【 終章 】
華やかな打ち上げ(終了記念パーティ)が続いていた。
アリシアが、晃が、アリスが。
アトラやアレサ部長達、オレンジ・ぷらねっとの関係者達も。
誰も彼もがアテナに近寄り、祝福の言葉を投げかけていた。
けれどアテナは落ち着かない様子で、あたりを見回していた。
「アテナ先輩。どうかしたんですか?」
アリスが訊ねる。
「うん。あのちょっとね……」
「んん? なんだアテナ。なにか気になることでもあるのか?」
「あらあら。どうかしたの? アテナちゃん」
「う、うん晃ちゃん、アリシアちゃん。 わ、私……」
「やあ、お疲れさまでした」
そこへちょうど、アンドレアがやって来た。
「あっ、支配人。 あの……」
「ん。なんですかアテナさん」
「あの…あの方達はどこにいるんですか?」
「……スタッフ達のことですか?」
「はい。 私は……」
「あんな連中、ほっときなよ!」
近寄ってきたプロデューサーが声を荒げる。 酔っていた。
「あいつ等のおかげで、僕の緻密な演出は台無しになるとこだったんだよ。 とんでもない奴等だ」
「なんだ、こいつは……」
晃があからさまに眉をひそめる。
「今回のオペラのプロデューサーさんです」
杏が答える。
「そうさ僕はプロデューサーなんだ。 このネオ・ヴェネツィアいち。
いや、AQUAいちの大プロデューサーなんだっ。
それがあやうく汚点をつくるところさ。 あんな、いまいましい古臭いやり方の小屋とスタッフのせいでっ」
「しかし、半自動、半手動のフェニーチェ劇場だからこそ、トラブルに迅速に対処できたのでは?」
「へっ。 そんなのは偶然ですよ」
プロデューサーは言い切る。
「そもそもヴァローレ劇場であれば、あんな事はなかったんだ。 僕が心配するような事は何もネ。 ねえ…アテナちゃん」
「……はい?」
「どう。今度は僕と直で仕事してみない? そしたら君はすぐAQUAいち。いや宇宙いちの謳姫になれるよ。どうだい」
「……なんだかよく分からないが、こいつ殴ってもいいか?」
晃の瞳に危険な輝きが宿り始める。
「んん? もしかして君は、姫屋の晃・E・フェラーリかい?」
「ああ。そうだ。 だが知らない奴に、いきなり呼び捨てにされるのは気分がよくないな」
「おや、こっちにいるのは、ARIA・カンパニーのアリシア・フローレンス」
けれど最早、プロデューサーの耳には、晃の声も入らない。
今度はアリシアの体を舐め回すような視線で見始めた。
「あらあら、うふふ」
「いいねえ、その笑顔。どうだい君達。僕と一緒にやらないか? 三人で売り出すんだ。 もちろん僕のプロデュースでね。
水の三大妖精から、宇宙の三大妖精へ。
どう? ウンディーネなんて小さい枠に縮こまってないでさぁ。 パアっと大きく売り出してみようよぉ」
-ぴしっ
そんな音が聞こえたような気がした。
「おい……」
背後から、低い、けれど全てを圧倒するような声が聞こえてきた。
プロデューサーの体が硬直する。
「今、なんつった?」
ぎしぎしぎし-と
まるで錆付いた人形のように、プロデューサーは恐る恐る背後を振り返った。
そこには「円卓の鬼神」のような表情でこちらを睨みつけている、ひとりのオレンジ・ぷらねっとのウンディーネが……
「蒼羽っ」
晃が『任せた』とばかり、にっこりと微笑んだ。
「小さい枠…だと? お前、ウンディーネが小さい枠だって言うのか…?」
蒼羽は『任された』とばかりに、小さくうなずき返す。
「いや、いや……その」
蒼羽に後ろには、アリスやアトラをはじめ、何人ものオレンジ・ぷらねっとのウンディーネ達が集まり、
同じような表情でプロデューサーを睨みつけていた。
汗がしたたる。
