[三重大学教育学部研究紀要第57巻(教育科学)所収 2006年3月公刊]

思春期の性教育における男女別学習と男女合同学習の意味
−日本とスウェーデンの実践事例に もとづいて−
 
佐藤 年明
 
A Study on the Meaning of Separated Learning and Integrated Learning
between Male and Female Students in Sexuality Education in the Period of Puberty
 
Toshiaki SATOU
 
要 旨
 本稿は、日本教育方法学会第41回大会における筆者の自由研究発表「思 春期の性教育における男女別学習と男女合同学習の意味−スウェーデン王国の事例を参考に−」(2005年10月2日、鹿児島大学教育学部)の発表時配付資 料を一部修正、加筆したものである。社会における男女平等、男女共同参画社会の推進の流れの中で、わが国の小中学校における性教育においても、かつての小 学校における女子のみの初経指導と男子の放置という貧弱な性教育の実態への反省もあって、学級において男女合同で性に関する学習を行なうことが望ましいと 考える関係者が多いのではないかと思われる。しかし、思春期特有の性に関する強い羞恥心と児童生徒の自らの性のprivacyを守りたいという正統な要求 に配慮するならば、学の習過程で男女別学習を組み込むことが効果的である場合もある。このことを日本とスウェーデンの実践事例の検討を通じて考察した。但 し、性の学習における「男女」という二区分は、性自認や性志向におけるマイノリティの立場にある児童生徒がクラスに存在する場合には、却って弊害をもたら す場合もあり、当事者との協議を含む慎重な対応が必要である。
 
1.問題意識
 わが国の学校における性教育は、1992年実施の学習指導要領において小学校5学年の理科、体育の中に位置づけられるまでは、少なくとも小学 校では一部の教師や学校において実践されるにとどまっていた。大多数の小学校では、性に関わる指導といえば、宿泊行事等の直前に高学年の女子児童のみを集 めて行なわれる初経への対処の指導に限られ、男子への教育は放棄されていたに等しい(これまでに1992年実施学習指導要領以前に小学校教育を受けた本学 部学生に小学校での性教育の経験を問うと、概ねそのような回答が返ってきた)。
 このような貧弱な性教育への反省から、1992年以降は、学級において、つまり男女児童生徒が共に参加する形態で、担任教師によって、あるい は担任教師と養護教諭等の連携によって、思春期の心身の変化や人の誕生に関わる学習が行なわれることが一般化しつつある。小学校・中学校における性教育の 実践記録を概観してみても、男女合同学習の事例が多い。
 ところで、性教育の先進国と見なされるスウェーデン王国の事情を調べてみると、性に関する青少年の疑問や不安に応える場が学校における授業に 限定されておらず、学校以外の教育機関や個人の性に関する相談に応じる「青少年クリニック」など、多様な学びの機会が用意されている。また、性に関する関 心・疑問・不安などは子ども一人一人によって異なるということが重視されている。
 性教育において一人一人の知識や感情や意識の個別的状況に配慮するというこの発想とも関連すると思われるが、性に関する集団学習において男女 が別々にグループ学習を行なうという形態が採用される場合もある。報告者自身、そのような学習活動の一事例を2002年9月30日にストックホルム市の 「冒険健康センター」において参観した。
 性の学習において、特に思春期の子どもたちは羞恥心、不安、嫌悪感などを持つ。これらの否定的感情をどう意味づけ、それにどう対処しようとす るかによって、性教育の学習過程の展開も変わってくる。本稿では、男女合同学習と男女別学習という対照的な2つの学習形態に焦点を当て、日本及びスウェー デンの実践事例の検討に基づいて、子どもたちのデリケートな感情に対して配慮した教師の指導のあり方について検討を行なう。
 
2.日本の小学校・中学校の性教育実践における男女合同学習・男女別学習の事例
 日本における最近の性教育実践を全般的に渉猟することはできなかったので、“人間と性”教育研究協議会の機関誌(1)掲 載の実践と、その他いくつかの性教育実践に関する文献を検討した。教育実践研究団体としての“人間と性”教育研究協議会に対して支持あるいは批判を表明す る意図はないことをあらかじめお断りしておく。
 注目したのは個々の実践の授業計画や実際の展開の全体ではなく、思春期における身体の変化や大人の男女の性器の特徴、性行動などを学習する際 の児童生徒の反応とそれに対する教師の対応である。検討した実践は、男女合同学習のみの実践が小学校5年1編、6年1編、中学校(学年不明)1編、の計3 編、男女別学習をとりいれた実践が中学校3年2編である。
 
@男女合同学習のみの授業実践
実践1                  (下線は引用者による。以下の実践も同様)

塩塚秀美(町田市立小川小学校)
テーマ名 変わっていく私たち  対象学年 5年生  教科 保健  時間数 5時間
藤田和也他編『33の授業展開例で示す小学校性教育の全貌』(東山書房 1994年)第2部33の授業展開例 より

