コラム


みちのく便り~心の高校野球~

第4回 花巻東・佐藤涼平の高校野球(中) 2010年02月13日

 第4回高橋昌江コラム「みちのく便り」は、3日連続の特別企画でお贈りしています。
昨年の夏の甲子園大会で花巻東の二番打者として活躍した佐藤涼平選手をフォーカス。
佐藤選手にとっての高校野球を特集します。
二日目の本日(13日)は佐藤涼平選手のカット打法が生まれた時から昨年の夏までを振り返ります。
佐藤涼平君の高校野球で生き残ろうと必死に戦った3年間が、高校野球で生きる希望をなくしている選手に届けば幸いです。
スタッフ一同、誰か1人でもいいので、彼の言葉から勇気をもらい、高校野球をがんばってほしいと思います。

6:カット打法が生まれた時

【09年甲子園大会にて】(写真:宮坂由香)

1つ上の先輩が県大会で敗れ、“自分たちの代”がやってきた。チームは最初、神宮大会出場が目標だった。
「神宮大会に出る=センバツ行ける。だったら神宮を目指そうって。神宮大会=東北大会優勝じゃないですか。そうすれば甲子園も決まりだしということで練習しました。でも、東北大会で負けてしまったんです」

東北大会は準決勝で光星学院(青森)に敗れた。その直後、転機が訪れる。
「何をしていいかわからず、どうしていいか悩んだ時期がありました。東北大会で負けた後、『自分、何も出来なかった。このままじゃ、来年は試合に出られないぞ』って。
どうしようって思っていた時に監督さんに呼ばれて。『県内、または全国一嫌がられるバッターになれ』って言われました。その時にファウル打ちのことを言われて。『狙ってファウルを打って球数を投げさせて、フォアボールで出てもおまえはヒットなんだぞ』と。その後、コーチの方にずっと付きっきりで指導してもらって。最初は、まだ大会終わった後で練習試合ができる日にちだったので練習試合とかやったんですけど、何回やっても絶対にファウル、打てなかったです。『2ストライクまで振るな。そこから粘る練

習をしろ』って言われていたんですけど、全然、バットがボールに当たらないんですよ」

 指示を受けたはいいが、どうにもこうにも当たらない。
「狙ってファウルを打つ」。
その意味を頭では理解していた。だが、実際にやるのは困難だった。2ストライクからファウルを狙って打つわけだから、当たらなければ、当然、三振の山を築いた。

「1日に2試合あって、だいたい、7打席か8打席ぐらい回ってきたんですけど、6三振とかの時あったんです。もう、しこたま怒られて。どうなってんだ!?みたいな。やー、全然できないと思って。練習してんのに、全然できないと思って。ずっと練習して、冬場もずっとそういった練習を。バッティングで(ヒットを)打つよりも、ファウルを打つ練習ばっかりして。春にやっとこう、少しずつできるようになってきたんですけど、まだ、どうすればファウルが打てるってかまではたどり着かなかったんですよ」

そんな試行錯誤中、吉報が届く。花巻東として初のセンバツ出場。
完成されていないが、それで試合に挑まなければならない。試合は確実に近づいていた。完成されていなかったが、最も球数を投げさせたのは、センバツで関西に行ったときの練習試合だった。相手投手に15球、投げさせた。
「センバツで粘ってフォアボールで出たのは1試合、初戦の鵡川戦の1回だけで、それ意外はずっと粘れない状態でした。それが終わってからやっぱり、出来なきゃダメだなと思って。春は一応、打率はそこそこだったんですけど、自分はそういうバッターじゃなかったので、それは、ただ単にまぐれだと思いました。自分の仕事をしなきゃいけないって考えたときに、センバツの反省は全然粘れなかったこと。終わってからの練習試合ではファウルで粘るのはかなり意識してやっていましたね」

このページのトップへ


7:練習、練習

【カットの仕方を実演する佐藤君】


カット打法。
これは、ファウルで粘って、四死球で出塁するための術(すべ)である。
ファウルを打つことが大切なのではなく、結果につなげるために必要なこと。
センバツでは未完成だったカットする技術。やりたいこと、役割は分かっている。チームに必要な理想的な打者になるために、練習を積んだ。

