ、一人だけ知らぬ存ぜぬを通すわけにもいかないものね」


 ぱちん、と音が響く。
 右手を大きく体の左側に弾かれ、雪華綺晶はぐらりと体勢を崩し、ゆったりと滑って近づいていたその速度のまま、左側にゆらりと流れた。
 雪華綺晶の伸ばした手は、少年の手の甲で手荒く払われていた。
 動きを止めた雪華綺晶の前から、少年は後ろに跳躍して間を取り、人形を抱えなおした。
「うん、分かった。だから、駄目だ」
 少年は何故か辛そうに言った。
「キラキィが凄くこの子の体を欲しいのは分かった。でもキラキィが言ってんのは全部俺達の都合だろ。俺の聞きたかったのはそういう話じゃなかったんだ。体をなくしたこの子はどうなるか、そっちの方なんだ。
 俺にはアリスゲームの難しいことは分かんない。誰が勝って誰が死んじゃうにしても、どう終わるにしても、悔しいけどそれがみんなの宿命ならしょうがないと思ってる。でもさ、この子がほんとに他の世界のローゼンメイデンでも、俺達のアリスゲームはこの子には関係ないだろ」
 蒼星石は彼へと伸ばしかけていた手を胸元に引き付け、何か冷たいものを胸元に突き刺されたような気分で彼を見た。
 雪華綺晶だけではない。蒼星石もまた、その視点を忘れていた。単純に自分達の利害だけを考え、その結果として彼を制止しようとしていた。
 だが、結菱老人の愛した女性の心の木を伐り倒すのを翠星石が必死に止めたように、彼もまたゲームの外側に居る者を巻き込むのを嫌っている。それは本来、さほど精密にアリスゲームを理解していない彼よりも、誇り高くあるはずの薔薇乙女達自身が持っていて然るべき視点のはずだった。
「関係ない子をゲームに引き擦り込むのがキラキィのルールなら、俺だって俺ルールを使わせて貰うぜ。この子を最初に見付けたのがメイメイかキラキィかは知らないけど、先に拾ったのは俺だ。だから今んとこ、このドールは俺のもんだ。キラキィには渡さない」
 言葉は稚拙で激しかったが、彼は激昂しているわけではない。水銀燈があの人形に向けて話していたときのような──苦虫を噛み潰したような顔で、駄々をこねる子供のように、言わなくても構わないような言葉を口にしていた。
 しかし、蒼星石の目から見る限り、その子供じみた屁理屈を向けられた方が何処までまともにそれを聞き取っているかは疑問だった。
 雪華綺晶は微笑を顔に貼り付けたまま、凝固したように唇ひとつ動かさずに、蒼星石から見て右側にゆっくりと漂っていく。隻眼も彼に手を払われたときのまま、前に視線を固定し、底知れぬ虚空を見ていた。

──まるで叩かれたはずみに動力が切れた自動人形のようだ。

 ふとそんなことを考える。もちろん雪華綺晶がその程度で活力を失うことは有り得ない。彼の態度に手酷いショックを受けただけの話だろう。
 その場に流されやすい自分の心の動きを蒼星石は感じていた。ついさっきまで考えていたことは棚に上げて、些かならず哀れさが忍び寄って来ている。随分都合のいい話だった。
 しかし、かと言って目の前の末妹に手を差し伸べる気にも、少年を詰る気分にもなれない。敢えて言えば、それは無責任な同情に近い感情だった。
 感受性の高い他の姉妹──真紅や翠星石なら、もっと別の感傷が心に湧くのかもしれない。もしかしたら、普段の自分であっても。
 だが、何故か彼女は雪華綺晶にそこから先まで踏み込んだ共感を持てなかった。何か別の昏い感情が、それを押し留めている。

 彼女は一つ頭を振り、感傷を振り払う。昏い感情が具体的に何なのかは、敢えて考えないことにした。
 無言で二体の人工精霊に思念を飛ばし、雪華綺晶を目視で警戒しながら少年の脇に移動する。レンピカは短い応答をすると雪華綺晶と二人の間で素早く警戒の軌道を取ったが、メイメイからの返答はなかった。
 メイメイは状況を見て水銀燈を呼びに行ったのかもしれない。そういえば、何故メイメイは水銀燈でなく少年を頼ってきたのだろうか、と今更の疑問が心の隅に湧いたが、取り敢えず今はどうでもいいことではあった。
 少年は口をへの字に結んで、見た目にも分かりやすく何かに耐えていたが、蒼星石を見てふっと鼻から息をつき、漸く口を開いた。
「……帰ろうぜ。あんま長くは居られないんだろ」
「そうだね」
 蒼星石が頷いたのと、彼女が注視している先で、白髪の末妹がぎりぎりと軋み音を立てるような動きでこちらに顔を向けたのはほぼ同時だった。蒼星石は咄嗟に彼を庇うように一歩前に出た。
「……何故ですの」
 平板な、抑揚にも大小にも欠けた声だった。今までの何処かお道化た口調とは正反対の、感情の篭っていない声音だったが、それは確かに雪華綺晶の声だった。
 少年がびくりとして雪華綺晶を見詰める。雪華綺晶も彼を見詰めていた。視線が絡んだ。
「私のモノはいつも、どうしてお下がりばかりなのですか。私が自分だけの何かを望んで手に入れることは、そんなに悪いことなのですか」
 ウェーブのかかった白い髪が、どっと脇に流れていく。まるで彼女が抑え込んでいる激情のように、凪いでいた無意識の海の急流が、いきなり横合いから襲ってきたのだ。
 雪華綺晶はその流れに逆らって立ち尽くしている。服が靡き、髪も流れに揉まれていたが、彼女自身は微動だにせず、隻眼の視線を少年に固定して、呪文のように言葉を紡ぎ始めた。

「貴方なら判ってくださると思っていましたのに。……いいえ違う、貴方はもう貴方ではないのですものね。貴方はここでない何処かに流れて行ってしまい、此処に在る人間は貴方の残した形骸に過ぎない。そういうことですものね。私のお会いしたい貴方が私をこんなに苛める訳がありませんもの。嗚呼……それならば、私はその其処に在る形骸を私の姿をした形骸諸共手に入れなくては。貴方と私の宿るおうち。宿を失くした貴方を私は探しに行かなくては。その前に貴方のおうちを今、手元の安全な処に匿わなくてはいけません。そうでなくては、おうちはすぐに流れて行って、他の猫がすぐに住み着いてしまいますもの。そう、其処で此方を見ている薄汚いシルクハットを被った泥棒猫がッ」

 雪華綺晶は鋭く右手を振り、それに合わせたように一群の白茨が二人を目掛けて突き進んできた。
 蒼星石は彼を後ろに突き飛ばそうとしたが、流石に無理があった。体重の差がありすぎるのだ。逆に自分が前に飛び出すような恰好になってしまったが、それはこの際どちらでも良かった。
「先に逃げて! ……レンピカ、鋏を!」
 レンピカは蒼星石の得物を召喚し、蒼星石は白茨をぎりぎりのところで避けながら鋏を振るった。
 剪定鋏としては最低の使い方だが、先端まで鋭く刃の付いた鋏は挟んで切るだけでなく、突くことや斬ることもできなくはない。気を抜くと絡み付いてくる茨を、蒼星石は殆ど反射的に、そうした邪道な遣い方まで駆使してどうにか防ぎ切った。
 だが、漸く開けた視界を見詰めなおした彼女は愕然とした。
 縄のように纏まった白茨の太い束が、彼女のすぐ脇をかすめて後方に向かっている。その先に何があったかは確かめるまでもなかった。
 彼女に向かってきたものとは量と密度が全く違っていたのだろう。彼が居たであろう辺りには人間よりも遥かに巨大な白い薔薇の蕾が禍々しく、あからさまに何かを飲み込んだ形に膨れ上がっていた。
「……っ!」
 蒼星石は声にならない声を上げ、白茨の束に斬りつける。到底挟んで切れるほどの太さではなかった。
 蕾そのものに鋏を向けなかっただけ、まだ彼女は冷静な部分を残していたと言えるかもしれない。しかし、鋏で傷が付けられるとはいっても、束になった白茨に対しては虚しい努力だった。相手の量が多過ぎるのだ。
 二度、三度と鋏を振るうごとに、意気込みが失望と無力感に置き換えられていく。蒼星石は鋏を持ち直し、茨を操る白い姿に向き直った。
「やっとお分かりになりました? 無駄でしょう」
 雪華綺晶はまた、艶然とした微笑を浮かべていた。
「ふふ、怖いお顔。貴女のことを気に入られている方には、凛々しいとか健気に見えるのでしょうけれど」
「……無駄話は好きじゃない」
 蒼星石は鋏を構え、雪華綺晶に向かって突進した。雪華綺晶は笑顔のまま、茨をまた一群送り出す。
 それは先程彼女に向かってきた茨の群より大分少なかったが、それでも彼女の足を止めてしまうには充分だった。

──これじゃ埒が明かない。

 絡み付いてくる白茨と格闘しながら、どうにかしなければ、と蒼星石は考える。しかし、彼女にはどうにかできるだけの余裕も時間もなかった。
 茨を切り続けているうちに、いずれタイムリミットはやってきてしまう。それまでにどうにかしなければ、ここで皆この隻眼の白髪鬼の監獄に囚われてしまうだろう。
 だが、生憎と有効な思案は浮かんでこなかった。絶望がじわじわと滲んでくる中で、彼女は目の前の脅威に対して空しい作業を繰り返し続けるほかなかった。



 むせるような薔薇の花の匂いに包まれながら、少年はざまぁねぇやと呟いた。
 蒼星石が最初の茨の群れに飛び込んでいったのを見て、少年は彼女の言葉に従った。理解力に難がある、と詰られることが多い彼だが、雪華綺晶の目標が蒼星石ではなく、自分と自分の抱いている人形だということについては流石に理解していた。
 愚図愚図している暇はない、と彼は思い切り良く身を翻して逃げ出した。不人情と謗られるかもしれない行動だったが、その判断は多分間違っていなかったと少年は思う。
 ただ、相手の実力は少年と蒼星石が想定していたよりも遥かに上だった。
 精一杯ダッシュしたはずなのに、何か巨大なものが凄まじい勢いで背後に迫ったかと思うと、次の瞬間には少年は抱いていた人形諸共、入り組んだ形の白い小部屋に囚われていた。
 多分、いきなり逆上させてしまったのが悪かったのだろう。何か上手い言葉で間を繋いでいれば、穏便に済ませることはできなくても、そのうちに隙を衝いて逃げおおせる機会が見出せたかもしれない。
 しかし、それは語彙の多くない少年と、言葉を弄するのが不得手な蒼星石の二人には荷が重過ぎる選択肢だった。彼等は彼等らしく、正直に雪華綺晶を否定して、強烈なしっぺ返しをされたのだった。
 それは仕方がないことだと彼は思う。実力の差というものを見せ付けられただけだ。ただ、メイメイの──水銀燈の期待に応えられなかったことと、結局腕の中の人形を雪華綺晶に渡してしまうことになるのは残念だったし、何より蒼星石のことが気懸りだった。
 雪華綺晶はどういうわけか、蒼星石のことを目の仇にしていたようだった。理詰めで行けば彼女が恨んで敵視するのはいろいろと彼女の可能性を潰して回っている水銀燈のはずで、蒼星石は無関係もいいところなのに。

 他ならぬ「今現在の」自分自身が二人の争点になっていることには、少年は気付いていなかった。
 彼が単純にそういった心理に致命的に疎いだけであるとか、正確に理解しているのに敢えて気付かない振りをしていたいとかいう恋愛小説的な状態であればまだ上等なのだろうが、生憎とそういう高度な事情は彼にはない。
 彼の認識では、彼の周囲の薔薇乙女達──といっても水銀燈と蒼星石の二人だけだ──が好意を向けているのは、専ら過去の自分だった。今の自分はその延長線上、言い換えれば過去の自分の選択の結果として存在しているから受け容れられているだけで、それ以上でも以下でもない。
 もっと端的に言ってしまえば、自分が捨ててしまったという、生まれる前から持っていた知識と経験と人格の方を彼女達は愛しているように見える。
 そして、少なくとも水銀燈に対してはそれは正しい認識だった。ただそこに、記憶を失う前の彼が既に想い出として美化され始めているという側面があることを少年は知らない。
 先程雪華綺晶が呟いていたように、今の自分は残り滓に過ぎない、というのが少年の現状認識だった。何の役にも立たないし、むしろ何かと水銀燈の手を煩わせているだけだ。
 ただ、無力感に自棄を起こしたり鬱屈していってしまうような繊細さも彼にはなかった。今のところ見放されていないのだから頑張ってできることを見付けて行けばよいという、前向きというよりは楽天的な考えが彼を動かしている。
 蒼星石がむしろそんな彼だからこそ密かな好意を向け始めていることには、向けられている当人は気付いていない。
 まして、雪華綺晶が無自覚だが深い嫉妬を向けているのが、腕の中で眠っているドールでも蒼星石本人でもなく、蒼星石が抱いているささやかな恋心──稀代の錬金術師にして人形師の創り上げた最高傑作の一つというよりは、むしろ平凡な年頃の少女のような──だということなど、考えも及ばないことだった。

 お手上げと言いたいところだったが、少年はどうにか気を取り直すことに成功した。
「なんとかしなくちゃな」
 腕に抱いたままの白い人形に視線を落とす。生きているように愛らしい、というよりは大きくて精巧なフィギュアのような顔だが、美醜はこの際関係がなかった。とにかく、メイメイがわざわざ自分を見込んで頼んできたのだし、何より相手の前で二人で意地を張ってみせたのだから、なんとしても二人でこの人形を回収して現実世界に帰らなければいけない。
 ごめんなと一応謝ってから人形を片手で抱き直し、空いた手で閉じている白い花弁を押してみる。いくらか撓む手応えはあったが、異様に重かった。
 殴りつけ、力任せに蹴飛ばしてみても同じだった。体育館のマットを相手にしているような感覚で、硬くはないがその重量と柔らかさが少々の打撃など吸収してしまうように思える。
「掌底で衝撃を与えるとか……」
 口に出してみると改めて無理だということが分かってしまう。そもそも少年はそういう拳法やら空手のようなものを扱えるわけではなかった。
「──くそ」
 腹いせに思い切り蹴飛ばしてみる。しかし、結果には取り立てて変わったところはなかった。少しばかり余分に靴の先がめり込み、花弁がやや強めに揺れただけだ。

──なんか鎌とか剪定鋏とか……なんかあれば……。

 午後まで庭仕事をしていたせいか、ついそういうものを想像してしまう。包丁やら果物ナイフの方が恐らくこの場では有効なのだろうが、少年の連想はそちらの方向には向かなかった。
 ともかく、見回してみたところで何かが出てくるわけもない、と空いている方の手でごそごそとポケットを漁ってみる。桜田宅に行ったときに着ていたツナギならともかく、普段着に着替えた後では便利なものは出てくるはずもなかった。ハンカチと飴玉程度、後は帰宅したときからそのままになっている財布くらいなものだ。
「小銭とカードか……意味ねえっ」
 言いながらも、人形を抱いた姿勢のまま不器用に財布を取り出し、本屋のレンタル会員券を抜いてそれを手に持ってみる。
「これで切れれば御の字!」
 もしかしたら花びらには歯が立つのではないか、という計算というよりは願望に近い思いで精一杯切り込んでみる。結果は虚しいものだった。
 花弁の表面にはごく浅い傷がついただけで、どういうわけかそれもすぐに回復してしまう。掌に押し当てた爪の跡が瞬時に元通りになるようなものだった。
「なんだよこりゃ……」
 それでも二度、三度とカードで切りつけて、少年はそれが無駄だと悟らされた。形こそ巨大な薔薇の花弁だが、それはどちらかと言えば動物の皮膚に近い、それも回復の異常に早い、異質な何かだった。

──こりゃ、ほんとに草刈機でも持って来なくちゃ駄目だ。

 それも、専用のチップソーが付いたものでないと無理だろう。
 少年は午前中に使った刈払機を思い出していた。沼のようになった池の跡に生えていた灌木を伐るのにはいつものナイロンコードや普通のチップソーでは無理で、彼は初めて「山林下刈専用」という何やら玄人っぽい名前の付いた、刃の数の異様に多いチップソーを刈払機に付けて使ったのだった。
 確か100枚刃だったっけ、と余計なことまで思い出してしまう。小さめの肉抜き穴がびっしり開いた、いかにも普通とは違いますよとアピールしているような品物だった。そして、謳っているとおりかどうかは分からないが、少なくとも灌木はどれも根元近いところですっぱりと切断できたのだ。

──あれがここにあればなぁ。

 あのくらい切れ味が良ければ、多分こんな柔らかいモノなら苦もなく切断して、大穴を開けてやれるはずだ、と少年は思う。有り得ない妄想に逃げるのは一種の逃避行動なのだが、本人はそれに気付いてはいなかった。

「……しいの……?」

 かすかな声がした。少年は思わず花弁の向こうに聞き耳を立てる。雪華綺晶か蒼星石がすぐ外で何かを言ったのではないかと考えてしまったのだ。
 しかし、声はもっと近いところから発せられていた。
「……が、あれば……あなた……出られるの?」
「目ぇ覚めたのか?」
 慌てて視線を人形の顔に戻す。雪華綺晶とよく似た人形は、目を閉じたまま、唇だけを僅かに動かしていた。
「……強く、イメージして」
「なんだって?」
「それを……はっきりと、具体的に」
 途切れ途切れだったが、何を言いたいのかは伝わってきた。少なくとも少年は理解した気分になった。
 彼がもう少し疑い深い性格なら、これは罠ではないかと疑ったかもしれない。思慮分別に富んでいれば、追い込まれたが故の幻想だと悲観してしまったかもしれない。
 だが、彼は良くも悪くも彼に過ぎなかった。いつも薔薇乙女達にそうしているように、特に裏を読まずに素直に彼なりにドールの言葉を理解した。
 よし、と一つ頷いて、少年は自分の考えを纏めるために口に出してみる。
「欲しいのはチップソーじゃないんだ。ああっと、それももちろん必要なんだけど、草刈機全部が揃ってないと駄目だ。燃料も満タンで、すぐ使える状態になってないと」
 顎を引き、目を閉じて眉を寄せながらいつもの工程を思い出す。
 薔薇屋敷の裏手の倉庫の壁に掛けてある刈払機。Uハンドルで、右手側にスロットルレバーが付いている。肩掛け紐はすぐに裏返しになってしまうから、使うときはちゃんと捩れていないか確認してから肩に掛けないといけない。
 混合ガソリンも必要だ。使い終わって壁に掛けてある状態ではガソリンは抜いてあるから、使う前に混合燃料を燃料タンクに八分目になるまで注いでやる。
 給油を終えて現場に持って行ったら、キャブレターの下面にあるゴムのポンプを押してやって、最初の燃料をエンジンに入れ──
「──!」
 急に周囲が暗くなったような気がして、少年ははっと目を開けた。正面には何の異常もない。だが、花で言えば中心に近い方を振り向くと、そこにあったはずの複雑な形をしたものは跡形もなく消え、虚無がぽっかりと口を開けていた。
 抱いていた人形の髪が、風もないのにそちらに靡いていく。人形の身体そのものもそちらに動き出そうとしている。いや、そうではない。人形が、虚無へと引き込まれようとしているのだった。
「なんだよこいつは!」
「焦らないで……集中して、イメージを作って」
 かすれたような声で、人形は懸命に呟いていた。
「だってお前、んな悠長なことやってたら持ってかれちまうんじゃ」
「……余裕があるうちに……早く」
 少年はもう一言言いかけ、そこで漸く理解した。
「畜生、一方通行の会話かよ。分かってたけどさ!」
 彼の声は多分届いていない。人形は彼の感情の流れのようなものだけを感じ取り、自分の意思を伝えるだけで精一杯なのだろう。
 目を閉じていても引き込まれて行かないように両手で人形をきつく抱き直す。額に汗をかきながらぎゅっと目を閉じ、中断してしまった刈払機のイメージをもう一度はっきりさせようと努力した。
 気ばかり焦って、中々それは具体的になってこない。それでも少年は必死で刈払機をイメージした。
 幾つもの意味で時間が切迫してきている。そのくらいは彼でも理解しているのだ。


「ふふ……強情な方」
 先程一瞬だけとはいえ寂しそうな顔を見せたことや、能面のように無表情で呪詛のような言葉を呟いていたことが信じられないほどのにこやかな笑顔で、雪華綺晶は蒼星石に呟いた。
「今なら貴女だけは逃がして差し上げても良いのですよ、青薔薇のお姉様。私の欲しいものは二つとも手に入ったのですから」
「それはもう、二度も聞いた」
 蒼星石は言いながら、レンピカと連携して何度目かの白茨の突進を防いだ。
 白茨の攻撃には一定のパターン、もしくはリズムのようなものがあった。レンピカとの連携が上手くなってきたことも影響しているのか、蒼星石が白茨の群を切り抜けるまでの時間は次第に短くなり、結果として雪華綺晶との間は狭くなってきている。
 それは見て分かっているだろうに攻撃方法を全く変えないのは雪華綺晶の余裕の現われなのか、それとも変えられない理由でもあるのだろうか、とふと蒼星石は考える。
 雪華綺晶が白茨を放ったタイミングで即逃走にかかれば、間隔が少しばかり詰まろうが関係のないことなのだが、雪華綺晶は一向に退こうとしない。恐らく彼と人形を飲み込んだ巨大な白薔薇は雪華綺晶と共に逃走することができないのだろう、と彼女は推測していた。
 しかし、それでも追い詰められているのは蒼星石の方だった。時間というファクターは、今のところ雪華綺晶に有利に働いている。

──あとどの程度なのだろう。五分か、十分か。

 あるいはそれほども残っていないかもしれない。
 nのフィールドの中で、味方に媒介のいない戦いをするのは、考えてみれば水銀燈が真紅の腕をもぎ取って以来だった。
 あのときでさえ、自分はマスター不在だったとはいえ、当初は媒介の必要ない水銀燈がこちら側についていた。有利不利は別にして、少なくとも時間制限を気にするほど長引くような戦いではなかった。
 今は全く事情が違っている。彼女は独りで雪華綺晶を倒すか退却させなくてはならない。それなのに、まだその本体に指一本触れることができていないばかりか、自分に残された時間は刻々と短くなっていく。
 それでも、その刻限が来るまでは鋏を振るい続けよう、と彼女は覚悟を決めていた。
 何かハプニングが雪華綺晶側に起きないとは限らないし、自分の突進が相手に届くこともあるかもしれない。可能性が全くなくなるまでは諦めたくなかった。

 彼女は自分の一番大きな変容に気付いていない。
 以前の彼女なら、そこにもう一言足してしまっていたはずだ。それが僕なのだから、と。
 今の彼女にはそういった理由付けは必要なかった。契約も誇りも意地も、アリスゲームさえも関係なく、敢えて言えば自分の勝手で戦っている。
 それは薔薇乙女として、ひいては至高の少女を目指す者としては大きな退歩かもしれない。至高というよりは俗物的な、夢の少女というモノの反対側、その辺りに転がっている現実の人間に大きく近付いてしまったことと同義だった。
 知識を得て精神的に弱くなった、強くなったなどというのは、それに比べたら些細なことに過ぎない。いや、俗な方向に動いたことを彼女は漠然と「弱くなった」と受け止めているのかもしれない。
 蒼星石が求めてやまなかった「自分」は、彼女自身気付かないうちに獲得できてしまっている。ただ、その衝動が至高の少女の一部となるための動機付けとして用意されたものであるなら、随分と皮肉な形と言うしかなかった。

 いずれにせよ、蒼星石はそういったことを考える間もなく、雪華綺晶に突進しては彼女の繰り出す白茨に阻まれるという行動を続けている。それが次第に雪華綺晶の近辺まで押して来ているのは、雪華綺晶側の圧力不足というよりは、蒼星石の執念の表れのようなものだった。
「何度も何度も同じことばかり……退屈におなりにならないのが不思議ですわ、お姉様」
 雪華綺晶は白茨を放つ合間に揶揄するような笑みを蒼星石に向けた。
 ただ、その瞳は笑っていない。隻眼は先程泥棒猫呼ばわりしたときよりもずっと昏い色で蒼星石を睨み付けている。恐らく蒼星石が白茨を処理している間も、そのまま睨み続けているのだろう。
 その理由は何なのだろうか。自分への嫉妬や嫌悪だけだとしたら、もっと憎しみをはっきりと押し出してもおかしくないはずだ。少なくとも一度は本心を露わにしたのだし、それを今更隠す理由はない。
「僅かずつでも目標に近付いているからね」
 蒼星石はにやりとしてみせた。雪華綺晶は無言で微笑し、新たな白茨を放ってそれに応える。


 少年のイメージは徐々に、刈払機を動かす工程から機械本体の細部に及んでいった。黒いプラスティックのエアクリーナーカバー、赤いチョークレバー、燃料タンクから伸びる給油管と復油管、いつもグリスのチェックが必要なギアボックス。刈刃押えは逆ナットだから注意して扱わないといけない。
 漫画風に描けば滑稽極まりない光景かもしれない。白い薔薇の蕾に飲まれ、背後には暗い虚無がぽっかりと口を開けている場所で、少年は大きな人形を胸に抱き締め、額に脂汗まで滲ませながら、一心に冴えない安物の農業機械を思い浮かべている。
 しかし、それは彼にとっては唯一の、現状を打破できそうなアイテムだった。
「……それの、名前……は?」
「名前なんてついてないぞ。ただの草刈機だって」
「……」
 人形の頭がかすかに、頷くように動いたような気がした。
「私と同じ……」
「えっ?」
 少年は思わず目を開け、まじまじと人形の顔を見詰める。人形は金色の瞳を開き、彼を見上げていた。
「名前は個体の識別に必要なもの。それはとても大切なもの。でも、対象の本質を表してはいない、仮の言葉」
 小さいが、はっきりした声だった。人形は視線だけを動かし、白い薔薇の花弁以外何も見えない「上」を眺めた。
「それはただの理屈ではなかったのですね、お父様。現にこうして、名前もない機械をこの人はイメージできた──」
 一瞬だけ人形の体が光ったように少年には思えた。それが収まると、人形はまた目を閉じ、もう声を上げることもなかった。
「おい、大丈夫か、おいっ」
 少年は二、三度人形を揺すってみて、それが再び言葉を喋ろうとしないことをやっと確認した。
 自発的に動かなくなっても、まだ虚無が人形を引き込んで行こうとしていることに変わりはない。現に腕の中から人形が流れて行きそうになっていた。一つ悪態をついて抱き直すと、狭い中だったせいで体勢が崩れた。
「っと……」
 手を突いた先を見ると、よく見慣れた、しかしここにあるはずのない物体がそこに出現していた。
「……すげえ」
 狭い中では取り回すだけで苦労しそうな長い竿の先に小さなエンジン、逆の先に丸鋸によく似た円盤が付いている。気付けば周囲に混合燃料の独特な匂いまで漂っていた。
「やったぜ。すげえじゃんお前! よぉし、これでどうにかしてやれるぜ」
 人形を落ちないように注意して片腕に抱え、その手で刈払機の竿を押えて、少年は空いている方の手でリコイルスターターを勢いよく引いた。小さなエンジンはまるでついさっきまで動いていたように、ぐずりもせず一発で始動した。


 レンピカが蒼星石の指示なしで螺旋を描くような軌道を取り、茨を幾つか切断した。蒼星石は後ろに下がりながら軌道を見定め、右下に沈み込んで直撃を避けながら残りを鋏で切り飛ばす。
 そのまま雪華綺晶の目前まで迫ったとき、微笑みと共に次の一陣が放たれる。圧力に押されながらそれを同じようにして切り落とす。我ながら、まるで同じ映画のシーンを見続けているようだと蒼星石は思った。

──しかし、流石にワンパターン過ぎないか。

 ここまで繰り返されると、その裏を考えざるを得ない。ただ時間を稼いでいるだけではなく、積極的にこれ以上の行動が取れない理由があるのではないか。
 夢中で戦い続けていたから気が回らなかったが、巨大な白薔薇の花も最初の位置から微動だにしないでいる。まるでその状態から動かそうにも動かせないようにさえ見えてしまう。
 自分に向かってくる茨を避ける。雪華綺晶に何が起きているというのかと考えていたせいで一瞬回避が遅れ、彼女は咄嗟に左下に動いて鋏を振るうことになった。半ば機械的に繰り返していた動きとは別の行動になってしまったせいか、それとも鋏の向きが逆手になってしまったためか、茨の処理が遅れた。大分余分に時間が掛ってしまう。
 向きが変わっただけでこうも違うのか、と体勢を立て直しながら考える。パターンに慣れて来たからこそ攻め込めていたものの、もともと間断なく飛んで来る白茨だけでも自分には十二分に脅威だ。それを忘れていただけだった。
 現に今回は前回までより若干距離が遠くなってしまっている。自分の行動こそパターン化しているのもいいところで、白茨の対処だけで殆ど飽和してしまっているではないか──
 彼女はびくりとする。遅まきながら、何かに気付いたような気がした。

──異変が起きて行動が取れないのではない。向こうも最初から飽和しているのだ。

 今の自分がそうであるように、雪華綺晶もまたこの場の維持で手一杯なのだ。そして、自分に常に同じルーチンで対応しているということは、主な注意はこちらに向いていないことを示している。
 必要以上に睨んでいたのはそれを隠すためか、あるいは一番注力している方の進捗がはかばかしくないことの焦りが表れているのだろう。
 それならば、と彼女は賭けに出ることに決めた。
 雪華綺晶の行動全体が罠である可能性も否定はできない。だが、罠を掛けて誘っているということは、逆に余裕がごく少ないことの表れでもある。
 それにどちらにしても、時間は自分に味方しない。仕掛けて損はないはずだ。
 もう数えるのを止めてしまった白茨の攻撃に対してレンピカが同じように力を殺ぎ、蒼星石は再びルーティンに戻り、右下への移動で残った茨をやり過ごし、一直線に伸びているそれらを鋏で切断する。
「残り時間はごく僅か……それなのにまだその動きを繰り返すのですか? お姉様」
 最後の白茨を切り飛ばしている最中に、雪華綺晶はからかい気味にそんな言葉を投げて寄越した。蒼星石は厳しい表情のまま、口周りだけを歪める。
「じゃあ、お望みのとおりに違う動きをさせて貰うよ」
 言いながら、それまでと同じように鋏を構えて真一文字に突進する。
「強気ですこと」
 雪華綺晶は能面のように微笑を貼り付けていた。
「でも違った動きをするのがお口だけでは、相手がただの可愛いお人形でも騙せませんわ。お姉様──」
 雪華綺晶の手が優雅に動き、蒼星石目掛けて白茨を放とうとした瞬間、その作り付けられていない右目の眼窩から生えた白薔薇が蒼い光を受けて一瞬煌き、次いで隻眼に強い蒼い光が届いた。
「──ッ!」
 雪華綺晶は思わず顔を背けて目を閉じ、空いている方の手で顔を覆う。白茨は放ったものの、体勢は大きく崩れていた。

 蒼星石が使ったのは散々使い古された、むしろ古来から定番になっている目晦ましだった。ただ、普通は太陽と鏡を使うそれを、人工精霊が強く瞬いたときの光と鍍金仕立ての鋏の刃で代用しただけのことだ。
 人工精霊は実体のある物には直接触れることができない。自分達の主人たる姉妹達を直接攻撃することも禁じられている。だが、自分の判断で行き場を決めることはできた。
 そして、少なくとも主人との呼吸の合い方と命令を無駄なくこなす能力に限れば、レンピカは六体の人工精霊のうちで最も優秀だった。
 レンピカは螺旋状の軌道で白茨を切断した後、元の位置には戻らず蒼星石と平行して飛び、彼女が鋏を動かしたときに自分の放つ光が雪華綺晶の顔に当たるような位置を取った。微調整は蒼星石が鋏を動かして行うという粗っぽい遣り方だった。
 しかし、その原始的で雑な仕掛けは結果的には大成功だった。偶然なのか何等かの作為が働いていたかは兎も角、光は雪華綺晶の太陽を未だに見たことのない隻眼を直撃したのだった。

 雪華綺晶が再び正面を向くまでにはほんの一拍ほどの間があっただけだった。
 時間的にはごく僅かな隙だったが、タイミングが最悪だった。放たれた白茨は目標を大きく外れ、圧力を失くして途惑うようにゆらゆらと蒼星石を指向する。その間に蒼星石は雪華綺晶に肉薄していた。
「──ごめん」
 先端の尖った鋏の刃を、蒼星石は容赦なく雪華綺晶に突き立てた。
 絶叫が響き渡った。


 何かがあったのは、少年にも伝わっていた。だが、それは彼にとって良い方向に事態が動いたとは決して言えない形だった。
 機械が首尾よく動いたにも関わらず、爆音の割に作業は捗っていなかった。片手に人形を抱えながら、空いている方の腕一本で長物を操作しているから思うように力が入らないのだ。
 それでも、どうにか横に二本の切れ目は入れられた。刈払機を持ち替え、今度は縦に切れ目を入れ始めたところで、魂消るような悲鳴が聞こえてきた。
「蒼星石!?」
 誰の声なのかはよく分からないが、悲鳴はごく細く開いた花弁の隙間からだけでなく、背後に開いた虚無の彼方からも同時に聞こえて来た。エンジンの爆音が響いているのに、まるで別の感覚が感じ取っているかのように明瞭に聴き取れた。
 が、問題はそこではなかった。声が収まらないうちに、虚無への口の縁が崩壊を始めた。白い花弁は茶色に萎び始め、腐って虚無へと落ちて行く。

──やべえ。

 この中に居たら、花弁が全部腐り落ちた時点で虚無に呑まれる。いつものように理屈でなく直感で、気取った言い方をするなら感性で、いつもの彼には似つかわしくなく瞬時に少年はそれを理解した。
 ホラー映画張りの恐怖展開だった。違っているのは、自分が観客の位置に居るのではなく、まさにその中に存在していることだ。
 兎も角もやれることは一つしかない。それにしがみつくように、少年は再び誰かが見ていたら滑稽だと笑い出しそうな作業に集中し直した。


 僅かに先端が開かれた庭師の鋏は深々と雪華綺晶の胸に突き立った。
 人間であれば動脈を切断するか内臓に深刻な損傷を負わせ、致命傷となったことだろう。彼女達薔薇乙女にとってもまた、そこはローザミスティカのある場所だった。
 鋏の先端は充分その場所に到達しているはずなのに、ローザミスティカの手応えのようなものは感じられない。蒼星石の一撃は単に大きなダメージを与えただけに留まっていた。もっとも、彼女の方も最初から致命傷を与えられるとは思っていない。胸に突き立てられただけでも僥倖と言うべきだった。
 蒼星石は痙攣している雪華綺晶の身体を思い切り蹴り飛ばし、その反動でどうにか突き刺さった刃を抜き取った。
 ボディがない相手のはずなのに、突き立てたときも抜くときにも蒼星石は妙な手応えを感じていた。少なくとも陶器や木材の手応えではなかったが、その具体的な材質について思い巡らす暇もなく彼女は雪華綺晶から離れた。
 その間も雪華綺晶の悲鳴は続いていた。
 だが、魂消るような絶叫を上げつつも雪華綺晶は今までになく大量の白茨を放ち、蒼星石を追わせた。それは痛みや憎悪に任せた苦し紛れの一撃に過ぎないのかもしれなかったが、先程放たれた茨と丁度呼応するような形になり、蒼星石を包み込むように迫って来た。
 かなりのダメージを与えたはずなのにまだこんなに余裕が残っているのか、と蒼星石は思い、すぐに自分の考えを訂正する。

──あの巨大な薔薇を手放したからだ。

 彼女の脇を通って少年がいたはずの地点まで真っ直ぐに伸びていた茨の束は、まるで高速度撮影を見るように醜く朽ち始めていた。枯れる、というような形ではない。まるで樹木ではなく湿地の草のように、不恰好に萎びて腐っていく。
 雪華綺晶のコントロールを外れ、力も供給されなくなったことの証明のようなものだった。茨の先端にある花自体はまだ形を保っているが、早晩同じ状態になるに違いない。
 あれに呑まれるとどうなるか、そこまでは分からない。だが、雪華綺晶があちらをどうにかするためにずっと注意と力そのものの大半を振り向けていたのだろう、ということは理解できた。
 大薔薇を捨てたのは本来の力が出せないほど手酷くダメージを受けたことを示しているのかもしれないが、蒼星石に割り当てる白茨の量は本命を捨ててしまった分多くできる。考えてみれば単純な話だった。

 思いを巡らしながらも、蒼星石は休みなく迫り来る茨の一部を切り飛ばして飛び抜け、その包囲網を免れた。幸い第二陣は飛来しなかった。
 愚図愚図してはいられなかった。雪華綺晶が痛みに苦しんだり心理的な衝撃に苦しんでいなければ、時間と共に体勢を立て直し、茨のコントロールにも余裕が生まれてくるだろう。
 それまでに腐ってゆく白薔薇から彼を救い出し、今度こそ二人揃って首尾よく退却しなければならない。
 開けた視界で雪華綺晶を一瞥する。純白の末妹は苦痛に呻吟しながら、もがくように大薔薇の方に向かって移動を始めていた。
 もう一撃を加えて意思を挫くべきか、という考えが過ぎる。だが彼女はそれを採らなかった。
 今は時間がない。大薔薇の花が朽ちて腐り落ちてしまう前に囚われた少年を助け出さなければ、恐らく彼は雪華綺晶のフィールドか、もしくはそこですらない容易に追えない何処かに引き込まれてしまうのだろう。
 自分の時間の方こそ余裕がなくなってきていることは、いつしか頭から抜け落ちていた。
 彼女は雪華綺晶に先んじて大薔薇に到達するために精一杯加速する。ちらりと相手の方を見遣ってみたが、雪華綺晶の動きは鈍く、周囲の流れに押されて軌道も安定していなかった。
 莫大な力を持っているらしい彼女も、苦痛には耐えられないらしい。それとも流石にダメージを受けた上に派手な一撃を放てば消耗してしまうということか。いずれにしても、蒼星石には好機だった。

 花に近付くにつれて聞き慣れた音が耳に届き始める。それはここでは有り得ない物が立てる音だったが、蒼星石は軽い驚きを感じる程度でそれを受け容れた。
「貴方はまだ……」
 力を失っていなかったんだね、と、こんな状況にも関わらず微笑みが浮かんでしまう。
 心の木のときはチェーンソーを、この場では刈払機を出現させ、彼女には伐れないものを伐ってくれている。それは相手によっては口惜しい事柄かもしれなかったが、何故か嬉しさが湧いて来るような気がした。
 彼女はすぐに微笑を引っ込め、甲高いエンジン音の響く場所に向かう。後ろから追ってきている相手のことを考えれば──
「──ぁ」
 小さく声が漏れてしまう。かくん、と力が抜け、それまで無視して強引に突き進んでいた身体を流れが翻弄し始めるのが分かった。

──意外に早かったな。

 自嘲気味に考える。nのフィールドでの時間制限よりも早く来てしまうとは思ってもみなかった。
 彼女達のもう一つの限界──媒介なしで行動しているときの、力の限度を超えてしまったのだ。雪華綺晶との戦いで常に全力を振り絞っていたのが原因なのは考えるまでもなかった。
 少年の操る刈払機のチップソーが不恰好な四角い切れ目を花弁に開けつつあることを確認して、蒼星石は後ろを振り向いた。流れに上手く乗ったのか、雪華綺晶は思ったよりもごく近くに迫っていた。
 ゆっくりと鋏を構え直しながら、蒼星石は雪華綺晶の顔を睨めつける。純白に包まれた蒼白の少女の顔は柔らかく微笑んでいた。そして、その目はもう彼女など見てはいなかった。
 白茨でなく雪華綺晶自身の手で、蒼星石は脇に突き飛ばされた。苦し紛れに鋏を動かしてみたものの、力が篭らない得物は流れに押されて狙いを外れ、白い髪を僅かに切り落としただけに終わった。

──ここまで来ているのに、何もできないのか。

 川面を流されていくセルロイドの人形のように激流の中を漂いながら、蒼星石は無力さを噛み締める。花弁は徐々に遠ざかっていく。
 レンピカがぴったりと彼女に寄り添ったが、忠実な人工精霊にもそれ以上のことはできなかった。
 今は次にレンピカに何を命じるか、それを考えるのが最良の選択肢なのだろうと彼女の冷静な部分が思う。他にできることはないし、手遅れにならないうちに命じなければ、今度は時間制限がやってくる。
 そうなれば彼女の魂と身体はローザミスティカと離れ、身体は雪華綺晶の手に落ちてしまうだろう。自分がどうなるかは兎も角、雪華綺晶に身体を渡すことだけは避けなければならない。
 一瞬だけ唇を噛み締める。理屈では分かっていても、もはやその程度しか為せる事がないという認識は雪華綺晶に力負けしたことよりも遥かに悔しいものだった。
 彼女は息をつき、力を抜いて目を閉じ、体力の消耗をできるだけ抑える体勢を取ってから、レンピカに与える指示を考え始める。時間のあるうちに、有能だが少しばかり頑固で融通の利かない人工精霊に、遺漏なく実行できるように指示を与えなくてはならなかった。


 雪華綺晶は微笑んでいた。彼が朽ち果てていく花から出て来ようとしているのは分かっていた。
 彼を先ず花に閉じ籠めることにしたのは雪華綺晶自身だったが、こうなってしまえば出て来て貰って一向に構わなかった。出て来たところを改めて捕獲すれば良いだけの話だ。むしろその時のために彼女は巨大な薔薇の花に向かっていた。
 邪魔をしていた蒼星石は、彼女に深い一撃を加えはしたもののその代償は大きかった。力を使い過ぎ、限界を超えてしまったのだ。
 電池切れの浅墓な姉を手で押し退け、彼女は大薔薇に取り付く。
 長いウェーブした髪の端が庭師の鋏に切られる感覚があったが、それは無視した。もう、彼女にとって蒼星石は脅威ではない。何ならもう暫くもがき回らせておいて、後から魂とローザミスティカの離れたボディを回収してもいい。それは彼女にとって二つ目の「家」になるだろう。
 痛む胸を薔薇の花弁にぴたりと付けたのは、彼女がそれだけ消耗していることの証だった。無力となった蒼星石に止めを刺さなかったのも同じ理由だ。刺さないのではなく、刺せなかったのだ。

 それもこれも、と雪華綺晶は微笑をいっそう無邪気なものに変える。彼かあの白い人形──多分、彼の方だろうが──の恐ろしいまでの抵抗力のせいだった。
 白薔薇は本来、彼等を呑み込んだところで即座に中身を雪華綺晶の世界に転送し、雪華綺晶はそれと共に退却するか、全力で蒼星石を倒してしまえるはずだった。単独で遣り合えば時間にも力にも制限つきの蒼星石に雪華綺晶の相手が務まるはずもない。
 しかし、彼はそれに苦もなく抵抗してしまった。雪華綺晶は致し方なく、白薔薇そのものに彼女の世界への扉を開け、彼等を吸引しようと試みた。
 それは非常に大きなリソースを必要とした上、継続して力を振り向けてやる必要があった。彼はそれすらも耐え切ってしまった。まるでそういった転送を無効化できる何かが備わっているようでさえあった。
 そして、彼は如何なる魔法を使ったものか、雪華綺晶の力の分配を失って腐り落ちていく薔薇の花弁から、けたたましい音を立てつつ飛び出ようとしてさえいる。
 痛い、力が出せないと言っている場合ではなかった。飛び出してきた厄介な彼を不意打ちで捕獲し、今度は外部からの干渉には弱いが確実な白茨で捕縛して自分のフィールドに連れ帰る好機だった。
 出て来なければ少年はnのフィールドの何処か深部に落ちるだろう。彼女にとってそれもまた悪くない展開だった。nのフィールドの中なら何処であっても彼女は回収に赴ける。ただし、他の姉妹に先に回収されてしまう可能性もないとは言えなかった。
 こちらに出てきたならば此処で捕獲してしまいたい。敢えて大仰に言えばその気持ちが彼女を苦しみながらも大薔薇の花へと向かわせたのだった。

 少年には蒼星石の直面している事態に気付いたり、雪華綺晶が自分の間近に迫ってきていることまで思慮を巡らせる余裕はなかった。
 ゆっくりとではあるが、薔薇の花弁は確実に崩壊している。頼みの綱の刈払機は、狭い中、しかも片手で扱っているせいで思うように動かせず、作業は思うように進まない。
 それでも、流石に専用の機械に専用の刃を付けているだけのことはあった。どうにか、足元まで崩壊が迫る前に花弁に大きく四角く切れ目を入れることには成功した。
「ざまぁ見やがれ! 文明の利器の力ぁ思い知ったか化け物花め。我々の科学力の勝利だ、ってやつだぜ」
 少年は笑い声を上げたが、問題はそこからだった。
 どん、と刈払機の先で切り取った部分を突いてみたものの、切り離せているはずのそこが花弁本体から離れないのだ。二度、三度と繰り返してみたが、ぐらぐらと動くことは動くのに、彼から見て下側の辺にあたる部分が引っかかっているように外れない。
 機械を止めている時間はない。少年は危険を承知で長身を窮屈そうに屈め、視点をどうにかその辺りにもっていく。切断面は暗い線のように見えるのだが、その中央辺りに花弁の色と同色の部分が残っていた。
「ちっくしょう、切り残しかよっ」
 焦っていてそこだけ残してしまったのかもしれない。いや、それしか考えられなかった。
「くっそぉぉぉぉぉぉ」
 崩壊は足元に迫っていた。少年は大声を上げることで恐慌に駆られそうになる自分をどうにか抑え、チップソーを切断面に差し入れる。

 思ったよりも消耗は激しかった。大薔薇のコントロールを切り捨てる踏ん切りを間違えたかもしれない、と薔薇の花に抱きつくように体を押し当てながら雪華綺晶は思う。もっと早期でも良かった。
 ただ、あの時点では蒼星石がどの程度まで戦えるか不明だったし、彼が何やら妙な形のものを持ち出して花を内側から切り刻み始めるのも予想できなかった。仕方のないことなのだ。
 仕方なくはあるが、残念でもある。自分の意識の上で仮に形成しているものとはいえ、ボディにダメージを負ってしまったのも、それがかなり重大なものだったことも残念だった。暫くは回復に専念しなければならないかもしれない。
 しかし、と荒い息をつき、考える。彼が出て来そうなのはとても良いことだ。
 変なものを扱えるらしいことは知っているが、それでも彼は契約者に過ぎない。実体のある薔薇乙女達ほどの能力も持ってはいない。出て来たら確実に捕獲はできる、と彼女は確信していた。
 彼女は歪な四角形に筋の入ったところで花弁に取り付いていた。その裏側に彼が居る。何か異様な音を立て、謎の魔法で筋を作ったらしいけれども。
 内側からどんどんと叩く音がしても、彼女の確信は揺らいでいなかった。
 ただ、それには自分に少しだけ時間が必要だということも分かって来ていた。薔薇を維持していたことによる消耗は思ったよりもずっと激しかったらしい。いや、蒼星石に受けたダメージのせいかもしれない。
 彼女は花弁に、現実世界の良く似た行動で言い表すならば「体重を掛けて」歪な四角形を抑え込んだ。
 花弁が崩壊するまでに少し回復したかった。回復しきれなかったら、このまま花弁が消滅するまで抑え込み続けてもいい。また脱出されてしまうかもしれないことを考えれば、nのフィールドの何処かに漂う彼を回収することなど大した手間ではない。自分は彼が何処に居ても追跡できるのだから。
 ちらりと確保している糧のことを考える。大分、彼女が糧として本来求めているものとは違う部分の力を使ってしまった。数少ない糧だから大事にしなければいけないのに。
 彼を捕獲したら、糧として使ってしまおうか、とまで考える。
「貴方のおうち。元気でなければいけないおうち。でも……」
 少しくらいはいいでしょう? だって、おうちになってしまえばすぐに回復できるのですもの。私のために少しくらい使っても許してくださいますよね──
 彼女が妄想に心からの微笑をしてみせたとき、左足に激痛が走った。

 どういうわけか花弁はそこだけ硬かった。少年は舌打ちをしながら、硬かったせいで切り残したのかもしれない、と瞬間的に考える。
 少年はスロットルを最大に開いた。爆音は異様に高まり、刃の辺りのスキール音も酷くなる。そこに別の音も混じっているのが分かったが、彼にはそれが何かということまで気を回すほどの余裕も残されていなかった。
 抵抗が酷く強いせいで暴れそうになる機械を必死で抑え付ける。ますます酷くなる音と、何かを焦がすような厭な匂いは無視して少年は刈払機を右から左にじりじりと動かした。
 手応えがなくなった、と感じたところで機械をそのまま勢い良く突き出す。ギアケースが壊れるかもしれないやり方だったが、彼はそんなことは一向に頓着しなかった。
 花弁の壁に不恰好な四角の窓が開いた。少年は躊躇なく、全身のバネを使ってそこから飛び出した。
 回転している機械を持ったままなのも、突き飛ばした花弁がどうなったかも気にならなかった。彼にとっては殆ど無風状態の空間に戻ると少年は声を限りに叫んだ。
「蒼星石ッ、大丈夫かあっ」
 辺りを見回すまでもなく、蒼い光が視界の隅にあった。少し遠いが、すぐに辿り着ける位置だ。
 彼は刈払機のキルスイッチを押し、一瞬のうちに静寂を取り戻した世界の中を、その光に向けて飛び出した。後ろを振り返る余裕はなかった。

 雪華綺晶は再び絶叫を上げた。そこから飛び退こうとしたが、どういうわけかどんなに力を振り絞っても体が言うことを利かなくなっていた。
 痛みと恐怖に叫びを上げ続けながら、彼女は悟った。回復する、しないといった次元の問題ではない。自分の力が何かに吸われているのだ。
 意識が徐々に薄くなっていく。それは今、仮のボディを切り刻まれているからというよりも、力そのものを吸われているのが原因だった。

──まさか。どうして。

 思い当たる原因は二つほどある。しかし、どちらであっても有り得ないことだとしか思えない。いや、思いたくなかった。
 彼女が薄れていく意識の中で考えている間にも、刈払機のチップソーは無慈悲に彼女の左の脛を左下から右上へとじりじりと切断して行き、最後に膝の下で切り飛ばした。
 意識がなくなる寸前、彼女は敗北感の中でローザミスティカと魂を自分の世界へと転移させることだけは成功した。それ以上の行動は時間的な余裕は兎も角、残された僅かな力の中では不可能だった。
 止めとばかり、歪な四角形がどんと一際勢い良く内側から突き飛ばされる。雪華綺晶の体はマネキンのように弾き飛ばされ、ゆっくりと漂いながらこの空間から消え失せていった。
 意識が途絶え、本体が自分の世界に帰還したために仮のボディが維持できなくなっただけの話ではあるが、彼女にとって無惨な撤退であることは間違いがなかった。


 黄色い光に先導された一人の少女と、銀色の光に先導された四人の少女が濁流の中で鉢合わせた。
 それはどちらにとっても予期しない邂逅であり、少なくとも金糸雀にとってはできるだけ避けたかった事柄だった。
「あら、金糸雀じゃない」
「す、水銀燈……奇遇かしら」
 軽く声を掛けられて金糸雀は若干ばつの悪そうな顔をした。

──ばれちゃったかしら……。

 金糸雀はピチカートからの報せを受けて、メイメイと蒼星石が雪華綺晶と戦っていた場所に急いでいたところだった。
 ピチカートはメイメイが白い人形を見付けて水銀燈の媒介の少年を連れに帰った時点では金糸雀の許に戻らずにその場で潜伏を続けていた。メイメイが人形をどうするのか、その行方を見届けるつもりだった。しかし蒼星石と少年を連れたメイメイがその場に戻り、雪華綺晶と戦端を開いてしまうと、流石に帰還して報告の要ありと判断せざるを得なかった。
 ピチカートの行動には問題はなかった。ただ、そちらを追い駆けていたことはできれば知られたくなかった。
 人工精霊に小さな人形まで放って追わせたのがあの黒い人形でなくメイメイだったことは、取りも直さず金糸雀が水銀燈を信用していないということを意味する。それは水銀燈本人にはあまり明かしたくない事柄だった。

 水銀燈の言葉を無条件に信用してはいない、という点では蒼星石も金糸雀と同じだろう。しかし、彼女にはこれといってアリスゲームに関する展望はないようだった。
 恐らく彼女はゲームに勝つことよりも今の契約者に負担を掛けないことを優先するだろう。この時代に限ったことではなく、今までもそうだったし、ゲームが次の時代に持ち越されたとしても変わるまい、と金糸雀は見ている。それが蒼星石の持って生まれた性格なのだ。
 金糸雀は少し違っている。もちろん過度な負担を掛け、契約者を指輪に取り込んでしまうほどの暴走をするつもりはない。だが、ゲームのために必要ならみつの力を借りても構わない、それは迷惑を掛けることとは少し違うのだと思っている。
 薔薇の契約は、一方的なものではないはずなのだ。どちらも恩恵を受け、お互いに助け合う。
 みつにとっては金糸雀の存在そのものが──彼女がドールマニアであることを除いても──救いになっていることは事実だし、金糸雀も出来る範囲で彼女の趣味や風呂敷残業の手伝いはしている。ただの可愛い居候ではないという自負はあった。
 もし、ゲームを遂行する上でみつの力を借りなければならないときが来れば、金糸雀は躊躇なくそうするだろう。むしろそれが薔薇乙女だという認識がある。
 金糸雀が折々に水銀燈のしてきた長話を全て信用しているわけではないのも、半分はそこに理由があった。
 水銀燈はゲームに利用できるものなら何でも──ただし彼女の美的感覚に照らして使うことに躊躇いを抱かないものに限られるのだろうが──利用するだろう。それは彼女の立場とアリスゲームに対する姿勢からはむしろ当然だ、と金糸雀は考えているし、否定するつもりはない。
 ただ、そうした彼女が長年貫いてきた襲撃者というスタイルでなく扇動者のような振る舞いをしているときに、その言葉の裏を読まずに受け容れるのは危険だった。たとえ全く嘘をついていなくても、都合の悪いことについて語らないで済ませることはできる。
 そういう駆け引きを汚いやり方だとか卑怯だとして忌み嫌っていないからこそ、金糸雀は現在も水銀燈に対して過度に近くなり過ぎず、付かず離れずという表現に近い距離を保っている。ある意味で彼女は、姉妹の中で水銀燈を最も良く理解しているとも言えた。
 だが、そう考えて行動することと、それを水銀燈本人にあからさまに示すのは、少しばかり話が別だった。

「確かに奇遇ね。ところで、蒼星石か私の媒介を見てない?」
 水銀燈はあっさりした言葉で、金糸雀がピチカートに追わせていたのがメイメイだと気付いていないということを表明した。ただ、余りに要領よく言われたお陰で、それは額面どおりに取った振りをしろという合図のようにも思えてしまう。
「見てないかしら」
 金糸雀は事実だけを答えた。水銀燈は、そう、と薄く笑った。折悪しく横殴りの流れがやってきて髪をどっと横に払ったお陰で、彼女の笑いに含むところがあるのかどうかは金糸雀には判然としなかった。
「メイメイが何か気になる物を見付けて、あのコンビに回収を依頼したらしいのよ。全く人選が悪過ぎるったら」
 水銀燈は髪を整えながらにやりとする。先を飛んでいたメイメイは抗議するようにチカチカと瞬き、ぐるりと彼等の周りを回って元の位置に戻った。
「水銀燈っ、道草食ってんなです」
 メイメイをぴったりと追尾していた翠星石が、緊張感がないように見えたのか、姉二人を振り向いて非難の声を上げた。
「アンタと違って蒼星石はマスター無しでは長いことここに居られないのです。早く見付けないと大変なことに……」
 自分の言葉が終わらないうちに、翠星石はくるりと反転して、今度はメイメイを急かす。
「さあ、早いとこ蒼星石の居場所に連れて行くです!」
 まるで自分の人工精霊に命令するような態度にメイメイは驚いたような動きをしたが、水銀燈が一つ頷くと承知とばかり加速して先導を再開した。
「妹想いなのは構わないけど、それより雪華綺晶と出会って無事で済んでいるかどうかが問題でしょうに」
 姉妹三人がメイメイに続くのを見て、水銀燈はやや大仰に肩を竦めてみせる。もう一度金糸雀に向き直ると、そういうわけだから、と手を上げて立ち去ろうとした。
 金糸雀はふるふると首を横に振った。
「待って。カナもご一緒させて貰うかしら」
「貴女は貴女の探し物を続けなさい。こっちは人数が余ってるのよ。もっとも──」
 水銀燈はすっと金糸雀に近付いた。
「──貴女があの人形を追ってるなら、だけどね」
 金糸雀は一瞬返事に詰まったが、すぐに水銀燈の手に手を重ね、自分からずいと顔を近づける。水銀燈が僅かに顔を引くほどの勢いだった。
「姉妹の大ピンチかもしれないときなのにカナだけ自分の探し物をするなんて薄情なことはできないかしら。みんながついて来るなって言っても一緒に行かせて貰うわ。それに、雪華綺晶と戦っているのなら手が多いほうが有利でしょう?」
 水銀燈は苦笑した。
「まあ、好きになさい」
 ひらひらと手を振ってみせ、振り向いて先に行ってしまった他の姉妹の後を追いながら、わざと金糸雀に聞こえるように独り言を残していった。
「なるほど、戦いになってたとはね……急ぐ必要が出てきたわね」
 メイメイに追いつこうとしているのか、急激に加速して小さくなっていく姉の後姿を見ながら、金糸雀はもう一度、今度は声に出して呟く。
「……ばれちゃってたかしら」
 ピチカートは同意の点滅をする。金糸雀は非常にばつの悪そうな顔になりながら、それでも懸命に前を追い始めた。


「蒼星石、どこだぁっ」
 少年が呼ぶ声は、蒼星石にも聞こえていた。ただ、彼女は大声を立てたり大きな身振りをして力を無駄に消耗したくなかった。
 よくある指針式の燃料計で言えば疾うに針はEのマークを過ぎている状態といったところだった。少しでも長く力を保たせるためには意識を保つぎりぎりのところまで消耗を抑える必要がある。
 とはいえ、急ぐ必要はあった。刻限が来てしまえばどれほど消耗を抑えようと意味がなくなってしまう。
 レンピカは素早く彼女の意を汲み、改めて命令を与えられるまでもなく代わりに行動に移った。
 焦ってきょろきょろと辺りを見回している少年に近付く。明るい青い光は少年の鈍い感覚でも流石に発見しやすかったのか、それとも視界の中に偶々入っていたのか、彼は先程白い人形を見付けた時とは違ってすぐにレンピカを確認した。
「蒼星石は?」
 レンピカは時間を無駄にしなかった。少年に必要以上に近寄ろうとはせず、綺麗なUターンを行うと一直線に蒼星石の方に向かう。少年はまたダッシュでそれに続いた。
 流されてはいたものの、元々の相対速度がそれほど速かったわけではない。少年の感覚でも、蒼星石を確認するまでにはそれほどの時間は掛らなかった。
「──いた」
 蒼星石は胎児のように丸くなり、帽子を抱え込んで膝を抱いている。眠っているようだったが、ごく間近まで近付くと、薄目を開けて微笑んだように見えた。
 少年は片手で持っていた刈払機を放し、蒼星石に手を伸ばす。くるりと回って流されそうになるのを慌てて押さえ、膝を抱えたままの彼女を片手で強く胸に抱き寄せた。
「キラキィに勝ったんだなぁ、蒼星石」
 顎の辺りに素直な髪の感触を感じながら、答えを待ってみる。蒼星石は表情を動かさず、目を開けることもなかったが、ほんの僅かに頷くような気配が伝わってきた、と少年には思えた。
「ありがとな。蒼星石がいてくれなきゃ、俺完全にアウトだった。あいつが勝ってたら、化け物花から出たとこでやられてたもんな」
 言いながらもぞもぞと彼女を抱え直す。片手なので上手く行かなかったが、それでもどうやら指先で彼女の髪に触れることができた。
 改めて見直すと、彼女の髪は乱れ、服には無数のほつれができている。雪華綺晶の白茨と何度も格闘した証のようなものだった。
 激戦だったんだろうな、と思うと自分の一言が悔やまれる。もう少し相手を大人しくさせておくような言い方ができれば、蒼星石をこんなに酷い姿にすることも、これほどに疲れさせることもなかったかもしれない。
 栗色の、思ったより長めの髪を指先だけで撫でながら、ありがとう、ごめんな、ともう一度少年は囁き、頭を巡らしてレンピカに尋ねる。
「時間があんまりないんだっけか……」
 レンピカは肯定するように瞬いた。
「帰るのを先導してもらっていいかい? 俺、来た道もよく分かんないから」
 レンピカが肯定の印にまた二度ほど瞬いたとき、斜め前の辺りで別の光が点滅するのが見えた。少年はぎくりとする。あまり嬉しくない想像が頭をもたげたからだ。
「キラキィが戻って来た……とか? はは、まさかなぁ」
 レンピカは忙しく瞬いてみせる。しかし、生憎少年にはそれが肯定なのか否定なのかの判別がつかなかった。
 一旦白い人形から手を放し、自分の唯一の得物を手探りする。それは流されもせずに放した場所にあった。肩掛けベルトを引っ掛け、白い人形を苦労して抱え直す。どうにも無理矢理に思える体勢だったが、もし相手が雪華綺晶だったら、何もできずに居るよりはこの方がましだと思えた。
 レンピカはそんな必要はないと強く瞬いたが、相変わらず少年には通じなかった。どうすれば話ができるようになるんだろうな、と彼が考えている間に、一つに見えていた光は二つになり、程なく何人もの姿が見え始めた。
「なんか大勢お出迎えが来ちゃったぜ」
 時間がないってのにな、と少年は苦笑いしてレンピカに視線を戻した。
 堅物で真面目な人工精霊は途惑ったように明滅すると、取り敢えず彼等と合流する方向に彼を先導するように動き始める。彼等が主人の姉妹であることは分かっていたし、そちらがこの場所から抜け出す扉の方角でもあったからだ。
 弁慶宜しく両手にドールを抱いた上に肩にまで長物を引っ掛けた少年は、腕の中の蒼星石を気にしながらそれに続く。レンピカの飛び方は気侭なメイメイとは違い、無駄はないものの彼のことを置いてスパートを掛けるようなこともなく、一定のペースを保ってくれていた。


 彼等と他の姉妹達が合流するまでには、殆ど時間は掛からなかった。
 まず、メイメイを追い越して先頭を切っていた翠星石が挨拶も言わずに蒼星石を少年から奪い取った。彼女が動こうとしないのを見て取ると人工精霊二体を連れて脱兎の勢いでもと来た路を戻って行く。
 水銀燈はメイメイと少年を連れて翠星石の後を追いながら、彼等にお小言を垂れ始める。少年はなんとなく刈払機を持ったまま移動していたが、口答えもせず素直にごめんと頭を下げた。
 雛苺は自分より背の大きな白い人形を少年から受け取り、水銀燈の脇に並びながら、何故かとても上機嫌に笑いながら人形を抱き締める。無表情なフィギュアに見える人形の顔も、何処となく微笑を浮かべたようにも見えた。
 金糸雀は少し下がったところで皆の後を追いながら、思ったより穏やかな展開にほっと息をつく。ピチカートも安心したように瞬いた。

 それらの騒ぎを横目で一通り眺めた後、真紅は振り向いて虚空の奥に視線を向けた。

──また、姿を見ることができなかった。

 真紅はまだ雪華綺晶を直接見てもいない。
 彼女にとって雪華綺晶は、アリスゲームに関する水銀燈の説は兎も角としても、一度はまともに相対して話をしてみたい相手だった。
 まともな会話が成立しないほど狂ってしまっているのかもしれない。好戦的らしいから、会えば会話をする暇もなく攻撃されるかもしれない。
 それでも自分の末の妹であり、アリスゲームの参加者でもある。一度は、少なくとも会話する努力をしてみたかった。
 暫く何処ともない虚空を見詰めた後、真紅は何かを振り払うように一つ首を振った。
「見ているのだったら覚えておいて。この真紅はまた此処に来るわ」
 一旦言葉を切り、言葉を探すような間を置いてから視線を上げる。
「そのときは落ち着いて話をしましょう、雪華綺晶」
 返事の代わりに、流れが彼女に吹き付けた。真紅はボンネット調のヘッドドレスを手で押さえてそれをやり過ごした後、髪をざっと撫で付け、再びもと来た方角へと振り向いて姉妹達を追った。


 雪華綺晶にとっては無惨な敗北だったが、結果的には早期に撤退できたことがむしろ幸いだったと言えるかもしれない。
 愚図愚図と時間を引き延ばしていれば、媒介なしの蒼星石やまともにノウハウを持たず戦意もあるのかないのか疑わしい少年などとは比較にならない、士気の高い手強い相手と戦う破目になっていただろう。
 彼女がそれを知るのは自分のテリトリーとして借用している世界に帰還してからのことだった。ただし、その事実は彼女にとって幾許かの慰めにしかならなかった。
 自分の能力についての疑問と、千載一遇の好機だと思っていた機会が実は二度とも恐るべき罠ではなかったかという疑念を抱いてしまったからだ。
 それは彼女が、それこそ永い時間を掛けて機会を待っていたことそのものを否定されたようなものだった。
 更に、疑問と疑念はやがて大きな、考えたくないからこそ考えてしまう疑惑に変わっていく気配さえ見せていた。

 皮肉なことに、彼女がそれを相談する相手として適当な人物は、執拗なまでに間接的に彼女を弱らせてきた黒衣の長姉と、彼女とは殆ど会話をしたことのない白兎の顔をした紳士しかいない。
 そして抱いている疑念が正しければ、水銀燈だけでなくラプラスの魔も、彼女にとって中立よりは遥かに向こう側に跨ぎ越してしまっている人物のはずだった。この話を共に語ることなど到底できるはずもなかった。
 いずれにしても、今は休息するしかなかった。他の姉妹のような鞄を持たず、健全な糧も持っていない今の彼女は、時間を掛けて回復するしか選択肢がない。
 眠ろう、と思った。
 鞄の中で夢を紡ぐような上等なものではなくても、人間が毎日そうするように、殆どの外部入出力を遮断して回復に専念しよう。上手く眠れるかどうかは別として、回復時間を短縮するためにはそれが必要だった。
 水晶の棺に入った糧達の中で彼女はいっときの眠りに就いた。案外すんなりと眠れたのだが、彼女にとってその辺りはよく分からないことだった。
 眠りながら、彼女は夢を見る。
 逢いたいと思っている相手は夢の中でますます美化され、現実の彼──既に存在しない者を指すのにその言葉が適切かどうかは置いておいて──とは懸け離れていったが、そのことを彼女に指摘する者はいない。
 ここにいるのは、彼女が幸せな夢の世界に「遊ばせて」いる者と、そのまま既に生命を失ってしまった者だけだ。彼等は、雪華綺晶の存在さえ知らずに都合の良いお仕着せの夢の中に遊んでいる。

 彼女の傍らの水晶は、白い服を着た金髪の少女を映し出している。少女は何かに取り憑かれたようにふらりふらりと昼の住宅街を歩いていた。
 その少女に誰かが気遣わしげな声を掛けた。竹刀袋を肩に掛けた、泣きぼくろが特徴の少女だった。
 後のことを考えれば、雪華綺晶はその状況を確認しているべきだったかもしれない。しかし、既に彼女はしばしの眠りに就いた後だった。
 誰かがその様を見ることがあれば、ケースに入れられた沢山の人形に囲まれた眠り姫のように見えたに違いない。
 彼女は自分が夢の世界に遊ばせている者達と同じように、ひどく幸せそうに微笑みながら眠っている。しかしその眠りは、もう夢から覚める必要のない彼等とは反対の、これから独りで立ち向かわなければならない現実のための休息だった。



[19752] その9 黒鳥(1)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/19 00:36
 外は静かな雨が降っていた。すこしばかり通勤通学が億劫になりそうな月曜日の朝だった。
 水の音で目を覚ました少年は緩慢な動作でカーテンを閉めていない窓を見遣り、窓閉めといて貰って良かったなぁと呟く。御多聞に漏れず雨の中の登校を考え、少し厭そうな顔をしてから狭い部屋の中を見渡した。
 見慣れた大きな鞄が三つになっていた。
「……あれ?」
 誰の分だったっけ、と一瞬考えてから、ぽんと手を叩く。
 昨日の晩、水銀燈に話があると言って彼の家にやってきた蒼星石は、長い話になるからと鞄を持参していた。もう一つは、なんだかんだがあってnのフィールドから帰還した後、蒼星石の双子の姉が開けっ放しになっていた窓から押しかけて来たときに乗って来た物だった。
 そして、最初から置いてある鞄の中身は──
「今朝は珍しく早いじゃない」
 ユニットバスの扉から水銀燈がひょいと顔を出してこちらを見た。ヘッドドレスは取っている。ストレートの銀髪がさらりと揺れた。
 綺麗だなぁ、と少年が惚けたようにそれを見ていると、枕許で目覚まし時計の電子音が鳴り始める。少年は慌ててスイッチを押してそれを止めた。
「結局同じになっちまった……せっかく誉められたのに」
 少年は頭を掻く。水銀燈は、お馬鹿さん、と笑いながら決り文句を言って顔を引っ込めた。
「あ、水銀燈」
「なに?」
「窓ありがと。助かった」
 少年は片手で拝むようにしてみせたが、水銀燈はもう顔も出さなかった。お礼は構わないわよ、と言うのも面倒臭いというように、片手だけを扉のこちら側に出してひらひらと振ってみせる。
 少年は眠い目をこすりながら布団を押入れに仕舞った。無造作にハンガーに掛けてある制服を取り、欠伸をしながらそれに着替える。
 水銀燈がユニットバスを使っている間は歯磨きやら朝食の支度は後回し、というのは二人の間の不文律のようなものだった。以前、気付かずに食事の支度をしようと台所に行っただけで酷い目に遭わされたこともあって、少年もそれだけは確実に守っている。
 ひとつ大きく伸びをして、テレビの側に置いてある二つの鞄がまだ開いていないのを一瞥してから、元々の位置にある鞄に手を伸ばす。鍵が掛かっていないのは知っていた。
 音を立てないように注意しながら、そっと開けてみる。蝶番がかすかに鳴って、中身が視界に入った。
 白い人形は昨晩横たえたままの姿でそこにあった。
 ほっと息をついて鞄を閉じかけたところで、少年はこちらを見上げている視線に気付いた。鞄の一つが開いて中からオッドアイの少女がじっと少年を見詰めている。
「よ、おはよ」
 少年は自然な動作でかちりと鞄を閉じ、片手を上げて挨拶してみせた。
「おはようですぅ」
 翠星石は何故かあまり機嫌の良くない声で少年に応えると、気を取り直したように鞄を威勢良く開けて飛び出すようにそこから出、自分の傍らのもう一つの鞄を気遣わしげに見遣った。
「まだ起きて来てないみたいだけど」
 言わずもがなのことを少年が言うと、翠星石は分かっていると言いたいような若干非難の混じった視線でそれに応え、膝をついて自分の双子の妹が眠っている鞄の前に屈み込んだ。少年もなんとなくそれに並んだが、翠星石はちらりとこちらを見ただけで何も言わず、開けようと手を伸ばすこともなくただじっと視線を鞄に向けていた。
「疲れてんだろうな、よっぽど」
「当たり前です。時間も力も使い果たす寸前だったんですよ」
 翠星石は視線を動かそうともせず、ぴしゃりと言った。
「あんなにぼろぼろになった蒼星石を見たのは、翠星石だって初めてです。ほんとに、ぎりぎりのところだったんですから」
 それは二つの要素を意図的に混ぜた、やや誇張した言い方ではあった。
 実際には、帰り着いてみると時間の方には未だ若干の余裕があった。もっとも主観時間が現実時間と食い違うことの多いnのフィールドの中で、しかも「だいたい三十分」という大雑把な制限なのだから、実際のところ余裕がどの程度だったかまではよく分からない。
 力を使い過ぎた蒼星石の薇が切れる寸前だったことの方は間違いのない事実だった。少年が僅かに遅れて現実世界の彼の部屋に帰還して見たものは、涙を浮かべながら必死に蒼星石の薇を巻いている翠星石の姿だった。
 幸い、意識して極力活動を抑え込んでいた蒼星石は薇を巻かれるとすぐに覚醒し、翠星石は安堵で今度こそ本当に泣き出しながら、苦笑を浮かべる双子の妹を力一杯に抱き締めることができたのだが。
「ごめんな」
 何度目かになる謝罪の言葉を少年は口にした。
「全くです。御し難い大馬鹿ヤローですよ。もっと薔薇乙女のことを理解して、ちっとは大切にしやがれです」
 そう言う間も蒼星石と丁度反対の色のオッドアイで、鞄の中を透かして見ようとするように視線を固定していたが、暫くして彼を見上げた。
「──もう少ししっかりしないと、安心して見てられないですよ」
 ぼそりと言い、少年に考える間を与えまいとするかのようにくるりと背を向けて大仰に溜息をついてみせる。
「はーやれやれ、この家は客人に朝飯も出さねーんですか。仕方がないから翠星石が有り物でなんか作ってやるですよ」
 少年はぽんと手を叩いた。
「おおっ、そりゃー有り難いや」
「普通は別の反応をするもんでしょうが! 全く、水銀燈は媒介の躾がなってねえです」
 翠星石は無闇に怒りながら、さあどの道具が何処にあるか教えるです、と少年を狭い台所へと急かす。丁度ユニットバスの扉を開けて出てきた水銀燈は二人を見て肩を竦めたが、何も言わずに部屋に向かい、電話の受話器を持ち上げた。

「──そうかね、分かった。いや、ゆっくりさせてやってくれないか」
 老人は穏やかな顔で電話越しの声に答え、窓外を見遣った。明け方からの細い雨が降っていた。
「今日の天気では庭仕事もできないだろう。あの子にも休養は必要だ、たまには姉妹揃ってのんびり──ああ、すまない」
 つい口に出してしまった言葉を老人は苦笑して謝罪する。彼は蒼星石と翠星石の二人だけを常に姉妹として意識していた。電話の向こうの少女も含めて七人姉妹だということがどうしても今ひとつ実感できないのは、他の五人とは殆ど面識がないに近いことが原因かもしれない。
「あの……ヒッキーくんだったか、ああ、ジュン君。その子の家でのんびりするのもいい。晩までに帰って来ればいい、たまには双子の姉さんと遊んで来なさいと言っていたと伝えてくれないか」
 肯定の返事を聞いてから、ありがとうと言って老人は電話を置いた。
 部屋を見回し、車椅子を動かして書き物机に近寄ると、昨晩から机の上に広げたままになっている書類に手を伸ばす。少々乱雑に置かれたそれらを整理している間に彼の表情は次第に何かを考え込んでいるようなものに変わっていったが、その間も手は止めなかった。
 書類が全て古びた幾つかの封筒の中に収まってしまうのには、大して時間は掛からなかった。老人はそれを膝の上に置くと、かすかな軋み音を立てながら廊下に出て行った。
 部屋の中の姿見は、窓外の雨を映している。いつもよりも少しばかり静かな朝だった。

 有り合わせの物では凝った料理はできないと翠星石は盛んに嘆いてみせたが、どの道食事を少年の登校時間に合わせるにはあまり長い時間を掛けて凝った食事を作っているわけにもいかなかった。結局少年が手伝いをすることになり、果ては水銀燈までも動員してみたものの、出来上がったものはあまり代わり映えのしない朝食になってしまった。
 ただ、ここのところ毎日のりの手伝いをしていた甲斐はあったらしく、翠星石の作った朝食はそれなりに美味だった。少年は終始美味い美味いを繰り返して食べ終えた。
「ご馳走さん」
 少年は両手を顔の前で合わせ、深々と頭を下げる。最後にもう一度、美味かったぁ、と付け加えた。
「毎日こんな美味いメシだったら最高だなー」
「褒めたって何も出て来やしないですよ」
 翠星石は少しばかり大袈裟に鼻を鳴らした。
「ついでに言うと
『た、たまには作りに来てあげるわよ。アンタのこと好きとかそういうんじゃないから。哀れで見てらんないから作ってやるだけなんだから、か、勘違いしないでよね!』
 とかいうツンデレにフラグ立っちゃいました的展開もないですよ」
「なによそれ」
 ゆっくりと食べ終わって口の周りを拭いていた水銀燈が苦笑する。
「先週、くんくんの次にやってる学園ドラマでヒロインが言ってたんですよ」
「ドラマの台詞ぅ? ああ、あれね」
「あー、あれか……そういや先週は見逃したんだっけ。録っとけば良かったなぁ」
 水銀燈の苦笑は失笑に変わり、少年は少し悔しそうに頷いた。
 番組名も碌に覚えていないドラマを引き合いに出した翠星石は、実に得意そうに胸を張った。
「そうです。あれはお夕飯でしたけどね」
「夕食ね。朝食と弁当も必要そうね、あの彼氏の貧窮振りだと」
「朝メシは買い置きのパンの耳食ってるからいいんじゃね?」
「貴方毎朝パンの耳で我慢できるわけぇ? なんなら、明日から貴方だけやってみなさい、止めないから」
「一週間くらいならやれそうな気がするけどなぁ」
「流石は悪食です。翠星石は絶対に耐えられないですよ」

 暫くそのドラマの話題で盛り上がってから、翠星石は話を元に戻した。
「翠星石は誇り高き薔薇乙女ですから、マスターでもない人間に多少褒められたくらいではびくともしないのです。ましてやさっきのアホ人間の発言は、精々実力を正当に評価しただけってところです。お上手言っただけで見返りを得ようとか思ってるなら救いようのない甘ちゃんってやつです」
 水銀燈は壁の時計を眺め、両の掌を上に向けるとやれやれと首を振った。
「お説ごもっともと言いたい所だけど、前置きが長過ぎたようね。お陰でもう時間ぎりぎりになってるわ」
 何の時間ですか、と翠星石が聞くまでもなかった。少年はがたんと音を立てて椅子から立ち上がり、慌てた様子で通学鞄を手に取った。
「やべ、急がないと遅刻だ」
 空いた食器を手早く集め、流し台に持って行く。水道の蛇口を捻ろうとしてふと気付いたように腕時計を眺め、渋い表情になった。
「ごめん、洗い物は帰ってきてからにする」
 部屋の方に向き直っていつもの顔になり、間に合いそうもないや、と舌を出してみせる。翠星石は椅子から飛び降りて台所の方に踏み出した。
「しょうがない奴ですね。そのくらいやっておいてやるから心配すんなです」
 翠星石は口では強いことを言いながらも少しばかり済まなそうな顔になっていた。三人で無駄話をしていて遅くなったのだから彼女だけが原因とは言い切れないのだが、自分の責任を感じてしまうところに彼女の素直な部分が現れているのかもしれない。
 少年はそんなところに気を回す余裕もなく、いつもの片手で拝むような仕草で、悪いな頼む、と頭を下げる。生死に関わるわけではないが、時間は切迫してきていた。
 忙しく靴を履き、玄関に置いてあるビニール傘を掴んで無粋なデザインの鉄の扉を開けると、彼はもう一度部屋の中を振り返る。アルミ製の脚立型の踏み台に上った翠星石が水道の蛇口に手を伸ばしたところだった。
「言い忘れてた」
 翠星石はびくりと動きを止め、何か流しを使うのに注意事項でもあるのかと少年の方を見遣った。
「蒼星石によろしく。起きたら、俺が昨日はありがとうって言ってたって伝えてくれ」
 なんだそのことか、と翠星石はほっとして息をつき、水銀燈が部屋の中から返事をした。
「伝えとくから、急ぎなさい。本当に遅刻するわよ」
「ありがと。そいじゃ、行って来る」
 自分の言葉が終わらない内に少年は駆け出していく。いってらっしゃいという言葉を掛ける間もないような急ぎ方に翠星石は呆気に取られて目を丸くし、扉がばたんと閉まるまでそちらを眺めていた。
 部屋の中で水銀燈が苦笑していたが、彼女はそれにも気付かず、蛇口に手を伸ばしたまま暫く固まっていた。


 相変わらず、雨は静かに降り続いている。
 蒼星石が目を覚ましたのは大分遅く、午前九時を過ぎてからだった。
 鞄を開けて周囲を眺め、立ち上がってふっと息をついたところで翠星石に飛びつかれ、ぎゅっと抱き締められる。
「おはよう、随分寝坊してしまった」
「おはようですぅ」
 言いながら、翠星石は上機嫌で蒼星石の胸に頬ずりする。蒼星石は微笑んで翠星石の背中をとんとんと叩く。昨晩、蒼星石が薇を巻かれて目覚めたときと同じ光景だった。
「今日は一日、ずーっと一緒ですよ」
 翠星石は嬉しそうに蒼星石を見上げる。蒼星石が何か言おうとしたが、翠星石はその唇に人差し指を当てた。
「陰険おじじが言ったんですよ。今日はお休みにするから、のんびりしろって」
 電話をしたのは水銀燈なのだが、翠星石は自分が直に聞いたような言い方をした。その方が蒼星石にするには話が早いと思ったのか、自分のささやかな手柄にするつもりなのかは分からない。
 どちらにしても、蒼星石は頷いてその言葉を信用した。
「マスターが……そう」
 ゆっくり微笑みを浮かべる。それは翠星石と一緒に居られるからというよりは契約者が自分に気を遣ってくれたことの嬉しさから来たものだったが、翠星石はそんなことには頓着せず改めて蒼星石に抱きついた。
「そうですよ。だから今日は一杯遊ぶです」
 お互いに相手の肩の上に顎を乗せるような姿勢で、二人はお互いを抱き締める。ロングスカートとタイツ、対照的だが統一感のある衣装が良いコントラストを作って、無粋な安アパートの空間がそこだけ華やいでいるようにさえ見えた。

「何時見ても本当にベタベタなのね、貴女達」
 水銀燈はテーブルに肘を突いて二人を眺めていたが、あまり興味なさそうにそう言うと欠伸をしながら一つ伸びをする。二人は同時に水銀燈の顔を見詰め、抱き合っていた腕を解いて顔を見合わせた。
「好きな相手にもそのくらい素直にベタベタすればいいのに」
 対照的なドレスを着た双子の反応はやはり対照的だった。翠星石は分かり易く顔を赤く染めてしどろもどろに口の中で何事かを呟き、蒼星石は頬を僅かに染めたものの複雑な表情になって視線を逸らす。
 それぞれの表情を人の悪い笑いを浮かべて観察してから、水銀燈は椅子を飛び降りた。そのまま双子の方には向かわず、少し離れたところに置いてある自分の鞄に歩み寄る。
「蒼星石。起き抜けで悪いけど、貴女達の意見が聞きたいの」
 鞄の前で屈み込み、かちりと開ける。白い人形は先程少年が開けたときと全く変わらない状態で、微動だにせずその中に収まっていた。
「これの事でね」
 振り向いて二人を見ながら、後ろ手に人形を指し示す。蒼星石が軽く頷くのを確認して、また鞄に向き直った。
「貴女に知識があるかどうかは知らないけど、これは私の知っているローゼンメイデン第七ドールの姿に近い。ただし雪華綺晶ではなく、異世界のね」
 蒼星石は自分の手を握っていた翠星石の手を優しく解いて鞄の方に歩み寄り、水銀燈の隣に屈み込んだ。翠星石も一歩遅れてそれに続く。二人とも先程の表情は消え、かすかに緊張感を含んだ顔になっていた。
「君が持っていたあの小箱と同一の世界から来た、と考えていいのかな」
 蒼星石が言ったのはローザミスティカらしきクリスタルと指輪の入っていた小箱のことだった。どういうわけか、ローザミスティカと同一の世界から、と言うのはなんとなく憚られるような気がした。
 鞄の縁に手を添え、覗き込むような姿勢になる。昨晩nのフィールドで間近に見てはいるのだが、照明の関係か、そのときの姿よりも人形らしさが強く出ているように蒼星石には思えた。
 彼女達とほぼ同じ背丈、同じように丁寧に作られた衣装。だが、顔の作りはいかにも別人の手によるものだということを感じさせる。
 手足のデザインも、すらりとし過ぎて彼女達姉妹とは別物という印象を強くしていた。初見で少年が言っていたように、どちらかと言えば自分達姉妹よりもあの黒い翼の人形と共通項が多いようにも思える。
「多分ね。確実なことは言えないけど」
 水銀燈は白い人形に触れる。デザインは異なっているものの、顔と手の質感も、その他の部分の陶器らしい冷たさも薔薇乙女達のそれと全く同じだ、と彼女は感じていた。
「並行世界の原則──無数の世界が並行している中で、私達ローゼンメイデンは常に一人ずつしか存在し得ない、というやつね──を超越されてしまった以上、最早何処から来たモノだとしても不思議はないわ」
 やはりこれはあの人形師の手による作品──本来感知も行き来もできないはずの別の時間軸で存在しているべき、また別のローゼンメイデンなのだ、と水銀燈は思う。

 最後に抱き上げられて部屋を出て行ったあの第五ドールも、他の五体も同じく、自分達の観測できる範囲の世界に彷徨い出て来てしまっているのだろうか。
 もし、更に他の世界にまで行き来が可能になってしまっているのだとすれば、呑気にアリスゲームなどやっている場合ではないのかもしれない。同じ領域に何十人となく自分が蠢くという想像はおぞまし過ぎるし、因果律の外との行き来を世界自体が認めてしまっているのだすれば、それは世界そのものが変容してしまう前触れなのかもしれない。
 だが、そういったあれこれは、薔薇乙女達の手には余る事柄だった。むしろそうであれば彼女達の創造主やあの人形師の方こそ大汗をかいて奔走すべき事態であり、彼女達は今までどおりに日々を過ごし、目標に向かっていくしかない。
 無責任な考え方かもしれないが、それが現実だった。

 そんなことをちらりと思いながら、水銀燈は言葉を続ける。
「ただ、ほぼ確実にあれと同じ世界か、それにごく近い世界だとは言える。その髪型、衣装の色、特徴的な右目を隠すアイパッチ。全て見覚えがあるもの」
 僅かな違いもあるにはあった。アイパッチには確か白い薔薇の花が貼り付けられていたか生えていたはずだが、それがなくなっている。
 但し、この人形の出番はアイパッチから白薔薇が離れて流れて行くところで終わっていた。この人形の姿がその状態を引き継いでいるのだとすれば、これはこれで妥当とも言えなくはない。
「なるほど……」
 蒼星石は先を促すように水銀燈の顔を見遣る。水銀燈は頷き、ひとつ息をついて昨晩のことを簡単に説明した。
 蒼星石が少年と彼女を待っている間、真紅に請われて自分の意図を話していたこと。そこにラプラスの魔が現れ、異世界の第七ドールが出現し、雪華綺晶がその体を狙って行動を起こしていることを報せたこと。
 ラプラスの言うところでは第七ドールの能力は雪華綺晶と「似て非なるもの」であり、彼の見解では雪華綺晶と手を組む可能性について否定的だったこと。
 更に踏み込んだ話に移る前にメイメイがやってきて、それ以上の情報は得られず仕舞いに終わったことまで語ると、水銀燈は肩を竦めた。
「能力の詳細については、直にこの人形から訊き出すつもりだけど──」
 考えを纏めるように、あるいは何か引っ掛かっている部分があるようにゆっくりと言葉を続ける。彼女らしくないことだった。
 自分の思うところに自信が持てないのか、と蒼星石はつい邪推してしまう。性格がこの時代で目覚めてから──特に、媒介が心の木を伐り倒してから──目に見えて変化しているとはいえ、水銀燈がこういう態度を取ることは珍しかった。
「貴女は何かこの人形の能力を見ていて?」
 蒼星石はゆっくり首を横に振った。
「いや、僕はまだその子が覚醒したところさえも見ていない」
 彼女が見ていた範囲では人形は終始無言で、動く気配もなかった。その分まで雪華綺晶と蒼星石は激しく戦っていた、と言うと大袈裟かもしれないが、人形と一緒に居たのは少年の方で、彼女ではなかった。
 ふむ、と水銀燈は顎に手を当てた。
「では、相対した雪華綺晶の能力についてはどう? 何か異質なものは垣間見えたかしら」
 そうか、と蒼星石は内心で頷く。水銀燈が人形の能力を知りたいのは、それが雪華綺晶の能力の全貌を掴む手懸りになる可能性があるからなのだろう。直接相対した蒼星石が何か気付いていれば、それも手懸りになるという訳だ。
 ただ、それは少しばかり期待し過ぎのように彼女には思えた。
「それも、これといったものは感じられなかった」
 彼女に向かって来たのは専ら白茨だけで、この人形と彼を捕獲しかけたのは白薔薇の大輪だった。どちらも水銀燈から事前に聞かされていた、言わば雪華綺晶の「得物」で、目新しいことはなかったように思う。
「ただ、あのとき雪華綺晶は幻影を使わなかった」
 使えれば使った方が有利な状況だったはずなのに、と呟きながら蒼星石は雪華綺晶に似た人形の顔を見詰める。そこに解答があるという訳でないのは分かっているが、考えを纏めたかった。
「フェイクを作るのはお手の物のはずだけど」
 水銀燈は顎に手を当てたまま、考えをそのまま口にするような言い方をする。
「焦っていたのかもしれない。時間が切迫していたとか、何かに力を振り向けていたとか」
 当たらずと言えど遠からず、といった考察だった。少なくとも蒼星石にはそう思えた。

 例えば幻影の白茨の蔓を無数に作り、同時に自分に殺到させる。そんな方法を採っても良かったのではないか。
 自分は前方、しかも雪華綺晶の間近の一点からワンパターンに仕掛けてくる一群に対処することさえ手一杯だった。多少手数が減り、攻撃の間隔が開いてしまったとしても、その方が確実に自分を捕え、拘束するには便利だったはずだ。
 しかし何故か雪華綺晶はそれをしなかった。
 いや、何故か、ではない。そこには理由があるはずだ。
 直接的には、それはあの大薔薇を維持しておくためだろう。だが、それだけでは説明できない部分もありそうだ、と蒼星石は思う。
 そもそも、それほど維持に力を割く必要があるものを、自分という邪魔者が目の前にいるにもかかわらず最初から使ってみせた意図がよく分からない。幻影を使わなかったように見えたことも含め、何か齟齬が生じていたと考える方が適当かもしれない。
 準備不足で戦いに臨んでいたのはこちらだけではなかった、と総括してしまえばそれまでだが、その齟齬が雪華綺晶の能力の──特に水銀燈が知りたがっている、今まで見せてこなかった部分の一端を示しているのではないか。

 それまで黙っていた翠星石が口を開く。
「偽物をでっち上げるには集中力か下準備が必要ってことですか? そうじゃなければ場所や相手を選ぶ、とか……」
「そういう見方もできそうね」
 ただ、案外こんなところかもしれないわよ、と何故かそこで水銀燈はにやりと笑ってみせた。
「貴女がずっと切り続けていた白茨、それそのものがフェイクだった、っていうのはどう? 同じパターンを繰り返していたのは、同じものなら作り出し易いから──幻影では定番の理由の一つでしょう」
 蒼星石は目を見開き、それから力なく苦笑を浮かべた。
「確かにね」
 改めて指摘されると、至極妥当な推測に思える。大量の白茨を放ったように見せて時間を稼ぐのは、大薔薇を維持するのに殆どのリソースを振り向けているならむしろ普通の遣り方なのかもしれない。
 しかし、そうはいっても大量の偽物の中に紛れ込んだ数本かそこらの本物の白茨、もしくは完全に全て虚像のそれらと必死に戦っていた自分を想像するのは、あまり気分のいいものではなかった。
 無意識の海の濁流の中で必死に不恰好な独りきりのダンスを踊っているドール。雪華綺晶が揶揄するような笑みをこちらに向けていた理由が分かるような気がする。さぞかし滑稽な眺めだったろう。
「nのフィールドの中ですから、幻だって実体があるのと変わりませんよ」
 妹の内心を読んでフォローしてみせたのか、水銀燈に対する反論なのか分からなかったが、翠星石はそんな言い方をした。
「体ごとnのフィールドに入ってる翠星石達はなんとなく幻イコール偽物、ハリボテの虚像って考えちまいますけど、あの中では力を持ってる、中身の詰まってる幻影だってアリでしょう。大体雪華綺晶自身が幻みたいなもんじゃないですか」
 だから白薔薇のヤツが使う蔓なんて結局は全部幻影なんです、と翠星石は水銀燈に視線を向ける。水銀燈は軽く頷いてみせた。
「そういう見方もあるでしょうね」
 とはいえ、翠星石の考えは蒼星石が戦って切り落とし続けた白茨が殆ど全て虚像だという仮定とは矛盾しない。それは、戦っていた本人が一番よく分かっていた。
 恐らく「中身の詰まって」いたのは最初に放たれた白茨と、大薔薇を手放した後の最後の一撃だけだ。それ以外は最初の白茨の一部を複製したものか何かだったのだろう、と蒼星石は苦い思いを胸に抱きながら考える。

──本気で相手をされていたら、間違いなく敗北していた。

 虚像だけで相手をしなければならなかったのは雪華綺晶にとっても不本意で、ぎりぎりの選択ではあっただろう。だが、それにまんまと乗って最後まで気付かなかった自分の間抜けさ、あるいは弱さは否めない。
「──次はもう少し上手くやるさ」
 拳を握り締めて呟いたのは、雪華綺晶に対する敵愾心や戦意を奮い起こした結果と言うよりも、自分の不甲斐無さに怒りが湧いたからだった。
 ただ、翠星石はそうは取らなかったらしい。気が付くと彼女はそっと蒼星石の手に手を重ね、少し怯えたような目で顔を覗き込んでいた。
「大丈夫だよ」
 蒼星石は握った手を開き、双子の姉にぎこちなく微笑む。その手で微笑み返しながらもまだ心配そうな翠星石の頬を撫でると、彼女は蒼星石を確かめるようにぎゅっと抱き締めた。

「ま、どっちにしても目新しいところは無かった、ってことか……」
 水銀燈はあっさりと言った。双子の相思相愛振りについてはコメントする気をなくしたらしい。
「やはり訊き出すのが手っ取り早そうね」
 言いながら、白い人形に手を伸ばす。二人はまた身体を離し、立ったまま彼女のすることを覗き込んだ。
 水銀燈は両手で、膝を畳んで腕を組んだ姿勢の人形の身体を触り始める。それはまるで領収した品物の瑕疵を確かめるような手つきで、蒼星石にはそれが少し寂しく思えた。
 何故そんな感慨を抱いたのかは、よく分からない。ただどういうわけか、昨晩少年が雪華綺晶に放った、その場面では見当外れもいいところだった言葉が心の中に浮かんで消えたような気がした。

──結局水銀燈も、この子をゲームを進める上の便利な道具として見ることしかできていないのか。

 それは自分に都合のいい形骸とそれに付随する邪魔な魂、という見方で人形を見ていた雪華綺晶と大して変わらない視点なのではないか。いや、彼女の方がゲームに拠らない自己の欲求にも正直であっただけ、まだマシと言えるかもしれない。
 昨日の黒い人形に対して見せた水銀燈の態度は違っていた。あれは、単に自分に似た容姿だったから情が湧いたということなのだろうか。
 媒介である少年が終始白い人形を「この子」と言っていたことを思い合わせると、皮肉に過ぎる気がする。もっとも彼は、雪華綺晶は嘘をついていて、実際は人形をアリスゲームに利用するつもりだと思っていたのかもしれないが──

 水銀燈はそんな蒼星石の感傷めいた内心に気付く様子もなく、服の上から陶製のボディを点検するように触っている。それが背中の一点に届いたところで軽く頷き、手を引いた。
「ゼンマイの螺子穴はあるわ」
 翠星石は上体を屈めて見入っていたが、その言葉で背中を伸ばした。
「巻いてやれば動き出すって、あの兎の言ってたことは本当みたいですね」
「問題は合う螺子巻きがあるか、そして誰が巻くかってこと」
 水銀燈は人形を見詰めたまま大きく息をつく。翠星石は、むう、と口を尖らせた。
「例の箱には螺子巻きは入ってなかったんですか?」
「生憎、クリスタルと指輪だけ」
 水銀燈に小箱を託した者の目的を達するためにはそれだけで充分だったから、当然といえば当然だった。もっとも、小箱の中のクリスタルに対応するボディ用の螺子巻きが入っていたとしても、それがこの人形に合うとは限らない。
「ポケットに入ってるとか……」
「そういうデザインには見えないわよ?」
 言いながらも水銀燈はもう一度確かめるように人形のボディと服を改め直す。胴の前面を見ているうちに、ふと胸の前で折り畳まれている腕に視線を向け、にやりと笑った。
「翠星石、半分当たりよ」
 どういうことですか、と翠星石がまた覗き込むと、水銀燈は握りこぶしを作っている人形の手を指差し、それからゆっくりとその指を伸ばしていった。
「──ここでしたか」
 人形の手の中に現れたのは、随所に薔薇の模様をあしらった、見覚えのある意匠の金の螺子巻きだった。
「握り込んでいたとはね」
 起こして貰う気満々ってところかしら、と水銀燈は肩を竦める。
「鞄も人工精霊も無いのに、どうするつもりだったんだか……」
 螺子巻きをつまみ上げ、蛍光灯の光にかざしてみる。それは目映く輝いた。
 少々目映く輝き過ぎている、と思ったのは水銀燈だけではなかった。
「新し過ぎないですか?」
 翠星石は不審そうに眉を寄せる。螺子巻きは何人もの手を経てきた彼女達の持ち物とは違い、まるで作られたばかりのように輝いていた。
「まるで一度も使われたことがないみたいです……」
「実際、使われてないかもしれない」
 水銀燈は立ち上がり、螺子巻きを掌の上に置いて見詰めた。鍍金でなく金であれば錆がないのは当然としても、汚れも傷もなければ模様の摩滅も見当たらない。
「あの人形師の世界で、第七ドールは名前も出てこなかった。誰も存在を知らず、ゲームにも全く参加していなかった。雪華綺晶と同じような特殊な立場でなければ、契約をしたことがなくても辻褄は合うわ」
 そんな存在だから、ボディは持っていても──いや、持っているからこそ推測できるのだが──作られてから未だ世に出ず、一度も契約を交わしていないという可能性もあり得る。新品の螺子巻きはそれを表しているようにも水銀燈には思えた。
「ま、それこそ訊いてみれば済むことね」
 あっさりと自分から想像を止めてしまう言葉を口にして、螺子巻きを人形の脇に置く。
「これで、後は巻くだけ。謎解きはそれからじっくりやればいいわ」
「そうですけど」
 翠星石が小首を傾げる。
「誰がこの子のゼンマイを巻くんですか?」
 それが問題だった。翠星石は水銀燈を見詰め、水銀燈は顎に手を遣って視線を下げた。

 ややあって、暫く黙っていた蒼星石が口を開いた。
「君のマスターが巻くべきだと思う」
 彼女の視線は水銀燈に向けられていた。
「雪華綺晶にその子を渡さなかったのは、彼の意思だ」
 少しばかり誇張した表現をしてみる。但し、彼が自分の判断で雪華綺晶に人形を渡さなかったのは事実だった。
 彼の言い分を聞いた限りでは、それは思い込みか誤解に基づく判断だった可能性もある。しかしそれがあって今この人形がここにあるのもまた事実だった。
「それに、自分のものだと言ってもいたよ」
 思わずくすりと笑みが浮かんでしまう。まるで屁理屈にしかなっていない彼の言い分と、その台詞を放ったときの表情の真面目さのコントラストを思い出してしまったからだ。

 ──先に拾ったのは俺だ。だから今んとこ、このドールは俺のもんだ。キラキィには渡さない。

 あのときは緊張感が勝っていてよく吟味する余裕もなかったが、改めて思い返すと酷く子供っぽい上に、雪華綺晶のそれに負けず劣らずの身勝手な言い分だった。彼の様子から見て、恐らく言いたいことは別にあるのに、咄嗟に言葉にできなかったのだろう。
 大事な場面でそんな台詞しか言えなかった彼に、蒼星石は他の感情でなく可愛らしさのようなものを感じてしまう。笑みが浮かんでしまうのはそのせいだった。
 その拙い台詞が蒼星石を窮地に陥れた、と彼が少しばかり見当違いの反省をしていることまでは、彼女は知らなかった。

「拾った者が総取りなんて言い分が通ったら、この国のお巡りさんの仕事が一つ減ってしまうですよ。とんでもねー屁理屈です」
 彼の言ったという台詞を聞いて、翠星石は少々わざとらしく溜息をついてみせた。現実世界の遺失物の話と混同したのは故意にやっているのだろう。
「水銀燈と契約してるのにまだそれ以上人形を欲しがるなんて、金糸雀のマスターも真っ青の欲深野郎ですよ」
 成り行きとはいえ都合三人と契約しているようなものである自分の契約者を棚に上げ、ばっさりとこき下ろす。ただ、それは翠星石が彼に親近感を持っていることの裏返しのようなものでもあった。
「言ってくれるじゃないの」
 水銀燈はじろりと翠星石を見る。聞いただけで翠星石が首を竦めて蒼星石の後ろに隠れる程の怒気を含んだ声音だったが、その眼は笑っていた。
「ま、確かに勝手な言い分だし、そう言ったにしては肝心のドールを無防備にし過ぎてるのも間抜けだけど」
 言いながらちらりと自分の鞄の中に収まっている白い人形を見る。表情は変わらないはずなのに、先程より穏やかに眠っているように見えた。
 蒼星石に視線を移すと、彼女は笑いを収めて水銀燈を見ていた。君も同意するだろう、と言っているような視線だった。
「私としては桜田ジュンの方が適任に思える。でも彼にそこまで責任を負わせるのは得策じゃないわね」
 もしこの人形の最初の契約者になるのであれば、自分の媒介よりは桜田ジュンの方が「良い契約者」としての資質を備えているだろう。大分確りして来たとはいえ、少年は何かを教えるよりは教わる段階にある。
 そこを無視しても、この人形が昨日の黒い人形のように周囲全てに対して敵対的な行動を取るのでなければ、桜田家に置いてやるのが無難だとは思う。気位は高いが情の深い真紅、意地悪をすることはあっても面倒見のいい翠星石、人懐こい雛苺の三人がいて、楽しく仲良しごっこをするにはこの上ない環境だ。
 ただ、螺子を巻いたからといって契約するところまで行くとは限らないし、契約するとなればジュンは都合四人に力を与えることになる。それは負担が大き過ぎるだろう。
 水銀燈は肩を竦め、大きく息をついた。
「いいでしょう。代案もない。貴女の提案を採用させて貰うわ」
 光栄だね、と蒼星石は水銀燈のやや大袈裟な表現に苦笑する。水銀燈はにやりと笑みを返した。
「さて、そうと決まれば私の話は終わり」
 水銀燈はまた屈み込み、鞄をかちりと閉じた。
「手間を取らせたわね。後は好きにしてくれて構わないわよ」
 翠星石と蒼星石が顔を見合わせる。水銀燈は翠星石に視線を向けた。
「桜田ジュンの家に帰って、貴女の手料理でもご馳走したら? 折角、蒼星石の老マスターから許可が下りてるんだもの」
 翠星石は嬉しそうに水銀燈を見返し、言われなくてもそうするつもりでしたよ、と憎まれ口を叩いた。


 双子がそれぞれの鞄に乗って帰っていった後、水銀燈は開け放った窓から厚い雲を見上げた。今日は行けないわね、と独りごち、なおも暫くそうしていてから窓を閉める。

──それにしても、厄介ったらないわ。

 ユニットバスの扉を開けながら改めて思う。換気のスイッチを入れっぱなしにしているのに、かすかなガソリンの臭いが鼻についた。
 顔をしかめて一つ息をつき、どうしたもんかしらね、と呟きながら、浴槽の壁に斜めに寄り掛けられている長物をつつく。それは安定が悪いせいかぐらぐらと揺れ、まだ残っている混合燃料がちゃぱちゃぱとタンクの中で音を立てた。

──問題は、三人のうち誰の能力か、ってことね。

 全ては少年が帰宅して、人形の螺子を巻いてからということになるのだろう。しかし少しでも早く確定してしまいたいと思うのは、あまりにも場違いなモノを不気味に感じているからかもしれない。
 扉を閉めながら一瞥すると、少年がnのフィールドから持ち出してきた刈払機はまだ小さく揺れていた。
 それはnのフィールドだけで通用する幻ではなかった。確固たる現実世界の物品として存在してしまっていた。


 今にも止みそうな細い雨は、しかし下校時間になっても上がらなかった。
 なんでこんな日に掃除当番だったんだろう、と少年は恨めしげに昇降口の外を眺めながらぼやく。下履きに履き替え、もう傘がまばらにしか残っていない傘立ての方に手を伸ばした。
 まあ、雨が降ってること以外は悪くないか、とぼんやり考える。帰れば、部屋には例の白い人形が待っている。
 少年は少しばかり雪華綺晶に対抗意識のようなものを持っている。それは彼が雪華綺晶の前で取って付けたように口にしたアリスゲームの敵味方というような高尚な意味合いではなかった。自分自身によく似た白い人形をただのモノ扱いした彼女に対して、白い人形も同じように生きて動くということを見せてやろうという子供っぽい動機だった。
 雪華綺晶が白い人形をモノ扱いした背景にどのような思考や感情があるのか、という視点は今の少年にはない。蒼星石が贔屓目に評価しているほどには、彼は純粋でも思慮深くもなかったし、直感に頼っているとはいえ特に感性が研ぎ澄まされているわけでもなかった。
 その平凡な、ともすれば平凡以下の部分が多いかもしれない頭脳で、白い人形はどうやったら動くようになるのか、それを居候の黒衣の天使と一緒に考える仕事も待っている、と少年は考えていた。実際には既に螺子巻きが発見されてそれを回すだけになっているのだが、それは少年の知らない出来事だった。

「──あ」

 すぐ脇で小さな声が上がり、少年は現実に引き戻される。僅かな間ではあったが、ぼんやりしすぎていて周りに注意が向いていなかったらしい。傘に伸ばした手が横合いから伸びてきた細い手に当たってしまっていた。
「あ、ごめん」
 反射的に謝って視線を上げると、あまりこの時間には見ない顔が目の前にあった。少年は背中を伸ばし、意外そうに何度か瞬いた。
「……部活はどしたの」
「今日はお休み」
 と言うものの、柏葉巴はいつものように竹刀袋を肩に掛けている。それを少年が訝しげに見ていると、巴はその視線の意味に気付いて答えた。
「これは朝練で使ったから」
「あ、そうなんだ」
 なるほど、と少年はぽんと手を叩く。それから思い出したように巴のものと思しき傘を傘立てから抜き、彼女に差し出した。
「これだよな」
 巴はこくりと頷き、受け取って靴を履き替える。少年は改めて自分の傘を抜き、昇降口から出て傘を広げた。
「──ん?」
 そこで急に振り返り、怪訝そうな顔で巴を見詰める。
「え、今なんか言った?」
 巴はきょとんとした顔でこちらを見ていたが、ふるふると首を振る。少年は傘を持っていない方の手で頭を掻き、拝むような仕草をした。
「ごめん、なんか空耳だったみたいだ」
「……空耳?」
 巴は眉根を寄せ、少年の方に歩み寄った。少年は釈然としない風だが、周囲を見回しても昇降口の近くと下駄箱には他に人影はなかった。
「うん、今、なんか誰かに呼ばれたような気がしたんだけどさぁ。気のせいっぽい」
 なおも暫く周囲を見回してから、今日は結構多いんだよな、これで三度目くらいかなぁ、と少年は首を傾げる。
「そう」
 やはり、というように巴は何度か瞬いた。
「本当に空耳なら、いいんだけど……」
 斜め下を向いて、呟くように巴は言う。少年は訝しげに彼女を見る。その表情がかすかに曇っているような気がしたからだ。
「え、なんかあんの? 昇降口の怪物とかか? あと自縛霊とか」
「まさか」
 巴は一瞬苦笑する。しかしまたすぐにはっきりしない、それでいて憂いを含んだような表情に戻ってしまった。
「栃沢君、契約してるんだよね。水銀燈って子と」
「うん」
 思わずひそひそ声になる。少年にもその程度の分別はあった。とはいえそれは、あまりおおっぴらに喋ってみんなのことがバレたら厭だな、程度の認識でしかない。
「私は、もう雛苺のマスターじゃないけど」
 巴の声には少しばかり寂しげな色があった。
「前に……契約していた頃、雛苺に呼びかけられたことがあったわ。学校で」
「え、そりゃ……なんでまた」
 ぽん、という軽い音がしてそちらを向くと、昇降口から出てきた上級生が大きな自動傘を広げたところだった。彼は二人の方をじろりと眺め、なんだと言いたそうな顔をすると校門の方に出て行った。
「……歩きながら話そうぜ。長くなりそうな話だし」
 なんとなく居心地が悪いような気分になって、少年はそんな提案をした。巴はこくりと頷いた。


 雨の住宅街を歩きながらひそひそ声で会話するなんてサスペンス映画みたいだな、と色気のないことを頭の隅で考えながら、少年は巴と並んで歩いた。昼間の住宅街は雨降りのせいか閑散としていて、妙に寂しい雰囲気だった。
 巴の話はそれほど長いものではなかった。ただ、どうでもいい話でもなかった。
「雛苺が真紅に負けちゃった話は……聞いてる?」
「うん」

 それは本人から直接聞いたことがあった。雛苺は普段から、一緒に居て欲しいと望むあまり契約者──巴に負荷を掛け過ぎていて、挑発めいた言動に乗って真紅との戦いをしたとき、巴を指輪に引き込みかけてしまったこと。それを知って戦いを放棄し、契約も破棄してしまったこと。
 悪く取れば、真紅が小狡く立ち回って物知らずな上に駆け引きの不得手な雛苺を嵌め、まんまと勝ちを収めてしまったと見ることもできるかもしれない。しかし当の雛苺は、真紅は雛苺がこれ以上巴に迷惑を掛けるのをやめさせようとしたのだと説明していたし、少年も素直にそれを信じていた。
「それまで雛苺は、私と離れているときに寂しくなると私を呼んでいたの。教室でも、登下校の最中も、部活のときもずっと」
 それでも巴は早退して雛苺の待つ自宅に帰ろうとはしなかった。
 部屋に雛苺が居る、ということは同居している父母には秘密だったから、早退するには両親にも疑われない理由を作らなければならなかった。それは咄嗟には中々思いつかなかった──風邪気味で熱がある、程度で早退を許すような親ではなかった──し、大袈裟に言えば学校や部活に対する彼女なりの義務感のようなものもあった。
「帰ってからはなるべく一緒に居るようにしていたけど、雛苺は満足しなかったの」
 雛苺は、なかなか一緒に居てくれない巴と少しでも長く、できればずっと遊んでいたかった。少年に話したとき彼女は「巴に意地悪をしちゃった」と言ったが、恐らく本当は善意も悪意もなく、ただ純粋に巴と遊んでいたかったのだろう。
 ある意味でそのときの雛苺は精神的に少し病んでいたと言えるのかもしれない。だが、そこには理由もあった。
 彼女は後ろを振り向かない性格、あるいはそういう処置済みではなかった。それなのに──恐らく幼い彼女の主観では──前の契約者に唐突に捨てられてしまった。それが強いトラウマになっていたのだ。
 彼女は一所懸命にnのフィールドの中の自分の小さな世界を模様替えした。巴の家の中にそっくりで、尚且つ現実世界の巴の部屋とも接続して、直に行き来の出来るような姿に変えた。そうすれば、巴はずっと自分の傍に居てくれる、もう見捨てて離れて行かないと思ったのだ。
 皮肉なことに、それは彼女に与えられた力では難儀な種類の行為だった。力技でその「模様替え」をするには、自分自身の力だけでなく、契約者から力を分けて貰う必要があった。
 雛苺は黙って巴の力を借りた。正直に言えるはずもなかった。
 巴は雛苺が自分の生命力を吸っていることを薄々気付いていた。だが、彼女は何も言わずに胸に抱え込み、できるだけ普通に振舞った。
 雛苺がもっと一緒に居たいと切実に願っているのに、人間の社会の中の自分が今そうしている以上には応えてやれないことが悔しく、切なかったからだ。せめて力くらいは自由に使わせて上げよう、と思っていた。
「それで、雛苺はどんどん私の力を吸って……真紅と戦ったときは、もう私は指輪に引き込まれる寸前だったみたい」
 戦いの結果は至極当然だった。契約者が消滅しかかっていると真紅に指摘され、巴がどんな状態になってしまったか知った雛苺は、戦いを続けることなどできなかった。
 雛苺は真紅に勝つことよりも、敗北した自分が動かないただの人形になっても巴が消えないことを選んでしまった。ほとんど不戦敗と言っていい状態で、彼女は負けた。
 ただ、彼女は動かない人形にはならなかった。真紅は敗北した雛苺からローザミスティカを召し上げることを良しとしなかった。彼女は自らの信念に基づき、自分の下僕ということにして雛苺をそのまま生かした。

「一日に何回も呼ばれているなら、誰かが栃沢君を呼んでるのかも」
 巴は立ち止まって少年を見上げた。自分の話を語り終わって少し気が晴れたのかもしれない。
「契約した子──水銀燈かもしれないけど、他の子かもしれない。私は呼ばれたとき、呼んでるのが雛苺だってはっきり分かったから」
「水銀燈じゃないとしたら、誰なんだろ」
 少年も視線を巴の顔に向けた。
「心当たりは……えーとないでもない、けど、さ」
 歯切れの悪い言い方で、少年はあまり愉快ではなさそうな顔をする。巴はついと視線を前に向けた。
「私に聞かれても……」
「だよなー」
 少年はそれ以上言葉を続けず、傘を持ったまま腕を組んでゆっくりと歩き始める。巴も歩調を合わせて歩き出した。
 二人は暫く、無人の住宅街を並んで歩いた。大通りとの、信号のある交差点に差し掛かったとき、少年が漸く口を開いた。
「俺、変わったかな」
 え、と呟いて巴は思わず少年の顔を見上げた。少年は赤になっている信号を見上げながら、半ば他人事のように言う。
「記憶失くす前と、今とで、そんな物凄く変わったのかなぁ」

 実はそのことを、少年はあまり深刻に考えたことはない。多分別人に思えるほど変わったんだろうな、というところで思考停止してしまっている。
 記憶を失くしたといっても、それは殆ど生まれる前から持っていた部分らしい。自分の生きて来た記憶の方は、水銀燈の話では「前世の記憶に強く依存していた部分」だけが吊られて抜け落ちてしまい、その部分を健在な記憶で適当に辻褄を合わせて補っている状態だという。
 水銀燈は少し前までほぼ毎日、彼の夢に入ってはその勝手な辻褄合わせを止めさせていた。彼女が知っている範囲内で正しい記憶が分かっていればそちらの方に誘導するなり、可能な限り正しい記憶に近く作り直す。その膨大で面倒くさい作業を、短気なはずの彼女はこつこつと続けてくれたのだ。
 そのお陰もあってか、今の彼は日常生活をすることと、幸か不幸か勉強をする分にも差し障りはない。親しい友人と話をしても、ごく普通に話は繋がる。
 ただ、記憶を失う前の自分が水銀燈や蒼星石達と出会って何を考え、どう話をしていたか、恐らく前世の記憶が強く関わっていたそれらはおぼろげにしか分からない。あまり熱心に見ていなかった映画やテレビのようなもので、ストーリーや場面、場合によっては台詞までは断片的に覚えていても、そのときの思いは殆ど抜け落ちていた。
 例えば記憶を失う日の晩、それも寝入る寸前に──もっとも今の彼の視点で言えば、「水銀燈がそう言っているからその時系列なのだろう」と納得するしかないのだが──水銀燈に好きだと言ったことは覚えている。しかし、そのときの彼女の反応は覚えているものと違っていたらしい。
 彼の覚えている限りでは、水銀燈の反応はクールなものだった。彼のことを人形フェチと呼んで肩を竦めてみせたのだ。殆ど言葉を受け流しただけのその反応以外は、穴だらけらしいその夜の記憶の底からは掬い上げられない。
 だが水銀燈が言うには、それだけではなかったらしい。そもそも、告白したのは寝入る寸前でなく、彼はそれからシャワーを浴び、水銀燈とまた会話を交わした後で眠ったということだ。
 具体的に何を話したのか、それについては水銀燈は教えてくれない。どうせ大した話じゃなかったんだろう、とは思うが、それは心の片隅にしつこく引っ掛ってはいる。
 逆に言えばその程度の事柄でもあった。もう済んだことで、後々大きく関わってきてもいない。
 水銀燈に好きだよと告白したのも、それに対して何かリアクションを返されたのも、そのときの彼であって今の彼ではないのだから。
 一事が万事そんな風なので、普段は少年は記憶を失くす前の自分や、それと今の自分の差についてはあまり深く考えることを止めていた。ドラマやアニメで見る記憶喪失とは違って、以前のままの生活の延長線上で支障なく暮していられるのだし、薔薇乙女達に関することは、必要があれば尋ねればいい。
 ただ、昨日の午後から夜にかけての一連の出来事で、少年は少しばかり記憶を失う前の自分が気になり始めていた。妙な言い方ではあるが、興味を持った、というのが一番近いかもしれない。

「多分、だけど」
 少年は巴に視線を向けた。ほんの僅かに間を置き、最初に言おうとしていたこととは少し違った言葉を口にする。
「呼ばれてるんなら今の俺じゃなくて、昔の俺なんじゃないかって思うんだ」
 だからちょいフィルターが掛ってぼんやりしてんじゃないかなぁ、と、少年は相変わらず他人事のように言った。巴は少し眉根を寄せて不審そうな表情になった。
「どうして?」
「昔の俺って、なんか結構人気あるみたいだからさぁ」
「なにそれ」
 珍しく、巴は可笑しそうに声を上げた。
「栃沢君は前から同じような感じだと思う」
「あ、そう?」
 少年は意外そうな顔になったが、ついさっき零してしまった一言を巴が否定してくれたのが分かると、そうかー、と満更でもない顔つきになった。あまり変わらないと言われて嬉しくなってきたのか、少しばかり調子付いてしまう。
「少しは変わったのかと思ってたんだけどな」
 セイチョーってやつでさ、と何やらそれらしい身振りをしてみせる。
「うん、そうね、少しは」
 巴はふっと人の悪い笑いを浮かべた。
「でも、今より前の方が女子の人気があったとかいうことは、ないから」
「え、それ何気にトドメ刺された感じなんスけど!」

 オーバーな身振りで返してみたものの、呼んでいるのが誰か、となると、少年には思い当たるフシが何人かいる。もちろんそれは──ある意味でとても哀しいことに──誰一人人間の少女ではないけれども。
 水銀燈が昼寝の寝言に何やら呟いているのかもしれないし、蒼星石が心の中でそっと呼び掛けているのかもしれない。あの飛び立っていった黒い人形も昔の彼と長いこと旅をしていたという話だし、雪華綺晶も大分御執心のようだった。
 翻って、今の自分をそんなに切実に呼ぶほどの存在となると、水銀燈がピンチになったときくらいしか考えようがない。もっとも彼には、水銀燈がそういう事態に陥ることがどうしても上手くイメージできなかったし、仮にそうなったら水銀燈は分かり難い呼び掛けではなく、素っ気無く要旨だけの伝言を伝えて来るか、彼を召集するような勢いで何等かの方法で通達してくるに違いない。
 そういう勢いであれば、彼に物事を通達してきそうな相手は他にもう一人居ないでもないが、生憎そちらがピンチになったときに必死に呼び掛ける相手が彼でないことは明白だった。つまりその線でもない。

「まあ、そんなこんなでさ」
 人もまばらな横断歩道を渡りながら纏まらない説明をして、少年は首を振った。
「なぁんかイマイチ、心当たりがないって言うか実感が湧かないんだよな。今の俺、って考えたら呼んでくれそうな子が思いつかないや」
「そう……」
 巴は残念そうな顔を隠さなかった。ただ、少年にとって有難いことに、それは寂しげな雰囲気を伴ってはいなかった。
 彼の周りの女性──全員人形ではあるけれども──がそういう表情をするときは、大抵決まって寂しそうな気配が漂う。その原因は昔の彼を思い出してしまったか、今の彼に昔の彼を重ね合わせてしまうからだ、というのは少年にも分かっていた。
 もちろん相手はそのことで彼自身を問い詰めたりはしない。今の彼に詰問したところでどうしようもないことだし、問い詰められてまともな言葉を返せるほど彼は器用でないことも分かっているからだ。
 しかし、だからこそ少年は困ってしまう。相手に対して申し訳ないような、いちいちそんな顔をして欲しくないという苛立ちもあるような、なんとも言えない気分になってしまうのだった。
 巴の顔にはそういう陰がなかった。単純に、自分の推測と言葉が参考になる程度でそのまま役に立たないことを残念だと思っているだけだ。それは彼の不連続でない一面の方を主に見ているクラスメートとしてはごく普通の反応なのかもしれないが、少年は素直にほっとした。
「でも、ありがとな。教えて貰えて良かった。今のとか昔のとか関係なくてさ、誰かがそんなに呼んでるってことは、また何か事件が起きる前兆かもしれないんだし」
「……そうね」
 巴は少しだけ顔を引き締めた。


 帰り道が分かれる公園が見えてきた。一ヶ月ほど前、買い物に出てきた少年が雛苺と巴に偶然会った場所だ。
「取り敢えず俺、電波源の本命っぽいヤツの所に帰るわ。真っ直ぐ。俺のこと呼ぶ子なんて他に思い当たらないしさ」
 彼は傘を持っていない方の手を挙げ、ありがとさん、と敬礼の真似事をする。巴は片手を小さく上げてそれに応えた。
 少年は公園の向こうで一度だけ振り返って傘を大きく振り、そのまま自宅の方に駈けて行く。長身とはいえ、近くの家の塀に隠れてすぐにその姿は見えなくなった。
 巴は上げたままだった手を下ろし、その手を顎のところに持っていった。ゆっくりと歩き出しながら、やや考え込むような表情になった。
 少年が聞いたのが薔薇乙女の誰かの声だとしたら、また何か始まっているのだろうか。先週雛苺に聞いたところでは、昨日の日曜日に例の大きなフィギュアを受け取ってきたはずだ。案外、その人形が彼を呼んでいたのではないだろうか。
 公園から暫く行ったところの辻で、彼女は立ち止まって腕時計を見る。雨雲が掛っていて分かりにくいが、まだ太陽は高い位置にある時間帯だった。急に中止にならなければ、剣道部の部活であと数時間は遅くなるはずのところだった。
 辻の上であちらとこちらを見渡し、暫く逡巡してから、彼女は自宅とは違う場所に向かう方に足を進めた。

──やはり今日は雛苺に逢いに行こう。

 契約を解除したといっても、彼女は雛苺と深く関わってしまっている。少年が言うように何かが動き始めているとしたら、他人事では済ませたくなかった。
 それに、黒い人形のことも気になる。昨日の午後から夜半にかけて何があったのか、話の成り行きで彼女は少年から聞きそびれてしまっていたが、関心がないわけではなかった。
 商店街の菓子屋のチェーン店に向かい、いつものように手土産として苺大福をひと箱買って店を出たとき、彼女の視界の隅を何かがふわりと横切った。
 控えめだが品のいい香り。白い服。ふわりと流れる金髪。整って可愛く優しいけれどもどこか存在感の希薄な顔立ち。
 まるで良く出来た衣裳人形のようなそれは、しかし、確かに彼女と似た年頃でほんの少し背の高い少女だった。
 巴が何度か瞬いたのは、その少女の容姿に眼を惹かれたからではない。
 見覚えがある人物だった。昨日の朝練の行き帰りにもこの近くを歩いているのを見ている。
 何かを探して歩いているようなのに、要領を今ひとつ得ないような足取り。ふらりふらりと、まるで幻影が彷徨うように少女は歩いていた。
「──あの」
 巴は思わず声を掛けていた。咄嗟に英語は出てこなかったが、それを気にする余裕もなく、彼女は少女を見詰めた。
「何か、お探しですか……?」
 少女は巴を振り向いた。黒目ばかりのようなつぶらで美しい瞳が巴を見、金髪がふわりと揺れ、薔薇の模様をあしらった白い傘が細い雨を不規則に弾いた。
「……はい」
 外人にしか見えない少女は、はっきりした日本語で答えた。
「ある人のおうちを……探しています」


「ただいま」
 玄関を開けても返事はない。いつものことだったから、少年は特に感慨を感じることもなく靴を脱いで台所に目を遣った。
 出掛けにこちらを見ていた翠星石を思い出す。関節部分が見えるのも構わず腕捲りして、食器を洗おうと水道に手を伸ばしていた。
 考えてみれば珍しいことだった。水銀燈も蒼星石も、そんな風に肌を見せたりはしない。膝の関節は白いタイツで見えないし、足首や肘はもちろん、手首に至ってもなるべく見せないように服の下に隠している。
 そういえば、翠星石はスカートの中の膝関節も、ロングソックスやタイツは履かずに剥き出しだった。この間薔薇屋敷で肩車をして作業したとき、スカートが上の方に寄ってしまって偶然見えたのだ。少年はどきりとしたが、見られたのがかぼちゃパンツでなく膝だからなのか、翠星石は頓着せず少年の肩の上で作業を続けた。
 桜田家の三人はみんな開放的なのだろうか。それとも翠星石が特別なのだろうか。
 どちらにしても、それはドールのボディであることを素直に認識しているからできることだった。気負わず自然体ってやつで生きているからなんだろうな、と思う。
 自分が比較的親しい二人は、どうなのだろう。なんとなくどちらも、どこかで普通の脊椎動物──もっと端的に言えば人間──と違う自分の身体に違和感や呪わしさを感じているような気がした。
 それは別にどちらであっても重大なことではないように思えたから、どうせいつもの勘違いだろうなぁ、と少年はすぐにそれを打ち消した。なんとなく、が正鵠を射ていることはあまりない。翠星石が珍しいことをやっていたから、ちょっと対照的に見えただけの話だろう。
 それよりも今は、水銀燈の鞄の中に居るはずの存在への関心の方が勝っていた。
 通学鞄を机の上に置き、水銀燈の鞄がいつもの位置にあるのを確認して、汚い手じゃやばいよな、と流しに引き返す。これでもかというほど丁寧に手を洗って、ハンカチで手を拭きながら部屋に戻った。
 屈み込み、かちりと鞄を開け、少年はびくりと硬直した。
 鞄の中に入って眠っていたのは、水銀燈だった。
 慌てて鞄を閉めようとして、少年の視線は水銀燈の手首に向いた。
 いつもより少しだけ袖が上がっているのか、下になっている左手の手首が見えていた。柔らかい、人間のような触感の手は、翠星石と同じように丸い球体関節で腕のパーツと繋がっていた。
 腕のパーツは焼き物のはずだ。何度か触れる機会があってそういうモノの触感でないのは分かっているが、他の契約者達がそれを当然と捉えているように、彼もまた素材と触り心地の差異について深く考えることはなかった。
 少年は可能な限りそおっと手を伸ばし、慎重な手つきで彼女の左袖を手首が外から見えないように直した。水銀燈はいつもの、少しだけ頭身が大きめではあるけれども、それさえ気にしなければ美人で大人びた人間の子供に見える姿に戻った。
 彼はひとつ息をつき、落ち着いた動作で静かに鞄を閉じた。落ち込んでも高揚してもいない、ただ何とも言えない気分になっていた。

「さて、それで、と」
 少年はきょろきょろと室内を見回した。水銀燈が眠るために鞄から出したのだとすれば、白い人形は何処に移されたのだろう。
 机の上、床、と見て行ったが、白い姿は見当たらない。まさかとユニットバスの扉を開けてみたが、そこでも彼を出迎えたのはガソリンの臭いと彼が持ち出してきた刈払機くらいのものだった。
「あれぇ……?」
 言いながら押入れの襖に手を伸ばす。狭い部屋だ。放り出したのでなければ他には選択肢はない。
 果たして、下の段の前の方、衣装ケースの脇の狭い空間に、座布団を二枚敷いて人形は横たえられていた。脚は伸ばされ、両手は鳩尾の下で組まれ、髪も整えられている。王子様のキスを待つ白雪姫といった風情だった。
「へぇ……」
 妙な気分はあっさり消えて、少年はにっこりと微笑んだ。なんでもない寝かせ方だったが、水銀燈が一人で場所を作り、自分の体ほどもある人形を運んで寝かせているところを想像すると自然に頬が緩んでしまう。

──これが大変で俺のこと呼んでた、とかね。

 ついそんなことを考えてから、それはないよなぁ、と頭を掻く。水銀燈は彼の登下校の時間を把握しているし、その気になれば彼の授業の時間割さえ、自分の記憶の中のデータベースから引き出して確認できるはずだ。
「案外、この子が俺のこと呼んでたりして」
 それもあまりなさそうだったが、口に出してみると逆に全く有り得ないとも思えなくなった。
 この人形はnのフィールドの中で一度、恐らくは動くはずのないときに動いて、自分に話し掛けた。今は風呂場の壁に立て掛けてある機械をあの場で出現させたのもこの人形の力なのかもしれない。いや、多分そうなのだろう。
 今もまた、体を動かすことはできなくても自分に呼び掛けて来ることくらいはできるのではないだろうか。逆に呼ぶ声がはっきりしていなかったのは、人形が僅かな力を振り絞っていたせい、にも思えてくる。
「だったら、早く起こしてやらなくちゃいけないよなぁ」
 うんうんと一人で頷いて、少年は窮屈な場所に上半身を捻じ込み、苦労しながら人形の背中に手を差し入れる。長い髪の毛ごと人形を片手で抱き寄せて、自分の体のあちこちを狭い空間のどこかにぶつけていててと言いながら、どうにか人形は無事に抱え出した。
「こりゃ、専用ベッド作らないと大変だ」
 身長が一メートル近くもある上に手足が長い人形を不器用に横抱きに抱え直しながら、少年はふうと息をついた。
 金糸雀のマスターで人形コレクターのみつは、増えすぎて場所が足りなくなっても人形達を何処かに仕舞わずに棚の上に置いているらしいが、その理由が半分分かったような気がした。外に座らせておく分にはそうでもないが、寝かせて仕舞ってしまうと取り出すのも大変だし、意外に広いスペースが必要になるのだ。
「そうね。鞄もないことだし、眠る場所は必要でしょう。毎度毎度その襖の向こうに行くのは大変よ」
「だよなぁ」
 いつものようにテーブルの上から聞こえてきた声に、少年は溜息混じりの返事を返し、一拍置いてから慌てたようにそちらを振り返った。いつの間に鞄から起き出していたのか、水銀燈は行儀悪くテーブルの上に腰掛けてこちらを見ていた。
「おはよう、人間。お帰りなさいと言うべきかしらね」
「おは……た、だいま」
「なによそれは」
 少年の珍妙な受け答えに、水銀燈はぷっと吹き出した。
「どっちかにしなさい、お馬鹿さん」
「う……じゃ、おはよ」
 どちらにするか逡巡してから少年はなんとなく頭を下げてしまった。水銀燈は笑顔のまま、おはようと口の端を歪めてみせる。

「で、それのことだけど」
 少年の腕の中の人形を指す。少年はすやすやと眠っているようにも見える人形の顔をちらりと見、体ごと水銀燈に向き直った。
「そだ。ありがとな、この子寝かしといてくれて」
「気にしないで。お礼されるようなことじゃないから」
 水銀燈は照れる風もなくひらひらと手を振ると、テーブルの上に立ち上がって少年の方に歩み寄る。彼は抱いている人形を彼女によく見せられるような位置に移動した。
 額に掛る銀色の髪を掻き上げながら、彼女は人形の顔を覗き込む。背中の黒い翼の生え際が一瞬はっきりと見え、彼は思わず息を呑んだ。
「──表情は柔らかいけど、よく似てるわ。あの人形と……」
 水銀燈は彼の表情の変化に気付くこともなく、やっぱりあの人形師の作品ね、と言いながら、人形の前髪を整えた。彼女が半歩退き、胸の下で組んだ人形の手に自分の手を重ねて視線を上げたときには、少年は表情をどうにか元のとおりに戻していた。
「この人形を動かしたいんでしょ、貴方」
 テーブルの上に立つと、水銀燈の視線の高さは少年とあまり変わらなくなる。今も彼女は真っ直ぐ前から彼の瞳を見据えていた。
「うん」
 少年は素直に頷く。水銀燈は空いている方の手を伸ばし、確認するように人形の肩を支えている少年の手に触れた。記憶を失っても契約の指輪は彼の薬指に嵌っていた。
 暫くそれを見詰めてから、水銀燈はまた視線を上げる。
「契約を交わすことは考えていて?」
 え、と少年は言葉に詰まってしまう。彼としては動けるようにしてやりたいというだけで、それ以上のことは何も考えていなかった。
 そんなことだろうと思った、と水銀燈は片手を人形の手に重ねたまま首を竦め、ごめんと少年が謝るとくすりと笑った。
「貴方がそんな先読みをして行動していたら、却って気味が悪いわよ」
 少しばかり意地の悪い笑い方だったが、少年は酷いなぁと言って口を尖らせただけだった。水銀燈は笑いを収め、人形の手を今度は両手で握る。
「まあ、それは追々考えればいいこと。今は──」
 彼女が人形の組んだ指をゆっくり開かせると、その中に魔法のように金色の螺子巻きが現れる。それはあまりにも光沢が鮮やかで、逆に鍍金塗装の玩具のようにさえ見えた。
「──これを巻いて」
 彼女は無造作にそれを彼の、人形の膝下を支えている方の手に握らせた。ありがと、と言いながら彼は人形の顔をまた見詰める。
「持ってたんだ、この子」
 人形の指を丁寧に元通り組ませながら、水銀燈はふんと鼻を鳴らした。
「後生大事に握り締めていたわよ。まるでこれしか頼るものがないって風に」
 それもすこし意地の悪い言い方だったが、少年はただ頷いた。突き放したような言い方をしているときの水銀燈が、いつも突き放した物の見方をしているとは限らない。今もそうなのだ、と分かっていた。


 少年は床に座り、自分の膝に横向きに座らせた人形の腹部を抱えるような姿勢になっている。人形の上半身を前に倒し、長い白髪を左右に分けると、背中の螺子穴はすぐに見付かった。
「巻くよ」
 少年が人形の耳元で囁く。緊張のせいか螺子巻きを持った手は少し震えていた。
 水銀燈はテーブルの上に座ったまま、組んだ脚の上に肘を立ててそれを覗き込んでいたが、ふっと薄く笑った。
「いやらしい言い方」
 ええっ、と少年は上体を大きく揺らし、緊張していた表情を少し情けない風に緩めて水銀燈を見上げる。堪らず彼女が笑い出すのを見て口を尖らせた。
「ひっでーなー。感動の場面なんだぜ」
「見たままを言っただけよ。あは、あははは」
 何がそんなに可笑しかったのか、水銀燈は笑いながら片手をひらひらと振ってみせる。
「貴方はね、そんな恰好付けても似合わないから。いつもどおり自然体で居ればいいのよ」
 くくく、と少し前のめりになってなお暫く笑い、それが収まると姿勢を戻した。
「映画や劇のクライマックスじゃないんだから、肩肘張る必要はないわ。昨日と同じにあっさり行けばいいのよ」
 少年は何か抗議しようとして口を開きかけたが、水銀燈が面白そうに笑っているのを見てそれを呑み込み、了解したよと言う代わりににっと笑った。

 彼にとって、昨日黒い人形の螺子を巻いたときと今はいささか事情が違っている。
 黒い人形は自分の夢の中に居た存在だとはいえ、記憶を失ってからの彼自身は意識がある状態での直接の接触を殆ど持っていない。この現実世界に連れ出したのも水銀燈であって彼自身の意思ではなかったし、話に聞いているところでは人形は記憶を失う前の彼が生み出し、そのときの──あくまでそのときの、であって今のではない──彼に強い執着を持っているということだった。
 むしろ周囲の皆──薔薇乙女達とジュン──の方が、直接対峙したり長いこと部屋の中に置いて過ごしていたりと、人形と触れ合う機会と時間を持っていた。彼はと言えば、初めて見たのは昨日の午後だったし、それから間もなく人形は捨て台詞を吐いて何処かに飛び去ってしまったのだ。会話さえも殆どなかった。
 この白い人形は違う。何処の誰とも分からない異世界の存在ではあるが、nのフィールドで出逢い、一緒に際どい所を乗り越えた仲だ。しかも、彼に貴重な助言もくれている。

 ──強く、イメージして。それを……はっきりと、具体的に。
 ──焦らないで……集中して、イメージを作って。

 どうやら会話は一方通行に過ぎず、彼の言葉は相手に届いていなかったようだが、この人形の助言がなければ、今頃は彼は何処かに漂流しているか、雪華綺晶に囚われていたのだろう。巨大な白薔薇の花の中、切羽詰った状況でも、どうにか刈払機を細部まで明確にイメージできたのはあの助言のお陰だった。
 刈払機を出現させたのも自分自身ではなくこの人形の力によるものだ、とも彼は推測している。確たる根拠はないがそんな気がするのだ。
 もちろん人形が彼に助言をしたのは、彼を助け出したいというよりも自分が囚われたくなかったからだろう。だが、結果的に助かったのは間違いない。そして、メイメイから依頼を受けた事柄とはいえ、現物を確認し、雪華綺晶に遭遇した後で最終的に人形を連れて現実世界に戻るという判断をしたのは、今度は彼自身だった。
 そんな連帯感に恩義と責任のようなものも加わって、彼は白い人形の螺子を巻くということに少なからず気構えを持っていた。そちらにばかり気が向いていて、契約云々には全く考えが回らなかったほどだった。

 ただ、それは空回りしかけていたのかもしれない。水銀燈の言葉でなく笑顔が、理屈でなく感覚で少年にそれを分からせてくれた。
 自分の中で妙な具合に葛藤を繰り広げていても、それは外から見たらただの滑稽な一人芝居に過ぎないのだろう。悩み抜いて結論を出すとか、何かをするだけで周りの者を引き込んで行くといった恰好の良い役柄は彼には似合わないらしい。
 どんなに丁寧に螺子を巻いたところで、彼は所詮彼だった。ならば普段どおりに力を抜いて、いつも水銀燈の薇を巻くのと同じように、または昨日の夕方黒い人形のキーを回したように、ごく自然に螺子を巻いてやればいい。
「んじゃ、巻きますか」
 彼は人形の背中に視線を戻し、無造作に螺子巻きを螺子穴に嵌める。現金なもので、手はもう震えていなかった。
 きりきりとある程度まで一気に螺子を巻く。そこからは見覚えがある光景だった。
 螺子巻きは勝手に回り始め、それとともに人形の眼はうっすらと開いていき、力なく摩擦力だけでポーズを取っていた四肢が少しずつ動き始める。腹部に回して支えていた手をそっと引くと、人形はゆっくりと立ち上がり、左の眼を何度か瞬いた。
 小さな唇が動き、金色の瞳が焦点を結ぶ。数秒間、そうして壁の方を向いていてから、白い人形は少年と水銀燈の方に向き直った。
「……巻いてくれたんですね」
 柔らかな笑顔で人形は言った。おう、と少年は親指を立ててみせる。
 彼の後ろで水銀燈は肩を竦めた。先程は先程で、ぎくしゃくと妙に力の入った仕草に笑ってしまったが、それが少年の持ち味とはいえ、あっと言う間にここまで普段どおりに戻ってしまうのも可笑しかった。本質的に緊張感が持続できない性質なのかもしれない。

──皮肉なものね。

 笑いながら彼女はそう思う。
 昨日の黒い人形と今日の白い人形。よく似ているのにまるで対照的な目覚めだった。
 一方は見返り無しの好意を一身に受け、何人もの手を経てそのボディと動力源を完成したにもかかわらず、あれだけの人を集めた目の前で憎悪と敵対心だけを振り撒いてnのフィールドに戻って行った。
 此方は自分と彼以外の誰にも殆ど関心を向けられていない状態で、こうして祝福されて目を覚ました。
 雪華綺晶がらみで自分達に関わったということまで含めてよく似ている立場なのに、この差はどうしたことなのだろう。

──これが、「お父様」に見守られている存在とそうでない存在の違い、か。

 水銀燈の脳裏に、あの夢の工房の中で出会った人形師が浮かぶ。彼はひどく皮肉に、それでいて少しばかり照れたように笑っていた。
 見守っている「お父様」と考えたときに何故自分達の造物主でなく彼のことを思い浮かべてしまったのか、その理由は彼女には分からない。ただ、少年と自分を見詰めて微笑んでいる白い人形が、あの人形だけでなく、例えば自分の末妹と比較しようもないほど幸せなのだろうということは理解できた。
 少年が白い人形のために飲み物を用意しようと台所に向かう背中を見遣り、若干不安そうな視線を自分の方に向けている人形に視線を戻して、さて、と彼女は気分を切り替える。
 人形から聞き出したいことは幾つもあるのだ。他のことはそれからでいい。


「うゅ? 二人で何作ってるの?」
「ビスケットの素ですよ。紅茶入りでチョコがけのソフトビスケットです」
 蒼星石が隣にいるからか、翠星石は機嫌よく雛苺に答える。雛苺はぱあっと顔を明るくした。
「うわーい、ヒナも食べたいの!」
「すぐには無理なんだってさ」
 蒼星石は苦笑する。ついさっき、生地を畳むのを手伝いながら同じ質問をして、翠星石に大仰に溜息をつかれたところだった。
「がっつくなです。まずは冷蔵庫で一時間寝かすですよ。それからオーブンでじっくり三十分。美味しいビスケットに辿り着くまでには、まだまだ先は長いのです」
 踏み台の上で、立てた人差し指を左右に振りながら翠星石は得意気に説明した。雛苺は口をだらしなく開けたままこくこくと頷いて聞いている。
 いい聞き役だな、と蒼星石は頬を緩める。翠星石の講釈に素直に聞き入っている雛苺が、何処となく水銀燈の媒介の少年に重なって見えるような気がした。
 案外、雛苺と少年は似ているのかもしれない。そしてどちらも翠星石といいコンビでもある。怒鳴り散らされてもめげずに子供っぽく自己主張もし、翠星石が笑えば一緒に笑い、時折はしっぺ返しもする。
 そうやって気兼ねなく伸び伸びと付き合える関係は、蒼星石と翠星石の間にはなかった。蒼星石の性格がそちらに向いていないことも原因の一つだったが、お互いがあまりにも近すぎることが一番大きかったように思う。

──敵わないな。

 それが素直な感想だった。
 今の翠星石は、陳腐な言い方かもしれないが輝いている。それを引き出しているのは真紅や雛苺であり、もっと言えば彼女達のマスターであるジュンとその姉も含めたこの場所の雰囲気なのだろう。
 彼女と一緒に居るのが自分とマスターの二人だけという環境では、こうはならなかったはずだ。
 翠星石にとって自分はかけがえのない半身のようなものだった。だから常に一緒に居たがっていたし、本来寂しがり屋の彼女を独りで放って置くことは自分としても耐えられなかった。それは翠星石にとって安心できる環境だったはずだが、同時に彼女を縛っていたのかもしれない。
 やはり彼女は──

「──蒼星石」
 呼び掛けられて蒼星石は我に返る。声のした方を向くと金糸雀がきょとんとした表情で彼女を見上げていた。
「どうしたの?」
 なんでもないよ、と蒼星石は首を振り、作った生地を冷蔵庫に入れながら雛苺の相手をしている翠星石をちらりと見遣ってから踏み台を降りた。
「ごめん。少し気が抜けてたみたいだ」
「そう?」
 金糸雀は冴えない表情のまま首を傾げた。言うか言うまいか少しばかり逡巡するような間を置いてから、にっこりと笑って続ける。
「なら、いいの。笑ってるのに寂しそうな顔してるように見えたから、ちょっとだけ気になったかしら」
「そうかな」
 蒼星石は苦笑する。こんな些細な内心の動きでさえ満足に表情から隠せない自分に少し呆れていた。
「ありがとう。大丈夫だよ、ちょっと昔のことを思い出していただけだから」
 金糸雀はうんうんと頷き、素早く片目を瞑ってから身を翻して雛苺のところに駈けて行った。
 実のところ、回想は蒼星石の考えていたことの半分にも満たなかった。もっとも金糸雀は恐らく理解していて、言い訳まで含めた蒼星石の思いを受け取ってみせたのだろう。

──優しいんだね、金糸雀。

 何とはなしの暖かさのようなものを蒼星石は感じた。ただ、それはまた彼女の思考を少しばかり内向きにしてしまった。
 金糸雀の態度は翠星石と蒼星石が今までお互いに取っていたスタンスと似ていた。
 あまりにもお互いを知っているから、会話は減る。特に、どちらかが心を痛めているときは、発せられるのは労わりの成分を含んで変化した言葉だけだった。
 二人とも臆病なだけに相手を大事にし過ぎ、本音は奥に仕舞われてしまう。嘘とまでは言わないが、それが積み重なっていくにつれ、何処かに作り物の世界を構築して、それが実在することを信じようとするような危うさがついて回った。
 いつも辛うじて一定以上にそれが進まなかったのは、翠星石の性格ゆえだった。自分の内側に全てを落とし込んでしまう性格の蒼星石とは違い、翠星石は双子の妹や契約者に対する思いを表層に近い何処かに溜めていき、いずれそれは噴き出してしまう。
 そこで蒼星石が謝り、限界を超えてしまった翠星石が泣いて、やっと二人は素直な気持ちを確認できるのだった。

 今も多分、翠星石は元気に振り撒いている笑顔とお喋りの裏で、本当に言いたいことの何分の一かは胸の奥に仕舞っているのだろう。もちろん、水銀燈の媒介が垣間見せた漫画の世界──一時的とはいえ蒼星石を失ってしまった世界──の彼女のように、哀しさや不安をひたすらに押し隠している必要はない。しかし、例えばジュンに対する想いは、精神的に追い詰められていたあの世界よりも余裕のある今の彼女の方がはっきりと意識しているだろうし、その分ジュンに対してはその想いを隠そうとしているはずだ。
 似たようなものではあるかもしれない。いずれ同じように想いは噴き出してしまうかもしれない。ただ、それは蒼星石と契約者だけを見ていた頃の、歪で危うい繰り返しとは違うように蒼星石には思えた。具体的に何処が、と言われると返答できない、そんな微妙な違いではあるけれども。

──僕達はマスターを違えて正解だったのかもしれない。

 結菱老人の心の影を壊そうとしたときにちらりと考えたことを、蒼星石ははっきりと意識する。成長、と言ったらおこがましいかもしれないが、本来の契約者のあまりに身勝手な要求が原因とはいえそれぞれに道を踏み出したことで、翠星石も自分もこれまでとは全く違う経験を積むことができた。
 そのことがアリスゲームに有利であるかどうか、至高の少女となるために必要なのかどうかは分からない。そもそも、元来自分達は姉妹の中でも特にアリスゲームに対する執着が希薄だった。
 だが、いつ唐突に──アリスゲームの終焉という名前のタイムリミットが来て──終わるか分からない自分達の一生の中で、この時代、今という時間はこれまでになく有意義で、そして「これから」があるのなら間違いなく大きな礎になるはずだ。
 そこまで考えながら「これから」を無理に望んでしまわないのが、自分自身に後付けで施された操作なのか、あるいは謙虚で欲というものが希薄な性格によるものかは彼女自身には分からない。
 ただ、これからという言葉につい二人の人物を重ねてしまうことは意識していた。それは父親でもなければ姉妹の誰かでもなかった。


「いっちじかんー、いっちじかん」
 妙な節を付けて繰り返しながら、雛苺は自分に似た小さな人形を高い高いするように両手で持って体を揺らしている。それは後ろから見ていると冷蔵庫に祈祷の踊りでも捧げているかのようだった。
「まだかなまだかなー」
「未だも何も、カナはカナかしら!」
「うょ?」
 振り向くと、そこには金糸雀が長細いプレッツェルをこちらに向けて突き出していた。
「ヒナ、いい加減ふしぎなおどりはやめるかしら。迂闊に見てるとMP吸い取られちゃいそう……ってあああ!」
 はっしと雛苺は突き出されたプレッツェルに食いついてしまっていた。金糸雀が咄嗟にプレッツェルを持った手を引くと、両手で人形を頭上に差し上げたまま口だけで食いついていた雛苺は釣られるように前のめりになり、二人は絡み合うようにして倒れた。
「きゃああああ!」
「ふえぇぇぇ?」
「台所で何してやがるですかこのチビどもー!」
 大きな音に居間に戻っていた翠星石が血相を変えて戻ってくるのと、玄関のチャイムが鳴ったのはほぼ同時だった。
 姉妹達は動きを止め、お互いに顔を見合わせる。来客によっては騒いでいるのを見られるのはあまり良くない場合もあった。
 チャイムはまず一度鳴り、それから相手が出てくるのを待つような間を置いてもう一度鳴った。翠星石はひょいとキッチンから顔を引っ込め、ジュンに来客を知らせるために急いで二階に上っていった。
「トゥモエ……かな」
 むく、と上半身を起こして、雛苺はぱちぱちと瞬く。口にはまだプレッツェルの残りを咥えていた。それを飲み込んでキッチンの入り口にとてとてと駆けて行き、細めに開いたドアの陰から玄関の方を見遣る。
「いたた……カナは巴じゃないかしらっ」
 金糸雀は雛苺にぶつかってしまった額をさすりながら起き上がり、その後を追う。しかし並んで廊下を覗き込む前に、雛苺は歓声を上げて玄関に走って行ってしまった。
「トゥモエー!」
 こんにちは、とドアを開けようとしていた巴は、完全に開ききる前に雛苺のボディアタックを受けた。ドアノブと苺大福の箱で両手が塞がっていたが、飛びついてきた可愛い少女を胸の辺りで器用に抱き止める。
「トゥモエトゥモエトゥモエー!」
 雛苺は小さな人形を持ったまま、巴の首に両手を回してしがみついた。いつもの仕草ではあった。
「雛苺……元気してた?」
「花丸元気ぃー! トモエが来てくれたからダブル花丸になっちゃったー」
 言いながら巴の顔を見上げ、雛苺は疑問符を頭の上に浮かべたような表情になった。巴はいつになく冴えない、複雑な表情をして、彼女ではなく脇の方を見遣っていた。
「どうしたの、トゥモエ……」
 訝しげに何度か瞬き、巴の視線を追って行って、雛苺の表情は凍りついた。

「.... Corinne ?」

 視線の先には、まるで人形のように整った顔立ちの、白い服を身に着けた美しい金髪の少女がいた。少女は半ば呆然と、酷く懐かしいものを見るような瞳で雛苺を見詰めていた。
 玄関の庇の外で、細い雨はまだ降り続いている。凝固したようなその場所に、表の通りを車が通り過ぎていく音が、ひどく鮮明に響いてきた。



[19752] その10 黒鳥(2)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/19 00:39
 温かいココアの香りが、安アパートの部屋の中に漂っている。
 純ココアの粉に砂糖の他に塩も少し入れ、ミルクなどは足さないのが水銀燈のレシピだった。少年にはあまり美味とは言えないような気がする代物だったが、お汁粉もそうでしょう、と言われるとそんなものかなとも思えてくる。
 それは幾つか前の時代に、船員だった当時の媒介が好んでいた味だった。砂糖が切れれば塩だけで飲むこともあったし、船の上では砂糖など入れず塩だけだった、と彼は言っていたが、流石にそれは水銀燈の舌には合わなかった。
「何から訊けばいいかしらね」
 人形を床に敷いた座布団に座らせ、水銀燈は珍しく自分も鞄に腰を下ろして向かい合った。
「まずは名前から、と行きましょうか。私は水銀燈。こちらの世界でのローゼンメイデン第一ドール」
 貴女は? と尋ねられて、人形は両手で持ったカップに視線を落とした。
「わたしはローゼンメイデン第七ドール……名前は」
 そこで何かを決意したように視線を上げ、水銀燈を見詰める。
「名前は、ありません。お父様はわたしに名前をお付けになりませんでした」
 脇で見守っていた少年は驚いたように人形を見詰める。だが、水銀燈は冷静に頷いていた。あの人形師ならありそうな話だ、と思ったからだ。
「名前は個体の識別に必要なもの。とても大事な、それぞれに一つずつのもの。でも、物事の本質を表しているわけではない、些細なもの……呼ばれることがなければ、名前は必要ではないんです」
 少年に、人形は淡々と説明した。
「わたしは最後に作られ、そしてお披露目されずにずっとnのフィールドの中にいました。誰とも契約することなく、お姉様たちの生き方を眺めて来たんです」

 第七ドールを作り始めた時の人形師は大きな壁に行き当たっていたと言えるだろう。
 それまでのドールの集大成というべき第五ドール──『真紅』でも彼の目指した高みには到底届かないことが分かり、思い切って方向を変えた『雛苺』もまた、作り上げてみると『真紅』にも及ばないことが分かった。
 そこまでは、水銀燈達姉妹の造物主も彼も、作ってきたものが違うとはいえ悩みどころは同じだった。つまり、これまでの手法では打つ手がないと絶望してしまったのだ。
 違っていたのはそこからだった。
 水銀燈達の造物主があくまで自分の追究する高みを目指したのに対して、彼は自分以外に解決の手懸りを求めた。弟子を取り、自分の技術と理想を教えながら、最後の一体の製作に新たな視点を持ち込もうとしたのだ。
 それは、人形師でありながら同時に錬金術師でもある、既に殆ど人智を超えた存在となりかけていた彼にとっては大きな決断だった。逆に言えば、そこまで追い詰められていたとも言える。
 残るクリスタルの欠片は唯一つ、そして自分個人で思いつく手法は全て土がついてしまっている。思い切った行動に出なければ、現状は打開できそうになかったのだろう。

 結論から言えば、それは大失敗だったとも、成功だったとも言える。
 弟子は師匠を上回ろうと文字どおりその全てを投じ、莫大な時間をかけて動力源たるクリスタルさえ必要としない人形を作り上げた。
 弟子の思いを一身に受けたそれは、ずっと後になって、第七ドールを詐称して偽りのアリスゲームを扇動することになる。
 最後は体内に取り込んだ六つの動力源のパワーにボディが耐えられず崩壊してしまったものの、自分以外に参戦した五体のドールのうち──彼が弟子に繰り返し最高傑作と語った『真紅』を含めて──四体を手ずから倒し、少なくとも戦闘力の面では師匠の作品を完全に超えたことを示した。
 もっとも、こちらの世界で自分達のゲームを戦っている水銀燈の視点から見れば、ドールの単純な戦闘力の大小は至高の少女たる資質の優劣とは直結しないように思える。ひと口に「力」と言っても、それは狡猾さや駆け引き、知恵、その他の資質を含めたものだ、というのはこの時代で媒介から知識を譲られる前から水銀燈の認識としてあったし、他の姉妹達にとっては腕力を以て戦うことそのものさえ忌まわしく思えているはずだ。
 しかし彼等の世界では戦闘力と「力」はシンプルに繋がっていた。弟子は彼を超え、彼のアリスゲームは一時的にとはいえ破綻してしまった。
 ただし、それは悪い結果とは言い切れない。彼にとっては新たな方向を示された一件でもあった。潰し合いゲームに拠らない究極の少女への道があるということを漸く彼自身が認められたのだ。
 流石に自分の決めたルール──アリスゲームの敗者は二度と動くことのできない人形となる──までは破れなかったものの、彼は弟子のドールに敗北した自分の娘達については修復し、飛び散った動力源を集めて再び与え、生き返らせた。『真紅』にゲームに拠らずにアリスになる方法があることを伝えることもできた。
 ともあれ、それは第七ドールを製作している時期の彼には予測できないことだった。彼は弟子に刺激を受けながらも、弟子とは全く逆の方向にドールの製作の舵を切った。

「わたしは、力を持たないものとして作られました」
 人形は空になったココアのカップを両手で抱えながら呟くように言った。
「強い力を持ってしまった姉妹たちは、それ故に究極の存在たり得ないのではないかと……お父様は、そう思われたんです」
 彼女は弟子の作った人形が始めた偽のアリスゲームにも参加しなかった。他の姉妹と比べ、あまりにも脆弱でゲームに耐えないと人形師から言われていたらしい。
 ただ、姉妹たちが戦いを始める前までは、有り体に言ってしまえば彼女を作っている間は、人形師はそれが自分の目指すものに近いのだと考えていたのだろう。
「他の六人は凄いパワフルなんだろ? みんなキラキィ以上とか……」
 少年は腕を組んで首を傾げた。
「一人だけ何にもないとか、そりゃ極端過ぎるんじゃね? なんか可哀相だ」
「そうとも言い切れないわよ」
 水銀燈は頬杖を突き、空いた方の手で一枚の黒い羽根を弄んだ。
「例えば……そうね、自転車や徒歩で行動できる範囲でも、自家用車を持ってたらそっちを使ってしまう。その子以外の姉妹はそれと同じ。つい持っている力に依存してしまうわけ。
 そこで最後の一人は敢えて特異な力を持たない者として作り、自分の道を切り拓いていくために積極的に知恵を絞らせるつもりだった、ってところでしょうね。どちらが可哀相か、見方によっては逆にもなる」
 弟子を取って触発されたことでアプローチの方法は変えたものの、それは第六ドールと似た方向ではあった。ただ、第六ドールの場合は大きな力を与え、完成された人格を植え込まずに自然の成長に委ねたところを、第七ドールでは力そのものを抑えて自らの知恵でそのハンデを乗り越えさせ、より自発的に成長させることで彼の考えるところの究極の存在に近付けようとしたのだろう。
 結果的にはそれもまた失敗に終わってしまい、ゲームによるアリスの誕生を目指した時点で彼の新方針は却って裏目に出てしまった。
 nのフィールドに逼塞していたという話も頷ける。パワーのぶつかり合いとなった彼等のゲームには、力を持たない者は耐えられない。戦いを挑まれれば即座に残骸となり、力を持つ者の糧となるだけだった。
 それは本人が哀れというよりはむしろゲームの遂行上の支障になりそうな事柄だった。彼等のローザミスティカは文字どおり力の源であり、奪えば即座に自分の力にできるのだから。

──しかし、そうなると……

 ふむ、と水銀燈は黒い羽根を弄る手を止め、人形に視線を移す。そろそろ訊き時ということなのかもしれない。
「貴女にはどんな能力が与えられたの? 戦闘力は皆無に近くても、あの男がまるきり何の能力も付帯させないとは思えないけど」
 弄んでいた羽根を空中で止め、紙飛行機のように飛ばす。羽根は台所の方に放物線を描いて飛んでいったが、途中で力を失ってゆらゆらと漂うように落下した。
「むしろ、直接戦闘に向かない能力が付与されているんじゃないかしら、貴女には」
「わたしの能力……」
 人形はコップをコースターの上に置き、顔を上げた。少年を見遣り、それからやや気弱いようにも見える視線を水銀燈に向ける。
「わたしに出来ることは、強く何かを望んでいる人に、その人が望むものの幻を作ってあげること。それに……何かに焦がれ、それを夢に見ている人のお手伝い」
「それで全部?」
 それだけです、と人形は言った。こちらに向けられている訝しげな表情からは、何かを隠したり嘘をついている様子は見て取れない。
 水銀燈はまた、ふむ、と息をつく。自分では自分の能力を過小評価しているのか、それとも本当におまけ程度の実行力しかないのかは兎も角として、人形の能力は雪華綺晶のそれに近いものに思える。
 詳しく訊き出せば雪華綺晶の能力の細部を類推する手懸りにはなるだろう。もちろん、却って要らぬ先入観を持ってしまう可能性も否定はできないが、それでも貴重な情報源と言えそうだった。
 それは良い。だが、今の一言は良いことばかりを伝えてくれたわけでもなかった。

──あれはこの子の仕業じゃない、ということになるわね。

 ゆらゆらと不安定に揺れていたユニットバスの刈払機を思い出して、水銀燈は息をつく。半ば予期していたとはいえ、面白くない結論が出てしまいそうな雰囲気だった。
 nのフィールドの中の幻影を現実世界に存在できる実体に変えてしまう能力。それを持っているのはこの人形ではなかった。その場に居た残りの二人のいずれかが、その、ある意味でゲームそのものを崩壊させかねない力を未だに持っているのだ。


 白い服を着た金髪の少女が、同じ色の髪の小さな少女を大事に抱いている。
 桜田家の客間が落ち着いた風情に綺麗に整えられていることも相俟って、写真として残せば美しい一葉としてアルバムの中で輝いて見えそうな光景だった。抱いている方の少女としてもそれは望むところだったかもしれないが、抱かれている少女を含めたその場の他の者にとっては些か事情が違っていた。
「あんにゃろう……いきなりやってきて図々しいにも程があるです」
 ダイニングからドアのガラス越しに客間を覗き込み、翠星石は口を尖らせる。初対面と思しき人物が雛苺を抱いて客間に入る馴れ馴れしさに腹を立て、本当は客間に雪崩込む心積もりだったところをジュンにダイニングに押し込められて必要以上に気が立っていた。
「ジュンもジュンです。チビチビのマスターのくせに、萎縮してなんにも言ってやれないなんてチキン過ぎて涙が出てきますよッ」
「仕方のないことよ」
 真紅は視線を少女達に向けたまま、低い声で諌めた。
「普段は顔を合わせる相手の決まっている狭い世界の中に居るのだもの。唐突に外から現れた子に向かって満足に喋れないのは当然だわ」
 う、と翠星石は言葉に詰まる。それは正論だった。でも、と彼女はちらりと真紅の横顔を盗み見る。
「でも、ヒッキーを甘やかしちゃいかんですぅ」
 何とか返した言葉が大分トーンダウンしていたのは、真紅の顔にかすかな苛立ちと悲しさのようなものが浮かんでいるからだった。それが誰に向けられているのかは分からなかったが、傍らで単純に怒っていられるような雰囲気ではなかった。
「それにしても一体なんなんですかあれは。トモエの友達にしちゃチビに馴れ馴れし過ぎます」
「──雛苺の前のマスターの孫かしら」
 一歩後ろから金糸雀が答える。思わず二人が振り向くと、金糸雀はよく分からないと言いたげな顔で続けた。
「さっき玄関でそう言っていたわ。オディール・フォッセーって名乗って」
「えっ……」
 翠星石は絶句して前に向き直り、ドアにしがみつくようにして向こうを見詰める。真紅は目を伏せて溜息をついた。
「そう、前のマスターの……」
 蒼星石は更に一歩離れたところから、ガラス戸越しに客間の中に視線を向けた。微笑を浮かべている少女とは対照的に、雛苺は酷く緊張しているように見えた。
「それは……辛いだろうね」
「辛いって?」
 金糸雀は事態をよく飲み込めないと言うように首を傾げた。
「どういうことかしら。確かにこんな話、聞いたことはないけど」

 一旦時代を跨いでしまえば、以前の契約者やその係累の者が薔薇乙女の前に現れたり、その子孫がまた契約を結んだりということは起きなかった。そういうことは確率的に起きないのだろう、と金糸雀は漠然と考えていた。
 前者については兎も角、後者は人工精霊が新たな契約者を選ぶときに除外するはずだというのが金糸雀の認識だったし、少なくともこれまではそれを否定するような出来事は起きていなかった。更に、雪華綺晶についての水銀燈の考察が当を得ているなら、彼女達のゲームはその種のハプニングが起きないように制御されているはずでもある。
 ただ、これが慮外の出来事だとしても、あり得ない、何かがおかしい、というのが相応しい場面だ。あるいは水銀燈の考察は外れていた、という台詞でもいい。辛いという言葉が出て来るのが金糸雀には意外だった。

 蒼星石は客間から視線を逸らさず、独語するような調子で答えた。
「契約を解かないまま雛苺を鞄の中に置き去りにしてしまったのは、前のマスターだから」
 壁に添えられていた手がきゅっと握られる。
「どちらにとっても辛い出会いのはずなんだ。でも──」
 蒼星石は言葉を切り、客間のオディール・フォッセーと名乗った少女の顔を見詰めた。
 その表情は辛さを耐えたり、雛苺に申し訳なさを感じているようには到底見えない。少なくとも蒼星石には、その表情からは雛苺を探し当てた安堵感のようなものしか読み取れなかった。
 それは、自分の祖母が雛苺に対して行ってしまった仕打ちを知らされていないか、雛苺が望まない別れをトラウマとして抱えていることに気付いていないだけなのかもしれない。だが蒼星石には、そこに何か別の理由があるように思えてならなかった。


「──私が小さい頃、繰り返し聞かされたお話があります」
 オディールと名乗った少女は名残惜しそうに雛苺を膝から降ろすと、ゆっくりと夢見るような口調で語り始めた。
「ある女の子とお人形の話……」

 コリンヌ・フォッセーが雛苺に出会ったのは、十一歳の誕生日だった。
 南仏の大都市の商家に生まれたコリンヌは、何不自由ない少女時代を過していた。雛苺は、誕生日のプレゼントの一つとして贈られたものの一つだった。
 二人はすぐに仲良しになった。何処に行くにも一緒で、何をするのも二人でだった。コリンヌは人形遊びが大好きで、雛苺はずっとその相手をしていた。
 二人はよく似ていた。美しい金髪で、育ちが良く無邪気で人を疑うことを知らず、そして哀しいほどに世間知らずだった。
 屋根裏で人形遊びをしている少女達が知らないうちに、終わりはすぐそこまで近付いていたのだ。
 ときは第二次大戦のただなかだった。コリンヌの家は直接戦火を蒙らずにいたが、隣接する軍港都市は繰り返し空襲を受けていた。
 一九四四年八月十五日。連合軍の南仏上陸作戦が発動され、地域全体は戦場となってしまった。
 コリンヌの住んでいた屋敷も戦場になった。最初はドイツ軍の、次に自由フランス軍の兵士達が篭って、短いが熾烈な戦闘を行った。
 だが、コリンヌはそのとき、もうその場所には居なかった。作戦が迫っていると知った彼女の家族は、コリンヌを連れてもっと西の都市に引越してしまっていた。
 引越しには混乱はなかったが、時間も持てる物も限られていた。コリンヌは最後まで雛苺を連れて行くと言い張ったが、彼女の家族には大きな鞄に入った玩具を持って行くほどの余裕は残されていなかった。

「隠れんぼしましょう、雛苺」
 何も知らずに眼を覚ました雛苺に、コリンヌはそう言った。他にもっと良い言い訳ができるほど、彼女は世慣れていたり器用だったりはしなかった。
「静かに、見つかるまで鞄に隠れて待っていてね」
 雛苺はこくりと頷いた。コリンヌが何かを隠しているのは分かったが、それを聞くことはできなかった。
「わかったわ」
 少し無理をして雛苺は微笑んでみせた。
「隠れんぼしてずっと待ってるわ」
 コリンヌを呼ぶ声が階下から聞こえてきた。彼女は無言で雛苺を見詰め、雛苺はそっと鞄の中に横たわった。
「……ごめんなさい」
 鞄を閉じる直前、コリンヌは思わず呟いてしまっていた。
「可愛い雛……」
 涙を拭いて立ち上がったときには、家族が彼女を連れに来ていた。何度となく振り返りながら、コリンヌは屋敷を後にした。

 数年後、再び南仏に戻ってきたコリンヌは残酷な現実を目の当りにすることになった。
 美しかった都市は再建の途上にあった。戦禍で崩れてしまった建物が多かったが、今はそれを復旧しようと奇妙な活気が街中に漲っていた。
 彼女の住んでいた屋敷は、復旧の手が加わらないままそこにあった。引っ越す際に売りに出したのだが、時節柄買い手が付かなかったのだ。
 他の建物と比べて大きかったその屋敷は、空襲と砲撃に繰り返し晒された後、更に恰好の陣地として両軍に使われたらしい。屋根はほぼ全部崩れ落ち、分厚い壁も殆ど壊れていた。残った部分にはまだ生々しい弾痕が刻まれていた。
 コリンヌは鞄を探した。だが、当然のようにそれは見つからなかった。

 オディールの声にも翳りが差していた。
「おばあさまは亡くなる直前までそのことを気に病んでいました」
 亡くなる、という言葉のところで雛苺はぴくりとして巴を見た。巴は硬い表情をほぐして微笑んでみせたが、雛苺はすぐにまた俯いてしまった。
「そして私にこれを託したの」
 オディールは両手でかちりと金鍍金の古いロケットペンダントを開けた。
 中には彼女そっくりの少女と雛苺が写った写真が入っている。先程、玄関で雛苺と巴にも見せた品物だった。
「雛苺を探し出し、取り返して欲しいと……」


 蒼星石の思考の中で何かが繋がった。
 少女の言っていることは一見破綻がないように見える。雛苺の前契約者がずっと雛苺を気に掛け続け、あまつさえ孫娘に雛苺を探させたという話は、昨日水銀燈が話していたこと──契約を解いた後になってから薔薇乙女を探すような危険な契約者は、雪華綺晶が糧にすることでその芽を摘む──を否定する内容にも思える。
 だが、そこには恐らく裏がある。
 何より、水銀燈はこの話を知っているに違いない。蒼星石自身は詳しく知らないが、漫画の世界でも似たような展開になっていたとすれば水銀燈は当然その知識を持った上で推論したはずだ。
 その考えは、オディールがロケットを開けたときに確信めいたものに変わった。
 蒼星石はやや顎を引き、ドアの方に歩み寄った。無作法かもしれないが、ここは確かめておかなければならない。それがはっきりすれば、彼女の推測はほぼ間違いない裏付けを得られる。
 だが、彼女がドアを開けようとしたそのとき、無作法どころではない勢いでドアを開け放った者がいた。

「ちょーっと待ったぁぁぁ! 寝言は寝て待てですぅぅぅ!」

 客間の全員がドアに視線を向ける。ジュンが慌てて何か言いかけたが、翠星石はそれを遮るように彼の脇に突進して、低いテーブル越しにオディールを睨みつけた。
「薔薇乙女の姉妹として黙って聞いちゃおれんです! チビ苺のマスターはこのチビ人間ですよッ」
 堪忍袋の緒が切れたと言いたげに鼻息荒くまくし立てる。
「マスターはドールが選ぶもの、しかもチビチビの指輪は砕けて無くなってしまってるです。今、チビ苺がこうして元気にしていられるのは真紅を介してジュンから力を貰ってるからなのですよッ」
 オディールは無言で翠星石を見詰めた。その強い視線に急に生来の人見知りと臆病さが顔を覗かせて、翠星石はそそくさとジュンの背後に隠れてしまった。
「や、やるかー、ですぅ。チビ人間マスタージュンがお相手するですよッ」
「お前な……」
 ジュンは呆れて一つ息をついたが、正面を向いてオディールに何かを言おうとし、半ば口を開けたまま驚きに目を見張る。彼の隣に来ていた真紅が息を呑む気配も伝わってきた。

 少女の左手の薬指には、薔薇の指輪が嵌っていた。見間違うはずはない、契約の指輪だった。

「私にはこれがあるわ」
 オディールはよく指輪が見えるように左手を立て、ゆっくりとそれを胸に抱くような仕種をした。
「これは雛苺の指輪……」
 目を伏せ、顎を少し引いてまたゆっくりとした口調に戻る。
「──夢を見たの。辺り一面にミルク色の深い霧……誰かに呼ばれるみたいに私はその中を歩いているの」

 白い薔薇の咲く、純白の水晶の城。
 水晶の鏡の中で、彼女は誰かの声を聞いた。
「窓を覗いて御覧なさい」
 脇にあった一枚の窓と思しき水晶。覗き込むまでもなくそこには東洋人の少年とそれにじゃれつく幼い巻き毛の少女が映し出されていた。
「雛苺を取り戻しましょう。あるべき姿に戻しましょう」
 囁くように声は告げた。
「あの子はもうゲームの盤から降りなければならない。だから──」
 目が覚めたとき、彼女の指には薔薇の指輪が嵌っていた。

「──私はこの指輪に導かれてここに辿り着いたの」
 オディールは指輪を慈しむように撫でた。
「きっとこの指輪はおばあさまのものだわ。雛苺と別れて壊れて消えてしまった薔薇の指輪……それがきっと私に託されたのだわ」
 ジュンはごくりと唾を飲み込んだ。雛苺を見遣ると、彼女は泣きそうな顔をして俯いていたが、ジュンの視線に気付いて上目遣いに彼を見た。
 ジュンはオディールに向き直った。彼が何かを言おうとしたとき、何かを思い出そうとするように口許に手を当てていた巴が呟いた。
「白……白いいばら……白い薔薇の花……水晶」
「巴?」
 真紅が訝しげにそちらを見る。
「それは……」
「私も……会ったことがあるわ。あのとき雛苺の世界で……」
 どうして忘れていたのかしら、と巴は小首を傾げる。
「誰のこと?」
 金糸雀に尋ねられて、巴はもどかしそうに顎を引き、斜め下に視線を向けて瞬いた。
「白いドール。真っ白な衣装に、真っ白な茨を従えて……何か気になることを言っていたわ。どうして思い出せないのかしら」
「白いドールって……!」
 やっぱり、と言いたげにジュンは周囲を見回す。金糸雀と翠星石は表情を引き締めて頷き、雛苺は困ったような顔をして瞬いた。
 蒼星石は真紅を見る。蒼星石に目を向けたジュンもその視線の先を追うようにして真紅を見た。
 真紅はジュンと蒼星石を交互に見詰め、まだ状況を全く飲み込めていないオディールをちらりと見遣ってから首を横に振る。そして、彼女の方に一歩踏み出した。
「オディールさん」
 静かな声で真紅は言った。
「貴女のお話は私達にとってとても意外だったけど、内容はよく理解できたと思うわ。……ただ、少し時間を頂けないかしら。雛苺にも私達にも、考える時間が必要なの」
「わかりました」
 オディールはこくりと頷いた。相変わらずその瞳は遠くを見詰めているようだったが、言葉ははっきりしていた。
「返事は急ぎません。暫くこちらに滞在する予定でしたから」
 雛苺に手を伸ばす。雛苺は一瞬躊躇したもの、素直に抱き締められた。
 やや長い、きつめの抱擁をして、オディールは雛苺を放して立ち上がった。雛苺は彼女を見上げ、泣きそうな表情で口の中で何か呟いたが、それは彼女の耳には届かなかったようだった。


「自由自在に偽物を作ったり、自分の思いどおりの幻を作り出す能力は、わたしにはありません」
 白い人形は首を振った。細いツーサイドアップにされた髪がふるふると妙な具合に動くのは、ジグザグに強い癖が付けられているせいかもしれない。丁度真紅の巻き毛と同じような按配だった。
「意外と言えば意外ね」
 水銀燈は鞄に腰掛けたまま、片膝を立てて引き付けた。タイツの下の球体関節は、そんなポーズを取っていてもブーツのフリルの陰で目立ちにくい。
「雪華綺晶に拘束されたときに機械を出現させたのも貴女じゃない、ってことかしら」
「それは……わたしの能力です」
 また髪が妙な具合に揺れた。少し髪質が軽いようにも見えた。
「人は誰でも、nのフィールドの中で想像や心象を形にする力を持っています。ローゼンメイデン──わたしのお姉様達も、自分の世界の中では自分の望んだ風景を作り出せます……」

 しかし、それは自分の夢や世界の中に限ってのことだった。無意識の海や他の誰かの領域の中では、人は自分として認識しているだけの姿を保持するのが精一杯で、それを自由に組み替えたり、何かを自在に出現させることはできない。
 自分の夢の中でさえ、人間は自分を「その中に居る自分」としてしか認識できない。場合によっては──それが夢の中だと気付くことがなければ──夢を自分の思うように変えることすらできない。
 それに比べれば、薔薇乙女達は幾分自由に行動することができる。ただ、それは現実世界と同じ自己を保ったまま一つ一つの世界を移動するだけであって、自分の力を超えた行動が取れるわけではなかった。
 自分の小さな領域を改変することでさえ、その世界の本来の姿に沿っていなければ大きな力を消費してしまうこともある。雛苺が巴の力を限度以上に使ってしまったのは半ばそれが原因だった。契約者の気に入った環境を作り出そうとして当の本人を消滅寸前まで弱らせてしまったのだから、皮肉としか言いようがない。
 雪華綺晶が昨晩の蒼星石にしてみせたようにnのフィールドで姉妹達を手玉に取れるのは、ある程度ではあるのだろうが、そういった制約を無視できている──または力技で無視できるほど巨大な力を持っている、のかもしれない──ことにあった。nのフィールドの中だけとはいえ、自分の根城にしている領域以外の場所でも自由に幻影を作り出せるという点で彼女は異質だった。
 漫画の世界で金糸雀は音を使って雪華綺晶の幻影を祓ったが、それは逆に言えば何か特殊な手段に拠らなければ幻影を偽物と見破ることはできないということでもある。
 更に厄介なことは、nのフィールドが現実世界と違い、観念が優先する場所だというところにある。翠星石が今朝指摘したように、見方を変えればnのフィールドにのみ存在する物は全て幻影に過ぎないとも言える。
 力を持たないホログラムのようなモノであっても、見ている者がそれを本物だと信じてしまえば、その者にとってそれは本物同然になってしまう。上手く相手を嵌めてしまうことができれば、雪華綺晶は最小のリソースで相手をフェイクだらけの無限の迷路に落とし込んだり、全てを忘れていつまでもその中で遊んでいたいと思わせるような部屋と登場人物達を作り出すことも可能なのだ。
 可能、というよりはそれこそが雪華綺晶の力の振るい方、遣い方と言ってしまっていいだろう。
 前者は実際に昨日の晩、割けるリソースが極小と思しい状況で蒼星石相手に使ってみせたものだ。彼女とnのフィールドの中で戦う者が打破しなければならない案件ということになる。後者は今更考えるまでもなく、彼女が糧を養い、心を吸い上げるために常套手段としている遣り方だった。

 人形の力は、兎頭の紳士が言ったとおり、それとは似ているが全く異なるものだった。
「わたしに近い人が想像を形にしたり夢の世界を作って行くお手伝いをすること……それが、わたしがお父様から頂いた力です」
 人形は片方だけの瞳で真摯に少年を見詰めた。
「その人の世界以外の場所でも、わたしがお手伝いすれば想像を形にできることは知ってました。でも……」
 真正面から視線を受けて、少年は些かならずそわそわとし始める。水銀燈には睨まれ慣れているが、こういう雰囲気で見詰められるのはまた別だった。
 視線を少しだけ逸らす少年を見て人形はきょとんとしたが、少年の仕草を見て目を合わせるのが無作法かもしれないと考えたのか、慌てて自分も顔を逸らす。いいコンビね、と水銀燈はにやりとしてしまった。蒼星石が加われば面白い情景が見られそうだった。
 少年は何が恥ずかしいのかそっぽを向いたまま少し頬を染めながら、続けていいよぉ、と間の抜けた声で言う。人形は素直にはいと答えた。
「あの場所では、はっきりとしたイメージがなければ本物に近いものは作り出せません。あんな複雑な機械を想像どおりの形にするには、それを願った人がとても強くて具体的なイメージを持っていないと」
「つまり、この媒介が」
 水銀燈はふんと鼻を鳴らして少年を指差した。
「機械のイメージを異常なくらい詳細に持つことができたから、貴女はそれを現出させることができた──そういうことね」
「そうです……」
 人形はまた少年を見詰める。なるほど、と水銀燈は少年を見遣って口の端を歪めた。
「何の取り柄も無い割に、夢の世界を事細かに作ったり、妄想する力だけは一流みたいねぇ」
 少年は若干身を乗り出すようにした。
「あ、ひょっとしてそれって褒めてる?」
「褒めてるわけないでしょう、お馬鹿さん」
 ちぇっ、と口を尖らせる少年にひらひらと手を振り、水銀燈は人形に向き直った。
「貴女の力は、確かに他の姉妹とは異質のようね」
「──はい」

 俯く人形を眺めて、水銀燈はひとつ息をついた。
 確かに、人形の力が自分から明かしたものだけであれば、実体を持ちながらnのフィールドに逼塞せざるを得なかったのも分かる。彼女は他の姉妹に対して攻撃のしようもなければ身の守りようもなかった。
 彼女の姉妹は固有の媒体──赤い花弁や黒い羽根といったモノを仲介して自身の力を投射していた。
 媒体はそれぞれ異なっているし、現出の仕方もユニークではあるものの、基本的には同じことだ。要は、自分の力をモノに乗せて実体化し、相手にぶつけている。
 翼を持たない彼女達が現実世界で重力も慣性も存在しないかのように自在に空中を飛び回って戦っていたのも不思議ではない。有り余るエネルギーをそういう形で放射しているだけのことだ。
 しかし、流石にそれまでの方針を大転換して作っただけのことはあるというべきか、彼女だけはまるで反対の能力を持たされた。言わば自分を触媒として他人の想像を増幅させる、限りなくあなた任せの能力であり、また彼女達の尺度で見れば能動的な攻撃力は皆無でもある。
 不幸なことに、本来起死回生を狙ったはずのその方針は無残に失敗した。人形師が再度の方針転換──アリスゲームによってより良いものを見極める──を行った後は、彼女はそこに参加することすらできなくなってしまった。
 随分行き当たりばったりなこと、と水銀燈は息をつく。だが、そこに憎めないものを感じてしまうのも事実だった。


 オディール・フォッセーは、降り止まない雨の中を出て行った。
 翠星石は恨めしげにダイニングのガラス越しに庭を眺めた。
 午後四時過ぎまでは良い一日だった。いつものメンバーに蒼星石が加わっての会話や遊びは、昨日の重苦しい話や蒼星石のピンチも忘れられるくらい楽しかった。
 金髪の少女が来るまでは、忘れられないくらい楽しい一日になるだろうと思っていたのだ。
 それからは反対だった。別の意味で忘れられない一日になるのは間違いがなさそうだった。
 まるで今日の半日が夢か何かだったように、昨日の午後の重苦しい雰囲気に戻ってしまっている。いや、重苦しさはもっと進んでしまっているように彼女には思えた。
 雛苺は折角作ったお菓子にも手を付けず、巴にしがみついて丸まっている。他の姉妹も手を付けようとせず、翠星石がテーブルの上に並べた人数分のビスケットは次第に冷め始めている。
 玄関まで少女を送っていったジュンが戻ってきて、帰った、と言いながら後ろ手にドアを閉めた。お疲れ様、と真紅が言うと、どういうわけかその場の静けさが一層強く感じられた。

──ちょっと目ぇ離すとすぐにこれです。

 ふう、と息をついて、翠星石はくるりと振り向く。大きなスカートと重めの長い髪がふわりと広がるほどの勢いだった。
 その勢いのまま、何か考え事をしていた金糸雀の手を掴み、引き摺るようにしてテーブルに連行する。いきなりのことに金糸雀はじたばたと暴れたが、彼女は一向気にせずに、空いている方の手で途中で立っていた蒼星石の手も取ってテーブルに向かわせた。
「さあさあさあ、冷めない内に食べるですよ。蒼星石が手伝ってくれたありがたーいビスケットです。愛情がいつもの四倍は篭ってますからねっ」
 真紅とジュンの方を向き、手を振り上げて声を張り上げる。
「食べないなら全部翠星石と蒼星石とチビカナで食っちまいますよ。紅茶も出過ぎのアイスティーになっちまいますがいいんですね?」
「お前な、今はそういう状況じゃ……」
「あら、それは大変だわ」
 ジュンが抗議しかけるのを制するように、真紅は軽く頷いて立ち上がった。テーブルに歩き出しながら、ジュンの顔を振り仰ぐ。
「焦っても仕方のないことだわ。少なくとも一晩は猶予があるのだから、ゆっくり食べて、それからじっくり考えましょう」
 真紅は少し硬い微笑を浮かべていた。ジュンは抗議を飲み込み、曖昧に頷いて返事を返す。
「──そうだな……」
 雛苺を抱いている巴をちらりと見ると、巴もジュンを見ていた。巴は確認するように二三度瞬き、それから腕の中の雛苺の耳元に口を寄せて囁いた。
「私達も頂きましょう、雛苺」
「う……うゅ……」
 雛苺は身じろぎして巴の制服をきゅっと握り締め、こくりと頷く。巴は気取られないように小さく息をついて立ち上がった。
「ほらほらー、ちゃっちゃと席に着くです! あ、ジュンは真紅の紅茶淹れる役目があるから暫く立ってろですよ。あと蒼星石、ティーカップ出すの一緒に手伝ってくださいです」
 翠星石はあくまで元気に指図を出す。ジュンはぶつぶつ言いながら紅茶を淹れにキッチンに向かい、椅子に登ろうとしていた蒼星石は苦笑しながらまた翠星石に手を引かれてジュンの後を追った。
「大丈夫よ、雛苺」
 雛苺を抱いたまま椅子に座りながら、巴は囁く。
「ここにはみんなが居るわ。誰も貴女のことを独りにしないから……」
 巴の腕の中で、雛苺は返事の代わりにもう一度制服を強く握った。


 ひととおり訊きたいことを尋ね終えてしまうと、外はもう暗くなりかけていた。水銀燈は些か話し疲れたようにも見える白い人形を改めて眺め、ひとつ頷いた。
「貴女の呼び名が必要ね」
 こちらの世界の第七ドールの名前そのままに『雪華綺晶』でも良いのだろうが、今後その名前を呼ぶことが多くなりそうだった。混同を避けるために呼び分けるとなると、結局別の呼び名を付ける必要が出てしまうだろう。
 白い人形は小首を傾げる。細いツーサイドアップにした白い髪が揺れた。
「この子の名前かぁ」
 ふむ、と大仰に考え始める少年に、水銀燈はひらひらと手を振る。
「それほど重大なものじゃないわよ。暫くの間、私達が誰かと混同しなければそれでいい」
 本物の名前を付けるのに相応しいのは、人形を作った人形師か、あるいは最初の契約者ということになるだろう。どちらにしてもこの場で決められるものではない。
 将来的には可能性がないとは言えないが、少なくとも今は少年は人形と契約することはできない。人形は螺子巻きは握り締めていたものの、契約の指輪は持っていなかった。
 ふーん、と少年は鼻を鳴らして、人形の顔を覗き込むようにした。
「なんか自分でこんなのがいいって名前はあるのかい」
「……いいえ」
 人形は困ったようにかぶりを振った。強く癖の付けられた髪がふるふると動く。水銀燈にはそれが少しばかり作り物めいた動きに見えた。
 もっともそれは少しばかり倒錯した感覚かもしれない。人形は元々作り物なのだ。そして、そう考えている水銀燈自身も紛うことなき作り物だった。
 もし、作り物でない姉妹が居るとしたら、それは──
「──よし」
 ぺたん、と妙に軽い音に、水銀燈は思索を途切らせた。少年が掌を拳でぽんとやった音だった。
「第七ドールだから、ナナってのはどうだい」
「なにそれ、安直過ぎよ」
 思わず吹き出してしまう。
「まあ、貴方らしいネーミングだけど」
「だってさあ……そんな難しく考えなくていいって言うから」
 少年は口を尖らせる。
「決めるのはこの子なんだし、取り敢えず俺はナナって提案してみた、ってことでさあ」
 どうだい、と言われ、人形は左目で水銀燈と少年を交互に見遣ってから、ゆっくりとした口調で答えた。
「呼びやすそうだと思います」
「おー」
 少年はぱっと明るい顔になり、どうだいと水銀燈に向かって得意気に胸を張ってみせる。
「シンプルイズベストってやつだぜ。呼び易いのは正義だろー」
「はいはい」
 水銀燈は肩を竦める。母音を含んだ二音、この国の表音文字にして僅か二文字なのだから呼び易いのは当たり前だった。
「貴女はそれでいいの?」
 人形は僅かに考えるような素振りをしたが、にっこりとして頷いた。
「──はい。ナナが良いです」
 白い髪に金色の目という異相にもかかわらず、人形の笑顔は酷く素直で、むしろあどけなくさえ見えた。



[19752] その11 ナナ
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/19 00:41
 結菱老人に言われたとおり、蒼星石は暗くなる前に結菱邸に戻った。
 老人は丸一日振りの彼女を微笑を浮かべて迎えるほど愛想は良くなかったが、帰りが遅くなってしまったことを彼女が後悔するような応対もしなかった。
「ただいま戻りました」
「お帰り」
「お休みを下さってありがとうございました」
「楽しんできたかね」
「はい」
 やや事務的な遣り取りの後、老人は意外なことを口にした。
「栃沢君だったな、日曜日に手伝いに来てくれる彼と……水銀燈と言ったか、あの銀色の髪の少女が来るそうだ」
 蒼星石は目を見張った。
「これから、ですか」
 老人は特に感情の動きを見せない表情で頷いたが、ふと思い出したように笑って車椅子の向きを変え、部屋の大きな姿見に向かい合った。
「鏡を抜けてくるのかと思っていたのだが、窓を開けておいてくれと言われたよ。翠星石といい、お前の姉妹は空を飛ぶのが好きなようだね」
「……はい」
 確認するように振り向いて見詰められ、蒼星石は困った顔になって頷いた。
 翠星石は自力で飛行して来る訳ではない。スィドリームの力を借りて鞄を飛ばすのだ。それは構わないのだが、荒っぽい飛ばし方をしているせいでちょくちょく屋敷の窓ガラスを壊してしまっていた。
 しかし、来訪を事前に連絡するのが水銀燈らしくないのは置いておくとしても──恐らく少年が気を回したのだろう──少年はまた自転車だろうか。
 自転車の前籠の乗り心地を思い出して蒼星石は少しばかり困り顔に苦笑を混ぜる。他に上手いやり方がなかったのは分かっているが、できれば別の方法にしてほしかった。例えば──
「──どうした?」
 はっとして顔を上げると、老人は不審そうに蒼星石の方をまた振り向いていた。大したことではありません、と彼女は首を振る。
「昨日は折角時間を頂いたのに、ハプニングが起きて彼女と会うことができませんでした。恐らく彼女は僕の元々の用件を気にして、話を聞きに来てくれるのだと思います」
「彼女もそう言っていた」
 老人は軽く頷き、自分も一瞬苦笑すると、車椅子を回して蒼星石に向き合った。
「翠星石から聞いていたイメージとは随分違っていたな。面倒見の良さそうな子だったよ、二度ばかり電話越しに遣り取りをした限りの話だが」
「翠星石は少しオーバーに話を膨らませることがありますから……」
「それはあるかもしれないな」
 老人は車椅子をドアに向けた。蒼星石は老人の隣に歩み寄った。車椅子と向きを合わせ、いつものように車椅子の車輪のガイドにそっと手を置く。
 最初の頃は老人の後ろに回って車椅子を押そうとしてみたのだが、それは体格が小さい彼女には手に余る仕事だった。ならばせめて車輪を回す手伝いくらいは、と考えてのことだった。
 もっとも、そのことがどの程度老人の手助けになっているかは正直なところよく分からない。半ば儀式のようなものではあった。
「でも、水銀燈自身かなり変わりました。この時代で」
 手洗いに向かう車椅子の車輪を自分も回しながら、蒼星石は数歩ごとに老人を見上げる。
「彼女が誰か別の姉妹のマスターに話し掛けるなんて、以前は考えられませんでした」
 ふむ、と老人は片手を顎に当てた。
「それはやはり、栃沢君──今のマスターが原因なのかね」
「今の彼のせいなのかは……分かりません。記憶を失う前の彼は、ほとんど別の人間でしたから」
 蒼星石は少し言い淀んだが、正直に答えた。
「水銀燈はその頃の彼をとても気に掛けていました。本人は否定するかもしれませんが」
 不甲斐無さにもどかしくなって心を覗いてしまい、その内部を見てしまうと、あまりの異様さにそれをズタズタにしてしまいたくなるほどに。もちろん、それをした場合の自分のリスクも承知の上で。
 俗な言い方をすれば、それだけ彼を愛してしまった、と言えるのかもしれない。
 そして彼は、彼女の意向を汲み取って、自分で自分を消滅させた。自分が提供できるモノを全て彼女に譲り渡した上で。
「多分今も、彼女は記憶を失う前の彼を求めているのだと思います。心の何処かで」
 それが雪華綺晶や名の無い濃紺の衣装の人形と同じだというのは皮肉だった。互いに相容れないはずの三者は、それぞれ相容れない部分とは全く別のところで、共に一つの、もう何処にも存在しないモノを求めている。
「──そうか」
 ちらちらと見上げている視線に気付いたのか、老人は彼女を見遣り、視線が合うと車椅子を止めて彼女の小さな手に手を重ねた。
「どれだけ時間を重ねても、私には真似できないのかもしれないな。お前達にそこまで影響を与えることは。いや、本来それがマスターとしてあるべき姿なのだろうか」
 かすかに自虐の響きの混じった言葉だった。
「そんなことはありません」
 蒼星石は首を振り、きっぱりとした口調で反駁した。
「マスターとドールの契約には様々な形があります。最高や最低なんて決められるものではありません。マスターは、僕のかけがえのないマスターです」
 老人は晴れない表情のまま、ありがとうと彼女の頬に触れた。いえ、と微笑を浮かべながら、蒼星石は自分の言葉が励ましにしかなっていないことを歯痒く思った。
 心理的に追い詰められていたとはいえ、老人は双子の庭師の力を自分自身のために使おうとしていた。昔の想い人を廃人にする寸前まで行き詰めてしまったのだ。翠星石が拒まなければ、その計画は実行されていた。
 彼の視点では、それは水銀燈の契約者がしたこととは対極の行為なのかもしれない。


「ごめんな、前見れなくて」
「いいえ、楽しいです。いろいろ見えますから」
 少年が背中に背負った大きめのデイパックから頭と手だけを出すようにして、ナナは後方を眺めている。夜になったばかりの雨上がりの住宅街の中は、少年にしてみれば特にこれといった眺めではないように思えるのだが、彼女には新鮮に感じられるらしかった。
「もうちょいで薔薇屋敷だぜ」
「……薔薇屋敷?」
「結菱さん、えーっと蒼星石のマスターだけどさ、そのお屋敷なんだ。でっかい庭の半分くらい薔薇園で、結構凄いんだぜ。いろんな薔薇がぶわーっと咲いててさ」
 少年は前を向いたまま説明する。もっとも身体を捻って後ろを向いても、背中のデイパックに収まっているナナの姿は見えない。仕方がないといえば仕方がなかった。
「蒼星石が剪定してて、俺と翠星石も時々手伝ってるんだ。翠星石のやつ、最近はグリーンローズってやつしか面倒看てないらしいけど」
 その分手伝いの量が増えそうだ、と少年はぼやいてみせる。ただ、その声にはどこか楽しそうな響きがあった。
「そうですか……蒼星石……の」
 そんな、少し沈んだ風の呟きが聞こえたような気がした。しかし少年がよく聞き直そうとしている間に、早くも目的地が視界に入ってきた。
「もうちょいで到着だから、暫く我慢してくれよな」
 聞き質す代わりに、少年はそんな風にナナに声をかけた。はい、という声は、今度ははっきりと少年の耳に届いた。

 残念なことに、少年がやや大袈裟に説明してくれた薔薇園は、後ろを向いているナナには十分に見えなかった。そこに向かっているのだから当たり前と言えば当たり前だった。
 少年はしきりに残念がってみせたが、既に辺りは暗くなっていたから、前を向いていたとしてもそれほど素晴らしい眺めとは言えなかったかもしれない。
 門の陰に自転車を停めてナナをデイパックから出してやり、重い玄関のノッカーを鳴らすと、やがて明かりが点いてドアが細めに開けられた。
「いらっしゃい」
 蒼星石は外行きの生真面目な顔で一礼したが、少年の半歩後ろに並んでいるナナの姿を見て僅かに口許を綻ばせた。
「螺子を巻いたんだね」
「おう」
 少年は得意気に、そっくり返るように胸を張った。
「呼び名も俺が決めたんだ。ナナ、って」
「そう」
 蒼星石は目を細めて少年を見、柔らかいがやや儀礼的な微笑を浮かべてナナに向き直った。
「はじめまして、ナナ。僕は蒼星石。──君は知っていたかもしれないけど」
「はじめまして……」
 ナナはぎこちない笑顔で挨拶をした。
「……知っています。こちらの世界のローゼンメイデン、第四ドール。そして、わたしを助けてくれたひと」
 ありがとう、と言う彼女の顔を、穏やかな表情のまま眺めながら、蒼星石は僅かに首を傾げる。
「どうかした?」
 訝しげに尋ねる少年に、なんでもないよ、と蒼星石は笑って返すと、生真面目な表情に戻って二人を屋敷に招き入れた。少年もそれ以上は訊かずにナナを促して後に続く。
 廊下の照明は点けられているが暗かった。その半端な暗さが、あまり手入れの行き届いていない壁の汚れを強調しているように見えた。
 外周りが終わったら中もやった方がいいかな、と少年は呟く。庭の整理すらついていないというのに、何週間先になるか分からない気の長い話だった。
 蒼星石は彼の呟きにふと口許を緩め、先に立って階段を上り始めたが、数段行ってから足を止めて振り向いた。
「水銀燈は?」
「寄るところがあるから、って飛んでったよ」
 少年は階段の窓越しに夜空に視線を向け、ふう、と溜息をついてみせた。
「毎日寄ってるところに行ったんだと思うけどさ。そんなに時間は掛かんないって言ってたから」
「毎日?」
 蒼星石は訝しむような声音で尋ね、数度瞬いた。少年は彼女の言葉の微妙な響きに気付いた風もなく、素直に頷いて答える。
「うん。何処だかは知らないけど、殆ど毎日行ってる。いつも三十分とか一時間とかでうちに帰って来るから、そんなに待たなくても大丈夫だと思うぜ」
「……なるほど」
 蒼星石は少しばかり納得しきれていない表情のまま、頷いてまた階段を上り始めた。


 雨上がりの夜空は清々しい。
 水銀燈は通い慣れた移動経路で、大学病院の裏手に向かった。長いこと古い教会の撤去工事をしていたそこは、既に更地になっていた。
 建物を崩すのは早いものだ、と水銀燈はしみじみ思う。やけに延々と中の物を運び出していると思っていたら、それが途絶えた翌々日の晩には綺麗に片付いてしまっていた。瓦礫さえも即日運び出されてしまったようで、建物があったところは少し黒っぽく土が埋め戻されているだけの平坦な地面に変わってしまっていた。
 教会は、彼の知識の中で水銀燈が自分の家のようにしていた場所だった。そして知識にあったとおり、薔薇屋敷での一件から暫くして壊された。

──同じように進むわけね。

 自分と自分を取り巻く世間の小ささを思い、水銀燈は皮肉に口許を歪めた。
 媒介の持ち込んだ知識によって、姉妹に関わる部分は、本来進むはずだった道から大きく逸れてしまったのかもしれない。少なくとも知識そのものの方向には進んでいないし、彼女自身進ませないように手を加えてきた。
 だが一歩だけ後ろに引いて眺めてみれば、そこには何等変わらない世界がある。彼女達の姉妹喧嘩も、想いも、彼女達の造物主が緻密に造り上げたアリスゲームでさえも、世界の全体から、というような巨視的な視点を持たなくても、ごく些細な日常の一部、関わりのない者にとってみればどちらに進もうと変わりない出来事に過ぎないのだろう。
 彼女達の造物主もまた、それを望んでいるようだった。至高の少女を創り出すという大層な目標を掲げていても、彼にとってアリスゲームは自分が裁量できる箱庭の中の出来事に過ぎないし、逆にそこから広げてはならない事柄なのだろう。
 自分達は、その中で動かされている、やや行動に乱数の幅を持たされている駒に過ぎない。
 それでも、と彼女は病棟を見上げる。そんなちっぽけなゲームが自分達には重要なのだし、少なくとも彼女はゲームのプレイヤーが予測できない動きをしてみたかった。

 建物は撤去されたが、その周りに植えられた樹木にはまだ手が付けられていなかった。その梢を抜けて上昇して行こうとしたとき、彼女は意外な影を病棟の傍で見付けた。
 それは三階の病棟のベランダにへばりつくようにして、窓から中を窺っていた。
「316の入院患者は別人よ」
 水銀燈が声を掛けると、影は一瞬ぎくりとしたが、素早く無駄の無い動きでこちらを見た。白い髪がばさりと風に舞った。
「柿崎めぐの病室は、716号。──どういうわけか最初から違っているのよね。あいつが改変したわけでもないのに」
「……別にそんなこと聞いてないわ」
 薄紅色の瞳は、薄暗がりの中でも炯々と光って見えていた。相変わらず警戒心は張りつめているようだが、内心の動揺を隠すのは苦手なようだった。
「わたしはここに来たかったから来てみただけ。アナタには関係ない」
 確かに関係ないわね、と水銀燈はくすりと笑った。
「私は柿崎めぐに挨拶に来ただけ」
「めぐに……?」
 黒い、名の無い人形は目を見開き、翼を広げた。臨戦態勢だった。
「めぐに何かしたら、タダじゃ置かないわよ」
「何かしてメリットがあるなら、そうするかもしれないわねぇ」
 水銀燈の目にも一瞬だけ獰猛な光が宿ったが、それは本人も自覚する前に消えた。残念ながら特にそういう利害関係はないわ、と肩を竦める。
「生憎、毎日顔を見に来てるだけよ。もっとも昨日は時間が無くて寄れなかったけどね」
 黒い人形は無言で水銀燈を睨み続けていたが、水銀燈は身を翻して再び舞い上がった。
 視線も向けずに人形におざなりに手を振りながら、皮肉な思いが心の中に湧き上がるのを感じる。

──真紅あたりならまた違う反応をするのでしょうけどね。

 彼女が今の水銀燈の立場なら、暫く隣に居て人形の言い分を聞いてやるか、もっと真摯な対応をするのだろう。あるいは人形の目覚めがあのような形になってしまったことに申し訳なさを感じて謝罪するかもしれない。
 しかし水銀燈は、視線を合わせて人形の気持ちを受け止めるほど慈悲深い気分にはなれなかった。
 人形には宿命と呼ぶべきものはないはずだ。アリスゲームを遂行するために生かされている自分達とは根本的に違う。目標は自分自身で見付けるしかないし、それは所詮、制約と宿命に雁字搦めにされて突き動かされている自分達では相談相手にすらなれない種類の悩みでもある。
 柱に沿って上昇を始めたとき、人形は声を上げた。
「待ちなさい」
 水銀燈は待たずにそのまま飛び続け、716号室の窓の前で止まった。中を窺わずにそのまま、窓の外のベランダの手摺りに座る。
 人形がついてきているのは分かっていた。案の定、隣で羽音が聞こえ、次いで翼を畳む気配とふんと鼻を鳴らす音が聞こえてきた。
 水銀燈は窓でなく、夜空を見上げる。
「四ヶ月くらい前、……正確な日時は知らないけど私がこの時代で目覚めた頃ね。彼女は容態が急変してここに移った。暫くして容態は回復したけど、本人の意向もあったし、容態の急変ってのがこの階の診療科の領分だったんでここに居残ってるらしいわ」
「──他人事みたいに」
「他人事よ」
 水銀燈はあっさりと言い、人形の顔に視線を向ける。人形の瞳は火を噴くような赤紫に輝いたが、すぐにそれは薄紅色に戻った。
「私の人工精霊は、柿崎めぐを最後の最後で候補から落としたらしいわ。そして、私達は今の媒介を選んだ。理由は簡単。柿崎めぐのそのときの容態が、契約に耐えるものではないと判断したから」
 水銀燈は夜景に視線を落とした。
 もう少し遠いか高いところから見れば、いい眺めと言えるかもしれない。残念なことに今の時間帯では賑やかな通りに近過ぎて、綺麗な夜景というよりはごく普通の街の景色としか思えなかった。
「媒介から知識を譲り受けたとき──貴女が生まれたとき、でもあるわね。私は柿崎めぐに興味を持った。私の媒介になるかもしれなかった、そして、あいつがそれまで毎日見舞っていた少女」
 人形が息を呑む気配が伝わってきたが、水銀燈はそちらを向かなかった。救急車が近付いてくる音がした。
「私はあいつの心を壊してしまうつもりだった。蒼星石に取引を持ち掛けてね。当然私も無傷とは行かなかったけど、あいつの心がまともになるならそのくらいのリスクは覚悟できたわ」
 しかしそれは失敗して、結局彼は自分で自分の心の木を伐った。切ったり、斬ったわけではない。あっさりと直截的に、文字どおり伐採してしまった。
「そこに雪華綺晶が付け込んで、貴女を作った」
 救急車のサイレンは足下で止まった。細かく言えば建物の表と裏なのだが、そんな風に感じられた。
「……だから、何だってのよ」
 人形は焦れたような言葉を呟いたが、その声には力が無かった。水銀燈はまたそちらを見、ふっと息をついた。
「何でもないわよ。ただの脱線。だけどあいつが消えてしまって、柿崎めぐを見舞う人が居なくなるってのはなんとなく厭だった。それは間違いのないところね」
「なによ、偽善じゃない、そんなの」
「偽善ですらないわ。誤った義務感って言うべきかもね」
 でもねぇ、と水銀燈は面白そうに口の端を吊り上げた。
「毎日通ってみて──下らない話をしてみたり、泣かれたり、喧嘩してみたりして──分かったけど、面白いのよ、柿崎めぐは。向こうも私のこと面白いと思ってるらしいけど」
 ガラリ、とやや古くなったガラス戸が引かれる音がした。
「へえ、そんな風に見てたんだ」
 張りは無いが明るい声が背後から聞こえてくる。人形はびくりとしたが、水銀燈は肩を竦めただけだった。
「私、急に物凄い乱視になったのかな。水銀燈が二人に見えるんだけど」
「昨日来れなかったから、お詫びに増量セールしてみたのよ。凄いでしょ?」
 慌てる人形の肩を抱き、水銀燈はにやりと後ろを振り向いた。
「新品の子の方が可愛いわ。天使のニセモノじゃなくて、本物の天使みたい」
 柿崎めぐは不健康そうな白い顔に笑みを浮かべながら、いつものような減らず口を叩いた。
「そうねぇ、当たってるかもしれないわ」
 水銀燈は意地の悪そうな笑顔になった。途惑っている人形を抱えるようにして、めぐのほうを向かせる。
「本物の天使かもね、この子は」


 結菱老人に挨拶をして、ナナは何故かほっとしたような表情になった。
 蒼星石はちらりとそれを見遣ったが、少年は気付いていない様子で、慣れた手つきで人数分の紅茶を淹れ、家から持ってきたお茶菓子を並べた。蒼星石が手伝おうとしたが、すぐ済むよと少年は笑って取り合わなかった。
 手際がいいのだね、と老人が笑うと、鍛えられてますからねー、と少年は胸を張る。誰に、というのは尋ねるまでもなかった。
 それなりに丁寧に並べてみせると、少年は老人に片手で拝むような身振りをしてみせた。
「水銀燈はあんまり好き嫌い煩くないんで、淹れ方とかお茶菓子の取り合わせなんかは滅茶苦茶です。口に合わなかったらすいません」
 ティーカップを口に運びかけていた老人は手を止めて笑いを引っ込めた。
「心しておこう」
 そこでいやいや構わないよと鷹揚に大笑して口に運べないところが結菱老人の子供っぽい、良く言えば素直なところだった。まだ数回しか顔を合わせていない少年にもそれは分かっていた。
 彼が大きな屋敷に住んでいる世間離れした老人に対して気後れせずに──図々しく、と言った方が的確かもしれない──ここに出入りできているのは、老人のそういう側面が却って彼を気楽にしていることも一因だった。老人は自分に正直でところどころ我侭だが、蒼星石には優しい。そのお陰で彼も大分お目溢しをして貰っていた。
 少年にとって幸いなことに、あまり不味そうな風もなく、老人は紅茶を啜った。
 少年はほっと息をつき、そうだ、と思い出して庭仕事の話を始める。それが切っ掛けのようになって、小さなテーブルはそれなりに賑やかな雰囲気に包まれた。
 意外に、ナナは好奇心旺盛だった。適度に物を知らず、そして適度に構われ上手でもあった。三人はそれぞれの言葉で、新しい人形が首を傾げたり質問をするたび、一つ一つ丁寧にものを教えた。

 ひとしきり会話を楽しんでから、老人は椅子に身を沈めるようにして一同を見渡した。少し疲れたのかもしれない。蒼星石は老人の顔を窺ったが、老人は無言で大丈夫だという視線を返して遣した。
 蒼星石は頷いて、今は少年から菓子の袋の破り方を教わっているナナを眺める。改めて見ると奇妙な取り合わせだった。
 老人は既に寝間着にガウンを羽織っており、少年はお世辞にも高価そうには見えない普段着姿で、ナナはいかにも人形らしい凝った作りのごく薄いピンクのドレスを身に纏っている。帽子を脱いでいる蒼星石自身は外出着姿の大身の家の子供にも見えるかもしれない。まるで統一感というものがなかった。
 ばらばらな四人が奇妙な縁で繋がり、こうして集っている。それがアリスゲームという、薔薇乙女達にとっては生と死を同時に意味するモノが原因だとしたら、少なからず皮肉なことだった。
「──盛り上がってるようね」
 窓枠の辺りで声がした、と思ったときには、黒いドレスに身を包んだ少女はテーブルの脇に立ち、翼を畳んでいた。
「こんばんは、水銀燈」
 無礼を咎めることもなく老人が言ったのは、水銀燈があまりにも自然な態度でそこにいたからかもしれない。彼女は老人に歩み寄り、笑みを浮かべて如何にも形だけという風に頭を下げてみせた。
「こんばんは。直接会うのはお久しぶりね、結菱さん」
「初めてと言うべきかもしれないな。以前会ったのは、確か私の夢の中だったはずだ」
「そうだったわね。あれから現実時間で1541時間24分。早いものだわ」
 二人は改めて取って付けたような挨拶を交わし、それからくすりと笑った。
 老人は水銀燈に席を勧めながら蒼星石を見遣る。彼女がかすかに緊張を表しているのを見て取ると安心しなさいというような顔をしてから水銀燈に視線を戻した。
「君のマスターにはいつも世話になっているよ。私も、蒼星石も」
「お世話になってるのは私の媒介の方だと思うけど」
 水銀燈は席に座りながらにやりとして少年を眺める。彼が視線の意味を理解したようにうんうんと頷いて紅茶を淹れに席を立つと、その背中に声を掛けた。
「随分場慣れてるじゃない」
「何度かやらせてもらってっからね」
 少年は振り返らずに答える。
「いい葉が台無しにならないように注意しなさいよ」
「さぁて、そいつは保証の限りじゃありませんねー」
「へぇ、私に不味いお茶を飲ませるつもり? いい度胸じゃないの」
「謹んで微力を尽くさせていただきます、しかし素人ゆえ出来上がりには責任持てません、はい」
「何処で覚えたのよそんな文句」
 お互いに視線も交えず、手も止めず、聞きようによってはやや尖り気味の言葉だけを行き交わす。如何にも気の置けない雰囲気だった。
 当然、水銀燈は多少不味くても彼の淹れた紅茶は飲み干すのだろう。細かいことは言わず、不味い、とだけ文句をつけながら。
 真紅と彼女のマスターとの関係とはまた違った息の合い方だ、と蒼星石は先程の桜田家の風景を思い出した。
 確実に何かを共有しているけれどもそれを表に出さない、少しぎこちなく不器用ではあるけれども深く絡み合った関係。表面上は然も無い風に振舞っているけれども、真紅とジュンにはそんな雰囲気があった。
 恐らく真紅とジュンの結び付きは、水銀燈と少年よりも──そして蒼星石と結菱一葉よりも、ずっと強固なのだろう。蒼星石は水銀燈が昨日姉妹達の前でそれを明言したことは知らなかったが、真紅とジュンのペアが様々な意味で特別だということは何処となく分かっていた。
 ただ、水銀燈と少年の関係も悪いものではないように蒼星石には思えた。
 言いたいことを言いたいように言い合える、古い友人のような関係も、薔薇乙女と契約者の間にあってもいいのだろう。それが最良であるとまでは言えなくても。
 水銀燈が、そういったある種気楽な関係を望むゆえに契約者と一線を引きがちになり、しばしば契約すら結ばずに過ごしてしまったことまでは、蒼星石の想像は届かなかった。そちらに想像を広げようとも思わなかった。

──今は、もっと重要な案件がある。

 その案件のために水銀燈はここに来たのだし、元はと言えばそれを言い出したのは自分だった。
 ナナが不安そうに少年を見上げるのが視界の隅に入った。蒼星石が水銀燈に向けている視線が強いものに変わって行くのを見て取ったか、感じ取ったのかもしれない。
 マスターの前だというのに無作法だな、と蒼星石は自分を詰る。しかし、それでも彼女は表情を緩める気分にはなれなかった。


「──あの女と契約したのは、アナタじゃなくてあの人だったってこと」
「そうそう。私は最初から見捨てられてたってわけなの。水銀燈からもね」
 発作のときに重なったんじゃ仕方ないけどね、と消灯時刻を過ぎて黄色の常夜灯だけが薄暗く照らす病室の中で、柿崎めぐは楽しそうに笑った。
「それなら、ここにわざとらしく顔なんか見せなきゃいいのよ」
 向かい合ってベッドの上に座りながら、人形は本気で怒っていた。
「未練がましいにも程があるわ、あの女。口じゃ大層なこと言ってる癖に、やってることは全部後ろ向き」
「本当に水銀燈が嫌いなのね」
 めぐはくすくすと笑い、憤る人形にお見舞いの品のクッキーを差し出そうとした。人形は一瞬動きを止めてから、寸前でそれを振り払う。
 乾いた音がして、クッキーは床に転がった。予期していたよりも大きな音に人形はびくりとしてめぐの手を見る。幸い出血はしていないようだった。
 めぐは驚きに硬直したような表情のまま、打たれた手に視線を落とし、ややあって人形の方を向いた。
「……ごめんなさい」
 先に謝ったのは人形の方だった。めぐは再びくすりと笑った。
「へえ、素直なんだ」
 言いながらベッドを降り、床に転がったクッキーを無造作にごみ箱に放り入れる。人形は半ば呆然とその仕草を眺めていた。
「水銀燈は貴女のことも少しだけ話してくれたけど、そんなに素直なんて言ってなかったな。嬉しいけどちょっと拍子抜けかも?」
 ベッドの脇に立って、人形を見下ろす姿勢になる。薄暗がりの上に逆光で表情はよく見えないが、笑っている雰囲気があった。
「何が可笑しいのよ」
「だって、さっきから貴女……」
 めぐはもう笑いを隠そうとせず、くっくっと暫くその姿勢のまま下を向いて笑い、それをどうにか収めて呆気に取られている人形の顔を見詰めた。
「水銀燈も随分図々しかったけど、貴女ほどじゃなかった」
 窓から部屋の中に入ってくるまで一週間もかかったのよ、と、ややオーバーな身振りで水銀燈のように肩を竦める。めぐは聞かされていなかったが、それは元々人形のよく知っている人物がしていて、何時の間にか水銀燈の癖にもなっている仕草だった。
「貴女ってまるで、昔から私のこと知ってるのに、必死でそれを隠そう、今日初めて会ったことにしようって頑張ってる感じなんだもの」
 今もそう、とめぐはまた可笑しそうに声を上げた。手を痛くされたことには全く頓着していないようだった。
「本気で私の手を叩こうって考えてなかったでしょ? 頭で『これは振り払わなくっちゃいけないわぁ』って考えてるみたいな顔してたもの。映画とかの場面みたいで、ちょっとびっくりしちゃった」
 人形は言葉に詰まり、黙って目を逸らした。図星を指された、とその表情が物語っていた。
 めぐは笑いを収め、人形に並んでベッドに座り直した。
 真面目な顔になって人形の髪に触れる。人形は今度は拒まなかった。
「でも、いいわ。そういうのってすっごく面白い。本物の天使って話、本当なのかもね」
 肩を抱くように人形の背中に手を回し、腰まである豊かな長い髪を手で梳くようにしながら、台詞の激しさとは裏腹の静かな口調でめぐは言った。
「お生憎様、私はニセモノで紛い物よ」
 人形も静かな口調になっていた。
「ヒトの紛い物。天使の紛い物。ローゼンメイデンの紛い物」
 何処かから抽出してきた記憶を埋め込まれ、有り合わせの形を持たされて即席で作り出された、偽りの芝居のための舞台装置の一部。それがどういうわけか実体を持ってしまった、イレギュラーな存在。
 誰にも望まれず、作り出した存在からは一度は始末されかけ、たった一人で一緒に居てくれた存在も何処かに消えてしまった。
 微妙な姿勢のまま、ぽつりぽつりと、人形はそんな来し方を話した。

 めぐにとっては、それは以前から聞いていた物語だった。暇で仕方がない夜に、何か面白い話はないかと水銀燈にせがんで聞き出した話だった。
 そのときは、水銀燈も凝った作り話が好きなのね、と素っ気無い感想を返しただけだった。そのくらい現実味の無い話に思えたし、水銀燈も話の種が無くてやむなく口にした話だったせいか、めぐの感想に対しては不満そうに鼻を鳴らした程度だった。
 百歩譲って仮に実際にあった話だとしても、現物が目の前に現れるとは思っていなかった。ましてやそれが水銀燈とよく似た容貌をしていることまでは思いもよらなかった。
 しかし、そういった現実感の薄い話が、こうして当事者の告白のような形で繋がってしまうと急に生々しい実在感を持って迫ってくる。ただ、それは純粋な感動とは少し違った感覚だった。

──愚痴って嘆く前に水銀燈に感謝すべきでしょ、貴女。

 彼女の中の冷たい部分がそう考える。
 水銀燈から聞いた話が全て事実なら──彼女はそういう言い方はしなかったが──この人形を孤独な暗闇から解き放ち、あちこちと交渉して完全な形に完成させたのは水銀燈なのだろう。不幸を嘆く暇があったら水銀燈の手伝いの一つもすればいい。元のままでは愚痴を聞かせる相手も居ないところだったのだから。
 ただ、その考えは思考の一部分だけに仕舞いこまれた。全体としてみれば彼女は、人形に感傷と同情、気取った言い方をすれば共感のようなものを感じていた。
 その思いのまま、めぐは人形に声を掛ける。彼女はいつも自分に正直だった。
「でも、貴女のそのお腹のところ、そこだけでも沢山の人の想いが詰まっているんでしょう?」
 髪を梳くのをやめ、ぎこちなく人形の肩を抱き寄せる。拒否されるかもしれないという危惧よりも、珍しく刺を殆ど持っていない自分の気持ちが本物かどうかに自信が持てないことが大きかった。
 意外にあっさりと、人形はめぐに体を凭せ掛けた。
 めぐの中で、いつも癇癪を起こすときのように、何か制御できない激しい感情が込み上げて来た。いつもと違うのは、その感情が怒りや憎しみといったモノでなく、優しさと暖かさのように感じられることだった。
 いつものようにその感情に素直になって、彼女は少し激しい動作で人形を胸に抱き締めた。
「その想いの中に、私も混ざってもいいかな? 全部なんて言わないし、多分そんなに長い間じゃないと思うんだけど」
 まだ名前も無い人形は、答える代わりにめぐの薄い病院着に顔を押し当て、そっと自分も彼女の体に腕を回した。


 結菱老人には、蒼星石の用件──昨日は水銀燈に聞きそびれてしまった、アリスゲームに関わるあれこれの質問──を彼女と一緒に聞くつもりはなかった。アリスゲームについてのあれこれは、直接それが飛び火してくるまで契約者が口を出すべきことではないと老人は思っていた。

 薔薇乙女達の姿勢も殆ど皆それと同じだった。いや、本来お互いに敵である彼女達の方が徹底しているとも言える。契約者だけでなく同じ姉妹達にさえ、彼女達は自分の意図や展望、ゲームに関する情報などを容易には渡して来なかったし、積極的に直接聞き出そうとする者もいなかった。
 ただ、例外はいる。
 意図が全く見えてこない、今のところアリスゲームに対するそれよりも自分自身の欲求の方が上回っているように見える雪華綺晶は除くとしても、もう一人、少なくとも自分の不利にならない情報である限りは積極的に広め、自分の構想を示すようになった姉妹がいる。水銀燈は知識を得てから、そういう方法で目的を達する方を選んでいるようだった。
 当然のように老人は知らなかったが、蒼星石が訊き出したい案件というのは、まさに水銀燈のアリスゲームに関する見解の一端だった。今の彼女ならば自分にも教えるだろう、と蒼星石は思ったのだ。
 前日既に水銀燈はnのフィールドの中の小さな世界で姉妹達に尋ねられるままにそれを答えていたのだが、生憎その姉妹達の中に蒼星石は入っていなかった。そのとき彼女は少年と一緒に無意識の海に入り、ナナ、そして雪華綺晶と接触していた。

 いずれにしても老人は積極的に蒼星石と水銀燈の話し合いに立ち会うつもりはなかった。彼は早々に寝室に引き上げることを決めた。
 少年は少し迷ったが、結局ナナを連れて老人の車椅子を部屋まで押していく方を選んだ。
 それは妥当な判断、というよりはいつものことだった。蒼星石と水銀燈が話し合うだろう内容は彼には理解し難い部分が多そうだったし、自分達が居る場所では話し難い内容もあるだろう、ということは分かっていた。
 ただ、妙な話かもしれないが、二人がそういった話をしているところを見ておきたいという気分が後ろ髪を引いていた。理解力も足りなければ特殊な才能もない契約者が無理な背伸びをするなと言われそうだったが、彼女達と日常を共にするだけにしても、少しは自分も何かを知っておかなければならない、と少年は思うようになっていた。
 結局、少年が老人を寝室に送っていく方を選んだのは、ナナが真剣な面持ちで老人の寝室の姿見を見たいと言い、老人が意外に上機嫌でそれを許したからだった。二人の話し合いが終わる前に老人が先に眠ってしまったらナナは一人になってしまうし、そうでなくても眠そうな老人に余分な手間を掛けさせることになってしまう。
 かちゃりと鍵を開け、車椅子を部屋に入れると、明かりを点けるまでもなく大きな鏡は部屋にでんと鎮座して存在を主張していた。
「これがどうかしたのかね」
 何処にでもある姿見だろう、と老人は言い、自分でその傍らに車椅子を押して行くとあまり興味もなさそうに枠に手を置いた。
「いや、結構でっかいし、歴史有りそうだし……凄いですよ」
「そうかね? 精々百年かそこら前の物だ。先々代が作らせたらしい」
 当時は金があったからな、と老人はやれやれと言いたそうな顔つきになった。少年などの感覚からすれば今でも十二分に裕福ではあるのだが、老人の視点はまた別のようだった。
「吸い込まれそうだなぁ」
 少年は素直な声音で言う。何度か見ている物のはずだが、改めてまじまじと見て何か発見があったのかもしれない。
「確かに蒼星石が通ったことはある」
 老人は苦笑した。
「しかし、それならば別に鏡に限らないだろう。人工精霊は鏡面なら殆ど何でも扉を開けると聞いている」
「あ、そうですね」
 自分のアパートの浴室の鏡ですら通路になったことを思い出し、少年は照れて頭を掻いた。
「……いいえ」
 ナナは鏡の面に触れながら、ふるふると首を振った。
「これは特別な鏡です。このままでも、nのフィールドへの入り口になる……」
 部屋の中を映し出していた鏡面が、ナナの触れた周囲だけいきなり波立った。次の瞬間、ナナの手はずぶりと鏡の中に沈んだが、相変わらず波立っているのはその辺りだけで、鏡は依然として部屋の中を映している。
 少年と老人が驚いている前で、ナナは手を引き抜く。鏡面に一度だけ大きな波が広がったが、変わったところといえばそれだけで、鏡はまたごく普通の風景を映していた。
「すげー」
 少年はつんつんと鏡の面をつついてみたが、そこには平面のガラスがあるだけだった。
「ナナすげーじゃん! メイメイなしでnのフィールドに出入りOKってこと?」
「ローゼンメイデン……私の姉妹ならどのドールでもできることです。多分、こちらの世界の人達でも」
 ナナは鏡に向き合ったまま、上の方を見上げる。もう一度鏡面に手を添えたが、今度は鏡は波立たなかった。
「ただ、私達にはどの鏡でも良いというわけじゃありません。この鏡には、その力があります。生命を宿しているから」
 老人はふむと唸って鏡を眺め直したが、あまり興味が湧かない様子でベッドの方に車椅子を動かした。魂の篭った、由緒ある品物に囲まれて生きてきた彼にとって、寝室の姿見はやはり出来は良いが歴史の浅い品物の一つに過ぎなかった。生命を宿していると言われたところで、そうか、という感想しか浮かばないようだった。
 少年が手を貸し、老人がベッドに移る間も、ナナは鏡に見入っていた。車椅子を所定の──老人が自分一人でも乗り移れる──位置に動かした少年が声を掛けようとしたとき、彼女は呟くように言った。
「この鏡──知ってる」
 その声と共に、彼女の薄い色の袖口と足元から、細い白い茨の蔓がゆっくりと伸び始めた。
「おっ、おいっ」
 少年は場所も時間も弁えずに大きな声を上げ、ナナに駆け寄る。白茨には全く良い記憶がないどころか、つい昨晩死にそうな目に遭ったばかりだった。
「大丈夫です──」
 ナナは振り返らずに少年を手で制し、一つしかない目を閉じた。蔓は鏡の枠に絡みついて伸びて行き、天辺で動きを止めた。
 二人の観客が見守る中、ほんの数分、もっと短かったかもしれない。ナナの細い白茨は伸び始めたときと同じように危なっかしく、ゆっくりと元に戻っていった。
 茨を粗方回収してしまうとナナは振り向き、ありがとうございますと老人と少年に礼を言った。
「この鏡とお話をしたかったんです」
 老人は何度か首を縦に振った。
「それで、何か分かったかね」
 ナナは一拍ほどの間、下を向いて躊躇していたが、決意したように顔を上げた。
「退屈で、変な話になるかもしれませんけど、いいですか」
「OKOK、バッチコーイだぜ」
 少年はうんうんと頷き、はっと気付いて慌てて老人を振り返る。ついいつもの調子で返事をしてしまったが、この部屋の主は自分ではなかった。
 老人は苦笑したが、すぐにそれを悪戯っぽい笑みに変える。蒼星石が見たら驚いたかもしれない、滅多に見せない表情だった。
「本当に退屈なら途中で寝てしまうが、構わないかね?」
 ナナは少しばかり困ったような顔で、はい、と頷いた。


 黒衣で銀髪の少女と青い衣に栗色の髪の少女が、夜空を背にして並んで座っている。誰かが見たら仲の良い二人に見えるかもしれない。
 水銀燈が蒼星石と話し合う場所として選んだのは結菱邸の屋根の上だった。
 先程の老人の何気ない一言を思い出し、蒼星石は苦笑する。少なくとも水銀燈は高くて開放的な場所が好きなようだった。
 彼女にとってもここは馴染み深い場所ではあった。老人の心の闇を壊すことに失敗するまで、彼女はよくここまで鞄を飛ばしては、座り込んで考え事をしていた。
 あの頃は睡眠時間も碌に取らなかったし、薔薇園の手入れ以外は何もかもおざなりだった。毎日何度も行動限界に近くなるまでnのフィールドに潜り、ひたすら老人が命じた探し物をしていたのだ。
 ほんの二月ほど前の出来事だというのが信じられないほどだ。懐かしさというより断絶感のようなものがあった。

 風がやや強く吹いた。風に飛ばされないように帽子を胸に抱えて、彼女はまず今日の夕方のことを話した。
 水銀燈は笑いもしなれば驚きも見せなかった。ただ、あまり面白そうでない顔をした。
「少し早かったわね。あっちの世界の人形師やら黒い人形やらにかかずらわって、おざなりになってたわ」
「やはりコリンヌ・フォッセーのことは知っていたんだね」
「ええ。知識にあったもの。あいつの記憶に」
 あいつの、と言ったときの横顔には、幾分懐かしさが含まれているように蒼星石には思えた。
 その人物に、彼女はほんの僅かしか接触を持たなかった。それでも強烈な印象を持っているのは、何処からか取り出した得物で自分で自分の心の木を伐るという行為があったことと、彼女にも幾許かの記憶と思考の流れを残していったからだ。
 当然、水銀燈は彼女の知らない彼の様々な側面を見ていたはずだ。懐かしいのは当たり前だろう。本人に言わせれば契約者との結び付きは他の姉妹より弱いということだが、契約を除いても、二人は数ヶ月の間ずっと共に暮らしていた間柄だった。
 それが妬ましいとは思わない。ただ、今現在の水銀燈が羨ましいかと尋ねられれば素直に頷くけれども。
「分からないことがある」
 言ったところに少し強い風が吹いて、蒼星石は顔に掛る髪を手で押さえた。
「君がオディール・フォッセーを放置していたのは何故なんだ」
 声が風に飛ばされてしまったのか、と思うほど、水銀燈は無反応だった。もう一度同じことを尋ねようとしたとき、漸く返事が返ってきた。
「あれは私が雪華綺晶に残してやった最後の選択肢、ってとこかしらね」
「最後の選択肢?」
 大仰な言葉に、蒼星石は眉を顰めた。少なくとも表面上はごく普通に過ごしていながら、nのフィールドに篭って出てこない相手をそこまで追い詰められるものなのか、というのが素直な感想だった。
「この時代で姉妹が揃って目覚めた時点で、彼女の糧は尽きかけていた」
 水銀燈は事も無げに続けた。
「契約者の誰もが雪華綺晶の糧になる訳ではないし、一旦糧となった者も死んでしまえばもう用を為さない。彼女という白薔薇の苗は常に渇きに怯えてきたわけ」
 それは金糸雀が指摘したことと同じだった。元々、雪華綺晶の糧は常に限られていたのだ。
「新たな糧に餓えた彼女は、この時代でまず雛苺の契約者を狙った。準備が不足していたのと、意外な結果になったためにそれは叶わなかったけどね」

 雪華綺晶は多分看過してしまっているのだろうが、実はそれが第一の、そして大きな躓きだったとも言える。ただし、原因は彼女にはない。真紅の判断の結果だった。
 雛苺はアリスゲームを自分の意志で降りたものの、動かなくなることはなかった。元の雛苺の契約者である巴は雛苺に何時でも会える状態になり、心理的な負担も減った。ある意味で却って絆は深まってしまったとも言える。
 本人はそんな効果など意識していなかっただろうが、雛苺からローザミスティカを奪わないという真紅の判断は様々な意味で真紅を有利に導いた。もはや、雪華綺晶が巴に手を出せるような状況ではなかった。
 ただ、雪華綺晶との邂逅が一瞬だったせいか、あるいは何等かの操作を彼女が行ったのか、巴も雛苺も彼女のことは記憶から抜け落ちてしまった。雪華綺晶の側から結果だけ見れば、最初から企図しなかったことと同じだった。

「次に狙ったのは、私と媒介。これも失敗した」
 風が吹き付け、水銀燈は流れた髪を整える。蒼星石は片手で帽子を胸に抱き、空いている方の手で乱れた髪を直しながら頷いた。
 今更詳しく説明されるまでもなく、それは雪華綺晶の最大の敗北だった。彼女が勝利していれば、そして、それがゲームの支配者の許すところであれば今頃は姉妹全員が彼女の掌中にあったかもしれない。その結果アリスが誕生したかどうかは兎も角として。
「後は簡単でしょう」
 水銀燈は漸く蒼星石を見た。
「特に注意すべきはおつむと心の脆弱な私の媒介。そして雛苺。それを取られないように固めているだけで雪華綺晶は餓え、自分の欲求も叶わずに追い詰められて行く」
 つまり私は流れに乗っただけ、と水銀燈は言った。
 一度は蒼星石の自決を見過ごしてそのローザミスティカを奪うことも考えながら、その方針を撤回したことまでは言及しなかった。彼女に対しては言う必要がないからというより、いまコメントされるのが厭わしいのかもしれない。
 蒼星石も、殊更に口を挟もうとは思わなかった。あの件について言いたいことは幾つもあり、そこに含まれるものは単純な感謝だけでもなければ非難だけでもないが、それはまた別の機会にすればいい。今は本題を外れたくなかった。
「残された糧の候補はひとつ。彼女がごく最近まで糧にしたがっていたのに、機会を得られないうちに死んでしまった雛苺の元契約者の孫娘」
 運の無いことよね、と水銀燈は肩を竦めた。
「もっとも、コリンヌ・フォッセーが雪華綺晶の糧に成り得ず、オディール・フォッセーが契約者となった理由は正確には分からないけどね」
 確かにコリンヌは糧となる条件は満たしているように思える。一方、オディールは本来雪華綺晶には狙われない立場のはずだ。
 だが、蒼星石は何処となくその理由が分かる気がした。オディールを実際に間近に見て、語っているところを聴いたからだった。

 コリンヌが気に掛けていたのは「雛苺という“親友”の消息」ではなく、「雛苺という“人形”との別れが無残な形になってしまったこと」だったのかもしれない。確かに自分を罪深いとは思っていたのだろうが、死の直前に言ったという「取り戻したい」という言葉には、雛苺に対する執着はあっても気遣いは薄いようにも感じられる。
 それは邪推だとしても、孫娘に雛苺を取り戻して欲しいと願うようになったのは、もう酷く老耄してしまってから、それも死ぬ間際だったのではないか。あるいはそれを告げた後、短い間でも雪華綺晶の糧になった可能性もある。
 オディールという少女自身にも、何処かに消えない鬱屈や表に出さない強い執着を抱えているような部分が見て取れた。そうでなければ、いくら雪華綺晶に誘導されたとはいえ、見たこともない雛苺を探して日本までやって来ることはなかっただろう。そもそも、雪華綺晶につけ込まれることもなかったはずだ。
 そして、雪華綺晶がオディールを「狙うことができた」ことは、雪華綺晶の立場に対する水銀燈の推測を裏付けてもいる。
 必要以上に詳細に薔薇乙女のことを知ってしまい、あまつさえ具体的に捜索を始めてしまう可能性が出た者。
 それは、ローゼンメイデンという名前だけを頼りに幻のアンティークドールを追い求めている人々とは全く異なる。ゲームの統括者であり姉妹の造物主である者にとって、リタイアしてからも薔薇乙女を求めてしまう契約者と同等に看過できない危険分子だ。
 しかし、そういう存在への対応策は用意されていた。眠らせて雪華綺晶の糧とするか、あるいは契約者として生きたままゲームに取り込んでしまえばいい。
 雪華綺晶が意識的に決断したか、無意識にそうしたのかは分からないが、彼女はオディール・フォッセーを契約者とした。危険な存在は、無事にゲームに取り込まれたことになる。

 蒼星石の内心の考察とは関係なく、水銀燈は言葉を続けた。
「契約したときに自分ではなく雛苺を騙ったということは、用が済んだら糧とするつもりね。そのくらい切羽詰っていると見るべきか、まだ即座に糧とするまで飢えていないのか、微妙なところだけど」
 ただ、こっちに寄越して雛苺やら桜田ジュンに揺さぶりを掛けるつもりだとしたらお誂え向きなのは確かね、と水銀燈は笑った。
「フォッセー家は南フランスの貿易商。特に第二次大戦後は極東との取引が主になったから、あのオディールって娘も日本は初めてじゃない。むしろ彼女、長いこと横浜で過ごしているはずだから日本語の方が達者なくらいでもおかしくないわね」
「本人もそんなことを言っていた」
「やっぱりね」
 だが、オディールはそこまで詳細には語らなかった。
 ふと蒼星石は疑問を感じた。

──それは、彼から得た知識だけ、なのだろうか。

 この件に限らず、水銀燈はそれ以上の情報を持っているような気がする。
 自分が目覚めてからずっと捜索していた結菱老人の想い人の心の木を先に見付け、取引を持ち掛けて来たのも水銀燈だった。そのときはまだ、彼女は媒介の知識を得ていなかった。
 契約者無しでもnのフィールドに長く留まることができ、媒介達と結びつきが弱いゆえに必要以上に束縛されずに行動できる。その利点を活かし、彼女は情報の収集に長い時間と労力を費やしているのだろう。
 雪華綺晶のように、姉妹全てを自動的に映し出す水晶の城の中で、労せずして情報を手に入れるのとは違う。水銀燈は何を収集するにも泥臭く、いわば自分の手と足で探す必要があるはずだ。

 そこまで考えると、思わず長い溜息が洩れてしまう。今更ながら、水銀燈のアリスゲームにかける熱意と努力に圧倒されたような気がした。
 ごく普通に過ごしていた、訳ではない。恐らく水銀燈は、媒介の知識を得て方針を定めてから、知り得る限りの──恐らく自分だけでなく、他の姉妹のそれも含めて──元契約者達の消息を探ってみたに違いない。
 蒼星石は目を閉じて前を向いた。それは、彼等のことを振り返らなかった自分達には真似のできない事柄だった。

 彼女の仕種を見て何を思ったのか、水銀燈はくっくっと喉を鳴らした。珍しい笑い方だった。
「前置きばかり長くなったけど、後は貴女なら大体分かるでしょう」
 考え込む癖はあるが今ひとつ頭の固い生徒に物を教える教師のように、水銀燈はゆっくりと言った。
「彼女が取って置きのオディール・フォッセーに手を出したということは、もう後がないということ。干上がりかけて、いよいよ仕掛けて来ざるを得なくなったということよ」
 つまりは、そのタイミングを計るために、水銀燈は他の姉妹の契約者や雛苺を渡さないように手配りをする一方でオディールだけには手を出さずに居たのだ。
 水銀燈らしくない消極的な策にも思えるが、下手に半端に手を出して虻蜂取らずになるよりは、一種の警報器として役立てた方がいい、という判断なのだろう。
 それが妥当だったかどうかは、分からない。難しいとは思うが、オディールをも何等かの方法で確保してしまっていれば、雪華綺晶は戦わずに水銀燈に屈服することになったかもしれない。
 もっとも、今からでも遅くはないかもしれない。オディールは恐らく雪華綺晶に騙されて契約を結んでいるのだから、そこを攻めれば契約を解除することは出来ないまでも何かが引き出せる可能性はある。
「ただねぇ……」
 そこで、水銀燈は僅かばかり冴えない口調になった。
 腰掛けた脚を組み替え、一度背筋を伸ばす。背中の翼がゆっくりと広がり、また畳まれた。
「末妹が媒介を得て真っ先に狙うのが、あっちの世界の第七ドールになるとは思わなかった。いくらなんでも斜め上過ぎるでしょう? 予測もできないわよ、そんなの」


 ナナは眠そうな老人が布団に横たわったままでも聞こえるように、彼のベッドの脇、枕元に近いところに立っていた。
 照明は暗くされている。老人が眠るのを妨げないように、という配慮だった。
 なにやら、ナナの話は老人への子守り歌代わりのような恰好になってしまっていたが、彼女はむしろそれを喜ぶような素振りさえ見せて、意外に語り慣れた調子で、ゆっくりと声を潜めるようにして語っていた。

 老人の部屋の鏡は、蒼星石のためのnのフィールドへの扉として使われていた。
 多いときは日に何度も、彼女は扉を潜った。そして、鏡の感覚からするとほとんど間を置かずにまた反対から潜って元の現実世界に戻った。
 何処に行くのか、何をしに行くのか、当然鏡には分からない。
 ただ、何度となく通過していた蒼星石を、鏡はよく覚えていた。そして、彼女があまり通過することがなくなってからは、ぼんやりとその姿を浮かべるようになっていた。
 こちらの世界にやってきたナナは、それを蒼星石本人と間違えた。
 ナナのゼンマイは止まりかけていた。茨の届くところまで近付いて、必死に茨を伸ばして気付いてもらおうとしたが、全く反応がない。
 どうにか手が届くところまで近付くと、それが鏡の浮かべていた虚像に過ぎないことが漸く分かった。ナナはひどく落ち込んで、もう何もしたくなくなった。

「その後でメイメイがナナのこと見付けた訳か」
 少年も出来る限りのひそひそ声になっていた。老人は目を閉じていたが、眠っているのか、寝た振りをして今の珍妙な状況を面白がっているのかは分からない。
「はい」
 ナナは何時の間にか老人の布団に顎を乗せ、床に膝をついている。どうかすると、彼女の方も眠ってしまうのではないかと思わせるような按配だった。
「でも、なんで蒼星石なんだ? それとも最初に見つけたのが偶々蒼星石だっただけで、あの子達なら誰でもよかったとか?」
 なんとなしに自分もやってみたくなって、少年はナナの隣でベッドの脇に座り込んで彼女と視線の高さを合わせる。ナナはぱちぱちと片目を瞬かせ、困ったような顔になったが、少しはっきりした声で言った。
「もっと変な話になるかも知れませんけど、聞いてもらえますか」
「応、聞く聞く」
 少年が布団に顎を乗せてにやっと笑う。ナナが少し硬い表情でありがとうと言いかけたとき、その頭にぽんと手が載せられた。
「面白くない話なら寝てしまうが、いいかね?」
 ナナは驚いて老人の顔を見遣り、こくこくと何度か頷いた。
 老人は彼にしては珍しいことをやってみせた。にっこりと笑い、彼女の髪をひと撫でしたのだ。


 結菱邸の屋上には、いい風が吹いていた。
 帽子を取って座っている蒼星石は、昨夜来聞きたいと思っていた事柄を聞き終えて一つ息をついた。
 隣に腰掛けている水銀燈の横顔を見詰める。語るべきことをほぼ語り終え、蒼星石から聞きたいことを聞き終えた黒衣の長姉の、やや逆光気味の横顔は、やっと面倒臭い話から開放されたと言いたげな清々した表情で空を眺めていた。
「やはり記憶、又は情緒の面で何等かの制御はされている。そう見ていたんだね、君は」
「偶然の要素が強いけどね。私がちょっと違っていたせいで、前から目に付いてはいたのよ」
 水銀燈は右手を胸元に当てるような仕草をした。
「契約者との結び付きが強いはずの貴女達が、何故以前の契約者の記憶を引き摺らないのか。契約者達の方はどうなのか。──むしろ気付くのが遅すぎたかもね。あいつの記憶を引き継いだときに気付いていて然るべきだった」
 なにせあの人形師に聞いてからだもの、と水銀燈はやや自嘲気味に息をついた。
「ナナの『お父様』か。僕も逢ってみたかったな」
 蒼星石は少し緊張を解いて言った。少し別の方向に話題を持って行かなくては気持ちの整理がつかない、という側面もあった。
「そういえば昨日、あの人形に渡したのは『蒼星石』の動力源だった……ということは、『蒼星石』はもう復活できないと見ていいのかな」
「それは逆ね。むしろ、復活させられないからこちらに出現させたのでしょう」
 水銀燈は足を組み、膝に肘を突いて頬を支えた。
「彼等の世界群──一本の世界樹によって支えられている世界全部──の時間は閉じてしまった。あの人形師が望み、自分の娘達に示したアリスゲーム以外でもアリスへの道はあるという言葉も、『真紅』に委ねた『蒼星石』と『雛苺』を復活させるという課題も、全て空しくなってしまった。当然アリスゲームを続けることも。その世界群に留まり続けている間はね」
 時間が閉じた、というのが具体的にどういう形の世界の終焉を指すのか、それについては水銀燈は聞かされていない。
 あの人形師自身、何が起きたかは分かっていなかったのかもしれない。
 彼にとって確かであり、どうにかしなければと思えたのは、その世界の中に留まっている限りは自分の娘達を先に進ませられない、その一事だけだった。
 彼にしてみればその他のことはどうでも良いのだろう。それだけが、自分の作り出した物に対する愛情だけでなく、人形師本人の宿願の成就にも関わることだったからだ。
「どういう手段を使ったかは分からないけど、あの男は自分の世界群の何処かの世界をこちらの世界群の世界の一つに繋げて、私に二つの動力源を渡した」
 ちらりと横目で蒼星石を見遣る。月の光に照らされて、帽子を脱いだ彼女はどういうわけかとても少女らしく見えた。
「時間が動いているこちらの世界群ならば、あの男の娘達は、あの男の望むアリスになれる可能性がある。今は魂が離れている『蒼星石』と『雛苺』を呼び戻すことも、可能かもしれない──ただし、二体の魂をこちらの世界群に持って来ることができれば、だけどね」
「だが、その片方を君はあの人形に渡してしまった」
「ええ。それがあの男の願いだったから」
「僕には理解できないよ。本末転倒じゃないか、それは」
 蒼星石は首を振った。
「それともあちらの姉妹に対する試練ということなのか。そこまで追い詰められて、まだ……」
「追い詰められたから、かもしれない」
 水銀燈は足を組み替えた。
「連中にとって、あの動力源はそのままパワーに直結するんだもの。二つ取り込めば、自分の体内のものと合わせて他者の三倍のパワーってことになるわね。それだけで全体の約半分の力、って言った方が早いかしら。
 そんなものを例えば私に預けっぱなしにしても、ここにあります、と覚えをして置いておくのと何等変わりはないでしょう? 結局、腕力勝負をまた煽るための争点にしかならない。それも早い者勝ちのね」
 そういえば、と水銀燈はくっくっと笑った。
「書置きに『水銀燈』に容易に渡せないように、って理由が書いてあったわ。そのときはまさかと思いもしたけど、第七ドールがこちらに出現したんだから、他の六体がやってきても確かにおかしくはないでしょう」
 蒼星石は難しい顔になって空を見上げた。今まさにそこからナナの姉妹が湧き出してきてもおかしくはないような気がした。
「自分の手を離れた娘達に、できれば相争って究極の少女になる方法を取らず、他の方法を見付け出して全員が究極の少女になってほしい。そう考えてのことだとすれば妥当なのかな」
「ええ」
 水銀燈は空いている方の手を前に伸ばし、握ったり閉じたりした。
 蒼星石はその動きを暫く見遣ってから、もう一つはどうするつもりなのかと尋ねた。人形に入れ込んだのが『蒼星石』のものなら、『雛苺』の方は水銀燈の手元にまだあることになる。
「お誂え向きの子が居るから、その子に上げるわ」
 水銀燈はまたくっくっと笑った。柿崎めぐの笑い方が移ったようだった。
「今までゲームからもアリスになること自体からも逃げていたんだから、この際正面から向き合って大いに悩んで貰いましょう。その方が、動力源の元の持ち主も喜ぶでしょうよ」


 それは、別の世界のローゼンメイデンの物語。

 七人の姉妹達が一斉に目覚めた時代。それは終わりの始まりだった。
 目覚めたナナは、いつものように姉妹達のかすかなシュプールを追い、やがて他の六体が全て目覚めていることを知った。そして、いつものようにnのフィールドに篭ったまま、姉妹達の前の時代のミーディアムを探した。
 既に死んでしまったミーディアムもいたが、一人だけ、そろそろ老境に差し掛かる女性を探し当てることができた。
 女性はかつて『雛苺』のミーディアムだった。
 ナナは彼女が昔の──『雛苺』と過ごしていた頃の夢を見るのを手伝うつもりで、彼女の夢に入った。そして、あまりのことに驚いた。
 今までナナが接してきたミーディアム達は、ローゼンメイデンのことを懐かしく思い出したり、夢に見たりしていた。そういう姉妹の夢を楽しく、懐かしいものにして、様々なことを語らうのがナナの目覚めている間の過ごし方だった。
 だが、その女性は違った。彼女は『雛苺』との別れを後悔して、それを謝罪したいと思っていた。『雛苺』を夢に見ては、届かない謝罪を繰り返していた。
 ナナは『雛苺』の姿を作り、女性の夢の中で彼女をひたすら慰めた。しかしどれほど慰めや赦しの言葉を掛けたところで、彼女の謝罪は止まなかった。
 どんなに綺麗な、楽しい夢にしようとしても、彼女は分かってしまうのだ。それが夢で、現実ではないと。誰かが作った、都合の良い紛い物だと。
 ナナは困惑した。そして、思った。
 いっそ忘れてしまった方が、幸せなのではないか。どうしても辛いものから楽しいものに裏返らない記憶なら、逃げてしまっても良いのではないか。
 ナナは女性の夢の中に『雛苺』の姿を作るのを止めた。
 しかし、それからも彼女は『雛苺』の夢を見続けた。ナナが作るまでもなく、自分で『雛苺』の姿を作り、それに向かって謝罪を繰り返すのだった。
 彼女を『雛苺』に引き合わせて、『雛苺』の口から赦しを貰うのが一番良いのだろう、というのは最初から分かっていた。それを実行するなら時間に余裕がないというのも分かっていた。

 そのときには既に『雛苺』は『真紅』と戦い、『真紅』を追い詰めた代わりに新しいミーディアムの力を吸い上げ過ぎて殺しかけてしまっていた。
 このままではその人間を殺してしまう、という『真紅』の言葉を受けて『雛苺』は契約を解除し、『真紅』に降伏した。
 『真紅』は『雛苺』の動力源を回収することはしなかった。しかし、どちらも敢えて語らないが知っていた。
 『真紅』の言葉は二者択一を迫るものだった。
 姉妹との戦いに敗れた者は、アリスゲームが始まれば自動的に敗者とみなされる。そして、そう長くない間に止まってしまい、動力源は勝った姉妹の許に行く。それが、彼女達のゲームのルールだった。
 『雛苺』の命は、『真紅』の言葉を受け容れた時点で尽きたのだ。

 最良だというのは理解していてもなかなか踏み切れなかったのは、ナナが意気地なしだったせいだ。
 女性を『雛苺』の処に誘導してしまったら、遅かれ早かれナナ自身の存在が姉妹に知れてしまう。それはナナにとって恐怖以外の何物でもなかった。

 ナナの姉妹達は大きな力を持ち、それぞれの得物に乗せて力を振るって戦うことができた。だが、ナナにはそういった力がない。戦いの補助を務めてくれる人工精霊も持っていなかった。
 究極の少女になる条件として設定された、「姉妹全員の動力源を集める」という目標は、ひとり無力なナナにとっては「存在を知られれば誰かに屠られる」ということと同義だった。
 だから彼女はnのフィールドから出ず、姉妹の誰にも知られないように隠れていた。堂々と現実世界に出てミーディアムを持とうとしないのも他の姉妹に見付からないためだった。
 無力さを受け容れ、それを克服するために智慧と狡猾さを自ら獲得して行くことを望まれて作られたはずのナナは、それとは反対に弱弱しく諦めに満ちた存在になってしまっていた。
 最後の作品たるナナは、作られてすぐに分かるほどの失敗作だった。あまりにも極端に無力でありすぎたのかもしれない。

 どうすればいいのか、とナナが途方に暮れているうちに、女性にとっても、ナナにとっても最悪の事態が起きてしまった。
 ローゼンの弟子の作った薔薇水晶という人形が「第七ドール」を名乗り、師匠の作った姉妹を潰して回るためにアリスゲームを引き起こしてしまったのだ。
 ナナは呆然とした。自分の名前が騙られたことよりも、『雛苺』の止まってしまう刻限がいきなり決まってしまったことがショックだった。
 姉妹の誰かが他の誰かの手に掛ってしまえば、アリスゲームは開始したとみなされる。既に真紅に負けている『雛苺』は早晩動きを止め、動かない人形になってしまう。
 そうなればもう女性を『雛苺』に会わせても意味がない。
 悩んだ末にナナは決心した。

──このひとを『雛苺』に会わせよう。手遅れにならないうちに。

 自分が姉妹に見付かってしまってもいい、とナナは思った。
 それは女性のために自分の存在を知られる危険を冒す、というような美しい決断ではなく、どちらかと言えば少し自棄っぱちな気分だった。
 どうせ、潰し合いが最後まで行ってしまえば、何処にどう隠れていても探し出されて屠られるのだろう。少し早いか、遅いかの差でしかない。それならば、何か一つくらい誰かの記憶に残ることをしよう、と決めたのだ。

 ナナの決断はぎりぎり間に合ったとも言えるし、遅すぎたとも言える。
 薔薇水晶の策略に、姉妹達はさしたる疑いも持たずに引っ掛かり、ほどなく最初の犠牲者が出てしまった。『蒼星石』が、『水銀燈』の手に掛ったのだ。
 『雛苺』の残り時間は、至極あっさりと秒読みに入ってしまった。
 ナナは焦った。もう、形振り構っていられなかった。『雛苺』の夢の世界を見付けると、女性の夢に顔を出して『雛苺』が待っているからとその手を引いた。
 慣れないことに苦労しながら女性の夢を『雛苺』の夢にどうにか繋げたときには、もう『雛苺』は止まってしまう寸前だった。
 『雛苺』は優しかった。唐突に現れたナナに怒りや驚きも見せず、最後の最後に謝罪に現れた女性を赦し、もう恨んでいないと微笑んだ。
 突然棄てられたことに恨みつらみを持っていなかったはずはない。『雛苺』がミーディアムの力を限界まで引き出してしまったのも、元を辿れば女性に突然棄てられ、もう二度と棄てられたくないと思ったからだ。
 『雛苺』はそれをおくびにも出さず、ほんの短い間だったが女性を慰め、どうか末永く生きて欲しいと励ました。
 ただ、その優しさはきっと、死に行くことを悟った者が見せる善なる部分だったに違いない。
 泣いて引き留めようとする女性を諭し、ナナにありがとうと言って『雛苺』は夢に幕を引き、現実世界での別れを済ませに去って行った。
 ナナの初めての姉妹との短い会話は、そのまま姉妹との別れになった。ナナの臆病さが生んだ、哀しい結果だった。

 後は、たった数日の間だった。
 薔薇水晶は──その姿を確認したとき、ナナは愕然とした。自分とよく似た姿で、但し左右対称になるかのように作られ、しかも無力な自分とは正反対に、どの人形よりも狡猾で、強力だった──弱い方から順番に姉妹を葬り去っていき、最後の『真紅』との戦いでは敗北しかけたものの隙を見て勝ちを収めた。

 その間、ナナは姉妹達の戦いを殆ど見ていなかった。元々、それほど便利に姉妹達の様子を見詰めていられる訳でもなかったし、今は『雛苺』の元ミーディアムである老女のことが優先だった。
 誰が勝ってもナナには関係なかった。最後に見つけ出されて殺されるのが自分の役割なのだから、相手は誰でも同じだった。
 『雛苺』と夢で逢ってから、女性はずっと眠り続けた。夢は見ていたが、その世界にはもう殆ど何もなかった。『雛苺』に赦されたことで、気懸りだったことと一緒に生きる気力の張りまで失ってしまったのかもしれない。
 ナナはまた慣れない事をやらなければならなかった。女性にいい夢を見させるのではなく、夢から覚めるように働きかけるのだ。
 女性には現実に戻って少しでも長い間生きて欲しい、というのが『雛苺』の望みだった。ナナはその望みを手伝いたかった。
 しかし、それは空しい努力だった。
 『雛苺』に赦されてからほんの数日後、ナナの目の前から女性の姿が消え、夢の世界も音もなく崩れていった。女性は夢の世界に遊んだまま息を引き取ったのだった。

 ナナは心にぽっかりと穴の開いたような気分だった。
 夢を見せていた元のミーディアム達が死んで行くときは、いつもそうだった。
 ナナが楽しく優しい方に舵を取らなくても、老人達は自分の夢をそちらに向けて行くようになる。夢の時間そのものもどんどん長くなって行く。そして、あるときその優しい夢はぷつりと途切れ、真っ暗になった世界にナナだけが残るのだった。
 そんなとき、ナナは無意識の海の中に飛び出して行く。今回もそうだった。早晩自分の倒される番が来ると思っていても、習い性のようになった行動は止められなかった。
 半分諦めてもいた。もう戦いは粗方終わっているはずだ。どうせ倒されるなら、と考えて、ナナは自分から「九秒前の白」と呼ばれる場所に飛び込んだ。何もなく、何も為さなかった自分が最後を迎えるにはお似合いの場所だと考えていた。
 そこで、ナナは思いがけない出会いをした。


 ナナは結菱老人の横顔を見遣った。夢の中で老人達の相手をすることは多かったが、現実世界で横たわった人の脇で語るのは初めてで、少し違和感もあった。
 自分の声が相手に届いているのかいないのか、まるで分からない。
「寝ちゃったみたいだ」
 少年はひそひそ声で口を挟んだ。
 ナナは気付かなかったか、それが眠ったことのサインだと知らなかったのだろう。少年の方は、少し前から老人の呼吸が寝息に変わっているのが分かっていた。
「つまらなかったんでしょうか……」
 ナナは残念そうに斜め下を向いて目を閉じた。
 自分語りは、綺麗なお話と違って、盛り上がる山場もなければ風刺の利いた落ちもない。恰好のいい紳士も綺麗なお姫様も出てこない。眠気に負けてしまうのは当然だったかもしれない。
 それでも、老人を起こしておけなかったことが少し口惜しかったのだろう。初めて自分の口で、夢を見せるのでなく「見せないように」話したのに。
「いつもは九時には寝てるらしいから、しょーがないって」
 少年は大きな動作で腕時計を見、ナナの頬を突付いてそれを示した。彼女が左目を開けて見ると、時計の針は十一時を回っていた。
「それにしても、可哀相っていうか、理不尽だよな。負けを認めたらもう完全に終わりなんてさ。こっちの世界でも雛苺は真紅に負けたけど、ピンピンしてるぜ」
 実のところ、雛苺は真紅の下僕となったことで本来の能力の大半を失ってしまっている。今は苺わだちで相手を縛ったりできる程度だった。
 それでも真紅には庇護の対象であるだけでなく貴重な戦力なのだが、いずれにしても腕力にものを言わせることの少なくなった彼女達にはあまり関係のないことではあった。元気一杯に遊んでいられる、そのことが大事なのだ。
 いずれ終わりは訪れる。始まりがあるのだからそれは当然だ。だが、已む無く負けを認めたときにその先があるか絶無なのか、というのは大きな違いだった。
「アリスゲームに負けても、ローザミスティカがそこにある限り魂が離れてしまうことがないんでしょうね……」
 ナナは寂しそうな表情を隠そうとせずに答えた。
「ルールが違うんですね。仕方のないこと、だと思います」
「うん……」
 少年は扉の方をちらりと振り返った。まだ誰の気配もない。あちらはあちらで時間が掛っているようだった。
 向き直ると、ナナはじっと老人の横顔を見ている。まだ話したいんだな、と少年はなんとなく気付いた。
「続き、あるんだろ?」
 案の定、ナナはこくりと頷いた。少年はにっと笑った。
「話してよ。一人だけど、最後まで聞くからさ」


 九秒前の白は、吹き溜まり。
 そこで、ナナは最後の時を待つつもりだった。
 怖かったし、寂しかったし、後悔していた。一番の後悔は『雛苺』の元ミーディアムを結局救えなかったことだった。もう少し早く『雛苺』に会わせていれば。もっと沢山『雛苺』と話すことができていたら。
 常に逃げ回っていた自分が初めて能動的に起こした行動が、他ならぬ自分の臆病さのせいで失敗した。
 繰言ということは分かっていた。それでも、無数の存在が交錯しながら誰も自分に語りかけることのない場所で、ナナはうじうじと悩み続けた。

 どれだけそうやっていただろう。ごく近くに、見たことのある姿をナナは見付けた。
 青いドレスに、前下がりの赤銅色のショートボブ。右が緑で左が薄紅色のオッドアイ。間近で見るのは初めての、ナナの姉だった。
「キミは誰?」
 柔らかい声で、彼女はナナに尋ねた。
「変だな……。よく知ってる人に似てるような気がするんだけど、思い出せない」
 困ったように笑う。まるで憑き物の落ちたような、屈託のない表情だった。
「わたしには、名前はありません」
 ナナは首を振った。
「……だから、誰にも会ったことはありません。あなたに会うのも初めてです」
「そう。勘違いだったんだね。ごめん」
 ボクと同じだね、と彼女は言い、ナナがその言葉の意味を測りかねているのを見て取ると、視線を落として少し寂しそうな顔になった。
「ボクは自分の名前が思い出せない。確かにあったはずだけど……今は名前がないのと同じさ」
 何処から来たのかも、何をしていたのかもあやふやだという彼女と、ナナは暫く手を繋いで漂った。
 無言は辛かった。ナナは自分のことを少しずつ話した。彼女はあまり口数は多くなかったが、ナナの語ることに感想を言ったり続きを促したりしてくれた。
 彼女は優しかった。『雛苺』の優しさとはまた違っているように思えたけれども、その優しさが儚さを伴っているのは同じだった。
 やがて、彼女は手を放した。
「ここからはボク一人で行くよ。また自分の名前を探さなくちゃ」
 本当は少し疲れていたんだ、と彼女は照れたように微笑んだ。
「キミに会えて良かった。元気が出た気がするよ。ありがとう」
 少し表情を引き締めて口を閉じ、色の違う瞳でナナを見詰める。ナナが当惑していると、彼女は言い辛そうに続けた。
「ボクと違って、キミは名前はなくても自分を持っている。でもそれはまだ弱々しくて、揺らいでいるんだ。こんな吹き溜まりに長いこと居たら、せっかく持っている自分自身というものが溶けて消えてしまうよ」
 それはとても悲しくて、暗くて冷たくて、淋しい事だから。
「帰る方法を知っているなら、元の場所に帰ったほうがいい。ボクには、戻してあげることはできないけど……」
 はにかむように微笑んで、彼女はナナに背を向けた。
「──『蒼星石』」
 こらえきれずに、ナナは叫んだ。自分が教えて良いものではないことは分かっているのに、黙っていることができなくなってしまった。
「あなたの名前は『蒼星石』。もしその名前が呼ばれたら、思い出して」
 声は届かなかったのかもしれない。青い服の人形は振り向かなかった。そのまま、白い闇の中に呑まれて行った。

 ナナは九秒前の白を抜けた。
 九秒前の白に入ったときは、どうせ消されるのだから、ここで溶けて消えてしまってもいいと思っていた。その考えは変わっていなかった。ただ、それでは『蒼星石』の気持ちを踏みにじってしまうような気がしたのだ。
 無数の夢に通じる、通路のような場所にナナは戻った。特定の世界を自分のものにしていない彼女は、いつも目覚めればそこに居たし、大抵の時間はそこで過していた。
 そこには先客が居た。両手に二つの動力源を持った、兎頭の黒服の男だった。
 彼はナナには敬語を使わずに相対していた。いつもそうだった。ゲームにおいて何の役にも立たないナナには、慇懃に接する必要さえないと思っているのかもしれない。
 彼は二つのことをナナに告げた。

 一つ目は吉報と言えなくもなかった。
 薔薇水晶が仕掛けた偽のアリスゲームは結局のところ全ての姉妹が薔薇水晶に倒され、薔薇水晶も消滅して勝者無しに終わったという。
 思うところがあったのか、ローゼンは自分の最高傑作の『真紅』に「アリスゲーム以外でもアリスになることはできる」と囁き、彼女を元通りに修復した。
 薔薇水晶に倒された他の姉妹も元通り修復されたが『水銀燈』と『真紅』に倒された『蒼星石』と『雛苺』の魂は戻らなかった。動力源もこうして取り上げられたままだ、と男は笑った。

 あまりのことにナナは暫く絶句していた。
 偽であれ何であれ、潰し合いのゲームが終わったということは、また自分には暫くの猶予が与えられたということだった。それは素直に嬉しかった。まだ、何かを為す次の機会が訪れるかもしれない。
 しかし、よりによって自分がかすかに関わりを持った二人だけが元に戻らないというのは辛かった。どうして、と言うこともできない。酷い偶然だった。
 上手く回らない口で恐る恐る、もう復活できないのか、と尋ねると、男は否定した。

「元の持ち主にローザミスティカを戻せば、魂を呼び戻すことは可能ではある」

 ナナはほっとして、ゆっくりと微笑んだ。
 少なくとも『蒼星石』が九秒前の白で彷徨していることを、ナナは知っている。動力源がボディに戻ったら、今度こそ確実に『蒼星石』の名前を呼んで探そう。
 そうすれば遠くからの声よりも確実に、彼女を呼び戻すことができるだろう。もしかしたらその後で『雛苺』も探し出せるかもしれない。

「──だが、それは不可能だ」

 男は笑いを意地の悪そうなものに変えた。兎の顔なのに、何故かそれが明瞭に分かった。
「残念ながらタイムリミットだ」

 二つ目の話は、絶望だけを運んできた。
 原因は分からないが、間もなく世界を貫いている世界樹が枯死する、と男は笑った。
 笑いは意地悪を通り越し、邪悪そのものになっていた。それが偽悪的だと観取できるほどには、ナナは世慣れていなかった。
「ローゼンは大慌てで手を尽くしているが、所詮一人の力など知れている。それに残された時間が圧倒的に足りない。もはや何をしても手遅れだ」
 手遅れ、手遅れ、手遅れ。
 ナナの中でその言葉がぐるぐると渦を巻いた。
 ここのところ、そればかりだった。『雛苺』の元ミーディアムも手遅れだった。『蒼星石』に声を掛けるのも遅過ぎた。そして今は、自分達の手の届かないところで世界の全てが手遅れになってしまったという。
「世界樹が枯れたら、どうなるんですか」
「そんなことも分からないのか。お前、智慧だけは少しは持たされていたのだろう?」
 兎頭の男は心底馬鹿にした声で嘲笑した。
「世界樹は現在と過去を繋ぎ、未来へと続いてゆく。それが枯れるということは、未来がなくなってしまうということだ。世界は終わる。現在は過去から半分切り離され、未来はもはやない。時間が閉じてしまう」
 分かるような、分からないような説明だった。分かったのは、一介のドールにはどうしようもない事態らしいということだけだった。
「ローゼンは自分の娘達だけでも閉じた時間から救い出そうと考えているらしい」
 男はふんと鼻で笑った。
「お前もその一人だ。役に立たなくても、娘の一人であったことを父親に感謝した方が良いだろうな」

 兎頭の男が去った後、ナナは膝を抱いて丸まった。
 僅か数日で、全てがあまりにも激変してしまった。
 姉妹達がここから何処にどう助け出されるかは分からない。しかし自分はいっそ閉じた時間の中に居る方が良いようにも思った。
 閉じるというのがどういう状態になるのかは分からない。ただ、なんとなく世界と共に滅びる方が自分には合っているような気がしていた。

 膝を抱いていたナナの前に、やがて人形師が現れた。
 それは待ち焦がれていた瞬間のはずなのに、何故か喜ぶ気持ちが湧いて来なかった。今までの事を話す気にもなれなかった。
 人形師は何も言わない末の娘にやや途惑い気味だったが、今の状況を説明することは忘れなかった。
 彼は兎頭の男が言っていた話を、言葉は違うが意味するところはほぼ同じように語った。
 そして、自分と兎頭の男の力を使って他の──また別の世界樹に司られた──世界との小さな扉を作ったこと、『蒼星石』と『雛苺』の動力源をその世界の住人に預けたことを明かした。
 その扉を潜ってこの世界を抜け出せと人形師は言った。
「急に見知らぬ場所にいけ、というのは弱いお前には酷かもしれない。扉の先には私の影響力も届かない。だから、無理強いはしない」
 人形師は何も言わないナナを見詰め、その髪に触れた。暫くの間、撫でるのか梳くのか曖昧な動きをしていたが、やがて手を止めた。
「艱難汝を玉にす、という言葉がある。私もその言葉のとおりになればと思っていたのだが、アリスゲームはお前には重すぎる艱難だったかもしれない。許してくれ」
 男は頭を垂れてナナの肩を抱き寄せた。
 ナナは黙ってかぶりを振った。アリスゲームなどより、その一言をずっと待ち望んでいたような気もした。


「やっと分かったよ」
 唐突な声にナナがはっとして顔を上げると、薄暗い中に栗色の髪の少女が立っていた。
「君が僕を見て辛そうな顔をしていた理由が」
 蒼星石は跪いてベッドに寄り掛かっているナナに歩み寄る。ナナは訳もなくごめんなさいと謝って立ち上がろうとしたが、蒼星石は苦笑してそれを押し留めた。
 少年は老人の寝顔を見遣り、半開きのドアに寄り掛かっている水銀燈に小さな声でお疲れ様と言った。
「いつから聞いてたんだい?」
「九秒前の白の話辺りからね」
 言いながら、水銀燈はドアから背中を離して手招きをした。
「老人を起こしたくないのなら場所を変えるわよ。大した内容じゃないけど、ちょっと話したいことがあるから」

 元いた部屋に戻ると、少年はまた湯を沸かした。話を聞きながら眠ってしまった老人ほどではないが、彼もカフェインの力を借りたい気分だった。そろそろ日付が変わってしまう。
 彼が紅茶を淹れ、蒼星石がお茶菓子の残りを並べると、水銀燈は先ずナナに話の残りを語って欲しいと頼んだ。
 とはいえ、ナナの話は殆ど終わっていた。促された彼女はごく短い補足をしただけだった。

 人形師と短い、そして恐らく最初で最後の会話をした後、猶も暫く心を決めかねて迷ってから、彼女はある決心をしてこちらの世界への扉を潜った。
 彼女の背後で扉は閉じた。急に心細くなって開け直そうとしたが、扉が再び開くことはなかった。こちらの世界の側から開けることはできないようだった。
 もう後戻りできない。扉の前で暫くの間そのことを噛み締めてから、彼女は無数の扉が並ぶ場所を離れ、nのフィールドの中を流れ始めた。彼女の探すべきものはもうこちらにあるかもしれない。そうでなくても、新しい何かを見付けなければいけない。
 彷徨するうちに、彼女は懐かしいものに似た姿をちらりと見たような気がした。

「それが僕の姿だった?」
「はい」
「でも、それは鏡が作った残像だったってことかぁ」
 それで最初の話に繋がるんだよな、と少年は確認して、寝室の鏡が残像を映してたんだってさ、と蒼星石を見遣る。蒼星石は少年を見、水銀燈に視線を移してから目を伏せた。身に覚えがあることだった。
「マスターの恋人だった人の心の木を探していた頃は、毎日何度も往復していたからね。マスターにも大分負担を掛けていたはずだけど、僕達はお互いに疲労することを気にしていなかった」
「契約者が居ないとあっちに留まれないってのも不便なものねぇ」
 水銀燈は妙なところに感心したようだった。
「契約者同様、相当執念深いのね。翠星石の双子の妹だけのことはあるわ」
「……褒め言葉と取っておいていいのかな、この場合は」
 蒼星石は目を開けて苦笑を浮かべる。
「しかし、それでも君に先を越されてしまった。探し物をするのには僕は向いていないのだろう」
 水銀燈は可笑しそうに笑い、偶然よ、と言って紅茶を口に運んだ。
「『たまたま知っていただけ』ということかな」
「そうかもね」
 二人の視線は何気ない風に少年に向いたが、彼はその意味には気がつかなかった。もっとも、気が付いても反応のしようがなかっただろう。その言葉は水銀燈と蒼星石の間だけに通じる、思い出を喚起するスイッチのようなものだった。
 彼は菓子の小袋を破りながらナナを見遣った。
 ナナは強張った面持ちになって水銀燈を見詰めていた。緊張というよりは、次に何を言われるのかという恐怖に近い感情がそこには表れている。蒼星石と水銀燈の、やや謎めいた遣り取りに怯えてしまったのかもしれない。彼女は哀れなほど臆病だった。
 その臆病な彼女に、何の後ろ盾もない異界に飛び出して来る決心をさせた理由というのは何なのだろう。余程他の姉妹が怖かったのだろうか、と少年はやや見当外れの予想をした。
 彼はナナの姉妹というのを見たこともないし具体的な戦い振りなど知らないが、こちらの世界の薔薇乙女達同士の戦いでも、力を持たない存在には十分に恐ろしく思えるだろうなと納得していた。すっかりおミソ扱いされている雛苺の苺わだちでも、彼一人程度ならぐるぐる巻きに縛り上げるくらいは可能だ──ただし、彼が本気で抵抗したときはどうなるか分からないけれども。
 しかし、ナナが蒼星石を見て辛そうな顔をした理由については分からなかった。
「蒼星石は分かったって言ったけど、ナナが蒼星石を気にしたのって何故なんだい」
 どちらにともなく尋ねてみる。ナナは躊躇するように口篭もったが、蒼星石が低い声で答えた。
「外見は似ていても僕と『蒼星石』は違っているのだろう。水銀燈が『水銀燈』と違い、ナナが雪華綺晶と違っているように」
 それは黒衣の人形やら他ならぬナナを見てきた彼等にとっては当たり前のことだった。しかし、ナナはそういう経験に乏しい。そもそも、自分の姉妹達ですら直に顔を合わせて来なかったのだから。
 なまじ似ているだけに、却って些細な部分に違和感を抱いてしまうこともある。悪いことに、こういうときの蒼星石は考えを一度胸に収めてから口にする方で、その言葉は冷たい理詰めでこそないが硬い。
 ナナが自分の世界で出会った『蒼星石』は、そうではなかったのだろう。優しくて柔らかい言葉を掛けてくれたとナナ自身が語っていた。そのギャップは大きいし、逆なら兎も角、まるで拒絶されているような寂しさも募るのだろう。
「『蒼星石』は素直ないい子だったかもしれないけど」
 少年はナナの手を取り、少し強引に蒼星石の手に重ねさせた。
「この蒼星石だって優しい、いい子だぜ。ただ、ちょっとだけ不器用だから、上手く表現できてないだけでさ」
 ナナは少し困ったような顔で上目遣いに蒼星石を見る。蒼星石は生真面目な表情でその視線を受け止め、ちらりと少年を見遣った。その顔つきや態度がますます違和感を与えてしまうかもしれない、とは思い及ばないようだった。

 水銀燈はふっと笑った。
「お馬鹿さんねぇ。そういう話じゃないでしょうに」
 お生憎様、と言わなかったのは、少年と蒼星石の素朴な勘違いを咎めるつもりはなかったからだ。
「どれだけ似ていようといまいと関係ないのよ」
 水銀燈はティースプーンで紅茶にミルクを混ぜた。
「その子がこっちに飛び出してきたのは『蒼星石』の魂を探すためでしょう。だから蒼星石はどんなに似ていても、記憶を励起するだけの別人ってこと」
 そうじゃなくて? と視線を向けられ、ナナは半ば呆然としながら、はいと返事をした。図星だった。
「え、そうなのか」
 驚く少年に、ナナはひとつ頷いて、申し訳なさそうな顔をする。
「『蒼星石』と『雛苺』の魂も探し出してこちらの世界に送る……ってお父様は言ったんです」
 そうすれば、二体にも復活の可能性とアリスゲームに因らない方法でアリスを目指す道とが生まれる。ただ、そのためにはボディと動力源が必要ではあるけれども。
「私のお姉様達が持っている二体のボディ、水銀燈……さんにお父様が預けた小さな宝石箱の中身、そして彷徨っている魂の三者が揃うこと。そこに強い呼び声があれば、二体は元通りに復活することができるかもしれないんです。私は、それをお手伝いしたかった……」
 今でもしたいです、と俯く。
 現在の状況下ではそれが不可能なのは、よく分かっていた。ナナ自身が雪華綺晶に狙われている。魂を探しにnのフィールドに潜った瞬間から彼女自体が危険に晒されてしまい、到底手伝うどころの話ではない。
 それに『蒼星石』の動力源は既に別の人形に渡されている。本来そんなもので縁もゆかりもない人形が動くことは有り得ないはずだが、恐らく人形師が予見したとおり人形はそれを動力源とした。人形が同意しない限り、動力源が返却されることはないだろう。
「それが不可能だから、尚更辛いわけね」
 水銀燈は言い辛いことをあっさりと言った。ナナが情けないような、恥ずかしいような声で肯定の返事を返すと肩を竦めてみせる。
「全く……貴女は粘り強さのない真紅ってところね。諦めが早いったら」
 言いながら、懐から何かを取り出す。例の小箱だった。
 ぱちりと細めに蓋を開けると強い光が漏れ出し、彼女は頷いてまた蓋を閉じる。そして、そのまま手を伸ばしてそれをナナの前に置いた。
 ナナは恐る恐る小箱に手を伸ばした。開けてみなさい、と水銀燈に言われるまま蓋を開けるといきなり部屋の照明を圧倒する眩い光が小箱から溢れる。ナナは慌ててそれを閉じてしまった。
「ローザミスティカ……それに契約の指輪も」
「上げるわ。貴女の探し人の方の動力源じゃないけどね」
 驚いて顔を上げるナナに、水銀燈は人の悪い笑みを浮かべてみせた。
「ただ、一つ条件を付けさせて貰うわよ。持っているだけでは駄目。体内に取り込みなさい。それが出来ないなら、貴女に与えるのは止めておくわ」


 雛苺は一旦鞄に入ったものの、なかなか眠れなかった。
 コリンヌとオディールは別人だ、そして、オディールの指輪は恐らく雪華綺晶のものだ、とジュンと翠星石はくどいほど繰り返してくれた。巴が帰った後は、真紅が珍しく抱き締めてくれた。
「昨日の今日だもの、こちらの準備が整わない内に雪華綺晶が続けて仕掛けてきたということは十分考えられるわ。……だから、惑わされてはいけないのだわ。貴女も、私も」
 どちらかといえば自分に言い聞かせるように真紅は言った。
「考える時間や準備する余裕を与えないようにして、こちらが弱味を見せたところで畳み掛けてくるつもりなのでしょう」
 雛苺を抱く腕にぎゅっと力が込められた。
「貴女はこの真紅の家来よ。直接ではないけれど、私を通じてジュンの力を分けて貰っている。オディール・フォッセーの力ではないのよ」
 三人の励ましや説得は直截で不器用だったけれども、心が篭っていた。もうアリスゲームから脱落してしまった雛苺を、言わば利害抜きで本心から心配してくれている。それは雛苺にもよく分かったし、嬉しかった。
 ただ、雛苺が本当に欲しかった言葉は、そういう「いま」や「これから」に関わるものではなかった。

──コリンヌは、ヒナのことどんな風に「気に掛けてた」の? ずっと、ずーっと寂しかったの? それともたまたま寂しいときに、オディールにそういうお話をしてみただけで、普段はしあわせだったの?