2 指導のねらいと留意点
(中略)
 留意点としては、子どもの成長は個人差が大きいので、発達の遅い早いを気にする必要はないということと、子どもたちの性に対する羞恥心や抵抗感を 否定せずに受け止めてあげながら、指導を進めていくということを挙げておきたい。」(P.78-79)
 そういうことです。それではプリントに、女子の体はどのように変化するのか、男子の体  はどのように変化するのか、自分の知ってい ることを書いてください。
 (エッセンス)ここでは少し時間をとって、できるだけ多くのことに気づかせたい。子どもた  ちが書いている間は机間巡視をし、子どもたちのほうからど の程度のことが出てきそうかを  把握しておく。書いたことについては、後で発表してもらうが、なかには恥ずかしくて発表
   することをためらう子どももいると思うが、その場合には無理にいわせるよう なことは避  ける。(後略)」(P.82)
 (中略)それでは今日は女の子の体について、もう少し詳しく勉強していこう。はい、こ  れを見てください。(資料No.15・女性 外性器の図を黒板に示しながら)何だかわか  り  ますか。
 ……。
 ひょっとして、それ女の人のまたの部分ですか?
 はい、そうです。
 えー、やだあ。
 ちょっとエロだよ。
 恥ずかしい。
 もう他に、感想やいいたいことはありませんか。
 (エッセンス)資料No.15のような女の子の外性器の図は、けっこうインパクトの強い図であ  る。特に4年生までに性教育がなされていなければなお さらである。だから、この場合、
  どもたち が感じたものを否定せずに受け入れて、子どもたちの気持ちがある程度おさまる  まで、いいたいことをいわせたほうがよいし、そうしなければ後の授業が非常に展 開しづ  らくなる。
 もういいですか。どうやら、こういう図を見るのは嫌だ、恥ずかしいという人が多いようだ  けど、そう思っている人は手を 挙げてごらん。……はい、わかった。恥ずかしいものは恥ず  かしいんだし、嫌なものは嫌なんだから、それでいいんです。でも、どうして恥ずかしいん   だろう。……女の子にしてみれば、自分の裸を見られているような感じかな。男の子にして  みれば、女の子の裸をのぞいて見ちゃったような感じなのかな。 ここは、普段はパンツをは  いて隠しているところだから、そういうふうに感じるのは当たり前で、ちっともおかしいこ  とではないから、気にしなくてい いよ。人間の体について勉強していくと、こういうふうに  恥ずかしいと思うことや、ちょっと気持ち悪いなと感じたりすることがあると思います。
   も、これは君たちにとって必要で大切なことだから、そういう気持ちはちょっ と横に置い  といて、いっしょに勉強してい きましょう。
《子どもたちの気持ちが落ち着いたところで、女の子の外性器について、図を使用して説明する》」(P.84)
「(エッセンス)子どもたちはアンケート結果を見ると、すぐにこれは○○君のことだ、○○さんのことだというように、友だちのことを思い浮かべる。思い浮 かべるだけならかまわないが、意見をいうときに友だちの名前をあげていってしまうと、その子を傷つけたり、感情的にいい合いになったりしてしまうので、意 見をいうときには絶対に個人名を出さないことをあらかじめ注意しておく。」(P.96)

 
 5年生で二次性徴を学ぶ実践である。体の変化について知っていることを書きそれを発表する時、女子の外性器の図を提示された時などに、子ども たちは羞恥心や困惑を表す。実践者はそれをきちんと受けとめようとしており、恥ずかしがる子に発言を無理に求めず、また外性器の図に対して子どもたちがさ まざまな反応を示す時、ある程度おさまるまで言いたいことを言わせている。そして子どもたちの恥ずかしさを認め、隠したい部分をのぞいたりのぞかれたりす るような気持ちになること、あるいは見たくないものを見た嫌悪感を感じることは当然だと肯定している。ただその上で、「これは君たちにとって必要で大切な ことだから、そういう気持ちはちょっと横に置いといて、いっしょに勉強していきましょう。」と述べ、大事な勉強という大義名分のもとで羞恥心や嫌悪感を 「横に置いと」くこと、つまり保留することを求めている。
 実践者は、その後の学習の展開が子どもたちの知的好奇心にこたえるものであったり、子ども自身が抱えている心身の変化への不安や悩みに応える ものになっていけば、当初の羞恥心や嫌悪感は結果的には払拭され、克服されると確信を持っていたのであろうか。
 一方実践者は「女らしさ、男らしさ、自分らしさ」と題する子どもたちへのアンケートの結果に基づく学習の部分で、発言の中でアンケート回答を 書いた子どもを推測して個人名を挙げることを禁じる、としている。授業の場では個人の性に関する意識の具体的内容は(本人による発言は別として)匿名で扱 い、それによって性のprivacyを守ると宣言しているわけである。
 そうであるならば、授業の導入部でも、言いたいことを十分に言わせることで性についての羞恥心や性を学習対象とすることへの子どもたちの困惑 に対するガス抜きをするというのも重要であるが、それだけでは不十分ではないか。羞恥心や困惑を「横に置く」のではなくて、「自分自身の性に関することは 不本意な形で他人に知られることはない」という安心感をそれぞれの子どもが学習の最初から持てるように配慮すべきだし、一方自分の性に関する疑問や不安に は応えてもらえそうだという期待感も持てるようにしたいものである。そうした意識の形成は学習の過程で緩やかに達成されていくものであるという考え方もあ るかもしれないが、学習に対する否定的・消極的な構えは、なるべく早い段階で払拭された方がよいのではないか。実践者は学習に対する子どもの意識状況を丁 寧に把握しようとする教師であると思われる。その配慮が導入段階でもいま一歩深められればと考える。
実践2

小林美希(福島県須賀川市立仁井田小学校教諭 専門教科=音楽) 6年生担任
「精通・射精」と男子の性−“かつての少年”からのメッセージを伝える
『ヒューマン・セクシュアリティ』No.20  東山書房 1995.9 <特集>「男の性と生」を見つめる 「男性の性」を考える授業実践=小学校 よ り

