「激動の昭和を明るく生きた女性の一代記」 (「ひまわり」新聞ニュースより)
「戦前・戦中・戦後を常に前向きに生きた女性の一代記」 (「ハルカ・エイティ」帯より)
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【 『ハルカ・エイティ』をNHK朝の連続ドラマの原案としたいというオファーがあったことと、『おひさま』にいたるまでと、恐竜の童話と漫画などの話(長篇ブログ)↓ text by 姫野カオルコ 】
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2010年秋だったか、ある恐竜のアニメ映画が公開された。ポスターを見て私はてっきり、某漫画のアニメ化なのだと思っていた。ところが作者も作品も、全然別ということを知り、たいへんおどろいた。
そのアニメ(そのアニメの原作小説)と、私が知っていた某漫画は、重要なセリフからキャラ設定から、そっくりそのままといっていいほどそっくりなのである。
だが、私がおどろいたのは、「盗作か否か」ということではない。「盗作か否か以前」のようすについてである。
「二者がそっくりだということが、なんで話題にならないの?」というおどろきである。 盗作か盗作ではないかは、当事者ならびにその関係者が調べたり論じたりすることである。
真偽のことは措くとして、「一般的な話題」として、なぜ「そっくりであること」が、わきあがらないのだろう?
考えた。答えはたぶん、「知っている人の群」が重ならないため、だろう。
アニメの原作はジャンル分けすると児童文学。児童文学A。漫画は青年誌に掲載されたもの。青年誌漫画B。
「児童文学Aを知っている人群」と「青年誌漫画Bを知っている人群」は重なっている部分がきわめてきわめて小さい(少ない)のだ、きっと。
実は、私にもちょっと思い出がある。
10年ほど前のこと。題名を忘れてしまったが、水×美紀主演の連続ドラマがあった(民放・夜放映)。たまたま第一回目を見た。
美紀演ずるヒロインは32才とか33才で、ばりばり仕事をしているのだが処女。つねひごろ「なんとかセックスしていただこう」と思っている。そんなときにチャンスが訪れるのだが、「セックスしようと思っているのに、できない事態」になる。
これだけの要約では、わかりにくいだろうが、見ていた私は、随所のセリフや、シーンや、ギャグ(?)に、ことごとく見覚えがあるのである。みんな自分が小説で書いたことだからである。なんとも居心地の悪いまま見終わり、第二回目からは見なかった。
この場合は「人群」の重なりの少なさではなく、いっぽうの人群がきわめて少ない(つまり私の作品の知名度とTVでは比較にならないほど、知っている人の数がちがう)からだが、そうとしても、こういう話は、実は出版界には、もっともっともっともっともっともっとある。
「作家のAさんが某民放とプロデューサーを訴えた」「作家のBさんが、某TVドラマは自分の小説とそっくりだと嘆いている」「作家のCさんの某という小説と、いまやってるTVのドラマは設定がまったくいっしょ」という話を、いままでどれだけ聞いたことか。
ところが、世間では話題にならない。
「小説をよく読む人群」と「TVドラマをよく見る人群」はあまり重なっていないからである。小説を読むのが苦手だからTVや映画で見ようとするのだから。
また、訴訟しても、99%の確率で小説家・出版社がTV局に敗れる。創造物の「相似」と「剽窃」の境界を、客観的に立証するのは極めて困難だからである。換言すれば、盗作はしほうだいなのである。
たとえば、Aさん作の小説『A』を、盗作(あるいはマネた、あるいはヒントを得て、あるいはインスパイアーされて、あるいはオマージュとして)したTVドラマ『B』がヒットするとする。すると、『A』は月日とともに消えてゆき、『B』がAとして残る。ヒントを与えたもん負けなのである。
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そこで、私は、ならば書くにあたり、最初からテレビドラマ化を狙ったらどうかと考えた。
それが『ハルカ・エイティ』である。
大森望さんに日比谷で会ったとき(カラオケに行ったときの次に会ったとき)、私としては彼にはっきりつたえたはずなんだけど、場がやかましかったので耳に届かなかったのかな。大森さん、私は、『ハルカ・エイティ』はNHK朝の連続ドラマ化を狙ったんだよ。
『おはなはん』に代表されるように、つまり、日本社会が受け入れる「善」として、
厳しい父&自由に生きる娘=厳しいけれど軸はやさしいパパ&おてんばで軸はパパが理想の恋人な若い女性、という構図がある。
この構図が、時代背景を、戦時下から終戦後の復興期、にすれば、最強の売れる路線になる……と、私は考えた。
この路線は、私の最大の苦手な路線である。
なぜなら、私には、この路線にいる父と娘が、現実に存在する生物として把握できないからである。これは決して、自分が不幸な生い立ちだったということではない。「父なる存在(本当の父でなくてもよい)に親しめるセンス」の欠如という意味である。このセンスが欠如していると、売れる人、にはなれないんですよ、女性の場合。
(売れる=多くの人から認知される、という意味で使っています)
しかし、苦手なことにとりくまなくてはならないことも職業作家にはあるのである。
職業芸能人なら、低い鼻を高くするには美容整形手術でシリコンプロテーゼを注入するように、生来低い鼻なら、整形という努力をするべきなのがプロ(職業)ということである。
ゆえに、大森さん、私は思ったわけである。
「よし、NHK朝の連続ドラマになるように書こう」
と。ほんとにならなくても、とにかく、そういうつもりで、ということだ。
それに加えること、私の伯母の発言に発奮した。