 嘘でもいいから、誰かに答えて欲しかった。それが優しい嘘だと分かっていても、誰かに何か慰めを言って貰いたかった。
 雛苺は寂しかった。鞄の中に入って、長い長い眠りに就いていた間、ずっと寂しかった。
 隠れんぼしましょう、という別れの言葉がコリンヌの悲しい嘘だと分かっていたから、別れ際の涙声を聞いてしまっていたから、彼女を忘れて良い思い出に変えることなどできなかった。

 鞄を細く開けて、レースのカーテンが半ば開けられている窓を見る。雲は晴れて、月の光が差し込んでいた。
 その柔らかい光に引かれるように雛苺は鞄を静かに開け、窓に歩み寄る。
「これならお外も歩けそうなのよ」
 ふわふわと漂うように鞄から出てきたベリーベルに囁く。ベリーベルがふらふらと左右に揺れると、雛苺はベッドの上のジュンが寝入っているのを確認して、口に人差し指を当てた。
 ジュンの机の近くに置いてあったお気に入りのポーチを肩に掛け、真紅愛用のラムネの詰まったステッキを借りて、少しだけ危なっかしくドアを開ける。閉じる前にそおっと振り返ってみたが、部屋の中は静まり返り、誰も気が付いてはいないようだった。
 まだ残り湯の温度で暖かな浴槽の蓋の上に乗り、湿気が篭らないようにいつも開けられている窓によじ登る。最初に一人でポストに手紙を投函しに出たときから、そのルートを使うのが雛苺のお決まりのパターンになっていた。
「ねこさん、いないの……?」
 夜だからなのか、偶然なのかは分からないが、彼女の友達は風呂場の窓の下にはいなかった。雛苺は苦労してどうにか地面に降り、ベリーベルと月の光を頼りに歩き出した。
 何処に行こう、という当てや目的があったわけではない。なんとなく、誰にも邪魔をされずに外を歩いてみたかった。歩きながら、誰も気にしてくれていないコリンヌのことを思い出してみたかったのだ。
「夜のお外は、昼間とは違うのね」
 住宅街の通りには街路灯が点いて、その周りや家々の窓の周りだけがぼうっと明るい。古くなっている蛍光灯がちかちかと瞬いていたり、庭や玄関先のLEDの常夜灯が白熱電球や蛍光灯とはまた違う、温度のない光を放っていたりと、夜ならではの光の彩りがそこにはあった。
 前の時代でコリンヌに伴われ、小高い丘の上の建物の窓から街の夜景を見たことがある。それは宝石箱のようで美しかったけれども、ここで地面に立って見る夜の風景は、また違った趣があった。
 迷子にならないように、雛苺は通い慣れた──一人で脱走するときの経路、とも言う──道を歩いた。コリンヌの思い出をあれこれ思い出しては、そのたび溜息をついたりべそをかきそうになったりした。
 時間が時間だけに誰も通行人はおらず、彼女はいつもより早く、目的にしている小さな公園に着いてしまった。
 最初に来た時に跳びついて手紙を投函したポストの脇まで歩いて、雛苺は周囲を見回した。いつもの街のざわめきはなく、公園は薄暗い夜の帳の中に沈んでいた。
 いつもの経路はここでおしまいだった。大抵この辺りで追っ手が追い着いてくるか、時間によっては巴や少年が彼女を見付けて抱き上げるかするのだ。
 今日は、そういうこともない。帰りはまた同じ道を一人で帰るだけだ。

──つまんないのよ。

 道すがらコリンヌのことを考えていたのも事実だったが、そちらもまた偽らざる本音だった。懐かしくて寂しさの残る回想をしながらも、彼女は夜の散策そのものも楽しんでいたのだろう。
 もう少し歩いてみたい、でも迷子になったらどうしよう、と不決断にポストの前でうろうろしていたとき、彼女は遥か彼方から名前を呼ばれたような気がした。
「だれ?」
 きょろきょろと周りを見回すが、相変わらず公園は静けさに包まれていた。
「──気のせいなの?」
 主人のようにきょろきょろと周囲を見回すように飛んでいるベリーベルに尋ねてみる。ベリーベルも何か異常を感知したのは一緒のようだったが、やはり見当はつかないようで、困ったようにふらふらと飛ぶだけだった。
「変なの……」
 なんとなく出鼻を挫かれたような気がして家に帰ろうとしたとき、彼女はもうすこしはっきりと「何か」を感じた。
 呼ばれたのではなかった。ローザミスティカが何かに反応して、脈動しているのだった。


「それを取り込めば、貴女はもう無力で不幸な落ちこぼれじゃなくなる」
 水銀燈の口調は静かだったが、その表情はどうするか見物だと言いたげだった。
「その指輪が使えれば、契約して──ミーディアムだったかしら、契約者を持つこともできる。『ベリーベル』と苺のランナーを操る技、それから念動力に近いような遠隔操作……契約者の消耗を考えなければ『真紅』を軽く圧倒するくらいのパワーも付与される。
 貴女以外の姉妹の中で最弱だった『金糸雀』がドサクサに紛れて取り込んだだけで薔薇水晶の片腕をもぎ取るほどの力を持てたほど、と言った方が正確かもね。ま、比較しても意味がないけど、私達じゃ足元にも及ばないパワーよ」
「……でも」
 ナナは小箱を両手で包むように持ってみたが、開けようとはしなかった。
「そんな力を持ってしまったら、わたし──」
 声が震えているのは、期待や感動などではない。弱気の、というより臆病の虫がそうさせているのだった。
「ええ。もう逃げられないわよ。潰し合いゲームからも、そして貴女を造った人形師の想いからもね」
 水銀燈は少し誇張した言い方をした。
 ナナは緊張した面持ちで頷くだけで、小箱を両掌で包むように持ったままだった。まだ開ける踏ん切りがつかないようだった。
 水銀燈は若干苛ついたような表情になったが、肩を竦めて言葉を続けた。
「貴女特有の事情ってのもあるわね。この世界での行動の自由っておまけが付いてくる」
「それは……」
「探し物をするにも雪華綺晶に怯えなくて済むじゃないの。あの子が正面切って襲ってくるとき限定だけど」
 言われて漸く気がついたのか、ナナは弾かれたように顔を上げた。
「そっか。キラキィより強くなれるんだな」
 ぽん、と少年は掌を拳で打ってみせる。

 蒼星石は眉を顰め、少年の単純な勘違いを指摘しかけたが、すぐに口を閉じて生真面目な表情に戻った。
 水銀燈の限定は殆ど意味がないものだった。雪華綺晶は何か切っ掛けがあって、相手が弱っているか弱味を抱えているときにしか襲撃や待ち伏せという手段を取らない。
 前回気を失った水銀燈を襲撃したときもそうだったし、昨日の待ち伏せも、詳細は分からないが何か読み違いがあっただけで、こちらの隙を突いてきたことには違いがない。その読み違いがあってさえ、蒼星石は殆どパワーを消耗しない方法で良いようにあしらわれた。少年もナナがヒントをくれなければ機械を現出させられずに虚空に呑まれていただろう。
 ただ、それでもナナの視点で見れば無力ゆえに探し物が全くできない状態よりは力を持っている方が幾らかでも良いはずだ。
 いずれにしても、少年の間違いを指摘するのは後からでもできる。今は余分な言葉を差し挟んでナナを迷わせるべきではなかった。

「──やってみます、わたし」
 水銀燈に言ってから、ナナはじっと小箱に視線を注いだ。
 かちりと箱を開けると、動力源は相変わらず薄紅色の強い光を放っていた。ナナはそれに向かって呟く。
「『雛苺』……少しの間、力を貸してください。──あなたと『蒼星石』の魂を見つける間だけ」
 動力源はそれに答えるかのように瞬いてみせた。ナナは微笑み、それから緊張した面持ちになってそれを胸元に押し当てる。眩い光を放ったまま、動力源はナナの体内に沈んでいった。


 『真紅』は真っ直ぐに虚空を切り裂いて飛んでいる。
 さきほど『水銀燈』と『金糸雀』と話し合ったことを反芻しながら。
 幼い顔だが、大きな蒼い瞳には決意の色がある。
「アリスになるのは後からで構わない──」
 並んで飛ぶ『翠星石』は『真紅』の手をぎゅっと握り締める。吊り目気味のオッドアイは僅かに目尻が下がっている。
「──なれなくても、いいですぅ。『翠星石』は、『蒼星石』を探し出せれば、それで──」
「そんなことを言うものではないわ。わたしたちみんな、全員がアリスになるのよ」
 もう、本当に、それだけしか救いは無いのだから。
 ふたりのミーディアムだった少年は、ここにはいない。もう、逢えない。
「……はい」
「でも、そのためには先ず」
「……『真紅』はチビ苺の、『翠星石』は『蒼星石』の」
「ローザミスティカを見付け出して、復活させる」
 再びぎゅっと小さな手を握り合い、二体のドールは赤と緑の光となって駈ける。
 自分達の世界でない、何処とも判らない虚空を。
「馬鹿馬鹿しい……つきあってられなぁい」
 『水銀燈』はゆっくりと飛翔している。その口振りとは裏腹に、顔はやり場の無い哀しみに沈んでいる。
「──めぐ……」
 赤と緑の光が視界を過ぎって行く中、探し人すらいない自分の孤独を『水銀燈』は思う。
「お父様……お父様はどうして……」
 ふと呟く言葉は後に取り残され、『水銀燈』は次第に加速して別の方角に消えて行く。薄い赤紫の光となって。
 通った後に、呟きと共にきらりと涙の粒が取り残されている。
「行ってあげるべきかしら……」
 その光を見ながら、『金糸雀』は呟く。
「カナには『水銀燈』のミーディアムの代わりはできないけれど……」
 自分の力を思う。音波を操るヴァイオリン。それは攻撃にしか使えないわけではない。
「……あなたを慰めるくらいはできるのよ」
 黄色の光は赤紫の光を追う。
 一度だけ、もう戻れない場所を確認するように僅かに止まり、再び勢いよく赤紫の光を追い始める。
「さようなら、お父様。みっちゃん。……さあ、何が待っているのかしら」
 彼女は泣いてはいない。独りではないから。前を行く光の主がいるから。
 『水銀燈』の残していった小さな涙の粒を撥ね散らして、黄色い光は速度を上げてゆく。



[19752] その12 恋
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/19 00:43
 目覚ましで叩き起こされると、開いている押入れの襖が視界に入った。少年は大欠伸をしながら一つ伸びをして、掛け布団をなるべくそおっと畳み、襖の奥を見遣る。
 昨日水銀燈が作った即席の寝床では、ナナとお客がまだ眠っていた。毛布の下でよく分からないが、お客の方はナナに横合いから抱き着いているようだった。ナナの体が水銀燈ほどの大柄で、頭身も薔薇乙女達とは少し違い、お客はお客で少し小柄なせいで、なんとなしに年の離れた仲のいい姉妹に見えないでもなかった。
 暫くそれを眺めてから、そうだ、と少年は思いついて電話を掴んだ。まだ少し早めの時間ではあったが、構わず電話番号を押す。
 みんなが起きる時間になったら桜田家は大騒ぎになってしまうに違いない。少しでも早く知らせた方がいいだろう。

 うろうろしている雛苺とベリーベルを最初に「見つけた」のは、眠さを我慢しつつ自転車を漕いでいた少年ではなく、前を向いてもいなかったナナの方だった。もちろん視覚ではなく、何か別の感覚だった。
 蒼星石に見送られて薔薇屋敷を出てからすぐに、ナナは奇妙なことを少年に告げた。
「ローザミスティカが……何かに反応してるみたいなんです」
 少年は思わず急ブレーキを掛け、自転車はギッと音を立てて止まった。眠気が一気に覚めていくような気がした。
「そ、それまさか副作用とか? 例の……」
 昨日、──日付では既に一昨日だが、水銀燈が言っていたことが思い出される。

 ──力ずくで奪ったとしても、ローザミスティカは即座にそのドールの力になるわけじゃない。あるいは、力は使えても副作用が残る。

 それは、元々少年が懸念していたことでもある。水銀燈が蒼星石のローザミスティカを奪うと言っていた頃の話だが、それを止めさせようとして桜田家に乗り込んだほど本気で気にしていた事だった。
「それは大丈夫です」
 ナナはしっかりした声で答えた。彼女達の動力源はそういう副作用を持っていない。もっとも弟子の作った人形は最終的に崩壊してしまったから、耐えられるように作られていると言った方が正しいかもしれない。
「でも……変なんです」
 自信が無さそうに続ける。
「胸の辺りがどきどきして……」
 少年は上空を見回す。しかし、別ルートで家に向かっているのか、先に出た水銀燈もメイメイも見当たらなかった。
「早くうちに帰ろう」
 帰れば水銀燈もいるし、と言ってペダルに足を掛ける。ナナは返事をしなかったが、少年は肯定と受け取ることにした。
 暫く、なるべく揺らさないように静かに走っていると、ナナは自転車を停めて欲しいと言い出した。
「今……少し、どきどきが強くなったんです」
「うちまであと少しだから、頑張って」
「あの、そういう意味じゃなくて……」
 あまり要領を得ない説明だったが、少し手前の交差点を通過したとき辺りにどきどきが大きくなった、という内容のことを彼女は言った。
「もしかしたら、『雛苺』の何かが、ローザミスティカに反応しているのかもしれません」
 そう言われてしまえば、付き合わないわけにはいかなかった。少年はナナの言うままに自転車を走らせ、ものの数分と走らないうちにピンク色の光球を伴ってうろうろしている金髪の少女を見付けたのだった。

 うちに帰りたくない、ナナちゃんと一緒に居る、と駄々をこねる雛苺を無理に送っていくわけにもいかずに連れて帰宅すると、水銀燈はもう帰宅していた。
「どうせそんなことじゃないかと思ってたわ」
 水銀燈は雛苺を見ても呆れた顔になっただけで、特に驚きはしなかった。ナナに『雛苺』の動力源を渡したときに半ば予期していたのだろう。
「反応していたのは『雛苺』と雛苺のローザミスティカだったってわけね」
「はい……」
 ナナは失望と申し訳なさ半々のような、落胆した声で返事をした。
「ま、走り回った甲斐はあったじゃない。その迷子になりかけの子を保護したんだから」
 うろうろしていた雛苺を迷子呼ばわりして、水銀燈は人の悪い笑みを浮かべた。
「で、貴女はどうするの? 泊って行くつもり?」
「うー……」
 雛苺は水銀燈とナナをちらちらと見比べてどうしたらいいのか迷っている風だったが、数拍の間を置いて頷いた。水銀燈はわざとらしく欠伸をしてみせ、座っていたテーブルの上から飛び降りた。
「鞄は貸さないわよ」
 一瞬置いて、それが肯定の返事だと理解すると、雛苺はぱあっと表情を明るくした。
「わぁー! ありがとうなの水銀燈!」
「どう致しまして。ナナと一緒でいいのね?」
「うんっ! 一緒がいいの!」
 相手の返答も聞かずにナナに飛びつくと、雛苺は嬉しそうに頬ずりする。どういう訳か、彼女はナナが気に入ってしまっているらしい。
 雛苺の気に入り振りは水銀燈には少々意外らしく、彼女は考え込むような素振りをしていた。
 もっともそれは、水銀燈がなまじ知識を持っていて、どうしてもある程度雪華綺晶とナナを重ねて見てしまうせいかもしれない。漫画の世界では雪華綺晶が雛苺を捕食している。言わば雛苺にとって雪華綺晶は天敵のようなものだった。
 冷静になって考えれば、同じ第六ドールのローザミスティカ同士の共鳴のようなものが原因なのだろう。ナナにとっては「胸がどきどきする」というその現象が、雛苺にはもう少し別の形で現れているのだ。
 どうしたら良いのか分からない、と言いたげにこちらを見ているナナの表情ににやりと笑みを返して、水銀燈はパジャマに着替えて電話の辺りで逡巡していた少年に視線を投げる。
「もう遅いから明日でいいじゃない。監視が行き届かなかったのは真紅の不始末なんだから、その分少しばかり慌てさせたって構わないわ」
「そっかぁ?」
 とは言うものの、普段電話を掛けていない相手に午前一時を過ぎてから電話を掛ける勇気は少年にもなかった。留守番電話にしろ、相手を起こしてしまいかねないのは同じだ。
 携帯電話相手ならメールを送るという手もあるのだが、生憎少年はジュンの携帯電話の番号もアドレスも知らない。そもそも、ジュンは携帯電話を持っていないのかもしれなかった。せめてパソコンのメアドくらい教えて貰おう、と少年はぼんやりと考える。
「大体、雛苺だってやる気ならいつでもあの家の大鏡に抜けて行けるでしょうに、帰りたくないって本人が駄々を捏ねているのよ。騒ぎになったところでこっちの責任じゃないわ」
 水銀燈の言葉は大分不人情な言い分ではあったが、眠くなってきていた少年にはむしろ福音だった。
「んじゃ、お言葉に甘えるとしますか……」
 ふわぁ、と自分も大欠伸をして、少年は自分の布団を敷いて潜り込んだ。自分で感じていたよりも眠気は強かったようで、彼はすぐに眠りに就き、そのまま朝まで寝てしまった。

 電話はすぐに繋がった。固定電話の受話器を取ったのは予想していたとおり、のりだった。
 やっぱり朝早いんだな、と少年は思い、忙しいところ済みませんと断ってから本題に入る。
「実はヒナ──雛苺が昨日の晩、うちに来てお泊まりしたんですけど……」
『あらぁ、そうだったのぅ? まだみんな起きて来る時間じゃないから、気が付かなかった』
 詳しい事情は聞かされていないながら、雛苺を一人にしないようにというジュンと真紅の方針は知っているはずだ。かてて加えて忙しく食事の支度をしているはずなのに、のりの声はいつものように──と言っても、少年は殆ど顔を合わせたことはないのだが──朗らかだった。
 その朗らかさと翠星石の元気の良さが、どうしても尖りがちなジュンと、つい突き放したような言葉になってしまう真紅が中心の桜田家の空気を和ませ、明るくしている。こと雰囲気作りに関する限り、二人は桜田家の両輪のようなものだった。
 もっとも少年はそんな難しいことを考えたわけではない。ほんわかしていいお姉さんだなぁ、と思っただけだ。
「まだ寝てるんで、起きたら帰らせるようにしますから」
『はぁい。ありがとぅ。じゃ、翠ちゃんには先に言っておかないと……そろそろ起きる頃だから』
「すいません、お願いします」
 甲高い声と、転げ落ちるような勢いで階段を駆け下りてくるような物音が電話の向こうから聞こえてきたのは、彼の言葉が終わるか終わらないうちだった。
『たっ大変ですぅーっ、チビチビが……!』
『どうしたのぅ? あ、ヒナちゃんなら……』
『チビチビのヤツ、遂に家出しちまったです! お菓子持てるだけ持って!』
 上ずった声で喚いているのは確かに翠星石だった。いつものことなんだろうなー、と少年は苦笑する。
 ただ、次に聞こえて来た声には耳を疑った。
『雛苺……! よりによって私のステッキとプチくんくんフィギュアを持ち出すとは許せないのだわ。帰って来たら折檻よ』
 いつもより半オクターブばかり低い、ドスの効いた声は多分真紅のものだった。
 受話器を置きながら、少年は溜息をついた。雛苺の持っていたステッキはラムネか何かのお菓子のパッケージだし、プチくんくんフィギュアは確か食玩か、飲料メーカーがタイアップしていたときにペットボトルのおまけで付いて来た物だ。
 完璧少女だとばかり思っていた真紅も、素の部分では普通の女の子らしい。しかし、今までのイメージとのギャップの激しさに、少年は些かの驚きと何とはなしの落胆を禁じ得なかった。


 雛苺は昔の夢を見ていた。
 コリンヌと遊んでいる夢だった。南仏の美しい街並みを見下ろす別荘で、汽車の中で、あるときは船の上で、いつも雛苺はコリンヌと一緒だった。
 行動の制約は今よりもずっと厳しく、何をするにも「誰かがいるときは動いては駄目よ」がまるで口癖のような約束だったが、その分、今よりもずっと移動範囲は広かった。皮肉なことに、その頃の彼女は外の世界などに興味はなく、専らコリンヌだけを見ていたのだが。
 一番長く一緒に居たのは、コリンヌの部屋の中だった。数十年物の大きな──雛苺ほどもある──何処かコリンヌに似ているビスクドールのケースから一段下がったところの棚に並べられている人形達を使って、二人は遊んでいた。
「棚に戻すときは私に言ってね」
 コリンヌは困ったように微笑みながらそう言う。
「古いお人形は焼き物で出来ているから、落とすと壊れてしまうことがあるの」
「ヒナ、ちゃんと戻せるもん」
「でも、危ないから……あっ」
「あ!」
 頑張って背伸びをして棚に戻そうとした、雛苺が一番気に入っていた人形は、ぐらりと傾いて顔から床に落ちてしまった。コリンヌが駆け寄ってきたが、間に合わなかった。
 がしゃん、という音。慌てて上向きにしてみると顔はひびが入り、可愛らしかった目は片方が無残に落ち窪んでしまっている。白い、汚れもないドレスが却って痛々しく見えた。
「ごめんなさい……」
 雛苺は俯いた。いいのよ、とコリンヌは微笑んだが、その微笑みは悲しさしか表していないように雛苺には思えた。
 次の日から、もう人形は棚には並ばなくなっていた。暫くして、雛苺は恐る恐る人形のことをコリンヌに尋ねてみた。
「修理してってパパにお願いしたんだけど……」
 コリンヌはまた、あの微笑を浮かべた。
「ベルギーの職人さんに頼んだとしても、元どおりにはならないんだって。それに、新しい人形を買う方が安いからって……」
 そう言って、彼女は同じような白い衣装を着た人形を雛苺に見せた。アメリカ製だという、セルロイド製の可愛らしくて美しい人形だった。
「ね、前の子に負けないくらい可愛いでしょう。それにこの子なら軽くて、落としても壊れないわ」
「う……うゅ……ありがとう」
 釈然としないながらも、雛苺は頷いて御礼を言った。
「前のお人形は、どうなっちゃったの……?」
 コリンヌははっとして、それからばつの悪い顔になった。雛苺はその意味を理解する余裕もなく、もう一度尋ねてしまう。
「前のお人形は、捨ててしまったの?」
 コリンヌは言葉に詰まり、それから小さな声で肯定した。
「壊れてしまったら、捨てるしかないんだもの……」
 ごめんなさい、とコリンヌは言い、雛苺をぎゅっと抱き締めた。
「コリンヌ……」
 雛苺には、聞きたいことがあった。この時には聞けなかったことだった。
 ずっと聞きたくて、しかし六十年以上も聞けなかった事柄だった。聞くのはとても怖かったし、まともに答えが返ってくるとは思えなかった。コリンヌはあの悲しい微笑で、優しい嘘をつくのだろう。いつものように。
 今でも怖いのは変わらない。けれども、今なら真正面から尋ねてもコリンヌは真摯な答えを返してくれる、と何故か思えた。
「なあに、雛苺」
「コリンヌは……コリンヌはヒナを捨ててしまったの? 要らない子だから、もう遊びたくないから捨ててしまったの?」
 コリンヌは口篭もった。なかなか、答えを返してくれなかった。
 白茨が、二人を包むように纏わりついていた。


 ナナは困惑していた。
 夢の扉を開けて中に入るのは、彼女にとっては殆ど日課のようなものだった。nのフィールドの中だけで暮らしていた彼女は、そうして他人の夢の中で遊びながら、その夢を少しずつ変えて行く。
 悲しい夢や無力感に苛まれた夢、切ない夢は嫌だった。夢の世界から出れば、扉ばかりのところに逼塞するしかない無力な自分が居る。誰か──それは往々にして他の姉妹の昔のミーディアムだった──の夢の中で遊んでいるときくらいは、そういったネガティブな諸々の事柄を忘れていたかった。
 それがどうしても変えられなかったこともあった。最近では『雛苺』の元ミーディアムがそうだった。
 ナナの力は、夢を見ている当人の、心の何処かで願っている救いのある展開や、夢の中でさえそんな風に進まないと分かっていながら、それでも心の隅で期待している楽しく暖かい場面に、その夢を導くものだった。まったき絶望や完全に救われることがないという諦観しか持たない人には、何の効果もない。
 今、彼女が目にしている光景は、彼女に抱き着くようにして眠っている雛苺の夢のものだった。
 夢は、楽しくもあり優しく物悲しくもあった。それは、既にこの続きが切なく哀しいものに繋がると夢の主が分かっているからなのかもしれない。
 彼女はコリンヌを少しだけ雛苺の期待するように変えようとしてみた。それが成功したのかはよく分からないが、雛苺は納得して夢を見続けてくれた。
 しかし最後になって、雛苺はコリンヌに難しい質問をぶつけてきた。それは、コリンヌの後ろで夢を盗み見ているナナに対するものでもあるように彼女には思えた。

 これまでであれば、こういうときナナは躊躇なく、コリンヌに雛苺を慰める言葉を言わせるか、またはお別れなんてなかった、と安易な嘘へと誘導してしまっただろう。
 後者は特に、悪しき虚偽に満ちた行為かもしれない。
 しかしそれは朝になるまでの間の、ほんの短い時間の戯れなのだ。意識が戻ってくれば全て忘れてしまうかもしれない、おぼろげに覚えていてもそこまでの、儚い嘘だった。
 そんな短くて優しい嘘くらいついたっていいだろう、というのがこれまでのナナの考えだった。誰も傷つかない、後にも多分残りはしない嘘なのだから。
 だが、『雛苺』の元ミーディアムの一件は、彼女の考えを揺るがせていた。
 こんな真摯な問い掛けに、安易な嘘を吐いて良いものなのだろうか。仮に嘘を吐いたとしても、それは結局受け容れられず、却ってこの人に傷を残してしまうのではないだろうか。
 だが、真摯な質問だからこそ、そこに救いを求めているのではないのか。全ての人が、あの元ミーディアムのように絶望と届かない謝罪の中に自分を落し込んでいるとは限らない。この人は安易な優しい嘘を待っているのではないだろうか。
 ナナは暫く考えていた。思案は中々纏まらなかったが、雛苺をそう長いことは待たせておけなかった。


 白茨が二人を取り囲み始めていた。しかし雛苺はそれに気付くこともなく、一心にコリンヌの答えを待ち続けていた。
 コリンヌは、やがてゆっくりと雛苺の髪を梳き始めた。彼女も自分を取り巻き始めている白茨には気が付かないようだった。
「雛苺は、友達よ」
 コリンヌはゆっくりとした口調で言った。
「私の、一番のお友達。壊れたからって捨てられる人形じゃないわ」
「じゃあ、どうしてヒナを置いて行ってしまったの? 契約もそのままにして……」
「それは……」
 コリンヌはぎゅっと雛苺を抱き締めた。
「ごめんなさい、捨てて行ったのではないの」
 言い訳になってしまうけど聞いてほしい、と言われ、雛苺は頷いた。コリンヌはありがとうと息をつき、小さな声で語り始めた。
「戻って来るつもりだったの。パパは家を売りに出してしまったけど、売れないことは分かっているって言っていたから……」
 コリンヌの考えは、事情を知らない子供ゆえの甘いものだった。
 戦闘になる、だから兎に角急いで別宅に逃げるのだと聞いていても、自分の家が壊されたり、兵士達の陣地とされるかもしれないということは頭になかった。既に北仏でも、イタリア半島でも実際にそうして戦闘が行われている時だったが、戦場のごく近くに居ながら殆どそういったものを身近に感じられなかった少女には、無理のないことだったのかもしれない。
「何ヵ月後か、何年後になるか分からないけど、必ず帰ってくるつもりだった。そのときに貴女にまた会えるように、鞄もそのままにして……」
 その思いのとおりに、コリンヌは我が家に帰ってきた。
 だが、家は無残にも破壊され、雛苺の鞄は無くなっていた。細い腕で瓦礫を掻き回しながら鞄を探している間に、彼女は何時の間にか契約の指輪が自分の指から消えていたことに気付いた。
「ごめんなさい、私の小さな雛苺」
 コリンヌは涙声になっていた。髪を梳いていた手は止まり、ただ雛苺を抱き締めて泣きじゃくっていた。
「いいの、コリンヌ」
 雛苺は首を振った。
「ヒナのこと、大事に考えていてくれたのね。ありがとう」
 小さな手をコリンヌの頬に当て、涙の浮かんだ顔で微笑む。
「あのね、ヒナね、もう一つ聞きたいことがあったの。コリンヌ……」
 そこで少し口篭もり、暫く不決断にコリンヌの髪を指で弄んでいたが、やがて顔を上げて尋ねた。
「コリンヌは、幸せだった? ずっと寂しかったの? それとも、たまに寂しいだけで、いつもは優しく笑っていられた?」
 コリンヌは目を開けて雛苺を見詰めた。
「──幸せだったわ。貴女を忘れたことはなかったけれど、その心を埋めてくれる人がいたの。私はその人の子供を産み、その子がまた子供を産んで、今はみんなで暮らしているわ。貴女はどう? 今は幸せ?」
 雛苺は限りなく優しい笑顔になった。
「ヒナも幸せだよ。コリンヌのことは今でも思い出すの。でも寂しくはないわ。今は真紅も翠星石もいるし、金糸雀も、蒼星石も、水銀燈も。姉妹みんな居てくれるのよ。お父様にはもう会えないけど、ジュンとトモエがヒナのパパとママなの」
 だから、とっても楽しいし、幸せだよ、と雛苺は笑った。
 コリンヌは返事の代わりに、ゆっくりと微笑んだ。それは悲しくない、優しい微笑だった。


 ナナは扉を潜り抜けて元の空間に戻り、蹲った。
 結局、彼女は今度も優しい嘘の方に夢を誘導してしまった。
 大きな事をしたわけではないし、そもそも彼女にはそこまでの構成力などない。いつもと同じように最初の取っ掛かりを与えただけだ。後は、雛苺が自分の古い記憶と、多分最近何処かから得た──実際には、昨日コリンヌの孫娘が言っていた──情報を元にして、自分に都合の良いように夢を作り上げただけの話だった。
「私のしたことは、その場逃れのでっち上げなんでしょうか」
 後ろに立っている影に、彼女は尋ねた。
「──気付いていたんだね」
 言いながら、蒼星石は後ろ手に扉を閉めた。
「君には悪いけど、白茨が雛苺の夢から漂い出ているのが見えた。それで暫く監視させて貰っていた」
 ナナはかぶりを振った。白茨には彼女以外にも遣い手が居る。そちらが雛苺を狙っているという話は聞いていたし、自分のことを監視していたとしてもおかしい話ではなかった。
 現に、自分は雛苺の夢を誘導していたのだから。
「僕には夢に手を加えることの是非までは分からない」
 蒼星石の言葉は慎重だったし、取りようによってはやや冷たいものだったが、顔を上げて見遣ると彼女は気遣わしげな表情をしていた。
「ただ、君が雛苺にしたことが彼女のためを思ってのことならば、そして結果に対して君が責任を取るつもりなら──」
 蒼星石は片膝をつき、右手をナナに差し出した。
「君は蹲って後悔する必要はない、と僕は思う」
 それはとても不器用だったが、彼女なりの慰め、あるいは励ましなのかもしれなかった。ナナは差し出された手を取り、まだ少し自信が無さそうに微笑んだ。
「さあ、僕達はお互い、もうここから出なくては」
 ナナを引っ張るようにして立ち上がりながら、少し照れ臭そうに蒼星石は言った。
「もう起床時間だからね。次は現実世界で会おう」
「はい」
 素直な声でナナは答えた。彼に宜しく、と蒼星石は微笑んだ。その表情はやはり『蒼星石』とは違っていたが、ナナはもうそんなことは気にならなくなっていた。





 真紅の折檻はお流れになった。物置部屋の大鏡から帰ってきた雛苺が、水銀燈とナナを伴っていたからだ。
 水銀燈が居ようと居まいと雛苺のしたことは変わらない、と言いつつも、子供っぽいわねぇとにやりとされると対抗心やら恥ずかしさのようなものが先に立ってしまうらしい。雛苺に厳しく外出を禁じ過ぎたことが何度も脱走をさせる結果になっていることも、指摘されるまでもなく分かってはいる。
 結局持ち出したものを返した雛苺を巻き毛でぺしりと叩いただけで真紅のお仕置きは終わりとなった。放免された雛苺は、挨拶を終えて部屋の中をきょろきょろと見回しているナナを促してジュンの部屋に退散した。
 もっとも、真紅があっさりと雛苺を放免したのは、別に大きな理由もあった。

「雛苺を送ってくれたのは感謝するけれど、それだけではないのでしょう」
 物置部屋の鏡に寄り掛って未だにやにやが収まらない風の水銀燈に、真紅は真面目な表情に戻って尋ねる。それが今の一件を誤魔化すための言葉でないことは水銀燈にも見て取れた。
「ご明察よ」
 水銀燈は人の悪い笑いを引っ込めて真紅を見た。
「オディール・フォッセーの件でね。ちょっと腑に落ちないところがあるのと、貴女達には私の構想を話しておいたほうが良さそうだから」
 一瞬、真紅の顔に緊張が走った。だが彼女はすぐに平静な表情に戻り、蒼星石なのかしら、と確認するように尋ねた。
「ええ。昨日聞いたわ。薔薇屋敷でね。それに雛苺本人からも、少しは」
 水銀燈は翠星石を見遣る。蒼星石の双子の姉は部屋の入り口から、会話に入りたいものの切っ掛けが掴めないような按配でこちらを見ていた。
「大分性急な要求をしてきたらしいじゃない、あの人間」
「無礼なヤツでしたよ」
 言いながら部屋に入ってきた翠星石は、オディールの態度を思い出したのかまた腹を立てそうになっていた。
「いきなり現れてチビチビを渡せとか、自分がマスターだとか」
「それは雪華綺晶に操られていたからではないかしら。あの様子はまるで何かに憑かれているようだったもの」
 真紅は翠星石に向かってそう言った後、やや視線を下げる。推理のパズルのピースを嵌め込む作業を始めているようだった。
「操られているとしてもムチャクチャです。強引過ぎるですよ。あんなすぐばれちまうような嘘をつかせて、何の意味があるんですか」
 捲くし立てて、翠星石はふうと息をついた。大した鼻息ねぇ、と水銀燈は肩を竦める。
「確かにじわじわと夢の中から攻めて来る方がまだ末妹らしいわね」
「そうかしら。敢えてそうせず、マスターをこちらに見せ付けた事に意味があるのではなくて?」
 真紅は視線を上げ、水銀燈を見た。
「雛苺のマスター、という言い分は見え透いているけれど、私達に彼女をマスターとしたこと、彼女が騙されていることを伝えるためと考えれば……それが私達に対するメッセージだとすれば、辻褄は合うのだわ」
 そう言いながらもこちらに問い掛けるような視線に、水銀燈は鼻を鳴らして答えた。
「それにしては弱々しいメッセージね。むしろ、私困ってますって言ってるようなものでしょう」
 手近にあった古い小さな燭台を手に取り、鏡の脇に置く。その隣に、小さな人形を立たせた。ジュンが最近漸く彼女に渡した、水銀燈に似た人形だった。
「末妹の最大の強みは、力が強いことでもなければ人間に夢を見せて細かく操れることでもない。こっちの通り道に網を張って待ち構えて攻撃し──」
 燭台で人形を突き倒し、それから燭台だけをすっと鏡の後ろに入れてしまう。
「──都合が悪くなれば捕捉できない所まで退却して次の機会を待てることよ」

 条件さえ揃えば、彼女は自分の情報を全く渡さないまま、隙を窺って一方的に襲撃を繰り返すことも可能だろう。確かに都合の良すぎる話ではあり、成功し続ければ、または失敗しても後を尾行されないでいれば、という極端な前提の上でもあるけれども。
 しかし常にお互いの居場所を概ね感知し合っており、手の内も分かっていれば力量の差もさほどではない他の姉妹達に比べれば、彼女の優位は歴然としていた。実際に今までの二度の襲撃──巴と雛苺に対する未遂も含めれば三度になる──は、失敗はしたもののいずれも追撃を全く許さずに終わっている。
 最後の襲撃に至っては水銀燈による間接的な妨害が効果を上げているにも関わらず、しかもアリスゲームと直接的な関係のないように思える行為であるのに、少なくとも襲撃のタイミングと退き際は鮮やかだったように見える。
 それらはこちらを常に監視し続けていることと、こちらの目からは自在に逃れられることを示してもいる。
 言い換えれば、自分に関する情報の秘匿性こそが雪華綺晶の強みなのだ。
 逆に、例えば彼女の根城としている世界を特定し、そこに糧として囚われている魂を解放してしまうことが可能ならば、彼女はもはや拠るべきものすら持てなくなる。また、今という時点に限定するならば、オディール・フォッセーを強引に契約者でも糧でもなくしてしまえるなら、それだけで彼女は餓えてしまうだろう。

 水銀燈はそんな内容のことを説明して、やや曖昧な表情を浮かべて続けた。
「それが、自分から契約者をこちらの目に晒してくることは有り得ない。何かの拍子に自分の情報が漏らされないとも限らないもの。現に雛苺の前の契約者は、オディール・フォッセーに出会ったことで、末妹に遭遇していたことを思い出してしまった訳でしょう」
 今更なこととはいえ、雪華綺晶が水銀燈や少年を狙ったのは決して偶然などではなく、常に監視の目を光らせて姉妹達や契約者が弱ったところを付け狙っている、ということが暴露されたとも言える。それはある意味で大きな情報ではあった。
「これは案外末妹の窮状を示しているのかもね。一昨日の一件で受けたダメージが意外に大きくて、今までのように強力に暗示なり夢なりでコントロールできなくなり、契約者に奔放な行動を許してしまっている、ということ」
 水銀燈は鏡の後ろから人形を拾いながら真紅を見た。
「そうかしら」
 真紅は懐疑的だった。
「むしろそうして私達の油断を誘い、罠を張っているのではなくて?」

 雪華綺晶の「庭」はあくまでnのフィールドだ。何をするにしても一度はそちらに敵を引き込まなくては、戦うにしても詐術で翻弄するにしても話が始まらない。
 夢から次第に侵食していくにしても、薔薇乙女本人や彼女達と繋がりの深い人物以外狙えないのでは、食い込んで行くのは難しい。特に彼女の存在が知れてしまっている今は、時間を掛けて少しずつ、という方法さえ取りにくい。時間を掛ければ掛けただけ、存在が暴露されてしまう可能性が高くなるからだ。
 そうした状態で、以前のように蜘蛛の巣に相手を引っ掛けるには、相手の油断を誘うのが最も手っ取り早い。契約者に支離滅裂な行動を取らせ、同時に雛苺の古傷を抉ることで幾らかでも動揺を誘えるとあれば、一石二鳥ではないのか。契約者は都合が悪くなればいつでも糧に変えることができるのだから。
 また、水銀燈が考えているほどには雪華綺晶は弱らされていない可能性もある。偽物を作り出すのが生業のような末妹だけに、自らが弱っているように見せかけるのも簡単だろう。
 弱っているという欺瞞情報を発して、場合によってはオディール・フォッセーそのものを餌として他の姉妹を順繰り、あるいは纏めて自分のフィールドに引き込もうとしているのではないか。
 それが雪華綺晶の焦りを示すものだとするならば、機会を与えずに守りを固めることが重要だ。本格的な宣戦布告を示すものだとすれば、相手に惑わされずに対応を図らなければならない。

「なるほどね。一応筋は通るわ」
 水銀燈は頷いてみせた。
 真紅の意見はあくまで慎重だった。今までひたすらに身を守ってきた彼女らしい考えではある。
 消極的過ぎる、とは今日は水銀燈も言わなかった。最後まで言い切る前にラプラスの魔に口を挟まれてしまったものの、既に先日、向こうから攻撃して来るまでは争わないと真紅は表明している。
 攻撃してくる、という基準は曖昧ではある。どの程度のところで線を引いているのかは判然としないが、いずれにしてもあくまで自分からは手を出さないというのが今の真紅のスタンスなのだろう。
「──貴女はどう思うの」
 水銀燈は振り向いてドアの辺りに顔を向けた。
「真紅と私の説明をよく聞いているだけが能じゃないでしょうに」
「す、翠星石ですか?」
 翠星石は先程の勢いを失い、入り口のところから何歩も踏み込めないまま、結局二人の会話を聞いていた。
 水銀燈の言うことは理に適っているように思えたし、真紅の言うことももっともだった。そして、二人ほど明確にアリスゲームに対する見通しを持っていない彼女には、口を挟むことができないレベルの会話に思えていたのだ。
「そうよ。貴女には貴女の視点と考えがあるでしょう。それとも、そのローザミスティカは誰かに奪われるまで可愛いお人形型のケースに保管されてるだけ、ってわけ?」
「水銀燈!」
 久し振りの、ある意味で水銀燈らしい煽り言葉に真紅は声を荒げた。
「翠星石が戦いや争い事を好んでいないことは貴女もよく知っているはずではなくて? どうして今になってそんなことを」
「今だから、よ」
 水銀燈は笑っても、皮肉な表情をしてもいなかった。真紅の言葉に答えた形ではあるが、視線も言葉も翠星石に向けられていた。
「貴女以外の姉妹は皆──脱落してしまった雛苺は別だけど──ゲームに関して何がしかの展望を持ち始めた。昨日の晩に聞いた分には、あの媒介べったりの蒼星石でさえもね。持たざるを得なくなった、とも言えるけど」
 追い詰められたにしろ、真紅が言うようにいよいよ攻撃に踏み出したにしろ、あの末妹も含めてね、と水銀燈は腕を組んでまた鏡に背中を預けた。
「元々貴女はかなり極端な立場を取っていたとも言えるわね。積極的に戦いを否定し、双子の妹の方を何よりも優先してきた。蒼星石と争うくらいなら、自分のローザミスティカを彼女に差し出す、と決めていたほどに」
「そこまで……」
「そうですよ」
 真紅が視線を向けると、翠星石は水銀燈に頷いてみせ、真紅にも力のない視線を向けて微笑んだ。

「蒼星石はしっかりしてますけど、本当は甘えんぼで、とっても寂しがり屋で、ぶきっちょで、マスターや翠星石が居ないとなんにもできなかったんです。
 だから、翠星石はずっとずっと一緒に居て、あの子が立ち止まっていたら、道が分かんなくても歩き出して来ました。そうして最初の一歩だけ背中を押してあげれば、あの子はしっかりした子ですから、後は迷わずに歩いていけるんです。
 だから翠星石はいつも強がって、失敗しても気にしない振りをしてやってきました。そうすると、そのうちあの子が困った顔をしながらフォローしてくれるんです。あの子はとても優しいから。
 それが二人の暮らしだったんです。でも」

「この時代では、違っていた」
 水銀燈は素っ気無い言葉を掛けた。翠星石の話が脱線しているとは思っていないようだった。
「蒼星石が貴女より先に目覚め、貴女が悲しむのを承知で契約者の意向を汲んで動いていた」
「そうです……」
 翠星石は視線を下げた。
「私達はずっと、二人で一人でした。歩き出すのは翠星石の役目で、しっかりその後を固めてくれるのが蒼星石でした。でも、蒼星石はもう一人で歩き出せるようになってたんです。蒼星石は気付いていないようでしたし、翠星石は一人で歩けるようになったなんて言ってくれましたけど……この時代で目覚めたときには、置いて行かれたのは翠星石の方でした」
 だから、と翠星石は真紅を見た。
「分からないんです。どっちに行けば良いのか、何処に向かえば良いのか。だって、もう自分から歩き出す必要もなくて、後から支えてくれる人も居なくて。だから、翠星石は……」
 水銀燈に視線を向け、ごめんなさいです、と俯く。何故謝らなければならないのか、自分でもよく分かっていなかった。ただ、何かとても申し訳ないような気がしたのだ。
「展望とか見通しとか、翠星石は持ってないし、持てないんです。今の暮らしがずうっと続けばいいって思ってます。永遠に続く訳なんてないことは分かってますけど……」

 水銀燈は軽く頷いた。翠星石が長い前置きをしたのを責めるつもりはなかったし、まだ雪華綺晶の件に関して触れる素振りもないのを指摘するつもりもない。
 それはアリスゲームに対して何も考えていないからというよりは、蒼星石に対する依存がそれだけ強かったこと、翠星石の心がまだまだ自立して間もないことを意味しているように彼女には思えた。
 敢えて言ってしまえば、翠星石にとっては自分のアリスゲームのことなど考える余裕はなかったし、増して雪華綺晶の意図など推し量ることなどできない。それが正しい答えなのだろう。
 恐らく、今の翠星石は自分を必要としてくれる人、もっと言ってしまえば翠星石自身が「この人は自分がいないとやって行けない」と思える人が欲しいのだろう。そして、それは自分をきちんと見てくれている人なら、何人居ても構わないはずだ。
 どれだけ全員に目配りするのが大変になっても、自分を必要としていると思えて、自分を見ていてくれる人がいる限り、翠星石はその全員に尽くすのだろう。
 それはこれまでの時代では蒼星石の役割であり、契約者もその中に入っていたのかもしれない。そして、今は桜田家の全員がその対象なのだろう。
 その日常を守りたいし、できることならいつまでも日常を謳歌していたい、というのが翠星石の思いなのだ。

「だから真紅と一緒に居る、そういうことね。真紅なら、貴女と一緒に今の暮らしを守ってくれるから」
 水銀燈の言葉は相変わらず素っ気無い、突き放したものだったが、口調は柔らかく、皮肉な響きはなかった。翠星石は頷いた。

「もちろん、厭だけど我慢して真紅と一緒に居る、なんてことはないです。
 真紅はちょっと高慢ちきな所もありますけど優しいし、好きですよ。
 ジュンのことは──ジュンが一番好きなのも、ジュンを一番好きなのも真紅だって知ってますけど、それでも──マスターかどうかなんて関係なく、大好きです。ずっと、ずっと一緒に、近いところで見ていたいです。
 チビ苺のヤツも嫌いじゃないです。のりも面倒がらずに丁寧にお料理教えてくれますし、すぐ近くに蒼星石もいくれて、チビカナもちょくちょく顔出してくれて。
 今のみんなが居るから、今の暮らしを守りたいし、少しでも長く続けていたいんです」

 最後の方は、涙こそ出なかったけれども、恥ずかしさと申し訳なさのようなものでくぐもってしまっていた。
 真紅が歩み寄ってその髪を撫でる。心配そうな表情になっているのは、言いたくないことを言わせてしまったのではないかという気持ちが表に出ているようだった。
 翠星石は顔を上げ、微笑んでいきなり真紅を抱き締めた。思いがけない行動に真紅が途惑っていると、翠星石は目を閉じてはっきりした声で言った。
「翠星石には難しい理屈は分かりません。でも、真紅がみんなを倒さないで、チビ苺みたいに動けるままにしておいてくれるなら。そして、アリスゲームが終わって、みんなが楽しく暮らせるなら。翠星石は喜んで真紅の下僕になってやりますよ」
「……翠星石」
 真紅はおずおずと翠星石の背中に腕を回し、そっと抱き締める。
「ありがとう。その言葉だけでも十分だわ」
 ふっと水銀燈の顔に素直な笑みが浮かぶ。三番目の妹と五番目の妹が抱き合う様は珍しかった。そこに嘘がないと思えるのは、美しくもあった。
 その笑みが少しばかり意地の悪いものに変わる。尋ねたいことをこのタイミングで言い出すのは可哀相かもしれないが、面白いと思ってしまう自分が居た。
「二人がもし敵対したら、蒼星石よりも真紅を優先できるの? 貴女は」
 視線の先で、翠星石が抱きかかえている真紅の背中がびくりと動く。だが、翠星石は彼女を抱く腕に少し力を込めただけだった。
「……さあ、それはわかんねえです。翠星石は気まぐれですからね」
 目を閉じたままの翠星石の顔には微笑みが浮かんでいた。
「でも、たとえ蒼星石がすることでも、『今』を壊すことになるなら許せんです。真紅が壊すほうに回ったときは、『今』を守ってくれる人が他に居れば、その人に速攻鞍替えしてやるです。誰も『今』を守ってくれないときが来たら、そのときは──」
 目を開け、視線を上げて水銀燈を見る。少しだけ挑戦的な視線だった。
「──翠星石は、一人でも戦います」
 水銀燈は皮肉に口許を歪めることもなければ、怒りや苛立ちに眉を顰めることもなかった。その様子に少し安心したように息をついて翠星石は言葉を続ける。
「雪華綺晶の細かいことは分かりませんし、そういう頭を使うことは真紅とアンタに任せるです。今は、翠星石は真紅のことを信じて力を貸します。そう決めているのです。それは目的が同じだから、そして、真紅も翠星石の守りたいものの中に入っているからですよ」
 これでいいですか、と翠星石は小さい声で尋ねる。水銀燈は返事の代わりに軽く頷き、腕の中の真紅も小さく息を吐いて翠星石の背中に回した手にきゅっと力を込めた。


「ジュンどうしたの? お顔が赤いのよ」
 ジュンが自分に似たように改造してくれたお気に入りの人形を抱え、後ろに頭一つほども背丈の違うナナを従えて、雛苺は廊下で立ったままのジュンを見上げた。
 ジュンは自分の部屋と物置部屋の中間で、歩いている姿勢のまま固まったような風に立ち竦んでいた。

 先程雛苺がナナを連れて部屋にやってきて、さっぱり要領を得ない紹介をした。ナナ自身の自己紹介もあまり要領を得なかった。ある種の幼さという意味では良いコンビかもしれないが、そのお陰でジュンは結局ローゼンメイデンもどきがまた一体現れたという認識しか持てなかった。
 その後、ジュンからの挨拶もそこそこに、雛苺はナナを連れまわして部屋の中のあれこれに関する講義を始めた。それがまた悉く要領を得ないものだった。
 輪を掛けて悪いことに、雛苺の説明のくどくどしさだけは真紅譲りだった。
 あまりのことに辟易して、彼は足音も立てないようにしてこっそりと部屋を抜け出した。そのまま聞き続けて居たら頭がどうにかなってしまいそうだったが、一々突っ込む気力も失せていた。
 階下に行ってお茶でも飲もう、と思った。思っていた。物置部屋から、翠星石の声が聞こえてくるまでは。
 その内容は、彼を硬直させてしまうのに充分だった。

「……なんでもない」
 ジュンはぎこちなく首を振ったが、部屋をこっそり抜け出されたのを少し根に持っているのか、雛苺は珍しく食い下がった。
「でも、なんだか怖い顔してるのに、お顔赤いのよ。変なのよ」
「なんでもないって言ってるだろ」
 やや乱暴な言い方をしながら、ジュンは照れ隠しのようにひょいと雛苺を抱き上げた。
「うわぉ! ジュンが抱っこしてくれるの、珍しいのよ」
「い……いつも登ってるじゃないかお前。ジュン登りとか言って」
 何故か取り繕うような言い方をして、ジュンは雛苺を肩車するような体勢になった。
「いつもはヒナがお願いしないと抱っこしてくれないのよ。自分から抱っこしてくれるのはとっても珍しいの」
 持ち上げられた肩の上から、雛苺はナナに何故か得意気に解説した。
「そうなんですか?」
 ナナはごく真面目な顔でジュンを見上げ、首を傾げた。
「……違う、いや違わないけどさ、その……け、結果的に抱っこしてやってるのは変わらないだろ」
「騒がしいわね、どうしたっていうのよ」
 しどろもどろな言い訳をしている彼の前に、水銀燈が物置部屋からするりと舞い出てきた。ぎくりとするジュンにナナは疑問を抱いたようだったが、結局何も言わずに、物置部屋から続いて姿を現した二人の方を見てぺこりとお辞儀をした。
 どういうわけか、ジュンの姿を見て翠星石も顔を赤くしている。ナナはますます疑問を深めたように瞬き、ジュンの頭の上では雛苺が同じように盛んに首を捻っていた。
「あら、部屋に居たんじゃなかったの? 流石にマエストロは神出鬼没ねぇ」
 水銀燈はジュンと視線の高さを合わせ、遠慮のない視線でその顔を眺める。聞いてたわね、と言いたそうな笑いを含んだ表情に、ジュンは更に顔を赤くした。
 すっとその耳元に顔を寄せ、水銀燈は人の悪い笑みを浮かべて囁く。
「翠星石と真紅、両手に花ね。どっちも素直じゃないけど。愛されてて良かったじゃないの」
「お、お前だって……自分のマスターとかあのバイク屋の人に好かれてるだろ、素直に甘えればいいじゃないか」
 水銀燈はほんの一瞬だけ笑いを消し、低い声で囁き返す。
「あの媒介は蒼星石のものだし、職人の件なら見当違いよ。お生憎様」
 ばっと翼を伸ばし、水銀燈はたじろいでいるジュンの肩から雛苺をもぎ取るように抱き取る。そのままゆっくりと低空飛行し、ジュンの部屋の前に降り立つと、雛苺はそれでなくても大きな目を真ん丸に見開いた。
「水銀燈も抱っこして飛んでくれたのー! おにのかくらんなのよ。明日は雪と羽根が一緒に降るのよ」
「素直にありがとうって言えないわけぇ? 貴女は。ちょっとこっちに来なさい」
「わー! ナナ助けてぇー」
 水銀燈に引き摺られてジュンの部屋の中に連れて行かれながら、雛苺はナナに一つウィンクしてみせる。ナナは相変わらずよく分からないという顔をしながら、呼ばれるままにジュンの部屋に駆け込んでいった。

 振り返ってそちらを見ながら、嘘吐き、と声には出さずにジュンは思う。

 それは、多分ジュンだけが気付いていることだった。
 誰にも話していないけれども、あの日、帰り際に水銀燈が長身の男に抱きついたところをジュンは見ている。
 そんな大胆なことをした訳も、人形を引き取りに行ったときに同行しなかった理由も、そのときは分からなかった。だが、今はなんとなく見当が付いていた。
 抱きつかれた男もそんな水銀燈を悪くは思っていない。それは彼女が抱いてしまった想いとは全く別の種類の、どちらかと言えば大人が不遇な子供に感じるような好意だ、というのはジュンでも分かるけれども、少なくとも悪感情を持っている訳ではない。
 水銀燈自身は同行しなかったが、完成した人形を引き取りに行ったときには、男は彼女のことを気遣うような、そして明らかに彼女がいないことを残念に思っている素振りをしていた。それはお客に対する儀礼的なものだけではないようにジュンには見えた。
 それでも、いや、そういう好意を向けられているからこそ、いつ消えるか分からない自分が、これ以上彼と深く関わったり、アリスゲームに彼を巻き込む可能性が出てくるような行動を取ってはならない。水銀燈はそんな風に考えているのだろう。
 彼女は、真紅と同じくこの時代でアリスゲームを終わらせるつもりでいる。一昨日の口振りではそれは真紅の言う意味とは違い、彼女自身も死ぬことが前提になっているはずだ。
 その「死」についても彼女の考えは真紅のそれとは違っているのだが、そこまではジュンも知らない。
 ただ、あの男とはこれ以上関わらない、という彼女の意思は確かに感じ取っていた。共感という言葉は大袈裟かもしれないが、少なくともその気持ちはよく分かる気がしている。
 だが、とジュンは思いもするのだ。
 彼女はあまりにストイック過ぎるのではないか。もうそれほど時間が残っていないと思っているならばそれこそ、好きな誰かに甘えるくらい悪くないじゃないか、素直になれよ、と。

 そう考えてしまうことがジュンの限界でもあった。
 水銀燈からすれば、ある種の繋がりはあるとはいえ、初対面の他人に思わず自分の気持ちをぶつけてしまった、それだけでも既に行き過ぎだった。瞬間的に膨れ上がった好意などは、本来なら自分の心の中にだけ留めておくべきことだった。
 別世界の同一人物とはいえ、彼は、彼女の媒介として生まれ変わった男、そのものではない。ただの他人だった。
 それ以上甘えたり、もっと深い関係を持ったりすることは、後に残す人の心に傷を残しかねない。好意を持っている相手だからこそ、そうした傷を与えたくない、というのが水銀燈の思いだった。
 もっとも、ジュンもそういう想いの形もあるということを頭では分かっている。分かっているのだが、それは一種の臆病さとしか思えなかった。
 もしかしたらそれは、恵まれた環境で育ち、いきなり社会から弾き出された過去を持つジュンの感性では理解できない種類の、ある種の不遇さを根元に持っている者特有の哀しいほど優しい思いなのかもしれない。

 いずれにしても、ジュンがつい囁いてしまった言葉を水銀燈は必要以上に悪くも良くも取らなかった。素っ気無い一言ずつの応酬だったが、それはジュンにも伝わっている。
 だから、彼は感傷的にはなっていない。それに、今は水銀燈の色恋に気を取られていられるような状況でもなかった。


 自分の部屋の方を振り向いていたのは数秒ばかりの間だった。向き直ると、そこには顔を赤くしたままの翠星石がいて、その向こうで真紅が階段を下りて行くのが見えた。
 真紅は一度振り返り、ジュンがこちらを見ているのを確認して微笑を浮かべたが、何も言わずにそのまま階下に降りていった。彼女には少々段差の大きな階段を慎重に下りて行く足音が遠ざかり、やがて何処かの部屋のドアが開閉する音が響いた。
 ジュンは一歩翠星石に近付いた。二人の距離は思ったよりも近く、上半身を屈めると、手を伸ばせば翠星石の髪に触れられそうだった。
 手を伸ばしかけ、それを一度引っ込めて、ジュンは体を起こして廊下の壁に背を凭せ掛ける。そのままずるずると腰を落として行き、ぺたんと尻を床につけた。
 翠星石にはそれが、隣に座れという合図に見えた。とことこと彼に歩み寄り、並んで同じように腰を下ろす。
「──話、聞いてたですか」
「……ああ」
 互いに視線を合わすことなく、同じ壁に向いて言葉を交わす。
「思わなかったよ」
「っなな、何をですか」
「お前もそこまで考えてたなんて、さ」
 え、あ、と翠星石は言葉に詰まって意味不明な音声を発した。残念なような、ほっとしたような奇妙な気分だった。

──最後だけでしたか、聞いていたのは……

 大好き、と言ってしまったところは聞かれていなかったのかもしれない。てっきりそこを聞かれたと思っていて、どうしていいか分からなくなっていたのに。
 翠星石にとって、肝心なところはその部分だった。最後に言った、これからのことや真紅に力を貸すなどということは、当たり前過ぎてどうでもいい話だった。
 あんな話でいいなら何度でも言ってやる。録音してテープが擦り切れるまでエンドレスで回しても構わない。自分の考えは変わらないし、恥ずかしいことは何もないのだから。
 大事なのはそんなことではないのだ。しかし……

──たったあれだけの話で顔を赤くして硬直してるとか、なんてチキン野郎なんですか。やっぱりお前はチビ木の持ち主のチビ人間です。

 そう思ってしまうと、何とはなしに腹が立ってくる。
「し、しっつれいしちゃうですよ。翠星石はいつも沈思黙考しているのです。そりゃ、真紅や蒼星石に比べればちょっとは違うかもしれないですけど、似たようなもんだって水銀燈は言ってたし、翠星石もそう思うのです」
「なんだそれ……」
 ジュンははあっと大きな息をついた。その様子に、翠星石はますます腹が立ってくる。
「な、なんですか。なんなんですかその態度は! だいたいジュンはチキン過ぎます! なんであれっぱかしのことで顔真っ赤にして硬直するんですか! 翠星石だって今後のことくらい少しは──」
「──あれくらい、じゃないだろ」
 捲くし立てる翠星石の言葉に被せて、ジュンはまた息をついた。
「そりゃ、お前にはちっぽけな事かもしれないけどさ。いいか、僕にとってはおおごとなんだぞ」
 ジュンは立てた膝を抱くような姿勢になった。
「真紅とお前が敵同士になるかもしれないなんて……」
 翠星石ははっとして、ジュンの顔を見上げる。立っているときや勉強机の椅子に座っているときとは違って、ジュンの顔はとても近くに見えた。
 翠星石は気持ちが凋んでいくのを感じた。気勢が殺がれた、というよりは照れと怒りがすうっと何処かに抜けていくような気がした。
 契約しているドール同士が敵味方になったら、という話にしてはジュンの言葉はいつになく女々しかった。そもそもそういう話で青い顔でなく真っ赤になるのはおかしいのだが、その辺りの事柄は冷静さを完全に欠いてしまっている翠星石の思考からはすっかり抜け落ちていた。
 彼女はまた前を向き、勢いのなくなった声で呟くように言った。
「そうなったら、翠星石の契約は……解除するですよ」

 彼女とジュンの契約は、元々水銀燈に三人纏めて倒されかけた姉妹達を助けるために結んだもので、ジュンが契約の相手になったのはそのときその場に居た唯一の人間だったからに過ぎない。言わばイレギュラーなケースだった。
 元々、翠星石の人工精霊であるスィドリームが蒼星石の人工精霊と共に選んだ契約者は結菱一葉だった。それなのに契約を結ばずに飛び出してしまい、真紅を頼って桜田家に居着いてしまったのは翠星石の我儘なのだ。
 真紅は違う。彼女の人工精霊ホーリエは最初からジュンを契約者に選び、真紅自身も彼を選んだ。
 どちらも正式な契約ではある。それはジュンの指輪が一回り大きくなっていることでも分かることだ。だが、もし真紅と自分のどちらかが契約を解除しなければならないとしたら、それは自分だという認識が翠星石にはあった。
 真紅が契約を結んだときも、ジュンが目の前に生死をちらつかされて必要に迫られて已む無く指輪を嵌めたということは、翠星石はどちらの口からも聞いていない。しかし、もし知っていたとしても考えを変えることはないだろう。それはどちらかと言えば結菱老人と蒼星石に対する負い目のようなものだった。

「でも、それはもし、もしも真紅が翠星石の気に入らない厭なヤツになったり、欲に目が眩んでおかしなことを始めたりした時の話です。真紅がそんな子になることなんてないですよ。だから、安心して──」
「──そんなこと言ってるんじゃない」
 ジュンは怒声というほどではなかったが、少し語気を荒げて彼女の言葉を遮った。
「契約なんて……どっちでもいいんだ。そんなの、大したことじゃない。お前だってそう言ってたじゃないか」
 翠星石は瞬いてジュンを見上げる。ジュンはまた顔を赤くしていた。それは怒りのためだけではないように見えた。
「僕だって、それほど朴念仁じゃないんだぞ」
 言いながら、ジュンは膝にますます赤くなって行く顔を埋めるようにした。そうして、眼鏡の奥の目だけでちらちらと翠星石を見る。
「そりゃ、お前は人形で、僕は人間だけど。でも、ずっと傍にいてギャアギャア煩いお前が、僕のこと……その、あんな言い方されれば、雛苺が言うのと全然別の意味だってことくらい、分からないとでも思うのかよ」
 言うことが次第に支離滅裂になって行くのと比例するように、ジュンの顔も赤くなって行く。それがどういうことを意味しているのか、翠星石にも頬の熱と共にじわじわと分かってきた。
 やはり、ジュンは聞いていたのだ。
 なんと言っていいのか分からず、おずおずと翠星石は尋ねてみる。
「驚いた、です……?」
「驚くに決まってるだろ!」
 翠星石の方に顔を向け、押し殺した声だったが、翠星石がびくりと視線を逸らして俯いてしまうほど激しい調子でジュンは言った。
 性悪人形で、いつもヒネクレてて、抱っこしてくれとか抱きついて来たりとかしたこともなくて、口を開けば悪口ばかり。双子の妹にはデレデレで、うちでは真紅と姉ちゃんにだけ懐いてる。
 そんな奴だと思ってたのに、まさか僕のことを、と。
「好きだ、なんて言われて、お、驚かないわけないじゃないか。しかも……」
 その翠星石が真紅と敵同士に分かれるかもしれない、とその口で言われたのだ。可能性は薄いと言うものの、全く無いわけではない。
「いきなりすぎるじゃないか。どうしたらいいかわかんないのはこっちの方だって──」
「──いきなりじゃないです!」
 翠星石はジュンの言葉を遮った。
「いきなりなんかじゃ、ない、ですよ……」
 言いながら、顔を上げる。真っ赤で、くしゃくしゃに歪んで、大きな瞳の端からは涙がぼろぼろと零れて、その上泣き笑いのような妙な表情だった。

「翠星石はジュンが好きでしたよ。もう何ヶ月も前から、ずっとずっと好きでしたよ。
 でも、そのときには、もうジュンには真紅が居たんです。自分達じゃ気付かない振りしてますけどジュンは真紅が好きで、真紅もジュンのこと大好きなんですよ。見てたらすぐに分かりますよそんなこと。
 翠星石はアリスゲームなんて大っ嫌いですけど、でも私達は最後は戦うように宿命付けられてるんです。だから、どこまで行っても私達は敵同士なんです。で、でもそれなのに翠星石は、蒼星石の次に真紅が好きで、ちびちびの雛苺も嫌いじゃなくて……おまけにジュンのこと、真紅と相思相愛って分かってるのにジュンのこと、大好きなんです。どうしようもないんです。こんなぶっ壊れた気持ち、どうしようもないじゃないですか。
 だから、だからジュンには内緒にしてたのに、ジュンには言わないでおこうと思ってましたのに」

 ぱしっ、と翠星石はジュンの腕を叩いた。力は篭っていないが、何故か常日頃の彼女の怒りに任せた連打よりよほど痛いようにジュンには思えた。
 翠星石は一つ叩いて箍が外れてしまったのか、そのまま立ち上がって膝を抱えた姿勢のままのジュンの身体を叩きつづける。いてっ、とジュンは言ったが、そのまま動かずに彼女の出鱈目な攻撃を受け続けた。
「盗み聞きなんて最低です。オオバカヤローです。出歯亀もいいとこです。この甲斐性なし、ヒキニート、チビ人間……」
 それから暫く、ぽかぽかとあまり力の篭らないままジュンを殴りつけながら、思いつく限りのジュンの悪口を翠星石は並べ立てた。
 振り上げる拳は次第に間遠になっていき、やがて最後の、全く力の入らない手がジュンの袖辺りを叩く。その手を引くと彼女は小さな体を精一杯伸ばしてジュンに縋り付き、肩の辺りに顔を押し付けた。
「……でも、ごめんなさい、やっぱり大好きです、ジュン」
 顔をジュンの服に埋めたまま彼女は半分泣いたような声で言った。
「翠星石の我儘なのも、こんなこと言ってもジュンが困るだけなのも分かってますけど……」
 呟くような声は、くぐもっていたがジュンにはよく聴き取れた。
 ジュンは何と答えていいか分からなかった。ただ、今どうすればいいのかはおほろげに理解していた。
 膝を抱えていた腕を解き、跪いて視線の高さを翠星石と合わせる。小さな少女は、みっともないほど顔をくしゃくしゃにして、それでも色の違う瞳だけは大きく開いて彼を見詰めていた。
 ジュンは正面から、彼の少女をきつく抱き締めた。
 翠星石は素直にジュンの腕の中に収まり、彼の背中に小さな腕を回した。ジュンの抱き方は少々力が入り過ぎだったし、彼の体は彼女が蒼星石にしているような抱き締め方をするには少々大き過ぎたが、暖かくて心地良かった。
「……大好きです」
 もう一度翠星石は繰り返した。ごめんなさい、はもう言わなかった。
 僕もだ、とジュンは囁いた。



 ジュンの部屋のドアは閉められていたが、廊下の物音が完全に聞こえて来ないわけではなかった。翠星石の罵声が始まり、暫くして止むのはよく分かった。
「ドールと人間の恋……しかも二人で同じ契約者をねぇ。これからどうするつもりなんだか。まあ、知ったことじゃないけど」
 そう言いつつ、水銀燈は呆れたように肩を竦めた。ナナが複雑な表情をする横で、雛苺は訳知り顔でふんふんと鼻を鳴らした。
「真紅と翠星石がずっと仲良しならいいのよ。もんだいかいけつなのよ」
「ま、二人とも独占欲が無い聖人なら、それで解決ね」
 流石にそんなことは有り得ないけど、と水銀燈は失笑する。
「どっちかが桜田ジュンに、自分だけを見ていて欲しいって思ったらそこでお仕舞いよ。……遅かれ早かれそうなるでしょうね。薔薇乙女にとって彼はとても魅力的な要素を持っているから」
 そしてこれから、益々魅力的な人物に成長していくのだろう。姉妹達をあしらうのが上手いだけでなく、周囲のものを上手に愛するようになり、服だけでなく自分自身の乙女すら作れるようになり──

──しかし、そのときに彼はそちらの道を選ぶだろうか。

 それは少しだけ面白そうな問い掛けだった。明るく順風満帆であるだけでなく、自分が見届けることはない未来図だと思えるから、余計無責任な立場で考えられる。
「ならないかもしれないのよ」
 屈託の無い声が異議を唱えた。そちらを見ると、雛苺は少しだけ痛快そうにこちらを見ていた。
「その前に誰かがアリスゲームを終わらせれば、二人とも仲違いしないでジュンの永遠の恋人で居られるのよ。そうでしょ?」
 水銀燈は一瞬面食らったような表情になり、それからにやりと笑ってみせる。

 確かに少々意外ではある。しかしそれは雛苺らしく直感的な、そして姉妹の中では既にアリスゲームに勝利するという命題からは解き放たれてしまった雛苺にしか持ち得ない視点のように思えた。
 同時に、その言葉には重大な示唆も含まれている。それは、彼女が翠星石とは違い、真紅の言った希望的な未来像を肯定してはいないということだった。
 無論、雛苺は真紅の下僕という立場ではあるし、何かが起きたときは立場を抜きにしても真紅に全面的に協力するだろう。できることならば、大好きな人達、大好きなこの場をいつまでも守りたいというのは彼女にしても同じなのだ。
 だが、真紅の思い描く楽観的な結末には必ずしも同意しているわけではない。
 誰かがアリスゲームを終わらせ、姉妹全員が物言わぬ人形になってしまえば、ジュンにとっては翠星石も真紅も手の届くところに形骸だけを残した永遠の存在になってしまう。もう逢いたいと思おうが何をしようが取り戻せない、美しい思い出の中だけの、結晶化した恋人となる。
 雛苺は理屈でなく、聞き逃してしまえば何気なく聞こえる一言でそれを示してみせたのだろう。

「名案ねぇ」
 人の悪い笑みを浮かべながらも、水銀燈の口調は素直なものになっていた。現金なものだ、と自分でも思う。
「確かにそれなら永遠になるわ。争いを躱すには良い方法かもしれないわね」
「うん」
 雛苺は気の無い風に肯定し、水銀燈が考えていた方向とは少し別のことを付け加えた。
「ジュンのこと好きなのは、二人だけじゃないもん」
 雛苺は窓の向こうを見るような目つきになった。偶然かもしれないが、その方向には彼女の前の契約者の家がある。もっとも家そのものは他の家並に邪魔されて見えないけれども。
「恋人で終わる方がいいの。ジュンのしょうがいのはんりょは、薔薇乙女なんかじゃない方がいいのよ。ジュンは、お父様じゃないんだから」
 取りようによっては酷く冷たい言葉を、憂いと同情がない混ぜになった表情で雛苺は呟いた。脇で見守っていたナナが息を呑み、水銀燈が意外そうな顔をするほどに大人びた顔だった。
 しかし、その表情はすぐに消えてしまった。ナナがおずおずと手を伸ばすと、雛苺は甘えた声を上げてナナに抱きついた。


 オディール・フォッセーが姿を現したのは、日も大分傾いた時刻になってからだった。
 巴は居らず、のりもまだ帰宅していなかったが、雛苺はジュンと真紅に挟まれるようにして怯えも不安も見せずに座っていた。むしろ、隣室からガラス戸越しに様子を見詰めているナナの方がよほど不安そうだった。
「オディールは雛苺の元契約者のコリンヌ・フォッセーと瓜二つらしいけど、『雛苺』の媒介──ミーディアム、か。その人物とは似ていて?」
「いいえ」
 水銀燈の問い掛けに、ナナはふるふると首を振る。
「夢の中では、彼女は若いときの……『雛苺』を捨ててしまったときのままでした。でも、あの人とは似ていません」
 ふむ、と水銀燈は顎に手を遣った。

 双子の庭師の契約者が──それに、自分の契約者も──全くの別人だったことを考えると、やはり二つの世界の相違点は大きいのかもしれない。
 両方の世界に存在する人物達も、それぞれ異なった部分を持っている。

 今はあまり深く考える余裕はないし、考えたくもないが、ナナの姉妹達がこちらの世界に出現したとして、例えば『真紅』は桜田ジュンをどう思うだろうか。
 彼等の歴史や思考が水銀燈の知る知識のままならば『真紅』は彼女の契約者──ミーディアムと、ほとんど恋愛的な意味合いで相思相愛だった。そして『彼』の方も、ジュンよりもずっとはっきりと、『真紅』を守って行くと腹を据えていた。
 『彼』が神業級の職人としての資質や技術をはっきりと持っていたかどうかは分からない。ぬいぐるみを再生したり、人形の服を修繕することはしていたものの、少なくともあの人形師は特別な契約者であることを否定していたし、その弟子も同様の台詞を放っていた。
 もし資質を持っていなかったとすれば、『彼』は殆ど『真紅』に対する想いだけで『真紅』の砕けた腕──真紅のそれのようにただもがれた訳ではなく、肩関節が破壊され細かな破片が飛び散っていた──を修復し、最後の場面で人形師を呼びつけることまでやってのけたことになる。技術でなく桁外れの想いを持っていた、ということだ。
 彼等の物語としては、その方が似合っている気もする。
 『水銀燈』は製作者への想いだけで動き出した。本来動力源のパワーに耐えられない筈の、弟子の作った人形も、一身に受けたその想いと自らの製作者への想いで、最終的には崩壊してしまうものの都合六つの動力源を取り込むところまでは行った。
 目立って特徴のない、ごく普通の契約者であるはずの『彼』の『真紅』への想いが二度に亙って彼女を再生したというのは、その延長線上にあると考えれば実に平仄の合う話ではある。

 一方、今隣室で、オディール・フォッセーへの慣れない応対をぎくしゃくとこなしている桜田ジュンには、そうした素直な部分がやや欠けているように見える。または自分でそれと認めることを拒んでいるのだろう。
 彼が少なくとも契約者として特殊であり特異なのは、水銀燈にはよく分かっている。彼でなければならない場面というのは今までも幾つかあったし、恐らくアリスゲームの終焉が予定されていたこの時代で、アリスの基礎となるべく調製されてきた真紅の──恐らくは最後の──契約者として選ばれたことがそもそも特殊でもある。
 いや、むしろ彼のパートナーとして真紅が選ばれ、目覚めさせられた、というべきかもしれない。
 彼はマエストロとしての素質は十分でも、最低限の社会への適応を欠いてしまうところだった。それが真紅という不器用ではあるけれども慈愛に溢れた存在を得、どうにか前を向き始めているように見える。
 今後、いつ真紅がジュンの目の前から去ることになってしまっても、彼女が去り際の言動さえ間違わなければ彼は前を見て進んで行ける筈だし、彼女が大きく間違うこともまたないだろう。ゲームの進行者から見れば、それは神業級の職人が世に出ることを可能とすることになる。

 しかし、そんな風に見えない手でがっちりと手厚く保障された、盤上から逃れることのできないゲームの住人に対して『真紅』はどういう視線を送るだろうか。
 ある意味で完璧主義者の『真紅』のことだ。冷ややかな目で見るかもしれないし、あるいは「よく出来たゲームの盤の上で踊らされている可哀想な操り人形」に憐憫の眼差しを向けるのかもしれない。
 それは例えば、関わってしまった者に対して真摯な姿勢でしか臨めなくなる真紅とは対極の位置からの視線だろう。それとも、初めての敗北と目指すものが突然消えるという二つの大きな挫折を経て、真の意味で高慢だった『真紅』の性格も──水銀燈が持っている知識のそれとは──少しは変わっただろうか。

 水銀燈はやれやれと頭を振る。全て、あまり考えることに意味があるとも思えない、果ても見えない憶測だ。
 いずれにしても、姿や立場は酷似していても、二つの世界の住人の間には相違点が多い。それだけは推測でなく確かなことだった。
「とても弱々しくて……折れてしまいそう」
 ナナがぽつりと呟く。ある意味で二つの世界の相違を体現しているような彼女の声で、水銀燈は短い思索から引き戻された。
「確かに操られているか、何かに突き動かされてる感じよね、あの人間」
 ナナは振り向き、こくりと頷いてまた前を向いた。
「自分で考えて歩いているんだと思います。でも、周りを見る気持ちは持てていないみたいです」
 ナナは考え考え、といった調子で慎重に喋る。自分だけの言葉にならないように、ひどく平易な言葉だけを選んでいた。会話そのものを殆どしたことのない彼女には、まだまだ語彙が足りていない。
「意志の力は感じますけど、心が弱っているように見えるんです……」
 上手い言葉が出てこなくてもどかしそうなナナに、当然ね、と水銀燈は自分もまた客間の中を覗き込む。
「雪華綺晶の糧は、薔薇乙女に近しい、近くありたい人間の心。契約して、一定以上に力を与えているか奪われているって証のようなものね」
「心を……」
 ぶるっ、とナナは身を震わせる。相対したときの雪華綺晶のことを思い出したのかもしれない。ただ、そのときのナナはネジの切れた状態だったから、雪華綺晶の具体的な部分については殆ど何も知覚することはできなかったはずだが。
「同じ夢を誘導するにしても、末妹のやり方はむしろ貴女の姉妹が力を振るうときに近い、力ずくのものよ。積極的にフェイクを使い、大規模なときは小さな世界のフェイクを丸ごと作ることもする。自分の望む夢を見させるんだから当然の下準備といえばそこまでだけどね」
 水銀燈は口許を歪めた。そんな異質で、nのフィールドから出ることもできない蜘蛛か蟻地獄のような雪華綺晶だが、それでもやはり彼女の方が、ここで隣に並んで隣室の様子にはらはらしているナナよりも、自分に近い存在なのだ。
 何と言っても雪華綺晶は自分の姉妹であり、同じアリスゲームを戦っている駒同士だった。敵同士、ではあるけれども。
「その分、一旦契約を結んでしまえば契約者にも多大な負担が掛るのでしょう。たとえ、契約者から吸い上げる分など末妹の力の一部に過ぎないとしてもね」
 自分達姉妹は誰でも、契約を結んでしまえば否が応でもその相手を自分に関わらせてしまう。雪華綺晶は行使できる力が大きく、また糧への依存度が大きいだけに、それと気をつけていなければ契約者から無意識に力を搾取してしまうのかもしれない。
 非難する気にも同情する気にもなれないが、不便なものだ、とは思う。

 所詮、薔薇乙女は不完全な存在だ。雪華綺晶以外の姉妹とて人間に依存しなくては行動できないのは同じことだった。他ならぬ水銀燈も含めて。
 彼女達は連続した自己と記憶を保ったまま、nのフィールドを介して世界樹で繋がっている限りの世界を行き来できるものの、世界樹の枝分かれが起きて現実世界が無限に分岐していっても、他の生命のようにその各々の先で繁栄することも許されない。
 その意味で、薔薇乙女達は世界樹の一部としてある生命というよりは世界樹に寄生した虫のようなものだった。
 世界樹の司る生命そのものとは直接関係なく、そこに別個のものとして存在しているから、常に一人ずつしか存在できない。逆に、だからこそ世界樹の上をある程度自由に行き来でき、その表面に限れば多少の工作もできる。
 普段は世界樹の樹液を不器用に吸いながら生かしてもらっているが、契約者という存在を経由して一時的に大量の樹液を吸い上げ、より活発に活動することもできる。そんな存在だった。
 水銀燈は他の姉妹より若干吸い上げる能力が高い、と言えるだろう。契約を結ばなくても人間を媒介として力を行使できる。そして、幾らか自由に世界樹の上を飛び回ることが可能でもある。
 そういうイレギュラーな存在であること自体は、彼女達の殆どにとって、取り立てて重荷にはなっていなかった。
 真紅だけはそこを重要視して自分達の無限に近い孤独に寂しさと諦観に似たものを持っている。また、だからこそ相対的に弱者でありながらアリスゲームを完遂させてアリスという存在を生み出すことに拘りを抱えてもいるようだった。思索や推理を好み、心理学や哲学書を読み耽るのが趣味の彼女らしい考えではある。
 他の姉妹は敢えてそこまで深く考えようとせずに居るか「そういう者として存在してしまっているのだから」という割り切りのようなものを持って生きている。人間がどう足掻いても猫になれないようなもので、ある意味で当然の割り切りではあった。
 ただ水銀燈自身に関して言えば、そういった部分に他の姉妹に比べて試作品的なきらいがあるのが──今は「多少の」と言えるほどに軽くなってはいるが──引け目でもあり、他の姉妹よりもアリスゲームに執着してきた原因の一つでもある。
 試作品の自分が至高の少女となることで皆を見返してやろう、というほど単純明快な心理ではないが、少なくとも彼女は自分がゲームの駒として自立度が高く、それがゲームの上で有利に働くことは自覚していた。アリスゲームは潰し合いだという認識もあったから、有利な部分を生かすことは重要だった。
 この時代で媒介から知識という置き土産を得て、彼女はアリスゲームに対する姿勢を大きく変えた。少なくとも自分ではそう思っている。
 ただ、翠星石のようにゲームを忌避したり、まして軽く見るようになった訳ではない。それまでとはやや別の視点から、大詰めに差し掛かりつつあるはずのゲームそのものの段取りに対してささやかな反抗を始めてみせているつもりだった。

 ふん、と鼻を鳴らして水銀燈は壁に寄り掛った。大分注意力が散漫になっているのか、つい蒼星石のような取り留めない思索をしてしまう。
 隣室の情勢に動きが殆ど無いことも、その原因の一つだった。
 待ちが基本姿勢の真紅と応対にまだ慣れていないジュンは、どちらもオディールの言葉を待っているだけのような状態に水銀燈には見える。それは言葉尻を捉えて自分の言葉を捻じ込もうという抜け目の無いものではなく、雪華綺晶に偽りを見せられている彼女を気の毒がっているのと、彼女の様子を見極めたいという思惑もあるようだった。
 オディールは挨拶を交わしてから雛苺を膝の上に抱き上げ、うっとりと目を閉じているだけのようなものだ。意外にも、雛苺も落ち着いて彼女の腕の中に収まっている。
 雛苺が昨日のように不安定でなくなったのはナナが今朝方見せた夢の影響が大きいのだが、水銀燈はそこまでは知らない。ただ、雛苺が何とか思い出にけりを付けられたのだろうということは察していた。
 二人はぽつりぽつりと言葉は交わしているが、これからの話題やら彼女が騙されているらしいというような重要な事柄ではなかった。断片的に聞こえてくるところでは、恐らく昔話──コリンヌ・フォッセーに係る話題のようだった。それも、出逢いや別れに関するものではなく、ごく些細なものばかりだ。
 ナナは幾分羨望の混じった、何とも言えない表情で二人を見詰めていたが、やがて水銀燈を振り向いた。
「心を吸われ尽くしたら、ミーディアムはどうなってしまうんですか」
 水銀燈はナナの言葉の間違いを訂正しなかった。
「他の姉妹の契約者と同じでしょうね。指輪に取り込まれ、ドールに飲み込まれて消滅する」
 ただ、その前に多分意識を失って行動できなくなるだろう。いや、その前に所謂廃人になってしまい、起きていようが夢を見ていようが同じ状態に陥るのか。
 どちらにしてもそこまで酷い状態にするよりは、さっさと糧として心全体を確保してしまう方が雪華綺晶には得策の筈だ。彼女の糧となれる存在もまた限られているのだから。
「雪華綺晶が途轍も無く窮地に陥っているか、別の糧を確保していなければ、あの人間がそこまで追い詰められることはないでしょうよ」
「そうですか……」
 ナナは安堵したような表情になって、また隣室を覗く。彼女にとっては何の関わり合いもないはずの人物のことを気に懸けているのは、彼女が体内に取り込んだ『雛苺』の動力源のせいなのかもしれない。
 水銀燈はその後姿を眺めてから、翠星石が何やらいい匂いをさせ始めたキッチンの方に視線を向けた。
 つい先程、偶然の後押しがあって漸く自分の気持ちを契約者に伝えることができた、中々素直になれない心の庭師は、今という時間を精一杯謳歌するのだというように、如何にも楽しげに人数分のお茶菓子を作っていた。
 いっそ庭師を辞めて花嫁修業でもすれば良いのに、と無理なことを呟くと、水銀燈は舞い上がってキッチンに向かう。ナナよりは自分の方が多少なりとも翠星石の手伝いにはなるだろう。小奇麗なクッキーよりも、飯盒で作るパンの焼き加減を見る方が得意ではあるのだが。


 ガラス戸越しに見ている冷静な視点とは違い、当のジュンは困惑していた。
 昨日は訳の分からない相手、というイメージしか持てなかった。
 そもそも巴が連れて来た相手だったし、雛苺は終始怯えていて、しかも中途で翠星石が乱入してきた。お陰で彼としてはオディールを半ば敵のようなものとして捉えていればそれで良かった。
 しかし、今日は全く違っていた。心此処に在らずというか、妙にふわふわした印象は同じなのだが、雛苺に柔らかな言葉を掛け、雛苺の方も満更でもなさそうな様子でそれに答えている。
 美しく可愛らしい薔薇乙女と美貌の妙齢の女性ばかりに囲まれている彼が見ても、オディールは何処か浮世離れした、人形のように可愛らしく、美しい少女だった。人形であるはずの薔薇乙女達よりも人間である彼女の方が「人形のように」可愛らしい、というのは本来酷くおかしな話なのだが、ジュンにはそのことを深く考えるだけの余裕もない。
 敢えて言えば、彼は少しあがってしまっているのだった。神業級の職人でもなければ二人の薔薇乙女に愛されている契約者でもない、自分に少し自信のないただの少年が、可愛い少女と向かい合っている状態だった。
 幸か不幸か、可愛い少女は彼の方を殆ど見ていない。夢見るようなぼうっと優しい面持ちで、腕の中に抱いている年の離れた妹のような雛苺とぽつりぽつりと語らっている。それもまた、彼の困惑を大きくしていた。

──これじゃ、とても入り込めないじゃないか。

 元々、彼はオディール・フォッセーに雛苺を渡すのを拒否して、何か文句を言われたら本当のこと──彼女と契約しているのが雛苺でなく雪華綺晶だということ──を告げてやる、程度の気持ちでいた。雛苺の直近のマスターは巴だったし、今は自分がマスターの役目を半分担っている。そこは譲れなかった。
 偽りの情報に惑わされ、フランスから遥々来たことは可哀想だとは思う。しかし雛苺を怯えさせ、弱らせて雪華綺晶の餌にさせる訳には行かないのだ。
 そんな風に自分を恰も正義の味方のように正当化しようとしていたのだが、その意気込みはごくあっさりと裏切られた。オディールは相変わらず物静かで昨日の続きを一向に言い出さないし、雛苺は雛苺で今日は怯えも不安も見せずに彼女の腕の中で昔話を交わしている。
 雛苺を連れ帰る気ならさっさと用件を切り出せばいいじゃないか、と苛々した気分が持ち上がって来る。そうすれば妙な居心地の悪さも感じないでこっちの言い分を突き付けられるのに。
 傍らの真紅をちらりと見る。彼を一番好きな子、と翠星石が言っていた少女は、優しい視線をオディールと雛苺に向けていたが、ちらりとジュンを見上げた。視線が交錯して、真紅は彼を安心させるような微笑を浮かべる。
 その笑顔にどきりとして、ジュンは慌てて視線を逸らした。こんなときなのに頬が赤くなって来るのが自分でも分かってしまう。
 可愛い少女に気後れする、どころの話ではない。彼の隣にも、高飛車で不器用で優しい、しかも彼にだけは可愛いところや弱いところを見せても良いと思うほどに彼を信頼している少女が座っているのだった。
 纏まらない頭のままもう一度オディールを見遣ると、金髪の少女は茫漠とした視線を彼に向けていた。今にも眠りそうに細く開けられた、白目の部分が殆ど見えず蒼い瞳だけがきらきらと輝いている目は幻想的な美しささえ感じさせる。
 ジュンは頭を振ってあらぬ方に視線を向ける。話を始める切っ掛けは、益々掴めそうもないように思えてきた。


 蒼星石は鋏を忙しく動かしながら、ちらちらと傍らに視線を向けている。
 視線の先では少年が相変わらず庭の片付けをやっている。一旦帰宅したものの、誰も家に居なかったからという理由で、彼は一昨日結菱老人と話していた作業に手を付けていた。
 薔薇園の手入れは彼女の日課で、最近はそれを少年が手伝うのも珍しいことではなかったが、それが平日となると初めてだった。
 しかし、蒼星石はそのことに感慨を抱いて気を散らしているわけではない。
 彼女が気にしているのは少年の表情だった。元々──記憶を無くしてからは、だが──彼は考えていることがすぐに顔に出る。あまりそういうところから他人の感情を読むのが得手でない彼女にもよく分かるほどだった。
 今の彼の表情は、不安か疑念を抱えているように見える。
 それを忘れるか拭い去りたくて、誰か他人の居る所で仕事に没頭したかったのではないだろうか。そんな風に彼女は思い、結菱老人に挨拶するのもそこそこに彼が作業を始めても黙って薔薇の手入れを続けていた。
 だが、彼女の見るところでは、彼の疑念と困惑は先程珍しく徒歩で薔薇屋敷に来たときよりも、今の方がむしろ大きく膨らんでいるようだった。

──尋ねてみるべきだろうか。

 そんな風に自問すること自体自分らしくない振る舞いかもしれない、と考えながらも彼女は中々声を掛けられずにいた。少年が長いことそんな顔をしているのは今までになかったことだったし、それは何かの前兆のような気がしていたからだ。
 有体に言ってしまえば、彼女はその件に触れることを怖れていたのだろう。

 結局一時間ほどお互いの仕事をこなした後で、話を切り出してきたのは少年の方だった。蒼星石の作業がひと段落するのを待って、彼は彼女を屋敷の脇の倉庫の方に誘った。
 そこは庭園の手入れをするための道具や用具を置いてある場所だった。少年が使った刈払機も、蒼星石の愛用している軽い脚立も、一日の作業が済めばそこに仕舞う、ごくありきたりな場所ではあった。
「これさ」
 少年が指差したのは、例の刈払機だった。つい一昨日、チップソーを矢鱈に刃の多いものに換えて庭の灌木を伐ったときのままの状態で、壁に立て掛けてある。
「これが、どうかしたのかい」
 機械にこれといって変わったところはなかった。昼に彼女が見たときより少し移動されていることと、一昨日時間がなかったので掃除していなかったのが軽く拭かれたように綺麗になっている程度だ。少年が先程掃除して立て掛け直しただけの話だろう。
 掃除をしたということかな、と尋ねると、少年はうーんと唸ってみせた。彼流の不同意の印だ、というのが蒼星石には分かった。
「そっくりに見えるよな、やっぱり」
 少年はそう言うと、反対側を向いてスチール棚の上に腕を伸ばし、長物を半分ほど引き出してみせた。
 蒼星石は目を見張った。それは、昼に彼女が見たまま、汚れもそのままの、いつもの刈払機だった。彼女は壁に立て掛けてある方の機械に視線を戻し、信じられないと言いたげに口を開いた。
「──雪華綺晶の白薔薇を切った機械が、幻影でなく実体を持っていた……?」

 あのとき、あの場で機械を現出させたのは恐らくナナの力だろうというのは、ナナ本人や水銀燈に改めて説明は求めなかったものの想像が付いていた。ナナがどういう力を持っているかは今朝の雛苺の夢で確認済みだったし、少年が詳細かつ緻密に夢を構成するのはよく分かっている。
 少年のその──一つの異能と言って良いほどに──詳細な構成力に、ナナの力が加わって、刈払機のような複雑なものがそこに現出できたのだろう。
 ただ、それは何処までもnのフィールドの中だけの幻影であるはずだった。実体を持って現実世界に出現するはずはないのだ。
 蒼星石が真紅の右腕の一件をもっとよく知っていれば、真紅の腕が囚われていた鳥籠が少なくとも暫くの間は実体を持って現実世界に現れたことと、この機械が実体を持ったことの関連性を疑ったかもしれない。だが、彼女はその辺りの事情に多少疎かった。
 彼女が閃くように関連を思ったのは、あの黒い翼の人形だった。他の姉妹ほどにはあの人形に関わっていない彼女ではあったが、共通項の多さはすぐに浮かんで来る。

「うん」
 少年はあっさりと頷き、引き出した方の機械をずるずると元の位置に戻すと、蒼星石は知らなかったのか、とやや意外そうに言った。
「うちの風呂場にずっと置いといたのにな」
「気が付かなかったよ」
 蒼星石は苦笑する。自分の鈍感さと共に、そのことを敢えて話そうとしなかった水銀燈の態度にも憤りや猜疑ではない、何か可笑しさに似た感覚を覚えていた。
「僕達は風呂場もトイレも使わないからね。其処は家の中では縁遠い所だ」
 物を食べても便は出さない。水を飲んでも汗はかかない。そんな歪な存在が自分達だ、と蒼星石は思うことがある。それは、少年の作業ツナギが汗で汚れていたり、結菱老人の車椅子をトイレに押して行ったりするときに特に意識することだった。
 ただ、今はそういう情緒的な気分に浸るつもりはなかった。
「そう言われれば、そうだよな……」
 少年は照れたように鼻の頭を指で掻いた。
 彼にしてみれば、水銀燈は毎日のようにユニットバスで髪や身体を洗ったりしているから、蒼星石も起きたら顔を洗いに行き、そのときに当然刈払機も見ていただろうと思っていた、それだけの話だった。しかし、彼女が自分の身体を洗うのは庭園の作業が済んだ後程度だった。
 水銀燈が身体を洗うのは毎晩空を飛んでいるからであり、身体から排出された老廃物を洗い流すためではない。蒼星石が作業の後に顔や手を洗うのと同じ事で、それ以上無理に清潔にする必要はないのだが、そこまでは少年の考えは及ばなかった。
 いずれにしても彼もそのことを深くは追及しなかった。
「まあでも、二つ目が出てきちゃったことは、今はちょっと保留でさ。刃のところをちょっと見て欲しいんだ」
 そう言って、彼は立て掛けてあった方の刈払機を床に置いた。
 蒼星石は作業着の膝を床につき、ブルーの帽子の庇を持ち上げて刈払機の先端に付いている大判のチップソーの刃先を見詰めた。
 刃は新品に近いはずなのに、大分黒く汚れている。改めて見ると、オリジナルの方とは違った汚れ方だということが分かる。nのフィールドの中での、短いが連続した切断作業を物語っているようだった。
「ここから、この辺りまでなんだけどさ」
 少年は指で刃を押さえた。チップソーに何かがこびりついている。木や草の脂や渋、石に削られた跡、そんなものがチップソーに同心円状に付着したり刻まれたりするのは、少年が使った後の機械を見ている蒼星石にもよく分かっている。だが、彼の指先の辺りにこびり付いている物はそのどちらとも違っていた。
「溶けて固まり直したプラかなんかに見えないかい? これ」
「こういうのはあまり見慣れないけど……合成樹脂のようには見えるね」
 蒼星石も彼の指の後に続けてチップソーの表面をなぞる。ざらざらした、というよりはごつごつという表現の方が似合うほど手酷くこびり付いたそれは、妙に油気がなく、そのくせ刃の表面に頑強に噛り付いていた。
「色は……茶色? いや、ベージュかな」
「いや、もっとずっと明るい色だぜ。汚れ落としたら、きっと……」
 少年は、刃をなぞっている小さな手に人差し指を当てた。
「こんな色になる」
 蒼星石は彼を振り向いた。少年は何度か瞬き、深呼吸をするように長い息を吸い、それを吐いてから、彼女と視線を合わせた。
「あのでっかい花に閉じ込められたとき、俺、確かに一度四角く穴を開けたんだ。ちょっと難しかったけど、手応えは軽かった。それに切ったところから外も見えたんだ」

 しかしひととおり穴を開けたはずなのに、四角く切った所は押しても突いても中々外れなかった。よく見直すと切り損なったらしい部分があり、彼はその部分だけもう一度切断し直して、漸く脱出することができたのだった。
 その部分だけは、恐らく材質も異なっていたのだろう。粘り気があって硬いというのか、潅木を伐ったときとはまた異なった「厭な」手応えがあって、足許まで花弁の崩壊が進んでいたこともあって少年は気が気ではなかった。
 幸いなことにその部分は切断方向に対してそれほど長くなく、彼はどうにか花弁が崩壊しきる前に今度こそ切り抜き終え、脱出することに成功した。
 思い返すと他にも不審なことはある。
 それは、硬い部分を切断しているとき、明らかに刃の立てるスキール音やエンジン音だけでなく、何かの叫び声のようなものが聞こえてきたことと、切断しているときにプラスティックか何かが焦げるような厭な臭いが漂っていたことだった。

「まさかとは思うんだけどさ……」
 少年は指を滑らせて、また刃にこびり付いたプラスティックらしいものに触れた。
「あのとき、俺、キラキィを切っちまったのかもしれない。胴体みたいなでっかいところじゃなくて、腕とか、足とか」
 最初に切り終えたはずのところに切り残しがあったというのも、最初に何度か突いたり押したりしても外れなかったのも、雪華綺晶が大薔薇に取り付いてその場所を押さえ込もうとしていたとしたら辻褄が合う。
 蒼星石を払いのけ、大薔薇に向かった後の雪華綺晶が突然消えてしまったように思えるのも、刈払機に何処かを切り落とされてダメージを受けての撤退だと考えれば無理がない。
 蒼星石は首を振った。小さな手を彼の手に重ね、指と指を絡め合わせ、きゅっと握り締める。
 翠星石が見れば、慌てて蒼星石を抱き締めたに違いない。全くの無意識にしたことだったが、それは彼女が不安になったときに翠星石の手にしていた仕草だった。
「しかし、彼女にはそんなことをする理由がない。むしろ、花弁に穴を開けて脱出して来た貴方を白茨で捕獲する方がずっと確実だ」
 雪華綺晶は大薔薇を維持するのに殆ど全力を振り向けていたはずだ。大ダメージを受けたとはいえそれを手放し、邪魔な蒼星石も力の使い過ぎで戦線離脱してしまったのだから、後は悠々と彼を捕獲すれば話は済んでしまう。何も、わざわざ大薔薇そのものに穴を開ける作業を邪魔する必要はない。
「それに彼女の身体は……幻影のはずだ。実体を持っていない彼女は、まず雛苺や水銀燈を、そしてこの間はより彼女に近いものとしてナナのボディを狙った。彼女にとってボディを得たいという欲求は、アリスゲームの遂行や糧の確保と同等に大きいものだ」
 本人もそう言っていた、と蒼星石は殆ど体ごと向き直るようにして彼の瞳を見詰めて抗議してしまう。自分でもよく理由が分からないが、少しだけむきになっていた。
「僕の鋏を受け、貴方に身体の一部分を切断されるような傷を受けた彼女が、何の痕跡も残さずに即座に消え失せたというのも不可解だ。
 それに、もし彼女にボディがあったとしたら、それは──」
 そこまで言って、彼女ははっとして言葉を呑み込んだ。

 雪華綺晶を鋏で力一杯突いたときの、不可解な感触。木でもなければ陶器や金属でも、まして──自分達の身体が今そうなっているような──人肌に似た柔軟な素材でもない。
 それは、殆ど中心までムクでできた、少し柔らかめの合成樹脂か何かのような感触ではなかったのか。
 実際にそんなものを、しかも鋏で突き通したことはなかったから、そのときは不可思議な感触としか思えなかった。だが、そういう材質だと考えれば、意外に深いところまで鋏が入ったことも、蹴り飛ばさなければ鋏が抜けなかったことも説明がつく。
 雪華綺晶の作る幻影には「中身の詰まった」ものがある、と言ったのは翠星石だった。雪華綺晶自身が幻影なのだ、とも。
 ならば、今の彼女はその姿さえ仮のもの──彼女が自在に生成する他の幻影と同じ物──なのだから、むしろ同じように形成していると考える方が自然ではないのか。そして、彼女の作り出す彼女自身の仮ボディにも、時宜に応じて「中身が詰まって」いたとしても不思議はないだろう。
 逆に考えれば「中身が詰まって」おり、その維持にリソースを振り向けており、ある程度以上彼女自身にもダメージがフィードバックする──もしくは、維持そのものに彼女自身の構成要素、場合によっては魂を必要とするほど精緻な──ものであったからこそ、蒼星石の攻撃によって大きなダメージを受けたのだ。
 そして、少年の刈払機によって仮のボディに許容できないほどのダメージを受けてしまった彼女は、ボディを破棄して自分の領域に退却せざるを得なかった。

 仮ボディは、彼女が欲している「本物の」ボディとは当然異なる。彼女自身が糧の心を吸い続けなければ存続できないように、幻影のボディは便利ではあっても、維持していくには常にリソースが必要なのだ。
 むしろ、仮のボディを維持することの不便さが、彼女に他の姉妹のような「本物の」ボディを得たいという欲求を持たせてしまうのかもしれない。
 薔薇乙女達のボディは本来はビスクでありながら、彼女達がその姿を保っている間はまるで人肌のように暖かく、柔らかく、小さな傷は自然に治癒し、経年劣化とも無縁の、まさに神秘の器なのだから。そして当然のように、それを維持することには何等の労力も必要としない。
 しかもそれは薔薇乙女の魂が迷子になり、ローザミスティカさえ失われてもなお継続する。恐らくは人形としてのボディそのものの記憶──それもまた魂と言い換えてもいいのかもしれない──が失われない限り、彼女達の造物主が作り上げた無機の器に掛けられた魔法は機能し続けるのだろう。

「──どうした?」
 急に言葉を止めてしまった蒼星石を、少年が覗き込んだ。彼女は一つ二つかぶりを振り、ごめんと謝った。
「僕の思い込みだった。恐らく、貴方の考えていることは正しいと思う」
 彼を白茨で捕獲する方法を選ばなかった理由は分からないが、ダメージを回復するために時間が欲しかったのか、あるいはその場の何等かの状況がそれを許さなかったのだろう。
 その他は、多分彼の言ったとおりなのだ。雪華綺晶はあの崩壊していく大薔薇に取り付き、そして仮のボディに大ダメージを受けて撤退した。
「そっか」
 少年は一言で済ませた。それ以上の追及や質問はしなかった。彼にしてみれば、蒼星石が何か記憶と情報を突き合わせて推理し直したのだろうと思っただけの話だ。彼自身はそういう推理は苦手だった。
 ただ、いつものように直感で理解していることもあった。
「ま、そんじゃ、この話はおしまい、な」
 空いている方の手を、今は向かい合うようにしてお互い膝をついて座り込んでいる彼女の背中に回す。お揃いの青いツナギ服を着た少女を抱き寄せると、小さな彼女は素直に彼の左肩の辺りに顔を埋めるような恰好になった。
 彼にしてみれば、蒼星石が無意識に抱いている不安や焦燥のようなものを取り除いてやりたいと思ったに過ぎなかった。子供を抱いてあやしてやろうとするのと似たような気分のはずだった。
 ただ、抱き寄せてみると、一昨日のことがフラッシュバックするように思い出されて、彼は思わず小さな少女を抱く腕に力を込めてしまう。
 握り合った蒼星石の手にも力が込められ、彼女の空いている方の手がおずおずと彼の背中を抱いた。

 蒼星石は目を閉じる。肩に強く顔を押し付けられて、彼の鼓動が感じられるような気がした。不安も、こういった勘違いをしたときに現れる自己嫌悪に近い感覚も、一瞬浮かびかけた雪華綺晶への同情に似た思いも、全て静かに収まっていた。
 彼の服は相変わらず汗と草いきれの匂いがする。多分、冬になるまでその匂いのままなのだろう。
 冬の間はどうなのだろう。そして次の春は、夏は、その先は。
 それを、ずっと傍で感じていたいと思うのは高望みが過ぎるだろうか。彼だけでなく、結菱老人と、できれば他の姉妹達と、この薔薇屋敷で。
 アリスゲームが大詰めに差し掛かっているのは、水銀燈の言葉を聞くまでもなく分かっている。七人が揃い、少なくとも一人が脱落し、最も力を持っているはずの一人が追い詰められ、少なくとも二人の姉妹が積極的に動いている。
 だが、それを分かっていても、蒼星石は未来を見ていたかった。無機の器が滅びるまでの半ば無限の未来ではなく、ほんの暫くの、だがゲームの刻限よりは恐らくずっと先の未来だった。
 不思議なことに、彼女はその未来像に、彼と共に成長し、老いて行く自分を当て嵌めていた。
 そんなことは、有り得ない。それは幾つもの時代を渡って来た薔薇乙女達にはよく分かっていることなのに。

「俺って変だよなぁ」
 くすくすと彼は笑う。そこには少しだけ自嘲が含まれているのだが、蒼星石はそれに気付かない振りをした。
「貴方は最初に会ったときから変だったよ」
「あ、そうなんだ」
 彼は他人事のような言い方をする。いや、実際に殆ど他人事だった。彼女に初めて出会ったのは、彼であって彼ではない。そのときの彼は、生前から持っていたという記憶と共に何処かに消えてしまった。
「水銀燈はその頃の変なヤツが好きなんだ。今でも」
 そういう恋は、見果てぬ夢とどう違うのだろう。絶対に届かないはずの想いを抱えて、水銀燈はそれとは全く無関係な、もっと重大な目標に向かって邁進している。
 その先が見えてしまっているから、小さな恋よりもずっと大きな愛憎がそこにあるから、あまり気にならないのだろうか。
「蒼星石も──そうなんだって、知ってるのにさ、俺」
 え、と蒼星石が絶句している間に、彼はやや早口で続けた。
「でも俺さ、君のこと……多分。契約してるわけでもないのにさ、変なんだけど、記憶失くす前の俺が、水銀燈に告白したみたいに、その、なんていうか」
 次第にしどろもどろになっていきながらも、彼はひとつえへんと咳払いをして、どうにか次の言葉を捻り出した。

「好きだ」

 蒼星石はそろそろと息を吐いた。とても重要で、緊張感を伴う言葉のはずなのに、全身が弛緩して行くような感覚がある。
 言われてみると、そんなことは言われるまでもなくずっと前から分かっていたような気がした。それこそ、彼自身が気付くより、ずっと前から。
 彼女は目を開け、彼の顔を見上げる。視線が合い、真っ赤な顔をしている彼に蒼星石は柔らかい表情を向けた。

「僕もだよ」

 ただ、貴方は一つだけ勘違いをしてる、と蒼星石は少し人の悪い笑みを浮かべた。
「僕が好きなのは、記憶を失う前の貴方じゃない。いま、僕に好きだと言ってくれた貴方なんだ」
 言いながら、また目を閉じて蒼星石は少年の肩口に頬ずりした。
 少年はびくりとして、何か意味不明な言葉を口の中で呟いている。それが彼女には少しばかり痛快だった。



[19752] その13 黒鳥(3)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/19 00:45
 のりが帰宅し、前後して巴が心配そうな顔で今日も訪れ、桜田家の客間には先日来の大人数が顔を揃えることになった。
 のりは初めて見るナナを、今までのドール達と同じように暖かく受け容れた。
 素直で引っ込み思案なナナは、見方によっては印象が酷く薄い存在でもあったが、のりはいつものようににっこりと挨拶をすると、おどおどしている彼女を自然な動作で抱き上げて夕食の支度に誘った。

 真紅は微笑んでのりの背中を見送った。
 可愛いからつい、というわけではないのだろう。のりはこれまでも初見の薔薇乙女を思わず抱き締めたりしていたが、いきなり抱き上げて別室に連れて行くようなことは初めてだった。
 こう言ってしまっては何だが、真紅の目から見るとナナの造形には自分達姉妹のような「子供のような愛らしさ」が少し欠けている。それよりも美しさを優先したデザインに思えるのだ。
 美しさ優先というよりは少し設定年齢が高めなのかもしれない。手足が長く頭身も大きく、この時代で出回っているキャスト製のキャラクタードールのように、ジュンと同年代かそれ以降の年齢の少女のような体型と衣装にも見える。
 ともあれ、ナナの場合、そういった特徴は内面とアンバランスでさえあった。のりが彼女の外見だけを見て隣の食堂に連れ去りたいほど気に入った、ということはないはずだ。
 のりが抱いて行ったのは、ナナが何処となく所在なげにしていたためだろう。
 巴が顔を出し、前後して翠星石のお菓子が出来上がって、それまで隣室にいた水銀燈とナナも自然に客間の方に移動することになった。しかし、その場の独特な空気は、一人半ば部外者のナナには居心地が悪いものになってしまっていた。
 彼女には巴のようにその場で雛苺とオディールの話に加わることはできなかったし、それを見ながら忙しく考えを巡らせる真紅や水銀燈のように真剣で重大な思索と推理に没頭することも、やや一線を引いたところで周囲を気にしつつ更に少し照れながらも寄り添うようにしているジュンと翠星石に近寄って行くこともできなかった。
 そんな彼女の気持ちをのりは汲んで、それを表には出さずに自分の領域に誘ったのだろう。

──もう、ジュンにどう接していいのか分からずに困っていたのりではないのね。

 それには真紅の言動も何がしかの効果を与えている。やや突き放したような態度や素っ気無い言葉になってしまっていたが、のりにとっては貴重な助言であり、初めて得た真摯な味方でもあった。
 真紅自身も、自分の助言がジュンやのりを少しなりとも良いほうに向けたことは分かっていたし、それを密かに誇りに思ってもいる。水銀燈が以前言っていたように、僅かな時間を共にするだけの契約者に尽くすことは至高の少女になることとはさして関係のない事柄かもしれないが、それでも彼女はジュンやのりの成長に自分が影響を与えられたことが嬉しかった。
 ただ、一度は微笑んだ表情が少し寂しいものになっていくのを真紅は感じてしまう。
 のりはもう、真紅の助言を必要とはしていない。彼女は優しく暖かいだけでなく、強さも持ったお姉さんになった。
 ジュンにしても、そうだ。彼にとってこれから必要なのは、前に立って少し高いところから助言をくれる存在ではなく、彼と同じ視線の高さで、ときに失敗したり喧嘩しあったりしながら、後ろに回ったり前に立ったりしながら一緒に駆け回ってくれる人に違いない。
 そう、少し視点が高く他人を導いていくような遣り方しかできない真紅ではなく、素直ではなくても自然で等身大の翠星石のような女の子が、これからの彼には似合っている。
 真紅の役目は、確実に一つ終わってしまったのだろう。
 もちろんそれは、薔薇乙女としてアリスゲームに臨む、という視点に立てば余分な事柄ではある。今までならば兎も角、七人の姉妹が全て目覚め、最後の段階に差し掛かっているはずのこの時期には、むしろ歓迎すべきことなのかもしれない。
 それでも真紅は一抹の寂しさを感じてしまうのだ。依然としてジュンとは契約を交わしているし、彼女の助言も折々で必要になってくるのかもしれないけれども。
 その感覚が、言わば失恋のようなものだということに、真紅はまだ気付いてはいない。
 仮に気付いていても、認めたくはなかったかもしれない。それが実は心に入った大きなヒビだということには。


 オディールは相変わらず雛苺を抱いたまま、翠星石の焼いたクッキーにもジュンの淹れた紅茶にも殆ど手を着けずにぽつりぽつりと話をしている。
 変わったところと言えば、話の相手が雛苺だけでなく、他の対象にも時折移るようになったことだ。昔話に水銀燈や真紅が相槌を打ったり意見をしたり、今の話にジュンや巴が少し口を挟んだりすると、オディールは意外にも笑みのようなものを浮かべてそれに一言二言答えるのだった。
 雛苺はオディールと自分が話を交わしているときよりも、むしろ彼女が他の少女達に言葉を掛けているときの方が嬉しそうに笑っていた。妙な話だが、それはまるで真紅がジュンを見守っていたのと同じような、水銀燈が少年の世話を焼いているときと似たような様子でさえあった。
「楽しそうねぇ、お姉ちゃんまで楽しくなっちゃう」
 のりは時折そちらの方を窺いながら、そんな言い方で客間の雰囲気を表現した。ナナは少し首を傾げながら、それでものりの様子にこくりと頷く。
「自分が其処に居なくても、楽しくなることはできるんですね」
「そうよぅ。みんなが楽しい、嬉しいって思ってくれたらいいな、って思いながらご飯を作ったり、お掃除したり、お洗濯するの。そうするとね、自分も楽しくなってきちゃうの」
 のりは幾らか節を着けたような口調で答え、テーブルに丁寧に皿を並べる。少し背が足りないから、と料理の方を見ている翠星石も、ナナを振り向いて講釈を垂れた。
「何かを作るということは、そういうことなのです。受け取る相手が喜んだり、優しい気持ちになったりすることを考えると、自然にこちらも何かを作る元気が湧いて来るのです」
 ナナもそうでしょう、と笑顔で言われて、彼女は返答に困ってしまう。
 彼女はまだ、誰かのために何も生み出したことがない。人形師に命を吹き込まれてからこの方、nのフィールドの中に篭りきりで、他人の手垢の付いた夢をいじり、その人が望むものを幻影として現したり、その幻影に都合の良い言葉や振る舞いをさせたりしていただけだ。
 それらは言わば全部が偽物、オリジナルがあるからこそ作り出せる紛い物に過ぎない。同じ幻影でも、例えば雪華綺晶が創り出すような自由なものでさえなかった。
 纏まらない言葉で、つっかえつっかえそんな説明をすると、おんなじですよ、と翠星石は人差し指を立てて左右に振った。
「幻影でも、お節介でもなんでも同じです。自分の手で自分だけの最高のオリジナルを作ることなんかより、ニセモノや紛い物でいいから、相手のことを思い遣って作ることの方がずぅっと大事なのです。どんなに素晴らしいモノが出来たって、自分しかそれが分からないんじゃ、寂しいを通り越して空しいのです」
 それは、心の庭師である彼女の言葉にしてはあまり感心できない見解だった。たとえ自分ひとりの願望充足に過ぎなくても、それで心の木が健やかに成長するなら、木を育てる役割を担う翠星石としては祝福してしかるべきだった。
 しかし、ナナは素直にはいと答えた。翠星石が出任せの慰めでそう言ったのではないことがなんとなく伝わってきたから、是非はともあれ彼女は嬉しかった。
 翠星石が手招きをして、ナナは彼女に並んでキッチンの踏み台に登った。腕まくりをしてお玉を持ち、ゆっくりとスープの鍋を掻き回す様は小さいながらまるで主婦で、その楽しそうな横顔はとても幸せそうに見えた。
 彼女の幸せは、きっと彼女かジュンの魂がこの世界から消えてしまうまで続くだろう。アリスゲームの終わりが──ナナの姉妹達の『アリスゲーム』のような、最終的な決戦のようなものか、あるいは別の形の終焉が──近付いている、と水銀燈達は言うけれども、翠星石の姿からはどうしてもそうした「終わり」のようなものが感じられない。
 アリスゲームの終焉の後も、彼女の幸せは続いていくのではないだろうか。むしろ、アリスゲームなど些細なことで、彼女の人生はそれを乗り越えて続いて行くのではないだろうか。
 アリスゲームがローザミスティカの奪い合いでないとはいえ、ゲームの終焉の後に彼女達が生きていくのは、有り得ないほど薄い可能性だということは分かっている。だがそれでもそんな思いさえ抱いてしまうほど、今の彼女の姿は生き生きと輝いていた。

──でも……

 ナナは振り返り、食堂の向こうの客間を見遣る。ここからでは中の様子など殆ど見えなかった。
 のりの言う客間の中の楽しさは、翠星石の力強い幸せとは違い、何故か儚いものに思えた。特に、その中心で小さな少女を抱えている金髪の少女は、先程から少しばかり表情に色をつけてはいるものの、その儚さは変わっていないようだった。
 ナナは誰かにそれを伝えるべきなのだろう。だが、隣で鼻歌を歌い始めた、優しさと愛らしさだけでなく強さも持ち始めた少女を含めて、誰に伝えて誰には黙っておくべきなのか、彼女にはそれが未だ見えてこない。
 確実に伝えておきたい相手は蒼星石だった。心の専門家でもある彼女なら、きっと生真面目な顔でナナの懸念を受け止め、そして真剣に対処を検討してくれるだろう。蒼星石も彼女自身の利害で動いているところがあるとはいえ、彼女には何もかも包み隠さずに伝えて良い、とナナは考えていた。
 だが、この場に彼女は居なかった。
 伝える対象は水銀燈でも良いのかもしれない、とは思う。少なくとも彼女はナナには真摯に対応してくれた。だが、何故かそれは躊躇われた。この件に関しては彼女に伝えてはいけないような気がする。
「──どうしました?」
 翠星石の声でナナは現実に引き戻される。慌てて翠星石の方を見てみるが、彼女はナナを見ていなかった。
「雛苺のお客人はお帰りらしいわよ」
 食堂と客間の間のドアを開けて、水銀燈がこちらに声を掛けていた。
 ナナは何度か瞬き、翠星石と食堂ののりを交互に見遣る。二人は同じようにがっかりした顔になっていた。それは裏表も翳りもない、実に素直な表情だった。
 その表情と、こちらを見ている水銀燈の視線に、ナナの心は弱気の虫にまた支配されてしまった。今晩、蒼星石に会いに行こう、そこで話しても遅くないだろうと彼女は自分で自分に言い訳をしてしまった。


 オディールを送っていくのは巴と雛苺、そしてジュンということになった。翠星石は少なからず心配、というよりは半分焼きもちのような態度を隠そうともせず、口を尖らせてみたものの、強く一緒に行きたいとは言わずに四人を送り出した。
 彼女が強く同行を主張しなかったのには訳があった。オディールのホテルの部屋まで雛苺を抱いた巴が同行するという話だったのだが、その後桜田家まで戻っていては帰宅時間が遅くなり過ぎるということで、帰りはジュンが雛苺を抱いて戻ることになったのだ。雛苺に加えて自分まで抱いて歩くのはジュンに負担が掛り過ぎると流石の彼女も認めざるを得なかった。

「しょうがねーですよ」
 玄関で四人を見送った後、翠星石は口を尖らせたまま舌打ちをするという芸当をしてみせた。
「翠星石はいつでもジュンと一緒に居られますから。あの金髪女の送り迎えくらい泣きぼくろ女に譲ってやるです」
「あら、もう恋人気取り?」
「ちっ……ちげーです! なっなんてこと言いやがるですか、しかも真紅が居る前で……」
 けらけらと水銀燈に笑われ、翠星石は真っ赤になってそれを否定する。だが、真紅はやや照れたような顔をしたものの、翠星石に微笑んでみせた。
「そうね、下僕の自由な恋愛を許可した覚えは未だなくてよ」
 言葉の意味を図りかねて翠星石が黙っていると、真紅はもう一度笑って続けた。
「でも、相手が貴女なら安心だわ。これからは浮気されないように気をつけるのよ、翠星石。ああ見えて、ジュンは少し惚れっぽい所があるから」
 翠星石は言葉に詰まる。水銀燈はふんと鼻を鳴らし、ナナは何を言っていいのか分からずに三人を見比べた。だが、真紅は悠然と身を翻し、いつものように本を片手にすたすたと廊下を歩いていくと、食堂の扉を開けた。
「のり、紅茶を入れて頂戴。……そう、ならアッサムでお願いするわ」
 真紅がドアの外からまだキッチンにいたのりに声を掛け、ばたりとドアを閉めるまで、玄関の三人は無言だった。
「明日から大変そうね」
 水銀燈がにやりとする。翠星石は少し大仰に肩を落として大きな溜息をついたが、すぐに顔を上げ、負けないですよ、と拳を握り締めた。
「真紅のご機嫌斜めは今に始まったことじゃありません。ジュンのためにも、こんなことで一々落ち込んでるわけにはいかんのですっ」
「ま、精々気をつけるのね。色恋は蛇の道って言うから」
「へ、ヘビですかー?」
 たちまち勢いが腰砕けになりかける翠星石と、けらけらと笑う水銀燈にくすりと笑みを漏らしてから、ナナは振り返って閉じた扉を見遣った。
 オディールのことがやはり気になっている。彼女の心は弱っているはずなのに、どうして誰もそれに気付かないのだろう、ということも。
 ただ、その話を今切り出すだけの勇気は、ナナにはなかった。和やかな空気を壊してしまうのも怖かったし、何より口に出したら、そのことを誰かがゲームに利用しようとするのではないだろうか、という猜疑心のような臆病さが、彼女を縛り上げてしまっていた。
 ナナは気付いていなかった。彼女の逡巡は元々意味のないものだった。
 水銀燈は、オディールの心が弱っていることも含めて既にある程度今後の展開を予期している。ただ、水銀燈が予測したことが全て正しい訳ではなかったし、彼女が全てを把握して行動できている訳でもないけれども。

 オディールの滞在しているホテルまでは歩いて数十分の道のりがあった。既に暗くなりかけている街路を、巴に抱かれた雛苺を含む四人はオディールのペースでゆっくりと歩いた。
 道に出てから、オディールはまた少しだけ打ち解けたようだった。巴にも少しずつではあるが話し掛けるようになり、ややはっきりとした笑顔も見せるようになっていた。
 相変わらず、雛苺を連れて行くというような話はしなかった。意識して避けているというよりは忘れてでもいるかのように、彼女はふわふわとした印象ながら、柔らかい態度を崩さなかった。
 その姿に、ジュンも当初の緊張が緩んでいるのかもしれない。数歩下がったところで巴とオディールの後姿を眺めながら、頭では別のことをつい考えてしまっている。

──翠星石。

 大好き、と彼女らしく捻くれた態度の後に、彼女らしく素直な声で言ってくれた。きつく抱き締めた後、何度も何度も。それはとても嬉しくて、そして、自分も素直に彼女を好きだと口にした。
 何度か言い合った後で、二人は唇を重ねた。サイズが違うのはジュンの方では気にならなかったし、翠星石も気にしていなかった。
 自分の家の廊下という雰囲気のない場所でお互いに告白して、抱き締めて、唇を重ねるだけのキスをした。
 考えてみればそれだけのことなのだが、まだ余韻が残っている。抱き締めた手にも、重ねた唇にも。

──僕は本当におかしくなってしまったんだな。

 まさか、呪い人形を、それも一番生意気で態度のでかいあいつを、こんなに好きだったなんて。
 翠星石は生きている。生きているけれども、人形だ。人間のように考え、動き、怒り、物を食べ、笑い、自分自身で料理を──モノを──作ることさえ出来る。だが、人間ではない。何処までも人形だった。
 それをジュンは好きになってしまった。いくら契約をして心を通わせている相手だからとはいえ、そういう繋がりとは多分別の、本当に自分と同じ年頃の少女にするような恋愛だった。
 他人がそんな戯言を言っていたら、倒錯も甚だしい、人間は人間を好きになるのが正常だ、とジュンは嘲笑ったかもしれない。だがいざ自分がそういう気持ちを持っていることを認めてしまうと現金なもので、意外なほどそこには差異はないような気がしていた。
 いや、差異を飛び越してしまったのは翠星石の勇気なのかもしれない。ジュンの手を引いて、臆病なくせに目一杯虚勢を張って、目を瞑って飛び越してしまったのだ。
 そのさまを想像して、ジュンはふと、飛び越してしまった垣根の向こうで、じっとこちらを見ている少女も当然のように想像してしまった。

──お前は、こっちに来ないのか。その気になれば、お前の方がずっと軽々と飛び越せるはずなのに。

 その少女はジュンに優しい瞳を向けている。良かったわね、と微笑んで呟いている。
 だが、ジュンはよく知っている。翠星石を好きだという気持ちに気付く前から。
 彼女はジュンを愛してくれている。ただ、翠星石のように思い切りが良くないだけだった。いや、常識を持っているならそれが普通なのだ。

──先に告白されていたら、僕は間違いなくお前に告白していたはずだ。好きだ、じゃなくて、愛しているって。

 言葉の細かい違いは、ジュンにはよく分からない。それでも彼が少女に抱いている気持ちは、多分そちらだと思える。少女がジュンに向けてくれているのも、きっと同じだ。
 少女は多分、諦めたように寂しそうに笑う。
 他の姉妹の前でも、まして他の人間の前でも、もしかしたら今までの契約者の前でも見せなかったかもしれない、それでもジュンと二人の時だけはたまさかに見せてくれる、弱かったり、切なかったり、哀しかったりする表情。それをもっと素直に見せてくれれば。
 だが、それは多分繰言だろう。垣根を飛び越せなかったのは自分も同じだ。そして、飛び越してしまった翠星石を好きになってしまったのも自分の正直な気持ちなのだ。

──それでも、お前を想ってる気持ちに嘘はないからな。

 何故か酷く悔しい気分になりながら、いっぱしの浮気者のような台詞をジュンは思い浮かべる。
 実はその気持ちは、彼が薔薇乙女全員に抱いても不思議ではなく、むしろ彼の立場ではそうあらねばならないはずのスタンスなのだが、今の彼にはそんなことは考えられなかった。
 真紅の方ではそれを分かっていた。だからこそ、ジュンを想いながらも垣根を飛び越すことが出来なかったのだ。しかし、冷静になれない今のジュンにはそれも分からないことだった。

「──雛苺」
 オディールの声に、はっとして顔を上げる。何時の間にか、彼は俯いて殆ど足許を見るようにして歩いていた。
 視線を前に向けると、オディールの滞在しているというホテルはすぐそこに見えていた。
「いらっしゃい」
 オディールは雛苺に手を伸ばした。巴がびくりと身体を強張らせ、ジュンも息を呑む。だが、雛苺は素直に彼女の腕の中に収まった。
「また、明日ね」
 夢見るような声で、オディールは言った。雛苺は彼女の頬に一度ゆっくりと頬ずりをして、巴の腕の中に戻った。
「また明日、伺います」
 オディールはジュンに向き直り、彼の瞳を真っ直ぐ見詰め、これまでになくはっきりとした声で言った。
「雛苺のことは、そのとき──」
 続けてそう言い掛けたとき、不意に彼女はよろめき、ジュンのほうに倒れ込んできた。
「なっ……」
「オディール!」
 ジュンの腕の中に倒れた少女に、雛苺が辺りを憚らない大声で呼び掛ける。しかし、少女は何も答えずにぐったりと崩折れていった。
 周囲の人々が何事かと振り向き始め、通り掛ったお節介な男性が巴に何事かと尋ねる。巴が短く状態を説明すると、彼は慌てて携帯電話を取り出して消防署の番号をコールした。
 次第に騒がしくなって行く人々の中心で、ジュンはただ呆然と、それでもどうにかオディールを支えて立っていた。
 何が起きたのかは分からない。ただ、偶然のはずはなかった。

──雪華綺晶、なんてことをするんだ。

 情緒的な気分は吹き飛んでいた。彼は、まだ名前しか知らない第七ドールが、自分の契約した少女に何か致命的な操作をしたことを疑わなかった。


 ナナはおっかなびっくり、『ベリーベル』に連れられて少年のアパートの風呂場の鏡を通過した。
 薔薇屋敷の古い姿見は、相変わらずぼおっと蒼星石を映し出している。それがこちらの世界の蒼星石ではなく、自分が探している姉妹の姿に見えるのは、きっとナナの気持ちの持ちようのせいだろう。
 そのぼやけた像の脇をすり抜けるようにして現実空間に足を踏み出すと、床は彼女が思っていたよりも少しばかり下の方にあった。わ、と小さな声を上げながら、ナナは無様に前のめりに結菱老人の寝室の床に転がった。
 めげずに起き上がり、きょろきょろと周囲を見回す。大きな寝室は薄暗く、天蓋つきベッドの上に人の気配はなかった。老人と蒼星石はまだ別室で過ごしている時間帯のようだった。
「『ベリーベル』……」
 ふわり、と『雛苺』の人工精霊は彼女の周りを巡って警戒態勢を取る。だが、ナナはそんなことに頓着せず、にっこりと笑って人工精霊に話し掛けた。
「やった、やったよ。わたし、一人で移動できたよ」
 nのフィールドを経由する、現実世界から現実世界への移動。人工精霊に扉を開けて貰ったこととはいえ、nのフィールドだけで生きてきたナナにとって、それは有頂天になれるくらいの快事だった。
「ありがとう『雛苺』。あなたのお陰……」
 自分で自分の胸の奥を抱くようにして、彼女は仮住まいさせている動力源と人工精霊の本来の持ち主に感謝する。はしゃいでみたものの、自分の無力さを思い知っている彼女は敢えてそれを隠そうとは思わなかった。
「さあ、今度は自分の足で探さなくちゃ」
 蒼星石に伝えたい、教えたいことがある。それは、もしかしたら部外者の自分が彼女達のゲームに贔屓をしていることになってしまうかもしれないけれども、蒼星石にだけは伝えておきたかった。

──オディール・フォッセーは、酷く弱ってしまっている。生命力でなく、心が。

 そうなっている理由にも、水銀燈の言葉で見当がついていた。オディールと契約している雪華綺晶が、限界に近いところまで彼女の力を──生命力でなく、心を──吸っているのだ。
 その先に待っているのがオディールの消滅であっても、契約を破棄した雪華綺晶が弱ったオディールを有効活用するために糧として生かし続けることであっても、ナナには黙っていることはできなかった。ただ、完全な部外者である自分が、彼女達のアリスゲームに深く関わるだろうその件に乗り出していく勇気も中々持てなかった。
 少し逡巡したものの、ナナは蒼星石を頼ることにした。彼女は確実に信頼できる、と思ったのだ。
 今晩中に伝えておきたい。明日になれば、オディールはまた桜田ジュンの家を訪ねてしまうかもしれない。そのときの彼女は、もう彼女ではないかもしれない。心の弱った彼女は雪華綺晶の傀儡と化してしまうかもしれないのだ。

 そんな風に勇気を奮い立たせてはみたものの、実際に行動するとなると臆病の虫が騒ぎ出す。彼女は滑稽なほどそろりそろりと鏡の前を離れ、廊下へのドアの方に歩き出した。
 しかしナナにとって幸いなことに、足を使って蒼星石を探す必要はなかった。
 おそるおそる細めに開いていたドアを開けると、そこには魔法のように蒼星石が立っていた。
「こんばんは、ナナ。あまり良い訪問の仕方ではないね」
 驚きで呆然と立ち尽くしてしまったナナを、無人のはずの寝室でおきた物音の正体を確かめるべくやってきた蒼星石は苦笑しながら嗜めた。


 水銀燈がその話を聞いたのは、彼女の唯一の人間の友人からだった。
 仲の良い看護婦が他愛ないが守秘義務に触れるような話をしていったのか、会話を漏れ聞いていて知ったのかは定かでないが、こと入退院に関する限り、めぐの情報はいつも速くて豊富だった。
「ねぇ水銀燈。もう見た? 十階に眠り姫が搬送されたんだって。路上でいきなり眠っちゃったみたいよ。脳波測定してもレム睡眠状態のままなのに、何をしても起きないみたい」
 素敵ねぇ、と呟くめぐは珍しく素直に羨ましそうだった。
「死んで鳥になってやろうと思ってたけど、眠って夢を見続けるのも美しいわね……」
「ずっと眠り続けているのが素晴らしいとは思えないけど。夢を見続けたって、所詮は虚構に過ぎないでしょうに」
 自分で言ってみてから、そうでもないか、と水銀燈は思い直す。
 程度問題なのだ。例えばもう身体を動かすことができなくなり、自分から何も情報を発することできない状態になったとする。それでも意識がこの世の中にあることと、楽しい夢の世界に誘われ、偽りであっても誰かと自由に会話し、走り回れることを比較したら。そのどちらがより「生きている」のだろうか。
 底辺同士の比較には違いない。どちらも到底有意義な時間とは言えまい。だが、少しでもマシな方を選択せよと言われたら、暗黒の現実に臨み続けるよりは夢を見続けて消えていく方が僅かでも幸せではないだろうか。

 ふと、彼女はあの人形師と、その作った七番目のドールを思い浮かべる。
 不老不死、時間を超越する者でさえありながら、彼はひどく人間臭い、俗っぽい思いを持っていた。自ら無力であることを強いた第七ドールに、これ以上ないほど無力になった状態の人間のせめてもの救済を可能とする能力だけを与えた。
 彼は、契約も結べず名前すらない第七ドールに、パンドラの箱の底に残って弱くて震えていたものと同じ役割を期待したのかもしれない。
 それは優しくて甘すぎる幻想にも思えるが、案外彼等には有り得るシナリオにも思えた。それがあっという間に瓦解してしまい、彼が第七ドールを作ったときと真逆の、力のぶつかり合いに自分の理想を託してしまった泥縄ぶりも含めて。

 しかしまぁ、と水銀燈は肩を竦めてみせる。
「そもそも貴女は起きてても寝ていても大して変わんないでしょ、いつでも妄想爆発じゃない」
「ひっどぉい」
 めぐは窓から外を見たまま、満更でも無さそうに笑う。
「でもそれって、言い換えれば眠り続けてもデメリットはないってことよね」
「まあ、そうだけどね」
 窓枠に座り、水銀燈はひらひらと手を振った。
「貴女には例の人形がいるでしょ。ずっと眠ってたら会えないんじゃない? 毎日だいぶ長い時間一緒にいるみたいだけど」
 めぐは笑いを収め、少し低いトーンで答える。
「そうね、ずっと一緒に居ても厭な気分にならないわ。不思議なくらい」
「私とはえらい違いねぇ。やっぱりあの子は貴女にとって天使なのかもね」
 水銀燈はふっと笑ってしまう。めぐがフラットな気分になってしまった理由には思い当たるフシがあった。
 人形への想いが強いから、期待もまた強いのだ。それは水銀燈に対する姿勢とは反対の、あの媒介の知識にあった二人の関係ともまた少しばかり違うものなのだろう。

 水銀燈はめぐとの距離を縮めるのに時間が掛った。漫画の世界を知っているだけに、深入りすべきでないという警戒心も少なからずあったかもしれない。めぐの方でも、水銀燈を「友達として」すんなりと受け容れたものの、それ以上の関係は要求して来なかった。
 余所余所しくなくなってからも、一時期めぐが素っ気無い時期もあったし、突然荒れだしためぐに思い切り物をぶつけられて翼を折ったこともある。媒介から力を奪ってすぐに回復できたとはいえ、そのときは帰宅するのにも酷く苦労するほどだった。
 水銀燈の方も容赦をしてはいない。口論の末に取っ組み合いになり、彼女の弱い肌に血を滲ませたことは何度かある。一度だけだが、捻くれた態度に腹を立ててめぐの手や腕に羽根を刺して怪我をさせ、翌日顔を出したら注射針を入れる良い場所がなくなっためぐが憮然と足の甲から点滴をされていたこともあった。滑稽な姿を思い切り笑ってやったら、最初は怒って枕元の物を投げつけてきためぐも、何時の間にか一緒に笑っていた。
 二人の気の置けない友情は、要するに激しい喧嘩の末に成り立っているようなものだった。
 そのことで契約などせずとも二人の気持ちがぴたりと寄り添っている、などと思うつもりはない。むしろお互いに見えない、分からない部分があるからこそ友達でいられるのだ。

 めぐと人形との関係はそうではなかったらしい。
 最初の日から抱き締めた、とめぐは半ば惚気るように言ってみせたし、凶暴と言っていいはずの人形も彼女の前では大人しくしているようだった。お互いに惹かれあっているから、最後の一線を乗り越えて気持ちをぶつけ合うことがないし、恐らくその必要もないのだろう。
 なんだかんだと言っても、人形はめぐと平仄が合っているのだ。それは理屈でめぐと人形の生い立ちを考えただけでも頷けることだった。お互いに欠損を抱え、孤独で、何処に向かって良いのか分からず、自分を生み出した者からの愛情に飢えた仲。
 無論、水銀燈にもその幾つかは当て嵌まっていた。特にこの時代であの媒介と出会い、知識を譲り受けるまでは。
 皮肉なことに、水銀燈がめぐに接触したのは媒介からの知識を得た後だった。そのときには、水銀燈はもう大きく歪まざるを得なくなっていた。如何にその他の状況が似ていても、二人は媒介が元の世界で読んでいた漫画の世界のように美しい関係にはなれなかった。

 実は、水銀燈がめぐを媒介の知識にあったように愛することができないのには、もう一つ大きな理由がある。
 それはこの時代で目覚める前から存在していた理由であり、媒介の知識にあった漫画の世界と現実の水銀燈との、もしかしたら最大の相違点かもしれない。だが、今のところ水銀燈はそれに気付いていなかった。

「天使ね……」
 めぐは虚ろな笑いを浮かべる。そして、陰口を叩くというよりは恋人の愚痴を言う口調になって続けた。
「あの子、つまんないわ。だって私のこと空に連れて行くんじゃなくて、どうにかして元気にしようって、そればかりなんだもの。隠してるけど分かるの、分かっちゃうのよ。何故かしらね」
 どんなに頑張ったって無理なのに馬鹿な子よ、とあっさり呟くと、めぐは水銀燈の背中に触れた。
「やっぱりこの翼で連れてって欲しいかも。貴女に」
 その言葉の裏にも、出会ってまだ数日なのにめぐが人形を愛してしまっている事実が見え隠れしている。
 本当は手に掛るなら水銀燈の手よりもあの人形のそれの方が良いに違いない。だが同時に、あの人形にはできれば手を汚させたくないのだろう。
 捻くれたことばかり言っているものの、めぐにしても根のところに素直で臆病なところがない訳ではない。汚れ役を任せられるのは愛している相手ではなく、気の置けない友人の方なのだ。
 水銀燈はにやりとし、翼を動かしてめぐの手を追い払った。めぐが芯から望むなら抱きかかえて空を飛んでやってもいいとは思うが、現実的な可否というものが別にある。
「残念だけど重量オーバーね。体重が十ポンド以下になったら聞いてあげてもいいけど」
「冷たいなぁ。それってもう骨になっちゃうわよ?」
「無理なものは無理ってこと。天使と違って、私はヤワなのよ」
 そう言いながら、水銀燈はめぐの顔を見下ろす。上から見る彼女の顔は、残念そうというよりは寂しげだった。
 めぐとは軽口を叩き合うだけの間柄ではあるが、彼女の二律背反のようなものはよく知っているし、直に見て分かってもいる。
 普通に生きたいと思っていてもそれを頭から否定され、刹那的に死を願っても周囲は勝手に死ぬことを許さない。後者は彼女の願望混じりの思い込みなのかもしれないが、それでも彼女が死への願望を口でしか示さない所には、そういった周囲への負い目がくっきりと現れていた。
 本来の彼女は酷く寂しがり屋で、誰かを常に求めている。それは一番元を辿れば父親だったが、その願いが無理だということは良く分かっている。彼女がその代替として待ち望んでいるのは彼女を楽にしてくれる架空の「天使」だった。

 水銀燈が天使と言われたときに即座に否定し、毎日数十分だけの時間制限付きの友達だと自己紹介したのは、媒介から得た知識を持っていたからだった。
「今日まで顔出してた男の子は、時間制限付きの天使の代理人って言ってたわ。いろんなことを教えてくれた。全部役に立たないような事ばかりだったけど。それで、ネタが尽きたから今度は天使の偽物が来たって訳?」
 水銀燈にあまり驚く様子もなく、めぐはそう言って喉の奥でくつくつと笑った。
「彼ね、自分は天使の代理人だけど、相棒に天使の偽物がいるって言ってたのよ。だから、貴女は彼の相棒なんでしょ。それ以外に私のことお見舞いに来るような子がいるわけないもの」
 水銀燈は苦笑した。めぐがそう言いながらある種の期待に満ちた表情をしていたからだ。
 めぐが殆ど毎日媒介に見舞われながら、どちらかと言えば彼自身でなく「天使」を待っていたのは明らかだった。しかし、それを正直に言えるほど彼女は素直ではないのだ。
「ええ、そう。ついでにあいつは今日でお役御免よ。私は引継ぎが終わったから、今日は挨拶に来たって訳。よろしくね、柿崎めぐ」
 そう慇懃に挨拶してみせたときの、めぐの心底残念そうな表情を水銀燈はよく覚えている。
 だが、どんなに哀れな顔をされても水銀燈はめぐの天使にはなれなかった。水銀燈の契約者は別におり、しかも彼女はそちらで殆ど手一杯になりそうだった。そして、実際にそうなってしまった。
 結局水銀燈は名実共に、めぐにとっては時間制限付きの天使の偽物で、遠慮なく口喧嘩ができる友達でしかない。水銀燈から言えばめぐの快復を祈ることはできても、それが無理な相談だということも分かっている。
 恐らくどちらかが死ねば残った方は遠慮なく涙を流すだろう。だが、逆に言えばそこまでの関係だった。
 それでも、二人はお互いにとって親しい友人であり、幾許かの慰めにはなっている。水銀燈はそういう関係も悪くないと思っていたし、めぐも、不満はあるだろうが少なくとも彼女を拒絶はしていなかった。

「そうねぇ……」
 水銀燈は顎に手を当てて考える。
「確かに夢の中でなら、飛べないことはないわね。墜落とかのリスク無しで」
 それを所詮無理な絵空事だ、と夢の中でめぐが冷めた考えを持ってしまっても、彼女が願望を持っているならある程度までではあるが楽しい方向に夢を誘導できる。水銀燈自身がやるのでは不確かな手作業になってしまうが、それを能力として持っている存在が、水銀燈のすぐ身近にいる。
 めぐは水銀燈の言葉に、我が意を得たりというような顔をしてみせた。
「ほら、やっぱり眠り続ける方が得じゃない。やっぱり眠るわ、私。それで、肉体はゆっくり衰弱して死んでいくけど、夢を見続けているから命が途絶えるまでずっと元気に空を飛び回ってるの。どう?」
 両手を鳥の羽のように広げ、鬼の首を取ったようにはしゃぐめぐに、はいはい、と水銀燈は手を振る。
「そんなに言うなら、空を飛ぶ夢でも見てみる? ただ、普通に目は覚めるわよ。──そうしなけりゃ私の方が天使に殺されてしまうもの。あの人形と遣り合ったらこっちに勝ち目はないんだから」
 言葉に若干の皮肉を交えてみたが、今のめぐには通じなかったようだった。彼女は顔を輝かせ、口調だけは勿体ぶって水銀燈の方に身を乗り出した。
「……そうね、水銀燈がそう言うなら見てあげないこともないわ」
 水銀燈は彼女の表情と口振りの分かりやすいギャップに思わず吹き出してしまった。それはいつもの、態度そのものからシニカルなキャラクターを作っているめぐとは思えないほどの、しかし相変わらず捻くれた反応だった。
 全くもって、水銀燈の友人は素直ではない。まるで水銀燈自身と同じように。
「それなら、大人しく待っていなさい。私の都合じゃないから確約はできないけど、早ければ今日にでも見せてあげられるわ。貴女の望んでいる楽しい夢をね」
 わざと子供をあやすような言い方で告げてやると、めぐはわざとらしく子供のように素直な声で、はぁい、と返事をしてみせた。


 ひととおり、相変わらずあまり要領を得ないナナの説明を聞いてから、蒼星石は軽く顎を引いた。
「彼女の心の木を見てみたいな。そうすれば、君の懸念が当たっているかどうか確認できる」
 場所はわかるかい、と尋ねられて、ナナは困惑して首を振った。彼女が辛うじて追えるのは夢の世界の扉だけで、心の木の在り処までは探索できない。
 蒼星石は若干残念そうな顔になった。
「心がそれほど弱っているなら、心の木にも少なからず影響が出ているはずだ。それに、雪華綺晶に吸われかけているなら焼け石に水かもしれないが、弱った心の木に僕の鋏と翠星石の如雨露を使うことで状況を好転させることができるかもしれない」
 ナナはごめんなさいと俯いたが、その反面で安堵も感じていた。蒼星石の返事は、どちらかと言えばアリスゲームに関わる意見ではなく、心の庭師としての言葉だった。

──この人に話してよかった。

 ナナは水銀燈を嫌ってはいないし、彼女がアリスゲームしか見ていないなどと言うつもりもない。水銀燈は彼女自身のゲームとは無関係なナナを救ってくれたし、恐らく目標を与えるために『雛苺』のローザミスティカを託してくれた。
 しかし、水銀燈がアリスゲームのために常に努力しており、ときには──雪華綺晶にしているように──恨み辛みのない相手に対しても非情に、そして執拗に追い詰めることができることも事実だった。
 水銀燈にナナの懸念を伝えても、水銀燈がその情報でオディールを救おうとしてくれるのかは分からない。いや、多分彼女は自分にとって最も有利なように状況を使うだろう。それは彼女の、ゲームに対する真摯さの負の部分でもあった。
 それを非難するつもりは全くない。形は違うとはいえ『アリスゲーム』、いや『アリス』そのものから逃げ回り続けていたナナには、批判できる資格すらない。だが、そのことと消えてしまいそうなほど弱っているオディールを目の前にしてしまった気持ちはまた別の話だった。

 蒼星石は視線を斜め下に向けて暫く考えていたが、やがて顔を上げ、方法は幾つかある、と呟いた。
「例えば夢の世界から心の木を辿る方法もある。ただし、オディール・フォッセーが夢を見ているのであれば、雪華綺晶は彼女を夢の中から操っていることになるだろう。その場合、僕達が彼女の夢に入ればあの末妹と接触する可能性も高い……」
 蒼星石は真っ直ぐにナナを見詰めた。会えば戦いになるのは目に見えている、それでもやれるかい、という視線だった。

 ナナは気圧されるようにびくりと背を伸ばしたが、どうにか頷いた。蒼星石の指摘は当然だった。彼女とナナがしようとしていることは、恐らく明確に雪華綺晶への妨害行為なのだから。
 まだ自分はまともに見たことがない、ただ圧倒的な力だけはひしひしと伝わってきた、この世界の第七ドール。それは自分というよりも、薔薇水晶に近い存在に思えていた。力と渇望を共に抱え、知恵と狡猾さを併せ持った存在。決して羨ましくはないけれども、怖かった。
 弱気の虫はまた頭をもたげて来ている。しかし、今の自分には力がある、という認識が彼女を後押ししてくれていた。ミーディアムは居ないけれども、それでも『雛苺』の持っていた力は使えるはずだ。
 それに、もしかしたら雪華綺晶と接触するというのは蒼星石の危惧に過ぎないかもしれない。もっと楽観的な見方をすれば、オディールが弱っているのは雪華綺晶のせいではなくて、彼女自身が困っている可能性だって、全くないとは言い切れない。
 頑張れば、出来る。ナナはぎゅっと拳を作り、握り締めた。

「君の決意は分かった。夢に入るときは一緒に連れて行くよ」
 大分気負ってしまった様子のナナに、蒼星石は頷きながらも嗜めるような視線を投げた。まだ話は終わっていなかった。
「しかし、それには一つ前提条件があるのを忘れてはいけない。彼女が夢を見ている、ということだ」
 たとえ一見して夢見ているような状態だとしても、蒼星石が夢の扉を開くことができなければ、そこから直に彼女の心に入るわけにはいかない。
 精神が完全に何かに囚われたり、自分から強固に閉じこもってしまえば、夢の扉は閉じてしまう。そればかりか開けることもできなくなる。蒼星石は断片的に知っているだけだが、水銀燈の媒介の記憶の中ではジュンがその状態になってしまったことがあったはずだ。
 当然ながら雪華綺晶が糧として確保した契約者達もまた、そういう状態になっている。
 雪華綺晶が糧に見せる「夢」と、双子の庭師が入っていくことができる「夢」には、その点で大きな違いがある。前者は精神を切り離されて雪華綺晶の虜にされた状態であり、後者はあくまで本人がその場で見ているだけのものだった。
 ともあれ、他の姉妹だけでなく、夢の扉を開けることができる翠星石すらオディールが夢見ていると感じなかったということは、彼女は「夢見るような状態」ではあっても、夢を見ているわけではない。
 雪華綺晶はオディール・フォッセーを夢から操っているのではなく、既に精神を半ば虜にしてしまっているのだろう。契約さえ交わしているのだから、それはむしろ当然のことだ。

「それじゃ、どうしようも……」
 ナナの気分は急速に凋んでいく。何もできそうにないのも残念だったが、蒼星石の一言で勝手に勢い込んでしまったことも恥ずかしかった。
 浮き沈みの激しいナナに、蒼星石は苦笑してしまう。
 ただ、可笑しさを感じている訳ではない。
 いつも曖昧で他人に流されているような印象のナナがここまで強い感情を露わにしているのは、裏返せば彼女がオディールの心について真剣に考えているということの証でもあった。『蒼星石』と『雛苺』の魂を探すという彼女の目的にも、彼女自身の『アリスゲーム』にも無関係な少女を、彼女は本気で心配している。
 多分に頼りなく、専門の分野はごく狭いけれども、ナナもまた心の専門家の一人ではあるのだ。それも、心と生命力の弱ってしまった者を対象としている。
 今のオディールは、彼女の専門分野の対象と言えなくもなかった。ナナが必要以上に気に掛けていることには、そういった要因もあるのだろう。
「いや、もっと確実な方法はある」
 蒼星石は『ベリーベル』に手を差し伸べた。人工精霊はすっと彼女に近寄り、検分するようにくるりとその周囲を一周してからナナの後ろに控える。ベリーベルよりは幾分よく教育されているようだった。
「心当たりがあるんだ、オディール・フォッセーの心の木の在り処を知っている人物に」
 ナナを宥めるようにそう言いながら、蒼星石は自分の方がつい嬉しくない顔になってしまうのを止められなかった。
「その人に案内を頼めば、夢を経由しなくても彼女の心の木を確認することは可能だろう」
 ナナは左目をぱちぱちと瞬いた。
 おや、と蒼星石は僅かに首を傾げる。
 よく見ると、ナナが瞬くたびにアイパッチの下の瞼がかすかに動いているのが分かる。彼女の右目は雪華綺晶のように最初から無いのではなく、一旦作りつけたものをわざと薄いパッチを当てて隠しているようだった。
「水銀燈……さん、ですか」
 おずおずと、ナナは尋ねて来た。知っているなら彼女だろう、と予想していたような雰囲気だった。
 蒼星石は表情を引き締めて頷く。ナナが一番身近に居たはずの水銀燈に話をせず、自分のところに相談に来た理由が分かるような気がした。
「彼女はずっと雪華綺晶とオディール・フォッセーを追っていた。知っているなら彼女しかいない」
 蒼星石も、水銀燈にこの話を持って行くのは気が進まないのは同じだった。その理由も恐らく同じだ。
 蒼星石が水銀燈を好きでないのは事実だが、決して毛嫌いしているわけではない。評価していないわけでもない。彼女のアリスゲームに対する真摯な姿勢と、雪華綺晶の隙を窺っていた経緯を知っているから、躊躇ってしまうのだ。
 恐らく、水銀燈は何等かの形でこの機を利用するはずだ。そして、アリスゲームは大きく動くだろう。

──だが、時間がある場合なら兎も角、今は水銀燈に助太刀を頼むしかないだろう。

 あるいは事情だけを水銀燈に知らせ、助力を得ることはできないという破目になるかもしれない。それでも──

「──あら、ナナもいたの」
 二人が振り返ると、その視線の先には水銀燈が居た。
「二人揃ってるなら都合がいいわ。頼み事があるのよ。大したことじゃないんだけど」
 水銀燈は肩を竦めながら、屈託の無い声で言った。
 蒼星石は息をゆっくりと吐き、ナナと顔を見合わせる。ナナは困惑した顔で瞬いたが、首を振ったりはしなかった。
「丁度いい。僕達も、君に頼み事がある。君にとっては大したことでもないし、時間もさほど掛らないことだ」
「あら、そう」
 水銀燈は二人を交互に眺め、何かを了解したような表情になって、それでもさりげない風に頷いてみせた。
「じゃ、おあいこって訳ね。いいでしょう、貸し借りなしってことにしとくわ」
「ありがとう、と言っていいのかどうかは微妙だけど、それで構わない」
 蒼星石は慎重に言ったが、内心では水銀燈に頭を下げていた。恐らく、彼女はこちらの用件を殆ど看破しているのだろう。
 急に今までの遣り取りが馬鹿馬鹿しく思えてくる。今回のことも、水銀燈はいつものように「たまたま知っている」のではないか。だとしたら、ナナの葛藤も、蒼星石の逡巡も殆ど意味がない。
「ただ、僕達の用件から済ませて貰っていいかな? どうせ、現実時間では三十分と掛らないから」
「いいわよ」
 水銀燈はにやりとした。
「それで、用件は何かしら。特に準備は必要なさそうだけど」
 蒼星石は軽く頷き、自分の頼み事をごく事務的な口調で伝えた。水銀燈は特に感情の動きをみせることもなく、了解したという風にただ頷いてみせた。



[19752] その14 黒鳥(4)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea7b6d8
Date: 2011/01/19 00:46
 オディールは大学病院の十階に緊急入院することになった。
 身元、と言われると詳しいことは知らなかったものの、彼女が持ち歩いていたパスポートから大使館を通じて照会してもらえることになった。事情を上手く話せないジュン自身も、話の聞き手の大人達から見れば気が動転しているように見えたのだろう。
 その代わり、オディールの応急処置やら病室までの搬送にはジュンと巴は全く立ち会えなかった。病室に入ってから眠っている顔を見ただけで、早々にそこを出るしかなかった。
 できれば暫く附いていてやるべきなのかもしれない。しかし巴は両親の手前できるだけ早く帰宅しなければならなかったし、雛苺を抱いていることもあってジュンもあまり長居はしたくなかった。
 雛苺が不審がられなかったのは、泣きながら舌足らずにオディールの名前を呼ぶ彼女が人形というよりは小さな子供に見えたからだろう。それでも、もし知り合いに見付かってしまったら後々厄介なことになりかねなかった。
 それに、ジュンにはオディールの状況について見当もついていた。
 身体のケアは病院に任せればいい。緊急患者ともなれば可能な限りの手は尽くしてくれるだろう。だが、彼女の心はそうは行かないのだ。

──雪華綺晶。やってくれたな。

 まだ本人と相対したことがないだけに、ジュンの中では話に聞く第七ドールが真紅達の姉妹の一人というよりも特異な習性を持つ敵、あるいは悪として認識されてしまっている。
 元々彼は初見の薔薇乙女達に対して、同じ契約者であっても、みつや水銀燈の媒介である栃沢少年のようにフラットな視点からは見ることができない。それは彼の性格の問題もあったし、最初に契約を交わした真紅が繰り返し水銀燈に襲われ続け、しまいには腕までもがれたという経験から来るものでもあった。
 その後水銀燈は蒼星石との戦いで態度を急変させ、蒼星石も敵対しなくなったが、今度は栃沢少年の夢の中で新たな──そして桁違いに強力な──人形と戦う破目になった。何度となく繰り返されたその形は、ジュンの中で一種の先入観のようなものを作り上げてもいた。
 彼等の現実世界が、元々は水銀燈の媒介の読んだ漫画のように進むはずだったとすれば、彼は本来進むはずだった方向からも少し外れてしまっていると言えるかもしれない。様々な小さな影響の積み重ねの結果、彼は自分の周囲の薔薇乙女達と概ね均等な距離を保つのではなく、そのうち三人をはっきりと特別な存在として意識してしまっている。
 翠星石とは自分達の気持ちを確かめ合った。真紅については言うまでもない。そして──雪華綺晶は、はっきりと「敵」だった。

 病院の玄関で巴と別れてからも、雛苺はまだぐずり続けている。その小さな体を巴がしているようにぎゅっと抱き締め、自宅への道を辿り始めたところで、意外なところから声が掛った。
「桜田君か」
 大きなスクーターが一旦追い越していって引き返して来た、と思っていたら、ジュンの脇で停まった。
「どう、容態は……って、良くないか」
 エンジンを切り、ヘルメットを脱いでこちらを見たのは、オディールを病院に搬送するときに電話を掛けてくれたお節介な男だった。他は精々が野次馬だった中、彼は通報の後も救急車が到着するまで附いていてくれた。
 ただ、男がそこを通り掛ったのは偶然かもしれないが、彼自身にはそうしてもおかしくない理由もあるにはあった。
 彼は、ジュンとは既に二度ばかり面識があった。あの人形の胴部のパーツを作った人物だった。
「安定はしてるみたいですけど……その」
 ジュンは口篭もった。相手にはジュンに関わってくる理由があっても、ジュンの方ではどう対処していいのか混乱してしまう。それを簡単に拒絶できるほどジュンは強くなかったし、世慣れてもいなかった。
 男に借りがある、という点も困ったものだった。金額的には耳を揃えて返済できない額ではないものの、彼が代金を受け取らなかったのがそういう問題でないことは知っている。
 その上、こういう性格の人物は彼の一番苦手とするタイプでもあった。こちらが手を払ったくらいではめげずに執拗に手を差し伸べてくるはずだ。
 ジュンから見れば、鬱陶しいと言ってしまってよい存在だった。この手の人々が他人に手を差し伸べるのは、実際に必要とされているかどうかはあまり問題でなく、要は自分の虚栄心が満たされればそれで良いのだ、と彼は思っている。
 それは必ずしも間違った考えではないのだが、彼らしく斜に構えた物の見方でもあった。
 少なくとも、この場でこの男に抱いた考えとしては適当ではなかった。
「そうか……大変だけど、めげんなよ。安定してるなら、いずれ快復するさ」
 ジュンの曖昧な態度をオディールを心配してのものと取ったのか、男は僅かに顔を引き締めるようにして顎を引いた。それからわざと大きな表情を作りながらスクーターを降り、ぐずるのを止めて男を見上げている雛苺に笑い掛け、軽い調子で二人に言った。
「どうだい、何なら家まで送ってくけど」
 男が見たところ、二人は実に危うかった。ジュンは何か思い詰めたような表情だし、雛苺は泣いている。そのまま徒歩で帰宅したら中途で事故に遭いかねないように思えた。
 雛苺はぱちぱちと瞬き、ジュンと顔を見合わせた後、ジュンが男に断りの返事を言うより前にこくりと頷いた。


「これは……」
 想像していたよりも無惨な状況に、それを一見しただけで蒼星石は厳しい顔になった。
「酷くなったものね」
 案内してきた水銀燈も首を振る。
「見付けた時は、それでも一応育ちかけていたんだけど」
 実際に心の木を見るのは初めてのナナが見ても、その木は……木と呼んでいいのならば、随分歪なものだった。
 大きな枯死した木の根元に、半ば寄生するように生えたそれは、枯れた木の幹に寄り添うように細い幹をひょろりと伸ばし、枯れた木の枝振りの間を辛うじて縫うようにしてか細い枝を広げようとしているように見える。
 だが、そこには既にがっちりと、根元からその枝の末端に至るまで白い茨の蔓が巻きついている。遠目にはまるで白い蔓自体が木のようにさえ見えるほどだった。
 その白茨も、決して華々しく繁茂しているという印象ではない。木の養分を吸い上げるのに必死なのは分かるが、木そのものに成り代わろうとするかのように枝葉を覆ってしまったために、肝心の養分を供給する心の木がまともに光を浴びることすらできていない。
「このままでは、この木はもう育てない。生かすも殺すも、今後の茨の生育具合だ」
 蒼星石は厳しい顔のままナナを見遣る。
「君の言うとおりだ。雪華綺晶は自分自身の契約者を、半ば糧にしてしまったのだろう」
 更に表情を厳しくして、水銀燈に視線を転じる。水銀燈は瞬きもせずそれを受け止めた。
 この状況を招いたのが雪華綺晶だということは心の木に絡みついているものを見れば一目瞭然だったが、白茨がこの木に寄生するのを黙認したのは水銀燈だった。いや、誘導したと言ってもいい。雪華綺晶がここまで追い込まれるように手を打ってきたのも水銀燈なのだから。
 暫く二人は無言で睨み合うような姿勢を続ける。とはいえ、眦を決して見詰めているのは蒼星石で、水銀燈はそれを受け止めているだけだった。
 やがて、水銀燈の視線は更にやや弱められる。決して気弱になったからではなく、それはまるで怒りに身を任せそうな蒼星石の方を慮っているような表情だった。

 蒼星石は唇を噛んで俯いた。
 他の姉妹と違い、雪華綺晶は誰かの心から養分を吸い上げることしかできない。既にオディールを糧としているのでなければ、それが極端に走ってしまったのがこの状態なのだろう。
 彼女達は水銀燈の媒介から譲り受けた知識の中ではその様を実際に見たことはなかった。しかし心の木からの視点で見れば、あの世界ではオディールだけでなく結菱老人も、あるいは柿崎めぐも、この木のように白茨を絡みつかせたまま眠っていたはずだ。
 水銀燈は、自分の手の届く範囲──自分の知り合った者と姉妹の契約者だけは、雪華綺晶の手から守った。オディールはその中には入っていなかった。
 オディールまで手を伸ばすことができなかった、というのは分かる。水銀燈は多忙を極めていたし、順序からすれば自分により近い者から守りたいのは誰でも同じだ。
 無論そこには打算もあっただろうし、どの道雪華綺晶と契約する者ならば死の危険を冒させても構わないという冷たい見切りもあっただろう。水銀燈自身、それを肯定するような内容を話していた。
 しかし、蒼星石が唇を噛んで黙ったのは、そういった冷徹な──ある意味で冷酷な──一面に水銀燈の厳しさを改めて思い知らされたからではなかった。
 自分を含む姉妹達がそれを黙認したことも、あるいは知ろうともしなかったことも、理由ではなかった。

──そうだ。この場の全員に、原因は等しくある。

 今なら、昨晩の疑問のもう一つの答えが分かる。
 最終的に彼女は、雪華綺晶を信じたか、試したのだ。最後の一人を残しておくことで、水銀燈は雪華綺晶に考える時間を与えた。あるいは、ある程度雪華綺晶の倫理観に期待したのだろう。
 ただ、雪華綺晶は恐らく水銀燈の期待どおりには動かなかった。如何なる理由か、彼女は雛苺との契約だと偽ってオディールと契約を交わし、しかし同時に、殆ど糧と同然に心を吸い続けている。
 いや、この状態では、既に糧としてしまっているのかもしれない。それほどオディールの心の木は弱っている。
 どれだけ困窮しているかは分からないが、やはり雪華綺晶は契約者を自分の生存のための糧の一種としか見ていないようだった。契約者に対して従順で服従することを是とする蒼星石とは反対の考え方ではある。ただし、それは生きて行くために常に糧を必要とする雪華綺晶にしか分からない感覚かもしれない。
 そこまで雪華綺晶が追い込まれた理由が、先日のナナと少年の捕獲失敗にあるのだとしたら、間接的にこの状態を招いたのは蒼星石自身とも言える。彼女は雪華綺晶に大きなダメージを与えたのだから。
 同じことはナナにも言える。彼女がこのタイミングでこの世界に現れなければ、雪華綺晶が彼女を狙うこともなかったかもしれないし、仮に狙ったとしたら、ほんの少しタイミングがずれていれば待ち伏せが成功して、雪華綺晶はボディを労せずして手に入れていただろう。それを乗っ取ったときどういう結末が待っていたかはまた別の話として。
 皆──この場に姿を見せてはいない雪華綺晶本人も含めて──自分のことで手一杯だった。その皺寄せが、最も弱い者に行ってしまった。

「──もう、助けられないんですか?」
 ナナの声で蒼星石は視線を上げる。
 彼女はそろそろと手を伸ばし、オディールの木ではなく白茨の方を握って両手で引っ張ってみていたが、自分の腕力でどうにかなる代物ではないと分かったのか、振り向いて蒼星石と水銀燈に縋るような視線を向けていた。
「直接の力技では無理ね」
 水銀燈はあっさりと白旗を揚げた。ナナはそれでも、というように蒼星石の方に体ごと向き直る。
「庭師の鋏でも……ですか?」
 水銀燈は眉を顰め、腕を組んでナナを見遣る。何か誤解しているのを嗜めるような視線だった。
「貴女、それがどういうことを──」
「──そうだね、やってみよう」
 蒼星石は水銀燈を左手で制し、レンピカを呼ぶ。特に命じられることもなく、レンピカは彼女の得物を召喚した。
「蒼星石、止めなさい」
「水銀燈、僕は冷酷なのかもしれない。自分でも思っていなかったほどに」
 鋏を両手で握りながら、蒼星石は振り向かずに平坦な声で言った。
「自分の契約者の言葉で、無関係な女性を殺そうとした。君の言葉で、君の契約者を殺そうとした。今は自分の意思で、姉妹の命脈を絶つのも厭わないつもりでいる……」
 そろりと鋏が茨の間に差し入れられる。
 水銀燈は黒い羽根を飛ばそうと身構えていたが、思い違いに苦笑して動作を止めた。
「そうじゃないわ。貴女、それを迂闊に切断したら今度は本当に人間を殺すことになるわよ」
 ぴくりと動きを止めた蒼星石の肩越しに、水銀燈は一本の羽根を木に向けて飛ばす。それは見守るナナと蒼星石の視線の先で白茨に突き立ったが、かなり深々と刺さったように見えたにもかかわらず、一拍ほどの間を置いて押し出されるように動き、ぽとりと足元に落ちてしまった。
「白茨は勝手に生えてきた雑草じゃない。修復力はその程度はあるわ。そして、その修復力ですら、寄生元の心の木から直接得ているってわけ」
 しかもそれはあくまで雑草ではない。雪華綺晶の捕食器官のようなものだった。切られても切られてもまた即座に生えてくるだろう。そして、その度に余分な養分が必要になる。処置無しだった。
「……そうか」
 蒼星石は鋏を引き、息をついて心の木の梢を見上げた。
「もう、そこまで強固に」
「それを多分即座にやってのけられるのよ、末妹はね」
 水銀燈はナナを見て肩を竦めてみせた。
「貴女の優しさはわかるけど、こちら側からは手出しはできないってこと。この人間の生殺与奪は……」
 枯死した大きな木の幹に手を掛け、細長くいびつに歪んだオディールの心の木を眺める。
「全部、契約者たるあの末妹に委ねられている。それが大きな嘘を伴った契約であってもね」
 言いながら、水銀燈はふっと自嘲気味に笑った。何の事はない、それは他の姉妹の契約者と同じことだ。

 所詮、契約者は皆お人形だった。
 人工精霊という躾役によって薔薇乙女という我儘な子供に買い与えられた、アリスゲームという名の教育を進めるための玩具だ。
 一旦契約してしまった以上は、生かすも殺すも、恋人のように愛玩するのも恰も主人に対するように奉仕するのも、そして飽きて捨てるのも所有者次第なのだ。

 自分達はそういう業を持った存在だと、他の姉妹は気付いているのだろうか。
 水銀燈は口元を引き締めながら蒼星石を見遣る。
 少なくとも、あの媒介の記憶の一部を見ている蒼星石には気付いていて欲しい。契約者を殆ど強制的に必要とさせられている彼女にとっては、自分がそう理解したときよりも遥かに辛い認識であるとしても。
 そしてダブルスタンダードではあるけれども、真紅には──恐らくアリスに一番近い存在でありながら、それ故に繊細で優しく高潔な彼女には──できれば、最後の瞬間まで気付いて欲しくなかった。それは、彼女を酷く、そして長く苦しめることになるだろう。
 もしかしたら、アリスになることを放棄してしまうほどに。


「うわぁ、速いのー!」
 男のジャケットの懐に無理やり入り、猫のように首と手だけを出して進行方向をじっと見詰めている雛苺の歓声は、風切り音と排気音が轟いている中でもタンデムシートに乗ったジュンのところまで聞こえてきた。
「高速乗ったらこんなもんじゃないぜ。まあ、景色も単調だけど」
「そうなの? ヒナも見てみたいのよ」
「今度機会があったら、ってところだね。……信号赤だから停まるよ。よく掴まって。桜田君も」
「うん!」
「……はい」
 だから断ろうと思ったんだ、とジュンは苦々しく思う。真っ直ぐ家に帰るはずが、かなりの大回りになってしまっていた。
 泣いていた雛苺は二輪車独特の風を切り裂いて進んでいく感覚に魅せられたのか、次第に元気を取り戻していった。お節介な男はそれを見て取り、一旦桜田家の前をパスして郊外を一周するコースを辿ることにしてしまったのだ。
 幾らでも文句が言える状況だったが、ジュンは抗議できなかった。雛苺の機嫌が、まるで巴に抱かれているときのように素直に良い方に向かっているのが分かってしまうからだ。

──不思議な奴だ。

 そう思うのは大柄なスクーターを運転している男のことでなく、雛苺のことだった。泣き虫でべそっかき、家の手伝いも碌にしないでのりに甘えているだけの子供の癖に、時折ひどく達観した、大人びた面を見せることがある。
 今日にしてもそうだった。オディールと会話していたときの雛苺は、まるでオディールという幼い、世慣れていない子供をその場の皆に紹介する親のように──あるいはドールをお披露目する持ち主のようにも──見えたのだ。
 そう考えると病院での取り乱しぶりも、雛苺らしく子供っぽくはあったが、その根元にある感情はまるで保護者か、あるいは裏事情を知っている者のそれだったようにも思える。
 少なくとも雛苺は、オディールが気を失ってしまったことに動転して泣き喚いていた訳ではない、と思う。彼女に対して何かができる状況でないことは分かっているけれども、泣かずには自分の気持ちが落ち着かないといった雰囲気だった。
 それが、今はもういつもの移り気な子供に戻って、素直にはしゃいでいる。
 見方を変えれば不人情なことかもしれない。だが雛苺に限らず、彼の契約したドール達のそういった感情の切り替えの速い部分をジュンは決して嫌いになれなかった。それが彼自身にはない資質だということは、知っていても認めたくなかったけれども。

 スクーターは意外なほど早く郊外を巡り、桜田家の前に戻った。男が門のところにスクーターを横付けすると、早くも玄関先には明かりが灯り、細く開いたドアから翠星石が顔を出すのが見えた。
 ジュンは少しサイズが大きなヘルメットを脱ぎ、男の懐から這い出るように身を乗り出した雛苺を抱き取った。小さなヘルメットを被った雛苺が男の懐からジュンの手に渡されるのはなかなかシュールな一幕ではあった。
「ありがとうございました」
「また乗せてねなの!」
 対照的な二人の表情に男は苦笑しながら、雛苺に被せていた小さなヘルメットを脱がしてやった。
「ま、次はヒナちゃんも後ろのシートかな。あの乗り方、ホントはヤバいから」
「そうなの? でも後ろに乗ったらヒナ前が見えないのよ」
 小首を傾げる雛苺に、男は困り顔になったが、すぐににやりとした。
「まあ、興味があるならポケバイって手もあるから。その代わり自分で運転するんだぜ。転ぶと痛いぞ」
「それ、ヒナにもできるの?」
「もう少し大きくなったらだね」
 事情を知らない男の言葉に、雛苺が複雑な表情になってしまうのを見て、ジュンはまた少し気分が沈んでいくのを感じる。何か話題を変えなければ、と思ってきょろきょろと見回すと、男が持っている、さっきまで雛苺の被っていたヘルメットに目が止まった。
「Arc Lamp?」
 手書きらしいその文字と共に、ヘルメットの側面には黒い衣装に身を包んだ銀色の髪の少女が描かれていた。
「ああ、これ」
 男は何故か少し照れ臭そうな顔をした。
「アーク灯……転じて水銀灯ってことさ。衣装と翼はあのお人形さんのを借りたけどね」
 どうして水銀灯そのままの言葉を使わないのか、はよく分からなかったが、ジュンは何も言わずに絵を眺めた。
 多分男の知り合いのイラストレーターか何かの手になるのだろうその絵は、顔はいかにもイラスト調にデフォルメされていて殆ど似ていなかったし、少しばかり水銀燈よりはあの人形に近いプロポーションをしていたけれども、ジュンには水銀燈以外の何者にも見えなかった。
「もし使うことがあれば、って思って作ってみたんだけどねえ。あの子、お人形さんを取りに来た時に一緒じゃなかったから渡しそびれちゃって。残念残念」
 そのまま通勤スクーターのヘルメットボックスに入りっぱなしだった、と男は頭を掻いた。
「まあでも、こうして一度は実用に供したんだから、これも無駄にはならなかったというもんさ」
 言いながら、またヘルメットボックスにそれを収めようとしている男のズボンの裾を、雛苺はぐいと引っ張った。
「それ、水銀燈に渡したいの?」
 おや、という顔で男は雛苺を見、考えてみればそうか、という顔になった。
 あの日彼女が書いた「水銀燈」はまさか本名ではあるまい、と男は思っていたのだろう。だが、それがあの時咄嗟に使った偽名でなく、親しい子供達の中でいつも通称や渾名のように使われていたものだとしてもおかしくはない、と考えたようだった。
「……ああ、そうだね。彼女の役に立つなら」
「それ、ヒナが渡してあげる。水銀燈に」
 雛苺はにっこり微笑んだ。
「水銀燈、きっととっても喜ぶの。人から何かを貰ったこと、あんまりない子だから──自分は沢山沢山、他の人に上げてるのにね」
 ジュンは訝しく思った。少なくとも彼は、水銀燈から何かを貰ったことなどない。彼の知っている限りでは、彼の近くに居る薔薇乙女達も。
 与えるよりはむしろ奪うのが彼女の生き方であり、美学ではなかっただろうか。薔薇屋敷での一件以来、確かに性格は丸くなってきたが、今日の物置部屋での話を聞いていても、ひたすらアリスゲームに邁進しているのが彼女だ、としか思えない。それは、ジュンにしてみれば生産的とは言えない行為でもあった。
 しかし、男を見上げる雛苺の顔は屈託なく、嘘をついているようには見えない。
 雛苺には雛苺の見解があるのかもしれない、とジュンは黙って見守ることにした。どちらにしても、男にはあまり関係のない一言に過ぎないだろうし、男は恐らくもう水銀燈と顔を合わせることもないのだろうから。
「そうか、ありがとう」
 男は微笑み、迷いのない手付きで丁度薔薇乙女達のサイズのヘルメットを雛苺に手渡した。
「じゃ、頼んだよ。ヒナちゃん」
「うん!」
 雛苺は満面の笑みで頷く。隣でそれを眺めながら、やっぱり不思議な奴だ、とジュンは思う。
 ただ、それは少々の羨ましさも篭っていたけれども、決して不快な気分ではなかった。


 ぞろぞろと個室の鏡から出てきた水銀燈の眷属を見ても、めぐはさほど驚かなかった。むしろ期待に満ちた目で蒼星石とナナを見、ナナが歩み寄るとひょいと抱き上げて隣に座らせた。
「黒い天使の次は白い天使ってことかしら? それともこの子も偽物?」
 こっちは偽物よね、と失礼なことを言いながら機嫌よく蒼星石にも手を伸ばすめぐに、水銀燈は思わず肩を竦める。どうやら彼女の友人は偽物と本物のボーダーラインを頭身の大小か何かで判断することに決めたらしい。
「考えてみれば貴女って相当心臓が強いわね。新入りを見るたびに大騒ぎする子もいるんだけど」
「そうでしょ、凄い皮肉よね」
 蒼星石をナナの反対側に座らせながらめぐはくっくっと笑い、自分の胸を指差した。
「その『心臓』とこのポンコツの『心臓』、名前は同じでも全然反対なんて」
「片方だけでも人並み外れて強いのを喜ぶべきね。周りはいい迷惑でしょうけど」
 湿っぽくなりそうな言葉だったが、水銀燈は事も無げに受け流した。めぐのこういう台詞は一種の挑発のようなもので、迂闊に正面から受け取るとめぐのペースに呑まれてしまう。
 契約したり、媒介が読んでいた漫画の世界のように半ばそれに近い関係で心の機微まで遣り取りしていれば、お互いに情緒的な何かを感じてしまい、めぐが主導権を握るか水銀燈が無理に突き放す場面なのだろう。
 現実には水銀燈はめぐを毎日見舞っているただの友人だった。冷たく乾いてはいるが、その分気楽な関係だった。それは少し意味合いは違うものの、まるで彼女がずっと望んでいた形の、人間との関係のようなものだった。
 水銀燈はめぐの言葉に困惑気味の蒼星石とじっとめぐを見詰めているナナを見比べ、翼を羽ばたかせて蒼星石の隣に舞い降りる。
「こっちの偽物が貴女を夢の世界に誘い、そっちの見習い天使が夢を工作するわ。……あの黒い天使はまだ来ないのねぇ。一言挨拶するつもりだったのに」
「あの子は気侭だから」
 めぐは少しだけ寂しそうに、まるでずっと一緒に居た仲のように黒衣の人形のことを評した。
「貴女みたいにいつも時間に追われてない分、ルーズなのよ」
「羨ましい話ね」
 水銀燈は嘆息する。人形が何を考えているのかは分からないが、人形なりに思うところがあって行動を始めているのだろう。
 本来なら二十四時間めぐの傍に居ても良いはずだ。めぐが人形を求めているように、人形の方でもめぐを求めているのだから。
「さあ、忙しい私が二度も来て上げたんだから制限時間中にさっさと寝なさい。今晩のうちに何が何でも夢を見てもらうわよ」
 にやりと笑ってみせると、めぐは口を尖らせながら、それでも素直に二つ返事で横になった。
 蒼星石とナナはめぐの枕元の両脇に、四つん這いでもぞもぞと移動する。あまり恰好のいい姿ではなかったが、どちらもそういうことを気にする性質ではなかった。

 若干不安そうなめぐの手に、水銀燈はそっと自分の手を重ねた。
 めぐの細い手は冷たく、手の甲の表面には無数の傷と染みがついていた。注射針が上手く通らなかったときに何度も探られた跡や、長いこと点滴を通した跡が、治りの遅い彼女の皮膚に小さなケロイド状になって残っているのだ。
 それが両手だけでなく、大袈裟に言えば腕全体を覆っているのを水銀燈は知っている。

 ──こいつは歴戦の勇士だよ。柿崎さんの戦いの尖兵であり、しんがりだな。

 水銀燈の媒介は、めぐの手──というよりも注射傷の跡──をそう評していた。
 今の彼自身はそのことを忘れているが、記憶を失う前の媒介はほぼ毎日めぐの病室に見舞いに通い、今の水銀燈のようにとは行かないまでも、奇妙な友好関係を築いていた。
 最後には自分自身のことを逃げ回っている死人とまで評した、この世界に生まれる前の記憶を引き摺って生きていた彼が、めぐを見舞い続けていた理由は何だったのか。ボロボロになりながらも理不尽な闘病という戦いを続けているめぐが眩しかったのだろうか。
 彼の記憶を知識という整頓された形で受け継いではいても、その折々の感情の流れは水銀燈には今ひとつ漠然としていて分からない。分からなくて良いのかもしれない。
 媒介はめぐの手を一番気に入っていた。めぐは決して生きることから逃げていない、その証がこの手の傷だ、と彼は考えていたし、めぐにも何度も思ったとおりを告げていた。
 もっとも彼は彼女がその都度変わった反応をするのを楽しんでいた風もある。あまりいい趣味とは言えなかったし、時としてその報いが暴言やら物をぶつけられる形で返って来ていたが。
 そんなあれこれを言葉でなく半ば知識として伝えられたからではないが、これはめぐの戦いの印だと水銀燈も思う。
 少なからず妙なことを口走り、少しばかり荒れることはあっても、彼女は薔薇乙女に負けない程度には戦いながら生きているのだ。恐らく死ぬまで終わらない過酷な退却戦を、細々とした補給に頼りながら。
 それを投げ出したい、戦場から逃げたい、と叶わぬ願望を捻くれた言葉と態度で喚くくらいは見逃してやっていい。彼女は戦うことを放棄してはいないのだから。
 そして、夢だと分かっているとしても、夢を見ている間くらいは彼女の望むことを叶えてやってもいいではないか。
 多分それは空を飛ぶことでも、死んで楽になることでもなくて、ずっと待っている相手に会って思い切り甘えることなのだろうけれども。

「これから貴女の夢の扉を開ける。目を閉じて、リラックスして」
 枕元にちょこんと座った蒼星石の言葉に、めぐは素直に目を閉じた。暫く前、水銀燈の媒介の少年がそうだったように、めぐの浅くて早めの呼吸はすぐに長い寝息に変わり、頭の上には夢への入り口が現れる。
「ここから入るんだ。波紋の中心から」
 蒼星石の言葉に、水銀燈はナナの背を軽く押す。
「さあ、貴女の出番よ。夢の魔術師さん」
 ナナはその渾名にかすかに驚いたような顔をする。しかしすぐにそれは不安の色に染まってしまった。
「あの……逆さまですよね、落っこちないですか?」
 その素朴で間の抜けた質問に、二人は一瞬ぽかんとした表情になり、それから笑い出す。ナナはぺたんと座った姿勢のまま、おろおろと二人を見比べた。


 心の木の状態を見て比較的冷静な──冷徹と言ってもいい──結論に達した水銀燈と蒼星石とは対照的に、真紅と翠星石はオディールが倒れたという話を重く受け止めた。
 恐らく、雛苺よりも二人の方が衝撃は大きかっただろう。自分のアリスゲームからは降りてしまい、真紅に請われたときに真紅のために戦うしかない立場の雛苺は、オディールの容態と今後だけ心配していればいい。二人にはまだ、そういうある意味での気楽さはなかった。
 いまにも眠りそうな雛苺をジュンの部屋に残し、九時過ぎにも関わらず真紅は階下で翠星石とお茶にかこつけた相談を始めた。状況は切迫しているように思えたし、二人とも眠れそうな気分ではなかった。
「オディールを糧にしてしまったのなら、それを止めさせなければならないわ……彼女を助けるためにも、末妹にこれ以上罪を重ねさせないためにも」
「……です」
 ティーポットをテーブルに置き、翠星石は昼間焼いたクッキーの残りを口にする。自分の作ったものとはいえ、こんなときでも素直に美味しいのが逆に恨めしいような気がした。
 暫く、二人とも何も言わずにそれぞれに思いを巡らせていた。時折食器の立てる音が響くだけの時間が流れた。
 先に沈黙に耐えられなくなったのは、やはり翠星石だった。
「信用されてなかったんですかね、翠星石も、真紅も……」
 ずっとテーブルに視線を落としていた真紅は、ティーカップを静かに皿に置いて視線を上げる。どういう意味かしら、とは言わなかったが、翠星石は言葉を続けた。
「ナナっていう子のことです」

 翠星石は悔やんでいた。ナナに聴き質しておくべきだった。
 ナナの名前の由来とおおまかな能力については、雛苺が要領を得ない説明をしてくれていた。それを聞いていたのだから、ナナの態度の変化とオディールの状態の関連に気付くべきだった。
 異世界の、とはいえ、雪華綺晶と同じ第七ドールであり、かつ雪華綺晶に似た夢に関わる能力を持ったドール。ナナは気付いていたのだ。
 キッチンとダイニング、そして客間を忙しく行き来していた彼女は、キッチンの中から客間を見ていたナナが頻りに何か言いたそうにしていたのを見て取っていながら、忙しさにかまけて放っていた。
 ナナが何か言いたそうにしているのは分かっていたものの、それはごくありきたりの、自分達の暮らしのことだろうと考えていた。だからナナの方から何かを言い出すのを待っていればいいと単純に思ったのだ。
 無理矢理に話を誘導しなくてもいずれ自分から話し掛けて来るだろう、と思わせる人懐こい雰囲気がナナにはあった。それに、翠星石自身よりもう少しドールのあしらいに長けているのりもその場に居てくれた。切っ掛けが掴めなくて困っているようならのりが上手く話を始めてくれそうだった。
 確かに、話題が世間話だったらそれで良かっただろう。実際に──オディールが帰る間際だったが──ナナは自分から話し掛けてきたのだから。
 しかし今にして思えば、ナナの落ち着かない不安そうな態度は、初めての場所で思わぬ大勢の人々に囲まれたのが理由ではなかったのだ。オディールの様子に、彼女の心が弱っているのを感じ取っていたに違いない。
 雪華綺晶に関する限り、一度狙われたとはいえ同じ姉妹ですらないナナは雛苺よりも更に遠い立場に居る。逆に言えば、オディールの話をすれば特定の誰かに荷担することになる、と躊躇ってしまってもおかしくない立ち位置だった。
 翠星石には結局言い出せなかったナナは、既に誰かに自分の懸念を話しただろうか。
 彼女と親しい水銀燈か、水銀燈の媒介には話しているかもしれない。但し玄関で見送ったときの水銀燈からは切羽詰った様子は窺えなかったし、実際にオディールが意識を失ってしまったということは、話したのはオディールをジュンが送って行った後になってしまったはずだ。
 つまり手遅れになってから、ということになる。やはり、自分があの場で気付いていなければならなかった。
 自分を責めるというほど切迫した思いではないが、翠星石はそう悔やんでいた。

「後から振り返れば幾らでも良い案は浮かぶものよ」
 真紅は翠星石の言葉を黙って聞いていたが、ひととおり話が終わると月並みな言葉で慰めた。
「今は何ができるかを考えましょう」
「はい……」
 頷いてはみたものの、良い思案はこれといってなかった。オディールは既に雪華綺晶と契約してしまっているのだ。手出しする方法は限られている。
「心の木を辿って、蒼星石の鋏と翠星石の如雨露で元気にできれば……元通りにできるかもです」
「いいえ、それでは一時凌ぎにしかならなくてよ。契約を交わしている限り、いつでも末妹はオディールから力を奪えるの。私達の場合それは生命力、雪華綺晶の場合は心なのだわ」
 それは、蒼星石と水銀燈が現地で確認したことの別の側面でもある。心の木を何度元気にしても、雪華綺晶がその分を吸い取ってしまえば元の木阿弥どころか、彼女を利するだけに終わってしまう。
「雪華綺晶も、多分オディールが最後の糧なのでしょう。すぐにこれ以上何かをすることはないと思うけれど……」
 ただ早く手を打たなければ、たとえ元通りの状態にできたとしても問題は残る。雪華綺晶の糧として眠って過ごしていればいるほどオディールは人間の社会から外れていってしまう。
 糧にされる前からオディールには何処か浮世離れしたような雰囲気があった。それが雪華綺晶の影響だとすれば、契約自体を解除させた方が彼女のためには良いようにさえ思える。

 薔薇乙女の契約者となることは、その人物に良い影響を齎すだけではない。あまりに近くなり過ぎて指輪に取り込まれるというのは論外としても、薔薇乙女との居心地の良い時間に浸り過ぎてしまってはいけない。
 そういう意味では、契約者の日常と自分の生活に一線を引いているように見える水銀燈や金糸雀はやはり長姉と次姉と言うべきなのだろう。方向性は違うものの、二人ともアリスゲームに対して真剣に、そして積極的に向き合っているのも共通している。
 翠星石にはまた別の思いがあるのだろうが、ジュンの今の状態も社会から外れているのは間違いない。彼は水銀燈の媒介の少年や柏葉巴のように学校に通い、普通に社会に順応していくべきだと真紅は考えていた。
 ジュンもそれを望んでいる。そういう確信もある。
 彼は自ら選んで今の状態になり、それを続けているわけではない。真紅が何度も──そして他の姉妹達も一度は別の視点から──見たように、唐突に普通の暮らしから蹴り出され、それから立ち直ろうと足掻いている。最近は薔薇乙女達の方にかまけてしまっているけれども。
 翠星石は気付いていないかもしれないが、ジュンは今でもほとんど毎日のように夜中に起き出しては参考書や教科書を読み耽ったり、問題集を解いてみたりしている。元の生活に戻りたくなければそんなことをするはずがない。
 それは薔薇乙女達とべったり過ごしている、安全で楽しい巣の中の雛鳥のような生活から彼が離れていくことと同義でもあるし、あるいは自分との契約の終わりを意味するのかもしれないけれども。

 契約者が契約した時点から大きく変容したとき、それでも契約を継続して良いものなのか、真紅には分からない。
 薔薇乙女の契約者として選ばれるほどの葛藤を抱えた人物が、仮にそれを克服してしまったら? 心が離れてしまったら? そのとき、未だ契約は有効と言えるのだろうか。
 水銀燈という例はある。だが、彼女の場合は特殊だ。──いや、彼女は変化してしまった。
 それはかつての契約者から知識を受け継いだからではなく、契約者が変容したことによって自身も変化せざるを得なくなった、いや、何かの手によって変化させられたのではないのか。契約を破棄しなかった代償として。
 解らない。ゲームの遂行にあたって、自分達は一体何処まで操られ、何処からが自分達の本当の判断なのだろうか──

「共闘です。みんなで力を合わせるときですよ」
 少し勢い込んだ翠星石の言葉に、真紅は顔を上げて出口のない迷路のような考えを振り払った。翠星石は元気よく自作のクロワッサンを頬張り、にっと笑ってみせる。
「みんなで探して、雪華綺晶のアジトを見つけるですよ。それで、糧にされてるマスターをみんな解放してやるです。もしかしたらオディールだけじゃなくて、誰か他の、前の時代のマスターも解放できるかもしれないですよ」
 それは無邪気なように見えて、雪華綺晶をはっきりと敵として認識している意見だった。
 ジュンの雪華綺晶を明確に敵として意識している心が伝染しているのかもしれないし、オディールを糧としてしまったことが今朝方表明していた彼女の判断基準からは看過できない行為なのかもしれない。
 それは理解できる。だが、それでも真紅は首を傾げてしまう。
「それは正論だわ。でも分かっていて?」
 翠星石にしては、姉妹に対して厳しすぎる意見に思えるのだ。
「糧を全て解放すれば、雪華綺晶の命も尽きてしまうわ。マスターとの契約を解除するのとは違うのだもの。彼女は糧なしには生きて行けないのだから」
 それを意識した上での言葉だとすれば一大決心の発露なのだろう、と理解はしているものの、それでも彼女らしくない意見だとしか思えなかった。
 自分が戦いや争いごとに関わることを忌むだけでなく、他の姉妹も、契約者やその周囲の人々も傷付けたくない、傷つかないで欲しいと考えているのが翠星石だった。少なくとも真紅はそう考えていた。
「貴女は……それでもいいの?」
 真紅に念を押されて、翠星石はにっこりと頷いてみせる。
「その件なら心配ご無用です。ボディがあればいいのですから」
 あっさりと翠星石は言った。まるで水銀燈のような、迷いのない口調だった。
「雪華綺晶が糧を必要とするのは、無機の器を持っていないから。そうですよね。それにあの子が求めているのも無機の器です。つまりあの子のためのボディがあれば両方解決って寸法です」
 真紅は瞬いた。確かにそれは根本的な解決策だろう。だが、肝心なものが足りない。
「ボディは何処から? 普通の人形では雪華綺晶の器としては足りないはずよ」
 そんなもの、と言ってはいけないかもしれない。しかし空っぽのドールであれば何でも器にできるのなら、雪華綺晶はとうの昔に現実世界に出てきていたはずだ。
 彼女が姉妹の体や異世界の自分のボディを獲得するために襲撃を繰り返しているのは、単に自分には無いものだから欲しがっているわけではない。それだけが要求を満たすものだからこそ、リスクを冒してまで動いたのだ。
「ありますよ、ボディなら」
 翠星石の瞳が煌く。口調もまるでお菓子の出来具合を自慢するときのような、やや得意そうなものになった。
「あの兎ヤローも言っていましたよね。ジュンにはその力があるのです。今は開花していなくても」
「でもそれは……」
 真紅は口篭もる。

 ──かの少年が全てを傾けて精進すれば、恐らく数年後には薔薇乙女の形骸を作るなど造作もないこととなるでしょう。
 ──そう、彼であれば数年でしょうな。

 数年。その数年を雪華綺晶は待てるのだろうか、忍耐という視点ではなく、糧に飢えた状態という意味合いで。それとも、末妹の本拠の探索にはそれほどの時間は掛ると翠星石は言いたいのだろうか。
 もう一つ問題がある。数年という時間ですら、理想的な条件を並べた上での仮想的なものだということだ。
 将来的に、彼が自発的にドールの製作を生業とするのなら、それはそれで反対する理由はない。しかし、それを自分達の事情で強制したくはない。それが真紅の思いだった。
 兎頭の紳士が喩えで示したように、ジュンに何もかも捨ててドール製作に向かえ、とは真紅は言えなかった。
 むしろ彼にはやはり、元の生活に戻って欲しい。それが彼の本当の願いなのだから。その点に関する限り、自分達は彼の生活に土足で踏み入った闖入者に過ぎないのだから。
 そのためにもアリスゲームを終わらせなくてはならない、と思いつつ、早々に契約を解除して彼を解放してしまうこともできないのが真紅を悩ませる二律背反の一つだった。
 真紅自身が彼を必要としているから、という理由はもちろんある。だがそれ以上に、これまでの彼女はジュンから必要とされているという自覚があった。そこに密かな誇りを抱いてもいた。
 彼がマエストロとしての才能、異能と言い切ってしまって良いかもしれないが、それを持っているかどうかということは問題ではなかった。彼が望むなら、それを活かす道は薔薇乙女がらみでなくても、ドールの製作さえ無縁なものであっても幾らでも存在するはずだ。
 ただ、今の真紅はその思いを真っ直ぐに翠星石にぶつけることができなくなっている。
 これまでなら少し強い調子になっても、それは無理だ、と言えた。だが──
「──大丈夫ですよ」
 翠星石は微笑む。真紅にはそれが眩しいほど自信に溢れた笑みに見えた。その笑みのまま、翠星石は事も無げに言った。

「ボディくらい、出来上がるまで翠星石のを貸してやります。
 ジュンがボディを作りあげるまでは、そうですね……翠星石のローザミスティカは真紅の中で、真紅と一緒に完成を待っていればいいのですから」

 真紅は息を呑んだ。
 そして、素直に、とても素直に、何かが自分を追い越して行ってしまったことを悟った。
 嫉妬はなかった。ただ、何かが体の中を吹き抜けていった。

 真紅の様子に気付く風もなく、翠星石は楽しい未来を語るように続ける。
「もちろん何年も、ひょっとすると何十年か掛るとは思いますよ。兎ヤローは数年とか言ってましたけど、そんなに早いはずはないです。ジュンには普通の生活だって必要なんですから。
 でも、いつか絶対に作れるようになるはずです。ラプラスは気に喰わないですけど、審判役のあいつが太鼓判押してるんですから間違いなしです」
 そして、と翠星石は優しい、夢見るような表情になった。
「新しいボディが出来たら、翠星石は呼び戻してもらいます。必ず戻って来ますよ。ジュンと真紅が呼んでくれるなら、魂がどこまで遠くに行ってしまっていても絶対に戻って来れます。翠星石は執念深いですからね」

「そうね……」
 真紅はいつしか微笑んでいた。
 何か憑き物が落ちたような、重石のなくなったような気分だった。それとともに、新たな思いも湧いてくる。それはとても確りとしていて、それでいて重さのない思いだった。
 少し顔を引き締め、ゆっくりと首を振る。
「ただ、全ては仮定の上に立っていることを忘れてはいけないわ。幻影である末妹が、姉妹のボディを得たら糧を必要としなくなるということ」
 敢えてそれを指摘したのは嫉妬や不安からではない。純粋に想定上の瑕疵になるかもしれない部分を示しただけだった。
「確かにあの兎が嘘をついてる可能性はありますけど……」
 翠星石の色違いの瞳は夢見るようなものから現実の力強い光を宿すそれに戻った。
「それでも、やってみる価値はあると思います。あのケチなラプラスが折角くれたヒントです。使わない手はないですよ」
 真紅は首を傾げ、それから慎重に頷いた。
「そうね……試す価値は、あるかもしれない」
「そうですよ。だからまずは、末妹のねぐらを見付け出すことです。そっち側で追い詰めない限り、多分何も進んで行きません。翠星石だってむざむざとボディだけ取られるつもりはありませんから」
 だから頑張りましょう、と拳を握ってみせる翠星石にまた頷きながら、真紅はすっかり冷めてしまった紅茶のカップに手を伸ばす。唇をつけると、一口だけ啜った。
 雪華綺晶にボディを与えてみないか、相手がボディの完成を待つことが信じられないなら待つほかないようにすればいい、という話は元々は真紅を指名して持ち掛けられたものだった。ラプラスの魔が彼女の言葉を遮ってまで、わざわざ不自然なタイミングで口を挟んできたのだ。
 あのときラプラスは何故、自分をいつもの呼び方でなく五番目と呼んだのだろう。意味があるのか、あるいは単なる言葉の綾なのか。
 それを考えるところから始めた方がいいかもしれない、と真紅は思い、もう一口紅茶を啜った。
 冷めてしまった紅茶は、翠星石が丁寧に淹れたものとはいえ、やはりお世辞にも美味とは言えなかった。それでも彼女は前を向き、自分の中に芽生えつつある新たな構想の検討を始めていた。



[19752] Aus Dem Traum(1)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/02/17 00:18
「手懸りを見付けたのはいいけれど……ここは何処なのかしら」
「ここは……誰かの夢です。随分広いですけど、起きたら消えちまう夢ですよ。こんな所に紛れ込んでるんですか?」
「ええ。ここにいるのは間違いないわ。あれを見たでしょう」
 二体のドールは、姉妹のシュプールを追って来ていた。
 無数の夢の扉が並ぶ中、一つだけ開いていた扉から覗いていた白茨。それは、目指す相手が恐らくそこにいることを示していた。
「確認するまでに、夢が終わらなければいいけれど」
「問題はそこです……きゃぅ」
 唐突に風が吹き付け、大学病院らしい建物の屋上に立った二体の髪と大きめのヘッドドレスを揺らす。
「だいぶ手が込んでる世界です……出来過ぎてるですけどね」
「そうね。でも……」
 ふっと微笑みが浮かぶ。空は青かった。目に染みるようなクリアな青ではなかったけれども。
「優しい風だわ、とても。誰かは知らないけれど、いい夢を見ているのね」
「でも、偽物ですぅ」
 夢の如雨露の持ち主でもある彼女はぶすっとした顔になる。
「どんなにいい夢でも、本物じゃねえです。誰かが弄った夢です。都合良く変えられちまった世界ですよ」


 真紅と翠星石が話し合っていた頃、めぐは病室の窓を開けていた。
 空は穏やかに晴れていた。そこからベッドの上まで光が差し込んでいて、寒くもなく、暑くもなかった。
 パジャマのままそろそろと伸びをしてみる。久し振りに体が軽かった。それが羽毛のようだったり、今まで感じたことがないほどでないのは、めぐがある程度夢に現実を持ち込んでしまっているからだ。
 それでも、ずっと起きていられそうなほどには調子が良い。確かに今なら飛べるかもしれない、と思う。
「お目覚めね、柿崎めぐ」
 いつの間にか、窓の外のベランダの手摺に水銀燈が座っていた。
「代わり映えしない夢ねぇ。もう少し妄想を爆発させても良いでしょうに」
「起きてるときにあれこれ考えるから楽しいの。今はこれでいいのよ」
 めぐは悪戯っぽく笑ってみせる。
「これでガブリエルのラッパが鳴れば完璧ね。そうしたら、羽も動力も無しで空に上って行けるわ。それこそ何もかも」
「どうかしら」
 水銀燈はめぐの真似をしてくっくっと笑った。
「貴女が本当にそれを願ってるなら、ラッパを吹きながら天使が降りてきても良さそうなものだけど」
「願ってるに決まってるでしょ」
 めぐは言い返してみたが、暫く待っても一向にラッパは鳴らず、天使も降りてこなかった。
 水銀燈は目を細める。やはり、めぐが望んでいるのはそうしたモノではないのだろう。
 視線を転じて斜め後ろを見る。穏やかな空、そして髪を流す優しい風。春らしい花の香りもかすかに匂って来る。人目を憚らず空を舞うには確かにいい天気だ。
 だが、めぐはベッドから動こうとはしなかった。じっと何かを待っていた。
「こうしてるだけで幸せ、とか善人ぶったことを言うわけじゃないでしょうね」
 少しばかり退屈を感じて、水銀燈はついそんな軽口を叩いてしまう。めぐはこれ見よがしにベッドに横たわり、やれやれと言いたそうな顔を作って水銀燈に視線を転じた。
「善人よ。いつも素直で、運命を静かに受け容れてるいい子でしょ? 私。だから、多分ずっとこのままよ。誰も来ないし何も起きないわ」
 だがほどなく、その言葉に反して病室のドアをノックする音が聞こえてきた。
「どうぞ」
 反射的に答えてしまってから、めぐは慌てて上半身を起こし、うろたえたような表情で水銀燈を見る。水銀燈は意地悪く視線を逸らしたが、入ってきた人物を見て目を見張った。
「やあ、柿崎さん。随分久しぶりだね」
 口許に苦笑のようなものを浮かべ、背は高いながらも若いというよりは幼いその容姿とはちぐはぐな印象を与える口調で挨拶をしたのは、水銀燈の媒介だった。
「水銀燈もいたのか。不味かったかなこりゃ」
「夢の中だもの何でもありでしょう、お馬鹿さん」
 声が上ずらなければいいが、と思いながら水銀燈はにやりとする。意外にも、鼓動も激しくならなければ言葉も表情も強張らなかった。
 そんな彼女にはお構いなく、媒介はいつもの仕草で肩を竦めた。
「そうだったな。そもそも俺は柿崎さんの創り出したニセモノだった。そうそう、これから出て来る人達もみんなニセモノだ。ニセモノ大集合の用意はいいかい、柿崎さん」
「あんまり沢山出てくるなら飛んで逃げ出すわ。そこの窓から」
 柿崎めぐは微笑んで軽口を叩いた。
「でも、この病室が一杯にならない程度なら我慢してあげる。折角の夢なんだもの」


 病室の入り口で、ナナはじっとめぐの様子を見詰めながら、まるでオルガンかピアノを弾くように忙しく両手を動かしている。細く弱々しい白い蔓がその手の辺りから電源コードのように伸びて行き、めぐの手首と水銀燈の手首に巻きついていた。
 同じ夢の中なのだが、白い茨が絡んだ相手からはナナの姿は見えない。見せてしまったら興醒めもいいところだろう。ナナは白い姿の黒子であり、脇役専門のマリオネットの操り手であり、即興でアドリブを入れるディレクターだった。
 蒼星石は廊下から、柿崎めぐや水銀燈、そして彼女にとっても懐かしい存在である「彼」ではなく、ナナを見詰めていた。
 ナナのしていることは、作業量の割には地味な仕事だった。台本のない劇を見守りながら、常に主役の意向を汲み取って、悲劇にならないように注意しながら脇役達の動きをチェックし、アドリブで台詞を入れて行く。
 それは自分以外に誰も出来上がりを褒めてくれない、見方によっては酷く空しい作業だった。
 それでもナナが他に表現の手段を持とうとしなかったのは、偏に臆病だったからだ。好戦的な自分の姉妹から逃げるために、彼女はできる限り自分の痕跡を残さないようにしていた。夢を操っている相手でさえ、ナナのことを知ることはなかった。

──しかし、それにしては妙だ。

 今朝方、雛苺の夢に入っていたナナは、白茨を雛苺の夢の扉から長く伸ばしていた。今も恐らく夢の扉は開いたままで、そこからは茨が漂い出てしまっているはずだ。
 蒼星石が訝しく思い、半ば監視するようにナナを見ている理由はそれだった。
 戻ってその扉を閉じようとまでは蒼星石は思わない。真紅や翠星石がここに来て、ナナの作業を見ても悪くないとさえ思う。金糸雀や雛苺ならナナのことを素直に褒めるかもしれない。
 雪華綺晶なら……いや、末妹はどの世界だろうと関係なく、その気になれば常に姉妹の動向を監視できるはずだ。開閉どちらでも彼女には無関係だろう。
 自分の姉妹達のことはいい。だが、そんな手ぬるいことで、これまでナナはナナ自身の姉妹達の目からどうして逃げおおせていられたのか。現実世界に開いた夢の扉も、nのフィールドの扉の間に開いた扉も大した違いはない。それだけで誰かが中に居る、なにかをしていると教えているようなものだ。
 ナナの姉妹はそういった出来事を感知することができないのか。いや、流石にそれはあるまい。
 元の世界では扉を閉めていたナナが、この世界では閉めることを忘れているのか、閉めることができなくなっているのか。それも考えにくかった。彼女の他の能力は、この世界でも元の世界とほぼ同様に機能している。
 ならば、一体どういうことなのか。まさか──

「──っ」

 唐突にローザミスティカが脈動を始めるのを感じ、蒼星石は眉を顰めた。
 胸を押さえ、入り口に歩み寄って病室の窓の向こうの空を見上げる。それは日曜日の午後、急な呼び出しで取るものも取り敢えず桜田家に行ったときに感じたものと同じだった。

──いや、あの時よりは弱い。

 少年は昨晩、ナナの動力源の反応で雛苺を見つけたらしい。ならば、あの人形が来たというサインだろうか。開いたままの扉を通過して、この夢に来たということは充分有り得ることだ。
 ただ、扉はここから遠い。その程度で脈動するのならナナの傍に居た雛苺が何も感じないはずがない。少年は、雛苺が昨晩ナナと抱き合うようにして眠っていたと言っていたし、少年が見付けたときも雛苺はナナの気配に気付いていなかったようだという。
 この夢の世界は広い。今機能しているのは病室の中だけだが、柿崎めぐは広大な空と、病院から見える範囲の街並みと、そしてかなり遠方に自分の住んでいた家まで作っている。ナナが介入しなければ、めぐは水銀燈に手を引かれて空を飛んでいたのかもしれなかった。
 ナナ達の側の動力源の反応は、純粋に距離に応じているのだろう。だが、自分達のローザミスティカは恐らく違う。
 人形が既にこの夢に来ているのは恐らく間違いない。ただ、それだけではない、ということだ。

 蒼星石は水銀燈に視線を向けた。窓際に座った彼女は丁度こちらに眼を向け、おや、という顔をしたところだった。
 蒼星石が瞬くと、水銀燈は何かを了解した表情になった。
 二人はどちらからともなく、この夢の主人を目で追う。めぐはベッドの周囲に何人もの見舞い客を──恐らくその大半はもう二度と彼女を見舞うことのできない人々なのだろう──迎えて、久々の会話に忙しかった。毎日訪れる友人やその眷属のことまで構っているゆとりはないようだった。
 再び水銀燈と顔を見合わせ、蒼星石は軽く頷く。飛び上がり、なるべく目立たないように窓から外に飛び出した。
 水銀燈は振り返ろうともせず、先に立って空に舞っていた。細い白い蔓は外れている。水銀燈が自分で気付いて取り去ったのか、ナナが外したのかは分からない。
 蒼星石は一度だけ窓を振り返る。角度の関係でここからは見えないが、ナナは今も裏方仕事に全力をあげているはずだ。

──頑張って。気を散らさずに。

 ナナは自分達が飛び立ったのを知っている。そのことで気を取られたり、うろたえたりしなければ良いのだが。
 頼りない夢の魔術師──というよりは舞台監督──に若干不安を抱きつつ、蒼星石は水銀燈の前に立ち、ローザミスティカの脈動の強くなる方向に向かって空を駆けた。


 人形は激しく消耗しながら、しかし互角に戦っていた。

 当てのない探索を切り上げて現実世界に戻った彼女はかなり疲労していた。最初にめぐのことが頭に浮かんだのは当然かもしれない。彼女の傍でゆっくり休みたかった。
 人形はめぐと契約を交わしてはいない。交わすこともできない。彼女にあるのは生み出されたときに捻じ込まれた『水銀燈』の記憶だけで、契約の指輪はなかった。
 それでも人形はめぐの傍に居たかった。彼女は──記憶の中で『水銀燈』として──それこそ生み出される前からめぐを求めていたし、出会ってからまだ数十時間に過ぎないとはいえ、めぐが自分を必要としてくれているのも間違いない、と人形は思っていた。
 既に時間は遅かった。寝顔を見ているだけでもいい、と病室に入ったとき、彼女は異変に気付いた。
 寝ているのは予想していた。しかし、めぐの夢の扉が開いているとは思っていなかった。
 何が起きているのかと一瞬当惑したものの、彼女は躊躇せずに扉を潜った。
 病院と空、そして大まかな街並みだけがある夢の世界で、彼女はあまり見たくなかったものを見てしまった。そして、当然かもしれない、哀れな誤解をしてしまった。

 病室の中、見舞い客達の中でめぐが笑っていた。突発的な怒りに任せたヒステリックな哄笑でも乾いた力ない笑いでもなく、穏やかで幸せそうな笑みだった。
 ベランダの手摺にこちらに背を向けて座っているのは、水銀燈だった。見舞人の輪には入らず、めぐの傍らにも居ない。自分が加わるべき場ではないと考えているのは明らかだった。
 どういう手段を取ったのか、人形には分からない。ただ、水銀燈がめぐに、めぐ自身が望む夢を見せているのだということは理解した。そして、そこに自分の場所がないと思い込んだ。
 人形にはめぐと契約していた記憶がある。しかしそれは彼女自身の体験ではなく、雪華綺晶に生み出されたときに捻じ込まれた『水銀燈』の記憶だった。
 所詮はニセモノ、偽りの記憶だ。そして人形の感情はそのニセモノの上に立って構築された、根無し草のようなものだった。
 人形が実際には出逢ったばかりのめぐを強く求めているのは、一つにはそれを打ち消したい、という側面もあったかもしれない。
 偽りを元にしていても、現実を積み上げて行けば、積み上げた分だけは本物になる。それは『水銀燈』のものではない、彼女自身のモノだった。
 しかし、それは相手あってのことだった。めぐの側が人形を必要としていなければ、積み上げることすらできない。人形の側の足場は元々幻影に過ぎないのだから。

 めぐが見ている夢の登場人物は全て人間だった。そこに人形の姿はなかった。

──自分は必要とされてはいなかった。

 作り付けられた直線的で純粋な性格のまま、彼女はそう思い込んだ。
 めぐに裏切られた、とは思わなかった。彼女の性格としては珍しいことだったが、所詮無理を強いていたのだという思いがそれに勝った。
 冷静に考える余裕があれば、もっと窓に近付くなり、水銀燈に問い質すなりしていたところだろう。そうすれば自分の誤解に気付き、ごくありきたりの結果だということが分かったはずだ。
 めぐが病室に登場させた人物は全て、もう会うことができないか、滅多に会えない人々だった。本人が夢に顔を出している水銀燈は除くとしても、めぐは自分の父親さえも夢に登場させていなかった。
 夢だと分かっているから、夢でしか会えない人に会う。それだけが基準の陳腐なキャスティングだった。
 しかし人形は疲れていた。ここ二日の経験から、現実世界で一晩眠れば疲れが取れることは分かっていたが、少なくとも今は疲れていた。
 人形は病院の建物から離れた。扉から現実世界に戻ろう、何処かでゆっくり休もうと思った。何処か、に当てはなかったけれども。
 落胆でどっと疲れが増したように思いながら、作りものの街並みを飛び抜けて行こうとしたとき、彼女は唐突に呼び止められた。

「待ちなさい、あなた」
 凛とした声は、聞き覚えのあるものだった。
「何者かは分からないけれど、そのローザミスティカは私の姉妹のもの。何故、あなたがそれを持っているの」
 人形は奇妙に空虚な建物の屋上に降り立ち、音がするほど鋭く声のした方を睨みつける。
 赤いボンネット状のヘッドドレス、赤いワンピース、胸元の緑のリボン。そして、幼さを残しながらも強い光を放つ瞳。
「『真紅』……!」
「わたしの名を知っているのね」
 隣の建物の屋根の上に立ったドールは油断なくステッキを構え、後ろに緑色の大きなスカートを穿いたドール──『翠星石』を庇うように身構えた。『翠星石』は少しなりの小さな『真紅』の後ろに隠れるようにしながら、驚きの声を上げる。
「『水銀燈』のヤローにそっくりです……!」
「ええ。でも本人じゃないわ。いま『水銀燈』は別の世界に向かっている。それにあのドールからは『水銀燈』のローザミスティカの反応は感じられない。あるのは……」
 こくり、と『翠星石』は頷く。視線は人形に向けられていた。
「『蒼星石』の反応はまだ感じるですっ。でもっ、あ、あんたがなんで持ってるですかぁっ」
 吃りながら、それでも甲高い声で『翠星石』は勇気を振り絞った。
「返せです、この『水銀燈』のニセモノ! 『蒼星石』のローザミスティカを返すですぅ!」
「返せ、ですって?」
 人形は瞳の色を赤紫に変えた。顔には乾いた笑いが浮かんでいる。
 そうだ。自分はニセモノ、紛い物だ。
 ヒトの紛い物。天使の紛い物。『水銀燈』の紛い物。名前すら持っていない、可哀想なお人形。
 真の意味で誰にも愛されない、存在自体がイレギュラーな代物。記憶や感情すら作られるときに入れ込まれた、正真正銘の贋物だ。
「ええ、いくらでもくれてあげるわよこんなモノ。元々わたしには必要ないモノ、勝手に入れられたモノですもの。でもねぇ……」
 人形の手の中に両手剣が瞬時に現れた。『水銀燈』そっくりに、人形の笑いは凄絶と言うよりは酷く面変わりした、酷薄なものに変わる。
「それはわたしにアンタ達が勝てたらの話。丁度いいわぁ。今ねぇ、わたしはとぉっても誰かをぶっ壊してやりたい気分だったのよぉ」
 疲労はある。だが、気にならなかった。彼女には力がある。動力源と人工精霊が使役できるのも分かっている。そして『ローゼンメイデン』の無機の器に勝る、強固な有機化合物の素体があった。
「掛ってきなさい『真紅』ゥ。ミーディアム無しのアンタ達なんて敵じゃないわぁ。そのブサイクな首をもぎ取ってひび割れた焼き物の塊に変えてあげる……!」

 黒い羽根と赤い花弁のぶつかり合いは、時間と共に激しくなっていく。それはまるで禍禍しい竜巻のように絡み合い、荒々しく捻じ曲がり、拡散して落ちて行く。
 その中心で『真紅』と『翠星石』は、左右から挟み込むようにして人形と戦っていた。両方から同時に高速で一撃を加え、逆方向に飛び去る。
 間合いを計るために呼吸を合わせる必要があるから、そう続けざまには行えない。しかしばらばらに攻撃を掛けて倒せる相手でないのは戦い慣れた『真紅』にはよく分かっていた。
 人形の戦闘能力が如何に秀でているとはいっても、黒い羽根を操ることに注意が分散されているときに左右同時の直接攻撃に対処するのは至難のはずだった。
 しかし、人形は持ち堪えた。むしろ同時だからこそ対応ができているのかもしれない。
「埒が明かねーですっ」
 『翠星石』は『真紅』が攻撃を掛けるタイミングで、呼吸を合わせて自分も人形に突進する代わりに如雨露を振りかざした。
 下方から突き立てるように伸びてきた世界樹の枝は、一瞬人形を絡め取るようにも見えたが、人形が何か黒い円形のものを左手から放つと、槍なら穂先に相当する部分を全て切り落とされて失速する。
「『蒼星石』の帽子……! そんな」
 愕然とする『翠星石』に、人形は酷薄な笑みを浮かべる。
「持ってるモノは有効利用しなくちゃねぇ」
「許さねーです! この……」
 カッとなった『翠星石』は次々に世界樹の枝を伸ばしたが、人形は剣をサーベルのように軽々と振り回してそれを切り抜け、横合いからステッキを構えて突っ込んできた『真紅』をその勢いで薙ぎ払う。
 『真紅』は急激に方向を変え、寸でのところで危うくそれを避けたが、体勢を崩したところに人形の蹴りをまともに喰らって近くの建物の壁に突っ込み、気を失った。大きな衝撃に壁はひしゃげ、爆発でも起きたかのようにクレーターができてしまう。
「『真紅』っ」
 思わずそちらに向かおうとした『翠星石』に、人形は容赦なく『蒼星石』の帽子を放つ。帽子が起こす風圧に『翠星石』はあらぬ方に吹き飛ばされ、そのドレスの腕と胸元はかまいたちのようにざくりと裂けた。
 ふらふらと着地しようとしたところを黒い羽根の塊に襲われ、『翠星石』はどこかの小路に突っ込んで動かなくなった。
「なによぉ……口ほどにもない……」
 人形はにやりとしてみせたが、彼女の消耗も酷いものだった。『翠星石』が焦って性急な行動を取らなければ、疲労を蓄積して敗北していたのは彼女の方だったかもしれない。
「安心しなさい、アンタ達の動力源まで取り上げようなんて思ってないわぁ……」
 負け惜しみのように呟きながら、ふらりと人形は扉の方に舞い上がる。しかし、そこに行き着くまでに消耗は限界に達してしまっていた。

──……これで、良いのかもしれない。

 力なく惰性で扉に向かって漂いながら、人形はそう考える。
 自分を必要としてくれていると勘違いしていた人の夢の世界で、その人とは全く関係なく勝手に大暴れして、そこから出ることもなく消えて行く。元々夢の中に配置された舞台装置の自分には、相応しい消え方のように思えた。
 霞んでいく視界の中、人形は扉が開くのを見たような気がした。
「……大丈夫? しっかり……」
 柔らかな腕が彼女を抱き、確か聞き覚えのある、お節介な声が耳元で何かを囁いた。それが誰なのかを思い出す時間もなく、人形の意識は急速に閉じていった。


 めぐの作った夢の世界はいびつに大きかったらしい。本当に空を飛びたいという願望もあったかもしれない、と思わせる広大さだった。どちらにしても二人が現場に到着したときには全ては終わっていた。
 蒼星石のローザミスティカの脈動は収まっていた。飛びながらそのことを説明すると、水銀燈は黙って頷いてみせる。めぐの夢にあの人形が入り込むことは予期していたようだった。
 ただ、人形が力を行使した相手とその結果には流石に面食らった様子だった。
「爆弾でも落ちたような騒ぎね」
 水銀燈の媒介の夢の中で戦ったときよりも、人形の力は格段に増していた。
 恐らくほぼ病院の窓から見たとおりに、若干の想像や希望も加えて大雑把に作られた街。その一部が、めぐが作った世界でありながら、彼女のコントールを外れたところで無惨な姿に変わっていた。
 地面に相当する部分が擂り鉢状に抉られ、建物が倒壊もせずにひしゃげ、一面に黒い羽根と赤い花弁が飛散している。その上に世界樹の枝が林を作り、さらにそれまでもが曲がったり折れたりしていた。
「ガブリエルのラッパが聴こえて来てもおかしくない、か……」
 めぐが出任せで言ってみたことを思い出して水銀燈は複雑な表情になった。めぐ自身は知覚していないだろう。まだ病室でお喋りに興じているはずだ。
 この光景に人形の嘆きのようなものを感じてしまうのはどういう訳だろうか。あれだけめぐに必要とされていながら、めぐの夢の中では暴れることしかできなかったこと自体が、人形の葛藤を表しているといったら言い過ぎだろうか。
 水銀燈はひとつ溜息をついた。それもこれも彼女自身の初手の対応の拙さが招いたことではある。
 他人の感情の動きを読んで計画を立てることは、彼女の苦手とするところだった。それをまざまざと見せ付けられているような気分だった。

──まあ、それでも最低限のことは出来た。そうよね? 後はあの子達次第。

 病院の方を振り返ると、高い建物はここからでも辛うじて見えた。その316号室に──めぐが一番長いこと暮らしていた部屋に居るはずの彼の幻影に、水銀燈は胸の中で語りかける。

──貴方が私の媒介としてでなく、知識を持った者として唯一やり続けていたこと。不出来だけど、道は消さなかったわよ。

 彼がめぐを見舞い続けていたことも、元を辿ればやはり水銀燈の契約者になってしまったから──結果的にめぐから水銀燈を奪う形になってしまったことの後ろめたさや謝罪──という後ろ向きな理由によるものかもしれない。
 だが原因が何処にあったとしても、それは薔薇乙女達とは関係のない、彼自身の、彼にしかできない行動だった。だからこそ、水銀燈はそれを尊重した。
 めぐには興味があったし、見舞いを続けることは水銀燈自身の気晴らしにもなった。それだけで良いのか、という気持ちはあったが、彼女には時間が足りなかった。
 彼の夢の中にまだ『水銀燈』を模した人形が生きていることに気付いたとき、雪華綺晶の尖兵になる可能性と共に考えたのはめぐと人形の関係だった。
 当初はボディを作ることと交換条件で、人形をめぐの話し相手にすればいいと考えていた。人形の力が莫大なもので、しかもあんなところで戦いになるとは思っていなかったが。
 ドライカーボンでそのボディを作ることになったことも、その上よりによって目覚めた途端に逃走したことも予想外の出来事だった。おまけにこちらの世界の「彼」まで関わって来ることになるとは。
 ただ、そういった紆余曲折はあったものの、人形にめぐとの関係を築かせることだけはできた。肩の荷を下ろしたとは思わないが、どうにかひと段落つく所まで来たのだという感慨のようなものはあった。

 しかしそれにしても、と目の前の惨状に視線を戻す。現実世界でないとはいえ、人形の破壊力は恐ろしいものがあった。
 そして恐らく人形の相手も、似たような破壊力を持っていたのだろう。それは雪華綺晶とはまた違う種類の、もっと即物的な力だった。もちろん他の姉妹などではありえない。
「『真紅』なんだね。それに『翠星石』かな」
 蒼星石は膝を折ってしゃがみ込み、地面に惜しげもなく散らされた花弁を苦労して掻き出した。
 真紅のものと同じような赤い薔薇の花弁は、黒い羽根と同じように爆弾の破片か流れ弾のように周囲一面にめり込み、突き刺さっている。
「どういう使い方をすればこうなるのか……」
 結晶化したような花弁を二本の指で弄びながら蒼星石は首を傾げた。見た目は似たようなものだし、恐らく機能も大同小異だろうが、真紅の花弁にはない禍々しさがあるように思えるのは、それが鋭利な刃物のように周囲に食い込んでいるからだ。
「散弾銃みたいなものよ。高速で大量に射出するわけ。一つ食らえば大怪我でしょうね、私達なら」
 改めて何かを追うように捻じ曲がった世界樹の枝の列を眺め、水銀燈は肩を竦める。そこにも黒い羽根と赤い花弁が無数に突き立っていた。
「開いた扉からここに入って、あの人形と遭遇して戦いになったってところかしらね」
 厄介な時、厄介な場所に現れたものだと思う。もし『水銀燈』まで居るのだとすれば、人形とはめぐを巡って更にややこしいことになりそうな按配だった。
 桜田ジュンを巡っても諍いが起きるかもしれない、と考えると頭が痛かった。随分と無理難題が増えてしまったような気がする。アリスゲームの自己流の考察と引き換えにしては、割に合わない取引だった。

──まあ、そっぽを向いてしまえばいいことだけどね。あちらはあちらだもの。

 不人情なことを考えたとき、恐らく彼女よりは幾らか情けが深く、義理堅いことでは姉妹の内で一番であろう人物の声が上がった。
「──翠星石!? いや……『翠星石』か」

 横丁の突き当たりに地面を削ったような跡が続き、その終点の擂り鉢状の凹みに、大量の黒い羽根に包まれるようにして緑色のドレスを着たドールが倒れていた。正確には、羽根の山の中から腕とヘッドドレスの一部だけが覗いていた。
 蒼星石は歩いて近付き、両手で黒い羽根を払ってドールを検分する。
 夢の世界でこれだけの破壊を巻き起こす衝突がどれほどの衝撃を与えるものなのかは分からないが、よくバラバラにならなかったものだと思う。ただ吹き飛ばされただけ、というよりは巨大な圧力で押し付けられたようにも見えるのだが、どこも潰れているようには見えなかった。
 服は左胸から右の脇腹に向けて大きく裂け、左の袖も肘の上から取れかかっていたが、それでもボディは浅く傷付いた程度で亀裂も入っていない。ヘッドドレスは大分ずれてしまい、長い髪は解けて広がっていたが、それだけだった。
 無事だったことを素直に喜ぶ気持ちがなかったわけではないが、逆にそのことが蒼星石を慄然とさせた。彼等の戦いに巻き込まれれば、アリスゲームも大詰め、などと暢気なことを言っている場合ではないだろう。
 水銀燈の話によれば彼等は暴力のぶつけ合い以外でも究極の少女になれるらしいが、できるならそちらの方向を目指して欲しいものだと思う。これは自分達の手には余る力の衝突と言うしかなかった。
 それでも、蒼星石はドール──『翠星石』を助け起こした。
 このドール自身に悪気があったわけではない。彼女達の基準からすればこういった力の衝突がむしろ普通なのかもしれない。自分達がか弱く、即物的な力に劣っているだけの話だ。
「意識はないようね」
「迷子になってはいないと思う。小さい損傷がある程度だ」
 肩越しに覗き込む水銀燈に、蒼星石は視線を向けずに答え、体をずらして『翠星石』の服の破れを見せる。ふむ、と水銀燈は頷き、ストレートの髪がさらりと蒼星石の頬に掛った。
「あの人形と『真紅』もクレーターの周縁部にいる可能性がある。見てくるわ」
 水銀燈は身を起こした。蒼星石の気分が伝染したのか、面白くなさそうな表情になっていた。
「お願いするよ」
 水銀燈は返事をする代わりにばさりと飛び立った。
 蒼星石はドールの、羽根か花弁の擦過傷が幾つも付いた顔を眺める。あの人形やナナに比べて少し幼い面立ちで、ボディのバランスも自分達姉妹にやや近いようだが、デザインには共通点があった。
「ナナの姉妹か……」
 頭が左肩に来るように横抱きに抱え上げたとき、見付けたわよ、という水銀燈の声が少し離れた場所で上がった。蒼星石は了解と答え、バランスに苦労しながら舞い上がった。確固とした地面のあるところで宙に浮くというのは、やはり慣れない。
 どちらかは分からないが、この大惨事を生み出した当事者の少なくとも一方はここで目を回していることになる。何処となくユーモラスではあるものの、勝ち残った方がどうしているかを考えると不気味でもあった。

「……こっち、か」
 水銀燈は脱力したように肩を落とした。
 大クレーターと言って良さそうな擂り鉢状の窪みの傍、ビルの壁面にクレーターが穿たれ、その真下の妙に平坦な街路に、赤い衣装のドールが倒れていた。

──貴女の言ったとおり、あの人形は『ローゼンメイデン』を圧倒したわよ、真紅。

 それがボディの性能によるかは兎も角として、真紅が「人形を創り出した者が望んでいた」と言ったとおり、人形は『真紅』と恐らく協働していた『翠星石』二人を敵に回して勝利を収めた。

──でも、あいつは本当にこんな結果を望んでいたのかしらね。

 何かが違う、と水銀燈は思う。彼はアニメ『ローゼンメイデン』のドールの内で、そこまで『水銀燈』だけを好きだっただろうか。
 知識として整頓されてしまった彼の記憶は詳細に引き出せるけれども、彼女には彼の折々の感情や思考の流れは上手く追えない。それでも『水銀燈』にそこまで肩入れしていたとはどうしても思えなかった。
 確かに薔薇水晶まで含めた七体のうち、悲劇性、不遇さという点では最右翼ではあるが……。彼はもう少し、どのドールもそれなりに平等に評価していたように思う。
 そもそも『水銀燈』をチョイスして配置したのは雪華綺晶であって媒介本人ではない。その判断には雪華綺晶の好みと媒介の主観、どちらがより濃く反映されているのだろうか。
 あれが本人なら病室に取って返して問い詰めたいものだが、生憎、めぐの作った贋物に過ぎない。肩を竦め、見付けたわよ、と蒼星石に声を掛けながら水銀燈はドールの脇に降り立った。


 誰かに呼ばれたような気がして、真紅は顔を上げた。振り返ってみたが、いつものように起き出して問題集を解いているジュンは彼女に背を向けたままだった。視線を巡らせたが、翠星石も雛苺も鞄を開けて彼女を呼んだ風はなかった。
 気のせいだろう、と一つ息をついて視線を戻す。夜更かしをしているから、自分では気付かないうちに眠気が忍び寄っているのかもしれない。
 彼女の視線の先、床に柔らかいクッションを敷いた上には、黒いドレスに白い髪の人形が横たえられている。先程誰かの夢の中で、気を失う寸前のところを見つけて取るものも取りあえず連れ帰ってきたのだ。

 翠星石と話し合いを持った後、思うところがあって真紅は一人でnのフィールドに探し物に入った。危険は承知だった。
 水銀燈のように殆ど制限無しにnのフィールドに篭っていられる訳ではないが、それでも彼女の探し物がそこにある以上は行くしかない。かつての蒼星石のように毎日何度も、とは行かなくても、時間の許す間は探すつもりだった。
 目指すものは、しかしあっさりと見付かったように思われた。開かれていた夢の扉。しかし、ある覚悟を決めてその中に入った彼女の視界にいの一番に飛び込んできたものは、ジュンが苦戦しながらその胴部の原型を作った人形だった。
 辛うじて意識を保っていた人形が、安堵したかのように腕の中で気を失ってしまうと、それを置いて探索を続けることは真紅にはできなかった。彼女は人形を抱いてジュンの部屋に戻り、丁度起き出して来たジュンと二人で人形を即製のベッドに横たえ、その寝顔を見守りながら思索に耽っていた。
 人形を見付けたのは偶然なのか、探していたものが人形に関わっているのか、真紅には判然としなかった。妙な話ではあるが、人形には彼女の探し物の特徴があったからだ。
 問い質してみるべきかもしれない、と思う。ただ、それは人形にとって辛い話になるのは間違いなかった。

──目を覚ましてから、考えよう。

 その判断は留保することにして、真紅は人形の髪を撫でる。今は他に考えたいことがあった。
 だが、思索を巡らし始める前に、彼女は今度ははっきりと名前を呼ばれた。
「お前、その人形がよっぽどお気に入りなんだな」
 視線を上げるとジュンは回転椅子を回してこちらを見詰めていた。
「雪華綺晶が栃沢の夢の中に作って、水銀燈が引き出して──あと、僕も、それから例のクリスタルくれた人も、か。何人も関わった人形だけど、お前と姉ちゃんが一番本気で気に掛けてる」
「のりは優しいからでしょうけど──私は、何もしていないから」
 真紅は薄く微笑んだ。
「私達はみんな、程度の差はあってもこの子に共感は抱いているのよ。ある目的のために人形の身体を持たされて作り出され、歪な性格を作り付けられたのは同じだもの。そして──羨ましさも、あるの。眩しいほどの」
「眩しいって……」
 ジュンはかすかに身じろぎして、否定の身振りをした。
「でもお前達は、お父様に可愛がられたし、これから会うこともできるんだろ? そのために頑張っているじゃないか。その人形にはそういう過去も、目標もないんだぞ」
 デスクライトだけに照らされた室内で、それに背を向けた形のジュンの表情は逆光になってよく見えない。ただ、真紅を励まそうとしているのは感じ取れた。
「そうね。お父様に会うためにローザミスティカを集めようとし、ローザミスティカを集めるために相争うことになり、相争うためにマスターを持ち、新たなマスターと契約するために時代から時代へと移ろい、時を巡り、人を巡り、咲き誇る……それが私達。薔薇乙女の姉妹」
 ジュンは黙って真紅を見詰めている。その沈黙に勇気付けられるようにして真紅は続けた。
「ゴールが決まっていて、そのために、最終的にそこに向かうためだけに突き動かされているのが私達。そのために懸命に生きているのが私達の誇りでもあるけれど……」
 そこで僅かに口篭もる。また口を開いたときには、幾つか言おうとしていた言葉を飛ばしていた。聞いている方はそのことに気付かなかったけれども。
「目標を自分で設定して、そのために生涯を──それはとても短いかもしれないけれど──費やすことができる。そんな人達を羨ましいと思うこともあるのよ。私達の目標は、もう動かすことができない、そこに進んで行くしかない物なのだもの」
 真紅は人形の頬に触れた。人形の頬は暖かかった。薔薇乙女のように柔らかかった。
「この子は、今は目標を持っていないわ。そして何か間違った目標を持つかもしれない。でも、どんなに間違っていても、それはこの子が無数の選択肢から自分で選び取る目標なのだわ」
 ジュンは何も言わずに椅子から立ち上がり、真紅の隣にしゃがみ込み、人形の上半身を少し持ち上げた。背中の翼を真っ直ぐに直して、また元のように横たえる。
「ジュン」
 真紅の声にそちらを見ると、彼女は彼を見上げていた。蒼い瞳はひどく優しかった。いつか見たことのある優しさだった。
「貴方も、いつかは選び取れるのだわ。今は何も見えなくても、貴方ならきっと、間違うことなく正しい道を選択できる」
「買い被りだろ」
 いつかもこんな問答をした、と思いつつ、ジュンはなるべくあっさりと聞こえるように言った。
「僕にはそんな力はない。それどころか世間並みの生活だってできてない落ち零れの引き篭もりだ」
「大丈夫よ。貴方はこの真紅が選んだマスターですもの」
 優しい瞳のまま、真紅はジュンの手を取り、そっと自分の頬に導いた。
「そのときが来たら、思い出して頂戴。貴方の選択は、私の選択。いつでも貴方の傍にいる、幸せな貴方のお人形。それが私……」


 めぐの病室に戻ると、先刻の見舞客達の姿は消えていた。代わりにそこに居たのは、中年の男性だった。
 めぐは話もせず、ベッドに腰掛けた男性の膝の上に抱かれて目を閉じている。水銀燈が窓からベッドの上を飛び越えて病室を横切っても気付く様子もなかった。
 ぴくりとも動かず、幸せそうな表情をしている彼女はまるで人形のようにも見える。
 空を飛ぶ、と威勢の良いことを言っていた割には、めぐの望んでいることは哀しいほどささやかな、それでいて実現することが不可能に近いものだった。めぐの父親は忙しく仕事を続けている。それもめぐのためではあるのだろうが、めぐの望みを汲み取っているわけではない。
 めぐの友人として、その件について当の父親に一言文句を言ってやりたいとは思うものの、実行に移すのは躊躇われた。恐らく父親は父親なりに、水銀燈には見えない事情を抱えているに違いない。めぐもそれを承知しているから素直に傍に居て欲しいと言えずに捻くれる、という側面もあるのだろう。
 いずれにしても、水銀燈としては局面が動くまでは棚上げしておく方がいい問題ではあった。他にもやるべきことは多いのだし、感情に任せて口を挟むことがプラスに働くとは限らない種類の話だった。

 廊下に出ると、ナナは戸口からじっと病室の中を見守っていた。伸ばしていた白茨も回収したのか見当たらない。
「どう? 姫様の我儘の程度は」
 笑みを浮かべて言ってやると、振り向いたナナは小さく首を振って微笑を浮かべた。
「思い切り、甘えていました。お見舞いの人みんなに……夢だと分かっているからでしょうか」
 つまり、ナナの出番は殆どなかったということだ。
「お父さんがみえて、お見舞いの人がみんな帰ってからは、ずっとああしています。ときどき話していますけど……」
 ナナは何かを思い出したように口をつぐみ、また前を向いた。
「また人形師に会えたら、貴女もあんな風に抱かれて居たい?」
 ちょっとした好奇心に駆られて意地の悪い質問をすると、ナナは素直にはいと頷き、一拍置いてから付け加えた。
「……本当は誰でもいいのかもしれません、私は」
 呟いた声は壁に吸い込まれるほど小さく、自信なさげだった。
「こちらの世界群に来て初めてなんです。こんなに何人も、現実世界で触れ合って」
 そう、と水銀燈は頷き、それ以上の追及はやめた。
 夢で、精々姉妹の誰かに成り代わってそれらしい台詞を述べる以外に人との接触を持たなかったナナにとって、何もかもが未知で新鮮だったろう。その感覚に、彼女は酔っ払ってしまっているのかもしれない。
 その新鮮さが失われたときに、彼女は漸く誰かを求め始めるのだろう。
「ところで、めぐには悪いんだけど、ちょっと行って欲しいところがあるの。この建物のテラスに当たる部分にね」
 水銀燈のあまり楽しそうでもない言い方に、ナナは首を傾げる。
「わたし……ですか?」
「ええ」
 水銀燈ははっきりと憂鬱そうな顔つきになっていた。
「貴女の姉妹がこの夢に入り込んでいるのよ。今は気を失っているけどね」
 ナナはびくりとしたが、目を閉じてこくりと頷いた。臆病なりに、ある種の覚悟はできているのかもしれなかった。


 ぴくりと指が動いた。長い睫毛が揺れ、大きな蒼い瞳が開かれた。
「ここは……?」
「まだ、君が気を失った夢の中さ」
 片膝をついた姿勢の蒼星石が答えると、赤い服を着たドールは一気に正気づいた様子で、上半身をがばっと起こして辺りを見回した。
「『翠星石』……!」
 彼女の傍らには、大きく服を切り裂かれた姉妹が横たえられていた。
「動力源は身体を離れていない。君と同じように気を失っているだけだろう」
 蒼星石は淡々と語り、帽子を取って『翠星石』から自分に視線を移したドールに挨拶をする。
「僕は蒼星石。大まかな話は聞かされている。はじめまして、『真紅』」
 立ち上がった『真紅』はなんと答えればいいのか言葉を探しているようだったが、やがて、はじめまして、と控え目に挨拶をした。
 蒼星石を見て驚かないはずはないが、今は姉妹の安否の方が重要なのだろう。すぐに座り込んで『翠星石』の上体を抱き寄せる。
 ボディや腕、顔に付いた傷を確かめ、それがさほどのものではないことを知って安堵の息を漏らし、服の破れた箇所に手をかざす。
 眩しい光がそこに生まれ、収まったときには『翠星石』のドレスの破れは修復されていた。真紅の時計と似たような「物の時間を巻き戻す」能力を自力で持っているのだろう。
 与えられた能力の違いをまた見せ付けられたような形だが、蒼星石の顔には微笑が浮かんだ。
 自分達とは桁違いの力を振るう彼等だが、『真紅』が必要以上に好戦的、敵対的という訳でないことは分かった。少なくとも姉妹を思い遣ることは忘れていないし、この場で逆上していきなり仕掛けて来るような性格でもないようだ。
 ただ、何処か脆く、危うい部分がそこここに見え隠れしているような気がするのは何故だろうか。
「安全圏に運んでくれたのを感謝するわ、蒼星石」
 『翠星石』を膝枕しながら『真紅』は蒼星石を見上げた。
「……蒼星石だけど『蒼星石』ではないのね」
「残念ながら」
 蒼星石は複雑な表情になって肯定した。
「彼女の動力源──『ローザミスティカ』は、君達が戦った相手の中だ」
「知っているわ。だからこそ、戦いになってしまった……」
 言いながら『真紅』は膝枕したドールの顔にちらりと視線を向ける。なるほど、と蒼星石は頷いた。
 戦闘の切っ掛けが理解できたような気がした。『翠星石』は双子の妹絡みだと血の気が多くなる性格なのかもしれない。
「……あのドールは?」
「僕達が見付けたのは君達二人だけだ」
 蒼星石は事実だけを告げた。
「あのドールについては話すと長くなる。説明はここでなく──」
 言いかけたとき、視界の隅で何かが動いた。視線を向けると水銀燈がナナの手を引くようにして舞い上がってきたところだった。
「説明役が到着したようだ。後は任せることにするよ」
「やりたくてやってるわけじゃないったら」
 翼を畳んで歩み寄って来た水銀燈は蒼星石を睨みつけた。

 挨拶を済ませると、水銀燈は例の人形師が自分に『蒼星石』と『雛苺』の動力源を託したこと、彼の意図は分からないが、一方はあの人形に渡すように書置きが残され、そこに「『水銀燈』に容易に渡さないように」と理由とも注意書きとも取れる追記があったことなどをごく簡単に説明した。
 『真紅』はちらちらとナナの方に視線を遣りながら緊張した面持ちで聞いていたが、特に口を挟むことはなかった。事前に人形師から動力源を託した相手に対してある程度の話は聞いていたのだろう。
 水銀燈はひとつ息をつき、自分の後ろに隠れるようにしているナナの肩に手を置いて前に押し出した。
「もう一つの方は、ここにいる貴女の一番下の妹に渡したわ。私の判断でね」
「第七ドール……? 貴女が」
 『真紅』は訝しげな目でナナを見、水銀燈に視線を戻した。
「何故、そんなことをされたのですか」
 蒼星石は眉を顰めた。『真紅』が目上の者に対するような言葉遣いをしたからだ。
 そういえば先程から少し気構えているようにも見える。自分に対しては特にそういうことはなかったのだが。
「この子が身を守るために必要だったから、と言うしかないわね」
 水銀燈は『真紅』の態度に疑問を抱く様子もなく、苦笑して続けた。
「貴女達はあの人形と痛み分けになったようだけど、この子は私の末妹に狙われたってわけ。全く、どっちも厭な相手に目を付けられたものね。多分貴女達にとって、こっちの世界で一番厄介な二人よ」
 それ以上詳細には踏み込もうとせず、後は自分で話しなさい、とナナの肩に置いた手を放す。
「私は夢の主のところに行くわ。いい機会だから、あの捻くれ者に自分の心の木がどう歪んでるかを見せてやるつもり」
 どうやら、彼女はナナを文字どおり楼上に上げて階段を外してしまうつもりらしい。蒼星石は一つ息をついた。
「それは僕に同道しろと言っているのかな」
 当たり前でしょう、と言うように水銀燈は少し大きく眉を顰めてみせる。蒼星石は苦笑し、不安そうな顔をしているナナの肩に手を置いてから背を向けた。
 水銀燈はさっさと降下を始めていた。急いでそれに追い付き、壁に沿って降下しながら尋ねてみる。
「彼女一人にしていいのかい」
 水銀燈は面白そうな表情で振り向いた。
「さあね。どっちかが短慮さえ起こさなければ問題ないでしょう。どうせ細かい話は後でたっぷりさせられることになるんだし、少しは手を抜かせて貰うわ」
 そう言ってにやりと笑う。案外、彼女はただ毎度のように説明を繰り返すのを面倒がっただけなのかもしれない。

 病室に入るところで、蒼星石はテラスを振り向いた。
 自分よりは遥かに『真紅』のことを知っている水銀燈が二人きりにすることを選んだのだから、滅多なことはあるまい。無闇に力を振るうには疲れてもいるはずだし、あの惨状を見て考えていたほど粗暴な性格ではないのも見て取れた。
 ただ、それでも不安はあった。力に直結するという点は置いておくとしても、初めて見た姉妹と、それが持っているという姉妹の動力源を目の前にして、『真紅』は冷静で居られるのだろうか。
 病室の中からめぐと水銀燈の声が聞こえてくる。蒼星石は頭を一つ振り、自分も窓から病室に飛び込んだ。


 正直なところナナは、震えていないのが自分でも不思議なほどに怖かった。
 初めて間近で見る第五ドールは真紅とよく似ていたが、真紅にはない険のようなものがあった。それは寂しさの裏返しのようにも見えた。
 もう一つの気配もあるが、そのことは考えないことにした。意識してしまったら、この場から逃げ出したくなってしまう。
 どうにか自分を奮い立たせて、ナナは口を開いた。
「初めまして、わたしは……第七ドール。今は『雛苺』のローザミスティカと『ベリーベル』を預かっています」
 ナナです、と言いそうになって堪える。それは素朴で捻りのない、ただの呼び名だった。
「あなたが……本物の」
「はい」
 ナナはこくりと頷いた。少なくとも、彼女は偽者ではなかった。
「いつから目覚めていたの」
「多分、お姉様達と一緒です……」
 自分の臆病さを恥じて目を伏せてしまう。視線を合わせて受け止めなければならない、と頭では分かっているのに、どうしてもできなかった。
「……おねえさま?」
 ぴくり、と『真紅』のヘッドドレスが動いた。
「お姉様なんて、呼ばれたくないわ。あなたに」
 はっと目を上げると、『真紅』はこちらを強い視線で見詰めていた。瞳の色は薄い藤色に変わっている。
 ナナは息を呑んだ。彼女の姉は憎悪と怒りと軽蔑を彼女に向けていた。
 だが、それだけではなかった。別の何かがその瞳に存在している。その「何か」が、逃げ出したい彼女の臆病さを上回り、身体をその場に縛り付けてしまっていた。
 いや、ナナは逃げ出すことさえできないほど怯えてしまっていたのかもしれない。自分が相手に負けないだけの力を持っていることは、意識の中にはなかった。
「あなたは卑怯だわ」
 棒のように突っ立っているだけのナナを真っ直ぐに見ながら『真紅』は一歩前に踏み出した。自分の強さに裏付けされた、迷いのない歩き方だった。
「何故、目覚めていたのに名乗り出なかったの。本物の第七ドールだと」
 何も言えないナナに、『ローゼンメイデン』の中でも特別な存在とされている五番目の娘は残酷な問い掛けをした。問い掛けというよりは自分の思いを吐き出しただけかもしれない。
 どちらにしても、ナナは答えられなかった。『真紅』も相手の言葉など必要としていなかったのだろう。また一歩を踏み出しながら、彼女は言葉を投げつける。
「あなたが……あなたさえ名乗り出ていれば、あんなことには」
 相手が間近に迫った、と思ったときには、ナナの視界は横倒しになって流れていた。一瞬置いてテラスの壁に叩きつけられる。
 力の乗った拳を食ったのだ、と理解するのと次の一撃が襲ってくるのは一緒だった。水平に飛ばされ、今度は機械室の壁に叩きつけられる。跳ね返って床に頭を打ちつけて一瞬意識が飛び、目の前が暗くなった。
 次に明るくなったときは、彼女は視界一杯の青い空を見ていた。先程までと同じ空なのに、これまでになく広く、そして明るいように思えた。
「『水銀燈』が騙されることも」
 『真紅』の声が聞こえ、視界が揺れた。右の頬の上から何かが飛んでいった。
「『蒼星石』が遠くに行ってしまうことも」
 今度は逆の方に揺すられる。そのときになってやっとナナは、自分が仰向けにされて腹の上に座られ、頬を交互に殴られているのだと気付いた。
「『雛苺』が動かなくなってしまうこともなかった!」
 また、何かが飛んでいった。自分の衣装や髪飾りが壊れて飛んで行っているらしかった。
「他の姉妹が戦うことも……薔薇水晶だって、もしかしたら、和解できたかもしれない」
 意識がまだあるのが不思議だった。それなのに、恐怖はなくなっていた。単に恐怖心が一周して、何も感じなくなっているだけかもしれない。
「あなたが……あなたのせいで」
 頭部への打撃は止んでいた。『真紅』は力なくナナのボディを殴りつけた。
 ナナは苦労して頭をもたげた。ぎし、という音はしたが、自分の腹の上に跨っている相手の姿は見て取れた。馬乗りになって彼女を殴りつけていた『真紅』は、下を向いて嗚咽を漏らしていた。
「どうして……あなたは……どうして」
 ぽたり、ぽたり、と何かが胸の上に落ちてくる。
 ナナはぎこちなく右手を動かしてみる。痛みは酷く、関節が渋かったが、どうにか無事に持ち上がった。
 どうやら、ナナの父親は力を持たせないように作っただけで、彼女のボディの強度までは脆弱にしなかったらしい。
 弱者が何かを掴み取っていくのに、人並みに頑丈な身体だけは必要だと考えたのかもしれない。あるいは彼にとってドールの強弱というのは単に付与された能力のことであり、ベースとなるボディのことまでは考えが及ばなかったのだろうか。
 どちらにしても、脆弱でなくて良かった、とナナはぼんやり考える。もし壊れやすい身体だったら、『真紅』は『水銀燈』に続いてもう一人、姉妹を壊すことになっていただろう。
 手をゆっくりと『真紅』の顔に伸ばす。にべもなく振り払われた。また伸ばす。振り払われる。
 何度目かになって、漸く『真紅』は振り払うのを止めてくれた。ナナはそっとその頬を撫でた。滑らかな頬は涙で濡れていた。
「ごめ……なさい」
 口が上手く回らなかった。それでも、言葉は伝えられたと思う。
「わたしの、せいです」
 『真紅』の言うとおりだった。薔薇水晶が偽りを広めたとき、ナナは出て行くべきだった。
 力のないナナに何ができたかは分からない。だが、上手く行けば少なくとも『蒼星石』が『水銀燈』と戦うことは回避できたろうし、そうなれば『雛苺』が動かなくなることもなかった。
「わたしが、臆病だったから。謝って済むこと、じゃ、ないですけど……ごめんなさい」
 『真紅』はもう一度ナナの手を、今度は邪険に振り払った。頑なな仕種だった。
「返しなさい、『雛苺』のローザミスティカと『ベリーベル』を」
 泣き声のまま、しかし冷たく『真紅』は言った。
「あなたを許すつもりはないけれど、わたしはもう姉妹を手に掛けたくない」
 『真紅』は結局、彼女なりに手加減していたのだろう。薔薇の花弁を使わずに、自分の手で殴りつけることで。

