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性教育のすすめ

学校で「性の学習」が必要な3つの理由

学校で〈性の学習〉を用意しなければならない大きな理由は次の三つです。
1.わが国は、世界でもっともおおっぴらに「人権を損なう貧しい性文化」が氾濫しています
 あなたと子どもの周囲を見てごらんなさい。書店やコンビニやキオスクにあるほとんどがポルノ類か性の商品化情報です。欧米では、街の大型書店には、ほとんど性教育のコーナーがあるのに、わが国では性教育に関する本や情報は、家の本棚はもちろん、学校の図書館にすら見当たりません。テレビを見れば、女性のからだを「モノ」扱いし、レイプまがいのセックスシーンが登場し、同性愛者の人権を損ね、個人のプライバシーである性愛が平気で干渉されています。
 その一方で、教室での性の学習はきわめて不十分ですから、子どもたちは、以上のような大人たち、特に大人の男たちがつくり楽しんでいる性情報をテキストにして、「性」を学習しているのです。
 欧米では、大人には性の表現の自由や「見る自由」も認めていますが、見たくない女性や見せたくない子どもたちの「目にとまらない自由」も確保するだけに成熟した社会なのです。いわゆるゾーニング(棲み分け)ができているのです。そして、スウェーデンのように性教育が当然の国では、セックス産業が見事に衰退しています。大切なことは、ポルノを法律で取り締まることではなく、それを批判し選択できる力を子どもの頃から育む性教育の確立なのです。
2.わが国は欧米に比べて男女の「自立と共生」の実現への歩みが立ち遅れています
 十八世紀から人類が目指してきた「自由と平等」社会の実現は、いろいろな取り残しを避けてさらに徹底するために、二十世紀の後半から二十一世紀へかけては、個人の「自立と共生」という命題に変わりました。本当の自由とは、自立した個人が入手できるものであり、本当の平等とは、自立した個と個が認め合ってともに生かし合うことなのです。これはノーマライゼーションとして障害者にも求められていますし、老人にも、HIV感染者にも、同性愛者にも、その状況は違っても少数者を含めて全ての人の「生」や「関係性」の目標になっています。
 そしてわたしは、この目標の最終到達点が「性的自立と共生」の実現だと考えています。すでに欧州連合などや北欧の国々がこのレベルに達している様子は、女性の各分野への進出が伝えてくれます。一例として、スウェーデンでは大臣の半数と、国会議員の四割が女性ですが、この国は今から六〇年前から性教育が女性解放の政策と一体となって大きな役割を果たしてきたのです。わが国でも二一世紀の超高齢社会に応じて、ようやく「男女共同参加型社会」への移行が、政府のかけ声となっていますが、その進展のためにも「自立と共生」を目指した性教育は、子どもたちの必須課題なのです。
3.エイズ時代で実効的なエイズ学習は、科学と人権を柱とする性教育で確保されます
 HIV感染者の六割が薬害被害者だったことから、厚生省と学者と製薬会社との癒着による無責任な薬事行政がようやく露呈しました。まさに「政治型エイズ」とも言うべき許し難い政府の失態です。しかし、エイズ時代といわれる現在、HIVは全ての人に感染する可能性のあるごく普通の病気となっています。決して特殊な人たちが、特殊な行為で感染する、特殊な病ではありません。セックスをする限り、誰でもが感染する「性交型エイズ」を忘れることはできないのです。
 これからは、性交で感染しないためにも、さらに感染しても失うことのない性愛を抱き続けるためにも、性の学習が大切です。「コンドームは予防のためだけではなく、感染したパートナーと愛し合うためにもある」という学習であってこそ、科学と人権とが共存するエイズ学習となります。そのためにも「エイズ教育」などという特殊化した教育ではなく、性教育をとおして「人間」にとって不可欠な性の持つ価値と、その多様性を学ぶときが到来しているのです。「エイズで脅育」するような傾向に走らないためにも、「科学と人権」の視点で性の学習を用意しましょう。

