国立市男女平等教育指導手引(合本版)(平成10年)
国立市教育委員会
国立市男女平等教育指導手引作成委員会


小学校中学年用 「性の教育」
自分の体の主人公 自分の性器を正しく認識し、行動!?
P.113〜115


1. 人権にもとづいた「性の教育を」
 今日、子どもたちを取り巻いている性の状況は、決して、豊かなものであるとは言いがたい。スポーツ新聞を広げれば、女性のヌード写真が嫌でも目に入り、コミック誌やマンガには女性の裸がいたるところに描かれ、強姦シーンまで登場してくるものもある。女の子の洋服を一枚一枚はがしていくようなテレビゲームまであらわれている。その他、マスメディアの中には、商業主義による性表現がさまざまな形ではびこっている。

 これらに登場してくる女性たちは、人格を持った一人の人間としては登場してこない。男性にとって都合のよい、一個のモノとして存在しているのである。女性の性をおとしめるような性表現の中にあって、女性たちは自らの性を肯定することができにくくなっている。また、このことは、男性にとっても、女性との対等で豊かな人間関係を築いていく上での大きな障害になっているのである。

 性教育というと、女の子や男の子の体のつくりやしくみを学習したり、初潮指導を行ったりという、身体的側面からのアプローチが主になされてきたきらいがあるが、性の三つの側面(セックス・ジェンダー・セクシュアリティ)を考えると、「性」の教育は、男女の自立・人格・人権と結びつけた形で行われてこそ意味があるといえよう。

 子どもたちは、大人社会の男女の関わりあいを学習しながら、異性との関係・同性との関係を作っていく。女の子と男の子が小さい時から、お互いに自由で尊重し合える存在として意識しあえたなら、より豊かなセクシュリティの形成が可能となるであろう。

 スウェーデンの「性」の教育で、くり返し強調されるのは、セックスをする時には、相手をとても大事にしなけれはいけないということであるが、今日の日本のように、一方の性がおとしめられたり、強者が弱者の性をないがしろにしたりするような“やる・やられる”式の歪められた性情報が氾濫している中にあっては
両性の平等と人権に視点をあてた「性」の教育が、ますます必要となってくるのである。

2.

「性」の教育の基本的視点

(1)

性差別・性抑圧からの解放をめざす。
女ということで差別されない、また差別しないで生きていくこと。
男ということで差別されない、また差別しないで生きていくこと。

(2)

性に関する自己決定能力を身につけることを育てる。
@ 自分がいやなことに、明確に「NO!」と言えること。
A 自分の体の主人公として、自分の性器を正しく認識し、行動すること。

(3)

個性をのばす。
「女らしさ・男らしさ」とか、「男の役割・女の役割」ということで、生き方を縛られず、一人しかいない自分の個性を見つめ、自分の生き方を選んでいくこと。

(4)

対等で自由な人間関系を育てる。
@ 「人がしたくないことを無理にしてはいけない」「自分が好きでないことを、する必要はない」という、二つのルールを守ること。
A 女の性を「モノ」として扱うポルノは、女の人格を商品化するもので、女と男の対等で自由な人間関係を阻害するもんであることを学ぶこと。

3.

指導上の留意点
(1) 生命誕生を扱う時、生命の連続性の強調をし過ぎると、「あなたが生命をつなげていくのですよ」という使命感の強制になりがちで、産まない生き方の否定にもつながってしまうので気をつける。母性の過度の讃美は、出産や育児は女の仕事という役割分業につながっていきやすいので、気をつける。
(2) 「選ばれた精子と卵子、一番強くて賢い精子」などという言い方は、科学的事実に反しており正しくない。(受精には、他の精子も必要で精子の相互作用が働き、偶然一つの精子が卵子に入り込む。)
(3) 二次性徴では女の子と男の子の体の特徴の違いだけを強調すると、そういう体つきにならない子どもに不安を与えたり、男女の違いを強調することにもなる。二次性徴になるのではなく、「大人の体」に近づいていくことであるというおさえ方をする。
(4) 「月経」を「お母さんになる準備ができた」などとおさえることは、女性を産む性に規定することになってしむので、月経=母親などと短絡的に結びつけない。また、経血を「汚いもの」ととらえることは、「女は不浄」感になりかねない。「汚物入れ」などという用語も問題である。
(5) 自己コントロールの一つとしてのマスターベーションが、女の子にも男の子にもあることを教える。

(6) 生殖の性としての性交だけでなく、ふれあいや相互理解としての性交についても考えさせていきたい。

(7) 「性」をセックス・ジェンダー・セクシュアリティの側面からトータルにとらえ、小・中・高の一貫性を考えて、カリキュラムを作成する。
4. 「性」の教育を、どの教科で、何時間、どう指導すればよいのかという問に対し、一律にこうであるという答えはない。学級の子どもたちが、どんなことに興味・関心を持ち始めているのか、性に関してのトラブルは生じていないか等々を考慮し、学級の実態にあった時期・方法を選ぶことが考えられる。
 
 例えば、中学年では友だちの間で、あえていやらしいことばを使いたがったり、性的なからかいことばを投げかけたりという場面が、時に見受けられる。また、自分の体に関心を持ってくる時期でもある。このようなとき学級活動や道徳を使って指導することが考えられる。また、自分自身のからだを知り、プライベートゾーン(下着をつけた時にかくれる部分)を守るということを指導することもできる。

 教科で見てみていくと、3年生の理科「わたしたちのからだをしらべよう」の単元で、からだの部位のひとつとして外性器や内性器にふれることもできる。性器を含めて、自分のからだを知ることは大切なことでもある。

 4年生の理科「季節と生きもの」「人のからだと運動」の単元で、からだの仕組みについてふれることもできよう。

  「性」の教育については、まだまだ明確な指導計画が確立しておらず、国立市においても各校では様々な試行錯誤を繰り返しており、本市としての統一したカリキュラムを作成するにいたっていない。そのなかのひとつに「性交」をどのように扱うかの問題がある。重要な内容なので、一つの「試案」として、市内の学校の指導計画と本委員会で考えた展開例を載せておく。

 以下の展開例を参考にしていただくにあたり、つぎのことに留意して欲しい。

(1) 学級の子どもたちの実態を十二分に把握し、指導方法を創意工夫し実践すること。
(2) 「性」の教育については、いろいろな考え方があるので、指導の主旨を保護者に十二分に理解していただき実践すること。
(3) 「性」の教育は、指導の積み重ねにより理解が深まるものであること



「自分の体の主人公として、自分の性器を正しく認識し、行動すること。」とは、性の自己決定権を意味しているのかもしれません。小学校の1年生とて、自分の性器が男か女か、分っているはずですが、「ただしく認識」とは、性器についての詳細を知る学習や、性器の個体差のことを指しているものと思われます。

問題点は、実際はそれほどでもないのに女性差別がすごく酷いという前提であること、男らしさや女らしさを抑圧と考えていることから、モラルからの逸脱が予測できること、親になることの強調を避け、一人で生きることを強調することにより、家族をつくる気持ちを育てることを軽く見ていること、小学生に教える内容としては、ふれあいの性だの相互理解の性だの、マスターベーションだのを教え、性に対する興味を過剰に引き出す結果を招く事態が予想されること、性についてジェンダーフリーとからめながら教えること、などです。

つまり、良識やモラルを軽視し、自然な男女の姿をよりも、教える側のイメージによって本来の健全な男女関係やモラルや慣習を捻じ曲げているのが、この性教育の実践計画です。





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