 ナナは目を閉じた。
 彼女の言葉に従って、動力源を渡した方が良いのかもしれない。
 『雛苺』と『蒼星石』なら、探すのに一番相応しい姉妹がここにいる。多分彼女達は二体のボディも持ち運んでいるのだろう。
 『蒼星石』の動力源は別の人形が持っているというが、『雛苺』の復活に必要なものは、ナナが動力源と指輪を渡せば全部揃うことになる。後は魂を呼び戻すだけだ。その役も、自分より『真紅』の方が相応しいに違いない。
 それはとても合理的な考え方に思えた。
 だが、本当にそれで良いのだろうか。



[19752] Aus dem Traum(2)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/02/17 00:19
「どう? 私の心の木とかいうやつの捻じ曲がり具合は」
 自分の心の木を背にして、めぐは両手を広げてみせた。
 木は、意外にもかなりの大きさに育っていた。中途で何度も枯れかかり、その度に捻じ曲がっては元の幹から出た枝の一つに成長を任せるようなことを繰り返していたが、それは言い換えればめぐの戦いの証でもあった。
 身体が思うようにならなかっただけではない。彼女の心もまた、何度となく折れては伸びることを繰り返してきたのだ。
「そうねぇ。貴女そのものね。美しくないったら」
 水銀燈はややわざとらしく肩を竦めてみせる。
「でも、これはこれでありでしょう。いびつな盆栽だって愛好家はいるものねぇ。誰か一人くらい、この木を愛でる好事家もいるでしょうよ」
「一人ね……それって貴女ってことかしら」
 めぐはにっと笑って振り向き、改めてしげしげと自分の心の木を眺める。
「いやに雑草が多いけど、これはどういうこと?」
「それは貴女の心を邪魔してる要因。貴女の心に引っ掛かってる厭な記憶とか無駄な事柄が形を成したものよ」
 水銀燈は振り向き、一歩後ろで硬い表情のまま心の木を眺めている蒼星石を指す。
「それを切り払うことができるのがこの子」
 言いながら、水銀燈は目立たないように蒼星石に目配せした。
 蒼星石は無言で瞬いた。水銀燈の言っていることは単なる事実だが、そんな話をしている場合とは思えない。
 ただ、水銀燈が何気ない風に話をしているのには何か理由があるのだろう。今は話を合わせておくべきだった。
「便利なのね。凄いじゃない」
 言葉ほど感心してはいない風にめぐは蒼星石の方を見、すぐに水銀燈に視線を戻した。
「具体的にどうなるの? 厭な記憶が全部消えちゃうってこと?」
「一時的に忘れてしまうけれども、その記憶そのものが消えてしまう訳じゃない」
 蒼星石は心の木に歩み寄り、めぐの傍らで雑草を撫でた。
「雑草はあくまで、記憶の海や心の木の根元から生えてきた、貴女の心の表層に浮かんだ気懸り、心に引っ掛かった刺のようなものに過ぎない。無駄な気懸りを忘れても、記憶が消えてなくなることはないんだ。雑草は何かの拍子にまた生えてくることもあるし、勝手に枯れていくこともある」
 心の木も記憶そのものではない、と蒼星石はめぐの手を取り、捻じ曲がった心の木の幹に触れさせた。

「これは全て、貴女の心のありようだ。
 記録としての記憶とは違うから、心の木の枝が折れても物事を完全に忘れてしまうことはない。何かの切っ掛けで記憶を浚い出し、また同じように枝が伸びることもある。
 でも、雑草とは違う。良い部分も悪い部分も含めて、心の木に表れているのは、現在の貴女の心の構成要素なんだ」

 必要なことを思い出せなくなる、というのは、記憶の海の底にそれが沈んでしまうことだ。一旦そうやって沈んでしまったら、それを取り戻すにはどれほど時間が掛るのか、確実なことは言えない。
 心の木の枝の一つ一つは、それがどんなに陰惨な記憶を示すものでも、忘れたい記憶を象徴するものであっても、心の構成要素であることに変わりはない。切り落としてしまえば、それだけ心は欠けて行く。
 そして、蒼星石の鋏は、それを無差別に行う力を持ったモノだった。本来の使い方は雑草を刈ったり、翠星石の如雨露と組み合わせて使うものではあるのだが、心の木を切り刻むことも可能だった。
 あの薔薇屋敷の一件以来、蒼星石は鋏を振るっていない。武器としては雪華綺晶との戦いで使ったものの、本来の使い方でも、心の木を切る凶器としても使ってはいなかった。

「記憶というデータベースは消えないけど、思い出すというソートや検索ができなくなるわけ」
 水銀燈は自分なりに分かりやすそうな言葉に直してみせた。
「巨大なデータベースを持っていて、アクセスだけはどうにかできても、検索もソートもできなくなれば無いのと同じになるでしょう? 手で探すのは巨大であればあるだけ大変で、実用的でなくなるわね。心の木を切ってしまう、忘れてしまうというのはそういうことよ。そして、雑草を刈るのは、そうね、今作業中のファイルの表組みから要らないデータを削除するようなものってところ」
 一気に言ってしまってから、水銀燈は訝しげな顔になる。蒼星石もめぐも、ぽかんとした表情でこちらを振り返っていた。
「ごめん、僕には何の喩えなのか理解しにくい」
 蒼星石は済まなそうに頭を下げ、めぐは肩を竦めてみせた。
「水銀燈って昔、事務でもやってたの? 妙に詳しそうなんだけど」
 水銀燈ははっと気付いた。つい媒介の記憶から引き出した言葉を組み合わせてしまっていた。
 彼の記憶こそ、水銀燈のデータベースと言うのに相応しいものだった。出所が混同されることはないのに、うっかりすると自分自身の記憶よりもはっきりと効率よく引き出せる。ただし、そこには感情は篭っていないけれども。
「……たまたま知ってるだけよ」
 少しばつが悪そうに、水銀燈はそっぽを向いた。めぐが吹き出し、蒼星石が苦笑するのが見ていなくても分かった。


 目を閉じ、馬乗りされたまま、ナナはゆっくり息を吐いた。
 『真紅』が、ある意味で済んでしまったことにここまで拘っているような素振りをしている理由が、ナナには分かっていた。

 彼女は寂しいのだ。どうしようもなく。

 『蒼星石』と『雛苺』、遠くに行ってしまった姉妹のことは、取り戻すことができる問題だった。むしろ取り戻すために必要な動力源と指輪を水銀燈から受け取るために、彼女はこの世界に来たのだろう。
 振り返れば陰惨な記憶があったとしても、それ自体は前向きな課題だった。
 しかし、もう取り戻すことができないものもある。そして、それは自分達の課題とは全く関係のない原因で、唐突に断ち切られてしまった。
 ナナも、『真紅』も、もう元の世界には戻れない。ただ、それは両者が同じ哀しみを抱えているということではない。
 元の世界に何も持っていなかったナナには本当の意味では分からない、楽しくて暖かな生活が『真紅』にはあった。多分こちらの世界で真紅や翠星石が桜田ジュンに抱いているような想いを、あるいはもっと強い想いを『真紅』も自分のミーディアムに持っていたはずだ。
 『真紅』がミーディアムの居る元の世界に残らなかった理由は分からないが、そこに葛藤がなかったはずはない。こちらに来る決断をしたといっても、寂しくないわけがない。
 ただ、『真紅』はそんな自分の弱さを認めることはできないし、かといって寂寥や悲哀を完全に自分の内側に落としこんでしまえるほど強くもないのだろう。
 だから、それをナナの罪に転嫁して、彼女はナナを殴るしかなかった。そうやって、他の姉妹が見ていない場所で何かに仮託してぶつけることでしか、気位の高い彼女には寂しさを紛らす手段がなかったのだろう。

──最高の『ローゼンメイデン』の『真紅』にも、弱さはあったんだ。

 ほっとしたような、それでいて切ないような気分がナナの胸に生まれた。
 『真紅』が完璧でないことは分かっている。完璧であればとうの昔に『アリス』として認められ、そもそも『雛苺』や自分は作られることすらなかったはずだ。
 だがそれでも、姉妹の中で最も優遇され、父親に最も愛されていた『真紅』には弱いところを持っていて欲しくなかった。
 父親と親しかった水銀燈に言わせれば、良い意味でも悪い意味でも「人間臭い」という人物だが、それでも彼の作った最高傑作くらいは、目立った欠点を持たないものだと思っていたかった。
 だが、人間臭い人形師の作った最高傑作は、やはり人間臭い弱さと脆さを抱えたドールだった。
 そのことに失望したわけではないし、そんな風に思う資格が自分にはないのも分かっていたが、ナナは切なかった。

 目を開くと、『真紅』はじっとナナの顔を見詰めていた。気のせいか、あれほど強かった視線が少し弱々しいものになっていた。
 魂の捜索を抜きにしても、『雛苺』の動力源は、自分などよりずっと『雛苺』に近い『真紅』が持っている方が、『雛苺』のためにも、『真紅』のためにも良い。『真紅』はそれを、少なくとも他の姉妹を壊すためには使わないはずだ。
 だが、それでいいのだろうか。
 水銀燈はナナに、もう逃げられないわよ、と念を押した上で動力源を渡してくれた。そして、そのときナナは誓ったはずだ。『雛苺』の動力源に。
 頭を床につけて空を見上げる。蒼くて綺麗に澄んだ、しかし作りものの、柿崎めぐの願望のままの、都合のいい空だった。
 現実世界に戻ったら、今度は本物の空を見上げようと思う。あまり綺麗でない、淀んだ空でいい。何故かそう思った。

「──今は、渡せません」

 まだ上手く回らない口を懸命に動かして、ナナはどうにか声を絞り出した。
「『雛苺』と『蒼星石』の魂が見付かるまで、わたしに、力を貸してくれるように──わたしが、二つの魂を、探せるように、呼び戻せるように、お願いしたんです」
「そんな勝手なこと」
 『真紅』は冷たい口調のまま、突き放すように、しかし少し力の抜けたような声で言った。
「『雛苺』の魂も『蒼星石』の魂もわたしが呼び戻すわ。あなたの助力なんて必要ない。お父様が──」
 『真紅』の瞳から、溜まっていた涙がつうっと零れ、またナナの胸の辺りに落ちた。
「お父様が仰ったのだもの。『アリス』になるために、戦うこと以外にも道があるのだと。これはわたしの問題、わたしが背負っていかなくてはならない事柄だと」
 嗚咽が漏れた。
 その言葉は、発せられたときはまだ絶望よりは希望を抱かせる、過去よりは未来を感じさせるものだったはずだ。だが、今となっては、それはもう逢うことのできない人形師の遺言のようなものになってしまった。
 ナナは『真紅』の手に手を重ねた。今度は拒む気力もないように『真紅』はそのままにしていた。

──あなたは、かわいそう。

 素直にそう思った。
 彼女達にとって、もう『アリス』になることの意味は半分も残っていない。
 父親である人形師は、元の世界群から自分の娘達をこちらに遣したとき、恐らく一人ひとりのところを回って事情の説明と最後の別れをしたはずだ。
 父親に会いたい、という願望は、そこで達成されてしまった。そして、父親にずっと愛されていたい、という願望は、砕けて散ってしまった。もう究極の少女になろうとなるまいと、元の世界群に留まった父親には二度と逢うことはできないのだから。
 ナナは、元々諦めていた。悪い言い方をすれば『アリスゲーム』においては他の姉妹が究極の少女になるためのアイテムの一つを保管しているようなものに過ぎない彼女は、父親に会うこと自体を諦めていたし、逢えると考えてもいなかった。
 実際に彼が姿を見せたときも、感慨は湧いたがそれだけだった。むしろ、彼の言い添えてくれた一言で救われたような気がしたほどだった。
 しかし他の姉妹にとっては、それは始まりというよりは終わりだったろう。
 本当はそのまま周囲の人々──とりわけ自分のミーディアム──と共に世界の終焉を迎えたかったのに、愛する父親や当のミーディアムの意思を汲んで無理に扉を潜った者さえいるに違いない。
 例えば、目の前に居る姉妹のように。

 ナナは『真紅』の手を不器用に撫でた。
 撫でながら、まだぼんやりしている頭で懸命に考えてみる。
 この、大きな力を持ち、それを自覚している故に完璧主義で全てを背負い込んでしまう自分の姉を、名前も持たず、力も強さも持っていない自分がどうやったら慰められるのだろうか。
 分からなかった。分からないまま、ナナは『真紅』の手を撫で続ける。『真紅』はもうナナの手を振り払おうともせず、放心したように座り込んでいた。
 それを見たくなくて、また上を向く。
 視界に入る限りの空は、相変わらずの柔らかい青だった。柿崎めぐがいい夢を見続けていることの証だった。
 一つ、溜息が漏れた。
 一方では無力さを噛み締めているくせに、他方ではめぐの夢が哀しいものに変わっていないことを単純に喜んでいる。そんな自分は浅ましい存在なのかもしれない。


 めぐを病室に帰して、蒼星石と水銀燈はテラスに向かう前に中庭に寄り道をした。
 実際にはガラス張りの小さな植物園があり、四季の花が咲いているのだが、残念なことにめぐはひどくおざなりにそれを作っていた。四角い箱のモデルにテクスチャを貼ったようなそれは、人形達が大暴れした街並みと同程度のぞんざいな代物だった。
 それでも、めぐの居ない所で話し合うことはできる。今はそちらが重要だった。
 水銀燈は壁に凭れ、蒼星石は妙に平面的な建物の造作を手で確かめるようにしていた。
「白茨……」
 それだけ呟いて水銀燈は舌打ちした。

 めぐには雑草と纏めて説明したが、心の木には、多くの雑草に混じって白い茨が巻きついていた。
 オディールのそれのように、完全に木に成り代わってその養分を吸い尽くそうという勢いはなかったが、幹に寄り添うように上の方まで絡みつき、横に張り出した一つの枝の先端で隣の木を求めるようにぶら下がっていた。
 めぐが興味半分で蒼星石に雑草を刈り取らせたとき、茨までやってみろと言い出さなかったのは幸いだった。蒼星石が切った振りをしたのに騙されたのか、試しにやらせたことで刈り残しを特に気にしていなかったのかは分からない。

「この間──71時間24分前に見たときは、茨なんて見当たらなかったのよ。まさか末妹がこんな死にかけに手を伸ばしてるとはね」
 言いながら、だんだん腹が立ってきたのか壁を一つ蹴りつける。出来の悪い映画のセットのような壁は、穴が開くことも崩れることもなく平然と彼女の爪先を弾き返した。
 ふん、と不服そうに鼻を鳴らし、踵でくるりと半回転してまた壁に凭れる。気持ちを落ち着かせるように一つ息をつき、腕を組んで斜め上を見上げた。

「しかし、腑に落ちないわね。
 あいつの記憶にあるのとは違って、この子は誰とも契約を結んだことはないし、精々私の友人って程度。
 心の木が契約者の誰かと近しいわけでもない。柏葉巴やら桜田のりの方がまだ先に目をつけられそうなものだけど」

 あるいはもうその二人には手を伸ばしているのだろうか。一本だけ伸びる茨はマーキングのようなもので、標的にされた者はそれだけでは全く気が付かないということなのか。
 それにしても、めぐは薔薇乙女達との関係は薄く、寿命がいつ尽きるか分からない不安定さもあり、その割に中途半端に手を出したときのリスクは高かった。
 特に今なら雪華綺晶自身の創り出した人形が、心の木のことを知れば彼女に牙を剥くだろう。あの力を持ったままで。
 めぐを標的にしたなら、さっさと自分の糧として隔離してしまった方が得策のはずだ。そうすれば、逆に取引材料としても使えるかもしれない。
 雪華綺晶に唆された人形があの力で姉妹を潰して回る、などという破目になったらアリスゲームは雪華綺晶以外の全滅で終わってしまうだろう。ただ、そうなったときは雪華綺晶は誰のボディも入手できず、恐らくアリスにもなれないだろうが。

 蒼星石は壁に手を当てたまま、半ば目を伏せるようにした。
「果たして雪華綺晶なのかな」
 ぽつりと言って水銀燈を見遣る。水銀燈は苛々と壁に踵を打ち付けていたが、首を傾げて蒼星石に視線を向けた。
「……どういうこと?」
「気になっていることがあるんだ」
 蒼星石は壁に片手を当てたまま、身体は水銀燈のほうに向き直った。
「今朝の雛苺の夢、そして今回の柿崎めぐさんの夢。どちらも白い茨が、開いた夢の扉から漂い出ていた」
「それはナナのものだと思っていたけど」
 蒼星石は頭を振った。
「僕も最初はそう考えていた。だが、それはほぼ有り得ない」
 蒼星石が自分の考察──ナナが白茨を伸ばすはずがないこと──を語ると、水銀燈は顎に手を当てて考え込んだ。
「ナナでないのはいいとして、末妹でもない、と考える理由は何?」
「君が言った、ターゲットとしての不適切さがある。それにもうひとつ、オディール・フォッセーの状態も不可解だ」
 蒼星石はあまり面白くなさそうな顔になった。
「契約者として現れたのに、その時点から既に力の吸われ過ぎのようにふらふらしていた。もし、雪華綺晶が他に糧と成り得る対象を見付けていたら、契約した相手から心を吸い取るような半端なことをするよりも、そちらから糧としていった方が早い」
 なるほどね、と水銀燈は軽く頷いて続きを促した。
「この場に居る、あるいは居たことが分かっているのは、僕達とナナ、ナナの姉妹二人。それと──あの人形だ」
 蒼星石は病院の壁を見上げる。中庭の建造物に比べれば、壁はそれなりに現実的に作られていた。
「素材を彼の記憶に求めたとはいえ、あの人形を作ったのは雪華綺晶だ。生み出された後も両者には何等かの繋がりや共通点があると見ていいと思う。例えば同じ白茨を残していく、というような」

 水銀燈は空を見上げ、考えを整理するようにまた腕を組んだ。
「それは、あの人形がめぐの生命力を吸っているということ? 契約も結ばずに」
「いや、そこまでは断定できない」
 一足飛びに結論を急ぐ水銀燈に、蒼星石は苦笑しながら首を振った。
 心の木に巻きついた雪華綺晶の白茨は捕食器官のようなものだが、似た姿をしていてもあの蔓が同じ機能を持っているとは限らない。何か別の、例えば人形がめぐに寄り添いたい心の具象化のようなものとも考えられなくもない。
「ただ、あの人形が白茨を無意識に伸ばすと考えれば、辻褄が合うことは多いんだ」
 水銀燈は上を向いたまま、ふんと鼻を鳴らした。面白くないがその可能性はある、という意思表示のようなものだった。
「あの人形を探すべきか、経過を見守るべきか。微妙なところねぇ」
 腕組みを解いて、また顎に手を当てる。口だけでなく、どちらかを実行するつもりのようだった。
 蒼星石の中で、何かが解けていくような感覚があった。その感覚に引き摺られるように、彼女は思わず微笑を浮かべてしまう。
「探すのは大変そうだね」
「……笑ってる場合じゃないのよ、私としては」
 蒼星石の顔を視界の隅に捉えたのか、水銀燈は彼女に向き直り、不服そうな目で軽く睨んだ。
「柿崎めぐは媒介でも契約者でもないけど、友人なの。それが危険に晒されてるかもしれないわけ」
「そうだね、不謹慎だった。済まない」
 そう言いながらも、蒼星石はあまり見せない柔らかな表情になっていた。
「少し、嬉しかったんだ」
「何が嬉しいのよ」
 水銀燈は不審そうに眉を寄せる。
「まさか、私に面倒事が増えたことを嬉しがってる訳じゃないでしょうね」
「そうかもしれない」
 柔らかな表情のまま、あっさりと蒼星石は答えた。
「君がアリスゲームに関係の無さそうなことにも心を砕ける人だと、その面倒事のお陰で遅まきながら確信できたよ」
「貴女ねえ……」
 翠星石といい雛苺といい、人を何だと思ってるの、と水銀燈は呆れたと言いたげに、しかし満更でもなさそうな声音で言った。それから少し悪戯っぽい表情になって付け加える。
「まあ、ここは私の媒介の恋人に、やっと私って薔薇乙女の人格を認めて貰えたと考えるべきかしらね。お気に召しまして?」
 蒼星石は少し顎が引けてしまうのを感じた。この手の逆襲は、何度食らっても慣れない。
 頬が熱を持ってしまうのが分かる。だが彼女は、視線を逸らすことも黙り込むこともなかった。
「うん。ここまで来てやっと、だね」
 蒼星石は少々人の悪い笑みを浮かべてみせた。
「彼にも言っておくよ。僕は貴方のかけがえのない人のことを、漸く理解できた気がする、って」
 水銀燈はやや迂遠な言い回しの意味を測りかねたように口をつぐむ。一拍置いて、笑いながら頷いた。
「──おめでとう。アプローズ」
 随分長いこと回り道したものね、と笑う水銀燈の表情は、少し素直ではなかったが、少なくとも邪気のないもののように蒼星石には思えた。


 どれだけそうしていたのか、正確なところは分からない。『真紅』が立ち上がる気配がして、それから複数の足音が聞こえた。
「また派手にやらかしてくれたわね。今度は肉弾戦? 私達が食らったらひとたまりもないレベルね」
 水銀燈の声がして、ナナは手を掴まれて立たされた。
 不思議なことに、今までは見えなかったところまで見えているような気がする。水銀燈と蒼星石が左右に立ってこちらを見ている。『真紅』は少し離れて『翠星石』の傍らに居た。
 改めて足許を見てみた。テラスの床には長い髪が散らばり、壊れた白い薔薇の髪飾りと薄い肌色の何かの破片が飛び散っていた。
「右目が……」
 気遣わしげな表情の蒼星石がナナの右頬に触れる。
「アイパッチが外れてるじゃない。こっちは見えるの?」
 水銀燈がナナの左目に手を当てた。ナナは瞬いた。
「──見えます」
 左目を塞がれて視野は狭くなったが、物は見えている。彼女の右目は機能していた。
 それはおめでとう、と水銀燈は如何にも口だけという言い方をしてみせ、手を引いて肩を竦めた。
「まあ、顔は酷いもんだけど。男なら『男前になった』って言ってやるところね」
 くっくっと喉の奥で笑うような仕種をしてみせ、『真紅』の方に歩み寄る。ナナもつられるようにそちらに視線を遣った。
 『真紅』は背筋を伸ばして立っていたが、あまり元気がないように見えた。目に先程までの強い光がなくなっているからかもしれない。
「教えてください」
 近付いてきた水銀燈に、『真紅』は固い口調で尋ねる。少し背が違うせいで、間近で相対するとやや上目遣いになっていた。
「何故、第七ドールに『雛苺』のローザミスティカを渡したのか」
「同じことをもう一度説明させるつもり?」
 水銀燈は呆れ顔になった。ややオーバーな表情だったが、『真紅』がそれを理解したかどうかは分からない。
「その子は貴女達の姉妹の中ではイレギュラーな存在。これといった能力も人工精霊も持っていない。『雛苺』の動力源を持って初めて、漸く人並みの力ってことになる勘定よ」
 ちらりと、まだ横たわったままの『翠星石』を見遣ってから続ける。

「貴女達の『お父様』の書置きに、『水銀燈』に貴女達の動力源を渡さないように、って書き添えられていたのは話したわね。
 それは、力を持たないドールを放置しておいてはいけないということでもある。私はそう考えたわけ。
 もっともその子はとことん欲がなかった。取り込むとき、ご丁寧にその動力源に誓いまで立てたのよ。
 『雛苺』と『蒼星石』の魂を呼び戻すまで頑張る、その間だけ力を借してくださいって。
 呼び戻して全員揃っても、いつまた潰し合いが始まるか分かったものじゃないってのに。御人好しもいいところだわ」

 『真紅』は唇を噛んで目を伏せた。
 自分の怒りをぶつけた相手が不適切だったと後悔しているのかもしれない。ただ、謝罪の言葉は出てこないようだった。
 水銀燈はくるりと踵で向きを変え、めぐの作った街並みを眺めた。つられてナナもその視線の先を追う。ここから見ている分には、街並みはかなり細密で現実的に思えた。
「何があったかは訊かないけど、殴る程度で済ませて貰って有難かったわ。この建物が倒壊でもしたら夢の主がパニックになって、何が出てくるか分かったものじゃなくなるから」
 ついその様を想像してしまったのか、背を向けたままくっくっと笑い、ただね、と周囲の惨状を指し示す。
「貴女の拳は凶器なんだから、あまり軽々に振るうべきじゃないわね。できれば、次からは先に話し合いをとことんやって欲しいわ」

 ナナは俯いた。またわたしのせいだ、と思った。
 恥ずかしかった。自分が怖がらずにもう少しまともに話せていたら、『真紅』が拳を振るうようなこともなく、ナナ自身の言葉で水銀燈が説明したようなことを言えたかもしれない。
 ただ、自分が『真紅』のやり場のない哀しさと怒りのぶつけどころになったのも事実だ。都合のいい、多分に手前味噌な考え方かもしれないが、彼女が自分に対して手を上げることで僅かでも気持ちを晴らすことができたのなら、ほんの僅かではあるが救われるような気がした。
 『真紅』を我儘だ、とか理不尽だとは思わなかった。全ての人が重くて昏い感情を自分の内側に落とし込んで消化して行ける訳ではない。
 まして、究極を目指して背伸びをし続けなければならない、と自分に無理を強いている彼女には、重苦しいものを何処かで発散する必要があっても仕方がなかった。
 『アリスゲーム』──姉妹全部の動力源を奪うという、ひどく単純明快な方法──以外にも『アリス』になる道があるという選択肢の提示そのものが、実は『真紅』に無理をさせる原因になっているのかもしれない。
 そうだとすれば、それこそ理不尽な話だった。

「──わたしは、まだ」
 小さな声がした。『真紅』だった。
「まだあなたに追い着けていない……いいえ、まだ遠いのですね」
 ナナは驚いて顔を上げた。水銀燈が怪訝そうな表情で振り返る前で、『真紅』はゆっくり首を振っていた。
「どういう意味よ」
 言ってから、まさか、という表情になり、水銀燈は『真紅』にもう一歩近付いた。
「覚えていたの、貴女」
 『真紅』はこくりと頷いた。
「組み立てられているとき……仕上げをされているとき、あなたはずっと『お父様』と語らっていました。話の内容はわたしには理解できなかったけれど、『お父様』はいつも楽しそうだった」
 水銀燈は憮然とした表情になった。
「ええ、楽しかったでしょうね」
 舌打ちしたいような、若干苦々しい思いが広がって来る。自分には終始背中を向けどおしだったが、笑っていたのか。

 『真紅』の言ったことは水銀燈の夢の中での体験そのものだった。
 あの何処か不自然な人形工房で、水銀燈は幾晩も人形師と語らった。最初は水銀燈が退屈凌ぎに話を聞かせていたのだが、最後の数日は逆に人形師が、水銀燈のアリスゲームについての示唆と考察を語ってくれた。
 その間、人形師はずっとドールを作り続けていた。最後の日に完成し、お披露目のために連れ出されていったのは、確かにこの五番目のドールだった。
 『真紅』が連れ出された後に二つの動力源が実体を持ったものとして仕事机の中に残っていたのを見ても、その件について水銀燈はあまり深くは考えていなかった。漠然と動力源以外の事物は夢の中の幻影、残像のようなものだと思っていた。
 だが、よく考えてみれば『真紅』があのときの記憶を持っているのも当然のような気がする。あのとき既に彼等の世界群の時間は閉じ、混乱していた。
 そのせいで人形師は時間を超越するという、水銀燈の造物主も成し得ていない離れ業さえも可能になっていた。もっとも本人は全く嬉しくも愉しくもなかったろう。それは未来が無いからこそ可能なことだったから。
 ともあれ、水銀燈の夢は彼等の世界群の現実とリンクしていたらしい。水銀燈は実際に『真紅』の製造過程で人形師の話相手になった。それを『真紅』は覚えていたのだ。
 彼が何故わざわざそんなことをしたのかは分からない。
 そんな風に過去の上書き改竄が出来るなら、結果的に全て失敗だったドール達の設計や能力の実装を一からやり直しても良さそうなものだが、彼はそこは変更しなかった。
 前後にある程度以上の影響を及ぼすような改竄はできなかった、あるいはやりたくなかったのか。それもまた分からない。
 いずれにしても彼は、要は誰かに自分の仕事のさまを見て欲しかったのだろう。後から弟子を取ることに決めたのも、そういった側面があったのかもしれない。

「他人のゲームの謎解きを無責任にやってみせて、その渦中にある愚かな私を小馬鹿にして楽しんでたんだもの。さぞかし良い憂さ晴らしだったでしょうよ、それは」
 小憎らしいったらありゃしない、と様々な思いを一言で纏め、ふんと鼻を鳴らしてみる。
 錬金術師にして人形師、最終的に時間さえ超越してしまった存在に対して失礼な態度だが、彼に対してはその程度の姿勢で臨んでも悪くあるまいと水銀燈は思っていた。
 どれだけの偉大な存在か知らないが──そもそも彼女は偉大だとも思っていないのだが──彼には借りより貸しの方が大きい。もっとも借りの方が大きかろうと大して違いはない。要はそういう対等な関係だった。
「ま、あの人形師のことはいいんだけど、私に追い着くってのはどういう意味かしら」
 小首を傾げてみせる。
「追い着くも何も、私と貴女じゃまるきり違うじゃないの。立場も、生き様も」
 片や、製作者の弟子が、そして製作者本人でさえも認めていた最高の傑作。恐らく真紅がアリスの母体として条件付けされているのとは全く別の意味で、究極の少女に最も近いとされ、数々の優遇が与えられていた特別なドール。
 対して水銀燈は、試作の要素をあちこちに色濃く残す、七人姉妹の長姉に過ぎない。ゲームにおいても、恐らく水銀燈がリタイアしても誰かがその役目を継ぐことができる、取替えの利く敵役または悪役だ。
 自分などを目指してどうしようというのか。悪役になりたいという願望でもあるのか、それとも生まれたときに見た人物として、彼女の中で有り得ないほど美化されているのか。
「──そんなことはありません」
 『真紅』はいやいやをするように激しく首を振った。
「わたしはあなたのようになりたかった……気負っていなくて、自然で、でも自分の運命に立ち向かっている……」
 ほらきた、と水銀燈は半ばうんざりした顔になる。表情を隠そうとも思わなかった。

──きちがい人形師さん、貴方の最高傑作は大分理想主義者の気味が強いみたいね。

 結局このドールは、何処までも御嬢様なのだ。全てにおいて恵まれすぎ、劣っている者のことを理屈では分かっていても本質的には理解できない。
 豊かな素質に恵まれ、ひたすら完璧を目指す彼女にとって、到達点までの一里塚として目指すべき相手がいるとしたら、それはいびつに美化されて原形を殆ど留めていない、もう本人に会うことのできないような人物に違いない。
 目覚める前に出会っていて、普通には到達できなかった異世界の住人である水銀燈は最適、というわけだ。
 今の、媒介から知識を得た後の水銀燈が気負っていないように見えるとしたら、それは生きる目標とされていたアリスゲームのからくりに気付いてしまったこと、そしてからくりに対する自分の力量の限界を理解してしまったことが大きい。いわば弱者の開き直りのようなものに過ぎない。
 そういう意味では、水銀燈達姉妹は──雪華綺晶まで括って良いのかは分からないが──皆、不完全な弱者だった。その中でもとりわけ自分の弱さを知り、与えられた能力の中でどうにか実のある将来像を描こうとしてきたのが目の前のドールによく似た真紅だというのは、実に皮肉なものだった。

「私達はアリスゲームという枷を嵌められている可哀想で不完全なマリオネット。貴女達のゲームとは少しルールが違うけどね。気負っていれば息切れするし、ゲームの中にいることが呼吸をするくらい自然なだけの話よ」
 勘違いしていることをどう言ってやるべきかと考えはしたが、水銀燈は結局肩を竦めて終わりにした。
 『真紅』には『真紅』の行き方があっていいし、出発点も到達点も自分達とは別だ。そこまでお節介をしてやる必要はない。いずれ水銀燈達の哀れな現実を知って幻滅するなら、それもいいだろう。
 水銀燈はぱんぱんと手を叩いた。
「さて、こんなところでいい? そろそろ楽しい夢の時間は終わり。夢が崩れてしまわないうちに扉から出た方が良いわよ」


「ジュン……」
 鞄が遠慮がちに開き、翠星石が細い声で呼び掛ける。ジュンは机に向かったまま、右手をそっと上げ、斜め後ろを指してみせた。
「真紅が寝てる」
「分かってますよ」
 そおっと鞄を開き、翠星石はクッションの上に横たわっている人形と、それを膝枕するような恰好で舟を漕いでいる真紅を見遣った。
「真紅が鞄で寝ないなんて珍しいです……」
「考え事があるみたいだ」
 ジュンはこっちに来いという風に手招きをしてみせ、翠星石が抜き足差し足で椅子の隣までやって来るとひょいと膝の上に抱き上げた。思わず声を出しそうになる翠星石の口を手で塞ぎ、耳元で囁く。
「やっと眠ったんだ、ずっと考え込んでた」
「……はい」
 口に当てられた手をもぞもぞと追い遣って、翠星石は頷いた。少しだけ後悔のようなものがある。
 先程翠星石が半ば勢いに任せて言ってしまったプランのことを、真紅はきちんと考えていてくれるようだ。
 それは嬉しいのだが、話したときの真紅の微笑が気になっていた。まるで急に何かを失ってしまったような、儚い笑みに見えたのだ。
「ジュン……」
「どうした?」
 ジュンの声は優しい。耳や首筋に息が掛るのも、くすぐったくて気持ちがいい。そして、体全体にジュンの鼓動を感じる。それは翠星石を落ち着かせてくれるようだった。
 真紅も同じように感じているのだろうか。抱っこして、と頼むとき真紅はいつも寂しくて、ジュンの鼓動を聞いて安心していたのだろうか。
「……翠星石は、真紅からジュンを取っちゃったんでしょうか」
 ジュンは何かを言いかけ、一旦それを呑み込んでから口を開いた。
「失礼な奴だな」
 空いている方の手で翠星石の頬をつつく。むう、と口を尖らせる翠星石を抱え直しながら、笑いを含んだ口調で続ける。
「僕は僕のものだぞ。お前達の所有物じゃないって」
「そ、そういう意味じゃ……」
「分かってるよ」
 暖かい手が翠星石の髪を撫でた。
「翠星石が好きだけど、真紅のことを忘れてる訳じゃない。二人とも僕にとって……その、大事な人だから」
 翠星石は長い息をついた。
 口で言われなくても、こうしているとジュンの心が流れ込んでくるような気がする。ジュンの言葉に嘘はなかった。それは分かる。
 だが、今大事なのはそのことではなかった。
「真紅は……どう思ってるんでしょうか」
「それは分からない」
 ジュンは即答してから暫く考え込んでいた。

 翠星石はジュンの左手を探り、薬指の付け根に触れる。薔薇の指輪は大きく、これまでの時代で翠星石が見慣れた大きさになっていた。
 翠星石は契約者を共有することに慣れている。その相手は、これまでの時代では常に蒼星石だった。
 今は真紅と共有している。二人は蒼星石と翠星石ほどの──水銀燈曰く「ベタベタした」──深い繋がりは持っていないが、少なくともアリスゲームについては同盟関係だった。
 しかし、翠星石が気にしているのはそういう意味合いの話ではない。
 翠星石が見ている限りでは、真紅とジュンは特別な関係だった。ただの契約者と薔薇乙女という訳ではない、何かが二人の間には存在している。
 それは翠星石がジュンに抱いた、まるでジュンの年頃に相応しいような恋心とはまた違うものかもしれない。それでも翠星石は、真紅よりも自分の方がジュンに近い存在になってしまうことが怖かった。
 ジュンと気持ちを確認しあったけれども、二人には今までの二人で居て欲しい。矛盾もいいところだったが、それは偽らざる彼女の本心だった。
 だが、真紅はあっさりと自分から一歩引いてしまったように思えた。下僕に恋愛を許可した覚えはない、と言ったときもちらりとそんな気配があったし、何と言っても、さっき少し飛躍した提案をしたときに真紅が見せていた笑顔がそんな風に見えてしまったのだ。

「──あいつが何か落ち込んでるっていうか……」
 ジュンは漸く、考え考え口を開いた。
「あいつらしくない考えをしてるっぽいのは、分かるんだ。だけど、多分それは僕が好きとかいうことや、翠星石が告白してくれたこととは、あまり関係ない」
「じゃあ、なんなんです」
 翠星石はもぞもぞとジュンを振り返った。顔が近過ぎる、と思ったけれども、恥ずかしいなどと言い出す気持ちの余裕はなかった。
「真紅はどうしちゃったんですか」
「分からない」
 ジュンは正直に答えた。
「ただ、あいつは何か覚悟を決めた。そして、多分一人で抱え込むつもりでいる……」
 ジュンが椅子を半回転させ、二人は床に置かれたクッションの方を見た。相変わらず真紅はこくりこくりと舟を漕ぎ、彼女に膝枕されている濃紺の衣装に白い髪の人形も微動だにせず眠っている。
「そんなことさせないです」
 翠星石はジュンの服の裾をぎゅっと掴んだ。
「それがアリスゲームに関わることなら、翠星石は絶対に真紅一人でなんて抱え込ませたりなんか、させてやらないです。力を貸すって約束したんですから」
 ジュンは頷いた。
「……そうだな」
 椅子をまた半回転させ、ジュンは翠星石を両手で抱き締め、無理矢理彼女の髪に顔を埋めるような姿勢になった。
「僕もだ。この期に及んでマスターのことを無視するなんて許してやるもんか」
 翠星石は窮屈な姿勢のまま微笑み、その意気ですよ、と言った。ジュンは顔を上げて彼女を抱き直し、ふんと鼻を鳴らすと、偉そうに言いやがって、と悪態をついてみせる。
 二人は暫くそのままの姿勢で、お互い何も言わずに居た。
 机の上の時計だけが動いていた。



[19752] 模索(1)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/02/17 00:21
 人形は酷く狭いところで目を覚ました。
 細い隙間から光が覗いている。それを確認して自分の上にある部分を持ち上げると、ここ数日で見慣れた光景が視界に広がった。
「おはようです」
 内張りの布の擦れるかすかな音が聞こえたのか、ドアの近くで向こうを向いていた翠星石が振り返りながら挨拶する。開いている鞄が人形のものだけだと知ると、大袈裟に肩を落としてみせた。
「やっぱりアンタだけですか。全く、真紅もチビ苺もマスターに似て寝坊過ぎます」
 全く、少しはアンタを見習えって言ってやりたいですよ、と毒づいてから、翠星石はまだ寝ている三人を起こそうともせずドアを開ける。
「のりと朝ご飯を作りに行くですよ。粗方終わったら、寝坊どもを起こしに来ます。食べ終わるまではどっか飛んでっちゃ駄目ですよ」
 人差し指を立てて左右に振りながら、翠星石はドアの向こうに消えていった。

 人形はカーテンの閉まっていない窓から朝の空を見上げた。少し雲が多いが、雨の心配は無さそうだった。
 視線を床に落とし、真紅の鞄を見る。ここに寝泊りするようになって一週間ほどしか経っていないが、微妙な擦れや色合いの差で、三人の鞄の見分けはつくようになっていた。
 いや、一週間だけではない。彼女は動力源を入れられる前、その倍ほどの期間ここで桜田家の面々と接し続けていた。ボディがまだ不完全だったし、五感を働かせたくもないと思っていたから、まともに見てはいなかったけれども。

──今だって見ていたくないわぁ。こんなママゴトみたいな生活。

 人形は苦々しく顔を歪める。それは彼女が持たされた記憶の中のものより若干落ち着いていて、遊んでいる人数も若干多いものの、やはりおままごとのような馴れ合いの暮らしに見えた。
 だが、大きな違いが一つだけある。それは人形にも漠然と分かっていた。

 この桜田家の暮らしには、影のようなものが常に付き纏っている。

 単純に襲撃者に怯えている訳でも、無理に上辺だけの関係を維持しようとして震えている訳でもない。それは多分アリスゲームという名前の、決して避けることのできない影だった。そして、恐らく契約者を含めた全員が、その影を受け容れて暮らしている。
 業、と言ってもいいだろう。それに立ち向かっているからこそ、彼女達は誇り高くあれるのかもしれない。
 人形にはしかし、影のある生き方自体が鬱陶しく思えた。
 そういったものを色濃く持ちながら果てない戦いを続けている人々を、憧憬の念や尊敬、あるいは共感や同情をもって眺める人々ばかりとは限らない。若干嫉視と羨望の篭った冷ややかな目で見る者も、広い世界の中には確実に存在する。
 力のぶつけ合い、動力源の奪い合いを率先して行っていた『水銀燈』の記憶を持つ人形は、確実に後者の内に入っていた。

──あの鞄がなければこんな場所で寝起きなんかしないのに。

 人形は自分が寝ていた鞄に視線を転じて舌打ちした。
 若干丸みを帯びた形のそれは、この部屋に置かれている他の鞄と似たような内張りと茶色の外革を貼り付けられ、要所をきちんと金鍍金の金具で補強されてはいる。しかし、デザインはよくあるプラスティック製の旅行鞄そのものだった。
 一風変わっているのは、鞄の材質が人形のボディと同じで、開閉部分に蝶番の代わりに一本のシャフトと軸受けが使われていること程度だった。手作りにしてはきっちりした設計だった。
 製作者は、人形の胴部を作った男だった。彼が雛苺とジュンを送ってくれた晩──ということは、人形が真紅に助け出された晩でもある──の翌日、思い出したように鞄を届けに来た。
 男のところに預けられていたとき、人形は翠星石の鞄に入れられていた。あれに触発されたんだよ、と男は笑い、手慰みみたいなもんだから、と今度も代金を取ろうとはしなかった。
 後からそれを知った水銀燈は、やけに気前がいいじゃない、と鼻を鳴らしていた。無駄にコストだけは掛っているようだった。
 もっとも贈られた当の人形にとっては、どれだけ高価な金庫だろうと適当な箱だろうと、変わりはなかった。当然ながら、それは神秘の秘法が施されているわけではない。空も飛べないし、その中で眠ることによって記憶が整理されて行くわけでもない。
 それでも、その鞄の中で眠ることは、何故か人形の疲労を取り去ってくれる。だから、少なからず癪ではあるけれども人形は鞄の中で眠ることにしていた。

 この部屋、というよりこの家が気に入らないならば鞄を持って何処かに出て行けば良い。自分でもそう思いはするものの、人形には他に鞄を置いて寝泊りできるアテがなかった。
 めぐの夢を覗き、その中で『真紅』及び『翠星石』と大立回りを演じた日の後も、めぐの傍に居る時間が一番長いことは変わっていない。ただ、めぐの病室に鞄を持ち込んでそこで寝る、という行為には踏み切れなくなっていた。
 夢の中で見た光景が、ちらりと頭を過ぎってしまうのだ。
 沢山の見舞い客。恐らくめぐが一番逢いたいと思っていた人物達。そこには自分は居なかった。

──わたしはめぐに、それほど必要とされてる訳じゃない。

 自分がめぐを求めているほど、めぐは自分を欲していない。人形はそんな風に独り合点してしまっていた。誰かに話せば笑い飛ばされるような、素朴で幼稚な思い込みだった。
 不幸なことにその「誰か」が人形には存在していない。
 人形は孤独だった。めぐ以外の誰かに心を開くつもりがない彼女は、勝手に孤独になっていた。


 ナナは洗いたての長い髪を後ろでポニーテールに纏め、薄緑のチェックの柄の大きなリボンで止めた。
 少し欠けた白い薔薇の髪飾りは、少し迷ったが今日も彼女用の小さな抽斗に仕舞い直す。閉めるときに抽斗の中の、原型を留めていないもう一つの髪飾りとアイパッチの破片がかちゃかちゃと鳴った。
 改めて、自分の恰好を眺め直してみる。
 水色の長袖のアンダーシャツに、少し大きめの、適当なロゴの入った白いTシャツを重ね、下は薄い青のジーンズ。赤いソックスにスニーカー。全て安物の子供服だった。
 『真紅』に壊されたのは髪飾りとアイパッチだけではなかった。
 後からよく確認してみるとドレスはだいぶ傷付き、露出度の高い衣装を着ていたせいか、背中を中心にボディや後頭部まで傷が付いてしまっていた。体液が滲むというようなことはないのだが、顔面以外の傷は全く治る気配がなかった。
 顔の損傷や変形は、柿崎めぐの夢から出て鏡を見たときには既に目立ったものはないように見えた。水銀燈に言わせると殴られた直後は大分腫れていたということだが、腫れるということ自体人形には有り得ないから、多分に観念的なものだったに違いない。

──傷が治らないのも同じなのかもしれない。

 目立たない所の傷がそのままになっているのは、『真紅』がまだ自分を赦してくれていないことを示しているのではないか。漠然とそんな気がしている。
 ボディは治らなくても、真紅に頼んで服や飾り物だけでも時間を戻そう、という雛苺の提案にナナは首を振った。もし『真紅』に赦されていないなら、服だけにしても安易に直してはいけないような気がしたからだ。
 もっとも、それだけとも言えない。アイパッチが取れて両目が開いていることは純粋に便利だった。それに、あの服ではボディの傷が隠れない。
 当座が良ければそれでいいという安易な考えだ、とは思う。それが、『お父様』から貰った服を直して着続けるという誇りのようなものを上回っているのではないか、と思うと恥ずかしい。『真紅』はますます赦してくれないかもしれない。
 しかし、どうしても元のドレスを着る気にはなれなかった。丁寧に畳まれたドレスは抽斗の下の段に入れられたままになっている。
 皮肉なことに、キャラクタードールに近い頭身の彼女は何を着てもそこそこ似合ってしまう。究極の少女を目指すものとしてはあまりに相応しくない服装かもしれないが、飾り気のないそんな恰好がナナの性格には合っているようで、彼女の周囲にはそのままnのフィールドに潜っていると聞いても表立って難ずる者はいなかった。
 その理由には「自分の姉妹ではないから」という部分も大きいのだろうが、それをナナは否定的には捉えないことにしていた。彼女自身、動き易くて汚しても代えがある今の服装が気に入っているし、腕や腿の裏側、背中についてしまって治らない傷を隠すのにも、この服装は便利だった。
 もっとも、Tシャツ姿のナナを見てジュンは何やら考えているようだったし、金糸雀もカメラを取り出して頻りにシャッターを切っていた。案外近いうちには複数のドレスが彼女の許に届くのかもしれない。素直にそれを着るつもりになれるのかどうかは、定かでないけれども。

 『真紅』は何処に寝泊りしているのか、あの晩『翠星石』が目を覚まして二体揃って薔薇屋敷から姿を消してから音沙汰がない。そう言えば二体とも鞄を持っていなかった。あの口振りからすると『蒼星石』と『雛苺』のボディの入った鞄も手元にあるはずなのだが、都合四つの鞄はねぐらに最初から置いてあったのか。
 水銀燈は何か心当たりがあるようだったが、ナナには教えてくれなかった。
 彼女は『アリスゲーム』や当時のナナの姉妹達のことを、その場に居ながら目を背けていたナナよりもよく知っている。何処か、彼女達の寝泊りを許してくれそうなところを知っていても不思議ではなかった。
 『雛苺』か『蒼星石』のシュプールを見付けたら、彼女に聞いてみようと思う。
 『雛苺』の魂を見付け、動力源と人工精霊を返して、そこでナナの贖罪は漸く一区切りということになる。服を直し、自分から『真紅』に会うのはそのときまで許されないような気がしていた。

 ナナは首を振り、よく掃除はされているがお世辞にも美しいとは言えないユニットバスの戸を開けた。
 蓋を閉じた便座の上によじ登り、そこから洗面台の上におっかなびっくり移動して、やっと一つ息をつく。水銀燈は特に苦労せずに出来ることなのだが、飛べないナナにとっては一仕事だった。
「行きましょう、『ベリーベル』」
 『雛苺』の人工精霊は何処かふわふわとした飛び方でナナの傍に寄って来ると、洗面台の鏡に入り口を開いた。
 暗い、淀んだような空間の中に、ナナはゆっくりと足を踏み入れていった。


 やや早めの朝食を食べ、雛苺と真紅が契約者とこれといって意味の無い世間話をしながら二階へ引き上げて行くと、人形はダイニングの窓を開けた。
 空は高く、青かった。透き通るような色が今の季節を示しているようだった。
 そのまま一歩踏み出し、飛び立とうとした瞬間、背後から声が掛けられた。
「その引き戸は、自分からは閉まってくれませんよ。閉めてから出て行かないと、誰かの手を煩わせることになってしまうのです」
 苛ついて振り向くと、翠星石が何時の間にか数歩後ろに立っていた。腕捲りをしているのは、食器を洗っていたからだろう。少しだけ食器洗いの洗剤の匂いもしていた。
「水銀燈に言ったら、『あらそう。だったら貴女にお願いするわ。よろしくねぇ』で済まされましたけどね」
 肩を竦め、大仰に息をついてみせる。
 人形は細い眉を吊り上げる。水銀燈の名前と翠星石の態度のどちらに怒りを感じたのかは分からないが、カチンときているのを隠そうともしなかった。
「……閉めてから飛んで行け、ってことなんでしょぉ? 悪かったわねぇ」
 やってやるわよ、と背を向けると、人形は言葉どおりにサッシの窓を閉めてから飛び立っていった。

 翠星石はたちまち小さくなって行く人形の後姿を眺め、今度は小さく溜息をついた。
「そういう意味じゃなかったんですけどね……」
 柄にもなく捻った言い方をしようなんて考えるモンじゃなかったですね、と肩を落とす。
 いつものような直球の言葉では反発を招くだけだろうから、と考えたのだが、逆効果だったらしい。人形には下手で迂遠な喩え話を聴いている余裕は無いようだった。
 翠星石としては、もちろん戸締りをきちんとしろと言いたい訳ではなかった。
 人形にほんの少しでいいから、自分の開けた戸を閉める誰かが居ることを考えて欲しかった。戸を開けて出て行くだけでなく、何処に行くか、何を求めているかを教えて欲しかった。
 人形が何か鬱屈を抱え、別の何かを探しているのは分かる。だが、それが何なのか分からなければ救いの手の伸ばしようもない。
 直接の助力はできなくても、「何か」が理解できれば支援は可能かもしれない。理解者など無用だ、と人形は言いたいのだろうが、それにしては彼女は酷く寂しそうで、妙な言い方だが放っておくには心許ないようなところがある。
 見かねてストレートに尋ねてみたこともあった。だが、人形は答えようとはせず、邪険に突っ撥ねただけだった。
 キッチンに戻りながら、翠星石はもう一度溜息をついた。
 今のところは、歯痒いけれども人形の方から話してくれるのを待つしかないのかもしれない。時間が解決する、ということもあるだろうから。
 ただ、肝心のその時間が、あまり残り多くないように翠星石には思えて仕方がなかった。それが誰の、何の時間なのかは分からないけれども。

──水銀燈に相談してみますかねぇ。

 桜田家の面々を飛び越えて話すことに抵抗感はあるものの、人形のことを一番知っているのは水銀燈だ。一瞬、迷惑そうな顔をするのが目に浮かんだが、翠星石は図々しくなることに決めた。
 ここまで好き勝手に姉妹を襲撃し、扇動してアリスゲームを主導してきたのだから、少しくらい長姉らしい真似をしてくれても良いだろう。アリスゲームだけが薔薇乙女の全てではないのだから。
 少なくとも翠星石はそう思っていた。


「ナナ、しゅつどー?」
 桜田家の鏡から姿を見せたナナを、雛苺はにっこり出迎えた。今週に入ってそれが決まりごとのようになっていた。
 ナナは毎日決まった時間に桜田家に顔を見せているから、その時間を狙って鏡の前に待機しているのだろう。
 今日は少しばかり雛苺の方に時間がなかったらしい。片手にくんくんのぬいぐるみを抱え、口の周りが少し汚れていた。
「はい」
 ナナはこくりと頷いた。雛苺は気合を入れるように自分の頬をぱんぱんと叩いてみせ、ちょっと苦労しながら階段を下りて行く。
「待っててね、ヒナも準備するから」
「はいっ」
 階段から聞こえて来た大きな声に、ナナも少し大きな声で答える。
 雛苺は積極的に協力──というよりは、nのフィールドに「お出かけ」──してくれている。雛苺に課せられた誰かがついていないときはnのフィールドに入らない、という約束は依然として有効であり、雛苺としては真紅や翠星石以外の相手が欲しいというのもあるのだろう。
 力の足りない二人を雪華綺晶の手から守ってくれているのは『雛苺』の動力源と人工精霊だった。探している相手の一部が探す者の方を守っているという妙な話ではあった。
「頑張っているのね」
 ちゃんと下りられたのだろうか、と階段を覗き込んでいると後ろから声が掛けられた。
 振り向くと、真紅は微笑んでナナを見ていた。ナナは元気よく、はい、と答えて頭を下げた。
 ナナにとって、真紅に優しい声を掛けられるのは一番嬉しいことの一つだった。
 どうしても『真紅』と二重写しにして見てしまって、彼女に赦しを貰っているような気分になっているのかもしれない。そう思うと自己嫌悪に陥ってしまうのだが、それでも言葉を掛けられると嬉しいのは変わらない。
 失礼な話だと考えているから表立ってそのことは言っていないが、真紅はナナの心の動きを見透かしているような気がする。それでも真紅は──大抵は素っ気無く、澄ました顔をしているけれども──時折微笑んでくれていた。
「あ、真紅、行って来ますなの! 今日こそもう一人のヒナを発見するのよ」
 階段をよじ登ってきた雛苺が宣言するような大声を出す。真紅は澄ました顔に戻り、頑張ってきなさい、時間を超えないように気をつけるのよ、と言い置いて階段を下りていった。
 二人はその背中に元気よく、行って来ますと声を揃えた。

 鏡の部屋に向かいながら、雛苺はぽつりと呟いた。
「……真紅、最近元気ないのよ」
 ナナは思わず足を止めて雛苺の顔をまじまじと見詰めてしまった。
「オディールが入院した次の日から、ヒナのことあんまり怒らなくなったの。前は、ちょっと煩くしてるとすぐ巻き毛でパチンってしてたのに」
「それは……」
 何か言おうとして、ナナは、自分がそうなってからの真紅しか知らないことに気付いた。それも、よく考えれば数えるほどしか顔を合わせていない。毎日一度か多くても二度だけだ。
「気になりますか……?」
「うん」
 雛苺はナナを見上げた。
「ヒナはね、ジュンから力を貰ってるけど、分け与えてくれてるのは真紅なの。真紅がマスターみたいなものなのよ。だから、気になっちゃうの。真紅が隠そうとしても、なんとなく分かっちゃうの」
 でも、と視線を逸らし、廊下の向こうを透かして見るような目をする。
「聞きたいけど、聞いちゃいけないのかな、って思っちゃうこともあるの。真紅が元気なくした訳が、翠星石とジュンのことなら慰めて上げられるけど、多分そうじゃないから……」
 ナナはなんとなく分かるような気がした。
 アリスゲームに関することなら、自分は口を出してはいけない、と雛苺は考えているのだろう。
 既に雛苺は真紅のしもべであり、自分のゲームを戦ってはいない。真紅は普段そういう扱いをしていないけれども、本来雛苺は真紅の戦いには「頼まれて手を貸す」のでなく「命令を受けて使役される」立場にある。
 必要なことであれば真紅は雛苺に話すだろう。逆に隠そうとしているならば、しもべである雛苺がそれを詮索することは許されないのかもしれない。
 ただ、雛苺は真紅を心配している。それは雛苺の素直な気持ちだろう。しもべと主人という立場を超えて、雛苺は大好きな一番下の姉を気に懸けていた。
 鏡の前まで来て、ナナは暫く考え込んでしまった。
 知られたくないという真紅の気持ちと、知りたいという雛苺の気持ち。どちらを優先すればいいのだろうか。
 雛苺が真紅を心配しているように、真紅も雛苺を慮って隠そうとしているはずだ。

 雛苺が訝しげに首を傾げ、手を引っ張るまで、ナナはそのまま考え込んでいた。
「どうしたのー?」
 ナナは雛苺を振り返った。
「今日は、やめにしませんか」
 首を振ってみせると、雛苺は頬を膨らませた。
「えーっ、せっかくご用意したのに。酷いのよ」
「その代わり、今晩行きませんか。あなたと、翠星石さんと、皆さんのマスターも誘って……」
 何気なく提案しているように言いながら、ナナは顔が強張るのを感じていた。雛苺はすぐに気付いて、ぱちぱちと瞬いた。
「真紅の夢に……入るの?」
「もし、ヒナちゃんと、皆さんがそうしたいなら、です」
 結局、ナナは俯いてしまった。言い訳のようにたどたどしく言葉を続ける。
「真紅さんの隠し事がアリスゲームのことなら、翠星石さんもマスターも知りたがっているはずです。無作法なのは分かっていますけど、皆さんが一緒にゲームを戦っていくのなら、やっぱりみんなで知っていた方がいいと思うんです」
「ナナ……」
 雛苺は複雑な表情になった。ナナははっと気付いて慌てて謝った。
「ごめんなさい、わ、わたし全然部外者なのに、偉そうなこと言って」
「ううん、いいのよ」
 雛苺はぶんぶんと首を振った。
「ヒナも部外者なのよ。もう、ヒナのゲームは終わってしまっているから。
 だからね、今晩は部外者だけで行った方がいいな、って思ったの。真紅と翠星石のアリスゲームは、別々のものだから」
「あ……」

 そうだった。真紅と翠星石は、同盟状態であって一方が他方を従わせているわけではない。どんなに共感していても、何処まで近くても二人は同じゲームの勝敗を争う別個のプレイヤーだった。
 今後何処かの局面で、二人は自らの信念に沿って袂を分かつかもしれないのだ。そのことを考えたら、翠星石に真紅の夢を覗かせるのはフェアとは言えない。
 二人のマスターであるジュンには尚更だった。後々板挟みになって苦しむかもしれないような秘密を、彼から言い出しもしないのに無理矢理押し付けてはいけない。
 ナナは何も言えなくなった。自分の浅慮を恥じただけではない。何か重苦しいものが胸を押さえつけていた。
 雛苺達姉妹が楽しく過ごし、自分がその恩恵に与っている暮らしは、最後まで続くとは限らない。アリスゲームが終わる遥か手前で分解してしまうかもしれない、儚い幻のようなものだった。
 七人揃ったときにゴングが鳴り、勝者が敗者の動力源を吸収することで加速度的に収斂して行く力のぶつかり合い。それがナナ達のゲームだった。それすらも参加資格が与えられなかった自分が考えるのはおこがましいかもしれないが、そういった短くて熱い戦いにはない、長いが故の冷たく昏い一面が、雛苺達のゲームには存在している。

「わたし、何も分かってないんですね……」
 ナナの呟きに、雛苺は答えなかった。その代わりにナナの手を取ってぶんぶんと振った。
 それから、やっぱり今も行こうよ、とナナの顔を見上げる。
「ヒナね、昨日の晩、面白い子と会ったのよ。夢の中で」
 にこにこしながら、雛苺は事も無げに言った。
「髪が長くておっきなスカート穿いてて、甲高い声でヒナのこと呼んで抱きついてきたの。でも、すぐに離れちゃって、ごめんなさいですぅー、って言うのよ」
「それは……」
 ナナは息を呑んだ。雛苺は悪戯っぽい表情になってナナの頬に触れる。
「ナナのことも話したわ。いっしょうけんめい『雛苺』のこと探してる、って。それからヒナが雪華綺晶に狙われてることも。そしたらね──」
 何て言ったと思う? と雛苺は無邪気に笑い、今朝の夢を語り始めた。

 『翠星石』は最近少しお姉さんらしくなってきた翠星石よりも少し子供っぽかった。それを可愛いと素直に感じてしまうのは、雛苺の美点なのだろう。
「──そ、それじゃ、そのキラキラってヤツがおめー達を片っ端から喰いあさっちまうかもーってことですか」
 カニバリズムですぅ、と『翠星石』は身を震わせた。
「そうじゃないけど、ヒナはもうゲームに負けちゃってるから弱くなっちゃってるの。弱いから狙われやすいんだって。あと水銀燈が言ってたんだけどね、よ──」
「──姉妹を喰っちまうなんて共食いにも程があるです。キモいですぅ」
 『翠星石』はぶるぶると首を振る。幸か不幸か、雛苺の説明は要領を得なくなるところで遮られた。お互いに気付かなかったけれども。
「ヒナの姉妹だけじゃないのよ。ナナも食べられそうになったのよ」
 ナナ、と聞いて『翠星石』の顔が険しくなる。
 先程、自分の末妹の呼び名がそれだと知らされたときもそうだった。どうやらその名前は彼女の怒りのスイッチのようなものになってしまったらしい。
「アンニャローなんて、いっそ喰われちまえばいーんですぅ! 『真紅』から聞いてますです。あいつのせいで、チビチビも、『蒼星石』も……!」
 ぎゅっと拳を握って目を怒らせる『翠星石』に、雛苺はなんと言っていいか困ってしまった。
 ナナも自分で言っていたのだ。バラスなんとかいう偽物のドールが第七ドールを名乗ってゲームを始めたとき、自分が力のぶつけ合いを怖がらずに名乗り出ていたら、あんなことにならなかったかもしれない、と。
 ナナが父親やゲームの観客である白兎の顔をした男から、確実な敗北が分かっているからゲームに参加する資格さえない、ゲームが終わるときが命の尽きるときだ、と言われていたことは、雛苺は聞いていなかった。
 聞いてはいなかったが、雛苺はナナのことを嫌いにはなれなかった。
「ねえ、『翠星石』ぃ……」
 雛苺は固く握り締められた『翠星石』の手に手を重ねた。
「一度、ナナに会ってあげて。臆病かもだけど、『真紅』もナナのこと怒ってても、悪い子なんて言ってなかったでしょ? 『真紅』はお話聞いて上げなかったみたいだけど、お話したら分かって上げられることもあると思うのよ」
「やーですぅ……」
 『翠星石』は力なく首を振ったが、それでも何か次の言葉を言いたそうにしている。雛苺はそれをじっと待っていたが、やがて中々言い出せなさそうな『翠星石』に自分から声を掛けた。
「あんまり長くは居られないんでしょ?」
「そ、そうでしたぁ。あんまり時間食ってたら迷子になっちまうですぅ」
 少しわざとらしく、『翠星石』はそわそわし始めた。素直になれないのは翠星石と同じようだった。
 雛苺は『翠星石』に手を伸ばす。
「また明日、ヒナと会ってくれる? あのね、ヒナももう一人のヒナや『蒼星石』探すの手伝うのよ」
 『翠星石』はこくりと頷いた。

 ナナはじっと聞き入っていた。会話ばかりだったせいか、雛苺の説明はいつになく分かりやすかった。
「それでね、nのフィールドで会うことにしたんだけど、ほら、ヒナ一人じゃ入っちゃいけないことになってるでしょ? だから、ナナと一緒に行きたいの」
 雛苺はにっこり笑った。ナナはぱちぱちと瞬いて、はい、と小さく頷いた。
「じゃ、早く行こう? 『翠星石』って翠星石と同じくらい怒りんぼだから、遅れたら怒られちゃうよ。頭から湯気が立っちゃうのよ」
 失礼なことをさらりと言い、雛苺は自分の人工精霊を呼んだ。ナナもよく似た人工精霊を召喚し、都合四つの少しばかり頼りない姿は鏡の中に消えていった。

 扉のところで影が動いた。翠星石だった。
 部屋の中を窺い、鏡の波打ちが収まりかけているのを見て少し大仰に溜息をつく。
「水銀燈の気持ちが分かるような気がしますよ……怒りんぼってなんなんですか」
 既に怒り出しているような口調だった。隣で真紅も仏頂面になって呟く。
「こんなところで他人の夢を覗く相談なんて無作法だわ。もう少し教育が必要なようね、雛苺もナナも」
 雛苺はやはり雛苺らしく、詰めが甘かった。姉二人のことを話しているのに、二人が聞いてしまうかもしれないことを全く考えていないのだから。
 お陰で迂闊に廊下を歩いて通ることもできず、二人は雛苺とナナが鏡の中に去っていくのをただ待っていたのだった。
 それでも、と真紅は表情を柔らかくした。雛苺が見ていたら複雑な表情を浮かべてしまうかもしれない、少し寂しい微笑だった。

──昔の雛苺では考えられないくらい、成長したわ。

 あくまで自分の小さな手の届く範囲内ではあるけれども、雛苺はアリスゲームとは直接関わらない部分でも、周囲に気を配り、誰かのために何かをしようとしている。
 自分の意志でアリスゲームから降りてしまい、真紅の命令に従わざるを得ない彼女だが、薔薇乙女としての誇りを確実に持って生きている。むしろそれは、ゲームに対しての利害がなくなってしまった分、純粋と言えるのかもしれない。
 微笑を収めて翠星石を見ると、彼女はじっと真紅を見詰めていた。

 真紅の寂しさの理由を知りたいのは雛苺だけではない。翠星石も同じだった。
 そして、夢を覗くことで寂しさの原因を探れるなら、翠星石にはナナの不十分な力を借りるまでもなく、いつでもそれを実行できる能力がある。だが、彼女は真紅の手を取り、その瞳を真っ直ぐに見詰めた。
「翠星石は真紅の夢を覗き見に行く予定はありませんよ」
 自分の指と真紅の指を絡ませ、掌を合わせる。それは双子の妹によくしていた、彼女が不安だったときに落ち着かせてやるときの仕種だった。
「でもいつか──必要なときが来たら、そのときはすぐに言ってくれますね?」
 真紅は絡めた指にきゅっと力を込め、無言で頷く。翠星石は微笑んだ。

──やっぱり蒼星石と同じです。

 これまで「妹」と漠然と言われたとき、翠星石がはっきり意識したのは蒼星石だった。だが、今は違う。真紅も雛苺も、同じように彼女の大切な妹に変わりはない。
 二人の道はいつか分かれ、離れて行くかもしれない。雛苺はそのことを自分の言葉でナナに説いて聞かせていた。それは確かに間違ってはいないが、全員の道が一つになることもあるのではないか。
 真紅がそれを信じているように、自分もそれを信じたい、と翠星石は思い始めている。
 両手の指を絡み合わせ、暫く翠星石はそのまま真紅の目を見詰めていた。真紅は蒼星石のように翠星石の胸に身を委ねてはくれなかったが、それでも手を放そうとはしなかった。
 目を細めて微笑みながら、今はこれでいい、と思う。明日には事態が動いてしまうかもしれないが、今は一歩前進できたことを喜びたかった。

──次はもう一人の方ですねぇ。

 正直、そちらはあまり気乗りがしない。しかし、捨てて置く気にもなれなかった。
 昼食の準備に掛る前に、最近漸く昼前には起き出すようになってきたらしい夜型の黒翼の長姉を訪ねてみようか、と翠星石は考える。あまり時間がないのだから、早い方が良いのは間違いない。


 意外なことに、雛苺がナナを連れて向かったのは、無意識の海ではなかった。
「第32768世界。水銀燈に教わったのよ。多分、ナナ達には懐かしい感じのする場所なのよ」
 小さな世界への扉を開けながら、雛苺はにっこり笑った。
 そこは広めの人形工房だった。
 残念なことに、あまり多くの風景を知らないナナにとっては初めての場所というイメージが強かった。彼女を作ったとき、人形師はもっと狭い工房で、弟子と二人だけで作業をしていた。
 この工房は少し違う。何人かの職人が同時に作業をするだけの広さがある。仕事机は何故か一つしかないけれども。
 ただ、そんな風に思ったのはナナだけらしい。雛苺の待ち合わせ相手は、まるで最後の仕上げを待つかのように、並べられた椅子の一つに座って遠い目をしていた。
「『翠星石』……? 泣いてるの?」
 雛苺の声にはっと気付いて、『翠星石』は我に返ったようだった。
「お、遅かったじゃねーですかぁ。ついウトウトしちまったですよ。これは欠伸したときの涙ですから、か、勘違いすんなってヤツですぅ」
 言いながらぐしぐしと涙を拭き、よっこらしょ、と椅子を降りて雛苺とナナの方に歩み寄る。どこか不自然な仕種だった。
「やっぱり連れて来たですか。どーせこんなことじゃねーかと思ってたですぅ」
「うんっ」
 ナナには視線を合わせようともしない『翠星石』に、雛苺はにっこり頷いた。
「だって、ヒナ一人じゃnのフィールドに来ちゃ駄目って言われてるんだもん。お暇なのはナナしかいなかったのよ」
「言い訳なんてどーでもいいですぅ! チビチビ!」
 『翠星石』は雛苺に被さるようにして怒鳴りつけ、自分の言葉に驚いたように身を引いた。自分に言い訳をするように小さな声になる。
「……お、オメーもチビチビですから、別に間違ってないのです」
「うん、チビチビでいーよ」
 雛苺は上機嫌に笑った。
「ヒナは『翠星石』の妹じゃないけど、チビチビのチビ苺だもん。だけど、頑張って『蒼星石』探すの手伝うのよ。半人前でも二人揃えば一人前なのよ」
 残りの半人前がナナのことを指しているのは、聞かなくてもその場のドール達には分かっていた。

 ナナは一歩前に出、『翠星石』の正面に立った。自然に言葉が口を衝いて出た。
「ごめんなさい……」
 『真紅』の前に立ったように、この激しい気質を持っている姉妹にも向き合わなければならない。彼女の大事な双子の妹が、生真面目さ故に薔薇水晶の偽りを信じ込み、最初の犠牲者になってしまったのは、第七ドールとして名乗り出なかった自分の責任なのだから。
 焦りと臆病さが邪魔をして上手く回らない口で、ナナは正直に謝った。言い訳をしなかったのは、特に潔さを気取った訳ではない。そんな小知恵を働かせるほど頭も口も回らないだけの話だった。
 本音を言えば怖かった。『真紅』は自分の気持ちを抑えて殴りつけるだけで我慢してくれたが、彼女よりは少し自制を欠いている『翠星石』はどうなのだろう。
 力をぶつけてくるかもしれない。あちこち傷が付く程度ではなく、今度は何処かを破壊されてしまうかもしれない。倒されてしまうかもしれない。
 それでも、ナナには正直に謝罪し、一緒に『蒼星石』と『雛苺』の魂を探すということ以外にできることは思いつかなかった。
 それは何かをして上げるという意味合いでさえなく、単に自分達が毎日行っていることを一緒にやってみるという程度の提案に過ぎない。そう考えると忸怩たるものはあるけれども。
「一緒に、探させてください」
 最後にそう言い切って、ナナは『翠星石』を見詰めた。
 ナナがつっかえつっかえ、どうにか謝罪の言葉を搾り出している間、『翠星石』は無言でそっぽを向いていた。
 不機嫌そうなだけでなく、悲しそうに見えた。『真紅』のようにナナを遮ったり、自分から何かを言うこともなかった。
「──一緒にですかぁ」
 ナナの言葉が終わると、『翠星石』はそう言ってふんと鼻を鳴らした。
「『真紅』は優しいですから、オメーの勝手な言い分を聞いても何も言わなかったんでしょうけど、『翠星石』は御免蒙るのです」
 ナナの顔に視線を戻し、音を立てるような勢いで指を突きつける。
「だいたい、オメーの言ってることはぬすっとの言い分そのものですぅ。体があって『ローザミスティカ』と指輪が揃ってれば、チビチビを復活させるのは簡単なのですよ? それを、自分が魂を見つけるから貸しといてくれなんてぇ、本末転倒も大概にしやがれです! そ、それも──」
 言いながら、何か感情がこみ上げてきたように片手でまたぐしぐしと目の周りを擦り、拳を握って甲高い声を張り上げる。
「──よりによってそ、『蒼星石』を探すことをダシにするなんて、見下げ果てたコンチクショウですぅ。オメーなんかに『蒼星石』を探して欲しくなんかねーですよぅ! どっちも探す必要なんかねーから、すぐにチビチビの『ローザミスティカ』を『真紅』に返しやがれですぅ」

 ナナはぎくりとして目を見張った。
 そう、確かに簡単な話だ。契約の指輪、動力源、器。三つが揃っていれば、恐らく高い確率で強引に魂を呼び戻すことができる。
 ナナもそれは知っているし、どうしても必要ならその方法に頼るしかないだろうと考えたこともある。だが、それは──
「契約を、するんですか。『雛苺』の同意なしに……」
「そうです。それが一番早いんですから」
 『翠星石』は事も無げに言った。
「『蒼星石』を呼び戻すのも、おんなじなのです。あのニセモノから『ローザミスティカ』と指輪を手に入れて、ミーディアムを持ってしまえば、後はどーにでもなるのですぅ。だから──」
「──だめです!」
 ナナは激しく首を振った。自分でも思っていなかったほどの感情が唐突に湧いてきた。
「契約は……人を騙してするものじゃありません。しかも、本人達の意思と関係なく、なんて……駄目です」

 雛苺を抱いていたオディール・フォッセーの姿と、心の木にびっしりと巻きついた白茨の蔓がありありと目に浮かぶ。
 雪華綺晶に偽って契約を結ばれ、力を吸われ、恐らく今は雪華綺晶の領域に心を幽閉されてしまっている彼女は、極端すぎる例かもしれない。契約相手そのものもナナの姉妹ではなく、こちらの世界の、それも一際特殊な存在ではある。
 しかし、オディールの心の木の傍で水銀燈が言っていたとおり、契約を結ぶということは、人間の側にとっては自分の生殺与奪をドールに握られてしまうことを意味する。その点ではどの契約者もオディールと同じだった。

「おね……あなたがた、『水銀燈』から『雛苺』までのドールに与えられた強い力は、に、人間を苦しめたり傷つけたりするためのものじゃないって、『お父様』は、言われたはずです」
 言い難いことだった。それでも、吃りながらなんとか言葉を紡げたのは、感情が昂ぶっているからだろう。
「ドールに一番近くて、一番傷付いたり、悲しいことに巻き込まれたり、苦しんだりするのは、ミーディアムです」
 ナナは自分が触れ合った、数少ない人間──姉妹のかつての契約者達のことを思い出していた。
 彼等は例外なく、契約していたドールを懐かしく思い、中にはもう一度逢いたいと願っている者もいた。そういう人に僅かな慰めを与えながら、その楽しい夢で幸せを疑似体験するのがナナの過ごし方だった。
「契約してますけど、でも、ミーディアムも、人間なんです。みんなドールに選ばれただけの、ただの人です。契約して、ミーディアムになったからって……だから……」
 だからこそ契約者選びは、まず人工精霊がネジを巻く相手を選び、次に目覚めたドールが相手を吟味するという二重の構造を取っているのではないのか。
「あなたは、元居た世界で、ネジを巻いてくれた人と契約しなかったことがありました。でも、そのお陰で『蒼星石』と、ネジを巻いた人を救うことが、できたんですよね?」
 ナナに真っ直ぐに見詰められ、『翠星石』は言葉に詰まってただ頷いた。ナナの認識は正しくなかった。全く正しくない認識だったが、『翠星石』は頷くしかなかった。
「もし、他の人が勝手に契約、させてしまったら、契約するドールには、そういう判断もできないことになってしまいます。
 ……せめて、契約だけは、自分達でやらなきゃだめなんです。ドールも、ミーディアムも、相手をじかに見てないと……不幸せに、なるんです」

 感情が昂ぶったせいでいつもより更につっかかりつっかかり、ナナはどうにか自分の考え、というよりは思いを話した。立て板に水というのとは正反対の、稚拙でたどたどしい口調だった。
 それは、所詮契約を一度も結ばずに過ごしてきた者が考える、ある種の奇麗事か理想論に過ぎなかった。
 彼女はある程度の憧憬も篭めて、ネジを巻いた者と自分以外の姉妹の関係や契約そのものについて美しく捉え過ぎていた。他の姉妹の契約者の老後を看取り続けてきたから、尚更そんな風に思ってしまうのかもしれない。
 実のところ彼女の姉妹達は、契約についてそこまで厳密かつ重大に考えてはいない。長い間の繰り返しの中で、人工精霊の選んでくれた相手に対して、不満足ならそれまで、満足すれば契約を交わす、という姿勢で臨んで来ただけだ。
 だがそれだけに、素朴な原則論を純真に語られると、『翠星石』には内心忸怩たるものがあった。結局彼女は、ナナの訥々とした話が終わるまで何も口を挟めなかった。

 話し終わって、ナナは困ったように黙り込んだ。雛苺は二体のドールをその場に残して工房の中を見て回っていた。
 沈黙を我慢できなくなったように『翠星石』は漸く口を開いた。
「そ、それは……そうですけどぉ……契約は後からでも解除できるモンですしぃ」
 何か反対意見を言おうとしてみたが、結局言葉を濁してしまう。

 特に最後に触れられた部分は──決して否定的に触れられた訳ではないだけに──胸に沁みていた。
 彼女は、ネジを巻いた老人に対してごく曖昧な理由で見限ったに過ぎない。先に契約を結んでしまった『蒼星石』に対して「あんなウザい爺さんとはスッパリ縁を切るです」と言い放ったことさえあるのだ。
 確かに彼女のネジを巻いた芝崎老人は正常ではなかった。遥か昔に死んだ息子に執着していた姿は、過去に縛られていたという点で蒼星石の契約者である結菱老人にも似ている。しかし、それは復讐とか犯罪というものとは無縁の、悲しい失見当というべきものだった。
 それに老人の異常さ、というよりも痴呆の症状に近いものが増したのは彼女が老人の家を飛び出した後だった。その意味では、老人の症状を進めてしまったのは彼女自身とも言える。
 見限らずに頑張っていれば『蒼星石』を苦しめることはなかったのではないか、という問い掛けは、『翠星石』の中に全くない訳ではなかった。それが頭をもたげてきて、先程のような強い言葉で否定できなくなってしまっていた。

 もっとも、ナナはそこまでは知らなかった。むしろ、殆ど知らないと言っても過言ではなかった。
 漠然と、蒼星石から聞いた話──翠星石は結菱老人と蒼星石に他人を手に掛けさせないために、結菱老人と契約を結ばずに真紅に助けを求めた──に近いものだと思っていた。
 ナナが例えば水銀燈から水銀燈の媒介の知識を聞かされていれば、契約についてそれほど純な思いを持ち続けられたかどうかは怪しいところだった。
 漫画の中での翠星石は、「巻かなかった世界」で、何も知らない状態に近い大学生の桜田ジュンにボディを失った状態の蒼星石と強引に契約させることで、蒼星石を復活させることに成功した。
 それがナナの姉妹にそのまま適用できるなら、『雛苺』はおろか動力源の欠けている『蒼星石』さえも、魂を探すなどという迂遠な方法を取らなくても元のように戻せるかもしれない。しかし、それはナナの知らないことだった。
 またしても知識のないナナが思い込みで契約を美化してしまっている訳だが、その思い込みの原則論が『翠星石』に効果があったのは変わりなかった。

「多分……『真紅』は分かっているんだと思います」
 ナナは呟くように言った。
「だから、『蒼星石』の『ローザミスティカ』を持っているひとを倒すんじゃなくて、まず『雛苺』と『蒼星石』の魂を探しているんだと思います……」
 それもまた思い込みだったが、正鵠を衝いていた。潔癖で完全主義、そして非戦主義の『真紅』は、迂遠でも正当と思う方法を採ろうとしていた。
 ただ、その意図を彼女は誰にも話していなかった。
「……『真紅』はそんなこと言わなかったですぅ」
 『翠星石』はぶんぶんと首を振った。
「アンタ達と会った後、考え込むことが多くなってあんまり喋んなくなっちまったんですぅ……。だから『翠星石』もいろいろ聞けないのですよ」
 元々あんまり喋んない方でしたけど、と『翠星石』は下を向いた。

「──だから、『翠星石』はナナのこと許せなかったのね?」

 少し離れた椅子の上から声がした。振り向くと、雛苺は自分と同じくらいの大きさの素体を椅子の上に座らせ、何処から見つけてきたのか赤いボンネットを被せてみていた。
「寂しかったんでしょ、『真紅』が喋ってくれなくなって。ヒナもね、最近寂しいから分かるのよ」
 どお? と座らせた素体を示す。得意満面といった様子だったが、ナナにも『翠星石』にも、それはただの素体にボンネットを被せただけにしか見えなかった。
 反応の薄さにややがっかりしながら、雛苺は話を続けた。
「真紅は元気ないし、翠星石は忙しいし、カナもあんまり遊びに来なくなっちゃったし……みんな、自分のやりたいことのために頑張ってるからなんだけど、ヒナはやっぱり寂しいのよ。お喋りしてた子があんまり話してくれなくなるのは、寂しいよね」
「チビチビのくせに生意気ですけど……そうです」
 こくりと頷いた『翠星石』を眺め、雛苺はにやっと笑った。人の悪い、水銀燈がよくしているような笑いだった。
「でも、『翠星石』が寂しいげんいんはきっとナナじゃないのよ。『真紅』が喋らなくなったのは、多分別の理由があるのよ」
「て、テキトーなこと言うなですぅ! オメーに何が──」
「──だってぇ『翠星石』、さっきナナに返せって言ったとき、無理してたでしょ? あんなポーズ、ヒナのくんくん譲りのどーさつりょくにかかればイチコロなのよ」
 えっへん、と小さな胸を張ってみせる。
「ホントの理由は『翠星石』が一番分かってるのよ。胸に手を当てて聞いてみたまえ! なのよ」
「わ、わかんねーからって適当な言い訳すんなですぅ!」
 翠星石は雛苺に指を突きつけ、少し腰が引けたような姿勢で喚いた。
「なら、なんで『翠星石』がこんなにこんなに寂しくて悲しいのか、言ってみやがれってんですぅ」
 雛苺は急に真面目な顔になり、じっと『翠星石』の顔を見詰めた。
「……いいの?」
「なっ、なんですかぁ」
「ヒナは悪者になってもいいけど、『翠星石』は理由、今ヒナに言われても良いの? もっと悲しくならない?」
「……い、言われたって構わねーです。言われたって……」
 言葉に詰まったように『翠星石』は俯いた。そのまま、涙声で続ける。
「なに言われたって、どんなに慰められたってぇ、『ジュン』にも『お父様』にも、もう会えねーんですから。だからせめて『蒼星石』やチビチビくらい、会いたいって、今すぐ取り戻したいって思っちゃいけねーんですか」
 伏せた目から涙が零れ落ちた。
「わかってますよ、『真紅』が時間掛っても正しい道に行きたがってることなんて。勝手に契約なんかしちゃダメだって……でも、逢える子くらい、すぐに逢いたい……ずっと『真紅』と二人きりじゃ寂しいんですよぅ」
 『翠星石』は壁に背を凭せ掛け、下を向いて何かを吐き出すように言った。涙はぽたぽたと落ちていたが、泣き出さずに耐えていた。

 ナナは何も言えず、俯くこともできずにただ『翠星石』の顔を見ていた。
 彼女の言うことはもっともだ、と思った。
 『真紅』のときと同じだった。自分は現実の全ての面を見ていない。契約をするドールと人間のことは考えても、契約させようとする『翠星石』の気持ちは全く考えていなかった。
 『翠星石』の言葉は一つ一つナナの心を抉って行くようだった。それでも気弱な気分は湧き上がって来ない。
 理由は分かっている。オディール・フォッセーの心の木を見てしまったからだった。
 あの木は特殊なものだ、と蒼星石は言い、後から幾つか他の木を見せてくれた。確かにオディールの木のような状態の木は一つもなかった。
 それでも、ナナはあの木を見たときの印象と、水銀燈が言った言葉を忘れることができない。
 ドールと人間との契約は、その人の生殺与奪を握ってしまうものだ。あの心の木はそれを見事に象徴していた。決して、軽々しく考えてはいけないものなのだ。

 雛苺はよいしょ、と椅子から降りた。
「『翠星石』……ごめんね」
 『翠星石』に歩み寄り、いつかこの場所で真紅に対して見せたような優しい微笑を浮かべる。
「ヒナには『翠星石』のほんとうの寂しさは埋めて上げられないけど……ちょっとだけおまじないしてあげるのよ」
 雛苺は『翠星石』とナナの間に立って二体のドールの片方ずつの手を取り、ぶんぶんと大きく振った。それから両方の手を引っ張り、無理矢理重ねさせる。
「……どういう意味ですかぁ」
「な、なんでしょうか……」
 『翠星石』がじろりと涙目のまま雛苺を睨みつけ、ナナはおろおろと自分の姉と雛苺を見比べる。雛苺はにっこりと、少し得意気に笑った。
「仲直りのおまじないなのよ。二人ともやりたいことは同じなんだもん、これで握手して、仲良く探すのよ」
 雛苺は朗らかに宣言し、ひょいと半歩飛び退った。
「お、おまじないでもなんでもねーですぅ! 手抜きもいーとこですこのチビチビ!」
 『翠星石』は両手をぶんぶんと振り回し、ナナと手を繋いだまま雛苺を追いかけ始めた。ナナは片手を引っ張られ、目を白黒させながら彼女に続く。
 雛苺はひょいひょいと逃げ回りつつ、二体のドールを振り向いてにこにこと笑った。
「さあ、みんな一緒にもう一人のヒナを探しにしゅっぱつなのよー」
 言いながら、大きな扉を肩で押して向こうに開き、先に立って世界を出て行く。『翠星石』とナナが慌ててそれに続いた。



[19752] 模索(2)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/02/17 00:22
 小さくなって行くドール達の後ろで、世界の扉のノブに細い手が伸び、ゆっくりとそれを閉じた。
「全く、チビ苺は詰めがなってないのです。戸締りはきっちりしなくちゃダメっていっつも言ってますのに」
 扉に凭れ掛かりながら、翠星石は腕を組んで頬を膨らませた。
「それと、前置きに時間掛け過ぎです。今からじゃ碌すっぽ探し物してる時間なんてないですよ」
 背を離し、大仰に肩を竦めてみせる。
「ま、でも……私達の妹もあんまり見捨てたモンじゃないってトコですかね。どうです?」
 満更でもない声音で工房の奥の方に視線を向ける。問い掛けられた相手は顎に手を当ててみせ、仕事机の影から出てきた。
「そうねぇ」
 水銀燈の返事は、あまり乗り気になれないような曖昧なものだった。
「難を言えば、真紅の方を手伝ってやるべきでしょうね、ナナよりも。自分の姉で、事実上のマスターなんだから」
「真紅は、必要になれば言ってくれます」
 先程の真紅の様子を思い出し、翠星石はきっぱりと言った。
「今はまだ、助力が欲しいと言えない時期なのです。何故そうなのかは分かりませんけど、それが真紅の判断ですから翠星石は尊重します」
 水銀燈は鼻を鳴らした。
「美しい思い遣り、いえ姉妹愛と言うべきかしらね。まあ、それはいいんだけど」
 ばさりと飛び上がり、仕事机の上に腰掛ける。何かを期待するような視線を奥の扉の方に向けたが、すぐに振り切るように首を振り、翠星石に向き直った。
「相談事ってのを聞かせて貰おうかしら。わざわざひとの鞄を開けて起こしたんだから、それなりの案件なんでしょうね」
「ええ……そりゃーもう」
 言いながら翠星石は首を竦めた。
 少年の部屋に行ったまでは良かったが、水銀燈はまだ寝ていた。暫く待ってはみたものの、昼食の準備の時間に間に合わせたくて、翠星石は思い切って鞄を開け、水銀燈を揺り起こしたのだった。起こした御礼が黒い羽根の一刺しで済んだのが僥倖だったのか貰い過ぎだったのかは微妙なところだった。
「あの人形のことなんです」
 翠星石は手短に、人形が鬱屈を抱えていること、何かを探していること、そして中々素直に助力を頼んでこないことを説明した。
「時間が解決してくれることもあるんでしょうけど、肝心の時間があるかどうか分からないのです。──本当のことを言うと、時間がないような気がします」
 水銀燈は面白くなさそうな表情で机の上に置かれた完成間近のドールを眺めた。コンポジションボディの、比較的可動部分の多いドールだった。
 仮に現実世界にあったとしたら、保管状況によっては大鋸屑の塊になってしまっているだろう。ごく初期の、大鋸屑と膠で出来た樹脂のボディは軽く、割れにくいが脆い。経年劣化にも乾燥にも弱い。
「あの人形が探しているのは、二つの内のどちらかね」
 ドールの手を撫でながら水銀燈は言った。
「自分で自分を消滅させた馬鹿な男か、そうでなければ自分を作った存在。柿崎めぐの所には毎日、かなりの時間通い詰めているのだから、そのどちらか以外考えられないわ」
「それって、アンタの媒介……ですか。もしそうなら、多分……」
 翠星石はかぶりを振った。
「見付からないものを見付けようとしてるんじゃ、手伝いは出来てもそれだけですね」
「まあ前者ならそうね。でもそれなら覚悟を決めて掛っているはずよ。助力も何もあったものじゃないし、求めようとも思わないでしょう」
 どれだけ探索の目が増えたところで、見付からないものは見付からない。そんな絶望的だと分かっている作業に他人の合力を願ってしまうほど、人形は愚かだったり他力本願ではないはずだ。

「つまりあの人形が探してるのは、十中八九、末妹ってことになるわね」

 どういう意味か分かるかしら、と水銀燈は手を止めて翠星石を見遣った。
 翠星石はこくりと頷いた。
「自分を作った相手に会いたい……ってことですよね」
「それもあるでしょうし、私に対する宣言の実行もあるでしょうね」
 水銀燈はにやりと笑った。目覚めてnのフィールドに去る直前、人形は彼女に言い放ったのだ。

  ──それがアナタの願いなら、わたしはアナタの願いをぶっ壊してやるわ。

 人形の考えはある程度推測できる。少なくともあの時点では、水銀燈を壊してしまう気はないが、水銀燈の意図を妨害するつもりでそう言い放ったはずだ。
 もちろん直接手を下すつもりなら、人形は水銀燈など、まさに我儘な子供が玩具の人形を壊すように潰してしまえる。だが、人形の内部には何等かのルールが存在しており、それが直接手を下すことを許さなかったのだろう。
 あるいは、単に水銀燈により深い絶望を味わわせるためにそうしたとも考えられなくもない。『水銀燈』の、黒薔薇の花言葉そのものの恨み深い性格を持たされて生み出された人形には、そういう陰湿な一面も確かにある。
 それは兎も角として、水銀燈が自分の目的に到達するための具体的な手段を明かしていない状態で、人形がその意図を挫くとすれば、方法は二つある。
 一つは、アリスゲームに対して別の目的を持っている者を煽り、手を貸して、水銀燈を出し抜いてアリスにしてしまうことだ。対象は真紅、金糸雀、雪華綺晶の誰か、となるが、捨て台詞を吐いてnのフィールドに抜けていったのだから、あの場にいた二人は当然のように候補から外れる。
 もう一つは逆に誰かを早期に脱落させて──まさに水銀燈がゲームのプレイヤーに対して試みようとしているように──水銀燈の構想を崩してしまう、という方法がある。この場合も、恐らく目標は雪華綺晶ということになるのだろう。
 人形は一度は雪華綺晶に刃向かい、倒されて暗い不定形の闇の中で独り過ごすことになってしまったのだから。
 そして、そのことを絡めて考えれば、前者よりも後者の方が可能性として比較にならないほど大きくなる。人形の性格なら雪華綺晶と手を組むよりは雪華綺晶を倒す方を選ぶはずだ。

「……自分を創り出した相手を、狙うかもしれないってことですか……」
 翠星石は雛苺が座らせたままの素体の姿勢を整えながら、納得行かないというように首を傾げた。
「私達で言えば、お父様を……」
 それは少し違う、と水銀燈は言いかけて、やめた。

 『水銀燈』が厳密に言うとあの人形師に作られた物ではなく、あの人形師の想いを受けて「出来てしまった」ものであること。あの人形師の見立てでは雪華綺晶もそういった経緯をもって創られたものであり、また、人形と雪華綺晶の関係もそれと似たようなものであること。
 更に、歪に『水銀燈』の記憶を注入されたことを人形が呪わしく思っていて、それを行った相手……つまり自分を創った相手である雪華綺晶を憎んでいること。人形にとっては雪華綺晶は、崇めるようにして敬う相手ではなく、同じドールに過ぎないこと。
 それらを一から話しても、製作者からの愛を受けて育てられ、ゲームには否定的でも父親に逢いたいとは思っているはずの翠星石には感覚的に理解しにくいかもしれない。自分でも、頭では理解しても気分的にしっくりと来ないところはある。
 話し始めてしまえば長くなる上、蛇足でもあった。そこまで翠星石に明かす必要はないだろう。

 結局、水銀燈は簡単に話すに留めることにした。
「貴女達がどう考えているかは知らないけど、あの人形は雪華綺晶の愛を求めている訳じゃないわ。むしろ憎んでいてもおかしくない。ねじくれた考え方だけどね」
 翠星石は振り向き、水銀燈の顔をじっと見詰める。
「よく、解らんです。そういう心理は」
 水銀燈は冴えない顔になった。翠星石の言葉は予期していたものだったが、その視線の意味を測りかねていた。
 翠星石は暫く水銀燈の目を見詰め続けていたが、言い辛そうに続きを口にした。
「でも、あの子が雪華綺晶を憎んでるなら……水銀燈より先に雪華綺晶を力で捻じ伏せてしまえば、水銀燈の考えてることが壊せるし、自分の憎しみも果たせて一石二鳥ってことは、分かります」
 分かります、と言いながらも、どこかやはり引っ掛かるところがあると言いたそうな口振りだった。
「上手く行くかは微妙だけどね」
 水銀燈は翠星石の視線の意味を考えながら続ける。
「駒……姉妹同士の戦いとは違うもの。アリスゲームにとっては、あの人形は異物。脆弱な姉妹全員がこれまで脱落せずに生き延びて来れたように、雪華綺晶が糧を失うことなくここまで命を繋いで来れたように、プレイヤーがゲームの進行に危機を感じれば最後は排除してしまうでしょうね」
「……そうでしょうか」
 翠星石はどうしても納得がいかないという風に視線を外し、やや下を向いて口に握った手を当てるようにして考え込んだ。やがて、ぞくりとしたように身を震わせ、水銀燈を顔を上げて見詰め直す。
「なんだか怖い考えになってしまいましたけど」
 いいですか、と問い掛けられ、水銀燈はどうぞと先を促した。翠星石は一歩前に出て、ごくりと唾を飲み込んでから口を開いた。

「あの子は、強くなり過ぎた誰かのことを抑え込むために、バランスを取るために……お父様が作った障害だとしたら……?」

 水銀燈は眉を顰め、足を組み替えた。
「なるほど、前後関係は不整合だけど、先を見越していたとすれば辻褄は合う、か」
 最初は雪華綺晶の襲撃を失敗させ、一方的に有利にさせないため。そして雪華綺晶が襲撃に失敗してからは、知識を得て主導権を握った水銀燈の意図を抑えるため。
 確かに、真紅をベースとしてアリスを作るため、彼女を勝利させるためなら有り得なくもない方法だった。そう見えないこともないだけ、という気もするが。
「水銀燈が自分で思ってる以上に、アンタが知識を得て動いてることはお父様を困らせてるのかもしれませんよ」
 翠星石はあまり愉快そうでない表情になっていた。
「アンタの独走を阻止するために、姉妹の一人や二人なら潰してしまってもいい、って考えてるのかもしれません」
「……話が飛躍しすぎでしょう、それは」
「すみません、翠星石はぶっ壊れですから」
 翠星石は苦笑した。だが何故かその笑いは幾分誇らしげでもあった。
「自分の都合で勝手に契約を結んで、その相手を女の子として好きになって、ずっと一緒に居たいって思ってるぶっ壊れなんですから。ジュンとずぅっと並んで生きて、子供を産んで、人間みたいに歳を取って、……なんて妄想大爆発なヤツですからね。説明が下手なのくらいは勘弁してくださいです」
 笑いを収め、真剣な口調になって続ける。
「水銀燈は真紅がアリスになることが決まっているドールで、雪華綺晶がその最大の敵になるように決められてる、って考えてますよね。でも、それは間違いだったらどうします?」
「別のドールが最後の障害になる予定ってことかしら」
 それはないでしょう、と水銀燈は肩を竦めた。

 姉妹それぞれの特性、即物的な力の大小を考えれば、他には考えにくい。
 例えば金糸雀や自分が最後の敵となるには、恐らく派閥を作って真紅に対抗する必要があるが、襲撃者として生きてきた自分には人望がない。金糸雀は金糸雀で、謀を好むせいかどの姉妹からも一線を引いている。姉妹を食い合わせる黒幕にはなれそうだが、自分が頭を取って立ちはだかるという性格ではなかった。
 人望が厚く、そうなるだけの思い遣りがあり、即物的な力は弱いけれどもアリスゲームについて人一倍考察している。それが真紅だった。
 その対極に位置し、全くこれまで存在を知られることなく、半ば本能と感情だけで動きながら即物的な力に秀でている雪華綺晶は、真紅が乗り越えなければならない最後の難関として相応しい。
 それに、雪華綺晶の果たしてきた役割を思えば、彼女が潰えてしまえばアリスゲームはその時代で終わらざるを得ない。
 真紅と雪華綺晶が最後に残り、雌雄を決するような形が、言い方は悪いが一番無難な収束の仕方なのだ。

 だからこそ、水銀燈はターゲットとして雪華綺晶を選定した。
 彼女を単純に袋叩きするなどして力任せに「叩き潰す」のではなく、相手の力を殺いだ上で、ゲームのルールに則って勝負して勝つか屈服させてゲームのプレイヤーに一泡吹かせてやりたい。
 彼女が脱落する破目になれば、相手は当然慌てるだろう。そこまで行かなくとも糧を失って干上がりかけてしまうこと自体、彼からすれば異常事態に違いない。
 その上でどうするかは、水銀燈は実ははっきりと決めていない。というより、その時点か直前で自分は抹殺されるか真紅に敗北するはずだ、と考えていた。

「水銀燈はどえらく鈍感ですね。それとも、考えたくないから分かってないふりをしてるんですか」
 翠星石はまるで、恋愛に疎い少女に「身近な相手が貴女を好いている」と友人が告げるときのような言い方をした。
 また暫く、水銀燈に考えさせるような間を置いてから、まあ、そっちはいいんですけど、と続ける。

「雪華綺晶も私達……翠星石と同じ取替えが利く駒かもしれないってことです。
 末妹が居なくなってアリスゲームを次の時代に持ち越せなくなったって、元々この時代でゲームに決着を着ける予定なら、末妹が最後まで残ってる必要はないですよね。
 決められているのは誰が最後に残るか、それだけかもしれないですよ。
 もしかしたらそれさえも事前に決まってはいなくて、みんなが最初に考えていたとおり……最後の時点で最も相応しい者がアリスになる。案外それが正解かもしれんです」

「貴女の考えは興味深いけど、最後の部分だけは恐らく不正解ね」
 水銀燈は考えを纏めつつ言った。
「そもそも、貴女のさっきの話と矛盾するんじゃないの? 例えば私がアリスに成れるなら、プレイヤーが私を妨害する必要はないでしょうに」
「矛盾しませんよ」
 翠星石はほう、と息をついた。
「誰かがアリスに一番近くて、でも今の私達ではまだまだアリスとなるには不足だ、とお父様が思ってるとしたら……お父様は、簡単に全てのローザミスティカを集めさせないために、普通の方法じゃ手を出せない相手に何人分かのローザミスティカを預けるくらいのことはするんじゃないでしょうか?」
「……なるほどね、そのために何人かの姉妹を犠牲にしても構わないとは随分思い切った決断だけど」
 水銀燈は皮肉に顔を歪めた。それは、あの人形師が水銀燈に依頼した内容に似ていた。
 違っているのは、人形師は既にゲームに敗北してしまった二体の動力源を、一番血の気の多い──そしてゲーム本来の目的以外でも動力源を集める可能性がある──『水銀燈』に渡さないことで、ゲーム以外の方法でそれぞれのドールに『アリス』になる方を選択させようとしたというところだ。
 彼女達の造物主が、現状で最もアリスに近い者の意図を敢えて挫くことで自分のゲームを完遂しようとしているのであれば、それは随分と皮肉な、しかし可能性はある話だった。結局ゲームのために生かされているだけの駒に過ぎないのは分かっているが、愛情も何もあったものではない。
 ただ、翠星石の言っていることは流石に無理があるような気がした。
「でも、そのためだけにわざわざ新しい人形を投入するような真似はしないでしょう。彼はもっと直截に介入してしまえるのだから」
 この時代で真紅と水銀燈が初めて対峙したときのように。あるいは、水銀燈が真紅の腕をもぎ取ったときの戦いのように。
 真紅は自分自身のこととして言っていたが、彼女に限らない。姉妹達は皆不完全で言葉が足りないから、こと、アリスゲームに関しては、意見が衝突すれば最終的に戦いにならざるを得ない。しかし、いざ戦いとなれば姉妹はその帰趨を彼に握られているようなものだった。
「もし、私が現状で最もアリスに近く、末妹は既に役目を終えていて、あの人形が貴女の言うとおりの役目を持っているとしたら……」
 水銀燈は、ありそうにない話だけど、と付け加えるのを忘れなかった。
「この間蒼星石を襲撃したときに、あの人形を登場させて末妹に止めを刺させているはずでしょう」

 あの日、人形は桜田ジュンの家の客間からnのフィールドに逃げた。
 それが早速雪華綺晶とナナを見つけ、雪華綺晶の弱ったところに付け込んで復讐を果たす。次いで水銀燈の「願いをぶっ壊す」ために雪華綺晶のローザミスティカを隠すか、自分で持ち逃げする──
 実現していれば悪くないシナリオだったと思う。水銀燈の造物主がナナ達にまで干渉できないとしても、人形に干渉できるのなら特に問題なく進行できる話だった。
 その場に居た蒼星石は力を使い果たす寸前、ナナはネジを巻かれる前で、水銀燈の媒介はそもそも無力だった。しかも姉妹全員が遅まきながら現場に向かうところだった。実に良い機会だったはずだ。
 更にもう少しタイミングを合わせれば、それこそ全員の目の前で、人形に末妹や蒼星石のローザミスティカを奪わせることも可能だった。いや、翠星石の説のとおりなら、話の繋がりからすればむしろそれが自然ではないのか。
 だが、実際には事態はそう進まなかった。
 雪華綺晶は襲撃には失敗し、ある程度のダメージは受けたものの、無事自分の領域に退却した。姉妹達が見たのは雪華綺晶の姿でなく、弁慶もかくやというほど持てるだけの物を抱えた、水銀燈の媒介だけだった。

「もちろん、それだけで雪華綺晶の役目は終わっていないとか、誰もがアリスになれる可能性は潰えたと言うつもりはないわ。私だって今でもアリスに成りたいのは変わらないわよ」

 至高の少女となり、お父様の愛を得る。
 それは姉妹に本能のように刷り込まれた目的だ。真紅は例外的に独自の構想と彼女自身の性格から、誰もアリスにならず、全員でアリスを「生む」という方法を採ろうとしているが、彼女にしても父親に逢いたいという欲求がないわけではないだろう。
 少なくとも水銀燈は今でもアリスになりたい。どんなにからくりを解き明かす真似事を推し進め、その結果自分には不可能なことだと分かってきても、煩わしく、厭わしくても、それは容易に変えられるものではない。
 ゲームの枠組みを踏み外さずに暴れてみせているのは、その裏返しのようなものだと自分でも思うことはある。自分だってここまで出来る、という幼稚なアピールのようなものとも言えた。
 考えてみれば、アリスゲームが始まる前──父親に作られ、失望させてしまい、そして妹達が次々に増えていきながらその誰も要求を満たせないのをずっと工房で見続けていた頃──から、水銀燈はずっとそんな風だったような気がする。工房で忙しく手を動かす彼に話し掛け、少しでも振り向かせようと必死だった。
 父親はいつも優しかった。過ごした時間の差はあれ姉妹の誰にも優しく接していた。だからこそ姉妹達は皆、架空の存在や未知の誰か、またはその折々の契約者達でなく彼女達を作った人物そのものを求めてきたのかもしれない。
 しかし、今の段階では、彼女達の造物主はゲームの遂行に腐心しているように見える。彼女達を作った稀代の錬金術師にして人形師だった人物とは懸け離れた存在にすら思える。
 長い間の試行錯誤と一人ゲームに溺れてしまったのか、そこそこの時間を費やして自作したとはいえ愛玩人形は何処までも玩具の人形に過ぎないということなのか、完璧な作品以外認めたくないという芸術家気質が頭をもたげてきたのか。
 いずれにしても、愛を受けることができるのは最大でもただ一人ということ自体、姉妹全てに愛を向けていた父親にしては厳し過ぎる仕打ちではあった。変心と言ってしまっても過言ではない。
 元々アリスゲームへの関心が薄く、言い換えれば比較的父親への執着が薄かった翠星石と蒼星石が、この時代に入ってから父親以外の存在を求めるようになり、それぞれ──蒼星石にはまだ確認していないが──まるで人間のような一生を送りたいと望んでいるのも、ある意味ではそんな造物主に対して失望したためかもしれない。
 仮にその推測が当たっていれば、そうさせる一端を担ったのは間違いなく水銀燈自身だった。媒介から知識を得てアリスゲームのからくりを自分なりに解き、それを彼女達に見せたのだから。
 ここでも、結局のところ水銀燈は悪役なのかもしれない。目的に邁進していた少女達の耳元に誘惑を囁いた魔女の役柄という訳だ。

「でも、今までの経緯を踏まえた限りでは、私はまだ自分の考えを修正する気分にはなれない。そんなところね」
 水銀燈は湧き上がってくる様々な記憶や思いに、その一言で蓋をした。所詮は繰言だ。昔を振り返ったところで現状は変わらない。
「そうですね……」
 翠星石は溜息をついた。
「付け焼刃で、それも翠星石の頭で考えた思いつきは、やっぱり穴だらけでしたか」
 そう言って、うーんと伸びをしてみせる。
「話を戻して良いですか? 自分から振っといて悪いですけど」
「構わないわよ」
 水銀燈は立ち上がり、机の向こうに掛っていた木綿の服を持ってきた。二十一インチ用というのか、机の上のドールに合うサイズだった。
 この工房は大きいが、職人は一人かそこらだったのだろうか。オーブンを大きくしたような室内窯も含めてこの中に丸々一式揃っているし、様々な工程の品物が混在していた。
 媒介を連れて来て、このドールやら何やらを実体にして持ち出せば面白いかもしれない。今更、大鋸屑を膠で固めたボディに液状粘土焼成の顔と手足などという時代錯誤の素材で人形を新たに作るような物好きは居ないだろうが、草笛みつ辺りなら欲しがるだろう。
「良かったです。お昼の支度があるんですよ」
 そう笑う翠星石は一瞬だけ家庭の顔になっていた。水銀燈はからかおうとして、止める。翠星石がすぐに真面目な表情になってしまったからだ。
「結局、あの子が探してるのは末妹で、その目的は多分他の誰のためにもならない……ってことですよね」
「つづめればそういうことになるわね」
「話し合う余地はないんでしょうか。どんなに憎んでいても、雪華綺晶はあの子の作り手です。作り手を倒すために探し続けてるなんて、復讐のために生きてるみたいで不幸過ぎるじゃないですか」
 翠星石は陳腐な言い回しを使った。陳腐なだけに、一般論としての重みはあった。
「あの子はアリスゲームみたいな枷を嵌められていません。自由なはずなんです。自分の生き方は自分で決められるし、目標も、過程も選び取れるはずです」
 二人とも知らないことだったが、それは真紅がジュンに語ったことと同じだった。そして、そこに羨望と、羨望するゆえの美化が混じってしまっていることも同じだった。
 目標を与えられず、いきなり世界に独り放り出されるというのは決して幸福なこととは言えない。しかしそれは、ゲームに縛られ、ゲームを厭わしく思い始めてしまっている翠星石達には中々理解できない事柄でもあった。
 水銀燈にも、頭では分かっても感覚的に理解できないのは同じだった。少し違いがあるとすれば、全く別の視点を持って生きていた媒介の知識がある分、頭で分かる部分の引き出しが広いくらいのものだ。
 だが、別の切り口もある。
「自由ね……選択肢が選べる立場という点では自由でしょうけど、心は自由かしらね、あの人形は」
 水銀燈はドールに服を着せながら、ふっと息をついた。

「自分達の殺し合いゲームのために。
 幽かに知っているだけのきちがい人形師に逢って愛されるために。
 自分をジャンクと呼んで蔑んだ、自分の姉妹の中で最も完全な存在を潰すために。
 最後は動力源を全て集めて契約者の不治の病を治すために……
 そんな風に殆ど衝動だけで突き動かされて生きていた他人の記憶と人格を与えられて即席で作られたのよ」

 そんな存在が、果たして自由に生きることができるのか。そこまでの過酷な過去を背負ったことのない水銀燈には分からない。そもそも『水銀燈』の心情自体、自分達には同情や理解はできても永遠に共感できないものなのだろう。
 少し間を置き、ぽつりと呟く。
「むしろ心の自由を獲得するためには、何かしらの通過儀礼が必要なのかもしれない」
「親殺しが通過儀礼、ですか」
 翠星石は両手を握り締め、ぶるっと身を震わせた。水銀燈は頷き、服を着せ終わったドールをお座りさせて机から降りた。
「多くの場合、それは実際に親を殺す訳じゃなくて、精神的に親を上回ったと納得することで解消するものだけど。そうね。あの人形には、実際に親──ここでは雪華綺晶ということになるわね──を倒して乗り越えることが必要なのかもしれない」
「でも私達は──」
「──あの人形のことよ、勘違いおしでないわよ」
 翠星石は細かく震えながら何かを言い掛けたが、水銀燈は言葉を被せて続きを言わせなかった。
「立場的にはどうあれ、あの人形の心は枠の中に押し込められている私達より、不遇だと自覚している人間のそれに近いものよ。特別扱いしないのは美しいことでしょうけど、成り立ちに違いがあることは理解しておきなさい」
 そのまま歩み寄り、翠星石の拳に手を重ねる。
「例えば私達の誰かがお父様を殺したいなんてことを願うことと、あの人形が雪華綺晶を倒したいと思っていることは全く別。感心できない考えである点だけは共通しているけどね」
「……はい。でも」
 翠星石は自分の拳に視線を落とし、ぎこちなく手を開くと、恐る恐る水銀燈の手に触った。そのまま暫く、水銀燈が何もしないのを確かめるように軽く撫でていたが、やがて指を絡ませた。
「でも……だったらどうすればいいんですか。私達とは別だとしたら、止めちゃいけないことなんでしょうか。止めちゃいけないのならあの子に手を貸せばいいのか、姉妹として雪華綺晶を守るべきなのか、それも分からないですよ」
 水銀燈は指を解き、翠星石の手を両手で包むようにした。
「──それは貴女が自分で悩まなければならない事柄でしょうに」
 言わずもがなのことだとは分かっているが、突き放さない程度に語りかける。
「ただ、こういうときに独りで考える必要がないのは、貴女の特権ってところね。ある程度考えを纏めて、それから貴女の契約者と、契約者を同じくする姉妹に相談しなさい。折角の恋人や志を同じくする姉妹なんだもの。一緒に悩んでみればいいじゃない」
 桜田ジュンも、真紅も、人形に関わっているという点では翠星石と同じだ。今のところアリスゲームに関して纏まって臨んでもいる。翠星石が独りで考える必要はない。
 だが、顔を上げた翠星石は肯定も否定もせず、じっと水銀燈の目を見詰めた。

「水銀燈は……? 貴女はどう思うんですか。あの子のこと。どうするつもりなんですか」

 長いこと回り道をしたが、今日の翠星石は、最初からそれが訊きたかったのかもしれない。
 教えてください、と言う彼女の瞳には、何故か縋るような色があった。それに絆されるように、水銀燈は自然に口を開いていた。
「あの人形と末妹のことは、アリスゲームとは直接関係ない、二人の問題よ。それで末妹が死ぬにしても、二人が結託してゲームを壊すにしても、私は手を出すつもりはない。ただ──」
 見ようによっては意地の悪い笑みになってしまうだろうが、水銀燈はにやりと笑った。

「──どう転んでも、その結果を私は利用させて貰うわ。卑怯な遣り方だけどね。
 それに、罷り間違って雪華綺晶があの人形に倒されてしまうなら、私としてはプレイヤーの鼻を明かせたことにもなるのよ」

「──っ」
 翠星石はいやいやをするように激しく首を振った。
「違います、水銀燈。アンタはそんな冷たいこと考えてないはずです。ホントは、もっと別の……」
「翠星石。勘違いおしでないわよ。貴女と私はゲーム盤の上の別の駒同士。いずれ一度は戦う敵ってことよ」
 言いながら、水銀燈は言葉とは裏腹の動作をした。翠星石を抱き締めたのだ。

「少し親しく関わったからって、無理に甘い言葉を期待するのはよしなさい。
 姉妹が全員、貴女や真紅のようなお優しい人物ってわけじゃないわ。敵対するかもしれない相手に幻想を抱いてはいけない。付け込まれ、利用されるのが落ちよ。
 今の話は掛け値なしの私の本音でもある。それは知っていて頂戴。でないと──」

 水銀燈は抱擁を解き、正面から翠星石を見詰めた。
「──辛くなるわよ。これからは」
 翠星石は暫く呆然としていたが、やがてこくりと機械仕掛けの人形のような動作で頷く。水銀燈は薄く笑い、そろそろ時間ね、と言った。
 翠星石は二、三度瞬き、今度ははいと答えた。昼食の支度があるのだ。話の次元が違うとはいえ、それもまた、彼女にとっては疎かに出来ないことに違いはなかった。


 薔薇屋敷からの眺めは今日も格別と言って良いものだった。
 雨上がりのせいか、ガラス越しにも午後の空は青く、柿崎めぐの作り上げた空よりも高く澄んでいるように見えた。
 水銀燈は円形に張り出した窓に行儀悪く凭れ掛かりながら目を閉じた。
 翠星石との遣り取りは考えさせられる内容だった。殆ど一方的に否定する形で終わってしまったものの、今晩辺り、ゆっくりと考え直す必要があるかもしれない。
 この部屋などは落ち着いて考え事をするのにぴったりの場所なのだが、生憎、今は別件で訪問しているところだった。

 翠星石を見送ってから、水銀燈は毎日の巡回ルートをひととおり辿った。
 思いついて更にあちこち足を伸ばしてみたものの、これといって異常も見当たらなければ、良い報せもなかった。雪華綺晶が接触してくることもなければ異世界のドール達とニアミスすることもない。
 心の木を見る限りオディール・フォッセーは相変わらず生かさず殺さずといった按配で糧にされており、めぐの木の茨も育ちもしなければ枯れもせずにそこにあった。もっとも、それは予期していたことでもある。
 まだ、事態は動かないはずだ。動くとすれば、あの人形か『真紅』が雪華綺晶と接触してからだろう。
 何も異常がないのは安心できることでもあったが、徒労感もある。鞄に戻り、少年が帰ってくるまで昼寝でも決め込みたいところだったが、今日は生憎先約があった。
 蒼星石のぼんやりした幻影に迎えられ、彼女は結菱老人の寝室の鏡から現実世界に帰還した。
 待ち受けていた老人は庭の薔薇園が一望できる部屋に水銀燈を誘った。ワゴンに飲み物まで用意していたところを見ると、それなりに腰を据えて話をしたいようだった。

 結菱老人は窓際で薔薇園の隅を見下ろしている。視線の先では作業服姿の蒼星石が、愛玩人形とは思えないような地味な野良仕事をこなしていた。
「延べ十何人かは契約者を見て来たけど、貴方が一番ね」
 水銀燈は呆れたように言ってやった。結菱老人は車椅子を四十五度ばかり回して彼女を振り向き、人の悪い笑みを浮かべる。
「あまり良い意味の言葉ではないようだね」
「ええ。人形遣いが荒い、ってことだもの」
「そうだろうと思ったよ」
 老人はふっと笑ってまた蒼星石に視線を戻した。
 今日は平日で、少年はそろそろ下校してくる時間帯だが、まだ姿を見せていなかった。
 蒼星石は一人で剪定した枝やら落ち葉やらを丁寧に拾っては小さな台車に乗せ、それを庭の目立たない場所まで押していき、捨ててはまた元の場所に戻るというルーチンを繰り返している。なりが小さいだけ効率は悪いが、やらないよりはましだった。
「時々、考えることがある。あの子が人間で、君のマスターと二人でこの薔薇園を維持して行ってくれたらどれほど幸いか、とね」
 水銀燈は老人の車椅子に歩み寄った。
「その楽しい御伽噺に、貴方は居ないのかしら」
「当然、居るとも」
 老人の声はまた笑みを含んだ。
「私は二人をここで見ているのだ。そして、曾孫の誕生を待っている。傑作だろう? 伴侶を持ったこともないのに」
「まあ、それは構わないでしょう。所詮は都合の良い御伽噺なんだから」
 水銀燈は自虐に走りそうな老人の言葉をあっさり切り捨て、車椅子の脇に立った。
「それで? 貴方が私をわざわざ呼び出した理由は、その薔薇色の御伽噺を聞かせるため?」
「うむ」
 老人は軽く頷き、膝の上に置いていた紙挟みを開いてクリップで留め、水銀燈に渡した。
「薔薇色とは行かないまでも、ささやかな御伽噺を現実にできる程度の余力はあると思うかね?」
 水銀燈は大きめのサイズに若干苦労しながら、その書類に目を通した。開いてあった部分だけでは終わらず、何枚かめくる破目になった。
 開いたものを読むだけでも面倒だったが、人間用の書類は彼女には大き過ぎ、めくるのに散々苦労してしまった。真紅のように人工精霊を召喚してめくらせた方が早いのではないかと思ったほどだ。
 しかし、苦労して目を通しただけの価値はあった。紙挟みを返したときの彼女の顔は、意外だと言いたそうなものになっていた。
「浪費家だと思っていたけど、意外に倹約家だったのね。これならもう一旗目指しても良かったんじゃないの?」
「残念だが、その当時にはなかった財ということになるかな。種を明かせば、土地価格が異常に高騰していた頃に、煩がって此処以外の土地を全部処分しただけの話だ」
 老人はクリップを外し、元どおりに紙挟みを閉じるとつまらなそうに言った。
「今更有価証券に投資する趣味もやる気もなかったから、全部地金に換えた。それが今になって高騰しているだけの話だよ」
 言わば才覚がなかったが故の資産ということだ、と言いながら、老人は息をついた。ガラス窓越しの空に向けられた視線は、淡々とした言葉よりは僅かに感情を含んだものになっている。
 潰えた夢を想っているような瞳の色だった。今は遥かに遠ざかってしまったものの、彼も若い頃は親の資産を食い潰すだけの生活を潔しとせず、青年起業家として羽ばたきかけた頃もあったのだ。
 水銀燈は老人の斜め前に回り、ガラス窓に背を凭せ掛けた。
「ささやか、の内容によるとは思うけど、これだけの資金があれば大抵のことはできるでしょう。何を企んでる訳?」
 老人は水銀燈の赤い瞳を正面から見詰めた。視線が絡み合った。

 やがて、老人は根負けしたように視線を逸らした。
「何も企んでなどおらんよ。老い先短い老人一人、それに少年二人と女性一人の終生の最低限の生活の保障。人形工房と展示販売店舗の作成。それに、此処の永年維持管理費程度だ」
「……つまり、それは貴方が他の契約者達を養うって意味かしら」
「似ているが、違う」
 老人は息をついて車椅子をゆるりと反転させ、飲み物を置いた机のところに下がった。
「天才的な服飾製作者、アンティークドールのコレクター、薔薇園の管理者候補、そして使い道のない資産と建物を抱えた老人。役者は揃っている。そこに更に七人の少女達が集っていたら素晴らしいとは思わないかね」
「素晴らしく無駄な発想だわ」
 水銀燈は舞い上がり、机の上に行儀悪く座った。
「ローゼンメイデンを全部──契約者まで含めて全員一所に集めてしまおうなんて、豪儀な話ではあるけど実のない考えもいい所ね。何の意味があるの?」
 老人が注いでくれたワインを受け取り、グラスを打ち合わせる。
「アリスゲームが終わってローザミスティカが体から抜けてしまえば、私達は多分、ただの美しいアンティークドールになるわ。いいえ──」
 くいとグラスを傾け、一口呷った。
「──下手をしたらボディも何も残らないかもしれない。アリスが生まれてしまえば、それで私達の使命は終わるのだから、人形としての形骸も無用のものになる」
「それでも、君達は現在此処に確かに存在している。契約者たる私達はそれを知っている訳だ」
 老人は自分もワインを飲み、窓越しにまた空を見上げた。
「もっとも、君達が消えてしまえば私達の記憶もまた消去されてしまい、あるいは変質してしまうのかもしれない」
「それなら、貴方のすることに意味はないんじゃない?」
 水銀燈は肩を竦めた。
「仮に此処に貴方の思うとおりのものが完成したとしても、集った者達は誰も、貴方の正確な意図を覚えていないんだから。他ならぬ貴方を含めて、ね」
「いや、意味はある」
 老人はにやりと笑った。

「世界がローゼンメイデンを消し去ったとしても、自己の大幅な改竄を嫌うものである限り、私達契約者は生きている限り手付かずにされるはずだ。ローゼンメイデンに関わる記憶以外の部分は。
 たとえ君達を誰も覚えていなくとも、記録が改竄されて薔薇乙女の痕跡が何処にも何も残らなくとも、最低限、四人の殆ど何の係累もない人間が、何等かの共通項をもってここに集ったことだけは事実として残るだろう。
 何等かの共通項、は歪められるか曖昧にされてしまうのかもしれないがね。
 そして、それは今後大して長生きする訳でない私がこの世に遺す最大の痕跡でもある、ということだ」

 老人はワインを飲み干し、どうだね、と言いたげに水銀燈を見た。
 結菱一葉は妄執に囚われているだけの男ではなかったのだ、と水銀燈は漸く気付いたような気がした。
「要するに、貴方は私達や貴方が生きた印を、最悪、石くれに刻んだ意味のない引っ掻き傷でもいいから何か残そうと考えている。そういうことね」
 老人は頷いた。
「私と君達には共通項がある。それは、子孫を遺し得ないし、人の世に何か不特定多数の記憶に残る生産的なものも残さないということだ」
 そうだろう、と言われて水銀燈は返事に詰まった。老人は特に返事を期待していなかったのか、間を置かずに続けた。

「そんな存在の生きた痕跡など、大理石に刻んだ美文であろうと石切り場の岩を抉った傷だろうと大差はない。後から直接思い出してくれる者が居なくなれば、存在したかどうかさえ定かでなくなるのだから。
 ならば、何かを残すと考えたときに、自分と似通った傷を持つ同志を三人集めるくらいのことでお茶を濁しても良くはないかね?
 三人に最低限の生活の保障をするのは、まあ、迷惑料代わりのようなものだ」

「そうね。貴方にはそれを実行するだけの財力がある」
 水銀燈はまた一口呷り、グラスに残ったワインを眺めた。
 老人の口にした提案の理由は十二分に腹黒く、自己中心的ではある。
 それは水銀燈に心理的な負担を掛けたくないという意図があって作った口実で、真意はまた別にあるのかもしれない。ならば偽悪的と言うべきだろう。
 ただ、彼の真意が何処にあれ、その提案内容は魅力的だった。水銀燈のやっている事柄とは全く違うが、アリスゲームに何等かの抵抗を試みているという一点では共通してもいる。

──とはいってもねぇ。

 水銀燈は老人に視線を向け、にやりと口の端を吊り上げてみせた。
 魅力的とはいっても実現性が高いかどうかということは、また別の話だった。
「でも、薔薇園の管理者はいいとして、ドールマニアとドレスの製作者はその提案に素直に乗るかしらね。特に桜田ジュン……少なくとも今現在の彼はごく普通の中学生としての生活を望んでいるわよ」
 老人が苦笑して首を振ったとき、控えめなノックの音が背後のドアから聞こえてきた。
「よろしいでしょうか、マスター」
 老人と水銀燈は顔を見合わせ、どちらからともなく軽くお辞儀をした。この話題はお仕舞い、という合図だった。
 水銀燈はそっぽを向いて手の中の──と言うにはグラスが大きすぎるのだが──ワインをまた一口飲む。老人はグラスを置き、痰が絡んだように一つ咳払いをした。
「入りたまえ」
 はい、と答えて蒼星石は室内に入ってきた。いつ着替えたのか、本来の衣装に戻っている。
 行儀悪く机に腰を下ろした水銀燈が、まだそれなりに入ったワインのグラスを掲げてみせても、驚いた風はなかった。あるいは二人の会話をある程度は聴いてしまっていたのかもしれない。
 数歩車椅子に歩み寄り、敬礼こそしないものの固い調子で報告する。
「少し早いですが、今日予定していた分の仕事は終わりました」
「随分早かったのだね」
 老人は苦笑した。蒼星石はちらりと水銀燈を見て何故か頬を染めると、老人に向き直ってはにかむような微笑を浮かべた。
「はい……彼が、来てくれたので」
 その言葉に合わせたように、廊下をどかどかと遠慮なく歩く音が近付いてきた。
「失礼します……水銀燈、いたのかぁ」
 少年は悪戯を見付かった子供のようにびくりとして、それから慌てて老人に頭を下げた。
「言葉と動作の順番が反対でしょう、お馬鹿さん」
 水銀燈はけらけらと笑った。少しアルコールが回ってきたのかもしれない。
 それは彼女達にとっては観念的なものなのだろうが、それでも久々のほろ酔いは気分の悪くないものだった。
 その気分のまま、少し無理を言ってやろうかと考える。

──今晩辺り、老人とこの部屋でデート、なんてどうかしらね。

 恐らく現在の契約者達の中で最も「アリスゲームの後」のことについて考えを巡らせているのは結菱老人だ。彼にアリスゲームの実態を教えがてら、改めて翠星石の言ったことを吟味してみるというのも悪くはないだろう。
 何も生まない酒飲み話になるのが落ちだろうが、ひょっとしたら何かのヒントが得られるかもしれない。


 人形がめぐの病室から帰ってきたのは夕暮れ近くになってからだった。
 雛苺と翠星石は階下で食事作りの手伝いをしているのか、部屋に居たのは真紅だけだった。
 真紅は読んでいた本から目を上げ、お帰りなさい、と素っ気無い声で言った。人形は無言でジュンの机の上に立ち、手を触れずに念の力で窓を閉めた。
 真紅は驚いたように目を見張った。
「まあ。お行儀が良いのね」
「馬鹿にしないでくれる? このくらいの物を動かすのに面倒も何もないわぁ」
 冷たく突き放したつもりの言葉は、しかし澄ました表情で返された。
「そうね。大人の人間が片手で楽に開け閉めできるように作られた物だから、面倒でなくて当たり前なのだわ」
 これもそう、と真紅は視線を戻し、読んでいた本を示してみせた。
「人間の尺度で見れば、丁度良い大きさよ。私達には少し大きいけれど」
「……だから、何だって言いたいのぉ?」
 人形はあからさまに不機嫌な表情になっていた。
「わたしに説教するつもり? 今朝の翠星石もそうだけど、アナタ達の話ってくど過ぎてやってられないわ。言いたいことがあるんならはっきり言いなさいよ」
「翠星石の言いたかったことは分からないけれど、私は貴女の態度についてお説教するつもりはないわ。ただ──」
 真紅は栞を挟み、本を閉じた。
 人形は気付かなかったし、彼女を毎日見ている人々も今更不思議に思わなかっただろうが、記憶を失う前の水銀燈の媒介が見たら、おや、という顔をしたに違いない。それは真紅が好んで読んでいた心理学やら哲学の書物ではなかった。ハヤカワの単行本だった。
「──私達はこうして人間と同じように過ごしているけれど、人間の視点から見れば、自分達とは違う厄介な異邦人に過ぎないわ。
 たまたま人間の子供に近い大きさに作られたから、少し不自由する程度で人間の物を使うことができているけれど、私達はどこまでも人形で、人間ではないの。人間の世には溶け込めず、それなのに人間に依存しなければ生きて行くことのできない脆弱な存在よ」
 真紅は人形を見上げた。
「貴女が私の姉妹とも『ローゼンメイデン』達とも違うように、私達は皆、人間とは違う。そして大きな視点で見れば、この人間の世の中に居候させて貰っているだけなのは私も貴女も同じことなのでしょう」
 人形は黙っていた。不機嫌そうな表情は変わっていなかったが、真紅の言葉を撥ねつける気分にもなれないようだった。
「違いを突き詰めて行けば、限りがないわ。この真紅とあちらの『真紅』も、いいえ、私と翠星石だって違っている。でも私達の違いは、助力が必要なときに協力し合えないほど深くて広いものではないはずよ。同じ人形同士なのだから」

 淡々と語りながら、水銀燈ならどう説くのだろう、と真紅は考えていた。
 結論から先に言い、理由を説明するだろうか。ヒントを与えるに留めて、後は勝手に考えなさいと突き放すだろうか。それとも結論だけを言って、行動で理由を考えさせていくのだろうか。
 水銀燈自身はそういった性急な説明を良いものとは思っていないようだが、段階を踏んで話を組み立てるか、自分の言葉の足りないのが厭になって、殆ど説明をせずに相手の理解に期待する方法のどちらかに頼ってしまう真紅としては、そうした簡明なやり方ができる彼女を素直に羨ましく思うこともある。
 この人形のような直截な性格を持った相手には、多分水銀燈のような遣り方が合っているはずだ。だが、それが自分には中々できない。
 歯痒いのと同時に、つい、ある思いが湧き上がってきてしまう。

──仮に私が条件付けされているとしても、今、姉妹の中で一番慕われているのは……

 真紅はふっと息をつき、立ち上がって人形の方に歩み寄った。
「全ての行動を共にしようと言うつもりはないわ。でも、何かを探しているのなら手分けをした方が得策よ」
 近付けば近付くほど、机の上と下という高低差で、真紅は相手を見上げるような恰好になってしまう。それでも、机の間近まで彼女は歩み寄った。
 視線の高さを合わせるという考えはなかった。兎も角、今はまず距離を詰める方が優先だった。
「ハッ、なぁによ。長ったらしい演説ぶっちゃって、馬鹿みたぁい」
 人形は鼻で笑いながら、しかし机の縁に──真紅の方に──歩み寄った。
「要は、情け深くて偉いアナタが可哀想なお人形の探し物を手伝ってあげる、そういうことじゃなぁい。アナタ、姿もそっくりなら考えてることもあの薄っぺらい偽善者とおんなじってわけぇ?」
 反吐が出るわぁ、と人形は目尻を吊り上げる。目の色は薄紅色から紫がかったものに変わり、怒ったとき特有の酷薄な顔つきになっていた。
 ただ、その表情をしていながら、人形は暴れようとはしていなかった。翼を広げることも、羽根を射出することもなかった。
 真紅にはそれが人形の発するシグナルのように思えた。言葉や態度は捻くれているが、人形は行き詰まっていて、本当は誰かの手を借りたいのだ。
 彼女はまた微笑を浮かべた。それは寂しげなものではない、不敵な笑みだった。
「いいえ。これは一種の共同作戦よ。貴女が探し物をしているように、この真紅も探し物をしている。二つの視点から探せば、どちらの探し物も捗るのだわ」
 やや毒気を抜かれたような人形に、真紅は少し柔らかに付け加える。
「それに、貴女の探し物は──多分私の探し物と同じだから」



[19752] 酔夢譚
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/02/17 00:24
「ねぇピチカート、水銀燈は何を考えているのかしら」
 草笛みつの部屋、アンティーク調の鏡台の前でドールの髪を整えながら、金糸雀は彼女の人工精霊に語りかける。黄色の光球はチカチカと数回瞬いた。
「そうよね、貴方にも理解できないわよね。雪華綺晶を最後の手前まで追い込んでおいて、あの子が苦し紛れに契約を結んだら今度は放置なんて。手緩すぎるでしょう? いよいよになって怖気づいたのかしら。それとも雪華綺晶を追い詰めて遊んでいるのかしら。虫をいたぶる猫みたいに」
 みつは未だ帰って来ない。今日も残業で遅くなると言っていたから、金糸雀も九時まで待ったら先に寝てしまうつもりでいる。
 ただ、それまでにできることはやっておく。今日は棚の上の三列目のドールの埃を払い、少しポーズを変えて並べ直すのだ。
「これは好機なのにね。カナが水銀燈の立場なら、絶対にこの機会を逃さないかしら。一番手強い末妹を倒してローザミスティカをゲットするのよ。そしたらアリスゲームをカナの圧倒的有利で進められる。誰と手を組み、誰を先に倒すか全部カナがコントロールできるかしら」
 自分の背丈の半分以上もある六十センチ級のキャストドールをえっちらおっちらと棚の上に運び、少し気取ったポーズで固定する。手にはイミテーションのギターを持たせた。
「ばっちりかしら。どうピチカート?」
 話の続きなのか、ドールのポージングが決まったことを言っているのか分かりにくい言葉だったが、ピチカートはチカチカと光って同意を示した。どちらであっても積極的に反対する意思はない。
 金糸雀はいつもそうだった。節々で同意を得ながら一人で考えを組み立て、行動して行く。会話しているときのピチカートの役目は基本的にイエスマンで、時折行き過ぎたことに不同意を示したり、躊躇しているときに背中を押す程度だった。
 ピチカートは更に数回瞬いた。金糸雀は得たりと頷いた。
「ええ、そうよ。水銀燈の意図は分かんないけど、カナはこの機会を逃がす気はないかしら。状況を一番賢く利用するのがこの金糸雀なのだから」
 自分によく似た小さな人形を棚の隅から取り上げ、目を閉じて息吹を吹き込む。
「いつもどおりならそろそろあの白髪人形が動き出す時間帯かしら。二号は白髪人形を追うのよ。攻撃されそうになったら即帰還。扉は何処でも構わないわ」
 小さな人形は同意の印にくいくいと首を縦に振った。金糸雀は微笑み、待機しているピチカートを見上げる。
「貴方はいつもと同じ。扉を開いた後、別ルートでジュンの家の鏡から入って来る子を尾行して。多分真紅だろうけど、見付からないように注意してね」
 ピチカートは同意の印に小刻みに上下し、早速鏡台の鏡に扉を開いた。金糸雀は人形をその波紋の中に放ち、人工精霊が扉を抜けて行くのをにっこりと見守った。
「誰が最初に見付けても、その次に雪華綺晶のねぐらに到達するのはカナかしら。そして最初の相手と雪華綺晶がもし戦いになれば……ふふっ、両方のローザミスティカ、楽してズルしていただきかしら♪」
 自分の士気を鼓舞するためにくるりと一回転してみる。
 実のところ、口で言うほどそれが上手く行くとは思っていない。だが、制限時間つきの行動を余儀なくされる自分が当てのない探索に赴くよりは、人工精霊や力を与えた人形に誰かを尾行させ、その結果を待った方が遥かに有利だった。

「汚いって思われるかもしれないけど、お上品に構えて確実な方法を見逃す訳にはいかないわ。これはアリスゲーム。私達の生きる意味そのものなんだもの」

 金糸雀は呟いた。大きな声で言ったつもりだったが、呟きになってしまっていた。
 そこが彼女の良心であり、逆の見方をすれば拭いきれない弱さなのだが、分かっていても金糸雀にはどうしようもなかった。
 恐らく、ゲームに克って行けば次第に弱さは消えて行き、別の何かが代わって心を支配するようになるのだろう。それが何かは分からないが、彼女にとって至高の少女になるのに必要な資質であるはずだ。
 少なくとも、彼女はそう考えていた。


 その水銀燈は、少しアルコールの入り過ぎた彼女の妹を面白そうに眺めていた。
「大丈夫かい、蒼星石」
 自分だけ炭酸飲料を飲みながら、少年は気遣わしげな視線を正面に座った蒼星石に向ける。蒼星石はぱちぱちと二度ほど瞬き、こくりと頷いた。
「だいじょうぶです。マスターのご命令だってちゃんとこなせます」
 そう言って、子供用の椅子を飛び降り、ふらつきながら踵を合わせて立ってみせる。少年が椅子を引いて立とうとするのを水銀燈は止めた。
「だって、やばいよ」
 椅子を引いて立ち上がりかけたまま、小声で少年は抗議した。
「倒れたりしたら怪我するかもしれないし」
「大丈夫よ。不粋なことはおよしなさい」
 水銀燈は人の悪い笑顔になっていた。
「誇り高き薔薇乙女がカクテル数杯で酔っ払う訳はないわ。そうよねぇ蒼星石?」
「そうです。てっ手出しは無用です。マスター、ご命令ください。なんでもできますから」
 しかし、誰が見ても何も出来そうにない状態だった。
 本人は真っ直ぐ立っているつもりなのだろうが、次第にその身体は右側に倒れていく。危ういところで踏み止まってまた踵を合わせると、今度は左側に少しずつ傾いていく、といった具合だった。
 グラスを持ち上げながら、自分も少しいつもより余分にアルコールの入った結菱老人はにやりと笑った。悪戯好きな子供のような笑いだった。
「そうか。何でも出来るのだな?」
「はいっ、僕の全力を以って遂行します」
 いつの時代の契約者に対して行っていた所作なのか、蒼星石は帽子を取り、それを胸に押し当てながら片膝を突いて頭を下げる。かなり酔っているのにそれだけは何故か流れるような優雅な動作だった。
「薔薇乙女の誇りにかけて、必ず……」
「そうか。ならば、手始めにそこの少年に口付けしてみせるのだ」
 老人はさらりと言い、酒も入っていないのに急に真っ赤になった少年をちらりと眺めてから蒼星石に視線を戻した。
「それが出来るならばお前に命令の遂行力があると認めよう」
 水銀燈は思わず吹き出し、少年はなにやら不分明な言葉を口の中で言いながら、それでも半ば立ち上がりかけた微妙な姿勢のまま蒼星石を見詰める。蒼星石は帽子を被り直し、すっくと立ち上がった。
「出来ます。僕。っ簡単なことです」
 酒に酔った者特有の据わった目で結菱老人を見詰め、半身になった少年の正面に回って両手を差し出す。色の違う、濡れたようなとろんとした瞳が少年を見上げる。
 距離感が今ひとつ掴めないのか、暫く爪先立ちになって必死に身を乗り出してみていたが、やがて照れたように微笑んだ。
「これじゃ、貴方に届かない。抱き上げて……」
 くすぐったいようなアルトの響きに、少年は魅入られたようにかくりと頷き、蒼星石の腋の下を抱えて抱き上げる。
 視線が合うところまで持ち上げられたところで、彼女は細い腕を伸ばして少年の首に抱きつき、その頬に柔らかな唇を押し付けた。
 ほんの一拍ばかりの間、彼女はそうして少年の頭を抱き締めるような姿勢で居たが、すぐに腕を解いて顔を離し、耳元で何かを囁く。酔いが益々回ってきたのか、頬はひどく赤くなっていた。
 蒼星石を抱き下ろした少年は何とも言えない表情になっていた。
「どうせなら唇にして貰えば良かったじゃない。要領が悪いったら」
 水銀燈はけらけらと笑った。

 大丈夫ですを連発しながら酔ってこくりこくりと舟を漕ぎ始めてしまう蒼星石を少年の膝の上に座らせて、水銀燈は結菱老人と話を始めた。
 水銀燈にとっては意外なことに、老人は蒼星石から、アリスゲームについては然程多くのことを聞いていないらしい。ゲームの終了後については考えを巡らせていても、ゲーム自体の進行と内容にはあまり興味はなかったようだった。
 もっとも、これまでの契約者達はそれが普通だった。
 双子の庭師以外の複数の薔薇乙女と契約し、ほぼ全ての姉妹と顔を合わせ、それぞれについて一定の理解を示しているような契約者はこれまで存在しなかった。この時代は、その意味でやはり最後の時代に相応しく特別に演出されている。
 中には自分から薔薇乙女達の戦いに関与してくる者も居ないではなかったが、それは飽くまで自分の可愛い乙女を守りたいから、というような理由だった。他の乙女の行く末まで気にするような人物は、ある意味で契約者には相応しくないのだろう。
 今までと比較して全てが異例ずくめのこの時代でも、アリスゲームの展開について積極的に考察している契約者は──恐らく、いない。恋愛関係やら複数との契約やらということで乙女達と特別な関係を持っていない結菱老人がゲームそのものについて興味を持っていなくても当然ではある。
 それでも老人はゲームの帰結について、簡単な見解は持っている。それはアリスを生成するために姉妹全員のローザミスティカ──生命が必要で、生成されたアリスは姉妹達の契約者など見向きもしないだろう、という、契約者から見れば甚だ救いのないものだ。
 しかしその悲観的な見方は、現在の水銀燈の見通しとほぼ合致していた。

 酔いと就寝時間から来る眠気ですぐに舟を漕ぎ始める蒼星石と、内心は兎も角として少なくとも口を挟むつもりのない様子の少年を差し置いて、二人はあまり面白くもない話を続けた。
「──君がそう考える理由を訊いてもいいかね」
 老人がそう尋ねてきたのは、アリスになる姉妹は決められている、という件に触れたときだった。
「私には翠星石の考える方が合理的に思える。自分でもしかと分かっていない、しかしより良いもの。そんなモノを作りたいのであれば、候補を選抜するのはむしろ最後の最後にした方が良いのではないかね」
 水銀燈は瞬いた。
「貴方の言うことは分かるけど、それは似たような性質の存在を別個の環境で育成したときの話でしょう。私達はそれぞれ異質な個性を持たされて作られた人形よ」
 首を捻りたい気分だった。何故彼には分からないのか、とさえ思う。
「それぞれを育て上げる過程も含めて、各々の性質に合った決め打ちにしておいた方が計画は立てやすいはず。予め役割を割り当てておく方がその後のゲームの制御も簡単でしょう」
「……そうか、確かに」
 老人はとんとんと眉間の辺りを指で叩いた。
「いかんな、私はどうも自分の尺度で物を考えてしまう傾向があるようだ」
 そう言って気分を変えようとするように背中を伸ばす。
 水銀燈は何とも言えない違和感を覚えた。
 老人の姿や言葉の中に異状を感じた訳ではない。むしろ自分では気付かずにいた、水銀燈自身の心に引っ掛かっている何かが老人の言葉で刺激されたような気分だった。
「……話して。貴方の考えを。私にはその視点が重要かもしれない」
 老人はおや、というような顔になった。水銀燈の言葉の少し切迫したような調子に気付いたのかもしれない。
「大した考えではないんだが」
 そう前置きして、舟を漕ぐ蒼星石と彼女を抱いて二人の会話に聞き入っている少年をちらりと見遣る。蒼星石が何か不明瞭な言葉を呟き、少年がそおっと彼女の手に手を重ねたところだった。
「全て異質な七番目の娘が、その性質ゆえ裏方を担っている。円滑に進行させるために兎の顔を持った紳士が立ち回っている。時代を越える為に鞄に入り、長い眠りに就いている間に記憶が整理され、無用な感傷を捨てて行く。……その辺りは別にどうでも構わないが」
 ゲームに関する重要な事柄を纏めてあっさりと切り捨ててしまい、再び水銀燈に視線を向ける。
「折角君達六人姉妹を切磋琢磨させたり、幾人もの契約者達と過ごさせて経験を積ませるのであれば、予め最後に至高の少女となるべき乙女を一人に絞っておく、というのはどうも非効率的な気がするのだよ」
 上手く言えないのだが、と言って少し車椅子を後退させ、向きを変えて暗い窓の方を見遣る。
「役割を与えておくとはいえ、君たちを同じような環境に置いてきた訳だろう。少なくとも表面上は」
「そうなるわね」
 この時代で水銀燈がそれと気付く──老人に言わせればその方が勘違いということになるが──まで、姉妹達は皆、ゲームは横並びで始まったものだと思っていた。そう思わせる程度には同等に扱われていた、ということになる。

「その環境下で様々な経験を積ませ、資質を獲得させて行くのであれば、ただ一人の候補を決めて優遇するのではなく、六人全員に可能性を与えておいた方が確実ではないかね。
 似たような環境に置いているのだから、偶発的に他の誰かに資質が生じることもあるだろうし、何処かから思わぬ成果が出てこないとも限らないだろう。
 確かに、ただ一人を指定してお膳立てを整えるよりは時間は掛るだろう。しかし、失敗の可能性も減らせるのではないかね。
 一人に賭けたのでは、何処まで緻密に組み立てても何かの拍子に失敗してしまった場合に取り返しがつかない。私なら、その方法は恐ろしくて取れそうにない。──若いときにそれで失敗したから、かもしれないが」

 どうかね、と振り向いた顔は自慢気なものではなく、むしろ水銀燈の説明を待つような色があった。言われたから答えただけだ、といった風情だった。
 だが、水銀燈はすぐには答えを返せなかった。そうね、とこくりと頷いただけで顎に手を遣り、暫く考え込んだ。

 老人の言うことは確かに精緻な考察ではない。前後関係も全く考慮されていない。だが、それだけに単純明快だった。
 そもそも、どんな資質を持たせれば良いのかはっきりと分かっているならば、それを獲得させるために大掛かりな芝居を組むのも有効だし、場合によっては必要に迫られてそうすることもあるだろう。
 しかし、彼女達の造物主は、自分の娘を至高の少女にするために足りないモノについて漠然としたイメージしか持っていなかった。具体的に何が足りないか分かっていたら、不確実な契約者などに頼らず、娘を手元に置いて育てるか、適切な資質を持つように改造していたはずだ。
 ならば、やり直しの利かない、莫大な時間を必要とするアリスゲームについて、それを緻密に組み立てるだけでなく、失敗のリスクを少なくするように考えるのが普通ではないのか。

 自分達の造物主ではないが、それに近い存在のことを思い出す。ナナ達を作った人形師は、水銀燈に半ば自嘲するように言っていた。

  ──長い時間をかけて無数の人々の想いに触れ、そこからも単純な取捨選択をするのでなく、自分なりに全てから何かを汲み取って変化していかなければ生成し得ない。

 水銀燈の造物主が同じ結論に早々に達していたとしたら、そして、そのために姉妹全員分の経験と知識と心が必要だと考え、アリスゲームを始めたとしたら。結菱老人の言うとおり、六人全てに可能性を与え、最終的に一人がベースとなり、残りの五人がその補助として働けばよい、と考えるのではないか。
 結菱老人ばかりではない。雪華綺晶以外の六人は殆ど同じようなものだ、と繰り返しあの人形師は言っていた。自分の作ったドールで言えば『真紅』を除いた四体──そう言えば、当然のようにナナはその中に入っていなかった──と同じだ、と。
 彼の製作したドールはそれぞれに能力の大小があった。『真紅』だけが特別扱いされてもいた。つまり、力のぶつかり合いは最初からハンデ戦とも言えた。

──そのことに、無意識に私は引き摺られていたのだろうか。

 単純に言ってしまえば真紅を『真紅』に擬してしまっていたのか。そうではないような気がする。もっと以前から自分の考えは固まっていた。
 それに人形師自身は雪華綺晶以外の姉妹達に役割分担や優劣──自分の娘達のような──など認めていなかった。それも話しているときから分かっていた。

  ──Aの代わりにBを与えられ、Cに劣る分Dで優る。その程度だ。ちょっとしたことで補いはつくし、AとB、CとDを入れ替えれば均質になる。
  ──君が試作品かどうかについては興味ある議題だが、今のところは私にはそうは思えない、とだけ答えさせていただこう。
  ──もし悪役が必要なら君を選んだだろう。だが、汚れ役というのは何も悪役だけを指しているわけではないのだよ。

 人形師に夢の中で言われたことを大方素直に受け取っていながら、水銀燈は何故かその件だけは否定していた。
 真紅が最も至高の少女のベースとなるのに相応しく、彼女を常に襲撃し、アリスゲームを意識させ続けてきた自分は悪役、自分とは別の方法でローザミスティカを集めることを目指してきた金糸雀は自分の予備。ゲームに対して消極的な三人は真紅の補助。
 それが、人形師と話していたときも変わらずにあった認識だった。そして、これまで変わっていなかった。
 思えば、媒介の記憶を受け取ったときからそれは確固たるものとして彼女の中にあった。

──いや、違う。もっと前から。

 実は、この時代で目覚める前から漠然と思っていたことの延長線上にある。それが媒介の知識を受け取ったことで明確に形を成しただけの話なのだ。
 真紅が正当なアリスの候補。自分はそれに対抗する者。だからか弱いあの子を狙い、あの子から倒す。
 昔から、無意識のうちにそんな風に考えていたことは否定できない。
 各々の役割といっても、軸はあくまで真紅とそれに対抗する自分、という図式でしかなかった。残りの四人の立ち位置は適当に付け加えただけ、とも言える。そう見えなくもない、程度の話ではないのか。
 大きな自己否定の波のようなものが押し寄せてきて、皮肉な思いが表面に晒される。

──つまり、真紅に対する安っぽいコンプレックスの裏返しってわけ。

 可愛い良い子ちゃん顔で、いつも思慮深く、常に高い視点からぶっきらぼうに正論を述べる。力は弱く、いつもツンとお高く止まっている癖に、いざとなれば全力を振り絞って何かに当たり、少し関わった人──なかんずく契約者達──には真摯な姿勢で向き合ってしまう。
 水銀燈はそれに腹が立ったし、気に食わなかった。それらは全部自分が持っていない、自分には出来ないことだったから。
 全ての姉妹が役割を分担しているという推測は、そんな自分の考えというよりは感覚をベースに、状況証拠がある──媒介の知識にあった事柄と概ね合致している──から、と無理矢理に作ってしまった架空のストーリーではないのか。
 それを公言したとき誰も強く否定しなかったし、ラプラスの魔の言葉は一見肯定しているようにさえ思えたから、水銀燈の中で一人歩きしてしまっている。それだけのことなのかもしれない。
 最も重要で異質な役回りは、あの人形師の言葉のとおり、どう見ても末妹が一人で引き受けている。他の姉妹は後付けでどうとでもこじ付けが言える立場にあるに過ぎない。
 ラプラスの魔の言葉にしても、単純な一言を水銀燈が拡大解釈しているだけではないのか。穿った見方をすれば、あの第32768世界での彼の言葉や振舞いは、自分にヒントを与えているように見せた、むしろミスリードを誘うためのまやかしだったかもしれない。

 もし、アリスゲームの終盤が精緻に手順が決まった寄木細工のようなものではなく、大まかな目標があって折々に修正が入れられるだけの物だとしたら。
 最後に残る姉妹が決められていないとしたら。元々、最終段階に至った時点で最も優秀な者をアリスのベースに選抜するつもりだったとしたら。
 水銀燈のこれまでの行動は、ただのゲームの趣旨に沿った他者攻撃に過ぎない。
 目標が真紅から雪華綺晶に変わり、積極的な襲撃から遠回しな兵糧攻めに切り替えただけだ。本質は何も変わっていない。

 そして、これからの展開は、彼女が方向付けてしまったまま進めば、特定の一人を大きく利するだけになるだろう。

 彼女の思惑から外れていたように思えた幾つかの事柄が、全てそちらの方向に働いてしまうからだ。
 今この瞬間もゲームの成り行きを誰かが注視し、常に見えない手が働いているのだとしたら、むしろそれは彼女をずっと誘導し続けてきたのではないか。ゲームを思うとおりに進ませるための駒として彼女を使役するために。

 それは彼女の今までの行動の全否定のようなものだった。
 からくりを解き明かし始め、ゲームのプレイヤーにささやかながら反抗をしているつもりになっていたが、それは実のところ愚かな思い込みに過ぎなかったということなのか。
 雪華綺晶のフェイクに翻弄された蒼星石を笑えない。周囲の意見を無視し、自分で勝手に作り出した幻想に囚われていたのだから。
 まるで風車に突撃する騎士のようなものだ。恐らく周囲の皆が醒めた目で見、言葉にしない各々の感想を持っていただろう所まで含めて、お笑いもいいところだった。
 厄介なことに、全てが無駄になったわけではない。寧ろ、逆だった。
 なんのことはない、彼女は理屈にならない理屈を信じながら、今までどおりの遣り方でアリスゲームに克つために真っ直ぐ突き進んでいるようなものだった。実際に自らが勝ち残るのかどうかは別として。

 首を振り、長い息をついて項垂れた水銀燈を、答えを待つ老人は特に焦れることもなく眺めていた。我儘な彼にしては珍しいことかもしれない。
 やがて、彼は車椅子の車軸をかすかに軋ませてテーブルに近付き、水銀燈のグラスにワインを注いだ。
「困らせてしまったかな」
「……いいえ」
 水銀燈は顔を上げ、グラスをぞんざいに持ち上げて手近なガラス瓶にチンと打ち付ける。そのまま、一気に呷った。アルコールが回ってくるのがよく分かる。
「貴方の言うことは間違ってない。単純だけど、私の考えの隙を上手く衝いてくれた感じ。上手い反論がないわ」
「そうかね。ま、あんなものが有用な意見になったなら嬉しいことだ」
 老人はその言葉ほどは嬉しくなさそうな声音で言った。
「あまり難しく考え過ぎない方が、見えるものもあるということかもしれないな」
「至言ね。まさにそのとおりでしょう」
 水銀燈は一つ伸びをした。
「柄にもなく難しく考えて、一人で空回りしていたのかもしれないわ、私は」
 くっくっ、と喉の奥で笑うような笑い方をしてみる。それは柿崎めぐの笑い方だったが、同時に、あの人形師の自嘲気味の笑い方と同じものでもあった。
「周りからは無理矢理理屈を付けて、自分の行動を正当化してるだけの厄介者に見えているんでしょうね。ああ、全く馬鹿らしいったら」
「そうとも言えまい。例えば蒼星石は、君のことを否定的には捉えていない」
 自分の名前を言われ、うとうとしていた蒼星石はびくっと身体を震わせて目を瞬く。そのまま暫くぼうっとした視線を水銀燈に向けていたが、何を思ったのか微笑を浮かべてまた目を閉じ、少年の胸に背中を預けてしまった。
 老人はそれを面白そうに眺めていたが、蒼星石が眠ったらしいと見て取ると水銀燈に視線を戻した。
「あまり相性は良くないようだが、それでもこの子は君をそれなりに高く買っている」
 老人はにやりとした。
「ならば、他の姉妹はもっと君に対して肯定的でもおかしくなかろう。君にアリスゲームについての見通しの誤りがあったとしても、それが君への評価に与える影響はごく些細なことだ」
「それは有難い事ね」
 水銀燈は気のない風に言い、ちらりと蒼星石に視線を向ける。彼女が目を閉じたまま、少年のシャツの裾を甘えるように指の先で摘んでいるのを見るとふんと一つ鼻を鳴らし、今度は椅子に背中を付けて斜め上を見た。
 高い天井ではからからと小さな音を立てながら扇風機が淀んだ空気を動かしていた。
「全く評価されないのも切ないでしょうけど、過大評価されるのも嬉しくないものね」
「過大ではないさ」
 少なくとも私達は過大には評価していないつもりだよ、と老人はすっかり冷めてしまったウインナーを取り、あまり行儀の良くない仕種で食べた。
「むしろ過小評価しているのかもしれないな。君は姉妹全員を丘の麓の処刑台に連れて行ってしまう恐るべき笛吹きかもしれないというのに、こうして親しく接し、相談を交わしてさえいる」
「随分な言いようじゃないの」
 そっちの方に過大評価されたくはないと言う代わりに、水銀燈は皿の上のチーズを取り上げて頬張った。碌に咀嚼もせずに嚥下して、少し噎せてしまう。
 酔っているな、と自分でも分かった。行動が大袈裟になり、自制が利かなくなっている。
「……っは、私はただのゲームの駒よ。ゲームの遂行者でもなければ審判者でもない。ゲームの結末に関して私の見通しが間違っていたとしても、その点は明確だし、譲るつもりはないわ」
 酔った目で老人を軽く睨み付けると、どうかな、と老人は人の悪い笑みを浮かべた。

「いや、君には笛吹きという形容が良く似合うのだよ。
 君ほど姉妹全員を巻き込んでゲームを煽り立てている者は居ないだろう? しかも、その先に明るい未来が待っていないと公言しながら、だ。
 君がこうやってゲームの実態を考え、臆面もなく自分の考えを晒しながらひた走っているから、私などは楽しい御伽噺を夢見ることを諦め、現実的な『その後』について考えざるを得なくなってもいる。
 他のマスターも同様だろう。厭でも現実を見せ付けられ、自分と自分の愛する娘の特殊な立場を認識させられてしまう。
 マスターの立場から見れば、まさに君こそ可愛い娘を奪って連れて行く笛吹きといったところなのだよ。
 その恐ろしい存在と、私はこうしてお互い酔うほど呑んで気楽に喋っている。過小評価というか、馴れ合いもいいところだ」

 酷く誇張し、ある程度の自虐も含んだ言い方だった。老人もその辺りを指摘されるのは分かっていて、敢えて言ったのだろう。
 水銀燈は黙って先を促した。酔って喋るのが億劫になっているのもあるが、もう少し老人の独演会を聞いていてもいいと思ったのだ。
 老人は身勝手で我儘なのだろうが、何処かあの人形師に似ていた。無論、容姿や声のことではない。雰囲気というのだろうか、その言い分の一風変わった、少し誇張と自虐を含んでいるところが共通しているような気がする。
 そして水銀燈は、そういう独善的で珍しい視点から見た話を聞くのが嫌いではなかった。高い所から見下ろした訓話やら、偽善的な中身のない説教やらよりは、自分を剥き出した一人語りの方が遥かに面白い。
 老人はあまり面白くなさそうな顔になって話を続けた。

「知識を得た時に、それをひた隠しにして自分だけの利益になるように陰から誘導する方法もあっただろう。しかし君は何故かそういう方法を採ろうとしなかった。
 雪華綺晶という異質な姉妹に付け込む隙を与えないようにするため、というのは分かるが、思い切ったものだね。君にとっては自分の優位を失わせる行為でもあるというのに。
 ま、その是非は兎も角、君の判断のお陰で蒼星石は死なずに済み、私達は時間を得ることができた。君の行動で割りを食った者も少なからず居るはずだが、私達にとって君が一種の恩人であることに違いはない。
 他の姉妹達にしても、君の知識を得たゆえの行動、あるいは変節で何等かの恩恵は受け取っているはずだ。ああ、その──雪華綺晶は除いて、の話だが。
 君達がアリスになるために必要な資質というのがリーダーシップのことだとしたら、君にはまだそれが足りなかろう。カリスマ、という漠然としたものだとしても同じようなものだ。
 だが、単に人望だとすれば、今この時点で最も至高の少女に近いのは君ではないのかね。私にはどうも、そう思えてならないのだが」

 だからこそ、君は笛吹きなのだよ、と老人は曖昧な笑みを浮かべた。
 水銀燈は黙って息をついた。アルコールが回ってしまっているせいか、反論はおろか言葉を発するのも面倒になってしまっていた。
 こと、水銀燈への評価に関する限り、老人は蒼星石と考えを同じくしているのだろう。姉妹を扇動して忌むべきゲームに駆り立てる、無視もできずはっきり敵対するわけでもない厄介な存在。

──何の事はない、やっぱり悪役じゃないの、それは。

 しかも、それは彼女がイメージしていた敵役に近い悪役像よりも、遥かに暗く汚く、穢れたモノのような気がする。
 酔っているとはいえ、平静で居られるのが不思議だった。そんな風に考えられていると知ったら怒りを覚えて当然なのだが、そういった激しい感情がどうしても湧いて来ない。
 いや、平静で居るどころの話ではない。酔いに任せて怒り狂うべきではないのか、と冷静に考えてしまうほど無感動に、彼女は老人の思いを類推してしまっている。
 それほど大きな衝撃を受けたということかもしれない。老人の些細な考察に此処まで揺さぶられるとは、自分も相当に芯のない者だ、と思う。
 ただ、彼女の中の皮肉な部分は別のことを考えている。

 老人の一言は切っ掛けに過ぎない。元々自分の推論に自信など無かったのだ。そもそも翠星石との会話を誰か別の人物と検討しようとしたことが、自分の論に瑕疵を認めていたことの証だ。
 芯がない、あるというほどの話ではない。
 派手に公言してみせたアリスゲームに対する推測自体、憶測の上に憶測を重ねたものだと自分自身では分かっていた。それを、初めて直截に突かれて反論の一つもできなくなっただけの話だ。
 やはり、推理や考察の面において、真紅には勝てない。彼女を差し置いて自分がゲームの裏に潜む謎を解くなどおこがましいにも程があった。これが、自分の哀れな限界ということだ。


 酔いが一番回ってきている状態らしい。頭を上げていることさえも辛くなってきていた。俯き加減で、回らない頭のまま、水銀燈は暫く間を置いた。
 やがて、彼女は斜め下を向いたままぽつりと言った。
「……一時的に多少の人望を集めていたところで、私は至高の少女に近い訳じゃないわよ」
 諸々の鈍い感情と様々な考えが渦を巻いて、机に突っ伏したい気分だった。そうする代わりに、彼女は一度背筋を伸ばしてから椅子に沈み込んだ。
 人形は正面に顔を向けているものだ。伏せてしまっては、折角の可愛いお顔を見て貰えない。
 目を閉じているくらいは許して貰おう。彼女の顔は最高の愛らしさを持っている訳ではないが、寝顔もそう悪くはないのだから。
「感受性も鈍いし、思い込みは激しいし、粗暴で短気。自己中心的。頭が回らない上に知識欲さえない。ええ、全く相応しくないったらないわ」
 にやりとしてみせると、横合いから伸びてきた手が彼女の髪を撫でた。
「そんなのこそ、関係ないんじゃね?」
 目を開けると、彼女の媒介は椅子から降り、膝を突いた姿勢で心配そうな表情で脇から水銀燈を覗き込んでいた。蒼星石はどうしたのだろう、と水銀燈はぼんやり思った。
「そんなところは後から補って貰えばいいじゃんか。そういう、自分の良い所を全部差し出してもいいってみんなが思える相手になれば、それで良いんだろ? 独りでアリスになるんじゃなくて、みんなでアリスを作るんだからさ」
 言いながら、媒介は壊れ易い細工物を扱うように、そっと彼女を椅子から抱き上げた。人形を片手抱きにするときの形でなく、頭を自分の左胸の所に来るようにした、母親が赤ん坊を抱くような姿勢だった。
 そういえば、何時だったか。媒介にこんな風に抱かれたことがあった。あのときも意識は大分朦朧としていたような気がする。
「そうねぇ……皆で仲良く、汚くて刺々しいおままごとをしながら、少しずつでも、人間に近く……なんてね。ありふれた人造人間譚みたいに」
 水銀燈は目を閉じて笑ってみた。可笑しさがこみ上げて来る。
「人間になんて、なりたくないわぁ。汚くて、汗臭くて、不便だもの。貴方みたいに」
「そりゃ、悪うござんしたね」
 よっと、と掛け声を掛けて媒介が立ち上がる気配があった。
「連れ帰るのかね」
 少し遠くから老人の声がした。
「酒が抜けるまで休ませた方が良いのではないかね。何なら、ソファで良ければ朝まで寝かせておいても構わんよ」
「いえ、大丈夫です。鞄で寝た方が、酔いが醒めるのも早いと思いますし……うちのもう一人の居候が寂しがると思いますから」
「そうか。確かに寂しがるだろうな」
 老人の声には笑いが含まれていた。
「意外に気配りができるのだな、君は」
「鍛えられてますから。こんなんでも、一応このお姉さんのマスターなんで……」
 それに、と照れくさいような声で続ける。
「こんな風に抱っこさせてくれたこと、なかったんで。ちょっと嬉しいんです」
「……前にも抱かせてあげたことはあるわよ」
「そんなこと──」
 媒介は途中で言葉を止め、少し間を置いてから、何故か酷く優しい声で言い直した。
「ごめん、あったあった。俺、つい忘れちゃってさ」
「お馬鹿さんねぇ、本当に」

 本当に。貴方という男はどれだけ忘れっぽいの。
 もう一度心を壊してやりたいくらいだわ。今度は私の手で。
 服も着ていない裸の私を抱き締めて、謝罪の言葉と決意を呟きながら、一緒にnのフィールドから帰還したのに。
 現実世界に戻ってからも、ずっと抱き締めていたくせに。ちゃんと覚えてるわよ、貴方の心臓の鼓動。
 情が無いのもいいところ。貴方にとっては些細なことだったかもしれないけど、私には大事なことだったのよ、あれは。
 この時代に入って、私はこんなに変わってしまった。真っ直ぐな勢いはなくなってしまったし、あれこれ無駄に思い悩むことになってしまった。
 挙句の果てに、盛大な勘違いをして、事情を知らない老人の一言で自信を無くしたりしてるのよ。元はと言えばその原因も全部貴方。
 もっとも貴方にとっては、こっちの世界の出来事なんて、全部出来の悪い人形劇なんでしょうけど。

「でもまぁ、許してあげるわ。所詮貴方は死人なんだもの。人形しか愛せない、哀れなフェティシストの亡霊さん」
「……ああ」
 媒介は溜息をつくように返事をして、少し力を篭めて水銀燈を抱き直した。さほど遠くない所に居るはずの老人は、気配はあるのに何故か何も言わなかった。


「本当にありがとうございました。あと──水銀燈が酒癖悪くて、すいません」
 少年は珍しく玄関まで見送りに出た老人にぺこりと頭を下げた。
「誰かに、いろいろ聞いて欲しかったんだと思います。俺……今の俺は、そういうことには全然役に立てないんで。……結構ストレス溜まってたんじゃないかなって思うんです。だからホント、ありがとうございました」
「私は言いたいことを言っただけの話だよ。恩に着られるほどの事ではないさ」
 老人はにやりとする。老人の一言は水銀燈に大きな葛藤を引き起こしたようではあったが、それは偶然に過ぎなかった。彼としては訊かれた事を答え、それに続けて少し皮肉な話を語ったに過ぎない。
 その脇で、蒼星石はまだ赤い顔をして立っていた。アルコールが抜けて目が覚めたまでは良かったが、自分がしたことを思い出すと今度は頬の火照りが中々取れてくれない。
「──また、明日」
 少年はそう言って屈み込み、手を伸ばす。蒼星石は黙って頷き、小さな両手でその手を挟むようにして軽く振った。
 少年はにこりと微笑んで立ち上がった。
「それじゃ、失礼します。おやすみなさい」
 背を向け、大きなリュックサックを、中で膝を抱えるような姿勢で眠っている水銀燈が起きないようにそっと揺すって位置を直す。それでも中からは不服そうな呟きが漏れ、少年は苦笑した。
 数歩行きかけたところで、背中から声が掛けられた。
「──僕にとっては」
 蒼星石は、まるで水銀燈に聞かせてやりたいと言いたそうな、決然とした声音で言った。
「貴方は、今の貴方だ。他の誰でもない」
「うん」
 少年は振り返り、笑顔になって親指を立てて片目を瞑ってみせた。
「ありがと。分かってるよ」
 それから、また背中のリュックから文句が聞こえてきたのか肩を竦めてみせ、片手を上げて出て行った。


 少年の自転車の音が聞こえなくなるまで、蒼星石は戸口に佇んでいた。
 ドアを閉め、廊下の照明を常夜灯に変えながら寝室に入ると、既に老人は自分でベッドに横たわっていた。
 お手伝いもせず申し訳ありません、と頭を下げる蒼星石を手で制して、老人は笑った。
「意外に細かい男だな、彼は」
「……そうかもしれません」
 蒼星石は曖昧に頷いた。桜田ジュンほどではないが、彼も身の回りの整頓はきっちりとしているし、大抵のことは自分でこなせる方だ。
 もっともそれが生来のものなのか、記憶を失くす前の彼の性質を引き継いでいるのか、あるいは水銀燈に「鍛えられた」結果なのかは分からない。
「そして、水銀燈を愛してもいる。当然男女の関係ではないだろうが、それだけに強い想いなのだろうな」
 老人はふっと息をついた。
「水銀燈の方では、記憶を失くす前の彼、という別人に心をまだ奪われているらしいが……」
「それでも、水銀燈は穴だらけになった彼の心を育て直しました」
 蒼星石は少し遠くを見るような目になった。
「彼女は彼女で、彼に見返りを求めない愛情を注いでいるのだと思います」
「そうか。手強い相手だな、お前にとっては」
 老人はくすりと笑ったが、すぐにその顔を引き締めた。先程までとはやや違う、厳しさのある表情だった。
「そして不倶戴天の敵でもある訳か。辛い立場だな」
 誰が辛い立場なのか、老人は明言しなかった。あるいは話の対象にしている人物全員のことなのかもしれない。
「アリスゲームというものが遂行されている限り、お前はいずれお前の好きな相手と戦うことになるのだな」
 できるのか、と老人は蒼星石を見た。
「──覚悟はしています」
 少々歯切れの悪い台詞だったが、蒼星石は目を伏せなかった。
「ただ、できれば戦いたくはないと思っています。それも本心です」
「同感だな」
 老人は厳しい表情のまま、口許を歪めてみせた。
「彼には勝てる気がしないよ。生命力、体力ともに。それに、ドールに対する思いの強さも多分向こうが上なのだろうな」
 契約者同士の資質の比べあい。傍から見れば滑稽な台詞かもしれないが、蒼星石は笑わなかった。
「水銀燈と僕、マスター同士の顔合わせがないところで戦えば、条件だけは五分になると思います」
 蒼星石はごく真面目な表情で言った。老人の言葉を否定はしなかった。
「ただ、彼女はマスターの助力が得られない状況で、マスターのついている姉妹複数を相手に立ち回ったこともあります。五分の条件なら、彼女の方が有利です」
 人工精霊の力量は多分互角だろうが、姉妹自体の得物の差がある。
 蒼星石は武器を持っていない。姉妹を攻撃するための技もない。庭師の鋏の先端が尖っていることを利用して、切るだけでなく突いたり斬ったりすることができる程度だ。
 それも、純粋な武器として使うには大き過ぎ、純粋な剪定鋏としては平凡な量産品の方が使い勝手が良い。あくまで、それがあるから、それしかないから使うというモノに過ぎない。
 片や、水銀燈の羽根はそれを投射するだけが能ではない。真紅の腕をもぎ取り、姉妹達を拘束したように、自在に操ることができる武器だ。遠方から拘束され、ダーツのように第二陣の羽根を射られたら、一方的に攻撃されて終わってしまうだろう。
「ならば、お前としては早々に降伏するか、戦わずに済む方法を模索しなければいけないな。でなければ、誰かと組むか」
 老人は目を閉じ、呟くような声になった。
「できるならば、そのゲーム自体を止めて貰う方が私としては有難いのだがね。それは我儘が過ぎるのだろうな」
 蒼星石は黙って俯いた。

 誰かと手を組む、というのは、以前他ならぬ水銀燈から持ち掛けられたことがあった。彼女が真紅の腕をもぎ取った戦いのときだ。
 しかし、あの時水銀燈は何を思ったのか、いきなり同盟していたはずの蒼星石まで攻撃し始めた。つい欲が出たのか、何かの強制力が働いたのかは分からないが、組んだ手があっさりと離れたのだけは間違いない。
 あれ以来、蒼星石はアリスゲームのために誰かと手を組んだことはない。翠星石以外の姉妹とはやや疎遠と言っても過言ではなかった。黒い人形絡みの件では、一人だけ他の姉妹から離れてもいた。
 皮肉なことに、双子の片割れである翠星石を除けば、蒼星石が一番親しくしているのは水銀燈だった。
 恐らく真紅を含めて、最も真摯にアリスゲームに向き合い、その面で最も有力なのも水銀燈だろう。しかし彼女に降伏する気にはなれない。組むのであればまだいいが、それとしても彼女にはさっさと同盟を反故にした前歴がある。
 自分でアリスになることを望まないのであれば、真紅に与するのが恐らく一番の早道だろう。
 真紅がアリスに成るべく条件付けられているかどうかは別として、蒼星石が加われば真紅の元には七人のうち過半が集うことになる。ゲームの遂行だけを考えるなら、その方がスムーズに進むのかもしれない。
 形だけ戦って降伏するにせよ、最初から翠星石のように真紅に与するつもりで近づくにせよ、真紅なら蒼星石を倒してローザミスティカを我が物にすることはないだろう。それからは少なくともアリスゲームの終焉まで、真紅に隷属する者、または同盟者として生き延びられる。
 自分に好意を向けてくれている人々のことだけを考えれば、老人のためにも、少年のためにもその方が良いのは明らかだ。水銀燈とはいずれ戦うことになるかもしれないが、そのときは蒼星石自身の戦いではなく、真紅の付属物として戦いに臨むのだから。

──誰とも戦いたくないから、最大勢力に降伏する、か。

 蒼星石は小さく首を振った。そんな安易な道を選んでいいのか、という思いがある。
 それは薔薇乙女の誇りとか、孤高を気取るような潔癖な想いとは無関係の何かだった。この時代で目覚めたときから盛んに考えていた、自分だけの何かを見付けたいという願望とも別物だ。
 敢えて言えば、ここまでゲームに参加してきた者としての最低限の義務感のようなものだった。義理を果たすという感覚に近いのかもしれない。
 最終的に真紅に与するとしても、その動機はもう少し主体性のあるものでなければならない。雛苺のように実際に戦って負けたのでなければ、翠星石のように自分の願いと真紅の行き方が合致しているというような動機がなければ、あまりにも付和雷同に過ぎる。

 視線を上げると、老人はもう寝息を立てていた。
 彼の願いは、よく分かっている。そして、それは自分の──実現不可能な──ささやかで俗な願望とも合致している。
 いや、実現不可能と切り捨てて良いはずはない。
 真紅はアリスゲームの前途に、絶望の代わりに淡い期待を抱いてそれを実現させるために努力してきた。水銀燈は雁字搦めの構図を想像しながらそれに反抗しようとしている。
 自分も折り合いを付けながら願望の一部なりとも実を結ぶように努めて行くべきではないのか。
 義務感や義理といったものではない。ゲームの主旨そのものとも関係は薄いのかもしれない。しかし……

──そうだ。それが、僕の戦いだ。

 なにも姉妹と剣を交わすだけが戦いではない。知恵を絞り、水銀燈がそうしているように必要なら他者の意見も借りて、汚く泥臭く見えようが願いを誓いに変えて行かなければ。
 この時代でアリスが生まれるなら、恐らく、時間はそれほど長くは残されていないのだろう。だが、今の自分には数少ないとはいえ親身になってくれる人がいる。
 何も返すことはできないかもしれないが、自分で解決できないことについては臆せず厚顔無恥に力を借りればいい。
 僅かなアルコールのもたらした酔いは消えていた。寝室の明かりを消し、鞄に入りながら、蒼星石は考える。
 まずは、何処までが実現可能で、何処からが本当に不可能なのか、それを検討してみることから始めよう。全てはそれからだった。


「お帰りなさい」
 帰り着いて玄関の鉄のドアを開けると、ナナが心配そうな顔で待っていた。
「水銀燈さん……眠ってるんですか」
「うん、酔っ払って寝ちゃった。だから、これ」
 少年は微笑んで、空いている方の手の人差し指を口に当てた。ナナは口を両手で覆ってこくこくと頷いた。
 リュックから半分身を乗り出すようにして少年の首に後ろから腕を回している水銀燈を、できるだけ起こさないように気をつけて背中から降ろして鞄に寝かせる。鞄の金具のかちりという音がしたところで、少年とナナは漸く長い息をついて、掌を軽く打ち合わせた。
「ナナは、今晩何処かに出るの?」
 布団を敷きながら少年は尋ねる。学校から帰ってきたとき、ナナがそんな話をしてくれたからだ。
 ナナは冴えない表情になって首を振った。
「真紅さんに、怒られました。隠してることを知るために他人の夢を覗くなんて無作法だし、許されないことだって」
「はは、真紅は怒ると怖そうだなぁ」
 この間電話越しに聞いた真紅の声を思い出して、少年は苦笑した。あの調子で本人からも怒りのオーラが出ていたら、裸足で逃げ出したくなるほど怖いだろう。
「怖かったです……巻き毛でピシッてされちゃいました……でも」
 ナナは微笑んだ。少しだけ寂しい微笑みになってしまっていたが、少年は気付かない振りをした。
「優しくて、暖かい人です。それに、ヒナちゃんに約束してくれました。必要なときになったら、教えてくれるって」
 真紅は巻き毛でぴしりと打った後、雛苺とナナを両手に抱いて、ありがとう、と言ったという。異世界のドールのナナが、自らの姉妹のことのように自分を気に懸けてくれたことは嬉しい、と微笑んだらしい。
「そっかぁ」
 真紅らしいな、と少年は思った。普段の真紅はまた別なのかもしれないが、真面目になったときの真紅が優しく包容力があるのはよく分かっている。ただし、場合によっては大胆な行動に出ることがあるのも知っていた。
 少年は掛け布団を敷き終え、屈み込んでナナの髪を撫でた。
 眠るとき、ナナは髪を下ろしている。その後頭部に、ナナ自身の姉妹に付けられた傷があるのを少年は知っていた。半ばそれを隠すために、彼女は傷の上で髪を纏めるようにしているのだ。
 酷いことをしたものだ、と思う。
 それは、『アリスゲーム』さえも不要とされ、単体で究極を目指すことも可能だとされた完璧主義のドールが、妹の弱々しさや臆病さを卑怯と見做し、どうしても許せずに標した烙印だった。
 不完全な乙女達と接してきた少年の、ナナの姉妹について何も知らない視点から見ると、理不尽もいいところにしか思えない。だが、少年はその思いや、そこから来る可哀想だという気持ちをナナには言わないことにしていた。
 彼女達には彼女達のルールがあり、別の価値観がある。水銀燈の姉妹に似ていても、ナナはまた別のゲームを戦っているのだ。
 そして、もし全く自分の姉妹達に受け容れて貰えなくても、ナナにはそれ以外の知り合いが居る。彼女と同じようにか弱く、限界を知りながら足掻いている人々が、何人も。
「友達、増えたもんな。ナナ」
 ナナはぱちぱちと二度ほど瞬き、そして嬉しそうに頷いた。
「──はい」
 少年は真紅のことを指して言ったのだが、ナナには別の嬉しさがあるようだった。
 今日、本当に短い時間ではあったけれども、初めて自分の姉妹と一緒に探し物ができたのだ。『真紅』に許してもらえたわけではないが、それでも友達が増えたことは嬉しかったようだ。
 ナナがいつものようにあまり要領を得ない調子で一所懸命に語っているのを聞きながら、少年は少年で先程の帰り道のことを思い起こしていた。


 薔薇屋敷からの坂を下りきってしまうと、ペダルは急に重くなった。少年は渋い顔になって自転車を漕いだ。
 分かってはいたが、実際に自分の耳で水銀燈の言葉として聞くと少なからずショックだった。
 普段の日常でも薔薇乙女達との非日常でも、楽天的なのが彼の唯一の長所であり持ち味だ。しかしそんな彼にしても、やはり自分は記憶を失くした抜け殻なのだな、という認識は、決して甘く優しいものではなかった。
 だが水銀燈はそんな抜け殻の自分を決して蔑ろにはしていないし、自分のために長い間夢の中で地味な作業を続けてくれた。蒼星石はこんな自分だから好きだと言ってくれた。
 それ以上を望むのは、贅沢過ぎるのかもしれない。二人の想いにすら満足に応えていないのに。
 そう考えはするものの、やはり面白くないし、切なくもあった。
 水銀燈にも、蒼星石のように甘えて欲しい。彼女には誰も甘えられる相手がいないのだから。ひょっとしたら、彼女はそんな相手を必要としてはいないのかもしれないけれども。
 そんな気分で少し上の空になっていたのだろう。信号のある交差点で、赤信号を見落としそうになってしまった。
 慌ててブレーキをかけ、あーあ、と顔を片手で押さえる。転んだり体勢を崩したりこそしなかったものの、リュックサックが激しく揺すられてしまった。
 案の定、再び走り出すとともにあまり機嫌の良くない声が背中から聞こえてきた。
「乗り心地悪過ぎよ、人間」
「ご、ごめんな。ちょい慌ててた」
 力任せに漕ぐのを止めて、一つギアを落としてゆっくりと巡航し始める。
 考えて見れば大して時間が押している訳でもなかった。道は暗いのだし、ゆっくりと走った方がいい。
「いつになく素直じゃなぁい。いいわ、許してあげる」
 けらけらと笑う声は、まだ酔っ払ったままのようだった。
 少年の表情は何とも言えない、冴えないものになってしまう。これは、つまり──
「ま、少しくらい頑固で何考えてるか分かんない方が貴方らしいけど」
 声はそれなりに明瞭に聞こえる。水銀燈はリュックから頭だけは出しているらしい。いつぞやのナナと同じだった。
「不思議ねぇ」
「ん……?」
「なんか言いたいことがいっぱいあったはずなのに、忘れちゃったわ。どうでも良くなっちゃった」
 水銀燈の声は、いつもより素直で子供っぽいような気がする。そのことが少年の胸にまた沁みた。
「翠星石は自分をぶっ壊れって言ってたけど、一番ぶっ壊れてるのは私ね、きっと」
「どこも壊れてなんかないじゃんか」
「外見はね。頭も悪いなりに正常に働いてるかもしれない。でも、心はイカレてるわ──契約をするたび、相手のことに入れ込んじゃって。最初で懲りたはずなのに」
 くっくっ、と喉を鳴らすような笑い方をした。
「挙句の果てに契約なんか結ばない方が楽なんて考えて、媒介にするだけで契約しなかったり……」
「……俺と契約したのは?」
 そこを、少年は殆ど覚えていない。暫く時間が経ってから契約した、ということだけは覚えているから、多分そのときは前世の記憶に関わる様々な葛藤を抱えていたのだろう、と漠然と思っているだけだ。
 まして、水銀燈の側の事情など、これまでは考えたこともなかった。そんな発想すらなかった。
 だが今は知りたい。記憶を持っていた頃の自分のことも知りたいが、水銀燈の想いを少しは理解して、役に立てるなら何かをしたかった。

「簡単じゃない。安アパートに住んでる十四、五の貧乏人って時点で、もう他の契約者達と大違いだもの。
 契約者候補として薇を巻く役に選ばれるのはね、大概は深窓のご令嬢かご令息、そうでなければ時間を持て余していても心に穴が開いた、可哀想な裕福な人って決まっているのよ。
 高価で美しいお人形遊びをするのに相応しい、満たされない強い想いや鬱屈を抱えた我儘で哀れなお金持ち達。結菱一葉や桜田ジュンみたいな、ね。中には金糸雀の契約者みたいな、ドールへの愛情が半端じゃないだけの例外もいるけど、裏を返せば彼女にしたって趣味に惜しみなく投資しながら金糸雀を養うだけの財力はあるわ。
 皮肉なものよねぇ。一旦契約してしまえば、そんな贅沢を絵に描いたような人達が、お人形遊びの対象にされてしまうなんてね。他でもない、人形である私達に。
 でも貴方は、特にドールに興味もなければ、乙女一人養う財力だってあるかないか怪しい。世間を斜めに見てるけど、特に何か酷い鬱屈を抱えてるようには見えなかった。
 ああ、メイメイもやっと私の思うようなつまんない奴を選んだのね、って思ったわ。そのときはね。
 まさか、生まれ変わった後まで引き摺るくらい、あんなにローゼンメイデンに入れ込んでいたなんて、最初から気付くはずがないでしょう?」

「なんだよそりゃ」
 笑うところではないと思いながら、少年は思わず吹き出してしまった。
「つまり、契約しても絶対好きになんかならないヤツだったから、契約しちまったってこと?」
「そうよ。私達は我儘で繊細で満たされない、幸せなお人形。お金持ちで我儘で満たされない、繊細な贅沢者と相性がいいの。鈍感な貧乏人なんかお呼びじゃないんだもの。本当はね。でも──」
 水銀燈はそこで少し言葉を切った。

「──私はぶっ壊れなのよ。だから、生きて行くのに必死な人には惹かれてしまう。
 だって仕方ないでしょう、契約者の心は私に勝手に流れ込んでくるんだもの。
 喜怒哀楽を受け取って、自分の感情も契約者に委ねて。契約を解いてお別れをして眠りに就いた後も、次の時代で目覚めた後でもまだ心に引っ掛っている所はあって、何かの時には昔の記憶が顔を出す。そんなことの繰り返し。ずっとね。
 契約者達も、大抵はそうなんでしょうね。いえ、確実にそうなるわ。
 人形に勝手に心を読まれて、心に触れられて、触れさせられて、愛して愛されて、時として一方的にさよならをされて。忘れていくものとはいえ、後に引かない方が珍しいはずよ、男だったら……いいえ、女だってそうかもしれない。私みたいに。
 心を通わせた相手をそんな目に遭わせるのが怖かった。私だったらきっと死ぬまで引き摺ってしまうから。
 だから契約をしなくなっていったわけ、私は。その方が気楽だったから。仮に身近に寄り添っていたとしても、お互いに心に鍵を掛けていられる方が楽でしょ?
 ……ま、その点、お金はないけど世の中を斜めに見て、どうでもいいような生き方をしている奴なら、契約を交わしても安心だったってわけ。
 ──まさかメイメイが選んだのがこの世界のものじゃない、しかも死人なんて思わなかったんだもの。斜め上もいいところでしょ? そんな話」

「へえ、そいつはどうも」
 少年はわざと口を尖らせてみる。
 首筋に掛る水銀燈の息は熱く、そして少し酒臭かった。ただ、今の少年にはそれは些細なことだった。
 自分も大概鈍感だが、昔の自分はどうやら鈍感なくせに斜に構えていたらしい。随分変な奴だったんだな、と少し可笑しくもあった。
「褒められてんのか貶されてんのか分かんないや」
「褒めてはいないわよ、少なくとも」
 水銀燈はけらけらと笑ってから、少ししんみりした口調になった。
「でも、貴方はどうでもいいような生き方をしてる訳じゃなかった。死人なのに、どうにか生きてるふりをしようとしてたのねぇ」
 今なら分かるわ、と溜息のような声が聞こえた気がした。
「似た者同士だったのよね、結局。だから心を壊してやりたいほどもどかしく思ったのに、契約も解除する気になれなかったし、嫌いにもなれなかった……」
「……好きだったのかい」
 思わず聞いてしまってから、しまった、と少年は顔を歪めた。
 今の言い方はまずかった。水銀燈は彼を記憶を失くす前の彼だと思っているのに。
「好きだった、かもしれないわね」
 水銀燈はくっくっと笑った。彼の言葉に取り立てて違和感は感じていないようだった。
「熱烈に愛してはいないけど、好きだったんでしょうね。──あの頃から」
 どくん、と心臓が高鳴った。
 やっぱりそうなんだなぁ、という妙な安堵感のようなものと、やりきれない思いが同時に湧き上がってくる。ただ、後者は自分がその対象でないという意味合いではなく、もう逢えない人を好きでいる水銀燈に対しての感情だった。
 その思いに素直になって、彼はつい質問をしてしまう。
「……辛くないかい」
 水銀燈は返事に一拍ほど間を置いた。
「そりゃ辛いわよ。少しはね。でも、今更一々落ち込んだりするほどのモンじゃないわ」
 もう慣れっこだもの、と言う声には湿っぽさはなかった。

「生憎だけど、好きになった相手が貴方だけって訳じゃないわ。それぞれの時代で必ず薇を巻いた相手を好きになるって事もないけど、貴方が私の初恋の相手って訳でもない。
 契約した相手のことを──契約しなかった媒介のことだって私は忘れない。中々忘れられない、と言った方がいいかもね。どういう訳か私と雛苺だけは記憶の操作を施されていないから。
 いきなり昔の記憶が蘇って来ることもあるし、昔の媒介を思い出す風景に出会って感慨に浸ることもある。
 好きだった相手にまた会いたいと思うことだって、貴方だけに限ったことじゃないの。お生憎様な話だけどね。
 それに──」

 もぞもぞと背中で動く気配がした。暫くして、少年の首に細い腕が回される。首筋に暖かくて柔らかいものが押し付けられる感触があった。

「──貴方は居なくなったけど、もう逢えない訳じゃない。むしろ、逆ね。
 前世の記憶は私の中にあり、感情の流れは多分、蒼星石が受け取ったはず。生きてはいないけど、それぞれの中で十分活かされているわ。
 貴方自身も本来の経験以外の記憶を失くしてしまったけど、足りないなりに頑張ってるわよ。もう抜け殻じゃないわ。蒼星石の大事な恋人なんだから。
 考えられる? あの堅物が、それもマスターの前で。だらけきった顔で貴方に寄り掛って、甘い声で何か囁いてるの。笑っちゃうわよねぇ」

 少年は水銀燈と声を合わせて笑った。独りでに笑っていた。
 暫く笑ってから、少年は自分でも意識しない内に口を開いていた。
「……君も、新しい恋をしてる。そうだろ?」
 口が勝手に動いていた。少年が驚愕している間にも、彼の口は言葉を紡ぎ出していく。
「でも、あまり趣味が良いとは言えないんじゃないのか。君らしいのかもしれないけど」
「……そこまで知ってたの? ほんっと、厭な奴ね」
「たまたま知ってるだけさ。本当に偶然だ」
 にやりと口の端が、まるで水銀燈がそうするように歪められる。
「こっちの世界の俺……中々良い奴だろう? 少々塔は立ってるが」
「少なくとも死人の貴方が、死ぬ前のままの貴方じゃなかったのはよーく分かったわよ」
 ふう、とうなじに酒臭い息が吹き付けられる。
「それなりに順調で幸せな人生をいきなり終わらされて、意識を持ったまま放り出されて、十四年も掛けて捻じ曲がれるだけ捻じ曲がったのが貴方だった訳ね。心を壊したくもなる訳だわ」
「手厳しいな。それほど捻じ曲がってるとは思ってなかったんだが」
 少年──水銀燈の媒介は苦笑した。
「あいつは良い奴だ。俺が保証するよ。──ただし、生きてる間の話だ」
「本人の保証なんてアテにならな過ぎるけど……分かってるわ」
 水銀燈が笑いながら頷く気配があった。
「二千十一年一月十五日だったわね。午後六時二十五分、駅前の交差点。……それまでは会わない。決めてるの」
「さあ? 細かい日時なんか覚えてないな」
 媒介は水銀燈の言葉の後ろ半分を聞き流し、肩を竦めた。
「君の中に収納されてるほど、俺の記憶は俺自身では上手く引き出せないらしい。ただ、善処して貰えれば俺も嬉しいよ」
「貴方のためじゃないけど、何をすべきかは分かってるわ。問題は、そのときまで私が生きてるかどうか」
 少年は息を飲もうとして、それが出来ないことに気付いた。彼の体は、昔の彼のようなものに完全に乗っ取られている。

──すまん。もう少しだけ、この黒衣の天使と話させてくれ。

 彼の体を操っている男は、声にならない声で少年にそんなことを言い、口を開いた。
「大丈夫だ。君はそう簡単に死ぬようなタマじゃない──もしアリスゲームが君の思うような救いのない形で終わってしまっても、君達はそこで終わらないさ」
「空虚な励ましね。意味のない空言もいいところじゃない」
 腹を立てたようでもない、やや間遠になりかけてきている言葉が返ってきた。
「アリスゲームが終わったら、ローザミスティカも、多分ボディもなくなってしまうはず。……もっとも、残っていたって動かすことが出来ないんじゃ……同じことよ……」
 媒介はにやりとしてみせた。
「後でよく考えてみてくれ。希望はあるはずだ。死人の俺にだって見付けられた程度の、簡単なことだぜ。しかも、殆ど確実な方法だ」
「……考えるのは、真紅に任せるわ。私は駄目。……所詮向いてないのよ」
 言葉が細くなっていくのは、自分の言葉に自信がないからではないだろう。水銀燈はまた眠りかけていた。
「役割は決められてなくても……向き、不向きは……」
 こくり、と首筋に押し付けられた頭が動いた。それきり、水銀燈の言葉は途切れた。代わりに静かな寝息が聞こえてくる。

「──おやすみ、いい夢を。君を好きになれて良かったよ、俺は」

 少年は何かが抜けていき、何かが戻ってきたのを感じた。
 そろそろとブレーキを掛け、自分の制御下に戻った眼で左右を見渡す。見慣れた、自分のアパートの玄関先だった。


 ナナの声は止んでいた。布団の中で寝返りを打ってそちらに目を遣ると、安アパートの押入れの中の仮の寝床で、ナナはすやすやと眠っていた。
 もう一度寝返りを打ち、今度は鞄の方に目を向ける。水銀燈もそこで眠っているはずだ。さっきの続きの良い夢を見ていればいいけど、と思う。
 仰向けになって天井を向き、結局あれは何だったんだろう、と少年はぼんやり考える。
 昔の自分が、まだ別の意志を持って何処かに居るのだろうか。それともあの数分間だけ、脳の回路の何処かが繋がって、昔の自分に戻っていたのだろうか。
 それとも、何かに心を操られていただけなのか。例えば雪華綺晶や、話にしか聞いていない白兎の剥製の顔をした紳士に。
 確かなのは、「彼」には少年の心を乗っ取ろうとか、少年の今後の行動を左右したいという意思はなかったことだ。「彼」は水銀燈にあの言葉を伝えたくて、そのために少年の口を借りただけだった。
 多分少年にも聞かせたかったのだろう。いや、偶然であっても構わない。もう聞いてしまったのだから。

──アリスを生んだ後も、救いのないゲームの終了を迎えたとしても、そこで薔薇乙女達は終わらない、か。

 それは、水銀燈だけではなく、他の姉妹達にも希望となるものではないのか。彼の大切な、小さな庭師にも。
「すぐに分かる、簡単で確実な方法か……」
 しかし今の少年にはそれが何か、すぐには思いつきそうもなかった。
 昔の彼と、その記憶を知識として受け継いだ水銀燈にだけはすぐに分かること、なのかもしれない。ずるいよなぁ、と思う。
 水銀燈は自分から知識を受け継いでいるのに、元々それを持っていた自分にはもう思い出すことが出来ないというのは理不尽な話だった。今更な話ではあるが、彼女だけが特別扱いされている。
 それはいい。彼女には彼女の思惑があり、それをはっきりと道筋を立てたものにさせ、実現させるために自分は知識を譲ったのだろうから。
 だが、今は自分も知りたい。思い出したかった。水銀燈に頼らずに答えを導き出したい。

──いや、待てよ。

 少年はぴくりとして眼を見張った。
 もう一人、記憶ではないけれども何かを受け継いだ者が居る、と水銀燈は言っていた。蒼星石、他ならぬ彼の好きな相手だ。
 そうだ。蒼星石に話してみよう。いつものようにあっさりと少年は決めた。
 水銀燈を裏切る行為になるとは思わない。むしろ、その認識を共有することができれば、水銀燈と蒼星石は志を同じくして同盟とは行かないまでも共闘できるかもしれない。
 やって来た睡魔に逆らわずに目を閉じながら、少年は少しばかり弾んだ心地になっていた。
 それが蒼星石の戦いを左右するものになることは分かっている。だがどういう訳か、決して悪い方には向かわないはずだと確信もしていた。

 後から振り返れば、その確信は正しくもあり、間違ってもいた。
 ただ、当然ながらこのときの彼には、それは分からないことだった。



[19752] 110ほど。タイムアップにて。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/02/17 00:31
だいぶ間が開いてしまいましたが、ネタ話と前後調整に手間取っていました。
その分、纏め部分に手は入っています。
改善したかは怪しいものですが。

今回の纏め分は Aus Dem Traum (1) から 酔夢譚 までです。

だいぶ加筆訂正しましたので、本文に目を通していただいている方はできれば再読していただけると幸いです。

強引に纏めている部分もありますので、その辺り忌憚ないご意見いただけると尚うれしいです。

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 濃紺の衣装のドールはふらりと宙を舞い、大きな廃屋の屋根の上に降り立った。
 もう数年間は人が住んでいないと思しい、洋館のような建物だった。荒れ果てた広い庭のそこここには、雑草に混じって打ち捨てられたような薔薇が咲いている。昔は薔薇園だったのかもしれない、今の彼女の心情に相応しいうら寂しい眺めだった。
 割れた硝子の隙間から、洋館の中に入る。大時代な天蓋付きのベッドのある部屋には、大きな姿見が残っていた。その鏡面に手を当て、彼女はずるずると膝をついた。

 この世界に来て、彼女はまず有栖川大学病院を探した。病院の建物は彼女が知っているものと形が異なっていたが、場所は似たようなところにあったし、建物の並びも似たようなものだった。
 大きな違いは、裏手の廃教会だった。彼女の世界で、彼女が長いことねぐらにしていた教会があった場所は、一面に黒灰色のアスファルトが打たれた駐車場になっていた。
 そのことが何かを暗示しているように感じたものの、彼女は病院の周囲を飛び回り、ある病室を探した。正確には、そこに入院している孤独な少女を。
 少女が入院していた病室は、若干位置は変わっていたもののすぐに見付かった。だが、そこに居たのは、少女とは似ても似つかない、色素の薄い髪の女の子だった。
 半ば恐怖を抱きながら、彼女は何日も掛けて窓から見える範囲全ての病室を確かめた。

 少女は何処にも居なかった。

 元の病室の外で膝を抱えていた彼女の耳に、看護師達の囁くような話し声が聞こえて来たのは偶然ではなかったのかもしれない。
「そろそろかな……」
「そろそろね。次はどんな子が入るんだか……」
「……この子も長かったですけど、前の子も?」
「めぐちゃんだったかしら、ほら、柿崎さんの。あの子は動ける頃からだったから、長かったわ」
 ドールはびくりとした。やはり、彼女の探していた少女はかつてここに居たのだ。
「え、すいません、知らなくて……動ける頃って……?」
「亡くなるまでね、ここに居たのよ。先天性の心疾患だったの。入院当時は結構荒れたりしてたけど、動けなくなってからはじっと何かを待ってるようだった──」
 彼女が聞いていたのはそこまでだった。姿を見られることも、それがどんな騒ぎを引き起こすかなどとも考えず、放たれた矢のように彼女はそこから飛び出していた。

──間に合わなかった。

 頭を垂れ、砂の溜まった床に涙を零しながら、無言で彼女は身を震わせた。
「す、『水銀燈』……?」
 よく通る、少し甲高い声が、おずおずと背後から掛けられる。『水銀燈』ははっと立ち上がり、目立たないように指先で涙を拭き取った。
 鏡に映った『金糸雀』は、今にも泣き出しそうな顔をしている。数日振りの再会だったが、どちらもそれを気にはしていなかった。
「あっあのね、ジュンの家はあったかしら。でも、他のミーディアムの家は、全部……」
「……そう」
「芝崎さんのお店は何処を探してもなくて、みっちゃんのマンションは別の人が住んでて……ヒナのミーディアムのおうちのあったところには大きな家が建ってて」
 ひっく、と一つしゃくりあげる。
「ジュ、ジュンの家は……あったけど、ジュンはもう居なかったかしら……」
 大きな瞳に涙を一杯に溜めながら、『金糸雀』はまだ泣かずに耐えていた。『水銀燈』は目を閉じ、吐き捨てるように言った。
「当たり前でしょう、世界樹の幹の世界と時間差が五年もあるのよぉ。何もかも変わってて当然だわぁ。しかも、ここはわたし達の居た世界と繋がってないんだし」
「わ、わかってるかしら。っでも、寂しいのはお、おんなじかしら」
 込み上げて来る涙を懸命に堪えながら、『金糸雀』は腰に下げたポーチを開き、ハンカチを取り出して目に当てた。それには全く無関心だと言いたげに『水銀燈』は斜め上を向く。
「だいたい、『真紅』の言ってることが可笑しいのよぉ。こっちの世界のドールとバッティングしたくないから、枝分かれした、nのフィールドにも繋がり難い世界にわざわざ住むですってぇ? そんなことする必要ないじゃなぁい。新しいミーディアムを見つけるなら、ここだって世界樹の幹の世界だって変わんないわぁ」
「で、でも『水銀燈』……」
 『金糸雀』は涙を拭ってハンカチを畳み直し、ポーチに仕舞った。扉を開けてこちらに来るとき、彼女のミーディアムが用意してくれた品物だった。
「『水銀燈』は我慢できるの? ミーディアムのところに、自分のそっくりさんがいるのよ。ミーディアムに可愛がってもらっているのはカナや『水銀燈』じゃなくて、そのそっくりさんかしら……」
「ミーディアムがなんだってのよぉ」
 『水銀燈』はぎろりと『金糸雀』を見た。
「どんなに同じ名前で、どんなに同じ姿をしていたって、そのミーディアムは前の世界のミーディアムじゃなくて別人なのよ? そんな相手とおままごとするつもりなのぉ?」
「そ、そうよ。別人だって構わないかしら」
 珍しく『金糸雀』は口答えした。顔はもうくしゃくしゃになっている。
「カナはみっちゃんにもう一度会いたいかしら。さよならしたけど、やっぱり寂しいかしら。どんなに違っていたって、他のミーディアムじゃなくてみっちゃんに可愛がって欲しいかしら。『水銀燈』は違うの? ミーディアムのこと、好きだったんじゃないの?」
「好きに決まってるじゃなぁい! だから……」
 『水銀燈』は目と口許を吊り上げた。怒りのために瞳は猫のように縦長に収縮し、言葉が詰まってしまう。
 ただ、その怒りは『金糸雀』に対してのものではなかった。何に対してのものかは不分明だったが、少なくとも『金糸雀』とは関係がなかった。
「誰も、誰もめぐの代わりにはなれないわぁ。お父様の代わりが何処にも居ないのと同じよぉ!」
 激しい口調でそう言いながら、彼女はその自分の言葉に嘘が含まれているのを知っていた。

 彼女はめぐに死んで欲しくなかった。人間なのだからいずれ老いて死ぬのは仕方がないとしても、心臓の病気のせいでそれが何十年も前倒しになるのは許せなかった。
 そして、それは何処の世界であっても、何処の柿崎めぐであっても同じことだった。

 『金糸雀』の言うとおりだった。『水銀燈』もまた、自分のミーディアムと同一人物を自分の手で愛したい。その人物が既に別のドールと契約していたとしても。
 ただ、それを認めてしまったら、『水銀燈』は今からでもこの世界を──彼女達二体が見つけられた唯一のnのフィールドへの出入り口であるこの鏡を通過して──離れ、恐らくめぐがまだ生きているはずの、こちらの世界樹の幹の世界に行ってしまうだろう。
 そして、こちらの世界でめぐと契約しているドールを押しのけて、自分が契約したいと思ってしまうに違いない。もちろん、二体同時に契約などという形は我慢できない。必然的に戦いになってしまう。
 それは、めぐを悲しませることになってしまうだろう。いや、生命力のないめぐを死の危険に晒してしまうことになるかもしれない。薔薇水晶との戦いのとき、自分が無意識にしてしまっていたように。
 『真紅』の提案を、反発しながらも『水銀燈』が呑んだのは、そういう理由だった。どの世界のめぐでも、『水銀燈』は彼女を危険に晒すことには耐えられなかった。


 泣きながら『金糸雀』が自分の鞄に入ってしまうと、『水銀燈』は独り月を見上げた。

──だけど、もうこの世界にめぐはいない。

 めぐは『水銀燈』が此処に来る前に、もう死んでしまっていた。何故、いつからかは分からないけれども、この世界──もし水銀燈が知れば、此処を「桜田ジュンが薇を巻かなかった世界」と呼ぶだろう──は、世界樹の幹の世界──「桜田ジュンが薇を巻いた世界」──よりも五年ほど早く時間が進んでいる。
 今後も同じようにますます早く進んでいくのか、あるいは相対的に停滞したりゆっくりになったりしながら進むのかは分からないし、興味もない。大切なことは、既にめぐはこの世界では死んでいるということだけだ。
 五年という時間は、次第に重篤になっていく心臓疾患を患っていた少女には長過ぎたのだろう。
 だが、世界樹の幹の世界のめぐは、まだ生きている。

「お悩みですか……?」
 柔らかい、何処か揶揄を含んだような声が聞こえたような気がした。『水銀燈』ははっと顔を上げ、大きな姿身の方を見詰めた。
 鏡から、白い茨が何本か這い出していた。そして、鏡の中には──白い髪、白いドレスの隻眼の少女が、彼女を見詰めて立っていた。
「……誰よ、アンタ」
 『水銀燈』は鏡の前に立ち、白茨の一本をぎゅっと握ってぐいと引いた。白茨はずるりと引いただけ鏡から這いずり出したが、鏡の中の少女が姿勢を乱すことも、出てくることもなかった。
「申し遅れました。私はローゼンメイデン第七ドール、雪華綺晶……貴女のことも存じていますわ、異界からの来訪者、『水銀燈』さん」
 少女は慇懃に頭を下げた。だが、相変わらず鏡の中から出て来ることはなかった。
「──こっちの世界の、第七ドールってこと……」
 『水銀燈』はふんと鼻を鳴らした。
「仲良しごっこをするつもりはないわぁ。いいタイミングねぇ、出てきなさいよ。ズタズタのジャンクにしてやるわ」
 少女は、まあ、と口に手を当てて無邪気な微笑を見せた。
「でも、私は此処から出ることができませんの。それに、今日は──」
 鏡面がふっと曇り、次の瞬間、部屋の中ではない光景を映し出した。
「──大事なことをお伝えに参りましたのよ」
「めぐ!?」
 『水銀燈』は目を見開いた。
 鏡が映し出しているのは、見慣れた光景とは少し違うものの、確かに柿崎めぐの病室だった。窓際のベッド、開かれた窓、長期入院なのに生活感が感じられない全体の奇妙な雰囲気。そして、何よりも彼女のミーディアムと同一人物が、そこに居た。
 違っていることもあった。最も大きな違いは、彼女と瓜二つのドールがめぐに寄り添い、めぐに髪を梳いてもらっていることだった。
 『水銀燈』はギリッと歯を噛んだ。口惜しさと悲しさと無力感が綯い交ぜになって、爆発の寸前まで高まっていた。
 少女は無邪気な微笑を浮かべる。少女をよく知る者が見れば、それは彼女の感情が昂ぶったときの表情だと見抜いただろう。ただし、その「よく知る者」に該当するのは水銀燈と蒼星石だけだった。
「そのドールは、こちらの世界の第一ドールではありませんわ」
「……なんですって?」
 『水銀燈』が鋭い眼で睨む先で、少女は手を一振りした。病室の風景は消え、何処かの機械工場の片隅が映し出される。そこで、何やら独りで工作を続ける長身の男を、銀髪の少女が時折何かを話し掛けながらつまらなそうに、ただ、柔らかな表情で眺めていた。
 漆黒のドレスは『水銀燈』とほぼ同じデザイン。違うところは全体の造作そのものだった。『水銀燈』よりも、鏡の中の少女に似た顔。彼女のピンピンした髪とは違って大人しい、人間のそれのようなさらさらの銀髪。
「私の姉妹──第一ドール。彼女の契約者は別に居ます」
 また風景が切り替わり、やる気なさげに課題をこなしている少年の姿が映し出される。その肩越しに、白髪のドールが、どういう訳か人間の子供服を着て座っているのが見えた。
「この少年が契約者です。そして、奥のドールは、貴女の妹ですわ。第七ドール、名前のない子……」
「……第七。これが……」
 『水銀燈』の眼がまた怒りを宿した。それを隠そうともせず、彼女は鏡の中の少女に尋問するような調子で訊く。
「七つめのことはどうでもいいわぁ。めぐに取り入ってるあの人形は何者なのよ。こっちの世界の第一にも似てない。まるでわたしそのものってどういうことなのよぉ」
「あのドールは……」
 少女は『水銀燈』から視線を外し、斜め上を見るような姿勢になった。片目の眼窩から直に生えた白薔薇が揺れた。
「イレギュラーな存在なのです、あれは。手違いで生まれた、貴女の記憶を植え付けられ、樹脂の身体を作られた、本来存在していてはいけない代物。それなのに、あれはあろうことか貴女の契約者に近づき、貴女に成り代わろうとしていますわ」
「成り代わろうとしてるですって?」
「可哀想な『水銀燈』──本来の世界を追い出され、貴女自身の姉妹の詐術で遠い世界に追い遣られ、偽物に還る所さえ奪われかけているのですね。……私は貴女を救いたい」
 少女は半ば自分に酔っているように、『水銀燈』の言葉を無視して話し続けた。
「偽物は貴女の四番目の姉妹の動力源を持っています。それを使って貴女の契約者の病を癒すことも考えずに、彼女に取り入って契約を結ぼうとしているのでしょう。契約を結べば、偽物でも本物と殆ど同じになりますから──ふふ、多分もう少しでその目論見は成功するのでしょうね。誰も、遮る者が居ないのですもの」
「なんてことを……!」
 『水銀燈』はぶるっと身体を震わせた。少女は畳み掛ける。
「貴女が彼女に勝てば、動力源の一つは貴女の手に入ります。私は詳しいことは存じませんけれど、一つでなく二つあれば、貴女の契約者の病も少しは癒えるのではないでしょうか」
「──アンタの狙いは何?」
 温度の低い声で、『水銀燈』は少女に問い掛けた。
「わたしに偽物を倒させて、それで何をするつもりなの」
「何もありませんわ。ただ──」
 少女はまたふっと微笑した。
「──あの偽物は私を狙っているのです。理由は分かりませんけれど、脆弱な私には彼女に勝つことはできません。ですから、貴女に倒して頂ければ私の身も安泰なのです。それに──」
「それに?」
「私と貴女は、とてもよく似ていますから。だから、お互いに良い友人になれるし、助け合いたい。そう思うのです」
 にこりとして、少女は小首を傾げてみせた。
 『水銀燈』は黙って瞬いた。相手が何を言っているのが、把握するのに時間が掛っていた。



[19752] 160ばかし。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/02/19 10:41
昨日4時間+今朝2時間ということでご寛恕願いたく。

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(承前)

 やがて、彼女は傲然と胸を反らし、見下ろすような姿勢を作って口を歪めた。表情は酷薄なものになっているが、それは内心の焦りと感情を読み取らせまいとするためだった。
「わたしと、アンタが? 似通ってるですってぇ? 笑わせんじゃないわぁ」
 少女は笑みを絶やさずに両手を鏡の面に当てた。
「私達は……望まれて生まれて来たのに、ローゼンメイデンとして他の姉妹のように生きて行くことを望まれなかった、似た者同士ですわ。貴女は一旦打ち棄てられ、私はnのフィールドに独り取り残されて」
 少女の隻眼は少し遠いところを見るような色を宿した。
「他の姉妹から忌まれ、疎まれ、異質な物として与えられた強い力を嫉まれ、だからこそアリスゲームに生き、アリスとなることの他に生きることに何の価値も見出せなかった孤独な魂……そうではありませんか?」
 『水銀燈』は口を噤んで少女を睨んだ。元居た世界で生きていた頃に限れば、少女の言うことは当たっていた。

──でも、わたしには『アリス』になる意味はもう何もない。

 彼女達は父親と逢い、そして──水銀燈の造語で言えば──「こちらの世界群」に放たれた。
 もう父親に一目逢いたいという切なる願いは叶ってしまい、究極の少女となって永遠に父親の愛を受けるという希望は逆に永遠に叶わぬものとなってしまった。
 世界樹が滅びた世界で、停滞した時間の中で父親と、永遠とも一瞬とも言える時間を過ごす選択肢もあった。彼女がそれを選ばなかったのは、全てを知らされたミーディアムが言った言葉が心に響いたからだ。
 心臓疾患で余命幾許もないと言われていた『柿崎めぐ』は、時間が閉じてしまったために皮肉にも生からも死からも解放されてしまった。だが、彼女はそれを全く喜ばなかった。
 『水銀燈』に、彼女は表情を全くなくした顔で言ったのだ。

「未来のない世界で、どれだけ長いこと生きたって、それは籠の中で車をカラカラ回してる子栗鼠と変わらないじゃない?
 どんなに回しても何処にも進めないし、進んだと思ったら振り出しに戻っちゃうんだもの。
 そんな生き方、死んだほうがどれだけマシか分からないわ」

 どうせわたしは死ぬはずだったから、栗鼠になったって別に構わない。死にたいと思ったら何度でも、何度でも何度でも死んでやるわ、と『めぐ』は笑った。乾いた、感情の見えない笑いだった。

「だけどあなたは生きるべきよ、『水銀燈』。あなたを愛してる人がくれた最後の機会なんだもの。
 籠の中の子栗鼠じゃなくなるチャンスなんだから、あなたの残りの命が燃え尽きるまで生きてやりなさいよ。何かの、誰かのために。
 それから何よりも……自分のために」

 その言葉を『水銀燈』は、自分の気持ちに素直になれ、と言われたと考えた。いや、確信した。
 そして、この世界群に来てから一貫して、『水銀燈』の気持ち、言い換えればやりたいことは一つに決まっている。
 柿崎めぐを生かす。どんな手段を使っても、彼女を心臓疾患で早世などさせない。数多ある平行世界の中のたった一人でしかなくても、彼女を救いたい。
 それは彼女の、自分を送り出してくれた『めぐ』に対しての贖罪の代わりのようなものでもあった。
 倒錯した贖罪と同時に自己欺瞞のようなものでもあるかもしれないが、どちらにしても、彼女はそこまで難しいことは考えていなかった。彼女はごく素直に、めぐを生かそう、と思っているだけのことだ。
 傍から見れば愚かしい限りの想いだが、今や、『水銀燈』にはそれが究極の少女になることよりも遥かに意味のあることとして認識されている。いや彼女の生きている意味、此処に居る意味そのものだと言っても過言ではなかった。

「──そして、今は別の目的のために生きている。アリスゲームから離れて、そのために全てを懸けても良いと思っている」
 少女は夢見るような口調で言った。『水銀燈』ははっと顔を上げ、少女の顔を見詰める。
 白い、あくまで純白というイメージの少女は、斜め上を眺めていた。右目の眼窩から生えた白薔薇から、ざわりと白茨が数本伸び始めていた。
 見抜かれているのか、と瞬間的に『水銀燈』は感じる。だが、それは錯覚だった。少女は自分語りをしているだけのことだった。
「私はもう長いこと、本当に長いことアリスゲームの盤上で自らの役割を演じ続けて来たのです。それしか私にはなかったのですもの。でも、今は違いますわ。私はゲームに関係ない、もっと大事なものを見付けてしまった……」
 ざわり、と少女の後ろで何本もの白茨が動いた。不気味な眺めではあるが、『水銀燈』にはそれが酷く物悲しいものに思えてしまった。
「貴女も、そうなのでしょう? 可哀想な『水銀燈』。もう一人の私……」
 『水銀燈』は何かに魅入られたように頷いていた。
 少女は満足そうに微笑んだ。飽くまでも無邪気な微笑みの中で、彼女の頬だけが感情の昂ぶりを示すように微かに紅潮していた。


 薔薇屋敷の広大な庭は、ほぼ片付いていた。薔薇園は丁寧に手入れされ、それ以外の部分も灌木や雑草を片付けきって綺麗になっている。
 ただし、それは更地として綺麗になったというだけで、在りし日の庭園の佇まいは何処へやらといったところではあった。庭と呼ぶよりは薔薇園とそれに続く空き地、と言った方が正しいような按配だった。
 少年にも蒼星石にも庭園を造る技術やセンスはなかった。それらは、この秋冬を越してからの課題ということになるだろう。
 その片隅で、作業服姿の蒼星石は腰を下ろして空を見上げていた。ついさっき今日の分の手入れを終え、後は秋の日が沈むのを待つだけだった。
 心ここにあらずといった風情で、彼女はじっと動かずにいた。
 水銀燈と結菱老人が酔いながらにしては随分深刻な話を交わしたのは数日前だった。それから、彼女は自分と結菱老人の願いについてずっと考え続けている。
 二人の願望を全て実現させることは不可能だとしても、一部なりとも叶えたかった。
 まずは、アリスゲームが終わった後も自分達が生きていなければ話にならない。それが最初で恐らく最大の問題だった。
 アリスゲームに勝ち抜いて生き残ればいいという即物的な考えや、真紅が望んでいるような結末が来ると──全員が無事で生き残ることができると信じようという素直で素朴な思いは、流石に湧いて来なかった。
 自分一人がアリスとなって生き残っても、あまり意味はない。アリスになってしまった後で行動の自由があるのか、そもそも今の意識が連続しているのかも分からない。また、たとえ実際に全員が生き残る結末が有り得るとしても、それを期待して構想を立てるのは危険だった。

 視線を空から引き剥がすように移動させ、庭園を眺めてから、蒼星石は目を閉じて溜息をついた。
 状況は絶望的に思える。腕力でアリスゲームに勝ち抜くことの方が、まだしも楽なのかもしれない。
 水銀燈と雪華綺晶以外の姉妹には、楽ではないだろうが一対一の対決ならば負けない自信がある。だが、今はそういう素朴な力比べなど関係なかった。ある意味で自分達が滅びた後の構想というのは立てにくい。
 もう一度溜息をつこうとしたとき、いつもの、快活な足音が近づいてきた。
「よっ」
 目を開けると、そこには少年がいた。
「なーに黄昏てんだい」
 言いながら、少年は蒼星石をひょいと抱き上げた。そのまま横抱きにすると、蒼星石の右頬が彼の左の胸板に押し付けられるような姿勢になる。彼が薔薇乙女達を抱くときのやり方だった。
 鼓動が聞こえてくる。目を閉じると、それはいつものように蒼星石を落ち着かせてくれた。
「──これからのことを考えていたんだ」
 少し逡巡したが、思い切って彼女は口に出してみた。彼はいつも彼女の少し凝り固まった考えに別の視点を齎してくれる。それに、これは彼自身にも関係することだった。
「春になったら、庭の方に手付けるって話?」
「それもあるけど、もう少し手前の話なんだ」
 蒼星石は左手を、自分を抱いている少年の左手に重ねた。
「まず、僕達は来年の春を迎えなくてはならない」

 蒼星石は、アリスゲームの進行そのものにもはや興味はなかった。
 水銀燈と真紅、二人の展望ないし予測はあまり似ていないが、姉妹達の誰も彼女達の造物主に愛して貰うことができないという点は共通している。二人はどちらも、自分達そのものでなく、自分達から生成されるのが至高の少女であり、その少女だけが父親に逢えるのだと考えていた。
 二人の見解に引き摺られている訳ではないが、蒼星石は自分が父親に逢うことについては半ば諦めている。水銀燈の手が加わらなければ自分は死んでいたはずだ、という思いも大きかった。
 誰がアリスになろうとそれは自分ではない。そんなことは他の姉妹に任せればいい、とまで蒼星石は考えている。
 大切なことは、その後だった。来年の春を、夏を、秋を、その次の年も、また翌年も迎えることだった。ここで、自分の周囲の人々──その中には人間だけでなく、薔薇乙女達も含まれている──と共に。
 アリスゲームでローザミスティカを失い、ボディしか残っていない状況で、その後など有り得るのだろうか。
 有り得る、という漠然としたイメージはある。単に願いが招いた妄想なのかもしれないが、そうだとしても、なくては話が始まらない。
 しかし有り得るとしても、それをどう実現させるかが問題だ。
 仮に動くことのない人形として永遠に近い生命を保証されたとしても、nのフィールドで永遠に流離うことになっても、それは蒼星石の思う「その後」とは言えない。現実世界で自律して動けてこそ、生きていると言えるのだから。
 どうすればローザミスティカを失っても生きていけるのか。そもそもローザミスティカを失って契約の指輪もない状態で、どうやってボディに魂を宿すことができるのか。
 そこで彼女の考察は先ず躓く。そのまま先に進めない状態で、この数日が過ぎていた。
 未見の人物に期待するのは馬鹿らしいことかもしれないが、『お父様』に会えるなら話を聞きたいと思う。ナナを作った人形師、もう一人のローゼン。
 水銀燈に様々な示唆と考察を残した彼なら、アリスゲームの果てについて何か知っているかもしれない。そうでなくても何ができるのか、何ができそうなのかを教えてくれそうだった。

 倉庫の入り口近くの適当な箱に座り、蒼星石を膝の上に座らせて、少年は彼女の言葉をじっと聞いていた。
「アリスゲームが君の思うような救いのない形で終わってしまっても、君達はそこで終わらない……か」
 話を聞き終わって、少年はぼそりと言った。
 腕の中で蒼星石が身じろぎをした。色の違う瞳が少年を見上げる。
「誰の言葉……?」
「……昔の俺だよ」
 少年は面白くなさそうな顔で言い、酔った水銀燈を連れ帰ったときのことをぼそぼそとした声で話して聞かせた。蒼星石は信じられないと言いたげに首を振ったが、聞き終わると否定はせずに一つ溜息をついた。
「そうか。貴方が」
 それから深く息を吸い込み、少年の腕の中に沈みこんで長い息をついた。
「自信を喪った水銀燈を励ましただけ……とは思えないね」
 何があったのか、正確には分からない。だが、「彼」が水銀燈にそのことを伝えたかったのは理解できるような気がした。
「うん……何か意味はあると思うんだよな」
 少年の右手が蒼星石の頬に触れた。蒼星石が躊躇いがちにその手にゆっくりと頬擦りすると、少年は驚いたように手を引っ込め、それから彼女の帽子を取って髪の毛をわしゃわしゃと乱した。
 ささやかなじゃれ合いだが、それでも二人には素面では精一杯の大胆な行為だった。
「それに、気になることも言ってた。ヒントは俺にも分かる簡単な事で、しかも確実な方法だって……『俺』っていうのは、昔の俺のことだと思うけど。何しろあれからずっと考えてたけど、全然今の俺には心当たりがないんだ」
 すぐに蒼星石に相談しようと思ったんだけどさ、と少年は頭を掻いた。少しは自分でも考えてみたかったらしい。
「もう少し早く教えて欲しかったけど……」
 蒼星石は身をよじって少年の顔を見上げた。
「水銀燈のことを考えていたんだよね? だから、僕は貴方を責められない」
 ごめん、と言った後で少年は不明瞭な言葉を口の中で転がした。どうやら図星らしい。
 蒼星石は目を細めた。
 そういう素朴なところが少年の良いところだ、と思う反面、本当にこの人を好きになってしまって良かったのか、という思いが胸の中にあるのも事実だった。

 彼は今も水銀燈の契約者なのだ。いつ何時蒼星石と敵対するか分からない、潜在的な敵だ。
 もう一つ、負い目に等しい部分もある。心と記憶が穴だらけになってしまった彼を、水銀燈は長い時間を掛け、膨大な手間を費やしてこの姿に育てた。それを、蒼星石は横から攫ったも同然だった。
 水銀燈は何も言わないし、嫉妬している風もない。むしろ蒼星石をからかったり、抜け殻に等しい少年が蒼星石のお眼鏡に適ったことを喜んでいるフシもある。
 しかし、それは飽くまで俗事や色恋事の上の話だった。
 恐らく戦いとなれば、水銀燈は彼が蒼星石と何処まで深い関係になっていても躊躇なく彼の力を吸い上げ、蒼星石を攻撃するだろう。そして、自分も彼の契約した相手だからといって水銀燈に手加減することはない。
 だが彼はどうなのか。恐らく水銀燈に力を与えることを拒むことはないだろうが、それが蒼星石を倒すことに向けられることに葛藤が起きないはずがない。

 これまで、薔薇乙女という気侭な少女達は契約者という人形を使って好き勝手に遊んできた。眠りに就くまでそれぞれのやり方で人形を愛し、目覚めれば目の前に置かれた新しい人形に心を奪われ古い人形のことなど忘れて、取っ替え引っ換え何体も何体も使い捨ててきた。
 そこには罪悪感は全くない。むしろ目を掛けてやった人形に対して、良いことをしてやった、もうこの子は大丈夫だなどと考えたり、貴方にはもう自分達は必要ない、一人で歩いて行けるなどと言ったこともあるだろう。
 本末転倒もいいところだった。そんな境遇の人形を遊び相手に必要としているのは、薔薇乙女の方なのに。
 例えば彼は一度壊れかけたところを、心優しい少女に丁寧に修繕された、幸運な人形と言えるだろう。そして、今は我儘な別の少女からも愛されている。
 確かに人形ならば、これ以上の幸せはないのかもしれない。愛でて貰うだけが全ての、物言わぬ人形ならば。

──だが、彼は人形ではない。人間だ。

 薔薇乙女から至高の少女を生むための情操教育の教材として、愛でられるために選ばれたとはいえ、彼は意志を持たない人形ではない。不完全かもしれないが自己を持った人間なのだ。
 薔薇乙女達と同じように、理性に縛られ、感情に流され、誤った判断や愚かな決断をしてしまうこともある不完全な人間なのだ。特に、今の彼は。
 そんな彼を板挟みの葛藤に苦しませてしまっていいのか。
 そうは思うものの、蒼星石は自分の気持ちを抑えられなかった。ずるずると、彼女は安易で刹那的な恋を続けている。

──やはり、僕は薔薇乙女だ。契約者を好きなように使い捨てることに慣れた、我儘な子供だ。

 どれだけ契約者をマスターと呼んで謙った姿勢で相対していても、本質的には他の姉妹と何も変わらない。契約した人間を好きなように操る驕慢な存在だ。
 そんな風に韜晦して事実を再確認しても、彼女の心が晴れる訳ではなかった。
 彼を人形だとするなら、それはあくまで他人の持ち物だった。それに彼女は堂々と手を出したことになる。咎める者が居ないとはいえ、忸怩たる思いは他ならぬ彼女の中にあった。

「──簡単なこと、ってのが昔の俺の記憶に関わることなら、蒼星石が分かることもあるんじゃないか、って思ったんだけど」
 黙り込んでしまった蒼星石に、間が持たなくなったのか少年は言わずもがなのことを言った。
「一体何なんだろうな、それって……」
 言いながら、少年は首を捻って倉庫の中を見た。

 蒼星石が黙り込んでしまうとき、彼はいつも目先を変えられる話題を探す。そうしないと彼の小さな恋人は果てしない自己の思索に沈んで行ってしまいそうな気がするのだ。
 水銀燈とするような、素っ気無くて軽いが切れ目のない話と違い、蒼星石との会話はいつも、彼が引っ張らなくてはならない。ただ、それを決して負担とは思わないし、彼女と話すのが楽しくないわけでもなかった。
 翠星石が煩いくらい強引に自分で会話を主導していってしまうのが分かった気がする。常にそうという訳ではないが、蒼星石が言葉を返さないときは、誰かが喋り続けていなければいつまでも会話が始まらないのだ。
 契約者以外に姉妹二人しか居なかったこれまでの時代では、それは専ら翠星石の役目だった。そして、今は──多分これからは、それは自分の役目になるのだと少年は思う。

 目先を変えられそうな物はすぐに見付かった。ある意味でお誂え向きに、庭仕事関係の話が出来そうだった。
「そうだ、草刈機二つになったからさぁ、これからは片っぽをチップソー専用にしてさ、もう片っぽはビニールコードとか他のアタッチメント付けることにしようかなぁ」
 彼がnのフィールドから持ち出して来たお陰で、少し古めの刈払機は都合二台になっていた。とはいえ、同時に二台使おうにも作業員は一人しか居ない。用途に応じて使い分けようにも全く同じ物が二つだから機能的な差異もない。精々ギアボックスから先の刈刃部分を使い分ける程度しか活用のしようがなかった。
「ヘッジトリマーとかのアタッチってないのかなぁ。そうすれば、生垣とかも手入れできちゃうぜ」
「……そこは専用品を買いなさい、ということかもしれないね」
 蒼星石は顔を上げて微笑んだ。表情は見えなかったが、やっと食いついてくれた、と少年はほっとした。
「全部一台で出来ればいいのにな。アタッチの脱着の手間なんてどうでもいいからさぁ」
「手間がどうでもいいなら、二台使わなくてもいいんじゃないかな……」
「そーだけどさ」
 苦笑する蒼星石に、彼は口を尖らせて抗議する。
「でも二台になったんだし、片方普通のチップソーのままでもさ、もう一つの方をいろいろアタッチ試すのに使ってみたいじゃん」
「そうだね……」
 回転部分を取り替える手間と二台を使い分ける手間のどちらが大きいかは分からないが、同じ物が二つあるのだから活用したいというのは悪い考えではないように思える。
 ただ、彼は不満のようだった。
「どうせならチラシで見たやつにすれば良かったんだよな。排気量の大きいやつとか、ピカピカの新品にさ」
「仕方がないよ。貴方が使い慣れていて詳細にイメージできたから、ナナもあの場で作り出す手伝いができたのだろう。張りぼてではきちんと動かなかったかもしれない」
 軽口を叩く少年に、蒼星石は一つ息をついてみせ、それからびくりと身体を強張らせた。
「どうした?」
 少年が思わず彼女の顔を覗き込む。なんでもないよ、と苦笑しながら、彼女は何か糸口が見えたような気がしていた。
 確かに簡単で、確実なことだ。
 だが、それをしてしまって良いものなのか、彼女には即断はできなかった。



[19752] 約280行。二日分です。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/02/24 22:31
だいぶ間隔が開いてしまう今日この頃。

※ 2/24 段落順序入れ替え。

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 鞄から出ると、もう少年は居なかった。高い空を見上げながら、さて何をしたものかと水銀燈は小首を傾げた。
 自分を戦闘狂だと金糸雀は評したが、実はワーカホリックだったのではないかと最近彼女は思う。
 雪華綺晶の選択肢を切り取り続け、遂に最後の糧に手を付けさせた後、彼女の作業量は次第に減ってきていた。最初は見回る場所が多くて忙しく感じていたものの、定期巡回の順序を決めてしまうとそれも解消されてしまった。
 媒介の少年の夢に入ることは、それ以前からなくなっていた。二ヶ月以上続けていた作業だったが、今、少年は過去より現在や未来の夢を多く見るようになっている。もう彼女の小手先の工作は要らなかった。

 もっとも、夢に入らなくなったのにはもう一つ原因がある。
 現在や未来の夢に出てくるのは決まって蒼星石なのだが、水銀燈もその次くらいには頻繁に出演している。当然の順序なのだろうが、そこでの彼女の位置とお相手が問題だった。
 水銀燈は彼の姉か蒼星石の姉で、ある誰かと幸せそうにしているのだ。その誰かはいつもぼやけているのだが、水銀燈にはよく分かっていた。
 そして──蒼星石が人間だったり、人形だったりするのに対して、常に──水銀燈は必ず人間だった。背中の翼は無くなっていて、髪は黒髪、虹彩は茶褐色の、喩えれば柿崎めぐのような色合いになっていた。
 それが、どういう訳か面映かった。

 ともあれ、そんな原因もあって先週来水銀燈はやや手持ち無沙汰な日を過ごしている。時間はあるのは良いのだが、気を抜いて遊び呆けている訳にも行かない。何が出来するか分からないからだ。
 他の姉妹達の出方待ち、待機というところが正しい状況かもしれない。間断ない襲撃や探索といった能動的な行動に明け暮れていた彼女には、こういった時間の過ごし方は苦手とするところだった。
 いっそ真紅に荷担してしまおうか、と思うこともある。自分も含めれば真紅の許に四人分のローザミスティカが揃うことになる。
 腕力で比較するだけなら、そのまま順当にゲームを終わらせることが期待できる数だ。そして恐らく水銀燈が真紅の走狗となったと知れば、雪華綺晶以外の姉妹は全員真紅の下に走るだろう。最後は雪華綺晶と六人の姉妹が相対する形になるはずだ。
 結菱老人との問答以来、そんな穏当な結末を迎えるのも良いような気もしている。
 幾ら足掻いても全て造物主の掌上の、予定された範囲での出来事かもしれないし、逆に翠星石に言わせれば水銀燈の目論見は既に十二分に果たせたとも言えるようだ。もう、全て成り行きに任せても良いのかもしれない。

 問題は、水銀燈自身が真紅を認めきれていないことだった。
 役割分担の話は置いておくとしても、真紅は元々姉妹の中で最も慕われていて、一番思慮深く、そしてゲームに対して真摯な姿勢も持っている。それは分かっているのだが、何処かに未だ引っ掛りがあった。
 特に最近は、周囲の状況が整いつつあるのに真紅自身がアリスゲームから一歩引いてしまっている、そんな雰囲気さえ感じている。水銀燈から見れば非常に不自由な状況にも関わらず毎日nのフィールドに出入りして探し物をしているというのも、穿って見れば何やら自分から危険を招こうとしているようにも見えてしまう。
 力を貸している側の翠星石や、隷属している雛苺の方が真紅より余程安定している。万全な状態なら兎も角、そんな状態の今の真紅に全てを委ねるつもりには、水銀燈はなれなかった。

──何を考えてるんだか。理解できないのだけは相変わらずだわ。

 そこだけは変わっていない。推理好きは良いのだが、行動が少ない割に行動で何かを示そうというような、言い換えれば説明を省いて動いてしまう癖が真紅にはある。
 これまで水銀燈が真紅を好きになれなかった理由は、その辺りにもあるのかもしれない。頭の良くない自分には理解できない動きを説明抜きで起こされ、口を開けば一つ上からの視線で正論を突きつけて来る相手は、口よりも身体が先に動く性質の彼女には鬱陶しい存在だった。
 媒介からの知識を得てから、求められれば差し障りのない範囲でそれを教えるようにしてきたのも、元はと言えばその辺りに原因があると言えなくもない。皮肉な見方をすれば、それもまた真紅に対する安っぽいコンプレックスの裏返しでもあるのだろう。

 水銀燈は頭を振った。
 真紅の秘密主義や理想に偏りがちな志向は、彼女の力の弱さと優しさに起因している、止むを得ないものだ。一見王道を行っているように見えて、彼女は常に弱者の戦略で戦って来ざるを得なかった。今となってはそれを鬱陶しく思うべきではないのだろう。
 最初から全員が揃って目覚め、揃って眠りに就くような来し方であれば、真紅はもっと素直に育ったかもしれない。あるいは『真紅』達が究極の少女となれると言われたように、永い時間を掛ければ単独で至高の少女となる可能性もあったかもしれない。
 しかし、薔薇乙女達の目覚めと眠りは不斉一だった。その場所もばらばらだった。なるべく様々の環境を体験させようとしたのか、他の意図があるのかは判然としない。
 ただ、そのために彼女達がゲームや他の姉妹達から離れた時代を過ごす事や、双子の庭師を除いては永続的な共闘や同盟、あるいは上下関係を結ぶことができなかったことは事実だった。最終的には生きることもアリスゲームも個人の解決する問題、というのが彼女達に突きつけられた命題ということなのだろう。

──それも胡散臭い話だけど。

 一方では双子の庭師という例外を認めておきながら、他方では合従連衡を不可能として各個の才覚に委ねるというのはどういうことなのか。庭師の二人にしても、当初から引き離しておくべきではなかったのか。
 その果てに単純な奪い合いを否定し、それ以外の結末を用意しているのだから、どういう方向に考えても矛盾だらけに思えてしまう。
 まるで、二つの意思があるようだった。人形師として、創造者としての優しい視点が一つ。もう一つは、どんな手段を駆使しても至高の少女を生み出そうとする執念のようなもの。
 彼女達の造物主は、分裂症気味のところがあるのかもしれない。

──強い依存は非、潰し合いも非、委譲と尊敬は是……か。

 ゲームの形がどうなのであれ、それだけは確かだった。
 そして、ローザミスティカを委譲するにも他の姉妹を尊敬するにも、姉妹それぞれが自己というものを確立していなければならない。恐らく、そんなところなのだろう。
 結菱老人にも言われたとおり、あまり難しく考えるべきではないのかもしれない。自分は考察には不向きだし、そもそも自分達がアリスゲームを行っているのは廃物利用のようなものに過ぎないのだから。矛盾やら齟齬が山ほどあって当然なのだ。

 水銀燈はやれやれと肩を竦めた。ついゲームについて考えてしまう。自信をなくしていることの表れのようなものだ。
 ともあれ、今のところ真紅に媚を売るつもりはない。ただ、彼女が「探している」モノに興味がないわけでもない。
 彼女は本気で探し物をしているというよりも、むしろnのフィールドでの邂逅を意図しているように思える。当然、危険は承知しているのだろう。だからこそ自分の姉妹には中々言えないのだ。
 そこまでは分からないでもない。相手の目星もつく。しかし……
「……どうするつもりなんだか」
 ぽつりと独り言してみる。
「真紅が雪華綺晶に捕獲されて潰されれば、そりゃプレイヤーは大慌てでしょうけど」
 それこそ、水銀燈が意図していたことと同程度の衝撃はプレイヤーに伝わるはずだ。だが彼はそれを素直に許すのか。
 いや、そもそもそんなことを考えているとしたら、真紅には自殺願望があるとでもいうのだろうか。あるいは雪華綺晶と何か交渉する心算なのか。
「聞き出す潮時かしらね。お前はどう思う?」
 テレビ台の上にお座りさせてある小さな人形を突付く。
 量産品のソフトビニールの人形に、手を加えるだけで命を宿らせることが出来たジュンは、やはり常人ではないのだろう。但し本人はそれに気付いてはいない。飽くまでも自分の裁縫や工作は余技の類だと思っている。
 もっとも、首尾よくアリスが生成されてしまえば、その認識を改める必要はないだろう。彼という人物は裁縫と工作が得意なただの人間として生きて行くに過ぎない。

──彼の異能は、恐らく……

 ふっと水銀燈は微笑んだ。それはアリスゲームには関係のないこと、まして自分達には考える必要のないことだった。
 もう少し確り触れ、人形の思いを探る。
 ジュンの手で水銀燈に似せられた人形は、ただ、水銀燈が少し自信を失っていることを感じ取り、心配していた。物言わぬ人形らしい、愛でてくれる持ち主だけを見ている素直な思いだった。
 水銀燈は小さな人形の髪を指で撫でた。以前はこういった素朴そのものの人形達の心が疎ましくて、強制的に動かして尖兵に使ったり、腹が立って壊したこともあったが、この人形には何故かそういう仕打ちをする気になれない。自分に似ているからだとすれば現金な話だが、案外その程度の理由かもしれない。
「そう。まあ、このくらいじゃどうって事はないわ、慣れっこだもの。……私はね」
 むしろ、フラフラしているのは真紅の方だ。もっとも、それは人形は知らないし、分からないことだった。
 二人のこれまでの経緯を考えれば実に可笑しな話だが、水銀燈は真紅の状態が気懸かりだった。何があったのかは知らないが、何かがこれまでとは明確に違ってしまっている。
 やはり真意を聞き糺すべきだろう、と彼女は立ち上がり、ユニットバスの扉を開けた。メイメイが言われてもいないのに何処かから飛び出し、若干得意そうに鏡の前で上下すると、鏡面を波立たせる。
 褒めないわよ、と水銀燈は肩を竦め、ゆっくり身体を鏡の中に沈めて行く。
 聞き出すための交換条件は持っている。そこは問題ない。
 ただ、それを渡してしまったら事態が一気に回り出してしまうのが問題ではあった。大袈裟に言えばアリスゲームを一気に最終ステージに移行させてしまうかもしれない情報だった。


 桜田家のダイニングでは、小さな乙女達のお茶会が行われている。
 以前は精々紅茶に市販の菓子を付け合せるだけだったが、最近は翠星石の手作り菓子を賞味する会合のようになってしまっている。もちろん準備は殆ど翠星石が一人で行い、片付けと皿洗いもナナと雛苺が手伝う程度で多くは翠星石の仕事なのだが、それでも彼女は楽しそうだった。
 今日は少々顔ぶれがいつもと違っているせいか、いつもより更に力が入っている。もっとも、それがお客達に十分に伝わっているかどうかは分からなかった。
「──そう。あの子がnのフィールドに出て来たの」
 真紅はティーカップから目を上げた。つい、遠いところを見るような目になってしまう。
「直接会った事はないけれど、人となりをよく知っているというのは不思議なものね」
「はい……」
 ナナは躊躇いがちに頷いた。彼女がイメージしたことは真紅の感慨とは少し違っていたが、同感ということに変わりはない。
「nのフィールドなら、いま生きている五体の姉妹と、残りの二体分の素材が揃います。──誰かがゲームを始めようと思えば、すぐに始められると思います」
 言い終わってから、ナナは不安そうに視線を彷徨わせた。彼女にとって、ゲームの開始は死の宣告に等しいものだった。今はすぐ上の姉の動力源があるお陰でゲームの開始が即、死と結びつく訳でないが、それでも緊張が高まるのは仕方のないことだった。
 人数分の皿に忙しくお茶菓子を配りながら、翠星石はその場の面々を見回す。
「もし、始まってしまったら……? どうなるんですか」
 自分の他に蒼星石以外のオッドアイのドールが居る光景は、不思議なものだった。しかも、それは自分に良く似ている。
「また始まってしまったら、多分『蒼星石』もチビチビも呼び戻すことはできないのです。それがルールなのですぅ……」
 『翠星石』は少し吊り気味の目をぱちぱちと瞬いた。
「だから『水銀燈』のアンチクショウには『金糸雀』と一緒に別の世界に向かって貰ったんですけど……」
「こっちの世界に来たって、戦いが始まるとは限らないですよ」
 ジュンが騒々しいのを嫌って自室に篭ってしまったので、お茶を注ぐのも翠星石の役目だった。のりのように笑顔でその仕事をこなしながら、彼女は首を傾げる。
「それぞれが、別の道で究極の存在を目指せばいい、そう言われたんじゃ──」
「──オメーは、『水銀燈』のコンチクショウの残虐振りを知らねーからそんなことが言えるのですぅ! アンニャロウのせいで、『蒼星石』は、『蒼星石』は……」
 『翠星石』は言葉に詰まり、雛苺が慌ててそれを宥める。翠星石はごめんなさいと俯き、暫くの間、会話は止まってしまった。

 真紅はティーカップを置いた。
「貴女達の『お父様』は水銀燈……私達の姉に二つの動力源を渡し、水銀燈はそれを──」
 顔を上げ、ナナに視線を向ける。もう一人は、今は何処かに出掛けていた。
「──ナナともう一人に渡した」
 どちらも名前がないというのは、偶然にしては奇妙な符合だった。
 ナナはこくりと頷き、人間で言えば鎖骨の間の辺りを手で押さえた。そこには『雛苺』の動力源が収まっている。
「あの人は『水銀燈』が手に入れられないように、渡したって言ってましたけど……あの偽物、下手すりゃ『水銀燈』以上に凶暴ですぅ」
 水銀燈を「あの人」呼ばわりして『翠星石』は溜息をついた。
「おまけに馬鹿力は薔薇水晶以上ですぅ。アイツが『アリスゲーム』をおっぱじめたら、みんな片っ端から殺られちまうですよ」
「確かにおいたの過ぎる子だけど……」
 真紅は微笑を浮かべた。
「彼女にはゲームに参加する資格はないのでしょう? それに、今は貴女達を攻撃する意思もないはずよ」

 実際のところ、人形に戦いを仕掛けたのは『翠星石』と『真紅』の側だろう、というのは蒼星石から聞いている。また、現在の人形にはとてもではないが手強い相手を攻撃するほどの余裕がないことも分かっている。だが、真紅はそれらについては黙っていた。
 あの人形には、大きな標的が居る。彼女を作り出した当の本人、雪華綺晶だ。
 nのフィールドへの数回の同道を経て、真紅は黒衣の人形の性格をほぼ把握できたと感じている。彼女はとても一途で、以前の水銀燈などよりもよほど直線的な性格だった。
 彼女が直線的なだけに、おぼろげながらその意図も推し量れるようになっている。しかし、それもここでは言う必要のないことだった。
 いや、言ってはいけない、真紅も含めて他人が手を出してはいけない種類の事柄なのかもしれない。少なくともそれは、人形と雪華綺晶の間の問題だった。
 真紅に出来ることがあるとすれば、それは二人の仲裁くらいのものだろう。ただ、仲裁を必要とする程度のことなのか、既にそんなものは無意味なほどの溝が二人の間に存在するのかは分からない。
 強い愛憎、というものは、独学で心理学を学んでいるとはいえ、真紅にとっては不得手な分野だった。『真紅』と『水銀燈』の関係といい、人形と雪華綺晶の関係といい、真紅にとってはアリスゲームを克ち抜くことよりも解決が難しいのではないかと思えるほどだった。
 半端に手を出すべきではない、という思いもあって、真紅は人形に直接尋ねることもしていない。それもまた、造物主から彼女に与えられた試練なのかもしれないけれども。

「その『水銀燈』だけがそんなに貴女達の動力源に拘る訳は何かあるんですか」
 翠星石は真紅のカップにまたお茶を注いだ。
「ゲームの遂行以外に、動力源を使って何かやらかすつもりなんですかね?」
「『水銀燈』はミーディアムの病気を治すために、『ローザミスティカ』を集めようとしていました」
 ナナがぽつりと言った。
「最初は『蒼星石』のひとかけらをかざして、苦しんでたミーディアムの気分を楽にしたんです。でも、そのすぐ後で薔薇水晶にそそのかされて、全員分の『ローザミスティカ』を集めなければミーディアムの病気は治せないと……」
「……初めて聞いたですぅ……あの乱暴者にそんな」
 信じられないと言いたげに『翠星石』は首を振った。雛苺は目を丸くする。
「そんな力、ホントにあるの? あ、でも……」
 自分達のそれと、彼女達の動力源は違う。特殊な存在とはいえ、あの黒い人形は『蒼星石』のものだという動力源を得て動き出した。しかもそれを自由に行使しているという。
「出任せ、ってことはないんですか? 幾らなんでも都合が良すぎる話みたいな気がします」
 翠星石は懐疑的だった。
「試してみなければ分からないことでしょうけれど、不可能とは言い切れないわ」
 真紅は首を振った。
「人形と人間を同一視してはいけないけれど、ローザミスティカは元々一つの生命よ。七つに割られた後でも、まだそれぞれが人形に生命を宿し、自律して動かすだけの力を持っている。全てを集めれば、人形からアリスを生むだけでなく、何かしらの奇跡を起こせても不思議ではないわ」
 真紅が『水銀燈』の来歴について知っていることはさほど多くない。だが、自分が近しく接している人形の性格から、ひどく純粋な部分を持っているのは分かる。
 彼女にとっては一つの究極の存在を得るのも、目の前の一つの消えそうな命を救うのも同じことだったろう。焦がれるように愛している自分の製作者に会うという自分の目的よりも、生きたいという契約者の想いを叶えることを優先したのだ。
「『水銀燈』は信じたんです。それだけは間違いないと思います」
 ナナは複雑な表情になって頷いた。薄緑のチェック柄のリボンが揺れた。
「だから、こちらの世界群でも同じことをするかもしれない……『お父様』はそう考えたんです」

「それは正確じゃないわね。現在進行形かもしれないわよ」
 部屋の入り口から声が上がった。全員の視線がそちらに集まる。何時の間にか、水銀燈が呆れたような顔をして立っていた。
「さっきから現状確認をしてるだけなのにお通夜みたいな顔しちゃって。大丈夫なの? 貴女達」
「立ち聞きしていた上に挨拶もなしで会話に入って来る貴女の礼儀のなさの方が心配だわ」
 真紅が片眉を吊り上げ、ナナがおろおろと二人の顔を見比べる。一触即発といった雰囲気だったが、一拍置いても何も起きなかった。
「ご心配には及ばないわ、レディー達。少なくとも貴女達よりは余裕を持ってるわよ。それに、良くない情報もね」
 水銀燈はにやりと乾いた笑いを浮かべ、『翠星石』に歩み寄った。
「貴女達を此処──世界樹の幹が作っている現実世界──以外の別の物質世界に向けたのは『真紅』ね。潔癖なあの子らしい判断だけど、全員を纏めずに二人ずつの組にしたのはあまり良い手ではなかったかもね」
「……ど、どういうことですか」
 『翠星石』は椅子を降り、水銀燈に向き合った。
「『真紅』はみんなばらばらの世界に行こうって言ってたんですぅ。そこでそれぞれが『アリス』を目指そうって……でも、『翠星石』が『真紅』に勝手についてったんです。あと、多分チビカナも『水銀燈』に……」
「そう。争いを避けるためには良い判断だったけど、お互いに監視できなくしたのは詰めが甘かったみたいね」
 水銀燈は左手を開き、持っていたものを『翠星石』の目の前に差し出した。『翠星石』がびくりと身を引いて両手で口許を覆い、水銀燈の手元に視線を向けていた彼女の姉妹達は息を呑んだ。
 高温で溶けかけている黒い羽根に、どこか作り物めいた薔薇の花弁が絡みつき、一塊になっていた。彼女達には初めて見る、異世界の『ローゼンメイデン』の戦闘の痕跡だった。
「私が拾ったときはまだ温度が残ってたわ。全く元気のいいことねぇ」
 水銀燈が長い息をつく傍らで、『翠星石』はぶるっと身体を震わせた。
「これ……何処で?」
「nのフィールド、分岐の可能性を失った物質世界の扉を捨てる廃棄場の辺りよ。ラプラスが見たらげんなりするでしょうね。あっちこっちの扉に無数にめり込んでたわ、修繕が必要なくらいに」
「ありがとですぅ」
 『翠星石』は身を翻してドアの方に向かおうとする。水銀燈はその肩に右手を掛けた。
「放してください、行かなきゃいけないんですぅ、『真紅』が……」
「話を聞きなさいったら。私が見たときにはもうどちらも居なかったのよ、そこには」
 手に持っていた塊をテーブルに置いて、水銀燈は椅子に座っておろおろしているナナをちらりと見上げ、『翠星石』に視線を戻した。
「『水銀燈』は『金糸雀』と同道していたのね?」
「はいです、だ、だからそれも……」

「それなら、貴女の妹も連れて行きなさい。貴女の世界の第一ドールは二つ動力源を持ってる可能性があるわ」

 水銀燈はわざわざ固有名詞を使わない言い方をした。
 『翠星石』は一拍の間、何を言われたか分からないという顔をしていたが、びくりとしてがたがたと身を震わせる。それはまさに恐れていた事態だった。
 ナナは半ば転げ落ちるように椅子から滑り降りた。
「連れてって下さい……いえ、一緒に行きます」
「オメーなんか足手纏いになるだけですよっ」
 どうにか身体の震えを止めて『翠星石』はナナを怒鳴りつける。しかし、ナナは首を振った。
「『雛苺』の力を使えます。『ベリーベル』もいます。ゼロじゃ、ないんです」
 『翠星石』は何か言おうとしてそれを止め、水銀燈の手を振り切ってドアの方に小走りに駆けて行く。
「……こんなとこで時間食ってるヒマはねーです。nのフィールドに行くなら勝手にしやがれってんですコンチクショウ!」
 ドアから真っ赤な顔を出してそう叫ぶと、彼女は勢い良く廊下を走って行った。
 こんな状況なのに、ナナは何故か嬉しさが込み上げて来るのを感じた。ドアのところでテーブルを振り返り、行って来ます、と頭を下げると、彼女も廊下を駆けて行く。
「ナナ、あいとあいとあいとなのー!」
 雛苺は力いっぱい叫んだ。いつもはふざけて言うことも多い言葉だったが、今はそれしか掛けて上げられる言葉がないのがもどかしかった。

 水銀燈は少し考えてから、ナナの座っていた席に登った。翠星石が席を立ち、紅茶を淹れようとするのを手で制して、背凭れに寄り掛って長い息をつく。
 二体のドールが居なくなった代わりに、その場には重い静寂が残っていた。
「結菱一葉は私をハーメルンの笛吹きに喩えたけど、まさにそのものかもね」
 水銀燈はぽつりと呟いた。
 桜田家に行こうとしてnのフィールドに入り、思い付いて巡回路を辿っているうちに、まさか『真紅』と『水銀燈』の戦闘の痕に出くわすとは思わなかった。いや、むしろ目の前で戦闘が起きなかっただけ僥倖だと思うべきかもしれない。
 最初はあの人形が起こした戦いかと思ったのだが、確認に向かうとめぐの病室に人形は居た。それも、髪を細かく丁寧に編まれて、ご丁寧にお見舞いの薔薇の花を髪に挿された状態で憮然としていた。恰好の可笑しさは兎も角として、ついさっきまで戦っていた訳でないのは明白だった。
 となれば、黒い羽根をそんな風に使える者は一体しかいない。『水銀燈』がnのフィールドで自分の姉妹と派手にやり合ったのだ。
「否定はしないわ」
 真紅は容赦なく言い放った。
「貴女は常に戦いか諍いの種を運んでくるもの。そして、私達を戦いの場に連れて行く」
「言ってくれるわね。ま、それは正しい認識でしょうよ」
 水銀燈は肩を竦める。真紅の言葉は厳しく素っ気無かったが、正しかった。
 自分は毎度のように死を意味するゲームの話か、その報告を運んで来る。遂にその対象は異世界のドール達まで広がってしまった。
 死神と言った方が正しいかもしれない。いっそ誰かに大鎌でも作らせようか、とふと思う。黒い衣装に黒い翼、服に標された逆十字、おまけに銀髪赤目。死神の鎌がさぞかしお似合いだろう。
「その笛吹きが折り入って可愛い子供達のリーダーに話があるんだけど、いいかしらね」
 ちらりと翠星石と雛苺を見遣る。二人は顔を見合わせ、真紅に視線を向けた。
「人払いするかどうかの判断はそっちに任せる。場所も好きに決めてもらって良いわよ」
 真紅は訝しげに水銀燈を見詰めていたが、やがて目を閉じて頷いた。
「いいでしょう、この子達には私から顛末を話すことにするわ。場所は──そうね、いつか貴女と話した世界で……」
「nのフィールドの中で、ってこと?」
 いちいち大袈裟な、と言いたげに水銀燈は眉根を寄せたが、肩を竦めて大仰に首を横に振った。
「いいわ。だけど、先客が居ても知らないわよ。最近どういう訳かあそこは人気スポットみたいだから」


「『真紅』、何処ですかっ」
 『翠星石』は大声を張り上げながら、周囲を見回した。
 分岐の可能性をなくした世界への扉を捨てる場所。廃棄場と水銀燈は表現したが、そこは扉の集まる領域の中でも一際密度の高い、ある意味で賑やかな所だった。
 世界樹は何か大きな選択の度に分岐し、その度に別個の物質世界を生み出しつつ無限に枝を茂らせて行く。だが、その先が全てまた無限に分岐していく訳ではない。
 そうした末の枝に続く扉を集めた場所がここだった。誰が集めているのか、そもそも何かの手が加わってここに集められたのか、自然に吹き寄せられて来るのかは分からない。確かなのは、扉の数は目立って増えも減りもしないこと、そして廃棄場の扉の数が酷く多いことだった。
 分岐が起きれば扉が出現し、世界が消滅すれば消える。ある程度その双方に平衡が取れているのだろう。
 いずれにしても、今の二体のドールには関係のないことだった。
「──あれ、見てください」
 ナナが指す方の扉は、黒と赤のスプレーが振り掛けられたようになっていた。
「……『真紅』の花弁と『水銀燈』の羽根ですぅ。急ぐですよ」
「はいっ」
 『翠星石』は恐らく最大限に加速してそちらに向かう。ナナは威勢良く返事はしたものの、やや遅れてしまうくらいの急ぎようだった。
 ほどなく、二人の周囲の扉は様相を変え始めた。
 それは真紅達が見たら戦慄したかもしれない眺めだった。水銀燈が乾いた笑いを浮かべていた理由も分かる。扉という扉に黒い羽根と赤い花弁がめり込み、亀裂が入ったりひしゃげている扉もある。ナナの姉妹の中でもとりわけ即物的な力に長けている二人のぶつかり合いは、無惨な光景を齎していた。
「開いている扉を探すです。これだけ激しく戦ったのですから、きっと近くでぶっ倒れてるはずですぅ」
「はい」
「『水銀燈』のヤローは構わねーですけど、ミーディアムなしの『真紅』は時間が経ち過ぎるとやばいんです。ネジが切れかけてるかもしれません」
 ナナは頷いて周囲を見回し始め、はっとして『翠星石』を見遣った。
「契約していないんですか、すい……皆さん、誰も」
「『真紅』も『翠星石』もミーディアムは持っていないのです」
 他の二人は知りませんけどぉ、と言いながら、『翠星石』は開いた扉を探し続ける。無言のうちに、二人は並んで飛びながら、ナナは左、『翠星石』は右を分担するようになっていた。
 暫く虚しい作業を繰り返した後、『翠星石』はぼそりと言った。
「ジュンが居れば……どっかの世界に何も知らないヒッキーヤローのジュンが居たら、そのときは契約してやるですよ。『蒼星石』も一緒です……」
 ナナはびくりとした。胸の奥が締め付けられるような気がするのは、きっと気のせいではない。それを紛らわせようとして、ナナは目の前の作業に没頭する。
 だが、殆ど背中合わせのようにしている『翠星石』の声は、容赦なくナナの耳朶を打った。
「そしたら、『アリスゲーム』なんかなしで、ずっとずっと三人で暮らすのですよ。『アリス』になんてなれなくたっていいんです」
「……はい」
「『真紅』とチビチビは別の世界で、やっぱりジュンと一緒に暮らすのです。それで、どっちのジュンがかっこいいか、優しいか、比べっこしたりするんです」
 明るく喋っているはずなのに、何時の間にか『翠星石』は涙声になっていた。
「だから……こんなところで戦って、終わってしまう訳にはいかないんですぅ。みんな、幸せになるのです。今度こそ……」
 声が少し遠くなった、と思って振り返ると、『翠星石』は少し後ろで立ち止まって震えていた。ナナは一瞬躊躇った後、彼女の上から二番目の──いや、三番目の姉に手が届くところまで戻った。
 『翠星石』は暫く立ち尽くしたまま俯いていたが、やがてナナに向き直り、彼女のTシャツの胸倉を掴んで揺すった。
「どうしてなんですか、なんで……せっかく皆一緒に暮らせると思ったら偽の『アリスゲーム』なんかが始まっちまって……それが終わったら、『蒼星石』もチビチビも戻ってこないうちに今度は世界を追い出されるなんて……どんな罰ゲームなんですかこれは。『翠星石』が……わたし達が何をしたって言うんですか」
 ナナは黙って揺すられ続けた。何も言えないし、言う資格もない。
 自分は確かにこのドールの姉妹だが、同じ思いを分かち合うことのできない立場だ、と思った。
 無力だった自分の状況が如何に悲惨だったか、それについて考えを向ける余裕はなかった。臆病で無力ゆえに周りの状態に流されてしまいがちな彼女は、『真紅』のときと同じように、自分に向けられた剥き出しの怒り混じりの悲しみと嘆きをただ受け止め、そしてどうにかしなければという思いだけを抱いていた。
 『翠星石』がナナを揺すっていたのは精々一分かそこらだった。彼女は俯き、ナナのTシャツの胸に額を付けて泣き始めた。
 ナナは大きく息を吸い、それを吐き出しながら、おそるおそる、ぎこちなく自分の姉を抱き締めた。
 『翠星石』は『真紅』のようにナナの手を拒まなかった。そのことに、ナナはまた大きく息をついた。安堵の息なのか、溜息なのかは自分でも分からなかった。