いまどんな性教育があるか

いまあなたのまわりにはどんな性教育があるのか、並べてみましょう。
1.純潔教育または管理教育型性教育
 戦後から六〇年代まで主流となった性教育は、科学教育よりも道徳教育に近い純潔教育です。この場合の純潔とは、特に女性が婚前交渉を避けることなので、男性はその対象から外されていました。社会の中で働く女性が少なく、結婚志向や良妻賢母や専業主婦が「女の幸せ」と見られていた時代には、かなり説得力がありました。そのために多くの公・私立の女子校を中心にして普及し、またその前準備として、母性育成に直結する「初潮指導」がほとんどの小・中学校の女の子のみに行われていたのです。
 そして戦後十数年、ようやく女性の解放が進むにつれ、この明らかに男女不平等な純潔教育から、性教育が離陸し始めます。しかしこの流れは、今日まで伏流となって続いています。それは、青少年の性行動を他律し管理することによって社会の秩序を守れる、と信ずる大人たちがいる限り、組み立てられる性教育なのです(この場合でも、実は少女たちの性行動を視界に入れた規制が、本音となります)。だから、いまだにわが国の性教育の主流なのかもしれません。最近、これを強く唱えている統一協会と、それと同調する教育学者たちが活躍し始めています。
2.道徳教育型性教育
 性科学から人間関係学・社会学・心理学・教育人間学・文化人類学・女性学などの広範囲な学問で、学際的に人間の「セクシュアリティ」や性意識や性行動をとらえると、「性教育」という独自のジャンルが構築されます。その点では性教育学は最も新しい学問であり、性教育は多大な教育実践とその考察検討が期待されている分野です。ところが、性がそれぞれの専門家の解析の対象にならなかった頃は、性的欲望を持つ人間の異常な性意識や性行動が注目され、教育界では道徳や倫理や保健に包括されたテーマだったのです。
 そこで子どもたちに性を語り、性を指導する場合、大人たちはつい性に対して否定的・抑制的なペシミストになるか、精神的・倫理的なモラリストになる傾向がありました。例えば、自慰というテーマでその扱い方の変遷を見ても、学校での性教育は長い間、科学教育とは無縁の道徳教育そのものであったのです。この流れは、現在も決して風化したわけではありません。本来ならば「教育」とは全て「人間教育」なのに、性教育に限って、必ず「人間教育」という言葉を併記する傾向がありますが、そこには性を科学的に扱うよりも唯心論的・道徳的に扱うことへの偏りが感じ取れます。これもヒューマン・セクシュアリティへの理解の未熟さから起因することなのです。
3.生活指導〈生徒指導〉型性教育
 戦後から最近まで続いているのがこの形の性教育です。六〇年代に、私がある女子高校で性教育に取り組んでいたころ、全国の多くの学校から見学に来た教師のほとんどは生活指導部長たちでした。当時の言葉での「不純異性交遊」や「性非行」対策として、性教育に着手し始めた学校が多かったからです。ところが、私たちは四教科で性の学習を進めるという、スウェーデンに似た方法でしたので、彼らの期待に反してしまいました。性教育の生徒向けの講演の時期が、いまも圧倒的に夏休み前なのも、親や教師の心中の不安を表しています。
 一九八六年に文部省が発表した『生徒指導における性に関する指導-----中学校・高等学校編』の作成には私も参画したのですが、いかにもこのタイトルで、性教育のタイプが読みとれます。実はここにある「性に関する指導」というのは、現在も文部省の正式な用語で、「性教育」という言葉の代わりに使われています。そしてこの手引きで目立つ言葉が、「健全な」「望ましい」「正しい」です。例えば、「健全な人格形成」「健全な生活態度」というように使われていますが、これが生活指導型性教育の目標と考えられます。本当は「健全」とは何か、「正しい」とは何かを客観的に規定するのはとても難しいのですが。この流れは「青少年白書」にも繰り返し使われている「青少年健全育成」という理念となって、文部省や各県の教育委員会の性教育指導のベースとなって生きています。(なお、一九九九年文部省は初めて「性教育」という言葉を使った手引き書を作成しましたが、内容は上記のものと全く変わっていないばかりか、「性非行」対策の事例集が半分を占めていました)
4.科学・人権・自立・共生の性教育
 この四つの理念を並べた性教育が、“人間と性”教育研究協議会の主唱する性教育なのです。この研究会は一九八一年に創立されましたが、現在全国に三〇〇〇人あまりの会員が、いろいろな困難の中で性教育の新しい実践を切り開いています。
 一九八一年にその会を有志とともに設立した私の実践と研修を踏まえて、一九八九年に刊行した拙著『各種性教育探検論』(東山書房)のサブタイトルに初めて使ったのが、「科学・人権・自立・共生」というキーワードです。そしてこの理念は一九二〇年代という早い時代に、科学的な性教育を提起した生物学者・山本宣治を性教育のわが国のパイオニアとすれば、その本流を継ぐものといえます。この性教育は、人々が「性的な自立と共生」を可能にすることを目指し、そのために「科学教育と人権教育」を柱にして構成されます。個人のプライバシーである性行動は、個人が責任を持って選択・決定し、自立する性的自己決定能力にかかってきます。同時に男女間だけでなく、少数者を含めて多様な人々と、相互に認め合って共に生きる力(共生)を持つことも大切なのです。
 この自立を育むためには、自己や異性のセクシュアリティについて科学的に正しい学習を通して「心とからだの主人公」になることで、それが無知や偏見から起きる性的なトラブルを防ぐことになります。
 さらに共生を育むためには、人間の「性」をその「生」と同じように人権として尊重する人間観を培う人権教育が大切です。性が人権として確認できたのは、わが国でも世界でもごく最近です。例えば、自慰・避妊・中絶・離婚や性の学習権にしても、個人の自由としてわが国で認められたのは、なんと戦後のことなのです。この遅れがあったために、性にはいろいろな価値観がまとわりついて、明らかな偏見や伝統的なセックス観が、個々の私的な性と生を不当に抑圧し、差別していました。性について万人が認める価値観は、人類に普遍的な「人権尊重」に尽きるのではないでしょうか。
 以上の各種性教育の分類と説明は、かなりおおざっぱかもしれませんが、ビギナーの方が性教育を俯瞰(ふかん)するために試みたものです。今後、実践と研修を積まれて、ご自分で判断なさることが一番大切なのです。

