2011/7/5
支配者は奴隷が結束しない様に奴隷間に憎しみを起こさせる問題を作る。日本と近隣諸国との問題も同じなのである。(下段のビデオ参照)
三菱の創始者、岩崎弥太郎 がチャンスをつかむのは、同郷の坂本龍馬が暗殺されてからで、後藤象二郎が「海援隊 」 を自分のものとし、「土佐商会」 と改名し、その主任として岩崎を雇いましたが、後に岩崎が譲り受ける事になります。
騎兵隊天皇
↑ 長州こそ、「大日本帝国」の主体であり、その真の創設者である。
従って、敗戦と共にこの「大日本帝国」が崩壊したとき、
蜷川新先生のような徳川幕府陣営の人物は、
「長州」も、そして「長州天皇」も、
当然、退陣するものと考えた。
しかし、徳川家広によれば、敗戦後も長州勢力は、うまく立ち廻って
主導権を握った、と言う。
ここに、現代日本史の核心が存在する。
坂本龍馬関係目次
黒船襲来
メーソンだらけの明治維新
大政奉還
長州ボーイズ
メーソン中のメーソンリ・大東社
原文はここから
特に龍馬から受け継いだ海運事業や武器取引は、後に西南戦争、日清戦争、日露戦争で、三菱のドル箱事業となってゆく事になり、坂本龍馬が暗殺されて、最も得をしたのは、同じ土佐藩の岩崎弥太郎であります。 すなわち、坂本龍馬がいなかったら、三菱財閥は存在し得なかったでしょう。
フリーメーソン-57 龍馬暗殺 〜幕末の政情〜
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/649.html
フリーメーソン-58 龍馬暗殺 〜真犯人〜
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/650.html
この二人の悪事は、坂本龍馬の海援隊だけではなく、後藤象二郎はトーマス・グラバー の高島炭鉱も二束三文で払い下げを受け、自分のものとし 「蓬莱社」 と改名し、これまた後に、岩崎に譲っています。
三菱高島炭鉱PDF版
また、維新政府が全国統一貨幣制度に乗り出した時に、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ていますが、この情報を流したのも新政府の高官となっていた後藤象二郎であります。 これは明らかなインサイダー取引で、この2人は国を食い物にして私腹を肥やしていたのです。
岩崎弥太郎は、高知県安芸市の地下(ちげ)浪人の長男として生まれましたが、とにかく貧乏で、幼少の頃から奇行や盗み癖が目立ち、泥棒をしては何度も刑務所に入っていました。 確か、司馬遼太郎の 「龍馬がゆく」 にも、この事は書いてあったと記憶しています。
また、岩崎は、25歳の時吉田東洋の門下生となり、土佐藩の命で長崎に派遣されましたが、藩費を浪費・使い込み、翌年解職されています。 もっとも、何度も刑務所にブチ込まれている彼としては、何ら経歴に傷がつくほどの事ではなかったと思われます。
17-18世紀にヨーロッパで興った 「啓蒙思想」 が産み落とした 「理性」 「自由」
「平等」 「博愛」 「自然科学」 の 「フリーメーソン思想」 により、欧米諸国は近代国家として大きな発展を遂げ、
江戸末期に、フリーメーソン思想に染まった欧米諸国に開国させられ、明治維新を成し遂げた日本も近代国家の道を歩むようになりますが、封建制度が廃止され、職業軍人としての特権を奪われた武士階級に代わる、国民皆兵の徴兵制度によって、農民や一般庶民が武器を手に取り、国家総動員での戦争が始まるようになりました。
これこそが、フリーメーソンに寄生した 「イルミナティ」 、戦争男爵ロスチャイルド、など軍需産業の死の商人達の望むところなのであり、日本は明治維新後、日清・日露戦争、そして第一次・第二次世界大戦と戦争に明け暮れるようになり、政府とべったり癒着した軍需産業から、多くの財閥が生まれることになります。
フリーメーソン-63 西南戦争と新興財閥
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/655.html
フリーメーソン-64 大倉財閥
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/656.html
フリーメーソン-65 伊藤博文とアジア侵略
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/657.html
新政府の国民皆徴兵制より、職業軍人としての特権を奪われた士族の反乱が続く中、西郷隆盛は、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるも、田原坂の激戦を経て、生まれ育った鹿児島に戻り、城山での最後の決戦に散りました。
こうして、徳川封建制度で長く続いてきた士農工商の身分制度はなくなり、明治維新は事実上、成し遂げられる事になります。 西郷隆盛、享年49歳。
フリーメーソン-60 田原坂 (たばるざか)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/652.html
ある意味で西南戦争も、旧式の武器である刀を持った職業軍人としてのプライドを持つ武士たちが、銃を持った農民・一般庶民で構成された新政府軍に敗れて、散ってゆく姿は象徴的であると思います。
日本を開国させた欧米の次のターゲットは朝鮮、さらに日本を使って中国からロシアを追い出すことでした。 そして、1874年(明治7年)に台湾出兵が行われ、朝鮮開国、日清・日露戦争に突き進んでゆきました。
そして、中国に進出した三菱は、阿片ビジネスに手を染めるようになります。
フリーメーソン-66 台湾出兵
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/658.html
フリーメーソン-67 朝鮮開国
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/659.html
フリーメーソン-68 日清戦争
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/661.html
フリーメーソン-69 日露戦争
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/662.html
フリーメーソン-70 ジェイコブ・シフ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/663.html
フリーメーソン-71 日韓併合
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/664.html
フリーメーソン-72 戦争男爵 ロスチャイルド
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/665.html
フリーメーソン-75 カールマルクス
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/668.html
フリーメーソン-76 ロシア革命
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/669.html
フリーメーソン-73 三井・三菱の阿片ビジネス
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/666.html
『若い頃から泥棒癖があり刑務所にもブチ込まれた岩崎弥太郎は、
維新政府が、藩札を買上げ、全国統一通貨制度を導入するという、インサイダーを情報を後藤象二郎から貰い、藩札を買占め莫大な財産を築き、
坂本龍馬暗殺では、海援隊を後藤象二郎が手に入れた後、払い下げを受け、それが基礎となり日清・日露戦争で海運事業を独占し、巨万の富を蓄え、坂本龍馬をしゃぶりつくして、三菱財閥の基礎を築きました。
さて、そんな盗人癖があり、金に汚く下品な男を、創始者に持つ三菱が、満州で阿片ビジネスに手を出さない訳がありません。
1840年の阿片戦争以来、中国では阿片患者が急増し、阿片の消費量は700万満貫(5億円)にも上っていました。
当時、日清・日露戦争で台湾、朝鮮、中国侵略の足がかりをつかんだ日本政府の軍部と癒着していたのが、三井・三菱・大倉などの財閥でありましたが、日清戦争後に台湾を領有したことで、日本は阿片中毒者対策で阿片を必要とし、ケシ栽培と阿片輸入は本格化することとなりました。
大阪府三島郡福井村の二反長音蔵(にたんおさおとぞう)は、台湾で必要な阿片の殆どを輸入に頼っている貿易赤字を改善するため、内務省の後藤新平の支持で、ケシ栽培に取り組み、モルヒネ純度の高いケシの品種改良に成功して、大阪府・和歌山県・京都府・岡山県・福岡県の医薬品原料の商品作物として、農村の収益を高めました。
三菱は、阿片ビジネスをはじめる事を決め、ペルシア(イラン)から阿片を輸入し、中国の人に売りつけましたが、三井もその仲間に入れることにしました。 これは、三井は老舗の財閥で、従来から政府と癒着していたので、三井をいれておかねば、後で痛いしっぺ返しをくらう可能性があったからです。
そうして、三井と三菱は隔年ごとに阿片をペルシャから輸入し、中国に送り込み、日本政府は、厚生省に後の内大臣の木戸幸一を入れ、阿片政策を推進させました。
さらに、遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進め、拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていきます。
植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造。 阿片・麻薬の需要は増大し、三井物産と三菱商事が、ドイツ・イラン・トルコ・シンガポールの阿片・麻薬を一手に輸入していました。
三井物産は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び込み、南京維新政府の財政を助け、三菱商事は三井の3.5倍もの量を1939年2月に満州の大連へ運び込んでいます。
そうして、日本は満州進出、21ケ条要求、満州事変と日本の侵略は拡大し、日中戦争に突入し、日本は中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を樹立してゆきました。
これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合い、傀儡政権の満州・内蒙古では堂々とケシが大量栽培されました。
満州帝国では、約3000万人が20万貫の阿片を吸引し、毎年4万貫の阿片が輸入され、約7万町歩のケシ栽培が行われていたと言われています。
阿片王と呼ばれた二反長音蔵は、満州の長白・臨江・安図へ3回、また満州の熱河省へと指導に赴き、長白市だけでもケシ栽培は216万坪にもなっていました。
中国軍閥の張宗昌(阿片将軍)は日本軍と組んで、吉林・黒竜江省で50〜60万貫のケシ栽培を扱ったと言われています。
内蒙古の山西・チャハルの傀儡政権「蒙古連合自治政府」でも阿片が製造され、張家口には阪田組のヘロイン製造工場があり、阿片・塩・鉱山物が政府の重要な財源となっていたのです。
日本の占領地経済をまとめていた興亜院が阿片・モルヒネを製造・輸入・販売を管理する組織となり、中国民衆を阿片漬けとしていきましたが、満州での日本政府の阿片販売は国際連盟の議題にもなりました。
そんな国際社会からの非難をよそに、三井・三菱の幹部たち、また彼ら財閥から賄賂をもらった政治家や軍人たちは、阿片で儲けた金で、遊興に明け暮れていたのです。
動乱:阿片戦争の紙芝居
フリーメーソン-68 日清戦争
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/661.html
フリーメーソン-69 日露戦争
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/662.html
フリーメーソン-70 ジェイコブ・シフ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/663.html
フリーメーソン-71 日韓併合
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/664.html
フリーメーソン-50 亀山社中
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/642.html
フリーメーソン-58 龍馬暗殺 〜真犯人〜
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/650.html
フリーメーソン-29 サッスーン財閥
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/621.html
フリーメーソン-30 ジャーディン・マセソン商会
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/622.html 』
写真(上):1944年10月20日,レイテ島上陸を演じるマッカーサーDouglas MacArthur元帥(1880年1月26日生 - 1964年4月5日没);2005年にレイテ攻略50周年を祝う米国国防省のバナー。フィリピン亡命政府大統領オスメニャを引き連れて何回も撮影し,取り直したヤラセの映像(鳥飼行博研究室)。
東京都港区麻布台2−4−5 メソニック39森ビル
1945年8月15日、ポツダム宣言受諾から2週間後の8月30日、日本の運命を握る、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り立ちました。
マッカーサーは、フリーメーソンで、彼が所属していたロッジは、Manila Lodge No. 1, Phillipinesであります。 マッカーサー元帥は、厚木飛行場を降り立つとすぐ、フリーメーソン東京支部用の建物の確保を指令し、東京・麻布の旧海軍水交社の建物を接収し、屋上に、定規とコンパスのフリーメーソンのシンボルが掲げられました。
この、東京・麻布の旧海軍水交社が、第38メソニック森ビルにある日本グランドロッジになっています。 ビルの名前からして、フリーメーソンです。
児玉誉士夫と笹川良一
児玉誉士夫と阿片
ある日突然
『占領日本を支配したダグラス・マッカーサー元帥は,CIAをその草創のころから嫌い,信用していなかった。1947年から50年まで,東京のCIA支局を極力小さく弱体にして,活動の自由も制限していた。元帥には同時のスパイ網があったのだ。広島、長崎に原爆を投下した直後から構築し始めたものだった。CIAはこのスパイ網を,元帥から受け継ぐことになったが,これはいわば毒の盛られた遺贈品だった。
マッカーサーを軍事諜報面で補佐していたのはチャールズ・ウイロビー少将だった。ウイロビーの政治的立場は,米陸軍の将官の間では最も右よりであった。ウイロビーは1945年9月,最初の日本人スパイをリクルートすることで,敗戦国日本の諜報機関を牛耳ることになった。この日本人スパイは,戦争終結時に参謀本部第二部長で諜報責任者だった有末精三である。有末陸軍中将は1945年の夏,戦勝国に提出するための諜報関係資料を秘密裏に集めていた。
それが,敗戦後自分自身の身を守ることになると考えていた。多くの高位にある軍人同輩と同じように,戦争犯罪者として起訴される可能性もあった。が,有末はかつての敵の秘密工作員となることを自ら申し出たのである。それはドイツのラインハルト・ゲーレン将軍がたどったのと同じ道だった。ウイロビーの最初の支持は,日本の共産主義者に対する隠密工作を計画し,実施せよというものだった。
有末はこれを受けて,参謀次長の河辺虎四朗に協力を求め,河辺は高級指揮官のチーム編成にとりかかった。1948年,アメリカの政治戦争の生みの親であるジョージ・ケナンは,日本については政治の改革よりは経済の復興の方がより重要であり,実際問題としても,実現が容易であると主張していた。日本の産業界を解体し,解体した機材を戦争保障のために中国に送る,共産主義者が今にも中国を制覇しようとしているときに,そうした措置をとることにどういう理屈があるのか,とケナンは問いかけた。ケナンの力によって,アメリカの対日政策は1948年までに急転換を遂げた。日本の当局者に対する戦争犯罪訴追の脅威と占領の懲罰的な性格は,緩和され始めた。これでウイロビー指揮下の日本人スパイにとっては仕事がやりやすくなった。
ウイロビーはその年の冬,暗号名「タケマツ」という正式な計画を発足させた。この計画は二つの部分に分かれていた。「タケ」は海外の情報収集を目的とするもの,「マツ」は日本国内の共産主義者が対象だった。河辺はウイロビーにおよそ一千万円を要求し,それを手にした。スパイを北朝鮮,満州,サハリン,千島に潜入させること,中国,朝鮮,ロシアの軍事通信を傍受すること,それに中国本土に侵攻して制覇したいという中国国民党の夢を支持し,台湾に日本人の有志を送り込むこと,などを約束した............CIAはその実体を知り,驚愕する。日本人スパイは諜報網などというものではなく,右翼団体の復活を狙う政治活動であり,同時に金儲けのためのもの,とうのが結論だった。「地下に潜った右翼の指導者」は諜報活動を「価値ある食いぶち」とみなしていた,とCIA報告は当時の状況を要約している。
アメリカの諜報機関が日本で行った「お粗末な仕事のやり方」の古典的な見本は,政治的マフィア児玉誉士夫との関係だった。児玉は1911年生まれ,21 歳の誕生日を迎える前に,帝国議会議員に対して殺害の脅迫をしたかどで五ヶ月間,投獄された。21歳のとき,暴力団・右翼反動派の集まりである「天行会」とともに政治家と政府当局者に対する暗殺を計画したが発覚,投獄されたが,四年と経たないうちに釈放されて極右青年運動に着手,これが戦前の日本の有力な保守派の指導者の支持を得た。
戦時中は上海に足場を置き,五年間にわたって戦時の最大規模の一つと言われる闇市を取り仕切った。占領中の中国を舞台に数千人の(児玉機関の)工作員が,戦略金属から阿片に至るまで,日本の戦争遂行機関が必要とするあらゆるものを買い付け,盗み取った。戦争が終結したとき,児玉の個人財産はおよそ一億七千五百万ドルに上った ................児玉は1948年,アメリカ占領下の拘置所から釈放され,日本の政治の行く末に重要な役割を果たすことになる.......アメリカがその狙いを達成するのを助ける,真に強力な日本人工作員を雇い入れるまでには,さらに数年を要することになる。その任務はまさに,アメリカの国益に資する日本の指導者を選ぶことに尽きていた。CIAには政治戦争を進めるうえで,並外れた巧みさで使いこなせる武器があった。それは現ナマだった。CIAは1948年以降,外国の政治家を金で買収し続けていた。しかし世界の有力国で,将来の指導者をCIAが選んだ最初の国は日本だった』 。<LEGACY OF ASHESより一部転載(文芸春秋発行:CIA秘録)
戦前の駐日大使館付(ジョセフ・グルー大使)であった米国特務機関工作員ユージー・ドーマンを中心とする米国対日評議会(ACJ)はGHQの民生局(GS)にたいし圧力をかけ占領政策の主導権は治安情報局(G2)に移った。このG2が通称ドーマン機関(G2−D)人脈と呼ばれ日本の政界に様々な工作をした。そして上の三人(ある日突然をクリック)も加わっていく。』
対米従属の原点
↑ 『「かつてアメリカがリクルートした二人の一番影響力のあるエイジェントが
CIAの日本政府を支配する任務を遂行するのを助けた」
で、其の二人の男とは、岸信介と児玉誉士夫である。
そうこの人たちCIAに雇われた人達だった。
つまり彼らの雇い主は日本国ではなくアメリカ政府なんだね。
これが残念ながら自民党の原型だし、そこから枝分かれした経世会の民主党の
原点でもあるわけだ。岸さん(安倍さんのおじいさん)の時代我々日本人はアメリカのエージェントを首相として崇めていた間抜けということになる。まあ、よくある傀儡政権というやつだ。
そしてその流れが今でも脈々と清和会或いはその傍流として続いている。
「対米従属」「日本属国論」というのは戦後史を辿れば十分アリのシナリオだ。
日本の政治家は世襲が多いからね、そういうレガシーも引き継がれる。
ワイナー記者によれば、
1.岸信介と児玉誉士夫は、CIAのエイジェントとなった。
2.CIAの助けによって、岸信介は自民党の党首となり、首相となった。
3.児玉誉士夫は暴力団のナンバーワンとなり、CIAに協力した。
4.岸信介と、児玉誉士夫が、戦後の日本の政治の形を作った。
5.岸信介は、児玉誉士夫の金を使って選挙に勝った。
代議士になると、岸信介はその後50年に渡って日本を支配する自民党を作り上げた。
6.岸信介の作った「自由民主党」は自由主義的でもなければ民主主義的でもなく、戦争で亡びたはずの日本帝国の灰の中から起き上がってきた右翼的で封建的な指導者たちのクラブだった。
7.CIAと自民党との相互の間で一番重要だったのは、金と情報の交換だった。その金で党を支援し、内部情報提供者をリクルートした。
8.アメリカは、一世代後に、代議士になったり、大臣になったり、党の長老になったりすることが見込める若い人間たちとの間に金銭による関係を作り上げた。
9.岸信介は党の指導者として、CIAが自分の配下の議員たち1人1人をリクルートして支配するのを許した。
戦後の指導者層(政官報)にその後CIAがずっと人脈を作っていたわけだ。
ワイナーは1994年10月9日付けのNew York Timesに
「CIA Spent Millions to Support Japanese Right in 50’s and 60’s. 」
(CIAは日本の右翼を助けるために1950年代から60年代に書けて何百万ドルもの
金を使った)と言う記事を書いている。』(その後それを報道したのはポダムY新聞であった)
フリーメーソンとは何か まとめ
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/770.html
カールマルクス
マルクスとサタン翻訳
拙稿:欧米から見た日本 その1でアーネスト・サトウはこう言っている。『、日本の下層階級は支配されることを大いに好み、権能をもって臨む者には相手がだれであろうと容易に服従する。ことにその背後に武力がありそうに思われる場合は、それが著しいのである。 伊藤には、英語が話せるという大きな利点があった。これは、当時の日本人、ことに政治運動に関係している人間の場合にはきわめてまれにしか見られなかった教養であった。もしも両刀階級の者をこの日本から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治はさして困難ではなかったろう。』と。見透かされていたのである。
サトウの言う「両刀階級」を追い払うまでもなくメーソンごっこをさせるのが一番手っ取り早かったのであろう。
『秘密結社に喜んで入ってくるのは、世渡りがうまく出世第一主義で、一般人の中では軽薄に属する人物が多いので、彼らを御してわれわれが仕組んだことを片付けさせるのは、さして苦労のいることではない。』(15議定書)
ですから人間に対する洞察力は必要です。シオン長老の議定書1〜24 はコピーして理解出来るまで読まれるといいでしょう。
『基本的には、われわれが作った秘密のメーソン、かの家畜ゴイが存在を知らず、知ってもその目的を考えてもみなかったメーソンを作ったことが役立った。ゴイ御一同様の目を晦ませるべく、われわれがメーソン・ロッジ[結社の集会所・支部のことだが小屋≠フ意味もある]の見世物∴鼾タに彼らを惹きつけておいたのである。』(11議定書)
デヴィッド・アイクの役割はその”見世物”一座に一般大衆をひきつけること。 (実はわれわれの代理人が書いたのであるが.....20議定書)
『われわれが世界の王座に昇る時は、われわれの利益に反するかかる財政上の窮策を痕跡も残さず一掃し、併せて金融市場をすべて廃止する 。われわれの権威は価格変動に左右されるべきではないから、価格上昇も下落もできないように、法令をもって価格というものを固定してしまう。(価格を吊り上げるのは落とすためであり 、実にこの方法によってわれわれはゴイムとの関係の初期に彼らを弄んだのである)。』(21議定書)
『われわれは、われわれが教え込んだことではあるけれども、ゴイムの若者たちに、われわれには嘘と解っている主義や学説を注入することによって、彼らを翻弄し困惑させ堕落させてきた。』(9議定書)
『神に選ばれた者≠ヘ、理性ならぬ本能によって、また人間性ならぬ獣性によって動くバカげた力を粉砕すべく天から下される。この力は今は自由の原理という仮面をつけて、略奪とあらゆる種類の暴力をはたらき、凱歌を挙げているが、この力が秩序破壊の跡にイスラエル王を王座に据えるのである。だが、彼らの役割は王が王国に入ったその瞬間に終る。王国の路からは、その残骸の一片すらも残さないように一掃される必要がある。 』(23議定書)
代理人をすべて殺すという意味。
『諸兄の中には、来たるべき時が来ないうちに、もしもゴイムが真相を嗅ぎつけたら、彼らは武器を手にして蜂起すると言われる方もおられるようが、それに備えるに西欧においては、最も太い肝玉の持ち主をも戦慄させる恐怖作戦をもって対抗する・・すなわち、決定的な瞬間が来る前にすべての首都に地下鉄道、大都市の地下通路が設けられ、事到ればそれらの首都を建物や書類もろとも空中に吹き飛ばすのである。 』(九議定書)
『群集の何人かが天才的な賢者であったとしても成上がり者であり、政治を理解することはできず、指導者として前を進めば全国民を滅亡の淵に落としこむのは必然である。幼児時代から特別の方式によって訓練された者だけが、政治の基本を成り立たせているABCを理解することができるのである。
人民が人民に任せれば、すなわち人民の中から出た成上り者に任せれば、権力と名誉を追うあまり党派間の軋轢と、そこから生ずる無秩序状態に自滅するのが関の山である。』 (1議定書)
『ゴイの社会には、根深く対立抗争の種を植え込んでおいたので、秩序を回復するには権威の力を直接見せつけた容赦ない手段を執るよりほかはない。苦しむ者に一顧だに与えてはならない。未来の幸福のために 苦しみを引き受けさせるのである。いかなる犠牲を払ってでも福利を達成することこそ、どんな政府でも自分たちの存続を忠実に考え、特権維持ではなく職責完遂を顧みるならば、断じて遂行しなければならない義務である。支配を揺ぎないものとする原則は、権力の後光を輝かせることにあり、その後光というのは、その表に神秘的なもの・・神に選ばれた・・から来る不可侵性を顕現する紋章を帯びるというような、不退転の威厳に満ちた力を発揮していることが要諦である。近年までは世界中では、ローマ教皇を数に入れなければ、帝政ロシアがわれわれの唯一の競敵であった。記憶に留めていただきたいのは、イタリアである。流血にまみれたイタリアであるが、その血を注いだスッラに対しては、髪の毛一筋も手を触れることができなかったのである。彼は人民を虐げていたにもかかわらず、大胆不敵なイタリア帰還をやってのけ、不可侵性の網に囲まれ、人民の目には神と崇められたのである。人民は大胆勇敢な者には催眠術をかけられて、指一本触れないものなのである。
しかしながら、われわれの王国を実現するまでの期間は、われわれは正反対のことを行う 。フリーメーソン支部を世界各国にどんどん増設し、そこへ名士になりそうな人物、現に名士である人物を引き入れる。それというのも、それら支部は重要な情報集積所であり、情報を流す出口でもあるからである。』(15議定書)
これが世界統一政府(我々のためでなく彼らの(機会主義者 )ためのシャングリラ・楽園)の意味です。彼らは弁証法を使いますがそのシャングリラを日本のためにするには余りにも国や国民自体が財弱すぎる。とは言ってもヒラリーが先日来日した目的は米国延命装置としての天皇カンパニーからの支払保証手形(Promissory Note)でありそれによってしばらくは暴落はないであろう。しかし21議定書にある「価格を吊り上げるのは落とすためである」ことかもしれない。
ビールは放射線防護にいいらしい
5月は記録的に若い人の自殺が急増した模様ですが低気圧という殺人兵器もあるのです。ロシアの気象操作によって。そんな時サウナに入ってたっぷり汗を流しマッサージでもするといいでしょう。2039年までに面白いことがてんこ盛りですからね。命を自ら絶ったら勿体ないでしょ。ただし認知症などで迷惑をかける前にこういう歴史に残る遺書を残して死んだらどうでしょう。
I have decided to finish myself before I am unable to decide myself。
自分で判断できなくなる前に自分を終了することに決めた,と。こういう勇気も持つべきでしょう。寝たきりで垂れ流し.......いやだ,いやだ。このセリフはある映画の中のセリフです。とても素晴らしい大人の映画でした。題名は忘れましたが。
バーバラ・ストライサンドが歌う「イスラエル国家」
ユダヤ人教会(Synagogues)のユダヤ人巡礼者の新年にはミカ書第7章18〜20節に由来するPropitiatory rite of Tashlikという儀式を水の流れの前で行う。前列の人が読んでいるのは勿論ミカ書の一節である。「あなたのような神がほかにあろうか..........すべての罪を海の深みに投げ込まれる。どうか,ヤコブにまことをアブラハムに慈しみを示してください。その昔,我らの父祖にお誓いになったように。」
聖書ものがたり・ホセヤ書からマラキ書まで参照
上の聖書ものがたりには三島由紀夫を死に追いやった聖書の「予定説」の記述があります。「仮面の告白」に三島は予定説を書いています。西欧文学をやるにはこの予定説を理解しないと一歩も進みません。語学だけならいいのですが文学の深淵さに触れるには聖書の知識が必要です。哲学でもキエルケゴール もそうです。管理人はキリスト教徒ではありませんがある程度聖書を理解するのに40年かかりました。ただ,一つ言えることは「結婚式は教会で,新年は神社へ,葬式は仏式で」では駄目なのです。毎日がチャチャチャでアチャラカの日本人の裏の顔は違うでしょうが日本人は嘘つきですね。そういう実感を長い間持っています。これは変わらないでしょう。そういう中でどういうふうに自分の立脚地を持ったらいいのか.......それがこのブログの目的です。ただ,それだけです。
日本人社会では隣り近所との仲が悪いですね。ですから聖書では「隣人を愛せよ」とあるわけです。近くにホームレスの収容施設が出来ると聞きつけるやいいおじさん,おばさんがよってたかって抗議をするのはなぜでしょう。ホームレスの中には元中小企業の経営者も多くおります。この現場をテレビ中継したのは何回あるでしょう。相手が弱い立場の人間と見るや日本人はこれをやるのです。これが日本の社会なのです。相手が自分と比較して上か下かそれとも同等か.......上の身分ならすぐに卑屈な態度にでる......大学でもヘーゲルはああ言った,こう言ったの権威主義ばかりです。学生はまるで檻の中にいるも同然の弱い存在です。大学の教師は何の権限も持っておりませんが学生を落第させる権限だけはもっているのです 。
二年生に進級させないとか,親がそろそろ卒業の頃と大学に連絡するとまだ一年生だったなんてことも日常茶飯事のこととしてあったのです。学生が絶望して自殺しても出席をとり続けるという悲劇が多くの大学にかつてありました。こうなるとその権威の壁に対していつまでたっても学生が教師に対してうち溶けるなど100%不可能です。(京都大学にはその壁がないようです。)管理人は幼い頃よりそうしたものが嫌でたまたま母子家庭であったため中退し航空会社に生活の糧を得て,その後も海外で長いこと生活していました。そして「ヨブ記」のヨブ並の体験をしてそれが泥の中で栄養をとり美しい花を咲かせる蓮の華のように海外で経営者として花開いたということです。そして高年収をあっさりと捨て52歳で引退して自分を何回も何回も解体・分解し直して今があるわけです。人間万事塞翁が馬。誰でも「悟り」までは簡単ですがそれからが難しいのです。
祇園精舎の鐘の声,諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色,盛者必衰のことわりを
あらわす。おごれる人も久しからず,只
春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には
ほろびぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)
に同じ。 __平家物語より__
諸行無常・・この世に存在するすべてのものは
関係することであり,現象としてあらわれる全て
のものが流転し,一刻一刻変化しその全てが
また真実である。この世には実体と呼ばれる
ものはない。
現実をあるがままに認め,願っても叶わないような
ものは追い求めない。これが苦しみから救われる
路。
いかなる者もいつかは滅びる。あの泥のなかで
栄養を吸収し美しい華を咲かせる蓮の華を見て
ごらん。泥に汚されることなく転生し泥という
煩悩のなかで綺麗な華という菩提花を咲かせる。
これぞ涅槃なり。だから事実をありのままに
受け止めなさい(如日知見)。
過去ログ:生きることと考えること
『日本ですでに自己形成を完了した私が,ヨーロッパにあってどういうふうに生きてゆくか,ということだけであって,それ以外ではなかったのです。崩壊の瀬戸際に立つかもしれないような歩みは,むしろ現在はじまりつつある。そういう感じが強くしています。』
厄災の星「エレニン」
一応注意しておいた方がいいでしょう。米国は72時間前には何も知らせないがNASAは事前に知らせている。7月28,29は地震,新幹線には注意しよう。7月28=17 7月29=18(666)
8分45秒よりじいちゃんの話。
11分14秒........ここに信じてよいことがある。いかなる形の講和になろうとも日本民族が将に亡びんとする時に当って身を持ってこれを防いだ若者たちがいたという歴史の残る限り五百年後,千年後の世に必ずや日本民族は再興するであろう。(その若者の一人に管理人の叔父もいた)
特攻隊のフィリッピン戦・鳥飼行博研究室
過去ログ:なつかしい母上様,母ちゃんよ
過去ログ:恋人智恵子への遺書
わが子への遺書
父親の母校立教大学で日本舞踊を披露する素子さん。
韓国ドラマ「ホジュン」の公式サイト ・日本人はもっと近隣諸国の歴史を知るべきだろう。
チャングムの誓い
211
2011/7/5
世界は,舞台裏をのぞいたことのない人間には全く想像もできない人物によって支配されている<Benjamin Disraeli>
著者はイエズス会の選挙で選ばれる総長と選ばれない総長(BLACKPOPE)について一瞬触れているが闇の世界のBLACK POPEはMR.Zであると。管理人は何回も記事にしてきましたがそれはブレジンスキー(ジミー・カーターとオバマの育ての親)。
サタン・ルシファーの組織図
イエズス会の正体A
米国のプロテスタント派キリスト教徒エリック・ジョン・フエルプスの著書『バチカンの暗殺者たち』より引用します。
イエズス会の目的を想起せよ。彼らは極東、とりわけ日本の占領を企図した。まず最初に宣教師が来た。それから外国の軍隊がやってきた。
日本占領の意図をもってフランシスコ・ザビエルが1549年、日本に到着するとイエズス会士たちは“大名”と呼ばれる日本の貴族多数をキリスト教に改宗させた。イエズス会士たちはそれから大名たちを扇動して何百という仏教寺院を破壊せしめ、さらに仏教の僧侶たちを虐殺させた。
しかし、神の子(イエス・キリストのこと)は、ひとりのプロテスタント派キリスト教徒の船長を皇帝の将軍の宮廷に送った。ウイリアム・アダムスが、イエズス会士たちによって殺害されようとするその寸前に、将軍家康はアダムスを助け出した。家康は十分な時間をかけてこの船員アダムスと会談し、アダムスの話を聞いた。そこで家康はイエズス会の歴史が血にまみれていることを知った。西インド諸島原住民皆殺し、そしてスペインにおける異端審問についても。その結果、この英国人は、異例の恩寵を与えられ、武士に取り立てられた。
将軍家康は、そこで、イエズス会および彼らが構築したトレント公会議によって指導されるローマ・カトリック教会首脳部と法王の政治的行動計画に対して反撃することにした。すなわち、
「家康は、その治世の最初から、彼の帝国を組織し、統合するとともに、彼の権力を外国の陰謀家たちに適切に対抗できるように建設した。1606年、彼はキリスト教布教活動禁止令およびキリスト教徒棄教令を公布した。家康の言うキリスト教徒はこの場合、ヴォルテールの“その土地土着原住民の政府を打倒してそこに宗派的支配権を打ち立てることを合図とするローマの悪名高き陰謀システム”を意味する」
徳川将軍がこの事情を理解したので、家康、秀忠、家光はイエズス会士とその手先たち、スペイン人、ポルトガル人を追放した、プロテスタント派のオランダ人に1854年まで日本との貿易の独占権を与えた。1614年、家康は、彼の嫡子秀忠の名において、“キリスト教”を非合法化し、イエズス会を追放する法律を公布した。1622年、多数のイエズス会士が、国家反逆罪によって死に処せられた。
1624年、スペイン人、ローマ・カトリック教は、家光の命令によって禁止された。それはなぜか。
「切支丹(イエズス会)は、致命的に危険な教義を海外に広め、真実の宗教(仏教)を根絶し、(日本の)政府を打倒し、彼ら自身を全帝国(日本のこと)の主人たらしめるために策動して来た」
そして彼ら(イエズス会)の目標は何か?
イエズス会の目的は、中国の征服以下のものではあり得ない。そしてイエズス会の神父たちは、日本の支配者の車に乗って北京に入城する希望をずっと以前から抱いていた。
イエズス会の正体B
引き続き『バチカンの暗殺者たち』(エリック・ジョン・フエルプス著)より引用します。
(徳川将軍の切支丹禁止令の結果として)イエズス会は、日本からその後250年間追放された。そしてその措置が日本民族に対して、技芸と、反映と、平和とをもたらした。
将軍は彼の家紋も、日本の国家民族も、そのことのために手ひどい仕返しをされるであろうとは、ほとんど予知することが出来なかった!
常時謀略が企てられ、永遠に報復が仕掛けられる。1854年、イエズス会はペリー准将の率いるアメリカ艦隊を使って日本を開国させた。その古き敵に対して復讐するために、イエズス会は外国勢力を使って、1868年の革命を作り出した。徳川将軍は“権力を不法に簒奪した者”という悪名を付けられ、辞職するように強制され、徳川将軍家は15代で終焉した。
将軍家を追放した後、イエズス会は、天皇崇拝を復活させ、東京に、イエズス会の将棋の駒たる明治天皇を頂点とする中央集権国家を樹立した。
1873年、キリスト教禁止令が撤廃されるや、イエズス会は公式に日本への入国を許可された!1874年、イエズス会宿命の敵たる仏教は、正式にその特権を剥奪され、天皇はもはや、長年の国教であった仏教を保護することをやめた。
この新しい絶対権力をもって、1945年までその“教会の日本刀”を行使する。彼らは天皇の軍隊をもって、イエズス会の二つの旧敵、すなわち中国(1895年)、ロシア(1905年)に対する戦争を起こさせた。北京の満州王朝は1700年代にイエズス会を追放し、モスクワのロマノフ王朝の皇帝は1820年に同じことをしたではないか。
1941年、日本人が報復を受けるべき時が来た。ローマのイエズス会は総長の監督下で、東京のロヨラの息子たち(イエズス会の兵士たち)は、米国と日本の間の戦争を作り出す。フリーメーソン、シュライナー位階によるルーズベルト大統領が完全に承知している状況の中で、真珠湾は東条の日本艦隊によって爆撃される。そして、それは全米国民に惨劇の嵐を巻き起こす。(米国)議会は、この謀略にうまうまと嵌められて、対日宣戦布告を議決する。
天皇は、彼の絶対君主制を失った。太古からの文化を保有する日本は破壊され、日本人は国家的敗北の結果、未曾有の屈辱を受けた。そしてそれからイエズス会は、日本をハワイのように彼らのアメリカ帝国に併合し、その保護と繁栄が完璧にワシントンDCに従属する如き、社会主義的商業的植民地を造り出した。
親愛なる真実の探求者の皆さん。これこそまさに1868年から1990年に至る時期に生じたことである。イエズス会は、明治天皇と彼の孫、昭和天皇を通じて日本の軍隊を思いのままに動かし、1911年満州王朝(清帝国)を廃絶せしめ、第二次世界大戦中、1945年まで『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』に述べられている如くに、中国人民を掠奪暴行し、大量に虐殺した。それから1949年には、イエズス会は、彼らの支配する英国、アメリカ、ロシア帝国をして、中国の大異端審問官毛沢東を権力の座に就けた。そして彼はイエズス会の指令にもとづき、“共産主義”の名の下に、彼自身の国の人民を五千万人、虐殺した。冷たい戦争の勝利者となったイエズス会総長は、極東の絶対権力者の地位に就き、厖大な兵力を有する中国軍という強力な、新しい“教会の剣”を彼の手に持って登場した!イエズス会総長の手の中に在るこの軍隊(中国軍)は、いずれの日か、(ローマ)法王の所有するアメリカ帝国によって先進技術を供与され、十二分な食糧支援を与えられて、日本、韓国(および北朝鮮)、台湾、マレーシア、武装解除されたオーストラリアを併合するであろう。
54
2011/7/5
巨大カルトバチカン研究
凝縮された曼荼羅参照
イエズス会の正体@
フリーメーソンに続いては、バチカンについてみていきたいと思います。
バチカンは、ローマ・カトリック教会と東方典礼のカトリック教会の中心地で、いわばカトリックの「総本山」です。
バチカンの統治者はローマ教皇であり、ローマ教皇庁によって統治されています。
バチカン市国の面積は0.44平方kmと、ほぼ東京ディズニーランドと同じくらいの世界最小国ですが、中国にも匹敵する10億人以上の信徒を全世界に有している一大勢力であり、また、信徒の中には国家元首クラスがたくさんいるので、その情報力および外交力そして影響力は世界でもトップクラスなのです。
『アメリカ ネオコン政権 最期の強敵 バチカン』によれば、そのようなバチカンの重要性を最も認識していたのは昭和天皇であり、太平洋戦争勃発のおよそ二ヶ月前に、当時の木戸幸一内大臣に「今度の戦争は避けられそうにないが、いよいよ戦争になった時は、どのように和平工作を進めるのか、今から考えておくように…。そのためにはバチカンと国交を結んでおくことは必要なことなので、すみやかにその手配をするように」と密命を与えたということです。
昭和天皇が誰よりも国際情勢に精通していたことをうかがい知ることができるエピソードではないでしょうか。
さて、そんなバチカンを支える強力組織がイエズス会*1です。
※イエズス会については『キリスト教は植民地支配の先兵だった』もご参照ください。
以下は『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)から引用です。
イギリスの歴史家ジョージ・サムソン卿は『日本−文化小史』の中で、あるスペイン船長の話を書いている。日本との取引交渉に難渋するスペイン船長に、日本人が「スペイン国王はどうしてこれだけの領土を支配できたのか」と質問した。その船長は「簡単なことだ。原住民を改宗させるために宣教師を送り込む。改宗者が十分そろったところで軍隊を送り、改宗者が現地政権に反抗するようにしむける。そしてスペインが占領するのだ」と答えた。
1549年にキリスト教を伝えるため来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザヴィエルの隠れた使命も、日本の占領にあったのでしょうか?