 第32768世界には、水銀燈が言ったとおりに先客が居た。
 三人は慇懃に挨拶を交わした。
「やっぱり居たのねぇ、腹黒兎さん」
「おや、黒薔薇の御嬢様には予知能力がおありですかな。老兎は先程参ったところですが」
 兎の剥製の顔をした紳士は恍けた素振りで仕事机の上のドールを取り上げ、机の奥に座らせてから二人に席を勧めた。
「貴方が作業場に使っていたとはねぇ。道理で、人形が少しずつ変化している訳だわ」
 夢の中で──そして、遠い昔に自分達の造物主の工房でいつも座っていた位置に背凭れのない小さな椅子を引いて来て、水銀燈はその上にちょこんと座った。真紅が少し遠くに座ったのを見て、もっと寄りなさいと笑ってやる。真紅は、ここでいいわ、と返事をして、自分が仕上げのときに座っていた位置の椅子によじ登った。
 紳士はごく自然に、仕事机の椅子に腰を下ろした。ドールの位置が気に入らないのか、丁寧に座り方を微調整する。
 水銀燈は思わず笑い出した。紳士はおや、という風に振り向く。
「如何なさいましたかな」
「貴方が此処で、その姿でドールを作っているのを想像したら、ついね」
「手慰みに過ぎませんよ」
 紳士は幾分柔らかく言い、この工房にあるドール達と比べるとかなり大きめのドールにまた触れた。どちらかと言えば現代風の、細身で長い髪のドールだった。
「それよりも、御嬢様方は今日はまた何の御用事ですかな」
「大した話じゃないわ。お気になさらないで」
 水銀燈は真紅を振り向いた。
「秘密主義の我が麗しの妹君に、探し物の内容を尋ねるだけよ」
「おやおや、それは」
 紳士は兎の鼻をひくひくと動かしてみせた。
「このうすのろ兎が居ても宜しいお話ですかな」
「──構わなくてよ」
 真紅はやや不機嫌そうに紳士を見た。
「どうせ全てお見通しなのでしょう? ラプラス」
「さて、それはどうですやら」
 紳士は机の脇に立てかけていたステッキを取り、くるくると回してみせる。最後に傘として開いてみせないのは、以前水銀燈に自動傘と揶揄されたのが堪えているのかもしれない。
「理解している、は理解し得ない。見通せる、は霧の中。というのは、因果律などというものを引き合いに出さずとも世俗によくある話でありますな。それは私においてまた然り。御嬢様方について何も知り得ていないのはこのラプラスかもしれませんぞ」
「あまり茶化すようなら、その耳を頭に縫い付けて上げてもいいのよ」
 真紅は少しばかり苛立った声で言い、紳士が首を竦めて帽子を被ると、今度は水銀燈に向き直った。
「邪魔者は無視して頂戴。それで──私の探し物が何か知りたい、という話なのね」
「そういうことになるわね」
 水銀燈は行儀悪く足を組み、にやりとした。
「細かく言うと、最近貴女が探しているという品物、それが何か、そして何故探しているかを知りたいわけ。腰の重い貴女が、不自由さを忍んで毎日nのフィールドに潜って探しているものが一体何なのか。何のために探しているのか」
 真紅は、まあ、と目を見張った。嫌味のない素直な表情だった。
「貴女は探している物くらいお見通しだと思っていたけれど」
 表情を引き締め、一旦目を閉じてまた開ける。
「でも、そうなのね。探している物は確認するだけ、実際には私が何故そうしているかを知りたいということかしら」
「そんなところよ」
 水銀燈は軽く数回頷いた。
「話したくなかったら話さなくてもいい。ただ、話してくれれば私は貴女に情報を提供する。取引って考えて貰って良いわよ」
「それは提供される情報によるわ」
 真紅は難しい顔になった。水銀燈はもう一度頷き、探し物によっては有用な情報よ、と少し口の端を持ち上げる。
「──末妹のねぐらにしている世界が何処か、ってことよ。どう? お気に召しまして?」
「……ええ」
 真紅は溜息をつくように返事をした。
「確かに有用で魅力的だわ。私の探し物には、特に」



[19752] 200程度。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/02/24 22:32
なんか「眠れマッハバロン」の「マッハバロン」を『水銀燈』に変えて口ずさんでたりします。

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 半ば開いた扉を見付けたのは、羽根と花弁のスプレーの届いている範囲の外縁に近い場所だった。
 ナナは少し離れてしまった『翠星石』を呼ぶように人工精霊に依頼して、自分は扉に飛び込み──そして、落下した。
 出た先が物質世界だということを忘れていたのだ。彼女は無様にコンクリート打ち放しの床に落ち、ごろごろと転がった。
「痛い……」
 頑丈に作られていて良かった、と思う。服が汚れ、大分擦り傷が出来てしまったが、大きな損傷はなかった。
 立ち上がって周囲を見回す。夜の帳が降りかける頃の時刻で、高い建物の屋上のような場所だった。見覚えがあるのは、恐らく偶然ではないのだろう。
 そこは、柿崎めぐの夢に出てきた有栖川大学病院の屋上テラスだった。
「『真紅』……いませんか」
 ひそひそ声で呼んでみて、馬鹿なことをしているものだと恥ずかしくなった。物質世界は広い。彼女の姉が声の届く範囲に居るとは限らなかった。
 しかし、ならばどうやって探せば良いのだろう。姉妹のシュプールを追うにも、相手のネジが切れかけでは上手く行きそうにない。
「七番目っ」
 上から声が降って来た。『翠星石』は宙に浮いて、彼女の目の前まで降りて来ると、事も無げに言った。
「何道草食ってやがるですか。空から探すですよ」
 ナナはふるふると首を振った。
「わ、わたし……飛べません」
「なんですって?」
 『翠星石』は呆気に取られたような顔でナナを眺め、飛べないんですかぁ、ともう一度確認した。
「すみません……」
 ナナは肩を落として縮こまった。多分、姉妹のうちで自在に空を飛べないのは自分だけなのだろう。
 雛苺や翠星石と過ごしているときは気にならなかった。こちらの世界の薔薇乙女姉妹は、水銀燈と金糸雀を除いて自力では飛べない。それでいて用は足りてもいた。
 だがこういうことになると、自分が飛べないというのは如何にも不便だった。
「しゃーねーです……」
 『翠星石』は暫く考えて、遥かに見える住宅街の切れ目の方を指差した。
「ここは多分、ジュンの町のでっかい病院の屋上ですぅ。わかりますか?」
 ナナはこくりと頷いた。
「はい、有栖川大学病院だと思います。──見覚えがありますから」
「分かってりゃ上等です」
 『翠星石』はよしよしと頷いた。
「もし『真紅』が向かうとしたら、多分あっちですぅ。ずーっと行けばジュンの家があるのです」
 住宅地の切れ目の方を指差す。めぐの夢の中でナナが『真紅』に痛めつけられたのはこの場所だということは知らないか、忘れているようだった。
「オメーはここで待機してやがれですぅ。『翠星石』は上から、どっかの路上で『真紅』が干からびてないか探しながら行くです」
「え……でも」
 『翠星石』は抗議しようとするナナの足元を指差した。
「その短い二本の足で歩いてくつもりですか? ジュンの家に着くまでに朝になっちまうですよ」
 ナナは頷くしかなかった。『翠星石』の判断は確かにもっともだった。


「やはり末妹を探してる訳ね」
 水銀燈は腕を組んだ。
「理由はいろいろ思い付くけど、何故今、しかも独りで? 貴女と契約者を同じくする仲間二人、それに当の契約者を巻き込んだ方が早いでしょうに。他の媒介と違って、彼は体力に余裕がない訳でもないし、何より時間を持て余しているじゃないの」
 それに、彼は真紅達のことを理解して、その上で愛している。その上稀有な才能まで有している。単純に有利不利だけを考えるなら、少々無理を言ってでも連れ回した方が正解のように思える。
 無論、真紅がそうしないのには様々な要因があるはずだ。水銀燈はそれを知りたかった。
 知らなければ、そして納得できなければ、時が来ても安心して真紅に自分のローザミスティカを委ねることなど出来はしない。
「これは私個人の問題なの。ジュンや翠星石を巻き込むことはできないわ。……雛苺も」
 真紅は微笑を浮かべて首を振った。
「危険を伴うことは承知しているわ。でも、私は雪華綺晶に逢ってみたい。話をして、提案もしたいの。それは貴女のして来たことには逆行するかもしれないけれど」
「それは構わないわ」
 水銀燈はあっさりと言い、足を組んだ。
「私達は敵同士。相手のやったことをひっくり返すことくらい当たり前の事。それに──」
 にやりと口許を歪める。瞳には獰猛な色が宿っていた。
「私が撒いた餌も、耕した畑ももう十二分に機能したわよ。草取りと水遣りに大分手間は掛ったけど、後は収穫するだけ。状況がどう転んでも、私はそれを利用させてもらうだけよ。貴女の動向も含めてね」
 真紅を眺め、瞬いてみせる。今の言葉に嘘はなかった。他の姉妹の動向も含め、水銀燈は事態の動きを追いながら、退屈な待機を続けている。

──もっとも翠星石に言わせれば収穫も大豊作で終わってることになるし、結菱老人の見方だと昔から何も変わってないだけ、だけどね。

 結菱老人が何気なく指摘した言葉が最も確からしい、とは思う。しかしそれを確かめる術は、今のところなかった。もう少し時間が経過し、事態が重なって状況が動けば自ずから明らかになることもあるのだろうが。
「それで、貴女は何を目論んでるのよ。基本的に待ちの姿勢だった貴女が、大きく動こうとしているのは何故か。興味があるわ」
「全てを知る者としての、知的好奇心というものかしら」
 真紅の声がほんの僅かにからかいを含む。水銀燈は立てた片膝を両手で抱き、大仰な動作で斜め上を見上げた。
「何と思って貰っても構わないけど、私は今までの事柄の一部をたまたま知ってただけよ。予知能力もなければ貴女みたいな思索の深さもない。単に知りたいだけ、じゃ不足?」
 正面に視線を戻すと、真紅は生真面目な表情に戻っていた。何処から見付けたのか、小さな人形を両手で抱えている。
「いいえ。でも、貴女は一つ勘違いしているわ」
 人形をおざなりに撫でながら、真紅は微かに首を傾げた。
「私はアリスゲームを進めるために雪華綺晶と会おうとしている訳ではないの。私の、個人的な用向きよ」
 水銀燈はわざとらしく肩を竦め、大仰に首を振った。
「それは失礼致しましたこと」
 言いたいことはあった。真紅の側がどう考えていようと、雪華綺晶の出方如何で、彼女達の邂逅はそのまま誰かの脱落に繋がりかねない。二人にその意識がなかったとしても、それはアリスゲームの局面が動くことに他ならない。
 が、ここで水を差すべきではない。真紅が重い口を開いてくれると言っているのだから。
 大仰な動作のまま、それで? と続きを促す。真紅は目を閉じ、やや時間を置いてから口を開いた。
「私は雪華綺晶にこれ以上罪を重ねさせたくない。他人に都合の良い幻影を見せ、意識を吸い取って糧とするような……それは人間から人間の生活を奪うことなのだわ。たとえそれが、過去に一度は薔薇乙女に関わってしまった人達だとしても」
 そこで蒼い瞳を開く。小さな唇が、決然とした言葉を紡ぎだした。
「特に今、あの子が糧としている少女……オディール・フォッセーは、本来薔薇乙女とは無関係の人物よ。雪華綺晶に騙され、偽りの契約で縛られた少女。彼女だけでもあるべき姿に戻さなければ。契約は置いておくとしても、糧となって現実世界から意識を遊離させてしまってはいけない」
「しかし、それは雪華綺晶の死を意味する。代替の糧を用意しなければね。そして、代替物は必ずオディールと同じ状態になる。きりがないわよ」
 雪華綺晶に死ねと言うのでなければね、と水銀燈は腕を組み直した。
「それが末妹の在りよう。本人がどう思っているかは別にして、そういう存在なのよ、彼女は」
「……それは、現在の彼女よ」
 真紅は彼女らしい、確りとした発音で言った。

「彼女がもし、ボディを得たらどうかしら」

 水銀燈はぴくりと眉を動かした。振り向いてラプラスの魔に視線を向ける。紳士は全く表情の読めない兎の剥製の顔のまま、僅かに鼻だけをひくひくと動かしてみせた。
 既に真紅は気が付いていたか、ナナ辺りが何かのときに話したのだろうか、と正面に向き直りながら水銀燈は忙しく考える。

 どちらにしてもそれは、水銀燈が雪華綺晶から言い出すか実力行使に出て来るのを待っていた事柄でもあった。
 雪華綺晶が自前のボディを得たとき、どういう変化が起きるかは分からない。少なくとも今のような捕食形態の存在ではなくなる可能性は高い。
 少なくとも媒介の知識──漫画の世界──の中で、一時的とはいえ蒼星石のボディを得た雪華綺晶は「巻かなかった」ジュンの精神力でなく、生命力を吸って実体化を促進させ、現実世界と同等の物質世界である「巻かなかった世界」で戦っていた。
 こちらでの現実でも全く同様とは限らないものの、今までの符合ぶりを考えると、恐らく似たような形になるはずだ。それはボディを得て現実世界に居る限り、彼女も他の姉妹と同じように媒介を必要とし、糧を求めなくともボディを寄り代として存在を維持できるということでもある。
 そちらに事態が転んだ場合、水銀燈としては自分の構想──雪華綺晶を倒すことが随分楽になる。
 幻影のままでは、有効な破壊手段はない。糧を取り上げて飢えさせ、また姉妹のボディを渡さないようにすることで弱らすことができる程度だ。それは現在まで水銀燈が行ってきた方法でもあった。
 雪華綺晶がボディに依存するようになってしまえば、それを破壊すれば倒してしまえる。しかし、他の姉妹のボディを得た雪華綺晶が、完全に一体化する前であればそれを追われた程度では死に至らないことも、媒介から得た知識で知っていた。
 彼女をボディに依存するようにさせるには、最低でも彼女のためのボディを与えなければならない。そして、より確実な方法は──

「──雪華綺晶のボディが完成するまで、私は自分のボディを彼女に貸し与えようと思っているの」

 ああ、と水銀燈は声を立てそうになった。
 真紅はまだ知らなかったのだ。彼女は以前此処でラプラスの魔が言ったとおり、ジュンにボディを作らせるつもりでいる。
「元々は翠星石の考えなのだけれど」
 若干恥ずかしそうに言う真紅の顔は、何かを捨て去った者の晴れ晴れしさがあるように見えた。
「ローザミスティカを誰かに預かって貰えば、私はいつかまた戻って来れる。ジュンも、信頼できる姉妹も居るのだもの」
「……随分な綱渡りねぇ」
 水銀燈から見れば、それはまだ出会ってもいない雪華綺晶を愚かしいほど信用した上での策だった。ボディを与える、と言うが、実際のところそれはボディを奪われることと同義でしかない。
 桜田ジュンが薔薇乙女のボディを作るという話にしても、実現に何年掛るか分からない。一種の賭けのようなものだ。
 だが、決して不可能と言い切れないのも事実だった。ジュンの適性については今仕事机に片肘を突いて二人を見ている紳士が保証しているし、雪華綺晶にとってはかねてからの懸案であった糧とボディの問題を一挙に解決できる話だ。
 アリスゲームに邁進しているなら兎も角、自分の欲しい物を求めて動いているらしい今の雪華綺晶には魅力的な提案に映るのではないか。彼女がそれ以上の欲を出さなければ、という条件は付くけれども。
「確かに実現できない案ではないわね。それは認めてあげる」
「ありがとう」
 素直な発音で言い、真紅は微笑んだ。

「私のボディを与えるのはもう一つ理由があるのよ。
 あの子……雪華綺晶が作り出した、貴女と同じ衣装を着たドールに、雪華綺晶のことを狙わせたくないの。自分を生み出した者の命を狙い、倒すことを目標にしているなんて哀し過ぎるもの。
 雪華綺晶が私のボディを得てしまえば、あの子は雪華綺晶を──私のボディを壊そうとは思わないでしょう。本来のあの子はとても優しいから。
 ジュンが新たなボディを作れるようになるまでには長い時間が必要でしょう。けれど、それだって悪いことばかりではないわ。
 雪華綺晶とあの子、二人の間のことも、その間に時間を掛けて和解して行けるかもしれないのだから……」

 水銀燈は目を閉じて鼻から息を吐いた。
 真紅の話は、関わる全ての者が真紅のように優しく善良で自己をはっきりと持っている存在であれば、妥当で穏当な方策だった。
 逆に言えば、誰かが悪意や弱い意志を持っていれば、そのところで崩れてしまいかねない。少し捻くれ、他人に信が置ききれない所がある水銀燈にはその点が気になってしまう。
 人はそこまで強く、善良に出来てはいないと思うのだ。
 まず、雪華綺晶が真紅を倒したいと考えてしまえば、話は最初から成り立たない。むざむざボディだけを奪われてお終いだ。
 ジュンにしてもボディを作れるようになろうと努力はするだろうが、些か極端に走るきらいのある年頃と性格の彼は、真紅のために全てを擲ってそちらの道に突き進み、そして一般的な生活から益々外れてしまいかねない。それは彼にとって必ずしも不幸ではないのかもしれないが、真紅にしてみれば不本意な結果だろう。
 更に、彼が気負い過ぎて目標の遥か手前で挫折してしまう可能性も否定できない。芸術家気質のジュンは、精神面に酷く脆いところを抱えているのだから。
 そして濃紺の衣装の人形が、真紅のボディを持っているからという理由で雪華綺晶への攻撃を躊躇するようになるというのは、如何にも甘い期待に過ぎないように思えてしまう。ジュンがボディを作るなら問題はないとばかりに、なんの躊躇いもなく雪華綺晶を襲うのではないのか。

 それら諸々の考えを述べる代わりに、水銀燈は鼻を鳴らしてお仕舞いにした。
 自分の見通しが危うく、甘いことは真紅も承知だろう。良いところだけ並べ立ててはみせたものの、計画を立てている間には水銀燈の考えたような危険やら、その他の今は見えて来ない難題が想定されたこともあるはずだ。
 目を開けてみると、真紅はじっと水銀燈の顔を見詰めていた。視線が絡んだ。水銀燈はそれをほどかずに尋ねる。
「大体お題目は承知したわ。ただ、まだ聞き足りないんだけどいいかしら」
「どうぞ」

「貴女がそこまで自分を捨てても良いと思えるようになったのは何故?
 結菱一葉の件と自分の自立心の葛藤から、刹那的な行動に逃げようとしてた頃の蒼星石と同じ匂いがするわよ、その計画案からは」

 蒼星石は自分の心を攻撃するのと同義だと知りつつ、結菱老人の心の影の部分を打ち壊そうとしていた。それはそれで、彼女を取り巻く当時の状況に対する一つの回答であったことは知っている。
 水銀燈には当時も今も、蒼星石と結菱老人、そしてその周囲の人々にとって現状とその道のどちらがより良かったのかは分からない。彼女は状況を自分に有利なように誘導しただけで、そこに彼等に対する優しい思いはなかった。少なくとも本人はそう考えている。
 真紅の件についても、積極的に止め立てする気分にはなれないし、雪華綺晶にボディを与えるという案には元から興味はあった。ただ、現在の真紅が変化してしまったことについては、水銀燈らしくなく若干心配もしている。
 やはり、真紅はつんと澄まして大上段から正論を述べ、時折自分の周囲に優しさを垣間見せる程度の方がいい。自信を喪った彼女も、何かを捨て去って優しさがその部分に滲み出てしまっているような彼女も、あまり認めたくなかった。
 口幅ったい話かもしれないが、水銀燈は彼女をずっとライヴァルだと思って此処まで来たのだから。


 『翠星石』は病院の建物を二度ほど周回していたが、『真紅』は居ないと見て取ったのか、真っ直ぐにジュンの家の方角に向かい、すぐに見えなくなった。
 ナナは一つ息をついた。力がないというのは悲しいことだ、と改めて思い知らされた気分だった。
 周囲を見回しながら、飛べないなりに何か出来る事はないのかと考えてみる。
 確かに『真紅』がここに居るとは思えない。しかし──

──でも、もう一人は。

 ナナはぎくりとして顔を上げた。
 扉が開いていたとはいえ、『真紅』だけがこの世界に来たとは限らない。『水銀燈』の可能性もあるし、二人ともやって来たということも考えられる。
 そうなれば、『水銀燈』が居そうな所は……まさにここだ。より正確には、柿崎めぐの居た病室か、その窓外。
 ナナはテラスの縁に駆け寄り、手摺の隙間から下を覗いた。ごぉっとビル風が吹き上げてきて、慌てて首を引っ込めてぺたんと尻をつく。目が眩みそうな高さだ、ということしか分からなかった。
 冷静にならないと、と自分に言い聞かせる。病院がテラスとして使っている場所なのだから、当然ここに来る手段が用意されているはずだ。
 ぐるりとテラスを半周ほど回る間にそれは見付かった。エレベータの出入り口が設けられている。
 ずっと以前、誰かミーディアムの夢の中で見て憶えたように、ナナは下向き三角のボタンを押し込んだ。巨大な電動機械の作動音がして、エレベータはすぐにテラスまで上がって来た。

 めぐの病室が316号というのはこの間の一件で知っていたが、いざそこに行くとなると大変だ、というのは三階でエレベータを降りてすぐにわかった。
 降りてすぐのところに案内板はあったものの、大学病院の部屋番号の順序はだいぶ分かりにくい。そして廊下には迂闊にうろうろしていたら見咎められてしまいそうに思えるほどに看護師の姿が多かった。
 ナナは覚悟を決め、廊下を堂々と歩くことにした。
 落ちたときに少し汚れてしまったけれども、それを除けば彼女は人間の子供に見える服装と背の高さをしている。髪の色が白髪なのは、この国の人々とは違っているが──外国人の子供か、病院だけに色素異常の子供だと考えて貰えるかもしれない。
 果たせるかな、何人かの患者や看護師と擦れ違ったが、好奇の視線や不審そうな表情とは出会わずに済んだ。あちらへぱたぱた、こちらへとぼとぼ、と暫く迷路のような病棟の中を歩き回り、ナナはどうにか目指す病室の扉を見付けることができた。
 扉は閉まっていたが、こういう建物の常で子供や車椅子の人々にも支障なく開閉できるような高さに取っ手が付けられていた。
 最初はそれを押したり引いたりしてみたが、全く動く気配がない。途方に暮れていると、看護師が少し向こうの病室の扉を開けるのが見えた。流石に苦笑するしかない。スライドドアになっているだけの話だった。
 改めて取っ手を横に引き、病室の中に入り込む。
 病室は無人だった。人はいなかったが、先客はいた。

「幸せと……嫌な思い出……」

 ガラス窓が半分開いている。殆ど窓際にくっつけるようにして置かれたベッドの上には、こちらに背を向けて黒い衣装のドールが座っていた。

「……優しい今が遠ざかる」

 ベッドの上に何本か舞い落ちている黒い羽根を見るまでもなく、分かった。細い声で何かを口ずさんでいるのは『水銀燈』だった。
「『真紅』を探しに来たのなら、見当外れよぉ……お馬鹿さん」
 妙に力の抜けたような声で、『水銀燈』は言った。こちらを振り返りもしなかった。
「──この世界にもめぐはいなかったわぁ。まるで呪いでも掛けられているみたいに」
 背を向けたまま、彼女は独語するように続けた。
「めぐだけじゃないわ。『金糸雀』と世界を幾つか巡ったけど、何処にも──時計屋の老夫婦も、『金糸雀』や『真紅』のミーディアムも居なかった。まるでこの世界達が、ローゼンメイデンだけじゃなくて、ミーディアム達まで一人ずつしか存在を認めてないみたいに……」
「え……」
 ナナは思わず声を上げてしまった。挨拶も未だしていないのに、つい反対する言葉が出てしまう。
「でも、現にローゼンメイデンでさえ二人ずつ存在してます。ミーディアムは元々世界の住民なんですから、そんなことは……」
「わたし達が二人ずつ存在してしまったことが、気に入らないのかもしれないわ。わたし達がここで根付くためには、この世界達に居た自分達と戦って、おんなじミーディアムを取り合って……勝つしかないってこと」
 淡々と『水銀燈』は言い、初めてナナを振り向いた。
 外からの薄明かりが照らしている頬には、涙の跡があった。いや、今も目尻に涙が浮かんでいる。
 『水銀燈』に数歩近づいて、ナナは首を振った。初めて間近で見る彼女の眼が鋭いけれども何処か虚ろなことや、口許に乾いた笑いが浮かんでいることなどは気にならなかった。
「まだ、居ないって決まった訳じゃないと思います。別の病院に入院してるかもしれないし、元々病気に掛ってないのかも……」
 安っぽい慰めかもしれない、と思いながらも、ナナは言わずに居られなかった。
「それに、もし一人ずつしか居なくても……新しいミーディアムを見付ければいいんです。『ローゼンメイデン』のミーディアムになれる人達は、他にも沢山居るはずです」
 たどたどしいナナの言葉がどう届いたのか、『水銀燈』は笑いを消してまた窓を見上げた。物憂げな表情だった。
「七番目よねぇ、あなた」
「……はい」
「あなた、名無しのままなんですってねぇ。ミーディアムを持ったことがないんでしょう? 持ったことがあったとしても、元居た世界から逃げて来るときには、契約は結んでなかったんじゃなぁい?」
 鋭い指摘にナナはびくりとした。彼女にとってそれは恥ずかしい事実だった。
「どうなの?」
 何も言えずに居ると、相変わらず窓の方に向いたまま、やや強い調子で『水銀燈』は畳み掛けてきた。ずばりと切り込んでくるところは水銀燈に似ているが、容赦なく念を押してくるのは『真紅』と同じだった。
「わたしは……まだ契約を結んだことが、ありません」
 目の前の濃紺の衣装のドールは怖かったが、ナナは正直に答えた。
「っだ、だから、わたしなんかが偉そうなこと言えないのは分かってます、けど。でも──」
「──ええ。そのとおりよ」
 『水銀燈』はナナの言葉に被せて、独特の節回しをつけて言った。ナナに釈明させるつもりも、それ以上説教にもならない言葉を繰り返させるつもりもないようだった。
「あなたに何が分かるって言うの? 薔薇水晶の姦計にまんまと乗せられて、お義理みたいに身体を直して貰ったら、今度は初めてのミーディアムをあんな形で失ったのよ。わたし達の芝居をずっと舞台の袖から見ていただけの人形が、賢しらな口を利くんじゃないわ」
 ナナは俯くしかなかった。
 彼女は知らないことだったが、『水銀燈』とナナの関係は、『水銀燈』の言った視点から見れば、水銀燈とその媒介の関係に似ていた。違うのは、二人の間にはなにがしかの愛情と信頼関係があったが、二体の間にはそういったものが全くないことだった。

「出て行きなさい七番目。何百年も生きてるくせにまだ名前もない、何も経験したことのない赤ん坊のままの愚か者」
 『水銀燈』は背を向けたまま、ある意味で最大限の侮辱を浴びせた。
「あなたを潰して、その薄汚れた体から『ローザミスティカ』を奪い取ってやってもいいけど、めぐの病室を汚したくないわ」

 いつものように、ナナは何も言えなくなってしまった。よく回らない口でもごもごと謝罪の言葉を口にすると、彼女はそっと後ずさり、少し苦労しながら重い引き戸を開けて病室を後にした。
 とぼとぼと廊下を歩いて戻り、再びエレベータに乗る。物質世界でも飛べたらいいのにな、と思った。ここでは、どんなに惨めで辛くても、独りになれる場所までは我慢してちっぽけな二本の足で歩いて行かなければならない。
 エレベータには同乗者が何人か居たが、気にならなかった。殆ど真下を向くようにしていたから、どんな人物なのかはおろか、何人いたのかもわからなかった。
 扉が開いたとき、階数表示を見ることもせずに降りたのは、実際にエレベータに乗ったのが初めてだからということよりも、心ここにあらずという感覚だったことの方が大きかったかもしれない。テラスではない、と気が付いて振り向いたときには、もうエレベータの扉は閉まっていた。

──なんて間抜けなんだろう。

 赤ん坊と言われても当然だった。肩を落として、ナナは向かいの壁の案内板を眺めた。
 七階だった。屋上テラスまではまだ何階層もある。
 自分の数字だ、という気持ちはあまりなかったが、何かが引っ掛かった。その気持ちを抱えたまま、彼女は案内板を眺め続ける。
 716という数字が目に入ったとき、やっとナナの中でそれは繋がった。彼女は思わず駆け出した。
 『水銀燈』は知らなかったか、そこまで調べる余裕がなかったのだ。こちらの現実世界──『水銀燈』達に言わせれば「世界樹の幹の世界」──での柿崎めぐの病室、それは716号室だった。
 もちろん、分岐先の全ての世界で716号室がめぐの居場所というわけではないだろう。現実世界でも、めぐが自分の夢でイメージしたのは716号室ではなく、長い間居た316号室の方だった。
 それでも、716号室にめぐがいる可能性は皆無ではない。
 病室棟七階のつくりは三階とほぼ同じだった。診療棟への渡り廊下の有無などはあるが、そんなことは今は関係ない。
 一度とぼとぼと戻った道をまた引き返しているような錯覚に陥りながら、ナナは716号室の前まで走り寄り、そして、予想どおりの名札を見付けた。
 閉まったドアの取っ手に手を掛けようとして、はっと思いついて飛び退る。病室の中に用はないのだ。
 まだ待っていてください、と虫の良い願いごとをしながら、ナナはまたエレベータの前に駆け戻って行った。


「……七番目も良い子ちゃん、か」
 独りだけになった病室で、『水銀燈』は長い溜息をついた。
「結局、どう転んでもわたしは『あれ』と戦うしかないってこと。分かっているわ、そんなことくらい」
 それから何かを吹っ切るように顔を上げ、勢い良く窓を飛び出すと病院の上空に開いた世界の扉へと向かっていった。
 数階層上の病室から向けられた視線には気付かなかった。気付くつもりがなかったのかもしれない。
 ナナが荒い息をついて病室の扉を開けたときには、そこには黒い羽根が数枚落ちているだけだった。



[19752] 160程度。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/03/03 00:19
相変わらずぐだぐだしてます。
水銀燈はどうにかやる気が出せそうで。

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「……おや」
 白兎の顔の紳士は、唐突に頭を上げた。あまり機嫌の良くなさそうな声で、二人の話し合いにはお構いなしに告げる。
「どうやら、あちらの世界のお嬢様方の諍いは本格的になってきた模様です。第一ドールがnのフィールドにまた出てまいりました。先程までは第五ドールと何処ぞに潜り込んでいたのですが、今は一体のみです。……和解したとは思い難い結果ですな」
 何かを言いかけていた真紅の口が閉ざされる。水銀燈は大きな機会を逸してしまったことを悟って目を閉じた。
 いや、ラプラスの魔はわざわざこのタイミングを狙って口を開いたのだ。多弁なのはいつものことだが、言わずもがなのことまで言うのは彼らしくない。敢えて見え透いた遣り方をすることで水銀燈に自重を促したのだろう。
 それは真紅にも伝わっているようだった。
 果たして、紳士に向き直った真紅の口から出てきたのは、水銀燈の質問への返答ではなかった。異世界のドール達を心配する言葉だった。
「『翠星石』とナナが探しに向かっていたはずだけれど、ふたりは何処に居るか分かって? 少し力が劣るという話だから、戦いに巻き込まれていたら助けに行かなければ」
「力が劣る、というより第五と第一が頭一つ抜けているのだけどね。……それにしても、私達が? それともお優しい貴女一人で?」
 水銀燈は大きく息をついて首を振ってみせた。
「あの子達の喧嘩に巻き込まれたら、それこそ誰彼構わず助けを求めないことには命が危ないのは私達の方でしょうに」
「それでも、迷子になりかけている子を救い出すことくらいならできるでしょう」
 真紅はかすかに苦笑しながら言った。

 ごめんなさい、とその表情が言っているように水銀燈には思えた。
 水銀燈は黙って首を竦める。別に構わないわ、と言ってやる代わりのつもりだった。
 勢いに任せて敢えて一つ深いところまで踏み込んで尋ねてみたものの、真紅にとってはあまり言いたくないことだというのは元々察しが付いてはいた。
 恐らく彼女は何かを失ってしまったことに気付いたのだ。それは他の姉妹にとっては些細な事だったが、彼女には大きな喪失だったのだろう。
 真紅が返答を受け取ったように瞬いてみせるのを見ながら、水銀燈は、いつから自分達はこんなにぬるい仲良しごっこをする同士になってしまったのだろう、と思う。視線だけで馴れ合いの遣り取りをしたり、相手の感情を勝手に推し量るなんて、まるで仲の良過ぎる姉妹のようだ。
 無論、実際にはいつからこうなったかは分かっている。自分がこの時代で、媒介の知識を得てからだ。
 だが、そうなっていくことを望んだのがあの媒介なのか、それともすぐ近くで耳を立てている兎の頭をした紳士なのか、あるいはゲームのプレイヤーの見えざる手なのかは判然としない。
 確かなのは、それに自分が乗ったということだった。少なくとも雪華綺晶以外との馴れ合い路線を選んだのは、誰でもない、水銀燈自身だった。そこまでゲームのプレイヤーの手によるものだとは思えなかったし、思いたくなかった。

 兎顔の紳士は窓の外を眺めるように首を巡らした。
「いやいや紅薔薇の御嬢様、ご懸念には及ばぬようですぞ。第一ドールは別の物質界へと扉を潜りました。第三ドールと第七ドールも第五ドールと合流したようです」
「そう、それを聞いて安心したわ」
 真紅は口だけでなく、実際に緊張を解いたように息をついた。演技には見えなかった。恐らく、彼女は一人でもナナやその姉妹達の救出に向かっただろう。
 紳士は立ち上がって帽子を脱ぎ、慇懃にお辞儀をしてみせた。
「諍いが深まったと見たのは些か早計であったかもしれません。老兎故の浅墓な間違いとご寛恕くださいませ」
「いいえ、構わなくてよ。お陰で大切なことを思い出せたのだわ」
 真紅は水銀燈に視線を戻した。
「……そろそろ教えて貰っても良いと思うのだけれど、水銀燈」
「ええ、そうね。末妹のねぐらを教えると言い出したのはこっちだもの」
 水銀燈は真紅に歩み寄った。身じろぎする五番目の妹の長い巻き毛に触れ、やや見上げるような姿勢になりながら瞳を見詰める。
「雪華綺晶が移動を敢行していなければ第42951世界のはずよ。彼女が危険と手間を承知で移動していたら、昔の契約者達の姿だけが残っていることになるでしょうけどね」
「ありがとう。もし末妹がそこから姿を消していたとしても、貴重な情報なのだわ」
 真紅の目は優しかった。何か、片腕を失ってしまったときの笑顔に似ていた。
「……どう致しまして」
 水銀燈は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。真紅のその目だけは見たくなかった。
 やはり、真紅は何かを失ってしまったのだ。物や情報でなく、矜持というか、何か精神的な支えのようなものを。
 失ったものが具体的に何なのかは分からないが、アリスになるための一つの変化だとするなら随分と寂しいことだった。
 代わりに、彼女は何を得たのか。腕を失ったときには、欠損することへの恐怖という、どのドールも持っている本能的な弱さを克服してしまった。単体ではなく、全員からアリスを生成するなら、それだけでも十分のはずだろう。彼女だけの、強いアドヴァンテージのはずだ。
 彼女にこれ以上何を求め、何を得させる必要があるというのか。全てを捨て、悟りを開いて仏陀になれとでも言うのか。分からない。
「貴女の個人的な用向きを止め立てするつもりはないけど」
 脇を向いたまま、水銀燈は軽く首を横に振った。
「私はまだ、前に言ったことを撤回したわけじゃないわよ。貴女はアリスに成るべく条件付けされたドール。そして私は、先に作られたことを僻んで貴女を妨害する悪役。その構図は完全に否定されたわけじゃない。だから──」
「──分かっているわ」
 真紅の手が水銀燈のヘッドドレスに掛かり、二重に結ばれたリボンを弄んだ。
「でもお姉様、私は特別ではないのだわ。七分の一、七人のうちの一人。誰かに追い越されることもあれば、どうしても敵わない事もある。それは事実なの」
「お姉様ねぇ」
 水銀燈はくっくっと喉を鳴らすような笑い方をした。
「貴女にだけは言われたくなかったわ。気持ち悪いから二度と言わないでくれる? 今までどおりに呼び捨てなさいよ」
「あら、良くなかったのかしら。たまには言いたくなるのだけれど」
「我慢しなさい。その方がしっくり来るなら、これは姉としての命令と思って貰っても良いわよ」
「了解致しましたわ」
 視線を合わせないまま、二人は実のない短い会話を楽しんだ。
 やがて水銀燈はにやりと笑い、椅子から離れた。
「行くなら気をつけなさい、彼女のフィールドは全体が罠のようなものよ。私は敵対していたから、一人で近づく気分にどうしてもなれなかったけど」
 腕を組み、椅子に座った真紅の顔を見上げる。
「一応の知識は持っているから助言させて貰うわ。たとえ話し合いに行くだけとしても、桜田ジュンを連れて行きなさい。それからナナと、最近貴女が飼い馴らしてるらしいあの人形もね。それでもひょっとしたら貴女の方が不利かもしれないけど」
 憶えておくわ、と真紅は頷いた。


 真紅の時間制限は間近に迫っていた。彼女を先に帰して──ジュンの家の姿見から現実世界に戻るところまで見届けてから──、水銀燈は第32768世界に舞い戻った。
 ラプラスの魔はまだドールを仕上げていた。もっとも、玩具として売るつもりでなければ、納得の行くまで弄り続けても不思議はなかった。むしろどれだけ手を入れても足りない物なのかもしれない。
「此処で見ていても宜しいかしら、腹黒兎さん」
 もはや定位置と言うべき椅子に座りながら、水銀燈は兎顔の紳士に笑いかけた。
「とても懐かしいのよ、貴方がそうしているのは」
「はて、何を仰いますやら」
 紳士はおどけた仕種で帽子を被り直し、仕事机に向かった。
「都合五人の姉妹の製作と目覚めに立ち会って、それぞれに祝福を与えた偉大な長姉。貴女に見ていて頂けるなら、この子も光栄というものです。この子に意識があるのなら、ですが」
「あるわよ。貴方が作り出す人形だもの」
 確信に満ちた声で水銀燈は言った。
「私が偉大ってことはないけどね。工房に入り浸っていたのは、私をもっと見ていて欲しかっただけ。その傾向が強過ぎると思ったから、彼は私に──本来契約者を必要としない私に、最初の契約者を与えた。そんなところなんでしょうよ」
「造物主のお考えは、老兎如きには理解できません。それは当時も今も同じ事です」
 紳士は人形の顔に化粧を始めた。顔を近付けたり離したりしながら、丁寧に色合いを整えていく。
「ただ、造物主や芸術家でなく、一介の、しがない人形職人としての見方で宜しければ」
「お願いするわ」
「自分の娘が、ずっと自分を見続けてくれているのは嬉しいものです。それが疎ましくなることは……中々ありますまい」
 眉毛を描く段になった。紳士は少し緊張しているのか、兎の鼻をひくひくとうごめかせた。
「ですが、貴女にはもっと広い世界を見て貰わなければなりませんでした。お父上は、致し方なく貴女を世に放つことに決めたのでしょう。造物主のお考えは、老兎には理解できないところでは御座いますが」
「……そうね。私にも理解できないわ。理解できないまま、私は終わりを迎えるのでしょうね」
 その方が良いのだろうし、自分が考える必要などない事柄に違いない。そういう切りのない思索を巡らし、大人しい姉妹達を導いて行くのは真紅の仕事なのだから。
 偶々知識を得たお陰で、水銀燈は無駄なことを考える余裕を得た。本来なら、そんなことはまるきり忘れるか単純な父への想いに変えてしまい、目の前の俗事やらゲームに追われながら終焉を迎えたはずなのだ。

「お父上は、貴女に生きて欲しいと願っていらっしゃいますよ」

 紳士はあっさりと言った。ただの気休めとも取れるような言い方だったが、そうでないことは水銀燈にはよく分かっていた。彼は断言調の嘘はついたことがない。
「……それはまた、矛盾した話ね」
「世は並べて矛盾ばかりですぞ、御嬢様。いや、六姉妹の中で最も多くの時代を巡って来た貴女には、釈迦に説法でありましたか」
 言いながらも紳士は手を止めず、面相筆で眉を描いて行く。彼が普段は外したことのない手袋を外してしまっていることに水銀燈は気付いた。
「この人形にも、老兎の矛盾が詰め込まれておるのでありましょうな」
「師の人形を倒してそれを超えたいっていうような?」
 水銀燈はにやりと口の端を持ち上げた。
「アリスゲームが進まないようなら、それも良いかもしれないわね。これ以上人形の数が増えたら、私は頭がどうにかなりそうだけど」
「老兎にそこまでの技術を求められても、到底お応えは致しかねますぞ」
 紳士は人形に向かったまま、首を竦めてみせた。
「この人形も今時の芸術品ではございません。造形は少し今風を気取ってみましたが、中身はマイセンやブリュの陶磁器人形が流行った頃の、手垢の付いた技術のままの人形です」
「そうね」
 水銀燈は人形の顔を見遣った。
 柔らかな表情の少女人形だった。豪華な素材を使っている訳ではないが、丁寧に、あくまで丁寧に作り上げられた、幸せそうな人形だった。
「誰がその人形で遊ぶことになるんでしょうね。壊れるまでよく遊んで貰えそうな人形だわ」
「滅相もない、手慰みです。売れ物にできるほどの品ではございません」
 紳士は背を伸ばし、とんとんと腰の辺りを叩いてみせた。

「お父上は芸術家で、老兎などから見れば紛う方なき天才でいらっしゃいました。
 それは人形作りにおいて然り。当時の写実的な人形と言えば日本の騙し人形などが高名でありますが、お父上はそれを上回る写実性を習作のビスクドールで早くも実現された。人形師として真に尊敬すべき方でした。
 あの方の作り上げるものであれば、独りでに命を持って動き出しても、あの方の思いどおりの少女となって半永久の生を懸命に生き続けても当たり前だと思ったものです。私などは嫉妬も悔しさも何もなく、その才能と努力にただひれ伏すばかりでありました。
 ここに今こうして居るのがその思いの結果なのだと考えますと、何やら感慨深いものがございますな」

 淡々と言いつつ、紳士は道具を綺麗に揃えて置き、ドールから汚れ除けのよだれかけを取って服の乱れを直した。
 暫く考えてから、頭の両側の髪を少し纏めて髪飾りで留める。また少し考えてから、薔薇のコサージュのついた眼帯で左眼を覆った。

「……薔薇水晶ね」
 水銀燈は脚を組替え、片膝を抱くような姿勢になった。
「貴方はご存知だったのかしら、腹黒兎さん。あの男が自分の世界で見ていたアニメのことを」
「いいえ、存じませんが」
 人形の腰まである髪を手で梳きながら、紳士は軽く首を横に振った。
「ただ、偶然の結果とは申しません。薔薇水晶というドールがモティーフであることは間違い御座いません」
「ナナ達に……異世界のドール達には見られないようにすることね。激越な反応を呼び起こすかもしれないから」
 水銀燈は苦笑した。何故彼がわざわざ薔薇水晶のイミテーションを作る気になったのかは分からないが、傍迷惑な事を始めたものだ、と思う。
「何しろ、仇もいい所だもの。彼女が潰し合いのゲームを示嗾して、しかもナナ以外の現在動いている四体は彼女に倒されたわけだから」
「左様ですな」
 紳士は感情の窺えない声音で、頷きもせずに答えた。
 ドールの両脇の下に手を差し入れ、真っ直ぐに立たせる。暫くバランスを取ってやると、紳士が手を離してもドールは真っ直ぐに立つようになった。
「御嬢様方はどうお考えなのでしょうか」
「私の姉妹ということ?」
 紳士は振り返って頷いた。水銀燈は首を竦めた。
「どう考えるも何も、薔薇水晶の外見について知っているのは多分私一人よ。雛苺辺りはナナから聞いて、何をしたかのあらましは聞いているかもしれないけど」
 それでも、外見については全く知らないのだろう。少なくとも真紅はラプラスの魔の作っているドールについて何の興味も、反応も示さなかった。
「他に、おぼろげに知っている可能性があるとすれば蒼星石だけ。今までの感触では、あの子が知っているのは漫画の世界の、しかも自分関係のことだけみたいだけどね」
「なるほど、なるほど」
 紳士は仕事机の椅子を持ち上げ、水銀燈の正面に置いて腰を下ろした。行儀悪く片脚を曲げて膝の上に載せ、そこに片肘を突いて頬に手を遣る。水銀燈と同じような姿勢だった。
「ですが、今申し上げたのは些か別の話でありまして」
 少し困ったように、空いている方の手で帽子を取り、それで胸の辺りをぽんぽんと叩く。
「ゲームを示嗾する者に対して、のつもりで御座いました」

 そっちか、と水銀燈は目を閉じ、息を吸い込んだ。
 結菱老人が笛吹きといい、真紅が常に戦いか諍いの種を運んでくると言った存在。現在唯一、表立ってアリスゲームに邁進している──少なくともそのように周囲から見えているはずの──姉妹。
「私、ということね」
 自分がどう見えているか、全く興味がないわけではない。しかし、それよりはゲームに対して挑戦しているという意識が強かった。
 少なくとも、結菱老人から単純ではあるが鋭い指摘を受けるまでは、そうだった。
 今は──少しばかり、揺らいでいる。それとともに、周囲の思惑そのものだけでなく、周囲が自分に寄せる視線、想いといったものを気にし始めてはいた。

「さあ、まだよく分からないわ。
 結菱老人には人望があるように見えているらしいけど、少なくとも蒼星石には評価をされていても良くは思われていない。話していれば分かるし、結菱老人もそう言っていたわね。
 他の姉妹にしても、似たようなものでしょう。私がアリスゲームに関して正面から向き合っているとは思っているらしいけど、決して良い感情は持てないはず。
 私は長いこと敵役として生きて来たし、今はもっとはっきりと悪役に見えているはずだから」

「さて、果たしてそう言い切れるでありましょうか」
 ラプラスの魔は水銀燈の背後を見るような目になった。ただし、それはそう見えているだけかもしれない。兎の剥製の顔は、視線の行き先も読みづらかった。
「黒薔薇の御嬢様は、ご自分でお考えになっているよりも遥かに多くの物を姉妹に与えておいでですぞ。それを気付かぬほど、貴女の御姉妹は頑なでもなければ愚かでもありません」
 言葉でこのような助言をするのは些か不本意且つ規範にもとる行為かもしれませんが、と前置きをして、紳士は小首を傾げてみせる。

「貴女は姉妹達から戦いを遠ざけ、考える時間を与え、そしてアリスゲームについては反対に強く意識させたのです。その結果……」

 そこからは言われなくても分かる。媒介の知識にあった世界と比較すれば、という但し書きは付くものの、姉妹達はこれまでとはやや違った方向に向かい始めている。
 だが、それは必ずしもアリスゲームに向かう方向ではない。双子の庭師も、そして恐らく雪華綺晶も、アリスゲーム以外の何かを求めてしまっている。
 真紅は何故か自信を喪ったように見えるし、雛苺に至っては異世界のドール達に近づいてしまった。自己を確りと持っている金糸雀だけが、あまり変化がないように思えるだけで──
「──殆ど皆、下らない感情と勝手な目標を持ってしまった。アリスゲームに関係のない方向に」
 水銀燈は長い息をついた。
「お父様はお怒りね、きっと。無駄なことをしているものだわ」
 紳士は笑わなかった。瞬きもせず帽子を片手で振った。
「いいえ、それは些か一面的な物の見方というべきでありましょう」
「アリスゲームのプレイヤーが、ばらばらになって行くゲームの駒を喜ぶものですか。それとも、彼にとってゲームなんてその程度のもの、例えば既に別の方法でアリスを生む準備でも進めているってこと?」
「それは、ある意味で正しいお考えです。しかし、一面的というのはそちらの意味ではございません」
 紳士は帽子を立てた指の上でくるくると回した。
「造物主のお考えは老兎には到底量り知れません。しかし、お父上の、父としての想いはある程度は理解できるのです」
 帽子を頭に被り直し、視線を真っ直ぐに水銀燈の顔に向けた。
「お父上は喜んでおいでですよ。貴女達に長く生きて欲しいとも願っておいでです。そして、それを後押しできないことを些か歯痒く感じてもいらっしゃいます」
 水銀燈は黙って紳士の顔を見詰め返した。考えれば考えるほど、彼の言葉は謎に満ちて行くような気がする。
 ただ、少しばかり何かを理解できたような気はした。
 水銀燈はにやりと不敵な笑みを浮かべた。

「──そうねぇ。やりたいように、やらせて貰うわ。それがお父様の意思ならば」

 特に迷う必要はない。今までどおりやればいいのだ。
 仮に今の話がすべて作り話だとしても、少なくとも目の前の紳士、ゲームの審判役は水銀燈の行動を否定してはいないのだから。



[19752] 110ちょいですがタイムアップ。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/03/04 23:10
大変切りの悪いところですが、あくまで一日分ということで。

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 水銀燈が去ってから暫く、ラプラスの魔は脇目も振らずに人形をあれこれと仕上げていたが、やがて手袋を嵌め直し、独りごとにしてはやや大きな声で言った。
「さて、この世界の薔薇乙女達はいずれも舞台の袖に去りました。可愛いドールを仕上げたところで、老兎も去ると致しましょうか」
 部屋の奥、先程見遣っていた方向に視線を向けながら、ゆっくり立ち上がって帽子を被り直す。ステッキを持ったところで、その視線の先から声が掛った。
「──待って」
 やや冷たい、しかし迷いを含んだような声は、『真紅』のものだった。
「貴方は何故、今の問答をわたし達に見せたの」
 言いながら、彼女は『翠星石』と共に、ラプラスの魔に歩み寄った。ナナは一歩遅れて、おっかなびっくり二体に続いた。


 彼女達がここに立ち寄ったのは偶然と言えば偶然だった。

 あの「分岐の可能性を失った物質世界」の一つで、『真紅』は桜田家に相当する場所の庭で蹲っていた。ネジが切れる寸前だ、というのはすぐに分かった。
 『真紅』の感謝の言葉に小声で返事をするのももどかしく、取るものも取り合えず彼女のネジを巻く。急を要することが終わり、ほっとして何気なくジュンの家の中を見、思わず息を呑んだ。
 そこにはジュンが居た。薄暗い部屋の中、ソファの上に膝を抱えて蹲り、テレビの映像にじっと見入っていた。必ずしも昏い視線とは言えないが、孤独感を滲ませている姿のように見えなくもなかった。
 『真紅』を見る。彼女は落ち着いてジュンの姿を見ていた。
 彼女は先程からそうしていたのだろう。ネジが切れかけ、力が抜けて行くのを感じながら、ジュンをじっと見詰めていたに違いなかった。
 お互いにそのことには触れずに、二体のドールは言葉を交わした。
「……初めてですね、ジュンがいるのは」
「ええ。それも、わたし達の知っているのと似た年頃……」
 今まで二体が巡って来た幾つかの世界には、ジュンはおろか、どのミーディアムも存在していなかった。それは単純に偶然だったのか、何等かの必然なのかは分からない。しかし、ここなら芝崎老人の時計店もあり、『金糸雀』や『水銀燈』のミーディアムも彼女達の元居た世界と同じような場所に住んでいるのではないか、と思えた。
「此処にするのです、『真紅』。此処にしましょう」
 家の中に聞こえないように、囁き声で『翠星石』は『真紅』の裾を引っ張った。
「『翠星石』もこの世界のジュンと契約して、このジュンの引き篭もりも解消してやるですぅ。そしてチビチビと、『蒼星石』も……」
「そうね……」
 『真紅』は斜め下に視線を落とし、溜息をついた。元の世界で水銀燈を一度倒したときから癖になってしまっている、疲れた表情だった。
「でも、ここのジュンはネジを巻くのかしら。一度は『巻かない』を選んでしまっているかもしれないのよ」
「わたし達を直に見れば、考えがまた変わるかもしれないですぅ」
 『翠星石』は少し声のトーンを高くした。
「ミーディアムを持ってしまえば、探索も随分楽になるです。ヒマ面こいてるヒッキー野郎に自分の世界を見せてやることもできるのですぅ。一石二鳥なのですよ」
「……そうね、あなたはこのジュンと契約なさい、『翠星石』」
 薄暗い中で、『真紅』は生真面目な表情で『翠星石』の顔を眺めた。
「ジュンのためにも、あなたのためにもそれが良いのかもしれない」
「『真紅』も一緒ですぅ。い、一緒に契約してぇ、また前みたいにぃ……」
 『翠星石』の声は思わず大きくなってしまっていた。
「わたしは──」

「──誰か居るのか?」
 今のガラス戸を開ける音がして、聞き覚えのある声が響いた。咄嗟に、二体のドールは茂みの中に隠れた。
「気のせいかな……」
 呟きながら、ジュンはサンダルを履いて庭に数歩歩み出した。
「ジュンくん、どうしたのぅ?」
 居間の奥から、柔らかな声が聞こえて来た。それもまた、二体にとって懐かしい声だった。
「なんでもない」
 ジュンはあっさりと踵を返した。素直な仕種だった。
「桑田さんからお電話よぅ。文化祭の衣装の打ち合わせをしたいってぇ……」
「ぅあ、っす、すぐ行く!」
 サンダルをやや乱暴に脱ぎ、しかし一応はそれを揃え、ガラス戸も神経質なほどぴったりと閉めて、ジュンは家の奥に走って行った。庭の方を振り返ることはなかった。
 先程の印象が思い込みによる錯覚だったことを『翠星石』は悟った。テレビの画面の光を受けて、一瞬だけ浮かび上がったジュンの横顔は、先程までとうって変わって生気に満ち溢れていた。

 『翠星石』は茂みの中から抜け出した。
「桑田さん……友達がいるんですね、このジュンには」
 何かが分かってしまった、そんな気がしていた。それはまだ少しジュンのありようを誤解した見方ではあったが、大きく間違ってはいなかったし、彼女に与えた衝撃の大きさという意味では同じようなものだった。
「ヒッキー野郎じゃなかったのですね……」
「文化祭、ということは学校にも行っているようね」
 後ろから声がした。振り返ると、『真紅』はまだ茂みの中にいた。
 言葉の意味する内容とは裏腹に、彼女は決して嬉しくはなさそうだった。目を閉じ、かすかに震えているようにも見える。
 まるで猫を怖がるときのような姿勢だが、『翠星石』は『真紅』の姿を滑稽だとは思えなかった。『真紅』は怖がっているのではない。必死に何かを耐えている。
 『翠星石』には『真紅』が耐えている物が何かということも、その理由についても見当がついていた。とても正視できなくなってそっぽを向き、問わずもがなのことを尋ねてしまう。
「知っていたのですか、『真紅』は」
「いいえ……」
 溜息をついて、『真紅』は少し苦労しながら茂みから姿を現した。
「場所を変えましょう。ここでは落ち着いて話ができないし、『水銀燈』が襲ってきたらこの世界のジュンにも迷惑が掛ってしまうわ」
 あ、と『翠星石』は口に手を当てた。
「それなら、あそこに行くです。前に誰かの夢の中で、あの人達と会ったところですぅ。待たせてるのを忘れてたです」
「待たせている?」
 『真紅』は訝しげに『翠星石』を見た。『翠星石』は頷いて、少しばつの悪そうな顔になった。
「アンタと『水銀燈』が戦いになったって、あの人から聞いたのです。それで、七番目と一緒にこの世界に来たのですよぅ」
「そう……七番目と」
 『真紅』は目を閉じ、なんとも言えない表情になった。『翠星石』は焦ったように言い訳をする。
「あ、あいつ、そんなに悪いヤツじゃあなかったですよ。弱っちくて情けなくて、オトボケですけどぉ──」
「──そうね。行きましょう。またジュンに聞き咎められてしまうわ」
 『真紅』はまるでそれ以上『翠星石』に言葉を続けさせまいとするように言葉を被せ、夜空に飛び立った。
 内心の何処かにちくりと痛みを感じて、『翠星石』はごめんなさいですと呟いてからそれに続く。自分のしたことが『真紅』への裏切りのような気がしていた。
 結果的に『真紅』を救うことになったものの、こちらの世界の薔薇乙女達や、卑怯で臆病、姉妹としての誇りも持っていそうにない七番目と馴れ合ってしまったのは良くない事なのかもしれない。何故かは分からないが、そんな風に思えるのだった。

 ナナは拾い集めた黒い羽根を懐に入れてテラスに戻った。色も形も水銀燈が──そして、名前のない人形も──そこらに散らかしている羽根と見分けがつかないものの、それは間違いなく彼女の姉妹が残していったものだった。
 テラスは相変わらず無人だった。そういう時間帯なのかもしれない。
 一番見通しが良さそうなところに座って、羽根のうち一枚を懐から取り出してくるくると回してみる。水銀燈が物思いに耽っているときによくしている仕種だった。

──わたしは、どっちなんだろう。

 最近、分からなくなることがある。なるべく相手を目上として、この国独特の丁寧な言い方を使うようにして──そうして一線を引いてはいるものの、ナナははっきりとこちらの世界群のドール達の方に親近感を持ちつつある。
 今現在は、取り込んだ『雛苺』の動力源のお陰でどうやら他の姉妹並みの力を持っているものの、元々彼女は不完全もいいところの弱者だった。現実世界に出ることさえも拒否して、ひたすらnのフィールドの中の、それも夢の扉が並んでいる一角に座り込んでいた。
 そんなナナを、姉妹達は各々の言葉で蔑み、罵った。それを不当とは思わない。むしろ当たり前だった。
 ナナは『ローゼンメイデン』としての誇りのない生き方、というより過ごし方をして来たのだから。それに彼女が第七ドールだと正直に名乗り出て……そして恐らく殺されていれば、薔薇水晶との戦いは姉妹たちの勝利で終わっていただろう。脱落者が出ることもなかっただろう。
 いや、薔薇水晶がナナの動力源を得た上で他のドール達と和解をして、姉妹の一員となり得たかもしれない。そんな夢のようなハッピーエンドの可能性さえもゼロとは言えない。
 全てはナナ自身の、死にたくないという臆病が招いたことだった。彼女は七人が揃ったら死ぬものと決められていたのに、それを少しでも先延ばしにしたいという我儘が、姉妹達に不幸を招来したのだ。
 そんなナナを、こちらの世界群の薔薇乙女達は拒まなかった。それは「自分達とは違うから」という前提のある上での優しさだろう、というのは分かっている。
 それでも、ナナは彼女達の生き方に惹かれ、彼女達のようになりたいと思っている。
 ナナが自分のことを最初に打ち明けたのは、水銀燈と蒼星石の契約者だった。それを途中から聞いていた水銀燈と蒼星石にも、それぞれに請われて暫く後にひととおり話を聞かせた。
 蒼星石に話したときは、結局他のドール達も同席することになっていた。それは、彼女達にとってはナナの懺悔話という訳ではなく、どちらかと言えば情報収集の一環だったかもしれない。
 いずれにしても、彼女達はナナの行動を責めなかった。金糸雀に至ってはなるほどと頷き、ある意味でとんでもないことを口にした。
「ずっと逃げ切れて良かったし、貴女は間接的に勝ったと言えるんじゃないかしら。それはつまらないし、これからも辛いかもしれないけど、貴女の立派な戦いかしら」
 立派な戦いですか、と鸚鵡返しに尋ねると、金糸雀はもう一度大きく頷いた。

「貴女は少しでも長く生きようとすることで、自分の運命に抗おう、切り開こうとしたのよ。それは確かに消極的過ぎるかもしれないけど、何等恥じることではないかしら。
 だって、貴女は弱者なんだもの。弱者には、弱者なりのやり方があって然るべきかしら。
 よっく考えてみるかしら。第七ドールです、って馬鹿正直に名乗り出ていたら、多分貴女はもう此処には居れてないのよ。
 バラスなんとかいうドールとニセ『ローゼン』が余程の馬鹿コンビでもなければ、そいつらは名乗り出たところで貴女を真っ先に倒したはずよ。倒して、動力源を奪ってしまえば、後は死人に口無し。どうとでもなるし、今の貴女の説明だと貴女が死んでしまえばどの道事態は動いてしまうかしら。
 そして死んでしまっても、死に損にしかならないのよ。今まで他の姉妹と没交渉で、マスターも持ったことがない貴女は、バトルロイヤルが済んでも誰からも魂を呼び戻して貰えないわ。誰にも惜しまれないで、ただ消えてしまうだけかしら。
 だから貴女がやったことは、立派な戦いなの。生きよう、とするための。何も派手派手な技をぶつけ合う事だけが戦いってわけじゃないかしら」

 金糸雀の長広舌はナナを慮ってくれた極論なのだろう。だが、謀を好む彼女らしいシニカルな見方でもあった。
 彼女達は戦いを拒否してはいない。必要なことだと承知していて、ただ、それだけが全てだとも思っていない。
 戦いの後には死が待っている。だから、死なないために戦いに克つ方法を考え、悔いが残らないように今を精一杯生きる。陳腐な言い方をすれば、そういうことなのかもしれない。
 そこに、ナナは惹かれる。憧れも抱いている。
 彼女達の方法論は恐らく様々で、生き方自体も享楽的であったり、家庭的なものに憧れたりと様々ではあるが、そういったもの全てをナナは持っていなかった。今は──ただの我儘に過ぎないのかもしれないけれども──どうにか自分の目的を見付けて、まずはそこにしがみつくところから始めようと思っている。
 もし、『雛苺』と『蒼星石』の復活が叶った後、まだ自分が存在を許されるのであれば、ナナは究極の存在ではなくて彼女達を目指したい。ダモクレスの剣に怯えながらでも、何か目的を持って生きてみたい。
 翻って、自分自身の姉妹達を見ても、それは何処か遠いところの話に見えてしまう。そこに激しい葛藤や重過ぎる過去、責任などがのしかかっているのも、過去の重さを増してしまったのは自分の責任でもあることも分かってはいるのだが、やはり、何処となく自分とは違うところの話に思えるのだった。
 多分、彼女達は押し並べて強者であり、完璧を目指す者達であり、そして今や『アリスゲーム』すら不要とされている、単一個体で究極を目指せるポテンシャルを持つ者達なのだ。『アリスゲーム』に参加することさえ禁じられていたひ弱な自分とはあまりにも違っている。

──それでも、姉妹なのは変わらない。

 そう思うことにした。少なくとも、自分はこの世界群の生まれではない。『お父様』に作られた、七番目の人形だ。
 どんなに蔑まれ、疎まれ、罵られても、ナナの姉妹は水銀燈や真紅ではなく、『水銀燈』であり『真紅』だった。それが──
「──七番目っ」
 降って来た声に、ナナは持っていた羽根を大切に懐に入れて立ち上がった。『翠星石』が『真紅』を連れて戻って来たのだ。

 二体に少なからずびくびくしながら、ナナは『水銀燈』がここに居たこと、彼女のミーディアムが316号室でなく716号室ではあったけれども、この病院に居たことをたどたどしく説明した。『真紅』は無表情だったが、『翠星石』はまるでその分も表情を付けようとしているかのようにオーバーなリアクションで話を聞いてくれた。
 さっき、扉の廃棄場と言われた場所で思い切り泣いてから、『翠星石』の態度は少し柔らかくなってくれた。いや、nのフィールドへの同行を許してくれた時点でそうだったのかもしれない。
 いずれにしても、『真紅』が見付かってしまえば、ナナはお役御免といったところだった。
 ごく簡単な説明を終えて、ナナは姉──とは認めてくれないけれども──二体の顔を見比べた。彼女達が何処に帰るのかは分からないが、自分は現実世界に帰ることになる。漠然と、これでnのフィールドに出たらお別れなのだろうと思っていた。
 だが、『真紅』の口から出たのは意外な言葉だった。
「もう少し落ち着いて話の出来るところはないかしら。『水銀燈』やミーディアムについて、少し聞きたいことがあるの」
 誰に、とは『真紅』は言わなかったが、その視線はナナに向けられていた。
「それなら……」
 ナナの脳裏に浮かんだのは、一度雛苺に連れて行ってもらったことのある、小さな世界だった。物質世界ではないから時間に制限はあるが、あそこなら落ち着いて話せるような気がする。
 それが愚かな間違いであることは、第32768世界の扉を開けたときに分かった。
 広い石造りの工房の中では白い兎の剥製の顔をした紳士が、今まさに人形を作っていた。




[19752] 230ほどですが2日分です。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/03/06 20:18
110行/日ほどにペースダウンしてます。

蒼星石久々の登場。ただしラスト数十行だけ。

*****************************************************************

「こちらの世界──こちらの第一ドールの造語で申せば、世界群ということになりますか──にいらっしゃった記念に、と申しましょうか」
 紳士は頭に殆ど載せただけの帽子に触れ、小首を傾げてみせた。
「こちらの世界群でアリスゲームを主導しているのは、あのとおり、第一ドールでございます」
「それは聞いて知っているわ」
 『真紅』は明らかに苛立った口調で言った。
「わたしが尋ねたいのは──」
「──弱い、は強い。苛立ちは図星を突かれた証。果断と見える裏には幾つもの葛藤と迷いがございます」
 紳士はからかうような声音で言った。三体のドールが知る、元居た世界のラプラスの魔と似た台詞回しだったが、やや直截な言葉だった。
「彼女はとても弱い存在です。彼女だけではありません。こちらの世界群のローゼンメイデン達は、皆弱く、不完全で、全ての個性を集めなければたった一つの至高の少女を生み出すことすら出来ない、七つに割られた欠片の一つ一つに過ぎません」
 言葉を切り、じっと三人の顔を覗き込むようにする。表情は読めない。小さな兎の鼻だけが、ひくひくと動いていた。
「それでも、彼女達はその弱さを自覚して、それを誇りにさえ思っております。いえいえ赤いお人形さん、決して揶揄してはおりませぬぞ。むしろ逆のことです。そのような誇りは、弱さ故の開き直りと同義に過ぎません。貴女達のような真に強い方々には無用の代物です」
 抗議しようとする『真紅』を、顔の前に人指し指を立てて左右に振って黙らせる。
「ですから、もう幻影を追うのはお止めなさいませ。貴女は貴女の王道をお行きになれば良いのです。ただ、か弱い存在を認める寛容さは持つべきでございましょうな」
「──わたしが狭量に見えるのは分かっているわ」
 『真紅』は強い視線で紳士を見上げた。
「でも、幻影を追うとはどういう意味なの。そこまで欺瞞に満ちているの、こちらの世界は」
「如何にも、如何にも。この世は欺瞞と誤解と思い込みに満ちております。貴女方のいらっしゃった世界のことは存じませんが、さぞかし美しく穢れ無き場所であったことでしょう」
 紳士は何度も頷き、節を付けたような歩き方で三体に近づき、今度は手にした帽子をひょいとナナに被せた。彼女が目のところまで被された帽子に手を遣ったまま、脱ぐのも侭ならずに惨めにうろたえているのを横目で見ながら、『真紅』に向かって辛抱強く言葉を続ける。
「こちらの第一ドールも、ごくつまらない弱き者です。貴女が憧れるような存在ではございません」
「……それだけ言うために、わざわざあれを見せたのですか?」
 『翠星石』は首を傾げ、もがいているナナの帽子を脱がせて紳士に手渡した。ありがとうございます、とナナは頭を下げた。
「回りくどいコトをするヤツですぅ……」
「お分かりになる必要はありませんぞ」
 笑いを含んだ声で紳士はステッキをくるりと回し、重力が半分以下になったような身軽さでひょいひょいと飛び跳ねてみせた。
「全ては老兎の戯れ、謎掛けですらありませぬ。敢えて申せば、真実という眼鏡を外してモノをご覧になることの面白さというものをお知り頂ければ、望外の幸せでありますが」
「色眼鏡を外してこそ、真実は浮かび上がるもの。あなたの言葉は矛盾しているわ」
 『真紅』は紳士から視線を逸らそうとはしなかった。
「あなたがどう言おうと、あの人は尊敬できる人。それを不当に貶める理由が分からない」
「尊敬すべき人物であることを否定は致しませんが……」
 紳士はステッキの先を棚の上に向ける。そこは作りかけのドールが置かれていた場所に相当する辺りだったが、三体は何の反応も示さなかった。紳士は鼻をひくひくとうごめかせ、何を思ったのか一つ二つ頷いてみせた。

「彼女は幻影を身に纏うのを嫌います。生身のままの自分を評価して欲しいと常に考えているのでしょうな。
 ならば彼女のよき友人となるためには、貴女の真実を排除し、冷厳な事実だけを見なければなりますまい。さすれば、貴女が彼女を理解し、そこから何かを得ることも可能となりましょう」

 紳士は手を伸ばし、壁に掛けられていた人形の手のパーツの一つを取った。それをひょいとナナの前に差し出す。ナナは何気なくその手を握手するように握り、軽く上下に振った。
「Tシャツのお嬢さん、いま、貴女が握手したのは何ですかな」
 ナナはびくりとして手を放してしまった。二つ三つ瞬いて目の前の手のパーツを見詰め、それから恐る恐る紳士の兎の剥製の顔を見上げる。
「……人形の、手のパーツです」
「ご名答であります。まさしくそのとおり」
 紳士はナナの頭を一つ撫で、『真紅』に顔を向けた。

「彼女の答え、これが事実というものです。味も素っ気もございません。
 しかしながら手のパーツを持っていたのはこの老兎であります。よって主観的な真実では、Tシャツのお嬢さんは変則的にこの老兎と握手をなさったとも申せます。
 また、より情緒的な視点からは、これからこの手のパーツを使って作られるはずの人形と握手をしたと考えることもできましょう。真実の全ては受け取りよう、解釈の付けようによるもの、ということですな」

 紳士は手のパーツを元に戻し、またくるくるとステッキを回した。
「赤いお人形さん、お分かりになりますかな。貴女が主観的な真実というフィルターを通して、水銀燈という偶像を崇めるのは美しいことです。しかし、貴女がもし頼りになる友人として水銀燈という人物を得たいのであれば、彼女の現実に幻滅する前に、一つ冷静にならねばなりますまい」
 紳士は彼らしからぬ教条的な台詞を滔々と述べた。それから懐から古びた懐中時計を取り出し、おやおや、としょげたように片耳を垂れてまた時計を仕舞い直す。
「つい時間が押してしまいました。そろそろ去らせて頂きましょう。老兎故の長広舌、少しばかり長過ぎたのはご寛恕くださいませ。ご縁がありましたら、またお会いしたいものですな」
「もう二度と出てくんなですぅ。元の世界の兎も訳分かんないヤツでしたけど、お前はもっと変なヤツです」
 『翠星石』はイーッと舌を出してみせた。
「だいたい、よけーなお世話ってヤツですぅ。そもそもぉ、お前はわたし達とはこれっぽっちも関係ないんですから。『真紅』に余計なことを吹き込むヒマがあったら、キラキラとかいうヤツの世話でも焼いてろってんですこのオタンコナス」
「如何にも、如何にも」
 紳士は愛想良くひょいと頷き、仕事机のところまで飛び退くと、自分が仕上げていた人形の脇から古びた人形を一つ取り出した。ぞんざいに見える手つきで埃を払うようにすると、三体の前に戻ってナナの胸元にそれを差し出す。
「Tシャツのお嬢さん、ささやかですがご協力頂いたお礼でございます。兎の作った拙い作でありますが、お気に召したらお受け取りくださいませ」
 ナナはおろおろと人形と紳士を交互に見詰め、『翠星石』は肩を竦めて掌を上に向けた。言っている言葉の内容とは裏腹に、紳士はナナに人形を押し付けていた。
「七番目、そんなモン受け取る必要はないのです。大体、協力ってドールの手ェ握っただけじゃねーですか。怪し過ぎる品物ですぅ」
 『翠星石』は口を尖らせたが、逆にそれで背中を押されたように、ナナは人形を両手で受け取った。全高十二インチほどの、それが作られた当時は何処にでもあったと思しい、優しい表情の玩具の人形だったが、ナナにはそういった知識はなかった。
「ありがとうございます。……大切にします」
「お暇が出来ましたら、遊んでやってくださいませ。壊れるまで遊んで頂ければ老兎としても、その人形としても喜ばしい限りであります」
 慇懃に一礼して、紳士は踵を返して去って行った。彼にしては珍しく、穴を開けずに向こうの奥の扉から世界を出て行った。

「ったぁくぅ、なんなんですぅ? わっけわかんねーヤツですぅ」
 『翠星石』は暫くあれこれと兎の紳士の真似事をしてみせ、ナナはあまり似ていないその仕種にくすくすと笑った。
「その人形見せてみるですぅ。なんか怪しいです」
 ナナは近くの低めの台の上に人形を横たえ、『翠星石』はふんふんと鼻を鳴らしながらそれを眺めた。
「こっちの世界の『お父様』は大した友達を持ってないですねぇ。どこにでもある人形ですぅ」
 そうなんですか、とナナは『翠星石』を見た。『翠星石』はうんうんと頷いた。
「あそこに飾ってある薔薇水晶もどきも、これも、あの兎が言ってたとおりのおもちゃなのですぅ。昔は、こういう人形がおんなじ型でたぁくさん作られていたのですよ」
「そうですか……でも」
 ナナは微笑んで人形を見詰めた。
「おもちゃでも、出来が良くなくても、いっしょうけんめい丁寧に作られてると思います。ローゼンメイデンみたいに、最高の技術を使って作られたんじゃなくて、また別の……多分、遊ぶ人のことを考えて、遊んでいるときの顔を思い浮かべて作られた感じがします」
「おもちゃなんですから当たり前ですぅ。こういうお人形は、愛してもらうんじゃなくて遊んでもらってなんぼのモンなのです」
 そう言いながら『翠星石』はナナを横目で見、台の上の人形を持ち上げてナナに抱かせた。
「おもちゃなんですからぁ、ちゃんと遊んでやるのですよ? アイツが何考えてくれて寄越したんだかわかりませんけどぉ」
「はい」
 ナナはこくりと頷いた。
 『翠星石』は何やら気に食わないと言いたそうに、ただ少しばかり照れたように向こうを向き、そのまま視線を横に移動させた。気の強さを示すように吊り目気味に作られている目尻がやや下がり、眉がかすかに顰められる。
 つられるようにその視線を追ったナナは、嬉しそうな表情を引っ込め、ぎゅっと人形を抱き締めた。

 『真紅』は何も言わず、椅子に腰掛けてじっと目を閉じていた。大きな椅子の真ん中にちんまりと座った彼女は、ひどく小さなものに見えた。
 何を考えているのだろう、とナナは思った。一歩そちらに踏み出しかけたが、『翠星石』の手が肩に掛けられた。振り向くと、『翠星石』は黙って首を横に振り、それからナナの耳元に口を寄せて囁いた。
「あれは、『真紅』が一人で考え込むときのサインみたいなモンなのです。迂闊に声を掛けちゃいけないのです」
「……でも」
「デェモもストライキもないのですぅ! 静かに考えさせてやるのです! さもないとぉ……」
「さ、さもないと?」
「ストレスが溜まりに溜まった『真紅』は目がギィラギラ燃え上がってぇ、そいつを一気にバクハツさせてギャーッと襲い掛かって来るのですぅ! 瞑想を破られた『真紅』は特に恐ろしいのですよぉ」
「はぅ、は、はい……」
 押し殺した剣幕に押されて頷きながら、ナナはつい、真紅と翠星石ならどうなのだろう、と考えてしまっている自分に気がついていた。
 真紅も自分の中で思索を巡らすのは多分『真紅』と同じだ。そして、翠星石が彼女のそうした姿勢を尊重するのも『翠星石』と同じなのだろう。
 だが、あの二人と目の前の自分の姉妹二体には、微妙な違いがあるような気がする。それが何かは具体的には分からないけれども。

──あの兎の頭の男の人は、それを教えようとしてくれたのかもしれない。

 何とはなしに、ラプラスの魔、と呼ぶのは憚られた。元居た世界群のラプラスの魔は、彼女にとってはねぐらに逼塞している自分のところに気紛れに顔を見せては精神的に痛めつけて去って行く存在だった。
 実は殆ど同一人物で、その表と裏の両面を見せられただけなのかもしれない。それでも彼女には、二人は確実に別々の存在に思えてしまっていた。
 この人形にも、何かの暗示が篭められているはずだ。大分、智恵の足りない頭ではあるけれども、ナナはそれを考えてみたいと思う。
「──七番目」
 気が付くと、『翠星石』は仕事机の上に飛び乗り、こちらに手招きをしていた。足音を立てないように注意しながら駆け寄ると、『翠星石』は紳士が仕上げていたドールに触れていた。
「これ、薔薇水晶ってヤツです。知ってますよね」
 はい、とナナは俯いた。
 顔は若干キャストドール調だが、それでも柔らかな表情の古めかしい人形だった。ただ、その衣装も、髪型も、彼女達にとってそれぞれニュアンスは異なるものの、忌まわしいことだけは共通する記憶を呼び起こす存在に似せて作られている。
「こうして見ると、可愛いお人形ですけどぉ……みんな騙されて、酷い目に遭わされたのです。誰も、第七ドールってことを疑いもしませんでした」
 『翠星石』は無自覚だったかもしれないが、その言葉はいつものようにナナの胸を抉る。責めるでもなく淡々と言われると、却ってそれは鈍らな刃が上手く切断できずに何度も肉を抉り回すように彼女を苛んだ。
「みんな、『お父様』に直して貰ってから、漸く本当のことを知ったのです。動かなくなるまで、何も知らないまま踊らされていたのです」
 みんな馬鹿者でした、と『翠星石』が呟いたようにナナには聞こえた。
「今もそうなのかもしれないですぅ。こんな風にほっぽり出されて、辛い目にばかり遭わされて、『お父様』にももう会えないなんて言われて。どっかで誰かがニヤニヤ笑ってるのかも……」
 今にも泣き出しそうな顔だった。目尻には涙が溜まり始めている。

 元々、彼女は泣き虫なのだ。涙を堪えるくらいなら泣いてすっきりした方がいい、と思っているかのように、『翠星石』は泣くことを我慢しなかった。
 逆に絶望の底に叩き落されたとき、彼女は泣かなくなる。常に大きい感情の振幅が一線を超えてしまい、何もないところに行ってしまうのかもしれない。
 今はまだ少しだけ余裕がある。本人も分かっていないが、涙が溢れそうなのは彼女がまだ何処かに希望を持っている証だった。
 ただ、それはナナの知らないことだった。ナナは彼女なりに、『翠星石』をなんとか慰めたくて言葉を探した。

「……艱難、汝を玉にす」
 何処が語源の言葉かも分からない諺をナナは口にした。父親が別れ際に彼女にくれた数少ない警句のようなものだった。
「なんです? その変な言葉」
「いろいろ大変なことがあっても、それを乗り越えて行けば、輝くものになれる……そんな意味みたいです」
 やや主客を転倒した解答ではあったが、そんな風にナナは説明した。
「今が辛くても、それを越えれば何かが待ってるんだと、思います。多分これも……」
 お姉様達、と言ってしまいそうになるのを堪える。特に『真紅』の居る前では、言ってはいけなかった。
 それは真紅が言ったから、というよりはナナなりのけじめのようなものだった。本当の意味で赦して貰えるまでは、自分では姉妹だと思っていても、彼女達を姉と呼んではいけない。
「『アリス』になるための試練、だと……」

「そんなの、なれなくたって別に構やしないのです。
 『翠星石』が大事なのは、『蒼星石』と『真紅』と、それから……ちびちびとチビ人間も入れてやるのです。
 大負けに負けてカナチビとのりも加えてやってもいいです。でも、それだけなのです。
 『お父様』にも会えないって分かってるのに今更、究極のナントカなんて。みんなが居ればどーだっていいのですぅ」

 『翠星石』は言いながら、不器用に机によじ登っているナナに手を貸して引き上げた。ナナは慌ててお礼を言ってから、項垂れて足元を見た。
「そうですね……」
 それでもナナは、『翠星石』に元気になって欲しい。輝けるのなら輝いて欲しい。そう思うのも、『アリスゲーム』を放り出して『雛苺』のミーディアムに夢を見せていたのと同じように、彼女の我儘なのだろうか。
「七番目は、どうなんですか」
 はっとして視線を上げると、『翠星石』は薔薇水晶に似た人形の髪に触れながら、ナナを見詰めていた。
「『アリス』になりたいですか、お前は。究極のナントカになりたいですか?」
 ナナは瞬いた。一度は手の中の、自分の三分の一ほどの背の高さの人形に視線を落としたが、なんとか頑張って顔を上げ、『翠星石』を見詰めた。
 それでもまだ、本心を言うべきなのか、その場逃れの嘘をつくべきなのか、一拍の間迷ってしまう。一つ身震いして、その臆病の虫をどうにか追い払った。
「究極の少女、は、他の皆さんがなるもので。わたしは、『アリスゲーム』の勝者に、『ローザミスティカ』の最後のひと欠片を渡すための、存在だって言われてました。だっ、だから、究極の存在に、なれるとか言われても、実感が湧かなかったですし、多分、なれません」
 緊張したのか、どもり癖が出てしまった。それが少し恥ずかしかった。だが、彼女は言葉を続ける。
「『雛苺』と『蒼星石』の魂を見付けたら、わたしの出来る事は、おしまいだと思います。でも、もしその後も、生きていていいのなら……わ、わたしは、誰かがわたしの『ローザミスティカ』を取り上げるまで、生きてみたいです」
 それは気紛れな姉妹達がいつ気分を変えてナナの動力源を奪うか分からない、不確かな未来だった。それでももし許されるのなら、いつ戦いで命を落とすか分からない上で今という時間を楽しんでいるこちらの世界群の薔薇乙女達のように、精一杯生きてみたいと思う。
「──おんなじじゃあないですか」
 『翠星石』ははあっと溜息をついてみせた。ナナの舌足らずな言葉では、やはり上手く伝わらなかったようだった。
「『蒼星石』とチビチビを見付け出して、楽しく、いつまでも一緒に暮らしたいのは『翠星石』も同じことなのです。誰かの『ローザミスティカ』を奪うのも、誰かが奪われるのを見るのも厭なのです」
 それは『真紅』も同じなのですよ、と『翠星石』は椅子に沈み込んだままの『真紅』の方を向く。『真紅』は相変わらず目を閉じたまま、二体の会話が聞こえているのかさえ定かでない様子でじっと考え込んでいた。
「変な励ましとか、後押しは要らないのですぅ。却って迷惑なのです」
「はい……」
 それは違う、とは言えなかった。

 『翠星石』は、わざと混同した言い方をしているのかもしれない。
 ナナが尋ねたのは、父親が言ったという、『アリスゲーム』以外の方法でも、一人でも究極の少女に成れるという話のことだった。知らないはずはない。当然『真紅』から聞くなり、父親から言われるなりして知っているはずだし、それらしいことも言っていた。
 多分一人でも究極の少女に成り得るという話も、『翠星石』の中では親しく接していた姉妹達と仲良く暮らすことより遥かに優先順位の低い事柄なのだろう。当たり前と言えば当たり前の話だった。
 だが、今は『真紅』の手前、そんな風に言い切るのは憚られている。『真紅』は『アリスゲーム』に拠らず、全ての姉妹が『アリス』に成れることを目指しているのだから。
 ただしその「全て」の中には、多分ナナは入っていない。『真紅』の頭の中にあるのは、あくまで六体のはずだ。
 それはそれで構わないとナナは思う。ただ、今の遣り取りで『翠星石』を慰めることができなかったのが残念だし、見当違いの話を振ってしまったのは恥ずかしかった。

「──ごめんなさい」
 謝罪すればいいというものでないのは分かっていても、ナナは謝るしか出来ることがなかった。
「謝る必要はないですぅ。自分だけが特別なんて思い上がるなってコトです」
 『翠星石』は低い声で、囁くように言った。
「本当に寂しいことや辛いことは、最初から何も持っていない者には分からないのです。与えられて、奪われてから初めて辛くなるんですぅ。まだオメーには分からんこともいっぱいあるんです。賢しらに何か言う前に、それをきっちり覚えとくです」
 ナナは頭の関節がおかしくなったようにがくりと頷いた。『翠星石』の言葉は不思議なほどに悪意はなかったが、それだけに重かった。
 幼く見えても、彼女達は幾つもの時代を巡り、数々の契約者達の手を経て今に至っている。nのフィールドに逼塞して、他人の夢の中で遊んでいただけの自分が意見できるような相手ではなかった。

 こちらの世界群の第七ドール──雪華綺晶──のように姉妹全てをつぶさに観察し、自分で幻を創り上げて行くだけの知識と擬似経験を持っているなら話は別かもしれない。
 彼女は常に詳細に姉妹の動向を観察し、姉妹達の触れ合った人物達から心と経験を吸い上げて来た。逆に六人分の知識と経験を横取りしているとさえ言えるのかもしれない。
 その代償として、彼女には姉妹のような眠りすら許されていなかったという。圧倒的な長い時間を、巨大な自分の城の中で、自分が選んだ人形だけに囲まれながら、ひたすらに時機を窺って過ごして来たのだ。
 同じ七番目のドールで、同じようにnのフィールドに孤独に逼塞していたとはいえ、ナナには想像もつかない存在だった。

 翻ってナナ自身のしてきたことを思えば、それは本当にママゴトの域を出ないものでしかなかった。暖かい人々に出会い、目的を持って行動を始めたことで、そんな惨めな来し方が姉妹達と違うことを忘れて有頂天になってしまっていたのだ。
「『真紅』の前では、もう偉そうなことは言わないですね?」
 『翠星石』はナナの近くに顔を寄せて、更に小さな声になる。はい、とナナが項垂れたまま頭を動かすと、だったら許してやるです、と少し柔らかな声になった。
「『真紅』は、みんなが『アリス』になれると信じているのですぅ。みんなのために、頑張ってるんです。それを邪魔しちゃいけないのです」
 ナナは何も言えなかった。ただ、何処かしら釈然としないものがあるような気がした。


 二体のドールは兎頭の紳士が作ったらしい人形達を鑑賞した。もっとも、喋るのは殆ど『翠星石』の方で、ナナは彼女の解説に感心したり、分からないことを尋ねたりする程度だった。
 『翠星石』は話し上手で、少し誇張する癖はあるようだったが、彼女の好きなように語っている限りは重いあれこれを忘れていられるように見える。話を聞くこと自体よりも、そうして楽しそうにしているのを見ていることがナナの心を暖かくしてくれるような気がした。元ミーディアム達の夢の中に居る時と同じような感覚だった。
 『真紅』は尚も暫く動かなかった。相変わらず二体の会話には関心がないように目を閉じている。『翠星石』の言うとおり、自分の考えを纏めているようだった。
 時間がなくなってしまうのではないか、とナナがそわそわし出したとき、意外な人物が第32768世界の扉を開けた。
「……ここでいいのかな」
 ぼそりと呟く声と共に、兎頭の紳士が開けた方の扉から、小さな姿が現れた。『翠星石』は机を飛び降り、思わず駆け出そうとしてから、小さな姿の正体に気付いてそっぽを向いて俯いた。
「──まさか、当たっていたとは」
 雛苺の勘も捨てたものではないな、とほっと息をつきながら歩いて来たのは、蒼星石だった。
「ナナ、こんにちは。それから──久し振り、ドールズ。ナナのお姉さん達」
 帽子を取って流れるような動作で一礼する。
 ナナはおっかなびっくり机から椅子、椅子から床と下りながら、『翠星石』を見遣った。彼女は蒼星石が礼をしても返事をするでもなく、斜め下に視線を向けたままで立ち尽くしている。
 ナナは思わず『翠星石』の方に歩み寄った。彼女にとっては蒼星石の姿自体がある意味で残酷な光景なのかもしれない。
 『翠星石』とナナの気持ちには気付いていないのか、あるいは分かっていても反応のしようがないのか、蒼星石は数歩歩いたところで立ち止まり、ナナに、翠星石に頼まれて探しに来たのだと笑ってみせた。翠星石は薔薇屋敷にお茶を飲みに来て──というよりは、結菱老人と蒼星石にお菓子のお裾分けに来たようなものだったが──、ナナと『翠星石』が一時間以上も戻らないことを心配していたのだという。
「あまり長くなるときは誰かに連絡を付けた方がいいね。人工精霊を使うことに慣れるといい」
 やんわりと嗜めてみせたものの、蒼星石の言葉には咎めるような響きはなかった。
「はい」
 ナナは素直に返事をした。蒼星石は軽く頷いて返すと、自分の言葉どおりに人工精霊を連絡に放ち、それから周囲を物珍しそうに眺め回す。
「真紅から聞いていて、一度来てみたいと思ってはいたんだ。それで此処から探し始めたんだけど」
 ナナに視線を戻し、それからちらりとそっぽを向いたままの『翠星石』を見遣る。
「落ち着ける場所だね。流石に水銀燈は良いところを知っている」
 昔、彼女が居場所にしていた世界にも少し似ている、と蒼星石は少し遠くを見るような目つきになった。『翠星石』は顔を上げ、初めて蒼星石を見遣った。
「どんな世界なのですか……?」
「ずっと前に僕が案内されたのは、人形工房ではないけれど、此処よりもっと雑然としていて小さな部屋だった。手作業で何かを作っている、何処かの小さな木工所のような処だ」
 蒼星石は『翠星石』に視線を向け、自然な口調で答えた。
「何かを作り出す場所、というのが彼女のイメージには常にあるのだろう。僕達の中で一番長いことお父様との時間を持ったのは彼女だから、何かを作るということに憧れを持っても当然かもしれない」
 蒼星石は柔らかな表情のまま、さらりと言った。
「ジャンクという言葉が出てくるのも、モノを作るときのネガティヴな面だと考えれば当然かな」
 ナナは瞬いて自分の腕の中の可愛い人形を見、顔を上げて蒼星石に視線を戻した。先程兎頭の紳士が言ったことを思い出す。

 水銀燈達の造物主は、素晴らしい芸術家だと彼は言っていた。恐らく繊細な芸術家肌の人だったのだろう。
 工房を営んでいたのだから、当然、ローゼンメイデン以外にも依頼された人形なども作ったに違いない。出来が思うようなものでなければ、そうでなくとも依頼主の要求に合わなければ、容赦なく壊してしまうこともあったろうし、作り損ないは大量に出てしまっただろう。
 水銀燈は、それらを見て育ったのだろう。
 いや、水銀燈だけでなく、彼女の姉妹達全員が多かれ少なかれ見たのではないだろうか。牧歌的な趣味でなく、何か責任を負ってする創作というものの暗い側面を。だからこそ、彼女達は──

「──『水銀燈』とはえらい違いです」
 ぽつりと『翠星石』は言った。明るい声ではなかったが、ナナのような下向きの妄想にまでは至らなかったようだった。
「アイツの世界は、壊れた人形が山ほどあるような所でした」
「それは寂しい世界だね。だが……」
 蒼星石は笑わなかった。かすかに表情を引き締めて、彼女はパーツの並んでいる壁に視線を向けた。
「水銀燈の視点は、モノを生み出す人と同じ高さなんだ。作り出されたモノに対する視線は、必然的に上からのものになってしまう。君の姉妹の──『水銀燈』の視点は逆なのだろう。作り出されたモノの視線で、世界を見ている。だから壊したヒトよりも壊れたモノに拘るのかもしれない……」
 まるで自分の中に考察を定着させていくような調子で、蒼星石は半ば独語するように喋った。それから一つ頭を振り、どうもいけないな、と呟いて照れたように『翠星石』に笑ってみせる。
「今のは僕の妄想だ。忘れてくれていい」
 済まないね、と何気なく肩に置かれた手を、『翠星石』は両手で取った。おや、と訝しげな視線を向ける蒼星石の顔を、彼女と丁度左右対称の、色の違う目が見詰める。
「蒼星石……も、『蒼星石』とは違うのですね」
 蒼星石は一拍の間、瞬きもせずにその視線を受け止めた。それからぎこちなく微笑み、囁くように答えた。

「残念ながら」

 『翠星石』の目に、みるみる涙が溢れる。蒼星石の手を押さえた手から力が抜けて行くのがわかった。
「……っう」
 しゃくり上げ始める『翠星石』の顔に、蒼星石は懐から取り出したハンカチを不器用に押し付けた。暫くどうしようかと迷っていたが、結局自分の双子の姉妹にするようにそのまま抱き締める。
 『翠星石』は素直に蒼星石の腕の中に収まった。翠星石よりは少し華奢な身体だった。
 蒼星石はちらりと『真紅』の座っている方を見遣り、僅かに口許を歪める。『真紅』は瞑想のような思索を止め、椅子から降りてこちらに近付いていた。
 唇に指を当て、何かを言おうとしていたナナを黙らせると、その姿勢のままこちらを向く。蒼星石は小さく頷いて、彼女の方に顔を埋めるようにして涙を流している『翠星石』に視線を戻した。
「君の姉妹が心配する。泣き顔を見せるものじゃないと僕は思う」
 耳元で囁くと、『翠星石』は声を押し殺して泣きながらこくりと頷く。蒼星石は微笑んで、彼女の姉のそれよりは少し硬めの髪を撫でた。
「部外者の僕が言うのでは説得力がないけど、『蒼星石』はきっと取り戻せる。君達が呼ぶ声はこんなに強いのだから、然るべきときに彼女は戻ってくるだろう」
「それは、いつなのですか」
 顔を蒼星石の肩に埋めたまま、か細い声で『翠星石』は尋ねた。
「然るべきときなんて、いつになるか分からないのですぅ。もっとはっきり教えて欲しいのです。そんな気休めだけの言葉なんて、もう聞き飽きました」
「……済まない。予知能力者でない僕には、確約はできない」
 蒼星石は目を閉じた。
「ただ、君の妹の動力源も含めて、近いうちに全ては君達にとって良い方に動くだろう。それまで、もう少し辛抱して欲しい」
「信じてぇ、いいのですね?」
 『翠星石』は顔を上げた。造作は違っているが、べそをかいたときの翠星石と同じようにみっともないほどくしゃくしゃで、必死に涙を堪えている顔だった。
「そんなに長くは待てないのですぅ。近いうちって言ったら、何年も先じゃ詐欺になってしまうのです。真実のワニに手を食べられちゃいますよ」
 何を言っているのか自分でも分からないようにしどろもどろになりながら、『翠星石』は蒼星石に殆ど顔をくっつけるようにして念を押した。蒼星石は苦笑しながら頷いた。

「年が変わる前には、僕達のあれこれにカタがついているはずだ。そのときには、君達は良い方に動いている。必ず」

 いや、カタをつけて前に進まなければならない。安心して来年の春を迎えられるように、その後も年を重ねていけるように。
 信用してやりますから、絶対ですよ、と念を押す『翠星石』に微笑みかけながら、蒼星石は自分の構想を纏め始めている。危険はあるが、やってみる価値はあるように思えてきていた。
 但し、彼女自身が言ったように、予言者ならざる彼女は未来を知らなかった。いつ、誰が号砲を鳴らすのかという重大な事柄について、彼女は大きな誤解をしていた。



[19752] 350行ほど。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/03/06 20:20
足場は固め終えられたと思います。

「光の螺旋律」がない世界なんてちょっと寂しい。

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「忙しい貴女が訪問してくれるなんて思わなかったかしら。お昼はカナが腕を振るっちゃうかしら」
 いつもと違う、大きなスカートの特徴的なドレスを着た金糸雀は浮き浮きした調子でくるりと回ってみせた。
 ドールがぎっしりと並べられた棚を眺めていた蒼星石は苦笑して、それには及ばないよと首を振った。残念、と小首を傾げてみせる金糸雀に、棚の上を指し示す。
「随分詰め込んであるんだね。でも、手入れが行き届いているのは流石、と言うべきなのかな」
「当然かしら。このカナが毎日何時間も掛けてお掃除したりお色直ししているのだから」
 金糸雀はえへんと胸を張った。滅多にない、自分の地味な仕事を自慢できる機会だと思っているのかもしれない。
 他の姉妹の方から金糸雀の家──草笛みつのマンションを訪れるのは珍しいことだった。雛苺が何度か来たことがある程度で、他の姉妹は精々一度か、あるいは全く顔を見せない。金糸雀もみつも、用向きがあれば自分の方から桜田家に出掛ける形になっていた。
 それはある意味で致し方ないことだった。金糸雀の契約者であるみつは、ドール好きが昂じてゆくゆくは自分の店を持ちたいという夢を抱いているほどの人物で、薔薇乙女達に対する可愛がりようも尋常ではない。
 異常なほどのドール好きという点以外は芯の強い、ごく常識的な人物ではあるのだが、翠星石に言わせれば「危険物」だし、真紅も「侮れない敵」と言ったことがあるほどだった。迂闊に顔を合わせてしまったら何をされるか分からないというのが姉妹の共通認識のようなものになっている。その本拠に自分から出掛けるなどもっての外だった。
「それでそれで? お姉ちゃんに何の用事かしら? 相談なら恋の悩みから不動産投資までなんでも乗ってあげちゃうかしら」
 コーヒーとチョコレート系のお茶菓子を勧めながら、現代の一般的なドールサイズというには少し大きい、薔薇乙女に合わせて設えたようなテーブルに差し向かいで座った金糸雀はにこにこと笑った。
「──敵わないな」
 蒼星石はややぎこちない笑いを浮かべながら、それでも遠慮せずに市販の菓子の小袋を摘んだ。
「投資や恋愛の話じゃないけど、君に相談があって来たんだ」
「やっぱり! 大当たりかしら。何でも聞いちゃうし、ビシビシ駄目出ししてドシドシアドバイスするわよ。どーんと相談しちゃいなさい」
 金糸雀は小さな胸を叩いた。ジュンのアドバイスを受けてみつが作ったというアンティーク調のお淑やかなドレスに全く似合っていない、元気そのものの仕種だった。
「それで? 何の相談? お料理のレシピなら翠星石に聞くだろうし、音楽かしら? それともガーデニングのヒント?」
 余程嬉しかったように、テンション上がりまくりといった調子の金糸雀を眺めながら、蒼星石は間を置きたいというように菓子を一つ口に放り込み、それを嚥下してから口を開いた。
「アリスゲームのことなんだ」
 金糸雀のオーバーな動きと口が止まった。だが、笑みはそのままだった。
 やはり、と蒼星石は内心で頷く。わざとテンションを上げて見せていたのだろう。蒼星石が一人でわざわざ訪ねて来て、相談することといったらそれしかないくらいのことは、賢い二番目の姉にはお見通しだったはずだ。
「正確には、僕がどうするかということと、その意図について、君には知っておいて欲しかった。そして、できれば僕の構想が妥当かどうかについて助言も欲しい」
「なるほどね」
 金糸雀の笑いが、面白い、と言いたげなものに変わる。その笑顔のまま金糸雀は少し意地の悪い質問を蒼星石に向けた。
「カナを相談相手に選んでくれたのは光栄だけど、理由は何かしら。カナが貴女の行動を利用しても構わないって意思表示?」
「そう取って貰って構わない」
 蒼星石はコーヒーを啜った。
「君を選んだのは、利用されるリスクは高いけど、一番こういう話が得意そうだからだ。率直に言って、僕はまだ自分の構想について自信が不足している」
「消去法で選択された訳じゃないのは嬉しいかしら」
 ふふっ、と金糸雀は険のない笑顔になる。ただ、その瞳は水銀燈が稀に宿すような獰猛な光をたたえていた。
「いいわ。話を聞きましょう。きっと貴女のお気に召すような提案ができるかしら。よほど突飛な話でなければ」
 蒼星石はカップを口許に持っていったままでも正面から見て分かるほどはっきりと苦笑した。カップを置き、思い出したように帽子を取って胸に抱く。自分を落ち着かせようとするような仕種だった。
「その、かなり突飛な話なんだ。突飛過ぎるからまだ他言は無用にお願いしたい。他の誰にも──翠星石や、僕達お互いのマスターにも」
 それでも相談に乗ってくれるかい、と蒼星石は色の違う瞳で金糸雀の目を見詰めた。金糸雀は視線を外さず、笑みも絶やすことなく、構わないわ、と答えた。


「運命の糸車が回る……か」
 水銀燈は呟いて窓外を見遣った。目に染みるような秋晴れの、高い空だった。
「回り始めるの? 貴女の糸車も」
 点滴が落ちていくのをぼんやり眺めていた柿崎めぐが、空いている方の手で水銀燈のドレスの裾に触れた。水銀燈は肯定も否定もせず、また傷の増えたその手を撫でた。
「やっぱりそうなんだ」
 めぐは妙な節回しを付けて言い、横になったまま水銀燈の手を掴んだ。二の腕、肩、と尺取虫のように触って行き、最後に頬に触れてふにふにと柔らかな感触を楽しんだ。水銀燈は拒まなかった。
 もしかしたら初めてのことかもしれない。喧嘩で掴み合いになったことはあっても、水銀燈はめぐに抱き締めさせたり肌に触らせることはしなかった。めぐも──わざとふざけてみせるとき以外は──特段そういった接触を求めなかった。二人はそういう間柄に過ぎなかった。
 めぐは寝たままで肩を竦めるという器用な真似をやってみせた。
「日中に貴女が来てくれるなんて珍しいから、何かありそうだとは思ってた」
 ここ一両日、水銀燈は黒衣の人形と入れ替わるようにしてめぐを見舞っていた。出会ってから今までなかったことだった。これまでは、宵闇が訪れる頃か、もっと遅くにならないと姿を現さなかったのだ。
「それで? 貴女もさようならなの? 代わりに、今度はどんなエージェントが来るのかな」
 めぐはさばさばした声で尋ねる。

 彼女にとって、水銀燈は二人目だった。一人目は中学生くらいの姿をしているくせに、妙に歳を取っているような印象の「天使の代理人」──水銀燈の媒介だった。そして、水銀燈は「天使の偽物」だ。
 二人から、めぐは様々な下らない話や、どうでもいいような知識を吹き込まれた。水銀燈には、いまやめぐにとって掛け替えのない存在になりつつある名前のない人形──水銀燈に言わせれば「本物の天使」──を紹介されたし、自分の夢の中にも連れて行かれた。
 それらの出来事は、決してめぐの身体を楽にしたり、良い方向に向かわせるようなことはなかった。むしろ、心臓には大きな負担になったかもしれない。媒介には怒って物を投げつけたし、水銀燈とは取っ組み合いの喧嘩までして、傷だらけになった上数日間不整脈が治まらなかったことさえある。
 だが、彼女は彼らと過ごす短い時間を楽しんでいた。二人はそれぞれ違うタイプの人物だったが、どちらもめぐにとっては好きな事を言い合える気楽な友人だった。

「次の人物が楽しみ?」
 水銀燈はにやりとしてみせた。
「悪いけど、暫くはまだ私がお相手よ。ただ少し引継ぎがこじれてるから、いつまでになるかははっきりしないけどね」
「なぁんだ」
 めぐは鼻を鳴らしてみせた。
「新しいエージェントがどんな人か興味あったのに。ねえ、引継ぎ相手のプロフィールとか分からない?」
「さあ、それについては教えられないわね。一応守秘義務ってのもあるから」
「めんどくさいのね」
 めぐは膨れっ面になって手を引っ込め、上を向いた。

 肩を竦めて大袈裟に息をつきながら、めぐは何処まで理解しているのだろう、と水銀燈は思った。
 事実をかなりのところまで知っていて、その上で水銀燈の話に付き合っているのは間違いない。水銀燈は自分達のことについて口が滑ってしまうのを止めようと思わなかったし、媒介もそうだった。
 それでいいのだと思う。彼女は契約者でも、媒介でもないのだから。時間限定の下手な劇に付き合っているだけの観客であり役者なのだ。
 ただ水銀燈としては、できるなら彼女と少しでも長く友人でありたいとは思っているし、今は、自分の方が恐らく先に消えるだろうという自覚もある。
 アリスゲームの局面が動いて自分が消滅したら、めぐは寂しがるだろう。そのことは服に刺さった棘のように時折ちくりと水銀燈の胸を刺す。恋人や契約を交わした間柄でなくても、別れるのは寂しいものなのだ。少なくとも水銀燈自身はそうだった。

「ねぇ、柿崎めぐ」
 今は髪を撫でているめぐの手に自分の手を重ねて、水銀燈はふとあることを思いついた。
「からたちの花、よく歌っていたわね。引継ぎまで時間の余裕がないけど、あのお礼に歌を一つ教えてあげる」
「嬉しいな。どこのインディーズ?」
 めぐはくっくっと笑った。
「あんまり喉が潰れそうなのは勘弁してね。裏声とか無理だし」
「アニメのエンディングソングよ、お生憎様」
 水銀燈はにやりとしてみせた。
「この世界の何処でも放映されてないアニメのエンディング。どう、興味はあるかしら」
 めぐは面白そうな顔になって、教えて、と笑った。
「引継ぎが終わるまでに完璧に覚えてやるわ。そうして、次の人の前でだみ声で歌ってやるの。水銀燈がアニメの歌だってウソついてこんな自作曲歌ってましたーって。いい案でしょ」
「どうしてそう下らないことばかり思いつくんだか。脳内の配置がずれてるんじゃないの?」
 水銀燈はめぐの手を追い遣り、大仰に肩を竦めた。
「ま、いいわ。覚えた後でどんな風に歌ってようが知ったことじゃないもの。こんな曲だし、奇妙に編曲するのも限界があるでしょ、貴女の才能じゃ」
「言ったわね。超アレンジしてやるから覚悟してよ」
 相変わらず横になったままだったが、めぐは不敵に笑ってみせる。水銀燈は手をひらひらと振っただけでめぐの言葉を遣り過ごすと、彼女の枕元に座り直し、細い声で歌い始めた。


── 触れた指先 心灯して ……


「この人形をあの兎がですか……」
 意外ですねぇ、と翠星石はナナが持ってきた人形を遠慮のない視線で眺めた。
「どっちかって言ったら、お茶を置いたら客間まで行って帰ってくる人形とかが好みだと思ってたのに。意外ですね」
「ラプラスは人形職人さんだったの?」
 雛苺は人形そのものより、そちらに興味があるようだった。
「だったら、壊れちゃったお人形とか直して貰えるのよ。便利なの」
「いつ会うか分からん兎にそういうこと期待してるんですかお前は! っていうか、ジュンにお願いすれば一発なのです。ヒッキーの暇潰しにもなって一石二鳥ですよ。通販遊びするよりよっぽど生産的です」
 翠星石は得意気に人差し指を立てて雛苺の目の前で左右に振ってみせたが、雛苺はにっこり笑って逆襲した。
「ジュンは忙しいのよ。昼間はとしょかんにお出掛けしてがっこうに行く準備してるし、その合間に翠星石のこと抱っこしたり、なでなでしたり……わぷ」
 口を手で塞がれる。翠星石は少しばかり焦ったような声で雛苺を叱りつけた。
「余計なことは言うなです。だいたい、抱っことか撫で撫でとか、そんなにいっつもやってないですよ」
「そうかしら。昨日の晩は大分長いこと抱き合っていたようだけれど」
 真紅は何気ない口調で言い、素知らぬ顔でティーカップを口に運んだ。
「仲が良いのは良いけれど、少しは自重して貰わないと見ているこちらが恥ずかしくなってしまうわ」
「ちゅーもしてたのよ、ちゅーって」
 漸く翠星石の手から抜け出した雛苺が、にっと笑ってベッドの上に逃れる。
「きっ、昨日はしてません、抱き合ってたってのも十分くらいです! 全く──」
 思わずそこまで言って、翠星石は音を立てるほど赤くなってしまう。つい自爆してしまったのだ。
「──ゆ、許さんですこのお馬鹿苺!」
 雛苺は歓声を上げて逃げ出す。翠星石は真っ赤になって雛苺を追いかけ回した。

 真紅は澄ました顔で自分のお茶と本を持って部屋の隅、ナナがぼんやりと二人を見守っている隣に移動した。
「全く、騒がしいことこの上ないのだわ」
 そう言いながら紅茶を啜る。注いで頂戴、とティーポットを指しながらカップを自然に出してくるところは、人使いが荒いと翠星石が言うとおりの、如何にも御嬢様的な仕種だった。
 ナナが慣れない手つきでどうにか紅茶を注ぐと、真紅はその所作があまり気に入らなかったのか一頻り紅茶の淹れ方と注ぎ方について講釈を垂れた。ナナは素直にそれを聞き、次の一杯はどうにか文句を垂れられない程度に注ぐことが出来た。
「まあ、やればできるじゃないの。今後は忘れないように」
「はいっ」
 明るい顔になって返事をすると、真紅はふっと微笑んでナナを見返した。しかし、次の瞬間に目の前をどたどたと雛苺と翠星石が駆け抜け、手を放していた本のページがめくれてしまってたちまち不機嫌な表情になる。
「全く……ひとの部屋を何だと思っているのかしら。そのうち物を壊してしまうわ」
 言いながら、もう一度読んでいたところを開き直して栞を挟む。当然ながら此処は真紅の部屋ではなくジュンの勉強部屋なのだが、そこのところは無視しているらしい。
「でも、楽しいですね」
 ティーポットをまだ持ったまま、ナナは自然に笑みが湧いて来るのを感じていた。
 真紅の一見尊大に見える態度も含めて、この部屋のありようは楽しいものに思える。それは何処かに影のようなものを伴ってはいるけれども、だからこそ優しくて暖かいのかもしれない。
 翠星石はこの「今」を守りたい、と言ったという。確かに守る価値のあるものだ。ナナにはそう思えた。
「楽しいことは永遠には続かないものよ」
 真紅は目を閉じ、呟くように言った。教条的な言い回しだったが、それは彼女の体験から来ているのかもしれない。
 普段はあまり思い出すことがないという話だが、彼女達姉妹の来し方は真っ白に消えているわけではない。思い出そうとすれば、思い出せるのだ。今がそうなのだろう、とナナには思えた。
「だからこそ、尊いのだわ」
 そうでしょう、と真紅はナナを見た。ナナは当惑して何度か瞬いた。
「わたしには……よく、分かりません」
 まだ、自分は現実の世界に出てから日が浅い。毎日が新鮮で、楽しいと感じてはいるが、それが失われる時というものについては経験していなかった。
 そんなことをたどたどしく説明すると、真紅は疑問符を浮かべたような表情になった。
「そうかしら。貴女は別の形で、何度も経験してきているでしょう」
 真紅は辛抱強く、ナナに思い出させるように言ったが、ナナにはよく分からなかった。
 自分は何も未だ経験していない、赤ん坊のようなものだ。『水銀燈』にはあからさまな言葉を吐き捨てられたし、『翠星石』や『真紅』にも同じ意味のことを言われた。
 そして、何より自分自身がそれらの罵倒に納得して、謝罪と恥ずかしさという感情しか持てないでいる。
 真紅は少しだけ哀しい表情になり、一拍ほど逡巡するような間を置いてから、まるであの兎頭の紳士が『真紅』に語りかけたときのように、はっきりと、少しゆっくりした口調で言った。

「元マスター……いえ、ミーディアムと言ったわね、その人達を貴女は何人も看取ってきたのだもの」

 その度に貴女は感じたのではなくて? と真紅は問い掛ける。
 ナナは呆然として、それからみっともなく、がくりと音を立てるような勢いで頷いた。
 ぽっかりと、胸の真ん中に穴が開いてしまったような気持ち。自分にはどうすることも、何も出来なかったという無力感。老人達の夢を冒涜しただけではないかという後悔。それでも、また次の機会にはずるずると同じことを繰り返してきた。
「何かを喪失したとき、押し並べてそういう急激な変化が起きる訳ではないけれど」
 真紅はナナの手をそっと掴み、彼女からティーポットを受け取って足元に置いた。
「その、看取った後の気持ち。それが喪失感というものなのだわ。もう貴女はそれを知っているし、乗り越える術も知っている。たった独りで耐えてきたのだから。何度も」
 真紅に手を取られるままに跪き、それからぺたんと座り込みながら、ナナはゆっくりとかぶりを振った。何か言おうとしたのだが、情けないことに言葉にならなかった。
「貴女は、貴女が考えているほど矮小な存在でもないし、幼い存在でもない。もう少し自信を持ちなさい」
 ナナの顔が座った自分の顔と同じ高さになると、真紅は初めて視線をナナの目から逸らし、やや下を向いて目を閉じた。
「力が弱いことは確かにハンデで、辛いことだけれど、それを負い目に感じることはないのよ。……貴女の姉妹達はとても強くて偉大なのでしょうけど、全ての人がそういう存在ではないのだから」
 真紅は一度言葉を切り、目を開けて脇の方を見遣った。すぐにまたナナに視線を戻し、安心させるように微笑みかける。
「弱いからこそ、貴女は弱い者の心が理解できる。人に対して共感できる。それは貴女の『お父様』が望むような究極の少女に成るには不要なことかもしれないけれど、人として在るためには大切なことなのだわ」
 ナナはもう一度、機械人形のように大きく頷いた。ありがとう、と呟いて、真紅の手をそっと放す。
 真紅の言葉は暖かかった。優しかった。それはとても嬉しかった。
 ただ、その言葉の裏側に、ナナはふと、脆くて崩れそうなものを感じてもいた。それが怖くて、ナナは縋り付くようにして真紅の身体を抱き締めた。

 楽しいときはいつまでも続かない。真紅達とナナも、いずれ別れる時は来る。
 ただ、翠星石の言葉ではないが、ナナはそれを少しでも先延ばしにしたかった。納得が行くまで、真紅や翠星石から様々なことを教わっていたかった。
「行っちゃ駄目です」
 自分でも気付かないうちに、ナナはそんなことを呟いていた。何故なのか自分でも分からなかったが、真紅がもうすぐ何処かに行ってしまう。そんな気がしてならなかった。
「みんなを置いて、行かないで下さい。ずっと一緒にいて、なんて言いません。もう少しだけここに居て下さい」
 暫くの間、真紅は驚いたように黙っていたが、暫くしてナナの耳元で囁いた。

「──それは我儘よ、ナナ。
 私達は貴女達とは違うのよ。単独ではアリスになれない、ゲームに縛り付けられている可哀想な不完全なか弱いお人形。
 そしてみんな、それぞれの遣り方でその運命の糸を断ち切ろうと懸命にもがいているわ。この真紅もそう。
 だから、旅立とう、戦おうと決めたときは笑って見送って欲しいの。優しい貴女にはとても辛いかもしれないけれど、受け容れて頂戴」

 ナナはべそをかきながら、はい、と答えた。そう答えるしかなかった。
 真紅は微笑み、いい子ね、と囁いてナナに頬ずりした。彼女にしては珍しい仕種だった。
「貴女は私に似ているわ。貴女の方が自分に正直な分、芯は強いのでしょう。何があっても乗り越えられるわ」
 もう一度、自信を持ちなさい、と真紅は言った。ナナは何も言わずに頷いた。言葉が喉のところに引っ掛って、上手く出てこなかった。


── 刻みゆく針の音 抗えぬ宿命なの? ……


 めぐはどうやらおおまかなところは覚えたらしい。まだ少し調子が外れているところはあるが、それは数日付いていて練習させれば概ね完成するだろう。

 秋の日が落ちるのは早い。
 夕映えが始まる前に、人形が来るのを──めぐの言い方によれば「帰ってくるのを」──待つこともなく、水銀燈は病室を後にした。
 めぐに会った後にしては珍しく、やや湿っぽい気分になっていた。歌い聞かせていた曲の雰囲気を引き摺ってしまっているのかもしれない。
 後何回あの病室に顔を出すことになるのか、とふと考える。
 恐らく、そう多くはないだろう。冬が来る前に、アリスゲームは終わってしまう。そんな気がしている。
 真紅に雪華綺晶のねぐらを教えたことで、自分は眠っていたエンジンのイナーシャを回してしまった。媒介の好みそうな言い方をすればキックペダルを踏み込んだのだし、少年ならばリコイルを引いたと表現するだろう。
 いずれにしても、キルスイッチを押すまではもう止まらない。あるいは、燃料が切れるか、ピストンが焼きつくまで。
 運転の停止を判断するのは自分達ではない。その後、目的を終えた機械をどうするのかも分からない。できることは、精々燃料切れや故障を起こさないように、兎にも角にも最後まで動かしつづけることだ。
「アリスゲームが終わっても、そこでは終わらない、か。無責任な台詞」
 鳶のようにゆっくりと滑空しながら、ぽつりと呟いてみる。希望に満ちている訳ではないが、楽天的な、悪い言葉を使えば能天気な明るさを持った言葉だ。
 あの日、媒介が言ったのは夢の中の出来事だったのか、それとも現実なのか。現実だとして、少年が上手く話を合わせて出任せを言ったのか、媒介が何等かの形で水銀燈に伝えたメッセージだったのか。
 分からない。ただ、言葉どおりとは行かないまでも、何割かは信じても良いような気はしている。
「でもそれを検証するには、ゲームに勝ち残らなくちゃ意味がない。少なくとも、最後の局面までは立っていなければ──」
 視界の隅を何かが横切ったような気がして、水銀燈は独り言を中途で切って大きく旋回した。
 白と黒のツートーン。いや、黒ではない。濃紺のドレスだ。そこに白いフリルと髪。見慣れているはずの、しかし微妙に違和感のある姿。

「──『水銀燈』、か。本物の」

 その呟きに反応したように、まるで重力を無視したような、あるいは見えない天井からワイヤを繰り出していきなり止めたような動きで、それは目の前に下りて来た。
「うっふ、おお当たり」
 『水銀燈』はにいっと笑った。やはり、聞こえていたらしい。
「じぃぶんのミーディアム以外にまで手を伸ばすなんて、ずぅいぶんと余裕のあることねぇ」
「貴女より少し社交的に振舞ってるだけよ。そのお陰で忙しく働かされてるけどね。全く、友人なんて持つものじゃないったら」
 肩を竦め、大仰に息をついてみせると、『水銀燈』は笑顔を凍りつかせた。何か気に入らないことに触れてしまったらしいが、水銀燈は謝罪するつもりはなかった。
「貴女の妹さんの話だと、貴女達はばらばらの世界に向かったってことだったけど。わざわざ挨拶にでもいらしたのかしら、ここまで」
「何処に居ようと、わたしの勝手でしょぉ」
 ぎろり、と睨みつけてくる視線は、人形のそれと全く同じだった。
「そんなことはどうでもいいの。わたしの偽物は何処にいるの? 教えなさい」
 それか、と水銀燈は息をついた。偽物が居ると知って、気に食わないから──そして、『蒼星石』の動力源を持っているから、という名分も立つ──倒そうというのか。
 自分の力に自信があるのか、単に無策なのか。どちらにしても人形と、それに繋がると思っているのか、こちらにまで敵意を剥き出しにしていることだけははっきりしている。
 勘弁して欲しいと言いたいところだった。どちらかと言えば水銀燈はあの人形にも敵対心を持たれている方なのだ。
「教えても良いけど、その前に一つ質問があるわ」
 水銀燈は腕を組み、顎に手を当てた。すっと高度が下がってしまうのを、羽ばたいて取り戻す。
「貴女にその情報を教えたのは誰? それによっては、追加で幾つか情報を提供してもいいわよ」
 数秒間置いて、『水銀燈』はフンと鼻を鳴らした。
「取引をしてるつもり? 何なら、こっちはあなたを締め上げて吐かせてもいいのよぉ?」
「そう。じゃ、お好きになさいな」
 水銀燈はひらひらと手を振った。答えはもう必要ないようなものだった。今の反応で情報源が何処か大体理解できる。

 少なくともあの人形師ではない。恐らく『真紅』でもないだろう。信用の置けない、あまり明かしたくもない情報元から得た不確かな情報を、水銀燈に尋ねる──というよりは、恫喝する──ことで裏を取ろうとしているのだ。

──こういう傀儡を操ることが得意なのは、末妹ね。

 あの白い隻眼鬼、と媒介の呼んでいた言い方の一つを真似てみる。何を企んでいるのかは特定できないが、やっと動き出したか、というのが正直な感想だった。
 雪華綺晶は、水銀燈が真紅に彼女のねぐらを教えたことを知って行動を始めたのか。いや、雪華綺晶の行動開始の方が早かったはずだ。
 いずれにしても、本格的に手を携えることになれば厄介なコンビではあるが、安易に手を携えるほど相手を信用できそうにない者同士でもあった。

 考えていたのは僅かな時間だった。『水銀燈』が少しばかり遠のいているのは、水銀燈が滑空しているからだ。
 それにしても、今の自分の言葉や態度は、さながら真紅のようだった。なるほど、彼女の超然とした態度は、こうした弱者の開き直りのようなものだったのかもしれない。
「貴女の手に掛れば私達なんて、まさに子供に壊されるお人形みたいなもの」
 不快そうな顔に、まるで真紅がするように不敵な笑みを投げかけてやる。ただ、水銀燈本人は気付いていなかったが、その瞳には獰猛な色が宿っていた。
「ただ生憎と、締め上げられても素直に喋るとは限らないけどね。私が苦し紛れに適当な情報を渡したとしても、貴女はそれを見破れないでしょうに。それに、契約者──ミーディアムが居ない状態で、無駄な力は消費したくないんじゃない? 取引だと考えるなら、悪い取引じゃないわよ」
 チッ、と舌打ちをして、『水銀燈』はそっぽを向いた。その仕種は妥協して情報を交換するつもりがあるようにも見えたが、一拍ほど置いてそのまま身を翻してしまった。
 相変わらず重力も慣性も無視したような動きだった。もっとも、水銀燈自身にしてもこうして飛べているのは明らかに何かがおかしいのだから、似たようなものではある。
 ただ実態はといえば、水銀燈はゆるやかに滑空しながら次第に高度を下げ、羽ばたいて高度を取り戻すということを繰り返している。飛ぶこと自体は嫌いではないが、現実世界での飛行は決して安易なものではなかった。
 あの人形にしろ、目の前のドールにしろ、その点についてやや羨望をもって眺めてしまうのを水銀燈は隠そうとは思わない。自在に飛ぶというのは目の前のドールのようなことを指して言うのだろう。
「あら、尋ねておいてつれないわねぇ」
「痛めつけてもまだ嘘をつくようなヤツが、最初から本当のことを言うわけなぁいものねぇ。今日のところは見逃してあげるわ。ばぁいばぁぃ」
 ばさりという翼の音も立てずに、弾丸のように瞬時に加速して『水銀燈』は去って行った。それが病院の方向なのは、捻くれた態度の割に素直な面があることの証だろう。
 こちらの世界群で彼女の位置にある者──雪華綺晶──も、ああいう素直な一面を持っていてくれれば対処が楽なのだが、それは望むべくもない。『水銀燈』と雪華綺晶では知識量と起きて過ごして来た時間に差があり過ぎる。捻じ曲がるには十二分な、孤独な時間を末妹は持ってしまった。
 手近な建物の屋根に座りながら、肩を竦めて首を振る。そんなことを考えたところで仕方がない。
 もう殆ど分からなくなっている『水銀燈』の後姿を辛うじて確認しながら、水銀燈はふと思い出してくすりと笑った。
「716だってこと、知ってるんでしょうね? ……まあ、いいけど」
 めぐの病室には、何かアクシデントがなければ今頃はあの人形が訪れているはずだ。病室の前で鉢合わせして剣突するよりは、少しくらい探させて時間差を作った方がよかろう。


── 瞳に映る 銀の月影 ……


「今日はからたちの歌じゃないのね」
「ええ。こう見えても猛練習中なのよ」
 めぐは横になったまま、目だけ動かして人形の方を眺めた。
「歌うのって、口ずさむのと違って結構体力消耗するのね。初めて知った気がするわ」
「……寿命が縮むような真似をして、わたしを困らせるつもり?」
 そうは言うものの、人形は柔らかい表情になっていた。めぐの視線が自分に向くまでは、厳しい顔をしていたのだが。

  ──雪華綺晶の居場所が分かったわ。

 今朝、真紅は淡々と人形に告げた。
 誰から聞き出した情報なのか、人形にはすぐに分かった。最初から訊いていれば探索など必要なかったのだが、何故か真紅を責める気にはなれなかった。
 不承不承ではあったものの、何度か真紅と一緒に探し物をして、人形は様々なことを学んだ。真紅の説明は大抵くどくどしく、それは人形にとって煩わしいものでもあったが、不思議と真紅の隣に居るのは厭ではなかった。
 真紅は実は知識を蓄えることよりも物を教えることが好きなのではないか、と人形は思う。技術はまるで足りていないが、何かを伝えたいという気持ちはその分強いように思えた。
 だからどうなのか、というところまでは人形は考えない。それが彼女に与えられた性格付けの限界だった。
 決めていることは、明日、真紅と自分だけでそこに向かうこと。そして、居場所を先に知った真紅の権利として、真紅の用事を先に済ませることだった。
 それには異論はない。どんな用向きなのかは知らないが、真紅が居たとしても人形のしたいことの妨げになることはなかった。
 真紅の力はごく弱い。止め立てをしようにも限界があるだろう。なんとなれば、真紅を拘束してしまえば良いだけの話だった。

「そうだったね、貴女が契約を結べるようになったら、私の命を持っていって貰うんだったっけ」
 めぐは天井を向いてぽつりと言った。
「それまでは、勝手に死ねないんだものね……」
「自分で言い出したくせにもう忘れたの? 呆れるわ」
 そう言いつつ、人形はめぐの点滴を見上げる。いつもと量が違っているような気がした。


── 傷付けた枝の先 朽ちてゆく宿命なの? ……


 めぐはそこまでで何故か歌うのをやめ、薄暗くなって行く中、暫く無言で人形の髪を撫でるでもなく触れ続けた。
「──貴女は先に消えないでね」
 ぽつりとめぐが言ったのは、空の色が青から黒に変わって行く頃だった。
「水銀燈は近々異動だって言ってた。前のひとも唐突に変わっちゃったし、時期とか関係ないのねあの人達は」
 本当にそんな風に理解しているのか、言われたとおりに考えることで自分を納得させているのかは分からないが、めぐはそんな言い方をした。
「あの子が居なくなるのは寂しいけど、いつか良い思い出に変えて行ける。ううん、私は不人情だからきっとすぐに忘れて、もし新しい人が来るようになればすぐにその人と仲良くなるわ。水銀燈のときみたいに。……でも」
 めぐは逆光になってよく見えない人形に両手を伸ばした。人形が身体を屈めると、その両肩を軽く掴んで引き寄せる。

「貴女は行かないでね。貴女は天使なんだもの。ずっと此処に居て、いつか私の命を吸い取って、天国でも地獄でもいいから、此処じゃない何処かに連れて行って。お願いよ、必ず」

 人形は何も答えず、肯定も否定もせずに彼女にされるままになっていた。
 違う。貴女の本当の願いは死ぬことではない。生きたいのでしょう、生きて、沢山の人たちと触れ合いたいのでしょう、と言いたかった。
 以前、めぐは夢の中で、大勢の見舞い客に囲まれて穏やかに笑っていた。その光景をどうしても思い出してしまう。
 しかし、人形は──自分でも気付いていないほど──臆病で、弱気だった。めぐが傍に居てくれと言うなら、表面的な孤独の紛らわしの相手であったとしてもずっと傍に居たかったし、めぐがもっと強い調子で殺してくれと願うなら、本当に殺してしまうかもしれない。
 だが、今日もめぐは至近距離からじっと人形の顔を見詰めるだけで、やがてすっと彼女を引き寄せると、後はそれ以上の強い動作も減らず口を叩くこともしなかった。
 暫くそのままの姿勢でいたが、めぐは大きく息をつくと、人形を胸に抱き直してか細い声で歌い始めた。自分でも言っていたように消耗するのに懲りたのか、歌うというよりは口ずさんでみるような調子だった。
 いつもと違っていたのは、歌の文句くらいだった。からたちの花ではなく、水銀燈が先程大急ぎで教え、彼女に異動が掛る前にマスターするとめぐが見得を切ってみせた歌だった。
 もちろん、人形はその歌を知らない。この世界群で知っているのは、めぐに歌を教えた水銀燈以外に誰も居ない。
 教えた水銀燈にはそこまでの意図はなかったが、それは人形を含んだ七体のドールへの挽歌のようなものでもあった。


── 安らかな旋律 如何か永久に ……


 少し離れたベランダの隅で、黒衣のドールが蹲り、一心にめぐのか細い声を聴いていた。やがて声がまた途絶えると、彼女は立ち上がり、弾かれたようにその場を飛び出して虚空に消えて行った。
 後には数枚の黒い羽根が残されているだけだった。


「只今戻りました」
 蒼星石が頭を下げたとき、結菱老人は丁度来客と話しているところだった。蒼星石は一瞬対応に困った。一般の人に姿を見られるのは問題がある。老人は一人暮らしということになっているのだから。
 幸い、客は向こうを向いている。蒼星石は急いで帽子を脱ぎ、俯いて目を細めた。
 彼女は伏目がちにしていれば親戚の子供ということにして誤魔化せないこともない。少々着ているものが派手ではあるが、良家の子供がめかしこんでいると強弁できなくもなかった。
「あら、蒼星石ちゃん」
 聞き覚えのある、弾んだ声がした。顔を上げると、客は振り向いて満面の笑顔を彼女に向けていた。
「いらっしゃいませ、金糸雀のマスター」
 蒼星石は改めて礼をしながら、内心複雑な思いになってしまっていた。草笛みつは薔薇乙女のことを知らない人物よりも、ある意味で性質が悪い客だったが、それは置いておくとしても、金糸雀と秘密の会合を持った直後にそのマスターと顔を合わせるのは少しばかり気まずかった。
 しかし、みつはいつものように暴走することもなくあっさりと前を向き、結菱老人に頭を下げた。
「それじゃ、これで失礼します。うちの子達も、カナだけじゃ寂しがっているでしょうし」
 ドールのことを子供達と表現して、みつは立ち上がった。寂しがるも何も棚にぎゅう詰状態で、金糸雀の言葉を信じるなら定期的にそれを整理しているのも彼女らしいのだが、蒼星石はそのことは胸の内だけに留めておくことにした。要するに、彼女が訳知った人の家を辞去するときの決まり文句のようなものなのだろう。
 老人は僅かに車椅子を引いて、如何にも首だけという礼をした。
「引き留めて申し訳なかった。丸一日老人の戯言に付き合ってくれて感謝の言葉もないよ」
「いいえー、面白いお話でつい時間を過ごしてしまいました」
 みつはにこやかに頭を下げる。桜田家で見たのとはまた違う、大人の顔だった。
「すぐという訳には行きませんが、年度末を目処に検討させていただきます。結菱さんが宜しければ、ですけど」
「やはりそうなるかね」
 老人は苦笑した。
「貴女が忘れないという自信があるなら、私としては構わないが」
「忘れません、絶対に」
 みつはきっぱりとした口調で答えた。それから少し柔らかい声になって、微笑を浮かべる。
「こんな良いお話、忘れられる訳がありませんから」
 なるほど、と老人は笑った。みつが実際には何を言いたいのか、よく理解している笑顔だった。

 老人からは送って行けとは命じられなかったが、蒼星石はみつと玄関まで同道した。部屋を出たところで、みつは慣れた手つきで彼女を抱き上げたが、頬を摺り寄せたり写真を撮りたがることはなかった。
 代わりに、という訳ではないだろうが、みつはぽつりと言った。
「蒼ちゃんのマスターは怖い人ね」
 蒼星石は瞬いてみつの顔を見上げた。みつは笑っていたが、眼鏡の奥の目は常になく生真面目な色を宿しているように見えた。
「なんていうのかな、とってもダークな部分を持ってる。そこがとても魅力的だけど」
 蒼星石はどう答えればいいのか分からずに、みつの顔を見詰めた。みつはぶるっと震えてから言葉を続けた。
「もう五十歳若かったら、みっちゃん惚れちゃってたかも」
 流石に苦笑するしかなかった。それだとみつ自身より若くなってしまうのではないか、というのは野暮な突っ込みだろう。
 もっとも、みつが言ったことはある意味で真実を言い当ててもいた。老人の肉体は兎も角、その心はほぼ五十年間止まってしまっている。今後、老人が普通の意味で社会復帰することはないだろうから、彼は永遠に青年のまま、と言うこともできる。
「でも、やっぱり怖いかな。なかなか言えないわよー、初対面の人に。このお屋敷の全部を任せるから、碌に知らない子二人の面倒を看て、儲かるかも分からないドール専門店開けなんてね」
 やはりその話か、と蒼星石は目を伏せた。

 老人も遂に自分の構想に向けて動き始めたのだ。それが蒼星石の初動と重なったのは偶然ではないのだろう。二人は誰よりも──蒼星石にとって、翠星石や少年よりも──近い、互いに心を影響されあうほど緊密な存在なのだから。
 老人は何か、何でもいいから兎に角薔薇乙女絡みのことで何か後に残るような痕跡をこの世界に残したがっている。それは薔薇乙女達が消滅し、誰の記憶からもなくなってしまっても何等かの形が残るものでなければならない。
 マスター達を一所に集め、各自の趣味や才能を活かせる場を作るというのが、老人なりの結論だった。
 彼にはそれを十分可能にするだけの財産と、有り余る場所がある。必要なら大昔の取引先に連絡を取り、輸出入関連のあれこれの口利きもできるだろう。問題は、マスター達の意向だった。

「草笛さんの、お気持ちは……?」
 躊躇しながら尋ねると、みつは首を竦めた。
「幾らダンディでお金持ちでも、流石に財産目当てで五十歳違うおじいちゃんと恋愛する気分にはなれないなー。相続税で結構取られちゃうみたいだし」
「いや、そういう話じゃ……」
「そうね、分かってる分かってる」
 みつは蒼星石を抱いたまま、ゆさゆさと揺すった。決して丁寧な動作ではないのだが、何故か安心できてしまう。金糸雀がみつに辟易しているにも関わらずべったり甘えている理由が分かるような気がした。
「みっちゃんはね、カナと同じよ。チャンスは逃がさないわ。プライドと将来性天秤にかけたら、絶対将来性を取っちゃう」
 でもね、ともう一度蒼星石を揺する。彼女は知らなかったし、みつも気付いてはいないが、それは母親が小さな子供をあやすときにする仕種によく似ていた。
「栃沢君は多分……蒼ちゃんが居ればホイホイ下宿してくれるだろうけど」
 そこまで知られているのか、と蒼星石は赤くなった。みつはふふっと笑って彼女の頬をぷにぷにと突付き、それから屈んで彼女を下ろした。二人は何時の間にか玄関に着いていた。
 みつは腕を組んで斜め上を向く。
「問題はジュンジュンね。あの子は手強いわー。今のところみっちゃん最大の敵かもね」
 趣味も被ってるし、スキルも高いし、おまけにイケメンに育つ可能性大なんだけど、どうにもやる気がないのよね、とみつは大仰に溜息をついた。
「多分、あの子は自分の才能なんてどうでも良いのね」
「そう思います」
 蒼星石は頷いた。
 確か、聞いた話ではジュンが最初に依頼されて作ったドレスはドール関係の即売会で最高に近い評価を得たという話だし、インターネットの競売にかけたドレスは十五万円近い値段がついたという。それでも、ジュンは本格的にそちらを生業にしたり、ドレス作りで一儲けするという気分にはなれないらしい。
 みつは自分達のようにジュンの過去を見てしまった訳ではないが、何度か彼にドレスの製作を依頼して、その反応を一番近い位置で感じているはずだ。
「恵まれてるから、分からないんでしょうね」
 みつはひどく不人情なことを口にした。水銀燈ですらばっさりと切り捨てられそうにない言葉を、あっさりと放り出した。
「彼くらい才能と収入の余裕があれば、儲からなくても自分の才能を伸ばせるし、職人やっても暮らして行けると思うんだけどね。学校行く方が優先なのよね、彼の中では。ま、彼はそれでも世の中渡って行けちゃうんだろうけど」
 みつの言葉には微かな苛立ちが含まれている。彼女のような立場から見れば、ジュンのような才能を埋もらせていくのは勿体無いというよりもどかしく、歯痒いのだろう。
 才能があれば学校での勉強などどうでもいいと考えているのかもしれない。それは多分高学歴で、既に社会に出て自立していて、しかもジュンのような才能を持っていない彼女としては当然の視点だった。
 ただ、みつがそんな素振りを見せたのはごく短い間だった。彼女はすぐに不敵な笑みを浮かべ、見上げている蒼星石をまたひょいと抱き上げる。少年がよくするような、両脇の下に手を入れて自分と同じ高さにドールの目を持ってくる抱き上げ方だった。

「まだまだこの程度じゃめげないから、みっちゃんは。貴女と栃沢君のラブのためにも頑張っちゃうわよ」

 彼女のウィンクはあまり艶っぽくはなかったが、蒼星石は別の意味で赤面し、何も言えなくなってただ頷いた。
 恥ずかしくはあったが、同時に安心してもいる。自分が思うところを勝手にやってみせても、この大人のマスター二人は決して揺るがない。
 後は、自分の構想の細部を固めるだけだ。



[19752] 280ほど。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/03/14 22:09
陰険おじじの本気。

******************************

 雛苺の朝はあまり早いとは言えない。しかし、のりの登校時間に合わせて朝食を用意し、それを全員揃って食べるという桜田家の習慣の手前、遅いという訳でもなかった。
 だから、その日少しだけ早く──翠星石に起こされない内に──目覚めて鞄を開けたとき、ジュンがまだベッドの中で静かな寝息を立てていることにも、他の鞄が開いていないことにもこれといった感想はなかった。
 異変に気が付いたのは、立ち上がった時だった。具体的にどう、とは言えないのだが、何処か力が入っているようで入らないような、何か頼りないような感覚を覚えた。
 おかしいな、と鞄から踏み出す。特にこれといった問題はなく身体は動く。ただ、頼りないような、何かが切れてしまっているような感覚はなくならなかった。
 訝しく思いながら、まだ眠っているジュンの顔を見遣る。確かにそこにあるのに、何故かいつもより遠くに感じた。
 次の瞬間、冷たいものが彼女の身体の中を駆け抜けたような気がした。

──まさか。

 慌てて、真紅の鞄を見遣る。昨夜閉じたままの位置にそれはあった。しかし、何かが足りない。
 鞄に駆け寄り、普段なら決してしないことをする。後で無作法だと詰られたり怒られるかもしれないが、やらなければならなかった。
 かちり、と僅かな音を立てて鞄は開いた。

 真紅は居なかった。小さな薇も、彼女本人も何処かに居なくなっていた。

「ジュン、ジュン! 大変なの、真紅が、真紅がっ」
 雛苺は半狂乱になってジュンのベッドに飛び乗り、その頬をぺちぺちと叩いた。煩いなぁ、と暢気な声を出して起き上がったジュンは、機械的な仕種で枕許の眼鏡を掛け、泣き喚いている雛苺越しに真紅の鞄を見遣って呆然とした。
 右手で雛苺を抱えながら、細かく震える左手を目の前にかざす。その薬指の指輪は、一回り小さくなってしまっていた。


 蒼星石のところに最初にその情報が舞い込んだとき、彼女は丁度結菱老人の寝室に入り、彼を起こしているところだった。
 彼女は小さなメッセンジャーにありがとうと礼を言い、力を足して姿見の中に帰してやった。
「始まったのかね」
 結菱老人は上半身を起こして尋ねた。蒼星石は軽く首を振った。
「まだ、確実なことは言えません。ただ、真紅がどういうつもりでも、雪華綺晶の処に向かったのであれば、雪華綺晶は真紅そのものを得られる機会を逃さないと思います。それに──」
 僕の得ている僅かな知識のとおりであれば、と前置きしながら、蒼星石は老人に手を貸した。
「幻影のままの雪華綺晶が求めているのは糧であり、マスター達そのものでした。最悪の場合、真紅はボディを奪われるだけでなく、真紅のマスターや翠星石達を誘き出す餌に使われるかもしれません」
「幻影が実体を持つチャンスでもある、か」
 老人は少し苦労しながら車椅子に身体を移した。
「そうなった場合、ローザミスティカもまた一つ、宙に浮くことになる、か。そのドールが何を求めているかは兎も角として、首尾よく真紅を確保できれば一石二鳥という訳だな」
「そうです。……それは、簡単に実現してしまうかもしれません」
 蒼星石は頷き、眉根を寄せた。
「真紅も雪華綺晶の糧のことについては水銀燈から説明を受けて知っています。だから、彼女はもしかしたら契約を解いているかもしれません。自分のマスターを狙わせないために」
「だとすれば彼女にとっては尚更不利な話だな。何を考えているのか……」
 老人は額をとんとんと指で叩く。
「私の持っている限りの情報で考える分には自殺志願者にしか思えないが、何か裏があるのだろうな。彼女なりの成算か、方策のようなものが」
「真紅は、彼の夢の中にいた──雪華綺晶が作ったという──人形と同行しています。雪華綺晶と互角か、即物的な力では上回っているのは事実です。それを恃んで交渉しようと考えているのかもしれません」
 言いながら、蒼星石は老人を見上げた。

「ただ、僕には無事に済むとは思えません。許可を戴けるなら、成り行きを見届けに行きたいと思います」

 ふむ、と老人は素知らぬ風情で蒼星石を眺め、そっと手を伸ばした。蒼星石がその手を取ると、勢いをつけて車椅子の膝の上に彼女を引き上げた。
 両手で彼女の頬を挟み、間近に引き寄せてまじまじと見詰める。蒼星石も色の違う瞳でその目を見返した。迷いのない、強い光が宿っていた。
 老人はにやりと人の悪い笑みを浮かべると、彼らしからぬ──いや、ある意味で非常に彼らしい、強引な仕種で蒼星石を抱き締め、何事かと驚いて見上げる彼女の唇に、やにわに唇を重ねた。
 蒼星石は突然のことに大きく目を見開き、数回瞬いたが、やがて表情を弛緩させて目を閉じた。

──マスター。

 ごめんなさい、という気持ちは、彼に伝わっただろうか。何故ごめんなさいなのか、何について謝罪したかったのか、蒼星石自身にもわからない。分からないもの全てをひと括りにして、その思いに託したかったのかもしれない。
 ただ、言葉でなく、そう強く心の中で思うことで、彼に伝わって欲しかった。

 随分長いことそうしていたようにも思えたが、二人が唇を重ねていたのは精々数秒か、長くても十数秒だったろう。顔を離して、老人はまたにやりと笑った。
「嫁入り前に、一つだけ彼を出し抜いておきたかったのだよ。お前はかけがえのない私の娘であると同時に、かつて私の人形でもあったのだから」
「……はい」
 蒼星石は赤くなり、ただ視線は逸らさずにぎこちない微笑を返した。

 頬が熱を持っているのは、強引に唇を奪われたからではない。それは初めてのことではあったが、彼女にとっては薔薇乙女として契約者に愛される上で想定していた範囲のことだった。むしろ、愛玩される人形としては当然のことに近かった。
 彼女が上手く感情を表せないほどに心を揺すられたのは、老人が自分を娘と呼んでくれたことだった。
 嫁入り、というのは、彼女をアリスゲームに差し出すという意味ではもちろんない。彼女と老人の願う、実現するかどうかまだ分からない、ささやかだが希望に溢れた「その後」に向けての言葉だった。
 老人は初めての、そして多分最後の口付けを交わすことで、彼女の背中を大きく押してくれたのだ。

「行きなさい。なに、どう転ぼうと結果はすぐに出るのだろう? こちらの時間で三十分以内の話だ」
 老人は事も無げに言い、不敵に笑った。
「帰って来たところで一緒に朝食を取ろうじゃないか。多少遅くなっても待っているよ」
 蒼星石は壁の時計を見上げ、老人に視線を戻して、はい、と力強く頷いた。
 いつもの朝食の時間まではあと三十分以上はゆうに残っていた。老人の言葉が何を含んでいるか、二人ともよく分かっている。


 真紅は黒衣の人形と手を繋ぎ、nのフィールドを滑空するように移動していた。
 目を閉じ、先程のことを思い出す。

 まだ空が暗い時刻、真紅はまるで示し合わせたように人形と同時に鞄を開いた。顔を見合わせ、真紅が口の前に人差し指を立ててみせると、人形は言われなくても分かっているというようにぷいとそっぽを向いた。
 真紅は微笑を浮かべてそれを見、視線を翠星石の鞄に遣って笑みを大きくした。最近、どうかするとのりよりも張り切って食事の支度をしている翠星石は、今日も既に起きて階下に向かった後だった。

──貴女は、いいお嫁さんになれるわ。

 不思議なことに、それが翠星石だと、所詮人形なのにお嫁さんなんて可笑しい、とは思えない。特に最近の彼女は、まるで優しい新婚の女性のように見えることがあった。
 内心、全く嫉妬心が湧かない訳ではない。だが、それよりも彼女の纏っている強い優しさと、それを見ることができるという幸福感のようなものの方が遥かに大きかった。
 ある意味で、現在の翠星石こそ、真紅がアリスゲームの先に望んでいたものの姿なのかもしれない。いや、恐らくそうなのだ、と思う。
 だからこそ真紅は、翠星石の言った提案殆どそのものを、自分という素材を使って実行してみる心積もりが出来た。
 どれほど素晴らしいことが出来るとしても、それが翠星石を犠牲にした上で成り立つものであってはならないのだ。それは、真紅の思い描いていた「あるべき姿」を前倒しで実現した存在を失ってしまうことなのだから。

 出立にあたり、真紅は二つの契約を自分から解除した。
 雛苺との契約を解いたことは、彼女が目覚めれば知れてしまうだろう。真紅との繋がりだけでなく、ジュンからの力も失ってしまうのだから。
 それで雛苺がどうにかなる訳ではない。その後全く契約を結ばなければ非力な状態のままだから、雪華綺晶や水銀燈、あるいは金糸雀に狙われるかもしれない。
 だが既にアリスゲームから解き放たれてしまった彼女は、指輪がないとはいえ、いつでも姉妹の誰かと真紅と取り交わしたような仮契約を結ぶことができる。そうして契約相手を通じて媒介から一定の力を供給してもらうことは可能だ。単に、降伏した相手が真紅から誰か他の姉妹に変わるだけ、とも言える。
 契約を解いたときに雛苺との繋がりが消えたことははっきり分かった。それは真紅にとっても辛かったけれども、彼女は心配してはいない。
 雛苺は一時泣いて過ごすかもしれないが、きっとこの事も乗り越えて生きて行ける。真紅はそれを確信できている。もう、巴との契約を解除したときの泣き虫の雛苺ではないのだから。

 暫く考えた上で、ジュンとの契約も真紅は解除した。
 不思議なことに、雛苺との契約を解除したときと違って喪失感のようなものは感じられなかった。
 寂しかった。そこまで自分達の心は離れてしまっていたのだろうか、と考えてしまう。
 あの、右腕をなくしていた数週間。水銀燈の媒介の少年の夢の中で、右腕を繋げたとき。あのときジュンと真紅の距離は一番近かった。
 真紅はずっとジュンのことを考え、できるだけ彼の負担にならないようにと思っていた。ジュンは、真紅の腕の入った籠を開けることができないことをずっと悩み続けながら、それは自分の心の中に仕舞って、真紅を支え続けてくれた。

──もし、私が変わったのであれば、それはあの時期から。

 腕が元通り繋がった晩、真紅は水銀燈に言われたこと──「呼んでくれる声に気付きさえすれば、誰もジャンクになんてならない」──に気付いただけではなかった。ジュンが彼女を呼んでくれること、何があっても、声を嗄らしてでも呼んでくれることにも漸く気が付いたのだ。
 彼がマエストロだから、神の腕を持つ者だから、ということとはあまり関係がない。ジュンが自分に想いを届けようとしてくれていることを知り、そして、自分が彼にある想いを抱いていることにも薄々気付き始めた。
 ただ、それは行き過ぎた感情だと、そのときの真紅には思えた。ジュンが自分に向けてくれている好意は、他の姉妹に対するものとは明らかに違っていたが、しかしそこにはある節度のようなものがあった。
 対して、自分がジュンに抱きつつある想いは、ある節度、言い換えればある一線というものを踏み越えてしまっているように真紅には思えた。
 至高の少女となるためには不要なことだから、あるいはアリスゲームの障害になるから、という視点は真紅にはない。少なくとも今はないし、もうその時期にはなかった。
 ただ、アリスゲームの結果自分達が変容し、または水銀燈の言うように失われてしまうなら、その想いはジュンに向けてはならないように真紅には思えた。そんな風に考えたことは初めてだったが、そういった想いを抱いたこと自体初めてだったから、当然なのかもしれない。
 想いを表に出してジュンに向ければ、そのときはジュンに受け容れられて幸せなひとときを過ごせるだろう。だが、自分達がアリスゲームの結果として唐突に消えてしまえば、そのことはジュンの繊細な心に深い傷を残してしまうだろう。
 それを自覚していたから、彼女は想いを胸の奥に仕舞い込んだ。そして、表面上は今までのとおり、ジュンと接し続けた。

 彼女は全く気付いていなかったし、知らなかったが、それは水銀燈があの人形のボディを作ってくれた男に取った接し方とよく似ていた。
 違うのは、男と接点を持たないで済む水銀燈はそれを徹底した形で実行できたことだった。彼女はもう会わないと決めてしまえば、男と全く顔を合わさずに済ませることができるのだから。

 今にして思えばこの状況そのものも、真紅の弱気、言い換えれば臆病さが招いた結果だったのかもしれない。彼女には一線を飛び越えるだけの、あるいはジュンの心に傷を残してもいいから気持ちを伝えたいという思い切りがなかった。
 そして、彼女の後ろから走って来た一人の少女は、立ち止まってしまった彼女を追い抜いてしまった。ジュンに傷を与えることも承知の上で、走って来た勢いそのままにその一線を軽々と飛び越えてジュンの腕の中に飛び込んでしまった。
 表面上は臆病で泣き虫だが、自分が良いことだと直感し、こうと思い定めたら振り返らずに突き進んでしまう。そういう思い切りの良さが翠星石の取り柄であり、そしてジュンの心にも響いたのだろう。それはジュンにも眩しく映る特徴だったはずだ。
 翠星石に──これまでのように密やかに熱い視線で見詰められるのではなく──見守られて、ジュンは変わりつつある。
 彼女の告白を受けてから、夜中にこそこそと参考書を開くだけでなく、昼間から図書館に行って本格的に学業の遅れを取り戻そうとし始めた。それでいて、真紅や雛苺にもこれまでより余裕を持って接してくれている。

──ジュンは、もうお人形遊びは卒業ね。

 恐らく今の彼に必要なのは、密かに見守って遠慮がちに小さな声で呼び掛ける人形などではなく、しっかりと傍らに居て彼を受け止め、何かあれば、いや何もなくても大きな声で元気よく語りかけてくる少女なのだ。
 それは翠星石であって、真紅ではない。
 ならば、真紅がジュンに──いや、二人にできることは一つ。翠星石の危険な、しかし魅力的な提案を代わって実行してやることだ。
 直感で動く翠星石のことだ、自分のプランに自信を持ったら、誰にも言わずに即座に実行に移してしまいかねない。
 人形の動きも気懸りだった。彼女はまた別の目的で、雪華綺晶の居場所を捜索している。翠星石のプランを代わりに実行するなら彼女に遅れを取ってはならないし、人形に雪華綺晶を手に掛けさせることは何があっても避けたかった。それには、真紅自身が先に雪華綺晶に接触し、できることなら二人を和解させるしかなかった。
 もっとも、雪華綺晶との幾つかの交渉が全て確実に成功するとは真紅も思っていない。
 そこまで相手を無条件に信用するほど御人好しではないつもりだ。だが、もし最悪の展開になって雪華綺晶が真紅のローザミスティカを何処かに隠してしまったとしても、または雪華綺晶自身の中に取り込んでしまったとしても、水銀燈が居る。
 彼女ならきっとどうにかするはずだ。彼女自身の構想を実現するために、そのくらいは頭を捻り、骨を折って貰ってもいいだろう、とも思う。
 元々隠し物を見つけるのは水銀燈の得意技だし、雪華綺晶に取り込まれても真紅は素直に彼女の一部となることはできそうにない。まだ、自分は彼女のことを知らな過ぎる。近くに水銀燈が居れば、真紅のローザミスティカはそちらに向かってしまうだろう。
 もしも誰かの一部となるのなら、それは翠星石か水銀燈でなければならないと真紅は思っている。そして二人に平等に権利があるのなら、恐らく水銀燈を選ぶだろう。

──水銀燈。

 ずっと思っていた気がする。この時代で目覚めるよりずっと昔、まだ姉妹達が戦いを始めよと宣告される前から。
 自分は彼女の小手先を変えただけの複製に過ぎない。いや、オリジナルの少女は彼女だけで、他のどの姉妹も彼女の亜流、再生産物に過ぎないのだと。
 極端な依存を持たされたお陰で契約に縛られ、nのフィールドの中に長いこと留まることも許されず現実世界に無理矢理に繋がれ、制約を掛けられた代わりに畸形的な何かを持たされて生み出された自分達は、純粋に至高の存在を具現化しようとした最初の乙女──水銀燈とは所詮比べられないのではないか。
 全体的な完成度は、確かに後発の自分達の方が高いのかもしれない。最初の少女Aliciaには、それだけに何処かに荒々しい仕上がりのところはあるかもしれない。だが彼女は、少女である水銀燈だけは、契約者を必要とせず一人で立つことを許されていた。
 水銀燈本人に言わせれば、全員同じだということになるだろう。所詮、どの薔薇乙女も失敗作だ、単独ではアリスになれないと見切られた存在だと。あるいは、自分が不出来だったからこそ以後の乙女達にはその点を反映させたのだ、と言うかもしれない。それは醒めた現実、冷酷な事実ではある。
 それでも、真紅は悠然と構えているように見せている心の何処かで、常に水銀燈に幾許かのコンプレックスを持ち続けて来た。持って生まれた彼女に対してのハンデを克服し、襲撃してくる彼女に対して折れないだけの心を維持し続けるためにも、その気持ちは必要だった。
 いま──これから、尻拭いを全て水銀燈に押し付けるような形で自分勝手なことをしようとしているのは、その反動というか、意地の悪い意趣返しのような気分も何処かにあるのかもしれない。彼女にとってはいい迷惑だろうが、そのくらいは許して欲しいと思う。
 いや、最終的には水銀燈は許してくれるだろう。
 彼女は優しい姉であり、自分は我儘な妹なのだ。以前は違っていたかもしれないが、今はそういう関係を望んでも許容される立場だった。

──お姉様。今度は私がおいたをして、貴女が困る番よ。

 真紅はくすりと笑った。人形は訝しげに彼女を見たが、すぐにその表情を強張らせる。
 真紅は未だ気付いていないが、人形には分かる。彼女の体内の動力源がかすかに反応し、同種のものが近付いてきていることを報せていた。
「……笑ってる場合じゃないわ。来る。どいて」
 言いながら、手を握ったままの真紅を強引に後ろに突き放し、人形は青い人工精霊を呼び出した。真紅の思索は破れ、一瞬で現実に引き戻される。
 何が、とは真紅は尋ねなかった。自分に感知できずに人形には分かる相手。それは『真紅』か、あるいは──

「──はぁじめまして、偽物さん。あなたの持ってる『ローザミスティカ』、わたしにくださらなぁい?」


 水銀燈の初動は、珍しく遅れてしまった。他に比べて数分だったが、彼女にとっては舌打ちしたくなるほどの失態だった。
 昨日夜更けまでnのフィールドに居た彼女が起きたのは、夜が明けてしまった時刻だった。その時には事態はもう動き始めていたようだった。
 彼女に最初の報告を齎したのは、意外と言えば実に意外な相手──蒼星石だった。結菱老人に送り出されてから真っ直ぐ目的地には向かわず、少年の家に立ち寄ったのだ。
 それも、水銀燈を苛立たせた。蒼星石に報せた相手からは、かなりの遅れを取ってしまったことになる。
 当事者の真紅達とは比べるべくもなかった。既に何か決定的な事が起きていても不思議ではない。
「ナナ、貴女も来なさい」
 苛立ちを隠そうとはせずに水銀燈はナナを促した。その剣幕にナナがうろたえていると、自分の態度に気付いたのかふっと力を抜き、いつもの調子に戻って続ける。
「私と同道する必要はないわね。本来は翠星石と雛苺に合流すべき、か」
 まだ事態を理解できずにいるナナに、余計なことを考える暇を与えまいとするかのように、やや早口で畳み掛けた。
「貴女の大事な人達と一緒に居て、真紅と雪華綺晶をよく見ておきなさいってこと。私達の哀れな人形劇でも、何かの肥やしにはなるかもしれないわよ」
 ナナが何度も頷くのを口の端を歪ませながら眺め、棒立ちになったまま身体を強張らせている少年に不敵な笑みを向ける。

「三十分以内に戻るわ。何かとんでもないことが起きない限りはね。ま、貴方の登校時間までには帰ってくるってこと」

 至極あっさりした言葉だった。その中に強い意志が秘められているのかどうか、そこまでは少年には分からない。ただ、水銀燈は帰って来るだろう、という漠然とした予感があるのは事実だった。
 問題は、他の姉妹達だ。そう思えた。
 彼はごくりと唾を呑み、まず水銀燈を見、蒼星石に視線を移してから妙に粘つくような口を開く。言い淀んでいるようにも見えたが、出てきた言葉は明るかった。
「俺も行きたいなぁ。登校時間までに帰って来れるんならさ、一緒に行ってもいいじゃんか」
 な? と水銀燈を見遣る。しかし、その目までは笑いを含んではいられなかった。元々ポーカーフェイスは苦手もいいところなのだ。
 水銀燈は一同を見回し、肩を竦めてみせる。余計な時間ではあるが、これも必要な儀式のようなものなのだろう、と思った。
「無茶言うもんじゃないわ。これは真紅と雪華綺晶の話で、私達は姉妹や同じドールとして眺めに行くだけ。貴方みたいな媒介風情が割り込むような話じゃないの。定員オーバーだと思って諦めなさいな」
 ちぇっ、と少年は口を尖らせ、水銀燈はにやりと笑った。少年の仕種がここまでで引き下がるというサインのようなものだ、ということは二人とも分かっている。
 二人は他の姉妹達のそれとは違った、少しばかり薄い関係かもしれないが、それでも契約者と薔薇乙女だった。半ば膠着しているような強い絆はないにしても、気心は互いに知れている。
 任された、という覚悟のようなものは水銀燈の中にあるし、少年は水銀燈を信頼している。だが、それでも不安はなくなってくれる訳ではなかった。
「事故に遭うなよ。気を付けて行って来いよ」
 言っている内容は軽口に近かったが、少年の声はつい本音を反映した、心配そうなものになってしまう。
「みんな無事に帰って来いよ。……みんな、な」
 順繰りにその場の面々を見ながら少年は繰り返した。みんな、という言葉がこの場に居ない人物のことまで含んでいるのは明らかだった。
 水銀燈はもう一度周囲を見回した。何か軽い言葉で誤魔化す余裕は、彼女にもなかった。
「そう願いたいところね」

 無理だろう、とは言わなかった。それが彼女の最低限のリップサービスだったし、彼女のささやかな願望も篭められている。
 有体に言ってしまえば、全員無事で帰って来れるように願っているのも、誰かは脱落してしまうだろうと感じているのも水銀燈本人だった。しかし、ドライと言われる彼女も流石にそれを認めたくはなかった。
 脱落してしまうのは真紅である可能性が一番高いのだし、じかにその手引きをしたのは他ならぬ自分なのだから。

「蒼星石、貴女忘れ物してるでしょう」
 いつものようにメイメイが波立てた鏡を潜る直前、水銀燈は思いついたように振り向いてそう言った。
「それを持って後から来なさい。第42951世界……場所は知っているでしょう、貴女なら」
 蒼星石は一瞬きょとんとして、それから複雑な表情になる。
「いや、僕は何も──」
「──じゃ、お先に。ナナ、ついていらっしゃい」
 皆まで言わせず、水銀燈はすっと鏡に身を沈める。そのまま片手だけをこちらに出して、ぐずぐずしているナナに手招きした。
「は、はい」
 ナナは蒼星石を見、それから少年を振り向いて、行って来ます、と呟くように挨拶して鏡を潜った。
 後には少年と蒼星石だけが残された。
「……忘れ物?」
 少年が首を傾げる。既に洗面台の上に登っていた蒼星石は、振り向いて少年を見た。この場所なら視線の高さも殆ど同じになるのだな、と今更のことを考える。
「水銀燈には、そう思えたみたいだね」
 最初に反論しかけたときから、蒼星石には既に分かっていた。水銀燈は咄嗟に二人だけの時間を作ってくれたのだ。彼女が愛する人に大切なことを伝える時間を。
「僕と貴方の間の忘れ物……」
 言いながら、腕を伸ばす。やや察しの悪い少年にも、その仕種がどういう意味かはすぐに分かった。
 一歩近寄り、狭苦しいユニットバスの中で、風情も何もない抱擁をする。少年は蒼星石の栗色の髪を乱暴に撫で、ただきつく抱き締めた。
「時間がないから手短に言うよ」
 彼の肩の上に顎を乗せた姿勢のまま、蒼星石は囁いた。
 甘い愛の言葉ではなかった。少年も今更それを期待してなどいない。そんなものは時間さえあれば幾らでも言えるようなことだった。これから幾らでも積み重ねて行けることだった。
 今、伝えなければならないこと。それは──
「──ここでアリスゲームの局面が動いたら、僕は……」


 彼方から良く通る声が響いた、と思った瞬間、黒い羽根の一群が一人と一体を襲い、その間を更に引き離した。間髪入れず凄まじい勢いで濃紺の衣装のドールが迫り、人形の召喚したきらびやかな金色の鋏と、ドールの、どこか見覚えのある形の両手剣が激しく打ち合って火花を散らす。
 真紅には二体の濃紺のドール──得物以外は殆どそっくりにしか見えない──が飛び退る様しか見えなかった。黒い羽根が舞い出しているから、どちらかが手傷を負ったのかもしれない。だが、二体は勢いを殺すことなく、振り子を両方から打ち合わせるように更に何回かぶつかり合い、そして離れて間合いを取った。
 剣を持っている方が振り向き、凄絶な、というよりは酷薄な笑みを浮かべる。笑い仮面のような、乾いて生気のない笑顔だった。
「こちらの世界の真紅も居たのねぇ。丁度いいわ。そこで見てなさぁい? あなた達の可愛がってる偽物がジャンクになる様をねぇ」
 真紅が何かを言う前に、もう一体──名前のない人形が叫ぶように言った。
「時間がないんでしょう! 早く戻るか行くかしなさぁい! コイツを片付けて、わたしもすぐに行くから」
 真紅は口を開きかけ、はっとして振り向いた。冷たい何かがすぐ後ろに迫っている感覚があった。

「ご訪問していただくには及びませんわ、紅薔薇のお姉様。ふたりでゆっくり見届けましょう? 可哀想なお人形達のお芝居を」

 純白の衣装に、軽くウエーブの掛った長い白い髪。無邪気な顔に右目はなく、代わりに眼窩からじかに白い薔薇が咲いていた。
「初めまして、私は雪華綺晶。ローゼンメイデン第七ドール……」
 頭を下げながら、握手の代わりに一群の白茨を雪華綺晶は伸ばして寄越した。真紅は咄嗟にホーリエを呼びながら薔薇の花弁を放つ。ローズテイルを形成する間もなかったが、どうにか自分に絡みつく茨だけは躱した。
「……挨拶のときは手を差し出すものよ、雪華綺晶」
 減らず口を叩きながら、真紅は自分の目論見が崩れそうに揺らいでいるのを感じた。『水銀燈』の出現は偶然ではあるまい。経緯は分からないが雪華綺晶と手を組んでいるのだ。
「貴女とはゆっくり話がしたかったのに、これでは台無しね」
「ええ。本当に残念ですわ」
 純白の少女は艶然と微笑んだ。無垢そのものの笑顔に、しかし真紅は背筋を何か得体の知れない悪寒が這い上がるのを感じた。

──これは、違う。他の姉妹とは違う。

 水銀燈が雪華綺晶のことを油断ならないと言っていたのは、彼女の偏見のようなものが入っている評価だ、と真紅は思っていた。
 確かに、偏見は入っていた。ただし、それは大いに同情と憐憫の成分を含む方向だった。
 水銀燈の雪華綺晶に対する知識は、直接対峙したり捕獲されたことがあったとはいえ、大部分は彼女の媒介の知識に拠っている。その上に水銀燈なりのアリスゲームに対する考察もあって、彼女の雪華綺晶に対する認識は直感を排した、実はかなり同情的なものだった。
 雪華綺晶が間接的に執拗な攻撃を掛けられているにも関わらず、必要以上に水銀燈を恨んだり、妬みや嫉みを持っていないのは──別の理由も大きいのだが──そこにも原因がある。しかし、それは今は関係のないことだった。
 そういった知識を殆ど持っていない真紅は、まるでいつもの翠星石のように、直感で雪華綺晶の状態を理解した。状況に追われて蒼星石が感じ取れなかったことを、一瞬で観取してしまった。

──正常なのに、歪んでいる。もう、取り返しがつかないほどに。

 それは絶望に近い感覚だった。
 アリスゲームは崩壊するか、ここで終わるかのどちらかしかないのだ、と彼女は理解した。
 そう、元々アリスゲームはこの時代で終わらざるを得なかった。長年、ゲームの裏方を務めてきた雪華綺晶が、その任に押しつぶされるような形で修正しようもないほど歪んでしまったお陰で。
 ラプラスの魔が言っていた、アリスがもうすぐ生まれるという言葉は、少なくとも一部分は正しかった。アリスは生まれなければならなかった。最早ゲームを次の時代に託す訳には行かなかったのだ。
 雪華綺晶が何が理由でどう狂ったのか、は真紅には分からない。今は思索を巡らす余裕もない。ただ、目の前の存在が酷く孤独で、儚く、美しく、そして残虐で危険だということは間違いなかった。

「──ご興味がおありでないのなら、落ち着いてお話が出来るところに参りましょう? お姉様」
 黙っている真紅に、雪華綺晶は小首を傾げて微笑んだ。その口から、淀みなく独り語りが紡ぎ出される。
「ええそうですわね、本当にお姉様のお考えどおり。あちらの世界の戦いは、あちらの世界のことですもの。私が間違っておりましたわ。あれは私達が口を差し挟む事柄ではありませんものね」
 真紅が答えようとした瞬間、彼女は唐突に出現した巨大な薔薇の花の中にいた。雪華綺晶の本気は、到底他の姉妹が太刀打ちできるものではなかった。
「さあ、それではお姉様と私は、私のお城でゆっくりお話致しましょう。お見せしたいものも沢山ございますのよ」
 雪華綺晶はひどく無邪気に微笑みながら、フィルムを高速で逆転させるように薔薇の花を蕾に戻し、真紅に何をする暇も与えずに彼女をその中に閉じ込めた。そして、誰も見ていないことを確認するかのようにぐるりを見渡すと、胸元に手を当てて長い息をついた。
「大丈夫。まだ……力は湧いて来る」
 薔薇の蕾を消しながら、雪華綺晶はそう呟いた。そのまま、彼女は自分の世界に続く扉へと向かった。
 雪華綺晶の背後、かなりの距離の場所で二体のドールが文字どおりの死闘を繰り広げていたが、彼女は振り返ることもしなかった。
 口では真紅に見物を勧めていたが、実際のところ既にそんなモノには何の関心もない。戦いが始まってしまえば、どちらのドールが勝利しても、あるいは両者が共に潰れても雪華綺晶にとっては同じことだった。


「──第42951世界、なんだな」
『うん。そう言ってた』
 電話越しに聞こえてくるせいか、少年の声は少しざらつき、いつものようなとぼけた調子も感じられなかった。
 ジュンは唾を飲み込み、翠星石と雛苺を振り返った。場所が分かった、という彼の表情に、二人の表情は少しだけ明るくなる。
「分かった。……あ、ありがと。わざわざ」
 受話器に向かってつい頭を下げてしまうジュンに、電話回線の向こうから相変わらずざらついた声が響いた。
『行くんだろ、桜田』
 ジュンはびくりとして身体を強張らせた。少年は少しだけいつもの調子に戻り、しかしやや早口で言った。
『いや、俺はそう──みんなに止められちゃったけど、桜田は別だからさ』
「そ、そんなことない。っぼ、僕なんか──」
 躊躇いがどもりになって現れた。

 真紅が黙って出て行ってしまったことに、ジュンは蟠りは覚えなかった。今更nのフィールドに入ることにも抵抗はない。
 ただ、自分も行かなければならないという思いと、真紅がそれを望んでいない、契約まで破棄してしまったという懸念がひしめき合っていた。まるで以前の彼に戻ってしまったように、どうすべきか分からないままなのだ。
 つい左手の薬指を見てしまう。契約の指輪は小さくなったままだった。雛苺は翠星石と仮の契約を結んだが、真紅とジュンの契約は、たとえ指輪があったとしても彼女が同意しなければ復活しない。
 今や契約者でも、媒介ですらないジュンが、ただ翠星石の契約者ということだけで真紅を追っていいのか。
 理由はまだよく分からないが、真紅はここまで来てジュンを契約者として認めなくなってしまった。
 愛想を尽かしたという訳でない事は分かる。何か、明確な意図があって、彼女はそう決断したのだ。その意思に反してしまっていいのか。

「僕は、もうあいつにとって特別な存在じゃ……契約だって……」
『──特別なんだよ! お前は特別なんだ!』
 少年は苛立ったように言った。
『真紅とキラキィがもし喧嘩して、どっちかが壊れちゃったらどうすんだよ。お前なら、直せるんだろ? そんな奴、お前以外に何処にも居ないだろっ』
 それは口実だとジュンには思えた。戦いが起きるとは限らないし、今までどちらかが壊れるような戦いなど一度しか遭遇したことがない。少年は何としてもジュンに真紅の後を追わせたいのだ。
 理由は分からないが、それはジュンの背中を押してくれたような気がした。
「……分かった。行くよ。ソーイングセット持って」
『そうしてくれ。それから、もし……そ』
「もし?」
『なんでもない。早く行けよ、じゃ、切る』
 ブツッ、と乱暴に通話は切られた。受話器を置いて、ジュンは二人の少女を振り返った。
「……行こう。真紅のところへ」
「うんっ」
 雛苺は大きく頷き、精一杯の笑顔を作った。翠星石は腰に手を当て、それでこそ私のパートナーです、と胸を張ってみせる。
「真紅を見つけたら、たっぷりお説教してやりましょう。いつもあんなに礼儀作法を口煩く言ってる癖に、何も告げないで契約を解除してドロンするなんて、無作法にも程があるです」
 ジュンの手を取り、人工精霊を召喚して勢いよく駆け出す。
「行きましょう、時間ないですから! 早く行って帰ってこないと、朝ご飯がみーんな冷めちまうですよ」
「はーいっ」
 雛苺はぴょんとジュンの背中にしがみつき、ベリーベルを呼び出してジュンの周りを周回させる。ジュンは苦笑しながら、手を引かれるままに翠星石に続いて部屋を出た。
 それは、真紅が思い描いたとおりの、彼と翠星石の明るく楽しい未来図そのものの光景だった。ただ、二人はそんなことは知る由もなかった。




[19752] 130ほどです。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/03/14 22:09
まず、今回の一連の災害で被災された方々にお見舞い申し上げます。
また亡くなられた方にはお悔やみを申し上げます。

これ以上は申し上げません。

サイト管理者の舞さんのご意向でもありますし、私に出来ることは通常どおりの掲載ということで、本文は特に何も手を加えることなく投下させていただきます。

感想掲示板でも震災前どおりの応対とさせていただきます。ご了承ください。

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 少年は機械的に通学の支度をした。いつもどおりの、何の変哲も無い朝だ。
 時計は見ないようにしている。見なくても遅刻するような心配はない。あと二十分もすれば、水銀燈が帰ってきて飲み物を用意しろと言うだろうし、ナナが後何分だと登校時間を気にして勝手におろおろするだろう。
 ふたりは──一人の少女と一体の人形は、帰ってくるだろう。それには根拠のない確信があった。だから、彼は蒼星石にも無理に連れて行ってくれとは頼まなかった。
 いつもより丁寧に朝食を用意し、時間を掛けて食べているはずだが、味が殆ど分からないのが不思議だった。風邪でも引いたのかもしれない。
 味噌汁を飲み干して、少年は半ば開いたままのユニットバスの扉を眺めた。そこから今にも栗色の髪の小さな少女が顔を出しそうな気がしたが、それが妄想だということはよく分かっていた。
 頭を振って視線を押し入れの方に向ける。上を向いていたら壁に掛けた時計を見てしまいそうだった。
 ナナの寝床は掛け布団が稚拙だが丁寧に畳まれ、小物を入れている小さな抽斗もきちんと閉められている。ただ、畳んだ布団の上に置かれた枕の下から、黒い羽根が一枚覗いていた。


 夥しい量の黒い羽根が周囲に拡散していく、その中心でもはや半ば術者の制御を離れた二匹の黒龍が絡み合い、お互いの身体を食い尽くそうとしている。
 二体のドールはその足元で激しく切り結んでいた。お互いに致命傷ではないものの傷を負い、赤い血を流す代わりに黒い羽根を撒き散らし、身体にも服にも所構わず羽根が突き立っていた。
「アンタにはミーディアムはいない。いいえ、契約もできないんでしょ? 可哀想な偽者さぁん!」
 突っ掛かりながら片方が叫んだ。もう一方はそれを予備動作のない蹴りで払い除けながら答える。
「ええそうよ。でもそれはアナタもおんなじでしょ、哀れなモノねぇ、初めて契約した相手を残してこっちに侵入してもまだ未練タラタラなんてぇ」
「偽者なんかに……言われたくないわぁ!」
 横に飛び退りながら、黒い羽根の一群を放つ。それは楯かマントのように広げられた翼で阻まれた。
 だが、それは同時に身を覆った方の視界も妨げることになる。それが羽根を放った方の目論見だった。
 勢いをつけて真っ直ぐに迫る剣が翼を貫こうとして、辛うじて片手で掬い上げた鋏に邪魔をされる。両者は軌道を変えて飛び離れ、また対峙した。
「防戦一方になってるんじゃなぁい? そんなんでよく戦えるわねぇ。さっさと『蒼星石』の『ローザミスティカ』を渡しなさぁい。抜け殻は綺麗に壊してあげるからぁ」
 既に全身に相手の放った羽根が突き立っている一方が嘲笑する。もっとも、減らず口のように返すもう一方も殆ど同じようなものだった。ヘッドドレスの形は崩れ、凝った意匠のドレスの裾は切り裂かれてずたずただ。
「お生憎さま、全力出す必要もないからよぉ」
 小馬鹿にしたような笑みが、傷だらけの笑い仮面のようになった顔に浮かぶ。

「『真紅』にも押し捲られた、死にかけのミーディアムさえ居ないアナタなんて、こぉの程度で充分よ」

 その一言が再びお互いに火を点けた。二体は激しく衝突し、振り子のおもちゃのように同じ勢いで飛び離れ、また同じ軌道を描いてぶつかり合う。

 至高の少女たれと望まれたものの製作の中途で放棄され、潰し合いのゲームに方針を変更されてから『ローゼンメイデン』達の敵役となるために、未完成のまま押取り刀で参戦させられた人形。
 それが、元の世界を離れた場所で、その人形の記憶のあらすじと性格を捻じ込まれた上、『ローゼンメイデン』達を上回るものと望まれて産み落とされ、一度はその造物主に倒された人形と殺し合っている。
 共有している外見や記憶を除いても、二体は似通った来し方を持っていると言えるかもしれない。彼女達それぞれと雪華綺晶を比べたときよりも似通っているとも言えるだろう。
 そんな二体が一人の少女を巡り、本人の全く預かり知らぬところで戦っている。それもどちらが愛されるかではなく、どちらが少女を束の間癒す権利を得ることができるかという理由で。
 傍から見れば愚かしく虚し過ぎる殺し合いではある。嘲笑う者も居るかもしれないし、棲み分け出来ないのかと首を捻る者も居るだろう。
 『桜田ジュン』が見たら二体の戦いを止めさせようとしたに違いない。『真紅』でも同じ事だろう。彼等は力の有無という違いはあっても、どちらも潔癖で理知的だった。
 しかし、笑われようと止められようと、二体にとってこの戦いは──水銀燈の言葉で言えば──通過儀礼のようなものだった。避けては通れないとどちらも考えている。
 相手を倒さなければ、先に進めない。帰る所も行き着く場所も、二体分は存在していない。彼女達はそう思ってしまっていたし、同じ直線的な感覚と性格を持つ両者が同じくそう思っているからには、互いに妥協も降伏も有り得なかった。

 戦いは彼女達の言葉どおり、長い目で見れば終始一方が攻め続け、他方がそれを反撃を加えつつ受け流すという図式だった。受け続けている方は次第に押され、決して逃走している訳ではないが圧力に負けたように世界の扉が集まっている辺りへと流されて行く。
 攻めている側のドール──『水銀燈』は疲れた顔に酷薄な笑みを浮かべた。
 何もない空間ならば、何処まで押しても意味はない。だが扉が浮いている空間では、それが障害物になる。遮蔽物にもなるが、しかし後ろを見ずに押され続ける訳には行かない。
「……決着を着けようって意味かしらぁ?」
 追撃を一旦止め、油断なく身構えて傷だらけになった口の周りをぺろりと舐める。剣を握る手にも、ドレスにも、所構わずに黒い羽根が突き立っていたが、無視していた。必要な関節が必要なだけ動けば問題はない。
 今はそれを簡単に抜くことはできないし、悠長に抜いている余裕もなかった。部分的な反撃は続いている。飛び違うときには熾烈なカウンターも見舞われる。防戦している名の無い人形も、決して防御だけに偏っている訳ではないのだ。
 しかも後のない空間に自らを置いたということは、相手がこれ以上後退をするつもりがないことを示している。一か八かの反撃を仕掛けるつもりでもあるのか。
 少なくとも攻めている側の『水銀燈』は、扉を潜って何処かの世界に抜けることは考えなかった。相手もそうだろうと思っていた。それは決着を先延ばしにすることと、目先を変えることしか意味しない。
「いいわぁ、そのお誘い乗ってあげる」
 にたりと笑い、剣を構える。片手で扱うには刀身も柄も長いが、攻めている側はそれを片手で扱っていた。
 名の無い人形は更に一回り大きい、巨大な金色の鋏を持ち直した。それは元々本人の得物ではなかったが、何故か彼女は終始それを使い続けている。
 使い方は、その鋏の本来の持ち主と同じだった。片手で持ち手を揃えて持ち、剣のように振るっている。刃は使えないものの、打撃武器としては悪いものではない。
「……けど、所詮は代用品よっ!」
 左右から羽根で挟撃して追い込みつつ、剣を手に真っ直ぐに突進する。羽根の方が若干先に襲い掛かる。それは予定通りだった。
 名の無い人形はそれでもまだやや後方に退がりつつ、それだけでは足りずに鋏を持ったまま両腕を体の前で交差させて顔を庇い、更に翼まで広げて自分の身を包みながら、同時に真っ直ぐ前方に炎を点けた羽根の群れを飛ばす。中央を進む相手を直接攻撃する、単純で狙いもいい加減だが『水銀燈』にとっては自分の速度の分回避が難しくなるカウンターでもあった。
 だが、それは『水銀燈』にとって容易に予想できる反撃だった。むしろ、その状態を彼女は予期し、名の無い人形がそうすることを狙ったのだ。
 名の無い人形が翼で身を包んだ瞬間、『水銀燈』は軌道を変えて下に沈み込み、掬い上げる形のゆるやかなカーブを描くようにして名の無い人形に迫っていた。
 炎の羽根の殆どは虚しく空を切った。幾つかは『水銀燈』の長い髪を焼き、服の裾を燃やしたが、これといったダメージはなかった。少なくとも致命傷にはなっていない。
 もっとも、それを認識する余裕も時間も『水銀燈』にはない。全ては一連の動きだった。ただ、瞬間的な高揚感はあった。

──貰った!

 正面斜め下から、翼にまだ包まれている名の無い人形に、剣を構えて抉り上げるように肉薄する。最後は剣で斬るのではなく、思い切り突き上げればいい。
 翼で体を覆った名の無い人形には一連の動きが見えていないはずだ。剣は黒い翼のマントを串刺しに貫き、名の無い人形の体を──


 真紅は床のような場所に落下した。硬い平面に体を強かにぶつけ、一瞬意識が遠くなる。受身さえもまともに取れなかったが、幸運にも頭を打つことだけは避けられた。
 四つん這いになり、暫く目を閉じて喘ぐ。息がどうにか整うと、ふらつく足を踏みしめ、勢い良く立ち上がって周囲を見回した。
 そこは全てが透明か半透明のクリスタルで作られた、広間のような場所だった。
 端の方には水晶と思しき六角柱の結晶が無数に生え、それが壁を成している。天井は無数の針状の細い結晶──いや、遠いから細く見えるだけかもしれない。遠近感がおかしくなったような光景だった──が縦横に、そして不規則に交差している。
 これも幻影なのだろうか。そもそも、幻影以外のものが存在するのかすら怪しい。
 頭を振って改めて床に視線を落とす。こちらは一枚の透明なクリスタルのようだったが、くすんだ銅鏡か銀の出た古い硝子のように鈍く光りながら真紅をぼんやりと映していた。

「ようこそお姉様、私のお城に」
 声と共に冷気が吹き込んでくるような気配があった。ぞくりとしながら振り返ると、しかし雪華綺晶は広間の奥、かなりの距離に佇んでいた。
「ここはお客様に開放しようと思っておりましたのよ。まだ何方もご招待したことはございません──お姉様が初めてですわ」
 お気に召しまして? と無邪気な笑顔を向ける雪華綺晶に、真紅はやや強張った、しかし挑戦的な微笑を返す。
「あまり調度が整っているとは言えないようね、雪華綺晶。床には絨毯を敷き、壁には照明を灯すものよ。それに、お客の扱いも手荒が過ぎるのではなくて?」
 敢えてゆっくり、丁寧に服の乱れを整え、澄まして雪華綺晶にまた視線を向ける。
「毎度こんな歓迎では、ドレスが痛んでしまうのだわ」
「ごめんなさい、失礼でしたかしら」
 雪華綺晶はくすくすと笑った。
「お姉様が余りにもお元気そうなので、少しばかり悪戯したくなってしまいましたの。でも、お怪我なさるようなことはなかったでしょう? ちゃんと加減は致しましたもの」
 明らかに返事を期待していない、独り語りの言葉だった。恐らく、この妹の会話は殆どがこの調子なのだろう。
 雪華綺晶はするすると滑るように歩み寄り、小首を傾げて真紅の手を見た。左手の薬指には、今朝まで存在していたものがなくなっていた。
「あら……お姉様、おいたが過ぎますわ。契約を勝手に解いておしまいになったのね。マスターは……マエストロはさぞお悲しみでしょうに」
 左手を掴もうとするりと伸ばされた雪華綺晶の右の手首を、真紅は自分から掴んだ。おや、というように見詰めてくる隻眼を、やや強い視線で見詰め返す。
 真紅は会話をするために来たのだ。独り語りに耳を傾けるためではなかった。
「ジュンと私はもう離れてしまったの。あの子にはもう私の助言は必要ないのだわ」
「まあ」
 雪華綺晶は心底驚いたと言うように、左手を口許に持っていった。
「もうご助言が必要ないなんて、そんな大それたこと」
 芝居がかった仕種で背筋を伸ばし、ゆっくりと二、三度瞬いてから大仰に首を水平に振る。何もない右のアイホールに咲いている白い薔薇が、かすかに揺れた。
「いいえ、いいえお姉様、そんなことは御座いませんわ。まだまだ、マエストロとお姉様は繋がっていらっしゃいます」
「契約を喪ってしまった私は、もうジュンの力を受け取ることはできない」
 真紅は目を閉じ、嘆息した。
「貴女や水銀燈とは違うの。それに、たとえ契約が有効だとしても、私達はもう離れてしまっていたのだわ」
「そうなのでしょうか? ほんとうに?」
 制止する暇もなくすうっと顔を近づけ、息が掛るほどに間近で、雪華綺晶は問い掛ける。真紅はせわしく瞬いた。一瞬、その表情が暗く哀しいものになったように思えたからだ。

 思わず、魅入られたようにその隻眼を見詰めてしまう。
 まるでドールの無機の、そして無垢の、作り物の硝子の眼に見入ってしまうように、真紅はその瞳を、虹彩を観察した。
 多感な人がありもしない果てしない悲しみと、果てしない孤独を硝子の瞳の中に垣間見てしまうように、雪華綺晶の何かをその中に見付けかけたような気がする。

 だが、それはほんの一拍ほどの間だった。ふぅっ、と冷たい、まるで氷のような息を吐いて艶然と微笑む雪華綺晶は、また芝居じみた無邪気そのものの──極上の出来栄えの人形のような表情に戻っていた。
「やはり、お姉様は優しい方ですのね。そしてとてもお靭い」
 雪華綺晶はすっと自分から顔を遠ざけた。真紅ははっとして自分も身体を引く。だが、雪華綺晶は彼女の右手を取っていた。そこでまた動きが止まった。
 お互いに相手の手を掴んだような恰好で、二人は凍りついたように向き合って見詰め合っている。それはほんの数秒かそこらの時間だったに違いないが、真紅には永遠の長さにも思えた。
 決して心地好い対峙ではなかったけれども、不快でもなかった。初対面のときのような悪寒は這い上がって来ない。
 雪華綺晶の作り上げた幻影に惑わされているのかもしれない、と真紅は思う。もしかしたらこの雪華綺晶自体がフェイクで、自分は何処か暗い小部屋で独りで座っているのだろうか。

──それでも構わない。自分がどうなろうと、ボディさえ壊れなければ、本来の目的は達せられる。

 一瞬、真紅はジュンと翠星石が雛苺を挟んで笑い合っている情景を思い描いた。何故か翠星石はジュンと同じくらいの背丈になっており、雛苺も少しだけ成長していた。
 その後ろの壁に、真紅の衣装が掛けられている。脇の棚には、彼女のためのパーツが丁寧に作られ、既に組み上げられている。
 ローザミスティカは小箱に収まり、机の上にあった。後は仕上げるだけだな、とジュンが言い、彼に腕を絡ませた翠星石が嬉しそうに笑っている。雛苺は二人の前で、未だ物言わぬ人形に何かを語りかけていた。
 そして、奥のドアを開けて入って来た雪華綺晶がにっこりと笑みを浮かべて三人に近付き──その顔が目の前の本人の微笑みと重なった。
「参りましょう、次の間に」
 雪華綺晶は微笑んだまま、小首を傾げた。それもまた、ドールの首の関節をかくりと動かしたような仕種だった。
「お見せしたいモノがありますのよ。とても、見て頂きたいモノですの。お姉様には、特に」
 真紅は表情を引き締め、こくりと頷いた。普段意識しないうなじが伸びるのがはっきり分かるような気がするほど、深く頷いた。


 ──きらびやかな金色が黒灰色のマントを破るように現れ、二つに割れて弧を描いた。そんな風に見えた。

 何が起きたか『水銀燈』が理解する前に、片手突きに突き上げた剣は大きく横合いに払われていた。違う、実際には切っ先を僅かに逸らされただけだ。
 だが、名の無い人形は払った反動も利用してか、難なく身を躱していた。いや、体が伸び切り、大きく体勢を崩した相手の背中に、両手で持った得物で「斬り付けた」。
 黒い羽根が舞い上がる。攻撃した訳ではない。斬り付けられ、切り裂かれたのだ。
 だが、斬り付けられた方も反応は素早かった。剣を横殴りに払い、相手の背中めがけて叩き込んでいた。
 二合目はなかった。二体は弾けるように飛び離れた。牽制と距離を置くために黒い羽根の攻撃を交わし、お互いに即座に手を出し難い間隔を保って滞空する。
 どちらも疲労しているのは同じことだ。しかし、どちらのダメージが大きかったかは明白だった。

 名の無い人形がにやりと笑う。完全に刃を開いた鋏の片方の持ち手を、両手で持っていた。
 『水銀燈』はギリッと歯を食いしばった。相手を追い込んでいたつもりになっていたが、読まれていたのは彼女の方だった。
 大したからくりではない。恐らく、振り下ろすか斬り付ける方向に対して手前側の持ち手を、身を包んだ翼の陰で両手で持ち、上半身全体で半ばあてずっぽうに──ゴルフのスウィングに似た形で──振ったのだ。振る過程で鋏は刃を開く。剣を払って跳ね返ったところをもう一度押し込んだ。それだけの話だ。
「この鋏って最大限開くと固定できるのねぇ。便利だわぁ」
 ぶるっ、と一つ身震いすると、剣に切り裂かれた黒い羽根と衣装が舞った。
 『水銀燈』の苦し紛れの攻撃は不発だった。相手が今の攻撃では手傷も受けていないのは明らかだった。
「片手で突き上げるなんて、なぁんてお馬鹿さぁん。碌に力が入らないでしょう? それとも片手しか使えない理由でもあるのかしらぁ?」
 今度は鋏の持ち手を──枝切り鋏のように──両手でそれぞれ持ち、半ば開いた形で構えながら、名の無い人形は酷薄な笑顔になる。それは自分の方は両手が満足に使えるぞとアピールしているようなものだった。
「左腕が満足に動かないんでしょう? さっきからぁ。それじゃ剣なんて杖代わりにしかならないわ。しかも今度は右の脇腹、大事な大事なお腹のパーツが傷付いちゃったわねぇ」
 『水銀燈』は言い返そうとして脇腹を見た。ドレスがぱっくりと割れ、腹部に大きな傷が付いていた。
 血は出ていない。彼女達には赤い血は流れていないから。だが、傷はその分鮮明に観察できてしまう。
 力任せに振るわれた鋏の刃はパーツの外殻を断ち、細い穴が開いて中の空洞が見えている。人肌のように柔らかくなっているはずなのに、何故かその周囲には亀裂まで走っていた。
 痛みがないのは不思議ではなかった。ある程度大きい損傷を受けたときにはいつも、痛覚が麻痺してしまったように痛みを感じなくなる。ただ、その傷は一撃で食らったものとしてはこれまで最大だった。
「……こんなもの、大したことないわ」
 髪は焦げ、頬は傷つき、体中に無数の羽根が突き立ったまま、『水銀燈』は凄絶な笑みを浮かべた。最早隠そうともせず左腕をだらりと下げ、右半身になって片手で剣を構える。
「元々、無かったモノですものぉ。傷付こうが割れようが、支障なんてないわ」
「……そぉう? なら、次はその言葉を確かめてあげる」
 名の無い人形は音を立てて鋏を開き、また閉じた。
「これで挟んで上下に切り分けられるかもねぇ、いつか『蒼星石』がアナタにしたみたいに」
 にたりと笑う。

 それは酷く昔、まだ『水銀燈』が動力源も持たず、バランスを取って歩行することすら侭ならない状態だった頃の、しかし忘れることのできない屈辱の記憶だ。未だ優しい人だと思っていた『真紅』に駆け寄ろうとしたとき、彼女は『蒼星石』に斬り付けられ、コルセットだけで支えているような胴部を両断された。
 その彼女が、偽りから始められたとはいえ『アリスゲーム』で『蒼星石』に勝利してその動力源を奪ったのは、因果応報と言って良いのかもしれない。しかし、屈辱がそれで解消された訳ではなかった。
 もう一つ言ってしまえば、その動力源を今ほしいままに行使しているのが、他ならぬ目の前の、自分そっくりに作られた名前の無い人形だった。

──気に入らない。跡形もなく消滅させてやらなきゃ気が済まないわ。

 めぐのことは頭から消えている訳ではない。だが、今はそれよりも、自分の過去を全て知っている相手が目の前にいること自体に怒りを覚えていた。
「やれるもんならやってみなさい、そのなまくら鋏で!」
 『水銀燈』の頭にカッと血が上る。それは冷静な判断を失わせているのかもしれないが、同時に怒りという力を彼女に与えてもくれた。
「その前にあんたの空ろな胴体を切り払ってやるわよぉ!」

 二体のどちらが先に相手の方に突進を始めたか、それは分からない。
 『水銀燈』は片手で刺突剣試合のように剣を構え、名の無い人形はまた鋏を閉じて──ただし、相変わらず両手で鋏の持ち手をそれぞれ持ち、いつでもその大きな刃を広げられるような態勢で──中段にそれを向けて、お互いに相手の羽根を避けるために複雑な軌道を描きながら、衝突した。
 どちらも、斬るという動作はしなかった。羽根も飛ばさなかった。そういった体力を残しているなら、一撃に懸けた方が良いと思ったのかもしれない。



[19752] 今回も130ほど。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/03/14 22:11
なかなか、上手く書けないものです。

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 次の間、という表現を雪華綺晶はしたが、そこには回廊を通っていく必要があった。ゆるやかにカーブを描いた回廊は、次第に狭くなり、天井も下がっていった。
「圧迫感を感じる造形ね……」
 真紅は素直に見たままの感想を口にしていた。遠慮や作法といった言葉は、頭の中にはあるのに不思議に浮かんで来ない。そういった外面を捨てさせてしまう荒々しさがそこにはあるようだった。
「この通路は成長しているのです。時と共に長くなって来ましたのよ」
 雪華綺晶は浮き浮きとしているようにも見えた。
「長く複雑に、そして次第に狭く歪に。まるで何かのゲームのように、終端に向かえば向かうほど閉塞して行きますのよ。──ここからは足元にご注意くださいましね」
 言われた場所からは、それまで広間の中同様に平らだった床から、結晶が飛び出している箇所が出始めた。この分では頭上も注意しなければならない、と真紅は改めてぐるりを見回す。
 先程までとは明らかに様相が異なっている。柱のように林立していただけの結晶が、壁から飛び出すように生えたり、天井から逆向きに伸びたりしていた。しかもそれは先に行くほど益々狭苦しく、殆ど彼女達が歩いて通れるぎりぎりのサイズまで縮小してしまっている。
「お姉様達の言う『この時代』に入ってからの部分は……」
 雪華綺晶は袋小路になっているように見えた部分の向こうに器用に入り込むと、すっと手を伸ばして真紅を導いた。白茨を伸ばして掴まらせるなりしても良さそうに思えるのだが、それは使わなかった。
 真紅が冷たいその手を取ると、彼女は意外にも力強く、そして丁寧に真紅を引き上げる。柔らかいけれども何処か硬質な手だった。
 ごわごわしている、というのとは少し異なる。まるでプラスチックの人形の手のようだった。
「こんな風になってしまいましたの。大変なことですわ」
 どうにか立てる場所に並んで、二人は周囲を見回した。
 それはもはや回廊ではあっても通路ではなかった。四方から結晶が突き出し、見通しは全く効かない。隙間のようなものがどうやら奥へと延びているのだが、その先に何があるのかは分からなかった。
「この回廊は──」
 バランスを崩して倒れそうになった真紅を雪華綺晶が支える。支える、というよりは後ろから抱き締めるような姿勢だった。
 胸の上にあった手が滑り、真紅の頬を撫でる。うなじに雪華綺晶の息を感じる。相変わらず、氷のような吐息だった。
 ありがとう、と儀礼的に感謝を述べてから、真紅は言葉を続ける。
「何を意味しているのかしら。ゲームの沿革とは思えないのだけれど……」
「どうしてそう思われるのですか?」
 まるで服の下のボディを確かめようとするかのように、抱き締めた手をゆっくり、そして次第に大胆に動かしながら──それを愛撫と思えないのは何故なのか、真紅には分からなかった──雪華綺晶は尋ねた。
「ゲームの窮状をこの回廊は示しているように、私には思えますのよ。そう、まるで私達の造物主の苛立ちと焦燥と怒りと悲しみを具現化しているように」
「果たしてそれだけかしら」
 呟く真紅の身体を、服の上からではあるが遠慮なく雪華綺晶の手が這い回る。

 同じ事を他の誰かにされたら、おぞましさに怒って振り払うか、あるいは──まだ、そんなことを許した経験はなかったが──肉欲を伴った快感を得てしまっていたかもしれない。
 自身にそういう感覚が存在するのか彼女には分からないが、あったとしても不思議ではなかった。契約者の鼓動を感じたときの安心感、優しく撫でられたときの心地好さといったものはあるのだから、一般的な官能に近いものがあったとしてもおかしくはない。
 だが、強がりや思い込みでなく、今の真紅は何も感じなかった。快感も無かったが怖気を感じることも無かった。
 服の上からパーツに触られている、としか思えなかった。まるで、自分の身体が人肌のように感覚が通う、柔らかくて暖かい不思議な神秘の──そしてこの上もなく異様で奇怪なのかもしれない──器でなく、ごくありふれた、本来の硬くて脆い陶磁器そのものに戻ったような感覚だった。
 触れているものについても同じだった。少女の繊細な手そのものの動きで、柔らかく、滑らかに蠢いているのに、まるでドールの、指の動かない手が服の上をずるずると動いているように思える。むしろ怖気を感じないことの方が不思議なのかもしれない。
 何かが狂い始めている。いや、既に狂っている。それはこの空間そのものの性質なのか、雪華綺晶の幻覚に支配されつつあるのか、あるいは自分達のありようそのものの歪さが現れているのか。分からない。

 雪華綺晶の好きなように身体をまさぐらせながら、真紅は唇に右の拳を当て、やや顎を引いた。考え込むときのポーズだった。
「ゲームがこの回廊のとおりに行き詰まりかけているとしても、私には別のものを現しているようにしか思えないわ」
 雪華綺晶は手を引き、するりと真紅の前に回った。お互いに顔に息が掛る近さから、彼女はさらに顔を寄せて真紅を覗き込んだ。
「まあ……」
 白薔薇が揺れ、隻眼が優しく、そして無邪気に開かれる。可憐な唇から、冷気と共に柔らかな言葉が紡ぎ出される。
「一体それはなんなのでしょう? お姉様には理解できて私には分からない何かなのでしょうか?」
「そうかしら。貴女には分かっているのでしょう、私をここに連れて来た時から──いいえ、この回廊が延びていくのを知った、遥か以前の時代から」
 真紅はじろりと雪華綺晶の瞳を見た。相手に対する感情の表れていない、強気なだけに見える視線だった。
「この回廊は、貴女の記憶。貴女の心の軌跡──そのものではなくて?」
「うふ……」
 雪華綺晶は微笑んだ。とても無邪気な、そしてこの領域に来てからは感じなかったあの悪寒が背中を駆け巡るのが分かる笑顔だった。
「ご名答ですわ、お姉様」
 白い手がすっと真紅の頬を挟む。顔を引き、後退ろうとして、真紅は踵の後ろに足場が無いことを知った。
「ご褒美に……」
 危うくバランスを取り戻した次の瞬間、真紅の唇は雪華綺晶に奪われていた。末妹の唇は硬く、冷たかった。凍りつくほど冷たかった。


 お互いの得物が激しくぶつかり合い、火花を散らした。
 実のところ、その時点で勝負はついたようなものだった。
 切っ先をまともに受ける形になった鋏には、その部分──連結部に亀裂が走った。だが、それだけだった。突き通すことはできなかった。
 渾身の一撃に全てを懸けていた『水銀燈』の剣もまた、砕けなかった。自分の武器が砕けるほどの速度と力が、彼女には加えられなかった。
 そして、それを握っていられないほどの握力しか、彼女には残っていなかった。
 剣は彼女の手を離れ、漂い始める。それを掴み直す余裕も無かった。
 力無く跳ね返される『水銀燈』に、名の無い人形は役に立たなくなった鋏を投げつけた。どうにかそれを躱すと、そこに『蒼星石』の第二の得物が襲い掛かる。黒い帽子は彼女の胴、それも先程鋏の刃が亀裂を走らせた場所を正確に捉え、軽いが鋭く、容赦のない斬撃を痛んだパーツに加えた。亀裂は穴になり、無事だった場所には亀裂が広がった。
 胴はまだ崩れなかったが、帽子の斬撃だけでも『水銀燈』のバランスを崩すのには充分だった。そこに、今度は彼女自身の武器と同じもの──黒い羽根で形作られた龍がその顎を一杯に開いて迫る。寸前でどうにか同じものをぶつけてそれを食い止めたが、『水銀燈』は強かに何かに背中を打ちつけてしまった。

──扉か。

 痛みこそ感じないが、思うように動かせない身体を無理矢理動かし、その裏に回り込む。その判断は結果的に正しかった。盾にした扉に炎を上げる羽根が無数に当たり、扉そのものが燃え上がり始める。
 手近な別の扉の陰に移動しながら、全ては擬態だったのか、と『水銀燈』は臍を噛んだ。相手は最初から僅かに自分が力で優ることを分かっていたのだろう。
 名の無い人形は最初に真紅に「すぐ行くから」と叫んだことで、決着を即座につけたいと思っている、とこちらに思わせた。それが最初の仕掛けだったのか。
 恐らく間違ってはいないだろう。あの叫びと最初の数合で、『水銀燈』は相手も自分と同じように時間に追われている、決着を早くつけたがっていると錯覚してしまった。
 相手は真紅の後をすぐ追おうなどと考えてはいなかった。むしろ確実に『水銀燈』を倒し、それから次の仕事に掛るつもりだった。
 その後、相手は力と体力で優るのを利用して防御と牽制、反撃に徹した。こちらに派手な動きをさせてひたすら消耗を誘い、自らは余力を残してきたのだ。
 ここに誘い込んだのも、逃げ場を限定するためだ。疲れ果て、片手しか使えなくなった『水銀燈』を屠る段階に入ったということだった。
 まるで蜘蛛か蟻地獄のような、自分と同じ性格とは到底思えない冷静さと周到さだ、と『水銀燈』には思えた。

──まるであの白いドールにそっくりだわ。吐き気がする。

 相手は、もう一人の私、などと思い入れのありそうなことを言っていたが、『水銀燈』にとって雪華綺晶は利用価値があるから──あるいは他に打開策が無いから──手を組むだけの相手だった。何処が似ているものか、と苦々しく考える。不遇な来し方が似ているというのなら、幾らでも似た者など存在するだろう。
 ここで決着をつけたら、『水銀燈』は雪華綺晶の処に向かうつもりでいた。もちろん、相手を倒したとご報告申し上げる訳ではない。急いで行かねばならない理由があった。彼女は雪華綺晶を信用してなどいない。
 しかし、どうやらそれは叶わない事柄となりそうだった。

 焦燥と苛立ち、そして落胆に顔を歪めながら、『水銀燈』は扉から扉へと不規則に移動する。
 この場所は一見防御に適しているように見えるが、実はそうでもない。こうして扉を盾にできるとはいうものの、それは視線を妨害しているだけのことだ。そもそも彼女の技には──
「チィッ!」
 黒い羽根が左右から回り込んで彼女を襲った。概略位置さえ掴めていれば、目視できない位置でも羽根は回り込める。速度が乗ってしまうから水銀燈の羽根や真紅のローズテイルのような小回りの利いた動きこそできないが、威力は比較にならなかった。
 沈み込んで躱す余裕はない。危険は承知で上に飛び出す。果たして、目の前にもう一つの武器、それも彼女が良く馴染んだもの──剣が迫っていた。
 咄嗟に扉の上端を掴んで軌道を捻じ曲げる。右腕の関節がぎしぎしと音を立てたが、飛び出す方向は変えられた。剣は彼女の、もう殆ど動かせない左腕を貫き、それを本来の材質──脆い陶磁器のように砕いたが、致命傷は与えられなかった。
 そのまま更に向きを変え、『水銀燈』は早くも燃え落ちかけている扉に飛び込んだ。その先がどうなっているかなど気にしている余裕は無いし、扉を潜ることが目先を変えることになるだけ、などとも今更考えなかった。
 目先を変えなくてはただ屠られるだけだ。同じ屠られるにしても、何がしかの反撃、いやせめて一矢を報いたかった。

 飛び込んだ勢いそのままに、世界の中を一直線に飛ぶ。幸いなことにそこは空だった。
 地上に当たる部分を一見すると、そこは現実世界の一部を切り取ったような場所だった。長閑な広い草原と林の中に、広大な庭を持つ大きな洋館が建っている。
 庭の一部は薔薇園となっていた。とても良く手入れされて、色とりどりの薔薇が咲き誇っている。

──そう、なんて皮肉。

 そこは、見覚えのある処に良く似ていた。彼女が薔薇水晶と、そして自分の姉妹達と戦い、そして一度は終焉を迎えた場所。
 死に場所には相応しいのかもしれない、と思う。以前は『真紅』と薔薇水晶に殺された。今は自分自身の偽物だ。
「私ほど倒されてばかりの人形は居ないでしょうね」
 自嘲すると、彼女は美しい草原にも豪華な薔薇園にも向かわず、洋館の吹き抜けの天窓に目標を定め、自分の身体でそれを叩き割って中に入り込んだ。相手はまだ追って来ないのか、もう先回りしているのか分からない。
 相手はどうでもよかった。『水銀燈』は吹き抜けの一番底に行きたかった。
 吹き抜けの底で死に、偶然生き返り、意味もなくただ一人芝居のように戦ってまた同じ吹き抜けの底で死ぬ。初めから意味のない復讐と、結局意味がなかった愛情を求めて生きてきた自分には、相応しい最期の形だと思えた。


 夥しい量の黒い羽根が、まだ漂っていた。漂うというよりは滞留しているというのが正しい光景かもしれない。
 ナナは息を呑み、水銀燈は眉根を寄せる。誰と誰が戦ったか、説明されるまでもなかった。
 まだちりちりと燻っている羽根も多かったし、燃えていなくても羽根は鋭利な刃物のように彼女達を傷つける。まだ武器としての性質を失っていないのは、二体の人形の意志の強さを見せつけているようだった。
 ぶつからないように軌道を逸らしてみたが、羽根の海はかなりの範囲に広がっていた。速度を落とし、密度の濃い部分を避けてジグザグに進路を変え、ときにはメイメイと『ベリーベル』の力も借りつつ前進して行くと、世界の扉が見えてくる前に蒼星石が早くも追い着いて来た。
 蒼星石はナナと水銀燈の隣で停止すると挨拶もそこそこに帽子を取り、引っ掛かったり刺さってしまっていた黒い羽根を引き抜いた。頬にも擦過傷ができていたし、肩や腕にも羽根が突き立っている。まるで水銀燈と戦った後のような有様だった。
 頭から滑り込むような姿勢で庭師の鋏を半ば開くようにして前方に出し、鋏と人工精霊の力で顔にぶつかるものだけを反らすか切るかしながら、ほぼ真一文字に進んできたらしい。nのフィールドでは常に時間に追われている彼女には、そういった強引な対処法が即座に思いつくようだった。
 雪華綺晶に対する懸念、あるいはこの件に対する覚悟の違いを見せ付けられたようなものだった。ナナは居心地の悪そうな表情になってしまったが、蒼星石ほど剣呑で便利な得物を持たない水銀燈やナナには、そっくり同じことをしようとしても所詮無理なことでもあった。

「早かったわね」
 水銀燈も苦い表情になる。だが、続いて口に出したのは別の話だった。
「もう少しぐずられると思っていたのに、案外さっさと片付いたのね。唇を塞いで黙らせたの?」
「いや、とてもそんな余裕はなかった」
 蒼星石も淡々と答えながら、複雑な表情になっている。水銀燈の軽口で、彼女が言っている相手以外の、自分の唇を塞いだ人物のことを思い出してしまっていた。
 普段の結菱老人は我儘な年寄りかもしれないが、あることを成すために他のあることを諦める決断のできる人物だったし、蒼星石には優しかった。今回も我を抑え込み、蒼星石に行動と選択の自由をくれた。
 訝しがられるかもしれない、と思いながら、蒼星石は目を閉じて一つ息をついた。彼の想いに答えたい、今度こそ彼の願いを叶えたいという思いが膨れ上がってきてしまう。
「こちらは大分手間取っているようだね」
 蒼星石は諸々の思いを全て胸の内に落とし込み、淡々と続ける。
「むしろ、合流できたことを喜ぶべきなのかもしれないが。僕はこれを真っ直ぐに抜けることしか考えていなかったから」
「流石に黒い羽根のサルガッソはほぼ抜けたと思いたいわね」
 水銀燈は強張った顔を向けたが、すぐに正面に向き直った。呆れたように両掌を上に向ける。
 彼女としては蒼星石の反応がどのようなものでもあまり関係なかった。蒼星石が追い着いて来たこと自体、現実世界での客観的な時間がそれだけ過ぎてしまったことを示している。
 所詮この場所での経過時間は主観の産物であり体感時間でしかないのだが、今回は現実時間でもそれなりの時間を無駄に経過させてしまっていたのだ。
「こんな奇妙な状態は初めて見たわ。一体どれだけ放ったのよ、お互いに」
 黒い羽根は翼から放たれるものの、翼を毟っている訳ではない。それは水銀燈も同じだったが、羽根を集めて巨大な立体物を作ってけしかけたり、途切れなく羽根の雨を降らせ続けるような芸当は流石にできなかった。
「名前のない人形の──あの子の、羽根を集めて龍の形にする大技を『水銀燈』も使えるとしたら、お互いにあれを幾つも放てばこうなるのじゃないかな」
 蒼星石は独語するように呟いた。
「彼女達にとってはこれが当たり前の戦いの跡なのかもしれない。柿崎めぐさんの夢の中でも、こうだっただろう」
 それはやや誇張した言い方だった。あの戦いの跡地でも、流石にここまでの物量は飛散していなかった。
「そうね」
 短く答えながら、水銀燈は漸く利くようになってきた視界を通して正面遥かを見遣った。
 真紅から聞いた範囲では、名の無い人形はあの戦いで疲れ果て、漂うように空を舞っているところを彼女に助けられたという。ベストな状態ではなかったとしても、力を惜しみなく放出した戦いのはずだ。だが、そのときに数倍する物量がここにはある。
 彼女達は文字どおり、死力を尽くして戦ったのだろう。同じ姿、同じ記憶、同じような境遇を抱えた二体が、だからこそ相手を許せずに。

──そして、戦いの果てに二体は何処に行ったのか。

 重要なことではある。だが、今はそれを考えている余裕はなかったし、追っている時間もなかった。
「扉が見えるわ」
 言いながら、水銀燈は火を点した羽根を前方に放った。羽根は同じように見える漂流物の幾らかを燃やしたが、到底全てはクリアにならなかった。
 水銀燈は肩を竦め、自分の前方にメイメイを走らせ、また火の点いた羽根を幾つか飛ばしながら、自分もそれに続く。
「お粗末様だけど、私にはこれが精々。さ、行きましょ」
 ナナはこくりと頷き、蒼星石は鋏を持ち直した。



[19752] 140弱です。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/03/16 19:41
きらきーはエロス担当にしたいんですがねぇ……。

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 長く、強引な口付けだった。ゆっくりと顔を離しながら、唾液の橋を拭おうともせずに雪華綺晶は艶然と微笑した。
「ふふ……お姉様のお口、暖かい」
 口の中で氷の蛇がのた打ち回ったようだ、と真紅には思えた。口腔を犯されたというような官能的な言葉よりも、そんな色気のない表現の方が余程似合っている。
「貴女の舌は随分と冷たかったわ」
 真紅はハンカチで口許を拭った。雪華綺晶はそれを止めず、身体を離して少し前に進む。真紅はまたバランスを崩しかけたが、一人で踏み止まれた。
「その身体、あまり出来が宜しくないようね」
 水銀燈のように歯に衣を着せず、真紅は感じたままを告げる。
「もっと細部に拘っても良いのではなくて? 貴女が自由に作り替えられる幻影なのだから」
 鎌を掛けたつもりはなかったが、雪華綺晶は何も言わずに微笑を残して前を向いた。何処か違和感のある態度だった。
 無言のまま結晶の隙間を潜ると、ついて来いというように片手を真紅に伸ばす。真紅がその手を掴むと、雪華綺晶はまた丁寧に力強く真紅を引っ張り、あまり狭いところを通り慣れていない彼女を上手に先導した。
 身体中をまさぐられ、強引に口の中を舐め回されたというのにも関わらず、真紅は雪華綺晶の手を拒む気分にはなれなかった。かといって快楽に身を任せようという訳でもなければ、捨て鉢になってしまっているつもりもない。彼女に操られているような気分でもなかった。
 仕方のない妹だ、と思う気持ちが一番近いのかもしれない。この子は他人との距離の取り方をまるで知らないのではないか、という肯定的な疑念も湧き上がって来る。
 いや、そこまで安易に許容してはいけない、と相変わらず冷たすぎる手を頼りながら思い直す。ここまで見てきただけでも、雪華綺晶が圧倒的な力と子供のような容赦の無い残虐性を持っているのは間違いないのだから。

──彼女の行動は一続きなのに、態度がまるで一貫していない、それだけのこと。

 時折見せる、ぞっとするような空虚で無邪気な微笑と、手を繋いだときの感覚と、どちらともまた異なる、あの身体中をまさぐり、口に侵入してきたときの無機的としか言えない感触。あまりにもばらばらだった。
「……楽しいですわね」
 呟くように小さな声で言い、真紅を引き上げてにこりとする雪華綺晶は、どの面を見せているのだろう。あるいは、どの状態なのだろう。
「もう少し通り易ければ言うことはないわ」
 真紅が返すと、雪華綺晶は小首を傾げ、首を振る。
「私はこんな処をお姉様とご一緒することも楽しいと思っておりますの。一人ではない、そう感じられるのはとても嬉しくて楽しいことでしょう?」
「ええ、そうね」
 澄ました顔で肯定しながら、そうか、と真紅は内心では別のことで頷いた。何かをおぼろげに理解できたような気がする。
「でも、ここは険し過ぎるのではないかしら。もう少し広くて曲りくねっていなければ素敵な回廊なのでしょうけれど」
「もう少しです」
 雪華綺晶は前を向き、隙間を潜りながら言った。
「あと少しで『いま』の回廊が終わり、次の間に辿り着きますわ。そこにお見せしたいものもございますのよ」
「それは待ち遠しいことね」
 真紅はつい、あけすけに期待していない口調になってしまう。何が待ち受けているかは分からないが、それは自分を驚かせることはあっても楽しませることは有り得ないとしか思えなかった。
「一体それは何かしら」
「着いてみてのお楽しみです、お姉様」
 雪華綺晶は振り向かず、進むのを止めようともしなかった。真紅と握り合った手に殊更力を篭めることもない。
「苦労して辿り着くだけの価値のあるモノですわ。ここでしか見られないものですもの」
 きっとお気に召しましてよ、と言う声は、無邪気なものだった。あの、背筋が寒くなる無邪気さのように思えたが、真紅の心には強烈な感情ではなく、何処かうら寂しいような気分だけが湧き上がってきていた。


 ジュン達三人は世界樹の葉に乗り、翠星石が舵取り役で進んでいた。
 自分達が一番遅れている、という意識は全員が共有していた。だから翠星石はこれまでにないほど急いで世界樹の葉を走らせていたし、殆ど飛ばされそうになっても、ジュンも雛苺も文句は言わなかった。
 それが急に止まったのは、前方に何やら黒い靄のようなものが見えたときだった。ぴん、という音と共に、世界樹の葉に何かが当たった。
「なんだあれ……」
「羽根! 水銀燈の羽根なの」
 雛苺はぶつかった物を葉から引き抜いた。ジュンに見せると、何かを思いついて急に自信のない声になる。
「あ、でも水銀燈のじゃない……かも」
「あいつの、か」
 水銀燈がよくやっているように、受け取った黒い羽根の軸を持ってくるくると回しながら、ジュンはなんとも言えない気分になった。
 前方にある靄のようなものが大量の羽根なのは間違いない。ということは、あの人形か水銀燈が何かと戦ったことを示している。
 ここのところ毎日、不平と悪態を言い続けながら、あるいは何も言わずにそっぽを向きながら、それでも毎晩部屋に戻り、毎朝一緒に朝食を食べていた人形。
 ジュンの同級生の少年の夢の中から現れ、何人もの手助けがあって完成したと思ったら捨て台詞を吐いて逃げ出した、恩知らずの人形。
 ローゼンメイデンではないが、彼が製作──と言っていいのかは微妙ではあるが──の一部に関わった唯一の、動く人形でもあった。
「多分、あの子と真紅は一緒に居るの。だから、もしかしたらこの中に……」
 雛苺は半ば恐慌に駆られたように早口で言う。既に翠星石と仮契約は結んでいるものの、今まで数ヶ月の間ずっと繋がっていた真紅との糸が切れて不安になっているのだ。今までのようには真紅の居場所を感じられないだけでも落ち着かなかった。
「ねえジュン、二人ともこの中にいるのよ。きっとそうよ」
「そんなことありえんです。だって真紅の気配はここには──」
 反射的に二人を振り向き、否定の言葉を半ば口にしたところで、翠星石ははっと息を呑んだ。
 数ヶ月起居を共にしてきたことで、真紅の気配を感じているのは当たり前になってしまっていた。気配がなければそこには居ない、というのが半ば当然になっていた。
 仮契約を結んでいた雛苺ほどではないが、翠星石も契約者を同じくする真紅とは細い繋がりを持っていた。細いとはいえ他の姉妹達の存在を薄ぼんやりと知るのとは異なる感覚であり、契約者を別にしてしまった蒼星石よりもはっきりと感じていたのかもしれない。
 しかし、真紅は契約を解いてしまった。その繋がりがなくなったことで、翠星石は真紅の気配を感じられなくなっているだけなのかもしれない。
 翠星石は黒々と広がる羽根の海を見遣った。視界は全く利かない。この中に何かが漂っていても、近くに行かなければ確認はできないだろう。
「──居たとしても、どうやって見付けたら……」
 ジュンがいる、というのも今は空しかった。契約を解かれてしまったのは当のジュンなのだ。

「──大丈夫よ、それはないわ」
 唐突に後ろの方から落ち着き払った声が響いた。
「真紅は雪華綺晶のアジトに向かったはずだもの。ここで戦ったのはあの人形と、『水銀燈』かしら」
 傘を広げて近付いてきたのは、金糸雀だった。彼女は悠然と世界樹の葉にふわりと降り立つと、傘も畳まずに、翠星石の前、葉を舟に喩えれば舳先に近い部分にずうずうしく座を占めた。
「本当ですか?」
 翠星石が詰め寄ると、間違いないわ、と金糸雀は頷いた。信じていいのかとジュンは首を傾げる。嘘をついているとは思えないが、常日頃雛苺ときゃあきゃあ言いながら遊んでいた姿を知っているから、どうにも危なっかしいように見えてしまう。
 だが翠星石や雛苺は別の思いを抱いたようだった。あまり面白くなさそうな表情ではあったが、翠星石は真剣な面持ちで頷いた。
「……信用しますよ、金糸雀」
「ありがとう。お役に立てて嬉しいかしら」
 金糸雀は莞爾と笑みを浮かべる。ジュンがあまりに簡単に彼女の言葉を受け入れてしまった翠星石に何か言ってやろうとしていると、雛苺が彼の服の裾を引いた。
「カナがこれからの見込みじゃなくて、姉妹に今まで起きたことをほーこくするときは、間違ってたことないのよ」
 信じてあげてほしい、というよりは、そういうものなのだ、と告げるような雰囲気だった。
「これまでの時代、ずっとそうだったの。誰と誰がいつ起きていたとか、戦ってどうなったとか、ヒナは全部カナから聞いて知ったのよ。そして、嘘だったことなんてなかったの」

 金糸雀の目覚めている時代は、他の姉妹の大部分とは大抵ずれがあった。だから、金糸雀は全ての戦いの詳細を把握している訳ではない。しかし、あっけらかんとした顔で、ときには如何にも聞いてやるといった態度で、彼女は雪華綺晶以外の全ての姉妹から情報を収集していた。
 肝心の自分から何か行動を起こすときはどじを踏んでしまっても、金糸雀は情報を集める能力については──それは多分、彼女が生まれつき持っていたものではなく、必死になって獲得し、構築したものなのだろう──姉妹の中でも抜きん出ていた。それは聞き取りには限らない。ある意味で人工精霊を最も働かせているのは金糸雀だった。
 雛苺はそういったことまでは説明しなかった。ジュンも今はそこまで深く考察することも見通すこともできない。
 ただ、何か二人とも無条件に信用できてしまうような裏づけが金糸雀の言葉にあるのだろうということは理解した。それは今回も正しいとは限らないが、二人が信用しているなら余計な波風を立てるべきではなかった。今は時間が惜しい。

 それはいいけど、とジュンは金糸雀に視線を戻す。
「お前、なんでそこまで知ってんだよ」
 ジュンはむっとした表情を隠そうとしなかった。
「カナの情報網を甘く見ないで欲しいってところかしら」
 金糸雀は飄々と片目をつぶってみせた。
「遅れちゃったのはちょっと残念だけど、ここで出会えたのも何かの縁かしら。一緒に行きましょう、真紅のところに」
「お前……」
 ジュンは胡散臭い人物を見るような視線で金糸雀をじろじろと眺めた。
 金糸雀の情報が完全に事実とは限らない。また偶々知っているからといって、この少女に何ができるのだろうか、とも思わなくもない。
「あら、お嫌ならこの黒い羽根の塊が拡散するまで待つか、端の方まで言って迂回してみる? 時間がないなら、カナがお役に立つと思うんだけど」
 金糸雀は広げたままの傘を左手に持ち、進行方向に向けた。それは一瞬でヴァイオリンに変化し、金糸雀は手品のように伸ばした左腕の上でそれを半回転させると、顎で受け止めて右手の中に現れた弓を当てる。
「全ては無理だけど、ある程度長さのあるトンネルなら作れるわ。翠星石、葉を走らせてみて」
 翠星石が途惑っていると、金糸雀はにっと笑ってヴァイオリンを弾き始めた。まずは見てみろという意思表示のようなものらしい。
「旋風のトリル……第一楽章」
 激しい旋律が響く。だが、ジュン達の方向には音も異変もほとんど届かなかった。
 ヴァイオリンの、弦を弾く音まで含めた旋律が向かったのは、舳先の前方だった。金糸雀が呟いたのが曲名なのか俗名なのかは分からないが、確かに旋風が巻き起こり、前方の羽根を散らし、弾き飛ばしてある程度の穴を穿っていた。
「如何かしら。お気に召しまして?」
 金糸雀は得意気に胸を張る。確かに、それだけの価値はありそうな技だった。
「たまには役立つこともあるですね。見直しました」
 失礼なことを言いながら、翠星石は勢いよく葉を発進させた。立っていた金糸雀はバランスを崩し、頭を下げた翠星石の脇を通り越してジュンの腕の中に転がり込んでしまう。
「翠星石急発進し過ぎかしら。即売会に行くときのみっちゃんでもここまで酷い発進はあんまりしないわ」
「なにやってんですか、弾き続けるですっ」
 文句を垂れる金糸雀に、翠星石は振り向いて怒鳴った。
「ジュンに抱っこされる権利を貸してやりますから、ここを抜けるまで旋律を止めるなですよッ」
「そんな権利、いつ出来たんだよ」
 半ば呆れながらジュンは呟いたが、翠星石は前を向いたまま後ろ手にVサインをしてみせただけだった。
「もう……人遣いが荒過ぎ。真紅以上かしら」
 金糸雀はぼやきながら、しかしちゃっかりとジュンに身体を預けて器用にヴァイオリンを弾き始める。都合四人を乗せた世界樹の葉はまた勢い良く進み始めた。


 殆ど落下するように『水銀燈』は吹き抜けの床に辿り着いた。いや、衝突した。痛む右腕は使えなかった。左腕一本を突いて衝撃を和らげるしかなかった。
 確かに衝撃は和らいだが、上腕部の半ばまでしかなくなっていた左腕は遂に完全に壊れ、肩の球体関節からもげてしまった。そのまま無様にごろごろと床の上を転がり、仰向けになって止まる。自分の壊した吹き抜けの明り取りの硝子の破片の上で、彼女は真上を見た。
 右手で胴に触れると、それも酷く割れていたが、まだ完全には砕けずに彼女の胸と腰のパーツを繋げていた。
 胴より腕が先になくなるというのは、彼女にとっては奇妙な感覚だった。胴など繋がっていなくとも動けたし、動いてきた。だが、なくなった腕の役目は他の部位では果たせない。それが残念だった。
 まだ相手は姿を見せていなかった。
 奇妙な話だった。追って来たのなら既に彼女を捕捉するか、そうでなくてもここの異状に気付いても良さそうなものだった。

──見逃された?