「4年生のときからずっと担任をしていた子どもたちは、4年生のときに 『性交』を扱った公開授業を行なったこともあってか、『性』や『体』のことについて、国語や算数のことと同じように話をすることができました。また、その 公開授業のときからずっと、養護教諭の遠藤佳代子さんとT・T方式で授業を行なっていたので、子どもたちはたびたび保健室へ出かけて行っては、個人的な悩 みについても相談に乗ってもらっていました。」(P.68-69)
「○授業の実際
 私と遠藤先生は、二人で打ち合わせた通り、まず男の子の外性器の名称を思い出させることから授業を始めました。しかし、外性器はおろか、内性器の名称に ついてさえ、理科で学習していたはずなのに名前が出てきません。
4年生の頃と違って、“おおっぴらに口に出してもいいの?”という雰囲気も伝わってきます。
T〔小林〕 あれ? 知ってるの に言わないでいるね? 性器は誰にでもあるものなんだよね。ない人?
C (クスクスと笑う)
T〔小林〕 そうだよね。みんな持ってるのに恥ずかしいと思うことは、自分の存在も恥ずかしいと思うということになっ ちゃうよ。
−ホッとしたのか、誰かが答えてくれました。一人が口に出すと、後に続く者が現われます。こちらは、口に出しても慣れてしまっている から平気だし、日頃の授業の中でも『コンドーム』の話や『従軍慰安婦』の話などをよくしています。でも、子どもたちは、さすがに一歩踏み出すのをためらっ たようです。」(P.70-71)
「ところが、授業後の子どもたちの感想は、少々“肩透かし”のものでした。とくに当の
男 の子の感想の多くが、『自分にもいつかあるんだろうな』とか『よくわかった』など、じつにそっけないものでした。女の子の感想には、男の子の“悩 み”に共感したものがいくつか見られました。『私は月経のたびに“女は大変だよな”と思っていたけど、“男にも大変なことはあるんだな”とわかった』と、 表現は月並みですが、すでに体が成長している女の子にとっては、とても他人事(ひとごと)とは思えずに聞いていたのでしょう。」(P.71)
 
 6年生で男子の射精・精通を学ぶ実践である。4年生から性交を含む性の学習を経験している子どもたちであるが、あらためて性器の名称を発言さ せようとすると、ためらいを示す。これに対し、「みんな持っているのに恥ずかしいと思うことは、自分の存在も恥ずかしいと思うことになっちゃうよ」という 教師の発言に促されて「ホッとしたのか」子どもの発言が始まる。
 授業後の感想では、女子から男子の悩みへの共感が表明された一方、男子自身の感想は「自分にもいつかあるんだろうな」など「じつにそっけない もの」であった。教師はこのことの原因を男子より女子の方が心身の成長が早いこと求めているようである。
 最初は過去に学習済みの性器の名称を発言することをためらった子どもたちだが、教師の促しによって発言するようになった。教師と子どもたちと の信頼関係が基礎にあっての子どもの行動の変化であろう。だが、「性器の名称を言えないのは自分の存在を恥ずかしく思うこと」という教師の言葉は、励まし の意味で言ったこととは言え、検討すべき点を含んでいる。
 第1には、教師の指摘はまさに子どもに起こっている事実を言い当てているということである。つまり、思春期にさしかかる以前は性器の名称を言 うことに抵抗がなかったとしても、思春期にさしかかったこの時期には、「性器を持つ存在としての自分が恥ずかしい」という感情が新たに生じたのだと考えら れる。そのことがすでに学習済みの名称を口にすることへの抵抗感を生んでいる。もしかしたら、1、2年前の性の学習の時には平気で性器の名称を口にした自 分自身を思い出して恥じる気持ちも持っているかもしれない。
 第2には、そのような羞恥心の芽ばえに対して教師が言外に「自分を恥ずかしいと思うことは間違っている」「自分を恥ずかしく思う必要はない」 という断定的なメッセージを送っていることである。教師自身自分の発言がその後の子どもたちの発言を促す効果を発揮したと判断していることから、このこと は明らかである。
 性器の名称を始めとする性に関することがらを口にすることができるということは、性の学習にとって基本的な重要事項である。そしてこのクラス の子どもたちは以前からその経験を持っており、従って教師が子どもたちはためらいを乗りこえられると判断したことも、このクラスに関してはおそらく妥当で あろう。
 しかし、数年前に学んだことを復唱するだけのことに抵抗感を持ち始めているという子どもたちの意識の変容に対して、「自分の存在を恥じるな」 という教師の啓蒙によって乗り切ってしまおうとするのではなく、教師として子どもの感情にもう少し丁寧に向き合うべきではないだろうか。また、子どもたち 自身にも、自分たちの感情の変化にじっくりと向き合わせてもよいのではないか。
実践3

高橋勤子(徳島県名東郡佐那河内中学校)
「気持ちがいいのはからだにとっていいことだ」
『性と生の教育』No.18 あゆみ出版 1998.9 特集◆“第二の誕生”−少年と射精 射精の学習実践 中学校 より