小岸昭(京都大学教授)の『十字架とダビデの星』の中に、ザヴィエルが描かれている。
「旧キリスト教徒の高位聖職者たちは、マラーノを正しい信仰に背いた「呪われた者」としてマラーノ憎悪を煽り立てていた。大航海と植民の拡大政策による国家の経済的発展とともに、いちじるしく力をつけてきた信仰中間層を封じ込め、かつカトリック王国を宗教的に浄化する必要を痛感していたジョアン三世は、1536年、ついに異端審問所を開設するに至った。この時、火炙りの刑に震え戦(おのの)いた改宗ユダヤ人のなかに、祖国を脱出し、新天地たる黄金のゴアに向かう者が少なくなかったのである。」
小岸はマラーノについて、「追放か洗礼かを迫る十五世紀末の『ユダヤ教徒追放令』により、キリスト教に改宗したイベリア半島のユダヤ人たち、表面上には〈十字架〉に帰依するように見せかけながらも、心の奥底で密かに〈ダビデの星〉を信じ続けた彼らは、異端審問所の執拗な追及に怯え、『マラーノ』(豚)と蔑まれながらやがて世界中に離散していく。ヨーロッパはもとより、ブラジル、インドへ…」と書いている。
ザヴィエルは、ポルトガル系のユダヤ人のマラーノである。ポルトガル系ユダヤ人は香辛料や金銀を求めて、世界的な貿易に乗り出していた。マラーノのザヴィエルは、イエズス会の会員にして貿易商人でもあった。
<中略>
『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』から彼の信仰と思想を見ることにしよう。
「神父が日本へ渡航するときには、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきてください。もしも日本国王が私たちの信仰に帰依するようなことになれば、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的な利益をもたらすであろうと神において信じているからです。堺は非常に大きな港で、たくさんの商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金がたくさんありますので、この堺にポルトガルの商館を設けたらよいと思います。」(『書簡集』第93、ゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てて、1549年11月5日、鹿児島より)
それでは「書簡第九」を見てみよう。ザヴィエルが商人であることを知ることができる。
「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述べたように、堺の港に、ついた時、持ってきたのが少なければ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けができるからです。」
堺は十六世紀中葉、日本の商業の中心地であった。ザヴィエルは1551年、堺に三万クロサド以上の財産がある商人たちは1000人以上いると推定した。80バレルの胡椒は、インドで976クルサドの価であったが、日本に来ると三倍になった。
<中略>
「書簡第九十四」は、ヴァスコ・ダ・ガマの子のペトロ・ダ・シルヴァに宛てた手紙である。その手紙は次の文で終わる。
「もし、閣下が私を信頼してくださって、この地方に送る商品の管理を私にご一任くださるなら、私は「一」から「百」以上に増やすと断言します。」
こうしてみるとザヴィエルはポルトガルの経済戦略の先兵隊員ではあったようです。
そして、このザヴィエルが貿易の目玉としたのは、火薬の原料となる“硝石”でした。
「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。(二版では憲兵命令で削られた)
「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし。」
<中略>
キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが天正少年使節団としてローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。
「行く先々で日本女性がどこまでいってもたくさん目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。
鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている。」(山田盟子『ウサギたちが渡った断魂橋』)
キリシタン大名は、火薬一樽で50人を奴隷として差し出したとのことです。
また、キリシタン大名は、硝石欲しさに仏像や寺社の破壊も行ないました。
イエズス会のバテレンのルイス・フロイスの『日本史』の記述を読むと、大友宗麟の姿が見えてくる。この『日本史』は、1583年の秋からフロイスが編集した日本におけるイエズス会の布教の歴史である。
大友宗麟が織田信長に鉄砲や火薬を仲介する商人の姿が書かれている。宗麟は貴族の久我晴通に、禁裏(天皇)へのバテレン優遇の奏上を依頼している。
信長が仏寺破壊を行なって、フロイスは祝意を表明している。バテレンは宗麟にも仏像・寺社破壊を奨励した。宗麟は1561年に宇佐八幡宮を焼いたのをはじめ、領内の仏像・寺社破壊をなした。1581年10月8日に、豊前彦山の三千坊といわれる坊舎を焼いた。宗麟はヴァリニャーノに「このたびの勝利が、デウスの御業と司祭たちへの祈りの賜である」と伝えた。その報酬として、イエズス会は宗麟の武器援助の要請に応じた。
さて、次に鹿島任痢愍赦妥傾弔瞭罅戮涼罎琉貶犬鮠匆陲垢襦」
「ポルトガルとオランダが諸大名に火薬を売りつけたために日本は戦国時代になった。信長のキリシタン擁護が腰砕けになったため、宣教師は明智光秀に新式火薬を渡して、信長殺しに成功するが、そのうち秀吉の鎖国政策を嫌った宣教師たちは朝鮮征伐には火薬を供給せず、そのために秀吉の外征は失敗に終わる。しかし、このとき国内にいて火薬を温存させた徳川がのちに政権をとることができた。家康は火薬の流入が日本に戦乱を引き起こしたことを十分承知しており、鎖国の狙いはキリシタン禁制そのものでなく、火薬流入の禁止であった。」
鹿島任蓮¬醒匕・┐・ヅ朕・垢鮖Δ靴燭箸靴討い泙垢・・・攣濾廚魯ぅ┘坤慌颪・侈瑤膿・垢鮨瓩暖瑤个靴燭箸靴討い泙后」
☆八切止夫作品集は下記で読むことができます。
http://rekishi.info/library/yagiri/
何故、神の使者であるはずの彼らが、このような残虐行為をおこなえるのでしょう?
その答えは、次の逸話の中に集約させているように思います。
大航海時代の一時期、航海者たちはローマ法王に「異教徒は人間なのか」と問い合わせ続けた。法王の答えは一定していた。
「殺すなかれという戒律はキリスト教徒だけに適用する」
実に恐ろしきは“一神教”の偏狭さ也、ですね。
*1:イエズス会は、カトリックとしては二番目に大きな修道会。2万人の会員が112カ国で活動しています。ちなみに、一番大きな修道会は『ダ・ヴィンチ・コード』で有名となったオプス・デイです。
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2011/7/5
三菱フリーメーソン説C
この株式市場の崩壊と、金融引き締め政策(デフレ政策)は国際的銀行家によって予め計画されていたものだった。
1929年2月6日、イングランド銀行総裁のモンタギュー・ノーマンはワシントンへやって来て、財務長官のアンドリュー・メロン(1855〜1937、財政家、メロン・ナショナル・バンク社長を経て、3代の大統領のもとで財務長官)と会談した。
1929年8月に連邦準備制度理事会は金利を6%に引き上げた。
その翌月、イングランド銀行は金利を5.5%から6.5%に引き上げた。
この時すでに株の暴落は準備されていたのである。
しかし、全ての大銀行は不況を成功裡に乗り切ったのだ。
J・P・モルガンとクーン・レーブ商会は両方とも、儲かりそうな株の事前通知を送る人々の「選別リスト」を持っていた。
この選別リストに載っていたのは、銀行家仲間、卓越した事業家、有力な都市の政治家、共和党及び民主党の全国委員会委員、及び外国の指導者たちであった。
彼らは来るべき暴落の通知を受け、ジェネラル・モーターズ、デュポン等のいわゆる一流の株を除いた他の株は全て売却した。
これらの株価も記録的な安値まで沈んだが、その後すぐに持ち直した。
以前の恐慌の時と同様に、事情通のウォール街と外国の相場師たちは、確実優良・一流証券をその実体価値の何割かの価格で手に入れることが出来た。
1929年の大恐慌では、マリーン・ミッドランド・コーポレーション、リーマン・コーポレーション及びエクイティ・コーポレーションのように、割安な債券や証券を手に入れた巨大な持株会社の形成も見られた。
1929年にJ・P・モルガン商会はスタンダード・ブランズという巨大食品トラストを組織した。
トラスト経営者にとっては、彼らの持株を増したり統合したりする無比の機会であった。
1920年の農業不況は、州法銀行や信託会社が連邦準備制度に加盟することを断ったために引き起こされた。
1929年の大恐慌は、アメリカのほとんど全ての権力を少数の巨大なトラストの手の中に集中するために引き起こされたのだ。
1929年9月1日にはニューヨーク証券取引所上場株式の時価総額は896億6827万6854ドルだった。
32年の7月1日にそれは156億3347万9577ドルとなった。
価値総額にして740億ドル、率にして29年ピークの実に82%が株式市場から消滅した。
それはアメリカ国民一人当たりにして616ドル、アメリカが第一次世界大戦に費やした戦費のおよそ3倍の大きさだった。
名目GNPは1929年の1031億ドルから32年には580億ドルに(44%)下落した。
同じ期間に工業生産は46%、国民所得は51%、企業売上は50%、輸出は36%それぞれ下落した。
30年に失業者は430万人に達し、1年後にはさらに倍加して800万人に及んだ。
この数字は6人に1人が失業していることを示す。
32、33年には遂に1200万人を越え、失業率は約25%に達した。
職を維持できた者も、賃金カットを甘受しなければならなかった。
製造工業部門では、29年に週当たり賃金25ドルであったのが、32年には17ドルまで下落している。
30年にセールスマンの賃金はほとんど半減した。
しかも、消費者物価指数は20%程度しか下がっていない。
そのため、大衆の購買力は低下し、不景気にいっそう拍車をかけた。
1930年から、大都会の路上に靴磨きや、りんご売りの姿が目立つようになった。
自動車工業都市デトロイトでは、職を失った労働者がプラカードを立てて職探しにやっきになっていた。
レストランの前には、残飯を求めて長蛇の列が出来た。ごみ箱をつつく姿も珍しくなかった。
メロンの皮、魚の頭、腐敗した肉ですら、探索の対象となった。
それにしてもこの大恐慌は正に狂気の沙汰としか言いようがなかった。
「飢餓と余剰の並存という信じられない光景がそこかしこに展開した。失業者たちはすりきれた洋服しか着ていないというのに、農民は1932年に1300万梱の綿の売れ残りを抱えていた。子供たちは段ボール底の靴をひきずって学校へ行っているというのに、マサチューセッツ州の靴工場は年の内六ヵ月は閉鎖しなければならなかった。食事に事欠く人間が大勢いるというのに作物は畑で腐っていた。
カリフォルニアでは売れ残りのオレンジに石油をかけて燃やしているというのに、アパラッチ山脈のある地方では村民のすべてがタンポポその他の雑草で飢えをしのいでいた。アイオワではとうもろこしが余りにも値が安いため、郡部の裁判所では暖炉の薪がわりに燃やされたが、干ばつに見舞われた北西部では多数の牛や羊や馬が餓死していた。酪農家が売れない牛乳を排水溝に流しているというのに、失業中の親は育ち盛りの子供に何とか一パイントの牛乳でも飲ませてやりたいと必死だった」(林敏彦著『大恐慌のアメリカ』岩波新書)
不況が長引き、有り余る豊富の中にこれほど多数の人が欠乏を感じているのは、社会経済システムが狂っているからに他ならなかった。
1931年5月にオーストリア最大の銀行クレディット・アンシュタルトが支払いを停止した。
金融恐慌はヨーロッパ全土に広がり、ハンガリー、チェコスロバキア、ルーマニア、ポーランド、そしてドイツの銀行が取り付けに見舞われた。
6月にはドイツのハインリッヒ・ブリューニング首相が、緊縮的政策を受け入れるよう国民に説得する目的で、ドイツは賠償支払い能力の限界に来たと言明した。
資金は争ってドイツから逃避し始めた。
ドイツの銀行は軒並み取り付けに見舞われ、ライヒスバンクは4日間で4億ライヒスマルクの金を失った。
6月20日にはフーヴァーが、他の重要な債権国が同調するならば、アメリカは32会計年度に期限の来るすべての国際債務の支払いを1年間猶予するというモラトリアムを提案した。
フーヴァー・モラトリアムには最終的には各国の同意が成立したが、それはようやく7月6日になってからであった。
その間に、債権者たちは先を争って流動性を確保しようとした。
ドイツではすべての銀行が短期間ながら閉鎖され、閉鎖が解かれた後も外国資金は凍結された。
ヨーロッパ大陸の金融恐慌は、イギリスに波及した。
ヨーロッパの小国の商業銀行が、ドイツの外国資金凍結によって失った金準備をポンドを売って回復しようとした。
イギリスからの資金引き揚げの速度はますます速まった。
9月21日、イギリスは金の支払いを停止して金本位制を離脱し、ポンドを切り下げた。
同時に今度はアメリカから金が大量に流出し始めた。
ドイツやイギリスで損失を蒙った各国の銀行が、金準備を確保するため、また、損失を埋め合わせるため、アメリカの銀行預金を解約して金に替えたのである。
連邦準備はこの金所有権の国外流出に古典的手段で対応した。
連邦準備銀行は公定歩合を2週間に2%ポイント引き上げた。
大恐慌の中での金融引き締めは、狂気の沙汰だった。
では、ドイツの戦時債務に対するこのフーヴァー・モラトリアムの真の狙いはいったい何だったのだろうか。
フーヴァー・モラトリアムの背後には、国際的銀行家たちがいた。
ドイツはスポンジのようにアメリカの資金を待ち望んでいた。
この計画はフーヴァーが大統領になる前から開始されていた。
フーヴァーの大統領選出は、クーン・レーブ商会の重役であるワーバーグ兄弟の影響によるものであり、彼らが選挙費用を賄った。
その見返りとして、フーヴァーはドイツの債務繰り延べ(モラトリアム)を約束したのだ。
フーヴァー・モラトリアムはドイツを援助する意図で行われたのではなかった。
ドイツの戦争債務の繰り延べは、ドイツが再軍備の資金を得るために必要であった。
1931年に国際的銀行家たちは第二次世界大戦を期待しており、侵略者(ヒトラー)なしの戦争はあり得なかったからだ。
フーヴァーはまた、ロスチャイルド家の秘密代理人として、世界中のいろいろな場所で多くの鉱山開発を行い、ロスチャイルドの主要企業の一つであるスペインとボリビアのリオ・チント鉱山の管理者として報酬を与えられていた。
フーヴァーとエミール・フランク(ベルギーの大銀行ソシエテ・ジェネラルの重役)はベルギー救済委員会を組織して、第一次世界大戦中のドイツに食料を供給した。
大恐慌に対するフーヴァーの対策は以下の通りであった。
「ウォール街崩落のあと、彼は、実業界・労働界の指導者をホワイト=ハウスにまねき、協力を依頼している。実業界の指導者は、フーヴァーの要請をいれて、賃金水準を維持し、生産水準を引き下げないことに同意した。労働界の指導者も、ストライキをやらないと述べた。農業界にたいしても、農産物価格を適当な水準に維持するため、生産制限を自発的におこなってほしいと訴えた。しかし、これらの要請がいつまでも支持されるはずもなかった。すでにみたように、30年から生産は落ち込み、失業者が増大した。31年8月、USスティールが賃金カットに乗りだしてから、労使間の協調にも亀裂が生じ、労働争議が激発した。農業政策もさして効果はなかった。自発的な生産制限は、全国的規模で実施されたときにのみ効果を生む。しかし、個々の農民は、従来の所得水準を維持するには、むしろ生産の増加をはからざるをえなかったのである。
1931年12月、フーヴァー大統領は、起死回生の法案を議会に提出した。復興金融公社法案である。この法案は、政府が5億ドルの資本を投下して、復興金融公社を設立し、銀行・保険会社・鉄道・農業不動産会社などに救済貸付をおこなうことを目的としていた。この法案提出は、政府のビジネスへの介入に消極的であったフーヴァーにしては、画期的な措置であったといえる。しかし、結局は、大銀行や大産業を救済するのに役立っただけで終わった。32年7月、復興金融公社の貸出状況を議会に報告する義務を負わせる法律が通ったが、それにもとづいて調査したところ、総額1億2600万ドルの貸出のうち、半額以上が、三大銀行への貸出しであることが判明したのである」(中村政則著『昭和の恐慌』小学館)
経済状態の悪化を反映して、連邦政府の歳入は29年から32年にかけて半減したが、歳出は5割の増加となった。
その結果、連邦財政赤字は32年には27億ドルに達した。
これはその年の歳入総額より40%以上も大きな数字であり、政府の負債残高は年間歳入の10倍にまで膨らんだ。
フーヴァーは均衡予算への復帰を訴え、増税政策を採用した。
フーヴァーは退役軍人のボーナス、公共事業、福祉事業、失業保険などを連邦政府の国債発行によって賄うことは、すべて国の信用に傷がつくとして拒否し、大不況からの回復を財政面から支援する道を閉ざしてしまった。
いまや大統領フーヴァーは、繁栄の象徴から貧困の象徴へと転落した。
1932年2月13日、ミシガン州のカムストック知事は全州550の銀行に8日間の「銀行休日」を宣言した。
デトロイトの中心的銀行、フォードの庇護下にあるガーディアン国法商業銀行と第一デトロイト国法銀行が経営危機に陥ったとの判断からであった。
ミシガンの銀行休日の直後、オハイオ全州に取り付け騒ぎが起こった。
2月20日からの1週間で金融恐慌は全国に広がった。
2月と3月で閉鎖された銀行の数は3610行にのぼった。
そして、3月4日、ルーズヴェルトの大統領就任の日、最後まで残っていたニューヨーク州とイリノイ州が銀行休日を宣言したことによって、全米すべての州で銀行が閉鎖された。
21年に3万1076行あったアメリカの銀行は、合併や倒産によって33年までにその半数以上にあたる1万6305行が姿を消した。33年中に払い戻しを受けられなくなった銀行預金残高は36億ドル、その年のGNPの6%を超える大きさだった。
こうして不況のどん底でアメリカ国民が絶望感にうちひしがれている時に登場したのが、ルーズヴェルトのニューディール政策だった。
「ニューディール」という言葉は、「トランプのカードを新しく配り直す」「新規巻き返し」「新しい対策」という意味である。
1932年の大統領選挙でのフーヴァーの対抗馬は、ニューヨーク州知事のフランクリン・D・ルーズヴェルトであった。
大統領選挙の結果は、ルーズヴェルトの圧勝であった。
1933年3月4日の大統領就任式で、ルーズヴェルトはキャピトル・ヒルを埋め尽くした大群衆とラジオの前の国民に語りかけた。
「我々はこの国の置かれた状況に正直に直面することを恐れてはなりません。この偉大な国は、これまで耐えてきたように耐え忍び、やがて復活し、繁栄するでありましょう。
したがって、まず第一に私は、我々が恐れなければならないのは恐れだけである−退却を前進に変えるために必要な努力を萎えさせる名状しがたい、理由のない、条理の立たない恐れだけである、という堅い信念を述べさせていただきます」
「両替商たちは既に我が文明の殿堂の高座から敗走しました。我々は今こそその殿堂に古来の真理を回復することが出来るのです」
「幸福は、単に金銭の所有にあるのではなく、成就の喜び、創造的努力の心のふるえにあるのであります」
「そしてそこには、十分だが健全な通貨の準備がなければならない」
ルーズヴェルトは私利を求めて経済を破滅させた両替商(国際的銀行家)たちを非難し、金銭的利潤よりも崇高な社会的価値があることを説いたが、彼自身がその銀行家たちのエージェントであることは述べなかった。
ルーズヴェルトの政治経歴は奇妙な事情から始まった。
昔の学生時代の関係から、第一次世界大戦中の海軍次官として彼は何人かのグロートン校とハーバード大学の同室の友を含む海軍の同性愛者の大組織の告発を先回りして妨害したことがあった。
このことが、旧家であり著名なニューヨークの一族のベシー・マーベリーが主宰するニューヨークーパリ間を何度も往復してきた裕福な国際的な同性愛者グループに好ましい行為として目にとまった。
ベシー・マーベリーは、後に民主国民党の有力者となった。
彼女はまたルーズヴェルト夫人エレノアを仲間に引き入れた。
フランクリン・D・ルーズヴェルトが車椅子の生活を余儀なくされて落ち込んでいたので、エレノアはベシーに相談した。
ベシーはルーズヴェルトをニューヨークの議員に推すことにした。
彼女の力で目的は達成され、ルーズヴェルトは後に大統領となった。
フランクリン・D・ルーズヴェルトは、1920年代にアメリカで巨額の外国債券を発行した評判の悪い国際銀行家であった。
この債券は償還不能となり、アメリカ市民は巨額の損失をこうむった。
『ニューヨーク重役名簿』には、ルーズヴェルトが1923年と24年にユナイテッド・ヨーロピアン・インベスターズ社の取締役社長であると記載されていた。
この会社は巨額のドイツマルク債の発行をアメリカで引き受けたが、それらはすべて償還不能となった。
『プアーズ重役名簿』は、彼を1928年のインターナショナル・ジャーマニック・トラスト・カンパニーの重役として記載していた。
フランクリン・D・ルーズヴェルトはまた、合衆国における外国証券の取引を行うイギリス−アメリカ部隊である連邦国際銀行の顧問でもあった。
フランクリン・D・ルーズヴェルトが合衆国大統領に就任した時、彼はポール・ワーバーグの息子で、国際手形引受銀行副頭取及び他の会社の重役のジェームズ・ポール・ワーバーグを予算局長に任命した。
ルーズヴェルトはW・H・ウッディンを財務長官に任命した。
ウッディンは国内最大の産業資本家の一人であり、アメリカン車両鋳造会社や多数のその他の機関車関連の工事会社、レミントン兵器会社、ザ・キューバ・カンパニー、コンソリデイテッド・キューバ鉄道及びその他の大企業の重役であった。
後に、ウッドロー・ウィルソンをホワイトハウスに送り込む手助けをしたハーレム不動産の経営者の息子であるヘンリー・モーゲンソー・
ジュニアがウッディンの後任者となった。
以上の任命は、ルーズヴェルトが、その非難した当の産業資本家、両替商(銀行家)の側に立つ人物であることをよく示している。
就任式の夜、ルーズヴェルトは財務長官ウィリアム・ウッディンに5日後までに緊急銀行法を起草するよう命じた。
翌5日の日曜日、ルーズヴェルトは側近と協議の上、初の大統領令を発した。
その第一は、3月9日に特別議会を召集すること、第二は、夜12時を回ってから発表されたが、1917年の「対敵通商法」というおぼつかない権威を拠り所に、3月10日まですべての銀行を閉鎖し、金の輸出、銀の輸出、及び外国為替の取引をすべて禁止するというものだった。
これによって、アメリカの銀行制度は完全に機能を停止した。
3月9日に開かれた特別議会で、「緊急銀行法」が発効した。
ルーズヴェルトは直ちに、新しい権限に基づいて、銀行休日を無期限に延長するとの大統領令を発布した。
しかしこの「対敵通商法」は、その合法性に関して疑問がある。
このような法規は平和状態には適用できない。
議会は、軍事措置として以外は、国の憲法や法律を一時停止する権限はなく、その場合でさえ、その権限は軍事的必要事に限られているからだ。
ではこの「緊急銀行法」はどのような結果をもたらしたのであろうか。
「1929年には3万以上の州規模ないしは全国規模の銀行があった。その数は1932年には1万9163に減っていたが、前述の指令の結果、4541の銀行あるいは残存銀行の約3分の1が永久に閉鎖し、43億5679万9000ドルに達する彼らの預金は凍結され、その大部分はなくなった(1936年度通貨会計検査官報告、112ページ参照)。こうして大統領は、法律と合衆国憲法を非道に犯して、閉鎖銀行の数千人の株主およびその銀行の数百人の預金者の財産を仮借なきまでに消滅させ、後日その著書『われわれの道』のなかでその成功を自慢している。
この指令の効果は、デフレをさらに深め、事態をますます悪くしたことである。それは幾千人の預金者の生涯をかけた預金を凍結し、彼らを安楽な身分から窮迫状態へと一転させた」(ジョージ・アームストロング著『ロスチャイルド 世界金権王朝』徳間書店)
この銀行閉鎖から救われたのは、連邦準備銀行が安全を保証した銀行だけであった。
3月12日の日曜日の夜10時、人々はラジオから流れてきたCBSアナウンサーの声に耳をそばだてた。
「大統領がお宅にお邪魔して、暖炉のそばに腰を下ろし、少し炉辺のおしゃべりをされたいそうです」。
かの有名なルーズヴェルトの「炉辺談話」が始まった。
「明日月曜日から、連邦準備銀行のある12の都市の銀行を皮切りに、既に財務省が調べて大丈夫だと分かっている銀行を開けます。それから火曜日には、ちゃんとした手形交換所のある町の健全だと分かった銀行が、すべての業務を再開します。それから水曜日には・・。いいですか、もしあなたの銀行が最初の日に開かなくても、もうそこは開かないのだと決して思わないで下さい。明日開く銀行も、それから後で開く銀行も、全く同じなのです。お金はマットレスの下に置いておくよりも銀行に預けた方が安全だと私が保証しますよ。・・」
この「炉辺談話」は大成功だった。
翌日再開された銀行はどこも取り付けには見舞われなかった。
それどころか、ニューヨーク連邦準備銀行では、加盟銀行に払い出した金額が1800万ドルだったのに対して、その日の終わりまでに帰ってきた現金は2700万ドルに上がった。
他の地域の連邦準備銀行でも同じことが起こった。人々はタンス預金を銀行に預けにきたのである。
しかし、再開されず閉鎖されたままの銀行もあったことは、先に述べた通りである。
人々の預金が安全性を保証された特定の大銀行に集中したであろうことは、想像に難くない。
ルーズヴェルトは議会に「緊縮財政法案」を提出した。
ルーズヴェルトはフーヴァー時代に膨らんだ連邦財政赤字の建て直しのために、連邦支出を大幅に削減する権限を要求した。
ルーズヴェルトは、議員、大統領を含む全ての政府職員の給与を15%まで削減し、軍人恩給を削減し、いくつかのベテラン(退役軍人)の特典を廃止し、政府の科学研究と統計サービスへの支出を削減するつもりだと説明した。
軍人恩給の削減に対してはベテランたちから直ちに強硬な反対の声が上がった。
彼らはフーヴァーの拒否権を覆してそれを獲得したのだった。
議会は緊縮財政法とヴォルステッド法(ビール・ワイン解禁)の二つを承認した。
ルーズヴェルトの緊縮財政・デフレ政策は明らかに失敗だった。
不況に対する療法は、連邦準備制度のデフレ政策ではなく、通貨と信用を膨張させて、公正かつ穏当なインフレーションを招来することにあった。
ルーズヴェルトはその療法を承知していたので、就任演説でこの方策を取ると約束したのだ。
ルーズヴェルトは口先とは裏腹に、景気を回復させるつもりなど始めからなかったのだ。
1933年6月16日、「グラス・スティーガル法」が発効した。
グラス・スティーガル法は証券と銀行の分離、連邦準備制度の強化、預金者保護のための「連邦預金保険公社(FDIC)」の設立、要求払い預金への利子の禁止などを主な内容としていた。
33年銀行法(グラス・スティーガル法)の中で最も大きな論議を呼んだのは、FDICについてであった。
「政府による保険は機能したためしがない」
「結局健全で業績のよい銀行が不健全で危険な銀行を助けることになる」
「自由かつ独立独歩のアメリカの銀行制度への根本的挑戦だ」
一時は成立が危ぶまれたが、結局FDICは1935年に設立された。
これは、小銀行に対する大銀行の力を増大させ、大銀行が小銀行を調査する一つの口実を与えることになった。
次いで銀行法は1935年に改訂され、連邦準備の政策決定権限はさらに強化された。
金融政策の決定権は従来の連邦準備委員会を改組した「連邦準備制度理事会」に移り、財務長官と通貨管理局長はその委員会からはずされた。
この法律は連邦準備制度理事会の役員の任期を14年もしくは大統領の任期の3.5倍の長さに延長した。
これが意味することは、理事会に敵対するかもしれない大統領は、自分に好意的な多数派を理事会に任命することが出来ないということである。
そのために、大統領がホワイトハウスに着任する前に採用された金融政策は次の大統領の希望に関係なく継続されるようになった。
1935年の銀行法はまた、1933年のグラス・スティーガル法の条項の一部を廃止した。
この条項は、銀行が所有する企業にその銀行が資金を貸し付けることを禁止することだったので、元来の趣旨は良いものであった。
1935年銀行法により、連邦準備銀行は今や産業に直接貸付することを認められ、巨額の貸付を実行するだけの規模を持たない会員銀行と競合することになった。
これは、J・P・モルガンが投資銀行業に戻ることができることを意味した。
1935年銀行法によれば、連邦準備制度理事会の新議長と新メンバーは、大統領によって任命されると規定されている。
そして、ルーズヴェルトはマリナー・エクルズを理事会議長に指名し、全く新しい理事陣を任命した。
エクルズはユタ州の銀行家であり、ファースト・セキュリティーズ・コーポレーションの社長であった。
この会社は、エクルズが1920年から21年までの農業不況の時に安く買った多数の銀行からなる一族の投資信託会社だった。
エクルズはまた、ペット・ミルク・カンパニー、マウンテン・ステイツ・インプリメント・カンパニー及びマルガメイテッド・シュガーのような企業の重役でもあった。
大銀行家としてエクルズはルーズヴェルトを操作していた有力者グループとうまがあった。
当初の連邦準備法は準備制度加盟銀行に対し、連邦準備銀行に下記のような準備金を保有することを要求した。
すなわち、地方銀行及び小都市の銀行は、その預金の7%、準備都市(商業中心地と目される都市で、そこに所在する国立銀行は一定率の準備金を維持するよう規定されている)の銀行は10%、中央準備都市では13%である。
1935年銀行法は、「有害な信用の膨張・収縮を防止するため」、前述の準備金要件を倍加する権限を連邦準備制度理事会に与えた。1936年8月26日に、連邦準備制度理事会はこれらの準備金条件を50%引き上げた。さらに、1937年1月30日、次の決議を採択した。
「1937年3月1日の営業開始より各加盟銀行が維持すべき準備金要件は連邦準備法第19条に定められた要件の75%増しとする。さらに1937年5月1日の営業開始より各加盟銀行が維持すべき準備金要件は連邦準備法第19条に定められた要件の100%増しとする」
この通貨の引き揚げ、信用の収縮はデフレを惹起した。
これまでの赤字財政によって1937年初めに「繁栄」が戻ったかに見えた時、ルーズヴェルトは財政支出を大幅に削減し、連邦準備銀行はマネーサプライの増加を引き締めたのだ。
こうして、一旦回復に向かったかに見えたアメリカ経済は、1938年には再び厳しい「リセッション」に見舞われた。
新聞は「ルーズヴェルト不況」という言葉を使い始めた。またまた飢餓線上をさまよう人々が出現した。
ニューディールの期間を通じて連邦財政支出がGNPの10%を超えた年は2回しかなかった。
ニューディールの財政政策は、連邦財政赤字の規模で見る限りGNPの5%に達することは珍しかった。
ニューディールの財政赤字は小さすぎて、アメリカ経済を旧来の成長軌道上に復帰させる力にはならず、回復の足を引っ張るブレーキにしかなっていなかった。
ニューディールは、総需要政策としては失敗だった。
それでは、この大不況からの脱出はどのようにして可能になったのであろうか。
戦争である。
アメリカが大不況から抜け出して1929年までの長期的成長軌道上に復帰したのは、日本軍の真珠湾への奇襲が起こった1941年になってからであった。
1939年9月1日、ヒトラーはポーランド進撃を開始し、第二次世界大戦が始まった。
1941年3月、三期目を始めたばかりのルーズヴェルトに、議会は連合国に軍事物資を供給するための武器貸与法を許した。
必要な資金は国債の発行によって賄われる。
巨大なスケールで軍事生産が開始された。
その年の1月には3.3億ドルに拡大していたアメリカの輸出は、さらに4.6億ドルに増加した。
12月7日(日本時間12月8日)には、日本軍の真珠湾攻撃が起こった。
この卑劣な奇襲によって、アメリカ国内の参戦反対派の声は沈黙させられた。
1942年の連邦軍事支出はGNPの14.4%に急上昇し、連邦財政赤字はGNPの13.5%となった。
43年には連邦財政赤字はGNPの30%に達した。
44年には連邦・地方政府を合わせた全ての政府財政支出の合計は、アメリカ経済全体の58.2%を占めるに至った。
総生産は40年から45年までに59%拡大した。
アメリカは、テクノロジーと資源の許す限りの潜在的生産力を、戦争動員のためにフル稼働させた。
武器貸与プログラムによって、40年から45年までの間に総額500億ドルにのぼるアメリカの軍事物資がイギリスをはじめとする連合国に供与された。
これは1933年から39年までのニューディールの財政支出総額よりも大きかった。
結局のところ、ルーズヴェルトがデフレ政策を転換し、大量国債発行によるインフレ財政を実行したのは、第二次世界大戦によってだったのである。
ルーズヴェルトは戦争が開始されるまで、たらたらと不況を長引かせたのである。
アメリカの失業率は1941年の9.9%から1944年には1.2%へと下がっていった。
大量失業経済は一転して労働力不足経済へと姿を変えたのである。