「基本的にはティーバッティングから始めて、こうすればいいのかな?って感じで身につけていって、ちょっとずつ形になってきたら今度は、手投げで。最初はゆっくりのボールなんですけど。こうすればいいのかなーって、徐々に出来るようになってっていう風な感じでした。今度は速い球を投げられた時や急に変化球投げられた時も出来るように実践的にって感じの順番でしたね」実践ではストレートの速さも違うし、変化球も来る。打席に立てば、打者とバッテリーの駆け引きが始まる。その中でヒットを打とうとするのが“ふつう”。

「自分の中では技術に入ると思いますね。極端に言えば、そういうバッターは、たぶん、今までいなかったと思うんですよ。自分もそういう風な考えをしたことが全くなったので。どうやればいいんだ?って感じだったので。それで、最初、苦労したんですけど、やっていくうちに面白くなってきて。みんなはやってないじゃないですか。自分はやれって言われるじゃないですか。てことは、自分がそれを出来れば、絶対にチームにとってプラスになると思いました。ひとり一人、役割があると思うんですけど、1番、4番、5番と。その中の自分も一人だと思ったので、自分がきっちり仕事できればチームに絶対プラスになると思ったので、絶対にこれはマスターしてやるって気持ちが、冬の間とか強かったです。最終的に夏はどうすればファウルが打てるかまで自分でわかって打席にも入れていました。そこまで持って行くのにはかなり苦労したなって思います」

打撃練習になると、ヒットを打つために練習する仲間とは別に、1人特訓を重ねた。
「自分で(コーチに)言って、やってもらっていました。みんなバッティングしている間、ティーとか。みんなのバッティングには一切入らずに形になるまで、自分はファウルを打つために、練習していました」
 経験した人が周りにいないため、当然、不安もあった。
「あーーー。って、もう、ずっと、出来ない、出来ないと思っていました。どうすりゃいいんだろう?っていう風な。でも、出来たときは嬉しかったですね!やっと形になってきたっていう感じだったので」

このページのトップへ


8:試合で使えるようになった

【心を強く持たせてくれる練習場内の張り紙】

 「B戦ではできたんですけど、A戦でできなくて、松田さん(松田優作コーチ)に『おまえ、プレッシャーに弱いな』って言われながらやっていました。松田さんにからかわれるっていうか、そういう風に言われた時に『くっそー、今に見とけよー』って思いました。でも、実際、ちゃんと粘った打席に限って三振でした」
 完成はまだ先だが、徐々に試合で使えるようになってくる。
「センバツが終わってから1ヶ月か2ヶ月ぐらいしたあたりからちょっとずつわかってきた感じがありました。6月くらいですかね。5月から6月くらいにかけては、わかり始めてきた感じでしたね。あとは、ただ単にその時は体験がなかったので。公式戦っていう。その公式戦で出来るかどうかっていう風な不安だけしかなかったですね。練習試合では、1日、4つとかフォアボールで全部、粘って出たりとかっていうのもあったので、使えるかなと思ったのですが、公式戦となると」

 負けられないという公式戦の雰囲気。いくら練習試合で出来たとしても、確かな自信とまではいかなかった。
 出塁し、チームにプラスになるための働きをする。ファウルを打つという過程から出塁という結果にいきつくことが大切。だから、2ストライクまでは出塁するために、ヒットを打ちにいった。

「自分は全部のポジションをまずは見るんですけど、自分は、どっちかっていうと打てるタイプのバッターじゃない。どこのチームもポジショニングを敷くと思うんですけど、どこにどういう野手がいるのかと思って、2ストライクなるまでは野手の間を抜けるゴロを、強いゴロを打とうっていう風に、いつも思っていました。場面に応じてなんですけど、この打席は2ストライクまで打たないって決めて入る打席もあります。それを決めるのはネクストバッターだったり、ベンチで控えている時だったりとか、そろそろ次の打席回ってくるとしたらこういう場面か、ランナーなしかって、常に考えていました。自分だけじゃないですけど、みんなもそういう風に全部流れで考えていたので、この場面だったらこういう風な点の取り方っていう風な感じっていうのはありました」