「実は、私が初めて行った『からだと性の学習』の授業で、忘れられない 生徒の感想がある。それは女子の感想であるが、『月経については、よくわかりました。でも射精についてや男子のからだの仕組みについてはもっと詳し く説明をしてほしかったです』というものであった。『私には関係のないこと』ではなくて、同じクラスの友達のこととして、詳しく知って理解していきたいと 思っているのを感じた。彼女なりに性を科学的に学習する意義や『共生』について何かを感じていたのかもしれない。
 この感想があったから、ずっと『射精』の授業をするときも男女一緒に学習していきたいと思っていた。そして、言葉だけの説明で終わらない 授業、もっと具体的な説明や例をあげて、射精についての悩みや気持ちについて話ができるような授業が必要だと思っていた。」(P.59)
「この授業を始めるまでに、自分のからだについてしっかり考える授業をして、からだ観を育てておかなければいけないと思った。そのことが十分できていな かったので、授業の前半は、『こんなことを授業で言っていいのか』と言いたげな顔や、下を向いて固くなってしまっている生徒がたくさんいた。感想に も、『初めはいやだと思った』『恥ずかしかった』と書いてあるものが半数以上であった。
 しかし後半からは表情も和らぎ、こちらを向いて話を聞く生徒が多くなり、ほっとした。感想にも それが表れていて、多くの生徒が『知らなかったことがたくさんわかった』とあった。」(P.61)
「また、女の子の感想で『男子もけっこう大変なんだなあ』『からだのことは、プライベートなことで大切なんだと思ったら、気持ち悪いとか恥ずかしいと思っ ていたことが少なくなった』『男子だけのことではないと思って、去年よりは真剣に聞いた』『射精は、自分でコントロールできるからいいけど、その点、女子 はつらいと思った』などと、いままで以上に男子のことについて身近に考えるようになった内容が書かれてあるのは、授業者にとってうれしかった。
 その反面、男子の感想で『おしっこと精液は混じらないんだとわかって安心した』『自分だけではないんだ、ほかの人の気持ちがわかって安心した』と具 体的に書いてくれたのはこの二つだけであった。あとは『いろいろわかって安心した』という書き方をしている。どうやら自分たちの生理現象を扱っているから よけいに恥ずかしく、『いろいろ』となってしまったのかと思ったりもした。
 まだこの時間だけでは、生徒が自分のからだの主人公になるには遠いようである。今後の授業とふだんの生活のなかで、不安について応 えていけるようにしたいと思った。」(P.61)

 
 これも中学校(学年は明記されていないが、2年生か3年生らしい)で、射精・自慰について学習した実践である。
 この教師は以前の実践において女子の中に男子の二次性徴について知りたいという要求があったことを知り、それ以来男子の射精について学ぶ授業 をぜひとも男女合同で行ないたいという意思を持っていた。しかし今回の実践の前提として、自分のからだ観を育てる機会を十分持てなかったため、授業の前半 では羞恥心を露わにする生徒も多く、感想でも羞恥心や嫌悪感が表明されている。新しい知識を知っていくに伴い、授業の後半ではそうした抵抗感は減少したよ うだが、授業後の男子の感想では、射精をめぐる具体的事実に触れずに曖昧に書いたものが多かった。
 教師はこれを総括して、「まだこの時間だけでは、生徒が自分のからだの主人公になるには遠いようである。」と述べているが、「からだの主人公 になる」という目標との関係では、自らの二次性徴を授業の場で扱われることへの当惑、羞恥心は克服の対象でしかないのだろうか。性的な羞恥心を内に抱えた 状態では、「からだの主人公」になったとは言えないのか。
 
A一部に男女別学習をとりいれた授業実践
実践4

金子由美子(埼玉県川口市立在家中学校養護教諭)
「男子にも性器の主体者としての自覚を」
『性と生の教育』No.2 あゆみ出版 1996.1 特集◆射精・自慰−からだとの出会いU 中学校の実践 どう考え、どう教えたか より

「思春期の男子は、快感が伴う後ろめたさや潔癖感から、大人に射精や自 慰の相談をすることは難しいものです。保健室でも、月経の悩みや不安を素直に打ち明ける女子に対し、男子の射精にまつわる相談は、友達やマスコミ情報とし ておもしろおかしく口にする程度です。彼らは、まるで悩みなんかないような顔をして、学校生活を送っているのです。」(P.30)
期待している心の鼓動が伝わってくる
 射精の授業の前に、生徒たちの現状把握のためのアンケートをとりました。男子の率直な意見を聞くために、3年生の男子のみの 授業を各クラス1時間ずつ設定しました。
 たかがアンケートといえども性を扱うのですから、人の温かさやふれあいが求められます。さわやかな笑顔で生徒の前に立ちます。質問 にも答えると言うと、期待でそわそわしている男子の鼓動が伝わってきます。」(P.32)
「『いいなあ、毎日こういう授業だったら、おれ7時から学校きちゃって絶対遅刻しないよ』
やっぱ、こういうことは、女のいる前では聞けないよね
『でも、お互いの体を知ることは大切だから、このアンケートをもとに、また、男女で一緒に学習します』
 まだまだ続く質問に、『そんな個人的なこと、あとで話せよ。このあと、女子と一緒に授業やるんだから、男子しか聞かれないこと、聞いておかないと 時間がもったいないよ』と、質問の内容を整理してくれる生徒もいます。クラスによっては、男女の共習に対し、『えっ、困るよ。男だけでいい よ』という生徒もいますが、『女子からペニスのポジションを指摘されたり、勃起したことを冷やかされたりすることもあるでしょ。それに、お互いの からだに興味あるのは、男子だって女子だって同じだよ』と言うと、前時の月経の授業もあり納得します。」(P.33-34)
「始終穏やかな雰囲気で授業が進みました。ペニスの仕組みになると、水を打ったように静かになります。
 男子のみのアンケート収集時、かなり具体的な質問に答えたあとであったため、ペニスの模 型図を持って教室に入ったときはざわめく様子もなく、男子はみんな落ち着いていました。
 男女の仲のよいクラスでは、事前に学習した内容のさわりを女子にレクチャーしていた男子もいたようです。
 また、女性の性器がさらされることには拒否反応を持つ女子も、男性性器の学習には抵抗が少ないようです。科学的な説 明が多くなりますが、生徒のつくったパネルや大きな掛け図で説明する射精の仕組みは、初めて聞く言葉も多く、男女共に輝く瞳で聴き入っていました。」 (P.35)