ニューディール政策といえば、一般的には農業調整法(AAA)、全国産業復興法(NIRA)に基づいて作られた全国復興局(NRA)と公共事業局(PWA)、民間国土保全部隊(CCC)、テネシー峡谷開発公社(TVA)、公務管理局(CWA)が有名である。
しかしTVAなど、
「既に電力は供給過剰気味だ」
「新たな電力を一体どこに売ろうというのか」
「この法律はアメリカ社会にロシアのアイデアを接ぎ木しようとするものだ」
などの強力な反対の声が保守派の議員の間から上がっている。
今から考えると、この時既にルーズヴェルトは来るべき戦争時の電力需要を見越していたのだと思われる。
結論として、ニューディール政策は首尾一貫性を欠き、総需要政策としては失敗であった。
しかし、1933年の証券法、グラス・スティーガル法、34年の証券取引法、1935年銀行法は、連邦準備銀行による政策コントロールを確立し、その後レーガン時代に至るまでのアメリカの金融制度の基礎を定め、他のいかなるニューディール立法よりも成功したものとなったのである。
先に、日本の外債を発行した銀行団は、パース銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、ロスチャイルド商会、ロスチルド商会、ウェストミンスター銀行、ベアリング・ブラザーズ商会、モルガン・グレンフェル商会、シュレーダー商会、J・P・モルガン商会、クーン・レーブ商会、ナショナル・シティー商会、ファースト・ナショナル銀行であったと書いた。
この内、ベアリング・ブラザーズ商会、J・P・モルガン商会、クーン・レーブ商会、ナショナル・シティ・バンク、ファースト・ナショナル・バンクについては、既に説明した。
残る、パース銀行、香港上海銀行、ロスチャイルド商会、ロスチルド商会、ウェストミンスター銀行、モルガン・グレンフェル商会、シュレーダー商会について、次に説明しなければならないだろう。
ロスチャイルド家については既に様々な研究書が出ているので、今更筆者がくどくどと説明するまでもないだろう。
ざっと触れておく程度にしよう。
一族の創始者であるマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、コイン売買業者としてフランクフルトに小さな店を開いた。
それ以前はバウアーとして知られていたが、赤い楯の上に一羽の鷲を描いた看板を掲げることによって商売を宣伝した。
この看板はフランクフルト市の紋章を応用したものであり、鷲の爪から彼の5人の息子を意味する5本の金の矢が広がり出るようにあしらわれていた。
この看板ゆえに、彼は「ロスチャイルド」または「赤い楯」という名前をつけたのである。
アメリカ植民地での反乱を鎮圧するため、ヘッセン選帝侯はイギリスに傭兵を貸すことによって大金を稼いだ時、ロスチャイルドはその資金の運用を委託された。彼は、自身と選帝侯両者に素晴らしい利益をもたらし、他の顧客を引き寄せた。
彼はユーデンガッセ148番地の「緑の楯」として知られる5階建ての、それまで住んでいた家より大きな家に移った。
この家はシフ家と共同で使用された。
五人の息子たちはヨーロッパの主要都市に支店を出した。
長男アムシェル・マイヤーがドイツ家を継ぎ、次男サロモン(ザロモン)・マイヤーが隣国オーストリアのウィーン、三男ネイサン(ナタン)・マイヤーがイギリスのロンドン、四男カール(カルル)・マイヤーがイタリアのナポリ、五男ヤーコプ・マイヤー(後にジェームズと改名)がフランスのパリに散る形で、ヨーロッパ全土の主要都市をおさえた。
1804年、三男ネイサン(27歳)がイギリス・ロスチャイルド商会創設
1817年、五男ジェームズ(25歳)がフランス・ロスチャイルド商会創設
1820年、次男サロモン(46歳)がオーストリア・ロスチャイルド商会創設
1821年、四男カール(33歳)がイタリア・ロスチャイルド商会創設
兄弟の中でも最も成功したのは、ロンドンのネイサンとパリのジェームズであった。
「イグナシアス・バラの『ロスチャイルド家のロマンス』という本には、ロンドンのロスチャイルドがどのようにして富を築いたかが書いてある。
彼は、ヨーロッパの運命が不安定な状態にあったワーテルローへ行き、ナポレオンが戦いに負けそうなのを知り、ブラッセルへ急いでもどった。オステンドで彼はイギリスへの船を借りようとしたが、ひどい嵐のためにだれも船を出そうとしなかった。船を借りるために、ロスチャイルドは500フラン、次に700フラン、そして最後に1000フランを提示した。ある船員は、『2000フランだったら連れて行ってもいい。それだけあれば、万が一のときでも女房にはなにかが残る』といった。嵐にもかかわらず、彼らは海峡を渡った。
翌朝、ロスチャイルドはロンドン取引所のいつもの持ち場にいた。彼の顔が青く、ひどく疲れた様子が他の人びとにもわかった。突然、彼は大量の有価証券を売りはじめた。取引所はとっさにパニックに襲われた。ロスチャイルドが売っている。わが国がワーテルローの戦いに負けたことをロスチャイルドは知っている。ロスチャイルドと彼が知っているすべての代理店は、有価証券を市場に投げつづけた。災難を止めることはできなかった。同時に彼は、だれも知らない秘密の代理店を使って、ひそかにすべての有価証券を買っていたのであった。
たった一日で、彼は100万ポンド近くの利益を確実にした。このことが次の諺となった。『連合国はワーテルローの戦いに勝ったが、実際に勝ったのはロスチャイルドだ』
1915年4月1日付けのニューヨーク・タイムズ紙は次のように報じた。すなわち、1914年にネイサン・マイアー・ド・ロスチャイルド男爵は、彼の祖父についてのワーテルローの物語は真実ではなく中傷であるとして、イグナシアス・バラの本を即刻発売禁止にするよう法廷に訴え出た。法廷はその物語は真実であると裁定し、ロスチャイルドの訴えをしりぞけ、彼に法廷費用の全額支払いを命じた。この物語にかんするニューヨーク・タイムズ紙の記述には、『ロスチャイルドの全資産は20億ドルと推定される』とある」(『ユースタス・マリンズ著『民間が所有する中央銀行』面影橋出版)
この話は有名であるが、フランス家の当主ギイ・ド・ロスチャイルドはその著『ロスチャイルド自伝』の中で別の話を書いている。
「伝説とは反対に、ロスチャイルド家の財産はナポレオンの敗北に結び付くものではない(伝書鳩がロスチャイルド家に対して誰よりも早くワーテルローの戦いの結末を知らせ、そのことによって同家が莫大な株式取引の利益を得たという、伝説。最近、ロンドンの証券取引所の行った入念な調査は、ワーテルローの前または後の英国の公債の相場はいかなる変化も受けていなかったこと、およびネイサン・ロスチャイルドの打った『大博打』という話は完全な誤りであることを、証明した)」(『ロスチャイルド自伝』)
イギリスへ船で渡ったのか、伝書鳩が知らせたのか、真実は闇の中ではっきりしない。
伝説だけが一人歩きしている感があるが、ネイサンが戦争でぼろ儲けしたことだけは確かであろう。
しかし筆者は世間でいうように、この世の支配者はロスチャイルドであるとは思っていない。
例えば、イギリス最大の商業銀行はバークレーズ銀行だが、バークレー家の先祖はスコットランドの名家の出身でクエーカー教徒のロバート・バークレーである。
例えば、ネイサンの孫娘ハンナ・ロスチャイルドはプリムローズ家に嫁いでいるが、プリムローズ家もスコットランドの名門貴族である。例えば、別のネイサンの孫娘アニー・ロスチャイルドが嫁いだヨーク家の先祖であるフィリップ・ヨーク(ハードウィック伯爵)はイギリスの首席裁判官であった。
例えば、イングランド銀行を創設した大蔵大臣チャールズ・モンタギュー(ハリファックス伯爵)、例えば、ソサエティ・オブ・フレンズ(クエーカー教団)を創設したグレイ伯爵、アイルランドのダブリン出身のギネス財閥、同じくアイルランド出身のブラウン家。
ロスチャイルド、ロスチャイルドと騒ぐ前に、これらのイギリス、スコットランド、アイルランド出身の貴族、名家、財閥の分析がしっかりとなされなければならないと考える。
ではユダヤの陰謀は存在しないのかというと、そうではない。
結果から判断すれば明らかである。
現代世界におけるユダヤ人の高い地位を考えてみて欲しい。
これをユダヤ人の優秀さのせいにしたり、はたまた単なる偶然であると考える人は、本書を読み進めるのはやめた方がいい。時間の無駄である。
陰謀の中心にユダヤがいることは確かだが、それはロスチャイルドではないということだ。
例えば、こんなエピソードがある。
「18世紀中葉のロンドンにおける最も重要なユダヤ人の一人はサンプソン・ギデオンであった。彼は英国宰相ウォルポールの友人であり、国家財政に資金を調達した。彼の金融操作は当時においては巨人の様な規模とみなされたスケールで実行された。『南海泡沫事件』の勃発に続く危機の時期、大衆は一度ならずギデオンを白眼視した。しかし彼は岩の如く確固としており、スフィンクスの如く頑固だった。当時彼はロバート・ウォルポールに対してその私的関心についてばかりでなく宰相としてのウォルポールを物質的に援助したり世論が沈静化し、信頼をとり戻すのに寄与し、かうした事を通してかなりの援助を行ったと言われている。」
1745年「王位をねらふ者」チャーリー王子の指揮の下、スチュアート家が反乱を起こし、「王位をねらふ者」の軍隊がロンドンまで迫った時、パニックが起きて大量の在庫商品が売りに出された。
サンプソン・ギデオンはそれらを最も多く買い取った。
イギリス政府公債は投げ売りされ、それらのうちのかなりの量がギデオンに買い占められた。
ユダヤ人と親密な著名な歴史家ジョン・フランシスはこの事に関し次の様に記している。
「先程述べた大反乱の時代に、『王位をねらふ者』の成功に比例して公債の値が下って行った。ある時期にはそれは非常に低価格になった。ギデオン氏は自分の可能なかぎりすべての種類の公債を購入した。友人達はそれを容易ならざる事と見なして忠告し、親切にも彼の没落を予言したが無駄であった。機敏なヘブライ人は答えた。
『もし王位をねらう者がロンドンにやってくれば彼は私の勘定を支払ふであらう。さもなければ私は大金持になるであらう。』
我々は歴史的事実を承知している。ギデオンは莫大な財産を蓄積し、準男爵となり、その子孫は時に貴族に加へられた。」
ジョン・フランシスの記述からはユダヤ人達が十八世紀初頭より英国金融市場を支配しており、ユダヤ人、サンプソン・ギデオンは十八世紀中葉に於て、約百年後にゴールドスミス家、ロスチャイルド家、リカルド家によって演じられたのと同じ役割を演じていたといふ事実について知る事が出来る。
1745年におけるイギリス政府の危機はユダヤ人集団にとっては有利な商取引だったのである。
ギデオンは1745年に自らの財産を二倍に増やした。(『ユダヤはいかにして英国を金権支配国家に変えたかー歴史的探究ー』歴史
修正研究所・刊)
このギデオンは新約聖書の国際ギデオン協会のギデオンである。
国際ギデオン協会は聖書を無料で配っている。
サンプソン・ギデオンはシナゴーグへの出席をやめ、その息子を英国国教会教徒として育てた。
キリスト教徒になったふりをしていたが、彼はシナゴーグへの献金をやめず、ユダヤ人として死んだ。
18世紀にサンプソン・ギデオンが演じた役割を、19世紀にそっくりそのまま演じたのが、言わずもがなネイサン・ロスチャイルドであった。
つまり18世紀にはロスチャイルドならぬ、サンプソン・ギデオンの大英帝国乗っ取りが喧伝されていたのである。
このことはいったい何を意味しているのであろうか。
サンプソン・ギデオンもロスチャイルドも、世界の真の支配者から目を逸らすために利用された、というのが筆者の結論である。
ネイサン・ロスチャイルドは1836年に死んだ。
ヨーロッパの諸国からぞくぞくと大使たちがネイサンの葬儀に参列し、国葬並みの一大セレモニーとなった。
当時、すべてのロンドン市民が見物に集まったといわれた。
ネイサンは急病になり、毒殺を思わせる発作に見舞われた。
医者たちは原因を突き止めることが出来ず、彼は数時間後に死亡した。
誰がこの偉大なユダヤ王を毒殺したのであろうか。
それともこれはある種の魔術の儀式(死んだと見せかけて、実は生きていた)だったのであろうか。
ネイサンの死後、ロスチャイルド家の統括権は彼の弟ジェームズに移った。
このジェームズがフランスに開いたのが、ロスチャイルド商会(フランス語読みでロチルド商会)であった。
簡単に済ますといったが、少し説明が長くなった。
これで、ロスチャイルド商会とロスチルド(ロチルド)商会の解説にかえさせて頂く。
次はウェストミンスター銀行についての説明である。
五大商業銀行の一つ、ウェストミンスター銀行の正式名はナショナル・ウェストミンスター銀行で、イギリスの商業銀行の第2位。
創業メンバーの一人デヴィッド・サロモンズは、ネイサン・ロスチャイルドの妻の姪と結婚している。
重役陣には、ロスチャイルド閨閥の名が認められる。
次はモルガン・グレンフェル商会である。モルガン・グレンフェル創業者のエドワード・グレンフェルが、J・P・モルガンと手を組み、イギリスで創設したのがモルガン・グレンフェル商会であった。
ロンドンのJ・S・モルガン商会が1910年に改組してできたのが、モルガン・グレンフェル商会である。
次にシュレーダー銀行について。
シュローダー銀行は、ドイツのシュレーダー家がイギリスに渡って分家をつくり、ナチス時代を経て分家の方が銀行家として生き残ったため、ウォール街で英語読みのシュローダー銀行として知られるようになった。
ワーバーグ一族と同じく、フォン・シュローダー家はドイツのハンブルグで銀行業を開始した。
クルト・フォン・シュローダーは1889年に生まれ、1788年創設のケルン銀行及びJ・H・シュタイン商会のパートナーであった。1933年にナチスが権力を握ったのち、シュローダーは国際決済銀行のドイツ代表に指名された。
クルト・フォン・シュローダー男爵はテュッセン男爵と共に、ナチスの財政支援を行った。
シュローダー男爵は、ITT(国際電信電話会社)の資金をヒムラーのSS(ナチス親衛隊)に集中させるパイプ役を演じた。
1938年にロンドンのシュローダー銀行は、大英帝国におけるドイツの金融代理店となった。
シュローダーのニューヨーク支店は、1936年にロックフェラー家と共にウォール街48番地にシュローダー−ロックフェラー社として合併された。
シュローダーのカールトン・P・フラーがこの会社の社長となり、アヴェリー・ロックフェラーが副社長となった。
彼は何年にもわたって、J・ヘンリー・シュローダー(イギリス家)の陰のパートナーであり、ベクテル社という建設会社を設立した。
この会社の社員は、レーガン政権で国防長官(ワインバーガー)及び国務長官(シュルツ)として指導的な役割を演じた。
ヒトラーは、1933年1月4日にケルンのシュローダー男爵邸での会談に招待された。
2時間の会談の終わりに、前首相パーペンは両者が対等の地位を占めるヒトラー=パーペン内閣を提案した。
ドイツの指導的な産業資本家や銀行家たちは、ヒットラーに資金援助することにした。
1933年1月30日、ヒトラーはドイツ首相に就任した。
1933年1月4日の会議に出席したのは、ニューヨークの法律事務所サリヴァン・アンド・クロムウェルのジョン・フォスター・ダレス(1888〜1959)とアレン・W・ダレス(1893〜1969、CIAの前身OSSのベルン事務所長)のダレス兄弟で、彼らはシ
ュローダー銀行を代表していた。
ダレス兄弟はしばしば重要な会議に姿を現した。
彼らは、パリ和平会議(1919)では合衆国を代表した。
ジョン・フォスター・ダレスはアイゼンハワー政権の国務長官として在職中に亡くなるが、一方のアレン・ダレスはCIA長官を長年務めた。
アレン・ダレスは後にJ・ヘンリー・シュローダー商会の重役になった。
彼もJ・ヘンリー・シュローダーも、親ヒトラーを疑われることはなかった。
ヒトラーをドイツの首相にして、第二次世界大戦を始めさせることが、国際的銀行家の目的であった。
一方、イギリスにあってナチスにイングランド銀行の支持を与えたのが、前出のイングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンである。
ナチスの哲学者アルフレッド・ローゼンベルクはロンドンで、ノーマンと話をした後、シュローダー銀行の常務取締役であるF・C・ティアクスと会っている。
ティアクスはイングランド銀行理事でもある。
「1934年の初頭、シティーの金融家たちの選ばれた一団が、窓のない壁の後ろのノーマンの部屋に集まった。それは、ラザール・ブラザーズのパートナーのサー・ロバート・キンダースレイ、チャールズ・ハンブロー、F・C・ティアクス、サー・ヨシア・スタンプの面々であった。ノーマン総裁は、ヨーロッパの政治情勢について話した。ナチ・ドイツという名の新しい勢力が、大きな『安定した戦力』として定着していた。ノーマンは、共同作業者たちにヨーロッパの財政支援計画にヒットラーを加えるよう助言した。反対する者はだれもいなかった」(『民間が所有する中央銀行』)
J・ヘンリー・シュローダーはイギリスのイギリス−ドイツ友愛会のメンバーであり、友愛会に資金をつぎ込んだ。
その結果、ヒトラーは、多くの著名な政治家や金融業者からなる大きな親ドイツの第五列をイギリスに有すると確信したのである。
しかし事実は、ネヴィル・チェンバレンの融和政策も、ウィンストン・チャーチルの戦争政策も、共に大衆を欺く派手な演技に過ぎなかった。
日本の憲政会と政友会、アメリカの民主党と共和党、イギリスの戦争党と融和党の対立等、すべて大衆用の見世物であった。
こうして国際政治をコントロールして、所期の目的を達成するのが、秘密結社の心理操作技術なのである。
次に香港上海銀行である。香港上海銀行はサッスーン家が設立したものである。
サッスーン財閥は、18世紀に中東のメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治世下にあって財務大臣を務めるほどの政商となっていた。
1792年にこの一族の子供として生まれたデヴィッド・サッスーンは、イラクのバグダッドで活動していたが、1832年にインドのボンベイに移住した。
サッスーン一族はアヘンの利権を狙ってインドに移住したのである。
サッスーン一族は、イギリスと清朝中国のアヘン戦争によって財産を膨らませ、インドから香港・上海への本格的な進出を始めた。
1864年、サッスーン家がリーダーとなって香港上海銀行が設立された。
初代デヴィッド・サッスーンの五男アーサーが、香港上海銀行で最大株主となった。
デヴィッドの孫エドワード・サッスーンは、ジェームズ・ロスチャイルドの孫娘アリーン・ロスチャイルドと結婚している。
別の孫ヨーゼフ・サッスーンは、グンツブルグ男爵の娘と結婚している。
グンツブルグ家は「ロシアのロスチャイルド」として最高の評価を得てきた。
一家は15世紀の古い時代まで家系をたどることができる。
1833年にキエフ地方のユダヤ人家庭に生まれたホレス・グンツブルグは、71年に男爵位を授けられた。
その3年後に、ロシアの鉄道融資に多大な貢献をしたその父親ヨーゼフにも男爵位が与えられた。
以後、アレクサンドル2世によって一家には代々この爵位が認められるようになった。
ペテルブルグに設立されたグンツブルグ銀行が、ロシア全土の金融中枢として機能し、鉄道ばかりでなくウラル、アルタイ、シベリアに及ぶ金鉱開発の総本山となっていった。
『高橋是清自伝』の中に、高橋是清がパリで公債を募集した際に、フランス工商銀行の重役ジャック・ド・グンツブルグ男爵の便宜を受けたことが記されているが、この男爵は恐らく先のグンツブルグ一族であろう。
ドイツでの公債募集はハンブルグのマックス・ワーバーグが引き受けた。
ロンドンで公債募集に便宜を図ったのが、サー・アーネスト・カッセル、ロード・ロスチャイルド、アルフレッド・ロスチャイルドである。サー・アーネスト・カッセルはドイツからイギリスへ移民し、後のエドワード7世であるウェールズ皇太子の私設銀行家となった。
カッセルの孫娘はマウントバッテン卿と結婚し、カッセル家と現在の英国王室を直接の姻戚関係にした。
シフの親友でもあるカッセルは、機関銃のマクシムを兵器商ヴィッカースに合併させた。
アルフレッド・ロスチャイルドはネイサン・ロスチャイルドの長男ライオネル・ロスチャイルドの子供である。
最後に不明のまま残ったのが、パース銀行であった。
現在、イギリスにこの名の銀行は存在していないので、合併したか名前を変えて営業していると思われる。
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2011/7/5
三菱フリーメーソン説B
さて次の章に移る前に、高橋是清が募集した第2回4分利付英貨公債がその後どうなったか見ておこう。
この第2回4分利付英貨公債が昭和5年5月に、5分半利付英貨公債ならびに5分半利付米貨公債に借り換えられたことはすでに述べた。
満州事変勃発以来終戦に到るまで、新規外債の募集は行われなかった。
日本は国際資本市場から隔絶するに到ったから、例え、募集の意志があったにしても、実現不可能な情勢におかれたのである。
言い換えれば、満州事変勃発時点で日本の敗戦への道筋は決定していたということになる。
戦争に負けるであろう国に金を貸す程、英米銀行家もお人好しではあるまい。
したがって、政府外債としてはこの昭和5年5月の5分半利付英貨公債ならびに5分半利付米貨公債、また、民間債としては、昭和6年7月、台湾電力株式会社5分半利付米貨公債の発行が最後であった。
昭和16年(1941)12月太平洋戦争突発当時における外貨債の未償還額は、国債においては米貨債1億5265万ドル余、英貨債7714万ポンド、仏貨債8934万フランであった。
これに地方債および社債の分を合わすと、米貨債2億8334万ドル、英貨債8844万ポンド、仏貨債3億3716万フランであった。これを、仏貨債は除いて、米・英貨債だけについて、当時の為替相場により換算すると、約27億円に上っていた。
しかし、このうち約半額の13億6000万円は日本人所有のものであって、他の半額13億4000万円が連合国人所有のものと推定された。
昭和18年(1943)年1月、第81議会に外貨債処理法が提出され、2月25日両院を通過して、3月15日公布施行された。
この処理法に基づいて、外貨債は大部分、昭和18年9月15日をもって邦貨債に借り換えられるか、または政府においてその元利払義務を承継し、したがって、物上担保等原契約の効力は抹殺されることになった。
かくて、邦貨国債に借り換えられた外貨国債の額は、米貨債は1億3100万ドルで、その未償還額の85.9%、英貨債は2500余万ポンドで、その未償還額の33.1%にあたり、邦貨換算計7億400余万円が3分半利国庫債券に借り換えられたのである。
外貨地方債および社債も、国債同様に、邦貨地方債および社債に借り換え、また、発行者またはその承継者手持ちの自己債については消却されたのであるが、借換または消却されなかったものは、一括して政府において元利払義務を承継した。
終戦時の昭和20年8月末の累計国債残高は1233億円(日華事変、太平洋戦争中の発行高は1059億円)、昭和20年までは1439億7188余万円である。
うち内国債は1399億2446余円、国債総額に占める割合は97.2%、外国債は8億8742万余円、0.6%である。
内国債がいかに巨額な数字であるかは、当時の国民所得が900億円であることからも窺い知ることが出来る。
ではこの内国債は終戦後、どのように処理されたのであろうか。
結論を簡単に述べると、戦後インフレ−ションによって、累積債務は目減りしたのである。
昭和20年度末から昭和26年度末の間に政府債務総額は3.24倍に増加しているが、物価はおよそ30倍になっている。
したがって、昭和26年度末残高の実質値は、昭和20年度残高の11%の大きさに減少している。
内国債だけについてみると、6.3%に過ぎない。
結局、政府は債務者利得を獲得し、国債保有層は大きな損失をこうむった。
戦後インフレ−ションは零細な個人保有層に大きな打撃を与えた。
もちろん、金融機関も債権者損失を被った。
国債の大量保有がインフレ下の金融機関の浮沈の一因をなしたのである。
外貨債については、元本、利子共、支払時期を繰り延べて支払うことで、昭和27年9月26日にアメリカとイギリスの債権者代表との間で協定の調印をみた。
4分利付仏貨公債については、元利払いと平行して、500フラン証券一枚につき9496フランで買い入れをおこなうこととして、昭和31年7月27日、日仏間で締結をみた。
英米仏ユダヤ金融財閥はやはりただ者ではなかった。貸した金はきちんと取り立てているのだ。
それでは、彼らは何故日本に金を貸すことをしたのであろうか。商売のためか。
そうではない。
この資金は日本政治のコントロ−ルに使われたのである。
外貨債として、国債、地方債の他に社債がある。
台湾電力、大同電力、東邦電力、信越電力、日本電力、東京電灯等、電力会社に外資が入っているのだ。
このことの意味するところは何か。
普通、電力と聞けば電灯をつけることぐらいしか思い浮かばないかも知れないが、電気は工業動力としても使われるのである。
そしてこの時期に工業の発展を支えたのは、戦争であった。
つまり日本の電力事業は、戦争とともに発達したのである。
逆にいえば、重化学工業や電力事業を急発展させるためには、戦争という非常事態が必要だったわけである。
これは、兵器の進歩についても当てはまる。
第2次世界大戦がなければ、原爆など開発出来なかったに違いないからだ。
英米両国が日本の電力会社に金を貸したのも、日本に戦争の準備をさせるためであったのだ。
この金は電力会社の人事も左右した。
「当時財界の問題になっていた東京電灯株式会社の整理が行悩みとなり、6月15日払いの同社外債利払いについて、来日中のアメリカ、ガランチー・トラスト商会のウオーカーから、はなはだ悲観的な通信があった。同社取締役会長にしてモルガン商会の首席パートナーたるラモント(当時ロンドン滞在中)から、右社債の利払が不能なときは新起債の所作もむずかしいから、その利払確保に対し政府の責任ある言明を求めるという照会がきた。井上蔵相は、ただちに東電当局その他関係方面の意見を徴したところ、利払送金の実施はもとより、将来の会社経営の人的方面についても、蔵相は、ウオーカーから承認を得た案にまとまり、また配当率についても、双方譲歩的な具体案が進められるに至ったことを知った。以上のほか、会社整理案関係方面から得た印象によって、井上蔵相は、関係者が会社経営の改善、配当率の引下げ、将来に対する資金調達策につき全力を傾注していたので、その整理案の実現確実なりと認め、したがって社債の利払等にも支障をきたすことのないことを確信し、その旨ラモントの覚え書に対する回答文を送った。その結果、ウオーカーならびにラモントの満足を得、ようやく問題は解決の運びに至って、発行の所作を再開しえた」(『国債』)
この時東電に外資を導入するのに便宜を与えた人物が、三井の池田成彬であった。
国債や地方債への外資の導入も同様に、英米による日本政界のコントロ−ルに寄与したであろうことは、想像に難くないのである。
連邦準備制度
これまでの話で、太平洋戦争は某財閥とその手先である政治家が結託して引き起こしたものであったことがお分かりになったと思う。
そしてその財閥や政治家に海外から指令を下していたのが、英米ユダヤ金融財閥であった。
彼らは日本の外債を引き受け、日本に金解禁を強要し、大恐慌を引き起こして日本を未曾有の不景気の中に投げ込んだ。
そして愚かな軍人を煽って、日本を地獄の戦争へと駆り立てていったのだ。
彼らは顔の見えない透明人間ではない。日本の外債を引き受けた銀行名は分かっている。
パース銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、ロスチャイルド商会、ロスチルド商会、ウェストミンスター銀行、ベアリング・ブラザーズ商会、モルガン・グレンフェル商会、シュレーダー商会、J・P・モルガン商会、クーン・レーブ商会、ナショナル・シティー商会、ファースト・ナショナル銀行である。
これらの銀行を動かしている人物を探ることで、戦争犯罪人の名前を明らかにすることが出来る。
その前に、ある重要な事実について述べなければならない。
英米ユダヤ金融財閥は海外にいて日本政治・経済を遠隔操作するだけではなくて、日本国内に自らのエージェントをしっかり送り込んでいたのである。
1931年に満州事変が勃発したが、その翌年にジョゼフ・グリューが駐日アメリカ大使として着任している。
そして満州事変勃発の年に、ロンドンから駐日イギリス大使として着任したのが、フランシス・リンドレーであった。
リンドレーは日露戦争の日本勝利の翌年に当たる1906年に東京へ来た経歴がある。
シフやロスチャイルドが日本に大金を貸し付けたので、その返済の裏交渉に走りまわるため、表向きはイギリスの外交官として2年間も滞在していた。
そして1931年から34年まで、今度はグリューと欧米連合を組む形で、正式の大使として活動した。
満州事変直後に、日本はアメリカからモルガン家の一族グリュー大使を迎え、イギリスからロスチャイルド家の一族リンドレー大使を迎えていたが、その両人とも、「モルガン・グレンフェル」の代理人であったのだ。
それでは、日露戦争時の第1回6分利付英貨公債1000万ポンドの半分、500万ポンドを引き受けて高橋是清を喜ばせたクーン・レーブ商会の首席代表者シフとは何者であろうか。
クーン・レーブ商会の創設者は、サミュエル・クーンとソロモン・レーブである。
この両家のファミリー・ネームを組み合わせてクーン・レーブ商会となった。
また、クーン家の娘イーダと、レーブ家の息子モリスが結婚して一族となっている。
このソロモン・レーブの娘テレサと結婚したのが、ユダヤ人ジェイコブ・ヘンリー・シフであった。
シフはロスチャイルドの本家フランクフルトで1847年に生を受けた。
シフ一族は早くから金融業を営んでいた。
ロスチャイルド家の初代マイヤ−・アムシェルがまだ40代の頃、引っ越した家が「緑の楯」と呼ばれる建物で、内部が二つの区画に分かれていた。
その一方に「赤い楯」ロスチャイルド家が移り住んだ時、もう一方の隣家には、扉に「舟」の絵を掲げたユダヤ人家族が住んでいた。
舟をドイツ語でシフと言うが、この家族がジェイコブ・シフの祖先であった。
フランクフルトのゲットー以来、ロスチャイルド家とシフ家ほど親密な家族はなかったという。
シフは18歳の時アメリカへ移住し、クーン・レーブ一族となってからは、鉄道事業で商会を成長させ、パートナー(重役)としてオットー・カーン、ワーバーグ銀行のポール・ワーバーグ、フェリックス・ワーバーグらを迎えて、国際投資銀行としての地歩を築いていった。
さてこの辺でシフの系図を描いてみよう。
シフはワーバーグ家と姻戚関係にあるだけでなく、ワーバーグ家を通じてルーズヴェルト大統領やアスター家と繋がっていたのだ。
この系図にあるワーバーグ一族のポール・ワーバーグが、アメリカの中央銀行である連邦準備制度を創設した人物である。
彼は1902年にアメリカに移住し、クーン・レーブ商会に入っている。
その兄弟のフェリックス・ワーバーグも1894年にアメリカに移住してクーン・レーブに加わっている。
ポール・ワーバーグは、クーン・レーブ商会の故ソロモン・レーブの娘、ニーナ・レーブと結婚した。
フェリックス・ワーバーグは、ジェイコブ・シフの娘、フリーダ・シフと結婚した。
1918年12月12日のワーバーグに関する合衆国海軍諜報部報告は次の通りである。
「ポール・ワーバーグ…ニューヨーク市。ドイツ人、1911年市民権獲得。1912年ドイツ皇帝から受勲。連邦準備制度理事会の副議長。レーニンとトロツキーのためにドイツから供給された巨額の資金をとり扱う。ドイツのスパイ網の指導者である兄弟をもつ」
この兄弟とはマックス・ワーバーグのことである。
マックスはドイツ諜報機関の代表としてレーニンの列車が国境を通過し、ロシアでボルシェヴィキ革命を実行することを認可した。
マックスは、ヴェルサイユ講和会議(1919)でドイツの代表を務め、1924年から1933年までドイツ帝国銀行の監査役になっていたが、ユダヤ人ゆえに1938年アメリカに移住した。
ポール・ワーバーグは1931年に上院銀行通貨委員会で、自分の経歴について次のように述べた。
「私はクーン・レーブ商会の一員です。ドイツのハンブルクで生まれ、銀行業務の教育を受け、ロンドンとパリで銀行業を学び、世界中を歩いたのちに、1902年にこの国に来ました。1907年の恐慌のなかで私が最初に提案したことは、『公的な手形交換所を設立する』ということでした。オールドリッチ計画は銀行業の基本的なルールとなるいくつかの条項を含んでいます。諸君のこの計画(オーウェン−グラス法案)の目的も同じはずです。それは、準備金の集中、商業信用の流通、そして弾力的な紙幣発行の実現です」
ここに述べられている、1907年の恐慌が通貨改革が不可欠であるという世論を形成したのだ。
しかしこの1907年の恐慌は、1873年と1893年の恐慌と同じように、仕組まれたものであった。
ニッカボッカー銀行とアメリカン・トラスト・カンパニーが支払不能の状態にあるという噂が、1907年のパニックの発端となった。
モルガンがこのパニックに勢いをつけたのである。
噂を広め、その結果、ライバルの銀行を潰し、モルガンの勢力下にある諸銀行の優越性を強化するために、1907年秋の不安定な状況を利用したのだ。
1907年のパニックが与えた教訓は、合衆国は中央銀行組織を本当に必要としているというものであった。
モルガンの演出でパニックが起きた1907年には、ポール・ワーバーグはほとんど毎日、「銀行改革」の必要性について書いたり、講演をしていた。
ワーバーグはこの「銀行改革」を促進するさいに、モルガンの上院における踏み台役として知られるネルソン・オールドリッチに支持された。
オールドリッチの娘アビーは、ジョン・D・ロックフェラーJr.と結婚した。
1907年のパニック後、オールドリッチは国家通貨委員の長に任命された。