 1年秋からベンチに入り、試合の流れを考える力を身につけたからこその結果。
だが、これを自分1人の力じゃないという。
「自分が生き残るためには、秋のままじゃ、ダメだと思って。新しい何かを身につけなきゃいけないと。元々、バントしかなかったので、それだけじゃ塁にも出られないし、どこのチームも警戒するのは分かっているので、そういった新しい自分を見つけさせるために、やっぱり監督さんがそう思って、提案してくれたと思いますし、だからコーチの方もずっと付きっ切りでやってくれたと思っているので。コーチだけじゃなくて、ベンチに入れなかった控えの3年生だったりとか、1、2年生も手伝ってくれたりとかして。自分だけの結果というよりも、やっぱり、チームのみんなの支えがあってという感じに思いますね」

このページのトップへ


9:やりたい野球

佐々木監督から「狙ってファウルを打てるようになれ」と言われた時、その意図を説明された。

「監督さんの考え方は、ヒットはヒットなんですけど、フォアボール、デッドボールもヒットなんです。盗塁したら2ベースなんです。という考えで自分に説明してくれました。『あ、そういうことか』と。ヒットを打っても評価されないんですよ、自分。フォアボールで出たら褒められるんですよ。違った褒め方だったんですね、監督さん。自分とか山田(隼弥)は。山田も同じ役割だったので。ヒットよりもフォアボールで出ると褒められて、それで初球、パーンと走ったらもう二重丸って感じです。それが結局、チームの得点率が上がるものでもあったので。理想は1番が出て、2番がつないで、3番、4番が返すっていうのが。どこのチームもそうだと思うんですけど、それが一番難しいことだと思うんですよね。一番、注意しなきゃいけないっていう上位打線。その中で点数取るためにどうしなきゃいけないか考えたときに1番、2番の出塁率、それから機動力、進塁打とか。監督さんはタイムリーで得点取りたくないんですよ。極端な話し、ノーヒットで1点を取りたいんです。すごい嫌じゃないですか。ヒットゼロなのに、得点1って入るって。それを出来たのが夏の東北高校戦だったんです。3点目を取った時、山田がバントヒットで出たんです。

盗塁をして、キャッチャーが投げてショートがそらしてしまって、それで山田、三塁に行ったんです。柏葉はその時、カウント1-2だったのでバッティングカウント。犠牲フライ狙っていた感じだったんですけど、いいコース決まって2ストライクとなってファーストゴロで1点入ったんですけど。あの野球を出来たときは本当、『やったぜ』という感じでした。逆に言えば、自分たちがそういう野球をやっているんで、自分たちの守備の時にやられても大丈夫なんですよ。自分たちが分かっていれば、やられても普通に対処できるんですよ。面倒くさいじゃないですか、足の速いバッターとか、走れるバッターをランナーに出すと。気を使わないといけないんで。そういうのになりたかったんですよね、自分は。で、自分がアウトになってもピッチャーが『うわ、マジ、疲れた~』っていう時に3番、4番でガチャーンと甘いボールを打ってくれたりしていたんで。アウトになっても何か傷跡が残るバッターになりたかったっていうのはありましたね」

そういう考えがあってこそ。そういう考えを理解してこそ。役割を徹底して全うすることができた。
「そのきっかけくれたのが監督さんで、コーチの方々のお陰だったので。生きていけそうな道のレールを用意してもらってからは自分の力だと思ったので、絶対にマスターしてやるって気持ちがありました。ほんとに監督さんたちは選手を見る力っていうか、恐ろしいなって思います」

このページのトップへ


10:ポジション

【甲子園球場】 (写真:宮坂 由香)