性教育をすすめるためのミニアドバイス

次の事柄を克服することが、性教育の実践を進めるうえで役立ちます。
1.子どもへの不信感を払拭できますか
 「子どもにはわからない」「まねをするのではないか」「まじめに聞いてくれるのだろうか」などという教師は、ほとんど子どもの実体や心情やニーズを知らないようです。たとえ算数や国語の授業では巧みであっても、子どもと「性」を語る体験がないと、何となく先のような不信感が露呈します。大丈夫、子どもはもっとたくましいのです。そして本音で性を語れる関係は、いままでの「たてまえ」のみの人間関係を組み直すきっかけになります。教師が感ずるより、子どもたちはもう十分に性を学ぶ用意ができています。
2.率直に言って「教師の力量不足」からの脱出が先決
 性交を語れる力量がないと、性教育に自信がなく、何かと逃げの姿勢になります。だから教えるかどうかに関わらず、「性交」を語ることを目標にした研修が必要です。「子どもにはわからない」「まだ早い」という教師の心中には、「扱う力と自信がない」という現実があるはずです。それを棚上げにした相手との、性交をめぐる議論は不毛となります。
3.管理職の認識不足がネックになっている
 学校は、人間の魅力でもっているところです。管理職にとっては、性教育という教育実践は未知ですから、慎重になるのは当然です。そこを動かすのは、あなたの子どもへの愛情と魅力的な実践のみ。いつの間にか、教師を支える管理職があちこちに出現しています。性を子どもたちと学ぶことが、こんなにもすてきな関係を創造するという実践が、管理職を巻き込んでいくのです。

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