 それでは辻褄が合わないではないか、と思いながら、そう思えるだけの時間が与えられていることそのものが相手が迫ってきていない──雪華綺晶の処に向かったことを示しているようにも見える。
 それだけはいけない、と『水銀燈』は思った。阻止しなければならない。
 痛み、バランスの崩れた体を無理矢理に動かし、彼女はどうにか座り込むような姿勢になった。右にぐらりと傾いてしまうのは、上半身の重量のバランスだけではない。胴部のパーツがいよいよ崩壊を始めているのだ。
「──こんなもの、あったって何の役にも立ちゃしないわ」
 自嘲気味にそう言うと、彼女は自分の忠実な人工精霊を呼んだ。紫色の光はすうっと漂い出て、彼女の得物を召喚した。
「みっともないことこの上ないけど……」
 『水銀燈』は右手で剣を持ち、腹を目掛けて思い切り良く叩き付けた。
 痛みは感じなかった。二度目に何かが軽くなったような手応えがあったと思うと、三度目に陶磁器の壊れるときの甲高い、そして何処か軽くて虚ろな音がして、彼女の身体はすっと軽くなり、そして布の裂ける音と共に上半身が左側に落ちた。

「……随分軽量化したモンじゃなぁい」
 ゆらり、と吹き抜けの上に黒い姿が現れたとき、『水銀燈』は剣を杖に床に立っていた。久しぶりに、そしてコルセットを付けていない状態では初めて、胴が無い状態で二本足でしっかりと立っていた。自分で自分の腰のパーツの内部が見えるのは、流石に奇妙な気分だった。
「遅かったわねぇ」
 何故時間が掛ったかは分からないが、雪華綺晶の所には向かわなかったらしい。見上げる笑顔に安堵の気分が混ざらないように注意しなければならなかった。
「ゆっくりさせて貰ったのよぉ。御免遊ばせ?」
 逆光でよく見えないが、名の無い人形は確かににたりと笑ったように見えた。
 笑みと共に予備動作も何も無く黒い羽根が襲ってくるのは予想していたとおりだった。それは彼女自身の戦法だったから。彼女はそれに逆らわず、然程多くはないが青白い炎の点いた羽根を放って迎撃する。緊密な羽根の一群は、『水銀燈』に襲い掛かる中途で燃え上がり、すぐに燃え尽くした。
「頭を使うようになったものねぇ、偉い偉い」
 名の無い人形は嘲弄するような言い回しをしたが、『水銀燈』は反応を返さなかった。頭の中に何かが引っ掛かっているが、それよりも怒り狂うことに割くだけの体力が残っていなかった。
 名の無い人形もそれ以上羽根を舞わすことなく、床に降り立った。青い人工精霊がすっと近付き、手の中に金色の鋏が出現する。
「最後は斬り合いでいいかしら?」
 鋏がまた最大限に開かれ、そして──亀裂の入っていた連結部が壊れ、二つに分かれる。名の無い人形はその片方を後方に投げ捨てた。バランスは悪いものの、片刃剣のように刃を持った武器が手の中に残った。
「……アナタは体力がない。わたしには時間がない。一撃で決めさせて貰うわ」
「望むところよ」
 『水銀燈』はにやりとした。
 相手は本人の言葉どおりなら時間に切迫しているらしいが、そちらは言葉の綾だろう。しかし、改めて見ると予想外に消耗しているように見えた。勝機がある、とまでは思わないが、どうやら斬り合う形にだけはできそうだった。
 致命傷などとは望まない。パーツの一つ二つ、いや深い傷の一つもくれてやれば御の字だ。何も出来ずにただ壊れるよりは余程ましだった。
 ずたずたになった濃紺の衣装とお互いの黒い羽根を体中に突き立てた二体の人形は、これで何合目になるか分からない、そして確実に最後の斬り合いのために間合いを取った。

 建物の外を、穏やかな風が渡って行った。
 武器を打ち合う音はなかった。誰かがこの世界に居て聞いていたとしたら、ただ一度だけ陶磁器を落として割ったときのような音が聞こえただけだったろう。



[19752] 150程度。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/03/20 21:53
漸く一方面の終結。

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 回廊の最後の曲がり角をまさに這いずって抜けると、そこはまた広間のような場所だった。
 本当にドレスが痛んでしまうわ、と言いながら立ち上がって周囲を見回す。床が透明に近いクリスタルなのは最初の広間と同じだったが、壁には水晶の六角柱を磨いて斜めに大きな平面を出したようなものが林立していた。
「見せたい物というのはどれかしら」
 もう一度、ややわざとらしくぐるりを見渡して真紅は雪華綺晶の背中に声を掛ける。
「磨いたクリスタルは素晴らしいけれど、そんなものではないのでしょう?」
「ええ、もちろんですわ」
 雪華綺晶は振り向いてまた真紅の手を取った。
「こちらにいらしてくださいまし」
 その手首から、いきなりざわりと白茨が這い出す。
 真紅は咄嗟に手を振り解き、身を引いて逃れようとしたが、速度が比較にならなかった。まるで腕が伸びて手が肥大化したように、雪華綺晶の白茨は真紅の両手両足を絡め取っていた。
「あら……」
 片手を突き出したまま、さも意外そうに雪華綺晶は目を見開き、手首の球体関節の隙間から伸びている白茨を見遣った。まるでその視線と拍子を合わせるかのように、手首から先がぽろりと外れ、軽い音を立てて彼女の足許に転がった。
 美しく丁寧に、爪まで綺麗に作られた、ドールの手だった。

「まあ、先程まではどうしてもだめでしたのに。漸くあちらの決着がついたようですわ」

 落ちた手首のことなど一顧だにせず、くすりと笑って真紅を見遣る。
 どこか哀しいような、それでいて征服感と意地の悪さが同居した視線だった。これまで見せなかった目の表情だった。
「でも、このボディはもう使えませんわ。やはり上手く馴染んでくれないものですのね」
「……何を言っているのか分からないわ。手順良く説明して貰えるかしら」
 真紅は両手と両足に白茨を巻き付けられたまま、如何にもそれを気にしていないと言うような口振りで尋ねる。
 開き直りか虚勢だということは、本人が一番よく承知していた。ただ、今はその姿勢を崩すつもりはない。うろたえたり拘束を解けと言ってみたところで雪華綺晶の態度は変わらないだろう。
「うふ……せっかちですのね、お姉様」
 一歩近付き、まだ残っている方の手で雪華綺晶は真紅の頬を撫でる。
「でも、まずはご覧下さいな。お姉様にはお懐かしいはずのモノですのよ、とても」
 そのまま、白茨を伸ばしている方の腕をぐいと引く。平衡を失って真紅は前のめりに倒れ、雪華綺晶の胸に抱き止められる恰好になった。
 相変わらず冷たい、そして柔らかく動いているのに硬い身体だった。真紅自身の体温が──それも恐らく観念的なものなのだが──見る間に奪われていくように錯覚するほど、冷たい身体だった。
「ああ……暖かい。これが本物の、私達姉妹のボディですのね。何度触れても飽きませんわ。そして、とても愛しくて羨ましい……」
 雪華綺晶の片手がまた真紅の身体を撫でる。それは先程のように強引に官能を与えようと試すような動きではなく、背筋を上から下へと確かめるように這った。
「薇……」
 丁度ドールの指が入るか入らないかの、真鍮で強化された薇巻きの穴にいとおしげに触れ、雪華綺晶はそこで手を放した。
「巻いて頂いた方達のことは覚えていらっしゃいますか?」
「ええ、覚えているわ」
 真紅は溜息と共に答えの言葉を吐き出した。
「最初のマスターから、ジュンまで。いつも思い出し続けてはいなくとも、忘れることはないもの」
「その思い出は、お姉様の肥やしです。お姉様はそうして、ご自分の苗床を幾つもお作りになりました」
 雪華綺晶は真紅を抱きかかえながら、床を軽く足で蹴った。二人はふわりと宙に浮き、少し離れたところで軽く着地する。上下の感覚は確かにあるのだが、重力というものがあまり感じられない動きだった。
 真紅を拘束している白茨が緩む。背中に回された手もすいと引かれ、それが床の下を指した。
「よくご覧になって……面変わりしている方も多いでしょうけれど、これは全て──」

 予期はしていた。事前に概ね知らされてもいた。
 だからこそ、あることに気が付くまで、真紅は内心の何処かで雪華綺晶をずっと、潜在的な脅威というだけでなく「敵」として認識していたのかもしれない。
 そこには水銀燈が指摘していたよりもずっと多くの人々が、棺の中に横たわるように眠りに就いていた。
 多くは老人だった。しかし、あるグループだけは明らかに違っていた。

 真紅は口に手を当て、その場に蹲った。
 見覚えのある人々。少女から老境に差し掛かった人物まで様々だったが、それは確かに彼女の過去の契約者達だった。
 歳を経てしまった人物はいる。だが、それでも皆、まだ老衰するには若過ぎる年齢に見えた。
 震える身体を動かし、白茨をずるずると引き摺りながら、真紅は一際若い少女の処に転げ込むように近寄った。
 彼女の二つ前の契約者の少女は、別れた時殆どそのままの姿で、クリスタルの中に横たわっている。それはつまり──

「──その方は、とても正直な心根をお持ちだったのでしょう。お姉様とお別れをした翌月には此処にお連れしましたのよ」
 雪華綺晶の声は何等の感情も含んでいなかった。少なくとも真紅に対する感情は何も感じ取れなかった。
「お若かったし、時代の割には医療の面でも恵まれた環境でいらしたのでしょう。随分長いこと、糧になっていただきました。客観的時間で216896時間47分37秒の間、楽しい夢を見せて差し上げました……ご本人の主観時間では、恐らくその数倍から数十倍の間、お姉様との楽しい時間を過ごされたことでしょう」
 肩を震わせている真紅の背中に、慰めるように冷たい手が置かれる。
「お姉様との生活は、それだけ楽しく、懐かしく、意義深く、失ってすぐ取り戻したいと思うに足るものだったのです」
「そう……」
 真紅は小さく少女の名を呼び、動かないその顔を見詰めた。216896時間もの間、身体に変化がなかった訳はあるまい。この表情、外見は、雪華綺晶が彼女の意識を攫ってこの場所に幽閉したときのままなのだろう。
「……ごめんなさい」

 狂っている、と思う。この空間でもなければ、雪華綺晶でもない。

 人工精霊が契約者を選び、薔薇乙女が契約を結び、そして捨て去る。そこには彼女達の造物主の、至高の少女を求める飽くなき執念があるのだろう。
 捨て去った後の契約者達が現実よりも夢、現在よりも過去を強く望んだとき、雪華綺晶はそれを糧とすることができる。
 薔薇乙女達の眠りと目覚めは予定されたスケジュールに則ったものではなかった。少なくとも姉妹の誰にも知らされてはいなかった。だから、雪華綺晶は糧となり得る対象は全て確保し、それを自らの苗床として生き延びてきた。
 ここに眠っている姿の中に老人が多いということは、糧として使える期間がそれほど長くないことも意味している。
 ありようの特異さ故にゲームにおいて裏方の仕事に組み込まれた雪華綺晶は、組み込まれたが故にいつ糧が断たれるか分からない不安を抱えながら生き延びてきたのだ。他の姉妹のお下がりの心を啜りながら。
 そんな危なっかしいゲームの舞台袖の更に裏側には、契約者達の──とりわけ、雪華綺晶の糧になった人物の人生が犠牲となって積み重なっている。

 この空間の全ては、造物主が至高の少女を作るための生贄のようなものだった。

「罪の意識をお持ちになる必要はありませんわ、お姉様」
 雪華綺晶はまた後ろから真紅を抱きすくめるような姿勢になっていた。
「逃げ出したくなるような周囲、捨てたくなるような今、投げ出したくなるような現実。そういったものが出来したとき、お姉様達と契約するような適性のある人々の多くは優しくて暖かい過去に逃げ込み、閉じ篭るのです。あるいは過ぎ去りし日を、自分の永遠のお人形を、回想の中だけでなくもっと具体的な形でまた求めてしまう──」
 雪華綺晶の手が動いた。また真紅の身体を求めるように撫で回すのかとも思えたが、意外なことに雪華綺晶は真紅の前に回り、彼女を立ち上がらせた。
「──その望みを叶えられたのですもの。望むべくもない、完全な形で。私は可哀想で哀れで贅沢なこの方々に、その心と記憶を啜る代わりに、彼等の好きなように何色にも染めることの出来る真っ白な薔薇を差し上げてきたのですから」
 それもまた事実の一側面であり、恐らく雪華綺晶にとっての真実だった。
「目覚める必要のない、痛みも悲しみも苦しみもない、完全に制御された愉しさと優しさと美しさだけの世界。望むように足し引きが可能で、望まれたように展開してゆく世界。素晴らしいとお思いになりません? そんな永遠の──死ぬまで続けられるおままごとは」
 そのとおりだった。実に素晴らしい。彼等の視点から見れば。

──でも、それではいけない。

 真紅は首を振った。自分の考えていることが何か一線を越えようとしているのは分かっていたが、首を振らざるを得なかった。
 病院に搬送され、意識を失っているオディール・フォッセー。彼女は糧である前に雪華綺晶の契約者だが、それでも独りで生きて、独りで病院に行って眠っている訳ではない。
 ジュンにしてもそうだ。引篭もっている彼は、ある意味で雪華綺晶に糧とされた状態に近いとも言えるだろう。それを彼の姉は心配し、不器用ながらどうにか良い方に向かわせようと必死だった。
 巴もジュンの復帰がスムーズに行くように手を貸しているし、一見無関心そうに見える水銀燈の媒介の少年も、自分の夢の中ではジュンの再登校を願っていた。彼は一歩引いて見守ることを選んでいるだけで、ジュンのことをどうでも良いと考えている訳ではないのだ。

 薔薇乙女は独りだ。だが、契約者には誰かが居る。その人物を不幸に落とし込んで良いのか。
 たとえ親しい人物が誰も居なくとも、糧として生命を保って行くためには、誰かの手が必要だ。そして、その手の持ち主は決して報われない。一旦雪華綺晶の糧となったら、死んでしまうまで意識が戻ることは二度となかったのだから。
 いつも考えているような、社会の一員がどうこう、というほどの大上段に構えた広い話ですらなかった。しかし、そんな卑近で小さな事柄が、今は大切に思える。

──そう。だから私は、どれほど危険でも、この末妹に無機の器を与える必要がある。

 その方針は間違っていなかった、と真紅は思った。翠星石が最初に意図したのとはまた少し違うかもしれないが、雪華綺晶に無機の器を与え、今現在その糧となっている者──オディール・フォッセーだけでも救わなければならない。
 無機の器は異界の第七ドールのボディなどではなく、同じようにゲームに加わり、そして無自覚に犠牲者を生んで来た自分達姉妹のものでなければならなかった。
 どちらがより良く適合するのかどうかなどは関係ない。それが最低限の義務だ、と真紅には思えた。

「ゲームの外の世界がマスターと薔薇乙女だけで成り立っているのなら、確かに素晴らしいことだわ」
 一歩距離を置いて、雪華綺晶に強い視線を向ける。
「でも、マスターの周囲に居るのは薔薇乙女だけではないのよ。数は多少があるでしょうけれど、マスターが糧となってしまったら周囲の人々にも負担が掛る。悲しむ人も居れば、回復の見込みのない介護を続けざるを得なくなる人も出てくるでしょう。それは──」
 水銀燈なら、アリスゲームの負の側面だ、それが私達なのだと言い放つだろう。何故かそんなことを真紅は思った。思ったが、言葉を止めることはなかった。
「──お父様が仰った、私達の力は人間を傷つけるためにあるのではないという言葉にも反するのだわ」
「……それは」
 雪華綺晶は微笑んだ。

「理想論ですわ、お姉様。
 太古の昔や無人の孤島に居るなら兎も角、人は誰でも生きて行くだけで誰かしらに負担を掛けて過ごして行きます。いいえ、死んだときの葬儀に至るまで。
 契約者の素養を持つような、豊かで恵まれていて孤独な人々ならば、尚更でしょう。例えばお姉様のこの時代のマスターのような方は、その典型とは申せませんか?
 糧となったところで、そういった関係が少しばかり一方的なものに形を変えるだけの話ですわ。
 そして、契約者となるべき方々は、少なくとも選別される時点で経済的には一人の寝たきりの人物を養って行くことに窮することがないか、そもそも人形は好きでもそこまで心根の弱くない方と決まっているのです」

「──そうね、そうかもしれない」
 真紅は視線を外さなかった。ジュンのことをこういう形で持ち出されたことは彼女の気分をちくちくと刺激したが、その刺激自体も幾つもの面を持っているのは分かっている。単純に怒ったり落ち込んだりするような種類のものではなかった。

「でも、たとえ大きな負担を掛けて生きていたとしても、意識を持って現実に存在していれば、いつか掛けた負担以上の何かを与えることは可能かもしれない。与えられなくても何等かの形で返すことはできる。
 それは有形のものや、具体的な金銭に換算できるものではないかもしれないけれど、何かを返すこと、返せること自体が重要なのだわ。
 意識を別の場所に閉じ込めてしまっては、もはや何も返すことができない。自分がどれだけのものを与えて貰ったかも知ることができないのよ。
 それはとても歪な状態だわ。──他の人々から見れば死んでいるのと同じなのよ」

 雪華綺晶は隻眼を真紅に向けたまま、黙って小首を傾げた。感服して聞き入っているようにも、それも理想論に過ぎないと笑っているようにも、あるいは彼女の言葉に全く関心がないようにも見える仕種だった。
 真紅は自分から視線を外し、斜め下に向いて息を吐いた。
「平行線なのでしょうね、このことについては、何処までも」
「一つの事実の表と裏です、お姉様」
 雪華綺晶はぽつりと言った。
「黒薔薇様がお好きそうな言い方をすれば、私は自分が糧を得て来たことを正当化しようとし、紅薔薇のお姉様はご自分達の罪を見て見ぬ振りをして私を詰っている──それだけなのでしょう」
「私は自分の──」
「──いいえ。お分かりのはずですわ、お姉様」
 雪華綺晶は真紅に喋らせる隙を与えなかった。やや顔を上げ、遠くを見るような目で独語するように言う。
「お姉様の知らぬ振りを今更詰ろうとは思いません。けれどお姉様が仰りたいことだけでも、私にとっては命を絶てと言われることに他ならないのです。そして、それはアリスゲームを終わらせてしまお……うと……」

 言いかけて、雪華綺晶は急にがくりと膝をついた。操り人形の糸が切れたような、唐突な動きだった。
「雪華綺晶」
 白茨は相変わらず絡みついたままだったが、真紅は雪華綺晶に近付いた。動きにくくはあるが歩けるほどには茨のテンションは下がっていた。
「一体何がどうなっているというの」
 雪華綺晶は膝をついた姿勢で上半身をぐらぐらとさせていたが、片手で真紅に縋りつき、どうにかその胸の辺りにもたれかかった。白茨が伸びている方の手はだらりと垂れ下がり、肘と肩の球体関節からも白い蔓が伸び始めていた。
「もう、ボディが持ちませんの。先程も申し上げたとおりですわ。馴染まないのです、どうしても」
 事も無げに雪華綺晶は言った。他人事のような言いようだったが、言っている間にも真紅の胸に押し付けられていた顔が少しずつ下がって行く。
「しっかりしなさい、自分の領域で何故こんなに……」
 真紅はずるずると落ちていってしまいそうになる雪華綺晶の身体をどうにか抱きとめた。
「馴染むも馴染まないも、元々貴女の作ったボディではないの? これまでと何が違っているの」
 それとも、ボディを作るということは雪華綺晶にとって常にこういったリスクを負っている行為なのか。分からないが、今の真紅にはくずおれる末妹を抱きかかえるしかなかった。
「隣の間に連れて行っていただけますか、お姉様。完全にボディが私と関わりを拒否するまでは、この不安定な状態が続いてしまいますから」
 真紅の言葉は無視して、図々しい言い分を雪華綺晶はさらりと言ってのけた。
「いいえ、いいえ悪いようには致しませんわ。あちらにも、見ていただきたいものはございますから」


 天窓から雪が舞い込んでいた。青く、高かった空は急に暗くなり、雪を降らせている。
 寒かった。どういう気紛れな天気なのか、と思うほどの急変だった。
「少しだけ、聞かせてくれなぁい?」
 吹き抜けの底で、片方が尋ねた。かさついた、風が吹けば消えてしまいそうな声だった。
「アナタ、どうして雪華綺晶を殺そうとしてたの」
「……昨日の晩」
 もう一方が力ない声で答える。
「あちこちの世界に分散していたはずなのに……あっという間だったわぁ」
「それを取り戻すため……?」
「そう言えば聞こえは良いでしょうねぇ」
 ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。
「逆よ……いい気味だと思った。一人一人に別れてそれぞれが『アリス』を目指すなんて……不可能だったのよ、最初から」
「でも、『真紅』はそれを目指していた」
「頭が良すぎるのよぉ、アイツは。……全てを持っているから、ほんの少し足りないだけで、もうほんの少しで『アリス』に成れるから、分かんなかったのよ。ざまぁ見ろだわ」
「わたしを倒して、集めた『ローザミスティカ』を使って雪華綺晶を倒す……」
「あの女がわたしに渡さなかった残りの『ローザミスティカ』を奪い……第七の持つ最後の二つを奪って……あの第七なんて、手もなく捻れるはずだもの」
「そして、めぐに?」
「今更他にどんな意味があるっていうの、こんな光るだけの石ころに」
 周波数の高い音が響き、いっとき、吹き抜けの底が明るくなった。それが収まると、がちゃり、という音がした。
「わたしはねぇ……あいつを許せなかった」
「どうして?」
「自分の勝手でわたしを作っておいて、自分の勝手にならないと知ったら躊躇なく殺した……主観時間では永遠のようだった、あの楽しい暮らしも、二人だけで彷徨ったあの時間も、全て、全てがあいつの掌の内でしかなかった。何もかも、あいつの遊びのうちだったなんて」
「それだけ?」
「それだけよ。水銀燈の目論見をぶっ壊すなんて、あのぬるい場所から逃げ出す口実でしかなかった。現実世界で不完全なボディを得たときから、わたしの考えてたことは一つだけだった」
「ほんとうに?」
「……ほんとうよ」
「嘘だわ。あなたはもう気付いてる。あなたは還りたいだけ、戻りたいだけ。悲しいくらいのお馬鹿さぁん。素直になれる勇気もなくて、ただ、破壊衝動だけに全てを託してる。でもね……」
 がさり、という音がした。テーブルクロスの掛ったガラスのテーブルに文鎮を置き、それを不器用に動かしているような音がかすかに聞こえた。
「そこまで、わたしとそっくりだった。お馬鹿さんな『水銀燈』、壊すことしかできない、可哀想な作りかけの人形に……」
「そのくらいで、いいわ。後はゆっくり聞かせて貰うから。時間がないんだもの、目的を果たしに行きましょう」
「……それから後は?」
「それから後なんて、決まってるじゃなぁい」
 ばっ、と黒い羽根が飛び散った。
「わたしにもあなたにも、戻るところは一つしかないけれど、一つだけはあるんだもの」

 暗い空に、黒い翼が勢い良く舞い上がり、天高く上昇して行く。
 吹き抜けの底には、瓦礫のような破片と黒い羽根だけが残っていた。
 やがて太陽が顔を出した頃、吹き抜けの底に黒い燕尾服の紳士が姿を見せた。吹き抜けの真ん中までやってくると、紳士は天窓を見上げた。
 何処に引っ掛かっていたのか、黒い羽根がひらひらと舞い落ちてきた。紳士は器用にそれを掴み、足許を見回した。
 壊れてしまった人形がひとつ、床に転がっていた。衣装もなく、パーツも欠けたり割れたりしているが、それでも素晴らしく美しい、寂しい表情を浮かべた人形だった。
 紳士は屈みこみ、人形の見開かれた瞼を閉じた。それから、おや、と声を上げ、暫くの間考え込んでいたが、やがて拾えるだけのパーツを拾い集めると、ややゆっくりとその場を立ち去った。



[19752] 280ほど。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/03/22 23:32
ちっと真紅パートが長くなりすぎました。
ジュンパートも挟んだほうが良かったような。

※3/22 ジュンパート追加しました。

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 ずり落ちそうになる雪華綺晶の身体を不器用に引き摺り上げながら、最後は彼女を殆ど背負うようにして真紅はその広間を出、狭いがそれなりに整った通廊に立って隣の部屋の入り口と思しい場所を見た。
 明るくも暗くもない、という状態が、この世界では半ば当然のことのようだった。決してきらびやかにクリスタルが輝くようなことはないが、暗くて向こうが見えないということもない。視界を遮るのは古びて銀が出た硝子のように不透明なクリスタルだけだった。
「あちらでいいのかしら」
 真紅は背中の雪華綺晶に、ぶっきらぼうに尋ねた。
「ええ。連れて行ってくださいませ、あと僅かの距離ですわ」
 雪華綺晶は慇懃無礼の典型のような口調で答えた。真紅はやれやれと言いたそうにわざと息をつく。
「戸口までは僅かな距離でも、前の広間のように中が広ければ同じことなのだわ」
 つい、ふっと笑ってしまう。こんな状況なのに素直に笑えることが不思議だった。
「この真紅の手をここまで煩わせたのは貴女が初めてよ。光栄に思いなさい」
「ふふ……ありがとうございます、お姉様」
 雪華綺晶は邪気のない声で感謝してから、如何にもついでのように付け加えた。
「たいした広さではありませんし、入ってすぐの場所ですわ。お見せしたいモノがあるのは」
「貴女の言葉どおりであることを願うばかりだわ」
 半ば信じていない口調で言ってやると、背中の雪華綺晶はころころと屈託ない声で笑った。
「楽しいですわね」
 何が楽しいものか、とまでは言わなかったが、真紅は憮然とした表情で入り口に向かう。だらしなく背中に背負われている末妹が次第に鬱陶しくなっているのは否めなかった。
 雪華綺晶がボディに異常を抱えているのは間違いなかったが、彼女があまりにも平然としているのを見ているせいか、どうにも深刻な状態には思えないのだ。そして、一旦そう考えてしまうと、背中に乗っている彼女のボディはいい加減重くもあったし、嵩張っているのが煩わしくもあった。
 雪華綺晶自身も、自分の状況に真紅が危機感を持っていないことを十分承知してはいるようだった。入り口のところで図々しく負ぶわれているのを止めにした。
「此処で結構ですわ。ありがとうございました、お姉様」
 真紅の首に回していた腕を自分から解き、ずるずるとずり落ちるように彼女の背から降りる。そのまま、四つん這いとなってぞろりと床を這い始めた。
 思わず、周囲を確認するのも忘れて真紅は雪華綺晶を見てしまう。白茨が身体のあちこちから──パーツの隙間から伸び出し、長い髪とそれらが引き摺られて動く様は、節足動物が地面を這うような姿にも思えた。
「このボディは……本当に、最初は良いのですけど、客観時間で一時間と持ちませんのよ」
 ご覧になって、と手首が残っている方の腕を上げ、壁際の一箇所を指す。
 雪華綺晶の異様な姿に目を奪われていた真紅は、はっとなって顔を上げ、彼女の指差す先を目で追った。

「これは──」

 信じられないものがそこにはあった。
 部屋自体は、雪華綺晶の言ったとおり、大した広さではなかった。壁やら床の様子もこれまでと──あの回廊以外の部分と──変わったところは特にない。
 変わっていたのは、壁近くに幾つかのクリスタルの柱が──前の広間にあったように斜めに大きく平面を出すような形で──立っていることだった。中には動くものが見えている。見覚えのある姿もあった。
 一つの中では、二体のドールが踊っていた。緑色の大きなスカート、気の強そうな吊り気味の目、長い髪のドールが、赤銅色の髪に青い衣装の、よく似たドールと手を取り合って遊んでいる。よく見ると青い衣装のドールは時折消えかかっているが、長い髪のドールは気付いていないようだった。
 隣のクリスタルの中では、乗馬ズボンのように大きく膨らんだ膝上までのパンツに黄色い上着のドールが、一心にヴァイオリンを奏でている。彼女の向こうには、契約者と思しい女性がにこにこと笑って座っていた。
 そして、更に隣のクリスタルの中では──真っ赤な衣装を着たドールが、契約者に抱かれていた。うっとりと目を閉じ、優しく撫でる契約者の手の動きに時折吐息をついている。契約者が何かを囁き、唇が重なった。彼等は翠星石とジュンの関係よりも更に一つ何かを越えた関係になっているようだった。
 真紅の求めていたものとは若干ベクトルの異なる、だがそうなっても不思議とは思えない関係のようだった。

 だが、信じられないモノ、というのはそれでさえなかった。
 クリスタルの柱の足許には、ぞんざいに蓋が開けられた茶色の革製の鞄が転がっている。縦になっているものもあれば横倒しになっているものも、ひっくり返っているものさえもあった。
 そして、その間に打ち捨てられているのは──

「──なんてこと」
 半ば呆然としながら、真紅は呟いた。大きな勘違いをしていたことに今更ながら気付いていた。
「貴女のボディは」

 雪華綺晶のボディは自分で作ったものではなかった。
 馴染まないのは当然だった。別の世界の産物なのだ。幾ら自分達と似ているとはいえ、同一ではない。
 異界から現れた七体の薔薇乙女。それらのボディを雪華綺晶は求めたのだ。しかし何故。しかも昨日までは──

 尋ねているつもりが力ない呟きになってしまっていたものの、雪華綺晶は聞き取って返事をした。
「ええ、そうですわ、お姉様」
 雪華綺晶は柱の方に這いずりながら、事も無げに答えた。
「あれを利用してみましたのよ。良い考えだと思いませんこと?」
 真紅は雪華綺晶をその場に残し、思わずそれらの処に駆け寄っていた。自分に巻きつく白茨は気にならなかった。振り切って、と言えば恰好がつくところだろうが、実のところ白茨のテンションがそれだけ緩んでしまっているのだろう。
 まるでごみのように無頓着に捨てられた陶器のボディは、都合四つばかりだった。欠けたり割れたりしているものはなかったが、全て衣装は着ておらず、目を見開いた美しい顔には表情がない。
 ただの人形であっても吸い込まれそうな雰囲気を持っているはずのドールアイさえ生気が感じられず、ただの硝子玉にしか見えなかった。
 それでもそれぞれの見分けはつく。金髪に緑の瞳。緑の髪。赤銅色のショートボブと長い髪のそれぞれオッドアイ……

──つまり、彼女の今のボディは。

 真紅は振り返ってこちらに近付いて来る末妹を見遣った。
「ええ、そうですのよ」
 雪華綺晶は顔を上げた。その瞳はまだ彼女の色、禍々しいほどの金色に輝いていた。
「これは、五つ目のボディですわ。第五ドールのボディ……うふふ、確かにとても良く出来ていましたけれど、やはり馴染みませんでした」
 雪華綺晶は真紅の心を読んだように言ったが、その言葉の方はまた、独り語りに戻っていた。
「究極、完璧などと言っていましたけれども、枷を外せば脆いものですのね。ここに連れて来てからはずっとあんないやらしいことばかり。お陰で私までいやらしい気分が伝染してしまうくらいですわ」
 ずるりずるりと這って来る雪華綺晶から、何時の間にかドレスが消え失せていることに真紅は気付いた。ボディはいまや完全にビスクのそれに戻っており、硬質な床と触れ合い、擦れる音が聞こえてくる。白茨はパーツの隙間という隙間から延び始め、ドレスの代わりに全身を覆い尽くそうとしていた。


「……あの城、か」
 蒼星石は帽子を取って被り直した。水銀燈が肯定すると照れたように笑う。
「僕が得た断片的な知識も、少しは符合してくれるところがあるようだね」
 ナナの手を引いて飛びながら、少しどころじゃないでしょう、と水銀燈は軽く首を振った。
「時々思うことがあるわ。あいつ、本当は貴女に必要な部分の情報は全部渡してあるんじゃないかって」
 振り向いてにやりと笑う。しかし、その表情はすぐに引き締まったものに変わった。
「それにしても、お迎えも何もないとは妙な話ね。意外にもう何処かに逃げていってしまったとか」
「た、多分大丈夫です、あ、そうじゃなくて……この世界には、居るはずです」
 ナナは焦ったように言い直した。
「ヒナちゃんを見つけたときみたいに、どきどきがするんです。あの塔の方から……」
 彼女達の前方、蒼星石が城と形容したクリスタルの巨大な集合体を指差す。
「多分、いいえ間違いなく、居ます。あの中、です」
「なるほどね。貴女を他の連中と合流させなくて正解だったわ」
 水銀燈は軽く頷き、メイメイを呼んだ。
「先行して入り口を見付けなさい。私達が通れる大きさのね」
 合点承知、とばかりに勢い良く、銀色の光球は三人の前に飛び出し、元気のいいカーブを描いてクリスタルの方に飛んでいく。
「それにしても……」
 水銀燈は鼻を鳴らした。
「こんな巨大な世界に、あんな大層な屋敷を構えてるなんてね。末妹の趣味が知れるってものねぇ」
 蒼星石は苦笑し、ナナは訝しげに水銀燈を見遣った。蒼星石の契約者である結菱老人も──もちろん眼前に見えている塔とは比較にならないが──一人暮らしには巨大すぎる屋敷を構えている。
「自分の役目がそれだけ大きいと言いたい訳かしらね。言いたい気持ちは分かるけど」
 同行者達の反応など気にも留めずに水銀燈は続け、肩を竦めた。
「まあ、中に入れば厭でも見せられることになると思うけど、あまり趣味の良くないコレクションを見ることになるわ。覚悟しておきなさい」
「大体想像はついているよ」
 蒼星石は面白くなさそうな顔になった。
「しかも、僕と翠星石の場合はもう全員、今更救い出すこともできはしない……他の姉妹も同じだろうけど」
 呟くように続ける。抑えようとはするのだが、口惜しそうな表情が滲み出てしまう。
 水銀燈はすっと減速し、蒼星石と並ぶとその手を取った。
「おこがましいことを言うものね、貴女らしくもない」
 言葉には刺があったが、口調は柔らかかった。
「雪華綺晶は歪な存在と関わりを持ち、それに心を奪われてしまった哀れな人間を楽しく美しく、そして長く続く処刑台に連れ込むだけ。種を撒いたのは……」
「分かっているさ」
 蒼星石は水銀燈の手と指を絡ませ、ぎゅっと掌と掌を合わせるとすぐに放した。

「僕達はそういう存在だ。人形遊びをして、幾つも幾つも勝手に捨てて来た。
 雪華綺晶はそれを此処という処理場に運んで、人形のネジが壊れるまで遊んでくれた。そういうことなのだろう」

「斬新な視点だけど、間違ってはいないわね」
 水銀燈は力の抜けた笑顔で頷いた。
「ただ、そんな一面があってもやはり、私はあの末妹を倒したい。恩はあっても、敵は敵なのだから」
 再び前方を向いた水銀燈の顔を、蒼星石はじっと見詰めた。敵か、と呟いたが、その言葉は風に流されて前を行く水銀燈には届かなかった。


「どうやって? 何故?」
 真紅は座り込み、雪華綺晶の両肩を掴んだ。
「そんなことをする必然性があるとは思えないわ。一体、今になってどうして」
「理論家ですのね、そして好奇心もお強い。お姉様は理想家だと思っていましたのに、意外ですわ」
 雪華綺晶は薄く笑った。怒るのでも非難するのでもなく、質問を先にした真紅のことを冷血と笑っているようでもあった。
「そして……やはりお靭(つよ)い方ですわ。力は足りずとも、その分とても強靭で大きな心を持っていらっしゃる。こんなに風穴がお開きになってしまっていても、まだ幻影にも快楽にも流されない、強靭でしたたかな心」
 顔を上げたまま、分かるような、分からないような事を雪華綺晶は述べた。

 真紅は視線を雪華綺晶の顔に固定しながら、忙しく別のことを考えた。
 風穴が開いているように見える、と表現するなら彼女のボディの状態の方が相応しい。いや、それも錯覚ではあるのだが。本来球体関節人形のパーツの合わせ目がそうなっている穴や隙間から、白茨が伸びているだけのことだ。パーツ自体には傷は付けていない。
 今雪華綺晶が使っているボディは片手首が取れているが、ざっと見たところでは打ち捨てられているボディには深刻な損傷や欠品はないようだった。このボディの手首のパーツも、なくなったわけではない。在り処ははっきりしている。
 クリスタルの中に意識を閉じ込められているドール達は、恐らくボディに動力源さえ戻れば元のように現実世界に生きられる状態にできるだろう。魂が迷子にならず、幽閉されているだけに、呼び戻すことは容易いはずだ。
 ただし、戻りたいとドール達が思えば、の話ではあった。
 彼女達が戻りたくない、夢の中に永遠に遊んでいたい、と考えてしまうなら──それは哀しく嘆かわしい事のように思えるのだが──止め立てできるかどうか、真紅には自信がなかった。先程の雪華綺晶との問答ではないが、現実世界に生きて行く上での係累は彼女達にはほぼ皆無なのだから。

 真紅の内心などには興味がないように、雪華綺晶は話を続けた。
「叶うことならその風穴を埋めて差し上げたい、でもそれは私の分には相応しくない、過ぎた真似なのでしょう。ですから私は此処にお連れしたのです。ここまでの全てをお見せするために」
 相変わらずとうとうと述べる話が嘘か本当かは分からない。仮に本当だとしても随分と殊勝な心掛けと思うべきか、あるいは逆に高みから放っていると取るか微妙な言葉だった。
「お靭いお姉様には、お見せできるモノだと思いましたのよ。そう、何度も何度もお誘いを掛けても、一向に来て頂けないほど意思堅固なお姉様には」
 右目の眼窩から生えている白薔薇の花の周囲からも茨が伸びている。それは力なく垂れ下がり、まるでボディから逃げ出そうとするかのように、あるいは眼窩から溢れ出した内容物が垂れて行くように床に向けてずるずると伸び続けていた。
 真紅は雪華綺晶を座らせようとするように肩を持ち上げたが、無理だと分かって溜息をついた。もはやボディは殆どテンションゴムの緩んだアンティークドールのそれだった。手を放せばすぐに崩れ落ちてしまいそうな按配で、到底座らせるなどという芸当は出来そうにない。

「……誘われた覚えはないし、意思堅固だと言われてもあまり嬉しくはないけれど」
 代わりに彼女は雪華綺晶の目をじっと見据えた。
「私の質問には答える気がないのかしら」
「些かの保身ですのよ。そして、取引のためでもありました」
 雪華綺晶は言い難そうな事柄をあっさりと言った。
「機会はずっとありました。何時でもできることでしたの。そう、青薔薇のお姉様との戦いの後の眠りから目覚めてからは」
 くすくすと笑う。殆ど表情が動いているように見えないのに、その顔は楽しげだった。
「それを昨日にしたのは、お姉様が今日此処に来ることをお決めになったからですわ。それだけの理由に過ぎません。ただ、結果はとても残念な、本当に何の役にも立たないモノを得ただけでしたけれど。それでも、取引の材料にはなりました」

 真紅は眉根を寄せた。
 自分が雪華綺晶に遂に嫌悪感を持ち始めてしまったのを感じる。ボディを奪ったのは生きるために已む無くしたことでなく、何かの取引材料に使ったというのか。
 雪華綺晶は──あるいは自分自身を含む──全てに対してそういう態度を取っているのかもしれない。彼女にとってはそれが普通なのだ、と真紅の中の冷静な部分は考えるのだが、本質的に異質なものを見たときの違和感や嫌悪感のようなものはどうしても拭えなかった。
 異界のドール達とはいえ、自律して動き、感情を持ち、あまつさえ自分達と同じ名前を持つ者をモノのように扱う彼女に、水銀燈に言わせれば真紅の潔癖な部分が漸く拒否反応を起こし始めている。そんな風にも言えるのかもしれない。

 しかし、真紅はその感情もまだ抑え込んだ。
「何故そんなに簡単に事を進められたの」
 努めて冷静に、感情を排した質問をする。ここで嫌悪感を爆発させても、何も始まらない。
「貴女はナナを取り逃がしてから二度と狙わなかった。ナナの他の姉妹達は、貴女にとっては私達より狙い難い目標なのではなかったの? それなのに何故、三人も一時に罠に掛けられたの」
「狙い難い……そうですわね」
 また雪華綺晶は笑った。何処か笑い仮面のような顔になるのは、既に制御が行き届かなくなっているからかもしれない。
「お姉様の仰るとおり、シュプールを掴むのには手間取りましたわ。彼女達はnのフィールドからの干渉が届き難い、廃棄された世界の中に分散していましたから。でも、彼女達は弱かった。とても弱かったのです。とてもあっさりと身体と心が離れてしまうほどに」
「……だから、私達でなく彼女達を狙ったというの」
「ええ、見方を変えればそのようになりますわ」
 雪華綺晶の表情は笑顔で固定されたようだった。笑顔がそのまま動かないというのは、無表情すぎる顔とはまた違った不気味さがあるように真紅には思えた。
 湧き上がって来る身震いを、意志の力というよりは痩せ我慢で抑えながら、真紅はなおも尋ねる。
「彼女達は強いのではなかったの? 少なくともナナの話では、姉妹の中ではナナが異端で、他の姉妹はそれぞれが単独で究極の存在になれる強さを持っていると──」
「──特殊な能力がどれほど強かったところで、心の強さとは関係はありませんわ」
 雪華綺晶はゆっくり、ぎくしゃくと首を振った。

「あちらの基準でどれだけ強かろうと、私の尺度で見れば彼女達はとても弱かったのです。……ナナとお姉様達が呼んでいるあの第七ドールと、『水銀燈』を除いて。
 夢を見ている間に、最適な舞台を作って与える必要さえありませんでした。彼女達はとても強く望んでいましたのよ。
 現実でなく虚構を。未来でなく過去を。この世界ではなく、元居た場所を。ええ、このボディの持ち主など、特にそうでした。
 彼女達は弱かったのです。拠るべきモノを全て奪われ、オリジナルが存在する場所に追放されれば無理もありませんけれど。
 良かれと思ってした事が傷を残すことは多いのでしょう。それが人知を超えた存在の窮余の策だったとしても、変わりませんのね。
 ですから糧とはならなくとも、私は彼女達の望む物を与え、その代わりに彼女達が不要となったモノを貰い受けたのです。その半ばはこうして、結局利用できないガラクタでしかありませんでしたけれど」

 残っている方の手を大儀そうに持ち上げ、真紅の肩に触れる。背筋が寒くなるようなおぞましさはなかったが、その手首と言わず肩や肘と言わず白茨が這い出しかけているのを間近で見るのは決して良い気分ではなかった。
「……残りの、半ばというのは?」
「お分かりにならないのですか、まだ」
 言ってから、かくりと首を横に傾け、そして苦労しながらゆっくりそれを元に戻す。小首を傾げてみた、というよりは力が抜けて重い方に傾いたというような動きだった。
「いいえ、いいえ、違いますのね。そうではないのですね。お姉様は私の口から、ご自分の推測の裏付けを聞きたいと思っていらっしゃるのですね」
 宜しいでしょう、と息をつく。冷たい息が真紅の顔に僅かに掛った。
「話を始めてしまったのですもの、最後までお話致しますわ。ボディが完全に私を拒否するまで、他にすることもございませんから」
 右目の眼窩から生えている薔薇の花が、中からの茨の圧力に耐えかねたように首を垂れた。相変わらずの仮面のような笑顔で、雪華綺晶は続きを語り始めた。

「彼女達の動力源ですわ。ボディの数ほどはありませんけれども、三つというのは取引の材料とするのには充分な数なのです。彼女の持っている一つと足し合わせれば、もうお分かりでしょう。
 いいえお姉様、私が使うわけではありませんのよ。ボディの無い私には無用のものですし、ボディを得たからといって動力源を取り込んだら、そちらにボディを乗っ取られかねません。──それを警戒しても、結局はこの体たらくでしたけれども。
 私は『水銀燈』に、あの人形を倒せば動力源三つとボディ四つを与えることを約束しました。もっともこのままなら、ボディは五つになりそうですわね」

「貴女にとっては危険なほど譲歩した条件なのでしょうけれど、相手がよくその条件を呑んだものだわ」
 真紅は呆れたように言った。実際、嫌悪感は益々強くなってきてはいたが、その一方でやや呆れてもいた。
「あの子は単体でも、多分彼女達と同等の強さを持っているわ。それに加えて今は『蒼星石』の動力源も持って、自在に行使している。『水銀燈』には勝ち目は無いように思えるのだけれど……」
「ええ。ですから、動力源一つは先渡ししましたのよ」
 十全に機能を発揮できるかどうかは分かりませんけれども、と雪華綺晶はやや伏目がちになった。
「それに、お姉様はまだご存知ではないのですね。私とあの人形の──」
 言いかけて、雪華綺晶はその言葉を引っ込めた。
「──いいえ、これは止めておきましょう。全ては見てのお楽しみ、とした方が宜しいのでしょう」
「これ以上の見世物は要らないわ」
 真紅は首を振った。掛け値の無い本心でもあった。
「感情が麻痺するほど、いちどきに色々見せて貰ったのだもの。今だって考えの整理がつかない。貴女を非難しなければならないところなのでしょうけれど、どうしてもその気持ちが湧いてこないほどよ」
 それに、と視線で隻眼を突き通すような勢いで見詰める。
「貴女は最後まで話すと言った所ではなくて? そう簡単に前言を翻すのは失礼というものよ」
 話しなさい、と顔を寄せて言ってやったが、雪華綺晶は笑いを貼り付けたような顔のまま暫く沈黙していた。
 真紅は息をついて身を引いた。どう喚いたところで会話の主導権を自分の側に持って来ることはできない、と改めて理解する。
 ナナがぽつりぽつりと話してくれた『真紅』のような、自らの膂力を恃んだ強い態度が真紅には取れない。自分も傷付く事を承知の上での毅然とした応対か、弱さを曝け出した開き直りしかない。相手が一般的な感性を持っていれば兎も角、こうした相手には何の効果も無かった。


 ジュンと三人の少女は、第42951世界の扉の前で一旦世界樹の葉から降りた。目指す扉は世界の扉にしては珍しい、両開きの大きな扉だった。
 世界の扉は何故人間サイズなのだろう、とジュンは今更のことを考える。ラプラスの魔を除いて、この扉を潜る人間サイズの存在がそういるとは思えないのに。
 むしろ、薔薇乙女達のサイズに作っておくべきではないのだろうか。扉を最も多く潜っているのは、多分彼女達なのだから。
 そんなことを考えつつ、取っ手に手を掛けてこちら側に引く。ぎい、という重い軋み音を立てて、扉はゆっくり開いた。
「凄い場所ですね……」
 翠星石が呟いた一言は、全員の気持ちを──金糸雀は泰然としていたが──代弁していた。
「全部水晶の結晶で出来てるのか」
 世界樹の葉に乗り直しながら、ジュンは思わず目を細くする。
 太陽が照らしていればさぞかし美しい、いや日の光を反射して目が潰れるほどきらびやかな眺めになるのだろう。しかし今のところ、この世界は何処が光源とも分からないような、ぼんやりとした明るさに包まれている。
「明るさも暗さもない、まるで生も死もないような処かしら」
 またジュンと雛苺の間にちゃっかりと座を占めた金糸雀は不満そうに鼻から息を吐いた。くるくると器用にヴァイオリンを回し、畳んだ傘に変えて持ち直す。
「葬送曲も相応しくないような場所ね。つまんないかしら」
「縁起でもない事言うなです!」
 翠星石は葉の舳先から振り向いて怒鳴った。勢いに押されて金糸雀は首を竦める。
「カナの失言だったわ。ごめんなさい」
「今度妙なコト言ったら追い出すですよ」
 翠星石は目を吊り上げて前を向いた。
「出発ですっ」
 葉は勢い良く発進しかけたが、待って、と雛苺は翠星石の裾に触れた。翠星石は怒り心頭といった表情で雛苺を振り向く。
「なんですかチビ苺まで、こんなときに」
「……翠星石、何処に行けば良いか分かってるの?」
 雛苺は首を傾げ、素朴な疑問を投げ掛けた。
「真紅が何処に居るのか、分かるの?」
 翠星石は振り向いた姿勢のまま、う、と一言だけ唸って硬直する。また先程と同じ間違いをするところだった。
 真紅の気配を探せばいい、と漠然と考えてしまっていた。今や真紅と繋がりを持っている者は居ない、という事実を忘れていた。
「じゃ、じゃあどうすればいいってんですか」
 翠星石はぐるりを見渡した。にび色の空とクリスタルに埋め尽くされた地上は存在しているが、それは現実世界のように広大で、果てしないように思える。
 それでも、と翠星石は強く首を振った。
「とにかく、闇雲でもなんでも、真紅を捜さないと始まらないんですから」
 ジュンは翠星石と同じようにきょろきょろと見回したが、すぐにそれを止めて目を閉じる。彼が見るこの世界は、空も地上も同じような光景が連続しているだけのようだった。
 それでも、ともう一度目を開ける。薄ぼんやりとした、丸みを全く帯びていない地平線のようなものに沿って眺めて行くと、斜め後ろに何か尖ったものがちらりと見えた。
「……なんだ、あれ」
 呟いて目を凝らすと、いきなり何かのイメージが脳裏を過ぎった。

──真紅。

 激しく何度も瞬いて、もう一度目を凝らす。それは彼方にある、何か巨大で非常な高さを持った構造物の先端のようだった。
「どうしました?」
 翠星石が身を乗り出してくる。ジュンは彼女を片手で膝の上に抱え上げながら、空いた方の手で構造物らしいものを指差した。

「──あそこに、真紅が居るんだ」

 言葉に出してみると、何故か確信に近いものが湧き上がってくる。真紅はあそこに居る。多分、雪華綺晶というドールも一緒に。
「行こう」
 短く言って、翠星石の色の違う瞳を見詰める。翠星石は一瞬、何故か微かに寂しそうな表情を浮かべたが、すぐに力強く頷いた。
「そうですね、行きましょう」
 にっと笑って、人差し指を立てて左右に振ってみせる。最近機嫌が良いときにするポーズだった。
「まーチビ人間の言うことですから信用は置けませんけど、今のところ他に目標もないですからね、間違ってても文句言うだけで許してやるです」
 文句は言うのかよ、とジュンが口を尖らすと、翠星石はひょいとその膝から飛び降りて舳先に逃げた。
「さあ、出発進行です。しっかり掴まってないと振り落とすですよ、特にそこのチビカナ」
「なんでカナご指名なの? 酷いかしら」
 言いながら、そそくさと金糸雀はジュンの膝の上、ついさっき翠星石が抱かれていた処にまた座り込んだ。雛苺はそれを見て対抗意識を燃やすように、自分もジュンの膝の上によじ登る。
 ジュンが何やらぶつぶつ言いながら二人を両手で抱えたとき、世界樹の葉は撓むような勢いをつけて動き出した。
 待ってろよ、とジュンは口には出さずに呟く。
 間に合って欲しい、と思う気持ちの一方で、彼の胸の中には不安が広がり始めていた。それを打ち消すようにもう一度、待ってろよ、とジュンは口に出して言った。
 風上にもかかわらずそれを耳聡く聞きつけた翠星石が一瞬目を伏せたのは、彼女の後姿しか見えていないジュンには分からない事だった。


 雪華綺晶は尚暫く何かを待っているようにも見えたが、何かが現れることも、彼女のボディが更に酷い状態になることもなかった。やがて、彼女は待ち草臥れたように口を開いたが、出てきた言葉は先程の続きかどうかは曖昧なものだった。
「──昨日、お姉様は此処に来ることをお決めになりました。あの名前の無い人形を連れて」
 雪華綺晶は隻眼を二度ばかり瞬いた。瞳から光が消えかけている。
「そのことで全ては動き始めたのです。お姉様はお気付きになっていないとしても、他の姉妹は皆、程度の差こそあれ正しく感じ取りましたのよ。ゲームが次の──恐らく最終ターンに入ったことを」
 顔を上げているのも億劫になったのか、あるいは好意的に解釈すればその余力も無くなったのか、かくりと首を前に垂れる。それでも言葉は淀みなく流れ出た。冷静に考えれば異様な情景だろう。
「聡明なはずのお姉様ご自身がお解りにならなかったのは、きっとお父様のお計らいなのでしょうね。いいえ、造物主のゲームを進めよというご意向かも知れませんけれど」
 謎のような、妙な言い回しを雪華綺晶はした。
「最終ターンとなれば、私もそれ相応の保身をはからなければならないのです。全ての姉妹に疎まれ、冷たくあしらわれ、異物として扱われる定めの私は──」
「──そんなことはないわ、そんなことはないのよ雪華綺晶」
 真紅は激しく首を振った。

「私は貴女に、私のボディを与えるために此処に来たのだから。貴女がもう糧を必要とせず、現実世界で安心して暮らせるように。
 姉妹の行動を見通している貴女なら、疾うに知っていることなのではなくて?
 全てを動かす心積もりなんて持っていないし、ここでゲームが動く必要もないのだわ。これは私と貴女の問題なのだし、戦いではないの。
 貴女さえそれを認めるなら、私はボディを貴女に与え、ローザミスティカをあの子に持ち帰って貰い、新たなボディが作られるまで翠星石の中で暫しの眠りに就くだけなのだから。
 長い目で見れば誰も損なわれない、何も失われないのよ。ゲームは、アリスゲームなんて、望むならそれから再開すれば良いことなのだわ」

 雪華綺晶は無言で俯いたままだった。既に言葉が届かない状態なのか、とも思えたが、真紅は続けた。
「貴女は疎まれてはいないわ、いえ、まだその状態にすらなっていない。でもそれは時間を掛け、ゆっくりと馴染んで行けば良いことよ。貴女はきっと受け容れられる。だって姉妹なのだもの。世界に、この世界樹の上にたった七人、それぞれ独りずつしか存在しない姉妹なのだから」
「……お姉様は本当に」
 雪華綺晶はぐらぐらと上体を揺らした。何が起きたのか、と真紅は冷やりとしたが、どうやら彼女は頭を振る代わりにそうしているようだった。
「聡明で、お優しくて、暖かい方。でも、今は一つだけ間違っておられます。いえ、現実が見えないように細工を施されているのかもしれません」
 頭は完全に垂れ、真下を向いている。そんな姿勢のまま、話を戻しましょう、と気だるそうに手首の無い方の腕をぶらぶらと動かす。
 普通に考えれば話ができるような状態にはとても見えないのだが、まだ雪華綺晶の言葉は明朗で、口調にも変わったところはない。真紅も彼女に深刻な危機が迫っているとはどうしても思えなかった。

「お姉様にその意思がおありになるか、ならないかは別として、お姉様は引き金を引く決定をされて──させられてしまったのです。
 姉妹のうち誰か一人のボディがなくなり、一つの魂が長い旅に出、一つのローザミスティカが宙に浮く。今のお姉様がどう思われようと、それはゲームの局面が動いたことに他なりません。
 局面が動いたと判断すれば、今まで沈黙を守って来た姉妹も動き出してしまう。その状況を利用して一気に羽ばたこうとする者、葬送曲を奏でながらローザミスティカを狙う者、この機に積年の思いを遂げようとする者……。
 お姉様のように理知的で、姉妹愛に満ちた人物だけとは限りませんのよ。私達姉妹は皆不完全で失敗作なのですから、それぞれに与えられた特質に相応しい態度で事に臨むしかないのです。
 例えば、私のように──」

 言いかけた言葉が唐突に止まった。
 雪華綺晶のボディがびくりびくりと二度ばかり、雷に打たれたように仰け反る。振り払われるように真紅が手を放すと、それは何かを振り落とそうとするように、両膝をついた姿勢でもう一度びくんと仰け反った。ヘッドパーツは上を向き、長い髪がばさりと乱れる。
 真紅が呆然と見守る目の前で、雪華綺晶のボディは何かを求めるように両腕を斜め上に広げ、顔は殆ど真上を向いた姿勢で硬直した。
 一瞬の後、体中の隙間という隙間、穴という穴から無数の白茨が噴き出た。真紅が思わず身を縮める前で、それらはボディを瞬く間に覆い尽くし、そして潮が引くように音を立てながら後方に去って行った。
 がしゃん、という軽い音がした。茨の去って行った方向に目を奪われていた真紅が慌てて視線を戻すと、雪華綺晶の居た場所には片手首のない裸のドールが転がっていた。
 二つお下げに結われていたはずの金髪は解け、きつく付けられていたカールも真っ直ぐに戻りかけている。優しげな大きな瞳は多分真紅自身のそれより淡い水色で、何処か翠星石に似ていた。
 美しいドールだった。ただ、そのドールアイにはやはり生気がまるで感じられない。
 もちろん、ドールとしては当然の状態に戻っただけだ。この場の他のボディと同じく、対応する動力源が戻りさえすれば、魂が迷子にならずに此処に留まっているだけに、素直に元のように魂を宿して自律して動くようにできるのだろう。
 しかし、そう理屈では分かっていても、真紅にはそれが骸のように見えてしまう。それも──

──翠星石。

 全体的な造形の癖のようなものは全く違い、頭身もやや異なるものの、まるで金髪碧眼の翠星石、その骸のように見えた。同じ第五ドールとはいえ、自分の身に引き付けて見ることがどうしてもできない。
 クリスタルの中のこのドールと契約者の姿が、まるで翠星石とジュンのように思えたからなのだろうか。それとも、何か別の理由があるのか。分からない。
 分からないが、真紅は身体を震わせ、目を閉じてきつく頭を左右に振った。

──こんなことを考えていてはいけない。

 自分と同一視できるかどうかは置いておくとしても、翠星石と重ねてはいけない。彼女がたとえ一時でもこんな姿になることは有り得ないし、させてはいけない。
 翠星石のためだけではない。ジュンのためにも、翠星石を何かの犠牲にしてはいけないのだ。
 そもそも、そのために自分は此処に来たのではなかったか。

 かすかに震える手でドールの瞳を閉じて横たえ、真紅は立ち上がった。周囲を見回したが、部屋の中には白茨も末妹の白い姿もなかった。
 一つ息を吸い込み、姿勢を正す。
「雪華綺晶」
 意外にも、しっかりした声を張り上げられた。
「話はまだ終わっていないのでしょう、出てきなさい。もう、貴女が煩わしく思っていたボディからは離れられたのでしょう」
「ふふ……せっかちですのね、お姉様」
 声は天井から降ってきた。頭をもたげてみたが、何処に居るのかは分からない。
「でも……そうですわね。あまり時間はないようですわ。急がなければなりませんわね」
 言葉が終わると同時に、足許から白茨が勢い良く迸り出、それは真紅の四肢に巻きついた。
「本当に宜しいのですか、お姉様。ボディを明け渡すということは、アリスゲームの敗北を意味するのですよ」
 天井から響いてくる声は、言葉の内容とは裏腹に、揶揄するような調子を含んでいた。
「ローザミスティカを緑薔薇のお姉様や黒薔薇様にお渡しするとしても、お姉様に勝ったのはこの私。お姉様は自ら敗北を選ばれた。それが変わる事はありませんわ。それでも宜しいの?」
「それは構わないわ」
 四肢を拘束されたまま、真紅は薄く笑った。
「──最初から、そう思って此処に来たのだもの」
 目を閉じ、ひとつ息をつく。

「水銀燈は私がアリスになるためのベースだと考えていたようだけれど、それはきっと間違っている。
 私は他の姉妹と同じ、水銀燈の言い方を借りるなら取替えの利く駒。誰が先に欠けたところでゲームの進行には影響はないはずだわ。
 ……そんな些細なことよりも、私は貴女に、現実世界で暮らして欲しいの。アリスゲームが終わるまでの、他の姉妹に比べれば短い間でしかないかも知れないけれど。
 ボディを得た貴女が糧を必要としなくなるなら、貴女にこれ以上の罪を重ねさせなくて良いのなら、それはとても素晴らしい変化だもの。
 貴女にしてもそうでしょう、糧に困らなくなるのを、ずっと望んでいたのでしょう」

 天井からの声は沈黙している。真紅は続けた。

「仮にそれが叶わなくても、意味がないわけではないわ。
 貴女にはこの安全で何もかも見通せる、まるで──ジュンの部屋の中のような場所から出て、幻影でも幸せな夢でもない、本物の人や姉妹達に触れて欲しい。
 そのための犠牲が私のボディだけで済むのなら、それはとても有意義なことなのだわ。私のボディは決して無駄にはならないのだから。貴女の一部になるのだから」

「……お姉様」
 溜息のような、しかし何処か艶かしい声が響いた。

「お優しくて、暖かくて、芯の強いお姉様。でも、貴女はやはり第五ドール。外見だけでなく、ある部分はそこのドールと似ていらっしゃいます。
 ただ、お姉様はお強い。そして、とても──悪い言葉で言えば、頑固でいらっしゃいますのね。
 そこの第五ドールが分かっていながら意地を張って認めたがらなかった事柄を、お姉様は意識の表層に浮かんで来ないほど頑固に、心の隅に押し込んでしまっていらっしゃるのですね」

 吐息のような、溜息のようなものが漏れる。それは天井ではなく、何処かとても近い場所からのように真紅には思えた。
「私に今残っている力では、お姉様に現実と錯覚するような幻影はお見せできません。お姉様はとてもお強いから。ですから──御免あそばせ」
 足許だ、と真紅は気付いた。視線を下げると、そこには何時の間にか一輪の白薔薇が咲いていた。
 もっとよく見ようと身じろぎをしたとき、その周囲から新たな白茨がまた迸り出た。

「──ああッ」

 真紅は思わず声を上げていた。
 白茨は彼女の身体には巻き付かなかった。ドレスを、タイツを、靴を突き破り、手首に突き刺さり、そして──まるで先程の雪華綺晶の、いや『真紅』のボディを見るように、パーツの隙間から、球体関節の穴から、一斉に彼女の内側に入り込んできた。
「ふッ……ぐうっ」
 痛い。そして、苦しい。気持ちが悪く、何よりもこの上なくおぞましい。
 だが、まだ意識は保たれていた。首の周囲に這い上がってくる白茨の先端に首筋を泡立てながら、真紅は白薔薇の花に向かって言葉を吐いた。
「……どうして、こんな、強引な」
「お姉様のボディを頂くため、ですわ」
 白薔薇の花はそう言った。無邪気な、こんな状況にもかかわらず背筋がぞわぞわとしてくるのが分かるほど無邪気な言葉だった。
「そしてお姉様に本当の心を気付かせて差し上げるためでもあるのです。お姉様が理屈では説明のつかない行動を取って、アリスゲームの最後のターンを始めてしまわれた理由を、お姉様の意識がまだあるうちに」
 そう言いながら白薔薇の花は勢いよく伸び、彼女を真下から真一文字に貫いた。



[19752] 150程度。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/03/23 19:13
追いかける人々。

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「こっち、です」
 ナナが示した通路を覗き込んで、水銀燈は思わず顔を顰めた。
 そこは奥に行くほど険しくなっている、袋小路にも見える洞穴だった。無機質で硬質な物体で構成されているのに、何処かぬらりとした異様さを感じさせる空間だった。
「こんな所を通って行くの?」
「え、あ、はい……」
 ナナは済まなそうに身を縮める。
「多分、通れると思います……」
「いいでしょう、行ってみましょう」
 水銀燈は肩を竦め、メイメイを呼んだ。偵察を命じてやると、銀色の光球は張り切って洞穴の奥に消えて行った。
 蒼星石を振り返り、乾いた笑いを浮かべる。
「この向こうに、多分コレクションもあるってことでしょうね」
「そうかもしれない」
 蒼星石は目を閉じて息をついた。確かに、彼女達が最初に出くわした広間にも、この直前の大広間にも雪華綺晶の集めた契約者達の姿はなかった。
「その場所が眼前に現れたとしても、真紅の救出に無関係なら通り過ぎてしまいたいな。見てしまうのが怖い」
 目を開けてみると、振り返った水銀燈は意外そうな顔をしていた。無理もないな、と蒼星石は内心で苦笑する。
 そんな風に口に出して認めること自体、以前なら恐ろしくて出来なかったことだった。胸の奥に落とし込んで、黙っていたはずだ。
「素直なこと。もっとも、素直じゃない私もそれには同感だけど」
 水銀燈は喉の奥でくっくっと声を立てるような笑い方をした。
「ま、真紅を見付けたときにその足許に契約者達が並んでいたら、諦めるしかないわね。そうでないことだけでも祈りましょう」
 言いながらふわりと宙に浮き、すっと先に立つ。メイメイがまだ戻って来ないところを見ると、どうやら洞穴は何処かには通じているらしい。
「愚図愚図している暇はないわよ。二本の足で頑張りなさい」
 にやりと笑い、水銀燈は角を曲がっていった。蒼星石は憮然とした表情になりながら、駆け足でそれに続く。
 自然に殿を務める形になったナナは、胸の辺りを押さえながら蒼星石を追い掛けた。
 共鳴と呼んで良いのか胸騒ぎと考えた方が良いのか分からないが、動力源の脈動は確実に強くなっている。その割に雪華綺晶は近くなっていないような、そんな気がするのは何故だろう。
 ナナは黄色い目を何度か瞬き、立ち止まって息を整えてからまた駆け出す。今は少なくとも遠ざかってはいないということを信じるしかなかった。


 四人を乗せた世界樹の葉は、巨大な塔状のクリスタルの集合体の周囲をぐるりと回った。半周ほどしたとき漸くジュンはどうやら人が入れるだけの隙間を発見した。
 翠星石は隙間の近くに葉を停止させた。葉に乗ったまま入るには幅が狭過ぎるが、この際文句は言えない。むしろ少女達だけでなくジュンも立ち入れる大きさだったことを幸いだと思うべきなのだろう。
 念のため金糸雀は自分の人工精霊を呼び、隙間の向こうを観察させる。その結果も待たずにジュンは立ち上がっていた。
「入ろう」
 先頭を切って不器用に隙間に足を踏み入れかける。金糸雀の放った人工精霊が即座に戻らないということは、隙間が何処かに繋がっているか、長く続いていることを示している。愚図愚図してはいられなかった。
 背後から何か黒い物が彼に突進してきたのは、そのときだった。
「ジュン、危ないっ」
 後方を警戒していた金糸雀が警告の声を上げたときには、黒い物は既にジュンの脇腹すれすれを掠めて行った後だった。
 咄嗟のことに声も出なければ振り返る余裕もなく、ジュンはどうにか転げずに踏み止まりながら、自分がたたらを踏んだせいでぐらぐらと揺れる葉の上から呆然とそれの後姿を見送った。黒い物はすぐに隙間の向こうに見えなくなったが、何者かを確認するにはその僅かな時間で充分だった。
 大きく広がった翼は猛禽類を思わせる。だが、それは鳥ではなかった。白い髪と破れた衣装がたなびき、裂けた濃紺のドレスの裾が大きく広がっていた。
 ジュンの目の前に、黒い羽根が何枚かひらひらと舞い落ちてくる。その一枚を掴んで彼は眉を顰めた。

「──あいつ」

 真紅と同行していたはずの、名の無い人形だった。本体は兎も角、衣服には相当なダメージを受けているのが分かった。
 同じ姿をした者がもう一体いるはずだが、そちらかもしれない、という考えは浮かんで来なかった。それは直感や名の無い人形とジュンとの繋がりといった上等なものではなく、単にジュンが片方としか接触がないからかもしれない。
「どうしてあの子が……」
 翠星石も同じ疑問を持ったらしい。足許に落ちた黒い羽根を拾い上げて首を傾げる。
 その隣をすり抜け、雛苺は葉から思い切り良く隙間に飛び移った。足を滑らせそうになって慌ててバランスを取り、振り向いて片手を突き上げる。
「考えてるヒマがあったら進むのだ、なの。今はくんくんより、水銀燈のマスターみたいになった方がいいのよ」
 いつものようにあまり要領を得ない、しかし斬新な比喩を開陳すると、雛苺は前を向いて駆け出していた。
 実は彼等の現在の状況は、意外にも水銀燈の媒介の少年が初めて桜田家に乗り込んだときに似たところはあるのだが、翠星石にもジュンにもそこまで考えを巡らす余裕は無かったし、金糸雀には初めから分からないことだった。
「あんなアホ人間みたいになるなんて御免です」
 言い返しながら、翠星石は黒い羽根を捨て、ジュンの手を取った。
「なーにボサッとしてるですか。チビ苺に一番乗りの功名取られちまったですよ。早く追い越して、真紅の発見の功名くらいアンタが取るです」
 ジュンは二、三度瞬いて翠星石を見詰めた。一拍置いて、彼女を抱き上げながら隙間に足を踏み出す。
「ああ。もちろん見つけてやるさ。僕はあいつのマスターなんだから。勝手に指輪を消されたからって、僕は認めてないからな」
「その意気です」
 翠星石は顔を上げてにっと笑った。
「さあ、無許可で抱っこするのを許してやったのですから、さっさと進みやがれですよ。もうチビが見えなくなっちまったです」
 言われなくたって分かってる、と言いながら、ジュンはそろりそろりと、次第に足を速めて隙間に入って行く。
 駆け出しかけたところで一度大きく足を滑らせてしまうのは、運動不足を示すものなのだろうか。翠星石が肩のところにしがみつきながら大声で文句を言ったのが、成り行きで殿を務めることになった金糸雀からもよく見えた。
「なんだかんだ言っていいコンビかしら」
 金糸雀はくすりと笑い、それからふと真剣な表情になる。
「ヒナじゃないけど……」
 抜き足差し足といった風に、足許に注意して隙間に移りながら、金糸雀は独り言をした。
「どちらを選ぶのかしら。カナには真紅とジュンより、翠星石とジュンの方がお似合いに思えるけど──」
 つるり、と足が滑る。慌てて何かに掴まろうとするが、水晶の壁は床と同程度に滑りやすく、結局すてんと転んでしまった。
「痛ぁ……」
 誰にも見られていないことを確かめて、金糸雀はほっと息をついた。急いで立ち上がり、今度は十二分に足許に注意して歩き出す。
「──さっきの話の続きだけどね、単純に想いの強さで言えば真紅の方が深いように見えるのよ。でも、ジュンみたいな引っ込み思案の子をぐいぐい後押ししたり、手を繋いで引っ張って行って上げられるのは翠星石かしら。貴方はどう思う? ピチカー……」
 はっと顔を上げ、辺りを見回す。彼女の人工精霊はまだ戻っていなかった。
 ばつの悪い顔になりながら、金糸雀は前を向いた。前の方から漸く角を曲がって戻って来たピチカートは不審そうに瞬いたが、金糸雀は報告も求めずに黙って先を急いだ。


 足許に広がる老人達の遺体は、水銀燈にはさして感銘を与えるものではなかったが、思ったよりは多い数十体のそれらを彼女は無視はしなかった。
 恐らく「使用済み」の人々の安置場所とは見受けられるのだが、オディール・フォッセーが含まれている可能性もある。面変わりしていることも考え、貴重な時間を潰すことも承知でじっくりと見回した。
 オディールは見当たらなかったが、他の遺体とは少し離れた場所に、一人の老女が横たわっていた。
「──やはり、いたわね」
 惨めなほどに痩せ衰え、推測する年齢の割には不健康で歳を取っているように見えたが、オディールに似た面影がある。コリンヌ・フォッセーだった。
「最後の最後だけは、貴女も末妹に夢を見せて貰ったのね」

 意識を切り離した人々に雪華綺晶が見せる夢は、ナナが不器用に、そしてささやかな工作をするそれとは異なる。時間の経過で自然に目が覚める恐れを考えなくて良い、そしてほぼ完璧に管理された夢だ。
 現実から切り離された人々は現状以上に成長することはないとはいえ、雪華綺晶の用意した心地好い檻の中で管理され、心が荒むこともまたない。そして心を健やかにして過ごしていれば、それだけ雪華綺晶は良質の糧を得ることができるのだろう。
 昔、冷戦期以前のSFでよく見られた「絶対管理社会」「最大幸福実現社会」の個人版のようなものだった。当時流行した言葉を使うなら電脳世界にダイヴした状態と言ってもいい。
 違っているのは、個人の心の管理は雪華綺晶が行えても、それを支えている肉体の管理は事情を全く知らない現実世界の住人任せで本人や雪華綺晶は関与できないということだ。あまりにも脆弱な体制と言うしかない。雪華綺晶もそれを承知しているから、獲得できる糧は全て獲得してきたのだろうし、夢を見せる上でも遺漏がないように手配りをしてきたのだろう。
 だから、コリンヌ・フォッセーも最後の最後では良い夢を見たに違いない。夢で雛苺に会い、謝罪したか喜んだかは知る術もないが、彼女としては納得して死んでいったはずだ。
 雛苺本人は預かり知らぬところの話だし、恐らく徹頭徹尾都合の良いお話だったに違いない。しかしコリンヌ本人には幸せな、そして誰にも迷惑の掛らない結末ではある。

──めぐも、本当は貴女に意識を運んで貰った方が幸せなのかもしれない。

 そう考えるのは初めてではない。
 媒介の知識の中、彼があちらの世界で最後に雑誌で読んだ辺りの話では、めぐは恐らく雪華綺晶に意識を幽閉されたまま記憶と体を乗っ取られ、その肉体は何故か健康になり、退院する運びとなっていた。
 恐らく何等かの伏線が存在しているのだろうが、その完結まで知ることのできない時点で媒介は死に、こちらの世界に生まれ変わった。だから、その後の展開がどうなったかはこちらの世界群に生きている水銀燈には知る由もない。真相は永遠に闇の中だ。
 漫画の世界とこちらの現実が完全に符合するわけではない。だが、健康になったり意識を乗っ取られたりするかどうかは兎も角として、少なくともこちらの世界群の雪華綺晶にも、対象者の意識を自分の管理下に置いて、死の瞬間まで幸せな夢を見せ続けることはできる。
 柿崎めぐが姉妹誰かの契約者であれば、そういう選択肢もあったかもしれない。ナナに依頼して見せたささやかな夢の後、水銀燈はそんな風に考えることもある。

 もっともそれは絵空事に過ぎなかった。
 こちらの世界群において、柿崎めぐは誰の契約者でもない。ただの水銀燈の友人に過ぎない彼女は、雪華綺晶が手を伸ばせる対象ではなかった。
 水銀燈にできる工作といえば、精々ナナに依頼してめぐに良い夢を見せてやることや、双子の庭師に頼んで彼女の心を手入れして貰うことくらいだった。後は、自分の手で不器用に──あくまで奇妙な友人として、彼女の無聊を慰める程度だ。
 そして、恐らく近いうちにそれも──

「──これ……」
 少し離れたところでナナが上ずった声を上げ、水銀燈のごく短い思索は打ち切られた。
 ナナはぺたんとお尻をついて座り込んだ姿勢で、がたがたとおこりのように体を震わせている。何かを拾い上げたらしく、それを掌の上に乗せていた。
 そちらに駆け寄ると、ナナは物も言えないように口をぱくぱくと開いては閉じ、両掌で捧げるように水銀燈の目の前にそれを差し出した。
 しっかりしなさい、と軽く頬を叩いて、水銀燈は差し出されたものを眺め、ぎくりとして身を引いた。
 それはドールの手首だった。指先、その爪まで丁寧に、そして綺麗に作り込まれた、しかし人間の手のような皺や毛根などのない、いや一点の歪みもない、美し過ぎる小さな手のパーツだった。
「しんく、のです。わたしの、お姉さま、の」
 常日頃より更に覚束ない調子で、震えながらナナは言った。
「おと、とい、会ったばかりなのに、なんで、ああ、っあ」
「──あの子の」
 真紅のものではないのか、というのが偽らざる最初の思いだった。
 薄情なのか、薄情だとすればそれは誰に対してなのかは判然としなかったが、水銀燈の中には安堵感は広がらなかった。重苦しいものだけがじわじわと滲み出して来る。
 此処にこんなものがあるからには、手を下したのは雪華綺晶に違いない。だが、一体何故──

──『水銀燈』か。

 即座に答えは出た。少なくとも現状では、それしか考えられない。
 真紅はあの濃紺の衣装の人形を飼い馴らしていた。此処に来るのも二人で一緒だったらしい。
 雪華綺晶が事前にそれを察知したとしたら。いや、いつ襲来するかもしれない脅威である名の無い人形に対して、予め手を打つとしたら。
 それは御し難い『真紅』や力の劣る『翠星石』ではなく、お互い一番共感しやすい境遇であり、そして名の無い人形に特に理由を必要とせず敵対心を抱ける、直線的で純粋な心を持ったドールを抱き込むことに違いない。
 そのために雪華綺晶は『真紅』を狙い、恐らくその動力源を『水銀燈』に渡して更なる支援としたのだろう。

 水銀燈は下唇を噛んだ。迂闊だった。
 彼女達のゲームと自分達のゲームを何時の間にか完全に分けて考えていたのだ。
 真紅があの人形──『蒼星石』の動力源を持った者──を伴い、自分がナナを連れ回しているのと同じように雪華綺晶も、ただし助っ人や未熟な関係者としてでなく、彼女なりにもう一歩踏み込んだ形で異界の薔薇乙女達を利用することに思い至って然るべきだった。
 こちらの世界に出てきたばかりのナナを探知し、素早く捕獲に乗り出したように、雪華綺晶はナナの姉妹達のシュプールを掴み、捕捉することができる。それは今更思い直すまでもなく知っていたはずなのに、後手に回ってしまった。気の緩みとしか言いようがなかった。
 雪華綺晶は実体を持たない、だから物質世界に存在している限りは大丈夫だ、という先入観が何処かにあったのは否めない。
 現実世界に居座り、夢を見ている間も警戒を止めないでいれば、心に隙があったとしてもそれが大きなヒビでない限りは彼女は有効な手出しができない。それはこれまでの経緯でも明らかだ。
 しかし、それは雪華綺晶の存在を周知してnのフィールドでも警戒の徹底を図っていた、そして深刻な心のヒビを持っていない自分達の姉妹にしか適用できないことだった。付け加えれば契約者達と、それにナナも加えても良いかもしれない。しかし、ナナの姉妹達はその埒外だった。
 彼女達は強い、という先入観もあった。ナナに『雛苺』の動力源を与えた理由の半分もそこにある。
 雪華綺晶との戦いは、水銀燈の媒介が狙われたときも、蒼星石と少年が相対したときも、最後はパワーゲームだった。そうなれば、たとえ契約者のサポート無しでも雪華綺晶はナナの姉妹達に対して分が良いとはいえない。しかし──

──罠はまさにそこにあった、ってわけね。

 雪華綺晶の強みは、心の弱った者に対して、その夢から侵入し、意識を──薔薇乙女の場合は実体までも奪えることだった。
 媒介の知識の中では、まさにその方法で雛苺は「食べられ」、そのボディを足懸りとして雪華綺晶は次々に現実世界への干渉を強めて行った。
 ならば、こちらの世界群の雪華綺晶に、「『アリス』になって『お父様』の愛を得る」という目標を見失ってしまったナナの姉妹を攫うことができないはずはない。むしろ、それは非常に容易かったのではないか。例えば一晩で三体をそうして捕獲できるほどに。
 その可能性を完全に忘れてしまっていたのは、自分達の過誤だった。いや、自分の、と絞り込んで言ってしまってもいい。

 考えていたのはほんの数秒だった。ナナの様子がただ事でないと見て取ってこちらに走り寄って来る蒼星石をちらりと見ながら、水銀燈は軽い恐慌状態に陥っているナナに手を貸して立ち上がらせた。
「臆病の虫が騒いでるんじゃなかったら、しゃんとしなさい。これだけが此処にあるってことは、『真紅』の意識はボディから離れて何処かに幽閉されてるってこと。わかるでしょう」
 ナナは大きく見開かれた瞳を何度か瞬き、こくりと頷いた。水銀燈は厳しい顔を緩める余裕もなく続ける。
「この薄ら大きな広間の何処かから、その場所に行く道があるはず。そして、オディール・フォッセーも同じ処に幽閉されているはずだし、雪華綺晶も恐らくそこに居る。彼女にとって最も堅く守る必要があるモノ達なのだから、一所に集めて自分で守っているはずよ」
「……っは、はい」
 ナナは懸命に頷く。水銀燈はナナに喰いつかんばかりに近付けていた顔を上げ、蒼星石を見た。

 蒼星石が何かを言いかけたとき、黒い何かが凄まじい勢いで彼女達の来た入り口の方から近付き、三人を掠めるようにして飛び去った。
 ジュンと同じように、水銀燈と蒼星石もその大きな影のようなものの後姿しか碌に見ることはできなかった。
 違っていたのは、三人にはそれが『水銀燈』なのか名の無い人形なのか咄嗟に判断がつかなかったことだった。

「『真紅』、と、『水銀燈』、それから『蒼星石』」

 ナナはうわ言のように早口で言い、黒い姿の後を追って駆け出した。水銀燈は舌打ちして翼を広げる。
「どっちがどっちを吸収したか知らないけど、動力源三つとは豪勢なことね」
「雪華綺晶の許に向かったとすれば」
 蒼星石は人工精霊を呼び、先導させて駆け出した。
「雪華綺晶は──」
 続けて何かを言ったようだったが、丁度翼をはためかせて加速し始めた水銀燈にはよく聞き取れなかった。どうせ確認か独り言だ、と無理に決め付けて、水銀燈はどたどたと走っているナナを追い越して濃紺の衣装のドールの後を追う。今は時間が惜しかった。



[19752] 120程度です。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/03/23 19:15
第三者視点も入れつつ書くともっさり感が出ます。

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 他に比べれば小さな部屋の床は、白茨の蔓で埋め尽くされていた。
 周囲に散らばっていた鞄やらボディやらといったものは白茨に絡まれることもなく、床の凹凸と同様に存在を無視されたように茨の下に沈んでいる。
 壁際のクリスタルの柱には、映し出されているのかその中に閉じ込められているのか定かではないが、少女とドールが見えた。オディール・フォッセーは何かを抱いているような姿勢で一心に虚空に話し掛け、『真紅』は誰かと抱き合うような姿勢で目を閉じ、『金糸雀』は誰かに撫でて貰っているように大人しく座り、『翠星石』は何も無い空間に熱心に語りかけていた。
 部屋の中心には、一輪の白い薔薇の花が咲いている。ドールひとりを飲み込むことができるほどの大きさを持った花だったが、巨大な花にありがちなどこか糜爛したような雰囲気が何処となく窺えた。
 薔薇の花の後ろには、白茨が寄り集まってできた太い幹のようなものがある。
 それは垂直に天井に向かっているが、中途で水平に二本の枝を伸ばしていた。枝の根元に当たる部分には、ほぼ完全に白茨に取り込まれるような、恰も十字架に磔にされたような形でドールのボディが見えている。床に転がっているドール達よりも起伏の少ない、よりアンティークドールの体型に近いドールだった。
 ドールにはヘッドパーツが無かった。服も、その他の何か装飾品や品物も付いていない、ただの素体だった。

 部屋に半ば滑り込むようにしてやって来た濃紺の衣装のドールは、その光景を見て僅かに鼻を鳴らしただけだった。
「約束どおり、来たわよ。雪華綺晶」
 ぼろぼろになってしまったドレスの裾をはたき、人工精霊を呼び出す。
 赤と青と紫の人工精霊は、彼女の最も馴染んだ得物、細い両手剣を召喚した。
「残りの二つの『ローザミスティカ』、頂こうじゃないの」

 間があった。

 ドールが続けて何かを言おうとしたとき、彼女の後ろから不揃いな足音と羽の音が聞こえ、次いで何かが共振するような反応が起きた。
 息を呑む気配がする。何か悲鳴に近いような短い声も聞こえた。だが、それだけだ。
 白茨が床のボディを無視しているように、ドールは背後の気配を黙殺した。
「無視を決め込む気? 雪華綺晶」
 剣を構え、白薔薇の花に詰め寄る。
「なら、こっちも遠慮なく行かせて貰うわっ」
 白薔薇の花に右手の片手殴りに振り下ろされた剣は、しかし空を切った。

「気が荒いのですね……流石は『水銀燈』の性格」

 花は消え、それがあった場所に一人のドールが立っていた。雪華綺晶だった。
「お久し振りです、お姉様達。それから……第七ドール。まだ名前も付けて貰っていない、哀れな子」
「……全員どころか、空のボディ二つにまで手を出していたとはね。その状態ってことは、実際に使ってみたらしいけど」
 白茨の下のボディを数えた水銀燈は乾いた笑いを浮かべた。呆れた、と言う気にもなれなかった。
「肝心の真紅のボディは確保しているのに、何故使おうとしないの? 何かご不満でもおありかしら」
「そんなことを仰って、私が紅薔薇のお姉さまのボディに宿った瞬間を狙っていらっしゃるのでしょう」
 雪華綺晶はくすくすと笑った。
「挑発なさっても無駄ですわ。もっとも、此処は私の領域。お姉様であっても自由に戦えるとは限りませんことよ」
「挑発しているのは君の方じゃないのかい」
 蒼星石は人工精霊に鋏を召喚させた。
「いつかと同じ、余裕の無い応対だね。もっとも、僕はそんな君にさえ、してやられただけだったけど」
 雪華綺晶は微笑んだ。無邪気な笑みではなく、何処かに感情を含んだ笑みだった。
「そうでしたかしら。でもその鋏はとても痛かったと記憶しておりますのよ。お姉様の得物はとてもご立派ですのね」
 せせら笑うような調子で続ける。
「人の心を刈り取る禍々しい鋏……私のような者を傷付けるのはさぞかしお得意なのでしょう、その鋏は」

 刺々しい言葉を投げつけながらも、雪華綺晶の眼は殆ど二人には向けられていない。全身に黒い羽根を突き立て、痛んだ衣装をそのままにしたドールと睨み合っていた。
「『ローザミスティカ』を渡しなさい、雪華綺晶」
 ドールはもう一度言った。後ろの少女達との問答は聞こえていないような間の取り方だった。
「約束でしょう、それが」
「あら、私がお約束をしたのは、貴女ではないと思うのですけれど」
 雪華綺晶は小首を傾げてみせた。
「貴女が第97345世界で戦って倒した相手……『水銀燈』とはお約束致しましたけれど、それは『貴女』に勝って帰る、という条件でしたのよ」
 ドールは不敵な笑みを浮かべた。
「勝ったわよ。わたしは、わたしに」
 左手で喉元の辺りを指す。そこには都合三つの動力源が収まっていた。
「お生憎様。わたし達を対消滅させようとでも考えたわけぇ? ちゃんちゃら可笑しいわぁ。わたし達はねぇ」
 予備動作も何も無く、黒い羽根が虚空から現れ、雪華綺晶に殺到する。床に這っていた白茨が一斉に動き、瞬時に網のようなものを形成してそれを食い止めたが、受け止めるにも限度があった。幾本かの羽根が雪華綺晶に到達し、その体に突き立った。

「──ひとつになったのよ。偽物と本物、同じ記憶と性格を持つ者同士。お互いに勝って、一つになった。そして、より損傷の少ないボディに宿った」

 一挙動で白茨の網を切り裂き、立った位置から動かないまま無言で黒い羽根を抜いている雪華綺晶に向かってせせら笑う。
「わたしにそういう芸当ができることは、あなたには分かっていたでしょう? それとも、欲に目が眩んで忘れていたとでも言い訳するつもりかしらぁ?」
 雪華綺晶は抜き終わった黒い羽根を勢い良く投げ捨てた。
「よく、宿木を捨てる決心をつけられたものですね。確かに見縊っていたと申し上げるしかありませんわ」
 繰り出される剣を上体の動きと白茨の妨害だけで避ける。いや、避けたというよりは白茨をぶつけて軌道を逸らしたのだろう。

 実は剣の一撃は意外に軽いのではないかと水銀燈には思えた。
 本来はその重さに膂力そのものを乗せて殴り斬りに叩きつける武器なのだから、華奢なドールの得物としては相応しくないのかもしれない。剣自体も武器としては華奢な作りではある。
 もっともその点は『蒼星石』の鋏と同じく、あまり意味はないとも言える。どちらもあくまで印象や観念の世界の産物であり、彼女達の能力をそれに乗せて発揮するための媒体だ。外形そのものは武器としてのシンボルに過ぎないとも言える。
 いずれにしても、飛び道具である黒い羽根に比べればリーチも短ければさして便利でもない武器であるのは否めない。濃紺の衣装のドールがこの期に及んでその武器に拘るのには何か訳があるのだろう。
 例えば、主武器である黒い羽根の使用に制限がある、というような。
 先程の一斉射撃は見事だったが、これまでの彼女──水銀燈にはそれは名の無い人形そのものであり、『水銀燈』とは思えなかったが──の攻撃法なら、間髪を入れずに黒い羽根の雨を降らせているか、追い詰めるために黒い羽根を集めた龍の首でもけしかけているはずだ。
 専ら補助武器として使っていた剣だけで攻撃を試みるというのは、何か故障か異常が生起したとでも考えないと無理があった。

 雪華綺晶は相手が舌打ちするのを見て無邪気な笑顔になる。彼女は彼女で、水銀燈が疑問に思ったのと似たような異常を感知したか見抜いているらしい。
「貴女の半身は、不老不死にして錬金術師にして人形師の作ったドールボディに自然に宿った魂。究極たれと切に望んだ、彼のイデアの生んだ歪で高貴で美しい存在。それが宿木を捨てて別の入れ物に入るなんて……ああ」
 腕を一振りすると、壁際のクリスタルや打ち捨てられたボディに掛っていた白茨がぞろりと動き出した。
 ナナがはっとして、転げるようにそちらに走り寄る。金髪碧眼のボディを見付けると、そこに手首のパーツを嵌め込み、力無く横たわっているそれを抱き上げて胸に抱いた。
 雪華綺晶はちらりとそちらに視線をやったが、その隙を狙って繰り出された剣の一撃を避けると吐き捨てるように呟いた。
「ほんとうに……醜い。地に堕ちた、としか言えませんわね」
 返す刀をそれを握る腕もろとも白茨で絡め取り、そのままドールごと斜め上に持ち上げる。
「貴女の攻撃と同じことですのね。力任せで、勝てば良いというだけの醜い行為」
 それは今までのからかうような口調とは違っていた。水銀燈が初めて聞く、蒼星石には二度目となる、感情を剥き出しにした言葉だった。

「しかも貴女のその力の根源は何処か、どのように湧いて来るものかさえ認識していないのでしょう?」

 見なさい、というように、一本の白茨が何も映し出されていなかったクリスタルの柱を指した。
 病院の病室らしい場所の様子がぼんやりと浮かび上がった。それは次第に鮮明になり、ベッドに寝ている金髪の少女の姿がはっきりとする。
 眠っている彼女には幾つもの管やら機器が接続され、可愛らしい顔には酸素マスクが被せられている。ベッドの頭の上には体温と心拍数を示すディスプレイがあった。
 医師や看護師はついていない。だが、あまり良くない状態であろう事は容易に想像がついた。

「──オディール・フォッセー……」

 水銀燈は呟いて、別のクリスタルの柱を見た。
 クリスタルの中の少女は相変わらず楽しげに、ドールと同じくらいの空間を抱くようにしている。彼女の視点ではそこに雛苺が存在しているのだろう。
 改めて並べると、雪華綺晶が人を糧とすることの裏と表をまざまざと見せ付けられている気分になる。そして、それは薔薇乙女が誰かを契約者とすることの裏と表でもあった。一時の楽しい生活と、それに続く現実だ。
 しかし、今はそこに目を奪われている場合ではない。
「……こんなからくりがあったとはね」
 名の無い人形が世界の扉の外に白茨を残して行く訳だ。
 同時に、蒼星石と少年と接触してからの雪華綺晶が意外に不活発だった理由も分かった。
「やっと合点が行った。やはり動かなかったのではなくて動けなかったってことね」
 どうせ本人達は碌に聞いてもいないのだろうが、半ば八つ当たりのように言ってやる。
「一旦契約した彼女を改めて、しかもあんな急なやり方で糧にしたのも、そうしなければ自分が飢えるから。やはり、貴女は追い詰められていた訳ね」

 人形は雪華綺晶と力を分け合っていた。いや、無自覚に彼女そのものから力を奪い、彼女はその分を補填するために契約者から力を吸い上げていたのだ。
 恐らく彼女は蒼星石との戦いで受けたダメージを癒すことも侭ならず、人形に力を吸い取られ続けていたに違いない。偽って契約を結んだオディールすら碌に管理できずに力を吸い過ぎ、半ば夢遊病者のような形で放置してしまい、最後は糧にせざるを得なかった。
 オディール・フォッセーの現実世界での姿をこれ見よがしに映してみせたのは、こんな状態にしたのは名の無い人形だ、と言いたいのだろう。
 それは真実ではある。人形が無自覚に暴れて力を使い、雪華綺晶を追い込めば、彼女は媒介から、それでさえも手緩いという状況に追い込まれれば糧という形の存在から最大限に力を吸わざるを得ない。
 吸わなければゆくゆくは自分が死に至ってしまう。彼女は自分自身を維持するだけでも多大なリソースを必要とするのだから。

「ご明察ですわ、黒薔薇様」
 雪華綺晶は濃紺のドールを見上げたまま、それでも答えるには答えた。
 続けた言葉も、体裁の上では水銀燈に答えていたが、実際にそれが向けられているのは視線の先が向いているのと同じ相手だった。

「ですから……お分かりでしょう、このモノが私を滅ぼすということは、自ら力の源を断つということでもあるのです。
 どれほど即物的な力を振るえようと、何処まで行ってもこのドールは私が夢の中に作った舞台装置。何かの手違いで夢の中で実体化し、現実世界に存在できる状態を整えられたからといって、私から力を吸い上げなければ何も出来ないのです。
 あの方の忘れ形見だからと大目に見てきた部分もありますが、そろそろそれも限界なのかもしれません」

「それで……どうするつもりなのよ」
 片腕を絡め取られたドールは、黒い羽根を飛ばすこともなく雪華綺晶を睨みつけた。
「下から見上げている癖に、言ってることだけは随分高い所から見下ろしてくれるじゃないのぉ」
「作ったモノに対しての愛着と、不出来なモノに対する恥ずかしさの板挟みになっているところですのよ」
 うっすらと、しかしはっきり悪意を篭めて雪華綺晶は笑った。腕を組んでいる水銀燈に振り向いて淡々と言う。
「色々と余分なモノが付いてしまいましたけれども、それでもベースを作ったのは私。ならば、私がこれを管理し、処分しなければならないのでしょう」
「処分ですって? 笑わせんじゃないわ」
 ドールはぎらりと目を輝かせた。
「作ってから放置し続けて、自分の邪魔になってることが分かれば今度は処分? わたしの半分はアンタに作られたけど、アンタに育てられた訳じゃない。親みたいな言い方するなんて思い上がりも良い所よ」
「何とでも仰いなさい」
 雪華綺晶は床の白茨の一群をまた持ち上げ、ドールの逆の腕を絡め取ろうとした。やや緩慢な動きではあったが、量は先程自分の眼前に網を形成したときの数倍はあった。
 ドールは黒い羽根を噴出させて蛇のようなものを形成し、腕を軸にした渦を描くように這わせてそれを突き破った。
 茨はずたずたに切断されて力無く垂れ落ちていったが、蛇もそこで力尽きたように一群の黒い羽根に戻り、ばらりと舞い落ちた。もう一方の腕は得物ごと絡め取られたまま、何の変化もない。
「今はそれが精一杯なのでしょう、当然ですわね」
 企図は阻止されたが、雪華綺晶は動じていないようだった。むしろ、揶揄するように笑っている。
「貴女に力を奪われるなら、その分を回収すれば良いこと。その白茨にはそういう効果もございますのよ」
 ドールは鋭い表情になり、ぎりぎりと音がするほど歯を噛む。
 水銀燈は内心で肩を竦めた。

──なんて分かり易い対比。

 ドールの態度は余裕がないことと相手の言葉どおりの状況だということを大声で叫んでいるようなものだった。この状況でそんな明け透けな態度を見せたのが『水銀燈』の性格を持っているあのドールでなければ、水銀燈は即座に演技だと断じただろう。
 もちろん、あのドールであっても芝居をしている可能性は残る。雪華綺晶がそれを知らないとは思えないのだが、ドールには雪華綺晶に拠らない戦力があるのだから。
 ただ、演技だとしたら、彼女の性格で即座にそれを行使しない理由が水銀燈には分からなかった。
 本格的に状態が悪化する前に使うべきではないのか。それとも行使できない理由があるのか、行使すること自体を失念しているのか。
 あるいはもっと決定的な状況で投入するために、事態が動くまで待っているつもりなのだろうか。
 水銀燈は腕を組んで雪華綺晶に視線を戻す。多彩で強力な技を持っている者同士の戦いは、彼女には今一つ感覚的に理解できない部分があるのかもしれない。



[19752] 360ほど。(3日分です)
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/03/30 21:35
ちと体調を崩しまして、ベッドの中でシコシコ書いておりました。
弱いというのは、強い人から見るとしばしば腹が立つものらしいです。

でも腎盂腎炎になって39.5℃の熱が出ても「電話番くらい出来るだろう」と自宅療養をさせちゃいかんような。
取り敢えず医者も安静にしてればいいと言ってくれたんで、数日間電話番とSS書きだけの贅沢な日々を過す予定です。

※3/30 末尾部分尻切れなので書き足し。

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 蒼星石は雪華綺晶と濃紺の衣装のドールとの会話に注意を向けながら、部屋の外周に沿って移動してナナの傍らに歩み寄っていた。
 ナナは自分の姉妹のボディを並べた間にぺたんと座り込んでいる。半ば放心したように口を小さく開き、黄色い瞳はどうすれば良いのか分からないようにクリスタルの柱の中のドール達を眺めていた。
 雪華綺晶に自分が直接狙われただけでなく、姉妹にここまでの仕打ちをされてもまだ彼女に敵愾心すら抱けないらしいナナに、蒼星石は同情していた。彼女は善良というよりはあまりにも素朴で弱々しかった。『アリスゲーム』に参加すること、究極の存在になることを共に否定されたのもむべなるかなといった雰囲気だった。
 余裕があれば肩を抱いて慰め、これからどうすべきかについて話を聞いてやりたい、とさえ思う。
 蒼星石自身の姉妹──真紅のボディも、今は誰も注意を向けていないものの晒し物になっている。真紅が同意の上で器を手放したのか、雪華綺晶が奪い取ったのかは判然としないが、磔にしているのは挑発的で悪意を剥き出しにした行為としか言えない。
 この場に翠星石と雛苺が駆けつけて来たら、何がどうあってもあの十字架状になった白茨の集合体の中心にあるボディを取り返し、雪華綺晶に真紅のローザミスティカの返還を迫るはずだ。むしろ誰もそうしないで無視を決め込んでいる今の状況の方がおかしいのだろう。

 現在のところ、雪華綺晶が真紅のボディをこの場で活用する気が無いのは確実だった。何等かの方法でこの状況を打開しないことには、そして水銀燈とも交渉を行わなければボディに宿ることが出来ないのだ。
 彼女がボディを得て実体化することにどれだけのリスクが伴うのかは分からないが、少なくとも水銀燈は雪華綺晶の魂、または本体と言えるものがボディに宿るときを狙っている。
 実体を持っていないと思しき今の状態では、恐らくこの場で一気に大きなダメージを与えなければ、雪華綺晶は一気に世界を跨いで何処にでも逃走してしまえる。彼女がまだそちらの方法を取っていないのは、この場にある物の価値とこの場の敵達の脅威とを天秤に掛けて、踏み止まるべしと判断しているからだろう。
 既に半ば絡め取られたドールは別としても、水銀燈や蒼星石、そしてナナの存在など彼女にとってはその程度の脅威でしかないということなのかもしれない。まるで以前戦ったときのように、軽く見た扱いもいいところだった。
 力を大雑把に振るうだけのドールを醜いと評してみせたものの、自分の力を恃んでいるのは彼女も同じ事だ。それを持たない者を侮る傾向があるのも、あるいは似ているのかもしれない。

 蒼星石は顔を上げ、改めてこの場の主役達に視線を向ける。ほぼ真横の位置、雪華綺晶の目が無い方向から彼女達を見ることになった。
 取り敢えず、濃紺の衣装のドールとの剣突は小康状態に入ったように見える。当人達の間では何等かの駆け引きがあるのかもしれないが、少なくとも見ている分には分からない。
 特に、ドールは雪華綺晶の言葉どおり、例の巨大な力を発揮できない状況のように見える。先程の黒い羽根の一群も、本気で使ったにしては随分規模が小さかったように見えた。

──だが、雪華綺晶の側も有効な手は打てずにいるのではないか。

 つい、そんな風に考えてしまう。
 雪華綺晶の口調や態度が微かに変化し、ストレートな部分を含むようになっているのがその証左のように思えるのだ。自分達と戦ったときと同じように、何か切迫したものを抱えているのは間違いない。
 例えば、大きな「中身のある」幻影を維持する必要があるか、何か大掛かりな仕掛けを裏で進めているか……あるいは力を回収できると言い放った言葉とは裏腹に、実はドールを抑え込んでおくことで手一杯なのか。いずれにしても、彼女に余裕がないのは間違いのないところだった。

 蒼星石はナナをもう一度見遣った。
 肩を落として座り込んだまま、今は散乱した鞄を一つ一つ膝の上に拾い上げては丁寧に閉じ、自分の姉妹達のボディの傍らに丁寧に並べている。同じ第七ドール、外見も似ている筈なのに、服装が安物の子供服そのものであることも相俟って、傲然と立って濃紺の衣装のドールと対峙している雪華綺晶とは対照的な姿だった。
 雪華綺晶とあのドールの問答の内容からすると、ナナとあのドールの中にある都合五つを除いた二つ──『翠星石』と『金糸雀』──の動力源は、雪華綺晶が何処かに確保しているか、握りこんでいる。最悪の場合は破壊するか破棄していることも有り得るが、そうするメリットが彼女にあるかは疑問だ。
 どちらとしても、ここで座り込んでいては何も解決しない。ナナは何かをしなければならないが、肝心の何かが具体的にどういう行動を指すのか蒼星石には示せなかったし、この状態で悠長に一緒に考えている暇はなかった。
 振り返り、雪華綺晶に向き直る。
 相対している雪華綺晶とドールはもちろんのこと、内心にどのような葛藤と考察を抱えているかは分からないが表面上は静かに両者を見守っている水銀燈にも、蒼星石は手を貸すべき理由はない。それぞれの勝手な戦いだ、と理解してはいる。
 だが、感情面では大きく違う。
 雪華綺晶が動力源を握りこんでいようが、破壊し去ってしまっていようが、蒼星石が彼女を気に入らないことには変わりがない。
 自分達と同じように自律して動き、考え、生きている存在をこうして簡単に壊れ物にしてしまう雪華綺晶に蒼星石ははっきりと嫌悪感を抱いていた。義侠心とか正義感といった大層で理性的なものではない。ただ、気に入らなかった。
 こうなる遠因を作ったのは──雪華綺晶が思うように活動できない件についても、雪華綺晶から力を吸い上げる装置となっている名の無い人形に行動の自由を与えたのも──水銀燈だ。そして先程の問答の内容が事実なら、雪華綺晶を追い込む直接の切っ掛けであり、オディール・フォッセーが糧とされる原因はやはり蒼星石が与えたダメージだということになる。

──だから尚更気に入らないのかもしれない。自分の弱味をちくちくと刺激され続けているようで。

 あの大薔薇に彼を囚われ、白茨の群れに翻弄された戦いを思い出す。後知恵でしかないが、あのときもう少し時間があれば、あるいは雪華綺晶を倒せていたかもしれない。
 どういう齟齬が起きていたかは知らないが、雪華綺晶は大薔薇にほぼ全ての力を割いていたはずだ。蒼星石の突進に屈したのもそれが理由だろう。
 今は恐らく直接の敵と対峙することに殆どの注意を向けている。
 条件は同等、とは言えないが、似たところはあった。

──似たところ、か。

 はたと思いついて、蒼星石は壁伝いに更に回り込むように位置を移していった。
 警戒され、場合によっては妨害されることは承知の上だった。あることを確かめるために、どうしてもそうする必要があった。


 長く狭い通廊を抜けるのは一苦労だった。薔薇乙女達だけならば「大変だ」で済むところだが、ジュンには殆どどう通ったか分からないほどの難所の連続だった。
 既に顔と言わず手と言わず、恐らく全身に引っ掻き傷が出来ているはずだ。血も出ていたが、ジュンは手当てしなければと言う翠星石に首を振って先を急いでいた。
 しかし、どうにか奥まった所まで到達したところでジュンは絶望的な表情になった。
「ここは……無理だ」
 最後の部分なのだろう、曲がった向こうには何か広間のようなものが見えている。しかしそこまでの僅か数メートルほどは、四方から乱雑に針状の結晶が張り出し、薔薇乙女達がどうにか這って通れるほどの広さしかなかった。
「くそっ」
 足が痛むだけなのも意に介さず、ジュンは傍らの水晶柱に見える六角形の透明な柱を思い切り蹴りつけた。六角柱は衝撃を受けても本物の水晶のようにヒビが入って白濁するでもなく、その場に変わらずに立っている。
「痛って……」
「大丈夫なの? 短気起こしちゃダメなのよ」
 雛苺は心配そうにジュンの足を撫でる。雛苺の撫でたところにも傷は付いていて、それがずきりと痛んだが、ジュンは黙って雛苺の気が済むようにさせた。
「本物の水晶なら、壊して進めるかもしれないけど……」
 金糸雀は傘の先端で細い結晶を思い切り良く横殴りに叩いてみたが、その六角柱は傷ついたようにも、動いたようにも見えなかった。
「偽物の水晶……」
 翠星石は自分のヘッドドレスを解いてジュンの酷い傷に包帯を巻いていたが、その手を止めて真紅がよくしていたように顎に拳を当てて呟いた。

「世界に元からあったものじゃなくて、雪華綺晶が作り上げたフェイクってことですか」

「……フェイク?」
 殴りつけたときの衝撃で痺れたのか、傘を放して手を振っていた金糸雀は、真面目な顔になって翠星石を振り向いた。
「幻影ってことかしら。末妹の作った他のモノと同じような」
 翠星石はこくりと頷いた。
「ただ、多分中身の詰まってる幻影です。管理されてるとは思えないのに、こうして確実に此処にあるのですから」
 翠星石は自分の言葉で言い、近くの六角柱に手を這わせる。六角柱はかすかに彼女の手を映した。
「凄く長い時間を掛けて……丁度私達が指輪を育むように、出来上がって来たような気がします」
 金糸雀は大き目の六角柱に顔をくっつけるようにして検分する。言われてみれば、不均一に成長してきたような跡があるようにも見えた。
 顔を離し、幻影ね、と呟く。ジュンを一瞥し、他の二人の少女を眺めた。
「幻影なら、カナの力がお役に立つかしら」
 微笑んで左手で傘を持ち直し、人工精霊を呼ぶ。傘は瞬時にヴァイオリンに変化し、右手の中には弓が出現した。
 ジュンは雛苺と顔を見合わせ、翠星石を見た。翠星石は笑顔になって大きく頷き、ジュンの手に自分の手を重ねながら金糸雀を振り向く。
「とっととやっちゃってください、金糸雀。その代わり、一度で全部お願いしますよ。時間がないんですから」
「翠星石は人使いが荒すぎるわ。今度チョコレートケーキを一パウンド奢って貰おうかしら」
 金糸雀は余裕たっぷりの仕種で肩を少しそびやかし、ヴァイオリンに弓を当てる。
「身体を丸めていてほしいかしら。指向性有りで行くけど、破片がどう飛ぶか分からないから」
 三人が素直に──いや、ジュンが二人の少女を胸に抱き寄せるような形で──身体を丸めると、金糸雀はお熱い事ねと大袈裟に驚いてみせてから、弓をゆっくりと動かし始める。

「幻想のためのソナタ……第二楽章」

 ヴァイオリンが奏でる音はさほど大きくは感じられない。それなのに、音を空気の圧力として感じられるほど凄まじい旋律が響き渡ったように思えた。
 次の瞬間、周囲全ての水晶柱のようなものに細かな亀裂が走る。次いで金糸雀の前方の何割かが一気に粉砕され、渦を巻いて更に前方に飛ばされる。破片が衝突した水晶柱は次々に粉砕され、それもまた破片となって舞い散って行く。
 金糸雀は目を閉じ、旋風のようなものが渦巻く中で一頻り演奏を続けた。
 最初は頭をもたげて見守っていたジュンは、何時の間にか圧力に負けるようにして俯いていた。耳を聾するような音ではないのに、圧力というより暴風のようなものは彼のところにまで余波を齎していた。
 ヴァイオリンの音が止まったことに気付いて顔を上げると、先程の広間のような大広間が眼前に広がり、金糸雀はやれやれというように振り向いてこちらを見ていた。通路に張り出した水晶柱に見えたものは跡形も無く消えていた。
「お気に召したかしら?」
 微笑む金糸雀はいつになく大人びて、まるで水銀燈のように見えた。
「カナ、凄いのー!」
 雛苺はジュンの腕の中から飛び出して金糸雀に抱きついた。
「でかしたです。帰ったらチョコケーキくらい奢ってやるですよ」
 翠星石は振り向いてそう言うと、一旦向き直ってジュンの胸に顔を埋め、それから自分を抱いていた腕にそっと触れて彼の膝から降りた。
 その表情に微かな影があることにジュンは気付かなかった。痛む足を踏みしめながら立ち上がり、広間の方に歩み寄る。
「行こう。真紅が待ってる」
 少女達を振り返ることもなくそう言うと、ジュンは引っ掻き傷の痛みも忘れて冷たい半透明の床を歩き始めた。雛苺は笑顔で金糸雀の手を引き、疲れてるのに、と口を尖らせながら金糸雀も素直にそれに続く。
 翠星石は胸に手を当てて立ち竦んでいたが、大きく息を吐くと笑顔になってジュンの後を追った。
 ジュンの腕には彼女のヘッドドレスが包帯代わりに巻かれている。ジュンが真紅を求めているとしても、それだけは翠星石のものだった。
 今はそれでいい、と翠星石は思う。一生──三人がそれぞれ年老いて死ぬまでその関係でも構わない、と、つい考えてしまうのは、何故なのだろうか。


 蒼星石がナナのところから離れたことには水銀燈も気が付いていた。何をしようとしているのかは分からないが、戦闘が膠着しているのを利用した行動だということははっきりしている。
 雪華綺晶と直接対決したのは蒼星石だけだ。何かを掴んだか、思いついたのだろう。
 水銀燈自身も漫然と雪華綺晶とドールの戦いを鑑賞している訳ではなかった。あまり思索を巡らすのが得意ではないが、あることに不審を覚えてはいる。
 蒼星石も同じことに気付いたのかもしれない。それならば、偵察を放つ手間が省けたというものではある。

 水銀燈は鞄を並べ直しているナナと、その視線の先にあるクリスタルの中で三者三様に楽しんでいる彼女の姉妹を横目でちらりと見遣る。
 あの人形師に託された二つの動力源、そして力は強いが何処か脆い所を抱えたドール達。
 雪華綺晶にあっさりと幽閉されてしまったことについては、どういう訳か激しい感情は湧いて来ない。しかし、できることなら彼女達を皆元の状態に戻してやりたいのは間違いなかった。
 それが当のドール達にとって、果たして幸福なのかどうかは分からない。人形師の手からも離れ、目的を見失っている彼女達にとっては、雪華綺晶の管理する夢の中に居続けることの方が安楽で心地好いであろうことは容易に想像がつく。
 だが、それは人形師が望み、彼女達が一度は選んだはずの「この世界群で生きる」ということとは正反対だ。自分で考えた末に選択したのなら兎も角、雪華綺晶が強引に追い込んだ状況なのだから。
 何よりアリスゲームの過程で雪華綺晶が倒れてしまえば、その夢が続けられるかどうか定かではない。仮に彼女がアリスになったとしても、そのときに彼女の意識が連続し、この場所そのものを維持し続けられるとは限らない。
 安全を期すなら、雪華綺晶を説得してドール達を解放するしかないが、それは雪華綺晶があのドールに勝つことが前提となる。必然的にあのドールの死を意味している。
 いろいろと可愛くない所のあるドールではあるが、『水銀燈』と一体化したのが事実なら、雪華綺晶に倒させるのは避けたい。

──いや、どちらにしても。

 雪華綺晶に負ければ死ぬ。勝っても、雪華綺晶が言うには彼女からの力の供給が断たれて死に至る、のかもしれない。
 水銀燈は一つ息をつく。どうにも不明な点が多過ぎて話にならない。
 改めて正面を見ると、まだ蒼星石は目的の場所まで回り込んでいないようで、視界の隅で壁際をそろそろと移動していた。
 どうやら水銀燈があれこれと思い浮かべていたのは、戦闘が膠着してから数えてもほんの僅かな時間だったらしい。何処まで考えるのが嫌いなんだか、という思いが過ぎる。
 ともかくも、安全を期すことが出来ないのであれば別の策を実行するしかない。それは馬鹿らしいほど単純で、ある意味で本来の彼女らしい方法だ。

「雪華綺晶」
 注意がこちらに逸れる事がないのは承知で、水銀燈は何気ない風に声を掛けた。
「助力は必要かしら? 見たところ処分なんて言葉を使った割には一向に作業が進まないようだけど」
「──っ」
 声にならない声を上げ、ぎろりと水銀燈を睨みつけたのは濃紺の衣装のドールの方だった。雪華綺晶はそんなドールを微笑を浮かべながら見詰める。
 水銀燈はにやりとして人工精霊を召喚する。メイメイはいつものように勢い良く出現し、良い所を見せようというように調子付いた動きで部屋の入り口に向かい、そこで何かに弾かれた。
 部屋のほぼ反対側で、蒼星石が、そうか、という顔になった。水銀燈は軽く頷いてみせる。
 不審に思っていたことが概ね理解できたような気がした。蒼星石も恐らく同じなのだろう。最近滅多に見せなくなった鋭い眼付きになり、先程から持ったままの鋏を僅かに開いてみせた。
「ふん、閉ざされてるとはね。調子に乗るもんじゃないわよ、メイメイ」
 わざとらしく肩を竦める。メイメイはナナの回りを一周し、それから恐縮したように水銀燈の手元に控えた。
「随分と余裕があるものねぇ。出入り口の封鎖なんてことに振り向けるだけのリソースがあったら、さっさとその子を始末してしまえば良いでしょうに。それとも、何かそうできない事情でもあるっていうの?」
 羽根を十本ばかり召喚し、扇状に放つ。
 視線と同じ高さで放たれた羽根のうち一本は、立ったまま濃紺の衣装のドールを見詰めていた雪華綺晶の顔に深々と突き刺さる。数本は虚しく壁に当たって落ちた。
 一本だけは雪華綺晶の脇を抜けて蒼星石に迫ったが、彼女は苦も無くそれを手に持った得物で払い除けた。その程度の速度と威力しか乗っていない羽根だった。

「そこにあるのは中身の詰まった幻影ってことね、やはり」
 水銀燈は翠星石の造語を使った。
「貴女の本体はそこにあるヒトガタじゃない。それは多分──」
 黙れ、と言うように床に伸びた白茨が首をもたげ、先程濃紺の衣装のドールに迫ったよりも余程勢い良く彼女に襲い掛かる。水銀燈は一群の羽根を右斜め下から左上に掬い上げるようにぶつけてそれを逸らし、同時に右上に飛び上がって残りを避けた。
 真紅のローズテイルのような、ある程度長持ちする得物が欲しいところだった。黒い羽根にも相手を拘束したりぐるぐると周回させて機を窺わせることはできるが、あれほど柔軟な運用はできない。
「床に白茨を敷いているのは、実際の出所を誤魔化すため? それとも用意した仕掛けに限りがあってのことかしら」
 言いながら右に回り、部屋の中心に佇立している雪華綺晶に──恐らく、実際にはその形をしたフェイクに──呼び掛ける。既に見破られたと分かっているためか、雪華綺晶は返事を返すこともなく、ただ先程のそれと殆ど同規模の別の白茨を放ってきた。
 空中では先程と同じ手は使えないが、その分大きく避けることができる。水銀燈はどちらに避けるか考え、未だに宙吊りにされている濃紺の衣装のドールに向かった。
「いい加減目を覚ましなさい」
 脇を飛び越そうと見せてドールの肩に手を置き、耳元で囁く。相手の肩を押すようにして方向を変え、飛び退りながら続ける。
「貴女には雪華綺晶に源流を持たない力があるでしょう、拘束されていようがそれは幾らでも使えるでしょうに」
 後半も囁き声のままだった。しかし、それでもドールはどうにか聴き取れたらしい。
 ドールがはっとした顔になるのと、水銀燈を追って来た白茨がドールに掛るのは同時だった。白茨はたちまちドールの身体に巻きつき、その姿を覆い尽くす。

「同一パターンを繰り返しているときはただの幻影の可能性がある」
 蒼星石の落ち着いた声が下から響いた。彼女は漸く、十字架のようにボディを磔にしている白茨の束の処まで到達していた。
 根元に当たる部分は太く、直径は一メートル以上にもなるだろうか。前から見ると、一見雪華綺晶の姿がある──白薔薇の花が咲いていた場所が部屋全体の白茨の根元のようにも見えるが、実際は白茨はここからほぼ放射状に伸びていた。
「動いてみるんだ、『水銀燈』。雪華綺晶と繋がっている分、君は彼女からの暗示に弱い。本来の君自身をイメージして乗り切るんだ」
 それははっきりと、自分の姉妹ではなく『水銀燈』の味方をすると表明した言葉だった。
 言いながら彼女は自分の方に向かってきた白茨を慣れた手つきで切り払う。まるで紙細工のように、白茨は萎れて床に戻った。
「彼女は、この場を維持することだけでも手一杯なはずだ。この──」
 蒼星石は次の攻撃が襲ってくる前に、とばかりに、やや刃を開いた鋏を両手で持って十字架の縦木、樹木に喩えるなら幹の部分を突いた。鋏は意外なほど深々と突き刺さり、蒼星石は幹を蹴りつけるようにしながらその刃を抜いた。
「──大掛りなオモチャには、何か大掛かりにするだけの理由が……」
 鋏を抜いてふらついた蒼星石に、白茨が巻き付く。足を取られ、引き倒されながらも蒼星石は白茨を切断した。
「本物も混じってるようね」
 水銀燈は舌打ちした。到底全力を出せない状態らしいが、それでも雪華綺晶の力は──即物的なそれであっても──自分達を軽く凌駕している。
 引き分けに持ち込むか、できることなら屈服させて動力源の場所を聞き出したいものだ。しかし、それは濃紺の衣装のドールが動いてくれないことには虚しい願望に過ぎなかった。
「厄介な……」
 言っている間にも、網の目のような白茨が彼女を包み取ろうと迫ってくる。幻影か、それとも中身が詰まっているのか。

──初めてのパターンだ。本物だ。

 咄嗟にそう判断して迎撃する。しかし、水銀燈としては多目の羽根を惜しげなく使ったにもかかわらず、白茨は虚しくくしゃくしゃと潰れて消滅した。
 最初に濃紺のドールの攻撃を防いだパターンか、と漸く気付く。方向と位置が全く別だったから見落としていたが、網は既に使われていたものと同じだった。
「この場を維持するリソースより、私達の相手をするリソースの方がよほど少なくて済むようね」
 水銀燈は苦笑して蒼星石の背後に黒羽根をダーツのように放つ。にじり寄っていた数本の白茨が床に落ちた。
「礼は言わないけど、君の言葉には同感だ」
 言いながらも蒼星石は幹に鋏を突き立てた。
「もはや、口も利いて貰えないらしい。その程度の存在ということなのだろう」
 言いながら、ちらりとナナを見る。意外なことに彼女は立ち上がって一つのクリスタル──『翠星石』が中で終わりのないダンスを踊っている水晶柱に手を当てていた。
 相変わらず部屋の中の喧騒には全く関係ないというように、手首から細い白い蔓を伸ばしてクリスタルの柱に巻きつけている。
 この期に及んで、とつい考えてしまう。厳重に幽閉されてしまっているドール達に、ナナの声が届くとは思えない。
「左後方! 八時!」
 水銀燈の警告に、しまった、と思ったときは遅かった。多芯ケーブルのように撚り合わされた白茨が蒼星石を突き飛ばし、その勢いのままのしかかって来る。
 鋏を開いて叩き付けてみたが、茨は外面の数本が切断されただけで、動きを止めることも緩慢になることもなかった。
「ぬかった……」
 そう呟いたときには、蒼星石は身体中に白茨を巻き付けられていた。鋏は茨の外に出ているが、足から肘まで固められてしまい、身動きが取れない。
 意外にも次の一撃は来なかった。拘束すればそれで構わないと思っているらしい。白茨の強度に自信があることの証左だった。
「時間切れ待ちか……」
 蒼星石は片目をすうっと細め、自嘲気味に口を歪める。
 この場の他の者達にとっては無縁なことだが、彼女にとってそれは最悪のシナリオだった。しかし、嘆いたり自暴自棄になっているゆとりはない。
 レンピカを呼び寄せながら、これで腰を落ち着けて考えられると思おう、と蒼星石は目を閉じた。幸いにもレンピカは拘束されていない。自分が完全に白茨の中に沈んでしまっても、レンピカに策を伝え、レンピカが他の者に伝えることはできる。
 問題は、策を考えついたとしてもそれを活用できる者が残っているかどうかだった。それは蒼星石を除けばこの場で最も非力な存在しか居ないようにも思える。
 彼女はいつまで逃げていられるのだろうか。何かを思いついたときにそれを実行する余裕があるのか。
 あまり良い状況ではなかったが、蒼星石は目を閉じて考えを巡らし始める。幸いにも、策の端緒は既にあった。


 何十人かの老人達が、丁寧に頭の向きを揃え、等間隔に横たえられていた。
 金糸雀は口に手を当て、老人達に見入っている。殆どは老い窶れて面変わりしてしまっていたが、それは彼女の以前の契約者達だった。
 翠星石はぶるっと身震いしてジュンを見上げた。
「……この辺りが、翠星石と蒼星石のマスター達なのです。向こうが金糸雀のマスターなら、こっちの方のはきっと……」
 ジュンはじっと翠星石の指したグループを見詰めた。他の場所は男女比がほぼ均等に見えたが、そこだけは身なりの良い女性ばかりが並んでいる。

  ──人間のオスは想像を絶するくらい下劣ね。

 いつか──多分出会って薇を巻いてすぐに──真紅が放った言葉を思い出す。なんだ、とこんな状況にも関わらずくすりと笑いたい気分になってしまった。
 真紅は男性の契約者を持つのは初めてだった訳だ。最初のうちやたらと威張ってみせたり、中々素直な気持ちを言えなかったりしたのも、種を明かせばそんな経緯があったからなのかもしれない。
 そんな風に考えながら見ていると、なんとなく彼女達の殆どは気が強そうな、少し取り澄ましたような雰囲気があるようにも思える。真紅は彼女達から礼儀作法や知識だけでなく、そのありようや心も学んできたのだろう。
 真紅の性格も知識も、決して作り付けられたものだけではない。本人は否定するかもしれないが、レディとして、あるいは自立した女性として、あるべき姿というものを数々の女性から教えられ、そこで取捨選択もしながら生きてきた結果が今の真紅なのだ。
 翠星石も同じだ、とジュンは長い栗色の髪の少女を目で追う。彼女は座り込んで、西洋人と思しい老人の顔の上に手を遣っていた。
「──時計職人でした」
 近付いて行くと、翠星石はぽつりと呟いた。
「とても腕の良い人で、でも、ずうっとライバルのことを引き摺ってて……陰険おじじと似てました。私達のマスターは、そんな人ばっかりだったと思います」
 立ち上がり、ジュンの服の裾を引っ張る。見上げる顔には涙はなかったが、無闇に真剣だった。
「ジュンは、こんな風になっちゃダメですよ」
「どういう意味だよ」
 ジュンはよく分からないと言うように口を尖らせる。翠星石は一度老人を見遣り、また顔を上げた。
「この人は、もっと若いときに私達と契約しました。契約を解除するときは──とっても辛かったですけど──お互いに納得の行く形で別れたはずでした。いいえ、翠星石は納得してお別れしたから、次のマスターと出会ったときから、もう思い出すことはありませんでした」
 でも、と目を閉じて俯く。
「この人は私達との暮らしを忘れられなくて、心が弱くなってしまったとき、また会いたいと強く願ってしまった。その結果が、こんな形になっちゃったんです」
 ジュンは翠星石の頭に手を置いた。彼女の言いたいことが大体分かってしまうのは、何故か少し口惜しいような気分だった。

 翠星石は自分とジュンのことではなく、真紅とジュンのことを言っている。予期しない形で──そう言えば、契約したときも予期しない出来事だった──自分から大好きだと言ってしまい、それに絆されるようにお互いの気持ちを確かめ合ったけれども、元々彼女は真紅こそジュンの一番好きな人だと考えていたし、今もそれは変わらない。
 だから、後悔するな、真紅を探し当てたら今度は二度と放すな、と遠まわしに言っているのだろう。自分より真紅を選べ、それがジュンの本当の気持ちなのだと。
 いじらしい、だが何処かに烈しさのある言葉だった。翠星石らしい、と言えばそのとおりにも思えそうな言葉だった。

 だが、ジュンは簡単にそれを認める訳には行かなかった。
「僕はそんな風にはならない」
 翠星石が自分の方を向くと、安心していいよ、と屈みながら手を伸ばし、その頬を撫でる。
「僕はお前を放さないから。何処にお前が消えてしまっても、何処までも追い掛けて行く。別れなんて認めない。いいか、お前が今度みたいな逃亡劇をやらかしたら、僕は今度よりずっとしつこく追い掛けて、必ず自分でお前を見つけ出す。都合のいい夢なんかじゃ絶対に誤魔化されないからな」
 青臭い言葉だ、と水銀燈なら言うだろう。その気持ちこそが雪華綺晶に付け入る隙を与えるのだと警告したかもしれない。だが、やや弱気になりかけていた翠星石の心にはその言葉がストレートに響いた。
 翠星石は口の中で、ありがとう、と呟いた。自分がどんな表情をしているかまで気付く余裕もなかった。
 たとえ嘘でも嬉しいです、という言葉は、ジュンが話し始める前から用意していたのに何処かに飛び去ってしまっていた。代わりに彼女は首を一つ振ると、元気のいい声を張り上げた。
「さあ、昔のあれこれを思い出すのはこの辺で終わりですよ。幾らなんでも真紅がお待ちかねってモンです」
「了解かしら」
 金糸雀は目元を拭ってステッキ代わりの傘をくるくると回してみせた。
「お陰で充電もできたかしら。また大技バリバリ行っちゃうわよ」
 雛苺は一人だけ離れて横たわっている老女の所に座り込んでいたが、翠星石の声で立ち上がった。
「もう行くね、コリンヌ。こんなの意識の亡骸だ、ここはただのお墓代わりだって言われるかもしれないけど、ヒナはまた会えて嬉しかったよ」
 ポーチを開け、いつも入れて持ち歩いている、お気に入りの人形を取り出す。ジュンが雛苺似に改造してくれたあのミニドールだった。
「ここにはドールハウスはないけど、ヒナのぶんしんを置いてくね。天国まで届いたら、大事に遊んであげてね。いつか、ヒナがそっちに行くときには、この子を目印にして行くから」
 コリンヌの表情は動かない。お供え物のように置いた人形も光の中に消え去ったりはしない。それでも、雛苺は笑ってコリンヌの居た場所に背を向けた。
「なにやってんですかチビチビ! 置いて行きますよ」
「うよーい、待ってなのー」
 雛苺は拳を振り上げている翠星石の方に駆け出す。その途端、どくん、と大きな脈動が身体を走り、彼女はびくりとして立ち止まった。
「どうしたの?」
 金糸雀が振り向いたときには、脈動は収まっていた。なんでもないよ、と首を振って雛苺はそのまま翠星石の後を追った。


 蒼星石の考えるところの「非力な存在」は、ぎりぎりのところで白茨を躱し、またはどうにか切り抜けてひたすら飛び回っていた。次第にその動きは手慣れたものになってはいたが、反面、切れが鈍くもなっていた。
 nのフィールドの中で無限の活動時間を許されている水銀燈とはいえ、疲労は蓄積する。特に媒介が存在しない状態では、黒い羽根を使い続けていれば尚更だった。
 濃紺の衣装のドールが剣に頼っていたように、今の水銀燈は殆ど羽根を使わず、障害物と空間を利用して避けるだけに留める方が多くなっている。幸い、白茨は襲撃にしくじると元のように床の上に戻る習性を持っていて、次第に空間がなくなって追い詰められるということもない。

──剣、か。剣……

 斜め上から降下してくる茨の軌道を変える役目をメイメイに任せて前に飛びながら、水銀燈はふとそんなことを考える。
 あのドールは剣を二本保有している。
 濃紺の衣装のドールが持って、今は腕ごと白茨に絡め取られている剣は、紫色の人工精霊──『メイメイ』が召喚したことからみて、恐らく『水銀燈』が持っていた剣だ。
 もう一本は、何処に行ったのか。そも、何故使おうともしていないのか。
 水銀燈の認識では、あの剣と三体の人工精霊は、雪華綺晶と無関係の力だった。剣は殆ど自律して動いていたこともあったのだし、人工精霊については言うまでもない。
 それを活用すれば状況を一挙にひっくり返せる可能性もある。だが、今のところドールは白茨の繭の中に隠れたまま、少なくとも外見上はぴくりとも動いていない。
 どういうことだ、と更に数度の回避を行ってから水銀燈は舌打ちする。

──眠らされたか、それとも雪華綺晶の言葉に怯えてしまったのか。

 雪華綺晶を倒したら自分も死ぬ、という認識は、たとえそれが雪華綺晶のハッタリだとしても効果の大きな枷には違いない。何しろ、雪華綺晶の言い分自体は紛れもなく通っているのだから。
 ただしドールの場合、雪華綺晶と既に戦端を開いている。何もせずに居れば自分だけが倒れることになる。
 『水銀燈』の、いじらしいほど直線的な性格を持っているドールであれば、せめて相討ちを、と考えても良さそうなものだ。しかし、現状でドールは動きを見せていない。
 あるいは、彼女なりに善後策を検討しているのか。それとも、あまり考えたくはないが白茨に絡め取られて身動きが取れず、恐慌状態に陥ってしまっているのか。分からない。
 分からないが、確かなことはドールの行動が皆無であることで、今や白茨の矛先は水銀燈一人に絞られているということだった。
 このままでは攻撃を加えるなどということは愚か、下手をすれば水銀燈が捕獲され、現在は冷ややかに存在を無視されているナナまで絡め取られかねない。
 全滅、という言葉が脳裏に浮かぶ。
 恐らく、残る三人の姉妹も此処に向かっていることだろう。彼女達が見るものは数が倍に増えた抜け殻のボディと、一層大きく咲き誇っている白薔薇の花ということになるのか。
 そうなれば、アリスゲームはここで雪華綺晶が勝ちを占めて終わる。
 最後の形として予期していたことの一つとはいえ、口惜しかった。

──取り敢えず今は時間を稼ぐしかない。

 そう考え、何弾目になるか分からない白茨の群れを避けて大きく方向を変えた途端、目の前にクリスタルの柱が現れた。
 いや、違う。元々壁際にあった、オディールやドール達の意識が幽閉されているクリスタルだ。壁際を縫うように避けてきて、そこに障害物として存在していることをつい忘れていたのだ。
 疲労しているとはいえ迂闊だった、と考えたときには、水銀燈はその一つに肩をぶつけてしまっていた。クリスタルの中ではベッドに横たわった赤い衣装のドールが幸せそうに眠っていた。
 疲労は思っていたより蓄積されていた。普段なら難なく飛び続けられる程度の衝撃だったが、もんどりうって墜落してしまう。床の上を少しばかり滑り、痛みに耐えながら起き上がろうとしているところに、白茨が殺到してきた。

──なんて、呆気ない。

 これまでか、と迫り来る白茨に黒い羽根をぶつけながら思う。白茨は今回は間違いなく緻密にコントロールされた本物だった。圧倒的な圧力で黒い羽根を四散させながら、壁のように迫ってくる。メイメイが果敢に抵抗を試みたが、難なく弾き飛ばされた。
 メイメイは調子付いた性格だが、姉妹の人工精霊の中では最も力が強い。それがこの有様じゃ、他の人工精霊なんて使ったところで高が知れてるわね、と、妙に冷静な頭で考える。自分が繭の中に閉じ込められるのを、せめて不敵な笑みを浮かべて待ってやろうか、とも思った。

 考えてみれば、雪華綺晶の繭に閉じ込められるのは初めてではない。媒介が自分の心の木を伐ったとき、相手にとって最高に都合が良いことに、水銀燈は魂とボディが一時的に離れたような状態だった。
 あのときは、その原因を作った媒介が雪華綺晶を撃退し、メイメイに導かれて助けに来た。初めて彼女を抱き締め、謝罪して、何やら決意らしきものを述べた。
 今はそれは望めない。……いや、少年が来るのだろうか。それも面白いかもしれない──

 白茨の壁は、水銀燈には到達しなかった。横から伸びてきた苺の蔓のようなものに巻き付かれ、不器用に大きく持ち上げられていた。
 苺の蔓はじりじりと、しかし容赦なく周囲の白茨全てを床から引き剥がし、めくり返して部屋の中心で佇立している雪華綺晶の姿の幻影の上にそれを被せた。幻影は白茨と苺の蔓に埋もれ、見えなくなった。
「──返してください。みんなを元に戻してください」
 ナナの声がした。どこか虚ろだが、はっきりした大きな声だった。
「あなたのゲームのことは分かりません。でも、わたしの姉妹達をこんな風にするなんて、酷いです」
 顔を上げると、ナナはクリスタルの前に立ち、十字架のようになった白茨の根元に向かって声を張り上げていた。先程蒼星石が「大掛かりなオモチャ」と表現し、何度か斬り付けていた場所だ。

「……何も知らない、全てから逃げていた貴女には分からないことですわ」
 何処かから声が響いた。雪華綺晶の声に間違いはないのだが、それは今までの妖艶と表現する声とは全く違う、地の底から聞こえてくるような低音を伴っていた。

「使える物は何でも使う。克つために。生きるために。ゲームに組み込まれ、そうしなければ生きて行くことすらできない存在のことなど、自分達のゲームから逃げ回っていただけの貴女には理解も共感もできないでしょう? いいえ、いいえ、理解も共感もされたくありませんわ。持って生まれ、それを乗り越えて行くことを望まれた弱さを克服しようともせず、弱いことを隠れ蓑にして逃げ回っていただけの貴女になど。弱い者同士の馬鹿力のぶつけ合いにさえ参加できなかった、偽りの第七ドールを糺そうともしなかった哀れで惨めな存在。それが貴女ではありませんか。そんな者に私の心など、私の気持ちなど理解されようはずも──」

「──みんなを返して!」
 ナナは雪華綺晶の言葉が終わらない内に叫んだ。
 同時に、壁と天井から無数のクリスタルの結晶が伸び、部屋の中央に殺到する。濃紺の衣装のドールを拘束していた、斜め上に伸びていた白茨も、蒼星石を拘束していた白茨も結晶に貫かれ、潰れ、千切れた。蒼星石が急いで白茨を振り払い、そこから抜け出すのが水銀燈にも確認できた。
 白茨の十字架も幾つもの結晶に貫かれたが、形はまだ残っているように見える。多くの蔓が撚り集められて出来ているというよりは、白茨で出来た十字架を模したイミテーションのようにも見えた。
 薔薇水晶の技か、と水銀燈は一瞬錯覚したが、すぐに思い直す。

──これは『雛苺』の本来の能力だ。

 『雛苺』の能力は、その場にある物を巨大化させたり自在に動かして相手にぶつけるという荒っぽいものだった。苺の蔓などは副次的な能力に過ぎない。ある種のハンデ戦だったとはいえ、それは『真紅』さえ翻弄したほどの力を持っていた。
 ナナは無意識のうちにその能力を使ったのだろう。もっとこの場所に物が多ければ、それらを舞わせてぶつけていたかもしれないが、ナナ自身の姉妹のボディやら鞄を除けば、この部屋にあるのはクリスタルの六角柱ばかりだった。

「お話は最後まで聞くものですわ。少しばかり力を持って有頂天になっている哀れなお人形さん。貴女の姉妹は全員が全員騙し討ちに遭った訳ではございませんのよ」
 落ち着き払った、少しばかり揶揄するような調子の混じった声が響く。
「そちらの三体の人形は確かに私が確保致しましたけれど、それについても私の我欲で為した事ではありませんわ。取引をするために、言わば依頼を受けてしたようなものですのよ」
 ナナはびくりとした。怯んだ、と言った方が正しいかもしれない。
 取引と言われてしまえば、先程の濃紺の衣装のドールと雪華綺晶の会話を思い出さないほど彼女も愚かではない。
 ナナの主張は、雪華綺晶が勝手に自分の姉妹の意識を此処に閉じ込め、面白半分にボディを散らかしたという思い込みから始まっている。もし『水銀燈』が雪華綺晶と手を組み、お互いのゲームのために相手を利用しているのだとすれば、ナナの言葉は端から意味のないものになってしまう。
 世慣れないナナの見せた大きな隙を、此処まで一度も長い眠りに就かずに姉妹全ての事象を見てきた雪華綺晶が逃すことはなかった。六角柱の隙間から生き残った白茨が滑るように湧き出し、四方からナナに殺到する。
 ナナは抵抗する余裕さえなく、蜘蛛の糸にも見える細い白茨で手足を拘束された。呆気ないと言えばあまりに呆気ない顛末だった。
 雪華綺晶は特に勝ち誇る風でもない、先程から変わらない調子でまた喋り始めた。

「貴女は本当に何も知らない、何もできない、何も考えられない、何も持っていないドール。でもその心だけは他の姉妹よりは強い。弱みを持っていないだけ、とも言いますけれど。ですから、私は労力を費やして貴女を確保する必要すら感じなかったのです。ああ……でも、こうして折角絡め取れたのですもの、以前考えたように貴女のボディも試してみても良いかもしれませんわね。第二から第六は私に馴染みませんでしたけれど、貴女のボディだけは私に馴染むかもしれませんもの。私のおうち、紅薔薇のお姉さまのボディの次の、私の二番目のおうち……」

「だんまりを決め込んでいたと思ったら、今度はいやに多弁になったようだけど」
 蒼星石は水銀燈を眺め、目顔で頷くと、横合いから伸びた結晶を跨ぎ越しながらナナに近付いた。足許から白茨が湧き出てくるのを素早く鋏で切り捨てる。
「言葉で誤魔化そうとしているところを見ると、ナナに攻撃されたダメージはかなり深刻なのかな」
 言いながら、間違いないだろう、と思う。こうして歩いてナナに近寄っても、まともな妨害をして来ないほどなのだから。
 ただ、蒼星石がナナに近付いたところで二人纏めて拘束しようとしている可能性もある。油断はできなかった。
「意味の無い挑発ですわ、青薔薇のお姉様」
 地の底から響いてくるような声は、ややはっきりと揶揄する調子を帯びた。
「先程の愚をまた繰り返すおつもりですか? お二人は私に傷一つお付けになれなかったというのに」
 蒼星石はにやりとしてみせる。
「それはどうかな。少なくとも僕は君の大掛かりなオモチャに重要な傷を付けたよ」

 その言葉が終わらない内に、それまでの不活発さが嘘のように、足許と背後から白茨が踊り出た。今まさにナナの腕に絡んだ白茨を切断しようとしていた蒼星石は、分かっていたにもかかわらず反応が一拍子遅れてしまう。
 白茨に巻き込まれながら、蒼星石はレンピカを放つ。忠実な人工精霊は無駄のない動きで彼女の手許から滑るように飛び出ると、まだ立ち上がったばかりの水銀燈の処に向かった。
 できることはそこまでだった。蒼星石は不敵な笑みを浮かべ、形だけ抵抗しながら白茨の中に呑まれて行く。ナナはそれを呆然と見詰め、水銀燈は舌打ちした。

──それは私がやろうと思ってたことじゃないの。恰好付けちゃって……

 ふっと笑いが零れてしまう。だが彼女の表情はすぐに引き締まった。レンピカが眼前に飛来して、短いメッセージを伝えたからだ。
 鼻を鳴らし、面白くなさそうな顔になってばさりと舞い上がる。結晶がそこここに突き出た部屋は飛び難かったが、それでも白茨に邪魔されることもなく、十字架状になった白茨の構造体の根元が見える位置に移動できた。
 濃紺の衣装のドールが気になった。彼女が拘束されていた辺りに目を向けると、そこには千切れた衣装の袖と、ずたずたに切り裂かれた白茨だけが残っていた。
 真下に居るのか、と視線を下げてみたが、見えたのは自分の方に向かって伸びてくる白茨だけで、ドールの姿は確認できない。当たり前といえば当たり前の話ではあった。
 ドールの居場所を特定している時間はなかった。水銀燈は蒼星石の寄越した、不器用だが大きな内容のあるメッセージの意味を読み違えていないことを祈りながら、現状で出来るだけの羽根に炎を点して、十字架状の構造体の太い根元を狙って射込んだ。
 射撃の結果を見届ける時間もなく、水銀燈は足許から白茨に絡み付かれて行く。抵抗する時間はあったが、余力がなかった。軽く肩を竦めながら、水銀燈は白茨の繭の中に呑まれていった。

 篝火のようなあかあかとした炎を上げて燃えながら、水銀燈の黒い羽根は十字架の根元、蒼星石が傷を付けていた辺りに立て続けに命中した。
 数はそれほど多くない。十数本放ったうち、妨害を掻い潜った数本に過ぎない。青白い炎を上げて無数に放たれる『水銀燈』の羽根に比べれば、哀しいほどの貧しい火力でしかなかった。

 だが、その狙いだけは精確だった。少なくとも一本は蒼星石がつけた傷そのものに命中し、そして──勢い良く燃え上がった。

 羽根が燃えているだけではなかった。白茨の構造体自体が、赤黒い炎を上げて燃え上がっていく。
 まるでセルロイドの作り物が燃えて行くように、炎はあっという間に根元から十字架の腕木のところに達し、そこから三方に分かれて結晶に凭れ掛るように形を保っていた十字架全体を包み込む。
 床に這ったり、垂れたり千切れたりして結晶の間に落ちていた白茨も難を逃れられなかった。それぞれが紙かプラスチック細工のように、くしゃくしゃと妙な形に変形し、溶け、黒い煙を上げながら激しく燃え上がっていく。
 やや違う燃え方をしている白茨もあった。暫くは抵抗しているものの、周囲を炎が取り囲むと生木のように白煙をあげ、じゅうじゅうと厭な音を立てながらじわじわと燃えて行く。
 そういった燃え方をしているのは主に身体を拘束するために使われた細い白茨だったが、そこまで事細かに観察している余裕はその場の誰にもなかった。入り口が封鎖された中で熱と炎から僅かでも逃れるには、可燃物の最たるものである白茨のない場所に向かうしかない。

 大袈裟に言えば視界の中全てを炎が包み込み、それが自分の方にも迫って来るのをナナは魅入られたように見詰めていたが、すぐ近くで大声がするのに気が付いた。
 横合いに視線を向けると、蒼星石は既に白茨の繭を切り抜け、ナナに顔を寄せて怒鳴るように告げた。
「逃げるんだ。君の姉妹の処なら床に白茨がない」
 自分の背後まで炎が迫っているにも関わらず、蒼星石はナナの四肢に絡みついた白茨を切断してくれた。白茨のテンションはとっくの昔に緩んでいて、ナナ以外に立ち竦んでいる者はいなかった。
「は、はいっ」
 恥ずかしいと思いながら、ナナは蒼星石に手を引かれてクリスタルの柱の後ろに逃げ込んだ。彼女達の後ろで、ナナを拘束していた白茨が黒煙を上げて一瞬で燃え尽きた。
 ナナを抱えるようにしてクリスタルの柱──『翠星石』が『蒼星石』とまた踊り始めている──の後ろに逃げ込み、帽子の庇に手を遣りながら、ちぐはぐ過ぎる光景だな、と蒼星石は苦笑混じりに呟いた。クリスタルに封じられたドール達と自分達の有様を対比しているのは明らかだった。

 ナナにはそれが不謹慎な、あるいは騙されて閉じ込められた自分の姉妹に対して冷た過ぎる言葉のように思えたが、それを指摘することはできなかった。
 蒼星石にも水銀燈にも、そういうドライな、あるいはブラックなユーモアを簡単に口にするところがある。決して高潔で慈悲深い訳でもないし、適切な言葉のみを選んで喋る慎重な人物でもない。
 それでいいのだろう、とも思う。彼女達は完璧な存在でも至高の存在でもないかもしれないけれども、今のナナよりはずっと完成された「ヒト」なのだから。

 燃え盛る炎の中で、まだ僅かにコントロールされていたのか、助けを求めるようにこちらに伸びてきていた白茨が、のたうつようにくねくねと踊ったかと思うと樹液の蒸発する音と共に燃え落ちて行く。
 まるで髪の毛みたいだ、と考えてから、漸くナナは一つのことに思い至った。自分の姉妹のボディ、その髪も白茨のように燃え尽きてしまうのではないか。
 ナナは二、三度瞬いて、四つん這いになったままボディの一つに手を伸ばす。思ったより軽いそれを一気にこちらに引き込むと、次の一つに手を伸ばした。
 類焼の危険はない、と蒼星石に注意されながらも、鞄とボディの全てを遮二無二クリスタルの柱の裏側に引き摺り込む。どのボディがどの鞄に対応しているのかを考える暇もなく、兎に角全部を鞄の中に収めることだけは成功した。これで火の粉が降って来ても姉妹の髪が焼ける心配はない。
 蒼星石は兎も角、最近はがちがちの現実主義者に思えてきていた水銀燈が積極的に手伝ってくれたのがナナには意外だった。二人への感謝の言葉をたどたどしく口にしながら、ナナは鞄を背にしてへたり込んだ。
 クリスタルの中の少女達は、相変わらず何も知らずにのんびりと楽しい夢を見続けている。疲労した目で眺めると、蒼星石の気分がなんとはなしに理解できた。確かにちぐはぐな光景だった。



[19752] 330ほど。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/03/31 19:35
訳あってしばらくお外でいろいろ出来るような状態じゃありませんでした。ほぼ寝たきり安静。

そんなわけで時間は無茶苦茶あったわけですが、意に反して殆ど進みませんでした。
寝たままってのは意外に眠っちゃうものなんですねぇ。

というわけで、普通の2~3日分といったところでしょうか。
大量の文章期待してくださった方がもしいらっしゃったら、まことに申し訳ない。

※ グロいとご指摘があったのでこの部分ちょい削りました。
 本文は誤字訂正程度です。

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 粗方の白茨が燃え落ち、火勢が衰えるまでに、大した時間は掛らなかった。
 煙を吸ってしまい、みっともなく咳き込みながら、水銀燈は立ち上がって部屋の中央を見遣った。
 生憎なことに、ナナが白茨をめくり返して被せる形になった部分が視線を邪魔している。まだ完全に火が消えていないのか煙を上げ続けていて、その位置からは見通しが利かなかった。
 他のそこここからもまだ煙は上がっているが、どういう訳か室内に充満してはいない。炎熱地獄の演出としては見事かもしれないが、何処かおかしな按配だった。
 蒸し焼き状態にもならなかったことも考え合わせると、所詮観念の世界の出来事だから、と思考停止すべきなのかもしれない。
 強力なベンチレーターの代わりをする何かが天井の結晶の組み合わさった奥にでも存在しているのかもしれないが、その割には終始一定の方向に風が動いているようには感じられなかった。むしろ、壁やら天井に該当する場所がそう見えているだけの幻影だと言われた方がしっくり来る。
 ただ、どちらであっても直接の炎と熱の脅威は本物だった。逃げ遅れた訳でもないのに水銀燈の服の裾には焦げ跡ができてしまっているし、燃えている白茨を踏み消したらしい蒼星石の靴からも、底革の焦げる臭いと合成樹脂が燻るときのそれを合成した、微かだが厭な臭いが漂って来る。
 尚も暫く目を凝らしてみて、水銀燈は肩を竦めた。
「とんでもない仕掛けだったって訳ね。オモチャどころか火焔地獄じゃないの」
 恨みがましい目で蒼星石を振り返る。
「ナナがこの辺のを根こそぎめくり返してなかったら、私達全員足許から燃やされてたところよ」
「君は気付いていたと思ったんだけどな」
 蒼星石はあくまで真面目な顔で言い返す。しかし、その眼は笑っていた。
「彼女の作った仮のボディも今回の大掛かりな舞台装置も、セルロイドか、もっと柔らかい合成樹脂のように思えた。ならば彼女としては、炎を操れる相手に対してそれ自体の特性を取って置きの攻撃手段にしてもおかしくないだろう」
 水銀燈は不機嫌そうに鼻を鳴らして、また一つ咳き込んだ。その場の空気は部屋の中全体が燃え上がったにしては不思議なほどクリアではあるものの、それでも少しは汚れている。
「あれは攻撃方法の指示じゃなくて、警戒しろって意味だったってこと?」
 あれ、というのは蒼星石がレンピカに託したメッセージのことだった。
「だったら『十字架はセルロイド製だ』じゃなくて、茨の方も大部分セルロイドだってメッセージにすべきでしょう、お馬鹿さん」
 こっちはそんなことまで知らなかったわよ、と悪態をつきながら、薄れて行く煙を透かしてもう一度向こうを見渡す。咄嗟に入り口を閉ざされたことと関連付けられなかったのは自分の失態なのだが、それは言わずに済ませてしまった。
 兎も角も、雪華綺晶の攻撃は止んでいる。これで入り口の封鎖が解けていれば、少なくとも企図を挫くことだけはできたことになる。
 しかし、それにしても。

──あの子はどうしたのか。

 濃紺の衣装のドールが気になる。自分達の居た安全圏には入って来なかった。となれば、白茨のところを切り抜けた後、下に降りて行って炎に巻き込まれたか、上に昇って行って煙に巻かれたか。

 蒼星石に言ってやったことは当てつけだが誇張ではない。ナナが白茨を根こそぎ捲り返してしまわなければ、この周辺も炎に包まれていたはずだ。
 その意味では、ナナからのダメージを回復していない時期に点火したこと自体は、あながち悪いタイミングではなかったかもしれない。だが、それはあくまで自分達のみに限った話だ。限られた部分以外では、白茨の火焔トラップは有効に作動した。
 白茨が床面に戻る習性も、考えてみればこの罠を発動させるための仕掛けだったのだろう。何処か一箇所に点火すれば部屋中火の海にも出来るし、場合によっては──時機が不適切だと思えば──端の方に点火したものは、その部分の白茨を切り離して延焼を防ぐといった芸当もできたのかもしれない。
 もちろん、雪華綺晶の想定的は水銀燈ではあるまい。もっと温度の高い、ガスバーナーのような青白い炎を上げて放たれる無数の羽根を操る者だ。
 火力が高くなり、かつ点火ポイントが複数になれば、当然火の回りは速くなる。その分部屋に居る者は逃亡する時間を失い、炎に巻かれる危険が増す。
 逆に言えば、水銀燈という弱者が想定外の相手であり、しかもナナによって床面の何分の一かの白茨が本来の場所から退かされていたからこそ、雪華綺晶はこの自爆技に近い罠でも相手を全滅させることが叶わなかったのだろう。

 水銀燈は軽く床を蹴って舞い上がった。先程のような急激な機動の連続は別として、滞空できる程度には回復している。
 煙は上の方がやや濃かった。壁から突き出た結晶や燃え落ちた白茨自体が邪魔をしてもいた。小さなもの、例えば契約の指輪やら薇巻きのような物なら確実に発見出来なかっただろう。
 だが、その中に存在している二つの異様な種子か何かのようなものは明確にそれと分かった。
 一つは灰の上に載せられた卵のような具合で、凹凸はあるものの大雑把に言えば球形に固まっている。焼けて白っぽくなってはいるが、元の色は黒なのだろう。大きさは概ねドールの半分ほどと見受けられた。
 もう一つはそれよりも一回り大きく、まるで強い火で焼かれた草か何かの山のように床面にべったりとへばりついていた。少年なら庭の築山、かつての彼なら古墳か何かに喩えただろう。水銀燈としては、咄嗟にナメクジを想像しなかったのが幸運だったと言えるかもしれない。
 真紅のボディは見当たらなかった。例の十字架の腕木の分かれ元にこれ見よがしに晒されていたボディのようなものは、跡形もなくなってしまったように見える。

──あれもこちらの目を惹くための偽物、って訳。

 随分と見縊ってくれたものだ、と水銀燈は鼻を鳴らした。もっとも、見縊られても致し方のない、情けない戦い振りに終始した訳だから文句は言えない。
 結晶を避けながら降下し、床に降り立つ前に黒い羽根を数本辺りに散らす。結果を見て諦めの息をついてまた舞い上がった。
 黒い羽根はいずれもすぐに煙を立て始め、中には明白に燃えているものもあった。まだ降り立てる温度でないのは明らかだった。
 やむなく、ほぼ水平に突き出た結晶の一つに降り立つ。床や結晶全体が熱を持っていないのは不思議といえば不思議だが、都合が良いと言えば都合が良い。
「ナナ、その位置から見える? あそこの黒い卵みたいなもの」
 振り返り、自分と球体の位置を適当に考慮して、当てずっぽうにならない程度に方向を示す。
「持ち上げてそっちに回収してもらいたいんだけど」
「起重機並みの扱いだね」
 蒼星石は手近な結晶によじ登りながら苦笑したが、ナナは大儀そうに立ち上がると、見えます、と頷いた。
「──やってみます」
 苺の蔓が数本纏めて伸び、卵というよりは球体に近い黒い物体に絡み付く。
「気を付けなさい。まだ熱を持ってるわよ」
「はい……大丈夫です」
 ナナの言葉どおり、じゅっ、というような厭な音がして芽や葉が萎れたものの、苺の蔓は燃え出すことはなく球体を縛った。勢いをつけて持ち上げると、そのままナナの方に引き込む。
 ただ、その大きい山なりの軌道は手慣れたものとは到底言えなかった。所詮借り物の能力であり、自分の技ではないのだ。
「避けるんだ、自分にぶつかる」
 蒼星石の声にナナが慌てて脇に逃げると、それまで彼女が居た場所に球体が衝撃で破片かを撒き散らしながら着地する。コントロールと拘束を失った球体は尚も黒い何かを床の上に残しながらごろごろと壁際まで転がり、壁に当たったところでばらりと割れるように崩れた。
 黒いものの上に白い髪とぼろぼろになった衣装が広がり、ぱたんと音を立てて片手が投げ出される。その半ば開いた掌から湧き上がるように赤と青と紫の三体の人工精霊が現れ、警戒する風情で周回を開始した。
 『水銀燈』と呼ぶべきなのか、そう表明しているだけの名の無いドールなのかは未だ定かではない。兎も角、燃えたり溶けたりした様子もなく現れたのは確かに濃紺の衣装を身に着けていたドールだった。
 ただし、今着ているものはぼろぼろに破れた白い──というより灰色に近い色に汚れてしまった──下着だけだ。背中の黒い翼も、全身に突き立っていた自分自身同士の戦いの証である黒い羽根も見当たらない。ヘッドドレスもブーツもなかった。
 まるで濃紺のドレスも黒い羽根も、一つに混ざって球体を作り、彼女を守る役目を果たして力尽きたかのようだった。
 ナナは、まだ熱が残っている中をドールの方に駆け出した。あのドールはまだ魂を宿している。助け起こさなくては、という単純な思いが、警戒や躊躇に勝った。

──至れり尽せりね。でも、黒って基本的に熱を吸収しやすい色なんだけど。

 水銀燈は一瞥して肩を竦めただけで、すぐに視線をもう一つの物体に戻した。
 恐らく雪華綺晶の本体は無事で、あの中に居るはずだ。白茨にしてもあの中身の詰まった幻影にしても、彼女にとっては燃えたところでどれほどのダメージにもなるまい。
 こちらに都合よく考えた場合、中身の詰まった幻影の喪失は仮のボディと同じく、それなりのダメージを及ぼす可能性は高い。しかし火焔地獄さえも予めトラップとして攻撃、あるいは反撃のための手段の一つと想定していたのならば、それは無視できるほどの小さなものであり、すぐに回復できる量に違いない。
 いや、当然想定していただろう、と水銀燈はもう一度鼻を鳴らした。
 何しろ、雪華綺晶には常に考える時間だけはたっぷりあったのだから。様々に先読みして、それこそ百年以上、自分の領域の中に事が及んだときの予定を捏ね繰り回していたとしても何の不思議もない。
 床にへばりついている燃え残りの草の山のようなものが、それなりに考えられた罠であったことをよく示している。床は一枚ものとしては熱の伝導率が異常なのか、それともこの第42951世界でのルールなのかは分からないが、炎の熱の影響を殆ど受けていない。壁や天井の結晶も同じだった。
 自分で仕掛けた炎熱のトラップを回避するには、濃紺の衣装の──今は下着姿のようだが──ドールのような対処はあまり褒められたものではなく、雪華綺晶のものらしい築山──べったりと床の面積を利用した潰れたドーム形の方が正解なのだろう。
 逆に言えば、本来の主武器である白茨を模した、燃え易く火力の高い可燃物である「中身の詰まった幻影」を床に敷き詰めたのは、部屋全体に熱を及ぼすためにはそれしか方法がなかったからとも言える。全て駆け引きを含めることを前提にした、ある意味で巧妙なトラップだった。
 ただそれは彼女が恐らく考えてもいなかった、力を振るわれるまで完全に放置していた存在に簡単に覆されてしまった。それも駆け引きも何もない、自分で碌に制御もできない感情に任せただけの馬鹿力で。
 深く考えればうら寂しい話なのかもしれない。だが現に乗り込んで敵対してみると、何処まで罠が張られているかと怖気の方が先に来てしまうのが偽らざる心境だった。罠は予め幾つでも重ねて掛けておくことができるが、幸運はそう何度も連続するものではない。

 よくこんなところに乗り込んだものだ、と思う。
 真紅のことだった。独りで、死を覚悟していたからこそ、なのかもしれないが。
 彼女自身はその言葉を否定するが、魂が何処か遠くに行ってしまい、ボディを他の者に勝手に利用され、ローザミスティカが別の誰かの中にある状況を死と言わずに何と呼べば良いのか、水銀燈には分からない。造語は幾らでも作れるだろうが、それは死を体良く言い換えているだけに過ぎない。
 彼女は気付いているのだろうか。いや、既に過去形で語るべきかもしれない。

──何にしても、確かめなければならないのは確実ね。

 それも完全に熱が冷めてしまい、あの築山の中のモノが再始動する前に。
 丁度足許の結晶と交差する形にいい具合に突き出た結晶に凭れ掛る。これも熱は帯びていない。
 いろいろな意味で時間はないのだが、時間が経過しなければ疲労も回復せず、この場の熱も引いて行かない。しかし、待っていれば恐らく相手に先手を打たれる。
 どうにも手詰まりだった。黒い羽根に渦を巻かせて表面の灰だけでも吹き散らすか、いや、いっそあの燃え残りにもう一度点火して燃やし尽くすしかないか、と強引なことを考えたとき、視界の隅で黒い何かが動いた。
 帽子だ、と気付いたときには、それは水銀燈の足許を飛び去り、眼下の灰を被った築山を掠めて弧を描いていた。同時にそれを追うように、閉ざされた狭い室内には有り得ない強風が背後から吹き抜けて行く。大量の灰と燃え残りが、一種独特の嫌な臭いと共に舞い上がった。
「……凄い」
 蒼星石の、些か間延びした声が聞こえた。振り返ると、彼女は胸元と自分の帽子の庇に手を当てた状態で、要領よく結晶の交差した上に立って築山の辺りに視線を向けていた。
「貴女の帽子じゃなかったの?」
 水銀燈が軽口を叩くと、蒼星石は生真面目な顔のまま、帽子を脱いでしげしげと眺めてみせた。
「残念ながらここにあるようだ。僕のが飛ばされたのでなくて良かったよ」
 被り直しながら斜め下に視線を向ける。
「もっとも、風を起こしたのはあれ自身のようだけどね」
 水銀燈も蒼星石の視線の先を追った。二人の方は風上のようになったせいか視界を邪魔されることもなく、風の巻き上げた灰とその先頭を行く黒い帽子がよく見えた。
 風は築山の上を通過するとき強く吹いただけで、既に止んでいた。若干の吹き戻しのようなものも感じられたが、灰は天井に向かって行ったきり戻って来ない。やはり天井方向には目立たないだけで換気出来るような仕掛けがあるか、そうでなければ大きく開いているのだろう。
 帽子は勢いをそのままに、ぐるりと部屋の中を縦に一周するような形でそれを放った者の手の中に戻って行く。

 灰白色の髪に汚れて灰色がかった下着という凄まじい姿で仁王立ちになったドールは、慣れた手付きで飛んで来た帽子を捕り、そのままどうするでもなく送還した。
 背中の翼は相変わらず見えない。畳んでいるのか全ての羽根を使い尽くして再生すら出来ていないのかは分からないが、それでも紅色の瞳ではっきりと彼女だと知れるのは強烈な個性と言えた。
 ただ、それが二体のドールが融合した姿だという話は、水銀燈には今ひとつしっくり来ない。あまりにも似過ぎていた者達だから、より関わりが深かった方と同一視しているだけなのかもしれないが。

 取り敢えず、今はどちらでも構わなかった。水銀燈は全く別の言葉を掛けてやる。
「大したお道具ね」
「……他人の持ち物よ」
 にやりと笑った水銀燈に、ドールは無表情にそう返した。三つの光球が周囲を巡っているのは壮観だった。
「あいつに干渉されない力、ってヤツじゃなかったら使わないわ、あんな物」
「少なくとも使えるのは良いことじゃないの。貴女達のルール上では、今現在は貴女の所有物ってことなのでしょう」
 それはそれとして、と水銀燈は例の場所を指差した。
「あれをどうにかしないとね」
 突風で築山状に被っていた灰は根こそぎ吹き飛ばされ、その中身が露出している。
 白茨で緊密に編まれた、目の詰んだ網というよりは籠と言った方が近そうなものが、これも風圧に負けて一度舞い上がったようだったが、裏向きになってすぐ脇の方に落ちていた。炎の下側の生木というのは兎角燃え難いから、数枚重ねていたのかもしれない。築山の直接の正体という訳だ。
 そして、中身は──

「──真紅」
 蒼星石は眉を顰めた。

──遅かったのだ。最初から。

 あの、磔になっていたボディと同じもののように見えるボディが、床に大の字に横たわっている。ヘッドパーツは見当たらない。衣装も着ていない。
 ボディには無数の白茨が伸び、絡み付き、パーツのあらゆる隙間から侵入し、そして貫通していた。無惨な姿だが、白茨自体の動きは止まっているようだった。
 白茨は床から生えているわけではなかった。ボディの大きく開かれた脚の間で一旦纏まり、まるで臍の緒のような恰好でずるずると下に延び、その先は──実際には、そちらが根元なのだろうが──まるで脳のようにも見える白茨の一群に続いている。
 脳に見えるものの上には、熱によるものか、それとも別の要因によるのか、惨めに萎れた白薔薇の花が首を垂れていた。もっとも花弁の色は既に白とは言えない。枯れかけている印のように錆色が入り、このままでは腐り落ちるぞと主張しているようにも見えた。

 それさえも恫喝か交渉材料か、はたまたこちらを油断させる誘い罠の一部かなどと考えてしまうのは、蒼星石の行き過ぎた思考の産物なのだろうか。
 真紅のローザミスティカの場所さえ分かれば、とつい考えてしまう。
 雪華綺晶を倒して止めを刺してしまえば、次の誰かがこんな状況に陥ることも、今後契約者達があの部屋に安置されるようなこともなくなる。
 しかし、それは雪華綺晶のゲームからの脱落と同時に、アリスゲームが終焉に向かうこととも同義でもある。

──何にしても、今は雪華綺晶を目覚めさせ、在り処を白状させなくては。

 手段は恫喝でも尋問でも構わない。そういう事について頓着している暇はない。
 急ごう、と蒼星石が結晶から結晶に飛び移り始めたとき、彼女の斜め前でばさりと羽音を立てて水銀燈が舞い上がった。
 また間に合わないのか、と蒼星石の胸中に苦いものが広がる。それでも懸命に次の結晶に飛び移りながら、せめて水銀燈は自分と同じ目的を持っていて欲しいと彼女は願った。

 水銀燈としては、蒼星石の動き始めに呼吸を合わせる意図はなかった。舞い上がった理由は、先程放った黒い羽根が燃え始めないのを見て取り、どうにか熱の脅威は去ったようだと判断しただけのことだった。
 ただ、だからといって蒼星石の行動を待つような奥床しい真似をするつもりもなかった。
 蒼星石は蒼星石のできる事をすればいい。水銀燈は水銀燈の視点で物を見、彼女なりの判断を下すだけのことだ。

──もう一度点火したら、どうなるかしらね?

 冗談ではなく、彼女はそれを実行に移した。無駄弾を使うつもりはない。狙い澄ました一本を臍の緒に見える部分に射込む。
 妨害は、今回はなかった。しかし、白茨は案に相違して燃え難かった。炎は臍の緒の表面だけを舐め、外周の一本か二本程度にダメージを与えたようだが、すぐに消えてしまった。
 以前手首に絡んだものを引き千切ったとき、樹液のようなものが滴り落ちたことを思い出す。本物の白茨は、どうやら雛苺の放つ苺の蔓や翠星石が伸ばす世界樹の枝と同様に、生きた植物のような特性を持つらしい。
 考えてみれば先程の炎の中でもそうだった。実際に効力があったと思しい白茨は、紙細工のように潰れることも、セルロイドのように燃え上がることもなく、生木そのもののようにしぶとく抵抗しながら燃え尽きて行った。
 あいつのライターのようには行かないものね、と舌打ちしながら、真紅のものと思しいボディの横に降下する。正確にはライターではなく即席の火炎放射器だったが、どちらにしても手許にはないし、恐らく同じ物を使ったとしても水銀燈ではああいった場違いな火力は出せないに違いない。
 無自覚だったが、彼は確実にイレギュラーな存在だった。雪華綺晶を恫喝だけで──偶然とハッタリだと誤解していたが──一度は完全撤退させ、暫く活動できないほどの衝撃を与えたのは、彼自身の出鱈目なパワーのお陰だった。
 今にして思えば、偶然とはいえnのフィールドで戦うときに一度も同伴しなかったのは正解だったかもしれない。あの時の彼なら恐らく姉妹の戦いを止めさせ、ゲームを停滞に持ち込むか、水銀燈を圧倒的に有利に導いたかどちらかだったろう。
 どちらに転んだとしても、面白くない結末になったに違いない。見えざる手の影響なのか、彼自身の意思なのか、本物の偶然かは分からないが、そうならなかったことを感謝すべきなのかもしれない。

 勢い良く降り立っても、白茨の群れには全く反応が見られなかった。いっそ踏みつけてやりたい衝動に駆られたが、それを抑えて大の字に横たわったボディを上から下まで眺める。
 姉妹のボディには共通点がある。太腿の内側に、製作者である彼女達の父親のサインと通し番号が書かれているのだが、それを見ようと屈んだ瞬間、視界の隅で何かが動いた。
 この場所での戦い、というより逃亡と捕獲の連続は、無駄にはならなかった。反射的に飛び上がり、それを避ける。
 動いたのは、案の定白茨だった。見下ろすと、細いが如何にも強靭そうなものが数本、白茨の塊から彼女の居た辺りを突き刺すように伸びていた。
「お目覚めかしら、末妹」
 言っているところに、また鋭い一撃が襲って来る。これまでの包み込んだり拘束するといった生易しい攻撃ではなく、明らかに相手を壊しに掛っている刺突だった。
 ボディは一つ確保したからもう要らない、ということなのか。あるいは半ば反射的に攻撃しているのか。
 尚も数回白茨の槍は突き出された。しかし、いずれの意図があるにしても、距離を置いてしまうとそれ以上の追撃はなかった。
 鋭利で強力な攻撃ではあったが、動作は単純で、狙いも明快だった。しかも回収する気がないのか、ほぼ同等の距離まで伸びたままぴんと張り詰め、巨大な針が朽ちかけた白薔薇の花の根元に突き立てられているようにも見える。
 腹立ち紛れに黒い羽根を放ったが、針のように伸びた白茨には簡単に突き刺さることもない。ならば、と脳のようにも見える本体にも数本向けたが、同じだった。白茨の強度はやはり、幻影と比べて桁が一つ違う程度には高いと考えた方が良さそうだ。
 先程燃したところに間遠な炎の攻撃を見舞ってみたが、それも虚しかった。多少焦げた部分は広がって行くものの、暫くすると樹液が滲み始めてしまう。
 白茨自体は自己修復こそしないものの、ある程度火力がないと燃やして切り離すことは不可能だった。そして、温度の低い水銀燈の炎では、火力というのは炎の大きさに直結している。燃やして切るためには真紅のボディそのものまで巻き込んでしまうくらいの火勢が必要になってしまう。本末転倒だった。
「どういうことだろう」
 やっとそれなりの距離まで近寄ってきた蒼星石が、やや顎を引いてから水銀燈を見上げる。
「これまでと比べて射程が随分短いようだけど」
「本能的に侵入者を叩こうとしているだけ、ってところ」
 もしかしたら雪華綺晶は目覚めてもいないのかもしれない。水銀燈は視線を朽ちかけの白薔薇の花に向けたまま、肩を竦めてみせた。
「そのうち栗のいがに見えてくるかもしれないわよ」
「笑えない冗談だな」
 蒼星石は眉間に皺が寄りそうな表情になった。
「また手詰まりか……」
「私たち二人に関して言えば、確かにそうね」
 水銀燈はふと息をつく。ただ、重要なことが一つ確認できたのは収穫だった。
 あの大の字になったドールボディは、確かに真紅のものだった。そこまで完璧に作られた偽物でなければ、だが。

「……七番目」
 灰白色の髪のドールは、蒼星石を真似て不器用に結晶の上によじ登り始めたナナに声を掛けた。はい、とナナが返事をすると、ドールはそのまま登れというように手真似をしてみせた。
「真紅のボディが見える所まで登ったら、ボディを浮かせなさい」
「はっ、はい」
 ナナは緊張して声を上ずらせたが、なんとか落下せずに結晶の上に立った。召喚された訳でもないのに『ベリーベル』が現れ、ふらふらと周囲を回る。
「ありがとう、頑張るから」
 強張ったままの顔で言い、苺の蔓を二条、真紅のボディへと伸ばす。針が飛び出すように白茨が伸びたものの、一回きりだった。苺の蔓はくねってそれを避け、真紅のボディを周囲の白茨ごと絡め取り、ぐるぐると巻いて繭のようなものを作った。
 そろり、とそれが宙に浮く。ナナはいつ針が突き出るかとびくびくしていたが、白茨の攻撃はなかった。
 一気に移動させようとした瞬間、苺の蔓の繭はつんのめるように停止した。水銀燈が切断しようと試みていた臍の緒のようなものが、床にへばりついたままの脳のような部分とボディを頑強に繋いでいて、容易に放そうとしない。
 それ以上動かせないことは明らかだった。臍の緒の逆側は真紅のボディ全体に張り巡らされている。強引に動かしたら、真紅のボディに損傷を与えかねない。
 ナナはうろたえて灰白色の髪のドールを振り向いた。ドールは睨みつけるように目を凝らし、右手の中にステッキを召喚すると、その先を臍の緒の一点に向けた。
 ステッキに導かれるように、ピンク色の帯のようなものがドールの背後から臍の緒に伸び、接触して四散した。
 同時に、臍の緒も呆気なく切断されていた。緑の繭のようになった真紅のボディはあらぬ方に飛び出しかけたが、ナナは慌てながらもどうにか制御を取り戻し、自分の姉妹達の鞄のある辺りに着地させることに成功した。
「お見事」
 蒼星石は振り向いてにこりと笑ったが、すぐにその視線を灰白色の髪のドールに移す。彼女がどう出るか、そちらが気に掛っていた。
「は、はい」
 上ずった声で返事はしたものの、ナナは蒼星石の方を見るどころではなかった。真紅のボディを巻いていた蔓を引き込むように回収し、おっかなびっくり結晶から降りて、ボディの方に転げ込むように駆け寄る。
 真紅のボディの中にある白茨が雪華綺晶の本体でないとは限らない、とナナは思っていた。見当外れの考えかもしれないけれども、もしそうだとしたら動き出す前に全部引き摺り出さなければならない。
 それに、白茨を詰め込まれたままでは真紅が可哀想だった。もしかしたら、本体かもしれないというのは口実で、彼女は単に真紅のボディから一刻も早く白茨を取り去ってやりたいだけだったのかもしれない。


 灰白色の髪のドールにとっては、ナナの行動はどうでもいいことだった。
 茶番とまでは言わないし、彼女としても真紅には僅かながら親近感も抱いてはいる。だが、連中は連中でしたいことをすればいい、と考えていた。
 目標は曝露された。羽根は使えないが、他にも攻撃する方法はある。直射できる場所に上がれば、威力は劣るものの薔薇の花弁で切り刻むことも可能だ。
 今度は幻惑されない、と歯を軋らせる。先程は酷く簡単に眠らされてしまったが、もうその手は食わない。

 水銀燈にヒントを与えられた直後、彼女は白茨に包まれた。迷っていなければ咄嗟に技を放っていただろうが、雪華綺晶の言葉は大きな衝撃を彼女に与えていた。
 雪華綺晶を倒せば自分も滅びる、という事態は、彼女自身も考えていなかったほどに彼女を動揺させた。
 今の彼女は雪華綺晶を倒せばそれで終わり、という訳には行かない。むしろ、それからの方が重要だった。
 柿崎めぐの許に戻る。それが第一であり、次にめぐの病を癒すことが続く。こんなところで死ぬ訳には行かない、という思いは、何も失う物のない状態より彼女を弱くしてしまっていた。
 雪華綺晶はそこに付け込んだ。視界を塞ぐと同時に、甘い幻影を彼女に送り込んだ。それに彼女はあっさりと屈してしまった。
 心が弱いのはナナの姉妹達に共通する弱点だ、と雪華綺晶は言ったが、灰白色の髪のドールも似たようなものだった。むしろ繋がりが深い分、彼女は雪華綺晶の影響をより強く受けてしまう傾向もあった。
 皮肉にも蒼星石の指摘したとおりの事態が、蒼星石が彼女に声を掛けたときには既に内部で進行していたことになる。
 その後、ナナの怒りに任せた滅茶苦茶な攻撃で、幸運にも自らの身体は貫かれることもなく、白茨のコントロールは失われた。彼女は再び自我を取り戻すことができた。

──もう、この機会を迷いで逃したりはしない。

 背中の翼は失われているが、身体能力は喪失していない。彼女は身軽に結晶に飛び乗り、次々に飛び移って、脳のような形の白茨の塊に視線が通る場所に着いた。
「もう一度だけ言うわよ。『ローザミスティカ』を渡しなさい。その意思がないのなら、わたしはあなたを潰す」
 発声器官のようなものがあるとは思えない相手だが、言葉による回答を彼女は待った。外見だけ人間と同じに整えてあるとはいえ、摩訶不思議な作用によって言葉を喋り、音声で会話しているのはこの場の他の者も同じことだった。
 形が違うだけだ。全員狭い意味の生物ですらなく、世界樹が司る物質世界の裏側でもこうして活動していられる化け物なのは同じことだ。
 その化け物が化け物同士で、生みの親に指示された相手ですらないものとこうして私闘を繰り広げている。
 なんと醜く愚かしい事だろう。
 だが、そんな化け物が一人の人間を癒すことができるのなら。たとえそれほど強く求められていないとしても、その不治の病を治すことができるのなら。
 化け物七つの命が失われることで、人間一人の病気が治る可能性が僅かなりともあるのなら、それに賭けてみたい。

「──ふふ……威勢の良い言葉。最後まで強気なのですね」

 相変わらず、声は何処から響いてくるのか分からないように思える。だが、それは先程に比べて幾分クリアだった。
「貴女と私は同じ源から力を得て、それが絶えればありようを保てない脆弱な存在。そして、貴女の力は源から直接得られるものではなく、私を経由しなければならない。何度申し上げれ──」
 灰白色の髪のドールは、全てを聞き終わるつもりはなかった。結晶から結晶へと前方に飛び移りながら、赤い人工精霊を呼んだ。
 薔薇の花弁が、色こそ違うものの灰白色のドールが遣う黒い羽根のように、白茨の塊の上に無数に降り注ぐ。
 朽ちかけていた白薔薇の花は千切れ飛び、針のように突き出した何本かの白茨は折れて床に落ちた。花弁は黒い羽根より更に鋭利な武器だった。
 脳のような形をした塊自体も、無傷では済まなかった。まるで薔薇の花弁を盛ったように無数に突き刺さった花弁の隙間から、まるで体液のような樹液が漏れ出した。

「ああ、あああ、あああああああああああああああああああああああああッ」

 雪華綺晶なのか、それとも何か別のモノが吼えたのか、声だけでは咄嗟に判断ができなかった。
 白茨の塊から、何本かが縒り合わさったロープのような白茨が物凄い勢いで灰白色の髪のドールに伸びる。交差する、と思った刹那、それは彼女の手の中に現れたきらびやかな鋏で切り落とされていた。
 しかし、残った部分はまだ行動力を有していた。彼女を横殴りに払おうとし、咄嗟に突き出された鋏を巻き取って漸く動かなくなった。
 塊の傍らに辿り着いた彼女を、今度は先程の針が、一本ずつなどという生易しい形でなく、纏まって襲う。攻撃距離が決まっているだけに苦し紛れの観は免れないが、近接させないという役割は十全に果たしていた。
 彼女は後ろに跳んでもう一度距離を取り直し、花弁を放つ。針はまた無惨に折れ曲がり、本体にも更に幾許かのダメージが加わったようだが、花弁の量自体は最初に比べて数分の一でしかなかった。当然、息の根を止めるなどという状態ではない。
 舌打ちし、今度は黒い帽子を召喚する。ブーメランのように遣おうとしたが、帽子は今までの威力を失っていた。何本かの針を切断した後、それを狙って突き出された針に貫かれ、虚しく塊の上に留まる形になってしまった。
 彼女はがくりと膝をついた。激しく消耗してしまっていた。エネルギーの消費に補給がまるで追い着いていない。
 そこに、先程のようなロープ状の白茨が殺到する。どうにか飛び退いたが、白茨は勢いを殺さずに追跡して来た。
 荒い息をつきつつ、転がるように床から突き出た結晶の陰に回る。しかし白茨は結晶を難なく砕いた。

──だめか。

 それでも笑い出す膝を伸ばし、横跳びにそれもぎりぎりで避ける。みっともなく床に倒れこむと、白茨は既に方向を変え、彼女に向かっていた。
 今度こそ終わりだ、という思いが脳裏に閃くのと、白茨が停止するのは同時だった。
「いい気になって追い回し過ぎたんだ。それで、中途で伸びきった所をどうにか切断できた」
 蒼星石の疲れたような声が、彼女が途中で結晶を背にした辺りから上がった。
「切断できて良かったが、二度目は御免蒙りたい」
「二度目はないでしょうよ」
 水銀燈の声は斜め上から聞こえて来た。
「ヒロインは疲労困憊しているもの」
 灰白色の髪のドールは鋭い眼になり、疲労を忘れて一挙動で立ち上がった。意外に近いところで、水銀燈は何故か厳しい表情で彼女を見ていた。
「無駄な消耗をしたものね、借り物の技じゃ中途半端でしょうに」
 水銀燈はそこで表情を緩め、微笑のようなものを口許に浮かべた。
「貴女の本来の得物を使えばいいのよ」
「適当なことを言うモンじゃないわ」
 ドールはぎろりと水銀燈を睨んだ。使えるなら最初から苦労などしていない。
 『水銀燈』としての技は、黒い羽根はあのシェルターを全力で造ったことで失われ、少なくとも即座には回復しない。剣は、雪華綺晶の拘束から逃れるときに手放してしまった。ドレスの袖と同じく、思い切り良く手放したからこそ拘束から逃れられたのだ。
 それに、それらは元々名の無い人形が雪華綺晶から力を吸い上げて使っていた技だった。迂闊に使った場合、また雪華綺晶の精神干渉に晒されるかもしれないという不安がある。
 本来の得物──剣などは、特にそうなのではないか。
「適当な話じゃない。あの剣は自律して動いていた。君は気付かなかったのか、あれは──」
 蒼星石は中途で言葉を飲み込んだ。メイメイが何時の間にかドールの隣に行き、魔法のように剣を召喚してみせたからだ。
 ドールは僅かに躊躇して、それから、柄を両手で握った。雪華綺晶からの干渉は感じられない。少なくとも、まだ今は。
 剣が『水銀燈』の持ち物なのか、名の無い人形のそれなのか、外見上は全く区別がつかない。確かなのは、彼女が再び得物を得たということだった。
「お膳立ては整ったわね」
 水銀燈は、今度ははっきりと笑った。ただ、それは温度や優しさをやや欠いた笑いではあった。
「やるなら、早いとこやっちゃいなさい。ある程度回復すれば末妹は別の世界に逃げ出せるわよ。人工精霊に頼らずとも扉を開く能力を、彼女は持っているから」
 それはこれまでの経験が裏付けている知識だった。水銀燈の媒介との戦いでも、蒼星石との戦いでも、雪華綺晶は最終的には勝手に扉を開けて背後で閉め、追跡を全く許していなかったのだから。
「言われなくたって」
 ドールは疲れた足を踏み締めて、再び白茨の塊の方に向き直った。
「やってやるわよ。ここまでお節介焼かれて、やらずに済ませる訳に行かないじゃない」

 灰白色の髪のドールは再び白茨の塊に近付いた。
 雪華綺晶は沈黙している。塊を見遣ると、樹液の漏れは収まっていた。
 回復に専念していたのは明らかだった。それでも、彼女が近付いたと見るや、無言のまま白茨のロープを繰り出してきた。彼女は剣でそれを切り落とした。
 残った部分が樹液を垂らしながらもまだ襲って来るのを、もう一度剣で切断する。
 雪華綺晶からの干渉は感じられなかった。干渉があるぞ、殺せばお前も死ぬぞ、という言葉自体、幻覚と幻影を伴ったブラフだったのかもしれない。
「雪華綺晶」
 ぽつりと呟くように語りかける。
 応えるように白茨のロープがまた繰り出されるのを、どうにか避けて剣で叩いた。半分ほどまで切れかかったロープは、痛みを感じたかのようにのたうち回った。
 そこを刺し、切断する。ロープの残った部分は、今度は動き出さなかった。
「わたしを作った者。孤独で無慈悲で狡猾な、そして……あなたの姉妹の中で唯一、真の意味で何かを生み出す力を持った者。……貴女は間違いなくアリスに、そして多分『アリス』にも一番近かった」
 剣を構え、助走をつけて床を蹴る。幾本もの白茨が針のように伸びたが、どういう訳か全てぎりぎりのところで彼女には届かなかった。
 高い所に突き出た結晶を蹴り、落下の勢いをつけながら剣を両手で白茨の塊に叩き付ける。

「──さようなら、お母様」

 剣が白茨の塊に深々と突き刺さる。
 雪華綺晶の絶叫は、聴覚と脳内に直接響き渡った。
 一瞬、爆発したかのように塊を形成する白茨が四方に伸びたが、そこまでだった。先程までの針のように、ただかなり長く伸びた白茨は、すぐに力を失って床に落ちた。

 絶叫に思わず耳を塞いで顔を背けた水銀燈が見たときには、灰白色の髪のドールは、自分が突き刺したモノを見下ろして立ち尽くしていた。
 剣は脇に無造作に投げ出されている。白茨の塊を貫き、その中に隠れていたモノをも貫いた剣だったが、床に突き立つほどではなかったらしい。
 白茨の中にあった、いや、居たのは、膝を抱えた姿勢で丸くなっていたらしい雪華綺晶だった。
 今は、四肢を投げ出して仰向けに倒れている。剣の一撃はその左の肩口から入り、右の脇腹の辺りで止まっていた。
 血は出ていない。ただ、まるで陶器でなく大鋸屑を膠で固めた初期の樹脂のように、切断面からは細かな木屑に見えるものが零れ出ていた。それだけ、彼女はドールとしての自分を強固にイメージしていたということなのかもしれない。
 その胸から、二つのローザミスティカがすっと離れ、更にそこから湧き出るように、赤い人工精霊が静かに出現した。人工精霊は二つのローザミスティカを護るように周回を始めた。

「──これで貴女は自由なひばり。ゲームにも、命を繋ぐための糧にも、ローザミスティカにも縛られることなく、何処にでも飛んで行ける自由なひばり」

 何故かローザミスティカを確保に向かうことも忘れ、そんなことを水銀燈は我知らず呟いていた。
「お行きなさい、貴女の大切なものを探しに。それが何処にあるか、存在しているのかさえ誰も知らないけれど、貴女には無限の時間と無限の自由がある」

──そうですわね。意地悪なお姉様。こんな形でしかそれを実現できなかったなんて、口惜しいとしか申せませんわ。

 そんな風に、雪華綺晶の口が動いたような気がした。
 あれだけ生に拘ってきた雪華綺晶の、最後の解放が死だったということは、確かにあまりにも口惜しい結末かもしれない。それについて、彼女を常に追い込んで来た水銀燈には言うべき言葉はなかった。

──お先に参りますわ。では、ご機嫌よう。

 あっさりとした一方的な、あまりにも彼女らしい挨拶を感じた瞬間、雪華綺晶の身体は崩壊した。傷付けられたとはいえ愛らしく美しいドールだったモノは、何かをしたり声を上げたりする間もなく木屑の一山と化し、凝った衣装と装飾品、そして金色のドールアイだけが残った。
 次いで、それも消えて行く。彼女が伸ばした白茨も、それらが燃えた灰も、ナナが伸ばした結晶でさえ消滅していった。
 結局何処までが幻覚で、何処からがこの世界本来の造作だったのか、不分明なままだった。
 水銀燈は首を振った。そんなことさえ、些細なことなのかもしれない。雪華綺晶は一介のドールではなかった。世界丸々一つをほぼ制御下に置き、巨大なシステムを構築し、そして、哀れなほど常に飢えていた。そういうことなのだろう。
 少し覚束ない足音が後ろから聞こえて来る。振り返ると、ナナだった。何か言いたそうな顔をしていたが、水銀燈が雪華綺晶の居た辺りを指すと、黙って俯いた。
 そこには強い光を放つ動力源が二つ存在していた。床の上に何気なく転がっているものの、相変わらずその光はホーリエが護っているローザミスティカとは比較にならないほど強かった。
 灰白色の髪のドールは、胸に手を当てた。手許に更に二つの動力源が現れ、彼女はそれを握ると、屈んで他の二つの脇に並べた。
 ナナは弾かれたように彼女の許に向かった。自分も胸から『雛苺』の動力源を取り出し、そこに並べる。
「──『真紅』達を戻してやりなさいよ。それはアンタの義務だから」
 彼女はそれだけ言って、背を向けた。
「『アリスゲーム』は終わった。今度こそあなたの不戦勝よ。『アリス』に成れない者が勝ったのだから、もうゲームなんて意味がないわぁ。そうでしょう」
「そうね」
 水銀燈はなんとも言えない表情になっていた。
「貴女達が究極の少女を目指すには、もうゲームを介する必要も、意味もない。それが証明されたことになるわね」
「どういうことなのか、わたしはよく……」
 ナナは口篭もったが、灰白色の髪のドールはもう彼女など冷ややかに無視していた。ばさり、と翼を広げると、挨拶もせずに天井の方向へと昇っていく。
 水銀燈は訝しげに見上げていたが、何か顔の上に降って来たものを手に取ると、にやりと笑ってナナを見た。

「あれは雪華綺晶の産み落とした人形ってことよ。『水銀燈』の意識や記憶、その他諸々を受け取り、あの子の言葉を信じるなら融合してるんでしょうけど、ベースはあくまで名前の無いあの子。つまり、どれだけ強くても貴女達のゲームへの参加資格はない。
 『水銀燈』は恐らく彼女に負け、他の姉妹は最初から脱落しているか、雪華綺晶に幽閉されてしまった。
 あの子に『水銀燈』が負けた時点で、『アリスゲーム』の参加可能者はまた貴女一人になった。……この意味は分かるわね」

 ナナは頷いたが、抗議の声を上げた。
「でも、『アリスゲーム』は姉妹同士の戦いで、他の誰かに倒されても、負けにはなりません。それは薔薇水晶にやられたときも、今もおんなじです」
「そうかしら。大きな違いがあるわよ」
 水銀燈ははっきりと笑っていた。
「今現在は『アリスゲーム』ができる環境じゃない。何しろ貴女の相手が居ないんだもの。そして貴女が望まないならゲームは永遠に再開させないこともできるし、貴女が望めば望むだけの姉妹を呼び戻せる。何をするにも貴女次第。こういう状況って、ゲーム自体が終わってるって言うべきじゃない?」
 ナナが目を見開き、やっと納得したように頷いたとき、封鎖されていたはずの入り口から、複数の話し声が聞こえて来た。

 蒼星石はそちらを見遣り、横目で真紅のボディを見た。ボディは何も入っていないクリスタル柱を背にして、お座りした恰好にされている。白茨を抜き取ったナナが、その形にして落ち着かせたのだ。
 ボディには相変わらずヘッドパーツがなかった。衣装も装身具も何も着けていない、裸のトルソーの状態だった。
 ホーリエと二つのローザミスティカに視線を移す。雪華綺晶のものは兎も角、真紅をどうするのか、それが問題だった。
 予期していたかどうかは分からないが、雪華綺晶は強引にナナの姉妹達のゲームを終わらせてしまった。それはいい。しかし同時に、彼女は大きな問題と変化を自分達のゲームに残して行った。
 もう後戻りはできないし、恐らく中途半端な形で終わることもまた許されない。
 アリスゲームの最終幕は既に上がってしまったのだから。




[19752] 280ほど。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/04/01 22:01
体調が良かった&当面まだ安静必須ですので結構捗りました。

切りはあまり良くないですが、これから寝ますので本日分投下。


 真紅少女になるの巻。

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 周囲の幻影が消えてみると、そこはがっちりと鎧われた、半球状のドームに近い部屋だった。
 部屋、といっても大きめの会議室ほどもあるだろうか。金糸雀も一撃で全てを露出させることも、一撃で入り口を探り当てることもできなかった。
 最初、ジュン達にはそこが円形の回廊か通路に見えた。広間の出入り口が、彼等の通ってきた場所を除けばそこに通ずる所しか見当たらず、ジュンの感覚ではどうも円形に巡っている部分の内側に真紅が居るらしいという不確かな根拠だけで、他に手懸りもなかった彼等はまず通路の幻影を剥がすことを試みた。
 金糸雀の演奏と翠星石の世界樹の枝の成長力を利用した破砕で、通路に見えていたもの全体が幻影だと知れるまでには、暫くの時間が掛った。
 回廊などなかった。ただ、広い一続きの平面の上に、半球状に何かが置かれているだけで、回廊と見えていたのはその外に当たる部分だった。広間に見えていたものも、案外規模が違うだけで同じようなものなのかもしれない。
 兎にも角にも、その中に真紅が居ることは確定的だった。一同は手分けして入り口に当たるものを探し、それは簡単に見付かったものの、固く閉ざされていた。
 疲れたという金糸雀の回復を待ち、彼女がさあ壊すわよ、とヴァイオリンに弓を当てようとしたとき、異変は起きた。凄まじい、しかし耳には聞こえない音響と共に、入り口は自分から崩壊し、大きく口を開いた。

 中に飛び込んだジュンが見たのは、部屋の中心で強烈な光を放っている、見覚えのあるクリスタル──ただし、それは一つでなく五つあった──と、その周囲に立っているナナと二人の少女だった。
 真紅の姿はなかった。雪華綺晶も居なかった。辺りを見回している彼に、赤い人工精霊がすっと近付く。
「ホーリエ……か?」
 真紅の人工精霊の名前を呼ぶと、それは肯定するようにすっと動き、彼の掌の上に何かを落とした。
「ローザミスティカ! まだ輝きを失ってない……」
 翠星石が叫ぶように言う。
「でも真紅は……?」
「真紅のボディなら、そこにあるわ」
 水銀燈は挨拶もせず、そう言ってクリスタルの六角柱を斜めに切り落としたような按配のモノが床から何本か生えている辺りを指した。
「私達が到着したときには、既にそうなっていた」
 ジュンは恐る恐るそちらを見る。
 翠星石が息を呑み、雛苺が小さく悲鳴を上げて駆け出す。真紅は、首から上の部分のない、ボディだけの素体にされていた。
 ジュンは機械的にそれに歩み寄ると、がくりと膝をついて、今しがたホーリエから受け取ったローザミスティカをかざした。以前、あの人形にしたように、鎖骨の合わせ目辺りにローザミスティカを当て、手を放す。
 何も起きなかった。ローザミスティカは床に落ち、ころころと数十センチほど転げただけだった。
「真紅……」
 素体に触れる。ひんやりした触感は、これまで触れたことのないものだった。冷たくて硬質な、焼き物そのものだった。
「ボディが存在し、ローザミスティカが手許にあっても、それだけじゃ足りないってこと」
 水銀燈はややゆっくりした口調で、説明するように言った。
「ボディは器に過ぎず、ローザミスティカはそれを動かす動力に過ぎない。一番大切なものは、魂よ」
 特に此処ではね、と水銀燈は片手をぐるりと回してみせた。
「私達薔薇乙女は、無機の器に宿った神秘の魂。その子が強引に器を奪われたのか、自分の意思で手放したのかは分からないけど、魂が完全に離れてしまっていることだけは間違いないわね」
「魂が離れてる……」
 ジュンは水銀燈の言葉を機械的に反芻した。
 まだよく理解できていない。水銀燈の言葉が難しかった訳ではない。ただ、頭が痺れたようになっていて、事態の把握に時間が掛っていた。
 形骸はここにある。動かす手段も整っている。ただ、肝心の真紅は何処なのだろう。
「真紅は此処には居ない。ただ、彼女のための器と命は揃っている。帰って来れば、呼び戻すことができれば、真紅は元のように生き続ける事もできる」
 蒼星石はある点を恣意的に省いて説明した。今はアリスゲームの終焉やその後について語るときではない。大きな衝撃を受けてしまっているジュンに、目の前の事についての情報だけを与えるべきだった。
「nのフィールドの何処かに漂流している魂を探し当てるのは、成功すれば確実だが実行するのは難しく、邂逅できる可能性も低い。だが、探さずとも君の呼び声が届けば、真紅は還って来るかもしれない」
「──呼び声、か」
 ジュンは素体から手を引いた。ローザミスティカをそっと素体の手の上に置く。半透明な石は、部屋の中央の五つのクリスタル──ナナの姉妹達の動力源──ほどではないが、未だ輝きを失わずにいた。
「前に、随分前に、真紅がこんなことを言ってたんだ」
 考えを整理しようとするように、ジュンは独り言にしてはややはっきりとした言葉を口に出した。

 それは、名の無い人形のボディを作ってくれと水銀燈から依頼された頃だった。みつから、初めてドール服のデザインと作成を頼まれた日でもあったと思う。
 夜中に起き出し、真紅を膝の上に乗せて刺繍を作っていたジュンに、真紅はぽつりと言った。

  ──貴方は成長する。そしていつか在りし日の人形遊びを忘れていくでしょう。でも。
  ──いつかここから貴方が飛び立っていってしまっても、私が眠りに就いて現実世界から消えてなくなってしまっても……
  ──私達の時間が交差したこの瞬間は、世界に確かに存在していた。それだけは覚えていて。


 その頃から既に真紅は、今のようになってしまうことを予期していたのかもしれない。
 だが、少なくともそのときの真紅は、ジュンに自分のことを忘れて欲しいとは願っていなかった。それは今も変わっていないとジュンは思いたかった。

 ここに来る道中、翠星石から途切れ途切れに今回の経緯らしきものを聞いてはいる。
 その説明どおりなら、真紅が意図していたのは一時的な眠りのようなものだった。他の視点は当然あるのだろうが、ジュンは、それが死を求めたとか、まして回りくどい自殺などとは思いたくなかった。
 真紅は彼女らしくもなく、ジュンと翠星石に全てを預けただけのことだ。雪華綺晶に自分のボディを与えて糧の要らない暮らしをさせたかったのだ。
 少なくともジュンは、それを額面どおりの意図として受け取りたかった。
 そうでないことが分かっていたから、表面上だけでもそう受け取っておいてやりたかった。
 この場所で起きたことの詳しい話はまだ聞かされていないが、雪華綺晶が居らず、真紅のボディがここに残っている状態なのだから、真紅は当然このボディに還って来るべきだ。
 真紅の目論見は失敗したのだから、速やかに元に戻ることが必要だった。そして、ここから出たらまた何事も無かったかのように日常が続いて行く。そうでなければならない。
 彼女は無自覚のまま失恋に苦悩して、その気持ちをこんな手の込んだ形で晴らそうとしたわけではないのだから。
 そういうことにしておかなければならないのだから。
「──それに、僕はまだ、あの時の続きさえ聞いていない」

 あの時、忘れないで、と言った真紅に、ジュンは少し照れながら、そっちも僕のことを忘れるな、と返した。何の取り柄もないただの引篭もりだけど、と言ったジュンに、真紅は首を振って、貴方は神業級の職人だ、と即答した。
 そして、やや小さな声になって、こんな風に続けたのだった。

  ──それに、貴方がたとえ貴方の言うとおりの存在だったとしても──。

 その先は珍しく口篭もるような言い方になってしまい、ジュンの耳には届かなかった。
 聞き返したけれども、なんでもないわ、と返されてしまった。

「僕はその続きが聞きたい」
 ジュンは顔を上げ、周囲の少女達を順繰りに見遣った。
「だから、僕は真紅を呼び戻す。呼び戻して、今度は絶対に聞き出す。それでいいよな?」
「恰好悪いけど、チビ人間にしちゃ上出来です」
 翠星石は言葉の素っ気無さとは裏腹に、にっこりと微笑んだ。
「それでこそ、真紅の一番の──」
 言い終わる前に、ジュンは彼女を抱き締めていた。その耳元で囁く。
「──お前も一緒に呼んでくれ、なんて言わない。お前が真紅に引け目を感じてることは知ってるから。だけど、僕を見守っていてくれ。僕一人じゃ心が折れてしまうかもしれないけど、お前が居れば何でも出来る。そんな気がするんだ」
「……はい」
 翠星石はジュンの背中に細い腕を回し、きゅっと抱き締めた。
「正直言うと辛いです。けど、頑張りますよ」
「ありがとう」
 ジュンは珍しく素直な発音で言った。


 何時の間にか、蒼星石も真紅のボディの処に歩み寄っていた。真紅のボディを囲むように集った少女達から離れて、ナナは部屋の中央に並べられた自分の姉妹達の動力源を拾い集め、それからボディを収めた鞄を並べた場所に向かった。
 ナナは少女達の輪の中に入れなかった。迂闊に入ってしまったら、無意識に彼等の念を受け取って、少年のイメージした刈払機のように、真紅の幻影を作り出してしまいかねない。それはただ混乱を招くだけだった。
 それに、彼女には自分がしなければならないことがあった。
 音をなるべく立てないように、そっと一つの鞄を開け、ボディに対応する動力源を入れてまた閉じる。元どおりに並べるとき、彼女は自分の中から『雛苺』の動力源がなくなってしまったことをひしひしと感じた。
 明らかに彼女は非力になっていた。普通はそういった効果はないはずなのだが、『雛苺』は普通の行動をするときも彼女に力を貸してくれていたらしい。
 あるいは、素のままの彼女はそれほどまでに力を持たない、有体に言って役に立たない存在として作られたのかもしれない。
 今となってはどちらでもいいことではあった。ナナが元どおりの惨めな存在に戻ったことに変わりはないのだから。
 音を立てないように注意しながら二つ目の鞄を引き出していると、その目の前に白い手が差し出され、ぐらりと傾いた鞄を支えてくれた。水銀燈だった。
 感謝の言葉を言おうとしたナナを、人差し指を口の前で立てて制すると、水銀燈はそのまま鞄を引き出し、横に倒して金具の開く音だけをさせて開いた。
 ナナは頷いて、その中に入ったドールに対応する動力源を鞄に入れ、閉じる。水銀燈はそれを元の位置に戻してくれた。音は殆ど立たなかった。
 残り三つも同じように引き出しては元どおりの位置に戻すと、ナナは無言でぴょこんと頭を下げた。
 自分の姉妹の帰還を願う輪に入らない水銀燈は、あるいは冷たい人なのかもしれない。だが、手伝ってくれたことは素直に嬉しかった。
 水銀燈は鞄を背にして座り、ナナに隣に来いと手真似で伝えた。ナナが少し間を置いて座ると、肩を触れ合うほどの距離まで詰めさせる。ナナが従順にそうすると、水銀燈は彼女の耳元で囁いた。

「──貴女はあれを一人でやることになるわ。覚悟は出来てる?」

 ナナは水銀燈の顔を窺った。水銀燈はごく真面目な顔をしていた。
 こくり、とナナは無言で頷いた。姉妹達とは、ただ姉妹であるというだけで他に何の縁もゆかりもない自分が、魂を探し当てるか、呼び戻すかしなければならないのだ。
「まず、貴女を多少でも理解してくれて、貴女が一番呼び戻したいと思っている姉妹を呼びなさい」
 水銀燈は低い声で囁いた。
「雪華綺晶が死んで、制御下にあった魂は此処から消えた。オディール・フォッセーの魂は多分元の肉体に戻っていったでしょうけど、それも現実世界に戻って確認してみないことには分からない。貴女の姉妹達は多分、あの制御された夢からも追われて無意識の海の中ね」
「……はい」
 だが幽閉されているよりはまだ呼び戻し易いかもしれない、とナナは思った。
 クリスタルの中の魂には、ナナが自分の白茨を伸ばしても触れることもできなかった。もしかしたら魂は別の場所に幽閉されていて、此処のクリスタルはそれを映し出していただけかもしれない。どちらにしても、呼び戻したり、探したりすることを妨害される恐れだけはなくなった。後はナナの力量次第だった。
 無力な自分の動力源だけでも無限に近い捜索を行うことができる。ナナにとっては現実世界よりもnのフィールドの方が慣れ親しんだ場所でもあった。
 もう雪華綺晶に怯える必要もない。『水銀燈』と一つになったと言っていたあのドール──いや、もうはっきりと『水銀燈』と言った方が良いのかもしれない──も、無力なナナを縊り殺すこともなかった。それどころか自分から、ナナに他の姉妹達を元に戻せと言ってくれた。
「鞄、何処かに置かせて貰えるでしょうか……」
「場所が有り余ってるのは結菱邸ね」
 水銀燈はくすりと笑った。
「あの老人は面白がるでしょうね。ただ、長居はできないわよ」
 ナナが訝しげな顔になると、水銀燈は表情を消した。
「私達は私達のゲームを進めている途中だから。蒼星石も──もちろんこの水銀燈も、いつ雪華綺晶と同様に彷徨うことになるか分かったもんじゃないってこと。そうね、無理が利くのは私の媒介か、桜田ジュンの処でしょう」
 ただ、ジュンのところは、それはそれで問題がある。それは、知識の乏しいナナにもなんとなく理解できた。
 『翠星石』も問題がありそうだが、特に『真紅』は元の世界で自分のミーディアムと深い仲になってしまっていたらしい。更に、こちらの世界だけでさえ、ジュンは二人の少女の恋の対象になっているようだった。これ以上こじらせる訳には行かない。
 ごめんなさい、とナナは頭を下げた。現実的な選択肢は、あの狭いアパートに鞄を積み上げることしかないようだった。
「私は構わないけど、呼び戻せた子は順繰りに契約させて嫁に出して行って欲しいものね」
 水銀燈は苦笑した。
「あの部屋にドール七体っていうのは過密もいいところよ」
 ナナが真面目な顔で頷いたとき、唐突に彼等とジュン達の間に眩い光が走った。
 ナナは咄嗟に目を覆い、水銀燈は目を細めてそれを見詰めた。強い光を放つ光源が、クリスタルの柱の間、ジュン達とナナの丁度半ばほどの場所に出現していた。

 光源は蹲った人間ほどの──別の言い方をすれば立ったドールほどの大きさだった。それが、白熱電球のように煌々と輝いている。
「何が……」
 片手で翠星石を胸元に抱きかかえ、光を遮るように腕を庇にしながら、ジュンは雪華綺晶が何かをしたのかと誤解していた。どうやら何か戦いがあったのは分かったが、その結末については誰も彼には説明していなかった。
 だが、光源はただ輝いているだけで、それも次第に光を失って行く。やがて、正視できるほどに明るさが落ちると、それはぐらりと横に傾き、ずるりとくずおれた。
 白い肌、長い金髪。全身から発光しているが、それは人間のように見えた。

「──真紅!」

 誰が言ったのかは分からなかった。蹲っていた少女達は一斉に立ち上がったが、一挙動で駆け出したのはジュンだけだった。翠星石を抱えたまま、ジュンは少女の脇に膝をついた。
 翠星石は急いでジュンから離れ、横たわった少女の顔を覗き込む。
「真紅です、真紅ですよジュン」
 その言葉が終わらない内に、ジュンは少女の上半身を抱え起こしていた。
 ジュンよりも背の低い、年頃は彼よりもまだ一つ二つ幼く見える少女だった。長い金髪はツーテールに纏められ、先端は渦を巻くようにカールしている。もみあげも同じように先端がロールにされていた。
 ジュンは何か言おうと口を開きかけたが、上手く言葉が出てこなかった。結局、彼は彼女の名前を呼んだ。
「真紅……」
 長い睫毛が揺れた。ゆっくりと二、三度瞬いて、彼の少女は蒼い瞳を開いた。愛らしい口が小さく開き、彼の名前を呼んだ。
「……ジュン」
「真紅……この家出娘っ」
 心配かけさせやがって、と言いながら、ジュンは真紅の華奢な身体をきつく抱き締めた。
「いつもクドクド言ってるくせに、自分は勝手なことしやがって。みんな、どれだけ心配したと思ってんだ」
「ごめんなさい」
 真紅は目を閉じ、ジュンに頬擦りした。それからふと思いついたように目を開け、周囲を見回す。
「……雪華綺晶は……?」
「死んだわ」
 水銀燈は短く告げた。
「彼女にとっては不本意だったと思うけど、あの子が雪華綺晶を倒した」
「……そう」
 真紅はまた目を伏せた。
「私のせいね……」
「誰のせいでもないさ」
 蒼星石は感情の含まれていない声で言った。
「彼女は敵を作り過ぎ、そして自分の力を恃み過ぎた。何処かの時点で、こうなってしまっただろう」
「……そうかもしれない」
 他に言いたいことはあったのかもしれないが、真紅は反論しなかった。そのまままた目を開け、少し身体を離してジュンを見上げる。
「私は貴方が好き。今なら言える。ずっと前から好きだったの。ただ、それを認めたくなかっただけなのだわ」
 ジュンが唐突な言葉に途惑っていると、真紅は微笑み、少しばかり視線を下げた。
「でも、もう貴方の心の中には私じゃない女の子が住んでいる。だから……逃げ出したの。大層な理屈をつけて」
 ジュンの服の裾をきゅっと握る、その仕種は、ドールのときと同じだった。

「雪華綺晶は私をどうにかして制御しようとした。恐怖や後悔、連帯感、快楽、そういったものまで試して。一つ一つはとても稚拙だったけれど、普通なら私は痛めつけられていたでしょう。
 彼女は私のボディではなくて、私という形をした木偶人形が欲しかったのかもしれない。でも、私はそれらの揺さぶりに応えるほどの心さえ持っていなかった。
 諦めた彼女は最後に、私に教えてくれたの。私のボディを奪おうとした瞬間、半ば当て付けのように。
 私が、失恋を認めたくなくて、それから逃げているだけの卑怯な子だと。
 今なら分かる。それは正しい指摘だった。私は臆病過ぎて自分の心さえ見えなくなってしまった、本物の愚か者だったのだわ」

 ジュンは真紅の頭に手を遣り、胸元に引き寄せた。そうしなければ、目の前の少女はいつまでもくどくどと、いつも説教をするような調子で自嘲と後悔を続けかねない。
「家へ帰ろう、真紅」
 素直で長い髪を、ゆっくり手串をかけるように撫でる。それだけで、真紅が安堵の息をつくのが分かった。
「どうしてもお前が辛いなら、別のマスターのところに居候したっていい。でも兎に角、一度は家に帰ろう」
 真紅は黙って頷き、また身体を離した。そして、傍らでじっと見守っている翠星石に手を伸ばす。
 優しい微笑みと共に、翠星石にも素直な気持ちを口にした。
「ジュンを──そして、私も、雛苺も。これからもみんなをお願い、お姉様。それから……ほんとうにごめんなさい」
「全く、アンタは困った妹です」
 翠星石は大仰に肩を竦め、斜め上を向いて鼻を鳴らした。真紅の手がその肩を掴んだが、気にせず続ける。
「明日から起こされなくても起きて、ちっとは家事の手伝いもしやがれですよ。そうしたら、今回は許してやります。でも」
 真紅の腕の中に収まり、自分からその胸に抱きつく。いつもとスケールが違うのは妙な気分だったが、それでも真紅は真紅だった。
「今度だけですよ。もう二度と、こんな騒動は勘弁蒙るのです」
「ええ……大丈夫。もう大丈夫……」
 翠星石を撫でながら、真紅の姿は次第に薄れて行く。

「帰ったら薇を巻いて頂戴、ジュン」

 その言葉と共に、ジュンと翠星石は抱きかかえ、あるいは抱き締めていた対象を失った。ジュンは丁度翠星石を抱き締める体勢になり、上を向いていた翠星石の唇とジュンの唇がぶつかる形になった。
 二人はすぐに唇を抑えて離れた。こんな痛いキスは初めてです、と翠星石はぼやき、周囲からなんとも言えない視線を送られる。
「……見て、真紅が」
 雛苺はクリスタルの柱に背を凭せ掛けるように座らされていた真紅のボディを指した。
 それはもうボディではなかった。赤いワンピースに赤いボンネット調のヘッドドレスを身に着け、澄ました顔で瞳を閉じている、いつもどおりの真紅そのものだった。
 ホーリエがその喉元に護っていたローザミスティカの一つを入れる。
 後は薇を巻くだけです、と翠星石は元気に言う。ジュンは大きく頷いた。


 真紅を抱いたジュンは雛苺の先導で早々に部屋を出、世界の扉に向かって行った。
 彼にとっては、一刻も早く真紅の薇を巻かなければならない、ということしかなかった。そして、彼と雛苺にとってそれは正しい判断だった。
 ただ、アリスゲームの盤上に残っている姉妹達にとっては、それ以外にも問題が残されていた。

 奇しくも、その場に残ったのは──ナナを除けば──一番目から四番目までの姉妹だった。
 四人の中央には、雪華綺晶のローザミスティカが、ゆっくりと旋転しながら宙に浮いている。早い者勝ちだというようにも、絶対に誰にも渡らないと傲然と構えているようにも見えた。
「形としては、真紅と雪華綺晶のどちらも盤上から降りたことになるわ。真紅は恐らく雪華綺晶に敗北したとみなされ、雪華綺晶は自分の作った物に命を断たれた……自殺のようなものね」
 水銀燈は淡々と告げた。
「雛苺は翠星石と仮契約を交わし、そのローザミスティカは真紅から翠星石に譲渡されたようなもの。そして、このまま行けば真紅も翠星石と仮契約を結ぶ形になるのでしょう。事実上、翠星石が三つを保持している形になる……まあ、現状のまま、と言えるわね」
 翠星石は抗議しなかった。水銀燈の言うのは事実だった。そして、翠星石にも翠星石なりの展望、というよりも他の姉妹がもし攻撃を仕掛けて来たら、それに対処する必要がある。
 これまでは「今」を守るために真紅に協力し、真紅のしもべである雛苺の力も借りていた。それが、これからは自分が主体になり、真紅と雛苺から支援を受けるという形に変わるだけの話だ。
 雛苺が主要な能力である、ぬいぐるみや人形を巨大化して相手を襲わせる技を使えなくなってしまったように、真紅が何処まで力を制限されてしまうのかは分からない。薔薇の花弁はもう使えず、ただ、物体の時を戻す時計の力だけが残るのかもしれない。
 ただ一つ確かなのは、それでも真紅の思索や判断力には何等の影響もないということだ。特殊な能力がなくなったり制限されたからといって、真紅が別人に変化してしまう訳ではない。
 戦いでは不利になったかもしれないが、今までのように三人で力を合わせて行くことには何の変わりもなかった。

「問題はその、何処にも動こうとしない一つ」

 水銀燈はまだ輝きを失っていない、雪華綺晶のローザミスティカを指した。
「どういう意図が隠されているかは分からないけど、しぶとさは器もないのに雪華綺晶を自分の許に縛り付けていただけのことはあるわ。誰が持つべきなのか、私には判断できない」
 珍しく弱含みの発言だったが、誰もそれを不思議には思わなかった。
 現在のところ、翠星石以外は一応横並びなのだ。翠星石にしても、自分で三つを保持しているわけではない。あくまで間接的に、二人の協力を得られるたけだ。一つのローザミスティカの帰趨は大きい。
 しかも雪華綺晶は明確に姉妹の誰かに倒された訳でもない。だからこそ、こうして宙に浮いているのだとも言える。
「ラプラスの魔の登場を待つべきかしら」
 金糸雀は傘で入り口の方向を指し、穏当な意見を述べた。
「それまでは第三者──例えばナナに保管して貰うとか」
「何時現れるか分からない者を待てってこと?」
 水銀燈は腕を組んだ。ふんと鼻を鳴らし、肩をそびやかす。
「雪華綺晶が倒れてから既に現実時間でも三分二十五秒経過している。それでもまだあの白兎が現れないということは、これの帰趨については、私たちで考えろという意思表示なのでしょう」
「肝心のローザミスティカの意思はどうなのですか」
 翠星石は旋転を続けるローザミスティカを見遣った。
「誰の中にも入る気がないのなら、別の意図を持っているのかもしれません」
「だが僕達の誰も、あれには触れられなかった」
 蒼星石は事実だけを確認した。
 四人に雛苺とジュンを含めた都合六人はてんでに、あるいは協力してローザミスティカに触れようとしたが、叶わなかった。ジュンと雛苺を帰したのは、一刻も早く真紅を目覚めさせ、そして鞄なりジュンの腕の中なりで安心して休ませる必要があったからだ。
「──触れられる子はいるわ」
 金糸雀はにこりとした。鞄を揃えて不器用に動かしているナナを振り返る。
「ナナ、手を貸して欲しいの。アリスゲームの部外者である貴女なら、これに触れて、その言葉を聞くことができるかしら」

 ナナは水銀燈達の輪の中に入り、黄色い目を開いて雪華綺晶のローザミスティカに手を伸ばした。
 ローザミスティカはまるで吸い込まれるようにその手の中に向かい、半ば開いた掌の上に要領よく位置を占めた。呆気ない顛末と言えばそのとおりだったが、どちらかと言えばナナを待っていたようにも見えた。
 ナナは目を閉じ、その声に耳を傾けようとするように、両掌でローザミスティカを包んで胸の前に捧げるように持った。次の瞬間、びくり、とその身体に緊張が走ったが、ナナは目も開けず、声も上げることなくそのままの姿勢を続けた。
 やがて目を開けて数回瞬くと、掌を半ば開いてローザミスティカを眺めながらナナは口を開いた。
「このクリスタル──ローザミスティカは、『最も強い者が取れば良い』、って言ってます。残った四人の中の、一番強い者が取れば良いって……」
 顔を上げ、はっとしてきょろきょろとその場の面々の顔を見回す。四人の少女は押し黙り、押し並べて硬い表情になってしまっている。
 何かまずいことを言ったのかとびくびくして、ナナはもう一度雪華綺晶のローザミスティカの声を確認する。
 ローザミスティカはエンドレステープ宜しく概略同じ内容を繰り返すだけだった。先刻の言葉は聞き違えではなかった。

「──ここに集った姉妹の中で、最も強い者が戦い取ればいい。それを見極めるまで、ここに居る。ただし、輝きを失うまでに、そう時間の猶予はない」

 これだけです、とナナは少しおどおどしながら言った。
 水銀燈は軽く頷き、ありがとうとナナに儀礼的な微笑みを向けた。
「暫く持っていて貰える? 大して時間は掛らないと思うから」
 買い物篭でも持たせるときのような軽い口調で水銀燈は言った。ナナが生真面目に頷くのを見届けると、姉妹達の方に再び向き直る。
「一番強い者、強い者ね……。腕相撲でもやらせる気かしら」
 金糸雀はとぼけたことを言った。真面目な顔つきだが、言葉の内容まで真面目かどうかは定かではない。
「輝きを失ったところで、末妹を呼び戻そうなんて奇特な人が居るとは思えないから関係は無さそうだけど」
 水銀燈は顎に手を当てたまま、ひとつ背中を伸ばした。
「どちらにしても長居はできない。何等かの結論を出す必要はありそうね」
 水銀燈以外の三人には、nのフィールドに居ること自体に時間制限がある。今回は既に時間の半ばを過ぎていた。
「翠星石には必要ありませんし、欲しくもありません」
 翠星石はぴしゃりと言い放った。
「二つの生きてるローザミスティカと、マスターの世話で手一杯ですから。この上ローザミスティカを増やす余裕はないです」
 それは今後三つのローザミスティカを管理することになる彼女だから言える言葉なのかもしれない。入手すれば形の上ではローザミスティカの過半が彼女の許に揃う形になるものの、それで他の姉妹の襲撃自体を防げるほど圧倒的な力が備わるわけではない。
 何より、彼女は戦い取るという形自体に興味がなかったし、本音を言ってしまえば厭だった。お互いの物でさえないローザミスティカのために姉妹同士争うというのは、いくらなんでも哀しいのではないか。
「──このローザミスティカを巡っての戦いは、必然的にローザミスティカ三つ以上が絡む争いになる訳か」
 蒼星石は顎を引き、足許に視線を落としていた。
「誰かの許にまた三つが集えば、次は一つしか持っていない者が必然的に弱者となる。そうして、アリスゲームは雪達磨式に終焉に向かう」
 口にしている言葉は相変わらず現状の確認だけだった。しかし、彼女の頭の中では、別の構想が動いていた。
 目を閉じ、それから一歩下がって正面を向く。そこには水銀燈が居た。
 声を出して呼んでもいないのにレンピカが脇に出現し、彼女の右手の中に凝った意匠の大きな鋏が現れた。
 彼女は片側の持ち手だけを握り、半ば開いた形の鋏を水銀燈に水平に突きつけた。『蒼星石』の鋏とはまた違った、剪定鋏として、または武器としての剣呑な側面が強調された姿だった。華美ではあるが、鋭利な刃を持った凶器に違いはない。

「僕と勝負して欲しい、水銀燈。このローザミスティカと、お互いのローザミスティカを賭けて。
 僕が勝てば、僕達双子の庭師の下にはローザミスティカのほぼ全部が集まることになる。そうなったら、ゲームはお仕舞いにしよう。
 翠星石も僕も、アリスゲームよりは平穏な日常を、お父様と出逢う未来よりは現実世界の恋人との現在を欲している。そもそも僕達にとってゲームは、昔から忌まわしい枷に過ぎなかったのかもしれない」

 水銀燈は鼻を鳴らした。
「私達の本能のようなものを、厭にあっさりと否定するのね。もっとも貴女達に七つのうちの六つまでが占められているんじゃ、確かに敗者以外の最後の一人がどう頑張ったところでゲームは遂行できない。自殺以外の何者でもないものね」
 今の状況を利用した、忌々しいほど上手い手だわ、と肩を竦める。
「ただし、それは私に勝ったらの話でしょう。私が勝ったらどうする気?」
 蒼星石は不敵な笑みを浮かべた。
「その時は、僕はこのローザミスティカを君に差し出すよ。それを自分の中に納めるのも、真紅が雛苺にしたように、僕を走狗として動かし続けるのも君の自由だ」
「そんな、蒼星──」
「──なるほどね」
 翠星石が言いかけた言葉に被せるようにして、金糸雀は頷いた。
「貴女がカナじゃなくて水銀燈との一戦を望んだのは少し残念だけど、カナはそれで構わないかしら。最近ね、ずっとぬるま湯に浸かったような生活も悪いものじゃないって思えて来たから。最早ゲームもアリスもない、でも今までみたいな愛でられるだけの安穏としたものじゃない、不完全な人間ともっと近くで共に在る生活もね」
 蒼星石は顔だけを金糸雀に向け、微笑んだ。
「この状況は、水銀燈の望んだことの延長線上にあるからね」
 水銀燈に視線を戻し、淡々と続ける。

「彼女がこの時代で、彼女の媒介から知識を得てから、全ては既定の路線からはみ出してしまったのだろう。
 本来ならば僕はずっと以前に器を手放し、僕のマスターは雪華綺晶に囚われ、雛苺は食べられ、雪華綺晶はもっと思う侭に振舞っていたはずだ。
 それらは全て阻止された。水銀燈の手によって。次々に出来した出来事に左右され、多分思うようには進まなかったはずだけど、この状況を誘導したのは間違いなく君だ」

 最後の部分は水銀燈に向けられていた。そのまま水銀燈だけに言葉を投げつけるような形で、蒼星石は喋り続けた。

「君を倒さなければ僕達は自分の望む方向に進めない。そして、君が途半ばで倒れない限り、遅かれ早かれ僕達は君に倒されて行く。
 何故なら君こそがアリスゲームを遂行しているからだ。造物主に逆らうと言いながら、君こそがゲームを滞りなく進める役になっている。
 だから、僕がゲームを止めようとするなら、金糸雀でも翠星石でも、他のどの姉妹でもなく、君と戦う必要がある。
 誰でもない、僕自身の未来のために」

「大演説ご苦労様」
 水銀燈はにやりとした。蒼星石も不敵な笑みを返した。
「時間が惜しいんでしょ? さっさと始めましょう。可哀想で滑稽な人形劇の一幕を」



[19752] 180ほど。 蒼星石旅立ちのとき。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/04/01 22:03
さよならは別れの言葉じゃなくて。

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「──翠星石は厭です」
 歩き出そうとした蒼星石の手を、翠星石は両手で掴んだ。
「戦う必要なんてホントにあるんですか? 戦うしか解決の方法がないなんて、それじゃ蒼星石からアリスゲームを仕掛けてるのと変わらないです。もう少し冷静に──」
 そこで、翠星石は息を呑んだ。
 彼女を振り向いた蒼星石は、薔薇屋敷で戦ったときのように酷く冷徹で、しかし以前とは違って何処かに希望を抱えているように見える。
 思い詰め、追い詰められたという表情ではない。自分の未来のために、と言い切ったとおり、彼女は何かのための前段階として、粛々と計画を遂行しようとしている。そんな風にさえ見えた。
「決めたこと、というより、決めていたことなんだ。早いか遅いかの違いは確かにあるが、いずれこうせざるを得なかった」
 くるりと振り向き、手を解いて歩き出す。背中を向けたまま言葉だけは続けた。
「事が済んだら、一緒に朝食を食べよう。僕の養父がそう言っていた」
「え……?」
 翠星石が何を言われたのか分からずに途惑っている間に、蒼星石はもう手の届かないところに歩いて行ってしまっていた。声を掛ける機会も失ったようになり、翠星石はその場に立ち尽くした。

 二人の少女は部屋の中央に、少し間合いを置いて対峙した。
「一度本気で遣り合ってみたかったのよ、貴女とは」
 水銀燈は先程例のドールが落としていったものをくるくると指先で回しながら、人工精霊を呼び出した。メイメイは勢い良く現れ、いつものように彼女の脇に控えた。
「これといった技は持っていない代わりに、多分私達の身体など一撃で突き通せる本物の凶器を持った子。私は何処までやれるかしらね」
「この期に及んで韜晦とは余裕だね」
 蒼星石は帽子を取って一礼しながら、皮肉な言葉をぶつける。被り直したときには、もうその目は鋭い光を宿していた。
「間合いを必要としない君の方が余程有利だ。それは明白だろう」
「どうかしら。成算のない戦いを仕掛けるほど貴女が無能とは思ってないわよ」
 水銀燈は弄っていたものを蒼星石の方に突き出した。
「これが床に落ちたタイミングで、始めましょう」
 それは水銀燈の武器と同じ外見の、ただ、真っ白な羽根だった。どういう訳かあのドールは、一枚だけ白い羽根を落としていったらしい。
 蒼星石は頷いた。水銀燈はそれを確認すると、無造作に羽根を上に弾いた。
 動力の篭っていない羽根は少しばかり上に舞い上がった。上手い具合に空気を掴み、ふわりふわりと暢気な軌道を描いて、ただ然程の時間を掛けるでもなく素っ気無く床に舞い落ちた。

 蒼星石は、重い鋏を抱えたまま俊敏な動作で距離を詰めた。
 『蒼星石』や名の無いドールのような、足を止め、鋏を剣のように使って斬る、あるいは殴るといった動作は最初から考慮していない。豊富な得物に力を乗せ、物理的な打撃というよりは自分達のパワーを発揮するための媒体として使われる『鋏』と、蒼星石の鋏の使い方は根本的に異なっていた。
 『鋏』と蒼星石の鋏自体にも、大きな違いがある。まるで紙用のクラフト鋏のように様式化された『鋏』とは異なり、蒼星石の鋏は先端が尖り、そこまで刃がついていた。
 剣呑さだけで比べれば、蒼星石の得物は恐らく『水銀燈』の細身の剣よりも、より凶器としての側面を色濃く持っているとも言える。
 それで切るか、突くか。どちらかしか蒼星石は考えていない。払い除けることはあっても、攻撃の基本はほぼ閉じた状態での突きであり、顎を開いての切りだった。
 黒い羽根が射出されるが、彼女は左右にステップを踏んで避けるだけに止めた。鋏を抱えるように構えたままの姿勢は変わらず、突進の方向も変えなかった。
 その勢いのまま、鋏が水銀燈を貫くかと見えた瞬間、水銀燈は舞い上がった。鋏は虚しく、水銀燈が舞い上がるときに抜け落ちた羽根の一本を弾いただけに終わった。
 舞い上がりながら、水銀燈は一群の黒い羽根を召喚する。
 狙撃は半ば諦めていた。銃弾のような初速を持っていれば兎も角、彼女の黒い羽根は余程の近距離でなければピンポイントを狙っても相手が動いてしまえば外れてしまう。
 かといって、ある程度拡散して多数の羽根を射出するような真似をしても数本の命中を得られるだけだ。そして、それが命中したのが目などのピンポイントでない限り、蒼星石の突進を止める圧力にはならない。
 しかし、水銀燈の黒い羽根は羽根の形をした投擲武器というわけではなかった。多数を集めて曲芸のように龍の頭を作ったり、蛇のように走らせて防御したりといった芸当は──数の上でも──到底できないが、もっと実用的で、考えようによってはずっと細かな動作をさせることができる。
 床を駆けている蒼星石に向かって後ろから羽根が襲い掛かる。その足を止めてしまえば、展開は一方的になるはずだ。そして、そうするには何処でもいい、脚の何処かを締め上げてしまえばいい。
 蒼星石の足許、足首辺りに照準を合わせて、低い軌道から迫った黒い羽根は、しかしすかを喰った。彼女の位置を追い越して飛び去り、壁際で制御を外れて力を失う。
 彼女は飛び上がっていた。ただ跳躍したのではなく、この場の重力を無視して水銀燈に下から突っ掛けて来ている。

──気付いていたのね。

 舌打ちをしながら、水銀燈は勢い良く迫って来た蒼星石を身体を大きく開いて辛うじて避けた。たなびいた髪が、やや開いた鋏の刃に挟まれて切断される。
 飛び違う瞬間、彼女は尋ねていた。
「いつ、気付いたの」
「雪華綺晶が消滅したとき、この場の雰囲気は物理的な圧迫感を失った」
 蒼星石は背中から放たれた黒い羽根の狙撃を軌道を変えて遣り過ごし、それと同時に水銀燈に向き直った。
「元の状態の方が異常だったんだ。nのフィールドにある精神世界としては重力に縛られ過ぎていた。雪華綺晶の制御が消滅して、ここも他の幾多の世界と同じように、僕達でも飛び回れる場所になったということだろう」
「残念ながら正解みたいね。忌々しいったら」
 分かっていたこととはいえ、アドバンテージが無いのは厳しい。拘束して射撃で片を付けるのが理想だが、蒼星石も承知の上だ。そうは行かないだろう。
「それでもやるしかない、か」
 蒼星石の動きを目で追いつつ、水銀燈は眉を顰めて目を細める。蒼星石は長い距離を置いて水銀燈を周回するような軌道に乗っていた。

 間合いを必要としない、と蒼星石は言ったが、水銀燈としても闇雲に距離を取れば良いというものでもなかった。黒い羽根は目で追えないほど、そして全く回避が不可能なほど速くはない。距離が長くなれば軌道は相手にも容易に見破られてしまう。
 特に拘束に使う羽根は、狙撃する場合に比べて遅い。真紅を追い詰めたときのように協働する相手が居れば話は別だが、よりによって今はその協働していた相手と対峙している。
 金糸雀ほど食い合わせが悪い訳ではないが、手強い相手だった。基本的に足を止めて戦うスタイルの真紅や翠星石とは違い、元々一撃離脱に特化している蒼星石には、いざ正対してしまうと拘束を掛けるのが難しい。

 考えを巡らせている時間、攻撃の間が開いていた。
 もっとも、何も考えていなかったとしても同じことだったろう。お互いに攻撃が有効な距離ではなかった。
 蒼星石は周回軌道のまま、僅かに速度を上げているようだった。理由は分からない。しかし、見た目の角速度が上がり続ければ、目で追えなくなってしまう。
 水銀燈は舌打ちして蒼星石の後方、軌道上に羽根を放った。後方ではあるが、同一軌道を周回し続けていれば蒼星石はその場にまた頭から突っ込むことになる。
 もちろん、それが上手く行くなどとは思って放ったものではない。蒼星石の軌道を変えさせるための障害物だった。但し、蒼星石がそこに近接するようなことがあれば、羽根は彼女に拘束を掛けることになる。
 蒼星石の反応は早かった。横向きの周回を即座に斜めに変え、羽根の群れと交差しない軌道を取った。
 そこで、水銀燈は漸く気付いた。身体がすっと冷えたような感覚がある。

──注意散漫としか言えないわね。

 蒼星石は加速していた訳ではなかった。それと分からないほど少しずつ、軌道半径そのものを縮小して、羽根の危害圏ぎりぎりまで接近していたのだ。
 狭い扇状に狙撃を放つ。しかしそれで蒼星石も水銀燈が気付いたことを悟ったのだろう。軌道を変えて羽根を避けながら、直線ではなく上方に弧を描くように水銀燈に迫って来た。
 斜め上から来る、ということが分かるだけで、軌道が読めなかった。蒼星石は弧を描きながら、そこにもう一種類か二種類のぶれのようなものを加えている。突進の威力は落ちるが、点や線の迎撃では捕捉しにくいし、回避もやり難い。
 こんな高等技術をいつ学習したのだ、と一瞬考えて、水銀燈は自分の頭の悪さを呪った。雪華綺晶との戦いだ。それも今日ではなく、彼女と少年がナナを連れ帰ったあの日の経験だろう。真っ直ぐに投射される白茨は、複雑な軌道を描いて避けつつ切断する必要があったはずだ。
 後知恵で考える分には、どうやらそれらは幻影だったらしい。しかしその場の蒼星石にしてみれば、避ければそこまでの狙撃やら、それより遥かに遅い速度でやって来る拘束のための羽根より余程恐ろしい相手だったに違いない。
 今の蒼星石の行動は、そのときに何度となく反復して体得したことの応用だった。
 もっと長い距離があれば読みきれたかもしれないが、その余裕はない。身体の前に羽根でまばらな盾を作ったところで、反らすことも止めることもできない。拘束も間に合わない。
 水銀燈は咄嗟に上体を丸めるような姿勢で前下方に飛び出し、顔面への直撃を避けつつ、相討ちに近い形を覚悟しながら、準備なしで射出できる限りの羽根を蒼星石に向かって叩き付けた。他に何か有効な反撃かカウンターがあったかもしれないが、彼女には思い付かなかった。

 交錯した時には、お互いに、たった一撃で勝負が終わったことが分かっていた。
 蒼星石の鋏は水銀燈の頭を割ることはなく、そのヘッドドレスを切断し、髪を数本押し切りに切断しながら背中の翼を捉えただけだった。蒼星石の手は──水銀燈の頭にそうするつもりでいたように──鋏を閉じ、水銀燈の右の翼は厭な音を立てて根元近くから切断された。
 いきなりの激痛と重心変化に水銀燈はバランスを失い、礫のように落ちて行く。どうにか頭から床に叩き付けられるのだけは避けられたものの、クッション代わりにした左の翼が厭な音を立て、更に痛みが走った。
 水銀燈の放った黒い羽根は、それとほぼ同時に蒼星石を襲っていた。鋏を閉じた直後、彼女の身体、特にその上半身には数十本の黒い羽根が一斉に突き立った。
 顔が跳ね上げられ、帽子が吹き飛んだ。蒼星石は上方向に突き上げられるような恰好で軌道を曲げられ、鋏を持ったまま斜めに床に突っ込む形で激突した。金属的な衝突音がして、蒼星石はそのままごろごろと暫く転がり、仰向けに大の字になって漸く止まった。


「──蒼星石!」
 翠星石は思わず駆け出していた。金糸雀は一応制止の声を上げたが、翠星石には届かなかったかもしれない。
「ダブルノックアウト、かしら」
 金糸雀は表情の無い顔で、冷たい言葉を呟いた。が、すぐにシニカルな微笑に変わる。
「……そうでもないようね」
 金糸雀の視線の先で、水銀燈は激痛に耐えながら立ち上がっていた。右の翼は切り落とされ、左の翼は飛行するときの状態に広がったまま、折れて垂れ下がっている。ヘッドドレスは何処かに切れ飛び、これまでの諸々の戦いのせいでドレス自体もあちこち破けたり汚れたりしていたが、それでも水銀燈はよろめきながら蒼星石の方に歩み寄った。
「蒼星石、蒼星石! しっかりして」
 翠星石は蒼星石の上半身を抱えて揺すっている。衝突などの衝撃が加わった脳は揺すってはいけなかったのではないか、とぼんやり水銀燈は考えた。それは人間などの話だ、と思い至るほど、そしてそれが自分ではなく媒介の知識から呼び出された情報であることに気付くほど、彼女には気分の余裕も思考の余裕もなかった。
「蒼星石っ」
「……翠星石」
 蒼星石の傷だらけの顔が動き、ゆっくりと左右で色の違う瞳が開いた。そこに翠星石が居て、自分を抱いていることには何の疑問も抱いていないようだった。
「いい気になって空中戦を挑むなんて、調子に乗りすぎてた。それとも実力の差かな」
 淡々と呟く。無念そうな表情ではなく、かといって清々しいということもない。
「水銀燈、居るかい」
「残念だけどまだ居るわよ」
 水銀燈は足を引き摺るように最後の数歩を歩き、蒼星石の前で膝をついて座り込んだ。
「やってくれたわね、一撃でこんなに食らったことはなかったわ」
「偶然さ」
 蒼星石は薄く笑った。その目は天井の方向に向けられたままで、何処か白濁しているようにも見えた。
「僕はもう駄目だ。一撃に全てを賭けたはいいが、その後のことを考えていなかった。いや……言い訳だな。僕は君の擦れ違いざまの一撃にしてやられた」
「苦し紛れだったけどね」
 水銀燈には笑みはなかった。激痛に耐えるだけで精一杯だった。
「紙一重だった、っていうのは今みたいな事を言うのでしょうね」
「勝者のコメントだな。でも、ありがとう」
 蒼星石は微かに苦笑して目を閉じた。
「翠星石、悪いけどこのボディを僕の養父……いや、マスターの許に運んで欲しい」
「駄目です!」
 翠星石は激しい調子で言った。目尻には涙が溜まっているが、彼女はまだ泣かずに頑張っていた。
「す、翠星石は非力ですから、そんなの無理です。蒼星石が自分で帰ってください。二人で一緒にだったら、おじじの処についてってあげますから」
「君には手を煩わせてばかりだった」
 蒼星石はもう話を聞いていないようだった。聞こえていないのかもしれない。
「『一人で歩ける、強さをもう、ちゃんと持ってる』なんて言葉が空々しいくらい、君は強くなった。だから僕は安心して……このボディを君に託すよ」
 翠星石は何も言えなくなり、俯いて蒼星石の手を取った。
 蒼星石は薄れて行く意識を奮い立たせるように何度か口を開いたり閉じたりしていたが、やがてはっきりとした声で言った。
「ゲームは君の勝ちだ、水銀燈。約束どおり、僕の、ローザミスティカを君に託す」
 水銀燈が何かを言う前に、蒼星石は微かに人の悪い笑みを浮かべて続けた。

「ゲームには負けたけど……賭けには未だ負けてない。僕の養父……結菱一葉に、そう伝えてくれないか」

「構わないけど、意味が理解できないわよ」
 水銀燈は何故か痛快そうな顔の蒼星石に、思わずそう言ってしまう。蒼星石は何故かその言葉だけは聴き取れたように、人の悪い笑みを大きくした。まるでからかいごとを思い付いた時の結菱老人の笑顔のようだ、と水銀燈は場違いなことを考えた。
「すぐに分かるよ」
 蒼星石の顔から笑いがふっと消え、首がかくりと後ろに反った。次の瞬間、彼女の胸の辺りから輝く結晶がふわりと浮き出る。
 ローザミスティカは、まず翠星石の掌の上に移動し、何かを伝えるような間を置くと、ゆらりとそこを離れて水銀燈の胸の前で止まった。
 水銀燈は軽く頷いてそれを取り、自分の胸に落とし込んだ。同時に、その脳裏に蒼星石の声が響く。
 蒼星石はメッセージをローザミスティカに込めていた。

──君のことはどうしても好きになれなかったけど、君が勝つことに異議はない。僕の命は君の一部になろう。その代わり──

 水銀燈は目を見張り、翠星石の腕の中で最早動かない人形となった蒼星石をまじまじと見詰めた。翠星石が自分を見上げているのにも気付かず、暫くの間その視線を動かさずに居た。
 やがて、彼女は目を閉じて長い息を吐き、目を開けて翠星石を見た。翠星石はまだ彼女を見上げていた。
「翠星石は帰ります」
 宣言するように言って、翠星石は苦労しながら蒼星石を抱え直した。ナナが何処かから蒼星石の帽子を拾って来て、その頭に被せた。
 彼女はまだ片手で雪華綺晶のローザミスティカを持っていたが、誰もそれに注意を払っていなかった。ナナ自身も、それほど気にしていなかったかもしれない。
「このボディは確かに預かりましたよ、蒼星石」
 翠星石は注意深く立ち上がり、上を向いて元気の良い声で言った。
「急いでおじじの処に届けます。それからすぐに家に帰りますけどね。うちの欠食児童どもに朝ご飯を出さなくちゃいけませんから」
「──そうね。そろそろ時間も押してきているし」
 水銀燈はバランスの悪い体のまま、ナナの手を借りてどうにか起き上がった。
「結菱老人には私も言いたいことがある。後から行くわ」
「伝えておきます」
 翠星石は言葉に僅かに冷ややかさを込めて応え、そのまま振り返らずに入り口へと歩いて行った。
「水銀燈」
 入り口を通るとき、翠星石は向こうを向いたまま声を張り上げた。
「恨んでないです。今はアンタと顔を合わせてられないですけど。……だけど、アンタのマスターには、どう説明すればいいんですか」
「それは、私がやるわ。我儘で振り回すばかりで悪かったわね。ここに居ない子の分まで謝るわ。それに……」
 水銀燈は疲れた声を隠そうとも思わなかった。

「ありがとう。
 貴女がしっかりと根を張っているお陰で、私達はこの狂ったゲームに侵されながらも現実と繋がっていられるのかもしれない」

「真紅なら兎も角、アンタに感謝されるなんて思ってませんでしたよ。珍しいこともあったモンです」
 翠星石は言い捨てるようにそれだけ言うと、角を曲がって去って行った。最後の方がざらついた声になっていたのは、意外さもあったかもしれないが、蒼星石の旅立ちを無感動に見送ったことに対する怒りのためなのだろう、と水銀燈は思った。
 それで良いのだろう。魂は戻ったとはいえ真紅が自分から器を手放して敗北し、雪華綺晶が永遠の探索に出、蒼星石は自分の構想のために旅立った。その敗北の全ては水銀燈に遠因を求めることができる。
 翠星石がアリスになろうと金糸雀がなろうと、水銀燈はこれでゲームに対しても姉妹に対しても完全な悪役でしかなくなった。雛苺以外の全員の敗因を作ったのは水銀燈なのだから。
 それはもう致し方がないことだ、と水銀燈は思った。自分はこうなることを知っていて精一杯暴れてみせたのだ。後悔は山ほどあるが、過去の何処かの点に戻ってやり直したところで現状以上に良い現在に辿り着く自信はない。それに、何を以って良し悪しを決めるのかも曖昧だった。
 だが、今はそんなことさえどうでもいい。ここで立っていることだけでも苦痛なほど疲れきっている。翼からの激痛がなければ、疾うに倒れていたかもしれない。


「……ナナ、ローザミスティカを見せて」
 落ち着いた声でそう言ったのは水銀燈ではなかった。
 水銀燈を気遣わしげに見ていたナナはびくりと肩を上下させ、瞬きながら振り返った。金糸雀は真面目な顔で真っ直ぐに彼女を見ていた。
 ナナはちらりと水銀燈を見たが、水銀燈はナナの方を向く余裕もないように荒い息をついて俯いていた。ナナは金糸雀に向き直り、握っていた片手をゆっくりと開き、握り込むようにしていたローザミスティカを見せた。
 長いことは保たないなどとメッセージを伝えてきた割には、ローザミスティカはまだ輝きを失っていなかった。それはゆっくりと旋転を始め、ナナの手の上からするりと抜け出ると、痛みに耐えている水銀燈の胸元で停止した。
 水銀燈は大儀そうにそれを手に取ろうとしたが、その手は宙を掴んだ。彼女より頭半分ほど小さな少女が、それを横合いからもぎ取ったのだ。
「──金糸雀さん」
 ナナは驚いた声を上げた。金糸雀は片手でローザミスティカをお手玉のように二、三度投げ上げては掴んだが、それをナナに投げて寄越した。
「その子のバリアが解除されたのは分かったわ。でも、まだ水銀燈に上げるのは早いかしら」
「それって、ど、どういう……」
 慌てて、しかしどうにかそれを落とさずに受け取りながら、ナナは水銀燈と金糸雀をおろおろと見比べた。
「も、もう水銀燈さんは蒼星石さんに勝ったじゃないですか、まだ……」
「さあ、それはどうかしら。あれが勝利と呼べるなら、ローザミスティカを一つしか持たないカナがこれから水銀燈を倒したらもっと完璧な勝利だと言えないかしら」
 金糸雀の表情は真面目だったが、その声は幾分か揶揄するような調子を含んでいた。
「まあ、そんな建前はどうでもいいわ。今なら水銀燈を倒して、その雪華綺晶のローザミスティカも合わせて三つ一気にゲットできる。このカナの許に四つのローザミスティカが集う好機なのよ。これを見逃す気はないわ」
「……そ、そんな」
 そんな強引なことをして、拒否反応が出たらどうするのか、とナナは思った。
 水銀燈の説明に拠れば、他人のものを強引に奪った場合、本人がそれを託せると認めない場合は拒否反応が起きるという。それは彼女達を苛み、回復も儘ならない状態に陥れるという話だった。
「あら、それは水銀燈の説でしょう?」
 金糸雀は涼やかな声で笑った。今までに、少なくともナナには見せたことのない、容赦のない部分が垣間見える笑いだった。
「それが正しいとは限らないかしら。まだ誰も、自分で試した者はいないのだから。それに──」
 ナナの手に戻った雪華綺晶のローザミスティカを指差して続ける。
「──その子は言っていたわ。手段は兎も角として自らが最も多くのローザミスティカを集めている者を強者と認めるって。少なくともその子にとって、ゲームはそういうものなのよ」
 顔を上げた水銀燈に視線を向け、にやりとする。

「悪く思わないでね、水銀燈。今の貴女に負ける気はしないわ。
 この金糸雀が、貴女のローザミスティカ、楽してズルして頂いちゃうかしら」



[19752] 250ほど(2日分) 金糸雀無双。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/04/03 21:41
戦闘の理屈は適当なので突っ込み待ちです。

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 ズルして、と言い放ったものの、金糸雀は不意討ちはしなかった。ナナを下がらせ、水銀燈を部屋の中央に呼び出した。
「用意はいいかしら、水銀燈」
「ええ。少なくとも撲殺か縊殺かを選べと言われてる気分にはなれたわよ」
 水銀燈は乾いた笑いを浮かべた。
「慢心は命取りって言うけど、まさにそのとおりね。貴女が居ることをすっかり忘れていたなんて、慢心の最たるものとしか言えない」
「あら、水銀燈らしくもない言葉ね。弱気過ぎるわ。まるで何か期するところがあって、カナを誘い込もうとしているみたい」
 金糸雀はにっこりと笑った。愛らしい少女の顔のままだが、その笑顔には一種の凄みのようなものがあった。
「でも、そうね。貴女は慢心というほど油断していた訳じゃない、って言って上げてもいいかしら。カナは貴女達にそうやって自分を意識させないように、この時代に入ってからずっと、可愛らしいドジっ娘として振舞ってきたのだから」
「有難いお言葉ですわ、妹君」
 水銀燈は力なく笑った。全身がだるい上に痛みまで走っている。しかも片翼が切り落とされ、もう一方が肥大したまま途中から折れて畳むことも儘ならない状況で、真っ直ぐ立っているだけでも大変なほど体のバランスも危うかった。
 それでも、目だけは金糸雀の動きを追っている。何か反撃できる隙が出るとすれば、それを見逃してはならなかった。
 ゲームの勝ち負けやら悪役云々といったことは二の次だった。勝たなければ屠られる。本気になった金糸雀には、負けた相手を走狗として生かしたままにするような奇妙な趣味はないはずだ。
 精一杯虚勢を張るのも良いかもしれないが、今はその気分にはなれなかった。インターバルはあったものの長く連続した戦いで疲れていたところに、蒼星石と短いが力を振り絞った戦いをしてしまったのだ。
 早く帰ってシャワーを浴び、鞄の中で昼寝を貪りたい。だが、それはどうやら無理な相談のようだった。
 水銀燈は若干の自嘲を込めた笑いを浮かべた。
「こちらは構わないわよ。お望みどおりひと暴れしてあげるから、後は貴女の好きなようにすればいいわ」
「できればひと暴れもして欲しくないのがカナの望みかしら。でも、そう上手くは運ばないのでしょうね」
 無駄話はどうやらそこまでのようだった。言い終わると、金糸雀は生真面目な表情になって人工精霊を呼んだ。
 ピチカートはすいと出現して彼女の脇に控え、彼女が左手で持った傘を瞬時にヴァイオリンに変える。くるくるとよく動くピチカートとは好対照の、無駄の一切ない、妙な言い方だが訓練された動作で金糸雀はヴァイオリンを構え、右手の弓を弦に当てた。

「まずは貴女の様子を見せてもらうわ。──沈黙のレクイエムで」

 弓が弦の上で踊り始めた瞬間、水銀燈は短くメイメイに命令を下していた。
 次の命令を与える暇はなかった。巨大な音圧が渦を巻いて、無音の強風が水銀燈を襲った。無理に口を開いてみたが、自分の耳にさえ何を口に出しているのかが届かない。
 水銀燈はよろめきつつじりじりと後退しながら、次の技が来るのを待つしかなかった。
 もっとも、それだけだ。相手を沈黙させ、行動の自由を僅かに縛る程度の技だった。直に相手の何処かを破壊したり、振り回したりする種類のものではない。
 小手調べと言うのか支援向きと言うのかは分からないが、本来は様子見程度の技だった。
 しかし、今の水銀燈にはそれすら苦痛だった。攻撃、反撃といったものを考えている状態ではない。重心が妙な方向にずれているお陰で、膝をつかずに半身で金糸雀に向かっているのが精一杯だった。
「大分お加減が良くないようね、水銀燈」
 金糸雀の声は風に乗って聞こえて来る。この技も指向性があるのか、術者である彼女は普通に音声を発することができるようだった。
「じゃあ、次は酔いどれ水兵のマーチは如何かしら。酔っ払ったときは横になるものよ」
 予備動作も間も何も無しに、曲調がいきなり変化した。
 上体が揺すられ、回ってはいないはずなのに部屋の中が左から右に、あるいは右から左に流れて見える。
 平衡感覚を失わせる技だ、と思ったときには、いきなり視界が横倒しになっていた。同時に耐え難い痛みが左の翼に走り、水銀燈は思わず呻き声を上げてしまう。
 みしり、という音でなく、何か硬いものが折れる音がした。ごろごろと床に転がって位置を変えながら、さっき倒れた辺りを見ると、飛ぶために肥大したまま制御が利かなくなっていた左の翼は、先程落下したときに折れた辺りからそこに残っていた。
 無意識の内に、また翼を緩衝に使っていたらしい。痛みは既に背中じゅうと言って良いほどの範囲に広がっていたが、役に立たなくなっていた翼と引き換えに水銀燈は人形としての身体には大した傷を負わずに済んでいた。
 しかし、だからといって状況が改善したわけではない。疲労は取れてはいないし、痛みは酷くなるばかりだ。
 金糸雀からなるべく視線を切らないようにしながら、水銀燈は転がり続けてクリスタルの柱が立っている辺りに向かった。起き上がって歩いて行くことができれば僅かな距離だが、今は転がって行くしかない。立ち上がることさえ困難だし、這ったのでは多分数歩と行かない内に前後が分からなくなる。
 美しくないと言えばこれほど美しくない戦い振りはないだろう。かつての水銀燈なら、絶対に認めなかったかもしれない。
 唯一の救いは、相手が金糸雀であり、観客がナナしかいないということだ。金糸雀は水銀燈本人や真紅のように、戦いに臨んだときに言葉で相手を嘲弄し、苛むということがない。その分迅速にこちらの命を断とうとすることだろう。彼女は滅多に戦おうとはしないものの、戦いそのものには真摯だった。
 真面目な表情のまま、金糸雀は無駄な抵抗を続けているようにしか見えない水銀燈に諭すように告げる。
「転がっても意味はないかしら。音を遮断できるものは此処にはないのだから、私の技は何処に居ようと貴女に向けられるわ」
 金糸雀は演奏をやや激しくした。彼女の言葉どおり、水銀燈の平衡感覚は更に揺すぶられた。
 それでもどうにかクリスタルの六角柱の一つの裏側に入ることができたのは、彼女の執念というよりは、偶然の結果だろう。俯伏せになって頭を抱えるか、背中を丸めて痛みに耐えたいところだったが、どちらも無理だった。
 柱など掩体には到底なり得ないのだ。弓矢の射線を防ぐなら兎も角、相手は指向性の有無を選択できる音響を武器にしている。
 仮に正面に対して掩体として機能したとしても、金糸雀がその気になれば水銀燈の背後の壁に音を反射させ、概略位置に指向性の攻撃を加えることも可能だろう。柱そのものには意味は殆どなかった。
 それでも、意識を失わず、相手に決定的な攻撃をさせずに辿り着けたことに意味はある。水銀燈は視界の焦点が定まらない中、俯伏せの状態でなんとか金糸雀に視点を固定し、あくまでその隙を窺い続けることに決めた。
 その視線の先で、金糸雀は演奏を続けながら、視線はやはり水銀燈に向けたままで告げた。

「悪いけど、貴女を逃すつもりはないかしら。
 ここで取り逃がし、傷を回復されるようなことがあれば、貴女はローザミスティカ最低二つを確保した相対的な強者になってしまう。そして、恐らく雪華綺晶のローザミスティカも貴女の許に動く。
 三個と三個、恐らくそれでも三人とも動いている翠星石達の方が有利でしょうけど、数の上では釣り合いが取れている。そして、カナが手許に持つのは残りの一個だけ。
 カナはキャスティングボードを握れるとも言えるわ。でも、貴女にしても翠星石にしても、その気になればカナを潰せる力を持っていることになるかしら。
 天秤の釣り合いを取るのは楽しそうだけど、自分がどちらに降伏するかで釣り合いを取るしかないなんて、ちょっと寂し過ぎるでしょう?」

「……否定はしないわ。私だって我慢できないでしょうね」
 床にぴったりと這いつくばるような恰好で居ながら、まだぐらぐらと揺れているような感覚を音と共に叩き付けられていたが、水銀燈はどうにか言葉を搾り出した。
「貴女の話は筋が通ってる。それは認めるわ。だからって、無抵抗で敗北を認める気にはなれないけどね」
「そうね。それが貴女の誇りだもの。何時だって眩しいくらいに精一杯生きている水銀燈」
 演奏は続けられていたが、その言葉は僅かに途切れた。
「この時代で目覚めたとき、貴女が契約したって聞いてカナは嬉しかったかしら。他の子は知らないでしょうけど、貴女が契約を忌避していた理由をカナは知っていたから」
「──そう」
 知られていたのか、と水銀燈はぼんやりと考えた。
 隠し果せていると思っていたが、そこまで金糸雀は知っていたのか。何処まで真相に迫っているかは分からないが、少なくともそれを誰にも言わなかった分別は、金糸雀だからこそなのかもしれない。

 媒介は知らなかっただろうが、水銀燈が彼の知識の中の水銀燈と決定的に違っていたのは、その点かもしれない。
 水銀燈は様々な人々と接触し、様々な恋をして来た。そこまでは、もしかしたら彼の知識の中の水銀燈も同じかもしれない。
 違っていたのは、水銀燈が最初の契約者を、まるで彼の知識の中で彼女が柿崎めぐを愛したように、もっと近いものを挙げれば『真紅』が『桜田ジュン』を愛したように愛してしまったことだった。
 止むを得ない事情から契約者と別れることになったときも、水銀燈は契約を解除することが中々できなかった。父に諭され、契約者本人に説かれて漸く解除したものの、それは鞄での長い眠りを経ても彼女に重石として圧し掛かっていた。
 彼女が次に契約者を持ったのは、更に何度かの眠りを経てからだった。他の姉妹に比べてかなり短いサイクルで眠りと目覚めを繰り返し、それぞれの時代でそのとき起きている姉妹を襲撃しながらも、こと薔薇の契約に関しては、水銀燈は今までにほんの数回しか結んでいない。
 金糸雀が知っている範囲では、それは最初を除けば今回が初めてかもしれなかった。

「貴女が愛した人は、貴女を見詰めているわ。今でもずっと」
 金糸雀は淡々と演奏を続けながら、ぽつりと言った。
「カナから後の姉妹達は、貴女の轍を踏まないように記憶に枷を嵌められたのね。そこまでは知らなかったけど、言われてみれば思い当たるところはあるかしら。……だから多分、カナはね。貴女が羨ましかったの、ずっと。より自然で、より生物に──人間に近い貴女が」
 自然も何もないではないか、と余裕があれば水銀燈は言い返していただろう。

 自分達は人形という器に宿らされた、歪で不完全な人工の魂なのだ。
 創作者の想いと技術が物言わぬ人形に魂を吹き込み、それが人のように自我を持って動き出すなどという美しい話ではない。むしろ、自分達のボディ自体にそういった魂──『水銀燈』のそれのような──があるならば、それは抑圧されるか消滅させられているのかもしれない。
 あるいは彼女達の父親の技術というのは、本来自然に宿るはずの魂さえある程度計算して設計できるほどの高度で奇怪な次元に到達していたのかもしれなかった。
 いずれにせよ、薔薇乙女達は彼女達の造物主が至高の存在を実現すべく、緻密な計算の上に設計された人工生命だ。そして今は最早、至高の存在を生み出すための材料に過ぎない。
 自分達の魂が、感性が、思考が、人間に似ているのは、そう望まれて設計されたからに過ぎないのだ。自分でそういう形を取った訳でも、ましてや素朴な魂が偶然人間のような感性や思考を持つようになった訳でもない。

 そういった思考がとめどなく渦を巻くのは、平衡感覚が揺すられ続けているからだ。頭が視覚の補正に疲れ、五感とは別の何かを求めている。人間だったら疾うに吐き気を催しているだろうが、生憎とそういった生理作用は水銀燈にはなかった。
 それでも、と水銀燈は何度か瞬いた。この攻撃が続く限りは、これ以上の危害が加えられることはない。恐らく金糸雀はこちらの様子に変化がないので、攻撃の切り替え時を計りかねているのだろう。
「不便なものよ」
 水銀燈は言いながら金糸雀の左腕に目を凝らした。曲にもよるのだろうが、左手の指は常に動いて、意外に広い範囲で弦を押さえ、あるいは弾いている。
 もし、黒い羽根で弦を狙うなら、その合間を縫うか、手指が掛らない部分を狙撃するしかない。ある程度の誘導を利かせるために速度を落とすか、狙撃の効果を上げるために速度を乗せるか微妙なところだ。
「忘れたくても忘れられない。昔の厭な記憶がフラッシュバックすることなんて、貴女達にはないでしょう。貴女達がひたすら前を向いて生きて行くためには、そうした処置が必要だった。それをされなかった私や雛苺、眠ることさえ禁じられた雪華綺晶がどうなったか考えれば、貴女達への処理は正解だったってことよ」
 問題は同時に射出できるのが、何処まで頑張ってみても精々数本というところにある。翼が両方失われたダメージは大きかった。
 油断を誘うことも、距離を詰めることも現実的でない。金糸雀は挑発的な言葉を掛けたところで乗ってこないだろう。
 唯一、手が止まるときがあるとしたら、それは曲と曲の合間に若干の間が開くときだ。しかしそれでさえ、先程は利用できるほど長い間ではなかった。
「それでも、歪な処理かしら」
 金糸雀はふっと息を吐いた。
「私達はこんなに人間に似せられているのに、ありようは人間とは根本的に違う。こんなに生きているのに、一般的な生物とは、いいえ、魂を宿した動かないお人形達とも、世界の住人達のいずれとも全く異なっている。……でも、アリスになればそこには歪でないありようが存在しているかもしれない。逆に、もっと歪なものかもしれないけれど」
 大きな目を見開き、水銀燈を射抜くように見詰めた。
「それを確かめるために、カナは貴女を倒すわ。──」
 曲名を言うときの、特徴のある矯めのようなものが口調に現れた。ここしかない。
 考えるよりも先に体が動いていた。水銀燈は放てる限りの黒い羽根を、集束させて金糸雀の左手に放った。
 僅か数本だった。案外少なかったな、と水銀燈は思う。金糸雀の攻撃は、弱っていた彼女から平衡感覚だけでなく余力も奪っていたらしい。
「──旋風のトリル、第三楽章」
 金糸雀の口はその言葉を作ったが、演奏は開始できなかった。
 弦に当たった黒い羽根は僅か一本だけで、その他は虚しく背後に飛び去って行ったが、当たった羽根は無駄にはならなかった。ヴァイオリンの弦が二本、音を立てて切断されていた。
 演奏は止み、水銀燈の頭を揺する感覚は消えた。彼女はクリスタルの六角柱の陰に這いずり、初めて金糸雀から視線を切り、同時に彼女の視線からも隠れた。

「……流石ね、水銀燈」
 金糸雀はヴァイオリンを見遣り、それを傘に戻した。次いで、それを勢い良く開く。骨が二本ばかり折れていたが、傘として使うことには然程支障はなさそうだった。
 それを持ち手のところでなく大分上の方で握り、前に突き出し、半身の状態で傘に隠れるようにしてクリスタルの柱の方に進む。途中で一度立ち止まったが、何事もなかったようにまた歩を進める。
 隙のない足取りだった。右手の弓は短い片手剣に変化し、後ろに引かれて構えられている。恰好だけを昔の兵士に似せている訳ではなく、彼女は盾と片手剣を使った戦いについて、何等かの訓練を受けているようだった。
「飛び道具が使えなくなったのは痛いわ」
 言いながら、金糸雀は人工精霊を呼んだ。その瞬間、彼女の後方で稲妻のような光が走った。常に即座に登場するはずの彼女のサポート役は、現れなかった。
「……ピチカート?」
 思わず金糸雀は振り返る。視線の先に居たのは、黄色い光球ではなく、銀色と青色のそれ──メイメイとレンピカだった。黄色い光球は床に落ち、力のない光を放っている。
 二体の人工精霊は、ピチカートを逃すまいとするかのようにくるくると旋回し、完全に制圧していた。
 水銀燈がメイメイに伝えたのは、そのことだった。レンピカと二体掛りでピチカートを抑えよ、という短い命令をメイメイは忠実に実行していた。ヴァイオリンを傘に戻す瞬間に現れたピチカートを、それ以上の干渉ができないように叩き落してしまったのだ。
 ヴァイオリンを一旦壊しても、ピチカートが居れば傘とヴァイオリンは何度でも可逆的に、しかも瞬時に変化できる。更にその間に修理されてしまう可能性もあった。傘の骨が折れている事からしてどうやらそこまで便利ではないようだが、命じたときには水銀燈にはそこまでは分からなかった。
 金糸雀は人工精霊からサポートを得るのをあっさりと諦めた。二対一ではピチカートに勝ち目はないだろう。むしろ、厄介なメイメイとレンピカを纏めて拘束していることとヴァイオリンをぎりぎり傘に戻せたことで、ピチカートは十二分に働いているとも言える。
「チャンバラだけじゃ面倒だけど、この際仕方ないかしら」
 金糸雀は嘆息するように言った。
 視線を後ろに向けていたのはごく僅かな時間だった。金糸雀はじりじりとクリスタルの柱の立ち並んでいる場所の後ろ側に回り込んで行く。
 水銀燈が隠れた柱の位置は分かっていたが、七本ばかり立ち並んでいるクリスタル柱の間に分け入って水銀燈に迫ろうとするほど金糸雀は性急でも向こう見ずでもなかった。しかも一度は視線を切っている。水銀燈が別の柱の陰に移動していて、背後から襲って来ても何の不思議もなかった。
 ただ、襲うにもまともな武器がないだろう、とも思ってはいた。元々黒い羽根だけが水銀燈の得物であり、それは水銀燈のコンディションで質と量が共に決まる。
 今は長い準備時間を掛けても精々数本が限度らしい。無理もなかった。翼に大きなダメージを負い、疲労が極限に達しているような状態で、更に直接頭に響く攻撃を長々と食らってしまったのだから。
 それでも、徒手空拳であっても、水銀燈は全く無力ではなかった。金糸雀よりは若干長いリーチで殴り付け、蹴り上げることはできる。不意を討たれれば武器を持っていても安心はできない。
 金糸雀はそろりそろりと壁を背にする位置に移動した。そこからクリスタルの柱に、端から順繰りに視線を移して行く。
 一往復したが、水銀燈の姿はなかった。だが、その裾が中程の柱の陰から覗いているのを金糸雀は見付けていた。

──あからさまなお誘いね。

 ドレスの裾を裂いたか、脱いでいるかも分からない。どちらにしても、濃紺の衣装を着ていたドールがドレスそのものを自分が作った繭の一部として利用したことにヒントを得た行動ということになるだろう。
 しかし状況が状況だけに、実際に隠れ損なった可能性も否定はできない。僅かな時間で大きな音も立てずに服を破れるのか、脱ぐだけの時間と場所の余裕があるのか、今の水銀燈に長く広がっているドレスの裾まで隠し果せるほどのゆとりがあるのか、と考えると、隠れ損なったのが正解にも思えてくる。厄介だった。
 一計を案じて、金糸雀は水銀燈の衣装が見えている柱の隣に立っている柱と、その更に隣の柱の合間に向かった。
 柱に向かって左からA、B、C、D……と番号を振るなら、水銀燈のドレスの裾が覗いているのはDであり、金糸雀はBとCの間に向かっている。
 理由はごく単純だった。Dが仮に囮だとするなら、水銀燈はCかEの裏で様子を窺っているはずだ。そしてDを窺いに遣って来た相手を攻撃する。上手くすれば素手でも背後から攻撃できるし、それが叶わなくとも間合いは外せる。
 だから、その目論見を外すために、金糸雀はどちらも見渡せる場所まで大回りする。それだけの話だった。
 BとCの間は、Dが囮でないとしても、CからEのどれも見渡せる位置だ。弱っている上にまともな攻撃手段を残していない相手を倒すには、奇襲さえさせなければいい。
 慎重を期すのであれば先程と同様にAの更に外側まで行くべきだろうが、流石にそれでは手緩い。追いかけっこというか、隠れんぼに過ぎないものになる。途切れない音の攻撃が途絶えている今、時間は水銀燈にとって有利に働いてしまうから、金糸雀は襲撃側として速やかな行動を取らねばならなかった。
 ここは水銀燈が単純に囮を使って来たか、あるいは余裕をなくして裾をはみ出させてしまった、と考えることに決めた。それ以外の深い罠があったとしても、短時間では読みきれない。全ての可能性を考えていたら何も進まないのだから。

 傘を前に立てながら歩を進め、柱の間を過ぎる。反撃はまだない。
 一瞬Bの裏側に視線を走らせた後、Cの方向を向く。
 金糸雀の見切りは間違っていなかった。ただ、安全側にやや傾き過ぎていた、とも言えるかもしれない。
 水銀燈はDの裏側に、柱に凭れるような形でどうにか立っている状態だった。はみ出ているように見えたドレスは、半ば裂けて垂れ下がり、床に広がっている部分だった。
 黒い羽根を放つ余裕もないらしく、鋭い視線だけを金糸雀に向けている。左手は柱の表面に付けられ、ずり落ちそうになるのを耐えているようにも見える。右手が後ろに回っているのは、恐らく準備が出来次第黒い羽根を投射してくるつもりなのだろう。
 ただ、それがどの程度の威力を持っているのか、持たせられるのかは分からない。
 傘を前に立てたまま、片手剣をやや後方に引いて、金糸雀は突っ掛けた。水銀燈の黒い羽根が拘束用のものであっても、先程の狙撃程度の数しか射出できないのであれば、突進の余力を利して水銀燈を突き倒せる。盾で倒し、剣で突けば全ては終わる。
 しかし、その目論見は真っ直ぐには実現しなかった。
 もう一つの柱を過ぎれば水銀燈に届く、というところで、水銀燈の後ろに引いていた右腕が大きく動いた。大きく斜め下から振り出され、胴の辺りを狙ってきた。
 腕だけではない。水銀燈は何か長物を握っていた。薄く平たい棒のような何か──

──剣?