「自分の中ではヒット打たなくても、いつの間にか塁に出ているっていうのが理想ですね。監督さんにもヒットを打つよりもフォアボールとかデッドボールの方がピッチャーは相当ショックを受けるっていう風に言っていたので。自分もピッチャーやった経験があるので、フォアボールだと『うわ~、出しちゃった~』って感じなんですけど、ヒットだったら『あ、打たれた。じゃ、次、抑えればいいや』ってすぐに切り替えられるので」
少年野球、中学野球とピッチャーを経験した。
「中学校の時は、人数がいなかったので、内野手とピッチャーもっていう風な。1個上の代のときはセカンドで、自分の代になってからショートを守りました」
 打順は1番だった。
「ヒット、打てればいいんですけど、まぁ、内野に隙があればセーフティってな感じでした」

 高校では当然、内野手として入部した。しかし―。
「1年生の秋から2ポジションって感じでた。自分、内野で入ったんですけど、全然ボール取れなくて(笑)。バウンドが合わないんですよね、全然」

 中学時代は部活動の軟式野球。硬式球の感覚が分からなかった。
「今でもわかんないんですけど(笑)。ほんっとボール捕れなかったんですよ!セカンド、ショート、サードって3つやっていましたが、全然、捕れなくて。それでも、1年生の秋にベンチに入れていただいたんですけど、ベンチに入っている人数の関係上、外野がちょっと足りないっていう風に言われて、それで『お前やってみて』っていう風なことから、2年生の夏までずっと2ポジションって感じでやっていて。ただ、やっていると、外野の方がなんか、ボール捕れるようになっていて、『内野より外野の方がいいかな』と思い始めて(笑)。内野は、軟式の時は自信あったんですけど、硬式は全然ダメですね。外野だとゴロは内野よりも時間があるじゃないですか、距離があるので捕れたんですけど(笑)」

 横倉怜武、柏葉康貴、川村悠真、猿川拓朗。もしも、硬式ボールで無難に守備をこなしていたら…
「出なかったと思います、たぶん。相当うまいですよ。ビビリます。惚れ惚れします(笑)。カバーリングでこう走りながら『ヤバッ!!!』って(笑)。みんなうまいんすけど、やっぱり二遊間はやばいですね。1年生からずっと二遊間だったんで、花巻東の。入学したときからまず違かった。『なんだ、こいつら』みたいなって感じでしたね(笑)。『なんだ、このレベルは』って」
 Aチームの二遊間を見ながら、懸命に打球を追った。そんな時、チーム事情から突如、外野へ。これも、運命の1つだった。

このページのトップへ


11:夏、1つになった時

【試合後、挨拶をする花巻東ナイン】(写真:宮坂由香)

 目標は具体的な方がいい。「甲子園」といっても、実際に生で見るのと、映像や画像を通してでは違う。
「1年生の時の3年生が甲子園に行ったんです。ということは、次の夏は連覇がかかっている大会じゃないですか。岩手では、春の県大会、夏のシード権争いで優勝しちゃうと、夏に優勝できないっていうジンクスがあったんですよ、10年くらい。昨年の先輩方は春に優勝して、夏、勝てなかったんです。監督さん、どうしてもそれを払拭したくて。『そんなの関係ないんだってところ見せろ』って言われました」

だが、センバツを終えると日本中に花巻東フィーバーが巻き起こっていた。自分たちではどうしようもない、コントロールがつかない状況。どうしていいかわからない苦しい時期だった。
「センバツから帰ってきて、どこか気が抜けたところがあったというか。練習試合も勝てないし、チームとしてやろうとしなきゃいけないこともわかっているのに空回りっていうか。周りの目がすごく気になってしまってプレッシャーを感じていました。春の県大会・・・初戦とか、2回戦とか、監督さんの言うこと…みんな聞いていなかったんですよ。分厚い壁ができてしまって。でも、3回戦以降、勝ち上がっていくと、段々、いつも通りになってきたんですけど」