オールドリッチとその仲間は、銀行制度についての技術的な知識は何も持っていなかったにもかかわらず、中央銀行制度を研究するため約2年にわたる海外旅行を行い、ヨーロッパの中央銀行のオーナーとの飲食に30万ドルの税金を使った。
この委員会がヨーロッパから戻った後、2年近くの間、公式の会合はまったくもたれなかった。
記録によれば、委員会は審議会として機能したことはなかったことを示している。
唯一の「会議」はジキル島で開かれた秘密会合であり、この会議は委員会のどの刊行物にも記録されていない。
1910年11月22日、国家通貨委員会の委員長であるネルソン・オールドリッチ上院議員に率いられた金融業者の代表団が、ニュージャージー州ホーボーケンの駅から秘密の目的地・ジョージア州ジキル島に向けて列車で出発した。
オールドリッチ上院議員の同伴者は、彼の個人秘書のシェルトン、財務次官補であり国家通貨委員会の特別補佐官でもあったA・ピアット・アンドリュー、ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークの頭取フランク・ヴァンダーリップ、J・P・モルガン商会の上席パートナー(共同経営者)であると同時に、一般的にはモルガンの個人的な使者と見られていたヘンリー・P・デーヴィソン、モルガン−デノミネイテッド・ファースト・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨークの頭取チャールズ・D・ノートンであった。
J・P・モルガンの上官代理としても知られるベンジャミン・ストロングと、クーン・レーブ商会に年棒50万ドルのパートナーとして入社したポール・ワーバーグの二人は、列車が駅を出発する直前に一行に加わった。
このジキル島の秘密会議で、中央銀行設立が決定された。
肝心なのは、ポール・ワーバーグが仲間に伝えたように「中央銀行」という名称を避けることであった。
アメリカでは、国民を苦しめてきた中央銀行に反対する長い闘争の伝統があった。
そのため彼は「連邦準備制度」という名称に決定したが、これは、国民に中央銀行でないと思わせて欺くためであった。
ジキル島の会議後、通貨委員会とオールドリッチ法案に関する報告書が完成した。
ワーバーグは法案を連邦準備制度と名づけることを提案した。
しかしオールドリッチは、自分の名前のついていない法案が提出されれば、疑いが生じるといって、オールドリッチ法案とするよう主張した。
しかしオールドリッチ法案は議会で投票に付されることはなかった。
共和党は1910年に下院の統制力を失い、続いて1912年には上院と自党の大統領を失ってしまったからである。
そのため、新しい戦略が工夫されなければならなかった。
さて、オールドリッチ法案はウォール街工作と同一視され、民主党員が強力に反対することが予想されるために国会を通過させることが困難であった。
一方、民主党の議会に支持された民主党の候補者が大統領に当選すれば、中央銀行計画を通過させることが出来ると予想された。
このためのチャンスは、1912年の大統領選挙の時にやってきた。
現職のウィリアム・ハワード・タフトは人気のある大統領であった。
そしてタフトの共和党は、両院の共和党多数派を通じて政権をしっかりと握っていた。
一方、ニュージャージー州知事の民主党候補者ウッドロー・ウィルソンは、まったくの無名であった。
タフトが再選されることは確実視されていた。
ところが突然、共和党の元大統領セオドア・ルーズヴェルトが大統領に立候補すると発表したのである。
ルーズヴェルトはタフトの票に大きく食い込んだ。
その結果、タフトの敗北は避けがたいものとなり、ウィルソンが勝利した。
しかしこの選挙は結局のところ、茶番に過ぎなかった。
共和党、民主党両党とも綱領には通貨改革法案を含んでいた。
後にウォール街計画として糾弾されたオールドリッチ法案を、民主党は連邦準備法と書き改めていた。
どちらの政党も、これらの法案が名前以外はほとんど同一であることを国民に知らせようとはしなかった。
オールドリッチ法案が全国的な恨みと反対を喚起した後に、連邦準備法をまとめた人物はポール・ワーバーグであった。
そしてこれら二つの計画の黒幕は、ロンドンのアルフレッド・ロスチャイルド男爵であった。
銀行家たちはこれら3人すべてに資金協力していたので、誰が大統領になっても良かったのだ。
後に議会の証言で、クーン・レーブ商会では、フェリックス・ワーバーグはタフトを、ポール・ワーバーグとジェイコブ・シフはウィルソンを、そしてオットー・カーンはルーズヴェルトをそれぞれ支援していたことが明らかになった。
銀行家たちはタフトを見捨て、ルーズヴェルトを民主党勝利の道具として利用した。
ルーズヴェルトの背後には、モルガンの代理人フランク・マンシーとジョージ・パーキンスが控えていた。
彼らはルーズヴェルトのスポンサーとなり、ルーズヴェルトの話を前もって調べあげ、ウォール街の人々の援助を引き出して、反タフト運動という仕事を全部引き受けたのである。
パーキンスとJ・P・モルガン社こそ、革新政党の実体であり、他はすべてその飾りだった。
ルーズヴェルトの選挙資金の大半は、このモルガンの二人の代理人によって作られたのである。
一方、民主党の候補者ウッドロー・ウィルソンも、また同様にモルガンの「所有物」だった。
ニュージャージー州知事であり、前のプリンストン大学総長のウッドロー・ウィルソンは、オールドリッチ法案のスポークスマンとして積極的に協力させられた。
1907年の恐慌の時、ウィルソンは次のように言明した。
「わが国の出来事を手掛けてもらうために、J・P・モルガンのような6〜7人の大衆的な精神をもった人々からなる委員会を任命していたら、このような全ての混乱は回避できたであろう」
J・P・モルガンのような大金持ちが大衆的な精神をもっているとは、正に驚くべき発言である。
ウィルソンは大統領候補に指名される前まで、約20年間、ウォール街の裏道を蠢いていたという。
このウィルソンをかげで操ったのが、エドワード・マンデル・ハウス大佐であった。
ハウス大佐はアメリカ南部に住むイギリス金融利権代表者の息子であり、イギリスで教育を受けた。
もともとはオランダの出身であったが、彼の祖先はイギリスに300年間住み、後に彼の父がテキサスに定住した。
そこで彼の父は南北戦争のあいだ密航船で財を成した。
ロスチャイルド家を含む英国の有力なコネクションに対して綿やその他の禁輸品を輸送し、包囲されていたテキサス人たちに商品を持ち帰った。
ハウスの父は、テキサスの不安定な状況を信頼せず、密航船から上がった利益をすべてロンドンのベアリング商会(アヘン貿易の主要マーチャント・バンク)に金として慎重に預けた。
そして南北戦争の終了時には、テキサスで最も富裕な人間の一人となっていた。
彼は、仕事仲間にならって、息子を「マンデル」と名づけた。
「大佐」とはハウスが名誉職として用いた名前であって、彼は一度も兵役についたことはなかった。
彼は多くの歴史家によって、ウィルソン在任中、合衆国の真の大統領と記された人物である。
ウィルソンが大統領になる前の1911年にハウスはテキサスの故郷に戻り、『統治者フィリップ・ドルー』という本を書いた。
体裁は小説であるが、実際には将来の合衆国政府に対する詳細な計画であり、「カール・マルクス によって描かれた社会主義を成立させるもの」であった。
この「小説」は、累進所得税、過剰利益税、失業保険、社会保障、そして弾力的な通貨制度の導入を予言していた。
『統治者フィリップ・ドルー』の中で概観されている機関の一つは、連邦準備制度である。
シフ家、ワーバーグ家、カーン家、ロックフェラー家およびモルガン家はハウスを信頼していた。
連邦準備法がついに一定の形となるにあたって、ハウスはホワイトハウスと金融家たちの間の仲介役であった。
ハウスは8年間にわたって大統領の最も親しい相談役になった。
後に彼はフランクリン・D・ルーズヴェルト政権においても影響力を持ち続けた。
ルーズヴェルト政権は実際にはウィルソン政権の継続であり、ほとんど同じ人事のまま、舞台裏からハウスに政権を指導してもらっていた。
連邦準備法の真の目的を国民に隠蔽するために、オールドリッチ法案の作成者たち、すなわち元上院議員ネルソン・オールドリッチとナショナル・シティ・バンク頭取のフランク・ヴァンダーリップは、連邦準備法案に対して激しい非難の声をあげた。
しかし連邦準備法の内容はオールドリッチ法案とまったく同じものであった。
連邦準備法が国民のための法であるという幻想を大衆に与えるために、銀行家たちは悪役であるオールドリッチとファンダーリップに、連邦準備法案を非難させたのである。つまり、猿芝居を演じさせたわけだ。
これから20年ほどしてファンダーリップは、「さて、連邦準備計画がオールドリッチの名前をもっていたとき、その計画は崩れたけれど、その中にはその後実現した本質的なものはすべて含まれていた」と告白している。
グラス法案(最終的な連邦準備法の下院版)は、287対85で1913年9月18日に下院を通過した。
1913年12月19日、上院は54対34の票数で上院版を可決した。
下院版と上院版には40以上もの調整されるべき重要な相違点が残されたままになっており、議会両院の法案に対する反対派は、両院協議会の調整案が整うまでには相当の期間が費やされるものと信じていた。
議員たちは、調整案は翌年まで提案されないであろうことを確信し、例年のクリスマス休会のためにワシントンを離れる準備をしていた。そこで協議員たちは、たった一日で法案の40の争点すべてを均してしまい、即座に投票に持ち込んだ。
1913年12月22日の月曜日、法案は下院282対60、上院43対23で可決したのであった。
クリスマス前の一週間は重要な法律を議決すべきではないというのが長年の政治的慣例であった。
しかしこの伝統は、合衆国国民に対して連邦準備法という犯罪を行うために無作法に破壊されたのである。
後にこれは「クリスマスの大虐殺」として知られるようになる。
採決後、有名な飛行士の父であるチャールズ・A・リンドバーグSr.は、議会で次のように述べている。
「本法は地球上で最も巨大なトラストを創設する。大統領が本法に署名したとたん、金融権力による見えざる政府が合法化されるであろう。これは偽装したオールドリッチ法案である・・トラストがインフレーションを欲するときはいつでも、新法がインフレーションを起こすだろう」
連邦準備法はマネー・トラストに対する民主主義の勝利として賞賛され、そして現在でも依然として賞賛され続けている。
しかし、真実はその逆であった。連邦準備法において彼らは、通貨を発行し、その価値を統制する憲法上の権利を国民からもぎ取り、自分たちのために確保したのだ。
連邦準備ができあがれば、景気と恐慌の循環はもはやないだろうという保証がなされた。
その舞台裏で国際的な銀行家たちのために中央銀行計画を貫徹した人々は、「いまや恒久的な成長と、前進する福祉があるのみだ」と約束したものである。
しかし、チャールズ・A・リンドバーグSr.議員は辛辣にも、「今からは恐慌が科学的に作りだされるようになった」と宣言した。
中央銀行を利用してインフレとデフレを交互に作りだして、国民の大きな利得を押さえるという方法は、いまや国際的な銀行家たちの手によって精密科学にまで仕上げられているのだ。
ウィルソンは1913年12月23日に連邦準備法に署名した。
ウィルソンによる連邦準備法の署名は、彼の親密な友人ハウス大佐とポール・ワーバーグの長年にわたる共謀の頂点を示していた。
ウィルソン政権においてハウスが知り合った連中の一人に、海軍副長官のフランクリン・D・ルーズヴェルトがいた。
1920年代の共和党の亀裂の後、ルーズヴェルトはウィルソンが遂行できなかった『統治者フィリップ・ドルー』の目的を果たした。
後のルーズヴェルトの業績には、社会保障計画、過剰利益税、累進所得税率の90%までの引き上げの法制化が含まれていた。
ワーバーグは、「中央銀行」という名はどうしても避けなければならないと強調した。
そこで、州の様々な行政区に4つ(その後に12になる)の部局を持った地区準備制度計画が採決された。
特権を与えられた12の都市は、金融の中心地として途方もなく重要となるので、所在地の選定には多くの政治運動が作用した。
ニューヨークがアメリカの金融市場であったので、ニューヨーク連邦準備銀行が12の地区銀行制度の本源となった。
リッチモンドが次の選定地であった。
これは、連邦準備法のために政治的功績のあった二人のヴァージニア人、カーター・グラスとウッドロー・ウィルソンへの見返りであった。
委員会によるその他の選定地は、ボストン、フィラデルフィア、クリーヴランド、シカゴ、セントルイス、アトランタ、ダラス、ミネアポリス、カンザスシティ、そしてサンフランシスコであった。
この選定の結果、これらの全ての都市は後に重要な「金融地区」として発展した。
モルガン所有のバンカーズ・トラストの頭取ベンジャミン・ストロングがニューヨーク連邦準備銀行の初代総裁として選出された。
ストロングのもとで、準備制度はイングランド銀行及びフランス銀行との連動関係を確立した。
ベンジャミン・ストロングは、1928年の突然の死までニューヨーク連邦準備銀行総裁の地位を維持した。
ストロングの死去は、1929年から1931年までの大恐慌を引き起こすことになった連邦準備銀行の総裁たちとヨーロッパの中央銀行の指導者たちの間の秘密会議に関する議会調査の期間中であった。
ストロングはバンカーズ・トラストの頭取の娘と結婚した。彼はまた、最初のジキル島グループのメンバーでもあった。そのために彼は、制度全体を支配するニューヨーク連邦準備銀行総裁として、連邦準備制度の中で最高の地位を与えられた。
ウィルソンが連邦準備制度理事に選んだ人物は、プリンストン大学の評議員で、インターナショナル・ハーベスターなどの企業の重役トーマス・D・ジョーンズであった。
それ以外の理事は、ロックフェラーのシカゴ大学とモルガンのハーバード大学出身のエコノミストで内務副長官をつとめるアドルフ・C・ミラー、以前に財務副長官として8年間務めたことのあるチャールズ・S・ハムリン、ルーズヴェルト家の親戚でクーン・レーブ商会のために多くの鉄道を乗っ取った鉄道経営者のF・A・デラノ、ファースト・ナショナル・バンク・オブ・アトランタの頭取W・P・Gハーディング、及びクーン・レーブ商会のポール・ワーバーグであった。
では、連邦準備銀行の株式を所有しているのは誰であろうか。
その前に一言述べて置かなければならないが、連邦準備銀行は民間の株主によって所有されているので「連邦」ではなく、準備金を所有する代わりに通貨を創造する目的を持っていたので「準備」でもなかった。
ちなみに日本の中央銀行である日銀は特殊法人である。出資証券のうち、55%が大蔵大臣の所有で、45%が民間(金融機関、法人、個人)の所有である。出資者の議決権はない。
従って日銀の金融政策を動かしているのは日銀総裁と大蔵大臣ということになる。
連邦準備銀行は日銀と異なり、100%民間の所有なのである。
最初の12地区の連邦準備銀行の株式は、それぞれの地区の国法銀行(連邦政府の認可を受けた商業銀行)が購入した。
ニューヨーク連邦準備銀行が金利を設定し公開市場操作を指揮することによって合衆国の通貨の日々の供給と価格をコントロールしたので、制度全体の真の支配者はニューヨーク連邦準備銀行の株主である。
ニューヨーク連邦準備銀行は20万3053株を発行し、1914年5月19日に通貨監督官が登録したように、大手のニューヨーク市の銀行が発行株数の過半数を取得した。
ロックフェラーが支配するナショナル・シティ・バンクは3万株で、他の銀行と比較して最大の株数を取得した。
J・P・モルガンのファースト・ナショナル・バンクは1万5000株を取得した。
この二つの銀行が1955年に合併したとき、単独でニューヨーク連邦準備銀行の4分の1近くを所有し、制度全体をコントロールした。
チェース・ナショナル・バンクは6000株を取得した。
後のマリーン・ミッドランド・バンクであるマリーン・ナショナル・バンク・オブ・バッファローは6000株を取得した。
この銀行は、ナイアガラ電力会社とその他の大企業を支配していたシェールコフ一族が所有していた。
ニューヨーク市のナショナル・バンク・オブ・コマースは2万1000株を取得した。
これらの同業者連は近年になって合併したり統合したので、コントロールはさらに集中している。
ナショナル・バンク・オブ・コマースは現在のモルガン・ギャランティ・トラストである。
リーマン・ブラザーズはクーン・レーブ商会と合併し、ファースト・ナショナル・バンクはナショナル・シティ・バンクと合併した。
その他の11の連邦準備地区では、同一の株主がこれらの銀行の株式を間接的に所有するか、もしくは支配している。
その他の株式はそれらの地区の主要産業を所有または支配している主要一族によって所有されている。
だがこのアメリカの大銀行も、実はロンドンのコントロールを受けていたのだ。
イギリスは第二次世界大戦後に広大な植民地を失ったので、政治的、軍事的な力は衰えた。
しかし、それに反して金融的な力は成長したのである。
あらゆる角度から見て、ロンドンは世界の指導的な金融センターである。
合衆国の10大銀行持株会社は特定の銀行の手中にしっかりと握られ、そのすべてはロンドンに支店を持っている。
それは、J・P・モルガン商会、ブラウン・ブラザーズ・ハリマン、ワーバーグ、クーン・レーブそしてJ・ヘンリー・シュローダーである。
これらすべては、主に金価格の操作を通して国際金融市場をコントロールするロスチャイルド家と密接な関係を維持している。
世界の金価格は毎日、N・M・ロスチャイルド商会のロンドン事務所で決定されている。
ロンドン・コネクションの証明として、J・P・モルガン商会を取り上げてみよう。
J・P・モルガン商会はジョージ・ピーボディ商会としてスタートした。
マサチューセッツ州のサウス・ダンヴァースに生まれたジョージ・ピーボディ(1795〜1869)は、1814年にジョージタウンDCでピーボディ・リグス商会として事業を開始し、衣類の卸売りとジョージタウン奴隷市場の運営を行った。
1815年、供給源に近づくためボルチモアに移り、そこで1815年から1835年までピーボディ・アンド・リグスとして営業した。
ピーボディは徐々にロンドンに源を発する業務に係わるようになり、1835年にジョージ・ピーボディ商会をロンドンに開設した。
ボルチモアの会社であるブラウン・ブラザーズを通じて、ピーボディはロンドンのビジネスにうまく参入した。
アイルランド生まれのアレクサンダー・ブラウンは1801年にボルチモアに移り、合衆国最古の銀行として知られ、いまも営業しているブラウン・ブラザーズ・ハリマン・オブ・ニューヨーク、ブラウン・シップレイ・アンド・カンパニー・オブ・ロンドン及びアレックス・ブラウン・アンド・サン・オブ・ボルチモアを設立した。
元合衆国大統領ジョージ・ブッシュの父、プレスコット・ブッシュは長年にわたってコネチカット州選出の上院議員であり、重役であったコロンビア・ブロードキャスティング・システム(CBS)の金融のまとめ役であり、ブラウン・ブラザーズ・ハリマンのパートナー(重役)でもあった。
ブラウン家は投機事業の資金をロンドン・シティーからウォール街へ送り込み、アメリカで行われた全ての事業が、ロンドンによって支配されていた。
この「ブラウン・シップレイ社」の重役室に席を占めて君臨したのが、モルガン・グレンフェルの創立者エドワード・グレンフェルであった。
ブラウン・シップレイ社は、1970年代に投資銀行メリル・リンチに買収される形を取りながら、現在は世界一のマーチャント・バンカーとして全米に君臨している。
イングランド銀行総裁を務めたモンタギュー・ノーマン(1871〜1950)がブラウン・シップレイ・アンド・カンパニーのパートナーであった。
ブラウン・シップレイの役員の一人がイングランド銀行の理事を兼務するというのが非公式の了解事項であった。
ロンドンでネイサン・マイヤー・ロスチャイルド男爵(1777〜1836)の支援を受けたピーボディは、商売人として非常に成功した。
彼のアメリカの代理店は、J・P・モルガンの父親であるジュニアス・S・モルガン(1813〜1890)が代表を務めるビーブ・モルガン商会というボストンの会社であった。
ピーボディは結婚しなかったので、後継者がいなかった。
ピーボディは、1854年にジョージ・ピーボディ商会のパートナーとしてロンドンで自分と一緒にやらないかとモルガンを説得した。
ジュニアス・S・モルガンはN・M・ロスチャイルド商会との内密な関係の継続に同意し、まもなく合衆国への大規模な鉄道用の鉄の輸送によって会社の活動を拡大した。
1864年に引退し、会社をモルガンの手に残すことにしたピーボディは、社名をジュニアス・S・モルガン商会へと変更することを認めた。
モルガンの会社はそれ以来常にロンドンからの指示を受けるようになった。
1857年の恐慌で、絶望的になったアメリカの投資家が証券を市場に投げ売りすると、現金を持っていたピーボディとモルガンは実質的な価値を持つ債券を大量に購入し、市場が正気に戻った時に高値で売り抜けた。
その背後にはネイサン・マイヤー・ロスチャイルド男爵がいた。
ヨーロッパのロスチャイルド家は合衆国ではJ・P・モルガン商会の陰に隠れて匿名で操作することを選んだ。
J・P・モルガンは、最初の合衆国の金融恐慌の真っ只中の1837年に生まれた。
この恐慌はロスチャイルド家によって引き起こされた。
1890年に初代のモルガンがリヴィエラでの馬車の事故で亡くなると、J・P・モルガンが企業の頂点に立った。
1864年から1871年までロンドン企業のアメリカ代理店としての業務をダブニー・モルガン商会で行ったのち、モルガンは1871年にフィラデルフィアのアンソニー・ドレクセルを新しいパートナーとして迎え入れ、ドレクセル・モルガン商会として1895年まで業務を行った。
ドレクセルはその年に亡くなり、モルガンはアメリカの支店の名前をJ・P・モルガン商会に変更した。
次に、ロックフェラー所有のナショナル・シティ・バンクについて見ていこう。
ナショナル・シティ・バンクはファースト・ナショナル・バンク、ナショナル・バンク・オブ・コマースとともに、ニューヨーク連邦準備銀行の大半の株式を購入した。
1800年代の初期、シティ・バンクと関連した最も有名な人物はモーゼス・テイラー(1806〜1882)であった。
テイラーの父は、ジョン・ジェイコブ・アスター(1763〜1848、ドイツ生まれの毛皮商人・資本家)が購入者であるという事実を隠しながらアスター家の利益のために不動産を買う秘密代理人であった。
アスターはマンハッタンの将来性のある価値の高い多数の不動産を買うことに成功した。
アスター家の富も、イギリスの対中国アヘン貿易で築かれたという。
テイラーは南北戦争中に富を増やし続け、晩年に若いジェームズ・スティルマンが彼の子分となった。
1882年にモーゼス・テイラーは亡くなり、7000万ドルを残した。
彼の義理の息子パーシー・パインが跡目を継いでシティ・バンクの頭取となり、その時点でシティ・バンクはナショナル・シティ・バンクと改称した。
パインは身体障害者であったために、銀行業務を十分に果たすことが出来なかった。
ジョン・D・ロックフェラー(1839〜1937、石油王)の兄弟であるウィリアム・ロックフェラーは、1891年に、ジェームズ・スティルマンに業務を任せるようパインを説得した。
そしてその直後にナショナル・シティ・バンクはロックフェラーのものとなった。
ウィリアム・ロックフェラーの息子のウィリアムは、ジェームズ・スティルマンの娘エルシーと結婚し、ロックフェラーの別の息子のパーシーはスティルマンの別の娘イザベルと結婚した。
ジェームズ・スティルマンもまたイギリスとのコネクションを持っていた。
彼の父ドン・カルロス・スティルマンは、南北戦争時にイギリスの代理人及び密航者としてテキサス州ブラウンズビルにやってきた。
ニューヨークにおける銀行コネクションを通じて、ドン・カルロスは息子を銀行の見習いとして働かせることができた。
1914年のニューヨーク連邦準備銀行の大株主ファースト・ナショナル・バンクは、銀行の設立者ジョージ・F・ベイカー(1840〜1931、ブッシュ政権時代の国務長官・首席補佐官の祖父)と、彼の息子G・F・ベイカー・ジュニアが、銀行の全株式のうちの25%を所有していたが、重役室のモルガン家の代表団ゆえに、一般的にはモルガンの銀行として知られていた。
テキサスのベーカー一族は鉄道王ロヴェット家とパートナーとなり、テキサスにやってきたブラウン兄弟の一族と結婚して勢力を増した。このベーカー・ロヴェット・オフィス創立者の孫がベーカー国務長官である。
ジョージ・ベイカー・ジュニアの娘エディス・ブレヴォート・ベイカーは、ジェイコブ・シフの孫であるジョン・M・シフと1934年に結婚した。
ジョン・M・シフは現在リーマン・ブラザーズ−クーン・レーブ商会の名誉会長である。
1914年のニューヨーク連邦準備銀行の大株主の一つは、ナショナル・バンク・オブ・コマースである。
J・P・モルガンはまた、ナショナル・バンク・オブ・コマースの株を持つエクイタブル生命保険会社とミューチュアル生命保険会社の支配的株主になることによって、ナショナル・バンク・オブ・コマースの株を所有した。
連邦準備制度理事会の議長であるポール・ワーバーグもまた、ナショナル・バンク・オブ・コマースの株を所有していた。
この銀行は、ロンドンのジュニアス・S・モルガン商会の子会社、ロンドンのN・M・ロスチャイルド商会、及びロスチャイルド家の筆頭代理店として知られるクーン・レーブ商会によってコントロールされていた。
ロンドン・コネクションがアメリカに中央銀行を設立して最初に手掛けた重要な仕事が、第一次世界大戦の遂行であった。
連邦準備銀行は、外国為替を規制し、金融力を集中して、アメリカの金資源の節約に大きく貢献した。
もし戦時下において、以前のような分散した旧式の銀行制度だった場合には、世界大戦のための資金調達も出来なかったし、参戦することも出来なかっただろう。
第一次世界大戦へのアメリカの参戦後、ウッドロー・ウィルソンは合衆国の政治を彼の選挙の支持者であるポール・ワーバーグ、バーナード・バルーク及びユージーン・マイヤーの三頭政治へと転換した。
バルークは戦時産業調整委員会の委員長に任命された。
ユージーン・マイヤーは戦時金融公社の会長に任命され、戦時資金を調達する公債計画の責任者となった。
ポール・ワーバーグは連邦準備制度理事会の副議長であった。
ユダヤ人ユージーン・マイヤーの父は、パリのラザール・フレールとロンドンのラザール・ブラザーズのパートナーの一人であった。
ユージーン・マイヤーは後に初代「世界銀行」総裁になった。また、アメリカの首都を制する新聞「ワシントン・ポスト」のオーナーとしてよりよく知られていた。
第二次世界大戦直後に発足した世界の金融体制は、ヨーロッパを本拠地とするIMF(国際通貨基金)と、アメリカを本拠地とするこのユージーン・マイヤーの世界銀行(国際復興開発銀行)の二大メカニズムを柱として運営されてきた。
ユージーン・マイヤーの曾祖父ザドック・カーンはフランスのパリでグラン・ラビ(大指導者)となった大人物であった。
ユージーン・マイヤーの娘は、「ワシントン・ポスト」の社主として全世界の政治家に大きな影響力を及ぼしてきたキャサリン・グラハムである。
日本の首相人事は、「グラハム女史が首を縦に振らなければ認められない」と噂されるほど、わが国では彼女の威光が恐れられてきた。
天皇家の内情も、キャサリン・グラハムには筒抜けであったという。
ユダヤ財閥によるメディア支配に話を移すと、ロスチャイルド家は、ヨーロッパのあらゆるニュースの配信をコントロールしていたロンドンを拠点とするロイターズ・インターナショナル・ニューズ・エージェンシーとフランスのハヴァス、ドイツのヴォルフの支配権を買い取っている。
CBSはワシントン・ポスト紙、アライド・ケミカル社、ウェルズ・ファーゴ銀行と関連を持っている。
ブラウン・ブラザーズ・ハリマンがCBSを、ユージーン・マイヤー一族(ラザール・フレール)がアライド・ケミカル社とワシントン・ポスト紙を、そしてクーン・レーブ商会がウェルズ・ファーゴ銀行を支配している。
さて、ここに1711年のフランクフルトのゲットーの地図がある。
ユダヤ教会のシナゴーグを中心にして、ロスチャイルド家、シフ家、カーン家、バルーク家が隣近所に暮らしていたことが分かる。
オットー・カーン一族はやがてフランクフルトの南60キロのマンハイムに移り、オットー・カーンはドイツ銀行で修行を積んでからアメリカへ渡った。
カーンはクーン・レーブ商会に入ってパートナーとなり、アメリカ大陸の鉄道事業で巨財を成した。
オットー・カーンの長女モードは後年のイギリスMI5の人事部長、ジョン・マリオネットと結婚している。
マリオネットはフリーメーソンであった。
ユージーン・マイヤーの曾祖父ザドック・カーンは、このカーン一族である。
シフ家は一時ロスチャイルド家の隣に住んでいたが、1711年の地図では、カーン家から通りを挟んで4軒目の所にあった。
一族のジェイコブ・ヘンリー・シフはクーン・レーブ商会のパートナーとして活動した。
高橋是清が日露戦争の外債をシフに引き受けてもらった時に、クーン・レーブ商会にはオットー・カーンもいたのだ。
バルーク家もラビを生み出すユダヤ人指導者のファミリーだった。
バーナード・バルークは第二次世界大戦後、国連の原子力委員会のアメリカの首席代表を務めた。
彼は全米一のウラン採掘業者グッゲンハイム財閥の代理人として働くウォール街の投機業者であった。
しかしそれにしても、ウィルソン政権の中心人物の多くが同じフランクフルトのゲットー出身だったことには驚かされる。
これを単なる偶然として済ますことは出来ないであろう。
話を第一次世界大戦に戻すと、ポール・ワーバーグが連邦準備制度理事会で活動している時に、対戦国のドイツではポール・ワーバーグの兄弟のマックス・ワーバーグがドイツ諜報部の代表として仕えていた。
ワーバーグ家と同じくジェイコブ・シフもまた、第一次世界大戦中のドイツにフィリップ・シフとルートヴィヒ・シフという二人の兄弟がフランクフルト−アム−マインにいた。
彼らもまたドイツ政府の銀行家として活動していたのである。
ワーバーグ家とシフ家の兄弟たちは、アメリカとドイツに分かれてそれぞれの政府を金融面で支援していたのだ!
第一次世界大戦が国際的銀行家によって引き起こされた謀略であったことがよく分かる話だ。
第一次世界大戦はアメリカ全体に繁栄をもたらした。
労働者たちには高給が支払われ、農家の生産物にはかつて経験したことのないほど高い価格が支払われた。
この二つのグループは国債に資金を投ずることなく巨額のドルを現金で蓄えた。
その資金は、合衆国の通貨と信用をコントロールしていたウォール街のグループの手の届かないところにあり、これを奪うために1920年から21年の農業不況が引き起こされたのだ。
資金の多くは、連邦準備制度のいかなる影響も拒否した中西部と西部の小さな田舎の銀行に預金されており、その地域の農家と牧場経営者たちは、自分たちの資金の管理を国際金融家グループに委ねる理由などなかった。
連邦準備制度はこれらの小規模な田舎の銀行を破壊し、戦時中に農家に支払われた資金を奪い返し、彼らを破滅させようともくろんだ。
当時、1919年と1920年のアメリカとヨーロッパでは、インフレーションが放置されていた。
ヨーロッパにおけるインフレの目的は、アメリカ国民から連合国が借り入れた戦時債務の大部分を相殺するためであり、アメリカにおけるインフレの目的は、生産に対する高い賃金やボーナスという形で労働者に分配されていた余剰資金を呼び戻すことであった。
物価が高くなればなるほど、労働者の資産価値は下落し、彼らに資金の不当な流出を課す。
一方、地価と工業製品の価値の上昇のため、資本家はインフレによって裕福となる。
労働者は相対的に貧しくなる。
これが資本家がインフレを引き起こす理由である。
労働者や農民などの消費者から資産を収奪するためである。
しかし、農家はより自給自足的だったので、別の扱いが必要だった。
連邦農業貸付委員会が設立され、蓄積した資金を土地に投資して長期に貸し付けるよう農家に奨励した。
当時、非常に裕福だった農家は生産拡大のために耕地面積を広げ、農業機械を買い増した。
そのためには農地を担保にした抵当貸付の増大が必要であり、農家は設備投資資金も借り入れなければならなかった。
農家の負債残高は増大した。
それでも、1915年から19年にかけて1.4倍になった負債残高の上昇は、農家純所得の伸びをはるかに下回っていた。
だが、戦争の終結とともに事態は一変し、農産物価格は直ちに下落し始めた。
戦争中の増産努力によって農産物の供給が急増したところへ、ヨーロッパの需要が消滅したのである。
そして、1920年に発生した突然の信用と通貨の収縮によって農家は破産してしまった。
1920年4月、5月、6月、そして7月には、製造業者や商業従事者には大幅な与信の拡大が許された。
これは、アメリカの農家を破産させようと意図した信用収縮の潮流を彼らに乗り切らせようとするものだった。
そしてこの期間、農家には与信がすべて拒否された。
農業及び家畜手形に対する金利は7%に引き上げられた。
連邦準備制度理事会の目的は、連邦準備制度の支配を拒絶した州法銀行及び共同土地出資銀行を破滅させることにあった。
この農家に対するデフレーション政策は、故意に犯された犯罪だった。
1921年には農家純所得は前年より57%も下落し、10年前の水準に逆戻りした。
農産物市況の急落と負債利子支払いの急上昇がその原因だった。
21年は戦後の反動不況から実質GNPも減少した。国中が不況に陥った。
中でも困窮した農家は、負債残高を増加させていった。
農家の負債と利子支払いがピークに達したのは23年だった。
市況の低迷と金利負担の重圧という典型的な農業不況のパターンが続いた。
全盛時代にはアメリカの農家は年間純所得のほぼ1年分の負債残高しか持たなかったが、21年には3年分の純所得に匹敵する負債を抱えることになった。
デフレによって資本家も損失を被るが、中小金融機関、企業を倒産させ市場支配を強化することができる。