 考えたときには、金糸雀は足を止めて盾代わりの傘を握り締めていた。
 恐らくは渾身の力を込めて片手殴りに振り出された得物は、傘に当たってその布を幾らか傷付けたものの、金属製の骨を折り、あるいは断ち切るほどの鋭さと力は持っていなかった。傘の弾力を持った防御に跳ね返され、力無い軌道で戻っていく。
 もっとも、金糸雀の側も無事では済まなかった。倒れはしなかったものの大きく体勢を崩され、右肩が激しくクリスタルの柱にぶつかった。
 衝撃に耐えながら、金糸雀は唐突に湧いたように見える水銀燈の得物を見遣る。水銀燈が先程召喚してみせ、あのドールが雪華綺晶に止めを刺すのに使った剣だった。

 そうか、と金糸雀は思い至った。
 誰が持ってきたのか、それとも飛ばされていたのか分からないが、剣はこのクリスタルの柱の裏側に落ちていたのだろう。水銀燈がそれを目指して転がってきたかどうかは兎も角として、彼女はそれを拾い上げ、一か八かの勝負に出るため、金糸雀の眼から隠すようにそれを持っていた。
 だが、疲れきった身体で、それも片手では横殴りに振るうにも限度があった。攻撃は金糸雀の傘を部分的に破っただけで終わってしまった。
 両手剣のリーチの外まで後退して剣と傘を構え直しながら、金糸雀は水銀燈が肩幅ほどに足を広げ、両手剣を体の前で両手で持ち、こちらに切っ先を向けるのを見詰めた。
 先程のドールのような、ボロボロになってもまだ戦闘意欲と能力を失っていない姿ではない。漆黒のドレスは汚れたり痛んでいるものの、大きな破れは裾の辺り、先程柱の陰からはみ出ていた部分だけだ。ヘッドドレスはなくなったがストレートの銀髪は相変わらずさらさらと輝いており、翼は酷い有様のはずだが、前から見た分には畳んでいるのと変わらない。
 それでも間違いなく水銀燈は追い詰められていた。外見でなく、彼女自身のコンディションが最悪なのだ。

──悪いけど、その構えじゃ何も斬れないわ。

 金糸雀は言葉に出さずに吐き捨て、ただ更に守りを固めた。
 体の前に突き出している両手剣は、使う者が使えば剣呑な武器なのだろうが、水銀燈にとっては鉄の棒と何ほども変わらないはずだ。彼女は全くそういった長物を扱う訓練を受けていない。
 鋭いけれども刀身の薄い両刃の剣は、ソードというより両刃のサーベルに近い。日本刀とも似ている。
 きっちりと刃を立てないと、相手を斬ることはできない。刃が立たないときは打撃の衝撃で折れることさえあるし、折れなかったとしても鋭角のついた軽い打撃武器と同等の代物でしかない。そして、薔薇乙女の僅かな膂力で振り下ろされる打撃武器は、相手のボディに一撃で深いダメージを与えられるほど有効な手段ではなかった。
 見たところ水銀燈の持ち方は出鱈目もいいところだった。その点では、目の前に居る相手は時代劇で脇差や包丁を真っ直ぐに正面に出して震えている少女と変わりはない、と金糸雀には見えた。
 更に、剣を両手で持っているのは両手を拘束されているようなものでもある。腕の振りと共に黒い羽根を射出するのが彼女の遣り方なのだから、両手で剣を構えていることは黒い羽根を使わないか、あるいは使っても狙いはいい加減でしかないと宣言しているようなものだった。
 力任せに振るわれる鉄棒なら、振り回させればいい。モーションは大きくなるだろうし、水銀燈はそれすら慣れていない上に、どうしようもなく消耗している。
 じりじりと、傘の中に全身を隠すようにしながら、金糸雀はほんの僅かずつ前進を始める。視点は水銀燈の持つ剣の切っ先に合わされていた。
 振り上げて振り下ろすのか、また脇に構えて横薙ぎに振るうのか。どちらにしても剣の切っ先が動いたときが勝負だった。
 剣を引くか上げるかは分からないが、その瞬間に飛び込み、盾で押し倒しながら突き、体勢を崩したところを斬る。長物を持った相手にはそれが有効だった。

 剣道の決まり手は殆ど面か小手だという。それも、大半は面だ。
 水銀燈はそんな話を聞いたことはなかったが、知っていた。
 考えてみれば簡単なことだ。胴を抜くよりも小手を打つ方が前に出ている部位を狙うことになり、ピンポイントで狙う突きよりも大きな面積を持った面の方が遥かに打ち込みやすい。
 だが、今の水銀燈には面も小手も打てなかった。金糸雀は護拳カップつきの剣どころの話ではなく、自分が隠れるほどに大きな円盾を構え、そこから視線がぎりぎり出るか出ないかの状態で迫って来る。
 水銀燈が剣を振り上げ、振り下ろすよりは、金糸雀が傘を翳す方が圧倒的に速いだろう。軽い竹刀とは違い、この剣にはそれなりに重量がある。消耗した身体で闇雲に振り回すには重すぎるほどだった。
 面も小手も無理、となれば胴などはもっと遠い手になってしまう。そもそも、距離感が掴みにくいことこの上ない。
 それなりの訓練を経た金糸雀は想定すらしていなかったが、水銀燈は素人なりに、むしろ彼女の持っている円盾──傘を過大に評価していた。それがあるお陰で、打ち込む隙を奪われたと思ってしまっている。
 他に残されているのは、突きだけだ。水銀燈の乏しい知識では、どうしてもそうなってしまう。
 突きもまた遠い。だが、剣道と違っているところは、喉元だけが目標ではないということと、相手のリーチがこちらよりずっと短いということだった。
 加えてもう一つ、突いた場合は盾を貫けるのではないか、という期待もあった。剣の切っ先は尖っている。傘の骨にぶつかりさえしなければ、布の部分なら突いて切り裂ける。
 本来、剣の刃先が立ってさえいれば斬っても切り裂くことは可能だろう。だが、先程の片手殴りで、それが思ったようには行かないことを水銀燈は思い知っていた。
 あれでも本人としては刃先をきちんと立てたつもりだった。が、結果は傘に弾き返されただけに終わった。
 金糸雀の傘はじりじりと近付いて来る。腰を落とし、臍の辺りにほぼ水平に剣を構えたまま、水銀燈は片脚を引き、もう一方を摺足で前に出した。

 水銀燈が予備動作に入ったのは金糸雀も承知している。剣の刃は無頓着に斜めにされていて、横に動かすのか縦に動かすのかがこの状態では分からないが、足を左右から前後に引いたのは攻撃を企図していることを示している。
 一歩踏み込みざま斬り付ける気なのか、とつい考えてしまう。逆に飛び退りざまの一撃というのも有り得なくはなかったが、水銀燈にそんな曲芸じみた真似ができるようには思えない。
 どちらにしても、金糸雀の側としては剣の切っ先が動いた瞬間に飛び込み、体勢を崩して突くか斬れば良い。
 そして、その時はすぐにやって来た。
 水銀燈の剣の切っ先が、上にすいと動き始める。その隙を金糸雀は逃さなかった。盾の中に完全に隠れながら、僅か数歩の距離を突進する。完全に腰を落とした低い姿勢から、突き上げるように傘を動かし──

 布の裂ける音と、何か固いものが固いものにぶつかった音は、部屋の中に大きく響いた。

 金糸雀と同時に、水銀燈も一歩を踏み出し、体ごと衝突するつもりで両手剣を突き出していた。切っ先を僅かに持ち上げ、やや斜め上を向いた状態の剣は見事に傘を貫通し、そして──金糸雀が顔の前に翳していた片手剣の刀身に当たってさらにやや上向きに軌道を変え、金糸雀の髪をかなりの数切断した。
 金糸雀は勢いを殺さずに、水銀燈の胸元に傘の先端を埋めるような恰好で飛び込む。水銀燈は不恰好によろけ、よこざまに倒れ込んだ。その上に金糸雀が乗るような形になった。
 両手剣は傘に深く突き刺さり、水銀燈は手を放した。金糸雀の傘自体も彼女の手を離れ、剣が通ったままの形で脇に投げ出される。
 金糸雀は片手剣を振り上げようとしたが、できなかった。彼女はごろりと水銀燈の上から転げ落ち、仰向けになって上を見上げた。半ば開いた手から片手剣が転げ落ちた。

「──どうしたの、さっさと止めを刺しなさい」
 水銀燈も上を向いたままだった。脇を見るほどの余裕さえなかった。
 結局、突きでも金糸雀にダメージを負わせることはできなかった。彼女は突進の直前に顔の前に片手剣を翳して、万が一のための防御としていたのだ。
 水銀燈の得物は注文宜しくそれに当たった。そして握力と筋力全体が低下している水銀燈が持った「軽い」得物は斜め上に切っ先を逸らされ、金糸雀の頭を掠めてその髪を幾らか切り落としただけに留まった。
 完敗と言っていい。やはり、金糸雀は強かった。伊達に多彩な技を持っていた訳ではなかったのだ。
 もう余力などというものはない。そもそも剣を構えたのは、黒い羽根すら既に満足に放てないからだった。それが無力化された今となっては、最早何もすることも、できることもなかった。
「それは、ちょっと無理かしら」
 金糸雀の声は少し遠くから聞こえてくるようだった。
「残念だけど、ここまでみたい」
「どういうことよ」
 水銀燈は痛みを堪えて顔を上げ、苦労しながら金糸雀の方を見た。
 見た限りでは、金糸雀に異常は何もないように見える。仰向けになり、剣から手を放していること以外は。
「分からないかしら。現実時間で三十分……」
 水銀燈ははっとして時間を確認した。彼女がnのフィールドに入ってから、現実世界の客観的時間で既に三十二分四十二秒が経過していた。
 もし金糸雀がnのフィールドに入ったのが彼女から三分以上後でなければ、既に大まかなタイムリミットを過ぎてしまっている。
 金糸雀は時間を掛け過ぎたのだろう。慎重に過ぎたのか、技の決定力が今一つだったのかは分からないが、結果的に残り時間を読み違えてしまったことは確かだった。
「貴女、分かっていて戦っていたって訳?」
 水銀燈はまた上を向いた。見ていなければならないとは思うものの、どうしても見たくなかった。
 金糸雀が死ぬ。それは蒼星石や真紅のそれとは全く違う意味を持っているような気がした。
「仕方がなかったわ」
 金糸雀は力の抜けた、しかしさばさばした声で言った。
「この機を逃したら、貴女の許にはローザミスティカが三つ集まってしまう。さっき言ったことは別に嘘でもなんでもないかしら」
 ふう、と息をつき、まだ続ける。
「意外に持つものね。最初に兆しが来たのはピチカートが拘束される前だったのに、まだ喋れてるなんて」
「ナナに連れ帰って貰いなさい」
 水銀燈は漸くそのことに思い至った。鈍いものに変わりつつある痛みと、一向に回復の兆しのない疲労で大分ぼんやりしている。
「今なら未だ間に合うはずよ」
 その声に応じるように、ナナが金糸雀に駆け寄る。だが、金糸雀は力無く首を振った。
「そこまでの時間はないかしら。あっても、貴女に止めを刺せない状態でこの場を離れたら何にもならない。負けと同じよ」
 それは、彼女らしいドライで現実的な判断だった。
「それくらいなら、貴女にこれを託すわ。翠星石よりは貴女の方が、託すには相応しいでしょう」
 金糸雀の胸の辺りに淡い輝きが生まれ、それは次第に強くなって彼女の胸の上に浮いた。
「──こんな形での負けは認めたくないけど、貴女の一部となることに異存はないわ。むしろ、貴女以外の誰かに奪われることは肯ぜられなかったかしら」
 金糸雀は淡々と言い、素っ気無く付け加えた。
「ボディはみっちゃんのところに運んで。大分遅くなっちゃったから心配してると思うけど、宜しく伝えてね」
 それが最後の言葉だった。金糸雀の身体はことりと音を立てて力を失った。

 金糸雀のローザミスティカはすっと移動して水銀燈の胸の上に滞空し、彼女が掴もうとしただけでさっさとその胸の中に収まった。
 それを待っていたかのように、ナナの手の中から雪華綺晶のローザミスティカがするりと抜け出て、水銀燈の前で取れというようにくるくると旋回した。
 水銀燈は口許を歪め、それを手に取って胸元に収める。輝きは消え、沈黙と一人の少女、それに一体の異世界のドールだけがそこに残った。
「……帰らないと、心配してるわね」
 水銀燈はぽつりと言った。
「はい」
 ナナは素直に頷いた。
「カナさんも連れて、戻りましょう。みんな一緒に」
「そこに転がってるのは金糸雀じゃないわ。勘違いおしでないわよ」
 水銀燈はやや強い調子で言った。
「金糸雀は近くて遠い何処かに旅立った。蒼星石も。ここにあるのはただの形骸に過ぎない。器の役を終えた、形骸よ」
 ナナは返すべき言葉を持たなかった。彼女は泣き出しそうな顔で、ただ、はいと頷くだけだった。



[19752] 200弱。 それぞれの再始動。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/04/04 22:07
行ってしまった人はそれまでですが……
残された人にはみんな、次のあれこれがあるわけですよね。

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 真紅の鞄を前にして、ジュンはひとつ息をついた。
 薇を巻いてみたものの、真紅は安心したような微笑をジュンに向け、雛苺からきつく抱き締められると若干迷惑そうな顔をしてみせただけで、すぐに眠り込んでしまった。鞄の中に横たえるときも目を覚ますこともなく、昏々と眠っているようだった。
「疲れてるの。まだ仮契約も結んでないから、ジュンからの力も受け取れないのよ。眠れば元気になるの」
 雛苺は若干気遣わしげに、しかし明るく言った。
「翠星石と仮契約すれば、元どおりなのよ。いろいろあったけど、多分お昼寝して起きた頃には、全部元どおりなの」
 そうだろうか、とジュンは疑問を感じた。翠星石の帰りが妙に遅いことが気になっている。

 既にアリスゲームの敗者となっている雛苺はジュンと共にあの場を去ってしまったが、他の四人は残っていた。雪華綺晶のローザミスティカの行方を巡って、口論にでもなっているのだろうか。
 あまり時間が過ぎると、確かnのフィールドに居られる時間制限を超えてしまう。水銀燈には関係ないということだが、ジュンがその場を去ってしまった以上、他の三人はいつまでもあの場に留まっているわけには行かない。
 ジュンは時計を見た。既に彼等がnのフィールドに入った時刻から三十分は過ぎてしまっている。
 雛苺に何かしらの異変が起きていない所を見ると、翠星石は無事では居るようだ。だが、何もなかったにしては遅過ぎる。

 更に数分が過ぎたところで、ジュンは漸く探しに行くことを決意した。雪華綺晶が居なくなったのだから、雛苺の行動制限も関係ない。少し危なっかしいが、迷いそうになったら帰ればいいことだ。
「雛苺、翠星石を──」
「翠星石がどうかしたですか?」
 弾かれるような動作で部屋の戸口を見ると、そこには翠星石が立ってこちらを見ていた。
「全く、先に帰っておきながら何をぐずぐずしてるですか。とっとと階下に降りて食卓に着くのです。朝ご飯が冷めちまうですよ」
「──うん」
「はいなの」
 雛苺は元気良く戸口に駆け出したが、翠星石の隣で立ち止まって少し背の高い彼女を見上げた。
「あ……でも真紅は今眠った所なのよ」
「家出して戻ってきたと思ったら朝っぱらから惰眠を貪るとは、全くしょうがない妹です」
 翠星石は肩を竦めたが、特に真紅を叩き起こすつもりはないようだった。
「真紅は朝ご飯抜きの刑確定です。アンタは早く食卓に行くですよ。のりもお待ちかねです」
「あいあいさーなのー」
 雛苺は飛び跳ねるようにして廊下を走って行き、角を曲がって見えなくなった。階段を飛び降り始める音が聞こえて来る。
 翠星石は大きく息をつき、ジュンに向き直った。
「ジュンも早く来るです。真紅は──大丈夫ですから。起きたら、翠星石と仮契約させますよ」
 安心してください、と言う姿は、これまでと何も変わっていない。だがその瞳の何処かに、何か深い寂しさのようなものが見え隠れしているような気がした。
 身体を屈めて視線の高さを合わせながら、誰かが旅立ったのだ、とジュンは気付いた。それも、多分翠星石にとって酷く近しい存在が。
 何故分かってしまうのかは、ジュン自身にも分からない。それが契約者と薔薇乙女の繋がりなのか、あるいはもっと別の何かが働いているのかも判然としない。
 ただ、努めて何でもないように振舞おうとしている翠星石がいじらしく、愛しかった。それは確かだった。
「翠星石」
 ジュンはすっと手を伸ばした。翠星石がその手を取ると、ジュンはその身体を引き寄せて抱き締める。
「僕には、お前の寂しさには何もしてやれないけど」
 ヘッドドレスのない彼女の頭を、いつもそうしているように自分の左胸に押し付ける。少し乱暴な仕種に、翠星石がくぐもった声で何か抗議するような言葉を言ったが、ジュンは気にしなかった。
「僕の前でだけは、泣いてもいいんだぞ。泣き虫のお前が、僕の前でまで我慢してることはないんだからな」
 翠星石は泣き出したり、何か激しい動作をすることはなかった。彼女はただこくりと頷き、大丈夫ですよ、と囁くように答えた。


 水銀燈が帰還したとき、少年はユニットバスの前で時計と睨めっこをしていた。
 衣装が傷つき、背中の翼も無惨な状況で、ナナに助けられながら這うようにユニットバスの扉を開けて出てきた水銀燈に少年が何か声を掛けようとした瞬間、水銀燈は物も言わずに彼から生命力を吸い取った。
 背中の翼はあっという間に再生し、疲れきった身体にも力が戻って行く。少なくとも、少年にはそのように見えた。
 しかし、彼は全てを見終わることはできなかった。周囲のものが異様に大きく見えた、と思った次の瞬間、急に視界が横転し、キッチンの床に叩き付けられる。意識自体も急速に閉じて行った。

「──悪いわね」
 倒れ込んだ少年の傍に屈み込み、水銀燈は短く詫びた。
 彼は暫くは動けないだろう。今日は登校できないかもしれない。できたとしても、遅刻は間違いのないところだ。
 水銀燈は時計を見上げ、ナナを一瞥してから電話の受話器を取り上げると、柏葉巴の家の電話番号をダイヤルした。巴は未だ家に居て、良い具合に──というよりは、時間的には当然なのかもしれないが──本人が電話を取った。
 手短に用件を告げて、水銀燈は受話器を置いた。
 キッチンを振り返ると、ナナは少年にタオルケットを掛けていた。
「現実空間でこんなに変化してしまうなんて……」
 ナナは驚いたのを隠そうともせず、水銀燈を見上げた。
「だ、大丈夫なんでしょうか」
 批判がましい色もなければ訳知り顔というわけでもない。彼女は純粋に驚き、そして途惑っているだけだった。それが、今は少しだけ癇に障ってしまう。
 なるほど、何も知らないというのは得だし、狡いことでもある。『真紅』の気持ちが微かに分かるような気がした。
 だが、水銀燈はそれを素直に表に出すほどには純粋でなかったし、彼女に対して冷たくもなれなかった。何も知らないなら、少しずつ覚えて行けば良い。
 水銀燈の姉妹達が父親の許で姉妹と共に少しずつ学んだことを、ナナの姉妹達は恐らく自力で獲得したか最初から作り付けられている。その分を、ナナはこれから覚えて行く必要がある。その点で彼女はまだまだ、他の姉妹と同等のスタートラインに立ったとは言えなかった。
 僅かな苛立ちを押し込めて、水銀燈はにやりとしてみせる。
「数時間はこのままでしょうね。でも、昼前には元どおりになっているわよ。こいつ、ああ見えて生命力は強いから」
 桜田ジュンよりも、恐らくその点だけは優秀だろう。

 いや、と水銀燈は内心で首を振った。彼はジュンよりずっと自己主張が小さく、そして今は精神的に安定している。分からないなりに薔薇乙女に対して尽くしているという点では、契約者としてはともあれ、媒介としてはジュンよりもずっと優秀と言えるのかもしれない。
 それを形成したのは自分だ、と胸を張るつもりはなかった。元々、土台そのものは安定していたのだ。水銀燈はそれを崩れないように補修しただけの話であり、崩れ続ける脆い法面を無理矢理に固めた訳ではなかった。
 確かに手は掛った。しかしそれは水銀燈の能力がそちら向きでなかったことと、敢えて双子の庭師達の手を借りずに自分だけで作業を進めることに拘った結果だった。その是非や評価はともあれ、成果として見ればそれほど大した事をした訳ではないという自覚がある。
 蒼星石は水銀燈が一人で手作業で全てを行ったことを高く評価していたようだが、手で切ろうがオートシュレッダーで切り刻もうが、紙を処分するには変わらない。それと同じことだ。夢の中に入って一々齟齬を指摘してやるのも、心の木の不要部分をばっさりと切り捨てて残った部分に栄養をくれてやるのも、結果としては何程も変わることはないのだろう。

 長いこと取り留めのない考えを回しているつもりはなかった。水銀燈はすぐに言葉を接いだ。
「それよりも、私には次──何箇所かを回る必要がある。貴女がどうするかは自由だけど、ついて来る?」
「わたしは……」
 ナナは倒れたままの少年と、ユニットバスの湯船の中に積み重ねてある自分の姉妹の鞄を見比べた。
 それから水銀燈の顔を見上げ、おずおずと首を振る。
「ごめんなさい、わたしはここでこの人に着いていたいです。それから、蒼星石さんのマスターの処に行ってみます……この人が意識を取り戻したら、一緒に」
 そう、と水銀燈は頷いた。苛立ちは消えている。
 ナナは彼女なりに、為さねばならないことが何かを考えている。ただ主体性なく状況に流されているだけではなかった。
 頼むわよ、と水銀燈は彼女の肩を叩き、メイメイを呼んでユニットバスの鏡に向かった。
「レンピカを残して行くわ。結菱老人の処まで導いて貰えば、あの家の姿見なら貴女でも自由に出入りできるでしょう」
 ナナははっとして、ありがとうございます、と頭を下げた。どうやら、自分が『雛苺』の動力源を返却してしまい、自力ではnのフィールドへの扉を強引に開けなくなっていることを失念していたらしい。
 まだまだね、と笑いながら水銀燈は鏡を潜った。彼女自身も後で結菱老人の家に行かねばならないが、その前に届け物が残っている。


 水銀燈が鏡の中から現れたとき、みつは出社の支度を殆ど済ませていた。
 金糸雀のボディがその腕に抱かれているのを見ても、みつは特に驚きの表情は浮かべなかった。ただ、いつものように暴走気味になることもなかった。
 彼女はソファの上に金糸雀のボディを横たえ、まるで子供にするように肩の辺りまでタオルケットを掛けてやった。部屋の隅、ドールがぎっしりと並んでいる棚の近くには鞄が置かれているが、その中に寝かせようという考えはないようだった。
 水銀燈は棚の上のドール達を眺めた。可愛らしく、または美しい人形達だったが、それは全て人形らしくポーズを取ったり座らされていた。
 金糸雀のボディもそうしてやれば良さそうなものだが、みつはそれを昼寝している子供のように寝かせただけで、後は何もしようとしなかった。

──この契約者にとっても、金糸雀は人形ではなかったのだ。

 恐らく結菱老人にとって蒼星石が人形でなく、自分の娘だったように、あるいはジュンにとって真紅や雛苺が愛すべき家族であり、翠星石が恋人であるように。
 おかしな話ではある。契約者達は多かれ少なかれ自分だけの人形を求めているはずなのに、契約を結んでしまえばそれを人形以外の存在として扱うのだから。
 もしかしたら薔薇乙女達とは契約者のそうした心理に付け込んで寄生する存在なのかもしれない。彼等が本来求めているものの代わりに出現し、それを玩具に好きなだけ遊んでは捨てて行く、寄生生命体のようなものだ。

「貴女に負けたのね、カナは」
 忙しい時間帯のせいか、みつは来客に飲み物も出さなかった。ソファの端、金糸雀の枕許に近いところに座った水銀燈に、差し向かいに座って時計を見ながら淡々と尋ねる様は、まるで別の人物を見ているようでもあった。
「彼女は時間切れを見切り間違えただけ。戦闘そのものは金糸雀の圧勝だったけど、時間を掛け過ぎて自分が負けてしまった」
 最後に金糸雀は水銀燈の勝利を認めたが、水銀燈としては、あと数分でも数十秒でもあれば金糸雀が自分に止めを刺して終わっていたはずだと考えている。確かに空も舞えず、羽根も碌に使えないというハンデは背負っていたものの、負けは負けだった。
「……そう。あの子は強かった?」
 みつは相変わらずこれといった表情を見せずに訊いて来る。水銀燈は頷いた。
「ええ。私がもしダメージを受けていなかったとしても、金糸雀は私に負けることはなかったはずよ。運が無かっただけね」

 元々、分かってはいた。金糸雀の技と水銀燈は相性が良くない。今回はその技を放つ前に偶然ヴァイオリンの弦を切れたから良かったようなものの、指向性のある風を巻き起こす技は、黒い羽根という軽くて風に負けやすい得物を主武器としている水銀燈には天敵のようなものだった。
 ただ、唯一金糸雀に欠けていたものがあるとすれば、それは直接相手に物理的なダメージを与える技かもしれない。それを承知していたから、金糸雀は何処かの時代で剣と盾の使い方を学び、止めにはそれを使うつもりで居たのだろう。
 多彩な技で相手を苦しませ、戦闘能力を奪ってから接近戦で片を付ける。作戦を立てるのが好きな彼女らしい、ある意味で美しく完成された段取りだった。
 ただし、金糸雀は戦い慣れしていなかった。彼女の二段構えの段取りも、机上の作戦と言ってしまえばそこまででもあった。
 意地の悪い言い方をすれば、実戦でそこが綻びを見せ、手負いもいいところの水銀燈に対しても時間切れという形で敗北した、とも言えるかもしれない。だが、水銀燈はみつにそのことは指摘しなかった。
 金糸雀は強かったし、ローザミスティカを二つ持っていた水銀燈に対して勝利の寸前まで行った。それは事実なのだから。

「それなら、仕方ないわ。カナも運は無さそうだったもの。みっちゃんと同じね」
 みつはくすりと笑い、手首の時計を見て慌てたように立ち上がった。
「いけない、そろそろ家を出なきゃ間に合わないわ。わざわざ連れて来てくれてありがとう」
 水銀燈は頷き、横たわった金糸雀のボディを一瞥して舞いあがった。
「長居してしまったわね。私も次の処に回らなくては」
 言いながら、素っ気無く背を向け、メイメイを呼ぶ。銀色の光はいつものように調子付いた動きで現れ、水銀燈が此処に来るときに使った鏡の表面を波立たせた。
「それじゃ、次があったら薔薇屋敷で会いましょう。それとも桜田家かしら」
「あら、みっちゃんは貴女の家でも全然構わないわよ?」
 ふふ、と笑う顔は、今日初めてドールマニアの表情になっていた。
「銀ちゃんの日常なんて素敵かも」
「来るときにアポイントを取ってくれれば、構わないわよ。汚くて狭いアパートだけど」
 水銀燈はにやりと笑い、そのまま鏡に身を沈めた。
「また今度……」
 鏡に沈みかけた水銀燈がそう言ったような気がしたときには、もう鏡は波立つのを止め、ごく普通の室内を映すだけの品物になっていた。

 みつは気が抜けたような足取りで金糸雀の所に歩み寄り、その顔をそっと撫でた。
「勝てるって言ってたじゃない、カナ」
 頬を寄せ、ゆっくりと軽く頬摺りをする。
「嘘ついて、こんな抜け殻だけ置いて、勝手に居なくなっちゃうなんて……酷いわ。帰って来たら、三日くらい卵焼き無しだからね」
 みつは泣かない。泣くべきでないのは充分に分かっている。
 ただ、もう帰宅してももう「お帰り」を言ってくれる人が居ないことは、これからも長いこと彼女を寂しくさせるのだろう。そのこともよく分かっていた。

──結菱さんの処に行こうか。年度末なんて言わず、すぐに。

 そんな選択肢があることを、ふと思い出す。今までは、どちらかと言えば自分の店を持てるという実利的な部分が主で見ていた話だったが、彼の提案には別の側面もあった。
 流石に彼を婚姻やら恋愛の対象としては見ることができない。しかし彼と自分、そして他の契約者達が傷を舐め合うように身を寄せ合うという光景が、みつの脳裏に急に現実味を増して浮かび上がってきた。
 それは事によると酷く滑稽で老人臭く、みっともない姿なのかもしれない。だが、そんな風に肩を寄せ合える者が居るということは、悪いことばかりではないように今のみつには思えるのだった。


 少年が呻き声と共に眼を開けたのは、ナナが少年を苦労しながら自分の寝床に連れて行って、自分がそうしているように寝かせて布団を掛けてやってから間もなくのことだった。
「水銀燈……?」
 まだ頭がはっきりしないのか、少年は頭だけ枕から上げてナナをぼんやりと見詰めた。
「ナナ……か」
「はい」
 ナナはぎこちなく微笑んだ。こういうときにどういった表情をすれば相手を安心させられるのか、まだ彼女には分からなかった。
 少年はそれでもぼんやりした笑みを返して寄越した。先程の一件で酷く面変わりしてしまっているのだが、それでも素朴な笑い顔は不思議に少年のままだった。
「だいぶ、寝ちゃったな」
 少年は頭を枕につけ、大儀そうに目を閉じた。
「今日は遅刻か、欠席か……担任に連絡しないと」
「さっき、水銀燈さんが電話してました。柏葉さんのところに」
 目を閉じたまま起き上がろうとする少年をナナは押し止めた。
「多分、柏葉さんなら上手く伝えてくれると思います」
「……そっか」
 少年は長く息を吐き、それから何かに気付いて訝しげにまた目を開けた。
「ナナ、随分大きくなってない?」
 そう言ってから、自分が見ている天井がやけに低く、そして見覚えのあるものだと気付いたのだろう。上体を勢い良く起こし、ナナの方を見詰める。
「俺の方がちっちゃくなってる?」
「……はい」
 ナナは困惑した表情になってしまった。自分が困惑したり申し訳なく思ってもどうしようもないのだが、どうしてもそういう顔になってしまう。
「水銀燈さんが、回復するためにあなたの力を殆ど限界まで吸い取ったんです。限界近くまで力を与えた人は、ドールに近い姿になってしまうから……」

 少年は自分の両手を見た。
 手は黄色人種としては病的に見えるほど白かった。それなのに、血管が透き通って見えることもない。指も腕も細く、少女のような繊細なものになっていた。
 何よりも異質なのは、関節だった。腕と手首は別々のパーツになり、球体関節で繋がっている。自分の体とは思えない、異様な光景だった。
 肘の辺りまで垂れ下がってしまった服に視線を遣ると、見慣れた水銀燈のドレスの袖口が見えた。
 頭をまさぐり、髪をひと房手に取ってしげしげと眺める。それも水銀燈と同じ、輝くような銀髪に変わっていた。
 彼が昔の記憶を持っていたら、あの時の柏葉と同じだ、と思ったかもしれない。雛苺に力を与え過ぎたときの巴も、丁度今の彼と同じように雛苺そっくりな姿に変わってしまっていた。

「多分、すぐに治ります。水銀燈さんは、ご飯を食べてよく眠れば元に戻る、って言ってました」
 ナナが元気付けようとしてそんな言い方をすると、少年は何とも言えない表情になって頭を掻いた。水銀燈そのものの顔なのに、仕種はいつもの少年のままだった。
 何処となくユーモラスな姿にナナが思わず笑みを零すと、少年はにっこりとしてみせた。
「やっぱ、ナナは笑ってた方がいいな。無理して笑うんじゃなくて、そうやって自然に笑ってるのが一番可愛い」
 ナナが顔を赤くして瞬くのを面白そうな顔で眺めてから、気遣わしげな表情になって続ける。
「それにしても、大分酷い怪我だったんだな。前に翼が折れたときもいきなり力吸われたけど、気も失わなかったし、こんな変身なんてしなかったぜ」
「両方の翼がなくなるほどでしたから……」
 ナナは俯いた。
 蒼星石と金糸雀の姿が瞼に浮かんでくる。二人はそれぞれの思惑で水銀燈に戦いを挑み、敗北して器を手放し、近くて遠い場所に旅立って行った。
 二人のことを少年に伝えるべきなのだろうか。特に、彼が好きだった──人間と人形という枠を越えて、一人の少女として愛していた──蒼星石のことを聞いたら、彼は酷く悲しむのではないだろうか。
 ナナが報せなくても、いずれ、というよりはすぐに知れてしまうことだ。他の、語彙が豊富で話術が得意な人から聞いた方が少年のショックは少なくて済むかもしれない。
 だが、自分が言わなければいけない、とナナは思った。今此処で自分が見た限りの話を彼に伝えて、一緒に、というよりは彼を薔薇屋敷の結菱老人の処に行かせるのが自分の役目だと彼女には思えた。
「あの」
 ナナは顔を上げ、水銀燈そっくりの彼の顔を見詰めた。彼は二、三度瞬いてナナを見詰め返した。
 彼の顔でなくて良かった、と思う。まるで水銀燈に話すような気分で話し始めることができる。話している最中で、表情や仕種の変化でやはり彼だと思うことになるのだろうが、話し出す時だけでも抵抗が少ないのは有り難かった。
「す、水銀燈さんの翼を切り落としたのは……」
 少し吃ってしまった。恥ずかしいというより情けなかったが、そんなことはどうでもよかった。今は彼に伝えなければいけない。
「──蒼星石がやったんだろ?」
 少年はいつもの、軽い調子で言った。
「そして、水銀燈が戻って来たって事は、蒼星石は──」
「……はい」
 ナナはやや早口になって肯定した。

 そのまま、彼女は少し勢いをつけて話し始めた。自分が見たままのことを、いつものように要領悪く、しかし順を追って丁寧に説明した。
 蒼星石と水銀燈の戦いは、見た限りのことをなるべく細大漏らさないように気をつけて話した。一撃で勝負が決まったこと、それが蒼星石の命を奪う原因になったことは、ナナにしても話し辛い事柄だったが、それでもなんとか淡々と話すことができた。
 雪華綺晶と戦ったことは端折り、金糸雀の戦いもごく単純に水銀燈が土壇場で勝ったとだけ伝えた。少年が知りたいのは蒼星石のことで、他の少女の戦い振りではないはずだ。
 少年は黙って聞いていた。ナナが自分の来し方の事を語ったときのように、話がひと段落つくまで口を挟まず、じっと噛み締めるようにして聞いていてくれた。それが──こんなときに不謹慎かもしれないが──ナナには嬉しかった。

 ひととおり話し終わったところで、ナナはふと思い出して付け加えた。
「蒼星石さんは、こんなことを言ってました。ゲームには負けたけど、賭けには未だ負けてないって。それを、結菱のおじいさんに伝えて欲しいって」
「そっか」
 少年は、何故かほっとしたような表情になった。ナナの話が進むにつれて次第に暗くなっていた顔が、一気に明るくなったようにさえ見える。
「賭けには負けてないのか。そっか」
 何度か軽く頷いてから、よし、と言って少年は寝床から這い出し、ナナの手を取った。
「ナナ、連れてってくれ。結菱さんのとこへ。このカッコじゃ驚かれるかもしれないけど、構うもんか。蒼星石の言ってたことを伝えなきゃ」
 ナナは大きく頷いた。
 蒼星石は何か、彼女にとってはゲームよりも重要な賭けをしているらしい。そして、その結果がまだ出ていないことに、少年はある種の希望を抱いているようだった。
 それが何かは分からないが、蒼星石と老人と少年にとってはとても大切な事柄らしい。
 少し遠慮がちにレンピカを呼びながら、ナナは自分の判断が間違っていなかったらしいことに安堵していた。



[19752] 100ほど。承前
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/04/08 02:33
量的に少ないですが、前回の残り分という形で。

**************************************************************

(承前)

 結菱老人の部屋には、先客が居た。
 水銀燈は鏡を抜けると、老人とその膝の上に居るお客の方にそっと近付いた。目立たないようにしていたつもりだったが、老人は途中で気付いて車椅子を水銀燈の方に向けた。
「待っていたよ」
 車椅子の膝の上に動かなくなった蒼星石を座らせている老人は、流石に今日は笑いを含まない声で言った。
「飲み物がないが、勘弁して欲しい。何しろ今朝方から手が一人分足りないものでね」
「安心して、喉が渇くほど長居して喋り続ける気はないから」
 水銀燈は舞い上がり、老人のベッドの上に座った。
「大まかな経緯は、翠星石から聞いているのでしょう。詳細を話してもいいけど、貴方には意味のないことでしょうね」
「興味がないと言えば嘘になるが、それはまたゆっくり聞かせて貰えばいい事柄だな。いずれ酒でも飲みながら聞きたいとは思うよ」
 老人はさらりと水銀燈に再会の許可を与え、蒼星石の帽子を直した。
「こうしてみると大きいものだ。何処に行くにも連れ回すというような真似は到底できないな」
 言いながら老人はベッドの脇まで車椅子を動かし、やれやれと言いたげに蒼星石を自分のベッドに下ろした。水銀燈が手を貸しても、力を全く失った蒼星石は大きく嵩張り、そしてそれなりの重量もあって扱い難い代物だった。
「元々私達みたいな大型のドールは、裕福な人から注文を受けて作られる一種の美術品。デザインと見栄え優先で、大きく緻密に作るのが一種のステータスみたいな部分もあったのよ。ドール遊びの対象として作られたお人形とは作りも違うけど、用途も別って訳」
 水銀燈は一旦蒼星石の帽子を取って枕許に置き、短いが量が多い髪に癖がつかないように纏めた。
「貴方がお人形遊びをしたいなら、この間駅前にできた人形専門店辺りに頼めばいいわ。この形骸をそっくり縮めたようなドールでも二、三十万もあればオーダーできるでしょうよ。出来上がりも期待していいはずよ」
 いや、只で作ってくれそうな存在も居るか、と水銀燈はふと思う。あの兎頭の紳士なら、顔の造作や衣装の細部などは違ってしまうだろうが、少なくとも蒼星石の面影のあるドールを暇潰しついでに作ってくれるだろう。
 老人は車椅子に着座したままの不自然な恰好で蒼星石の体を支えながら、僅かに肩をそびやかした。
「いや、そこまでして遊びたいとは思わないな。暇を持て余している身だが、物言わぬ人形にはそれほどの魅力は感じられない」
「それは残念ね」
 水銀燈は口だけはそう言った。やはり蒼星石は生きていたからこそ老人の心を動かせたのだろう。金糸雀と草笛みつの関係と同じだった。
 二人は暫く無言で、丁寧に蒼星石の体をベッドに横たえる作業に没頭した。当然のことながら老人は車椅子から腰を浮かせず、水銀燈は最後は一人で自分と同じ大きさの相手を寝かせることになった。
 ナナを鞄から出して即席の寝床に寝かせたときもそうだったが、同等の背丈の人間よりは遥かに軽いとはいえ、自分とほぼ同じ大きさの壊れ易い物を丁寧に寝かせるというのはそれなりに大変な作業だった。蒼星石の髪が短いのと、長い距離を引き摺る必要がないのが救いだった。
「これは一苦労だな。私にはドールマニアの真似事は無理ということか」
 水銀燈がどうやら蒼星石を寝かせてしまうと、老人は呆れたように言った。最後の部分は水銀燈がやったようなものとはいえ、上半身だけで慣れない作業をしたせいで彼も彼なりに大変な思いをしたのだ。
「蒼星石が居れば手伝ってくれるのだろうが……」
 ついそんなことを口にして、ふっと笑ってしまう。寂しい笑いだったが、同時にそれはこれといった鬱屈を感じさせない、軽いものでもあった。
 水銀燈は自分の推測の裏付けを得たような気がした。やはり蒼星石は老人と何かを約束していたのだ。こういう結末になることも含めて。
 結菱老人はそれほど強い人間ではない。こうなってしまうことをある程度予測できていて、しかも現状で未だになにがしかの希望を抱いているからこそ、老人は平静で居られるのだろう。
 そこに何か謀略に近いものの匂いを感じてしまうのは、水銀燈が素直でないからだろうか。
「無駄話は置いておこう」
 老人は蒼星石の脇に座る形になった水銀燈に視線を向けた。
「君がわざわざ来たということは、何か私に伝えたい話か、尋ねたい事柄があるのだろう」
 水銀燈は肩を竦めた。この切り替えの速さ自体、蒼星石と老人が何かを共謀していたか、少なくともこうなることを予期して心の準備を整えていたことの現れだ。
 一つ息を吐いて続ける。どうにも、この老人には会話の主導権を握られどおしのような気がする。
「どちらもあるわ。もっとも、私が伝えたいことはもう翠星石が話してるかもしれないけど」
 そこで僅かに口の端を吊り上げる。
「貴方に訊きたい事の方は、多分翠星石じゃ疑問に思っても訊けない種類の話でしょう。あの子は双子の妹とその契約者が、ゲームを逆手に取って自分勝手な悪企みを考えていた上、事によるとまだそれは進行中なんて信じたくないでしょうから」
 鎌を掛けたつもりだったが、そうする必要さえなかったかもしれない。
 老人は何も言わず、ただにやりとしてみせた。それは肯定の印だった。


 ナナと少年が鏡から不器用に姿を現したときには、水銀燈は老人と並んで窓際で外を見ていた。
 並んでいると言っても、肩を寄せ合っている訳ではない。老人は車椅子に座り、水銀燈は窓際の棚に行儀悪く腰掛けている。
 老人のベッドの上には、蒼星石の鞄が置かれていた。蒼星石の体を仕舞うことだけで草臥れてしまい、鞄を元の処に戻す気力がなくなってしまったのだが、そんなことは少年にもナナにも分からないことだった。
 少年が見たところでは、水銀燈は老人との用件はもう済ませていて、誰かが来るのを待っているようだった。それが自分なのかどうかは分からなかったし、ナナが自分に教えてくれたことは既に水銀燈が老人に話してしまったのかもしれないが、少年は帰るつもりはなかった。
 水銀燈が鏡の方を向き、少年の姿を確認してにやりとした。
「まだ寝てた方がいいんじゃない? その恰好はまだ体力が回復していない証拠みたいなものよ」
 その声に老人もこちらを向き、訝しげな表情になる。少年が若干ふらつきながらいつものように挨拶すると、流石に面食らったような顔になって目を見張った。
「大した芸当じゃないか。君達の前で物理法則などという言葉は野暮かもしれないが、それにしてもこれは」
 見たところ、少年は姿も大きさも水銀燈そのものに変化している。黙っていれば殆ど見分けがつかなかった。

 本来、それは非常に危険な状態だった。契約者が契約した薔薇乙女に近い姿になるということは、もう少しで指輪に呑まれることを示している。今はまだふらふらしながらも自律して動けているが、更に力を吸い続けられれば全身に茨が這い、身動きも儘ならなくなる。
 その次に待っているのは……死ですらない。指輪に呑まれ、自己を喪失して薔薇乙女の物言わぬ一部として過ごすことになる。
 一部となると言っても、それは一つになって愛され続けるといった哀しくも美しい話ではない。契約者は薔薇乙女の、普段一顧だにされることない、意識すらされることない何処か目立たない一部として同化するだけの話だ。薔薇乙女と自由に話したりすることは愚か、恐らくは自我そのものがなくなってしまう。
 しかし、そのことを知っているのは水銀燈とナナだけだった。
 ナナにしても、大雑把に言ってしまえば知らないのと変わりはなかった。自分の姉妹──『雛苺』──が契約者を死の寸前まで追い詰めてしまったことは知っていたが、そのときの契約者の状態と今の少年の状態は全く異なっている。
 『雛苺』の契約者は精々服装と髪型が『雛苺』のそれと同じになっただけだった。それとはあまりに違い過ぎる変化に、少年が現在どの程度危険な状態なのか、ナナには見当がつかない。
 ナナが人間が健全かどうかについて確かめられる尺度といえば、その心の弱り方だけだった。それもオディールのように決定的に弱っていない限り、おぼろげに感じ取れる程度だ。
 それでも彼女としては、今は少年の精神力が弱っていないことを僅かな安心材料とするしかなかった。

「どうしても結菱さんに伝えなくちゃいけないことがあって、それで来たんです。……でも、水銀燈が居るなら、もう聞いてるかな」
 少年は若干照れたように笑い、確認するように水銀燈を見る。
 水銀燈は肩を竦めた。少年の姿は鏡で見る自分そっくりなのだが、その仕種は紛れもなく少年のものだった。
 自分で自分を見ることはそう多くはないので然程違和感はないが、それでも何かちぐはぐな雰囲気は滲み出ている。老人やナナから見れば面白い対比かもしれない。
「賭け云々の話なら、もう伝えたわよ」
 水銀燈が素っ気無く告げると、少年はがっくりと肩を落とした。やや大仰な身振りにも見えるが、わざとそうしているのか、それともいつもの少年の身振りがそう見えているだけなのかは分からない。
「……やっぱ、そうなのか」
 少年は一つ頭を振って、すぐに気持ちを切り替えたように続ける。
「でも、聞きたいことも一つあるんです。それとは別口で」
 カツカツ、とブーツのヒールの音を立てて老人に歩み寄るのは、しなやかに歩く水銀燈とは正反対の、どたどたと廊下を走って来る少年そのものの足取りだった。足を捩らないのが不思議な程だが、その辺りはどうにかバランスを取っているらしい。
「蒼星石が、今朝言ってたんです。昔の俺が言ってたことの意味が分かった、って。それと、自分か水銀燈が居なくなっても気に懸ける必要はないって」
 立ち止まり、老人を見上げる。姿と声や仕種のギャップは笑えるほど大きかったが、本人は大真面目だった。

「昔の俺が言ってたことっていうのは、水銀燈には分かってると思う。結菱さんも、蒼星石から聞いて知ってると思います。
 水銀燈がここで酔っ払って帰った日、あいつが俺の体を乗っ取って喋ったこと。
 『もしアリスゲームが君の思うような救いのない形で終わってしまっても、君達はそこで終わらない』って。それから、もう一つ。
 『俺にだって見付けられた程度の、簡単なことだぜ。しかも、殆ど確実な方法だ』ってこと。
 それがどういう方法なのか、今の俺にはどうしても分からない。でも、もし蒼星石や結菱さんがそれを解いて、蒼星石がそのために旅立って行ったとしたら……」

 少年は紅い瞳で水銀燈と老人を交互に見詰めた。
「俺は、謎解きの結果までは教えて欲しいと思ってない。でも、もし蒼星石がその理由で居なくなって、二人が蒼星石を信じて帰りを待ってるなら、俺も安心できる。そうでないんなら、俺はあいつを探しに行く。ナナが自分の姉妹を探してるみたいに」
「私は何ともコメントしようがないわ」
 水銀燈は小首を傾げて老人を見遣った。
「勘違いしているようだけど、蒼星石が旅立とうが消滅しようが、私自身の目的には無関係。あの子の行動を信用して待っている人物が居るとすれば、結菱一葉と翠星石でしょう」
 そうでしょう、と水銀燈に覗き込まれ、老人は苦笑して彼女を見、それから少年に向き直った。
「確かに私達──私と蒼星石は一つの見通しを立てた。蒼星石はそれを賭けと表現したが、それほど分が悪い賭けとは私は思っていないし、恐らく蒼星石もだろう」
 視線を外し、ふっと息をつく。

「賭けに勝っていれば、蒼星石は自分の望むとおりの姿でまた現実世界に戻ることができる。
 賭けに負けていたとしても、呼び声が届くか捜索の手が届けば、帰還することは可能だろう。
 呼び戻そうとしたときに蒼星石が戻って来るか、来ないかだけで言えば最早賭けですらない。私達の思いの強さと、こちらのお嬢さんの協力があれば叶うことだ。
 帰還までの時間が短かったとはいえ、五番目の姉妹の魂は一旦完全に体を離れたのに戻って来れたのだろう? 彼には悪いが、私達の蒼星石への想いが、彼がそのドールに抱いている想いより弱々しいものだとは、私には思えない。
 だが、そうやって強引に引き戻してしまえば、今現在の結果に関係なく、賭けは私達の負けで終わってしまう」

 実行するとなれば確実に大仕事になるであろうことをあっさりと可能とだけ言い捨て、だから今は蒼星石を呼び戻すつもりはない、と老人は少年の目を真っ直ぐに見詰めて宣言するような調子で告げた。
「賭けにはっきり負けてしまったと分かるまでは、私はあの子を呼び戻そうとは思わない。だが、君が捜索に出るのは君の自由だ」
 少年は理解できないといった表情を隠そうとはしなかった。ただ、奥歯に物の挟まったような表現ではあるものの、尋ねたかったことはおぼろげに了解できた、と感じてもいた。
 捜索に出るのは賭けの勝ち負けには関係ないのか、とも尋ねなかった。その代わりに、少年はまた水銀燈と老人を交互に見遣った。
「勝ち負けは、いつ頃になれば分かるんですか」
 老人はちらりと水銀燈に目を向けた。水銀燈は僅かに首を竦め、老人を見返した。僅かな沈黙が流れた。
「長いことは掛らないはずよ」
 少年は老人に尋ねたつもりだったが、答えたのは老人ではなく水銀燈の方だった。
「確実な期限は切れないわ。明日かもしれないし、年末になってしまうかもしれない。でも、いずれは分かる。待っていても悪いようにはならないってこと」
 それも含みのある言葉だった。
 少年はナナを振り返り、彼女がどういう意図があるのか分からずに小首を傾げると微笑んで前を向いた。何かを思いついたような表情だった。
「分かった。俺はやれることをやるよ。蒼星石が戻ってきたときに大忙しにならない程度にはしとかないとな」
 老人はちらりと庭を眺め、少年に向き直ってふっと微笑んだ。
 薔薇園の手入れは、蒼星石が長い時間を掛けて細かくしていたほどではなくても常に必要だった。大雑把なところのある少年の手入れが蒼星石に受け容れられるのかは分からないが、蒼星石が居なくなった日のうちにその点に目が行くのは少年らしいのかもしれない。
 久し振りに自分も庭に出てみようか、と老人は思った。薔薇の手入れについては、少年よりは知識も経験も持っている。彼一人では蒼星石のお眼鏡に適わなくとも、二人掛りで作業をすれば多少はましな出来になるかもしれない。



[19752] 220程度。蒼い子……。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/04/10 00:06
投稿しようと思っていたら寝てしまいました。
そんなわけで変な時間の更新です。

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「どうだね、眺めは悪くないだろう」
 結菱老人は車椅子の上で背を伸ばし、小さなテーブルの向こうに座らせた人形に話し掛けた。
「此処までテーブルを持って来るのは中々骨が折れたが、眺めのためだと思えばさしたる事ではないのかもしれんな」
 青い服の人形は答えない。動くこともない。それが変わらないのは分かっているが、老人は毎日語りかけることにしていた。
 幸い、老人には時間だけはたっぷりある。水銀燈の媒介の少年が薔薇の手入れの仕方を学びに来るまでの間、老人にはこれといってすることはないのだから。
 考えてみれば、蒼星石が居たときから既にそうだった。むしろ以前の方が暇な時間は長かったのに、それを特に苦痛だとは感じていなかった。
 今は何かしらの物事をこなして時間を潰さないと、いつまでも時計の針が進んで行かないような錯覚に陥る。老人が少なからぬ労力を費やして人形を鞄から取り出して椅子に座らせ、一頻り話し掛けては鞄に戻すという時間と手間が掛る作業を日課にしているのは、そういった時間をごく僅かなりとも有効に使おうという意思の表れでもあった。
 何気ないように振舞ってはいても、老人はやはり相当に寂しいのかもしれない。草笛みつと結菱老人は、その意味では似た者同士とも言えた。
「眺めに飽きたらお茶でも──」
「──そんなことしたって、その子は帰ってきませんよ」
 翠星石の声がした。車椅子を回すと、翠星石は彼女の恋人を伴ってバスケットを持ち、部屋の入り口に立っていた。
 翠星石は蒼星石が居なくなってから三日と空けずに、こうして遣って来てはお茶菓子を振舞って帰って行く。そこに少年や他の姉妹達が加わると、老人の部屋は蒼星石の不在を感じさせないほど賑やかになるのだった。
 しかし、今日はあまり良いタイミングでの来訪ではなかった。今まで老人が人形に語りかけているときに来ることはなかったのだが、何かの都合で少し時間をずらしたらしい。
「どういう風の吹き回しですか、いきなりドール遊びに目覚めたみたいに……」
 翠星石は伸び上がるようにして、持っていたバスケットを老人のテーブルに置くと、老人が語りかけていた青い衣装のドールに触れた。
 ドールは目を閉じ、少し背を丸めた姿勢で椅子に腰掛けさせられている。当然のことながら、動く気配はない。
 老人としてはやや気恥ずかしい光景を見られてしまった訳だが、当の翠星石の方では当然そんなことは知らなかった。
「私にも、何か出来ることはないかと考えてね。こうして座らせたり回収したりするのは骨だが、いい運動にもなってはいる」
 老人は真面目な顔で答えた。
「寂しさを紛らすなら別の方法があるのだろうが、それとはまた少し意味合いが違うのだ」
「だからって、おざなりな気分じゃ意味がありませんよ」
 翠星石は口を尖らせた。
「第一、この子はおじじと──いいえ、私達と一番関わりが薄いじゃないですか。よっぽど気合入れて呼び掛けないと声なんて届きませんよ」
 黒い帽子を取り、髪を少し撫で付けてやってからまた被せ直す。ドールは微かに揺れたが、表情も変わらなければ何処かが不自然な動きを見せることもなかった。

 帰って来ない、と翠星石が言うのには充分過ぎる理由があった。老人が頻りに何かを話し掛けたところで、このドールの魂が反応するとは到底思えなかった。
 『蒼星石』はナナの姉妹の中で最もこの世界群との関わりが薄い。こちらで目を覚ましていたこともないし、元の世界で契約していた相手はこちらでは薔薇乙女の誰とも契約していない、全く関係のない人物だった。
 少なくとも、結菱老人と『蒼星石』は全く関係がない。還って来る場所としては此処は適当とは言えなかった。
 かてて加えて、老人は別段『蒼星石』に切実に逢いたいと願っている訳でもなさそうだった。お付き合い程度の気分でやっているなら、意味のない行為と言うしかない。

「……蒼星石に似ているからですか?」
 翠星石は言い難い事を敢えて尋ねてみた。
「蒼星石のボディは私に寄越して、ジュンが作った人形はアホ人間にやってしまったから、蒼星石に似ているこの子を引っ張り出して、適当に理屈くっつけてたりするんじゃ──」
「──言い過ぎだぞ、翠星石」
 ジュンは翠星石の隣に歩いて行って嗜めた。流石に悪く取り過ぎているように思えたからだ。
「寂しさを紛らしたいからやってる訳じゃないって、結菱さんも言ってるじゃないか」
 しかし、言われた本人はにやりと笑い、ジュンに首を振ってみせた。
「似ているから、というのは、ないと言えば嘘になるな」
 老人はあっさりと認めた。翠星石に向き直り、そのままの口調で続ける。
「私としては、他のドールよりはこのドールの方がまだ話し掛け易い。君もそういう経験はないかね」
 う、というような声を上げて翠星石は視線を彷徨わせる。
 一本取られたな、とジュンが言ってやると、翠星石はそっぽを向いてみせたが、図星なのは誰が見ても分かった。少なからず人見知りの彼女には、経験があるどころの話ではない。
「この子に蒼星石の面影を見ていることは、私としてはないつもりだ」
 老人は車椅子を回して『蒼星石』の傍らに行き、その赤銅色の髪に触った。やや硬めの髪は、薔薇乙女達とは少し違った感触だった。
「此処はこのドールにとっては初めての場所だし、戻って来るのに適当な場所とも言えないだろう。君達の家の方がまだしも適性があるのかもしれない。ただ──」
 そこで言葉を切り、こちらを見上げている、自分が娘と呼んだ少女の双子の姉の頬に触れる。
 覗き込んで来る瞳を見返して、翠星石は老人の内心を理解できたような気がした。
 老人が蒼星石の面影を見ているのは、椅子に座ったドールではなかった。蒼星石に最も近い、そしてある意味で最も似通った魂を持っている翠星石の中にこそ、老人が求める蒼星石の何かが存在しているのだ。
 翠星石が視線を逸らして下を向くと、老人は手を放してドールの姿勢を直してやった。前屈みになりかけていたドールは、今度は椅子に寄り掛ってやや上向きになった。
 上手く行かないものだな、と老人は鼻を鳴らした。
「私の身の回りの世話をしてくれる子が、このドールの魂を呼び戻したいと四苦八苦している。私としては別のドールの方が少しは楽なような気がするのだが、一番呼び戻したいのがこのドールなのだそうだ」
 今一つ要領を得ない上に行動に支障がある老人に代わって、ジュンと翠星石がドールの姿勢を直した。ドールは正面を向き、ジュンが瞼を上に撫でるとその瞳を半ば開いた。
 翠星石は微笑んでドールの顔を見詰めた。
「薄紅と薄緑……綺麗なオッドアイです」
 『水銀燈』の──翠星石にとっては名の無いドールの──ものよりはやや濃い目の紅色は、彼女達双子や水銀燈の、まるで色素が抜けてしまったような色の赤い虹彩とは違っていた。

 幾つか前の時代、翠星石は鏡に自分達を映して考えたことがある。それは、もしかしたらまだ姉妹が父親の下に居た頃だったかもしれない。
 自分達は二対の目を二人で分け合ったのではなく、元々一対の目を半分ずつ分け合ったのではないのか。色素のない色の瞳は、分け合った後の残滓ではないだろうか。
 もちろん赤い方の瞳が視力に劣るとか、まして見えないということはない。ただ、対照的なのにとてもよく似ていて、二人が対にならないと本来の力を発揮することができない自分達には、二対の瞳の片方を交換しあって作られたという話よりも一つのものを二つに割って作ったという方が似つかわしいような気がした。
 今になってしまえば、そんなことはどちらでも良いことだった。蒼星石の命は水銀燈の一部となり、ボディは翠星石の手許に、そして彼女の魂は近くて遠い何処かに去って行ってしまった。
 それなのに翠星石は生きている。水銀燈と共にただ二人、アリスゲームの盤上に残った駒として立っている。
 半身を失ったという気持ちにも、どうしてもなれない。一人立ちできた事の証明のようなものかもしれないが、そういう実感は湧いて来なかった。
 分かったことは、蒼星石の存在なしで生きて行くことは思っていたよりも簡単だということだった。それは同時に、思っていたよりも更に寂しくて辛いことでもあるけれども。

 翠星石は改めてドールの顔を見詰めた。
 瞳がやや吊り気味で切れ長なのは、『翠星石』と同じだった。恐らく瞳の色も左右対称なのだろう。自分達と比べてどちらが良いとは言えないが、美しいドールであることには変わりがなかった。
「半眼だとちょっと怖い顔だな……」
 言いながら、ジュンはもう一度ドールの瞼を撫で、更に少し開けた。
「あ、可愛くなりました」
 翠星石は思わず声を上げていた。ほう、と息をつき、じっと見入ってしまう。
「何度見ても不思議です、表情が無くてもこんなに印象が変わるなんて」
「ドール遊びの趣味に目覚めそうかね」
 老人は素っ気無い風に言い、翠星石が赤くなって見上げるとにやりと人の悪い笑いを浮かべてみせた。
「──やっぱり、アンタは陰険おじじです」
 翠星石は膨れっ面になった。結菱老人は笑いを大きくした。


 ナナが鏡から戻ったときには、翠星石とジュンは老人と寝室の小さなテーブルを囲んでいた。老人の正面の椅子には『蒼星石』が座らされている。
「只今戻りました」
 ナナはぺこりと頭を下げたが、三人が自分の方を向くと如何して良いのか急に分からなくなったようにきょろきょろと彼等の顔を見回した。翠星石とジュンがこの時間に訪ねて来るのは初めてだったし、二人だけというのも珍しかった。
「一緒にお茶しましょう。今日は翠星石がお茶汲みしてあげますよ」
 翠星石はひょいと椅子から飛び降り、ナナの方に来るでもなく、ポットやティーカップを置いたワゴンの方に歩いて行った。
「ナナの分の椅子はジュンが持って来るです。ね、ジュン」
「お前、最近人使いが荒いぞ」
「男の子なんですから当然です」
 翠星石は振り向いて肩を竦めてみせた。
「アホ人間だったら蹴飛ばして取りに行かせてるところです。寛大な翠星石に感謝しやがれってトコですよ」
「何処が寛大だよ……」
 口を尖らせながらも、ジュンは隣の部屋に出て行った。

 半ば物置となっている隣の小部屋には、老人が無気力だった頃、ひととおりのことが寝室でできるようにしていた時に使っていた調度一式が仕舞いこんである。椅子やテーブルもその中のひとつだった。
 蒼星石が老人の暮らしに加わってから、老人の生活は変わった。
 昔の恋人の心の木を探していた頃でさえ、蒼星石は老人を一室に逼塞させていなかった。彼女が積極的に何かをしたり、提言めいたことを言った訳ではないのだが、小さいとはいえ一人の同居人を持ったということは、老人にとって自堕落な暮らし振りを変える切っ掛けに十分だった。
 水銀燈が蒼星石の自決を止め、同時に復讐と戦いが去ってからは、老人は全てでないものの幾つかの部屋を昔のように使い分けるようになった。食事はできる限り食堂で、来客があればできるだけ客間で応対し、外を見るときは寝室からではなく展望室から、というように、一人暮らしで使うのに過不足ない程度に寝室以外の部屋も使うようになっていた。
 今もそうしているのは、まだ自堕落になっていないから、というだけではなかった。
 技術も、掛けている手間自体も蒼星石には遠く及ばないものの、庭の面倒は水銀燈の媒介の少年が看ている。そして、姉妹の鞄を空いている部屋に置き、寝室の鏡を自由にnのフィールドへの出入りに使っていいという条件と引き換えに、ナナが老人の許に住み込んでいた。
 蒼星石に及ばないという点ではナナも少年と似たり寄ったりだった。腕力は弱いし、何をすべきかもよく分かっていないところはある。だが、少年もナナも自分で決めた仕事には真摯に取り組んでいたし、老人に対しても理解しよう、手伝おうという気概は旺盛だった。
 ならば、老人としては一室に引っ込んで小さく生活することは考えられない。彼等を上手く使ってやって、自分も彼等に応えられるだけの暮らし方をしなければならなかった。

「今日は早かったんですね」
 ナナは遠慮がちに紅茶を注いで貰いながら、斜め前に座ったジュンに上目遣いになって尋ねた。
 いつもは、みんなにお茶を淹れて回るのはナナの役目だった。特に真紅はことお茶とお茶菓子についてはうるさ方で、慣れない給仕役のナナとしては結局椅子が用意されていても座ることもできず、ほぼ真紅の処に附いていなければならなかった。
「……図書館が休館日だったからな」
 ジュンは少しぶっきらぼうな口調になって答えた。彼は長らく──一年ほども──休んでしまった学業を取り戻すため、暫く前から昼間は図書館に行き、夜は問題集を解いて勉強に励んでいる。ただ、そのことに関わる話をするのはやはり抵抗があるようだった。
「真紅とチビチビはお見舞いです」
 翠星石が言葉の続きを引き取った。
「もっとも人間に連れてって貰うんじゃなくて、鏡から直接出入りするから……看護師が来たらアウトですけどね」
「あ、アウトって」
 ナナはぎくりとして翠星石の顔を見詰めた。
「何か悪いことでも……」
「そりゃ、フリフリの衣装に身を固めた二歳くらいの子供と四歳くらいの子供が鏡の中からニュワーって出てくるんですよ。間近で見たらもうアンビリバボーなんてモンじゃないです」

 アンタが廊下を歩いてるならまだしも、と翠星石はナナの姿を眺める。
 相変わらずの子供服だった。今は前にポケットの付いたジーンズの吊りズボンにシャツ、反対向きに被った野球帽という姿で、活動的と言ってしまえばそれまでだが、ボディの頭身のバランスや顔などの造形もあってアンティークドールというよりはキャラクタードールに近いものに思えてしまう。
 もちろん髪の色と目の色、そして関節の露出している手首を除けば、ドールというよりは頭身の大きな子供に見えるのは言うまでもない。実際に以前、別のある物質世界で、似たような姿で病院内を歩き回ったこともあった。彼女が然程の違和感なく子供だと思われることの証拠だ。
 翠星石はそこまで知っている訳ではなかったが、中身も子供だから丁度いいのかもしれない、とつい失礼なことを考えてしまう。
 彼女の目から見て、ナナは良くも悪くも未だ子供だった。少しばかり意地の悪い環境で育てられ、反撥して捻じ曲がる代わりに自分を責める方に向いてしまっているけれども、様々な意味でこれからの存在だった。
 やや大人びた姿とは似つかわしくないが、子供だという点では雛苺と同じか、その妹分のようなものでもある。実際両者はいいコンビではあった。

 翠星石は自分の席に戻り、自作のベーグルを摘んだ。あまり出来が良くないと感じたのか、一口齧って微妙な顔をしたが、気を取り直すように言った。
「ま、真紅がついてるから滅多なことはないはずです。喧しい小姑ですけどその点は信頼できますから」
 家事全般についての腕前とやる気を除けば、真紅は頼りになる存在であり、翠星石よりもずっと優れている面が多い。それは十二分に承知しているし、今は自分が彼女を護る立場にあるということも、大変だと思うよりは頑張ろうという意欲の源になっている気がしていた。
「お見舞いというのは、誰のことかね。いや、どちらの、か」
 結菱老人は額を指で叩くような仕種をした。
「雪華綺晶のマスターだったという少女は、意識を取り戻したのかね」
 翠星石は顔を曇らせ、首を振った。
「心は迷子にならずに済んだんですけど、今度は自分から閉じこもってるんです。真紅に言わせると雪華綺晶の影響を長いこと受け続けたせいらしいです──でも」
 翠星石は、言ってしまっていいのかどうか、と逡巡するようにジュンと結菱老人を交互に見た。
「翠星石は、違うと思います。あの子は元々心が弱っていて、雪華綺晶の枷から外れたときにそれを刺激されてしまったと思うんです。それが何なのかは分かりませんけど」
 目を伏せ、あまり良い出来ではなかったらしいベーグルを弄ぶ。

「雛苺はあの子を救ってあげたいと思っています。真紅も。
 でも、アリスゲームはもう最後の局面に入ってて、盤の上には翠星石と水銀燈しか居なくなってしまいました。
 翠星石は殺し合いのゲームなんて厭ですけど、でも水銀燈がそれを望むなら受けて立たないといけません。ゲームを終わらせてアリスを生み出すのが水銀燈の目的だとしたら、翠星石の望みはゲームをなるべく先延ばしにして、今のままのみんなが居る『今』をできるだけ長く続けることですから。
 水銀燈が言ってたとおりなら、ゲームの先には今と同じ形での私達は、もう存在しないはずなのですから」

 老人は眉間に皺を寄せ、口を開きかけた。
「それは──」
「──休戦なら、望むところよ」
 鏡の方から声が聞こえた、と思ったときには、銀色の光球がテーブルの上を過ぎり、鏡の前に水銀燈が立っていた。
「99時間21分振りね、結菱一葉。それから、桜田ジュンと翠星石は、nのフィールドの中以来かしら」
「僕達は添え物かよ」
 ジュンは口を尖らせた。翠星石は澄ました顔で椅子を降りる。
「挨拶の前に一言言うのは水銀燈の癖ですから」
「勝手に他人に癖を付けるんじゃないわよ」
 水銀燈は笑いながら舞い上がり、お茶道具の置かれたワゴンに行儀悪く腰掛けた。
「貴女達に会いに行ったら、家の中空っぽなんだもの。午前中から何があったっていうの?」
「たまにはそういう気分になることもあるってヤツですよ」
 翠星石はまた椅子によじ登った。水銀燈が大人しく卓に着く気がないなら、お茶を淹れてやる必要もない。
「それで、大騒動から一週間も経ってから何の用事なんですか」
「一週間経ったからよ」
 水銀燈は脚を組み、膝の上に頬杖を突くような姿勢になった。お得意のポーズだな、とジュンは思う。

 水銀燈と名前の無いドール──今は『水銀燈』を名乗っているが──の違いはそのポーズにもある。
 水銀燈は兎に角ちょこんと腰掛けるのが好きだ。飛んでいるか腰掛けているか、何処かに寄り掛っているかで、歩いて何事かをすることはあっても立って何かを待っているということは少ない。
 『水銀燈』は滞空しているか立っていることが多い。未だに例の一風変わった鞄をジュンの部屋に置き、半分居候のような生活を送っているが、少なくともジュンの目の届く範囲に居るときはそうだった。そして、真紅の傍に居るときは──他の二人が寝静まってしまった後か、あるいは不在と分かっている時に限られるが──脚を崩した横座りのような姿勢で、じっと真紅の話に耳を傾けている。
 雪華綺晶との一件がある前から、名の無い人形は真紅には反抗せずにいた。自分の目的を一つ果たして素直になれたのか、今ははっきりと懐いている。
 真紅の方でも、彼女に物を教えたり話を聞かせるのを楽しみにしているようだった。元々、真紅は物を学ぶことと同じくらい、いやそれよりももっと、物を教えることが好きなのかもしれない。それが彼女という生徒を得て、自分達が今のありようを失ってしまう前に少しでも何かを伝えたいと考えているのだろう。
 真紅は今や能力の過半を失ってしまい、翠星石のしもべとして生きているに過ぎない。その真紅に、雪華綺晶からの力の供給を断たれてはいるものの、依然として大きな力を持つ動力源を一つは保持している『水銀燈』が懐いているのは奇妙な光景だった。

「七日間経ったけど、ナナの姉妹の捜索は依然進捗なし。これはまあ、手が減ったから当然と言えば当然かもしれないわね。
 オディール・フォッセーの意識も未だ戻らない。こちらも多分自然回復はないか、あっても時間が掛るのは間違いないでしょう。
 貴女達がオディール・フォッセーの意識を回復させたいと思っているように、私としては自分達がこの形で残っている間に、ナナの姉妹の捜索に少なくともなにがしかの目処を付けたい訳。
 とんだお節介だって『真紅』辺りには言われそうだけど、あの子達を造った存在から直に動力源を渡された手前、なまじ知らん振りもできないのよ」

 水銀燈は一度頬から手を放し、肩を竦めてみせた。
 翠星石はまた例のベーグルに手を伸ばし、一口齧って小首を傾げてから水銀燈に視線を向けた。
「それで、お互いの目処が立つまで休戦ですか」
「そういうこと。もっとも、戦うとなれば主導権はそっちにあるんだから、私の話はあくまで提案に過ぎないけど」
 水銀燈はやや不機嫌そうに頬に手を遣った。
「ローザミスティカを四つ持ったからって、例の白茨だのヴァイオリンだのが使える訳でもないし、力が四倍になったって訳でもない。力関係だけで言うなら三人居る貴女達の方がどう見ても上。だから、これは私からは仕掛けない、貴女達からも仕掛けて来ないでってお願いみたいなものよ」
「随分萎らしいこと言うもんじゃないですか、アンタらしくもない」
 翠星石はベーグルをもう一口齧るか齧らないでおくかを思案するように、手の先で弄んだ。結局齧ってみて、やはり微妙な表情になる。
「ローザミスティカが一つしかない状態で、四人纏めて始末しようとしたヤツの言い草とは思えませんよ」
「あの時は途中まで二対三だったし、貴女は契約していなかった。雛苺は──まあ今も変わっちゃいないけど──おミソみたいなものだったじゃない。今とは大分状況が違うわよ」
 水銀燈は何が可笑しくなったのか、くすくすと笑った。
「今は手を結ぼうにも何をしようにも、一対三で固定されてしまって動かしようがない。実質盤上に残っている駒は貴女と私だけなんだもの、駆け引きも何もする余地がない。だから、こうして提案に来たって訳」
 どう? と頬に笑いを残したまま、しかし笑っていない目で覗き込んで来る水銀燈に、翠星石は大仰に息をついてみせた。
「いいですよ。休戦、こちらとしても望むところです。元々アンタが襲って来なければ、こっちからは手を出すつもりはなかったのですから」
 ベーグルをもう一口齧り、やっぱり変です、と呟いて取り皿に置き、口の周りを一応拭って水銀燈に視線を戻した。
「それで、具体的な期限はどうするんですか」
 殊更事務的な口調と素っ気無い態度になっているのは、内心を見せたくないからだった。翠星石から見れば本音を吐露したときという最悪のタイミングで、水銀燈が現れてしまった。
 実のところ、水銀燈の申し出は翠星石としては素直に嬉しかった。翠星石からすれば癪な話だが、相手の方もそれを分かってしまっている。

  ──ゲームをなるべく先延ばしにして、今のままのみんなが居る『今』をできるだけ長く続けること。

 確かにそれは本音と言えば本音であり過ぎる言葉だった。
 ずっと、とか、いつまでも、という言葉は便利だ。無期限のように見えてそうではない。現状という曖昧な基準が続く限り、という含みがそこにはある。
 翠星石は、それを分かっていて敢えて使っていた。「今を守る」というのも、考えようによってはもっとあやふやな、都合が良いだけの言葉かもしれない。それも当然承知の上だった。
 要するに、気が変わるまでなのだ。翠星石自身が守るべきものが壊れてしまったと感じれば、そこで「今」は終わりになる。
 翠星石の周囲は、ジュンが登校を再開することを含めずに考えれば、今のところ変化しにくい。だが、年単位で見てしまえば、ジュンは登校を再開すれば進学するだろうし、のりも大学に進学するだろう。
 やがては二人は家を出て行くかもしれない。新たな家族が加わるかもしれない。それは「今」が壊れることとは言えないのか、と尋ねられれば、翠星石には返答ができない。
 ただ、そういう質問は何処からも出て来ないことも翠星石は承知していた。漠然とではあるが、そういった経年変化とも言うべきものよりも、「今」が終わるときの方が確実に早く来る、という認識を、薔薇乙女の誰もが持っているからだ。

 翠星石がやや自己批判に近い気分が胸の奥に渦巻いているのを感じていると、水銀燈は暫く間を置いてから答えた。
「無制限に引き延ばす気はないわ。オディール・フォッセーの意識が戻り、ナナの姉妹、少なくとも一人の魂が戻るまで。延長があるかないかは、そのとき考える。こんなところかしらね」
 彼女らしい、具体的な期限の切り方だった。日時を切るのではなく、状況の変化で切ってみせたのも彼女らしいのかもしれない。
 水銀燈はちらりと結菱老人を見た。結菱老人は、ふむ、と鼻から息を吐いて頷くような仕種をした。彼女は少しばかり肩をそびやかすような真似をして翠星石に視線を移し、今度は笑いを見せずに尋ねる。
「妥当な期限だと思うけど?」
「分かりました」
 ふう、と息をつき、翠星石は目を閉じた。

 水銀燈は結菱老人が元気で居る間に決着をつけたがっているのではないか、と感じてしまったからだ。理由は分からない。今見せたアイコンタクトにそんな匂いを感じたとしか言えない。
 事によると、翠星石の「今」よりも、老人を範疇に含めている水銀燈の「今」の方が、ずっと壊れ易いのかもしれない。水銀燈はそれを絡めて期限を切ったように思えた。
 やはり、自分よりは真紅や水銀燈の方が少し高い視点か、広い視野を持って考えている。それを改めて教えられたような気がしていた。
 自分が劣っていることを素直に認めることはやぶさかでない。但し、それで気分が良いかどうかということはまた別問題だった。特に、今のように真紅でなく水銀燈を目の前にしたときは。

 翠星石はそういった葛藤を表に出さないように気をつけながら念を押す。
「オディールとナナの姉妹、両方実現するまで有効なんですね?」
「そういうことになるわね」
 水銀燈はあっさりと頷いた。
「こちらの方が時間は掛ると思うけど、少なくとも私は捜索を引き延ばすつもりはないわよ。事がオディール・フォッセーの意識に関することなら、貴女達も無闇に手を抜いて引き延ばす気はないでしょう。だからこれで手打ち」
「……了解です」
 常に襲撃側だった水銀燈らしい、妥当と言えば妥当な提案のように思えた。少しくらいはこちらから対案か反論をしたいところではあったが、良い案は浮かんで来ない。
 面白くなさそうな気分が翠星石の顔に出てしまっていたのか、水銀燈はにやりとして、最後の仕上げとばかりに追加のカードを切った。
「それと、休戦するに当たってもう一つ」
「なんでしょう」
 尋ねながら、翠星石はもうはっきりと眉を顰めていた。減らず口なら兎も角、こういう場合は敵わない。それを分かってはいても、主導権を握られっぱなしというのは気分が良いものではない。
「あまり無茶な条件は呑めませんよ」
 その言葉自体が降伏の宣言のようなものだということも忘れて、翠星石はささやかな抵抗を示した。
 水銀燈は肩を竦め、くすくすと笑った。
「大したことじゃないわ。交換条件ってやつよ」
 ワゴンの上、自分の傍らに置かれていたティースプーンを取り、くるくると回す。古い洋銀のスプーンは上品に光を反射した。
「私はオディール・フォッセーの心の木の在り処を知ってる。それを貴女に教えましょう。その代わり、貴女達もナナの姉妹探しに協力する。それで如何?」
 翠星石は益々面白くない顔になりながら、いいでしょう、と頷く。水銀燈は、ぱん、と音を立てて手を叩き、決まりね、と笑った。

 ナナは一連の会話を縮こまるようにして聞いていたが、斜め前に座ったジュンを見上げ、宜しくお願いします、と頭を下げた。
 ジュンは数回瞬いたが、うん、と素直に頷いた。翠星石を見遣ってから、視線をちらりと動かないドールに向ける。
「まずはこの子からか」
 はい、とナナは頷いた。
 ナナが直接会話をしたことがある『翠星石』や『真紅』でも、暫くの間動力源を借りていた『雛苺』でもなく、『蒼星石』を最初に呼び戻したいと考えたのは、元の世界の無意識の海で出会ったとき、彼女の暖かな心に触れたからだった。有体に言えば、『蒼星石』は他の姉妹よりもナナに優しかった。
 それは、薔薇水晶との一件を知っているかどうかの違いでしかないのだろう、ということは十分承知はしている。自分の名前も忘れ、記憶も殆ど失っていた『蒼星石』は、ナナの──他の姉妹に言わせれば──卑怯で汚く醜い側面を知らなかった。それでも、ナナは優しい声を掛けてくれた姉妹をまず取り戻したかった。
 それに、もし速やかに呼び戻せれば──
「──『蒼星石』の鋏で、オディールさんの心の木の手入れができるかもしれません」
 ワゴンの方に行って、なにやらお茶のことで水銀燈と言い合いになっている翠星石を見ながら、ジュンと老人にしか聞こえないような小さな声でナナは言った。
「そうだな」
 老人は微笑んだ。
「蒼星石だけではないのだったな、鋏を持った者は」
 はい、とナナはこくりと頷く。翠星石の如雨露と対になることはできないだろうが、鋏は使える。それがオディールの心を解き放つ一助になるなら、呼び戻すことに全力を傾ける意味も増してくる。
 ただ、ナナには一つ迷いがあった。
 実は、強引な方法を使えば『蒼星石』の魂を呼び戻すことはすぐにでも可能だ。しかし本当に実行して良いのか、と考えたとき、まだ彼女にはその方法に対して抵抗感があった。



[19752] 150ほど。ナナ悩み中。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/04/10 00:09
悩みにかこつけて、状況整理。
いまいちです。

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「……どうすべきなんでしょうか」
 結菱老人の寝室の鏡からnのフィールドに入った所で、ナナは薄ぼんやりとした幻影に語り掛けた。
 蒼星石が旅立ってしまってからも、鏡は彼女の姿をまだぼんやりと形作っている。恐らく、もっと強烈な印象を残すだけの存在が現れるまで、鏡は変わらずに蒼星石の姿を作り続けるのだろう。あるいはそういった存在が現れても、形作る幻影の数が増えるだけで、蒼星石の幻影は此処に在り続けるのかもしれない。
「全ては揃っています。表立って反対する姉妹も……居ません。『アリスゲーム』も終わってしまいました」
 nのフィールドの中でも、ナナは現実世界の──こちらの世界群で、親切な人々に貰って着ている──服装のままだった。特に意識している訳ではないが、そうなってしまうのだ。
 自分が元の世界よりはこの世界群の方に根を下ろしてしまっている感覚は自覚している。今の姿が何よりも如実にそのことを示しているのだろう。
 ナナは俯いて長い息を吐いた。
 そんな自分が強引な方法で、無意識の海で──それも「九秒前の白」という、何もかもがごちゃ混ぜになったエアポケットのようなところで──一度会っただけの姉妹の魂を呼び戻すような真似をして良いものなのか。

 強引な呼び戻し方というのは、ボディと動力源と契約の指輪が揃っている状態で、誰かとそのドールを契約させてしまうことだった。
 ボディと動力源があれば、人形としてはいつでも動き出せる状況にある。そこに、契約を交わしてしまう事で魂を引き戻すのだ。
 記憶を失う前の水銀燈の媒介が居れば、それは漫画の世界で翠星石が蒼星石のボディを雪華綺晶から取り戻すときに使った方法だと気付いたことだろう。その場面では、ローザミスティカすら他のドールの中にある状態で、ボディは不完全ながら雪華綺晶が宿って操っているにも関わらず、蒼星石はボディに戻って来た。
 もっとも、それが成功したことには幾つかまた別の側面もある。最たるものは、契約を結んだ相手が「巻かなかった」桜田ジュンで、自分だけのドールが欲しいという一念でばらばらになった状態の蒼星石のボディを組み立てたのも彼だった、ということだ。
 マエストロとしての素質がある者が、しかもそうした経緯を経た相手と契約したからこそ、蒼星石の魂は雪華綺晶をあっさりと跳ね除ける形ですんなりと戻れたのだろう。
 あらゆる意味で特殊なケースではある。ただ、契約というものがドールの魂と契約者をそれほど強力に結び付けるものだということは確かだ。
 ナナがやろうとしていることは、そういった前段階を経ていない。契約する者も桜田ジュンではなく、ナナの姉妹や今回の経緯についてはそれなりの知識は持っているものの、これといった特異な能力を持たないただの人物だ。
 その代わり、ナナが呼び戻そうと思っている者は、何処からも何等の妨害も受けていなかった。条件は五分であり、成功の確率は高い。
 ただ、ナナがどうしても躊躇してしまうのは、失敗を恐れているからではなかった。

「結菱さんは、きっと契約を結んでくれると思います。多分実利とか、好奇心とかの理由で。栃沢さんも、親切心で契約に同意してくれると思います。あの人は、とても優しいから」
 幻影は動かない。姿をはっきりとさせることもない。そんなものに話し掛けても意味がないのは分かっていても、話し掛けずにはいられなかった。
「でも……それは、やっぱり逆なんじゃないでしょうか。契約は、ドールの方から申し込んで、お互いが納得して、だから意味があるんじゃないでしょうか」
 答えが返って来ないのは承知している。ナナは口を閉じて膝を抱えた。

 蒼星石の形骸や形見を一番必要としているのは、ナナなのかもしれない。彼女にとって蒼星石は、冷徹で厳しいところはあるけれども一番頼りになる相談相手で、同時に利害抜きで一番親身になってくれる人物でもあった。
 結菱老人は蒼星石のボディと彼女を模した人形を翠星石と少年にそれぞれ渡してしまい、手許には精々彼女の使っていた剪定道具がある程度だ。ボディを受け取った翠星石はそれを鞄に仕舞ったまま、殆ど開けていないという話だし、少年も人形を飾ることもなく、丁寧に保管したままだという。
 彼等には、蒼星石の形骸など必要ないのだろう。蒼星石は旅立って行ったが、彼等はいつか帰ると考えているのだろうし、何かを相談するには蒼星石以外に相応しい人物がそれぞれ居るのだから。
 ナナには蒼星石の代わりに頼ることのできる存在が居なかった。
 もちろん水銀燈の媒介の少年は優しく接してくれているし、水銀燈もナナから尋ねれば相談に乗ってくれるだろう。結菱老人も、気難しいけれども気が向きさえすればナナに協力してくれる。真紅や翠星石も、出来る範囲でナナに助言や注意をしてはくれるだろう。
 ただ、ナナが一番頼りにしていて、恐らくナナのことを一番気に掛けてくれていた人は、もう居ない。
 それを悲しんだり、嘆いたりしてはいけないのだろう。形骸を必要としてはおらず、何時の日か本人の帰還を信じているとはいえ、ナナよりもずっと、蒼星石が旅立ってしまって寂しい思いをしている人々がいるのだから。
 分かってはいるのだが、それでもナナは寂しいし、こうしてぼんやりした幻影に語り掛けてしまうほどに相談相手に困っていた。

 傍目から見れば、蒼星石が居なくなったところで代わりが勤まる者が居ないということはない。ナナが胸襟を開けて別のもっと適当な人物に相談すればよいだけの話だった。むしろ寡黙で自分の中に全てを落とし込んでしまい、考えを完結させてから動くきらいのある蒼星石は、誠実ではあっても相談を受ける側として適当とは言い難い部分もあった。
 例えば真紅や水銀燈でもいい。どちらもナナが考えているほど取っ付き難い人物ではないし、相談されれば真摯な態度で臨むことについては蒼星石と変わらない。
 ただ、彼女はそうするだけの踏ん切りがつかないでいるのだった。それは良く言えば彼女の愚直なところなのだろうし、悪く言えば状況に応じた切り替えが出来ないだけとも言える。
 いや、もっと俗な言い方をしてしまえば、ナナは肝心なところで人見知りしているのだ。
 話をしたり触れ合ったりする程度の付き合いでは本来の人懐こさが現れても、こと核心に迫った物事となると途端に臆病の気が先に立ってしまう。そこまで話したら迷惑がられるのではないか、いきなり話すには適当ではないかもしれない、という疑念が頭を擡げて来て、誰にでも相談する気分にはなれなかった。蒼星石にも、実際に彼女が居たら気後れしてしまって中々言い出せないかもしれない。
 可笑しな心理だと笑うこともできるし、無理もない、と同情的に言うこともできるだろう。
 こちらの世界群での自分の姉妹との僅かな触れ合いで、彼女は姉妹それぞれに心を、『真紅』には文字どおり心身両面を痛めつけられた。ナナ本人は気付いていないが、そのことは元々内向的な彼女を更に臆病にしている。
 以前、真紅はそんな彼女の内心を見て取り、自信を持てと励ました。ナナは『アリス』には相応しくない存在ではあっても、こちらの世界の薔薇乙女や普通の人間の尺度から見れば決して劣った存在ではないのだ、と。
 だが本人さえ気付いていない根深い事柄には、その真摯な言葉も届きようがなかった。ナナはうじうじと一人で悩み、こうして鏡の作った幻影に話し掛けて途方に暮れている。


「難しく考え過ぎているわよ、貴女も『真紅』も」
 振り向くと、何時の間にか水銀燈がそこに居た。意外さの上に恥ずかしさもあってナナがうろたえていると、水銀燈はにやりとしてみせた。

「少し別の視点から考えてみたらどうかしらね。
 契約する人間は大抵ゼンマイを巻いた人物ってことになる訳だけど、元々ゼンマイを巻く人間は予備知識無しに巻くか巻かないかを選んでるのは知っているでしょう。ドールがいきなり現れて混乱してる間に契約したりなんてこともある。
 貴女の姉妹の、ごく最近の例で言えば『水銀燈』と『柿崎めぐ』の契約も、半ばそんな形だったのよ」

 ナナは驚いて顔を上げた。
 貴女は知らなかったの、と水銀燈は意外そうな顔をした。ナナは顔を赤くして、ごめんなさいと頭を下げた。
 ナナはnのフィールドに居ながらにしてある程度の情報を知ることはできたものの、姉妹達の行動の詳細を捉え続けるとなると難しい作業だった。その点はあたかも姉妹を自動追尾している監視カメラを持ち、そこからの映像を流し続けている監視センターのようなものを持っていた雪華綺晶とは違っていた。
 しかも水銀燈が口にした辺りのところは、実は頻繁に確認していたわけでさえない。
 『真紅』と戦った『水銀燈』が薔薇水晶の製作者に修復され、今度はミーディアムを持った状態で薔薇水晶と手を組んで戦いに臨んだ、と認識していただけだ。あのときの彼女には、そんな戦いの詳細よりも『雛苺』の元ミーディアムのことが大事だった──結局、それも間に合わなかったけれども。
 水銀燈は軽く頷いて、『水銀燈』が契約を交わした経緯を簡単に説明してくれた。

 『めぐ』は巻くか巻かないかも選ばずに、廃教会に置かれていた、修復済みではあるが魂の戻ってない『水銀燈』の鞄を開けて契約し、結果として『水銀燈』の魂は呼び戻された。
 お膳立て自体は薔薇水晶とその製作者、そして姿を変えて現実世界にまで出張っていた兎顔の男、三者の練った計略だったかもしれない。病弱で天使の来訪を待っていた『めぐ』は、契約を結ばせて『水銀燈』を彼等の思惑どおりに、一種の走狗として間接的に操る工作を進めるには実に都合の良い相手だった。
 担当の人工精霊が相手を選んだ訳でもなく、『水銀燈』が決めた訳でもない。『めぐ』の方も当然何も知らず、ましてや同意などしていない状態で結ばれた、言わばお仕着せの契約だった。
 しかしそれはナナも知っているとおり、結果としては随分強固なものに育つことになった。

「契約なんてそんなもの。特に神聖視するほどのものじゃないわ。──潔癖で完璧主義者の『真紅』には、また別の観点があるのでしょうけど」
 水銀燈は素っ気無く肩を竦めてみせた。
「確かに、私達の契約は契約相手の命を握り、お互いに行動を縛ることになる。それは紛れもない事実。第三者が代理で行うこと自体、問題はあるのかもね」
 そこは認めるわ、と水銀燈は頷く。常に考えている事は故意に伏せていた。今はそちらに脱線している暇はない。
 姉妹それぞれの自覚の有無はあれ、大抵の場合は碌な説明もしない内に人間一人の生殺与奪を掌握してしまうのだから、元々契約には第三者が代理をする、しないといった話以前に問題はあるのだ。
 ただ、今はそれを言うべき状況ではなかった。水銀燈はふっと息をついて続ける。
「ま、第三者って点では私達も薔薇水晶を作った者も同じこと。都合の良い道具として一人の人間を使い、事によると生命の危機に晒す訳だから」

 謀略が先にあったか、ドールの魂を呼び戻すことを目的としているかという点を除けば、ナナが一度は否定し、状況が変化してもなお実行するのを躊躇している方法は『水銀燈』と『めぐ』の契約の段取りに近いものだった。
 もちろん、細かく比較すれば大きく違っている部分もある。契約する人間の側の視点で見れば随分と穏当な方法だとも言える。
 契約について十分に知識があり、納得している者を充てることができる。本人が同意するなら、ではあるけれども。
 ドールの側からしても、契約が気に入らなければ呼び戻した後で取り消すことも可能だ。
 水銀燈の姉妹達のような自由はないとはいえ、『アリスゲーム』は終わってしまったのだから、契約を解除したからといってまた姉妹の魂が彷徨うこともないだろう。もし普通の形での存在を許されなくなったとしても、『水銀燈』かナナの家来として存続することはできるはずだ。

 水銀燈はそんな説明をひととおりしてみせ、改めてナナを見詰めた。
「今回限りの非常手段としては十分有効だと思うけど」
 どうかしら、と尋ねてくる水銀燈に、ナナはどうしようかと逡巡したままだった。

 水銀燈が言うことは理屈として筋がとおっている。具体例も挙げられている。
 ただ、それは彼女が急いでいるから、なのかもしれない。
 ナナ自身が考えたように、『蒼星石』が鋏を持ってオディール・フォッセーの心の木を手入れを行い、翠星石が如雨露で心の木に養分を与えれば、直接の要因とは行かないまでもオディールの意識が戻って来る助けになる可能性は高い。
 また、ナナ自身の目的にしても同じだ。『蒼星石』が協力してくれれば、他の姉妹達を呼び戻すなりその魂を探すことについて、雪華綺晶に姉妹達が利用されてしまう前の状態とまでは言えなくとも現状からすれば大きな前進になる。
 そういう形になれば、水銀燈はまた自分のゲームを再開できる。そのために、水銀燈はまず『蒼星石』の魂を強引だが手早い方法で呼び戻そうと提案しているのかもしれない。
 ナナには分からなかった。
 水銀燈がどんな意図を持っていようと、速やかに『蒼星石』を呼び戻し、その助力を請うことが様々な点で良い方に働くことを理解してはいた。逆に自分は酷くちっぽけなことに拘って、皆に迷惑を掛け、周囲に不幸を撒き散らそうとしているだけなのかもしれない、とも思っている。
 声にも出せず、何も言われないでいる僅かな時間に、彼女の思考は簡単に下向きに落ちて行く。

 自分が『雛苺』と『蒼星石』の魂を見付けるなどと言わず、最初に『真紅』に会ったときに素直に動力源を渡していれば、そしてnのフィールドには戻らずに現実世界で知らん顔をして遊んで居れば良かったのではないか。
 そもそも自分が餌食となっていれば、雪華綺晶に姉妹達が囚われることはなかったかもしれない。仮に囚われることがあっても、その形はこれほど無惨な結末ではなく、真紅があっさりと帰還を果たせたように、今よりは良い形になっていたかもしれない。
 何かをしたいという、無力で無能な自分のちっぽけな意地が、また『水銀燈』以外の姉妹全員を彷徨わせてしまったのではないだろうか。
 未だにつまらない原則論に縛られているように振舞っているのは、自分が犯した過ちを素直に認めたくないだけの事ではないのか。またも卑怯なことを平気で行っているのではないのか。


 水銀燈は眉を顰めて暫くナナを見守っていたが、やがて俯いている彼女からは見えないところで幾らか優しい顔になった。
 彼女の内心について大雑把な見当は付いている。
 ナナはまだ、時宜に応じた判断ができないのだ。今の状況と以前の判断をひっくるめて、一つにして悩んでしまっている。
 以前ナナがした判断が妥当と言えるものだったのかは兎も角として、どう転んでも結果としては似たような状況にしかならなかったとしか水銀燈には思えない。いや、ナナとその姉妹達にとっては更に悪い状況になっていた可能性が高い。

 ナナが『雛苺』の動力源を『真紅』に差し出し、『真紅』が受け取ったとする。
 『雛苺』が『真紅』の思惑どおり、契約することなく首尾良く復活を果たした、と都合の良い仮定を積み上げたとしても、『蒼星石』の動力源を名の無い人形が『翠星石』に渡したとは思えない。どうやら最初に一戦交えたときは痛み分けで終わったらしいが、その後の戦い振りを見ると、動力源を一つ余分に得た名の無い人形は『真紅』達全員が束になって掛らない限り容易に倒せない相手だったように見える。
 名の無い人形が倒されなければ、結末は──雪華綺晶が魂を失うことまで含めて──同じだったはずだ。雪華綺晶は彼女達を利用して、厄介な自分の娘を排除しようと試みただろう。
 仮に名の無い人形を討ち果たして一旦彼女達全員が揃ったとしても、めでたしめでたしとは行かない。『水銀燈』は動力源を集めること──つまりは『アリスゲーム』に等しいこと──を企図していた。名の無い人形を討って柿崎めぐを目の前にしてしまったら、その想いは拍車が掛りこそすれ、止む事はなかろう。
 それに何より、彼女達は皆目標を見失い、翠星石の言うところの「今」さえも失っている状態だった。雪華綺晶が何事かを画策する場合には御誂え向きの素材が目の前に何体も居た訳だ。
 彼女がそれをぎりぎりまで利用できなかったのは、名の無い人形に力を吸われ続けて碌に行動できなかったからに過ぎない。
 仮に早期に名の無い人形が破壊されていたら、雪華綺晶がそれに乗じて彼女達を確保するには絶好の状況が訪れていただろう。そして、実際に手早く彼女達を片付けてしまったように、雪華綺晶は一旦動き出せば素早く徹底的に仕事を片付け、恐らくわざと襲撃目標から外した一人か二人を傀儡としてしまったに違いない。
 何等かの理由か事情で雪華綺晶が噛まなかったとした場合も、情況は好転しない。どう転んだところで、彼女達が根本的な目標を見失い、更にそれまで積み上げてきた生活さえ失っていたことに変わりはないのだから。
 結局のところは動力源を求めていた『水銀燈』が主導する『アリスゲーム』が生起していただけのことだろう。勢力が拮抗していた場合は復活と死亡の繰り返される混沌とした事態になっていたかもしれない。
 『水銀燈』に動力源を渡さないように、というナナ達を作った人形師の警告は正しかったと言えるかもしれない。
 主導権は名の無い人形と『水銀燈』、そして雪華綺晶が握っていたのだ。その三者が揃って考えを改めたとでも想定しない限り、殆どのドールが魂を失うという結果は変わらなかったはずだ。
 そう考えると、少なくとも雪華綺晶が倒れ、『水銀燈』がゲームに関する意欲を失い──水銀燈には、名の無い人形が『水銀燈』と融合を果たしたのではないように思えるのだが、本人はそう宣言している──ナナに不戦勝だ、ゲームは終わったと告げて自分の持ち物以外の動力源を返却している現状は、ナナにとっては決して悪いものではない。自分を狙う者に怯えることなく行動でき、姉妹全員を元どおりにする許しを得られたのだから。

 蛇足ではあるが、彼女達のゲームが終了したと宣言されたのは、水銀燈にとっても良いことではあった。
 偶々入り込んだ夢の世界では巨大なクレーターを形成し、nのフィールドには黒い羽根のサルガッソを作るような者達に処構わず戦いを起こされたら、自分達は巻き込まれないように身を守るしかなかっただろう。
 金糸雀との戦いを思い出して、水銀燈はくすりと笑った。金糸雀の傘と剣はいいとして、自分が拾った両手剣を必死に突き出していたのはさぞかし滑稽な姿だったろう。
 自分達の戦いなど、畢竟その程度のものだ。こちらにとっては真剣な遣り取りでも、彼女達の力のぶつけ合いに比べれば憐れなほどささやかで脆いものに過ぎない。

 いずれにしても、あの時点でのナナの判断が意味を持っていたとしたら、それは正解に近かった。しかし結果論で言えば、実際に意味を持っていたかどうかは微妙なところ、としか言いようがない。
 対して、本人は持論と実利との葛藤ばかり先に立っていて気付いていないかもしれないが、実は現在の状況はナナにとって大きな決断を迫るものだった。
 『蒼星石』の魂を見つけ出して「連れ帰る」のでなく、契約を結んで強引に「呼び戻す」のは、様々にリスクを伴っている。
 まず当然のことながら、ここで節を曲げることは、ナナ自身のこれまでの行動と共に『真紅』の意向にも逆らうこととなる。それは今度こそ二体のドールの仲を引き裂くかもしれない。一度は原則論を語って納得させた『翠星石』にももう一度詰られ、憎まれるかもしれない。
 『蒼星石』自身にも問題はある。彼女はここまでの経緯を何一つ知らない、と言っていい。彼女の時間は、元の世界で『水銀燈』と戦い、負けたところで止まっている。
 その後の奇々怪々な展開を何一つ知らない彼女が、それをいきなり受け容れることが出来るのかは分からない。潰れてしまうことはなくても、暫く何も手に付かない可能性もある。
 元の世界で、と言えば、彼女は契約者を失ってしまってもいる。
 戦いに負けてしまうまで、彼女は芝崎老人と契約したままだった。彼女の視点から見れば、いきなり見ず知らずの別の人間が契約者になってしまったことになる。生真面目で優しいという彼女がそれを即座に納得できるのかも分からないし、たとえ納得できたとしても酷な話であることは間違いないだろう。
 そもそも自分が命を落とした『アリスゲーム』が虚偽の代物であり、それを見過ごしたのが他ならぬナナであり、薔薇水晶にまんまと騙されてしまったのが他ならぬ『蒼星石』自身だったということさえも、受け容れ難いのではないだろうか。
 そして、彼女自身がナナを恨んだり、疎ましく思うことも無いとは言えないのだ。
 ナナがそういった諸々のリスクまで理解して逡巡しているのか、水銀燈には分からない。ただ、水銀燈からすれば、そういったリスクを冒しても「呼び戻す」ことには意味があるように思えるのも事実だった。
 オディール・フォッセーのことやら水銀燈自身のゲームの遂行とは関係ない。
 呼び戻す、という行為には契約が絡む。それはマイナスの面だけを持っている訳ではない。彼女達は姉妹同士以外にこの世界群に係累と呼べるものが何もない状態だが、契約してしまえばもう一つの絆がそこに生まれるのだから。
 それは、目的も元の世界での生活も何もかも失った彼女達にとって、新たな拠り所になるのではないだろうか。それも、分岐の可能性を失い、廃棄された世界などではなく、世界樹の幹が司り、無限の可能性があるこの世界で。


 ナナが顔を上げたときには、水銀燈は笑いを収めて彼女を見ていた。
 そろそろ何か言われるのではないか、とナナは思ったが、水銀燈は無言だった。彼女にしては辛抱強くナナの言葉を待ってくれていた。
 ナナは一つ大きく息を吸って吐いた。
「まだよく分からないんです」
 情けない言葉だ、と自分でも思う。しかしそれが本音だった。
「でも、わたしが背負えることを除いたら、そんなに難しい問題はないような気がします。『蒼星石』には辛い事も多くなるかもしれませんけど、それは魂を連れ帰っても、契約を結ぶという形で呼び戻しても、あまり変わらない事ですよね」
 水銀燈は肯定も否定もしなかった。ナナの言葉が曖昧過ぎて、返答のしようがなかったのかもしれない。
 考えを纏めるような間を置いて、それから誰かに詫びるように目を閉じる。
「オディールさんのため、なら、きっと『蒼星石』も分かってくれると思います。だから……」
 目を開け、黄色い二つの瞳で真っ直ぐに水銀燈を見た。
「契約を結んで、『蒼星石』の魂を呼び戻そうと思います」
 水銀燈は目を細め、軽く何度か頷いた。
 ナナの手を取り、視線を合わせたままで何度か握ったり開いたりしてみる。何故そんな事をしてみたのか水銀燈自身もよく分からなかったが、それは母親が幼児にしてやる仕種に何処か似ていた。
「契約者は誰に頼むつもり?」
「結菱さんか、栃沢さんに……」
 ナナは自信のない声になってしまった。契約を結ぶ、と言っただけでなけなしの勇気と決断力を使い果たしてしまったのかもしれない。
 水銀燈は人の悪い笑顔になった。
「いいわ、暇そうなあの老人にやらせましょう。あの老人が意地でも断るつもりなら、私の媒介にやらせるけど」
「あ、ありがとうございます」
 少しどもりながら、ナナは素直に頭を下げた。水銀燈はにやりと笑みを返してみせる。それが不思議に意地悪いものに見えなかったのは、ナナの気のせいかもしれない。



[19752] 500弱。 蒼い子早々に復活。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/04/15 21:48
切りのいいところ、と考えていたら3日分溜まってしまいました。

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 九秒前の白は、吹き溜まり。
 無意識の海全体からすればごく狭い場所ではあるけれども、何かを探すには無限の根気と時間が必要だった。
 探すという行為自体が意味を為さない、とも言える。周囲は全く動いていないようで出入りは激しいし、自分の位置も見失いがちになる。
 彼女も勇んで入ってみたはいいが、二進も三進も行かなくなってしまっていた。

──このままではいずれ抜けられなくなり、自分の方が呑まれてしまう。

 もちろん、そうすぐに呑まれることはないだろう。だが自己のイメージは保ったままでいても、当て所ない探索を続けている内にふと気付いたら自分が何者か理解できなくなっている、というような可能性もある。何か方策を立ててから再度事に臨んだ方が賢い選択と言えそうだった。
 ここは撤退して出直そう、と決めたとき、彼女は白い緩やかな流れに乗って漂うように動いている何かに気が付いた。
 ドールだった。何処かで見たことのある青い服。帽子を被っていたはずだが、それは見当たらない。ボブカットの髪が顔に掛っている。
 思わず息を呑む。それは彼女が探していたものの一つだった。
 一瞬、錯覚を疑いながら、彼女はドールの方に向かった。もう撤退などとは言っていられないし、少なくともドールに対して意識を集中している間は呑まれることもない。
 動き出してみるとその場の流れは複雑で、しかも妙な緩急までついていて移動し難いことこの上なかった。悪いことに相手も何かに固定されているわけではなく、常に流れている。
 主観時間しか意味を持たないような場所であるだけに、近付くのがいっそうもどかしく、そして長く感じる。無意識の海の奔流に逆らって動くのとはまた違った、動きにくさがあった。

 漸く手の届く所まで迫ったところで、相手はゆっくり目を見開き、ゆるりと旋転して体ごとこちらを向いた。
「……あなたは……?」
 うっすらと微笑みながら、ドールは尋ねて来た。
「とてもしっかりと自分を持っているんだね。こんな処に来る人には珍しいな……」
 それは当然だった。彼女はここに流れ着いたり、湧き出てしまった訳ではない。目的があってやって来たのだから。
 但し、それも経過時間の長短の問題に過ぎない。長居をし過ぎればまず自分を見失い、やがては自己が保てなくなるだろう。それは先程危惧したとおりだった。
 彼女は手短に自己紹介をした。適当に誤魔化したものではあるのだが、相手には分からなかったらしい。
 もっとも全ての事物が自己を失い、無へと還っていく過程にあるこの場では、自己のイメージを保っていることだけでも異例だった。イメージの何処かしらには自己についての誤認や自己欺瞞などがそのまま現れていても不思議ではないから、おかしな部分や誤魔化しがあっても深く追及すべきではないのだろうし、殊更に関心を持つ意味もないのだろう。
 それでもドールは彼女に柔らかな笑みを向けて来る。手を伸ばしてみると、ドールも同じように手を伸ばして来た。
「……暖かい」
 彼女の手に触れてドールは微笑んだ。少しばかり寂しい笑みだった。
「暖かい手の感触なんて、忘れかけてた」
 そう言うドールの手の感触は曖昧だった。確かにそこにあるのだが、境界もあやふやだし柔らかいのか硬いのかも今ひとつ明瞭でない。喩えて言えば劣化が進んだ吸水スポンジのようなもので、手の中で粉のように崩れてしまいそうな危うさがあった。
 確実に、ドールはこの場に溶けかけている。今は自分を確りと持ってはいるものの、次第に曖昧になりつつあるのだろう。
 然程の時間が経過している訳ではないはずだが、とつい思ってしまってから、彼女は自分の感覚にむしろ呆れた。客観的な時間など意味はない、と考えたばかりなのに、まだ自分はそれに拘っている。
 主観時間では非常に長い間、ドールは孤独だったのだろう。
 こんな状態では当然無理だろうと思いつつも、名前を覚えているかと尋ねてみる。案の定ドールは首を振った。
「忘れてからどれだけ経つのかも忘れてしまった。多分昔は名前があった……そう、前に誰かと話したとき、そのときは確かに、昔名前があったことを覚えていたと思うんだ。その時にはもう名前は忘れてたけど……」
 それが誰か、主観時間でどれほど前の出来事かも分からない、とドールは言った。
「その頃は、名前を探してたんだ。でも、それにも疲れてしまった。今はただこうして──」
 ドールはふわりと浮かぶような姿勢になった。そのまま目を閉じ、緩くて重たい流れに身を委ねる。
「──漂いながら、何か変化が起きるのを待っているだけなんだ」
 彼女は頷き、心なしか一層境界があやふやになっているようにも思えるドールの体を抱きかかえるようにして、自分の目の前に相対させた。

 ドールには酷な話だが、これは堕落ではないのかと彼女は感じてしまった。力尽きてしまった訳でもなく、未だにこうしてドールとはっきり分かる程度に自己のイメージを保てているのにも関わらず、自分が探していたものを半ば諦めてしまうというのは自堕落なことではないか、とつい思ってしまう。
 イメージする力も残らないほど消耗して、そこで初めて諦めるべきものなのではないか。その諦めは、ここではドール自身の魂が実体から永遠に離れてしまい、最早自己そのものを失うことを意味するのだから。
 その意味では、人間に喩えて言うならドールのしていることは緩慢な自殺以外の何物でもなかった。
 しかし、それを直にドールに向かって言い放てるほどには彼女も冷酷ではなかった。彼女は黙ってドールの髪を撫で、左右で色の違うその瞳を見詰めた。

 ドールは不思議そうな表情になり、彼女を見返した。
「あなたは、ボクのことを何か知ってるの」
 それは手懸りを欲している者の切迫した声でも、迷子になりかけた者が自分の係累かもしれない人物を見付けたという希望に溢れた表情でもなかった。
 ごく無感動な、ただ、やや訝しげな表情のまま、ドールは彼女の顔を覗き込むようにした。
「ボクを知っていて、探しに来たの?」
 彼女は瞬いた。
 彼女の立場は微妙なものだった。ドールのことは全く知らない訳ではないが、現実世界で会った事はない。
 ドール達のことを探していたのも直接誰かに依頼された訳ではない。ある意味では時間を持て余しての行動であり、思惑が食い違って要らぬお節介になってしまう可能性もあった。
 しかし、ここでそんな話をしても意味はない。彼女は頷き、ある人に頼まれて探しに来たのだ、と言った。
「そう……」
 ドールは相変わらずの無感動な口調で小首を傾げた。
「ボクは、探して貰うような存在だったのかな。名前を思い出して、何処かに還って……それで、何かができるのかな」
 何かがしたいのか、と尋ねてやると、ドールはやや困惑した表情になった。
 暫くそわそわとしながら考えているようだったが、やがて少し柔らかい表情に戻った。
「ボクを探している人が何かをしたいと思っていて、それがボクに手伝えることなら……」
 曖昧な、しかし優しい笑顔が広がる。
「ボクは、それを叶えたい」

 彼女は軽く頷き、笑顔を返した。
 自分から名前を探すことに疲れ、自己の境界も曖昧になりつつあっても、このドールはまだ本来の善なる性格を喪っていない。状況が揃い、何か切っ掛けさえあればいつでも、この魂は本来の姿のままで元の器に戻ることができる。
 その切っ掛けの一つを与えよう、と彼女は思った。

 貴女が望むなら貴女の名前を教えよう、と彼女が言うと、ドールはまた小首を傾げた。ぴんと来ないという訳ではなく、教えて貰って良いのだろうか、という疑問を抱いたような雰囲気があった。
 今しがた自分のことを探している者の役に立ちたいと言った所ではないのか、と言ってやると、ドールは困ったような表情になった。
「でもボク、本当に還っていいのかな。理由は忘れてしまったけど、一度は器を失ってしまったのに……」
 彼女は苦笑した。
 自分にはない発想だ、と思ったからだ。ドールの発想は何処か、ドールの一番下の妹に似ている。自分をどうしようもなく軽く見ている部分があるように思えた。

 大丈夫、と小さな両肩に手を置き、苦笑を微笑みに変えてみる。
 彼女は直接依頼されている訳ではないが、ドールを探している者はドールの助力を必要としているのは間違いない。ドールそのものに戻って来て欲しい、傍に居て欲しいと考えてもいるはずだ。
 だから、ドールは遠慮することなく自分の名前を思い出し、器に戻ればよい。本人が名前を思い出しただけでは済まず、その名前を呼ぶ声がドールに届くことも必要になるかもしれないが、新しい暮らしは決してドールを拒むものではない。
 ただ、それがドール本人にとって楽しく幸せなものになるのかは、彼女には保証できなかった。ドールは今は以前の暮らしの記憶を失っているが、器に戻ってそれを思い出したとき、以前の記憶が新たな生活を送る上でドールを苛むかもしれない。
 彼女は若干躊躇したものの、そのことも正直に説明した。それでも器に戻ってよいと思うなら名前を教える、と言ってやると、ドールはにっこりと微笑んだ。

「そんなの、大したことじゃないよ。一度器を失って……死んだのはボクなんだ。
 還るんじゃなくて新しく孵るんだと思えば、全然、大したことじゃない。
 もし昔の記憶を引き摺ることになったとしても、それは誰のせいでもないんだ。生き返れたことの副作用だと思えばいいんだから」

 彼女は微笑んでドールの色の違う瞳を見詰め、その赤銅色の髪を撫でた。
「──『蒼星石』。それが貴女の名前。ものの本質を現す訳でも、それを呼べば相手を支配できる訳でもない些細なもの、でもとても重要なもの」
「……『蒼星石』」
 ドールはぱちぱちと何度か瞬いた。
「それが、ボクの名前」
「そう。貴女の名前。もう忘れてはいけない。もしその名前が呼ばれたら、呼ぶ声が届いたら、それが貴女が器に還るとき」
 彼女はドールの小さな両手を取った。
 ドールの手は相変わらず崩れそうに脆く、触感そのものもあやふやだった。ただ、見詰めているドールの薄紅色と薄緑色の瞳には、それまでにはなかった光が宿っているように彼女には思えた。
 これなら大丈夫だろう、と彼女は頷く。信じられないほど唐突な出来事が続く長い話をしてみせても、『蒼星石』は一応それを聴き取り、咀嚼するだけの余裕を持っているはずだ。
 一つ大きく息をして、彼女は『蒼星石』とその姉妹を巡る諸々の経緯をかいつまんで話し始めた。『蒼星石』は合いの手を挟むこともなく、それを聞き続けた。


 結菱老人の部屋で、ナナは椅子の上に座らせた『蒼星石』のボディを見詰めていた。
 動力源は既にボディの中に収められている。契約の指輪はナナの手の中にあった。
 それを、ナナは『蒼星石』の左手の薬指に嵌めた。人間サイズだった指輪は、薬指の付け根に近い位置に移動させたところで鈍い光を放ち、『蒼星石』の指にぴったりと嵌った。
「後は契約を結ぶだけね」
 ナナの一歩後ろで作業を見守っていた水銀燈は、結菱老人の車椅子を振り向いた。
 結菱老人は軽く頷いた。
「その指輪に口付けすれば良いだけの話だろう」
 車椅子をやや緩慢な動作で動かしながら、我ながら妙な気分だがね、と水銀燈をちらりと見る。水銀燈は何も言わずに肩を竦めてみせただけだった。
 老人はにやりとして『蒼星石』の座る椅子の前に車椅子を停止させた。
「こちらの世界では私が初めての──ミーディアム、だったか、それになる訳か」
「光栄に思う、とか?」
 水銀燈はくすりと笑った。随分人の悪い笑みだな、と老人は片眉を上げてみせ、素っ気無い仕種で『蒼星石』の左手を取った。
「こんな半身不随の老人で失礼する。『蒼星石』、私はお前のゼンマイを巻くよ」
 気の利いた台詞をわざと外して要件だけを告げ、老人は『蒼星石』の指輪に口付けた。

 その瞬間、蒼星石の指輪が消えてから何も嵌っていなかった老人の左手の薬指の辺りに強い光が生まれる。数秒と経たずに光は収まり、老人の指には以前のものとは異なる意匠の、薔薇をあしらった指輪が出現していた。
 ドールの側にはこれといった異変は起きなかった。ただ、閉じられた瞼が震え、何度か瞬き、ゆっくりと開いただけだった。
 何事もなかったかのように、『蒼星石』は呆気なく目を覚ました。
「……ここは……?」
 やや掠れ気味の声が漏れ、その左右で色の違う瞳が周囲を見回す。初めて見る、そして彼女にとってそれぞれ特異に思える姿をしているはずの水銀燈やナナの所でもその視線は長く留まっていなかった。
 やがて彼女の視線は車椅子の結菱老人に向き、車椅子の肘掛けの上に置かれた左手の上で止まった。

「あなたが、ボクを器に戻してくれたのですか」

 結菱老人は、ほう、と思わず声を上げ、表情を引き締めて頷いてみせた。
 水銀燈はナナと顔を見合わせ、にやりとしてその肩を叩く。どうやら、『蒼星石』は彼女達が思っていたよりも状況を正しく掴んでいるようだった。
「ありがとうございます……」
 『蒼星石』は頭を下げ、ややぎこちない動きで背を伸ばすと、椅子から飛び降りてふらりとよろめいた。ナナが慌てて手を貸し、彼女を支える。
「ありがとう。キミは……薔薇水晶? あ……」
 ごめん、と頭を下げる彼女に、ナナは慌てて首を振った。
「に、似ていますから、目の色も、髪の色も……顔も」
 折角一大決心をして呼び戻したのに、なんとも冴えない最初の一言になってしまったが、ナナはそんなことを考えている余裕もなかった。つっかえつっかえ、励ましになっているような言い訳のような言葉を繋ぐ。
「服も、ドレスじゃないですし……しょ、しょうがないです、間違えられても」
 もう一つ付け加えるなら、髪型も凝ったツーサイドアップではなく、ただのポニーテールになっている。虹彩の色さえ特徴的でやや攻撃的な色合いでなければ、むしろ薔薇水晶と間違えることさえなかっただろう。
「あ、あの、それから、この世界──」
 ナナが小さな声で躊躇いがちに言った言葉は、『蒼星石』には聞こえていなかったらしい。彼女は顔を上げて水銀燈を見遣り、ナナの言葉が終わらない内に口を開いていた。
「あなたは……?」
「私は水銀燈。初めまして、『蒼星石』。この世界にようこそ」
 笑顔で差し出された手を、『蒼星石』は少し躊躇ってから手を伸ばして握った。
「……ボクの姉妹とは違う人なんだね、水銀燈。ボク達は全ての世界を通じて一人ずつしか存在しないと思ってたのに……」
「ええ。ま、その話は後で。貴女の姉妹……と言ってしまって良いのかは微妙ね。兎も角第一ドールもこの世界にいるわよ。今此処には来てないけどね」
 水銀燈はそこで言葉を切り、表情を引き締める。

「但し、比較的良い話はそこまでよ。
 現状だけ説明すると、貴女達は元の世界群から、止むを得ない理由でこっちの世界群にやって来た。貴女と『雛苺』は魂とボディその他を別々にされた形でね。
 もう元の世界には戻れない。こっちの世界群で、一から自分達の『今』を作るしかないってこと。
 貴女と第一ドール、それからそこに居る第七ドール以外の姉妹は、こっちでのいざこざに巻き込まれて全員魂がボディから離れてしまっている。若干救いがあるのは、全員魂以外の全ての構成要素が残っていること。
 ナナ──第七ドールは、貴女達の『今』を作るために、全員の帰還を果たすために先ず貴女を呼び戻したって訳。
 詳しい話は無駄に込み入ってるから、また後ですることにしましょう。今はそんなところよ」

 一区切りつけて『蒼星石』の顔を眺め、水銀燈は意外そうな表情になった。
 『蒼星石』はこれといった表情を表さずに、水銀燈の話に耳を傾けていた。酷く鈍感なのか、あるいは衝撃が大き過ぎて消化しきれていないのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。
 考えてみれば、第一声も少々都合が良過ぎたような気がする。もう一つ言えば、最初から落ち着き過ぎてもいた。
 ナナのことを知らないように見えた割には、水銀燈を見て素早く自分の姉妹ではないと看破もしている。一つ一つ見れば説明はつくだろうが、何処かちぐはぐだった。

──洞察力が異様に秀でているのか、それとも事前に何処かから情報を得ていたのか。

 眉間に皺が寄りそうな勢いで眉を顰めていると、『蒼星石』はぱちぱちと瞬き、やや落ち着かないように視線を彷徨わせた。その様子からは、洞察力が鋭いかどうかは兎も角、自分の推論に裏付けを得たという自信のようなものは特に見て取れない。
 となれば事前に情報を得ていたことになる。しかしそれは一体何処から、誰からなのか。
 水銀燈は結菱老人を振り向いた。丁度偶々なのか、ずっと見詰めていたのかは分からないが、結菱老人も水銀燈を見ていた。
 視線が合うと老人は軽く頷いてみせ、『蒼星石』に視線を移した。ほぼ同じ推測を重ね、同じような疑問を持ったと考えて良さそうだった。
「驚かないのね」
 前に向き直り、水銀燈は念を押してみた。
「かなり大変で、相当厭な話だと思うんだけど、そうでもない?」
「……ボクは、一度死んでしまっているから」
 『蒼星石』は力のない笑みを浮かべたが、すぐに生真面目な表情に戻った。
「でも、それだけじゃないです。ついさっき……ボクにそのことを教えてくれた人がいたから、落ち着いて聴いていられるんです」

 やはりそうか、と水銀燈は軽く頷いた。
 誰かがnのフィールドの中でこのドールに会い、簡単な予備知識と、そして恐らく忘れてしまっていたドールの名前を教えた。
 その場で教えられていないことがあったから、やや不自然なところが目に付いたのだ。予想したとおりだった。

──でも、誰が?

 翠星石はナナに手を貸してやりたいとは言っていたものの、自分で家事を見付けてはこなしているようなもので、主な興味はそちらに向いている。雛苺と真紅を伴ってnのフィールドに入ることはあっても、ジュンには負担を掛けないようにと同行させていないから、時間制限は頑として存在している。
 それに、今ならば彼女達はオディールの心の木に向かうはずだ。時間制限があるのだから、尚更だろう。
 『水銀燈』を名乗っているドールでないことははっきりしている。彼女は何もすることがなくても殆ど柿崎めぐの傍につきっきりで居る。姉妹を探すのは自分の領分ではないと割り切った態度だった。
 となれば、考え得る相手は一人だ。
 あのお節介兎、と水銀燈は内心で呟いた。自分達ではなく、今はナナの姉妹に関心を持っているということか。
 ナナには、何等かの含みがあるのか自分の作った人形で遊んで欲しいというだけの意図なのか分からないが、自作の古いドールを押し付けた。その際に『真紅』には何やら警句のようなものを残したという。
 しかし、警句が雪華綺晶の動向に関するものだとしたら、空振りもいいところだった。その直後に『真紅』は雪華綺晶に捕らえられ、恐らく何の自覚もない間に心を彼女の領域の、あのクリスタルの柱の中に幽閉されてしまったのだから。
 今回は『蒼星石』に、またまた無難な軽いちょっかいを出してきたということか。良い人を気取るのは構わないが、ならば中途半端な遣り方をせず、ナナの全ての姉妹をボディに戻す程度のことをしてもいいのではないか。彼の差配できる範囲で不可能な行為だとは思えない。

 だが、『蒼星石』が言ったのは、ラプラスの魔とは似ても似つかない人物だった。
「……女の人が、ボクの目の前に現れたんです。『雛苺』のミーディアムくらいの背丈の……髪も短かったかもしれない。ボクを探していたみたいでした」
 話の内容はそれなりによく覚えているのに、彼女の姿は断片的にしか思い出せないようだった。
 もっとも、姿は兎も角として、人間らしいその女性には水銀燈はどうにも心当たりがなかった。媒介から得た知識を動員しても、nのフィールドで探索が可能なそんな存在には全く思い当たるフシがない。
 容姿で最も近いのは、『蒼星石』が例に挙げた柏葉巴そのものだろう。しかし、彼女に唐突にそんな能力が湧いて出るとは考え難い。雛苺や真紅にでも伴われていなければ、「九秒前の白」で迷子になってしまうのは巴の方だ。
 となれば、女性は全く未知の存在であり、しかも一連の経緯をそれなりに知っている者ということになる。
 水銀燈は首を傾げながら、女性について尋ねた。何者かは分からないが、何を意図していたかは知りたい。
 しかし、『蒼星石』の答えはある意味で当然ながら、然程の情報をもたらすものではなかった。
「ボクに名前と、今の状況を教えてくれて……そして、また何処かに行ってしまいました」
 自分でも残念そうに『蒼星石』は目を伏せた。もう少し話して居たかったと思っているようだった。
「名前は名乗っていたかね」
 黙って一連の問答を聞いていた老人がぼそりと口を開いた。つい、報告を求めるような口振りになってしまう。
「あとは、そうだな。服装や持ち物で特徴的な部分はなかったか。私達にはどうもその人物の心当たりがないのだよ」
 『蒼星石』は顔を上げ、自分の新たな契約者に向き直った。
「服装の方は……あまりよく覚えてないんです。薄いブルーの服だったことくらいです」
 少しばかり申し訳なさそうに、自信のない声で答えるのは、関係の差もあるのだろうが蒼星石とは一風違った態度に見えた。彼女なら「覚えていない」ということを報告する、という形だっただろう。

「──名前は、アプローズ、って言っていました」

「アプローズ? 英単語一語なら喝采という意味になるが、アプ・ローズだと意味が通らなくなるな。合成語だとするとすぐには分からないか」
 老人は独語するように呟いて顎に手を当てた。
「薄いブルーでアプローズ……」

「──分かったわ」
 考えに沈んでしまいそうな老人とは対照的に、水銀燈はもやもやしたものが晴れたような顔になっていた。
 彼女はその名前に聞き覚えがあった。
「アプローズ。蒼薔薇の品種よ。掛けあわせではない方法──遺伝子改良で青の色素を添加して強引に生み出された、本来有り得ない蒼い薔薇。薄いブルーの服は、作業用のツナギじゃなかった?」
 最後の部分は『蒼星石』に向けられていた。
「……そう言えば、全身同じ色で……スカートやタイツ姿じゃなかったと思います」
 『蒼星石』は必死に思い出そうとするように、目を閉じて眉を寄せた。
「パンツルックだったような気がします。でも、それ以上は……」
「いいのよ」
 水銀燈はにやりと笑った。
「それでもう十分。あの子は私が言った言葉を覚えていたのでしょう」
 振り返り、老人の顔を見上げる。老人も顎に手を遣ったままの姿勢でこちらを見ていた。
「あの子が私の媒介と気持ちを認め合ったとき、私はあの子に言ったのよ。若干皮肉も込めてね」

  ──おめでとう、アプローズ。

 あのとき、柿崎めぐの夢の中で、水銀燈は彼女のことをそう呼んだ。表現してみせた、と言った方が良いかもしれない。
 アプローズの花言葉は「願い叶う」と付けられているのだが、そのときの水銀燈は花言葉だけを考えてそう言ったわけではない。
 アプローズは人工的、というよりは合成的な品種だ。青色色素がないと言われていた薔薇に、スミレの青色の色素の遺伝子を加えて作られた。
 皮肉なことに、その後の研究で薔薇自体にもごく薄い青色の色素は存在することが分かった。また、アプローズが最も「青い」薔薇という訳でもない。従来の方法で改良に改良を重ねてきた青薔薇の中には、より「青」に近い色合いを持っているものも存在している。
 それでも、アプローズは大会社が手懸けただけあって、花としては高価だが広く市場に出回っている。今後は「青薔薇」と言えば──白い薔薇に青インクを吸わせたもの以外では──アプローズ、という普遍的な存在になって行くのかもしれない。

 水銀燈の媒介の少年と彼女は、幾つかの意味で本来あるべきでない関係だった。契約者でない、どころか他の姉妹の契約者であり、彼女には彼女で別に契約者が居たのだから。
 水銀燈は暗にその点を皮肉り、そして似たような関係が今後幾つか出てくる──他ならぬ自分も含めて──ことも含みに入れて、そんな言葉を贈った。
 薔薇については情報収集に少年のパソコンまで利用していた彼女のことだ。その場では兎も角として、恐らく水銀燈の言葉の含みの部分まで理解していたに違いない。
 そして、少々悪戯か謎掛けのつもりもあってか、そんな偽名を使ってみせたのだ。

「蒼星石……」

 老人はぼんやりと呟いた。ついぞ見せたことのない、夢見るような口調だった。

──そうか、勝ったのか。それも完勝に近い。

 柄にもなく、老人は少し浮かれた気分になりかけていた。
 賭けは分の悪いものではないとは思っていたし、負けたときの保険まで掛けていたが、まさかそこまで上手く行っているとは思わなかった。
「おめでとう」
 だらしなく表情を弛緩させている老人に、水銀燈はいつも彼がしているような人の悪い笑みを浮かべてやった。
「どうやらここまでは勝っているようじゃない。流石はあの子ってところね。しぶといったら」
 ありがとう、と老人は微笑を浮かべた。それも水銀燈やナナには殆ど見せたことのない、素直な笑みだった。
 二人をきょろきょろと見比べていたナナは、賭け、という言葉を聞いて漸く状況を理解した。口の前で両手の指で三角を作り、指先を唇に当ててにっこりと微笑む。

 蒼星石は器を手放して魂だけとなっても、自分のイメージを強固に保持し続けることで彷徨わずにnのフィールドに留まり続けることに成功したのだろう。
 雪華綺晶がそうであったように、そして水銀燈の媒介の知識の中で蒼星石が自分の名前を探しながらも本来の姿のまま留まり、迷い込んだ桜田ジュンを導くことが出来たように、彼女は自分のイメージと自我を保持し続け、記憶も連続している。
 姿がドールではなく人間だったというのは、彼女の強い願望の表れなのかもしれない。いや、意識してそうしている可能性もある。
 それは恐らくは非常に歪な存在形態だ。長い目で見れば周囲に屈して溶けていってしまうかもしれない。雪華綺晶が自分自身の維持に糧を必要としたように、いずれ飢えてしまう可能性もある。
 しかし、今現在は蒼星石は自分の記憶を保っていて、自分のイメージも強固に保持している。それは間違いない。でなければ、『蒼星石』に簡単で逸脱はあるにしてもこれまでの来歴を説いて聞かせることはできなかったはずだ。

 水銀燈はふっと息をついた。
「賭けは大勝ち、でも逆に言えばこの先いつまで持つかは微妙なところね」
「そう、確かに長くは持たんだろうな」
 nのフィールドで器も無しに長い間自我を保っていることは難しい。雪華綺晶はその点でも異質ではあったが、強固なイメージで自分の姿を固定していた彼女でさえ、リソースを消費するのを承知の上で仮のボディを形成する必要があった。
 自我を保てなくなった魂は、何処か遠くに紛れてしまう。そうなる前に魂をある場所に固定するには、元の器とローザミスティカを用意して必死に呼び掛けるか、強引に契約を結んで呼び戻すなどの手段を用いなければならない。
 しかし、老人はそれを賭けに負けたときの保険としてしか考えていなかった。

 別の方法がある。恐らくは確実な方法だ。但し、それはアリスゲームの遂行中に行ったときはどういう副作用を齎すか分かったものではない方法でもあった。

 老人はにやりとして水銀燈を見遣る。いつもの人の悪い笑顔に戻っていた。
「だから、君には気張って貰わなければならない。そうでないと、私達は三人がかりで君達のゲームに干渉するような行動を起こしかねんぞ」
「恐ろしい脅迫ですわ、我儘御爺様。貴方と私の媒介だけなら兎も角、そんな状態のあの子まで噛んだテロなんて考えたくもない」
 水銀燈は肩を竦めた。
 老人の言っているのは、蒼星石が戻って来ても問題がないように、後腐れなく早々にアリスゲームを終わらせてしまえということだった。自分から勝手に戦いを仕掛けてきて負けておいて、あまりにも身勝手な言い分だが、言っていることは分からないでもない。
 しかしそれは恐喝に近い内容でもあった。老人は今や『蒼星石』のミーディアムでもある。何かあれば自分の契約したドールをけしかけるぞと言っているようなものだった。
 『蒼星石』は『水銀燈』や『真紅』ほどではないにしろ、即物的なパワーという点では翠星石と水銀燈程度は纏めて軽く捻れるものを持っているはずだ。盤上の駒が二つしかない状態でそんな暴力を振るわれたら、ゲームどころの話ではない。
 もっとも、水銀燈としてもだらだらとゲームを長引かせるつもりはさらさらなかった。老人もそれを知っていて軽口を叩いているのだ。
「今までの中で一番おぞましくて恐ろしい脅迫ってところね。まあ、貴方達がそういう行動に走らないように急ぐとしましょう」
 『蒼星石』に向き直り、その顔を眺める。
「貴女達のためにも、早い方が良いことだけは確かだから」
 その場で只一人、会話の内容を全く掴めていなかった『蒼星石』は困惑したように瞬いた。
 先程、老人は自分の名前を呼んだが、どうやらそれは自分を指したものではないらしい。水銀燈が『水銀燈』と別に存在しているように、この世界にも自分が存在しているのだろうと推測して納得するしかなかった。
 分からない事だらけで目が回りそうだった。しかも、状況が良くないことは教えられている。
 しかし『蒼星石』はナナの方をちらりと見遣り、彼女が何をどう考えたかぎこちなく笑って頷くのを確認すると、老人に視線を向けて頷いた。
「ボクに出来ることがあるなら、何でも言ってください」
 そう言い切ったときの表情は、何処か蒼星石に似ていた。
「まだ分からないことばかりですけど、ボクは呼び戻してくれたあなたに精一杯尽くします。マスター」


 世界の扉を開け、中に滑り込んで後ろ手に扉を閉める。
 第32768世界。以前一度来たことがあるだけだが、この小さな精神世界は彼女も気に入っていた。
 小さいとはいえ、狭苦しくはない。部屋としては大きく、生活観はないけれども人の気配がある場所だった。
 人間の大きさになった今も、狭いとは感じられない。それなりの広さがあり、そして人間の視点の高さから見ると部屋の中はとても落ち着いて見えた。
 彼女はドールの仕上げをするときに使われていると思しい、窓からの光が入って来る場所の椅子に腰を下ろした。
 ドールのときはよじ登る必要があった椅子だが、今は足こそつかないものの、普通に腰を下ろせる。不思議ではなかったが、妙な気分ではあった。
「随分大きくなられましたな」
 部屋の奥、仕事机のある場所から、声が掛けられた。
「老兎にはその姿を選ばれた理由が判然としないのですが、御嬢様には何かご事情がおありなのでしょうな」
「僕にはこれといって意図はなかった」
 彼女はふと笑った。
「いや、この姿にはなりたかった。ドールではなくて人間に。半永久的な美しさを持った美術品ではなくて、老いて死ぬ代わりに自分の形見を世界の上に残して行ける存在に憧れていたのだろうね」
「反駁するのは不本意ではありますが、その言葉は少々間違いを含んでいるのではありますまいか」
 兎頭の紳士は、彼女の方を向かずに問い掛けた。両手は仕事机の上に置いた何かを忙しく弄繰り回している。
「御嬢様は至高の少女でなく、ただの少女になることを望んでおられた。貴女の愛する人々と同じ位置に立って、真の意味で彼等と一緒に生きて行くために。如何でしょうかな」
「──やはり全てお見通しなんだね、貴方は」
 彼女は苦笑した。
「そうだね。僕は彼と一緒に居たい。彼と同じ場所だけでは物足りない。彼のように人間の社会に座を占めて、彼と共に成長して老いて行きたい。──できるなら、彼と自分の子供を後に残して、その成長を見守りたい」
 頬を染めながら、それでも彼女は言い切った。
 結菱老人にも彼自身にも表立って言ったことはなかった言葉だったが、兎頭の紳士の前では明かしてもいいように思える。彼は全てお見通しなのだから。
 彼女達が作られてからこの方、好意的な言い方をすれば姉妹全てを見守り続けて来たのは、この兎頭の紳士だった。どういう場所に存在しているか曖昧な彼女達の父親に代わって、彼女達に脱落者が出ないように、恐らく絶えず見えざる手を差し伸べてもいた。
 もちろんそれはゲームの遂行のためで、彼女たちを愛しいと思ってしてきた行為ではないのかもしれない。しかし、彼が姉妹全員を観察し続け、全て見通していることには変わりはなかった。
「人間であっても、子種を残さない者は大勢おります。今にして思えば些か残念ではありますが、この老兎もそうでありました」
 紳士は相変わらず手仕事を続けながら、あまり関係のなさそうなことを言った。
「そして何かを残すのであれば、ローゼンメイデンであってもそれは可能でありましょう。ただ、その名前自体は残すことが難しいかもしれませんな。匿名か、あるいは謎の人物としてならまた話は別でありますが」
「うん、何かを残すなら──芸術作品でも論文でも、何かの設計図でも──可能だろう。でも、僕が残したいのは自分の子供なんだ」
 気恥ずかしい、そして多分に青臭く、劇台本のように聞こえるはずの言葉を、彼女はもはや躊躇いなく口にした。

「人を愛して、その人との子供を残したい。そう考えてしまったんだ。
 だから僕はアリスゲームに残ってはいけなかったのだろう。敗北して、ローゼンメイデンとしては消え去らなければならなかった。
 でも、僕はまだ自己の存在を失うことまでは肯定していない」

 紳士は漸く顔を上げ、こちらを向いて軽く頷いた。
「その結論に到達されたのなら、もはや老兎の賢しらな言葉などは必要ありませんな」
 二度ほど瞬き、また机の上の作業に取り掛かる。

「御嬢様は既に正しい手順を踏んでアリスゲームの盤面から降りられました。
 そのローザミスティカは勝者の掌中にあり、契約は解除され、形骸は姉妹の許にあります。何一つ間違った所は御座いません。アリスゲームの正しい手順であり、結果です。
 であるからこそ、ゲームの上で不要である貴女の魂と記憶は一つとなったまま留まり、自らの望む姿と成られることもできたのでしょう。
 後は、如何なる方向に進まれようと、御嬢様のご自由です。それがアリスゲームに関わる恐れがなければ、ゲームの遂行者も、そしてこの老兎もお止め立て致すことはございません。
 但しアリスゲームについては、既に完全に部外者となられた御嬢様は関わることを許されません。その展開に影響を及ぼすような行為をしてはならぬものとご承知置きください」

「肝に銘じるよ」
 彼女は微笑みながら言った。
「それにしても、貴方がこれほど親切な人物だとは思わなかったな。ナナの姉妹といい、僕に丁寧な説明をしてくれたことといい、以前は考えられなかった」
「不肖、老兎はゲームの審判役でありますからして」
 紳士は顔を上げ、彼女を眺めてからまた手許に視線を戻した。
「公平に、且つ公正にゲームを進めるためには、何方にも荷担することは許されません。盤から落ちそうになってしまった方を掬い上げるなり、そちらに向かわぬように動かしたりすることは致しますが、それ以上の介入は慎んでおります。それ以上の大きな流れは、老兎の管轄の外にあるのです」
「そうか……」
 彼女はやや寂しい顔になった。
 ナナの姉妹など、彼が優しさのようなものを見せた相手はアリスゲームとは無関係な存在だ。それに言葉を掛けたり、何やら助言をしたり、あるいは特にこれといって意味のないように見える品物を渡したりするのは、彼にとって仕事以外の個人的な行動なのだ。
 そして、彼女自身も仕事上で相対される存在から、そういった一般の存在に変わってしまった。
 アリスゲームには彼女のローザミスティカが残って、最後の瞬間まで役割を果たしている。彼女の造物主の視点で考えれば、そちらが蒼星石の本体ということになる。こちらで意識を持って行動している彼女の方が余分な部分、あるいは残滓という扱いなのだろう。
 可笑しなものだ、と考えると同時に、もう自分はアリスゲームの盤上に立っていた存在ではないのだ、という思いが今更のように彼女の中を吹き抜けていった。
「改めて認識すると寂しいものだね。勝手な言い分だけど」
「左様ですな」
 紳士は彼女に視線を向けずに肯定した。
「ですが、それは御嬢様が望まれ、選ばれたことです。寂しさなど些細な副産物に過ぎません。何故なら──」
 紳士は手許で弄りまわしていたものを持ち上げた。
 それは大きな、薔薇乙女達と同等の大きさのドールのボディだった。あちこち色が違っているパーツがあるのは、複製して復元した部分を未塗装のままにしているのかもしれない。
 紳士はドールを机の背板に凭せ掛け、お座りの恰好をさせた。白い髪、きつめの目元、大きな頭身で大人の女性のようなスタイル。彼女にも見覚えのあるドールだった。
 回収して作り直したのか、と彼女は思わず呟いた。名の無い人形と何処かで戦い、その果てに融合したという『水銀燈』のボディは、そのパーツの半分ほどを複製されていた。
「──御嬢様の思惑が実現すれば、薔薇乙女の便利で美しい器を捨てた貴女は、不便で汚い一人の人間として暮らして行くのですから。最早、貴女の造物主だった存在の手を離れ、真の意味で自由を手に入れ、その代わりに一切の庇護を失うのですからな」
「そうだね」
 彼女は目を閉じた。

 彼女が選んだのは至高の少女への進化の道とは反対の、卑俗な一人の人間への退化の道なのだろう。
 もし彼女の思惑が成功したときは、彼女は人間となって、一人の弱い存在として、順応できるかどうかも分からない人間社会に出て行かなければならない。何が待っているかも分からなければ、どんな所で血を流し、命を落とす破目になるかも分からない。
 薔薇乙女はそういった汚くて醜いものを極力排除した上に成り立っていた、実に都合が良くて便利な存在だった。形だけは人間に近かったけれども、汚いこと、醜いこと、不都合なことはほぼ取り除かれた、ある意味で理想にごく近い存在形態なのかもしれない。
 その便利さもゲームの遂行者による支援の態勢も、そして作りつけられた人間には有り得ない能力の数々も、全て人間となってしまえば失われてしまうものだ。
 もちろん自分の選択に後悔はない。しかし、自分がそんな便利なアリス候補生だった頃を懐かしく、寂しく思うことはいけないことなのだろうか。
 彼女の視点から身勝手な意見を述べるなら、彼女は随分長い間、お膳立ての整った、雁字搦めのゲームに翻弄され続け、それが身に染み付いていた。ゲームに関して決して積極的ではなかったけれども、ゲームの渦中にあってそれを遂行することを望まれた存在であったことは間違いないのだ。
 常に思い返し、その頃の記憶に浸って居たい訳ではない。だが、偶にはその頃を懐かしく振り返り、寂しがることくらいは許されても良いと思いたかった。

 目を開けて紳士の方を見遣る。彼はまだこちらを向かず、ドールをためつすがめつして歪みがないか確認していた。
「回顧と寂寥に囚われない、前向きの強い心を持ち続けることができる自信はおありですかな」
 黙りこんでしまった彼女の内心を読んでいるかのような台詞だった。それを彼は何気ない口振りで、彼女に視線を向けようともせずに口にした。
 そのまま彼はドールに服を着せ始めた。一見したところそのドールが以前着ていたものと変わらない、凝った意匠の濃紺のドレスを脇に置き、フリルが多めの下着から着せてゆく。
 手ではそうした作業を忙しく続けながら、彼の口は彼女に対しての話を続けている。
「一般に人間の心は移ろい易く弱いものです。御嬢様がかつてそうであったような強固な動機付けもなく、また時代を移り変わることもなく定期的な鞄での永い休眠もありません。挫折と絶望は容易にやって参りますが、成功は得るに難しく希望は儚く散ることばかり。その中で強い心を持ち続けるのは中々に難しいことですぞ」
「分からない。僕は強くありたいと思っているけど、それが完遂できるかどうかは確約できない」
 彼女は正直に答えた。
 兎頭の紳士やゲームの遂行者の見えざる手の庇護を受け、ゲームを遂行するための記憶の枷を嵌められていた状態でも、彼女は臆病で、その心は脆弱だった。そういったものがなくなってしまえば、彼女はもっと弱々しいものになってしまうのだろう。
 心の強弱は、努力してもそう簡単には変化するものではないはずだ。変化できるものだとしても、それが終わる前に心が潰れてしまうこともあるかもしれない。
 だが、と彼女は微かに笑みを浮かべてみせる。
「もう僕の周りに居てくれるのは双子の姉だけじゃない。たとえそうすることが醜く卑怯でみっともなくても、弱くなったときには縋り付いて助けを乞える相手が何人も居る。そして人間の中で暮らして行けば、その対象はもっと増やして行くこともできる。僕はもう何かの半身でもなければ、独りだけの存在でもないのだから」
 そして僕自身も、相手が弱っているときには縋り付かれるような、そんな存在になって居たい、と彼女はやや小さな声で言った。
 紳士は手を止め、彼女を振り返った。
「オポチュニストですな、御嬢様は。黒薔薇の御嬢様や紅薔薇の御嬢様よりも、ずっと楽観的でいらっしゃる」
 皮肉なのか、賞賛なのかはその顔からは分からなかった。兎の頭は、いつも笑っているようにも、いつも生真面目なようにも見える。
 ただ、その口調だけで判断して良いものなら、紳士は決して彼女を詰ってはいなかった。
「ですが、そのオポチュニストぶりは、人間の中で生きていく上では大変重要な資質であるとも申せます。貴女が見事に人間の姿を取られたのは、決して偶然や幸運ではなかったのかもしれませんな」
 彼女は素直に頷いた。謎のような、それでいてなんとなしに理解できるような言葉だった。

 それきり会話は途絶えた。
 紳士は『水銀燈』に向き直り、衣装を整え、次いで机の上にそれを立たせてみた。納得したのか軽く頷き、また座った姿勢に戻して服を脱がせ始める。
 恐らく、服の大まかなチェックだったのだろう。手順が前後しているような気もするが、何にせよ仕上げまではまだまだ時間が掛るようだった。
 『水銀燈』のボディが裸の状態になっていくのを、彼女はあまり近くない位置からただ眺めていた。以前桜田家で見た名の無い人形のそれとは若干違っているようにも見えたが、どちらも手足がすらりと長く、スタイルの良いハイティーンから成人女性の姿を模しているのは同じだった。
 彼女の目を惹いているのは、しかしそのボディそのものではなかった。パーツとパーツを繋いでいる球体関節、パーツの分割の方法、そして、それらを無視している手首から先と首から上の部分。胴部こそ三分割にされているが、それは早くも懐かしく思い始めている、自分の体だったものとほぼ同じ作りだった。
 彼女は袖を少し捲り上げ、自分の手首を露わにした。手の甲にも掌にも関節部分には皺が走り、薄青い血管が見え、そして関節は肉と表皮で覆われていて分割のラインなどは走っていない。人形の体から脊椎動物の内骨格の体に変化したことの証だった。
 今は観念の世界に居るから必要を感じていないものの、本来維持に食事と排泄を必要とし、安定している間でさえ手入れを怠れば体型は崩れて行き、病気や怪我といったものに冒される危険を常に抱えている。成長し、そしてそれより遥かに長い時間を掛けて老いて行き、最後は維持が不可能になって死ぬことになる不便で汚い体だ。

──それでも、僕はこの体で現実世界に立ってみたい。

 結論は出ている、と思えた。だから思い切ってサイコロを振ったのだ。

 彼女は袖を戻した。
 目を上げると、兎頭の紳士は『水銀燈』をまた分解し、パーツごとの状態に戻し始めていた。
「最早魂も動力源も持たないこのドールを、どうして修復するのか──」
 彼女が問いかけたい事柄を察知したように、紳士は口を開いた。
「このドールは、今『水銀燈』を名乗っているドールに敗北を喫しました。人格を形成する記憶の大部分は動力源と共に勝者の許にあり、本人の言うところでは融合を果たしております。ここにあるのは言わば骸に過ぎません」
 紳士は古い方のパーツの一つを取り上げた。右の上腕にあたる部分だった。
 強度的には好ましいこととは言えないのだろうが、傷だらけだったのか、パテで修正が施されている。パーツごと新たに作られた部分は、それすらも不可能なほど壊れていたということなのだろう。
 それがほぼ半分ほどを占めているように見えるということは、ボディは殆ど砕けていたということに他ならない。
 現実空間でない場所だけに手間が実際にどれほど掛ったのかは分からないが、あの大きな一件から客観的な現実時間でも七日ばかり過ぎている。主観時間では恐らくその数倍から数十倍は経過しているはずだ。正確には分からないものの、彼女の主観的時間でも既に一月程度の時間が経過している。
 何故そこまで手間暇を掛けて壊れた人形を直そうとしているのか。恐らく彼の手では、似たような姿に作ることは可能でも完全な復元など不可能なはずなのに。
 無言のまま思いを巡らせている彼女にまたちらりと視線を向け、紳士は手に取ったパーツをドールのヘッドパーツの傍に置いた。そのまま両手でヘッドパーツを抱え上げ、閉じた瞳の辺りをそっと撫でる。そこにもパテ盛りの跡が残っていた。
 そちらに耐性が無い者が見れば不気味な光景だっただろう。しかし紳士の手つきはあくまで丁寧で、ある意味で愛しげですらあった。
「しかしながらここまで壊れてもまだ……このドールのボディには魂の残滓と記憶の欠片が残っております」
 彼女は瞬いて紳士の手の中にあるヘッドパーツを見遣った。紳士は視線に気付いた風もなく、顔部分に細かく盛られているパテの修正具合を見るように指の腹で何度も顔を撫でた。

「あれは私闘の扱いなのでしょうが、恐らくこのドール達のゲームそのものにおいても同じことなのでありましょう。
 究極の存在たるモノのために完全な形で必要なのはただ一体の最高の人形ということですな。それ以外に要求されるモノは、人形師が作った人形のボディでもそれに宿った魂でもなく、それらから記憶と精神とを吸収して輝きを増した動力源だけ、であると。
 ボディは砕けて捨てられる物、魂は何処かに去る物だった、のでありましょう」

 彼女は眉根を寄せた。
 兎頭の紳士が言うのは目新しい事柄ではない。むしろ、水銀燈などから何度かに分けて断片的に説明されてきた話の総括のようなものだった。
 だが、ナナの──当然『水銀燈』の、でもある──製作者は、自らゲームだけに拠らない、それぞれが究極の存在と成り得るという結末を示した。それは動力源を全て必要とはしないことを意味してはいないか。
 そもそもこのタイミングで彼女達でなく異界のドール達の話題を振ってきたのも、話の流れやら偶然だけとは思えない。
 いや、この話に誘導するためにわざと工程を前後させた可能性もある。彼女の前でこれ見よがしに『水銀燈』を組み上げたり分解したりしてみせれば、関心は当然そこに向けられるはずなのだから。
 焦燥感に近い、苛立ちにも似たものが彼女の胸の中で渦を巻いた。
 何かを掴めそうな気がしている。だが、それが具体的に何なのかはまだ分からない。

「このドールは『ローゼンメイデン』たる魂と動力源を揃って奪われました。ゲームの進行役からすれば、正しい手順でこそないものの、まさしく敗北し、魂も去った状態ということに他なりません。
 しかし一般的な人形としては、未だボディにその不完全な魂を宿した状態ということになりますな。良く出来た人形達と同じことです。
 修復を行い、名前を呼ばれて愛玩されれば、幸せな人形としての生をまっとうできることでありましょう。
 ただ、仮にこのボディが元どおりの外見──老兎の如き一介の人形職人ではなしに、例えばマエストロたる人物に復元されたモノ──に戻ることができ得るとしても、既に魂と動力源を持つ者が同じ名前を名乗っている状態では、このボディは本来の名前を呼ばれることはありますまい。現状では、尚更のことです。
 畢竟、ここに残っているこのボディそのものの魂は、誰からも忘れ去られて早晩迷子になるしかない哀れな代物ということになります」

 言いながら、紳士はヘッドパーツを慎重に机の上に置いた。
 言っていることは尤もな内容ではあったが、彼のしていることには全くそぐわない話でもあった。では、彼は何故ボディを修復しようとしているのか。それも完全に元どおりなどという状態でもなく、恐らくただの物言わぬ人形として。
 どうにも間尺に合わない話だった。ただの手慰みなのか、それともその場限りの憐憫の情が湧いたとでもいうのだろうか。
 掴めそうになっていたものは脇に除けられてしまったような按配だった。今は彼の言葉と行動の矛盾がより気になってしまっている。
「このドールが他のものと違っているのは」
 紳士は一つのパーツを取り上げ、磨き粉を付けた布でパーツの表面を擦った。

「以前そうであったように、自律して動く可能性がある、という点です。
 無論それはこのドールに降り立ったイデアの申し子、今は別のドールの中に去っている『水銀燈』としての魂の為した業とも取れる訳でありますが。
 兎も角このドールは動力源も胴部パーツもない状態で動き、壊れても修復されて何事もなく復活するといった出鱈目な生命力の強さを何度も発揮して参りました。今回もそうならないとは限りますまい」

 彼女はこちらを向こうともしない紳士に無言で頷いた。ここに残されたボディが独りでに動き出すかは兎も角として、おおまかな来歴は話に聞いてはいた。
 紳士は手を止め、別の布でパーツの表面を拭き取った。目の粗い磨き粉には表面を輝かせるほどの効果はなかったが、その分研磨の仕事自体は速く済むのだろう。
 幾つかのパーツをそうして整えた後、紳士は首を傾げて磨き粉で黒くなった布を机の脇に置いた。
 次の工程は塗装なのだろうが、元のパーツは二度焼きする間に色を塗り、焼き付けているはずだ。塗り塗装で同じ色合いを出すのは至難の業のように彼女には思えた。

「同じなのですよ」
 紳士は嘆息するような、やや低い声で言った。
「御嬢様もこのドールも、完全な存在を生むための素材から、用済みとして切り捨てられた残滓です。ボディと魂、形は違っておりますし、御嬢様は確固たる意思をお持ちになり、恐らくはそこを逆手に取って自ら器とローザミスティカを手放されたという違いも御座いますが」
「……そうだね、確かに同じだ」
 彼女は漸く口を開いた。
「そしてラプラス、貴方は不遇なその魂に惹かれてしまう人なのだね、恐らく」
「はて、それは如何でしょうか」
 紳士はいつもの調子に戻ってこちらを向き、帽子に手を遣った。作業をしていたために手袋を嵌めていない彼の手は、いつもよりも細く、節くれ立って見えた。
「外に立つ者から眺めれば、全ては一場の演劇、一夜の夢。不遇な者だけに一層惹かれるのか、不遇な者に手を出して好きなように弄り回すのが目的なのか。それは万事観客の受け取りよう一つでありますな」
 紳士は鼻をひくひくとうごめかせ、煙に巻くようなことを答える。それから立ち上がり、彼女に歩み寄って語り掛けた。

「しかしこれだけは申し上げられます。
 老兎の好みには関わりなく、御嬢様もこのドールも、本来はゲームの行われる場に自我を持って存在するはずのない、真にイレギュラーな存在と申せましょう。本来の存在は既にローザミスティカという形で、あるいは融合した魂という形で別個に存在しているのですから。
 御嬢様の造物主も、世界樹の幹が走る現実の世界も、そういったモノの存在を許すことはありますまい。少なくとも、別個の存在が世界に存在する間は」

 紳士は素手のまま、彼女の頬に手を伸ばした。彼女は拒まなかった。
 繊細な細工物に触れるように、紳士の手は彼女の頬を撫でる。人間大の体になっていても、彼の手は大きく、そして思ったよりも暖かかった。
 紳士はすぐに体を起こし、話を続けた。
「ですから老兎と致しましては、まだまだゲーム乃至究極の存在の出現に時間の掛ることが確定的である以上、あのドールを完成させたとしても現実世界に放つ訳には参りません。それは大袈裟に申せば、不肖この老兎の信義に反します」
 彼女は瞬いた。再び、何かが掴めそうな気がしている。
「でも貴方はそのドールを、例えばこの小さな世界だけに留めておくつもりはないのだろう」
 自分の考えを纏めるように、やや断定調で問い掛けてみる。
「どうすれば──言い方は悪いけど──世界やゲームのルールの穴を衝いて、そのドールを世に出すことができるのかな」
 紳士は得たりといった風情で頷いた。
「なに、簡単なことです」
 にやりと口許が歪んだ。そんな気がした。無論、彼女のバイアスの掛った感覚に過ぎない。白兎の剥製の顔は、それほど表情豊かに出来ていなかった。
「廃棄場の扉の向こう、そこには無数の物質世界がございます」
「分岐の可能性を失った世界か……」
 彼女は眉を顰めた。
「nのフィールドへも殆ど出入りできない。確かに追放するには良い場所かもしれないけど、僕にはその世界自体が不安定に思える」

「左様ですな。大半は時間が経つに連れて細り、消えて行く弱々しい枝に過ぎません。
 しかし中には分岐の可能性を失っても長く伸びて行き、一つの完成された歴史を持つに至るものもあります。弱々しい世界ではあり、その数も少ないものですが、長続きした上に事実上終わらない枝というものも存在するのです。
 そういった世界で、他からの干渉を受けずにゆっくり育つことも、存外悪いことでもないような気が致します」

 彼女は頷くでもなく顎に手を遣った。
 恐らく彼は碌に説明をしない代わり、人形が自律して動ける場合は長い時間を掛けて見守って行くつもりなのだろう。それは驚くには当たらないことだった。
 アリスゲームが終わってしまえば、彼は随分暇になるはずだ。そのくらいの楽しみがあっても、よもや忙し過ぎて困ることはあるまい。
 何しろ彼はこれまで都合七人の状況を監視し続けてきたのだから。一体の、それも一つの世界からほぼ動かないドールを見守り続けることなど容易い作業に違いない。

 彼女の態度をどう取ったのか、紳士はそのまま話し続ける。案外、彼は彼女の細かな反応など気にしていないのかもしれない。
「五番目の姉妹は不完全で立つことも儘ならなかったこのドールに、動かぬ人形と同じような幸せを与えようと考えました。意識と意思を持ち、自律して動く人形でありながら、動かぬ人形と同一視したのは些か近視眼的な思考であったと申せましょう」
 彼女も水銀燈から話に聞いていた『真紅』と『水銀燈』の確執の始まりを、紳士はそんな言葉で表現した。的確かどうかは兎も角として、如何にも第三者的な、水銀燈ならばなるほどと頷きそうな言葉だった。
「老兎のお節介も畢竟それに類するものであることは間違い御座いません。しかし既に『ローゼンメイデン』でないモノを、それらと同一に扱う訳にも参りますまい」
 紳士は肩を竦めてみせた。
 先程示した策の他にルールの穴を衝き、かつ世界に拒まれない良い方法はない、ということなのだろう。

 転じて自分はどうなのか、と彼女は考える。
 彼女としては、少年や結菱老人と一緒に生きて行きたいというのが何よりも第一だった。それは他の並行世界上の同一人物ではなく、自分がずっと接してきた、世界樹の幹が司る現実世界の彼であり、結菱老人でなければならない。
 となれば、紳士が漏らした言葉を加味すれば、彼女はアリスゲームが終了するまではnのフィールドの中に逼塞するしかやりようはない。
 精神的に安定している、悪い言い方をすればのらりくらりとした感のある少年は良いとして、気短な所のある結菱老人が辛抱を続けられればいいが、と思う。
 老人は計画の全貌を知っている。というよりも、最終的には老人と彼女が共謀したようなものだった。
 そこまで考えて、思わず苦笑してしまう。
 もし老人が前倒しで段取りを実行するか、諦めて彼女を器に呼び戻してしまえば、計画はまた一からやり直しになってしまう。そうならないように当面彼女が出来る事といえば、老人の気が変わらないように何かに祈ることしかないようだった。

──いや、それだけではない、か。

 何かしら、意味のある行動は可能なはずだ。
 兎頭の紳士の口振りからして、彼女のアリスゲームへの干渉は恐らく許されない。実体を持たない魂だけの彼女は、nのフィールドから出ることもできない。それでいて、今まで長らく使って来た庭師の鋏は使えず、人工精霊も傍に居ない。何をするにも身一つで対処しなければならない。
 しかし、逆に言えば他のことには制限がない。何と言ってもnのフィールドの中に事実上無制限に居続けられるということは今までにないメリットだ。雪華綺晶のように糧を必要とすることも、今のところはないようだった。
 そんな自分に可能な、意味のある行動とは何なのか。
 今のところは未だ見えて来ない。ただ、主観時間だけは有り余っているし、何かに追われている訳でもない。有効な行動の内容を考える時間は幾らでもあった。
 取り敢えずは、それを考えながら今までの行動を続けても悪くはないだろう。

 顔を上げ、傍らで未だこちらを見詰めている兎頭の紳士を見上げる。
「当面、僕もお節介を続けることにするよ。ついては、その拠点……という言葉は大袈裟だな。僕のねぐらを此処にしたいのだけど、許して貰えるだろうか」
 紳士は気取った仕種で帽子を脱ぎ、慇懃に一礼した。
「許可を与えるなど、とんでもないお話です」
 背を伸ばし、帽子を被り直す。

「元来此処は老兎の個人的な領域では御座いません。勝手に使っているのは老兎とて同じ事、他者を拒むなど以ての外の行いというもの。
 しかも御嬢様は、今はボディを離れられているとはいえ、事と次第によってはまたローゼンメイデン第四ドールとして生きて行かれる方。老兎にとっては忌むべき存在などでは御座いません。
 その方がこの小さな世界をご利用になることに何の制限がありましょうや。いえ、むしろ光栄であると申せましょう」

 持って回った言い回しに、彼女はつい苦笑してしまう。恐らくこの態度が彼の仕事上の姿勢ということなのだろう。
「さっきと言っている事が正反対じゃないか」
 椅子から立ち上がり、やはり自分よりは随分背の高い紳士に流れるような動作で一礼する。
「でも、ありがとう。遠慮なく使わせて貰うよ」
 御意の侭に、と紳士は頭を下げ返した。またその顔が笑ったように見えたのは、恐らく彼女の主観のせいばかりではないだろう。



[19752] 180程度。蒼い子の悩み。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/04/15 21:47
ちょいとスランプ気味で、実質2日でこれだけでした。
書いちゃ削り、を繰り返した結果です。
こういうときは誤字も多くなるんだよなぁ……。

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 オディール・フォッセーの心の木は、相変わらず枯れた木の陰に隠れるように、その木の幹に沿うように細い幹を伸ばしている。枝葉は枯死した木の枝の間を縫うように伸び、辛うじて生きているような具合だった。
 以前と違っているのは、あれだけ頑強に巻き付いていた白茨の蔓が消滅していることだった。そのために余計に幹も枝も細く弱々しく見えている。
 更に、消滅はしたものの白茨の蔓はそこここに強く巻きついた爪痕を残していた。幹には不自然な凹みがつき、枝はところどころ妙な形に曲がっている。
「昨日は如雨露で水を上げたのですが……」
 翠星石の言葉は歯切れが悪かった。
「目に見えるほどは元気になりませんでした。少し多めに上げたらすぐに根腐れを起こしそうな木なので、あまり沢山は上げられませんし」
「捻くれて小さかったけど周りに遮る物がなかった桜田ジュンの木とは違うって訳ね」
 水銀燈は本人を目の前にして遠慮ない事を言い放ち、ふんと腕を組んで細い木を見上げた。
「あっちはもう随分大きく育ったんでしょう、如雨露なんか使わなくても」
「まだまだ、チビ木ですけどね」
 翠星石は半ば肯定する台詞を口にしてジュンを見上げた。ジュンは憮然とした顔で視線を逸らした。
 ジュンは翠星石の行動時間を延ばしたいという名目でついて来たらしい。多分本心は別のところにあるのだろうが、それは水銀燈の知ったことではなかった。
 どの道この場で満足に作業できる時間は限られている。翠星石もそれは承知の上でジュンを連れて来たのだろう。
 何をしたいんだか知らないけどお熱いこと、と鼻を鳴らして、枯れた木の方を熱心に観察している『蒼星石』を見遣る。
 鋏を持つ彼女が今日の作業の主役となる予定だった。しかし結菱老人はこの場に居ない。彼女達にしても約三十分という時間制限があるのは同じだから、『蒼星石』はそれに縛られている。
 もっとも、それで作業時間としては充分でもあった。
「こちらの木の持ち主は、もう亡くなっているんだね……」
「そうね。死んだ木の上に生えてるのがオディール・フォッセーの木ってことになるわ」
 枯れた木の幹に手を遣っている『蒼星石』に、水銀燈は軽い既視感を覚えながら答えた。
 水銀燈の媒介の木を、蒼星石が同じように手を添えて見上げていた姿が重なっている。もう彼女がこういう姿を取ることは二度とないのだ、と考えても僅かな感慨程度しか湧き上がってこないとは、自分はつくづく冷酷に出来ているらしい。
 否定的な思いを追い遣り、媒介の木の方に考えを戻す。
 あの木はうろの中に小さな木を抱えていた。この木は若い木を自らの幹の傍に生やしている。
 本人の記憶と別人の──恐らくコリンヌ・フォッセーの──心の木という違いはあるにせよ、二つの木のありようは何処か共通している。それはまるで──
「──生きている方の木は、大きな木から生えている訳じゃないよ」
 『蒼星石』は首を振り、根元の辺りをよく見て、と若い木の根元を指差した。水銀燈も思索を中断してそれを見遣る。
「成長して窮屈になってしまってるけど、元々は根と根の間の地面から生えてる。でも、今は大きな木に寄り掛かっているような形になってしまったんだね」
「そうですね」
 翠星石は遠慮無しに覗き込み、背を伸ばして細い木の幹を見上げる。『蒼星石』が彼女を見て微かに懐かしそうな顔をしたのは、当の本人とジュンには分からなかったようだった。
「癒着って言うのか癒合って言うのか分かりませんけど、こっちの木が完全になくなるか、根元が腐って崩れたら間違いなくそこから折れて倒れますね」

 ふむ、と水銀燈は眉根を寄せた。
 オディールの木のありようは、少年の木が枯れて腐ったあの媒介の記憶の上に根付いたのとはまた若干違っているらしい。
 雛苺の過去についての妙に詳しい話振りといい、遠くフランスから──と言っても彼女はこの国に永く住んでいたから、全く見知らぬ異国という訳ではないのだが──この街まで出向いて雛苺を探すという、妄執というか一種偏執狂的な熱意といい、その理由が幼い頃伝え聞いた昔話というだけでは弱いようにも思えていた。
 水銀燈としてはオディールという少女自体がコリンヌの記憶と妄執に乗っ取られたような形、あるいは少年が媒介の記憶そのものと共に生きてきたのと似たような形も想定していたのだが、木の成り立ちが別個のものであれば、オディールはそこまで深く祖母の記憶には影響されていないと考えるべきかもしれない。
 となるとオディールを突き動かしていた、雛苺を取り返せ、探せ、という強迫観念のようなものは自らの内面の衝動ではなく、雪華綺晶が与えた暗示ということになる。蒼星石との一戦のダメージで雪華綺晶が少女を制御できなくなったとき、既に与えられていた暗示が強い強制力となって働いたということか。

 いずれにしても、若い木が枯れた木の根元を支えにして幹をひょろ長く伸ばしていることは、オディールがその枯れた木の持ち主に対して持っていた──恐らく今も持っている──依存の大きさを象徴している。本人が死んでしまってもなお、大きな方の木の持ち主はオディールの心に影響を与え続けている。

──そんな歪な心が、容易く雪華綺晶の嘘を信じさせたか。

 そういう見方もできそうだった。
 今となっては分からない事だが、どちらでも良いと切り捨てる訳にも行かない。オディールの心に触れてみるにはその辺りの事情をよく知っておく必要があるだろうし、案外その辺りに心を開かせるための鍵そのものが眠っている可能性もある。
 厄介なことだ、と水銀燈は息をつく。直接のアプローチは難しい。雑草を刈ったり水を遣ったりという間接的な方法で心の帰還を促す程度しかないのか。
 いや、間接的ではあるがもう少し別の方法があるにはある。ただ、オディールの心の木が枯れた木の上に根を張っていないとなると、効果の程は怪しいものだった。

 結局、木の周囲の雑草を刈り、根元に少々水を遣ってその日の工作は終わりとなった。変わった様子は何もなかったが、何もしないよりはましだろう、というのがその場の総意だった。
 作業の終わりを宣言すると、翠星石はジュンの手を取って何処かに去った。
 ジュンは相変わらず面倒臭そうに手を引かれて行ったが、翠星石の方は妙に弾んだ雰囲気だった。先程も「異空間でデート」という言葉がちらついたが、案外それは当たっているのかもしれない。
 考えてみれば、ジュンと翠星石の関係が深まるときには──告白したときを除けば──常にnのフィールドが関わってきた。あまり褒められたものではないと思うが、インドア派で時間に追われている二人には、主観時間が長く取れて邪魔者も介入しないnのフィールドが恰好のデートスポットという側面もあるのだろう。
 長居し過ぎて現実世界に戻るのが厭にならなければいいけど、と水銀燈は肩を竦めた。
 現実世界で外界からの都合の悪い接触を断てるだけの状況を確保している結菱老人、現実世界とごく普通に折り合いを付けて生きているみつや少年と違い、ジュンはまだ現実世界に対して問題と葛藤を抱えている。nのフィールドで遊ぶのは良いが、現実を放り出したくならない程度に留めておかなければ、今度はそちらでひと悶着起きかねない。
 真紅がジュンに対して自分達に関する情報をあまり与えなかったのも、その点を危惧していたのかもしれない。薔薇乙女に深く関われば関わるほど、今の状態のジュンが人間の社会と接点を失って行くのは間違いないのだから。
 もっとも翠星石には翠星石の遣り方があって、彼女は自分の欲求だけでなく何か意図を持ってジュンを積極的に連れ回しているのだろう。心の庭師の、それも育てる方の役目を担っている彼女の判断だから特に口を出すつもりはないが、水銀燈にはやや危なっかしく思えてしまうのも事実だった。

 さて、と振り返る。『蒼星石』はまだ心の木を見ていたが、水銀燈の視線に気付いたらしく顔を上げてこちらに歩み寄って来た。
 念のために確認すると、客観的時間はまだ制限の半ばを過ぎたところだった。他のことをする時間は充分に残っている。
「時間は余ってるけど、何処か見てみたい所はある? 案内できる所なら案内するわよ」
 『蒼星石』は驚いたように立ち止まり、水銀燈を見て小首を傾げた。切れ長の目は見開かれて綺麗なアーモンド形になっている。
 ややあってそれはいつもの、何処かに憂いを秘めたような瞳に戻り、彼女はゆっくり首を振った。
「特に行きたい所はないな……今は思いつかない。ボクには、まだ初めてのことばかりだから」
「そう。じゃ、少し付き合ってくれる?」
 水銀燈はメイメイを呼んだ。他に二体の人工精霊はいるが、メイメイが一番使い易い。
 銀色の人工精霊は人懐こい動きで『蒼星石』の周囲をくるくると周回してから、水銀燈の脇に控えた。
「私の媒介の心の木を検分して欲しいのよ。手入れは……最近見に行ってないから、必要かどうか分からないけど」
 良いかしら、と言う水銀燈に、『蒼星石』はこくりと頷いた。ナナと似た、素直で含むところのない仕種だった。


 水銀燈の媒介の木は、それなりに育っていた。数ヶ月で成育したにしては上出来と言えるかもしれない。
 あの日、蒼星石がどうやっても伐ることも目立った傷を与えることもできず、結局媒介自身が伐り倒した切り株は、やはり頑強にそこにあった。少年自身の木はそれを土台にして根を張り、枝を伸ばしつつある。まだまだ頼りないものの、水銀燈が知っているジュンの心の木の育ち具合よりは大きく育っているようにも見えた。
 枯死した木の周囲には雑草が繁茂しているが、切り株の上までは及んでいない。手入れの必要は当面ないということなのだろう。
 伐り倒した方の幹は影も形もなくなっていた。水銀燈は胸の辺りを手で触れた。それは、形を失って彼女の中に在るのかもしれないし、彼女の中に人格という重要な情報を欠いたコピーを残し、何処かに立ち去ったのかもしれない。まるで彼女達の父親のように。
 雪華綺晶は後者だと信じていた。ゲームというくびきから解放された今は、それを探して当て所ない旅をしているのだろう。自分自身を見失いかけているかもしれないが、恐らく無限の時間を費やして探し続けるに違いない。
「これも随分歪でしょう?」
 振り向いてにやりとしてやると、『蒼星石』はコメントに困ったように微笑んだ。素直な善良さが表れているような笑顔だった。
 水銀燈は前に向き直って続ける。元から彼女の返事を期待していたわけではなかった。
「この枯れた木は、媒介の前世での記憶。今は伐り倒されているけど、本来はあのオディール・フォッセーの木の隣の大木よりもっと頑固に枝を張ったまま枯死していて、そのうろの中にこの若木があった。若木は全く育てなかったけど、逆に枯れた木に守られていたとも言えるわね」
 彼が若木に触れないように器用に伐り落とした切断面に手を遣る。既に色はその他の部分と同じく汚いものに変わっていたが、断面に残る鋸の跡はまだ分かるような気がした。
 この世界群に残る彼の痕跡の一つだ。
「聞いてるかもしれないけど、私の媒介は前世の記憶を引き摺っていた。今とは別の人格だったと言い切っても間違いじゃないわね。枯死した木の方が若木を乗っ取っていた、という見方もできるし、若木は枯死した木の代わりに生を受けたとも言えるでしょう。媒介が自分で枯れ木を伐採するまでそれは続いたわ」
「……怖い話だね」
 『蒼星石』も水銀燈の隣に歩み寄り、屈んで切り株の高さに視線を合わせた。
「でも、こんなに育っている。この木はとても強い木だと思うよ」
「ええ。しぶとさと手の早さだけは大したものだもの。それが表れてると考えれば当然でしょうね」
 先日のことを思い出すと肩を竦めたくなる。
 あの大騒動の朝、ナナに担がれるようにして戻った水銀燈は、朦朧とした中で殆ど何も考えずに彼から搾れるだけの生命力を搾り取った。死なないように加減するのが精一杯で、彼はその場で昏倒し、瞬時に水銀燈と同じ姿になるまで消耗してしまった。
 巴が長い時間を掛けて少しずつ消耗し、最終的に雛苺の世界の中で雛苺と同じ姿になってしまったことと比べると、恐ろしいまでの消耗振りだった。それにも関わらず、数十分と掛らずに彼は目を覚ました。
 水銀燈と同じ姿のまま結菱邸に顔を出し、一頻り話をしてから丁度残されていた一人分の朝食を平らげると、その場で寝てしまった。
 昼食の時間には少年は生命力を吸われる直前の普段の制服姿に戻っていた。その場についていたナナの話でも、いつ元の姿に戻ったのかは判然としなかった。
 兎も角、少年は翌日からごく普通に登校しているし、結菱邸の庭仕事も毎日こなすようになっている。結菱老人が蒼星石に言った言葉を水銀燈は知らなかったが、力の供給源としては非の打ち所のない回復振りだった。
「……こちらの世界のボクと、仲が良かったみたいだね」
 何故か照れ臭そうに『蒼星石』は言った。水銀燈は大袈裟な身振りでそれを否定した。
「仲が良かった、ですってぇ? それは間違った認識ってものよ」
 え、という顔で目をぱちくりさせる『蒼星石』ににやりとしてみせる。つい語尾を伸ばす癖が出るほど、水銀燈は面白がっていた。
「あれは、はっきりと恋愛だった。それも相思相愛のね。でなければ万事に執着が薄いあの子が死んでからも記憶と自我を連続させ、しかも人間の姿になってnのフィールドを徘徊するほどの執念を見せることはなかったでしょう」
 蒼星石は自分がマスターと呼び、まるで主人のように仕えて来た相手を残してあっさりと自決を選びそうになったことがある。解決を急いだとはいえ、後に残される結菱老人の心のその後はおろか、自分の命まで軽く見ていたのは間違いない。
 今度のことも似ている。目的を達成するために自分の心中や限られた人物との間だけで思いを巡らし、方針が決まると他のことは一切省みずに突き進むのが彼女のやり方とも言えた。周囲から見れば刹那的で唐突に映ってしまうのは如何ともし難い。
「相思相愛かぁ……」
 『蒼星石』は遠くを見るような目になった。
「確かに、あなたのミーディアムはいい人だと思う。昨日会ったけど、ボクにも気軽に声を掛けてくれた……見た目が似ているボクを見ているのは辛いはずなのに」
 少年は昨日、呼び戻されて契約を結ばれたばかりの『蒼星石』を早速庭仕事に誘った。
 誘ったというよりは薔薇の手入れを教わったというのが正しい。蒼星石が居ない間は自分が少しでも穴を埋めたいと少年は言っていたから、自分の言葉を早くも実践しているのだろう。
 『蒼星石』も薔薇の手入れに関しては熟練している。それを少し遠慮しながらもまだまだ素人の少年に丁寧に教える様は、結菱老人曰く微笑ましいものだった。老人や蒼星石の指導はどちらかと言えば手厳しかったから、少年としては大分楽ができたらしい。
「二人の間には、いろいろな出来事があったんだろうね」
「かれこれ数ヶ月はあったもの」
 水銀燈は頷く代わりに首を竦めた。
「翠星石と桜田ジュンみたいな、愛を育むとかいうベタベタした関係じゃなかったでしょうけどね」

 切っ掛けは幾つかあったのだろうが、一番大きかったのはナナを連れ帰った一件だろう。あれ以来、蒼星石ははっきりと自分の気持ちを意識していたように見えるし、少年も蒼星石を特別な存在として見るようになったのは間違いない。
 但し、少年の方では蒼星石が熱を上げているほどには熱烈に恋をしている訳ではなかった、と水銀燈は見ている。それが妙な方に転べば、蒼星石としては随分不本意なことになるだろう。
 もっとも少年のご面相その他では、本人が別人に熱を上げることでもない限りどうにも転がりようがないし、本人の性格からして別人に急に惹かれることもあまりないように思える。何か途轍もない異変でも起きない限り、何処からも蒼星石の留守を狙うライヴァルのようなものが現れるようには思えなかった。
 妙な方に転ぶとしたら、蒼星石への熱が冷えてしまう方向だろう。特に新しい相手を見付けなくとも、恋は冷めて行くものだ。
 特に少年はただの人間であり、蒼星石が知らない部分の生活を毎日過している。蒼星石が彼のことを思って──かどうかは分からないが──一人で薔薇の手入れをしている間、少年の方は大勢の同年代の少年少女との時間を過していたし、彼女が居なくなってからもそれは続いて行く。
 気持ちが離れるお膳立てには充分な条件だった。

「ボクにはよく分からないけど」
 やや難しい顔になって『蒼星石』は水銀燈に視線を向けた。
「もし……誰かを懸命に好きになることでボク達も『アリスゲーム』が克服できるなら良かったのに」
 水銀燈は少々面食らったような表情になった。それは少しばかり予期していた話の流れとは違った方向の言葉だった。
 しかしそれを責める気にはなれない。『蒼星石』に取ってみれば、昨日出会ったばかりの少年とこの場に居ない異世界の自分との恋愛話などを延々と続けるよりも、そこから自分の身に引き付けた事柄を連想することの方が自然なのだろう。
 屈み込み、切り株の断面に手を這わせながら首を振る。蒼星石は別段ゲームを克服したわけではない。狡猾に利用したとは言えるけれども。
「本人の主観的な見方では克服できたとしても、あの子のやったことは一種の裏技。事実だけを取り上げればゲームの敗北を逆手に取ったってだけの話よ」
 決闘という名目でアリスゲームを申し込み、勝てば自分がゲームを支配でき、負ければゲームの外に出て勝手な振る舞いをすることが可能になる。蒼星石か老人か、あるいは相談を持ちかけられたという金糸雀なのか。誰が考えたかは知らないが、状況を上手く利用したものだと思う。
 水銀燈は切り株に腰掛け、心の木に触れてみた。まだ一年草の茎のようになよなよした外見だが、意外に強靭そうな手応えだった。
「それに、貴女達は最早ゲームに縛られていない。究極の存在を目指すのは各個人でも可能って話は聞いたでしょう? そもそもゲームに拘る必要はなくなってるのよ」
「うん……」
 『蒼星石』は俯き、水銀燈が手真似で隣に座るように促すと、素直に並んで切り株に腰掛けた。
 暫く言い辛そうに黙っていたが、やがて沈黙に耐えかねたように呟く。まるで子供のような素直な言葉だった。

「それでも、ゲームによって解決を図ることは、楽なんだ」

 水銀燈は黙って頷いた。その先まで言ってしまえ、というようにちらりと顔を見遣る。『蒼星石』はぱちぱちと何度か瞬きをしてから続けた。
「究極の少女を目指せっていう『お父様』の意思は、ボク達にとっては絶対だったし、当然の目標だった。今でもそうなのかもしれない。でも……実際にはそれよりも、究極の少女になったら『お父様』に初めて逢える、愛して貰えるって事の方が大きかった」
 彼女達の多くは父親の顔も知らなかった。製作されているときのおぼろげなイメージがあっただけだ。
 『真紅』には恐らくもう少しはっきりとした記憶があり、『水銀燈』は多分ただ一体、次々に姉妹を仕上げていく父親の姿を鮮明な記憶として残していただろう。しかし、彼女達にしても父親と暮したことはない。あくまで工房の中だけ、作られている間だけの触れ合いだった。
 逆に言えば、永らく未知の存在であった父親に、戦いに勝ち残れば漸く逢えるということになる。それが延々と続くゲームの前段階のモチベーションにならないはずがない。
「でも、それはもう叶えられない」
 大きく息をつき、『蒼星石』は自分の体を抱くような姿勢になった。

「ボクは『お父様』に逢うこともできなかった。でも、逢えなくて良かったかもしれない。知らないままで終わらせることができるから。
 でも、他のみんなは……お父様に会って、話を二言三言交わして、もう二度と会えないって言われたんだよね。
 みんなはそれでまだ『アリス』を目指せるのかな。どうやって成ったらいいのか、それさえも分からないのに」

 水銀燈は無言で足を組替えた。それは彼女が考えていたことでもあった。もう少し自分に関わりが深ければ、懸念していたとか危惧していたという話になるのだろう。自分のゲームとは関係ない事柄とはいえ、その程度には気に懸けていた。
 無論、『蒼星石』の立場から見ればそんな暢気な案件ではないことも理解できる。既に目標そのものを半ば失ってしまったのだから。
 それが貴女達の父親の遺志だから、と言うのは容易い。部外者から掛けてやれる励ましの言葉はそのくらいしかないのも事実だし、少なくとも最も大きな力を持ち、数々の優遇と期待を受けてきた『真紅』は、上辺では彼の言葉を守って行こうとしていた。
 但し、実際には彼女達の絶望はそんな言葉や見せ掛けの態度では解消できなかったし、自分を誤魔化すこともできなかった。
 雪華綺晶の与えた夢の世界で彼女達が見ていたのが父親でなく、もっと卑近な、最近の契約者や姉妹との暮らしだったことがそれを示している。雪華綺晶は彼女達に、幻影という形ではあるが一番欲しいものを与えた。糧にさえもならないことを承知の上でそれをしたのは、雪華綺晶の良心の為せる業だったのだろうか。
 今となっては分からない。尋ねてみようにも雪華綺晶は旅立ってしまったのだし、器のない彼女を呼び戻すことは恐らくできない。呼び戻したいと思う者も──彼女に一番深く接した、そして姉妹の中で最も優しい真紅以外には──居ないだろう。

「ゲームで懸案を解決することは、結末の見えない模索を延々と続けるよりは即決できる安易な道、ということね」
 水銀燈は結局言葉を選ばずに言った。『蒼星石』の肩がびくりと震えるのが分かったが、構わずに続ける。
「そしてゲームの先に勝ち残り以外の──負けた者達についても何等かの救済があるなら、ゲームによって今の状況を片付け、負けた者はあの子のように新たな始まりを迎えようってこと」
 『蒼星石』は前を向いたまま口を開きかけ、それを閉じてこくりと頷いた。図星を衝かれたような表情だったが、水銀燈の指摘とはやや異なることを考えていたようにも見えた。

──肝心なところで刹那的なのは蒼星石と同じね。そんな短所も似てるなんて。

 『蒼星石』にとって水銀燈の言葉の後半は付け足しか理屈付けに過ぎないのだろう。
 力のぶつけ合いの果てに一体以外全て壊れてしまうゲーム。それを忌避している姉妹達も、究極の存在となる者以外にも「その後」があるということになれば、ゲームに抵抗感なく加わるのではないか、という期待が透けて見えている。
 彼女自身はゲームを片付けて早く楽になりたいのだ。たとえ完全な死が待っていようと、終わりの見えない迂遠な目標に進めと言われるよりは、目の前にある手早い目標に向かいたいのだろう。

──私も同じか。

 半ば自嘲的に水銀燈は思った。
 自分達はゲームとその後の父親との再会を一つのセットにして、半ば刷り込まれるようにして強制されている。恐らくは鞄での眠りと同様に、ゲームを始める際に造物主の手によって細工を施されている。
 彼女達も父親の愛という餌を目の前にぶら提げられてそれに臨んでいた。手の加え方に多少の違いはあるが、結果としては似たようなものだ。
 水銀燈と『蒼星石』のゲームを早く終わらせてしまいたいという衝動のようなものも、元を辿れば同じようなものだろう。
 蒼星石は最後の決闘に臨むとき、水銀燈に痛烈な皮肉を放った。いや、それは単に現状を述べただけだったとも言える。

  ──君こそがアリスゲームを遂行しているからだ。造物主に逆らうと言いながら、君こそがゲームを滞りなく進める役になっている。

 主観を排して事実を追えば、その言葉は完全に正しい。
 アリスのベースとなるべき真紅とその最後の障壁となるはずの雪華綺晶がどちらも自殺のような形で敗北し、水銀燈が以前考えていたところではそれに続く存在だったはずの金糸雀も、そして蒼星石までもが盤上から降りた。
 今や悪役のはずの水銀燈と、真紅のサポート役のようなものだったはずの翠星石しか駒は残っていない。そして、その原因は全て水銀燈の行動に帰結させることができる。
 水銀燈のかつての見通しが正しかったなら、ゲームのプレイヤーは大慌てで頭を抱えているかもしれない。その意味では、水銀燈の戦いは完全な成功裏に終わってしまっていた。
 その場合、水銀燈にただ一つ見込み違いがあったとすれば、それは彼女自身がまだこうして動いていることだ。彼女は自分が真紅か雪華綺晶に殺されるか、あるいはもっと以前に排除されていることを想定していた。それが逆の形になってしまっている。
 だが、別の見方もある。
 翠星石が言及し、老人がその正しさを部外者の視点から指摘したように、アリスゲームに臨む姉妹達は皆横並びだったのかもしれない。誰がアリスになっても良かったのであれば、水銀燈は間違った推測をしながらもひたすらに自分のゲームを遂行していただけの話だ。
 どちらであっても、水銀燈は明確な今後の展望を欠いたまま、今は過半数のローザミスティカを掌中にしている。休戦協定を取り結んだものの、目の前の案件を素早く片付けて、ゲームを早々に決着させてしまいたいと考えてもいる。なんのことはない、目の前で途方に暮れているドールと同じことだった。

 水銀燈は息をついた。
 今は自分のことを考えても致し方がないし、自分と同じ状態だからといっても、まさか目の前のドールに自分と同じようにしろと言う訳にも行かない。同じように、自分を反面教師にせよと殊勝な言葉を口にしても意味がない。
「ま、早くて暴力的な解決方法に堪え難い魅力を感じるくらい思い悩む時間があるなら、今はもっと目の前のことに集中すべきってところね」
 貴女も私も、という言葉は言わずにおいた。
「今は、先ず貴女の姉妹を呼び戻すこと。オディール・フォッセーの意識もね」
 それからの事はその時に考えましょう、と言ってやると、『蒼星石』は素直に頷いた。
 水銀燈はどうすべきか一瞬迷ったが、立ち上がって彼女に手を差し出した。彼女はほっそりと上品に出来ている手で水銀燈の手を握り、立ち上がった。
「全員を呼び戻したとき、貴女達の中でどういう結論が出るかは分からない。確かなのは此処で貴女が独りで悩んだところで結論が出せる訳じゃないってこと。起こすべき姉妹はあと四人も居るのよ。その過半を呼び戻すまでは、棚上げにしておきましょう」
 『蒼星石』はこくりと頷き、はい、と答えた。
 水銀燈は少しだけ眉を顰めてみせた。『蒼星石』は訝しげに彼女を見てから、ごめん、と頬を僅かに染める。今日になって漸く敬語や丁寧語を使うのを止めたのに、またそれが出てしまっていた。



[19752] 240ほど(2日分) 認識の違い。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/04/18 22:16
 翠星石はジュンに抱かれ、先程の心の木からほど近い場所に降り立っていた。
 nのフィールドの中に居る時間を延ばしたかったのは、二人きりの時間を長くしたかったからではない。むしろ、負担になるのではないかと心配している。
 それでも彼女がジュンを連れ出したのは、二箇所ほど見て欲しい場所があったからだ。
 一箇所は此処だった。
「これですよ、大分大きくなったです」
 翠星石が指した先には、ジュンの腰辺りまで成長した心の木があった。ジュンの木だった。
「相変わらず雑草に絡み付かれてますけど、頑張ってます。本体よりもよっぽど頑張り屋ですね」
 言いながらもぞもぞと動き、ぽんとジュンの腕から飛び降りると人工精霊を呼ぶ。スィドリームはおっとりと姿を現し、彼女の手に庭師の如雨露を出現させた。
「少し養分を上げるとしますか。折角来たのですから」
 翠星石は如雨露を振りかざして勢い良く水を掛けた。オーバーな身振りに意味はないが、気持ちの問題だった。
 如雨露一杯の水は僅かに心の木を茂らせる。何処が変わったという訳ではないが、枝が揺れ、葉が勢いを増したのは見て取れた。オディールの木とは違う、まだ小さくて弱々しいが正常な心がそこにはあった。
「どうですか? 少し心が軽くなったはずです」
 翠星石は振り向き、えへんと胸を張ってみせる。先程は目に見える成果はなかったが、本来この程度の力は持っているのだと言いたげな表情だった。
「翠星石に感謝するのですよ。こうして何度も如雨露で水をくれてやったからこそ、今のジュンがあるのです」
「如雨露……か」
 ジュンはまだ翠星石の手にある庭師の如雨露を見遣った。蒼星石の鋏もそうだが、実用品としての形をしているのにきらびやかな色と装飾を施されているのは、いかにもアンティーク品といった趣だった。
 ただ、彼が今考えているのはそういった話ではない。
「でも、それは大したことないと思うぞ」
「どうしてそんな風に思うんですか」
 流石に翠星石はむっとした表情になった。後ろの木を指差して捲し立てる。
「現にこうして成長したのですよ。毎回、多かれ少なかれ効果はありました。今日のなんて大したことなかったくらいです。如雨露のお陰でどれだけアンタの心が軽くなったか、ジュンは全然わかってないんですから」
 ジュンは何故か照れ臭そうな顔になり、翠星石の勢いに押されるように躊躇していたが、頬を紅潮させて口を開いた。
「だけどさ──」
「──だけどもしかしもねーです! 現実を直視しやがれですこのヒキニートのチビ人間!」
 翠星石は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「それともジュンは、翠星石の力なんか要らないって言いたいのですか? 自分でぜーんぶ解決してきたって言いたいんですかっ」
「僕はそんな天狗になるほど馬鹿じゃないっ」
 次第にエスカレートして行く翠星石の怒りのテンションに釣られるように、ジュンの気分もささくれ立ってしまう。
「だいたい要らないなんて言ってないじゃないか!」
「言ってるのとおんなじですよ! ほんのちょっとずつでも成長してるから、今の状態があるってコトをなんで分かんないのですか!」
 翠星石は目尻に涙を溜めていた。
「人の成長なんて、普通は一気にどかっと来るものじゃないんです! 一月とかで急に見上げるくらいに大きくなったら、それはそれで歪なものを抱え込んでるんです。だから……だから、ほんのちょっとずつでも成長していて、曲がっても折れてもいなくて翠星石は嬉しく思ってましたのに……」
「落ち着けって」
 ジュンは翠星石の両肩に手を置こうとしたが、彼女はいやいやをするようにそれを振りほどいた。
「翠星石はっ、翠星石は──」
「だから落ち着け!」
 今度は力を込めて両方の二の腕ごと掴む。翠星石はじたばたと暴れたが、ジュンは顔をくっつけるようにして早口で言い分を告げた。

「いいか、僕はそんなこと言ってる訳じゃない。翠星石の如雨露の力はよく分かったし、前から知ってる。
 でも、如雨露なんかで成長した分は大した量じゃない。僕の心を──まだ普通の人に比べたらチビなんだろうけど──大きくしてくれたのは、如雨露の水じゃない。
 翠星石、お前自身だって言ってるんだ」

 翠星石の動きが止まった。ジュンは赤い顔で一つ溜息をつき、翠星石を放すと口を尖らせてそっぽを向いた。
「い、今になってこんな所に連れて来たのは、最近やっとその木が大きくなり始めたからなんだろ」
 う、というような声が翠星石の口から漏れる。そのまま何も言えずに翠星石は小さく頷いた。
 図星を衝かれてしまっていた。もう一箇所のついで、という形にかこつけてこちらにも寄ってみたのは、ジュンの心の木が目に見えて成長してきたからだった。
「だったら、僕にはその原因が分かってる」
 ジュンは益々赤くなっていた。
「お前が傍に居てくれて、僕をいつも見ていてくれる。それに気がついたんだ。外で厭なことがあっても、必ずお帰りって言ってくれるから。っだ、だから僕は図書館にも行ってられるんだ」
 もちろんそれはジュン自身の努力の結果でもある。翠星石も常日頃からそれは認めていたが、今はそんなことを考えるほどの余裕もなかった。
「如雨露なんかじゃない。お前自身が、道具になんか頼らないでも僕の心を育ててくれてるんだって──」
「──そ、そんなこと言っても何にも出ないですよッ」
 翠星石は上ずった声で、ジュンの言葉に被せるように叫んだ。
「だ、だだだいたい翠星石は心の専門家で庭師なのですからあ、当たり前なのです。如雨露もそれ以外も翠星石のパワーですからおんなじことなのです」
「違う、同じじゃないっ」
 ジュンにも翠星石の気分が伝染したらしい。照れ臭さを隠そうとしてか、怒ったような口振りになってしまっている。
「如雨露なんて要らないんだ。お前が居て、笑っていてくれれば、そっ、それで僕の心は満足なんだ。如雨露で水遣りなんて、そんな道具なんて使わなくても僕達は繋がって るんだ。お前の心が直接僕の心を大きくしてくれるんだよっ。っわ、わかれよこの性悪鈍感娘っ」
「性悪ってなんですかこのチビチビのヒキニート!」
 思考が短絡してしまっている上に妙なテンションになってしまっている翠星石は、思わず相手の言葉尻にだけ反応してしまう。
「スーパー内弁慶で外じゃ巴にもまともに話し掛けられないチキンハートの癖にっ」
「そうだよッ、僕はヒキニートで内弁慶のチキン野郎だよどうせッ」
 ジュンは漸く、真っ直ぐに翠星石を見詰めた。

「そんなダメ人間だから僕はお前が必要なんだッ!
 如雨露を持った心の庭師じゃなくて、お前って女の子が必要なんだ。
 そ、それに、その、だからお前が居ればそれでいいんだってさっきから言ってるんじゃないかっこ、この……この……」

 上手い言葉が出て来ずにジュンは吃り、それからがくりと俯いて脱力したように肩を落とした。長い息を吐いて、気の抜けたような声で続ける。
「……馬鹿馬鹿しい。なんでこんなことで言い争わなきゃいけないんだ」
「……です」
 翠星石も同じように息をつく気配があった。二人はどちらからともなく手を伸ばし、ジュンは翠星石を横抱き──俗に言うお姫様抱っこの姿勢──に抱き上げた。
 一連の騒動の間放って置かれたスィドリームが、呼ばれてもいないのにジュンの傍らに寄って来ると、何も見ていなかったように泰然と二人を周回し始めた。翠星石とジュンがやや無理な姿勢で唇を重ねても、スィドリームは何事もないようにおっとりと周回し続けていた。


 nのフィールドから見て結菱老人の寝室の鏡の前には、蒼星石の姿がある。
 『蒼星石』は間近でそれを見詰めた。
 栗色の、自分よりやや長い前髪。自分よりは多分優しい印象の赤と緑のオッドアイ。そして何かに憑かれたような、自分より厳しい表情。ややぼやけた幻影だが、その程度は見て取れた。
「似ているけど、違うでしょう」
 水銀燈は鏡の縁に掛けようとした手を引っ込め、『蒼星石』を振り向いた。
「細かく見たいなら形骸が残っているわよ。翠星石に見せて貰えばいいわ」
「ううん、いいんだ」
 『蒼星石』は首を振った。
「これを見られただけでいいよ。ボクとは違う人なんだって、よく分かったから」
 言いながら水銀燈に近付き、鏡を前にして並ぶような形になって彼女を見詰める。
「でも、一番違っているのは……きっと、あなただね」
「そう? 戦闘狂でゲームのことしか考えてないのは似たようなものでしょ」
 水銀燈は苦笑した。
 確かに外見は、同じようなドレスを身に纏っただけの別人と言ってしまって差し支えないほど似ていない。しかし、やっていることは同じようなものだった。
 特に今は、水銀燈は『水銀燈』と薔薇水晶、それに薔薇水晶の製作者と表向きその店で働いていた男を足し合わせた程度に、見事な悪役となっている。既に姉妹のうち二人を手に掛けてローザミスティカを奪い、加えて一人分のローザミスティカを掌中に収め、都合過半数を保持した状態で、数は多いが戦力の整わない相手といずれ一戦することを視野に入れている。
 ある意味で、水銀燈が想定していたゲームの最終盤の図式を、真紅対雪華綺晶というものから翠星石対水銀燈へと置き換えた形に近い。その点だけ見れば中途で退治されて脱落すべき悪役から、最終局面で決闘を繰り広げる敵役に立場を変えたとも言えなくもない。
 いずれにせよ、どちらも同じ悪役だった。それは間違いのないところだ。
「そうかな……」
 首を振り、『蒼星石』は困ったように微笑んだ。
「あなたには昏い雰囲気がないんだ。背負っているものの大きさは分からないけど……」
 そこで言葉を一旦切り、少し照れたような言い方で続ける。
「その後があるとかないって意味じゃなくて、あなたの方が追い詰められていないように思えるんだ。『水銀燈』はいつも何かに追われているみたいだった」
 両者の来歴を考えれば当然だが、彼女には新鮮な違いなのだろう。

「──ゲームに生きること以外存在理由を持たされなかった存在と、ゲーム以外見えていない存在の違いでしょう」

 別の声がした、と思ったときには、二人の間に別の姿が現れていた。
「鏡の向こうから気配が分かるほどの場所で立ち話なんて貴女らしいけれど、こちらの子のマスターが心配してしまうわ」
 鏡を潜って出てきたのは真紅だった。
 水銀燈が何かを言う前にくるりと踵で向き直り、『蒼星石』に初対面の挨拶をする。口を挟むタイミングを失った水銀燈は口の端を歪めた。
「礼儀作法に煩い貴女が挨拶なしに出て来るとはね。しかも立ち聞きとは良い躾をされていらっしゃいますこと」
「偶々のことよ」
 真紅は振り向いてにっと笑った。
「偶には遣り返してみたかったの。不意打ちの介入は貴女の十八番なのですもの」
 水銀燈は何か言いかけたがそれを引っ込め、やや身を引いて息をついた。
「ま、いいでしょう。何のために結菱邸に来てたのか知らないけど、貴女にも話したい事があったから丁度いいわ。結菱老人の部屋を何処か借りてゆっくり話すとしましょうか」
「私の用向きは無視なのね、いつも」
 真紅は屈託ない笑顔になった。しょうがない姉だ、と言いたいのかもしれない。
「無言の威嚇に仕方なく従うことにしますわ、お姉様。か弱い私独りでは貴女に勝てないのは火を見るより明らかですもの」
 その妙に謙った言い方も水銀燈の態度の真似なのだろう。水銀燈はふんと鼻を鳴らし、微かに笑顔を見せて鏡を潜る。暫くぶりに「らしい」真紅を見たような気がしていた。
 真紅は微妙な笑みを浮かべながら『蒼星石』に片手を伸ばす。私達も出ましょう、という意思表示だった。
 『蒼星石』は微笑んでその手を取った。真紅の顔の造作のままに、柔らかく暖かな子供の手のような感触だった。
「良い関係なんだね」
 呟くように言った言葉に、真紅は優しい表情になった。
「今は、良い関係になれたかもしれないわ。いつも攻撃的だった水銀燈から歩み寄って来た結果ではあるけれど」
 また屈託ない顔でくすりと笑う。美しいというより、愛らしい笑顔だった。

「私達はお互いの全てを好きにはなれないけれど、私は私、彼女は彼女なりに懸命に生きている。それは昔から分かっていたの。
 そう、ずっと昔……お父様の許で暮らしていた頃からかもしれない。
 でも水銀燈はこの時代でマスターから様々なものを受け取るまでは、それを認めようとしなかった。私は私で頑固だから、水銀燈が手を広げてくれるまで自分から歩み寄ることはできなかった。
 お互いに相手の行動を否定することで、自分の正しさ、懸命さを分からせようとしていたのでしょう。突き詰めればたったそれだけのこと。
 済んでしまえばどうというともないように思えるけれど、愚かで弱い私達は、そんな事柄でさえ切っ掛けがなければ踏み出せなかったのだわ」

 貴女達はもっと強いのでしょうね、と少し恥ずかしそうな笑顔になって鏡の方に向き直った真紅に、『蒼星石』は返す言葉がなかった。真紅も特に返事を求めたのではなく、自分の語った対立の原因が子供染みていたことの言い訳を付け加えただけに見えた。
 手を引かれて鏡を潜りながら、『蒼星石』は複雑な表情になってしまっていた。
 真紅は何気なく、彼女の真実を述べただけなのだろう。それが胸に響くというよりは腹の底に重く沈んでしまうのは、彼女達と自分達がまるで違うということをはっきりと感じ取ってしまったからだった。
 良い例が目の前にある。
 鏡から出た真紅はどちらがお茶の支度をするかで早速水銀燈と口論になっている。どちらもお茶は飲みたいと思ってもお茶汲みなどするつもりはなく、そうした雑事をあまり得手にしてもいないのだろう。似た者同士とも言えた。
 その姿からは何でも言い合える姉妹以外の関係は浮かんで来ない。むしろ随分長いこと続けてきたというゲームの始まる前の、敵味方という視点のない関係に戻っただけのようにも見える。
 自分の姉妹のうちの第一ドールと第五ドールならどうなのか、と考える気にもなれない。
 完璧を求めるあまり潔癖で、しかも狷介な面のある『真紅』。『アリスゲーム』を連呼しながらも昏く深い恨みを抱え、実はそちらが行動原理になってしまっていた『水銀燈』。仮にゲームが終息したとしても両者の和解など有り得るのだろうか。
 そして、恐らくゲームに対してはっきりした考えさえ持っていない、目先のことに懸命に対処しているだけの他の姉妹達は、どんな反応をするのだろうか。
 一つ首を振って、お茶の支度ならボクがします、と苦笑しながら宣言する。
 口論をしていた二人が少しばつの悪そうな顔で黙り、そちらを見て呆れ顔をしていた結菱老人が自分に向き直って軽く頷く。少女達の仕種は微笑ましいものだし、ミーディアムのそうした反応は彼女を安心させるはずなのだが、まだ彼女の気分は晴れなかった。
 自分達の場合、全員を呼び戻すということが、必ずしも全員の幸せに繋がるとは限らないのではないか。ふとそんなことを考えてしまったからだ。


 翠星石が次に向かったのは、小さな部屋のような世界だった。
「落ち着いて話せる場所が欲しかったのです。ここなら多分、誰も来ませんよ」
 言いながら、世界の扉を開く。
 ヴィクトリア時代調の、贅沢な部屋が広がっていた。二間続きで、奥には小さなテーブルと椅子が二脚置かれている。手前側には写実的な肖像画と風景画が飾られているが、これといった調度はなかった。
 以前『翠星石』や雛苺達とこの辺りを捜索していたときに偶然見つけた世界だった。上品で落ち着いた雰囲気の部屋というのは、彼女にとっても原記憶の一つとして心の奥底に残っている。
 落ち着いて話せる場所、という点では例の第32768世界でも良いのだが、最近あの場所は人気が高い。薔薇乙女ばかりか白兎の紳士まで出入りするようになっている。
 翠星石としては、ジュンと二人きりで話せる場所が好ましかった。

「凄いな……」
 扉を後ろ手に閉めたジュンが口にしたのは部屋そのものに対しての感想ではなく、壁に掛けられた絵についてだった。
 次の間への入り口の左右に、縦長の肖像画が一枚ずつ掛けられている。ジュンはその前に歩み寄って、ほう、と息をついた。
「誰の作品かは分からないけど、丁寧だし、緻密だ。情景を写真以上に完全に映し出そうとしてるみたいな」
「その絵は怖いです」
 翠星石はあっさりと認め、ジュンの傍らに寄り添うように並んだ。
「完璧な絵なんて有り得ないのに、やけに拘ってる感じで。でも、怖いって思うくらい凄い絵なのかもしれないですね」
「完璧か……」
 何かを思い出すような仕種をした後、ジュンは首を振った。
 薔薇乙女達が目指す至高の少女こそ、完璧なモノそのものだ。しかし翠星石の言葉は完璧というものを否定しているように思えた。それはつまり──

「──誰? そこに居るのは。こちらに顔を見せなさい」

 凛とした声が、部屋に響き渡った。
 ジュンは思わず世界の扉を振り返る。後ろ手に閉めたままのそれは、微動だにしていないように思えた。
 翠星石と顔を見合わせ、そろりと室内を見回す。こちらの部屋の中に居るのは二人だけだった。
 隣の間への入り口を眺め、そこから顔を出してみて、ジュンは、隣の間の椅子の上にいつの間にかドールが姿を現していたことを知った。
 赤いワンピース。赤いボンネット調のヘッドドレス。緑色の大きな胸元のリボン。そして長く、カールした金髪に蒼い目。
 聞いたことはある。まじまじと見たことはなかったが、よく知っていた。

──『真紅』か。

 その名前が声に出なかった理由は、後から考えてもジュン自身には分からなかった。場の雰囲気に呑まれていたと言うか、ドールに威圧されていたのかもしれない、とは思うのだが、正確なところは分からないままだった。
「あなたは──」
 ドールは蒼い目を大きく見開き、椅子の上から飛び降りた。信じられない物を目の前にしたようにぎこちなく、まだ半身しか入り口に覗かせていないジュンの方に、一歩、また一歩と近付いてくる。
 ジュンは思わず片足を後ろに引いていた。傍らの翠星石を見下ろし、どうなっているのかと尋ねたくなるのも置いておいて彼女を素早く抱き上げると、じわじわと迫ってくるドールの圧力に押されるようにして半歩だけ後退した。
 それ以上の退却は必要ではなかった。彼から数歩の距離で『真紅』は立ち止まった。
「あなたは……誰?」
 物怖じする風も、二人がこんな場所に居ることに疑問を抱く様子もなく、斜め下から真っ直ぐにジュンの顔を見上げる。彼が横抱きにしている翠星石には関心がないのか、視線は全く動かなかった。
 こういう強い視線を、ジュンはよく知っている。瞳の色は違い、眼つき自体もずっと鋭いが、自分の強さを知っている視線だ。
 射抜くような視線は暫く彼を検分し、やがて素っ気無く逸らされた。
「……分からないわ。よく知っている人のはずなのに」
 緊張が解けたジュンは大きく息を吐き、腕の中の翠星石と顔を見合わせる。しかし翠星石が何か囁こうと頭をもたげたとき、機先を制するように『真紅』は口を開いた。
「あなたは幻影。私の作ったイメージ。もう此処には居ない存在だわ」
 そっぽを向いて短く告げる『真紅』の声には、苛立つような響きの中に若干の寂しさが篭っているように思えた。

「あなたに用はない。もう消えなさい」

 寂しさや苛立ちを理解しようとするよりも、その言葉に対する反射的な反感が先に立った。ジュンは眉間に皺が寄るような勢いで眉を顰めた。
「おい、自分の方が──」
「──そいつは無理ってモンですぅ」
 ジュンの声に被せるように、翠星石がむっとした声を上げた。
「だぁいたい、チビ人間のことばーっかり見てて、一緒に居る私に気付かないなんてどういう了見ですぅ?」
 もぞもぞと動いて、ジュンの腕の中から床に飛び降りる。立ち尽くしている『真紅』につかつかと近付き、目の前でこれ見よがしに腕を組んだ。
「この姿を見忘れたですかぁ? まだボケるには早いですよ『真紅』」
 『真紅』は弾かれたように顔を上げ、翠星石を見詰めた。翠星石は湧き上がってくる人見知り故の弱気を抑え込み、その顔をまじまじと見返す。
 大きな瞳、丸顔で愛らしい顔立ち。先程の厳しい表情が去ってみると、『真紅』は子犬のように可愛いドールだった。
 服装のせいか、身体のバランスはこちらの世界の薔薇乙女であれば丁度自分や蒼星石と似たもので、無理をすれば真紅と言い張っても通るようにも見える。もっとも、動力源を入れる前のボディは皆すらりとした現代的なドールのそれだったから、服の中身は大きく変わっているのでなければそのままのはずだ。
 顔は兎も角、自分の姿も相手から見て記憶を呼び起こせる程度に似ていればいいが、と思いながら捲し立てる。

「アンタは忘れてるかもしれませんけどぉ、この姿はアンタの姉妹のものなのです。
 精々数ヶ月程度の付き合いだったマスター……ミーディアムのチビ人間なんかより、ずーっとずーっと前から知ってるはずなのですぅ。まさかぁ、完全に覚えてないとかいう不義理なコトは抜かしやがりませんよねぇ?
 さあさあ、この私が誰だか、よーっく思い出してみるですよこの忘れんぼぉ」

 『翠星石』がそうしていたように、語尾を強調してみる。不自然な聞こえ方になるかもしれないが、多少なりとも似せてみようと思ってのことだった。
 『真紅』は黙ったまま何度か瞬き、翠星石を上から下まで忙しく何度か見直した。目を閉じてまた開け、記憶を呼び覚まそうとするかのように顔を見詰める。
 しかし、努力は空しいものだったらしい。やがて彼女は下を向き、力無く首を振った。
「……思い出せない」
 泣き出しそうな声は、初めて素直なものになっていた。
「思い出すことができない……あなたも、そのひとも……大事な、とても大事なひとなのに」


「彷徨っている魂を呼び戻すには、その魂を捕捉して、自己を認識させることが大事だけれど」
 真紅はむすっとした顔を隠そうともせず、しかし淡々と言った。
 各々の目の前には茶碗に緑茶が淹れられている。何処にあったのか、漬物と塩羊羹も几帳面に切り分けられて小皿に盛られていた。
 『蒼星石』は申し訳なさそうに小さくなっていて、結菱老人は吹き出したいのを堪えるのに必死という風情だった。真紅が飲みたかったのは紅茶で、お茶といえば紅茶のことなのだが、『蒼星石』にはそうではなかった。お茶と言われてつい以前の習慣が先に立ってしまったのだ。
 真紅としても、相手が自分のことをよく知らないだけに──そして未だ慣れない場所で一所懸命に用意してくれただけに──正面切って文句は言えないのだろう。それに水銀燈の見たところでは『蒼星石』の淹れた日本茶と用意した茶菓子は悪い取り合わせではないように思えた。
 自分の領分である薔薇の手入れ以外にはやや無頓着でぞんざいなところのある蒼星石とは違い、ナナの四番目の姉は何事につけ几帳面にこなすようだった。家事に関しては翠星石と良いコンビになるかもしれない。
 真紅はひとつ息をつき、しかし上品な手つきで茶碗を持って口に運んだ。細かい作法に則っているかどうか水銀燈には分からないが、丁寧な動作だった。
「自己を認識できたからといって、それだけでは魂は元の器に戻らないの」
 少し上目遣いに彼女を見ている『蒼星石』に、美味しいわ、と笑ってみせる。『蒼星石』は安堵したように胸に手を当てた。
 真紅は水銀燈に視線を移した。
「それを前提条件として、他にも必要な要素があるのだわ」
「蒼星石の現状を考えれば自明のことね」
 水銀燈はテーブルに両肘をつき、組んだ指の上に顎を載せた。やや退屈そうな表情になってしまうのは否めない。
「大事なのは呼び戻すだけの力、ってことでしょう。契約か、あるいは強い呼び声か……」
「ええ。契約は確かに強い強制力を持っているのでしょう。名前すら見失っていても、魂がそれを探すだけの意思を持ち続けていれば呼び戻せるのかもしれない。あるいは、魂が形を失ってしまっていてさえも」
 でも、と真紅はテーブルの上に視線を落とした。
「呼び返すときには、恐らく呼び声だけでは不足なの。その魂が戻りたいという欲求を強く持っていなければ、外からの呼び声がどれほど強くても効果はないのだわ」
 視線を上げ、『蒼星石』と結菱老人を見遣る。
「元々はナナに言おうと思って来たのだけれど、彼女とはニアミスだったようね。でも、貴女が居てくれて良かった」
 水銀燈は手の上で顎を引き、眉根を寄せた。
「何故今になってそんな話を?」
 小首を傾げると、髪が頬にさらさらと零れる。それを跳ね上げるように耳の後ろに回す。元々自慢の髪という訳でもなかったが、今はその髪がやや鬱陶しく感じられた。
「それが貴女の体験談だとして、一週間も放っていた理由は何なのよ」
 真紅の言っていることは意味のある内容だった。しかし、このタイミングでわざわざこの場に出向いて来る理由が分からない。
 真紅は横目でちらりと水銀燈を見、両手の指を組んで忙しく動かした。やや神経質そうな素振りだった。
「元々、こんな話をするつもりはなかったの。ナナはまだ彷徨っている魂を見付け出す事を優先している段階だったし、それが捗々しくなければ水銀燈が強引に契約を結ぶ方法を取るのも分かっていたから」
「素晴らしいお見通しですこと」
 水銀燈は椅子に背を凭せ掛け、肩を竦めてみせた。そういう思索の深さを持った真紅が雪華綺晶に自分のボディを与えるという刹那的な行動に走ったことが、その理由は知っていても今一つ理解できない。
「で、その気分が今日になって変わった理由には、この子の帰還が関わっているって訳?」
 遠慮のない身振りで『蒼星石』を指し示してやると、真紅は肯定も否定もせずに水銀燈に向き直った。
「分からないわ。いいえ、多分関わっているのでしょうけれど、私にはそこまでは分からない」
 一呼吸置いて、訝しげな顔をしている一同を順繰りに見回す。真紅本人もあまり冴えない顔つきになってしまっていた。
「昨日の晩、夢で見たの。いえ──」
 一旦目を伏せ、躊躇うような間を置いてから、目を上げて続ける。
「正確には、夢を見せられたか、夢に介入されたのだわ。多分……ラプラスの魔に」



[19752] 140ほど。 真っ赤に燃える情熱の薔薇。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/04/20 22:11
切りが良くないですが、このくらいでタイムアップということで。
相変わらず時間は取れるんですがスランプ気味です。

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「……『真紅』」
「そうです、それがアンタの名前ですよ」
 まだ実感が湧かないといった風情の『真紅』に、翠星石はくどいほど念を入れて教えた。『真紅』は頷き、先程から口の中で何度か自分の名前として教えられた言葉を繰り返しているが、やはり今一つしっくり来ない様子だった。
 やがて『真紅』は諦めたように首を振り、肩を落として無言で元居た部屋の椅子の上に戻った。
 ちょこんと椅子に腰掛け、静かに紅茶を飲む様子は見慣れた同じ名前の少女とそっくりだが、明らかに別の存在だった。厄介なことに、これだけ似通った姿と同じ名前の人物達を共有しているのに、二人と彼女の間にはこれといって共通の話題さえもない。二人には掛けるべき言葉がなかった。
 翠星石は部屋に入ろうと一歩踏み出したが思い留まり、ジュンを振り向いた。
「ストレートに名前を教えるだけじゃ、効果が薄いのかもしれませんね……」
 ジュンと二人きりで話したいなどと言っている場合ではなくなっていた。目の前にナナの探し物の内の一つがあるのだ。
 しかし、このままでは埒が明かない。
 ナナか『蒼星石』が居れば、と翠星石は詮無い事を考えてしまう。ジュンも考えていることは一緒のようだった。
「僕はあの子の……なんだっけ、ミーなんとかじゃないし、お前もあの子の姉ちゃんって訳じゃないからな」
 付け加えるならば、話を交わしたことのある水銀燈や蒼星石ならばまだしも、二人はこれまで『真紅』に一面識もなかった。ここを商店街の雑踏に喩えるなら、迷子の『真紅』から見れば偶然通りがかったお節介な第三者に過ぎない。二人の側から見たところで、強いて係累を挙げるならナナ達の親しい友人という程度の関係だった。
 ここまで記憶が曖昧だと、自分達が彼女と関わりの深い者達と同じ名前、似たような容姿をしていること自体、混乱の元になりかねない。翠星石としてはお手上げに近い気分だった。
「近くに誰か居ないのか?」
 ジュンは少々焦れたように言った。
「居るのが分かればスィドリームに呼びに行かせることができるんじゃ……」
 翠星石は首を振った。
「近くには誰も……多分、nのフィールドの中に居る姉妹は翠星石だけですよ」
 自分以外の姉妹で直接動向を把握できないのは水銀燈だけだが、彼女は今頃もう結菱老人のところに帰っているはずだ。『蒼星石』を伴っているのだから当然だった。
 ナナは夕食の時間近くまでnのフィールドの何処かで当てのない探索を続けているはずだが、連絡を取ることはできない。
「一旦帰って、水銀燈を呼んで来ますかね」
 その程度しか方法はないように彼女には思えた。
「そうだな……」
 ジュンはもう一度『真紅』を見遣り、目を凝らすように眉根を寄せてからぎくりと目を見張った。

「あの子、身体が」

 丁度『真紅』はぼんやりと視線を上げたところだったが、ぼんやりとしているのはその表情だけではなかった。身体の境界が曖昧になり、姿自体も薄れかけているように見える。
「やばいですっ」
 翠星石の声が合図になったように、ジュンは『真紅』の座る椅子に駆け寄った。『真紅』は彼に視線を向けたが、その視線にも力はなかった。
「おい、どうしたんだ急にっ、やっと名前だけでも分かったっていうのに」
 思わずその両肩に手を掛け、思い切り揺する。『真紅』の身体は柔らかく、弾力も感じられるのに、何処か紙風船のように脆く危うい感触を伴っていた。蒼星石が劣化の進んだ吸水スポンジに喩えた感触だった。
 翠星石は椅子の反対側に回り、肘掛けに手を掛けて身を乗り出した。
「自分を確り持つのです、『真紅』。下手するとこの場から消えるだけじゃなくて、魂そのものが自分を見失って彷徨ってしまいますよ」
 『真紅』は二人の声など聞こえていないように、相変わらずぼんやりとした表情のままジュンを見上げた。ゆっくり数回瞬いて、初めて彼を見たかのように問い掛ける。
「あなたは……?」
 手の中の感触はますますあやふやになってしまっているように思えた。ジュンは焦りのために上ずった声で問い掛けに答える。
「僕か? 僕はジュン、桜田ジュンだ。それと、は、反対側にいるのが──」
 何かのスイッチが入ったように、『真紅』の瞳に光が戻った。

「──ジュン?」

 思いもかけなかった大きな、はっきりとした声が響く。
 力無く垂れていた両手が持ち上げられてジュンの服の袖をぎゅっと掴む。反射的にジュンは手を引こうとしてしまったが、思い留まるまでもなく『真紅』の手は意外なほどの力で彼の袖を捉え、それを許さなかった。
「ジュン……ジュンなの? あなたが?」
 縋り付くような声だった。急に実在感を取り戻して真っ直ぐに見上げて来る大きな瞳に、ジュンはただ頷くしかなかった。


「雪華綺晶にボディを与えて……いいえ、自分に都合の良い言い方は止めましょう。器を奪われて、それでも私は自分を保っていた。表層意識で気にしていたのはボディとローザミスティカの行方だけで、魂のことなど考えていなかったのに……」
 真紅はもう一杯お茶を飲み、ふう、と息をついた。『蒼星石』がその茶碗にお茶を注ぐ。和装が似合いそうな、慣れた手つきだった。
「それだけ桜田ジュンに深く恋をしていた、って感じ?」
 水銀燈は意地悪く訊いてみた。
「なんだかんだ言って本心では彼にもう一度逢いたかった、とか」
「今更否定はしないわ。でもそれだけではないと思うの」
 真紅は照れたように顔を火照らせて微笑んだ。伏目がちになり、確りした口調で続ける。
「雪華綺晶が言っていたの。私はとても頑固で、あまりにも頑な過ぎて本心さえ見えなくなっていると。それは自分の本心を覆い隠すほど強固に、表向きの目的を自分自身に信じ込ませていたということでもあるのだわ」
「なるほどね……」
 水銀燈は頷いた。真紅がそれこそあっという間に自分のボディに戻り、むしろ何事もなかったように生き続けていることの理由が分かったような気がした。

 少なくとも真紅は自暴自棄になって計画を口実にして雪華綺晶の元に向かったのではなかった。いや、実態はそれに近いのだが、本人すら意識上ではそれを認めていなかった。
 彼女はあくまで大真面目に計画を遂行するために雪華綺晶に会い、最終的には強引な方法でボディを乗っ取られ、自分の本心についても図星を衝かれたらしいが、自分で決めた役割そのものは完遂した。
 直後に雪華綺晶の命が断たれなかった場合、彼女が真紅のローザミスティカを翠星石なりジュンなりに素直に渡したかどうかとなると疑問符がつく。恐らくそれを利用して姉妹と何等かの取引をしようと試みたのではないか。
 もっとも当時の真紅の視点で見れば雪華綺晶がどういう行動に出てもあまり関係はなかった。ボディを得たことで、糧とされているオディール・フォッセーが不要となり解放されれば──たとえ相変わらず雪華綺晶と偽りの契約を結んでいても──それで良いはずだった。
 真紅は粛々と自らの計画の第一段階を終えたのであり、ボディを得た雪華綺晶がどう行動しようとそれは雪華綺晶自身の問題だ。彼女としては、次に自分が呼ばれるまでの長い待機に入っただけだった。
 待機であるからには、当然次のステップに進んだときに遺漏がないように状況を整えておかなければならない。呼び戻され易いように確りと自我を保ち、自分の名前も忘れることなく、記憶も連続させておく必要がある。
 意思堅固な彼女はそれを実現してしまった。これは「死」ではない、自己のありようを忘れて「魂が遠くに行く」訳でもない、ただボディを貸し与えるための方便として魂が分離するだけなのだ、と強固に思い込んでいたから実現した事柄だった。

 水銀燈は椅子に背を預けて鼻を鳴らした。つい気に入らないことを考えてしまったからだ。

──蒼星石があの時点で賭けに出ることに決めたのは、真紅の帰還を間近で見たせいでもある、ってこと。

 そう見て良さそうだった。蒼星石にしてみれば、お膳立てが全て整ったように見えたことだろう。
 賢いヒロインは何も知らない愚鈍な悪役に取引を持ち掛け、相手の欲求をダシに使って自分の目的を見事に果たしたという訳だ。実に気に入らなかった。
 いつか、とんでもなく高い店でフルコースくらいは奢らせようと思う。上物のワインも付けて。最低でもそのくらいはさせないと気が済みそうにない。
 それは蒼星石だけでなく自分も人間として生きていなければ不可能な事柄だということに、彼女は気付きもしなかった。いや、気付いていても媒介由来の知識を無意識の内に引き出して混ぜ込んでいたのだと思っただろう。

 真紅は水銀燈の内心など知らないように、淡々と、プライドの高い彼女には恐らく口にしづらいはずの話を続ける。
「私が雪華綺晶が最後に伝えて来た内容を噛み締めて反芻することになったのは、nのフィールドの中で……無意識の海の何処かで目覚めてから。彼女の言葉を思い出したこと自体、記憶が連続していなければ不可能だった」
 生真面目な顔ではあったが、表情に暗さはなかった。頬はまだ先程の火照りを残している。それが彼女が生きている証のようにも見えた。
「長い時間を経過してしまえば、次第に私は記憶を失って行き、自己認識も曖昧になって無意識の海に溶けていったでしょう。でも、そのときは──姉妹達やジュンが呼び戻してくれた時点では、私は自己も記憶も全て保てていた」
「そして元々の計画どおり、呼ばれたら帰って来るつもりも満々だった訳ね。図々しいったら」
 水銀燈は大仰に肩を竦めてみせたが、その口調に非難するような響きはなかった。
「それだけのお膳立てが内外共に揃っていたからこそ、貴女はあっさり戻って来て、何事もなく生き続けている。そういうことね」
「そのとおりよ」
 真紅は顎をやや引いた姿勢から小さく頷いてみせた。目を上げ、一同を見渡す。
「前置きが長くなってしまったけれど、前提条件が全て整わない限り、魂はそう都合よく呼び戻せるものではないということ。私の事例は、少なくともナナの──『蒼星石』の姉妹達にはそのまま適用できないのだわ」
 そこで真紅は躊躇するような間を置いた。言うのが恥ずかしいという意味合いではなく、何処まで言ってしまって良いのかを思案するような雰囲気だった。
 水銀燈はちらりと『蒼星石』を見遣った。彼女は前を向いたまま、遠くを見るような目になってしまっている。
 今の話を聞いて呼び戻す作業の迂遠さに不安を感じたのか、とも考えたが、どうもそれだけとは思えない。何か、彼女なりの懸念があるようだった。
 どうしたのか、と問い掛けようとして水銀燈は言葉を飲み込んだ。真紅が続きを話し始めたからだ。

「昨日の晩、奇妙な夢を見たの。
 最初は自分の願望が無意識に見せた明晰夢かと思ったわ。でも、すぐに気が付いた。その場に登場する人々も、その風景も見慣れたものとは少し違っていたの。
 多分あれは──」

 ちらりと『蒼星石』に視線を向ける。彼女は既に表情を引き締めて真紅を見ていた。
「──ボク達の世界、『真紅』の記憶だった……?」
 真紅は頷く。やや緊張した空気が両者の間に生まれた。
「あの内容が事実なのか、彼女の現在の願望なのかは分からないわ。だから即断してはいけないけれど、もし現在も彼女が夢の中のとおりに過去を引き摺り、今を考え、未来を望んでいるなら」
 辛そうに目を伏せたが、言葉はどうにか続けた。
「呼び戻すことは、彼女のためには……貴女達姉妹のためにも、そしてもしかしたら私達にとっても良いことばかりではないかもしれない」


「ジュン……ああ……」
 赤い衣装がひらひらと踊り、身体はかたかたと震えている。顔は希望と期待に満ち溢れ、その輪郭もぼんやりとしたものからはっきりと分かるように戻った。
「愛してる……愛してるわ、ジュン。もう放さないで……」
 あまりにも明け透けな言葉に、ジュンは赤面することもできなかった。むしろ、何か冷たいものが背筋を駆け抜けていったような気がする。
 違う。何かが、例えば真紅や翠星石とは決定的に異なっている。
「ああ……ジュン……!」
 『真紅』は掴んでいた袖を放した。両手が解放されたジュンが何か身振りをする暇もなく、彼女はジュンの胸に縋りつく。
「もう逢えないと思ってた……抱き締めて……別れた日みたいに」
 真上を向き、魅入られたように彼女を見詰めるジュンの顔を瞬きもせず見返しながら少しずつにじり寄る。顔と顔が近付いた。
「よ、よせ……何するんだ」
 引き離そうと胴体を掴んだものの、上手く力が入らなかった。混乱しているからというだけではない。邪険にしてしまって良いのかと躊躇してしまってもいる。
 『真紅』はそんな彼の状態には無頓着に、優しく微笑んで顔を近づけて来る。
「お、おい、よせって……」
 顔がほとんど重なりかけたとき、『真紅』の肩に細い手が掛けられた。『真紅』は一瞬で表情を引き締めて顔を引き、その主を睨みつける。
 翠星石は強い光を放つ瞳に射竦められたような気分になりながら、それでも声を張り上げた。
「なっなにやってやがるですか、どさくさに紛れてっ。感動の再会はいいですけど先走り過ぎで──」
「邪魔しないで!」
 『真紅』の手の中に何かが現れた、と思った次の瞬間、翠星石はもんどりうって椅子の肘掛けの上から払い除けられ、傍らのテーブルに背中をぶつけてから床に落ちていた。
 痛みで声も出せない。棒のような物で胴の辺りを横殴りにされた、というのは分かったが、それが何なのかは確かめることもできなかった。
「翠星石!」
 頭の中が真っ白になった。縋り付いているドールへの思い遣りなど忘れてしまい、ジュンは片手で尚もしがみついている彼女を力づくで跳ね除け、倒れている翠星石を抱き上げた。
「大丈夫か、怪我してるとこは?」
「ボディにヒビとかはないですよ。この程度で翠星石は壊れません」
 でも凄く痛いです、と言いながら、翠星石は薄く微笑む。ジュンはほっと息をつくと、彼の恋人をきつく抱き締めた。

「ジュン……どうして」
 背後から掠れた声が上がった。
「何故その子なの……? わたしは……」
 ジュンはぎりぎりと音がしそうなほどぎこちない動作で振り向いた。相手が何を始めるか分かったものではない、という恐怖のようなものがあった。
 しかし、それは杞憂だった。
 『真紅』は立ち尽くして、呆然とこちらを見ているだけだった。瞳は不安定に揺れ、片手には先程使ったと思しい短いステッキが握られていたが、それも力無く下げられている。
「わたしがいない間に、スイセイセキを好きになってしまったというの、ジュン……」
「待て、お前の記憶は混乱してるんだ。僕達はお前の知ってる『ジュン』とは別の世界の」
「わたしでは、駄目だったの?」
 『真紅』は首を振った。明らかにこちらの声は届いていない。
「抱き締めてくれたのに……腕も直してくれたのに……『お父様』を呼び寄せてさえくれたのに。どうして、今になって……?」
 涙を流しながら問い掛けてくるドールを、ジュンと翠星石は無言で見返すことしかできなかった。
 彼女は此処に居ても、こちらを見ていない。顔はジュンを向いていながら、その視線は別のもの──恐らく彼女の『ジュン』──を見詰め続けている。こちらの言葉は届かない。そもそも、既に相手は言葉を聴き取れないのかもしれない。
 そのまま叫び出すでも立ち去るでもなく、ただ、また姿を薄くして行く『真紅』を、ジュンは苦い思いを噛み締めながら見送った。自分の不用意な言葉が彼女を傷付けたと考えるべきか、自分が漏らした一言が劇薬として働き、一時でも彼女の姿をはっきりとさせたと自画自賛すべきか分からない。
 決定的に誤解させてしまったのは、明らかだった。だがそれも彼女が次に何処かに姿を現したり、元のドールボディに戻って再び現実世界に立ったときには忘れてしまっているかもしれないことだ。
 もどかしい気分だった。何かをしてやらねばならない、しかしそれは自分には容易に実行できそうにない事柄のように思えていた。



[19752] また140ほど。 真紅の考え。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/04/24 07:58
どうも書いてるうちに本筋を見失う病に罹ってるみたいで、50行ほど進めては消しを繰り返してしまいました。
こういう試行錯誤って細かいところまで詰めてないときの典型ですよね。
反省しきり。


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 契約者は第五ドールを愛していた。第五ドールも契約者を愛していた。
 文字で書けばそれだけのことだ。しかし、そこには真紅が当然あって然るべきと思っていた、ある種の線引きをされた関係以上の──あるいは「以外の」──繋がりが存在していた。

 夢の中で真紅が見たのは、ジュンの部屋とは少し趣の違う、やや手狭でいかにも日本の住宅の子供部屋といった雰囲気の場所だった。
 六畳ほどの間取りの中には机とベッド、箪笥などが配され、眼鏡を掛けた少年が机に向かっている。ベッドの上には赤い衣装のドールがちょこんと座り、古いドイツ語の本を読んでいた。
 これは自分の願望なのか、と真紅は考える。部屋は小さいけれどもその分距離は近い。彼の近くに居たくて椅子の近くに座り込むのでなく、間近に彼の背中を見ながら──それは彼を独占しているという意味合いなのだろうか?
 部屋の中には、しかし鞄は四つ存在している。自分と翠星石と雛苺、あとの一つは……蒼星石の分だろうか。
 二つが床の上にあり、そのうち自分のものと思しい一つが開いているのは良いとして、残り二つが立てられているのは不可解だった。蒼星石のものは縦にしているが、もう一つはどちらの鞄なのだろう。
 『水銀燈』の特徴的な鞄が無いのも寂しかった。表層意識では多分蒼星石や水銀燈よりも『水銀燈』の方を近しく思っているのに。

──まさか、私は翠星石やあの子の居ない状態を欲しているというの。

 雪華綺晶が指摘したように、自分は異常なまでに強固な表層意識を保っているらしい。建前、と言ってもいい。
 ならば本心ではこういった在り方を望んでいるのだろうか。邪魔者の居ない、ジュンと二人だけの世界を。
 そんなことはない、と思いたかった。翠星石が今を謳歌しているのとは違っていたとしても、自分もまたかけがえのない今が続くことを望んでいる。そこに居るのがジュンだけでは、到底完全な形とは──

「──まだ終わらないの?」
 本から目を上げずにドールは尋ねた。
「ちゃんと予習しておかないと、ブランクは埋められないんだ。僕はやっと追いついたところなんだから」
 眼鏡の少年は目を上げずに答えたが、シャープペンシルを置き、広げていたノートと教科書を閉じた。
「でも、もう済んだよ」
 椅子を回してドールを振り向く。やや男の子らしい顔立ちをしているが、それはジュンだった。
「お前もそろそろ眠れよ。もう九時なんか軽く回っちゃってるぞ」
「家来の癖に私に命令するの?」
 ドールの声は凛としていたが、甘えるような響きも含まれていた。そっぽを向いて頬を膨らませる。
「……分かってる、くせに。意地悪……」

 呟かれた言葉に真紅はぎくりとした。
 どちらかと言えば拗ねたような言い方だ。だが、そこに含まれる蠱惑的な響きは、ごく最近聞いたことがある種類のものだった。自分を抱き締め、唇を奪い、人間であれば最も敏感な部分を執拗にまさぐったときに、雪華綺晶が発した言葉と同じ艶かしさを持っていた。
 まさか、と思う。

──自分はそういう関係を望んでいたのだろうか。

 いや、しかし自分にそもそもそういった感覚が作り付けられているのか、それさえも彼女は知らない。少なくとも、雪華綺晶が仕掛けてきた行為では、彼女の身体は全く反応しなかった。
 混乱している彼女をよそに、眼前の光景は動いて行く。

 ドールは分厚い本を閉じ、脇に抱えてすとんとベッドを飛び降りた。そのままつかつかと部屋を出て行こうとするが、ジュンは椅子から立ち上がっただけでそれ以上の動きは起こさなかった。やや途惑ったような表情をしているだけだ。
 戸口まで歩いて行き、ドールはちらりと後ろを振り返る。やや頬を染め、何かを期待するような視線をジュンに向けた。
 ジュンは、ああ、というような表情になる。彼は繊細なくせに、いやそれ故かもしれないが、他人の想いに疎いところがある。夢の中でもそれは同じようだった。
「……ごめんよ」
 ジュンはドールに歩み寄り、彼女の手にした本を受け取って机の上に置くと、ボンネット調のヘッドドレスを外して髪を撫でた。
「スイセイセキが眠るのを待ってたんだな」
「……知らない」
 ドールはつんと拗ねた顔でそっぽを向く。ジュンはその髪も解いてしまった。
「ストレートの方が似合っていて……?」
「僕はどっちも好きだよ」
 ジュンはそっとドールを抱き上げる。ジュンが真紅や翠星石にいつもしているような抱き方でも、少年が蒼星石にしていたような赤ん坊抱きでもなく、正面からの抱擁だった。
 抱き合ったままベッドにそっと彼女を横たえ、小さな声で何事かを囁きながら顔を寄せて行き、唇を重ねる。
 翠星石とジュンを見るようなものだ、と真紅は思っていた。いや、そう思い込んでいたかった。だが、そうではなかった。
 二人の手が忙しく動き、ドールの口から遂に甘やかな嬌声が漏れ始めた。明らかに二人は──

 正視できなくなり、真紅は頬の火照りを感じながら視線を逸らした。脱ぎ捨てられた赤いドレスが目に入る。黒いフリルは裾に付いていなかった。
 ややあって、真紅が目を閉じて首を振ったとき、夢は急速に醒めていった。その場にドールとジュンを置いて真紅が消え去る形で。


「……それは、行き過ぎた関係って言えば良いのかしらね、流石に」
 やや脱力したようになり、水銀燈は額に手を当てた。真紅の話はいつになくたどたどしく、彼女らしくなく妙にあっさりしていた。
 要するに、言いたくないようなところまで実際は見せられてしまったのだが、その辺りは話すのも憚られるのだろう。真紅らしいと言えば真紅らしい潔癖な反応だった。
 真紅の夢を弄り、恐らくは『真紅』の見ていた幻影と繋げてみせたのがラプラスの魔だとすれば、とんだ助平根性を発揮したものだ。後で問い詰めてやる必要があるかもしれない。
 しかしそれにしても、と息をつく。
「そこまで行ってるって話は知らなかったわよ、私は。何度か仄めかすような態度は取っていたし、最後の段階ではそうなってもおかしくはない状態ではあったけど」
 なんて皮肉な、と吐き捨てる。
 そもそも『真紅』は最も究極の存在に近いとされ、特別な扱いを受け、高潔で完璧を目指していたドールではなかったか。それが、契約者とある意味で──『真紅』的な観点からすれば──堕落した関係に陥っていたとすれば、ナナに頑なな態度を取り続けたというのも、姉妹それぞれをばらばらに分散させようとしたのもまた別の意味合いを持って来る。
 それとも、肉体関係や色恋沙汰は究極の存在となるための要素の一つだと割り切った、いや自己欺瞞していたのか。
「私達の世界群が、彼の知っていた漫画と細部が異なっているように」
 結菱老人は面白そうな顔になっている。彼としては、少なくとも今のところは自分の契約したドールの姉妹の情報でもある。こういう話についても下衆なものでない部分の興味も湧くのだろう。
「あちらの世界群も、そうなのだろうな。今後、君はそのギャップに苦しめられるかもしれんぞ」
「止めて。縁起でもない」
 水銀燈は空いている方の手をひらひらと振ってみせた。ありもしない頭痛がするような気がしてくる。
「そんなモノがこれ以上顕在化しない内に、とっとと一段落させて自分のゲームに戻りたいところよ」
「娘のためには是非ともそうして貰いたいが、この子のためには」
 老人は珍しいことをやってみせた。『蒼星石』の頭に手を載せ、軽くその髪を撫でたのだ。蒼星石には殆どしなかった事だった。
「おざなりにせず、道を示してやってからにして欲しいところではある。難しいものだ」
 なるほど、と水銀燈は老人の言葉の字面とは全く別の部分で、あることを了解した。
 老人は『蒼星石』をドールとして、自分をその庇護者として捉えているのだろう。契約を結ぶ際の経緯からすれば当然の帰結かもしれない。

 これも当然のことだが、蒼星石との間柄とは違う関係だった。
 老人は蒼星石を、最初は自分の目的を果たすための道具という視点を主にして見ていたはずだし、彼女の方でも老人の剣の切っ先として精一杯行動した。
 蒼星石も単に滅私奉公している訳ではなかった。老人の願いを聞き届け、真の意味で叶えることで自分の長い間の模索を決着させたかった。二人はお互いに相手の状況を利用し、一つの目的を共有した共犯者だった──言葉の綾ではなく、まさに殺人という犯罪に手を染める寸前までも行っていた。
 復讐劇が未遂のまま幕を下ろすと、老人は今度は彼女をドールというよりは自分の最も親しい家族として、一人の少女として接した。最初は負い目のようなものもあったかもしれないが、少なくともお互いに表に出すことはなかった。
 老人が臆面もなく娘と呼び、蒼星石も養父とまで言ったのも、意外ではあったが理解はできる。老人と蒼星石は似た者同士であり、それぞれの負の面も理解していた。その似た者に対して持っている色恋以外の深い連帯感と愛情に、一種の責任を持とうという覚悟をしたということだ。
 例えば目論見が成功裏に終わって人間として帰還した場合、蒼星石がどういう厄介事を背負い込むことになるかは分からない。しかし、老人は強引な手段を用いても蒼星石をごく普通の人間として暮らせるように手配りをするはずだ。
 蒼星石も、彼が死ぬまでその面倒を看るつもりなのだろう。もはや鞄で眠る乙女ではなく一人の泥臭い人間として、庭の薔薇だけでなく、彼自身を含めたこの薔薇屋敷全体に責任を持つ覚悟があるということだった。

 このドールとの関係は、あくまで片務的なものだ。『ローゼンメイデン』とミーディアムとの正しい関係なのかもしれない。
 だからこそ、老人は柄にもない善人面をしていられるのだろう。
「何度も言うけど長引かせるつもりはないし、これは最終的にはその子達の問題。私はお節介をしようとしてるだけ。目処が立ったら全員が戻らなくても手を引くわ」
 既に休戦の交渉に出向いたときに示した最低限の条件は達成している。ただ、真紅の話を聞く限りでは今後の方がより一層面倒が多くなりそうだった。
「でも、もし真紅の見た夢が『真紅』にとっての真実だとしても、それだけで彼女を呼び戻さない理由にはならない」
 『蒼星石』をちらりと見遣る。彼女は同意も不同意も示さずにこちらを見ていた。
「末妹に騙し討ちに遭った三体は元の姿──あるべき姿とは言い切れないけど──に戻す義務があるような気がするのよ。それは彼女達にとって自然なことではないし、私達ならば、いいえ彼女達であっても本来は見えざる手によって回避されていた出来事でしょうから」
「それには同意するけれど……」
 真紅は水銀燈を見詰め、彼女らしくなく不決断に口篭もった。『蒼星石』に視線を向けて続ける。
「『翠星石』は多分、双子の妹の貴女が居る場所に戻りたいと願っているのでしょう。もし結菱さんが同意されるなら、契約を交わして呼び戻したとしても、彼女は喜びこそすれ不本意とは思わないはずよ」
 それは不確実な夢の中の体験ではなく、短い間だが触れ合ったことのある『翠星石』自身の態度や言葉として聞いていることだった。

「……でも、他の子達はどうなのかしら」

 視線をテーブルの上に落とし、やや小さな声になる。
「分岐の可能性を失った世界の何処を探しても、ミーディアムは居なかった。『水銀燈』はそう話してくれたわ」
「異論を差し挟むつもりはないが、ナナはそれを簡単に見付けたという話ではなかったかね」
 結菱老人は小首を傾げた。水銀燈も頷く。
「316号と716号。単純な病室違いだったって話じゃないの。探し方が不味かっただけでしょ、そうなると」
 少なくとも、蒼星石が地道と評したように常に手作業で時間を掛けて探索をしている水銀燈にとっては、わざわざ訪れた世界で同じ病院の中を完全に探索もせずに相手が居ないものと決め付けた『水銀燈』の遣り方は早計と言うより粗忽だった。本腰を入れ、何となればその世界の住人を媒介にして調べさせるという手も使えなくはなかったはずだ。
 恐らくは幾つかの世界で本腰を入れて捜索した後で消沈していたのだろうが、自分なら逆に捜索範囲を広げてみるところだ。この──世界樹の幹が司る──現実世界には柿崎めぐが居るのだから、わざわざ末節もいいところの廃棄場の先の世界を探索する必要などない、とばかりに楽な方を選んだようにも思える。
 但し、「楽な方」という意味合いには手を抜くという意味合いよりも色濃く「楽になれる」という絶望的なニュアンスが含まれていたことは想像に難くない。決闘をして早く楽になってしまおうという──『蒼星石』が言い及んだこととも似た──意味合いだ。
「ええ、ナナはそう言っていた」
 真紅は水銀燈に思い巡らす時間を与えたかのような間を置いて肯定した。
「彼女達にしてみれば、少しでも元々のミーディアムに近い状況に置かれている人物と契約をしたいと思う気持ちがある、とも言えるでしょう。316号室に同姓同名の同一人物が居たからといって、即契約という考えを持ったかどうかも分からないわ」
「その割には716号に入院してるこの世界の柿崎めぐを取り合う破目になったじゃないの」
 水銀燈は呆れ顔になって肩を竦めた。すぐに真顔に戻って真紅に視線を戻す。
「理屈は破綻してるけど……まあ分からなくもないわね」

 筋はまるで通っていない。だが、心情は理解できる。
 水銀燈自身、時代を越えて鞄の中の眠りから目覚め、薇を巻かれたとき、無理だと分かっていても以前の媒介や鞄の中で想っていた相手に近い人物を探してしまうことがあった。いや、そんな昔の話だけではない。この時代、それもあの媒介が去った後にも彼女は筋の通らない色恋をしている。
 名の無い人形のボディを作った男に一目惚れに近い感覚を持ってしまったのは、彼のお節介な優しさが嬉しかったから、だけではない。生まれ変わる前の媒介と同一人物だったから、彼の中に媒介の面影を見出してしまった側面もある。
 もちろんナナの姉妹が欲しているのは色恋の相手ではない──『真紅』の場合は色恋の相手でもある訳だが──けれども、誰かを求める気持ちという点では同じことだ。

「『金糸雀』もマスター……ミーディアム、と呼びましょうか。その人物に逢いたい、もう一度契約したい、と言い続けていた……あの子はそう言っているわ」
 真紅はまた言い淀むように口を閉じたが、すぐに続けた。
「彼女達にとって、最後に過ごしたミーディアム達はそれだけ印象深い、いえ、深い愛情の対象だったのでしょう。だから、それに少しでも近い人物を求めてしまう。そうは考えられなくて?」
 結菱老人はふむと鼻を鳴らすような声で相槌を打った。車椅子の肘掛けに片肘を突き、そちらの指で額をとんとんと叩く。考えを整理するときの癖らしい。
 水銀燈はちらりと彼を見遣り、そうね、と短く答えた。自分もテーブルの上に両肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せてテーブルに視線を落とす。
 話は一続きに続いているが、真紅の説明は回りくどく、いつにも増して分かり難い。彼女の中では結論もそこに辿り着く筋道も明確なのだが、核心の部分を話したくない、といったところか。
 真紅にしては珍しいことではあるが、彼女の心情をいちいち斟酌して分析する気分にはなれない。正直なところ、水銀燈はそろそろ焦れてきていた。
 思い切り端折って、自分の言葉で言ってしまうことにする。

「彼女達、というよりこの場合は『真紅』と限定していいわね。『金糸雀』も殆ど同じでしょうけど。
 彼女のミーディアムに近い人物は並行世界を横断しながら同一人物を探しても見付け難い。そもそもの成り立ちが違うこの世界群で彼女の好みに一致する人物を探すのは、元の世界群で同じことを試みるのとは訳が違うから。
 敢えて言えばこの世界群の中でただ一人ずつしか存在しない、私達の薇を巻いた契約者が、生い立ちや今の姿は違っていても素養という面では最もそれに近い。しかしその人物には他ならぬ貴女という存在が居る。
 例えば貴女を殺して成り代わったとしても意味はないっていうのが一層救いの無いところね。契約者が愛しているのは何処までも貴女であって彼女ではないのだから。
 彼女がミーディアムに似た存在に拘り続ける限り、名前すらない廃棄場の扉のどれかの向こうに似たような人物が存在して、それを首尾よく探し当てるという偶然に頼るほか、根本的な解決策は無いでしょう。
 そして貴女が言いたいのは、結局こういうこと。
 解決策が無いのであれば、いっそ彼女にとって安楽な漂泊の旅を続けさせた方がいい。器に呼び戻したとしても、彼女も彼女の周囲も苦しみや厄介ごとを背負い込むだけだから。
 ……大体当たってるんじゃない?」

 一気に言ってしまって、どうなのか、という顔で真紅を見詰める。
「ええ、ほぼ合っていてよ」
 真紅は苦笑しながら肯定した。

「付け加えるなら、『水銀燈』はそれを……偶然の産物で、しかも不器用な方法だったけれど、既に実現してしまった。
 あの子は雪華綺晶の作った子と争い、融合を果たして、結果として自分の契約者だった人物の傍に居られるようになったから。
 そういう例が目の前にあるのに、『真紅』と『金糸雀』は──多分『雛苺』も──あの子と同じように元の契約者との関係を築く訳には行かない。それは、全てを失ってしまった彼女達にとって酷な現実なのだわ」

「自分はどうにもならない迷路に落ち、一番の因縁の相手が今度は幸せを掴んでしまった、か……」
 老人は呟いて水銀燈を見た。額に指を遣るのは止めて、茶碗に手を伸ばす。『蒼星石』が気付いて急須から彼の茶碗にお茶を注いだ。
「戦いに持って行ければ、楽なのだろうな」
 水銀燈に視線を向けたまま、老人は悠然と茶碗を口に運んだ。『蒼星石』にありがとうとも言わないところが彼らしくもあった。
「そっちには行かないでしょうね」
 水銀燈は組んだ手の上に顎を置いたまま、少しばかり肩をそびやかしてみせた。
「別々の物質世界に分散してそれぞれが究極の存在へ向かおう、というのが彼女のお題目だったもの。今更姉妹を攻撃して動力源を奪い合ったら自分自身を全否定するようなものじゃない。プライドが高くて完璧主義の彼女はそれに耐えられないでしょうよ」

 言いながら、自分が言うのも変なものだ、とふと考える。
 変というよりは、偉そうなことを言えたものではない、と言った方が正しいかもしれない。
 彼女の中には──皮肉なことに、全て自分から仕掛けた戦いではなかったが──姉妹との決闘じみた戦いに勝利して入手したローザミスティカが収まっている。それも過半数となる数だ。
 恐らく戦うために力を付与され、全体的にかなり好戦的な性向のある『真紅』達姉妹がどうやらゲームに拠らない方法を採りそうな按配なのに、決闘に向かないはずの彼女達は殆どゲームの最終面に差し掛かっている。それも、彼女自身が主導してきた結果として。

「貴女は戦いまで想定しているのね、真紅」
 念のために聞いてみると、真紅は軽く頷きを返した。
「哀しみに溺れてしまっていれば、その可能性はあると思っているわ」
 それは自分と同じ名前を持つドールを軽く見た言葉とも取れるが、冷たい響きはなかった。恐らく彼女は自分自身に照らし合わせて考えているのだろう。

「行き過ぎた関係、いえ、間違った方向に進んでしまった関係ではあるけれど、強い愛情自体は本物だった。私にはそう見えたもの。
 それを失ってしまった上に、雪華綺晶に甘美な夢を与えられ、呼び戻されたところには一人だけ幸せを掴んだ子が──しかも雪華綺晶と共謀して彼女たちを襲った子が──居る。潔癖な彼女は自分を許せなくなる前に、あの子を許せないと感じてしまうのではないかしら」



[19752] 200ほど。 どんより世界の二人。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:bea3f44c
Date: 2011/04/27 20:31
※4/27 末尾部分中心に手入れ。

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 ドールの気配が完全に消えるのを確かめ、ジュンは長い息をついた。
 腕の中からも小さな吐息が上がる。はっとして腕を緩めると、翠星石は元気にそこから滑り出た。
「きつく抱き締めすぎです。苦しくて息ができなくなりそうでしたよ」
「人形だし、こんなところで窒息とか有り得ないだろ」
 ジュンは照れ隠しに減らず口を叩いた。
 意外なことに、翠星石は言葉を返さなかった。いつもは即座に二言三言は反撃してくるのだが、黙って『真紅』の座っていた椅子を見上げている。
 翠星石が減らず口に対してわざと素っ気無かったり烈しかったりする言葉で反撃してくるのは、話を聞いているし、落ち込んだり気を悪くしてもいない、というサインのようなものだと最近ジュンは気付いていた。それをしないということは、何か思うところがあってのことに違いない。
 翠星石は椅子に登ってみることもなく、暫くそのまま見上げ続けていた。椅子そのものに何か思いがあるのかもしれない。
 やがて、彼女は振り向いてジュンを見詰め、意を決したように言った。
「──ジュン、人形と人間だったら、どっちがいいですか?」
 咄嗟にジュンがその言葉の意味を測りかねていると、自分でも意味が通らない台詞だと気付いたように首を振り、もう少し言葉を足して言い直した。

「ずっと一つ所に居てくれて、その場から去ってしまうことも成長したり老いることもなくて、ジュンだけをいつも見詰めていてジュンの思いの侭になる、貴方を決して裏切らないお人形。
 自分の世界を別に持ってるかもしれない、その心の奥に何を秘めているのか理解できないところがあって、ジュンと同じように成長して、いずれは老いて醜くなり、心変わりするかもしれないしジュンのことを嫌いになるかもしれない人間の女の子。
 ジュンだったら、どっちがいいですか?」

 ジュンは内心でそうかと納得した。それが、彼女がこんな場所までジュンを呼び出して尋ねたかった、いや相談したかった事柄なのだろう。
 色の違う瞳を見返し、ぱちぱちと瞬いてから左手の薬指を見る。真紅が契約を解除してから、薔薇の指輪は以前より小さくなっていた。
 今は翠星石と彼だけの、直接には翠星石だけと繋がっている指輪だ。
「僕は──」
 視線を上げ、翠星石をもう一度眺める。
 いつもと同じ緑の大きなスカートに黒のコルセット風のベスト姿。いつも忙しくしているくせにどんなときも部屋を守っていてくれて、外から帰れば必ずお帰りなさいと言ってくれる、彼だけの少女。
 お互いに心を深い何処かで共有し、裏切りたくても裏切ることができない契約を交わした間柄。左手の薬指──心臓と直接繋がっていると言われる場所──を指輪で繋いだパートナー。
 そして彼が唯一、彼女にとっても恐らく初めて、熱い恋をしてしまった存在。
 最後の一つは、ほんの付け足しなのかもしれない。それでも──
「僕は、翠星石がいい」
 言ってしまってから、照れと説明不足の恥ずかしさで顔を赤くする。
「あ、あの……その、僕は、今の僕はきっと、人間より人形の方が気構えないで接していられる。でもそれは……良いことじゃない。僕が、社会に対応できてないからだ。でも、それとお前とは別なんだ」
 いっそう赤く、言葉の方もしどろもどろになりながら、それでも翠星石の色の違う丸い瞳を見詰め続ける。

「翠星石が人形でも、人間でも──契約を解いて、僕には分からなくて見えない何かを抱えるようになっても──僕は、翠星石が好きだ。
 お前が変わらないまま僕と一緒に居続けても、成長したり老いたりしても……僕を振って何処かに行ってしまうことがあるとしても、っい、今の僕にとってはお前が一番なんだ。
 そ、そりゃ、僕がお前のことを理解できるようになったのは、元々は契約の力のせいかもしれないけど。でも今の僕には……、お前が人間か、人形かなんて、今の僕にとってはどうでもいいんだ。そんなこと、ほんのちっちゃなことなんだ。
 契約だって今なら、もしも解除されたって好きだっていう気持ちには関係ない。だから──」

 ジュンは翠星石に手を伸ばし、その小さな手を取った。
「──もし選ぶ必要があるなら、お前が好きな方に決めていいんだぞ。僕の気持ちはそんな小さなことじゃ変わらないから」

 翠星石はジュンの顔を見詰めたまま、泣けばいいのか笑っていいのか分からないといった風に、何度か口を開けては閉じた。
 何かを言おうと思っていたはずなのに、言葉になったのはジュンの名前だけだった。自分にしか聞こえないような小さな声で彼の名前を何度か呼び、そして何かを振り切るように首をぶんぶんと横に振る。
 決して彼の言葉を否定した仕種ではなかった。それが分かったから、ジュンは何も付け加えず、手を取ったまま何もせずに彼女の言葉を待った。
 大きな、色の違う丸い瞳がもう一度ジュンを見る。こんなときなのに縋るような色合いはなく、ジュンが無理をしていないかと推し量ろうとするような気配があった。
 やがて、安堵したように一つ息をつく。
「イマイチ優柔不断で自信なさそうでカッコ悪いし、結局大好きな翠星石の背中一つ押してくれないダメ人間ですけど」
 出てきた言葉はいつもの憎まれ口だった。
「そんなジュンだから、安心できるのかもしれないですね。翠星石は……」


 少年はこの一週間そうしているように、帰り道で友人と別れ、薔薇屋敷へのだらだら坂を上った。
 これまでのように蒼星石が待っている訳ではない。結菱老人も、彼が来るのを格別楽しみにしているという風情でもない。
 確かに蒼星石に代わって結菱老人が彼なりの剪定やら手入れを教えてはくれるのだが、庭仕事をしているときの彼は気楽に話しているときよりも更に気紛れで、その上他人に物を教えるということについては──少年の目から見ても──落第に近い。見本を見せて少年に作業をやらせても、少年が上手く出来ないとすぐに癇癪を起こしかけて自分で続きをしてしまうし、自分が車椅子の上に座っていることだけでも苛々することもあるようだった。
 それでも薔薇屋敷に通うのを止めようという気は起きなかった。蒼星石が帰ってくるまでその不在を埋めなければ、という義務感だけでなく、少年なりに薔薇屋敷の庭には愛着も出てきているし、庭仕事のようなことが嫌いではないことにも気が付いている。
 とはいうものの、蒼星石の帰って来る場所だから、という意味合いはやはり大きかった。角を曲がって屋敷が見えたとき、屋敷の塀の脇を通る間、いよいよ門を潜るとき、彼は耳を澄まして、聞き慣れた剪定鋏の音がして来るのを期待してしまっている。
 今日もその音はなかった。それでも、屋敷の庭に入った彼は、薔薇園の中をぐるりと見渡してみる。
 建前としては、薔薇の状況を確認していることになるかもしれない。それはそれで大事な日課ではある。だが実際には、彼の目は身体の大きさに不釣合いな剪定鋏を構え、台の上に乗って小さな背を精一杯伸ばして薔薇の手入れをしている小さなブルーの作業ツナギの背中を、その栗色の髪を探していた。
 未練って言うのかな、と思う。それもここ数日間は毎日のことだった。

 別れた日、蒼星石はきつく抱き締められながら、ごめんなさい、と彼に謝った。
「──アリスゲームの局面が動いたら、僕は水銀燈と戦うことになると思う」
「うん」
 少年は素直に頷いた。そうなるのだろう、という予感のようなものは、以前からあったような気がしていた。それに対する台詞も、随分前から彼の中にあったのかもしれない。
「謝る必要なんかないさ。蒼星石は蒼星石の、水銀燈は水銀燈の思うとおりに行けばいい。俺達媒介なんて、結局薔薇乙女のために選ばれた人形なんだから」
 傍目から見れば契約者が薔薇乙女を愛玩し、束の間の人形遊びをしているように見えるかもしれない。しかし、実際は逆なのだ。
 契約者という玩具を愛玩し、使い捨てているのは薔薇乙女の側だった。不完全な薔薇乙女が完全なアリスを生み出すために、そのためのゲームを遂行するために、必要な経験を積ませ、力を供給するための使い捨ての壊れ易い玩具が契約者だった。
 少年はそこまで深く自分から考えていた訳ではない。しかし、知っていた。
 蒼星石は吐息のような同意の言葉を漏らし、時間がないから手短に言うよ、と呟いた。

「僕はアリスゲームを止めたい。そのためには水銀燈と戦わなければならない。姉妹全員をアリスゲームへと導いているのは彼女だから。
 どちらが負けても貴方には辛い思いをさせてしまうことになる。
 でも──どうか、諦めないで待っていて欲しい。特に、僕が負けたときは……」

「──アリスゲームが終わっても……蒼星石が負けても、それで終わりじゃない。そういうことかい」
 少年が確認するように問わずもがなのことを口にすると、蒼星石は頷いた。
「多分、負けてしまったらゲームが終わるまでは貴方に会えなくなると思う。でも、終わりじゃない。僕は帰って来る」
 だから待っていて欲しい、と蒼星石は繰り返した。同じことを言ったのは時間に追われていたからなのか、強調するためだったのか、少年にはどちらとも判断できなかった。
 確かに理解できたのは、蒼星石が記憶を失う前の彼の言葉を自分なりに解き明かし、どう転ぶかまでは分からないけれども、ある程度自信を持って行動に出ようとしているということだった。
「そっか。信じて、いつ帰って来ても良いように準備して待ってればいいんだな。蒼星石が帰ってくるのを」
「……うん。待っていて」
 蒼星石は少年の頬に自分の頬を擦り付けた。
「もし僕が勝って帰って来れたなら──そのときは詳しく説明するから」

 その一言だけは、反故になってしまった。
 蒼星石は水銀燈に決闘を申し込み、敗れた。その魂は器を離れ、ローザミスティカは水銀燈の中に場所を移し、抜け殻になったボディは結菱老人から翠星石に渡された。少年の手許にやって来たのは、彼が雛苺のために購入し、ジュンが改造して蒼星石に似せた小さな人形だけだった。
 彼はそれを飾りもせずに仕舞い込んだ。いくらそのモデルになった少女に恋をしていたといっても、人形を愛でたり、話し掛けたりする趣味は彼にはなかった。
 それくらいならば、彼女の手の入った薔薇園で、その手で置かれたり使われていた道具を手にしながら待つ方がいい。

 少年は門から少しばかり入ったところで立ち止まり、ゆっくりとぐるりを見渡した。彼の素人目で見た限りでは、薔薇には大きな変化はないように見えた。
 何処かの陰から栗色の髪の少女が姿を見せ、ほんの微かに嬉しさを滲ませた微笑みを浮かべながら快活な挨拶をしてくるような気がしたが、数十秒待ってもそれはなかった。
 口には出さずに少年は呟く。

──俺はまだ未熟だし、弱っちいからさ。やっぱ寂しいよ。

 君に会いたいよ、と思う。もう会えないとは思っていなくても、彼女が居なくなってしまったこと、今までのように毎日会えないことには変わりはない。
 それは例えば『真紅』達のような、深い絶望と孤独に精神を蝕まれるような寂しさとは違っている。しかし、彼が寂しいと感じているのは事実だった。

 ふーっ、とわざわざ声に出して息をついてから、よっしゃ、やるかと気合を入れ直して肩をぐるぐると回す。そのまま玄関には向かわず、合鍵を預かっている倉庫の方に向かう。
 少年は屋敷に入っても、真っ直ぐに結菱老人の元に行く訳ではない。ブルーの作業ツナギに着替え、ひととおり道具を揃えた上で挨拶がてらご機嫌を伺いに向かうのが常だった。
 そこで老人の気分が向けば、薔薇の手入れの講習会となる。気が向かなければ少年は一人で庭の掃除やら雑用をすることになる。幸か不幸か薔薇園以外の仕事も、目処はついたといっても始めれば何時までも終わらないほど残ってはいた。なにしろ数十年間荒れ放題だった庭園の成れの果てなのだ。
「……あれ」
 鍵を回そうと合鍵を持ち出してみたが、倉庫の扉は細く開いていた。
 物盗りか、と一瞬考え、すぐにそれを打ち消す。倉庫の中には碌な物がない。盗みに入るなら屋敷そのものに侵入するはずだ。
 結菱老人でも来ていたのかもしれない、と考え、無造作に扉を開けると、そこには青い衣装に身を包んだ先客が居た。
「あ……」
 倉庫の中、ドールでも楽に手が届く辺りに整然と並べられた道具達をぼんやりと眺めていた『蒼星石』は、ぎくりとして少年を振り仰ぐような姿勢になった。
「ご、ごめんなさ──」
「悪い悪い、おどかしちゃったかな」
 少年は頭を掻きながら、まだタイミングが良くないなぁ、と内心で反省する。相手が何か言う前に機先を制して、言い難い事を言わせないようにしてやるか、相手が言い終わってから安心させるような言葉を掛けてやる方がいいはずだ。
 彼の契約した相手はそういう事柄を割合に気にする性質だった。但し彼女の場合は専ら相手の先の先を取ることを身上としていたし、上手く行かずに今の少年のように言葉に被せてしまう場合も多いのだが。
 蒼星石は案外無頓着に見えた。むしろ、一旦考えを完結させてから喋ることの多い彼女は他人に先んじられてしまうことが多かったかもしれない。そんなところが意外に少年と合っていたのだろうか。
 目の前で切れ長の大きな瞳をこちらに向けているドールは、どちらなのだろう。気にする方なのか、気にならないのか。
 どちらにしても、口から出た言葉は返ってこない。少年はにっと笑って続けた。
「その辺りのは、全部蒼星石が使ってた道具なんだ。その剪定鋏とか、結構お気に入りだったぜ」
「はい……あ、うん。マスターから聞いたよ」
 どうしても敬語や丁寧語を使いそうになってしまうらしい。彼女にとっては、少年にしてもその他の人物にしても、それだけ遠い、あくまで仮の契約者である結菱老人の周囲に居る存在ということなのだろう。
「機能的に並んでるんだね。なんだか道具を使っていた人の姿が浮かんでくるみたいで、見入っちゃってたんだ」
「作業もそうだけどさ、ちょっと大雑把なところはあったかもしれないなぁ。効率優先って訳でもないけど、手の抜き方みたいなのは知ってた」
 少年は作業しているときの蒼星石の姿を幾つか思い出してくすりと笑う。
「仕事は丁寧だけど、すごく几帳面って訳でもないんだ。ほら、道具置きもただの棚とかフックだろ。何処に何を置くかは細かく決めてないんだ。でも、ぐちゃぐちゃに置いちゃう訳でもない。ルールみたいなもんがあって、それに沿ってれば細かいことまでは気にしないみたいな感じだった」
「そっかぁ……」
 『蒼星石』は並べ方をもう一度確認するように低い棚の上を見直した。
「あなた……キミは、この棚の上の物は使ってないの?」
「俺にはちょっと合わないんだ。大きさとかさ。どうしても使うときは、同じとこに戻すようにしてる」
 相手が、あなた、と言いかけたときに感じたデジャヴのようなものは少年の心を刺激したが、彼はそれを仕舞い込んだ。分かっているから『蒼星石』も慌てて言い直したのだ。彼としては、なんでもないよ、というポーズをしていなければならない。
「じゃあ、この並び方は、彼女が残していったままなんだ」
「そういうことになるかなぁ」
 少年は気のない風を装った。こういう本心を押し隠して外面を繕うような会話は慣れていないが、覚えて行く必要があるんだろうな、と思う。
 蒼星石が好ましく思ってくれた彼の姿からは少しずつ離れて行ってしまうかもしれない。それでも新しい隣人や、他ならぬ彼女の不在を周囲に殊更に意識させないためには必要なことだった。
「何か、不自然なところとかある?」
「ううん、特にないよ。でも」
 『蒼星石』は道具の並びを見詰めながら、何かを理解したように頷き、にっこりとして彼を振り仰いだ。
「彼女が次にやろうとしてた作業が分かったかも」
 薔薇園に連れてってもらってもいいですか、とつい丁寧語が出てしまったドールに、彼は笑顔で頷いた。
 仮に蒼星石の残して行った作業があったとしても、重要なことならこの一週間ほどの内に老人か少年が終えてしまっているだろう。それでもこのドールが、恐らく懸命に蒼星石の想いを追おうとして考えてくれたことが嬉しかった。

 ドールを片手抱きにした少年が薔薇園に向かったのを、老人は展望室から眺めた。同じようには抱いてやらないのだな、と考える。
 それは老人も同じだった。蒼星石とは家族以上の繋がりがあると言い切れたし、少年との仲を認めながらも子供じみた嫉妬も抱き、年甲斐もなく蒼星石の唇を奪いもした。それは嫁入り前の一人娘を持ったやもめの父親の感情に近いものだったかもしれない。
 昨日始まったばかりの関係ということもあるが、そういった絆に喩えるなら『蒼星石』は老人にとって居候させ始めた外孫のようなものだった。素直に可愛いと感じるし、自分の目的が他にありながらもこちらに迷惑を掛けまいとしていたり、自分に似た少女のことを少しでも知ろう、理解しようとしているところも健気でいじましいと思える。
 そう思えてしまうこと自体が、蒼星石との違いだった。
 本当にそっくりであったり、外見は違っていても性格や言動が一致していれば、何かにつけて蒼星石を思い出してしまったかもしれない。幸か不幸か、服装以外では──服の細かい造作も違ってはいたが──ドールは蒼星石と似てはいても少しずつ、あるいは大きく違っていた。
 老人にしてみれば、むしろドールの扱いについて蒼星石と相談してみたかった。彼女ならここでどう考え、どう指導してやるのか。どう支えようとするのか。
 実際には、あまり他者との距離の取り方が上手くなく、自分の中に想いを落とし込む気味のある彼女は、ドールに対してどう接するかで老人以上に悩むかもしれない。それは理解しているのだが、気付けば老人はある意味で理想化した蒼星石の姿に内心で相談をしているのだった。

 詮無い事だな、と首を振り、ぐるりと車椅子を回して部屋を見回す。
 水銀燈は真紅を送るような形で老人の部屋を去り、部屋に居るのは老人だけだった。
 つい先程届いた手紙が、テーブルの上に置いてある。持って来たのはナナだったが、彼女も桜田家に向かっていた。
 あまりいい趣味ではないな、と独りごちながらテーブルに向かい、手紙を取り上げる。目立たないように普通サイズの封筒に入れられてはいたが、それなりに分厚い。中身はA4サイズの書類だった。
 広げて内容にざっと目を通しただけで、老人は溜息をついて書類をテーブルの上に放り出した。
 公的には老人と全く無関係の人物に関する調査報告は、それなりの費用を支払ったにしては大したことのない内容だった。もっとも、それは致し方のないことでもあった。
「……やはり大きく違っているようだな」
 捨てるか、とも考えたが、思い直して元どおりに書類を畳み、封筒の中に入れる。
 窓のところに戻って見遣ると、少年はドールを抱いたまま薔薇園を見て回っていた。
 可哀想に、と老人はぽつりと呟く。
 報告書は、柴崎元治という人物についてのものだった。水銀燈が名前を教えてくれた、元の世界群で『蒼星石』のミーディアムとなっていた人物だ。
 彼はこの世界にも存在していた。但し、かなり以前の時点で息子に小さな時計店を譲って隠居し、夫婦ともども数年前に他界している。
 その息子も不景気の中店を閉めて町を離れ、既にここには居ない。
「数多ある並行世界の何処かしらには、彼がまだ生きている世界もあるのだろうが……」
 自分を誤魔化すように呟きながら、彼は苦笑した。それは単に面倒ごとを他人に押し付けようと考えているだけなのだろう。
 『蒼星石』には、ここ以外に行き場がない。彼女もまた他の姉妹達と同じく、元の世界での居場所を喪っているのだ。
 違いがあるとすれば、結菱一葉という本来無関係な存在が、居候させてやってもいいと考える程度には彼女を好ましく思っていることだった。
「お前も同じ考えだと有難いのだがね」
 どうかね、と彼は蒼星石に問い掛ける。
 彼の心の中で早くも理想化され始めている彼女は、困ったようにぎこちなく微笑んで、お父さんの宜しいように、と言ってくれたが、大して慰めにはならなかった。実際のところは彼女が帰ってこなければ分かったものではない。
 確認するためにも早い内に帰って来て欲しいものだ、と考えたところで老人は肩を竦め、テーブルのところに戻って飲み物をグラスに注いだ。少しアルコールが欲しい気分になっていた。


 市街戦の後を思わせる、荒涼とした世界に真紅は立ち尽くしていた。
 明らかに砲火や爆撃を受けたと思しい街並みが、黒ずみ、壊れて視界一面に広がっている。街路には瓦礫が散乱し、何故か壊れた人形がそこここに落ちていた。
 人の気配は全く無い。それどころか、暗く見通しが利かないせいかもしれないが、生物の気配自体が存在していないようだった。
「此処があの子の世界……」
「似たようなところ、よ。世界の通し番号は知らないし、仮に分かっていたとしても一致するかどうかは分からないから、あくまで似たような場所ってこと」
 水銀燈は言いながら一体の人形を取り上げ、どれもこれもジャンクねぇ、と言わずもがなのことを口にして、脇にそれを放り出した。
 真紅は微かに悲しそうな表情をしたが、何も言わずに手近な瓦礫の上に登った。
「何もないでしょう、壊れた街並み以外には」
「……そのようね」
 真紅は目を閉じて首を振った。今でもその奥底にこんな心象風景を持っているとしたら、小さな幸せを執拗に求めるのも、逆に全てを捨ててしまう気分になってしまうのもよく分かる気がする。
「一つ前、貴女と同時に目覚めたときを思い出すわ。こんなに酷くはなかったけれど、爆弾は降って来ていた」
「ロンドンは結構爆撃を受けてたものね。あの時期になっても」
 水銀燈は別の人形を拾い上げ、真紅の近くに歩いて来た。
「私達が一応は銃後のロンドンで目覚めたのとは違って、多分彼女達は同時期のフランスかベルギー、ドイツ辺りで出会ったんでしょうね。戦場で、それも現実世界で遣り合ったこともあった。──少しマシなのがあったわよ」
「そう……」
 真紅は差し出された人形を手に取った。顔にひびが入り、全体に煤けているけれども、五体揃っている。服にも破れはないように見えた。
「寂しくて、哀しい世界だわ、とても。このお人形のように」
「私には悪趣味な風景に思えるけど。人形まで散らかす必要はないでしょう。しかも人形だけ、こんなに大量に」
 まるで死体代わりじゃないの、と不謹慎極まる発言をして、水銀燈は腕を組んで手近な街路灯の残骸に背中を預けた。
「彼女だって良い時期はあったでしょうに。それを全くイメージさせないこんな場所で鞄の中にいる間を過ごしてたとしたら、それは了見が狭過ぎるってものよ」
 言っても詮無いことではあるが、そこから出発したとはいえ、もう少しは希望を見出していてもよかったのではないか。斜め上の方向であっても姉妹の優しさに触れ、未完成のまま工房から勝手にドレスを盗み出して逃走したにも関わらず動力源と人工精霊を与えられたのだから。
「それは私達のような、原風景に暖かなものを持っている者には分からないことかもしれなくてよ」
 真紅は人形の髪を手櫛で丁寧に梳いた。梳いても撫でても人形の髪は妙な按配にちぢれが残ってしまう。
 もっともここは物質世界でなく、人形は幻影に過ぎない。持って帰れる訳でもなし、そんな手を掛けてやっても意味がないだろうに、と思いながら水銀燈は空を見上げた。気温というほどのものは感じ取れないが、太陽の気配が感じられない鈍色の空は明らかに冬の景色に思える。
 真紅はハンカチが汚れるのも厭わずに、人形の顔を丁寧に拭った。薄汚れていた人形は薄暗い中でもはっきりと分かるほど鮮やかな色を取り戻した。古くなって色褪せたのではなく、美しいまま打ち棄てられ、壊れてしまったのだろうか。
「貴女がお父様を──作業を終えて居間に戻れば私達の相手をしてくれると分かっているお父様を振り向かせたくて話し掛けていたのとは違って、あの子は仕事場の台の上から未完成のまま、恨むことさえ知らずに自分を作った人を見詰めていた。その違いは多分大きいのだわ」
 水銀燈は思わず目を見開いた。
 確かにその違いは大きいし、彼女自身もそう考えてはいる。ただ、彼女が意外だったのは別の事柄だった。

──知られていたのか。

 真紅が気付いていたとは思っていなかった。なんとはなしに、彼女は知らないし、分からないことだろうと昔から考えていた。彼女は雛苺の作られている過程しか知らないはずなのだから。
 少なからず気恥ずかしいような感覚もあるが、今になってしまえば別に気付かれていても変わらないような気もする。それに、少なくとも金糸雀には知られていたことでもあった。
 真紅は水銀燈の視線にも気付かないように人形を吹き清めている。
 真紅にとってもその程度の話なのか、と考えると少々気に入らない。そんな自分が少し可笑しくもあった。
「確かに、彼女にとっての戻りたい場所は、柿崎めぐと共に過ごした場所、共に過ごした時間だけ、だったかもしれないわね」
 それにしても、と水銀燈は鼻を鳴らした。そろそろ本題に入ってもいい頃だと思う。今日の真紅は前置きが長い。
「こんな陰気な場所に案内させたのは何故? 水銀燈の世界、が見たかったのなら私が鞄の中で眠りに就いたときに使っている世界でも紹介してあげたのに」
「貴女の世界は暖かくて良い場所なのでしょうけれど、それでは意味がないもの」
 真紅は苦笑した。嫌味のつもりはない。
 水銀燈の世界については、かなり昔に翠星石から聞いたことがあった。小さな木芸品の工房のようなところで、飾り気はないけれども落ち着く場所だということだった。何かを生み出す場所、という意味で見れば、この荒涼とした世界とは反対の場所でもある。
 瓦礫の上に人形を座らせる。先程よりは見違えるほど綺麗になったのだが、皮肉なことにそのせいで却って顔のひびが目立って見えてしまう。
「あの子をもう少しよく理解したかったの。私が今の私でなくなってしまう前に、何か少しでも伝えてあげられたらと思って。そのためには、あの子のことを少しでも知っておいた方が良いのだわ」

 それは彼女の行動と矛盾しているのではないか、と水銀燈は思う。あるいは偽善に類するものではないのか。
 真紅の言った言葉自体はごく一般的なことで、格別どうと異論を挟むようなものではない。
 ただ、彼女は一度はそれを放棄して、雪華綺晶の処に向かった。何かを教えて残すという、一応は名の無い人形のためと銘打てる行為よりも、自分の勝手な都合、あるいは欲求に素直な、周囲に多大な迷惑を掛ける行動を優先したのだ。
 雪華綺晶の居場所を教え、背中を押す形になった水銀燈が言えた話ではないが、ことこの件に関する限り真紅は身勝手の謗りを免れまい。
 『水銀燈』に何かを伝えておきたいという話にしても、相手も素直に受け容れているから良いようなものの、真紅が一方的に思いを押し付けていると言ってしまっても過言ではなかろう。自分の知識や経験を誰かに伝えたい、残したいという欲求が先に立っていて、彼女の都合でそれを行っているだけにも見える。
 皮肉なことに、そういった真紅らしくない、何かに追い詰められた末のような行動だという点では、雪華綺晶にボディを与えようとした行動と一致している。
 あのときは失恋の痛手から逃れたい、そしてそれを認めたくない心理が働いていた。では今度は何を誤魔化したいのか、とつい考えてしまうのは水銀燈の性格が捻れているからだろうか。

──まあ、前回よりはましか。

 その一言で水銀燈は自分を納得させることにした。
 真紅とすれば、少なくとも表層意識の上では真剣に取り組んでいるのは間違いない。そして今回はそれ自体は他の姉妹やら周囲やらに迷惑を掛ける種類のものではないのだから。
 そもそも、これまで散々好き勝手にやってきた上、前回の出来事さえ都合良く利用したのは自分の方なのだ。ゲームの終焉までの短い時間、真紅自身もそれと気付いていない、優しい我儘に付き合ってやっても悪くはない。

 水銀燈の込み入った思いを乗せた視線の先で真紅は立ち上がり、こちらに向き直った。
「予想どおりの場所で、納得できたわ。ありがとう」
 口調は元気だったが、表情の方はあまり冴えたものではなかった。
 どう致しまして、と軽く頷きながら、水銀燈は真紅の足許に置かれた人形を見遣った。
 新品のような色合いを取り戻した人形は丁度良い高さの瓦礫の上に行儀良く座っていた。誰かが手を伸ばさなければ、ずっとこのまま座り続けるのだろう。
 つい感傷的な気分に陥りそうになり、水銀燈は鼻を鳴らした。そんなことよりも重要な案件がある。
「ところで、わざわざ寄り道をしてみた理由はここを見ることだけ? まだ一つ二つはありそうだけど」
 真紅は意外な反応を返した。恥ずかしそうに頬を染め、脇を向いたのだ。
「……二人だけの場所で訊きたいこともあったし、それから貴女の用件も聞きたかったの。結菱邸では、結局私が話すだけで終わってしまったから」
 確かに、真紅に話したいことはあるにはある。ただ、彼女が少しばつが悪そうにしているのは何故なのか、水銀燈には合点が行かなかった。
 何にしても場所を移した方がいいか、と考え、念のために時間を確認する。まだ余裕はあったが、話が長くなるのであれば別の世界に赴くのは得策ではなさそうだった。
「それじゃ、私の方の話から始めさせて貰うわ」
 水銀燈は腕を組み、また手近な壁に背を凭せ掛けた。
「あの子達の呼び戻し方についてのこと、それから『真紅』を呼び戻すかどうかについても」
 真紅は生真面目な顔で頷き、人形の傍らに腰を下ろした。
 並べて見ると、人形は標準的なドールのサイズだが、真紅の隣にあっても姉妹や同類のようには到底見えなかった。ややスケールが小さいものの、子供がお気に入りの大きな人形を隣に座らせている、としか思えない。

 ふと『真紅』と人形を並べた場合はどうなのか、と考え、水銀燈は奇妙な感覚に襲われた。
 出来映えやデザインの方向性が違うドールが二体、並べて飾られている。そんな風にしか見えないような気がしてしまったからだ。
 真紅と『真紅』を並べても、やはり真紅が自分によく似た等身大の人形を隣に置いているようにしか見えないのではないか。そして、それは自分だけの感覚ではなく、例えば無関係な誰か──あの、名の無い人形の胴部を作った男でもいい──が見ても同じなのではないか。
 そもそも、自分達は何故──
 水銀燈は首を一つ振った。やめよう。流石に錯覚に近い思い込みだろう。今はそんなことを考えている時間はない。さっさと用件を済ませて現実世界に戻らなくては。
 だが、その感覚は容易に消えてはくれなかった。



[19752] 200ほど。タイムアップにて。 真紅の尋ねたいことは次回。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/04/30 23:51
切りの悪いところですが、タイムアップのため今回はここまでです。

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 翠星石とジュンが部屋に戻ったとき、雛苺はナナとなにやら人形で遊んでいるところだった。
 改めて思うほどのことではないのだが、ドールが人形で遊んでいるのは妙なものだとジュンは感じた。
 今更感じてしまうのも妙なものだった。人形遊びは雛苺にしてみれば殆ど毎日のことだし、ジュンの家に来る前から──この時代で目覚めるよりも更に以前、コリンヌ・フォッセーと暮らしていた頃から──雛苺の好きな遊びだった。
 何故今になってそれが殊更に意識されるのか、ジュンにはよく分からなかった。妙だ、と単純に思っただけだった。

「遊び終わったらちゃんと片付けるのですよ、二人とも」
 翠星石はいつものように世話を焼く。口調に淀みは無く、彼のような違和感は持っていないように見えた。
「そう言えばすっかり遅くなっちゃったですね。お夕食の支度始めるとしますよ」
 彼女はジュンを見上げてそんな風に言い、一旦入った部屋の戸口でくるりと踵を返した。
 それなら物置部屋から直接台所に向かえば良さそうなものだが、とジュンが考えていると、雛苺がとてとてと走り寄って来た。またジュン登りなどと言い出すのかと思ったが、彼女は訳知り顔で彼を見上げる。
「ジュンも行くのよ」
「何処へ? 帰って来たところだぞ」
 ジュンは眉を顰めたが、雛苺はひょこりと一旦廊下に顔を出してすぐに引っ込め、にっと笑って改めて彼を見上げた。ちょいちょいと耳を貸せという風に手招きをする。仕方がないな、とジュンが屈んでやると、内緒話をするように小さな手でメガホンを作って耳元で囁いた。
「あのね、翠星石はジュンと一緒にお夕飯の支度をしたいのよ。二人で楽しくお料理なのよ」
「だったら直接言えばいいじゃないか……」
 雛苺は型どおりの問答だとでも言いたそうな顔になったが、それも含めて楽しそうに笑いを浮かべた。
「おとめごころなのよ。察してほしい気分なの。わかってあげてね」
「……分かったよ」
 ジュンは口を尖らせ、形だけは不承不承という体を作って、少し照れながら部屋を出て行った。行ってらっしゃいなの、と雛苺は上機嫌にその背を見送る。
 振り向くと、ナナは不思議そうな面持ちで雛苺を見ていた。
「乙女心、って……」
「ナナにも分かる?」
 にっこりと笑いかけると、ナナは自信なさそうに首を振った。
「わたしが居たから良くなかったのかな、って思っただけで……」
「うん、ナナだけじゃなくてヒナもお邪魔だったのよ。おあいこなの」
 にっこりと笑顔のまま、翠星石は本当はお部屋でジュンと二人っきりになりたかったんだよね、と呟く。
 二人がnのフィールドから帰ってきたのは彼女も知っている。そして、翠星石にはまだ何か話し足りないことか場所を変えてジュンと話したいことがあったのだろう、と部屋を出たときの態度から見て取っていた。
 気を利かせてこちらが部屋から出ればより良かったかもしれないが、床には様々なものが散らばっていたし、翠星石本人が興が削がれてしまったようになったのだから仕方がない。
 乙女心という都合の良い言葉で誤魔化してみたが、ジュンにはまだ今一つ分からない心理なのかもしれない。雰囲気や切っ掛けというものが大切なのは、恋する日本人の少年少女だけではないのだが。
「でもお台所でまた二人一緒だから、おんなじなのよ。今日のお夕飯は、きっととっても甘くて美味しいの」
 ことによるとちょっぴり塩味かもしれないけどね、と言ってやると、ナナは何のことか全く分からないといった風情で首を傾げる。雛苺はにこにこと機嫌良く笑い、多分甘いから大丈夫だよと言っただけでそれ以上の説明はしなかった。

 雛苺の推測は当たったとは言えなかった。
 台所で小さな体を精一杯使って料理を作る翠星石は見たところ真剣そのものでしかなく、甘やかな気分も切ない思いもそこには介在していないようにジュンには見えた。ジュンが声を掛けるまで、気付かずに背中を向けていたほどだ。
 ベーグルの生地を捏ねるのにある程度の力が必要なのは知っていたが、体重が軽く体も小さな翠星石には大仕事なのだということを目の前で見せられると、生半可な感情など生地の奥に押し込められてしまうようにしか思えない。それほど、翠星石は懸命に料理をしていた。
 手伝うよ、とその細い肩に手を置き、生地を捏ねるだけでも、と彼女に代わって慣れない手つきで捏ね始める。こういった作業は流石に大体倍ほどの背丈と数倍から十倍程度の体重のある彼の方が効率は良いらしく、翠星石は珍しく彼を褒めた。
「やっぱり男の子は違いますね」
「技術が要らないからな、こんなの。力だけだし」
 照れ隠しにそんなことを言ってみると、翠星石は彼を見上げて複雑な表情になった。
「そうでもないですけど……やっぱり基本は力かもしれないですね」
 踏み台に立ったまま、斜め上を向いて食器棚を見遣る。
「力と、背丈ですよね、特に男の子は」
 何気なく聞こえた翠星石の言葉に、ジュンはちくりと劣等感を刺激されてしまう。
「悪かったな、チビでひ弱で」
 むっとしながらも、手は止めない。
「栃沢みたいな奴の方が良いんだろうな。蒼星石があいつを好きになったのもそんな理由なんだろ、どうせ」
 つい言ってしまってから、蒼星石の話は不味かったかと思い直す。
 真紅はドールに死はないと言うし、実際に魂が戻るさまも自分の目で見てはいる。それでも、魂が離れてしまっている状態は死んでいるのと変わらないのではないか、とジュンは思ってしまう。翠星石がどちらに近い感覚を持っているかは分からないが、少なくとも今は居ない彼女の妹の名前を安易に口にすべきではなかった。
 ごめん、と言ってちらりと見遣ると、翠星石は複雑な表情のままジュンを見上げていたが、ふるふると首を振った。
「蒼星石の好みは分からないです。あんなアホ人間を好きになるなんて、翠星石から見ればとんでもないアホ好きでブサ面好きなのです。とんだゲテモノ趣味ですよ」
 真面目な顔のまま、大分失礼なことを彼女は言ってのけた。
「でも、翠星石が言いたかったのはそのことじゃないんです」
 片手を伸ばしてジュンの服の裾を掴む。最近よくする仕種だった。
 足の後ろに隠れたり、ズボンの裾を引っ張ったりする代わりに、少し無理をして背を伸ばしてもトレーナーの裾を掴む。今は踏み台の上に居るから難なく掴めているが、立っているときは爪先立ちに近い状態のこともある。気付かないで歩き出すと、そのまま彼女を引き摺るような按配になってしまうこともあった。
 わざわざそんな風にするようになった理由は分からない。以前であれば鬱陶しいと文句を言ったことだろう。しかし何となくではあるが、今はジュンもその仕種が気に入っていた。
「こうするのも、その内できなくなるのです。ジュンは少しずつ成長して、大きくなって行くのですから」
 翠星石は掴んだ裾を左右に振った。それほど大きく動かせる訳でもないが、翠星石なりに意味のあることなのかもしれない。
「……それは、寂しいことなんでしょうね」
「どうかな、僕には分からない」
 ジュンは視線を手元に戻し、手を止めずに答えた。
「お前を抱き上げてやることはできるし、背中に乗ったり肩車するときは僕の背丈が伸びただけお前も高いところからものが見えるようになるじゃないか」
「それでも、ジュンとの背丈の差が開いてく一方なのは変わらないです」
 翠星石は拗ねた様子もなく、淡々と言った。
「背丈だけじゃありません。ジュンはこれからまた中学校に通い始めて、その上の学校に進んで、最後は何処かの会社に就職するんですよね?」
 ストレートな、翠星石らしい言葉だったが、ジュンは咄嗟には返事ができなかった。
 否定するつもりはないが、一気に言われてしまうと肯定するのには途惑いがあった。就職のところまでは常日頃考えているわけではない。肯定の言葉を口にできたのはしばし躊躇してからになった。
「……うん。そうなれば良いと思ってる」

 それは、ジュンが思い描く「普通」の人間としての将来像だった。
 一度、それもとても早い段階で、ごく一般的な人々の進む道から追い出されてしまった。傍から見ればそこまで深刻ではないのかもしれないが、少なくとも彼は追い出されたと感じている。だからこそ、「普通」の状態を取り戻したい、道に戻りたいという思いは強かった。
 具体的にどういう職業に就きたいという願望はまだない。それ以前の段階に居るのだと自覚もしている。まずは「普通」を取り戻してから、その先について考えようと思っていた。
 それ以前、もっとずっと昔、彼は何か自分だけの特別な未来像を持っていたような気がする。何かになりたい、何かを成したいという気分もおぼろげに持っていたかもしれない。しかし、それはもう何処かに消えてしまっていた。
 先ずは、「普通」だ。そこがスタートラインだ。それが、ジュンが小さな一歩を踏み出そうとしている原動力のようなものになっていた。

 誰かの前でそのことを口に出して認めるのは初めてだった。今まで彼の周囲の人々は、分かっていても触れないように、病気か怪我で何日か休んだ後のように何事もなく彼が登校を再開するように、とその話題に触れないようにして来たし、彼自身も自分が恥ずかしくて口にできなかった。
 翠星石はそれを、何気なく聞こえるけれども決して彼の行動を否定していない言葉で突き破ってしまった。彼女の言葉だから、ジュンは素直に返事ができたのかもしれない。

「でも、翠星石はその間、何も変わりません」

 何か優しい、あるいは希望を込めた言葉が続いて出て来ることを期待しなかったと言えば嘘になる。だが、案の定と言うべきか、翠星石が言ったのは彼女自身のことだった。
 ジュンの手は止まった。ゆっくりと振り向くと、翠星石は相変わらず表情を見せずに彼を見上げていたが、手を放して大きな身振りで語り始める。

「もちろん、いーっぱいお料理を覚えて、便利な道具もいろいろ使えるようになって、のりが居なくても家事なんてぜーんぶできるようになりますよ。
 でも、それだけです。お買い物に一緒に行ける訳でもないし、おおっぴらに肩を並べて歩ける訳でもありません。
 お外で一緒に居ることは、人目を忍べばできるでしょうけど……。でも、ジュンに抱っこして貰わなけりゃ視線の高さは倍も離れてますし、足の速さだって全然違っちゃいます。
 どんなにジュンを愛しても、どんなに深く繋がっても、翠星石はドールで、ジュンは人間なんです。
 どんなに私が変わっても、どれだけジュンが頑張っても、それは間を幾らか埋めるだけです。本質的な隔たりがあることは変わらないのです。
 人間の社会の中で、人間と混ざって生きていくには……」

 翠星石は下を向いた。
「人間になれって言われたら、やっぱり怖いです。寿命は短いし、食べ過ぎたら太っちゃうし、汚いし、臭いし、良い事なんてないですから」
 随分な言われようだな、とジュンは口を尖らせたが、薔薇乙女のありようと比較すれば当然のことだった。明らかに彼女達は生物一般のネガティヴな、汚い部分を排除した形で成り立っている。
 永久機関を仕込まれた神秘の無機の器に宿った謎の魂。擬似的な生命体。それは製作者からすれば未だ不完全かもしれないが、この上もなく都合が良く、この上もなく歪な、それ自体が既に究極のありようだった。
 ただ、翠星石という名前のその魂は、双子の妹と同じ結論に達しようとしていた。
「でも……ジュンと一緒に生きて行くなら、今のままでは居られないんですね。人間にならなければ、本当にジュンと一緒に暮らして行くことはできないんですから」
 ジュンは粉だらけの手を伸ばし、力なく下げられた翠星石の手に触れた。彼女の小さな手が動き、彼の人差し指をきゅっと握る。サイズが違い過ぎて普通には握手することができない彼女が、その代わりにしている動作だった。
「やっぱり、翠星石は──」
「──うん」
 ジュンは彼の小さな恋人の顔を覗き込んだ。

「一緒に外を歩けない恋人だって、いるさ。キスも出来ない夫婦だっているかもしれない。それどころか、食事の支度や掃除や洗濯だってできない人だって沢山いる。
 僕はそういうところまで全部ひっくるめて、お前が好きなんだ。だから、僕はお前が人間だろうが人形だろうが気にならない。
 だけど……お前が僕と肩を並べて歩いたり、い、一緒に学校に行ったり……その、人間になって……僕と、結婚したりとかしたいなら、その」

 ごほん、と一つ、わざとらしい咳払いをする。
「僕は、お前が人間になって、お前自身の思うように生きて行くことができるなら、人間になってやりたいことがあるなら、人間になるのを選んでもいいと思う」
 翠星石は顔を上げ、はにかんだように微笑んだ。
「今はできなくて、人間になったらできること……ですか」
「うん」
 ジュンも笑顔を返す。翠星石はジュンの手を握っていない方の手をその顔に伸ばし、その頬を撫でた。
「いっぱいありますよ。人間になったらやってみたいこと。やりたいこと……」
 そのまま彼の耳元に口を近づけ、顔を赤くして何事か囁いた。
 ジュンの顔もかっと赤くなり、眼鏡の奥の目が忙しく瞬く。間近でそれを見て、翠星石は少しだらしなく、えへへ、と笑ってジュンの頬に軽く口付けた。
 それから、顔を引いて真面目な顔になる。
「でも、今はまだダメです。この体でいる内に、やっておかなきゃならないことがまだありますから」
「……うん」
 そうだな、とジュンも表情を引き締めた。
「まずは、僕達の場合は、オディールさんの心を戻さなくちゃいけないな」
「……です」
 翠星石は頷き、少しまた悪戯っぽい顔になった。
「っと、その前にもう一つ、喫緊の課題ってやつがあるですよ。そのベーグルを焼かないことには何も始まらないのです」
 ジュンは捏ねかけの生地に目を向けた。翠星石が脇から手を伸ばし、捏ね具合を確かめながら次の工程を指示する。人使いが荒い奴だ、と口ではぶつぶつ言いながら、ジュンは素直に彼女の指示どおりに次の作業に取りかかった。


「次に呼び戻すべき対象は、『翠星石』と私は見てる」
 水銀燈は壁に凭れたまま空を見上げた。低い空は何処までも一面のグレーで、濃淡はあるもののその雲が晴れることはなさそうだった。陰鬱な眺めとしか言えない、と彼女には思えた。
「ナナはまだ拘ってるかもしれないけど、『翠星石』は契約を結ばせてでも戻させるべきなのよ」
 遠くの地表に視線を転じると、市街地の外にも風景は広がっている。多分、そこも全て砲爆撃の跡のような、壊れて打ち棄てられた情景なのだろう。
 第一次大戦か第二次大戦か、とふと考える。案外、スペイン内戦なのかもしれない。いずれでも同じことなのだろうが、兵士や市民が──その遺体が──恐らく全て人形で置き換えられていることと、温度というものを感じないことが、この世界を生んだ主の心境を表しているようだった。
「対象の選定としては穏当なところだと思うんだけど、どう? 『翠星石』の望みは、自分の契約者との暮らしを再構築することよりも、双子の妹と再会して一緒に暮らすことが主だから」
 確かに妥当なところね、と真紅は頷いた。
「彼女自身もそう言っていた、とナナは言っていたわ。ほんの僅かに触れ合っただけだったけれど、ナナにも良くしてくれた、と。ただ──」
 身じろぎをして、隣に座らせた人形の据わりを直す。人形は少し傾き、彼女に凭れるようになってしまっていた。
「──あまり強引な方法ばかり採るのは同意できないけれど」
「ナナと『蒼星石』の意思が優先するのは分かってるわよ。私達の考えは、あくまで状況だけを見ている外野の冷たい意見でしかないから」
 そこは水銀燈自身も分かっている。
 全ての動力源とボディはナナの手許にある。以前水銀燈自身が指摘してやったように、本来全てはナナが自分の好きに決めて実行すれば良いことだ。
 水銀燈は彼女自身に確たる識見がないように見えるからああだこうだと世話を焼いているだけで、実際のところは他人事に口を差し挟む喧し屋の叔母さんといった役回りに過ぎない。真紅にしてもそれは同じことだった。
 当事者はナナと『蒼星石』、強いて挙げるなら『蒼星石』の契約者でナナを居候させている結菱老人も含めた三者と自分からは不干渉を宣言した『水銀燈』──あるいは名の無い人形──だけだ。ナナが『蒼星石』の意向を汲み、結菱老人の意見を聴いた上で自分の考えを通すのが一番良いのは間違いない。
 とは言っても、まだ丸投げするには足りない、というのが水銀燈の見方だった。それは真紅も恐らく同じだろう。
「急いだ方が良いのは変わらないけどね。彼女は『蒼星石』の中でのミッシング・リンク──元居た世界で彼女の死んだ後の状況一切合切──を知っているし、こちらの世界に来てからの情報も持っている。今後の見通しを立てさせる上では重要なファクターなのよ」
 ほぼ全てを経験してきた上、ある程度自分の考えを持っている彼女が居れば、後は任せてしまって良い。一体一体は頼りなくても、それなりに遣って行けるだろう。

 一気に『真紅』を呼び戻させる、と言わなかったのは、ある程度真紅の意向を汲んだものでもある。
 本当のところを言えば、『真紅』を呼び戻すなり捕捉するなりしてさっさとボディに戻し、強い意見と若干のカリスマ性を持っている彼女に全て任せてしまえばいい。ナナも『真紅』の言うところに従うことは厭わないはずだ──恐らくそれが自分の生命を断つことに繋がっても、彼女は受け容れてしまうだろう──し、表面上『真紅』は非戦派でもある。真紅の懸念するような最悪の事態は生起しそうもない、と水銀燈は考えていた。
 ただ、『真紅』を強引な方法で呼び戻した場合、心情的に幾つか問題──というよりも「しこり」という曖昧な表現の方が合っているかもしれない──が残るのは避けられない。
 先ず、彼女の求める契約者をこちらで用意することはできない。それは彼女の中だけにある究極の存在、夢の少年と言っても過言でないのかもしれない。恐らく、桜田ジュンであっても『ジュン』の役はこなせまい。彼が『ジュン』と同じように『真紅』を愛せる状態でなければ。
 仮の契約者を見て彼女がどう思うか、仮の契約者の方でどう考えるのか。契約はあくまで魂を呼び戻すための方便と割り切れるのか。割り切れなかった場合どういう事態になるのか。全く見えて来ない。
 強引に契約を結ぶという行為自体、彼女が嫌っていたことだった。言い訳は色々と成り立つけれども、その方法で『真紅』自身が呼び戻された場合、果たしてプライドの高い彼女は納得できるのか、と考えると否定的にならざるを得ない。
 厄介なことに、目の前に真紅という例がある。幾つか特殊な事情はあるものの、無事に、そして難なく呼び戻されてこうして生きている。それを知った場合の『真紅』の感情がどう振れるかも全く未知数だった。
 もっともそれはいずれも些細なこと、彼女が乗り越えるべき心理的な試練、と言ってしまえばそこまでのことではある。少なくとも水銀燈はそんな風に考えたいのだが、真紅や他の姉妹達、そして当事者のナナが懸念する理由もよく分かってしまうのが困りどころだった。

──結局日和見して楽な方を選ぶんだもの、私も結局はあいつと同じってことねぇ。

 ふと媒介のことを思い出し、水銀燈は内心で肩を竦める。
 改めて気が付くと、おかしなものだった。ナナの姉妹に対する彼女の立場は、何時の間にか彼女に対する彼の立場に似通ってしまっている。

──でも私は、何も手出しをせずに見守るばかりじゃないわよ。

 彼女らしく、自分自身の都合が最優先ではあるけれども、真剣に考え、積極的に口も挟み、他人の助力も乞い、自ら行動も惜しまない。それは彼にして欲しかったことの安易な裏返しかもしれないが、彼女はまだ手を止めるつもりはなかった。
 自分の中に彼が居るのなら、精一杯見せ付けてやろう。そんな気分が今更のように湧いて来る。

 考えていたのはごく僅かな時間だったらしい。真紅がこちらを見て頷いていた。水銀燈の言葉を受けての返事だった。
「良い判断だわ。最良ではないかもしれないけれど、彼女の復活を優先するのは、きっと妥当な──こういう言葉は好きではないけれど──落しどころ、なのでしょう」
 こちらを向いたまま小首を傾げてみせる。偶然だが、隣に座らせた人形と顔の角度が同じになった。
 しかし相変わらず人形は人形で、真紅は人形に同じポーズを取らせている少女にしか見えない。どちらも人形のはずなのに、何が違っているというのか。
「『真紅』については、彼女達の判断に任せるの?」
「他の二体についても、そうしたいところね」
 水銀燈は身を屈め、足元に落ちていた白いものを拾い上げ、眉を顰めた。
 羽根だった。鳥、恐らくは鶏の翼から抜いたものなのだろうが、人形ばかり落ちているこんなところには不似合いな代物だった。
「私にとっては『復活させない』という選択肢はないわね。彼女達に委ねた後に結果的にその選択肢が選ばれることがあったとしても、それは彼女達の考え。私が『真紅』の復活を認めないってことはない」
 水銀燈は羽根を指で弾き上げ、落ちて来たところに息を吹き掛けた。彼女のものよりも小さく、如何にも脆そうな羽根は、どういった加減か暫くふわふわと漂って真紅の足許に落ちた。
「彼女達は、曲がりなりにも究極の存在と成るべく作られた存在。どんな困難があったとしても、乗り越えて行くべきということ。言葉を飾ればね」
 真紅は羽根を拾い、人形の髪に挿した。あまり似合っているようには見えなかったのか、位置を少しずらしてみる。
「本音のところは……?」
 こちらをちらりと見た真紅に水銀燈はにやりとしてみせた。
「面白い切り口ね。貴女らしくなく直截だけど」
 笑みを浮かべ、くっくっ、と喉で笑うような笑い声を上げてみせる。

「さっきも言ったとおりよ。
 末妹に囚われて魂とボディを切り離されてしまったことは彼女達にとって異常な事態だし、全ての品物が揃っていて魂だけが抜けている今の状態は不自然極まりないわ。それを元の姿に戻すことに私は反対しないし、戻すことが必要だと思っている。
 但しその先に何があろうと、それは彼女達の問題で私の知ったことじゃない。そこまで面倒を看てやる時間もないし、そんな気にもなれないわね」

「……そう」
 真紅は息をついた。僅かに肩を落とし加減になっている。元々姉妹の中でも大きい方とは言えない彼女が、いつもよりも更に一回り小さく見えた。
「契約者でも、まして製作者でもない私達が、彼女達の心情まで推し量って何かしようとすることは不遜なのかしら」
「そんな余裕がないってだけの話よ」
 水銀燈は素っ気無い口調で、真紅の言葉を止める予防線を張った。
「優しい貴女が、真剣に彼女達に最良の提案をしようとしてるのは分かるわよ。別にそれはそれで構わないんじゃない?」
 水銀燈のしていることも真紅の考えていることも、お節介であることに変わりはない。だが、彼女達は──というよりも、ナナは──まだかなりふらふらしている。押し付けにならない程度ならば、積極的な助言をしても構わないはずだ。
 しかし、それにしても。
「ただ、『真紅』を復活させない方が良いって言ったりするのは勇み足ね。そこまで直截なお節介に走るのは貴女らしくもないわ」
 真紅はもっと素知らぬ顔で紅茶でも飲み、問われたときに答える程度が似合っている。そんなにあくせくと突き動かされるように誰かの世話を焼いたり、頼まれもしないのに意見を述べたりするのは翠星石辺りで充分だった。
「あら、そうでもなくてよ」
 真紅はくすりと笑った。
「私はいつも誰かに要らないお節介をしてきたわ。ただ、その表現方法が素直でなかっただけ。むしろそんな自分を抑えて、抑えようと気を遣って来たもの」
 要するに、他人に対しての表現や態度、間合いの取り方といったものに自信がなかった彼女は、何につけ出過ぎた真似をしないように自重して来た、と言いたいらしかった。

 水銀燈は肩を竦めた。そこまで自虐的に言うことはあるまい、と思ってしまう。
 どうも、翠星石とジュンとの仲を認めてから、特に雪華綺晶の世界から帰還を果たしてからの真紅は自信を喪失しているように見える。それとも、弱さを隠すのを止め、虚勢を張ることを放棄してしまったのか。
 前者ならば、自分の考え続けて来たアリスゲームに対する思索も展望も実現不可能になってしまった──それもほかならぬ自分自身の選択で──ことが、その原因なのだろう。後者だとすれば、これまでずっと見せてきた姿は上辺だけの衣で、本来の彼女は常に今のように自問自答と後悔と自嘲を繰り返して来たということなのかもしれない。
 どちらにしても、もう少し前を向いて欲しいものだ。彼女はいい迷惑だっただろうが、水銀燈は真紅をライヴァルだと思ってきたのだから。

 水銀燈の思いを知ってか知らずか、真紅は微笑んだまま言葉を続ける。
「ただ、それがみっともなかったり、悪いことばかりだとは思っていないわ。お節介は、その人なりに相手を思い遣っていることでもあるもの。だから、今度も私は迷いはしたけれど口を出してしまった。でも──」
 笑顔を収め、真紅は水銀燈の肩越しに鉛色の空を見遣った。
「──貴女のように冷静な視点で、事物を積み木を組み上げるように考えて、後は彼女達の判断に任せる方が正しい態度なのかもしれないわ。今回は」
 姉妹のことでも、マスターのことでもないのですものね、と真紅は空を見上げたまま息をついた。湿っぽさのない言葉だった。
 水銀燈はやれやれとそっぽを向いた。軽く肩をそびやかし、わざと慇懃な言い方をしてやる。
「ご理解頂けて嬉しい限りですわ、頭の良い我が妹君」
 ところで、と言いながら真紅に向き直る。
「私の言いたいことは大体終わったけど、貴女の話ってのは一体何かしら。そろそろ時間も押して来てるわよ」



[19752] 210程度。 瓦礫の世界の中で……
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/05/06 09:05
ちょっと熱暴走気味です。

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(承前)

 真紅はぴくりと肩を震わせる。何故かその頬にも朱が差した。
「今までの話とは直接関係しないことなのだけれど……良いかしら」
 言いながら、如何にも恥ずかしそうに斜め下に視線を彷徨わせる。
「別に構わないわよ。どうしたっていうの」
 どういう話だ、と水銀燈は眉を顰める。
「恋煩いの相談なら、お門違いと言いたい所だけど」
 妙な態度からすると、早くも誰か次なる恋愛の対象でも見つけたのか。彼女らしくない、照れの入った表情だった。
「そうではなくて……」
 真紅は言い難そうに口篭もった。
「私達の、身体の感覚のことなの。私達にも、人間と同じ感覚があるのかしら」
「今更何を言ってるのよ」
 そんなことか、と一瞬水銀燈は拍子抜けしたような気分になり、すぐに思い直した。真紅は何か別のことを尋ねたいのではないのか。
「私達は人間と同じように五感を持たされているわ。眼を閉じれば視覚は遮断され、耳を塞げば聴覚は制限される。ボディの表面には皮膚感覚もあるし、物の味を舌で確かめることもできる。作られたときからそれは変わっていないでしょうに」
 一応、無難な答えを返しておく。それを受け取った真紅が何か話を展開するのだろうと思っていた。
 しかし、返って来たのは意外な言葉だった。
「……本当に、そうなのかしら。私の身体の感覚は……人間と同じように出来ていないかもしれない」
 水銀燈は片目をすっと細めた。
「どういう意味よ」
 流石に、今の言葉には何か違和感を感じさせる部分があった。水銀燈は壁から背を離し、数歩ばかり歩み寄って真紅の俯いた顔を覗き込む。
 真紅は顔を真っ赤に染め、恥ずかしいのか怖いのか、どちらともつかない曖昧な表情を浮かべていた。やや上目遣いに水銀燈を見詰め、上気した自分の頬を両手で押さえている。まるで恋を打ち明けるときのような、口にした言葉とは全くそぐわない雰囲気だった。
「言って御覧なさい」
 水銀燈は敢えてそう言ってみた。少女漫画の情景を切り取って来たような真紅の様子を、不謹慎だが面白いと感じてしまっている。
 そっと手を伸ばし、真紅の手に触れる。ぴくりとする反応があったが、真紅は拒まなかった。その手を軽く撫で、水銀燈は真紅に肩が触れるくらいの位置、真紅の座らせた人形の逆側に並んで座った。
「雪華綺晶に身体を撫で回されたり、キスをされたりしたけれど──」
 真紅は両手で頬を挟んだまま、隣に居る水銀燈にしか聞こえない程度の声で呟いた。もっとも、二人の他に誰も居ないのだからそれで充分だった。

「私は何も感じなかった。身体をまさぐられて何かを感じても良かったはずなのに、本当に何一つ感じなかった。
 皮膚感覚がなくなっていた訳ではないのよ。触れられているのは分かったし、それがどういう意味を持っているのかも多分理解していた。それでも、まるでドールの硬い手が陶器の上を這っているような感覚しか、私にはなかった」

 真紅は小さな身体を、いっそう小さく丸めた。
「今朝の夢の中で……『真紅』は自分のマスターに撫でられて、口付けられて、とても……感じていた。それだけで、気を失ってしまうくらい。それは間違った関係だけれど、感覚自体は人間と同じだということ。でも……私にはそんな感覚がないのかもしれない」
「快感、ということ?」
 水銀燈は真紅の横顔を眺めた。真紅は微かに震えているように見える。
「それが自分には存在しない──人形だから、そういった感覚が作りつけられていないと思っているということ?」
「……ええ。だって、それはアリスには無用の物なのかもしれない。むしろ、邪魔になるものなのかもしれない。だから私達はそういった感覚を持っていないのかも……」

 些細な一部分の話に過ぎない。製作者からすればどう作りつけていてもおかしくないような末端の事柄だった。
 生殖機能がなければ性交は必要なく、ならば快感も求められない。彼女達は所有者である人間の欲望を満たすために作られた人形ではなく、至高の少女を目指すために都合の良いものとして作られたのだから、その器に不要の機能が存在していなくてもおかしくはない。
 もしも性感が存在していないとしても、それは人間と彼女達の差異のほんの一部に過ぎない。むしろ、もっと重大な差異が幾つも存在している。
 排泄機能もなければ循環器系も存在しない。骨格も根本的に違う。関節の数や機能も、同じような動きが出来るように作られているだけで、個々を細かく見れば全く別個のものだ。
 人間に限らず一般的な多細胞生物と比較しても、翠星石の悩みと懸案になっている身体の外形、成長と老衰の有無、蒼星石が拘っている子供を産むこと──あるいは自分の遺伝子を誰かのそれと混ぜ合わせて残すという機能の有無。そういった重大な違いが、両者の間には厳として存在している。一部の器質的な差など、存在したとしても些細な事柄でしかない。
 しかし、真紅にとってはそれが大切なことなのだろう。
 雪華綺晶にボディを陵辱されたときには気になっていなかったのかもしれないが、今朝見せられた夢の中での出来事が、彼女に多大な影響を及ぼしているのだ。
 まるでそちらの方面に耐性のない真紅にとって、夢の出来事は刺激が強過ぎたのかもしれない。もし仕掛け人が白兎の頭を持った紳士なら、これは単なる悪戯というよりは助平根性の現れと言った方が適切だった。

「馬鹿ねぇ」

 ぷっ、と水銀燈は吹き出した。緩慢な動作でこちらを見上げる真紅ににやりとしてみせる。
「雪華綺晶に何を何処までされたか知らないけど、人間とまともに付き合ったこともない末妹が見様見真似でやらかした痴漢行為に、極端に緊張してた貴女が反応しなかっただけってことでしょう、それは」
 いつものようにあっさりと言い切ってやる。
 瞬いてこちらを見る、惚けたような真紅の顔は可愛らしかった。それに鼻を突き合わせるほど顔を近付けて囁く。
「安心しなさい、貴女にだってそういう感覚は存在しているはずよ」
 言いながら真紅に身体を寄せ、そちら側の腕を彼女の背中に回し、後ろから髪を撫でる。真紅の身体がぴくりとするのは分かったが、水銀燈は手を止めずに髪を撫で、ヘッドドレスで隠れた彼女の耳に触れた。
 可愛い、と素直に思う。
 可愛い、良い子ちゃん顔の……純真な少女。水銀燈の、掛け替えのない愛しい妹だ。
 何か、吐息とも言葉ともつかない音が、真紅の小さく開かれた口から漏れる。水銀燈は空いている方の手で真紅の前髪をかきあげ、その額に軽く口付けをした。


 少年が考えたとおり、蒼星石の残して行った仕事は結菱老人と少年が分担して既に終えていたことだった。
「ごめんなさい……役に立たなかった」
「気にすんなよ」
 肩を落としてしょげてしまった『蒼星石』の背中を、少年は空いている方の手でとんとんと叩く。子供をあやすような仕種だった。
「八日も経つんだから当たり前さ。そのままにしてたら後が大変になってたトコだぜ」
 それより凄いな、と少年は笑顔を向けた。
「道具の並べ方だけで次の作業の見当がつくなんて、まさに熟練の職人ってやつ? 俺なんて全然わかんなかったよ」
「ううん、そんなことないよ」
 『蒼星石』は曇った表情のまま首を振る。赤銅色のショートカットの髪が揺れた。
「次に使うものを一番取り出し易い所に置いてあったから、分かり易かったんだ。だから当たったんだと思う……」
「じゃあ、俺はそんなヒントも分かんなかった間抜けって事かー」
 少年はオーバーな身振りで溜息をついてみせる。『蒼星石』ははっとして顔を上げた。
「ち、違うんです。そんな意味じゃなくて……」
 その言葉は無視して、少年はドールににっと笑いかけた。
「こんな間抜けじゃ、帰って来たら怒られちまう。俺が怒られないようにきっちりレクチャーしてくれよな、先生」
 見え透いたやり口の励ましだった。それでも『蒼星石』は暗い表情を収め、はい、と力強く頷いた。
 素直で優しい子だ、と少年は思う。ナナが最初に呼び戻したいと思っていた理由が分かるような気がした。
 蒼星石が居たら、きっと良い関係になるだろう。
 このドールが元気にちょこちょこと走り回って薔薇の手入れをし、こんなに綺麗に咲いたよ、と花を差し出すのを、仏頂面を崩して微笑んで見ている蒼星石が居る。そんな情景がふと浮かんだ。想像力が欠落していると揶揄されることもある彼にしては、珍しいことだった。

──その情景を実現させるために、俺にできることは、本当に庭の手入れだけなんだろうか?