 
 実践者は養護教諭として日頃から生徒の性に関する相談にも対応しており、その中で女子に比べ男子が自分の個人的な悩みを語れないでいる現状も 把握している。そうした生徒把握があるためか、中学3年生の男女合同での射精に関する授業の前に、男子のみに射精に関するアンケートをとり、それをもとに 1時間男子だけの授業を行なっている。
 この1時間では、女子がいないところでこそ(恥ずかしがらずに)学べることをしっかり学ぼうという意欲的な姿勢を示す生徒が見られた。また、 男子だけの授業で学んだことを女子にも話した生徒もいたようである。男子だけの学習は異性を意識しなくてよいリラックスした学習であっただろうが、そこで 学習した内容について、一部の生徒とは言え「男子のみのもの」という閉鎖的な意識を持たずに女子とも共有する動きがあったというのは興味深い(恥ずかしく て伝えにくい部分はカットしていたかもしれないが)。
 また、あらかじめ男子だけで学習したことで、男子の側に次に続く男女合同学習へのある程度の心構えができ、落ち着いて学べたようである。男女 別学習を経た上での男女合同学習がよりリラックスした肩を張らない性の学習の実現に貢献している。
 ところで、女子は女性性器の学習に比べ、男性性器の学習には抵抗が少ないという。思春期の子どもたちが、自己意識としての性的羞恥心だけでは なく、異性に対する性的関心を持っているということ(もちろんそれを他者に知られたくないという羞恥心もあると思われるが)を授業においてどう位置づける かという課題をもこの実践は提起している。
 この実践者は男子女子それそれの羞恥心や不安等にも配慮しつつ、それを緩和するステップを置きながら男女合同学習へと進んでいる。
実践5

新井 保(京都公立中学校理科教諭)
「間違いだらけの『性交』−後から後悔しないために」
『季刊SEXUALITY』No.22 エイデル研究所 2005.7 (特集 あなたの隣のエイズ・性感染症)性の授業実践 中学校 より

授業展開
<性交に対する意識調査>
(中略)
質問3:近い将来、好きな人と二人っきりになって、初エッチ(性交)をすることになりました。    そして、ついに初体験を終えた 時、まず最初に君が考える事はどんなこと? 
◎この発問については、男女別に各3班程度のグループを作り、話し合わせて、画用紙にマジックで書かせるといいでしょ う。でないと恥ずかしがって発言が限られてしまうし、またここで男女別にすることで、思いもかけない本音や、男女の性意識の違いが出てきます。」 (P.105-107)
 
















 

◎男子の意見
「とうとういくところまでいってしまった/○○はオレのものだ!!/」
「あー、気持ちいい/あー、大人になった/ダハハハハハ/ウホ ウホ ウホ ウホ」 「○気もち良かった(N君)/○半死に(S君)/○オゥー(A君)/○分からないけどうれしいと思う(E君)/○大人の仲間入りだと思う(K君)」
「○きもちよかった。/○新井先生も同じことしてたんたな。/○ストレスかいしょう!」 ◎女子の意見
「バレたらやばい/できたらどうしよう/おわった。私もこれで大☆人。/やってしもたー。/いたかった。/友達に言った んねん。/LOVE LOVE や
「ウソ−−−−− ほんま/やっちまったよー/やばい。親にばれたらどーしよう。/ どないしょー?/子供できたらどうしよー。/まじでェ?/親泣くわ/ しんじられへん/もう結婚しな。/一生あなたについていくわ?」
「私たちが…?/○相手のことをもっと深く愛していると思う!!/○やっと1つになれた?/○ショック−−−う。/○赤ちゃんできたらどー しよー。/○感動もんだ!! /○ママに会うまでに言いわけを考えていると思う。(朝帰りの場合)(P.108)

 
















 

授業を終えて
 この実践は、押さえつけられ、『いい子』を演じさせられているクラスより、ある程度、何でも口にする男女がいるクラスの方が本音が 出てきて面白い。教師の百回の説法より、ナマの級友の発言は大変インパクトがあり、説得力がある。
 ただ、この授業で『あまりにも軽い』ノリであった男子のトーンが急降下する事がある。それがねらいでもあるのだが、一旦垂れた頭を、もう一度笑顔で上げ させる実践へとつなげたい。
 否定されるべき『快楽』は、『自分勝手な快楽』であって、快楽自体が悪なのではないということである。むしろ、性交の本質は快楽にある。本当の気持ちよ さとは何か、共に考え創り上げる実践をぜひとも企画したい。」(P.111)