これが資本家がデフレを引き起こす理由である。
インフレによって労働者、農民から資産を収奪し、デフレによって市場支配を強める。
従って、インフレとデフレは交互に引き起こされねばならないのである。
そしてインフレとデフレを交互に作りだす技術は、国際的銀行家たちによって精密科学にまで仕上げられているのだ。
第一次世界大戦後、アメリカは122億ドルに及ぶ対ヨーロッパ債権を獲得し、全世界の貨幣用の金の半ば以上を集中した。
イギリスにかわって世界経済の主導権を握ったアメリカは、大戦で疲弊したヨーロッパ諸国の財政を整理し、通貨を安定させて、ヨーロッパ経済の復興をはかることを先決と考えた。
1917年9月、アメリカは第一次世界大戦に参加するとともに、金の輸出を禁止していた。
アメリカは戦争が終わると、1919年6月には、早くも金本位へ復帰している。
金本位の祖国イギリスでも、第一次大戦が勃発すると、変則的事態が発生した。
1914年、イギリスはイングランド銀行券の発行高を金保有量によって規制していたピール条例(1844年制定)を停止し、事実上の不換紙幣制度へ移行したのである。
ついで、1916年には、「帝国防衛法」を公布し、金の輸出をできるかぎり禁止して、金本位制は事実上、停止された。
1925年5月、イギリス議会は金本位制法を可決し、大英帝国は金本位制に復帰した。
オランダ、オーストリア、蘭領インド(インドネシア)、南ア連邦の各国も、次々と金解禁に踏み切った。
イギリスの金本位制復帰を支援するため、ニューヨーク連邦準備銀行は大英帝国に対して2億ドルの金の貸付を行うことを取り決めた。
全ての交渉は、ニューヨーク連邦準備銀行総裁のベンジャミン・ストロングとイングランド銀行総裁のモンタギュー・ノーマンとの間で行われた。
第一次世界大戦直後、密接な協力関係がイングランド銀行とニューヨーク連邦準備銀行との間に出来上がった。
この関係は、イングランド銀行のモンタギュー・ノーマンとニューヨーク連邦準備銀行の総裁ベンジャミン・ストロングとの間に1928年まで存在した誠心誠意の関係に基づくものであった。
ニューヨーク連邦準備銀行の公定歩合政策は、しばしばイングランド銀行を支えたいとする願いに導かれていた。
ロンドンとニューヨークの間には、公定歩合を設定する際に緊密な協調関係があった。
1925年イギリスが戦前の平価で金本位制に復帰(旧平価解禁)したのは、戦後の疲弊と貿易収支の赤字が続く中で自国通貨を切り上げるという、無謀な決断だった。
資金はイギリスからアメリカへ逃避先を求めて動いた。
しかし、イギリス、フランス、ドイツの中央銀行は、この金の移動をアメリカの高金利のなせる技と解釈し、揃ってワシントンを訪れ、アメリカの金利引下げを要請した。
ニューヨーク連邦準備銀行総裁のベンジャミン・ストロングは、公定歩合の引き下げに踏み切った。
イギリスが金本位制に復帰した時、アメリカはイギリス経済を救おうとして低金利と金融緩和の政策を取り続けた。
この政策は、一面で景気を刺激する効果を持ったが、反面で株価の上昇を招き、異常な株式投機熱を煽る結果を招いた。
ここでイングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンについて軽く触れて置こう。
ベンジャミン・ストロングとモンタギュー・ノーマンの間の関係は、20世紀最大の秘密の一つであった。
ベンジャミン・ストロングはニューヨークのバンカーズ・トラストの頭取の娘と結婚し、後にその頭取となった。
ストロングは1914年にモルガン及びクーン・レーブ商会の共同推薦でニューヨーク連邦準備銀行の総裁になった。
モンタギュー・ノーマンは、母方の祖父と父方の祖父の両方がイングランド銀行の総裁となった歴史上唯一の人物である。
彼の父はブラウン・ブラザーズ(現在のブラウン・ブラザーズ・ハリマン)のロンドン支店であるブラウン・シップレイ商会で働いていた。
モンタギュー・ノーマン(1871年〜1950年)は、ブラウン・ブラザーズで働くために1894年にニューヨークにやって来た。
そこで彼は、ブラウン・ブラザーズのデラノ家とジェームズ・マーコーの助けを得た。
彼はイギリスに戻り、1907年にイングランド銀行の役員に指名された。
モンタギュー・ノーマンは1916年から1944年までイングランド銀行の総裁であった。
この間、彼は1929年の大恐慌と世界的な景気後退を引き起こした中央銀行会議に出席した。
1925年から28年までのニューヨーク金融市場におけるストロングの低金利政策は、ニューヨークの金利をロンドンの金利より低く維持するというノーマンとの合意を満たすものであった。
ニューヨークの低金利政策は、1920年代後半のとてつもない投機の絶頂を伴って拡大しているアメリカのにわか景気を煽ったのだ。
1927年7月、ヨーロッパで三大中央銀行総裁の会議が開かれた。
イングランド銀行のモンタギュー・ノーマン、ニューヨーク連邦準備銀行のベンジャミン・ストロング、そしてドイツ帝国銀行のヤルマール・シャハト博士の会議は、当時の世界の最高級クラブの会議といわれた。
この秘密会議は、合衆国が所有する金をヨーロッパに取り戻し、ヨーロッパ大陸の各国を金本位制に復帰させるための最良の方法を議論するために開かれた。
合衆国における銀行金利の引き下げによって7億2500万ドル相当の金を輸出させ、そのことでフランスとヨーロッパを安定させてフランスを金本位制へ導くためであった。
1928年6月、フランスのポアンカレー内閣は金本位へ復帰した。
1928年末から29年秋にかけて、アメリカ政府は、金利を引き上げる措置を講じた。
その結果、こんどは外国資金が証券投資と高い利子率を目的に流入しはじめ、株式ブームに拍車をかけることになった。
1922年から1929年までの間に、連邦準備は通貨の供給を62%膨張させた(インフレ政策)。
新しい通貨はすべて、証券取引相場を法外につり上げるために使われた。
マスメディアは証券取引で急速に財を成したというセンセーショナルな話を一般に広めはじめた。
誘惑的な新聞報道によって、一般人が投機へそそのかされた。
1928年から29年秋にかけての株式ブームは、実際の経済活動を反映しない極めて不健全な基礎の上に、狂乱の花を咲かせた。
ホテルのボーイやレストランのウェイトレスまでが株に手を出す始末であった。
そして、バブルが弾けた。
「すべてが済んだ時、ニューヨークの金融業者たちは相場師にコール=ローン(短期貸出金)の弁済を要求しはじめた。これは、相場師とその顧客が自分らの借金を解消できるようにするためには、今や株を取引所に投げ込まなければならなくなったことを意味している。これはもちろん、取引所の崩壊をもたらし、全国の銀行を片っ端から倒産させることとなった。上部の寡頭制には属していなかった銀行には、このとき相場師の弁済要求が特に強く突きつけられた。これによってこれらの銀行の弁済手段は急速につき果て、その結果、閉鎖されなければならなくなったのである。連邦準備は、弾力性のある通貨を堅持するよう法律によって義務づけられているにもかかわらず、これらの銀行には助け船を意識的に出さなかった」(ウィリアム・ブライアン著『合衆国の未解決の財政的、政治的諸問題』)
「翌10月29日の火曜日はさらに壊滅的だった。『早朝、ニューヨーク市外の銀行と事業会社が1億5000万ドルのコールローン(ブローカーズ・ローンの別名)を引き上げ、ウォール街は立会い開始を待たずしてパニックに陥っていた』。取引開始後30分で通常の一日分の商い、300万株が取引された。コールローンを引き上げられた証券業者は銀行に助けを求めたが、銀行も株価暴落によって大きな痛手を被っていた」(林敏彦著『大恐慌のアメリカ』岩波新書)
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2011/7/5
三菱フリーメーソン説@
啓蒙主義と魔術その1からの原文はここからです 。なお写真・編集・解説は管理人によります。関係の本は持っておりますがコピペで楽をしています。)
三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎がフリーメーソンのトーマス・グラバーと深いつながりがあったことは『明治維新の背後に見え隠れするロスチャイルドの影』の中で触れました。
また、天皇と三菱がビジネスパートナーであったことは『天皇の蓄財@』で触れました。
『天皇のロザリオ』には、
(大正13年)今や、頭山満が天皇の最大にして最高の賓客となった。古代宮廷主義がここに復活し、軍人と右翼(やくざと浪人)が宮廷を支えるということになった。中村雄次郎に代わり、大久保利通の二男の牧野信顕が宮内大臣となった。牧野は一味の右翼理論家の小尾晴敏、安岡正篤を宮中に入れて、皇居の旧本丸内に社会問題研究所をつくった。
翌年、大川周明がこの研究所の同人となると、その名を大学寮と改め、大正デモクラシー運動への対策を練った。また、荒木貞夫、渡辺錠太郎、秦真次などの軍人も参加し、民主主義風潮弾圧の策を練った。
この寮に、陸海軍の若手将校たちが出入りし、三菱財閥が巨額の金を彼らに渡し、美女と美酒におぼれさせていくのであった。2.26事件で北一輝と共に死刑となった西田税がこの大学寮で若手将校たちに軍事学を教えていたのである。日本の右翼は大学寮から生まれたのである。右翼たちは天皇と深く結びついていくのだ。
頭山が三菱財閥と結びつき、天皇から「浪人の元老」という資格を与えられる。北は失意のうちに三井財閥と結びつく。三菱は軍需産業を拡大し、邪魔者の排除を頭山に依頼する。満州支配のスケジュールは三菱と頭山一派の合作である。
頭山は三菱から、北は三井から金を貰い、その金でテロリストの壮士や浪人や将校を誘惑したのである。女が欲しい奴には女を、酒が欲しい奴には酒を、金が欲しい奴には金を投げ与えた結果が2.26事件であった。そして、こんなテロリストたちの首領によって政治が支配されていき、太平洋戦争へと進んでいったのである。
という記述もあります。
以下は『三菱こそフリーメーソンの牙城だ!No.1』からの抜粋・引用です。
(※読みやすくするために若干原文に手を加えてあります。)
三菱財閥
岩崎弥太郎は、土佐藩の地下浪人(最下級の武士)である岩崎弥次郎の子として、天保5年(1834年)12月に生まれた。
慶応2年(1866)、弥太郎は土佐商会主任として長崎に赴任した。
土佐藩直営の産業振興機関「開成館」は、藩の物産を売りさばくと同時に、必要な物資を買い入れる機関として、大阪と長崎にそれぞれ出先機関を設けていた。
これが後の大阪土佐商会、長崎土佐商会となったのだ。
土佐商会の主な取引先は、英国のグラバー、オールト、プロシアのキニツフル、ハルトマン、オランダのシキュート、ベルギーのアデリアンなどの各商会で、買い取った商品のほとんどは、高価な武器だった。
この頃弥太郎は、亀山社中(海援隊の前身)の坂本龍馬と知り合っている。
貧乏育ちの弥太郎と、お坊ちゃん育ちの龍馬は犬猿の仲だった。
弥太郎が土佐商会で交渉を持った外国商人の一人に、トーマス・ブレイク・グラバーがいる。
「死の商人」グラバーはイギリスの大商社ジャ−ディン・マセソンの長崎代理人だった。
グラバーはイギリスのフリーメーソンでもあった。グラバーと弥太郎の関係は深い。
グラバーが出資の面で深く係わっていた高島炭鉱と長崎造船所(三菱造船所の前身)を三菱に譲渡している。
明治26年にグラバーが住居を東京に移した時、三菱の特別役員となっている。
この時の待遇も破格で、最高役員の二割増の給与を得ている。
グラバーはまた坂本龍馬に大きな思想的影響を与えたことで知られている。
慶応4(1868)年9月8日に年号が明治と改元され10月13日に東京遷都が公布されて、長崎土佐商会は閉館と決定した。
土佐大阪商会の支配人となった弥太郎は、土佐藩の財政を一手に握って権勢を振るった。
土佐藩の財政が外国商人からの借金で補われていて、外国商人と交渉できる人物は、弥太郎以外に誰もいなかったからである。
土佐大阪商会は土佐開成社へと脱皮し、次に土佐の九十九湾に因んで九十九商会になった。
すでにこの時は、藩籍を離れて私企業になっていた。
九十九商会は、紅葉賀と夕顔の二藩船を貰い受けて、海上運輸業を開業することになった。
表面上、弥太郎は九十九商会と無関係ということになっているが、彼は土佐藩の大阪代表として、商会を支配していた。
この頃、石川七左衛門(後の七財)や川田小一郎が弥太郎の部下となっている。
明治4(1871)年7月、廃藩置県の詔書が発せられた。
弥太郎は、藩札を政府が買い上げてくれると知ると、すぐさま10万円分の太政官札を借りてきて、ただ同然に値下がりしていた藩札を買いまくった。
7月14日の相場で、藩札と太政官札を引き換えるということになって、弥太郎はぼろ儲けした。
さて、弥太郎は、藩船「夕顔」と「鶴」の両船を4万両で払い下げてもらった。
そして、川田小一郎、石川七左衛門、中川亀之助(森田晋三)の3人を代表として会社を作った。
川の字をそれぞれ名前にもっている3人の男の集まりなので、社名を九十九商会から三川商会と改称した。
航路は東京−大阪、神戸−高知間である。
そして競争相手は、郵便蒸気船会社。
これは半官半民の回漕会社で、民間側は天下の富商三井を筆頭に、東京・大阪の豪商や船問屋が資本金を出し合って株主となっている。
これが赤字を出してしまったので、明治4(1871)年、政府は会社の後始末を三井大阪店の番頭吹田四郎兵衛に一任した。
こうして8月になると、三井、鴻池、小野、島田といった富商が株主となって、日本国郵便蒸気船会社(後の日本郵船)が発足した。
明治6(1873)年3月、弥太郎は「三川商会」を「三菱商会」と改称した。
しかし汽船事業は赤字続き。そこで料金を半額に下げて、夏は団扇と氷水をサ−ビスした。
すると三井は料金を3分の1に下げてきた。三菱と三井の苛烈なダンピング競争が始まった。
ダンピングに堪えられなくなった中小の船会社はバタバタ倒れていって、残るは三菱のみとなった。
しかしこの時、不思議なことが起こった。
政府の公金を扱っていた三井と小野、島田に対して、政府は、預り金と同額の担保を入れよと命じたため、小野と島田が倒産してしまったのだ。
そこで政府はこれまでに放漫に出していた政府資金の回収に取りかかった。
そのため日本郵便蒸気船会社は借入金40万円の返済を命じられてよろめきだしたのだ。
いったい何が起こったというのだろうか。陰謀に通じている諸君は、もうお分かりだろう。
この三井と三菱のダンピング競争は、出来レースだったのである。つまり三菱と政府・三井の間で予め合意が出来ていたということだ。
その目的は、中小の船会社を倒産させて、三井と三菱で航路を独占することにあった。
ついでに小野や島田などの富商も倒産させてしまう。
政府は三菱を潰すことなど、鼻から考えていなかったのである。
その後、弥太郎は台湾出兵の時に政府に船を13隻買わせて、漁夫の利を得た。
おまけに台湾航路も開設した。
三菱汽船の攻勢に劣勢となった日本郵便蒸気船会社は解散させられた。
所有船として使えるものと倉庫などは三菱が引き取った。
こうして三菱は所属船舶40余隻という日本最大の船会社となった。
この頃、弥太郎は福沢諭吉と会っている。しかも大隅重信も同席して、以来、この3人はすっかり仲良しになった。
弥太郎がすっかり気に入った諭吉は、慶応義塾の卒業生を多数三菱に送り込んだ。
西南戦争が起こると、弥太郎は兵員と物資の輸送でまたぼろ儲けした。
三菱は船で稼ぎ、三井は陸軍の経理を引き受けて儲け、三井物産は糧食で、大倉組は、紺の脚半や足袋や干物の魚で、藤田組は軍服と靴で巨利を博した。
西南戦争の戦費4200万円のうち、三菱はなんと1500万円、つまり戦費の3分の1を手にしたのである。
こうしたところへ、三井が政府に働きかけて、三菱の独占事業に対抗する船会社が設立されることになった。これが共同運輸会社である。大久保は暗殺され、大隅は失脚していた。
自由党による激しい弥太郎への攻撃が始まった。政府は260円の大金を共同運輸に出資した。
こうして三菱対共同のダンピング競争が始まった。
この最中、弥太郎は癌に倒れた。
明治18(1885)年2月7日、弥太郎は「腹ン中が裂けるようじゃ、もう何も言わん」といって死んだ。享年52歳であった。
三菱と共同運輸の競争は熾烈を極め、3年間にも及んだ。
明治18(1885)年、共倒れを懸念した政府は合併を指令、両社の戦いは終息した。
新会社は日本郵船会社と命名された。新会社は、資本金を1100万円とし、三菱側出資500万円、共同側出資600万円と定められた。
日本郵船の支配権は、当然過半数の株を持つ共同側(三井側)の手中にあるはずだった(株券10万株は三菱に、12万株は共同に交付された)。
ところが三菱側は岩崎に独占集中されているのに、共同側の株主は分散しているうえ、その中にも三菱関係者がいた。
このため、三菱側の持株率は、逆に共同側を上回ってしまったのである。
後に、近藤廉平(元三菱汽船会社横浜支配人)が社長となるに及んで、13回の重役異動を経て、完全な三菱系企業と化してしまった。
ところで弥太郎の死後、弟の弥之助が三菱を引き継いだ。
弥之助は兄の勧めでアメリカに留学している。
弥之助は炭鉱事業に乗り出した。
弥太郎が後藤象二郎から買収した高島炭坑の利益は、弥之助の予測を上回った。
買収してから約5年で、三菱のドル箱となった。
弥之助は、明治22(1889)年には、新入、鯰田の両炭鉱を買収した。
これから筑豊炭田への進出がはじまったのである。
弥之助はここで日本最初の技術を次々と採用した(長壁式採炭法)。
弥之助はまた、金属鉱山にも力を入れた(尾去沢、生野、佐渡、槙峰、面谷など)。
そして石炭と銅の収入源を資金源として、造船を中心とする近代的な重工業財閥へと三菱をリ−ドしていくのである。
政府から払い下げを受けた長崎造船所は、その後次々と6千トン級汽船を建造していく。
しかし良く考えてみれば、当時の日本人だけで最新技術を導入することが不可能であったことはすぐ分かる。
高島炭坑に近代的な採掘機械を最初に導入し、また日本の造船技術の始まりとなったソロバン・ドック(我が国最初の洋式ドックで、入江を利用したスリップ式造船施設)を作ったのは、前出のグラバーである。三菱とグラバーの結びつきは深い。
明治33(1900)年以降は、長崎造船所で軍艦の製造にも乗り出した。
そして弥之助は、鉱山業、造船業と並んで、銀行業、地所事業に乗り出す。
また弥之助は、明治29(1896)年、川田小一郎の急逝の後を受けて第4代日銀総裁に就任している(明治29年11月11日〜明治31年10月20日)。
第3代日銀総裁(明治22年9月3日〜明治29年11月7日)の川田小一郎も三菱人であったことは、既に述べた。
ちなみに、弥之助の後の第5代日銀総裁(明治31年10月20日〜明治36年10月19日)は山本達雄であったが、山本もまた三菱人である。三菱は3代続けて日銀総裁を送ったのだ。
この岩崎弥之助日銀総裁の元で行われた重大な幣制改革が、明治30(1897)年の金本位制の採用であった。
時の首相は財政通、松方正義であった。松方はこの時蔵相も兼務している。
弥之助は松方の金本位制を終始バックアップした。当時、この金本位制には反対意見が多かった。
元老の間では、伊藤博文が反対であった。
「日本では金鉱が少なく、金の産出が乏しい。これでは不可能であろう」というのであった。
安田善次郎などは、「もし金本位制が実現するならば、自分は松方君のために純金の等身像をつくって贈ってあげる」などといってからかった。
だが最終的に天皇の裁断がものをいった。天皇は松方を信じて、金本位制の採用に踏み切った。
日清戦争の賠償金が金本位制採用の準備金となった。
ではその成果はいかがなものであったのだろうか。
「日清戦争のあと、日本と金本位制国との貿易は拡大しつつあった。ことに金本位国から日本に対する輸入が膨張した。しかし、日本はまだ銀本位であったので、銀貨の変動のために不利益をこうむるケ−スがきわめて多かった。しかし、金本位制を採用した結果、このような不利益はなんなく解消をみた。
さらに、金本位制をとったことで、日本は世界市場にそのまま直結することになった。それは外資募集に効果をあげた。外資導入が容易となり、増加することになったのである。拘束状態にあった軍事公債の売却、また三十二年(1899)の四分利付外債一億円の募集についても、みごとな効果をあらわしはじめた。あとあと日本が莫大な軍艦、兵器を輸入でき、かつ日露戦争が勃発したとき、その戦争に必要な巨大な外債募集ができたことなども、いずれも金本位制を採用したからのことであった」(『明治・大正の宰相 松方正義』講談社)
金本位制は日露戦争への道筋を準備したことになる。
戦争が起こって得をするのは、巨大財閥であることはいうまでもない。
ところでこの金本位制が採用された明治30年前後の日本の政界は、弥之助によって動かされたといっても過言ではないという。
明治21(1888)年の黒田内閣は「最初の三菱内閣」であり、明治29(1896)年の第2次松方内閣は「いっそう純粋・透明な三菱の内閣」であり、弥之助はひそかに祝杯をあげたという。
三菱財閥2代目総帥・岩崎弥之助は、明治41(1908)年3月、逝去した。
弥太郎と同じく死因は癌であった。享年58歳であった。
ところで弥之助が43歳の時の明治26(1893)年に、弥之助は三菱合資会社の経営権を、弥太郎の長男岩崎久弥に譲っている。
時に久弥は弱冠29歳、三菱3代目総帥の誕生である。
久弥は明治19(1886)年、22歳の時、アメリカ留学に出発している。
最初の2年間は入学準備に費やし、明治21年にペンシルバニア州フィラデルフィア市のペンシルバニア大学に入学。
5年後の明治24(1891)年にアメリカより帰国している。
久弥の留学先がペンシルバニア大学だったことは非常に興味をそそる。
そもそもペンシルバニア州はクエーカー教徒のイギリス人、ウィリアム・ペンが設立した州である。
そしてペンシルバニア大学の創設者は、かの高名なアメリカ・フリーメーソンであったベンジャミン・フランクリンである。
ところで、アメリカ留学前に久弥は福沢諭吉の慶応義塾に学んでいる。
福沢諭吉と三菱の縁も深い。
3代目社長久弥は自分が表面に出ないで、三菱の「四天王」に経営を任せた。
日本郵船の近藤廉平、明治生命の荘田平五郎、東京海上火災の末延道成、三菱銀行部の豊川良平である。
この4人は、いずれも弥太郎の子飼いであった。
先に戦争で得をするのは巨大財閥であると述べたが、明治27(1894)年の日清戦争、明治37(1904)年の日露戦争でも、三菱財閥は戦時利得の恩恵にあずかった。
この10年間に三菱合資会社は三菱銀行、佐渡および生野鉱山(後の三菱鉱業)、大阪製煉所、神戸製紙所(後の三菱製紙)、福岡県の牧山骸炭製造所(三菱の石炭化学工業の発端)、小岩井農場、東京倉庫(後の三菱倉庫)、唐津炭鉱、神戸造船所(第1次大戦中は潜水艦を建造)などを新たに傘下におさめている。
大正3(1914)年7月に勃発した第一次世界大戦でも、三菱は造船、製紙、鉱業で儲けるだけでなく、投機商品の取り扱いにまで手をのばし、ロンドンとニューヨークに支店を設置して世界貿易に打って出ている。
三井物産や鈴木商店と競合したのだ。
久弥は52歳になった大正5(1916)年7月、副社長の座にあった弥之助の子、小弥太に総帥の座を譲渡している。
三菱は戦争のたびに大きくなったといわれる。
第一次大戦では軍需で多大の利益をあげた。
大戦景気はその反動に見舞われ、大正9(1920)年春、世界恐慌が勃発して日本資本主義も慢性的な不況期に入った。
軍国主義の波が押し寄せ、財閥は格好の攻撃目標となった。
右翼のテロが牙を剥いた。小弥太の数少ない友人の一人である高橋是賢の父親で、小弥太が尊敬していた高橋是清も右翼のテロの凶弾に倒れている。
昭和2(1927)年春、昭和恐慌が発生した。
弱小財閥は軒並みつぶれたが、三井、三菱といった大財閥は独占的地位を確立し、産業、金融における支配力を一段と強めたのだ。
昭和16(1941)年12月、太平洋戦争勃発。
軍部は財閥に戦時協力を求めた。
三菱財閥の戦争協力は、すさまじいものがあった。
海軍艦船、航空機等、軍の要望に応えて、ひたすら増産に務めた。
この戦争で三菱財閥は、戦時超過利潤をあげた。
その先頭には、常に三菱4代目総帥小弥太の姿があった。
敗戦後、小弥太はGHQの財閥解体に反対して、昭和20(1945)年12月2日、悔しがりながら憤死してしまった。享年67歳であった。
久弥はその後も生きつづけ、昭和30(1955)年の12月1日に逝去している。享年91歳であった。
敗戦後、GHQの命令で財閥は解体された、と一般的には思われている。
しかし戦後においても三菱グル−プのまとまりは三井に比べて固い。
三菱系の社員は、『バイ三菱』主義によって、同系の電気・化学製品などを愛好するだけではなく、保険は東京海上火災、デパートは伊勢丹、カメラはニコン、ビールはキリンといった閉鎖的な性格が、戦後の企業集団のなかで最も強いという。
「戦後の日本の財界団体(経団連、日経連、日商、同友会など)の長には、財閥系の経営者はならないという不文律のようなものがあった。
しかし、財閥解体の後、徐々に力を盛り返してくるとともに、特に三菱グル−プの経営者が財界の主導権を握るようになってくる。
財界ではないが、昭和三十九(1964)年に、田実の前の三菱銀行頭取、宇佐美洵が日本銀行総裁に就任したのがその皮切りである。
三菱のサラブレットである宇佐美洵の母よしの兄は後述の池田成彬である。よしの妹なみは、元三菱銀行頭取加藤武男に嫁いでいる。
その後、四十年代に入って、牧田の前の三菱重工社長、河野文彦が経団連の副会長になり、藤野忠次郎(三菱商事元社長−筆者注)も東商副会頭になった。
そして、日経連の会長に、三菱鉱業セメントの大槻文平がなって、財界団体の長は電力や新日鉄等の独立系企業からという“ジンクス”は破られた」(『野望の軌跡』旺文社)
という。
ところで言い遅れたが、本書の目的は三菱財閥の研究ではなくて日本銀行の研究にある。
だが歴代の日銀総裁を調べているうちに、日銀と三菱が非常に深い関係にあることが分かったのだ。
ここで歴代日銀総裁の経歴をざっと見ておくことにしよう。
初代 吉原重俊(明治15年10月6日〜明治20年12月19日)
慶応2(1866)年に薩摩藩から選ばれて米英両国に留学。留学中の明治5年に外務省書記官となり、在米日本大使館に勤務するが、その後大蔵省に転じて大蔵卿・松方正義の下で活躍した。明治13年に大蔵小輔(次官)となり、在任中の明治15年に日本銀行創立事務委員に任命され、日本銀行設立とともに初代総裁に就任した。
第2代 富田鐵之助(明治21年2月21日〜明治22年9月3日)
幕府の海軍奉行であった勝安房守の推薦により米国に留学、主として経済学を学び、ニューヨーク副領事、在英大使館1等書記官を務めた後帰国し、大蔵大書記官として日本銀行創立の事務に当たった。明治15年より副総裁として、初代吉原総裁とともに日本銀行創業期の中心的役割を担った後、明治21年に総裁に就任した。
さて、初代と第2代の両日銀総裁時代の大蔵大臣は松方正義であった。
松方正義は明治14年10月21日〜明治18年12月22日まで大蔵卿、その後、第一次伊藤内閣、黒田内閣、第一次山県内閣、第一次松方内閣と、明治18年12月22日から明治25年8月8日までずっと大蔵大臣を務めている。
その後は飛び飛びで、第2次伊藤内閣の明治28年3月17日から同年8月27日まで、第2次松方内閣の明治29年9月18日から明治31年1月12日まで、第2次山県内閣の明治31年11月8日から明治33年10月19日まで大蔵大臣を務めた。
この松方正義と岩崎弥之助が深い関係にあったことはすでに述べた。
そこで今度は松方家の家系図を描いて、そこから何が読み取れるか調べてみよう。
松方正義の次男の松方正作の養子である義行は、後に森村財閥の森村市左衛門の養子になっている。
正作の妻の繁子は、弥之助の長女である。松方家と岩崎家は一族を成していたのだ。
小弥太は、薩摩島津家から島津孝子を嫁に迎えている。仲人は松方正義がつとめた。
松方正義の4男の松方正雄は、ペンシルバニア大学を卒業している。例のベンジャミン・フランクリンのペンシルバニア大学である。
その長女の富子は中上川次郎吉の弟の中上川小六郎に嫁いでいる。
次郎吉の父親が中上川彦次郎である。彦次郎は叔父である福沢諭吉の影響を受け慶応義塾で教鞭を執り、明治7年イギリスに留学、帰国後外務省に入り、退官後は三井銀行理事になって三井財閥の柱となった人物である。
第3代日銀総裁・川田小一郎、第4代日銀総裁・岩崎弥之助、第5代日銀総裁・山本達雄はすべて三菱人である。
山本は三菱汽船で川田小一郎の知遇を得て日本銀行に転じた。
営業局長として日清戦争中の国債公募を成功させたほか、明治29年にロンドンに派遣され、日本が金本位制に移行する際の基盤ともなった清国からの賠償金の運用を監督するという重責を担った。
ちなみに山本達雄は第2次西園寺内閣の明治44年8月30日から大正1年12月21日まで、大蔵大臣を務めている。
第6代 松尾臣善(明治36年10月20日〜明治44年6月1日)
松尾臣善が日銀総裁の時の日銀副総裁は、後述の高橋是清であった。松尾臣善は二宮家と白州家を通じて松方家と繋がっている。
第7代 高橋是清(明治44年6月1日〜大正2年2月20日)
高橋に目を掛けて引き上げたのが、かの三菱の川田小一郎であったことは興味深い。
高橋是清は日露戦争の時、日銀副総裁として13億円の外債募集に成功し、銀行家としての実力を認められ、1911年(明治44)日本銀行総裁、1913年(大正2)第一次山本権兵衛内閣の蔵相に就任、同時に政友会に入党した。ついで1918年、原敬内閣の蔵相となり、1921年、原敬暗殺の後、首相・蔵相を兼任し、政友会総裁となった。
財閥と政治家との結び付きと言えば、三井と政友会、三菱と憲政会・民政党、住友と西園寺公望の関係などが有名である。
しかし前にも述べたように、4代目小弥太の数少ない友人の高橋是賢の父親が、政友会総裁高橋是清であったのである。
このことからも、歴史の通説といわれているものがいかに当てにならないか、良く分かる。
第8代 三島弥太郎(大正2年2月28日〜大正8年3月7日)
駒場農学校を卒業後渡米し、ボストン大学より農政学の学位を取得した。通算7年半の海外生活の後帰国し、明治30年、31歳で貴族院議員に当選し、明治35年より予算委員として活躍。横浜正金銀行取締役、頭取を経て、大正2年、日本銀行総裁に就任。
日銀総裁三島弥太郎は三島通庸の長男に生まれている。
筆者が三島家について特に興味を持ったのは、日銀総裁・三島弥太郎の長男である三島通陽がフリーメーソンであるからだ。これはフリーメーソン側も認めている事実である。
この三島通陽の妹が第一次西園寺内閣の元大蔵大臣(明治39年1月7日〜明治41年1月14日)・阪谷芳郎の長男、阪谷希一に嫁いでいるのである。
阪谷芳郎の妻は後述の渋沢栄一の二女ことである。
そして三島通陽の叔母は内大臣・牧野伸顕に嫁いでいる。
この系図には、吉田茂や麻生財閥の麻生太賀吉も登場する。
そして三島家は大久保家を通じて、高橋是清とつながっているのである。
ここには安田財閥の安田一の姿も見える。
三島家も財閥とは無縁ではないのだ。
ちなみに三島通陽の祖父・三島通庸は警視総監(明治18年12月22日〜明治21年10月23日)も務めている。
第9代 井上凖之助(大正8年3月13日〜大正12年9月2日)
第11代 井上凖之助(昭和2年5月10日〜昭和3年6月12日)
後に述べるが、この井上凖之助が蔵相の時に、問題の金解禁を断行したのである。井上凖之助は田中義一政友会内閣の時に、高橋是清蔵相に請われて日銀総裁に就任、「飛車角揃う」と評された。
第10代 市来乙彦(大正12年9月5日〜昭和2年5月10日)
1929年(昭和4)7月2日、張作霖爆殺事件の責任をとって、田中内閣が総辞職した。
田中政友会内閣が倒壊した後、野党第一党民政党の浜口雄幸に組閣の大命が下った。
2年前の6月1日、憲政会は政友本党と合同し、立憲民政党を結成、総裁には浜口が就任していた。
浜口内閣の主要閣僚は、外務大臣幣原喜重郎・内務大臣安達謙蔵・大蔵大臣井上凖之助・陸軍大臣宇垣一成・海軍大臣財部たけし・鉄道大臣江木翼であった。
この浜口内閣の政策の二大両輪が、軍縮と金解禁であった。まず、軍縮から見ていくことにしよう。
1930年1月21日、ロンドン海軍軍縮会議が日・米・英・仏・伊の参加のもとに開催された。
日本首席全権の元首相若槻礼次郎の他、財部たけし海相、松平恒雄駐英大使(イギリスのフリーメーソン)、永井松三駐ベルギ−大使が日本全権団に任命された。
ロンドン会議に臨むにあたって、若槻ら日本全権団が政府から受け取った訓令は3つである。
・補助艦全体の対米比率を7割とする
・大型巡洋艦についても同じく対米7割
・潜水艦については7万8000トンの現有量を保持する
である。
交渉は難航したが、日本側は、補助艦総括で対米6割9分7厘5毛、大型巡洋艦は6割とするが、アメリカ側は、3隻の起工を遅らせて1936年までの条約期間中は7割とする、潜水艦は5万2700トンで均等、という日米妥協案が成立した。
4月22日、ロンドン海軍軍縮条約が調印された。
ところがこのロンドン条約が統帥権干犯のおそれがあるとして、海軍、政友会、右翼団体、枢密院の反対にあうのだ。
条約は英米への屈服であり、日本の国防を危うくするというのである。
当時の枢密院では、いぜんとして平沼騏一郎副議長、伊藤巳代治顧問官らが実権を握っていた。
幣原外交に反感を持つ平沼は、軍との結びつきも強く、ロンドン条約反対の立場を鮮明にしていた。
伊東も、「巳代治の目の黒い間はこの条約の文句のままにては、断じて枢府を通過させません」と、息巻いていた。
帝国憲法では、緊急勅令と同様に、いっさいの条約は、枢密院の審査を経て天皇が批准する仕組みになっているのである。
ところがこの審査委員長・伊藤巳代治が最終審査委員会でころっと態度を豹変させて、条約は無条件で「御批准然るべき旨」を表明し、全員一致の可決となったのだ!