 少年にはよく分からない。あれこれと考えている内に蒼星石が帰って来てしまうかもしれない。その方が良いな、とつい思ってしまう。彼は考えるのが得意ではないから。
 ただ、自分に何かができるのであれば、それをすることに躊躇しない覚悟は出来ているつもりだった。
「んじゃ、早速今日のレッスンをお願いします」
 少年は明るく言って頭を下げた。『蒼星石』は照れながら、はいっ、と歯切れの良い声で答えた。
 本物の笑顔ではないけれども、可愛らしい表情だった。

──そうだ。取り敢えずは、ここからだよな。

 今はこの子とナナの笑顔が少しでも多くなるような雰囲気を作って行こう、と少年は考える。蒼星石の望んでいることとは離れているのだろうが、それでも彼女は苦笑してから許してくれるはずだ。
 貴方らしいね、と優しい笑みを浮かべながら言う声が聞こえたような気がした。それはすぐ近くからのように思えたが、少年はそちらを向こうともしなかった。
 わざわざ振り向いて確かめなくても、彼女がそこに居る。なんとなく、そんな気配が分かったからだ。


「私はねぇ、媒介に弄り回された事があったのよ」
 水銀燈は内緒話をする声になって、真紅の耳元で囁く。半ば目を閉じかけていた真紅はやや驚いたような表情になった。
「……あの子がそんなことを……?」
「今の媒介じゃないわ。昔のことよ。ずっと以前の時代。誰も目覚めてない時代にもそんなことがあった」
 顔を上げ、胸元に小柄な妹を引き寄せる。真紅は大人しく水銀燈の腕の中に収まり、小さな溜息をついた。
「契約は……?」
「結んでいたときは、そういう事はなかったわね」
 水銀燈はくすりと笑った。
「そんな不埒な真似をする輩は契約者としては適当じゃないし、契約を交わしてしまえばある程度心は落ち着くものなのでしょう」
 契約を結び、そこから愛情が始まってしまうことを水銀燈は怖れていた。
 皮肉なことに、彼女が契約をせず媒介として選んだ者は──特にそれが男性だった場合は──契約を交わしておらず、心が深いところで通い合っていないためなのか、より大きな寂しさを抱え込んでしまう傾向があった。それを埋めるために、様々に何かをする場合は多かったし、その「何か」が彼女の身体を求める方向に向いてしまうこともあった。
 しかし彼女は何処までも薔薇乙女であり、人間ではなかった。乱暴な振る舞いをされたところで性的な欲望を満たすことは到底出来なかったし、そんなことを二度三度と許す気もなかった。
「気付いたところでしっぺを喰わせてやったわ。勘違いもいいところよ」
「それだけで許したの?」
 片手を水銀燈の右胸に当て、左胸に頬を付けるような姿勢で、真紅は子供のように素直な発音で尋ねる。もう一方の手は水銀燈の翼に触れ、大切なものを触るように指でなぞっていた。
「気持ちが醒めたりはしなかった?」
「向こうでもね、分かったのよ。所詮私は人間ではなく、人形だということ。そういうものを求めても虚しいだけってことを」
 水銀燈は真紅の問い掛けに、顔を上げて視線を合わせないまま、やや外れた方向に答えて目を閉じた。
 その媒介は二度と彼女の身体を求めたりはしなかった。手痛い制裁を加えられたことも理由の何割かを占めていたのだろうが、それよりも水銀燈の異質さを理解したという側面の方が大きかったはずだ。
「触られて、舐られても、おぞましいだけだった。私には感覚はあっても、根源的なものが欠けているのだから。幾つも」
「──幾つも……」
 真紅の手が止まった。
「そう。幾つも、よ」
 水銀燈は目を開けて、自分の右胸に当てられている方の真紅の手を取り、それをそっと自分の下腹部の方に導いた。
「分かるでしょ、ここ」
 真紅の手は躊躇うように止まったが、やや強く押し付けられると、その部分をゆっくりと横に撫でた。
「腹部パーツの、腰パーツとの段差よ」
 びくり、と真紅が震える。パーツの合わせ目を撫でていた手が止まり、水銀燈の背中に回されていた方の手が、翼の根元辺りで彼女の背中に軽く爪を立てた。

「私にあって、貴女達にないもの。いいえ、私には無くて貴女達には作り付けられたもの──」

 腹部のパーツ、そして腹部と腰部の間の関節は、姉妹の中で水銀燈だけが持っているものだった。
「最初に完成した姉妹である私だけが、何故か三分割のボディを持たされている。裏を返せば、私で試した三分割のボディは、至高の少女を目指すにはそぐわないものと考えられたということ」
 真紅は顔を上げ、ごく間近に水銀燈の顔を見上げた。銀色の髪が幾筋か真紅の顔に掛ったが、水銀燈はそれにも気付かないように相変わらず視線を上げたまま、何処か遠くを眺めていた。
「そんな、ことは……」
「少なくとも貴女達を製作した当時のお父様は、そう考えていたということ。私には他にも金糸雀から後の姉妹とは異なっている部分が幾つもある。力を吸うときに契約者を必要としないこと、鞄での長い眠りの間に記憶を整理されないこと──要するに試作品ってことよ」
「違う。違うわ水銀燈。貴女は──」
 身体を起こし、少し伸び上がるようにして真紅は首を振った。先程までのぼんやりした表情は失せ、懸命に何かを訴えかけようとしている。その唇に、水銀燈はそっと人指し指を押し当てた。
「──今は私の話を聞きなさい。貴女の抱いた印象とは違うかもしれないけどね」
 ちらりと下を向き、苦笑を浮かべて諭す。真紅が渋々といった体で頷くと、水銀燈はもう一度、今度は少し力を入れて彼女を抱いた。
 真紅は水銀燈の胸に頬を押し付けられ、憮然とした表情になったが、すぐに目を閉じた。やれやれ、という顔で呟く。
「貴女の話が終わったら、私の言うことも聞いてくれるのかしら、お姉様」
「構わないわよ。時間が許す限りね。私の話も大して時間が掛る訳じゃないし」
 時間を確認しながら水銀燈は頷いた。今のところその点は問題ないように思える。
「ボディの分割の見直しについては、可動範囲よりも人形としての美しさを優先したとも取れるわ。あるいは、あの頃の人形の流行に合わせたとも言える。でも、どちらも不正解よ。多分ね」
 顎の辺りに真紅の頭がある。水銀燈は俯くようにして、その髪に軽く口付けした。
 真紅の金髪は美しかった。長いだけでなく、水銀燈のようにほんの僅かに癖が付いていたりもしない。本物の直毛だ。それを贅沢にロールさせている。
 人形としてはごく当たり前の、派手なだけの処理かもしれない。だがそれが羨ましかった時期もあったような気がする。自分の髪はただのストレートだったから。

「私達のボディを作ったのは最高の技術を持った人形師であり、至高の少女を創り上げようとしていた錬金術師。
 そんな人物が単純に形骸の、それも素体の美しさに関して考え方を変えたり、まして流行に流されるなんて有り得ない。仮に流されたとして、その後変化がなかったというのも解せない。
 私と貴女達の身体や能力の差異は、やはり私という試作品では不満だった部分を改良したものと考えた方が筋が通るのよ」

 水銀燈の手が真紅の髪と背中をあやすように撫で、真紅は溜息のような長い吐息をついた。何か言いたいのかと待ってみたが、真紅は黙って先を促すように水銀燈の翼に触れただけだった。
「何故、可動範囲を多少捨てても、ボディを二分割に変更したのか──それは、多分」
 真紅の背中に回していた手を、脇腹から前の方に滑らせる。真紅がびくりと身を強張らせるのが分かったが、水銀燈はそのまま手を止めずに自分の腿の辺りに来ている真紅の腹部を撫でた。
 滑らかな感触だった。親指の付け根辺りに凹んだ臍の感触もあるが、水銀燈にあるような分割のラインなどは存在しない。水銀燈は指を大きく広げ、掌でその辺りをゆっくりとさするようにした。
「ここに、何かを宿らせたいという願いを込めたのよ」
「どういう、意味……?」
 目を閉じたまま、真紅はゆっくりとした口調で尋ねた。
「何かを宿すなんて……ボディの中には何もないのだわ」
「ええ。何も無いわ。ビスクの外殻に空洞があるだけ。でも、そこは人間の女性と同じように、大切なところから一続きになっている」
 水銀燈は中指以外の指を真紅の腹部から離し、中指を少し前に進め、そこからゆっくりと臍までなぞった。
「もし、ここの奥に何かが宿ったら──」
 もう一度、今度は反対に指を進めて行く。真紅の身体がまた強張るのは分かっていたが、無視した。そのまま、ボディに刻まれているスリットの中ほどまで指を持って行き、とん、と軽く叩いて指を離す。
 あ、と真紅がびくりとして呟く。何かを了解したのかもしれない。いずれにしても水銀燈は話を止める気はなかった。
「──ここから出て来れる。一続きになっているから。外も、内も」
 ふっと自嘲気味の笑みを浮かべる。
「但し人間の男性を受け容れられるかどうかまでは知らないわよ。『真紅』は三分割のボディの癖に可能だったらしいけど、それは参考にはならないわ」
 だから、試すなら貴女自身がやってみなさい、と言ってやると、真紅は黙ったまま、水銀燈の背中にまた爪を立てた。顔が真っ赤に染まっているのは見なくても分かる。
 水銀燈は喉の奥でくっくっと笑った。それが自嘲を含んだときの癖だということは、恐らく真紅は知らない。

「少なくとも、私にはそういう機能はなかったわ」

 笑いながら言ってみると、その言葉が少しは軽く思えた。
 もっとも、真紅がどう感じているかは分からない。彼女にとっては取るに足りない事柄かもしれない。
「表面的な感覚は存在している。でも、より深いところに何かあるって感触はない。何かを宿す以前に、何かを──」
 もう一度、今度はごく軽くスリットに触れる。真紅は小さく声を上げたが、拒みはしなかった。
「──この部分から受け容れる機能そのものが無いのよ」
「……試した、の……?」
 潤んだような声で真紅は尋ねた。
「そんなことまで……」
「そのときは本気だったわ。本気で、その人と──そうね、『真紅』がミーディアムと築いた関係のようになりたかったんでしょうね」

 水銀燈の、最初の契約者との失敗というのは、それだった。
 水銀燈は契約者を愛した。彼もまた、水銀燈を一人の少女のように愛してくれた。ただ、彼は恐らく水銀燈を作った存在が考えていたほどには高潔な人物ではなかった。
 彼は少女のようにではなく、一人の女性として水銀燈を見てしまった。もしかしたら子供を残せるかもしれない、という希望に満ちた幻想に囚われてしまった。
 考えてみれば愚かなことではある。彼は彼女の成り立ちを知っていた。焼き物で出来た球体関節人形に過ぎない彼女に、そんなことを望む方がどうかしている。しかし、彼は一度は可能性があると考えてしまったし、彼女もそれを受け容れた。
 だが、言うまでもなく結果は無惨なものだった。そもそも、始まりもしなかったのだ。
 行き過ぎた関係は、少なくともそのときは許されなかった。契約は彼女の父親と彼も同意の上で解除され、彼は決して彼女の手の届かないところに去ることになった。
 人工精霊に、執拗なまでに詳細に契約者候補の人選をさせ、更にその上で薔薇乙女が判断を下すというシステムを採る事になったのは、それからだった。

「だから、貴女達にそういう機能が付け加えられていても私は驚かないし、機能がなかったとしても、何かを宿すことが出来るという希望を持たせた造形にされていても不思議はないと思いたいのよ」
 さあ、これで私のつまんない話はおしまい、と水銀燈は告げた。
「考えてみたら盛大な脱線だったわね。要は、私にすら表面的な感覚はあるんだから、貴女にそれがないということは有り得ないってこと。つい自分語りしてしまって、焦点がぼやけたけど」

「いいの」
 真紅は幼い子供がいやいやをするような調子で首を振った。
「貴女が丁寧に説明してくれたお陰で、よく理解できたわ」
 顔を半分水銀燈の胸に押し付けたままのせいか、ややくぐもった声になっていた。
「それに……分かったの。私にもそういった感覚があること……安心できたわ」
 水銀燈は鼻を鳴らし、にやりとした。
「そう。元々ないってことは有り得ないと思ってたけど、安心できたなら良かったじゃない。下らない話までした甲斐があったってものかもね」
「ええ。ありがとう、お姉様」
 真紅は素直な発音で言った。あまりに素直な言葉だったせいで、水銀燈は以前自分が禁止した呼び方をされたことにも気付かなかったほどだった。
「でも、貴女が試作品だというのは……違うのではないかしら」
 水銀燈は黙って真紅の髪を撫でた。
 今更、どちらでもいい話ではある。水銀燈の方では状況証拠を積み重ねた末の感想を言っているだけだ。
 真紅も同じことだろう。真紅なりの、彼女という視点からの推論の結果を話すだけのことだ。
「私は、昔からずっと思って来たような気がする。私達姉妹の中で、本物は貴女一人なのだと」
 水銀燈は手を止めず、何も言わずに頷く。そういう切り口もあるのだな、と漠然と考えただけで、それ以上の感慨はなかった。
「貴女は、お父様がずっと暖めてきたイメージそのままの存在。持てる物を全て注ぎ込んで作られた、唯一無二の最初の少女なのだもの」
 それはあの人形師が語ったことと似ていた。いや、彼は他の姉妹をもう少し立てたような言い方をしていたが、実際には同じ事を言いたかったのかもしれない。
 ふむ、と水銀燈は真紅の髪を弄ってみる。出発点も過程も恐らく全く違っているだろうに、接点すらない二人が同じ結論に達したことが少しばかり意外ではあった。同時に、ドライな感慨も湧き上がって来る。
「でも、イメージどおりには作れなかったか、そもそものイメージが間違っていたようね」
 口を挟むのが野暮だとは思っていても、ついそう言ってしまう。しかし真紅は水銀燈の言葉を否定しなかった。
「そう、貴女はアリスに届かなかった。だから、お父様はそれから貴女の亜種を……何処かが秀でている代わりに別の何処かに歪なところを持った貴女の複製を作り続けた。それが私達、残りの五人の姉妹。それも全て虚しく終わり、最後には、お父様は遂に実体さえ持たない、歪みきった存在まで創り上げてしまった……」
 だから、と真紅は顔を上げ、下を向いていた水銀燈と視線を合わせた。
「貴女は薔薇乙女の試作として作られた訳ではないのよ。むしろ私達の方が、手を変え品を変えて貴女の上に様々な要素を盛り上げて作られた実験体なのだわ。だから──」
 そこで一旦口篭もって視線を逸らしたが、意を決したように眉を上げ、また正面から水銀燈を見詰めた。
「──もうゲームに敗北して、翠星石のしもべとなっている私が言うべきではない事だけれど……」
 そこでまた不決断に口篭もり、勇気を奮い立たせるため、というように、強い勢いで告げる。

「貴女がアリスになって、水銀燈。それが最も自然な形なのだわ」

 水銀燈は微妙な表情になった。何かを言おうとしたがそれを引っ込め、ありがとう、と呟く。
 両手で真紅の頬を挟むように持つと、真紅は何かを予期したように目を閉じた。
 今回に限っては、水銀燈は真紅の期待を裏切らなかった。
 何一つ動く物のない、陰鬱な瓦礫だけの世界の片隅で、二人の少女は口付けを交わした。



[19752] 140ほど。久々に病室。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/05/06 10:07
「まだ引継ぎの相手はわかんないの?」
 柿崎めぐは横になったまま、窓に腰掛けている水銀燈に視線を向けた。
「あの歌、もう完璧に覚えちゃったんだけど。次の人が来るまでにあと二、三曲は軽く行けそうなくらいよ」
「そんなに何曲も披露したって、却って引かれるだけよ。一曲だけにしときなさい」
 水銀燈はにやりとしてめぐを見遣る。

 最近、また少し顔がむくんで来ている。彼女が黙っているから水銀燈もそれについては何も言わないで居るが、元々痩せ気味の顔だから、少しでもむくみが出ると目立つのだ。
 一過性のものなら良いが、と思い、水銀燈はその考えを打ち消した。一過性のものに決まっている。
 余程のことがない限り、あるいは透析が必要になって来るような合併症を発症しない限りは、病院内という管理体制に置かれているめぐの病状にそれほど急激な変化は有り得ない。もし変化があれば、病変は即座にめぐの余力のない身体に現れ、そして医師によって速やかに処置が施されるはずだ。
 多少のむくみ程度で騒いではいけない。恐らくは、ほんの僅かの負荷が加わったか何かして、危ういところで辛うじて均衡を保っていた彼女の体調に変化が出ているだけのことだ。

 そういった思いを、水銀燈は一切表にしなかった。感情を隠すのは上手でないという自覚はあるが、考えている内容全てを明かさない程度の演技ならばできる。
「……どうしたの? 何か面白い影でも出来てる?」
 めぐは頭をゆさゆさと枕の上で揺すってみせた。月明かりは弱々しく、部屋の中の常夜灯の光の陰影の方がまだしもはっきりとしていた。
「死神の鎌でも顔に掛ってた?」
「そこからいい加減離れなさい。人が折角別の歌を教えてあげるかどうか考えてたのに」
 水銀燈は肩を竦めた。
「ただ、肝心の私自身がうろ覚えなのよ。それでどうするか考えてただけ」
「水銀燈の創作民謡なのに?」
 めぐは人の悪い笑いを浮かべた。
「前のはアニメのエンディングって設定だったけど、今度のは何?」
「設定ねぇ……まぁいいわ。今度は挿入歌よ。同じ作品のね」
 だけど、通しで聞いたことがなかったからいまいちなのよ、と水銀燈はお手上げといった身振りをしてみせた。
「貴女が歌うには色々な意味でぴったりなんだけどね」
「水銀燈に言われると、なんか裏がありそうで怖いな」
 めぐは少しはしゃいだ声で言った。怖いのが楽しい、とでも言いたいらしい。
 死を渇望し、黒い天使に命を奪われることを望んでいる少女、という役柄を演じている彼女としては当然の演技なのだろう。
 実際のところは、ここ数ヶ月の付き合いで分かっている。水銀燈が益体もない知識以外の何かを教えてくれることが嬉しいのだ。そういったところに限っては、めぐは年頃の少女よりよほど素直で、切なくなるほど素朴な面を持っていた。
「死に行く者への挽歌みたいな感じ? それとも頭が可笑しくなりそうなメロディとか?」
「残念ながらどっちも不正解。どうして妙な方向にしか考えられないのかしらね。もう心臓が強いのは分かったから、頭の中身を看て貰いなさい」
 水銀燈は黒い羽根を一本、ふわりとめぐの顔の前に浮かべた。めぐは腕を上げてそれを掴み取り、目の前に持って来て軸を人差し指と親指で摘み、くるくると回した。
「別に心臓は強くなんかないわ。また機能が低下してるもの」
 事も無げに言い、めぐは摘んだ羽根にふっと息を吹きかけた。どういう加減か、羽根は上手い具合に軸を中心にしてくるくると回転した。
「今更、多少は動きなさいって言うのよ。今更。リハビリごっこなんかしたって良くならないのは分かってるのに、なんで弱ってる臓器に無理矢理負荷を掛けさせようとするのかしら。矛盾してると思わない?」
「それなりの理由があるんでしょ、病院側には」
 水銀燈はそう言うしかなかった。

 目の前のめぐの詳しい病状も、どういった治療を受けているのかも彼女は知らない。むしろ媒介の知識の中にあった、発作か併発症のために意識レベルが低下し、酸素吸入を受けながらストレッチャーで運ばれて行くめぐの姿の方が脳裏に印象的に焼きついているほどだった。
 目の前に居るめぐは、水銀燈も媒介も未だ彼女と出逢う前に、既にそれに相当する事態を起こしてしまっていたらしい。お陰で、メイメイは最後の最後で彼女を薇を巻く役割の候補から外してしまい、水銀燈は恐らく全ての姉妹のこれまでの全ての契約者達の中でも最も異質な存在である男と契約を交わす破目になった。
 これまでの多くの事柄と同じように、それもまたゲームの遂行のために必要な布石だったのかもしれない。むしろメイメイに彼を選ばせるためにめぐは候補から外される処理を受けた、という可能性もある。
 彼はこの世界群に唯一の、イレギュラーな存在だった。だから、彼が水銀燈の薇を巻かなかった世界というのは存在しない。正確に言えば存在してはいるが、その分岐先の何処にも彼は居ない。居るのは本来の肉体の持ち主、この世界で蒼星石を好きになった少年だった。
 媒介が聞いたら、歴史がそこで変わったの何だのと言い出しそうな話ではある。彼は意外にそういった分野の小説が好きだったようだ。水銀燈とは一言もそういう話はしなかったけれども。

「私には分からないけど、誰かにとって何がしかの意味があるのは間違いないわ。それが貴女とは限らないけどね。従順に言われたとおりにしてみて、それを見極めてみるのも面白いかもしれないわよ」
 そう言ってやると、めぐはやや疲れたように苦笑した。
「全く、他人事だと思って……って、他人事か」
 羽根を回すのを止め、力なく手を投げ出す。傍で見ている以上に怠さを感じているのかもしれない。
「寝たきりでベッドに縛り付けられるようになったら、ほんとにつまんないだろうな……」
 めぐらしくないとも、ある意味で彼女らしいとも言える無造作な言葉だった。水銀燈は眉を顰めたくなった。ぼそりと本音を漏らすのは、弱気になっている証拠だ。
 だが、その言葉を漏らしてしまったことで、めぐのスイッチは切り替わったようだった。もぞもぞとゆっくりした動作ではあるが、そう見れば快活と見えなくもない動作で上半身を起こし、外の僅かな光を受けて黒く輝く瞳を水銀燈に向ける。
「寝たきりって言ったらね、十階の眠り姫、見て来たわ」
 急に活き活きとした口調に変わる。
「凄い金髪だった。憧れちゃうわ。金髪美人の女の子って本当にアンティークドールみたいなイメージなのね。ドールが写実的なんて思ってなかったから意外だった」
「随分な言い様ねぇ」
 水銀燈は心底呆れたと言いたげな声を出した。
「元々ドールは上流階級の子供の三次元肖像みたいなものよ。メモリアルとして作られた物も多い。他の部分がどんなに嘘っ八でも、首から上だけはある程度写実的に作られていた訳。もちろん、美化されてるのは言うまでもないけど。いまどきのソフトビニールの人形じゃないんだから、人間らしく作られていて当たり前でしょうに」
「それは理屈でしょ? 私は実物を見て──もちろん人間の方の話よ──そっくりだなって思ったのよ。やっぱり可愛らしさじゃ日本人の子供なんて白人の女の子には勝てないみたい」
 めぐは上機嫌で失礼なことを言い始めた。
「肌の白さ、彫りの深さ、皮膚とか髪の色、どれを取っても素晴らしかったわ。眠ってるだけなのに」
「人身売買か女衒でもやれそうな観察眼ね」
 水銀燈はやれやれと掌を上に向けて首を振ってみせた。
 十階の眠り姫、とはオディール・フォッセーのことだ。肉体的には植物状態という訳でもなく、眠っているだけで呼吸もしているのだが、どうしても目を覚まさないということだった。当たり前の話ではある。彼女の心はその肉体の中にはなく、恐らくはnのフィールドで独り彷徨っているのだから。
「審美眼って言うのよ」
 めぐはにっと笑って訂正した。
「本当、お人形さんみたいに綺麗で可愛かったわ。もう何週間も眠ってるなんて思えないくらい。お見舞いに来てた人も信じられないって言ってたけど」
 水銀燈は片方の眉を上げた。

──見舞い客か。

 これまでその存在を無視してきたが、オディールにも現実世界に自分の暮らしがあったはずだ。それを今更のように思い知らされたような気分だった。
 ホテル泊まりで雛苺を探していたということだから、家族がフランスからやって来ている可能性は高い。それとも日本の国内にある彼女の別宅からか。
 どちらにしても彼女は、動かせる状態であれば疾うの昔に母国の然るべき病院に転院していておかしくない、病因が謎でありかつ重篤な病状が何週間も続いている患者だった。
 心が戻れば当然、オディールは帰国する段取りになる。その場合彼女はまた雛苺を巡ってひと波乱起こすのだろうか。
「見舞い客も外人じゃなかったの? よく言葉が通じたわね」
 ふと気付いてそんなことを尋ねると、めぐはにやりとしてみせた。
「残念でした。日本人の男だったの。彼女をここに連れて来た人の内の一人だとか言ってたわ」
 水銀燈がぴくりと反応したのをめぐは気付かなかったようだった。
「あんまり音沙汰がないからどうなってるのか心配になって見に来たって言ってたけど、入院した日と全然変わってなくてびっくりしてたみたい。謎の眠り姫って感じね。憧れちゃうわ。いつまでも眠り続ける美姫なんて」
 水銀燈はわざとらしく溜息をついた。無責任な憧れを吐露した少女に、やれやれというポーズを取った形だった。表向きは。
「恋人を日がな一日侍らせてる子の言うことじゃないでしょう」
 呆れたと言いたげに窓枠に背を預け、片膝を立てて座り直す。
 めぐは知る由もなかったが、それはかつて、水銀燈が媒介の家の窓で外を見ていたのと同じ姿勢だった。今でも時折することはあるが、それよりも何処かの家の中で誰かしらとテーブルを囲むなりしてお喋りすることの方が多くなっている。

 あの頃から見れば、今の暮らしの方が充実しているのだろうか。
 既にローザミスティカの過半は身体の中にあり、残りの全てを統括している翠星石とも、妙な話だが関係は悪いものではない。更に、真紅からも随分と肯定的な話を聞かされた。
 確実に、あの頃欲していたものは手に入りつつある。それも、大きな痛みを伴わない形で。媒介からの知識やら別の世界群の人形師の言葉やらであっちに流され、こっちに流されはしているけれども、概ね最良のルートを辿ってアリスゲームの勝利へと近付いている、と言ってしまっても過言でないのではないか。
 しかし少しばかり外側に目を転じれば、何ほどの変化もなかった。あの頃は存在を意識もしなかった柿崎めぐは、ずっと変わらず病魔に対して長い撤退戦を続けている。めぐのパートナーである人形のボディを製作した男は、不景気を嘆きながら同じようにドライカーボンのパーツを作り、手が空けばお客の二輪車の修理点検だの整備だのをやっているのだろう。
 自分達にとっては終末に差し掛かった激動の時間であっても、僅か一歩か二歩外の人々にとっては過去から未来に続く中のほんの数ヶ月の出来事に過ぎないのだ。アリスゲームとは実に小さなものだった。

 膝を引き付けて水銀燈は口許を歪めた。
「一般的には貴女の方がずっと憧れられる状況なんじゃないの? 彼女はいつ目覚めるか分からないし、夢の中ではどうあっても現実には独りぼっち。それが魅力的じゃないから、貴女は一度楽しい夢を見た後、二度目をせがんでないんでしょう」
 めぐは視線を逸らし、真上を向いて天井を見詰めた。
「……そうかなあ。私、怖がってるだけかもしれないわよ。もう一度あんな都合の良い夢を見せられたら、もう帰って来たくなくなるんじゃないかって」
 だってそうでしょ、と呟く。
「夢の中にもあの子はついて来れるし、水銀燈達も来てくれる。この間みたいな世界なら体感時間も現実より長いわ。ここは病院なんだから、動かなくなっても医者や看護師は私のことを少しでも長く生かそうとするでしょ。私にとってネガな部分が一つもないじゃない?」
 目を閉じ、軽く二、三度首を振る。
「だから怖いの。どんなにご都合主義で嘘八百な世界でも、私にとっては気持ち良い場所だから。こんな下らない現実にはもう絶対帰って来れなくなるわ」

 めぐは正しい、と水銀燈は認めざるを得なかった。
 彼女の病には一般的な回復というものが有り得ない。器質的な欠陥であるからだ。退院して元気に同じ年頃の人々と触れ合うといった未来は、今のところ存在しない。将来の医療技術の進歩や臓器移植による治療に期待するしかないのだ。
 雪華綺晶には糧の生命力を吸収して別の糧に分け与えるような能力があったのかもしれない。しかし彼女は歪な自己を保つのを止め、魂だけとなって遠くに去ってしまったし、そもそもめぐを糧とはできなかった。
 媒介が読んでいた漫画の世界ではそこまでの制限があったのか不明瞭だったが、水銀燈自身の末妹に関する限り、めぐは糧として確保できる対象ではなかった。ゆえに、彼女は雪華綺晶からも省みられずに病室に横たわっている。
 もうこれ以上の改善が望めないのであれば、都合の良い夢の世界に浸ることを望んでしまっても悪いとは言い切れない。少なくとも水銀燈には。
 ただ、めぐはまだそれに踏み切らないでいる。

 常夜灯と月明かりの中でも、めぐの顔がむくんでいるのは分かる。ムーンフェイスなどにはほど遠い、かすかなむくみだが、彼女の顔を長いこと見てきた水銀燈には分かってしまう。
 それでも、いや、だからこそ言ってやらねばならない。
「夢に行きっ放しになるのが怖い、と躊躇する程度には現実に未練があるってことでしょ。やっぱり貴女はこの厳しい現実の方を愛しているのよ」
 それから、と付け加える。
「何がしかの希望を抱いているんじゃないの、まだ。私にはそっちの方面の知識はないけど、医療技術の進歩に期待してるとか、そういうこと」
「……確かに、医学の発達は凄いわ。今度はリミットを実用的な期限にしてくれるんじゃないかって思うことあるもの。四十歳とか、五十歳とか」
 めぐは目を閉じたまま、少し首を竦めてみせた。
「無理なんだけどね。新型の機械付けて多少動けるようになったところで、病院と自宅の往復になるのが関の山。もしも心臓の移植が可能になったとしたって、拒絶反応が出れば数日内に即死。上手く行ったって末期癌患者の余命とそんなに変わらなくなるだけ。結局さっさと死ぬように出来てるのよ、この身体は」
「その辺の認識を否定できる材料はないわね。貴女の方が私の何倍も詳細で新しい知識を持っているのだから」
 水銀燈はあっさりと白旗を掲げてみせた。
「それでも私は、貴女が夢にさっさと飛び込むとは思えない。貴女の手はまだ戦いを止めてないもの」
 めぐは目を開け、右手を持ち上げた。
 水銀燈の位置から見ても、年頃らしからぬ細かい染みや黒子のようなものがそこここにあるのが分かる、白くて細い手だった。それも今は少しむくみ、薄暗い中では却って肉付きが良いようにも見える。
「……あの人、不思議だったな」
 ぽつりと、まるで脈絡の無さそうなことをめぐは呟いた。
「絶対初対面なのに、見たことあるような気がしたし……」
「その眠り姫のこと?」
 オディール・フォッセーに何等かのシンパシーでも感じ取ったのか、と水銀燈は考えたが、めぐは自分の右手を見詰めながら首を振った。
「眠り姫をお見舞いしてた人。水銀燈の前任の人みたいな気がしたのよ。ほんと不思議だった。歳も顔も全然違ってて、背の高いところしか似てないのにね。しかも私の事なんか知らないみたいだった」
「……ふうん」
 水銀燈は鼻を鳴らすのではなく、口でそう発音した。小馬鹿にされたと思ったのか、やや憮然とした表情になりながらめぐは続ける。
「でもね、私の手を見て言ったのよ。『歴戦の勇士だな』って。あの人と同じだった」

 十階のロビーに作られた談話室で暫く彼と話し込んだ、とめぐは言った。どちらが誘ったのかは言わなかったが、水銀燈には情景が目に浮かぶようだった。
 めぐは恐らくオディールの病室で彼女を観察するだけで疲れきってしまったのだろう。そしてエレベータまで歩いて行くのも億劫なほどになり、彼に連れられて談話室で休憩した。そんなところか。
 めぐの手に気付いたというのも、その場のことではないかと水銀燈は考える。座って話しているときにでも、ごく近くに彼女の手の甲が見えたのではないか。
 思った以上に、かつての媒介とこの世界の彼は似ているのかもしれない。何故か、胸の奥がじわじわと痺れるように痛んだ。

「なんか、お陰でますます怖くなっちゃった」
 めぐは溜息をついた。
「どうしてみんな、私を長いこと苦しめようとするのかしら。サディストの巣窟だわ、ここは」
 よく分かってるじゃない、と水銀燈は微笑んだ。咄嗟に、他に言葉の返しようがなかった。
 今晩のめぐは多弁な割に妙に素直で、妙に静かだ。もしかしたら、彼女も起きたまま何かを夢想しているのかもしれない。それは、有り得ないとは思いながらも、微かに可能性を信じられる未来であるような気がした。
 暫く沈黙が続き、先に根負けしたように口を開いたのは水銀燈だった。
「……さっきの歌の話ね、私よりは覚えてそうな子が居るのを忘れてたわ」
「また貴女のお仲間?」
 めぐは枕の上でまた首を竦めた。
「あの帽子の子とポニーテールの子、元気にしてる? あれから会わないけど」
「まあ、元気といえば元気ね」
 蒼星石は死んでいるとも、生きているとも言える。ある意味で彼女は水銀燈より余程巧妙に状況を利用して、ちゃっかりと自分の目的を果たしてしまった。
 最近、水銀燈は彼女が破ってしまった禁忌の多さに思い至って呆れることも多い。自分達の本質である魂そのものはアリスゲームに無用だということを逆手に取るとは、どういう発想なのか。至高の存在とは無縁な方向だが、彼女は強かなヒトとして今もnのフィールドで息づき、現実世界への帰還を窺っている。
「でも、私の仲間じゃないわ。それは──」
 言いかけて、水銀燈は座ったまま、ふと顔だけを上げた。
 外からの光が翳った、と思ったときには、濃紺の姿は音もなく窓のすぐ外に滞空していた。水銀燈はにやりと口の端を持ち上げた。いいタイミングだった。
「──その子よ。繰り返し聞かされていたはずだもの。『柿崎めぐ』の口ずさんでた歌をね」
 何のことだ、と言うように、濃紺の衣装のドールは一瞬だけ眼つきを鋭いものに変える。水銀燈は無言の問い掛けに答えもせずに立ち上がり、ばさりと翼を広げてめぐに背を向けた。
「それじゃ、そろそろお暇するわ。長居して悪かったわね。また明日」
「またね」
 珍しい言葉に振り向くと、めぐは機嫌良く片手を上げていた。相変わらず枕に頭をつけたままなのが、水銀燈には少しだけ寂しく思えた。
 濃紺の衣装のドールが入れ替わるように室内に入り、いつものように両者のお喋りが始まるのを微かに聞きながら、水銀燈は手を振り返すでもなく夜空に舞い上がった。



[19752] 100ほど。 見落としていたこと色々。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/05/07 23:35
三人寄れば文殊の知恵と言いますが
単独行動するときって、肝心なことを一つくらい忘れてるもんですよね。

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 雛苺は手近な世界の扉に腰掛け、足をぶらぶらさせて周囲を見渡した。
 同じような扉が無数に存在し、そのどれもが何処かしらの物質世界に通じている。ただし、それは番号さえも振られていない、大半は近いうちに細って消えて行く運命にある世界達だった。
 分岐の可能性を失った世界への扉の廃棄場、というのは水銀燈の表現だが、まさにそのとおりだった。番号を振られた精神世界への扉が並ぶ場所よりも扉の配置は雑然としており、そして密度も濃い。うっかり移動していると扉にぶつかってしまう。
 雛苺がここに来たのは、探し物がここにあるからという訳ではなかった。ドールの魂や閉ざされたヒトの心が彷徨っているとすればそれは無意識の海の辺りで、間違っても物質世界の何処かではない。
 しかし、雛苺は遊びに来たり、探し疲れて気分転換に立ち寄った訳ではない。ごく最近分岐した世界に用があった。

 オディール・フォッセーの心を探す、というのは予想以上に困難な、まさに雲を掴むような仕事だった。
 ナナの姉妹達のように、強引な手法を使って呼び戻す訳には行かない。彼女は人間なのだから。
 とはいっても、当てもなく探索の手を広げたところで、心が何処に紛れてしまったのかは分からない。何か切っ掛けのようなものがなければ、まさに偶然の邂逅に期待するしかない。
 切っ掛けを得るには、オディールの心のありようとは行かないまでも彼女の周囲の状況から望みや絶望を推測するしかない、というのは真紅をはじめとする姉妹の一致した見解だった。そこからどうにかアプローチを掛けられないか、という考え方だ。
 しかし彼等はオディールに関して知るところが少な過ぎた。雪華綺晶なら確実にオディールの心の生育過程の一部始終を知っていただろうが、彼女は今何処でどうしているのか誰にも分からない。仮に探し当てたとしても、既に魂だけの存在となった彼女がローザミスティカとゲームに縛られていた頃のことを覚えているかどうかは怪しい。
 考えても考えても否定材料が出てくるばかりで、状況は手詰まりに近いものになりつつあった。

──オディールのことを知るにはオディールに尋ねるのが一番だよね。

 雛苺はそう考えた。
 廃棄場の、できるだけ「新しい」扉を潜り、その向こうに居るオディールを観察して、彼女の心の内を僅かなりとも汲み取ろう。それは現実世界のオディールとも似通っているはずだ。
 発想は単純明快だったが、実行するのが簡単ではないことも同じように明白だった。迂遠でしかも不確かなアプローチだということは分かっている。
 それでも闇雲に探すよりは良いように思えるのだ。少なくとも、雛苺には。

「──遅れてごめんなさい」
 後ろから声がした。雛苺はにっこり笑って振り向き、待ってないよ、と手を振った。
 布の小さな手提げ袋を手にしたナナは、長い髪を三つ編みに結って、少し欠けた薔薇の髪飾りを付けていた。服装はいつものとおり、ごく適当な子供服だった。カラーコンタクトで瞳の色さえ変えてしまえば、ややスタイルが大人びているように見える子供、で通ってしまうに違いない。
「……私ので、合うんでしょうか」
「だいじょーぶなの。だぶだぶの方がそれっぽいのよ」
 心配そうに差し出された袋の中身を覗き込み、雛苺はにっと笑った。
「ナナがお姉ちゃんで、ヒナが妹なのよ。おーけー?」
「良いですけど……ほんとに大丈夫なんでしょうか」
 ナナはまだ不安そうだった。
「世界の扉が空に開いていたりしたら、私もヒナちゃんも飛べないから、扉は開いていても帰れないかも……」
 廃棄場の先の世界は物質世界とはいえ、世界樹から見ればまさに枝葉末節に過ぎない。世界樹の幹が司る現実世界には無数のnのフィールドへの出入り口が存在し、さらに人工精霊さえ居れば、大袈裟に言えば鏡面なら何処からでも扉を開けられたが、廃棄場の扉の先からはそういう訳には行かない。出入り口は大抵一つずつ──廃棄場にある扉そのもの──しか存在せず、それも常に開いているとは限らない。人工精霊も自由に扉を開くことはできない。
 『真紅』が廃棄場の先の世界に姉妹を分散させようとしたのは、そういった閉鎖性も理由の一つだった。分岐の可能性を失ってしまった世界の上に居る限り、直接の行き来は出来ない。それぞれが他と関わらずに静かに暮らして行くには都合が良かった。
 もちろん、出入り口が永遠に閉ざされてしまうこともある。そうなってしまった世界は世界樹から観測も出来なくなり、扉もここから消え失せてしまう。恰も消滅したように見えるのだった。
 実際にはそういった世界は消えたのではなく、閉じられたまま一個の完結した世界として存在し続けているのかもしれない。しかし、扉が消え、たとえ一方通行であってもアプローチが可能だった状態から、出入りも観察も不可能になってしまえば、それは消えたのと同じことだった。
 雛苺はそういったネガティヴな面を故意に無視しているようだった。
「物質世界だから、普通は現実世界と同じなのよ。古い鏡とかきれいな泉とか、命が宿ってる物のところにしか開かないの」
 雛苺は自信たっぷりに解説した。実は真紅の受け売りなのだが、そのことはおくびにも出さない。
「注意して潜れば大丈夫なのよ」
 ナナは困ったような表情を浮かべたが、はい、と頷いた。
 実はナナは一度、自分で言ったような破目に陥ったことがある。『翠星石』と共に『真紅』を追ってある物質世界に入ったときだ。だが、それを持ち出して抗弁するほど彼女は強気ではなかった。あの世界は特別だったのかもしれない、という根拠はないが楽天的な考えも頭の何処かにあった。

 楽天的といえば、彼女達は重大なことを忘れていた。
 廃棄場に吹き寄せられた扉の先の世界は、その扉でしか外部と繋がっていない。それは、nのフィールドを経由してある地点からある地点へ──例えば桜田家から結菱邸へと──移動することができないということでもある。
 そして、世界の扉がオディールの近くに開いているとは限らないのだ。むしろその可能性は限りなく低いと言わざるを得なかった。
 しかし自信たっぷりの雛苺も不安を抱えたナナも、その肝心なことには気付かないままだった。


 桜田家の客間には常に良い匂いが漂っている。今日は温かな紅茶と焼きたてのハードビスケットの香りだった。
 その場に集っている面々も、さほど珍しい顔ぶれではない。水銀燈以外は全て桜田家の住人だった。
 但し、常日頃煩いほどにはしゃいで翠星石やのりの作ったお茶菓子を食べている雛苺はナナと出かけて不在だった。だからという訳ではないのだが、その場の雰囲気からは明るさがやや欠けているようにも見えた。
「──そう。あの子と会ったの、貴女達も」
「はい……」
 翠星石はちらりと真紅を見遣り、柄にもなく言葉を選ぶような間を置いてから水銀燈に視線を戻した。
「情熱的な子でしたよ、えっと……マスターを凄く愛してました。魂だけにされて、自分の名前を聞いても薄ぼんやりしたままだったのに、マスターを思い出しただけで自分の姿をはっきり取り戻すくらいに」
「なるほどね」
 水銀燈は翠星石と真紅の間で若干居辛そうに座っているジュンを面白そうに眺め、ふんふんと頷いてみせた。
 ジュンと翠星石もまた、真紅の見たような刺激的な場面ではなくとも、同じように強烈な印象を得たということだろう。

 流石に最高のドールはインパクトも別格ということか、と皮肉な思いが腹の中でちらちらと顔を出して来る。
 それは彼女に対する軽い嫉妬のようなものだと水銀燈は気付いていた。間近で見て知っている訳でもない、しかも自分だけが不幸を抱え込んでいるとは感じていない水銀燈にさえもそういった感情を抱かせるほどに、かつてのあのドールは全てにおいて恵まれ、優遇されていた。
 製作者である人形師を知っていて、憎めない人物だと思っている水銀燈ですら嫉妬に近いものを感じてしまうのだ。直接剣突をやらかしていた間柄であればそれは僻みと言えるものに肥大してもおかしくはない。やはり、彼女はあまり芳しからざる存在であるのは間違いないようだった。
 もっとも、だからといって敬して遠ざけてしまって良いものか、というとまたそれは別の話だ。

 そんな思いを巡らしながら、にやりとしてみせる。
「真紅が見せられた夢といい、彼女が本当に希求していたのは何か、確実に分かる話じゃないの」

 少なくとも外面と内心は別物だった、ということだ。
 それは特に問題ではない。「『お父様』の願いのとおり、ゲームに頼らず各々が究極の存在を目指す」という建前は、理想を追い求めるという意味合いだけではなく、彼女なりに考えた末、姉妹達のことを彼女なりに思い遣った上でのポーズでもあったことは想像に難くないからだ。
 恐らく彼女は独りで新たな契約者を探し、『ジュン』への思いは心の奥に仕舞い込んで時間が解決してくれるのを期待しながら、二体の姉妹を元の器に戻すことに力を尽くし、その後は自分で言ったとおりに究極の存在への道を模索するつもりだったのだろう。それはそれで気高く美しい話だった。
 恐らくこの場の全員が懸念しているのは、雪華綺晶に心の底の欲求を曝け出された現在の彼女を呼び戻すに当たって、強引に契約を結ぶ程度しか思い当たる方法がないことと、プライドが高い上にその方法を嫌っていた彼女が、呼び戻された後で素直に受け容れられるかどうかといったことだった。
 方法自体を受け容れたとしても、彼女の求める対象は恐らくこの世界群の何処を探しても存在しない。一度は本心に忠実になってしまった彼女がそれに耐えられるのか。耐えられなかった場合、周囲にどういった影響が及ぶのか。
 真紅はそういった諸々の懸念と同情も込めて、特に早期に呼び戻すことには反対のようだった。水銀燈は逆に、そのところは理解するものの彼女が自分で解決すべき問題だと割り切っている。
 それは、片や彼女の本音の部分だけ、もう一方は建前を述べていた姿だけを見た二人の印象の違いということになるのかもしれない。
 偶然、それも短時間とはいえ、じかに会って会話も交わした翠星石とジュンの意見はどうなのか、と水銀燈は並んでいる二人を見遣る。
 また違った側面が現れているだけかもしれないが、意見があるのであれば聞いてみる価値はあった。

 どう思うか、と聞かれて翠星石は小首を傾げた。
「怖かったです。切ない子でしたけど、とっても怖いところを持ってました」
 わざとぼかしたような言い回しを使ったところに、怖さを感じた原因の微妙な部分があるようだった。
「もっと怖いのは、あの子が現実に帰ったときにどれだけ絶望するかってトコです。その点は翠星石も真紅と同じ考えですよ」
 強く鋭い中に危うい脆さのようなものを感じ取っていたのは翠星石も同じらしい。ただ、翠星石は少し別の視点を持っていた。

「だけど翠星石はあの子を早く呼び戻してあげた方が良いと思うんです。この際強引な方法を使ったって構わないです。今の状態は、あの子にとって本当に幸せとは思えませんから。
 『翠星石』はあの子のことを優しくて強い子だって言ってました。頼り甲斐はあるし、いっぱい助けて貰ったって。『蒼星石』や他の姉妹達もきっとあの子には色々とお世話になってるはずです。
 恩を返せとは言いませんけど、あの子達だってお互いに姉妹なのです。元に戻してあげたことであの子が悩んだり苦しんだりするなら、そのときこそ他の姉妹が助けてあげる番ってやつです。
 もしナナとか『蒼星石』だけじゃ不安があるなら、あの子を戻すのは最後に回しても構わないです。
 要はあの子がホントはとても脆くて崩れそうだってことを他の姉妹に教えてあげて、みんなで支え合えるように言って上げることです。一人一人が究極の存在を目指すにしても、その手前で挫折したら話にならないじゃないですか」

 彼女らしいはっきりとした意見だった。契約を解除して家出した上に勝手に器から離れてしまった真紅を呼び戻したという経験が、自信を持たせているのかもしれない。
 魂を呼び戻す方法の選択については強引な手法を用いても良いという言葉は、その部分を切り取れば水銀燈と同じだが、立脚点は違っている。呼び戻される側でなく、その姉妹達に優しさと強さを求めるものだった。
 器を捨ててしまった真紅を呼び戻したときは、その場に居た姉妹は──水銀燈を除いて──力を合わせて真紅に呼び掛けた。
 もちろん真紅が戻って来ることができたのはジュンがそこに加わっていたからという側面はあるだろう。真紅自身が魂だけの存在となった間も確りと現実を受け止め、自己を保っていたという違いもある。
 それでも、あの場で姉妹四人が心を合わせて祈り、真紅が帰還したことには違いない。
 自分達がそうしたように、彼女達も誰か一人の危機には姉妹全員が力を合わせるべきだと翠星石は言いたいのだろう。

「御人好しは美しいかも知れないけどねぇ」
 水銀燈はティーカップを口に運んだ。敢えて否定的な見解を述べてみることにする。
「助け合いなんて、本来敵同士の姉妹には無縁のことかもしれないわよ」
 彼女達の場合は、強引に呼び戻すならば心を一つにして想いを届かせる必要はない。だが恐らく確実に、呼び戻された者の心を支えて行く必要がある。
 長い道程になるかもしれない。自分達より更に幼いところのある彼女達がそれに耐えられるのか。
 しかし、水銀燈の思いは翠星石にはやや違ったニュアンスで受け取られたようだった。
「現にアンタは協力しなかったですからね」
 僅かにむっとした表情になっていた。真紅を呼び戻そうとしたとき、その場に居た中で水銀燈だけはナナの手伝いをしていた。
 水銀燈が自分の立場上、そしてナナに対しての最低限の心遣いとしても、そうすることを良かれと考えたことは翠星石も分かっている。それでも全く蟠りが無いとは言えなかった。
「アンタなりの考えがあってのことでしょうから今更責めるつもりはないです。でも、それをあの子の姉妹達に当て嵌めても良いとは思いません。やっぱり協力はすべきですよ」
 悪かったわね、と水銀燈は肩を竦めた。
 翠星石がわざとらしく溜息をついた。真紅の前でもあるし、形だけで良いからもっと気を入れて謝って欲しいのだ、ということは何も言われなくとも理解できたが、水銀燈は気付かない振りをしておいた。
「ま、『水銀燈』を除いた彼女達は『真紅』に親しみを抱いているはずだし、私や金糸雀みたいに利に走る子も居ないでしょうから、協力体制は築けるでしょ」
 それが長続きするかどうかは保証の限りではないが。
 もう一度ティーカップを持ち上げて紅茶を啜る。尖ったところのない味は翠星石の淹れたものだからなのだろうか。
「それにしても」
 視線を上げ、まだ冴えない顔でこちらを見ている翠星石に笑いかけてみる。
「流石翠星石、と言うべきかしらね。私も真紅も、『真紅』と自分達の視点でしかものを見ていなかった」
「いきなり褒めたって何も出ませんよ」
 むっつりした顔のまま、翠星石は水銀燈のカップに紅茶を注いだ。
「真紅の考えは知ってますし、水銀燈の立場も分かります。けど、怖がってても突き放すだけでも前には進めないってことが言いたかっただけですよ」



[19752] 120程度。 誰かが巻かなかった世界。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/05/10 23:40
 ナナにとって幸運なことに、雛苺が開けた扉の向こうは虚空ではなく、何か汚れた広い部屋のようなものだった。打ち捨てられたような按配で人の気配もないが、明かりは差し込んでいる。それだけを取り上げればまずまずの場所に思えた。
 雛苺は用心深く段差がないかを確かめ、振り返って大きな丸を腕で作り、そのまま思い切り良く扉を越えて世界に入った。ナナはその小さな背中を見送ってから胸に手を当て、呼吸を整えてから勢いをつけて後に続く。
 扉を潜るのは呆気なかった。現実世界で薔薇屋敷の寝室や桜田家の物置にある鏡から出入りするのと何も変わらない。
 勢い込み過ぎていたのかもしれない。扉を出たところで、ナナは軽く雛苺にぶつかってしまった。
 慌ててごめんなさいと頭を下げたが、返事は暫く返って来なかった。訝しく思って脇に回り、どうしたんですかと顔を覗き込むようにして尋ねると、漸く雛苺はぱちぱちと瞬いて口を開いた。
「──このお部屋……見覚えあるような気がしない?」
「え……」
 ナナは周囲を見回した。
 日本の個人の住宅にしては天井が高く、がらんどうの室内には天蓋つきの大きなベッドが放置されている。硝子窓は数箇所割れて外気が入り込むようになっており、調度のようなものは殆ど持ち去られ、残っている物も皆色褪せたり風雨に晒されて壊れ、更に分厚い埃を被っていた。
「ここは……」
 寒気が背筋を這い上がり、思わずぶるっと身を震わせてしまう。
 見覚えがあるどころではなかった。それは結菱老人の寝室そのものだった。

「誰もいないのー」
 廊下から顔を出した雛苺は、どうしようもないと言いたそうな顔で首を振る。ナナは床に落ちていた本か何かのようなものを拾い上げながらこくりと頷いた。
 廃屋と化した結菱邸は、内部の部屋の鍵は全て開けられていて、調度の類もほとんど持ち去られている。あまりにも大きく重かったせいか、姿見だけは残されていたが、それが却って侘しさを引き立たせているようだった。
 どんな経緯があってこんなことになったのだろう、とつい考えてしまう。
 結菱老人は随分前に死んでしまったか、この屋敷を引き払ってしまったのは間違いない。その後、この広い土地には誰が住むでもなく荒れるに任せているのだ。
 もし死んでしまっているとしたら、蒼星石も居らず、かつて愛した人の生存を知ってもそれに何の手出しもできなかったその老後は寂しいものだったろう。たった一人で死んで行ったのかもしれない、と考えると、ナナは胸の中を風が吹き抜けて行くような気分だった。
 ここは結菱老人が薇を巻かないことを選んだ世界でもある。蒼星石が居たら、翠星石が居たら。この世界の結菱老人は心安らかに暮らせて、結菱邸がこんな状態になってしまうこともなかったのではないか。
「全ての世界に、それぞれのローゼンメイデンが存在していれば良かったのに……」
 あまりに虫の良い考えだとは思っても、ついそう考えてしまう。
「それは無理なのよ」
 苦笑する雛苺も寂しそうだった。だが、彼女はくるりと背中を向けると大きく腕を振り回し、大袈裟な身振りを交えて声を張り上げた。
「もしぜーんぶの世界にヒナ達が居たとしても、ぜーんぶの人がみんなマスターになれる訳じゃないんだから」
 しょうがないのよ、と振り返り、小首を傾げてナナを眺める。
 それは陳腐な原則論だったが、陳腐なだけに身勝手に切なくなっていたナナの気分を元に戻させるだけの力を持っていた。
 ごめんなさい、とナナは俯いた。
 身勝手な考えを浮かべたことが情けなかったし、どうしようもない事柄をつい口に出してしまったことが恥ずかしかったが、それ以上に雛苺が気を使ってくれたことに申し訳なさを感じてしまう。
 雛苺は敢えてナナに同意しなかったのだ。多分、彼女も自分で言ったことを頭では分かっていながら、ナナと同じような気分になりかけていたのだろう。

「それより、オディールを探さなきゃなのよ」
 湿っぽくなるのを避けようとするように、雛苺は話題を変えた。忙しく右と左に数歩ずつ行っては戻るという動作を繰り返し始める。
「何処に居るのか智恵を絞って考えなきゃいけないのよ。このくんくん仕込みの推理力が試される時なの」
「それなんですけど……」
 ナナは恐る恐る尋ねてみた。先程から疑問に思っていたことがある。
「探し方も大事ですけど……どうやって、オディールさんの処に行くんですか? 多分この街には住んでないと思うんですけど……」
 雛苺はぎくりとして立ち止まり、機械仕掛けの人形のような、きりきりと音を立てそうな動作でナナの方に向き直る。強張った顔にはまるで「考えてなかったのよ」と書いてあるようだった。
「……どうしよう?」
 逆に問い掛けられて、ナナは困った顔でぶんぶんと首を振るしかなかった。


「酷いな……こりゃ」
 室内を眺め回し、少年は思い切り顔を顰めた。がらんどうで天井が高く窓の大きなその部屋は、さながら廃ビルの中身といった風情だった。
 窓が割れてはいるものの、室内は全体的に乾燥している。黴が繁殖したり腐ったりしてはいないのは、カーテンも何もなくなった大きな窓からの日当たりが良いからだ。
「数年は放置されてるわね。でも何十年ってほどじゃないわ」
 水銀燈は床の埃というよりは堆積した砂に近いものに触れた。小さな足跡がはっきりと残るほどの厚さはあるが、そこには窓が壊れているという理由もあるだろう。
「少なくとも、ここにはこの世界の結菱老人が居たのでしょう。それも晩年までね。ひょっとしたら、死ぬまで」
 現実世界の結菱老人も、いずれ、そう遠くない年月の内に死ぬだろう。年齢的にはまだまだ平均寿命まで間が有りはするものの、長年の不摂生と持病、そして車椅子生活は彼の身体を平均的な人間より弱らせるのに充分だった。
 死んだ人の魂は何処に向かうのか、水銀燈は知らない。ナナによれば、少なくとも死んだときにその人物の夢の世界もまた閉じてしまうようだ。
「分岐してからそれだけ経つってことだよな、それ……」
 少年は天蓋付きのベッドに触った。布団が運び出されたベッドのマットレスもぼろぼろになり、スポンジが飛び出てはいたが、まだ劣化は然程進んでいない。
「どのくらい前に分岐したとか分かるのかい」
 振り向いて尋ねると、雛苺はあまり自信がなさそうな表情で頷いた。
「多分、割と最近なのよ。ジュン達の居る世界の時間では、一年も前じゃないはずなの」
 少年は首を捻った。雛苺の見立てが当たっているとすれば、結菱老人の邸宅は僅か数ヶ月程度でこの有様になってしまったことになるが、それは流石に有り得ない。
 だが、雛苺はそれほど昔ではないと保証した。具体的な分岐時期は分からないが、多分現在の契約者の誰かが「巻きますか、巻きませんか」の問いに「巻かない」と答えた世界ではないか、と雛苺は感じたという。
 その時点から客観的時間で数ヶ月経過している。当然その後に分岐した世界もあるはずだが、廃棄場で見つけた「開けられる」扉の中で一番新しそうなものが此処だった、というのが選んだ理由らしい。

 世界を見つけたは良いのだが、廃棄場に吹き寄せられて来た扉の先というのが問題だった。幹に司られる世界などと違い、廃棄場に吹き寄せられるような「可能性を失った世界」からは、nのフィールドに出入りできる場所も殆ど存在しない。何かを探そうとするなら、その物質世界の中で行う必要があった。
 雛苺もナナも、現実世界ならば無数に開いた扉からnのフィールドに自在に出入りでき、それを利用すれば自分の足で移動しなくてもあちらこちらに出没することができる。しかし僅かに一つの扉しかnのフィールドに対して開いていないこの世界では、そういう都合の良いことは不可能だった。
 この荒れ果てた屋敷から出ることだけでも大仕事なのだ。仮に出たからといって、その後オディールを探しに出るといっても何処をどう探したものか見当も付かない。あまり長くなれば翠星石達にも心配されてしまう。結局、撤退するしかなかった。
 がっかりしたナナが現実世界に戻ったとき、折り良く──というよりは、単にそんな時間帯だったのだろう──少年が作業の報告をするために結菱老人の寝室に来ていた。
 少年はいつものようにお節介のつもりだったかもしれないが、冴えない顔をしたナナの相談に乗ってくれた。彼女はとんでもなく行き当たりばったりな雛苺の計画のことを説明し、どうすればオディールさんを探し当てて話ができるでしょうか、と素朴に尋ねた。
 少年に名案はなく、その場でそれ以上の進展はなかった。しかし、夜になって少年から話を聞かされた水銀燈は満更でもないという顔で、取り敢えず行ってみればいいじゃないの、と頷いた。
「頭で考えても前動続行で捜索し続けても結果が出てないんだし、この辺で切り口の違う方法を試してみても良いじゃない。私も行くわよ」
 自分の言い出した方──ナナの姉妹の件──に一応の目処がついたのか、水銀燈はあっさりと協力の宣言をした。
 半ば好奇心もあったのかもしれない。姉妹達に碌に説明もせずに流してしまったが、彼女の持っている知識の中の「巻かなかった世界」にごく近そうな世界を自分の目でじっくり見てみるチャンスではあった。
 雛苺の方は翠星石や真紅からあまり乗り気でない返事を返されたものの、話を聞いて協力を申し出てくれた『蒼星石』を含めた三人と二体は、晩になるのも待たずにその世界の扉を潜った。現実世界の時間の流れを考えると長居はできないが、一度は行ってみなければ始まらないというのは、何も水銀燈だけの考えではなかった。

「分岐先の世界でも大抵は時間の進み方は同調しているものと聞いているけど、此処は違うということ。多分五年くらいは先に進んでるわ。今は現実世界と大体同じような速さで流れているけど、分岐した直後は一時的に異様に早く進んだってことでしょう」
 水銀燈は手に付いた砂埃を払いながら立ち上がった。
「私達が分岐の原因に関わったことで時間の進み具合や私達に関わる人物達の周辺が歪んだ可能性もあるわね。──薔薇乙女が世界群に一人ずつしか存在できないということは、分岐した先の世界はそれを排除した歴史を作り直す必要がある訳だから」

 薔薇乙女は世界、というよりも世界樹そのものに愛されている存在ではない。世界は例外や変化を好まないし、世界樹はその細い枝葉である各個の分岐した世界に、自分の影響下にない上に自由に別の世界と行き来さえもする、言わば樹に付いたアブラムシのような薔薇乙女という存在の痕跡を残したがらない。
 この世界は時間の流れが一時的に幹の部分のそれとは異なるほどの歪みを甘受しても、薔薇乙女が存在しない歴史を作り直したのだ。
 言い換えればこの世界にとって、それだけ分岐の際の修正が大きく必要だったということにもなる。
 あるいは世界そのものが「薔薇乙女が存在する歴史」という負荷に耐えられないのかもしれない。ただでさえ細って消えて行く定めの、廃棄場の扉の先の世界なのだから、負荷が掛るようなことを回避したとしても当然だろう。
 その辺りは実に気になるところではあったが、水銀燈はそれ以上考えるのを止めた。今のところは保留しておいて構わない話だ。こうして拒否されずに存在して居られるのだから。

「先ずは、この世界で誰か契約者に接触することね。その人物に協力させてオディールの所在を割り出せば、彼女に会える可能性が出て来る」
「どうやって割り出すの?」
 雛苺が素朴な疑問を口にした。
「名前でぐーぐる先生にお願いしたって出て来ないと思うのよ。ジュンがそんなこと言ってたの。有名人じゃないと出て来ないよーって」
「ええ。人名で検索しても出ては来ない。本人そのものはね」
 水銀燈は薄く笑った。
「ただ、フォッセー家はそれなりに大手の貿易商で、横浜に彼女達の別宅がある。現実世界でならその程度には情報を収集できた。この世界でも同じかどうかくらいは確かめられるはずよ」
 少年は雛苺と顔を見合わせ、首を捻った。水銀燈の言っていることは本人と会えるかどうかとはまた別の話としか思えなかった。
 オディールの家が分かったところで、彼女が今何処に居るのかは分からない。故郷のフランスかもしれないし、日本に居ても何処かに旅行にでも行ってしまっていたら同じことだ。
 特に此処が本当に数年後の世界だとしたら、尚更分からなくなるのは明らかだった。フランスの貿易商の娘なのだから、日本でもフランスでもない何処か別の国の大学に進学することも十二分に考えられる。
 ナナも同じ気持ちらしく、水銀燈をただじっと見詰めている。あまりにも期待薄な反応に拍子抜けしたように、水銀燈は肩を竦めた。
 僅かな沈黙の後、『蒼星石』だけはなるほどと頷いた。
「そうか。僕達を人形として扱うんだね」
「ええ。正確には雛苺を」
 水銀燈はにやりと雛苺を眺める。雛苺はきょとんとして彼女を見上げた。

「この世界にはローゼンメイデンは居ない。お父様も存在しなかった。そういうことになっているわ。
 だから、コリンヌ・フォッセーの大事にしていたお人形が日本で見付かったということにしても、誰もローゼンメイデンだと知る者も、騒ぐ者も存在しない。変な言い方だけど、誰かの手を介さない限り雛苺は何かの標的になることもなく安全ってことよ。
 ただ、コリンヌの形見だとすればどうしてもそれを欲しがる者は居るでしょう。その最たるものがオディール・フォッセー」

 水銀燈はこの世界の適当な人間にコンタクトを取り、それに事情を洗いざらい話した上で雛苺をオディールに会わせようと考えていた。
 もちろん、最低でもその渡りを付ける人物とオディールには、薔薇乙女のことは殆ど全て知られてしまう。そのことが厄介な問題を引き起こさないとは限らないが、その程度のリスクは背負っても構わないだろうと水銀燈は割り切っていた。
 この世界のオディールがどうしても雛苺を離したくないと思ってしまっても、雛苺は現実世界に帰還しなければならない。
 それは雛苺にとって初めての、自分から切り出す別れとなるのだろうが、その程度の事柄を経験しておいても悪くないだろう。アリスゲームから降りているとはいえ、雛苺も薔薇乙女のネガティヴな面を身を以って知っても悪くはない。
 仮にそうなったとしても、残されるオディールに全く救いがない訳でもない。本人ではないが、よく似たドールが彼女の許に行かないとは限らないからだ。もっとも、その見込みはごく薄いけれども。

「──でもそれ、結構時間掛りそうだな……」
 少年はぼそりと言った。
 腕を組んで外を眺める。ややくすみ始めた硝子窓越しの風景は、いつも老人の部屋から見ているものと何の相違もないように見える。

 ふと、脈絡のない考えが浮かんで来る。
 ローゼンメイデンが居ないこと以外に相違点がないということは、大多数の人々にとって何等の変化もない世界のはずだ。分岐してからは別の道を歩き始めてどんどん変わって行くとしても、何故出発点で時間の流れに数年間分も歪みが出てしまうほど変えてしまう必要があったのだろうか。
 そもそも、世界はほとんど無限の広さがあるモノではないのだろうか。いくら薔薇乙女がイレギュラーな存在だとしても、それは巨大な世界の中でほんの僅かな一点に過ぎないし、薔薇乙女は世界そのものを滅ぼすような力を持っている訳でもない。むしろそんな物騒な思考とは反対に、静かに人間の中に安息の地を見つけて、命を賭けた姉妹喧嘩に向かって進んでいるだけの存在だ。
 世界は何故、そんな小さなものの痕跡まで執拗に消し去りたいと思うのだろうか。分からない。
 それは水銀燈の考えかけた事柄とはまるで反対の物の見方だった。お互いが口に出していれば何か議論が起きたかもしれないが、幸いなことにどちらも相手の内心まで読んでいる訳ではなかった。

 少年が柄にもなく湧いて来た考えに囚われかけ、なおも二、三度頭を振っていると、水銀燈は苦笑しながら彼の言葉に答えた。
「そうね。適当な相手を見付けて計画を説明するのには時間が掛かる。オディールの居場所や都合によっては、連絡がついたとしてもそこから更に数週間以上掛かる可能性もある」
 でも足で探すよりは確実でしょう、と水銀燈は肩を竦めた。
「どの道オディールが居る場所には、向こうから出向かせない限りはこちらから歩いて行く必要がある。私達のヤワで短い足で直接ね」
 同じことならば出向かせる方が早い。水銀燈の言うことはそういう意味合いだった。
「説明にはあまり長い時間は必要ないよ」
 『蒼星石』は生真面目な表情のまま、ただ暗さのない声で水銀燈に向き直った。
「ボクがその人を誘って夢の中に入る。そして……」
 ナナの方を振り向き、できるかい、と言うような表情になる。
「キミは効率良く説明できるように夢を誘導するんだ。多分一晩あれば必要なことは伝わるはずだよ」
 ナナは黄色い目をぱちぱちと瞬き、はい、と答えた。
 なるほどね、と水銀燈は軽く頷く。
 nのフィールドとは直接繋がっていないかもしれないが、この世界の人々も夢は見るはずだ。あちこちに移動することは不可能でも、この世界からそこに入って、そこからこの世界に戻ることはできる。
 夢から心の木に辿り着くこともできるはずだ。それは現実世界の人々の心の木とは違って、消えそうに細った枝の上に辛うじて根付いている木々かもしれないが、それでも彼等の心と記憶を表していることは変わりない。
 この世界のオディールの心の木の場所が分かれば、ローゼンメイデンの居ない世界で彼女の心がどう息づいているのかもおぼろげに見えて来るのではないか。
 実際は翠星石や蒼星石でも心の木から実態をそこまで詳細に見て取ることはできないのだが、それでも何かの足しにはなるはずだ、と水銀燈は思った。



[19752] 130程。 抱っこはOKらしい。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/05/12 23:13
 鍵が開いているにもかかわらず砂を噛んで動こうとしないドアに悪戦苦闘したものの、夕焼けの時間が来る前には全員が廃墟と化した薔薇屋敷から外に出ることに成功した。
 水銀燈は自前の翼で、『蒼星石』は鞄でそれぞれ街の様子を眺めるために飛び立っていった。少年は雛苺を抱き、若干臆病さが表に出てきてしまったナナは少年の足に隠れながら、手近な場所だから、と指定された待ち合わせ地点に向かう。
 傍から見れば、中学生の少年が幼児を連れて歩いているように見えるに違いない。それも、少年は明らかに東洋人だが、幼児の方は西欧系の姿だ。
 捜索は空からの目に任せなさい、という水銀燈の言葉は有難くはあったが、少年達にも仕事がない訳ではなかった。待ち合わせ場所を「確保」しろ、というのがそれだったが、事によると「確保」する方がざっと空から街を眺めるよりも難しいのではないかと少年は思う。
「まあ、難しいのは分かってるんだからしょうがないよな」
「しょうがなくないの。ヒナ達のお仕事なのよ。頑張ってかくほするのよ」
 独り言のように口にした少年の言葉に、赤ちゃん抱きに抱かれている雛苺は上機嫌に答えた。
「でこぼこトリオの出番なのよー」
 ナナの服を借りた雛苺はあっけらかんと言った。人目から隠れるつもりもないらしい。
 確かに、今の雛苺は少しばかり人形のような派手な髪形をした幼児といった風情で、ナナはその姉のようにも見える。衣装がありふれたものになると、人間の目というのはより見慣れている方向にモノの姿を補正するのかもしれない。

「でこぼこかー」

 確かにでこぼこで、もう一つ言ってしまえば味噌っかす同士でもある。
 最初に自分のゲームから脱落してしまい、何か思索を巡らしたりリーダーシップを取ったりすることもなければ、翠星石のように得意な仕事があるわけでもない雛苺。そもそも自分達のゲームに参加する資格さえないと言われ、名前さえ付けて貰えなかったナナ。
 そして少年自身はと言えば、持っていた知識を全て水銀燈に譲り渡し、いまや水銀燈の媒介としては兎も角、薔薇乙女の契約者達の中では多分唯一頼りにならない存在だ。まさに残りカスに過ぎない。
 少年はにやっと笑った。
 それぞれの中で一番の味噌っかすが集まって、三人集まれば一つくらい何か出来るだろうと言われたような状況でもある。そんなことを、馬鹿にされたと腹が立つでもなく、何処か可笑しく感じていた。

「でこぼこだけど、やるときはやるのよ。三人居ればなんでもできるのよ」
 何かの歌詞にでもあったのか、雛苺は妙な節を付けて無闇に手を振り回す。そんな仕種も見た目の子供っぽさとよく似合っていた。
 なんでもかー、と少年はにっこりと笑みを浮かべる。腰を屈めて抱いていた雛苺を道に下ろすと、ぼんやりと二人を見上げていたナナの両脇にさっと手を入れた。
「ま、三人とも空飛べないけどなっ」
 言いながら、ナナを腕いっぱい高い高いする。突然の事にナナは驚いて声も出せなかったが、雛苺はその姿を見上げながら歓声を上げた。
「ねぇねぇ、ナナかたぐるまして、ヒナのことはさっきみたいに抱っこしてみて。ナナ、ずっと歩きで大変なのよ」
「そうだなぁ。しかしそりゃ、チャレンジし甲斐のある技だな」
 まだ目を白黒させているナナを自分の目の高さまで下ろす。視線を合わせ、大丈夫かい、と尋ねると、ナナは何を言われたのか分からないように瞬いた。
「高いとこ苦手かな、ナナは」
「ええと……その……」
 ナナは不決断に口篭もった。少年は機嫌の良い笑顔を浮かべたまま、よしよし、と頷く。
「まだやってみたことないし、怖いかもな。まずはおんぶで練習しよっか」
「それもよしよしなのー」
 雛苺も上機嫌に合いの手を入れる。ナナはまだ曖昧な表情を浮かべていたが、少年は一旦彼女を下ろし、しゃがんで背中を向けると、来いと言うようにちょいちょいと手を動かしてみせた。
 若いOL風の女性が脇を通り過ぎ、こちらに顔を向けたが、少年はその視線を気にしなかった。雛苺の気分が移ってしまったらしい。
 ナナは漸く状況を飲み込んだような表情になり、後ろから彼の首にしがみつく。少年は片手でナナのお尻を支え、窮屈な姿勢のまま空いている方の手で雛苺を胸に抱き寄せた。
「んじゃ、ゆっくり行くぞ。ゆっくりな」
 やや前屈みになりながら、少年は気合を入れてそろそろと腰を上げ、脚を伸ばして行く。
 抱かれ慣れている雛苺は要領良く胸の辺りに抱きついたが、ナナは違った。揺れるのが怖くなって、ぎゅっと彼の首にしがみつく。その動作があまり急だったせいで、少年は後ろに引っ張られるような按配になってしまった。
「おっととと」
 ぐらり、と上体が揺れる。本人にとってはそれも許容範囲なのだが、背中のナナはそうではなかった。目を閉じ、ますます身を固くして少年の首にきつくしがみつく。
「ちょっ、ちょっとタンマ」
 首を締められた少年は中腰のまま、立ち上がる動作を止めるしかなかった。

 結局、雛苺の思いつきは失敗だった。元通りしゃがみこんで、がちがちに身を強張らせているナナをどうにか背中から下ろす。
「ごめんな……高いとこ、怖かったか。大丈夫大丈夫、もうおんぶ無しだから、な」
 半べそになりながらごめんなさいを連発するナナとしょげてしまった雛苺を、殆ど幼児扱いしながら不器用に宥めていると、あのぅ、と遠慮がちな声が掛けられる。
「二人一緒はちょっと大変じゃないかなって……」
 優しい、柔らかい声だった。聞き覚えがあるような気もする。
 少年はべそをかきそうな表情のナナの肩に手を遣ったまま顔を上げてそちらを見た。
 先程通り過ぎて行った女性だった。やや薄い色の癖のある髪、丸い大振りな眼鏡を掛けた顔は人懐こそうな笑みを湛え、少し上半身を屈めて少年達を眺めている。
 雛苺はぴくりとして女性に向き直り、とてとてと数歩近寄って両手を伸ばした。まるで警戒感の無い仕種だった。
「抱っこなのー」
「あらぁ」
 女性の表情はぱっと明るくなったが、すぐに気が付いたように少年を見遣る。
「でも……いいのかしら、私で」
「あ、その……えと、ご迷惑じゃなかったらお願いします」
 反射的に言ってしまったのは、状況をよく理解して判断したからではなかった。つい女性と雛苺の雰囲気に呑まれてしまっていたのかもしれない。
 ナナを抱き寄せながら苦笑いして言葉を続けたときも、まだ彼はそれがどういう結果を惹起するか、具体的にイメージできていた訳ではなかった。
「ふたりとも、抱っこは慣れてんですけどおんぶは苦手で……」
「そうなのぅ? あ、おんぶはしがみついてないといけないから大変なのね」
 自分の言葉に自分で納得して、女性はいらっしゃいと雛苺に手を伸ばした。小走りに走り寄った雛苺が最後の一歩を飛び跳ねるように詰めると、要領良くひょいと抱き上げる。一瞬だけ訝しげな顔つきになったが、すぐに笑顔に戻って背を伸ばした。
「抱っこ、ありがとうなの」
「まあ、ちゃんとお礼できるのね。偉い偉い」
 女性は笑顔のまま雛苺の髪を撫でた。雛苺は口の中でもごもごと何かを呟くと、女性の胸に擦り付くように顔を埋める。
「あらあら……」
「すいません、すっかりお気に入りになっちゃったみたいで……」
 少年は苦笑しながらナナを抱き締めて立ち上がった。相変わらずの赤ちゃん抱きで、不安にさせまいとしてぴったりと左の胸にナナの頭を押し付けている。
「ありがとうございます、ホント助かります。こっちはずっと歩きだったんで」
「いいのよぅ、私こそ勝手に抱っこしちゃって」
 女性はあやすように雛苺を揺すりながら機嫌良く答えた。
「何処に行くのかしら。近い所だったら、一緒に行きましょ? 時間はあるから大丈夫」
「あ、いやその、えっと……」
 少年は言葉に詰まり、思わず腕の中のナナを見る。そこまでして貰って良いのかというよりは、向かう先自体がどうなっているのか確認できていないのが問題だった。
 ナナも同じような考えらしく、もぞもぞと動いて少年を見上げる。二人は一瞬顔を見合わせ、それから雛苺を見遣った。
 雛苺は少年の方に顔を向け、何故か片目を瞑ってみせた。大丈夫だという意味らしかったが、それを少年とナナが正確に理解できたのは、目的地を女性に告げてからのことだった。


「──ここも、か」
 水銀燈は眉を顰め、手近な屋根の上に腰を下ろした。
 この世界の「薔薇乙女が存在する歴史」に対する嫌いようは徹底しているように思える。この時代に関する限り、薔薇乙女の契約者達はことごとくこの街から遠ざけられていた。
 単に偶然が為した結果とも取れるものの、ここまで三軒──薔薇屋敷も含めると四軒になる──の契約者の家を回ってみたが、誰一人として当該住所には住んでいなかった。
 少年と草笛みつは借家暮らしだから、ごく自然な成り行きかもしれない。特に少年は数年も経てば住所を移ってしまっていて当然だった。
 意外に感じたのは柏葉家が影も形もなくなり、その場所にまだ新しく見える三階建てのアパートが建てられていたことだった。
 景気の悪いこの時代にアパートの建設というのもある意味驚きだが、旧家である柏葉家が本宅を潰してそれを建てるとは到底思えない。何か事情があったとしか考えられなかった。
 この分では、桜田家も既にその場所に存在しないか、家屋は残っていても住民は変わってしまっているかもしれない。更に言えば、オディール・フォッセーもまた、この街からいっそう遠くに追い遣られている可能性もある。

──ここが桜田ジュンが「巻かなかった」世界だとすれば、どちらにしてもジュンが居ない可能性は高いけど。

 媒介から得た知識と完全に一致するとは水銀燈も考えてはいないが、引き篭もりきりだった桜田ジュンが大検を受けて全日制の大学に通うというのは、それなりに説得力のある未来像だと思っている。高校生時代までに引き篭もりを解消していれば、むしろこの街を離れて大学に通うのは彼程度の学業成績であれば当然だろう。
 もっとも、ジュンが居ればそれに越したことはないが、居なくても桜田家にはのりが居る。真紅や雛苺を見ても驚かず、可愛いと素直に言って許容してくれた、ある意味で契約者となったジュンよりも協力的な人物だ。
 ただそれも、世界が強制的に彼等をこの街から遠ざけていなければ、の話だった。
「……大丈夫よ、この程度で諦める気はないわ」
 くるくると、いつになく気遣わしげな軌道で周囲を飛び回るメイメイに水銀燈はひらひらと手を振った。
「第一この世界でオディールを探し当てたところで、即座に現実世界のオディールの消息が知れる訳でもない。その手懸かりが掴めるかも知れないってだけ。不首尾だったとしても、元々半ば気休めみたいなものだったと思えばいいのよ」
 身も蓋もないことを言い、シニカルな笑みを浮かべる。
「本命は、結局のところ別からのアプローチってこと。もっともそれだって直に彼女の居場所を特定できる訳じゃない。最後は足と手で探すことと、彼女を一番よく理解できる者が骨を折ることが必要なはずよ」
 それもまた、幾らかはアリスゲームに関わって来る──至高の存在を生み出すための素材を形成する一部となるのかもしれない。
 水銀燈が自分の都合で首を突っ込んでいる事柄とは違い、これはあくまで自分達の問題だった。オディールが騙されて契約を結んだのも、契約の相手方である雪華綺晶が自分の作り出した人形の手に掛かったために彼女の魂が彷徨う破目になったのも、全てこちらの世界群、水銀燈達姉妹の中で完結している問題だ。
 雪華綺晶が生きていれば彼女に始末を押し付けるべき事柄かもしれない。しかし彼女は既になく、にもかかわらず問題は解決していない。
 もし見えざる手が誘導しているのであれば、この件は残っている姉妹がゲームの最終的な段階に臨む前に片付けておかなければならない宿題なのだろう。
「──そこまで難しく考えることもない、か」
 さて、と水銀燈は立ち上がり、時間を確認した。今のところは訪問先が全て空振りに終わったせいで、予定していた時間にはまだ余裕がある。
「もう一箇所はどうなってるか……」
 半ば彼女の個人的な用件でもあった。全く無縁とは言えないが、薔薇乙女に直接関与した人物ではないからだ。
 実を言えば、結果もほぼ分かっている。それでも彼女は自分の目で見てみるつもりになっていた。
「行くわよ、メイメイ」
 銀色の光球は元気良く飛び跳ね、彼女が何処に行きたいかなど先刻ご承知といった風情で勢い良く夕闇の迫る空に飛び出した。
 舌打ちをしながら水銀燈はそれに続く。この相棒と行動するときは、順序の前後程度の事柄にいちいち癇癪を起こしていても始まらない。


 『蒼星石』は有栖川大学病院に向かうことになっていた。街の様子はこちらの世界樹の幹の世界──水銀燈達が言う「現実世界」──とほぼ同じだったが、彼女はその街自体に慣れていなかった。
 それでも街のランドマークの一つである大学病院の位置程度は理解している。その316号室と716号室を調べ、髪の長い若い女性が入院しているかどうか確認するというのが彼女に割り当てられた役割だった。
 それは『水銀燈』のミーディアムの同一人物であり、水銀燈の契約者となるかもしれなかった人物だということだった。
 もしそれなりの体力を有したまま生きているのであれば、恐らく彼女は嬉々として人形達を受け容れ、そして他の者に漏らすことも考えにくい。反面、本人に手伝いをさせてオディールを探すことは難しいけれども、彼女の夢から何かを手繰れるかもしれない。水銀燈は概ねそのような内容の説明をした。
 彼女にその役目を割り当てながら、水銀燈は冴えない表情をしていた。恐らく数年間という時間が探す相手を物故させてしまっていると思っていたのだろう。
 『蒼星石』もそれには同感だった。彼女から見ればそれなりに元気に思える結菱老人ですら、薔薇屋敷には居なかったのだ。長期入院患者だというその女性なら尚更、死んでしまっている可能性は高い。
 だからという訳ではないが、『蒼星石』は真っ直ぐに病院には向かわなかった。街の数箇所を見て回る予定の水銀燈や、直接この世界の住人と交渉しなければならない雛苺達よりも彼女には時間的な余裕がある。それを利用して行ってみたい場所があった。
 生き返ってから数日間、頭の片隅にずっとこびりついていた思いではあるが、現実世界では結菱老人に気後れしてしまってどうしても確かめられない。そんな場所だった。
 いや、怖かったのかもしれない。その場所に自分が存在していなかったということを確認してしまうのが。今になり、独りで飛び回る時間を得て漸く踏ん切りがついたのだろう。

 新しい再開発地区の大型店舗に客を取られて次第に寂れているとはいえ、旧商店街も夕暮れ時には多少ならず人出がある。その人々の頭上を、注意を惹かないように用心しながら『蒼星石』は鞄を滑らせた。
 商店街の外れ、肉屋と米屋に挟まれて身を縮めるようにして建っている小さな緑色の建物はすぐに見つかった。
 柴崎時計店。彼女が『アリスゲーム』で『水銀燈』に敗北するまで契約を交わしていた老夫婦の経営する小さな店だった。
 ゆるゆるとそこに向かい始めた鞄は、唐突に何かに行き当たったように行き足を止める。
 『蒼星石』は蓋を持ち上げ、茫然とその小さな二階家を見詰めた。
 辛かった事も多かったけれども、優しく懐かしい思い出も──いや、彼女にとって思い出というにはまだ新しい記憶の存在する場所は、しかし別の色褪せた看板が軒に取り付けられていた。しかも、それすら今はもう素っ気無くシャッターを閉め、その上にご丁寧に筋交いのような板まで打ち付けられ、完全な廃屋と化している。

──マスター。おばあさん。

 言いようの無い気持ちが膨れ上がり、『蒼星石』は鞄を閉じてその場を離れた。
 自分が存在している、しなかったなどという話ではない。彼女の居たはずの場所自体が、全く違っている。
 鞄の内張りに押し付けた頬が濡れ、内張りの柔らかい布にぽたりぽたりと透明な雫が落ちた。
 彼女は静かに啜り泣いた。こんなのはみっともない、と思っても涙が溢れてきて止まらなかった。
 初めて、自分が今何処に居るのか分かったような気がした。もう、『アリスゲーム』の前には戻れない。ここはそのときに居た元の場所ではなく、似てはいても全く別の、並行世界ですらない「似ているだけ」の場所だ、という事実に漸く感性が追い着いたのかもしれない。
 「アプローズ」と名乗った蒼星石に説明され、自分の姉妹ではない薔薇乙女達と話を交わし、結菱老人を新たな契約者として受け入れながらも、彼女は自分がnのフィールドを漂っている間に起きた事柄についてまだ半ば信じきれていなかったのかもしれない。しかし、今はもう実感として認めざるを得なかった。
 この世界は、彼女が契約を交わした結菱老人が居る世界からごく最近分岐したものだ。この世界では既に数年経過しているというが、あの様子ではそれよりずっと前から柴崎時計店が営業していないのは確実だった。もしかしたら、柴崎時計店自体が元々存在せず、最初からあの看板の店がそこにあったのかもしれない。

──ごめんなさい。ボクはあなた達にお別れも、突然遠くに行ってしまうことのお詫びも言えませんでした。

 今更の話ではある。しかしそれを本人に詫びることはおろか、他の並行世界の彼等に告げて意味の無い代償行為とすることさえ、今の彼女には許されない。全ては終わってしまった後だった。
 人気の無さそうな場所に鞄を着地させ、『蒼星石』はその中で声を上げて泣いた。
 泣いてもどうにもならないのは分かっている。それでも、泣かずに居られなかった。『翠星石』が泣くことを躊躇しない理由が、おぼろげながら分かったような気がした。



[19752] 120程度。 ほんわかココア。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/05/16 23:07
「うちに用があったなんて偶然だけど、途中で会えて良かったわ。でも……」
 女性──世界の分岐から数年経過した後の桜田のり──は、困ったような笑顔を少年に向ける。
「ごめんなさい、父と母はずっと日本には住んでないのぅ」
 少年は首を振り、どう話を持って行ったら良いか考え考え、目の前に出された飲み物を飲んだ。少年の知る桜田家ではあまりないことだったが、それはココアだった。
「あったかいのぉ」
 雛苺はにっこりとしてのりを見る。時間稼ぎに口を挟んだのだろうが、それだけでもないように見えた。
 のりはおっとりした笑顔を雛苺に向ける。周囲が和らぐような笑いは、数年経ってすっかり大人の女性になっても変わっていなかった。

──やっぱり綺麗だし、可愛いよな。

 素朴な感想を浮かべた後、すぐ後ろで誰かが苦笑しているのが感じ取れて、少年は思わず首を竦めた。何歳も年上なのに可愛らしいと思えてしまうのは、のりの特長なのかもしれない。
 桜田はこんないい姉ちゃんが居るのにどうして引き篭もったりするんだろう、とついそちらに結び付けて考えてしまう。
 答えは簡単なことだった。それだけ手酷くダメージを受けてしまったのだ。
 少年は未だに思い出していないが、その事件がより明確で陰惨なものになったのは彼の行動にも原因がある。但し、同級生達にストレートに妬みと捻くれた嫌悪感と嗜虐心をぶつけられるのと、本来そうなるはずだったように担任教諭にラフスケッチを掲示板に張り出された上、全校集会で名前を公表されてしまうことのどちらが本人にとってより不幸だったのか、それは分からない。
「でも、どうしてうちを? お店も構えていないのに……」
 のりは少し申し訳なさそうな顔のまま、小首を傾げた。
 彼女にしてみれば、本来少年達を家に上げる理由はないのだ。それをわざわざお茶まで出してもてなしているのは、小さな女の子二人の姿にほだされたからだろう。
 寂しさを抱えた人は、同じような風情の人に共感することが多い。この場合もそうだった。
 もっとも、少年はそこまでのことは全く考えていない。彼はあまり回転の速くない頭を捻って、どうにか水銀燈と『蒼星石』が来るまで自分達が追い出されないように、そしてなるべく正直に事情を話そう、とそれだけに必死に傾注していた。
「桜田さんって有名な骨董屋さんが住んでる、って聞いたんです。なんか、アンティークも扱ってるって」
 のりはますます申し訳なさそうな表情になり、口の周りを汚している雛苺とナナの顔をそっとハンカチで拭ってやりながら、ごめんなさい、とまた同じ事を口にする。
「お店は海外なのぅ……イギリスと、フランスにね? 日本にはもう何年も帰って来てないの」
「そうなんですか……」
 それは少年も知っている。だが、ここで引き下がる訳には行かなかった。
 骨董商としての桜田夫妻のことは本来はどうでもいい。関係するのは桜田ジュンと、目の前ののりだけだろう。しかし、それをストレートに言い切る話術が少年にはない。
 どうやってそちらに話を持って行こうかと考えていると、それが当てが外れてがっかりしているように見えたのか、のりの方から助け舟を出してくれた。
「何か、アンティークを探してるの?」
「いいえ、逆なんです」
 少年は顔を上げてのりの顔を見詰めた。ここでしくじったらおしまいだ、と思う。
「アンティークドールの元の持ち主を探してるんです。その人に──もう死んでるかもしれないけど、そしたら子供か孫の人に──ドールを会わせてあげたいと思って」
 まあ、とのりは口に手を持っていった。上品な仕種だった。
「多分アンティークドールも扱ってると思うけど……」
 自信の無さそうな声になって、それでも誠意を込めて少年を見詰め返す。
「うちで扱ったものなのかしら?」
「それは分かりません……」
 少年はごくりと唾を飲み込んだ。ちらりと見ると、ナナは心配そうに、雛苺は大丈夫なのよと励ますようにこちらを見ていた。
「探してる人は、フォッセーさんっていう貿易商の人らしいんですけど、直接連絡の取り方が分からなくて。それで……桜田さんに聞けば何か手懸かりがあるんじゃないかって思ったんです。すみません」
 上手く繋げたのだろうか、と少年は疑問に思った。嘘は言っていない。だが、本当のことも全部話してはいない。それが彼の心をちくちくと刺激する。
「あんまり大袈裟にはできないし、秘密の守れる人じゃないとダメなんです。だから、桜田さん以外に思い付く人がいなくて」
「え、ええ?」
 のりが表情を強張らせ、視線を泳がせるのが見て取れた。何か曰く付きのモノなのではないか、と思い始めているのは明白だった。
 まずいな、と少年は自分の言葉の拙さを呪った。だが、もうここは畳み込むしかない。上手く行かなかったらごめんな、と内心で詫びながら席を立ち、お菓子に手を伸ばしかけている雛苺を抱き上げた。
「元の持ち主を探してるのは、この子なんです。この子……雛苺がそのドールなんです」


「──例外はなし、か」
 バイクショップの向かいの水銀灯の柱の上に腰掛け、水銀燈は小さく息をついた。
「今日、偶々休んでるだけかも知れないけど」
 言いながら、それは殆どないだろうと分かっている。
 整備工場やらパーツ製作の工場をひととおり見て回ったが、彼女が探している人物は居なかった。恐らく図書館に行って地方紙の縮刷版を見れば、二千十一年一月十五日午後六時二十五分頃、この近くの道路でトレーラーヘッドがスリップして交差点で信号待ちをしていた男性を跳ね飛ばした事故が掲載されているに違いない。
 何もなければ彼はそこで死ぬ運命にあるのだ。彼自身の、遠い遠い、ナナの姉妹達の居た世界群よりも更に遠方で異質な世界でそうだったように。

──やはり、手が加わる必要がある。

 改めてそう実感した。動かなければ、結果はついてこない。
 もし世界に本来の歴史に戻そうとする力のようなものがあるとしたら、未来を知った水銀燈によるささやかな改変は、すぐにまた元に戻されてしまうに違いない。媒介が回りくどい方法でジュンの引き篭もりを阻止しようとしたときのように。
 ただ、あれは恐らく世界の意思のようなものがした事件ではなく、自分達のゲームに関係する誰かが──プレイヤーの見えざる手なのか、それとも兎頭の紳士が手を下したのかは不分明ではあるが──ゲームの遂行のために為した事だと水銀燈には思えている。
 桜田ジュンは、真紅の薇を巻くかどうかの選択をする必要があった。巻くか巻かないかは本人の選択に委ねられるとしても、そのお膳立ては整えなければならなかった。
 彼は恐らく姉妹を作った者以来の特別な存在、神業級の職人なのだから。
 そして、そのパートナーとなるべき真紅もまた、特別な存在であるはずだった。しかし彼女はジュンのパートナーとしての座を翠星石に奪われ、自分ではそれと認めなかったが失恋の痛みに苦しみ、楽になろうとしてしまった。
 いや、雪華綺晶が言っていたらしいが、真紅はその楽になろうとする衝動でアリスゲームの最終盤の引き金を引いてしまった。その意味では、彼女は特別な存在と言えるのだろう。
 水銀燈は首を振った。
 自分がアリスのベースになるべきなのか、翠星石がなるべきなのか、今は分からない。アリスに成りたい、という衝動のようなものは未だに彼女を突き動かしているが、特定の姉妹がアリスそのものに成れる訳ではないだろう、という認識もある。
 その認識をはっきりと持ってしまったのは媒介から知識を得たときだが、それから水銀燈は鈍ったような気がする。簡単に言えば諦めのようなものが広がり、ならば限界の中で精一杯反抗してやろうという方向に──それも以前からあった衝動なのだが──大きくシフトした。
 結果だけ取って言えば、それは大きな成功を収めた。
 彼女が標的としていた雪華綺晶は、彼女が現実世界に持ち出した、ある意味で媒介と雪華綺晶の子と言っても良い存在に殺された。蒼星石と金糸雀は彼女に挑んで敗れ、雪華綺晶の物を含めた過半数のローザミスティカは彼女の中にある。
 そして、最大のライヴァルと目していた真紅は自らの意思で舞台を降り、雛苺と共に翠星石の下僕となった。
 現状で翠星石と彼女のどちらが有利かは細かく考えるまでもない。ローザミスティカを持ったからといって単純な能力が倍増するわけでなく、ゲームを降りたからと言って能力が無くなる訳でない以上、三対一は三対一だった。
 ただ、真紅も翠星石も、恐らく雛苺もゲームの決着を望んではいない。今は休戦の約束を交わしているが、その期限が過ぎても向こうから攻撃してくることは考えにくい。結局、水銀燈が襲撃することでしか事態は動かないのだろう。
 何処までも水銀燈は強力な悪役のままなのかもしれない。クライマックスでは襲撃してきた強力な悪役を、それぞれの力では劣る三人が力を合わせて倒すのだろうか。
 倒されるのは拒否したいが、多分そうなってしまうような気がしている。

──いずれにしても、今は目の前の問題を早く終わらせること。

 際限無く脱線して行きそうな思いに蓋をして、水銀燈はふわりと舞い上がった。
 まだそれほど時間は経過していない。雛苺がどれだけ効率良く事情を話せるかは分からないが、上手く行っているだろうか。
 今晩逗留できる状態になっていれば、それに越したことはないのだが。


「動いて、喋って……メシも食べますけど、人形なんです。この子も……もう一人も」
 抱き上げられた雛苺はにっこり笑ってのりに手を伸ばす。ナナはぴくりとして少年を見上げ、それからおずおずとのりに視線を向けた。
「どうして動いてるかとかは、俺には分からないです。でも、そういうことなんで、表沙汰や大事にはできないんです」
 のりは無言でやや身を引き、二、三度瞬いた。
 失敗したか、と少年は後悔した。どう言えば良かったのかは分からないが、彼の話の持って行き方が良くなかったのは間違いない。
 だが、それは杞憂だった。
 のりは微笑んで雛苺に手を差し伸べ、雛苺は彼の手の中から勢い良く飛び出して彼女の腕の中に収まった。
「やっぱりそうだったの、お人形さんだったのね」
「うんっ」
 雛苺はもう形振り構わずにのりの胸に頬擦りし、柔らかく暖かなそこに顔を埋めた。
「ヒナね、のりのこと大好きなのよ。あったかくて優しくて、良い匂いがするの。ママの匂いなのよ」
「あらぁ……ありがとう」
 のりはにこにこと笑って雛苺を抱き締める。屈託ない笑顔は、人形が何故動いているかということには全く頓着しておらず、ただ雛苺を可愛らしく思ってくれていることを示しているように見えた。
「ヒナちゃんって言うのね。本物の女の子ちゃんみたい……お話聞いたらもっと可愛くなっちゃった」
 言いながらぎゅっと抱き締め、どうしたら良いか分からないという風にくねくねと身悶えする。少年はみつの金糸雀への溺愛ぶりを見ているから驚きはしなかったが、こののりも相当な可愛がりぶりだった。
 一頻り雛苺を抱き締めてから、今度はナナを抱き上げたのりに、少年は躊躇いがちに尋ねた。
「やっぱりって……いつ、気が付いたんですか」
「最初に抱っこしたときよ」
 のりはナナがごくぞんざいにポニーテールにしている髪を丁寧に撫で、少年を振り向いた。
「普通の子より、ずっと軽かったの。ヒナちゃんも、このお姉ちゃんも」
 少年はぱちぱちと瞬いて、機械的に大きく頷いた。
 良かった、と思うと同時に、自分がいろいろ足りない頭で悩んだのが馬鹿らしく感じられた。何の事はない、のりはその天性の寛容さで最初から雛苺を受け容れてくれていたのだ。そして、多分雛苺はそれを直感で理解していたのだろう。
 その場を凌ぐための嘘をつかなかったのは結果的に吉だったかもしれない。まだ全てを話してはいないものの、少なくとも彼は嘘だけはついていなかった。
 雛苺は少年をちらりと見、にっと笑った。その表情のまま、今度はのりの顔を見上げる。
「ナナは、お姉ちゃんじゃないよ」
 屈託のない声だった。
「ヒナよりおっきいボディで作られてるけど、ヒナのお姉ちゃんじゃないのよ」
「あらぁ」
 のりは思わず腕の中の、雛苺と違ってぎこちなく抱かれているナナを見遣る。
 ナナはぴくりとして顔を上げ、長い睫毛を伏せてまた俯いた。

 確かにナナは雛苺の姉妹ではない。何処まで仲良く遇してもらっても、本来彼女達とは無関係な、別の世界からの闖入者だ。
 それでなくても下向きだった気分が、一気に落ち込んで行くような気がした。
 何かが出来るかもしれない、とこんな所までついてきたものの、それもいつもの彼女の行動と同じように単なる足手纏い、余分な気を遣わせるだけの我儘だったのかもしれない。現に今まで何の役にも立っていないばかりか、少年には余計な気を遣わせ、のりの手も煩わせてしまっている。
 雛苺がそんなことを当てこするような人でないことは分かっているけれども、自分は結局本物の余所者に過ぎないのだと指摘されたような気がして、ナナは目を閉じた。

 のりは疑問符を浮かべたような表情になり、小さく丸まってしまったナナをあやすように揺すりながら小首を傾げた。
「ごめんなさいね、私ったらドジだから間違えちゃって──」
「いいの。よく間違われるのよ」
 雛苺は屈託のない表情のまま、にこやかに続けた。
「ナナはね、ヒナの妹なの。人形だから、作られた順番と外見は合わないこともあるのよ」
「そうよね、お人形さんなんだものね。ごめんなさい、女の子みたいに見えちゃったから」
 俯いたナナの顔を覗き込むようにしてもう一度、ごめんなさい、と言うのりの表情は、雛苺と同じ屈託のない優しいものだった。
「……い、いえ」
 ナナは顔を上げ、おずおずと首を振る。
 内心では雛苺に感謝すると同時に、一度とはいえ妙な風に受け取ってしまったことを謝罪していた。先程とは打って変わって胸の中に暖かなものが溢れ始めている。
 雛苺は、話を単純にする方便とは思うけれども、彼女を妹だと言ってくれた。少年はナナを雛苺と同じに括って、二人、と言ってくれた。そんな些細な事柄が嬉しく思えている。
 ちょっとした刺激ですぐに移り変わる単純で現金な自分の心は、姉妹達には浅ましく醜いものだと言われるだろう。それを知っていながらも、ナナは素朴な嬉しさを感じていた。



[19752] 150程度。 お兄様っていい響き。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/05/23 22:50
「こんなに賑やかなのは久し振りねぇ、お姉ちゃん腕揮っちゃうから」
 言いながら、のりは買って来た食材を手際良く調理し始めた。
 既に夕食と言うには遅過ぎ、夜食に近いものになってしまっていたが、食べ盛りの少年を含めてその場の全員が食事を楽しみにしていることは間違いない。のりの料理の腕前は──鈍っていなければ──主婦としては上々のものだった。
 雛苺はいつもの場所に近いところでいつもと違う面々と食事を取るのが嬉しいのか無闇に駆け回り、少年とナナは出来る範囲の手伝いをする。台所は雛苺が知っている桜田家のような──そして、多分この世界では永らくなかっただろう賑やかさに溢れていた。
 良い家族ですこと、と水銀燈はにやりとする。
 『蒼星石』を伴って遅れて到着した水銀燈を見ても、のりはそれほど驚かなかった。少年が彼女達のことまで話していたから、という理由はあるにしても、子供服を着た雛苺達に比べれば如何にも人形然とした服装でオッドアイの『蒼星石』や人形としても派手な姿の上に空を舞っている水銀燈を見ても、可愛いとにこにこ笑っているばかりなのは些かならず奇妙だった。

──夢を見ているとでも思っているのか。

 その可能性は小さくない。
 印象の濃い薄いは兎も角として、のりが少年の姿に見覚えがあっても不思議ではなかった。彼は元々ジュンの同級生なのだし、現実世界と同じ経緯でジュンが引き篭もったのなら、柏葉巴と仲の良い彼がこの家を訪れていることさえ有り得るのだから。
 その彼が中学時代の姿のまま、動く人形を抱えてやって来たのだ。非現実に近いものとして考えてしまっても無理はない。
 もちろんのりが彼を覚えていなくても、動く人形が何体も現れ、その内一人が異常なほどのりに馴染んでいるだけでも十二分に非現実的な状態ではあった。
 むしろ夢だと思ってくれている方が都合は良い。下手に執着されてしまい、別れたくないと泣いて縋られても困ってしまう。自分達にはそれぞれ帰るべき現実世界が存在し、今はその住人のために行動しているのだし、いずれ近い将来には今のありようを失ってしまうのだから。
 いや、そうでもないか、と思い直す。
 ナナと『蒼星石』は今のところ結菱老人に厄介になってはいるが、まだ終の棲家を決めた訳ではない。
 『真紅』のプランでは、彼女達は皆こういった世界に分散してそれぞれが究極の存在を目指すことになっていた。その場所がここになったところで悪いことはあるまい。
 残る全ての姉妹を元に戻さねばならないと決めているナナは無理としても、『蒼星石』はすぐにでも契約を解いてのりの人形として暮らし始めても良いはずだ。結菱老人は残念がるだろうが、『蒼星石』にとってもその方が良いかもしれない。
 そんなことを考えながら視線を向けると、『蒼星石』は冴えない表情で居間に残り、見入るでもなくテレビに視線を向けていた。
「貴女は手伝わないの?」
 ソファの上、彼女の隣に舞い降り、並んで腰を下ろしながら訊いてみる。
「料理の腕前は知らないけど、食事の支度は得意でしょうに」
 蒼星石が家事全般に疎いのとは対照的に、『蒼星石』はそういったことが好きで、得手にもしているはずだった。『翠星石』と時計店で共に過ごしたためなのか、最初からそう作られていたからかは分からないが、外見の類似とは裏腹に、彼女と蒼星石の違いは大きい。
「ごめん……ちょっとぼうっとしてたんだ」
 こういった部分もそうだろう。彼女の方がより感情が表に出る。
「いろいろ初めてのことが多過ぎて……」
 言い訳の上手下手は、どうなのだろう。蒼星石は都合の良くないことについては沈黙してしまうから、言い訳を必要とするような場面は殆ど無かったのかもしれない。
 どちらにしても、目の前のドールは言い訳が下手だった。
 病院に真っ直ぐ向かい、316号室と716号室のいずれにも柿崎めぐが居なかったことを確認しただけにしては、『蒼星石』が待ち合わせ場所に顔を出すのは遅過ぎた。彼女が寄り道をする先と言えば、元の世界の契約者夫妻の住居以外には考えられない。
 そして、彼女の落ち込みようを見れば、どういう結果だったかは言われるまでもなく分かったようなものだった。

──またも例外はなし、か。

 めぐが居ない、そして柴崎老人も居ない。この分では探している相手であるオディール・フォッセーも居ないかも知れず、そして当然その祖母のコリンヌ・フォッセーはこの世のものではないだろう。
 一見、薔薇乙女と関わりのある人物全てを、この世界は拒否しているかのようだった。
 しかし、のりはこうして存在している。めぐよりも薔薇乙女に近いはずの──契約者以外では唯一、最初から複数の薔薇乙女達と接触し、共に過ごしている時間も水銀燈とめぐのそれとは桁違いに長い──彼女が元の住所に健在で、めぐや柴崎老人が存在していないというのはおかしな按配だった。
 何か見込みが根本的に間違っているのだろうか。世界が選択的に排除しようとしている対象と、自然死──という言葉はこの場合適切でないが──している人物を不適切に混ぜて見てしまっているだけなのだろうか。
 あるいは──約五年ということが判明した──加速された月日の流れが、当然のこととして病弱な契約者達の命を奪ったのか。それもまた有り得ることだった。

 水銀燈はやれやれと息をついた。結局のところ情報不足が推論をやり難くしている。柏葉巴や栃沢少年──この世界は青年なのだろうが──、草笛みつ、そして誰よりも桜田ジュンの安否が判明すれば、自ずから解ける謎だろう。
 状況を把握したら、一旦戻って真紅に思索を押し付けた方が良いかもしれない。水銀燈自身は推論するよりも事実を集める方が得意だし、推論すること自体得手ではない。現に、アリスゲームに対する長年の、そして彼女なりに考え抜いた考察は、結菱老人の一言で崩れてしまう程度のものだった。
 こうなると蒼星石が居ないのは惜しかった。自分の中でストーリーを煮詰めてしまう癖はあるものの、水銀燈や真紅にはない視点からものを考え、また違った結論に至るだろう。しかし、何処かに居ることは分かっているが、ゲームが終わるまでは恐らく連絡を付けることさえできない。
 何時の間にか難しくなってしまっていた表情を和らげ、『蒼星石』に視線を戻す。彼女は相変わらず視線だけをテレビに向けていた。
「私には貴女の哀しみの原因は想像がつくけど、分かち合っては上げられない」
 はっとしてこちらを向いた彼女に、やや皮肉な笑顔を返す。
「前のミーディアムに会いに行ったけど、空振りだったのでしょう」
「……知ってたの」
 彼女は目を伏せ、膝に置いた手をぐっと握り締めた。
「ボクの罪は誰にも共感なんてして貰えないものなんだ。全てボクの責任だから。『アリスゲーム』に向かうときにちゃんとマスターに事情を説明しなかったし、きちんとお別れを言うこともできなかった」
「隠し事をしていたことを謝罪する対象も居ない、この世界やこっちの現実で同一人物を探して罪滅ぼしをしたくても、その人々すら居ない……そんなところ?」
 そうでなければ、彼女がこのタイミングで落ち込んでいることの説明がつかない。
「それは手っ取り早い代償行為に過ぎないでしょうに。あくまでも別人なんだから」
「うん……」
 『蒼星石』は素直に頷いた。
「結局ね、ボクは謝るのなんてどうでも良かったんだ。それが分かって……なんだか」
 脚をソファの上に引き上げ、立てた膝を両手で抱えて背を丸める。自分の思考を纏めようとするかのように言葉を続けた。
「マスター──前のミーディアムと、また一緒に暮らしたかったんだ。謝りたいのも嘘じゃないけど、ずっと傍に居たいんだ。またマスターの息子と間違われてもいいから……」
 顔を揃えた膝に埋めるようにして、彼女は口を閉ざした。
 水銀燈は無言で赤銅色の髪に触れ、ゆっくりと撫でる。その肩を抱いて慰めるべきか否か迷ったが、結局それ以上は手を出さずにおいた。
 癪な話だが、水銀燈は彼女達のような辛い目には遭っていない。それどころか彼女にとって忌まわしい記憶になりかけているだろうゲームに──その内容は彼女達のゲームとは些か異なるけれども──執着して、ゲームの最終局面に臨もうとしている。彼女と哀しみを分かち合うのは、やはり彼女の姉妹でなくてはいけないのだろう。
「貴女は優しいわね。ナナが最初に呼び戻すことにした理由が分かるってものだわ」
 励ます意図がそれほどあった訳ではないが、水銀燈は別の話を、感じたままに口にした。
「貴女の姉妹──『真紅』と『翠星石』は、先ずあの子を責めた。ナナは黙ってるけど、多分『水銀燈』もね。彼女達にしてみれば責めるだけの理由があったんでしょうけど、要はやり場のない怒りの捌け口にしたってわけ。でも貴女はそっちに向けなかった」
「……七番目は何度も謝ってくれたし、ボク達が元の世界から来たのは──ボク自身は違うのか、忘れてるのか分からないけど──自分達の意思だから。七番目を責めるくらいなら、ずっと向こうで……」
 そこで言葉は途切れた。いっそう小さく丸まり、涙を堪えている『蒼星石』の肩を、水銀燈は仕方ないわねぇと呟きながら少々乱暴に抱き寄せた。
 水銀燈の四番目の姉妹に良く似た姿と同じ名前を持ったドールは、水銀燈に寄り掛かり、膝に顔を埋めたまま声を立てずに泣き始めた。
 食事までには泣き止むから、としゃくり上げながら妙な言い訳をする『蒼星石』に、なによそれ、と苦笑しながら、水銀燈はふと蒼星石のことを考えていた。人間になって現実世界に復帰するというのはある意味で名案かもしれない。
 本気で人間社会に目立たない形で溶け込むつもりなら、少なくともこのドールと同じ名前ではなく、もっと通りの良い名前を新たに付けることになるはずだ。そうなれば呼称が同じで混乱することもないだろう。


「遅いな、雛苺達」
 机の電灯を点けながら、ジュンは誰にともなく言った。
「何処かに行ったのぉ?」
 窓から入ってきたばかりの濃紺の衣装のドールは、彼女にしては珍しくジュンの言葉に反応した。真紅は意外そうに読んでいた本から顔を上げたが、それについては何も言わず、ええ、と頷いた。
「オディールの心を探すためのヒントを求めて、この世界から分岐した物質世界の一つに向かったわ。一晩くらいは泊まって来るかもしれなくてよ」
 ドールはあまり面白くなさそうな顔になって頷いただけだったが、ジュンはくるりと椅子を回転させ、真紅を振り返った。
「それって、野宿することになるんじゃ……大丈夫なのか」
「雛苺の話では薔薇屋敷は無人だったと言うから、どうしても困れば鏡から戻って来れるでしょう」
 真紅は水銀燈のようにあっさりと言い放った。呆れ顔になったジュンに、真面目な顔のまま続きを告げる。
「でも、そこまで酷い事にはならないと思うの。多分向こうで宿くらいは確保しているはずよ。水銀燈が同行しているのだもの」
「その根拠のない信頼は何処から来るんだよ」
 ジュンは口を尖らせた。
「散々オソロシ人形だって言ってたのは何処の誰なんだ」
「敵に回せば怖い存在なのは、今も変わらないわ。実際に敵でもある。でも、あの子は私達の中で一番経験を積み、最も世慣れている。それも事実なのよ」
 真紅は少し視線を下げた。
「多分、彼女に特別な存在が契約者として引き合わされたのは、偶然ではないのだわ。翠星石が貴方と結び付けられたように」
「特別って……」
 ジュンには実感がなかった。水銀燈の契約者が異常な存在だったことは様々に聞いて知っていても、その状態を見ていた訳ではない。

 引き篭もる前にクラスメートだった少年は、今の彼ではなくて異常な存在だったはずなのだが、そのイメージは殆ど記憶にない。大して目立たない存在で、巴とは席が近いせいもあってそれなりに仲は良かった、程度だ。
 仲が良いと言っても特別に近しかった訳ではなかった。ジュンが幼馴染だった巴につい関心を寄せていたからそう見えただけで、実際は仲が良いという訳でさえなかったのかもしれない。
 それ以外の印象と言えば──あまり思い出したくないが、ジュンが文化祭の女王の衣装のラフスケッチを課題のノートから切り取って鞄に入れ直したのは、彼が課題のノートに落書きをしているのを見たからだった。
 だが、ジュンがその絵を盗まれ、黒板に晒されたこと自体は彼には関係がない。誰がやったのか、何故やったのかは大体分かっているし、担任もいち早く動いて彼等の反省文を分厚い束にしてジュンの家に持って来た。
 巴が言うには栃沢少年はそこには関与していなかったという話だし、何より彼が現在の彼になってから見ていた夢の中に、薔薇乙女達六人とジュン自身も入って事の顛末を見届けている。
 むしろ結菱老人や草笛みつといったエキセントリックな人々に比べれば、以前も今も栃沢少年は平々凡々とした、むしろ契約者となったのが意外なほど取り柄のない人間でしかない。もちろん、そういった外見に関係ないところで異常だったことは承知しているけれども、あまりに平凡過ぎてどうしても実感が湧かないのだ。

 そんなことよりも、疑問が先に立ってしまう。
「……そ、それに、翠星石と僕が結び付いたのが特別って、お前はどうなるんだよ。最初に契約したのはお前なんだぞ」
 ジュンと濃紺の衣装のドールの視線を受け止め、真紅は小首を傾げ、それからうっすらと微笑んだ。
「そう。私も特別だったのかもしれないわ。本来、貴方にとって特別な存在になるはずだったのは、私だったのかもしれない」
 真紅の口調は素っ気無いほど淡々としていたが、ジュンは動作を止めてまじまじと彼女を見詰めた。それは、他でもない彼女が家出をしたときに彼が思っていたことそのものだった。
 翠星石のことは少女として好きだ。その気持ちは簡単に揺るがないと思う。だが、真紅のことも大切に思っていない訳ではない。
 水銀燈が知ったら吹き出しそうな矛盾した思いかもしれないが、どちらもジュンの本心だった。

「でも、私は貴方に選ばれなかった。
 考えてみて。翠星石と貴方の出逢い、契約、そしてお互いの気持ちを確かめ合うまでの出来事を。
 貴方達の場合、全てが順序を踏んで、少しずつ近付いて行ったの。
 私が貴方と結んだ絆は、最初は翠星石と貴方よりも強くて深いものだったかもしれない。貴方はあんなに傷だらけになりながら、私の腕を取り戻してくれたりもした。私の方では精々幾つか助言をしただけだったけれど……。
 でも私はそれ以上深めることをしなかった。私はドールで、貴方は人間なのだから──どうしてもそう考えてしまったから。
 ドールとして、薔薇乙女としては今でも貴方と深い所で繋がっていられる。その絆は誰と比較しても恥ずかしくないと思うわ。
 でも、貴方が特別な絆で結ばれているのは翠星石なの。それは、どんどん深くなって行き、最後は何かを生むことができる、私と貴方のそれとは全く違う絆なのだわ」

 真紅は言い切って、やや寂しい笑いを浮かべる。
「今の私の気持ちは多分、大好きだった兄か弟に恋人が出来たときのようなものなのだわ。相手に嫉妬もするし、寂しくもあるけれど、別の絆が私達を繋いでいることも知っているの」
 歌うように言った後で、はっと気付いて頬を染める。今の言葉は蛇足だった。
 ジュンが尋ねたのは翠星石と彼自身の関係が特別というのはどういう意味か、ということだけだった。真紅の自分語りは必要ない。
 しかし、ジュンはそのことを咎めるでもなく、むっつりとした顔で椅子を回し、真紅達に背を向けた。
「……大体分かった」
 僕は兄貴か、と小さな声で続けたのは、静かな部屋の中で真紅の耳にも十分に聴き取れた。
「ええ、そうよ。……幼いお兄様」
 ふざけて言ってみてから、いつかそれが本当になれば良いと考えている自分に気が付いて真紅は苦笑した。蒼星石の消息が──『蒼星石』のおぼろげな記憶というごく微かなものではあるが──知れてから、どうも自分を人間として考えたくなってしまっている気分がある。
 アリスゲームが終わったとき、自分の魂は蒼星石のように確固たる意思をもって、人形でなく人間のそれとして存続するのだろうか。
 寿命も短く、様々な制約を抱えている人間という生き物に、自分はなってみたいのだろうか。まだ確実なことは言えないし、分からない。しかし、何故か人間として生きて行くのも悪いことばかりではないような気がし始めているのも事実だった。


 オディール・フォッセーの心の木は、前日までとは全く異なった様相を呈していた。
「──何故」
 思わず呟きが漏れてしまう。
 ひょろ長く、歪に伸びた枝振りの心の木は、まるで唐突に自らのバランスの悪さを恥じたかのようだった。
 斜めに斜めに、隣に頑強にその座を占めている枯れ木の幹に寄り添いながらもその枝を避けるようにして伸びていた枝が、枝垂れ柳のように頭を垂れ、殆ど垂直に地面を目指してしまっている。
 有り得ない事態という訳ではなかった。心の木の主が何か唐突に大きな心理的な衝撃を受ければ、一瞬にして木が枯れてしまうことさえある。その場合、木の主は廃人と化し、多くの場合は死に至るか自らの手で自分の命を絶つ方向に進む。
 付け加えれば、蒼星石の鋏で切り刻み、翠星石の如雨露で腐るほどに水を与えるということは、それと同等の効果を齎すものだった。対象のことを研究し、具体的に心理的な弱点を探し出して衝くのではなく、心の木の在処さえ突き止めればばっさりと即物的に手を下してしまえるところに、二人の能力の恐ろしさがある。
 この木はそこまで手酷くやられていない。適切な手を打てばまだ回復させることはできる。
 しかし、不気味なのは異変の理由が明確には分からないことだった。
 オディール・フォッセーは眠ったまま、その心だけがnのフィールドを漂っている。外界からの心理的な衝撃が加わる状況ではない。
 その場に立ったまま、暫く考えを巡らしてみる。

 水銀燈の媒介の読んでいた漫画の世界では、桜田ジュンがそういう状態になったことがあった。
 ジュンは同じように漂っていた蒼星石と邂逅し、記憶の海の奥底に沈んでいた出来事を思い出したりもしていた。疲れ切って漂い始めていた裸の状態の水銀燈の心と出逢い、恐らく彼がした中で初めて、相手の心に素直に響いた励ましの言葉を伝えもした。
 最終的には彼が現実に近いところまで漂い寄って来たことに気付いた真紅が、彼を半ば呼び戻すようにして意識を定着させたのだが、ジュンの心がそこまで戻ることができたのは水銀燈の心と出逢い、深く触れ合って共感できたからだろう。
 恐らくあの邂逅がなければ、水銀燈もジュンもその器が朽ちて滅びるまでnのフィールドを漂い続けたはずだ。
 ただし二人の状態、特にジュンの状況は見えざる手によって仕組まれたものである可能性は高い。彼は水銀燈の心を現実に戻すために、彼女の許に導かれたと言えるかもしれない。

 いずれにしても別の世界の話だった。全てがこちらの事象に対応する訳ではないだろう。
 ただ、全く無関係かと言えばそうでもない。今回の急変の原因に関するヒントにはなっている。
 nのフィールドの中にも、幾つか心理的な衝撃を与える材料は存在するということだ。それは過去の忌まわしい記憶を見せ付けられることかもしれないし、肯定したくない現実や自己認識である可能性もある。
 雪華綺晶が死ぬまで、オディールは楽しい夢の世界に居た。嘘と偽りで構成されていたが、それだけに徹底的に都合の良い世界だ。そこを追われ、彼女は本来の自己認識や忘れたいが忘れられない記憶、認めたくない事実に晒されたということだろうか。

──いや、それはあったとしても、この急変の原因としては薄い。

 既に現実世界の客観的時間でも十日近い時間が過ぎている。nのフィールドの中の彼女の心はもっと長い体感時間を経過しているはずだ。今の今になってそういったものが一時に襲って来たとは考え難い。
 では何が原因なのだろうか、と考え、先ず浮かんで来た解答に思わず溜息をついてしまう。

──出会ってしまったのか。

 nのフィールドの中には、漫画の世界でジュンが出会ったような存在が何体も彷徨っている。その中の一体と、オディールの心が遭遇したとしてもおかしくはない。
 必死になって捜索している側でなく、同じようにただ彷徨っている同士が先に接触を持ってしまうという事態の可能性は、皮肉なことに確率的には大きかった。捜索と言っても数人体制で闇雲に探し回るだけであり、その時間も限られている。対して、漂っている者達にとっては四六時中お互いに接触を持つ機会があるのだから。
 理屈では分かっていても、彷徨っている者達が出会い、その接触が引き金となって状況が悪い方に転げて行ってしまうというのは如何にも面白くない想像だった。半ば信じたくない気分が先に立ち、それだけとは言えないだろう、と思いはするのだが、他の答えは中々思い付きそうになかった。

 そこまで考えたところで、もう一つ溜息をつく。
 自分が正解に辿り着いたかどうかは重要ではない。いつものように自分の中で物思いを広げてしまい、そのことを失念しかけていた。
 何処まで正解に近付こうと、オディールに対して手を出せない今の立場では意味がない。それは未だゲームの盤上に残っている姉妹達の為すべき事柄なのだから。
 自らゲームの勝敗を利用してその枠組みから抜け出してしまったからには、ゲームが終了するまでは契約者達に関わることもまた許されない。自分もまた漂う魂の一つに過ぎないのだ、といつものように自分自身に言い聞かせ、その場に背を向けるしかなかった。



[19752] 150程。 誰かの居ない世界。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/05/23 22:49
いまいちの所ですが、タイムアップのため。

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 他人の夢に入り、その中で様々な細かいことを説明するという計画は、考えてみれば空巣のようなものでもある。本人にも夢の中で逢うのだから、居直り強盗に近いかもしれない。
 それは理解しているものの、硬い殻に覆われている本心を見出すことにおいては夢の中に入るという行為は最も手っ取り早いのも事実だった。特に、nのフィールドへの出入り口が極端に少ないこの世界の場合、夢の扉は数少ないnのフィールドへの門でもある。
 ただし、それが繋がっている先が現実世界のそれと同じであるかどうかは定かでない。廃棄場に吹き寄せられた扉の先の世界は、またそれぞれの精神世界を持っていないとは限らなかった。
 現実世界やそれに繋がる世界──世界樹が司る一つの世界群──から見て、廃棄場の扉の先は枝の末端、もう分岐が不可能な場所に過ぎない。そして、いずれそれは世界群から消えて行く。観測が出来なくなると言っても良い。
 ただそれはあくまでも世界群、言い換えれば世界樹の幹から見ての話だ。消えた世界がどうなるのか、世界樹の幹からは観測できないのだから、それは誰にも分からない。
 同じように、世界樹の幹の辺りから見て廃棄場の扉だけで辛うじてnのフィールドに繋がっている、ほぼ閉じているように見えるこの世界自体も、ここを基点にして見れば別の広がりを持っているのかもしれない。
 分岐の可能性を失い、いずれ消え行く世界だとしても、現実世界と同じように物質世界なのだ。同じだけの物質的な広がりを持ち、無数の人々が暮らしているのだから、そこに同じような広がりがないと考える方が不自然であり、思い上がりのようなものなのかもしれない。
 もっともそういった諸々の考察は、さしあたっては彼女達とは関係なかった。今はのりの夢の中に向かい、彼女に状況を説明しがてら、彼女自身の状況についても知る必要があった。

「でもさ。ホントにそこまで巻きこんじゃっていいのかな」
 居間のソファの上に寝転び、毛布に包まりながら、少年は今更のことを口にする。
「これは俺達のアリスゲームだろ、ナナ達はギブアンドテイクだし、オディールさん本人は……一応同一人物だからって言い訳も利くかもしんないけど、この世界の桜田の姉ちゃんはホントに無関係なんだぜ」
「厭なら出発前にそう言えば良かったじゃないの」
 水銀燈は呆れたような口調になり、少年の背中の辺りでもぞもぞと身じろぎした。
 二人は同じ毛布を割り当てられていた。のりからは客間で寝たらどうかと薦められたのだが、少年が固辞したからだ。ナナと雛苺はのりのベッドで一緒に横になり、『蒼星石』はこの部屋の中に置かれた自分の鞄の中に収まっている。のりが寝入って夢の扉が開けば、雛苺とナナのどちらかが部屋を抜け出してこちらに合図をする手筈になっていた。
 蒼星石が居ればもう少し強引な手段もとれたのだが、と考える。姉妹の中で彼女だけは対象を強制的に眠らせてしまい、即座にその夢の扉を開くことができた。ある意味で、記憶を刈り取ることができる彼女に相応しい能力だった。
 意外なことに『蒼星石』や『翠星石』には同じような力はなかった。翠星石がかつてジュンにしたように対象を気絶させて夢に入るという手はあるのだが、流石に暴力を振るうのは、と少年が難色を示した。
 少年の意向は兎も角、居間で落ち着くことになったのは都合が良かった。のりの寝室から適当に離れていて、会話をしてもそちらに聞かれる心配はない。
 そういう秘密を持っていることが一層、これからしようとしていることを空巣に近く感じさせるのだが、それについては流石に少年も今更ぼやきはしなかった。
「水銀燈の手伝いができるんだから、反対なんてしないよ。ただちょっと、良いのかな、って思っただけ」
 少年は器用にその場でくるりと寝返りを打ち、水銀燈に向き合う。顔と顔がひどく近かったが、どちらも頬を赤らめることもなかった。
「大丈夫だ、巻き込んでも良いんだ、桜田の姉ちゃんのためになるんだ、って言ってくれれば納得するよ」
「背中を押して欲しいってこと? 後ろめたいから」
 水銀燈は顔に掛かる髪を掻き上げた。常夜灯の光の中で、銀髪は鈍く輝いた。

 綺麗だな、と素直に少年は思う。
 彼の契約した相手は、多分彼の恋人よりもずっと綺麗だった。彼の自慢の、大好きな──姉のようなものだ。
 能動的に契約を交わした記憶は、既に彼にはない。彼女が愛した人物は彼から抜け出て何処かに行ってしまった。それでも水銀燈は彼の記憶の再構築という、膨大で多分見返りもない作業をしてくれた。それは、家族愛のようなものと言ってしまっても良いような気がしている。
 対して、彼は水銀燈に何かできたという自覚がない。貸し借りではないと言われるかもしれないが、水銀燈が手を欲しがっているときにそれを拒むつもりはなかった。
 今のところ、彼にできることは精々その程度しかないのだから。

「うん」
 少年は素直に頷いた。如何にも朴訥な仕種に、水銀燈は口許を歪める。
「桜田のりは、何か態度に出さない切なさみたいなものを抱えてる。それを見付けて、可能なら取り除きたいと思ってるわよ」
 現実世界の場合、夢の世界はその人物の心の木に繋がっている。それが雑草に覆われていれば『蒼星石』の鋏で刈り取ることもできる。即物的な対処でなくても、ナナの力で少しでも心が軽くなる方向に夢を誘導することもできる。
 現実世界の場合と同じと仮定したときではあるけれども、夢に入ってのりの本心を覗くことは、その程度に彼女の内心の鬱屈を晴らすことを可能にする行為でもある。
「ただ、確約はできない。何処かでしくじる可能性もあるし、彼女の夢が私達の予想しない場所に続いて、予想できない形になっていたりすることも有り得る。ここは私達にとって未知の場所だから」
 今言える中で貴方の背中を押せそうな情報はそれだけよ、と水銀燈は真面目な表情で彼を見詰めた。
「これだけじゃ迷いは消えそうもないけど、貴方に安易な嘘をついても仕方ないしね」
「いや、大丈夫」
 少年はにっこりとしてみせた。
「ホントのことを言ってくれて嬉しかったし、今ので十分だな。水銀燈が自分の目的だけじゃなくて、桜田の姉ちゃんのためってトコも考えてくれてるのが分かったからさ」
「そう」
 水銀燈は苦笑した。
 確か、蒼星石にも似たようなことを言われたことがあった。

──全く貴方達二人ときたら、人をなんだと思ってるのよ。

 内心で蒼星石に毒づきながら、水銀燈はそそくさと背を向けた。なんだよ素っ気無いなぁ、と少年ががっかりしたような声を上げるのは分かったが、無視を決め込んで身体を離す。彼も、敢えて水銀燈に触れようとはしなかった。
 毛布の中に、そこはかとなく草いきれの匂いがするような気がする。蒼星石はいつもこんな風に彼の匂いを感じ取り、胸に抱かれて鼓動を聞いていたのだろうか、と考えると、可笑しな気分だった。
 契約者と薔薇乙女という、恋人などという曖昧なものよりも強固な関係にありながら、水銀燈がこうやって彼の近くで無防備な姿を曝け出すのは随分久し振りのこと──あの酒に酔った晩を除けば初めてと言った方が正しいのかもしれない。同じ小さなアパートの中で暮らしていながら、二人の間には確実に一線が引かれていて、どちらからもそれを乗り越えることはなかった。
 その距離感は、少なくとも水銀燈にとってはもどかしいものではなかった。彼も分かっているはずだ。付かず離れず、二人の物質的な距離はそれで良い。
 ゆっくりともう一度身じろぎをして、水銀燈は目を閉じる。鞄の中の休息には到底及ばないが、契約者と同じ毛布の中という場所も仮眠をする程度の用向きには悪くはなさそうだった。


 予想に反して、準備が整うまでには仮眠を取るほどの時間もなかった。のりは緊張感もなくすぐに寝入ってしまい、二人は横になって目を閉じただけで雛苺に起こされた。
 『蒼星石』が夢の扉を開き、ナナの手を引いて潜って行く。大柄な少年は潜るのに大分苦労したものの、どうやら無事に通り抜けた。
 出た先は、直に彼女の夢の中のようだった。そこから彼等の知るnのフィールドに出られるのか、別の何処かに繋がっているのかは分からないが、取り敢えずの目的地に直行できたことだけは確かだった。
「明るい場所だね」
 先頭に立っていた『蒼星石』は周囲を見渡し、安心したように一同を振り向いた。
「もっと寂しい場所かと思ってたよ。良かった」
「ってか、ここ、元の桜田の家じゃん」
 少年はきょろきょろと視線を彷徨わせている。間違い探しをしているつもりなのだろうが、生憎と彼はそれほど足繁く桜田家に通っているわけではなかった。
 他の者にとってはそれぞれ見慣れたダイニングの風景だったが、子供用の高椅子やら踏み台といった、彼女達のための調度は当然のように存在していない。
「昼間のダイニングって設定なのか、これ」
 キッチンからは忙しく食事の用意をする音と、なにやら良い匂いが漂って来る。休日の昼前といった雰囲気ではあった。
「そうね。さっき食事したときのダイニングよりは古びてない雰囲気だけど」
 水銀燈は棚の上に置いてある卓上カレンダーを見遣った。

 二千九年九月のシートが表になっていた。日めくりではないから日付までは分からないが、そこまで細かい必要はない。
 気にする点があるとすれば、その時期だけだった。この世界が契約者の誰かが『巻かなかった』せいで分岐したものだとしたら、この夢の時期設定は分岐するよりも以前ということになる。
 もっともこの場所そのものがその時点の記憶の再構成という訳ではなく、あくまで夢の中の事柄に過ぎない。その時期とは無関係な事物も当たり前に登場することだろう。

 水銀燈はそんなことを簡単に説明して肩を竦めてみせた。
「世界は遡行して改変を行ってるでしょうから、時期そのものにもあまり意味はないかもね」
「ジュンががっこうに行かなくなる前かもなのよ」
 行こ、と雛苺はナナの手を引いた。
「だから、きっと意味はあるの」
 水銀燈を振り返ってにっこりとしてみせてから、雛苺はナナを急かしてキッチンに向かって走って行った。
 水銀燈は片方の眉を持ち上げた。雛苺がさらりと口に上した言葉は、のりの寂しさとこの場所の明るさのギャップとを考え合わせると、あまり嬉しくない想像を掻き立てられるものだった。
 振り向いたままの『蒼星石』が怪訝な表情になった。どうやら水銀燈は自分で意識しない内に大分険しい表情になっているらしい。
「取り越し苦労だとは思うんだけど、ちょっとね」
 『蒼星石』は首を傾げていたが、水銀燈は曖昧な言い方でぼかした。やや神経質になっている彼女に、杞憂かもしれない話をして殊更に不安を煽る必要はない。
 納得行かない風情で『蒼星石』が質問をしようとしかけたとき、キッチンから明るい声が響いて来た。キッチンに居たのりに雛苺が声を掛けたらしい。

 ひととおり食事の支度を調えて、何時の間にか人数分より多い椅子が揃えられたテーブルに一同は座った。
「やっぱり夢だったのね」
 のりはそんな納得の仕方を選んだようだった。
「動くお人形さんが来て、中学生の栃沢君が来て……今私は何処で眠ってるのかしら」
 水銀燈は苦笑した。天然と言うべきなのか、のりは妙な時点で現実と夢を織り交ぜてしまっていた。どうやら、人形達が現れたところで自分は既に眠っていたと考えているらしい。
 もっとも無理もないことではある。彼女から見れば非現実そのもののような存在が幾つも目の前に現れたのだから。
「何処で眠っていても、起きれば現実の続きが待っているわ。夢の中での時間経過なんて、現実のそれとは無関係だから」
 積極的な嘘という訳ではないが、間接的な回答で誤魔化しておく。全て夢だったと思ってくれる方が自分達には都合が良い。
「それより貴女、この子の名前を知っていたのね。どうして?」
「どうしてって……」
 のりは──この世界の現在ののりではなく、現実世界ののりに近い年頃の姿になっているが──困ったような微笑を浮かべた。はっきりと寂しさが分かる表情だった。
「栃沢君は、巴ちゃんと一緒に来てくれたものぅ。ジュン君を迎えに、何度も何度も」
「え、いや俺は……」
 一度も迎えになんか、と言いかけた少年に、水銀燈は素早く目配せをする。少年は一瞬途惑ったように見えたが、軽く頷いて口を噤んだ。
 のりは二人の遣り取りには気付いた風もなかった。黙って座っている雛苺を招き寄せ、膝の上に座らせる。
「お陰でジュン君も学校に戻れたの。だから、栃沢君はジュン君の恩人なのよぅ」
「いや、そんな、恩人なんて」
 少年は照れて頭を掻く。雛苺はのりの膝の上で伸び上がり、隣に座った少年の頭を偉い偉いと撫でた。
「ジュンのヒキコモリを救ったの、偉い子なのよ」
「そっかぁ……なんか複雑な──」
「──ぼ、僕は別に恩なんて感じてないからな。っそ、その気になれば一人で登校できたんだし」
 部屋の戸口に、忽然とジュンの姿が現れた。

──今、作られたのか。

 それにしては妙なタイミングだったが、あらかじめ作られてダイニングの外に居た訳ではあるまい。ジュンの姿は虚空から湧き出たように現れていた。
 遠慮のない足取りで、水銀燈達に視線を遣ることもなくテーブルに歩み寄り、ぞんざいな動作で自分の椅子を引いて座る。水銀燈は僅かに違和感を覚えた。彼女が見て来た限りでも、本物ならば照れで若干乱暴になることはあるとしても、もう少し神経質で丁寧な動きをするはずだ。
 のりの見ていたジュンの姿はこうだったのかもしれない。あるいは長い間の──
「──どう、美味しい? ジュン君の好きなもの作ったのぅ」
「……不味くない」
 ジュンの答えは妙に素っ気無かったが、のりは零れるような笑みを浮かべた。
「良かったぁ。お姉ちゃん頑張ってお料理作ったのよぅ、ジュン君に食べて貰いたくて」
「ふん」
 ジュンは面白くなさそうに鼻を鳴らし、食事を続ける。姉のことはわざとらしく無視しているが、のりの方では何故かひどく嬉しそうにそれを見詰めていた。
 水銀燈はキッチンの方を見遣った。訝しげに視線の先を追う『蒼星石』になんでもないわと首を振って姉弟に視線を戻す。
 常にのりが話し掛け、ジュンが生返事を返すという一方通行に過ぎなかったが、一応の会話は成立していた。のりの話の持って行き方が上手いのか、ジュンがそれなりに従順に相槌を打っているからかは分からないが、そこにも若干の違和感がある。
 気にし過ぎかもしれない、と思い直す。そもそも、夢に厳密な整合性を求めるのが間違っているし、ここは分岐するときに改変されているはずの世界だ。現実世界とまた違う部分があって然るべきだった。
「ご馳走様」
 ぶっきらぼうに告げて、ジュンは席を立った。何気ない言葉だったが、のりは弾けるような笑顔に変わった。
「あ、ありがとぅ、ジュン君。お夕飯はもっと、もっともっと凄いメニューだから、期待しててね」
「……うん」
 ちらり、と振り向いてぎこちない微笑みを見せ、ジュンはダイニングから出て行った。
「のりぃ……」
 ジュンの背中を見送った雛苺は、気遣わしげな視線をのりに向けた。だが、のりが顔を向けたときには、彼女の表情は一転して能天気な明るいものになっていた。
「ジュンに食べてもらえたのぉ、ね、のりの作ったお食事ぜーんぶ残さずに食べてったのよ。ばんざーいなの」
「うん……そうね、うん」
 のりは何度も頷き、椅子の上に立って手を伸ばしている雛苺を抱き締めた。俯いた目尻から涙が溢れる。
「ありがとぅ……ヒナちゃん」
「ヒナ達はここに居ただけなの。のりの気持ちが伝わったんだよ。のりが自分で頑張ったのよ」
 雛苺は微笑みながらのりの背中に手を回し、とんとんと軽く叩いた。
「御免ね。もっと早く来て上げられたら良かったのにね。うんと泣いていいのよ。切なくなくなるまで泣いて、そしてちょっとだけ心を軽くしてね」

 そうか、と水銀燈は納得した。
 雛苺はやはり、夢に入ったときに直感していたのだろう。

──この世界には桜田ジュンは居ない。恐らく柏葉巴も、草笛みつも。

 ここはそういう世界なのだ。いや、分岐したときにか五年という時間を早手回しに経過させたときにかは分からないが、世界はそういう選択をして、然るべく処置を行ったのだろう。
 なるべく大掛かりな改変をせずに、自分の世界から薔薇乙女の契約者達を除去する。そのために彼等の存在を抹消したり、ありようを著しく変えてしまうよりも、即物的に命を奪ってしまう方が世界自身の傷もしくは負荷が少なくて済んだのだろう。少なくとも、この世界にとっては。
 しかし何故そこまで執拗に拒むのか。アリスゲームは今に始まったことではないし、関わった者を全て消し去りたいなら、のりだけを残しておくのも妙と言えば妙だった。
 その辺りにこの改変の謎を解く鍵があるかもしれない。その謎解きには、アリスゲームを考える延長線上での興味はある。
 ただ、興味はあっても考察を深めている時間はない。自分達はそれを考え抜くためにここに来た訳ではなく、あくまでオディール・フォッセーの魂の在処を探すことを目的として、その準備に利用するために立ち寄ったに過ぎないのだから。



[19752] 150程度。 居たり居なかったり。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/05/23 22:51
 一頻り泣いてから、のりは別の夢を見始めた。それはもっと幼い頃、ジュンと仲良く遊んでいる風景だった。
 夢の風景に違和感無く溶け込んでいる雛苺にその場を任せ、水銀燈は『蒼星石』と少年を促してその場を離れた。
 今度の夢の世界はごく狭く、何処かに続いている扉はすぐに見つかった。但し、その先が何処なのかとなると確実なことは言えない。この世界の人々の夢が現実世界の人々のそれに倣った構造ならば、世界樹の枝と夢の主の心の木に続く扉のはずだが、別の構造をしている可能性も当然あった。
「任せておいて大丈夫なのかな」
 『蒼星石』は心配そうな声になっていた。
「七番目も介入していたみたいだけど、あの人の哀しみを全部拭い去れなかった……」
「ナナの力には限度があるもの。あれが精一杯なんでしょう」
 仕方がないことだった。
 同じような傾向の能力を持つ者として、雪華綺晶のことを異才の画家に喩えるなら、ナナの能力はスキャンした画像を素人が機能の少ないフォトレタッチソフトで修正しているようなものだ。元絵が無ければレタッチはできないし、わざとらしくなく修正するには時間と手間が掛かる上、あまり大きな逸脱もできない。
 ナナは彼女なりに懸命に頑張って、のりの夢を明るい方向に向けようとしていたのだろうし、今も黒子に徹しているはずだ。しかしこの世界ののりは何処までも楽しい夢を信じきれなかった。自罰的な性格なのか疑り深いのかは分からないが、それだけ深く哀しみを根付かせてしまっているのは間違いなかった。
「心の木を手入れに行きましょう。あの向こうにそれがあればの話だけど」
 水銀燈は片方の手で扉を示し、空いている方の手を『蒼星石』の肩に置いた。
「貴女があの人間の木を手入れしたくなったのなら、だけどね」
 『蒼星石』は暗い表情になっていた。つい自分の身に引き移して考えてしまったのかもしれない。
「手入れをして良いのか、ボクには分からない……」
 斜め下を向いたまま自信のない声で答えた後、水銀燈に真面目な顔を向ける。
「でも、雑草は刈り取ってあげたい。それで少しでものりさんの気分が楽になるなら……」
「なるわよ。それは間違いない」
 水銀燈は肩に置いた手にやや力を込めた。安請け合いではない、という自信はある。
「それが貴女の力なんだから、当然のことでしょう。どれほど僅かでもプラスに働かないことはないわ」
 人間に依存し、甘え、奪い、吸い取るだけの自分と違い、夢の庭師たる彼女達には即物的な方法で人助けをする力がある。普段は意識していないが、羨ましくなることもあった。今がそうかと問われれば、首を振るしかないけれども。
「そうだね、ありがとう」
 『蒼星石』はその言葉で背中を押されたというように頷き、何かを口の中で付け加えた。少年が訝しげな視線を向けると、なんでもないよと首を振って元気良く顔を上げる。
「行こう。時間は決まっているから」
 水銀燈は頷いて扉に手を掛ける。現実時間で三十分という縛りは、依然として有効だった。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか……ってとこね」
「物騒なこと言うなよ。俺は初心者なんだぜ」
 少年が情けない声を出し、『蒼星石』が苦笑する。水銀燈は振り向いてにやりとしてみせると、一気に扉を開けて中に滑り込んだ。

 夢の扉の向こうは、気負い込んで向かったのが拍子抜けするような場所だった。予想どおりと言ってしまえばそのとおりで、ただ茫漠とした中を世界樹の枝が縦に貫いているだけだった。
「枝が随分細いのを除けば、現実世界の夢の中と何も変わらないわね」
「これで細いって言うのかよ」
 少年は世界樹の枝の太さに驚いていた。視覚に相当する感覚が当てにならないことは蒼星石に連れられてナナを探したときに経験済みだったが、それでも直径数十メートルと思しき巨大な枝は、少年には自分が小さくなってしまったかのような感覚を与えていた。
「幹なら視直径でこの何百倍もあるわよ」
 表面が一つの地面のように振舞っている幹の部分とは、この枝部分のありようは大分異なっていた。ただ、そこここに淡い光に包まれた心の木が存在するのは変わらない。
 近くにあるその一つに水銀燈は近づく。少年と『蒼星石』も彼女に続いた。桜田のりの木だ、ということが何故か少年にも分かった。
 年齢と心の木の大きさは必ずしも一致しないし、心の木が現実世界の樹木そのものとは似て非なる形状になるという話は聞いている。自分の木が同じ年頃の少年少女達に比べてごく幼く小さい物だということも教えられていた。
 しかし、そういった事前知識を持っていても、その木は良い生育状況とは言えそうにない姿をしていた。
「……大分苦労してるみたいだな」
 ぼそりと放り出された少年の言葉を、水銀燈は肯定も否定もしなかった。

 少年は木に歩み寄り、そっと幹に触れてみた。表面はかなり荒れているが、それが木の生気のようなものを何処まで表しているのか、知識のない彼には分からない。
 幹に沿って視線を上げて行くと、木はある一点で急に様相を変え、まるで途中から別の木を接いだように見える。下を見ると根は充分に張っており、そこから伸びる幹は真っ直ぐに天を目指し、少年の頭上すぐの辺りまでは枝も力強く張っていたのに、幹はその場所で落雷にでも遭ったかのように勢いを失って分裂し、張り出した太枝は折れて枯れてしまっている。
 幸いなことに、新しい枝や分裂した後の幹も、細くてか弱いもののそれぞれ葉を茂らせていた。与えられた環境の中でどうにか頑張って伸びて行こうとしているのが見て取れた。
 鈍いと言われる少年にも、事の次第が飲み込めてくる。過去のある一時期、この世界ののりは、まさに心が折れるような経験をしたのだ。
 先程の夢に出て来た、自分達とのり以外では唯一の存在が関わっているのは間違いない。それものりにとって最悪の形で。

「酷い蔓や雑草はないみたいだね」
 根元に伸びて来ている雑草を刈りながら『蒼星石』は幹を振り仰いだ。彼女はこういった状況の心の木を見慣れているようだった。
「もう少し弱々しい木かと思ってたけど、芯は強いみたいだよ」
 ふむ、と水銀燈は腕を組んで鼻を鳴らした。
「これだけ丈夫に大きく育ってるなら、雑草駆除程度じゃ意味はないかもね」
 『蒼星石』に視線を遣り、彼女が自分の方を向くのも待たずに続ける。
「古い方の枝打ちでもやらないと、劇的な改善は望めないでしょう」
 木の周囲に雑草は多いが、どれもさして木の生育を邪魔するほどのものではない。『蒼星石』にもそれは充分に理解できているはずだ。彼女がそれでも生真面目に雑草を刈り取っているのは、少しなりとものりの心を軽くできればという意味合いなのだろう。
「それは、要らない記憶を閉じ込めてしまうということ?」
 『蒼星石』は鋏を忙しく動かしながら水銀燈に横目で問い掛けた。
「あまり手荒な真似はしたくないよ……」
「その感覚は正しいわ。たとえ恣意的に改変された歪みを受けての変化であっても、この人間にとってはそれが唯一の歴史であり、他に替えのない経験なんだから。木そのものに手を加えるのは、その人から歴史を奪うことと同じこと」
 水銀燈は肩を竦め、皮肉な笑顔になった。
「私は妹に頼んでそれをやらかしたけどね。結果がそこに居る人間ってわけ。あまり後味の良い行為じゃないのは間違いないわ」
 『蒼星石』はびくりと手を止め、水銀燈と少年を交互に見遣った。二人の間に何があったのか大まかには聞いているはずだが、改めて言われると平静では居られないのだろう。
 水銀燈の言葉は事実とは言えない。最終的に媒介の枯れ果てた心の木を根元から伐り倒したのは本人だった。
 しかし彼女には元々の依頼を蒼星石にしたのは自分だという思いがある。もしも蒼星石が鋏であの枯れ木を切り崩していたら、媒介が自ら手を下す必要はなかったのだ。

 少年は憮然とした表情になったが、何も言わずにもう一度のりの心の木の幹を見上げ、荒れた表面を指でなぞった。
「水銀燈はこれが桜田の姉ちゃんの木だってすぐに分かったみたいだけど」
 少年は水銀燈と『蒼星石』を振り向いた。自分も近寄ったときになんとなく分かってしまったのだが、そこは言わずにおいた。
「なんで分かるんだ? その人のだ、って」
「どうしてかしらね」
 水銀燈は少年の隣に舞い寄り、宙に浮いたまま心の木の幹に手を当てた。
「その人のイメージが頭の中に湧いて来ることもあるし、視覚的な何かが見えることもある。一番相応しい言葉は──どっかの小説の登場人物じゃないけど、『分かってしまうのだからしょうがない』ってところかしら」
「うーん……」
 考えていたよりも曖昧な答えに、少年は眉根を寄せた。
「間違えちゃうこととかって、ないのかな。例えばこの木が別の人のだとか……」
「それはないわね。いえ、なかった。今まではね」
 水銀燈は訝しげな視線を少年に向けた。
「どうかしたの、それが」
「いや、なんつうか……変なんだ」
 少年は頭を掻いた。

 先程からどういう訳か、この心の木に妙に親近感のようなものを覚えている。それがこの場所のせいなのか、何か現在の雰囲気のようなものに影響されてのことなのかは分からない。全く別の理由かもしれないが、いずれにしても少年には判然としなかった。
 のりに対して、彼は特段惹かれるものを感じてはいなかった。美人で優しい、良い人だなと漠然と考えているだけだ。
 しかしこの木には何故か、そういった感覚とはまた違う既視感のようなものを抱いてしまう。それも大分慣れ親しんでいるものに対するような。
 実はこの木はのりの心の木ではないのかもしれない、とさえ思えるほどだ。実はもっと自分に近しい人のそれではないのか、と。

「だからさ、なんか……変だなって」
「これは桜田のりの木。それには間違いない。私と『蒼星石』の両方が同じ間違いをしたか騙されているのでなければだけど」
 水銀燈は腕を組み、細い顎に手を遣った。
「既視感ねぇ……」
 どういうことなのか、と考える。
 これといって既視感を覚えるような理由は見当たらない。強いて挙げれば少年の木と同じく中途から異なった形で成長している訳だが、少年の木が枯れ木のうろに生えたのとは違い、この木はあくまでも元々の木の再生に近い形だ。共通点はないと言って良い。
 それに──本人にはまだその推論を明かしてはいないが──恐らくこの世界には既に少年もまた存在していない。いや、逆にそれが原因で近くの心の木に何処となく惹かれた、ということだろうか。
 強引にそう考えたとしても、疑問は深まるばかりだ。まずもって惹かれる理由が分からない。偶然か気のせいということにしておいた方が良さそうな話ではあった。
 分かっていたとはいえ、やはりこの世界を理解するには情報が圧倒的に足りていない。もどかしい話ではあった。

 水銀燈は考え込んでしまったが、『蒼星石』は微笑んで二人を振り向いた。
「ボク、分かるよ」
 二人が意外そうに顔を上げたのを見て苦笑する。それほど意外なことなのだろうか、と言いたそうな表情だった。
「この木はね、こっちの木から、養分を分けて貰っているんだ」
 彼女が指した先には、のりの木とほぼ同じくらいの大きさの心の木があった。恐らく近くにある木の中で一番のりの木に近い、それ以外は至って平凡で特色のない木だった。
 少年は首を傾げた。
「それがどういう──」
 言い掛けて、漸く理解する。隣で水銀燈も驚いたように瞬いていた。自分の推論が呆気なく崩されてしまったからだが、そこまでは少年の知るところではなかった。
 少年はいつものように、やや緊張感を欠いた声を上げた。

「──俺の木、なのかぁ」

 先程の水銀燈の言葉の正しさを、改めて少年は確認した。分かってしまった、としか言いようがない感覚だった。
 何故言われるまで気付かなかったのか分からない。しかし、それは現実世界のものとは全く様相を異にしてはいるものの、この世界の少年自身の心の木だった。
「この世界の貴方は、ちゃんと人間を愛せたって訳ねぇ」
 水銀燈はひとつ息をついた。
「もっとも、愛すべき人形が居なかったってのもあるでしょうけど」
「なんか引っ掛るなぁ、それ」
 水銀燈は言い捨てるような形で既にまた物思いに沈んでいたが、彼はそれには気付かずに続けた。
「水銀燈も蒼星石も、女の子だろ。普通に誰かのこと好きになるし、相手に伝える事だってできるじゃん。こっちが好きになっちゃうのだけ可笑しいってのはずるいぜ」
「そうねぇ」
 水銀燈は生返事を返した。
 彼の言葉が理解できないわけではなく、彼女にとってはこれといって変わり映えのしない会話というだけのことだった。人形愛云々もふと思いついた軽口に過ぎない。それよりも、今は別の事柄が頭の中を占めている。

──何故、彼は生きているのか。

 見方によっては薄情なことを考える。
 薔薇乙女の契約者が皆──確認できた限りでは、だが──何等かの原因で命を落としているのに、彼は転居はしているものの、桜田のりと近しい関係になって生き延びている。
 オディールも死んでいるのではないか、と一旦は考えたのだが、彼が生きているのならば案外彼女もまた生き延びているのかもしれない。そうであればこの世界に来た意味もあるというものだが、仮に生きているとしたら、尚更生死の分け目は混沌として来るような気がする。
 この世界が排除した中に何か気付いていない別の法則があるのか、それとも時間の経過や偶然による死亡が重なっているだけで、そもそも排除などしていないのか。
 少年と『蒼星石』は少年の木の方に向かい、何やら会話を始めていたが、水銀燈はその場で暫く考え続けていた。何か引っ掛る部分がある。それが何なのか見えて来ないのがもどかしかった。


「九秒前の白に向かわれるのですかな」
 兎頭の紳士は仕事机に向かって作業をしながら、顔も上げずに尋ねた。
 扉に手を掛けていた蒼星石は、おや、と振り返った。彼がそんなことを言うのは初めてだった。
「少し気になっていることがあるんだ」
 こと、紳士には嘘をついても仕方がなかった。全知全能の存在ではないけれども、彼女の知っている中ではずば抜けてnのフィールドの中のことを把握しているし、薔薇乙女達に関してはほぼ完全に動向を掌握している。恐らく薔薇乙女達がそれと気付かぬ内に致命的な行動をしていたら、本人の知らない間に介入してそれを捻じ曲げてしまえるのだろう。
 彼女は最早薔薇乙女ではないけれども、彼に見通されているのは変わりがないだろう。少なくとも安易な嘘をついたところでそれを信じるとは思えなかった。
「オディール・フォッセーは、ナナの姉妹の誰かと接触したんじゃないかと思う。それもあまり良くない形で」
 両者が接触するとすれば、それは無意識の海の何処か、恐らくは「九秒前の白」の中だろう。もしも、接触によって未だに感情が大幅に揺れているのなら、今までは発見できなかった彼女達と接触することができるかもしれない。
 そこまでは敢えて口にしなかったものの、紳士は当然言葉の意味を理解しているはずだった。
「向かわれるならば、お気をつけて」
 彼は机に向かったまま告げた。
「かの場所は、人にとって実態を曝け出してしまう場所でもありますし、また、自己を失って溶けて行く場所でもあります。今の貴女は魂だけで彷徨う人にごく近い。くれぐれも無茶をされませぬように」
 蒼星石は苦笑を浮かべた。紳士の言葉を聞くまでもない。以前「九秒前の白」に入り、危険な場所だと思い知っている。
 自分がもはや見えざる手の支援を受けていないことも分かっているつもりだ。何かがあれば、すぐに逃げ帰ることに決めている。それがみっともないだの卑怯だのと言われようが、構わなかった。
 彼女には理想とは言えないかもしれないが目標がある。自己を保って生き延びていなければ達成できない事柄だった。
「忠告ありがとう。無理はしないよ」
 仕事机の方を振り向き、頭を下げる。
「でも、僕は会ってみたいんだ。ナナの姉妹にも、できればオディールにも」
「その相手自体が、貴女にとっては危険かもしれませんぞ」
 紳士は横目で蒼星石を見、片手の指を立ててそれを左右に振った。
「お忘れなきよう。老兎の力が及ぶのはあくまでアリスゲームの中だけ、そして貴女ご自身も以前とは違って無力な存在に過ぎません。行動はくれぐれも慎重に」
「肝に銘じておくよ」
 扉に向き直りながら、蒼星石は微かに違和感を覚えた。紳士の言葉はあまりにも言わずもがなのことだった。
 彼女は何も、無意識の海に捜索に出るのが初めてという訳ではないのだ。むしろ何度も往復して、体感時間で一日のかなりの時間を過ごしていると言っても良い。
 それはこの小さな世界で毎日顔を合わせている紳士が知らないはずのない事柄だ。何故、今になってこんな話をするのか。昔よく彼女に見せていた──彼が「仕事」として振舞ってみせているときのような──一見意味のないように見える言動なのか。
 暫くそのままの姿勢で考えたが、答えは見えて来なかった。

──忠告として、忘れずにおくしかない。

 少なくとも、いつもよりも注意して行動することは悪いことではない。
 蒼星石は気合を入れなおすように一つ大きく頷き、一挙動で扉を開けると、第32768世界からnのフィールドに踏み出した。扉を閉めるとき、兎頭の紳士が仕事机のところからこちらに視線を向けていたのには気が付いたが、表情というもののない兎の剥製の顔からは、彼がどんな思いを抱いているのかは全く読み取ることができなかった。



[19752] 220程。 弱い者達。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/05/27 05:30
 夢からの帰還は、全員一緒だった。
 夢に入り込んだ面々の出現とのりの目覚めが同時だった、というだけではない。以前、真紅と翠星石がジュンの夢の中に入ったときと同じく、一同はのりと触れ合うような近さで出現した。
 少年はのりの布団の中に出現したことに気付き、上に乗っかる形になった『蒼星石』を小脇に抱えて慌てて飛び出した。何処か柔らかいところに触ってしまったらしく、何やらしどろもどろに言い訳をしながら赤くなったり青くなったりする。水銀燈は少年とのりを交互に眺めてにやりと笑い、『蒼星石』は困ったような表情で彼に胴を抱かれていた。
 のりは少し頬を染めながらも、気にしていないと言うように落ち着いた笑顔で彼を見遣り、上半身を起こして雛苺を抱き締めた。
「ありがとう……夢じゃなかったのね、ヒナちゃん達は」
 できればずっと夢の中だと思っていて欲しかったのだが、そうは行かなかったらしい。単に寛容というよりも、のりには現実をあるがままに受け取れる一種の能力が備わっているようにも見える。
 仕方がないか、と水銀燈は内心で息をついた。ただ、それほど悪い方には進まないだろうとも思う。嬉しげに雛苺を頬ずりしてもう一度ありがとうと言ったのりの顔は、少なくとも動く人形を何かに利用しようというような狡猾さとは無縁なものに見えた。
 後は、彼女が世間一般の人々と自分の受け取りようの差を認識して、決して表沙汰にしないように話を進めてくれることを期待するだけだ。
「感謝しなければならないのはこっちの方ね」
 水銀燈は慇懃に一礼してみせた。
「勝手に大勢で押し掛けて、勝手な要求をしてるんだから」
「それは心配しないでいいのよぅ」
 のりは、俗な言い方をすれば「大人の顔」になった。
「お礼はもう先払いで沢山貰ったもの。ヒナちゃん達のお役に立てるならそれで良いの。それに……」
 腕の中の雛苺にまた微笑みかける。
「その、コリンヌさんが生きてらしたら──お孫さんでも、だけど、ヒナちゃん達は優しい夢を見せてあげるんでしょう? その人の全部を許してあげるような、暖かくて優しい夢を」
 それは、とても大事で、とても素敵なことだから、と顔を上げて一同を見渡す。
「そのためなら、お姉ちゃん頑張っちゃう」
「あんまり無理しちゃダメなのよ」
 雛苺はのりの頬に手を伸ばした。
「のり、頑張り過ぎだから。もうずうっと、何年も何年も。お願いしといて変だけど、背伸びし過ぎて倒れちゃったら悲しいわ」
 雛苺はべそをかきそうな顔になっていた。
 のりがこれまでの経過を夢の中で見せたり説明した訳ではないだろうが、彼女なりに感じるところがあったに違いない。
「ありがとう。でも大丈夫」
 のりは雛苺をもう一度抱き締めた。
「私は一人じゃないもの。ヒナちゃん達ともこうして逢えたし、支えてくれる人が居るから──」
 ちらりと少年に視線を遣り、はにかんだように微笑んだ。
「──その人のためにも、できる範囲で、両手で抱き締められる大きさの中で頑張るから」

 結局、その晩彼等がこの世界の桜田家に──いや、のりの家に、泊まることはなかった。
 大人数で、しかも──水銀燈の言によれば──「何につけ嵩張る」少年が居たのでは、唯一の出入り口である薔薇屋敷の鏡からnのフィールドに抜けるのも時間を選ぶ必要がある。のりにもう一度眠ってもらって、その夢から抜けて行く方が安全だった。
 世界樹の枝の上を幹に向かって飛びながら、少年は何度も振り返った。未練ありげな仕種を水銀燈が諌めると、少年は頭を掻いて言い訳がましい言葉を口にした。
「色んなものが足りない世界だったなって、思ってさ」
 流石に、知り合いに死人が多かったとは言い難いようだった。
「それが分岐の可能性をなくした世界ってことの意味なのかな……」
「どうかしらね」
 水銀燈は額に掛かる髪を無造作に耳の後ろに払った。
「ある可能性を否定することで、別の可能性が現れているだけかもしれないわよ」
 現に、成長した少年はのりと親しく交際しているらしい。その契機は恐らく桜田ジュンの不在と繋がっている。他の契約者達の周囲についても同じ事が言えるはずだ。
 自分達の存在など小さなものだ。世界が一部の契約者達を積極的に削除しても、周囲の人々はまた別の人間関係を築いてしまう。そのもう一回り外側になれば、何程も変わらない歴史が動いて行くだけなのだろう。
「俺は厭だな。そんな可能性。なんか、上手く言えないけど、厭だ」
 言いながらも、少年は背後を振り返る。もうそこには後にしてきた世界ののりの夢へと続く扉も見えなければ、その世界の心の木達も見えはしない。
「何かを否定して、殺して生まれる可能性なんてさ」
「表立った殺生を嫌う日本人の考え方としては理解できるけど、可能性なんてそんなものよ」
 水銀燈は胸の辺りを押さえる。そこには都合四つのローザミスティカが収められているが、自分の力が四倍になったとは思い難い。
「もしも、私が蒼星石に負けていたら。雪華綺晶が真紅のボディに首尾よく入り込んで、望みどおり実体を持って現実世界で生きていたら。結局、何かが別の何かのポジションを奪っていたらってこと」
 当然それだけとは言えないけれども、水銀燈は敢えて話を限った。
 少年はこくりと頷き、横着に彼の背中にぶら下がっている雛苺と、どういう具合か彼等ほど速く飛べなくて手を引かれているナナが無事なのを確認した。
 雛苺が雪華綺晶に襲われ、ボディを与えてしまっていたら。ナナが第七ドールだと名乗り出ていたら。そういう可能性もあった。だが、その先がどうなっていたかは推測するしかない。薔薇乙女達は、少なくとも一つの世界群に一人ずつしか存在できないのだから。
 ふと気がつく。そういう類推なら、こういう仮定もある。
「もし、俺じゃなくて柿崎めぐさんが水銀燈のマスターだったら……」
 それは、記憶を失う直前の夜に、以前の彼が考えていたことでもあった。
「水銀燈は、もっと幸せだったのかな。今の、あの紺色の子みたいにさ」
 水銀燈はちらりと『蒼星石』を眺める。彼女は瞬いて水銀燈と少年を見比べていた。
 そうか、彼女は知らなかったのだ、と水銀燈は気付いた。『蒼星石』も他の姉妹達も、『水銀燈』と『柿崎めぐ』の関係について知ることなく倒れた。辛うじて『真紅』だけは『水銀燈』の動力源を胸に収めたときに大雑把な情報を得たものの、それも彼女にとっては薔薇水晶への憎しみを募らせるためのスイッチに過ぎなかった。
 ましてこちらの世界群の姉妹達のありように近い漫画の中での、水銀燈とめぐの関係など、理解している者はいない。魂だけの存在となってnのフィールドで時を待っているはずの蒼星石だけは、断片的に知ってはいるかもしれないが、その程度だった。
 一瞬考えた後、結局簡単な言葉で総括するだけに留めることにする。
「何を以って幸せって言うかは曖昧だけど、あれほど静かな関係にはなれなかったでしょうね」
 めぐの病状に一喜一憂し、彼女の表面的な願いを叶えようとして叶わず、挙句雪華綺晶に彼女を奪われて当て所ない捜索の旅に出る。全く同じように進んだかは兎も角、似たような形になったはずだ。
 それが幸せなのか不幸なのか、今の水銀燈には何とも言い難い。彼女が知識を受け取ったときには、既に彼女は別の軌道を長いこと進んでしまった後だった。こと自分自身に関しては、漫画の世界は「有り得たかもしれない現在に似たところ」という離れた視点からしか見ることができないでいる。
「ま、貴方もめぐも、手の掛かる媒介ってことは同じよ」
 にやりと笑ってみせると、そんなこと言ってるんじゃないんだけどな、と少年はむくれた。
 分かってるわよ、とは水銀燈は言わなかった。少年は少し自信をなくしているか、自分という存在を申し訳なく思ってしまっている。どんな展開になっても何かしら重大な部分で自分が横槍を入れ、誰かのポジションを奪い続けていると感じているのだろう。

 それで構わないのだが、と水銀燈は思う。
 人間社会にしても自分達のゲームにしても、畢竟ポジションの数は決まっている。誰かがそれを奪い、残りの者を蹴落としてしまうのは同じ事だ。ただ、それがはっきりと目に見える形で表されるかどうかの違いでしかない。
 何処かの少年が年頃らしい潔癖な考えでそれを否定したい気分になっているのであれば、水銀燈はそういう言葉で諭しただろう。
 ただ、こと自分が契約した相手を前にしては、彼女は掛けるべき言葉を選ぶ必要があった。
 彼は過去と断絶した存在だった。
 他の世界では要領良く修正されてしまい、連続した歴史を持つことにされているのだろう。しかし他でもない彼自身だけは、心の木を伐り倒すまでの自分と今の自分が実質的に別人であることを知っているし、彼がどういう特異な存在であったのかも知っている。
 自分が薔薇乙女の契約者でなかったら、という言葉は同時に、過去の自分が飛びきり特異な存在でなかったら、ずっと生まれてからこの方平凡そのものの「自分」であったらどうなのか、という設問でもあるのだろう。
 その特殊性を持った彼に対して、特異な存在と契約を結んだ彼女自身が一般的な言葉を掛けてもあまり意味はなかった。

「想像の翼を広げても答えは出て来ないわ」
 水銀燈は少年に並び、彼の空いている方の手を取った。

「今はもう変えられない。ここにある現在が全て。
 貴方は自分自身の心の木を切り倒して生まれる前の過去と決別したのだから、たとえ記憶が連続していなくても自分の選択を尊重するしかないのよ。その過去を全部受け継いだ私が言うのも変な話だけどね。
 ま、悩む暇があったら、貴方の大切な恋人の事を考えなさいな。あの子は誰でもない、貴方に惹かれたのだから。今現在に繋がる貴方にね。
 それこそ、薔薇乙女であることを捨て、独りで彷徨うことになるかもしれないリスクを冒してまで、都合の良い人形としてでなく不自由な人間として貴方の前に立つことを望むほどに」

 少年は頬を赤くすることもなく、素直に頷いた。水銀燈は手を放し、やや加速して彼の前に立った。
「幹が見えてきたよ」
 先頭を飛んでいる『蒼星石』が少し高揚した声を上げた。
「遠かったけど、やっと帰って来たんだね。幹の世界の近くに」
「帰り着くまでが遠足なのよ」
 雛苺が機嫌良く答える。
「おやつはバナナに含まないのよー」
「それ逆、逆だから」
 慌てて少年が言うと、雛苺は目をぱちくりさせた。
「え、含むの?」
「ベタな会話ねぇ」
 水銀燈はぷっと吹き出し、『蒼星石』は思わず苦笑する。何のことなのか分からないナナだけが、頻りに首を捻っていた。


 朝になって目が覚めると、そこは元どおり誰も居ない家になっていた。
 のりは暫くの間、呆けたようになってベッドの上で身体を起こしていた。
「──全部夢だったのかしら」
 水銀燈が感じたほどには、のりは無制限に異常を受け容れられる訳ではない。しかし昨夜は何処かで御伽噺を体験しているような雰囲気があって、それが彼女を、まるで明晰夢を見ているかのような気分にさせていた。
 奇妙な既視感もあったし、そしてもう一つ妙な感覚もあった。それらをひっくるめて、彼女はそれを半ば夢かもしれないと思いながら受け容れたのだ。
 着替えも済ませずに急いで階下に降り、ダイニングに入る。
 テーブルの上には、夜中にお茶を飲んだときの痕跡はなかった。小さな少女達が精一杯身体を伸ばしたりふわふわと飛んだりしながら全ての食器を洗って拭き、元どおりの場所に戻していたのを思い出して、のりは肩を落とした。
 キッチンの食器棚にも異常はなかった。多少食器の配列が変わっているようにも見えたが、それも錯覚かもしれない。全ては元どおり、何の痕跡もないように見える。

──夢だったのかしら。

 今度は口に出さずに考える。言葉にしたら言霊が全てを夢として確定してしまうようで、怖かった。
 昨晩のことが夢だとすれば、彼女が依頼され、詳細に憶えていることも全て夢、彼女の妄想だったことになる。
 不意に切なさがこみ上げてきて、違う、とのりは首を振った。ジュンが自分の手料理を食べてくれたのは夢だと分かっていたが、中学時代の彼が小さな少女達を連れて訪問したのは事実だと思いたかった。何処から来たのかは、結局曖昧なままだったけれども。

 ダイニングに戻ってぐるりを見回し、またキッチンに入ってあちこちを点検するように見回す。
 食材は確かに買って来たし、しかもかなり減っているように思えるのだが、それも曖昧だった。昨日の晩、少し多めに自分の食事とお菓子を作ったのを間違えて憶えているのかもしれない。
 実はレシートを見れば人数分だけの買い物をしたかどうかは分かるのだが、何故かそのことは浮かばなかった。彼女はなおも一頻りきょろきょろとキッチンの中を視線を彷徨わせたが、そこには昨日の晩のことを判然と示す物は何も残されていなかった。
 肩を落とし、とぼとぼと自室に戻る。
 ドアを開け、彼女は自分の机の上で視線を止めた。出て行くときは気が急いていて見逃していたが、そこには小さな証拠があった。
 身長十センチほどの小さなピンク色の服の人形を重石代わりにして、辛うじて判別できるほどの稚拙な字で書かれたメモが残されている。のりは転がるような勢いでそれを取り上げ、慌てて眼鏡を掛けて平仮名ばかりの上に誤字も脱字もある文章を読んだ。
「ひなのだいじなおにんぎょ、のりにあずけます……」

 れんらく、よろしくおねがします。たいへんなことたのんで、ごめなちい。
 なんにちかした、また、きます。ばんごはん、おいしかたよ。

 短い文章を、のりは何度も見返した。読むというほどの内容ではなかったが、それでも、如何にも書き慣れていない風のその文字と文章は、のりの心を暖かくしてくれた。

──本当だったのね。嘘でも、夢でもなくて。

 のりは手紙というには粗末な、書置きのメモとしか言えないものと、重石代わりに置いてあった小さな人形を胸に抱いた。
 今日、午後には彼が来るはずだ。彼にだけは教えよう、と思う。
 中学時代の、ジュンの不登校の原因になった件を見過ごしたことを謝りに来たときや、同級生で幼馴染だった柏葉巴が亡くなったことを告げに来たとき、そしてジュンの焼香に来たときの姿のままの彼が現れたのだから。今の──高校を卒業して働きながら専門学校に通っている彼も、中学生に見えた彼の依頼内容を知っているべきだとのりは思った。
 彼以外には話さない。そして、彼も絶対に口外はしないだろう。長い付き合いで、そういう人物だと分かっている。
 雛苺も中学生の彼も、彼に知らせることだけは許してくれるような気がしている。それはのりの勝手な思いこみかもしれないが、全てを任されたのは自分なのだから、そのくらいの裁量は認めて貰えるはずだと彼女は考えていた。


「ここは……何処です……?」
 そんな問い掛けをしたのはこれで何千回目になるだろう。聞いてくれる相手は常に自分だけだった。
 彼女は自分の手を見た。正確には、手の辺り、だ。確かに手であることは間違いないのだが、その境界は曖昧になっていて、ぼんやりと周辺に溶けて行っている。見ているのも目ではない。視覚に相当するもの、に過ぎない。全てあやふやな感覚だった。
 斜め前から何か大きな圧力のようなものが押し寄せ、彼女を押し流した。彼女は抵抗せずにそのままもみくちゃにされる。どうでも良かった。どうせ、何処かに向かおうという気力もないのだ。
 そんな捨て鉢な気分のままの彼女が、辛うじて意識と姿を保っていられるのは、幾つかのキーワードが彼女の中にあるからだった。
「おとうさま……ありす……じゅん……そうせいせき……」
 何回繰り返したかも憶えていないが、また呪文のように彼女は呟いた。自分の名前は疾うに何処かに置いて来てしまったが、それだけは忘れてはいけないと何かが訴えている。
 流れはあるところで弱まり、そして止まった。何処という訳ではないのだが、その場所で周囲を見回してみる。
 何もなかった。いつものことだ。それでも彼女はいつも、流れが襲い来るまでの短いインターヴァルに、流れ着いた場所を起点としてその周囲を漂ってみるのだった。
 そうすることに何の意味があったのか、それも判然としない。今はただ、既に何度となく繰り返したパターンをなぞることが、辛うじて彼女が彼女であることを支えているような気がしているだけだ。
 いや、なぞることにもそろそろ倦んでいる。自分が何物であっても、または何者であっても、誰にも認識されず、誰からも呼び声一つ掛けられなければ同じことだ。既に自分が自分であることの境界も曖昧になってしまっているのだから。
「おとうさま……ありす……じゅん……そうせいせき……」
 それでも、そのたった四つのキーワードが、今は既に忘れている過去の何かを呼び覚ますのかもしれない。ますます曖昧になって行く境界の中の自分を呼んでくれる何かを探すために、彼女はまた呪文のようにそれを繰り返した。

「……だれ……?」

 出し抜けに、頭上から声が降って来た。ゆるゆると視線を上げたが、誰も見当たらない。
 いや、何かは、あった。
 何か、としか言えなかった。白と金色と肌色と何か別の色がごちゃごちゃに混ざった、不定形の何かだ。
「……だれか……いるの?」
 何かはぞろりと蠢いて、そんな問い掛けを投げ掛けてきた。
「ひ……な? そこね……わかる」
 ずるり、ざわり、と何かは彼女に近づいて来る。彼女は何か気味の悪い感覚を味わいながら、それでも逃げることもなくそれに相対した。
 竦んでいる訳ではない。それは異形ではあるものの、彼女にとって久し振りの──実は、この状況に陥ってから初めての、自問自答する以外の会話をする対象だった。
「お前……おとうさま、ありす、じゅん……そうせいせき、ですか?」
 切れ切れに、なるべくはっきりと言葉を区切るようにして彼女は問い返した。
 殊更ゆっくりと言った訳ではなかった。素早く、歯切れ良く喋る気力がないだけだ。
「わたしの名前……知ってるですか?」
 そこに幾許かの希望が篭る分、彼女は目の前の不定形の何かよりは自己を保っていると言えた。但し、本人にそんなことを認識する余裕はない。
 何かは、進行速度を少し緩めた。
「ひ……な、じゃ、ないの? ひな、じゃ、ないの?」
 少しずつ速度は落ちて行き、何かは彼女の曖昧になりつつある境界のごく僅か手前で停止した。
「ひな……は? どこ? ひなが……いじめるの。ひな……ひなに、逢わせて。逢いたいよ、ひな」
「ひな……」
 彼女はその名前に聴き覚えがあるような気がした。自分ではないが、とても近しい誰かだったような気がする。だが、そこから先は皆目思い出せなかった。
「知らないですぅ。ひなのことは知らないです」
「ひなに逢わせて。ひな、ひな、逢いたいよ、ひな」
 泣いているような声だった。知能が低下しているわけではなくて、そのことだけに囚われてしまっているのだ。
 そんなことを、彼女は理性でなく直感で理解した。しかし理解したからといってどうすることもできない。
 何かは、今ははっきりと泣いていた。子供のように泣きじゃくっていた。
「逢わせて。お願い。ひな、ひな、逢いたいよう。いじめないでよう。もう一度、逢わせてよう」
「いじわるしてる訳じゃねーんです。知らないんです。忘れちまったんです。自分の名前だって、憶えてないんですよぅ」
 彼女は自分も泣き出した。これほど自我の境界が曖昧な状況に陥っていても、彼女は涙を振り撒くことは出来た。
「おとうさま、ありす、じゅん……そうせいせき……」
 泣きながら、彼女は目の前に何かが居ることも忘れて、またキーワードを唱え始めた。四つのキーワードの内のどれか一つが、彼女を救ってくれるような気がしていた。
 冷たい目で見れば、まさにそんな気がしているだけに過ぎない。最初と三番目のキーワードはこの世界群の何処を探しても見付かるはずのない存在であり、二番目はそもそも全くこの場では意味のない単語であり、そして、最後のキーワードは──この時刻、まさにnのフィールドから現実世界に戻ったところだった。
 しかし、彼女はそんな事情は知らない。ただ呪文のように、自分を救ってくれるかもしれないキーワードを唱えるだけだった。
 何を以て救われると感じるのか、それさえも曖昧だった。ただ、今の状態を脱したいという単純な思いまで退化していたのかもしれない。
 当然のように彼女は気付いていなかったが、それは目の前で泣き喚いている不定形な何かの思いとも似たものだった。

「貴女も泣いてるの……」
 呼び掛けに気が付いて顔を上げると、何かは泣き止んでじっと彼女を見ていた。
 目の位置が定かに分かる訳ではない。しかし、視線は感じる。何かは確実に彼女を見詰めていた。
「私は寂しいの。ひなが居なくって。いじわるされて。貴女も寂しいんでしょう?」
「寂しい……」
 彼女は疑問を抱いた。寂しいのだろうか。それよりも、ひたすら自分を保つことで精一杯だったような気がする。
「わからんですぅ……でも、寂しくなくはないですぅ」
「寂しいのね……さびしいのね」
 何かはその言葉を反復して、自己の中で一定の理解を作り上げたようだった。
 おもむろに、少しばかり確かな声で、何かは彼女に告げた。

「一緒に居れば、寂しくないよ。一緒に居よう。一緒になろう。ひなの代わりに。私のひなに、貴女がなって、ひな」

「違います、わたしはひなじゃ……!」
 はっとして、多分ここ暫くの間では最も激しい動きで身を引こうとした彼女を、不定形の何かは許さなかった。
「ひなぁ、ひな!」
 不定形の、腕のようなものが二本、彼女を両側から絡め取った。
「ひな、ひな、もう一緒だよ、二度と離れない、ひな、ひな……」
「厭あッ! ひなじゃないですぅ! 助けて、おとうさ……」
 不定形の何かは彼女を自分の中に取り込もうとするかのように、腕を強く巻きつけて彼女を懐に引き摺り込んだ。顔が何かの表面に触れ、彼女の声は一旦途切れてしまう。 だが、僅かな力を振り絞り、彼女は何かから顔を引き剥がした。
「たすけて、助けてッ、『お父様』、『ジュン』、……そうせいせき、『蒼星石』ッ! そうせ──」
「──だめ……貴女はヒナ、ヒナなんだから、ヒナになって! 意地悪なヒナじゃない、優しい私のヒナになって」
 再び、顔は何かに包まれてしまった。何かはぐいぐいと彼女をその中心に押し込もうとし──

「──止めるんだ」

 力強い手が、何かから彼女を引き摺り出した。そのまま、執拗に絡み付いてくる何かの腕を振り払い、赤ん坊のようにしっかりと抱きかかえる。
 彼女は顔を上げ、その顔を見上げた。
「──蒼星石……?」
「君のナイトでなくて済まないね」
 蒼星石は、ともすると崩れそうな感触の『翠星石』を、少し崩れても構わないと言いたげにきつく抱き締め、不定形の何かに視線を注いでいた。
「自分の名前は憶えているかい」
「……忘れちゃったです……」
 蒼星石としては不定形の何かに投げ掛けた言葉のつもりだったが、返事をしたのは腕の中の『翠星石』だった。蒼星石は厳しい表情になり、まだそれなりに形を保っている腕の中のドールの魂を見詰める。
「忘れちまったです……けど、アンタは思い出しました。蒼星石、ですよね」
「そう。僕は蒼星石。そして君は──」
 言い終わることは出来なかった。不定形の何かがいきなり襲い掛かって来たからだ。
 とはいえ、何かも強い力や剣呑な武器、一撃必殺の技などというものを持っているわけではなかった。その逆だった、と言っても良い。何かが伸ばした二本の腕状のものは、蒼星石が咄嗟に振り回した棒切れ──第32768世界から持ち出して来た、何かの作業に使うための手頃な細い木の棒に過ぎない──に、悲鳴と共に難なく撃退された。
「──君は、『翠星石』。誇り高い『ローゼンメイデン』の第三ドール。天才に作られ、自力で究極の存在である『アリス』になることができるとされた、ほぼ完璧なドールだ」
 蒼星石は言いながら、今の自分に出来得る限りの加速でその場を離れる。何かは暫くずるりずるりと彼女を追って来たが、加速とは縁の無さそうな、地を這うような抵抗の大きそうな動きに過ぎない。やがて、蒼星石からは何かが見えない距離までその間は広がってしまった。
「大丈夫だったかい」
「大丈夫……ですぅ」
 腕の中で、『翠星石』は身じろぎした。その姿は大分はっきりした輪郭になってきている。
「すいせいせき……」
「そう、それが君の名前。君を呼び返す、最も大事なキーワードだ」
 励ますように言いながら、蒼星石は何かの正体について見当がついていた。

──オディール・フォッセー。あそこまで自我を失ってしまっているなんて。

 そして、彼女は恐らく今の時点で考え得る最悪の相手と最悪の出会い方をしてしまったに違いない。
 胸が締め付けられるように痛むのを覚える。このことを自分の姉妹に、出来れば雛苺に今すぐにでも報せたかった。
 だが、それは許されるのだろうか。自分は何処まで彼女に干渉することを許されるのか、今のところ蒼星石には判然としなかった。



[19752] 180ほど。 ヒナおねむ。前日投稿分に加筆訂正です。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/05/30 23:35
切りの悪いところですが、タイムアップでございます。
ていうか眠くなって切りのいいところまで書けませなんだ。

※ 5/29 半端に時間があったので切りのいいところまで加筆、同時に誤字等一部訂正しました。最後50行程度加筆されています。

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 世界の扉を後ろ手に閉めて、蒼星石は腕の中のドール──正確には、ドールの魂──を眺めた。
 大分ぼやけたところはなくなってきている。そもそも、無意識の海から出て来れたのも、自己をはっきりと認識し始めているからだろう。
「ここ……来たことがあるですぅ」
 もぞもぞと、やや緩慢な動作で周囲を見回し、『翠星石』は何故か安心したような口振りになった。
「他の子と一緒に……それと、蒼星石も居たです」
「僕は後から入って来ただけだったけどね」
 もう一つ言えば、その頃とは別の身体になっている。この姿は魂を強引に可視化しているだけで、その本質は以前の彼女と変わらないのもしれないが、少なくとも『蒼星石』も兎頭の紳士も、彼女の姿を元のそれとは別なものと認識した。その程度には違って見えるということだ。
 肉体そのものの構造は全く違っているし、背の高さから服装も別物となり、そして顔つきや体型さえも細かく見れば全く同じとは言えない。鏡を覗き込んだとき、彼女は少し面食らったものだ。人間の顔というものは、何処までも頭蓋骨の上に筋肉を盛ったものだった。
 『翠星石』も、記憶が定かであれば視覚的なイメージに引き摺られていたかもしれない。ただ、彼女の記憶はあやふやだった。それが却って蒼星石を即座に認識することに繋がった。
「それでも、居たのですぅ」
 駄々っ子のように口を尖らせる。思い出しかけた記憶が間違っていないと主張したいのだろう。
「うん。確かに居た。ここで君と会ったことがあるのは間違いない」
 髪を撫でてやると、『翠星石』はうっとりと微笑んだ。
 可愛いな、と素直に思ってから、なるほど、と納得する。現実世界ではまた違うのかもしれないが、サイズの違いや手足の感触のせいではっきりとドールだと分かっているにも関わらず、彼女には愛らしい少女のような雰囲気があった。

──自分だけを見ていてくれる、自分だけの人形か。

 しかし、それはただの人形ではいけない。自律して動くが、自分の判断で慕う相手を変えてしまうことのない存在であり、決して裏切らず、何よりも固く自分と結ばれている。そういった都合の良いモノから愛を向けられているからこそ、契約者達は薔薇乙女達に無償の愛を注ぐ。いや、愛という見返りを求めて自分も相手を愛するのだろう。
 蒼星石に抱かれている『翠星石』は、彼女に愛を向けているという訳ではない。それでも、ある種のヒトが僅かな情報からローゼンメイデンを追い求めたり、契約者達が彼女を愛した理由の一端が垣間見えたような気分にはなれた。
「お帰りなさいませ」
 白兎の頭を持った紳士は、相変わらず前掛けも着けず、服も作業衣に替えることもなく作業をしていた。ただその手だけは白い手袋を脱いで素手の状態になっている。
 珍しく奥から立って来て、彼は慇懃に彼女に──いや、彼女が抱いているドールに一礼した。
「この小さな世界にようこそ。覚えておいでですかな」
「ラプラスの魔……」
 紳士は恐らく自らのことではなく、この世界を覚えているかと尋ねたつもりだったのだろう。しかし『翠星石』は幾分はっきりとしない声音ではあったが、即座に彼の名前を思い出していた。
「人形を作ってたですよね、この部屋で」

 蒼星石は微笑を消し、すっと目を細めた。やや意外でもあり、微かに引っ掛りも覚えている。
 『翠星石』の言葉は兎頭の紳士本人を、恐らくずっと長い付き合いだったはずの、元居た世界の同じ名前の人物と混同することもなく思い出したことを示している。
 紳士と彼女が出会ったのはごく近い過去の記憶だけに、素直に思い出して当たり前なのかもしれない。それにしても、『蒼星石』が記憶の殆どを失いながらもこのドールよりもはっきりと自己を保っていたことと比べ、ほんの今しがたまで自己の境界線もあやふやだった彼女がいきなり彼の名前と顔を一致させたのは対照的だった。
 『蒼星石』は自分に関わる事柄を一つも洩らすことなく聴き取り、覚えておこうとしていた。逆を言えばその場では全く記憶を取り戻すことができなかったということでもある。
 二体のドールの間で、彷徨っていた期間の長短以外にどういった条件が違っているのか。あるいは、これは単に作り付けられた個体差なのだろうか。
 考えてみる価値のありそうな問題だった。

「如何にも、如何にも」
 紳士は蒼星石の懸念を知ってか知らずか、ドールに愛想良く頷いて背中に回していた手をすいと前に出す。そこにはいつの間に持っていたものか、決して小さくない人形が魔法のように抱かれていた。
「この人形でしたかな、それは」
「……そうですぅ」
 『翠星石』が一瞬躊躇ったのは、その人形が彼女の忌まわしい記憶に結び付く姿を模した物だったからなのだろう。
「薔薇水晶……」
 紫色の衣装、『水銀燈』と似た灰白色の長い髪、黄色い右目。左目に掛けられた紫の薔薇をあしらった眼帯。第七ドールを騙った存在に──そして、名前のない第七ドールにも──似せられた人形だった。
 服装は薔薇水晶を模しているのだが、顔つきは恐らくナナのそれに近い、険のない柔和なものにされている。とはいえ全体として見れば、顔の造作が若干今風で衣装が創作人形風に凝っているものの、それは紛れもなくただのアンティーク調の人形でしかなかった。
「おっと、これは失礼を」
 紳士はそそくさと人形をまた後ろに隠した。もう一度手を前に出したときには、人形は跡形もなくなっていた。
「あまり芳しからざるご記憶を呼び覚ます物であったかもしれませんな。ご無礼の段、平にご容赦を」
 慇懃無礼という言葉に相応しい大仰な身振りで頭を下げる。
 蒼星石は苦笑した。『翠星石』には分からなかっただろうが、少しばかり見え透いた遣り方だった。紳士は強い印象を与える物を見せて『翠星石』の記憶の一部を蘇らせようとしたのだろう。
 再び腕の中のドールを見遣り、軽く頷く。紳士の意図のとおりになったかどうかは兎も角として、少なくとも腕の中のドールは自己の境界線をはっきりさせる程度には自我を取り戻していた。
「アンタが訳わかんねーのは前からですぅ。今更無礼もくそもねーよってやつですよ」
 『翠星石』は元気に口の悪いところをみせ、蒼星石の顔を仰いだ。
「そういやこっちは、ちょっと見ない内に随分でっかくなりましたね……」
 遠慮のない視線が蒼星石の顔から喉元、胸、そして自分を抱いている腕へと眺め回す。蒼星石に関する記憶を確実に蘇らせたことの証のようなものだが、いざ説明するとなるとこのドールに今の状態を簡単に話して聞かせるのは意外に大変そうだった。
 何と返答したものか暫く考えてみたが、上手い言葉が出て来ない。結局、彼女は無難な言葉でお茶を濁すしかなかった。
「いろいろあってね」
「なーんか怪しいですぅ」
 案の定、『翠星石』は不服そうな表情になった。
「陰謀の匂いがするですよ。このくんくん探偵譲りの鋭敏な嗅覚に、もうプンプンと匂ってくるのですぅ」
「陰謀か……」
 確かに、陰謀には違いない。それも、蒼星石自身からは今の状態のこのドールに何処まで話して良いのか、どれだけ細かく明かして良いのか分からないほど微妙な謀りごとだ。
 蒼星石は困り顔をラプラスの魔に向ける。兎頭の紳士は如何にも面白そうに赤い鼻をひくひくとうごめかしてみせるだけで、実のある助言はしてくれなかった。


「そんなことに……」
 翠星石は唇を噛んで俯いた。
 雛苺に話させるのは酷だから、と水銀燈とその媒介の少年が交互に語った内容は、彼女にとってはかなりの衝撃だった。
 結菱老人の年齢や不摂生だった生活のこともあり、蒼星石や自分達と出会わなかったことにされた世界で彼が死んでしまったかあるいは転居していたことについては、致し方がない、とどうにか自分を納得させられた。だがジュンや巴がそれぞれ学校の苛めなどが原因で死を選んだということには、言いようのない不安を掻き立てられてしまうのだ。
 彼女はそこにあからさまな恣意的な操作の匂いを感じ取るというよりも、この現実世界のジュンや巴の今後をどうしても重ねてしまう。
 ジュンは登校の再開を望んでいるし、巴や少年も不器用ながらそれを支援するつもりでいるのは分かっている。しかし、それだけでは足りないのではないか。

  ──お前が傍に居てくれて、僕をいつも見ていてくれる。それに気がついたんだ。外で厭なことがあっても、必ずお帰りって言ってくれるから。

 彼は自分という少女を途切れなく、ずっと毎日必要としている。今は、まだ。彼が登校を再開したとき、たとえいずれは帰って来ることが分かっていたとしても、その家に自分も、そしてどの薔薇乙女達も居なかったとしたら。
 ぎゅっと目を瞑り、強くかぶりを振って彼女はそれ以上の考えを頭から押し出した。
 その考えを突き詰めて行ってしまったら、自分はアリスゲームを都合の良い形に壊してしまいかねない。姉妹全てを踏みにじって。
 そうしないためには、ゲームの終わりをだらだらと引き伸ばすことが──

 目を開け、真紅に視線を遣って、少し話題から逸れているかもしれないが別のことを口にする。
「私達も行くべきでしたかねぇ……」
 真紅も硬い表情だったが、静かに首を振った。
「何人一緒に行っても、私達に雛苺以上のことが出来たとは思えないわ。貴女の如雨露でそちらの世界ののりを少し元気にしてあげられた程度でしょう」
 それに、と少しだけ顔を和らげる。
「こちらも、全く進展がなかった訳ではないもの。お互いに必要な仕事をしたのだわ」
「……そうですね」
 翠星石は安堵したように息をついた。正面のクッションの上に腰を下ろして先程からじっと彼女を見詰めている水銀燈と、どういう訳かその腕の中に収まって眠そうな顔をしている雛苺を見遣る。
 もし、その手を使うならですけど、と前置きをして、やや硬い表情を残したまま告げた。
「『翠星石』以外の子──『金糸雀』と『真紅』と『雛苺』の契約者のなり手が見付かりました。『翠星石』は陰険おじじが契約しても良いって言ってますから、これで全員分ってコトです」
「皆、リスクは承知の上よ」
 真紅が補足する。
「私としてはあまり乗り気になれない子も居るし、ナナや『蒼星石』の居ないところで話を進めたのは褒められることでないと分かっていたけれど」
 水銀燈は両手で雛苺を抱いている形になっていたが、片手を放してひらひらと振った。雛苺の視線はぼんやりとその手を追いかける。
「気にし過ぎる必要はないわ。あくまで一つの方便だし、最終的な判断はナナのものなんだから」
「そう言って貰えると少しは気が楽になります」
 翠星石は胸に手を当て、真紅もティーカップに手を掛けたまま頷いた。二人とも、何処かに後ろめたい気分を持っていたのだろう。彼女達は水銀燈ほど契約について割り切った考え方を持っていない。
「でも、よくまぁなり手が現れたものね。それも一気に」
 言いながら水銀燈は口の端を歪める。
 あちらの世界群でかつて『翠星石』が『蒼星石』に薦めたように、気に入らなければ契約を解けば良い、と突き放した言い方はできる。ただしそんな場当たり的な対処で無事に収まるかどうかは分からない。殊に、その中の一体は様々な意味で扱いが難しいだろう。
 無事に済まなければ、とばっちりは謀を行った自分達だけでなく、契約させた相手方の人間にも確実に降り掛かる。
 そんな面倒事を僅か一日、というよりは彼女達があの世界に行って来た間の時間で頼み込める相手など、ほんの数人しか思い当たらない。昼間ならまだ兎も角、午後遅くから夜中に掛けての時間帯だったのだから。
「大方桜田のりと草笛みつでしょうけど。他にこれって人物が居ないもの」
「片方だけ当たってます」
 翠星石は笑わなかった。表情は硬いというよりは引き攣ったものに近くなっている。

「でか人間──金糸雀のマスターは『金糸雀』を引き受けるって言ってくれました。何かの相談でおじじのうちに来た所に鉢合わせたので……」

 ああ、なるほど、と水銀燈はにやりとした。
「それは大変だったわねぇ。貴女と真紅、二人とも出くわしたんでしょ、どうせ」
「ええ、まあ」
 翠星石は首を竦め、ぎこちなく笑顔を作った。
「小三十分は着せ替えにヘアメイクに、って地獄を見ました……」
「あら、貴女の縦ロールと即興の髪飾りの取り合わせはとても美麗だったけれど」
 真紅は澄ました顔でティーカップを口に運んだ。
「結菱さんも暫くそのままが良いと言ってくれたのに、どうして戻してしまったの」
「し、真紅こそ髪を下ろしたほうが綺麗だって言って貰って、上機嫌だったじゃないですかっ」
 翠星石は声を上ずらせ、はっと気付いて口を閉じた。
 水銀燈はにやにやと人の悪い笑みを浮かべた。結菱老人に似た笑い方だったかもしれない。
「あの老人、むっつりのようで中々口が上手いわよ。口説かれないようにしないと、何時の間にか蒼星石の義母になる破目になるかもしれないわね」
「じょ、冗談じゃないです」
 翠星石は青くなった。
「翠星石はジュン一筋です。他の選択肢なんぞ有り得ないのですっ」
 そこでまたはっと気付き、今度は顔から火が出そうなほど赤くなる。いつぞやに続き、またも自爆も良いところだった。
「ま、全く水銀燈は下らん脱線ばかりで困ります。真紅もそっちに乗っかってくんじゃないです」
 えへん、と一つわざとらしく咳払いし、真面目な顔に戻って続ける。
「第二ドール……『金糸雀』は元の世界のミーディアムと暮らしたいと言ってたみたいですし、でか人間自身が承諾してくれてるのですから悪い取り合わせではないと思うのです。お互いに擦れ違いも多くなりそうですけど」
「似てる、を通り越してるだけに、ね」
 水銀燈も笑いを引っ込めて顎に手を遣った。似過ぎている別人というのは、全く新しい相手とはまた違った擦れ違いの原因を抱えている。どうしても前の人物と同一視してしまうからだ。
「私達の二番目の姉妹のこともあるわ。あの策謀家が何を考えていたか分からないけど、蒼星石の計画に便乗していたなら後々ややこしい事態になるかもしれない」
「それは、でか人間も承知の上でした。ただ、大丈夫だからって妙に自信ありげにしてるので、そこまで言うのなら信用してみようかって……」
 翠星石の言葉はやや不透明なものになってしまった。言葉にしているほど自分達に余裕のある状況ではなかったようだ。
 水銀燈は胸の前にうとうとし始めている雛苺を抱いたまま、やれやれと軽く肩をそびやかした。

 要するに二人は──ことによると結菱老人も含めたその場の一同は──みつに押し切られたらしい。彼女はいつもと同じように強引で、例によって根拠は見えないが容易く折れそうにない自信に満ち溢れているように見えたのだろう。
 ただ、二人を不甲斐ないと一概には言えなかった。みつの強気の裏側も分かる気はするのだ。
 ドールマニア云々は抜きにして、彼女はとても寂しいはずだ。毎日ずっと寝起きを共にして、出掛けに行ってらっしゃい、帰りにお帰りと必ず言ってくれていた少女が今は居ないのだから。行き過ぎたマニアの特異な嗜好は分からないが、一般的にはそれは物言わぬ人形では決して代替できない位置だった。
 翠星石達が押し切られたのも、その辺りを慮ってしまったからかもしれない。

 それはそれとして、と水銀燈は話を戻した。
「他の子のお相手は誰が名乗り出た訳? まさか誰か見ず知らずの他人を呼び止めて押し付けた訳じゃないでしょう」
「そんなことやってる時間はなかったですよ。おじじの処で引き止められてたせいで」
 遅い夕食に間に合うかどうかぎりぎりのところだったらしい。あれで飛ぶのも諦めて鏡から帰って来たんですから、と翠星石は床に置かれて広げられたままになっている鞄を指差した。彼女は鞄で飛ぶのが好きで、一人で結菱邸に向かうときは大抵鞄で飛んで行くのだが、少なくとも今日の帰り道については諦めたということか。
 水銀燈はまた肩をそびやかしてみせる。先程まで翠星石も真紅もその鞄の中で寝ていたのだ。疾うに寝ている時間だということを承知の上でジュンの部屋に上がり込み、二人を叩き起こして話をすることにしたのは水銀燈だった。
「巴が来てくれたの。オディールの病室にお見舞いに寄った帰りだと言っていたわ」
 真紅はやや伏目がちになった。
「病状は進展がないそうよ。寝たきりで身体が硬直したままにならないように、意識はないけれど手足を屈伸させたりしているという話だったわ」
 水銀燈は軽く頷く。よく聞く話だった。更に言えばマッサージも行っているはずだ。血流や体液の流れを多少なりとも良くするためだが、当然ながらそんなことでは全身の肉が落ちて行くのを止める事はできない。
 長引けば長引くほど、オディールの身体は徐々に機能を低下させて行く。それはめぐの心臓などというものではない、もっと進行の早い劣化だった。
「早く、意識を取り戻さないと……」
 翠星石がぽつりと言い、真紅がこくりと頷く。良いコンビになりつつあるようだ、と水銀燈は他人事のように思った。

 オディールの身体は劣化して行くとはいっても、まだ器質的に壊れてはいないはずだ。魂が戻れば機能を回復させることができる。
 だが、めぐはそうは行かない。彼女は緩やかに状況の悪くなる激しい退却戦を戦って行くしかない。
 動力源を収集することを諦めたあの人形──今は『水銀燈』と呼ぶのが適当なのかもしれない──は、めぐに対してどういう姿勢で臨んでいるのか。意外にそれは、水銀燈がめぐを契約者として選んだときと同じ姿勢なのではないか。
 人間のことは人間の出来る範囲に任せ、歪な手出しをせずに病人を見守り、看取る。それが自然なあり方なのかもしれない。
 それでも今の水銀燈は、見方によっては最も歪で醜怪な手出しをするつもりになっている。その対象はめぐではないけれども──

 こくり、と雛苺の頭が動いて、水銀燈は我に返った。どうやら眠気が忍び寄っているのは自分自身も同じようだ。真紅や翠星石は一度は鞄で寝ているが、雛苺にしても自分にしても、ずっと起きて活動していたのだから。
 早いところ切り上げてしまおう、と水銀燈はオディールの話をそこまでで端折らせた。
「それで、柏葉巴が二体分のミーディアムになると申し出てくれた、ってこと?」
「ええ」
 おや、と言うように真紅は視線を上げたが、雛苺の様子を見て大体のところを察したように頷いた。
「もし『真紅』が不安定な状態なら、結びつきの強い『雛苺』と一緒に居た方が良いだろうから……と言ってくれたわ」
 ふむ、と水銀燈は眉根を寄せた。有り難い申し出ではあるが、彼女の場合は問題がある。
「家族にはどう話すつもりなのかしらね」
 以前雛苺と契約していたときは、親の目を盗むようにしていたはずだ。
 彼女と雛苺との仲がある意味でこじれてしまったのは、そこにも原因があった。巴が居ない間、雛苺は鞄から出てはいけないと言われていた。親に見つかったら騒ぎになってしまうからだ。
「前回は駄目で今度は良い……というのは、考え難くない?」
「それは……」
 真紅は微かに言い淀み、訴えかけるような視線を水銀燈に向ける。何故かそれは何事かを嘆願しているようにも見えた。
 いや、何事か、というのは正確ではない。水銀燈には分かっている。真紅は巴の意思を尊重してやりたいのだ。
 巴自身の対応の拙さが雛苺の暴走の一因だったことは、やや内向的な彼女自身には当然分かっているだろうし、負い目のようなものとして残っているはずだ。仮のものにしろ、二体と契約を交わしてその面倒を看るというのは、ある意味で挽回の機会ではある。
 何よりも雛苺が見ている前でそれができるのは、成長したのが雛苺だけではないと安心させてやれる材料にもなるだろう。
 ただ、もし挽回などと考えているのであれば、その考え方自体が何処か危険な匂いを放っているように水銀燈には思えた。
「巴を信じてやれないのですか、水銀燈は」
 翠星石は感情を含んだ声になっていた。
「きっちり話すか、きっちり隠すかどちらかにするはずです。巴はアンタが思っているよりずっと──」
「──ずっと幼いわよ。翠星石」
 水銀燈は相手の言葉に被せて、しかし静かに言った。
「彼女はしっかりしているように見えて、未熟で深い葛藤を抱えた子供。でなければ、雛苺の契約者として選ばれるはずがないじゃないの。そして、私は」
 ちらりと雛苺を見遣る。今は一番下の妹となった金髪の娘は、すやすやと寝息を立てていた。
「柏葉巴から絶好の成長の機会を奪ったかもしれないわね。雛苺を雪華綺晶に渡さず、彼女から見て付かず離れずの便利で心地良い位置に置き続けてしまったことで。雛苺を二度、それも今度は完全に失うことになれば、彼女はその衝撃的な事件から何かしらの成長の糧を得ていたはずよ」
 あっさりと放たれた言葉に、翠星石は言葉を失ったようだった。
 水銀燈はやや皮肉な思いでその顔を見詰める。

──私は真紅からも、そして貴女からも同じように機会を奪ったと言えるかもしれないわね。全くもって大した暗躍振りだわ。

 それもお節介やら彼女達のためを思って為したことではない。純粋に自分の目的のために、彼女達が踏んで行くはずだった道を曲げさせ、言わば一種の犠牲にしてきた。
 彼女の媒介が最も恐れていたことを彼女はむしろ積極的に行ってきた、とも言える。全くの利己的な理由で。
 そのことを今更詫びようとか後悔しようとは思わないが、相手に事実として告げる義務はあるような気がしていた。今がそのときとして適当とは思わないけれども。
 恐らくは最後の戦いに臨んだときに、水銀燈はそれを口にすることになるのだろう。敗者としての最後の言葉になるような気もする。懺悔の成分を含むにしろそうでないにしろ、随分と未練たらしい、如何にもちっぽけな悪役の最後に相応しい言葉のように思える。

 いずれにしても先の話ではある。今は、柏葉巴のことに集中すべきだった。
「契約したとなれば、本人は自分を犠牲にしても二体を守ろうとするでしょう。雛苺のときにそうだったように、自分が背負い込めなくなるまで無理をしてでもね」
 水銀燈は黙って腕を組んでいる少年に雛苺を示した。少年は黙ったまま頷き、彼女からそっと雛苺を受け取ると、起こさないように注意しながら鞄の中に横たえた。
「ま、短期間なら問題はないでしょう。彼女が自力で成長していることに期待するのも悪くはないわね」
「……まだ、契約で呼び戻す方法を採るかどうかも決まってないしなぁ」
 鞄を丁寧に閉めながら、少年はぼそりと言った。自分の同級生、それも仲が悪くない人物を未熟と評されるのは、悪意が介在しないことを知っていてもあまり良い気分ではない。
「ナナはあんまり乗り気じゃないみたいだったし、速くて確実だけど『真紅』も嫌がってたみたいだし……」
「原則に則っていない方法だもの、彼女からすれば当然のことね」
 水銀燈はどちらを指しているとも取れる言い方でぼかした。
「ただ、原則論を押し通していたらいつまでも先に進めない。さっさとこの件に片をつけてしまいたいのよ、私としてはね」
「……俺にはよくわかんないや」
 少年はあっさりと白旗を掲げた。

 だったらナナの姉妹達の事などに手を着けずにゲームを進めたらどうだ、とは彼には言えない。そもそも思いもしない。その辺りが少年の限界だった。
 彼は本質的にお節介で面倒見の良い部分を持っている。他の部分では及ぶべくもないが、その点だけは桜田のりと似ているかもしれない。
 彼にしてみれば、義理とか貸し借り、あるいは負い目などといったものを抜きにして、目の前で窮地に立っている人形達の手助けをするのは当然のことだった。水銀燈があの人形師への借りの清算と何となしの義理のようなもので動いているのとは少し違った意味合いで、彼はナナの姉妹を助けること自体は自然に受け容れていた。
 だからこそ、ナナが最終的な判断を下すなら、採るべき方法の選定など彼女達に任せてやればいいのに、とつい考えてしまうのだ。本人が難色を示している方法まで使って、時間勝負とばかりに強引に助け出すというのは、少し違うのではないかと思っている。
 ただ、水銀燈がゲーム急いでいる理由の内、少なくとも一つについては、表立って言わないものの少年にも分かっている。それが自分に深く関わるものだけに、考えれば考えるほど彼は堂々巡りに陥ってしまうのだった。自分が幾ら考えたところでどうにもならない、と知っているだけに尚更だった。

 真紅は、煮詰まった状態で雛苺の鞄の脇にしゃがみ込んだままの少年に歩み寄った。
「判断するのはナナよ。私達はお膳立てを整えてみせた、それだけのこと」
 鞄をじっと見詰めている彼を一歩離れたところから見詰め、半ば自分に言い聞かせるように言葉を続ける。
「もしあの子が別の方法を望むなら、そちらに沿ってまた準備をするわ。今は、あの子が強引に呼び戻すという選択をした場合の準備が整ったということ……」
 翠星石と水銀燈をちらりと見遣り、少年の横顔に視線を戻す。彼は珍しく真剣な表情で、真紅の視線にも気付かないように考え込んでいた。
 真紅自身、強引な方法だけでなく『真紅』を呼び戻すこと自体にもあまり乗り気ではない。それは皆の承知していることだった。特に何もしなくても、翠星石は文句を言わなかったに違いない。
 それでも彼女は消極的になることなく、出不精にもかかわらず薔薇屋敷に出向いて結菱老人と話し、みつと巴に対して必要な説明と意思の確認をした。自分の姉であり、同時に隷属している相手に対して失礼な話ではあるが、翠星石のやや舌足らずな話し振りだけで理解が得られるとは考え難かった。
 自分達が少し手を回したことで、気の弱いナナがそれを申し訳なく思い、自らの意に反して強引な方法を採ってしまうことも考えられる。だが、それは辛抱強く説明すれば済む話だった。
「うん……」
 少年は曖昧な返事を返し、真紅の方を見てありがとうと頭を下げる。納得はできないが了解した、という合図のように真紅には思えた。
 彼はそのまま視線を脇に遣り、水銀燈を見詰める。やや窮屈な姿勢だったが、二人は視線を交わした。
「もし柏葉が不適当なら、俺が代わってもいいよ」
 少年はにっと笑った。
「俺みたいなのじゃ役に不足かなぁ。でも、うちは狭いけど親兄弟も居ないし、結構悪くないと思うんだ」
「まともなティーセットの一つも無いアパート住まいで何言ってるの。お相手はそこに居るお嬢様と同等のお姫様よ」
 真紅を指差し、水銀燈もにやりと人の悪い笑顔を返す。
「せめて紅茶の味くらい分かるようになってからにしなさい、そういう誇大妄想は」
「ひどいなぁ」
 少年は頭を掻いた。先程まで柄にもなく悩んでいたとは思えないほどのんびりした仕種だった。
 これが二人の間の暗黙の了解なのだ、と真紅は理解した。この手の軽口や無害で無意味な提案は、意見が完全に合わなくても、少年が水銀燈の言い分を受け容れることに決めたという意思を示しているのだろう。

──様々な関係があるのね。

 未だに子供のように甘えている雛苺、今ははっきりと恋人として振舞っている翠星石とジュン、互いに相手を思いながらもきっちりとした上下関係を築いていた蒼星石と結菱老人。あまり接点は無かったが草笛みつと金糸雀にも独特の関係があったのだろう。
 自分はどうだったのか、とふと考え、真紅はこの騒ぎの中でもベッドから動こうとしないジュンの寝姿を眺めた。
 これだけ長い間、それも決して小さくない声で話し合っていて、目が覚めないはずはない。彼は寝ている振りをすることで、口を挟む意思のないことを示しているのだ。
 真紅は立って行き、ベッドによじ登ると、布団から出てしまっている彼の肩のところまで布団をずり上げてやった。ジュンはもぞもぞと動いたが、それ以上何も反応を示さず、何か言うこともなかった。
 真紅は音を立てないように注意しながらベッドから降り、元の位置に座を占めてティーカップを取り上げる。翠星石がこちらを見ているのは分かったが、気にならなかった。

──私だって家族なのだから。

 畢竟、そういうことなのかもしれない、と真紅は考える。
 先程、本人の前でつい口が滑ってしまったことを思い出す。
 失恋のような経験を経てもなお真紅はジュンを愛している。『真紅』がそのミーディアムと陥ったような関係を望む訳ではなく、翠星石の恋人であることを受け容れてもいる。この距離感のままで居られればそれで良い、というのは諦めの心境とは違っているように思う。
 相思相愛の恋人でも神業を持った契約者でもなく、ジュンという家族を愛しているのだ。ぶっきらぼうで気が利かない不登校児で、翠星石という可愛い彼女に振り回されているジュンが、今の真紅には掛け替えのない存在だった。
 もし自分に「アリスゲームの先」があるのなら、多分、いつかは恋をするだろう。その相手はジュンではないはずだが、それでもジュンへの愛情は変わらないだろうと真紅は思う。
 彼は彼女の大切な兄なのだから。様々に未熟な部分はあるけれども。



[19752] 130程度。 お人形抱き締めて。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/05/30 23:21
 ナナは自分に与えられた毛布の上で座り込んでいた。窓を見上げると、月だけはあの世界で見たのと同じように輝いているように彼女には思えた。
 眠いのだが、眠れそうにない。安易に眠ってはいけないのかもしれない。
 兎頭の紳士から貰った人形を抱き締めながら、ナナは茫然と窓の外を眺めていた。


 ナナと『蒼星石』が鏡から出たとき、結菱老人はまだ起きていた。遅くなったことを詫び、老人の体を心配する『蒼星石』に、彼は優しい笑顔を見せた。
「なに、これくらいで体調は悪くはならんよ。娘ができるまでは宵っ張りだったものだ」
 娘、というのが誰のことなのか、尋ねるまでもなかった。蒼星石が居なくなってから、彼は彼女を人形とは見ていないことを隠さなくなった。
「上手く行ったのかね」
 それははっきりと『蒼星石』の契約者としての言葉だ、とナナは感じた。

 いつものようにつっかえつっかえ、それでもなるべく分かり易いように気を付けて経緯を話す。
 どう考えても『蒼星石』の方がより良く説明できるだろうし、老人と関係が近いのは彼女だ。それは分かっているが、姉妹達を復活させることについてはあくまでも自分が責任を負うことになっているのだから、どんなに苦手でも説明は自分でしなければならない、とナナは思っていた。
 幾度か『蒼星石』から助け舟を貰い、その都度恥ずかしさと申し訳なさを感じながら説明をする。以前、話している間に眠られてしまったときよりは上達したはずだが、それでも下手なことが変わりないのは自分でも分かっていた。
 老人は終始やや疲れたような表情を浮かべていたが、それでも怒りもせずに聞いていた。彼も以前よりは辛抱強くなってくれたのかもしれない。
 ひととおり聞き終えると、老人はみつと事務的な話をしている場に折良く真紅と翠星石が来たこと、『金糸雀』の契約について同意が取れたこと、そして『翠星石』については自分が引き受けても良いと判断したことを話してくれた。

「私では体力的に問題があるかもしれないが、その点はなるべく自重して貰うしかないな」
 苦笑いをしているのは、水銀燈から過去の話を聞いているのかもしれない。『蒼星石』と『翠星石』は以前、力を使い過ぎてミーディアムに負荷を掛け過ぎ、已む無く契約を解除して次の時代に移るための眠りに就いたことがある。
「マスターに迷惑なんて掛けさせません」
 そう言う『蒼星石』の顔が一瞬だが大きくほころぶのを見て、ナナは気持ちの揺れを覚えた。『蒼星石』を呼び戻すと決めたときに感じたのと同じ揺れだった。
 もう、何も考えずに事務的に進めてしまって良いのではないか。契約者の見付かった姉妹から、機械的に契約を交わして呼び戻せば良い、それだけの話ではないのだろうか。
 引き伸ばそうとしているのは自分の、根拠も薄弱な拘りに過ぎないのかもしれない。現にこうしている間にも姉妹達は彷徨い続け、自分を見失って泣き叫んでいるかもしれない。それに──
 もう一度『蒼星石』を見遣る。彼女は老人とあれこれ話しながら、隠し切れない嬉しさを滲ませていた。
 自分の双子の姉、いつもずっと一緒だった相手がまた戻って来ることができる。それも信頼できる同じ契約者の許に。嬉しくないはずがなかった。
 それを曖昧な微笑で、一歩下がったところから眺めながら、ナナは気持ちの揺れがある方向に収まって行くのを感じていた。

──わたしは怖がっているだけなんだ。理屈なんて、きっと後付け。

 姉妹の輪の中には、ナナは決して入れない。
 『翠星石』も気は遣ってくれるだろう。優しい『蒼星石』はナナが姉妹と打ち解けられるように心を砕いてくれるかもしれない。『真紅』にしても、心を抑えて嫌わずに接してくれるかもしれない。
 しかし、過去は消せない。面と向かって角突き合わせたのなら兎も角、死ぬことを決められていた自分が死ぬべきと定められていた場面で卑怯にも逃げたことが姉妹の危機を招いたのだから。
 現に、ナナに『アリスゲーム』の勝利を告げて去って行った『水銀燈』は、あれからナナとは言葉を交わそうとはしていない。桜田家で何度か顔を合わせたが、会話はなかった。
 ボディの傷も癒えないままだった。魂が彷徨っていてもなお、『真紅』の怒りはナナの体に刻まれている。赦されることは金輪際ないのかもしれない。
 姉妹が揃ったとしても、自分は自然と遠ざけられてしまうだろう、という考えは、ナナの中に元々あった。そして水銀燈達のゲームが終わってしまえば、彼女に親切にしてくれた少女達も皆消えてしまうかもしれない、という危惧も。
 自分はそれを怖がっているが故に、他の姉妹の不幸を見過ごし、いや不幸を招いているのではないのか。

──少しでも終わりを長く引き伸ばそうと思ってる。偶然貰った幸せを手放したくないって理由だけで。

 それがどれだけ身勝手な考えかを思い、ナナは胸の奥が締め付けられるように痛むのを覚えた。
 所詮自分は究極の少女にはなれないと宣言されているのだ。他の姉妹のような未来はない。目標もない。だから、他の姉妹のことを犠牲にしても身勝手に今を続けて行きたいと考えているのだろう。
 世界群を移り、色々な人々に触れ合ってきたのに何も変わっていない。以前薔薇水晶が第七ドールを騙った時に、名乗り出ることをせずに逃げ隠れていたのとそっくり同じままの、全く進歩していない卑怯で醜悪な思考だった。きっと、変わることはできないのだろう。
 ならば、それを自覚した今、為すべきことは一つだ。
 全員、呼び戻そう。『真紅』から怒りを向けられようと、今度こそ壊されようと構わない。
 本来、自分はあの柿崎めぐの夢の中で彼女に壊れされていて然るべきだったのだろう。それが生き延びたのは、きっと雪華綺晶に魂を彷徨わせられた姉妹達を取り戻すための補助的な装置としての役割が残っていたからに違いない。
 役目を果たそう。それで充分ではないか。元々、一つだけ「何か」ができればそれで良かったはずなのだから。
 老人がベッドに横たわるのを『蒼星石』と手伝いながら、ナナは漸く頭の中のもやもやしたものが晴れたような気がしていた。
 『蒼星石』が少し不審そうな表情をしているのに気付くこともなく、彼女はおやすみなさいを言って与えられている部屋に戻り、パジャマに着替えて毛布にくるまった。

 月の光の中でもぞもぞと寝返りを打っていると、自分の長い髪が毛布の上にだらしなく散らばっているのが見えた。
 今日は髪を洗っていなかった、と気付く。随分あちこち回って来たのに、シャワーを浴びる時間がなかった。
 それは元々は水銀燈の習慣だった。
 本来人形である彼女達は特に体を洗うことを必要としない。それでも外を出歩けば汚れは付くから、外を飛び回っている水銀燈は頻繁に髪を洗い、服も洗濯している。時折まだ乾いていないのか、バスタオルに包まったり少年のシャツを羽織ったりしている姿は、水銀燈らしくなく妙に子供子供していて可愛らしかった。
 ナナはそれを見て自分も髪を洗うようになっていた。多くて長いことでは翠星石に匹敵する彼女の髪は洗うのが結構な手間で、最初は見かねた水銀燈が手伝ってくれたほどだった。
 毛布の上で醒めた色合いを見せている長い髪を、ぼんやりと眺める。
 水銀燈の艶やかな銀髪は、洗えば洗っただけ輝きを増す。それに比べて、自分の白い髪は何処まで洗おうと何処かにくすんだ色合いを残したままだ。
 自分の製作者を謗るつもりはない。むしろ自分に相応しい色なのだろうとふと思ってしまう。

──まるでわたしの心だもの。

 どれだけ上辺で努力しても、汚い利己心がなくなることはないのだろう。製作者にもそれが分かったから、彼女は作られてすぐに駄目を出され、ゲームへの参加資格も与えられなかったのかもしれない。
 上半身を起こし、自分の持ち物を入れた小さな引出しを椅子代わりにして座らせてある人形に手を伸ばす。兎頭の紳士がくれた古い人形だった。
 何故あのとき紳士が人形をくれたのか、未だに分からない。ただ他に何もなくなっても、人形は紛れもない厚意の印として壊れるまで持っていて良いのだと思うと、何故か少しだけ勇気が貰えるような──

「──起きてたんだね」
 ぎくりとして振り向くと、『蒼星石』は薄い月の光と常夜灯の光の中で、少し作り物めいた雰囲気で佇立していた。いつ扉を開けて入って来たのだろう、と訝しむ余裕もなく、ナナはこくりと頷いた。
「おどかしちゃって、ごめん」
 言いながら、姉妹達の鞄の方ではなく、彼女が薄い毛布に包まっているソファの脇に歩み寄って来る。ナナは人形を胸に抱いたまま、ソファの上でみっともなく尻餅をついた姿勢で『蒼星石』を見詰めた。
「あ、あの」
 決めたことを口に出そうとして、いつもの吃り癖が出てしまう。肝心なときはいつもそうなのだ。
「みん、んなのこと、なんですけ──」
「──でも丁度良かった。話したい事があったんだ」
 被せるつもりはなかったのかもしれないが、『蒼星石』の言葉はナナのそれを途切れさせてしまった。
「え、えと……」
「みんなが帰って来たら、なんだけど……」
 少し上がり気味の、きつい印象を与える瞳は、今はやや伏目がちにナナを見ている。
「ボクは、ここを出て『水銀燈』と一緒に行動しようと思うんだ」
 ナナは黄色い目を瞬いた。何故彼女が自分の前でそんなことを言い始めるのか、理解できなかった。
「どうして……?」
 『翠星石』はどうなるのだろう、と思ってしまう。あんなに『蒼星石』と一緒に居たくて、好きになれないはずのナナの胸に顔を埋めて泣いたりもしたのに。それとも、彼女を伴ってここを出て行くつもりになっているのだろうか。
「それに、契約は……」
「うん……マスターにはご迷惑掛けちゃって、何も恩返しできなくて悪いと思うけど……元々それでも構わないって契約だから」
 口ではそう言いながら、良心の痛みを感じているように『蒼星石』は胸の辺りを押さえた。
 ナナははっとして、ごめんなさいと呟いた。罪悪感が広がってくる。不用意な一言で、多分姉妹で一番優しいドールを悲しませてしまった。
 『蒼星石』は彼女の蚊の泣くような言葉など聞こえなかったのか、ゆっくりと噛み締めるような口調で続ける。

「ボクはね、『水銀燈』に負けているんだ。
 もちろん、なかったこと、って扱いになったのは知っているよ。ボクと『雛苺』の『ローザミスティカ』と指輪が水銀燈さんのところに届いたのは、『お父様』がボク達を甦らせたいと思ったから、なんだよね。
 それが『お父様』の願いなら、ボクは叶えてあげたい。だから、みっともないって言われたって、生きて行くのを止めたりしないつもりだ。
 でも、『雛苺』が『真紅』の家来になっていたような姿で良いなら……ボクは『水銀燈』の力になってあげたいんだ。
 だって彼女は……彼女のミーディアムは……」

 そこで言葉が途切れた。言おうか言うまいかと逡巡しているようだったが、ナナは『蒼星石』が言いたい内容を多分知っていた。
 柿崎めぐは、治癒することのない病気と戦っている。それを、『水銀燈』は殆ど一人で支えているようなものだ。
 今はまだ、めぐの友人である水銀燈も居るし、『水銀燈』のことを見守っている真紅や翠星石も健在だ。だが、彼等が今のありようを続けて居られる時間はそう長くはない。みんなが帰って来たら、という言葉は、同時に彼女達のゲームが再開し、決着がついてしまう未来も意味している。
 そうなったとき、『蒼星石』は独りになってしまう『水銀燈』の支えになって、めぐを守りたいのだろう。
 いや、めぐが死んでしまったとき──それも、残念だがそれほど遠くない未来のはずだ。そのとき、本当の独りぼっちになってしまうかもしれない『水銀燈』の傍に『蒼星石』はついていてあげたいのかもしれない。

 ナナは気付かなかったが、その裏には『蒼星石』なりの負い目もあった。
 『水銀燈』が動力源を与えられる直前、胴部パーツがなく、どうにか動ける程度の彼女を『蒼星石』は斬り捨てている。
 『水銀燈』にはその後の『真紅』の掌を返すような態度の方が遥かに強く、その後の生き方を決定付けるほどの大きなトラウマとして刻まれている。しかし『蒼星石』のしたことも──相手がまだ『ローゼンメイデン』として認められていなかっただけに、逆に──彼女に対する罪の一つには違いなかった。

 結局、『蒼星石』はめぐのことについて言及しなかった。間を置いて、少し別のことを口にした。
「多分『翠星石』は、『真紅』や『雛苺』と居る方を選ぶと思う。『金糸雀』も。でも『水銀燈』には誰も居ないから」
 先程までのナナなら、その言葉に言いようのない疎外感を味わっていたかもしれない。出会った姉妹の中で最も彼女に対して優しい『蒼星石』さえも、ナナを姉妹の一人としては数えていないことがはっきりしてしまったからだ。
 だが、ナナはもうそんな些細なことを気にしなかった。それよりも、『蒼星石』が姉妹達との楽しい暮らしを捨てて『水銀燈』と一緒に居ようと考えていることが気懸かりだった。
「皆で一緒には、居られないんですか。六人全部で……」
 六という数字を口にするのに躊躇いはなかった。
「水銀燈さん達は、戦い続けてるのに、敵味方なのに力を合わせてます。『アリスゲーム』をしてないのに、ばらばらになるなんて」
 『蒼星石』は能面のように無表情になった。
「キミは気付いてないの?」
 色の違う瞳がナナを見る。その色は蒼星石や翠星石とは違っていた。そして、多分ナナに向ける心情も。

「『水銀燈』は決して『真紅』を赦さないよ。それに『真紅』が心の隅で『水銀燈』を不完全で可哀想な人形だと思い続けるのも変わらないんだ。
 ボク達全員が、キミのことを蟠りなく見れないのと同じことさ」

 ごとり、と何かがナナの中で崩れた。
 何と言って良いのか分からない。頭の中が真っ白になってしまった。
 ごめんなさい、という言葉だけが無数に湧いて来るが、口に出す前に消えてしまう。
 分かっていたはずだった。『蒼星石』も、上辺では何気なく振舞ってくれていても本質的にはナナを赦していない。
 やや内省的な彼女は、騙されてゲームに臨んで倒されたのは自分の責任だと思い込もうとしているのだろう。しかし、ナナにさえ温かく接しようとしているその優しい心は、他の姉妹がゲームに巻き込まれたことを酷く苦しく思っているはずだった。
 嘘のゲームだと知っていて見過ごしたナナに対して、言いようのないほどの怒りを感じていてむしろ当然なのだ。それを隠して歩み寄ろうとしてくれているのに、愚かなナナは図に乗って賢しらな口を利き、彼女の怒りと哀しみを刺激してしまった。
 マスターのことも、全員で一緒に居るということも、ナナの言ったように実現できるなら『蒼星石』はそうしたいに違いない。ミーディアムをマスターと呼んで尽くし、戦いさえなければ姉妹達で楽しく暮らしたいと思うのは『蒼星石』なら当然のことだった。

「──ボクは、『翠星石』や『真紅』を生き返らせるのにどういう方法を取っても、構わないと思うよ」
 ややあって、静かに『蒼星石』は口を開いた。謝罪もできずに硬直してしまったようなナナの姿をどう取ったのかは分からない。
「ただ、揃うなら早い方が良いな。それだけ……でも」
 視線を窓に向け、首を振る。
「ボクは負けた存在だ。キミが決めて良いんだ。勝ち残ったキミにだけ、その権利があるんだからね」
 言葉は全く異なっているものの、以前水銀燈に言われたことと同じ意味合いだった。

  ──貴女が望めば望むだけの姉妹を呼び戻せる。何をするにも貴女次第。

 しかしそれが水銀燈の言葉とは正反対の、酷く冷淡で突き放した言葉に聞こえたのはナナの勘違いではなかっただろう。
 ナナの視線の先で、もう『蒼星石』は彼女を見ていなかった。動かない人形のように、窓から入り込む月の光を浴びて立っていた。


 結局謝罪をすることもできず、それどころかその後一言も口に出せず、ナナは『蒼星石』が部屋を出て行くのを見送った。
 ドアが閉められるのを見守ってから、彼女は毛布の上に座り込んだまま人形を抱き締めた。そこに込められた兎頭の紳士の思いは、まだ理解できない。理解できるときは来ないかもしれない。
 それでも、胸の締め付けられるような痛みを感じているとき、抱き締めても良い対象があるのはささやかな慰めになってはいる。
 先ず明日、いやもう日付が変わっているから今日だ。結菱老人の意向を確認して、『蒼星石』の都合の良いときに『翠星石』を呼び戻そう。それから『金糸雀』、『雛苺』、『真紅』。契約者になってくれるという人に会って、話をして。
「もう、探しに行かなくていいんだ……」
 ぽつりと彼女は呟いてみた。ここに荷物を置かせて貰っている必要もなくなった。『蒼星石』に加えて『翠星石』も帰ってくる。不器用なナナが居なくても、結菱老人の世話の手は足りる。
 一度、水銀燈の媒介の少年のアパートに戻ろう。少年と水銀燈の厚意に甘えよう。そして、全員の魂を呼び戻したら──

 それからどうしたいのか、ナナにはもう分からなかった。水銀燈達のようになりたい、という長い間暖めていた思いも何処かに消えてしまっている。
 ただ漠然と、そんなことは考えなくても良いような気がし始めていた。
 役目を果たした装置には、その先のことなど意味がないのだから。



[19752] 220ほど。 2回分纏めてスリム化。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/06/09 17:34
あまりにもくどくどしいので纏めました。
前のテキストは保存していません。ゴーメナサイ。

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「おじじは陰気くさい爺さんでしたし、カズキって子供のことをずーっと引き摺ってましたけど、『蒼星石』には優しかったのです。えっとそれで、それで……」
 小さな世界で、蒼星石は『翠星石』を抱いて椅子に座っていた。兎頭の紳士はルイス・キャロルの小説の兎さながらに懐中時計を眺めながら世界を出て行ったまま帰って来ない。何をどうやっているのかは分からないが、彼もまた無限の時間を自在に渡り歩いているという訳でもなさそうだった。少なくとも、その中に主観時間は存在しているのだろう。
「『蒼星石』はですねぇ、真面目でカタブツですけど、ホントは姉妹で一番誰かのことを思い遣れる子なのです。アプローズも、ゆっくり話せばきっと『蒼星石』の優しさにメロメロなのですぅ」
「うん。素直な良い子だった」
 蒼星石は、水銀燈がふざけて呼び、『蒼星石』に名乗るときにも使った青薔薇の品種の名前で自分を呼ばせていた。『翠星石』が自分の双子の妹と同じ名前を呼び辛そうにしていたせいもあるが、もう一つには自分が誰かに「喝采」を贈りたい──彷徨っている魂の記憶を呼び覚まして、よく消え去らなかったと言ってやりたい──という願いに似たものも込められている。
 アプローズの花言葉も気に入っている。「願い叶う」とは、実に今の状況では望ましい言葉だった。ナナの姉妹を全員見付け出し、帰還させる。現実世界での人々の願いはまさにそこにあるはずだ。
「でも、姉妹で一番かどうかは分からないな」
「な、なんでそんなこと言うのですか! 『蒼星石』とロクすっぽ話もしてねー癖にぃ」
 『翠星石』が口を尖らせ、ぶんぶんと無闇に腕を振る。蒼星石は笑って少しきつくドールを抱いた。

 時折他愛のない合いの手を入れながら、積極的に喋らせて少しずつ『翠星石』の記憶を呼び覚まして行く。このドールに対してはそれが良いような気がしていた。
 オディール・フォッセーの件はもちろん重要なのだが、彼女があの捜索しにくい場所に居る以上、恐らく積極的に出張って行っても接触は望み薄だろう。それに、蒼星石自身もあの場所に長く留まっては危うい、という事情もある。
 それよりも今は『翠星石』の自我をよりはっきりとさせて、できれば今はまだまだ穴だらけの記憶をもっと完全なものにしてやりたい。それがどれだけ呼び返すときに役立つかは分からないが、分からないだけに過剰にでも確固たるものにしてやりたかった。
 真紅が即座にすんなりと帰還できたのも、恐らく自己を確りと持っていたからだ。同じ程度までとは行かなくとも、ナナが呼び返すときの足しになるようにしたかった。
 水銀燈と蒼星石しか知らないことだが、二人はナナに助けられた。彼女が居なければ二人とも雪華綺晶に壊されていたに違いない。乗っ取られる、倒されるといった生易しいものでなく、文字どおり破壊されていたはずだ。
 もちろん、ナナもまた水銀燈や蒼星石が居たからこそあの戦いの中でも無事で居られたという側面もあるかもしれない。水銀燈はどう考えているのか今の状況では知りようもないが、蒼星石にしてみればナナは戦友のような存在だった。
 そのナナが姉妹を呼び返そうとしているのだ。自分にできる範囲で手伝うのは当然だった。
 それに、こうした時間にオディールへの対処の仕方も少しは考えられる。厄介な相手だが、解決策はあるはずだ。探す時間を持つことも重要だが、考える時間も同じように必要なはずだった。

「姉妹で一番なのは、君かもしれない」
 蒼星石は何気なくそう言った。
「君によく似ている僕の双子の姉は、僕より余程他人を慮ることができる人だ。もっとも僕の場合は、誰かと比べるまでもなく思い遣りが深いとは言えないけど」
 自分を卑下している訳ではなかった。姉妹の誰に聞いても、蒼星石がとても思い遣り深く優しい娘だという回答は出て来ないだろう。そういう言葉は真紅や翠星石、あるいは雛苺に与えるのが相応しい。
 ある意味で、自分達の製作者の思いの変遷を見るようでもある。怜悧なものから暖かいものへ。先ずは双子の片方で試し、次いでそちらをメインに据えて行く。
「……そんなこと、ねーですぅ。それはアプローズの話で、『蒼星石』は別なのですよぅ」
 言いながらも、『翠星石』は俯いてしまう。嬉しさ半分というよりは、切なさが多くを占めているように見えた。
 記憶がはっきりしない箇所に触れてしまい、実際の記憶ではなく自分の理想で話を作ってしまったのか、とも一瞬考えたが、それとはやや違っているようだった。
 彼女は分かっていて、思い出していて嘘をつこうとしている。優しくて誰も傷付けることのない嘘だ。
 自分が言っていることが嘘だと知りながらも、蒼星石に嘘をつくというよりも、むしろ蒼星石に肯定して貰うことで、自分自身に言い聞かせようとしているのだろう。
「アプローズが意地悪なのは分かったです。でも『蒼星石』は優しいのです。優しくて真面目だから、『お父様』の願いを叶えたくて、それで……」
 それで、こんなに想ってくれている姉を置いて率先して戦いに臨み、負けてしまった。
 果たしてそれは優しいと言えるのだろうか、と蒼星石は考えてしまう。打算と我欲で器を捨てた自分には分からない心理かもしれないが、少し好意的に見ても本能的な衝動に素直だっただけなのではないか。
 だが、口にしてどうなるものでもない。何より『翠星石』自身が自分の言葉に無理があると知りながら、それでも頑なに強弁している。そんな彼女の嘘を敢えて止めてしまえるほど蒼星石は無慈悲にはなれなかった。
「そうだね。僕とは違っている。戦いを求めた動機も、そして戦いの経過も」
 水銀燈に承諾を取って自ら決闘を申し込んだ自分とは異なり、『蒼星石』は相手に襲撃されて半ば『翠星石』を守るように戦ったという。その部分は大きな違いだ。
「でも彼女をそうして認めて上げられる君の思い遣りも、負けないくらい大きい。僕はそう考える」
 そんな言葉で蒼星石はその話題を締めた。腕の中でべそをかきそうな風情の『翠星石』が頷くのが分かったが、その涙の溜まった表情がどういう心理を表しているのかは敢えて考えないことにした。

 蒼星石が全知全能とは行かないまでも『翠星石』の心理を細かく読めていたら、やや意外だと思ったに違いない。
 『翠星石』はナナのことを心配していた。生真面目で頑固な『蒼星石』が、ナナに辛く当たっているのではないかと考えて不安になっていた。
 それは昨晩二体の間にあった出来事を概ね思い当ててしまっていたが、幸か不幸か『翠星石』自身そんなことは知る由もなく、ましてや蒼星石の感知できるところでもなかった。


 翠星石の朝は早い。暫く前から毎日のりを手伝うようになり、最近では出来る限りの仕事をするようになっている。
 とはいえ一人で六人分の食事の支度を全て滞りなく済ませるには、彼女の身長は到底足りなかった。のりに手伝って貰って──実際はのりを翠星石が手伝って、二人で仲良く朝食を作るのが今の桜田家の朝の風景だった。
 但し、今日に限っては違っていた。
「これは何処に持って行ったらいいのかしら……」
「ありがとう、でもそれは今朝は使わないのぅ」
「では、これは?」
「それは人数分並べてね。そう……今朝は真紅ちゃんサイズを三つ、ジュン君サイズを私も入れて二つね」
 眠い目をこすりながらとことことキッチンとダイニングを往復しているのは、いつもの姿ではなく真紅だった。テーブルに食器を並べる程度の手伝いにしかなっていないが、それも仕方のないことだった。お茶のときでさえ、彼女はまともに給仕を手伝ったことなどないのだから。
「翠星石ちゃん、一人で大丈夫かしら」
 オーブンを覗きつつ鍋を掻き回しながら、のりは心配そうな口調になる。
「張り切ってたけど……結菱さんのお宅のキッチン、大きいんでしょう」
「大丈夫よ、いざとなればナナが手伝ってくれるのだわ。『蒼星石』も」
 踏み台の上に乗り、おっかなびっくり食器を棚から引き出しながら、真紅はのりの方を振り向こうともせずに答える。翠星石よりも少し背の低い彼女には、翠星石とのりの勝手の良いように物の配された棚から物を出すのは微妙なところで大変だった。
「三人寄れば文殊の知恵と言うでしょう。背が足りなくても、手数でなんとか……あっ」
 気合を入れて大皿を引き出したのはいいが、勢いが付き過ぎてぐらりと後ろに反ってしまう。狭い踏み台から踵が滑り、真紅はバランスを崩して後ろにのめった。
「危ないっ」
 そういう台詞は大抵の場合、間に合わないものだ。のりが振り向いたときには、真紅は台から落ちるところだった。
「真紅ちゃ──」
 しかし、真紅は床には落ちなかった。明らかに部屋の中だということを考えていないスピードで黒い影のようなものが彼女に取りつき、掬い上げるようにしてテーブルの上に運び上げた。
「──まったく、ひ弱な癖にぃ」
 黒い羽根が数枚、ひらひらと舞う。濃紺の衣装のドールは真紅の手から大皿を取ってテーブルの中央に置くと、腰に手を当てて真紅を睨み付けた。
「出来ることと出来ないことを区別しろっていつも言ってるのは誰なのよぉ」
「……ありがとう」
 真紅は顔を赤くしてぎこちなく微笑んだ。
「でも、今のは決して無理な作業ではなかったのよ。ほんの少しタイミングが悪くてよろめいてしまっただけなのだわ」
「どうだか」
 ふん、と鼻で笑い、上から下まで真紅を眺めてから腕を組んでそっぽを向く。
「しょうがないから手伝ってあげるわぁ。いつもの時間に朝食を食べたいから」
「あらぁ、ありがとぅ」
 のりは素直な笑顔をドールに向けた。ドールは少し頬を赤くしながら、それで何を用意すればいいの、とそっぽを向いたままで尋ねた。


 翠星石は最初から一人で何でもできるとは考えていなかった。
 表向きは一人暮らしである結菱老人の食事はデリバリーで届けられ、朝食も例外ではない。経路の都合なのか配達時刻は午前八時を大きく回ってしまうのだが、宵っ張りだった老人にはそれで丁度良かった。むしろ、配達のときに顔を出さないで良いのが気楽だった。その時刻にまだ寝ていることも多かったからだ。
 そんな老人にたまには手料理を食べさせよう、と翠星石が考えた訳の一つに、昨日の晩の一件──並行世界の一つでは結菱老人が既に亡くなったか、転居してしまっていた──があるのは否定できない。幸いなことに彼女の周りにはそういう泥縄的な良心の発露を悪意のない笑顔で見る者は居ても、嘲笑ったり貶す者は居なかった。
 ともあれ結菱邸で食事を作るとなれば、使う食材は桜田家から頑張って引き摺って行くにしても、現地で調理する際の補助が必要だった。結菱老人は様々な調度品やらを溜め込んでいるが、キッチンは大人の人間が作業することしか想定していない。
 鏡をそおっと潜り抜け、まだ眠っている結菱老人の寝室からこっそりと──買い物袋を引き摺りながら──抜け出した翠星石が、『蒼星石』でなくナナに与えられている部屋を先に訪れたのは、単純に経路の都合でそちらが手前だったからだ。
 扉の鍵はいつも開いている。それも知っていた。ナナは他人は兎も角、自分自身のプライベートについては全く気にしない。隠し事をしてはいけないのだと思っているようでもあった。
「──ナナ」
 戸口から小さな声で呼び掛けたが、返事はない。ソファの上の毛布は膨らんでいる。まだ寝ているのだろう、と翠星石は思った。昨日の晩は遅かったのだから、当たり前の話だった。
 夜半まで起きていたはずのナナを起こすのは少しだけ気が引けたが、起きて貰わないことには調理がまともにできない。翠星石は抜き足差し足でそちらに寄って行った。
 ソファの上の状態が見えるところまで寄ってからもう一度声を掛けたが、返事はない。起き出しているのか、とも思ったが、毛布の中には気配があったし、白い髪も覗いている。
 そのまま前に回り込み、顔の近くで三度目の呼び掛けをしようとして、翠星石は言葉を飲み込んだ。
 ナナは人形を抱き締めたまま、座り込んだまま横倒しに転げたような姿勢で眠っていた。
 ナナがそんな寝相をしていたのは今まで見たことがない。座り込んだまま眠ってしまって倒れ込んだのだろうが、何があったのか。
 ざんばらになった長い髪をそっと掻きあげ、俯いている顔を覗き込む。ナナは静かな寝息を立てていたが、その目尻にはまだ涙が滲んでいた。

「──おはよう」
 声はナナの口からではなく、背後から聞こえた。慌てて振り返ると、戸口のところに青い衣装を着たドールが立ってこちらを見ていた。
「どうしたの、こんなに早く……」
 独り言のような小さな声で呟き、足音を立てないように注意しながら、『蒼星石』は翠星石の隣に遣って来る。おはようございます、と翠星石は軽く頭を下げた。
「偶にはおじじに朝メシでも作ってやろうかと思ったのですよ」
 言いながら、翠星石は『蒼星石』の顔を見詰めた。
「ナナと貴女に手伝って貰おうかと思ったんですけど、ナナは無理みたいですね」
 『蒼星石』は二度ほど瞬き、視線を逸らしてナナの顔を一瞥した。
「……そうだね。寝かせておいた方がいいかも」
 やや目を伏せるようにしながら言い、背中を向けてこちらに横顔を見せる。正面から見ていないせいか表情は生真面目なばかりで、そこに何か別の感情が存在するかどうかは読めなかった。
「そこの食材、キッチンに持って行けば良いかな……」
「ええ。お願いするです」
 翠星石は愛想良く微笑んだ。
「私も後から行きますから、持てるだけ持って行っちゃって下さい。無理しない程度にですよ」
「うん」
 『蒼星石』は生真面目な表情で頷き、前に向き直って静かに戸口に歩いて行った。

 翠星石は一つ溜息をついた。
 『蒼星石』はよく気付く、良い子だ。思い遣りもある。だが、今の様子は少しおかしかった。ナナに対して妙に余所余所しかったのだ。
 昨晩、二人の間に何かがあったのは間違いない。
 そのことについて、結菱老人に尋ねてみようと思った。彼は少なくとも『蒼星石』の契約者であり、同時にナナについてもごく早い内から触れ合い、今は居候までさせている身なのだから。
 場合によれば意見しても良いと思う。こちらの世界の薔薇乙女としてでなく、老人が娘と呼んで憚らない蒼星石の双子の姉として。
 繋がりの上では、自分も結菱老人にとっては子供のようなもののはずだ。意見の一つや二つ述べたところで悪くはないだろう、と考えていた。


 ティーカップから漂う香りはいつものとおりに上品で、部屋には朝の光が燦々と降り注いでいる。
 しかし、空気は淀んでいた。少なくとも翠星石には息が詰まるような雰囲気にしか思えなかった。