監督と選手の間にできた、見えない壁。徐々に取っ払い、県大会こそ優勝できたが、東北大会ではコロッと負けた。

「どん底を味わったというか。自分たちの弱さに気づいて、もう1回やらないといけないってなって。春の優勝のジンクスを今年で打ち破るってなって、夏に臨みました。夏前もうまくいかないことがあったんですが、毎年、最後の練習試合の日に3年生全員で監督さんのノックを受けるんです。2試合目はいつも試合に出ているメンバーじゃなくて、試合に出ていないメンバーが出て試合をやるんですが、その時に本当に1つになったというか。それで、もう1度、監督さんを甲子園の舞台に連れて行って、日本一にさせたいってみんなの思いがあって。サポートしてくれるのは3年生だけじゃないですし、普段、1、2年生も自分たちのために協力してくれていたので。その人たちの分も、応援してくれる人たちのためにもっていう風な思いが自分たちを1つにさせて甲子園に行けたなって思っています」

このページのトップへ


12:笑顔でグラウンドに戻った理由

【甲子園球場】 (写真:宮坂 由香)


花巻東のベースボールTシャツの裏には「決してあきらめない Never never never give up」と、佐々木監督直筆の文字がプリントされている。
8月21日、準々決勝の対明豊戦の9回表、花巻東は2点差のリードを許していた。
だが、この諦めない精神がクリーンアップの3連打という形で発揮された。
6-6の同点として迎えた10回表。
花巻東にとっては絶好のチャンスが来た。
1番・柏葉康貴からの攻撃だった。
何が何でも出塁しなければならない場面で柏葉は三安で出塁。
きっちり仕事を果たしたのを見て、打席に向かった。

「つなげれば、絶対、3番打つ、キャプテン打つって、なんか、打ってくれるって思っていたんです。いっつもそうなんです。大事な場面って、いっつもキャプテン打っているんですよ。なので、『あ、その場面かなぁ』と思って。絶対、次につなげれば、3、4番で打ってくれると思っていたので。

とにかく送ろうっていう風なのだけ。サードがすごい前に来ていたので、『これ、サードはダメだな』と思ってファーストにやろうと。バントしたんですけど、一瞬、ちょっとフライみたいな感じでパーンって上がって、あぁ!やばい!と思いました。で、ファーストが取るまで、ずっとファーストしか見ていなかったんですよ。ファーストだけ横目に見て走っていて、ファーストがトスをする時に、やっと、『あ、大丈夫だ』と向いたときにセカンドがいてガーンとぶつかった。当たった瞬間は、一瞬、フワっと意識が飛んで、ただ、倒れた後にまたすぐ戻って。『頭、いってー』と思いながらも動こうとしたんですが、なかなか動けなくて。うずくまっていたら、そのうちに監督さんと流石先生の声が聞こえました。とにかく医務室に運ぶとなって、運ばれて、頭痛かったんですけど、意識はあって、しっかりと。で、医務室入ったらお医者さんがいて、『意識あるか』って聞かれて、『あぁ、大丈夫です、もう、行けます』っていう感じでした。脈も計りました。とにかくもう、あの試合は雄星が初めて本当に出られない状況。怪我じゃなくて、本当にもう途中からも出られないっていう状況の中で初めての試合だったので『自分がここで抜けるわけにはいかない。選手もみんな出てがんばっている、絶対にあのグラウンドに戻る』って思いだったので、とにかく、『行けます、大丈夫です』ということだけは伝えていましたね」

 医務室で処置を受けている間、グラウンドでは思い描いていてシナリオが展開されていた。医務室は1塁側ベンチの後ろにあるそうだ。
「歓声が聞こえて、最初、明豊の方から歓声が聞こえたかなと思ったんです。あっち(3塁側)から声が聞こえるじゃないですか」
あの試合、花巻東ベンチは3塁側。明豊が1塁側だった。
「声があっち(3塁側)から聞こえるってことは絶対、こっち(1塁)側に声が来るじゃないですか。こっち(1塁側)からの応援はあっち(3塁側)に聞こえるじゃないですか。ていうのを全然わからなくて、その時は。で、1塁側から歓声が上がったと思って、『あー、ファインプレーされたのかなぁ』と思いました。『どうなんだろう?』と思いながら、『じゃあ、行っていいよ』ってお医者さんに言われた時に初めて流石先生に『1点取ったぞ』って言われて、やっぱり打ったんだなって。やっぱ、あいつ打ったんだなと思って、さすがだなと思いました」