方針転換の理由は、天皇への配慮、票決での敗北の見通し、浜口首相らの不退転の決意、軍縮を歓迎する世論、自己保身と様々にいわれている。
しかし筆者は、これまた新たなやらせ芝居ではなかったかと思っている。
伊藤巳代治はロンドン条約に反対する気などさらさらなかったのである。
枢密院での強硬姿勢は国民を欺く単なるポーズであった。
枢密院での否決を予想し、政変を当てにした政友会こそいい面の皮であった。
時の政友会総裁犬養毅、総務鳩山一郎(フリーメーソン)である。
1930年(昭和5)6月18日、大任をはたして半年ぶりに帰国した若槻全権が東京駅頭に立った時、十数万の群衆が熱狂的歓声をもって出迎えた。
新聞も世論も軍縮賛成であったのだ。
ではこの統帥権干犯の大騒ぎという猿芝居の意味はいったい何だったのか。
ここには、善玉=軍縮・民政党(憲政会)・新聞・世論、悪玉=軍部・政友会・枢密院、という図式がはっきりと見える。
政友会も枢密院も悪役を演じていたに過ぎないのだ。
善を引き立たせるには、悪の存在もまた必要なのである。
では何故、軍縮=善といえるのかというと、日本が戦争に負けたからである。
浜口内閣の外相・幣原喜重郎など、戦後、首相になっている。
ちなみに、この幣原喜重郎はフリーメーソンである可能性が高い。
フリーメーソン・松平恒雄と一緒に、1950年4月、マスタ−メ−ソンの最高階級のミ−ティングに出席しているからだ。
そして幣原喜重郎と松平恒雄は徳川家を通じて姻戚関係にある。
幣原喜重郎は三菱初代総帥・岩崎弥太郎の娘と結婚している。
幣原は大正13年、加藤高明(憲政会総裁)内閣の外務大臣を務めているが、加藤高明もまた弥太郎の娘と結婚しているのだ。
つまり二人は義兄弟ということになる。
ちなみに加藤高明は、東京日日新聞第4代社長(1904〜1906年)を務めている。
幣原はロンドンで駐英公使の林薫からフリーメーソンの話を聞き引きつけられた、と語っている。
林公使は明治35年の日英同盟の功により子爵に、明治39年の日露戦争の功により伯爵に叙せられているが、イギリスでフリーメーソンに入社しているのだ。
林公使は当時日銀副総裁であった高橋是清がロンドンで日露戦争の戦費調達の外債を募集した時に、便宜をはかっている。
この林薫がまた、岩崎家と姻戚関係を結んでいるのだ。
では、以上の関係を家系図に描いてみよう。
林薫の孫である林忠雄は、岩崎小弥太(第4代三菱総帥)の娘と結婚している。
また、林薫の娘は福沢諭吉の福沢家を通じて、岩崎家と姻戚関係にある。
幣原喜重郎の二男が野村銀行・野村証券の野村元五郎の長女と結婚している。
幣原喜重郎はまた、西郷家と徳川家と佐竹家を通じて鍋島家と姻戚関係にあるが、鍋島家は松平恒雄と三島通陽と姻戚関係にある。
松平恒雄と三島通陽がフリーメーソンであることは、すでに述べた。
ちなみに、松平恒雄の長女は秩父宮妃になっている。
そして幣原喜重郎と鍋島家を結ぶ佐竹家は、島津忠彦を通じて岩崎家とつながっているのだ。
幣原喜重郎が岩崎弥太郎の娘と結婚していることは、先に述べた。
しかしそれにしても、この系図はいったい何を示しているというのだろうか。
簡単である。
ロンドン条約実現を強く望んでいた内大臣牧野伸顕、外務大臣幣原喜重郎、駐英大使松平恒雄が一族を形成していたのだ。
そしてその一族の中心には、三菱財閥の岩崎家があったのである。
この陰謀の輪に、ロンドン海軍軍縮会議に随員として加わった樺山愛輔を加えたい。
樺山愛輔の父・樺山資記は海軍大臣などを務めているが、第3代警視総監(明治13年10月23日〜明治16年12月23日)も務めた。
樺山愛輔の二女正子は、白州次郎に嫁いでいる。
正子の姉の泰子は、元日本郵船社長近藤廉平の息子近藤廉治に嫁いだ。
近藤廉平の妻は、三菱銀行初代頭取を務め、岩崎家と縁続きになる豊川良平の妹である。
正子の妹宣子は、松方家に嫁いでいる。第5代警視総監(明治18年12月22日から明治21年10月23日)が三島通陽の祖父・三島通庸である。島津家からは島津忠重が随員に加わっている。
では、ロンドン条約実現に結集したこの一族は何を望んでいたというのだろうか。
平和の実現であろうか。そうではあるまい。
ロンドン海軍軍縮条約による軍縮実施という不況要因と、浜口内閣の大蔵大臣井上凖之助が実施した金解禁は、日本経済を昭和恐慌へと突き落としたからである。
だが、浜口・幣原が調印したロンドン海軍軍縮条約は軍部、右翼の怒りを買った。
1931年11月14日、浜口首相は陸軍大演習を陪観するため岡山へ向かうところを、東京駅で狙撃された。
犯人は右翼団体・愛国社の佐郷屋留雄。
浜口首相が狙撃されたのと同じホ−ムには、その日たまたま新任の駐ソ大使広田弘毅を見送りに来ていた幣原喜重郎がいた。
弾丸は急所を逸れ、浜口は命だけはとりとめた。
翌15日、民政党は臨時閣議を開き、臨時首相代理を設置し、これに幣原喜重郎をあてた。
浜口首相の暗殺計画は、1930年春から、愛国社盟主岩田愛之助を中心に進められていたという。
浜口内閣は金解禁の時機を誤って、日本経済を深刻な不景気に投げ込んだ。
そのため、失業者・倒産者・犯罪者が続出し、彼らは浜口内閣に対する不満を強めていたのだ。
浜口首相狙撃事件は、1930年代を彩るテロ、ク−デタ−の先駆けとなった。
翌31年(昭和6)3月(3月事件)と10月(10月事件)に、桜会将校によるク−デタ−未遂事件発生。
32年、血盟団事件、5・15事件、36年、2・26事件と続く。
日本はいよいよ狂気の時代へ突入していくことになるのだ。
三菱フリーメーソン説A
次に金解禁について見ていこう。
浜口内閣の大蔵大臣に就任したのが、井上凖之助であった。
井上凖之助はすでに横浜正金銀行頭取、日銀総裁、大蔵大臣を歴任し、自他ともに財政・金融の最高の専門家として任じていた。
井上財政と幣原外交は、浜口内閣の政策上の二大両輪であった。
前者が英・米両国財界の支持のもとに金解禁を推進したという点と、後者が英・米と妥協してロンドン海軍軍縮条約を成立させた点において共通の地盤に立ち、かつ、浜口内閣において両者は有機的に結びついている。
では、井上凖之助が実施した金解禁とは何だったのか。
それが日本経済に与えた影響とはどのようなものだったのだろうか。
金解禁とは、通貨と金の兌換を自由にすることである。つまり、金本位制への復帰である。
金本位に復帰しても金貨そのものの輸出を自由にしない国もあったが、日本の金解禁の場合は、国際間の金の移動を自由にすることを意味した。
1917年(大正6)9月、アメリカは、欧州大戦(第一次世界大戦)に参加するとともに、金の輸出を禁止した。
日本もそれにならって、その10日後に金本位から離脱した。
当時、日米両国の財政当局は、金本位停止は、第一次大戦という異常事態に対処するための一時的な措置と考えていた。
アメリカは戦争が終わると、1919年6月には、早くも金本位へ復帰している。
日本は大正11年から金解禁問題が取り上げられ、加藤友三郎内閣の蔵相市木乙彦(第10代日銀総裁)は蔵相官邸で、財界金融界の有力者を集めて会議を開いた。
国際的にも、ジェノア経済会議等で、金本位復帰の必要が強調されていた。
ところが、1923年(大正12)の関東大震災で金解禁論は頓挫した。
1925年、イギリス、オランダ、オーストリア、蘭領インド(インドネシア)、南ア連邦の各国が、次々と金解禁に踏み切った。
日本は、各国に立ち遅れたという事態に陥った。
そこで1926年、若槻憲政会内閣の蔵相片岡直温が、金解禁に着手しようとして、震災手形善後処理法案その他の法案を議会に提出して、金解禁に踏み切る準備が整えられた。
しかしこの議会中に、昭和2年の恐慌が起こって、この方策も挫折した。
1928年6月、フランスのポアンカレ−内閣が金本位への復帰をはかると、日本でも金解禁の機運が著しく高まった。
そこで1929年5月、田中政友会内閣の蔵相三土忠造は、当時財務官として英仏米に駐在していた津島寿一(のちの大蔵大臣)に電報を打ち、帰国を命じた。
この電報の一週間ばかりたって、「金解禁に関連して実行すべきクレジット問題について研究して帰朝せられたい」という電報が津島に届いた。
そこで津島は帰国前にイギリスならびにフランス、イタリア等の当局、中央銀行総裁、イギリスの銀行家等と話し、日本が金解禁を実行した場合に取るべき措置、各国のクレジット設定の手続等について意見を交換した。
さらにニューヨークに渡って連邦準備銀行総裁とか、モルガンその他銀行の首脳者とも話し合って、適当と思う方策を立てて、帰国の途についた。
ところが津島が太平洋航海中の1929年(昭和4)7月2日、田中内閣は張作霖爆殺事件の責任をとって総辞職した。
三土忠造が辞職して、井上凖之助が大蔵大臣に就任した。
この時の日銀総裁(第12代)は土方久徴である。
その前年の1928年から、国内では金解禁を要求する声がほうぼうからあがっていた。
まず、財閥系の銀行である。
金融恐慌の結果、特融(銀行界救済のための政府補償による日銀の特別融通)で約6億の金が出た。
その上に、三井・三菱・住友・安田・第一などの財閥系銀行に預金が集中した。
これらの銀行は、金融緩慢の中で資金の投資先に困り、金利の高い海外に資金を移動することを強く望んだ。
為替が下がった時に資金を輸出していたら、金解禁で為替が上がると損失になるので、銀行は金解禁を強く主張したのである。
東京、大阪の手形交換所の理事長、池田成彬(三井銀行)と八代則彦(住友銀行)は連名で金解禁即行を建議した(昭和3年10月)。
産業資本家や貿易業者も、為替相場の安定を要求して金解禁即行を唱え、日本商工会議所も金解禁断行を政府に建議した。
1920年の恐慌以来、第一次大戦中に水膨れした不良企業の整理は、日本経済最大の課題となっていた。
だが、政府は経済界の動揺を恐れて、財界整理を行おうとはせず、むしろ、日本銀行の救済貸出しや特別融資などによってその破綻を取り繕っていた。
そのため、産業の合理化は進まず、企業の対外競争力は低下し、国際収支の悪化が進行した。
一方で、欧米の資本主義国は、企業の整理集中、生産設備の高度化を進めて、戦後不況から抜け出しつつあった。
このような情勢の中、政府・財界は、1917年以来の金輸出禁止を解き、緊縮財政・財界整理を行って、日本経済の国際競争力を強めるべきだという意見が高まっていたのだ。
だが、金解禁は財政緊縮・産業合理化・消費節約等によって、不景気の到来は不可避である。
ところが、朝日、日日(現在の毎日)、時事新報などほとんどの新聞、雑誌、学者は、金解禁をした後で景気が良くなるという幻想を振りまいたのである。
しかし金解禁を行うにしても、いかなる為替相場で通貨の安定をはかるかという問題が残る。
旧平価解禁でいくか、新平価解禁でいくか、の二つの立場があった。
金解禁当時、日本の為替は下がっていた。為替の下がった大きな原因は関東大震災であった。
金の輸出を禁止していたので、震災などで品物がうんと入ってくるが、金の輸出の許可が非常に制限的であったために円為替が下がった。関東大震災で為替が平価で50ドルとか、49ドルいくつというものが、約40ドル内外の相場を、20数カ月続けた。
震災後、日本経済はその為替(新平価)を基準にして、一応立ち直ったのである。
これを為替を元に戻す(旧平価解禁)とすると、40ドルが50ドルになる訳だから、2割5分の円高ということになり、輸入は割安になり、輸出は割高となる。輸入が増え、輸出は減る。
その結果、金が流出し、通貨が収縮し、物価は下落して、デフレになる。経済は破綻する。
新平価解禁ならば、急激な物価変動を避けることが出来る。
ところが政府は旧平価解禁を選択したのである。
旧平価で解禁しても、10パ−セントの円切上げに過ぎず、たいした影響はない、と判断したのだ。
新平価解禁などは問題にもならなかった。
浜口・井上が、旧平価解禁を選んだ背景には、政治的理由も存在していた。
もし、新平価で解禁すれば、法律の改正を必要とする。
1897年(明治30)制定の貨幣法では、純金2分を1円とすると決められていたから、この規定を変更しないことには、新平価解禁は出来なかった。
これは議会で否決される恐れがあった。旧平価解禁なら、単に1917年(大正6)の金輸出禁止の大蔵省令を廃止するだけで済む。
それと、1931年(昭和6)1月に満期となる、第2回4分利付英貨公債の借換えの問題があった。
これは高橋是清が日露戦争の時発行したもので、その残額は2億3千万円もあった。
これを現金で返すとなると、在外正貨が枯渇する。だからこれはどうしても借り換えねばならないが、英米銀行家は円為替が不安定では外債の発行は難しい、通貨の安定が先で、外債発行はその後にすべきであるという意見であった。
この問題を解決するためにも、金解禁を実施して、通貨を安定させることが先決とされた。
ここで少し、この第2回4分利付英貨公債募集の経緯について触れておこう。
日露戦争の外債募集のために、当時日銀副総裁であった高橋是清はニューヨークに出発した。
高橋是清の秘書兼通訳だったのが、深井英五(第13代日銀総裁)である。
深井英五は辻家を通じて井上凖之助と親族であるが、関根家と小坂家と岡部家を通じて岩崎一族と繋がっている。
関根家はまた、玉置家と勝田家を通じて岩崎家と姻戚関係にある。
アメリカで外債募集の望みのないことが分かると、高橋はイギリスに向かった。
ロンドンで500万ポンドの公債発行の話が纏まり仮契約を結んだ高橋は、友人ヒルの邸で、偶然に米国人のシフに紹介された。
翌日、ク−ン・レ−ブ商会のシフは、公債残額500万ポンドを自分が引き受けて米国で発行したいと高橋に連絡してきた。
シフとの話が纏まって、英米で1000万ポンドの公債を発行することが出来るようになった。
これが、第1回6分利付英貨公債(明治37年5月11日募集開始)である。
発行銀行はパース銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、ク−ン・レ−ブ商会等であった。
ちなみに、この時日本は関税収入を抵当にしている。英国銀行業者たちは関税を抵当とする以上、英国から日本に人を派遣し税関を管理せしめねばならぬと主張した。
高橋がこれに反駁したので、管理人を入れず単なる名称のみの抵当となった。
万一その抵当権を実行せねばならぬようになった時はどうするか、とシフに尋ねられたベアリング商会のレベルストック卿は、Warship!(軍艦!)とただ一語をもって答えたら、シフもそれで納得したという。
イギリスの巨額の海外投資(長期の資本移動)が、世界最強の海軍力に支えられていたことが良く分かる話だ。
第1回6分利付英貨公債に引き続き、高橋是清は明治37年11月に第2回6分利付英貨公債1200万ポンドをロンドンとニューヨークで募集した。
一時帰国した高橋は、翌明治38年2月17日、再びロンドンに向かった。
そして3月29日、第1回4分半利付英貨公債3000万ポンドの募集を開始した。
ロンドンの銀行者が1500万ポンド、ニューヨークのクーン・レーブ商会が1500万ポンドを引き受けることになった。
また、7月11日には第2回4分半利付英貨公債3000万ポンドをイギリス、アメリカ、ドイツ3国で募集している。
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2011/7/4
John Toddの啓蒙主義と魔術
BEHOLD A WHITEHORSE参照
世界にある盗聴用ECHELON基地
フリーメーソン日本ロッジ幹部の証言から転載させていただきます 。 関連の本は読みましたがここはよくまとまっていますので。(編集・解説・注・写真などは管理人)
日本にあるフリーメーソンであることを表すビルの入り口
マッカーサー元帥にとって最重要事項が、周知の通り、戦後日本の方向を決める新しい憲法の制定でした。
過去ログ:真珠の首飾り参照
若き日のベアテ・シロタ・ゴードンさん。新憲法制定にあたっての日本側草案は単に「明治憲法の修正」にとどまったため嘲笑される結果となった。戦後の憲法はアメリカ人が作ったからなどと吠える向きもありますがそうではないのです。巷に言われている押付けられた.....なんという狭量な国民でしょうか。14条・全ての国民は,法の下に平等であって........24条・婚姻は,両性の合意のみに基いて成立し......これはゴードンさんの作品です。(管理人注)
新憲法制定にあたっては、日本側草案が蹴られ、マッカーサー元帥に基づき、ケーディス大佐(マッカーサー元帥の側近No.1とされる民政局長ホイットニー准将の下で、対日占領政策をリードしてきたとされる)が仕上げたというのが定説となっている。
この間の経緯を日米の関係者から取材し、関連文献も調査した在米ジャーナリスト・大森実(元毎日新聞外信部長)の著『日本は何故戦争に二度負けたか』によれば、元帥が書いたメモを基に、ケーディス大佐がマッカーサー元帥の指令で草案を書き上げるまでに要したのはわずか一週間。それを当時の幣原首相、吉田茂外相らに、ホイットニーやケーディスが
「この通りやれとは言わないが、やるべき基本原則は全部書いてある」
と示したという。しかもこの時、日本側に与えられた検討時間はわずか15分。
「マッカーサー元帥は、これに劣る策はいかなるものも考慮に入れない。この案の基本方針に反しない些細な修正には応じ得る」
というホイットニーの言葉を引用しつつ、大森氏は、
「それはまるで問答無用で、犬養毅が海軍士官に遺した言葉を彷彿させる。我々戦前派には、シンガポール攻略をやった山下奉文大将が、軍刀の柄に手をかけてパーシバル英司令官を降伏させた時と変わるものではなかったと思えるのである」
と論評している。
「昭和21年2月13日に、ホイットニーから突きつけられたマッカーサー原案を基に、幣原内閣が日本の憲法改正草案要綱を発表したのは3月6日であった。立派な顔を連ねた憲法問題調査委員会等、まったく存在価値はなく、わずか21日間の迅速作業で出来上がったこの憲法草案は、幣原内閣から吉田内閣へ引き継がれ、6月20日に総選挙後の帝国議会に提出された。衆議院で二ヶ月、貴族院で一ヶ月の審議を経て可決され、天皇の裁可を経て可決され、昭和21年11月3日に公布されたのである」
大森氏のこの著作では、いわゆる「アメリカによる押し付け憲法」論の根拠が、ケーディス大佐はじめ、当時の関係者の証言・文献を基に詳細に明かされている。それはまさしく、ペリーによる「第一の開国」に続く、「第二の開国」という表現がピッタリ当てはまるものであった。
関連して『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)からも引用しておきます。
1947年にマッカーサーはフリーメーソン最高位(真実は違う。一般的には、の意味である。)の第33位階を受けている。
日本はキリスト教のみならず、フリーメーソンからも狙われた国であった。1930年のロンドン条約批准をめぐって、ウィリアム・R・キャッスル駐日大使(戦後、グルー元大使とともにジャパン・ロビーの一員となった反マッカーサー派)は、金子枢密顧問官に次のように語っている。
「今回の日本政府の勇気ある決断によって、軍縮案が無事実施されることに、心からお礼申し上げます。それも、これも幣原外相がメーソン員としての信義から最後の請訓への回答案を示し、フリーメーソンの世界平和達成に協力してくださったからと理解しています。」
戦後の最初の首相、東久邇稔彦もフリーメーソンであり(戦後に加入)、二番目の首相の幣原喜重郎もフリーメーソンであった。ここにもマッカーサーの意志が働いているのかもしれない。
<中略>
1949年の7、8月ごろから、日本キリスト教国化のかわりに、フリーメーソンの天皇加入工作が活性化する。日本フリーメーソン化運動が見えてくるのである。天皇をフリーメーソンに加入させようとするのはキリスト教と同じ動きである。その中心として動いたのが、皇族では、前述の東久邇と李垠(夫人が皇后の従姉妹)であった。また、松平恒雄(元宮内大臣、衆議院議員、元伯爵、元駐英大使)と幣原喜重郎(元首相、元男爵、元駐英大使)の二人が東久邇と李垠の運動を支持し続けた。
マッカーサーは、まず皇族たちを入会させ、次に日本の指導者たち、そして最終的に天皇を会員にしようとした。この間の天皇工作の動きを知る本としては、赤間剛の『フリーメーソンの秘密』が詳しい。この本の中には、マッカーサー元帥の腹心の軍人マイク・リビイストの天皇入会工作が描かれている。(ここでは省略する)。
1949年後半、日本にメーソンのロッジが開かれるようになったとき、マッカーサーは次のようなメッセージを寄せている。
「日本はフィリピンを武力で征服した。今度はフィリピンがメーソンの教えで日本を征服するのだ〔日本のメーソンはフィリピン系ロッジに属する:引用者注〕。それは日本人のイデオロギーを改めるだろう。日本でのフリーメーソンの発展は我々が占領していることに関係する民主主義の目標にとって根本である。」
..........注目すべきは、水交社ビルと道路を挟み、真向かいにある「日本聖公会 」である。日本グランド・ロッジのある旧水交社、現在の「第38メソニック森ビル」の真正面に、それは位置している。 近年、改築されたらしく、比較的新しい教会が2棟、メソニック・ビルから見て左側が「聖アレジオ教会」、右手が「聖オルバン教会」である。聖オルバン教会 前に掲げられた木板の説明書によれば、「英語による聖公会(英国国教会)の礼拝は、この地で1879年以来続けられています…」と書かれている。明治12年から、英国国教会の礼拝がこの地で行われていたわけである。
英国国教会とフリーメーソンの関係はかなり古くから深いものである。フリーメーソンが英国で広まり、やがてコンノート公をはじめとする王室にまで深く関わっていった背景には、カトリックとは異なり、英国国教会がこの特異な団体を認めた事が大きく影響している。
その英国国教会の日本における拠点が水交社の前に位置していることが、水交社ビルの存在価値を高めたのであろうか。
1997年に出版された『フリーメーソンの秘密』(赤間剛著)より引用します。
メーソンへの直撃インタビュー
フリーメーソンの実態を知るためには是非、メーソンに直接インタビューする必要がある。フリーメーソンが果たして門戸を開いてくれるだろうか? 不安だったが、ともかく再度インタビューを申し込んだ。すると思いもかけずOKの返事がきた。以前、申し込みをしてから一年目のことだった。
日本グランド・ロッジは東京・港区芝公園の旧水交社がマソニック・ビルと聞いていた。しかし、「現在建て変えている」とのことで港区虎の門の第六森ビルに出かけた。応対してくれたのは東京メソニック協会の述丈夫事務局長と三人の“高級メーソン”である。
「東京メソニック協会とは、日本グランド・ロッジ傘下の2、3の有志ロッジによって作られた団体です。昭和30年に財団法人・東京メソニック協会の正式名で厚生省に設立許可された慈善団体 としての公益法人です。日本グランド・ロッジは、昭和29年の宗教法人法改定までは宗教法人として登録されていましたが、フリーメーソンは友愛団体ですから、宗教法人ではおかしい。現在、日本グランド・ロッジをはじめメーソン団体は私的な団体です」(述事務局長。32位階)
「アメリカにはメーソンは400万人いますから、2億のアメリカ人口中、およそ20人に1人の割合でメーソンがいます。フリーメーソンは秘密結社ではありません。そのように宣伝したのは戦前の軍国主義者でした。確かに一部に秘密があります。それは儀式の内容と入会者のメンバーをみだりに外部に明かさないことで、仲間うちだけにメーソンの兄弟だと通じるサインとか言葉などがあるのですね。」
フリーメーソンは個人の道徳性を高めるのが目的で、入会者の条件として、無神論者でなく、何かの超越的な神を信じ、家族を愛し、国家の合法的規約に従うという規約があります。メーソンになるには、まず二十歳以上の成人男子で、手足が不自由でない(儀式と“合図”のため)、酒を売る人は原則としてお断りするなどの規約がありますが、基本的にはジェントルマンであることが入会の条件ですね」(片桐三郎氏。某大会社役員。32位階。横浜ロッジ支部長)
説明によると入会希望者は自分から進んで、「メーソンになりたい」との意志をのべ、ロッジのメンバー2人に推薦してもらう。するとロッジからフリーメーソンの願書(履歴書・身上書)が渡され、その資料を基にロッジから別の2人が面接調査する。そして、「家族の面倒をみているか」とか「アルコール、賭博の常習者でないか」などの生活態度ほかを詳細に調べられる。しかし、実際には、「入社試験よりやさしいですよ」(片桐氏)という。このレポートにより、ロッジのメンバーが全員一致して賛成すれば入会が認められる。すると、全国のロッジに新人紹介の回状が廻るという。入会金は3万6千円、年会費が4千円 と安いが、ロッジでの各種の催事などの費用は自前の持ち寄りが原則。会費を2年間滞納すると権利停止の資格剥奪を受け、またハレンチ罪や非合法な罪に問われると追放処分される。このような裁定は内部の審判員が公平に判断し、被告はメーソン仲間の弁護人を選ぶことも可能で、民主的である。(管理人注 :黄色人種のフリーメーソンはあくまで「ごっこ」であり本家に見られるイニシエーション儀式(藁人形に入れた裏切り者をめった切りにする忠誠を誓う儀式でその後OATH(宣誓書)を読み上げる。その宣誓書はイエズス会入門と同じである)
「フリーメーソンは国家の組織に似た制度を持っています。日本グランド・ロッジは諸外国のフリーメーソンと外交関係で相互条約を交し、友好条約を結びます。日本グランド・ロッジ内部では、司法・行政・立法の三権分立機構を持っています。統轄権を持つロッジ・マスター(支部長)、グランド・マスター(本部長)も民主的に選挙されます。
各国のグランド・ロッジ間は独立国の関係と同じで平等です。日本グランド・ロッジはフィリピンのグランド・ロッジ傘下から1958年、独立しました。内部ではメンバーが除名されると傘下ロッジに回状が廻され、まあヤクザ組織と同じです。フリーメーソンの組織員は、変な意味でなくいうとヤクザ組織に似ていますが、崇高な目的があり、そこが違いますね」(安藤一夫氏。早大講師)
以下、一問一答をした。
Q.なぜ、秘密を持つのか?
A.フリーメーソンの歴史は何千年も前に始まるメーソン(石工)の口伝を起源とします(管理人注 :ソロモン神殿の石工=ヒラムでもう一人ヒラム王がいるが前者で聖職者は666=ヒラムとする説が多い)。中世の職人ギルドでは、その高度な技術が財産でした。メーソンは徒弟、職人、親方の三段階で一人前になります。その当時の石工はヨーロッパ各地をめぐる渡り職人でした。そのため各地のメーソンはギルド(同業者組合)の秘密的な暗号や儀式を踏み、仲間と認めてもらい修業したのです。
一九一七年に近代メーソンが起ると、このメーソン組織の職業と思想が、近代人の精神になり、いわゆる“思弁メーソン”としてインテリやエリートの間に広まります。しかし、メーソンの秘密は残ったのです。(同)
Q.日本のフリーメーソン史について
A.幕末に横浜の居留地に英国が持ち込み、神戸、長崎の開港地に英米系のフリーメーソンが生まれます。明治維新後、伊藤博文が駐英公使の林董にフリーメーソンの何たるかを知るために英国で秘かに入社させましたが、この結果、日本では外人のみに入社を認め、日本人の入会を禁じる交渉を日本にきていたフリーメーソンと交します。だから、戦前は日本人のメーソンはいないことになっています。しかし、外国生活をした日本人が外国でメーソンになるのは自由ですから、かなりの日本人がフリーメーソンになったと思います。推測でいうと現在まで、外国のフリーメーソンに入社した日本人は千数百人はいるのではないでしょうか。
たとえば、幕末に徳川幕府によってヨーロッパへ留学させられた西周がオランダのライデン市のロッジに入会している事実があります。また津田真道(福沢諭吉らと明六社を作り、文明開化に貢献)もそうですし、他にも英語学校を開いた神田乃武(YMCAの創設者)もメーソンでした。
日本のフリーメーソンは戦後のものです。GHQのマッカーサー元帥の働きで花開き、GHQの軍人や外人を中心に昭和22年ごろから全国にロッジができました。その後、英語のできる国際的な日本人が参加し、現在、4000人、日本人がこのうち250人の規模になりました。フリーメーソンはハイソサエティな人々が多いのです。アメリカなどでも高級将校や政府の役人、外交官などが多数入ってますよ。
昭和25年に旧水交社を大蔵省より払い下げてもらい、日本グランド・ロッジを独立させました。日本人のメーソンとしては、東久邇宮(元首相)、鳩山一郎(元首相)ほか、二十人余の国会議員(経験者)がいます」(安藤一夫氏)
(管理人注 )イルミナティになるには(あるいは,なれる家系は限られていますが)母親の胎内にいるころから訓練されることは記事にしました。子宮に針を刺し苦痛を与えたりすることです。数多くの殺人儀式を経て正式にイルミナティになる宣誓書を紹介しましょう。
The Oath administered to the Illuminathi is based upon the Oath of the Jesuits。つまりイエズス会と同じ宣誓ということです。その宣誓前に胸に刀が当てられる。
”Shouldst thou become a traiter or perjurer,let this Sword remind thee of earth and all the members in arms against thee.Do not hope to find safety;whithersoever thou mayest fly,shame and remorse as well as the vengeance of thine unknown brother will torture and pursue thee!
Then in the Oath which follows he swears;
"Eternal silence,and faithfulness and everlasting obedience to all superiors and regulations of the Order.I also renounce my own personal views and opinions as well as all control of powers and capacities.I promise also to consider the well-being of the Order as my own,and I am ready,as long as I am a member,to serve it with my goods,my honour and my life.......If I act against the rule and well-being of the Society,I will submit myself to the penalties to which my superiors may condemn me......
In the name of the son
Crucified(ie the Pentagram,the Illuminised man),swear to break the bonds which still bind you to your father,mother,brother,sisters,wife,relatives,friends,mistresses,kings,chiefs,benefactors,and all the person to whomsoever you may have promised faith,obedience,and service.
Name and curse the place where you were born,so that you may dwell in another sphere,to which you will attain only after having renounced this pestilential globe,vile refuse of the heavens! From this moment you are free from the so-called oath to country and laws:swear to reved to the new chief,recognized by you,what you may have seen or done,intercepted,read or heard,learned or surmised,and also seek for and spy out what your eyes canmet discern.Honor and respect the Aqua Tofana(ie;an imperceptibly)slow poison as a sure,prompt,and necessarry means of purging the globe by death of these who seek to vilify the truth and seize it from our hands.Fly from Spain,Naples and all accursed land,finally fly from the temptations to reveal what you may hear,for the thunder is no prompter than the knife,which awaits you in whatsoever place you may be. Live in the name of the father,son,and Holy spirit(The trinity of Illuminism.......Cabalistic and Gnostic.The father-the generating fire;the Holy spirit-the great mother nature,reproducing all things;the son-the manifestation,the vital fluid,the astral light of Illuminasm.
一般的にフリーメーソンと呼ばれている位階は1〜33まででコンパスのGは4位階を指している。全米の警察はこのマーク。
米国では実際にUN POLICEが交通違反の取締りなどをしている現場を目撃した。これは大変恐ろしいことで近い将来FEMA CAMPへ罪もない市民を連行するのは彼らです。
ホロコーストは間もなく始まる ......見られない方がいいでしょう。
日本でのメーソンのことが書かれています 。
(本物の元イルミナティ11位階の女史によると位階はもっとあって90位階まであるのよ,なんて言ってました。)33位階はグランドマスターで最上階の部屋に入るとき731と二回ノックして入り龍の指示を受ける。(大理石の龍は煙を吹きながら起き上がる........グランドマスターは事前にアヤワスカを飲まされる。)33位階から上に聳え立つのがイルミナティ。
IMAGO DEI その2参照
記事の後半にグランドマスターが受けるトリックが書いてあります。(オズの魔法使い)
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2011/7/4
M・C・ペリー『日本遠征記』
土屋喬夫・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記』岩波文庫青422, 1948.
M・C・ペリー (Matthew Calbraith Perry, 1794~1858) は米国の海軍軍人で、艦隊を率いて1853(嘉永6)年7月浦賀に来航し、翌1854(嘉永7)年神奈川で日米和親条約を締結した。ペリーが蒸気船ミシシッピ号を率いてノフォークを出航したのは1852年11月24日で、翌1853年5月に上海でサスケハナ号に乗り換え旗艦とした。ペリー艦隊は5月26日に那覇に入港し、ここを基地に沖縄本島と小笠原諸島を探査した。7月2日、蒸気船サスケハナ号・ミシシッピ号および帆船プリマス号・サラトガの四隻は浦賀沖に停泊し、浦賀奉行所との交渉に入った。7月14日、ペリーは乗員約300人を従えて浦賀に上陸し、フィルモア大統領の親書を戸田伊豆守・井戸石見守に手渡した。7月17日、艦隊は江戸湾を去り那覇に向った。ペリーは琉球に交易所と石炭貯蔵所を開設させた後、香港に戻った。
1854年1月、蒸気船サスケハナ号・ミシシッピ号・ボーハタン号に帆船四隻を加えたペリー艦隊は香港を出航し、琉球を経由して2月13日に江戸湾に入った。3月8日、ペリーは約500名を率いて横浜に上陸し、林大学頭を筆頭とする日本側代表と条約締結の交渉に入った。3月31日、横浜で日米和親条約への署名が行なわれた。ペリーは開港場に指定された下田と箱館を調査した後、香港に戻った。
『日本遠征記 (Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China and Japan etc.) 』は、ペリーおよび士官数名の通信や日記に基づき、ペリーの監修の下にフランシス・L・ホークスが編纂したもので、1856年に議会の特殊刊行物として数十冊が刊行された。
日本人は極めて勤勉で器用な人民であり、或る製造業について見ると、如何なる國民もそれを凌駕し得ないのである。 (1巻, p. 141)
彼等は外國人によつて齎された改良を觀察するのが極めて早く、忽ち自らそれを會得し、非常な巧みさと精確さとを以てそれを模するのである。金属に彫刻するのは甚だ巧みであり、金属の肖像を鑄ることもできる。 (1巻, p. 142)
木材及び竹材加工に於て、彼等に優る國民はない。彼等は又世界に優るものなき一つの技術を有してゐる。それは木材製品の漆塗りの技術である。他の諸國民は多年に亙つて、この技術に於て彼らと形を比べようと試みたが成功しなかつた。 (1巻, p. 143)
彼等は磁器を製作してゐるのだし、また或る人の語るところによれば支那人よりももつと立派に製作することができると云ふ。兎に角、吾々が見た日本磁器の見本は甚だ織巧美麗である。但し或る筆者の語るところによると、最良質の粘土が盡きたために、現在では嘗てのやうに立派に製造することができないと云ふ。 (1巻, p. 144)
彼等は絹をつくる。そのうちの最良品は支那の絹よりも上等である。……木綿織物もつくられてゐるが、その製造にはさまで熟練してゐない。 (1巻, p. 145)
必要にして、且つ交通の多い處には、屡々石で立派な橋をつくつてゐるが、トンネルをつくる技術を知らないやうである。土木工學上の或る原理を知つてゐてそれを適用してはゐるが、工兵學の原理を少しも知らない。……彼等は數學、機械學及び三角法を幾らか知つてゐる。このやうにして彼等は同國の甚だ立派な地圖をつくつたのであつた。 (1巻, p. 152)
日本人は、活潑な氣性を有する多くの他の人民と同様に、珍奇なものに對する強い好奇心を有して居り、屡々はむしろ瞞着されるのも辭さないのである。 (1巻, p. 154)
だが迷信が障害となつてゐる。死人に觸れることは汚れとされてゐるのである。このやうな研究をしないのだから、内科醫及び外科醫の知識もつまり不完全であることが明らかである。 (1巻, p. 157)
藥品は大抵動植物であり、化學の知識は非常に乏しくて鑛物藥品を用ひようとしない。けれども醫用植物學については非常に意を用ひて研究して居り、彼らの療法は一般に有效であると云はれてゐる。 (1巻, p. 158)
普通教育制度に似たものもあるやうである。何故ならばメイランが、あらゆる階級の男女兒童は差別なく初等學校に通學せしめられると述べてゐるからである。それが國家によつて維持されてゐるものかどうかについては語つてゐない。その學校で生徒等は全部讀み書きを教はり、自國の歴史についての知識をすこし手ほどきされるのである。かやうにして、最も貧しい農夫の子供にも大抵は學問が出來る仕組なのである。 (1巻, p. 162)
日本音樂の中には、ヨーロッパ人とアメリカ人との耳に適ふやうなものがない。但し序に一言すれば、日本人は音樂を熱烈に愛してゐる。 (1巻, p. 163)
すでに述べたやうに彼等は解剖學を全く知らない。従て彼等は彫刻家でもないし又肖像畫家でもない。彼等は遠近法を知らないので風景を描くことができない。然し一つの物體を表現する際の細部の正確さ、物の本質を眞實に把握する點では、彼等に及ぶものがない。彼らの不完全なのは構圖である。 (1巻, p. 164)
彼らが藝術としての建築を知つてゐると云ふことはできない。但し甚だ巧みに石を彫つてそれを配置するのである。寶石造りも上手ではない。 (1巻, p. 165)
これ等の日本役人は、何時もの通り、その好奇心を多少控へ目に表はしてゐたが、しかも、汽船の構造及びその装備に關するもの全部に對して、理解深い關心を示した。蒸気機關が動いてゐる間、彼等はあらゆる部分を詳細に檢査したが、恐怖の表情をせず、又その機械について全く無智な人々から期待されるやうな驚愕を少しも表はさなかつた。 (3巻, p. 13)
日本人は何時でも、異常な好奇心を示した 。それを滿足させるためには、合衆國から持つて來た珍しい仕掛の色々な品物、種々の機械装置、巧妙珍奇な色々の發明品が、充分な機會を與へてくれた。彼等は、彼等にとつて驚くべき程不思議に見えるあらゆる物を、極めて詳細に檢査する事だけに滿足しないで、士官や水兵につきまとひ、あらゆる機會を捕へては衣服の各部分を檢査したのである。 (3巻, p. 202)
疑もなく日本人は、支那人と同じく、非常に模倣的な、適合性のある、素直な人民であつて、これ等の特性のうちに、假令高級な文明の比較的高尚な原理や、比較的良好な生活ではなくとも、外國の風俗習慣が比較的容易に輸入されることを約束されてゐるのが見出されるだらう 。 (3巻, p. 203)
一言もつて云へば、日本人の饗應は、非常に鄭重なものではあつたが、料理の技倆について好ましからざる印象を與へたに過ぎなかつた。琉球人は明かに、日本人よりもよい生活をしてゐた。 (3巻, p. 246)
二人の夫人は何時までも慇懃で、玩具の頸振り人形のやうに絶えず頭を下げた。彼女等は絶えず賓客に微笑をもつて挨拶してゐたが、微笑をしない方がよかつたらうと思ふ。唇を動かす毎に嫌な黒齒と色の褪せた齦が露れたからである。町長婦人はひどく鄭重で、自分の赤ん坊をつれてきたほど善良な性質であつた。賓客達はその赤ん坊をできるだけ可愛がらなければならないと感じた。但しその顔は垢だらけであり、一體にきたならしい様子だつたので、止むを得ず抱いたり頬ずりしたりして可愛がつたが、それは全く苦痛な努力であつた。 (4巻, pp. 14-15)
下流の人民は例外なしに、豊に滿足して居り、過勞もしてゐないやうだつた。貧乏人のゐる様子も見えたが、乞食のゐる證據はなかつた。人口過剰なヨーロッパ諸地方の多くの處と同じく、女達が耕作勞働に從事してゐるのも屡々見え、人口稠密なこの帝国では誰でも勤勉であり、誰をでも忙しく働かせる必要があることを示してゐた。最下流の階級さへも、氣持ちのよい服装をまとひ、簡素な木綿の衣服をきてゐた。 (4巻, pp. 15-16)
日本の社會には、他の東洋諸國民に勝る日本人民の美點を明かに示してゐる一特質がある。それは女が伴侶と認められてゐて、單なる奴隷として待遇されてはゐないことである。女の地位が、キリスト教法規の影響下にある諸國に於けると同様な高さではないことは確だが、日本の母、妻及び娘は、支那の女のやうに家畜でも家内奴隷でもなく、トルコの妾房[ハーレム]に於ける女のやうに浮氣な淫樂のために買ひ入れられるものでもない。一夫多妻制の存在しないと云ふ事實は、日本人があらゆる東洋諸國民のうちでは最も道偲・任△蝓∪・・気譴討陲誑¬韻任△襪箸い嫋,譴親胆C鮓修呂甲・靴て団Г任△襦」 (4巻, pp. 16-17)
既婚婦人が常に厭わしい黒齒をしてゐることを除けば、日本婦人の容姿は惡くない。若い娘はよい姿をして、どちらかと云へば美しく、立居振舞は大いに活潑であり、自主的である。それは彼女等が比較的高い尊敬をうけてゐるために生ずる品位の自覺から來るものである。 (4巻, p. 17)
吾々は、日本造船者の方法又は技倆に何等特異なものを見なかつた。下繪を畫き雛型をつくるための科學的法則を有するか否か、船の排水量を確かめるための科學的法則を有するか否かは疑はしく、又法律が全部の船舶を一つの型及び大きさに制限して居るから、恐らくそれらを必要としないであらう。 (4巻, p. 120)
實際的及び機械的技術に於いて日本人は非常な巧緻を示してゐる。そして彼等の道具の粗末さ、機械に對する知識の不完全を考慮するとき、彼等の手工上の技術の完全なことはすばらしいもののやうである。日本の手工業者は世界に於ける如何なる手工業者にも劣らず練達であつて、人民の發明力をもつと自由に發達させるならば日本人は最も成功してゐる工業國民[マニュファクチャ−リング・ネーションズ]に何時までも劣つてはゐないことだらう。他の國民の物質的進歩の成果を學ぶ彼等の好奇心、それを自らの使用にあてる敏速さによつて、これ等人民を他國民との交通から孤立せしめてゐる政府の排外政策の程度が少ないならば、彼等は間もなく最も惠まれたる國々の水準にまで達するだらう。日本人が一度文明世界の過去及び現在の技能を所有したならば、強力な競争者として、将來の機械工業の成功を目指す競争に加はるだらう。 (4巻, pp. 127-128)
遠征隊の士官達が持ち歸つた繪入りの書物や繪畫のうち数個が今吾々の前にあるが、日本人のそれに示してゐる美術の性質をよく調べると、この注目すべき人民は他の非常に多くの點に於けると同じく美術にも驚くべき發達を示してゐることが著しく眼につく。 (4巻, p. 133)
すでに述べたやうに汽船の機關が日本人の間に烈しい興味をよび起した。彼等の好奇心は飽くことを知らないやうであり、又日本の畫家達は機會ある毎に絶えず機械の諸部分を描き、その構造と運動の原理とを知らうとしてゐた。艦隊の二囘目訪問の際ジョーンズ氏は、機關全體を正しい釣合で畫いた完全な繪畫を日本人がもつてゐるのを見た。機械の数個の部分も適當に描かれてゐて他國で描かれてもこれ以上はできないほど正確で立派な繪圖であつたと彼は語つてゐる。 (4巻, pp. 136-137)
日本の宗教は偶像崇拜であるから、多數の彫刻をもつてゐる。從つて石造や金属像や木像が寺院や祠や路傍に澤山ある。これ等の彫像の千篇一律の手法には一般に大いに手工業上の熟練さが現はれてゐるが、いづれも藝術的作品と云ふことはできない。 (4巻, p. 139)
低い周圍の家屋に比較してやゝ立派な諸所の寺院や門以外には、アメリカ人に對して日本建築の高い理想を印象づけた建築を見なかつた。この藝術部門中の最も立派な見本は、幾つかの石の堤道と石橋であつた。それらのものは屡々簡単にして雄渾なローマ式アーチを土臺にして設けられてゐるのであつて、その設計や疊石法は、他の國の最も科學的にして藝術的な構造のものにも匹敵する。 (4巻, p. 139)
教育は同帝國到る所に普及して居り、又日本の婦人は支那の婦人とは異つて男と同じく知識が進歩してゐるし、女性獨特の藝事にも熟達してゐるばかりでなく、日本固有の文學にもよく通じてゐることも屡々である。 (4巻, p. 140)
地震によつて生じた災禍にも拘はらず、日本人の特性たる反撥力が表はれてゐた。その特性はよく彼等の精力を證するものであつた。彼等は落膽せず、不幸に泣かず、男らしく仕事にとりかゝり、意氣阻喪することも殆どないやうであつた。 (4巻, p. 240)
黒船来航とアジア戦略
ペリーの浦賀来航
ペリー来航と日本の開国
唐人お吉
ペリーロード(YOUTUBE)
日本に君臨するもの:メーソン日本ロッジ幹部の証言
ペリー提督は1853年に4隻の艦隊を率いて浦賀に来航し、友好通商条約の締結を求めました。艦隊の内2隻が蒸気船で、それまで帆船しか見たことのない日本人を仰天させ、「黒船来襲」と大騒ぎになったものです。この時ペリーは、要求だけ突きつけて一旦引き上げ、翌1854年春に再び来訪し、日米和親条約の締結にこぎつけました。
この二回に渡る来航時、ペリーが「礼砲」と称して幕府を威嚇したとか、船上でメーソンの儀式や会合が行われた等、さまざまなエピソードが伝えられています。
当時の徳川幕府は、海外諸勢力との交流や交易は長崎でしか認めていませんでした。海外からすれば、明らかな規制です。ペリーの主張は、
「アメリカはそのような規制は受け入れない」
というものです。開国要求とは、まさしく「規制緩和」だったのです。アメリカからの最初の規制緩和要求がメーソン結社員の手で行われたというのは、実に象徴的な出来事といえます。ペリーを日本に遣わした当時の大統領フィルモアがメーソン結社員であるというのは初耳ですが、そうであるとすれば日本と米国メーソンとの因縁は実に深いということになりますね。
ペリーは、「日本との通商条約締結」「蒸気船の燃料である石炭や食料の補給」「遭難船員の保護」を求めるフィルモア大統領の親書を携えて来航した。当時のアメリカは、イギリス・フランス・オランダ・ロシア等、他の列強同様、アジア進出を目指して虎視眈々としていた。 とりわけその最終標的を中国に置いていたことは、各種文献・資料からも明らかである。
そのアメリカにとって、日本は中国への足場として地政学上、極めて重要な位置にあった。来日前、ペリーはメキシコとの間で起こった米墨戦争で将軍として戦い勝利した後、メキシコにいた支倉常長の遣欧施設がメキシコに遣した日本人子孫から、地政学上の日本情報を収集していた。
当時、ペリーは琉球(沖縄)を経由して上海に滞留し、翌年も沖縄を経由して再訪している。アメリカの対アジア戦略上、沖縄はまさしくキイストーンであり、それは現在に至っても変わっていない。
日米和親条約(神奈川条約)は、1858年の日米修好通商条約へ発展する。他の列強もアメリカに刺激され、1854年10月のイギリスを皮切りに、56年までにロシア、オランダが日米和親条約と同様の条約を締結した。
アメリカは通商条約により、日本の五つの港でアメリカ人がアメリカの法律の下で居住できる権利を獲得、交易についてもアメリカ側が決めた関税による最恵国待遇を受けることが出来るようになった。勿論、他の列強もこれに習うことになる。
「1859年、ハリス(米国初代領事のタウンゼント・ハリス)は公使として江戸の公爵館に住むことになった。時を移さず、イギリス・フランス・オランダ・ロシアが江戸に代表部を開いた。列強は手を組んで行動した。彼らは新たに獲得した『条約上の権利』が侵された場合には砲艦の存在をちらつかせ、日本が不満や反抗の色を露にしようものなら懲罰行動に出た。この時期から19世紀末までの日本はいわば半植民地だった。欧米列強の代表達は、貿易の全てを管理し、税率と価格を決め、沿岸通行を独占し、日本の金を吸い取り、99年間の租借権と治外法権に守られて日本に住んでいたのだ。列強は、自分達の植民地と中国で享受する特権的立場を日本にも持ち込んだ。この期間、ほぼ45年間に亘って、日本は欧米列強の直接『指導』のもとで『改革され、再教育された』のだ」
ハリス『日本滞在期』
ハリス(坂田精一訳)『日本滞在期』岩波文庫赤759-761, 1953.