 
 中学校の実践(実践記録には記載されていないが、実践者に問い合わせたところ中学校3年生の実践であった)。性交の意味を「生命誕生」「ふれ あいの性」などの観点から学習する前段階として、生徒たちに意識調査を行なっている。3つの質問項目が用意されているが、このうち第3の、近い将来の初め ての性交体験の際に、体験後にまず何を考えるかという仮定の質問について、実践者は男女別学習を提案している。但し、授業の最初から最後までを男女別に行 なうというわけではなく、この質問に答える活動の時のみ、男女各3班程度のグループで活動するのである。
 実践者によると、男女を分けることの第1の理由は羞恥心を緩和して本音が出るようにすることである。まだ第2の理由は、後でグループごとに画 用紙に書いた意見を発表し合うことで、性交に対する男女の意識の差が浮かび上がることを予想(期待?)してである。実践記録には、各グループが書き込んだ 自筆の画用紙が紹介されている。
 後でクラスで公開するとわかっているわりには、ずいぶん赤裸々な感情も表明されている。後で同じ授業時間内に合同学習に戻ることを前提にして の時間限定の、しかも同じ教室空間での男女別学習であっても、恥ずかしさやためらいを感じつつも性に関わる自分の思いを表現することを比較的容易にする効 果を発揮していると思われる。
 これが男女混合の班や、あるいはいきなりクラス全体での議論であったなら、「将来の性交体験」という仮定で(実在か空想かを別にして)あこが れる特定の性行動の相手を想定しての話を、異性のクラスメートをも前にして語るという状況になり、同性だけで語り合うのに比べて心理的に相当の抵抗がある のではないだろうか。
 
3.ストックホルム市の「冒険健康センター」における男女別性教育実践事例
 言うまでもないが、ここに概略を紹介するスウェーデンの性の学習活動事例(2)は、数多くの実践の中のたった一例に過 ぎない。しかも、学校の教室ではなく、学校外の社会教育施設において行なわれた学習例である。しかし報告者がスウェーデンにおいて自ら参観し得た学習活動 事例は残念ながら今のところこれ一つであるので、それについて紹介し考察したい。
 2002年9月30日にスウェーデン王国ストックホルム市の「冒険健康センター」で近隣の基礎学校(日本の小学校+中学校に相当)から担任教 師に引率されてきた6年生の子どもたちが、思春期の心身の変化について約2時間にわたって学習するのを参観した。子どもたちは男女に分けられ、最初から最 後まで別々の部屋で学習をした。2名の引率教師のうち男性教師は男子グループに、女性教師は女子グループに入った。男女グループをそれぞれ指導する「冒険 健康センター」の2名の指導員は、両方とも女性であった。私自身は11人の男子のグループに参観に入ることを許可された。
 男子グループでは思春期の男女の心身の変化について、まずは生徒一人一人が知っていることを1枚レポートに書いてそれをみんなで見せ合い、次 に男性器と女性器の名称をみんなで考えつく限り書き出し、さらに指導員が女性器と男性器の布製の拡大模型を使って、二次性徴を説明していった。
 その後、指導員が男子から女子への質問(個人的な質問でなく女子全体に対して)を紙に書くことを提案し、郵便ポストのような箱に質問用紙を集 めた。それが終わってブレイクの活動をしている時に、女子のグループでも同様の男子への手紙の準備ができたらしく、指導員同士が手紙の入った箱を交換し た。
 そして男子グループでは、指導員が読み上げる女子からの質問に対して、子どもたちがにぎやかに答えていった。女子の質問はかなり単刀直入のも のもあり、オナニーの仕方はという質問には、前に出て先ほどの男性器の教具を使って演示してみせる生徒もいた。
 このやりとりの間に、すでに女子からの回答が返ってきた。そこで女子への返事を返した後、さっそく女子からの返事を指導員が紹介した。必要に 応じて解説も追加した。そして回答を聞き終わったところで2時間2分にわたる学習活動が終了した。
 男子グループの中には、女子からの手紙が来た時自分で取りに行こうとしたり、男子の手紙を自分で届けに行こうとする生徒がいる(それを制止し て指導員が届けた)など、この学習活動の中で女子との交流を望むようなそぶりを見せる生徒もいた。実際に男女合同学習の形態をとれば彼らがどうふるまうか はわからないが、指導員へのインタビューでは、センターで学んだことを学校へ帰って改めて学ぶそうなので、その場合には男女合同学習も行なわれる可能性が ある。
 男女別に指導する理由について、指導員は女性と男性の思春期の問題は違うからとしている。自分の体に何が起こるのか、例えば月経について、女 子は女子だけで学ぶ方が話しやすいというのである。もちろん男子グループも月経の開始を始め女子の二次性徴について学習しているわけだが、まずは自分の体 の変化に対するデリケートな感情に対して配慮し、学びやすい環境をつくろうという趣旨であろう。
 一つ興味深いのは、私が参観できなかった女子グループの学習活動の雰囲気について、指導員が「非常におとなしく、恥ずかしがった」と述べてい たにもかかわらず、女子の男子に対する質問の内容は、きわめてストレートであり、具体的であって、女子生徒も男子の性に関して非常に興味を持っていると思 われることである。女子グループの学習活動の雰囲気が非常におとなしいものであったらしいことと考え合わせると、最初から男女合同で学習を進めた場合、女 子生徒たちは男子に対して聞きたいことを果たして率直に出せたかどうか疑問である。こう考えると、男女別学習を適宜取り入れることは、羞恥心を和らげるた めにも、また性への興味を促進するためにも効果があるように思われる。
 報告者がスウェーデンで実際に参観できた性に関する男女別学習活動の事例は上記の一例であるが、上記の実践者の考え方と一致する性の学習の指 導方法に関する見解は他でも見聞した。
 スウェーデン性教育協会のMr. Hans Olsson及びMs Maria Anderssonへの報告者のインタビュ−の中で(3)、 学校の財政事情その他の条件にもよるが、「性と共生」の授業においては通常25-30人規模である1つのクラスを男子と女子の2グループに分けて学習を行 なう場合があるという話を聞いた。男女別にすることが常に適切であるというわけではないが、たとえば11歳〜12歳の子どもたちが思春期の体の変化につい て学ぶ時は、男女別に分けた方がよい(もちろん結果的に男女とも同じ情報を与えられるのだが)。そのほうが恥ずかしがることなく学習できるからである。こ のことを話してもかまわないのだという自由な学習の雰囲気をつくることが重要なのである(しかしあとで生徒が自分のprivateなことを語りすぎてし まったと嫌悪感に陥ることがないように教師が議論のレベルをコントロールする責任がある)。男女別に討論を行なって、異性グループと質問を交換し合うのも よい。ただし、あらゆる時に男女別に学習するというのは望ましくない。それは性差の固定化につながるからである。時には生徒からも「なぜ別々に学習する の?」という疑問が出ることもあるが、説明すれば納得してくれる。そして男女別学習の後にはクラス全体での討論に戻っていく。
 以上がスウェーデン性教育協会の専門家が説明してくれた思春期の性の学習の状況である。
 さらに、学校ではなくて子どもたちの性に関する相談を引き受けている青少年クリニックの場合であるが、報告者がインタビューしたストックホル ム市校外のファシュタ青少年クリニックの指導員であるMs Amelie Odhによると(4)、地域の学校との連携のもとに多く の子どもたちが青少年クリニックへ相談に訪れるのであるが、グループで来る場合も男女は別々に相談に来るそうである。その方が微妙な感情を話し合う際に居 心地がいいからで、指導員のMs Odhもそのやり方がよいと考えている。
 ちなみに、ビヤネール多美子も、ストックホルム市内のウステルマルム地区の青少年クリニックについて、「男女別に分けるのは、一緒だとお互い に意識しすぎたり、関心が違うなどの理由によるようである。」と同様のことを述べていて(5)、男女別の相談は青少年クリニックに おける指導方法としてある程度一般性を持っているようである。
 スウェーデンの性に関する学習活動事例を1つしか実際に見ていないため一般化はできないが、紹介した何人かの専門家の見解等も合わせて考える と、スウェーデンの性教育では、子どもの側からの意見表明がきわめて重視されている。そして意見表明をためらわせるような学習環境であってはならないとい うことが重視され、その観点から男女別学習が一定の条件の下で有効であると見なされている。一定の条件とは、学習のテーマや学習者の年齢によって有効かど うかが決まるということと、性別の学習活動を固定化してしまうべきではないということである。
 