思わず後ろに下がるプロデューサーの背中が、誰かとぶつかった。
あわてて振り向けば、そこには無表情な…けれど、どこか憐憫を含んだ表情で自分を見下ろす、アンドレアが……
「し、支配人。 あ、あの……」
「アテナさん」
アンドレアはプロデューサーを全く無視すると、アテナに言った。
「今、私のスタッフ達はバラシ…撤収作業にかかっています。 今ならまだ間に合うでしょう」
「ありがとうございます」
アンドレアはアテナの想いを。
アテナはアンドレアの想いを。
瞬時に理解し合い、言葉を交わし合う。
「晃ちゃん。アリシアちゃん。 お願い、一緒に来て」
アテナはふたりの返事を待ちもせず、駆け出して行く。
「はいはいはい」
「あらあらあら」
そして晃もアリシアも、なんの躊躇もなしに続いて走り出す。
「あっ、三人とも、ちょっと待ってよ」
あわてて追いかけようと-逃げ出そうとするプロデューサーの前に、ひとりの女性が立ちはだかった。
「杏。アテナを、お願い」
「はい!」
杏が女性の脇をすり抜けて走り抜けて行く。
「……さて、プロデューサーさん」
「な、なんだよ……」
明らかに腰が引けているプロデューサーの前に立ちはだかる女性ーアレサ・カニンガム部長は、にっこりと微笑みながら訊ねた。
「この一週間。あなたがウチのアテナしていただいた、いろいろなお話し、ゆっくりと聞かせていただきましょうか?」
背後には、アリスやアトラを始め、大勢のオレンジ・ぷらねっとのウンディーネ達。
右には無表情が余計に恐い、アンドレア・パヴァロッティ支配人。
左にはいつの間に回りこんだか、蒼羽・R・モチヅキ。
そして前面には、妖艶な悪魔の微笑みを浮かべる、アレサ・カニンガム。
怒涛の如く、汗が流れ落ちてくる。
酔いは一気に醒めていた。
***
すべてが片付けられ、がらんとした舞台は、想像以上に広く寂しい。
杏はそんな舞台を唖然と見つめていた。
「あっ、杏さん? どうしたんですか?」
やっぱり灯梨が見つけてくれた。
「いえ…何もない舞台ってこうなんだって……まるでお祭りの後のよう……」
「そう……ですね」
灯梨も杏と同じように舞台に立ち、その静かで、もの悲しい空間を眺めた。
「けどね、杏さん」
「……はい」
「私達はいつもそうやって、作っては壊し、作っては壊しの繰り返しを続けてるんです。でもそれは……」
灯梨は杏の顔をしっかりと見据えた
「常に新しいお祭りの用意ができるってことなんです。 だから…だから」
次の瞬間、灯梨は満面の笑顔を浮かべながら言った。
「ぜんぜん寂しくなんかありません。 むしろ次のお祭りのことで、私達はつねにワクワクなんです!」
-ああ、ここにも……
そんな灯梨の微笑を見ながら、杏は思う。
-ここにも、強い『心』を持つ人が……
「で、いったいどうしたんですか? 確か今、打ち上げの真っ最中なのでは?」
「ああ、それで…あの、みなさんは打ち上げには、いらっしゃらないんですか?」
「ええ。もちろん行きません」
杏の問いかけに、灯梨はきっぱりと言い切った。
「え? なぜです」
「あ~私達は、あの雰囲気、苦手ですし、第一、最初から呼ばれもしませんから……」
「呼ばれ…ないんですか?」
「ええ。 私達は裏方ですから。 あれはカンバン達のモノです。 それに……」
「それに?」
「それに私達は、あんな華やかな場所より、場末のバーカリィでチケーティをつまみながら一杯やる-って方が性に合ってるんです」
灯梨は照れたように笑った。
そこには何の恥も照れも、屈託もなく。
ましてや卑屈さの欠片もなく。
ただ穏やかで全てを包み込むような、そんな優しい『心』があった。