タウンゼンド・ハリス (Townsend Harris, 1804-1878) は米国の外交官で、1856(安政3)年に初代駐日総領事として下田に赴任し、1858(安政5)年幕府と日米修好通商条約を締結した。1853年、上海にいたハリスはペリー艦隊への同行を希望したが拒絶された。ハリスは駐日総領事を希望して帰国して運動し、ピアス大統領はペリーにも相談し、ハリスを派遣することとした。1855年10月17日、ハリスは単身ニューヨークを出航し、インドでオランダ語通訳のヒュースケンと合流した。1856年5月にタイとの条約を締結した後、8月21日に下田に到着した。
和親条約の英文では、総領事の駐在は一方の国が必要と認めれば派遣できるとなっていたが、日本文では両国が必要と認めた場合にのみ可能となっていた。そこで日本側は駐在を拒否しようとしたが、ハリスはこれを押し切って9月3日に柿崎の玉泉寺に入った。1857年6月17日、ハリスはアメリカ人の居住権、長崎での薪水食糧等の供給、領事旅行権等を内容とする下田条約を下田奉行との間で締結した。11月、ハリスは下田を発ち江戸の蕃書調所に入った。12月7日、ハリスとヒュースケンは江戸城で将軍家定に謁見した。1857年2月、ハリスは病を得て下田で静養した。7月23日、ミシシッピ号が下田に入港し、英仏がインドと中国を屈服させたことを伝えた。ハリスはこれをタネに条約締結を迫った。日米修好通商条約は1858年7月29日、ボーハタン号上で調印された。
又或る時ヒュースケン君が温泉へゆき、眞裸の男三人が湯槽に入っているのを見た。彼が見ていると、一人の十四歳ぐらいの若い女が入ってきて、平氣で着物を脱ぎ、「まる裸」となって、二十歳ぐらいの若い男の直ぐそばの湯の中に身を横たえた。このような男女の混浴は女性の貞操にとって危檢ではないかと、私は副奉行に聞いてみた。彼は、往々そのようなこともあると答えた。そこで私は、處女であると思われている女と結婚して、床入りの時そうでないことを知ったときには、男の方はどうするかと問うた。副奉行は、「どうにも」と答えた。 (中巻, p. 161)
さて話題は、いつもの日本式のものへ移った。この人たちの淫奔さは、信じられないほどである。要件がすむや否や、彼らが敢て談ずる一つの、そして唯一の話題がやってくる。 (中巻, p. 168)
私は、日本人のように飲食や衣服について、ほんとうに儉約で簡素な人間が、世界のどこにもあることを知らない。寶石は何人にも見うけられない。黄金は主として、彼らの刀劍の飾りに用いられている。ある特殊の場合は、金絲の入った錦織が緋や黄色のものとともに用いられるが、そんなことは滅多にない。それらは例外であって、法則ではない。着物の色は黒か灰色である。貴人のものだけが絹布で、その他すべての者の布は木綿である。日本人は至って欲望の少ない國民である。 (中巻, p. 196)
なんとかして眞實が囘避され得るかぎり、決して日本人は眞實を語りはしないと私は考える。率直に眞實な囘答をすればよいときでも、日本人は虚偽をいうことを好む。 (中巻, p. 239)
私は、どんな種類の美術品をも精巧に作るという點について、日本人の習性を買いかぶってきたと思う。彼らの政府の特性は、富と奢侈のために品物を作る腕前をふるうことを、禁じているように見える。奢侈禁止法は、形、色彩、材料と、すべての衣類の着換時を嚴しく取締っている。それだから、家具の贅澤なぞは、日本では知られていない。この國では、大名の邸宅の家具ですら、アメリカの謹直で堅實な職工の家に見られるものの半分の値打ちもないといって憚らない。純朴と質素は、この國の重要な格律となっている。それは最もおどろくべき方法によって實施されている。官憲の取締によって、日本人のあらゆる行為を抑壓しようとすることが、絶えざる仕事となっている。 (中巻, p. 247)
見物人の數が増してきた。彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない――これが恐らく人民の本當の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開國して外國の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の國におけるよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と滿足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。 (下巻, p. 26)
私は、スチーム(蒸氣)の利用によって世界の情勢が一變したことを語った。日本は鎖國政策を抛棄せねばならなくなるだろう。日本の國民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な國家となるであろう。 (下巻, p. 87)
下田ハリスの足湯
M. C. Perry, Narrative of the Expedition of an American Squadron.
Matthew Calbraith Perry (1794~1858) was the Commodore of the U.S. Navy who opened Japan by concluding the Convention of Kanagawa in 1854. The U.S. squadron of four battleships entered Edo bay in July, 1853. Perry landed at Uraga, handed in the letter from the U.S. president Millard Fillmore to the representatives of Japan, and returned to Hong Kong. In February 1854, Perry’s squadron of seven battleships appeared again in Edo bay. On March 31, the Convention of Kanagawa was concluded in Yokohama. Perry returned to Hong Kong after exploring Shimoda and Hakodate. Extractions are based on the site of the University of Hong Kong.
Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan
The University of Hong Kong, E-BOOK@HKU LIBRARY
http://ebook.lib.hku.hk/CTWE/B36599566/
THE Japanese are an exceedingly industrious and ingenious people, and in certain manufactures are surpassed by no nation. (p. 63)
They are exceedingly quick in observing any improvement brought in among them by foreigners, soon make themselves masters of it, and copy it with great skill and exactness. They are very expert in carving metal, and can cast metal statues. (p. 63)
No people work better than they can in wood and bamboo, and they possess one art in which they excel the world. This is in lacquering wood work. Other nations have attempted for years,- but without success, to equal them in this department. (p. 63)
This they make, and some say in greater perfection than the Chinese can. At any rate, specimens we have seen of Japanese porcelain are very delicate and beautiful; though some writers tell us, that, owing to the exhaustion of the best clay, they cannot now manufacture such as they once could. (p. 64)
They make silk, the best of which is superior to that of China. ... They have but small skill in producing cotton fabrics, though such are made. (p. 65)
Where necessary and practicable on their roads, the Japanese make good bridges, often of stone; but they do not seem to have arrived at the art of tunnel-making. ... They know something of mathematics, mechanics, and trigonometry. Thus, they have constructed very good maps of their country; (p. 68)
The Japanese, like many other people of lively temperaments, have a passion for things that are strange and odd, and rather prefer sometimes to be galled. (p. 69)
But superstition is in the way. To come into contact with death is deemed pollution. Without such examinations, it is obvious that the knowledge of the physician and surgeon must be but imperfect at best. (p. 71)
Their drugs are mostly animal and vegetable; they are too little acquainted with chemistry to venture upon mineral remedies. They study medical botany, however, with great attention, and their remedies are said to be generally efficatious. (p. 71)
There would seem to be something like a common school system, for Meylan states that children of both sexes and of all ranks are invariably sent to rudimentary schools; whether supported by the State or not he does not say. Here the pupils are all taught to read and write, and are initiated into some knowledge of the history of their own country. Thus much the meanest peasant child is expected to learn. (pp. 73-74)
The Japanese music, of which, by the way, the natives are passionately fond, has nothing in it to recommend it to the ears of Europeans or Americans. (p. 74)
Of anatomy, as we have already said, they know nothing, and consequently are no sculptors; neither are they portrait painters. They are ignorant of perspective, and, therefore, cannot paint a landscape; but in the representation of a single object, their accuracy of detail and truthful adherence to nature cannot be surpassed. Their deficiency is in composition. (p. 75)
They cannot be said to understand architecture as an art, though they cut stone and lay it skilfully enough; nor have they any skill in the work of the lapidary. (p. 75)
These Japanese officials, evincing as they always did a certain reserved curiosity, yet showed an intelligent interest in the structure of the steamer and all that pertained to its appointments. While the engines were in motion they minutely inspected every part, but exhibited no fear, nor any of that startled surprise that would be expected of those who were entirely ignorant of their mechanism. (pp. 306-307)
The Japanese always evinced an inordinate curiosity, for the gratification of which the various articles of strange fabric, and the pieces of mechanism, of ingenious and novel invention, brought from the United States, gave them a full opportunity. They were not satisfied with the minutest examination of all things, so surprisingly wonderful as they appeared to them, but followed the officers and men about and seized upon every occasion to examine each part of their dress. (p. 416)
The Japanese are, undoubtedly, like the Chinese, a very imitative, adaptative, and compliant people; and in these characteristics may be discovered a promise of the comparatively easy introduction of foreign customs and habits, if not of the nobler principles and better life of a higher civilization. (p. 417)
To dispose of the subject in one word, the entertainments of the Japanese, generally, while full of hospitality, left but an unfavorable impression of their skill in cookery. The Lew Chewans evidently excelled them in good living. (p. 443)
The two ladies were unceasingly courteous, and kept bowing their heads, like a bobbing toy mandarin. The smiles with which they perseveringly greeted the guests might have been better dispensed with, as every movement of their lips exposed their horrid black teeth and decayed gums. The mayoress was uncommonly polite, and was good natured enough to bring in her baby, which her guests felt bound to make the most of, though its dirty face and general untidy appearance made it quite a painful effort to bestow the necessary caresses. (p. 461)
The inferior people, almost without exception, seemed thriving and contented, and not overworked. There were signs of poverty, but no evidence of public beggary. The women, in common with many in various parts of over-populated Europe, were frequently seen engaged in the field labors, showing the general industry and the necessity of keeping every hand busy in the populous Empire. The lowest classes even were comfortably clad, being dressed in coarse cotton garments, ... (p. 461)
There is one feature in the society of Japan, by which the superiority of the people, to all other oriental nations, is clearly manifest. Woman is recognized as a companion, and not merely treated as a slave. Her position is certainly not as elevated as in those countries under the influence of the Christian dispensation, but the mother, wife, and daughter of Japan, are neither the chattels and household drudges of China, nor the purchased objects of the capricious lust of the harems of Turkey. The fact of the non-existence of polygamy, is a distinctive feature, which pre-eminently characterizes the Japanese, as the most moral and refined of all eastern nations. (p. 462)
The Japanese women, always excepting the disgusting black teeth of those who are married, are not ill-looking. The young girls are well formed and rather pretty, and have much of that vivacity and self-reliance in manners, which come from a consciousness of dignity, derived from the comparatively high regard in which they are held. (p. 462)
Simoda shows an advanced state of civilization, much, beyond our own boasted progress in the attention of its constructors to the cleanliness and healthfulness of the place. There are not only gutters, but sewers, which drain the refuse water and filth directly into the sea or the small stream which divides the town. (p. 467)
The people have all the characteristic courtesy and reserved but pleasing manners of the Japanese. A scene at one of the public baths, where the sexes mingled indiscriminately, unconscious of their nudity, was not calculated to impress the Americans with a very favorable opinion of the morals of the inhabitants. This may not be a universal practice throughout Japan, and indeed is said by the Japanese near us not to be; but the Japanese people of the inferior ranks are undoubtedly, notwithstanding their moral superiority to most oriental nations, a lewd people. Apart from the bathing scenes, there was enough in the popular literature, with its obscene pictorial illustrations, to prove a licentiousness of taste and practice among a certain class of the population, that was not only disgustingly intrusive, but disgracefully indicative of foul corruption. (p. 469)
Hakodadi, like all the Japanese towns, is remarkably clean, the streets being suitably constructed for draining, and kept, by constant sprinkling and sweeping, in a neat and healthful condition. (p. 507)
"We saw nothing remarkable in the manner or workmanship of the Japanese shipbuilder's. It is doubtful whether they have any scientific rules for drafting or modelling, or for ascertaining the displacement of water by their vessels; nor perhaps has it been necessary, as the law confined them all to one model and size." (pp. 521-522)
In the practical and mechanical arts, the Japanese show great dexterity; and when the rudeness of their tools and their imperfect knowledge of machinery are considered, the perfection of their manual skill appears marvellous. Their handicraftsmen are as expert as any in the world, and, with a freer development of the inventive powers of the people, the Japanese would not remain long behind the most successful manufacturing nations. Their curiosity to learn the results of the material progress of other people, and their readiness in adapting them to their own uses; would soon, under a less exclusive policy of government, which isolates them from national communion, raise them to a level with the most favored countries. Once possessed of the acquisitions of the past and present of the civilized world, the Japanese would enter as powerful competitors in the race for mechanical success in the future. (p. 525)
In examining into the character of art exhibited by the Japanese in the illustrated books and pictures brought home by the officers of the expedition, of which several specimens are now before us, the same surprising advancement of this remarkable people, as they have shown in so many other respects, is strikingly observable. (p. 527)
On the first visit of the squadron to Japan, as we have stated, intense interest was excited among the natives by the engines of the steamers. Their curiosity seemed insatiable, and the Japanese artists were constantly employed, -when they had opportunity, in making drawings of parts of the machinery, and seeking to understand its construction and the principles of its action. On the second visit of the squadron, Mr. Jones saw, in the hands of a Japanese, a perfect drawing, in true proportion, of the whole engine, with its several parts in place, which he says was as correct and good as could have been made anywhere. (p. 529)
There is great scope for sculpture in the image-worship of the religion of the Japanese, and, accordingly, statues of stone, metal and wood, abound in the temples, shrines, and by the waysides. The mechanical execution of these generally exhibits much manual skill, but none of them are to be named as works of art. (p. 530)
With the exception of a temple or a gateway here and there, which, in comparison with the surrounding low houses, appeared somewhat imposing, there were no buildings seen which impressed the Americans with a high idea of Japanese architecture. The most creditable specimens of this branch of art are found in some of the stone causeways and bridges which are often built upon single bold Roman arches, and in design and masonry are equal to the most scientific and artistic structures anywhere. (p. 530)
Education is diffused throughout the Empire, and the women of Japan, unlike those of China, share in the intellectual advancement of the men, and are not only skilled in the accomplishments peculiar to their sex, but are frequently well versed in their native literature. (p. 531)
Notwithstanding the calamities caused by the earthquake, there was shown a resiliency, in the Japanese character, which spoke well for their energy. They did not sit down and weep over their misfortunes, but, like men, went to work, seemingly but little dispirited. (p. 589)
日本野蛮論
欧米から見た朝鮮
DNAが語る日本人のルーツ
23
2011/7/4
欧米から見た日本より
アーネスト・サトウ 『一外交官の見た明治維新』
アーネスト・サトウ(坂田精一訳)『一外交官の見た明治維新』岩波文庫青425-1〜2,1960.
アーネスト・サトウ (Ernest Mason Satow,1843~1929) は英国の外交官・日本学者で、公使館付通訳官として来日し、前後25年にわたって日本に滞在して日本語と日本文化に精通した。日本語通訳官に採用されたサトウは、北京に数ヶ月滞在した後、1862(文久2)年9月横浜に到着した。当時オールコックは不在で、ニール陸軍大佐が臨時代理公使をつとめていた。
1863(文久3)年8月、サトウはアーガス号に搭乗して薩摩藩との戦闘に参加した。1864(文久4→元治1)年3月、オールコックが帰任した。9月、サトウはキューパー提督付き通訳官として長州藩との戦闘に参加した。12月28日、サトウは英国海軍士官を暗殺した清水清次の処刑に立ち会った。このときオールコックはラッセル外相に召還され、帰国の途に着いた後だった。
1865(元治2→慶応1)年7月初旬、ハリー・パークス公使が着任した。サトウは江戸の公使館へ移り、パークスの輔佐のひとりに起用された。10月30日、サトウは清水の共犯者間宮一の処刑に立ち会った。11月1日、英米仏蘭の連合艦隊は幕閣との談判のため大坂に向い、サトウはパークスに随行した。
1866(慶応2)年3月6日、サトウは日本伝習兵の観兵式を観覧した。11月26日、横浜に大火があり、サトウは書物とノートの多くを失った。12月、サトウは政治情報の収集にプリンセス・ロイヤル号で長崎に赴き、宇和島・土佐・肥後藩士らと会談した。
1867(慶応3)年1月、サトウはアーガス号で鹿児島に赴き、英国人一行は薩摩藩の歓待を受けた。アーガス号は宇和島を経て1月11日に兵庫に入港し、サトウは西郷隆盛と会談した。4月、サトウはパークスと徳川慶喜への会談を通訳した後、画家のワーグマンとともに陸路で江戸に戻った。7月、サトウは同僚のミットフォードと新潟から金沢・福井・宇治を経て大坂まで陸路を旅行した。9月、サトウは英国水兵殺人事件の調査のため長崎に赴いた。12月、サトウは書記官に昇進した。
1868(慶応4→明治1)年1月8日、サトウは大坂城でパークスとフランス公使ロッシュが徳川慶喜に謁見するのに同席した。2月4日、備前兵が神戸の外国人居留地を攻撃したが、英米の守備軍に撃退された。サトウは京都でこの事件の解決に当たり、3月に備前藩士滝善三郎の切腹に立ち会った。3月23日、諸外国の公使は京都で明治天皇に謁見する予定だったが、行列が二名の凶漢に襲われ、パークスは宿舎の智恩院に引き返した。3月26日、パークスが天皇に謁見し、通訳にはミットフォードが付いた。5月22日、パークスは大坂で再び天皇に謁見し、サトウはミットフォードとともに陪席した。9月18日から10月17日まで、サトウは書記官のアダムズとともに蝦夷に出かけた。
1869(明治2)年1月5日、サトウはパークスに随行して東京で天皇に謁見した。2月24日、サトウは賜暇を得て横浜を出航し、帰国の途に就いた。
本書 (A Diplomat in Japan) は、1921年にロンドンのシーレー・サービス会社から出版された。序文によると本書の前半はシャム滞在中だった1880年代前半に書かれたが、その後未完成のまま放り出されていた。サトウは1907年以後は英国のデボンシャイアに隠棲したが、親戚から勧められて1919年以後再び筆を進め、ようやく完成した。本書は、日本では終戦まで25年間禁書とされていた。
日本の商人も、往々同様な手段で相手に返報されたが、不正行為を差引きすれば日本の方がはるかに大きかった。そんなわけで、外国人たちの間に、「日本人と不正直な取引者とは同義語である」との確信がきわめて強くなった。両者の親善感情などは、あり得べくもなかったのである。 (上巻, p. 21)
何度繰りかえして言っても、とにかく大名なる者は取るに足らない存在であった。彼らには、近代型の立憲君主ほどの権力さえもなく、教育の仕方が誤っていたために、知能の程度は常に水準をはるかに下回っていた。このような奇妙な政治体制がとにかく続いたのは、ひとえに日本が諸外国から孤立していたためであった。ヨーロッパの新思想の風がこの骨格に吹き当たったとき、それは石棺から取り出されたエジプトの木乃伊ミイラのように粉々にこわれてしまったのである。 (上巻, p. 42)
私は、日本語を正確に話せる外国人として、日本人の間に知られはじめていた。知友の範囲も急に広くなった。自分の国に対する外国の政策を知るため、または単に好奇心のために、人々がよく江戸から話をしにやっていた。私の名前は、日本人のありふれた名字(訳注 佐藤)と同じいので、他から他へと容易につたわり、一面識もない人々の口にまでのぼった。 (上巻, p. 194)
黒山のような群集が、どこへ行っても私たちのあとからついてきて、衣服にさわったり、いろいろな質問を発したりしたが、それらの態度は至って丁寧だった。私は、日本人に対する自分の気持が、いよいよあたたかなものになってゆくのを感じた。 (上巻, p. 219)
また、彼らは、天皇ミカド(訳注 孝明天皇)の崩御を知らせてくれ、それは、たった今公表されたばかりだと言った。噂によれば、天皇ミカドは天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。この天皇ミカドは、外国人に対していかなる譲歩をなすことにも、断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたというのだ 。 (上巻, p. 234)
私はいつも、日本の舞踏、というよりもその身振りに、はなはだもって感心しないのだ。日本の踊りは、多少とも優美な(あるいは不自然に気取った)肢体の動作によって、三絃のリュートの伴奏で唄われる唄の文句を表現するのである。 (上巻, p. 244)
翌日、越前の首都で、人口四万の福井に着いた。この町も街路が清掃されていた。晴れ着を着た見物人が列をつくって店先に並んでいたが、そのありさまはあたかも席料を出してイギリス議会開院式に臨席する女王を拝観する時の光景に似ていた。私はまだ他のどこにおいても、こんなに大勢の美しい娘たちのいる所を見たことはなかった。 (下巻, p. 29)
私たちには、さして高官でもない伊藤のような人物がこうした二役の兼任に適していると考えられたり、また一般の人民が容易にそれらの人間に服従するということが奇妙に感じられたのだが、私の日記にも書いてあるように、日本の下層階級は支配されることを大いに好み、権能をもって臨む者には相手がだれであろうと容易に服従する 。ことにその背後に武力がありそうに思われる場合は、それが著しいのである。伊藤には、英語が話せるという大きな利点があった。これは、当時の日本人、ことに政治運動に関係している人間の場合にはきわめてまれにしか見られなかった教養であった。もしも両刀階級の者をこの日本から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治はさして困難ではなかったろう。 (下巻, pp. 140-141)
天皇ミカドが起立されると、その目のあたりからお顔の上方まで隠れて見えなくなったが、しかし動かれるたびに私にはお顔がよく見えた。多分化粧しておられたのだろうが、色が白かった。口の格好はよくなく、医者のいう突顎プラグナサスであったが、大体から見て顔の輪郭はととのっていた。眉毛はそられて、その一インチ上の方に描き眉がしてあった。 (下巻, p. 199)
グラバーと幕末
長崎に来たグラバー
明治維新特集
アーネスト・サトウの滞在中の政治状況
この写真は記事とは関係ありませんが韓国の女性は容姿端麗だね。その上生命力が強いのです。時として在日を軽く見る狭量な日本人の将来が心配です。 。
Ernest M. Satow, A Diplomat in Japan
Ernest Mason Satow (1843~1929) was a British diplomat and Japanologist who stayed in Japan for twenty-five years in total. His first stay was since September 1862, as an interpreter at the British legation in Yokohama. Satow worked for several ministers including Rutherford Alcock and Harry Parkes, and he interpreted meetings with the Shogun and the Emperor. His most famous book A Diplomat in Japan was prohibited translating into Japanese until the end of the World War II.
Ernest Satow, A Diplomat in Japan, 1921. (Internet Archive)
http://www.archive.org/details/diplomatinjapani00sato
Now and then a Japanese dealer would get paid out in kind, but the balance of wrong-doing was greatly against the native, and the conviction that Japanese was a synonym for dishonest trader became so firmly seated in the minds of foreigners that it was impossible for any friendly feeling to exist. (pp. 22-23)
The daimio, it cannot be too often repeated, was a nobody; he possessed not even as much power as a constitutional sovereign of the modern type, and his intellect, owing to his education, was nearly always far below par.* This strange political system was enabled to hold together solely by the isolation of the country from the outer world. As soon as the fresh air of European thought impinged upon this framework it crumbled to ashes like an Egyptian mummy brought out of its sarcophagus. (p. 38)
I was beginning to become known among the Japanese as a foreigner who could speak their language correctly, and my circle of acquaintance rapidly extended. Men used to come down from Yedo on purpose to talk to me, moved as much by mere curiosity as by a desire to find out what foreign policy towards their country was likely to be. Owing to my name being a common Japanese surname, it was easily passed on from one to another, and I was talked about by people whom I had never met. (pp. 156-157)
An immense crowd followed us everywhere, examining our clothes and asking all manner of questions, but behaving with the utmost civility. I felt my heart warm more and more to the Japanese. (pp. 175-176)
They also conveyed to me the news of the Mikado's death, which had only just been made public. Rumour attributed his decease to smallpox, but several years afterwards I was assured by a Japanese well acquainted with what went on behind the scenes that he had been poisoned. He was by conviction utterly opposed to any concessions to foreigners, and had therefore been removed out of the way by those who foresaw that the coming downfall of the Baku-fu would force the court into direct relations with Western Powers. (pp. 185-186)
I have always thought Japanese dancing, or rather posturing, extremely uninteresting. It is a sort of interpreting by more or less graceful (or, as one may look at it, affected) movements of body and limbs, of the words of a song chanted to the accompaniment of a kind of three-stringed lute. (p. 193)
Next day we reached Fukui, the capital of the province, a town of about 40,000 inhabitants. Here again the streets had been cleared ; spectators in their best were seated in rows in the shops, and looked just as if they had paid for their places, like the people who go to see the Queen open Parliament. I never saw so many pretty girls together anywhere. (p. 246)
It seemed curious, we thought, that a man of certainly not very high rank should be thought fit for this double post, and that the common people should be ready to obey him, but the Japanese lower classes, as I noted in my diary, had a great appetite for being governed, and were ready to submit to any one who claimed authority over them, especially if there appeared to be a military force in the background. Ito had the great recommendation in his favour that he spoke English, a very uncommon Japanese accomplishment in those days, especially in the case of men concerned in the political movement. It would not be difficult, owing to the submissive habits of the people, for foreigners to govern Japan, if they could get rid of the two-sworded class, ... (pp. 326-327)
As the Mikado stood up, the upper part of his face, inchiding the eyes, became hidden from view, but I saw the whole of it whenever he moved. His complexion was white, perhaps artifically so rendered, his mouth badly formed, what a doctor would call prognathous, but the general contour was good. His eyebrows were shaven off, and painted in an inch higher up. (p. 371)
日本から見たイサハキでの米軍
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2011/7/3
日本民族がやがて目覚め、イルミナテイの陰謀を木っ端微塵に砕く日が来ると私は信じている。(故大田龍)
平成二十一年(二〇〇九年)五月八日(金)
(第二千七百七十五回)
○デーヴィッド・アイク日本版、ウエブサイトを一緒にやっていた、
為清勝彦氏 が、当、時事寸評子に、次のように質問した。
「太田さんは、諸井美樹さんを、完全に信用しているようだが、あなたは、日本義塾出版部についての、会計監査をしているのか、会計監査をしないということは、あなたが、諸井美樹の会計上の横領を許していることではないか、後日、このことであなたが後悔しないよう、強く警告する。」と。(管理人注 )この記事の13日後太田龍は亡くなった。13日後に引っかかるが諸井美樹なる秘書か愛人かのばあさんにいいようにやられた上,アイクなる猛毒に心酔してた大田龍,あんたが哀れだよ。かつての「ゲームの達人」でフリッツ・スプリングマイヤーを米国法2255で救おうという記事を炎上させたのは諸井のばあさんだった。あんたの「時事寸評」でここの管理人の名前をだし誹謗中傷した後当方が名誉毀損で訴えるので大金を用意しとけと反論したら記事を削除する小心者なんだ。フリッツをシェリダンの刑務所に会いに行こうとしたときも妨害したのは,またまたこのばあさん。結局大変な苦労の末に会いに行ったけど。今頃このばあさんは府中の刑務所か?あるいは掠め取った金で豪遊か?『彼には致命的な欠陥があった。人間というものがまるでわかっていなかったのである。 』と為清氏が言うように味方の刀 は怖いのですよ。半面,為清氏もデヴィッド・アイクのことを全然わかっていないのである。アイクのあの堕落したでか腹を見るといいだろう。殆どが紐付きのゴーストライターによるもの。彼は危険な人物です,とは元イルミナティ11位階の女史の話です。
為清勝彦氏のデヴィッド・アイクと大田龍参照
『ダンテ・アリギエーリの『神曲』では、ニムロドは巨人の姿で登場し、地獄の第九圏において裁かれている。彼に下された罰は、他人には理解できない無駄話を永遠にしゃべり続けながら、彼には理解できない他人の無駄話を永遠に聞き続けるというものであった。これはもちろん、バベルの塔における言語の混乱という故事になぞらえてのことである。』(Wiki)
エデン(Garden of Eden)から一つの川が流れ出ていた。園を潤し,そこで分かれて,四つの川となっていた。第一の川の名はピションでハビラ地方全域を巡っていた。第二の川の名はギボンでクシュ地方全域を巡っていた。第三の川の名はチグリスでアシュルの東の方を流れており,第四の河はユーフラテスであった。<Genesis2:10〜14>
その日,主はアブラハムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで,カイン人,ケナズ人,カドモニ人,へト人,ぺリジ人,レファイム人,アモリ人,カナン人,ギルガン人,エブス人の土地を与える」<Genesis15:18>
ノアの洪水跡地の発掘現場の様子はダンテものがたり・その33参照
もっとも古くは,12世紀の後半,メソポタミア地方を旅行したスペインのナヴァーラの人,トゥデーラのベンヤミンが,バベルの塔の遺跡を発見したと伝えられている。彼はユダヤ教の僧侶であり,この他にも聖書に登場する古代都市ニネベの跡 とみられる遺跡を発見している。(1845年、 イラクでシュメール文明の都市ニネべェの跡が発見されましたが、BC3000年頃の粘土板から大洪水に関する記述が見つかっています。つまりノアの洪水などはギルガメシュ叙事詩を読まないと分からないということです)彼がバベルの塔の跡と考えたのは,イラクのヒルラ市付近のビルス・ィ・ニムルドでこれは別のジグラド(ボルシッパのナブ神神殿のジグラト)であることが解っている。またバベルの塔はバビロンの遺跡の北側の丘バービルにあったという。
いわゆるノアの洪水と聖書に記されている洪水は紀元前3000年にバビロンの近くのKishで起こったことが1929年の調査で判明した。
聖書の年表との関連は?