運ばれた後、1死二塁となり、3番・川村悠真がセンターに勝ち越し打を放っていた。結果を聞き、一目散にグラウンドに戻ると、27,000の大観衆が待っていてくれた。
「嬉しかったですね、素直に、歓声が。やっぱり、みんなに心配かけたので、少しでもその不安を取り除けるように笑顔で戻ろうと思って」
 笑顔でグラウンドに飛び出し、全力疾走でセンターの守備位置に駆け出していった。
 ショートにいる打ったキャプテン・川村とハイタッチ。
「戻ったときにハイタッチしたと思うんですけど、あの時に『さすがだな』って」

 気持ちはもう、大丈夫。でも、身体はまだ、おかしかった。
「ボーっとしていました、ずっと。意識、はっきりはしてたんですけど、何も考えられてない状態でした」
10回裏、この回先頭の明豊の打者が大きくフライを打ち上げた。
「ボール来た、と思って反射的にウワーって行って、『ボール、あ、取れる』と思って自分が行こうと思ったんですけど、ライトが『ライト、ライト、ライト』って言って声かけていて。自分も『センター、センター』って。たぶん、声がかぶったと思うんですけど、それであんな感じになったと思います。実際、あとからビデオで見たら全然自分が行くボールじゃなかったっていう(笑)」ボールはライト・佐藤隆二郎のグラブの中に収まっていた。
「自分、その後、たぶん、こんな風(キョロキョロ)にしていたと思うんですけど、あれ、本当に落としたと思ったんですよ、ボール(笑)。『やばい!』と思って探していたら、取っていて、あぁって(笑)。その、フライが上がってきた1球と、最後のセカンドゴロしか覚えていないですね。最終回は。何で2アウト取ったかな?っていう風な。あ!フォアボール出ましたよね?たしか」
 1死の後、四球が出て、2死目は二飛で取っている。
「フォアボール出て、セカンドゴロで終わりだった気がするんですけど、その2アウト目とか、何で取ったとか覚えてないですし、バッターが誰とかも全然覚えていないです。ボーっとしながらも試合が終わったんだってことには気づいて整列したんですけど。ぶつかったセカンドの子が、センバツの時から仲良かったんで、謝ってきてくれて。今宮選手が『がんばれよ』って言ってくれました。握手した時に。あと野口投手が、『優勝しろよ』っていう風な感じで言ったのは覚えていますね。いつも通りになったのは、帰ってからですかね?バスの中もずっとボーっとして、抜け殻って感じでした」

このページのトップへ





【Back Number】

■「花巻東・佐藤涼平の高校野球(上)」は、こちら

■「花巻東・佐藤涼平の高校野球(下)」は、こちら(14日公開予定)

プロフィール

高橋 昌江
  • ■ 生年月日:1987年3月7日
  • ■ 出身地:宮城県栗原市(旧若柳町)
  • ■ 宮城県仙台市在住のフリーライター
    少年野球からプロ野球まで幅広く“野球”を取材し、多方面に寄稿している。
  • ■ 中学校からソフトボールを始め、大学2年までプレーヤー。大学3年からはソフトボール部と新聞部を兼部し、学生記者として取材経験を重ねる。
    ソフトボールではベンチ入りはできなかったものの、1年と4年の2回、全日本大学女子ソフトボール選手権大会で優勝を経験した。
    新聞部では何でも取材したが、特に硬式野球部の取材をメインに行っていた。最後は明治神宮大会準優勝を見届けた。
  • ■ ソフトボール部の活動から得た「人間性、人間力」を軸に「どう生きるか」を考えている。
  • ■ 野球が好きというよりは、野球の監督・コーチ・選手・関係者と話しをして、聴いたこと、感じたことを書いて伝えることが好き。“野球”については、常に勉強中。
  • ■ 【言葉には、力がある】が信念
  • ■ 取材時の持ち物は「気持ち、熱意、真心、笑顔」。
  • ■ 愛読書はデール・カーネギー『人を動かす』など自己啓発系が多い。
高橋昌江
この記事をYahoo!ブックマークに追加  この記事をクリップ!  このエントリーをはてなブックマークに追加       

コメントを投稿する