4.性教育における男女別学習および男女合同学習の意義と相互関連 
 性の学習に際して顕在化する児童生徒の羞恥心・不安・嫌悪感などは、彼らが日本社会に伝統的に残る性に対する偏見(性に関する言動を公の場に 出すべきではないという)にとらわれているからことくる場合もあるだろうが、一方で自分の性のprivacyを不当に脅かされることなく守りたいというき わめて正当な要求に根ざしている場合もあると考えられる。性一般に関する用語や考え方を口にしたり議論することへのためらいもあるだろうが、それを発端と して、この種の話題に積極的に乗ってくるクラスメートに煽られて、個人の身体とりわけ性器の形状や性的体験の有無やその詳細等が話題にのぼっていき、自分 個人の性のprivacyもクラスの衆目に晒されてしまうのではないかという恐れを子どもたちは感じるかもしれない。あるいは他者の身体や体験に関する個 人情報を聞かされて、自分はこれでよいのか、「正常」なのかなどと不安になるかもしれない。
 穿った見方をしすぎと思われるかもしれないが、しかし上記のような話題・情報は、思春期に入った子どもたちならば、すでに親しい者同士ではあ る程度、あるいはかなりの程度まで話題にしていることが考えられる。間違った、あるいは歪んだ情報も多々交えて語り合われているであろうそうした会話の内 容とかなり近接することがらが、学校の授業において話題にされるとなると、授業がどのような展開になるのかと子どもたちがあわてたり不安に思ったり固く身 構えたとしてもとしても無理はないと思われる。
 学習者の中にあるそうした様々の消極的・否定的な感情に対し、性は人間にとって本質的に重要な事柄であり、性を学ぶということは大事なことで あって、恥ずかしいことではないのだという正論を教師がきちんと提示することは、性に関する様々の学習の導入段階において重要なことであり、本報告で検討 した諸実践でもそうした観点を教師が明確に打ち出しているものは多い。しかしことが個人の感情の問題である以上、そうした教師の原則提示によって学習の基 本的方向性が確認され、たとえば授業中に過度にふざけたり茶々を入れたりというような行動が沈静化したとしても、個人の内面における不安や羞恥の感情が解 消される保障はない。そしてそうした心理的なとまどいを引きずったまま学習活動を展開していった結果、教師の側は教えるべきことを教える活動を一応達成し たと自己評価していても、児童生徒の側の感想文等に見られる反応が思ったより低調であったというずれが生じるというような事態も起こる。
 教師が性について教えたいと思うことを学習者に伝えるだけでなく、児童生徒が(とまどい、ためらいつつも)知りたいと思っているこがを学習の 場に持ち出され、それに教師が答えたり、また学習者同士で意見交換をしていくような、学習者参加型の学習活動が性に関する学習活動の基調となっていけば、 学習者は知的好奇心から性に関する疑問を出すとともに、変化しつつある自己の心身に対するとまどいや不安そのものも(集団がそれを受けとめてくれるという 手応えを持てれば)表出してくるようになるのではないか。「知りたい、でも恥ずかしい」というようなアンビバレントな感情を、時には互いに茶化したりしつ つではあっても受けとめてくれるような学習集団ならば、学習者は心の葛藤をときほぐしながら少しずつ能動的に学習過程に参加してくるのではないだろうか。
 本稿で男女別学習に注目したのは、この学習形態が上述したような学習者が心をときほぐして学習に参加していく過程の実現を促進する一つの手助 けとなるのではないかと考えたからである。であるから、学級の状況が、例えば日頃から男女の仲が良く、自由にものが言い合える関係がかなりできているよう な場合には、敢えて男女別学習を実施する必要はないかもしれない。またある学級では、男女を分けるのではなく、男女混合の少人数グループで話し合うことが より有効であるかもしれない。いずれにせよ男女共学、男女混合の学級編成の学校であれば、性の学習も学級全体での男女合同学習を基本形態とすることが当然 であると考える。
 ただ、たとえば月経は女子しか経験しないし、射精は男子しか経験しない。それらの性別に特化された生理現象について、いずれは異性の級友とも いっしょに学習するとしても、当事者にしかわからない不安や悩みや関心事を共有し交流する場としての、男子のみ、女子のみの学習は、全学習過程の中のある 局面においては設定されてもよいと考える。その際に男子生徒グループは男性教師が、女子生徒グループは女性教師が指導することがベストなのかどうかは、ま た別の問題として検討が必要だが、そのような教師配置をする条件があるのであれば、それも一つのやり方であろう。
 男女を分けての学習を、性役割分担の固定化というように捉えるのではなく、性教育において学習者にとってより自由で居心地のよい学習環境をど のように創造していくかについての模索の中での一つの選択肢と捉えて、日本の性教育実践者が積極的に試みられることを期待する。
 