「あっ、あの。 それでみなさんはまだ中に?」
「はい。着替えて間もなく出てくると思いますが…」
「じゃあ、すいません。 みなさんにお願いして、劇場の正面玄関に来ていただけませんか?」
「…はあ、それは構いませんが……どうしたんですか?」
「アテナさんが、お世話になったみなさまに、小さなお返しをしたがっているんです」
「おい。灯梨ぃ。 いったいなんだってんだ?」
ぞろぞろと-
だらけた感じでスタッフ達が出てくる。
その姿は舞台の上では考えられないほど、ぐだぐだで、ぐずぐすとしたものだった。
「さぁ、私もよく分かりません。 ただアテナさんがお返しをしたいって……」
「いい子だったなぁ」
照明のチーフが言う。
「ああ。手作りの差し入れもしてくれたしな」
舞台のチーフが、そのセリフを受けて答える。
「あれは嬉しかった。思わず元気が出たよ」
音響のチーフの言葉に、みながうなずいた。
「そうですねぇ。私もあの人との仕事、またしてみたい」
「調子に乗るな」
灯梨の言葉を、舞台監督がたしなめた。
「俺達の仕事は、区別しちゃなんねい。 どんな相手にも、どんな仕事にも、常にベストを尽くす。
それが俺達、舞台屋の本分だ!」
「す、すいません」
「だがな……」
「へ?」
謝る灯梨に笑いかけながら、舞台監督は言った。
「今回の仕事は、本当に楽しかったぜ……」
「……はいっ」
-舞監も、こんな顔するんだ。
灯梨はなんだか嬉しくなった。
「ん?」
不意に気がついた。
「どうした、灯梨。 急に立ち止まったりして」
「舞監。 あれ……」
「うん?」
「あれは?」
フェニーチェ劇場の正面。
その荘厳な建物の前に、ひとりの女性が、おりからのルナツー、ルナスリーからの月明かりを浴びて、そっとたたずんでいた。
「ありゃぁ…嬢ちゃんか?」
その声が合図だったかのように、アテナは大きく礼をすると、ゆっくりと謳いだした。
Una furtiva lagrima negli occhi suoi spuntò...
ひそかなるなみだ ほおを伝えり
quelle festose giovani invidiar sembrò...
ただひとり きみは 思い沈みて
Che più cercando io vo? Che più cercando io vo?
わが求めし まことの恋の
M'ama, si m'ama, lo vedo, lo vedo.
そが輝きにこもるをさとりぬ
Un solo istante i palpiti del suo bel cor sentir!..
ふかくきみが秘めし 愛の言葉と
I miei sospir confondere per poco a' suoi sospir!
人知れず洩らす きみがため息
I palpiti, i palpiti sentir!
われのみ聞く 其の日の
confondere i miei sospir co' suoi sospir!
われのみ聞く 其の日の
Cielo, si può morir; di più non chiedo.
こよなきたのしさ 思えば わが胸は
ah! cielo, si può morir;
よろこびにわき立つ
di più non chiedo, non chiedo.
よろこびにわき立つ
Eccola... Oh! qual le accresce beltà l'amor nascente!
ああ あの人は愛を知り なんと美しくなったことか
A far l'indifferente si seguiti cosí finché non viene ella a spiegarsi.