聖書の数字参照
上の数字に42,1260が出てきますが管理人の解釈は以下の通りです。666は人の名前と聖書にありますが聖書は弁証法を駆使していますのであまり気にすることはないでしょう。
『【ヨハネ黙示録11章2〜3節】聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは42か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。そして私は、私のふたりの証人に、荒布を着て、1260日の間預言することを許そう。
1260日は12−60進法を表している。この12と60の比は1:5であり、この3角形の面積は6であるから666はピラミッドを表している可能性もある。なぜならギザのピラミッドは三基である。』
その後の発掘調査で1908年,バビロンの南側の低地エス・サクンに,巨大な正方形の遺跡を発見した。そこから発見された煉瓦の刻銘などから,それが「バブ・イリ=バベル」の都の「エ・テメン・アン・キ」と名づけられたジグラトの跡であることが確かめられた。実際に「バベル」の町に=バビロンの町に実際に存在したのである。
メソポタミアには創生神話の「エヌマ・エリシュ」がある。それによると,バビロンのエ・サギラ神殿とジグラト(エ・テメン・アン・キ)なのである。.....このバビロン市の聖塔にまつわる話によると,これ(エ・テメン・アキ)<管理人注:アッカド語で天と地の礎の家という意味>は有史以前スメルの王によって起工されたが,竣工するに至らなかったものであろう。
まづ,空間的な距離について言えば,パレスティナ地方とバビロンとは,いわゆる「肥沃な三角地帯」のほぼ両端に位置して,一見かなり遠くにはなれているようにも見える。ジグラトそのものは,ティグリス,ユーフラテス川の上流にいたるまで,メソポタミア平原のほぼ全域にわたって分布している。アブラハムの生まれ故郷のウルは,ユーフラテス川(管理人注:第4の川)の,バビロンよりもさらに下流にあった町であり,そこに建てられたジグラトは,現在もその姿をとどめている。
メソポタミア創世神話のマルドウク神は,ジグラトを「偉大な神々(アヌンナキ)の家」と呼び,そしてそれの建てられるべき町を,それにちなんで「バブ・イリ」すなわちバビロンと命名しようとした。バビロンのジグラトに付けられた「エ・テメン・アン・キ」という名は,アッカド語で「天と地の礎の家」という意味で,ボルシッパのジグラトの「エ・ウル・メ・イミン・アン・キ」という名は「天と地の七つの案内者の家」という意味である」
聖書ものがたり・創世記参照
日本人:シュメール起源説の謎
シュメール語古事記について
神社に潜む謎の勢力より転載(上の写真はジグラットのバベルの塔跡)
http://www.asyura2.com/05ban/ban4/msg/948.html
投稿者 横路美菜 日時 2005 年 12 月 05 日 18:47:19: GeJ704FOp/.lE
レプティリアン関係はこちらですね。
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…去年の赤穂総会にて、わたしは昨年赤穂で開催された総会の前に、大避神社に参詣しました。そのとき拝殿に掲げられた龍の絵馬と、拝殿の軒端にある龍の彫刻に目がとまって、非常に強い疑問を感じたのです。「なぜ、ヤ一ウェを祀ったはずの、秦氏の創建した神社に龍が掲げられているのか?」と。なぜならば、聖書においては、龍と蛇は等しく悪魔の象徴であって、天地創造の神様を拝する礼拝所には相応しくないからです。しかも、翌日、生島(いきしま)を撮影した何枚かの写真には、ごらんの通り良く晴れた青空に龍雲が突き出ているのが写っています。この総会に出席する前、飛鳥昭雄、三神たける共著「『心御柱』の謎」を読んだ・ところ、伊勢神宮の内宮の地下宮にイエス キリストの血染めの十字架が祀ら・れており、表はイエス キリストであるが、裏は蛇であると書いてありました。これには強いショックを受けました。なぜ蛇かといえば、蛇には無毒の蛇と有毒の蛇とがあって、エデンの園で人間を堕落させた蛇は毒蛇だから悪魔の象徴であるけれども、モ一セが青銅で作った蛇は火の蛇に噛まれた人を救った蛇だ・から、無毒の蛇であり、これこそイエス キリストの象徴であるというのです。その証拠に、後の世の人々はこの蛇を「ネフシュタン」と呼んで拝んだと聖書に書いてある(列王紀下18:4 )というのです。著者たちは、聖書がこの「蛇礼拝」を是認していると解釈していますが、それは違います。《列王紀下18:3〜4》を見てください。「ヒゼキヤはすべて先祖ダビデがおこなったように主の目にかなう事を行い、高き所を除き、石柱をこわし、アシラ像を切り倒し、モ一セの造った青銅のへびを打ち砕いた。イスラエルの人々はこの時までそのへびに向かって香をたいていたからである。人々はこれをネホシタンと呼んだ。 」とあります。
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ですから「蛇礼拝」は悪魔礼拝であって、主の目にかなわない事だと聖書は告げているのです。では、なぜ木に掛けられた青銅の蛇を仰ぎ見たら罪が赦されて助かったのかと言えば、主は木に掛けられた「火の蛇」を呪われたので、その象徴である青銅の蛇を仰ぎ見てそれを信ずる者は、蛇の毒から解放されたのです。従って十字架に掛けられたキリストとネフシュタンとを同一視するのは誤りです。表はキリスト、裏はネフシュタン(無毒の蛇)という解釈には、後述するように、隠された悪い意図が感じられます。以上のような考えをもって、去年の赤穂総会で、「心の御柱」の著者三神たける氏に対し、わたしが「聖書では蛇や龍は悪魔の象徴とされているが」と質問したところ、やはり「蛇には善い蛇と悪い蛇があるんですよね」という答が返ってきました。ですからそれ以上の質問は議論になりますから、中止したのです。丹後の籠神社にてあの日は、総会終了後、同行の兄弟たちと一緒に車で丹後の籠神社(このじんじゃ)に参詣しました。そして、第82代海部(あまべ)光彦宮司の特別なご好意で、三時間に及ぶお交わりの時を与えられました。わたしの聖霊体験と「神ながらのみち」についての考えを語り、種々の質問を発しましたが、誠意をこめて熱心に応えて下さいました。その中で、またも「蛇と龍について」質問したのです。すると海部宮司も「龍には善い龍と悪い龍とがあります。善い龍は雨を降らせ、豊作をもたらし、霊験あらたかなので、籠神社でも龍をお祀りしています。これをお読みください」と言ってパンフレットを下さいました。わたしはこの問題に関してそれ以上のことは何も言いませんでした。ただ宮司はわたしたちに対して、「シュメ一ルをご研究になることをお勧めします」と言われたのです。それと今一つ気になったのは、古来、籠神社を規制する何かの勢力があるということです。それは、暗示するだけにとどめたいと言われました。シュメ一ルと日本帰宅してから、わたしは早速シュメ一ルの研究にとりかかりました。この一年の研究で、これまで知らなかったことが色々分かってきました。今その一端を皆様に発表させて戴きたいと思います。そもそもシュメ一ル文明とは、西暦紀元前(BC)4000〜2000年にメソ
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ポタミアで栄えて、忽然として消えた謎の文明であります。「シュメ一ル(SUMER)」とはラテン語で「スメル」と発音するのです。ですから「シュメ一ル」とは英語読みであります(岩田 明著「十六菊花紋の謎」p.16)。このスメル族がどこから来たのかと申しますと、一説には西域の巨丹(ホ一タン)からインドを通ってカラチに南下し、そこから船団を組んでペルシャ湾を経てメソポタミア南部に上陸し、ウル、ニップル、ウルク、ラガシュ、エンマ、アダブ、イシン等の都市国家を建てました(岩田 明著「消えたシュメ一ル王朝と古代日本の謎」pp.55〜64参照)。また、別の説によれば、スメル人とはノアの洪水のあとにコ一カサス高地から南下してホ一タンに来たもので、爬虫類型異星人(レプティリアン)が遺伝子操作で作り出したア一リア人の一派だとも言います。爬虫類型異星人とは蛇や龍の姿を持つ冷血、残忍な悪魔の化身であって、彼らは人類を家畜化して支配する計画に基いて自分たちに似たア一リア人を作ったのだというのです(デ一ヴ・ィッド アイク著「爬虫類人(レプティリアン)――大いなる秘密《上》――p.61,pp.88〜93参照」。→スメル人の神話によれば、彼らの先祖は「アヌンナキ」(天から地上に降りてきた者)、「ディンギル」(火を噴くロケットに乗って来た義人)であり、スメルの地は「キエンギル」(監視者たちの地)と呼ばれました。聖書外典のエノク書によれば「監視者(ネピリム)」とは「神に離反した天使たち」(ベ・・ネ ハ エロヒ一ム)であって、のちに「ベリアル」と呼ばれる者たちです。また、スメル人の神話における創造神は夫婦であって、夫が牛神ハルであり、妻が蛇神キであります。スメルの円筒印章には右図のような絵が刻印されています。また、スメル人の別の神話によれば、「混沌の中から、巨大な蛇の化身ラ一ムウ(男神)とラハウム(女神)が生まれた。ラ一ムウとラハウムとは、激しく絡み合って交合し、聖なる夫婦神アンシャルとキシャルとを産んだ」とあります。この神話の影響はア一リア人「イン族」によって支那にもたらされ、BC16世紀にイン族は黄河流域に達して夏王朝を滅ぼし、殷帝国を建てます。伝説によれば、殷の最初の帝は伏義(ふつぎ)で人面牛首蛇身の男神であり、帝妃は女禍(じょか)といい、人面蛇身の女神であったとされています。ふたりの絵では下半身が絡み合った姿になっています。さて、いわゆるシュメ一ル文明の最後の華を咲かせたウル第三王朝がBC2004年に滅びますと、スメル人は忽然として姿を消します。彼らは一体何処へ行ったでしょうか。岩田 明は前掲書において、スメル人が海と陸の二手に分かれて移動したのではないかと推理しています。海に逃れた人々は得意の船団を組んでインド洋、南太平洋、南支那海を通って
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日本列島に到達したと見ています 。この説によると、彼らは「天孫族」と称し、第1団は山陰地方の丹後に天下った(海下った)のが、アマテラスオオミカミの孫ホアカリノミコトで、丹波から大和に至る大丹波王国を建てました、(これは籠神社の海部氏の受け継ぐ伝承です)。しかし、4代目の倭宿祢命(別名椎根津彦)のときから出雲勢力に乗っ取られてしまいます。第2団は九州地方の日向に天下った(海下った)アマテラスオオミカミの孫ニニギノミコトです(管理人注:古事記参照....ニニギノミコトに瑞穂の国を与えた) 。つまり天孫降臨は二度あったことになります。そして、ニニギノミコトの孫サヌノミコトが瀬戸内海を東上して大和の出雲勢力を征服し神武天皇として即位するのです、(これは古事記 の伝承です)。更に、第3団は太平洋岸づたいに関東地方の茨城沿岸に上陸し、鹿島神宮、香取神宮を建てました。これが神武天皇の樫原の宮における即位と同時期だといわれます、(岩田 明著前掲書p.136)。彼らはいずれも龍蛇神を崇拝する点で共通しています。神武天皇とは何者かでは、神武天皇の即位の時期は何時頃であったかが問題になります。それは、日本書記によればBC660年です。しかし、竹内文書によればBC720年です。これは漢字破字法による日本書記の裏読みに基いて660年から60年さかのぼらせたものです。竹内文書には珍奇な人名、地名が記されているので、偽書として笑殺することはたやすいと思いますが、そうできない理由が出てきました。それは、飛鳥昭雄著「竹内文書と月の先住宇宙人」の中に、飛鳥氏が下鴨神社の裏神官大烏から聞いた話があります。竹内文書の著者竹内巨麿が鞍馬山で修行していたとき、大烏から竹内文書の中に荒唐無稽の要素を織り込まなければ発表をゆるさないと規制され、やむなく、誰が見てもわかるウソを織り交ぜたと記されています(飛鳥昭雄前掲書pp.294〜300)。この大烏とは飛鳥氏によれば、日本の神道界はもとより、天皇、宗教、政治、経済、その他各界を裏から支配している蛇と龍の勢力の代表的人物であると言われます。大烏はすでにAD8世紀に作られた古事記(AD712)、日本書記(AD720)にも深くかかわっていました。彼らは竹内文書を材料にして記紀を作ったので、もし本来の竹内文書が発表されれば、記紀の偽書性が暴露されるから、竹内文書を偽歴史書とするために、竹内巨麿を脅したのです。ところで、竹内文書は神武天皇を日本最初の天皇としてはおりません。竹内文書では天神5代目から天皇(スメラミコト)の呼称が始まり天神朝4代、
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上古(じょうこ)朝の天皇25 代、不合(ふきあえず)朝の天皇73代、そして73代目の神武天皇が、次の神日本(かむやまと)朝第1代神武天皇となり、その後に125代の天皇が続いて現代にいたるのです。さて、日ユ同祖論の立場から神武天皇の即位年を見ると、小谷部全一郎説では、預言者エリヤがガド族とマナセ族を率いてBC896年に東方へ脱出した。天皇をミカドと呼ぶのは、ガドに敬語のミをつけたものだとします。この説では、年代は適合しても天皇の称号には無理があるでしょう。次にマクレオド説では、十部族が捕囚先のメディアから脱出したのがメディア王の戦死した時(BC662)としていますので、年代が適合しません。この点では、小石 豊説も年代は特定していませんが、同じことでしょう。・次にヨセフ アイデルバ一グ説では、十部族脱出の年代を特定せず、古・代ヘブライ語の一方言から、「スメラ ミコト」は「サマリヤの陛下」を意味するかも知れない、従って神武天皇の称号「カムヤマトイワレビコスメラミコト」は「サマリヤの皇帝、神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味であるとします。この説の弱点は「スメラミコト」の称号が神武天皇から始まったと考えていることです。次に川守田英二説て゜は、預言者イザヤ夫妻がヒゼキヤ王の王子インマヌエルを擁し、ユダ・族、ベニヤミン族 レビ族を率いて、BC712年にユダ王国を脱出して日本に来たとします。この説も神武天皇の即位年と適合しません。わたしはイスラエル12 族が日本に移住してきていると推測しているのですが、いくら調べても未だその年代を特定することが出来ないでいます。さらに、前述したスメル(シュメ一ル)族の王が日本に来て「スメラミコト」と呼ばれたという説にも疑問があります。竹内文書によれば、天皇は上古第1代から「スメラミコト」とよばれていたのです。神武天皇の称号は「カンヤマトイワレヒコスミラミコト」として神代文字で別紙のように書かれています。→天神第5代の天皇は地球を「地美(チミ)」と名づけて当時は大陸の一部であった日本に玉座を定めて万国を統治しました。スメラミコトの統治は天の浮船(宇宙船)に乗って万国を巡回することと、世界を16州に分けて16人の王子を派遣して統治させることによって行われました。その子孫の中からスメル族が生まれて来たかも知れませんが、スメラミコトの呼称の発祥の地は日本であり 、スメル族(天孫族)の長がスメラミコトと呼ばれたという考えは単なる憶測に過ぎないことがわかるでしょう。古代史研究家の竹田日恵(にちえ)博士の説によれば、スメル族(天孫族)はウル
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第3王朝滅亡(BC2004年)の104年後に日本に到着しました。その目的は日本を支配、征服することでした 。天孫族はBC1900年日本に到・着すると、直ちに大和の皇居に参内し不合朝第67代 春建日媛天皇(はるたてひるひめすめらみこと)に皇居を日向の高千穂の峰に移すことと、天地の神を分離して祀ることを勧めました。更に、第69代神足別豊鋤(かんたるわけとよすき)天皇の命により地の神の表象として「白蛇神像」を作るように仕向けました。これは三回半とぐろを巻いて鎌首をもたげた金属製の偶像で、竹内家が宮司を勤める皇祖皇太神宮に神宝として受け継がれています。これは宇宙万物の創造神を祀る大祭司であり、現人神てある天皇に蛇を神として拝ませる陰謀でありました。祭祀の乱れは天皇軽視と反逆を生じ、国家社会の乱れとなって行きました。その報いは大天変地異としてやってきました。その変動は不合朝第73代神武天皇のころまで繰り返し現れましたが、神武天皇が祭祀を正して天地の神を合祀し、神日本朝を開いたことによって安定したといわれます、(竹田日恵著「日本書記暗号解読」pp.74〜97参照)。陸路による蛇勢力の東漸・・シュメ一ル アッカド バビロニア第1王朝(BC1595年滅亡)は相次いで滅亡しましたけれども、彼ら蛇勢力はア一リア人であって、陸路東漸して支那(中国)に到達し夏王朝(BC16世紀)を滅ぼし殷帝国を建てます。前述の通り、殷の皇帝は伏義(ふつぎ)、帝妃は女禍(じょか)といい、上半身は人で下半身は蛇であり互いに絡みあっていたといわれます。このア一リア人蛇勢力が日本に到達したのは恐らくBC1400年ころで、先住民族を滅ぼして出雲王朝を建て、その支配は日本海沿岸を北上して東北地方に及んだと思われます。出雲には、スサノウノミコトによる八股の大蛇退治の神話がありますが、その子孫とされる大国主命というのは謎の人物です。古事記では、オオクニヌシはスサノウの息子になっていますが、日本書記では、スサノウの五世の孫になっています。そして、オオクニヌシの別名が六つもあって、その一つは大物主神(オオモノヌシ)という龍蛇神です。現代にいたるまで出雲では龍蛇神信仰が中心となっているのです。更に、出雲大社の社殿は古代においては高さ90メ一トルあったといわれます。想像を絶した大建造物ですが、これは、メソポタミア伝統のジグラットを模したものと考えられます。ウルのジグラットはBC2050年頃に築かれたもので、これは復元されています。 右図をご覧下さい。→基壇の底辺は60メ一トル×45メ一トル、高さは20メ一トルです。三層
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になっていて最上階に月の神を祀ります。 しかし、バビロンにあるバベルの塔の遺跡を見ると 、基壇は正方形で一辺の長さは91.5m,高さは七層であって、一階は黒色で土星を祀り 36.5m,二階はオレンジ色で木星を祀り 20m,三階は深紅色で火星を祀り 20m,四階は黄金色で太陽を祀り6.4m,五階は淡黄色で金星を祀り6.4m,六階は藍色で水星を祀り 6..4m,七階は白銀色で月を祀り19m,となっています。高さの合計は114.7m です。そうすると最上階まで登るための階段は基壇から100m以上離れた所から築かれて行ったであろうと思われます。バベルの塔の遺跡は礎石しか残っていませんが、そういう形になっています。日本に渡来したア一リア人の出雲勢力は、石やレンガを使うことができないので、大木を材料として組み合わせて巨大木造神殿を築いたのでしょう。その最上階に大国主命をまつりますが、神殿が西方を向いているのは、エルサレムではなく、バビロンを向いているのです。巨大木造建築の遺跡は日本海沿岸の各所に見られ、有名な遺跡には青森市の三内丸山遺跡があります。出雲王朝と大和王朝とは、勢力争いをすることになりますが、日本書記では、天津神を代表する.天孫族(神武天皇)が顕露事(あらわのこと)即ち「政治」を司り、国津神を代表する出雲族(大国主命)は幽事(かくれたること)即ち「神事」を司ることで和解が成立し、その代わりに大国主は天に届くほど大きな社を建てても良いということになりました。ところで、大国主が一歩退いて神事を司るとはどういう意味でしょうか?本来政治というのは「まつりごと」であって、祭政一致でなくてはならないはずです。それを分離したのは疑問です。事実その後も分離されてはおりません。それゆえわたしは大国主の司る「かくれたること」とは、日本國の裏支配を意味すると考えるのです。つまり闇の権力として宗教をも、政治をもコントロ一ルすることです。その実例として、崇神天皇のころの出来事を取り上げたいと思います。崇神天皇のころ宮中では天津神と国津神を合祀していました。天津神とは天照大神であり、国津神とは大国主命です。大国主とは別名大物主で龍蛇神です。そのオオクニヌシの荒御霊であるオオモノヌシが、「アマテラスと一緒ではいやだ」と言って大音響とともに宮殿を揺り動かすので、たまらなくなって皇女豊鋤入媛命(とよすきいりひめのみこと)が、天照大神の御霊代である八尺の鏡を奉じて逃げ出し、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀りました。ところが出雲の蛇霊はしつこく何処までも追いかけてくるので、そこから逃げて丹後の与謝宮に祀りました。今の籠神社(このじんじゃ)で「元伊勢」とも
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呼ばれます。ところがここからも追い出されて 89 年間に亘り、全部で29か所を巡ってついに現在の伊勢神宮の地に落ち着いたのです。その間に豊鋤入媛は死に、代わって垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)がい斎宮として仕えました。しかし、これで出雲の支配は終ったのではありません。それから 500 年後に、出雲の蛇霊は天照大神を祀る内宮(ないくう)のそばに外宮を建てて「外宮」(げくう)と称し、丹後の与謝宮から豊受大神を迎えて祀りました。これは豊受大神が穀霊であるから、天照大神に食べ物を差し上げるためであるなどと称していますが、実はアマテラスを押さえ込むためでありました。その証拠に伊勢神宮の祭りは内宮からではなく、外宮から行われると定められているのです。次に、アマテラスが出雲の闇権力に追われただけでなく、天皇も出雲と三輪山の蛇霊から逃げだして、大和を離れ、第 12 代景行天皇と第 13代成務天皇は滋賀県大津に、第 14 代仲哀天皇は福井県敦賀に、第 15 代応神天皇と第 16代仁徳天皇は大阪に遷都しました。そして原始キリスト教徒(ユダヤ人) 秦氏により、京都に平安京が建てられてやっと安定したのです。神社に潜む謎の勢力では、秦氏によって蛇霊の勢力は抑えられたのか、というと、どうもそうではないようです。前に述べた飛鳥昭雄著「心御柱の謎」、及び「竹内文書と月の先住宇宙人」によれば、日本國の裏支配を行う闇の権力者は下鴨神社の裏神官大烏であって、出雲勢力とつながる龍蛇霊だと考えられるからです。大烏とは神武天皇の東征を道案内した八尺烏(ヤタガラス)であり、イスラエル民族の祭祀族であるレビ族の長であると飛鳥氏は語ります。飛鳥氏と語る大・烏氏は天照大御神の「御」=巳=蛇「みいさん」だし、表は「イエス キリ・スト」、裏は「蛇神」てある。しかも、イエス キリストは大工であり、定規とコンパスを使う人であるから、真のフリ一メイソンだといいます。カバラ一によればそういうことになると解説するのです。これまでわたしは秦氏が日本神話を竹内文書を素材としてアレンジし、古事記、日本書記を作り出したことや、また神社を創設したことを発表しました。しかし、その神社の中でレビ族がバビロニアの龍蛇神と結びついてカバラ思想を用い、日本の天皇、皇室、宗教界、政界、その他あらゆる分野を蔭から支配する闇の権力として働いているのだということを知るに至ったのです。日本の神社は天地造化の神を拝む社として建てられたのですし、天照大神もイ・エス キリストの象徴として崇められたのかもしれません。しかし、ほとんどすべての神社について:言える事は龍蛇神即ち「みいさん」を拝むこ
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とでご利益が得られると宣伝し、ご利益グッズを売りまくって金集めに夢中になっていることです。出雲大社でもそうです。これれは単なるご利益宗教だと一笑に付して済むものではありません。マタイ福音書第4章に「イエス様がお受けになった悪魔の誘惑」が記されています。その中で悪魔が「ひれ伏してわたしを拝めば、この世のいっさいの繁栄を与えよう」と約束しています。イエス様は「サタンよ、退け!『主なるあなたの神を拝し、ただこれにのみ仕えよ』と書いてある」と叱りつけてサタンを退けました。イエス様のようにサタンを退けないで、繁栄を求めてサタンを拝む人には、繁栄が来ます。しかし、その代わりにその人はサタンのとりこになります。蛇と龍の差し出すエサに食らいつく魚は食べられてしまいます。イエス様とサタンの区別がつかないようにしたり、サタンが親切で魅力あるものに見えたりするように、闇の勢力は手を変え、品を変えてわたしたちを誘惑しています。@ 神社仏閣にある蛇や龍の絵や彫刻や掛け軸。龍蛇神講のすすめ。A テレビゲ一ム、映画、ビデオによって龍や蛇になじませる。B 紙幣のデフォルメされた蛇の目のデザインC・テレビ ショッピングの電話番号、0120−666−666D パソコンのホ一ムペ一ジアドレス記号wwwはヘブライ語の666E テレビCMの中で、親指と小指を立てて、他の三本を曲げると山羊のサイン、つまりフリ一メイソンのサインになる。F ハ一ドロックのビデオ演奏のテ一プの中にサブリミナル効果で人殺しや、レイプやおぞましい画像をパッパッパッと見せて知らぬ間に心に焼き付ける。G 商品に付けるバ一コ一ドの初めと真中と最後の縦線が666・現代は終末のしるしが沢山現れている時代であります。悪魔 悪霊は姿を隠しながら第三次元の世界に反キリストの勢力を解き放って人々をたぶらかすために活躍しています。カトリックの中にも、プロテスタントの中にも、カリスマ派、ペンテコステ派の中にも色々な形で蛇と龍がしのびこんでくるのです。神社がイスラエルの幕屋様式てあるとか、秦氏が創建したとかいっても、真の神様を礼拝するに相応しいかどうかを良く識別して、福音宣教の健全な道を見出して行きたいと思います。ヨハネ黙示録にあるように「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは地に投げ落とされ、火の池に投げ込まれて滅ぼされます」から恐れることはありません。、アァメン
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参考文献「」聖書 は、日本聖書協会発行の「口語訳聖書」を用いる。「聖書における蛇と龍」皆川尚一 日本のためのニュ一スレタ一2004年8月号・「『心の御柱』の謎」飛鳥昭雄 三神たける共著 学研 ム一ブックス「元伊勢籠神社御由緒略記」「世界の岩戸開きと元伊勢籠神社竜神伝承」海部光彦「古代海部氏の系図」金久与市 学生社「前ヤマトを創った大丹波王国」伴とし子 新人物往来社・・「メソポタミアの王 神 世界観」前田 徹 山川出版社「四大文明『メソポタミア』」松本 健 NHK出版「 蛇 」吉野裕子 講談社学術文庫「十六菊花紋の謎」岩田 明 潮文社「消えたシュメ一ル王朝と古代日本の謎」岩田 明 学習研究社「古代史に秘められたDNA暗号」桂樹 佑 たま出版「大いなる秘密(上)『爬虫類人(レプテリアン)・』」デ一ヴィッド アイク「 〃 (下)・『世界超記黒幕』」デ一ヴィッド アイク 三交社「超古代文明論」高橋・克彦 南山 宏 徳間文庫「龍の柩」@ABC 高橋克彦 祥伝社「龍の起源」荒川 紘 紀伊国屋書店「龍の時代」加納照鏡 説話社「龍の棲む日本」黒田日出男 岩波新書「 蛇 」吉野裕子 講談社学術文庫「古事記」岩波文庫「日本書紀」(一)(二)(三)(四)(五) 岩波文庫「縄文日本文明 一万五千年史」太田 龍 成甲書房「縄文の神とユダヤの神」佐治芳彦 徳間書店「縄文土器のはなし」甲野 勇 学生社・・・・「三輪山の古代史」上野誠 門脇禎二 千田稔 塚口義信 和田 学生社「『日本書記』暗号解読」竹田日・恵 文学考古会 徳間書店「竹内文書『神代の万国史』」竹内義宮編 宗教法人皇祖皇太神宮「定本『竹内文献』」武田崇元編 八幡書店「」・『竹内文書』世界史の超革命 竹田日恵 文学考古会 徳間書店「『竹内文書』と月の先住宇宙人」飛鳥昭雄 徳間書店
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11「『竹内文書』の謎を解く」布施泰和 成甲書房「『超図解』竹内文書(T)、(U) 高坂和導 徳間書店・「蝦夷 アテルイの戦い」久慈 力 批評社・「弥生時代の実年代」春成秀璽 今村峯雄編 学生社「夏王朝」〜王権誕生の考古学〜 岡村秀典 講談社「出雲大社由緒略記」出雲大社社務所「出雲大社の本殿」 出雲大社社務所「出雲大社」千家尊統 学生社「古代出雲大社の復元」大林組 学生社「古代出雲巨塔の謎」祖田浩一 中公文庫「出雲の古代史」門脇禎二 NHKブックス「出雲神話の真実」関 裕二 PHP「出雲風土記」(全訳注) 荻原千鶴 講談社学術文庫「古代出雲 イスラエル王国の謎」小石豊 学研 ム一ブックス「銅鐸民族の謎」臼田篤伸 彩流社「伊勢神宮」所 功 講談社学術文庫
古代イスラエルと幕屋
↑ 『ロシア生まれイスラエル育ちで、8ヶ国語を話し、長年日本にて神道を勉強し、暫し神社に使えたヨセフ・アイデルバーグ氏は、著『大和民族はユダヤ人だった』の中で、神社の構造が、イスラエルの消えた十支族の移動神殿即ち「幕屋」の建立方法を規定したものである!と明快に言っておられる。』
以下は読者からのメール転載
緊急ニュース
2011/6/8 11:02
管理人様
”古代イスラエルが日本神道の中に温存されている”という記事を読みました。
私の認識ではこれは真逆です。
この貴重な真実を教示してくださった方の著書から、主要な部分を抜粋します。
興味を持たれたら是非ご購読されてください。
『謎のアークトキリストの真実』
志鎌芳夫著 たま出版
第一章 杉田岩刻画の意味を解明する
作成者
天空望(てんくうぼう)
俗称イエス・キリストですが、
正しい名前ではありません。
日本名天空望その人です。
作成年代
西暦18年頃
天空望が18歳から20歳の頃と思われます。
作成依頼
天空望は13のみぎり、祖国イスラエルを離れ、ギリシャ、エジプトに向かい、中東を経てインド、チベット、中国から天国の国・日本を目指して旅をし、日本に辿り着いて天皇に拝謁し、
天皇の皇子であり神道に長けた神官に師事し、日本神道を学びました。
天空望は、すでに13歳の時、ユダヤ教の神官(ラビ)と問答して悉く打ち負かしたと伝わっています。
天空望は、幼少のみぎりより御神様と交信していたと思われます。
従ってユダヤ教の不足なるとこをを承知しており、その何かが会得できず、天国である御神様の国・日本に来てその真理を探ったのでしょう。
来日して間もない頃、山口県下関の地域を治める皇子か王に懇願されて、
杉田の地に御神神様を降臨させる磐座(いわくら 現在の神社)
を作るよう依頼されました。
もちろん、外国から来た優れた神通力者としてその名が日本中に轟いていたことでしょう。
天空望がヘブライの民であることは、
天皇も神官も承知しており、かつ来日の目的も十二分に承知していましたので、彼を温かく迎え入れました。
作成方法
1 北斗七星の観測
2 構図の描画
天空望は北斗七星を基本に描画することを決めました。
3 使用文字
上古第1代天日豊本葦牙気皇主項(尼一夜もとあしかびけおうぬしすめらみこと)のアヒル文字と、
鵜草葺不合朝(うがやふきあえずちょう)第71代
天照国照日古百日臼杵日嗣天皇(あまてるくにてるひこものひうすきねにつぎすめらみこと)
の編纂されたカタカナ文字の二種類の文字を使用することを決めました。
4 描画の方法
岩の表面に蝋石でスケッチを行いました。先端の固く尖った石英の石を左手に持ち、蝋石の白い線をこつこつ、こつこつと掌に血をにじませながら敲いて線刻していきました。
来る日も来る日も、御神神様に思いを馳せつつ。
メッセージは何か
天空望自身が死して後、後世の誰かがこの杉田岩刻画の意味を解明し、
御神神様の真理を悟り、不足を補い、御霊に報告されんことを希望している
胸の内を秘めて線刻しました。
不足の謎を解いて欲しいとの天空望のメッセージが込められています。
岩絵の解明
・・・続いて、ユダヤ教で用いる「メノーラ」が記されています。
これは天七神(あめのしちしん)様を表すもので、ユダヤ教が日本神道から発生している証拠を示します。
もちろん、天空望も十分に理解していました。
メノーラの下方に十字が描かれていますが、これは御神様を示します。
つまり天七神様を示しています。
ただし、残念ながら地元の高校生(キリスト教徒か?)によりサンダーで削り取られています。メノーラの左脇に、ほんのうっすらとではありますが、紛れもない十字架が描かれています。
結論
いかがでしょうか。
天空望は真理である日本神道を探求し、限りなく真理に近づき、祖国イスラエルに帰り、ローマ帝国の圧制から祖国の人々を救済したいと願ったことでしょう。
ユダヤ教は、ダビデのマークにあるように、天三神様と地三神様を重ね合わせただけでは御神神様は繋がらないことを、天空望は幼くして気付いていたに違いありません。
この八神様の探求こそが、本来の天空望の生涯の課題でした。自ら不足であり、御神様ではなく人であるが故に、十字架の下を不足として長く引き伸ばしたものです。
トランプは、文献によると13、4世紀のヨーロッパで発祥したとの説と、
エジプトで発祥したとの説があります。天空望がエジプト説を証明してくれました。
エジプトにおけるトランプの図柄、ギリシャにおけるヘラとヘラクレスの星産み神話、ユダヤにおける七本の燭台のメノーラによる天七神さまの表現、
さらには十字架そのものの描画。
これらを総合して描けるのは、天空望その人以外あり得ません。
天空望は、聖書にある如く「父なる神」だけを説いたのではなく、特に天十六神様までを人々に説こうとして帰国したのです。
しかし、杉田岩刻画に描かれた御神神様は、日本神道の真理そのものです。
天空望が説きたかった真理は、杉田岩刻画の御神神様の世界を説くことであったことがおわかりいただけたと思います。
なお父なる神とは、天御中主大神様(あめのみなかぬしのおおかみさま)で「ア神様」とお呼び申し上げます。
父なる御神様ヲヤアエと言っていますが、これは日本語です。
ヤは屋根のヤで天を示し、アはア神様を示します。エはエンボスの円没すの意味であり、一点を示し、唯一、中心、他にはいないの意味です。
すべては日本語です。
アーメンもアメノの意味です。
天空望が身近に感じられたのではないでしょうか。
おわりに
私が最終的にこの杉田岩刻画のすべてを理解できたのは、2006年5月23日のことです。理解できたとき、涙が止めどなく流れました。
天空望の説きたかった御神神様の世界と聖書の世界のあまりの乖離に、天空望の深い悲しみが伝わってきました。
祖国イスラエルでの布教は何の成果もなく、弟子を名乗った人々に背かれ、理解されなかったと思います。
この話を金城良直先生(沖縄のシャーマン)に一日置いて伝えました。
この時、火之大神様からお言葉が伝えられました。
その涙は「感涙ぞ」と告げられました。天空望が私を使い、泣いて喜んでいただけたとのことでした。
さらに、火之大神様は、天空望を「空を飛んだ奴」と呼んでいました。
天空望はまた、火之大神様から遣わされた伝道師であり、神様ではない、と告げてきました。
未解決事項
杉田岩刻画、淡島神社岩絵、安閑神社岩絵(神代文字石)を連続して眺めてみると、天空望が13歳のみぎりより18歳を過ぎ、118歳で死ぬまでに解けなかったことが浮き彫りになりました。
(1)天三神様と地三神様を繋ぐ八神様の繋ぎの状態。
(2)天空望が日々交信していた火之大神様について存在を知らず、この御神様を天御中主大神様(ヤアエ)と誤解していました。
(3)三部作において、御神神様の基本となる天七神様の表現が常に異なり、一貫性に描ける事実が見られます。その分想像力が豊かであったと指摘できます。しかし、残念ながら、安閑神社岩絵においても天空望は八神様の謎を解き明かすことはできませんでした。
ユダヤ教の根本的な不足はここにあります。
まとめ
天空望により天御中主大神様
(あめのみなかぬしのおおかみさま)
の存在がすべてのキリスト教徒に伝えられ、父なる神のお膝元で2000年近く生活を営んでこられたことは、大いに幸いであったと思います。
しかしローマ法王をはじめ、世界のキリスト教徒のみなさん、天空望の説きたかった真理は日本神道です。
ここをよく理解していただき、来日して天空望(イッサー・キリスト)の手で描画された岩絵に直接触れてください。
神応できる方は、即座に天空望の思いが伝わってくると確信します。
日本神道は、宗教ではありません。
日本神道は、宇宙の真理です。
よくよく忘れないで下さい。
ローマ法王、世界のキリスト教徒の皆さん。岩絵三部作(天空望)が皆様の来日をお待ちです。
アーメン。
『さあ、神様と同じ様になろう』
志鎌芳夫著 私家版
2003年4月、青山表参道の某ビルで上原先生の神文字の書道の師である安藤妍雪先生の展覧会を拝観しに行きました。
そこで『元ひとつ』安藤妍雪著、発行所「書の霊智塾」、他一冊を購入し拝読致しました。この本の中で特に記憶に残った事柄は、二つありました。
第一に、南米コロンビアの山頂の祠に漢字に似た日本の神代文字で「アイウエオカキクケコサシスセソ」と書かれ、神様として祭られていたと記されていました。
第二に、「豊国文字」と言われています神代文字の存在を知ったことです。
この豊国文字こそ、前掲「甕棺蓋石の碑文」に書かれていた文字であります。
『元ひとつ』に豊国文字のコード表が掲載されておりましたので、「甕棺蓋石の碑文」が読めると直感したのであります。しかし、実際にはコード表に無い文字から始まり、読めない文字の連続でありました。ともかく、解読には成功しました。
熊本県上益城郡嘉島町大字井寺字富屋敷の地にあります井寺古墳石障画は、
著者の研究によりますと、いわゆる古墳時代の古墳ではなく、紀元前63695年に築造された遺体処理施設で、
最初の被使用者は、一般には天照天皇と呼ばれております、
皇統第22代、
天疎日向津毘売身光天津日嗣天皇
(あまさかりひむかいつひめみひかりあまつひつぎあまひすめらみこと)
です。
人類史上最初に火之大神様の存在を悟った天皇(すめらみこと)であります。
この天皇が崩御された折、祭祀者と神官は全精力を傾け、石室に天空を表現し、特に火之大神様に神帰・神幽を誘って戴くように、築造・線刻致しました。
「お天道様」という言葉を使われると思います。
このお天道様こそが火之大神様です。
知らないことは一切なくて全てを承知の全知全能の大神様です。
次に、大宇宙御貴主愛様
(だいうちゅううがたがなしさま)
について説明します。
この御一神様に限り神様とお呼びせず愛様(がなしさま)とお呼び申し上げ、全宇宙無限の大神様で、火之大神様の上におわします全知全能の無限の力をお持ちの最高神様におわします。
愛(がなし)とは全てを御神様に委ねるとの意味です。自己の全てを御神様に委ねるとの意味です。人が人を愛するのも、自己の全てを相手に委ねるとのことを示しています。今でも短歌に於いては愛することを愛(かなし)と歌います。実に古く、意味の深い言葉であることが解ります。
人類とは直接繋がらない大宇宙御貴主愛様です。
しかしながら、先ず、最初に御名を大人絵申し上げてください。
このように、全宇宙で無限の最高神が、
大宇宙御貴主愛様で、
それに次ぐ全宇宙で第二(中宇宙)のお力を備えた大神様が
火之大神様です。
平安時代から江戸時代まで、弘法大師の表した平仮名「いろは四八文字」で、過去の日本人は手習いを行ってまいりました。1868年明治新政府となり、廃仏毀釈、神仏分離政策が採られ、教育に於いても「いろは四八文字」から「アイウエオ」五一音に改められました。これこそが、現在、御神神様の仕組みと経綸を解くための重要な導引でありました。これなくしては、筆者は紐解くことができなかったと思います。
御神神様は、これらの地上の諸々の神社や各家庭の神棚にも岩にも何処にもおわしません。人が、御神神様をお呼び申し上げた時、神界から地上へお出ましになるだけです。
今日まで御神神様の仕組みは一切解かれていません。(著者が人類初めて解き明かす。著者の前世はここでは秘す)
以上抜粋です。
『七つの封印』では龍が魔物になっていますが、本来は龍神は神様を乗せる動体のエネルギーを現します。下位の複数の神様が連なった状態が龍神となり、より高位の神様の乗り物となります。
天地開闢の時、
火之大神様は全ての神神様が連なった龍神の乗り物にのって、この世にお出ましになりました。
その時の竜神は白銀の色をしていました。
この世の終わりの時も火之大神様がいらっしゃいます。乗り物はやはり全ての神神様がつらなった龍神ですが、
その色は鉄(くろがね)色だそうです。
数字は神様の言葉であり、
カタカナも神様の言葉であり、
初めに言葉ありきの言葉はアイウエオ51音です。
神道から枝分かれして宗教が世界に広がっていきました。
古代イスラエルが日本神道に温存されているのではなく、日本神道が古代イスラエルに伝えられたのです。
伝えたのは天の神神様のただ一つの希望の星という意味で呼ばれた、
天空望その人です。
神神様はイッサー・キリストと呼ぶな天空望と呼びなさいと仰っているそうです。
ペリマリ拝
16菊家紋の謎
英国の大英博物館ではある小さなコーナーでこの菊家紋が展示されているが17菊家紋とカモフラージュされている。
これは修正されたもの。
Legacy of Ashes Twitter検索
神社に潜む謎の勢力コメントから
K
2011/7/3 16:59
ご存知でしたら恐縮です。
管直人 の右に写っているオブジェはゴールデンドーン(黄金の夜明団)のものだとか。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201106/23/14/e0171614_2325113.jpg
http://pds.exblog.jp/pds/1/201106/23/14/e0171614_23261224.jpg
これは薔薇十字ですが...........
日本薔薇十字会 から意味も分からなくてもらったのでしょうね。ただし日本の場合ちょっと違います。あるいは秘密の頭領からのものかも?
ユートピアの表面的なゴールは人類に世界的な幸福を与えるというものである。しかし,彼らの裏に潜んだ意図は世界民衆の(マインド)コントロールを段階的に増して行くということでもある。19世紀に大英帝国とドイツは主要なイルミナティ(現在は4千万人のメーソンがいるという)のコントロール地域であった。行動科学研究(Behavioral Science Research)は1882年にイギリスで設立された。しかし,マインドコントロールに関わる,最初の医学,精神医学技術はドイツのカイザル・ウイリヘルム研究所で開発された。Human Relationsのタビストック研究所は1921年にロンドンに設立された。人間のBreaking Pointの研究のために(注:人間がある限度を超えると正常な精神状態を保つことが出来なくなるポイント)。1932年,ドイツの精神医学者クルト・レウインがタビストック研究所の取締役となった。イギリスとドイツは壷の中の二つの豆のようにマインドコントロールを分け合った。彼らの兄弟団は(アドルフ・シュタイナー<ドイツ>とウイン・ウエスコット<英国>を軸とする)黄金の夜明け結社(Order of Golden Dawn)と黄金の曙ヘルメス教団を通してこれらの二つの団を結合させた 。この秘密結社は多くのナチス党員とイギリス貴族社会を構成した。
『タヴィストックの重要人物にクルト・レヴィンがいる。彼はドイツに生まれたが,「住民コントロール実験」が政府に露見したために国外逃亡を余儀なくされた。英国に逃れていたレヴィンは最初の大仕事を与えられた。ヨーロッパと米国で反ドイツを謳ったメディア攻勢を仕掛けて,米国を第二次大戦に参戦させるプロパガンダ作戦である。レヴィンはめざましい成果を挙げた。米国民に強烈な反ドイツ感情,その後は反日感情を植えつけるのに成功したのである。史上最大のプロパガンダ作戦といえよう。その大作戦によって何十万という米兵が命を失い,数億十億ドルがウオール街,国際銀行,武器商人の懐をうるおした。.......湾岸戦争時に用いられたタヴィストックの手法をひとつ挙げると,国務省が在クウェート大使館員を「人質」といい続けたやり口である。捕らわれの身となった館員はひとりとしていなかった。(注:あの涙ながらにイラク人の非道を訴えた女の子は在米国クウェート大使の娘であったことがバレてしまったのは記憶に新しい)
愚かな科学者たちは人工津波を起こして何になるんだい?
統一原理のエヴァ国家とは日本国土の焼失のこと
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