■忘れてはいけない悲劇
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自らの戦争体験を、56枚もの絵にして私たちに届けてくれた方がいました。早野朝子さん、75歳。現在は大阪市鶴見区で、息子さん家族と平穏に暮らしています。
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早野さんが生まれたのは、現在の北朝鮮東部の町・ハムフン(咸興)。日本の植民地だった朝鮮半島には、終戦時、70万人の日本人が住んでいました。父は電気技師。当時珍しかった、家に電話のある、恵まれた環境で暮らしていました。
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しかし、日本の敗戦で生活は一変します。北から押し寄せたソ連軍が、町をあっと言う間に支配しました。
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「無抵抗の婦女子めがけて、野獣たちが群がって、こういう事実は表に出せませんよね。だけど、風化させるわけにはいかない」
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そして、厳しい冬。飢えと寒さが、追い討ちをかけました。
「私を慕ってくれた女の子も、家族全員が亡くなりました。婦女子が体験した戦争は、屈辱の嵐です」
昭和20年12月のひと月に、ハムフンでは1600人の日本人が死んだといいます。
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子どもの頃から絵を描くのが好きだった早野さん。文字だけでは伝わりにくい壮絶な真実を絵に描き続け、後世に残そうとしています。
「私が亡くなった方を描くとき、気持ちは『知らせて欲しい、忘れないで欲しい』という、亡くなった方のすがる思いです」
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終戦直後、すでに、朝鮮半島は南北に分断されていました。春が来ると、出征した父を除く早野さんたち母子6人は、南へ南へと逃げました。
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「親が死んでも、その子どもを誰も連れて逃げない。自分の子どもだって食べさせられないのだから・・・」
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収容所で、子どもの泣き声に耳をふさぐ女性がいた。口減らしのため、自分の子どもを戸板で流してきた親だった。日常茶飯事ですよ・・・」
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「婦女子への暴行はひどかった。まして、うちは赤ん坊背負っていますし。行くしかない、戻れない。38度線を越えるのに、皆生きる希望を持っていました。たどり着いたのは、不思議なことですよね・・・」
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終戦から1年近く経ち、早野さんたちは、紙一重、幸運な帰還を果たします。しかし、終戦時北朝鮮にいた日本人35万人の1割、3万5千人が死亡したと言われています。その亡骸は、置き去りにされたままです。
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早野さんは、同じ体験を持つ人たちと、北朝鮮での遺骨収集を目標とする『友の会』を結成。昭和56年、当時の社会党の議員らと、35年ぶりに北朝鮮を訪れました。
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厳しい監視がつく中、ホテルでひっそりと手を合わせました。遺骨の収集は許されませんでした。
「思い出しますね。時間は関係ありませんね・・・」
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北朝鮮側から訪ねた38度線。禁じられているのを知りながら、手には生まれ故郷の土を持ちかえるための袋が握りしめられていました。
「このポプラの葉を拾うついでに、土を握りました。遺骨の代わりに、せめてということです」
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中国残留孤児に代表される引き揚げの悲劇はよく知られています。しかし、政治体制が障害になって、北朝鮮で起きた悲劇はあまり知られていません。『友の会』は高齢化のため解散し、遺骨収集の道は閉ざされようとしています。
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「私には、描くことしかない。描くことなら自由。60年を機に一休みしようかという気は毛頭ありません。生きている限り、それしかない。亡くなった人に、私ができる行動は・・・」
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亡くなった人以外に、生きて北朝鮮に取り残された日本人が数千人いるという説もあります。しかし、現在は、それを調べる方法さえないのが実情です。
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