5.補足
 本稿では男女別学習の積極性の側面を中心に考察を進めてきたが、この学習形態はトランスセクシュアル、インターセクシュアルなどの人たちから 見れば大きな問題を持っている。たとえばある学級の中に、自分がトランスセクシュアルであることを自覚し、生物学的特徴から自分が男子にグルーピングされ ることに強い違和感を持ち、なおかつそうした思いをクラスメートに対してまだ明確に表現できずにいる生徒がいたとしよう。そのような生徒にとっては、男女 別学習で「男子」グループに振り分けられて身体の性的特徴や人間の性行動について話し合うことは、学級全体で学習・討論する場合よりもさらに違和感・嫌悪 感・孤立感を味わうことにもなりかねない。生物学的に男子の性的特徴をもち、射精を経験しながら、その事実と自己の性自認が一致せず、耐え難い苦痛を感じ ているトランスセクシュアルの生徒にとっては、男子だけでの学習に加わっても「共通の性的特徴・経験を基盤としたリラックスした自由な学習」は全く成立す る余地がない。仮に教師が学級内にトランスセクシュアル、インターセクシュアルその他の性自認・性志向・身体の性的特徴等におけるマイノリティーの児童生 徒が存在することを把握している場合には、男女別学習という形態は採用すべきではないと思われる。
 もちろんだからといって、このような生徒にとっては学級全体の合同学習を行なえば問題が解決するというわけでもなく、その生徒の持つ違和感が 学級全体の中に埋没してしまうだけにすぎない。
 性自認・性志向・身体の性的特徴等におけるマイノリティーの存在(当事者が学級のメンバーである場合)を学級での性の学習の中でどのように位 置づけるべきかは、きわめて難しい問題である。だが多様な性のあり方を理解し、それに共感する立場から性教育を進めようとすれば、そうした性のマイノリ ティーの児童生徒にとっても、安心してオープンな心で、羞恥心や不安や嫌悪感を(なるべく)持つことなしに学習活動が進められる学習環境づくりを教師は考 えなければならない。性の多様性に関する学級での学習の時期設定自体を、たとえばトランスセクシュアルの生徒と教師(場合によっては生徒の親や親しい友人 なども含めて)の個別的な交流・協議を踏まえて決めていくこと、教師が学習の実施が必要であると判断しても、当事者の生徒が否定的あるいは消極的である場 合は学習の実施を保留して協議を続けることなど、丁寧で慎重な教育的配慮が必要となると思われる。       (2005年10月30日脱稿)
  
  

(1)『Human Sexuality』(1990−1995年)・『性と生の教育』(1996−2000年)・『季刊SEXUALITY』(2001年−)
(2)拙稿『スウェーデン王国における性教育の歴史と現在の課題 平成 13年度〜16年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(2))研究成果報告書(課題番号13680292)』 2005年 P.67-72
(3)同上 P.44-P.45
(4)同上 P.59
(5)ビヤネール多美子『スウェーデンの性と性教育 1990- 2000』十月舎 2000年 P.46



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