「戦争中のことをしゃべらはる人は、苦労した、苦労した、あんたら若い人にはわからへんやろ、ばっかりや。そんなことしてたら、若い人なんか耳かさはらへんわ。戦争中にかて、ふつうに暮らしてたんや。戦争中にかて、女学校では、イケメンの中学生(旧制のことね)にさわいでたりしたんや」
伯母は言ったのである。ほんまや、そのとおりや。司馬遼太郎は戦国時代に生きてはったんか。藤沢周は江戸時代の人か。その時代に生きてへんかったら、その時代のことを書いたらあかんということはないわ。と、私は思った。
そこで私は、戦前・戦中・戦後の、平凡な平凡なふつうの人の、平凡な平凡な人生のようすを、伯母だけでなく、何人もの方にいろいろとお話をうかがって、NHK朝ドラの路線もふまえて書いたのが『ハルカ・エイティ』だったわけである※1。
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……と、このようなことを、『ハルカ・エイティ』が、文春文庫になったとき、ブログに書いたのだった。
そうしたところ(『ハルカ・エイティ』が文庫になったころ)の2009年、ほんとにNHK東京から『ハルカ・エイティ』を朝の連続ドラマに、という連絡が来たんです。
ただ、NHKからの条件があった。
・「風のはるか」という連ドラがあったので、タイトルを変える
・舞台を、関西ではなく、方言のない地方に変える
・朝にはふさわしくないシーン(主人公が夫以外の男性と恋愛する場面など)はアレンジする
この3点。
「ですから、原案、ということにして、いいでしょうか?」
というような旨が、NHKからの連絡でした。
さて。
ベストセラーとは縁のない私でも、NHKにかぎらず、映画化の話でも、TVドラマ化の話でも、これまでずいぶんいただいたのである。しかし、映像化には、大勢の人間や企業が関係するため(さまざまな利害がからみからみつくため)、まず実現しないのである。
なもので、NHKには「はい」と返答した。まずはYESと言わないと先に進まないからである。だが、その後はなんの連絡もなく……。
そして、2010年、あるとき、私は「次の朝ドラはこれ」のニュースを新聞で見ました。『おひさま』のおしらせを定食屋のスポーツ新聞で。セーラー服をきた女学生が明るく笑っている写真。
「まあ、『ハルカ・エイティ』の単行本みたいに自転車に乗ってる」
「まあ、ハルカと同じく、先生になる話」
「まあ、舞台は『リアル・シンデレラ』と同じ長野県」
スポーツ新聞を見て、私はよくわかりました。
「やっぱり私の小説の映像化は実現しなかった」
ということが。
さばの塩焼き定食を食べたあと、しずかに帰ったのであった。
なぜしずかに帰ったかというと、世の中とはこうしたものだからである。この話をしたところでハルカをまねされたということにはなるまい。また、そんなつもりがだれかにあったわけでもあるまい。タイミングとか運とか縁とか流れとか、なにかしてどうなるものではもないことで世の中のほとんどは動いているのである。また「ほんとに連ドラ化されなくとも、されるようなはなしを書く」という目標は、まあ達成されたのだと思い、しずかに歩いて帰るのである。
※
↑この記事を読んだ読者から、ここではなく別の掲示板におしらせがあった。
水●●紀主演のドラマのタイトルは「初体験」だったとのこと。イヤミですが、拙著には『初体験物語』というのがあります。さらに、このドラマの次のドラマは「整形美人」でした。イヤミですが、拙著には『整形美女』といのがあります。(`´)
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この↓は別の怒り(`´)
【※1】
戦時中のことを書いた話はいくつもある。
戦時中に実際に生きていた人が書いた話が。
それはそれとして、戦時中に生きていなかった私が『ハルカ・エイティ』のような話を書いたのは、若い人に「戦時中」「戦前」が遠くなっているからです。
10代、20代の人にとっては、「戦前」や「戦時中」を知っている人の話には、「前提」としてわからないことがたくさんあると思ったからです。
逆を考えてみればいい。
「80〜90代の人(戦前や戦時中にじっさいに生きていた世代の人)」が、携帯電話やパソコンの取り扱い方を「10代」から説明されるとき、よくわかりますか?
「10代」が、教育勅語やとなり組の説明をされるとき、よくわかりますか?
「80代」も「10代」も、よく分からないのではないでしょうか?
原因は、話し手Aは、聞き手Bも自分にとっての「当然の〃前提〃」がわかっていると思い込んでいる」からです。
ならば、中間の世代があいだに入って、補助をしたら、両者もわかりやすくなるのではないか……と思ったのですね。
私の世代ですと、子供のころはまだ、そこらじゅうに、日常生活レベルで、戦前や戦時中の体験を聞くことができましたから。
でもまあ、こういうことをすると、「戦前や戦時中をじっさいに知っている世代」の中には、カンカンに怒る人がいるものなんですよ。「ここがちがう、じっさいにはこうではない、ああではない、生きてなかったくせに、こんなふうにあのころのことを茶化すな、こんなもんじゃなかった」と。
そんなことしてるから(いわば独占しているから)、10代20代の人が、どんどん戦前や戦時下から遠く離れてしまう。
悲惨な戦争が、たしかにあったのに、10代20代には、それがただ、「爆撃」「モンペ」「敗戦日の天皇陛下の放送+赤いりんごに〜と歌が流れるシーン」みたいな、画一的なテレビ図としての印象しかなくなってしまうじゃないか。
もっと別のアプローチからでもつたえるべきだよ。
……こんなふうなことを思ったりして、書いたのですが、やっぱり怒る人がおられましたですね。
しかたないですね。
(11・4・17記事)