 結局、朝食中は翠星石一人で空回りしているようなものだった。食事の支度中に起きてきたナナは老人を起こしに行き、『蒼星石』は手際良く翠星石を手伝ってくれたが、その間もナナに注意を向けることはなく、自分から話を振ってくることもなかった。
 食卓に着いてからも同じことだった。給仕をしながら話し掛けても、それぞれからは返事が返って来るのだが、それから先に進まない。『蒼星石』は見たところは愛想良く振舞ってくれるが自分から話を始めようとはせず、ナナは努めて明るく見せようとはしているものの終始消沈した様子で、老人はそんな両者を眺めて何やら自分の考えに没頭しているように見えた。
 同じ食卓に着いているのに、気持ちはばらばらだ。こんなとき、桜田家ならば誰かしら翠星石に協力してくれる者が出るのだが、この場にはそういうことに長けた者は誰も居なかった。

 朝食が済んでも、誰もそこから動こうとはしなかった。いや、正確には朝食が済んだところで片付けと洗い物を『蒼星石』とナナが行い、その間に翠星石はまたお茶の用意をして、とキッチンと食堂の間では慌しいとさえ言える動きがあったのだが、それが終わってしまうとまた一同は食堂に集っていた。
 朝食のときも飲んでいたせいか、お茶にも中々手が伸びない。翠星石が幾らか持ち込んだお茶菓子も、手付かずのままだった。
 会話も既にない。翠星石が無駄な努力に疲れて、自分から話を振ろうとするのを止めてしまったからだ。老人は静かに新聞を読み、『蒼星石』はぼんやりと窓外を眺め、ナナはテーブルに視線を落として何か考え事をしている。
 ゆったりと静かな朝の風景で、何がおかしいという訳ではない。しかし会話の端緒を作ろうとすることを諦めてしまうと、翠星石は手持ち無沙汰と言うよりは居心地の悪さを覚えた。
 肩を落として下を向いているナナにお茶菓子を勧めながら、自分の声と息遣い以外には音楽ひとつ流れていない無音の部屋が、翠星石にはいつか戦った老人の夢の世界に似ているように思えた。
 あの頃の老人は蒼星石を使役して、傍目には意味のないものとしか思えない復讐に血眼になっていた。今はそういったものから解き放たれ、老人自身は静かに蒼星石の帰還を待っている状態だ。

──蒼星石。

 翠星石の胸にちくりと痛みが走る。
 蒼星石は──その魂は、水銀燈が蒼星石のローザミスティカを提供し、翠星石が保管しているボディが揃った状態で、強い想いを抱いている者が心を合わせて呼び掛けなければ帰って来ない。水銀燈がアリスゲームを放棄するとは考えられないし、蒼星石は自分からはっきりと水銀燈にローザミスティカを委ねたのだから、その可能性はごく低かった。
 詳細は教えないものの、それ以外にも帰還の方法はある、と水銀燈は言い、老人も、当の蒼星石もそちらの方法を望んでいるらしい。だがそれには──詳細を知ることなど意味がないほどの──絶対的な前提条件があった。
 アリスゲームが終焉を迎えた後でなければならない、というものだ。
 一刻も早くアリスゲームを終わらせて、蒼星石を呼び戻す。老人はそれを望んでいるはずだ。
 その願い自体は叶えてやりたいと思い、自分も蒼星石の帰還を望んでいながらも、翠星石はゲームの最後の局面までの時間を引き伸ばしたいとも思っている。いや、後者の衝動の方が多分遥かに強い。
 アリスゲームの終わりは、今の状態が消滅することも意味しているからだ。
 ゲーム遂行の重圧から半ば解き放たれ、限りある時間を精一杯楽しもうとしている妹二人。その時間を少しでも長くしてやりたい、という想いもある。そして、恐らくほぼ常に自分を必要としてくれている、いや今は自分に依存しつつある不安定な少年──大切な、掛け替えのないジュンの前から、一時のことになるにせよ姿を消してしまいたくない。
 それは想い合っている二人が離れてしまうことを意味するだけではない。彼と契約を交わしている薔薇乙女である彼女にとっては、他ならぬ契約者に哀しい想いをさせ、のみならず彼の場合心の拠り所を失わせてしまうことでもあった。
 それでも、と思う。
 蒼星石と契約者。今までなら、迷わず蒼星石を取っていただろう。蒼星石と自分が好きになった相手、それでも蒼星石を取ることに何の躊躇もなかったはず──

「──えと、あの」
 取り止めのない思いは、ナナの声で破られた。
「皆さんに、お話とお願いが、っあ、あります」
 声が震えている。吃り癖も出ていた。大事なことを話そうとするときの癖だ、と翠星石も既に知っている。ナナは何をするにも自分の中で大きな決意をしないと、弱気や臆病を振り払って実行に移すことができないのだろう。
「昨日の晩の、結菱さんのお話……ありがとう、ございました。す、翠星石さんも、話してくださって、ありがとうございました。わたし、結菱さんに、『翠星石』と、契約して欲しい、です」
「そうか。私は構わんよ」
 老人は鷹揚に頷いた。初めてティーカップに手を伸ばす。
 彼は彼で誰かの言葉を待っていたのだろう。もしかしたら、ナナのその言葉そのものかもしれない。
「他の子はどうするのだね」
「っか、『金糸雀』は、草笛さんにお会いして、お願いする、ことにします。他の、方は──『真紅』と『雛苺』は……」
 ナナは言葉に詰まった。翠星石は彼女の手に手を重ねた。ナナはびくりと震えて翠星石を見詰める。
 その仕種にも瞳にも、何をするのか、という非難の色はない。驚きと怯えの混じった表情をしているだけだ。それが翠星石の心を何故か小さく刺激した。
 大丈夫ですよ、と言ってやる代わりに、翠星石は両手でナナの手を包む。ナナはうろたえたように何度か目をしばたたいたが、小さくこくりと頷いた。
「……契約してくれる人が見付かったら、他の方も、契約して貰って元に戻します」
 先程よりも少しだけはっきりした言葉で、ナナは言った。彼女としては宣言したのかもしれないが、自信のなさそうな声は変わることがなかった。
「ふむ」
 老人は自分が契約したドールと、自分の娘の双子の姉とをそれぞれ一瞥する。『蒼星石』は安堵したような明るい表情で彼を見詰め返し、翠星石はちらりと彼を見たものの、かすかに微笑んだだけでナナの顔に視線を戻した。対照的な反応だった。
 何かに気付いたように顎に手を遣ったものの、老人が次に口にした言葉はむしろ事務的なものだった。
「それで、いつにするかね。私は今からでも構わないが」
 ナナは片手を翠星石に握られたまま、ありがとうございますと頭を下げた。
「結菱さんの、都合が良い時で構いません」
 目を上げて、少し怯えを含んだような視線を『蒼星石』に向ける。彼女はナナの方を横目で見遣ったが、その口から出た言葉は老人に向けられていた。
「僕はマスターのご都合に合わせます」
「ふむ」
 老人は顎に遣った手を開いたり閉じたりした。
 考え事をするのではなく、間を取りたいと思っているのだ、と蒼星石が居れば気付いただろう。老人の考えは決まっていた。
「そうだな、今晩草笛女史が来ることになっている。そのときにするとしよう。場合に依れば彼女も『金糸雀』というドールと契約を結べるだろう」
 ありがとうございます、ともう一度ナナは頭を下げた。また少しだけ吃っていたが、いつものことだと思ったのか、老人は軽く頷いただけだった。


 ナナがあてがわれた部屋に戻り、『蒼星石』が薔薇園に向かうと、老人は一つ伸びをした。
「話したいことがあるのだろう?」
 車椅子を窓際に寄せ、窓外に視線を向けたまま、老人は部屋に残った小さな少女に尋ねた。
「君がずっと一人で残っていることは珍しい。何か用があるのだな」
「流石はおじじ、陰険振りだけは大したモンです」
 翠星石は憎まれ口を利きながらとことこと車椅子に歩み寄る。
「おじじが契約してる『蒼星石』のことで、ちょっと気になるところがあるのですよ」
 老人は車椅子をくるりと回し、翠星石に向き直った。
 翠星石はいきなりの動作にびくりとしたが、すぐにやれやれと肩を竦める。老人の気紛れはこういった動作一つにも現れていた。
「不審さとか、命に関わることじゃないんですけどね」
「ナナについて、かな」
 老人は肘掛に肘を突き、そちらの手の指で額を軽く叩いた。今度こそは考え事をするときや面倒事を考えているときの癖だった。
「確かに冷たい反応をしているが、逆に言えばそれで自分の心の平衡を保とうとしているのだよ」
「……どういう意味ですか」
 翠星石は思わず数歩ばかり歩み寄っていた。自分より長い時間ナナと『蒼星石』に接している老人が色々と考えを巡らせているのは意外ではなかったが、咄嗟に彼の口にした言葉の意味が掴めなかった。
「心の平衡って……」
「あの子は君と同じくらい善良な子だ。私や蒼星石とは正反対ということになるかな」
 老人はにやりとしてみせる。双子の妹を悪く言われ、翠星石はむっとした顔を隠そうとしなかった。
「そういう誉められ方をしてもちっとも嬉しくないですよ」
 目的の為に手段を選ばないという点で、蒼星石が善良と言い難い面を持っているのはよく知っている。だがそれを蒼星石に悪を示嗾した本人に、それも当人とひと絡げにして言われる筋合いはなかった。
 老人は人の悪い笑いを浮かべたまま、聞こえないような振りをして言葉を続ける。
「そして君と違って、どういう訳か頑なに純粋なのだ。まるで何かの制約を掛けられているか、物語の中の子供のように」
 分かるかね、と笑顔を消し、翠星石の顔を覗き込むようにして尋ねる。翠星石は頬を膨らませ、眉間に皺が寄るほど眉根を寄せたが、渋々頷いた。

 言葉に直されると刺があるが、自分が純粋であるかと問われて自信を持って頷くことはできない。
 彼女はゲームの盤上に最後に残った二人の内の一方であるのに、ゲームの遂行を「終わらせるか、進めないか」という視点で考えている。その上ゲームの盤上から脱落した者と自分の契約者を天秤に掛けて葛藤している時点で、彼女は本能的な何かに公然と逆らっているようなものだった。
 アリスゲームは疎ましく思って忌避したり終わらせるものではなく、遂行して完遂させるべき課題なのだ。作られたときなら兎も角、ゲームの開始を宣告されてからの彼女達は、そのために生かされてきたのだから。

 そこまで考え、彼女はふとあることを理解した。
「だからあの子はゲームにも積極的に加わったってコトですか……」
 予備知識のようなものとして水銀燈から話を聞いている。戦いを忌避する傾向が強かった姉妹の中、『蒼星石』は自ら進んで『水銀燈』と戦い、敗北したという。
 ゲームという言葉の内実が違ってはいても、それを遂行する義務を負っていたことについては自分達も『蒼星石』達も変わらない。ならば、純粋というのはゲームに対しての姿勢も当然含まれるはずだ。
「そう。それがあの子の本質ということだ。契約者も姉妹もかなぐり捨て、自分を滅ぼすことさえ躊躇いも持たずに──」
「──ただただ『お父様』のために、目的を遂行するために尽くすように作られているのですか」
 翠星石は老人の言葉を引き取った。
「……そんな。記憶に枷を嵌められたり、戦うことを義務付けられてるだけでも理不尽だと思っていましたのに」
「それはどちらも、君達が後から細工された部分だろう。それも飴と鞭の内片方でしかない。君達が父上を望むのは、昔日の平穏と愛情をもう一度取り戻したいからなのだから。要するに君達にとってゲームは等しく疎ましく、等しく必須なのだな」
 老人は背を伸ばし、ふう、と息をついて天井を見上げた。
「だが最初からそういう風に作られていれば、理不尽も何もあるまい。そういう存在だった、というだけの話だ」
 案外そういった制約に雁字搦めにされていて、それを意識することすらなければ、生きていくことに迷いもなく便利かもしれない。老人はそんなことを言った。
「それじゃロボットですよ。楽でしょうけど、何か違う気がします」
 翠星石は溜息をついた。
「ただ、あの子はロボットじゃない、ということですね」
「あの子は中途半端なのだよ。自己というものがありながら、従うべき原則が別次元で存在すると言うべきか」
 老人は頷いて額を指で叩いた。

「君達にとってゲームの遂行は宿命、あるいは本能だと水銀燈はよく言っているが、宿命は立ち向かうもの、本能は欲求と言い換える事もできる。
 どちらであっても、ゲームの遂行は君達にとって目標なのだろう。故に葛藤は生じても、それ以上のことはない。
 与えられた目標は一つしかないから、たとえ矛盾が生じても自分の意思と欲求のどちらを優先させるかでしかない。欲求は克服でき、目標は捨てたり変更してしまうこともできる」

「蒼星石のように……」
 老人の指摘は簡素で鋭さはなかったが、翠星石には的確に思えた。
 何故か喉が乾くような気分を覚えて一旦テーブルまで戻る。何かをしていないと居たたまれなくなってしまったのかもしれない。
 蒼星石だけではない。自分自身、ゲームに対して真摯に臨んでいるかと問われれば首を横に振るしかないのだ。
「何にしてもそれは君達のことで、私にとっては済んでしまったことだがね」
 老人は翠星石の姿を目で追いながら淡々と言った。
 老人の分のマグカップを棚から取り出し、お茶を汲んで持って行くと、老人はありがとうと言うでもなく受け取り、一口だけ口をつけて肘掛けの上の飲み物置きに置いた。
「話を戻すが、あの子には従うべき原則が恐らく最初から作り付けられている。あの子自身の性格付けとは全く別個に。ゲームを遂行せよ、というのは無論だ。外から姉妹を害する者を許すな、というのもあるだろう」
 翠星石は再びテーブルに戻り、小さなティーカップに注いだ自分の分のお茶を飲み干す。冷めたお茶は美味とは言えなかったが、それで漸く続きを尋ねる気分になれた。
「禁忌に触れるような言葉を、ナナが言ってしまった、ってコトですか?」
 老人は頷いた。何故か一気に疲れたような仕種だった。
「姉妹であれば赦すことができる事柄だったのだろう。だが、あの子にとってナナは姉妹ではなくなったのだな。今朝の様子は今までと違っていた」
「毎日あんな雰囲気なのかと思ってましたよ」
 翠星石は溜息をついた。
「息が詰まりそうでした……」
「そうかね? 君は活発に話していたように思うが」
 老人は口の端を歪めてマグカップを手に取った。食事中に給仕をしながら一人で喋り続けていた翠星石を思い出したのだろう。もっとも翠星石にしてみれば決して楽しくてやっていた訳ではないし、それも食事中までが限度だったのだが。
「あの子は元々口数が少ない方だったが、ナナに対して冷たくなってしまったのは疑いようもない」
「何とかなりませんか?」
 翠星石は努めて軽い口調で尋ねた。わざと問題を単純な方向に持って行こうとしてみる。
「このままじゃナナが可哀想です。それに蒼星石が帰って来たときに屋敷の中が御通夜状態じゃ、どうしようもなくがっかりしますよ」
 そうだな、と老人はマグカップのお茶を呷った。味など関係ないという飲み様だったが、いつもなら口を尖らせる翠星石も今はそんな余裕さえなかった。
 一気にカップの中身を飲み干し、老人は空になったそれを翠星石に手渡す。それも人を使い慣れた仕種だったが、翠星石は何も言わずに受け取った。
「ま、『翠星石』と『金糸雀』を呼び戻せば、状況は変わるかもしれん。それに──」
 老人は遠くを見るような目になった。

「あの子達がナナをどうしても受け容れられないなら、それぞれがもはや関わりを持たず、別個の道を歩むという方法もある。根本的な解決の一つではないかね、それも」

 全面的に賛成できる訳ではなかったが、翠星石は黙って頷いた。老人の心情も理解できる気がするからだ。
 ナナは臆病で自己否定が激しい割に、妙に口が軽いというか思ったことをつい言葉にしてしまう傾向がある。翠星石自身は、ナナは未だ子供なのだから、と容認しているが、初見で否定的な視点から彼女を見てしまった人物には、それだけで苛立ちを感じさせてもおかしくない性格と言えた。
 言わば自分からどんどん下向きの連鎖を作って行き、そこに嵌り込んでしまうようなところが、今のナナには確実にある。その原因が長い間虐げられてきたことと未だ碌に人と接したことがないことにあるのは明白なのだが、それはこの場合老人には関係ない。
 老人とすれば、ナナは『蒼星石』のトラウマを突つく厄介な居候なのだ。彼女さえ居なければ、『蒼星石』は禁忌には触れず、戻って来る姉妹達と楽しく過ごすことができるだろう。それは決して否定できない、むしろ可能性の高い仮定だった。
「あの子達はもはや同じ目標も持っていなければ、姉妹同士で関わり合う必要さえなくなったのだからな」
 吐き捨てるように呟いて、老人は目を閉じた。
 彼とてナナのことを疎ましく思うばかりではないのだろう。臆病さを露にしていないときのナナが、本当に素直で可愛い子供だということは、むしろ彼の方がよく知っているはずだ。
「私はどうにも好きになれんよ、あの子を作ったという人形師のことが。水銀燈は気に入っているようだったがね」
 むっつりと老人は呟いた。
 その点は翠星石も同感だった。だが、老人の提示した方法は、いつもの彼の思案そのままの荒っぽさで、翠星石の目から見るとあまりにも寂しいものに思えた。
 もう一杯お茶を汲みながら、蒼星石はどうしているだろう、と翠星石は考える。無性に彼女に逢いたくなっていた。ぎゅっと抱き締めてもらって、くどくどと他愛ない愚痴を並べたかった。



[19752] 200程です。 蒼星石の秘密。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/06/09 23:05
前回/前々回投下分をニコイチしてコンパクションしたため、前回投稿記事ナンバーをリサイクルしました。

歳のせいか、一文の中に4つもカタカナ語があると違和感が……。

※ 20:15 少々加筆訂正。

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「──翠星石?」
 蒼星石はぴくりと動きを止め、思わず後ろを振り返った。当然ながら、誰かが居る訳ではない。無意識の海は相変わらず彼女にとっては荒れ模様で、こうしている間にも流されているのは分かっているが、それにしても誰も居なかったのは間違いなかった。
「呼ばれた、のか……」
 なけなしの良心を呼び覚まされるような気がして、蒼星石は一つ息をつく。ごめんよ、という言葉はもう何度目になるか分からないし、いい加減それも軽い言葉になってしまっているような気がする。
 声が断片的に届くのはよくあることだった。ボディが近くにあるのか、あるいは水銀燈と同道しているのかは分からないが、内容は全く分からないのに自分を呼ぶ翠星石の声だけが届くのだ。水銀燈が自分のことを考えていることがぼんやりと分かることもある。
 どちらにも、答えることはおろか声を聞いているということさえ伝えられないのがもどかしい。自分が忘れられていないのは確かに嬉しいことではあるが、それだけに何か少しでも反応を返してやりたいという思いが募ってしまう。今の状態は殆ど死人のようなものだというのに、贅沢な言い分ではあるのだが。
 不思議なことに、彼の気配を感じることはたまさかにある。幻視のように彼の姿が見えたり、ときには明瞭に彼の想いが伝わって来ることもある。
 そして、自分の気配が彼に伝わっていることも感じるのだ。それだけ想いが強いのか、あるいは彼が持つ力ゆえなのかもしれないが。

──どちらにしても、それだけで満足すべきかもしれない。

 そう結論付けて、蒼星石は前に向き直った。
 相変わらず見通しの利かない、そして一つ所に位置を固定することができない場所だった。ただ、今日はその中に何かがあるように見えて、彼女はそのイメージを追い続けている。一旦動きを止めても未だ見失っていないが、また少しばかり距離が離れてしまったようだった。
「追い着いてみたら真紅だった、とかね……」
 口に出してみると、有り得そうな気がしてしまう。向こうも無意識の海に捜索の主眼を置いているはずだから、ニアミスや偶然の鉢合わせも起きておかしくはない。
 その場合どうすればいいのか、蒼星石には分からない。案外ラプラスの魔も鉢合わせる程度ならゲームの遂行に支障はないと判断してくれるか、あるいはもっと注意深く動いていて、鉢合わせやニアミスなど起きないように何処かで操作を加えているのかもしれないが。
「いや……真紅は、ないか」
 追尾を再開してから、体感時間では数時間は経過したはずだが、一向に前を行く気配は消えない。体感時間と客観的時間に差があるとはいえ、水銀燈以外の自分の姉妹なら疾うに現実世界に帰っていなければならない時間のはずだ。
 何にしても、気になるモノだった。気になるということは、逆に自分にとって何等かの意味か関わりのある存在であることも間違いない。
 彼女は表情を引き締め、薔薇乙女だった頃とは比較にならない、もどかしい速度で追跡を続けた。幸い、それ以上彼女を動揺させるような呼び声は聞こえて来なかった。


「うさぎおじじ」
 『翠星石』はラプラスの魔をそう呼び始めている。それほど老いているようには見えない、と蒼星石は言うのだが、本人も老兎と自称しているので問題ないだろうというのが彼女の言い分だった。
 単に「おじじ」と呼びたいだけかもしれない。最後に『蒼星石』のミーディアムだった柴崎老夫妻は、彼女にとっても嫌な思い出と共にあるだけの存在ではなかった。
「おじじが直してる人形……それ、もしかして」
「おや、気付かれましたかな」
 兎頭の紳士は意外そうな声を上げた。ただそれが、やっと気付いたのか、という意味合いなのか、気付くことはないと感じていたのかは分からない。
 今の『翠星石』は勝手気侭に過ごしているように見える。寂しくなったら蒼星石に抱いてあやしてもらい、気の向くまま何処かに出て行ってしまう。基点としているのは相変わらず兎頭の紳士が手慰みを続けている世界だが、居着いている時間そのものは蒼星石よりも更に短かった。
 ときには並んでいる人形を持ち出して遊んでいることもあるのだが、無心に遊ぶというよりは何か考え事をするためにそうしているようであり、完成品は兎も角、紳士が作業をしているものには無関心だった。
 紳士の方でも、実は複数の作業を並行して進めている。この人形を持ち出すのは、彼女の前では初めてではあった。
「あまり芳しからざる記憶を呼び覚まされてしまいますかな、緑のお人形さん」
「カンバンも唐揚げもねーですぅ! それ……それは……」
 『翠星石』は口篭もった。ごくりと唾を飲み込むような動作をして、続ける。
「すっ、『水銀燈』のコンチクショウじゃねーですかっ」
「左様、左様。これは貴女の姉妹だったドールのボディでありますな」
 紳士は楽しそうに頷いてみせた。
「もっともここにあるボディは真に形骸と申すべきもの。気高き究極の存在には無用な、ただの残骸を繋ぎ合わせたものに過ぎません」
 もう少し詳しくお話致しましょう、と紳士は赤い兎の目で『翠星石』の緑と薄紅色の瞳を覗き込んだ。『翠星石』は人形と紳士を交互に見遣り、こくりと頷いた。

「──じゃあ、動くかどうかは半々なのですか」
 ひととおりの説明を聞き終わり、紳士の作業台の上で『翠星石』は人形に手を伸ばしてみた。
 触ってみたが、人形は人形そのものの触感でしかなかった。柔らかくない陶器の顔は割れた部分を繋ぎ合わされ、欠けや傷をパテで埋められて厚く塗られている。顔の細かい造作や描かれた眉、色遣いなども、よく見れば近くにある他の人形達に似ていなくもない。
 記憶と魂の欠片はある、と紳士は言う。ならば『真紅』や『水銀燈』が力を吹き込めば、すぐにでも動き出すのだろう。
 今は何を考え、何を感じているのだろうか。それとも、眠っているだけなのか。
「でも、今度は目的もなんにもなくて、ただ放り出されるなんてぇ……可哀想ですぅ」
「左様ですな。考えてみれば罪深いことではあります」
 紳士の言葉には揶揄する調子はなかった。
「畢竟、モノを作る側の想いなぞ、その程度のものなのでありましょう。身勝手な期待と予測を押し付けて、その先についてはお前の物だと放り投げる。あるいは自分の理想を壊れるまで無理強いし続ける。どちらもモノを作る者の自己満足に過ぎません」
「理屈は要らんのですぅ。なんか作ってあげないのですか? この子の生きてく目標とか、為すべきこととか……」
 強い調子で喋り始めたはずなのに、『翠星石』の言葉は次第に力を失ってしまう。
「なんにもないんじゃ……生きてく意味がないのです。ホントの目の前の目標だけでも、あるとないとは大違いなのですぅ……」
「今の貴女達と同じことですな」
 紳士は言い難いことをあっさりと、しかし彼の監督する少女達にはついぞ向けたことのない優しい声音で告げた。

「目標を疎んずるも、定めに逆らおうとするも、それがあってこそ為せることです。
 何も設定されていなければ、世の何に縋って特殊な命を繋いで行けば良いのかすら理解できない。世に交われるのであればまた話は別でありますが、人形の肢体のままではそれは叶わぬこと。
 偽りのゲームが終わり、世界樹さえも消え、何もかも喪った貴女達が尚も懸命に生きようとしている、そのことの方が奇跡と申せましょう」

「……そんなの、誉められたってこれっぽっちも嬉しくねーですぅ」
 『翠星石』はやや気色ばんで拳を握り締め、胸のところまで持ち上げたが、すぐに力なくそれを下ろす。
「何の慰めにもなってないのです……」
 紳士は黙って頷いた。うなだれかける『翠星石』の目の前に、掌を下にして手を伸ばす。
 その手をくるりと半回転させると魔法のようにハンカチが現れ、紳士はそれで魂だけの存在となっている──この場ではそうは見えないが──泣き虫のドールの目尻を拭った。ご丁寧に彼女の洟までかんでみせたのは、愛嬌のつもりかもしれない。
「左様ですな。ですから、老兎から一つ提案を致しましょう」
 そう言ったときには、彼の声音はいつもの慇懃無礼な調子に戻っていた。
「貴女はあと暫くで現実世界に戻ることになる。これは確定的な事柄ですぞ。そして、ある困難に立ち会うことでしょう。それを脇に流さずに乗り越えられた暁には、老兎からささやかな贈り物を差し上げると致しましょう。それは向後の貴女と、貴女に近しい方達の目標ともなるものです。如何ですかな」
「なんか……怪しいですぅ」
 『翠星石』はまだ涙を浮かべたまま、まるで信用できないといった様子で紳士を睨む。
「でも、こ、今回だけは、その話聞くだけは聞いてやるですぅ。ただし、条件があるのです」
「なんなりと、お人形さん」
「その……『水銀燈』のボディの子にも、ちゃんとした目標と生きる意味を作ってやるのですぅ。それを約束できたら、お前の話を聞いてやるのです」
 紳士は兎の眼をぱちぱちと二度ほど瞬いた。よろしいでしょうと頷き、お嬢さん、と優しい声で付け加えた。


 追えば逃げ、近づけば遠ざかり、諦めかければ距離を開けるでもなくそこにある。
 からかわれているようだ、と思いながらも蒼星石は追跡を止められなかった。
 自分でも何故そんなに拘るのか、よく分かっていない。しかし、nのフィールド、殊に無意識の海の中で能動的に動くイメージとの邂逅の確率はほぼないに等しいものだ。
 それだけでも追う名目は立つというものだ、と考え、その考えの可笑しさに気付いて苦笑する。他人に言い訳をするための名目など必要ない。彼女は誰とも連絡がつかないまま、勝手な思惑で漂っているだけなのだから。
 その間も、追っているイメージはほぼ彼女と等速で、荒れた海の中をときには流されながら渡って行く。
 追う方の彼女も流されるのは一緒だった。一向に差が詰まらないのはそのせいもある。蒼星石が近づいたと感じても、どちらかが流される拍子に間はぐんと開いてしまうのだ。

 やがて妙なことに気付く。
 前方のイメージは無意識の海の深みから浅瀬へと向かって移動している。この航路でそのまま進めば、近いうちに海の領域は終わり、別の──多分記憶の混在する湿地に出てしまう。
「そこに誘っているのか……? 僕を」
 自問自答にしかならないのは承知だが、思わず言葉を口にしてしまう。あまり良くない癖になりそうだが、今の状態で無意識の海で自我を保つには必要なことでもあった。
 言葉にも出さずに思考だけを先に進めて行くと、やがて自己の境界が曖昧になり始めるのだ。身体という物を認識する必要がないから、意識して使わなければ意味を失って溶け始めてしまうのかもしれない。
「それにしても……一体」
 イメージの正体は最初から気になってはいたが、未だに判然としない。ある意思を持って海を渡っているのは間違いないように思えるのだが、その意思についての類推も今ひとつ決め手に欠ける。
 今のところは、イメージが追跡に気付いてこちらを無意識の海の浅瀬、またはその奥の記憶が無秩序に混在する湿地に誘い入れようとしているように見える、というだけだ。
 罠の可能性もあったが、蒼星石は追跡を続けることに決めた。イメージが自分に悪意を持っているようには感じられない。むしろ何かを見せようとしているのではないか、と思えた。

 波打ち際で、イメージは海から上がったようだった。
 蒼星石の周囲も変化していた。今まで意識していなかった海面が、頭上に煌いている。
 未だ背が立つほどには浅くなっていないが、思い切って頭を海面から出してみる。
 進行方向に波打ち際が見えた、と思った瞬間、彼女の中に無数の記憶と断片的なイメージが流れ込んで来た。

  ──ねえ、おばあちゃん。お話して?
  ──まあ、オディールはお話が好きなのね。お人形が好きなのかしら。
  ──うん。どっちも好きだよ。おばあちゃんも大好き!
  ──まあ、有難う。でも、暫く待っていて頂戴。いま、お客様がみえているの。

 何処かの大きな洋館の一室。少女は隣室で、自分の背丈の半分ほどもあるドールを抱えて聞き耳を立てている。
 ドアが開け放たれているのは故意なのか、それともイメージとしての演出なのか。

  ──可愛いお孫さんですね。余程お婆様がお好きなのでしょう。
  ──それは違うわね。両親とも家に居ないから私に懐いているの。
  ──そんなものでしょうか。ああ、そう言えばお探しになっていたご婦人の件、調べがついたそうですよ。
  ──そう。こちらに頂戴。

 愛想は良いが事務的な男が去り、老女は慌しく書類を開封し、目を通すとそれを放り付けて顔を覆った。
 何時の間にか背景は病室になり、少女は成長してベッドの脇に座っていた。しかしそれは背景と同じくらいに希薄で、老女にとってはさして重要でない存在であるのは間違いなかった。

  ──雛苺。貴女を失ったのが、全ての始まり。あれから私は失い続けの毎日だった。
   好きだった家は壊れ、人を愛すれば奪われ、望まない結婚をさせられ、忌まわしい記憶の源である東洋の国に移り住み……
   ……連れ合いが死んで探すことに制限がなくなり、ようよう探し当てた人は、本人ではなかった。
   ああ。あの人を殺して私も死のうと思っていたのに、あの人は疾うに死んでいたなんて。
   あの男、おぞましすぎるわ。あの人の名前を、双子の名前を詐称しているなんて。それもあの時からもう何十年も。
   だから、あの人を奪ったあの女にだけは意趣を返してやろうかと思ったのに、それさえもう時間が足りない。
   最後に、人伝にあの男にあの女の消息を知らせてやったのがせめてもの報い。ほんのささやかな私の復讐。
   ああ、雛苺。雛苺を取り返したい。あの子を取り返せば、私は初めから遣り直せる。あの、南フランスの美しくて優しい日々から……もう一度全て……

 蒼星石が息を呑む間にも、老女の嘆きは続いていった。
 それは自分を振り向いてくれなかった日本人の男の事であり、彼女の視点からは彼を横から奪い取って行った女の事であり、海難事故で死んだ筈が実は男の名を騙って生きていた、男の双子の兄の事だった。やがてそれ等は次第に周囲の状況全てに対する怨嗟の念に移り変わって行く。
 最後に、彼女と同じように両親に疎まれている孫娘の姿が現れた。オディール・フォッセー。小さな頃から両親が家に居らず、老女がそのお守りをしていた少女。
 娘は老女に似ていないのに、どういう訳か孫娘は老女に生き写しだった。それが老女の衝動に拍車を掛けたのかも知れない。

  ──この子は私。私の分身。私がなるはずだった、幸せな私。幸せにならなければならない私。

 老女のくすんだ色の思いは、そこだけは一際鮮やかで明瞭だった。鮮やかなだけに、歪さも明瞭だった。

  ──オディール。雛苺を探して。そして、取り戻しなさい。私はもう駄目だけれど、貴女はそれで幸せになれる。
   見付けたらもう二度と失わないように、その手を二度と放さぬようにしなさい。あの子はお前に幸福をくれる。でも、放してしまったら──
  ──はい、お婆様。分かっています。

「オディール・フォッセーは、いわゆるお婆ちゃん子だったの」
 はっとして顔を上げると、蒼星石が追って来たモノは思ったよりも近くに居た。浅瀬に脚を浸して立っている。
「表面近くを探してみても、こんな長い部分は他にはないわ。後は全て断片ばかり、それも本人の記憶は殆ど埋没していて浮かんで来ないの。よほど印象が薄かったのか、思い出したくないと鍵を掛けてしまったのか、どちらかね」
 それは淡々と蒼星石に告げ、にっこりと微笑んだ。
「久し振りかしら、蒼星石」
「金糸雀……」
 蒼星石は呆然と呟いた。
「君も、賭けに勝っていたんだね」
「慢心は禁物よ。まだ半ばかしら、貴女もカナも。この姿で、記憶を維持したまま大切な人達の許に戻れて、それでやっと勝ちが確定するのだから」
 金糸雀は表情を引き締めて言い、少し相好を崩して続ける。
「それにしても……随分育ったものね。胸はちいさいけど」
 指摘されて思わず自分のツナギの胸に手をやってしまう。確かに、大きくはなかった。一瞬だけ、彼はどう思うだろう、と考えてしまう。
「無意識にこうしてしまったんだろうね。真紅のマスターのお姉さんみたいにはなれなかった」
 苦笑して、それにしても、と呟く。
「君の姿も……」
 思わずしげしげと眺めたくなってしまう。意外だった。
「あら、カナは可愛い乙女だもの。当然かしら」
 こんな場所で、生真面目な、しかもあまり嬉しくない話をしている最中だというのに、金糸雀は屈託なく笑ってくるりと踵で一回転してみせた。
 フリルの付いたスカートがふわりと舞う。彼女は黄色を基調としたエプロンドレスを身に着け、どういう訳かやたらに装飾の多いステッキを手にしていた。
 確かに可愛い、と思う。自分と違って人形のような可愛らしさで、顔つきも薔薇乙女だった頃と変わらない。ただ──
「少女の色香に淑女の気品、幼女の姿に悪女の頭脳。どう、完璧な乙女策士、金糸雀の完成形かしら」
 そう言ってにっこりと笑う姿は、六、七歳の子供だった。
「……僕にはよく分からないな」
 苦笑いを引っ込めようとして顔が引き攣っていなければいいが、と考えつつ、蒼星石はそうコメントするのが精一杯だった。

 二人は浅瀬から上がり、無意識の海の浜辺で並んで座った。
 抱っこして、と言われて膝の上に座らせながら、蒼星石は妙な気分だった。金糸雀は彼女が初めて目覚めたときには既に自我を確りと持っていて、何も知らない双子に様々な事柄を教えてくれた。それが年下、それも姉妹としてはやや歳の離れた姿をしているのはなんとも落ち着かない。
 確かにこの姿のままで以前のままの智恵が回れば、金糸雀は外見とは裏腹の策謀に長けた存在と言えるだろう。
 ただ、彼女は一つ大事なことを忘れているように蒼星石には思えた。
 金糸雀も、蒼星石と同じように人間の姿をしている。もし、二人が以前図ったようにこのままの姿で現実世界に戻ったら、金糸雀も人間として生きて行くことになる。
 人は成長し、老いるものだ。確かに老いるまでの時間は蒼星石よりも何年分か長いかもしれないが、金糸雀が意図したような「完璧な」姿で居られる時間はそう長くない。恐らく可愛らしく成長し、美しい女性となり、綺麗に老いては行くだろうけれども。
 相変わらず何処かで詰めが甘いように見える姉だが、だからこそ憎めないのだとも思う。

 策士と言うものの、金糸雀が最も得意としているのは情報の収集と分析だった。策謀を巡らすにはまず情報収集、というのが持論で、それは恐らく正しい認識でもある。
 一つ残念なことは彼女の場合そこから先に中々進めないことだった。情報を自分の足で集めることしかできないのが悩みの種であり、謀を企図する時間が足りない、というぼやきは、特にこの時代になって親しく話を交わすようになってから常に聞かされてきた愚痴だった。
 その彼女が器を失い、nのフィールドの中で無限の行動時間を許されたとき、自分の周辺の情報を収集し始めたのはむしろ当然だった。蒼星石とは動機も目的も違うのだろうが、金糸雀はオディール・フォッセーについては本人の意識を探索するのではなく、その記憶域から情報を集めていた。
 その手があったのか、と舌を巻くと同時に、蒼星石はあることに気付いてもいた。
 金糸雀は器を手放す前から、オディールの情報を集めていたに違いない。いくらnのフィールドでの探索に不自由しなくなったとはいえ、あれから彼女の記憶域を発見したというのは偶然にしては出来過ぎている。
 何のためにそうしたのか、と考えると、やや恐ろしくなって来る。
 多分金糸雀は雪華綺晶をも利用するか、彼女と何等かの駆け引きをしようと企図していたのだろう。もちろん、水銀燈や他の姉妹には黙ってのことだ。
 もしかしたら金糸雀の方から、水銀燈の媒介の記憶にあった提案──ボディは雪華綺晶が、そしてローザミスティカは自分が獲得する──を実行しようとしていたのかもしれない。それも、誰か契約者を人質として差し出す形で。
 幸か不幸か、それ等は真紅の行動と、それに乗じた濃紺の衣装のドールによって全て水泡に帰してしまったけれども。

 そんな蒼星石の思いには関係なく、金糸雀はオディールの話を続ける。
「オディールは小さな頃から日本とフランスを往復するような生活だったらしいわ。何故そうしたのかは分からないけど、いつもお婆さんに附いている印象があるから……」
「コリンヌ・フォッセーと一緒に動いていた可能性が高いね」
 蒼星石は嘆息した。あまり考えたくないが、それはオディールが望んだというよりも、コリンヌが連れ回していた可能性もある。
 先程の記憶の断片からは、むしろそうとしか思えなかった。コリンヌの思いはオディールに凝縮していた。希望であり、輝かしい過去の残滓なのだ。
「教育とか友人関係とか……あまり良い方には働かなかったろうに」
「学校の成績は良かったようよ。お婆さんに自慢できる、とか、お婆さんに誇れる、なんてイメージの断片は多いから」
 金糸雀はくるくるとステッキを回した。現実世界で日曜日の朝に放映している少女向けアニメで主人公の一人が持っているアイテムそのままの形だったが、それを指摘するのは止めておく。蒼星石がその番組を欠かさず見ていたのは結菱老人しか知らない秘密だった。
「本当は、お婆さんに愛されているのは自分自身ではないことに気付いていたんじゃないかしら。お勉強もスポーツも、身だしなみにも人一倍頑張っていたもの。お婆さんに評価して貰うために」
「……誰かに似ているね」
 蒼星石はあるドールの姿と、あるドールの話を思い出していた。
「そうね」
 金糸雀はさっとステッキをかざし、アニメでステッキを持っている少女の決めポーズらしきものを取った。
「お父様に認められたくて、背伸びばかりしていた子が居たっけ」
「うん」
 濃紺の衣装に漆黒の翼、そして深紅の衣装に薔薇の花弁。どちらも背伸びをし過ぎていたのではないかと思う。
 いや、金糸雀が言うのは恐らくそちらではなくて、自分のただ一人の姉のことなのだろう。彼女もまた背伸びをして戦い続けて来た。いや、今もって背伸びをしている。
「でも、その子には姉妹が居るわ。オディールにはお婆さんしか対象が居なかった」
 金糸雀は長い息をついた。どうやら、言い及んだ対象は後者で間違いはないようだった。
「そのお婆さんが、望まなかった人生をリセットできるモノとして雛苺を引き合いに出して……しかも『取り戻せ』なんて言ったのだから」
 やれやれというように首を振る。
「あとは推して知るべし、かしら」
 蒼星石は無言で頷き、ドールでこそなくなったものの可愛らしい、幼い姿の自分の姉を抱き締めた。
 苦しいかしら、と言われたが、そのまま暫く抱き締め続ける。オディール・フォッセーのことは兎も角として、頭の中には別のモノが浮かび上がってきていた。

──結菱二葉と、コリンヌ・フォッセー。

 意外なところで繋がりがあったものだと思う。そして、コリンヌの恐らく一方的な──悪く取れば、今風に言えばストーカー的な──恋情は、彼女の中だけで回り回って憎悪となり、最初にそれを向けられた男性の双子の兄である結菱一葉に殺人を教唆したとも言える。
 溜息をつくしかない。乾いた笑いさえ出て来なかった。結菱老人の剣となるべき自分が目覚めたときには、仕掛け人もその復讐の真の対象もどちらも既に死んでいたというのは、どういう皮肉なのか。
 結菱老人の復讐は、コリンヌ・フォッセーの差し金だった。海のこちらでそれに乗せられ、昏い思いを募らせた老人と、その切っ先となって働き、すんでの所で老人の想い人を廃人にするところだった哀れな人形。そして、二人に関わってそれを阻止しようとした薔薇乙女と契約者達。
 一人の老女の「ささやかな」復讐とは、その程度の人物を巻き込んだ大芝居だった。

──僕達は二人して死人に踊らされていたんです。お父さん。

 いや、これもまたアリスゲームのお膳立てだったのかもしれない。
 意図的に狭い範囲に人間関係を作り上げ、全てを仕組み、組み上げる。それは定められたルートからの逸脱、あるいは盤上からの転落を防ぎ、ゲームの進行を円滑にするためには便利だったろう。
 ならば、それを企画して主導したのは、ラプラスの魔だったのか。それとも、ゲームのプレイヤーたる造物主だったのか。
 金糸雀はもう苦しいとも言わず、またくるくるとステッキを回し始めている。
 あっけらかんとしたその表情は何処か訳知り顔にも見えたが、それは蒼星石の思い込みかもしれない。取り敢えず、今は追及する必要はないし、問い詰めたところでゲームから完全に離れてしまった蒼星石には──そして金糸雀にも──手出しの出来ない事柄だった。今は、それよりもオディールに関わる事柄に注力すべきだ。
 取り敢えずはあの小さな世界に帰り、これまでに判明したことを『翠星石』に話そう、と蒼星石は決めた。彼女の推測が当たっていれば、今のオディールの状況は『翠星石』の姉妹にも間接的に関わることだった。



[19752] 150ほど。 しどろもどろどろどろ。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/06/13 21:06
 「感動の再会」は、当人達以外の目から見ると妙に呆気なく、そしてこれといったハプニングもなく執り行われた。

 夕食を終えて集まった少女達とみつの目の前で、老人は前回のようにごくあっさりと『翠星石』の指輪に口付けし、脇に立っていた『蒼星石』にゼンマイ巻きを握らせると、双子の姉の目の前に押し遣って自分は車椅子を引いた。
 『蒼星石』は一瞬躊躇したが、ありがとうございます、と嬉しそうに頭を下げ、『翠星石』を正面から抱きかかえるようにして背中のゼンマイ穴をさぐり、両手で大きなゼンマイを巻く。数回巻いたところで、ゼンマイ巻きは勝手に回り始めた。
 ややあって『翠星石』の瞼が震えるように動き、彼女は色の違う目を開いた。数回瞬き、目の前の存在が誰であるか一瞬勘違いしたようだったが、周囲を見回して状況を確認すると、愛しい双子の妹を力いっぱい抱き締めた。
「……『蒼星石』、この、この……お前は姉不幸者なのです、ホント、ホントに……」
 後はくぐもってしまい、何を言っているのか誰にも分からなくなった。『蒼星石』は謝罪の言葉を呟きながら、双子の姉を抱き返した。

 泣きじゃくりながら『蒼星石』に抱きつく『翠星石』に一同が気を取られている間に、みつは老人にだけ目顔で頷くと、膝の上に抱いたドールの指輪に口付けた。
 同時に、片手で器用に背中のゼンマイを巻く。慣れた手つきなのは、今は彼女の部屋で鞄に眠っている──いや、nのフィールドで時を待っていると言った方がいいかもしれない──よく似た少女に同じようにしてやっていたからだった。
 彼女の腕の中で、黄色い衣装を身に着けたドールはゆっくりと目を開け、誰の腕の中に居るのかを知ると、何が起きたのか把握する間もなく小さな両手でみつに抱き着いた。
「みっちゃん……みっちゃああん! みっちゃんかしらぁぁ。みっちゃあぁぁん」
「よしよし……いい子ねカナ。もう泣かないで、ほらお鼻チーンしよ、チーン」
 『金糸雀』の声で漸く周囲が状況に気付いたときには、みつは敢えてドールに何も説明しようとはせず、ただ満面の笑顔で他の姉妹に比べて若干背の低いドールの顔にハンカチを押し当てていた。
 涙と鼻水で酷い有様の顔になっている『金糸雀』は、洟をかむ前にハンカチの下からくぐもった声で尋ねる。
「うー……みっひゃん、こぇかぁも、るっといっひょ?」
 彼女の方も、尋ねたいことはそれだけのようだった。みつは笑顔のまま、うんうんと頷いてやる。
「一緒だよー。ほら、チーンして」
 微笑ましい光景、と言って良いのか、みつにとっては辛い場面なのかは分からない。ただ、周囲の一同は笑顔の者が多かった。『翠星石』に抱きつかれ、涙で服をべちゃべちゃに濡らされながら、『蒼星石』は困ったような顔にそれでも微笑みを浮かべて『金糸雀』を見ていた。
 しかし、少なくともナナには手放しで喜べる光景ではなかった。
 後ろめたい気分が無いと言えば嘘になる。みつに無理をさせているのではないか、と考えてしまうのだ。
 みつの「カナ」は、このドールではない。彼女の魂は恐らく蒼星石と同じように、水銀燈と戦って負けることでゲームから離脱し、nのフィールドで時を待っているのだろう。
 最初は良い。だが、暮らして行けば行くほど、繋がりが深くなればなるほど、金糸雀と『金糸雀』の些細な違いが顕わになって行くのは間違いない。

──そのせいで、辛いことも、苦しいことも多くなるはず。

 それは『金糸雀』だけでなく、みつ本人も同じことだ。もっとも、彼女はそんなことはおくびにも出さないのだろう。彼女はいつも明るくて前向きなのだ、と以前金糸雀が教えてくれていた。何があってもストレスをドールを抱き締めるだけで発散してしまう、強い人なのだと。
 みつがふとこちらを向く。ナナが無言で頭を下げると、みつは目立たないように笑った。
 その口が「大丈夫」と動いたように見えたのは、ナナが自分の都合の良いように考えたがっているからだろう。言葉もなくただ頷くことで精一杯の感謝の気持ちを表しながら、そんな自分の性根をナナは恥じ、そしてまた次第に自分自身が厭になり始めていた。


 みつが『金糸雀』を連れて帰宅し、老人も寝室に引き上げた後の結菱邸の食堂で、『翠星石』は残った面々にごく簡単に自分の置かれていた状況を説明した。
 オディール・フォッセーらしき魂との遭遇、蒼星石が危機を救ってくれたこと、今やラプラスの魔の工房と言っても良い様相の第32768世界で逗留していたことなど、本人からしてみれば経過した時間に比して然程の内容でもなかったが、聞き手にとっては興味深い話ではあった。老人が聞いていたら面白がったかもしれない。
 ひととおりあらましを話し終わり、話が蒼星石の容姿などに及ぶと翠星石はややわざとらしく溜息をついた。
「そうですか……蒼星石はホントに人間になってしまったのですね……」
「ですぅ」
 『翠星石』はこくりと頷いた。
 同じ姿をした両者が向かい合って座ったことは以前にもあったが、落ち着いて話をするのは初めてだった。前の機会には『翠星石』は緊張の裏返しもあって碌に翠星石に話しかけることもせずに退席していた。
 翠星石は掌を上に向け、やれやれといった仕種をしてみせる。ゲームの進行上は蒼星石は既に敗北して水銀燈の内にあると言うべきなのだが、自分も含めて誰もそんな風に見てはいない。アリスゲームはその最終盤に差し掛かって、酷く軽いものになってしまったようだった。
 勿論それが錯覚に過ぎないことは分かっている。蒼星石も雪華綺晶もゲームから脱落して魂が去り、今は水銀燈の内に一体となっている。それが実情だ。自分達は皆、幻影と本質とを取り違えているに過ぎない。
 それでも、蒼星石の意思が何処にあるかと問われれば、それはnのフィールドで『翠星石』が出会った魂そのものとしか翠星石には思えない。どうしようもない矛盾だった。
「あと、えと、キュアキャナリーも、六歳くらいの女の子だったですよ」
 『翠星石』は片手でくるくると得物を回す仕種をしてみせた。
「あ、違ったですぅ。プリティウィッチキャナリーでした」
「……誰ですかそれは」
 大体見当はついているが、一応確認してみる。果たして『翠星石』が明かしたのは、道化なのか恐るべき策謀家なのかどうにも白黒付け難い、翠星石のすぐ上の姉の名前だった。
 金糸雀は弱っている相手を討つという甚だ汚い遣り方を敢えて選択して、一時に最多数のローザミスティカを獲得するワンチャンスに賭けた。それは水銀燈にも共通する、いや上回る苛烈さと、アリスへの、ローザミスティカ獲得への執念とも言える。
 ところが、それが失敗した今は何もなかったようにけろりとして、自分の今の状態を気楽に楽しんでいるらしい。あまりにも見事な切り替えようだった。
「随分愉快にやってるモンですね……」
 煮ても焼いても食えない姉だ、としか言いようがなかった。何処かに恐れを抱きつつ、それをひた隠して必死に今を謳歌しようとしている妹達に比べて、金糸雀は大分享楽的なところがあるようだった。自分に自信があるからなのか、それとも単に刹那的な性格なのかは分からないが、恐らくは前者だろう。
「ですぅ。なぁんかとっても楽しそうでした」
 似たような事を考えたのか、『翠星石』も口を尖らせる。
「泣き虫のカナチビとはえらい違いなのですぅ。あんなにへらへら余裕ぶっこいてたんじゃミーディアムを取られてしまうのですよ」
「似たようなものよ」
 そう言ったのは翠星石ではなかった。
「あの子だって寂しいって感情は人並みにあるはず。ただ、蒼星石も同じことだけど今は未来への希望が孤独感を上回ってる。それだけのことよ」
 水銀燈は『翠星石』ににやりと笑いかけると、席を離れて乗り物を置いてあるワゴンの方に舞って行く。翠星石は眉根を寄せた。
「おじじのワイン勝手に飲んじゃダメですよ。全く手癖の悪い姉です」
「いいじゃないの、少しくらい」
 言いながら、水銀燈は飲み物を取ろうとはせずワゴンに行儀悪く腰掛けた。彼女の方を見ている『翠星石』に向けて口を開く。

「信頼関係のある人がこちらに居るか居ないかの差だけ。貴女達だって居場所が整えば本来の陽気さは幾らでも発揮できるってこと。
 全員が揃って現状に納得すれば、落ち着いてその先の展望も見えてくるでしょう。ま、それまでは色々あるとは思うけど。
 そのお膳立てをしてるのは私達だけど、最終的に判断したのは貴女達の妹……ナナだってことも、忘れないほうが良いわね」

 最後に出た名前を聞き、テーブルの隅の席にぽつねんと座ったナナはびくりと肩を震わせ、一層小さくなった。幾つかの視線は彼女に向いていたが、彼女の姉妹二体はその中には含まれていなかった。
 『翠星石』はナナに全く関心がない訳ではなかった。視線は水銀燈に向けたままだったが、こくりと、やや真面目な顔になって頷いていた。
 しかし顔を上げて四角いテーブルに集った人々を眺め回し、もう一度小さく頷いたのは、ナナには直接関係のないことを話すためだった。
「オディールってヒトのこと、なんですけどぉ……」
 その名前を聞いて、雛苺は食べかけていたクッキーを口から離した。慌てたように真紅と翠星石を見る。真紅はティーカップを皿に置いて雛苺をちらりと見、給仕に回ろうと立ち上がりかけていた翠星石は腰を下ろした。
 『翠星石』は反応の大きさに少しばかり驚いた様子だったが、一つ息を呑んで話し始める。
 その内容は、聞き手の真紅達にとっては重要な情報であり、尚且つ話題の対象があまり芳しい状況にあることを伝えるものではなかった。


 ひととおり話し終えて『翠星石』は疲れたように椅子にもたれた。
 実際、少なからず疲れていた。蒼星石から伝えられたオディールに関する情報を余さず伝えようと懸命に話していたせいで、終わってみると開放感と共に疲労が押し寄せてきている。喋ることは得意なのだが、こういう伝達にはまるで慣れていない。
 だが、彼女の語るべきことはそれで終わりではなかった。
 もう一つ、情報を伝達する訳ではないが重要な案件を預かっている。彼女とその姉妹にとっては、オディールのことよりもずっと大きな問題だった。
 頭を一つ振り、上目遣いに水銀燈の方を見る。黒衣に銀髪の少女はグラスも持たずにまだワゴンの上に居座っていた。
「それであの……その、元に……戻すことなんですけどぉ」
 少し張りの欠けた、小さな声になってしまった。彼女は顔を上げ、もう一度同じことを、今度ははっきりとした声音で言い直す。部屋の中に居る人々の視線が集まるのを感じながら、正面を見て続けた。
「後は『真紅』と『雛苺』なんですけど、誰がミーディアムになってくれるのですか?」
「巴よ。雛苺の前の契約者、柏葉巴が名乗り出てくれているのだわ」
 真紅は空になったティーカップを皿に戻し、翠星石の顔をちらりと眺める。
「二体と契約を結ぶことのリスクも了承してくれているの。もちろん、ひととおりの事情は話した上でのことよ」
 そこには僅かに誇張があったが、真紅はそこまでは言及しなかった。彼女は自分が抱いている、『真紅』を早々に呼び戻すことそのものについての懸念までは巴に話していない。
 今もただ、そちらを匂わすようなことを付け加えるに留めた。ナナが──それも悩みに悩んだ末と聞いている──一度決めたにもかかわらず、今もって自信が持てないでいることについて、ここまで来て異を唱えるつもりはない。
「もちろん貴女達が巴以外の誰かを契約者にしたければ、契約を無理強いすることはなくてよ。ナナとよく話し合って決めて頂戴」
「トモエ……ですか」
 『翠星石』はちらりと雛苺を見遣り、複雑な表情になってテーブルの上に視線を彷徨わせる。その可能性は考えていなかった。
「ヒナはそれでいーのよ」
 元気のない『翠星石』に、雛苺は自分が手を伸ばしていたチョコレート菓子の皿を押し遣った。他には誰も気付いていなかったが、それは桜田家の客間に『翠星石』が呼ばれたときに出されていたお茶菓子の中で、彼女が一番よく手を伸ばしていたものだった。
「トゥモエはね、ヒナのマスターじゃないの。今はヒナのママなのよ。ママが新しい子達と契約するなら、ヒナはがんばって応援するのよ」
「……ありがとですぅ」
 雛苺の言葉と目の前に差し出されたチョコレート、どちらに対しての言葉とも取れるような言い方になってしまった。『翠星石』自身にもよく分からなかったのかもしれない。
 まるで言い訳をするような調子だ、と思いながら続ける。
「もっと、他の人だと思ってたのです……のりとか、アプローズの好きな人とか……」
「見込み外れでしたか?」
 翠星石は漸く真紅の視線に気付いたように、椅子を降りてお茶汲みの仕事を始めていたが、その手を止めて小首を傾げた。
「のりにはまだ相談していません。でも、アホ人間──水銀燈のマスターは、巴が無理なら自分がやるって言ってくれましたよ」
 『翠星石』は顔を上げ、丁度手許のカップにお茶を注いでいる翠星石を見遣ったが、ふるふると首を振った。
「七番目とみんなが決めたことなら、『翠星石』は誰でもいいのですぅ。ただ……」
 不決断にまた顔を俯かせる。彼女らしくなく言い淀みながら、自信のなさげな声で続けた。

「『真紅』と『雛苺』の契約は、とても負担になるかもしれないって、その、大変だって思うのです。だから……
 えっと、ゆいびしさんも、『翠星石』と『蒼星石』と契約してくれましたけどぉ、ここはみんな集まってくるところですし、その、そにょ……
 あのぅ、近くに他に誰も居ない人に頼むのは、気が退けるって言うか、その人に悪いような気がして……」

 しどろもどろになり、だんだん小さな声になって行き、最後は消え入るようにテーブルの上に声が零れるような印象だったが、その場に居た全員が聴き取れる程度には明瞭な言葉だった。
 翠星石は訝しげに眉を顰め、真紅を見遣る。真紅は数回瞬き、水銀燈に視線を向けた。
 水銀燈は肩を竦めた。パントマイムの伝言ゲームの末は自分らしい。
「柏葉巴には別の問題もあるけどね。ま、その辺は真紅達にも話したから、全部承知の上なんだけど」
 水銀燈としてもここでその話をまた持ち出すつもりはない。最終的には巴の責任ということになる。薔薇乙女について十分理解し、一度は死にかけたのに、今度は異世界の出のドールと契約すると言っているのだから。
 どうやって親の目を逃れるつもりなのかは分からないが、あれだけ広い家だ。目に付かない場所があっても不思議ではない。
 ……一番の懸念材料はその点ではないのだが。
「それよりも、今はオディール・フォッセーの状態が問題でしょう。そっちを検討すべきね」
「ええ。ここはお姉様のご忠告に感謝しておくとしましょう。確かに、『翠星石』が教えてくれた情報は重要だわ。もう一度計画を見直す必要が出て来たのだから」
 真紅はちらりと水銀燈を見遣り、軽く頷いたのを確認すると紅茶を飲み干して立ちあがった。
「翠星石、雛苺、それから──そうね、『蒼星石』とナナも。またあちらの世界に行く件で少し話し合いたいのだけれど、良いかしら」

 真紅に呼ばれた面々が別室へとぞろぞろ出て行くと、その場には『翠星石』と水銀燈だけが残った。
 椅子に腰を下ろしたまま元気なくテーブルの上を見ている『翠星石』に、水銀燈はいつものようにあっさりと声を掛ける。
「何か隠してるなら、言ってしまいなさい。隠し事は苦手でしょうに」
 言いながら新しいワインの栓を開ける。オープナーを使うのもなりの小さい彼女にとっては大仕事なのだが、今回は運が良かったのか難なくセットでき、すぽんと抜けてくれた。
 両手でワインの瓶を持ち、当然のように手酌で小さなグラスに注ぐ。まるで絵に描いたような酒呑みの風情だった。
「柏葉巴では困る理由があるんでしょう。『真紅』の契約の相手として」
 『翠星石』はチョコレートに伸ばしかけていた手をぎくりと止め、上目遣いに水銀燈を見遣り、彼女が首を竦めるのを見て観念したように視線をテーブルの上に落とした。
「……はいです」
 頷くのを眺めながら、やはりそうだったかと水銀燈は頷いた。グラスを持ち上げながらにやりとしてみせる。
「入れ知恵したのは合成青薔薇、黄色い道化師のどっち? それとも兎かしらね。良かったら話して貰える? 何故困るのか、誰ならまだマシなのか」
 『翠星石』は数秒間逡巡していたが、やがて、他の子には内緒にするって約束してくれるですか、と小さな声で尋ねた。
 水銀燈は頷いた。他の子、という言葉の範疇に水銀燈の姉妹が含まれていないことは明白だった。
 真紅と翠星石がお膳立てしてくれたのは無駄ではなかった、と珍しく妹達に感謝してみる。向こうは向こうで話したいことがあるのも事実だろうけれども。


 それは、無意識の海を漂流していた。
 不定形となってしまった体は更に境界をあやふやにしていたが、取り戻したい、逢いたい、という想いは依然として強烈にそれを周囲と隔絶し、未だに一個の存在として留めている。いや、妄執と表現するのが適当かもしれない。
 求めているものが見当違い、あるいは刷り込まれた思い込みに過ぎないことを考えれば、いっそ滑稽ではあった。しかし、それだからこそ妄執は激しくそれを突き動かしている。
 前回捕獲に失敗したことは、それの意識からは消えていなかった。もう少し今度は慎重に振舞わなくてはならない。小狡いやり口をそれは知らなかったが、学習して賢くなることを好むのは生来の性質だった。
 とめどなく思考を巡らしつつ、無限の流れに漂い、何処ともなく求めるものを探し続けることは止めていない。そして、次の機会は意外に早く訪れた。

 その魂が絶望に支配されているのは「見て」すぐに分かった。それは魂にいざるような速度で近づいたが、魂はそれに気付くことはなく、胎児のように丸まって自分の中に閉じ篭っている。
 しかし、閉じ篭ることが自己を強く意識している結果とは限らない。この場合もそうだった。魂の外形は既に薄ぼんやりとし始めていた。
 それはゆっくりと魂を通り過ぎ、折り返してまた逆側から魂を観察した。
 慎重に、慎重に、という自制の感覚は、それの動きを遅くしていた。ずるずると何かを引き摺るような速度で、それは緩い流れに辛うじて逆らいながら魂にまた近づいた。
 それが見る限り、魂はドールのものだった。それが求めて止まないモノ。間違いなかった。
 薄らぎ始めているとはいえ、魂はまだ自分の形を保っている。それに比べれば遥かに気高く、意思の強いありようなのだろう。
 既に形容し難い姿のわが身に引き比べて、本来なら嫉妬心を抱くか、はっきりと憎悪してもよい相手だった。しかし、それは妄執に囚われてはいても、そういった感情は持ち合わせなかった。わが身のありようなど最初からそれにはどうでもよい事柄だったのかもしれない。
 既にどれだけ長い時間が経過したか分からないが、探し求めていたモノが目の前にある。それを拒否しないまま、今にも触れられそうなほど近くにある。
 しかし、それは自制した。
 前回は、声を掛けた時は許容して貰えそうだったのに、結局焦って失敗した。
 その前は──もう、思い出したくない。本来求めていたモノと同じ名前だったはずだが、その名前は忘れてしまった。ともかく、それは魂に手酷く拒否された。しかも酷い言葉を浴びせられ、不定形の体を強かに打ち据えられた。それは半狂乱になりながらも、怖くなって逃げた。相手も何処かに去ってしまった。
 前回も同じような顛末だった。もう繰り返してはならない。三度目こそは成功しなければならない。
 そうだ、前回も打たれたのだ。あれは細い棒のような物だった。見覚えのあるものだった。
 それは遠い記憶を呼び覚まそうとする。何だっただろう。

──ああ、そうだ。ずっとおさないころ、おばあさまがいいつけをまもらないわたしをいつもうちすえたぼうとおなじだ。

 それは不定形の体をぶるぶると震わせた。打たれるのは嫌いだった。棒が嫌いだった。打ち据えるときの相手の純粋な怒りの表情も嫌いだった。
 改めて魂を見詰める。金色の長い髪、深紅の衣装、きつく閉じられた目尻には涙が浮かんでいる。
 魂はそれが求めていたモノにごく近いように見えた。それはじりじりと近寄りながら、腕とも呼べなくなってしまった体の一部を両方ともぎこちなく伸ばす。
 魂はまだ動かない。触れるか触れないかのところで用心深く動きを止めても、まだ動かない。
 触れるのではなく、一気に抱き締めようとそれは決めた。更に近づき、二本の腕だったものを魂の向こう側に回して──



[19752] 160ほど。 うさぎおじじのアドバイスとは。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/06/18 22:34
「──それで待ってたのかぁ」
 一つ話を終わり、テーブルに着いてコーヒーのカップを飲むでもなく眺めているのりに、向かいに座った少し年下の青年はのんびりと、如何にも納得したという表情を見せる。曖昧な微笑で頷く彼女に、そっか、と今度は軽く首を縦に振った。
 席を立ち、隣室に行ってすぐに戻って来る。手に抱えて来たショールを彼女の背中に掛け、ぽん、と軽く肩を叩いた。
「だったら冷えないようにしなくちゃ。のりさんが風邪ひいたら、向こうのそのなんだっけ……ヒナちゃんも切ないだろうし」
 のりはありがとうと答えて彼を見上げた。
「コウ君も待ってみる?」
「いいのかな」
 コウ君と呼ばれた青年は小首を傾げた。
「俺なんかが居たら、来るモンも来なくなっちゃうような気がするけど……」
「そんなことないわよぅ」
 のりはぶんぶんと頭を振った。
「……でもコウ君明日学校だから、長居させちゃ──」
「──あれ、でもそれってひょっとして泊まってってもいいってことかな?」
 青年はやっと理解した、というようにぽんと片手の掌をもう一方の拳で叩いた。
「のりさんが構わないなら、そうさせて貰おうかな、俺」
 のりは顔を綻ばせた。

 彼は優しいけれども、先回りして相手の気持ちを読み取るだけの鋭さはない。だからいつも、彼女が無理に遠慮をしようとしたり、何か寂しい事柄を隠そうとすることが分かると、わざと一つ拍子を遅らせて、その前の一言の意味にやっと気付いたよ、というような振りをする。
 行動の表面だけ見れば、愚鈍だと言われて当然かもしれない。実際、引篭もって荒んでいたのりの弟が──もう、何年も前の話だが──部屋の扉越しに、謝罪に来た彼をそう罵ったこともある。だが、そう言われても彼はただ困ったような表情を浮かべて、ごめんな、と言うだけだった。
 彼にしてみれば謝りたい事情はあったのだが、のりの弟が登校拒否になって自宅に引篭もったのは、彼とは直接には関わりのない事件が切っ掛けだった。それは担任の失態と一部の生徒の嫉視混じりの揶揄が原因だったと聞かされている。
 あのとき、のりがそれを指摘して、やや見当はずれにも思える彼の謝罪の意図を糺すと、彼は唇を噛んで首を横に振った。

   ──でも俺、桜田が……ジュン君が、課題のノートに絵を描いてたの、知ってたんです。

 何故知っていたかはよく覚えていない、という。ただ、彼はそれを注意しようとしたのに、止めてしまった。
 クラスメートの居る前で声に出して注意したら、その場で大事になると考えてしまったからだ。
 もっとも、大声を出さずにジュンの耳に囁くことも出来たはずだ。だが彼はそこまでは必要ないと考えてしまった。担任は生徒を褒めるのは好きだが叱るのは嫌いという、「褒めて伸ばす」を少し遣り過ぎな傾向のある人物だったから、まさかクラスメートの面前で落書き程度のことを怒る事はないだろうと高を括っていたせいもある。
 だが、担任の「褒め好き」は度を超していた。そのノートに描かれたラフスケッチとしか言いようのないデザイン画を許可も得ずに掲示板に貼り出し、更に全校集会で名指しでジュンを褒め上げた。
 翌日からジュンが登校することはなくなった。
 贔屓の引き倒しの極みとしか言いようがない、とのりは思う。そして、数回に亙って担任が家に訪問し、担任にしてみれば誠意の篭った──そして、ジュンにとっては最悪の──クラス中からの励ましの寄せ書きやら作文の束を繰り返し見せられて、ジュンは追い詰められた。

 結局彼は、二度ばかり謝罪に来ることができただけだった。学校に出て来いとも言わなかった。ただドア越しに何かどうでもいいような話をしていて、二度目はそれなりに穏やかな雰囲気だったようにも思う。
 彼が三度目に訪れたときは、ジュンは白木の棺の中に収まっていた。
 そこまでジュンが追い込まれたのは、担任が来て、ジュンに多分決定的となる言葉を告げたからだ、とのりは思っている。

   ──先生も美術の点数はいつも良かったし、小学生のときに描いた絵が全国で入賞したこともあるんだぞ。
   ──その先生が、これは凄いって思ったんだから桜田の実力は本物なんだよ。
   ──先生な、あのスケッチ、知り合いの腕の確かな服飾デザイナーに見せたんだ。そしたらなんて言ったと思う? これは即商業ベースになるデザインですねって。
   ──凄いじゃないか。先生改めて感動したよ。やっぱり桜田の才能は本物なんだって。
   ──だから桜田は恥ずかしがることなんかないんだ。ちょっと趣味が特殊なだけで、あの絵は凄いって言ってる人も沢山居たんだぞ。桜田は一人ぼっちじゃないんだ。

 担任の言った言葉は彼なりの誠意が篭っていたのかもしれない。励ますために話を膨らませていたかもしれない。
 ただ、ジュンはデザイナーになるつもりもなければ、売り物を作るつもりもなかった。自分の目で確認できる訳でもないあやふやで恐らく錆付いた実績や、何処の誰とも分からないデザイナーの無責任な一言を根拠に実力や才能とやらを評価されても迷惑なだけだった。
 彼等には分からないし、分かるはずもなかったのだ。持っている才能を褒め上げれば満足するだろう、機嫌を直すだろう、というのは、才能とやらを中途半端に持っている人物達の視点で見たモノの考え方だった。素質を豊かに持ち過ぎていたり、あるいは逆に精一杯の努力の到達点を「才能」と取り違えられた人物には、そんなものは無意味であったり、重荷にしかならない。
 ジュンの場合は当然前者だった。元々、密やかな趣味でやっていた、誰の目に触れることもないはずのデザインラフに過ぎなかったのだ。
 自分のミスとは言え、それを勝手に持ち出されて勝手に祭り上げられた挙句、返還されるでもなく更に他人の目に晒されていたと知って、彼の小さくて脆い、しかし何物にも代え難く美しい、大切な世界は永遠に壊れてしまった。
 その晩、いつ買って置いたのか分からない睡眠薬を飲み、反吐を吐いて、ジュンはあの世に旅立ってしまった。
 彼の死は自殺ではなく事故として扱われた。直接の死因は睡眠薬の用量を守らずに大量に服用したため、意識不明のまま、催した反吐が気管に詰まって呼吸困難になったためとされた。
 多分、客観的に見てそれは正しい原因なのだろう。確かに自殺する意図はなかったかもしれない。だが、割り切れなさと自責の念はのりの中から消えなかった。
 担任は葬式で恐らく心からの涙を流した。もっと励ましてやれれば良かったと言ったのも本心からだろう。
 だが担任の誠意は他の多くの人々と同じく、そこまでのものでしかなかった。中学の制服のまま通夜に来て、そのまま何くれとなく──ただし、出来る範囲で──親戚も碌に来ず近所の手伝いもなく、両親さえも帰って来ないのりを手伝ってくれたのは、幼馴染の柏葉巴と彼の二人だけだった。

 初めて彼に自分の手料理を振舞ったのは、多分ひととおりの事が済んで、柏葉巴を自宅に送って行ってから心配そうにまた桜田家に顔を覗かせた彼が、ぐう、とそれだけは遠慮のない腹の音を響かせたときだったと記憶している。
 それから幾つもの辛いことや楽しいことがあったが、気付いてみると辛かったときはいつも彼が傍に居てくれた。
 いや、それは正確な表現ではない。彼が傍に居ないときも、辛いときにはのりの方から彼に連絡していた。彼はいつも即座に彼女の許に訪れて、彼女が納得するまで一緒に居てくれる。そして、大抵手料理一つで幸せそうな表情になり、満足そうに帰って行く。

 そして今晩もまた、都合の良い人物として、彼は文句の一つも言わずにのりの近くに居る。
 小さな少女達と昔の自分が現れたなどという突拍子もない話を決して頭からは否定せずに聞き、今はただこの部屋で徹夜をするためだけの用意をしている。
 何故泊まって行くのかと彼に問い質せば、明日美味い朝食が食べられるから、と嬉しそうに答えるだろう。それ以上踏み込んで尋ねても何も言わないに違いない。
 彼は常にそうだった。詳細は訊かず、のりの願いに応えようとしてくれる。彼のできることの限界は決して高くはないから、失敗することも少なくないけれども、そういうときには素直に謝り、どうにかしようと努力するのだった。

「この人形か……」
 彼は小さな人形を手に取った。
「俺は細かいこと分かんないけど、これって改造品だよね? すごく丁寧に作られてる」
「そうなのぅ。ヒナちゃんはそのお人形と同じ服を着ていたのよ。髪も金髪で縦ロールで……同じね」
 如何にも天使という形容が似合いそうな、小さな少女の姿をのりは思い出していた。
「もしかしたら、ジュン君が作ったお人形かもしれないわ」
 ぽつりと呟いて、案外それは当たっているかもしれないとのりは思った。並行世界というSF的な概念は聞いたことがある。その何処かの並行世界では、ジュンは生きて雛苺達と楽しく暮らしているのかもしれない。
「……そうだといいな」
 彼が微妙な言い方をしたのは、間接的な否定の意味ではないようにのりには思えた。言葉どおり、彼自身の希望がそこに篭っているのだろう。
 ジュンのことを、彼は未だに悔やんでいる。そして、多分のりに対しても大きな罪の意識を持っている。自分からそれを顕わにすることは決してないけれども、のりは最初から感付いてしまっている。全てを隠し果すには彼は哀しいほどに素朴で、嘘がつけなかった。

 彼の手の中で小さな人形はゆっくり揺れる。
 のりには、それが雛苺がこちらに急いでやって来る様子に見え、そしてもう一つ──彼の腕に雛苺のような小さな存在が抱かれてゆっくり揺すられている様子も、何故か重なって見えていた。


「幸せと……嫌な思い出……」

 黒い影が窓際に立ち、呟くように歌っている。
 窓の内側では、ベッドに横たわった少女が目を閉じてそれを聴き取ろうと集中していた。

「……優しい今が遠ざかる……」

「綺麗だけど、よく分かんない歌ね」
 何度か唱和して、自分一人でもどうやら音程を取って歌えるようになったところで、めぐは率直な感想を述べた。
 水銀燈がめぐに言った二曲目というのは、『水銀燈』のミーディアムが口ずさんでいた歌だった。最初に教えられた歌よりも更に静かで、細い声で歌っても違和感のないものではあったが、歌詞の難解なところも前の歌以上らしく、めぐは盛んに首を捻ってみている。
「歌詞をそのまま受け取ればいいのかな。日本語にはなってるけど、それだけだと薄っぺら過ぎるわ」
「深読みし過ぎよぉ」
 窓際の影──濃紺の衣装のドールは、穏やかな顔をめぐに向けた。
「歌詞なんて、ありのままを聴いて自分の勝手な解釈をするためのものじゃない」
「うん。分かってる」
 めぐはもう一度、口の中で短い歌を繰り返した。
「綺麗な歌詞ね。消えてしまいそうに綺麗。それが引っ掛るのかも」
「……ふーん」
 濃紺の衣装のドールは口だけでそう言うと窓外に視線を向けた。
 黒い、烏のような姿が近付いて来るのが見える。そう言えばそろそろ頃合か、と彼女は時間を確認した。大体いつも水銀燈が遣って来る時間帯になっていた。

 水銀燈はめぐの習得の状況にふんふんともっともらしく頷き、いつものように無駄話に花を咲かせた。いつもと同じ、ほんの数十分の来訪だった。
 唯一違っていたのは、濃紺の衣装のドールが飛び出そうとしたとき、悪いけど、と引き留められたことだった。
 彼女は大抵水銀燈の来訪している間は病室から姿を消し、その折々の用向きをしたり、外を当てもなく飛んだりして時間を潰す。帰って来ると水銀燈が入れ替わりに辞去する。そういう段取りのようなものができていた。
 両者の仲が特段に悪い訳ではないが、さりとて良くもないのだった。濃紺の衣装のドールは友達付き合いは兎も角、世慣れた会話に慣れてはいなかった。
 水銀燈は、特にめぐの前では言葉をオブラートで包むことをしない。それはめぐには楽しい話術の一環のように思えるらしいが、ミーディアムさえ殆ど持ったことのない、やや世間知らずで純粋なドールには時として耐え難いこともあった。
 彼女はまだまだ真面目過ぎるのだとめぐは言い、水銀燈も同意していたが、当のドールにはそういった認識があろうとなかろうと、比較的豊富な話題を持つ水銀燈とめぐの会話には彼女がついて行けない部分があるのは変わらなかった。水銀燈もそれを承知しているから、自分の時間はドールが出て行っている間だけと決めているような節もあった。
 めぐと水銀燈の会話を、ドールはベランダの上で聞いていた。時折同意を求められたり、意見を尋ねられたりしたが、殆どは聞き流しているだけだった。
 やがてめぐにとっては一日の中で特別な──ドールにとっては退屈な時間が終わると、水銀燈は、借りるわね、とめぐに断ってドールを屋上に連れ出した。

「一体何の用?」
 ドールは宙に浮いたまま、ベランダの縁に腰掛けた水銀燈に機嫌の良くない声を掛けた。
「用があるんならねぐらに帰ってから呼び出しなさいよぉ」
 水銀燈は目を細めて風に吹かれていた。あまり良い香りを運んで来るものではなかったが、気持ちの良い吹かれ加減の風だった。
「ちょっと他の子に知らせても良いものか迷ったのよ。悪かったわね」
 手櫛で髪を整えて、黒い羽根を一本手に取る。
「二番目と三番目の姉妹──『金糸雀』と『翠星石』が戻ったのは、感知してるわね」
「……当然でしょう」
 ドールは溜息をつくような声で返事をした。
「全部やり直しぃ。くだらないわぁ。『アリスゲーム』も何もないこんな世界で」
「ゲームがお望みなの? 貴女も」
 水銀燈は羽根の軸をつまんでくるくると回しながら、ドールを振り返った。
「『蒼星石』はゲームを遂行する方が楽だって意見だったわよ。ずっとだらだらゲームして来た私達なんかには中々理解できない心理だけど」
「似たようなモンじゃなぁい。わたしはずっと真紅を付け狙って来た。ゲームじゃなくても、命を懸けて戦って来たわ。他の姉妹だって邪魔をするなら許せなかった。何処があなた達と違うってのよ」
 感情を抑えているような声音だった。水銀燈は一つ肩を竦め、前を向いた。
「貴女と私を中心とした視点で見れば大して変わらないでしょうけど、残念だけどそれは私闘ね。要は貴女の欲求を優先してただけ」
 ドールがむっとする気配が伝わって来る。水銀燈は人の悪い笑いを浮かべた。

「私以外の姉妹と、貴女以外のドール達を比較したらどうかしら。大分事情が違うんじゃない?
 どれだけ親しく接していても常に出し抜かれる可能性を承知しながら付き合っている関係と、『アリスゲーム』が始まるまでは貴女以外に敵のない状態で楽しく触れ合える関係。
 いくら私闘の結果で奪った動力源を自分のものにできるとはいっても、ちょっと足を浸している池の温度が違うでしょう」

「知ったこっちゃないわぁ」
 ドールはぷいと横を向いた。
「わたしにとっては同じ事よ」
「そうだったわね。貴女個人にとっては、生きる事は常に戦いだったから」
 言いながら、今度はふとシニカルな笑いが浮かぶ。その言葉が相手を肯定してやるための方便に過ぎないことは、口にした水銀燈が一番よく分かっていた。

 確かにドールの半身である『水銀燈』にとって、生とは常に復讐であり、鬱憤を晴らすための戦いだった。だが、残りの半身である──そして現在のボディの本来の主でもある──名前のないドールにとっては、そのまだ短い経験の大半は、実は暖かで優しいものだ。
 刷り込まれたり融合したという記憶に影響されながらも、ドールは実際に経験した暮しの方に強く動機付けられている。静かで平穏な、そして愛する者が失われようとする中で、捨て鉢にならず自分自身で目標を定めて生きて行くことを選ぼうとしているように見える。
 それは真紅達、ドールの腹部パーツの製作に関わっていた者達が──そして、多分水銀燈の媒介本人も同じように──願ったとおりだ。だからこそ、彼女は『水銀燈』が雪華綺晶から与えられた『真紅』の動力源と、名の無いドールに入れ込まれた『蒼星石』の動力源を手放し、ナナにゲームの放棄を伝えたのだろう。
 ぬるい話だ、と思わなくもない。彼女達のゲームにおいては、持ち主達の意思などという要素に関わらず動力源さえ集めればそれだけで用が足りるというのに。

 幸いにも水銀燈の表情は彼女の背後に浮いているドールからは見えなかった。彼女はただ苛々と続きを促した。
「それで? わたしが同意したら『蒼星石』はゲームを再開するってコト?」
「貴女の同意だけじゃ、そこまで踏み切れないでしょうよ。あの子には掛け替えのない半身が居るもの」
 結菱老人の望みを巡る出来事を発端にそれぞれが独自の道を踏み出して行った蒼星石と翠星石の関係とは異なり、二体は未だに仲の良い双子だった。『翠星石』が戦いを拒めば、『蒼星石』は自分から一旦終わってしまったゲームを蒸し返すことはないだろう。
「ただ、ちょっと問題がありそうなのよ」
 笑みを消し、振り返る。ドールは薄紅色に光る瞳で水銀燈を見ていた。
「五番目か六番目が戦いを引き起こすってことぉ?」
 ドールは自分の姉妹に当たる存在のことを、名前でなく順番で呼んだ。
 彼女にとっては「しんく」と「ひないちご」は、水銀燈の姉妹であり、同じ家で過ごしている真紅と雛苺なのだろう。特に『真紅』については、名前でさえ呼びたくないという気持ちを持っていても不思議ではない。
「六番目の子は今のところ関係なさそうだけど」
 当然ながら水銀燈にはドールのようなしがらみはないが、言い方を合わせておく。同じ名前の存在が複数居る状況で、その呼び方は単純に便利だった。
「五番目の子はかなりヤバいわね」
「……真紅や翠星石が言っていた、マスターに対する依存のこと?」
 ドールの瞳が不安定に揺れた。
「状況に耐えきれないかもしれないって」
「それがまず最初にあって、貴女の三番目の姉妹が追加の情報を持って来てくれた、ってところね」
 水銀燈は前に向き直った。黒い羽根をくるりと回して、夜空を見上げる。

「……彼女は貴女を『水銀燈』として認めないかもしれない。そして、『貴女から『水銀燈』の動力源を取り返すために』貴女と戦う可能性がある」

 深呼吸するほどの間があって、ドールは怒りを感じているときの、妙に間延びした口調で言った。
「いい度胸じゃないのよぉ。受けて立ってやるわぁ」
 恐らく、顔はまたあの酷薄な、笑い人形のような薄ら笑いを浮かべているのだろう。藤色に変わった瞳が燃え上がるように炯々と光を放っているのが見ていなくても分かる。
「どうせ強制的に契約させて呼び戻すのよねぇ? ミーディアムが居る方が倒し甲斐があるってモンよ」
「多分そうなるでしょうね。本格的に戦うとなれば貴女は決定的に不利だけど」
 水銀燈自身は、冴えない表情になって行くのを止められなかった。
「どちらかを助ける、となれば五番目の子には誰かしらの応援が付くでしょう。でも、たとえ向こうが圧倒的優位を以って貴女を潰しに掛かるとしても、互角に近い戦力で立ち向かって来るにしても、貴女に味方してくれる姉妹が居ないのは同じこと」
 ぎりっ、という歯軋りの音が聞こえたような気がしたが、水銀燈は構わず続けた。
「ま、それならまだどうにか仲裁の真似事もできるんだけど。困るのはもう一つの可能性」
 ぴん、と黒い羽根を指で弾く。ビル風が吹き上げ、羽根は力も与えていないのにふわりと浮かび上がり、向こうに飛び去って行った。
「彼女は楽になるために、『アリスゲーム』を始めてしまうかもしれないってこと。言わば、盛大に周りを巻き込んだ自殺みたいなものね。貴女を認めないっていうのは、この場合はそのための建前ってことになるかしら」
 ドールが息を呑む気配がした。
 水銀燈が示したのは始まりの部分に過ぎず、『真紅』の意図の背景まで言及した訳でもなかった。しかしそれが最悪のシナリオを惹起するものであることも、『真紅』が何故楽になることを望む──その可能性がある──かということも、真紅や翠星石から『真紅』についての話を聞いたドールには容易に理解できたのだろう。
 あくまで可能性だけどね、と念を押してから、しかし何の対処もしなければほぼ確実にそうなるだろうことを水銀燈は疑っていなかった。
 それは『翠星石』がお節介で親切な「うさぎおじじ」から教えられ、乗り越えるか回避するようにとアドバイスされた二つの事項の内の片方なのだから。



[19752] 140程度。 ナナも少年もお使い。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/06/21 01:12
 真紅は鞄を静かに開け、勉強机のライトが消えていることを確認してからそっと外に踏み出した。
 他の鞄は開いていない。彼女が一旦眠りに就いたときには未だ帰って来ていなかった濃紺の衣装のドールも、今は鞄の中で眠っているようだった。
 ベッドの方をちらりと見遣り、肩を落としてやれやれと溜息をつく。今晩の翠星石は、鞄の中よりもジュンの腕の中を選んだようだった。
 二人が如何わしい事をしている訳でないことは分かっている。だがそれだけに、微笑ましさと優しい気持ちが湧いて来る一方で、仕方のない姉だという感想も持ってしまうのだ。
 嫉妬がないかと言えば、ある。自分も誰かにそうして欲しいと思うし、水銀燈に教えられた秘めやかな感覚を自分も持っているのだという自覚は、夢で見せられたような行為への好奇心も掻き立てる。
 だが、翠星石からジュンを奪う、あるいは翠星石と恋人を共有するといった感覚を真紅は持てなかった。好きだと告げてしまったことで、却ってジュンへの執着は薄れてしまったのかもしれない。勿論今もなお、彼は真紅の掛け替えのない契約者であり、彼女達の保護者のようなものではあるのだが。
 音を立てないように注意しながら身支度を整え、部屋を後にする。どうにか踏み台を使わずに済んだのは幸運だった。使っていれば引き出すときの物音で誰かしら目を覚ましてしまったかもしれない。
 ドアノブに愛用のステッキを引っ掛けたときに少々軽いような気がして気付いて確認すると、ステッキの中のラムネ菓子は半分ほどになってしまっていた。また、のりか巴辺りに頼んで買って来てもらわなければならない。どういう訳か、ラムネ菓子は一旦手を付けてしまうとその後の減りが非常に早いのだ。
 鏡の部屋に入り、人工精霊を呼ぶ。特段用向きがある訳ではないのだが、独りは心細い気がしていた。
 いつものようにすっと現れたホーリエは、数回ほど真紅を周回すると、正面に回って主の身を案じるようにチカチカと明滅した。真紅は澄ました顔でそれに答える。
「ええ、大丈夫。ちょっと散歩をするだけだもの、大したことはないわ」
「……そいつは丁度良かった」
 やや緊張感に欠ける声が鏡の中から聞こえた、と思ったときには、真紅の身体は鏡の中から突き出た二本の腕にひょいと抱え上げられ、nのフィールドに引き込まれていた。


 水銀燈は青い光球と黄色い光球を従え、鏡を潜り抜けた。
 部屋の主は既に眠っている。だが、その頭上には小さな波紋のような扉が開いていた。
 なるほどね、と呟きつつ、水銀燈はふわりと舞い上がり、躊躇することなくその扉を潜る。二つの人工精霊はすぐに彼女を追った。

 扉の中は昼間の庭園だった。
 無数の薔薇が咲き誇る中に、柏葉巴と似たような背丈の少女が青い無粋な作業着を着て佇んでいる。彼女の視線の先には、車椅子の老人と二体のドールが居た。
 老人が機嫌良く笑い、二体のドールはほんの形だけ庭園の手入れをしながら、老人の周りで楽しげな時間を過ごしているように見える。
 老人とドール達は少女には気付いていないようだった。少女の方も特に近付くでもなく、若干険しい顔つきのままじっと老人の様子を観察するだけに留まっている。その口が小さく動き、本来なら聞こえるはずのないほどの呟きが水銀燈の耳に届いた。
「──覗きはあまり良い趣味とは言えないな、誰だか知らないけど」
 少女の眼はこちらを見ていない。気配で分かったのだろう。
「僕は半分生きていて、半分死んでいる。そして、生きている半分はこの僕ではない。この僕は、今のところ何もしてはならない存在だ」
 歌うように彼女は囁いた。ほんの暫く聞いていないだけなのに、懐かしい声だった。
 水銀燈は少女から視線を逸らし、老人の方を見遣った。彼は相変わらず、変化に乏しいが楽しく優しい夢を見ているようだった。
 その手首に、糸のような細い白いものが巻き付いている事に水銀燈は気付いた。つまりはそういうこと、らしい。視線を動かすことなく少女に言葉を返す。
「それは生前貴女が関わっていたゲームと、それに関わる人々だけのこと。あの場に居る一人と二体には積極的に姿を見せても良いでしょうに」
「事情通のようだけど、少し情報が足りないみたいだね。いや──」
 少女は帽子を被った。野球帽タイプの飾り気のない作業帽だった。
「──わざとなのだろうね。今の彼の前に姿を現すわけには行かない。それは回り回って、他ならぬ僕に危険を招きかねないから。僕は死人だが、まだ生き返りたいという願望はあるんだ。それも、まだ生きている半分を見捨てて」
「贅沢な願望ね」
 水銀燈はふんと鼻を鳴らした。
「実現できるかどうか知ったことじゃないけど」
「必ず実現させるさ。ここまで来たのだから。そのために、それを阻害する要因は微力を尽くして取り除いていく」
 少女は水銀燈の居る方に背を向けた。振り返りもせずに言葉を続ける。
「もっとも、最後はある人の力に頼るしかないのだけどね。さて、長居は出来ないからお先に失礼するよ。君が誰かは知らないけど、君の身近な人達によろしく。気が向いたらでいいから、こんな存在が居ることを知らせて欲しい」
「伝えておくわ。肝心なときには黙り込むくせに普段の口が達者なのは変わらないってね」
 その言葉が終わる前に、少女は姿を消していた。水銀燈は舌打ちをして黒い羽根を一本召喚し、彼女の立っていた方に飛ばす。羽根は空を切って飛び、現実世界のように何処かに落ちることもなくそのまま小さくなって視界から消えた。
「ゲームに負けて賭けに勝った、か……」
 羨ましいとは思わないが、大したものだとは感じてしまう。
 最早至高の少女が生まれようが生まれまいが、アリスゲームで誰が勝とうがあの少女には関係がない。関わりがあるのは少女が愛した人物だけだ。彼が少女の意図に気付き、そして誰がしかの手を借りて彼女の前に現れさえすればいい。他は何がどうあったところで彼女にはさして意味がないだろう。

 さて、と水銀燈は半分溜息のように呟いた。
 予想もしなかった邂逅で少しばかり時間を取られてしまったが、今はまず予定していた行動を実行しなければならない。
 高く舞い上がり、建物の陰を重点的に探す。ほどなく、屋敷の脇の倉庫の入り口辺りに目指す相手を見付けた。
 呆気ないものだ、と思いながら倉庫の中に舞い込み、床に降りて歩いて近付く。
「……もうそのくらいで操作は必要ないんじゃない?」
「はい。もう見てるだけです」
 倉庫の埃だらけの床に何か紙のような物を敷いただけの粗末な居場所に腰を下ろしたまま、ナナは水銀燈を見上げた。
「でも、茨を巻いている間は、見てることができますから……何か起きたとき、すぐ修正できるようにしてるんです」
「自分で依頼したことがあるのに何だけど、面倒な依頼を受けたものね。手間ばかり掛って貴女には何も見返りのない依頼じゃないの」
 水銀燈は色素の抜けた細い蔓草のような茨を見遣る。手に取ればそれだけで千切れてしまいそうで、心なしか、以前めぐの夢の中で見たよりも弱々しさが増してしまったようにさえ見えた。
「……そんなことないですよ。結菱さんが楽しく過ごしてくれてるのは、見てて嬉しいです」
 ナナは微笑んでみせる。
「わたし、何かを残せないから。その場、その場で楽しんでもらえることが、いっとう目に見える成果なんです。だから、見返りはあるんです」
「そうねぇ」
 水銀燈は老人達の姿を見遣り、もう一度足許の茨に視線を戻した。伸びている蔓は三本ある。彼女は以前と同じように、夢に登場する予定の者にも自分の姿を見せまいとしているのだろう。
「自分も一緒にあの輪の中に入る気はないの?」
「ないです……」
 ナナは相変わらず自信のなさそうな口調だったが、珍しく即答した。
「わたしは、結菱さんと契約してないですから」

 水銀燈は眉根を寄せ、一瞬考え込むような素振りをしたが、すぐに何かに気付いたような顔になった。
「まさか貴女、老人の依頼じゃなくて、ドールの側から依頼を受けた訳? それも……」
 一旦老人の方に視線を向け、すぐにナナに振り向く。詰問するような口調になってしまったが、気にしている余裕もなかった。
「契約したドールを老人に印象付けて、彼の側からは契約を解除させないようにするための工作なんでしょう、これは」
 ナナは泣き出しそうな顔になった。肯定も否定もしなかったが、その顔は水銀燈の尋ねたことが全て図星を突いていることを何よりも雄弁に語っていた。
 水銀燈は手近な壁に背中をつけた。

──問題なのは『真紅』だけじゃなかったってこと。

 暗澹たる気分というのはこういうものか、と今更のように思う。
 『蒼星石』も、そして蒼星石やラプラスからの情報を持ち帰った『翠星石』でさえ、どう転ぶのか分からない危うさを抱えている。それは分かっていたはずだ。
 だがこうもあっけらかんと、契約者に恣意的な操作をするとは。しかも自分達の強力だが大雑把な能力を行使するのでなく、細かい細工の出来る能力だから、とナナに使い走りをさせて。

──そこまで歪な工作をしてでも確保しておきたいのか。元々望んで結んだ契約でもなく、自分達から解除しても良い程度のものでしかないのに。

 そう思うのは、契約を結ぶこと自体あまりなかった水銀燈だけの感覚なのだろうか。
 ナナを落ち着いて話のできる場所に呼び出す、という目的も暫し忘れて、水銀燈はべそをかく寸前のナナの顔を見詰めていた。


 少年は銀色の光に導かれるままに真っ直ぐ突き進んでいる。その場の流れも何も無視した、いやそういうものに殆ど影響されていない動きだった。
 その、ジュンのものとは違う、彼よりはやや逞しくて大きな腕の中に真紅は抱かれている。
 少年の抱き方は、ドールを抱える作法とは異なっていた。両手を使って胸元に抱え、真紅の頭を自分の左胸に押し付けるようにしている。
「蒼星石は、いつもこんな抱かれ方をしていたのかしら」
「大抵こんな感じだったかな……」
 少年は曖昧に答える。少し間を置いて、実はそれほど頻繁に抱き上げていた訳ではないが、覚えている限りではこの抱き方が一番多かった気がする、と正直に白状した。
「心臓の音が聞こえると落ち着くって言ってくれたから」
「そう」
 そう言えば彼は蒼星石のマスターではなかった、と真紅は今更のことを改めて考える。いくら結菱老人が認め、水銀燈が許した関係ではあっても、二人は毎日それほど長い時間を共に過ごしていた訳ではないし、まして恋人のように振舞える時間は更に少なかっただろう。
 様々な形の絆があるものだ。そして、自分もいつか他にない形を作っても良いのかもしれない。
 目を閉じ、少年の胸に頬を当ててみる。確かに少年の鼓動が聞こえて来る。約一秒に一回程度の、取り立てて緊張していない心音だ。
「哺乳類は自分のものより遅めの鼓動を聞くと安らぐと言われているの。あの子は、きっと普遍的な生物への──いいえ、ごく普通の人間への憧れが強かったのだわ」
「うん」
 少年は素直に頷く。真紅は目を開け、ふと気付いて付け加えた。
「もちろん、貴方への想いもとても強かったのでしょう。幾つもの要素が絡み合って、彼女は水銀燈に戦いを挑んだ……」
 顔を上げ、少年の顔を見上げる。
「……ごめんなさい」
「どうしたのさ、急に」
 少年は真紅に視線を向け、ぱちぱちと瞬いた。唐突に謝罪されて面食らってしまっている。
「謝られるような覚えは何もないけどなぁ」
「全ての連鎖の引鉄を引いたのは私なのだわ。私が雪華綺晶の処へ行こうとしなければ──」

「──誰かが近いうちに引鉄を引いてたんじゃないかなぁ」

 少年は真紅を抱く腕に力を込めることも、彼女を体から離すこともなかった。
「飽和状態っていうのかな? 多分そんな感じだったんだよ。キラキィ本人が何かアクション起こしたかもしれないし、あの紺色の子が自分で見付けて倒しに行ってたかもしれない。水銀燈が痺れ切らして乗り込んでたかも」
 前に向き直り、先を行く人工精霊を確認してややスピードを上げる。
「それとさ、真紅は気付いてないかもだけど、みんな真紅が家出した事は文句言ってたけど、アリスゲームについては感謝してると思う」
「どうしてかしら。直接の引鉄を引いたのは私なのに」
 尋ねながら、真紅は少年の言いたい事が概ね分かっていた。それでも彼に質問の形で続きを促したのは、彼の口から聞いて安心したかったからだ。子供っぽいこと、と彼女の冷静な部分が自分自身を揶揄する。
 彼は期待を裏切らなかった。恐らく、真紅の意図を深読みすることもなかったのだろう。
「誰かが引鉄を引かなくちゃならなかったからさ。でもみんな自分で引くのは厭だった。多分水銀燈やキラキィだって、本当は自分で始めちゃうのは怖かったんじゃないかな」
 真紅の巻き毛が横合いからの圧力を受けて大きく流れてしまっているのを見て、急いでそれを腕の中に挟み込むようにする。
 ごめんな気付かなくて、俺ちょっと鈍感らしくてさ、という慌てたような言葉は当然髪のことを言ったのだろうが、真紅の胸には大きく響いた。
 真紅はその言葉を別の人の口から、別の意味を持つものとして聞きたかった。聞いたところで何も元には戻らないし、むしろ短慮を謝るべき立場にあるのは自分の方なのだが、それでも言って欲しい。
 目を閉じて一つ息をつく。自分勝手な戯言に過ぎないのはよく分かっていた。
 少年はそんな彼女の心理など知らぬげに話を続けている。
「真紅がゲームに負けるのを承知で、でもそれ以上のことを考えるのを止めて引鉄を引いてくれたから、みんな罪悪感とか感じないでゲームの場面を一つ進められたんじゃないかなぁ」
 視線を前に向けたまま、だからさ、とあやすように彼女を揺すった。
「みんな真紅が家出したことには文句たらたらでも、心のどっかで真紅には感謝してるんだ。キラキィだって嬉しかったんじゃないかな……」
 それは違う、現場を見ていない者の勝手な想像だ、と真紅は反駁しようとして、止めた。
 あの進むほどに狭くなる回廊を、真紅の手を取って進みながら、雪華綺晶は無邪気な声で言ったのだ。

   ──独りではない、そう感じられるのはとても嬉しくて楽しいことでしょう?

 ちぐはぐで一貫していない行動や、それに続く苛烈なボディへの侵入の記憶に押されて埋没しかけていたが、あれも雪華綺晶の本心の一端だったのかもしれない。
 いや、少なくともその言葉を聞いた時点では、真紅はそれが雪華綺晶の本心だと思っていた。その後の悪意剥き出しの態度を見るまでは。
 もし彼女が、自分が訪れたことを「罠に掛けた」「ボディを確保した」と感じるだけではなく、ほんの僅かでも嬉しいと思ってくれていたのなら。
 真紅のしたことはゲームの進行ための歯車を動かしただけではなくて、孤独だった末妹の魂にささやかな慰めを与えられたことになる。
 暖かなものが胸の奥にあるのを真紅は感じた。平凡な意見ではあったが、自分一人の思索の中で到達したものでなく、それを外側から言って貰えたのは嬉しかった。なまじ事情を細かく知らない相手の言葉だったことも。

 しかし、それを素直に認めて感謝するには照れがある。真紅はつんと澄ました声音になった。
「──蒼星石がマスターでもない貴方に好意を寄せた理由が分かる気がするわ。言葉は稚拙だけれど人を慰めるのは下手ではないのね」
「あはは、そっかなぁ。色々足りないらしいけど」
「ええ。確かにまだまだ配慮が足りないのだわ。少なくとも本人を目の前にして文句たらたらなんて言葉を遣っては駄目。直言するとしてももう少し上品な言葉を選ばなくてはいけなくてよ」
 精進致します、と少年はかしこまった口調で答え、よろしい、と真紅は彼の腕に身を預ける。この抱かれ方も悪くないと感じていることは、この場では黙っておこうと思った。
「それよりも、まだ到着しないのかしら。あまり時間が掛る処だと行って帰るだけになってしまうのだけれど、私は」
「もうすぐですよ、可愛い師匠」
 弟子を取った覚えはないのだわ、と真紅は不服そうに言う。少年は笑って真紅の乱れた髪をまた収め、目を上げた彼女に一つの扉を指差した。
「あれだ。扉のすぐ向こうで待ち合わせってことにしてる」
 少年の声に反応するように、扉の前で銀色の光点が調子付いた動きでくるくると回ってみせた。
 真紅は頷いて傍らを見る。彼女の忠実な人工精霊は、全て承知しておりますというように悠然と加速し、前方で楽しげに動いているメイメイのところに向かった。



[19752] 240ほどですが2日分です。 ベルベットの感触にライムの味。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/06/24 22:55
 そこは薔薇屋敷をそのまま二回りほど大きくしたような洋館がある世界だった。
 巨大な庭には薔薇が咲き誇っている。空は青く、穏やかな風まで吹いていた。一瞬、物質世界と錯覚してしまうほどに整っているが、本来そこに居るべき洋館の主はおろか、人影自体一つも見当たらない。
 少年は当然のように地面に降り立ち、真紅を抱えたまま建物の脇の石段を駆け上がる。彼女からしてみれば開放してもらって飛翔した方が若干であるにしろ速いのだが、それは言わずにおく。手を掛けて運ばせているという感覚は悪いものではなかった。
 揺れる腕の中から巨大な城館風の建造物を見上げる。無機質な建物だ、と感じてしまうのは、真紅自身が東洋の島国の庶民の家々に大分慣れてしまったからかもしれない。当たり前のことだが、生活臭や使用感というものがまるでない建物だった。
 建物の中、大きな吹き抜けの底で待ち合わせ相手は待っていた。
 まるきり新品のような床に、硝子の破片と黒い羽根が散っている。腰を屈めてそれを見入っているのは水銀燈だった。
 見上げると、吹き抜けの天井は明り取りの硝子が破れている。誰がいつどうやって開けたかは分からないが、世界が作られたときからあるものではなく、後から手が加わったものであることは間違いなかった。

「何の話があるのか知らないけれど、こんなところまでわざわざ呼び出すなんて仰々し過ぎるのではなくて?
 時間制限もある場所だし、行き帰りにあまり時間が掛るようでは、話を聞くにもそればかり苦にして居なければならないのだわ。あまり適当と思えないのだけれど。
 それから、不意打ちで抱き上げる癖は直すように貴女のマスターに言って頂戴。驚いて気を失うかと思ったわ」

 挨拶もせず、立て続けに真紅は文句を並べてやった。意趣返しというつもりはないが、偶には遣り返しても構わないだろうとは思っている。常に不意打ちを仕掛けて来るのは、向こうの十八番だった。
 水銀燈は手を止め、身を起こしてこちらを向くと大仰に肩を竦めてみせる。
「その無礼な媒介に赤ちゃん抱っこされながら言う台詞じゃないでしょうに。自分の契約者でもない人間の腕の中がそんなに気に入った?」
 残念ながら不意打ちにはならなかったらしい。所作が大袈裟なことを除けばごく自然な応対だった。
「悪くはないわ。まだ研鑚が必要だけれど」
 小さな、恨み辛みの伴わない敗北感を澄ました顔の下に隠し、真紅は少年の腕の中から這い出して水銀燈の近くにふわりと舞い降りた。
「……何があったの」
「そうねぇ、特に何がって訳でもなかったわ。貴女を呼び出した時点ではね。貴女とナナとゆっくり話したい事があっただけ」
 軽口を叩いているような口調だったが、水銀燈は冴えない顔になっていた。
「媒介も雛苺に教わって鞄の見分けくらいつくって言うからアルバイトさせたんだけど、存外に早かったわね。就寝時間はとっくに過ぎてるけど、まだ起きてた訳?」
「そんなところよ」
 真紅は澄まし顔のままで答えた。
 鏡の前まで行った所でひょいと抱き上げられた、と正直に言うのは癪だったし、できればnのフィールドに向かおうとしていたことも知らせたくない。水銀燈に考える暇を与えないように素早く尋ね返す。
「今は情勢が変わったのね。教えて頂戴」
「いいでしょう、可愛いお姫様」
 水銀燈はにやりと人の悪い笑みを浮かべた。ある程度真紅が連れて来られる時の事情を理解しているのだろう。
 真紅がむっとした顔を隠さずにいると、水銀燈はすぐに笑顔を消し、翼を広げた。
「他にもお客を呼んであるのよ。あまり長いこと待たせるわけにも行かないからそっちで話しましょう」

 洋館の二階、吹き抜け沿いの廊下には幾つかの部屋が並んでいるらしい。その一つに三人は向かった。
 水銀燈に促されて少年が木製と思しい扉を開くと、そこは意外にも広い部屋だった。
 普通の部屋というよりはホールと称した方が適当だろう。広さの割に家具に類するものが極端に少なく、そして周囲に幾つも扉のある場所だった。
 バスケットコート二面くらい取れそうだな、と少年が素朴な感想を呟く。水銀燈はぷっと吹き出して、今度はライン引きとネットでも持ってくるのね、と笑った。
 部屋の中央には、所在なげに三体のドールが居た。いや、正確には『翠星石』と『蒼星石』が中央で寄り添い、そこから少し離れてナナがぽつねんと立ち尽くしている。
 水銀燈はそうした状況を気にしていないようにすいと舞い降り、つかつかとそちらに歩み寄って声を掛けた。
「こっちが呼び出したのに、待たせて悪かったわね。智恵者を連れて来たわよ」
「……あまり良い響きではない言葉ね、自分の目の前で使われると」
 真紅はぶつぶつと文句を呟いたが、三体の視線が自分に向くと優雅に一礼してみせた。どういう状況なのかは未だ知らされていないが、余裕のない仕種をするよりは良いだろう。三体の態度はそれぞれだったが、不安を抱いていることは共通しているように真紅には思えた。
 視線を上げ、それで、と水銀燈に遠慮のない口調で尋ねる。
「わざわざ私をご指名になった理由は何かしら、お姉様」
「その呼び方は止めなさいって言ったでしょう」
 水銀燈はひらひらと手を振った。実は満更でもないのではないか、と真紅はつい思ってしまう。
 ただ、そのことにほのぼのとした感慨を抱いている暇はなさそうだった。水銀燈が仏頂面のまま用件を告げたからだ。
「この件について一番真剣に思案しているのが貴女だからよ。この子達の五番目の姉妹、最高にして最も脆い『真紅』について」
 真紅は表情を引き締め、水銀燈と三体のドールを順繰りに見遣った。
 おかしなことに、彼女には水銀燈とドール達が全く違ったモノのように思えてならなかった。どちらも同じ人形のはずなのに。


「ん……」
「起こしちゃったです……?」
 もぞ、と動く気配にジュンが目を覚ますと、翠星石は起き上がりながら色の違う瞳で彼を見詰めていた。
 ジュンが他の少女達に内緒で作った寝間着は、それを着る本人の希望で味も素っ気もないシュミーズにドロワーズ、その上にくんくん探偵柄のパジャマというものだったが、作った者の確かな腕前と愛情を示すように彼女によく似合っていた。
 もっとも内緒にできたのは暫くの間だけで、すぐに真紅と雛苺にも下着と寝間着のセットを作って与える破目になった。ジュンの布団に潜り込むのは翠星石の特権と二人は考えているらしく、本来のドレスを洗っているときの着替え以外に全く必要のない衣服なのだが、くんくん柄のパジャマというところが所有欲をいたく刺激してしまったらしい。
 ひととおり全員分ということで、今は紺色を基調にした、翠星石がそれを見る度に何故か自分の胸の辺りを頻りに気にする下着とネグリジェを、それを着るはずのドールの意思も確かめずに作っている。これまでに手懸けたことのない、それなりに緊張感を楽しめる製作ではあるが、作りながらやや背徳的な気分になるのは否めなかった。
 背徳的といえば、一緒に寝るといっても翠星石とジュンのそれはままごとのようなものだった。サイズの違う唇を重ねて、後は抱き合って何かを語るか、それもせずに並んで眠りに就くかのどちらかだ。
 その気になればジュンの夢に翠星石が訪れ、まさに二人だけの世界に遊ぶこともできる。だが、翠星石はそれよりも鞄の中での安らかな眠りや、ジュンの腕の中での幸せな眠りの方を常に選んでいた。
 特に最近はジュンの隣で眠ることが多くなっている。疲労が残るのではないかと心配にもなるのだが、二日続けて鞄で寝なくても、少なくとも見た目の上では翠星石は元気一杯に遊び、食べ、働いていた。

──唯一無比の神業級の職人にして契約者、そして恋愛対象。これ以上の条件なんて望めないじゃないの。翠星石にとって、貴方の腕の中で寝るのは鞄での睡眠と同じ意味を持つってことでしょ。

 話を聞いた水銀燈はにやりとしてそう言ったものだが、その考察が正しいのか、そもそも真面目に口にした言葉なのかもジュンには分からない。
 ただ、翠星石がジュンのベッドに潜り込んで来るとき、いつも決まって寂しい表情をしているのは知っている。その原因も了解している。
 不登校とはいえジュンも中学二年生であり、人並みに性欲がない訳ではない。ある種の特殊な性向を持っていないとはいえ、薔薇乙女達が──特に、ローザミスティカを収めて自律行動している間は──ただの人形と割り切るにはあまりにも人間に近い存在であることも事実だ。
 それでも彼が翠星石の小さいが温かく柔らかい身体を抱き締めてもそういう気分を抱けないのは、彼の腕の中でしか寂しさを癒せない彼女に、まるで子供をあやす親か何かのような思いを持ってしまうことも一因だった。翠星石にとって双子の妹を失ったことは──その魂自体はnのフィールドの中で息づいていると知っていても──それほど大きな痛手なのだ、と感じると共に、それを慰めてやれるのが自分しか居ないという自負と責任感のようなものも彼の中に生まれていた。

 蒼星石がジュンの心理を知ったら複雑な表情をしただろう。
 彼女の、アリスゲームのルールに則った、しかし身勝手な行動は、彼女自身だけでなく周囲にもデメリットばかりを齎すものではなかったことになる。
 以前蒼星石自身が考えていたように、彼女が器を手放したことは、劇的ではないが確実な変化を翠星石とジュンに齎した。それが成長と呼べるほどのものかは兎も角として、翠星石は双子の妹の不在を受け容れ、ジュンは翠星石を──具体的な脅威でなく、精神的な面から──守りたいと考えるようになった。
 ただ、それが彼女の努力でなく、彼女の取った行動の副産物として齎されたものに過ぎないのは皮肉も良い所だった。結局のところ、彼女は一旦表舞台から退場することでしか二人に成長の切っ掛けを与えられなかったのかもしれない。

 ただ、そういった事情は今のところジュンには関係がない。彼は自分の間近で長い髪を纏めながら立ち上がる小さな少女を可愛いと思い、そして当然の疑問を口にしただけだった。
「どうしたんだ、まだ夜中……いや、やっと日付変わったくらいだぞ」
 彼が遅くまで起きているときに起き出して抱っこをせがんだりするのは、真紅には稀にあることだった。しかし翠星石がこんな時間に起き出すのは珍しい。
「寝られなかったのか」
「そんなことはないです。ひと眠りしましたよ」
 そう言う翠星石の声に湿っぽさはなかった。自分でも分からないです、と言う口調も、単純に疑問を抱いているだけといった風情だった。
「でも、ちょっと喉が乾いてるかもです。ライムジュースでも飲むとするです」
 ベッドから降りようとする彼女の手を、幼い恋人はひょいと掴んだ。
「僕も何か飲みたい気分だ。一緒に行こう」
 翠星石は、どういう訳か少し嬉しそうな声で、はい、と答えた。

 夜中のダイニングに最小限の明かりだけを灯し、ミネラルウォーターにライムを絞り、甘味料を少し入れたものをジュンは手際良く作った。
「ジュンに紅茶以外の飲み物作ってもらうなんて、なんか新鮮です」
「僕は紅茶淹れ専用機か何かなのか」
 口を尖らせるジュンの隣に、少し大きめのグラスを持った翠星石は機嫌良く笑って座る。
「こういう風景も、新鮮ですねぇ。翠星石の領分なのに、まるで別の場所みたいです。いっつも明かりが点いてるか、昼間ですから」
「お前の領分なんて言ったら姉ちゃんが泣くぞ」
 軽口で応えるものの、周りを見回すと確かに見慣れているはずの風景が未知のものに思えてこなくもない。
 視点が変わった訳でも、何かが違っている訳でもない。ただ明るさが違うだけなのに、雰囲気はまるで異なっている。
 酸っぱい飲み物をストローで一口啜ってから、翠星石はしみじみと言った。
「一つの要素がほんのちょっと変わるだけで、全然違った風に見えるモンですね……」
 ふと思い付いたように付け加える。
「何か大きな変化があったら、どうなっちゃうんでしょう?」
 ジュンの肩はびくりと震えた。
 翠星石の素朴な疑問は彼の記憶をどうしても刺激する。ある日唐突に、決して生易しくない大きな変化を経験したのはジュン自身なのだから。
 ただ、その刺激は思っていたよりも幾らか柔らかいものだった。既に丸一年近くになるからか、それとも別の要因かは分からないが、十人以上に上るクラスメイト達の秘められた悪意と嫉妬、謂れのない排斥などの記憶は、これまでそれを意識してしまったときよりも大分鈍く彼の心に淀んだだけだった。
「……世界が変わった、と思うかもしれないな。自分が居るところはこんな所じゃなかった、って考えたり」
 そう言いながら、逆の可能性もある、とジュンはふと考えた。
 相変わらず、そんな考察ができる自分自身を客観的に分析できるほどの余裕はない。しかし自分が口に出した言葉を冷静に検討できるだけ、彼の中で忌まわしい記憶は確実に薄らいでいると言えるかもしれない。
「どんなに絶望していても、何かが変われば、切っ掛けがあれば立ち直れるのかもな」
 それはまだ自分自身に引き付けた物の見方だということは分かっている。だが、決してネガティブなだけの見解ではなかった。
 彼は無自覚だったが、実はその言葉はドール達のことを言い当ててもいる。ただ、それはある前提がなければ意味のない言葉でもあった。
 翠星石はもう一口、よく冷えた酸っぱい飲み物をストローで啜った。
「風が良い方に変わったって思えるくらい、大きな良い事があればですけどね」
 ジュンにはそれが冷たい言葉のようにも思えたが、すぐに彼は小さな少女の真意を理解した。
 翠星石も、我が身の寂しさに引き付けて考えているのだ。そして何かを望んでいることを、彼女らしい直截さで無自覚に表明してみせたのだろう。
「そんなに大きな事件が必要か?」
 ぼそりと言い、ぷにっと柔らかい頬を指の先でつついてやる。
「僕にはお前の寂しさは、多分ほんのちょっとしか理解できない。でも、今お前が大きな哀しみを抱えていて、誰もそれを本当の意味で埋められないのは分かる気がする」

 多分蒼星石が戻って来たとしても、それが寂しさの全部を埋めることはもうできないのだろう。
 何故なら翠星石の心に開いた穴は、独り立ちすることの寂しさが開けたものだからだ。もう、二人はお互いの半身ではなくなっている。
 だから翠星石は、「蒼星石を呼び戻さない」という結菱老人の意思に反対もせず、冷静に寂しさを受け止めているのだろう。彼女が懐かしみ、何処かでその姿を求めているのは、もう何処にも存在しない、未だお互いの半身だった頃の二人なのだから。
 もう本当に、昔のようには戻れない。蒼星石が目の前に居ても居なくても、二人の道は分かれてしまったというよりも既に随分違う所を通ってしまっている。
 そんな気持ちをずるずると引き摺っている翠星石は、ある視点から見ればみっともない者なのかもしれない。
 だが、ジュンにはそんな彼女が情けないとは思えなかった。むしろ、愛しさが増すようにさえ感じてしまう。それは心の何処かで深く繋がっている薔薇乙女とマスターだからという側面はあるのだろうが、良い記憶と悪い出来事の別こそあれ、同じように過去に縛られている同士だということも大きく影響していた。
 似た者同士なのだ。傷を舐め合うことは醜い行為かも知れないが、それで二人とも前向きになれるのなら構わないじゃないか、と思う。

「……そうですね、たとえジュンでも翠星石の気持ちは分からないのです。そして、私も……例えばナナの姉妹達の絶望なんて、全然理解できないんです」
 翠星石は空になったグラスを振った。溶け残っている氷がいい音を立てた。
 ジュンはそのグラスを受け取り、傍らに置いた。
「でも、僕はお前を慰めることはできる。そう信じてる」
 微かにライムの香りのするキスを交わしながら、翠星石はつい、本当に良かったのか、と考えてしまう。

 自分達のことではなかった。
 一旦、強引な手法を採ることに賛成はしたものの、今になって疑問が湧いて来る。ナナにとって、またその姉妹達にとっても、拙速に呼び戻して成るように任せるという遣り方はやはり問題なのではないだろうか。
 例えば翠星石の寂しさなら、膨れ上がってしまってどうしても自分で癒やすことができないときにはジュンが慰めてくれる。今後どう推移して行くかも、結菱老人が何を考えているかも未だ彼女には分からないが、彼等の目論見が首尾良く成功すれば帰還した蒼星石当人が慰めてくれることもあるかもしれない。
 だが彼女達の絶望は、果たしてお仕着せの契約者達が慰めきれるものなのだろうか。
 翠星石は次第に、巨大な絶望を抱えて潰れかけているのは第二から第六までのドール全てに当て嵌まる事柄なのではないか、と思い始めていた。
 どんな方法を採っても良い、と水銀燈達を前にして言い切ったときの翠星石は、『真紅』だけが突出して脆く、そして崩れそうなものとばかり考えていた。実際に彼女の悲哀をストレートな形で見せつけられたからだ。しかし決め付けるのは早計だったかもしれない。
 こちらの世界に来てから既に何日か経ち、傍目にはずっと安定しているように見える『蒼星石』ですら、ナナへの冷たさを隠す努力を止めてしまうほど追い詰められているのだから。


 少年が胡座をかいて座っているのは、別に立っていることに疲れたからという訳ではない。ドール達の視線に合わせようとするとどうしてもそうなってしまうのだ。
 しかし、幾ら視点の高さを揃えたところで、彼には目の前のドール達をどうしてやることもできなかった。もどかしい限りだが、ドール達が求めているのは彼ではないし、状況を打開できるカードを握っているのも彼ではない。
「私の意見ならもう何度も話しているし、それは変わっていないわ。あくまで個人の意見で、それ以上でないことも同じよ」
 真紅は透明なプラスチックで出来ているステッキをくるくると回した。中のラムネ菓子がしゃらしゃらと音を立てる。あまりやり過ぎると粉になっちゃうぞ、と少年は言い、彼女は慌てて回すのを止めた。珍しく外見相応の子供っぽい仕種だった。
 底の辺りをしげしげと眺め、粉状になったラムネは見当たらなかったのか、ほっと息をついて続ける。
「……主である翠星石が賛成しているのだから、私が強く反対することはないと考えて貰っても良いわ。それに──」
 水銀燈を見て小首を傾げる。
「貴女は元々、放任主義に近かったのではなくて? 目処がついたらナナに任せると言っていたはずよ。今になって自分から音頭を取って人寄せをする意味が分からないのだけれど」
「少し誤解しているようだけど、私が貴女を呼んだのは、あの子の帰還の是非を自分で判断しようとかいう考えを持ってるからじゃないわよ」
 水銀燈は妙に面白くなさそうな表情で、ナナが持って来ていた鞄を立てた上に行儀悪く腰を下ろした。
「むしろ逆だと思って良いかもね。最初は貴女の居る前でナナにこれからの方針を話してもらって、そこで手を引くつもりだった。『翠星石』は向こう──nのフィールドであのお節介兎にいろいろ吹き込まれたらしいから、もう私の半端なお節介は要らないでしょう」
 ちらりとドール達を見る。『蒼星石』は不審そうな顔で、『翠星石』は何故か不安を隠せない表情で水銀燈を見ていた。ナナは──少し離れたところで、ただ黙然と立ち尽くしている。
「他の子達にも来てもらったのは、偶々その場に居たから。それにもう一つあるんだけど──ま、それは今のところはどうでもいいわ。兎に角『翠星石』の情報を加えたところで、ナナの最終的な判断を聞きたいし、迷っているなら貴女が助言して上げて欲しい。そういうこと」
「分かったわ」
 真紅は水銀燈に短く応えると、ゆっくりした足取りでナナの方に歩み寄った。白い木綿のシャツにジーンズの吊りズボンという、まるで装飾とは無縁な服装のナナの肩に手を掛け、少し見上げるような姿勢になりながら尋ねる。
「貴女は、もう『翠星石』から話は聞いているの?」
「はい。皆さんが居るところで、わたしも、ちゃんと聞いてましたから」
 あまり上ずらずに言えたことが嬉しかったのか、それとも気に懸けられていること自体が嬉しいのか、ナナは言い終えた後でぎこちない微笑を浮かべた。
 真紅は静かに首を振った。ナナの顔が強張りかけるのは分かったが、そこで優しい嘘をつく機転は彼女にはなかった。

「それは殆どオディール・フォッセーの話だったでしょう。
 わざわざ私や貴女達をここまで呼び出して、一旦貴女が口にしたことに変更がないか尋ねようとしたのだもの、何か重要な情報が伝えられたとしか思えない。
 私達がオディールのことについて話し合っている最中に、水銀燈は『翠星石』から別件の話を聞いていたのでしょう。違って?」

 最後の問い掛けは、振り向いた先の水銀燈に向けられていた。
「そういうこと。察しが良くて助かるわ。流石は真紅ね」
 真紅は憮然とした顔になり、水銀燈は口の端を持ち上げるような表情を作った。察しが良いも悪いもない。二人は共謀して『翠星石』を他の姉妹から離したようなものだった。
「勘違いしてるってことは、まだ『翠星石』はナナに、私の聞いた話までは伝えてないようね」
「だっ……だって、あれはぁ……そのあのぅ」
 『翠星石』は抗議しかけて何故か口篭もった。ナナは寂しい表情でそれを眺め、『蒼星石』はやや厳しい表情になった。
「……『翠星石』、ボクにも言えないことなの?」
「あっ、あぅ、あああの、しっ親しき中にも礼儀ありなのです。隠し事とかそーゆうんじゃなくてぇ、しょの……」
 真っ赤になりながら、しどろもどろになって行く。
 先程もそうだったことに気付いたのは真紅だけではなかった。
「言い難いことなの?」
 大事な双子の姉の取り乱し振りに、『蒼星石』は今度は心配そうな表情になってしまう。
「何か困ったことなら、恥ずかしがらないで話してよ。ねえ、『翠星石』……」
「あぅ……」
 視線を双子の妹に向け、水銀燈に向け、真紅を眺めてから、『翠星石』は漸く踏ん切りがついたように口を開いた。
「しょ、しょの……『真紅』のミーディアムは、多分『ジュン』以外務まらないのですぅ。こっちの世界のトモエがやってくれるって言ってるらしいですけど、多分努め上げるのは無理なのです……」
 真紅と水銀燈が視線を交わし、少年が首を傾げる脇で、『蒼星石』はほっと息をついた。
「なんだ、そんなことか」
 やれやれと言いたそうな表情で、双子の姉の手を取る。相手はびくりとしたが、その不自然さにも『蒼星石』は気付かなかった。
「それなら、別に恥ずかしがることないじゃないか。『真紅』は強い子だから、気に入らなければ契約を解除して新しいミーディアムを探せるよ、きっと。理由は分からないけど──」
「──ダメなのですぅ」
 べそをかきそうな声になってしまっていた。
「しょの、理由ってヤツがいけないのです。……『真紅』はもう、その、オトナの階段ってヤツを上っちまってるんですよぅ」

 ラプラスの魔が『翠星石』に伝えた内容の一つは、視点を変えれば滑稽で、喜劇的でさえあったかもしれない。
 それは真紅が夢で見せられ、翠星石とジュンが遭遇した事柄と符合していた。
 『真紅』は『ジュン』を愛していた。それもドールと人間という枠を超えて、はっきりとお互いの愛を意識していた。
 ただ、一緒に暮らしていた『翠星石』がそれを感付く事ができなかったように、彼等はその心情を徹底的に隠していた。ドールと人間が愛し合うということの何処かに背徳的な匂いや、『真紅』の課せられた使命に対する背信の気配、そして他の姉妹──特に契約者を共にしている『翠星石』──に対しての罪悪感などもあったのだろう。
 このときまでは、彼等の関係は多分プラトニックなものだった。
 それが一線を越えてしまったのは、あちらの世界群の世界樹が枯死してしまったときだ。
 過去も未来もなく、ただ現在だけが存在する停滞した世界。彼女達の造物主が自分の娘達だけでもそこから逃がそうと決め、『真紅』の前に現れて選択の自由があることを告げた後、彼等は結ばれた。
 綺麗な言葉を遣えば、幾らでも修飾できるだろう。しかし結局のところ、彼等はいっとき身体を重ねることに溺れた。
 主観時間でどれだけの間、『真紅』がこちらの世界群に来るまでの時間を引き伸ばしたのかは分からない。ナナ以外の姉妹は、ばらばらに扉を潜ったはずなのに、まるで全員が示し合わせたように同時に扉のこちら側に現れたからだ。
 あちらの世界群の時間が止まってしまった影響なのだろう、と推測はできるが、これも正確なことは分からない。
 少なくとも『翠星石』が早々に扉を潜る決断をしたとき、まだ『真紅』はすることが残っている様子だった。『真紅』が『ジュン』への想いを抑えつけてこちらの世界群に来る決断をするまでには相応の主観的時間が必要であったろうし、その間にも『翠星石』がいない状態で何度となく逢瀬を重ねていただろうことは想像に難くないが、何処にも確証はない。
 確かなことは、一旦抑えつけて封じ込めることに成功した感情が、雪華綺晶の工作によって蓋を開けられ、いともあっさりと燃え上がってしまったことだった。
 魂だけを心地良く都合の良い夢の中に閉じ込められ、客観的時間ではごく僅かな──高々十数時間という──時間ではあったものの、その間インターヴァルも殆ど挟まずに、あるいは一つの夢をずっと見続けていた。むしろ、たがが外れてしまわない方がおかしいのかもしれない。

「堕ちた、と表現すべきかしらね」
 水銀燈は長い息をつき、真紅に力のない視線を向けた。彼女は夢で彼等が睦み合っている場面の一部を見せられたということだが、ラプラスの魔は初心な彼女がそれに淡い興味を抱く程度の部分で留めてくれたとも言えそうだった。
「そりゃ可哀想だよ。何が起きても不思議じゃないトコまで追い詰められてたんじゃないかなぁ」
 少年はのんびりと反対した。あまりにも自然な口調だったから、水銀燈以外の誰も、彼が初めて発言したということに気付かないほどだった。
「好きな子を取るか、自分を作ってくれた人の意思を取るか、だろ。多分同じ板挟みが分かるのは……」
 少年は水銀燈を見て、その先を言わずに口を閉じた。
 買い被りも良いところだ、と水銀燈は口には出さずに考える。彼の考えている相手が半ば分かるだけに、肩を竦めたい心境だった。
 もっとも、水銀燈自身には理解のできない心境なのは間違いない。彼女には契約者に溺れかけた経験はあるが、その時点では未だゲームは宣告されてもいなかった。今聞いた話に比べれば随分と甘ったれた葛藤でしかなかった、と思う。
「──でも、新しいミーディアムが巴さんじゃいけないって、それとどう繋がるのさ」
 尋ねる『蒼星石』の声はやや硬かった。『翠星石』に真っ直ぐに視線を向け、ややトーンを落として続ける。
「キミだって『ジュン』君を置いて来たのは変わらないし、こちらのジュン君はキミそっくりの子と両想いなんだ。苦しいのはキミだって変わらない──」
 俯いていた『翠星石』は、何かスイッチが入ったように顔を上げ、『蒼星石』を睨み付けた。
「──そ、『蒼星石』はっ」
 びくりと怯えるナナを、真紅が思わず抱き寄せたほどの強い声だった。その場の全員が一瞬息を呑む間に、『翠星石』は早口で続ける。

「お前はホントに、ホントのホントに姉不幸者なのです。わたしがどんな気持ちだったのか、どれだけ悲しかったのか分かんないのですか?
 大っ嫌いな『アリスゲーム』だって、『蒼星石』を取り戻すためならって、そう思って戦ったのですぅ。『真紅』は強いくせにマトモに戦う気がなくて、『金糸雀』は弱っちいのに戦う気だけはあって、みんなばらばらでしたけどぉ……。
 そりゃ『ジュン』のことは好きでしたよ、でも『蒼星石』の方がもっともっと好きだったのです。もっともっと大事だから、だから、みんなを生き返らせるって『真紅』が言ってくれたから、おじじ達のところに戻らないで『真紅』のお手伝いをしようって。『ジュン』と『真紅』がなんかヘンな仲になってたのは知ってましたけどぉ、見てるのは辛かったですけど、『蒼星石』のためなら、我慢することなんてへっちゃらだったですから……。
 今度だってそうなのですぅ。
 『ジュン』と一緒に永遠に暮らすことなんて考えませんでしたよ、こっちに来て『蒼星石』と会えるようにって……もし、『真紅』が言ってたみたいに、みんなそれぞれに新しいミーディアムを見付けることになっても、『蒼星石』と『翠星石』だけは一緒だって……それで、そぇで、できれば何処かの世界でヒッキーやってるジュンと、って……」

 最後ははっきりと泣き顔になっていた。涙も目尻からぽろぽろと零れていた。
 泣くことを全く躊躇せず、感情を隠そうとしない傾向がある彼女だが、耐えていることが無い訳ではなかった、ということだろう。
 『蒼星石』は彼女に歩み寄り、ごめんね、と呟いてきつく抱き締める。双子の妹の腕の中で、『翠星石』はまた火のついたように泣き始めた。

 ナナが顔をくしゃくしゃに歪めているのが、彼女を抱き寄せている真紅には分かった。姉妹の大きな感情の爆発は、彼女にも影響してしまったらしい。
 真紅はナナの背中を軽く叩いてあやしながら、少しばかり感傷的な気分になっていた。水銀燈が聞けば笑うだろう。
 内に抱いている原風景が真逆と言ってよい程に異なるとはいえ、ありようとしては似たようなものだ、と考えていながらも、真紅は異世界の薔薇乙女達に微かな憧れ混じりの理想を抱いていた。各々が単体で、または他の姉妹の動力源を奪い取るだけで究極の存在に成れることを明言されたというのは、自分達とは全く違った強さを持っているということなのではないかと期待してしまっていた。
 もちろん、真紅が考える強さというものには、即物的な力は関係がない。精神的な強さ、心の持ちようの違いといったものがあると考えていた。
 自分達が不完全だというのは彼女だけでなく姉妹全員の共通認識だが、その不完全さの内容についてはそれぞれ見解は異なるはずだ。
 真紅には、それは自分達の心の在り方、特に契約者という特定の人間に依存しなければ生きて行けない脆弱さを指しているように思えている。だから、自分の仮の主である翠星石よりも、必ずしも契約者を必要としていない水銀燈の方が、至高の少女に近い──水銀燈の言い方を真似るなら、そのベースとなるに相応しい──存在だと考えていた。
 その水銀燈ですら、自分独りで至高の少女と成れる訳ではない。力ずくでローザミスティカを集めることも本人自身が否定し、今はそれが姉妹全員の認識となっている。
 奪うのでなく、戦った相手から認めて託される必要があるということは、逆に言えばローザミスティカを集めただけで至高の少女に成れるだけの能力は姉妹の誰にもないということでもある。何処かに大きく、未熟で不完全な部分があるということだ。
 一人一人が単体でも究極の少女を目指せるポテンシャルを持った存在ならば、たとえ未だ不完全ではあっても、精神的にははっきりと自立しているのではないか。少なくとも自分達などよりはよほど成熟しているか、芯が通っているはずだ、と漠然とした期待感を抱いていた。
 最高の存在であるはずの『真紅』が不安定だったことや、彼女と契約者の行き過ぎた関係を知ってしまった後も、真紅はまだ何処かで、自分が勝手に作った神話を否定しきれずにいた。『真紅』だけが強く生き過ぎるあまりに脆くなってしまったのだろうと考えたかった。
 しかし、どうやら両者の違いは彼女が思っていたほどには大きくなかったか、そもそも見込み違いだったらしい。
 彼女達もまた自分達と同じように、脆くて不完全な魂を精巧この上もない人形の器に収めただけの存在なのだ。今更のことだが、翠星石の本心の吐露でそれを再確認させられたような気分だった。

 水銀燈は、彼女にしては辛抱強く『翠星石』が泣き止むのを黙って待った。
 やがてしゃくり上げる間隔が間遠になって行き、背中をさすられて何かを耳元で囁かれた『翠星石』が顔を上げたところで、ナナに視線を移す。こちらは既に真紅から一歩離れていた。
 何処までも不器用で素朴な子供だ。真紅が隣に居てくれなければ、独りでみっともなく泣いていたに違いない。その共感の対象は、彼女の涙を蛇口から零れた水程度にしか感じないかもしれない、ということは承知しているだろうに。
 否定的なことを考えていても仕方がない。『翠星石』に視線を戻し、泣き止んだ彼女が顔を拭いているのを確認して口を開く。
「確かに柏葉巴では、『真紅』の愛情の対象の肩代わりは出来ないでしょうね。彼女はドールを溺愛するタイプじゃないし、その上これまで呼び戻した子の契約者達と違って、元々契約を結んでいた雛苺という存在が居る」
「柏葉は女の子だしなぁ」
 少年はぼそりと付け加えた。
「スケベなこと抜きにしても、相思相愛って言うのかな、そういう関係にはなれないよな、きっとさ」
「強い絆を持ち得ないとは言い切れないけど、柏葉巴の意思が義務感みたいなものだとしたら、空回りするのは必須ね」
 水銀燈は胡座をかいた少年の前に舞い降りた。
「貴方も同じ事、ってのは分かってるわね?」
「……うん。俺でもそのくらいは理解できるよ」
 少年は水銀燈に手を伸ばし、ひょいと引き寄せた。水銀燈は珍しくされるままに彼の片方の膝を椅子代わりに座り込む。少年は意外そうな顔をしたが、それについては何も言わずに続けた。
「恋人の振りなんて俺には無理だ。でも、桜田に頼んだらもっとややこしいことになりそうだよな……」
 そうね、と真紅は撫で肩をさらに小さく落とし、少年と水銀燈の方に歩み寄った。
「誰でも同じなら、そういう要素を含まない仮の契約と割り切って巴に任せてみるのはどうかしら。委細承知の上で引き受けると言ってくれたのよ」
 それが本意でなく、この場に居ない巴──それに、雛苺と翠星石──の意思を汲んでの発言であることを示すように肩を一瞬そびやかし、元気ない仕種でまた肩を落とす。
「他に良い人は居ないのではなくて?」
 言いながら、少年の、水銀燈の座っているのとは逆側の膝に腰を下ろした。
 今度は少年だけでなく水銀燈も目を丸くしたが、真紅は何食わぬ顔で居住まいを正し、少年やら水銀燈に寄り掛かるでもなく背を伸ばした。自分の発言自体に応える者が居ないことを確認して、目を閉じてつんと澄ました声で宣言する。
「座席も確保できたし、後は意見を求められたときに応えることにするのだわ。この真紅の頭脳が求められる事態は起きそうにないけれど」
「ま、貴女が大好きな推理物の事件には発展しそうもないわね」
 水銀燈はにやりとしてみせ、正面に向き直った。視線の先には三体のドールがいる。
「さて、一応新たな情報は得られた訳だけど、貴女はどうするつもり? ナナ」
 脅えさせてしまう可能性があることは分かっているが、敢えて真っ直ぐに見詰める。
 ナナはびくりとしたが、しかし水銀燈が予期したほどにはおどおどせずに彼女を見詰め返した。僅かな引っ掛かりのようなものを覚えながら、水銀燈は言葉を続ける。
「私としては、巴には『雛苺』の契約者をやってもらって、『真紅』については草笛みつか、この媒介にやらせる方が良いと思うんだけど」



[19752] 140程度。 真紅のライヴァル。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/06/27 23:05
異様に眠いです。

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(承前)

「私は──」
 ナナが口を開きかけたとき、堪りかねたような苛々した声が響いた。
「簡単なことじゃなぁい。『ホーリエ』に探させれば良いのよぉ」
 羽ばたく音もさせず、すっと高い天井の何処かから下降してきたのは、濃紺の衣装のドールだった。
 三体のドールは一様にぎくりとする。『翠星石』はほとんど反射的に双子の妹にしがみつき、『蒼星石』は片手でしっかりと彼女を抱くと厳しい視線を濃紺の衣装のドールに向けた。
 真紅は水銀燈に視線を向けた。水銀燈はやれやれといった表情になる。どうやら直に会合の場所をリークしていたか、呼びつけるかしていたらしい。
 濃紺の衣装のドールは宙に静止して一同を睥睨するような態勢のまま、白い顔に薄笑いを浮かべた。
「ドール一体呼び戻すってだけなのに、随分まどろっこしいコトしてるモンねぇ。元々アンタ達のミーディアムなんて人工精霊が勝手に見繕ってただけでしょう? 同じやり方をして何が悪いってのよ」
「……『水銀燈』」
 『蒼星石』は濃紺の衣装のドールと双子の姉を見比べ、強気な印象を与える目尻を僅かに下げた。
「久し振りだね」
「相変わらずの真面目人形ね、『蒼星石』。良かったわねぇ、情け深い『お父様』のご配慮で生き返らせて貰えて。これであなたもわたしと同じ、死に損ない同士ってところかしらぁ?」
 濃紺の衣装のドール──『水銀燈』の笑みは、底意地の悪いものに変わっていた。
「もうどうでもいいけどぉ。『アリスゲーム』は七番目の勝ちで終わってしまったんだし、今更アンタに興味もないわぁ」
「そう……でもボクはキミに話したいことがあるんだ」
 え、というように顔を上げる『翠星石』を抱いたまま、『蒼星石』は『水銀燈』を見詰める。決意を感じさせるものの、厳しさのない視線だった。
「この話が済んだら……キミに会いに行くよ。いいよね?」
「勝手にすればいいでしょう、一々断る必要があるの?」
 ありがとう、と安堵したような表情になる『蒼星石』を見ようともせず、それ以上その話題に興味はないと言いたげに、『水銀燈』は鼻を鳴らして水銀燈と真紅に向き直る。
「で、人工精霊にやらせない理由は何だっていうのよ」
「確実性と時間の問題ってところね」
 水銀燈は肩を竦めてみせた。
「その案で行くと、契約者が何処の誰になるかも、いつ選ばれるかも私達には分からない。サポートはできないってことよ。巻くか巻かないかを選んだ後で、たとえ運良くゼンマイを巻かれたとしても、偶然指輪にキスしてくれなければ『真紅』はいつまでも動かないお人形のまま。それでも構わない、って話なら別だけど」
「構わないでしょう? 説明書でも書いて入れとけば良いじゃなぁい。英語で書けば大抵の物好きは読めるわぁ」
 そう言い捨てた表情は、笑い仮面のような無機質なものになっていた。
「鞄を開けた奴にジャンクにされるようなら、そいつに運がなかったってコトよ」
「アンタってヤツは、本気で言ってるのですかっ」
 『翠星石』は『蒼星石』の腕を解いて振り向いた。
「同じドールなのに……姉妹なのに、なんでそんな冷たいこと言うのですか。『真紅』はお前のことも心配してくれていたじゃ──」
「──貴女の考えは、貴女の考えとしてもっともだと思うけど、意趣返しが透けて見えるのはちょっと頂けないわね」
 水銀燈は喚き始めた『翠星石』を遮る。つい会話に割り込んでしまったことに気付いた『翠星石』は慌てて口を閉じ、水銀燈はそちらににやりと笑い掛けた。一拍ほど間を置いて『水銀燈』に向き直る。
「以前貴女が言っていたように、全てを決めるのはナナよ。その意味では貴重な選択肢の提示ね。有難いわ」
 『水銀燈』はまた不機嫌に鼻を鳴らしただけで、そのままナナが持ち込んだ鞄のところに向かった。座るでもなく、その上に立って一同を見遣る。
「それで? 七番目のご意向ってやつは?」

 全員の視線がナナに集まる。彼女は当惑したように俯き、ちらちらと自分の姉妹達の顔を見比べていたが、やがて顔を上げて口を開いた。
「いろいろ、迷いました。できれば『水銀燈』さんの言うように、普通の契約みたいにしたい、って、わたし思ってたんです。っだ、だから、意趣返しとかじゃなくて、その……ありがとうございます」
 ぺこり、と頭を下げる。
 何を言いたいのか自分でもよく分からなかったが、彼女は不器用な言葉の中に精一杯の感謝の気持ちを込めた。つっけんどんで皮肉な言葉とはいえ、この場で強引な契約以外の方法を提示してくれたのは『水銀燈』だけだった。
 ナナには、濃紺の衣装のドールが敢えて悪者になってくれたような気がしていた。真紅でさえ、今はナナや自分の元々の意向よりも自分達の中の合意の方を優先している。その真紅達に近しい立場にありながら、あくまで自分の意見という形で別の道を提示してくれたことが嬉しかった。
 『水銀燈』は表情を動かさなかった。ただ、早く続きを言えというように顎をしゃくってみせただけだった。
「……でも、やっぱり、確実な方法が良いと思います。早くみんな揃って、力を合わせて欲しいんです」
 水銀燈と少年は軽く頷き、真紅は微笑んだが、ナナの姉妹達は何の反応も示さなかった。
 ナナも、特に反応を求めた訳ではない。それはもう諦めていた。結果で応えるしかないのだ、と思っている。それが評価されることがなくても、結果を残して行くしかない。
「誰が本当に相応しいのか、わたしには分からないです。だから……今、の事情に詳しくて、……恥ずかしいこと、ですけど、一番ご好意に甘えても良いと思う人に、契約をお願いしたいです」
「妥当な判断よ」
 真紅は生真面目な、しかし優しさを含んだ視線をナナに向けた。
「恥ずかしいことはないのだわ。立派な決断よ」
 はい、とナナは強張った表情のまま、それでも口だけ動かして答えた。
 陳腐な励まし文句だが、言葉だけの応援ではなかった。真紅はその決断を支持してくれるのだろう。
 背中を押してくれるのは嬉しいけれども、本当に良いのか、と何処かから別の声も聞こえて来るような気がする。多分、それは──いや、考えまい、とナナは背中を伸ばした。そう、『水銀燈』の言うとおり、姉妹一人呼び戻すだけ、しかも今はその方法を表明するだけだ。何が恐ろしいことがあるというのか。

「『雛苺』は柏葉さんに。それから、『真紅』は栃沢さんに……」

 蚊の鳴くような声になってしまったが、それでもつっかからずに言えた。
 いささか場を弁えない心理ではあるが、ナナはそのことに大きな安堵と同時に小さな満足感を覚えた。自分の役目が漸く果たされようとしている、そんな気分だった。
 役目を果たした後、自分がどうなるかという考えは彼女の中から綺麗に抜け落ちていた。その方が良いのかもしれない。


「ヒナ……ひな……」
 それは、ずるずると何かを引き摺っていた。不定形に崩れ、赤い部分と黄色い部分、そして肌色の部分がある何かだった。
「ねえひな、どこに行けばいいのかな。どこにも出口がないよ……」
 それは泣いていた。子供のようにべそをかいているのだが、ぐずぐずに崩れた体の通った跡に点々と水滴が落ちているだけで、他のことは傍目には分からない。
 引き摺られている何かの方には動きがない。何かの眷属の魂には明確な死はなく、ただ薄らぎ、不定形になり、最後は拡散して溶けて行くだけなのだが、何かにはそういった気配はなかった。今はただ、消えることも自我をはっきりと保つことも出来ず、その中間の状態で絶望と失意の中にのめり込んでいるのだ。
「……おばあさまがいない……ひな……おばあさまがいないよ。だから外へ出れるんだよ、ひな」
 何遍繰り返した言葉か分からない。だが、誰もその言葉には応えなかった。
 聞いているのもたった一つ、何かだけだった。
 それに捕獲されてから、何かはずっとそれの独り言を聞き続けていた。最初は何が起きたのか分からなかったが、内容を理解してからはそれのことを哀れだと感じるようになっていた。何かがそれから力を振り絞って離れようと試みなかったのは、それに哀れみと、僅かに自分を投影してもいたからだった。
 何十度目かになる呟きは、しかし何かの心にささくれを作りつつあった。
 捨て鉢になり、絶望の中に落ちていても、何かにはまだ退行していない知能があった。こんな状態になる前の、誇り高く厳しい心がそのまま残っていた。
 やがて、執拗に繰り返されるそれの呟きは、何かの心の箍を外してしまった。
「せっかくひなを見つけたのに……ひなといっしょに出たいよ……お外に行きたいよ……おばあさまのいないお外に」
「……外には出られないのよ、あなたは」
 感情の伴わない声音で何かは告げた。それはびくりと不定形の身体を震わせ、恐る恐る、拘束している何かを見た。
「どうして? なんでそんなこと言うの? ひなも、ひなみたいにいじわるするの?」
「良かった。子供に退行していても、言葉は通じるのね」
 何かはぴくりとも動かず、相変わらず無機質な声だけを淡々と発した。
「だってあなたは死人だもの。魂だけになって彷徨っている、可哀想な亡霊。だからわたしは、あなたが少しでも境遇に納得して消えて行けるように、と見守っていて上げていたのよ。今のわたしが亡霊にして上げられることはそれしかないから」
「ちが……わたし、ぼうれいなんかじゃないよ。ひな、ひなとおなじだよ、まいごなんだよ。どうしてそんなこと言うの。なんでいじめるの……」
「わたしはヒナじゃない。わたしは……」
 それの拘束の中で、何かは急速に自我をはっきりと認識し始めたようだった。
 スキャニメイトにかけたようにぐすぐずに崩れ、あやふやになっていた体が、次第に再構成されて元の姿を取り戻して行く。声音にも感情の色が現れ始めた。
「亡霊のあなたとは違うの。わたしは『ローゼンメイデン』第五ドールなのだもの」
 決して芳しい感情とは言えなかった。侮蔑と嫌悪が入り混じり、そこに哀れみが付け加えられている。遥かな昔、別の世界群で、何か──『真紅』──がある未完成の姉妹に向けたのと全く同じ、しかし本人は全くそれと気付いていない視点からの感情だった。

「わたしは自分の名前を持っている、思い出している。でもあなたは自分が何者かも忘れたまま。
 わたしは果たすべき目標、使命を持っている、自覚している。でもあなたはただ出たいと喚いているだけ、その先に高邁な何物もない。
 わたしには理想がある、近付きたい人が居る。でもあなたには向上心の欠片もない、ただ死人から逃げたがっているだけ。
 わたしには未来が在る、戻る意味がある。でもあなたには過去しかない、ここから出ても何物も待ってはいないのだわ」

 ある種の限定されたシチュエーションの下であれば厳しい励ましと取って貰えるものだったかもしれない。しかし仮に『真紅』にそういう意図があったとしても、言葉を受けた相手にとっては絶望と冷たい現実を叩きつけられただけに過ぎなかった。
 『真紅』の言葉は自分自身を持ち上げて、それを貶すものでしかない。少なくともそれにとっては、他の意味は持ち得なかった。
 言葉や思考が一見幼児期まで退行しているとは言っても、それは、未だ心の奥底に年頃らしい感受性や理解、そしてこれまでの記憶を沈殿させてはいる。そうでなければ、断片的にでも金糸雀と蒼星石が記憶に触れることは叶わなかっただろう。
 その記憶が、ドールの容赦のない言葉で一気に噴き出した。忘れたかったことも、思い出すべきだったことも全てごた混ぜになり、その場の海が一瞬奔騰するほどの勢いでそれを衝き回し、揺さ振り、水面の木の葉のように弄ぶ。

 それは絶望の叫びを上げた。もはや言葉として意味のない、ただの音声だった。

 今やはっきりと形を成した『真紅』を突き放し、よろばうように、それはずるりとその場から離れた。
 狂ってしまえれば、幸せだったかもしれない。だが、魂だけとなってしまったからか、それには狂うことも許されなかった。
 それは不定形の身体を更に歪めながら、しかし何処か白いワンピースを着た金髪の少女のようにも見える姿で、無意識の海を果てしなく落ちて行った。

 『真紅』は次第に小さくなって行くそれを、溜息をついて見守った。
「救い難いモノだったわ。どうすれば良かったと言うの……」
 彼女は彼女なりに、全き善意から、精一杯の手を差し伸べたつもりになっていた。
「……次の機会には、救えるでしょう。未だ少し足りなかっただけ……」
 自分で自分に言い聞かせる。『真紅』も後悔はしているのだった。
 「次の機会」の対象となるのは、当然ながら目の前に居たそれではない。
 殆ど消えかけていた対象だから救うのが無理だったのだろう、と彼女は考えた。次の機会があれば、そのときはもう少し状況は良いかもしれない。
 目の前に居た対象が絶対に救えないかどうか確認する、またはたとえ自分の方法が間違っているのを知っていても終焉の瞬間まで追跡して努力を諦めない、という悪い言い方をすれば執拗さ、良く言えば強い責任感のようなものは、彼女にはなかった。失敗は失敗なのだ。認めなくてはならない。
 それよりも、もっと大切なことがある。
 その使命を果たせるのは、最高の『ローゼンメイデン』であり、薔薇水晶の姦計に遭った姉妹の中でただ一体、父親から直に役目を言い付かった彼女だけなのだ。寄り道は程々にしなければならない。
 そして、使命を果たすためには──

 異変が起きたのは、その瞬間だった。


「……え、今、ここでってことなのか?」
 少年の問い掛けに、ナナはこくりと頷いてみせた。
「そりゃ……」
 少年は思わず立ち上がりかけ、膝の上からずり落ちそうになった二人の少女を慌てて両腕で抱き寄せる。金髪と銀髪の、よく見ると大分似ている二人は彼の胸の前でお互いに強く押し付けられ、同じように仏頂面になった。
 二人の口が動く寸前、少年は即座に謝って二人を解放した。被害が黒い羽根の軸で突つかれたことと薔薇の花弁で腕に擦り傷を作ったことに留まったのは僥倖だったかもしれない。
「……全く、無礼にも程があるのだわ。水銀燈、よく躾ておきなさい。一時的にしても他のドールと契約するのよ」
「ま、あまり期待しないでね。貴女のナイトのような訳には行かないのよ。元になる素材が違いすぎるから」
 むっとした表情の真紅に、水銀燈は肩を竦めてみせる。真紅が微妙な表情になったのを見て、悪かったわね、と小さく付け加えた。
「お姫様に成り損ねたものね、貴女は」
 酷く直截な言葉だが、嫌味のない口調だった。
 真紅はふうと息を吐いた。姉のずばりと切り込んでくるやり方には慣れている。今更怒る気にもなれないとばかりに、澄ました声で答えてやった。
「これから見付けるわ。ジュン以上の男の子なんて幾らでも居るもの。ただ、問題は私に見付ける器量と射止めるだけの魅力があるかどうか、それだけ」
 視線を上げ、脇を見遣って、そちらにこつこつと歩み寄ると、やや挑戦的な笑みを浮かべる。
「そうでしょう、『翠星石』。どちらが早く見付けられるか競争ね」
「えぅ……?」
 少年達の方を眺めていた『翠星石』は、意外なほど近くに来ていた真紅と、唐突に話を振られたことに慌てた様子だったが、すぐにあることを了解して頷いた。
「は、はいですぅ。負けないですよ、真紅」
 僅かにではあるが、表情が明るくなる。懸念だったことに少しだけ光が差したという風情だった。
 真紅はジュンに恋をしていた。『翠星石』は『ジュン』が好きだった。片方はまだ同じ屋根の下に暮らしていて、他方はもう二度と逢う事も叶わない相手となってしまったが、想いを遂げる前に他の者に譲り、自分から諦めたのは一緒だった。これから仕切り直して、全く一から相手を探さなくてはならないことは共通している。
 それ以外の相違点は、上げて行けば切りがないだろう。だがどちらも、今は敢えてそれを無視することにした。
「色恋に傾くのは少女の特権かもしれないけど、今度は同じ相手を好きになってしまわないようにね」
 水銀燈はやれやれという風情で言ってやった。びくりとしてこちらを向いた『翠星石』に、にやりと人の悪い笑みを浮かべてみせる。
「貴女達、案外好みは似ているかもしれないわよ」
「そんなものかしら」
「そうなのですぅ?」
 真紅は『翠星石』と顔を見合わせ、どちらからともなく不敵な笑みを浮かべる。何処となく理解できたのかもしれない。お互いにそれなりの自信と不安が入り混じっているようだった。
「もし、そうなったら負けないのですぅ。遠慮はご無用なのですよ」
「望むところだわ」
 見えない火花が交錯する、というのだろうか。どうやらお互いに良いライヴァルになり得そうな雰囲気だったが、水銀燈はぱちぱちと不揃いな間隔の拍手でそれを止めた。
「さあ、無駄話はそこまでよ。今は──」
 開けられた鞄と、そこに横たえられている深紅の衣装のドールを指差す。ナナが腫れ物に触るような調子で、不恰好だが慎重な手つきでそれを鞄の中から出してやっているところだった。少年がそっと水銀燈の肩をつつき、そちらに歩いて行く。
 真紅は微かに頬を染め、ふるふると首を振った。つい調子に乗ってしまったと思っているようだった。
「そうね。今はナナに協力しなくては。楽しい未来の話はひとまずお預けね」
「……そうですぅ」
 『翠星石』の返事には、一拍ほどの間があった。その間に彼女の視線が忙しく『蒼星石』と『水銀燈』、そして鞄から少年の手を借りて引き出される『真紅』の姿を往復したのを、真紅と水銀燈のどちらも見逃さなかった。
「まずは『真紅』を呼び戻すのですぅ。恋人探しはそれからゆーっくりやれば良いのです。ね、『蒼星石』」
「うん……そうだね」
 双子の妹は、強張った笑顔を『翠星石』に向けた。
「上手く行くといいけど……」



[19752] 240ほど。 座談会風。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/07/03 00:18
問題山積。
それまでどうにか動いてた計画(でも会社でも何でも良いですが……)
一旦反故になって再興しようとしたら、実は元通りに動かすこともままならなかった、ってことはよくありますよね(えっ、ない?)


//////////////////////////////////////////////////////////////

 何処かの初等学校の教室のような、黒板のある大きな部屋に二人は居た。蒼星石が机を幾つか黒板の前に並べ、その上に例の衣装を身に着けた金糸雀が乗っていた。
「ひとつおさらいをしましょ、蒼星石……いえ、アプローズ」
「お互いの情報を突き合わせようってことかな」
 帽子を後ろ向きに被った蒼星石は手近な席に座って微笑んだ。金糸雀は可愛らしく口を尖らせたが、不承不承頷く。今回に限っては、一方的に教示してやるとは言えない。蒼星石の持っている情報も少ないとは言えないのだ。
 もっとも、二人の情報を突き合わせたところで、長姉の持っている知識には及ぶべくもないのだろう。それを考えると今の状況が実にもどかしい。彼女と自由に話し合えるなら、澄まし顔で尋ねるだけで得られる事柄に違いない。そういう技術は、金糸雀の十八番だった。
 気を取り直し、魔法のステッキと称するもので暗緑色の黒板をコツコツと叩く。
「まず、それぞれの姉妹について、特徴と現状を確認するかしら」
「第一ドール、『水銀燈』。既に破壊されたと考えるか、彼の夢の中に居たドールと融合していると見做すか……」
 蒼星石は顎に手を遣った。早速、情報が不足していることが露呈してしまった。
「僕達が知っているのは、彼女が雪華綺晶を倒したところまでだ。本人の言葉が正しければ融合しているということだが、そんなに便利なものだろうか」
「一つになったと考えて良いんじゃないかしら。当の末妹がそれについて否定しなかったもの」
 金糸雀はその疑問については深く追求しようとはしなかった。
「彼女はあらゆる意味でイレギュラーな存在。元々が末妹と似たようなものだし、少なくとも現在の魂の半分とボディは末妹に作られたものだから、何があったって不思議じゃないかしら。それに、今回問題になるのは他の姉妹との関係ね」
「第五ドールには深い恨みを抱いているし、あの分では他の姉妹とも折り合いは良くないだろうね」
 一つ息をつく。何故なのか、と問い掛けたくなるのは自分が事情を知らないせいだろうが、それにしても。
「全ては未完成のまま放置されていたから、というのは遣り切れないな……」
 金糸雀は少し安心させるように笑ってみせた。
「でも理解者が一番多いのも彼女なのよ。争いになれば衆を恃んだ他の子達にやられちゃうかもしれないけど、今は一体だけ安定しているって言っても良いかしら」

 『水銀燈』は相変わらず離れたところから、広い室内の中程でままごとのように『真紅』の目覚めの段取りが進められるのを見守っていた。
 七番目の姉妹が水銀燈と真紅の手を借りて『真紅』を鞄から抱え出し、閉じた鞄の上におっかなびっくり座らせる。力の篭っていないドールの体は不安定に前後に揺れ、背凭れのない鞄の上では中々上手くお座りの形に出来なかったが、どうにか支え無しでも座らせることができた。
 ほっと安堵の表情になる七番目の姉妹を、『水銀燈』は哀れなものだと感じた。
 彼女が髪をポニーテールにしているのも、露出の少ない子供服を着ている理由も、全て彼女が不器用ながらも懸命に支度を整えてやっている相手に暴力を振るわれたことが原因だ。
 暴力を振るった側にもそれなりの理由があるのは、他ならぬその理由を知っている『水銀燈』には自明のことだった。その是非は置いておくとして、許すことができるかと尋ねられれば自分でも首を振るだろう。それはいい。
 だが、暴行を受けた側が、恐らく何の見返りもないそんな作業に勤しむしかないというのは哀れだった。
 自分なら絶対にあんなことはやらない。どれだけ許されない事をしたからといって、それを難詰して無抵抗の相手を壊れるほど殴り付けた者を自ら進んで復活させようなどというのは狂気の沙汰に等しい。目覚めた者がまた手を上げないという保証はないのだし、何よりも自分に手を上げたことが許し難い。
 それを唯々諾々と行ってしまう七番目の姉妹の決断力のなさが哀れだった。
 哀れと言えば、もう一つある。七番目は自分を姉妹の数に入れていない。それも確固たる意思がその裏にある訳ではなく、単純に他の姉妹が自分を──姉妹を呼び戻すという作業に従事する者という視点以外では──まるでそこに居ないかのように扱っていることを知って、それに従っているだけのことだ。
 『水銀燈』の目からは、それはおよそ主体性というものが全くない行動としか見えなかった。それが哀れだった。
 彼女は気付いている。自分のその視点は『真紅』が自分に対して見せた、あの尊大な態度を取らせた視点と全く同じであり、「自分達でない、可哀想なお人形」と見下した姿勢なのだ。
 しかし、それで何が悪いのか、と尋ねられれば自分の返答が二通りに分かれてしまうことにも気付いている。

──何も悪いところはない。七番目は哀れな存在であるからだ。『アリスゲーム』に関わることすら出来ず、『アリス』に成れない『ローゼンメイデン』など存在してはならない。それはイレギュラーな存在ではなく、許されざる僭称と言って良い。
──同じ目的の下に同じ作り手に作られた、同じようなドールではないか。そもそも『アリスゲーム』は薔薇水晶と槐一派の、さして緻密とも言えない計略で瓦解するような行き当たりばったりの代物だった。そんなモノを経由して変化する『アリス』にどんな意味があるのか。七番目は数少ない仲間なのだ。受け容れてやるべきだ。

 前者の考えは『水銀燈』としての誇りから、後者は恐らく何人もの手を経て世に出た名の無い人形としての共感から来ているものだろう。
 一度は姉妹全員を相手に大立ち回りをした名の無い人形を、真紅を始めとする姉妹達は敵でなく、あくまで仲間として扱ってくれている。それは『水銀燈』と一つになった後、彼女達の数が半減してしまってからも変わっていない。
 彼女達が皆脆弱で不完全だと自覚しているからこそ、同じように不完全な相手に親近感を覚えているのだろう。それは弱者の論理であるだけに容易に想像がつく。

──くだらないじゃれ合い。弱い者同士の傷の舐め合い。

 そう斬って捨てるべきかもしれない。だが、その気になれば容易に裏切り、または癇癪を起こしてしまえば自分達を全滅させかねない名の無い人形を、死にかけていた所を救い出して家族のように扱ってくれている。それは傷の舐め合いと表現するだけでは足りない何かを持っているのも事実だ。
 自分が雪華綺晶と水銀燈の媒介の娘であり、彼等の忘れ形見のようなものだから、という視点は、『水銀燈』となった名の無い人形にはまだ持てないものだった。
 真紅にしても水銀燈にしても、はっきりと意識してはいないだろう。だが、彼女達にとって、『水銀燈』は兎も角名の無い人形は、決して赤の他人ではなく、そしてヒトに創り出されてアリスというモノを作るための道具に過ぎない現在の自分達姉妹が初めて生み、擬似的に育てている貴重な存在でもあるのだった。
 その意味では、真紅達にとって彼女はアリスと同義と言っても過言ではなかった。『アリス』になる術や資格は既に失ってしまっていても。


「第二ドールはどうかしら」
「よく知らないとしか表現できない。僕は彼女に未だ会っていないから」
 蒼星石は「№2」と書かれた横に丁寧な書体で「Unknown」と書きつける。金糸雀は意外そうな声を上げた。
「とても整ってるけどタイプライターみたいな字体ね。最近はそういうのが流行なのかしら」
「僕は筆記を教わらなかったから、筆記体が書けないだけさ。文字は最初のマスターに新聞と本で教わった」
 蒼星石は懐かしそうな表情になった。彼女達は普段は意識していないが、過去の契約者達を完全に忘れている訳ではない。思い出そうとすれば思い出せる。魂だけとなってからも、彼女に施された記憶の枷は未だに有効なようだった。
 すぐに顔を引き締め、続きに掛る。昔のことを思い出すのはいつでもできる。幸い、体感時間はたっぷりあった。
「君のような人物なら、逢ってみたいかな」
「残念だけど、多分もう逢う事はないかしら。nのフィールドに私達が居る間には」
 金糸雀は教卓と思しき机の上に座り、両足をぶらぶらさせた。
「みっちゃんの声が聞こえたの。カナ、カナって呼んでいたわ。多分みっちゃんが契約して呼び戻したのよ」
 蒼星石は振り返り、眉間に皺が寄りそうなほど眉根を寄せた。
「それは……ナナが忌避していた方法だろう」
「第二から第六まで全員失踪している状態になったのよ。私や貴女ならどうするかしら? まずは手段は無視して結果を求めるでしょ」
 金糸雀は楽しそうに笑った。こういうときに屈託無い表情をできるのが彼女の強みだった。
「貴女が逢った第三、第四の二体も、多分同じ方法で呼び返されたのね。心が似通っていることを前提にしていない契約だから、契約相手の結菱さんの心が離れてしまうことを恐れているんじゃないかしら」
 金糸雀の言っていることは妥当な結論に思える。しかしあれは予想外だった、と蒼星石は下唇を噛んだ。
 幾らお仕着せの契約が不安だからといって、夢で印象操作をするというのは力の遣い方を決定的に誤っているとしか言えない。しかも他の姉妹の手を借りて。
 二体はナナを自分達の奴隷か道具だと考えているのだろうか。そこで唯々諾々と従ってしまったナナも如何にも未熟だが、庭師の如雨露と鋏がありながら、他者の能力を借りるというのは筋違いも甚だしい。
 結菱老人の身内である蒼星石からすれば、勝手に彼の心を弄られるだけでも許し難い部分はある。自分にもあったその能力と、犯そうとしていた罪の大きさを承知しているから、彼女は老人の企てが失敗したあの日以来、自分の鋏の本来の遣い方を封印してしまった。
 手前勝手で過去を棚に上げた考えだというのは分かっている。しかし蒼星石は二体の必死さを危うく思うと同時に失望を感じ、そのような姉妹に利用されているナナの今後についても懸念を抱くことを抑えられない。
 実は同じ場に立ち会った水銀燈も似たような思いを持っている。だが、連絡を取る術もない二人にはお互いの内心を知ることはできなかった。

 『翠星石』は後悔していた。
 結菱老人の夢に細工することをナナに依頼したのは彼女だった。『蒼星石』は最初は反対したが、結菱老人の安らぎにも繋がる事だからと説得して納得させたのだ。
 老人の夢への工作は、しかし長いことは続けられなかった。唐突に水銀燈が現れ、『真紅』の件だから告げて自分達を連れ出したのだ。彼女らしく、結菱老人にもきっちりと誤魔化すことなく断りを入れて。
 どれだけ親しい間柄であっても、目標を決め打ちして夢へ進入することはできない。nのフィールドの中、夢の扉が並んでいる場所で総当りで目的の人物を探すか、庭師達が開いた扉を潜るしかない。
 水銀燈がすんなりと老人の夢に現れたということは、眠った老人の頭上に開いた扉を潜ったことに他ならない。そして、裏で工作をしていたナナも含めてこの場に呼ばれたということは、彼女には付け焼刃の企てを全て知られてしまったと考えた方が良いのだろう。
 どちらかといえばミーディアムや契約を軽く見ている『翠星石』だが、老人に対して良くないことをしているという自覚はあった。だから今は『真紅』のことが優先だと考えていても、どうしてもそれが頭の隅にこびりついている。
「心配することはないわ」
 彼女の態度をどう取ったのか、ナナの所から離れてこちらに居た真紅がそっと彼女の手に触れてくれた。彼女はぎくりと身体を強張らせ、自分がいつの間にか両手を握り締めていたことに漸く気付いた。
 真紅は落ち着かせるように微笑んだ。
「貴女達を呼び戻したときと同じことよ。違いはここが現実世界でなく精神世界であるということだけ。方法自体は確立しているのだわ。もう四度目なのだし、安全なのは分かっているのだもの」
 そう言う真紅の顔も微かに緊張していることに気付くほどの余裕は、『翠星石』にはなかった。ただ、時折ナナがしているように、機械的に頷いてみせるのが精一杯だった。
 同じくナナの手伝いを少年に任せて数歩下がっていた水銀燈がこちらを振り向く。
「正確に言えば、もう一つ違っているところはあるわ。あいつが私の媒介だということ」
 手を繋いでいる両者を見比べて、ふむ、と頷いた。
 それが「さっきの件なら何もかも知っているわよ」という仕種に思えて、『翠星石』はびくりとしてしまう。実際には水銀燈は、先程のライバル宣言の後だけに面白いと思っただけなのだが、そちらと結び付ける考えは『翠星石』の中には湧いて来ることさえなかった。
「あぅ、ぁの、水銀燈──」
「──お姫様の仮座席っと。これでどうだい?」
 朗らか、と言うべきか呑気と言うべきか、やや間の抜けた大きな声が響いた。水銀燈はやれやれと言いたそうな顔で少年の方に向かい、彼が何処かの部屋から探して来た豪華な椅子を一瞥して、精々壊さないようにしなさい、と肩を竦めた。

 完全な第三者視点の知識を持っている水銀燈以外は誰も知らないことだが、それは薔薇水晶が『真紅』の姉妹達と戦ったときに槐が座っていた椅子ではないかと彼女には思えた。
 どうせ見付けて来るのなら、戦いの後あの人形師が人形達を修復するときに座らせていた椅子にすれば良いものを、とも思う。もっとも少年からすれば単純に手近な部屋で見付けた手頃な椅子を持って来ただけなのだろう。
 もっとも、水銀燈にしてもそれを皮肉だと思うだけで、別の椅子を探して来いとまで言う気はない。当の『真紅』ですら知らないことだし、ここは彼女達が戦った世界によく似ているだけの別の場所だ。細かいところまで気にしていては始まらない。

 お互いに減らず口を利き合いながら、二人が深紅の衣装のドールを椅子に座らせるのを、『翠星石』は強張ったままの表情で眺めた。
 水銀燈は許してくれるだろう。真紅は決して詰らずに、もうしないようにと言ってくれるだろう。正直に言えば結菱老人はきっと怒らないに違いない。工作をしたと言っても強制力のある行為ではないのだから。
 だが、『真紅』はどうだろうか?
 『翠星石』のしてしまったことは兎も角として、それに七番目のドールの力を借りたことを許してくれるのだろうか?
 分からなかった。そして、心底怖かった。
 水銀燈にも言えなかったことがある。兎頭の紳士に警告されたとおりなら、『真紅』は──


「第三、第四ドールについては、僕はよく分からない。ここで出会ったときの善良な彼女達と、契約者となった養父──結菱一葉の夢に細工をした自己中心的な彼女達が上手く繋がらない」
 蒼星石は第四ドールの部分にチョークを当てたが、そのまま動作を止めてしまった。
「不安を抱いているのは理解できる。でも、彼女達には恐らく僕や翠星石のものと同じ能力がある。養父の心を弄ぶにしても、何故それを利用せずに、ナナを巻き込んだのだろう」
「ナナの能力の方が適当だから、という理由かしら。貴女のお養父さんには気の毒だけど、良い気分にさせることなんて二の次、自分達を強く意識させることだけが目的なのだから」
 金糸雀は苦笑いした。蒼星石の鈍感さに半ば呆れている。いや、あくまで生真面目に戦って来た彼女には、自分達を印象付けるだけのために夢に介入するという二体の思惑が理解できないのかもしれない。

 二体のドールが自分達の力を遣わなかったとすれば、それがどれだけ強力で、且つ歪で罪深いものであるかを充分に把握しているからだ。
 雑草の刈り込みやら如雨露での適切な水遣りも含めて、彼女達の力は相手の本質を引き出すのでなく、本質を容易に歪め、変化させ得る。しかし肝心の、力を揮った後で相手がどう転ぶかについては状況任せにするしかない。
 意に沿わぬ方向に流れることを恐れて更に手を出して行けば、最終的には相手を完全な自分の制御下に置くことになる。それは契約者を自分達のロボットとすることに他ならない。
 対して、ナナの力は夢の主の本質や願望に沿いながら、主の希望どおりに夢の内容を変えて行くものだという。希望しない方向やナナ自身の都合の良い流れに持って行くことについては、どれだけ書き換えようとしても不可能だったことがあるというナナの言葉から類推すると、主の意思に逆らうことは基本的にできないらしい。
 自分の意思を押し付けるという点についてはまことに儚いと言うべきか、話術や行動力さえあれば幾らでも代替できる能力と表現するほかない。もちろん、ナナの力の本質は心地良い夢を見せて主の心の安息を図るものであり、それを応用して彼女自身の意思を伝えることは端から余禄、いや恐らく慮外の事柄なのだろうが。
 第三と第四のどちらが主導したのかは知らないが、二体の合意としてはその程度に夢を弄る覚悟しかなかった、というのが真相だろう。自分達を植え付ける程度の「作業」に、下手に強大な能力を揮って大きな罪を背負いたくなかっただけかもしれない。
 そんな中途半端な気持ちで契約者に対して居られるのは、最後の時代を除けば二体が戦いに──私闘の類を除いて──身を置いたことがなかったからだろう。姉妹全員が一つの時代で揃わない限り──それは感覚的に分かるものらしい──彼女達はゲームを行うことはなく、ただその時代を契約者と楽しく過ごし、時期が来れば契約者を残して鞄に入れば良かったのだから。
 幾ら深く繋がっていたにしても、それはどうしようもなく軽く、真剣味の薄い関係なのだ。だからお仕着せの契約では不安にもなるし、安定させるためには手荒な真似も厭わないのだろう。
 いつ別れが来るか分からない契約者だからこそ、溺れることも利用するだけに留まることもなく心を通わせることができるのではないか。常に戦いを意識し、隙あらば姉妹を出し抜いてローザミスティカを奪い取ろうと考えて来た金糸雀にはそう思える。

 しかし、金糸雀はその考えを表にはしなかった。自分の昏い側面に踏み込まれそうな考察までここで晒す必要はない。
 簡略に、やや別の面から見た話をしてみる。
「心の木をどれだけ手入れしたところで、相手の心を健全にすることはできても自分達を印象付けることには繋がらないかしら。鋏で工作をされたことは本人には分からないのだから。如雨露の効果は割と実感しやすいけど、翠星石がやったのか第三ドールが頑張ったのかは、いちいち恩着せがましく報告しなくちゃ肝心の結菱さんには伝わらないかしら」
 蒼星石の姿をじろじろと遠慮無く眺めて、わざとらしく溜息をつく。
「残念だけど、ナナみたいに限られた能力でも、幻を見せて誘導する方が印象操作には向いてるのよ。鋏も如雨露も強力なアイテムだけど、完全に狙って特定の記憶を創り出すモノじゃないのだから」
「……なるほどね」
 考えを纏めるような時間を置いて、蒼星石は漸く頷いた。

 確かに、如雨露や鋏は強力ではあるが、元々存在している記憶を意識下に置くか置かないかを操作しているに過ぎない、とも言える。
 それも、蒼星石自身は「切るか、残すか」しか選択して来なかった。雑草なら兎も角、どの枝がどのような記憶を表しているかは完全に理解できる訳ではない。
 心の木にしてもその周囲に生える雑草にしても、意識の上にある記憶が形を成しているものだ。仮に第三ドールや第四ドールがもっと熟練した遣い手だとすれば、鋏や如雨露を注意深く扱って細密に取捨選択し、特定の記憶を意識から遠ざけたり無意識下から掬い上げることも可能かもしれない。
 しかし、それが双子の庭師の能力の限界だ。何処まで行っても存在しない記憶を捏造することは出来ない。
 対してナナの能力は、本来の記憶そのものをなぞる訳ではない。あくまで夢を操作するものだ。
 夢に現れる幻影をある程度自由に操作できるということは、夢の主が全く持っていなかった記憶を新たに構築して行くことが可能だ、ということでもある。酷く迂遠で手間ばかり掛る行為になることは間違いないけれども、最終的には全く造り替えてしまうことも不可能ではない。
 末妹が如何に恐ろしい相手だったか分かるというものだ、とちらりと考える。彼女がもっと自在に捕食相手を選択できたら、そもそもアリスゲームなど成立もしなかっただろう。
 姉妹全員を巻き込んだ出来事となっても、結局彼女とまともに戦い得たのも、そして倒したのも彼女自身が生んだ存在だった。蒼星石や水銀燈では腕力においても相手にならなかったのだ。
 内心で強く首を振り、それ以上考えるのを止める。雪華綺晶が居なくなった今は余分な思索に過ぎない。

「僕の見た第三ドールは、少なくとも自分の姉妹に対しては寛容さと優しさを持っていた。翠星石によく似ていたよ。ただ……」
 ふと、そこに結菱老人の夢に安易に工作してしまえる理由の一端が見えるかもしれない、と思いつつ、言葉を続ける。
「双子の妹のことに一所懸命になり過ぎている。他のことが見えなくなって、何もかも後回しにできる程に」
「貴女達だって、どちらかが消えてしまったら呼び戻そうと必死になってもおかしくないかしら」
 金糸雀は言ってから自分の言葉のおかしさに気付いたようだった。くすくすと笑いながら第三ドールと第四ドールの更に左側に小さく丸を付ける。
「よく考えたら、私達今は幽霊みたいなものかしら。でも翠星石は水銀燈から貴女のローザミスティカを奪うところまではテンパってないみたい」
 要するに、蒼星石が呼ばれていないという事実に気付いたらしい。蒼星石は苦笑した。
「僕達はお互いの他に、多分もっと大切なものを見付けてしまったから」
 翠星石はジュンとその周囲の人々を、自分に至っては契約した相手だけでなく水銀燈の契約者まで。
「だから僕は安心して器を手放せた。翠星石も寂しさを抑えてくれている」
 一旦空いている方の手を胸元に置き、目を閉じて自分の大切な人々に短く思いを巡らしてから、しかし、と蒼星石は呟いた。
「呼び戻す呼び戻さない、は別として、第三ドールは第四ドールに気を回し過ぎているように見えるんだ。まるで彼女を守ろうとしているように」
 白いチョークで第三ドールのところから第四ドールの方に矢印を描く。
 流石に金糸雀も難しい顔になった。小首を傾げ、やや口を尖らせて尋ねる。
「対等の関係じゃないってことかしら。第四ドールの方は?」
「僕が出会ったときは、彼女は殆ど自分を失いかけていた。まだ姿は保っていたけど、心は無に還りかけていた──」

 言いながら、ふと自分の言葉に何かの着想を得たような気分になる。
 あのときは自己の姿をどうにか保っている『蒼星石』が目的を見失っていることを訝しく思ったが、逆の見方をすればあれほど虚無に近い精神状態で姿を保てている方がおかしい。普通なら不定形に崩れていて然るべきだし、既に溶けて消えてしまっていても不思議ではないはずだ。
 『翠星石』の方は逆だった。より一層崩れた状態であり、自分の名前は同じように見失っていながら、何かを探すという意識だけは強く持っていた。逆を言えば彼女の方が彷徨っていた時間は短く、自己を保とうともしていたはずなのに、何故か崩れて行くのが速かったことになる。
 何か、もやもやしたものが形を成しつつある。だが、取り敢えずそれの考察は後回しにしておこう、と蒼星石は思った。今は別件を話している最中だ。

「──そんな状態だから、彼女が第三ドールに対してどういう心境で居たのか、現在どうなのかは僕には見当が付かない。二人の関係は対等かもしれないし、一方的である可能性もある」
 むう、と金糸雀は今度ははっきりと不満そうに口を尖らせた。
「彼女の正体は第二ドール並に不明ってことかしら」
 そうだね、と蒼星石は苦笑して肯定するしかなかった。
「ナナの話では、姉妹の中で一番優しいということだった。だが、第四ドールと話した雰囲気では、彼女が強弁するほどには素晴らしい人格者ではないように僕には思えた」
 『翠星石』は『蒼星石』の話になると、見ていて哀れなほど妹を立てていた。それは、大好きだから、双子の妹だから、という範疇を軽く越えてしまっているような気がする。
「翠星石も貴女を結構高く評価する傾向はあったけど……」
 金糸雀はにやりと笑った。何処か水銀燈によく似た、人の悪い笑い方だった。
「私達は、末妹以外はゲームが始まるまで一つ屋根の下に居て、みんなお互いの性格をよく知っていたから。翠星石が貴女を誉める言葉は話半分で聞き流してたかしら。あの子自身もそれを承知で吹かしてたところもあるかも」
「それは……コメントしづらいな」
 蒼星石としては苦笑いが止まらない。
「帰ったら問い詰めることにしようか」
 金糸雀は何故かぎくりとした。
「ちょ、ちょっと、問い詰めるのは良いけどカナの名前は出さないで欲しいかしら。絶対ダメよ」

 相変わらず少々詰めの甘い姉に、分かったよ、と頷きながら、先程浮かんだ思いにまた何かが付け足されるのを蒼星石は感じていた。
 仮に翠星石が姉妹の前で『翠星石』が自分に話したことと同じ内容を喋っていたとしたら、さぞかし生温かい視線で見られていたことだろう。
 だが、たとえ同じ誇大な内容を同じような調子で並べていたとしても、そこには大きな違いがある。
 翠星石が蒼星石を過大に誉めたとしても、その言葉は要するにお遊びに過ぎない。受け取る相手もいつもの法螺や妹自慢だと思って流すだけのことだ。ついでに言えば、褒め言葉だけでなくそれなりに悪口も言ってくれたに違いない。
 しかし、『翠星石』はどうなのだろうか。自分に向けた言葉には切実な響きがあった。まるで、自分自身に言い聞かせているような、黒を白と思い込もうとしているような必死さが垣間見えた。
 何故、彼女はそこまで妹を庇おうとしたのだろうか。いや、恐らく今現在も庇っているに違いない。
 第四ドールには何か秘められた謎があるように蒼星石には思えて来た。それも、大いなる力を秘めているといった類のものではなく、何か暗い影のようなものが纏わりついているように思えるのだ。


「可愛いお姫様ってとこね」
 椅子に座らされた『真紅』を見た水銀燈は率直な感想を述べた。脇に立っている自分の五番目の姉妹と椅子に座らされたドールを遠慮のない視線で交互に見遣り、にやりとする。
「貴女の方が少し面長ね。もう少し縦に圧縮された方が可愛らしくなれるかもしれないわよ」
「いきなり無茶なことを言わないで頂戴」
 真紅はむっとした顔をしてみせたが、目は笑っていた。
「そうね、この子の方が目も大きいし、可愛らしいでしょう。優しく笑っていれば……」
「意味深な前提ね」
 水銀燈は真紅を見、そこから視線を転じて『水銀燈』を見詰める。視線の意味に気付いたらしい『水銀燈』が音もなく近付いて来るのを確認してから、ふっと息をついて肩を竦めた。
「まあ、案ずるより産むが易しとも言うし、まずは実践してみることが重要でしょ。やってみなければ始まらないわよ」
「そうね。時間的な猶予も無限ではないし」
 真紅は懐から懐中時計を取り出して時間を確認した。
 時計は、ゲームに敗北した扱いになり、翠星石と仮の契約を結んでいる今でも変わらない力を宿している。薔薇の花弁は相変わらず飛ばせるものの、ローズテイルのような大技は使えなくなってしまったと聞いているから、今の真紅にとってはその時計で物の時間を巻き戻すことが唯一の技だと言っても過言ではない。
「客観的時間であと十四分十七秒。私がその程度ということは、貴女達はもう少し余裕がないということかしら」
「……もうだいぶ少ないですぅ。七分四秒だけです」
 『翠星石』は慌てたように答えた。『蒼星石』をちらちらと見て、先に扉を潜ったのはわたしでしたよね、と念を押す。肯定されてほっとしたような表情になり、言い訳のように付け加えた。
「三十分で完全にアウトかどうかは分かんないですけど……」
「ま、急いだ方が良いのは確かね」
 水銀燈は真紅の隣に濃紺の衣装のドールが並んだのを見て、『真紅』の椅子の脇で行儀悪く胡座をかいている少年に軽く頷いてみせた。
 少年は相変わらずぽつねんと立っているナナに目を遣り、彼女がぺこりと頭を下げるのを見てから一挙動で立ち上がった。
「じゃ、ちゃっちゃと契約して、ゼンマイ巻いてトンズラと行きますか」
 『翠星石』がむくれて口を尖らせる。
「酷い言い方ですぅ。そんな粗略に扱うなですぅ」
「そうね。言い方には気をつけなさい、おこがましくもこの真紅の弟子を名乗るのならば」
 はいはい、と水銀燈のように──それは実は元々記憶を失う前の彼がしていた動作だったが──肩を竦める少年に笑みを向けてから、真紅はおやというような表情になった。隣に居たドールが彼女を庇うように一歩前に出たからだ。
「──何かあったら逃げて」
 他の者には聞こえないほどの小さな声で、『水銀燈』は真紅に向き直らずに告げた。
「何もないことを祈っているわ」
 真紅は『水銀燈』の手に触れた。
「私達にも、貴女達にも」

「……俺じゃ役者が足りてないかもしれないけど、頑張るよ」
 少年は金髪のドールの指に指輪を嵌め、それが淡い光を放ってドールの指のサイズになるのを驚いたような顔つきで眺めてから、息を大きく吸って吐き、それに唇を付けた。
 指輪が強い輝きを放ち、同時に少年の左手の薬指にも赤い輝きが生まれる。それが収まったとき、元からあった方の指輪は変化することはなく、デザインが異なる二つめの指輪が出現していた。
 詳しい事情を知らない少年は特にそのことに驚きや感慨を抱くこともなく、慣れた手つきで片手をドールの背中に回し、手に持ったゼンマイ巻きを器用に穴に嵌め込むと、きりきりと数回回した。
 後はもう、何度目かになる光景が繰り返されるだけだった。暫く巻いてやるとゼンマイ巻きは独りでに回り始め、ドールの長い睫毛が震え、身体がぎこちなく動き出し……


 蒼星石は金糸雀と並んで机の上に腰を下ろしていた。
 金糸雀は相変わらず魔法のステッキを振り回したりポーズを取ったりしてみているが、日曜日の朝のアニメのようにそれが光線を放ったり力場を生じさせたりすることはない。彼女は形を求めただけのようだった。
 あるいは単純に番組中にコマーシャルが流れる玩具が欲しかっただけなのかもしれない。どうも見た目の質感はそちらに近いように思える。
 そんな子供子供した仕種をしながら、彼女の言葉は相変わらず淡々としたものだった。
「第五ドールは特別な存在って話よね。水銀燈が真紅をアリスのベースと成るモノだと考えていたような意味かしら」
 蒼星石は自分の帽子を手に取り、後ろの部分にある周長の調整を少し弄ってからまた被り直した。
「少し違うかな」
「どういう風に?」
 金糸雀は振り返って肩越しに黒板を見上げた。第五ドールのところには未だ何も書かれていない。
「水銀燈が考えていた、アリスを生むベースとなるための条件がリーダーシップやカリスマ性にあるのだとしたら、確かに彼女はそれを持っている。他のドール達にはない特徴かもしれない」
 自分の姉妹で言えば、真紅だけでなく水銀燈や翠星石にもそれはあるように思える。雪華綺晶も場合によっては持っていたのかもしれない。
 いや、戦いを経てきた自分達には誰にでも持ち得る資質だったのかもしれない。最も幼い雛苺ですら、鋭い視点と暖かな心情とを併せ持って他者に接することもできるのだから、それが少しずつ成長して行けばいつかはカリスマを持ち得たのだろう。残念なことに、そうなる前に彼女は盤上から降りてしまったが。
 『真紅』の姉妹達には見事にそれが欠落している。少なくとも蒼星石自身が接触した四体を見た限りではそう思えた。
「しかしそれだけじゃない。彼女は動力源の争奪戦においても優遇されていた。彼女達のゲームでは動力源さえ集めればそれで事足りたのだから、人望があって敵が少なく、実力が兼ね備わっていれば、有利なのは明らかだ」
 薔薇の花弁は攻防どちらにも利用でき、自力で物の時間を巻き戻すことが可能で、腕力も強く、やや短いもののその特徴に見合った得物であるステッキを持っている。飛び道具と近接武器を両方ながらに持っているのは『水銀燈』も同じことだが、周囲全てが敵という訳でないのは大きく有利な点だろう。
「偽りのゲームが終わった後、第五ドールだけが『お父様』から特別なメッセージを受け取っている。第四ドールと第六ドールのことは、彼女が背負っていくべき罪なのだと……ナナからの伝聞だけど、水銀燈も大体似たような話をしていた」
「第五ドールがそう言っていたって話なら、間違いないでしょう。ナナがそこで嘘をつく理由はないのだから」
 そういえばそんな話も聞いたことがあったかしら、と言ってから、ふぅん、と金糸雀は鼻を鳴らした。
「要するに、エリートなのね。蜂の巣で言えば次期女王蜂ってところかしら」
 微妙な喩えだったが、確かにそんなものかもしれない。ある種の蜂は働き蜂となるべき幼虫の中から一匹を選んでロイヤルゼリーを与え続け、女王蜂に育て上げる。『真紅』がとりわけ良好な環境で育てられたのかどうかは兎も角、女王蜂と働き蜂の関係は確かに第二から第六のドール達に当て嵌まるものだった。
「でも皮肉なものね。ゲームを遂行する必要がない、姉妹を戻せという作り手の言葉もナナが実行してしまう……ってことになったら、彼女が持っていた有利さは意味がなくなるかしら。もっとも、私達の知らない究極の存在になるための条件があって、彼女はそれも兼ね備えているかもしれないけど」

「むしろ、兼ね備えていた方が良いのかも知れない」
 蒼星石は机の上に立ち上がり、一番高いところに横に長い楕円を描いた。その中に『真紅』の名前を書きつけ、黒板消しを片手に持って、先に書いておいた一覧の中の第五ドールの部分を消す。
「昔どうだったかは分からないけど、雪華綺晶に心を閉じ込められるまでの彼女はこんな位置にあって、彼女自身もそれを認めていた」
 金糸雀が同意するのを待って、楕円の中の名前に取り消し線を引き、また一覧の中に「№5」を書き入れる。
「もし他の姉妹と条件が同じであれば、今はこうなってしまったかもしれない。それを彼女は受け容れられるだろうか?」
「多分無理かしら。特に、末妹に捕獲されるまでは彼女が音頭を取って今後の身の処し方を指導していたのだもの」
 金糸雀は何故か笑いを浮かべた。皮肉な笑いには見えなかったが、内心はどうなのか分からない。彼女は無邪気な顔の裏で冷徹な計算をすることも出来るのだから。
「そうね、末妹に一挙に捕獲されてしまったのも、元はと言えば彼女が末妹のことなど無視して分散を指示したから、だったわね。考えてみれば彼女のメンツは丸潰れかしら」
 二人は顔を見合わせ、そして何とも言えない表情になった。
「僕はとんでもないことを考えたよ」
 冴えない表情のまま、蒼星石はぼそりと言った。金糸雀は今度は分かりやすい顔をした。乾いた笑いを浮かべたのだ。
「奇遇ね。カナもとんでもないことを思ったところよ」
 力のない笑い方で、声も立てずに笑う。
「第五ドールは他の姉妹が居ないところでひっそりと目覚める方が彼女のためには良いって」
「僕の方が余程悪い考えだな」
 蒼星石も苦笑した。
「このまま呼び返さずに留めておいた方が、ナナ達のためには後々良いだろうと考えていた。冷血って言われるかもしれないね」
 金糸雀はそれについてはコメントせず、ただ水銀燈がよくやっていたように肩を竦めてみせた。
 その仕種を眺めながら、水銀燈はどう考えているのだろう、と蒼星石は思った。あまり深くは考えようとはせずに、全員を復活させようとしているのだろうか。
 それはそれで正しい遣り方だろう。しかし、その後の苦労は並大抵のものではないようにも思えてならなかった。



[19752] タイムアップにて130ほど。 バトルドール。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/07/03 01:22
 ゆっくりと大きな目が開かれ、やや弛緩したような、まだ夢見心地の柔らかな微笑が浮かぶ。
 少年の手が離れ、震えるように動き出すドールを、水銀燈は周囲の一同ほどは警戒せずに見詰めていた。
 人形というよりは漫画やアニメーション的な可愛らしさだった。その非現実的な雰囲気が彼女を更に美しく見せているのかもしれない。
 自分達にはないものだ、と水銀燈は緊張気味の自分の妹の横顔をちらりと眺めて思う。真紅の顔も子供子供した部分は持っているものの、どちらかと言えば「生きているような」愛らしさだ。サイズを一回り小さくした美しい子供、というのが正しい表現なのだろう。
 恐らく違いはごく微妙なところでしかない。だが、似ているだけにそれが浮き立つということもある。大抵の場合は負の方向だろう。
 目覚めたときに似た者が目の前に居ることが、ドールの心にどういう効果を齎すかは分からない。しかし何かが起きる可能性は承知していても水銀燈は真紅を先に帰す気にはなれなかった。真紅自身も第五ドールの目覚めを見届けずに去ることなど考慮してもいないようだった。
 彼女を守るように立っている『水銀燈』に視線を移し、随分飼い馴らされたこと、と口には出さずに考える。
 やはり自然に人を集める雰囲気が、真紅には備わっているのかもしれない。口が達者でつんと澄ましている外見とは裏腹に、彼女には情に篤い心と自分が危地に飛び込むことも厭わない精神がある。懸命に意地を張っているだけの弱者の姿、と言ってしまえばそこまでなのだが、殊に独りで居る者にとっては心惹かれる存在ではあるのだろう。
 残念なことに、水銀燈自身はそういった心の動きよりも、真紅に対してはゲーム上の敵としての意識が強かった。真紅の周りに群れることよりも、自分がゲームに勝ち抜くために、そういった性質を持ちながら本人は決して強くはない真紅を優先して倒す方を選んでいた。
 ゲームを遂行するための役回りだとしたら、随分忠実だったものだと思う。それがいきなり情報を与えられ、自己流の解釈でゲームに刃向かおうと決めたというのは、よく考えてみれば矛盾もいいところだった。結果としては、どうやら水銀燈のした事は全て、ゲームを壊すのではなく遂行する方向に働いてしまったらしいが。

 初めは若干ぎこちなく、次第に滑らかな動作になりながら、ドールは蒼い瞳で周囲を見回した。
「──螺子を巻かれたのね、わたしは」
 落ち着いた声だった。左手を持ち上げ、薬指の付け根を見る。そこには薔薇の指輪があった。
「一体、誰が……」
 物憂げな声だった。そのまま視線を上げてもう一度周囲を見回し、双子の姉妹のところでその視線を固定する。
「……『蒼星石』」
 口調には非難めいたものはなく、ただ驚きだけがあったが、ナナはぎくりと身を竦めた。呼び返してくれたことを驚きもせず、さりとて有難うと言うでもなく、何故だと問い掛けるでもないということは……。
「契約したのは俺だよ」
 少年はナナを後ろに庇うような姿勢になりながら、自分が契約したドールと視線の高さを合わせる。まずは相手と対等な視点に立っているのだと知らせて、不安を取り除こう、と彼らしくもなく気を遣ってみたつもりだった。
「いろいろあってさ──」
 彼の姿を見て、『真紅』は一気に覚醒し、ここまでの記憶を取り戻したようだった。少年の言葉尻に被せるように、早口で詰問する。
「──あなたは誰? 『ホーリエ』! あなたが選んだの?」
 明らかに彼からの返答は求めていない口調だった。
 誰一人止め立てができる間もなく、甦った主の求めに応じて赤く輝く人工精霊が即座に現れ、忙しく何度も瞬く。『真紅』はみるみる内に表情を強張らせた。
「……なんてこと……そんな」
 第五ドールの呟きを聞きながら、真紅は冷たい汗が流れるのを感じた。正直者の人工精霊は、自分の主に聞かれたところを自分の知る範囲で余すことなく伝えたに違いない。そういう風に作られているはずだ。
 『真紅』の視線はもはや屈み込んでいる少年を一瞥することもなく、その背後で呆然と立ち尽くしているナナに向けられている。顎が引かれ、大きな瞳は上目遣いになっていた。

 随分余裕のない動作だ、と水銀燈は見て取り、声には出さずに自分の人工精霊の一体を召喚した。決して口応えせず、そして時間を無駄にしない黄色い人工精霊は委細承知とばかりに開いている扉の向こうに消えて行く。
 真紅がこちらを向くのを確認して、水銀燈は無言で頷いた。真紅は二、三度瞬き、自分の人工精霊を呼んで呆然と立ち尽くしている双子のドール達の方向に向かわせる。

 そんな光景を気に留めることもなく、『真紅』は椅子から飛び降り、少年を一顧だにせずその脇を抜けて大股にナナに歩み寄る。既に表情は厳しいものに変わっていた。
「説明をして頂戴。これはどういうことなの」
 ナナはびくりと肩を震わせた。
 『真紅』ははっきりと怒りの視線を彼女に向けている。身長の差のせいで上目遣いとなり、下から睨み上げるような姿勢になっていた。
 どういう訳かナナには、その姿が以前のような圧力を伴ったものには見えなかった。その代わりに、剥き出しの怒りと遣り場のない憤りがかつて対峙した時よりも一層明確に表れている。
「こちらの世界の、第七ドールが、みんなの魂を体から離してしまったんです。誰も気付かないうちに、みんなを」
 少しつっかえたものの、ナナは吃らなかった。
「残ったのはわたしだけでした。だから、わたしは兎に角早くみんなを呼び戻すことだけ考えて──」
「──どうして? それがどれだけおぞましいことか、あなたは知っていたはずでしょう」
 問い掛けの形は取っているものの、『真紅』の口調は断定的だった。
「殊勝なことを言っていても、一度力を得れば傲慢になるのね。あなたはやはりジャンクだった。わたしが恐れていたとおりの、哀れな出来損ないのお人形──」
 きっと顔を上げ、真紅を後ろにして仁王立ちしている『水銀燈』を睨みつけ、またナナの顔に視線を戻す。

「──その『水銀燈』の形をした偽物のドールと同じだわ。
 あなたは所詮、『ローゼンメイデン』としての資格も持たない、『アリスゲーム』のために『ローザミスティカ』の最後の一つを保管しているだけの存在なのね。『アリス』に成ることも出来ない、動いて生きているだけの可哀想なお人形。
 だからこんな酷い裏切りができるのね。あなたが姉妹とさえ呼べない、わたし達『ローゼンメイデン』に対して。
 わたしはあなたを赦して、『雛苺』の『ローザミスティカ』を貸してあげていたのに。あなたの言うことを尊重してあげたのに。それなのに……。
 みんなが許すなら姉妹として数えてあげようとさえ思っていたのに。たとえ『アリス』に成れなくとも、同じ『お父様』が作られたドールなのだからと考えようとしていたのに……」

 そこで言葉を切る。何かの効果を狙ってそうしたというよりは、自分の内側から湧き上がってくる感情の昂ぶりが声を失わせたといった風情だった。
 沈黙が辺りを包む。直截な、そして『蒼星石』に昨晩明かされた事柄を数段具体的にした言葉を至近距離で叩きつけられたナナは、結局いつものように何も言えなくなって黙り込んでしまった。他の者もそれぞれ驚愕や諦め、あるいは他の思惑を抱いたまま、敢えて自分からは口を開こうとしなかった。
 重苦しい空気を最初に震わせたのは、ややハスキーな声だった。
「……ねえ『真紅』、キミは」
 『蒼星石』はある意味でこの場の雰囲気に相応しい、何処か恐る恐るといった風情の口調で尋ねる。

「……本当に『真紅』なの?」


「カナ……これはみっちゃん的には大変なことを引き受けちゃったかもしれないわー」
 みつは鞄を開き、その中で眠るように横たわっている金糸雀のボディに語りかける。言葉が金糸雀に伝わるかどうかは定かではなかったが、別にそれはどちらでも構わない。単に何かに向けて愚痴を溢したいだけだった。
 薄緑色の髪のドールが漸く眠りに就いたのは、日付が変わって暫くしてからだった。
 それまでの間、ドールが何かをねだったり我儘を言ったりしてみつを困らせるようなことはなかった。ただ、みつから決して離れようとしなかったのだ。
 みつもドール好きとしては人後に落ちないことを自負する一人である。実際のところ殆ど人間と変わりのない金糸雀にシャワーを浴びせたり風呂に入れたりといったことは除くとしても、風呂やトイレに普通のドールを連れて行きたいと考えたことさえある。
 しかし、実際に自分からトイレに付いて来られると、流石に色々と恥ずかしくあったり、狭い中での場所の問題があったりして予想していたよりも遥かに大変であることを思い知らされる結果になった。
「明日まともに出勤できるかな……」
 鞄を閉じ、ぶつぶつとぼやきながら、ドール棚の上のドール達の手入れを気の抜けた仕種で行う。
 金糸雀が居たときは次第次第に彼女に任せるようになっていたことを、また全て自分一人でするようになっている。当然ながら昔は全部一人でこなしていたのだが、一度任せてしまった後では少なからず大変に思えてしまう作業だった。
「やっぱりちょっと強引な方法を遣ってでもジュンジュンを引き込んで、結菱さんのところでお店開くのがいいかもね……」
 オトナのイロケを使っちゃおうかしら、とくねくねとしてみせ、暫く間を置いてからふうと溜息をつく。誰も見ていないことを今更ながら気付いたのだ。
「ま、みっちゃんはめげないけどね」
 少し大きな声で自分に気合を入れ、金糸雀がしていた作業を、彼女の毎日やっていた分だけ進める。
 いつ彼女が帰って来るかも、そもそも帰って来るという約束が確実に履行されるのかも分からない。しかし、根拠もなくみつは金糸雀の帰還を信じていたし、帰って来るまでは、と卵焼きは砂糖抜きにしたままでいる。
 彼女が帰ってから三日間は、ゲームに勝って帰ると約束したことを守らなかった罰として砂糖抜きにすると決めたからだ。いつ帰って来るか分からないのだから、帰ったその日の卵焼きが砂糖入りでは意味がない。

「それにしてもねー……」
 今は硝子テーブルの上に置かれている、大きさもデザインも金糸雀のものとよく似た革の鞄を見遣る。その中には、先ほど家に来たばかりのドールが眠っていた。
「幾ら別人って言っても、こんな斜め上の違いは考えてなかったわ。よっぽど『みっちゃん』とラブラブ天驚拳だったのかしら」
 流石にそれはなかろう、と思いたかった。文字どおり何処までも一緒というのは、幾ら何でも社会生活を行う面で無理があり過ぎる。
 長い探索の末、それも一度は死んでしまったような状態を経験したから、一時的に心のリミッターが解除されているのだろう。いや、そうでなくては困る、とみつは切実に思った。
 このままでは身が持たない。それこそ薔薇屋敷で店を開くなりして一日の二十四時間全てを他人の目を気にしなくて良い状態にできない限り、愛情に飢えているこのドールの要求に十全に応えることはできないだろう。
「早く帰ってきて欲しいな、カナ……」
 そうしたら、少なくとも自分が出勤している間の世話だけでも気にせずに居られるようになる。金糸雀にしてみればいい迷惑以外の何物でもないだろうが、今の生活を守るためには泣いてもらうしかない。
 みつは知らなかった。金糸雀が現在どういう姿を取っているか、そして何を目論んでいるのかを。知っていたら、せめて他人の世話が出来る年齢の姿を取れと言ったに違いない。
「それにしても、ねぇ……」
 もう一度呟く。先程よりも勢いがなくなってしまっているのは、眠気と疲労感がどっと出てきたからだ。
「こんな状態じゃ究極の何かを目指してるなんて言えないわよー、『金糸雀』ちゃん……何かリミッター解除されるようなイベントでもあったのかな」
 その件に関しては、みつは知らない訳ではなかった。ただ、眠気のせいで結びつかなかっただけだ。
 まさに心の箍を綺麗に外してしまい、それがあったことすら忘れさせるような出来事が、『金糸雀』達にはあったのだから。


「突然、何を言い出すの」
 『真紅』は怒りを収めきらない表情のまま、蒼星石を睨むように見詰めた。
「わたしはわたしよ。誇り高き『ローゼンメイデン』第五ドール、『真紅』以外の何者でもないわ」
「……うん……でも」
 『蒼星石』は一旦言い淀んだ。目を伏せ、暗い表情になったが、もう一度前を向いて続ける。

「キミの言ってることはとても『真紅』らしい──キミらしい、高潔で正しい考えだと思う。
 七番目に対して、どうやっても蟠りを捨てられないのはボクも同じさ。可哀想なドールだとは思うけど、七番目が薔薇水晶を見過ごしたのを許すことはボクにはできない。
 姉妹として認めようと考えたこともあったけど、七番目自身がそれを望んでいないことも分かった。もう彼女を『ローゼンメイデン』として認める必要もないと思う。だから、彼女のしたことを赦す必要もない。それもキミと同じ考えだ。
 でも、ボクの知ってる『真紅』というドールは、そんな、今みたいなことを決してみんなの前で口に出すことはなかったんだ」

 そこまで言って、『蒼星石』は真紅と水銀燈それぞれに視線を送る。真紅が水銀燈を見遣り、水銀燈は軽い頷きを『蒼星石』に返した。
 『蒼星石』は頷き、何かを耐え切れないようにぶるぶると首を振ったが、再び『真紅』に視線を向ける。『真紅』は表情をなくした顔で、しかし黙って彼女を見詰めていた。
「キミはもっと、ずっと自制が利いていた。薔薇水晶と出会ったことさえ口に出さずに、一人で抱え込んでいたじゃないか。今のキミは、確かに『真紅』だけど、でもボクの知ってる『真紅』とは違うんだ。まるで──」
「──よく分かったわ。でも」
 『真紅』は表情を消したまま、低い声で『蒼星石』を遮った。
「よりによってあなたにお説教なんてされたくないわ。戦いのことしか考えず、何も知らない姉妹を斬り捨てたことさえあるあなたなんか……」

「止めるですっ!」

 『翠星石』は大声を振り絞った。ナナがびくりとし、水銀燈が思わず眉根を寄せるほどの大音声だった。
「そ、『蒼星石』を悪く言うのは止めるのです。そ、そりゃ昔は感情も殆どなくて、ただ『アリスゲーム』のことしか考えられなかった子でしたけどっ」
 水銀燈は思わず耳を疑った。それは彼女の知識には断片的にしかなかった事実だった。
 彼女が毒気を抜かれたような表情になったことに気付いたのは、反射的に彼女を見た少年と真紅だけだった。

──まさか、あっちの状態が本来の姿だったってこと?

 水銀燈の知識の中では、それは十九世紀末から二十世紀初頭に掛けてのイギリスの大都市──恐らく首都のロンドン──での事件だった。当時、『蒼星石』はどういう訳か非常に好戦的で、現実世界の街中で『真紅』と派手に遣り合っていた。
 その時代で、彼女は『真紅』との戦いの最中にふらふらと現れた『水銀燈』を鋏で両断したのだ。『真紅』がままごとのように大事に育てていた、腹部のない可哀想なドールを、その腹部を狙って。
 非情な行為と言ってしまえばそれまでだが、戦いの流れの中、相手に対しての情報の少なさが生んだ事件だったとも取れる。『水銀燈』は自分が第一ドールだと表明したのだし、『蒼星石』の視点で見れば『真紅』の加勢に現れたように見えても無理はない状況だった。
 やや不整合があることは承知しつつも、その場での戦いが斬り捨てられた『水銀燈』が消えた時点でなし崩し的に終わったことや、その後の時代の『蒼星石』の言動から類推して、水銀燈は──そして多分記憶を失うまでの「彼」も──後者の方が可能性として高いと判断していた。
 義理堅くはあっても目的のために手段を選ばない傾向のある蒼星石と、彼女とは際立って異なるように見える『蒼星石』の表に出た個性の差に幻惑されていた部分も大きいかもしれない。無意識のうちに、「生真面目だが善良で優しい」というステレオタイプに当て嵌めたがっていたのだろう。
 確かに『蒼星石』は蒼星石とは全く異なるメンタリティを持っていた。しかしそれは、これまで予想していた形とはまるで違っていたらしい。

「たとえ『真紅』でも、許さないのですぅ……。
 『蒼星石』は、もう戦うだけしか能がない戦闘人形なんかじゃないのです。
 『翠星石』がずーっと、ずーっとずーっと一緒に居て、マスター達にも良くしてもらってぇ、それで、そぇで、今じゃホントに強くて優しい自慢の妹なのです。相変わらず姉不幸者ですけど……。
 で、でも、今はちゃんと感情もあって、もう自分一人でもマスターの面倒が看れる、姉妹で一番の子なのですよぅ」

 べそをかき始めた『翠星石』の肩を、『蒼星石』はそっと抱き締めた。
「もういいよ、『翠星石』。もういいよ」
 言いながら、抱いた肩越しに、真紅の前に立っている『水銀燈』を見詰め、それから『真紅』に振り返る。
「……あのことは、きっとボクの一生の罪なんだ。だから否定なんてしないよ」
 あくまで優しい、まるで舞台役者が精一杯感情を込めて台詞を喋っているような調子で『蒼星石』は言った。
「だけど、さっきのはお説教じゃないよ。ボクが──戦えない『翠星石』を守るために、彼女の対なる存在として作られた、感情さえ殆ど持たない戦闘人形が──見たままの感想なんだ。キミは変わってしまったんだ。いつからなのか、長いこと彷徨っていたボクには分からないけど」



[19752] 270ほど。 壊れて出現。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/07/08 23:14
 『真紅』の沈黙は短かった。
「わたしが変わった……?」
 一瞬だけ、瞳が不安定に揺れる。だが、それだけだった。彼女はやや低い背を真っ直ぐに伸ばし、手の届く位置に居るナナを無視して身体ごと双子に向き直った。
「誰でも変わって行くことはあるものよ。あなた自身が良い例でしょう。違って? それとも、あなたのその表情や仕種は哲学的ゾンビの反応に過ぎないの? 独りぼっちの『翠星石』が長い時間を掛けて感情を持たないドールに植え付けた成果なのかしら」
「そういう意味じゃないんだ」
 『蒼星石』は淡々と言葉を返す。
 静かな口調だったが、ナナはびくりとする。あくまでナナの視点ではあるけれども、『蒼星石』は急激に、まるで昨晩自分が彼女の禁忌に触れたときのような機械的で冷たい態度に変わっていた。
 第四ドールが戦闘用として作られたという事について、ナナは詳しいことは知らなかった。過去に『水銀燈』と戦い、斬り捨てた事件程度しか見ていない。あの当時には既に感情を持っていたはずだ。
 だがそれよりも、彼女がまた冷たくなってしまったのが、何かの前触れのように思えて苦しく、切なかった。
 観客の思いなど知る由もなく、『蒼星石』は淡々と続ける。
「自分では分からないんだね。今のキミが、ボクには感情に任せて言葉を吐き出しているだけに見えるんだよ。昔のキミはもっと冷静で、それに何もかも全て背負い込んでいたの──」
「──それはもう聞いたわ。わたしは冷静よ。ご忠告ありがとう」
 皆まで言わさず、投げつけるように告げ、慇懃そのものの仕種で双子の方に優雅に一礼した。くるりと踵で向きを変えて再びナナに向き直る。
「もしわたしが冷静でないように見えるのだとしたら、このドールの裏切りが原因でしょう。嘘を吐いてまで『雛苺』を自分のものにしようとしているのだもの。許せないわ」
 蛇に睨まれた蛙のように惨めに消沈し、硬直しながら、ナナはのろのろと首を振った。
「……そ、それは、違います。っわ、わたし今はもう……ろ、『ローザミスティカ』は返しました。っそ、それで今は」
「言い訳は要らないわ。いいえ、何を言っても無駄よ。だって、あなたから感じるのだもの。『雛苺』の『ローザミスティカ』の気配を」
 一歩前に出て、顔と顔を突き合わせるほどの距離からナナの顔を見上げる。
「出しなさい。そして返しなさい、わたしに。もし本当にもう体内に取り込んでいないのなら、すぐにこの場に出せるはずでしょう?」
 ナナはぱちぱちと二、三度瞬き、吊りズボンの腹部のポケットに震える手を入れる。そこには水銀燈から手渡された小さなケースが入っていた。

 手許に帰ってきたホーリエをちらりと見ながら、真紅は後悔の念を抱いていた。

──『蒼星石』の指摘は正しい。

 『真紅』は、かつての名の無い人形が自分達と邂逅したときを思わせる、剥き出しの感情──殊に憎悪──の投げ付けに終始している。
 冷静になって一呼吸置こうなどと考えもせず、手近な不快感に対して言葉を叩き付けているだけだ。しかも、周囲のドール達は『真紅』を止め立てしようとはしていない。
 それは『真紅』の意見をもっともだと考えているから、というよりは、冷ややかに成り行きを見守っているだけに見えた。姉妹でないと認定したナナを、今更可哀想だとは思わないのか、もっと重大な何かがあるのか。
 やはり反対しておくべきだった、と思う。このままでは恐れていた最悪の事態が生起しかねない。
 無言のまま、ホーリエに自分と『水銀燈』を周回する軌道を指示する。
 何かが起きたときには、出来る限りナナの手助けを──それも無理なら、せめて足手纏いにならないように──したい。精々薔薇の花弁を放つ程度の自分に、力と力のぶつかり合いの中で何が出来るのかは分からないが──

「渡すなよー、ナナ」

 ぼそりと、緊張感に欠ける声が響いた。ナナはポケットに入れた手を止め、真紅は前に──『水銀燈』に伸ばしかけていた手を下ろした。
 一同の視線がそちらに向く。少年は不貞腐れたように自分が運び込んだ椅子に腰掛け、肘掛けに肘を突いて行儀悪く脚を組んでいた。まるでいつもの水銀燈の姿勢を真似ているような按配だった。

「第五ドールのミーなんとかだっけか? まぁいいや、仮だけどマスターとして言わせて貰うぜ。
 ナナ、そんな簡単に渡しちゃいけない。そいつは脅されてホイホイ渡しちまうほど軽いもんじゃないだろ?
 その動力源のお姉ちゃんは、ナナにとって大事な人なんだよな? その子の元のマスターを助けたくて、『アリスゲーム』よりそっちを優先したんじゃないのか。
 残り時間が少ないその人の願いを叶えるために、殺されてもいいって覚悟決めて、初めてその子の夢に入ったって言ってたじゃん。
 ドールの事情より人間の願いを優先したんだろ? ナナは。そんで、お姉ちゃんも元マスターを許してくれたし、力も貸してくれた。
 そんな大切なお姉ちゃんを、チンケなカツアゲなんかに負けて渡しちゃダメだ。ナナが自分の手でさ、お姉ちゃんのボディに入れて、呼び戻してやるのがスジってもんじゃないのか?」

「……っはは、あはははは」
 こんな状況に相応しくない、能天気と表現しても良いほど明るい声がもう一つ響いた。
「なぁに偉そうな事言うかと思ったらぁ、あは、アンタらしい話で終わっちゃうのねぇ。あははは」
 水銀燈だった。高笑いでも普段のシニカルな笑いでもなく、心底可笑しそうに、腹を抱えて笑っている。少年は見慣れているのだが、他の一同には珍しい姿だった。
「ちぇっ……笑い過ぎだろ」
 少年はまるで頭の上がらない姉に腹を立てている出来の良くない弟といった風情で口を尖らせ、その辺にあった羽根を一つ摘んで水銀燈の手許に投げつける。水銀燈は笑いながら片手でそれを掴み、軸を指で挟んでくるくると回してみせた。
「あは……ま、ナナが渡すって決めたんならそれで良いじゃなぁい。それはドール同士のことで、私達は外野なのよ。たとえ貴方が『真紅』のミーディアムであってもね」
 それにね、と真紅をちらりと見る。彼女は弟子のざっくばらん過ぎる物の言いようが少しばかり不満で、少年の方に向いてやや不機嫌な顔をしていた。
 おや、と反応した真紅にそれ以上のジェスチャーも示さず、水銀燈は一同を眺め回し、にやりとして続ける。
「誰が音頭取りでどうやって呼び戻そうが関係ないじゃないの。首尾良く速やかに復活するなら、過程なんて別に重要じゃない。大切なことはその子が物質世界に戻って来れるかどうかってこと。面倒事なんて引き受けたい者に任せておけば良いのよ」
 ある意味で暴言に近い、あっさりした言葉は、形の上では少年に向けられていたが、実際にはその場の全員に伝えようとしたものだった。いや、気を揉み始めている真紅を安心させようとしたのかもしれない。少なくとも真紅にはそう思えた。
「私としては全員の帰還に目処が付けばそれでいいわ。そこから先、仲良く殺し合おうとばらばらに散って行こうと、それはドール達の判断」
 結論まで言い切って、真紅のほうをまた振り返る。
「どう? 我が媒介のお師匠さん」
 真紅は口をへの字に結んだ。無言でこちらを見ているドール達を順番に見遣る。
 おろおろして妹に縋りついている第三ドール。表情をなくしてしまっている第四ドール。怒りを静められぬまま、どうにか口を開かずに耐えている第五ドール。その前でポケットに手を入れたまま、哀れに立ち尽くしているナナ。そして──ちらちらと『真紅』と自分を見比べている『水銀燈』。
 『水銀燈』と他のドール達の間には隔絶した何かがある、と真紅は気付いた。何処かに線を引いたとき、彼女だけは「こちら側」に入るような気がするのだ。
 真紅はひとつ息をついた。恐らく身内意識のような卑俗なものなのだろう。少年よりも彼女の方が、真紅としては弟子と呼ぶに相応しい存在に思えているほどだから。
「そうね。私達は所詮無責任な観衆に過ぎないのだわ」
 ますます不貞腐れたような表情になっている少年を見遣る。ごく自然な姿にも見えるが、半ばポーズのようなものだろう。

 彼女にも漸く分かって来た気がする。
 彼は上手な嘘は中々つけないけれども、自分が弁も立たず、感性も子供っぽいものであることを逆手に取って雰囲気を変えようとしている。その折々の感情を大袈裟に表現してみせたり、逆に抑えつけたりすることで脇からその場の空気を和ませたり、緩急をつけようとしているのだ。
 蒼星石がアリスゲームを降りる決意をするまでに彼に惹かれたのも分かる気がする。そして、恐らくは彼と相思相愛なのだろう彼女や、多分精確に彼の意図を汲み取って反応を返した水銀燈に、悪意のない微かな嫉妬を感じている自分にも気が付いていた。
 だが、それは後ろ向きな気分ではない。先刻『翠星石』に告げたように、自分もこれからそういった相手を見付けて行けば良いことだ、と根拠もなく考えている。
 アリスゲームの先があれば、という前提条件は、何時の間にか彼女の中から抜け落ちている。今はそのことに気付きもしなかった。
 先ずはその姿勢を正しなさい、と澄ました声で少年に告げ、少し柔らかな口調で続ける。

「貴方がナナを大事に思う気持ちは分かるけれど、ここはドール達の話し合いに任せましょう。私達──」

 そこで真紅は内心ぎくりとして言葉を切った。
 私達「人間」は、と言いそうになってしまったのだ。
 幸い、彼女が言葉を止めたことを誰も不審に思ってはいないようだった。表情を変えず、間を置いたような振りをして、努めて何もなかったかのように続ける。
「──観衆、水銀燈の言い方で言えば外野ということになるかしら。良い観衆は野次を飛ばさずに成り行きを見守るものよ」
「お芝居扱いってこと?」
「いいえ」
 やや不快そうにこちらを見た『水銀燈』に首を振る。
「どんな結果が出ても、私達はそれを受け容れるということよ。ただのお芝居の観客になるには、私達は貴女達と深く関わり過ぎているもの」
「それでいいの?」
 『蒼星石』が躊躇いがちに尋ねる。
「……キミ達にとって不利益だったり、不幸な結果だとしても?」
「当たり前じゃない。不利益を蒙るのが厭なら、貴女達を復活させたりしなかったわよ」
 水銀燈は間髪入れずに答える。言葉を取られて真紅は姉を睨んだが、やれやれと息をつくだけにした。いつものことではあった。
「ナナとそっちの子──『水銀燈』だけになった時点で、私達のゲームが終わるまで待って頂戴、とか適当な理由を付けてナナを説得しておけば、こんな面倒事に関わらずに済んだ。でも私達はナナの心情を優先させた。それだけのことよ」
「どうして……?」
 『蒼星石』は納得が行かないといった風情で質問を続ける。
「ボク達はこの場で『アリスゲーム』を始めて、七番目を壊してしまうかもしれない。キミ達に傷をつけてしまうかも。それでもいいの……?」
「……傷付けさせない。この人だけは」
 ぼそりと『水銀燈』が呟いた言葉は、多分真紅以外には聴き取った者は居なかっただろう。いや、実際には彼女は音声すら発しなかったのかもしれない。だが、その意思は少なくとも真紅には伝わった。
 だが、それに対して何かを考える間もなく、水銀燈の言葉が一同を遮っていた。
「残念だけど、ゲームの開始は何処かに移動してからになるわね。この場で戦いを始められる子は第五ドールだけよ。ミーディアムが居ない貴女達は時間制限が迫っているもの」
 それは恐らく『蒼星石』の求めていたものとはベクトルの違う回答ではあったが、あっさりと水銀燈は会話を打ち切ってしまった。

「さて、脱線はここまでよ。ナナ、その動力源と指輪をどうするか、そろそろ決めなさい。時間が押して来てる子も居るんだから」

 ナナは顔を上げ、水銀燈をまじまじと見詰めた。次いで少年に視線を向け、ひどく申し訳なさそうな、それでいて素朴に喜んでいるような中途半端な表情をしてみせる。それから真紅に向かって頭を下げ、ポケットから小さな箱を取り出した。
「お返しします、『真紅』さん」
 手は震え、視線は自信がなさげにふらついていたが、声だけは吃りもせず、上ずってもいなかった。その事に勇気付けられたように、ナナはしっかりした声で続ける。
「怖がったり、脅されたんじゃないです。わたしが自分の意思で、あなたにお返しします。元々無理を言ってお借りしていたものなんですから、帰って来る目処が立った今はお返ししても──」
 だが、言葉は中途で途切れた。取り出した小箱を、『真紅』が素早く取り上げてしまったからだ。
 ナナは無言で『真紅』を見詰める。『真紅』はその気弱そうな黄色い瞳を、怒りと憎悪に燃えるような蒼い眼で見返した。余分なことは言うな、言葉で誤魔化すな、という一貫した意思の表れのように見える反面、何か別のもの──嫉妬の欠片のようなもの──も含まれているように真紅には思えた。
 観衆の一人の思惑などお構いなしに、『真紅』は小箱を開く。脇から見ていても、溢れ出す光の中に、それを受けて輝く薔薇の意匠の指輪も確かにあるのが確認できた。
 小さく息をつき、軽く頷いて小箱を閉じる『真紅』に、ナナはぎこちなく微笑んで頭を下げた。
「──ボディと鞄は、『蒼星石』さんと『翠星石』さんのミーディアムのお宅にあります。……『雛苺』さんを、お願いします」
 『真紅』はもう一度頷いた。
 ナナはほっとしたように、微笑を柔らかいものに変える。肩の荷を下ろしたからというより『真紅』が静かに確認してくれたことに安堵したのだろう、と真紅にも容易に分かってしまう仕種だった。最初の邂逅では、ナナは怒りと悲しみを思う様叩き付けられたのだから。
 周囲の一同もそれは同じだったらしい。漸く弛緩した空気が流れ、少年のものらしい、些か大仰な溜息も聞こえた。

 乾いた音が響き渡ったのは、あまりにも間の抜けたその溜息に、何か言ってやろうと真紅が少年を振り向いたときだった。
 はっとして向き直ったときには、『真紅』はやや斜め上に手を振り抜いていた。大柄だが軽いナナの身体は一メートルほども飛ばされ、硬い床に叩き付けられて硬質な厭な音が響く。ナナの身体は更に少しばかり床の上を滑り、漸く止まった。
「ナナ!」
 少年は弾かれたように椅子から立ち上がる。その左手の指輪の一つが赤く発光していることまでは気付かなかったものの、真紅も反射的に駆け出していた。『水銀燈』が手を掴みかけたが、ごめんなさいと振り切ってナナの許に駆け寄る。
 うつ伏せに横たわったナナは、髪留めのゴムも外れて長い髪を床に振り撒いていた。後頭部の傷とその周囲の髪が禿げになっている部分が意外に大きいことに真紅は気付く。傷の上で髪を纏めなければ、すぐに分かってしまうほどの酷い傷だった。
「大丈夫?」
 屈み込み、力なく投げ出されている上半身を抱え上げて上を向かせる。片腕がだらりと垂れてしまい、長い髪は顔に掛り、その半分ほども覆ってしまっていた。
 あることを恐れながら、手早く髪を掻き分けて顔を覗き込み、ほっと息をつく。幸いにもナナの顔は壊れてはいなかった。
「はい……わたし、頑丈ですから」
 はっきりした声でナナは答え、微笑みを浮かべる。
「ちょっと、腕が痛い、ですけど……」
 大儀そうに顔を上げ、自分を払い除けた──いや、殴り付けたと言った方が正しいかもしれない──相手を見遣る。『真紅』は呆然と立ち尽くしていた。
 少年が歩み寄り、自分の上着を脱いでナナに被せる。遅れて来た水銀燈も手伝って、三人はナナを少年の上着で包み、彼の腕の中に抱かせた。
 誰も、ナナの左腕が二の腕から折れて取れてしまっていることについては何も言わなかった。
 真紅はナナの髪を整え、その頬に手を添える。顔が痛んでいないのは幸いかもしれない、と思うと共に、ここまで酷く壊れてもまだ器を失わない彼女達に対して、言い様のない感覚を覚えていた。
「帰りましょう、もうここに居る必要はないもの」
 ゆっくりと、言い聞かせるように言ったつもりが、早口になってしまっていた。落ち着こうと一度大きく息を吸い、吐き出してから振り返る。彼女の肩越しにナナを覗き込むようにしていた水銀燈は軽く頷いた。
「そうね、時間制限もあることだし」
 背を伸ばして振り向き、双子のドールに告げる。
「先にお帰りなさい。もう時間がないわよ。──メイメイ」
 銀色の光球は何処かから滑り出るように姿を現し、ほい来たと言い出しそうな動きで水銀燈の前に控えた。
「送って行きなさい。結菱老人の部屋でいいわ。そこから来たんだから」
 メイメイは二度ほど瞬いて双子のドールの方に向かい、何かとぶつかったように鋭角に軌道を変える。いつの間にか、ドール達の前には赤い光球が先回りしていた。
「心配は要らないわ。ホーリエに頼んでおいたの。時間が迫ったら送って行くようにと」
 真紅は澄まし顔でしれっと言ってみせる。水銀燈はふんと鼻を鳴らした。
「そういうことは先に言っておきなさい」
 じろじろと真紅を遠慮のない視線で眺め回し、もう一度、今度は面白そうに鼻を鳴らす。
「丁度いいわ。貴女も一緒に帰りなさい。ホーリエを回収する手間も省けるでしょう」
「ええ……」
 真紅はナナを見詰めた。何か言ってやりたいことがあるように思うのだが、上手く言葉にならない。数秒の間逡巡してから、溜息をついて少年の顔を見上げる。
「くれぐれも粗略に扱っては駄目よ。彼女は私達の友なのだから」
「分かってる分かってる」
 少年は軽い口調で答えた。信用するわ、お願いね、と真紅は言い、少年の手に小さな手を重ねる。珍しい、というよりも契約者達以外には終ぞしたことのない仕種だったが、それを知っているのは水銀燈だけだった。
 真紅は立ち上がり、一度だけナナの頬に触れてから双子のドールに向き直った。
「では、一足先に失礼するわ。良いかしら、『翠星石』、『蒼星石』」
 二体のドールは顔を見合わせ、一度『真紅』の方を見てから揃って肯定の返事をする。あまり元気の良い声ではなかったが、躊躇するような素振りもなかった。


「君は、自分と同じ名前のドールが居ることをどう思う?」
 別れ際、蒼星石は金糸雀に尋ねてみた。
「これまでの自分と同じ名前、似た姿、同じローゼンメイデンを名乗る生きた人形……」
「そうね、一言で言えば変な気分かしら。相手を排除しようとか、仲良くしてみたいとは思わないけど、逢って違いを確認するのは面白いかもね」
 薔薇乙女の次女だった少女は、いつもの彼女らしい答えを返した。
「話してみれば違和感はないかもしれないわ。自分の姿は自分では見れないし、服装は似ていても顔は全然別物でしょ?」
 彼女達姉妹を作った存在とは微妙に違う美意識を持っているらしい人形師が作ったドール達は、その顔立ちが違っている。デザインの類似という点では、それぞれの姉妹同士の方が共通の特徴を持っていると言えなくもない。
「それぞれの知らないことを教わるのも楽しいものよ」
 金糸雀は無邪気に、そして期待に満ちた口振りになる。わくわくする、と言い出しそうな按配だった。
 未知の事柄が純粋に好奇心を刺激するのか、それも情報収集の一環と位置付けているのかは定かではない。金糸雀自身にもその区分は曖昧なのかもしれない。ただ、蒼星石が見たところの彼女は、アリス候補生であった頃と同じように瞳を輝かせてその一言を口にしていた。
 姿が変わり、資格を失って無力な人間の魂と成り果てても、金糸雀は金糸雀なのだ。そして蒼星石もまた、庭師の鋏を持っていようといまいと蒼星石のままなのだろう。

 それじゃ、何かあったらまた逢いましょう、と屈託なく笑って、黄色と白を基調にした服を着た少女は振り向きもせずにその世界の扉から出て行った。愛想の良さは大違いだが、あっさりしたところは水銀燈に似ていた。
 他に誰も居なくなった教室で、蒼星石は並んだ席の一つに座った。
 目を閉じて彼のこと、そして随分前に彼の夢の中で見た彼の教室の風景を思い返してみる。
 彼が居た。柏葉巴が居た。順調に行けば桜田ジュンもそこに加わるのだろうし、オディール・フォッセーや柿崎めぐが顔を覗かせることもあるかもしれない。
 自分がそこに混ざり合うまでには、長く、そして人形だった頃には考えもしなかった困難が様々に待ち受けているのだろう。それでも、今は困難を越えた先にあるものを信じて時を待ち、出来る範囲でそのための準備と周囲への協力を続けなければならない。
 目を閉じたまま、今度は周囲の人々に思いを馳せる。
 結菱老人の夢の中に紛れ込んだのは偶然だった。主観時間でもそう何時間も経っていないから、あの場に戻ればまだ双子のドールとナナは老人の夢を楽しく優しいものにする努力を続けているかもしれない。
 ナナの能力がどれだけ限定的なものかは、実際に見て知っている。金糸雀の言うように二体のドールが強く印象付けられることがあったとしても、老人が蒼星石を忘却してしまうようなことは間違っても有り得ない。

──あの工作は、『翠星石』が提案したのだろうか。

 高が雑談で名前が出ただけなのに、むきになって『蒼星石』を弁護していた、いやまるで卵を守る親鳥のように庇おうとしていた姿を思い出して、多分そうなのだろうと蒼星石は一人で頷いた。どういう経緯や都合があるのかは分からないが、二体の関係は自分と翠星石のそれとは全く異なっているようだった。
 美しく完成された姉妹愛と表現すべきだろうか。あるいは、強固で分かち難い関係、というのが妥当かもしれない。
 ただ、何処か危ういところがその関係には存在している。ある種の力を共有していること以外では本当にただの一卵性双生児の一方のようなものに過ぎなかった彼女には、そんな風に思えてしまう。

──『翠星石』が思うほど、『蒼星石』は庇護を必要とする存在なのだろうか?

 確かに、無意識の海の中で出会った『蒼星石』には奇妙な部分が幾つかあった。放置していると状況に流されてしまったり、自分からは積極的な行動を起こし難い性格ではあるようにも見て取れた。
 彼女は独りで、誰のことも探そうとはしていなかった。自分自身のありように執着が薄いのは間違いなさそうだが、『翠星石』を積極的に求めてもいなかったのだ。
 単に人間関係に関心が薄いのかもしれない。だとすれば『翠星石』が必死になって庇おうとしていたのも分かる。
 だが、もし、『翠星石』が思うほど『蒼星石』が彼女を必要としていないだけであれば──

「──空回り、か」

 小さく呟いた言葉は、がらんとした教室の中で思ったよりも大きく響いた。
 空回りが、繊細なドールたちの間にどういう行き違いを生むのか。どうにも厭な予感がしている。
 水銀燈に聞いた限りでは、『水銀燈』が『真紅』を恨むようになった事もその種の行き違いが元だと言えなくもない。そこまで極端でなくとも、お互いに寛容でない部分が大きいように思えるドール達には、ほんの些細なボタンの掛け違いが致命的な結果を生みかねない。
 そうでなければ良いが、と蒼星石は口に出さずに考え、そこでどうしようもない無力感に苛まれて大きく息を吐く。翠星石と連絡を取りたかった。
 推論に過ぎないが、二体の関係についての見解を報せてやりたい。彼女なら、二体に接しながら蒼星石の考えの是非を判断し、特に第三ドールに対して具体的に何事かアドバイスをしてやることも出来るはずだ。
 しかし、それは今のところ無理な相談だった。蒼星石はnのフィールドから出ることも、アリスゲームに関わることも許されていない。
 辛うじて何かを伝える方法があるとするなら、それは先程の水銀燈との接触のように、たまさかに何処かの精神世界か無意識の海などで邂逅することを期待する他にない。
 時間が無制限であれば、それでも構わないだろう。今のところ蒼星石には──そして金糸雀にも──自己を失って行く兆候も自覚もないし、恐らく目的意識を持っていればそう簡単に自己は失われないのだろうと楽観してもいる。
 そして、ここでは客観的時間の数倍に相当する主観的時間が存在する。出会いそうな場所──例えば第32768世界のような──を巡回しながら、ゆっくり構えていれば良いことだ。
 だが今回の場合、その方法で間に合うのかと問われれば、蒼星石には肯定できる材料がなかった。むしろ、何か小細工をしたところで間に合うことはないような気がしている。
 目を開き、椅子を引いて立ち上がりながら、蒼星石は何とも言えないもどかしさと無力感をまだ感じ続けていた。
 なるほどこれは酷い試練だ、と彼女の冷静な部分が考える。無力な人間──というよりも縛りを与えられた存在──であることは、至高の存在の候補生だったときとは比べ物にならないほどの辛い一面を持っている。それを、蒼星石は頭で理解するのでなく体感しつつあった。

──水銀燈の言ったように、彼女達のことは彼女達に任せて、もう一つの問題に取り組んだ方が健全かもしれない。

 気持ちを切り替えるためにもそちらを考えてみる。
 オディール・フォッセーのことだった。今のところ、彼女と接触したことについて、兎頭の紳士からは何の警告も罰も受けていない。やや積極的に情報を集めていたらしい金糸雀にも特にペナルティが与えられた様子はなかった。
 考えてみれば、アリスゲームに関してはオディール・フォッセーもまた微妙な立場の人物だった。
 雪華綺晶の最後の糧であり契約者だった、という点ではゲームに関わる重要人物には違いない。ただ、彼女の契約相手は既に盤上から何処ともなく去っているし、何故か結びつきが強いこの時代の他の契約者達とは異なり、彼女自身は恐らくゲームの概要すら知らされていない。
 ではもはや無関係の人物として自由に接触できるのか、と問われれば、そちらも微妙だった。彼女は雛苺を求めていて、自分では雛苺と契約したと思いこんだままでいるのだから。
 何処まで彼女と接触しても良いものか、一度正面からラプラスの魔に訊いてみよう、と世界の扉に手を掛けながら考える。
 崩れかけ、ひたすら「ヒナ」──恐らく雛苺──を求めるだけの彼女に何をしてやれば良いのか、何をすれば崩壊を止められるのかはまだ分からない。だが、出来るならば今度は友好的に接触し、叶うならば前回のことを詫びたい。
 致し方なかったとはいえ、棒持て追い払うような真似をしてしまったことを蒼星石は後悔していた。それが幼児に退行していると思しいオディールにとって恐怖と嫌悪を齎すものだったことは間違いない。
 何もしてやれることがなくとも、きちんと謝罪をして、落ち着いて話を聞いてやりたい。そのことが彼女のために何かしら役立つのであれば、それ以上のことはない。
 彼女は自分達のような宙ぶらりんな魂だけの存在ではなく、戻るべき肉体を持っている。自分達の妹が糧にしていたから、という負い目を抜きにしても、やはり彼女は元の姿に戻る方が自然なのだ。


 真紅と二体が去ると、重苦しい沈黙がその場に立ち込めた。
 残った者達には時間制限はない。『真紅』以外は契約者の存在に関わらずnのフィールドの中に居続けられる存在であり、『真紅』は少年と契約を交わしている。
「──『真紅』さん」
 呟くようにナナは言った。こんな状況でもまだ、彼女の言葉は遠慮がちだった。
 『真紅』はこちらを向いたまま返事をしなかった。ナナは何故か辛そうに二、三度瞬き、いいですか、と少年を見上げる。少年は頷いて、彼の足なら二歩ばかりの距離を詰め、膝を突いて、立ち尽くしている自分の契約したドールの視線の高さまでナナを下ろした。
 もう一度、『真紅』の名前をナナは呼んだ。そして、少し苦労しながら身をよじり、右手を彼女の方に伸ばす。
 『真紅』は反射的にそれを払ったが、先程とは違い、力を乗せていないただの動作に過ぎなかった。ナナは諦めずにもう一度手を伸ばす。今度は、相手の髪に触れることができた。
「『雛苺』さんのことじゃ、ありません」
 黙ったままの『真紅』に、いつものようにたどたどしい口調で、しかし優しく語り掛ける。
「凄く……強い願い事を感じるんです。あなたから」
「……当たり前でしょう、わたしは『お父様』に……」
 『真紅』の声は随分掠れていた。
「わたしだけが二つの未来を託されたのだから。わたしだけが、彼女達を失ってしまった罪を負わなければならないのだから」
「そんなことじゃ、ないんです」
 ナナは、自分の姉妹達がこれまでずっと悩んで来た課題を、そんなこと、という扱いで片付けてしまった。まるで結菱老人のような一刀両断振りだった。
「もっと大事なもの、おね……『真紅』さんは、見付けてしまったんでしょう? 前の世界に居た頃に、もう」

「……何のことよ」
 『水銀燈』はぼそりと呟いた。
「あの完璧主義者に、アリスに成ること以上に大切な事柄なんてある訳がないじゃない」
「そうでもないわよ」
 水銀燈は濃紺の衣装のドールの隣に歩み寄り、何処からか手品のように小さな人形を取り出した。ジュンが改造した人形だった。
 それをくるくると動かしてみせる。空を飛び、何かを狙っているように見えなくもない動きだった。
「彼女は『桜田ジュン』を見付けてしまった。引き合わされた、のかもしれないけどね。丁度貴女が『柿崎めぐ』って宿木を見付けてしまったように」
 人形の脚を曲げ、器用に自分の腕の上に座らせる。
「……そして、様々な経験を積み、愛情を深めた後で、自分達にはどうしようもない事情でいきなりそれを失った」
 腕をくるりと回転させると、人形は呆気なく腕から零れ落ちる。水銀燈はまた器用にそれを空いている方の手で掴んだ。
「自分で契約を解いた訳でも、誰かに襲われて失った訳でもない。それは経験したことのない痛手じゃない? 特に彼女にとっては」
「知ったことじゃないわぁ」
 『水銀燈』は冷淡そのものの声で言った。
「わたしはあいつ自身に今の人形と同じことをされたのよ。本当に、くるっと、ね」
「まあ、因果応報ってことかもしれないわね、確かに」
 水銀燈はそこまでにしておいた。姉妹とは言いながら、彼女達の溝はどうしようもないほど深く、広いようだった。
 真紅が言うように、この時代での成り行きが幾分似通っていたところで、根底にあるものが馴れ合いと恨み辛みではまるで本質が異なるのだろう。

「もう逢えない、ひと……」
「止めなさい」
 『真紅』は再びナナの手を払った。ナナも、もう手を伸ばそうとはしなかった。
「これから見付ければ良いことだもの。もう一人の『ジュン』を。『雛苺』を探し当てたら、すぐにでも取り掛かれば良いことだわ」
「でも……」
 ナナは物憂げな調子で、しかし吃らずに続けた。
「それは『ジュン』さん本人じゃありません。この世界群の、世界樹の幹の世界のジュンさんが、『ジュン』さんじゃないように、どこの誰も、あなたが好きだった人の代わりになんてなれないんです。そんな風に、あなたの心は言ってるんです」
「……わたしの心を覗いたのね、あなた」
 『真紅』の声は冷たい声色になった。心に再び昏い炎が宿ったようだった。手を上げようとしないのは、ナナを抱いている少年が彼女と契約を交わしているからかもしれない。
「どれだけ恥知らずなの、あなたは」
「恥知らずで、ダメでも」
 あなたの心は叫んでいます、それは間違いないんです、とナナは熱に浮かされたように言った。
「わたしは、多分、そういう風に出来ているんです。近くに居ると、分かってしまうんです。何かを求めてるココロがそこにあると」
「止めて」
 唐突に『真紅』は頭を抱えた。
「そんなの思い出したくない。イヤなの。だって」
 よろめくように半歩退がり、その場に座り込む。
「だって、『ジュン』が居たら……わたし……」
「わたし、羨ましくて……でもあなたは、とても可哀想で……」
 ナナは半覚醒のような、とろんとした眼になっていた。
 既にどちらも、相手の言葉など殆ど耳に入っていないのだろう。片方は自分の殻に閉じ篭りかけ、もう一方は何か別のところに意識を奪われそうになっている。
「……強くイメージしているから……詳細に、とても緻密に……だから、わたしは力を吸われて……」
 右腕が、かくんと妙な動きをした。まるで操り糸が切れた人形のように、唐突に彼の腕の中でナナの身体はがくりと力を失った。
 口だけが僅かに動き、微かな呟きがそこから漏れる。
「ああ……わたし、やっぱり……あなたは、『アリス』に近くて……わたし、そのために」
 聴き取れたのはそこまでだった。後は意味を成していない音声が暫く続き、そして止まった。
「ナナ?」
 少年は完全に力を失ったドールを揺すった。
「ナナ、おいっ」
「気絶しただけよ、まだその子の『ローザミスティカ』は離れてないわぁ」
 音も無く滑り込んで来た『水銀燈』は素早く少年を窘め、『真紅』をちらりと見る。最高のドールと言われ、そのように振舞って来た、最も『アリス』に近い存在は、ナナの事情など気にする余裕もなく頭を抱えてうずくまっていた。
「何が起きたっていうのよぉ、全く」

「驚天動地の事柄かもね」
 最早笑いも出ない、と言いたげな乾いた声が応える。水銀燈だった。翼をばさりとはばかせて舞い降りると、震えている『真紅』の肩に手を置く。
「さあ、立ちなさい。私は貴女が信じているような偶像じゃないけど、今の貴女がしなくちゃいけないことは分かるわよ」
 ぎこちない動作で顔を上げたドールに、四方の壁にある入り口の扉の一つを指差す。正確には、その前にあるものだった。
「立って行って、自分の目で確かめなさい。貴女がナナに何をさせたか、何をしてもらったのか」
 『真紅』は素直な仕種で水銀燈に頷き、彼女の指し示す方向に視線を走らせる。
 大きな蒼い瞳が真ん丸に見開かれ、同時に彼女は勢い良く飛び出していた。
 扉の前に倒れている、やや茶色がかった髪の少年のところに。



[19752] 150程度。 ジュン目覚める。
Name: 黄泉真信太◆bae1ea3f ID:db513395
Date: 2011/07/08 23:15
「ジュン、ジュン!」
 小さな手に肩を揺すられ、ジュンは不承不承といった体で目を開ける。何やら異様に近くに小さな顔があった。
「しん、く……か?」
「……寝惚けてはいないようね」
 真紅はつっけんどんな言葉とは裏腹に、何故か安堵の表情を浮かべていた。
「早速だけど起きて頂戴。私と一緒に来て欲しいの」
 ジュンはぶつぶつと何やら文句を口にしながら、ベッドの上に起き上がった。
「いきなり過ぎるだろ……今うつらうつらしかけたところだってのに」
「深い眠りから目覚めさせられたと思えばまだ良いでしょう? すぐに支度なさい、鏡の部屋で待っているわ」
「お前なぁ……」
 ジュンはなおも何か抗議しかけたが、真紅は既に戸口まで行ってしまっていた。意外にも素早くドアを開け、振り返りもせずに廊下に出てしまう。よく見えなかったが、からからと軽い音がしたのは、ラムネの詰まったステッキを器用に使ったからだろう。
「なんだあいつ……なんだか……」
 上半身を起こし、後ろ手に眼鏡を探しながらジュンは小首を傾げる。
 まだ覚醒しきっていないせいか、真紅が些か妙な雰囲気に思えたのだ。昔、というほど長いこと一緒に居た訳ではないが、それは右腕をもがれる前、まだ大人しく落ち着いてしまう前の彼女のような、強気でつんと澄ました素振りだった。
 長いこと考えを巡らせる時間はなさそうだった。疑問を感じつつも、ジュンはそっとベッドから下りた。
「どうしたです……?」
 もぞ、と傍らの布団が動き、目を擦りながら翠星石が顔を覗かせる。
 振り向いてジュンは苦笑する。うつらうつらしかけたところ、という言葉に偽りはない。二人は即席の飲み物を飲んで今しがたベッドに戻ったところだった。
「何でもない。真紅が何処かに僕を呼び出しただけ」
「真紅が?」
 翠星石は数秒間その言葉の意味を考えているようだったが、いきなり布団を跳ね上げ、覚醒したように大声を上げる。
「それはおおごとです! すぐに支度して、翠星石も一緒に行くですよ」
 ベッドの上にすっくと立ち上がり、早くもパジャマのボタンに手を掛ける。ジュンは首を竦めながら言ってやった。
「呼ばれたのは僕だけだぞ。お前は寝てていいよ」
「そうは烏賊の塩辛ですよ」
 おいおい、と制止するジュンに取り合おうともせず、翠星石は躊躇なくパジャマの上を脱ぎ、ズボンを下ろした。
「真紅がわざわざ呼びに来たってことは、何か面倒事が起きてるに違いないです。仮の主として、黙って見ちゃおれんのですよ」
 そこで真紅がジュンをデートに連れ出そうとしている、とか、何か二人だけの秘め事がある、などと考えないところが翠星石の善良さなのだろう。しかし、今のジュンはその事を微笑んでやる気分には到底なれなかった。
「分かったから、着替えはもう少しこっそりやれ。お前、僕の目の前でスッパになるつもりなのか」
 翠星石は下着に掛けていた手をはっと止め、意味不明の音声を上げて、真っ赤な顔で力いっぱいジュンの頬を張り飛ばした。


「ジュ……ン?」
 倒れている少年の傍らに跪き、『真紅』は恐る恐るその顔に手を伸ばした。触れようとして、何かに気付いたようにはっとその手を引く。
 こんな所に『ジュン』が居るはずがない、と気付いたのだろう。彼は『真紅』を送り出して、自分は向こうに残っているのだから。
 しかし、理屈としてはそうであっても、真紅が自分の目に見えているものは間違いなく、こちらの世界群に来てから彼女が内心で求め続け、それを否定しようと躍起になり、雪華綺晶の作り上げた都合の良い世界の中に居る間ずっと愛し合い続けていた相手、そのものだろう。
 少なくとも遠目にはそれは『ジュン』としか見えなかった。誰なんだ、と考えている水銀燈の媒介の少年は別として、水銀燈と『水銀燈』には、何故それがここに現れたかについての推測も含めて、事態がおぼろげに理解できていた。
「七番目の能力が小さいなんて、大嘘も良いトコじゃなぁい。ガワだけかも知れないけど、人間一人丸ごと作り出すなんてぇ……」
 呆然と呟く『水銀燈』の目の前に、水銀燈は黒い羽根を一本差し出した。
「ナナはこれと同じなのよ」
 溜息をつくような調子で言う。
「あの子が自分で意識して使える力は、実際にはゼロに等しい。本人は分かってやっているかどうか微妙だけどね」

 ナナの能力は、夢の世界や精神世界で他者の願望を具現化することである、と表現できる。
 だが、それは本来誰しも自分自身で無意識に行い得るものでしかない。ただ制御ができず、あるいは同時に存在している別の思いが邪魔をして、思うような形で現れて来ないことが圧倒的に多いだけだ。
 思いきり単純に言ってしまえば、ナナというモノはそれを取捨選択したり、一つを指定して増幅させたりする装置のようなものだった。
 彼女が往々にして「工作に失敗した」と感じたのは、彼女という装置を、夢の主が彼女の思惑どおりに使わなかったケースなのだろう。実際にはナナは自分の力を操っていた訳ではなく、夢の主が彼女というモノを使って無自覚のうちに自分の夢を増幅させた結果が恰もそんな風に見えていただけなのかもしれない。
 ナナは常に優しい夢を見せたがっていた、というのもその推測と符合する。
 ナナがその夢に入る対象は常に、孤独で、懐かしい人形との回想に浸っている老人達だった。彼等の見たい夢が殆どの場合人形達との楽しい生活であったことは想像に難くない。彼女の要求は彼等の要求と見事に一致していたのだから、ナナ自身は自分の勘違いに気付くことさえできなかったとしても不思議はない。

「……めぐの夢に入ったときも、そうだったってこと?」
「多分ね」
 水銀燈はくるくると羽根を回した。
「ナナは羽根なのよ。普通の人間は、羽根に力を込めて投射することなんて出来ない。精々思った方向に投げつけるのが関の山」
 ふっとやや自嘲気味の笑いを漏らし、続ける。
「私と貴女の違いでもあるわね。同じ羽根でも威力が全く違う。力の乗せ方も多分違ってるんでしょうよ」
 その言葉に込められた微妙な感情に気付くほどの余裕は、『水銀燈』にはなかった。
「……七番目の能力を『真紅』がありったけの妄想で使ってしまった結果が、あれだってこと……?」
 ちらりと少年に抱かれたままのナナを見遣り、『真紅』に視線を戻す。今度ははっきりと呆れた声音になっていた。
 一拍ばかりの間を置いて、自分が──正確にはその半身が──相手をして来たドールが、どれほどの力を秘めていたかを改めて思い知ったとでも言いたそうに、ぼそりと呟く。
「出鱈目も良いところだわぁ……」
「ま、ハイブリッドの貴女に言われたくはないでしょうけどね、向こうさんとしては」
 ぎろりと目を剥いて振り返る『水銀燈』に、水銀燈は首を竦めてみせた。
「どっちにしても、あれは単なる妄想だけじゃない。彼女の持っている力も、それこそありったけ注ぎ込んだ代物であることは間違いないわね」

 言いながらちらりとナナを抱いている少年を見遣る。
 けろりとして立っているが、恐らく普通の媒介なら昏倒するほどの力を一気に吸われたのは間違いない。水銀燈にも彼が急激に力を吸われた事がはっきりと感じ取れるほどの勢いだった。
 自分はあまり芳しくない組み合わせを推奨してしまったかもしれない、と後悔する。彼を推薦したのは、その生命力──というよりも、恐らくは「彼」が居たことと原因を同じくする何等かの力──が、水銀燈と『真紅』の双方と契約しても問題ないことも一つの理由ではあったのだが、それにしても無尽蔵過ぎる。
 予想外だった。ことnのフィールドの中では、彼の耐久力は記憶を失くす前の出鱈目な力に見合う大きさを未だに維持しているのだろう。
 契約があくまで仮のものに終わることを祈るべきかもしれない、と弱気なことを考える。強大な力を持った化け物に無限大の供給源という化け物を組ませてしまった時、それは全く別の意味で究極の存在となってしまうのではないだろうか。

「……でも、複製にもならないわぁ」
 『水銀燈』は厳しい顔のまま、また『真紅』の方に向き直った。
「ホンモノじゃない。ジャンク以下の、哀れなニセモノ……」
 思わず言ってしまってから複雑な表情になる。
 それは『水銀燈』が名の無い人形を面罵したときの台詞そのものだった。自分が自分に向けて吐き捨てた言葉を、つい本音として口にしてしまったことは、これまでにない葛藤をドールに巻き起こしていた。
 しかし、幸か不幸か、その表情は背を向けられた水銀燈からは全く窺うことができなかった。
「その点は同感ね。元の人間じゃないのは確か」
 右手に持った黒い羽根に視線を落とす。
 それは、こちらの世界群の同一人物がどうの、といった話ですらない。
 確かにあの倒れている少年は外見だけのハリボテではなく、自律して動き出し、喋り始めるかもしれない。全く支障なく日常生活を送るだけの知識的、生物的肉付けが整っているかもしれない。
 だが何処まで行っても、『真紅』という一つの存在がナナという触媒を使って、既に居ない自分の愛した人の記憶を元に、妄想と願望、付け加えるなら希望を織り交ぜて造り上げた都合の良い代物に過ぎない。それはヒトではなく、ヒトガタ、としか言えないだろう。
 水銀燈は、くっ、くっ、と喉の奥で笑った。笑うどころの話ではないと分かっていても、シニカルな笑いが込み上げて来るのを抑えきれない。

──人形が人形を作った、なんてね。

 それも玩具としてのニンギョウではなく、自分の理想を投影したヒトガタ──何のことはない、薔薇乙女そのものにごく近しい存在を生んでしまったのだ。
 まるで雪華綺晶の創り出す幻影のように。
 いや、好きなようにモノを生み出すことが出来るはずの彼女は、自分の偶像を具現化はしなかった。「彼」を探すということは口にしていたようであるし、今は魂だけの存在となりながら無限の時間と空間を「彼」を求めて探索の旅を続けているのかもしれないが、「彼」の代わりを創り出すという方向には向かなかった。
 それがフェイクを良く知る彼女にとっての矜持のようなものか、あるいはフェイクを知るが故にその虚しさを徹底的に承知している彼女だからこそ、実物に拘っていたのかは今となっては知る由もない。
 ある意味で、雪華綺晶は彼女の造物主を超えた存在であったのかもしれない。だが、それも今は意味の無い推測だった。今、彼女が仮に元のように存在していたとしても、それは造物主の計画とは関係のないモノに過ぎないのだから。

 水銀燈の皮肉な、そして『水銀燈』の複雑な心情の込められた視線の先で、『真紅』は暫く動かなかった。
「『ジュン』……なの……?」
 やっと発した声は掠れていた。
「何故……こんな」
 ドールの眼がすっと細められ、表情が酷薄なものに変わる。
「分からないの? それはあなたが七番目にやらせた仕事じゃなぁい。それは──」
 水銀燈はその肩にぽんと手を置き、振り向いたドールに軽く肩をそびやかしてみせる。相手だけでなく、明らかに自らをも嘲弄する響きが『水銀燈』の言葉にはあった。
 落ち着きなさい、と囁いてやると、『水銀燈』は彼女の手を振り払って鼻を鳴らしたが、それ以上何かを言おうとはしなかった。言えば自分を傷付けるだけだということは、ドール自身が一番よく知っているはずだ。
「貴女が創ったのよ。いえ、呼び出した、と言った方が正しいわね。貴女の想像の中から」
 水銀燈はごくあっさりと言った。
「知識は無くても、理屈でなく感覚で理解できるでしょう、貴女なら。ナナの能力、そして貴女が行使した力。その人間は──人間の形をしたものは、貴女の願ったままの『桜田ジュン』がそのまま幻影と成ったものよ」
「……わたしの、ねがい……?」
 まだ実感が湧かない、と言いたげに、『真紅』は倒れている少年を見詰める。
「わたしの、『ジュン』……わたしの……?」

「ぅ……あ」

 その場の全員の視線が集中する先で、倒れ伏している少年の体が震え、呻き声が上がった。
 水銀燈は思わず顎を引いてしまう。半ば予期していても、やはり衝撃的だった。
「動くのか……」
 間抜けな台詞を、やや間の抜けたタイミングと口調で栃沢少年が呟く。如何にも彼らしいことだったが、水銀燈も流石に今はそのことで緊張をほぐすような気分にはなれなかった。彼自身もそこまで効果を狙うほど余裕がある訳ではないだろう。

 ゆっくりと、生まれたばかりの鹿の子供が立ち上がろうとよろめくように、茶色がかった髪の少年は四つんばいになろうともがき始める。もはや、彼が自律して動くモノであることを疑うことはできなかった。
 水銀燈は数歩後退る。おぞましいものを見るような気分もあったが、それだけではない。目立たないように青と銀の人工精霊を召喚するためだった。
 忠実なレンピカとお調子者ではあるが能力では誰にも引けを取らないメイメイは、余分な動きをすることもなく彼女の背中に現れ、翼の間から彼女の媒介のところに向かう。栃沢少年は例によって人工精霊のメッセージを受け取れるほどの器用さは持ち合わせていなかったが、水銀燈が何を考えているかは充分に理解した。
 彼が頷くと、レンピカは確認の意思も示さずにすいと水銀燈の許に戻る。メイメイはいつもの調子付いた動きで少年の周囲をぐるりと回り、完全に木偶人形のように力を失って彼の腕の中に収まっているナナの顔の辺りに近付くと、チカチカと励ますように瞬いた。
 彼等が視線を切らずにそんな無言の遣り取りをしている間にも、視線の先では『ジュン』が殆ど痙攣するように何度もしくじりながらも、どうにか四つんばいになり、次いで勢いをつけてその場に座り込む。眼鏡を掛けているところはこちらの世界の桜田ジュンと同じだったが、眼鏡の意匠も、服装も、水銀燈の媒介の少年にとっては見たことのないものだった。
 顔自体も違っている。ジュンをやや女顔の可愛い少年と表現するなら、『ジュン』は随分大人びた、そして男らしい魅力に溢れた美形だった。
 『水銀燈』の表情は、酷薄な笑い人形のそれから、厳しい中に訝しさを含んだものになっていた。
 ジュンと違うのは当然だったが、座り込んだ少年の顔は、彼女の知る『桜田ジュン』でもなかった。確かに似てはいるのだが、別の要素が色濃く含まれている。
 しかし『真紅』にはそうした違いは感じ取れていないようだった。彼女は歓喜の声を上げ、少年の首にむしゃぶりつく。
「……『ジュン』! あ、ああ、『ジュン』!」
 白いシャツの胸に顔を埋める。後の言葉はくぐもってよく聴き取れなくなった。
「『真紅』……」
 座り込んだ少年は事情をどう判断したようでもなく、優しい、ただひたすらに優しい声で彼を作り出したドールの名を呼び、そして大きな手で彼女の髪をヘッドドレス越しに柔らかく撫でた。
「辛かったか……?」
 『真紅』は無言で、いやいやをするように彼の胸に頬を擦り付ける。彼はゆっくりと、非常にゆっくりと微笑んだ。
「もう離れないよ。ボクはいつでもキミの傍に居る……」
 きっとよ、絶対よ、という念押しの、半ば泣いているような声は、それだけははっきりと周囲の観衆にも届いた。

「……とぉんだメロドラマねぇ」
 『水銀燈』は精一杯の皮肉を短い言葉に込めた。
 冷め切った声は、しかし彼等には届かなかったらしい。『真紅』と『ジュン』は、他の者には聞こえないほどの声で何かを囁き交わし始めただけだった。
 『水銀燈』も敢えてもう一度大声を出して邪魔をするほどの気概は持ち合わせていなかった。軽蔑の視線を向け、下らない、と吐き捨てただけだった。
「『翠星石』もそうだけど、大分おかしくなってるわぁ……」
「そういえば『蒼星石』がそんなことを言ってたよな」
 いつの間にか『水銀燈』の脇に来ていた栃沢少年は、どっこいしょ、とナナを抱いたままその場に器用に座り込み、『水銀燈』を見上げるようにして小首を傾げた。
「でも『翠星石』もおかしくなってるのか? あれが平常運転でも別に普通の性格だと思うんだけどなぁ」
 水銀燈は両者の間に歩み寄り、少年の背中に肘を突いて寄り掛かる。少年はおいおいと抗議の声を上げたが、それだけだった。
「どちらも……それから『金糸雀』も同じでしょうね。言わば心の箍が外れてるって状態よ」
 こちらを見ている両者の視線が訝しげなものになっているのを感じて、一つ首を振って続ける。

「雪華綺晶の創った都合の良い世界。それは結局のところ、ナナの能力を使って改変された夢と同じことよ。
 違ってるのは、絶対に夢から醒めないことと、あの末妹が幾らでも自分の好きなように手を加えられること。手酷く改変されても夢の主はその状況に容易に疑念を抱かず、そして現実でないことを自覚もしないってことも付け加えられるかもね。
 そんなところに、あの子達は主観時間で何日間も篭っていたって訳。自制が利かなくなっても当然でしょう。
 心理的な操作も施されていたはずよ。あの末妹の性格から考えたら、夢が破れるリスクは徹底的に避けようとして当然だわ」

 言いながらも、水銀燈の視線は『真紅』を抱いている『ジュン』の方に向いている。両者の睦み合いは、性的な方面にこそ向いていないものの、その場の他人を置き去りにしていつまでも続きそうな気配だった。

──結局、掛けてやった声は無駄になってしまったのかもしれない。

 掛けてやった、という言い方自体、『真紅』からすればおこがましい事柄かもしれない。彼女は求めていた、そして絶対に手に入れることができないと諦めていたものを勝ち取ったのだから。
 しかし、水銀燈の視点から見れば、如何に『ジュン』を創り出した主体がナナでなく『真紅』であったとしても、それはナナという道具を使わなければ為し得なかった行為だった。そのために消費したリソースも、自分自身から搾り出しただけではない。ナナを抱えて納得できないという表情で居る少年の力を借りたものだ。
 心から感謝し、自分がナナにしたことを詫びろ、と言うつもりはない。それは『真紅』の矜持からすれば何があっても肯んぜられない事柄だろうし、謝罪される側のナナは傷付いたまま意識を失っている。だが、少しくらいは体裁を繕っても良さそうな場面だった。逆に言えばそれもできないほど、『真紅』は感情の抑制が利かなくなっているのだろう。
「……『翠星石』が心配だな」
 ぼそりと少年は呟いた。彼らしいと言えば彼らしい思い遣りだったが、仮にも自分が契約したドールが目の前に居るのに、些かならず冷たい態度でもあった。
「心の箍が外れるって言うけどさ、なんでもかんでも暴走してるって訳でもないんだろ?」
「多分ね。憶測に過ぎないけど」
 水銀燈は囁くような声で返す。
「全く、厄介ごとばかり残して行ったものよ、あの末妹ときたら」
「仕方ないじゃんか。キラキィだって、まさか自分が殺されるなんて思ってもなかっただろうし」
 言ってから、少年は溜息をついてみせた。
「それよりさ、『真紅』の、なんだっけ、心の箍が外れてるって状態があんなに開けっぴろげってことは、『翠星石』だってヤバくないか? 桜田と翠星石の──なんかややこしいな──イチャラブ見て嫉妬に苦しむとか、あと『蒼星石』が好き過ぎておかしくなるとか」
「どんな昼ドラよそれぇ」
 水銀燈は思わず笑ってしまった。
「ま、その辺は一晩置いてからでも遅くはないでしょう。それより私達愚かな凡人としては、差し当たってあの究極のドールのカップルをどうするかの方が問題ね」
 自分がいつの間にか『真紅』だけでなく『ジュン』もドールとして括っている事に、水銀燈は気付いていなかった。その場の少年も『水銀燈』も、彼女の言葉に違和感を感じなかった。
 そして、自分達が「人間」という括りの中に一緒に入っていることの可笑しさにも、三人とも気付いてはいなかった。


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