松本龍復興担当大臣の「暴言」がひどい。戦後日本の手足を縛ってきた事柄の持つ意味がようやくわかった。民主党政権のような「権力の濫用者」が登場した時、国民を守るための「仕掛け」として、戦争世代の日本人が用意してくれていたのである。
まず、松本大臣の脅しに屈せず、この「暴言」を報道したTBSに敬意を表したい。と同時に、脅しに屈して「暴言」をカットした媒体には、軽蔑の眼差しを送ると同時に、「報道機関としての死」を伝えておこう。
「松本龍復興担当大臣が就任後初めて、3日、宮城県庁を訪れましたが、村井知事が出迎えなかったことに腹を立て、知事を叱責しました。(略)
『(水産特区は)県でコンセンサスを得ろよ。そうしないと我々は何もしないぞ。ちゃんとやれ。お客さんが来るときは、自分が入ってきてからお客さんを呼べ。長幼の序がわかっている自衛隊なら、そんなことやるぞ。しっかりやれよ。今の最後の言葉はオフレコです。書いたらもうその社は終わりだから』(松本龍復興相)」(
TBS )
この「暴言」に怒らない報道機関は、もはや報道機関ではなく、単なる「菅政権のお仲間」である。そして、松本大臣の「暴言」をきっかけに、わかったことが2つある。まず、わが国の報道機関の一部は、民主党政権のような「権力の濫用者」が登場しても、それと戦わないということだ。それから、戦後日本の「足かせ」となってきた事柄が、民主党政権のような「権力の濫用者」の横暴を防ぐ「仕掛け」となっていたという事実である。
戦後日本には、さまざまな「足かせ」が存在してきた。非常事態宣言やスパイ防止法の不備、強すぎる参議院……などなど、国内外で日本政府がリーダーシップを発揮できないのは、敗戦後遺症とも言えるこれらの「足かせ」が原因とされてきた。
そこで、主に保守陣営から、「足かせ」を外すように要求する声が挙がった。一方、リベラル陣営(というか昔の革新陣営)からは、これらの「足かせ」を外すと、再び日本は暴走すると危惧する声が多かった。
私も保守派の末端として、「足かせ」は問題だと思っていた。しかし、その前提として、「権力者としての自覚があり、慣習やルールを最大限尊重して、自己抑制をすることができる為政者」の存在を想定していた。また、国政を担う政治家、あるいは国政を報道する大手マスメディアといった「エリート」たちが、外交方針や経済体制について共通認識を持ち、権力の行使についてのルール化もしているということが大前提だった。
55年体制下で、権力の行使についてのルール化は、自民党と社会党の間でおおむね実現できているはずだった。また、冷戦崩壊後に、わが国の「エリート」の間では、外交方針や経済体制についても、共通認識はできていると思っていた。だからあとは「足かせ」さえ外せば、日本は「普通の国」になれる――そう考えていたのである。
そんな時に登場したのが民主党政権だ。民主党政権の面々は、日本が「普通の国」になるための大前提を次々と崩していった。
民主党政権には権力者としての自覚がない。言ってみれば、ならず者上がりで権力を握った革命初期の中国共産党幹部のようなもので、強烈なコンプレックスと自己権利意識を埋めるべく、公的な権力を私的に濫用して恥じない。自分たちこそが「民意」だと信じ切っているから、一般意志を暴走させて当然だと思っている。
その結果、慣習やルールを無視して、
天皇の政治利用 が行われた。外交方針についても、日米同盟重視という根幹を揺るがしたために、みずからすり寄った中国からも袖にされる始末である。経済体制については、さすがに市場経済重視を守っていたが、震災後は節電や「自然エネルギー」を口実に、統制経済色を強めているようにも見える。
戦争世代の日本人は、民主党のような「権力の濫用者」が登場することを予想していたのだろう。戦後しばらく経ってからも、過剰とも言える「足かせ」を外さなかったのは、わが国の「エリート」自身が、日本の「エリートの系譜」を信用していなかったからだと思われる。それは決して杞憂ではなく、戦後60年以上経った時代に、民主党政権という「反権力気分の権力者」という最悪の政権を生み出してしまった。
もし、強すぎる参議院が改められ、衆議院の優位がずっと強まっていたら、民主党政権の暴走は止まらなかっただろう。現在の強すぎる参議院体制下でも、民主党政権は「国会軽視」を続けてきた。鳩山政権では、郵政再国営化法案が審議時間わずか6時間で衆議院委員会を通過するという信じられない事態が起きた。菅政権では、今年3月に与党が審議拒否という異常事態を起こしている。郵政民営化法案について、衆議院だけで約110時間の審議時間を費やした
小泉政権 とは対照的である。
あの
村山政権 でもできていた自己抑制ができず、自己保身のために権力を濫用する菅政権の本質が、松本大臣の「書いたらもうその社は終わりだから」という「暴言」に象徴されている。民主党政権の問題点とは、マニフェストを守らないとか、政権運営が稚拙だといった表面的なこと以上に、「権力者としての自覚がなく、自己抑制ができない」という致命的な欠陥だということを、われわれは改めて認識しなければならない。
私が
前原氏を批判 してきたのも、そのことを危惧しているからである。前原氏の場合は、自分のプライドや「毅然とした政治家と思われたい」という欲に負けて、安易な「強硬路線」をすぐに取る悪い癖がある。尖閣事件でもそれは悪い方向に働いた。前原氏があの時首相で、仮にあのまま暴走を続けたとしても、そこには中長期的な戦略は皆無だったから、下手をすれば中国の思惑通りに軍事的に衝突して、尖閣を中国に実効支配されていたかもしれない。民主党政権の危うさには、右も左もないのである。
右翼も左翼も同根というのが、敗戦から日本人が学んだ真理だった。時代の「空気」に応じて、右翼の仮面をつけたり、左翼の仮面をつけたりして、われわれを全体主義に誘う。右翼も左翼も、政党政治を叩き、財界を叩くのは、それらが全体主義の「敵」だからだ。
戦後日本の「足かせ」が民主党政権を食いとめている間に、日本の「エリート」には、さまざまな共通認識を再構築してもらわなくてはならない。もし、日本の「エリート」がもう当てにならないなら、政治的に常におとなしい普通の勤労者が、右翼や左翼の煽りをはね返すべく、草の根から共通認識を立ち上げていかなくてはならないだろう。民主党政権はまだかろうじて「苦笑い話」で済んでいるが、共通認識がないままに次にやってくる「第2の民主党政権」は、正直言ってシャレにならないものになると心配している。