けれど私はそれを知らぬふりでいよう 彼女が心のうちを明かすまでは……
< Una Eurtive Lacrime -人知れぬ涙- >
ガエターノ・ドニゼッティ作曲の歌劇『愛の妙薬』の一曲。
自らの真の思いに気付き、密かに涙する彼女を盗み見た男が、自分への愛を確信し、喜びと共に謳いあげる、リリック・テノール最高傑作のアリア。
本来は男性のテノールであるのに、アテナはそれをものともせずに、朗々と謳いあげた。
誰もが度肝を抜かれたように、ただたたずみ、じっとその歌を聴いていた。
「これはみなさんへの、アテナさんからの感謝の気持ちです」
「杏さん?」
「たとえその思いが人知れぬ涙となろうとも、私はあなたのことを思っている…私の胸は、あなたのことを思うたびに、喜びにわき立つ……
アテナさんも、そして私も、同じ気持ちです」
「杏さん……」
「そしてもう一曲」
次の曲が始まる。
今日、聞いた曲。 楽しげに謳い上げる名曲。
「乾杯の歌 -Libiamo-」
「え?」
いつの間にか、帰ったはずの楽団員までもが劇場正面の階段に腰掛け、演奏を始めていた。
「どうゆうこと?」
さらに驚きが加わる。
アテナの他に、さらにふたり。 歌い手が現れたのだ。
「あれは……水の三大妖精!?」
驚くことに、晃・E・フェラーリが。 アリシア・フローレンスが、アテナと共に歌を奏でているのだ。
-さあ、友よ飲み明かそう。
二度と戻らぬ日のために、こころゆくまで杯をかかげよう!
三大妖精の謳声が、夜のネオ・ヴェネツィアに響く。
それは今宵限りの共演。
二度とは見らねぬ夢の共演。
-誇りある青春の日の 楽しいひと夜を!
若い胸には 燃える恋心
三大妖精の謳声が、どこまでも響いてゆく。
-やさしいひとみが 愛をささやく
またと帰らぬ日のため さかずきをあげよ
気がつけばスタッフ達は皆、実にだらしない態度で、それを聞いていた。
ある者は地面に座り込み、頬杖をつきながら。
ある者はモクモクと煙草の白い煙をたなびかせながら。
ある者はケイタリングからくすねてきたお菓子を口に放り込みながら。
ひどい奴になると、アテナ達の姿を見もせず、仰向けに寝ッ転がりながら月を見ている。
せっかくの三大妖精の-おそらく最初で最後であろう-共演を、彼等は実に不真面目な態度で聞いていた。
けれど-
みな一様に、とても幸せそうな表情を浮かべていた。
誰も彼もが、黙ったまま、幸せそうな微笑みを浮かべ、その謳声を聞いていた。
それが彼等の答えなのかもしれない。
-この世の命は短く、やがては消えてゆく
だから今日も楽しく 過ごしましょうよ!
「こんな音を触れないなんて! こんちくしょう!」
突然、音響のチーフが呻く。
「くそ、月明かり。 月明かりかぁ。 所詮、自然には勝てねぇなぁ」
照明のチーフが吐き捨てる。
「劇場か…歴史的建造物の前。 こんなの、どんなセットも敵わんよ」
道具のチーフが苦笑する。
-この世の命は短く、いずれ消えてゆく。
だから楽しく飲み明かそう。この世の喜びでないものは、すべて愚かなものなのです!
「俺達の負けだな……」
舞台監督がしみじみと、けれど嬉しそうにつぶやく。
「どうゆう意味ですか?」
杏が灯梨に訊ねた。
「そうですね……つまりそれは」
灯梨がいたずらな笑みを浮かべて教えてくれた。
「私達。裏から拍手をもらうのは簡単です。 表(シテ-主役)になればいい。
そうすれば地位を表しての敬意と拍手はもらえます。 でも……」
-さあ、杯をかかげよう!
この時は再び来ない。 むなしくいつか過ぎてしまう。
三大妖精の謳は続く。
「私達を悔しがらせる-裏方に仕事をさせたがる人は、とても少ない
私達、裏方の信頼を得られる人は、もっと少ない…けどあの人は……」
-若い日は 夢とはかなく消えてしまう
ああ。 過ぎてゆく、過ぎてゆく……
-さあ、杯をかかげよう!
またと帰らぬ日々のために、杯をかかげよう。
アテナは謳う。
とても楽しげに、嬉しげに。
晃やアリシアと共に謳い上げる。
月明かりを浴び、その唄は夜のネオ・ヴェネツィアに響き渡る。
感謝を込めて。
信頼を込めて。
-Libiamo Libiamo ne' lieti calici!
さあ! 友よ。 いざ、飲み明かそう!!
『 Un elenco e la schiena -表(シテ)と裏(ウラ) 』 -La fine